最終更新日 2021年8月31日
巣鴨・真性寺にある吉岡実之墓(2002年5月31日撮影)
新倉俊一氏が逝去(2021年8月30日脱稿)
山崎剛太郎氏が逝去(2021年4月6日脱稿)
平野甲賀氏が逝去(2021年3月24日脱稿)
池田龍雄氏が逝去(2020年12月8日脱稿)
岡井隆氏が逝去(2020年7月12日脱稿)
長谷川郁夫氏が逝去(2020年5月3日脱稿)
奈良原一高氏が逝去(2020年1月22日脱稿)
池内紀氏が逝去(2019年9月4日脱稿)
高橋英夫氏が逝去(2019年3月19日脱稿)
入沢康夫氏が逝去(2018年12月1日脱稿)
金子兜太氏が逝去(2018年2月21日脱稿)
大岡信氏が逝去(2017年4月5日脱稿)
中西夏之氏が逝去(2016年10月24日脱稿)
太田大八さんが逝去(2016年8月8日脱稿)
柳瀬尚紀氏が逝去(2016年8月3日脱稿)
合田佐和子氏が逝去(2016年2月22日脱稿)
佐伯彰一氏が逝去(2016年1月5日脱稿)
出口裕弘氏が逝去(2015年8月5日脱稿)
金子國義氏が逝去(2015年3月18日脱稿)
岩田宏氏が逝去(2014年12月14日脱稿)
那珂太郎氏が逝去(2014年7月1日脱稿)
松山俊太郎氏が逝去(2014年5月14日脱稿)
辻井喬氏が逝去(2013年11月29日脱稿)
飯島耕一氏が逝去(2013年10月23日脱稿)
大河内昭爾氏が逝去(2013年8月17日脱稿〔2020年5月31日追記〕)
丸谷才一氏が逝去(2012年10月14日脱稿)
加藤郁乎氏が逝去(2012年5月19日脱稿)
吉本隆明氏が逝去(2012年3月16日脱稿)
大野一雄氏が逝去(2010年6月2日脱稿〔2011年9月30日追記〕)
秋元幸人氏を送る(2010年5月3日脱稿〔2010年6月30日追記〕)
益田勝実氏が逝去(2010年3月21日脱稿)
森田誠吾氏が逝去(2008年10月20日脱稿)
湯川成一氏が逝去(2008年7月23日脱稿〔2008年10月31日追記〕)
秋元幸人著《吉岡実と森茉莉と》が刊行(2007年11月6日脱稿)
飯田龍太氏が逝去(2007年2月28日脱稿〔2007年3月31日追記〕)
阿部良雄氏が逝去(2007年1月25日脱稿)
宗左近氏が逝去(2006年6月24日脱稿)
清岡卓行氏が逝去(2006年6月5日脱稿)
飯田善國氏が逝去(2006年4月20日脱稿)
《吉岡実散文抄――詩神が住まう場所》が刊行される(2006年3月9日脱稿)
塚本邦雄氏が逝去(2005年6月11日脱稿〔2009年1月31日追記〕)
石垣りん氏が逝去(2004年12月27日脱稿)
種村季弘氏が逝去(2004年9月9日脱稿)
城戸朱理著《吉岡実の肖像》が刊行(2004年6月6日脱稿)
元藤Y子氏が逝去(2003年10月21日脱稿)
〈奠雁展〉初日(2003年5月1日脱稿〔2004年10月31日追記〕)
吉岡実遺愛の〈奠雁展〉(2003年4月25日脱稿)
句集《奴草》が刊行される(2003年4月18日脱稿)
多田智満子氏が逝去(2003年1月24日脱稿)
高橋康也氏が逝去(2002年7月12日脱稿〔2012年2月29日追記〕)
吉増剛造氏、ラジオで語る(2002年6月23日脱稿)
秋元幸人著《吉岡実アラベスク》が刊行(2002年6月8日脱稿)
矢川澄子氏が逝去(2002年6月1日脱稿〔2004年2月29日追記〕〔2004年8月31日追記〕)
十三回忌に詩集《赤鴉》が刊行される(2002年5月31日脱稿)
去る8月23日、アメリカ文学研究者の新倉俊一[としかず]氏が亡くなった。91歳だった。新倉さんの専門はエズラ・パウンド(1885〜1972)やエミリー・ディキンソン(1830〜1886)を中心とする英米詩だが、私には西脇順三郎(1894〜1982)の研究者としての面がいちばん懐かしい。拙編《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第4版〕》のあとがきでも触れた《西脇順三郎全詩引喩集成》(筑摩書房、1982年9月30日)は、現存する作者(すなわち西脇である)の協力なくしては成立しえない貴重な試みだが、長年、西脇に親炙した新倉さんならではの労作だ(ほかにも、西脇の評伝や長篇の評論がある)。ご覧のように、私の資料の書名は、西脇=新倉本の決定的な影響下にある。また、両三度に及ぶ西脇順三郎全集の年譜は、鍵谷幸信(1930〜1989)の後を受けて新倉さんが完成させた。そうしたことも手伝って、吉岡実は新倉俊一《西脇順三郎 変容の伝統》(花曜社、1979年9月25日)の装丁を担当している。ときに、私が吉岡実に関する編纂書を諸家にお送りすると、文筆を生業とするかたたちはめったに返事を下さらないが、新倉さんや、寿岳文章(1900〜1992)、高橋康也(1932〜2002)、(そしてこれは吉岡関連の資料ではなかったが)西脇順三郎その人からは礼状のハガキをいただいたものだ。哀悼の意をこめて、《西脇順三郎全詩引喩集成》から吉岡実に関連する項目を引く(漢数字は《定本 西脇順三郎全詩集》の掲載ページ、アラビア数字は詩篇における行数)。
■ヨシキリ(詩集〔《鹿門》〕初出)
〔……〕
ヨシキリのヨシオカのような 九六三・4
詩人吉岡実。葦切は鳥の名。ここでは頭韻をするために枕言葉として使っている。(同書、三三九ページ)
吉岡実を鳥に見たてることは、山藤章二も、金井美恵子も、(そしてそのほか何人も)行っているが、西脇の〈ヨシキリ〉が濫觴だったように思う。《吉岡実全詩集》の帯文(背)に見える「ヨシキリの/ヨシオカのような/*」という文言がこの西脇詩から来ていることは謂うまでもない。
早稲田大学で教えていただいたので山崎剛太郎先生とお呼びしたいが、山崎剛太郎氏が去る3月11日、亡くなられた。103歳だった(吉岡実より2年早い1917年、福岡県の生まれ)。先生の肩書は詩人、フランス文学の翻訳家だが、ジャン・ルノワールの《大いなる幻影》など多くのフランス映画の字幕翻訳に携わったことで知られる。《Wikipedia》に「〔早稲田大学文学部仏文科〕在学中加藤周一、福永武彦らの『マチネ・ポエティク』同人となり、〔……〕」とあるとおり、詩人でもあったが、授業でその話をされることはなかった(文学者としての事績は、菅野昭正(編)《知の巨匠 加藤周一》(岩波書店、2011年3月10日)の清水徹との対談〈加藤周一の肖像――青春から晩年まで〉でうかがうことができる。先生の結語はこうだ。「今日は、加藤周一のことをこれだけいろいろお話しできたことが、私にとっては非常に幸せでした。私は若いときから、本当にいい友達に恵まれてきたんです。その最後に亡くなったのが加藤周一でした。芥川比呂志、福永武彦、白井健三郎、白井浩司、中村真一郎、そして加藤が亡くなった。あとは誰かな、とあたりを見回すと私しかいないんです。その私がこういう機会に、畏れ多い友達であり、同時に親友である加藤周一についてこれだけ話ができて、彼も非常に喜んでくれているのではないかと思います。」、同書、一九三ページ)。映画関連以外では、二見書房のコレットの著作集の翻訳が目を引く。筑摩書房からは本を出しておらず、吉岡実と面識があったかどうかわからない。一方、先生にはジョゼフ・ケッセル《昼顔》(三笠書房、1967〔未見〕)の訳書がある。〈ケッセルの《昼顔》と詩篇〈感傷〉〉に書いたように、吉岡はルイス・ブニュエル監督の映画《昼顔》(1967)を観ており、戦前の堀口大學訳(第一書房、1932)も読んでいる。三笠書房版は映画の日本公開に合わせた新訳だろうが、主演女優カトリーヌ・ドヌーヴのスチル写真をジャケットに配した同書を吉岡が手にしたことは、充分にありえる。山崎剛太郎先生の長逝を悼む。
〔付記〕〈ケッセルの《昼顔》と詩篇〈感傷〉(2009年7月31日)〉の註に、山崎剛太郎訳《昼顔》の〈プロローグ〉を引いて、初刊の堀口大學訳と比較できるようにした。ご参照いただきたい。
装丁家の平野甲賀氏が去る3月22日、亡くなった。82歳だった。《朝日新聞デジタル》によると、手掛けた装丁作品は7000冊以上にのぼるという。《平野甲賀 装丁の本》(リブロポート、1985)や《平野甲賀〔装丁〕術・好きな本のかたち》(晶文社、1986)といった平野氏の著書は、吉岡実の晩年には出版されていたが、平野本についてうかがった記憶がない。というか、私はもっぱら「詩人・吉岡実」から訊くことに性急で、「装丁家・吉岡実」から訊くのは後回しになりがちだった(吉岡実の著書を装丁した杉浦康平については、興味深い話が訊けたが)。平野氏が吉岡実装丁について発言したこともないようだ(少なくとも《吉岡実参考文献目録》には登場しない)。
いま手許にある平野甲賀装丁本のうち、シリーズ〔日常術〕C《室謙二〔ワープロ〕術・キーボード文章読本》(晶文社、1986年9月30日)を開くと(同書は10月4日に高田馬場の芳林堂書店で購入した。レシートが挟んであるのだ)、新刊紹介の《出版ダイジェスト》第1176号(昭和61年9月1日)の切り抜きが出てきた。もちろん私自身のしたことである。〈生活の中の大きな夢――シリーズ〔日常術〕快調にスタート!〉と題したその記事には「毎日の生活のなかで大きな夢を育てるには? 衣と食と住、からだやこころのこと、遊びとスポーツ、知的生活や人間関係のあれこれについて――。気持よく生きている人たちにその知恵と工夫をきいてみたい。/〔……〕第一回発売の『群ようこ【編物】術・毛糸に恋した』『平野甲賀【装丁】術・好きな本のかたち』は、その新感覚の本づくりが大きな反響を呼び、たちまち重版となっています。」(同紙、四面)とある。《室謙二〔ワープロ〕術・キーボード文章読本》をパラパラ見ると、雑誌ふうの、じつに手の込んだ編集・レイアウトが施されている。〈目次〉の最後に「ブックデザイン 平野甲賀」とあるから、本文も平野氏の手になるのだろうか。ちなみに、当時の私は(もろだけんじ名義で)歌集《通奏低音》(文藝空間、1985年9月28日〔A5変形判・八〇頁・定価一五〇〇円・限定二〇〇部〕)を刊行しているが、この組版は私が、購入した日本電気製の日本語ワードプロセッサで行った(歌集なのに横組!)。組版作業で疲れてしまい、この本の著者自装は中途半端である。
平野甲賀氏が手掛けた晶文社の装丁本以外の仕事では、「68/71黒色テント」と名乗っていたころの劇団黒テントの刷りものが印象的である。同人詩誌《続》の仲間の小畑雄二に連れられて(小畑は高校・大学と演劇青年だった)後楽園に黒テントの公演《喜劇昭和の世界 三部作》(すなわち〈阿部定の犬〉〈キネマと怪人〉〈ブランキ殺し 上海の春〉)のどれかを観に行った(三作とも観ている)。開演前にカレー屋に入ると、作・演出の佐藤信さんがカレーを食べているところだった。その三部作のどれかのBGMで、ピンク・フロイドの《Atom Heart Mother〔原子心母〕》(1970)の標題作が巨大な音量でそそりたったとき、これあるかな、と感嘆したものである。平野甲賀氏の冥福をお祈りする。
画家の池田龍雄氏が去る11月30日、亡くなられた。92歳だった(その名前からわかるように、澁澤龍彦〔本名は龍雄〕や土方巽と同じ、昭和3年の生まれ。池田龍雄の土方巽評――「どこか人を喰ったような黒い諧謔性が基調にある。そして、いわば香水の匂いと肥料[こやし]の臭いの混交、あるいは聖と俗、貴と卑、火と氷、東と西、光と闇――要するに相反し、または互いに異なるさまざまな要素が同時に共存し瞬時に入れ替わる。」――は吉岡実のそれとも通じていて、はなはだ興味深い)。2020年12月7日の《朝日新聞デジタル》の訃報の見出しは〈画家の池田龍雄さん死去 「ルポルタージュ絵画」描く〉で、最後の文は「2018年、東京・練馬区立美術館で大規模な回顧展を開催した。」と近業を伝えている。同展は《戦後美術の現在形 池田龍雄展――楕円幻想》(会場:練馬区立美術館、会期:2018年4月26日〜6月17日)。私は同年6月に観た(〈編集後記 188〉参照)。その後記で書いたように、1997年にも池田の作品を観ている。《池田龍雄・中村宏》展(会場:同、会期:1997年2月8日〜3月16日)だ。そのときは池田さんも来場していて、久しぶりだったのか、自身の作品を眺めておられた。四半世紀近いまえのことだ。池田龍雄さんのご冥福をお祈りする。
歌人で詩作や評論もよくした岡井隆氏が去る10日、心不全で逝去した。92歳だった。吉岡実は〈私の好きな岡井隆の歌〉(《現代短歌大系〔第7巻〕》月報、三一書房、1972年10月31日)と〈二人の歌人――塚本邦雄と岡井隆〉(《短歌春秋》創刊号の〔一首百彩〕、1985年10月)で岡井隆の短歌と人物に言及している。二篇とも《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)で比較的簡単に読める(といっても、筑摩叢書の一冊である同書はすでに絶版だが)。ここでは《岡井隆全歌集》(思潮社、1987)の内容見本に寄せた推薦文〈偏愛の歌〉(単行本未収録)の表記を整えて掲げよう。
『土地よ、痛みを負え』が出版された頃、岡井隆と出会い、一本を贈られた。以来、私はその人柄と歌に魅せられ、今日まで注視して来たのだ。「渤海のかなた瀕死の白鳥を呼び出しており電話口まで」――。或る年、忽然と彼は身を隠してしまった。まるで瀕死の白鳥のように。そんな岡井隆を欽慕して、間もなく、初期作品から『眼底紀行』までの全歌集が編まれた。その栞に、私も一文を寄せている。〔上記のように、吉岡の〈私の好きな岡井隆の歌〉は岡井隆の全歌集の栞に寄せた一文ではない。〕
数年後、岡井隆は歌の世界に復帰し、それからは意欲的に、『鵞卵亭』をはじめ、数冊の歌集を公刊しつづけた。そして『マニエリスムの旅』、『禁忌と好色』へと、一つの頂点をかたち造っている。どちらかと言えば、私は、『マニエリスムの旅』を偏愛している。
故知らぬ 囁沼に芹を摘む 黄檗の僧ふり向きにけり
湯のあとを胡瓜かじれる童子ありひたすらにあの緑を噛むも
冬波は沖まで硬くむら立てりひややかに人は笑ひはじめぬ
Wikipediaで岡井の〈主な受賞歴〉を見ると、詩歌文学館賞(1999年)、藤村記念歴程賞(2007年)、高見順賞(2010年)が吉岡実と同じ賞である(ただし吉岡は詩歌文学館賞を辞退)。私は《ユリイカ》1973年9月号〔特集・吉岡実〕に掲載された〈吉岡実詩との一週間――「タコ」「サフラン摘み」その他〉(のち岡井隆《韻律とモチーフ》大和書房、1977)を読んで岡井隆氏を偲んだ(この、日録ふうのエッセイの書法を確立したのは、岡井ではなかっただろうか)。吉岡実と同時代の短歌界を代表した歌人に、いま深く頭を垂れる。
文芸編集者で小澤書店創業者の長谷川郁夫氏が去る1日、食道がんで亡くなった。72歳だった。吉岡実が長谷川郁夫に触れた文章は残されていないが、長谷川は《われ発見せり――書肆ユリイカ・伊達得夫》(書肆山田、1992)――初出は《新潮》1986年2月号――を筆頭に、その著書、《藝文往来》(平凡社、2007)や《本の背表紙》(河出書房新社、同年)、内堀弘の《ボン書店の幻――モダニズム出版社の光と影〔ちくま文庫〕》(筑摩書房、2008)の解説などで吉岡に言及している。臼田捷治の新刊《〈美しい本〉の文化誌――装幀百十年の系譜》(Book&Design、2020年4月25日)には「こうした〔=華麗な美しさか、それとも質実さか、そうした区分けを越えた〈美しい本〉の本然、素の形を見据えた〕ストイックな姿勢は詩人による装幀の両雄だった北園克衛と吉岡実、さらには現在、文芸評論で活躍中の長谷川郁夫が主宰した「小沢書店」や人文書に定評のある「みすず書房」による社内装幀の姿勢に通じるといえる。」(同書、七七ページ)とある。装丁でも鳴らした長谷川の小澤書店/小沢書店で吉岡が手掛けた装丁は、那珂太郎《萩原朔太郎その他》(1975)、《定本 那珂太郎詩集》(1978)、そして高橋睦郎の《詩人の血》(1977)、《球体の息子》(1978)、《聖という場》(同年)三部作の計5点である。これらは長谷川郁夫の発案というよりも、著者である那珂太郎や高橋睦郎の意嚮だったように思われる。おそらく長谷川の依頼で吉岡が《定本 吉田一穂全集〔T〕》(小澤書店、1979)の附録に寄せた随想〈吉田一穂の詩〉は、吉田一穂全集の本文に合わせたためだろうか、漢字が正字で印刷されている。吉岡は自分の名前を「実」と書くくらいだから、原稿でも新字を使ったはずだ。随想集《「死児」という絵》(思潮社、1980)に、他の文章と同様、新字で組まれた同文は、「ついては、意にみたない五篇を省いた。」(〈あとがき〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三七〇ページ)という理由で〔増補版〕には再録されなかった。吉岡が一穂の詩に触れた貴重な文章には違いないが、たとえば西脇順三郎の詩を語るときのような熱っぽさに欠けることは否めない。この書きにくい対象に筆を染めたのは、吉岡が長谷川の懇望にほだされてのことだったのだろうか。生前の氏とは面識がなかったどころか、公開の場でもお見かけしたことがなかった。出版人、文筆家としての長谷川郁夫氏の業績を振りかえりつつ、心からご冥福をお祈りする。
去る1月19日、写真家の奈良原一高氏が亡くなった。88歳だった。《朝日新聞デジタル》は「中央大法学部時代から本格的に写真を撮り始め、早稲田大大学院で美術史を学んでいた1956年、軍艦島と鹿児島・桜島の生活を絵画的構成の画面に収めた個展「人間の土地」を発表。写真界に衝撃を与え、新世代の代表的存在として注目された。/以後、修道院や女性刑務所の閉鎖空間をとらえたシリーズ「王国」や、62〜65年のパリを中心とした欧州在住、70〜74年のニューヨーク在住時に生まれた作品など被写体は多様だったが、乾いた詩情と静かな物語性が貫かれた。」と紹介している。この「王国」の1点が、吉岡実の詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)の函に掲載された写真である(詳細は〈詩集《僧侶》解題〉の〔2015年2月28日追記〕参照)。一体に自著を含む吉岡実装丁で写真が使われることは極めて稀で、《僧侶》の場合もユリイカ社主・伊達得夫の主導で仕様が詰められていったのではないかと推測する。奈良原氏が《僧侶》や吉岡実に触れたことはないはずで、そのあたりのことを知る術は失われた。今はただ《奈良原一高 王国》展カタログ(東京国立近代美術館、2014)を開いて、奈良原一高氏を偲びたい。
ドイツ文学者で翻訳家・エッセイストの池内紀氏が、去る8月30日に亡くなられた。78歳だった。氏の《恩地孝四郎――一つの伝記》(幻戯書房、2012)は装丁家でもあった恩地の伝記だが、吉岡実は登場しない。いったい私は池内氏のよい読者ではなくて(よい読者とは、目につき、手に入る限りのその書き手の文章を読む者のことだ)、私の知るかぎり、吉岡実が池内紀について書いたことも、池内紀が吉岡実について書いたこともないはずだ。だが、吉岡が編集した筑摩書房のPR誌《ちくま》第70号(1975年2月)には、池内の〈シレジアの白鳥〉が掲載されている。のちに《シレジアの白鳥》(村松書館、1978)の表題作になった本篇は、《〈ユダヤ人〉という存在〔池内紀の仕事場2〕》(みすず書房、2005)にも収められた。同文はドイツの閨秀詩人フリーデリケ・ケンプナーとその詩集についてのエッセイで、どこにもそのようなことは書いていないけれども、池内が「詩人」吉岡実の目を意識した主題の設定だったかもしれない。ちなみに、池内が筑摩書房から刊行した単著は、《闇にひとつ炬火あり――ことばの狩人カール・クラウス〔水星文庫〕》(1985)、《私の人物博物館》(1987)、《文学の森を歩く》(1989)、《ウィーン――ある都市の物語〔ちくま文庫〕》(1989)、《地球の上に朝がくる――懐かしの演芸館〔ちくま文庫〕》(1992)、《恋文物語〔ちくま文庫〕》(1994)、《ザルツブルク〔ちくま文庫〕》(1996)、《川を旅する〔ちくまプリマー新書〕》(2007)と、決して少なくはないが、その膨大な作品群からすればメインの版元ではない(現に、全8巻の著作選集〔池内紀の仕事場〕を出したみすず書房にしても、それほどたくさん出しているわけではない)。さて、池内紀《温泉――湯の神の里をめぐる》(白水社、1982年10月25日)は、吉岡が装丁を手掛けた一連の〈日本風景論〉シリーズの5冊めに当たる。私は氏を偲んで、《温泉》――今では容易に見ることのできない、貼函入りのフランス装――を吉岡実装丁本を刊行順に並べた書架から取りだした。同書の〈伊那谷の春〉は、澁澤龍彦の《城――夢想と現実のモニュメント》(同社、1981年11月9日)や吉岡の随想〈高遠の桜のころ〉(初出は《鷹》1976年4月号)と並べて読むことで、ひときわ興趣を呼ぶ。
「翌日、ふたたび私は高遠にもどり、肌寒い風をうけながら城址公園のベンチにすわっていた。使い古しの古城といったものとは縁をきって、ぽっかりと残った城跡は、みたところ、広大な空地にすぎない。夜になると、木に巣食う虫と、とんでくる鳥とが、ここに棲む唯一の生きものだ。だが、何もない沈黙した城跡にこそ、かえって城らしいスケールの大きさがある。鉄筋コンクリートづくりの城など、そもそもなにものだろう。あれは大きなプラモデルにすぎないのである。城跡こそ、まことの城だ。見えない城である。石と土と草だけの建物だ。私は先にこの城跡を、小さな、美しい女の大きな子宮のようだといった。これはまた、死児を孕んだ棺でもある。虚空にとまったような淡い大気でふたをされ、黙ったまま動かない無形の城のなかで、私は不意に、登城の太鼓がドンとなるのを聞きつけ、威儀を正して登ってくる家老たちの姿をみたような気がしたものだ――。/光は透明に澄んで、風がなお冷たかった。有名な小彼岸[こひがん]桜は、ようやく、つぼみがふくらみはじめたばかりであった。〔……〕」(《温泉》、三〇〜三一ページ)。
一方、四月中旬に高遠を訪れた吉岡夫妻にとっての小彼岸桜は次のようだった。「ここ一週間ほど寒さが戻り、残念なことに、花は三分咲というところだった。コヒガンザクラ特有のピンク色の小さな花と蕾を、私と妻は仰ぎ見ながら、搦手門跡から歩いた。古色蒼然たる大きな建物は、藩校進徳館で、万延元年に出来たとのことである。その並びには、茶屋や休憩所が客を待っていた。花の見ごろではないので、見物の人はあまり多くなく、かえってゆったりした散策が出来たのはよかった。日当りのよいところの花は七分咲きなので、私たちは午後の陽を浴びたその美しい花を求めて歩いた。そして八百本といわれる純林の華麗な満開の相を想像するよりなかった。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二八ページ)。
池内紀氏のご冥福をお祈りする。
文芸評論家でドイツ文学者の高橋英夫氏が去る2月13日、亡くなられた。88歳だった。高橋氏は、1989(平成元)年1月20日の《読売新聞〔夕刊〕》掲載の〈文芸季評(下)〉(見出しは「自らの言葉、切り開く――清岡卓行の改作や吉岡実の形式の実験」)で、吉岡実の新詩集に触れて次のように書いている。なおこの記事は、吉岡の遺したクリアファイルに、他紙の《ムーンドロップ》評などとともに整理・保管されていた。
「実験としての詩という特性では吉岡実氏の『ムーンドロップ』(書肆山田)も烈しい。シュルレアリスムの難解さの前で途方に暮れる感じもするが、それでも従来の吉岡氏とは違った形式的要素の多さが手がかりになる。(紫電金線)(白紙)といったカッコつきの名詞がきわめて多く、【聖なる蜘蛛】のようなカギカッコつきや通常の引用符号も頻出、また各行は頭をそろえず、バラバラに配置されるが、よく見ると斜行したり波動曲線を描いたりするのが見出せる。さらにナボコフ、土方巽らの引用もさかんに自注されている。/これは複数鍵盤(けんばん)を駆使したパイプオルガンの演奏を思わせるものだ。カッコつきで提示される多数モチーフが複数鍵盤上で散乱し、無調性の言語実験が、短く断ち切られるパッセージを畳みかけてゆく」(同紙、一一面)。
高橋文の「【聖なる蜘蛛】」は、むろん吉岡の詩集の「〔聖なる蜘蛛〕」が正しく、〈文芸季評〉が本になっているなら確認しておきたいと思って、荏苒として今日に至った。高橋氏はのちに、吉岡実ゆかりの《ちくま》誌に詩人と音楽をめぐる文章を連載し、《音楽が聞える――詩人たちの楽興のとき》(筑摩書房、2007)をまとめている。萩原朔太郎・北原白秋・宮沢賢治・高村光太郎・尾崎喜八・串田孫一・高田博厚・片山敏彦・立原道造・中原中也、といった近代詩人を中心とした人選のため、現代詩人への言及がないのが惜しまれる(上掲引用文の短いパッセージを多としよう)。高橋英夫氏のご冥福をお祈りする。
詩人で仏文学者の入沢康夫氏が去る10月15日、亡くなられた。86歳だった。入沢さんのTwitterの最終更新は昨2017年7月1日。この1年半ほど新しいツイートがなかったので、案じていたのだが。入沢さんは飯島耕一、大岡信(いずれも故人)、高橋睦郎の三氏とともに《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)の編集委員を務めた、吉岡実の詩に最も精通した詩人の一人だった。そして、飯島・大岡という吉岡の旧友たちよりも早く、1967年の《現代詩手帖》10月号〈特集=吉岡実の世界〉で対談している(吉岡は詩友――天沢退二郎や高橋睦郎、金井美恵子――としか対談しなかった)。二人は、作品においても深く影響しあったと思われる。「私の詩書も何点も吉岡さんの〔装丁の〕お世話になったものです。それもさることながら、私が筑摩書房にいた一年半とその後の長年月、詩そのものについて、実に多くの教え・刺激・鼓舞を受けました。真の恩人というべき方です。/吉岡実さんの『静物』から最晩年の詩集まで、その詩形・詩境の変化・発展をじっくりとたどってみる事は、自分の詩をどう導いて行くかを考える上で、非常に参考になると思います」(2016年4月14日のツイート)。入沢康夫さんのご冥福をお祈りするとともに、しかるべく準備をして〈吉岡実と入沢康夫〉を執筆し、二人に捧げたい。
俳人の金子兜太氏がさる20日に逝去した。98歳だった。吉岡実は〈高柳重信・散らし書き〉(初出は《現代俳句全集〔第3巻〕》、立風書房、1977年11月5日)で重信の「まなこ荒れ/たちまち/朝の/終りかな」を掲げて、「この句について、金子兜太は書いている。……「高柳に対する私の詩的信頼のようなものは、この作品を読んだとき確定した思い出がある。それまであったものが、ここで決まった、という感じだった。大正という、冬の午後の陽ざしのような年代に生まれた男たちのあいだにしか通用しないデカダンスの味わいなのかもしれない。」……。/わたしもこの説に共感する。たしかにこの一句は、重信の作品のなかでも一頂点にあり、絶唱といえるだろうと思う」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一二二〜一二三ページ)と金子の評を引いている。〈私の好きな岡井隆の歌〉(初出は《現代短歌大系〔第7巻〕》月報、三一書房、1972年10月31日)には「昭和三十七年ごろ、〔第二回〕「俳句評論賞」の選考委員になったとき、高柳重信の紹介で、私は初めて岡井隆と会った。その席で金子兜太とも出会った。人とのめぐりあいが、作品とのめぐりあいにもなるといえるのなら、この時がそれに近い」(同前、一四二〜一四三ページ)とあるが、金子の俳句について触れた文章はないようだ。一方、1963年2月、《俳句評論》発表の吉岡・金子・神田秀夫・楠本憲吉・高柳重信・中村苑子による座談会〈第二回俳句評論賞選考座談会〉(前年9月10日、赤坂「梓」にて開催。審査員の岡井隆・永田耕衣は欠席)には、〈佳作賞〉の寺田澄史・西本彌生・前川弘明・渡部杜茂子の作品を中心に各審査員の俳句観が繰りひろげられていて、興味深い。座談会といえば、ふたりは佐佐木幸綱・高柳重信・藤田湘子との〈現代俳句=その断面〉(《鷹》1972年10月号)でも親しく語りあっている。だがこれらのどれよりも重要なのは、詩篇〈模写――或はクートの絵から〉(E・4)が金子兜太編集の《海程》9号(1963年8月)に掲載されたことである(〈詩篇〈模写――或はクートの絵から〉初出発見記〉参照)。金子はその〈編集後記〉に「吉岡実さんの新作をいただいた。約半年間どこにも作品をだしていないので、吉岡ファンの多い俳壇への良きプレゼントであるはず」と書いている。作品を依頼したこと自体、金子の吉岡実詩への評価と言えよう。ちなみに、金子は1919(大正8)年9月23日、吉岡と同年の生まれである。金子兜太氏のご冥福をお祈りする。
詩人で批評家の大岡信氏が4月5日、亡くなられた。86歳だった。どこかに書いたが、吉岡実の詩と真に出会った契機は大岡さんだった。学生時代の1970年代中ごろ、新潮社が主催する文化講演会(会場は新宿・紀伊國屋ホール)で五木寛之・井上ひさし・辻邦生・丸谷才一といった小説家や評論家の講演を聴いたものだ。講師は毎回二人。前半が毎月替わり、後半が半年間の連続講演だった。その連続講演で大岡さんの話しぶりに感じ入った私は、1974年10月12日午後9時からNHKのラジオ番組〈吉岡実の世界〉を「大岡信が出演する」という理由だけで、何気なく聴いた(私の〈吉岡実年譜〉には、「加藤郁乎、天沢退二郎、大岡信が吉岡の詩を朗読、金井美恵子の談話、土方巽による「教育勅語的発声」の〈僧侶〉朗読」とある)。大岡さんには申し訳ないが、この番組を境に大岡信・吉岡実の主客は転倒した。両者の関係を「引用」の観点から概観したのが、去年の12月に書いた〈吉岡実の引用詩(2)――大岡信《岡倉天心》〉である。大岡さんと直接お話ししたことはないが、吉岡実を偲ぶ集まりでの高橋睦郎さんとの軽妙なやりとりや、思潮社のパーティでの清岡卓行さんと談笑する姿が想い浮かぶ。同人詩誌《鰐》の関係者では、発行元の書肆ユリイカ社主・伊達得夫が40歳で早世したが、吉岡実・清岡卓行・飯島耕一・岩田宏・大岡信の5人の同人たちは、それぞれに充実した仕事をなしとげて表舞台から去っていった。大岡信さん、40年にわたり詩と批評をありがとうございました。
美術家の中西夏之氏が10月23日、亡くなられた。81歳だった。中西さんは土方巽の公演〈バラ色ダンス――A LA MAISON DE M. CIVECAWA〉(1965)や〈土方巽と日本人――肉体の叛乱〉(1968)などの舞台美術・装置を手がけた、吉岡実と最も近しい現代美術家であり、そのためだろう吉岡さんの告別式では弔辞を読んでいる。吉岡実=中西夏之の最大のコラボレーションは、中西作「卵のオブジェ」をジャケットと本扉にあしらった自著自装本《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987)である。ちなみに「中西夏之」は、〈土方巽頌・人名索引〉では21箇所にわたって登場する。吉岡は中西に触れた単独の文章を遺していないが、《土方巽頌》の本文には「中西夏之の樹脂で造られたラグビーボールほどの卵のオブジェ」は「透明体の中に、大きな裁断用鋏が入っている。半ば開いた刃には毛のようなものが、密生しているようだ。よく見るとそれは砂鉄だった。なによりも美しいのは、一本の紅い糸がふるえるように沈んでいることだ」(同書、一八ページ)とある。これこそ吉岡実の〈中西夏之頌〉だろう。中西夏之さんのご冥福をお祈りする。
画家で絵本作家の太田大八さんが去る8月2日、肺炎で亡くなられた。97歳だった。絵本作家としては多くの人が語っている。だが私にとって、太田さ んはつねに吉岡実詩集《静物》(私家版、1955)の発行者だった。吉岡実についてうかがうべく太田さんを訪ったのは、2005年のことだ。持参した《太 田大八作品集》(童話館出版、2001)に署名していただいたところ、まだ小さかった娘たちにはサイン入りの《かさ》(文研出版、1975)を、私には著 者が太田さんに宛てた《液體》(草蝉舎、1941)をいただいてしまった。どうにかここまで書いたが、胸がいっぱいで続けることができない。しかるべく準 備をして太田大八さんを追悼することを約しつつ、生前に賜ったご厚情に心から感謝する。大八さん、十四子さん、どうもありがとうございました。
英文学者・翻訳家の柳瀬尚紀氏が去る7月30日、亡くなった。73歳だった。私がもろだけんじ名義で出した歌集《通奏低音(Basso Continuo)》(文藝空間、1985)はいろいろな面で横紙破りな代物だった。版下が横組の初期WP出力であることとか、全部で14章中の10章に 題辞[エピグラフ]を付けたこととか(他の4章には挿画を配した)。その題辞のひとつに氏の《ノンセンソロギカ――擬態のテクスチュアリティ〔エピステー メー叢書〕》(朝日出版社、1978)からアリアス・マリスの発言を掲げているから、柳瀬氏にも一本を献じた。以来、ジェイムズ・ジョイス《フィネガン ズ・ウェイク》の訳書やジョイス論に親しみ、最近ではルイス・キャロルのアリス二部作やジョイス《ダブリナーズ〔新潮文庫〕》(新潮社、2009)の訳を 読んだばかりだった。吉岡実は柳瀬尚紀に言及していないが、柳瀬氏も吉岡について書いたことはないと思われる。それにしても《ユリシーズ》の訳稿はどこま で進んだのだろう(かつて、高橋康也さんが《ユリシーズ》を訳しているという噂を聞いた覚えがあるが、あれは希望的観測というよりももっと大きな願望それ 自体というべきものだった)。柳瀬訳の《ユリシーズ》が完成を見ていないのなら、無念というもおろかである。
画家の合田佐和子さんが去る19日、亡くなった。75歳だった。吉岡実は未刊行の随想〈姉妹――がらとべら〉(《アスベスト館通信》10号、 1989年7月)で「〔一九八八年〕八月の終りの暑い午後、私は妻と目黒美術館へ行った。新聞の展覧会評で知った、高島野十郎展を観るためだった。 〔……〕入口でカタログを買っている、合田佐和子と挨拶をかわした。数年前、砂漠の国へ立つ、彼女を見送って以来のことだ」(同誌、三一ページ)と書いて いる。二人の初対面は1967年4月17日、合田のオブジェ展でのこと(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一〇ページ参照)。《土方 巽頌》には芦川羊子《常に遠のいてゆく風景》(1968年7月3日)、大野慶人舞踏リサイタルのあとの唐十郎宅での酒宴(1969年11月15日)の記載 に合田の名が見える。一方、合田佐和子〈空想の肖像写真〉(《ユリイカ》1973年9月号)には「私はいつかマン・レイみたいに美しい肖像写真を作りたい とこのごろ思っているが、吉岡さんのイメージとしてはこんな風である。昼なお暗い木造の古びた中学校舎の二階の窓に白いキャラコの洗いざらしのカーテンが ゆれている。10cmほど開けた汚れた窓ガラスから透きとおった灰色の眼を全開にした吉岡さんがそっと下を窺っている。それを下の地面から望遠レンズをつ けて、キャラコのカーテンの一部と汚れガラスの半分と吉岡さんの顔の全部とをクローズアップさせよう。特に夜も眼をみひらいたまま眠っているにちがいない 彼の眼玉に焦点をあわせて」(同誌、一三三ページ)とある。この肖像写真は完成したのだろうか。合田佐和子さんのご冥福をお祈りする。
米文学者・文芸評論家の佐伯彰一氏が去る1日、亡くなった。93歳だった。佐伯氏が吉岡実に言及したことはないが、吉岡の詩〈異霊祭〉(G・19) の「人は生活費のために/他人のいやがる仕事をする/われわれの考え及ばぬ奸智さをもって/アラン/『貝類学の手引』をでっちあげる/〔……〕」との関連 で忘れることのできない指摘をしている。
さて、パロディ自体、一つの借用、転用に他ならぬとすれば、十九世紀以降の小説家で、ポオほど大胆に一貫した借用家、転用家 は、数が少いといえよう。〔……〕出版社の依頼、またさし迫った金の必要はあったにしろ、“The Conchologist's First Book”と題する貝類学の提要をまとめ上げるに当って、さるイギリス人の著書からの説明をそのまま借用したのは、他ならぬポオ自身であり、〔……〕。/ ポオは、一見そう思えるほど、純粋な独創家ではなかった。彼はむしろ天成の適用家、応用家ともいうべきタイプに属していたので、ほとんどの場合、材料はい わばあり合わせのもので間に合わせながら、さて、その出来上りは読者を驚かす斬新さをふくんでいた。(〈解説〉、《ポオ小説全集1〔創元推理文庫〕》東京 創元社、1974年6月28日、四一六ページ)
ここでどうしても引いておきたいのが「一見軽快なパロディを試みている当の相手が、じつはきわめて隠微、かつ切実な関心の対象に他ならぬ、というこ
とはあるだろう。〔……〕一体、無関心な相手に向ってはパロディなど試みようという気持さえ起きないはずのもので、時にはパロディ化の身振りは、対象に対
する内心のひそやかな恐れ、まともにかかわりあっては一大事という無意識の危惧に根ざしている。その意味では、みずからの手で軽やかにもじり、からかうこ
とから始めた当の対象が、いつしか内的な重みを加えて、わが身の上にのしかかってくるはめ[、、]になった、というのが作家ポオの成熟の過程だった、とも
いえる」(同書、四一一ページ)という同解説の一節だ。ポオの小説をこれほど深くえぐった文章を寡聞にして知らない。
追悼の意を込めて氏の訳筆になる〈タール博士とフェザー教授の療法〉を再読した。――「正直に私の無知を認めざるを得ません」私は言った。「真実こそ何よ
りも犯すべがらざるものですから。それにしても、こうした疑いもなく偉大な学者たちの研究を知らなかったとは、消え入りたいほどの恥しさです。早速二人
〔タール博士とフェザー教授〕の著書を探し出して、熟読玩味[じゆくどくがんみ]いたしましょう。メーヤールさん、正直な所、お話をうかがって、恥しさで
一杯です」《ポオ小説全集4〔創元推理文庫〕》東京創元社、1974年9月27日、二一六ページ)。この衒学的な会話が次に引く結末の一文を用意している
のだが、そこは短篇を読みおわった者が哄笑すべき処でもある。――さらに附け加えておきたいのは、タール博士とフェザー教授の著書を読もうとしてヨーロッ
パ中の図書館を探し廻ったが、今日に至るまで、私の努力は完全に失敗であったという事である。(同書、二二二ページ)。佐伯彰一氏のご冥福をお祈りする。
フランス文学者で小説家の出口裕弘氏が去る2日、亡くなった。86歳だった。1974年11月28日の吉岡実の日記にこうある。「夕四時、渋谷のトムソンで陽子とおちあい、目黒の大鳥神社の三の酉の市に詣でる。それから清酒一本を持って、アスベスト館へ廻った。シアターアスベスト館落成記念の白桃房舞踏公演「サイレン鮭」を観る。〈暗い食べ物屋シリーズ〉の一つだ。芦川羊子の至芸に感嘆するばかり。了って二階で酒宴となる。土方巽を中心に、澁澤夫妻、加藤郁乎、種村季弘、出口裕弘、松山俊太郎、天沢退二郎、四谷シモンそして野中ユリという顔ぶれだった。化粧を落して現われた、羊子に拍手。深夜の宴はいつ果てるともなく」(〈46「サイレン鮭」〉、《土方巽頌》筑摩書房、1987、七八〜七九ページ)。同書〈40「静かな家」〉には、土方の鳩尾から腹にかけて「『虚』が露出している」という出口裕弘のコメントが録されている。私は出口氏を偲んで、ミキハウスの絵本、原作・ペロー、絵・佐々木マキ、訳・出口裕弘の《長ぐつをはいたねこ》(三起商行、1987年11月20日)を再読した。出口氏の盟友、澁澤龍彦の訳書にシャルル・ペロー《長靴をはいた猫》(大和書房、1973〔絵・片山健〕)があるのも奇妙な暗合である。
画家の金子國義氏が去る16日、心不全のため亡くなられた。78歳だった。吉岡実の散文には、1982年2月22日の日記に「夕方、銀座の青木画廊 へ行く。四谷シモン人形展を観る。金髪少女の裸形の三体には、精神性すら感じられた。近くの喫茶店に席がしつらえられ、高橋睦郎、渡辺兼人、金井久美子た ちとおしゃべり。遅れて澁澤龍彦夫妻と金子国義が現われたので、小さな宴も華やぐ」(〈67 シモン人形〉、《土方巽頌》筑摩書房、1987、一三九〜一四〇ページ)と登場するだけだが、1978年2月、金子國義版画集《LE REVE D'ALICE――アリスの夢》(角川書店、1978年3月20日)の出版案内カタログ掲載の詩篇〈夢のアステリスク〉(H・ 22)がすべてを凌駕する。出版案内カタログ自体が確固たる作品だった。それを前にして氏を偲びたいのだが、資料の山と化したわが書斎のどこかに埋もれて いて、目にすることができない。代わりに初の自伝《美貌帖》(河出書房新社、2015年2月28日)を開こう。金子氏とは、1991年10月、浅草・木馬 亭で開かれた〈吉岡実を偲ぶ会〉で思い出話を聴いただけだったが、心からご冥福をお祈りする。
詩人の岩田宏(翻訳家・小笠原豊樹)氏が去る12月2日に亡くなられた。82歳だった。小田久郎《戦後詩壇私史》(新潮社、1995年2月25日)に「そのころのふたりは、たいそう仲良しだった」(同書、二四九ページ)とあるように、岩田宏詩集《頭脳の戦争》を 吉岡実が装丁した1962年ころが二人の交友のピークで、詩誌《鰐》(同人は飯島耕一・岩田宏・大岡信・清岡卓行・吉岡実)が消滅したあとは疎遠になっ た。飯島・大岡の二人が吉岡とは終生の盟友であったのに対し、清岡は1970年代には吉岡と袂を分かち、岩田はそれより早く吉岡から離れている。そのため だろうか、互いに相手のことを書いた文章がほとんどない。《「死児」という絵〔増補版〕》には「清岡卓行がいつか、ぼくのことを独身∞毒身∞瀆神 としるした。大岡信、岩田宏は雷同した」(同書、七三ページ)とあるだけだし、吉岡が編集していた《ちくま》にも、《鰐》同人では岩田だけが執筆していな い。もっとも、筑摩書房からは岩田宏名義でも小笠原豊樹名義でも単独での著書・訳書は出ていないが。岩田宏の方にも、吉岡実に言及したくない何かがあった のかもしれない。だが、岩田が小説にシフトして詩を書かなくなった理由も含めて、それがなんだったのかわからない。岩田宏の詩業を展望することで、それが つかめたら、と思う。
那珂太郎氏が去る6月1日に亡くなられた。92歳だった。いま那珂太郎と吉岡実について、〈吉岡実の装丁作品(105)(2012年7月31日)〉以上のものが書けそうにない。那珂さんがお元気なうちに、吉岡実歌集《魚藍》(本文が洋紙の番外本)を見せていただきたかった。追悼の意を込めて、吉岡の未刊行散文を引く。
「初
夏のある午後、那珂太郎がたずねてきた。彼は大きな皮鞄のなかを、かきまわしていたが、やがて文庫判型の小冊子を取りだして、私の前へ置いた。それは私の
唯一の歌集《魚藍》であった。/昭和三十四年の春、私の晩婚を祝ってくれる少数の縁者・友人へのお礼と記念のしるしとして、《魚藍》七十部をつくった。そ
れを製作してくれたのは、今は亡き伊達得夫であった。本文二十八頁に、若書きの短歌四十七首が和紙に刷られている。わが家にはNO2の一冊があるだけだ。
/那珂太郎の持ってきたのは、驚いたことに本文が洋紙の番外本で、私の初めて見るものだった。恐らく伊達得夫がいたずらに四、五冊つくったものだろうか。
/私はこの奇遇をよろこび次の一首を見返しに書いた。/波とどろ岩根黝苔(くろごけ)潮たれ舟虫ひかり夏はきにけり/〔……〕」(〈風信〉、《東京新聞
〔夕刊〕》1972年8月1日)。
去る11日、松山俊太郎氏が亡くなられた。83歳だった。松山さんは澁澤龍彦や加藤郁乎の盟友としても知られる。吉岡実に触れた文章はないが、吉岡 実・加藤郁乎・那珂太郎・飯島耕一・吉増剛造〔座談会〕〈悪しき時を生きる現代の詩――座談形式による特集〈今日の歌・現代の詩〉〉(《短歌》1975年 2月号)での加藤郁乎の発言がこう伝える。
加藤 吉岡実の話になったから言うけど、『僧侶』というのはす
ごくハイカラに見えてじつはクラシックなんだね。俳人が渇仰しているわけですよ。このひとに「オートバイ」という詩があるんですよ。そして「ビクトリー」
あの辺から短歌的という言い方はよくないけれども。土方巽や松山俊太郎が遊びにくると、吉岡実の詩はだんだん歌になってきているんじゃないかなんて話が出
ますよ。
吉岡 自分じゃちょっと気がつかないけど……。
加藤 どうも吉岡実はああいう詩を書いてて白石かずこみたいな流れるリズム感に付き合っちゃっているんじゃないか……短歌をこさえた人だからそういうのがあるんじゃないかというような話、したことがあるね。
吉岡 画期的な発言を聞きましたよ。「孤独なオートバイ」なんかものすごい苦労をしてつくったけど……。ある面でショックだよ。だから、いろんなことをやるんだよね。短歌になったり、俳句になったり、故里にかえろうとしているんですよ。(同誌、八〇ページ)
吉岡実の年譜には、1975年10月「土方巽、ビショップ山田に誘われ山形県鶴岡市へ北方舞踏派結成記念公演〈塩首〉を観に行く。〔……〕松山俊太
郎と羽黒山へ行く」、1983年5月「来宮の土方巽、元藤Y子の山荘へ招かれる。池田満寿夫、澁澤龍彦、種村季弘、鶴岡善久、三好豊一郎(いずれも夫人同
伴)、松山俊太郎、芦川羊子らと眺望随一といわれる絶景に、一日憩う」とあり、松山さんとの交友がうかがわれる。
1990年、吉岡実の四十九日法要のあと、神田やぶそばで故人を偲んだ。私は筑摩書房の淡谷淳一さんの隣で小さくなっていたが、座敷の向いの松山さんが
「えぬ、えぬ」(犬のことらしい)と気炎を上げているのに圧倒された。――「わたくし自身も、輪廻のからくりが繰れるなら、江戸時代の北陸で犬に転生し
て、墨染の僧形となり百姓に仏法を説きたいという、複雑な願望をもっている」(〈奇態な犬神・澁澤龍彦〉、《綺想礼讃》国書刊行会、2010年1月23
日、三八七〜三八八ページ)。当時《ちくま》を編集していた橋本靖雄さんと松山さんが「吉岡さんは『下町の少年』そのままだった」と意気投合していたのを
思い出す(池田満寿夫さんを間近で見たのも、その席が最初で最後だった)。松山俊太郎さんのご冥福をお祈りします。
去る25日、詩人の辻井喬氏が亡くなられた。86歳だった。1927年生というから、私の父や亡母と同年生まれで、まさしく親の世代である。吉岡実は氏の《沈める城》(思潮社、1982)と《たとえて雪月花》(青土社、1985)の2冊の詩集を装丁している。装丁のお礼かどうかは定かでないが、《〈吉岡実〉を語る》冒頭に掲げた「吉岡実の手蹟 〔詩篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿〕」の 原稿用紙は辻井氏から貰ったものだ、と嬉しそうに話すのを聞いた。吉岡がふだん詩作品の執筆に用いたのは「草蝉舎」名入りの32字詰め×20 行の自家製原稿用紙だから、辻井氏の20字詰め×30行の原稿用紙(おそらく氏自身も愛用したものだろう)は、それが私のような者への下賜で あっても、常とは違う一種の「書作品」をしたためるとき専用の特別なものだったようだ。吉岡実も辻井喬も亡きあと、二人を偲ぶよすがはこれらの詩集であ り、吉岡実詩の支持体たる原稿用紙の謂れである。人は去る。されど、作品は残る。しかしなんといっても、私のような詩書の読者は、辻井氏が(あるいは堤清 二が)かつて西武池袋本店(書籍館)や渋谷PARCOにあった「ぱろうる」を思潮社の小田久郎さんとともにつくったことをありがたく想いかえす。(「詩専門の書店ぽえむ・ぱろうるは、辻井喬(西武の堤清二)氏の発想のもと、思潮社小田久郎氏が経営。」)
飯島耕一さんが去る14日、亡くなられた。83歳だった。《静物》を一読して吉岡実を詩の世界に踏みとどまらせ、のちには土方巽を紹介した、おそら く吉岡にとって大岡信と並んで最も親しい現代詩人だった(吉岡の葬儀委員長も務めている)。不明にしてその小説に詳しくないが、詩と評論、とりわけアポリ ネールや萩原朔太郎、西脇順三郎、瀧口修造についての文章は愛読したものだ。詩友の小畑雄二から、飯島さんが教鞭を執っている明治大学でアポリネールを講 義すると聞いて、潜りで聴講していた1978年か79年ころがいちばん身近に接した時期だった(ちなみに私の卒論は、アポリネールの詩集《アルコール》に ついて)。追悼の意をこめて、吉岡が飯島さんに捧げた詩〈雷雨の姿を見よ〉(H・14)の一節を掲げる。私のなかでは、飯島耕一とギヨーム・アポリネール という両詩人の向日性が分かちがたく結びついているが、この詩句からも同質のものを感じる。
ぼくは〈危険な思想〉というものは
もしかしたら眉唾ものだと思う
野には春の七草
「マグリットの
岩も
城も軽く浮んでいる」
文芸評論家の大河内昭爾さんが去る15日、85歳で亡くなった。私が浪人時代、高田馬場駅前の予備校で現代国語を教わったから大河内先生だが、大河内さんと呼ばせていただく。吉岡実の〈夏から秋まで〉(F・2)が掲載された《文学者》〔文学者発行所〕1967年8月号の編集者が大河内さんだった。同号の編集後記を引く。「編集を担当してあれこれ不慣れななかを半歳。かつて評論だけのとりまとめをやって勝手に編集担当者に原稿をおくりこんでいた頃がなつかしい。評論と随筆を毎号ぬかりなくそろえること、そして小説をえらぶということで精一杯で、つとめやアルバイトのかたわらあたふたと日をおくっているのが実情である。今更前任者の苦労がしのばれるというものだ。/「或る視角」と「詩」を加えたことが、うけつぎ後の新しい方針だったが、今月号は詩集「僧侶」の詩人吉岡実氏、本年度H氏賞三木卓氏、また本年度「文学界」新人賞の桑原幹夫三氏の詩を得た」(九六ページ)。また随想〈ひるめし〉が掲載された《あさめし ひるめし ばんめし》〔みき書房〕1977年夏・11号も大河内さんの編集だ。同号の編集後記を引く。「あさめし・ひるめし・ばんめしの欄は喜寿をむかえられる俳句の中村汀女、今年度高見順賞の詩人吉岡実、ばんめしは歌壇の、というよりすでに日本文化界の最長老土岐善麿の三氏に顔をそろえて頂いた。〔……〕/希望通りの三氏にご一緒に登場して頂けたことは何より有がたいことであった」(八四ページ)。〈ひるめし〉(《「死児」という絵》所収)は《「死児」という絵〔増補版〕》では「ついては、意にみたない五篇を省いた」として収録されなかったが、大河内昭爾編《名士の食卓》(彩古書房、1986)に雑誌掲載の初出形が収められている。大河内先生のご冥福をお祈りする。
〔2020年5月31日追記〕
坪内祐三が今年の1月に亡くなって何冊か手にしたなかに、《週刊文春》連載の〔文庫本を狙え!〕第366回から第565回までをまとめた《文庫本玉手箱》(文藝春秋、2009年6月10日)があった。懐かしさのあまり、読んだことのある本の項目を拾い読みした。坪内ほど食の文章に関心を持っていない私が文庫本に〈ひるめし〉が再録されているのを知ったのは、その〈野村麻里編『作家の別腹』 知恵の森文庫〉の初出〈文庫本を狙え! 510――『作家の別腹』〉(《週刊文春》2007年11月29日)によってだった。
食について書かれた作家の文章を集めたアンソロジーは、それが似たようなものであれ、出るとつい手に取ってしまうが、光文社知恵の森文庫の新刊『作家の別腹』(野村麻里編)、タイトルはひねりすぎだがとても面白かった。
似たようなものであれ、というのは、内田百閒や吉田健一、池波正太郎、獅子文六、小島政二郎、吉行淳之介、山口瞳、檀一雄、色川武大らの一文が収録されているわけだが、彼らの食にまつわるエッセイは何度読んでもそれぞれに味わい深い。
しかもそういった定番以外の文章も選ばれているのが楽しい。
例えば詩人で筑摩書房に勤めていた吉岡実の「ひるめし」。
〈神田小川町に勤務先があるので、昼飯は散歩がてら、多くは神保町界隈でということになる。学生街なのでどの店もいっぱいで、一時近くまで、本屋で新刊書、雑誌類を見る。あまり食べることに執着しないので、覗いてすいている店に入ることになる〉
というシンプルな書き出しを目にしただけで、私は、吉岡が描く三十数年前の神保町の世界にひきこまれて行く。
吉岡は言う。「神田の雰囲気の色濃く感じられるところは、三省堂喫茶室だと思う。私はここではカツ丼を食べることにしている」、「食べながら売場を眺めるのも楽しい」、と。そしてそれに続く、やはり「神田の匂い」がするという共栄堂やランチョンが今だ健在なのを思うと、神保町の良さを改めて確認する。
話がそれてしまったが、このアンソロジー、それぞれの文章のあとにつけられた編者の解説もいい隠し味になっているし、示唆にも富む。(同書、三三六〜一三七ページ)
冒頭からの、このスピード感。坪内の文庫本の書評が読めなくなって、私のなかの《週刊文春》の価値がいくぶん目減りしたことは否めない。坪内は〈澁澤龍彦『澁澤龍彦書評集成』 河出文庫〉の項で、共感をこめて「いずれも若き日の文章なのだが、すでにして澁澤の文体(読みやすく明晰)を持っているのはさすがだ(高橋睦郎の詩集『私』の書評で澁澤は、「私はいつも、本質的なことをなるべく少ない言葉で言おうとしている人間なので」と述べている)。」(同書、四二四ページ)と書いている。
小説家で評論家・英文学者の丸谷才一氏が去る13日、87歳で亡くなった。新しい文章(とりわけ、その書評)がもう読めないと思うと、さびしくてならない。1970年代、新宿・紀伊國屋書店の
ホールで、新潮社の文化講演会が毎月開かれていた。辻邦生をはじめ、多くの小説家の謦咳に接した。丸谷さんは若いころ国学院大学で教鞭をとっていただけに、講演もうまかった。
そこで「家庭では爪切りのことをピチンピチンと呼んでいる」といったのをいまでも覚えている(メモは見ていたかもしれないが、原稿は用意していなかったと思う)。
悲しみのあまり、そんなどうでもいいことしか思い出せない。さようなら、そしてありがとう、丸谷さん。あなたは20世紀日本で最大の批評家でした。
――わたしは穏健な思想の持主だから、小学生に恋愛詩を当てがへとは主張しない。また、堀口大學の艶笑詩や、吉岡実のエロチック極まる作品を中学生に読ませるべきだとも言はない。
だが、年少の読者にすすめるにふさはしい、恋を歌つた佳什は、何も今さら改めて例をあげるまでもなく、すこぶる多いはずである。どうしてさういふものを教科書に採つてはいけないのか。
恋愛詩こそは詩の花であるのに。言葉はそこにおいて最も甘美に最も匂やかに用ゐられてゐるのに。――
詩人・俳人の加藤郁乎氏が去る16日、83歳で亡くなられた。追悼の意をこめて、吉岡実・加藤郁乎・那珂太郎・飯島耕一・吉増剛造の座談会〈悪しき
時を生きる現代の詩――座談形式による特集〈今日の歌・現代の詩〉〉(《短歌》1975年2月号)から〈出生・過去・海やまを走る〉の一節を引く。
吉岡 郁乎さんに報告したいことがあるんだけどサ、この間古書展でお父さんの句集『森林』というのを買いました。
加藤 『森林』?! ウワッー!
吉岡 わからないんだ、名前が。紫舟は知っていたけど、これが郁乎のお父さんか、自序・跋・奥付を見てもわからないんだ。加藤のかの字もないんだよ。黎明居というのね。
加藤 それは親父の第一句集ですよ。三十歳だったでしょう。
吉岡 これは加藤郁乎のお父さんじゃないかと思って読みました。俳人も歌人も、子供がうまれると句や歌をつくるでしょう。それで調べていったら、とうとう見つけたんだよ。昭和四年のところで、一月三日郁乎出生す「一度二度見るや実南天に似てくる子」。
加藤 これはこれは、親子にわたって買っていただいてありがとうございました。(笑)親父、喜んでいますよ。(拍手を打つ真似して)
吉岡 句集の前半のほうがいいなという感じするんですね。今度郁乎さんにサインしてもらおうかな。
加藤 茶色の箱の……。あのころでは長谷川零余子の門を叩いたりしていますね。
吉岡 で、若くして亡くなられたんですか。
加藤 ええ、わたしのあと二つで死んじゃうんですよ。四十七で死にました男ですからね。宝井其角という俳人がやっぱり四十七で死んでいます。酒飲みでしたからね……。原石鼎の弟子のときもありました。
吉岡 あれはほんとうに偶然の出会いですね。
那珂 石鼎の弟子じゃ、郁乎風じゃなくてまじめな……。
加藤 ああ、もう……。(笑)いま親父がいたら、ぶんなぐられていま
すよ、不肖の伜は。(笑)好きな句が石鼎にはありますね。〈頂上や殊に野菊の吹かれ居り〉〈秋風や模様のちがふ皿二つ〉ああいうのが石鼎ですね。この間石
鼎先生の未亡人とはじめてお話ししたんですが、一年ぐらい教えて貰っていたらしいですね。
吉岡 早く独立しちゃったの、お父さんは。
加藤 そうなんですよ。食うためもあったんでしょうけどね。点者にな
ると食べられますからね。俳諧史を教わったのが山口剛といういまの森銑三先生なんかと同じで江戸文学なものですからきっと迷ったんですよ。吉増君みたい
に、西鶴やろうか、どうしようかと。西鶴やったのが暉峻康隆。それで結局は俳諧に行くわけですね。ところが、そんな学問やったらなかなかメシ食えないか
ら、点者になっちゃったんですよ。それで少しずつ食べられるようになって、東京で骨を埋めるつもりのようでした。大体、文学なんか選んだので田舎の家を勘
当された男ですから。
那珂 そういうところはやはり血筋ですね。(笑)
加藤 俳諧師なんて一代でいいんですよ。飯田龍太にはなんだけれど
も、蛇笏先生がいれば、もう……。ちょっとむごいことを言うけれども。(笑)虚子に娘がいて、星野立子だってなんだっていいけれども、文学は一代かぎり、
俳諧なんていうのは、もう一代でいいんですよ。それを門前の小僧でこんなことになっちゃいました。
吉岡 だけど、親から出たら、出藍のほまれとは言えないだろうけど、郁乎はお父さんを抜いてるよ、しょうがないよ、お父さんに悪いけれども。(笑)
加藤 親父を知ってる人たちは、大体わたしのことをおもしろくないらしいんですね。……たまに法事なんかで会うと、白けちゃうけどね。(同誌、七〇〜七一ページ)
詩人で思想家の吉本隆明氏が3月16日、肺炎のため亡くなった。87歳だった。吉本氏による最も早い吉岡実論は《現代詩全集3》(書肆ユリイカ、 1959)に収められた〈戦後詩史3〉の〈僧侶〉(C・8)評だが、《戦後詩史論》が単行本として大和書房から刊行されたのは1978年と遅く、長らく 《言語にとって美とはなにか〔第2巻〕》(勁草書房、1965)の詩篇〈牧歌〉(A・10)の分析が独自の光芒を放った。吉本氏は1996年以降もたびた び吉岡実(詩)に言及したが、吉岡実は吉本隆明(詩)について文章を残していない。だが、詩集《神秘的な時代の詩》(1974)としてまとめられた〈マク ロコスモス〉(F・1)には「善なる悪なる共同幻想」、〈立体〉(F・3)には「共同幻想体として」、という興味深い詩句が見える。吉岡は「内的独白」や 「意識の流れ」といったタームを好むモダニストだったから、吉本隆明の《共同幻想論》(河出書房新社、1968)が一本にまとまる前にこれらの語を書きし るしたとて、驚くにはあたらない(ただし、《共同幻想論》には「共同幻想」も「共同体」も登場するが、「共同幻想体」は出てこない)。私が最後に吉本氏の 姿を目にしたのは1990年6月3日、巣鴨・真性寺での吉岡実の告別式においてだった。謹んで吉本隆明氏のご冥福をお祈りする。
6月1日、舞踊家の大野一雄氏が亡くなった。103歳だった(吉岡実より13歳年長)。吉岡は大野一雄の踊りに初めて触れた日のことを〈日記抄――一九六七〉に書いている(7月3日)。「夕方、三好豊一郎来る。ラーメンを食って紀伊国屋ホールへ向う。那珂太郎、澁澤龍彦と出会う。七時開演、土方、笠井君たちの舞踏詩「形而情学」始る。クレオパトラ・タカイ、アレクサンドロス・オオノ、ヘリオガバルス・カサイ、ネロ・ヒジカタの奇怪にして典雅、ワイセツにして高貴、コッケイにして厳粛なる暗黒の祝祭。幻の舞踏者大野一雄の芸に接しえたのは幸運。ハサミを持って踊り狂う老人の姿これはなんだろう、地獄の使者か、人間至福の正体か。恍惚の二時間半。土方巽の傑作に拍手。那珂太郎、白石かずこと近くの喫茶店で一時間ほど雑談。十時半ごろ別れる」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一三〜一四ページ)。詩篇では〈ラ・アルへンチーナ頌〉(1977)に寄せた〈裸子植物〉(H・25)や〈睡蓮〉(K・13)が大野の舞踏に触発されて成った。私が接しえた大野作品では〈花鳥風月〉(銀座セゾン劇場、1991)や〈御殿、空を飛ぶ〉(横浜赤レンガ倉庫、1993)から受けた感銘が大きいが、大阪で開かれた永田耕衣の会でのアンチームな踊りも忘れられない。アレクサンドロス・オオノ――大野一雄さんのご冥福をお祈りする。
〔2011年9月30日追記〕
「大阪で開かれた永田耕衣の会」は、詳しくは〈耕衣大晩年の会〉(メルパルクOSAKA〔郵便貯金会館〕にて、1995年6月1日)で、記念講演と祝舞――種村季弘〔講演〕〈元気な永田耕衣さん〉、永田耕衣〔講演〕〈田荷軒談娯〉、大野一雄・慶人〔舞踏〕〈暈狂う舞〉――が行なわれた。講演のあと謡を披露した耕衣さんも、種村さんも、大野一雄さんも、あのころはみなさんお元気だった。耕衣の会のちょうど5年前の、そして大野さんが亡くなった20年前の1990年6月1日は、奇しくも吉岡実の仮通夜その日だった。
秋元幸人氏が去る4月29日、亡くなった。48歳、肺ガンによる早すぎる逝去である。秋元さんの近著は《レオン=ポオル・ファルグの詩》(思潮社、2009年8月28日)で、刊行後まもなく購入したものの、読了してから感想をお伝えしようと機を逸したのが悔やまれる。
秋元さんとは吉岡実十三回忌のおりにご挨拶したくらいで、雑誌や書籍の交換、電話やメールのやりとりが中心の間柄だった。このサイト《吉岡実の詩の世界》(2002年11月30日開設)が秋元幸人《吉岡実アラベスク》(書肆山田、2002年5月31日刊行)に刺戟されて成ったことは、大書しておかねばならない。秋元幸人が成したのとは異なる方向で、つまり可能なかぎり吉岡実の事績を紹介する形で〈吉岡実〉を描くこと、それが本サイト開設当初の方針であり、現在も不変である。
私の目にした秋元さんは、その文章からうかがえるとおり、実際の年齢よりも老成した大人[たいじん]の風格の偉丈夫だった。小笠原鳥類さんは西脇順三郎を語る会で秋元さんの〈吉岡実と西脇順三郎〉を聴いたそうだが、残念なことに私は聴きのがしている。後で講演の記録をちょうだいしたものの、大学の教え子たちが懐かしむ秋元さんの「楽しいお話」を聴くことはかなわなかった。前にも書いたことがあるが、〈吉岡実と誰誰〉(たとえば西脇順三郎、たとえば澁澤龍彦)をいろいろ執筆していただいて、時が充ちて新しい本になるのを楽しみにしていたのに、それも空しい(単行本未収録のものは《現代詩手帖》2008年5月号掲載の〈巫術師の鎮魂――入沢康夫と吉岡実〉くらいではないか)。今はただ、無念でならない。
完成したあかつきにはぜひ読んでいただきたかった《吉岡実トーキング》を、秋元幸人の霊前に捧げる。《吉岡実アラベスク》を、《吉岡実と森茉莉》をどうもありがとう。私にとってのあなたは、この二冊のなかで生きつづけています。さようなら、「愛する人たちと/何気ない会話を交わす間に/一人だけ階下へ降りてゆくように」(通夜式で千穂夫人が紹介した秋元幸人の詩の末尾)立ちさった秋元さん。吉岡実と森茉莉に、よろしく。
〔2010年6月30日追記〕
秋元幸人さんからの来信を整理していたら、《吉岡実アラベスク》を恵投いただいたときの礼状の控えとその返信が出てきた。新刊読後の感想を認めた礼状の最後で、私は秋元さんにある資料の無心をしている。「相内武千雄『サフランを摘む人・中期ミノス第三期』刊行年次不明」(同書、五八ページ)がそれだ。折り返し秋元さんからB4判四枚のモノクロコピーが届いたので、お礼に吉岡実自筆の未発表詩稿のコピーを差しあげた。その相内〈解説〉の勘所は、秋元さんが
実際、今私の手許に有るクレタ島ヘラクレイオン美術館所蔵の水彩復元模写『サフランを摘む人』一葉を解説した美術史家相内武千雄の文章にも、この謎めいた壁画の由来は次の様に詳しく説明されている。クノッソス宮殿は十九世紀最後の年にイギリス人アーサー=ジョン・エヴァンズによって発掘された。壁画を発見したエヴァンズは、「クレタの繪畫のしきたりでは暗赤色又は赤褐色で男性を表示する」以上、この壁画に描かれた「若い人物が暗青色で色どられている」のは不審だとし、これを「むしろ少女ではあるまいか」と述ベ、一方イタリアの考古学者ルイジ・ペルニエルはこの壁画を「最初に見たときは、少年ではなく猿であった」と反駁したというのである、「もし猿であったら、エヴァンズの所謂『フレスコの家』のパピルスや花に戲れる野猿の圖のように、この圖の解釋も變ってくることであろう。この猿は青色なのである」。(〈6 「サフラン摘み」〉、《吉岡実アラベスク》、五二〜五三ページ)
とおさえているとおりだ。吉岡ははたして〈サフラン摘み〉を執筆(初出は《現代詩手帖》1973年7月号)するまえに〈サフランを摘む人〉や相内の解説文を目にする機会があっただろうか。コピーでいただいた図版〈サフランを摘む人/中期ミノス 第三期〉を、原典に当たりなおして次に掲げよう。秋元さんは相内の〈解説〉を「刊行年次不明」として出所を挙げていないが、探索の結果、座右宝刊行会編《世界名画全集〔第3巻〕》(河出書房、1956年12月15日)だとわかった。
〈サフランを摘む人/中期ミノス 第三期〉のカラーコピー
出典:座右宝刊行会編《世界名画全集〔第3巻〕》(河出書房、1956年12月15日、V-6)
相内はエヴァンズの少女説≠「胴のくびれたほっそりした體形はクレタ人の人體觀照の定型なのだからあまり問題にならないとしても,一般に女性の肉體は白色で示されているから,少女推定も難しいことになってくる」(原文横組。前掲書、ノンブル記載なし)と斥けている。サフランを摘んでいるのは、はたして少年なのか少女なのか、それとも猿だったのか。
「『朝日新聞』夕刊文化欄の「研究ノート」、三浦一郎教授による壁画「サフラン摘み」発見の記事が発想の原点になっている。破損が多いためサフランを摘んでいるのが少年であるか猿であるか不明という記述が作者の注意を惹き、この愛すべき一篇が産まれるきっかけになった」(高橋睦郎〈鑑賞〉、《吉岡実》、中央公論社、1984、七二ページ)のは確かだとして、秋元さんの文章でクレタの壁画と(山中智恵子が《星醒記》の〈うつせみ〉で「サフランを摘みゆきしままポンペイの青き少年還らざりしを」と詠んだ)ポンペイの壁画の詳細な比較を堪能できないのは、返す返すも残念だ。
なお、相内武千雄(1906-70)は《西脇順三郎先生記念論文集》(慶應義塾大学芸文学会、1963)にも論文を寄せている慶應大学工学部教授だが、NDL-OPACでは単著を検索できなかった。
2月6日、国文学者の益田勝実氏が亡くなった。86歳だった。吉岡実が編集を担当した《ちくま》90号(1976 年10月)に益田勝実〈絶妻之誓〉が掲載されている(筑摩からは《秘儀の島――日本の神話的想像力》が1976年8月25日に出ていた)。《土方巽頌》 (筑摩書房、1987)の1984年7月8日の日記には「雨。益田勝美〔ママ〕『古事記』を読む」(同書、一六六ページ)とある。吉岡は〈白秋をめぐる断 章〉に「私は遅まきながら、『古事記』や柳田国男『遠野物語』や石田英一郎『桃太郎の母』などの「神話」や「民間伝承」に、心惹かれるようになった。私の もっとも新しい詩集『薬玉』は、それらとフレイザー『金枝篇』の結合に依って、成立しているのだ」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、 1988、三〇五ページ)と書いており、益田氏の著作は吉岡晩年の詩境にも影響を与えた。
去る10月16日、小説家の森田誠吾氏が亡くなった。82歳だった。吉岡実《土方巽頌》(筑摩書房、1987)の1986年1月20日の日記には「曇。寒い朝。飯島耕一から電話で、土方巽の病状を聞いてくる。午後いちばんで、国立劇場へ行く。〔……〕六時ごろ帰宅。『魚河岸ものがたり』で、直木賞受賞した、森田誠吾から受賞式に出席してほしいと言われた」(同書、二〇九〜二一〇ページ)とある。一方、森田氏は〈「直木賞」ものがたり〉(《銀座八邦亭》、文藝春秋、1987)にこう書いている。
「馬琴」〔処女長編「曲亭馬琴 遺稿」のこと〕の構想が生れた時に、詩人の吉岡実さんに相談してみると、言下に、新田〔敞〕さんに読んでもらうといい、彼がOKするようならいい小説だし、彼がOKするような小説を書けと言われた。
脱稿して新田さんにお願いすると、読了後すぐ連絡があって、梅沢〔英樹〕さんに逢うように言われ、梅沢さんに逢うと、いい小説でした、読み了[おわ]ってから、まだ江戸という雰囲気に酔っています、とまで言われ、我がこと成れりと喜びながら、それを忘れて、世の中、闇だ、なんて、ひとりですねていたのでは、吉岡さんにも新田さん、梅沢さんにも申しわけが立たない。(同書、一九六〜一九七ページ)
最初から小説家・森田氏と詩人・吉岡のようだが、実はそれ以前に「戦後、私が継いだ家職の広告木版業は、出版広告を主としていた」(〈敦の周辺〉、《中島敦〔文春文庫〕》文藝春秋、1995、一七〇ページ)氏と筑摩書房の広告制作担当者という間柄だった。森田氏は、臼田捷治《装幀時代》(晶文社、1999)が挙げている《三段八割秀作集》(1972)の出版元・精美堂の社長でもあった。国立国会図書館には同書のソースと思しい石原龍一・祐乗坊宣明選《3段8割秀作展 '66》(精美堂画廊、[1967])、同《3段8割秀作展 '67》(同、[1968])がある。そのフォルダーには三段八割広告を数倍に拡大印刷した刷り物がそれぞれ十枚ほど(うち筑摩書房の広告は各二枚)収められているので、その書名を挙げておこう(3. や4. は《装幀時代》で言及されている)。末尾の( )内は同資料〈展観目録〉における三段八割の分類で、精美堂画廊の持ち主でもあった森田氏の創案だろう。
この〈3段8割秀作展〉を企画したのが森田氏だった。吉岡とは、小説家と詩人という以上に、広告制作を通じた仕事仲間だったのではないだろうか。ちなみに森田氏は「また、広告制作担当の吉岡実は、やがて象徴詩人として第一人者となるが、平素は詩人の一面を全く見せず、世間話に興ずる青年であった」(《中島敦》、一七一ページ)と評している。森田誠吾による《中島敦》こそ《曲亭馬琴遺稿》(新潮社、1981)と並ぶ伝記文学の白眉だろう。《中島敦》は、著者と和田芳恵(編集者として中島敦の小説集《南島譚》を手掛けた)と吉岡実とのエピソードで終わっている。ここにその段を引きうつしつつ、謹んで森田氏のご冥福をお祈りする。
一度、私は、和田の娘・陽子の夫となった吉岡実から、和田を紹介された。
まだ、五十過ぎというのに、好々爺[こうこうや]然とした和田には、話に聞く切れ者の気色は微塵もなく、私が遊び半分吉岡のために彫った篆刻[てんこく]を褒め、自分も一顆欲しいと丁重に言った。
否やはなく、和田の希望に従ったが、和田はこの印を著作の検印として使ってくれた。没後、未亡人もその意を汲んで、今も霊前に供えてある、と伝え聞いた。
和田が刻印の謝礼として贈ってくれた色紙には、
皿の枇杷つぶらつぶらに灯なりけり
とある。(同書、一八〇ページ)
林哲夫さんのブログ《daily-sumus》の本日2008年7月23日アップ分に、 湯川成一氏の肖像写真とともに「〔……〕湯川さんが今月の十一日に亡くなられた。十三日にご家族だけの葬儀が営まれたという。いずれ偲ぶ会がもたれるとは 思うが、あまりに急なことであった」とある。噫! 吉岡実の訃報を新聞紙上で目にしたときもそうだったが、なにかに決定的に遅れてしまったという悔恨の念 しか湧いてこない。吉岡実詩集《神秘的な時代の詩〔限定版〕》(湯川書房、1974年10月20日)の刊行者、生前ついにお目にかかる機会がなかった湯川 成一氏のご冥福をお祈りします。
〔2008年10月31日追記〕
《spin》04号〈湯
川書房
湯川成一さんに捧ぐ〉(みずのわ出版、2008年9月)に〈湯川書房限定本刊行目録(未完)〉が載っている。目録7の塚本邦雄自選歌集《茴香變》
(1971)
はかつて文藝空間の原善から借覧して愉しんだが、湯川書房の限定本でまず想いだすのが本書だ。その塚本邦雄の厖大な著書のほとんどを編集・装丁した政田岑
生さんは、鶴岡善久氏とともに吉岡実の《液体》(湯川書房、
1971)を含む未完の叢書〈溶ける魚〉を編集していて(どんなラインナップになったのだろう)、湯川氏はその歿後に《政田岑生詩集》(書肆季節社、
1995)を制作している(年譜を見ると、政田さんを塚本に引きあわせたのも氏のようだ)。これらの書目を見るにつけ、湯川氏の出版活動はその中心に自社
の限定本(《神秘的な時代の詩〔特装版〕》など)があり、ひとつ外側に自社の市販本(《神秘的な時代の詩〔限定版〕》など)や自社刊行の自費出版物(関西在住の文人に多い)、さらにその外側に制作などに携わった他社出版物があったように思う。
吉岡実は湯川本を「さて、新句集『物質』を拝受し、いつもながら、旺盛なる精神行為にうたれました。〔……〕また造本、装幀も清楚で、流石は湯川本です」
(〈永田耕衣句集《物質》愛誦句抄〉、《琴座》393号、1984年5月、二一ページ)、「過日、お手紙と『物質』の特装本を頂きながら、お礼を申上げる
のが、大変遅れまして申訳けありません。おゆるし下さい。さて、白い革装のルリュールの『物質』を、掌で撫ぜながら、流石に湯川本だと感心しているところ
です。〔……〕しかし、五十冊限定を製作したのは驚きです。耕衣特装本の異色ですね。大切にいたします」(〈青葉台つうしん――永田耕衣宛書簡〉、《琴
座》421号、1986年11月、一七〜一八ページ)と評した。吉岡が夢見た、好きな著者の限定本を出す個人出版[プライヴェートプレス]に最も近かった
のが、「社主一人の湯川書房・湯川成一」(〈風信〉、《東京新聞〔夕刊〕》1972年8月1日)だったのではあるまいか。しかしながら、それに専念するに
はあまりに創作家でありすぎた。吉岡実の中の詩人は装丁家より大きく、装丁家は編集者より大きかった。自身の創作を断念した者でなければ、他者のプロ
デュースなどどうしてできようか。湯川氏にどのような断念があったのか、あるいはなかったのかわからないが、〈湯川書房限定本刊行目録(未完)〉を見なが
らそのようなことを考えた。
待望久しい秋元幸人さんの随筆集《吉岡実と森茉莉と》が 思潮社から刊行された(奥付は一〇月二五日発行)。秋元さんから早早に出版の計画を聞いていただけに、待ちわびた一書である。ジャケット・帯とも白地(花 布と当今珍しいスピンも白!)にスミ文字のみの、簡潔にして豪奢な装本である(装丁は思潮社装幀室)。表紙の書名「吉岡実と森茉莉と」に続くように帯の著 者名「秋元幸人」とあるので、「吉岡実と森茉莉と秋元幸人」のように見えるのも楽しい仕掛けだ。表1の帯文を引こう。
類稀な詩人・作家へ年来の想いを捧ぐ、待望の随筆集
江戸っ子の吉岡実への思い入れ。つづい て歿後20年の森茉莉の項では〈巴里での生活の妙諦ここに極まった〉という若き日の後、谷中清水町から浅草神吉町へと下町生活を送った森林太郎の娘を追っ た秋元の迫真のペンがつづく。更に加えるならば〈羽化登仙する瞬間を待っている感じ〉の西脇順三郎の漢語とギリシャ語に対する熱弁を克明に記している。
大詩聖たちが、こちらをむいて歩いてくる姿をこの一冊は巧みにとらえている。
――藤富保男
吉岡実と森茉莉に関する6篇(2002年から2004年にかけて発表)はことごとく初出時に読んでいたが、こうしてまとまると〈森茉莉と吉岡実〉が コンパスの中心のように全篇を統べていることがわかる。巻末の〈小説西脇先生訪問記〉(1997年発表)は初読だったが、著者の別の一面を見るようで興味 深かった(この〈小説西脇先生訪問記〉を収録したためか、講演〈吉岡実と西脇順三郎〉の内容は本書には盛りこまれなかった)。秋元さんの本格的なフィク ションをぜひ読んでみたいものだ。
俳人の飯田龍太氏が去る25日、亡くなられた。86歳だった(生年は吉岡実の翌1920年)。吉岡は飯田龍太特集号の〈私の好きな一句〉に「茨の実 麻疹はるかに思ふとき」(句集《山の影》、立風書房、1985)を引いて、随想〈幼児期を憶う一句〉を書いている(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩 書房、1988、三三八〜三三九ページ)。吉岡はそこで、飯田龍太・大岡信・高柳重信の三氏とともに編んだ《現代俳句全集》(立風書房、 1977〜1978)に触れているが、そのあたりのことはいずれ同全集の解題として書きたい(四人の編者で健在なのは大岡さんだけになってしまった)。飯 田氏のご冥福をお祈りする。
甲斐駒のほうとむささび月夜かな(《山の影》)
〔2007年3月31日追記〕
上で触れた《現代俳句全集》解題を執筆したので、そちらもご覧いただきたい。「ともあれ、私は否応なしに〔三好達治句集〕『柿の花』と
見較べることになって、『定本・百戸の谿』にすでにありありと露われている飯田龍太の向うッ気の強さ、癇癖の強さと、それを実作において句の魅力に転じて
いる腕力の確かさに感服せずにはいられなかった」(《現代俳句全集
一》、立風書房、1977年9月5日、一〇三ページ)という一節が、同全集の飯田龍太集の解説(大岡信〈明敏の奥なる世界――飯田龍太の句〉)に見える。
雲のぼる六月宙の深山蝉(《春の道》)
《ボードレール全集〔全6巻〕》(筑摩書房、1983〜93)の個人訳で知られる阿部良雄氏が 去る17日、74歳で亡くなった。吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉の1984年7月、「京都市美術館で土方巽、宇野邦一、木幡和枝、中村文昭らと〈バルチュ ス展〉を観る。〔……〕十一月、来日したメキシコの詩人オクタビオ・パス夫妻のお別れ会に飯島耕一、大岡信らとアスベスト館へ招かれる。和服姿の土方巽、 阿部良雄・與謝野文子夫妻、合田成男、通訳を兼ねた野谷文昭、外国の文化使節、画家、美術批評家たちも同席」(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996、八 〇六ページ)は《土方巽頌》の〈日記〉(1984年7月11日、11月5日)の記載に基づくが、阿部良雄・與謝野文子編《バルテュス》(白水社、 1986)には同書の〈バルテュスの絵を観にゆく、夏――(日記)84年より〉(《土方巽頌》における題名とはやや異なる)が収録されている。翌1985 年5月26日の〈日記〉にも、アスベスト館開封記念公演〈親しみへの奥の手〉の「打上げの宴には、元藤夫人、阿部良雄、宇野邦一、田鶴浜洋一郎、中村文昭 そして、田中泯の弟子の外国人たちも来ていた」(同書、一八七ページ)と見えるが、残念ながら阿部氏が吉岡実詩に触れた文章は詳らかにしない。氏のご冥福 をお祈りする。
宗左近氏が去る20日、87歳で亡くなった。吉岡実と同じ1919年生まれだった。吉岡の1960年3月20日の日記「日曜 午後三時、向島百花園 へゆく。宗左近の詩集・評論の出版記念会。途中で伊達得夫とぬけ出して、新橋のぶれへ。清岡、岩田そして東野夫妻がいる。ふりしっと・はるとうのケイ子さ んの長い髪。今夜の圧巻は伊達の羅生門とケイ子さんのネリカン・ブルース。鰐の会のためとくに店をあけたとのこと。飲みつつ大いに唄う。十一時半閉会」 (《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一二二ページ)に出てくる詩集は《黒眼鏡》(書肆ユリイカ、1959)、評論は《芸術の条件〔二 〇世紀芸術叢書〕》(昭森社、1959)だろう。宗氏はいくつかの吉岡実論や追悼文を残している。一方、吉岡は自筆〈年譜〉(《吉岡実〔現代の詩人 1〕》、中央公論社、1984)に宗氏との交友を記している。ご冥福をお祈りする。
清岡卓行氏が去る6月3日、亡くなられた。83歳だった。清岡さんは吉岡実の詩を最も早い時点で評価した詩人の一人で、吉岡が《静物》(私家版、
1955)を献呈した際、いちはやく返信したという。《今日》同人を経て《鰐》の同人仲間でもあった清岡さんは、1968年に〈吉岡実の詩〉(のち《抒情
の前線》、新潮社、1970)という画期的な吉岡実論を発表したが、残念なことにその後は吉岡実詩に否定的な立場をとるに至った。両者の交渉は、清岡卓行
編《イヴへの頌〔肉筆による詞華集〕》(詩学社、1971)に吉岡が詩篇〈沼・秋の絵〉(D・21)の自筆原稿を寄せたのが最後と思われる。もっとも、吉
岡には〈手と掌〉(1978年8月発表)という随想があって、この文章など、清岡さんが吉岡に一本贈った《手の変幻》(美術出版社、1966)に対する返
書という気がしなくもない。
以下はまったくの想像である。竹西寛子の追悼文〈吉岡実さん〉の一節に「多くはなかった会話の中で残っているのは、吉岡さんの男友達についての点描であ
る。感謝のしかたは一様ではなかったが、よい友達をもつ仕合せに支えられた点描は、いずれも涼しい印象で今も生きている。袂の分ちかたも、私には男らしく
聞かれた」(《太宰府の秋》、青土社、1993年11月25日、三三ページ)とあるが、私にはこれが清岡卓行のことを言っているように思われてならない。
1999年の夏、吉岡実が戦時中そこにあった長春(旧満洲の新京)へ向かう途次、大連の地に降りたったとき去来したのが「ここが清岡卓行の〈アカシヤの大連〉〈円き広場〉の街か」という想いだった。謹んでご冥福をお祈りする。
〔付記〕
清岡卓行自筆〈年譜〉(《清岡卓行〔現代の詩人6〕》、中央公論社、1983)を見ていたら、「昭和四十九年 一九七四年 五十二歳/一月、「『亜』の全冊」(ちくま)」と発表記録があった。吉岡は当時、PR雑誌《ちくま》の編集者だったから、執筆依頼は吉岡の発案だったかもしれない。
彫刻家で詩人の飯田善國氏が去る19日、亡くなった。82歳だった。吉岡実は飯田善國の「複眼の所有者は憂愁と虚無に心を蝕ばまれる」を題辞に引い
た詩篇〈形は不安の鋭角を持ち……〉(H・11)を、多くの知友に捧げた詩篇で編んだ《夏の宴》(青土社、1979)に収めている。吉岡はまた、飯田善國
詩集《見知らぬ町で》(思潮社、1983)の装丁もしている。
一方、飯田氏は《現代詩手帖》1980年10月号〔特集・吉岡実〕の〈〈謎[エニグマ]〉に向かって――『夏の宴』を中心に〉で「修辞・比喩・暗喩・想
像・感覚・そして妖しい感情の肉体までを逆説の危機に晒して氏が追求してきたもの、氏自身もおのれの詩法を解き明すことができないと明言しているその詩法
の秘められたモチーフは、〈世界の謎〉についての言説であった」(同誌、一四五ページ)と論じている。
吉岡は随想では飯田氏のことを書いていないが、あの詳細な自筆年譜にこんな記述がある。「昭和五十一年
一九七六年 五十七歳/春、英訳詩抄『ライラック・ガーデン』(佐藤紘彰訳編)シカゴレヴュー〔ママ〕より刊行される。飯田善国のアトリエで、西脇順三郎
ほか数人で酒宴。エーゲ海岸の小石を貰う」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984、二三四ページ)。《サフラン摘み》刊行の半年前のことであ
る。
吉岡実の新刊が出た。吉岡が生前に刊行した随想集《「死児」という絵》(思潮社、1980)、《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、 1988)、評伝《土方巽頌》(筑摩書房、1987)の3冊の散文著作から城戸朱理さんが28篇を選んで編んだ散文選集《吉岡実散文抄――詩神が住まう場 所〔詩の森文庫E06〕》(思潮社、2006年3月1日)である。表1の帯文を引く。
超現実的なリアリズム
著者は短いエッセイを書くのさえ呻吟したと言われるが、その文章は名品と評されていた。出来事が現実を超え、反自然的な相貌を帯びてくる。自伝から作詩法にまつわるもの、西脇らの人物論までを収録。解説=城戸朱理
ついでだから〈詩の森文庫〉第二次刊行の案内リーフレットに掲載された文章も引こう。帯文、案内文とも、城戸さんの解説〈詩神が住まう場所〉を踏まえている。
吉岡実は短いエッセイを書くのさえ呻吟したというほど散文に苦手意識をもっていたが、その文章は心ある読者に高い評価をえていた。自然に語られた出来事が 現実を超え、超自然的な相貌を帯びてくるのだ。「私の生まれた土地」など自伝的なもの、「私〔わたし〕の作詩法?」など詩に関するもの、西脇、澁澤、土方 らの人物論を収録。 解説=城戸朱理
吉岡実の散文は、その詩からは想像できないほど事実に即した「日常反映の記録」であることが多い。そのなかで異色なのが、本書の初案タイトルに採られた〈突堤にて〉だ。以前〈突堤にて〉の校異を《〈吉岡実〉を語る》に書いたので、詳細はそちらをご覧いただきたいが、初出の末尾の文を削除したことからは「作品」への志向がうかがえる。いずれ〈突堤にて〉評釈を書いてみたい。
城戸さんは2005年7月19日の《城戸朱理のブログ――poetry and diary》に〈吉岡実エッセイ選を編纂して。〉を掲載しているが、その末尾には「これまで、単行本未収録の吉岡さんの散文は、すでに小林一郎氏によって、集成・編纂されており、ほぼ1冊分の分量になる。刊行が待たれるところである」と書かれている。ありがたい言葉だ。
塚本邦雄氏が去る六月九日、八四歳で亡くなった。吉岡実は〈二人の歌人――塚本邦雄と岡井隆〉(一九八五年一〇月の《短歌春秋》創刊号〈一首百彩〉 掲載)を「同時代の歌人として、私がもっとも注視するのは、やはり塚本邦雄と岡井隆ということになろうか」(《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、 1988、三四〇ページ)と始めている。そして、塚本の師である前川佐美雄の歌業に触れたあと、塚本の歌集《装飾楽句》(作品社、1956)から四首を引 いている。その冒頭は
水に卵うむ蜉蝣[かげろう]よわれにまだ悪なさむための半生がある
一方、塚本邦雄は吉岡実の詩(とりわけ詩集《僧侶》の詩篇)についてたびたび書いているが、《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実》(書肆山田、1996)掲載の〈誄讚〉一二首が吉岡に寄せた最後の作品だと思われる。最初と最後の歌を掲げる。
蠛[まくなぎ]の黒き渦なすひんがしへ奔らう 魚藍忌は明日のはず
世の末の夏末つ方詩歌よりいささ冴えつつ紫紺野牡丹
あれは一九八〇年前後だったろうか、東京・赤坂の銀花ギャラリーで年に一度、塚本邦雄筆趣展が開かれていた(色紙や短冊、新刊等の展示即売会であ る)。私は文藝空間の原善と語らって、塚本が来場していそうな日に訪れ、拝顔の栄に浴したものだ。ギャラリーには、高柳重信や葛原妙子もふらりとやってき た。塚本本の装丁者・政田岑生さんが、手ずから蜜柑をむいて勧めてくれたことも思い出される。その高柳、葛原、政田氏も今はなく、塚本邦雄もまた逝った。
少年発熱して去りしかば初夏[はつなつ]の地に昏れてゆく砂絵の麒麟(《装飾楽句》)
塚本邦雄筆趣展 出品目録
〔1978年12月11日〜12月21日、東京赤坂・銀花コーナー〕
〈塚本邦雄筆趣展 出品目録〉は、塚本邦雄撰《一九七九年版
現代百人一首》(書肆季節社、1979年6月)に挟んであったもの。同書の表紙・見返しと同じ用紙に印刷されているが、開催時期からすれば元から本書に付
随していたわけではなかろう(同じ用紙だと気づいて、たまたま私が挟んでおいたのかもしれない)。ちなみに同書には〈愛と死・他〉にもろだ・けんじ「額
[ぬか]に受けし星の傷痕〔ぎ→き〕らぎらと夜を日に継げるアポリネール祭」が、〈選外秀作百首〉に小林一郎「糸杉の青きこころ燃ゆ死のひやく欲[ほ]る
悲しみの子[トリスタン]いづかたに恋ふ」の二首が採られている。本書の漢字が正字なのは、私の原稿がそうだったわけではなく(ここに掲げた新字で書い
た)、塚本邦雄=政田岑生の制作方針がそうだったからだが、今にして想えばかたじけない配慮だった。いずれにしてもこの二首が、精興社の活版印刷で公刊さ
れた唯一の私の作品となった。
〔2009年1月31日追記〕
塚本邦雄は吉岡実が亡くなった翌6月号の《現代詩手帖》(実際の発売は前月末だから、書店に並んだのは吉岡が歿した数日前か)の特集〈戦後詩、その歴史的現在〉に回想〈邂逅の秘蹟〉を寄せている。塚本が詩篇〈僧侶〉に呈した最高の讃辞だと思われるので、引用する。
石原吉郎の「風と結婚式」に会ったその年〔昭和三十一年〕のその月〔八月〕、「ユリイカ」が創刊された。吉岡実 の名作「僧侶」の初出は翌三十二年の四月号である。六十四頁建の誌の三十七頁目から、この詩はひつそりと、むしろ目立たぬやうに組まれてゐたが、私の目に は、一聯五頁だけが、夜光塗料でゑどられたかに、不気味に発光してゐた。
〔塚本は第九聯全八行を引用している〕
ベルナール・ビュッフェの挿絵でも配したら、即[つ]き過ぎになる。ほとんど痺れるばかりの魅惑に、私は短歌を忘れる寸前だつた。重症の肺結核で臥床三 年、やつと恢復期にあつた私は、この詩を発条として、第二歌集の『装飾楽句[カデンツア]』を編んだ。引用は最終の第九聯だが、私は全詩を諳じた。今でも 暗誦することができる。(《現代詩手帖》1990年6月号、一二五ページ)
塚本が吉岡の〈僧侶〉を「発条として、第二歌集の『装飾楽句[カデンツア]』を編んだ」というのは、同歌集が1956(昭和31)年の3月20日発 行だからクロノロジーには反する。だが、前年クリスマスイヴ執筆の同書〈跋〉の「けれどもまた僕のまづしい才能を賭けたこの一巻が、たとへば壮美・冷厳な 交響楽「現代詩」の中にひびく、孤独な然し輝かしい『装飾楽句[カデンツア]』として繋がり得てゐたら、それも現在の小さな喜びとしよう」(《塚本邦雄全 集〔第一巻〕》、ゆまに書房、1998、一三〇ページ)という不敵な覚悟を読むと、同時代を生きた歌人の詩人と併走する姿が見えてくる。
石垣りん氏が去る二六日、八四歳で亡くなった(生年は吉岡実の翌一九二〇年)。石垣氏には《表札など》を含む四冊の単行詩集があり、吉岡との関係については〈吉岡実の装丁作品(17)〉に 書いたので、ここでは別のことを書く。吉岡が装丁している石垣りんの散文集《焔に手をかざして》は一九八〇年三月五日に筑摩書房から刊行されており、この 構成が吉岡の《「死児」という絵》(思潮社、1980年7月1日)の構成と驚くほどよく似ているのである。《焔に手をかざして》の目次を抜粋する。
T 暮しの周辺(41篇)
U 言葉・読むこと書くこと(12篇)
V ゆかりの人・人(18篇)
W この岸で(18篇)
あとがき
《「死児」という絵》は各章とも標題がなく、ローマ数字による章番号だけなので、同書〔増補版〕(筑摩書房、1988年9月25日)の宣伝文を借りて〔 〕内に誌す。
T 〔生い立ちの記〕(19篇)
U 〔詩作をめぐるさまざま〕(10篇)
V 〔愛読した短歌俳句について〕(17篇)
W 〔西脇順三郎はじめ詩人との交流記〕(13篇)
あとがき
ただし一九八〇年版《「死児」という絵》の編集は吉岡本人ではなく八木忠栄氏だから、影響云云はあたらないだろう。いずれにしても、詩人がさまざま な媒体に発表した散文をまとめる際の典型的な編集方法が、これらの書には見られる。石垣氏の逝去に際し、この点を顕彰しておきたい。
種村季弘さんが去る八月二九日に亡くなられた。吉岡実と同じ享年七一歳だった。一四年前の吉岡さんの葬儀の日、とるものもとりあえず巣鴨・真性寺に 駆けつけたが、焼香のために並んだのがたまたま種村さんの後ろだった。一九九一年一〇月一二日の〈吉岡実を偲ぶ会〉(浅草・木馬館)で、種村さんはおおよ そ次のような話をされた。
「人様とのお付きあいはいろんなレベルがあると思うんですが、私は吉岡さんとは小学生のレベルで付きあわせていただきました。
吉岡さんは大
学とか旧制高校とかお出にならなかったわけですが、だいたい戦前の東京では当たり前のことで、私は昭和八年生まれですけれども、小学校の同級生の三分の一
くらいが中学校に進んだだけで、あとは卒業してすぐに家業を継ぐとか手に職をつけるとか、そういうことをやった。そういう方たちは教養とは無縁かという
と、それはまた話が別で、第一、上の学校に進んだからといって、マニュアルどおりの近代教育は受けることができるかもしれませんが、教養形成に関してはむ
しろマイナスになるようなこともある。なまじ大学なんかに入ると、流行思想にかぶれてしまいますね。いっときならヘーゲルやマルクス、いまだったらデリダ
とかフーコーとか。そういうものを読んだり、読んだふりをしないと幅がきかない。幼児体験やローカリティを含めて丸ごと世の中にもっていかれて、自分にな
にも残らない。洗脳されてしまう惧れがある。
最近お亡くなりになった日影丈吉という作家が中学に入ったばかりのとき、関東大震災で学校が崩れてなかなか建たないので、アテネ・フランセに入った。あの
方はフランス語だけじゃなくて、ギリシャ語・ラテン語などの古典語に関しては、大概の仏文出の方よりずっとできた。明治の人はそうですね。自前で横浜に
行ってじかに外人にぶつかるとか、永井荷風みたいに銀行員になって向こうへ行って、じかに海外の知識を得るとかした。
制度的な学校教育を通じてでなければものは考えられない、というふうになったのはわりと最近で、戦前であればそこらへんに親方であるとか、あるいは先輩で
あるとか友人であるとか、そいういう人がいまして、そこに行ってじかにいろんなものを吸収してくることができたし、街がそういう造りになっていた。それを
どんどん学校教育が壊しちゃって、近代の時間が我が物顔で流れていく。そういうところ以前で形成された教養というものがありまして、それが近代的な時間と
いうものを逆にひっくり返して、言葉を異化効果的に使っていく。そういう使い方ですね。つまり、時間が死んだところから言葉が生きてくる。
吉岡さんはそういうことをやられた、というふうな気がしています。それが、先ほど言いました小学生的な、知識に汚染されていないところで私なんかがお付きあいできた理由だと思います」
巣鴨・田村での吉岡の年忌の席で(当方は吉岡が所蔵しているとはつゆ知らず)ゾンネンシュターンの色鉛筆画について語らったことも、ただ懐かしく想 いだされる。遺志により、お別れ会などは予定されていないという。種村さん、どうかゆっくりと吉岡さんや澁澤さん、土方さんたちとお寛ぎください。愉しい 知識を、ありがとうございました。
城戸朱理さんの《吉岡実の肖像》が、ジャプランから七七〇部限定で刊行された。一九九四年から翌年にかけて《投壜通信》に連載された〈詩人の肖像 吉岡実〉を毎号楽しみにしていただけに、このたびようやく一書となったのは嬉しいかぎりだ。吉岡実の詩についてのモノグラフはいままでに三冊あるが、その人物に的を絞った本は《吉岡実の肖像》が初めてである。
秋元幸人さんの《吉岡実アラベスク》が吉岡の〈西脇順三郎アラベスク〉を換骨したように、城戸さんの《吉岡実の肖像》も吉岡の《土方巽頌》を奪胎したものと言えよう。吉岡実を論じようとする者の多くが、その散文に範をとるという現象は興味深い。吉岡実散文の魔力は、吉岡実詩の魔力におさおさ劣らない。
昭和後期に屹立する天才詩人、吉岡実。
戦慄すべき詩的言語の創造者にして、磊落な江戸っ子でもあった、
その素顔を、若き日に知遇を得た著者が、愛惜を込めて綴る随想集。
吉岡実は何を愛し、何を語ったのか――。
詩の源泉ともいうべき、魂の光芒が、ここにある。
(《吉岡実の肖像》帯文〈魂の光芒、言葉の肖像。〉)
《吉岡実の肖像》は熟読すべき文章の連続であり、吉岡実本人を知らない多くの人も「これがあの〈詩〉を産みだした人物か」と感嘆するに違いない。私は《召喚》を手にしたときの驚きが甦る〈わたしの処女詩集のころ〉や、装丁論としても出色の〈本〉をとりわけ懐かしく読んだ。
城
戸さんには吉岡実に献じた詩集《非鉄》(初刊は1993年、のち《城戸朱理詩集〔現代詩文庫140〕》所収)がすでにある。かくなるうえは、《洗濯船》吉
岡実特集号に掲載された〈乱神の似姿〉以降の吉岡実詩についての評論や詩集の書評をまとめた「吉岡実大全」を期待したい。
土方巽夫人・元藤Y子さんが去る一〇月一九日に亡くなった。元藤さんには《土方巽とともに》(筑摩書房、1990)という著作があって、吉岡実も登場する(同書は吉岡歿後の刊行で、吉岡の装丁ではない)。吉岡の《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987)に元藤さんが登場するのはもちろんである。土方巽記念アスベスト館のウェブページ〈Y舞踏行脚/燔犠大踏鑑〉(2001 年8月)には元藤さんの紹介として「1928年生まれ。夫である土方巽とともに、日本文化を代表する新しい身体表現である「舞踏」を創り上げた。土方巽記 念アスベスト館館長として、多くの企画、展覧会、上映会、ワークショップ、公演等を開催。1992年より舞台活動を再開し、演出・振付・出演と国内外で広 く活躍する」とある。土方巽関連のイベントや吉岡実を偲ぶ会でたびたびお目にかかったが、あれは確か一九九〇年代前半、両親と妹と家族で熱海に旅行したと き、網代の駅前でばったりお会いしたことがある。ご挨拶だけで失礼したが、離れて見ていた今は亡き母が「外国のかたかと思った」と後で言ったように、まこ とにあでやかないでたちの元藤さんだった。ご冥福をお祈りする。
随筆〈奠雁〉の初出切り抜き(吉岡家蔵)のモノクロコピーと〈奠雁展〉案内のカラーハガキ
吉岡実遺愛の〈奠雁展〉初日の五月一日午後、会場を訪ねて陽子夫人にご挨拶した。私はほかで奠雁を観たことがないので、吉岡実のコレクションの評価 はできないが、そんなことを忘れさせる「木彫の鴨」のあたたかみのある、佳い展示だった。図録もないこぢんまりとした会だったので、随筆〈奠雁〉初出 ([愛蔵十二佳選 第七回]の原題は〈家に幸を呼ぶ、つがいの木雁〉、撮影は佐藤裕でカラーページ)のモノクロコピーと織田有の展覧会の案内ハガキの写真を掲げて、いま一 度、その雰囲気を味わうことにしよう。ちなみに、初出の写真キャプションには「雁か鴨か。奠雁≠ニいう名も美しい。李朝木工の伝統美をうかがわせる遺品 として珍重されている……。」(《ミセス》1986年7月号、二一四ページ)とある。
〔2004年10月31日追記〕
二〇〇三年五月一日の《朝日新聞》夕刊の〈立体・工芸〉に〈奠雁展〉が紹介されていたので、引用する。なお、文中にある「写真」は上掲案内のカラーハガキのサブカットである。
「1
日木曜〜10日土曜、午前10時〜午後6時半(土曜は5時半まで)、東京都千代田区有楽町1丁目の織田有(有楽町駅、電話03・3215・0125)。新
郎が木製の雁(がん)を新婦に贈る婚礼の儀式、「奠雁(てんがん)の礼」。中国から伝わった風習で、朝鮮王朝時代に盛んになった。雁は実物よりも一回り小
さく、木肌を生かしたシンプルな造形を特徴とする=写真。詩人の吉岡実が生前収集した、150〜70年前の35点前後を展示。毎朝なでて大事にしていたため、つやがでて光っているという。4日と5日休み。」
2003年5月1日〜10日、東京・有楽町の古美術店「織田有(ODAU)」で吉岡実が生前、愛蔵した奠雁が展示される。送っていただいたDMハガキの文面を引用する。
奠雁展期日 5月1日〜10日/2003 【5月3日は開店致します】
新郎側より新婦側に雁を贈る「奠雁[チョナン]の礼」に用いられた李氏朝鮮期の木雁は、その風習が廃れて、現在では数少ないものとなりました。
展示の品は、毎朝、身近に置いた奠雁を撫で摩り愛蔵された詩人、吉岡実さんの遺品です。このたび氏の全句集「奴草」―発行・書肆山田―も刊行されましたので合せてご観賞下さい。
織田有/ODAU
千代田区有楽町1-12-1 新有楽町ビル1F tel.3215-0125 fax.3215-0126
Shin-Yurakucho Bldg. 1F, 1-12-1, Yurakucho, Tokyo 〒100-0006
日曜・祭日休み a.m.10.00〜p.m.6.30(土曜 p.m.5.30まで)
新緑の候、奠雁を愛でに有楽町へ行きたい。「〔……〕さて十数年前のこと、「芸術新潮」の紹介記事で奠雁展の小さな写真を見て、私はなぜか心惹かれ てしまった。有楽町の古美術店が催した即売会だった。」――吉岡実〈奠雁〉(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二八二ページ)
吉岡実生誕八四周年の四月一五日、かねて予告されていた吉岡実の句集《奴草》が 書肆山田から刊行され、吉岡陽子さんから早早に一本賜った。詩集《赤鴉》に収められた〈奴草〉の全篇(ただし「泥道やふりにし町のむら燕」一句が削除さ れ、「夜濯ぐ……」が「衣濯ぐ……」と改められた)に〈拾遺〉として二二句が加えられた、文字どおりの「全句作」である。本書の帯から引く。
詩人・吉岡実の遺した全句作品川や馬糞はなるる白き蝶
あけびの実たずさえゆくやわがむくろ
奴草【やっこそう】椎の根に寄生する寄生植物。葉は五、六片の鱗片となって十字形に対生。晩秋、茎頂に淡黄色奇形の両性花を単生。花弁を欠く。花に蜜あり鳥媒花。
ここで吉岡の俳句の発表歴を振りかえると、生前はついに自身の手で一本にまとめられることがなかった。歿後の一九九三年、活字化されたまま埋れてい た俳句が、宗田安正さんの解題とともに〈吉岡実句集〉として《雷帝》誌に掲載された。二〇〇二年、《赤鴉》の〈奴草〉一二四句が出現して、吉岡句の全貌が 見えてきた。今回の句集の刊行によって、《吉岡実全詩集》(歌集《魚藍》も収録)と併せて、吉岡実の詩歌句の作品世界がようやく顕かになったのである(〈編集後記 6〉参照)。
詩人の多田智満子さんが去る一月二三日に亡くなった。多田さんには吉岡実について書いた文章が三つほどある。〈秋のサフラン〉では詩〈サフラン摘 み〉に触れている。〈素朴な様で適確な名文〉は《「死児」という絵》の書評なので、〈吉岡実さんの葬儀の日〉(中央公論、一九九〇年八月号)から引く。 「炯眼――キョロリと、好奇心に満ちたあの大きな吉岡さんの眼は、たしかに凄い視力をもっていた。わけても、見分け、撰り別ける力をもっていた。幻視者と いうより、ヴィジョンを構成する人の眼だった。小柄で一見堅気の職人風のあの風貌から、私はいつも居職、それもとくに金銀の細工物を手がける〈飾り職〉を 連想したものだ。言語を巧妙に配置し、奇想を象嵌し、心ゆさぶる作品を仕上げる、超一流の言語の金銀細工師」。故矢川澄子さんも出席された〈吉岡実を偲ぶ 会〉の壇上での、軽やかな身のこなしが想いだされる。
ルイス・キャロルの研究で著名な高橋康也さんが、去る六月二四日に七〇歳で亡くなった。《ノンセンス大全》に収められた〈吉岡実がアリス狩りに出発するとき〉は吉岡と《アリス》との関係を語ってあますところがない。ほかにも〈吉岡実と劇的なるもの〉や吉岡の詩集《神秘的な時代の詩》書評(これは単行本に収められていないようだ)などがある。吉岡にはサミュエル・ベケットの「想像力は死んだ 想像せよ」をめぐる随想があり、そこに高橋さんが登場する。亡くなる半月前まで観劇を続けていたというあたり、吉岡のストリップ通いを思わせるものがある。
〔2012年2月29日追記〕
丸谷才一の《蝶々は誰からの手紙》(マガジンハウス、2008年3月21日)に〈水着の女と『ユリシーズ』〉という高橋康也追悼文がある。わずか2ページの短文だが、最初「高橋康也さん」だったのが「高橋さん」「向う」「彼」「この男」「高橋康也」とみるみる呼び名を変えて、最後の段落はこうなっている。「水着の女が「ペネロペイア」を夢中になつて読んでゐる写真は、複写して、額に入れ、書庫の入口に飾つてある。それを見ると、ときどき、康也の面影がゆらりと心に浮ぶ。おつとりと構へてゐながら、ひよいと、しやれたことを口にする男だった。このモンローの話が、彼の才気の好例になるかどうかはわからないけれど」(同書、三二七ページ)。この「康也」は、置き換えがきかない。
去る六月一五日と二二日、吉増剛造さんがNHKラジオ第2放送で、吉岡実について語った(《NHKカルチャーアワー・文学と風土 詩をポケットに》 の第11回〈美しい魂の汗の果物〉と第12回〈とどかないかも知れない深い愛の言葉〉)。大要は放送のガイドブックとして作成されたNHK出版の《NHK カルチャーアワー・文学と風土 詩をポケットに(上)》に掲載されているが、番組では四二年前に〈放送詩集〉として書きおろされた〈波よ永遠に止れ〉の朗 読(若山弦蔵)の冒頭と後半が紹介されたのが印象的だった。この音源については入沢康夫さんが《吉岡実全詩集》の付録で触れている(私も入沢さんのご厚意 で初めて耳にしたものだ)。吉岡自身、自作の朗読をしたことはないが、こうした番組を聴くかぎり、黙読とはまた違った味わいがある。
秋元幸人さんの《吉岡実アラベスク》が十三回忌を発行日に、書肆山田から刊行された。《三田文学》に発表された〈吉岡実アラベスク〉という総論的な中篇評論(そのうち〈サフラン摘み〉の項は書きおろし)と、八篇からなる各論(《ユルトラ・バルズ》に連載)で構成されている。
ところで、一冊全体を吉岡実論に捧げた書物は想いのほか少なくて、通雅彦著《円環と卵形――吉岡実ノート》(思潮社、1975)と鶴山裕司著《詩人について》(四夷書社、1998)が挙げられるくらいだ。連載中から愛読していただけに、本書の刊行は実に喜ばしい。
《吉岡実アラベスク》は吉岡の〈西脇順三郎アラベスク〉を範に、その詩的生涯を跡づけたもの。吉岡の未刊の対談・対話から多くのコメントを引き、逸文を的確にちりばめたあたりに著者の吉岡実詩に対するなみなみならぬ敬愛がうかがわれる。
私には全篇興味深いものがあったが、「引用詩」の濫觴を《サフラン摘み》や《夏の宴》のまえの詩集《神秘的な時代の詩》所収の〈夏から秋まで〉として論じている点が、とりわけ清新だ。
矢川澄子さんが去る五月二九日に亡くなった。吉岡実は一九八三年に筑摩書房から発行された矢川さんの著書《兎とよばれた女》の栞に〈謎に満ちた静
寂〉と題した短文を寄せている(単行本には収められていない)。吉岡はそこで矢川さんの詩集《ことばの国のアリス》や《アリス閑吟抄》を愛唱していると書
いている。私は残念ながら矢川さんの熱烈な読者ではないので、《コレクション瀧口修造9》月報の〈静かな雄弁〉以外に吉岡に触れた文章があるか詳らかにし
ないが、矢川さんは一九九一年一〇月一二日、浅草・木馬館で開かれた〈吉岡実を偲ぶ会〉の壇上で、おおよそ次のような発言をしている。哀悼の意をこめて、
ここに再録させていただく。
「今日はなにも準備していないんで……。私は〔吉岡〕陽子さんと同い年で。吉岡さんとは、筑摩書房に寄ったときに、コーヒーを飲みにいきました〔吉岡の一
九六〇年四月六日の日記に「渋沢龍彦夫妻とお茶をのむ」(《吉岡実詩集》、思潮社・現代詩文庫14、1968、一二三ページ)とある〕。人生にはいろいろ
なことがあるものでして、あるときなど『ぼくの前でなら泣いてもいいんだよ』とおっしゃってくださった。」
〔2004年2月29日追記〕
〈静かな雄弁〉はその後、矢川さんの単行本未収録のエッセイを集めた遺著《いづくへか》(筑摩書房、2003)に収められた。
〔2004年8月31日追記〕
矢川さんに吉岡実詩に触れた文章があった。昭和から平成になって間もない一九八九年二月の《新潮》臨時増刊号でのアンケート〈昭和文学 私の一篇〉に、吉岡の詩〈苦力〉を挙げているのだ。全文を引かせていただく。
「詩集『僧侶』全体が当時のわたしにとっては新鮮なおどろきでした。衝撃の強さからいえば、同じ頃の川端〔康成〕さんの『片腕』と、どっちにしようか、だいぶ迷いました。そういえば吉岡さんの風貌、川端さんにそっくりです」(同誌、四三五ページ)。
そういえば朔太郎・キートンと川端康成・吉岡実を「あのいつでも驚いているような眼」の印象で結びつけたのは、《ユリイカ》が吉岡実特集を組んだときの編集長・三浦雅士だった。
二〇〇二年の五月三一日は吉岡実の十三回忌だった。当日は真性寺で法要が営まれ、参列者に吉岡の未刊の詩集《赤鴉》が配られた。発行は弧木洞、発行者は吉岡陽子夫人。吉岡実生前最後の著書《うまやはし日記》の限定版が同じ「弧木洞」発行だったが、本書もきわめてプライベートな姿である(結婚記念の歌集《魚藍》が想いだされる)。
《赤鴉》の制作を担当した書肆山田のウェブサイトに本書の紹介文が掲載されている。
「本書は、1990年に亡くなった吉岡実氏の十三回忌に
あたり、弧木洞(発行人・吉岡陽子)より刊行された。限定72部、非売品。制作・書肆山田、装幀・亞令。2001年に吉岡家から発見された、吉岡実氏の手
稿本《詩集 赤鴉》を活字化したもので、第一歌集「戯欷」及び第一句集「奴草」からなる。幾つかの作品は、吉岡実氏によって発表され、活字化されている
が、大部分の作品は未発表のものである。」
そう、《うまやはし日記》のなかで刊行を希望していた歌集と句集が稿本として実在し(冠称の〈詩集〉は吉岡実自身が付けたもの)、没後一二年を経て 日の目を見たのだ。私など、大岡信との対話〈卵形の世界から〉(《ユリイカ》1973年9月号)の吉岡発言を読んで以来、てっきり焼却されたものと早合点 していたから、この本の出現はまことにもってありがたくもあり、驚異でもあるのだ。
《赤鴉》巻末の陽子夫人の〈覚書〉によれば、句集の形で吉岡実の(全)俳句が読める日も近いようだ。鶴首して待ちたい。
「〔昭和十四年〕十一月十一日(土曜) 句作にはげむ。いつか句集『奴草』を編みたいと思う。」(《うまやはし日記》、書肆山田、1990、八七ページ)。
最近の〈吉岡実〉 了
リンクはトップページ《吉岡実の詩の世界》に設定してください。 | ||||
ご意見・ご感想などのメールはikoba@jcom.home.ne.jpまで。 | ||||
Copyright © 2002-2021 Kobayashi Ichiro. All Rights Reserved. | ||||
本ウェブサイトの全部あるいは一部を利用(コピーなど)する場合は、
著作権法上の例外を除いて、著作権者および小林一郎の許諾が必要です。 |
||||