〈吉岡実〉を語る(小林一郎 編)

最終更新日2018年6月30日

吉岡実の手蹟 〔詩篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿〕 吉岡実の手蹟〔詩篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿〕を入口に掲げた改築前の編者の書斎
吉岡実の手蹟〔詩篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿〕(左)と同手蹟を入口に掲げた改築前の編者の書斎(右)


目次

吉岡実の飼鳥(2018年6月30日)

書下ろしによる叢書〈草子〉のこと(2018年5月31日)

吉岡実と和田芳恵あるいは澁澤龍彦の散文(2018年4月30日)

吉岡実とヘルマン・セリエント(2018年3月31日)

吉岡実と四谷シモン(2018年2月28日)

宇野亜喜良と寺田澄史の詩画集あるいは《薬玉》をめぐる一考察(2018年1月31日)

〈青枝篇〉と《金枝篇》あるいは《黄金の枝》(2017年12月31日)

吉岡実未刊詩篇本文校異(2017年11月30日)

吉岡実と病気あるいは吉岡実の病気(2017年10月31日)

吉岡実と金子光晴(2017年9月30日)

〈冬の休暇〉と毛利武彦の馬の絵(2017年8月31日)

吉岡実と三島由紀夫(2017年7月31日)

《現代詩手帖》創刊号のこと(2017年6月30日)

吉岡実と済州島(2017年5月31日)

吉岡実とピカソ(2017年4月30日)

吉岡実とケン玉(2017年3月31日)

《現代詩大事典》の人名索引〈吉岡実〉の項のこと(2017年2月28日)

吉岡実の引用詩(3)――土方巽語録(2017年1月31日)

《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第4版〕》を作成した(2017年1月31日)

吉岡実の引用詩(2)――大岡信《岡倉天心》(2016年12月31日)

吉岡実の引用詩(1)――高橋睦郎〈鑑賞〉(2016年11月30日)

太田大八さんを偲ぶ(2016年10月31日)

詩篇〈模写――或はクートの絵から〉初出発見記(2016年10月31日)

秋元幸人〈森茉莉と吉岡実〉の余白に(2016年9月30日)

《土方巽頌》の〈40 「静かな家」〉の構成について(2016年8月31日)

吉岡実にとっての富澤赤黄男(2016年7月31日)

吉岡実と西東三鬼(2016年6月30日)

吉岡実と石田波郷(2016年5月31日)

俳人の作歌(2016年4月30日)

《指揮官夫人と其娘達》あるいは《バルカン・クリーゲ》のこと(2016年3月31日)

吉岡実日記の手入れについて(2016年2月29日)

永田耕衣の書画と吉岡実(2016年1月31日)

《うまやはし日記》のために(2015年12月31日)

吉岡実の〈アリス詩篇〉あるいは《アリス詩集》(2015年11月30日)

吉岡実のフランス装(2015年10月31日)

「無尽蔵事件」について(2015年9月30日)

「ねはり」と「受菜」あるいは〈衣鉢〉評釈(2015年8月31日)

吉岡実と恩地孝四郎(2015年7月31日)

臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》のこと(2015年6月30日〔2016年10月31日追記〕〔2018年4月30日追記〕)

吉岡実とマグリット(2015年5月31日)

吉岡実と木下夕爾(2015年4月30日)

フラン・オブライエン(大澤正佳訳)《第三の警官》のこと(2015年3月31日)

吉岡実と福永武彦(2015年2月28日〔2017年3月31日追記〕)

《アイデアidea》367号〈特集・日本オルタナ文学誌1945-1969 戦後・活字・韻律〉と《アイデア idea》368号〈特集・日本オルタナ精神譜 1970-1994 否定形のブックデザイン〉のこと(2015年1月31日)

詩篇〈模写――或はクートの絵から〉評釈(2014年12月31日〔2016年10月31日追記〕)

吉岡実と鷲巣繁男(2014年11月30日)

吉岡実と珈琲(2014年10月31日〔2015年3月31日追記〕)

吉岡実と写真(2014年9月30日)

吉岡実詩における絵画(2014年8月31日)

吉岡実と落合茂(2014年7月31日〔2014年8月3日追記〕)

吉岡実と真鍋博(2014年6月30日)

岡崎武志・山本善行=責任監修《気まぐれ日本文學全集 57 吉岡実》目次案(2014年5月31日)

《魚藍》と魚籃坂(2014年4月30日〔2014年8月31日追記〕)

吉岡実と飯島耕一(2014年3月31日)

吉岡実と加藤郁乎(2014年2月28日)

〈吉岡実の装丁作品〉の現在(2014年1月31日)

〈父の面影〉と出征の記念写真(2013年12月31日)

吉岡実と佐藤春夫(2013年11月30日)

吉岡実と赤尾兜子(2013年10月31日)

吉岡実と岡井隆あるいは政田岑生の装丁(2013年9月30日)

《詩人としての吉岡実》の〈はしがき〉(2013年8月31日)

《新詩集》あるいは大森忠行のこと(2013年7月31日)

吉岡実の帯文(2013年6月30日〔2013年8月31日追記〕)

吉岡実と田村隆一(2013年5月31日)

吉岡実とジイド(2013年4月30日)

〈首長族の病気〉と〈タコ〉(2013年3月31日)

三橋敏雄句集《疊の上》十二句撰のこと(2013年2月28日)

吉岡実と堀辰雄(2013年1月31日)

《永田耕衣頌――〈手紙〉と〈撰句〉に依る》を編んで(2012年12月31日)

《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第3版〕》を作成した(2012年11月30日〔2017年1月31日追記〕)

吉岡実詩の変遷あるいは詩語からの脱却(2012年10月31日)

杢太郎と福永のサフランのスケッチ(2012年9月30日〔2015年12月31日追記・2016年12月31日修正〕〕)

吉岡実と篠田一士あるいは詩的言語とはなにか(2012年8月31日)

吉岡実と骨董書画(2012年7月31日)

宮柊二歌集《山西省》と長谷川素逝句集《砲車》のこと(2012年6月30日)

吉岡実と横光利一(2012年5月31日)

1919年生まれの吉岡実(2012年4月30日)

吉岡実の近代俳句選(2012年3月31日)

《筑摩書房 図書目録 1951年6月》あるいは百瀬勝登のこと(2012年2月29日)

「H氏賞事件」と北川多喜子詩集《愛》のこと(2012年1月31日)

吉岡実詩集本文校異について(2011年12月31日)

吉岡実詩歌集《昏睡季節》本文校異(2011年11月30日)

吉岡実詩集《液体》本文校異(2011年10月31日)

城戸幡太郎《民生教育の立場から》のこと(2011年9月30日〔2014年1月31日追記〕)

〈吉岡実文学館〉を考える(2011年8月31日〔2013年5月31日追記〕〔2016年10月31日追記〕)

吉岡実詩集《静物》本文校異(2011年7月31日)

吉岡実詩に登場する植物(2011年6月30日)

野平一郎作曲〈Dashu no sho, for voice and alto saxophone(2003)〉のこと(2011年5月31日)

吉岡実詩集《ムーンドロップ》本文校異(2011年4月30日)

吉岡実と吉屋信子(2011年3月31日)

吉岡実詩集《薬玉》本文校異(2011年2月28日)

吉岡実の未刊詩篇〈絵のなかの女〉を発見(2011年1月31日)

吉岡実詩集《ポール・クレーの食卓》本文校異(2010年12月31日)

吉岡実〈うまやはし日記〉本文校異(2010年11月30日)

マラルメ《骰子一擲》のこと(2010年10月31日)

吉岡実とフランシス・ベーコン(2010年9月30日)

《北海道の口碑伝説》のこと(2010年8月31日)

吉岡実と彫刻家(2010年7月31日)

吉岡実詩集《夏の宴》本文校異(2010年6月30日)

発言本文を除く《吉岡実トーキング》(2010年5月31日)

吉岡実と瀧口修造(3)(2010年4月30日)

吉岡実と瀧口修造(2)(2010年3月31日)

吉岡実と瀧口修造(1)(2010年2月28日)

吉岡実詩集《サフラン摘み》本文校異(2010年1月31日)

吉岡実の未刊行詩篇を発見(2009年12月31日)

吉岡実詩集《静かな家》本文校異(2009年11月30日〔2016年10月31日修正〕)

吉岡実と《現代詩手帖》(2009年10月31日)

吉岡実〈〔自筆〕年譜〉のこと(2009年9月30日〔2009年10月31日追記〕)

下田八郎の〈吉岡実論〉と〈模写〉の初出(2009年8月31日〔2016年10月31日追記〕)

ケッセルの《昼顔》と詩篇〈感傷〉(2009年7月31日)

吉岡実歌集《魚藍》本文校異(2009年6月30日)

詩篇〈銀幕〉と梅木英治の銅版画(2009年5月31日)

大竹茂夫展と詩篇〈壁掛〉(2009年4月30日)

吉岡実詩集《紡錘形》本文校異(2009年3月31日)

吉岡実と片山健(2009年2月28日)

吉岡実とリルケ(2009年1月31日)

〈わたしの作詩法?〉校異(2008年12月31日)

吉岡実詩集《僧侶》本文校異(2008年11月30日)

青山政吉のこと(2008年10月31日〔2009年3月31日追記〕)

吉岡実の書(2008年9月30日)

現代日本名詩集大成版《僧侶》本文のこと(2008年8月31日)

吉岡実と本郷・湯島――〈吉岡実〉を歩く(2008年7月31日)

吉岡実とつげ義春(2008年6月30日)

吉岡実と土方巽(2008年5月31日〔2008年7月31日追記〕)

吉岡実編集の谷内六郎漫画(2008年4月30日)

吉田健男の装丁作品(2008年3月31日〔2010年8月31日追記〕)

吉岡実とエズラ・パウンド(2008年2月29日)

吉岡実と三好豊一郎(2008年1月31日)

吉岡実と映画(1)(2007年12月31日)

吉岡実と西脇順三郎(2007年11月30日)

随想〈学舎喪失〉のこと(2007年10月31日)

吉岡実の愛唱歌(2007年9月30日)

吉岡実と《アラビアンナイト》(2007年8月31日〔2013年6月30日追記〕)

リュシアン・クートーと二篇の吉岡実詩(2007年7月31日〔2011年6月30日追記〕〔2016年10月31日追記〕)

《「死児」という絵〔増補版〕》の本文校訂(2007年6月30日)

吉岡実と澁澤龍彦(2007年5月31日)

吉岡実と吉田健男(2007年4月30日)

詩篇〈斑猫〉の手入れ稿(2007年3月31日)

吉岡実のスクラップブック(2)(2007年3月31日)

吉岡実のスクラップブック(1)(2007年2月28日)

《柾它希家の人々》のこと(2007年1月31日〔2014年9月30日追記〕)

高見順賞受賞挨拶(2006年12月31日)

吉岡実の書簡(4)――《吉岡実詩集》のこと(2006年11月30日)

初期吉岡実詩と北園克衛・左川ちか(2006年10月31日〔2010年11月30日追記〕)

吉岡実とサミュエル・ベケット(2006年9月30日)

吉岡実詩の鳥の名前(2006年8月31日)

鳥の名前(2006年7月31日)

吉岡実の短歌(2006年6月30日)

吉岡実と左川ちか(2006年5月31日)

吉岡実と富澤赤黄男(2006年4月30日)

吉岡実の「講演」と俳句選評(2006年3月31日)

吉岡実の〈小伝〉(2006年2月28日)

吉岡実散文の骨法(2006年1月31日)

吉岡実と音楽(2005年12月31日〔2006年3月31日追記〕)

吉岡実の書簡(3)(2005年11月30日)

吉岡実の書簡(2)(2005年10月31日)

吉岡実〈突堤にて〉校異(2005年9月30日〔2006年4月30日追記〕)

吉岡実の書簡(1)(2005年8月31日)

吉岡実とジェイムズ・ジョイス(2005年7月31日)

詩篇〈死児〉の制作日(2005年6月30日)

吉岡実との談話(2)(2005年5月31日)

吉岡実との談話(1)(2005年4月30日)

吉岡実とオクタビオ・パス(2005年3月31日)

吉岡実の詩稿〈裸婦〉(2005年2月28日〔2005年5月31日追記〕)

《土方巽頌》と荷風の〈杏花余香〉(2005年1月31日)

厩橋を歩く(1)(2004年12月31日)

小森俊明氏作曲の吉岡実の歌曲(2004年11月30日)

吉岡実詩の中国語訳(2004年10月31日)

吉岡実とナボコフ(2004年9月30日〔2017年9月30日追記〕)

吉岡実の視聴覚資料(1)(2004年8月31日〔2007年4月30日追記〕)

ポルノ小説《アリスの人生学校》(2004年7月31日)

吉岡実の未刊行詩三篇を発見(2004年6月30日〔2004年9月30日追記〕)

吉岡実愛蔵の稀覯書(2004年5月31日)

「吉岡實」から「吉岡実」へ(2004年4月30日〔2008年1月31日追記〕)

吉岡実の俳号(2004年4月30日〔2005年2月28日追記〕〔2017年12月31日追記〕)

吉岡実と村野四郎(2004年3月31日)

吉岡実宛書簡〔1989年11月5日付〕(2004年2月29日)

もろだけんじ句集《樹霊半束》のこと(2004年1月31日)

村松嘉津《プロヷ〔ワに濁点〕ンス隨筆》(2003年12月31日〔2004年7月31日追記〕)

北原白秋自選歌集《花樫》(2003年11月30日)

《ちくま》編集者・吉岡実(2003年10月31日)

インターネット上の「吉岡実」(2003年9月30日〔2003年10月31日追記〕)

吉岡実と《金枝篇》(2003年8月31日)

吉岡実詩集《静物》稿本(2003年7月31日〔2010年6月30日追記〕〔2011年7月31日追記〕)

2003年版〈吉岡実〉を探す方法(2003年6月30日)

〈詩人の白き肖像〉(2003年5月31日)

H氏賞選考委員・吉岡実(2003年5月31日)

〈父の戦友、吉岡実〉(平井英一さん、2003年4月22日)

〈首長族の病気〉のスルス(2003年4月15日〔2012年3月31日追記〕)

〈波よ永遠に止れ〉本文のこと(2003年3月31日)

吉岡実の話し方(2003年2月28日)

吉岡実の拳玉(2003年2月28日〔2006年9月30日追記〕)

吉岡実本の帯文の変遷(2003年1月31日〔2004年9月30日追記〕)

画家クートと詩〈模写〉の初出(2002年12月31日〔2016年10月31日追記〕)

吉岡実の年譜(2002年11月12日〔2012年8月31日追記〕)


吉岡実の飼鳥(2018年6月30日)

吉岡実は《ユリイカ》1971年4月号の〈われ発見せり〉の欄(〈編集後記〉・奥付の上部に設置された、筆者が毎月替わる常設記事)に〈小鳥を飼って〉を発表した。当時、吉岡は51歳。前年の1970年には2月に《吉岡実詩集〔普及版〕》(思潮社)を刊行したものの、3月に詩篇〈低音〉(F・14)を発表したほかは、《俳句》11月号に〈鑑賞・石田波郷の一句〉を寄せたきりだったし、1971年には9月に〈叢書溶ける魚No.2〉として詩集《液体》(湯川書房、限定300部)を刊行したものの、《琴座》3月号に〈〔河原枇杷男句集〕《密》反鏡鈔〉を、4月にこの〈小鳥を飼って〉を、9月の《銀花》(秋の号)に〈永田耕衣との出会い――耕衣句抄〉を、10月に出版された《加藤郁乎詩集〔現代詩文庫〕》(思潮社)に〈出会い〉を書いたほか、めぼしいものといえば《ユリイカ》12月号の〈「死児」という絵〉ぐらいだった。詩作の筆を折って、旧作を刊行し、義理ある雑誌に俳句関係の文章をぽつぽつ書いていた、詩作に関するかぎり低調な時期だったといってよかろう。

小鳥を飼って|吉岡実

 ――ミソー(私の呼称)、鳥が飼いたいなあ
 突然妻が云いだした。妻は生来、蛾・蝶・鳥がきらいなので、私は驚く。
 ――ミソー、どんな鳥がよいか、云ってみなよ!
 ――大きいのがいいぞ、猫ぐらいのが。キボーシインコか、キバタンオウムはどうだろう?
 ――ミソー、それらオウムは、鳥の本をみると、七、八十年生きるんだよ、われら二人の死後も生きつづけるんだよ、後に託すべき子孫もないし
 ――気味がわるい 哀れでもあるな
 ――ミソー、むかし数寄屋橋の阪急のウインドにいたキレイナ鳥がほしい
 十年ぐらい前、阪急百貨店のウインドいっぱいに、いろんな小鳥を放っていたのを想い出す。美しい少女がエプロン姿で、肩や髪に青や黄色の小鳥をとまらせ、しなやかな手から餌を与えているのが夢の絵のように見えた。
 ――ミソー、猫の一周忌も過ぎたし、今日買いにゆこうよ
 それから小鳥屋、デパートを巡礼よろしく探し廻って、二人の中の青い鳥――キエリクロボタンという可憐な一番を買った。セキセイインコより大型で、頭は濃茶で、胸毛がオレンジ的黄色、全体がうすい緑で、黒い目を白い輪がとりまいて、玩具のような小鳥。カリフォルニアでこの春うまれたらしい。
 ――ミソー、水入、ボレーコ入、餌入、餌、どれも小さくておもしろい
 ――ミソー、キエリクロボタンはカワイイな、カワイイな、カワイイな、カワイイな
 秋近く、気温の変化か、病気か、妻の万遍ものカワイイなの呪文で、一羽が落鳥。妻は泪ぐむ。
 ――落鳥とはいい言葉だ
 小鳥屋もペット医者も異口同音に、一番の一羽が死ぬと、残った一羽もかならず後を追うという。それから一ヵ月目に生ける一羽も落鳥。最後までいずれが牡牝か不明だった。考えてもみなかったロマンチックな生物の世界。私も妻も、ささやかではあるが、「何かを発見」したかも知れない。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三〇〜三一ページ)

〈われ発見せり〉は、誌名《ユリイカ》――アルキメデスの言葉とされる“Eureka(エウレカ)”――にちなむ。あらかじめテーマが与えられていた随想なわけで、決められた字数(約800字)のなかでどう展開するかは文筆家の腕の見せどころである。文中の猫の一周忌というのは、1968年末、夫妻が北区滝野川の公団住宅から目黒区青葉台のマンションに転居する際、飼っていたシャム猫のデッカ(牡)がどさくさに紛れて失踪し、エリ(牝)もまもなく死んだことを指す。最後の段落は、キエリクロボタンの番の話以前にシャム猫の雌雄の最期を想定すると、夫妻の嘆きがひときわ身に染む。私は鳥を飼ったことがなく、その生態に詳しいわけでもない。だが動物園で珍しい鳥を観ると、それらを愛玩してみたくなる気持ちはわかる。その風貌からしばしば鳥になぞらえられた吉岡実にしてみれば、犬や猫とはまた違った意味で、最も親しみを感じた生き物がこれらの小鳥だったのではあるまいか。

【キボーシインコはインコ科ボウシインコ属】 【キバタンオウム】 【キエリクロボタンはインコ科ボタンインコ属】
左から 「キボウシインコ(黄帽子鸚哥)」はインコ科ボウシインコ属、「キバタンオウム(黄芭旦鸚鵡)」はオウム科キバタン属、「キエリクロボタンインコ(黄襟黒牡丹子鸚哥)」はインコ科ボタンインコ属

キエリクロボタンインコは「タンザニアを原産地とする小型インコです。日本にも輸入され、ごく一般的な品種として知られています。首の鮮やかな黄色に対して喉から上は覆面をかぶったかのように黒く、クチバシはオレンジ色です。翼には濃い緑に黄色が、お腹には淡い緑に黄色が混ざっています。多い時で8個と、一度に多くの卵を産みます。同じく「ラブバード」の一種であるルリコシボタンインコが生息する地域では、自然交配も多く見られます」(磯崎哲也監修・開発社著《世界のインコ――100種のかわいい鳥たち》ラトルズ、2016年10月31日、三一ページ)。吉岡はその後、〈飼鳥ダル〉(初出は《朝日新聞(夕刊)》1973年6月2日)と〈わが鳥ダル〉(初出は《群像》1975年2月号)でダルマインコのダルのことを随想に書いている。《世界のインコ》はたくさんのインコのカラー写真を収めた美しい本だが、ダルマインコは「目と目の間など、顔にある黒い模様がだるまのように見えることが、日本名の由来に。英語名では「口ひげインコ〔Moustache Parakeet〕」という意味が付けられています。好奇心旺盛で人なつこく、社交的な性格の持ち主。賢いので、人の言葉をすぐに覚え、上手におしゃべりしてくれます。寒さには強く、丈夫で、飼育しやすいインコです。ただし、ときに大きな声を発することがあるので、近隣に迷惑がかからないよう飼育場所を選ぶ必要があります」(同書、六九ページ)とある。〈小鳥を飼って〉に始まるこれら3篇の随想によれば、吉岡が飼った小鳥には、ダルマインコ以前にキエリクロボタン、十姉妹、錦華鳥がある。随想(しかも題にまで)にその名前が記されているのは、ダルマインコのダルだけである。下の写真で吉岡の肩に載っているのがダルだろう。

【ダルマインコはインコ科ホンセイインコ属】 金井塚一男〔写真〕〈グラビア 吉岡実の眼〉(《ユリイカ》1973年9月号、一一〇ページ)
インコ科ホンセイインコ属の「ダルマインコ(達磨鸚哥)」(左)と金井塚一男〔写真〕〈グラビア 吉岡実の眼〉(《ユリイカ》1973年9月号、一一〇ページ)(右)

かつて〈吉岡実詩の鳥の名前〉で指摘したことだが、吉岡の執筆した詩篇にダルマインコは登場しない。それどころかインコやオウムの類は〈蒸発〉(A・5)に鸚鵡が登場するだけだ(「温室で鸚鵡の金属性の嘴の」)。小鳥の随想に関するかぎり、「いずれの小品も、事実の経由を綴った、日常反映の記録にすぎない」(〈あとがき〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三六九ページ)は、額面どおり受けとってよいようだ。


書下ろしによる叢書〈草子〉のこと(2018年5月31日)

吉岡実は生前、12冊の単行詩集を刊行した。すなわち、

@詩歌集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)
A詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)
B詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)
C詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日)
D詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962年9月9日)
E詩集《静かな家》(思潮社、1968年7月22日)
F詩集《神秘的な時代の詩》(湯川書房、1974年10月20日)
G詩集《サフラン摘み》(青土社、1976年9月30日)
H詩集《夏の宴》(青土社、1979年10月30日)
I拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》(書肆山田、1980年5月9日)
J詩集《薬玉》(書肆山田、1983年10月20日)
K詩集《ムーンドロップ》(書肆山田、1988年11月25日)

である。このうち草蝉舎は吉岡の自宅だから、Bを含めて計4冊が私家版ということになる。したがって出版社から刊行したのは、残りの8冊――書肆ユリイカが1冊、思潮社も1冊、湯川書房も1冊、青土社が2冊、書肆山田が3冊――となる。書肆ユリイカは伊達得夫が起こした版元で、思潮社は伊達から薫陶を受けた小田久郎が起こした詩書専門の、湯川書房は湯川成一が起こした限定本中心の、青土社は伊達のもとで詩誌《ユリイカ》の編集を補佐した清水康雄が起こした出版社である。そして今回とりあげる書下ろしによる叢書〈草子〉を1973年から78年にかけて刊行したのが、山田耕一の起こした書肆山田だ(現在の代表者は鈴木一民)。上の一覧からわかるように、1970年代までの吉岡は、詩壇への登場を後押しした伊達得夫とその周辺の出版人たちとの濃密な関係のもとに、詩集を刊行していた(《紡錘形》の発行は草蝉舎だが、発売は思潮社)。《神秘的な時代の詩》の湯川書房は、それ以前、〈叢書溶ける魚No.2〉として《液体》(1971年9月1日)を300部限定で再刊している(叢書の編集は鶴岡善久と政田岑生)。吉岡にしてみればお手並み拝見といった処だったかもしれないが、大岡信や瀧口修造、土方巽、飯島耕一といった〈叢書溶ける魚〉の著者たちのラインナップにも心を動かされたかもしれない。それとよく似た経緯が、書肆山田との場合、拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》とそれ以前に出た詩《異霊祭》(1974年4月25日)において見られる。だがそのまえに、〈草子〉全体のラインナップを確認しておこう。余談だが、上記GからJまでの4詩集は、渡辺一考の書肆蕃紅花舎や南柯書局(永田耕衣の限定本などを手掛けた)から特装本が発行/発売されている。

書肆山田発行の書下ろしによる叢書〈草子〉の1:瀧口修造《星と砂と――日録抄》(1973年2月25日〔第二刷:1979年11月10日〕)、2:天沢退二郎《「評伝オルフェ」の試み》(1973年10月10日)、3:吉岡実《異霊祭》(1974年4月25日)、4:飯島耕一《ゴヤを見るまで》(1974年8月25日)、5:三好豊一郎《老練な医師》(1974年11月25日)、6:岩成達哉+風倉匠《レッスン・プログラム》(1978年7月10日)、7:高橋睦郎《巨人伝説》(1978年7月10日)、8:谷川俊太郎《質問集》(1978年9月20日)の、いずれも包紙
書肆山田発行の書下ろしによる叢書〈草子〉の1:瀧口修造《星と砂と――日録抄》(1973年2月25日〔第二刷:1979年11月10日〕)、2:天沢退二郎《「評伝オルフェ」の試み》(1973年10月10日)、3:吉岡実《異霊祭》(1974年4月25日)、4:飯島耕一《ゴヤを見るまで》(1974年8月25日)、5:三好豊一郎《老練な医師》(1974年11月25日)、6:岩成達哉+風倉匠《レッスン・プログラム》(1978年7月10日)、7:高橋睦郎《巨人伝説》(1978年7月10日)、8:谷川俊太郎《質問集》(1978年9月20日)の、いずれも包紙

・〈草子1〉瀧口修造《星と砂と――日録抄》(1973年2月25日、のち《コレクション瀧口修造3――マルセル・デュシャン/詩と美術の周囲/骰子の7の目/寸秒夢》、みすず書房、1996に収録)、別に特装版がある。
・〈草子2〉天沢退二郎《「評伝オルフェ」の試み》(1973年10月10日、のち《続・天沢退二郎詩集〔現代詩文庫112〕》、思潮社、1993に収録)、別に吉岡実装丁の特装版がある。
・〈草子3〉吉岡実《異霊祭》(1974年4月25日、のち詩集《サフラン摘み》、青土社、1976に収録)、別に吉岡実装丁の特装版がある。
・〈草子4〉飯島耕一《ゴヤを見るまで》(1974年8月25日)
・〈草子5〉三好豊一郎《老練な医師》(1974年11月25日)
・〈草子6〉岩成達哉+風倉匠《レッスン・プログラム》(1978年7月10日)
・〈草子7〉高橋睦郎《巨人伝説》(1978年7月10日)
・〈草子8〉谷川俊太郎《質問集》(1978年9月20日)

以前にも書いたことがあるが、2009年11月28日のアトリエ空中線10周年記念展〈インディペンデント・プレスの展開〉(渋谷のポスターハウスギャラリー長谷川)における山田耕一・間奈美子・郡淳一郎の三氏によるギャラリートーク〈瀧口修造の本と書肆山田の最初の10年〉の会場で特別展示された《星と砂と》の原稿(土渕信彦さん所蔵)は実に興味深いものだった。ペラの原稿用紙「LIFE C 155 20×20」17枚にわたる瀧口自筆の印刷入稿用原稿で、1枚め冒頭に「この組み方、草子の全体の構成により再考」とか、節表示のアラビア数字に対して「以下コノ数字ハ比較的大キナイタリックデ 位置ハ本文ト頭ヲ揃エルカ?」といった組版に関するメモが記されていて、瀧口が〈草子〉の装丁と本文組に心を砕いた様子がまざまざと伝わってくる。同原稿の冒頭には、鉛筆書きで(「草子」ではなく)「草紙1」とある。なお、吉岡は瀧口修造に捧げた詩篇〈舵手の書〉(G・22)の詩句に、同書の書名「星と砂と」を引用している。
さて〈草子〉の刊行日を見ていると面白いことに気が付く。〈草子1〉は叢書の発案者であり、装丁者でもある瀧口が先陣を切っていて、〈草子2〉の天沢(と〈草子3〉の吉岡、〈草子4〉の飯島、〈草子5〉の三好)はそれを見本に創作したに違いない。新聞や雑誌に詩を書くのとは異なり、冊子がどのような体裁なのかは、この書きおろしシリーズの最重要項目だったはずだ。本書の本体は折丁だけの冊子だが(四釜裕子の〈製本かい摘みましては(56)〉には「瀧口修造がアンドレ・ブルドンからおくられた二つ折りの「詩集」がそのかたちのアイディアのもとで、「草子」の名は浅草生まれ(浅草っ子)の山田〔耕一〕さんにあやかってという説もある、と、笑いながら山田さんがお話しになった」とある)、その小口帯状の包紙の裏面には〈草子刊行案内〉という広告が載っている。茶色の包紙の〈草子1〉から〈草子5〉までと、青い包紙の〈草子6〉から〈草子8〉までとではその表示のスタイルが変わっている(両者の間には4年近い歳月が存在している)。それを仮に前期スタイルと後期スタイルと呼ぼう。包紙(機能的には表紙もしくはジャケットと奥付裏広告に相当する)に刷数の表示はないが、手許の〈草子1〉は第二刷(1979年11月10日)の際に後期スタイルをとったものらしく、初刊時の状態が確認できない。以下、2号から8号までの〈草子刊行案内〉を摘する。なお、/印は改行箇所を表す。

・〈草子2〉天沢退二郎:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/*以下刊行予定 吉岡実号 大岡信号 入沢康夫号 清水昶号 吉増剛造号
・〈草子3〉吉岡実:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/3 吉岡実 異霊祭 360円
・〈草子4〉飯島耕一:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/3 吉岡実 異霊祭 360円/4 飯島耕一 ゴヤを見るまで 360円
・〈草子5〉三好豊一郎:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/3 吉岡実 異霊祭 360円/4 飯島耕一 ゴヤを見るまで 360円/5 三好豊一郎 老練な医師 360円
・〈草子6〉岩成達哉+風倉匠:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/3 吉岡実 異霊祭 360円/4 飯島耕一 ゴヤを見るまで 360円/5 三好豊一郎 老練な医師 360円/6 岩成達哉+風倉匠 レッスン・プログラム 450円/7 高橋睦郎 巨人伝説 450円/8 佐々木幹郎 近刊/9 吉増剛造/10 澁澤孝輔/11 大岡信
・〈草子7〉高橋睦郎:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/3 吉岡実 異霊祭 360円/4 飯島耕一 ゴヤを見るまで 360円/5 三好豊一郎 老練な医師 360円/6 岩成達哉+風倉匠 レッスン・プログラム 450円/7 高橋睦郎 巨人伝説 450円/8 佐々木幹郎 近刊/9 吉増剛造/10 澁澤孝輔/11 大岡信
・〈草子8〉谷川俊太郎:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/3 吉岡実 異霊祭 360円/4 飯島耕一 ゴヤを見るまで 360円/5 三好豊一郎 老練な医師 360円/6 岩成達哉+風倉匠 レッスン・プログラム 450円/7 高橋睦郎 巨人伝説 450円/8 谷川俊太郎 質問集 450円/佐々木幹郎 近刊/吉増剛造/澁澤孝輔/大岡信

煩瑣なまでに引用したのは、〈草子刊行案内〉の移りかわりを見るにつけ、シリーズものの刊行がいかにままならないか身につまされるからで、〈草子2〉にあった刊行予定の「吉岡実号 大岡信号 入沢康夫号 清水昶号 吉増剛造号」のうち、実際に出たのは吉岡の号だけである。同時刊行の〈草子6〉と〈草子7〉で「近刊」とされていた佐々木幹郎の号は結局、刊行されず、2か月後にはその佐々木を追いこして、それまでラインナップのどこにも名前のなかった谷川俊太郎の号が刊行されている。かくして、〈草子刊行案内〉で予告されていて日の目を見なかったのは、大岡信・入沢康夫・清水昶・吉増剛造・佐々木幹郎・澁澤孝輔の各号ということになる。吉岡は《異霊祭》発表の1974年当時、のちに詩集《サフラン摘み》(青土社、1976)としてまとまることになる諸作を書きついでいて、詩作はまさに絶好調だった。それにしても、全8節161行という長尺を書きおろすのは決して簡単ではなかっただろう。詩1篇とはいえ、れっきとした書籍である。今はただ、〈草子〉の吉岡実号の企画が実現されたことを喜ぶだけだ。
〈草子〉シリーズが長続きしなかったのには、いくつか原因が考えられる。定期刊行物ではないため、締切や制作の日程管理がうまくいかなかった。薄い冊子のため、販路や書店の棚が確保しづらかった。低価格の普及版と高価格の特装限定版の位置づけがはっきりしなかった。等。すなわち、進行・販売・原価管理上の諸問題。 しかしなによりも、器の新規性を活かす作品に恵まれなかったことが挙げられるだろう。それは、詩篇や散文作品として魅力が乏しかったことを意味しない。だが〈異霊祭〉は、《サフラン摘み》で読むほうが〈草子〉の一篇として読むよりじっくり味読できることもまた確かなのである。器としての稀少性を出すには、詩画集という方向もありえたが、瀧口修造の構想にその選択肢はなかったのだろう。〈草子〉の身軽さと美術作品は両立しそうにない。ただし、三好豊一郎《老練な医師》には城所祥の木版画が、岩成達哉+風倉匠《レッスン・プログラム》には風倉のデカルコマニーが、高橋睦郎《巨人伝説》の口絵には著者(?)によるカットが、それぞれ添えられている。ほかにも包紙の色の変更や、それへの文字の刷色の変更(1・2号はスミ、3〜5号は紫、6〜8号は青)などと併せて、叢書刊行中に細部の修正が加えられていったものと思しい。
吉岡が〈異霊祭〉執筆当時を振りかえった文章は見当たらない。だが、初出末尾にある「1974・2・14」が詩篇の脱稿日だとすれば、その10日後の1974年2月24日(日曜日)の日記に「夕方から雨。月桂冠一本抱え、井の頭線の浜田山へ出る。寒いので駅の近くの店でコーヒーをのみ、地図をたよりに歩く。状況劇場の稽古場開きである。唐十郎、李礼仙に迎えられる。まだ客は少く、若松孝二、足立正生に紹介された。久しぶりの土方巽と大いに語る。宴たけなわ、澁澤龍彦、種村季弘、松山俊太郎、四谷シモン、赤瀬川原平、三木富雄、中嶋夏ら現われる。いよいよ佳境に入り、余興になる。一番手は小林薫で、「そして神戸」の美声に聴きほれる。唐十郎の自作朗読そして李礼仙の唄の終ったところで、抜け出すと、外は雪になっていた。やがて修羅場と化すだろうとの予感。深夜の静かな豊多摩高校の庭を帰る。向うを一匹の犬が歩いていた」(《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、七六ページ)とある。《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》(書肆山田、1996)の書名は、吉岡の1948年7月12日(月曜日)の日記「日照りの乾いたみち/手をたらして歩く/進駐兵のたばこのからが落ちていた/駱駝の絵があった/私のうしろを犬が歩いていた」(同書、一五ページ)から採られた。その、四半世紀のちのもう一匹の「犬の肖像」との照応に戦慄する。詩《異霊祭》は、こうした感覚の持ち主によって生みだされた。詩篇〈異霊祭〉(G・19)から「1」を引く。

朝は砂袋に見える

夏の波の寄せる処で
母親を呼ぶように
紅い布を裂き
趣味のよい書物をひもとく
アラン
きみが叙述した矮小種族の好む虹色の二字
〈肉体〉
オパールの滝のなかの美貌の妹
沈む壜に入っている

死を近づける
また破裂をもたらす
新鮮な魚の目のように
何を待つ
アラン
悲劇とは仮死のなかの仮生

〈吉岡実資料〉(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991)を編むために、吉岡実の初出文献の件で蔵前の筑摩書房に淡谷淳一さんを訪ねた折りだった。なにかの拍子に、吉岡実詩の話になった。淡谷さんは即座に「朝は砂袋に見える/岬」という〈異霊祭〉の出だしは素晴らしい、と言われた。懐かしくも、忘れがたい想い出である。

〔追記〕
インターネットで〈異霊祭〉を検索していたら、品切れ本を中心とした書評ページ《失われた本を求めて 陰鬱な美青年 グラック》で、「最後に、この『陰鬱な美青年』が、ひとりの日本の詩人にインスピレーションを与えたのではないかと思われる例を挙げておく。吉岡実が1974年に描きあげた「異霊祭」という詩だ。確証はないが、語の選び方から察するに、わたしにはそんな気がしてならない。それに吉岡氏は当時、筑摩書房に勤務していたのだから、本書を手に取ったことも充分にありえるだろう。では、この「異霊祭」から第1節を引用してみよう(この詩は吉岡氏の代表作『サフラン摘み』に収録されている)」とあるのを見つけた。書評者のtakahata氏(同文の末尾には「by takahata: 2004.11.30」とある)が誰かわからないが、この貴重な指摘をやり過ごすわけにはいかない。しかしながら、ジュリアン・グラック(小佐井伸二訳)《陰欝な美青年》(筑摩書房、1970年7月25日)は絶版で、古書値もばかにならない。そこで、文遊社から2015年5月1日に刊行された再刊を入手したところ、訳者による〈あとがき〉に淡谷さんの名前を見出した。

 訳者もまた、少年の日から久しくこの作家に対して、とくになぜかこの小説に対してひそかな偏愛を抱いてきたが(少年の、水平線の向う側へのあこがれを、このようなかたちで、つまり「暗喩的な仕方とはまったく別な」かたちで、満たしてくれる作家が現代他にいるだろうか?)、もし訳者が『文学界』誌上にこの小説の最初の部分の窪田啓作氏による美しい翻訳を読むという偶然に恵まれなかったなら、またもし筑摩書房編集部の淡谷淳一氏からの遠い[、、]しかし絶えざるはげましがなかったなら、この[、、]訳書は生れていなかっただろう。願わくば、水平線の向う側へ帰ることなく旅立つ瞬間のあのめまい[、、、]がいささかでも訳文に移されているように!(ジュリアン・グラック(小佐井伸二訳)《陰欝な美青年》文遊社、2015年5月1日、三一三ページ)

吉岡実が淡谷淳一(吉岡に書き下ろしの評伝《土方巽頌》を書かせた後輩の編集者で、筑摩書房のフランス文学系の全集や大著を数多く手掛けた)を介して、小佐井伸二訳のジュリアン・グラック《陰欝な美青年》に触れた可能性はきわめて高い。

ジュリアン・グラック(小佐井伸二訳)《陰欝な美青年》(筑摩書房、1970年7月25日)の表紙と同書の再刊(文遊社、2015年5月1日)のジャケット
ジュリアン・グラック(小佐井伸二訳)《陰欝な美青年》(筑摩書房、1970年7月25日)の表紙と同書の再刊(文遊社、2015年5月1日)のジャケット

前掲takahata氏の書評にもあったように、吉岡実詩にグラック小説の直接の[、、、]反映が見られるわけではない。しかしながら、たしかに全体の醸しだす雰囲気には共通したものが感じられる。試みに初刊と再刊の帯文を掲げて《陰欝な美青年》の、アラン・パトリック・ミュルシソンの片鱗に触れてみよう。

[初刊帯文]
死は他人の奥にまだ眠っている死をゆさぶり、目覚めさせる、ちょうど女の腹のなかの子供のように………………
アランとは誰か?
あるいは何か?(表1)
ブルターニュ海岸ホテルの避暑客たち、ランボーを研究するジェラール、知的俗物ジャック、新婚早々のイレーヌとアンリ、青年グレゴリー、そして若く美しい誇りやかな娘クリステル、無為と倦怠が支配するヴァカンスに登場する「陰欝な美青年」アランをめぐる愛と死――この神秘的な小説は、同時に劇であり「神話」である。(表4)
[再刊帯文]
この眩暈を止めなければ、この無意味な死を――
ヴァカンスの倦怠を、不安に一変させる美青年、アランとは誰なのか?(表1)
「キリスト教は、……この地球上でかたちをなさなかったでしょう、もしキリストが降臨しなかったら。キリスト教が存在するためには、キリストが存在しなければならなかった、この村に、この日に生れ、神を信じない人間に釘付けにされたこの手を見せ、そして隠喩的な仕方とはまったく別の仕方で墓から消え去らねばならなかったのです。このような真似のできぬ現存なくしてどうして彼がひとびとを説得できたでしょう?」(表4)

再刊帯文の表4はアランがジェラールに語った言葉。それを含む「七月十九日」のジェラールの日記は「昨日、遂に、アランと知り合いになることができた」(同書、八二ページ)と始まる。私がアランの言葉で最も惹かれたのは、このキリスト教/キリストの一節ではない。そのほんの数ページまえの別の箇所である。ここは、吉岡が読んだかもしれない初刊から引くことにする。

〔……〕おそらく、作品の完成[、、]は、ポーの『楕円形の肖像』におけるように、あるいは人間の死をもたらすかもしれません。書かれた言葉のすでにきわめて危険な明暗をとおして詩人を知らずに導いてゆくあの透かしになったテクスト、あの磁化された目に見えないテクストが、いかなる魔力を包蔵しているか、誰にわかりましょう。すべての作品はいったん書いた字を消してその上にまた字を記した羊皮紙なのです――だから、作品が成功している場合は、消されたテクストは常に魔法のテクストです。(同書、七三ページ)

とりわけ「すべての作品はいったん書いた字を消してその上にまた字を記した羊皮紙なのです」からは、吉岡実が松浦寿輝詩集《ウサギのダンス》(七月堂、1982年11月15日)の栞に寄せた未刊の散文〈文字の上に文字でないものを℃u向する詩〉を想起しないわけにはいかない。


吉岡実と和田芳恵あるいは澁澤龍彦の散文(2018年4月30日)

小説家の和田芳恵は吉岡実の岳父だが、ここでは随筆〈文壇の片隅から〉(初出は《海》1974年8月号)の書きだしを読んでみたい。

 札幌の花月堂という和菓子屋に頼まれて、「杙刺[くいざ]し」という短い文章を書いた。北海道の四月にふさわしい言葉を書けということだった。東京から見れば、ほぼ、ひと月ほど遅れて桜の花が咲く。私は、こんな文章を書いた。
 私たちは「くい刺し」と言ったが、別な呼びかたもあるらしい。相手が地面に刺したくいを自分の刺し込むくいで、はじきとばす子供の遊び。うまく、はじけば、自分のものになった。
 雪が消えて、黒い土が顔を出すころ、私たち悪童連は山へはいり、せっせと、くいを作った。長さ二尺ぐらいで、先きが鋭く尖っていた。
 「くい刺し、やるべ」と誘いあい、放課後の小学校の広っぱで、夢中に闘いあった。
 私の生まれた長万部町国縫は、北海道では暖いほうだが、くい刺しは四月が頂点で、それからメンコ遊びになった。
 どうして、四月がくい刺しに向くかといえば、雪水を充分に吸い込んだ土の、しめり加減が、やわらか過ぎず、固くもなく、ねっとりとした頃合のせいである。和菓子の「ねりきり」の触感に似ていた。
 勝つ日もあれば、敗ける日もあった。
 一本もなく、くいをまきあげられて、すごすごと帰るときの、みじめったらしい気持。
 その日は付いていて、当るを幸い、相手をなぎたおし、縄で作ったくいを、背負って戻るときの、晴れがましさ。
 くいについた泥で、きものの背中をよごしてしまったと気づくのは、いつも、家へ近づいたころだった。
 母に叱られながら、私は炉ばたで、脱いだ着物の泥を、かわかしたものだった。
 月一回で変る、この「散らし」は、私のところで二百五十六回になっている。二十三年前から、始めたということなのだろう。
 〔……〕(《順番が来るまで》北洋社、1978年1月20日、九一〜九二ページ)

 ≠ナ括った五百三十字弱が自身の旧作になるわけだが、〈杙刺し〉は和田のほかの文集には収められていないようだ。では、この極めて短い随想は何年の「四月」に発表されたのだろうか。引用文からそれを導きだすことができる。〈文壇の片隅から〉の初出時(1974年8月)や「月一回で変る、この「散らし」は、私のところで二百五十六回になっている。二十三年前から、始めたということなのだろう」という記載を考えあわせると、チラシが毎月きちんと発行されているとするなら、創刊は1951年1月(すなわち1974年の「二十三年前」)、そこから起算すると〈杙刺し〉が発表されたのは1972年4月となる。〈文壇の片隅から〉を《海》に発表した1974年の2年前の1972年の、遅くとも早春には脱稿した文章だったということになろう。こうしたことを跡づけることのできる、和田の散文のおそるべき圧縮度である。内容のことをいえば、春先の土を和菓子「ねりきり」の触感に通じるとするあたりに、和田ならではの官能性を見ることができる。だが私がここで話題にしたいのは、和田の文章が吉岡の散文になにがしかの影響を与えたのではないかという点である。いったい人は初めてなにかする場合、まるきり無手勝流で臨むこともないとは限らないが、しかるべき準備期間があるならば、手近な先例から学ぶのが筋だと思われるからである。吉岡が乞われて散文を発表しはじめたのは、詩集《静物》(私家版、1955)を刊行して以後、それが多くの人の目に触れるようになったのは、続く《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)を刊行して詩人としての地歩を築いて以降ということになろう。当時の吉岡の読書生活の詳細はわからない。だが、1953年には勤務先の業務で塩田良平・和田芳恵編の《一葉全集〔全7巻〕》(筑摩書房、1953〜56)の装丁を担当していて、吉岡は当初、和田芳恵を一葉の研究者として知った。さらに、1956年に和田の書きおろし《一葉の日記》(筑摩書房)の装丁も手掛けるころには、小説家にして元小説雑誌の編集者というその経歴にも通じていた。つまり、吉岡が発表を想定した散文を書きはじめた時期、最も身近にいた文筆家の一人が和田芳恵だったわけである(なお吉岡は1959年、和田の長女・陽子と結婚している)。

吉岡実と和田芳恵〔出典:古河文学館編《和田芳惠展――作家・研究者・編集者として》古河文学館、1999年10月23日、五一ページ〕
吉岡実と和田芳恵〔出典:古河文学館編《和田芳惠展――作家・研究者・編集者として》古河文学館、1999年10月23日、五一ページ〕

ここで冒頭に引いた〈文壇の片隅から〉に嵌めこまれた〈杙刺し〉に戻ろう。吉岡の散文は和田の随想におけるそれほど改行や読点が多くはないが、比較的短い文を積みかさねて先へ先へと歩を進める呼吸には、互いに近いものが感じられる。若年のころの想い出を主題とする随想を締めくくる際の手法も、和田の「母に叱られながら、私は炉ばたで、脱いだ着物の泥を、かわかしたものだった」あたりに学んでいるようだ。なお、私が和田の小説ではなく随想を引いたのは、もちろん対比すべき吉岡に小説作品がないということが第一にあるが、和田の小説と吉岡の詩を比較するにはその間に設定すべき媒介が複雑すぎて手に余る、という事情による。和田の小説の文体に関しては、時代を画した丸谷才一の評「そして和田の二篇の情痴小説〔〈厄落し〉と〈接木の台〉〕は、いづれも、徳田秋聲から川端康成に至る奇妙に錯綜した時間の構造と言ひ(和田がこの技法に習熟してゐることは恐しいほどである)、頻繁な改行と言ひ、会話の多用と言ひ、まさしく当時〔昭和十年代〕の小説との近接を示してゐる。彼はひよつとすると、最も遅れて来た昭和十年代作家なのかもしれない。これはもちろん、それにふさはしいだけの成熟が備はつてゐるといふ意味で言ふのだけれども」(《雁のたより〔朝日文庫〕》朝日新聞社、1986年8月20日、一八一ページ)に尽きている。

アレキサンドリア局留便《O氏の肖像――大野一雄を肖像した長野千秋展》(アパッシュ館、1969年〔奥付に月日の記載なくも、9月以降に刊行か〕)に収録された吉岡実の〈内密な意識の個人的な秘儀〉と同書のポートフォリオ
アレキサンドリア局留便《O氏の肖像――大野一雄を肖像した長野千秋展》(アパッシュ館、1969年〔奥付に月日の記載なくも、9月以降に刊行か〕)に収録された吉岡実の〈内密な意識の個人的な秘儀〉と同書のポートフォリオ

吉岡実に〈内密な意識の個人的な秘儀〉と題する三百五十字ほどの短文がある。初出は《O氏の肖像》(アパッシュ館、1969)だが、同書のクレジットの表示が少しく曖昧なので、印刷物のありさまを再現しておく。私が古書落穂舎から数年まえに求めた一本は、天地300×左右415ミリメートルほどのポートフォリオ――洋風の帙で、表の「PORTFOLIO」というロゴの上に銀の地を引いて大きく「O氏の肖像」(書名であろう)、その下方のポートフォリオの生地にやや小さく「アレキサンドリア局留便」(これが副題なのか、著者もしくは編者を示すプロジェクト名なのか、はっきりしない)と、いずれもスミで文字(横組み)が刷られている――に、天地290×左右410ミリメートルほどの紙葉が13枚収められている【註1】。これらを踏まえて、便宜的に本書をアレキサンドリア局留便《O氏の肖像――大野一雄を肖像した長野千秋展》(アパッシュ館、1969年〔奥付に月日の記載なくも、9月以降に刊行か〕)としておく。吉岡の〈内密な意識の個人的な秘儀〉は《土方巽頌》(筑摩書房、1987)の〈18 「O氏の肖像」〉に、符号を二箇所(《 》と―)改めただけで、字句はそのままに吸収された。

 土方巽と笠井叡という恐るべき二人の舞踏家の師といわれる、大野一雄は久しい間、私にとっては幻の舞踏家であった。このつつましくも寡黙な表現者は、なかなか私たちの前にその全容を現わしてくれない。その人が今度『O氏の肖像』というユニークな映画を長野千秋の協力で創った。自己顕示欲の尠いと思われる大野一雄が、突然、映画を創ったのには一瞬奇異なものを、私は感じたが――。一時間十分凝視しているうちに、妙なことだが、これは他者に観せる演技ではなく、まして舞踏でもなく、肉体でもないと思われてくる。これはもしかしたら、大野一雄のきわめて内密な意識の個人的な秘儀なのかも知れないと。うす暗い他界の内陣で、生死もさだかでない血まみれの魚体を、トイレットペーパーで偏執的に包みこんでゆく姿に、私はある戦慄をおぼえた。(同書、三二〜三三ページ)

吉岡は〈18 「O氏の肖像」〉で、まず土方の章句を引いてから、自身の1969年8月24日の日記を掲げている。すなわち「夕暮、渋谷のフランセに行く。すでに飯島耕一、鈴木志郎康夫妻そして、大野一雄と長野千秋が待っていた。遅れて、土方巽、三好豊一郎が来たので、小さな映画事務所へ。そして長野千秋撮影、大野一雄出演の「O氏の肖像」を観る。終って加茂川で酒をのむ。土方巽の吐いた言葉が心に残った。若者たちをぬらす水は胸のあたり。しかし老婆、日本の老婆は静かにかがんでゆき、指先からすーっと水のなかへ入ってゆく、と――」(同書、三二ページ)。そして一行空けてから「『O氏の肖像』の記念冊子を作るというので、私は一文を寄せている。」(同前)と来て、上掲引用文になる(なお、標題の〈内密な意識の個人的な秘儀〉は吉岡がつけたものではないかもしれない)。私にはこの流儀が、本稿の初めに掲げた和田の骨法に通じるものに思えてしかたがないのだ。

澁澤龍彦【註2】のような、執筆した文章を精力的に書物にまとめていく文筆家と較べたとき、吉岡は〈内密な意識の個人的な秘儀〉を、たとえば「推薦文」というようなカテゴリーをつくって自著に収録するとは考えにくい。和田は吉岡と比較すればはるかに多くの著作を有して、歿後には全集【註3】もあるが、それでも北海道の和菓子屋のチラシに書いた〈杙刺し〉を単体で書籍に組みこむような編集はしなかっただろう。だが、自身の旧作を新作に嵌めこんで文章を展開する手法は、誰もが採るものではないように思う。これは編集的な著述の方法ではなかろうか(奇しくも、和田芳恵、吉岡実、澁澤龍彦の三人とも、編集者だった時期がある)。澁澤の1960年代の主著に《夢の宇宙誌――コスモグラフィア ファンタスティカ〔美術選書〕》(美術出版社、1964)がある。巖谷國士がその《澁澤龍彦論コレクション〔全5巻〕》(勉誠出版、2017〜18)で指摘しているように、本書は雑誌掲載稿をきわめて編集的に再構成した書物だった。ところで国書刊行会編集部編《書物の宇宙誌――澁澤龍彦蔵書目録》(国書刊行会、2006)は「澁澤龍彦が遺した蔵書1万余冊の全データと多数の写真が織りなす、夢と驚異の蔵書目録」だが、吉岡が澁澤と著書のやりとりを通じて、刊行当時、《夢の宇宙誌》を贈られたかどうかはわからない。だが、その時期はともかく、吉岡が《夢の宇宙誌》を読んだことは疑いようもない。同書冒頭の〈玩具について〉だけ見ても、そこには日時計(修道僧ジェルベエル――のちのローマ法王シルヴェステル二世――が造ったとされる)、ダイダロスとクレタ島、宮廷肖像画家ジュゼッペ・アルキ[ママ]ンボルド、「鉄の処女」、アスタルテといった、のちの吉岡実詩に現れるさまざまなアイテムが登場する。むろん、すべてのスルスが澁澤の著作だとは断言できないが、澁澤経由でこれらに親しんだことは明らかだろう。現にアルチンボルドが「野菜と果実と花ばかりを組み合わせて、ユーモラスな〔ルドルフ〕皇帝の顔を描いた」(《澁澤龍彦全集〔第4巻〕》河出書房新社、1993年9月13日、一九九ページ)ところの〈庭師〉が図版で掲載されている。これが〈サフラン摘み〉(G・1)の「春の果実と魚で構成された/アルチンボルドの肖像画のように」の淵源のひとつであることは動かないだろう。と、ここまで書いてきたが、私はこれ以上、具体的に澁澤龍彦の文章と吉岡実のそれを並べて比較することは避けたいと思う。散文に関するかぎり、職業的な書き手である澁澤と吉岡実という詩人の書く散文を突きあわせてみても大した発見は得られないだろう、という予感があるのだ。むしろ、澁澤のエッセイ(随想ではない)の断章形式と、吉岡の人物評における断章・断想という形式がもつ本質的な類似こそが興味深い。それは表現方法の次元に留まらず、世界を認識する姿勢における共通性を示していよう。吉岡が1950年代に和田の文章から学んだように、1970年代以降、澁澤の著作から多くを学んだことは、金井美恵子が肖像〈吉岡実とあう――人・語・物〉で「澁澤龍彦夫妻と何年か前四谷シモンの人形展で一緒になった時、本気で真面目に今のところ、おれは澁澤氏を一番気に入っているからね、と言い、澁澤龍彦が、今のところ[、、、、、]、かあ、と大笑いした」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984、二二四ページ)と書いていることが傍証となる。だが、吉岡が澁澤の方法を自家薬籠中のものとしたのは、「澁澤龍彦のミクロコスモス」と詞書にある詩篇〈示影針(グノーモン)〉(G・27)をもって嚆矢とする。この詩篇と澁澤龍彦《胡桃の中の世界》(青土社、1974)の関係については、他日を期したい。

私には、和田芳恵(1906〜77)と澁澤龍彦(1928〜87)という、およそ対蹠的な立場の文学者から散文の富を継承した詩人が吉岡実だったように思えてならない。

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【註1】 《O氏の肖像》は、土方巽公演〈土方巽と日本人――肉体の叛乱〉の一カ月半後に刊行された限定50部のオリジナル豪華詩画集《土方巽舞踏展 あんま》(アスベスト館、1968年12月1日、編集:アスベスト館)ほど知られていないようなので、やや詳しく記しておきたい。13枚の紙葉(ノンブルなし)に、仮に丸中数字で番号を振って内容を概説する。なお、本文はすべて縦組みである。
@厚手のトレーシングペーパーに、使用済みのチェコスロバキアの切手(躍動する馬の絵柄)を貼り、スミで人物(O氏?)の半身像を、銀色で「アレキサンドリア局留便」(横組み)と、おそらくシルクスクリーンで刷ってある。本書の扉に相当する。
A以下、用紙はすべて濃いクリーム色に淡いピンクのマーブル模様を漉きこんだファンシーペーパー。Aは〈目録〉すなわち目次である。追い込みで再録する。「大野一雄を肖像した長野千秋展/目録/土方巽 シビレット夫人/加藤郁乎 ある日のキリスト氏/三好豊一郎 オナンの如く/飯島耕一 O氏の運動/合田成男 O氏の肖像へ/鈴木志郎康 いとしいとしの眞空充肉充血皮袋ちゃん!/中西夏之 顔を吊るす双曲線/谷川晃一 OHONO-FARMAN TYPE-PIPE BIPLANE/吉岡実 内密な意識の個人的な秘儀/澁澤龍彦 泳ぐ悲劇役者」
B土方巽〔書簡文〕(標題なし)
C加藤郁乎〔散文〕〈ある日のキリスト氏〉
D三好豊一郎〔詩〕〈オナンの如く〉
E飯島耕一〔散文〕〈O氏の運動〉
F合田成男〔散文〕〈O氏の肖像へ〉
G鈴木志郎康〔散文〕〈いとしいとしの眞空充肉充血皮袋ちゃん!〉
H中西夏之〔図と散文〕〈顔を吊るす双曲線〉
I谷川晃一〔版画〕〈OHONO-FARMAN TYPE-PIPE BIPLANE〉……所蔵の四番本は別のオリジナル(74/100)をカラーコピーで複製したもの
J吉岡実〔散文〕〈内密な意識の個人的な秘儀〉……本文は18級20字詰め18行。標題が1行、署名が1行(どちらも赤系の刷色)なので、400字詰め原稿用紙1枚、もしくはペラ2枚の原稿だったと考えられる。
K澁澤龍彦〔散文〕〈泳ぐ悲劇役者〉……同文の〈解題〉(巖谷國士)には「一九六九年、アパッシュ館から刊行された『O氏の肖像――アレキサンドリア局留便』に発表。これは「大野一雄を肖像した長野千秋展」のリーフレット形式の「目録」でもあった。土方巽、加藤郁乎以下、多くの舞踊家、詩人、批評家、画家たちが大野一雄へのオマージュを書いている」(《澁澤龍彦全集〔第9巻〕》河出書房新社、1994年2月12日、五三二ページ)とある。
L刊記。追い込みで再録する。「壹阡九百六拾九年/アレキサンドリア局/大雅工芸社/クラフト・フォト・タイプ/蛇口刷インキ/刊行 アパッシュ館/〔やや小さく〕東京都世田谷区大原2―21―3/限定百部〔筆書き〕番」

【註2】 澁澤龍彦が和田芳恵を愛読していたかは定かでないが、エッセー集(というよりも随筆集と呼びたい)《玩物草紙》(朝日新聞社、1979年2月25日)の〈天ぷら〉(初出は《朝日ジャーナル》1978年5月5日号)に触れないわけにはいかない。

 その日、吉岡さんが奥さんを連れてこなかったのは、一つには奥さんの父君の和田芳恵さんの病態が思わしくなかったためもありますが、もう一つには、ポルノを見るつもりだったからかもしれないな、と私はひそかに思いました。もっとも、これは吉岡さんに確かめたわけではありませんから、私の勝手な想像です。
 父君の容態が明日をも知れぬという時に、ポルノを眺めるなどとは不謹慎だ、という意見があるかもしれませんが、私はそうは思いません。七十年の壮烈な生き方をした一作家の臨終に、数日来、親しく立ち会っていたればこそ、吉岡さんはその日、むらむらとポルノを見たくなったのではないでしょうか。いや、何もそんな理窟をつけるには及びますまい。私が勝手に吉岡さんの心中を忖度する権利も、むろん、ありません。ただ私は、和田さんの生涯にはポルノはむしろふさわしいので、これを眺めるのが必ずしも不謹慎なことだとは思わないだけです。
 〔……〕
 〔天ぷら屋で〕食事を終え、喫茶店でコーヒーを飲むと、吉岡さんはAさん〔筑摩書房の編集者、淡谷淳一氏〕と一緒に、あたふたと横須賀線で東京へ帰って行きました。
 その日の夜おそく、和田芳恵さんは亡くなられました。
 私は和田さんには一度もお目にかかったことがなく、その作品も、身を入れて読んだことが一度もないような人間ですが、この日のエピソードは、和田さんの死とからめて、おそらく死ぬまで忘れることがあるまいと思います。そういうことがあるものです。それは去年の十月四日でした。(同書、一二四〜一二九ページ)。

この悠揚として迫らぬ調子は(です・ますの文体とも相俟って)、著者の名を明かさなければ、澁澤龍彦だとわからないのではあるまいか。もっとも「私は、和田さんの生涯にはポルノはむしろふさわしいので、これを眺めるのが必ずしも不謹慎なことだとは思わない」というあたり、まぎれもなく澁澤の文章である。和田の死は吉岡にとって痛切な出来事だった。《群像》1977年12月号〔和田芳恵追悼〕の〈月下美人――和田芳恵臨終記〉は、竹西寛子も讃嘆したように吉岡実の散文のひとつの極致を示しているものだが、次のような箇所がある。

 十月四日は朝から大雨であった。そういえば入院の九月十九日も十一号の雨台風の日だった。川崎のO病院を退院して、おやじさんは長原の家に戻った。植木の緑にかこまれたわが家に入る時、病人の顔はいままで見せたことのない清々しい微笑さえ浮べだそうである。次に移る病院が遠すぎるので、途中下車よろしく、家でしばし治療と栄養を摂るためだと、静子夫人と主治医の言であった。しかし、私は前夜吐血し、輸血や点滴をしていた病人の状態を思うと、不吉なことを考えないわけにはゆかない。
 その日は生憎、私は仕事のため同僚と北鎌倉の澁澤龍彦宅に行っていた。打合せも終り、龍子夫人の運転するくるまで鎌倉へ出た。小町通りのひろみで天ぷらを食べ、たのしい一夕を過した。しかしその間も、長原の家のことを考え、心がおちつかなかった。九時過ぎに長原に行った。あらかじめ今日のことに備え、本も本棚もその他の器物も搬び出してしまったので、部屋は一変していた。新しいセミダブルのベッドの上に病人は寝ていた。おやじさんの顔を見て、もうだめだと思った。黄疸になっていて、唇も恐ろしく乾いている。なによりも、苦しむ力さえ失われつつあった。静子夫人も妻もあっちゃん〔和田芳恵の長男すなわち吉岡陽子の兄、昭〕も、ただあたふたとしていた。
 私はクッションの替りに、おやじさんの背に沿って寝た。そして肩や腰を撫でさするより仕方なかった。十二時近く、一度帰った自宅から呼び戻されて新津の先生が駈けつけた。すでに吐血と下血がはじまり、死は近かった。先生は一番大切で、むずかしい点滴をするから、しっかり病人の軀や手を押えて下さいといった。失敗はゆるされないという緊張が私たち全員にあった。紫色にはれ上った手を持った妻は、真剣な表情を見せていた。まさに注射するその瞬間、ぐらぐらと家が揺れ出した。それは大きな地震だった。それから三十分たっただろうか、私たちはおやじさんのつぶっていた眼が急に開き、白くなるのを見た。静子夫人は病人の頬に平手打をして、なにか叫んだ。
 肉親だけに看とられて十月五日午前一時三十二分、病人は死んだ。作家和田芳恵は死んだ。
 吉田のおばさんと姪の方がすぐ手伝いにきてくれた。涙とは妙なものだ。一人の者の涙に誘われ、だれもが涙を流していた。
 みんなで、おやじさん愛用の紺の浴衣を着せた。私は遺骸を持ち上げながら、博多帯をきゅっきゅっと巻いた。背中はまだぬるい温みがあった。爪先はつんと天を向いていた。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一七三〜一七四ページ)

澁澤龍彦は吉岡実の〈月下美人――和田芳恵臨終記〉を雑誌で読んで、随筆〈天ぷら〉を書いているのではないだろうか(「あたふたと」という、肝になる言いまわしが双方に出てくる)。澁澤なりの〈和田芳恵追悼〉として。

某氏が澁澤龍彦の《玩物草紙》(《朝日ジャーナル》連載)の切り抜きを手製本した冊子の〈天ぷら〉の誌面の1ページ 澁澤龍彦が吉岡実に贈った《玩物草紙》(朝日新聞社、1979年2月25日)標題紙裏のペン書き献呈署名
某氏が澁澤龍彦の《玩物草紙》(《朝日ジャーナル》連載)の切り抜きを手製本した冊子の〈天ぷら〉の誌面の1ページ(左)と澁澤が吉岡実に贈った《玩物草紙》(朝日新聞社、1979年2月25日)標題紙裏のペン書き献呈署名(右)

【註3】 和田芳恵の全集(ただし内容は〈道祖神幕〉や〈厄落し〉などの短篇小説群、〈塵の中〉と〈暗い流れ〉の二長篇小説、〈樋口一葉〉と〈一葉の日記〉の一葉研究、〈ひとつの文壇史〉や〈自伝抄〉などの代表的な随筆を収録したもので、正確には「選集」というべき構成)は、河出書房新社から五巻本で出ている(1978〜79)。澁澤龍彦の全集は公刊された全作品を網羅した《澁澤龍彦全集〔全22巻・別巻2〕》(1993〜95)と《澁澤龍彦翻訳全集〔全15巻・別巻1〕》(1996〜98)が、同じ河出書房新社から出ている。付言すれば、吉岡実の全集には、公刊されたすべての詩集ほかを収めた《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)があるが、俳句をはじめ散文や日記まで収めた「全集」はまだ刊行されていない。


吉岡実とヘルマン・セリエント(2018年3月31日)

インターネットの画像検索などという便利なツールがなかった時代、情報源としての専門雑誌の価値は今よりはるかに高かった。吉岡実の詩篇〈異邦〉(H・5、初出は〈ヘルマン・セリエント展〉パンフレット、青木画廊、1977年5月31日)の詞書「へルマン・セリエントの絵によせて」を読んでセリエントの絵が観たくても、おいそれと観ることはかなわなかったのである。私がセリエントの絵の図版に初めて接したのは、ペヨトル工房の《夜想》第19号〔特集★幻想の扉〕(1986年10月17日)だったと思う。〈異邦〉が再録された《夜想》の72〜73ページには、セリエントの〈集会〉と〈ペテン師〉(1976)が掲げられていた。なお、詩篇が「1974年個展パンフレットより」と註記にあるのは(前述のように、77年だから)誤り。次の見開き(74〜75ページ)には〈居酒屋〉(1977)、〈夜の旅〉、〈作品〉、〈スナックバー〉の4点の図版が、前の見開きと同様、モノクロで掲載されていて、当時はこれらが貴重な資料だった。吉岡は〈ヘルマン・セリエント展〉のパンフレットはいうまでもなく、《夜想》も観ているはずだが、その歿後に小沢正の文、へルマン・セリエントの画による《フェイク》(パロル舎、2001年11月26日)という書籍が刊行された。現在までのところ、日本ではこれがへルマン・セリエントの絵画を収めた最も重要な印刷物ということになろう。

小沢正の文、へルマン・セリエントの画による《フェイク》(パロル舎、2001年11月26日)のジャケット〔表紙絵は〈信号ラッパ吹きの名人〉〕 吉岡実の詩篇〈異邦〉(H・5)の初出〔出典:〈ヘルマン・セリエント展〉パンフレット(青木画廊、1977年5月31日)〕のコピーに小林一郎が詩集収録形との異同を朱書したもの
小沢正の文、へルマン・セリエントの画による《フェイク》(パロル舎、2001年11月26日)のジャケット〔表紙絵は〈信号ラッパ吹きの名人〉〕(左)と吉岡実の詩篇〈異邦〉(H・5)の初出〔出典:〈ヘルマン・セリエント展〉パンフレット(青木画廊、1977年5月31日)〕のコピーに小林一郎が詩集収録形との異同を朱書したもの(右)

ヘルマン・セリエントを紹介した青木画廊のウェブサイトに、セリエントのページがある。そこには作風を説明する画像(連作銅版画 “Masken und Maskierte”(仮面と仮装)より)や略歴とともに、本書の案内がある(なお、本文のサイズは一七四×一九〇ミリメートル)。

[画集]ヘルマン・セリエント/文・小沢正/「fake」
Serientの新・旧油彩作品約36点収録(オールカラー)。画集としても見応えがあります。(オリジナルイラスト/サイン入り)
2001年11月26日パロル舎発行
AB〔ママ〕判上製36頁◆\1,400+税

画家の立場からすれば「画集」だろうが、わたしたちはふつうこれを「絵本」と呼んでいる。小沢正のストーリーに合わせて、ヘルマン・セリエントが作品を描いたとは考えにくい。とすれば、吉岡が〈ヘルマン・セリエント展〉の資料の写真を観ながら〈異邦〉を執筆したであろうのと同様、小沢(児童向けの創作や訳書を多数もつ)もこの書籍のための資料写真を観て物語を紡いだことは充分に考えられる。本書の内容紹介には、「ぼくの生まれ育った土地では、素顔をさらしたり、自分の本性をむき出しにしたりするのが、忌むべきことと考えられていました…。「居住車」「青い家」などセリエントの絵36点と、小沢正のストーリーによる絵本」とある。あえて乱暴な括り方をするなら、本書におけるセリエントの作風は「ゾンネンシュターンの手法でアンソールの主題を描いたもの」とでもなろうか。もっともゾンネンシュターンは色鉛筆、セリエントは油彩、と表現方法の異なることはいうまでもないが。書名の“fake”は、でっち上げとか偽造・模造という意味の名詞である。一方、ジャズミュージックの世界では「即興演奏すること」を意味する(即興演奏は、アドリブ、インプロヴィゼーションとも)。略歴によれば、セリエントは二十歳前に金細工学校に在学しながらジャズに熱中してバンドを結成したそうだから、小沢はそれを踏まえてセリエントと「即興演奏」した、といわんとしているのだろう。それというのも、ふつうに考えれば「仮面」を織りこんだ題名のほうが内容――絵にしても、話の中身にしても――に似つかわしいからだ。

青木画廊編《一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961-2016》(風濤社、2017年5月31日)は、同書の惹句を借りるならば、「〔……〕ウィーン幻想派の紹介、金子國義、四谷シモンの展覧会デビューで、1960年代〜70年代はアヴァンギャルドの牙城となり、瀧口修造、澁澤龍彦もオブザーバー的にかかわった孤高の画廊。その画廊精神は現在にも引き継がれ、澁澤龍彦曰く「密室の画家」たちが発表の場を求めている。青木画廊で個展を開いた70数作家、寄稿文7本、座談会5本、展覧会パンフレットのテクスト90本で辿る55年間の軌跡、青木画廊大全!」である。吉岡は生前、青木画廊で開かれた展覧会に足繁く通いつつ、乞われて画廊発行のパンフレットに4篇の詩を寄せている。

自転車の上の猫(G・15)
異邦(H・5)
壁掛(J・5)
秋の領分(K・5)

これらの詩篇はその初出形が《一角獣の変身》に収められているが、〈異邦〉は同書の巻頭〈エルンスト・フックス〉(書名にも引かれた瀧口修造の〈一角獣の変身――エルンスト・フックスの作品を迎えて〉を収録)の項に続いて、二番めのへルマン・セリエントの項に、その油彩作品〈スナックバー〉(1968)、〈火の番人〉(1970)とともに掲げられている。ちなみに、《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》(書肆山田、1996年11月30日)のカラー図版〈吉岡実の小さな部屋〉には、セリエントの〈異邦〉が掲載されている。それを観るかぎり、吉岡の詩篇〈異邦〉も《フェイク》の「仮面」よりは、“fake”に近い標題だといえる。あるいは、詩はここまで絵画から離れてしまってもかまわない、という確信が《フェイク》の作者である小川に引き継がれたと見るべきか。

美術評論家の正木基は〈幻想レアリスムと青木画廊〉でセリエントをこう評している。「「密室」が外部的世俗の遮断、立籠とすれば、「隠遁」はそこからの遁走で、共に、現実否定に発する類縁的な処方と言えなくもない。絵と音楽へ熱中した後に4年間のヨーロッパ「漂泊」という履歴に注視するならば、ヘルマン・セリエントにとって市民社会、いや世界は、外部から見る対象なのだろう。彼は、祭りの仮装や人形劇の人形や道化芝居の道化役者のごとく派手に装い、しゃべり、笑い、歌い、踊りのさんざめく人群れを描く。が、そこに、内面の仮面が貼りつき、凍てついた彼らの表情の裏を幻視してしまうセリエントは、作品の単純化、デフォルメ、鮮烈な色彩というウィーン幻想レアリスムからの成果を以て、人間世界への風刺的批評を自ずから酷薄に描出してしまう」(《一角獣の変身》、一八三ページ)。

異邦(H・5)

初出は〈ヘルマン・セリエント展〉パンフレット(青木画廊、1977年5月31日)、〔三ページ〕、本文15級16行2段組、31行。【初出形→詩集収録形】で異同を示す。

    【(ナシ)→へルマン・】セリエントの絵によせて

聖堂の番人が箒をかついで帰ってくる
         人も消え
         にわとりも消え
わずかに藁塚のなかに存在する
火と【精→地】霊
〈死は働く者に近づく〉
行商人は旅を了えて居酒屋に入る
緑の壁の亀裂は深い
外の空のように
一人の老人の手のなかで
思考のぬけがら
の蛇
朱の酒杯をかたむけ
そのとなりの女は美しい
乳房と腕をしている
テーブルの下は暗い草むら
【鳥の→(トル)】仮面をかぶった
まま女は目くばせする
欲しいよ 水と蜜
【それ→女】はすでに鳥の貌そのもの
岩塩の一粒を咥え
〈食蓮人〉の邦へ飛び立つ
いまは遙かになった花咲く土地
血!
枯枝には魚の骨が引懸ってい【る→た】
月光のなかで
      中世の子守唄が聞える
  「鍛冶屋の前で
     托鉢僧が二人になった
         二人になった
   二つの頭から煙がのぼった」

へルマン・セリエント〈仮面を売る男〉〔出典:小沢正(文)・へルマン・セリエント(画)《フェイク》(パロル舎、2001年11月26日)、奥付の前のページに掲載〕● へルマン・セリエント〈異邦〉〔出典:《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》(書肆山田、1996年11月30日、〔二一ページ〕)〕
へルマン・セリエント〈仮面を売る男〉〔出典:小沢正(文)・へルマン・セリエント(画)《フェイク》(パロル舎、2001年11月26日)、奥付の前のページに掲載〕(左)と同〈異邦〉〔出典:《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》(書肆山田、1996年11月30日、〔二一ページ〕)〕(右)

吉岡の1986年1月10日の〈日記〉に「晴。午後遅く、銀座へ出、青木画廊で、ヘルマン・セリエント展を観る。三点ほどに赤丸が付いていた」(《土方巽頌》、筑摩書房、1987、二〇五ページ)とある。この展覧会は10日から23日まで開かれた〈仮面の行商人たち〉で、青木画廊でのセリエント展は初回が1968年、以降、1977年、1980年、そしてこの1986年に開かれている(吉岡歿後では、1991、95、97、2000、15年に開催)。日記の「赤丸」は売約済のことだから、吉岡がこのときセリエントの作品の売れ行きを気にかけていたことは間違いない。吉岡がセリエント作品の〈異邦〉をいつ入手したのか、詳しい経緯はわからない。だが奇妙なことに、吉岡が詩篇〈異邦〉を執筆するに際して参照したセリエント作品は、この〈異邦〉ではなく、《フェイク》の奥付の前のページに掲載されている〈仮面を売る男〉である。吉岡の歿後に刊行された本に載っていても証文にはならないが、この〈仮面を売る男〉、吉岡の詩篇〈異邦〉の初出媒体である前掲〈ヘルマン・セリエント展〉パンフレット(青木画廊、1977年5月31日)に掲げられたセリエント作品だったのである(パンフレット表紙の作品は〈カーニバル〉)。吉岡は、なんらかの事情で〈仮面を売る男〉を手に入れることができず、(代わりに、あるいは後年、〈異邦〉を入手したものの)手許に置くことのできなかった絵画を自分のことばに置き換えるという操作をして、詩篇を執筆したのだろうか。これをどう考えたらよいのか。吉岡が〈仮面を売る男〉と〈異邦〉にいつ接したのか。それは写真資料だったのか、原画だったのか。制作年さえはっきりしない〈異邦〉をいつ入手したのか(〈仮面を売る男〉はほんとうに入手できなかったのか。単に〈吉岡実の小さな部屋〉に載っていないだけではないのか)。そして、詩篇〈異邦〉は絵画〈異邦〉とどういう関係にあるのか。等等、究明したい点は数多いが、現時点では詳しいことがわからない。

絵画〈異邦〉が夕暮れの帰還だとすれば、〈仮面を売る男〉は早朝の出立といった感じで、私にはこれが吉岡の長篇詩〈波よ永遠に止れ〉(未刊詩篇・10)のタクラマカン砂漠への出立を想起させると指摘して、いまは前世のように懐かしいこれらヘルマン・セリエントの絵画群をめでることにしよう。


吉岡実と四谷シモン(2018年2月28日)

吉岡実が先輩知友に献じた詩は、二種に大別できる。すなわち献詩と追悼詩である(どちらの場合も対象となる人物の章句を題辞に引いたり、誰に献じたかを詞書に記したりして、それを明らかにしている)。吉岡の生前最後の詩集《ムーンドロップ》(1988)を例にとれば、四谷シモンに捧げた〈薄荷〉(K・6)が献詩、土方巽を追悼した〈聖あんま断腸詩篇〉(K・12)と澁澤龍彦の鎮魂のための〈銀鮫(キメラ・ファンタスマ)〉(K・17)が追悼詩である。《ムーンドロップ》の前の詩集《薬玉》(1983)には、西脇順三郎を追悼した〈哀歌〉(J・13)、同じく鷲巣繁男を追悼した〈落雁〉(J・17)はあるが、《夏の宴》(1979)に数多く見られた現存する人物へ献じた詩はない(註1)。すなわち〈薄荷〉は「後期吉岡実詩」で唯一の献詩であり、誰よりも四谷シモンその人に読まれることを前提にして書かれた作品と位置づけることができる。だが、いきなり〈薄荷〉(初出は《四谷シモン 人形愛》美術出版社、1985年6月10日)にいくまえに、〈官能的な造形作家たち〉(初出は1986年6月の《季刊リュミエール》4号)の1と2、すなわち吉岡が瀧口修造に依りつつハンス・ベルメールと四谷シモンについて書いた文章を見よう。

 1 ハンス・ベルメール

 瀧口修造には「ハンス・ベルメール断章」という、造形作家を讚えた、美しい断章がある。適宜引用させて貰う。――ベルメールの人形における球体はanagramme(語句の解体と組み替え)のためのメカニズムであり、一種の自在関節。/それはまた一箇の完全な真珠であり、/忍び寄る夕闇のなかのアナグラムによって、/一箇の完璧な疣であり、涙一滴の孤独な結石である。――。私もある一時期、ハンス・ベルメールに魅せられ、古本屋で着色写真集[、、、、、]を購ったものだ。ドイツ語の限定本である。読めないが充分たのしむことができた。そして「聖少女」と題する一篇の詩を書いた。その終章「その球体の少女の腹部と/関節に関係をつけ/ねじるねじる/茂るススキ・かるかや/天気がよくなるにしたがって/サソリ座が出る」
「断章」の一節を引用する。――人形作者としてベルメールは、孤独な原型人間のひとりとして出発することを宿命づけられていた。けれどなんと多くのそんな人たちが地上に彷徨していることだろう。不幸にも互いに知らず、視えぬ人形作者として……。――。やがて一人の青年が、澁澤龍彦の紹介文に依って、ハンス・ベルメールとその人形を知り、深い啓示を受ける。数多い潜在的なファンのなかから、視える[、、、]人形作者がうまれたのだ。

 2 四谷シモン

 私が初めて四谷シモンの名を知ったのは、雑誌「太陽」の人形特集の写真に依ってだった。その少女人形は、ベルメールの球体と関節をみごとに再現し、すべすべの股間には、聖痕さえ刻まれている。――何よりも少女はすでに「死」のからだじゅうを知りつくしていて、なんと優雅に振舞うことだろう。――。私はシモンの実物の人形を見たこともないが、親近感をおぼえた。
 土方巽の暗黒舞踏派の会か唐十郎の状況劇場・赤テントの下で、私は四谷シモンと出会ったように思う。その頃、彼は人形つくりを中止し、アングラ芝居の女形として活躍していた。新宿の花園神社の境内で催された、唐十郎作「由比正雪」に客演した四谷シモンの女形の凄艶な演技に、賛嘆したものだ。それから四、五年ほど役者稼業をして、また人形つくりに没頭しはじめる。その再生作品が「ドイツの少年」であった。まさしくベルメールの桎梏から脱した記念すべき人形体。金髪の等身大の裸形は、包茎を勃起させて、なんら恥入ることなく、爽かである。
 四谷シモンの第一回個展「未来と過去のイヴ」が、銀座の青木画廊で催された。等身大の女体十二体が陳列される。ガードルを付け、ハイヒールをはいた、金髪のアメリカ女のように見える。陰毛と秘所を婉然とさらしていた。――もっとも刺々しいもの、ハイヒールの踵も、尖った爪も、三角定規でさえも、みやびた(あれはどこから来たものか)腰のひとひねりのうちに抱きすくめられるだろう。――。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三五九〜三六一ページ)

ここで註すれば、《太陽》の人形特集は1970年2月号〈世界の人形〉の「人形と暮らす3 四谷シモン――犯された玩具」で、三体の人形(ベルメールの人形写真を参照して模造したもの、初の等身大の本格的なもの、マグリットへの愛をこめてつくったもの〔とともに立つ作者本人〕)が5ページに亘って紹介されている(写真撮影は石元泰博)。吉岡はそれより早く1968年6月、唐十郎率いる状況劇場の《由比正雪》で四谷シモンの女形を観ているから、役者として知ったのが先である。〈聖少女〉(F・10)の初出は《小説新潮》1969年11月号だから、吉岡はベルメールを介してシモンの人形と出会うべくして出会ったといえよう。では、吉岡とシモンはいつ出会ったのか。〈四谷シモン年譜〉に拠れば、1969(昭和44)年、25歳、「この頃、合田佐和子、瀧口修造、吉岡実〔……〕らを知る」(《SIMONDOLL》求龍堂、2014年5月31日、一五二〜一五三ページ)とある(なお後出《四谷シモン前編》の〈四谷シモン・プロフィール〉には、同様の主旨が前年の1968年の項に書かれている)。吉岡が随想に書いているように、互いに刺を通じたのがいつどこでだったのかははっきりしないが、シモンの〈日記・一九六九年夏〉に興味深い記載がある(吉岡実の日記に登場する四谷シモンに関しては、註2を参照)。

日記●一九六九年七月二十七日

 新宿紀伊国屋書店にて吉岡実の詩集を買う(320yen)。何んと詩を読む前に詩論と自伝を先に読んでしまった(毎度の事で私は本というものを必ず後書きから読むくせがある)。その自伝を読みつつ何回となくむねをつまらせた事であろう。地下鉄の渋谷で下りてかいだんを下りながら下の広場で私と吉岡氏が、だきあっている所が目にうつる。
 その夜、吉岡氏に電話をして今日のかんげきを話した。吉岡氏もよろこんでいる様子、私は毎日日記を書く事を薦められる。ついでに全詩集を分けてもらう事にした。何んとやさしい血の通った人間であろう。又一人人間を知りえた。私の吉岡氏に対する気持がかくじつになった。今日の日記が、これで終るという事だが、何んと大いなる始まりであろう。
〔……〕〔ちなみに、〈日記・一九六九年夏〉はこの日の記載から始まる。著者は吉岡の忠告を拳拳服膺したものと思しい。〕

 七月三十一日
 田園調布に家を見にゆく
 銀座で〔合田〕佐和子と吉岡氏に会う
 吉岡氏より全詩集を送られる
 夜 阿佐ヶ谷に行く
 唐〔十郎〕たち帰京(《機械仕掛の神》イザラ書房、1978年10月30日、二一〜二二ページ)

吉岡の〈2 四谷シモン〉で注目したいのは「その少女人形は、ベルメールの球体と関節をみごとに再現し、すべすべの股間には、聖痕さえ刻まれている」と「陰毛と秘所を婉然とさらしていた」という箇所である。シモンが〈長い長いお人形のお話〉で次のように書いているからだ。
「ぼくは初めから他の人形作家の作り方なんてものを聞いたり、読んだりなんてことは全然なかったわけなんです。自分勝手に色々やってきて、ベルメールにはっとしたということなんですが、ベルメールの性器のつけ方てのはすごいと思いましたね。ただ裂けているというんじゃなくて、パックリという感じで、形がとってもよかったですね。それとあと陰毛の部分ですね。人形に毛がついているというのはいいですね。ツルンとしている肌に毛が一本一本、いかにも生えているなっていうように、サワサワサワていう感じになっているのが一番いいですね。フワーとしているっていうのかな、そういう陰毛てのは人形にとっても似合うんですよ。ベターと陰毛がはりついているというのは全然だめですね。毛というのはむずかしいですよ。直毛じゃおかしいし、ある程度の長さがあって、綿みたいな感じになっていないとだめですからね」(《シモンのシモン》イザラ書房、1977年8月25日、六四〜六五ページ)。
ケネス・クラークいうところの“nude(裸体像)”に対する“naked(はだか)”の方を良しとするシモンの陰毛の好みと吉岡のそれが同じなのは興味深い。澁澤龍彦の〈天ぷら〉(初出は《朝日ジャーナル》1978年5月5日号。単行本では初出に一部、加筆あり)にこうある。

某氏が澁澤龍彦のエッセー《玩物草紙》(《朝日ジャーナル》連載)の切り抜きを手製本した冊子の表紙
某氏が澁澤龍彦のエッセー《玩物草紙》(《朝日ジャーナル》連載)の切り抜きを手製本した冊子の表紙

「吉岡さんは私の家へくるなり、/「今日はポルノを見せてもらいにきたんだ。きみのところには、たくさんあるだろうと思ってね」と言い出しました。/それも〔鎌倉の天ぷら屋に行くのと同様〕前からの約束だったので、私は書庫から、古いのや新しいのや、芸術的なのや通俗的なのや、アメリカのやフランスのや、写真のや絵のや、いろいろ取り揃えてきてテーブルの上に積み重ねました。/〔……〕/吉岡さんは懐中から取り出した眼鏡をかけて、アメリカやフランスの雑誌をぱらぱらめくりながら、ひとりごとのように、/「あんまり毛深いのや、割れ目がはっきり見えるようなのは好きじゃない。何というか、ふわふわと生えてるのが好きなんだな」と言いました」(《玩物草紙》朝日新聞社、1979年2月25日、一二四〜一二五ページ)。
吉岡がシモンの人形を所蔵した形跡はないが、澁澤はシモン人形を愛蔵していた。澁澤邸の書斎は、公開された写真からもわかるように、かなり広い。ちなみに、吉岡夫妻は都心のマンション住まいだったためか、蒐集した立体物は奠雁や石仏など、わりあい小振りな骨董が多い。

《太陽》1991年4月号〈特集・澁澤龍彦の世界――Encyclopedia Draconia〉掲載の〈シブサワ・コレクション 四谷シモンの少女人形〉(写真・細江英公)と四谷シモン〈人形〉の見開きページ 展覧会〈SIMONDOLL 四谷シモン〉(そごう美術館、2014年5月31日〜7月6日)会場に飾られた澁澤龍彦の肖像写真や「編み上げの黒い靴」の入ったガラスケース
《太陽》1991年4月号〈特集・澁澤龍彦の世界――Encyclopedia Draconia〉掲載の〈シブサワ・コレクション 四谷シモンの少女人形〉(写真・細江英公)と四谷シモン〈人形〉の見開きページ(左)と展覧会〈SIMONDOLL 四谷シモン〉(そごう美術館、2014年5月31日〜7月6日)会場に飾られた澁澤龍彦の肖像写真や「編み上げの黒い靴」の入ったガラスケース(右)

〈薄荷〉について、かつて私は〈「紅血の少女」――吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(15)――〈聖少女〉〉に書いたことがある(註3)。本稿では、吉岡実が四谷シモンの章句をどのように拉し来ったか示すべく、調べがついたかぎりの詩句の典拠を掲げる。すなわち、同詩の初出形(行末の数字は論者の付したライナー)を引いて吉岡の詩句にリンクを張り、リンク先にシモンの原典を並べた。出典は主として四谷シモンの著書、《シモンのシモン》(イザラ書房、1975年1月31日〔第二刷:1977年8月25日〕)と《機械仕掛の神》(イザラ書房、1978年10月30日)である。なお、初出→定稿の異同の詳細は〈吉岡実詩集《ムーンドロップ》本文校異〉を見られたい。

薄荷(K・6)〔初出形〕

     (人形は爆発する)四谷シモン 00

1

夏が過ぎ 01
    秋が過ぎ 02
        「造花の桜に 03
雪が降り 04
    灯影がボーとにじんでいる」 05
                 池の端の(大禍時[おおまがとき]) 06
振袖乙女の幾重もの裾の闇から 07
              わたしは生まれた 08
(半月[はにわり])の美しい子孫か 09
           「神は急に出てくるんだよ」 10
(非・器官的な生命)を超え 11
             (這子[はうこ]) ひとがた 12
人形は人に抱かれる 13
         (衣更忌[きさらぎ])の夜を 14

2

母親の印象は 15
      裸電球の下で 16
            白塗りの女戦士のようだ 17
赤い乳房が造り物に見える 18
            「カミソリでサーとなでると 19
中からまた肌色の乳房が 20
           殻をやぶって生まれてくる」 21
それに噛みつくから 22
         わたしは消化不良の子供 23
(唐子[からこ])の三つ折れ人形を 24
            背負って 25
                鈴虫の音色に聴きほれる 26
父親は冷酒をあおっては 27
           (毒婦高橋お伝)をたたえ 28
ヴァイオリンを彈く 29
         キー・キー・ギー 30
         「天国がどんどん遠くなる」 31

3

窓まで届かない月の光 32
          ニーナ・シモンの唄が好き 33
          縫いぐるみの(稲羽[いなば]の素兎[しろうさぎ])が好き 34
「固い真鍮のベッドで 35
          わたしは紗のような 36
          薄い布を身にまとって寝る」 37
花のように 38
     「ゆるやかな酸素に囲まれる」 39
     少女の輝く腹部を回転させよ 40
                  アー・アー・アァー 41
(官能的な生命) 42
        「人形にだって 43
               衣食住が必要である」 44
揚げ物を食べた後は淋しい 45
     この部屋の外は 46
            「巨大な蓮池の静寂を思わせる」 47

4

「編み上げの黒い靴 48
         それには犯しがたい 49
         (聖的)な影が存在する」 50
(土星)が近づく 51
        何のおしらせもなく…… 52


●00行め (人形は爆発する)四谷シモン
私はその人と芸術とか人形やらの話をしていて、酒の勢いも手伝ってその時「人形が爆発する」といったような自分でも考えたこともない奇妙なイメージを発見した。――〈僕の君の名は日記〉《シモンのシモン》四一ページ

●01-02行め 夏が過ぎ/秋が過ぎ
私の背中に二つの腫れ物がある日でき、最初は何か痒いのでそこに手をまわしてそこに触わるが、そのうちに痛みが出始め、七転八倒の苦しさを味わい、腫れ物は膿を孕んだ瘤のようになってしまい、私は何日も、いや何か月も俯せで暮らさなくてはならなくなり、高熱が来る日も来る日も続き、食べ物は喉を通らず、冷たい水のみの生活が続き、冬が過ぎ春が過ぎ、そろそろ初夏にさしかかる頃、膿が背中をとめどなく垂れ始め、腫れ物の中の生き物が蠢く。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》九〇ページ

●03-05行め 「造花の桜に/雪が降り/灯影がボーとにじんでいる」
雪の三月で夜。柳が揺れていて造花の桜に雪が降っていて、灯影がボーとにじんでる。――〈みにくい女の考察〉《シモンのシモン》一四二ページ

●07行め 振袖乙女の幾重もの裾の闇から
 私が居た一座は、赤いテントを地べたに立てて路上で芝居するのが常でしたから、舞台には石が転がり、雨の日はぬかるみ、真夏のアスファルトの時もあり、そこへ私は振袖姿で出て行くのです。外が暗くならないと芝居をやれませんでしたので、ビルのあちこちにネオンが灯もる頃の開演でした。――〈上るということ〉《機械仕掛の神》三三ページ

●10行め 「神は急に出てくるんだよ」
神は急に出て来るのだ。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》八二ページ

●16行め 裸電球の下で
 高い天井からは、薄暗い電球が、ぶら下がっているだけで、壁は固いコンクリート、床には剥き出しの便器がひとつ置いてあります。――〈主人のお仕置き〉《機械仕掛の神》四一ページ

●17行め 白塗りの女戦士のようだ
ぼくは戦う女、女戦士が好きです。――〈みにくい女の考察〉《シモンのシモン》一四九ページ
処刑される私は白塗りの女戦士だったし、どよめく人々は、目の前に所狭しと坐っていた客だったのだから。――〈人形は美しく死につづける〉《機械仕掛の神》九ページ

●18-21行め 赤い乳房が造り物に見える/「カミソリでサーとなでると/中からまた肌色の乳房が/殻をやぶって生まれてくる」
このバラの戦士はどこかあの少年に似て、それは赤い乳房が作り物に見えるからである。赤いカミソリでサーとなでると中からまた、肌色の乳房が殼を破ったように生まれてくる。――〈青いパリジェンヌ・・・フェリックス・ラビッス〉《シモンのシモン》七四ページ

●24行め (唐子[からこ])の三つ折れ人形を
日本の人形で好きなのは江戸時代の役者童子てのがありますね。三つ折れ人形になっていて、自在人形なんていわれている人形なんです。――〈長い長いお人形のお話〉《シモンのシモン》七一ページ

●26行め 鈴虫の音色に聴きほれる
その音はあまりにも大きすぎて、私の耳には聞こえない。しかし虫はその音を聞いているのかもしれない。鈴虫の音色は神の音。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》八〇ページ

●27行め、29行め 父親は冷酒をあおっては、ヴァイオリンを彈く
彼女〔僕の母親〕の夫、つまり僕の父親は大酒飲みのヴァイオリンひき、彼女は僕が小学校四年生のとき、家をとび出した。――〈人形とぼくとの共同生活〉《シモンのシモン》五〇ページ

●28行め (毒婦高橋お伝)をたたえ
彼女〔母〕が好むのは強い女、バンプ型の女。その極致として「毒婦」高橋お伝には尊敬に近い興味を示してきました。――〈人形とぼくとの共同生活〉《シモンのシモン》五一ページ

●30行め キー・キー・ギー
東野 〔君のお父さんは〕いつ頃いなくなっちゃったの。
シモン 10歳のころだからね、いつもヴァイオリンをキーキーやってたね。それだけ憶えてる。しんどかったね。楽師さんよ、タンゴをやってたね。〔……〕/こんなこと、はじめて話したな。つい話しちゃったという感じ。――東野芳明〈〔アート'74談義―1〕四谷シモン=人形師が後ろめたいとき〉《みづゑ》第827号(1974年2月)五二ページ

●31行め 「天国がどんどん遠くなる」
天国とはそんな所なのだろうか。そんなにいい所なのか。しかし私は必ず帰って来たい。たとえあの世にそんないい所があっても、私は帰りたい。何としてでも帰って来たい。天国などあるはずがない。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》七九ページ

●33行め ニーナ・シモンの唄が好き
私にとっての青春はまた新宿のキーヨの時代で、よくニーナ・シモンのレコードが懸っていた。私は彼女の哀愁のある歌い方が大好きで悪さをして金を稼いじゃレコード集めにやっきになっていた。――〈僕の君の名は日記〉《シモンのシモン》四一ページ

●34行め 縫いぐるみの(稲羽[いなば]の素兎[しろうさぎ])が好き
 それからずーっと人形ばかり創り出して、まあーその頃は縫いぐるみ人形が主なものだったんですが、自分でミシンを踏んで、綿を入れ、顔の目鼻だちをととのえて、一日中そんなことばかりして全然あきなかったんですね。――〈長い長いお人形のお話〉《シモンのシモン》五八〜五九ページ

●35-37行め 「固い真鍮のベッドで/わたしは紗のような/薄い布を身にまとって寝る」
固い真鍮のベッドで、アールのついた鉱物のベッドで、私は紗のような薄い布を身に纏って静かに寝たい。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》九二ページ

●39行め 「ゆるやかな酸素に囲まれる」
私は、ゆるやかな酸素に身体を囲まれている。――〈聖なる方へ〉《機械仕掛の神》七九ページ

●40行め 少女の輝く腹部を回転させよ
 天才であるが故に傷ましい人形のみ生涯の己子として末法の世に棲息し早くも二十年、いとおしい手作りの己子の肌、その滑らか透明な彼方、枯れた海辺の乾いた毛髪、抜け落ちる少女の金髪、琺瑯[エナメル]質の歯をほんの少し見せ恥らいながらも瘤起した桃色の陰部とインジゴブルーを上目使いに見せつける少女、手作りの美少女、そのせつない腹、やさしく盛り上り止まることをしらぬ苦しげな少女の腹部、転回する灰まみれの目、さすらいの死後をパノラマ化する自在人形のロマン力学、輪郭を神に曝らしころがる水気のない胴、体を切断する万力によるワイセツな殺戮、棒状の夕日射し込む美青年の部屋、点在するふくらはぎ、そっと唇押し当てる球体のひかがみ、体内からの苦痛を道連れにするゆるやかな骨折への旅。――〈思考の麻痺の導入部〉《シモンのシモン》一〇八〜一〇九ページ

●43-44行め 「人形にだって/衣食住が必要である」
やはり人形は衣食住があるんです。――〈人形とぼくとの共同生活〉《シモンのシモン》四九ページ

●45行め 揚げ物を食べた後は淋しい
〓[=「マ」に濁点]タム[オクサマ] バター[アブラ] フライ[アゲモノ]――〈ねつれつポエムとオムレツぽえじい〉《シモンのシモン》八ページ

●46行め この部屋の外は
私はと言えば
その部屋の外にいて
カーテンのかけられた窓をじっと守っているのです。――〈水の寸法〉《機械仕掛の神》八八〜八九ページ

●47行め 「巨大な蓮池の静寂を思わせる」
蓮の花が咲いていて、そこで休息がとれるのだろうか。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》七九ページ
 私はどこまで届くのだろうか。私は虫のように小さい。永遠は敵だ。私には敵がある。私は永遠が好きだ。永遠とは距離か。形ある距離か。神には距離があるのか。私にはわからない。上も下もない世界、無音の世界、静かな世界が。しかしこの世は静かではないかもしれない。もしかすると物凄い音がしているのではないだろうか。物凄い音が。神の音が。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》八〇ページ
 あの頃、昭和二十五年頃は、まだ昔がのこっていた。東京も、もっともっといい所だった。道幅は狭く、瓦屋根の店がまだのこっていたし、小さな小売店がギッシリと軒をつらねていた。あの頃の不忍池が懐かしい。/初夏の柳の緑がなんときれいで、蓮の花のなんと大きかった事か。/八重垣町から七軒町を通って広小路の映画館に、親の金をくすねちゃ通[かよ]っていたあの、夏の不忍池。――〈曇り日〉《機械仕掛の神》六八ページ

●48-50行め 「編み上げの黒い靴/それには犯しがたい/(聖的)な影が存在する」
さらさらとした金髪、それにガラスの青い眼、それに人形が身体につけるもので一番大事なのが編み上げの黒い靴です。何かそこに犯し難い聖的なものがあるみたいですね。――〈長い長いお人形のお話〉《シモンのシモン》六九ページ

●51-52行め (土星)が近づく/何のおしらせもなく……
〔……〕地球のすぐそこにあのわっかのあるでっかい土星が何のおしらせもなく近づき空いっぱいに見えたとしたら〔……〕――〈海峡〉《シモンのシモン》六ページ

06-08行めには典拠が見あたらない。前掲〈四谷シモン年譜〉に東京・五反田の生まれ(同書、一五二ページ参照)とあるから、四谷シモン=「わたくし」(定稿では「わたし」を「わたくし」と改めた)を「池之端の(大禍時[おおまがとき])/振袖乙女の幾重もの裾の闇から/わたくしは生まれた」としたのは、吉岡の詩的虚構だろう(ただし《シモンのシモン》の〈僕の君の名は日記〉に「お互い東京育ちの二人は(唐[十郎]は上野で私は池の端七軒町で生まれた)よく子供の頃の情話[はなし]をしては、〔……〕」(同書、四四ページ)とあるから、吉岡はそれに拠ったのかもしれない)。「五反田という土地は、今まで縁のないところだった。ところが会社が倒産したために失職し、昨年〔1979年〕、私はしばらくの間だが月一回、五反田公共職業安定所へ通うはめになった。失業保険金を貰うためだった。その帰りみち、池田山の小公園で桜の花を見たこともあった」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二八四〜二八五ページ)とあるように、吉岡は五反田には馴染みがなかった。また1979年暮れ、五反田(おそらくは南部古書会館)の古書展に出品されていた自身の著書《昏睡季節》(1939)をひと目見たいと思って、同所へ行っている。そうした不案内な土地を献詩の対象たる人物の誕生の地とすることを躊躇したあげくの措置だろう。一方、吉岡の随想〈湯島切通坂〉――初出は《美しい日本 22 文学の背景》(世界文化社、1982年〔月日記載なし〕)の〈〈北海道・東北・関東・中部〉漂泊のたましい〉中の一篇――は「私は上野広小路まで歩き、池之端の蓮玉庵へ寄った。森鴎外の『雁』のなかに、しばしば出てくる蕎麦屋である。江戸末期頃からの店であるらしい。すぐ近くに、蓮の多い不忍池がある」という文章で閉じられている。吉岡にとって、南山堂に奉公していた十代後半、毎日のように往き来していた湯島〜池之端〜上野広小路あたりなら、掌を指すようなものだ。これが06-08行めに池之端が登場する背景だと思われる。

11行めの「(非・器官的な生命)」はドゥルーズ=ガタリの「器官なき身体」を思わせる。四谷シモンの著作に登場してもおかしくないが、「非・器官的な生命」にしろ「器官なき身体」にしろ、シモンの人形に対する他者の評が典拠かもしれない。

12行めの「(這子[はうこ]) ひとがた」の這子は「子供のお守りの一。布を縫い合わせ、中に綿を入れ赤ん坊のはう姿にかたどったもの。あまがつ。はいはい人形。はうこ」だという。ひとがたは人形・人像で、「人の形。人の形に似せて作ったもの」。這子が「はいはいする赤ん坊」でもある点、ひとがたが人でもあり人形でもあることは興味深い。09行めの「(半月[はにわり])」が「半陰陽。ふたなり」だったように、「わたくし」は両者の境界上に存在する者である。

14行めの陰暦二月「きさらぎ」は、漢字ではふつう「如月」「更衣」「衣更着」と書く。「衣更忌」というのは吉岡の造語の可能性がある。ちなみに二月の季語から忌日を拾えば、鳴雪忌(内藤鳴雪)、義仲忌、実朝忌などがあるが、吉岡がこれらをほのめかしているとは思えない。

45行めの「揚げ物を食べた後は淋しい」からは、まったくもって奇妙な連想だと笑われそうだが、06-08行めでも触れた池之端の蕎麦屋・蓮玉庵のかき揚げそばが想起される。同店は1860年(安政6年)の創業。明治の文豪や斎藤茂吉・久保田万太郎・池波正太郎たちが愛した店だが、かつては知らず、味と値段に関しては言わぬが花というものだろう。

ときに「3」の後半からは、初稿にだいぶ手が入っているので、以下に定稿を掲げる。なお下線部は定稿で追加された字句であることを表す。

薄荷の花のように
        「ゆるやかな酸素に囲まれる」
        少女の輝く腹部を回転させよ
                     アー・アー・アァー
(官能的な生命)
        「人形にだって
               衣食住が必要である」

4

揚げ物を食べた後は淋しい
     この部屋の外は
            「巨大な蓮池の静寂を思わせる」
水音 羽音
     何のおしらせもなく
               (土星)が近づく

詩節[ストロフ]の切り方が変わったのもさることながら、初稿の

「編み上げの黒い靴 48
         それには犯しがたい 49
         (聖的)な影が存在する」 50

が抹消されたことが最大の相違である。この3行が削除された理由について考えてみたい。私はシモン人形をすべて見たわけではないが、少女の人形が履いている靴はスナップボタン留めの女の子用のフォーマルシューズで、「編み上げの黒い靴」を着用しているのは少年の人形だということは指摘できる。ところで、吉岡実の詩篇を掲載した初出の印刷物で最も高価だったのは、《ムーンドロップ》の〈銀幕〉(K・9)の発表媒体である梅木英治のオリジナル銅版画集《日々の惑星》(ギャラリープチフォルム、1986年12月3日)である。私はこれを購入した縁で、当時まだ健在だった梅木さんの新作展を渋谷のアートスペース美雷樹で観た。幸運にもそこで、来賓の四谷シモンから〈薄荷〉初出対向ページ掲載の銅版画(大きな帽子を被って、フリルの付いたドレスを纏い、短めのハイソックスにスナップボタン留めのフォーマルシューズを履いている少女、それとも少女の人形?)はたまたま詩と見開きになったのにすぎず、吉岡が絵を観て詩を書いたわけではない旨、訊くことができた。吉岡は初出の対向ページのこの作品を観て、「輝く腹部を」した「少女」に「編み上げの黒い靴」はふさわしくない、と一瞬にして悟ったのではあるまいか。それが「金髪の等身大の裸形は、包茎を勃起させて、なんら恥入ることなく、爽かである」ところの「ドイツの少年」(〈2 四谷シモン〉)についた書いた詩篇であればなんの問題もなかったはずだ。この3行を削除することで「4」は末尾の2行になってしまう。それを避けて、かつ「3」とのバランスをとるために詩節[ストロフ]の切り方を変え、「水音 羽音」を付け加えたのが定稿作成時の吉岡の手入れだった。「花のように」を「薄荷の花のように」としたのは、標題が〈薄荷〉とある以上、不思議でもなんでもないようなものの、なぜ「薄荷」なのかはいまひとつピンとこない。四谷シモンの2冊の著書に薄荷は登場しない(そこで最も目を引くのは柳である)。それはよいとしても、詩篇の内部から薄荷にたどりつけないのがなんとももどかしい。「人形が爆発する」から、発火/ハッカ/薄荷だとも思えない。標題をめぐる考察は今後の課題としたい。

吉岡実は随想〈本郷龍岡町界隈〉(初出は《旅》1978年12月号の〈私だけの東京 MY TOKYO STORY〉)を「秋のある日の午後、私は地下鉄の湯島で降り、切通坂をのぼった。シンスケという飲屋が今も同じ処にあって、なつかしい」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三八ページ)と始めている。シモンの文章を集成した《四谷シモン前編》に初めて収められた〈夏の湯島で〉(初出は《週刊朝日》1990年8月17日号〈気の合う仲間と味な店133――シンスケ〉)には次のようにある。

 湯島のシンスケにはまだ数えるほどしかきていない僕だけど、最初に入った時の雰囲気がどんぴしゃだったのが運のつき。店の作りがさっぱりしていて涼しげなのだ。今の世の中で本当に東京の粋を探すのは容易じゃない。臭くなく五月蠅[うるさ]くなく、目障りじゃない、そういうものって本当になくなっている。
 それで最初は京都の帰りに香純[かすみ](江波杏子)を絶対に連れて行きたくて、着いたその足で訪ねた。その夜は友だちと好きな店にいけたのが嬉しくて大分出来上がってしまった。後日香純に電話を入れたら、当たり前がきちんとしていて、今の世の中にはないものがあるといっていた。それで今度はどうしても松山(俊太郎)さんとも一緒に飲みたくて先日鎌倉の帰りに寄った。
 松山さんはインド哲学をやっていて、蓮の研究が一生の仕事のようで僕にはとてつもなく難しい人だけど、会うといつも自分は犬だといっているやさしい変人だ。それで松山さんにも聞いてみたら江戸と秋田の律儀さが同居している店といっていた。僕はシンスケに一目惚れしちゃったんだから一生懸命通わなくっちゃ。(《四谷シモン前編――Yotsuya Simon 創作・随想・発言集成》学習研究社、2006年12月20日、二五〇〜二五一ページ)

著者の意向が奈辺にあるかは措いて、私はこれを1990年5月末に歿した吉岡実を追悼する文章だと読んだ。

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註1 《夏の宴》収録詩篇の詞書や註記を摘して、標題のすぐ後にある文言には――を、詩篇本文の後にある註記には==を付けて掲げた。これらの詩篇中、題辞に登場する人物のうち、詩篇発表当時の物故者は宮川淳と瀧口修造のふたりである。

異邦(H・5)――へルマン・セリエントの絵によせて
水鏡(H・6)――〈肉体の孕む夢はじつに多様をきわめている〉 金井美恵子
曙(H・8)==* 引用句は主に、エズラ・パウンド(新倉俊一訳)、飯島耕一の章句を借用した。
草の迷宮(H・9)――〈目は時と共に静止する〉 池田満寿夫
螺旋形(H・10)==*ベケット(高橋康也訳)、土方巽などの章句を引用した。
形は不安の鋭角を持ち……(H・11)――〈複眼の所有者は憂愁と虚無に心を蝕ばまれる〉 飯田善國
雷雨の姿を見よ(H・14)――「ぼくはウニとかナマコとかヒトデといった/動物をとらえたいのだ/現実はそれら棘皮動物に似ている」/飯島耕一
織物の三つの端布(H・16)――「イマージュはたえず事物へ/しかしまた同時に/意味へ向おうとする」/宮川淳
使者(H・18)――笠井叡のための素描の詩
夏の宴(H・20)――西脇順三郎先生に
夢のアステリスク(H・22)――金子國義の絵によせて
裸子植物(H・25)――大野一雄の舞踏〈ラ・アルへンチーナ頌〉に寄せて
「青と発音する」(H・27)――「青ずんだ鏡のなかに飛びこむのは今だ」  瀧口修造
円筒の内側(H・28)――「言語というものは固体/粒であると同じに波動である」 大岡 信==(一九七九・一○・九)

註2 吉岡実の《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987)には「四谷シモン」が14回登場する。I以外は要約して掲げる。

@1968年6月22日、唐十郎率いる状況劇場の《由比正雪》(花園神社)を妻と観る。「四谷シモンの女形の妖しい美しさよ」。(〈7 唐十郎一家と赤テント〉、一七ページ)

A1968年7月3日、芦川羊子の処女公演《常に遠のいてゆく風景》(草月会館)を妻と観る。客の四谷シモンの顔を見る。(〈9 アスベスト館の妖精〉、一九ページ)

B1969年11月15日、大野慶人舞踏リサイタル《花と鳥》(厚生年金小ホール)を観たあと、阿佐ヶ谷の唐十郎の家へ行く。四谷シモンたちを交え、酒盛りが始まっていた。(〈22 「花と鳥」の夕べの後で〉、三八ページ)

C1970年6月13日夜、あやめの花を一抱えも持って、四谷シモンが来宅。人形や友人たちのことを喋る。(〈23 あやめの花〉、三九ページ)

D1970年8月28日、西武百貨店・ファウンテンホールでコレクション展示即売〈土方巽燔犧大踏鑑〉(ガルメラ商会主催)を妻と観る。二次会で四谷シモンたちと酒盛り。(〈24 「燔犠大踏鑑」〉、四一ページ)

E1970年9月30日、金井美恵子の夕べ(ノアノア)へ行く。「四谷シモンの泣かせる唄」。(25 黒塗りの下駄〉、四三ページ)

F1974年2月24日、状況劇場の稽古場開きに行く。宴たけなわ、四谷シモンたちが現れる。(〈43 雪の夜の宴〉、七六ページ)

G1974年11月28日、シアターアスベスト館落成記念の白桃房舞踏公演《サイレン鮭》を妻と観る。終了後、二階で四谷シモンたちと酒宴。(〈46 「サイレン鮭」〉、七八〜七九ページ)

H1978年7月9日、松山俊太郎夫妻、土方巽夫妻と大佛次郎記念館へ向かう。大野慶人夫妻の尽力で澁澤龍彦夫妻、種村季弘夫妻、唐十郎・李礼仙夫妻、四谷シモンと旧懐の一夕。茶房霧笛で「コーヒーをのみながら、四谷シモンの唄に聴きほれ、しばし別れを借しむ」。(〈58 港【が→の】見える丘公園で〉、一一二〜一一三ページ)

I〈日記〉 一九八二年二月二十二日
 夕方、銀座の青木画廊へ行く。四谷シモン人形展〔〈ラムール・ラムール〉〕を観る。金髪少女の裸形の三体には、精神性すら感じられた。近くの喫茶店に席がしつらえられ、高橋睦郎、渡辺兼人、金井久美子たちとおしゃべり。遅れて澁澤龍彦夫妻と金子国義が現われたので、小さな宴も華やぐ。(〈67 シモン人形〉、一三九〜一四〇ページ)

J1985年2月19日、四谷シモンのために書いた詩篇〈薄荷〉を推敲する。(〈92 「昼の月」〉、一七九〜一八〇ページ)

K1985年12月10日、転居が決まった経堂の高橋睦郎宅を妻と訪問。相客は澁澤龍彦夫妻(「澁澤龍彦とは、シモン『人形愛』出版記念会以来だ」)、四谷シモン。(〈103 十二月は残酷な月〉、一九七〜一九八ページ)

L1986年1月18日、妻と東京女子医大付属病院に土方巽を見舞う。土方の「右手を握って別れを告げる。喫煙所の椅子では四谷シモンと古沢俊美が待っている」。(〈104 暗い新春〉、二〇八〜二〇九ページ)

M1986年1月21日、土方巽容態悪化の報で入院先に駆けつける。「三階の待合兼喫煙所のあたりには、大野一雄・慶人、李礼仙、中西夏之、四谷シモンはじめ大勢の人がつめかけていた」。同夜、肝硬変肝臓癌併発で土方巽死去、五十七歳。(〈104 暗い新春〉、二一〇〜二一二ページ)

註3 私はその〈聖少女〉評釈の「V 〈薄荷〉」で、吉岡実詩における「人形」の変遷を概観し、〈あまがつ頌――北方舞踏派《塩首》の印象詩篇〉(G・30)の次の詩句を引いた。

・精神的な女は人形をつくる/「木毛 ハリコ 桐粉 鉛などで/形づくりをして/蝋絹 ときにはメリヤスを張る」/現在もっとも必要とする/うつろな頭をすげかえ 手足をとりかえ/血肉の壊滅は行われた

そして「鍵括弧内は製作にふれた人形作者(四谷シモン?)の文からの引用であろうか(少なくともベルメールの文章ではなさそうだ)」と書いたが、これに相当する章句は今回、四谷シモンの主要著書を再読したかぎり見あたらなかった。やはりこの引用句は天児・天倪[あまがつ]の制作方法であって、シモンドールのそれではないのだろう。四谷シモンは「私の制作方法」を次のように語っている(初出:《現代の眼――東京国立近代美術館ニュース》538号、2003年2月)。

  私の制作方法は、まず粘土で原型をつくり、石膏で型を取ったものに和紙を何層にも張り込んで乾燥させる。それを前後で割って繋ぎ合わせたものに作業をしていきます。指の爪や顔の表情など細かい仕事には桐塑[とうそ]、眼はガラスで、木のボールをそれぞれの関節につけます。身体全体にも桐塑を施し、きれいに磨きをかけた後は胡粉[ごふん]を用います。上塗り胡粉で肌色を表わしましたら細部の彩色、まずは眉、それから頬に化粧品の頬紅を刷り込み、睫毛を一本一本埋め込む。頬紅を刷り込むと、血の気がパッと走って、ああ、と思います。(〈私の人形史〉、《四谷シモン前編――Yotsuya Simon創作・随想・発言集成》学習研究社、2006年12月20日、二六四〜二六五ページ)


宇野亜喜良と寺田澄史の詩画集あるいは《薬玉》をめぐる一考察(2018年1月31日)

塚本邦雄は《吉岡実詩集》(思潮社、1967)をめぐって「豪華本、杉浦康平デザインは目次までが秀抜、あとは意匠枯淡にすぎてさびしい。もつとも宇野亜喜良の陰惨なカットなどつけたら相殺されて却つて無意味にもなるだらうが」(《麒麟騎手――寺山修司論・書簡集》、新書館、1974年7月10日、二四一ページ)と書いた。吉岡実の詩(塚本は終生、〈僧侶〉を高く買っていた)と同類のものとして宇野亜喜良のカットを見ていたわけだが、その発想をうながしたものはなんだったのか、かねてから気になっていた。1967年当時、宇野と吉岡との間に連繋があったようには見えないからだ。最近、宇野亜喜良のイラストレーションを伴った寺田澄史の〈新・浦嶼子伝〉を知るに及んで、これが塚本の発想の源だったのではないか、と想い到った。まず最初に、〈新・浦嶼子伝〉に触れた宇野亜喜良の文章を引こう(「左亭」はサウスポーである宇野の俳号)。

泣く男記憶の砂のくずれゆく 左亭

 俳句という日本の定型詩に感動したのは、三十代の終わりでした。
 寺田澄史さんという俳人と、『浦島太郎』という絵本を作ったときです。正確にいうと、田中一光・横尾忠則・永井一正・灘本唯人といった人たちと作った『日本民話グラフィック』という絵本の一つのパートでした。
 寺田さんの句は、固有の情景を重ねて、最後には大叙事詩的な『新・浦嶼[うらしま]子伝』になっていました。
 たとえば、「革舟に孤[ひと]り兒[こ]を曳[ひ]く耳のくらしま」という句。革舟はあまり日本的ではありません、北のほうの、それも古代的なイメージです。その舟が、耳の穴のような、バロック的な形態の洞窟を抜けていく句から始まって、「反魂の水オルガンよ朦朧と面輪から熄[き]え」という句で終焉を迎えます。当然のことですが、言語が文学的で、暗喩はオブジェ的でもある気がしました。
 そのあと寺山修司の句を読んだりすると、どうも俳句は一応の定型はあるけれど、結構自由なものらしいという気分になってきました。
 このコラムで俳句らしきものをリードコピーのように使っているのは、絵と文章と句のようなものと、三つがそれぞれ、たとえば別のことをいっていても、読者の方の頭の中でそれぞれの感覚で融合されて、それぞれ違った読み方が生まれたら楽しいと思っているからです。
 句は、浦島太郎の末路です。(《奥の横道――Aquirax Labyrinth 2007-2008》、幻戯書房、2009年5月8日、五八ページ。寺田句の引用は《日本民話グラフィック》に照らして校訂した)

文中の『日本民話グラフィック』は、灘本唯人・永井一正・宇野亜喜良・田中一光・横尾忠則の絵にそれぞれ滝来敏行・梶祐輔・寺田澄史・坂上弘・高橋睦郎の文を組みあわせた一種の詩画集(のオムニバス版)である(《日本民話グラフィック》、美術出版社、1964年12月30日〔装丁・扉構成:灘本唯人〕)。宇野=寺田の〈新・浦嶼子伝〉の典拠は浦島太郎。同様に、灘本=滝来の〈おどろおどろしき一寸法師を嫌悪する人に捧ぐ〉は一寸法師、永井=梶の〈ある神と文明の記録〉は桃太郎、田中=坂上の〈ドロボウと警官〉は花咲爺、横尾=高橋の〈堅々山夫婦庭訓〉はかちかち山を典拠に仰ぎ、制作している。また同書の巻末には、瀧口修造と亀倉雄策が文章を寄せていて、イラストレーターたちの船出を祝福する恰好になっている。この寺田澄史の俳句と宇野亜喜良の絵のパートを単行本にしたのが、限定400部の《新・浦嶼子伝》(トムズボックス、2002)のようだ(未見)。《日本民話グラフィック》の仕様は、二五〇×二六六ミリメートル・一三二ページ(本文横組み、丁付けなし)・上製角背継表紙(背・クロス、平・紙)。インターネットで画像検索すると、段ボールに貼題簽の輸送用函が付いていたらしいが、所蔵の古書はこれを欠く。本文用紙は色刷りの発色を良くするためだろう、微塗工紙と思しく、シミなどの経年変化が目立つのは函なしのためか。4色(フルカラー)のイラストレーションが多いなかにあって、宇野=寺田の〈新・浦嶼子伝〉の24ページは、絵(線画)がスミ、文(俳句)が茶系の刷色(宇野によれば「ローアンバー」)という禁欲的な版面になっており、同書のなかで異彩を放っている。

宇野亜喜良(絵)・寺田澄史(文)〈〈新・浦嶼子伝〉浦島太郎〉の「革舟に 孤り兒を曳く/耳の くらしま」掲載の見開きページ 宇野亜喜良(絵)・寺田澄史(文)〈〈新・浦嶼子伝〉浦島太郎〉の「反魂の 水オルガンよ/朦朧と 面輪から熄[き]え」掲載の見開きページ
宇野亜喜良(絵)・寺田澄史(文)〈〈新・浦嶼子伝〉浦島太郎〉の「革舟に 孤り兒を曳く/耳の くらしま」掲載の見開きページ(左)と同「反魂の 水オルガンよ/朦朧と 面輪から熄[き]え」掲載の見開きページ(右)〔出典はどちらも《日本民話グラフィック》(美術出版社、1964年12月30日)〕

吉岡実は1960年代の後半、高柳重信が率いた《俳句評論》周辺の俳人たち(寺田澄史もその有力な一人である)の作風に親近感を抱いていたようだ。

>寺田澄史作品集《副葬船》(俳句評論社、1964年3月7日)の夫婦函〔限定150部のうち特製本10部の「第参番」〕 >寺田澄史作品集《がれうた航海記――The Verses of the St. Scarabeus》(俳句評論社、1969年5月15日)のジャケット〔装丁・板画:坂井廣〕
寺田澄史作品集《副葬船》(俳句評論社、1964年3月7日)の夫婦函〔限定150部のうち特製本10部の「第参番」〕(左)と同《がれうた航海記――The Verses of the St. Scarabeus》(同、1969年5月15日)のジャケット〔装丁・板画:坂井廣〕(右)

寺田澄史の最初の作品集《副葬船》は1964年3月7日、俳句評論社から刊行された。吉岡は第二作品集《がれうた航海記――The Verses of the St. Scarabeus》(俳句評論社、1969年5月15日)に〈序詩〉を寄せている。そればかりではない。吉岡が珍しく聴衆をまえにして喋った〈審査の感想(俳句)――創刊十周年記念全国大会 録音盤〉の一節にこうある。

 寺田澄史さんは、もう大変に才能のある人で、これでもう全体が、大変すぐれた詩なんで、私はこれを一番に推したんですけど、加藤郁乎とか、そういう派に近くなって、もう俳句といわなくても、一行詩というか、詩でもいいんじゃないか。これは、ちょっと詩の方へ引っぱってみたいような人なんですけど、まあ俳句においといて異色ある作家と――。まあ加藤郁乎などもありますが、これも異色ある作家でしょう。(《俳句評論》78号、1968年3月、二三ページ)

この発言は自身の俳句評論賞の選後評を受けたもので、半年前の選後評〈感想――俳句評論賞決定まで・経過報告と選後評〉には、次のようにある(前記〈序詩〉はこの選後評を敷衍したものと見なせる)。

 寺田 澄史 3点〔〈がれうた航海記〉〕
 応募作品の中では、最も個性的で、全句の粒がそろい、一つの世界がある。一寸、加藤郁乎の中期の詩境を感じる。ひとことで、いえば、まさに、うんすんかるたの感触。
  おにくぎからむかふ水夫部屋がふたつ
  かいぐりかいぐり 蜃〔[おおはまぐり]〕がはく
  あなや〔 →、〕山椒ひとふくろのおひかぜ
  おかまこほろぎに時化がくるあふむけ
  からすたつ宇牟須牟加留多のてくらがり
  火がめぐるあまくちねずみふなぐるみ
などは秀作と思う。(《俳句評論》72号、1967年9月、三〇ページ。同誌の寺田句に照らして校訂した)

寺田は寡作の作家で、1964年の作品集《副葬船》、同年の詩画集〈新・浦嶼子伝〉、1969年の作品集《がれうた航海記》以降、著書としては1994年の作品集《席帆境》(夢幻航海社、限定30部。未見)、2002年の一種の再刊、《新・浦嶼子伝》しかない(*)。その第一句集《副葬船》には宇野亜喜良のイラストレーション2葉が掲げられていた。詩画集〈新・浦嶼子伝〉とどちらが先の企画かわからないが、制作は相前後して進行しただろう。1964年の3月と12月に刊行された《副葬船》と《日本民話グラフィック》が塚本邦雄と吉岡実の眼に触れた可能性はきわめて高い。それが塚本には《吉岡実詩集》のヴィジュアルをめぐる感想となったのだろうし、吉岡には〈がれうた航海記〉や《がれうた航海記》に寄せる共感の布石となったのだろう。しかし、吉岡実詩にその影響がすぐさま現れたわけではない。1980年以降のいわゆる休筆の期間中、吉岡は《古事記》を筆頭とする日本の古典文学に親しんだ。宇野と寺田の〈新・浦嶼子伝〉の最後のページには、あたかも同作の典拠を明示するかのように、〈風土記逸文・丹後国〉の次の一節が引かれていた。

ここに、嶼[しま]子、前[さき]の日[ひ]の期[ちぎり]を忘[わす]れ、
忽[たちまち]に玉匣[たまくしげ]を開[ひら]きければ、
即[すなは]ち瞻[めにみ]ざる間[あひだ]に、芳蘭[かぐは]しき體[すがた]、
風雲[かぜくも]に率[したが]ひて蒼天[あめ]に翩飛[とびか]けりき。

浦島太郎が乙姫との約束を忘れて玉手箱を開けると、瞬時にしてそのかぐわしい体は風と雲に乗って青空に飛び去ってしまった、というのだ。私の知っている〈浦島太郎〉は、玉手箱を開くや煙が立ちのぼって白髪の老人になってしまうという、《御伽草子》に始まり小学唱歌(乙骨三郎作詞)に流れこんだ説話だが、その結末は吉岡実詩を知る者にとって衝撃である。「浦島は鶴になり、蓬莱の山にあひをなす。亀は甲に三せきのいわゐをそなへ、万代を経しと也。扨こそめでたき様にも、鶴亀をこそ申し候へ。只人には情あれ、情の有る人は行末めで度由申し伝たり。其後浦島太郎は、丹後国に浦島の明神と顕れ、衆生済度し給へり。亀も同じ所に神とあらはれ夫婦の明神となり給ふ。めでたかりけるためしなり」(《御伽草子〔日本古典文学大系 38〕》、岩波書店、1958年7月5日、三四五ページ。ルビを省くなど、表記を改めた)。そう、吉岡が《薬玉》で描いた〈蓬莱〉、「蓬莱山」である。その観点から詩画集〈新・浦嶼子伝〉を読みなおすと、次のような句がある(常用漢字にある漢字はそれを用いた)。

黄蝋ともりたり
大亀の背の 秋

夕凪の 天蚕糸[てぐす]にとまり
振袖も をさな天児[あまがつ]

つかのまの 死を酔へば
かささぎ渡し 仄燃えに

朝な朝なの 水甕に
せめての父似が 酌まれけり

移り香も 魚族[いろくづ]の
島闇に 臥処あらたし

水母流しの くらがりや
ただひと秉[たば]の 髪を妊り

顔も露はに 海鴉
喚べば あへなや

高山れおなの〈野水・荷風・左亭〉には詩画集〈新・浦嶼子伝〉を「ひとり寺田の句集として『副葬船』や『がれうた航海記』よりすぐれているばかりでなく、一九六〇年代の前衛系の句集として屈指のものではないかと評者は信じている」とあるが、これらの寺田の句こそ吉岡実晩年の詩境を先取りした世界ではあるまいか。詩句が階段状に連なる《薬玉》の詩型が高柳重信の句の多行形式に触発されたものではないか、という指摘はかねてからなされていた。だが、重信を筆頭とする《俳句評論》の俳人たち――とりわけ寺田澄史――の作品が《薬玉》を誘因する詩境のひとつだった、というのが私の感懐である。「大岡信が〈飛騨〉を推し、わたしが〈坂東〉を讃えたので、重信は自信をもって新しい作風を確立した。それが《山海集》である。これらの新擬古典風な作品群を、わたしは愛誦する」(〈高柳重信・散らし書き〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一二四ページ。初出は《現代俳句全集〔第3巻〕》、立風書房、1977年11月5日)。「私は遅まきながら、『古事記』や柳田国男『遠野物語』や石田英一郎『桃太郎の母』などの「神話」や「民間伝承」に、心惹かれるようになった。私のもっとも新しい詩集『薬玉』は、それらとフレイザー『金枝篇』の結合に依って、成立しているのだ」(〈白秋をめぐる断章〉、同前、三〇五ページ。初出は《白秋全集〔第17巻〕》月報10、岩波書店、1985年9月5日)。現代俳句の「新擬古典風な作品群」、「神話」や「民間伝承」が後期吉岡実詩に与えた影響は計りしれない。

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(*)寺田澄史単独の著書ではないが、高柳重信が編んだ《昭和俳句選集》(永田書房、1977年9月10日)には、昭和34年から51年までの寺田の句、34収められている。そこには次の句(各年の冒頭句)が見える。

  昭和34年
  くわらくわらと 藁人形は 煮られけり

  昭和35年
  乾草や 牡山羊の胎に 海を縫ひ込む

  昭和38年
   *
  あるじは 野に
  牡牛は屋根に 焦げにけり

  昭和39年
   *       *
  父に似て 父にはあらず
  舟を舁いで ひとあし遅く

  昭和41年
  あなや 山椒ひとふくろのおひかぜ

  昭和42年
  からすたつ宇牟須牟加留多のてくらがり

  昭和43年
  粘土屋のうしろあるきの岬かな

  昭和44年
  沫雪してのちももんぐわあ剥かれけり

  昭和45年
  船たたむなどして南無あるく蝶あり

  昭和46年
  鳥雲にせうべんがくてき気球船

  昭和47年
  ふと箪笥を澪れくる水夫なるべし

  昭和48年
  火夫入用まごたらうむしは歩くなれ

  昭和49年
  春分とや藁屋根こそは屋根ならむ

  昭和50年
  熊笹から紙飛行機をひろひけり

  昭和51年
  ものの忌やひたひに置きし轡虫

高柳重信は巻末の〈あとがき〉で「この合同句集は、はじめ「俳句評論」の創刊二十周年を記念して計画されたが、それをいつそう意義あらしめるために、まず「俳句評論」に在籍中に故人となつた人たちを加え、また更に、それと同じ志操を貫いて来たと思われる近縁の数名の俳人の業績をも、これに包摂することにした。昭和全期を通じて格別な意義を持つ一つのエコールの歴史的な流れは、これによりいつそう明確になつたと思われる」(同書、三六三ページ)と書いている(現存作家の句は自選のようだ)。高柳は《昭和俳句選集》刊行の1977年に、《現代俳句全集〔全6巻〕》(立風書房)の編集委員を吉岡実・飯田龍太・大岡信と務めており、吉岡はもちろん、他の編集委員も本書を目にしたに違いない。本書に解説のようにして収められた川名大の〈昭和俳句史〉は、《現代俳句全集》と同じ顔ぶれで編んだ《鑑賞現代俳句全集〔全12巻〕》(立風書房、1980〜1981)月報に連載した編集委員たちの座談会 〈現代俳句を語る〉の基本文献のひとつとしての役割を果たしたように思える。


〈青枝篇〉と《金枝篇》あるいは《黄金の枝》(2017年12月31日)

かつて〈吉岡実と《金枝篇》〉と題して、フレイザー(永橋卓介訳)《金枝篇〔岩波文庫・全5冊〕》(岩波書店、改訳:1966〜67)を引いて、詩集《薬玉》(1983)や《ムーンドロップ》(1988)の詩句のスルスだと指摘した。そのときは、吉岡実詩は「個個に指摘しないが、《金枝篇》のそこここに「後期吉岡実」の世界と通じるものを認めずにはいられない」と書いて、具体的に挙げなかった。今回はその先を論じたい。初めに《金枝篇》の訳文(〈章名〉、巻数〔漢数字〕・ページ数〔アラビア数字〕)→〈詩篇名〉(詩集番号・その詩集での順番)/吉岡実の詩句を、5箇所掲げる。

・バイエルンのライン地方、あるいはまたヘッセンの農民は、豚や羊が脚を折った場合に、椅子の脚に副木をあて繃帯をするそうである。(〈第三章 共感呪術〉、一・114)

↓〈わだつみ〉(K・3)

「包帯を巻かれた
        牛の脚が見え
        椅子の折れた脚が見え」

・村の内儀たち娘たちが四阿でこきおろされている間に、蛙をこっそりつねったり叩いたりしてギャーと鳴かせる。(〈第十章 近代ヨーロッパにおける樹木崇拝の名残り〉、一・277)

↓〈甘露〉(J・14)

              (蛙をこっそりつねったり
               叩いたりしてギャーと鳴かせる)

・この競争には色々な形があるが、目標あるいは決勝点は大てい「五月の樹」か「五月の棒」となっている。(〈第十章 近代ヨーロッパにおける樹木崇拝の名残り〉、一・279)

↓〈甘露〉(J・14)

いましも荒れた地へ(五月の棒)をつき立てる
       短いもの 長いもの
                細いもの 太いもの
やがて(五月の樹)は繁茂するだろう

・次にこの屋根に穴をあけ、呪医が羽毛の房でもってそこから霊魂をはたきこむと、骨かそれに類するものの断片のような形をした霊魂が筵[むしろ]で受けとめられる。(〈第十八章 霊魂の危機〉、二・85)

↓〈甘露〉(J・14)

(屋根からおちる霊魂を
           莚で受けとめる)

・これと同じようにヴェーダ時代のヒンドゥーは、青いカケスに肺病を負わせて放した。(〈第十五章 災厄の転移〉、四・126)

↓〈甘露〉(J・14)

(青いカケスに肺病を負わせる)

こうして見ると、〈甘露〉(J・14)の詩句に転用されているのが圧倒的だとわかる。後で触れるように、〈甘露〉の初出や定稿の末尾には引用が《金枝篇》に依拠する旨の註があって、本篇が同書によりかかった作品であることが作者によって明示されている。一方、〈わだつみ〉(K・3、初出は《毎日新聞〔夕刊〕》1985年1月5日)にはそうした註記はなく、上掲の三行は《金枝篇》の訳文を基に吉岡が新たに描いた絵の趣きがあって、引用符=鉤括弧はあたかもこの絵をきりりと締める額縁のようである。比喩を続けるなら、〈甘露〉の引用符=パーレンは薬玉のようだ。だが、吉岡実詩と《金枝篇》との類縁と差異を考えるときまず挙げるべきは、《金枝篇》の章句を取りこんだこれらの詩篇ではなく、次に掲げる〈青枝篇〉(J・4)だと思われる。ここには、〈甘露〉や〈わだつみ〉に見られる逐字的な、あるいは改変的な章句の借用こそないものの、「後期吉岡実詩」に特徴的な発想が顕著だからである。

青枝篇|吉岡実

   T 地の霊

雨乞いの儀式とはなに
アネモネの緋色の朝
         ひとりの娘が丸裸になる
そしてシキミの枝で
         「砂 灰 粘土のうえに
                    男女の像」を描く
六根 清浄
六道 媾合
     ことほぐ ことばが聞こえ
ツグミやセキレイも交尾する
             遠方より
黒雲やトカゲが姿を見せる
            干割れた大地は
            荒むしろで覆われ
                    雨に打たれる
傘の形のような小屋のまわり
ははそ葉のそよぐ
        母のおとずれる今宵
娘は双生児をうんだようだ
            油煙の立ちこめる
                    聖域を出れば
天水桶に跳ねる
       大きな鯉
他者は滅びよ
      みどりの芽吹くところ
金棒をかざして
       幼児が現われる

   U 水の夢

天気のよい日には
聖なるカシワの木の間を
           見えかくれする(母)
女猟師の姿がある
鹿やイタチを追っているのか
             ガマの穂のゆれる沼辺に
             ホウネンエビが跳ねている
そこは近いようで遠い
鬼火と藁火との境界だ
          「言霊が成長し
                 石も成長する」
母恋うる夕べ
わたしは数珠玉を刈り
巫女の膝の門をくぐりぬける
             青蛙を踏んだ
すでに里は暮れつつ
ひとびとは納屋のなかで
           「男神の形のパンをつくり
                       かぼちゃの葉で包む」
土器に盛り 唱和せよ
          五穀豊穣
          五体満足
ラッパスイセンの咲く野の夜明け
つねに狩る者
      狩られる物の関係は哀しい
      枯葉とともにイノシシが穴へ落ち込む
わたしは水の面に想い描く
けがれた狩衣をことごとく脱ぐ
              女身を――

   V 火の狼

乙女がふたり
      料理をつくっている
魚の腹から出てきた
         銀砂子を撒くと
         大地に涼しい風が起る
カーテンのゆれる向う側は
            黄泉のくにか 薄荷の香がする
この世は蜜と灰で
        ざらざらしている
粟や芋を煮て
笹葉のみどりを添える
          神饌[みけ]で死者も蘇生するんだ
乙女がふたり
      声をあげ たがいのからだを
                   葦や藁で叩き合い
美しい身体をからっぽにする
             通過儀礼の終り
ひとは善い夢もみれば
          悪い夢もみる
荒畑をめぐり 墓地をめぐり
             行者は呪詞を唱えているようだ
「よろずのこと みな えそらごと」
                 野苺や童話の世界より
                           永久追放された
野生の「幻像」がよみがえる
             山河図のなかに
おお 大口真神
       生木は燃えて
             すすけた夕日の森を
                      わが狼は駈けて来る

   W 風の華

父が死んだら喜べ
        金槌でとんとん顎を砕き
        犬歯を口から取り外すんだ
のざらしの野を行き
フクロネズミの巣へ
         その歯を投げ入れよ マツカサの実とともに
やがて春の嵐がくる
         白い幣や注連縄もゆれ
         金屏風は倒れる 生れ出ずる 悲しみ
男児ならば鉄の歯を生やしている
               水をはこぶ母 野兎を屠る兄
浄火を起すべく 妹は裸になる
ここはウイキョウの薫りさえする
               「聖家族図」のようだ
されど時は逝き 人も逝く
            此岸の仕組はまさに混沌未分
花咲く地から
はるばる旅してきた少年がいる
              牝牛の形の帽子をかぶり
              「冥府下降」を試みつつ
石枕をして眠っている
          姉を探しているようだ
雨にぬれた竹筒を覗けば
           筒ぬけである
青空にはハトやスズメが飛び交い
               「馬頭女神像」は畑の中に立つ
去勢山羊のむれに囲まれ
           少年の裸身は汚れ 傷つく
                       麗しいまひるま
「死んだ番犬は何事も気づかない」

この〈青枝篇〉(初出は《日本経済新聞》1982年3月7日・14日・21日・28日連載の〈三月の詩T〜W〉。なお初出時の標題は「地の霊(春の伝説1)」・「水の夢(春の伝説2)」・「火の狼(春の伝説3)」・「空[くう]の華(春の伝説4)」である)の新聞連載時の総題〈春の伝説〉は、詩集《薬玉》において〈青枝篇〉に改題された。私の調べに漏れがなければ、本篇の詩句にフレイザー(永橋卓介訳)《金枝篇》からの引用はない(*)。試みに「 」で括られた(引用と思しき)詩句を以下に抜き出し、後註エリック・セランドに依る英訳(**)を併記する。

  「砂 灰 粘土のうえに/男女の像」
  “Sand ashes atop of the clay / The image of a man and woman”

  「言霊が成長し/石も成長する」
  “The spirit of the word grows / And the rocks grow also”

  「男神の形のパンをつくり/かぼちゃの葉で包む」
  “Make bread the shape of a male god / And wrap it in pumpkin leaves”

  「よろずのこと みな えそらごと」
  “All things are illusion”

  「幻像」
  “A dream”

  「聖家族図」
  “a picture of the holy family”

  「冥府下降」
  “the descent to Hades”

  「馬頭女神像」
  “A goddess with a horse's head”

  「死んだ番犬は何事も気づかない」
  “The dead watchdog unconcerned”

先に引いた詩篇〈甘露〉(初出は《すばる》1983年1月号)の末尾に「(引用句はおもにフレイザー《金枝篇》永橋卓介訳を借用した)」と註した時点で遅くとも吉岡は本書に触れているわけだから、〈春の伝説〉は《金枝篇》を踏まえつつ〈青枝篇〉に改題されたことになる。私はフレイザーの《The Golden Bough》の邦題が《金枝篇》となった経緯を知らない(ちなみに「金枝」とはヤドリギ〔宿り木・宿木・寄生木〕のことである)。ときに、丸谷才一や富士川義之はこの邦題を嫌って《黄金の枝》としている。フレイザー論を収めた富士川(ナボコフの《青白い炎》の訳者である)の《英国の世紀末》は吉岡歿後の1999年刊だから措くとしても、丸谷が《金枝篇》を退けて《黄金の枝》と書いていたのを当時の吉岡が目にしていた可能性はある。その吉岡が随想で「《金枝篇》」と書くのは、岩波文庫版の訳書を指すからである。では、《薬玉》における〈青枝篇〉の特徴をやや詳しく見ていこう。
吉岡はこの詩を「雨乞いの儀式とはなに」と始めている。その詩作品からだけではわかりにくいが、吉岡は「水」へのなみなみならぬ関心を持っていた。永田耕衣宛葉書(1980年6月25日消印)には「このところ、晴天つづきで、空梅雨になりそうです。小生人一倍、「水」のことを考えているので、夏の水不足が心配です。〔……〕」とあるし、私がもらった葉書も、春の雨が降っています、といった文言で始まっていた。戦前の東京下町に育った吉岡にとって、降雨は農作業に従事する者にとってのそれほど深刻な関心事ではなかったかもしれない。だが、馬を曳き、満洲の山野を行軍した戦時中の吉岡にとって、天候は季節の移りゆきとともに、敵との戦闘に次ぐ最大の関心事だったに違いない。天候が食糧に直結するという意味では、フレイザーの描いた未開の農民の心性から遠いものではなかっただろう。そこから四大元素(火・空気〔もしくは風〕・水・土)という四大の主題が浮上してくるのは、半ば必然である。

ここで、自分自身のために重要な語句に註しておく。主として《日本大百科全書〔全26巻〕》(小学館、第2版:1994)を用いた(原文は縦組。漢数字はアラビア数字に改めた)。それ以外の資料によった場合は、書名等を表示する。

アネモネ
湯浅浩史によればアネモネは「第2回十字軍遠征(1147)のころ、イタリアのピサ大聖堂のウンベルト僧正が運ばせた聖地からの土の中にアネモネの球根が混じっており、その土を使った十字軍殉教者の墓地から見慣れない血のような赤い花が咲いたという」(第4巻、433ページ)。

シキミ
シキミ科の常緑高木。井之口章次によれば樒は「枝葉を切ると一種の香気が漂うのでコウノキ、コウノハナ、あるいは墓に供えられることが多いのでハカバナともいう」(第10巻、649ページ)。

六根清浄
藤井教公によれば「「根[こん]」はサンスクリット語のインドリヤindriyaの漢訳語で、感覚器官とその器官の有する能力という意味。六根とは、眼[げん]根(視覚器官と視覚能力)、耳[に]根(聴覚器官と聴覚能力)、鼻[び]根(嗅覚[きゅうかく]器官と嗅覚能力)、舌[ぜつ]根(味覚器官と味覚能力)、身[しん]根(触覚器官と触覚能力)、意[い]根(思惟[しゆい]器官と思惟能力)の6種をいい、この六根が清浄になることを六根清浄という」(第24巻、600ページ)。

天水桶
宮本瑞夫によれば天水桶[てんすいおけ]は「単に天水ともよばれ、江戸時代、雨水[あまみず](天水)を雨樋[あまどい]などから引き、防火用にためておいた桶。〔……〕明治以後、消防設備の近代化により、しだいに廃されたが、第二次世界大戦中には、防火用水が家々の軒先に置かれた」(第16巻、366ページ)。

カシワ
ブナ科の落葉高木。萩原信介によればカシワは「厚い葉と厚い樹皮があるため風衝地や火山周辺地域、山火事跡地に低木状の純林をよくつくる。〔……〕台湾、朝鮮、モンゴルまで分布する。樹皮はタンニンの含有率がブナ科でもっとも高く、染色や革なめしとして用いられた。カシワは炊[かしい]葉の意味で柏餅[かしわもち]に、また神事に用いられ柏手となり残っている」(第5巻、227ページ)。

ホウネンエビ
武田正倫によれば豊年蝦は「節足動物門甲殻綱無甲目ホウネンエビ科に属する淡水動物。甲殻類の原型を思わせる原始的な形態をもつ。体長2センチほどの細長い円筒形で、甲をもたない。〔……〕大発生する年は豊年であるという言い伝えがあり、名はそれに由来する」(第21巻、394ページ)。

数珠玉
湯浅浩史によれば数珠玉は「有史以前から利用され、柳田国男[やなぎたくにお]は『人とズズダマ』(1952)で、その語源と由来を論じた。柳田は、ジュズダマの名は仏教の数珠[ジュズ]に基づくのではなく、珠[たま]や粒と関連する古語のツスやツシタマから、現代も方言に残るズズダマを経て、ジュズダマになったと推察した」(第11巻、649〜650ページ)。

青蛙
倉本満によればアオガエルは「両生綱無尾目アオガエル科に属するカエルのうち、体表が一様に緑色をしている種の総称。〔……〕一般に山間部や山沿いの湿地、水田の周辺に生息する。〔……〕産卵時に抱接した雌雄が後肢でゼリー状の卵塊をかき回すため、白い泡状となる。水辺の地上や土塊の間に産卵するが、モリアオガエルのように樹上に産卵する種もある」(第1巻、96〜97ページ)。

ラッパスイセン
喇叭水仙は「ヒガンバナ科の秋植え球根草。黄色または白色花を開き、副花冠はらっぱ状。切り花、花壇に用いる」(第23巻、754ページ)。

神饌
沼部春友によれば神饌は「神に召し上がり物として供える飲食物。ミケともいう。ミケは御食の義で、神酒はミキという。神饌は米、酒、塩、水が基本で、これに野菜、果物、魚貝類などもいっしょに供える。〔……〕現行の神社祭祀[さいし]における神饌の品目は、これを供する順に記すと、和稲[にぎしね](籾殻[もみがら]をとった米)、荒稲[あらしね](籾殻のついた米)、酒、餅[もち]、海魚、川魚、野鳥、水鳥、海藻、野菜、果物、菓子、塩、水と定められている」(第12巻、593ページ)。

通過儀礼
綾部恒雄によれば通過儀礼の過程は「通過儀礼ということばを初めて用いたのは、オランダの民族学者でフランスで活躍したファン・ヘネップである。通過儀礼にも比較的単純なものから複雑なものまでいろいろあるが、一般には儀礼の過程がいくつかの段階に分けられていることが多い。ファン・ヘネップは、もっともよくみられる通過儀礼の区分は、分離の儀礼rites de séparation、過渡の儀礼rites de marge、および統合の儀礼rites d'agrégationの3区分であると述べている。第一段階の分離の儀礼は、個人がそれまであった状態からの分離を象徴する形で行われる。〔……〕第二段階の過渡の儀礼は、個人がすでにこれまでの状態にはなく、また新たな状態にもなっていない過渡的無限定な状態にあることを示している。〔……〕また、過渡儀礼においては、男の女装、女の男装という中性化、司祭による聖なる王の罵倒[ばとう]という価値の転換、胎児化を象徴する始原回帰的行動など、過渡的不安定を示す行動が観察される。〔……〕第三段階の統合の儀礼は、分離儀礼と過渡儀礼を終えた個人が新しい状態となって社会へ迎え入れられる儀礼であり、一般に大規模な祝祭が行われる」(第15巻、777ページ)。

真神
真神[まかみ]は、日本に生息していた狼が神格化したもの。大口真神[おおくちのまがみ・おおぐちまかみ]、御神犬とも呼ばれる。薗田稔によれば三峯神社は「埼玉県秩父[ちちぶ]市大滝[おおたき]地区三峰に鎮座。〔……〕古来山中に生息した狼[おおかみ]を当社の眷属神[けんぞくしん]「大口真神[おおぐちまがみ]」とし、火盗除[よ]けの信仰が厚い」(第22巻、372ページ)。

犬歯
内堀雅行によれば犬歯は「哺乳[ほにゅう]類の歯の一種で、門歯の次に位置し、円錐[えんすい]形または鉤[かぎ]形で、普通は上下両顎[がく]の左右に各1対ずつ計4本ある。〔……〕ヒトの犬歯は糸切り歯ともいわれ、先がとがっているが、切歯(門歯)や臼歯[きゅうし]に比べて突出しない。ヒトの歯は全体として退化傾向にあり、とくに犬歯ではその傾向が強い」(第8巻、327ページ)。

フクロネズミ
オポッサムは「別名コモリネズミ,フクロネズミ。長い尾をもつネズミに似た姿のオポッサム科Didelphidaeに属する有袋類の総称。〔……〕北アメリカにすむ唯一の有袋類である。/大きさはネズミ大からネコ大の種まである。長い尾は多くの種で根もと近く以外は毛がなく,木の枝などに巻きつき,樹上での動きを助ける。四肢は短く,5指を有し,後足の親指にはつめがなく対向性で,枝を握るのに適する」(《世界大百科事典〔改訂新版〕》、平凡社、2007、第4巻、354ページ)。

ウイキョウ
星川清親によれば茴香[ういきょう]は「セリ科の多年草。全草に特有の香気がある。〔……〕古代エジプトで栽培され、古代ローマでは若い茎が食用とされた。中世ヨーロッパで、特異な香りと薬効のため魔法の草として知られ、しだいにフランス、イタリア、ロシア料理に不可欠なスパイスとなった」(第2巻、872ページ)。

聖家族図
名取四郎によれば聖家族は「キリスト教美術の図像の一つ。幼児イエスと母マリア、および養父ヨセフの慈愛に満ちた家族図。ヨセフのかわりにマリアの母アンナを加えた表現も聖家族図であるが、この場合は家系図の要素が強い。いずれにせよ、幼児イエスを中心に3人物像によって構成され、地上の聖三位[さんみ]一体を象徴する。この表現形式は14世紀に登場するが、とくに15、16世紀にイタリアをはじめ、ドイツ、スペインなどで流行した。聖アンナのいる聖家族図では、レオナルド・ダ・ビンチの『聖アンナと聖母子』(ルーブル美術館)がもっとも有名である」(第13巻、273〜274ページ)。

冥府
冥府は「死後におもむく他界の一つ。冥界,黄泉[よみ]などともいい,英語のhellがこれに相当する。〔……〕古代中国では,死者の霊魂の帰する所は〈黄泉〉〈九泉〉〈幽都〉などと呼ばれ,本来地下にあると考えられたが,後には北方幽暗の地にあるとする説も生じた」(《世界大百科事典〔改訂新版〕》、平凡社、2007、第28巻、36ページ)。

石枕
甘粕健によれば石枕は「古墳に用いられた石製の枕。滑石[かっせき]や蛇紋岩[じゃもんがん]、凝灰岩を加工、被葬者の頭を受ける馬蹄[ばてい]形またはΩ形の彫り込みがあるのが普通である。縁に二ないし三重に段を造り出し、そこに孔[あな]を巡らし、立花とよばれる勾玉[まがたま]を背中合わせに二つあわせたような飾りを差し込んだものが千葉県北部、茨城県南部を中心として東日本に分布している。西日本には馬蹄形の彫り込みだけの単純なものが多い」(第2巻、246ページ)。

番犬
犬は「世界の神話に現れる犬の中でも,とくに際だっているのはギリシア神話の冥府の番犬ケルベロスである。冥王ハデスとその妃ペルセフォネがすむ館の入口にいて,そこを通る死者たちを威嚇し生者の通過は許さぬと信じられたこの猛犬は,怪物の王テュフォンが,上半身は人間の女で下半身は蛇の形をした女怪エキドナに生ませた,どれも恐ろしい怪物の子の一つで,三つの犬の頭をもち,尾は生きた蛇で,背中からもたくさんの蛇の頭が生え出ており,頭の数は全部で50とも100ともいわれている」(《世界大百科事典〔改訂新版〕》、平凡社、2007、第2巻、490ページ)。

〈春の伝説〉を〈青枝篇〉としたについては、いくつかの理由が考えられる。まず本篇が《金枝篇》にインスパイアされた作品であることの表明である。これが外的な要因だとすれば、詩篇の標題という内的な要因がある。〈春の伝説〉というのは、漢語でかためた《薬玉》詩篇の標題としては間延びしている(吉岡が那珂太郎から詩集の題名を《波の音楽》でどうだろうと問われて、即座に《音楽》でいくようにと答えた挿話が想い起こされる)。だが《僧侶》に〈伝説〉(C・5)がある以上、この方面は却下される。そこで、本篇の直接的典拠でこそないが発想の基となった《金枝篇》方面を延長して、〈□枝篇〉という案が浮上する。この「□」には「金」ならぬ別の色が召喚される。〈春の伝説〉は「伝説」を避けた替わりに「春」を温存し、陰陽五行からの連想による「青=春」で「□」に「青」を代入して〈青枝篇〉を得た。――私にはそのような経緯が想像される。

今は亡き秋元幸人は〈吉岡実アラベスク〉の〈3《亀甲体》〉で〈青海波〉(J・19)の一節を引いて、
  ((生れ 生れ 生れ
            生れて(生[しよう])の始めに暗く))
の詩句について「〔……〕弘法大師空海著わすところの『秘藏寶鑰』などという、極めて古くまた特殊な仏教書からの引用」(《吉岡実アラベスク》書肆山田、2002年5月31日、三五ページ)だと指摘している。吉岡は空海のこの章句とどこで出会ったのだろう。詩篇の初出は《海》1983年6月号だから、それ以前に刊行された書物ということになるが、まったく手掛かりがないわけではない。というのも、以前の勤務先である筑摩書房から出ていた
  (1)渡辺照宏編《最澄・空海集〔日本の思想 1〕》(1969年9月20日)
  (2)宮坂宥勝《密教世界の構造――空海『秘蔵宝鑰』〔筑摩叢書〕》(1982年2月25日〔第6刷:1984年4月10日〕)
の2冊が存在するからで、とりわけ(2)の《密教世界の構造》(元版は《人間の種々相 秘蔵宝鑰『空海』〔日本の仏教 第4巻〕》筑摩書房、1967)が注目される。筑摩叢書版の〈四 人間の自覚〉の〈永遠の嘆き〉にはこうある。

 『秘蔵宝鑰』の書き出しは、次のような永遠を凝視する美しい詩ではじまる。

  悠悠[いういう]たり悠悠たり、はなはだ悠悠たり。
  内外[ないげ](仏教と仏教以外)の縑緗[けんじやう](書物)、千万の軸[ぢく]あり。
  杳杳[えうえう]たり 杳杳たり、はなはだ杳杳たり。
  道といひ、道といふに、百種の道あり。
  書[しよ](書写)死[た]え諷[ふう](読書)死[た]えなましかば、もと何[いか]んがせん。
  知らじ知らじ、吾[われ]も知らじ。……(以下七言一句欠文カ)
  思ひ思ひ思ひ思ふとも聖[しやう](聖者)も心[し]ることなけん。
  牛頭(中国古代の神農)、草を甞[な]めて病者を悲しみ、
  断菑[たんし](周旦公)、車を機[あやつ]つて迷方[めいはう]を愍[あは]れむ。
  三界(この世)の狂人[きやうじん]は狂[きやう]せることを知らず。
  四生(生きとし生けるもの)の盲者[まうじや]は盲[まう]なることを識[さと]らず。
  生[うま]れ生れ生れ生れて生[しやう]の始めに暗[くら]く、
  死[し]に死に死に死んで死の終りに冥[くら]し。

 この詩は、生あるものの永遠の嘆きを代弁している。〔……〕
 ある意味では、空海の無常観は、中世人のそれの先駆とみるよりも、むしろ中世人と同じような深い陰影を宿しながらも、人間生命の讃歌に転ずるための、明るい健康な生命力に裏づけられているようなところがある。右の『秘蔵宝鑰』序の詩と同じような生死の嘆きを、『教王経開題』で次のように述べている。

それ、生はわが願ひにあらざれども、無明[むみやう]の父、我を生ず。死は我が欲するにあらざれども、因業[いんごふ]の鬼、我を殺す。生はこれ楽にあらず、衆苦のあつまるところ。死もまた喜びにあらず、もろもろの憂へ、たちまちにせまる。生は昨日のごとくなれども、霜鬢[さうびん]たちまちに催す。強壮は今朝、病死は明夕なり。いたづらに秋葉の風を待つ命をたのんで、空[むな]しく朝露の日に催すかたちを養ふ。この身の脆[もろ]きこと、泡沫[はうまつ]のごとく、わが命の仮なること、夢幻[むげん]のごとし。

 そして、これに対し、翻[ひるが]えして次のようにいう。

悲しいかな、悲しいかな、三界[さんがい]の子。苦しいかな、苦しいかな、六道の客。善知識の善誘[ぜんいう]の力、大導師の大悲の功にあらずよりは、何ぞよく、流転[るてん]の業輪[ごふりん]を破つて、常住の仏果[ぶつくわ]に登らん。

 生死の無常観を契機として、人間の自覚へと誘[いざ]なってゆくのである。(同書、五五〜五七ページ)

一体に吉岡は詩篇においても、散文においても、永田耕衣や高橋新吉のようには宗教的な文言を多用することはなかった。だが、必要とあらば地の詩句であれ、引用による詩句であれ、要文をちりばめることを躊躇しなかった。《薬玉》の掉尾を飾る詩篇〈青海波〉の「((生れ 生れ 生れ/生れて(生[しよう])の始めに暗く))」がそれであり、〈青枝篇〉の「「よろずのこと みな えそらごと」」がそれである。後者、「「よろずのこと……」」は親鸞の語録《歎異抄》に見える章句の引用で(ごく一部、改変がある)、手近なテクストでは

  〔……〕よろづのこと、みなもてえそらごと、〔……〕(金子大栄校注《歎異抄〔岩波文庫〕》岩波書店、1981年7月16日改版〔1991年3月15日:第76刷〕、八八ページ)

と見える。長篇小説《親鸞》を著した五木寛之の〈私訳 歎異抄〉に依れば、「〔……〕すべては空虚な、偽りにみちた、評価のさだまらないむなしい世界である」(《歎異抄の謎――親鸞をめぐって・「私訳歎異抄」・原文・対談・関連書一覧〔祥伝社新書〕》祥伝社、2009年12月25日、一二七ページ)。《歎異抄》からのこの引用は、《秘蔵宝鑰》からの引用に較べて目立たない。それかあらぬか、秋元幸人もこの詩句を引いていないし、当然のことながら典拠も提示していない。それほど「すべてのことはみな絵空事だ」という感懐は折りに触れてふと想いうかべる、今日のわれわれにも親しいものだといえる。だがそれは、親鸞の悲歎が空海のそれに較べて浅く軽いことを意味しない。吉岡とて、同じような切迫の度合いで引用したに違いない。

最後に、答が出るかどうかわからない問を発してみる。吉岡実にとって《金枝篇》とはなんだったのか、という疑問である。《金枝篇》と詩との関連でわれわれがすぐに想起するのは、T・S・エリオットの長詩《荒地》(1922)だろう。深瀬基寛はその《エリオット〔鑑賞世界名詩選〕》(筑摩書房、1954年10月25日)で

 シンフォニー『荒地』の意図するものについては種々の解釈が許されるであらうが、全曲を流れてゐるモチーフとして使用されてゐるのは、エリオッ卜自らこの詩に附した註にも明らかなやうに、ミス・ウェストン(Miss Jessie L. Weston)の聖杯伝説に関する研究『祭祀よりロマンスヘ』From Ritual To Romanceであつた。同時にエリオッ卜はフレイザー(Frazer)の『金の枝』Golden Boughなどイギリスで熾な原始文化研究からもヒントを受け、植物祭(Vegetation ceremonies)などの原始民族の祭祀伝説を借りてこの詩の骨組をくみたてたのであつた。(同書、一九五ページ。漢字は新字に改めた)

と自説を展開している(ちなみに《エリオット〔鑑賞世界名詩選〕》の「再版」は吉岡実の装丁になると考えられる)。深瀬は冒頭の〈緒言にかへて〉では、E・M・フォースターの「わたしは問題の中核へひと思ひに飛び込んで、いつたいあの『荒地』といふ詩は何のことを詠つてゐる詩なのか端的に打ち明けよう。あれは、来るべくしてもはや手おくれとなつてどうしようもない春の水を、慈愛の雨を詠つてゐるのだ。あれは戦慄恐怖の詩なのだ。母なる大地は枯れ、海原は塩の大塊となり、大地を培ふべき雷雨は鳴動はしたが、実はもうあとの祭りだ。さうしてその戦慄恐怖があまりにも激烈なために、詩人は舌がしびれてしまつて、そのことを公然と口にすることが全く不可能になるのである……」(同書、一一ページ)という評言に賛意を表している。この詩の理解には「聖杯伝説」――漁夫王が性的能力を失った結果、国土は荒廃する。そこへ一人の騎士が登場して「危険の聖堂」に近づき、古代に男と女の象徴だった槍と聖杯を奪還することで呪いは解かれ、荒地に慈雨と豊饒が復帰する――が欠かせないと深瀬は指摘する。併せてJ・L・ウェストン(丸小哲雄訳)《祭祀からロマンスへ〔叢書・ウニベルシタス〕》(法政大学出版局、1981年11月2日)の〈第一章 序論〉には「数年前、J・G・フレイザー卿の画期的な著書『金枝篇』をはじめて研究した際、わたしは聖杯物語のいくつかの特徴とそこに叙述されている自然崇拝の特異な細部との間にみられる類似性に強い印象をうけた。物語を綿密に分析すればするほど、ますますその類似性は際立って来て、ついにわたしは、この不可思議な伝承――その性格、その突然の出現、それに帰せられている明白な重要性、そして続いて起る唐突で完全な消滅といった点においても等しく不可思議な伝承――の中に、かつては民間に流布していたが、のちには厳しい秘密の条件の下に生きのびることになったひとつの祭祀の曖昧な記録が残されていたかも知れないと考えることは果して可能かどうか自分に問うてみたのである」(同書、四ページ)とあることを考えれば、《金枝篇》から《荒地》が引きついだ「聖杯伝説」を踏まえて、吉岡が〈青枝篇〉を構想したことは充分あるように思える。なによりも、初出標題〈春の伝説〉に「聖杯伝説」が影響していないだろうか。

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(*) たしかに〈青枝篇〉には鉤括弧(「 」)で括られた詩句の逐語的引用こそ見られないものの、「雨乞い」や「狼/犬」「山羊」などには《金枝篇》の遠い残響が聴かれよう(ちなみに秋元幸人が〈雞〉(J・1)との関連で《吉岡実アラベスク》の〈吉岡実晩年の詩境〉で言及したのは、《金枝篇》の〈第四十八章 動物としての穀物霊〉の〈三 雄鶏としての穀物霊〉だった)。該当する箇所を、本文に引いたのと同様の形式で掲げる。

・プロスカの村では、旱魃を終らせて雨を降らせるため村の女たち娘たちが夜分に裸体となって村境まで行き、そこで地面に水をそそいだ。(〈第五章 天候の呪術的調節〉、一・153)

・一八九三年四月の末水飢饉のためシシリー島に大きな困窮の襲来したことがある。旱魃は半歳にも及んだ。太陽は毎日毎日、雲の片影だにない青空に昇っては沈んだ。うるわしい緑の帯のようにパレルモを取り巻いたコンカ・ドゥオロの園は、そのために枯れかかっていた。食糧は断絶に瀕していた。住民は大きな恐怖におののいた。およそ知られている限りの雨乞いの方法は試みられたが、いずれも更に効果はなかった。行列は街にも畑にも、引きもきらず続いた。男も女も子供たちですらも、数珠をつまぐりながら、幾夜か尊い御像の前に拝伏した。(〈第五章 天候の呪術的調節〉、一・173)

・〔……〕東プロシアのファイレンホーフの近傍では、狼が畑を走って行くのが見えると、農夫たちは尾を立ているか垂らしているかに注意するのであった。もし狼が尾を地に垂らしていたなら、それをつけて行って福を持って来てくれたと言って感謝し、その前に御馳走を置いてやることすらあった。ところが、もし尾を立てていたなら、そいつを狙って殺そうとした。つまりこの狼は、豊作の力をその尾にもった穀物霊なのである。(〈第四十八章 動物としての穀物霊〉、三・242)

・ギエンヌでは、最後の穀物が刈り取られると、一匹の去勢羊を畑じゅう引きまわす。それは「畑の狼」と呼ばれている。その角は花環や穀物の穂で飾られ、頭や躯も花束や色紐で飾られる。刈り手は残らずこの羊の後について、歌いながら行進して行く。最後に羊は畑で屠殺される。フランスのこの地方では、最後の刈り束のことを方言で coujoulage という。つまり去勢羊という意味である。それで去勢羊を屠殺することは、最後の刈り束に宿っていると信じられている穀物霊の死を表わすのである。しかしここでは、穀物霊の二つの異なった形――狼と去勢羊――が混同されている。(〈第四十八章 動物としての穀物霊〉、三・246)

・〔……〕上バイエルンのマルクトゥル近傍では、刈り束を「藁山羊」または単に「山羊」と呼んでいる。刈り束は広庭に山と積まれ、お互いに向かい合って立つ二列の男たちがこれをこなすのであるが、彼らはせっせと連枷を打ちおろしながら、束の中に「藁山羊」が見えるというような事を歌うのである。最後の山羊、つまり最後の刈り束は、スミレその他の草花の花環や、糸に通した菓子などで飾る。そして束の山の真中ほどに安置する。打穀者の一人が矢庭にとびついて、そのうまいところをかっさらおうとする。他の者たちは、時として脳天がたたき割られることもあるくらい、遠慮容赦なく連枷をうちおろすのである。〔……〕/〔……〕上バイエルンのトゥラウンシュタインでは、燕麦の最後の刈り束には「燕麦山羊」がいると信じられている。それは立てた古耙で表わされ、古鍋で頭をこしらえる。子供たちはこの「燕麦山羊」を殺すことを言いつかるのである。(〈第四十八章 動物としての穀物霊〉、三・257、258〜259)

(**) 詩篇〈青枝篇〉には、エリック・セランドが詩集《薬玉》全篇を英訳した《Kusudama》(FACT International、1991年〔月日不明〕)所収の〈Collection of Green Branches〉がある。《吉岡実書誌》の〈英訳詩集《Kusudama》解題〉でも触れているとおり、《Kusudama》から同詩を含む3篇がduration pressのサイトに掲げられているので、以下に〈青枝篇〉の〈T 地の霊〉〈U 水の夢〉〈V 火の狼〉〈W 風の華〉の英訳の各ページにリンクを張っておく。 〈1 Earth Spirit〉 〈2 Dream of Water〉 〈3 Fire Wolf〉 〈4 Wind Flower〉

エリック・セランドによる英訳詩集《Kusudama》(FACT International、1991年〔月日不明〕)の表紙
エリック・セランドによる英訳詩集《Kusudama》(FACT International、1991年〔月日不明〕)の表紙


吉岡実未刊詩篇本文校異(2017年11月30日)

初めに、私が2011年6月18日にAmazon.co.jpに投じた《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日)のカスタマーレビューを再掲する(標題等の表示を本サイトのそれに改めた)。未刊詩篇のタイトルに張ったリンクは、本稿掲載にあたって設定したもので、初稿のレビューにはない。

本書刊行(1996年)までに確認された吉岡実の全詩篇を集大成した、文字どおりの吉岡実全詩集(詩歌集《昏睡季節》所収の和歌を含む)。冒頭の詩篇〈春〉を欠いた初刷も出回ったが、版元の適切な処置により最小限の瑕疵で食いとめられた。〈本書の編集について〉の方針に基づく本文校訂もほとんど問題ないが、〈即興詩〉で詞書/献辞のように組まれている「私ノ時計ニ」は、初出誌を見ればわかるように、本文の一行め(ただし二字下げ)だろう。〈未刊詩篇 1947-90〉は《昏睡季節》から《ムーンドロップ》までの詩集に入っていない15篇から成り、本書刊行後に新たに6篇が発見されている。全詩集未収録詩篇に◆印を付して、目次の体裁で掲げる。

未刊詩篇 1947-90

海の章(未刊詩篇・1)
敗北(未刊詩篇・2)  717
即興詩(未刊詩篇・3)  717
汀にて(未刊詩篇・4)
断章(未刊詩篇・5)
陰謀(未刊詩篇・6)  718
遅い恋(未刊詩篇・7)  719
夜曲(未刊詩篇・8)  720
哀歌(未刊詩篇・9) 721
冬の森(未刊詩篇・11) 724
スワンベルグの歌(未刊詩篇・12)  725
序詩(未刊詩篇・13)
序詩(未刊詩篇・14)
絵のなかの女(未刊詩篇・15)
白狐(未刊詩篇・16)  727
亜麻(未刊詩篇・17)  730
休息(未刊詩篇・18)  731
永遠の昼寝(未刊詩篇・19)  733
雲井(未刊詩篇・20)  735
沙庭(未刊詩篇・21)  738

波よ永遠に止れ(未刊詩篇・10)  740

以上を加味した増補改訂版《吉岡実全詩集》もしくは《吉岡実全集〔第1巻〕詩集》の刊行が切望される。

《吉岡実全詩集》のカスタマーレビューは2017年11月現在、上掲の私の〈増補改訂版『吉岡実全詩集』もしくは『吉岡実全集〔第1巻〕詩集』の刊行が切望される〉を含めて、2007年5月25日掲載のゾーイ〈詩語の野生に達している〉、2015年8月31日掲載の案山子〈詩としての静謐な暗黒舞踏〉の3件がアップされている(いずれも★5つの満点)。もっともこれらを読んだ人が《吉岡実全詩集》を購入しようとするかは疑問で、レビュアーが言うのも妙な話だが、同書を読みたいと思うほどの者はレビューになんとあろうが入手するに違いない。ちなみに「Amazon」での中古の価格は、24,890円から320,000円までで(「日本の古本屋」では37,800円から200,000円まで)、2万円台なら、発売時の価格12,000円からいって、悪くない。見ればわかるとおり、私のカスタマーレビューは《吉岡実全詩集》初版の購入を促すことからはほど遠く、その完全版(に近い)刊行を望むものだった。残念なことに、2017年11月現在、それが実現する気配はない。以下に、吉岡実の既刊の各単行詩集の本文校異と同じ形式で未刊詩篇の本文校異を掲げ、来るべき増補改訂版《吉岡実全詩集》もしくは《吉岡実全集〔第1巻〕詩集》の刊行を待ちたい。なお、◇印の未刊詩篇15篇の本文〔 〕内の校異は〔初出形→《吉岡実全詩集》収録形〕を表す。

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海の章(未刊詩篇・1)

初出は《漁》(東洋堂発行)1947年9月号(2巻9号)一ページ、本文10ポ四分アキ20行1段組、16行。

貧しくて さびしくなつたら
海へ行こう
晴れた日の海へ行こう
でつかい魚たちが跳ね上り
どこにも金の波があふれている
午後の風をはらんだ白帆は
お母さんの乳房のようにやさしい
はるか遠くで 入道雲も微笑している
けつしてひとりぼつちを
さびしがるな そこらの岩かげに
蟹が泡を吹いて居眠りしているし
まかれた花びらみたいに鴎もとんでいる
そして夕焼の浜べで
ぬれたばらいろの貝がらをひろい
童謡を唄つてかえろう
灯のともつた 家にかえろう


敗北(未刊詩篇・2)

初出は《新思潮〔第14次〕》(玄文社発行)1947年9月(1巻2号)の〈詩二篇〉二四ページ、本文五号二分アキ11行1段組、6行。

神の掌がひらかれたが
影になる方向には
灰色の波が重り
歪んだ帽子へ消えると
蛇や百足虫が這ひ出し
私の骨が残つた


即興詩(未刊詩篇・3)

初出は《新思潮〔第14次〕》(玄文社発行)1947年9月(1巻2号)の〈詩二篇〉二五ページ、本文五号二分アキ11行1段組、7行。《吉岡実全詩集》で第一行が詞書/献辞のように組まれているのは誤り。

  私ノ時計ニ
蝶ガトビコンダ
スルト銀ノぜんまいヤ花ヤ
牛酪ヤ私ノ夢ガ
溢レダシ
イツペンニ
夏ノ窓ハ明ケテシマツタ


汀にて(未刊詩篇・4)

初出は《水産》〔本号より《漁》を改題〕(東洋堂発行)1948年7月号(3巻7号)二六〜二七ページ、本文9ポ15行1段組(コラム)、12行。作者名は「皚寧吉」。

ひぐれのなぎさをわたしはあるいてゐた
なにかをもとめてあるいてゐた
わたしのゆくさきにだれかのあしあとがのこつてゐた
てんてんとわたしのかなしみよりはるかにふかくすなにしづんでゐた
いくらわたしがついきゆうしてもあしあとはつづいてゐた
だれがこんなさびしいものをのこしていつたのか
すなはかすかにかわいてつめたかつた
かいそうのまつわつたいわのあたりにもまだつづいてゐた
とほくないだうみのうへをかもめがひとつとんでゐた
にさんどなきながらさつてしまつた
わたしはわたしのまへをゆくひとをもとめてあるきつづけた
つきがのぼるとばかにそのひとがこひしくてならなかつた


断章(未刊詩篇・5)

初出は《水産》(東洋堂発行)1948年8月号(3巻8号)一ページ、本文五号二分アキ11行1段組、9行。目次に記載なし。漁船と蟹の挿絵(クレジットなし)が詩篇を囲む。

永劫に舟の去りゆく
落日の海に魂のふるさとを求め
われ浮腫混沌の方角より
憔悴せる手をさしのばす
ああわが懊悩の手
清楚無限の波に洗はれ
ふたたび無垢の血よみがへり
はるかなる回帰線を越え
白鳥のいのちをつかまんとす


陰謀(未刊詩篇・6)

初出は《現代詩》(緑書房発行)1956年7月号(3巻6号)四八〜四九ページ、本文8ポ26字詰19行1段組(コラム)、19行分。

百匹の猫には百匹の敵がいる ある一匹の心やさしい猫がベンチの片隅で新聞をよんでいると見なれぬ手の折れた猫が並んで新聞をよみはじめる 帽子をかぶった心やさしい猫はスポーツの記事がよみたいと思っているのだが 隣の猫が戦争の悲惨なニュースをよむように指図する 心やさしい猫は美しい妻に贈物がしたいのだ 化粧品の広告がみたいと思う 折れた手で隣の猫がにやにや笑いながら 軍艦の沈没してゆく場面の写真を示すので 香水罎の類を彼方に眺め 自分も溺死する水兵の服をきて海中に沈んでしまう もちろん隣の猫は別の軍艦の甲板で折れた手を振っている 心やさしい猫は公園を出てレストランに向う 手の折れた猫がおくれたわびをいいながら 同じ食卓の前に腰かける 心やさしい猫は明日の仕事のため栄養分のあるものを注文する 手の折れた猫はもう自分が注文しといたからだいじょうぶだという 陰謀は食事に関係が多い 湯気の立つスープのかわりに 落下傘の包が食卓の上に置かれる 心やさしい猫は空腹のままそれを身につけてとびおりる たちまち十字砲火を浴び戦死する 折れた手で猫は雨でぬれた半旗を垂らし戸口から入ってしまう
                                           一九五六・五・二十一

遅い恋(未刊詩篇・7)

初出は《現代詩手帖》(世代社発行)1959年6月号(1号)六六〜六七ページ、本文9ポ27字詰14行1段組、12行分。初出時、約400字の散文〈詩人のノオト〉を付す。

ガリ氏の上半身は裸だ むしろ枯木の存在にちかく がらす板のむこうで 女医先生が手を器用にうごかしてのぞきこむ ガリ氏の尖〔つ→っ〕た内部を いささかガリ氏は羞しいのだ 少しばかり女医先生がすきなので 自分が人間の器官をうしな〔つ→っ〕て 深い根に支えられてない 黄昏の物体であり 鳥の巣ほどの夢もかかえず みずみずしい四月の葉に飾られてないことが い〔つ→っ〕そう内部をはたらきのないものにする だが光のなかで人間は真実の恋ができようか 女医先生はたしかに職業の恋をしはじめる つめたい手と眼で ガリ氏の患部を愛撫しながら そしてふたりだけの 暗い場所を甘い髪の匂いでみたす 盲目の世界で記録されたカルテは永遠に判読されぬだろう 世のすべての恋人たちの手紙のように


夜曲(未刊詩篇・8)

初出は《近代詩猟》(発行所の記載なし)1959年10月(27冊)六ページ、本文14ポ24字詰18行1段組、14行分。初出末尾「一九五八・八・四」は、吉岡陽子さんに依れば「一九五九・八・四」が正しい。

夜それも初夏の夜 ぼくは召使としてつつましく坐る それであらゆる型態の蛾をとらえる ほそい朝鮮服の妻のためにだ ぼくが喜色満面でかざす 蛾のかたじしの胴体は尻へつぼまり 豹の緊張した野性を誇示する 妻の眼のなかでそれに応えて おののく植物の生臭いひとなぜの風 いうまでもない 妻の心はいやおうもなく 蛾の鋭い歯で肉食される 花粉と汗をながす妻の全身を白磁のシーツで陰蔽した 下品な召使のしたごころから 蛾の翅の蝋のにぶい光から 鳥籠には粘土の鳥 まわりには全部まぶたをとざした家具類 ぼくと瀕死の妻は同一の管で 同時に水を吸いあげる 囁く泡のながれ その夢みる装飾帯 暁ちかく二人の間に赤ん坊が泣きながら割りこむ そんな幻覚を映して氷山が滑り込んでくる
                一九五八・八・四


哀歌(未刊詩篇・9)

初出は《鰐》(書肆ユリイカ発行)1960年2月(6号)八〜九ページ、本文五号21行1段組、35行。

それは或は風説だろう
ぼくと向きあった妻が魚の腸を
のりこえ
ぼくを不浄な庖丁で刺す
キャベツ・ジャガイモに看視され
ぼくは瀕死の客
スープの湯気の束の間の命
テーブルの上に
レモンの美しい膚があらわれ
正面から血を浴びる
妻よこころせよ
それがぼくの自尊心
ぼくの空腹が他人の便秘に
通ずる油ぎった岸べ
そこから他国へながれる川
料理された鶏の首と
ぼくの頭が藁で結ばれて
月下の水面を滑る
前世を
ぼくは耐え忍ぶ
〔爼→俎〕と胎児を
錐と姙婦をすり替える
ぼくの無償の詐術
髣髴と浮び上る
岩の頂で番のあざらしを凍らす
愛の復讐の記念像
陸の難破者をして仰がせる
ぼくの不倫・ぼくの殉教精神
麦畑へ火事を導びく
ついでにけしの畑
灯る人家を望み
ぼくと密通した人妻の
幼女のマヌカンを
ぼくは抱くだろう
糸杉の狂える夜ごと夜ごとを


波よ永遠に止れ(未刊詩篇・10)

初出は《ユリイカ》(書肆ユリイカ発行)1960年6月号(5巻6号)四八〜五三ページ、本文8ポ30字詰25行2段組、11節257行。初出目次の標題は「波よ永遠に止まれ」。初出「カット真鍋博」。《吉岡実詩集》(思潮社、1967年10月1日)に改稿再録(三一四〜三三五ページ、本文9ポ27字詰14行1段組)。

    ヘディン〈中央アジア探検記〔〉より→より〉〕

1

わたしは 二人の従者と一人の宣教師とともに
四頭馬車で砂漠の入口に着いた
ここからわたしの夢がはじまる
わたしにだけ見えて
ほかの三人の男には見ることのできない夢
幾世紀もの間 砂にうずもれた
伝説の王 眠りの女王の生活の歴史
もしかしたらわたしだけの幻覚だろうか
死んだ都のステンドグラスの寺院の窓から
ながれ出る河のながれ ともにながれる時のながれ
朝は凍りつき 夜あらゆるいきものの
骨を沈めているヤルカンド河のつめたいながれ

2

翌朝 わたしは従者の一人を呼んだ
わたしはその男を毛皮の男と名づける
けものの皮をはぐのがその男の神聖な職業だったから
毛皮の男はヤルカンドへ八頭のらくだと斧を求めに行った
もう一人の従者は近くの支那人の市場から水と麦粉蜂蜜麻袋などの必要品を買って戻る
その男をわたしは女中と呼ぶ
彼は回教徒のタブーを冒し 日の出前に物を食ったため
刑罰をうけ不具にされ
もう男ではないのだから
ロバの背にのせられたまま
女のような泣き声をあげたのを救けた
女中はサルト人にさそわれると
白楊の木の茂みへ
ときには聖なる墓地をよごしに行く
祈祷師の太鼓のなりやむ暁まで
悪霊のおどりをおどるのだ
宣教師には仕事はない 彼は昼は汗をかき
夕方はたらふく羊の肉を食い
夜は祈祷師の残り酒をのんでは吐く
わたしは気象の観測と
ゴブラン織のような地図をひろげる
その地図から
黄塵が湧きあがり われわれの貧しいキャラバンをつつむ
その地図の別の方角 緑色に塗られた印のところから
羚羊が現われ 泉がわきあふれ 甲虫がとびまわる
その地図の褐色にいろどられた丘や草原から
太陽が野兎や われわれの耳を照らす
双眼鏡の視界のかぎり 涯ない砂の原
あの雪のように汚れてないふくらみを見よ
そこにわたし以外の者の足跡があってはならない
生きる人間・死せる人間のものであれ
最初の遠征者・わたしの躯の重みを支える
わたしの足跡でなければならない
点々とつづき点々と消えまたつづく
わたしの生命の証しでなければならない
狼が吠えている
狼があらゆる闖入者を拒んでいる
わたしの願望のために
砂と星の領域を守って立っているのが見える
かたむく月 かたむく月
わたしも宣教師も
女中もひとりねの眠りにおちるだろう
毛皮の男はいつ戻るか
舟の竜骨のようなたくましいその男を
わたしは信頼して待つ
明日という朝 あさってという朝

3

タクラ・マカン砂漠を横断するキャラバンがあるときいて
わたしの宿を一人の老人がおとずれた
このからすのようなだみ声の老人
彼はわたしの目的を探りにきたのかも知れぬ
突然 流沙の中に永遠に姿を消した
死の都の財宝を
わたしたちが発見にきたのだと思っているのだろうか
老人は語るのである
若い頃の恐ろしい体験を
悪霊がいまなお廃墟の周囲にとどまり
黄金探求者たちを死にみちびく
みずみずしい果物一つ盛られてない皿
あざやかな満月の皿
そのまえで渇きながら黄金探求者は死んで〔ゆ→行〕く
半身は砂にうずもれ
あとの半身はつめたい金銀の器具におおわれて
山猫のむれが鳴く
じゃこうねずみのむれが鳴く
はじめは山猫がその人形のような餌食をみつける
次にじゃこうねずみのするどい歯が噛む
骨のなかの肉を
肉のなかの骨を
砂のなかの髪の毛を
暗のなかの食事はしずかに行われる
砂のうえの食事はしずかに終る
それから幾百年後に
別の黄金探求者たちは財宝のかわりに
別のものをみつけ出すだろう
奇妙な色と形をしたたくさんの支那ぐつが散乱しているのを
手にとろうとするとき
支那ぐつはたちまち塵のごとくくずれ
あとかたもなくなってしまう
……………………
老人が語りおわるころ珍しく雨がきた
わたしはこの口碑・伝説を一笑に〔附→付〕すことはできない
だがわたしの危険な旅行は中止されぬだろう
わたしには水平線の彼方に
美しく起伏する砂丘の鼓動が魂にひびいてくる
わたしのロマンチックな仮説が〔ベタ→全角アキ〕未知の世界
未知の空間へ記録されるかもしれない
もし不幸な運命がわたしの立っている砂の上
この砂の下へしのびよらなければ

4

わたしはここ数日
輻射熱と大気のなかにある塵の量と
温度の密接な関係を調査して暮す
宣教師は
すさまじい砂嵐の吹かぬかぎり
印度の金融商人の夜のみだらな酒宴によばれる
踊る女のへそにはめた虎眼石が輝く
深くて戻るすべのない闇
わたしはいまだかつて宣教師が祈りをあげているのも
土民の病人の看護する姿もみとめない
彼も一度は心をこめて祈る時がくる
みずからが突然の死にくびられる時
滴れない桃のしずく
滴れない梨のしずく
土民のかきならすジイザーという楽器を
女中が天幕の入口で奏でている
刑罰をうけた人間の魂がもつメランコリイ
水槽のなかの水が少しずつ泡だつような夜だ

5

毛皮の男が戻ってきた 八頭のらくだをつれて
それぞれのらくだの背につまれた乾草の匂いは甘く
わたしは緑地地帯の涼しい水が快く回想される
パンを焼くマラル・バシイの村の景物とともに
毛皮の男は白楊樹の太い幹へ
斧を一撃うちこむとその下へ寝る 〔生→い〕きづいている毛皮
大小さまざまならくだを円形につなぐ
蘆を気ままに食べるのをみながら
わたしは一箇の絵を観賞しているやすらぎをおぼえる
女中は恋人にふたたび会えたようにはしゃぎ
毛皮の男のために食事の準備をする
卵を割り マカロニを妙め
一羽の鶏の首を斧で断つ
わたしにはこれらのこともまた牧歌的な絵だ
何も始ってはいない 〔燈→灯〕をめぐる幾つかの大きな蛾
どうどうめぐりをくりかえす迷える蛾
それすらわたしたちの運命の暗示とは考えられぬ
わたしは生きて目的を果すであろう
天幕の入口からただちに砂漠へつづいている行程
これから幾日かわが愛すべき砂
わが憎むべき砂
未知の森 未知の空
未知の河 未知の水平線
未知の世界を進むためには
たがいに頼らなければならないわたしたちいきものたち

6

砂漠の年代記に記載されるべき日
わたしたちは出発する
門出を祝福する数十枚の支那の青銅銭が空へまかれた
わたしはらくだの背に乗りながら
コンパスを未知の方向へ確信のうちにのばす
宣教師は病気だといつわって去った
彼は今 屋根に集る群集の一人として見送るだろうか
遠ざかる屋根 遠ざかる人
遠ざかる泉
アジ〔ヤ→ア〕の美しい春だ
荒涼とした砂漠へ向う
わたしたち悲劇のキャラバンの鈴がひびく
八頭のらくだのつけている鉄の舌をもつ鈴
みちびきの鈴よ 弔いの鈴よ
不吉であれ 幸運であれ わたしたちはどこまでも
ともに旅するであろう
アジ〔ヤ→ア〕の美しい春を

7

北東風は終日吹きつづけ
空には星のかわりに砂がながれる
すべての植物類が影をひそめるころ
わたしたちは巨大な砂丘の迷宮にとじこめられた
滑る砂 らくだの足を沈める砂
水槽を積んだ背高らくだがころんだ
十五呎もある斜面で荷をおろしてらくだを休ませ
飼料の蘆の葉を与える
わたしたちは少量の水でのどをうるおしニッキを噛む
黒い綿毛のような雲の彼方に旧い河床を発見した
毛皮の男が先頭のらくだの上で叫んだ
北方に一時進路を変えよ
わたしのらくだが続く 女中のらくだが続く
荷物を積んだ五頭のらくだが続く しんがりを犬がおりる
再び砂丘が十呎の高さで疲れたキャラバンをとりかこむ
落日の波形の影がすべての砂丘の頂きを走る
やっと平坦な塵の上に出る 羊毛のようなやわらかい塵
ときたまらくだの蹄にふみくだかれる塩の結晶の不気味な音
わたしたちが野営地につく前に夜がきた
毛皮の男と女中が井戸を掘り
そのまわりを犬と鶏が深い関心をよせて見守る
井戸をほること そしていのちの水を得ること
これがわたしたちの金科玉条
生きること 三人の人間 八頭のらくだ 一匹の犬 これら生きものがいきること
今夜は水が得られるであろうか 蜜のように甘い水が
明日は復活祭だ

8

わたしたちは未踏の大砂漠にさしかかりつつある
こころよい西の微風 青空の反射にかがやくあざみの花
エシル・コールとよばれる「緑の湖」はどこにあるのか
毛皮の男も女中も知らない まぼろしの湖よ
ここで羊の最後の一頭を屠殺し 祝福された食事をする
血と屑肉は犬に与えた
翌日の真昼 天幕を取り外したら 敷物の下から
一吋半のさそりがとびでたのに驚く
今日は美しい渓谷と沼沢地を踏破し北東方へ進路を変えた
鷹が舞っている ライフルで撃つ 鷹は孤立した山へ去った
午後の沼の岸べは蛙の鳴き声 雁の叫び
わたしにとって長くない地上の楽園となろう
毛皮の男と女中は水浴びから戻らない
わたしは妻と子のための手紙を書く
妻と子のすきなタマリスクの花の匂いをこめて
とどかないかも知れない故に深い愛のことばを告げる

9

この人間の棲まぬ果で一人の男に出会う
塩を求め山中へ入って行く孤独な〔全角アキ→トル〕塩採取人が地上での最後の人間
新鮮な水を得ることのできる最後の土地
魅惑の渓谷を発って十数日を経た
砂丘は粘土の地表へ砂を灌ぎ灌ぎ はるか南西へ拡っている
黒い蝸牛にも似たキャラバン
わたしたちはすすむ すすむ 目的地を指し
千度も千歩を行く
岸べなき砂の大洋〔[おおうみ]→トル〕 黄色い大波 熱い水脈
犬〔と羊→トル〕が狂気のごとく水槽に近寄る
女中も狂気のごとく渇きをうったえて哭く
千の針に刺された朝の太陽 盲いて行くわたしたちの心臓
なめる黄金の水 水のなかの黄金の舌
この夕刻以後らくだには一滴の水も与えてやれぬだろう
見あげる砂の頂きにはわたしたちの荘厳なる墓地
雲のなかに消える
死んだ二頭のらくだのため
いまわしくも生きのこるわたしたちのため
蹌踉として永遠の砂丘をよじのぼるらくだたちよ
葬列の鈴を美しく鳴らせ
彼方の氷にとざされたる父なる山よ
そのゆたかな氷と雪を〔溶→とか〕せ
女中は最後の一滴の水まで盗み行方をくらます

10

それから幾日後 一羽の鶺鴒がとんできて希望をめざめさせる
毛皮の男はらくだの尿を酢と砂糖をまぜてのんだゆえ
恐しい嘔吐のため瀕死の状態にいた
わたしは〔水槽を持って→水を求めて〕死のキャラバンを離れる
目印のカンテラが砂の表面をしずかにしずかに照す
まどろみと幻想のうちに水晶の水とライラックの匂いをかぐ
たえずはいずり歩く わたしはミイラの末裔
コータン河の森の方向に
羊飼のかがりびでも見えぬであろうか
いまこの沈黙の夜がキャラバンの最後の場面なのか
否否わたしにはみちづれがある
頭上の星 鋼鉄の精神 鋤の柄の杖
東南の方角が霧に巻かれているのが見えた
次に灌木と葦のくさむら
ついに河岸にたどりついた時
わたしの跫音に鴨がとび立ち しばらくして水音が聴える
新鮮でつめたい美しい水
鴨がこの水の上に憩うていたのすら非常な冒涜に思われた
わたしは脈搏を計りそれからのんだギリシャの神々の美酒を
未来は茫漠として微笑む人生の悲惨な行事が空白になる一瞬
わたしは裸も同然で何一つ水を入れるものがない
混乱のなかの天の啓示
わたしは防水靴にいっぱい水を充たし
月光の林のなかを死につつあるキャラバンの方へ戻って行く
聖なる靴 一人の生命を救った この創造主 靴屋に幸いあれ

11

わたしは故国への帰路につく
ゆれる船 かたむく帆柱 さらば陸地よ さらば砂漠よ
  「そこでは〔、→全角アキ〕人間の意志も水流の巨大な力も〔、→全角アキ〕同様にそ〔ベタ→改行して二字下げ〕の狂暴〔改行→次行をベタで追込〕
  さを征服し得ない〔。→全角アキ〕恐るべきタクラ・マカン砂漠〔ベタ→改行して二字下げ〕が地上の森羅〔改行→次行をベタで追込〕
  万象を支配する神の名において宣言する〔。→全角アキ〕〔ベタ→改行して二字下げ〕《この地まで来れ〔、→全角アキ〕〔改行→次行をベタで追込〕
  されどこの地より進むなかれ この〔ベタ→改行して二字下げ〕地において汝らほこらしげ〔改行→次行をベタで追込〕
  なる波よ 永遠に止れ》」

                〔(本稿より八十行を削除して九六〇年五月一一日NHKより放送)→トル〕 


冬の森(未刊詩篇・11)

初出は《朝日新聞〔夕刊〕》(朝日新聞東京本社発行)1965年1月5日(28377号)五面、本文新聞活字一倍扁平17行1段組(コラム)、14行。初出・絵「待つ・海老原喜之助」。

そのところに月は満ち
マスクした枯木の梢が楕円形に
ひとりの幼児を囲んでいる

火花の記憶のなかに
ささげられた食物の世界
この青みがかった幼児の内海で
肉をかぶっていく骨が見える

フクロウの金環の爪でさかれた
母の口は暗く
それは名づけようもない過去

未来とは羊歯のかたち?
鉤のウサギの血を吸う雪?
幼児は問いつづけ
ついに大声になる


スワンベルグの歌(未刊詩篇・12)

初出は《婦人公論》(中央公論社発行)1969年2月号(54巻2号)の〈MY POESY まい・ぽえじい・2〉〔PETIT PETIT(プチプチ)のコーナー、二二○〜二二一ページ〕、本文8ポ20行1段組、34行。初出「イラスト・前田常作」(スミ・アカの2色刷)。初出註記「*スワンベルグ〔以下なし〕」。《ユリイカ》(青土社発行)1973年9月号(5巻10号)の〈吉岡実新詩集 神秘的な時代の詩・抄〉に改稿再録(一六八〜一六九ページ、本文8ポ26行2段組)、末尾「注記/詩集『神秘的な時代の詩』は、ここに掲載された作品のほかに、すでに思潮社版『現代詩文庫14・吉岡実詩集』に収められている「マクロコスモス」「フォーク・ソング」「夏から秋まで」「立体」および、現代詩手帖に発表された「わが馬ニコルスの思い出」などを含み、湯川書房より刊行される予定である。」

ものの成熟について
ひとは考えるべきだ!
桃が籠のなかで
甘いビラン状になるとき
老人司祭の死の舌が必要か?
ひとりの男と女の恋〔ナシ→は〕〔改行→追込〕
暁の熱い舟をつくり
そこでももいろの花火をかぶる
それらはきっと
すすまず浮かばず
聖なる母の毛のかたまり〔をすべる→の間をさまよう〕
星も輝かない
ももいろの氷の世界〔ナシ→にとじこめられる〕
ももいろの中年〔ナシ→の鳥〕
ゆがんだ弓なりの
やがて美しい五月が来るだろう
緑の布の上に
両側から吊〔ナシ→る〕される
なよなよとした双曲線の乳房
〔青空の孔から→夕日のなかの〕
〔ああなやましく→なやましい頭韻〕
〔想起せよ→トル〕
〔ナシ→その〕花模様の〔一角獣→花に〕
水をたらす
ビニールの漏斗で
〔ナシ→ひとは老衰すべきだ!〕
〔ナシ→錫の皿を廻し〕
〔ナシ→もろもろの〕ももいろの電話機の声
それから深夜
それから〔レモン→擬似果実〕
それから涙
暗い靴下をはいて
さびしい少年が来るんだ!
遠景の円柱を廻って
包帯のなかの処女性を
求めて〔・・・・・→……〕

〔※スワンベルグ→トル〕


序詩(未刊詩篇・13)

初出は寺田澄史作品集《がれうた航海記――The Verses of the St. Scarabeus》(俳句評論社刊)1969年5月15日、八〜九ページ、本文9ポ1段組1行アキ、3行。

うんすんかるたを想起させる

和洋折衷の精神と色彩をもつ

微小にして壮大な浪漫の世界


序詩(未刊詩篇・14)

初出は志摩聰句帖《白鳥幻想》(俳句評論社刊)1969年6月1日、八ページ、本文9ポ四分アキ1段組、2行。初出は対向の九ページにイラスト。「飾画:大沢一佐志」。

白地へ白く白鳥類は帰る

ありあけの美しき紫肉祭


絵のなかの女(未刊詩篇・15)

初出は《別冊一枚の繪》(一枚の繪発行)1981年10月(4号)〈花鳥風月の世界――新作/洋画・日本画選〉の〈第四章 月〉一八六ページ、本文12級1段組、18行。初出註記「本誌のための書き下ろし/●よしおか みのる(一九一九― )東京 詩人 H氏賞 高見順賞 戦後詩の芸術至上主義的な詩の不気味な魅力をたたえる。シュールレアリスムの絵画の美しさに近い面白さのある一篇。」(無署名)、初出は詩篇の上部に「弦田英太郎 青い首飾り 6号 油絵」がカラーで掲載されている。

《別冊一枚の繪》第4号〈花鳥風月の世界――新作/洋画・日本画選〉(一枚の繪、1981年10月1日)掲載の吉岡実の未刊詩篇〈絵のなかの女〉のページ
《別冊一枚の繪》第4号〈花鳥風月の世界――新作/洋画・日本画選〉(一枚の繪、1981年10月1日)掲載の吉岡実の未刊詩篇〈絵のなかの女〉のページ

「かげろうは消え
黄蜂はかえって行く」
野の丈なす草むら
そこでひとりの女が腰をひねった

地母神
イナンナの妹のかくしどころの闇から
蒼白なる魚のように
「賢者」や「愚者」がうみおとされた
「間接的(空間)世界」
にがり[、、、]や泡で形成されつつある

夏もたけて
「鳥が絵のなかの鳥」でありえても
「女が絵のなかの女」であるとはかぎらない
テーブルの端にローソクを燃やし
ドリアンを食べる女を抱く
荒らぶる魂の男は淋しい
庭の石床の上をはいまわりつつ
「ねずみ花火は消え……」


白狐(未刊詩篇・16)

初出は《現代詩手帖》(思潮社発行)1984年6月号(27巻6号)の〈特集・詩の未来へ〉三〇〜三二ページ、本文9ポ23行1段組、42行。

いなりの屋根を降りる
          われらは無を漂ってはいない
          血のかわりに言葉を発する
金屑がとぶ
     バンソウコウをすべての
抽象物に貼る
      何の目的で人は生きるか
      バラ色の水にうかぶネズミの死骸へ問え
喩の〔敍→叙〕述を替える
        ザクロの外側では
        老人から子供までの笑い声
蚊帳を吊った川の洲へ
          われらは渡る
穀物を刈るために
        もしくは
領巾ふす蛇の魂をしずめに
            燈火をかかげた
頭上へ絵画の枠をつくる
           鋸に挽かれる十本の杉
           死ぬ時に書く十行の詩
足をそろえて冷たい母
          白狐
          それは呼ばれた
          ムシロのざらざらした世界へ
思った思おうとした
         あまさかさまの日々
将棋盤の上で
      美しい相のやまとは昏れよ
のどかに
蜂をリンネルで
包む学者を見たことがある
            われら人生派は今も
自然を過して
      意味をつくる
商人は好きな葛湯をすすり
            夏の午後は入浴す
見えるさわれる
開かれる事物はどこへ
          こんかい
          コン・クワイ
                われらの奏でる嬉遊曲
姉妹を水門の上に立たせる

*「現代詩手帖」二十五周年記念号に是非とも作品を寄せよ、との小田久郎氏の要請をこばみがたく、十余年前の自動記述的な草稿に、若干の手を加え、『薬玉』の詩篇と同じ形態をととのえ、ここに発表する。     五月九日


亜麻(未刊詩篇・17)

初出は《文藝春秋》(文藝春秋発行)1986年5月号(64巻5号)八九ページ、本文8ポ13行1段組(コラム)、10行。

「赤と緑の線で出来た
          溝の中に放りこまれている」
男と女
   「メリーはジョンを愛している
    ジョンはメリーを愛している」
                  けれど内側は覗けない
絵画や音楽のように
         男と女は宗教的な祭儀を行う
「一つの丘みたいなもの」
            亜麻は風になびくほど成長する


休息(未刊詩篇・18)

初出は《現代詩手帖》(思潮社発行)1987年9月号(30巻9号)の〈澁澤龍彦追悼〉一四〜一五ページ、本文9ポ23行1段組、38行。

隣家の主婦がいそいそと
           〔思考の腐蝕する穴〕
円天井のアトリエに
         食べ物を届けに訪れる
「ゴムの浮袋のような
          寝台のうえで
パオロ氏は眠っている」
           この画家の視線はいずこへ
描きかけの画布を覗く
          「意味のとぎれる
       境界線」
硝煙のなかで
      「同じ側の脚を二本
       いっぺんに持ちあげている」
負傷した馬が見えた
         〔透視図法〕
燃える樹木
     傾く塔
ここでは遠近法を無視せよ
            死んだ兵士の靴の底の
            星形の鋲が迫って来る
「死体は仮の消滅で
         風景に似ている」
草はぼうぼう繁茂し
         水はこんこんと湧き出る
                    日々の運行
寝食を忘れるパオロ氏の
           「あの眼は
                どんなものの上にも
                止まることは許されない」
        〔イデアの世界〕
「女を夢みる者は
        馬を夢みることはないだろう」
少女のすべすべした
         「からだの表面は
                 未完の竹籠」
秋の過剰なる
      光線を宿している

              *澁澤龍彦と土方巽の言葉を引用している〔ナシ→。〕


永遠の昼寝(未刊詩篇・19)

初出は《永遠の旅人 西脇順三郎 詩・絵画・その周辺》(新潟市美術館刊)1989年4月1日、〈西脇順三郎賛歌〉一三一ページ、本文10ポ2段組、25行。自筆詩稿が《永遠の旅人 西脇順三郎 詩・絵画・その周辺》展(新潟市美術館、1989年4月1日〜5月14日)に展示された。

コオロギが鳴いて
        (宇宙の淋しさを
  告げ始める)
        秋の日の野原を行く
わたしは旅人
      (茶室的な岩から出る
 泉を飲む)
      心の淋しい時は
意識の流れに沿って
         漂泊するんだ
(非常な美人の医師が来る)
             赤と白の
ホウセンカの咲く
        ここは故里かも知れない
聖賢の書を読み
       わたしは思索にふける
(いかにして
      死を諦める
           ことができるか)
旅籠屋のつめたい畳で
          昼寝をしたようだ
(誰かがわたしの
        頭のうえを
             杏の実をもって
        たたいた)


雲井(未刊詩篇・20)

初出は《鷹》(鷹俳句会発行)1989年10月号(26巻10号)四六〜四九ページ、本文五号14行1段組、3節47行。

1

(とろとろと眠りこむ
          〔牧神〕ではなく)
森の沼のほとりで
        (捕虫網をかざしてゆく
長い髪の寛衣の少女)
          を見かけたような気がする
わたしは灌木の間を
         〔雨後の茸[くさびら]〕を探しまわった
(明暗の境いを越え)
          さまよいつづける
(樹木の霊や
      鳥獣の魂)
           どんなものの上にも
止まることは許されない
           〔イデアの世界〕
わたしはなぜか思う
         (書かれた
    〔言葉〕は
         〔骨〕のように残るだろうか?)
手の届かぬ高みに
        〔月輪〕のように
                〔かたつむり〕がいる

2

(支那人は猫の眼で
         時間を読む)
狂える隠者の詩句を
         わたしはくちずさむ
波に洗われる
      海鳥の足跡
           死者の〔泥履[どろぐつ]〕
       紅い糸屑
今の世の〔空〕の
        〔透視図法〕を視よ
〔雲井〕に懸かる
        (虹もまた炭化する)

3

(しずこころなく散る)
           〔黄葉〕や〔籾殻〕
    そして〔記号〕
           ここは〔沙庭[さにわ]〕かもしれない
(燃えたり 凍ったり)
           する〔星辰〕の下で
〔煮果物[コンポート]〕を食べながら
           (蓮のつぼみ
     壺のすぼみ)
           を呪文のように唱えている
(その〔少女〕はまだ
          完全に〔地上〕に
降り立っていない)

             *瀧口修造そのほかの章句を引用している。


沙庭(未刊詩篇・21)

初出は《文學界》(文藝春秋発行)1990年1月号(44巻1号)九ページ、本文9ポ22行1段組(コラム〈扉の詩〉)、20行。

灯明のともる
      〔白地[あからさま]〕の座敷で
巫女のように
      〔紙衣[かみぎぬ]〕を着て姉はつぶやく
(火ねずみの
      かわごろもがほしい)
祖父母は
    染物用の大樽の向う側へ
〔地蔵[かくれたもの]〕
    として祀られた
離れ家で父は〔屯食[おにぎり]〕をほおばり
    母は〔毛糸玉〕に歯を立てる
(いつだって
      人間の形を所有したこと
のない家系?)
       ぼくと妹は掃除を了えて炬燵にいる
藁火のにおい
物の倒れる音
      (淡雪を頭にのせ〔神様〕が
家のなかに入って来る)


付録:吉岡実未発表詩篇本文校異

吉岡実は1990年5月31日、入院先の病院で亡くなった。歿後、最晩年に浄書したとみられる〈日歴(一九四八年・夏暦)〉が《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》(書肆山田、1996年11月30日)に発表されたが、それ以前も、それ以降も未発表の詩篇が活字化されることはなかった。私は《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)巻末の〈吉岡実資料〉作成のために思潮社の依頼を受け、吉岡実夫人陽子さんから借覧した関連資料を調査するなかで、吉岡実自筆の草稿から2篇の未発表詩を発見した。〈寒燈〉と〈ぽーる・くれーの歌〈又は雪のカンバス〉〉がそれである。以下に、〈吉岡実未刊詩篇本文校異〉と同じ体裁に整えて2篇を掲げる。さらに、吉岡実の創作とは見なさなかったため番外的な扱いになるが、北園克衛詩集《固い卵》の詩句の引用だけから成る〈詩人の白き肖像〉を補遺詩篇として掲げ、3篇を本稿の付録とする。吉岡の生前に刊行された単行詩集収録の詩篇262篇、未刊詩篇21篇、未発表詩篇2篇――以上が今日までに知られる吉岡実の「全詩篇」である。総数285篇。吉岡実詩の金字塔である《吉岡実全詩集》は、そのうち単行詩集収録詩篇のすべてと未刊詩篇15篇の計277篇を収録している。未発表詩篇(および補遺詩篇)に■印を付して、目次の体裁で掲げる。

未発表詩篇 1949(および補遺詩篇)

寒燈(未発表詩篇・1)
ぽーる・くれーの歌〈又は雪のカンバス〉(未発表詩篇・2)
詩人の白き肖像(補遺詩篇・1)


なお、未発表詩篇の本文〔 〕内は原稿上の手入れをそのまま起こした結果、衍字がある。

………………………………………………………………………………

寒燈(未発表詩篇・1)

B5判ほどのノートのようなものが裂かれて、この紙葉だけになっていたと記憶する。吉岡実自筆。署名なし。11行(手入れにより10行)。1949年9月20日脱稿と見られる。第八詩句「黄なびた蛙のあしはたれさがり」が〈風景〉(B・10)に流用された。詩篇全体に大きく「×」が付されている。誰ひとり詩を語らう友もない状態で詩作を試みた吉岡は、〈寒燈〉の写しを京都の青山雅美に送っている。戦時下の満洲で互いに詩人と画家と名乗りあって以来の旧友に。

吉岡実自筆の詩稿〈寒燈〉(1949年9月20日脱稿か)〔モノクロコピー〕
吉岡実自筆の詩稿〈寒燈〉(1949年9月20日脱稿か)〔モノクロコピー〕

古風な灯の下で
魚の鱗をたんねんにめくり
密封された女の心臓をさぐ〔つてゐ→る〕る
〔金銀の粉のただよふ夕べ→トル〕 〔終演の刻→トル〕
わたしはむちゆうで
なまめかしい傷ぐちへふかく沈む
月をつかんでしまふ
黄なびた蛙のあしはたれさがり
女の心臓の一帯には
もはや冬枯の草がしげり
折れかさな〔つてゐる→つてゐた〕

 〈二四、九、二十〉
 丸中数字で「28」 〔薄く〕丸中数字で「45」
 (雅美へ二四、十、二十送る)
 丸中数字で「十五」


ぽーる・くれーの歌〈又は雪のカンバス〉(未発表詩篇・2)

用紙は〈寒燈〉に同じ。吉岡実自筆。1949年9月23日脱稿と見られる。20行。冒頭に晩年の筆跡で「吉岡実」と署名がある

吉岡実自筆の詩稿〈ぽーる・くれーの歌〈又は雪のカンバス〉〉(1949年9月23日脱稿か)〔モノクロコピー〕
吉岡実自筆の詩稿〈ぽーる・くれーの歌〈又は雪のカンバス〉〉(1949年9月23日脱稿か)〔モノクロコピー〕

この眠りの雪の地方にも
きんぽうげの春がきたやうな気配
春といふより猫の毛のしつとりした秋だ
澄んだ空から何もおちてこないひとところ
ひよろひよろのびる蔓があり
朝顔のやうな鳥が卵の萼をつけたまんま
こつそり咲いてしまつた
花のやうに〔わびし→明る〕い鳥
鳥のやうに鳴かない花
どつちがどつちでもかぎりなくさびしい
風があるのかないのか
光があるのかないのか
どこにもよけいないきものがゐないので
さつぱりわからない
だけどポール・クレーの瞳だけが
すつぽりとこのしづかなものうい風景を
収めてとじてゐる
雪のしずくのしきりにたれてゐる
その外側はまだ薄あをい
ゆふぐれだ

 〈二四、九、二三〉
 〔薄く〕丸中数字で「46」 丸中数字で「29」
 丸中数字で「十六」



詩人の白き肖像(補遺詩篇・1)

初出は吉岡が《北園克衛全詩集》(沖積舎、1983年4月3日)の栞に寄せた〈断章三つと一篇の詩〉から。本文11級31字詰24行2段組、33行。〈詩人の白き肖像〉は全篇が北園克衛詩集《固い卵》(文芸汎論社、1941年4月10日)の引用から成る。吉岡は「詩集《固い卵》に収められた二十五篇中の十六篇の詩から、一行から四行ほどの章句を、抽出して綴り合せたものである。いってみれば、わたしの内なる(北園克衞像)である」(前掲栞、九ページ)と書いている。原文である《固い卵》(正字旧かな使用)の詩句と校合し(〔吉岡詩←北園詩〕)、数字の後に引用元の北園詩篇の標題を補記した。参考までに、《固い卵》収録詩篇の標題を掲載順に追込で掲げる。なお〈 〉で括った詩篇は吉岡が〈詩人の白き肖像〉に引いた作品を表す。
〈悪い球根〉、〈アコイテスの歌〉、〈透明なグロテスク〉、緑のアクシヨン、Uボオトの線、硝子のコイル、〈インクの蛇〉、アスピリンの鳩、明るいシヤボン、〈白いドクトリン〉、〈一直線の頭〉、朝のピナクル、〈午前の肖像〉、固いパルク、〈ヒヤシンスの季節〉、新しい土地、〈半透明のカスケツト〉、溶ける貝殻、〈明るいドリアン〉、〈鉛のラケツト〉、〈泥のブロオチ〉、〈生きたキヤンドル〉、〈鉛筆の生命〉、〈休暇のバガテル〉、〈透明なオブヂエ〉


1 〔〈インクの蛇〉〕
雲雀の鳴いてゐる川のそばに
少年達は笛を吹き
やがて怠けて水の中に頭を漬ける

2 〔〈白いドクトリン〉〕
僕の影が葡萄の樹のやうにくねり

3 〔〈一直線の頭〉〕
南瓜畑の道をいそいでくる
町に出て
水を撒いた石疊の上をあるき

4 〔〈休暇のバガテル〉〕
ねぢれた椅子にもたれ
パインア〔ッ←ツ〕プルを〔食←喰〕ひ

5 〔〈鉛筆の生命〉〕
あ ここには
最早なにもない

6 〔〈午前の肖像〉〕
古典に近い
釦の〔よ←や〕うな人よ
水滴の
思ひとともに

7 〔〈透明なオブヂエ〉〕
ペンキの横の
ラケ〔ッ←ツ〕ト
あるひはトランク

8 〔〈ヒヤシンスの季節〉〕
〔涼←凉〕しい眼鏡をかけ
朝のミルクを飲み

9 〔〈悪い球根〉〕
枯れた柳の下の錆びた自〔転←動〕車にもたれた

10 〔〈半透明のカスケツト〉〕
眉の細い友よ

11 〔〈明るいドリアン〉〕
胡桃の皮を剥ぐ娘らの頬と
豌豆を浸すとき

12 〔〈生きたキヤンドル〉〕
風化する貝の上を

13 〔〈鉛のラケツト〉〕
肥えた思考は進まず

14 〔〈泥のブロオチ〉〕
思考の表面がキ〔ャ←ヤ〕ベツのやうに縮れる

15 〔〈透明なグロテスク〉〕
それは充分に退屈である

16 〔〈白いドクトリン〉〕
いきなり電球に墨を塗る

17 〔〈アコイテスの歌〉〕
この詩は亀のやうに心を暗くした
僕は亀の足の形をした匙で砂糖の重さを量り
同時に神の重さをも量〔っ←つ〕てゐた


吉岡実と病気あるいは吉岡実の病気(2017年10月31日)

吉岡実と病気あるいは吉岡実の病気について考察してみたい。まず、「病気」ならびにその周辺が吉岡実詩にどう描かれているか、全詩集に登場する順で見ていこう。いずれも各詩篇から該当する詩句を抜いたものである。

患者は白い窓掛に指紋を忘れ
朝の水銀にいのちを計られる(〈病室〉@・18)

第一詩集《昏睡季節》(1940)では、吉岡固有の声というよりは、左川ちかの声色で歌っている、というふうにきこえる。

白い橋で 病める女の あしうらに
かくされた 一枚の骨牌を やぶき
羊をつれて 私は秋の鏡を
さまよい 霧の隙間に 木曜日の
靴下を吊れば かなしみは
とおく 林檎のなかに忘れた(〈相聞歌〉A・11)

第二詩集《液体》(1941)では、秋の冷気を漂わせる息の長い調子を展開していて、《昏睡季節》とは別人の感がある。

ぼくは病気になりきり 毛布の下でえびの真似をしている(〈冬の絵〉C・6)

四人の僧侶
一人は枯木の地に千人のかくし児を産んだ
一人は塩と月のない海に千人のかくし児を死なせた
一人は蛇とぶどうの絡まる秤の上で
死せる者千人の足生ける者千人の眼の衡量の等しいのに驚く
一人は死んでいてなお病気(〈僧侶〉C・8)

らっきょうを噛る それがぼくの好みの時だ 病棟の毛布の深いひだに挟まれ ぼくは忍耐づよく待つ 治癒でなく死でなく 物の消耗の輝きを(〈回復〉C・12)

はげしく見開かれた馬の眼の膜を通じ
赤目の小児・崩れた土の家・楊柳の緑で包まれた柩
黄色い砂の竜巻を一瞥し
支那の男は病患の歴史を憎む(〈苦力〉C・13)

すべての女性の子宮を叩く
兵士の半分はやわらかく半分は病気で固まる(〈人質〉C・17)

察するところ女は人を殺してきたらしい
もし病弱な夫でなければ
じゃがいもの麻袋をかるがる担ぐ情夫(〈感傷〉C・18)

死児の発育と病気について
すべての医者は沈黙した(〈死児〉C・19)

商人の老獪な算術が病気をつくる(同前)

死児の病気の経過は
食物と父の怯懦の関係で
悪化の一途をたどり
最後は霧の硝煙で消える(同前)

第四詩集《僧侶》(1958)では、「ぼく」の「病気」はほとんど「孤独」と同義語である。一方で、僧侶や死児にとっては、死の底にあるさらに深い、さてなんと言えばよいのだろう、災厄のごとき状態を呈している。

さびしい裸の幼児とペリカンを
老人が連れている
病人の王者として死ぬ時のため
肉の徳性と心の孤立化を確認する(〈老人頌〉D・1)

ともあれぼくには別のことが気がかりだ たまたま彼女たちが病気になった場合だ(〈首長族の病気〉D・11)

女がそこにひとりいる
乳房の下半分を
太藺や灯心草と同じように
沼へ沈め
陸地の動物のあらゆる嘴や蹄から
女のやさしい病気をかくして
微小なえびのひげに触れている(〈沼・秋の絵〉D・21)

犯行者の持つ大きな模様 その鮮明な赤や黒の縞がとぐろまく地図の上を 向き合った人 向き合った動物 笑えば恐しく長い歯を現わす 外部から把えられた肺のなかの病気(〈修正と省略〉D・22)

第五詩集《紡錘形》(1962)では、「病気」はとりわけ女たちに抱え込まれた「実存」の別名ではなかろうか。

半病人の少女の支那服のすそから
がやき現われる血の石(〈珈琲〉E・3)

わたしがいま描く画面とはなに?
生き方とは関係なく
運転手のくびを絞める
ひとりの少年の金メッキの脱腸帯へ
接近する
それは病気のなかでそだつ
野生の桃(〈春のオーロラ〉E・10)

凍る都会の学校で
孔雀の母をころして
ひとりの少女が歩いてくる
《柳よ泣いて》を歌いながら
見える美しい止血器
病熱そのもの(同前)

自然な状態で
ぼくの絵を見ませんか?
病気の子供の首から下のない
汎性愛的な夜のなかの
日の出を
ブルーの空がつつむ(〈恋する絵〉E・15)

第六詩集《静かな家》(1968)では、「病気」は画布を充たす「大気」のごとき存在である。

それはたくさんの病人の夢を研究しなけりゃならん
〈退却してゆく臓器や血の出る肛門〉
わしも医者だから抒情詩の一篇や二篇は暗誦できる
今宵 生き損じの一人の老婆も無事に死んだし

かれこれテニス試合の時刻がくる
カメラと持てるだけの物を持って森まで行く
まっ白い弾むボールを追究する 悪寒するわしが見えるか
むきあった男女の間に生える カリフラワー 粉

この世に痛むものがはたしてあるか
わしが診察するのは鏡の中の患者の患部だけ
手も汚れず 悪臭もなく
でも疲れるんだ 鏡の表面にとどまるオレンジのように

〔……〕

血豆と乳房「それはただちに切開する」
それが終ったら力のかぎりあらゆる岩地を掘りかえせよ
何かが出る 何かに成るものが出る
そのときは看護婦を呼んで包帯をぐるぐる巻かせる

〔……〕

しかるべく手術をせん
しかるべく病巣なきときは
しかるべく印をつけ
しかるべく肉体を罰せん(〈『アリス』狩り〉G・12)

わたしは病気がち(〈田園〉G・14)

たしかムンクの絵の主題に
〈病める少女〉
というのがある(〈白夜〉G・23)

「罪深い魚は泳ぐ方角をまちがえている」
これは病人のうわごとだ(〈ゾンネンシュターンの船〉G・24)

第八詩集《サフラン摘み》(1976)では、「病気」は(偽の)自伝の一部に組みこまれている。

ぼくが半病人のひとりの少女を救うとき
洪水をながれる花と動物の頭
よろよろのぼる稲妻を見る(〈塩と藻の岸べで〉I・9)

第一〇詩集《ポール・クレーの食卓》(1980)で、「ぼく」は再び半病人の少女とまみえる。おそらくは、暗いオンドルのかげで老いた父に粟粥をつくっていた黒衣の少女と。

   祖父は眼をやみ
          祖母は膣をやむ(〈甘露〉J・14)

(青いカケスに肺病を負わせる)(同前)

第一一詩集《薬玉》(1983)で、祖父が陰茎ではなく眼を病んでいるのは象徴的だ。また「青いカケスに肺病を負わせる」は、《薬玉》の通奏低音ともいえるフレイザー(永橋卓介訳)《金枝篇》からの引用である。

人体の冬/燠炭のような病気の男が/足もとの柄杓で水をかけている(〈聖あんま断腸詩篇〉K・12)

第一二詩集《ムーンドロップ》(1988)では、「病気」は永遠の相の下、あたり一帯に蔓延しているようだ。

わたしはいまだかつて宣教師が祈りをあげているのも
土民の病人の看護する姿もみとめない
彼も一度は心をこめて祈る時がくる
みずからが突然の死にくびられる時(〈波よ永遠に止れ〉未刊詩篇・10)

砂漠の年代記に記載されるべき日
わたしたちは出発する
門出を祝福する数十枚の支那の青銅銭が空へまかれた
わたしはらくだの背に乗りながら
コンパスを未知の方向へ確信のうちにのばす
宣教師は病気だといつわって去った(同前)

この吉岡実詩最長の未刊詩篇では、結末における「わたし」の瀕死の渇きを宣教師が先取りしていると見える。出発前に宣教師が逃亡したことで「わたし」が生き延びたとも、そのせいで死に瀕したともいえよう。

ここで視点を変えて、吉岡実〈〔自筆〕年譜〉(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984)に現れた病気の記載を拾ってみよう。なお、末尾の( )内に出典を書いたものは吉岡の随想からの引用で、〈〔自筆〕年譜〉の記載ではない。

 大正十二年 一九二三年 四歳
九月一日、関東大震災に遭遇する。紅蓮の空を父に背負われて見る。避難先で肺炎にかかり、九死に一生を得る。

[大正十三年 一九二四年 五歳]
それは関東大震災の翌年の秋のこと、五歳の私は麻疹にかかり、バラック建の小屋に独り寝ていた。外国からの救済物資の赤ゲットをかぶり、共働きの両親の帰りを待っていた。心細く上気した幼児にとって、眼の前の空地に茂る、コスモスの花がなによりの慰めであった。(《「死児」という絵〔増補版〕》の〈幼児期を憶う一句〉)

 大正十五(昭和元)年 一九二六年 七歳
本所明徳尋常小学校に入学。二、三年生頃まで着物を着ている。四年生の時肋膜炎を病み、一学期休学する。

[昭和四十二年 一九六七年 四十八歳]
四月二十日 午後、澄さんと椿山荘へ。全出版人大会で永年勤続者として表彰される。〔……〕筑摩書房に入社してから、明日で満十六年。病気もせずよくやってきたと思う。(《「死児」という絵〔増補版〕》の〈日記抄――一九六七〉)

 昭和四十五年 一九七〇年 五十一歳
新春、肩に激痛、九段坂病院へ通院はじまる。

[昭和五十年 一九七五年 五十六歳]
〔……〕さて、昨年〔一九七五年〕の春ごろ、私は胃腸を病んだ。うつうつとしているその時、ふと「腸の先づ古び行く揚雲雀」が心のなかに浮んだ。これは実感的名句だと改めて思った。(《耕衣百句》の〈覚書〉)

 昭和五十二年 一九七七年 五十八歳
夏は天候不順で雨降りつづく。岳父和田芳恵発病、自宅治療の末、川崎駅前の太田病院へ入院する。

 昭和五十四年 一九七九年 六十歳
〔……〕秋、歯治療のため雪下歯科へ通院はじまる。

 昭和五十五年 一九八〇年 六十一歳
〔……〕大雨の日、虎の門病院で診察を受ける。悪質の病気ではなく安堵する。

上には吉岡実の病の記載を抜き書きしたが、一点だけ、岳父和田芳恵の病の記載をまぜておいた。というのは、ほかでもない、他者の病状について吉岡が最も詳細に書いたのが〈月下美人――和田芳恵臨終記〉(初出は《群像》1977年12月号)だからである。和田臨終の前日の10月4日、吉岡は仕事で鎌倉の澁澤龍彦宅を訪れていた(同夜のことは澁澤の随筆〈天ぷら〉に詳しい)。夜9時過ぎ、吉岡は長原の和田芳恵宅に行った。「私はクッションの替りに、おやじさんの背に沿って寝た。そして肩や腰を撫でさするより仕方なかった」(《「死児」という絵〔増補版〕》、一七三〜一七四ページ)。そして「肉親だけに看とられて十月五日午前一時三十二分、病人は死んだ。作家和田芳恵は死んだ。〔……〕みんなで、おやじさん愛用の紺の浴衣を着せた。私は遺骸を持ち上げながら、博多帯をきゅっきゅっと巻いた。背中はまだぬるい温みがあった。爪先はつんと天を向いていた」(同、一七四ページ)。

1990年6月1日付の夕刊各紙の報道によれば、吉岡実は1990年5月31日午後9時4分、急性腎不全のため東京都目黒区の東京共済病院で死去した。71歳だった。急性腎不全は腎不全のひとつで、急性腎障害とも呼ばれる。「具体的には、尿素などの窒素生成物が血液中に蓄積する高尿素窒素血症を生じる病態で、急激な腎機能低下の結果、体液の水分と電解質バランスの恒常性維持ができなくなった状態である。症状は食欲不振、悪心、嘔吐。治療を行わない場合は痙攣、昏睡へと進行する」(Wikipedia)という。人は、自身がどのような最期を迎えるのか、正確なことは誰にもわからない。吉岡は折りにふれて日記をつけていたが、死につながった最晩年の闘病期には書きのこしていないようだ。高橋睦郎の〈吉岡実葬送私記〉には、吉岡の病状をめぐってほかのどの文章よりも詳しい内容が記されている。以下にその経過を摘して、行頭に○印を付け、行末( )内に日付を補記する。さらに、吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉の「一九九〇年(平成二年)七十一歳」の項から、行頭に◎印を付けて該当個所に配する。

○咽喉の不調をいっていたようだが、食欲も普通にあり、さほど気にも止めなかった。(おそらく1989年10月21日)

○十二月になって電話すると、咽喉の不調が耳に移ったとかで訪問は延期になった。(1989年12月)

○年が変わって電話で新年の挨拶がてら体調を問うと、あいかわらず食欲がないという返事だった。(1990年1月)

◎一月、国立劇場で正月公演の歌舞伎を観る。「文学界」一月号に詩「沙庭」を発表(最後の詩篇となる)。

○電話口に出た陽子夫人の話で、経過はあまりいいとはいえないようだった。通院している共済病院の正月休み中に耳の自覚症状が再発し、そのうち食物が嚥下できなくなり、見る見る痩せた。夜もよく眠れないふうで、しょっちゅう起き上がっている。自分からバスに乗って共済病院まで行くほか、近所の病院にも、鍼の施療所にも通っているが、病因はわからない、最近は起居のたびに深い咳が出る、という。(1990年2月上旬か)

○〔書肆山田の〕鈴木〔一民〕さんから電話があったのは十五日過ぎだったろうか。心臓、腹部CT、胸部レントゲン、胃カメラを診てもらったがすべて異常なし、なお、咳の原因を知るため、医師の紹介で肺の専門家のいる東邦大学医学部付属大橋病院にレントゲン写真を持参して診てもらったところ、肺尖症の初期と診断された、という。(1990年2月15日過ぎか)

○二月二十日頃には声がかすれ、共済病院で声帯麻痺と診断された。(1990年2月20日頃)

◎二月、会田綱雄死去。声帯麻痺のため声が嗄れ嚥下力も落ち食欲が細る。

◎〔二月〕二十八日、道玄坂百軒店の道頓堀劇場へ行く(長年親しんだストリップ・ショーの見納め)。

○二月末には体重がついに四〇キロを割った。原因を知るための検査を繰り返すが結果はシロで、このことがかえっていらだちを強め、眠れない夜が続いた。(1990年2月末)

◎三月、共済病院で内科の精密検査を受け結果は正常。折笠美秋死去。

◎四月十五日、自宅で誕生日を祝う。りぶるどるしおるの一冊として『うまやはし日記』書肆山田より刊行。鈴木一民、大泉史世、宇野邦一が来宅。差入れの料理とワインで祝杯。近所に住む吉増剛造から復活祭のチョコレートの玉子と誕生日おめでとう≠フメッセージが届く。足腰弱り体重三七・五キロの痛々しい七十一歳。一週間で体重二キロ増えるが不調。足の甲が亀のように浮腫む。

◎〔四月〕二十二日、雨の中渋谷駅前で見舞いの飯島耕一夫人と妻が会い入院を勧められる。

◎〔四月〕二十三日、共済病院で検査の結果、翌日入院。腎不全のため週三回の人工透析を受ける。二四時間体制で中心静脈の栄養点滴。『うまやはし日記』弧木洞版限定一〇〇部、書肆山田より刊行。

○〔……〕二十四日深夜だったか鈴木さんより電話あり、体重が急に一キロ増え足にむくみが出たので、陽子夫人と共済病院に行って入院を要請、いったん帰されたあと、血液検査の結果、逆に病院側から電話があって緊急入院させたとのこと。腎臓透析を続けつつ原因究明、ということらしい。鈴木さんと連絡をとりつつ、確率五〇パーセントという恢復を祈るほかない。(1990年4月24日か)

○月末の電話で、何が起こってもの覚悟を決める。(1990年4月末)

◎五月九日、結婚記念日。初めての輸血。大泉史世から贈られた銀のスプーンでゼリーひと口食べる。

○吉岡さんから対面をいい出したのは、その日、陽子夫人が医師に尋ねた結果を、腎臓は今後よくなることはなく、透析には生涯通わなければならない、と伝えた結果らしい。(1990年5月11日)

○たしかに痩せたが、目にも光があり血色もよく、その感想を率直に口にしたが、気休めに聞こえたかもしれない。一日置きの透析の翌日は比較的元気なのだ、と後で聞いた。(1990年5月12日)

◎〔五月〕二十五日、白血球六〇〇から二〇〇に減少し個室に移され面会謝絶。

○二十五日深夜だったか、鈴木さんからの電話で、白血球が突如激減し、無菌治療室に入るところを心理的影響を慮って個室に移した由。(1990年5月25日か)

○二十八日にも電話で最終的段階に来たことを確認する。(1990年5月28日)

◎〔五月〕三十日、妻の夜の付き添いが許される。重態。

○逝去の三十一日は、〔……〕八時半頃、自宅待機中の大泉さんを電話で捕まえたが、今晩じゅうは持ちそうだというので安心して、〔……〕吉岡さんの臨終は九時四分というから、〔……〕(1990年5月31日)

◎〔五月〕三十一日、午後九時四分、急性腎不全のため永眠。臨終には妻の他、居合わせた鈴木一民、妻の親友辻綾子、従妹太田朋子が立ち会った。

◎六月一日、自宅で仮通夜。

◎〔六月〕二日、巣鴨の医王山真性寺で本通夜。

◎〔六月〕三日、葬儀。町屋火葬場で茶毘に付された。(以上、《現代詩読本――特装版 吉岡実》思潮社、1991、二五一〜二五四ページ、《吉岡実全詩集》筑摩書房、1996、八一〇ページ)

多くの読者と同じように、私は新聞紙上で逝去が報じられるまで、吉岡の病気のことはまったく知らなかった。ただ、1989年12月20日、つまり亡くなる半年ほどまえ、喫茶店トップ・渋谷駅前店の入口すぐ右手の席で13時から14時20分まで一対一で面談したおり(それが吉岡さんと話した最後になってしまった)、体調が優れないにもかかわらず会ってくださったのに、恐縮したことを憶えている。あのとき、吉岡さんはなにかを予期していたのだろうか。――15時から自宅近くの歯医者〔雪下歯科?〕に行く予定で、耳は中目黒の〔東京共済〕病院で治療しており、だいぶ痩せた(2キロ?)とのこと。黒革のコートに太い畦のセーターという服装(〈吉岡実との談話(2)〉)――。もともと小柄だった吉岡さんは、さほど痩せたようには見えなかったが、鼻をぐずつかせていて、風邪っぽいようだった。それでも快活で、半年後に亡くなるとはまったく予想できなかった。逝去の報に、天が墜ちたように感じたものだ。その日から27年半(といえば、吉岡さんが筑摩書房に勤務した期間に相当する)が経とうとしている。

吉岡実(40代前半か)〔出典:NHK人間講座 ねじめ正一《言葉の力・詩の力》日本放送出版協会、2001年4月1日、一三五ページ〕
吉岡実(40代前半か)〔出典:NHK人間講座 ねじめ正一《言葉の力・詩の力》日本放送出版協会、2001年4月1日、一三五ページ〕


吉岡実と金子光晴(2017年9月30日)

吉岡実は初の随想集《「死児」という絵》(思潮社、1980)を増補して〔筑摩叢書〕に収める際、「X」に32篇を追加する一方で、元版の「W」までに収録した〈ひるめし〉〈兜子の一句〉〈会田綱雄『鹹湖』出版記念会記〉〈不逞純潔な詩人――金子光晴〉〈吉田一穂の詩〉の5篇を除いた。曰く「ついては、意にみたない五篇を省いた」(〈あとがき〉、《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、1988、三七〇ページ)。吉岡はまた「この書物は、〔菊→A5〕判十ポ〔三四二→三五〇〕頁・布装上製凾入なので、当然ながら、部数も少く、当時としては価額も高かったものである」(同前、三六九ページ)とも書いている。元版の担当編集者だった八木忠栄の話だと、当初から増刷は想定せず、初版の製作部数を1200〜1300部に設定したという。それもあってか、吉岡実の散文大全として刊行時点でのあらゆる文章を収録せんとしたものと思しい(実際には、未収録の文章も散見されるが)。上記の5篇は総じて短文で(〔筑摩叢書〕の組体裁だと〈兜子の一句〉が1ページで、長い〈吉田一穂の詩〉でも3ページ、他の3篇は2ページ)、元版のゆったりとした組体裁(10ポ39字詰15行組)ならともかく、〔増補版〕の詰んだ組体裁(13級44字詰19行組)だと、ことさら短く見えたのかもしれない。ちなみに元版本文の組指定は吉岡ではなく、八木さんの手になる。〈ひるめし〉は興味深い食べ物随想だが(何軒かの店は、UPUが神田小川町にあったころ、よく通ったものだ)、この手の文章は〔増補版〕になく、吉岡はこうした傾向を封印したかったのかもしれない。兜子に関しては、後に執筆した〈赤尾兜子秀吟抄〉が〔増補版〕に収録されたが、会田綱雄・金子光晴・吉田一穂の三詩人に関しては、他に替わるものがなく、単に省かれた形になった。今回はその〈不逞純潔な詩人〉を手掛かりにして、吉岡実と金子光晴について考えたい。

初出〈不逞純潔な詩人〉(《週刊読書人》1960年9月12日号)の切り抜き(吉岡家蔵のスクラップブックのコピー)
初出〈不逞純潔な詩人〉(《週刊読書人》1960年9月12日号)の切り抜き(吉岡家蔵のスクラップブックのコピー)

不逞純潔な詩人――金子光晴|吉岡実

 戦後刊行された詩集《蛾》によって、はじめて金子光晴を知ったぼくにとって、どうしてこの恐るべき詩人をうまく語れるだろうか。ぼくにも理解でき、共感をさそわれるのは、臆面もない女への執着だ。《蛾》は、女の嬌慢と不倫、その肉性の美と醜の追求に終始して、永らくぼくを魅蠱した。
 それから《非情》・《人間の悲劇》・《水勢》という戦後の作品を読みあさり、《鮫》は比較的最近よんだ。高村光太郎、萩原朔太郎にない西欧と東洋の交感をぼくなりに感じた。笑われるかも知れないが、金子光晴の詩をよむとき、浪費のすさまじさをおぼえる。女への浪費、金の浪費、時間の、物の――。かくもぜいたくな人生の浪費の輝きにぼくはめくるめく。
   *
 金子光晴をもっとも愛し、深い理解を示す三人の詩人の編集になるこの全集は、この罪科深い偉大な詩人の全貌を一つの絶景から見せてくれる。
 すなわち、年代順にゆけば、処女詩集《赤土の家》から第一巻がはじまるところを、あえて初期の最もすぐれた詩集《こがね蟲》を据えていることだ。ぼくもこの書ではじめて通読したのだが、まさしく《こがね蟲》のごとく、角度によって色彩が変る美しさにみちた詩集だ。ほかに《大腐爛頌》・《水の流浪》・《鱶沈む》・《路傍の愛人》・《老薔薇園》という貴重な詩集が完全なかたちで収められている。清岡卓行の解説(第一巻)は、その使命を越えて、みごとな詩人論といえよう。
   *
 金子光晴は近ごろ、折にふれ小説への憧憬をもらしているが、《老薔薇園》などをみると、わかる気がする。人間的には謎と伝説にみち、詩人としては不逞純潔な金子光晴の全集が遅まきながら刊行されたのである。(《「死児」という絵》、三〇四〜三〇五ページ)

同文の初出は《週刊読書人》1960年9月12日号の書評〈金子光晴全集 全四巻〉。ここで第1巻刊行時の同全集の概要を見ておこう。というのも、同書刊行半年後の1961年1月、版元である書肆ユリイカの伊達得夫が亡くなったため、第2巻以降は伊達の盟友、森谷均の昭森社から刊行され、当初企画の4巻本の「詩全集」に、第5巻の散文集を加えた5巻本全集となったためだ(初刷は第1巻から第4巻までが800部、第5巻が1000部)。初出の吉岡の書評のあとには、〈金子光晴詩集〔ママ〕・全四巻〉として、次のようにある。 「編集―秋山清・安東次男・清岡卓行◇第一巻=「こがね虫」ほか(既刊)◇第二巻=「女たちへのエレジイ〔ママ〕」「落下傘」「鮫」「蛾」「鬼の児の唄」「非情」「水勢」「人間の悲劇」◇第三巻=「赤土の家」初期詩篇(未刊詩集)、初期評論集◇第四巻=後期評論集/各B6・平均四三〇頁・九〇〇円・書肆ユリイカ」。 《金子光晴全集〔全5巻〕》(書肆ユリイカ・昭森社、1960〜1971)の概要を同全集函の記載から引く。

・《金子光晴全集〔第1巻〕》(書肆ユリイカ、1960年7月15日)=こがね虫/大腐爛頌/水の流浪/鱶沈む/路傍の愛人/老薔薇園
・《同〔第2巻〕》(昭森社、1962年11月30日)=鮫/女たちへのエレジー/落下傘/鬼の児の唄
・《同〔第3巻〕》(同、1963年10月25日)=蛾/人間の悲劇/非情/水勢
・《同〔第4巻〕》(同、1964年10月20日)=屁のやうな唄/新詩集/落ちこぼれた詩をひろひあつめたもの/赤土の家/初期作品/日記一束
・《同〔第5巻〕》(同、1971年8月1日)=マレー蘭印紀行/芸術について/佐藤惣之助論/ある序曲/詩人/新憲法二十年を祝って/日本人の悲劇

《金子光晴全集〔全5巻〕》(第1巻:書肆ユリイカ・第2〜5巻:昭森社、1960年7月15日〜1971年8月1日)の函  《金子光晴全集第1巻》(書肆ユリイカ、1960年7月15日)の函と表紙
《金子光晴全集〔全5巻〕》(第1巻:書肆ユリイカ・第2〜5巻:昭森社、1960年7月15日〜1971年8月1日)の函(左)と同・第1巻の函と表紙(右)

吉岡がこの書評を執筆した背景には、「〔飯島耕一と伊原通夫の詩画集《ミクロコスモス》は〕書肆ユリイカにとっては、画期的出版であり、当時の出版界にも稀れな美しい本であった。部数は百部で、頒価千円という高価なもの故、その売れ行きを伊達得夫も飯島耕一も心配していた。二人は知己、友人にそれとなく買ってくれるように、すすめて歩いたらしい」(〈飯島耕一と出会う〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、二一五ページ)と同様の、義侠心のようなものがあったのではないか。それは、吉岡の書評よりも先に発表された田村隆一による第1巻の書評(《図書新聞》1960年8月27日号、原題〈金子光晴という詩人――カルメンを熱演したときのこと〉)と較べてみれば明らかだ。田村はそこで金子光晴との出会い(金子のカルメン、田村のドン・ホセ、金子の妻子が出演する8ミリ映画《カルメン》を撮影後、十日ほどして自身が肺病で入院した逸話)を悠悠と語って、「光晴というと、「実直」という言葉がわたしの頭にうかんでくる」(〈金子光晴という詩人〉、《詩と批評A》思潮社、1969年12月25日、二〇二ページ)と結論づけている。末尾はこうだ。「造本は近来の出色。実直に、真面目に生きようとするものは、すべて購うべし!」(同前)。これを読んでいるはずの吉岡は、田村文とかぶらないように、自身と金子詩集との関係、金子詩の印象を中心に手堅くまとめている。全集の内容に関しては、田村がほぼ第1巻目次の引きうつしなのに対して、吉岡の書評には、《蛾》(1948)、《非情》(1955)、《人間の悲劇》(1952)、《水勢》(1956)、《鮫》(1937)、さらには《赤土の家》(1919)、《こがね蟲》(1923)、《大腐爛頌》(1960)、《水の流浪》(1926)、《鱶沈む》(1927)、《路傍の愛人》(1960)、《老薔薇園》(1960)と、実に12冊も登場する。田村の書評も極端だったが、吉岡のそれもいささか総花的だったようだ。だが、「女の嬌慢と不倫、その肉性の美と醜の追求に終始して、永らくぼくを魅蠱した」詩集として《蛾》を読みなおすことは、《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)への新たなアプローチともなるだろう。

蛾 [|金子光晴

今宵かぎりの舞台といふので蛾は、その死顔を妖しく彩つた。
刑具のやうな重たい腕環、首かざりなど、はれの装ひをことごとく身にあつめて。

立ちあがらうとしてよろめく身の衰へ。のこつてゐる人気。ありあけ月。
おもひだすのは、扈従の日の憂きつとめと、密通の夜の人目をしのぶ辛労と。

蛾はきりきりと廻る。底のない闇の、冥府の鏡のなかにくるめくその姿。
悔と、嬌慢と、不倫の愛の、一時に花さく稀有なうつくしさ。

それこそ鬼どもが、死人の肉でかりにつくりあげた一瞬の蠱[まどはし]。
真空の美。フォースタ博士があの世からよびよせてみせたヘレーヌ姫のあで姿。

吉岡が金子について書いた文章はこの〈不逞純潔な詩人――金子光晴〉だけだが、その後、対談で二度、金子について語っている。以下に掲げよう。

金子光晴と西脇順三郎

吉岡 まあ金子光晴の晩年の詩は読んでないんでね。どうなんだろう。
飯島 いや、『六道』っていうのの断片だけどね、いいですよ。それに西脇さん。こないだ西脇さんのシリーズの第六巻で、新作が出てるでしょう、あれおもしろかったね。むさぼるように読んだもの。えらいもんだね、やっぱり。すぐに読みたくさせる力をもってる。それもそんなに力入れた詩じゃないでしょう、ただもう折々に書いた詩だけどね。このあいだ、那珂さんの『はかた』も貰ってすぐむさぼるように読んだけど、それと違った意味で西脇さんの近作ね……。
吉岡 近作って未発表作でしょ。雑誌に発表したもんより、あれがやっぱりいいね。そういう感じがしたな。
飯島 だれに頼まれたわけでもなくても、すぐ読む気になってね、読めるんだから、えらいもんだと思ったな。
吉岡 だけど、われわれはね、老人になって詩を書けるかどうか……どうだろうね。ぼくは書けないだろうと考える。ひとのことは分んないんだけど、まあ老年になって西脇さんとか金子さん、それから草野さんみたいに、タフで書いていくということは、ちょっとぼくなんかはできないんじゃないかという、ある諦観があるわけだ。というのは、もっとひねって言うと、まあ何十年書いちゃうとやっぱり自己模倣の域を出ないんではないかという怖れがぼくにはあるんだけど……。
飯島 それは西脇さんだって、いま書いてる詩は、ぜんぜん新しい詩じゃなくて、前に書いた詩と同じですよね、テーマから方法から。それでもいいっていうふうになるんでね。それは人によって違うんで、絶えず変貌していくタイプもある。まあ西脇さんは一回大変貌したけど、それ以後はそんな大変貌してないけど、おんなしことを書いてもいいっていう人もいるわけですよ。
吉岡 だから短歌と近くなるのかな。
飯島 それは散文だってそうよね。正宗白鳥の晩年の散文なんてのはおんなしことばっかり書いている、それでも毎回おもしろいわけ。
吉岡 そういう利点を備えられたら幸せね。
飯島 だから要するに歌なんだよな、白鳥の。月給の話を書いても、それから街でこのごろスカートが短くなったり長くなったりする話を書いても、それを何度も何度も、「中央公論」に書き、「読売新聞」に書きというふうにしてね、おんなじことを、それでも毎回読んで愉しいわけよ。そうなると散文じゃなくて歌だけどね。もっとも白鳥というのは、歌から遠く散文を書いた人だけど、晩年のものはあのそっけない散文が歌になってんだな。そうなると、そんなもう自己模倣なんていうのはさかしらな近代の考えであってね。
吉岡 あ、ほんと。(笑)じゃもう、そこでちょっと頭さげておこうかな。
飯島 自己模倣といっちゃっちゃいかんのですね。ピカソなんておんなじ絵ばっかり描いてる。十年も二十年もおんなじ女の顔描いてさ、全部がおもしろいってのはさ。
吉岡 わかったよ、それは。結局書くべき人は書いて、それで読者にゆだねるということだよ。
〔……〕(飯島耕一との対話〈詩的青春の光芒〉、《ユリイカ》1975年12月臨時増刊号〈作品総特集 現代詩の実験 1975〉、二一二〜二一四ページ)


物質的な言葉

〔……〕
吉岡 最近、散文で読んで感銘したのは金子光晴の自伝三部作。『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』ね。だけどそこでぼくが疑問を持ったのは、あれは非常に素晴しい自伝なんだけど、一回読めばわかるから、読み返しができないわけ。若いころから、金子光晴は小説を書きたがっていたらしいが、最後にはああいう自伝小説を書いた。残念だけれど、謎がない。
金井 そう言っちゃ何だけど、単純なんですよね、本当の意味で単純なわけ。
吉岡 所謂波瀾万丈の人生を鮮烈に描いた大した作品だとは思うけど、繰り返し読むかと言ったらぼくは読まないかも知れない。だからもっとね、金子光晴が想像力とフィクションをないまぜにした作品を書いてくれたら、何回も読んだんじゃないかということね。そこから、自分をひっくるめて言うと、ぼくなんかあんなに波瀾万丈じゃないし、単純な体験しかないので、自伝的なものを書いても繰り返し読んでもらえるような作品は出来ない。それならフィクションと現実をないまぜにして、変なものを書きたいと、そういうことも考えてるわけ。
金井 金子光晴の自伝というのも、波瀾万丈さに対する興味で読み続けていっちゃうものだし、こういうことをやったのかという物語的な部分に対する驚きというものですものね。だから極端に言っちゃえば、テレビとか新聞の記事を読むのと同じね。
吉岡 詩人は自伝を書いてはいけないんじゃないかと思ったりしている?
金井 でもそれは吉岡さんが書いたりする場合とまったく次元が違いますもの。
吉岡 だから西脇順三郎は自伝的なものを全然書いてない。自分は自伝を書くほど波瀾万丈ではない、非常に平凡であると言ってとうとう書かなかった。家族のことなんて皆無でしょ、あの人の文章には。だからわれわれの想像力を駆り立てる謎が、ひょっとしたらあるんだ。
 金子光晴だって、われわれが読み切っちゃったと思うのが僭越であって、読みとれない部分があると思うのね。ただ、作品化していく過程で相当フィクションをいれたほうが謎が出るんじゃないかと思う。
金井 それにちょっと鈍重な気がしませんか、金子光晴の自伝って。ありのままでさ。
吉岡 うん、素晴らしかったんだけど、なおかつそういうね……自分が散文を書く場合どうなんだということから引き比べてそういうこと思っちゃったのね。自分がどんなもの書けるかは皆目わからないことだけれど……。(金井美恵子との対談〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉、《現代詩手帖》1980年10月号〈特集=吉岡実〉、一〇二〜一〇三ページ)

飯島との対話は金子光晴が亡くなって半年後のもの。このとき吉岡は、金子の遺著《鳥は巣に 未完詩篇 六道》(角川書店、1975年9月30日)を読んでいない。飯島の金子詩への傾倒ぶりとは径庭があると言わねばならない。金井との対談は、吉岡が詩人の書く散文について思案していた時期だったようだ(吉岡自身、フィクションを交えた散文、すなわち小説への願望を語っていたことがある)。金子の自伝三部作(《どくろ杯》《ねむれ巴里》《西ひがし》)は《金子光晴全集〔第7巻〕》(中央公論社、1975年11月20日)のあと、1976年から77年にかけて中公文庫に入っているから、吉岡はこれで読んだのだろうか。私も《どくろ杯》《ねむれ巴里》は読んでいたので、二十数年ぶりに読みかえした(《西ひがし》は初めて読んだ)。金子の自伝には、言及されていない重要な事項も多いようだが、文章は総じて率直で、波瀾万丈の人生を叙すためにはこうした文体の功徳も大きかった。吉岡の指摘するとおり、繰りかえし繙読にたえるものかということになれば微妙で、私がもう一度読むとすればやはり二十数年後、内容をすっかり忘れたころに、ということになるだろうか。

〔付記〕
吉岡実は金子光晴との個人的な付き合いについて、なにも書きのこしていない。だが、西脇順三郎・金子光晴監修《詩の本〔全3巻〕》(筑摩書房、1967)の装丁を手がけているくらいだから、面識はあったに違いない(金子は〈T 詩の原理〉の巻頭に〈詩とは何か〉を執筆している)。また、証言はないが《定本 金子光晴全詩集》(筑摩書房、1967年6月30日)の装丁も吉岡だったかもしれない。原満三寿編〈〔金子光晴〕年譜〉の「昭和42年(1967)」には「11月20日、『若葉のうた』『定本金子光晴全詩集』の出版記念会(四谷〈主婦会館〉)開催。安東次男、松本亮、壺井繁治、秋山清、井沢淳、吉岡実、他、「あいなめ」同人などが出席」(原満三寿編《金子光晴〔人物書誌大系15〕》日外アソシエーツ、1986年10月9日、二四ページ)とあるし、同じ1967年には、12月15日付で献呈署名入りの《吉岡実詩集》(思潮社、1967)を金子に贈っている。これは、《詩の本》の最終回配本〈V 詩の鑑賞〉が12月15日の発行だから、出版社の社員として見本を監修者に渡すついでに、詩人として《吉岡実詩集》を献呈したと思しい。奇しくもこの年、金子光晴と吉岡実の全詩集が出揃ったわけだ。吉岡は、金子光晴逝去(1975年6月30日)の際には、自身が編集する《ちくま》77号(1975年9月)に会田綱雄の〈金子光晴先生(哀悼)〉を載せている。なお、金子光晴が吉岡実に言及した文章を私は知らない。

金子光晴に宛てた献呈署名入り《吉岡実詩集》(思潮社、1967)
金子光晴に宛てた献呈署名入り《吉岡実詩集》(思潮社、1967)〔出典:ほうろう青空バザール 2016年1月9日(土)& 10日(日)


〈冬の休暇〉と毛利武彦の馬の絵(2017年8月31日)

秋元幸人の〈吉岡実の《馬》の詩群〉は、〈吉岡実が《卵》を置く場所〉と並んで、屈指のモノグラフ《吉岡実アラベスク》(書肆山田、2002年5月31日)のなかでも出色の論考だが、私はそこで初めて毛利武彦(1920〜2010)の存在と毛利の馬の絵のことを知った。

〔……〕彼〔=吉岡実〕と《馬》との具体的な関係は、極めてスカトロジックなそれを基調としている。これは或いは新兵としての労役がもっぱらその方面に限られていたことに拠るからかも知れなくて、吉岡より一年後の一九四二年に近衛騎兵隊重機関銃部隊に入隊した過去を持ちながら、好んで馬を描きつづける画家毛利武彦もまた「馬の世話が大変で、馬の肛門まで手を入れて洗ってた」と述べたことが有る〔註=毛利武彦「タブローとしての日本画」一九八五年〕。戦後数十年を経てなお鮮やかなその経験は、毛利に在ってはいつかほろ苦い思い出と変じたものらしく、〔……〕(《吉岡実アラベスク》、二〇四ページ)

秋元は、引用末尾の省略部分で《毛利武彦画集》(求龍堂、1991年3月31日)の〈作品にふれて――作者覚書〉から作品〈30-馬と人〉〔1969年/224.0×151.8/麻紙,膠彩/第33回新制作協会展/箱根・芦ノ湖成川美術館蔵〕の覚書を引いてから、「軍馬の世話を任された兵士たちが後々までも忘れかねることの一つは、どうやら《糞尿まみれの藁》ということに集約されるようなのである」(同前)と続けている。博捜を極めた秋元の文献探索はここでも核心を突いており、私もまた上掲省略部分で秋元が引いた毛利による覚書を掲げないわけにはいかない。

騎兵隊のつらかった廐作業の寝藁の臭いが,不思議な懐かしさに変じていて,馬事公苑に写生に通いながら,ひそかに自分の戦争体験を反芻していた。(〈30-馬と人〉覚書、《毛利武彦画集》、二〇〇ページ)

秋元幸人が毛利武彦に言及したのは、《吉岡実アラベスク》で数えればこの八行だけだった。その本文と二つの註記に促されて毛利の画集で〈馬と人 1969年 150変〉を観て、私はすぐさま吉岡の詩篇〈冬の休暇〉(D・12、初出は《日本読書新聞》1960年3月7日号)を想起した。前後関係からいって、吉岡が毛利武彦の絵を観てから詩篇を書いたということはありえないし、毛利が吉岡実の詩を読んでいたということも、おそらくないだろう。だが、私はここに両者を並べて較べてみたいという誘惑に逆らうことができない。吉岡実の詩と毛利武彦の絵には、ともに馬のフォルム、馬の生命力に対する惜しみない讃嘆があるように思う。

毛利武彦の絵画〈馬と人 1969年 150変〉〔出典:《毛利武彦画集》求龍堂、1991年3月31日、五〇ページ〕
毛利武彦の絵画〈馬と人 1969年 150変〉〔出典:《毛利武彦画集》求龍堂、1991年3月31日、五〇ページ〕

毛利武彦の〈馬と人〉は不思議な画面構成をとっている。手前左方に、ほぼ横向きの黒い馬とその首に手をかけた同じく黒い人のシルエット。上段右方に、首を曲げた褐色の馬に跨る人とその右側に立つ人。やや見えにくいが、上段左角の黒いスペースには、右に頭を向けた青い馬の背に手を当てた人が左側に立っている。これら三組の馬と人が、それぞれ独立した画面ででもあるかのように、みながみな(馬も人も)裸身でたたずんでいる。三組を統括する単独の視点が画面の手前に設定できないのも、この絵を謎めいたものにしている。毛利の意図は、馬の三態を通じてすべての馬の姿を描くことにあったと言えようか。

秋元の論考〈吉岡実の《馬》の詩群〉で私がとりわけ注目するのは次の二箇所である。
「《馬》は、従って当然にも、吉岡実にとっては戦いを顕示する禍々しい生き物でもあった。このため、彼の詩に在っては、輓馬や荷馬或いはそれを操る者はしばしば強い死臭を帯び、それらの運搬するところのものは殺傷力を備えた物体、これを総じて静謐な日常を掻き乱す存在となることが多かった」(前掲書、二〇八ページ)。
「この一方で、吉岡は《馬》が本来備えている形態美に古来付与されてきた強靭で雄渾な生命力といったものにも注意を払うことを忘れていない。それは多く官能的な方向に敷衍され、時としてそれは、彼が必ずや愛誦していた筈の西東三鬼の名句「白馬を少女涜れて下りにけむ」の無意識の影響も遠く与ってか、女体の美そのものとも同一視されることがあった」(同前、二一一ページ)。
この、後者の言の後に秋元が引く吉岡実詩こそ〈冬の休暇〉である。原文は詩句を一字空けで追い込んでいく散文詩型だが、ここでは一字空けの処で詩句を改行して読んでみよう。原文にはあって失われたもの、それは詩句の混沌であり、次に掲げる改変型=行分け表記にあるのは時間の進行に伴う直截さである。

 そこでは灰色の馬と灰色でない馬とがすれちがう
 灰色の馬が牝らしく毛が長く垂れさがり
 別の馬は暗緑の牡なのだろうはげしく躍動する
 たがいのたてがみも尾も回転する毛の立体にまで高まって
 少女にはそれが見える
 完全な円のふちから
 ときどきはみ出るものがオレンジ色に光り
 中心はもう時間が経過したので黒い
 或晩にお父さんとお母さんがのぞかせた一角獣のように恐ろしく
 少女は自身の腿に熱を浴びる
 まだすれちがっている馬たち
 ピエロでない赤い帽子の男は
 少女が気づいた時から人ではなく
 だれもが持っている共犯のはにかみの心
 テントの底が深くなればなるほどゆっくり
 馬の方へちかづく
 命令するために非常に細長い棒をふりおろす
 電光もひきあげる街の看板の方へ
 今夜は充分泣けると少女は思う
 灰色の牝馬のすんなりした腹に異父弟が宿ったから
 このみじかい冬の休暇が終るとともに

「ピエロでない赤い帽子の男は 少女が気づいた時から人ではなく」というのは「灰色でない馬」=「暗緑の牡」を指すのだろうか。いずれにしても、終わりから二行めの「灰色の牝馬のすんなりした腹に異父弟が宿ったから」という詩句が曲者である。ここにいたって、吉岡の描いた人馬一体の交感図は完成をみる。「或晩にお父さんとお母さんがのぞかせた一角獣のように恐ろしく」は、遠く〈聖少女〉(F・10)の「紅顔の少女は大きな西瓜をまたぎ/あらゆる肉のなかにある/永遠の一角獣をさがすんだ!」を用意していよう。それが牽強付会でないことは、同詩の結末「言葉の次に/他人殺しの弟が生まれるよ!」で明らかだといえる。それにしても〈冬の休暇〉の骨格はみごとである。ここに、散文詩型において最高度の形をとっているそれに優るとも劣らない強力な傍証がある。Burton Watson編の英訳詩抄《Lilac Garden: Poems of Minoru Yoshioka》(Chicago Review Press、1976)のHiroaki Sato訳〈Winter Vacation〉(同書、六五ページ)である。

Winter Vacation | Minoru Yoshioka

There a horse which is gray and a horse which is not gray pass each other. The gray horse, which looks like a female, has long dangling hair, and the other horse, a dark green male perhaps, violently leaps and jumps. Both the manes and tails of the two horses become heightened to a rotating solid of hair, and the girl can see it. That which is occasionally forced out of the rim of the perfect circle gleams orange, and its center, because there has already been a lapse of time, is dark. It is as terrifying as the unicorn that one night father and mother gave a glimpse of, and the girl gets a splash of heat on her thighs. The horses are still passing each other. The man in a red cap, who is not Pierrot, is not a human being from the moment the girl noticed him, and the bashful heart of conspiracy that everyone has. The deeper the bottom of the tent becomes, the more slowly he goes near the horses. He swings down an extremely slender stick to give an order. Toward the town billboard to which even electric light withdraws. Tonight I can cry my heart out, the girl thinks. For a younger half brother has lodged in the svelte belly of the gray female horse. As this short winter vacation comes to an end.

これを読むと、吉岡がいかにこの詩を対位法的に展開しているかがわかる。《Lilac Garden》は、おもに《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968)掲載の詩篇を踏襲した選択だったが、同書に収められていない〈冬の休暇〉を佐藤紘彰(とバートン・ワトソン)が選んで訳載したことが納得できる佳篇である。毛利武彦もこの詩篇を歓んだのではあるまいか。


吉岡実と三島由紀夫(2017年7月31日)

澁澤龍彦は1970年11月25日の三島由紀夫自決直後に草した〈三島由紀夫氏を悼む〉(初出は《ユリイカ》1971年1月号、《偏愛的作家論》青土社、1972年6月10日、所収)でこう書いている。
「三島由紀夫氏は、何よりも戦後の日本の象徴的人物であったが、私にとっては、かけがえのない尊敬すべき先輩であり、友人であった。お付き合いをはじめたのは約十五年以前にさかのぼるが、私は自分の同世代者のなかに、このように優れた文学者を持ち得た幸福を一瞬も忘れたことはなかった。その作品を処女作から絶筆にいたるまで、すべて発表の時点で[、、、、、、]読んでいるという作家は、私にとって、三島氏を措いて他にいない。こういうことは、たまたま世代を同じくしなければあり得ないことである。私のささやかな魂の発展は、氏のそれと完全にパラレルであったと言える」(《澁澤龍彦全集〔第11巻〕》河出書房新社、1994年4月12日、一一九ページ)。
「すべて発表の時点で」の傍点は澁澤自身によるものだが、おそらくは吉岡実もその「処女作」と「絶筆」を読んでいるのではないか。吉岡は三島の処女短篇集《花ざかりの森》(七丈書院、1944年10月15日)刊行当時、一兵士として中国大陸にあったから「発表の時点で読んで」いないが、1945年11月に復員した三か月後には早くも同書を購っているのだ。「二月十五日(金曜日) 早春のような暖かさ。三島由紀夫《花ざかりの森》と短歌文学集《釋迢空編》を買う」(〈日記 一九四六年〉、《るしおる》6号、1990年5月31日、三〇ページ)。一方、自筆年譜の「昭和四十五年 一九七〇年 五十一歳」には「初冬、三島由紀夫の割腹死に衝撃を受ける」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984、二三三ページ)とあり、日記の「一九七〇年十一月二十五日」には「西脇順三郎先生と会田綱雄とラドリオで歓談の数刻。午後一時近く、駿河台下角の三茶書房のガラス戸の「三島由紀夫切腹、死亡!」との貼紙が眼を惹く。なんとなく胸苦しく、会社に戻ると、それは事実であり、愕然とする。夕刊で状況がわかった。楯の会の青年たちと、市ヶ谷の自衛隊へ乗り込み、刃傷したあと、三島由紀夫は切腹したという。しかも介錯を受け、首が斬り落されたとのこと故、いっそう衝撃を受けた。瞬時に「伝説の人」となってしまったから、もう会う機会は失われた。この夜は寝苦しく、明け方まで眠れなかった」(〈27 三島由紀夫の死〉、《土方巽頌》筑摩書房、1987、四五ページ)とその衝撃を記している。自決前年の九月、吉岡実はただ一度、三島由紀夫と対面しているのだ。《土方巽頌》の〈20 スペースカプセルの夕べ――奇妙な日のこと〉(初出〈奇妙な日のこと〉は《三好豊一郎詩集1946〜1971》栞、サンリオ、1975年2月15日)の前半はこうだ。

 一九六九年の九月二十四日は、私にとって忘れられない日になるかも知れない。雨の夕方だった。西脇順三郎、鍵谷幸信そして会田綱雄の三氏と須田町近くの牡丹へ行った。久しぶりで食べたシャモ料理だったが、私にはうまいとは思えなかった。おそらくからだの不調のせいだったろうか。寒い日で、赤々とした熾火の色と古風な座敷の雰囲気に、私はいくぶんか心がやすらいだ。かえりの薄暗い玄関に立つと、シャモの羽毛が幽かに漂っている。そして並べられた靴や雨傘にも羽毛が付着していた。私たちは雨の激しくなった外へ出た。
 淡路町の地下鉄入口前で三人と別れ、私は赤坂のスペースカプセルへ向った。土方巽と弟子たちの舞踏が見られるはずだ。まだ七時という時刻なのにこの界隈は真暗い小路と坂。一度だけ白石かずこの朗読を聞きにきたきりなので迷った。狭い地下へ入ると、天井全体が金属製の球体で蔽われ室内は冷たい光のなかにあった。二組ほどの男女の客と加藤郁乎が一人片隅で酒を飲んでいた。
 わたしたちの外に誰が呼ばれているのか、二人にもよくわからないので、妙に落着かないひとときだった。ショーが始まる少し前ごろから、客も来はじめる。三好豊一郎、松山俊太郎、種村季弘たちがきた。そして澁澤龍彦と恋人らしい女性が現われた。
 ろうそくの炎や鞭らしきものの影。芦川羊子を中心に女三人、男三人の黒ミサ風な奇異な踊りだ。しかしそれは、土方巽が少数の人間に顕示する暗黒的秘儀にくらべれば、ショー的でエロチックなダンスだ。畳ぐらいの大きさの真鍮板を自在に使って、激しい律動と音響のリズムにのって女の裸像を囲みこんだりするシーンはおもしろかった。柔かい肌と巨大な刃とも云える真鍮板の交錯は、観ている者を絶えずはらはらさせる。ああ肉体の硬さかな! 酒席の客はいささか興奮させられたことだろう。
 やがて終ると、土方巽がわたしたちの席へきた。さすがに疲れたので、私は早目に帰ろうとした時、一種のどよめきに似た雰囲気がつくられたようだ。三島由紀夫が一人の青年をつれて入ってきた。彼は旧知の澁澤龍彦や土方巽の席へ着いた。
 かねてから、三島由紀夫が私の詩をひそかに読んでいるということを、高橋睦郎から聞いていたので、いつの日か彼と会いたいものだと思っていた。この偶然は逃すべきでないと、私は帰ることをやめ自分の席へ戻り、三島由紀夫と初めて挨拶をかわした。酒と音楽のなかで、残念ながら親しく話合う情況ではなく、坐った位置も少しく遠かった。私は彼の闊達な表情を見ていた。二回日のショーが終ったのは十一時だろうか。三島由紀夫は礼をのべて去った。これがおたがいの最初で最後の出会いであった。(同前、三四〜三六ページ)

土方巽は三島由紀夫の長篇小説の題名を藉りた舞台作品〈禁色〉(1959)で実質的にデビューしているくらいだから、三島と親しかった。この夜の出会いも、土方巽が吉岡実を三島由紀夫に引きあわせたようなものだったと言えなくはない。かくして、吉岡の《土方巽頌》には三島由紀夫がたびたび登場する。

「舞踏ジュネ」の会〔一九六七年八月二八日〕から二カ月後に、笠井叡独舞公演「舞踏への招宴」が第一生命ホールで催された。私は初めて妻をつれて行った。招待席には常連のほか、瀧口修造と皮ジャンパー姿の三島由紀夫が見えた。(〈4 「変宮の人」〉、一一ページ)

 〈日記〉 一九七一年一月九日
 〔……〕土方巽と近くの喫茶店蘭で、舞踏、詩そして三島由紀夫のことなど、二時間も喋り合う。(〈29 アートヴィレッジにて〉、五一ページ)

 〈日記〉 一九七一年十月五日
 夕方、代々木八幡の青年劇場へ行く。笠井叡と「天使館」の舞踏の会。久しぶりで観る彼の踊りは素晴しかった。とくに帝国軍人の姿で日本刀をふりかざす一瞬、三島由紀夫を想起した。(〈31 秋水のように〉、五三ページ)

     3 「禁色」

「鶏が身悶えし、少年の手から羽を抜こうとする。白の海水パンツを着けた美少年の両脚は突っぱり、肘は強く胸側に緊められ、美貌は歪み、眼差は宙をさ迷っていた。緊張した背骨から流れ出る力が、突如、鳥を抱くあの心許なさ、やさしい愛を越え、手に狂暴な感情を走らせた。少年は後ろに退いた腰の股間に鶏をはさみ、身を沈めたのである。この行為の意味を決定的にしたのは、いつの間にか、少年の斜め後ろに現われた人物、ぴったり身に着いたグレイのズボン、半裸の男、そして、一部始終を見ていたその視線である。少年は見られたのだ。少年のなかで行為は禁忌となったのである。少年はぐったりとした鶏を置いて逃げようとした。舞台は突然、闇となり、少年の叫びと逃げる足音、無言のまま迫り追う男の息と足音が闇を揺すり、遠ざかった。」 (合田成男)(〈64 暗黒舞踏派宣言前後〉、一二二ページ)

     4 共演の少年

「褐色のドーランとオリーブ油を体に塗って、頭を剃り上げ、腰と足にぴたっとフィットした裾広の黒いジャージイのパンタロンで、『禁色』に土方さんは登場しました。そのパンタロンは当時のジャズを踊るときのコスチュームでもありました。音楽は土方さんご自身が横浜の私の家で、深夜に周りが静かになるのを見計って、性行為のクライマックスをうめき声や激しい呼吸音で録音したものでしたが、愛の言葉は『ジュテーム』とフランス語だったのです。私はとても不思議な思いで聞いておりました。ハーモニカのエンディングは静かなブルース調のメロディー(作曲、演奏安田収吾)で、後にフランス映画でも『墓に唾をかけろ』のハーモニカや『死刑台のエレベーター』のマイルス・ディヴィス、『運河』のモダン・ジャズ・クァルテットなどアメリカのジャズと結びついて流行りましたが、反抗、怖れ、ミステリー、そしてジャズ、『禁色』にはこれ等も全て含まれてあったように感じられるのです。」 (大野慶人)(同前、一二三ページ)

〈27 三島由紀夫の死〉で澁澤の三島由紀夫追悼文を引用(本稿の冒頭とは別の箇所)しているように、吉岡にとって三島由紀夫の自決がどれほどの衝撃だったか多言を要しない。事件当時、私は中学三年生だったが、なぜか新聞報道よりも当時のFM東京のラジオニュースが印象に残っている(ラジオではグランド・ファンク・レイルロードのライヴアルバムがかかっていたが、時代のBGMともなれば、同年4月にリリースされたマイルス・デイヴィス《ビッチェズ・ブリュー》だろう)。三島はEXPO'70で浮かれていた日本に、おのれの肉と血糊をもってその呪詛をたたきつけた。では、吉岡は三島由紀夫の文学をどう思っていたのか。飯島耕一を筆頭とする詩人たちとの座談会に就くに如くはない。

□ 三島由紀夫・戦後が鴎外にぶつかった

飯島 それから、一つ聞きたいんだけれども、最近ぼくは三島由紀夫というのがえらく気になるんですよ。いまごろになってね。きょうは西脇順三郎から始まって、最後に三島由紀夫のことをみんなに聞きたいなと思って来たんですけれども。ぼくが、三島由紀夫気になるなあと言ったら、ぼくの友人たちは変だ、変だと言うんですよ。まさか飯島がと、不思議がられる。なんか三島由紀夫という存在がいま欠けているんだなあということをよく考えるんですよ。吉岡さんなんかは……。
吉岡 三島由紀夫をあんまり読んでいないんだ。読んだのは、『仮面の告白』とか『愛の渇き』ぐらいで、あんまり読んでいない。有名な『金閣寺』も読んでいないし。だけど、『仮面の告白』はやっぱし天才の書いたものだとぼくは思うんだよ、はっきり言って。だから、これから読むようになると思うんだけど、ただ、三島に一回会えたということは、一つの出合いだと思うのよ。これは土方巽さんの弟子の舞踏をスペースカプセル〔を→で〕やったとき、バタバタッと来た客の中に三島がいたわけよ。
飯島 小さい人だったね。
吉岡 そうそう。ぼくのことも三島さん、知っているらしくて、そこではじめて挨拶をかわしたんだ。たった一回。ああいうスペースカプセルみたいな、ワーワーとしていたでしょ。だから、ほんとうに二言三言ことばをかわしただけ。生きている三島由紀夫を見た唯一の日だった。これはやはりよかったという感じがあってね。ぼくも、読むとしたらこれから読むんじゃないかという気がする。
那珂 三島由紀夫が死んで二、三日後に吉岡さんに逢ったとき、ひどくショック受けてたのをおぼえています。ぼくもそうだったから。時代の犠牲者ですよ、やっぱり……。
飯島 三島由紀夫はよくニセの宝石だとか、ニセモノだと言われているんだけど、このニセモノというのがぼくにはいまとってもおもしろいんだね。魅力的に感じられるんでね。生きているときの三島はむしろ嫌いだったんだけれど。ところが五年ぐらい経つと、生きているときの感じがなくなって、すごく気になるんだね。
吉岡 郁乎さんなんか親しいんじゃなかったかしら……。
加藤 吉岡実が羨ましいな。いやぁ、ぼくはまだ引っかかるところがあるんですよ。そんなに読んでいませんけどね。いま吉岡さんが『金閣寺』を挙げたけど、イメージとして覚えているのは、『金閣寺』の中に日本刀の刃をなめると甘いと言うのがあるでしょう。ああいうところはどうしようもないくらい、好きですよ。〔……〕
飯島 とにかく、ニセモノだとか言われたけれども、いまもフォニーだとか、フォニー論争なんて言うけれども、三島由紀夫のほうが立派なフォニーで、立派なニセモノだという気がするんだけどね。三島由紀夫のフォニーぶりは颯爽として、戦後の闇市臭い、インチキ金融ブローカーみたいなものに似ているだろう。ああいうキンキラ金の、死んだときもニセモノの軍服を着て切腹だけはホンモノだった。三島由紀夫が死んだときに戦後は終ったんだなあということを、すごく感じるんですよ。夕方のバスに乗っていたりするとね。
加藤 ああいうスキャンダラスなものをモデル小説で終らせないで、他にいい方法がないのかね。〔……〕
飯島 でも結局三島は敗北したんですね。誰に敗北したかというと、手近かなところでは鴎外に敗北したと思うんですよ。鴎外というのは、軍服もなにも全部本もので、三島はやること、なすこと、全部鴎外をねらったのが、裏目に出ているんですね。だから、鴎外に目標を定めて、戦後が鴎外にぶつかったようなもので、全部傷つき、最後はせめてニセモノの軍服を着て、アンチテーゼを出そうと思ったんだけれども、それすらもなにかわびしいようなね。
吉岡 飯島の三島論、大へんいいものが出たね、聞いているうち。
飯島 夕方のバスなんかに乗っていると、三島のことを考えるんだな。そうすると、ああ……というような感じがしてね。
加藤 あんた、惚れてるんだな。
飯島 ああ、意外にね。
加藤 惚れてるんだよ。惚れるっていうのはいいことだね。三島由紀夫に親しい土方巽の話によると、どの作品か知らないけれども、三島の作品の中に、猫を刀で切り殺する〔ママ〕という話があるんですってね。で、実際に庭で切ってみたそうですね、その感じを知るために。……剛造さんは読んでいるんじゃない?
吉増 ぼくも、いま飯島さんがほとんど説明なさったから、あとで言うのは恥しいんですけどね、吉岡さんと同じように、『仮面の告白』にとっても感心したんです、それ以後はどうもあんまり感心しないんですけどね。〔……〕
吉岡 唐突なたとえだけれども、横光利一と三島と似ているんじゃないかしら。そういう感じがするんだよ。横光利一はぼくの好きな作家なんだけど、いま不当に評価が低いわけよ。だけど、人物を人形のごとく動かす……やはり横光というのは大へんな作家だと思うのよ。ふたたび唐突なことだけれども、横光と三島というのは似ているんじゃないかというのを、いま思うのね。
飯島 だから、そういう意味で、横光が無視されているように、三島もおそらくだんだん無視されてくるんじゃないか。やはり横光より川端でしょ、日本は。だから、三島より誰かというのはわからんけれども。
吉岡 やっぱりリアリティを小説のほうに持って来たほうが強いんで、いわゆる虚構的にいこうという、新しい小説をつくろうという場合は、横光の悲劇があって、三島の悲劇があるんじゃないかという気がするのね。
吉増 それを飯島さんの言葉で言うと、涙線を刺激するほうと、そうじゃないほうということでしょうね。
加藤 それから三島という人は、歌が好きでしたね。
吉岡 春日井〔健→建〕を発見した人でしょう。
那珂 しかし、彼の小説には短歌的な要素はないでしょう。不思議に、ない。
加藤 王朝文学と言っちゃおかしいんですけれども、亀井勝一郎や中村真一郎の考えとは違ったアレで、昔の和歌の世界にひたっていても少しもおかしくなかったところがあるんじゃないんですか。〔……〕
(吉岡実・加藤郁乎・那珂太郎・飯島耕一・吉増剛造〔座談会〕〈悪しき時を生きる現代の詩――座談形式による特集〈今日の歌・現代の詩〉〉、《短歌》1975年2月号、八四〜八六ページ)

私は吉岡がこの座談会で三島の長篇小説《禁色》(新潮社、第一部《禁色》:1951、第二部《秘楽》:1953)に言及していないのを残念に思う。吉岡は同作を読んだのか、読まなかったのか。それというのも、宇野邦一が〈三島由紀夫という同時代人〉(《土方巽――衰弱体の思想》みすず書房、2017年2月10日)で「奇妙に例外的で印象に残る」(同書、一五四ページ)と指摘した、主人公である同性愛者の美青年(南悠一)が若い妻(康子)の出産に立ち会う場面が、吉岡実の詩篇〈マダム・レインの子供〉(G・5、初出は《ユリイカ》1973年1月号)を想起させるからである。宇野はそこで《禁色》から数行を引いて、「長々と続く倒錯的な狂言回しのあとに描かれたまったく例外的な場面である。青年はこのとき家族の絆に目覚めたわけではなく、生まれてくる生命の尊さを自覚したわけでもない。むしろこれは視線の転換という出来事なのである。そして視線の転換には、出産という「肉」の出来事、生命の劇に立ち会う場面が必要であり、三島文学の理知も作為も倒錯もこの出来事を何か絶対的な脅威として迎えている」(同書、一五五ページ)と評した。「視線の転換」とは、私に言わせれば「見られることに対する防御から、見ることによる攻撃への転身」である。三島の《禁色》の〈第二十五章 転身〉にはこうある。

 『見なければならぬ。とにかく、見なければならぬ』と彼は嘔吐[おうと]を催おしながら、心に呟[つぶや]いた。『あの光っている無数の紅い濡れた宝石のような組織、皮膚の下のあの血に浸[ひた]された柔かいもの、くねくねしたもの、……外科医はこんなものにはすぐ馴れる筈だし、僕だって外科医になれない筈はないんだ。妻の肉体が僕の欲望にとって陶器以上のものではないのに、その同じ肉体の内側も、それ以上のものである筈はないんだ』
 こんな強がりを、彼の感覚の正直さはすぐ裏切った。妻の肉体の裏返しにされた怖ろしい部分は、事実、陶器以上のものだったのである。彼の人間的関心は、妻の苦痛に対して感じていた共感よりもさらに深く、無言の真紅の肉に向けられ、その濡れた断面を見ることは、まるでそこに彼自身を不断に見ることを強いられているかのようであった。苦痛は肉体の範囲を出ない。それは孤独だ、と青年は考えた。しかしこの露[あら]わな真紅の肉は孤独ではなかった。それは悠一の内部にも確実に存在する真紅の肉につながり、これをただ見る者の意識の裡[うち]にも、たちまち伝播[でんぱ]せずにはいなかったからである。
 悠一はさらに清潔にかがやいた銀いろの残忍な器具が、博士の手にうけとられるのを見た。それは支点の外れるようになっている大きな鋏形の器具である。鋏の刃にあたる部分は、彎曲[わんきよく]した一双の大きな匙形[さじがた]で、その一方がまず深く康子の内部に挿し込まれ、もう一方が交叉させて挿し込まれたのち、はじめて支点が留められた。鉗子[かんし]である。
 〔……〕
 鉗子は肉の泥濘[ぬかるみ]になかに、柔かい嬰児[えいじ]の頭をさぐりあてた。それを挟[はさ]んだ。二人の看護婦が、左右から康子の蒼白[そうはく]な腹を押した。
 悠一は自分の無辜をひたすら信じた。むしろ念じたと謂[い]ったほうが適当である。
 しかしこのとき、苦しみの絶頂にいる妻の顔と、かつて悠一の嫌悪の源であったあの部分が真紅にもえ上っているのとを、見比べていた悠一の心は、変貌した。あらゆる男女の嘆賞にゆだねられ、ただ見られるためだけに存在しているかと思われた悠一の美貌は、はじめてその機能をとりもどし、今やただ見るために存在していた。ナルシスは自分の顔を忘れた。彼の目は鏡のほかの対象にむかっていた。かくも苛烈[かれつ]な醜さを見つめることが、彼自身を見ることとおなじになった。
 今までの悠一の存在の意識は、隈[くま]なく「見られて」いた。彼が自分が存在していると感じることは、畢竟[ひつきよう]、彼が見られていると感じることなのであった。見られることなしに確実に存在しているという、この新たな存在の意識は若者を酔わせた。つまり彼自身が見ていた[、、、、]のである。
 〔……〕
 ……羊水がしたたりおちた。目をつぶった嬰児の頭はすでに出ていた。康子の下半身のまわりで行われている作業は、嵐に抗する船の船員の作業のような、力をあわせた肉体労働に類していた。それはただの力であって、人力が生命を引き出そうとしていたのである。悠一は婦人科部長の白衣の皺[しわ]にも、働いている筋肉のうごきを見た。
 嬰児は桎梏[しつこく]から放たれて滑り出た。それは白いほのかな紫色をした半ば死んだ肉塊であった。何か呟[つぶや]いている音が湧[わ]いた。やがてその肉塊は泣き叫び、泣き叫ぶにつれて、すこしずつ紅潮した。(《禁色〔新潮文庫〕》新潮社、1969年1月30日、三六八〜三七〇ページ)

三島由紀夫は《禁色》執筆・刊行当時は20代後半で、まだ結婚しておらず(1958年、33歳のとき21歳の杉山瑤子と結婚)、このような出産の現場に立ち会うことができたのか、私には判断する材料がない。もっとも、自決の予行演習のようにして〈憂国〉の切腹シーンを書いているくらいだから、「人物を人形のごとく動かす」「虚構的にいこうという、新しい小説をつくろうという」執筆態度は三島の真骨頂で、驚くにはあたらない。若いころ医書出版社に勤めていた吉岡実にしたところで、現実に「出産という「肉」の出来事」に立ち会う経験があったとは思われない。ちなみに吉岡夫妻に子供はない。

マダム・レインの子供|吉岡実

マダム・レインの子供を
他人は見ない
恐しい子供の体操するところを
見たら
そのたびぼくらは死にたくなる
だからマダム・レインはいつも一人で
買物に来る
歯ブラシやネズミ捕りを
たまには卵やバンソウコウを手にとる
今日は朝から晴れているため
マダム・レインは子供に体操の練習をさせる
裸のマダム・レインは美しい
でもとても見られない細部を持っている
夏ならいいのだが
雪のふる夜をマダム・レインは分娩していたんだ
うしろからうしろからそれは出てくる
形而上的に表現すれば
「しばしば
肉体は死の器で
受け留められる!」
球形の集結でなりたち
成長する部分がそのまま全体といえばいえる
縦に血の線がつらなって
その末端が泛んでいるように見えるんだ
比喩として
或る魚には毛がはえていないが
或る人には毛がはえている
それは明瞭な生物の特性ゆえに
かつ死滅しやすい欠点がある
しかしマダム・レインの所有せんとする
むしろ創造しようと希っている被生命とは
ムーヴマンのない
子供と頭脳が理想美なのだ
花粉のなかを蜂のうずまく春たけなわ
縛られた一個の箱が
ぼくらの流している水の上を去って行く
マダム・レインはそれを見送る
その内情を他人は問わないでほしい
それは過ぎた「父親」かも知れないし
体操のできない未来の「子供」かも知れない
マダム・レインは秋が好きだから
紅葉をくぐりぬける

引用した《禁色》の直前には「マーキュロでもって真紅に塗られた裂け目にあてがわれたその帆布は、はげしい流出には音さえ立てた。局所麻酔の注射にはじまり、メスや鋏[はさみ]が、裂け目をさらにひろげて裂き、その血が帆布にほとばしって流れたとき、康子の真紅の錯綜[さくそう]した内部が、すこしも残忍なところのない若い良人の目にあらわに映った。悠一はあれほど陶器のように無縁のものと思っていた妻の肉体が、こうして皮膚を剥[は]がされてその内部をあらわにするのを見ては、もはやそれを物質のように見ることができない自分におどろいた」(前掲書、三六七〜三六八ページ)とある。吉岡が引用符で括った「しばしば/肉体は死の器で/受け留められる!」の出典がなにかわからないが、陶器のような肉体の裂け目の奥に見える真紅の錯綜した内部という、「絶対的な脅威」をまえにしたときの若い夫の驚異と同種のものであることは疑いない。

 ・マダム・レインの子供を/他人は「見ない」/恐しい子供の体操するところを/「見たら」
 ・裸のマダム・レインは美しい/でもとても「見られない」細部を持っている
 ・縦に血の線がつらなって/その末端が泛んでいるように「見えるんだ」
 ・縛られた一個の箱が/ぼくらの流している水の上を去って行く/マダム・レインはそれを「見送る」

三島の小説の主人公が(上掲引用の場面では)見ることに憑かれた人物であったように、〈マダム・レインの子供〉の話者もさながら見ることに憑かれた人物である。だが「他人」はそれを見ることができない。話者が「見た」というものを、ひたすら読むことができるだけだ。
ところで、「三島由紀夫が私の詩をひそかに読んでいる」という、その吉岡実詩とはなんだったのか。それは、大方の読者がそうであったように、《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)だと考えてよいのではないか。また「ひそかに」とは、三島が吉岡実詩について書いたことがなく、吉岡が三島に詩集を献じていないので、三島自ら入手したか周りの人間が調達したかして読んだ、というふうにとれる。その場合は部数の少ない単行詩集ではなく、《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959)だったかもしれない。晩年の三島がジェフリー・ボーナスとともに編んだ《New Writing in Japan》(Penguin Books、1972)には、自身の短篇〈憂国〉などの小説や秋山駿の評論とともに、吉岡の詩〈Still Life〔静物(B・2)〕〉と〈Past〔過去〕〉(ボーナス訳)が掲載されているが、二篇とも《吉岡實詩集》に収められているのだ。〈僧侶〉ではなく、《静物》からの二篇という処に編者ならではの着眼を見たい。三島による〈Introduction〉(ボーナス訳)には、詩人・吉岡実についての次の言及がある。

  Yoshioka Minoru, Anzai Hitoshi and Tamura Ryuichi are all the cold, rather monastic Apollo type. They enjoy a certain respect as leaders by virtue of thier accomplished poetic skills. For these three, the blood still flows from the wound as before.(同書、二三ページ)
 吉岡実や安西均、田村隆一はすべからく〔ママ〕冷たい、むしろ禁欲的なアポロン型の詩人である。彼らはその成果である詩的熟練の美によってリーダーとしてある尊敬を得ている。三人には、まだ以前のように血はその傷口から流れている。〔邦訳は小埜裕二訳〈翻訳・三島由紀夫英文新資料――序文(『New Writing in Japan』)〉(《新潮》1993年12月号、二五六〜二五七ページ)を借りた。〕

Yukio Mishima, Geoffrey Bownas編《New Writing in Japan》(Penguin Books、1972)の表紙
Yukio Mishima, Geoffrey Bownas編《New Writing in Japan》(Penguin Books、1972)の表紙

安西均の詩は〈Rain〔雨〕〉〈Nightingale〔鶯〕〉〈Hitomaro〔人麿〕〉、田村隆一の詩は〈Far-off Land〔遠い国〕〉〈Four Thousand Days And Nights〔四千の日と夜〕〉。以下、詩歌句の作者名だけ挙げれば、辻井喬、谷川俊太郎、白石かずこ、高橋睦郎(以上、詩)、塚本邦雄(短歌)、水嶋波津(俳句)。このなかでは、水嶋波津――句集に《遠樹集》(八幡船社、1969)のほか、《扉音〔瓶の叢書俳句篇〕》(茜書房、1969)があるとのことだが、後者は未見――の二四句が異彩を放っている。おそらく紙数の制約によるためだろう、本書には人選といい作品の選択といい、編者の強靭な志向が刻まれている。三島の選んだ〈Still Life〔静物(B・2)〕〉は、書きおろしの詩集《静物》(私家版、1955)入稿段階の稿本では、〈静物〔夜の器の硬い面の内で〕〉(B・1)のまえに位置する巻頭詩篇だった(註)。一方、〈過去〉は《静物》巻末に置かれた、集中で最も雄渾な作品だ。いずれも見事な選択である。その選択に較べると、前掲〈Introduction〉のレトリカルな評言はいささかもの足りない。三島歿後の二十年を生きた吉岡実の詩の総体を考えたとき、無署名の〈Biographical Notes on Authors〉の“YOSHIOKA MINORU: born in 1919 in Tokyo, he is one of the leading surrealist poets of the post-war years.[...].”(同書、二四九ページ)の「戦後の代表的なシュルレアリスム詩人の一人」が想いのほか的を射ていたと言えよう。刊行の時期からいって、三島がこの〈著者に関する経歴〉に目を通していたとは思えないのだが。

〔付記〕
大岡昇平・埴谷雄高〔対談〕《大岡昇平 埴谷雄高 二つの同時代史》(岩波書店、1984年7月23日)の〈三島事件の頃〉で、埴谷は《New Writing in Japan》に触れて「〔……〕かつて三島由紀夫がペンギン・ブックスで「ニュー・ライティング・イン・ジャパン」というアンソロジーを編集したことがあるんだ。稲垣足穂とか俺の『闇のなかの黒い馬』の『宇宙の鏡』というのも入っているし、吉行淳之介と安岡章太郎、大江健三郎と安部公房、それから評論は秋山駿、あと詩人で田村隆一とか吉岡実とか歌人の塚本邦雄まで入っている不思議なほどに広い範囲にわたった三島好みの編集で、ジェフリー・ボーナスという人が協力して訳している」(同書、三九六ページ)と大岡に語っている。最後に、《New Writing in Japan》の散文作品(解説文を含む)の目次を掲げる。

  Geoffrey Bownas     Translator's Preface  11
  Mishima Yukio     Introduction  15
  Inagaki Taruho     Icarus  27
  Haniya Yutaka     Cosmic Mirror  32
  Abe Kobo     Stick and Red Cocoon  41
  Oe Kenzaburo     The Catch  51
  Yoshiyuki Junnosuke     Sudden Shower  99
  Yasuoka Shotaro     The Pawnbroker's Wife  123
  Ishihara Shintaro     Ambush  133
  Mishima Yukio     Patriotism  152
  Akiyama Shun     The Simple Life  182
  〔……〕
  Biographical Notes on Authors  247

……………………………………………………………………………………………………………………………………

(註) 〈静物〉連作の四篇中で各種のアンソロジーにいちばん多く採られているのは、冒頭の〈静物〔夜の器の硬い面の内で〕〉(B・1)だ。一方、この〈静物〔夜はいっそう遠巻きにする〕〉(B・2)は、鮎川信夫・関根弘・木原孝一・山本太郎・清岡卓行・大岡信編《現代詩全集〔第3集〕》(書肆ユリイカ、1959)に《静物》《僧侶》からの16篇の抄録として登場したのが最初で、次が《New Writing in Japan》のジェフリー・ボーナスによる英訳である。同詩はその後、《Ten Japanese Poets》(Granite Publications、1973)、《Contemporary Japanese Literature; An Anthology of Fiction, Film and Other Writing Since 1945》(Alfred A. Knopf、1977)、《Sei Budda di pietra――Antologia di poesia giapponese contemporanea》(Empiria、2000)、《PO&SIE numero 100――Poesie Japonaise》(Editions Belin、2002)、《[Four] Factorial――Speed Round & Translation》(Factorial Press、2005)といった多くのアンソロジーに欧文訳が掲載されている。その先陣を切ったボーナス訳を見よう(《New Writing in Japan》〔二〇三ページ〕)。

  STILL LIFE|Yoshioka Minoru

  Night crowds in
  Bones
  Pleced for a moment
  Among the fish
  Steal from the star-lit sea
  And decompose quietly
  On the plate

  The light
  Moves to another plate
  In whose hollow
  Lurks only living famine
  Begetting first the shadow
  And then the seed

最後の行の“the seed”は「種・種子」だろうから、「卵」の訳語としては違和感を覚える。次に佐藤紘彰の英訳を掲げる(《Lilac Garden: Poems of Minoru Yoshioka》Chicago Review Press、1976、一八ページ)。

  Still Life|Minoru Yoshioka

  The night recedes the further to encircle them
  The bones pleced
  Temporarily in the fish
  Extricate themselves
  From the sea where stars are
  And secretly dissolve
  On the plate
  The light
  Moves to another plate
  Where life's hunger is inherited
  In the hollow of the plate
  First the shadows
  Then the eggs are called in

私は初読のときから「卵」を“egg”と読んできたので――魚卵ではなく鶏卵――、佐藤紘彰の英訳に軍配を挙げたいと思う。ジェフリー・ボーナスが7行と6行に分けて1行空きにしているのも解せない。原詩に空きはない。


《現代詩手帖》創刊号のこと(2017年6月30日)

永いこと探していた《現代詩手帖》の創刊号を《日本の古本屋》で見つけたので、〈吉岡実と《現代詩手帖》〉で触れていないことを書きたい。1959(昭和34)年6月1日発行の《現代詩手帖》創刊号(奥付には編集人・発行人は野々山登志夫とあるが、後出《戦後詩壇私史》で明らかなように小田久郎の編集になる)の巻号表示が「第1巻第1号」ではなく「第2巻第6号」なのは、継続前誌の《世代》を引きついだためで、国立国会図書館のNDL-OPACに依れば「編者および出版者:4巻2号(昭和36年2月)まで世代社」とある(その後は現在に至るまで思潮社)。その「所蔵情報」に「2巻7号(1959年7月)〜(欠:2巻10号,4巻11号,8巻5,8,10号)」とあるとおり、創刊号は同館に所蔵されていない。私が《吉岡実全詩篇標題索引》(文藝空間、1995)を編むために全詩篇の初出を探索していたころ、八方手を尽くして創刊号を探したが見ることあたわず、最後には思潮社の小田久郎さんを煩わせた。20年以上前のことだ。そのとき入手したのは吉岡実詩〈遅い恋〉(未刊詩篇・7)の見開きページと目次・奥付の3箇所のコピーだけだったが、のちになにかの書誌で吉岡がアンケート(?)に答えているのを知った。しかし改めて小田さんに頼むのも気が引けて、今日に至った。今回、念のために創刊号の全ページに目を通したところ、件の資料が判明しただけでなく、吉岡実や《僧侶》、H賞(当時は「H氏賞」ではなかった)や「H賞事件」への言及を拾うことができた。だが、まずは〈今月読んだ本〉の吉岡の項を見よう。ちなみに〈今月読んだ本〉は目次では「どうすればよい詩が書けるか」という大きな括りのなかで
 読書ノオト
 読むべき本 安東次男 他 六四
 今月読んだ本 大岡信 他 九四
とあって、吉岡実の名前は見えない。本文は「吉岡実」の署名のあとに、こうある(《現代詩手帖》創刊号、1959年6月、九四ページ)。

 ナボコフ「ロリータ」「トレント最後の事件」清岡卓行詩集「氷つた焔

これらは、ナボコフ(大久保康雄訳)《ロリータ〔上・下〕》(河出書房新社、1959年4月20日)、ベントリー(延原謙訳)《トレント最後の事件〔新潮文庫〕》(新潮社、1958年11月29日)()、清岡卓行詩集《氷った焔》(書肆ユリイカ、1959年2月1日)とみられる。ときに、〈今月読んだ本〉の執筆者は掲載順に「安東次男 飯島耕一 大岡信(**) 黒田喜夫 小海永二 中桐雅夫 鶴岡冬一 瀬木慎一 吉岡実 秋吉豊」の10人だが、割り付けが変則的で、タイトルのあと安東次男から中桐雅夫の項の途中までが九五ページ(見開きの左側)に、中桐の項の途中から秋吉豊の項までが九四ページ(見開きの右側)に、コラムのように、埋め草的に組まれている。想うに、これは見開きの右ページと左ページを組み違えたものではないか。ちなみに、本文は村野四郎選〈研究会作品〉なる10ページにわたる〈今月の新人〉(目次での表記)を紹介する記事である。

〈今月読んだ本〉が掲載されている見開き 吉岡実の詩〈遅い恋〉と散文〈詩人のノオト〉が掲載されている見開き(《現代詩手帖》創刊号、1959年6月、六六〜六七ページ)
〈今月読んだ本〉が掲載されている見開き(《現代詩手帖》創刊号、1959年6月、九四〜九五ページ)(左)と吉岡実の詩〈遅い恋〉と散文〈詩人のノオト〉が掲載されている見開き(同、六六〜六七ページ)(右)

〈今月読んだ本〉の九五ページの中桐までは執筆者の50音順だ。当初の入稿時には前記の6人までの原稿しかなくて、鶴岡冬一・瀬木慎一・吉岡実・秋吉豊の項はその後に、原稿が集まった順に組まれたのではないか。そんな慌しい状況を想定すると、《トレント最後の事件》の著者名が抜けているのも、吉岡がそう書いたのか、組版時に脱字したのか、即断できなくなる。

 ナボコフ「ロリータ」ベントリー「トレント最後の事件」清岡卓行詩集「氷つた焔

があるべき記載となろう。かつて〈吉岡実とナボコフ〉に書いた「《人間の文学 第28》あたりがナボコフとの出会いかもしれない。もちろんそれ以前に吉岡が《ロリータ》を読みかけたことはありえる。などともってまわった言い方をするよりも、1959年の最初の大久保康雄訳を覗いて見なかった、と考えるほうが不自然だと言ったほうがいい」という私の推定は〈今月読んだ本〉によって裏付けられたわけだが、執筆当時、《現代詩手帖》創刊号を実見できてさえいれば、と思わないでもない。こうして吉岡は《現代詩手帖》創刊号に、詩〈遅い恋〉(5篇掲載された〈作品〉の冒頭におかれた)とそれに付した散文〈詩人のノオト〉、読書ノオト〈今月読んだ本〉を寄せたわけだが、吉岡実に関する言及はどうかというと、次のようになる。なお太字は執筆者名や標題などを、( )内の〈 〉は引用文の小見出しを、数字は同誌の掲載ページを表す。

――〈だれが詩壇を動かしているか――詩壇地図をつくる人たち〉
〔《ユリイカ》が〕仲間うちの雑誌といわれるゆえんだが「今日」系統の平林敏彦、大岡信、飯島耕一、吉岡実、岩田宏、安東次男〔この後に脱字があるか〕系の栗田勇、江原順、小海永二、中原〔祐→佑〕介、東野芳明、「秩序」系の篠田一士、丸谷才一〔、〕中山公男、旧世代系の中村稔、橋本一明〔、〕「現代批評」系の清岡卓行、鮎川信夫、吉本隆明といった執筆ブレーンはかなり強力なものだ。(〈後つづくを信ずれど「ユリイカ」〉、11)

――〈どうやって詩壇に出るか――その人はこうして詩人になつた〉
たとえば多くの情実をしりぞけて、詩壇づきあいのほとんどなかつた吉岡実が「H賞」をもらい、その作品が正当に評価されるようになつたではないか。(〈詩そのものの力がその人を詩人にする〉、20)

村野四郎・鮎川信夫〔対談〕〈これからの詩はどうなるか〉
 編集部〔小田〕 いまの詩壇に眼を移して、可能性のある詩人とか傾向をとりあげるとすると…
 村野 いろいろあるだろうね。谷川俊太郎君にも、今度の吉岡実君の詩にも、あたらしい可能性をみとめることができますね。
 鮎川 ちよつと象徴的な云いかただけれどたしかにそう言えますね。全然ちがうけれども極端と云つてもいいと思うけれども。
 村野 どうですか、吉岡実君は。
 鮎川 ぼくはいいと思います。「静物」という詩集を出したときから。
 村野 非常に素質のある人ですね。直観的に鋭い。ぼくはほかにも書いたけれども、方法としてはあれはブルトンですね。ブルトンというよりも、もつと意志的な独創があるでしよう。作品の中にそういう秩序の縞目がみえるね。
 鮎川 それから、単に内面的な流動のイマジネーションじやなくて、わりあいにあのひと言語感覚そのものに対するイマジネーションがあるね。そういうところ、ちよつとただのシュールの亜流とちがうと思つたんですがね。
 村野 そうそう、そういうイマジネーションがあるということ、やはりこれはその詩人の認識の問題になつてくると思う。おもしろいのはテーマのあつかいかた。つまりあれは、二十世紀のスキャンダルをことごとくそのテーマにしている。それをイメージとして描き出す感覚的なやり方が非常におもしろくてあたらしいですね。
 鮎川 ある意味で云つたら欠点みたいなところもね。
 村野 だから可能性と危険性の極限にある詩だな。あれからちよつと出たらあぶなくなつてくる。だが詩というものはそういう場所でないとつくれないんだ。
 編集部 谷川さんの可能性というのは。
 村野 つまりああいうのはぼくこう思うんだよ。大げさな批評になるけれども、ああいう姿勢から、成熟してくると新しいリルケ的なものが出てくるんじやないかという期待がかけられているわけです。
 鮎川 ただ吉岡実をみんながいいと云い出すと疑問がおこつてくる。前からぼくはいいと思つていたけど、あの詩は根本的には……ちよつとうまく云えないけれども、根本的には混迷期の無方向性とから生まれてくるんじやないかと思うんです。自分の考えを直接に表現した詩とは反対な詩で、形而上学的なところがあるけれども、極度に内面化された詩と思うんですが、そういう極度に内面化された詩をそんなにみんながよくわかるというのは……おかしい(笑)なんだかへんだという気がする。満場一致であれがいいということがきまつたりすると。どうも狐につままれたみたい……。
 村野 いや、満場一致じやないね。満場一致じやなくても、あれが過半数できまつたということは、現代詩人会の幹事をみなおしたという感じさ。少なくともそのなかには、半分以上はああいうのがわかる詩人がいたということだな。――おこられるかな。(〈現代詩を分ける二つの可能性〉、52〜53)

――〈これが現代詩だ――今月の詩壇〉
とにかく、受賞を拒絶するだろうといわれていた吉岡実が受けとつたから落ちついたようなものの、あまり後味のよい選考経過でなかつたことだけは確かなようだ。吉岡の受賞は、一応だれにでも、受賞すべき人が受賞したという感じをあたえたであろう。〔……〕前に嵯〔蛾→峨〕信之が現代詩人会に入るのは嫌だといつてH賞を蹴つたことがあつたが、ここらでもう一人、吉岡実がH賞を拒絶すれば、この詩人勲章の見方もはつきりするようになつたのではないかと思うのである。吉岡に受賞拒否の気があつたということを聞いていただけに、ちよつと残念な気持もする。(〈H賞をめぐる怪事件〉、79)

SAN〈これが現代詩だ――今月の詩集〉
 昨年の暮から現在にかけて、注目される詩集が二つ出ている。一つは吉岡実の「僧侶」であり、もう一つは最近刊行された清岡卓行の処女詩集「氷つた焔」である。吉岡はこの詩集によつてH賞を与えられたわけだが、それはある意味では当然のことだつたといえよう。というのも、最近すつかり停滞がちだつた詩壇にとつて、「僧侶」が投げかけた波紋は、意外に大きなものだつたからである。もちろん、たかだか五百部か千部しか刷れないのが、現在の詩書の出版事情なのだから、大きな波紋とはいつても、その影響範囲はごく限られたものにちがいない。それでも、例えば高見順のような人までが〈「僧侶」という詩集が出ているんだつてね。ぼくもぜひ読みたいと思つているんだ〉と言つているのをわたしは聞いたことがあるほどだから、少なくとも、詩壇にとつてはやはりちよつとしたセンセーショナルな事件であつたにちがいない。吉岡の、現実の一点をみつめる執拗なまでに冷たい眼は綺麗事の作品を器用にまとめあげることを競いあつていた詩人たちにとつて、少なからず驚異であつたにちがいない。特に、この詩集の題名になつている作品〈僧侶〉は、だいぶ以前に発表されたものだが極めてショッキングな作品であつた。その意味で、この詩集のなかでも、もつとも魅力的な作品の一つである。詩集「僧侶」は、その意味で詩人たちに刺戟を与えることには成功したのだが、しかし、この詩集を正当に評価するためにはもう少し時間をかけてみる必要があるであろう。H賞を受けた詩集は、例えば、去年の富岡多惠子の「返礼」の場合をみてもうなずけるように、単なる〈時の詩集〉でしかない場合が多いからである。吉岡の作品がただの目新しさによつてではなく、ほんとうの意味で、すぐれた作品として評価されるためには、なにはともあれ〈解る作品〉になることが必要である。難解な作品というのは、たいていの場合、モチーフを十分に燃焼させきらずに書くことから生まれる。モチーフを十分に燃焼させるということは、ある程度までは、問題を整理する能力ということと重なるものである。わたしの読むかぎりでは、吉岡にはまだその意味での厳しさや深さはみられない。「僧侶」はかなり評判のよかつた詩集だが、この評判は多分に詩壇の附和雷同性にもとづいているものとわたしには思われる。ろくに読みもしないで、誰かがいいと言つたその言葉をそのまま受け売りして歩く無責任な奴が多いのではないだろうか。その証拠に、この詩集が出てから、わたしは多くの詩人たちがこの詩集に就て語るのを聞いたが、ちよつとつつこんで問い返すと、二三の人を除いては、まともには答えられないのがつねであつた。しかも、その二、三の人たちは〈実際のところ、わたしはちつとも面白いとはおもわないのだがね〉と言つていた。一例をあげると、次に引用する作品〈喪服〉も、われわれの目にはかなり以前からふれていた吉岡の吉岡らしい作品で、ここにも彼の長所と短所がよくあらわれている。
 ぼくが今つくりたいのは矩形の家
 そこで育てあげればならぬ円筒の死児
 勝算なき戦いに遭遇すべく
 仮眠の妻を起してはさいなむ
 粘土の肉体を間断なく変化させるために
 勃起とエーテルの退潮
 濕性の粗い布の下で夜昼の別なくこねる
 ぼくは石炭の凍る床にはいつくばい
 死児の哺乳をつづける
これは冒頭の数行だが、たしかにわれわれはこのなかに、言葉に対する彼の特異な感覚、異常な執拗さ、といつたものを認めることができる。だがこれは、ちよつと視点を移してみればわかるのだが、二、三十年前の日本のシュールの画家たちが、キャンバスに塗りたくつていたあの無意味に混乱していた絵を、そのまま文字で写してみたにすぎないのである。逆説的に言えば、このアナクロニズムこそが特筆すべき彼の作品の魅力なのであり、現代詩の盲点をたくみについたことにもなるのであろう。(〈専門家だけがダマされた「僧侶」〉、82〜83)

これらのなかで興味深いのは、なんといっても対談〈これからの詩はどうなるか〉での鮎川信夫の発言だ。村野四郎はすでに《東京新聞〔夕刊〕》(5月19日)に〈H賞をうけた吉岡実の「僧侶」〉を書いていたが、鮎川はこの時点では吉岡や《僧侶》について言及していなかったからである。「混迷期の無方向性」「極度に内面化された詩」という指摘は、鮎川ならではのものだろう。ところで、匿名時評で詩集を担当した「SAN」が誰かは、小田久郎《戦後詩壇私史》(新潮社、1995年2月25日)に就くに如くはない。「〔《ユリイカ》で匿名時評を書いていた〕この清水〔康雄〕の鋭い鉾先は、やがて創刊された「現代詩手帖」の匿名時評欄でも、物議をかもすような立ち廻りを演じることになる。たとえば創刊号では早くも、「注目される二冊の詩集」という評価を前提にしながらも、吉岡実の『僧侶』と清岡卓行の『氷った焔』をかなりあしざまにこきおろしている。書くほうも書かせるほうも、けっこう恐いもの知らずで向うみずな若者だったのである」(同書、一三三〜一三四ページ)。吉岡の〈詩人のノオト〉の末尾には「(よしおか・みのる氏は大正八年、東京生。詩集「僧侶」で本年度現代詩人会H賞を受賞。この五月には長い独身生活から足を洗うとのこと。現、筑摩書房広告部次長。)」(《現代詩手帖》創刊号、1959年6月、六七ページ)とある。これを書いたであろう小田久郎は当時28歳、のちに青土社を興して《ユリイカ》を復刊することになる清水康雄は27歳だった。

《現代詩手帖》創刊号(1959年6月)の奥付  《現代詩手帖》創刊号(1959年6月)の目次 《現代詩手帖》創刊号(1959年6月)の表紙
《現代詩手帖》創刊号(1959年6月)の奥付(左)と同・目次(中)と同・表紙(右)

* エドマンド・クレリヒュー・ベントリーの《トレント最後の事件》は、吉岡実の読書傾向のなかでは異色の書目である。既刊・未刊を問わず吉岡の遺した随想に翻訳物のミステリが登場したことは、フリイマン・クロフツの《クロイドン発十二時三十分》と《樽》(これとて森茉莉〈後記――原稿紛失の記〉を引用した文中に出てくるもの)のほかにはなかったからだ。集英社文庫版《トレント最後の事件》(1999年2月25日)の新保博久〈解説――黄金時代の開幕を告げた傑作〉に依れば、本作の初訳題は〈生ける死美人〉で、横溝正史が編集長をしていた雑誌《探偵小説》に掲載された。これに魅了された江戸川乱歩は中篇〈石榴〉をものしたという。同作は「温泉旅行に出かけた私は、投宿した旅館で『トレント最後の事件』を読んでいる猪俣という男と出会う。〔……〕」(Wikipedia)という筋だそうだから、吉岡が乱歩経由で《トレント最後の事件》に興味を抱いたという線もまったく考えられないわけではない。だが、吉岡が乱歩を愛読していたのは少年時代で、はたして〈石榴〉(初出は《中央公論》1934年9月号)まで読んでいたかどうか。NDL-OPACで調べると、1958年までに刊行された《トレント最後の事件》は次の6点である(その後、大久保康雄訳、宇野利泰訳、大西央士訳などがある)。
 @延原謙訳、黒白書房版、1935
 A延原謙訳、雄鶏社版〈おんどりみすてりい〉、1950
 B延原謙訳、新潮社版〈探偵小説文庫〉、1956
 C高橋豊訳、早川書房版〈世界探偵小説全集〉、1956
 D田島博訳、東京創元社版〈世界推理小説全集8〉、1956
 E延原謙訳、新潮社版〈新潮文庫〉、1958
吉岡が手にした訳書がCかDということもありえないわけではないが、〈今月読んだ本〉という企画内容からいっても、手軽な版であり、直近の刊行でもあるEの可能性がいちばん高いだろう。

ベントリー(延原謙訳)《トレント最後の事件〔新潮文庫〕》(新潮社、1958年11月29日)の表紙
ベントリー(延原謙訳)《トレント最後の事件〔新潮文庫〕》(新潮社、1958年11月29日)の表紙

ところで本書には、扉の裏に〈登場人物〉の記載があって、その次のページに「ギルバート・キース・チェスタトン へ」という献辞に続けて「ギルバート君、僕はこの小説を君に捧げる、その理由は、〔……〕/E・C・ベントリー」とある。ここで私がはしなくも思い出すのは、「ギルバートきみは善良すぎる/時計の竜頭を巻きながら/吊り棚から一丁の鋏をとり出して/旅へ出る」と始まる吉岡の詩篇〈悪趣味な夏の旅〉(G・26、初出は《新劇》1975年7月号)である。もっとも吉岡本人は金井美恵子との対談で
 金井 エッセイで、君と呼びかけた詩はいままで書いたことはないけれども、これからもしかしたら書くことがあるかも知れないとお書きになっていた文章があったでしょ(笑)、あれを読んで、あ、なるほどなと思ったんですけどね。
 吉岡 できないんだよね。
 金井 『サフラン摘み』の中に二つありますよね。
 吉岡 言葉はね。
 金井 固有名詞で出ていて、「異霊祭」のアラン、「悪趣味な夏の旅」のギルバートね。
 吉岡 ギルバートってのはね、昔そういう美男俳優がいたの、大根だけど。
 金井 ふーん。無声映画時代の?
 吉岡 だと思うのね。それがふと名前として出てきたのね。(〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉、《現代詩手帖》1980年10月号、一〇六ページ)
と語っているから、チェスタトンのことではないのだろう。だが、ここでレミニサンス(無意識的記憶)がまったく働いていないともいえない気がする。

** 大岡信は、ジョルジュ・ユニェ(江原順訳)《ダダの冒険 1916-1922》(美術出版社、1959)、風巻景次郎《中世の文学伝統――和歌文学論〔ラヂオ新書〕》(日本放送出版協会、1940)、ベーコンの随筆の3点を挙げて、ていねいにコメントしている。詳細を極めた《大岡信・全軌跡 年譜》(大岡信ことば館、2013年8月1日)にも見えない文章なので、註しておく。そういえば、今はなきオンライン書店bk1のウェブサイトの案件で〈今月読んだ本〉と同様の企画を晩年の大岡さんに依頼したところ、新刊は読んでいる時間がないので買わない旨の返信をもらったことがある。


吉岡実と済州島(2017年5月31日)

私は司馬遼太郎のよい読者ではないが、折にふれて読みかえす本のひとつに《街道をゆく 28 耽羅紀行〔朝日文庫〕》(朝日新聞社、1990年8月20日)がある。この「耽羅[タン/タム/トム/たむら]」とはなにか。現在の「済州島は、古代、耽羅という独立国だったのである」(同書、一四ページ)と街道をゆく人は語る。では済州島とはなにか。大日本帝国陸軍の兵士だった吉岡実(当時26歳)が、それまで転戦していた満洲から渡った運命的な土地である。私は《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》の1945(昭和20)年の項に「四月、満洲から朝鮮済州島へ渡る。上陸以来毎日輓馬で物資を搬び山奥へ移動。新星岳で野営し倒れた馬を食べて生きのびる。八月十五日、敗戦を迎える」と記したが、これは吉岡の随想〈済州島〉(初出は筑摩書房労組機関紙《わたしたちのしんぶん》1955年8月20日)に依る。〈済州島〉の全文を引く。

 朝鮮の一孤島済州島で終戦をむかえた。いつわりのないところ、私はほっとした気持だった。多くの兵隊もそれにちかい心情であったろう。ねじあやめ咲く春の満洲を出てから四ヶ月目であった。済州島は日本帝国の最後の橋頭堡であったらしい。恐らくあと一ヶ月戦いがつづいたら、済州島の山の中が、私の立っていた最後の地上になったであろう。それが反対に、死から私を庇護し、なつかしい再生の土地となった。済州島へ上陸以来、毎日輓馬で弾薬や食料を山の奥へ奥へと搬んでいた。そして野営をした処が新星岳だった。そのうち馬は倒れた。食料のとぼしい時なので、倒れた馬は殺して喰べた。ろくな飼料を与えられていない馬たちの肉は、脂がなく味気なかった。暇ができると、野苺をつみながら山の中腹で憩うのだ。われわれの島をかこむ夕映の海が見え、その輝く波の中に青々とした飛揚島が泛んでいた。ふりむけば、峯々が重なり、その奥深くに、名峯漢拏山がそびえていた。あっちこっちに石をつんだ垣がつらなっていた。そのかげのところどころに、馬の墓が簡単な石で象どられて、野草が供えられていた。われわれ人間のあいだには、異郷でさびしく死んだ人……などという哀悼の言葉がある。しかし異郷で死んだ馬にはそれがない。石の下で、今では完全な白骨となっていることだろう。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、四四〜四五ページ)

飛揚島 出典:徳山謙二朗《済州島・四季彩――FROM CHEJU》(海風社、1991年10月22日、五二ペーージ)
飛揚島 出典:徳山謙二朗《済州島・四季彩――FROM CHEJU》(海風社、1991年10月22日、五二ペーージ)

吉岡がこの文章を発表した1955年8月はまさに戦後10年、時あたかも詩集《静物》(私家版)を刊行した月で、当時は戦争の記憶も生生しかった済州島の概況を述べるまでもなかった。だが今日のわれわれは、必ずしもそれに通じていない。高野史男《韓国済州島――日韓をむすぶ東シナ海の要石〔中公新書〕》(中央公論新社、1996年10月25日)には〈第二次大戦下の状況〉として、次のようにある。
「第二次世界大戦中、済州島南西部と北部に日本海軍航空隊の基地が設けられ、中国大陸への航空作戦(南京渡洋爆撃など)の拠点とされたことがある。また済州島が東シナ海の要をなしているという戦略的位置の重要性から、大戦末期にはアメリカ軍の済州島への上陸作戦が予想されたため、日本軍大部隊(約七万といわれる)が駐屯し、全島要塞化の工事がなされた。海岸の崖には特攻隊の人間魚雷用の洞窟が掘られ、漢拏山北西部の御乗生[オスンセン]岳(一一六九メートル)には司令部用のトンネル式トーチカが築かれた。これらの労働には島民が強制的に使役された。/幸いにして島は戦場化することなく終戦となったが、日本軍は武装解除後、引き揚げるに際して若干の小火器、弾薬を漢拏山の火山地形を利用した洞穴陣地などに隠匿したとされ、これがのちに「四・三事件」の際に使用されることになる」(同書、三八ページ)。
吉岡の野営した新星岳がどこで、軍事的にどのような役割を担っていたのかわからない(飛揚島を見下ろす地点なら、翰林面だろうか)。「全島要塞化」が必至だとすれば、アメリカ軍が日本軍部隊を駆逐するのも時間の問題だっただろう。吉岡は九死に一生を得た想いだったに違いない。そのとき、苦楽を共にしてきた軍馬を屠って生きのびることはどんなだったか(吉岡実が数数の詩篇に馬の姿を描きこんだのは、鎮魂の意も含まれていよう)。吉岡の記述からは、この軍馬がどういう種類だったのか不明である。あの秋元幸人の画期的な〈吉岡実の《馬》の詩群〉(《吉岡実アラベスク》書肆山田、2002年5月31日、所収)も馬の品種については触れていない。世界戦争史の研究者、武市銀治郎の《富国強馬――ウマからみた近代日本〔講談社新書メチエ〕》(講談社、1999年2月10日)にはこうある。
「昭和十二年から二十年までの間に徴発された軍馬数は、敗戦で軍が解体されてしまったために正確な数値は失われてしまったが、おおよそ六十万ないし七十万頭に及んだものと推測される。また、満洲ではかなりの数の現地農民の馬を購買したが、戦争末期には現地の産業を維持することに注意が払われ、主として蒙古遊牧馬を購買した。/ちなみに事変勃発から終戦までに軍馬をもっとも多く用いたのは「支那方面」であり、その総出動馬数は二十四万三百十九頭で、八年間に十一万六千百十一頭を損耗し、終戦時残存馬数は十二万四千二百八頭であった。/その内訳は、日本馬が六万五千百七十四頭(五二パーセント)で、大陸馬が五万九千三十四頭(四八パーセント)であった。役種別では、乗馬、砲兵輓馬、砲兵駄馬及び戦列駄馬はすべて日本馬をもって充てられ、輜重馬はすべて大陸馬が充てられていた。/これら残存馬の約七七パーセントにあたる九万五千四百十九頭が、天津、北京、石家荘、山西、青島など二十地区の地点で中国側に引き渡された」(同書、一九五ページ)。
ここからは、「輜重馬はすべて大陸馬」で、満洲の農民の馬や蒙古遊牧馬を買って軍馬としたことがわかる(*)。 司馬の《耽羅紀行》の〈モンゴル帝国の馬〉には「蒙古馬は、アラブや中国西域の馬のように馬格が大きくない。体が小さいくせに頭が大きく、脚がみじかくふとく、なんだか不格好なのだが、長途の行軍に適しており、耐久力はじつにつよい。チンギス汗とその子孫たちはこの小さな馬に騎[の]ってはるかヨーロッパまで行ったのである。/現在のモンゴル高原の馬は混血によって歴史的蒙古馬とはずいぶんちがったものになっている。/十三世紀の大モンゴル帝国の馬は、済州島にだけのこっているといっていい」(同書、一五六ページ)と書かれてあり、興味はつきない。

「馬と大鎌」
「馬と大鎌」 出典:泉靖一《済州島》(東京大学出版会、1966年5月31日〔2刷:1971年3月25日〕、口絵写真 73)

もっとも、いま私が司馬の《耽羅紀行》で注目するのはそのまえの章〈神仙島〉の次の一節だ。

 〔……〕紀元前二一九年、方士[ほうし]の徐市[じよふつ](徐福とも書く)が秦の始皇帝に上書して「海中に三神山(蓬莱・方丈・瀛洲[えいしゆう])があって、仙人が住んでいる。ぜひ童男女をひきいて不老長生の薬を求めにゆきたい」といったという話が『史記』の「秦始皇紀」に出ている。
 徐市が、日本の紀州熊野浦にきた、という伝説があって、六朝[りくちよう]の末や唐代にかけて中国側で信じられたりしたが、むろん伝説の域を出ない。朝鮮では、耽羅[たんら](済州島)こそ徐市が不老長生の薬をもとめてやってきた瀛洲である、と言い継がれている。
 それほど漢拏山には薬用植物が多いのだともいわれている。(同書、一四五ページ)

吉岡の詩篇〈蓬莱〉(J・18、初出は1983年5月の《歴史と社会》2号)が思われるからである。

蓬莱|吉岡実

   1

(人間が死なずにすむ
          空間はないのか)
祖父はいまなお
       (蓬莱郷)を探究しつつ
                  青菜粥をすする
風すさぶ暗い軒より
         雉子の首を吊るす
                 家はすでに(遺構)だ
腐った木々で囲まれている
            (行きつく
             ところのない
             時と時のあいだ)
母屋のみは明るく
        紅白の縞の幕を張りめぐらす
なればこそ(霊魂)はとどまる
              (柞葉[ははそば])の母の捧げ持つ
   (軽いようで 重いもの
    小さいようで 大きなもの)
(白木の三方)が置かれた
            (歯朶 米 橙 いせえび
             榧 かちぐり 昆布)
(松)のみどりが中心に立てられる
                (飾られた風物詩)
ほうらい (宝来)
         (飲食[おんじき])するはらからの宴も終る
(いずこにも不死の人はいない)

   2

姉には(星菫)趣味がある
            鷹の羽を黒髪に飾り
麦藁と矢車草で
       (野兎)を編む
              それは(幽界)へ通ずる
(言葉)をこえた(発光体)だ
              (習習[しゆうしゆう]たる谷風)のように
川面や野づかさを越え
          巨きな樟のうろへかくれる
                      (形代[かたしろ])
やがて(霹靂[はたたがみ]とよもす天地[あめつち])

   3

(亀甲獣骨)に刻まれた文字
             その最初の(文字[もんじ])は
斧でたたかう
      (父)の一字ではなかろうか
暗くもなれば
      明るくもなる
            (社会構造)の迷路から
遥かなる処へ
      父は手甲脚絆すがたで
                砂鉄掘りに行って帰らず
消毒液のしばしにおう
          淋しい(逆旅[はたごや])のみちづれひとり
(聖なる父)ゆえ
        (女の姿と鱈の見境いがなくなる)

   4

((馬に起ることは
        (人間)にも起りうる))
妹はうらわかく
       孕んだはらを裂かれて
                 死んでゆき
(人は橋上を過ぎて行く)
            なれど(何者に語り得べき)――
ぼくは一篇の(鎮魂歌)を書く
              (骨も見えず 肉も見えない)
(白紙の世界)をさすらいつづけ
               (竹藪をぬけ出ると
                そこに老婆が立っていた)
日は高く 鶴は舞い
         岩根は低く 亀は這っている
         (可視線の書き割り)
扇をひらくように
        三葉 五葉
             そして七葉の松が白砂へ連らなる
    (箱庭)かもしれず
((いまは(自然)がむしろ
            (不自然)に見える時である))

とりわけ「((馬に起ることは/(人間)にも起りうる))」と始まる「4」は、吉岡の〈済州島〉に登場する馬を想起させる。徐市の「不老長生の薬」にしても、いかにも《薬玉》にふさわしいが、〈竪の声〉(J・2、初出は《現代詩手帖》1981年9月号)の一節、

野生の毒人参は生え 鵲は巣ごもり
束髪の母がオルガンをひびかせている

  ――おかあさん あれはなんですか
  ――碾臼だよ
  ――では孔のあるところから もれているものはなに
  ――時間だよ
  ――まわりにたまっているものは
  ――豆のかすだよ

というあたりも、済州島の風物と切りはなせないようだ(**)。〈苦力〉(C・13)が満洲の風土と分かちがたい詩篇であることはつとに知られるが、吉岡が終戦を迎えた「朝鮮の一孤島済州島」がその詩に深く刻まれていることもまた疑いないように思う。本稿の初めに引いた高野史男《韓国済州島》には「この島は北方の大陸アジアと南方の海洋アジアの性格を併せもち、また朝鮮海峡における対馬島の存在にも似て、日韓両国をつなぐ飛び石のような役割を果たしているのである」(同書、一九四ページ)とある。吉岡実は図らずも「北方の大陸アジア」満洲を知ったわけだが、「南方の海洋アジア」を実際に訪れることはなかった。私はいま、《静物》に現れる奇妙に明るい南海のイメージの底にあるのは、吉岡が1945年春から秋にかけて滞在した済州島のそれではないか、と感じている。《静物》の異色作〈夏の絵〉(B・9)こそ、その南海と(〈風景〉がそうだったように)リュシアン・クートーの絵の放恣な混淆ではなかったか。

夏の絵|吉岡実

商港や浚渫船もこの夏は
狂信的な緑の儀式へ参加する
同時に
マストはにぎやかに梢となり
鳥の斑のある卵をいくつもかかえる
大きな葉を風は
船長の帽子へ投げ入れる
さかさまにひっくりかえった船長の股に木の実が熟れる
前進せよ沖へ
緑の波の中へ
波も緑のモザイクの葉
停止せよ
棘の緑に船の旗も破られる
緑の祝日は
太陽すらのぞかせぬ
小便する船乗りの犬
それも緑のとげへ
縦横にみどりの毛糸でひっかかっている
すこしほどくと枯れだす
船は上陸した
横たわる
大きな樹木になって
根にかかえる千の石をおとし
枝々の間から
千の鳥を
沖の波にかこまれた
みずみずしい桃のなる
島へ帰らせる

私が知る日本海側の島は佐渡と隠岐だけだ。だが、いつの日か日本海・東シナ海・黄海のあいだにある火山島、済州島を訪れてみたい。高野史男《韓国済州島》から「自然が綾なす景勝・瀛洲[えいしゆう]十二景」(同書、一三九ページ)を掲げて、本稿を終えることにしよう。

  城山日出
  沙峰落照
  瀛邱春花
  橘林秋色
  正房夏曝
  鹿潭晩雪
  山浦釣魚
  古藪牧馬
  霊室奇岩
  山房窟寺
  龍淵夜帆
  西鎮老星

……………………………………………………………………………………………………………………………………

* 吉岡実は1941年から1945年まで輜重兵として中国大陸および済州島にあった。武市銀治郎の《富国強馬――ウマからみた近代日本〔講談社新書メチエ〕》(講談社、1999年2月10日)には「輜重兵とは戦闘兵科(歩・騎・砲・工兵)を支援する兵科で、糧秣・弾薬・衣服などの軍需品の運搬に任じたものである。これらは弾薬段列、糧食段列、架橋段列を構成して軍隊に続行し、通常これに衛生隊、野戦病院などを含めて輜重と称した。また、戦時には師団の予備馬を管理する馬廠[ばしよう]や傷病馬を保育する病馬廠を編成した」(同書、八六ページ)とある。

** 泉靖一《済州島》(東京大学出版会、1966年5月31日〔2刷:1971年3月25日〕)には「挽臼(kale) 直径四五センチメートル大の石を二枚組みあわせたもので(2)〔=搗臼〕とともに家庭でふつう使われている」(同書、二二三ページ)とあり、口絵には「碾磨小屋」や「碾磨(石うす)」の写真(1936年撮影)が掲げられている。また、泉に依れば「朝鮮〔本土〕に多いカササギは〔済州島に〕棲息していない」(同書、二一ページ)から、〈竪の声〉の「鵲は巣ごもり」は満洲の光景だろうか。なお、吉岡が泉の《済州島》(司馬遼太郎が高く評価した)に触れたかは不明である。

「碾磨(石うす)」
「碾磨(石うす)」 出典:泉靖一《済州島》(東京大学出版会、1966年5月31日〔2刷:1971年3月25日〕、口絵写真47 a 1936年)


吉岡実とピカソ(2017年4月30日)

吉岡陽子編〈年譜〉(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996)にはピカソに関する記載が2箇所ある。「一九三七年(昭和十二年) 十八歳/知人斎藤清(版画家)宅で見たピカソの詩(おそらく瀧口修造訳で「みづゑ」に掲載された「詩を書くピカソ」)に啓示を受ける。以後、北園克衛詩集『白のアルバム』や『左川ちか詩集』などを読む。友人たちと俳句を作る」(同書、七九〇ページ)と「一九八一年(昭和五十六年) 六十二歳/三月、〔……〕伊勢丹美術館で〈ピカソ秘蔵のピカソ展〉〔を観る〕」(同前、八〇三ページ)である。〈吉岡実と瀧口修造(3)〉の註(5)に記したとおり、吉岡実は随想で六回にわたって「ピカソの詩」に言及している。同註を再掲する。末尾の( )内は随想の発表年月。

 @「その頃、斎藤清氏の四谷のアパートで、ピカソの詩を発見し、興奮した。それは「みづゑ」かなにかだろう」(1959年8月)。
 A「数々の習作を試みたが俳句でも短歌でも個性を発揮できず、美術雑誌でみたピカソの詩に触発されて詩へ移行した」(1962年1月)。
 B「北園克衛とピカソ、それから左川ちかの詩にふれて、造型的なものへ転移していったのである」(1968年4月)。
 C「私がピカソの絵と詩を見たのは、たしか十七、八歳のころのことだ」(1982年3月)。
 D「北原白秋の短歌や佐藤春夫の詩に魅せられていた、少年期の私は偶然に読んだピカソと北園克衞の詩によって、別の詩の世界があるのを知った」(1983年4月)。
 E「知人斎藤清(版画家)宅で見たピカソの詩(おそらく瀧口修造訳で『みずゑ』に掲載された「詩を書くピカソ」)に啓示を受ける」(1984年1月)。

前掲年譜の典拠となったEを吉岡が書いたときに参看した瀧口修造の訳は《近代芸術〔美術選書〕》(美術出版社、1962)の可能性が高いが、瀧口は初出〈詩を書くピカソ〉(1937)以後もピカソの詩にたびたび触れており、〈詩を書くピカソ〉を収録した《近代芸術》の再刊や三刊を含めて、1949年以来の3度にわたる〈ピカソの詩〉や1973年の〈「ピカソの詩」余談〉がある。瀧口が〈詩を書くピカソ〉で訳出したピカソの詩句に

・香りは鶸が井戸の中で打つ影たちの通るのを聴き珈琲のしゞまの中で翼の白さを消す
・トレロで霧が発明したもつとも美しい針で彼の電球の衣裳を縫ふ闘牛

がある。また

 隅で菫色の剣時計紙の皺金属の肉片生命が頁[ペエジ]に一発見舞ふ紙は唱ふほとんど薔薇色な白い影の中のカナリヤリラ色の淡青色の影の中の空ろな白の中のひとすぢの流れ一つの手が影のぐるりで手に影をつくる一匹の非常に薔薇色の蝗一つの根が頭をあげる一本の釘何もない樹々の黒一つの魚一つの巣はだかの光の暑さは日傘を凝視める光の中の指たち紙の白さ白さの中のひかり太陽は火花散る狼を切る太陽そのひかりとても白い太陽強烈に白い太陽(《みづゑ》385号、1937年3月、〔本文の漢字は新字に改めた〕)

という詩章もある。「香りは」や「トレロで」は吉岡の戦前の詩句を、「隅で菫色の剣時計紙の皺金属の肉片生命が」は瀧口自身の《詩的実験》の諸作を、想いおこさせる。吉岡の詩的出発におけるピカソの詩の影響は、北園克衛や左川ちかの詩とともに、今後いっそう詳らかにされる必要がある。年譜後段、〈ピカソ秘蔵のピカソ展〉(伊勢丹美術館、1981年3月5日〜4月7日、主催東京新聞)は、1881年、スペインに生まれた20世紀美術の巨匠パブロ・ピカソの生誕100年を記念する展覧会である。吉岡は上に引いたようにピカソの詩については何度も書いたが、その絵について書いた随筆はない。だが吉岡にとって最も重要なピカソに関する記述は、唯一の詩論〈わたしの作詩法?〉(西脇順三郎・金子光晴監修《詩の本 U 詩の技法》筑摩書房、1967年11月20日)の次のくだりである。

 或る人は、わたしの詩を絵画性がある、又は彫刻的であるという。それでわたしはよいと思う。もともとわたしは彫刻家への夢があったから、造形への願望はつよいのである。詩は感情の吐露、自然への同化に向って、水が低きにつくように、ながれてはならないのである。それは、見えるもの、手にふれられるもの、重量があり、空間を占めるもの、実在――を意図してきたからである。だから形態は単純に見えても、多岐な時間の回路を持つ内部構成が必然的に要求される。能動的に連繫させながら、予知できぬ断絶をくりかえす複雑さが表面張力をつくる。だからわたしたちはピカソの女の顔のように、あらゆるものを同時に見る複眼をもつことが必要だ。中心とはまさに一点だけれど、いくつもの支点をつくり複数の中心を移動させて、詩の増殖と回転を計るのだ。暗示・暗示、ぼやけた光源から美しい影が投射されて、小宇宙が拡がる。(同書、二五九〜二六〇ページ)

今回、本稿を書くために《詩の本 U 詩の技法》(*)を再読した。「詩の技法」を語る際、同書で絵画や画家を引きあいに出している文を掲げる。

・マチエールとして画家が画面の絵具に対するように言葉の質感を探るのである。(三好豊一郎〈詩の素材〉、五五ページ)
・それは読むために書かれているというよりも、一枚のカンバスの上の記号やイメージと同じように、見られる[、、、、]ために書かれていると言える。(飯島耕一〈詩のイメージ〉、九〇ページ)
・シュールレアリスムの絵を描いていた何人もの若い画家は戦死した。〔……〕彼ら(詩人たち、画家たち)のあるものは戦場で死んだ。(同前、一〇一ペー ジ)
・詩人は、言葉を、それ自体が問題であるところの物としてとりあつかい、画家が画布の上に絵具を並べ、音楽家が時間の中に音を配列するように、紙の上に言葉を配列する。〔……〕詩人にとっての言葉のありようは、どうも、画家にとっての絵具のありよう、音楽家にとっての音のありようとはちがうようです。(入沢康夫〈詩の構成〉、一五〇〜一五二ページ)
・さらに、未来派の詩などにあるように字以外の図形や記号やを自由にとりいれるとすれば……、それは、かなり絵画の分野にも近寄った試みということになり ましょう。(同前、一六四ページ)
・或る絵画が見える、女体が想像される、亀の甲の固い物質にふれる。(吉岡実〈わたしの作詩法?〉、二五八ページ)
・或る人は、わたしの詩を絵画性がある、又は彫刻的であるという。(同前、二五九ページ)
・だからわたしたちはピカソの女の顔のように、あらゆるものを同時に見る複眼をもつことが必要だ。(同前、二六〇ページ)

こうして見ると、詩人にとっての言葉と画家にとっての絵具というアナロジーがほとんどであるなかで、〈わたしの作詩法?〉における吉岡の「絵画」「絵画性」「ピカソの女の顔」がいかに深く自己の作品に即した言及であるかがうかがえる(〈わたしの作詩法?〉は先に引いた「暗示・暗示、ぼやけた光源から美しい影が投射されて、小宇宙が拡がる」のあと、詩篇〈苦力〉を全行引用して、同作にまつわる満洲での兵隊時代を回顧して終わる)。それかあらぬか、同文の結語は

 わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(同前、二六五ページ)

と、あたかも「ピカソの女の顔」そのものである。それを踏まえて、以下では吉岡実詩における「ピカソの女の顔のように、あらゆるものを同時に見る複眼をもつ」ことの意味を探ってみたい。
臼田捷治は《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015)の〈はじめに――出版界のロールモデルとしての時代を超える魅力〉で、大学に入って出会った筑摩書房の書籍の筆頭に高階秀爾《現代美術〔グリーンベルト・シリーズ73〕》(1965年11月30日)と同《ピカソ――剽窃の論理》(1964年10月10日)を挙げている(同書、四ページ)。のちに美術出版社に勤務することになる臼田が高階の二冊に感銘を受けたのは、異とするに足りない。一方で、現代美術に限らず観ること全般に貪婪な関心を抱きつづけていた吉岡が、これら自社の出版物に眼を通さなかったと考えることは、私にはできない。吉岡が高階の《現代美術》と《ピカソ》を読了したという証拠は今までのところないが(**)、この半世紀前に刊行された著作の射程は、吉岡が歿した1990年は言うまでもなく、2017年の現時点をも覆っている。ちなみに私が初めて触れたのは、《現代美術》を増補して《20世紀美術〔ちくま学芸文庫〕》(筑摩書房、1993年4月7日)と改題した文庫版の「第十刷」(2005年11月10日)と、初刊《ピカソ――剽窃の論理》を増補した美術公論社版(1983年10月10日)を文庫化した《ピカソ――剽窃の論理〔ちくま学芸文庫〕》(同、1995年1月9日)である。以下では、吉岡歿後刊行の〔ちくま学芸文庫〕ではなく《現代美術》と《ピカソ》の初刊に依って、吉岡実詩におけるピカソの意味を考えていきたい。という傍から文庫版《ピカソ》巻頭の〈増補にあたって〉を引くことになるのだが、高階によれば、ピカソの「剽窃」とは次のようなものだ。

 改めて断るまでもないであろうが、本書に登場して来る「剽窃」という言葉は、通常そうであるように、否定的意味で用いられているのではない。それは、他人の作品を下敷きにしているという点では模倣であり、借用であるが、同時に、借用したものに基いて奔放自在に自己の創造力を展開して見せる点で、変奏と呼んだ方がよいかもしれない。その多様な変奏を通じて、ピカソという一人の天才の本質を探ろうというのが、本書の基本的モティーフである。(《ピカソ――剽窃の論理〔ちくま学芸文庫〕》、八ページ)

ここから想起されるのは、吉岡の戦前の著作である詩歌集《昏睡季節》(1940)と詩集《液體》(1941)の詩篇が、北園克衛や左川ちかのモダニスム詩、富澤赤黄男の新興俳句などを摂取しながら、直接的には瀧口修造訳によるピカソのシュルレアリスム詩を契機として書かれたという事実である。《ピカソ》初刊の〈ピカソ年譜〉の1935年には「ボワジュルーで書いたシュルレアリスム風の詩を出版」(同書、〔後付〕一〇ページ)とあるから、前掲の瀧口訳は2年後であり、18歳だった吉岡が当時の「シュルレアリスム(超現実主義)の時代」から「ゲルニカの時代」にかけてのピカソの絵画よりもその詩に傾倒したことは、ぜひとも強調しておきたい。「青の時代」以来、ピカソは無手勝流のようでいて、つねに過去の(ピカソにとっての)巨匠たちの作品に深く学び、これを剽窃し続けたことは、高階の《ピカソ》の随所にその指摘があり、引用する煩に堪えない。だが、ピカソの長い画歴にあって「キュビスムの時代」だけはそれと異質だった、と高階は記す。

 形態によって自己を語り、形態の変貌をつねに追求してやまないピカソが、キュビスムの時代だけは自らその形態を破壊して、全体の画面構成の中に吸収させてしまっているという事実や、後年あれほどまで鋭敏に、あらゆる社会現象に反応を示すようになるピカソの作品の中に、第一次世界大戦という空前のあの事件がまったく何の痕跡も残していないという事実は、一九〇七年から約十年間にわたって続けられた彼のキュビスム探求が、いかにその他の時期の彼の作品ときわ立って異った特徴を示しているかを雄弁に証拠立てるものであろう。(〈終章 ピカソ芸術の本質〉、《ピカソ――剽窃の論理》、一七三ページ)

ここから話はややこしくなる。吉岡実がピカソでない以上に、吉岡実の詩はピカソの詩でも、ましてやピカソの絵画でもない。だが、ピカソにとってのキュビスムが、私には吉岡の戦後の(ということは真の)詩的出発である詩集《静物》(私家版、1955)の作品と重なって見えてしたかたがないのである。それほどに《静物》は、それ以前の作品とも(その間には兵士として戦場に駆りだされるという未曽有の体験があった)、それ以降の作品とも見事なまでに断ち切れた姿を露わにしている。ここで戦前の作品は措くとして、《静物》(とそのグロテスクな変奏である《僧侶》)のあと、吉岡は陰に陽に作品の典拠を、先行する文学作品や絵画や舞台芸術に仰ぐようになる。中期から後期にかけての「引用」の問題はいうまでもない。これらはみな、ピカソにおける「剽窃」もしくは「変奏」と併行する。そうしたいわば「得意技」を禁じた《静物》は、だが、決してキュビスムふうでもましてやシュルレアリスムふうでもなかった。ここで〈わたしの作詩法?〉が発表されたのが1967年11月、すなわち詩集でいえば《紡錘形》(1962)と《静かな家》(1968)のあいだ、発表しつつあった詩篇でいえばのちの《神秘的な時代の詩》(1974)の時期だったことを想い起こそう。つまり、「ピカソの女の顔のように、あらゆるものを同時に見る複眼をもつ」ことの意味は、広く吉岡実詩全体を視野に入れるのと、1960年代後半という、より限定された時代(それを「方法的模索の時代」と呼んでも、あながち的外れではないだろう)に置くのとでは意味合いが異なるのだ。ここでは即断を避けたいと思う。ところで「ピカソの女の顔のように、あらゆるものを同時に見る複眼をもつ」の主語は「わたしたち」だった。もう一度、原文を掲げる。

だからわたしたちはピカソの女の顔のように、あらゆるものを同時に見る複眼をもつことが必要だ。

この「ピカソの女の顔のように」は、同時に見る[、、]に係るのか、複眼をもつ[、、]に係るのか。複眼とは「多数の小さな目が集まってできた目」のこと(例:トンボの目など)で、昆虫類・甲殻類・クモ類・ムカデ類などの節足動物で発達している。ゆえに、厳密には下図のようなキュビスムふうの人物の眼を指すのではない。しかし、いろいろな角度から物を見るという意味の「複眼的に見る」から想起するのは、まさにピカソのデッサン〈草上の昼餐〉(1961)――吉岡にはマネの〈草上の昼餐〉を踏まえた詩篇〈草上の晩餐〉(G・13)がある――そのものである。この「かつて彼が一九二〇年代に用いたような、明確で冷たい描線によって、対象を的確に捉える古典的デッサン」(《ピカソ――剽窃の論理》、一四四ページ)こそ、あらゆるものを同時に見る[、、]と同時にあらゆるものを同時に見る複眼をもつ[、、]最良の実例だといえよう。

マネ〈草上の昼餐〉(1863、カンヴァスに油彩) ピカソ〈マネによる「草上の昼食」のヴァリエーション〉(1961、カンヴァスに油彩) ピカソ〈草上の昼餐〉(1961、デッサン)
マネ〈草上の昼餐〉(1863、カンヴァスに油彩)(左)とピカソ〈マネによる「草上の昼食」のヴァリエーション〉(1961、カンヴァスに油彩)〔出典:《ピカソ秘蔵のピカソ展――生誕100年記念》図録(東京新聞、c1981)、図版68〕(中)とピカソ〈草上の昼餐〉(1961、デッサン)〔出典:高階秀爾《ピカソ――剽窃の論理》(筑摩書房、1964年10月10日、一三五ページ)〕(右)

彼女の右目は昼の明るい世界を見ているが、同時に[、、、]左目は夜の暗い世界を見ているため、その瞳孔は開いている。そして、彼女のギリシアふうの鼻梁は真横を向いているのに、鼻腔はふたつながらに見えている。異なる時間と空間を同じ紙面に定着すること。それをイメージではなく、オブジェを用いて行うこと。吉岡実がピカソの絵から学んだのは、この「詩法」だった。高階はキュビスムについて次のように書いている。

キュビスムの特徴としてしばしば指摘される視点の複数化(さまざまな方向から見た対象のかたちを同一画面に並置すること)とか、眼に見える姿ではなくて頭で理解する姿を描くという理知的傾向(見えないはずの裏側の面を描き出したりすること)も、煎じつめれば、眼に見えるかりそめの姿ではなくて、真にあるがままの対象の姿を把えたいという欲求から生まれたものにほかならなかった。これほど決定的なオブジェ(***)への執着はあるまい。(《現代美術》、四八ページ)

〔……〕キュビスムにおける対象の解体は、一般に言われているように画家の視点の複数化によってもたらされたものではない。むしろ逆に、統一原理としての空間の支えを失ったオブジェが、画家の容赦ない追求にあって空中分解してしまった結果が、視点の複数化としてあらわれて来たにすぎない。問題はあくまでも対象の解体にあったのである。(同前、五二ページ)

この指摘のあとに吉岡の「中心とはまさに一点だけれど、いくつもの支点をつくり複数の中心を移動させて、詩の増殖と回転を計るのだ。暗示・暗示、ぼやけた光源から美しい影が投射されて、小宇宙が拡がる」を置くと、吉岡実詩の特徴が(それが一見、どれほど絵画的・彫刻的に見えようとも)時間を取りこんだ、統一的な人格を恢復する=取り返しのつかない時間を愛惜する、といってもいい心性に支えられていることが明白になる。吉岡が詩篇において、巻く・撫でるといった動詞を用いてオブジェ=実在を確認する類の行為を執拗に描くのは、「空中分解してしまった」オブジェをかつてあった親密な時空に置きなおす代償行為にほかならない。

 「私にとって、絵とは破壊の集積である。私は描き、そしてすぐこわす」
 しばしば引用されるピカソのこの言葉は、ピカソの絵画の本質をたしかにいい当てている。ピカソは、自己の絵画とすら親しまない。彼は「人は自分自身のファンになってはならない」という。彼は自分の作り出した世界に安住することを好まない。彼はつねに公式化を警戒し、固定化を避ける。多くの画家たちは、多かれ少なかれ自己の絵画世界と馴れ親しむ。個性の弱い美術家は誰か他人の様式を模倣し、既成のパターンを踏襲することで自己の世界を作り、そこに居を定める。より独創的な芸術家は自己個有の様式を創造してそれを自己の世界とする。しかし、そのようにして作り上げた自己の世界を、片端から打ちこわして行く者はまれである。そしてそこにピカソの〈天才の秘密〉がある。(高階秀爾《ピカソと抽象絵画――近代世界美術全集7〔現代教養文庫457〕》社会思想社、1964年2月28日、六三〜六四ページ)

吉岡実が「私にとって、詩とは破壊の集積である。私は書き、そしてすぐこわす」と言ったとて、だれも怪しまないだろう。《昏睡季節》(1940)に始まり、《ムーンドロップ》(1988)に至るその作品の集積こそが、ピカソに対する吉岡実の最大の頌辞だったと思う。

………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

* 西脇順三郎・金子光晴監修《詩の本 U 詩の技法》(筑摩書房、1967年11月20日)は原論〈T 詩をつくる〉と各詩人による〈U わたしの作詩法〉のU部構成で、標題・執筆者は以下のとおり。

T 詩をつくる
 詩をつくるこころ  山本太郎
 詩の素材――現代詩の技法1  三好豊一郎
 詩のイメージ――現代詩の技法2  飯島耕一
 詩のリズム――現代詩の技法3  安西均
 詩の構成――現代詩の技法4  入沢康夫
U わたしの作詩法
 小さな三つの例  草野心平
 芸術としての詩  北園克衛
 ぼくの苦しみは単純なものだ  田村隆一
 見ている目  黒田三郎
 不毛と無能からの出発  長谷川龍生
 被分解者・被抑圧者の方法  黒田喜夫
 寓話  関根弘
 わたしの作詩法?  吉岡実
 御報告  岩田宏
 立場のある詩  石垣りん
 未来の記憶  長田弘

** 大岡信の随筆集《本が書架を歩みでるとき》(花神社、1975年7月10日)には〈高階秀爾〉の標題のもと、《ピカソ――剽窃の論理》と《現代美術》の二篇の書評が収められている(《ピカソ》評の初出誌紙年月は《朝日ジャーナル》1964年11月、《現代美術》評のそれは《日本読書新聞》1966年1月)。《現代美術》評において大岡は、文明論的観点から「〔現代美術は〕たとえば包装紙とか児童画、テレビや映画、本の装幀その他さまざまな場所に形を変えて出没し、人びとの生活にどんどん侵入しているのである」(同書、一九二ページ)と指摘している。《朝日ジャーナル》はともかく(後年のことだが、同誌は読まないと澁澤龍彦に語ったそうだから)、筑摩書房で宣伝広告を担当していた吉岡が《日本読書新聞》の書評を読んだ可能性はきわめて高い。

*** 高階秀爾は「オブジェ」と「イマージュ」を次のように定義している。「オブジェとは、その語源からも明らかなように、われわれの働きかけや運動に対して「投げ出されたもの」であり、われわれをとりまく外界のさまざまの「対象」、「客観的存在」であり、〔……〕文字通りの「もの[、、]」の世界である。イマージュは、〔……〕視覚的映像の世界であり、重みも、厚さも、質量も持たない二次元の色と形の世界である。オブジェが人間の触覚的働きかけを受けとめるものとすれば、イマージュは人間の視覚的働きかけを受けとめるものであると言ってもよい。」(《現代美術》、三〇〜三一ページ)


吉岡実とケン玉(2017年3月31日)

かつて〈吉岡実の拳玉〉と 題して吉岡が制作した拳玉のオブジェを紹介したことがある。今回は吉岡実とケン玉の関係を考察してみたい。《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991年4月15日)には、拳玉(ケン玉)が2箇所、登場する。

・〈ケン玉達人 吉岡実――達人、渋沢テングの鼻を折る〉(初出は《週刊プレイボーイ》1968年11月15日号)
・澁澤龍彦〈吉岡実の断章――拳玉と俳句〉(初出は《ユリイカ》1973年9月号。なお副題の「拳玉と俳句」は《現代詩読本》収録時に付けられたもの)

話の都合上、〈ケン玉達人 吉岡実〉の全文を掲げよう。〔 〕内は小林による補記。

ケン玉達人 吉岡実(詩人)――達人、渋沢テングの鼻を折る|〔無署名〕

 「ぼくは、ヨーヨー、メンコ、ケン玉、石けりのガキ遊び五種〔ママ。ベイゴマ(*)が抜けている〕競技のいずれに も強い。特に強いのはケン玉で、これは達人ですな」
 と、当年とって49歳の吉岡実氏。本所駒形で生まれて育った。ガキ遊び五種競技に強いのもムリはない。詩集『僧侶』で最高のH氏賞をもらった有名な詩人 だが、今だに、ケン玉にかけては狂≠ナある。
 吉岡氏は、岩田宏、飯島耕一、清岡卓行、大岡信(いずれも詩人)と一緒に鰐の会≠つくっているが、七年前〔→九年前〕にみんなで栃木県の太平山に遊 びに行った。駅前のオモチャ屋でふと目にとまったのがケン玉。さっそく買い求めて旅館でケン玉大会を開いたのだが、四人の友人はアッケにとられた。
 吉岡氏のうまさは抜群。まるで魔術的だったのである。
 このうわさを聞いて、電話をかけてきたのが、渋沢龍彦氏(翻訳家)の夫人。
 「うちの主人も強いんですよ。昨日は五回連続して穴にいれたんです。挑戦させますわ」
 渋沢氏、やめておけばよかったのだ。玉を静かにつるして慎重に狙い、なるほど五回連続で穴にいれた〔「トメケン」〕。
 ところが相手が悪い。吉岡氏はニッコリ笑うや、玉を宙にクルクルぶんまわしては、スポスポカチンといれて失敗することがない〔「フリケン」〕。おまけ に、次は玉を手にもち、台をぶんまわしてスポスポカチンなのである〔「飛行機」〕。
 「渋沢君、これがショックでね。ついにやめたそうですよ」
 以後、挑戦者はひとりとして現われないから、日本ケン玉名人位は吉岡氏のものといってよろしかろう。ところで、吉岡氏には悲願がある。
 「ケン玉は西洋からきたものでね。昔の映画『ペペ〔・〕ル・モコ』〔=『望郷』〕にすごいシーンがあった。主人公が裏切った男を殺そうとするときです。 画面は不気味な静けさ。と、かたわらで一人の男がカチン、カチンとケン玉やってんだなあ。映画でも舞台でもいい。ぼくにサングラスかけさせて、あんな役や らせてくれないかなあ。そんな話があったら、ぜひお世話ください」
(初出「週刊プレイボーイ」一九六八年十一月)
〔初出掲載写真は自宅=東京都北区滝野川の公団ア パートで撮影したものか〕

こ の記事と同じ年、吉岡実が筑摩書房労組機関紙《わたしたちのしんぶん》90号(1968年7月31日)の〈私の好きなもの〉欄に発表した未刊の散文〈好き なもの数かず〉は「ラッキョウ、ブリジット・バルドー、湯とうふ、映画、黄色、せんべい、土方巽の舞踏、たらこ、書物、のり、唐十郎のテント芝居、詩仙 洞、広隆寺のみろく、煙草、渋谷宮益坂はトップのコーヒー。〔……〕つもる雪。」という400字余りの小文だが、その中ほどに「シャクナゲ、たんぽぽ、ケ ン玉をしている夜。」とある。――ちなみに吉岡実詩に「シャクナゲ/しゃくなげ/石楠花」は一度も登場せず、「たんぽぽ」「タンポポ」は1回ずつ登場する だけで、ケン玉も登場しない――。これまで挙げてきた事項を時系列に沿って並べると、

 @少年時代(大正末〜昭和初め)はガキ遊び五種競技、とりわけケン玉を得意とした。
 A1959年10月に《鰐》同人と栃木・太平山に旅行したおり、ケン玉大会を開き、魔術的なうまさを披露した。
 B1968年1月、ケン玉を手土産に加藤郁乎とともに澁澤龍彦宅を訪問し、「神技」を見せた。
 C1968年7月、「ケン玉をしている夜」が好きだと、勤務先の労組機関紙に随想を発表した。
 D1968年11月、週刊誌が吉岡のケン玉を取りあげ、吉岡は映画や舞台でケン玉をする役がやりたいと表明した。
 E1980年7月、蓋のない赤い木箱に入った白塗りのケン玉を〈現代詩オブジェ展〉に出品した。

《鰐》同人は吉岡のケン玉について書いていないので、澁澤龍彦が《風景》1968年2月号に発表した〈拳玉考〉――おそらく吉岡実の拳 玉に言及した最も早い時期の文章――の前半を引く。

 詩人の吉岡実さんから、ある日、美しい拳玉を贈っていただいた。球が直径十センチほどもある、黄色く塗った巨大な 拳玉である。少年時代をそぞろに想い出させる、これは嬉しい頂戴物である。
 私の父母などは、拳玉と言わずに、日月[じつげつ]ボールと称していた。大正時代に、そういう名前で一時流行したことがあるらしい。しかし私が小学生の 頃、つまり支那事変の始まりかけた昭和十年代にも、拳玉は子供のあいだに大いに流行していて、校庭に出られない雨の日の休み時間など、薄暗い教室のなか で、男の子たちが半ズボンの腰をひょいひょい動かしながら、しきりに拳玉の球を操っていたようだった。
 この遊びにもコツがあって、投げ上げた球を受けとめるとき、膝を曲げ、腰をリズミカルに上下に動かさなければ絶対に駄目なのである。私は少年時代、こう いう遊びが上手だったから、忘れていた身体の記憶をたちまち呼びもどし、今では、続けて十回も穴に入れることができるようになった。
 ところで、吉岡さんにいただいた拳玉は、私の子供の頃の拳玉とは幾らか形が違っていて、どうやらこれはヨーロッパの古い形のものではないかと思われる。 私が子供の頃に使った拳玉は、ちょうど餅をつく杵のように、十字形になっていて、球を受ける皿が三つあった。まず投げた球の穴を棒の尖端にはめ、それから 球を落さずに、次々に三つの皿に受けてゆくやり方を、私たちは「世界一周」などと呼んでいた。棒の尖端に鉛筆のサックをはめて、球が入りやすいようにして いる者もいた。
 今、私の手もとにある拳玉は、これとは違って、十字形の横木のない、燭台のような形のものである。だから、球を受ける皿は一つしかない。こころみに『二 十世紀ラルース辞典』を引いてみると、やはり同じ形の図が出ているから、たぶん、これがヨーロッパの古い形なのだろうと考えられる。(澁澤龍子編・沢渡朔 写真《澁澤龍彦 ドラコニア・ワールド〔集英社新書ヴィジュアル版〕》集英社、2010年3月22日、一七六〜一七八ページ)

上 記の@〜Eのケン玉がどれかを考えると、同じ「ケン玉」では紛らわしいので、〈拳玉考〉の「日月ボール」と「ビルボケ(bilboquet)」(省略した 同文の後半に出てくる、「十字形の横木のない、燭台のような形の」ケン玉のフランス語)というぐあいに区別して呼べば、
 @日月ボール
 A日月ボール
 Bビルボケ
 Cビルボケ
 Dビルボケ
 E日月ボール
だろう。私は《週刊プレイボーイ》の記事を読んで以来、沢渡朔が撮った《澁澤龍彦 ドラコニア・ワールド》の写真を見るまでの30年以上、吉岡が映画や舞台でケン玉をする役がやりたいと表明していたそのケン玉をてっきり「日月ボール」だ と思いこんでいたが(**)、 これはどう考えても「ビルボケ」でなければならない(《週刊プレイボーイ》掲載の写真も、よく観ればビルボケである)。では、1967年末か1968年初 めまでには入手していたビルボケ(ひとつは自身のための、もうひとつは澁澤に贈るための?)を、吉岡はどこで調達したのだろうか。それというのも、競技用 のものも含めて、日月ボール型のケン玉は至る処で販売されているが、ビルボケは今日でも極めて珍しいからだ。ところで、冒頭に挙げた澁澤の〈吉岡実の断 章〉にはケン玉をする吉岡の姿が興味深く描かれている。

 私は数年前に、吉岡さんから大きな拳玉をもらったことがある。どういう経緯から、吉岡さんが私に拳玉をくれることになったの か、今では全く失念しているけれども、いまだに私の眼底にありありと焼きついているのは、この拳玉を操る吉岡さんの、まことに鮮かな手つきと、得意然とし たその笑い顔なのである。
 右足を軽く一歩前に踏み出し、右手に拳玉の柄を握り、糸の先についた重い球体の遠心力をうまく利用して、虚空に球体をぶーんと半回転させながら、とがっ た柄の先端に、穴のあいた球体をすぽりとはめこむ吉岡さんの技術たるや、百発百中、まさに神技と呼ぶにふさわしいものだった。
 私はそのとき、この拳玉を操る小柄なロマンス・グレーの詩人の姿と二重写しになって、目のくりくりした、すばしっこく怜俐そうな、下町育ちの吉岡少年の 姿が浮かんでくるのを、如何ともしがたかった。大正八年生まれの吉岡少年は、筒袖の着物を着ていたろうか。いや、やっぱり半ズボンの洋服だろう。拳玉ばか りでなく、彼はメンコにもベーゴマにも、たくみな手並みを見せたにちがいない。(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、一六四〜一六五ページ)

私は幸運にも晩年の吉岡さんと何度かお話しする機会をもつことができたが、いずれも渋谷の珈琲店だったため、ケン玉を披露してもらうよ うな状況ではなかった。それを残念に思う。だが、吉岡は親しかった誰にでもケン玉を披露したわけでもなさそうだ。

  『生れてはみたけれど』や『浮草物語』を見た時にはそうは思わなかったのだが、一九二三年生れの青木富夫氏の老紳士ぶりを目のあたりにしたせいで、突貫小 僧が、詩人の吉岡実にそっくりだ、ということに気がついた。蒲田の生れと本所の生れで、場所こそ多少違うとは言え、それに、吉岡実が突貫小僧のような、に くたらしい悪ガキだったとも思えないのだが、まあ、あんなふうな姿で剣玉などをしてノホホンと遊び呆けていたのだろう。(〈原節子のパール入りネイル・エ ナメルの光り方は異様だ〉、《愉しみはTVの彼方に――IMITATION OF CINEMA》中央公論社、1994年12月10日、一二六ページ)

と 書いたのは吉岡夫妻と親しく往き来した金井美恵子だが、氏が吉岡のケン玉を見たのかどうか、ここからだけではわからない。ケン玉をしたことのない人間がそ の妙技に接しても本当のありがたみがわからないため、吉岡はむやみに人に見せたりしなかったのではないか。《鰐》の同人たちや澁澤龍彦は見ている。《週刊 プレイボーイ》の記者(とカメラマン)も見ている。相まみえることはなかっただろうが、突貫小僧=青木富夫や漫画家の滝田ゆうには見せたに違いない。土方 巽や種村季弘にも見せるだろう。私には見せなかったかもしれない。馬にも乗れない、ケン玉もうまく操れないような者に自分の運動性を披露するには及ばな い。だが、詩作となれば話は別だ。〈苦力〉(C・13)に描かれた運動性は、乗馬はもちろんだが、決して狙いを外すことのないケン玉の神技に通じるものが ある。それは、魂から発した怖ろしいまでの技だ。土方巽の葬儀委員長を務めた澁澤龍彦とともに、棺のなかの土方に手を振った吉岡実がこの世紀のガキ大将に 対して抱いていた感懐も、それに等しかろう。土方舞踏の運動性に震撼した「中期」以降の吉岡は、言葉と言葉を超えるものの間[あわい]に分けいってゆく。 土方巽(1986年歿)や澁澤龍彦(1987年歿)のあとを追うようにして逝った吉岡実の棺には、白秋歌集《花樫》が納められた。もう一点なにか納めると すれば、愛用のケン玉(日月ボールではなく、ビルボケ)しかない。ここでフランスの批評家ロジェ・カイヨワの《遊びと人間》を引いても牽強付会ということ にはならないだろう。カイヨワはその〈五 遊びを出発点とする社会学のために〉でこう書いている。

つ まり、役に立たなくなった武器類――弓、楯[たて]、吹矢筒[ふきやづつ]、石投げ器――は玩具になる。拳玉[けんだま]と独楽[こま]は、はじめのうち は呪術[じゆじゆつ]の道具であった。(ロジェ・カイヨワ著、多田道太郎・塚崎幹夫訳《遊びと人間〔講談社学術文庫〕》講談社、1990年4月10日、一 〇八ページ)

 現在の遊びも、聖なる起源から脱しきっていないことが多い。エスキモーが拳玉[けんだま]の遊びをするのは、春分の時に限られている。しかも、その翌日 は狩りに行ってはならないのである。このように潔斎[けつさい]期間のあることは、拳玉をすることが最初はたんなる娯楽以上のものであったと考えないかぎ り説明がつかぬであろう。実際、それが行なわれる時には、さまざまの追憶の吟唱がそれに伴って行なわれるのである。イギリスでは、独楽[こま]遊びをする 特定の日が今も続いている。時ならぬときに回される独楽は、取り上げてもよいことになっている。昔は、村、司祭区、町ごとに大きな独楽があって、きまった 祭りの時に、信徒団の人たちが儀式としてこれを回していたことはよく知られている。(同書、一一三ページ)

吉岡が得意とした「ヨーヨー、メンコ、ケン玉、石けり、ベイゴマのガキ遊び五種」の由来は措くとしても、それらと弓、楯、吹矢筒、石投げ器や拳玉、 独楽との類縁は明らかだ。エスキモーの拳玉遊びが春分だけで、「その翌日は狩りに行ってはならない」という指摘は、その間にいくつかの結節点を持ちつつ 「後期吉岡実詩」の民俗学的世界に連繋していよう。ところで《うまやはし日記》(書肆山田、1990)の1939年4月3日の条には「雨。朝から本郷座へ 行く。「望郷」のジャン・ギャバンは素晴しい。となりの女学生も泣いていた。外は寒くふるえた」(同書、二五ページ)と見える。吉岡はここでおそらく初め てビルボケを観た。それをケン玉と認識したかどうかわからないが、幸いなことに小林隆之・山本眞吾《映画監督ジュリアン・デュヴィヴィエ》(国書刊行会、 2010年11月1日)に、同年の日本での《望郷》封切り当時の飯田心美による評価が録されている(同書、二四九〜二五〇ページ)。
「この映画に 見られる魅力は、まず全体を運ぶ話術の巧さである。シークエンスからシークエンスに移る順序、人物の繰り出し方、それが彼としてかつて見られないほどの巧 さで語られる。もちろんシナリオのよさにも依るのであろうが、ここにおけるデュヴィヴィエは従来の彼とは別人の感がある。それに加えて写実的手法を交ぜた カット及び小道具の使い方が、各画面を生彩あるものにしている。〔……〕最初の迷宮街カスバの紹介、レジス殺しの場におけるピエロの出し方、自動ピアノの 音、子分の一人が絶えず手にする木製玩具、後半の老女とレコードなど、ここまで演出力が届けば、もう立派なものである。ここには、これまでのデュヴィヴィ エ作品のような意余って力足らず、というところがない。すべての画面は彼の表したいものを充分に表しているのである」(〔……〕は同書)。
「子分の一人が絶えず手にする木製玩具」とは、日本のケン玉のようでありながらそれとは異質なあるもの=ビルボケを正確に表現するための苦肉の策だった。

〔追記〕
吉岡が感銘を受けた《ペペ・ル・モコ(望郷)》のケン玉について、誰か書いていないかとウェブを検索したら、ant's PUZ-Tさんが〈映画『望郷』と、けん玉〉という記事をアップしていた。

人望のあるペペには、彼を匿う仲間が5,6人いる。その仲 間の中の脇役、ジミイとマックスは、大抵二人セットで、いつペペの近くにいるのだが、マックスはいつもニヤニヤしていて、ジミイは、大抵けん玉をしてい る。/〔……〕
改 めてもう一度ジミイだけに注目して観なおしてみると、確かにけん玉の形は、日本の日月ボールではなく、シンプルな「ビルボケ」のようだ。/たまに「ビルボ ケ」をポケットに入れ、2個のボールのようなものでお手玉(ジャグリングというべきか)をしている場面もあるが、たいていは「ふりけん」という、玉を前に 振り出して1回転させて剣にさす技を繰り返している。/せっかくなので、ざっくり数えてみたところ、合計23回トライして14回くらい成功させていた。よ く分からないが、なかなかの腕前ではないだろか。/そんな、台詞が一言も無いのにある意味で存在感があるジミイとマックスだが、最後にペペがカスバを飛び 出す重要なシーンに登場することもなくフェイドアウト。あくまで脇役なのだ。

成功率6割だとすると、吉岡がジミイ(ガストン・モド)の役をやりたがったのは、自分なら成功率100パーセントだから、(監督や演出家の意に従っ て)それを加減するのはお手の物だ、という自信があったためか。サングラス姿の吉岡実が映像に収められていたら、半裸の澁澤龍彦の写真といい勝負だったの に、惜しいことをした。ウェブで検索して、ようやく購入したビルボケ(***)の 写真を最後に掲げる。このフランス産のケン玉、アンティークショップunikkで5,000円だった。褐色をした無垢の木製だが、高級家具にでも使われそ うなその材質が何か、私には判らない。なんとなく、その質感と形態からルイズ・ニーヴェルスンの廃物芸術[ジャンクアート]を連想した。デスクに置いて眺めていると、地球儀のようにも、こけしのようにも見えてくる。ちなみにケン玉素人の私がトメケンで玉をケンに入れるまでに、25回を要した。これでフリケンや飛行機を決めるのは、至難の技以上のものがあると思う。
本 稿自体が余談のようなものだから、どこでやめてもよいのだが、ついでに記しておきたいことがある。澁澤龍彦と映画《望郷》をめぐる奇縁である。龍彦の妹・ 幸子は出口裕弘のインタビューにこう答えている。「〔龍彦は〕フランス語は、まだ小町へ来る前の、雪ノ下のおじさんの家にいる頃から始めたんだ。というの は秘田余四郎(本名・姫田嘉男)という映画のスーパーインポーズをやっているおじさんが隣にいたんです。秘田余四郎といったら、あの頃のスーパーの第一人 者。ペペル・モコ〔ママ〕の『望郷』とか、『天井桟敷の人々』とか何か、とにかくその手の古いフランス映画を全部訳した人」(〈妹からみた兄龍彦〉、『澁 澤龍彦全集』編集委員会編《回想の澁澤龍彦》河出書房新社、1996年5月24日、四〇ページ)。これを裏付けるように、高三啓輔《字幕の名工――秘田余 四郎とフランス映画》(白水社、2011年4月15日)には、澁澤龍彦が余四郎の妻ゆきと龍彦の妹たち(ひとりは幸子)とに挟まれて、腕を組みステップを 踏む写真が掲載されている。「当時、社交ダンスが流行っていて、ダンスが得意だったゆきは借家のフロアで近所の若者たちに教えたりした。そのなかに龍彦や その妹たちも交じっていた」(同書、一一六ページ)。澁澤が映画《望郷》に言及した文章があるか詳らかにしないが(唯一、吉行淳之介に触れた〈終戦後三年 目……〉で、秘田余四郎の人物紹介とともに《望郷》を引きあいに出しているのが目に留まった)、吉岡同様、秘田余四郎が字幕を付けた《望郷》を、わけても そのケン玉のシーンを戦前か戦後、どこかの映画館で観ているに違いない。ちなみに、私が視聴したDVDには日本語の字幕スーパーのクレジットがなくて、誰 の手になるものかわからない。

ウェブで検索してアンティークショップから購入したフランス産のケン玉「ビルボケ」
ウェ ブで検索してアンティークショップから購入したフランス産のケン玉「ビルボケ」。背景の写真は、前掲《澁澤龍彦ドラコニア・ワールド》所収、〈拳玉考〉を 改題した〈拳玉〉(写真:沢渡朔)のもので、キャプションに「詩人・吉岡実から贈られた、お皿のない拳玉。」(同書、一七七ページ)とある。

………………………………………………………………………………

(*) 1932年、向島区寺島町に生まれた漫画家の滝田ゆうは、1968年、《ガロ》に〈寺島町奇譚〉の連載を始めた。下の図〈玉の井絵草子〉(初出は《小説現 代》1970年月11号)の扉絵には、日月ボールを首にかけた〈寺島町奇譚〉の主人公キヨシやキヨシの母親(髪型や割烹着姿が吉岡実の母親を彷彿させる)などとともに、茣蓙のトコ(床)に載ったベイゴマが描かれている

滝田ゆう〈玉の井絵草子〉の扉絵(《滝田ゆう集〔第2期 現代漫画 E〕》筑摩書房、1971年1月30日、〔一ページ〕)
滝田ゆう〈玉の井絵草子〉の扉絵(《滝田ゆう集〔第2期 現代漫画 E〕》筑摩書房、1971年1月30日、〔一ページ〕)

「柄の先端の突起部分に球の穴を突き立てて遊ぶという剣玉は、たとえば『寺島町奇譚』では下町に育った滝田ゆうの作品世界に独特のノスタルジアを添えるオブジェ」(四方田犬彦《漫画原論〔ちくま学芸文庫〕》筑摩書房、 1999年4月8日、一一〇ページ)であり、 〈寺島町奇譚(上)〉を収めた《滝田ゆう漫画館〔第一巻〕》(筑摩書房、1992年8月20日、装 丁:多田進)のジャケットには、表 紙に民芸調の日月ボールの、裏表紙にベイゴマとその紐の写真が、ワンポイントでカットのようにあしらわれている。なお、吉岡には随想〈ベイゴマ私考――少 年時代のひとつの想い出〉(初出は《鷹》1983年7月号)があって《現代詩読本――特装版 吉岡実》にも収められているが、そこにケン玉は登場しない。

(**) 澁澤龍彦所蔵のビルボケが最初に公開されたのは、《澁澤龍彦全集〔第4巻〕》月報4、河出書房新社、1993年9月3日)の武井宏・三橋一夫〔インタ ビュー〕(聞き手・出口裕弘)〈小学校時代のこと〉の表紙に掲げられたモノクロ写真だろう。同写真のキャプションには「澁澤龍彦愛好のヨーヨー(左)とコ マ(中)とケンダマ(右)。ケンダマは吉岡実のプレゼント。「吉岡さんはケンダマが大変上手でした」(〔龍子〕夫人談)。」(同月報、一六ページ)とあ る。同写真は全集月報を集成した『澁澤龍彦全集』編集委員会編《回想の澁澤龍彦》(河出書房新社、1996年5月24日)では臼井正明〈中学校時代のこ と〉のカットとして掲げれられているが、キャプションは「愛好したヨーヨー、コマ、ケンダマ」(同書、六五ページ)と簡略になり、吉岡が贈ったことは記さ れていない。

(***)手許のビルボケは、ケン先に 玉を刺した写真の状態で高さ約21cm、玉の直径は約9cm、ケンの高さは約16.5cm(澁澤龍彦の〈拳玉〉や《週刊プレイボーイ》の記事の写真に照ら すと、吉岡が使ったビルボケもだいたい同じ大きさのようだ)。穴の直径は約3.5cm。全体の重さは約380g。


《現代詩大事典》の人名索引〈吉岡実〉の項のこと(2017年2月28日)

安藤元雄・大岡信・中村稔監修《現代詩大事典》(三省堂、2008年2月20日)は、A5判・上製機械函・本文12.5級・三段組・832ページ (編集委員:大塚常樹・勝原晴希・國生雅子・澤正宏・島村輝・杉浦静・宮崎真素美・和田博文)。同書の〈吉岡実〉の項は編集委員でもある澤正宏が執筆して いて、吉岡の略歴は本サイトの《〈吉岡実〉人と作品》に掲げてある。つまり《現代詩大事典》の記載を下略したわけで、略したのは

 作風(25行)
 詩集・雑誌(6行)
 評価・研究史(4行)
 代表詩鑑賞(20行)〔採りあげられた詩篇は〈静物〔夜はいっそう遠巻きにする〕〉〕
 参考文献(7行)

である。略歴の37行に対して、下略部分は計62行、全体で99行になる。ちなみに吉岡と縁の深い北原白秋は208行、佐藤春夫は100行、西脇順 三郎は203行、瀧口修造は105行。こうして見ると、白秋と西脇は200行、春夫と瀧口(と吉岡)は100行で原稿をまとめるように企図されたと思し い。さて、本稿の標題である同事典の人名索引は近現代詩の研究者・疋田雅昭の作成で、

吉岡実  46, 375, 378, 379, 696, 728

とある。太字の「696」は見出し語を示しており、言うまでもなく澤正宏執筆の〈吉岡実〉を指す(なお、澤は〈作風〉〈詩集・雑誌〉で「初期」とし て《昏睡季節》《液体》、「前期」として《静物》《僧侶》、「中期」として《紡錘形》《静かな家》《神秘的な時代の詩》、「後期」として《サフラン摘 み》、「晩年期」として《夏の宴》《薬玉》《ムーンドロップ》の各詩集を挙げている)。他のノンブルの見出し語は次のとおり。

 46:飯島耕一
 375:一九九〇年代の詩
 378:一九七〇年代の詩
 379:一九八〇年代の詩
 728:鰐

〈飯島耕一〉では、〈鰐〉関連として吉岡実の名が登場している。〈鰐〉同人の他のメンバー、〈岩田宏〉〈大岡信〉〈清岡卓行〉ではどう書かれている か。岩田の項には、〈鰐〉がらみで吉岡が登場している(大岡と清岡の項には〈鰐〉も吉岡も登場しない)。なぜこのような事態になったのか。本事典の前付に は「XMLデータ製作」「XML組版プログラム作成」というクレジットがあるから、人名索引を作成する過程で本文から「吉岡実」を網羅的に抽出すれば、遺 漏は生じないはずだ。にもかかわらず、ざっとページを繰っただけでも、ほかにも「吉岡実」の人名索引から漏れている項目がいくつかある。以下に岩田の分を 含めて掲げ、〔 〕内に吉岡との関連を略記する。

 59:詩人と職業〔装丁家〕
 87:岩田宏〔〈鰐〉〕
 187:城戸朱理〔《非鉄》〕
 195:今日〔同人〕
 202:近代詩猟〔執筆者〕
 296:詩と批評〔参加〕
 338:書紀〔稲川方人の論〕
 490:那珂太郎〔《ユリイカ》〕
 691:ユリイカ〔〈死児〉〕

このなかで〈近代詩猟〉の項(執筆は内海紀子)などよくまとまっているが、人名索引の吉岡で関連づけられていない現状では、吉岡実に関心を持つ読者 がこの項を積極的に読むかどうか、疑わしい。さいわい私は晩年の吉岡さんから「《近代詩猟》に未刊行の詩篇を発表している」旨のハガキを貰ったから(つま り、探してみてくれという意)、日本近代文学館で〈夜曲〉(未刊詩篇・8、初出は同誌1959年10月〔27冊〕)を閲覧して、作品年譜に採録することが できた。ときに、同事典のレヴューで執筆者の偏向を指摘する声があったが、ある種の偏りが避けられない以上、人名や事項の索引という下部構造を盤石にして こそ、読者に有無を言わせぬ形で本書の価値を認めさせたであろうに。そうした観点から見ると、〈人名索引〉の凡例に「【見出し語】以外の人名・事項項目に ついては、記述の内容に応じて適宜掲出した。」(本書、〔後付〕一ページ)とあるのは、いかにももっともらしい言い草だが、出し惜しみ以外のなにものでも ない。本文という最大の資産を活かしきっていないのだ。この一事をもって本書に「工具書」としての及第点は与えられない。だが、《現代詩大事典》の本文が 労作であることは言うまでもない。人名・事項の項目が関心の結び目になるのなら、そこから網を織りあげていくことは読者各人に課せられた喜ばしい義務だろ う。私は渡邊浩史執筆の〈文芸汎論〉の項を興味深く読んだ。吉岡実の若年の詩に大きな影響を与えた雑誌として、同誌を記憶してきたからだ(吉岡は《昏睡季節》と《液體》の出版広告を《文芸汎論》に出している)。吉岡が近藤東(北園克衛や左川ちかと同じころに読んだ、と私に語ったことがある)や木下夕爾などの新進詩人を識ったのは、この《文芸汎論》からではないだろうか。

明治以降の主要詩集を35ページにわたって掲載した付録の小泉京美編〈近・現代詩年表〉は、「本年表の作成にあたっては、主に次の資料を参考にした」(本書、七四五ページ)として

(ア)小川和佑編〈戦後詩史年表〔1945〜1969〕〉(嶋岡晨・大野順一・小川和佑編《戦後詩大系W》三一書房、1971年2月15日)
(イ)小川和佑編〈日本現代詩史年表〔1868〜1970〕〉(村野四郎・関良一・長谷川泉・原子朗編《講座日本現代詩史4〔昭和後期〕》右文書院、1973年11月30日)
(ウ)三浦仁・佐藤健一編〈日本現代詩年表〔1868〜1975〕〉(分銅惇作・田所周・三浦仁編《日本現代詩辞典》桜楓社、1986年2月19日)
(エ)中村不二夫・小川英晴・森田進編〈明治から現代までの詩史年表〔1878〜1999〕〉(日本詩人クラブ編《「日本の詩」一〇〇年》土曜美術社出版販売、2000年8月30日)
(オ)深澤忠孝編〈現代詩 戦後60年年表――1945・8〜2004〉(《戦後60年〈詩と批評〉総展望〔保存版〕》思潮社、2005年9月15日)

の5点の年表を挙げている(〔 〕内の年号は年表の対象範囲、原文は書誌的に簡略に過ぎたので編者・出版者・出版年等を補った)。これに当の

(カ)小泉京美編〈近・現代詩年表〔1868〜2006〕〉(安藤元雄・大岡信・中村稔監修《現代詩大事典》三省堂、2008年2月20日)

を加えて、吉岡の生前に刊行されたすべての単行詩集――@《昏睡季節》(1940)、A《液体》(1941)、B《静物》(1955)、C《僧侶》 (1958)、D《紡錘形》(1962)、E《静かな家》(1968)、F《神秘的な時代の詩》(1974)、G《サフラン摘み》(1976)、H《夏の 宴》(1979)、I《ポール・クレーの食卓》(1980)、J《薬玉》(1983)、K《ムーンドロップ》(1988)――の掲載の有無をマトリクスに してみる(◎は掲載、×は非掲載、―は年表の対象範囲外であることを表す)。

@ A B C D E F G H I J K
(ア)
(イ) × × ×
(ウ) × × ×
(エ) × × × × × ×
(オ) ×
(カ) × × × × × ×

(カ)は《静物》の扱いに不満が残るが、まずは穏当な処だろう。「山宮允氏の『明治大正詩書総覧』という本がいかに労作だったかよく解る。以後、昭 和期にその後継的この種の書物のないのも、出版の点数の数倍になった昭和期ではどんなに努力しても、山宮氏の労作の水準にはとうてい到達できないという予 測もあるからであろう。ことに、戦後、それも昭和三十年代以後になると印刷事情が変り、続々と私刊本の詩集が刊行される。おおざっぱに見ても平均毎年一〇 〇〇点もあるだろうか」(小川和佑〈「年表」作製の憂鬱〉、《戦後詩大系W》月報4、六ページ)。事典や年表が先行する資料を挙げるのは、単に儀礼上のも のではない。それらをどう評価したかという明確な意思表示である。

安藤元雄・大岡信・中村稔監修《現代詩大事典》(三省堂、2008年2月20日)の函 《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)と《現代詩大事典》(三省堂、2008)の背
安藤元雄・大岡信・中村稔監修《現代詩大事典》(三省堂、2008年2月20日)の函(左)と《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)と《現代詩大事典》の背(右)


吉岡実の引用詩(3)――土方巽語録(2017年1月31日)

鉤 括弧(かぎかっこ)
旧来、人の会話部分を書く際に文頭に置かれた「庵点」と改行を示す記号の「鈎画」の間とに囲まれていたところから、会話の箇所 を囲む括弧として鉤括弧が出来たと言われている。/引用(引用符としての用法)、あるいは特に注 意を喚起する語句を挿入する場合も用いられるようになった。(ウィキペディアの「括弧」の説明

吉岡実の詩篇に同時代の日本人の固有名詞が登場したのは、第七詩集《神秘的な時代の詩》(1974)からである。〈夏から秋まで〉 (F・2)に「池 田満寿夫の版画の題名を藉りて」、同じく〈青い柱はどこにあるか?〉(F・6)に「土方巽の秘儀によせて」と詞書にあるのがそれだ。一方、典拠のある吉岡 実詩ということになれば、引用符のない《紡錘形》(1962)の〈首長族の病気〉(D・11、初出は1959年11月の《鰐》4号)、引用符のある単行詩 集未収録の長詩〈波よ永遠に止れ〉(初出は《ユリイカ》1960年6月号)をもって嚆矢とする。引用詩に関しては、吉岡陽子編〈年譜〉(《吉岡実全詩集》 筑摩書房、1998、七九九ページ)にこうある。

一 九七二年(昭和四十七年) 五十三歳
六月、「別冊現代詩手帖(特集ルイス・キャロル)」に詩ルイス・キャロルを探す方法「わがアリスへの接近」「少女伝説」を発表。初めて固有名詞を多く使い 引用も試みる。

一九七三年(昭和四十八年) 五十四歳
「美術手帖」二月号に土方巽の言葉を引用した詩「聖あんま語彙篇」を発表。

《吉岡実全詩集》を順に読んでいくと最初に出会う「 」(鉤括弧)つきの詩句は〈弟子〉(F・15、初出は1972年8月の《無限》29号)だか ら、年譜の記載と併せて、その登場を1972年と見てよい。以下に掲載する詩句の行頭の七桁の数字は、07が詩集の序数を、15が何番めの詩篇を、037 が何行めかを表す。

0715037  & nbsp;「便所はどうして神秘的に
0715038     高い処にあるのだ」

《神秘的な時代の詩》以降、吉岡の詩には詩の題名の後に詞書、〈 〉(山括弧)や「 」や( )(丸括弧)で括った章句つまり題辞[エピグラフ]と その作者名、献詞が多用され、詩の本文の後に註記、出典、等が頻出する(なお、《液體》に副題、《静物》と《僧侶》に献詞、《紡錘形》と《静かな家》に詞 書が散見するが、本稿の検討対象としない)。それらを仮に
 詞書
 題辞[エピグラフ]とその作者名
 献詞
 註記
 出典
に分けて、全詩集の登場順に挙げる。詩の題名の後(――に続けて表す)と本文の後(アキに続けて表す)に文言のある詩篇を、それぞれ該当する区分に掲げ る。

詞書
〈夏から秋まで〉(F・2)――池田満寿夫の版画の題名を藉りて
〈青い柱はどこにあるか?〉(F・6)――土方巽の秘儀によせて
〈サイレント・あるいは鮭〉(G・25)――芦川羊子の演舞する〈サイレン鮭[じやけ]〉に寄せる
〈示影針(グノーモン)〉(G・27)――澁澤龍彦のミクロコスモス   *示影針=日時計のこ と
〈あまがつ頌〉(G・30)――北方舞踏派《塩首》の印象詩篇
〈異邦〉(H・5)――へルマン・セリエントの絵によせて
〈使者〉(H・18)――笠井叡のための素描の詩
〈夢のアステリスク〉(H・22)――金子國義の絵によせて   注 アステリスク=印刷用星形 印*のこと
〈裸子植物〉(H・25)――大野一雄の舞踏〈ラ・アルへンチーナ頌〉に寄せて
〈郭公〉(J・6)――マックス・エルンスト石版画展に寄せて
〈哀歌〉(J・13)――追悼・西脇順三郎先生   *第二章は西脇順三郎『詩学』より抄出し た。
〈銀鮫(キメラ・ファンタスマ)〉(K・17)――澁澤龍彦鎮魂詩篇   *澁澤龍彦とその知己 たちの言葉を引用している。

題辞[エピグラフ]とその作者名
〈聖あんま語彙篇〉(G・8)――〈馬を鋸で挽きたくなる〉土方 巽
〈水鏡〉(H・6)――〈肉体の孕む夢はじつに多様をきわめている〉金井美恵子
〈草の迷宮〉(H・9)――〈目は時と共に静止する〉池田満寿夫
〈形は不安の鋭角を持ち……〉(H・11)――〈複眼の所有者は憂愁と虚無に心を蝕ばまれる〉飯田善國
〈雷雨の姿を見よ〉(H・14)――「ぼくはウニとかナマコとかヒトデといった/動物をとらえたいのだ/現実はそれら棘皮動物に似ている」/飯島耕一〔/ は改行箇所。以下同

〈織物の三つの端布〉(H・16)――「イマージュはたえず事物へ/しかしまた同時に/意味へ向おうとする」/宮川淳
〈「青と発音する」〉(H・27)――「青ずんだ鏡のなかに飛びこむのは今だ」瀧口修造
〈円筒の内側〉(H・28)――「言語というものは固体/粒であると同じに波動である」/大岡 信
〈落雁〉(J・17)――(言葉よ 死の底より自らの蜜を分泌せよ) 鷲巣繁男
〈薄荷〉(K・6)――(人形は爆発する)――四谷シモン
〈聖 あんま断腸詩篇〉(K・12)――〈神の光を臨終している〉――土方巽   *この作品は、おも に土方巽の言葉の引用 で構成されている。また彼の友人たちの言葉も若干、補助的に使わせて貰っている。なお冒頭のエピグラムは、彼の辞世である。

献詞
〈舵手の書〉(G・22)――瀧口修造氏に
〈夏の宴〉(H・20)――西脇順三郎先生に

註記
〈示影針(グノーモン)〉(G・27)――澁澤龍彦のミクロコスモス   *示影針=日時計のこ と
〈夢のアステリスク〉(H・22)――金子國義の絵によせて   注 アステリスク=印刷用星形 印*のこと
〈竪の声〉(J・2)   *世阿弥の伝書にある「横[おう]ノ声」(明るく外向的で太い強い 声)。「竪[しゆ]ノ声」(内向的でやわらかく細かに暗い感じの声)=観世寿夫の解説。
〈白狐〉(未刊詩篇・16)   *「現代詩手帖」二十五周年記念号に是非とも作品を寄せよ、と の小田久郎氏の要請をこば みがたく、十余年前の自動記述的な草稿に、若干の手を加え、『薬玉』の詩篇と同じ形態をととのえ、ここに発表する。 & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp;  五月九日

出典
〈ルイス・キャロルを探す方法〉(G・11)―わがアリスへの接近   *ルイス・キャロル〈鏡 の国のアリス〉岡田忠軒訳より
〈ゾンネンシュターンの船〉(G・24)   *ゾンネンシュターンは「幻視者」といわれる異端 の老人画家。引用句は、同展覧会目録より借用した。
〈曙〉(H・8)   * 引用句は主に、エズラ・パウンド(新倉俊一訳)、飯島耕一の章句を借 用した。
〈螺旋形〉(H・10)    *ベケット(高橋康也訳)、土方巽などの章句を引用した。
〈哀歌〉(J・13)――追悼・西脇順三郎先生   *第二章は西脇順三郎『詩学』より抄出し た。
〈甘露〉(J・14)    *引用句はおもにフレイザー《金枝篇》永橋卓介訳を借用した。
〈ムーンドロップ〉(K・10)   *題名と若干の章句をナボコフ『青白い炎』(富士川義之 訳)から借用。
〈聖あんま断腸詩篇〉(K・12)――〈神の光を臨終している〉――土方巽   *この作品は、 おもに土方巽の言葉の引用 で構成されている。また彼の友人たちの言葉も若干、補助的に使わせて貰っている。なお冒頭のエピグラムは、彼の辞世である。
〈睡蓮〉(K・13)    *宇野邦一その他の章句を引用している。
〈銀鮫(キメラ・ファンタスマ)〉(K・17)――澁澤龍彦鎮魂詩篇   *澁澤龍彦とその知己 たちの言葉を引用している。
〈波よ永遠に止れ〉(未刊詩篇・10)――ヘディン〈中央アジア探検記より〉
〈休息〉(未刊詩篇・18)   *澁澤龍彦と土方巽の言葉を引用し ている。
〈雲井〉(未刊詩篇・20)    *瀧口修造そのほかの章句を引用している。


ここで、《サフラン摘み》(1976)の詩篇で「 」の用いられている詩句を、最初に掲げた〈弟子〉と同じ形式で摘してみる(初出の発表順に並べた)。 《サフラン摘み》を選んだのは、吉岡が自覚的に引用詩をつくりはじめたのがこの詩集からだからである。

(G・ 4)

0804092  「問題」は在るか?

ルイス・キャロルを探す方法(G・ 11)―わがアリスへの接近

0811011  「ただ この子の花弁がもうちょっと
0811012  まくれ上がっていたら いうところはないんだがね[*]」

ルイス・キャロルを探す方法(G・ 11)―少女伝説〔散文詩型のため、字アキで詩句を数えた〕

0811119  教授は今朝は「寒い」とひとこと云った

0811136  仇名は「コーツ」

悪趣味な 冬の旅(G・6)

0806011  「ストッキング・スリッパ・コルセット が
0806012  堆まれている」

0806026  「料理がつくられる」

マダム・レインの子供(G・5)

0805018  「しばしば
0805019  肉体は死の器で
0805020  受け留められる!」

0805039  それは過ぎた「父親」かも知れないし
0805040  体操のできない未来の「子供」かも知れない

聖あんま語彙篇(G・8)

0808016  「赤子の頬にふれる
0808017  網の目から
0808018  わたしは何を覗けばよいのか
0808019  カモイの塵
0808020  くびれた茄子の尻
0808021  蛸の吸出しが吸い出したもの
0808022  それとも抽象された線
0808023  愛」

0808026  「わたしは寝床にまんじゅうを引き入れる」

0808033  「上に行けば精霊 下にあるもの
0808034  が人形」

0808036  「中間にあるものが肉体」

0808038  「ゴハンを食べて裏から出て行くようなのが『家』あるいは『東北本線』」

0808041  「キンカクシに歯を立てる」

0808046  「歯槽膿漏の親父がおふくろのおしめを
0808047  川で洗っている道端で兄が石を起し
0808048  たりすると
0808049  クルッとまるくなる虫がいる」

0808051  「物囲いの中でからだの寸法を計る」

0808070  「動かないものと動いている
0808071  ものの半分半分」

0808073  「聖なる角度を手探る者」

0808081  「魚の浮袋をパチンとつぶす」

0808086  「スギナを噛む老人の顎を外せば
0808087  火が吹き出る」

『アリス』狩り(G・12)

0812021  血豆と乳房「それはただちに切開する」

0812029  「髪をしなやかにしたいわ」といった一人の少女

0812058  「もう一人のアリスは十八歳になっても 継母の伯母に尻を
0812059  鞭打たれ あるときはズックの袋に詰められて 天井に吊る
0812060  される 美しき受難のアリス・ミューレイ……」

サ フラン摘み(G・1)

0801002  「サフラン摘み」と

ピクニック(G・7)

0807004  われわれの「偉大な悪と愛」の時代は終 るだろう

0807031  われわれは「暗喩」に近い存在である

田 園(G・14)

0814004  「空間概念とは何か」

0814007  「星は暗闇で光るものだ」

0814015  「すぐに据え付けられますよ おかみさん
0814016  土は腐っているから」

0814022  「わが子よ わが犬よ
0814023  たのしく暮そうよ!」

0814036  「純粋な固体」を求めて

0814044  「花嫁」

0814050  スフィンクスに「兄弟」がいたかどうか
0814051  もしやそれは「姉妹」ではなかったか

0814060  「すべての血はすててはいけないぞ
0814061  血は煮つめれば
0814062  煮つめるほどうまくなる」

0814078  あらゆる「言語」に付く

0814084  「作品」をつくる天職を志向する

0814104  「とても重大な事柄だ」

0814116  「そこにある 豆の花 馬鍬 樫の棒
0814117  炎 くもの巣 灰 家霊」

0814119  「父母」の生活はなかったろう

0814126  「〈アート〉は退屈だわ」

0814130  「想像できるものは 想像できない
0814131  ものより〈生理感覚〉がある……」
0814132  わたしはいま「追悼詩」を叙述するんだ

フォーサイド家の猫(G・17)

0817006  「きみの所持する絵は
0817007  万有の闇のベールの向うに
0817008  存在するだけではないか」

0817086  「火食鳥を撃ちおとすことはわたしたちの習慣にはない」

0817091  「黄金では爪がとげない 太い木の柱がほしいよ」

0817093  「猫はきらいよ だって抱いても ぐにゃぐにゃして
0817094  支柱がないんですもの」

草上の晩餐(G・13)

0813012  「生き埋めの王国」だ

0813016  「雨期には
0813017  ヒルが人の足を噛む」

0813034  「空には満天の星」

異 霊祭(G・19)

0819048  「精神の外傷」のようなものを

0819050  「蛋白質を最初に食べる
0819051  のは死人」

0819053  「最初に口をきくのは家畜
0819054  番人の妻」

0819119  「馬のかたちをした煙」に

0819154  「影に似ている」

0819161  「山上の石けり」を――

絵画(G・18)

0818004  「見るとは
0818005  眼をとじることだ」

0818023  「われわれの見得る
0818024  物は数すくない」

不滅の形態(G・16)

0816002  「不滅の形態」だ

0816015  「万物」の母だと考える
0816016  「万物」のなかには父は存在しない

0816020  「不滅の傷痕」そのもの

メデアム・夢見る家族(G・21)

0821034  「美神の絞殺」は行われているんだ

舵手の書(G・ 22)

0822005  「人間の死の充満せる
0822006     花籠は
0822007  どうしてこれほど
0822008          軽い容器なのか?」

0822011  「光をすこしずつ閉じこめ
0822012  たり逆に闇を閉じこめたりする」

0822026  「五月のスフィンクス」だ

0822034  「鳥は完全なるものをくわえて飛ぶ」

0822040  「彼女は未知の怪奇なけむり
0822041  を吐く最新の結晶体」

0822044  「朝食のときからはじまる」

0822054  「曖昧な危倶と憶測との
0822055  霧が立ち罩めようとしている」

0822061  「黙って
0822062  歩いていってしまった」

0822073  「憑きものの水晶抜け」の秋

白夜(G・ 23)

0823007  「とても重大なことだ」

0823014  「少女はつねに死体である」

0823018  「寝台の脚のまわりに草が生える」

ゾンネンシュターンの船(G・ 24)

0824001  「罪深い魚は泳ぐ方角をまちがえてい る」

0824013  透視された「大地の軸」が在る

0824020  「うずらは地に巣をつくる」

0824028  「もうすこし言葉すくなに
0824029  もうすこし呼吸を多く」

0824031  「六匹の塩漬鯡を肋木に
0824032  鉤で引っかけ
0824033  藁マットに火を放つ」

0824043  「ゾンネンシュターンの大演説が聞えてくる」

0824048  「四つの占領地帯」が必要だ
0824049  「なにゆえにテーブルには四つの脚
0824050  馬に四つの脚」

0824061  「地に
0824062  空に
0824063  そして海に
0824064  新記録を
0824065  達成する女」

0824070  「世界には雑草とわたしとかぶら」

0824075  「逃亡する魂」は気高い

0824078  船に「生の合乗り」がはじまるんだ

悪趣味な夏の旅(G・ 26)

0826007  「人間の体はきわめて凸凹がある」

0826020  「水に運ばれてゆく水」

0826025  「永遠に泥まみれの山羊の足」

0826028  「服が体に合っていない
0826029  と首のまわりに突っぱった
0826030  骨が出る」

0826034  「どちらが長く どちらが短いか」

0826040  「鹿はどこで水を飲むのか?」

0826058  「切りきざまれた
0826059  世界
0826060  布地の切口と切口を縫合せる
0826061  できるだけ平らにしてのばして
0826062  目的物を包む
0826063  それでも包みきれないものが突っぱって出たら
0826064  カナテコで叩き
0826065  びらびらした余分なものは
0826066  糊で貼りつける
0826067  当然それは内部増殖する
0826068  無理な形で
0826069  地平線までせりあがる
0826070  だから手順よく濡らして
0826071  生地をひっぱりながら
0826072  熱いアイロンをまんべんなくかける」

示影針(グノーモン)(G・ 27)

0827001  「少女は消え失せ
0827002  はしなかったけれども
0827003  もう二度と姿を現わしはしなかった
0827004  現われて出てくる
0827005  やいなや
0827006  少女はすぐさま形態を
0827007  なくした」

0827013  「デルタの泥土のなかで
0827014  花を咲かせるという
0827015  大いなる原初の白蓮[ロータス]」

0827017  「わたしは幼年時代 メリー・ミルクというミルクの
0827018  缶のレッテルに 女の子がメリー・ミルクの缶を抱え
0827019  ている姿の描かれている」

0827026  「動物と植物の中間に位置する
0827027  貝殻や骨や珊瑚虫」

0827034  「ロンボスの霊」

0827036  「ロンボスなるものの実体が まるで雲をつかむ
0827037  ようにあいまいもことして つくづく驚かされる」

0827040  「アパッチ族のシャーマンは ロンボスを回転させて
0827041  不死身になったり 未来を予見する」

0827044  「ロンボスとは子供の玩具以外の何物でもない」

0827046  「青銅の独楽」

0827049  「不死鳥[フエニツクス] 一角獣[ウニコルニス] 火蜥蜴[サラマンド ラ]」

0827051  「フップ鳥」

0827055  「フップ鳥」
0827056  「女を一個の物体の側へと近づける」

0827059  「フップ鳥」

0827062  「フップ鳥は母鳥が死ぬと
0827063  その屍体を頭の上にのせて
0827064  埋葬の場所を探し求める」

0827068  「人間の想像力は 或る物体が一定の大きさのまま
0827069  留まっていることに 満足しないもののようである」

0827074  「最初の時計から
0827075  最初のセコンドが飛び出して以来
0827076  それまで神聖不可侵と考えられていた
0827077  自然の時間
0827078  神の時間が死に絶え
0827079  もはや二度と復活することがなかったのである」

カカシ(G・ 28)

0828004  「夜も昼も立っている者」

0828008  「焼魚
0828009  蓮根の煮つけ
0828010  冷飯」

悪趣味な内面の秋の旅(G・31)

0831004  「目覚めて夢みる人」

0831023  「時」の皮膚をただれしめたり
0831024  反対に「水」の流れを止める

0831034  「風景
0831035  それはある魂の
0831036  状態である」

0831044  「女の肉体の天然の富は失われた」

0831061  「仮泊の場にすぎない」
0831062  「自然と精神のあいまいな境界に位置する
0831063  幼児という存在には
0831064  動物から天使までの
0831065  あらゆる存在に変身しうる可能性がある」

0831070  かれらまがまがしき「幼児」は漂泊を試みているのだ

0831073  「幼児」は姉妹にみとられて

0831076  われわれが「アドニス」と呼称しているものは

0831081  形状をととのえている夢の「アドニス」のひとり

0831085  われわれが「ヴィーナス」と呼称しているものは

0831113  「パンヤをヘラのような器具を使って
0831114  奥のほうからたんねんに詰め込み
0831115  女神像を作る」

0831122  「ガラスの壁にへだてられている
0831123  感覚(世界)」の彼方

0831143  「われわれは本当に自己の身体のなかに収まって
0831144  いるのだろうか?」

あまがつ頌(G・ 30)

0830029  「月下に影を落さぬ
0830030  ランプ」

0830055  「キントンが食べたい」

0830078  「木毛 ハリコ 桐粉 鉛などで
0830079  形づくりをして
0830080  蝋絹 ときにはメリヤスを張る」

少 年(G・29)

0829009  「わたしの内密な経験の貯蔵庫」

0829021  「男根の切断面から生える巴旦杏」

0829036  「わたしの魂は松の根に入り
0829037  その血からスミレが咲く」

0829050  「夜な夜な人間を火中に入れて
0829051  その死すべき部分を焼きつくそうとする」

こうして見ると、当初は強調 の意味で用いられることの多かった鉤括弧が、次第に他者の章句の引用での使用に変わっていったことがわかる。引用での使用でとりわけ顕 著な詩篇は

 聖あんま語彙篇(G・8):土方巽に捧げられている
 田園(G・14)
 舵手の書(G・22):瀧口修造に捧げられている
 ゾンネンシュターンの船(G・24):ゾンネンシュターンに捧げられている
 悪趣味な夏の旅(G・26)
 示影針(グノーモン)(G・27):澁澤龍彦に捧げられている
 悪趣味な内面の秋の旅(G・31)


の七篇である。〈田園〉は詩人自身をモチーフにしているから、自分に捧げたと見ることもできよう。〈悪趣味な内面の秋の旅〉については、かつて《詩人としての吉岡実》で「 」内の章句の出典を矢島文夫 《ヴィーナスの神話〔美術選書〕》(美術出版社、1970年12月25日)を中 心にして指摘したので、参照されたい(同様に、〈舵手の書〉の出典に関しては〈吉 岡実と瀧口修造(2)〉で詳述した)。以上を概観して改めて感じるのは、《神秘的な時代の詩》以降の吉岡実詩における土方巽の、とり わけその語録の重要性である。

107 風神の ごとく――弔辞

  土方さん、私は詩が書けなくなると、いつも君の活字になった、対談や座談会で発言した、まるで箴言的な言葉を探し出し、それに触発されながら、ずいぶん詩 を書いて来たものです。私は自分の考える言葉よりも、きみの独特の口調の奇妙な表現の言葉のほうが、リアリティがあって、ずいぶん借用させて貰っています ね。それらの詩篇は、いずれも自信を持っています。きみは寛容にも許してくれました。現在企画中と聞いている『土方巽写真集』もちろん仮題のものですが、 その中に、「聖あんま語彙篇」を入れることにしましたね。何としても、この本は実現したいものです。私は今、あまり詩が書けませんが、いずれ鎮魂歌とし て、「聖あんま断腸詩篇」を書くつもりです。(《土方巽頌》筑摩書房、1987、二一四〜二一五ページ)

吉岡実の引用詩は〈聖あんま語彙篇〉から始まった。高橋睦郎は〈父・あるいは夏〉(H・12)について〈鑑賞〉(《吉岡実〔現代の詩人 1〕》中央公 論社、1984年1月20日)で「土方巽の文章というか語録というか、彼の言葉がなかったら生まれなかったろう、と作者はいう。不世出の実存的ダンサー、 土方巽の常識的論理回路を外れたセンテンスのいくつかを生命の指標[ライフ・インデクス]ふうに奪うことで成立した作品」(同書、一三七〜一三八ページ) と書いている。残念なことに、〈聖あんま語彙篇〉は《吉岡実〔現代の詩人1〕》に採録されなかったから、〈鑑賞〉も書かれなかった(〈聖あんま語彙篇〉の 代わりに、よりコンパクトな〈父・あるいは夏〉を採ったとも考えられる)。

吉岡  あまり言われないけど、土方巽を描いた『聖あんま語彙篇』(「美術手帖」5月号)、あれは面白いと思っているんだ。ぼくって人間はいままで材料ってのは使 わない人間だったのね。自分のなかに蓄えてたものを使っていた。だけど、これからは、あえて意識的に材料を使うものを書いてもいいんじゃないか。(吉岡 実・大岡信〔対話〕〈卵形の世界から〉《ユリイカ》1973年9月号、一五八ページ)

吉岡実の「引用詩」宣言である。吉岡の詩的後半生はここから始まる。本稿の初めに挙げた詞書・題辞[エピグラフ]とその作者名・献詞・ 註記・出典に 「土方巽」が登場する詩篇、すなわち〈聖あんま語彙篇〉(G・8)より前の〈青い柱はどこにあるか?〉(F・6)と、後の〈螺旋形〉(H・10)、〈聖あ んま断腸詩篇〉(K・12)、〈休息〉(未刊詩篇・18)に見える括弧類で挟まれた詩句を次に掲げる(なお、〈青い柱はどこにあるか?〉に括弧類は使われ ていない)。

螺旋形(H・10)

0910010 「想像力は死んだ
0910011         想像せよ」

0910016 「赤児はにごった材質のガラスで
0910017 出来た蠅取り器のような感じがする」

0910022 「幼児はかさぶたと
0910023 キャラメルをなめて成長する」

0910027 〈有為転変〉

0910030 「死は
0910031 不完全な生の完成である」

0910033 「しんしんと砂糖水を飲む」

0910042 「眼球の内奥の蛇腹が硬化し伸び縮みしにくくなり」

0910049 「肉体を分節のない一個の骨の如き
0910050 完璧な表層たらしめる」

0910056 「濡れてささくれだつ板に
0910057 兎をなすりつける」

0910059 〈仮の地〉と呼んだ

0910063 「血球一つ落ちていない風景が展開してくる」

0910064 *ベケット(高橋康也訳)、土方巽などの章句を引用した。

聖あんま断腸詩篇(K・ 12)――〈神の光を臨終している〉――土方巽

T 物質の悲鳴

1212001 「この狂おしい
1212002        美貌の青空」

1212004 「あの老婆も狼煙の一種で
1212005             あったかもしれない」

1212008         みたいような(処)へ差しかかる
1212009 「物質の悲鳴が聞こえた」

1212011 「言葉が堕胎されている!」

1212014 「人間的な言語が多量すぎる」

1212018 「光じゃありませんよ
1212019           もう闇ですよ」
1212020 ここは(仮の地)?

1212022 「灰柱まで
1212023      私の死への歩行が続いている」

U メソッド

1212024 「にわとりの頸をひねり
1212025            裸電球をひねる」

1212027        「形や像を越え
1212028               一つの抽象的な
1212029 次元へ向っているようだ」

1212032 「闇と光を交配させる」
1212033            という(行為)を私は好きだ

1212035        「幽霊の乳を飲んでいる」
1212036        (赤児)のようなものが見える

1212038       凍った(形象)を追求し

1212040            (絵画)で説明できない時は
1212041 (本能)で試みよ
1212042         「ここまでが生体で
1212043          ここからが死体だ」

1212046             「土間の消壺に近づいてゆく」
1212047 男の(裸体)を消す
1212048          炸裂するように弾ける
1212049      (星形)

V テキスト

1212051 「葛[かづら]を被[かづき]て松の実を食み
1212052            鳥の(卵)[かひご]を煮て食[くら]ひて

1212054         (𨳯) [まら]を吸ふ
1212055               なれば(嬭房) [ちぶさ]は張り
1212056 (開[くぼ]の口)より
1212057        (神識)[たましひ]を昇らせる
1212058                 (奇異)[あ]しき事かな

1212060       (銅荒炭)[あかがねあらすみ]の上に
1212061               (鉄丸)[てちぐあん]を置きて呑み
1212062 地獄に堕ちむ」

1212063  暗黒舞踏のフェスティバル「舞踏懺悔録集成」における、講演のためのテキス トをつくる時、私は『日本 霊異記』を参考にした。それを拾い読みしていて、この章句を見つけた。古代から「母子相姦」の悲劇があり、それはこれからも、永遠に続くことだろう。―― (H)

W 故園追憶

1212072 私は(骸骨)で生まれたのだ/

1212075 ああ(骨の涼しさ)/
1212076 湯気のような(肉体)を着せられて/

1212085 姉とは突然に(家)からいなくなるものだ/

1212092 父親はそれを(神品)として大事にする/

1212099 ついでに(女陰)も/

1212117 この頃は(夢の沈澱物のような私)/

1212124 ニガリの効いた(時空)/

1212139 雨は鮒の(精霊)に降り注ぐ/
1212140                  私はいまでは(精神)の洟をたらしている/

1212144 (物質)か(言語)/

1212148 (人間)は火種を貰って来る/

1212154 (時間)/

X (衰弱体の採集)

1212157 「金属という(身体)
1212158           凍結炭素という(身体)」

1212160        (人体)というものは光に漉かれる
1212161 「おばあさんというのは
1212162            一枚・二枚で数えるものだよ」

1212166           濡れ雑巾に刺った(魚の骨)を

1212170 「燃えている布切を
1212171           犬のからだに詰める」

1212173 衰弱した(風景)を
1212174          「影が光に息づかせている」
1212175 老婆たちは(物語)をつくり
1212176              「数えきれない
1212177     気流と呼吸のなかを
1212178              通過してきたのだ」



1212183 (紐)のようなものだった

1212185   「蟻の卵や蜘蛛の巣」

1212191 「からだに(霞)をかけている」



1212193             (雪っ原)
1212194 未練がましく(火)を起し

1212196 「火箸で(文字)を書き始めた」

Y 挽歌

Z 像と石文

1212228 「言葉から肉体が発生する」

1212231         (無体)と化しつつある
1212232 (泥型立身像)
1212233        このささくれた(幻像)を記憶せよ

1212235      「血と霊と風と虫とが交合する」

1212237        「書く者は衰弱し
1212238         死者にかぎりなく近付く」
1212239 そのように刻まれた(石文)

1212241 「大暴風雨にさらされている
1212242              鹿のようなものが見えた」

[ 慈悲心鳥

1212244              (亡霊)ではなく
1212245          (誰?)
1212246 「骨まで染めるような
1212247           夕焼」

1212249        (魂と炎の世界)
1212250 
1212251 「慈悲心鳥がバサバサと骨の羽を拡げてくる」

1212252 *この作品は、おもに土方巽の言葉の引用で構成されている。また彼の友人たちの言葉も若干、補助的に使わせて貰っている。なお冒頭の エピグラムは、彼の辞世である。

休息(未 刊詩篇・18)

0018002            〔思考の腐蝕する 穴〕

0018005 「ゴムの浮袋のような
0018006           寝台のうえで
0018007 パオロ氏は眠っている」

0018010           「意味のとぎれる
0018011        境界線」

0018013       「同じ側の脚を二本
0018014        いっぺんに持ちあげている」

0018016          〔透視図法〕

0018022 「死体は仮の消滅で
0018023          風景に似ている」

0018028            「あの眼は
0018029                 どんなものの上にも
0018030                 止まることは許されない」
0018031         〔イデアの世界〕
0018032 「女を夢みる者は
0018033         馬を夢みることはないだろう」

0018035          「からだの表面は
0018036                  未完の竹籠」

0018038               *澁澤龍彦と土方巽の言葉を引用している。

――土方巽はたいへんな読書家で、吉岡詩のこわい読み手。酒の席ですごいことを言う。具体的には思い出せない。百鬼夜行の状況での特殊 なことばだから消えてしまう性質のその語録は、将来出るだろうが。(1985年5月23日の吉岡実の談話)――

アスベスト館にて土方巽と吉岡実(1980年ころ)。〔今日までに公開された唯一のツーショット〕
アスベスト館にて土方巽と吉岡実(1980年ころ)。〔今日までに公開された唯一のツーショット
出典:《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991年4月15日、〔二〇ページ〕

〔付記〕
吉本隆明は〈舞踏論〉(1989年2月22日、ボディサットヴァ文化研究所主催《未来からの風2》第一部 〈トークディスカッション《肉体論》〉における発 言)で「とにかくメタファーには、拡大されるべきものがある。〔……〕丸(句点)さえ取ってしまえば文章のリズムがまるで違ってきて、まったく違う意味に なってしまうことだってあり得る。土方〔巽〕さんの文章というのはさながら吉岡実の詩のようですから、そういうことをしても悪くないですよ」(《吉本隆明 〈未収録〉講演集11――芸術表現論》筑摩書房、2015年10月10日、二四六〜二四七ページ)と語っているが、主客が転倒しているようで、解せない。 本稿で述べてきたことから明らかなように、実態に即しているのは「吉岡実の詩というのはさながら土方巽の語録のようですから、」ではないのか。そのこと と、一貫して吉岡実詩に句点が用いられていないことは別の問題である


《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第4版〕》を作成した(2017年1月31日)

2012年11月30日――本サイト《吉岡実の詩の世界》を開設して10周年の記念の日である――に公開した《吉岡実全詩篇標題索引 〔改訂第3版〕》(文藝空間)に手を入れた〔改訂第4版〕を作成したので、PDFファイルを公開する。以下に同資料のあとがき〈吉岡実全詩篇標題索引〔改 訂第4版〕 への追記〉と仕様を録して、《吉 岡実全詩篇標題索引〔改訂第4版〕》の紹介に代える。

吉岡実全詩篇標題 索引〔改訂第4版〕への追記
2016年9月20日、30年来の懸案だった〈模写――或はクートの絵から〉の初出が判明した。一方で、ウェブサイト《吉岡実の詩の世界――詩人・装丁家 吉岡実の作品と人物の研究》を掲載してきた株式会社ジュピターテレコム(ブランド名はJ:COM)がWebSpaceの提供をやめることになり、開設以来 14年の長きにわたり親しんできたURLともお別れする(新しいURLはhttp://ikoba.d.dooo.jp/)。 これを機に、PDF版《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第4版〕》を公開する。〔改訂第3版〕からのおもな変更点は、〈模写――或はクートの絵から〉と〈序詩 〔うんすんかるたを想起させる〕〉の項の修正、本資料の版次・公開日の新表示である。遠からず本資料を冊子体として印刷刊行したい。(2016年12月 31日)
 《吉岡実全詩篇標題索 引〔改訂第4版〕》 2017/1/31  【PDFファイル】 760KB

《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第4版〕》 小林一郎編纂、文藝空間刊。 A5判・本文64ページ横組・2色刷。索引例言、詩篇目録、索引本文〔全286篇(筑摩書房版《吉岡実全詩集》未収録の6篇を追補)の詩篇番号・詩篇標 題・副題・よみがな・全詩集掲載ノンブル、詩篇本文冒頭1行、詩篇節数・詩句の本文行数・初出媒体の詳細情報・初収録単行詩集あるいは変改吸収した詩篇、 備考〕、索引覚書を掲載。(2017年1月31日、PDFファイル公開)

昨秋の〈詩篇〈模写――或はクートの絵か ら〉初出発見記〉をお 読みいただいた郡淳一郎さんから「「模写」発見、おめでとうございます。吉岡実 と、彼をインデックスとする近代日本出版史全体の貴重な知見と、その方法論を惜しみなく公開して下さり、心より感謝しております」という過褒なるお葉書を いただいた。今後とも、成果(ささやかではあるが)とそこに至る経緯を明らかにしていきたいと思う。郡さん、ありがとうございました。


吉岡実の引用詩(2)――大岡信《岡倉天心》(2016年12月31日)

吉岡実の引用詩を考える際に、題辞に大岡信を引いた詩篇〈円筒の内側〉(H・28)をその具体的な作品として選び、そこに引用されてい る詩句をつぶ さに検証したい。初めに、全詩集に収められた定稿を引く(行頭の2桁数字は論者によるライナー)。リンクをはって、高橋睦郎の〈鑑賞〉(《吉岡実〔現代の 詩人1〕》中央公論社、1984年1月20日)と大岡信の原文等を掲げる。なお、★高橋のあとの( )内の数字は〈鑑賞〉の文章の掲載ページを表す。★大 岡の原文は中略した場合だけ〔……〕と表示し、前略・後略の場合は特段の表示をしない。00行の/は改行箇所。

  円筒の内側|吉岡実

  00  「言 語というものは固体/粒であると同じに波動である」 /大岡 信
    1
  01    「石 や木とじかに結びついている」
  02    子供の頃
  03    狩野川のほとりで
  04    ハ ヤ・マルタ・フナを釣り
  05    ぼくは猿股をぬらす
  06    日の暮つ方
  07    ぬるぬるしている
  08    硬骨魚
  09    鯰をついに捕え
  10    「存在としての自然ではなく
  11    生成としての
  12    自然」
  13    そのものを知った
      2
  14    「子 供は強引に成長する」
  15    木の芽時
  16    香貫山を見れば
  17    「とびかかって来る
  18    緑」
  19    ぼくは間もなく
  20    アデノイドの手術を受けるんだ
  21    むっとする闇のかなた
  22    「そこに巨大な女が横たわっ ている
  23    ことを想像せよ」
      3
  24    「円 筒の中は静まりかえり」
  25    猫は死にゆき
  26    鯉も死にゆき
  27    いずれにしても淋しい秋だ
  28    もしかしたら
  29    人も死んでゆく
  30    「葡萄の房
  31    みたいなかたち」
      4
  32    露もしとどに
  33    裏山を越え
  34    妹がつづらおりの径を降りてくる
  35    「涙を浮かべない眼で
  36    事物を見よ」
  37    言語がはらむ
  38    観念の内容をつきとめよ
  39    「処 女陵辱」
  40    この文字は美しい
  41    しかし顔をそむけよ 弟
  42    「夢と現実の
  43    隙間」
  44    に潜在する
  45    「ツクネイモ山水」
  46    そのはるか上に懸る
  47    「冴え冴えとした
  48    月」
  49    ぼくが老人だったらこのようにつぶやく
  50    「言葉の方からのみ
  51    人生を眺めると人生は
  52    煙のごとし」
      5
  53    「生物と鉱物の両方が騒がし く
  54    わき立っている
  55    地表」
  56    そこでの生活はつらい
  57    「尋常の食物では
  58    彼らを養うことは出来ない」
  59    ぼくのはらからは
  60    ひたすら思考し
  61    「沈 黙に聞き入る能力」
  62    をたくわえる
  63    頭部は巻貝のような人たちだ
  64    「冷えすぎたハム」
  65    この興ざめたものを嚥下す
  66    それゆえに
  67    「からだのなかにつねに
  68    フォルム感覚が見えない形で
  69    生み出される」
  70    そのまわりに散乱する
  71    糸屑や卵子
  72    (言葉)
  73    もろもろの具象を
  74    箒やはたきをかけて
  75    舞いあがらせる
  76    発止!
  77    ワラ半紙一枚の聖域
      6
  78    「璧を通して
  79    青空が見える家」
  80    からぼくは旅に出る
  81    桜並木の長い道がつきたところで
  82    (点滅信号)を仰ぐ
  83    其所から
  84    「氷河が溶解し
  85    世界の洪水がはじまる」
  86              (一九七九・一○・九)

……………………………………………………………………………………………………………………………………

「言語というものは固体
粒であると同じに波動である」
               大岡 信
★高橋(169)
例 によって題名のすぐ後の括弧の中は献げられた相手の言葉、ただし、「大岡信」と出典が銘記されているにもかかわらず、原文は「語はウェーヴィクルの類同物 ではないだろうか。それは不可分で個性的な粒子性をもつが、同時に、波動性において真に〈ことば〉の生命を示す」(『彩耳記』「断章[」)。
★大岡(《彩耳記》所収〈断章[〉。《大岡信著作集13》青土社、1978年2月28日、98〜99ページ)
 語はウェーヴィクルの類同物ではないだろうか。
 それは不可分[インデヴィデユルアル]で個性的[インデヴィデユルアル]な粒子性をもつが、同時に、波動性において真に〈ことば〉の生命を示す。

「石や木とじかに結びついている」
★高橋(171)
「石や木とじかに結びついている」は出典未詳。
★大岡(詩集《遊星の寝返りの下で》所収〈咒[じゆ]〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、0554ページ)の「一部改作による引用」 (《遊星の寝返りの下で》巻末の〈*(ノート)〉、《大岡信全詩集》、0598ページ)に思える。
死者よ この乾ききった岩石に棲み そして遙かな樹根に棲め

ハヤ・マルタ・フナを釣り
★高橋(170-171)
「ハヤ・マルタ・フナを釣り/ぼくは猿股をぬらす」……マルタとサルマタの音の響き合いは、つづく行の「日の暮つ方」という万葉調の用語とともに、音韻を たいせつにする大岡への敬意の表現だろう。
★大岡
(詩集《水府 みえないまち》所収〈螢火府〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月 16日、0778ページ)
昼間なら
マルタもハヤも野の中央を縦横し、

はだしで清流にしやがみ、オイベッサンを何びきもみつけ、その砂粒をむしり、ハヤやマルタを釣る餌とする。 (同書、0779ページの散文)

「存在としての自然ではなく
生成としての
自然」
★高橋(170)
飯島の「じっとしている/植物よりも/動いているもの」と大岡の「存在としての/自然ではなく/生成としての自然」(『眼・ことば・ヨーロッパ』「芸術と 自然」)を並べれば、これは似ている。
★大岡(《眼・ことば・ヨーロッパ》の〈芸術と自然〉中の一篇〈自然の復権――風景画から自然画へ〉。《大岡信著作集11》青土社、1977年2月25 日、182ページ)
  アンフォルメル(ぼくはアクション・ペインティングをも含めたものとしてこの言葉を用いているのだが)絵画は、したがって造形美術の恥部に直接手をさしの べ、その秘密をあばこうとしたのである。というのも、右のような思想に支えられている限り、絵画というものは「在[あ]る」ものではなく、むしろ「成る」 ものだという、きわめて魅力的でしかも危険な信仰が生じるのは、必然の成行きだからである。二十世紀の抽象絵画は、画面というものが外部の対象から完全に 独立した、色と形から成る自律的な二次元平面であるという事実の確認から出発した。画面はそれ自体で存在する新しい一個の事物であり、抽象絵画の存在理由 もこの一点への信仰を除いてはあり得なかった。だが、アンフォルメルの思想は、それ自体の中に、この信仰をさえ揺さぶる要素を含んでいたのだ。画面はもは や一個の完結した事物ではなく、その背後の多次元的な(恐らくは、とりわけ時間の次元をも含んだ)生成する世界への、ひとつの通路のごときものとみなされ ねばならなかった。それは、新たな〈自然〉への接近を意味していたとはいえないだろうか。存在としての自然ではなく、生成としての自然、いやむしろ、生成 としての自然という熱した観念への接近を。

「子供は強引に成長する」
★高橋(171)
「子供は強引に成長する」(詩『水府』「調布V」)。原典では大岡の子息についていっている箇所だが、ここでは大岡じしんのことに「強引に」捩じ曲げられ ている。
★大岡(詩集《水府 みえないまち》所収〈調布V〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、0743〜0744ページ)
子どもはどんどん大きくなるが
親みづからには老いゆく自覚のないことを
ある日ふと怖ろしいと知る
路上の胡人、ぼくといふ他人

「とびかかって来る
緑」
★高橋(171-172)
「とびかかって来る/緑」と「そこに巨大な女が横たわっている/ことを想像せよ」は『現代詩文庫24大岡信詩集』「日記抄」より。原典では箱根に登っての 印象であるものがここでは少年期から青年期への過渡的時期の心象風景として利用されている。
★大岡(〈日記抄〉、《大岡信詩集〔現代詩文庫24〕》思潮社、1969年7月15日、110ページ)
〔1951年(昭和26年)〕6・30
  山を登りながら見たあの美しいスロープの緑、それは僕にひとつの啓示を与える。美とは驚きであるとボオドレエルがいったが、それは語源から考えられること だ。surprendreは「とびかかる」の意味であって、我々がsurprendreされるということは、つまり、対象によってとびかかられることなの だ。対象を見るのではない、対象が我々にとびかかってくるのだ。surprendre(対象)→surpris(自己)、この関係こそ、美を形造る。箱根 のあの十国峠の緑のスロープは、たしかに僕にむかってとびかかってきた。

「そこに巨大な女が横たわっている
ことを想像せよ」
★高橋(171-172)
「とびかかって来る/緑」と「そこに巨大な女が横たわっている/ことを想像せよ」は『現代詩文庫24大岡信詩集』「日記抄」より。原典では箱根に登っての 印象であるものがここでは少年期から青年期への過渡的時期の心象風景として利用されている。
★大岡(〈日記抄〉、《大岡信詩集〔現代詩文庫24〕》思潮社、1969年7月15日、110〜111ページ)
〔1951年(昭和26年)〕7・1
夜 の闇に包まれた広大なスロープ、それを夢見ることは怖ろしい。巨大な実感だ。そこに一人の巨大な女が横わっていることを想像せよ。むしろ実感せよ。すると 君は、不意に激しい欲情が身内に起るのを感ずる。その女は、君の欲情の対象であり、しかも君の欲情それ自身である。君は彼女の巨大な柔かい腹部を探るであ ろう。それはしっとりと濡れて温かく、いい匂いを放っている。いい匂い……むしろ女の匂い。君は次第に深みへ没してゆく。君は深い叢に迷いこむ。柔かい、 濡れた粘膜。樹液の分泌。君は一個の蟻である。君は一つの死、長い眠りである。君は彼女の「中で」眠りたい。君はやがて眠るであろう。君はその時単なる 「眠るもの」にすぎない。然しいつでも、僕らの生は眠りのために費されるし、それ以外の目的をもってはいないのだ。

「円筒の中は静まりかえり」
★高橋(172)
「円筒の中は静まりかえり」は「……静まりかえったコップのなかの……」(詩『透視図法――夏のための』「罎とコップのある」)の改変。「コップ」が「円 筒」となったについては、アデノイドの口腔に象徴される少年の内部の表現に「円筒」がふさわしいと考えられたためか。
★大岡(詩集《透視図法―夏のための》所収〈罎とコップのある〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、0511ページ)
街路のひびきをうかがうように静まりかえったコップのなかの、三分がた凍った水が、かすかな蒸気をあげている。それを眼の湿布が吸いとる。水は徐々にぬく もり、コップが私にくれる眼差しは、平凡な静物のウィンクにすぎなくなる。
  とどまれよ、秋波!
  こい、寒波!

猫は死にゆき
鯉も死にゆき
★高橋(172-173)
「猫」や「鯉」の「死」をとおして「人」の「死」の意味を知る。
★大岡(〈日記抄〉、《大岡信詩集〔現代詩文庫24〕》思潮社、1969年7月15日、113ページ)
〔1951年(昭和26年)〕9・13
  猫が死に、鯉が死んだ。死ということの何という不思議。「肉体の死」という極めて観念的な事実から、不意に「死んだ肉体」という極めて露出的な事実の中へ 突き出され、或は引きずりこまれ、人は激しい当惑を感ずる。ここにある断層、それは我々が通常自明のこととしている、眼に見えるすべてのものは理解でき る、という観念を一瞬のうちに不安の中へ突き落すことによって、充分戦慄的である。我々は死んだ肉体を眼前に見る。しかもそれは我々の凡ゆる理解を絶して いる。何とも言い様のない矛盾。

「葡萄の房
みたいなかたち」
★高橋(173)
「葡萄の房/みたいなかたち」(『大岡信詩集』「地名論」の中の「音楽の房」の改変か)の「死」。
★大岡(詩集《わが夜のいきものたち》所収〈地名論〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、0419ページ)
おお 見知らぬ土地を限りなく
数えあげることは
どうして人をこのように
音楽の房でいっぱいにするのか

「涙を浮かべない眼で
事物を見よ」
★高橋(173)
「涙を浮かべない眼で/事物を見よ」は「けれどもつひに/涙など知らぬ顔に/晴れ渡つてゐる/いとしい/敵」(『悲歌と祝祷』「渡る男」)の改変か。
★大岡(詩集《悲歌と祝祷》所収〈渡る男〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、0615ページ)
けれどもつひに
涙など知らぬ顔[がほ]に
晴れ渡つてゐる
いとしい

「処女陵辱」
★高橋(173-174)
「処女陵辱」については『狩月 記』「断章Y」に、ある座談会に出席した後の速記録に「凌辱」としゃべったつもりのところが「陵辱」となっていたことから始まり、「凌」と「陵」の「言語 がはらむ/観念の内容をつきとめ」る作業過程が述べられている。おそらく作者は大岡のこの文章を読んで、「処女陵辱」の文字に新鮮な戦慄を覚えたのだろ う。
★大岡(《狩月記》所収〈断章Y〉。《大岡信著作集13》青土社、1978年2月28日、296〜300ページ)
 ある座談会に出 た。速記原稿がまわってきて、私の発言の中に「処女陵辱」という文字があるのを見た。たしかに私は「リョウジョク」という言葉を使ったのたが、私の頭に あったのは「凌辱」という文字だったので、「陵」の字には戸惑った。はじめは速記者のミスであろうかと思った。しかし、この文字が何度も出てくるので、戸 惑いは狼狽に変った。
 この速記はまちがっている、と私は思い、「陵」を「凌」に訂正した。しかし、速記者は文字をよく知っている人々である。気になって、広辞苑を開いてみ た。
 りょうじょく【凌辱・陵辱】@人をあなどりはずかしめること。A女を暴力で犯すこと。
 私はうなった。陵辱も正しい文字遣いなのか。「凌」の字は当用漢字ではない。したがって、「陵」の字が採用されたのにちがいない。私は速記者に不明を詫 びる思いで、再び「凌」を「陵」に戻した。
 事の経過はそれだけたったが、私の気持はこの結果をすんなりと受入れたがらなかった。言ってみれば、語感と人が呼ぶものの問題らしかった。

「夢と現実の
隙間」
★高橋(174)
「夢と現実の/隙間」は「夢と現実のあいだに隙間があるという考えの誘惑」(『狩月記』「断章I」)の省略。
★大岡(《狩月記》所収〈断章I〉。《大岡信著作集13》青土社、1978年2月28日、241〜242ページ)
 夢と現実のあいだに隙間があるという考えの誘惑。
 一衣帯水。一方は夢に、他方は現実に連っている、限定できない細いひろがり。
 それを、ある人々は光のごときものとして想像するだろう。
 別の人々は、闇のごときものとして想像するだろう。
 空間という便利な語を用いることができるなら、夢と現実のあいだの隙間は、見えていて同時に見えない空間という風にしか表現できない種類の空間である。

「冴え冴えとした
月」
★高橋(174)
「冴え冴えとした/月」は「月光はかたく冴える」(『悲歌と祝祷』「とこしへの秋のうた――藤原俊成による」)の変形。
★大岡(詩集《悲歌と祝祷》所収〈とこしへの秋のうた――藤原俊成による〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、0638ページ)
 氷る

多摩川の里に氷張りつめ
月光はかたく冴える
凄愴の影ををどらせて氷の上にあられが降る
氷は固くしまり
わたしの心はくだける

 月冴ゆる氷のうへにあられ降り心くだるる玉川のさと

「言葉の方からのみ
人生を眺めると人生は
煙のごとし」
★高橋(174)
「言葉の方からのみ/人生を眺めると人生は/煙のごとし」は『狩月記』「断章U」より。
★大岡(《狩月記》所収〈断章U〉。《大岡信著作集13》青土社、1978年2月28日、257〜258ページ)
 言葉は恐ろしい。
 人生は煙のごときか。
 言葉の方からのみ人生を眺めると、人生は煙のごとしというほかないのだ。
 それでは、言葉以外のどっちの方から人生を眺めるというんだよ。オマエは言葉以外の何ものでもないではないか。
 だから、言っただろう? 人生も、詩も、同じようにわからんものなんですと。ただし、人生はその無秩序において、言葉はその秩序において。

「生物と鉱物の両方が騒がしく
わき立っている
地表」
★高橋(175)
「生物と鉱物の両方が騒がしく/わき立っている/地表」は「あぢむら騒ぎ/しろがね融ける地表に」(『悲歌と祝祷』「燈台へ!」)の変形。なるほど、「あ ぢむら」(=アジガモの群)は生物だし、「しろがね」(=銀。いうまでもなく)は鉱物だ。
★大岡(詩集《悲歌と祝祷》所収〈燈台へ!〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、0618ページ)
あぢむら騒ぎ
しろがね融ける地表に
狂ひたつ生きものたちの
水晶体はけぶる
祖先のからだの髪と管は炎える
★大岡(谷川俊太郎との対話《批評の生理》思潮社、1978年7月15日、138ページ)
「あ ぢむら騒ぎ」というのはアジ鴨の群がいっせいに騒ぎ立てるようなことだけれども、自分のイメージのなかではもっと一般的に、非常に騒がしい生物の群という ことで、「しろがね融ける」は象徴的に言えば金属類がわき立ち融けていく現代ということなんだな。だから生物と鉱物の両方が騒がしくわき立っているような 地表というイメージ。

「尋常の食物では
彼らを養うことは出来ない」
★高橋(175-176)
「尋常の食物では/彼らを養うことはできない」は「桃を賦すにはまだ稚ない十二人の弟たちに/柔らかい肉 硬い歯を与えるために/父親は死んで柘榴とな り」(『春 少女に』「稲妻の火は大空へ」)の翻案か。
★大岡(詩集《春 少女に》所収〈稲妻の火は大空へ〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、0704ページ)

桃を賦すにはまだ稚ない十二人の弟たちに
柔らかい肉 硬い歯を与えるために

父親は死んで柘榴となり 荒地に立つた
きみは曠野で御しがたい牝[めす]馬となり 喃語[なんご]を唾棄した

「沈黙に聞き入る能力」
★高橋(176)
その家族は「沈黙に聞き入る能力」(おそらく『彩耳記』「断章XIV」の「静寂を聴くことへの、ひとりの人間の深まり」の翻案)を持つユマニスティックな 家族、そのユマニスムは「頭部は巻貝のような」と表現される。
★大岡(《彩耳記》所収〈断章XIV〉。《大岡信著作集13》青土社、1978年2月28日、170〜173ページ)
 心理学者にいわせると――あえて心理学者と限ることもないが――ある少年なり少女なりが「わたしは今、静けさの中に聴き入っている」というようなとき、 その少年あるいは少女は、すでに青年になっているのだという。
 なるほどその通りだと思う。
 直接的な知覚としての音響を聴くことから、知覚を超越した静寂を聴くことへの、ひとりの人間の深まりは、聴くという言葉の内容そのものをも深める。
 〔……〕
  それゆえ、言語の固有の本質は、単に翻訳可能という点だけではあり得ず、同時に[、、、]翻訳不可能な固有性をもつ点にこそ、その固有の本質 [、、、、、]があるといわねばならない。それは矛盾の塊りである。だが、その矛盾ゆえに、私たちは絶えず他のいかなる記号にも移すことのできない、言語 固有の静寂に聴き入る[、、、、、、、、、、、、]ことができるのだ。
 何が私たちを、詩という、常に定義の彼方に逃れ去るものにむかって駆りたてるといって、この言語の静寂に聴き入ること以上にダイナミックな刺戟はないの である。私たちは、この静寂に聴き入るとき、常に、少年から青年になろうとする瞬間にある。

「からだのなかにつねに
フォルム感覚が見えない形で
生み出される」
★高橋(176)
「からだのなかにつねに/フォルム感覚が見えない形で/生み出される」は出典未詳。
★大岡
(谷川俊太郎との対話《批評の生理》思潮社、1978年7月15日、129ページ)
自 然界を実際に歩いているときには個々のものに接しているわけだけれども、それらに本当の意味で形を与えるのは、自分自身のなかの意味あるいは感覚の体系だ と思うんだ。世界観とか人生観という言い方もできるけれども、女のからだが月々完全な形の卵子を生み出しているみたいに、人間のからだのなかにつねにフォ ルム感覚が見えない形で生み出されていて、そこに個別の一つのものがひっかかってきたときに言葉になる。そういう考えが僕にはある。

(言葉)
もろもろの具象を
箒やはたきをかけて
舞いあがらせる
発止!
★高橋(176)
なお、括弧に括られてはいないが、「(言葉)/もろもろの具象を/箒やはたきをかけて/舞いあがらせる/発止!」は『悲歌と祝祷』「霧のなかから出現する 船のための頌歌」の「言葉よ/発止!」から来ていること明らかである。
★大岡(詩集《悲歌と祝祷》所収〈霧のなかから出現する船のための頌歌〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、0664〜0665ページ)
人の涼しい影は
幼い神神の頬笑む土地をよぎる
大地は低くうたふ

マックス・エルンストは巣に帰らず
ヘンリ・ミラーはオレンジの芳香に埋もれ
スヴェーデンボリは木星人と青い婚姻
地に姫殺し溢れ
土蔵はいたるところで水揚げされる
涼しい女の言葉よ
いまこそ土地の血管をゑぐれ
こほろぎ棲む草の根よりもうるほひある
言葉よ

発止!

「璧を通して
青空が見える家」
★高橋(177)
「壁を通して/青空が見える家」は「壁は剥げ落ちて、居ながらにして壁を通して青空が見えるような家だったのだ」(『肉眼の思想』「イメージ時代の中のデ ザイン」)の省略。大岡が家庭を持ってはじめて住んだ住居の記述が大岡または主人公の生活の原点として利用されている。
★大岡(《肉眼の思想》所収〈イメージ時代の中のデザイン〉の「ホウキから掃除機へ」〔小見出し〕。《大岡信著作集11》青土社、1977年2月25日、 317〜318ページ)
一 日中家の前にはバスを待つ人々が並んで、暇つぶしに僕の家をじろじろのぞきこむ。のぞきこむのも道理で、この家は軒がさがって玄関は久しい前からあけたて できなくなっていたし、壁は剥げ落ちて、居ながらにして壁を通して青空がみえるような家だったのだ。友人たちは、たたみの下に竹が生えているようなこの家 を面白がって、大事にしろとはげましてくれるし、僕もこの家を愛していたのだが、とてもそんなのんきなことを言ってはいられなくなった。

「氷河が溶解し
世界の洪水がはじまる」
★高橋(177)
「氷河が溶解し/世界の洪水がはじまる」は「洪水せまる/胴震ひのみやこ」(『悲歌と祝祷』「霧のなかから出現する船のための頌歌」)の翻案か。
★大岡(詩集《悲歌と祝祷》所収〈霧のなかから出現する船のための頌歌〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、0662ページ)
たてがみは冷える
竹やぶは鳴る
つるむ戯[たは]れ女[め]
くるしむ戯[たは]れ男[を]
洪水せまる
胴震ひのみやこ
広場の微光は透明になる

ふるへて

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高橋睦郎が〈鑑賞〉で「なお、この作品に引用された出典については、とくに大岡信氏の教示を得た。作者が一篇の作品の完成度のためにど れほど原典に 沿うか、あるいはまた離れるかの例として、ここに示すのも意味のないことではあるまい」(前掲書、一六九〜一七〇ページ)と断っているように、吉岡が引用 した章句の著者でなければわからない、改変・変形・翻案された詩句の出典の指摘はとりわけ貴重である。以下では、そこから漏れているいくつかの出典の典拠 や周辺の事項をめぐって逍遙してみたい。

■00行めの題辞「「言語というものは固体/粒であると同じに波動である」/大岡 信」の典拠は 前出のとおりだが、谷川俊太郎は〈大岡の知――石ころと括約筋〉でこう指摘している。「以前に書いた小文の中で、私は大岡をウェーヴィクルにたとえたこと がある。ウェーヴィクルとはイギリスの天体物理学者アーサー・エディントンのつくった新語で、物質の基本状態であるパーティクル(粒子)とウェーヴ(波 動)の両属性を一語で表したものだが、大岡が自身の随想に「語はウェーヴィクルの類同物ではないだろうか」と書いているのを読んで、その言葉が同時に大岡 自身をもよく語っていると感じたのだ」(《現代詩読本―― 特装版大岡信》思潮社、1992年8月20日、二八九ページ)。いま谷川の「以前に書いた小文」を明らかにしえないが、まず大岡がエディントンによる新造 語「ウェーヴィクル(wavicle)」に「語」との類同性を見いだし、前後関係は不明ながら、その大岡文を読んだ谷川も吉岡も、ウェーヴィクルとウェー ヴィクルに感応する大岡との間に類同性を見いだしたことになる。谷川文が(散文だけあって)大岡の書いたままを引き、吉岡詩が(詩の題辞ではあっても)大 岡の書いたままとは大いに異なる表記を伴っているのは、興味深い。大岡を真中に置いた谷川と吉岡の比較論の手掛かりにさえなりそうな気がする。

■01行めの「石や木とじかに結びついている」の典拠と思しい大岡の詩句を掲げてみたが、もしかすると吉岡が金井美恵子との対談〈一回 性の言葉―― フィクションと現実の混淆へ〉(《現代詩手帖》1980年10月号)で「ぼくの中でも、補足は自分で作って自分で括弧にいれると、リアリティが出るなと 思っちゃう。全部が人の言葉とは限ってないわけ。作り変えもあるし……。で、この行とこの行をつなぐには引用をいれないと、という感じで、自分で作った引 用をいれざるを得なくなってきているのね。〔……〕そうじゃないと、こっちがリアリティを感じられなくなってきている。自分で敢て自分の詩句を括弧にいれ るとリアリティを感じられるという錯覚を作っているわけだ」(同誌、九六ページ)と語っている「自分の詩句を括弧にいれ」た実例のようにも思え、微妙なと ころだ。飯島耕一に捧げた〈雷雨の姿を見よ〉(H・14)を「「スナガニが砂を掘って/ひそんでいる穴」」と始めたのと同じ筆法でこの詩を始めたかったた めだと言えば、強弁だろうか。

■04行めの「ハヤ・マルタ・フナを釣り」の出典に関しては、上掲のとおり詩集《水府 みえないまち》(思潮社、1981年7月1日) 所収〈螢火 府〉の本文と詩篇に付された散文だが、この04行に限らず、「1」「2」で吉岡が典拠としたのが大岡の〈略歴〉(谷川俊太郎との対話《批評の生理》所収) であることは動かない。同文から抄する。
★大岡(谷川俊太郎との対話《批評の生理》思潮社、1978年7月15日、12ページ)
小学五年の時扁桃腺炎とアデノイドの手術をしてから、割合丈夫になった。〔……〕
飼ったもの――目白(何羽も)、鶏、鶯(傷ついていたため短命)、犬猫、鯰、のちに山羊(ただし牡で何の役にもたたず)。
〔……〕
捕ったもの――昆虫さまざま、ハヤ、マルタ、フナなど川の生物、螢たくさん。〔……〕
中学校は沼津中学(現沼津東裔校)。学校は沼津東郊の香貫[かぬき]山と狩野川に前後を抱きしめられる位置にあった。
〈円 筒の内側〉で増幅された〈螢火府〉の詩句は大岡の後年の詩集《故郷の水へのメッセージ》に再びその姿を表す。〈詠唱〉には鯰(と鮠と丸太)が、〈産卵せよ 富士〉には(鮠と丸太と)鮎(中国ではナマズを指すという)が登場するのだ。詩篇発表の前後関係からいって、これらが「ぬるぬるしている/硬骨魚/鯰をつ いに捕え」(07-09行め)の典拠ではありえない。大岡自身の詩句→それを改変・変形・翻案した吉岡の詩句→さらにそれを踏まえた大岡の詩句、すなわち 《水府》→《夏の宴》→《故郷の水へのメッセージ》という流れになろうか。
★大岡(詩集《故郷の水へのメッセージ》(花神社、1989年4月10日)所収〈詠唱〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年 11月16日、1194ページ)
亀も飼つた 犬も猫も 妊娠中の
 鯰も飼つて トッポーン 川へ帰した
〔……〕
オエベッサンで鮠[はや]も釣つた
 丸太も手掴み ピシャーリ
★大岡(同詩集所収〈産卵せよ富士〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、1228ページ)
小浜池[こはまがいけ]にも 柿田川[かきだがは]にも
鮠[はや]・丸太・鮎のきらめき
きみの流れで泳ぐとき
ぼくらのふくらむちんぽこも
たちまち縮んで
豆粒のピストルになった

■45行めの「「ツクネイモ山水」」は、高橋に拠れば「大岡の言葉に間違いなきも出典未詳」(174)。ウィキペディア〈南画〉の項の 「日本南画」 に「明治20年にフェノロサ、岡倉覚三(天心)主導の東京美術学校開設で「つくね芋山水」としてマンネリ化した南画は旧派として排除された」とあるから、 私はてっきり大岡信《岡倉天心〔朝日評伝選4〕》(朝日新聞社、1975年10月15日)にあるものと当て込んで同書を再読したのだが、あにはからんや 「ツクネイモ山水」も「つくね芋山水」も登場しない。よって出典未詳だが、中野美代子《龍の住むランドスケープ――中国人の空間デザイン》(福武書店、 1991年10月22日)の〈U 地平線のない風景――11 桂林案内〉に「つくね芋の山水」という項がある。志賀重ミ《日本風景論》(政教社、1894)の〈日本の風景と朝鮮、支那の風景〉の一節を引いている中野 は、その「蕷薯[ツクイモ]一樣の畫を描きて假形的に山水を眼前に現はし、〔……〕」に注目して、「これは木正兒[まさる]の文章に「つくね芋の山水は 油繪の風景ほど實感が無い」〔〈支那かぶれ〉1936〕とあるのに引きつがれている。もっとも青木は、のちに「南画の山水は無上に好きにな」〔同前〕り、 『江南春』において、江南の風景や風物の繊細さをゆったりと語るにいたった」(同書、二三四ページ参照〔一部表記を改めた〕)と指摘している。ならば、出 処のわからない「「ツクネイモ山水」=大岡の言葉」は青木が典拠か。

■64行めの「「冷えすぎたハム」」について高橋は「出典未詳」(176)と書いているが、この鉤括弧で括られた詩句の背景には拙編《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》の1979 年「十月、青木画廊で〈ボナ・ド・マンディアルグ展〉を観る」があるに違いない。いま、日にちが特定できないのだが(初日ではなかった)同年10月、私は 銀座・青木画廊で〈ボナ・ド・マンディアルグ展〉(開催期間は10月3日の水曜から20日の土曜まで)を観ている。そのとき画廊の芳名帖に吉岡実の署名が あるのを見た(吉岡はオープニングの日に足を運んだのかもしれない)。63行めの「頭部は巻貝のような人たちだ」はボナの作品を踏まえている。ボナの夫君 アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグは《ボナ わが愛と絵画〔叢書創造の小径〕》(新潮社、1976年9月10日)の巻末近くでボナの「頭部は巻貝のような人たち」の作品についてこう書いている。 「〔『牝狼』の〕牝の人狼は身寵っており、その恐しい狩猟は、妊娠後ボナによって描かれた数多くの女=かたつむりに彼女を似させる腹のふくらみをさらに強 調しており、女性の腹から子供がとび出すように、かたつむりの角の生えた頭が螺旋からとび出したり、或いは男性の腹の下から男性器が突き出るように突き出 していたりする、古代アステカ人のものといっても通用しそうな描写」(生田耕作訳、同書、一〇五〜一〇八ページ)。

〈ボナ・ド・マンディアルグ展〉(青木画廊、1979年10月3日〜20日)カタログの表紙 〈ボナ・ド・マンディアルグ展〉(青木画廊、1979年10月3日〜20日)カタログの裏表紙
〈ボナ・ド・マンディアルグ展〉(青木画廊、1979年10月3日〜20日)カタログの表紙(左)と同・裏表紙(右)

手許に《ボナ――BONA》と題した同展のカタログがあるので、概要を記す。仕上がり232×186mmの巻三つ 折り(6ページもの)で、横組。表紙の図版のみカラー、ほかはスミ刷り。隠しノンブルなので、仮に表紙から順を追ってノンブルを振る。
 (表紙)カラー図版1点(題名不明)
 (p.2)澁澤龍彦〈SPIRA MIRABILIS DE BONA〉
 (p.3)モノクロ図版1点(題名不明)
 (p.4)アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ〔竹本忠雄訳〕〈ボナ――そのエロチック・デッサンの牧歌的不思議〉/出品目録(油彩4点、色鉛筆 10点、版画17点)
 (p.5)モノクロ図版9点
 (裏表紙)ボナ・ド・マンディアルグ略歴/肖像写真(Photo by Irina Ionesco 1975 Paris)/青木画廊の住所・電話番号

澁 澤龍彦の〈SPIRA MIRABILIS DE BONA〉は「ボナの絵のなかに、羊の角のような、三半規管のような、くるくると巻いたカタツムリが現われるようになったのは、いつごろからだろうか。そ れほど昔のことではあるまい。ともあれ、ひとたび出現したカタツムリは、もうそれ以後、彼女の絵の世界から容易には出て行きそうもない気配であり、くるく ると巻いたカタツムリの螺旋は、どうやら彼女の世界の紋章となったかのような趣きがある。このカタツムリ、このスピラ・ミラビリス(驚くべき螺旋)を私は 愛する」と始まる。吉岡実がこの文章を読んだことは確実で、
 59    ぼくのはらからは
 60    ひたすら思考し
 61    「沈黙に聞き入る能力」
 62    をたくわえる
 63    頭部は巻貝のような人たちだ
は、大岡の「静寂を聴くことへの、ひとりの人間の深まり」を翻案した「「沈黙に聞き入る能力」」から、続く
 64    「冷えすぎたハム」
 65    この興ざめたものを嚥下す
を繋ぐ詩句として「自分の詩句を括弧にいれ」たの同等の効果を、澁澤の章句を踏まえて(鉤括弧で括らないで、改変・変形・翻案して)成したものと考えられ る。ここで
 静寂を聴く → 耳 → 三半規管 → 巻貝のような頭部
と いう連想が働いていることは疑いを容れない。さらに想像を恣にするならば、展覧会のオープニングパーティーで「冷えすぎたハム」が供されたのかもしれな い。いみじくも吉岡自身が入沢康夫との対談〈模糊とした世界へ〉(《現代詩手帖》1967年10月号)の「作品と現実とのかかわり方」の項で語っているで はないか。

吉岡  〔……〕自分で振りかえってみて、や はり一つの日録というか日記に近いものにぼくのなかではなっていますよ。西脇先生のこの頃の詩が或る日記であると同じように、ぼくも振りかえってみて、そ の時代その時代の日録に近いものになっていますね、他人から見たらわからないと思うけど。(同誌、六〇ページ)

さらに、吉岡は当の大岡にはこう語っていたではないか。

吉岡  〔……〕ぼくが詩を書く場合、頼まれ てから一カ月が最良の期間なの。一カ月のうち二十日間は遊ぶわけよ、心の一点にとめて。あとの四、五日が陣痛期。〔……〕だから締切の十日ぐらい前から、 そこらで雑誌読んだり本読んだり、ちょっと気を引くものを読む。でこんど原稿用紙に向う、それで、まあわりと一気に書いてる。だけど書いても、直さない。 というのは、あんまり考えすぎてはいけないんだ。詩は自分で考えて書くんだけれども、あるところから、神がかりというか、与えられることばが出てくる感じ がする。その最初に出てきたことばをできるだけ大切にしたい。そう思うから、自分で書き直すことをしない。それをしたら、別の考えがまたそこで入ってきて 純度がなくなってしまう。そこで、うちの奴に清書を頼み、自分を空白にして待つ。そうすると荒けずりの原初的な詩の草稿が出来上るわけよ。それに手を入れ ていく作業を続ける。それを三回ぐらい繰返して最後の三日ぐらいでひとつのものを完成させる。だからきみが言った、早くできてんじゃないかってのは、まさ にそうだ。詩は、最初の一行からあんまり考えていっては動きがとれなくなるんだ。研ぎすまされた言葉の併置だけじゃ、その詩は動き出さないと思う。つまら ない詩の行が、骨を包む肉のように挾まることが詩を柔軟にして、真のリアリティを保有させることになる。とぼくは信じている。とはいっても、まあ単純なん だよね。(吉岡実・大岡信〔対話〕〈卵形の世界から〉《ユリイカ》1973年9月号、一五五ページ)

■72〜76行めの「(言葉)/もろもろの具象を/箒やはたきをかけて/舞いあがらせる/発止!」は前出の指摘のとおりだろうが、大岡 の《岡倉天 心》の「この文章〔「網走まで」〕の最後の方に出てくる「何しろ」、この不思議な魅力をもつ一語は、志賀直哉という小説家の一種野性的な直観力の一証左と してあげられうるものだが、天心という人も、英文の文章を書きながら、自発的直観的に湧きたってくるこの種の言葉を発止と受けとめる鋭敏さと心の躍動を もっていた人のように思う」(同書、二七一ページ)も影響しているだろう。

さて、詩句の典拠をめぐる探索はひとまず終わった。残すは詩篇のあとに付された次の文言(仮に86行めとした)である。

 86              (一九七九・一○・九)

これはもちろん1979年10月9日を表すが、この日はいったなんだろうと考えるとなかなかに難しい。吉岡が草稿に大きく×印を付け て抹消した詩篇〈寒燈〉には、本文の終わったあとに
 〈二四、九、二十〉
とあり、さらに
     (雅美へ二四、十、二十送る)
と 書かれていることから、詩篇のあとの日付(昭和24年9月20日)はおそらく脱稿日と考えられる。だが、こんにち見ることのできる吉岡実詩の初出形にこそ このスタイルの脱稿日は残っているものの、詩集に収められた日付はこの〈円筒の内側〉の「(一九七九・一○・九)」だけなのだ。初出時点で〈青い柱はどこ にあるか?〉(F・6)に「一九六七・五・一五」とあったのも、〈コレラ〉(F・18)に「〈一九六九・一〇・五〉」とあったのも、〈聖あんま語彙篇〉 (G・8)に「(正月・七草)」とあったのも、〈異霊祭〉(G・19)に「1974・2・14」とあったのも、〈悪趣味な内面の秋の旅〉(G・31)に 「1975・9・22」とあったのも、詩集ではすべて省かれているというのに。そして〈円筒の内側〉よりもあとの〈哀歌〉(J・13)でも初出時点には あった「(一九八二・六・一〇 通夜の日)」が詩集で省かれていることは、軌を一にしている。これはじっくりと考えるに値する問題だが、その前に大岡信 《岡倉天心〔朝日評伝選4〕》と吉岡実の関わりへと迂回しなければならない。

……………………………………………………………………………………………………………………………………

大岡の《岡倉天心》は〈序 五浦行〉で始まる。同文は吉岡が編集を担当していた《ちくま》1975年5月の第73号に掲載された。その 経緯は吉岡の 随想〈大岡信・四つの断章〉の「3」(初出は《大岡信著作集〔第14巻〕》月報(青土社、1978年3月31日)の〈大岡信・二つの断章〉)に詳しいか ら、ここでは大岡の談話〈牧水、天心、子規、虚子について〉を引こう。

 僕はものを書く時、特に本を一冊書き下ろすのは苦しくて たまらない。期日までに調べ たりして書こうとは思うんですけれど、調べれば調べるほど、あれもこれも知らなかったということが出てくる。どんな小さなことでも無限に広がるのは当然な ことなんですが、書き出すにはそれをどこかで断ち切らなければならないわけです。心理的には過飽和状態というところまでいって、どこかで針の穴みたいなも のがあいてそこから空気がすごい勢いで吹き出すのを待ちながら耐えている。書く前に調べるというのはそういう状態を作っていることなんです。
 こ の本の場合、非常にありがたいことがありました。親しい友人のひとりである吉岡実君が、雑誌「ちくま」の編集をやっている。彼は自分がいいと思った人の文 章をゆっくりと載せていけば、必ずいい雑誌ができるという信念を持ってやっているんですが、「ちくま」はそのためにユニークな雑誌になっています。その吉 岡君が、たまには何か書かないかと言ってくれたわけです。それで、天心のことを調べるために茨城県の五浦海岸に行ってきたことでも書こうか、ということに なりました。僕としては、あわよくば、それが針の穴にならないかと思ったわけです。その原稿を見て、彼が、うん、これは面白いよ、と言ってくれた。僕も、 何とかこれで始まりそうだな、という小さな安堵がありました。そして実際に、この「ちくま」の文章を頭にもってきて、何とか事は始まったんです。
  しかし、そのあともそうすらすらは行かなくて、担当の廣田一さんは、追いこみにかかってから二ヵ月ぐらいの間、原稿を取りに僕の家へ定期便をやるような形 になりました。廣田さんとは、その時かぎりの執筆者と編集者の関係ではない親身なつきあい方でやれたから、少しは気が楽でした。
 本の構成につい ては、初めから構想を立てておいても意味がないような書き方になりまして、特に第二章の「白い狐の幻影」は、それ一章で一五〇ページにも及んでいます。書 いていていつまでたっても章が変らないので、自分でも絶望的になり、この本、書き上げられるのかどうか不安になった記憶があります。本としてはどうもバラ ンスがひどく悪い。しかし僕の場合、きちんとした構成という点からすると、いつもこういうことになるんで、いわゆる論文のようなものを書かねばならないの だったら、一生のあいだ苦労しつづけということになったんじゃないかという気がしております。(《大岡信著作集〔〔第9巻〕〕》青土社、 1978年4月30日、五二八〜五二九ページ)

《岡倉天心》の執筆・刊行の背景はここに尽くされている。では、吉岡は大岡のこの本をどう読んだのか。飯島耕一との対談に依るに如くは ない。

吉岡  最近、大岡信の『岡倉天心』、読んでね、さすがに傑作だと思った。もういち早く飯島くんは褒めてたね。ぼくはきょう読み終ったの。もう感動させる作品なん だな。大岡のだってエッセイは、そんなに読んでないのよ、わるいけど。こんどの『岡倉天心』はほんとに醇乎たる作品になってるという思いが深い。
飯島 『紀貫之』よりいいか もしらんですね。
吉岡 さて、飯島くんなら分 析的にできるんじゃないかと思うんだけど。
飯島  天心の詩「White Fox」ね、あれに打ちこんでいますね。ああいうふうに「恋愛」というものに対して大岡信は……いまや「恋愛」ということばもなくなったみたいな時代で しょう。でも、彼はそういう初心の、非常に純真な恋愛ってものに強烈に関心もってるんだな。それがあの本のいちばん根本になってるんじゃないかと思います けどね。だから今まで東洋風の革命家天心ということが流布していたけど、あの「白い狐」の詩を読んでからちょっと疑いをもったわけよね。あんなに純真な恋 愛詩を書く人が、あんな雑駁なことばで革命を語るってことはありえないと思ったんじゃないですか。そこから解きほぐしていって、天心の恋文を読み、そんな ことはあり得ないということに思い到って、一人の人間てものは、革命への情熱があると同時に、そういう純真な恋愛への情熱もあるんだという、そういう柔軟 な観点で、どうしても天心像を描きなおさなきゃいかんと思ったんじゃないですか。そういう意味であの本の一番のキイ・ポイントは、熱烈な恋愛ですね。だか ら一種の憧れであるし、ロマンチシズムですけどね。そういうものが一番根本的にあるんで、彼がシュルレアリスムに関心をもったのも、なにも人を驚かすとか ナンセンスを求めるとか、そういうものはあの人には全くないわけでしょ。シュルレアリスムに関心をもったのも、そういうひたむきな憧れみたいなね。それは 二十世紀ではシュルレアリスムに一番ロマンチンズムがありますからね。だから、彼はロマンチシズムってのは非常にあるんで、あるときは「保田與重郎論」書 いたりしたけど、あれも一種のロマンチシズムではあるしね。あっちのほうへ傾いていくと、ちょっと困るんじゃないかと思うんだけど。(笑)やっぱり、そう いうロマンチシズムってことに彼は同情がつよい人だから、保田與重郎にもちょっと魅力を感じるときもあったんでしょう、批判的に書いていても、あれだけ長 く熱心に論ずることはね。
吉岡  ぼくはきのう大岡くんと会った時、だから、いろいろ質問してみたのさ。ぼくが散文書くともうせき込んで、結論へなだれ込んでしまうんだけど、大岡のあれを 読むとき、傍道への入り方が、実に巧妙なのね。あらゆるところで、傍道へ導入してゆくんだが、その時に使うことばがひとつひとつ違ってんのね。これは恐る べきこと。そういうとこが細心なのね。すーっと書いちゃって急にまた過去の時代を入れたりね。そういうことを感じながら読んでったら、案に巧緻にできてる わけ。彼の天心の体験期間というのは長いんだが、しかし実際に書きだして二ヵ月足らずで書上げちゃったのね。おそらく原稿を推敲に推敲したろうということ を、ぼくは聞いたら、大岡はぜんぜんしないというんだ。
飯島 推敲なんかしないだろ う。したら、ああはいかない。かっととりのぼせて書いている。
吉岡 しないで、それでしか も首尾一貫して、ああいう完成度の高いものができたとは、一寸驚異……。たしかに大岡はあれを一種の詩として書いてるわけだ。あるエネルギーと醒めた狂気 で。だからそういう点で、醇乎たるエッセイができている。
飯島 そうですね。あれはい いものだ。ぼくはずっとここ数年の彼のものを見てて、まああんまり感心もしないし、ちょっと困ると思うものもあったけど、(笑)『天心』は感心した。書き 上げたときは大分昂奮していたな。
吉岡 だから、そういう点、 非常に嬉しかったしね。
飯島  なにしろ、ああいうふうにつき合いのいい人だから、あっちこっちでサービスばっかりしてるけれど、『天心』論は本気になった、寝食忘れてやったんだな。だ から適当に書いて推敲したなんていうもんじゃなくて、のめり込んで書いてる。そういうときはいいんだな。ロマンチシズム型だからね。『天心』は自分でも一 応満足してるんじゃないかな。もう実に古風な精神だけどね、あそこで言われてることは。でも、ああいうのは、ぼくらにはピンとくるな。実に、まさに現代風 じゃないことばっかりだけれどね。細部に分け入るっていうのも、そういうふうに一人の人間てものを、これは革命家とか、これはなんとかっていうふうに分け ないで、正確に書きたいと思うことが、彼には強くあるんだな。
吉岡  大岡のあればかしじゃなくて、まあ評伝的なものは、著者の研究調査も必要だろうが、引用の文学といっちゃ極論なんだけど、それに近いものではないかな。ぼ くは「引用」っていうことに、いまとても関心があるんですよ。評論というものの多くは引用の巧緻な、組立て方と、切り取り方で成立っているだろう。『天 心』読んでて、ほんとにそういうことを考えた。(吉岡実・飯島耕一〔対話〕〈詩的青春の光芒〉、《ユリイカ》1975年12月臨時増刊号〈作品総特集 現代詩の実験 1975〉、二一八〜二二一ページ)

吉岡の発言でとりわけ重要なのは、最後の「ぼくは「引用」っていうことに、いまとても関心があるんですよ。評論というものの多くは引用 の巧緻な、組 立て方と、切り取り方で成立っているだろう。『天心』読んでて、ほんとにそういうことを考えた」である。そして「ぼくが散文書くともうせき込んで、結論へ なだれ込んでしまうんだけど、大岡のあれを読むとき、傍道への入り方が、実に巧妙なのね。あらゆるところで、傍道へ導入してゆくんだが、その時に使うこと ばがひとつひとつ違ってんのね。これは恐るべきこと。そういうとこが細心なのね」もゆるがせにできない。これを、先に引いた吉岡の作詩法「詩は、最初の一 行からあんまり考えていっては動きがとれなくなるんだ。研ぎすまされた言葉の併置だけじゃ、その詩は動き出さないと思う。つまらない詩の行が、骨を包む肉 のように挾まることが詩を柔軟にして、真のリアリティを保有させることになる」と照らしあわせてみると、詩篇〈円筒の内側〉の書法こそ、大岡の《岡倉天 心》の悠揚迫らざる書きぶり(とりわけその〈二 白い狐の幻影〉)に学んだものだとはいえないだろうか。そのとき吉岡を鼓舞したのは

 天心がガードナー夫人から依嘱されて物語を構想したとき に、ありうべきさまざまな物 語の中から、わざわざ信太妻伝説を選んだということの意味を軽々しく見るべきではない。詩人というものは、彼が真にその名に値する詩人であるなら、必ずや こういう持続的に保たれつづける内密の主題を持っているものであって、だれかが見つけ出さないかぎり、それはいつまでも人眼につかないところでまどろんで いるのである。(同書、二二二〜二二三ページ)

という、詩に寄せる大岡の確信であったに違いない。こうして吉岡は、もしかするとこれが最後の詩集になるかもしれないという予感に包ま れながら(先 に指摘した脱稿日の記載はここに帰着する)、大岡信に捧げた詩篇〈円筒の内側〉で自身の「引用詩集」すなわち《夏の宴》を締めくくったのである。大岡が書 いているように、《The White Fox(白狐)》は天心が創作した英文による三幕オペラで、イザベラ・ガードナー夫人に捧げられたが、そこに象嵌されているインドの閨秀詩人プリヤムヴィ ダ・デーヴィ・パネルジー作の詩句を大岡訳で引く。

 言葉は思想の寡婦[やもめ]でしかない
 黒と白の、なんという冷い服で装われて!
 私の歌はかよわい堤防
 たけりたつ恋の潮を一瞬なりと
 せきとめようとしてなす術[すべ]もなく。
 わがひとよ、私にはあなたを捉[とら]える術がない
 あなたを縛る術がない、言葉によっても韻によっても。
 わがひとよ、あなたを捉える術がない
 私には術がない、こんなにもあなたを私の歌に編んで、私のものと呼びたいのに。(《岡倉天心》、一〇七〜一〇八ページ)

こ の箇所こそ《白狐》の紋中紋ともいうべき本篇の中心的主題である(大岡は一四九〜一五〇ページでもこの天心=パネルジーの詩句を、今度はもとの英文ととも にもう一度挙げている)。天心における《The White Fox》は大岡が最も力を入れて書いている処なので同書について見るに如くはないが、吉岡がここから得たのは先行する詩句を自作の詩篇に引用することの目 眩く効用だったのではないだろうか。これまで見てきたことからもわかるように、吉岡は引用詩篇において基本的に他の詩人の散文から章句を引くことはあって も、詩句をそのまま引くことを忌避してきた。それゆえ、大岡が指摘したパネルジーの詩句の天心オペラへの転生に衝撃を受けたのではあるまいか。私にはそう 思えてならない。高橋英夫は《花から花へ――引用の神話引用の現在》(新潮社、1997年6月25日)の最終章〈無限神話の現在へ――引用と言葉[ミユト ス]〉で入沢康夫と大岡信の二人を「引用詩人[ポエタ・キータンス]poeta citans」と呼んだ。

 とはいえ二人の詩の相違も少くない。『潜戸から・潜戸へ』でも明瞭であるが、大岡信は「他者」をつねに導入し、 「他者」をたえ ず貫通しようとするような引用の「極端」な拡充者だからである。大岡信の引用は、他人の詩句や文章を切り取ってはめこむコラージュの意味での引用ではない (もちろん、それも多いのではあるが)。個体である作者の単独独創権、個人所有権のような観念を能うかぎり稀薄化した言語世界をまず劃定し、その世界の中 に、他のもろもろの形態や機能と組み合されながら引用もまた出現してくる、これが大岡信にとっての引用である。(同書、二九八ページ)

吉岡実の引用は基本的に「他人の詩句や文章を切り取ってはめこむコラージュの意味での引用」である。言い換えれば、吉岡の引用の手法 は、山城喜憲の 言を借りるなら「浩瀚な著作の中から、精髄となる要文を抽出した」「表章本」(慶應義塾大学附属研究所斯道文庫編《図説書誌学――古典籍を学ぶ》勉誠出 版、2010年12月24日、一二〇ページ)をつくる行為に相当する。このとき、大岡の引用はそれとは大きく隔たる。実例として、大岡が《現代詩手帖》 1980年10月の吉岡実特集号に寄せた詩篇〈秋から春へ・贋作吉岡実習作展〉に如くものはない。〈静物〉〈伝説〉〈水のもりあがり〉〈讃歌〉という、吉 岡実詩の標題をそのまま拉し来った4篇である。最も長い〈讃歌〉を掲げる。

讃歌|大岡信

プクプク鳥を寝床に引き入れて
詩を孵す
キンカクシに金冠をかぶせて
老人になる
犯罪性は必ずしも
明瞭でない
したがつて
危険人物

明瞭な生物の特性とは
腋の下に毛がある
程度のことではない
比喩として許すのみ

「肉 言葉
それについて語るのはむずかしい」

「わが馬ルスィコン」のギャロップは
まるまるとした理想の尻のロコモーション
「それについて語るのはむずかしい」

春は曙
牛乳屋さんの立話
朝刊をはやくも垣根で
立読みしたな
私は神秘的に高い処にある
便所の窓から
国見をしてゐるのだ
脱糞の快さに
隅田川の万柔の雲が
また思はれるよ

プクプク鳥は
ハツラツと今日も
草上の露の命をついばむ
そのほそいほそい
愚かにも聖なるランニング姿
その顔や足や性器を包む
光輝ある丈夫な皮袋

プクプク鳥をつれた
内面的な悪趣味の旅は孤独だ
オートバイを駆つて
煌々と一個の月へ向つてゆく
一個の大海の卵だ

ここには引かなかったが、〈水のもりあがり〉に二度登場する「「ぼくは画家だから」」は〈裸婦〉(D・7)からの逐語的引用。上に引い た〈讃歌〉の「 」(鉤括弧)のある詩句のうち、

 「肉 言葉
 それについて語るのはむずかしい」

は〈葉〉(G・4)からの逐語的引用。「「わが馬ルスィコン」」は〈わが馬ニコルスの思い出〉(F・16)の改変で、吉岡が〈幻場〉 (H・13)の 「スンレオロ街まできて」で行ったのと同じ手法(高橋睦郎は「スンレオロはロオレンスの逆。あるいはフロオレンスの逆でフが落ちたか」(140)と〈鑑 賞〉で指摘している)によるものだろう。大岡に吉岡が乗りうつったかの感がある詩句である。

 古典詩歌の読解、鑑賞の仕事の拡充が、いつしか改作や模作や擬作、一口にいってパロディを包含するに至ったのだ が、それらは枚 挙に遑がない。一篇のすべてが古典からの採取、つまり花集め[アントロギア]であるような作もある。〔……〕これらの系列の延長上に、大岡信の博大な読書 と思索に発した「読書詩」(仮に、私がそう呼ぶ)があり、実はそれにもまして『紀貫之』『詩人・菅原道真』『岡倉天心』などの評伝および作家・作品論、詩 歌原論『うたげと孤心』、いくつもの連句集、海外詩人との連詩集があって、これらすべてのジャンルが大岡信において「他者」というトポスヘの接近ないし 「他者」召喚の舞台となり、引用的世界の変幻見定めがたい諸相への普遍的対応となっている、と指摘しなければならない。(《花から花へ》、三〇三ページ)

高橋英夫は大岡が「他者」と出会った最高の状態の一例として《岡倉天心》の〈あとがき〉を引く。その引用が、吉岡が随想〈大岡信・四つ の断章〉で引 いた箇所と重なるのだ(もっとも高橋と吉岡の引用で重なるのは「書き出してから、〔……〕ある瞬間ふとうまく噛み合ったと感じることである。」の部分で、 前後は少しく異なる)。〈円筒の内側〉の題辞で吉岡が谷川俊太郎と向きあったように、《岡倉天心》の〈あとがき〉で吉岡が高橋英夫と向きあう。象徴的な光 景である。

吉岡に「*「現代詩手帖」二十五周年記念号に是非とも作品を寄せよ、との小田久郎氏の要請をこばみがたく、十余年前の自動記述的な草稿 に、若干の手 を加え、『薬玉』の詩篇と同じ形態をととのえ、ここに発表する。    五月九日」と詩篇後の註記にある〈白狐〉がある。初出形は《吉岡実全詩集》に収められているから(初出は《現代詩手帖》1984年6月号)、「十余年前の 自動記述的な草稿」――ということは《神秘的な時代の詩》の末期か《サフラン摘み》の初期に相当するが、作風からすれば前者だろう――に近づけるべく、詩 句の字下げをキャンセルして追い込みで掲げる。

白狐(未刊詩篇・16)

いなりの屋根を降りる/われらは無を漂っては いない/血のかわりに言葉を発する/金屑がとぶ/バンソウコウをすべての/抽象物に貼る/何の目的で人は生きるか/バラ色の水にうかぶネズミの死骸へ問え /喩の叙述を替える/ザクロの外側では/老人から子供までの笑い声/蚊帳を吊った川の洲へ/われらは渡る/穀物を刈るために/もしくは/領巾ふす蛇の魂を しずめに/燈火をかかげた/頭上へ絵画の枠をつくる/鋸に挽かれる十本の杉/死ぬ時に書く十行の詩/足をそろえて冷たい母/白狐/それは呼ばれた/ムシロ のざらざらした世界へ/思った思おうとした/あまさかさまの日々/将棋盤の上で/美しい相のやまとは昏れよ/のどかに/蜂をリンネルで/包む学者を見たこ とがある/われら人生派は今も/自然を過して/意味をつくる/商人は好きな葛湯をすすり/夏の午後は入浴す/見えるさわれる/開かれる事物はどこへ/こん かい/コン・クワイ/われらの奏でる嬉遊曲/姉妹を水門の上に立たせる

「十余年前の自動記述的な草稿に、若干の手を加え」た箇所がどこなのかわからない。だが、本篇が〈白狐〉=〈狐会[こんかい]〉とい う、伝説上の狐 「葛の葉」を主人公とする地歌や人形浄瑠璃・歌舞伎を踏まえていることは明らかだ。《土方巽頌》(筑摩書房、1987年9月30日)の1973年1月18 日の日記に「夜、九時ごろ、突然に土方巽は金柑を一袋持ち、種村季弘は苺一函をみやげに現われる。〔……〕「二十七晩」の舞台のこと、文学一般のことな ど。またテレビで観たばかりの能狂言「釣狐」のすごさが話題に上る」(同書、六二ページ)とあるから、狐に対する関心はこのころすでにあったものと思われ る。吉岡の狐に寄せる想いは〈狐〉(H・ 15、初出は《文學界》1978年1月号〈扉の詩〉)に籠められている。ちなみに狂言〈釣狐〉の鷺流での名称は「吼噦[こんかい]」だという(「狐会」は 宛て字)。吉岡が大岡の《岡倉天心》を通じて《白狐》を知ったのが1975年だとすれば、詩篇〈白狐〉の自動記述的な草稿はそれ以前、草稿に「若干の手を 加え、『薬玉』の詩篇と同じ形態をととのえ、ここに発表」したのが1984年。吉岡は〈西脇順三郎アラベスク 6 冴子夫人の通夜〉(初出は1975年6 月)に「しのだ寿司」《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二三五ページ)と記している。これは西日本の年配者が用いることのある呼称だ というから(関東ではふつう全国的な「稲荷寿司」を用いる)、当時の吉岡の脳裡に白狐/葛の葉/信太・信田のモチーフが潜在していたとも考えられる。〈白 狐〉は引用詩の一種には違いないが、「 」(鉤括弧)を用いていない。その意味で大岡の〈秋から春へ・贋作吉岡実習作展〉に倣ったものといえる。吉岡実は 大岡信とともにここで嬉遊曲を奏でているのだ。

大岡信は吉岡実の引用詩に関して、その歿後早くから違和を唱えていた。

大岡  「 」(鍵括弧)に関しては引用しているという体裁であることは確かで、しかもその引用が必ずしも正確に原文のままかというと必ずしもそうじゃないんです ね。それは作為が入った引用なんです。ぼくが『夏の宴』の「円筒の内側」という作品を〔吉岡実の代表詩に〕選んだのは、ぼくの詩[ママ]が引用されてい て、だから意味がよく分かったからなんですが、やはり正確には引用してないんですね。半分くらいしか正確ではない。でもその引用はよく分かったんですが、 他の人のものからの引用はどういうコンセプトで引用したのかよく分からない。それが読者としてはちょっと辛いなと思うんですね。
〔……〕
大岡  彼の書き方は、この作品の主題はこうだということを、読者からすれば捉えにくいやり方で詩を成熟させてきたでしょう。だけど晩年〔の『薬玉』『ムーンド ロップ』〕になると、さっき話題に出たように古代神話的なものと自分の家族の姿が多く出てくる。それらが全体として不思議な形に織り合わされて布を作って いったでしょう。そこでは明らかな主題があるんですよ。〔……〕日本の家族ですね。薄暗いしめっぽい家族の共同性というものがあって、それと古代社会の神 話的なイメージを結びつけることによって、彼なりの現代日本の見取図を書きたいということがあったと思う。それは主題性という意味では、それまで彼があま りはっきり出さなかったものを強烈に押し出したという気がしているんですね。ところがもう一方では、括弧が見えにくく防壁を作っていて、それでイライラす ることがあるんですね。吉岡、もうちょっとはっきり言えよってね。そこのところが晩年の詩集の大きな謎ですね。(大岡信・入沢康夫・天沢退二郎・平出隆 〔討議〕〈自己侵犯と変容を重ねた芸術家魂――『昏睡季節』から『ムーンドロップ』まで〉、《現代詩読本――特装版 吉岡実》思潮社、1991、四六ページ)

〔……〕彼の引用(あるいは引用をよそおった)詩は、若い追随者を生み出した割には私にはよく わからないものが多く、評判が良ければ良いだけ、彼自身は悩んでいるだろうと思うことが多いのだった。しかしこれは話題にするにはデリケートすぎる点も あった。一回り年下の人間の、吉岡に対する友情の限界が、そのような一種の遠慮にあらわれていたのかもしれない。(〈吉岡実を送ることば――後日の註〉、 詩集《捧げるうた 50篇》花神社、1999年6月30日、二三二ページ)

大岡は吉岡詩の引用がどういうコンセプトで成されたかわからないと難じたが、むしろ引用句のコンテクストが読めないことを指摘すべき だった。大岡が 〈円筒の内側〉を理解したように、おそらく金子國義は〈夢のアステリスク〉(H・22)を、宮川淳は〈織物の三つの端布〉(H・16)を(ただしこの追悼 詩を宮川が読むことはなかったが)理解しえただろう。大岡は〈死んだ宮川淳を呼びだす独りごと〉(詩集《光のとりで》花神社、1997)で、吉岡の追悼詩 と同様、題辞に宮川の文(阿部良雄宛書簡)――「それに、ぼくは/自分が美術史などというものに/興味を失っているのをいよいよ/感じている」――を引き ながら、吉岡とはまったく異なる筆法で宮川を偲んでいる。それは宮川の題辞を受けた「それなら何に きみは興味があつたといふのか/宮川淳よ」という呼び かけに始まり、末尾近くにこうある。

きみは「深さ」や
「奥行き」や
「意味」の力に
感じやすい人だつたから
「表面」を
あれほど鋭く見渡すことができたのだ

これと吉岡の〈織物の三つの端布〉の

ここではひとは真に見てはいない
表面[、、]
表面的[、、、]
表面化[、、、]する
それらの日常品は
私にはそれぞれの実体の
似姿に思われる

と較べると――引用符はないが、出典は《紙片と眼差とのあいだに》に収められた〈ルネ・マグリットの余白に〉の「《表面》について考え ながら、たと えば表面とそのさまざまな派生的な表現について、表面[、、]、表面的[、、、]、表面化[、、、]する……。」(阿部良雄・清水徹・種村季弘・豊崎光 一・中原佑介編《宮川淳著作集〔第T巻〕》美術出版社、1980年5月1日、二一三ページ)である――、大岡の不満の理由がよくわかる。吉岡の引用は原文 のコンテクストを把握しなければ理解不能ということはないが、コンテクストを把握することが詩篇の理解を増大させる。同様のことは《万葉集》から柿本人麻 呂「朝影にわが身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去[い]にし子故に」の一部「朝影にわが身はなりぬ」を自作の詩〈朝・卓上静物図譜〉引いた大岡にも当て はまる。だが、大岡がそれに触れて谷川俊太郎に「「朝影にわが身はなりぬ」に由来があると読みとってもらわなくても、それだけで或る種のイメージは浮ぶの じゃないか、それでいいという判断でやっているわけ。しかしひょっとして、何かあると思って調べてくれれば、それはそれで一層いい」(対話《批評の生理》 思潮社、1978年7月15日、117ページ)と語るように、古典文学の全集や古語辞典から探索が可能だという点において、大岡の引用は吉岡のそれに較べ て開かれている。両者のこの差は大きい。大岡の追悼詩の場合においても、原文に溯って文脈を読解するまでもなく、詩句は了解可能だ。むろん大岡と宮川、吉 岡と宮川の個人的関係の深浅もあるだろうが、宮川淳という人物と彼の書きのこした文章を回想するコンセプトこそ同一でありながら、引用に対する大岡と吉岡 のアプローチが別のものであったことの証左である。――一方、大岡の〈金子國義のための少女三態〉(詩集《火の遺言》花神社、1994)が吉岡の〈夢のア ステリスク〉に近く見えるのは、金子の描く少女像に触発された詩篇創作の回路が吉岡のそれと同様だったためだろう。だが、ここでも「 」内の少女の台詞は 完全に大岡のものになっていて(おそらく金子からの引用ではない)、吉岡詩の「 」内の詩句があくまでも他者の章句である(と装っている)のとは別の次元 にある――。大岡が宮川淳の書簡に応えるようにして116行の詩の本文を書いたのに対して、吉岡の引いた章句は、題辞の「イマージュはたえず事物へ/しか しまた同時に/意味へ向おうとする」以下、宮川の総体を表す(と吉岡が判断した)ものだったから、その出典は《宮川淳著作集》の処処方方にわたり、コンテ クストを剥奪された章句が詩句としてわかりにくいものになることは避けがたい。大岡信のモノローグ=総合・求心的に対し、吉岡実のダイローグ=断片・遠心 的作詩法と言うべきか。

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ここでようやく、初出詩篇の本文のあとに置かれ、定稿の詩集でもそのまま残された1979年10月9日という日付(「86 (一九七九・一○・九)」)の意味に立ちかえることにしたい。吉岡実は自筆の〈年譜〉(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984)の「昭和五十五 年 一九八〇年    六十一歳」の条に「大雨の日、虎の門病院で診察を受ける。悪質の病気ではなく安堵する」と書いている。この件に関して随想ではいっさい触れていないが、そ のまえに体調に異変でもきたしたのだろうか。

昭和五十三年  一九七八年& nbsp;   五十九歳
春、 詩「雷雨の姿を見よ」を『海』五月号へ発表。七月十二日、筑摩書房倒産。友人知己から見舞の電話殺到する。残務整理に没頭。在職二十八年、十一月十五日、 退社。『エピステーメー』宮川淳追悼号へ詩「織物の三つの端布」を発表。竹西寛子から、冬至梅の鉢を貰う。十二月二十五日、給料なき給料日。淋しい師走。

昭和五十四年  一九七九年    六十歳
新 春、五反田の職業安定所の失業保険の説明会へ出る。国立小劇場の文楽「ひらかな盛衰記」お筆笹引の段に感動する。詩「金柑譚」を『海』五月号へ発表。還暦 を迎える。飯島家で祝いの小宴、大岡信・かね子夫妻、岡田隆彦・史乃夫妻、それと耕一・奈美子夫妻。戯れ書きを交換する。晩春、東京国立近代美術館の岸田 劉生展を観る。夏、瀧口修造急逝、美しい死顔よ。青山の梨洞より、李朝石仏を迎え、部屋に安置する。和田一族と妻と北海道の国縫まで墓参り旅行。盛夏、宗 左近の家に招かれる。粟津則雄、柴田道子(初対面)ほか数人。貴重な骨董品を見ながら、香夫人の手料理のもてなしを受ける。秋、歯治療のため雪下歯科へ通 院はじまる。芳恵、昭の三周忌を、古河宗願寺で営む。詩集『夏の宴』を青土社より刊行。冬、瀧口家を訪れ、遺骨へバラの花、チョコレート、『夏の宴』を供 える。綾子夫人からオリーブの実をいただく。

こうして前前年と前年の年譜の記載を読むと、勤務先の倒産そして退職、還暦、瀧口修造の死去、詩集《夏の宴》の出版と身辺は慌ただし い。そして、こ の1980年には拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》と随想集《「死児」という絵》を相次いで刊行している。まるでなにかにせきたてられるかのように。それ がすべて体調の異変によるものではないにしろ、詩人としての総まとめにかかっている印象は拭いがたい。その中心に位置するのはいうまでもなく《夏の宴》で ある。私には、これが最後の詩集になるかもしれないと吉岡が考えていたように思えてならない。ひとつには書名のもとになった詩篇〈夏の宴〉を捧げた西脇順 三郎の装画で本書を飾っていること。もうひとつが、これまで述べてきた巻末の詩篇〈円筒の内側〉を、詩集刊行から逆算すれば書きおろしのようにして大岡信 に捧げていること――吉岡や大岡の詩的局面と関わるものではないが、1979年8月、大岡は日本現代詩人会の会長(任期2年)に選ばれている――、であ る。それが先輩や友人に対する吉岡の挨拶だった。


吉岡実の引用詩(1)――高橋睦郎〈鑑賞〉(2016年11月30日)

吉岡実の選詩集として一冊の書籍の形をとっているのは、次の5タイトルである。

 1=吉 岡實詩集 《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959年8月10日)――《液体》《静物》《僧侶》〈未刊詩篇〉の計54篇
 2=吉岡実詩集 《吉岡実 詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968年9月1日)――《静物》《僧侶》《紡錘形》《静かな家》〈未刊詩篇から〉《魚藍》〈拾遺詩篇から〉《液体》 の計72篇
 3=新選吉岡実詩集 《新 選吉岡実詩集〔新選現代詩文庫110〕》(思潮社、1978年6月15日)――《静物》《僧侶》《紡錘形》《静かな家》《神秘的な時代の詩》《サフラン摘 み》〈未刊詩篇から〉の計53篇
 4=吉岡実 《吉岡実〔現 代の詩人1〕》(中央公論社、1984年1月20日)――《静物》《僧侶》《紡錘形》《静かな家》《神秘的な時代の詩》《サフラン摘み》《夏の宴》の計 45篇
 5=続・吉岡実詩集  《続・吉岡実詩集〔現代詩文庫129〕》(思潮社、1995年6月10日)――《静物》《僧侶》《紡錘形》《静かな家》《神秘的な時代の詩》《サフラン摘 み》《夏の宴》の計60篇

このうち《続・ 吉岡実詩集》は《新選吉岡 実詩集》の増補改訂版で、現在までのところ30年以上前に刊行された《吉 岡実》とともに、最も射程の長い選詩集といえる。なお《静物》《僧侶》《紡錘形》《静かな家》《神秘的な時代の詩》の各詩篇は、および(す なわち)に分割してその全 篇が収められている。《吉 岡實詩集》は「編集解説篠田一士」を 謳っているが、編者が明記されていない他の4タイトルには著者である吉岡の意向がなんらかの形で反映していると考えられる。これらのなかで吉岡の自作自解 が含まれるのは、《吉岡実 詩集》の詩論〈わたしの作詩法?〉(〈苦力〉に言及)との 自作についての〈三つの想い出の詩〉(〈沼・秋の絵〉〈静かな家〉〈青い柱はどこにあるか?〉に言及)にすぎない。では、本文に掲げたすべての吉岡実詩に対し て高橋睦郎の〈鑑賞〉が副えられており、高橋は執筆に当たって吉岡本人に取材して自作自解とは別のアプローチでその詩の謎に迫っている。他の選詩集には見 られないこの〈鑑賞〉を中心に、吉岡実の引用詩を考察したい。

高橋睦郎の《友達の作り方――高橋睦郎のFriends Index》(マガジンハウス、1993年9月22日)は総勢77人の友達の巻から成るが、高橋はそこで吉岡実との出会いを次のように書いている(吉岡 は、澁澤龍彦、土方巽、細江英公、吉野史門、永田耕衣、加藤郁乎、西脇順三郎、安東次男、山本健吉、樋口良澄、長谷川郁夫の巻にも登場する)。

 吉岡さんとは一九六六年に知り、以後四半世紀にわたって親しくさせてもらったが、そのきっかけは横尾忠則だった。 たしか入沢康 夫さんの受賞パーティーの流れだった、と思う。たまたまぼくの前に腰掛けた吉岡さんは、特徴のある大きな目でぼくを見るなり、高橋睦郎君だろう、横尾忠則 の装幀で憶えていたからすぐわかったよ、といった。(〈吉岡実の巻〉、同書、一二〇ページ)

高橋睦郎詩集《眠りと犯しと落下と》(草月アートセンター、1965)〔跋:三島由紀夫、装丁:横尾忠則、写真:沢渡朔〕の表紙と中面 出典:《横尾忠則全装幀集 1957-2012》(パイインターナショナル、2013年6月9日、一六ページ)
高橋睦郎詩集《眠りと犯しと落下と》(草月アートセンター、1965)〔跋:三島由紀夫、装丁:横尾忠則、写真:沢渡朔〕の表 紙と中面
出典:《横尾忠則全装幀集 1957-2012》(パイ インターナショナル、2013年6月9日、一六ページ)

この「入沢康夫さんの受賞パーティー」は詩集《季節についての試論》(1966)で受賞した第16回H氏賞だろう(吉岡は《僧侶》で第 9回の同賞を 受賞)。一方、吉岡は《詩と批評》1966年10月号の〈アンケート〉の「3 私がこのごろ好きな詩人(古今東西を問わない)」という問に「白石かずこ  高橋睦郎」と回答している。また、翌1967年の《現代詩手帖》12月号でその年の問題作は何かと問われて、「〔……〕連祷千行の長篇詩―高橋睦郎《讃 歌》(改題して「頌」)。白石かずこ《My Tokyo》。〔……〕入沢康夫《『マルピギー氏の館』のための素描》。しかし一番印象にのこるのは、飯島耕一の連作詩《見えるもの》。それにつづく、近 作《私有制にかんするエスキス》であろう」(〈飯島耕一「見えるもの」・他〉、同誌、六四ページ)と答えている。もって高橋に寄せる期待の大きさを見るべ きである。さらに1968年9月刊行の《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》は、高橋睦郎による詩人論〈吉岡実氏に76の質問〉を飯島耕一の作品論〈吉岡実の 詩〉とともに掲載するに至る。その高橋が吉岡実詩に正面から取りくんだのが、選詩集《吉岡実〔現代の詩人1〕》の〈鑑賞〉である。前者の詩人論は吉岡に とっても重要なもので、《吉岡実》に書きおろした〈年譜〉の「昭和四十三年 一九六八年    四十九歳」の条に「夏、〔……〕資生堂パーラーで、高橋睦郎のインタヴューを受ける(「吉岡実氏に76の質問」)」と書いている。当時のインタヴュー取材 の相手として、高橋睦郎こそ最適の訊き役だったのである。高橋にとってもこの作業は大きな意味をもっていた。――「ぼくが吉岡さんの仕事に真剣に対峙した のは二回。六八年夏、思潮社刊現代詩文庫14『吉岡実詩集』のために『吉岡実氏に76の質問』を有楽町の鳥料理店でおこなった時と、八三年やはり夏、中央 公論社刊現代の詩人1『吉岡実』の作品鑑賞のため、数度にわたってお宅で膝突き合わせて一篇一篇の成り立ちにつき細かく質問した時だ。六八年はまだ女時の 自覚がさほど深刻でなく、八三年は女時を脱していたから、まずすっきり行った、と思う。/ことに後のほうは、ぼくに女時を脱したばかりの高揚感があったか ら、作業は大変ではあったが、そのぶん充実して愉しかった。吉岡さんも作業終了後、「こんな疲れること相手が睦ちゃんじゃなきゃしないね」といったが、出 来上がりはそれなりに気に入ってくれたのではなかったろうか」(〈吉岡実の巻〉、前掲書、一二三ページ)。

《吉岡実〔現代の詩人1〕》は全12巻から成る戦後詩人の叢書の第1巻。同叢書に吉岡や清岡卓行、飯島耕一、大岡信といった《鰐》の同 人、鮎川信 夫、田村隆一、黒田三郎といった《荒地》の同人、川崎洋、谷川俊太郎といった《櫂》の同人、石垣りん、茨木のり子、吉原幸子といった女流詩人(以上は便宜 的な区分であり、厳密なそれではない)を揃えたのは、全巻編集の大岡信と谷川俊太郎である。中央公論社は、本叢書に先駆けて同じ判型でやはり鑑賞を色刷り にした〔日本の詩歌〕全30巻・別巻1(1967〜1970)を刊行している。余談だが、その第20巻は中野重治・小野十三郎・高橋新吉・山之口貘の四人 集で、飯島耕一が鑑賞を書いている高橋新吉集の本文は94ページ分である(〔現代の詩人〕は一人で1巻)。吉岡は追悼文〈ダガバジジンギヂさん、さような ら〉(《ユリイカ》1987年7月号〈追悼高橋新吉〉)で次のように書いている。

 さて、高橋新吉さんはなぜか、自分のシンパ的な者に対しても、癇にさわると容赦なく痛罵をあびせるので、私はいつ もはらはらし どうしでした。或る日、ラドリオに呼び出されて、「今度会ったら、飯島耕一の奴をぶん殴ってやる」と、唐突に言われて、驚きました。その理由とは、中央公 論社『日本の詩歌』の解説のなかで、飯島耕一がタブーの「ある事件」に触れているからなのでした。私は友人のために弁明につとめます。あなたはすでに伝説 の人ですから、何を書かれてもよいのではないでしょうか。解説を書くということは、その人と仕事を尊敬していなければ出来ないことなのですから、と。
 飯島耕一に早速伝えると、笑って応えたのでした。高橋新吉さんが度々電話をかけて来て、原稿の進み具合や、うまく書けているか、などと言うので、いささ か困惑していたようです。作者と距離をもってこそ、「作家論」は成立するゆえ、私は飯島耕一に同情したのでした。(同誌、四三ページ)

飯島耕一が触れているタブーの「ある事件」とはなんだろう。高橋自身の〈自伝〉(そこにも猛烈な挿話が記されている)からの引用でない とすれば、二 一九〜二二〇ページにかけての、あるいは二三一ページの記載を指すのだろうか。《吉岡実〔現代の詩人1〕》に戻れば、同書に収録されて、高橋睦郎〈鑑賞〉 が付された吉岡実詩は以下の7詩集から、計45篇である。

《静物》全17篇から5篇 静物(B・3)/挽歌(B・12)/雪(B・14)/寓話(B・15)/犬の肖 像(B・16)

《僧侶》全19篇から6篇 牧歌(C・7)/僧侶(C・8)/夏――Y・Wに(C・10)/苦力(C・13)/聖家族(C・14)/死児(C・19)

《紡錘形》全22篇から3篇 紡錘形T(D・4)/紡錘形U(D・5)/田舎(D・10)

《静かな家》全16篇から1篇 聖母頌(E・6)

《神秘的な時代の詩》全18篇から4篇 立体(F・3)/聖少女(F・10)/夏の家(F・13)/三重奏(F・17)

《サフラン摘み》全31篇から14篇 サフラン摘み(G・1)/タコ(G・2)/マダム・レインの子供(G・5)/わが家の記念写真(G・9)/ ルイス・キャロルを探す方法(G・11)〔わがアリスへの接近〕/草上の晩餐(G・13)/田園(G・14)/フォーサイド家の猫(G・17)/動物 (G・20)/舵手の書(G・22)/ゾンネンシュターンの船(G・24)/示影針(グノーモン)(G・27)/カカシ(G・28)/少年(G・29)

《夏の宴》全28篇から12篇 楽園(H・1)/部屋(H・2)/晩夏(H・7)/父・あるいは夏(H・12)/幻場(H・13)/雷雨の姿を見よ(H・ 14)/織物の三つの端布(H・16)/悪趣味な春の旅(H・19)/夏の宴(H・20)/野(H・21)/謎の絵(H・26)/円筒の内側(H・28)


いずれも選詩集のに含まれる《静物》《僧侶》《紡錘形》《静 かな家》《神秘的な時代の詩》の詩篇に比して、それ以降の詩集である《サフラン摘み》《夏の宴》からの作品に手厚いことがこの選の特徴である。高橋の鑑賞 が近作の二詩集に顕著な「引用詩」に言及することの多いのもむべなるかな。

「静物」。これは詩集『静物』劈頭の同名作品四篇のうちの第三篇。他の三篇が比較的大人しいのに対して、この一篇は のちの『僧 侶』以降の吉岡実詩の複雑な構造の萌芽を含んでいるようだ。この構造が意外にわが国文学の発想――最初に提出されたイメジがつぎのイメジを産み、そのイメ ジがさらにつぎのイメジを喚起するという記紀歌謡以来の詩法と通じるところがあるかもしれないことを指摘しておこう。「つながれる」「咽喉」という細長い イメジが「かぼそい肉体」に繋がり、「かぼそい肉体」が「美しい蛇」を喚び、「蛇」が「秤とともに傾く」ヘルメースの「蛇」であることから「金の重み」 に……というふうに。作者はこの方法を弱年、短歌・俳句に親しんだ中から無意識のうちに吸収したのだろう。俳句といえば、意味としてでなく物として提出す るという俳句独自の方法こそ、一貫した吉岡実詩の方法だ。「酒のない瓶の内の/コルクにつながれる/ぼくらの咽喉」に始まり、「半分溺れたまま/ぼくらの 頭/光らぬものを繁殖する」に終わるこの一篇、渇きと飢えの時代の静物画の方法を借りた自画像、ということになろうか。

本書の冒頭詩篇〈静物〉(B・3)の〈鑑賞〉である。――この一篇はのちの『僧侶』以降の吉岡実詩の複雑な構造の萌芽を含んでいる―― この構造が意 外にわが国文学の発想=記紀歌謡以来の詩法と通じるところがある――作者はこの方法を弱年、短歌・俳句に親しんだ中から無意識のうちに吸収した――渇きと 飢えの時代の静物画の方法を借りた自画像――。これらの創見を詩句の語釈に織り交ぜていく行文は見事だ。高橋は吉岡のコメントも自身の〈鑑賞〉の素材とし て文中に溶けこませて記しているが、吉岡がかつて執筆した文章や高橋の質問に答えた(と判断される)内容を部分的に引用させてもらおう。なお、標題のあと の( )の詩篇番号と――以下は小林による補記である。

・「雪」(B・14)。卵という物体との出会いが、すなわち静物という主題との出会いだった、と作者はいう。――吉岡の昭和24年8月 1日の日記から。

・この詩的青春の中から生まれたのが『僧侶』、前詩集が静物を主題にしているのに対して、人間を主題にしているといえるかもしれない、と作者はい う。なぜ静物のあとが人間か? について、少人数集まっての『静物』の出版記念会のさい、出席者のひとりが「これからは人間を書いてください」と発言した ことがきっかけになった、と作者は述懐している。―― 吉岡実・大岡信〔対話〕〈卵形の世界から〉から。

・この作品〔「僧侶」(C・8)〕の中で成功したので、以後繰返しの使用はみずから禁じた、ついでにいえば「僧侶」という言葉、終りのパートに出てくる 「されば」という言葉も、以後の使用を自禁した、と作者はいう。〔……〕なお、「死んでいてなお病気」という表現も、作者は以後の制詞としている。

・〔「死児」(C・19)〕I=死児の提示。スタンチッチの「死児」の影響は題名のほかほとんどないと作者はいうが、冒頭に提示される「大きなよだれかけ の上」の「死児」はあきらかにスタンチッチ作品から来ている。〔……〕Z=死児の永遠の増殖。〔……〕「姉が孕み/姉が産む」からだ。このパートの最後の 六行は作者によれば伊達得夫が最も賞めたところだが、解釈の言語を拒否しているという意味でも最も詩の言語として高まっているといえるだろう。――吉岡の 随想〈「死児」という絵〉から。

・「三重奏」(F・17)。〔……〕この小説的方法に深入りしなかったが、深入りしてみるだけの価値はあった、と作者は述懐している。

・「サフラン摘み」(G・1)。『朝日新聞』夕刊文化欄の「研究ノート」、三浦一郎教授による壁画「サフラン摘み」発見の記事が発想の原点になっている。 破損が多いためサフランを摘んでいるのが少年であるか猿であるか不明という記述が作者の注意を惹き、この愛すべき一篇が産まれるきっかけになった。 〔……〕ただ、論理性といっても散文の論理ではなく、あくまでも詩の論理であり、作者が詩は謎でなければならないというその謎は、論理性のゆえにかえって くっきりと際立つという結果を獲[え]ている。

・「タコ」(G・2)。〔……〕テレヴィ ジョンで見たタコの交接・排卵の映像が契機になっていると作者はいうが、その映像のかなりプリミティヴな描写がまん中の散文形部分で、これを挟んで二つの 行分け部分があるというサンドイッチ構造が、この作品の特徴である。――吉岡の散文〈〈タコ〉自註〉から。

・「ルイス・キャロルを探す方法」(G・11)。長い方法論の旅をつづけていた作者が久しぶりの思いがけないみずみずしさで読者を驚かせ、作者が新しい境 地に入ったことを示した記念すべき作品。『現代詩手帖別冊』ルイス・キャロル特集の写真ページにキャプションでもと言われて気楽に引受けた結果がこの作品 となった。――高橋康也〈吉岡実がアリス狩りに出発するとき〉から。

・「フォーサイド家の猫」(G・17)。〔……〕作者所蔵の松井喜三男という若い画家の猫の絵が発想の核になっている、と作者はいう。〔……〕「こうばこ して大髭をうごかす猫」についてはおもしろい挿話がある。絵が届いたあとこの猫にだけ髭がないのに気づいて画家に電話すると、さっそく来て特別大きな髭を 描いた、と。

・「舵手の書」(G・22)。〔……〕この作品が献げられた瀧口修造とは土方巽や唐十郎の会、あるいは誰彼の個展会場で出会って会話する程度の付合いだっ たが、彼の周囲に集まる人人のあいだではいちばん年齢が近いということもあって、肝胆相照していたと思う、と作者はいう。〔……〕題名中の「舵手」は作者 の好きな言葉のひとつだが、詩を含む現代芸術の静かな、しかし決然たる導き手でありつづけた瀧口修造にはまことに的確な形容というべきだろう。

・「ゾンネンシュターンの船」(G・24)。〔……〕作者のゾンネンシュターンとの出会いは一九六四年銀座青木画廊の個展の時だ、という。

・「示影針(グノーモン)」(G・27)。〔……〕作者と澁澤龍彦の出会いは一九六六年発行の加藤郁乎句集『形而情学』の新橋なだ万での出版記念会のおり だった。彼が自分を評価してくれていることを知って以後急速に親しくなった、と作者はいう。〔……〕1=冒頭の引用は何からのものか不詳。作者じしんにも 記憶がない。この引用文献の記憶が不確かというのもこの作者の大きな特徴で、それだけ地の文と引用文が精妙に溶けあっているということかもしれない。―― 「作者と澁澤龍彦の出会いは一九六六年発行 の加藤郁乎句集『形而情学』の新橋なだ万での出版記念会のおりだった」は、澁澤との出会いではなく土方巽との出会いだろう。それというのも、吉岡が 1960年4月6日の日記に「渋沢龍彦夫妻とお茶をのむ」と書いているからだ(記述の調子からいっても、初対面ではなさそうだ)。

・「少年」(G・29)。〔……〕なお、引用のほとんどは矢島文夫著『ヴィーナスの神話』より。

・「部屋」(H・2)。〔……〕引用はイーズラ・パウンドその他。引用ではないが、〈楽句[フレーズ]〉という一語もパウンドにふさわしい。

・「父・あるいは夏」(H・12)。土方巽の文章というか語録というか、彼の言葉がなかったら生まれなかったろう、と作者はいう。――吉岡の弔辞〈風神の ごとく〉にも同様の主旨が書かれている。

・「幻場」(H・13)。〔……〕引用は飯島耕一、イーズラ・パウンドその他。

・「雷雨の姿を見よ」(H・14)。〔……〕飯島〔耕一〕は作者がはじめて出会った詩人であり、もしこの出会いがなかったら詩を書きつづけたかどうかわか らないという、重要な友人である。――吉岡の随想〈飯島耕一と出会う〉から。

・「織物の三つの端布」(H・16)。〔……〕作者と宮川〔淳〕の関わりは宮川の数少い著書の一冊である『引用の織物』の装釘を作者が担当し、その出来上 がりを宮川がことのほか喜んだ、という淡いものだ。〔……〕あれだけ多くの引用をしながら、身辺に書物を置かないというエピソードにも惹かれた。〔……〕 宮川淳はまったく肉体を感じさせない人、精神しかないのではないかと思われた、と作者はいう。〔……〕*引用はいわゆるコンセプチュアル・アートの原点と もいうべきマルセル・デュシャンの代表作「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁さえも」についての宮川淳の文章から。

・「夏の宴」(H・20)。〔……〕しかし、それは文章の勢いというもので、作者は現在も〈なつのうたげ〉と呼んでいるようだ。〔……〕引用の詩はほとん ど西脇の散文から。西脇の散文の奇妙な香気はその詩に劣らず作者の愛するところだ。〔……〕W=西脇順三郎の言葉で作者が最も好きなもののひとつ。した がって、ここでこれに付け加えるものは何もない、と。――吉岡の随想〈西脇順三郎アラベスク〉から。

・ 「円筒の内側」(H・28)。〔……〕大岡〔信〕は飯島とともに作者の最も古く、心を許しあった詩人仲間である。〔……〕当然のことながら作者にとっては 引用の精確度より作品の完成度のほうが問題なのである。なお、この作品に引用された出典については、とくに大岡信氏の教示を得た。作者が一篇の作品の完成 度のためにどれほど原典に沿うか、あるいはまた離れるかの例として、ここに示すのも意味のないことではあるまい。――吉岡の随想〈大岡信・四つの断章〉か ら。つぶさに掲げることはしなかったが、〈円筒の内側〉の〈鑑賞〉は大岡信に「教示を得た」だけに、《夏の宴》の引用詩篇とそのスルスに関する最も精細な 分析になっており、〈円筒の内側〉論として刮目に値する。吉岡自身、引用詩として渾身の力を込めた雄篇である。


以上の本篇に選んだ作品群と、吉岡が書きおろした自作についての〈三つの想い出の詩〉の三篇は重複しないから、そちらの三篇における吉 岡発言の興味深い箇所も見ておきたい。

・「沼・秋の絵」(D・21)は、美術雑誌で見た、シュルレアリスムの女流画家レオノール・フィニの絵を題材にしたものだ。いってみれば、言葉で 模写したようなものである。霊気の立ちこめる薄明の沼で、水浴している「わがアフロディーテー」と、解して下さってもよい。――「模写」をそのまま受け とって詩篇とフィニの〈終末〉(1949)を較べてみると、一筋縄ではゆかない。模写のための模写のようなものは、詩的想像力を発動する切っ掛けなのだ。 (「白紙状態」――吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(3)――〈立体〉)

・この詩篇〔〈静かな家〉(E・16)〕は、一種の副産物のようなものだった。「沼・秋の絵」はすでに出来、その夜は、「修正と省略」に没頭していた。深 夜一時ごろ、遂に完成した。ほっとし、茶でも淹れて貰おうと、隣りの部屋を覗くと、妻の姿が見えない。何時、何処へ行ったのだろうか。今までにないことな ので、不安にかられた。私は所在ないまま、原稿用紙に向っていた。いやむしろ心を鎮め、気をまぎらわすべく、自動記述の方法で詩を書きはじめたようなもの だった。/それから、一時間ほどして、妻が帰って来た。丁度その時、私の詩も、「女中が一人帰ってくる」の一行で、成立しているのだ。〔……〕「静かな 家」は、私の作品の中でも、短時間で成立した異例の詩篇である。――私はこのくだりを読むたびに、1965年6月14日、わずか一日でビートルズのメン バー全員による〈I've Just Seen A Face〉と〈I'm Down〉を、ポール・マッカートニー一人による〈Yesterday〉を録音したことを想い出す(作曲とリードヴォーカルはいずれもマッカートニー)。 〈Yesterday〉も作者がある朝、起きたらすでに完全な曲の形で存在していたという(歌詞はあとから旋律に充てはめて、伴奏も同様にあとから書い た)。

・この詩〔〈青い柱はどこにあるか?〉(F・6)〕には、「土方巽の秘儀によせて」との詞書きがある。飯島耕一の紹介で、土方巽を知り、初めて暗黒舞踏の 「ゲスラー・テル群【(ナシ)→論】」を、草月会館で観て、衝撃を受け た。〔……〕以来、私は親しい芸術家たちの肖像を、数多く詩で描くようになった。それだけに、最初のこの詩は思い出深いものがある。〔……〕私は今まで、 自作の解説をしたことがない。なぜなら、「詩自体」より、明解な説明が出来ないし、また書けないからだ。俳句、短歌そして詩のような短詩型では、作者の作 品自解ほど、興醒めなものはないと、つねづね私は思っているのだ。

こうして見ると、《サフラン摘み》や《夏の宴》(およびそれ以降の詩集)に「引用詩」がいかに大きく寄与しているかがわかる。〈死児〉 や〈沼・秋の 絵〉が同時代の外国の造形作家の作品から触発されて成ったことも注目に値する。暗黒舞踏を造形の一種とするなら、吉岡が音楽にほとんど惹かれなかったの は、それが時間の中に変貌する芸術であることもさることながら、「物」が見えないことが最大の要因だったのではないか。そもそも相性の好くない音楽と「引 用詩」だが、吉岡実詩に具体的な楽曲がほとんど登場しないことは別途考える必要がある。


太田大八さんを偲ぶ(2016年10月31日)

絵本作家・挿絵画家の太田大八さんが2016年8月2日、亡くなられた。97歳だった。〈最近の〈吉岡実〉〉に書いたように、太田さんは吉岡実詩集《静物》(私家版、1955)の発行者である。1955(昭和30)年といえば、太田さんが挿絵画家として活動を始めて間もないころだ。三浦雅士編集の《ユリイカ》1973年9月号〔特集・吉岡実〕に寄せた〈カメレオンの眼〉は吉岡実との出会いや人柄を語って余す処のない回想だが、太田さんの著書には収められていないようだ。追悼の意味を込めて、同文を掲げる。

カメレオンの眼|太田大八

 カメレオンの目をしたこの男が私の家に現れてからもう二十四年にもなっている。
 筑摩書房から絵の依頼で来たと云うのだが、最初から職業の顔を全く感じない滑稽なほど子供じみた人柄丸出しのこの男は珍らしいというより貴重な種類の人間に思えた。私は彼の来るのを楽しみにし、やがて家族同様のつき合いが始まった。
  当時昭和25年頃の駒込上富士前町の私の借家は文字通りの掘立小屋で風が吹くと床下から砂を舞上げ、大雪の朝目をさますと、家の中一杯真白く雪が積っていたこともあるひどい家だった。そんな私の家へ吉岡はよく遊びに来るようになった。私も時折本郷赤門前の裏通りにあった筑摩書房に彼を訪ねたことがあった。ペンキ塗り木造二階建の洋館のギシギシした階段を上っていくと、うす暗い机の上から亀のような顔をこっちへむけて「ようー」といっていた、今の小川町の筑摩のビルに彼を訪ねてもその頃と全く同じ顔で「ようー」というのである。
 昭和26年から私は練馬に移り住むようになった。
 吉岡は練馬の私の家がいくらか広くなり借家の気がねもないせいか よく泊りに来た。下町育ちの抑揚で「とん子ゴアンあるー」来るとよくそういっていた。とん子とは私の女房十四子の呼び名である。長女のエリカはまだ三歳であった。
 この頃私の家にはいろんな居候がいた。私の後輩の絵描き吉田健男、彼も吉岡とは共通の友人となったのだが、この男も純粋にして正直な故に心中という現代にしては美しすぎる形をとって私達の前から去っていった。吉岡と私それに健男の弟と三人で軽井沢の警察へ骨を引取りに行ったこともあった。又北海道から葉書一本の紹介でころがり込んで来た村田ゆう子という娘、彼女もどうゆうつもりか名前通りゆうゆうと私の家に居ついてしまった。それに中国の捕虜生活から釈放されて帰って来た美校時代の友人国友俊太郎これ等の連中の出たり入ったりの雑居生活が始まった。みんな若くそれぞれの明日の夢を追いかけていた。家に金がないと女房は皆んなから50円づつ集めて肉をかったりして御馳走を作った。豊富な話題と旺盛な食欲でみんなよく笑い、よく食べた。吉岡も下宿にいるより私の家から通勤することが多かった。夜彼が帰って来てやっと家族そろったという感じだった。
 怪談話に目を見開いて真剣に聞き感心するのも吉岡だった。芸者ワルツは傑作であると激賞したり、一つ覚えの八百屋お七を悲鳴に近い声で歌ったりしていた。
 私の為にペンネームを考えてやるといって首をひねっていろんな文字を選んで、極[キワメ]甚内[ジンナイ]がいい、そう云う彼は真剣であり絶対的なのである。
 彼の詩を読んで闇の海に光芒を発して流れる無数の死児を見るような、壮絶な風景に出会ったり、猥雑な倦怠の時間にとじこめられていて気がつくと冷いガラスの器の中にいる自分を発見する快さを感じるのだが。
 日常の彼の未熟児的言動から彼の感覚の深みを計ることは困難である。彼の目は多視点を持って明るく、粘液とゴムの弾力をかくしおおせた虚構の枯れた肉体だけを見せているから。
 彼は私の家を本家と呼び、親元というが、こんなひねた息子をもった覚えはない。然しかみさんを貰うということで、和田芳恵さんを訪ねたことがある。
 昭和34年、和田陽子嬢と結婚し世帯をもった。やっと彼は独立し本家から出ていったのである。(同誌、八七〜八八ページ)

太田さんの逝去を報じた各紙が代表作として挙げているのは、自作の絵本《かさ》(文研出版、1975)と《だいちゃんとうみ》(福音館書店、1979)、そして太田さんの絵を呉承恩作・周鋭編・中由美子訳が盛りたてる《絵本西遊記》(童心社、1997)である。いずれ劣らぬ傑作だが、ここでは挿絵本としての処女作、ジョーエル・チャンドラー・ハリス作・八波直則訳《うさぎときつねのちえくらべ――リーマスじいやの夜話〔こども絵文庫1〕》(羽田書店、1949年11月10日〔初版の発行は1949年10月5日か〕)を読んでみたい。太田さんはこの本について「絵本への道は突然開けた」として、福音館書店 母の友編集部《絵本作家のアトリエ 1》(福音館書店、2012年6月10日)でこう語っている。

 〔一九〕四九年のある日のこと。神田を歩いていると、「よう!」とだれかに呼び止められた。見れば、中学時代の同級生〔=進士益太〕。彼は、羽田[はた]書店という出版社で児童書の編集長をしていた。
 「太田くん、中学のとき美術部だったし、絵描けるんだろ? うちで仕事しないか?」。
 この言葉がきっかけで、太田さんは最初の絵本『うさぎときつねのちえくらベ リーマスじいやの夜話[よばなし]』を手がけることになる。
 「だから、おれと絵本の出合いは本当にたまたま。あのとき、彼とすれ違っていなかったら、全然違う人生だったかもしれない」。
〔……〕
 出合いは偶然だったが、絵本や挿絵の仕事と相性はよかったのだろう。社会の状況もあったとはいえ、それまでは次々と仕事を変えてきた太田さんが、以後六十年にわたって取り組むことになるのだから。(同書、一七ページ)

《うさぎときつねのちえくらべ》は針金で2箇所、平綴じした逆目の本文用紙を厚表紙でくるんだ角背・紙装の上製本で、一八二×一七〇ミリメートル、七八ページ。見返しの見開きに赤一色による動物のカット10点(前見返し・後見返しとも同じ図柄)、巻頭に四色の別丁口絵と青色と赤色二色の本扉。本文(スミ一色)に挿絵計25点。《鳥獣戯画》(平安時代末期〜鎌倉時代初期)を彷彿させる見事な出来で、処女作からこの水準の作品を生み出したことに感嘆する。

ジョーエル・チャンドラー・ハリス作・八波直則訳《うさぎときつねのちえくらべ――リーマスじいやの夜話〔こども絵文庫 1〕》(羽田書店、1949年11月10日〔初版の発行は1949年10月5日か〕)の表紙 ジョーエル・チャンドラー・ハリス作・八波直則訳《うさぎときつねのちえくらべ――リーマスじいやの夜話〔こども絵文庫 1〕》(羽田書店、1949年11月10日〔初版の発行は1949年10月5日か〕)の見返しの見開き
ジョーエル・チャンドラー・ハリス作・八波直則訳《うさぎときつねのちえくらべ――リーマスじいやの夜話〔こども絵文庫1〕》(羽田書店、1949年11月10日〔初版の発行は1949年10月5日か〕)の表紙(左)と同・見返しの見開き(右)

ジョーエル・チャンドラー・ハリス作・八波直則訳《うさぎときつねのちえくらべ――リーマスじいやの夜話〔こども絵文庫 1〕》(羽田書店、1949年11月10日〔初版の発行は1949年10月5日か〕)の本扉と口絵 ジョーエル・チャンドラー・ハリス作・八波直則訳《うさぎときつねのちえくらべ――リーマスじいやの夜話〔こども絵文庫 1〕》(羽田書店、1949年11月10日〔初版の発行は1949年10月5日か〕)の本文最後の挿絵
同・本扉と口絵(左)と同・本文最後の挿絵(右)

J・C・ハリスの「リーマスじいや」(Uncle Remus)ものは、近年の版では河田智雄訳《リーマスじいやの物語――アメリカ黒人民話集〔講談社文庫〕》(講談社、1983)が入手しやすい。ここで、1960年代までの八波訳を概観しておこう。

@やつなみ・なおのり訳《ウサギどんキツネどん――黒んぼじいやのした話》(世界文学社、1949年2月25日)、絵:山六郎
A八波直則訳《うさぎときつねのちえくらべ――リーマスじいやの夜話〔こども絵文庫1〕》(羽田書店、1949年11月10日)、絵:太田大八 *国立国会図書館所蔵の《うさぎときつねのちえくらべ》は、メリーランド大学所蔵プランゲ文庫の原装物と発行者(羽田書店)寄贈の改装物の2冊があるが、どちらもデジタル化されており、2冊とも奥付には1949年9月28日印刷・10月5日発行とある。私の入手した一本は、1949年11月5日印刷・11月10日発行とあるが(刷数や版数の表示はない)、初刊は上記の1949年10月5日だと考えられる。
B八波直則訳《ウサギどん キツネどん――リーマスじいやのした話〔岩波少年文庫〕》(岩波書店、1953年1月15日)、絵:A・B・フロースト
Cやつなみなおのり訳《うさぎどんとくまのはちみつ〔雨の日文庫 第6集9〕》(麦書房、1959年6月30日)、絵:さいとうとしひろ
D八波直則訳編《うさぎどん きつねどん1〔子ども図書館〕》(大日本図書、1967年12月10日)、絵:太田大八、装丁:杉田豊
E八波直則訳編《うさぎどん きつねどん2〔子ども図書館〕》(大日本図書、1969年7 月10日)、絵:太田大八、装丁:杉田豊

ジョーエル・チャンドラー・ハリス作・八波直則訳《うさぎときつねのちえくらべ――リーマスじいやの夜話〔こども絵文庫 1〕》(羽田書店、1949年11月10日〔初版の発行は1949年10月5日か〕)の〈うさぎの さかなとり〉の挿絵〔太田大八〕 チャンドラ・ハリス作・八波直則訳編《うさぎどん きつねどん1〔子ども図書館〕》(大日本図書、1967年12月10日)の〈あがって いく もの おりる もの〉の挿絵〔太田大八〕 チャンドラ・ハリス作・八波直則訳編《うさぎどん きつねどん1〔子ども図書館〕》(大日本図書、1967年12月10日)と同2(同、1969年7月10日)の表紙〔装丁:杉田豊〕
ジョーエル・チャンドラー・ハリス作・八波直則訳《うさぎときつねのちえくらべ――リーマスじいやの夜話〔こども絵文庫 1〕》(羽田書店、1949年11月10日〔初版の発行は1949年10月5日か〕)の〈うさぎの さかなとり〉の挿絵(左)とチャンドラ・ハリス作・八波直則訳編《うさぎどん きつねどん1〔子ども図書館〕》(大日本図書、1967年12月10日)の〈あがって いく もの おりる もの〉の挿絵(中)とチャンドラ・ハリス作・八波直則訳編《うさぎどん きつねどん1〔子ども図書館〕》(大日本図書、1967年12月10日)と同2(同、1969年7月10日)の表紙〔装丁:杉田豊〕(右)

@の世界文学社版は本書と同年の2月25日の刊行だから、太田さんが作画の参考にしたかわからないが、Bの岩波少年文庫版のA・B・フローストの絵は原本にあったものだろうから、見ているはずだ(講談社文庫版にはフローストのほか、コンデ、チャーチ、ケンブル、ビアードの挿絵が載っている)。DEは続き物で、太田さんはAとはまったく異なる、小学校低学年向けの絵本調の絵を新たに二色で描いている。太田さんの再登板は、訳者による希望だろうか。67年前の本書(A)の訳文がなんとも素晴らしいものなので、〈うさぎの さかなとり〉(Dでは〈あがって いく もの おりる もの〉となっている)を引く。

第5夜 うさぎの さかなとり

 ある日のこと、うさぎどんや、きつねどんや、あらいぐまどんや、くまどんなど、みんながよって、じめんをたがやし、とうきびばたけを、つくることにしたね。
 みんな、いっしんに、はたらいてる。おてんとさんが かんかんてりつける。うさぎどん、つかれてしまった。それでも、みなから なまけものだと いわれたくなかったので、草[くさ]をひきぬいて、つみあげたりなんかしてた。けれど、しばらくすると、
 「いたい! 手にいばら[、、、]のとげがささった!」
と、大きなこえでどなり、みなのいるところから はなれて、木[こ]かげへいこうと でていった。しばらくいくと、つるべのさがった いどがあったね。
 「こいつは、すずしそうだ。ひとつ、あのつるべのなかに はいって、ひるねをしてやろう。」
と、うさぎどん、つるべのなかに、ぴょんととびこんだな。すると、つるべは、どうなったとおもうね?
 そう。そう、つるべは、するすると、下へすべりおちていったんだよ。うさぎどん、おどろいたのなんの! どこまで おちてくか、わからんものね、
 ところが、すぐに、ぱちゃんと、つるべが水にあたった。うさぎは、じっとちぢこまってた。これから どうなるものやら、と、きがきでない。ぶるぶる、ぶるぶる、ふるえておった。
 はなしかわって、はたけのきつねどん。うさぎどんから 目をはなさないでいると、うさぎどんが、はたらくのをやめて、でていったもんだから、そっと、そのあとから、つけていったのさ。
 なにをするつもりだろう、と、みてると、いどのなかにとびこむなり、みえなくなったじゃないか! おどろいたね、きつねどん。草[くさ]の上に、どかりとすわると、くびをひねってかんがえた。
 けれど、さっぱり わけがわからん。
 「こいつは、びっくりしたね。はてと。うさぎどん、あのあなのなかにおかねでもかくしとるのかな? それとも、たからものでも みつけだしたのかな? よし、ひとつ、みにいくことにしよう。」
 と、いどのそばへ、はいよって、耳をたてたが、なんのおとも きこえてこない。おもいきって、そのなかを のぞいてみたが、なんにもみえない。
 さて、うさぎどんのほうは、こわくてならない。すこしでも、みうごきしたら、つるべからおちてしまうとおもうと、いきたきもせず、おいのりのことばを となえてた。
 すると、きつねどんのこえがした。
 「おおい! うさぎどんや! そこで、だれとあってるんだい?」
 すると、うさぎどんが へんじした。
 「ぼくかね、いや、ちょっと さかなつりを やってるのさ。みなさんのおひるの ごちそうに、さかなをさしあげよう、とおもってね。」
 「うさぎどん、その下のところの水には、さかながたくさんいるかい?」
 「いくらでもいるよ、きつねどん。なん十ぴき、なん百[びやく]ぴきってね。さかなで 水が わきかえるくらいだよ! どうだい、きつねどんも、ここへおりてきて、さかなとりの てつだいをしてくれないかね?」
 「どうしたら、そこへおりていけるんだい?」
 「そこの つるべに とびこんだら いいんだ。するするっと、下へおりられるぜ!」 
うさぎどんのはなしが、とてもうまくて、たのしそうだったものだから、きつねどん、いわれたとおり、つるべにとびのった。すると、つるべは、するするする!
 ところが、きつねどんのおもさで、こんどは、うさぎどんののったつるべが、はんたいに、するするする、と、上へあがってったな。ちょうど、まんなかのところで、ふたつのつるべが、すれちがったときだ。うさぎどんが、こんなうたを うたったもんだ。
  さよなら きつねどん ごきげんよう
  いっておいでよ おだいじに
  あがっていくもの おりるもの
  あんたは するする いどのそこ
 いどのそとへでるなり、うさぎどん、どんどんかけだし、にんげんたちのいるところへいって、
 「きつねどんが、いどのなかへはいって、あんたたちの、のむ水をよごしてますよ。」と、どなった。そして、また、いそいでひきかえし、いどのなかの きつねどんにいった。――
  てっぽうもって にんげんどん
  いそいで こっちへ やってくる
  ひきあげられたら きつねどん
  すぐに にげだせ いちもくさん!
  それから、いちじかんほどしたとき、はたけでは、うさぎどんときつねどんが、とてもせっせと はたらいていた。これまで、こんなに、ねっしんに、はたらいたことは、いちどもなかったくらいにね。ただ、ときどき、うさぎどんは ぷっとふきだしてわらい、きつねどんは、おもいだしたように にやにや、にがわらいをしてたとさ。(《うさぎときつねのちえくらべ》、二〇〜二四ページ)

黒人霊歌[ゴスペル]よりもロックンロール(1949年当時、まだ誕生していないが)を想わせるこうした作風――ハリスの原文にあるものなのか、八波の訳文のものなのかわからない――に、太田さんがリアルなペン画の挿絵で応えたことに衝撃を覚える。「〔昭和二十二年〕十二月十二日 数寄屋橋のところで、突然よっぱらった濠洲兵にあごをなぐられた。痛かったがどうしようもない。無念。でも歯は大丈夫なので安心する。《赤と黒》をよみつづける」(〈断片・日記抄〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》思潮社、1968、一一〇ページ)。NDL-OPACで検索すると、太田さんは1949年から50年にかけて羽田書店の〔こども絵文庫〕で、セギュール夫人(鈴木力衛訳)《ロバものがたり》、丹野節子《アフリカの偉人――シュワイツェル博士》、末広恭雄《コイの子の旅》、福田三郎《動物園の人気もの》、渋沢秀雄《八つの宝石》、北野道彦《発明ものがたり》、崎浦治之《ほげい船にのって》の7タイトルの絵を担当している。羽田書店の〔こども絵文庫〕20数巻(1949年〜51年)は、筑摩書房の〔小学生全集〕全100巻(1951年7月〜1957年11月)に先行する企画だったから、吉岡が太田さんを訪ねたのは〔こども絵文庫〕で知ったからに違いない。「また筑摩書房の小学生全集が始まったとき、この挿絵の依頼に来た吉岡実は、一九九〇年彼が没するまで家族同様の親しい友人となりました。彼は戦後最大の詩人と言われ、彼の詩から受けたビジュアルなイマジネーションは、私のイラストレーションのよい刺激になっているにちがいありません」(太田大八《私のイラストレーション史――紙とエンピツ》、BL出版、2009年7月1日、五七〜五八ページ)。ちなみにNDL-OPACで「著者=太田大八×出版者=筑摩書房」を検索すると、次の23件がヒットする(リストの「新版」は再刊だろうから、タイトルの実数は23よりも減る)。実見していないが、末広恭雄の魚の本、崎浦治之の捕鯨の本が太田さんの手掛けた両シリーズに登場していて、興味深い。ここで余談を。東京・駒場の日本近代文学館所蔵の《筑摩しんぶん》(月3回、1日・11日・21日発行)の6号・7号・9号・10号(1959年6月11日〜7月21日)に水産学者で随筆家の末広恭雄(1904〜88)がコラム《魚の歳時記》を連載している(〈アユ〉〈ドジョウ〉〈マンボウ〉〈ウナギ〉)。《筑摩しんぶん》自体に吉岡が関与した形跡は見えないが、〔小学生全集〕以来の担当者ということで、この連載に関わっているかもしれない。余談終わり。

 1    クオレ 愛の物語    アミーチス 原作・柏熊達生 著・太田大八 絵    昭和26 中学生全集 51
 2 ニュー ルンベルクの名歌手    田中泰三 著・太田大八 絵    昭和26 中学生全集 56
 3 も のいう魚たち    末広恭雄 著・太田大八 絵    昭和26 小学生全集 2
 4 私 たちの作文 高学年    来栖良夫 編・太田大八 絵    昭和26 小学生全集 10
 5 中 学生詩集    巽聖歌 編・太田大八 絵    昭和27 中学生全集 69
 6 八 犬伝ものがたり    滝沢馬琴 原作・高木卓 著・太田大八 絵    昭和27 中学生全集 83
 7 捕 鯨の旅    崎浦治之 著・太田大八 絵    昭和28 小学生全集 33
 8 く もの糸    芥川龍之介 著・太田大八 絵 昭和29    小学生全集 44
 9 アラビアンナイト    森田草平 著・太田大八 絵    昭和30 小学生全集 63
10 エヴェレストの頂上へ    近藤等 著・太田大八 絵    昭和30 小学生全集 70
11 黒馬ものがたり    アンナ・シュウエル 原作・臼井吉見 著・太田大八 絵    昭和30 小学生全集 73
12 世界史の人びと 5     昭和30    
13 世界史の人びと 8     昭和31    
14 隊長ブーリバ    ゴーゴリ 原作・小沼文彦 訳・太田大八 絵    昭和31 世界の名作 13
15 日本史の人びと 1     昭和31    
16 クオ・ヴァディス    シェンキウィッチ 原作・山口年臣 著・太田大八 絵    昭和32 世界の名作 20
17 クジラを追って    崎浦治之 著・太田大八 絵    昭和37 新版小学生全集 8
18 くもの糸    芥川龍之介 著・太田大八 絵 昭和37    新版小学生全集 32
19 黒馬ものがたり    アンナ・シュウエル 原作・臼井吉見 著・太田大八 絵    昭和37 新版小学生全集 42
20 エヴェレストの頂上へ    近藤等 著・太田大八 絵    昭和38 新版小学生全集 98
21 私たちの作文 上    来栖良夫 編・太田大八 絵    昭和38 新版小学生全集 90
22 私たちの作文 下    来栖良夫 編・太田大八 絵    昭和38 新版小学生全集 91
23 しごとと人生 1〜2    松田道雄 編・太田大八 絵    1976 ちくま少年図書館 33〜34 社会の本

いずれにしても、太田さんが絵本や挿絵の仕事と偶然出合って、羽田書店の〔こども絵文庫〕を皮切りに、筑摩書房の〔小学生全集〕や〔中学生全集〕に腕を揮っていた昭和20年代後半、吉岡はのちの《静物》にまとめる詩篇をひそかに書きついでいた。当時の吉岡にとって最も身近な絵画作品とは、太田大八や吉田健男が子供の本のために描いたこれらの挿絵だったと言ってもいいだろう。あまりに身近すぎて、詩集《静物》のヴィジュアルに起用するのがためらわれたほどだった(同詩集の「卵」の絵は真鍋博の手になる)。しかし、太田さんは吉岡が初めて詩人の自覚をもって出版した私家版詩集の発行者という栄誉を担った。後年、吉岡実の童話(!)に太田大八が絵をつけるという企画があったというが、実現しなかった。いま《静物》の著者と発行者は天空のどこかで、二人を結びつけただろう《うさぎときつねのちえくらべ》を前にして、それもまた浮世の定め、と語りあっているのではあるまいか。

太田大八〈ウサギが角を曲るとき〉(1977)〔矢川澄子「メルヘンの世界から」/世界文化社〕
太田大八〈ウサギが角を曲るとき〉(1977)〔矢川澄子「メルヘンの世界から」/世界文化社〕
出典:《日本の童画 13〔安野光雅・太田大八・堀内誠一〕》(第一法規出版、1981年8月10日、四四ページ)

矢川澄子著(画:味戸ケイコ・東逸子・上野紀子・宇野亜喜良・太田大八・小野寺マリレ・司修・直江真砂・長沢秀之・牧野鈴子・松永禎郎・柳瀬桂治)《メルヘンの世界から〔メルヘンの部屋3〕》(世界文化社、刊行年月日記載なし)に太田さんが寄せた〈ウサギが角を曲るとき〉(1977)に登場する人物は、ドン・キホーテとハンフリー・ボガートとアリスか。だが、窓の外の街角をウサギが曲がる処は、どう見てもバルテュスだ(もちろん《アリス》のウサギなのだが、《うさぎときつねのちえくらべ》のうさぎと錯覚しそうになる)。矢川とのコラボレーションの先に、描かれることのなかった吉岡実との童話=画集を想像したくなるのは私だけではないだろう。ところで太田大八と詩人のコラボレーションといえば、谷川俊太郎との詩画集《詩人の墓》(集英社、2006)と、同じく対談〔聞き手:山田馨〕《詩人と絵描き――子ども・絵本・人生をかたる》(講談社、2006)が想いうかぶ。太田さんは後者で「未来の一冊の絵本」として次のように語っている。

山田 太田さんは、しばらくは注文仕事をやめて、自分に関心がある仕事だけに集中したいとおっしゃっていましたね。そのあたりのことを話していただけますか。
太田 詩のことばの中に、リアリティーを感じるものと抽象的なものがあると同じように、絵の中にも、現実的なものと抽象的なものがあると思うんですよ。ぼくが今いちばんやりたいのは、決まったテーマに向けて描くというのじゃなくて、自分の心の底にある抽象的な部分を描き出したいわけです。それをね、絵本にできればいいなと思っている。これがいちばんの願望です。昔、友達に吉岡実(詩人、一九一九〜九〇年)という詩人がいてね。彼の詩をモチーフにして描こうかなと、思ったことがあるんですよ。でも彼の場合どっちかというとかなり暗い面があったり、深刻な面があったりして、明るさがない。明るいもの、暗いもの、両方に出会って描ければたのしいなと思うわけです。そういう願いがあるんですよ。
山田 そういう絵本をつくりたいんですね。
谷川 それはテキストがあっても、気に入ればやってもいいという感じですか。それとも最初から自分で全部やるという感じですか。
太田 だからね、詩人と画家という二つの立場がぶつかったところで、何か起きるかわかんない、でも何かが起きる。そういうのがね、おもしろいと思っているんですよ。抽象的に描くことは、できないものがないくらいに表現の幅が広いしね。できると思うんです。その詩を読んで、イメージがふくらんでいく、そういうものができたらいいなと思ってるわけです。
谷川 ぼくには、これは太田さんに描いていただければいいな、というちょっと長めの詩があるんですけど。非常に具体的な詩なんです。物語になっているんです。太田さんは、もう今年は自分の好きなものだけやるっておっしゃったんで、遠慮してたんですけど。もし読んでいただけるのであれば、コピーを置いていきます。ぜひ太田さんに描いていただきたいと思っています。
太田 わかりました。前に谷川さんとした仕事の、『とき』と『うちのじどうしゃ』については、いろいろ話しましたよね。どちらもかなり具体的な絵をつけました。
谷川 今度は抽象的な絵になるんですか?
太田 自分としては、自分勝手に描けるものっていうのがうれしいんです。
谷川 物語って言ったのは、「詩人の墓」という詩なんですよ。〔……〕(同書、二七九〜二八一ページ)

童話に絵画作品をつけるという当初の企画は吉岡の死によってついえたが、太田さんは《詩人の墓》でクレーのような、ミロのような、カンディンスキーのような見事な抽象画を描いている。それらのなかで、おそらく吉岡も喜んだに違いないデフォルメされた女体が妙に生生しい。

〔付記〕
松沢徹詩集《寓話》(黄土社、1974)の目次の最終行に「装幀 太田大八」とある。この第二詩集も第一詩集と同様、著者のご指名のようだ。太田さんが手掛けた装画・装丁本は、その画業に較べて驚くほど少ない。調べ方が悪いのか、いま私の手許にある太田さんが他の著者のために装丁した本は上記の一冊だけ。吉岡に関係のありそうな本では、武田泰淳《火の接吻》(筑摩書房、1955年7月20日)――太田さんはジャケットにクレーのような絵を描いている――と山本和夫《詩の作り方〔入門百科14〕》(ポプラ社、1965年1月15日)――装丁は難波淳郎(吉岡が装丁した石垣りん散文集《焔に手をかざして》(筑摩書房、1980年3月5日)のカットや、吉岡が編集していた《ちくま》の1976年1年間の本文のカットを担当している)、太田さんはカットに近い挿絵を描いている――の二冊。吉岡実装丁本はあらかたが手許に揃っているから、いずれは太田大八装丁本と照合して、両者の関連を明らかにしたいものだ。


〈神奈川近代文学館資料検索〉の「検索項目」は、ありがたいことに三つ掛け合わせて検索することができる。とりわけ「装幀・挿画者名(図書のみ)」を選べるのが素晴らしい(刊行「年月日」の表示も)。もっとも、これで「太田大八」を検索語に指定すると、当然ながら「装幀=太田大八」と「挿画=太田大八」が区別なくヒットしてしまう。該当する資料189件のうち、重複書誌を取り除いた186件は以下のとおりだ(行末の〔〕内は図書の請求記号)。なお、筑摩書房の〈小学生全集〉と〈中学生全集〉の計12タイトルには★印を付けた。

1    子供に讀んで聞かせるお話の本 冬の卷 民主保育連盟,兒童文學者協會共編 羽田書店 1949.12.20(昭24) 〔N01/06074〕
2    名犬ものがたり 北野道彦著 実業之日本社 1950.1.5(昭25) 〔N01/00963〕
3    お話十二か月 4月-6月の巻 小出正吾編著 実業之日本社 1950.3.20(昭25) 世界童話の泉 〔N01/10083〕
4    覆面の騎士 大佛次郎著 湘南書房 1950.5.1(昭25) 〔オサ3/フ7〕
5    子供に讀んで聞かせるお話の本 夏の卷 民主保育連盟,兒童文學者協會共編 羽田書店 1950.6.20(昭25) 〔N01/06072〕
6    子供に讀んで聞かせるお話の本 秋の卷 民主保育連盟,兒童文學者協會共編 羽田書店 1950.9.15(昭25) 〔N01/06073〕
7    お話十二か月 10月-12月の巻 小出正吾編著 実業之日本社 1950.10.5(昭25) 世界童話の泉 〔N01/10084〕
8    お話十二か月 1月-3月の巻 小出正吾編著 実業之日本社 1950.12.20(昭25) 世界童話の泉 〔N01/10082〕
9    グリム童話集 グリム[著] 三十書房 1951.4.30(昭26) 新児童文庫 16 〔N01/03398〕
10    美しい心・正しい人 5年生 児童文学者協会編 実業之日本社 1951.5.25(昭26) 〔N01/21640〕
11    中学生全集 51 筑摩書房 1951.8.15(昭26) 〔N01/22170b〕★
12    ペリー艦隊來航記 上 鈴木三重吉著 西荻書店 1951.8.30(昭26) 三色文庫 〔スズ8/ヘ1-1〕
13    ペリー艦隊来航記 中 鈴木三重吉著 西荻書店 1951.8.30(昭26) 三色文庫 7 〔スズ8/ヘ1-2〕
14    ペリー艦隊來航記 下 鈴木三重吉著 西荻書店 1951.8.30(昭26) 三色文庫 〔スズ8/ヘ1-3〕
15    中学生全集 56 筑摩書房 1951.9.20(昭26) 〔N01/22171〕★
16    小学生全集 10 筑摩書房 1951.11.15(昭26) 〔N01/22061〕★
17    六年の世界名作読本 関野嘉雄[ほか]編 実業之日本社 1951.11.20(昭26) 〔N01/16169〕
18    女学生の生活と友情論 村岡花子著 小峰書店 1951.12.25(昭26) 〔N04/1269〕
19    中学生全集 69 筑摩書房 1952.1.31(昭27) 〔N01/22174〕★
20    中学生全集 81 筑摩書房 1952.7.25(昭27) 〔N01/22175〕★
21    王冠のあるヘビ グリム[ほか][作] 牧書店 1952.10.28(昭27) 学校図書館文庫 31 〔N01/03093〕
22    世界動物ものがたり 北野道彦[ほか]著 実業之日本社 1952.11.20(昭27) お話博物館 〔N01/21576〕
23    片目のパン人形 マーガレット・シドニー[著] 河出書房 1953.2.10(昭28) 〔N01/01251〕
24    お母さんありがとう 村岡花子[ほか]監修 実業之日本社 1953.5.1(昭28) 〔N01/02113〕
25    小学生全集 33 筑摩書房 1953.5.20(昭28) 〔N01/22082〕★
26    五年の国語副読本 児童文学者協会編 実業之日本社 1953.9.10(昭28) 〔N02/4654〕
27    世界のもうじゅう 北野道彦[ほか]著 実業之日本社 1953.11.25(昭28) お話博物館 〔N01/21582〕
28    世界童話名作全集 19 鶴書房 1953.12.25(昭28) 〔S07/43〕
29    小学生全集 44 筑摩書房 1954.1.15(昭29) 〔N01/22093〕★
30    世の中につくした人たち 進士益太[ほか]著 実業之日本社 1954.6.25(昭29) お話博物館 〔N01/21585〕
31    おもしろい理科 2年生 大日本図書 1954.10.30(昭29) こども図書館 〔N01/08909〕
32    おもしろい理科 3年生 大日本図書 1954.10.30(昭29) こども図書館 〔N01/08910〕
33    おもしろい理科 4年生 大日本図書 1954.12.20(昭29) こども図書館 〔N01/08911〕
34    おもしろい理科 5年生 大日本図書 1954.12.20(昭29) こども図書館 〔N01/08912〕
35    おもしろい理科 6年生 大日本図書 1954.12.20(昭29) こども図書館 〔N01/08913〕
36    小学生全集 63 筑摩書房 1955.2.5(昭30) 〔S04/080/チク/5-63〕★
37    光りをもとめて 4年生 日本子どもを守る会編 ポプラ社 1955.4.1(昭30) 再版 新しい道徳の本 〔N01/26337〕
38    まごころ 4 後藤福次郎編著 新装版 文化建設社 1955.4.5(昭30) 68版 新しい徳育ストーリーズ 〔N01/23574〕
39    まごころ 6 後藤福次郎編著 新装版 文化建設社 1955.4.5(昭30) 68版 新しい徳育ストーリーズ 〔N01/23575〕
40    小学生全集 70 筑摩書房 1955.6.30(昭30) 〔N01/22117〕★
41    小学生全集 73 筑摩書房 1955.9.15(昭30) 〔N01/22121〕★
42    ふしぎな国のアリス 光吉夏弥文 トツパン 1955.12.10(昭30) トツパンの絵物語 〔N01/19959〕
43    こうのとりになった王さま 植田敏郎文 トツパン 1956.3.25(昭31) トツパンの絵物語 〔N01/19964〕
44    世界の名作 1 筑摩書房 1956.3.30(昭31) 〔N01/22222〕
45    世界の名作 3 筑摩書房 1956.3.30(昭31) 〔N01/22224〕
46    世界の名作 5 筑摩書房 1956.3.30(昭31) 〔N01/22226〕
47    世界の名作 4 筑摩書房 1956.4.5(昭31) 〔N01/22225〕
48    世界の名作 2 筑摩書房 1956.4.10(昭31) 〔N01/22223〕
49    そらのひつじかい 今西祐行著 泰光堂 1956.4.15(昭31) ひらがなぶんこ 13 〔N02/350〕
50    世界の名作 6 筑摩書房 1956.4.30(昭31) 〔N01/22227〕
51    世界の名作 7 筑摩書房 1956.5.15(昭31) 〔N01/22228〕
52    少年少女のための国民文学 4 福村書店 1956.5.25 〔N02/1483〕
53    少年少女のための国民文学 1 福村書店 1956.6.1 〔N02/1480〕
54    世界の名作 8 筑摩書房 1956.6.20(昭31) 〔N01/22229〕
55    ほらふき男爵の冐険 植田敏郎文 トツパン 1956.7.5(昭31) トツパンの絵物語 〔N01/19955〕
56    世界の名作 9 筑摩書房 1956.7.15(昭31) 〔N01/22230〕
57    世界名作全集 142 大日本雄弁会講談社 1956.7.15(昭31) 〔N02/2358〕
58    世界の名作 10 筑摩書房 1956.7.31(昭31) 〔N01/22231〕
59    三年生の童話 浜田廣介監修 ひかりのくに昭和出版 1956.8.15(昭31) ひかりのくに学年別童話集 〔N02/44〕
60    世界の名作 11 筑摩書房 1956.8.30(昭31) 〔N01/22232〕
61    少年少女のための国民文学 2 福村書店 1956.9.1 〔N02/1481〕
62    世界の名作 12 筑摩書房 1956.9.15(昭31) 〔N01/22233〕
63    日本古典童話全集 4 小峰書店 1956.9.20(昭31) 〔N01/21481〕
64    世界の名作 13 筑摩書房 1956.10.10(昭31) 〔N01/22234〕
65    少年少女のための国民文学 9 福村書店 1956.10.15 〔N02/1487〕
66    世界の名作 14 筑摩書房 1956.10.15(昭31) 〔N01/22235〕
67    未明・譲治・廣介童話名作集 6年生 坪田譲治[ほか]著 実業之日本社 1956.10.15(昭31) 〔S07/64〕
68    世界の名作 15 筑摩書房 1956.11.10(昭31) 〔N01/22236〕
69    世界の名作 16 筑摩書房 1956.11.30(昭31) 〔N01/22237〕
70    少年少女のための国民文学 3 福村書店 1956.12.10 〔N02/1482〕
71    世界の名作 17 筑摩書房 1956.12.15(昭31) 〔N01/22238〕
72    世界の名作 18 筑摩書房 1956.12.20(昭31) 〔N01/22239〕
73    世界の名作 19 筑摩書房 1956.12.25(昭31) 〔N01/22240〕
74    ガリバーりょこうき スイフト原作 大日本雄弁会講談社 c1957 講談社の二年生文庫 5 〔N01/18739〕
75    少年少女のための国民文学 7 福村書店 1957.2.1 〔N02/1485〕
76    少年少女のための国民文学 12 福村書店 1957.2.15 〔N02/1488〕
77    世界の名作 20 筑摩書房 1957.3.15(昭32) 〔N01/22241〕
78    少年少女のための国民文学 13 福村書店 1957.4.1 〔N02/1489〕
79    世界の名作 21 筑摩書房 1957.4.5(昭32) 〔N01/22242〕
80    少年少女のための国民文学 8 福村書店 1957.4.10 〔N02/1486〕
81    少年少女のための国民文学 6 福村書店 1957.6.1 〔N02/1484〕
82    少年少女のための国民文学 14 福村書店 1957.6.10 〔N02/62〕
83    たから島 スティーブンスン原作 実業之日本社 1957.6.20(昭32) 名作絵文庫 〔N01/08864〕
84    日本の文学 小学3年生 亀井勝一郎,滑川道夫,古谷綱武編 あかね書房 1957.6.30 〔N01/24721〕
85    日本の文学 小学4年生 亀井勝一郎,滑川道夫,古谷綱武編 あかね書房 1957.6.30 〔N01/24722〕
86    少年少女のための国民文学 15 福村書店 1957.7.1 〔N02/1490〕
87    ノンニ少年の大航海 ヨン・スウエンソン著 宝文館 1957.7.5(昭32) かもしか少年文庫 〔N01/03493〕
88    ぼくらの郷土 1 和歌森太郎編 小峰書店 1957.11.10(昭32) 〔N01/21511〕
89    目で見る学習百科事典 第1巻 小峰書店編集部編 小峰書店 1957.12.10(昭32) 〔N01/52000〕
90    戦争っ子 大蔵宏之著 金の星社 1957.12.25(昭32) 児童小説シリーズ 〔N01/04745〕
91    現代児童名作全集 13 大日本雄弁会講談社 1958.3.5(昭33) 〔N02/1729〕
92    目で見る学習百科事典 第2巻 小峰書店編集部編 小峰書店 1958.3.10(昭33) 〔N01/52001〕
93    マーク・トウェーン物語 プラウドフィット著 実業之日本社 1958.6.1(昭33) 少年少女世界の本 24 〔N01/19675〕
94    目で見る学習百科事典 第3巻 小峰書店編集部編 小峰書店 1958.6.1(昭33) 〔N01/52002〕
95    目で見る学習百科事典 第4巻 小峰書店編集部編 小峰書店 1958.10.1(昭33) 〔N01/52003〕
96    赤い鳥代表作集 1 与田凖一[ほか]編 小峰書店 1958.10.15(昭33) 日本児童文学集成 第1期 〔S05/0205〕
97    ラング世界童話全集 6 アンドルー・ラング作 東京創元社 1958.11.10(昭33) 〔N01/22324〕
98    赤い鳥代表作集 2 与田凖一[ほか]編 小峰書店 1958.11.15(昭33) 日本児童文学集成 第1期 〔S05/0207〕
99    赤い鳥代表作集 3 与田凖一[ほか]編 小峰書店 1958.11.25(昭33) 日本児童文学集成 第1期 〔S05/0208〕
100    新選日本児童文学 1 鳥越信[ほか]編 小峰書店 1959.3.10(昭34) 日本児童文学集成 第2期 〔N01/02806〕
101    新選日本児童文学 3 鳥越信[ほか]編 小峰書店 1959.4.10(昭34) 日本児童文学集成 第2期 〔N01/02808〕
102    少年少女日本名作物語全集 12 講談社 1959.5.25(昭34) 〔N01/21104〕
103    学習日本風土記 第4巻 木内信蔵[ほか]編 講談社 1959.7.10(昭34) 〔N01/21206〕
104    学習日本風土記 第3巻 木内信蔵[ほか]編 講談社 1959.8.10(昭34) 〔N01/21205〕
105    世界童話文学全集 12 講談社 1959.10.10(昭34) 〔N01/21226〕
106    世界童話文学全集 6 講談社 1959.11.10(昭34) 〔N01/21220〕
107    学習日本風土記 第6巻 木内信蔵[ほか]編 講談社 1959.12.10(昭34) 〔N01/21208〕
108    生活する子ら 4年生 日本作文の会編 小峰書店 1959.12.25(昭34) 〔N01/21441〕
109    新中学生全集 13 筑摩書房 1960.1.30(昭35) 〔N01/09020〕★
110    生活する子ら 5年生 日本作文の会編 小峰書店 1960.2.5(昭35) 〔N01/21442〕
111    生活する子ら 6年生 日本作文の会編 小峰書店 1960.2.5(昭35) 〔N01/21443〕
112    偉人の研究事典 中村新太郎[ほか]編著 小峰書店 1960.3.21(昭35) 〔N01/41258〕
113    世界童話文学全集 1 講談社 1960.5.10(昭35) 〔N01/21216〕
114    日本少年少女童話全集 5 東京創元社 1960.5.10(昭35) 〔N01/22335〕
115    新美南吉童話全集 第3巻 新美南吉著 大日本図書 1960.7.11(昭35) 〔N01/01786〕
116    日本童話全集 2 坪田譲治著 あかね書房 1960.7.15 〔N01/05490〕
117    世界童話文学全集 17 講談社 1960.9.10(昭35) 〔N01/21231〕
118    絵でみるこども百科じてん 滑川道夫,遠藤五郎,堀山欽哉編 小峰書店 1960.9.20(昭35) 〔N01/41272〕
119    世界児童文学全集 30 坪田譲治,高橋健二,石井桃子編 あかね書房 1960.10.15 〔N01/20118〕
120    世界童話文学全集 13 講談社 1961.1.10(昭36) 〔N01/21227〕
121    世界名作全集 179 大日本雄弁会講談社 1961.1.25(昭36) 〔N02/2395〕
122    世界名作全集 179 講談社 1961.1.25(昭36) 〔N01/21152〕
123    少年少女物語日本歴史 第1巻 桑田忠親著 実業之日本社 1961.1.30(昭36) 〔K03/5361〕
124    児童世界文学全集 22 偕成社 1961.3.12(昭36) 〔N01/20485〕
125    少年少女世界伝記全集 3 講談社 1961.6.10(昭36) 〔N02/4441〕
126    児童世界文学全集 25 偕成社 1961.7.25(昭36) 〔N01/20487〕
127    少年少女世界伝記全集 7 講談社 1961.10.10(昭36) 〔N02/4445〕
128    少年少女世界伝記全集 11 講談社 1961.11.10(昭36) 〔N02/4449〕
129    斎田喬幼年劇全集 2学期編 斎田喬著 誠文堂新光社 1961.11.30(昭36) 〔N01/23597〕
130    斎田喬幼年劇全集 3学期編 斎田喬著 誠文堂新光社 1962.1.31(昭37) 〔N01/23598〕
131    日本古典童話全集 4 小峰書店 1962.3.31(昭37) 〔S07/86〕
132    斎田喬幼年劇全集 1学期編 斎田喬著 誠文堂新光社 1962.5.15(昭37) 〔N01/23596〕
133    少年少女日本文学全集 6 講談社 1963.2.25(昭38) 〔N02/1421〕
134    岩波少年少女文学全集 28 岩波書店 1963.3.11(昭38) 〔90Y/イワ/1-28〕
135    岩波少年少女文学全集 29 岩波書店 1963.4.30(昭38) 〔90Y/イワ/1-29〕
136    少年少女現代日本文学全集 10 偕成社 1963.9.5(昭38) 〔S06/91Y/カイ/16-10〕
137    少年少女日本文学全集 24 講談社 1963.10.25(昭38) 〔K02/0183〕
138    アンデルセン童話全集 2 アンデルセン作 講談社 1963.11.30(昭38) 〔N02/3203〕
139    オクスフォード世界の民話と伝説 2 講談社 1964.5.5(昭39) 〔N02/4632〕
140    オクスフォード世界の民話と伝説 3 講談社 1964.6.10(昭39) 〔N02/4633〕
141    オクスフォード世界の民話と伝説 5 講談社 1964.8.5(昭39) 〔N02/4634〕
142    オクスフォード世界の民話と伝説 6 講談社 1964.9.5(昭39) 〔N02/4635〕
143    壺井栄児童文学全集 3 壺井栄著 講談社 1964.9.20(昭39) 〔N02/876〕
144    オクスフォード世界の民話と伝説 8 講談社 1964.11.5(昭39) 〔N02/4637〕
145    オクスフォード世界の民話と伝説 11 講談社 1965.2.5(昭40) 〔N02/4640〕
146    白ステッキの歌 赤座憲久著 講談社 1965.2.20(昭40) 児童文学創作シリーズ 〔N02/230〕
147    こどもノンフィクション 19 来栖良夫,石川光男,神戸淳吉編 小峰書店 1965.3.20(昭40) 〔N02/4129〕
148    新版中学生全集 22 筑摩書房 1965.9.5 3版 〔S06/080/チク/8-22〕★
149    日本童話名作選集 4 あかね書房 1965.9.30(昭40) 〔S05/0216〕
150    名作にまなぶ私たちの生き方 6 神宮輝夫[ほか]編 小峰書店 1965.11.1(昭40) 〔S07/97〕
151    秋の目玉 福田清人著 講談社 1966.7.10(昭41) 児童文学創作シリーズ 〔N02/1094〕
152    あるハンノキの話 (短編集) 今西祐行著 実業之日本社 1966.12.25 創作少年少女小説 〔N01/B/35646〕
153    よみうりどうわ 10 読売少年新聞部編 盛光社 1967.3.10 〔N02/1582〕
154    暁の目玉 福田清人作 講談社 1968.10.20(昭43) 〔N02/1093〕
155    新選日本児童文学 3 鳥越信[ほか]編 小峰書店 1969.4.5(昭44) 日本児童文学集成 第2期 〔S05/0499〕
156    坪田譲治童話全集 第11巻 坪田譲治著 岩崎書店 1969.5.10(昭44) 〔S05/0396〕
157    新選日本児童文学 1 鳥越信[ほか]編 小峰書店 1969.6.5(昭44) 日本児童文学集成 第2期 〔S05/0497〕
158    新選日本児童文学 2 鳥越信[ほか]編 小峰書店 1969.6.5(昭44) 日本児童文学集成 第2期 〔S05/0498〕
159    浦上の旅人たち 今西祐行著 実業之日本社 1969.6.15 創作少年少女小説 〔N02/346〕
160    少年少女ベルヌ科学名作 NO.11 ジュール=ベルヌ著 新版 学習研究社 1969.10.20(昭44) 〔N02/3609〕
161    びわの実学校名作選 少年版 坪田譲治編 AJBC版 東都書房 1970.12.1(昭45) 〔S07/1575〕
162    2年のどくしょ 2しゅう 小川末吉[ほか]編 光文書院 [1971] 〔S07/3352〕
163    おおかみのまゆ毛 松谷みよ子著 大日本図書 1971.6.30 子ども図書館 〔N02/1144〕
164    たのしいどくしょ 1ねん 毎日文庫読書教材研究会,平井充良編 教育同人社 1971.9 〔S07/2125〕
165    たのしいどくしょ 2ねん 毎日文庫読書教材研究会,平井充良編 教育同人社 1971.9 〔S07/2126〕
166    楽しい読書 3年 毎日文庫読書教材研究会,平井充良編 教育同人社 1971.9 〔S07/2127〕
167    楽しい読書 4年 毎日文庫読書教材研究会,平井充良編 教育同人社 1971.9 〔S07/2128〕
168    楽しい読書 5年 毎日文庫読書教材研究会,平井充良編 教育同人社 1971.9 〔S07/2129〕
169    楽しい読書 6年 毎日文庫読書教材研究会,平井充良編 教育同人社 1971.9 〔S07/2130〕
170    戦争児童文学傑作選 3 日本児童文学者協会編 童心社 1971.9.1(昭46) 〔K02/0240〕
171    こどもの世界文学 21 神宮輝夫[ほか]責任編集 講談社 1971.9.10(昭46) 〔N02/2543〕
172    小さな河 恁エ健二郎著 信濃教育会出版部 1974.9.20(昭49) 〔S07/1489〕
173    少年少女日本文学全集 24 講談社 1977.2.10(昭52) 〔K02/0280〕
174    新版宮沢賢治童話全集 8 宮沢賢治著 岩崎書店 1978.12.20 〔S07/2309〕
175    教室 (詩集) 伊達温著 黄土社 1979.3.5(昭54) 〔K02/3366〕
176    日本児童文学名作選 13 あかね書房 1980.2.25(昭55) 12刷 〔S05/0551〕
177    『あの子』はだあれ 早船ちよ著 新日本出版社 1982.3.25 新日本少年少女の文学 15 〔S07/1995〕
178    日本の昔話 柳田国男著 新潮社 1983.6.25(昭58) 新潮文庫 〔ヤナ3/ニ17〕
179    中学生の文学 4 成城国文学会編 ポプラ社 1984.4.20(昭59) 〔S05/0256〕
180    遙かなりローマ 今西祐行作 岩崎書店 1985.12.16 現代の創作児童文学 16 〔S07/401〕
181    長崎源之助全集 7 長崎源之助著 偕成社 1987.6 〔ナガ35/1-7〕
182    今西祐行全集 第10巻 今西祐行著 偕成社 1990.8 〔イマ6/1-10〕
183    今昔ものがたり 杉浦明平作 岩波書店 1995.7.14 2刷 岩波少年文庫 〔スギ20/コ2〕
184    宮沢賢治絵童話集 9 宮沢賢治[著] くもん出版 2011.5.28 12刷 〔b/ミヤ〕
185    宮沢賢治絵童話集 4 宮沢賢治[著] くもん出版 2013.4.24 13刷 〔b/ミヤ〕
186    全集古田足日子どもの本 第9巻 古田足日著 童心社 2015.6.15 3刷 〔フル13/1-9〕


詩篇〈模写――或はクートの絵から〉初出発見記(2016年10月31日)

2016年9月20日は、当サイト《吉岡実の詩の世界》にとって記念すべき日となるだろう。1967年10月刊行の思潮社版《吉岡実詩集》に収録されて以来、その初出 掲載媒体と(当然のことながら)初出本文が判らなかった詩篇〈模写 ――或はクートの絵から〉(E・4)のそれが判明したのである。ことの次第はこうだ。9月18日(日)、〈ヤフオク!〉に「○『海 程』昭和38年8月第9号編集金子兜太」が出品された(出品者はimagon427さん)。そこには表紙と裏表紙の写真とともに、

○『海程』昭和38年8月第9号編集金子兜太
  <全48ページ>  
  
○作品
 「特別寄稿作品<詩>」吉岡 実
 「特別作品15句」林田紀音夫 〔……〕
 「同人作品」〔……〕 堀 葦男 〔……〕 隈 治人 〔……〕 金子兜太

○文章
「意識と知識」金子兜太(1ページ)
 〔……〕

・経年によるやけや手擦れがあります。
・表紙裏表紙ともにふち周りが濃くやけています。
・どのページもふち周りが濃くやけています。
・表紙の角に一か所しみがあります。
・冊子を綴じてあった穴が2つあいています。
・神経質な方はご遠慮ください。

とあった。この「「特別寄稿作品<詩>」吉岡 実」という1行を見たとき、「すわ、吉岡実の新発見の未刊行詩篇か」と色めいたが、「昭 和38年8 月」とあるのに気がついて、〈模写――或はクートの絵から〉に違いないと直感した。それというのも、今まで《〈吉岡実〉を語る》の

などで散散書いたように、同詩篇は1963(昭和38)年に執筆・発表された可能性が高いと考えてきたからだ。主な理由は、この年、フ ランスの画家 リュシアン・クートー(すなわち「クートの絵」の作者)が来日していること、詩人の長田弘がおそらく初出から3行を引用してコメントしていること、の2点 である。ただし、1963年執筆・発表と推定するまでには、生前の吉岡さん本人や陽子夫人、さらには長田さんにまで問いあわせる非礼を犯しながら、ついに 初出探索につながる情報を得られなかったという経緯がある。ところで、前掲オークションの終了日時は1週間後の9月25日(日)午後8時過ぎである。開始 価格は「300円」と手頃なのでなんとしても落札したいが、一刻も早く誌面を見て〈模写――或はクートの絵から〉なのか新発見の未刊行詩篇なのか確認した い。自宅から国立国会図書館のOPACで《海程》を検索するも、当該号は所蔵されていない。次に俳句文学館のOPACで検索すると、ありがたいことにちゃ んと所蔵されている(ちなみに日本近代文学館も同号を所蔵しているが、駒場には別件で前の週に行ったばかりだし、なによりもわが家からは俳句文学館が近 い)。翌19日(月)は仕事で動けなかった。雨模様の20日(火)に新宿・百人町の同館を訪ね、《海程》9号を閲覧した。〈目次〉にはまぎれもなく「寄稿 ―模写 或はクートの絵か ら……………吉 岡  実…2」 とある。30年来、探索していた詩篇との出会いである。ページを繰る間ももどかしく本文に目を通すと、どうやら異同はなさそうだ(天気が良くなかったの で、対校すべき本文である詩集《静かな家》は持参しなかった)。ようやく落ち着いてほかのページを見ると、表紙3(奥付も同ページ)の〈編集後記〉に《海 程》の編集者(であり同人代表)である金子兜太が「吉岡実さんの新作をいただいた。約半年間どこにも作品をだしていないので、吉岡ファンの多い俳壇への良 きプレゼントであるはず。」と書いているではないか。確かに吉岡はこの年、詩篇〈珈 琲〉(E・3)を 《美術手帖》2月号に発表して以降、詩を発表してい ない(金子と吉岡の間で「最近、詩の方はどうですか?」「いやぁ、この半年ほど書いてなかったんでね」といったやりとりがあったかもしれない)。〈模写 ――或はクートの絵から〉の発表時期に関するかぎり私の推測は的を射ていたものの、掲載誌の《海程》にまで調べが及ばなかった。かくして30年ほどまえ、 吉岡実の単行詩集収録の全262詩篇の初出の探索を志して以来、荏苒として今日に至った。吉岡は、永田耕衣の《琴座》や高柳重信の《俳句評論》には何度も 寄稿しているが、先走っていえば、金子兜太の《海程》には〈模写――或はクートの絵から〉を寄せただけではないだろうか。今後の調査に俟ちたい。

本稿は、《文献探索2007》(金沢文圃閣、2008年)に掲載した〈個人書誌《吉岡実の詩の世界》をwebサイトにつくる〉に倣いつつ、執筆 した。最後に今回のオークションで入手した、〈模写――或はクートの絵から〉を掲載した金子兜太編集の俳句同人誌《海程》〔発行所の記載なし、発行者は出 沢三太〕9号〔2巻9号〕(1963年8月)の写真を掲げて、本稿を終えよう。
《海程》9号(1963年8月)の〈編集後記〉と奥付 《海程》9号(1963年8月)の〈模写――或はクートの絵から〉の本文 《海程》9号(1963年8月)の〈目次〉 《海程》9号(1963年8月)の表紙1
《海程》9号(1963年8月)の〈編集後記〉と奥付、同・〈模写――或はクートの絵から〉の本文、同・〈目次〉、同・表紙(左 から)


秋元幸人〈森茉莉と吉岡実〉の余白に(2016年9月30日)

巻末に〈小説西脇先生訪問記〉を付録のように収めた秋元幸人の随筆集《吉岡実と森茉莉と》(思潮社、2007年10月25日)は書名の とおり前半を 吉岡実に、後半を森茉莉に充てた構成になっていて、吉岡に関する3篇、森に関する2篇の随筆をあたかも屏風の蝶番のようにつなぐのが〈森茉莉と吉岡実〉で ある。これは吉岡実装丁になる森茉莉の3冊めの随筆集《記 憶の絵》(筑 摩書房、1968年11月30日)刊行にまつわる森と吉岡の文章を中心に据えた、両者の交遊をたどる論考でもある。秋元の文献の博捜ぶりはふだんにも増し て広く、気合が入っている。と書いたからといって、それを叙する秋元の筆が高雅であることはいうまでもなく、森茉莉への献呈署名入りの思潮社版《吉岡実詩 集》(1967年10月1日)を神田・神保町は田村書店の店主から贈られた僥倖を枕に、同詩集こそ家蔵する和書で「最も珍重するもののひとつ」(本書、六 五ページ)と締めくくるあたり、随筆家としての秋元の力量がいかんなく発揮されている。私としては「森茉莉と吉岡実は、方法こそ違え、共に上辺[うわべ] から奥へ、表層から深部へと我々読者を力強く引っ張っていってくれる作者たちなのであって、彼らは退屈な此岸に留まる人でも奇怪な彼岸に行きっぱなしの人 でもなかった」(本書、六三ページ)という断案を含む本文を味読せよ、と言えば済んでしまうのだが、2点だけ秋元の触れていない森茉莉の文章を紹介した い。本稿の標題を「余白に」とする所以である。

〔書簡〕宮城まり 子宛(一九六七年? 一〇月四日付)

  この間は鮭の白ソース菠薐草入りとトマト玉葱サラダと、焼肉をごちそうさまでした。もしかしたら出る、熊日の、私の三分の二生記の中の「鮭の白ソース」と 「続・鮭の白ソース」を早く読んでいただきたいわ。熊日の三枚こま切れのずいひつは面白いことのところは続に、続々まであるのです。私の処女出パン(きら ひな言葉です)の時装ていをして下さつた、今では詩人で何とか賞の吉岡実さんが、私の熊日のずいひつを今あづかつてゐて、吉岡さんの、まだみたことのない 奥さんは不幸なことに私の時々抜けてゐるらしいこま切れを一、二、の順に百枚も帳面に張りつけていらつしやいます。早く読んでいたゞきたいと思つてゐまし たが、まづ順にはりつけてからのことらしいもやうです。〔……〕(《森茉莉全集8〔マドゥモァゼル・ルウルウ〕》筑摩書房、1994年1月10日、七一二 ページ)

「夏の間」――或る残酷物語

 去年の夏は惨澹たる夏だつた。私は、強いとはいへないといふよりむしろ弱い頭に、一年半も前からとり憑かれてゐるもの(それは深刻な恐怖と絶望である) があつて、そのとり憑いたものはとり憑いたままで、そこへ二年前(多分二年前)に、熊本日々に連載された随筆かと思ふと小説の切れつぱしのやうな、三枚づ つにこま切れになつた私の三分の一生記が筑摩書房から出ることになつた。(今度どこかに出た筑摩書房の広告に、四半分の一の自伝、と書いてあつたのは怒 [いか]りである。二十六歳までを書いたのであるから、四半分の一と言ふと、現在百四歳になる筈だからだ)とり憑いてゐるものといふのは去年の二月に中篇 を出した超長篇小説(私としてはである)の後篇が、書き出しの二枚で止まつてしまつてどうしてもかうしても出て来ないといふ絶望である。(私はフィクショ ンの小説の時にはいつも、《今度は書けない》といふ恐怖にとり憑かれ、それが長く続いて絶望するのである)筑摩の本の方は、推敲も楽だし、頁が足りないた めの書き足しもする【く の字点】出来たので別に惨澹ではなかつたのだが、その書き足しが十三篇、大変にうまく出来て、新聞の切抜きを貼りつけた紙の束と一緒に、筑摩書房と書いた 厚い大きな紙袋にをさまつた日、私はもう二つ三つ書き足しを造らへようと言ひ、担当の吉岡実氏も賛成したので、私はその貴重な紙袋をもつて部屋に帰つた。 ところがその紙袋を屑屋に持つて行かれたのである。〔……〕呑気といふのか、馬鹿といふのか、どんなことが起つても頭の芯までは届かない具合で、泰然とし てゐる私も(それは胆が据つてゐるのではなくて、神経が緊張する時の筋の彎縮度が生れつき弱くて弛んでゐるためのやうである)、原稿の袋が新聞の山と一し よに消え去つたのを見た時には頭の芯が冷たくなつた。吉岡氏がどんなに呆れ返るだらう、といふ考へが頭を占領し、直ぐに報らせれば屑屋の家に在るかも知れ ない、といふことにも気がつかなくて、ただ【く の字点】青息吐息で三日間を暮したので、新聞の切抜きを貼つた紙束と、二度とふたたび、それと同じには書けない、よく出来た書き足しとは、どこかの溶解炉 の中でゆめの如くに溶け去つたのだ。
 〔……〕(《森茉莉全集3〔私の美の世界/記憶の絵〕》筑摩書房、1993年9月20日、六三二〜六三四ページ)

私の知るかぎり、森茉莉が吉岡実に言及したのは以上の2篇――書簡・随筆とも森茉莉〔早川暢子編〕《貧乏サヴァラン〔ちくま文庫〕》 (筑摩書房、 1998年1月22日)に収録されている――と、執筆時期としてはその中間(1968年秋)に位置する《記憶の絵》の〈後記――原稿紛失の記〉の計3篇 で、秋元の随筆は上掲2篇には触れていない。もちろん、森茉莉と吉岡実に関して並びなき博覧強記を誇る秋元がそれを知らなかったはずはない。叙述の展開 上、触れるに及ばずと判断したからにすぎまい。〈「夏の間」――或る残酷物語〉は小島千加子の〈解題〉によると「本巻〔《森茉莉全集3》〕所収「記憶の 絵」の「後記」(【五 二七→五二八】頁)に記されている出来事を詳述している」(同書、七〇〇ページ)もので、内容からすれば筑摩書房のPR誌《ちくま》に載ってもおかしくな い文章だが、そうはならなかった。第一、《ちくま》の創刊が1969年の5月、と森が《群像》同年2月号に随筆を発表したよりも後である。だがそれよりも なによりも、《記憶の絵》の巻末に〈後記――原稿紛失の記〉がある以上、屋上屋を架す必要はない。もっとも、この随筆が《記憶の絵》刊行のプロモーション に一役買ったかどうかは疑わしい。森茉莉自身、〈「夏の間」――或る残酷物語〉をどの単行本にも入れず、今日われわれが 手軽に読めるようになったのは《森茉莉全集3〔私の美の世界/記憶の絵〕》の〈一九六〇年代のエッセイ〉に初めて収録されてからである(前述のように、同 文の最も入手しやすい版は《森茉莉全集》を底本として「食」の短篇を編んだ文庫オリジナルの《貧乏サヴァラン》)。《記憶の絵》の単行本は1968年の刊 行だが、その後、旺文社文庫(1982年4月23日)とちくま文庫(1992年2月24日)が出た。旺文社文庫版には白石かずこが解説を寄せている。「最 初、懐古的な気持ちでこの明治大正随筆式写真館にはいったものは、よみすすむにつれ、これは一幕物の巴里で演じられる芝居かと錯覚し、いや、短篇の超短い ものだが、美事、美事と思っているうちに、森茉莉の縦横な筆の中で、いつのまにか日常の中で眠らせ、窒息させていた自分というメフィストを生き返らせ、精 神の自由と美の美味しさに、舌つづみをうっている自分に気づくのである」(同書、二五六ページ)。ちなみに吉岡実に森茉莉の新聞連載の文章を一本にまとめ るよう依頼したのは、白石かずこである。なお同文庫版では、経緯は不明だが、かんじんの〈後記――原稿紛失の記〉が省かれている。

秋元幸人《吉岡実と森茉莉と》(思潮社、2007年10月25日)のジャケット
秋元幸人《吉岡実と森茉莉と》(思潮社、2007年10月25日)のジャケット

《吉岡実と森茉莉と》は、〈吉岡実と北園克衛――『圓錐詩集』から戦後詩へ〉〈吉岡実と大岡信――Voila deux collines enchantees!〉〈吉岡実の食卓――吉岡実と土方巽〉〈森茉莉と吉岡実〉〈森茉莉と巴里〉〈森茉莉と下町〉〈小説西脇先生訪問記〉の7篇を収め る、今のところ秋元幸人が吉岡実のことを書いた最後の著書である。


《土方巽頌》の〈40 「静かな家」〉の構成について(2016年8月31日)

吉岡実の評伝《土方巽頌》(筑摩書房、1987年9月30日)は副題に「〈日記〉と〈引用〉に依る」とあるとおり、吉岡の〈日記〉と、 土方巽および その人と作品に親炙した人人の記した文章の〈引用〉を骨格としている。そして本書を他の土方巽関連の書物と分かつように、要所要所に吉岡が土方や土方以外 の暗黒舞踏の踊り手に捧げた詩篇を配している。本稿では、吉岡の詩集《静かな家》(思潮社、1968年7月23日)の書名を踏襲した土方の舞台《静かな家 前篇・後篇》をめぐる記述を手掛かりに、《土方巽頌》の成りたちを見てみよう。構成=アスベスト館、担当=合田成男・國吉和子〈土方巽年譜〉には「昭和四 十八(一九七三)年 四十五歳」の項に「九月 燔犠大踏鑑、西武劇場公演(踊り子フーピーと西武劇場のための十五日間)「静かな家前篇・後篇」の演出・振 付・出演(西武劇場)、出演者には他に芦川羊子、小林嵯峨、仁村桃子、和栗由紀夫、山田一平、大須賀勇、ら。/十月 大駱駝艦・天賦典式「陽物神譚」(日 本青年館)に特別出演。舞台出演の最後。以後、演出・振付に専念」(土方巽遺文集《美貌の青空》筑摩書房、1987年1月21日、二四七ページ)とある。 すなわち土方が舞台に立った最後からふたつめの作品が、これだった。《土方巽頌》の〈40 「静かな家」〉の本文に番号を振って、以下に掲げる。

@「〈静かな家〉ですがとても一口では言えません。今回は『田の草取りよりは戦争は楽だ』という背景を通過したので す。私の生家 もかつては『英霊の家』という表札がかかっていましたが、この間帰ってみた時は家屋敷は跡形もなく日本の少女だけが怪物的に生きのびているのを目撃しまし た。」 (土方巽)

A〈日記〉 一九七三年九月二日
 午さがり、西武パルコ劇場へ行く。出来たばかりで、「暗黒舞踏派」の舞台としては一寸立派すぎる。土方巽作品・踊り子フーピーと西武劇場のための十五日 間と称し、「静かな家」前篇後篇を二回に分けての公演だった。若い男女の舞い手二十四、五人の舞踏劇でたしかに力作ではあるが、冗漫で単調な構成に見え た。しかし、土方巽の独舞は秀逸。瀧口修造夫妻、天沢退二郎夫妻、岡田隆彦夫妻らと会った。/同月十五日・午後一時ごろ、パルコのウエアハウスで陽子と コーヒーをのみ、劇場へ行き、「静かな家」後篇を観る。三時間近く、緊張をしいられる舞台だった。――あらゆる芸術家にはかつての自己の作品を、引用し、 変形し、増殖してゆくという、営為がある。この作品にもそれがあるように思われた。めずらしく、誰とも会わず、受付の土方夫人に挨拶して帰る。

B「夏の盛りの蛙の合唱、虫の音、雀などのさえずる鳥の声、お経のように果てしなく詠唱される瞽女の歌などだ。時たま、戦闘の射撃音の乱射、緊張をかきた てる電話の音が空間をケイレンさせ、不明瞭な、雑音の交じった外国語放送……。そして舞台を横切るドテラの女達の下駄の音、聞きとり難い東北弁のセリフ、 着物の裾を端折って尻を客席に向けてのアヤーという声、つんざくような叫び声、男達が四つんばいになりだらりと舌をだし、ハアハアとはいずり回る犬の吐く 息……。ジックリと時間をかけて演じられる。特に土方巽の肉体は、ゲッソリとやせ、しかし明確に筋肉と骨と内臓をムダなく見せ一分のスキもない。ある時は 上手の隅で破れかぶれのドテラの極彩色をまとった背を客席に向け、わずかずつ中央に向けて歩みながら、徐々に背からずり落してゆく衣裳、露わになる白塗の 背、腰、又、超スロービデオで見るように、手を前に出し屈曲させ、首をかしげさせ、腰を床に落してゆくのに、大げさにいえば永遠の時を費しているように見 えた。」  (古沢俊美)

C「舞台に立つだけの仕上げのできたとき、彼の体からは肉という肉が削ぎ落されていた。鳩尾から腹にかけて、肉がないというよりも『虚』が露出していると いう感じがあった。腕や腿にも、もはや筋肉と呼ぶべきものはなく、清浄な『筋』だけが勁く静かに動いている。それを見つめながら、彼の節食や鍛錬を思い描 いてみても、そもそもボクサーの減量の苦闘とは質がちがっている。土方巽の場合、肉の削ぎ落しはすでにして手段ではなく自己目的なのだ。」& amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp;    (出口裕弘)

D 結局 妻とはバロック芸術の花飾り
  ほとばしることが出来る?
  建物の正面へ
  再び生きかえるツタの葉が見えるかね!
  宗教的なステンドグラスの
  永遠保存が可能ならば
  まばゆく開け
  散り行く量のなかに
  大麦の種子
  あらかじめ受け入れねばならない
  夫が刷画をする
  絹を裂く朱漆りの小さな絵
  スギの木の向うにある
  川をながれながれて行く馬と兵隊の
  世界の静かさ
  女中が一人帰ってくる
    「静かな家」より

見てのとおり、@は土方巽の文章。初出は「燔犠大踏鑑「静かな家前篇・後篇」 昭和四十八年九月二日―一六日 西武劇場」(《美貌の青 空》、二三九 ページ)だとあり――おそらく公演のプログラム冊子だが、未見――吉岡が依ったのは《美貌の青空》の本文だろうか。《美貌の青空》での記載は

 静かな家に住んでみたいと思って四十六年たちましたが、静かな大騒動が起っている家の中に現在も住んでいるという 訳です。
 〔……〕
  「静かな家」ですがとても一口では言えません。今回は「田の草取りよりは戦争は楽だ」という背景を通過したのです。私の生家もかつては「英霊の家」という 表札がかかっていましたが、この間帰ってみた時は家屋敷は跡形もなく日本の少女だけが怪物的に生きのびているのを目撃しました。〔……〕(〈静かな家〉、 同書、九八ページ)

で、吉岡は「 」を〈 〉や『 』に改めているが、これは土方の文章を一重鉤括弧(「 」)で括って引用したための措置と思われる。

Aは吉岡の日記。「一九七三年九月二日」は舞台初日で、前篇を観ている。「同月十五日」は千秋楽の前日で、後篇。そのためか「めずらし く、誰とも会わず、受付の土方夫人に挨拶して帰」っている。ちなみに1973年9月15日は土曜日で祝日(敬老の日)だった。

Bは古沢俊美の舞台評。初出は《日本読書新聞》1973年9月24日(月曜日)8面の〈舞踏〉。標題は〈静かな家〉。「蘇生する死 体」、「堂々と商 業劇場を略奪――四つんばいの肉体が永遠の時をつむぎ出し」という見出しや「透み渡る風の音」、「死と隣り合せのワルツ」という小見出しが配されている。 吉岡は省略した箇所を「……」で表記しているが、これが省略であるということは判りにくい。通常、(略)、(中略)、私なら〔……〕と表記するところだか らだ。以下に該当する箇所の原文を〔 〕内に補って掲げる(あるいは〔B←原文〕)。

 〔スコットランドの森林にひびきわたるバッグ・パイプの狩りの音、演奏前の期待をかきたて、しかしいつ果てるとも ないオーケス トラの練習音、無踏会のための軽快なワルツ、祝祭のため、或いはワグナー風の荘重なファン・ファーレ、ある時は小きざみにかすかに、そして高らかに力強く リズムを繰り返す大小の鐘・太鼓・シンバルなどの打楽器、電子音、式典用のオルガン、流麗なバイオリンとピアノ組曲、勇壮活発な運動会に流される吹奏楽と いった極めてヨーロッパ風の(こんな言い方は今時あまり使われないが、しかしそうとしか言いようのない)楽の音が殆ど洪水のように主調音として場内をかけ めぐる中でわずかにかぼそく間歇的に絞り出されるのが、〕夏の盛りの蛙の合唱、虫の音、雀などのさえずる鳥の声、お経のように果てしなく詠唱される瞽女の 歌などだ。時たま、戦闘の射撃音の乱射、緊張をかきたてる電話の音が空間をケイレンさせ、不明瞭な、雑音の交じった外国語放送〔……←いや、中国語(?) 放送、哀愁の糸をふるわせる朝鮮の歌(?)が、かいま場内を横切る〕。
 そして舞台を横切るドテラの女達の下駄の音、聞きとり難い東北弁のセリフ、着物の裾を端折って尻を客席に向けてのアヤーという声、つんざくような叫び 声、男達が四つんばいになりだらりと舌をだし、ハ〔ア←ァ〕ハ〔ア←ァ〕とはいずり回る犬の吐く息〔……。←、童謡風の女達の合唱などが踊り手自身による 音だ。
 客席、最後尾で見ていて、そうした音ばかりきいていたわけでは無論ない。舞台のソデとホリゾントをおおってコの字形に雨戸がタテ三段に五十枚ほど丸太に 吊るされ、地がすりの黒地を刻々と汗と白いドーランで浸食させていく踊り手の肉体の集積は確かに舞台で繰りひろげられていた。踊りの技法はこれまで何回と なく、イヤというほど見てきた暗黒舞踏のものだし、それ以上に、極めて緩慢に、〕ジックリと時間をかけて演じられる。特に土方巽の肉体は、ゲッソリとや せ、しかし明確に筋肉と骨と内臓をムダなく見せ一分のスキもない。ある時は上手の隅で破れかぶれのドテラの極彩色をまとった背を客席に向け、わずかずつ中 央に向けて歩みながら、〔徐←序〕々に背からずり落してゆく衣裳、露わになる白塗の背、腰、又、超スロービデオで見るように、手を前に出し屈曲させ、首を かしげさせ、腰を床に落してゆくのに、大げさにいえば永遠の時を費しているように見えた。〔そして他の世界と日本の舞踊とハッキリ違うのは、床にあお向け に寝て、或いは安楽椅子の上での安息の姿態での殆んど、重病もしくは死と隣り合わせのワルツだろう。この時ほど場内になりひびく、ワルツそのものと対比的 でしかも、たしからしさを感じさせる踊りは他にない。〕

さすがに吉岡の引用は的確だが、音響効果や音楽の演出に関する記載を割愛している点が興味深い。さらに、「序々に」を「徐々に」と訂し ている箇所が 目を引く。本書の校正時にそれを訂正した可能性もあるが、そもそも原稿は古沢の舞台評の複写(コピー)に手を入れたものなのか、それとも吉岡が紙面から一 字一句書きうつしたものなのか。

Cは出口裕弘の舞台評。初出は《芸術生活》1973年1月号(一五八ページ)で、モノクロ写真構成の〈鑑賞席〉(一五七〜一五九ページ)の〈土方巽の暗黒 舞踏「燔犠大踏鑑」〉に添えられている。ただし舞台は、出口文〈「時」に逆らう〉の末尾に、改行して「(10・26〜11・22 東京・新宿文化)」とあ るとおり、1973年9月の《静かな家前篇・後篇》ではなく、1972年10月〜11月の《土方巽作品集「四季のための二十七晩」――燔犠大踏鑑・第二次 暗黒舞踏派結束記念公演》である。撮影者は「本誌 倉橋正」。吉岡の引用に該当する出口文の段落は以下のとおり。

 舞台に立つだけの仕上げのできたとき、彼の軀からは肉という肉が削ぎ落されていた。鳩尾から腹にかけて、肉がない というより も、「虚」が露出しているという感じがあった。腕や腿にも、もはや筋肉と呼ぶべきものはなく、清淨な「筋」だけが勁[つよ]く静かに動いている。それを見 つめながら、彼の節食や鍛錬を思い描いてみても、そもそもボクサーの減量の苦闘とは質がちがっている。土方巽の場合、肉の削ぎ落しはすでにして手段ではな く自己目的なのだ。〔少なくとも、彼の軀が観客の眼にさらされる最初の一瞬には、そうとしか思われない。〕

吉岡の引用に見える「体」は出口の原文では「軀」、吉岡の引用では「肉がないというよりも」のあとの読点(、)が脱落している。また初 出では「勁 く」に[つよ]とルビが振ってあったが、出口裕弘《風の航跡》(泰流社、1978年2月15日、二二九ページ)の本文ではルビが振られていない。同様に、 初出「清淨」は単行本では「清浄」に改められた(なお単行本での標題は〈土方巽・「時」に逆らう〉)。ルビの有無と漢字の旧新からだけでは、吉岡が依拠し たのが初出誌か単行本か判定しづらいが、単行本の可能性が高いように思う。ただし、双方とも《土方巽頌》巻末の〈引用資料〉には挙げられていない。吉岡が 初出末尾の公演日に着目していれば、Cの出口の舞台評を《静かな家前篇・後篇》の項には引かなかったかもしれない。あるいは、それと知りつつこの項に据え たのなら、同公演と《土方巽作品集「四季のための二十七晩」――燔犠大踏鑑・第二次暗黒舞踏派結束記念公演》との連続性・類似性を強調したかったのかもし れない(「――あらゆる芸術家にはかつての自己の作品を、引用し、変形し、増殖してゆくという、営為がある。この作品にもそれがあるように思われた」)。 今ある資料からだけでは、そこのところはどちらとも判断しかねるが、いずれにしても、〔体←軀〕から推測すれば、吉岡が出口の原文を書きうつしたものと考 えられる。なお、出口裕弘は《土方巽頌》でもう一箇所、1974年11月28日の〈日記〉に登場する(同書、七九ページ)。この日、吉岡と共に白桃房舞踏 公演《サイレン鮭》を観ている。

《芸術生活》1973年1月号、〈鑑賞席〉(一五七〜一五九ページ)の〈土方巽の暗黒舞踏「燔犠大踏鑑」〉の出口裕弘〈「時」に逆らう〉(一五八ページ)〔モノクロコピー〕。舞台写真は《土方巽作品集「四季のための二十七晩」――燔犠大踏鑑・第二次暗黒舞踏派結束記念公演》のもので、撮影者は「本誌 倉橋正」。 デザイン:田中一光の燔犧大踏鑑《静かな家前篇・後篇》のポスターにも《土方巽作品集「四季のための二十七晩」》の第五夜〈ギバサン〉(吉岡は1972年11月16日に観ている)の舞台写真が使われた(撮影:山崎博、タイトル文字:三島由紀夫、文:種村季弘)。(右)
《芸術生活》1973年1月号、〈鑑賞席〉(一五七〜一五九ページ)の〈土方巽の暗黒舞踏「燔犠大踏鑑」〉の出口裕弘〈「時」 に逆らう〉 (一五八ページ)〔モノクロコピー〕。舞台写真は《土方巽作品集「四季のための二十七晩」――燔犠大踏鑑・第二次暗黒舞踏派結束記念公演》のもので、撮影 者は「本誌 倉橋正」。(左)
田中一光デザインの燔犧大踏鑑《静かな家前篇・後篇》のポスターにも《土方巽作品集「四季のための二十七晩」》の第五夜〈ギバサン〉(吉岡は1972年 11月16日に観ている)の舞台写真が使われた(撮影:山崎博、タイトル文字:三島由紀夫、文:種村季弘)。(右)


Dは吉岡の自作〈静かな家〉(E・16、初出は《現代詩手帖》1966年4月号)の37行めから最終52行めまでの引用。《吉岡実〔現代の詩人1〕》(中 央公論社、1984年1月20日)の〈自作について〉のための書きおろし〈三つの想い出の詩〉で、本詩篇についてこう書いている。

 この詩篇は、一種の副産物のようなものだった。「沼・秋の絵」はすでに出来、〔昭和三十七年正月の〕その夜は、 「修正と省略」 に没頭していた。深夜一時ごろ、遂に完成した。ほっとし、茶でも淹れて貰おうと、隣りの部屋を覗くと、妻の姿が見えない。何時、何処へ行ったのだろうか。 今までにないことなので、不安にかられた。私は所在ないまま、原稿用紙に向っていた。いやむしろ心を鎮め、気をまぎらわすべく、自動記述の方法で詩を書き はじめたようなものだった。
 それから、一時間ほどして、妻が帰って来た。丁度その時、私の詩も、「女中が一人帰ってくる」の一行で、成立しているのだ。「まあッ失礼ね、(女中が一 人帰ってくる)なんて」、妻は照れかくしに、怒って見せた。気晴しに、渋谷まで足を伸ばし、街を歩いてきたとのこと。また、詩作に熱中している私の姿が、 しばしば、部屋いっぱいに拡がり、とても側に居られないとも、言うのだった。「静かな家」は、私の作品の中でも、短時間で成立した異例の詩篇である。昭和 四十三年の夏、ほかに十五篇の詩を収め、詩集『静かな家』は刊行された。(同書、二〇六ページ)

詩篇の制作が1962年、発表が1966年、詩集の刊行が1968年(吉岡は1967年4月2日、初めて土方の舞踏に接しており、詩集 《静かな家》 は土方に献本したおそらく最初の新刊詩集)、土方の舞台が1973年。「静かな家」は、10年以上ものあいだ深く静かに潜行していた。吉岡が省略した詩篇 冒頭から36行めまでの前半部分を引こう。

  パセリの葉のみどりの
  もりあがった形
  ぼくたちに妻があることは幸せ
  と叫んでいる男
  それは洋服のなかにいるというわけではない
  なおも酸性を求めて
  高い青竹の幹の節々をとんでいる
  クロアゲハの闇の金粉に
  溺れているように見える
  植物的人間
  妻とはなに?
  その食べている棚の上の
  ママレードの中心
  それぞれの夫の《ここに砂漠は始まる》
  食事は始まる
  詰りつつある壜のなかへ壜
  しかも夕暮
  息の上の
  紅蓮の舌から見える
  下る坂の鐘の舌は中世風に
  まるまるとして
  ひとつの十字架へ沿って降りて行く
  ではニッキはどんな地上から
  はこばれてくる?
  愛する唇へ
  ヴィクトリアのカエルまで雨でぬらす
  子供二人を先頭にして
  やってくるのだ
  春の嵐!
  これがほんとの抒情的なのか?
  母のうちなる柱
  その毛の描写できない六拍子
  森と同化している
  集まる鳥の
  うわむきに黒い細分化した
  蹠のなかの苦悩

初出〈静かな家〉が当初の 制作時のままかどうかわからないが、いずれにしても土 方巽の舞踏に接する以前の吉岡実詩ということになる。土方はこの詩篇に吉岡生来のものと異なるなにか(その即興性、その親密かつ平穏な超現実性)を嗅ぎつ けて、そこから己の舞台を構想したのだろうか(「静かな家に住んでみたいと思って四十六年たちましたが、静かな大騒動が起っている家の中に現在も住んでい るという訳です」)。《静かな家》以降の吉岡は、《ポール・クレーの食卓》と《薬玉》を除くすべての詩集――すなわち《神秘的な時代の詩》《サフラン摘 み》《夏の宴》《ムーンドロップ》――に土方への献詩や追悼詩、土方の舞踏や言葉から触発された詩篇を収めている。だが土方が自作の題名に藉りたのはそれ らではなく、初期吉岡実詩の最後を飾る詩集とそのタイトルポエムだった。それは吉岡実詩の稀代の読み手としての自負ででもあった。


吉岡実にとっての富澤赤黄男(2016年7月31日)

1991年10月、浅草・木馬亭で〈吉岡実を偲ぶ会〉(発起人飯島耕一・大岡信・入沢康夫・種村季弘・高橋睦郎)が開かれ、近くの酒席 で二次会が あった。本来なら私が出るような場ではなかったが、筑摩書房の淡谷淳一さんに勧められるまま、出席させてもらった。出てよかった。隣りには中西夏之さん、 向かいには飯島晴子さんといった、こう した席ででもなければお会いできないような方から生前の吉岡さんのことを聞けたからである。俳句の話に限れば、《鷹》に執筆を頼むと、印刷所に入れなけれ ばならない絶妙のタイミングで原稿が届く、吉岡さんは俳誌の進行の裏も表も知りつくしているという飯島さ んの話も興味深かったが、吉岡実がいちばん好きだった俳人は富澤赤黄男だったのではないかという指摘には驚いた。周りの人との歓談での発言だったので、そ れ以上詳しく聞くことはできなかったが、永田耕衣でも山口誓子でもなく赤黄男だ、というのは記憶に残った。そしてその前年、吉岡さんが亡くなった1990 年の夏、《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991年4月15日)の〈吉岡実資料〉のための打ちあわせで監修の平出隆さん、編集の大日方公男さんとともに吉岡陽子さんをお宅に訪 うたとき、高柳重信が急逝した際、吉岡さんは本当に気落ちしたとうかがった。壮健でなかったとはいえ、自分より5歳年下の高柳が60歳の若さで他界したこ とは、痛恨の極みだった(詳細は吉岡の随想や追悼文に詳しい)。高柳の俳句や評論への信頼が第一にあったのはもちろんだが、赤黄男の弟子だったことも大き い、と今にして思う。《鷹》1972年10月号掲載の〈現代俳句=その断面〉の冒頭「俳句との出会い」にはこうある。

 藤田〔湘 子〕 きょうは詩人の吉岡〔実〕さん、歌人の佐佐木〔幸綱〕さん、それに俳壇から金子〔兜太〕、高柳〔重信〕のお二人においでいただきました。それぞれの ジャンルで活躍している方ばかりですが、はじめに、どんなふうにして言語表現とかかわり合うようになったのか、形式との出会いといいますか、できれば俳句 との出会い、そのへんのところを、すこしお話ねがえませんか。
 高柳  これは詩でも、短歌でも、俳句でも同じだろうけれども、自分というものと言語表現というものがどこかで出会うには、それなりの理由があるはずなんだけれ ど、ぼくの手許には、吉岡さんが兵隊に行くときにつくった詩集というのかな、あるいは歌集と呼んだほうがいいのか、それがあるんですよ。それをみるとぼく は、やっぱり涙ぐましい感じがするんだけれども、あのとき、吉岡さんがああいう小さな本を、なぜ出す気になったかというような話を聞いてみると、そういう ことが少しわかってくると思うんですよ。
 吉岡 なんだったのかし ら、それは。『液体』じゃないでしょ。
 高柳 ちがいますね。たく さんの短歌が載っている本で、たしか昭和十五年の発行だった。
 吉岡 『昏睡季節』という のがあったんですけど、それ?
 高柳 うん、それ。その本 に「手紙にかえて」という挾み込みの文章があって、出版のいきさつが書いてあった。
 吉岡 お宅にあるの? そ れはずいぶん不思議だな。(笑)(同誌、一二〜一三ページ)

吉岡は後年、随想〈わが処女詩集《液体》〉(初出は《現代詩手帖》1978年9月号)にこのことを書いている。

 現在、《昏睡季節》を所有しているのは、ほんの数人の友人だけである。そのなかの一人に高柳重信がいる。彼の言葉 によると、師 匠・富澤赤黄男の没後、その書架を整理していた時、この詩集を発見したそうである。彼は富澤未亡人に貰い受けたらしい。そのなかに、「手紙にかへて」とい う一葉が挿入されていたのである。彼はコピーして呉れた。私さえ忘れていた文章であった。

 〔……〕

 まことに恥しい文章を引用したが、次の《液体》の出版の動機も同じようなものであった。いずれも〈遺書〉のつもりだったのである。《液体》は【三十三→ 三十二】篇から、十二篇だけを一般に公表しているが、《昏睡季節》はまだ一篇も、そのような意味では活字化されていない。友人たちも信義あつく、一行とい えども引用すらしていない。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、七四〜七六ページ)

《昏睡季節》はある時期まで吉岡が触れたくない話題だった。だが、〈新しい詩への目覚め〉(初出は《現代詩手帖》1975年9月号)や 上掲〈わが処 女詩集《液体》〉あたりから吉岡の姿勢に変化が現れる。《昏睡季節》所収の詩篇を前者では5篇、後者では1篇引用しているのだ。座談会〈現代俳句=その断 面〉での高柳の発言がきっかけだろうが、《昏睡季節》こそが自身の詩的出発だったという自覚が生じたのではあるまいか。北園克衛の詩篇とともに当時の吉岡 実詩に大きな影を落としているのが、富澤赤黄男の俳句だった。

   赤黄男句私抄

  爛々と虎の眼に降る落葉    〈天の狼〉 
  寒雷や一匹の魚天を搏ち
  火口湖は日のぽつねんとみづすまし
  蜂の巣に蜜のあふれる日のおもたさ
  影はただ白き鹹湖の候鳥[わたりどり]
  瞳に古典紺々とふる牡丹雪
  蝶墜ちて大音響の結氷期
  冬の川キンキンたればふところで
  椿散るああなまぬるき昼の火事
  花粉の日 鳥は乳房をもたざりき
  海鳥は絶海を画かねばならぬ
  黴の花イスラエルからひとがくる
  幻の砲軍を曳いて馬は斃れ
  ゆく船へ蟹はかひなき手をあぐる
  蜜柑酸ゆければふるさとの酸ゆさかな
  恋びとは土龍のやうにぬれてゐる

  大地いましづかに揺れよ 油蝉    〈蛇の笛〉 
  石の上に 秋の鬼ゐて火を焚けり
  甲虫たたかへば 地の焦げくさし
  流木よ せめて南をむいて流れよ
  大露に 腹割つ切りしをとこかな
  秋天や われもかなしき侏儒[こびと]のひとり
  歯の缺けし男饒舌 一茶の忌
  やけくそに空罐[かん]を叩けば 日が没ちる
  切株はじいんじいんと ひびくなり
  男根の意識 たちまち驢馬啼き狂ひ

  満月光 液体は呼吸する    〈黙示〉 
  無名[アノニム]の空間 跳び上る 白い棒
  偶然の 蝙蝠傘が 倒れてゐる
  冬【縄→蠅】や 空[クウ]にひらいた土偶の目
  灰の 雨の 中の ヘヤピンを主張せよ
  蛇よ匍ふ 火薬庫を草深く沈め

  賑やかな骨牌[かるた]の裏面[うら]のさみしい絵    〈拾遺〉 
  雨の夜のふたりが噛る塩せんべい
  林檎は紅しいま大阪は昏れてゆく
  犬肉を啖ひわれ文芸のことは語らず
  紺碧のうつつの中の曼珠沙華
  螢掌にかりそめごとは言はずけり
  雨蛙きみ毒盃をかたむけよ
  夜鴉や愕然として灯に対す
  羽抜鳥 炎天ここにきはまりぬ

吉岡が未刊行の随想〈赤黄男句私抄〉(《富澤赤黄男全句集》栞、書肆林檎屋、1976年12月10日)で挙げた赤黄男の句である。富澤赤黄男が俳 句という形式を藉りて一行詩を書いたように、詩という形式で詩篇を書くこと――それこそが赤黄男の精神を受けつぐことだと思いさだめて、俳句から詩に転じ た吉岡の最初の著作が詩歌集《昏睡季節》(1940)であり、それをさらに押しすすめたのが詩集《液體》(1941)だった。そのことを裏書きするかのよ うに、吉岡が自ら句集を公刊することは生涯なかった。

朝は蝶の脚へ銀貨を吊す
感湿性植物の茎の内部で
釦のとれた婚礼が始まる
蝋燐寸の臭ひに微睡む空気よ
白い手套が南方に垂れ
造花に翳つてゆく倦怠
檣壁へ逆さまに体温を貼り
卓子の汚点で曇天を吸ひとる
停車場の鏡に鱗形の夢を忘れ
尖塔へ喪はれた童貞と星を飾る    (〈春〉@・1)

聖母祭の樹の下を発車する
脳髄の午睡へ沙漠をはさむ
温室で鸚鵡の金属性の嘴の
重量が遠い女の乳房に沈み
手袋に飛行機は入らぬとて
メロンの輪切うすく仰ぐと
透ける少年と犬の舌の冷い
不眠性も終らない中に舶来
の手帛でつつまれてしまう    (〈蒸発〉A・5)

赤黄男の処女句集《天の狼》の刊行は1941年8月1日で、吉岡はすでに出征していたため入手することができなかった。〈赤黄男句私 抄〉によれば、 吉岡が赤黄男の全貌を俯瞰したのは、1960年ころに高柳重信と識って《天の狼〔増補改訂版〕》(1951)と《蛇の笛》(1952)を贈られてからだと いう。それまで吉岡はどの版で赤黄男の作品を読んでいたのだろうか。私は《現代俳句集〔現代日本文學全集 91〕》(筑摩書房、1957年4月5日)の〈富澤赤黄男集〉だと思う。これは《天の狼》から184句、未刊の《風景画》から70句、《蛇の笛》から 238句の合計492句を抄したもので、編者は赤黄男自身だろう。吉岡が〈赤黄男句私抄〉で引いた《黙示》と〈拾遺〉を除く句の大半はこの〈富澤赤黄男 集〉に見える。両者を照らしてみると、初期の句ほど愛着が深く、近作になるほど淡くなっている(《黙示》は収録されていないが、その傾向はさらに顕著 だ)。《現代俳句集》刊行当時、のちの《僧侶》の詩篇を書きつつあった吉岡にとって、富澤赤黄男は永遠に《天の狼》の作者だったのである。
「素朴な俳句の読者である私には、これら抽象化の強力な作品は、俳句の枠を超えた「削殺の様式[ステイル]」の詩としか思えない。〔……〕同時代の詩人北 園克衛の詩句に非常に類似している、このリアリティを消失した俳句は私には愛せない」(〈富澤赤黄男句集《黙示》のこと〉、《「死児」という絵〔増補 版〕》、一一一ページ)。リアリティの有無――これが赤黄男の句だけでなく、広く吉岡の受容する詩歌の好悪の基準になった。リアリティが感じられないもの は、たとえ自作であっても(自作であればなおのこと)認めることができない。これが1960年代前半、《昏睡季節》の20年後の、吉岡の峻厳きわまりない 姿勢だった。それは、作品のリアリティを作品それ自体の裡に求める赤黄男の美学――晩年の《黙示》の詩学と、吉岡の求めるリアリティが火花を散らした瞬間 でもあった。ともに祖型を《天の狼》に仰ぎながら、この懸隔を赤黄男と吉岡がのちに歩んだの道の違い(句と詩)にだけ帰すことはできない。俳句型式に求め るものの違いが両者の乖離を結果したと見るべきだろう。
〈吉岡実の俳号〉で あえて書かなかったこと がある。句会で用いた俳号「四季男[しきお]」は赤黄男[かきお]の音を踏まえていまいか。《旗艦》に投稿したときの筆名「皚寧吉」は白雪皚皚を連想させ るが、放恣な想像を続けるなら、この白は「白」秋と「赤」「黄」男の向うを張ったものではないか。戦後の吉岡は、田尻春夢や椿作二郎などの旧友たちとの句 会にこそ参加したものの、句誌にはついに作品を寄せなかった。自身の俳句をすべて詩篇の中に封じたのだ。

富澤赤黄男の全句集三種――《定本・富澤赤黄男句集》(定本・富澤赤黄男句集刊行会、1965年11月1日)と《富澤赤黄男全句集》(書肆林檎屋、1976年12月10日)の本扉と現代俳句の世界16《富澤赤黄男 高屋窓秋 渡邊白泉〔朝日文庫〕》(朝日新聞社、1985年5月20日)のジャケット
富澤赤黄男の全句集三種――《定本・富澤赤黄男句集》(定本・富澤赤黄男句集刊行会、1965年11月1日)と《富澤赤黄男全 句集》(書肆 林檎屋、1976年12月10日)の本扉と現代俳句の世界16《富澤赤黄男 高屋窓秋 渡邊白泉〔朝日文庫〕》(朝日新聞社、1985年5月20日)のジャケット

吉岡実が富澤赤黄男に言及した章句を探していたら、《俳句評論》第200号終刊号〈追悼・惜別の高柳重信〉(1983年12月)に寄せ た〈高柳重信 断想〉にたしかに「戦前、『旗艦』で活躍した、私のもっとも好きな俳人、富澤赤黄男の愛弟子が重信であるのも、宿縁といえよう」(《「死児」という絵〔増 補版〕》、三一五〜三一六ページ)とあった。どうやら私は「『旗艦』でもっとも好きな俳人」と読んでいたらしい。ここは素直に「私のもっとも好きな俳人= 富澤赤黄男」と受けとるべきだった。また〈高柳重信・散らし書き〉(《現代俳句全集〔第3巻〕》立風書房、1977年11月5日)には「重信が唯一の師と 敬慕するモダニズム俳句の始祖・富澤赤黄男の全句集を、わたしはいま通読しているのだが、多行様式の俳句は、遂に一句も見出しえなかった。そのかわりに、 赤黄男は数多くの詩篇をひそかに書き残している」(同前、一一八ページ)という指摘がある。吉岡が句集出版の発起人(高柳重信ら他全30名)の一人となっ た《定本・富澤赤黄男句集》(定本・富澤赤黄男句集刊行会、1965年11月1日)の〈補注〉や〈拾遺〉をひもとくと、多行様式の俳句と詩篇(?)が掲載 されている。昭和15年の《風昏集》]には
  落日の断崖に立ち
  いまいちまいの貝殻をなげる
昭和17年5月号の《琥珀》には
  春は
  渡し舟、
  ……
  白い鷄ものつて渡る

  火を噴く山ははるかにて
  ……
  草の芽
昭和21年9月号の《太陽系》には
  春昼の
  つめたく酸ゆき果実
  かな
昭和21年10月号の《琥珀》には
  むらさきの、
  匂袋の
  十三夜。
とある。漢字(まれにふりがなを付ける)とひらがなとカタカナをべた書きした戦前の《天の狼》から/ /(一字アキ)や/――/(二倍ダーシ)を多用した 戦後の《蛇の笛》や《黙示》に至る赤黄男句の表記の変遷は、《静物》の節制禁欲から《ムーンドロップ》の繚乱放恣に至る吉岡実詩の表記のそれと機を一にし ているようで、こうした面にも注目しないわけにはゆかない。


吉岡実と西東三鬼(2016年6月30日)

吉岡実が西東三鬼に触れて最も痛切な文章は、三鬼が亡くなった1962年4月に先立つ同年1月号の《俳句》に寄せた書評〈富澤赤黄男句集《黙示》のこと〉 の冒頭の一節である。
 大岡信から西東三鬼と富澤赤黄男の両氏が大病だといわれた時、私はたいへんな衝撃をうけた。敬愛するこの二人の創 造活動が一時 なりにも停止し、また再起できないようであったら、俳句界のためというより、むしろ私のために痛恨事である。久しい間、私は両氏の近業をまとめて読むこと を切望していたから。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一〇九ページ)

三鬼生前最後の句集《変身》は同年2月、角川書店から刊行された。もし《変身》が上掲文の執筆前に出ていれば、赤黄男の《黙示》ととも に必ずや鑑賞 の対象となっただろう。吉岡に本格的な三鬼論がないだけに、かえすがえすも惜しまれる。それというのも、子規以降の俳人を縦横に語った座談会――飯田龍 太・大岡信・高柳重信・吉岡実〈現代俳句を語る〉――でも、三鬼の句は「水枕ガバリと寒い海がある」が登場するだけだからである。座談会の〈「白い夏野」 の意味〉の一節に見える同句の前後を《鑑賞現代俳句全集〔第10巻〕戦後俳人集T》(立風書房、1981年1月20日、月報\)から引く。

吉岡  ちょっと訊くけど、高屋窓秋の「頭の中で白い夏野となつてゐる」の句が、俳句では一つのモダニズムといっちゃ悪いけど、それの一つの原点なの?
高柳 それまで、こうい う句はなかったんですね。
吉岡 高屋窓秋というの は詩を読んでいなかったのかしら。たとえば安西冬衞だとか……。
高柳 読んでいたと思い ますよ。
吉岡 ほかのそういう影 響をひょっとしたら受けているんじゃないかな。ぼくはその作品は俳句として際立っているけど、詩の一行とした場合、竹中郁もあるし、安西冬衞もあるんだ よ。だから窓秋なんかはむしろ
   山鳩よ見れば回りに雪が降る
 ああいうのがぼくは絶品だと思うんだよ。
高柳 まもなく、そうい う句を書くようになりましたね。
吉岡 窓秋は相当に詩を 読んでいたんじゃないかなという感じするんだけどな。
高柳 そういう作品を書 いたときの窓秋さんは、二十一か二でしょう。
飯田 その問題がいま俳 壇でいちばんわからないところ。詩と俳句とのかかわり。
高柳  新興俳句系の俳人で良心的な勉強家は、それなりに詩集や詩の雑誌を読んでいたと思います。ただ、これはぼくの体験でもありますが、いわゆる詩論の形では、 なかなか肝腎なところが呑みこめ ないのです。言葉の問題を言葉で説いているからです。そこで美術雑誌などを手にして美術論の形で読むと、わりあいに納得がいくんですね。だから、篠原鳳作 の日記などを読むと、「少なくとも一ケ月に一冊は美術雑誌を読むこと」と書いてある。とにかく新しい文芸思潮を身につけようと努力はしているのです。
大岡 初々しいねえ。 (笑)
高柳  いずれにせよ、そこでようやく日常次元から独立した言葉の世界へ一歩を踏み出そうとするわけです。窓秋の「白い夏野」は、その第一作ということに意義があ る。それを現代詩では二十年も三十年も前から知っていると言われても、とにかく第一歩を踏み出さなければ、さらに四十年も五十年も置きざりになる。涙ぐま しい門出なんです。
大岡 その場合、最初に 俳句型式ありというのが絶対の前提なんだよね。とにかくそれを俳句型式の中でやりたいんだ。そういうことだと思うの。
吉岡 高屋窓秋がそれを やっている……。
大岡 とにかく誰が最初 にやるかということが重要になってくる。
吉岡 西東三鬼の例の
   水枕ガバリと寒い海がある
 これなんか澁澤龍彦にこてんぱにやられたんだ。こんなのがなんで名句だなんて言うけど、歴史的な価値ですね。
大岡 歴史的な意味の問 題。
吉岡 あれは歴史的に名 句なんだな。どうということないんだけど。(同月報、三〜四ページ)

澁澤龍彦は〈吉岡実の断章〉――この「断章」という形式が吉岡の随想のひとつのスタイルである――でこう書いている。「水枕ガバリと寒 い海がある   三鬼//かつて拙宅で酒を飲んでいるとき、私が右の名高い三鬼の句を、「オノマトペと比喩が通俗でだめだ」と徹底的に否定し、それに対して加藤郁乎と吉 岡さんが三鬼を擁護して、いつ果てるともなく議論したことがあった。そのうち、私たちは例によって泥酔して(もっとも、吉岡さんは飲まないけれども)、議 論の最終的な結着を見るにはいたらなかったが、私は今でも、その時の意見を撤回する気はさらさらないのである」(《ユリイカ》1973年9月号、六九ペー ジ)。確かに安西冬衞の詩篇の荘重な暗喩に親しんだ澁澤にとって、「水枕」「ガバリと」「寒い海」はいかにも軽く映っただろう。だが、俳句の歴史という文 脈に置いたとき、一句はやはり偉とするに足る。自身、歯科医師でもあった三鬼以前に、病床の己をこのように見すえた句は存在しなかったのではないか。そし てこの句を含む第一句集《旗》(三省堂、1940)や第二句集《夜の桃》(七洋社、1948)は、吉岡の作品と多くのものを共有する。ただしそれは、吉岡 の初期の俳句と、というよりも、吉岡の中期の詩篇と、といったほうがいっそう正確なのだが。

・松の花柩車の金の暮れのこる〔《旗》〕――凩や柩車の曲る街はづれ〔《奴草》〕

・ 黒人の掌[て]の桃色にクリスマス〔《夜の桃》〕――四階に住んでいる/画家と犬はなんだろう?/白塗りの星条旗の下で/叩かれている犬/写真に撮られる べく/ハンバーグを食う/タライのなかの黒人〔マクロコスモス(F・1)〕

・ 白馬を少女瀆れて下りにけむ〔《旗》〕――紅血の少女は大きな西瓜をまたぎ〔聖少女(F・10)初出形〕

・ 木枯や馬の大きな眼に涙〔《夜の桃》〕――わが馬ニコルスの水色の大きな瞳孔の/ふたたびまばたくまで/潜在的世界には/犯罪的な言葉が屹立する〔わが馬 ニコルスの思い出(F・16)〕

・ 昇降機しづかに雷の夜を昇る〔《旗》〕――高層温室で眠るべくエレベーターで昇る/みにくい花嫁花婿/同時にブドウが熟れる/まず大切なのは水の飲み方/ 船の帆を墨染にする/海の上のコレラに罹らぬために/裸になって蝶のように/ゼンマイの口でしずしず水を吸うんだよ!〔コレラ(F・18)〕

・ 緑蔭に三人の老婆わらへりき〔《旗》〕――ドジソン家の姉妹ルイザ マーガレット ヘンリエッタ 緑蔭へ走りこむ馬 読書をつづける盛装の三人 見よ寝巻 のなかは巻貝三個〔ルイス・キャロルを探す方法(G・11)――〈少女伝説〉〕

・海から誕生光る水着に肉つまり〔《変身》〕――ひとりの女が悪い想像からうまれるように/塩と水からタコは出現したのだ/漆黒の抽象絵画/砂は砂によっ て埋まり/貝は内部で生きる/それは過去のことかも知れない/夏の沖から泳ぐ女がくる〔タコ(G・2)〕――「この夏もある海岸で/黄色い海水着をきる/ 娘」〔この世の夏(H・24)〕

吉岡が永田耕衣句集《吹毛集》(近藤書店、1955)以前に西東三鬼句を読んでいたことは確かだが、その初めはいつなのか。残念ながらそれを記した文章は 見あたらない。1940年前後、すなわち吉岡が《旗艦》の富澤赤黄男の句に惹かれたころに、新興俳句の作家として三鬼の存在を知った可能性は充分にある。 《旗》刊行時に購読していれば、三鬼に触れた文章や談話に出て来そうなものだ。断言はできないが、戦前は句集の形では読んでいないのかもしれない。そんな ことをあれこれ考えるのも、吉岡が《旗艦》に投じた句はともかく、稿本詩集《赤鴉》(弧木洞、2002年5月31日)に収められた同時期の句稿〈奴草〉の 句が、赤黄男よりも三鬼に近いと感じられるからだ。吉岡実句集《奴草》(書肆山田、2003年4月15日)から引く。

 赤貝のひらく昼なり雨遠し〔〈奴草〉〕
 蛤の砂吐く夜の寝ぐるしき
 虹とほく眸を蜂のよぎりゆく
 夕立のあとに時計の音のこり
 雪ぞらや樽に落ゆく魚の首
 月の道足からつづく人の影
 寒月やさかしまにゆく人の影
    *
 フリイジヤ少年たばこ吸い初めぬ〔拾遺〕
 微熱あるひとのくちびるアマリリス
 ゆく春や白く灯りし聖母像

飯田善國著《見えない彫刻》出版記念時の芳名帖(1977年)の西脇順三郎・吉岡実・飯島耕一の墨跡
飯田善國著《見えない彫刻》出版記念時の芳名帖(1977年)の西脇順三郎・吉岡実・飯島耕一の墨跡
出典:夏目書房「飯田善国他芳名帖/西脇順三郎/吉岡実/飯島耕一/吉増剛造/井上輝夫/海藤日出男/橋元ヒロ子/飯田
国 他<<古書 古本 買取 神田神保町・池袋」

川名大は《現代俳句 上〔ちくま学芸文庫〕》(筑摩書房、2001年5月9日)の〈西東三鬼〉で、その作風をこう解説している。「西東三鬼の作品活動は昭和十年代の新興俳句運 動を通して無季俳句の可能性を追求した時期と、戦後、山口誓子[せいし]の「天狼[てんろう]」同人として自ら進んで誓子と行動を共にした時期とに大きく 二分される。昭和十五年八月に「京大俳句」弾圧事件で検挙されて以後、戦中に沈黙を余儀なくされた時期を隔てて、無季俳句から伝統的な有季俳句への転向が あったわけであるが、それは単なる季語の有無という形式上の問題ではなく、詩法上の大きな転換であった。したがって三鬼俳句の評価は戦前を是とする者と、 戦後を是とする者とに分かれている」(同書、二六三ページ)。吉岡は戦前と戦後の三鬼俳句のどちらを是としたであろうか。先に引いた中期吉岡実詩を顧る に、やはり戦前の句に愛着があったのではないだろうか。ちなみに前掲吉岡実中期の詩篇は、三鬼の歿後に書かれている。

 よく遊べ月下出でゆく若衆猫〔《変身》〕
 沖に船氷菓舐め取る舌の先
 鳶の輪の上に鳶の輪冬に倦く
    *
 禁断の書[ふみ]よセードの緑光に〔拾遺〕
 リアリズムとは何ぞ葡萄酸つぱけれ

〔付記〕
通雅彦は《円環と卵形――吉岡実ノート》(思潮社、1975年6月15日、初出:《後継者たち》10〜23号〔1966年6月 〜1969年5月〕の〈吉岡実に対するノート〉)の〈第三章 円環――俳句〉で西東三鬼の句を論じている。通はそこで《旗》の昭和十一年の〈三章〉の全句 「小脳を冷やし小さき魚をみる」「水枕ガバリと寒い海がある」「不眠症魚は遠い海にゐる」を挙げて、「〔……〕この一句〔「小脳を冷やし小さき魚をみ る」〕に三鬼現実の種々なリアリティーが、言語の実質放映、言語そのものを扇形の焦点とした、影の沃野を体感させるのであり、それがため一見単純に見える この一句に、全人的なものが、もろにぶち込まれて、うようよと、わずか十七文字の間隙に動めいているのがくみとれて来る」(同書、五四ページ)と書いてい る(通は〈第四章 放射――現代俳句〉でも三鬼の句を論じているが、その行文は晦渋を極める)。一体に通のこの本は、吉岡実詩の特質を「円環」と「卵形」 と捉え、膨大な「ノート」を積みあげているのだが、上掲文からもわかるように、たとえば三鬼(の句)と吉岡(の詩)がどう切り結ぶかについてはいっこうに 分明ではない。せっかく「滅びつつピアノ鳴る家蟹赤し」「蟹と居て宙に切れたる虹仰ぐ」「雲立てり水に死にゐて蟹赤し」(《今日》)や、ほか三句といった 三鬼作品を九句も引いているのだから、吉岡実詩とそれらがどう関係するのか訊きたいと思うのは私だけではないだろう。私は「小脳を冷やし小さき魚をみる」 を次のように読む。この句は「水枕ガバリと寒い海がある」の直前に置かれており、その先駆的なヴァリエーションである。「小脳を〔水枕で〕冷やし、私は 〔大脳の肥大した人間に較べて〕小脳がいきいきと運動系をつかさどる小魚の有する視覚が乗りうつったかのように、寒い海を游ぎまわる」――そのように深読 みしてはじめて、吉岡の溺死への願望/恐怖と、三鬼の句とのかかわりを設定しうるだろう。「不眠症魚は遠い海にゐる」は〈静物〉(B・2)を想わせる処が あるものの、俳句としては「水枕」や「小脳を」に及ばない。そしてまた「蟹」三句やほか三句が〈三章〉を超えることもない。


吉岡実と石田波郷(2016年5月31日)

吉岡実が石田波郷の人と俳句に触れた文章をめぐって、かつて私は〈吉 岡実散文の骨法〉を書いた。そこでは吉岡が引いた波郷の「女来と帶纒き出づる百日紅」を掲げただけだったが、随想集《「死児」という 絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)では、掲句のほかに

 英霊車去りたる街に懐手〔《鶴の眼》〕
 バスを待ち大路の春をうたがはず〔《鶴の眼》〕
 朝顔の紺の彼方の月日かな〔《風切》〕

の3句が引かれている。《風切》の「女来と」を含めて、愛吟句といってよいだろう。《鶴の眼》(沙羅書店、1939)、《風切》(一条書房、 1943)と、いずれも波郷初期の句集である。ここで波郷の句集を《石田波郷全集〔第一巻〕俳句T》(角川書店、1970年11月30日)の村山古郷〈解 題〉(同書、二九〇〜二九一ページ参照)で概観しておこう。

 @石田波郷句集(沙羅書店、1935年11月25日)
 A鶴の眼(沙羅書店、1939年8月25日)
 B行人裡(三省堂、1940年3月25日)
 C大足(甲鳥書林、1941年4月20日)
 D風切(一条書房、1943年5月5日)
 E病鴈(壺俳句会、1946年11月20日)
 F風切 再刻版(臼井書房、1947年5月25日)
 G風切以後(山王書房、1947年12月15日)
 H雨覆(七洋社、1948年3月25日)
 I胸形変(松尾書房、1949年11月15日)
 J惜命(作品社、1950年6月15日)
 K臥像(新甲鳥、1954年5月20日)
 L定稿惜命(琅玕洞、1955年5月20日)
 M春嵐(琅玕洞、1957年3月)
 N酒中花(東京美術、1968年4月15日)
 O酒中花以後(東京美術、1970年5月26日)


吉岡は波郷の句業全体を総括した文章を本に収めなかったが、前掲〈吉岡実散文の骨法〉でその全文を引いた〈鑑賞・石田波郷の一句〉には「私が波郷の句を愛 惜するようになつたのは、戦後である。/全詩業をみわたすとき『惜命』一巻が絶唱だと思う」(《俳句》1970年11月号〈石田波郷特集(全集発刊記 念)〉、六一ページ)とある。また、座談会――飯田龍太・大岡信・高柳重信・吉岡実の連載座談会〈現代俳句を語る〉(《鑑賞現代俳句全集〔第11巻〕戦後 俳人集U》立風書房・月報X、1981年2月20日)――では次のように語っている。

波郷について

吉岡 草田男は波郷を超 すと、龍太さんは買っているわけですね。ぼくは草田男、好きですよ。ただ俳句というものは宿命があると思うの。波郷のいわゆる泣かせるところで、ある点は とどまっちゃうと思うのね。
飯田 冷たいな、吉岡さ んは。(笑)
吉岡 草田男、もちろん 好きよ。大胆で……。ただ、波郷は早く死んだのね。草田男がこれで八十歳ぐらいになっちゃうと、絶対損すると思うよ。波郷のあの薄幸の生涯と、あの泣かせ る俳句のほうが強いんじゃないかと……。
大岡  ぼくも波郷を好きだったんですけど、このごろ感じているのは、波郷さんの句には、こちらでかなり補わないと一本でピーンと立ってこないところがあるんじゃ ないかということを感じているんです。それはあの人が俳句は文学ではないとか、そういう言い方で言っていることとも照応するわけで、言ってみれば、中村草 田男の句はやっぱり文学ですよ。その違いのような気がするのね。波郷さんの句は好きなんだが、どうもピンとこないものがある。
高柳  好き嫌いで言えば、ぼくも波郷が好きなんです。独特な情感があります。敗戦直後、その波郷の『胸形変』という闘病俳句が評判になったとき、やはり病気で死 にかけていたぼくは、それに挑戦しました。波郷俳句は病床日誌のようなものと照らしあわせて初めてよくわかるんで、完全に独立した言語世界にはなっていな い。そういう日常の事実にもたれかからぬ作品を目指して、それが『蕗子』になった。だが、俳人たちが実際に作品を読む平均的な力からすると、あまり厳密に 言葉の世界へ突き進んだものは馴染めないようで、むしろ波郷のように情緒的な曖昧さのある句が歓迎される。厳密に 言えば波郷俳句の「てにをは」は少しあやふやで、かなり有名な句にも大岡さんの言うようになにかを補わないと読めないものがあります。
吉岡  それはわかる。だからぼくが現在、波郷を最高に買っているんじゃなくて、それは冷たいと言われたけど、泣かせる俳句で終わるんじゃないかと、どうも思っ ちゃうのよ。新しいもの出ているよ。即物も結局、龍太さんがやっぱり素十にきたと言っているんでしょう。誓子の即物じゃなくて。だからそういう意味で、ぼ くは思っちゃうの、ひょっとしたら波郷が末永く愛されるというふうに。(笑)
大岡 すると君が波郷の 句であげるのはどういう句かな。
   霜の墓抱き起こされし時みたり〔《惜命》〕
飯田 だいぶ厳しくなっ てきたな。
大岡 あの句もなかなか むずかしい句なんだよね。なんだっけ、鵙の句……。
吉岡 たばしるや鵙叫喚 す胸形変〔《惜命》〕
大岡 ああいうあたりか ね、やっぱり。
吉岡 麻薬うてば十三夜 月遁走す〔《惜命》〕
とか、いまになると、多少彼の意気ごみとこっちの鑑賞は違うけどね。
   朝顔の紺の彼方の月日かな〔《風切》〕
 こういうのは永遠に生きのびていく感じするのよね。
高柳 波郷は「俳句は切 字ひびきけり」だから、「あ・うん」というかたちで作者から読者へなにか響けばいいんで、それが魅力です。まあ吉岡さんは俳人でないから俳句を外から楽し んでいればいい立場で。(笑)
吉岡  いや、そんな失礼なことはないのよ。いまだって若い人の俳句も読むから、俳句は好きだし。だけど、日本の詩の中で中原中也というのがいま抜群の人気でしょ う。大岡はどうか知らんけど、ぼくなんか中也って全然好きじゃない人。だけど、世の中の移り変り……これは仕方のないことであって、中也がいま最高の人気 ですよね。いかなる故にかわからないけれど、読み継がれていくんですね。だからそれに近く波郷はいくんではないかと……。
高柳  俳人として実際に俳句を作る側は、かなり無理を承知で無理をしますね。だから、たいていは妙なことになる。でも新しく俳句形式に富をもたらすためには、そ の無理をしないわけにはいかない。草田男も、その無理をした一人でしょう。しかし、波郷は俳句を破壊することを恐れた。とにかくあまり長生きをすると駄目 になりますね。(笑)
吉岡 いや、それは詩人 もそうだよ。
大岡 あそこまで生きて すごいのは、高濱虚子だけだよ。アハハハ。(同月報、四〜五ページ)

座談会などの談話の常で、吉岡発言の要旨はたどりにくいが、書き言葉ふうにまとめてみれば次のようになるだろうか。

 飯田龍太によれば、同じ「人間探求派」でも中村草田男は石田波郷を超えるとのことだが、私も草田男は好きだ。とりわけその大胆な ところが。ただ、俳句には俳句の宿命があって、波郷の「泣かせるところ」でとどまっってしまうのではないか。波郷は早くに死んだが、草田男が長命で八十歳 ぐらいになると絶対に損をする。波郷の薄幸の生涯と泣かせる俳句のほうが強いのではないか。
 たしかに大岡信や高柳重信が指摘するように、独立した言語世界にはなっていない作品、日常の事実にもたれかかった作品、なにかを補わないと読めないもの が波郷の俳句にはある。だから、波郷を最も高く買っているわけではなく、どうしても泣かせる俳句で終わるように思える。だが、それゆえに波郷の句は末永く 愛されるのだろう。
  霜の墓抱き起こされし時みたり〔《惜命》〕
  たばしるや鵙叫喚す胸形変〔同〕
  麻薬うてば十三夜月遁走す〔同〕
 こうした句は、今日では波郷の意気ごみほどには深く鑑賞することができない。しかし、
  朝顔の紺の彼方の月日かな〔《風切》〕
は永遠に生きのびていく感じする。ところで、いま日本の詩では中原中也が抜群の人気である。私は中也の詩は全く好きではないが、世の中の移り変りは仕方の ないことで、いかなる理由かはわからないが、読み継がれていく。波郷もそれに近いのではないか。
 高柳重信は、俳人はあまり長生きをすると駄目になると言うが、なにもそれは俳人に限らない。詩人にしても同じことだ。

ここで吉岡の波郷への言及を《「死児」という絵〔増補版〕》から引いてみよう。経過がわかりやすいよう、初出の発表順に番号を付けて並 べる。

@少年時代から好きだった俳句にいまだ大変愛情をもっている。虚子、茅舎、誓子、赤黄男、三鬼、楸邨、草田男、波郷 から前衛俳句 の加藤郁乎までたえず読んでいる。むしろ読まずにいられないのである。こころの一つの慰めといえようか。とりわけ、神戸隠棲の永田耕衣を逸するわけにはい かない。十三、四年前、偶然読んだ句集『吹毛集』一巻で、未知のこの俳人が一挙にわたしに親しい人となった。根源的というか、人間絶景説を唱える独自独往 の耕衣の俳句は、恐らく一つの極点と思われる。乱雑な読書遍歴が一つの比類ない個性との出会いを導いてくれたともいえるであろう。――〈読書遍歴〉(初 出:《週刊読書人》1968年4月8日)

Aある日、出入りの本屋さんが一冊の本を持ってきた。それが永田耕衣句集『吹毛集』であった。私にとって、それは未知の俳人であったが『吹毛集』という題 名が気に入った。私は読みながら驚嘆した。誓子、波郷、草城、三鬼というこれまでに読んできた俳人とまったく異質の鮮烈な個性を放つ作家を発見したから だ。――〈永田耕衣との出会い〉(初出:《銀花》第7号、1971年9月30日)

B〈3 波郷の三句〉――〈回想の俳句〉(初出:《朝日新聞》1976年7月18日)

Cわたしはいま、「友はみな征けりとおもふ懐手」のあとに、石田波郷の一句を置きたいという誘惑にかられる。――〈高柳重信・散らし書き〉(初出:《現代 俳句全集〔第三巻〕》立風書房、1977年11月5日)

D戦後になって、私は萩原朔太郎の詩を読み、西脇順三郎の詩を解し、新しい詩の世界の魔力にとりつかれてしまった。また一方では、斎藤茂吉の短歌と高浜虚 子の俳句にも魅了されていたのだった。それらの影響によって、土屋文明、宮柊二らの短歌を読み、山口誓子、石田波郷らの俳句を読んでいる。私は今も、声調 と韻律のすぐれた二つの定形詩を、漫然と愛好しているのに、すぎないのだ。だからとても解釈とか鑑賞を行うことは、その任ではないゆえ、ここに四人の歌人 の作品を選んで、掲げるだけである。――〈孤独の歌――私の愛誦する四人の歌人〉(初出:《短歌の本〔第一巻〕短歌の鑑賞》筑摩書房、1979年10月 20日)

Eいずれも諧謔味があふれ、従来から読んできた、秋桜子や誓子それから波郷らの端麗な俳句とは、趣を異にしている。私はたちまち耕衣俳句に魅せられてし まった。ことに「天心にして脇見せり春の雁」が好きだ。ここでは時間・空間が一瞬うごきを止め、うしろを振り向く雁の姿のみが悠然と見える。私はある随筆 の末尾をこの一句で飾ったのを、いま思い出した。しかし、私がもっとも愛着するのは、連作〈鯰笑図〉七句である。――〈耕衣秀句抄〉(初出:《俳句の本 〔第一巻〕俳句の鑑賞》筑摩書房、1980年4月8日)

これらを要するに、1955年10月に初めて触れた永田耕衣以前に親しんでいた俳人の代表が山口誓子であり石田波郷だった、という構図 になる。それ では「私が波郷の句を愛惜するようになつたのは、戦後である。/全詩業をみわたすとき『惜命』一巻が絶唱だと思う」という評価はどこから生まれたのだろ う。言い換えれば、吉岡はどの版で波郷の句を読んだ(読みなおした)のだろう。

 《石田波郷句集〔角川文庫〕》(角川書店、1952年3月15日)
 《定本石田波郷全句集》(創元社、1954年4月30日)
 《波郷自選句集〔新潮文庫〕》(新潮社、1957年10月5日)


これらのいずれかだろうが、《石田波郷句集〔角川文庫〕》がそれのような気がする。本書には《鶴の眼》(1)、 《風切》(2)、《病雁》(3)、《雨 覆》(4)、 《惜命》(5)の5 句集、総句数1525句が収められている。のちに《静物》(私家版、1955)となる詩篇を書いていた時期――耕衣の句に出会う直前――の吉岡は、《鶴の 眼》の「昇降機菊もたらせし友と乗る」の〈馬酔木発行所 五句〉などを懐かしく読むとともに、「雁や残るものみな美しき」「秋の夜の憤ろしき何々ぞ」(《病雁》)、「束の間や寒雲燃えて金焦土」(《雨覆》)、 「砂町は冬木だになし死に得んや」「横光忌黙契いよゝ頑に」「雪はしづかにゆたかにはやし屍室」「寒夜水飲めばこの最小の慾望よ」(《惜命》)といった句 のもっている私性、というよりも作者の生に打たれたのではあるまいか。私はこれらの句のあとに、「わたしが水死人であり/ひとつの個の/くずれてゆく時間 の袋であるということを/今だれが確証するだろう」と始まる〈挽歌〉(B・12)を置きたいという誘惑にかられる。
一方、出征前の(すなわち神田・淡路町の出版社に勤めていて、生身の俳人をかいま見ていたころの)吉岡は、波郷が《鶴の眼》で描いた世界に近しかった。 〈鑑賞・石田波郷の一句〉で「すでに波郷は俳壇の輝ける星であつた。私は波郷へ近づくことをしなかつた。愛しながら俳句を捨て、私はひそかに超現実風な詩 作を試みつつあつたから。/それらはあとで、詩集『液体』になるはずであつた」(前掲《俳句》)と記したが、俳句を書くことこそ諦めたものの、「超現実風 な詩作」であるはずの《液體》は思いのほか「プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ」「あえかなる薔薇撰りをれば春の雷」の《鶴の眼》の抒情に通じている。北 園克衛ふうの語法にさえ惑わされなければ、それは容易に見てとれるだろう。
さて、吉岡実詩最大の屈折点は第二詩集《液體》(草蝉舎、1941)と第三詩集《静物》(私家版、1955)の間に存在する。その背景をなしているのは、 1941年から45年にかけて兵隊として戦場に駆りだされたことと、わが国がその戦いに敗れたことである。吉岡より25歳年長の西脇順三郎にとっても、戦 争の影響は大きかった。日本語による西脇の第一詩集《Ambarvalia》(椎の木社、1933)と第二詩集《旅人かへらず》(東京出版、1947)の 間には屈折点がある。だが、屈折後の西脇にとっては過去の自身の語法の否定だったものが、吉岡には自己の存在の否定につながりかねない危機だったという点 において、その角度はいっそう大きなものだった(ふたりにとって詩集のインターバルはともに14年だったが、西脇の屈折は戦中に、吉岡の屈折は戦後に訪れ た)。その危機を把握するのに際して、戦後、病を得て死線をさまよった波郷の句が、その生が吉岡の前に大きく立ちはだかったのではないだろうか(波郷は 1944年3月、華北で胸膜炎を発病)。《旅人かへらず》は吉岡の詩語を覚醒させたが、戦後の波郷の句は吉岡の生を奮いたたせた(6)。 その経験が吉岡をして生涯、俳句とつきあわせる要因のひとつとなった。私は次の波郷句を〈静物〉の傍に置きながら、そう考える。

 白桃や心かたむく夜の方〔《雨覆》〕

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村山古郷の〈解題〉によれば、《石田 波郷句集〔角川文庫〕》は「『鶴の眼』 『風切』の初版本は四季別であったが、本書では作句年代順に編成し直し、各作句年代を記入している。他の三句集はすべて作句年代順編集であるから、本書は 全巻作句年代順という点に特色がある。/〔……〕、収録句には、初版本と比して、かなり改訂の手が加えられている。/巻首に波郷の写真、巻末に山本健吉の 「解説」、波郷の「年譜」が附けられている」(《石田波郷全集〔第二巻〕俳句U》角川書店、1971年2月27日、三七九ページ)である。
(1)《鶴の眼》:初刊本より20句 を削除、96句を増補して339句を収め、初版本の四季分類を作句年代順に改めている。
(2)《風切》
初 版本が四季分類であるのを年代順四季別に改め、77句削除、34句加えて275句収録。
(3)《病雁》
分 類は初版本と同様であるが、合計28句を削除し、28句を増補して、111句の収録句数は初版本と同数。
(4)《雨覆》
初 版本が冬春夏秋の順で四季別であるのを解体し、作句年代順に改め「樋遣川村」「焦土」「予後」「野分中」の4篇に分け、句数は14句を削除して17句増 補、初版本より3句増の276句。
(5)《惜命》
初 版本(総句数506句)の21句を削除して新たに39句を加え、524句を収める。

(6)清瀬の療養所で波郷と 同じ病棟にいた結城昌治は〈波郷さんと私〉で《惜命》について次のように書いている。「波郷さんは愚痴をこぼさない人だった。怒ることはあったが、嘆言は 決して口にしなかった。そして恐らく、辛いとき悲しいときは俳句に一念を凝らしていた。病苦があり貧苦があったが、そこには句作三昧の毎日もあった。「惜 命」一巻はその当然の成果であろう。枕元に手帳を置いて、消燈後の暗がりの中でも鉛筆を走らせていることが珍しくなかった。私は波郷俳句の魅力に取憑かれ て一時は句作に熱中し、やがて不肖のまま俳句から遠去かった者だが、その一因には石田波郷を越えられなかったら無意味だと思ったせいがある。これは石田波 郷という人物と俳句に身近に触れてしまった不幸とも言えるし、あるいは僥幸だったとも考えられる。とにかく、波郷さんは「俳句の弔鐘はおれが撞いてやる」 と言われたそうだが、確かにその自負を成し遂げたと私は思っている」(《石田波郷全集〔第一巻〕》月報第1号、四ページ)。波郷の身近にいて作句から離れ たのは吉岡実だけではなかった。


俳人の作歌(2016年4月30日)

吉岡実の未刊の散文に〈忘れ得ぬ一俳人の一首〉がある。初出は大野誠夫・馬場あき子・佐佐木幸綱編《短歌のすすめ――現代に生きる不滅 の民衆詩〔有 斐閣選書〕》(有斐閣、1975年8月10日)。その〈私の愛誦歌〉というコーナーに発表されている。同文の前半は、例によって詩人である自分と短歌との 関わりを一筆書きしたもので、こんなぐあいだ。

 私には一冊の歌集がある。それは、私の晩婚を祝ってくれた先輩・知友へ記念として配った文庫判【十六→二十八】頁 の小冊子であ る。これを造ってくれたのが、今は故き伊達得夫であったのも懐しい思い出だ。題名は《魚藍》で、短歌四十五首、旋頭歌二首を収めてある。いずれも十代後半 から二十歳ごろまでの、稚拙なものばかりである。
  夜の駅の時計の針のうごくのをふとみしあとのあはきかなしみ
  秋ひらく詩集の余白夜ふかみ蟻のあしおとふとききにけり
  横禿の男が笊で売りあるく青き蜜柑に日の暮れそめぬ
 少年の頃から、いろいろと短歌や俳句の本を読み耽っていたものだ。ことに俳句のほうは十人ほどの仲間とで、吟行や句会をやって勉強したが、短歌は独習し たにすぎない。その頃もっとも愛読した北原白秋の影響を受けている。ほかには、啄木、夕暮、牧水、千樫の歌を読み、それから前川佐美雄へと移り、やがて詩 の世界へ入っていったのである。
 私には、改造文庫の《朝の螢》を所持していた記憶があるのだから、当然茂吉の歌にふれたと思うのだが、深い関心を示さなかったらしい。(同書、二七三〜 二七四ページ)

吉岡の随想に親しんできた者にとって、目新しいことが書かれているわけではない。ここで注目すべきは、歌集《魚藍》から何を選ぶかだろ う(「横禿 の……」は大岡信が吉岡との対談で褒めているように、のちの詩人吉岡実を先取りした作で、本人も気に入っていた一首)。いずれにしても、実作を示しての自 己紹介といったところである。主題の「忘れ得ぬ一俳人の一首」は後半で展開される。

 私の心のなかに、不思議にも一首の歌がきざまれている。それは、
  こころみにここにおきみてわすれけんさだめのみかみなくなくとむる
 これは私たちの俳句の指導をしてくれた、田尻春夢の唯一の短歌である。冬の夜道を歩きながら、彼が私に囁くように聞かせてくれたこの一首が、三十年以上 経った今でも、ときどき私の口をつい【で→て】出てくるのだ。
  春夢は「走馬燈かたへは海の真の闇」の辞世の一句を最後に、亡き妻を追って入水自殺をしてしまった。春夢の親友の俳人椿作二郎が遺稿句集《走馬燈》一巻を 編んでいるが、その彼の言葉によると、短歌、自由詩、随想、日記類一切を焼却して、なにひとつ残さなかったとのことである。それ故、この一首も知らないと のこと。はたして、これは誰の歌なのであろうか。春夢の歌か――それとも私の歌なのか――、ともあれ、私の青春時代の大切な一首である。(同書、二七四 ページ)

秋艸道人会津八一ばりの総ひらがな書きは、田尻春夢が口伝えで歌を披露したためで、仮にこれを漢字を交えて表記するなら

  試みに此処に置き見て忘れけん定めの御神泣く泣く【尋む/求む/覓む】【止む/留む/停む】る

と、「とむ」(マ行下二段活用)が二義にわたるか。どちらにしても、「こころみに」「ここに」「みかみ」「なくなく」といった音が呪文 めいて響く歌 の意味をたどることは難しい。とりわけ「定めの御神」が難物である。運命の神、などとしてはこの混沌とした行文を捉えそこなうように思う。

吉岡実の俳句については、四季男・皚寧吉という俳号を中心に書いたことがある(〈吉岡実の俳号〉)。 そこでは触れることができなかったが、吉岡には〈俳句との出会い〉を語った重要な座談会がある。《馬酔木》の水原秋桜子の門流として登場した戦後派俳人、 藤田湘子が主宰する俳誌《鷹》1972年10月号掲載の〈現代俳句=その断面〉がそれである。吉岡が随想に書いた話題も多いが、田尻春夢のことを率直に 語っている貴重な談話なので、煩を厭わずに引く。

 藤田  きょうは詩人の吉岡〔実〕さん、歌人の佐佐木〔幸綱〕さん、それに俳壇から金子〔兜太〕、高柳〔重信〕のお二人においでいただきました。それぞれのジャン ルで活躍している方ばかりですが、はじめに、どんなふうにして言語表現とかかわり合うようになったのか、形式との出会いといいますか、できれば俳句との出 会い、そのへんのところを、すこしお話ねがえませんか。
 高柳 〔……〕
 吉岡  〔……〕/どういう俳句体験かな、詩的体験というのがわかんないんだけど、やっぱりぼくなんか、一人の人の出会いということがあると思うんですよ。それは 本所駒形の二軒長屋にいてそのとき十二、三かな……。そこが差配の家を建てるために、差配の家と交換することになったんですよ。差配の家というのは厩橋に あって、差配がいうには、自分のとこの上に下宿人を置いている、交換するけど、しかし、その下宿人をそのまんま置いてほしいという条件があって、交換した わけです。そこに佐藤春陵という、あとで書家になった人ですけど、筆耕というのか、図版とか地図、広告のチラシの下書きとかやって、細々と暮らしてたわけ よね。その人が文学青年だった、盛岡の人なんだけど。それでぼくは外で遊ぶけど、昼間つまんなくなると彼のとこへ行く。すると彼が本を読んでくれたり、俳 句、短歌の手ほどきをしてくれた。夜なんか、しずかにゴーリキーの『どん底』を読んでくれたりなんかした。それでぼくも俳句や、短歌を、同時につくったわ け。そのときの手本というのが啄木、牧水、千樫の歌集でどれも改造文庫だった。そして、一番愛読したのが白秋の『花樫』だよ。今でもぼろぼろになっている のを持っているんだよ。それから前田夕暮の『原生林』かなァ……。そういうのを【借→貸】してくれて、それを夢中で読んだから、俳句より歌のほうが先だっ たような気がしますねェ、ぼくは。で、その人も好きだったし、ぼく自身が蕪村というのが好き…なんか目に見えるようなのね、非常にはいりいいわけね。だか らぼくに とって、芭蕉というのは非常にむずかしくて、蕪村が少年でもほぼわかる感じ……。そんなとこから本所にいる仲間が何人か集まって、俳句会みたいなのをやっ たわけですよ。
 藤田 昭和の初期ですか。
 吉岡 そうですね。藤田さ んも知ってる田尻春夢という人が指導者みたいでした。
 藤田 戦後、東京湾で身投 げして亡くなった……。
 吉岡  奥さんを亡くされたあと、まもなく、身投げしちゃった。小さな写真屋さんでしたよ。彼は理論派ですからわれわれを引っぱってくれて、そのときなんていう名 前で句会をやってたか、いまちょっと忘れちゃったんだけど〔句会の名は「白鵶句会」〕、ガリ版で刷って、十人ぐらい集まって……。
 藤田 戦後は神田の……。
 吉岡  そうなんです。椿作二郎さんの家で。いまでも覚えてんだけど、戦前、浅草の雷門の角に「ブラジル」という喫茶店があって、そこで句会をやったのが、ぼくに はいちばん印象に残ってますね。「珈琲をのみこぼす愁ひ白卓に」はそこの風景です。あとは各人の家へ行ったりなんかして……。そういう人の手引きによって 短歌と俳句とほとんど同時だけど、どっちかというと短歌のほうを多くつくったな。
 藤田 そうですか。
 吉岡 ええ。で、それは戦 後につづくわけですけどね。だけど、けっきょく俳句作家になれなかったね。俳句はあまりうまくなかったっていうわけなんだ、どうも。そのうちに謀叛を起こ して、草城の「旗艦」のほうがおもしろいということになって、「旗艦」へ二、三回投稿したですね。 二 句はいったことは確かだけども、そのときの一句が「赤とんぼ娼婦の蒲団干してある」。そのころ富沢赤黄男、片山桃史が活躍していたわけでしょ。それでこっ ちはペイペイで、二句でとどまっておしまいになっちゃったですがね。
 佐佐木 俳人の方にはずい ぶんお会いになっているわけですか、そのころは。
 吉岡 いや、ぜんぜん。 だって東京の小っちゃなとこでやって、いちばん偉いのはその田尻春夢っていう人です……。これは余談ですが、椿さんがたったひとりで、『田尻春夢全句集』 をつくりました。和紙に手書で、製本までしています。ぼくが待っているのはその八冊目です。
 藤田 「馬酔木」の三句級 の人だったですね。春夢さんはぼくらが戦後まもなく「馬酔木」で多少知られるようになったときに、神田周辺で……。
 吉岡 松江川さんという床 屋さんの二階へ集ったものです。
 藤田 そうですね。その松 江川というのが椿作二郎、いまでも、「鶴」にいますよ。秋桜子が八王子にいたときに、ときどき八王子へ行って頭刈ってた人なんですよ。吉岡さんが、「俳句 評論」の大会のとき、ぼくの句集を待っておられると聞いて……。
 吉岡 『途上』ですね、 持ってます。
 藤田 ええ、びっくりし ちゃってね。
 吉岡 そのころはみんなの 句集を買って読んだわけですよ。
 藤田 そうですか。
 吉岡 あれは昭和二十三年 ごろで、俳句会の名は「秋扇」といったかな、あとで名前がなんか変わったんですよ。「蘆刈」に。
 藤田 ぼくの知っているの は「蘆刈」ですね。
 吉岡 「秋扇」なんです最 初は。それが「蘆刈」になった。
 藤田 ガリ版の句稿を、作 二郎さんが秋桜子に選してもらってたのを見たことがある。
 吉岡  だけどやっぱり、田尻さんのことばを聞くのがいちばんため[、、]になりましたね。実作者としてもユニークだけど、理論派としてね。あの人は不幸にして、 「馬酔木」にいたためによくなかったんです。あの人は生活俳句ですよ、ただ叙景じゃなくてね。田尻さんとしては生活を入れちゃったから不遇だったんじゃな いか。
 藤田 吉岡さんはいくつぐ らい……。
 吉岡  それがねぼくが二十八、九じゃないかなァ。だけど、ぼくはその前にもうすでに『液体』って詩集持ってますからね。だから同時に両方できない。俳句会の楽し さというの、ありますね。番茶とお菓子で、自分の句が採られるか採られないかという楽しみね。この楽しさにおぼれてはいけない、ここでみんなと訣別すべき であると。それで二十九ぐらいのとき、自分の詩を確立するために、涙をのんで俳句と訣別しちゃったんです。ただ、郷愁として俳句を読むことが好きです。い まちょっと読まないけども、いろんな俳人を興味もって読んだですよ。(同誌、一二〜一四ページ)

吉岡が座談会で回想する「郷愁としての俳句」はおおよそ次のような構図だった。
《馬酔木》の田尻春夢は戦前、二十歳前後の吉岡や同じく《馬 酔木》の椿作二郎(本名・松江川三郎、戦後は石田波郷の《鶴》に入った)の属していた〈白鵶句会〉の指導者で理論派、生活俳句を身上とした。戦後の 1948年ころ、句会は〈秋扇〉(その後〈蘆刈〉)となり、吉岡も句会や吟行に参加している(当時の俳号は「四季男」か)。戦前の吉岡は、生地本所での気 の置けない句会を楽しむ一方で、生来のモダニスト気質から日野草城の《旗艦》にも接近していた。富澤赤黄男や片山桃史に惹かれ、作品を読むだけでは足り ず、新興俳句の同誌に投句をはじめる(筆名は終刊号の一句のみ「吉岡實」だが、他はすべて「皚寧吉」)。かくのごとく、吉岡の俳句の背後には《馬酔木》と 《旗艦》があって、俳号も句会と投句とでふたつを厳密に使いわけていた。あたかも「俳」と「詩」あるいは「うたげ」と「孤心」のように。藤田湘子の呼びか けに応じてこの座談会に俳人として出席したのが、加藤楸邨(はじめ《馬酔木》に拠った)に師事した金子兜太と、《旗艦》の富澤赤黄男を師と仰いだ高柳重信 だったことは、はなはだ興味深い。
吉岡の俳号での作句は、1949年1月30日の吟行会での「黄梅やふるきいらかの波うてる」――《水産》同年2月号の(おそらくは吉岡の変名である)春海 鯨太〈瑞泉寺探梅抄〉は「白梅や/焦眉煩悩の意なし」「紅梅や/つぼみにこもる花の息」「黄梅や/ふるきいらかの照るしづか」の3句――を最後に終わりを 告げ、吉岡が再び俳句に手を染めるのは、詩人「吉岡実」として《ユリイカ》1975年12月臨時増刊号に発表した〈あまがつ頌――北方舞踏派《塩首》の印 象詩篇〉(G・30)においてである。そこにあるのは「余技としての俳句」=「文人俳句」ではなく、詩篇を緊密に構成する、揺るぎない俳句作品だった。


昭和十四年(一九 三九)十二月十八日
  夜、春陵山人と歳の市へゆく。途中、春夢大人を誘い出し、浅草へ向う。雷門をくぐり、仲見世から人波にもまれて歩く。観音様に賽銭をあげ、境内の羽子板市 を見て廻る。絢爛と彩られた世界。芸妓をつれ、羽子板を買う酔人もいた。帰り、ニュートーキョーでビール、おでんで歌、俳句談義。それからブラジル珈琲店 で、春夢大人の短歌の数々を聞かされる。四十五、六でこの若々しさに、感服する。奥の方をふと見ると、女店員のひとりが、コーヒー用のミルクを手にぬって いた。(《うまやはし日記》書肆山田、1990、一〇一ページ)

吉岡が田尻春夢の短歌に言及したのは、この日記だけのようだ。先の「冬の夜道を歩きながら、彼が私に囁くように聞かせてくれた」という 記述とは状況 が異なるが(それとも、同夜の帰宅時のことか)、吉岡実が二十歳前後に指導を受けた俳人から謎めいた一首を託されたことは紛れもない。吉岡は戦後もしばら くは春夢や作二郎たちと交流を重ねて吟行までしているが、短歌を新たに作った形跡はない。田尻春夢=吉岡実の「こころみにここにおきみてわすれけんさだめ のみかみなくなくとむる」を最後に、作歌を封印したのだろうか。謎は尽きない。それにしても吉岡はなぜこの随想を《「死児」という絵》に収録しなかったの だろう。短歌との触れあいを語った部分はたしかに他の随想と重複する。それを削除すれば(つまり引用した後段だけを採れば)、原稿分量があまりにも短く なってしまう。かといって田尻春夢のことを語れば、話はおのずと俳句に傾く。それではそもそもの〈忘れ得ぬ一俳人の一首〉という主旨から外れる。それやこ れやで、手を入れてまで《「死児」という絵》に収めるには及ばないと判断したとも考えられる。だが、私はこんなふうにも思う。――随想の末尾で懸念したよ うに、もしかするとこれは春夢の一首ではなく、自分の作った歌だったのではないか――。それが吉岡をして単行本に入れることを躊躇させたほんとうの理由 だったのではあるまいか、と。
ここまで書いてきて、念のために吉岡実未刊行散文集(本サイトにアップしてある見出しだけのものに、本文[テキスト]を入れた作業用の完全版ファイル)で 吉岡の短歌を探してみた。すると、《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》(書肆山田、1996年11月30日)に〈吉岡実遺 稿〉として発表された〈日歴(一九四八年・夏暦)〉の「六月二十日」の日記に次の短歌があるではないか。

 一本の篠竹を這う豆の蔓のびあまりたれば風にゆれおり(同書、九ページ)

これは、かつての《うまやはし日記》の短歌がそうだったように、吉岡の自作と思われる。1939年に田尻春夢から伝授されただろう「こころみにここにおき みてわすれけんさだめのみかみなくなくとむる」とこの一首がどうかかわるかは、にわかに断じえない。吉岡が本格的に《静物》の詩篇を書きはじめるのは日記 の翌翌1950年からだから、「豆の蔓」をもって吉岡実の歌のわかれとする誘惑には抗しがたい。だが、その点については稿を改めて論じよう。

〔付記〕
小池光・三枝ミ之・佐佐木幸綱・菱川善夫編《現代短歌ハンドブック》(雄山閣出版、1999年7月20日)の〈現代・歌集100〉 で小池光が《魚藍》の項目を執筆している。「収録歌数はごく少ないが白秋のモダニズムをよく消化して完成度高い歌のたたずまいを示す」として、「土葱を抱 へもどれる母親にまつはる子らや夕枇杷の花」を一首引いている(同書、一一一ページ)。これなど、白秋の短歌よりも田尻春夢の俳句に近いものを感じさせ る。


《指揮官夫人と其娘達》あるいは《バルカン・クリーゲ》のこと(2016年3月31日)

《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)は元版の《「死児」という絵》(思潮社、1980)に第X章を増補したものだ が、その 「X」、すなわち《「死児」という絵〔増補版〕》の最後にはポルノをめぐる4篇の文章が収められている。4篇の初出は以下のとおり。なお〈「官能的詩篇」 雑感〉に「「ポルノ詩に就いて書けませんか?」と、A君は言う」(同書、三六三ページ)とあるところから、《季刊リュミエール》の連載コラム〈ポルノ〉の 編集担当は《土方巽頌》(筑摩書房、1987)を手掛けることになる淡谷淳一さんだろう。

 ◎ロマン・ポルノ映画雑感 《季刊リュミエール》1号(1985年9月)
 ◎ポルノ小説雑感 《季刊リュミエール》3号(1986年3月)
 ◎官能的な造形作家たち 《季刊リュミエール》4号(1986年6月)
 ◎「官能的詩篇」雑感 《季刊リュミエール》5号(1986年9月)

《季刊リュミエール》2号〈特集=フランソワ・トリュフォーとフランス映画〉は1985年12月20日に出ているから、休載は吉岡の側の事情だろう。それ を探るべく、〈吉岡実年譜〉を見てみよう。

一九八五年(昭 和六十年) 六十六歳
〔……〕 七月、土方巽、元藤Y子に招かれて京都へ行く。三好豊一郎、元藤べら、芦川羊子と祇園祭見物。天龍寺、三千院、寂光院、蓮華寺、曼殊院、詩仙堂、智積院、 三十三間堂などを拝観する。神奈川近代美術館で〈生誕百年記念・萬鐵五郎展〉。十一月、鈴木一民と京都市美術館で〈富岡鐵斎展〉を観る。絵画、書跡、器玩 など五百余点という壮観さに圧倒される。大冊三七〇頁の図録を買う。奈良へ行き西田画廊主、西田考作に紹介され、離れ座敷に一泊。十二月、経堂の高橋睦郎 宅へ招かれる。澁澤龍彦夫妻、四谷シモンと手料理や鴨鍋の会食。十三日、高座渋谷の南大和病院に兄を見舞う。十四日、元藤Y子と広尾で会い土方巽の病気を 知らされる。病状は本人に伝えていないとのこと。十五日、アスベスト館に土方巽を見舞うが元気な様子で、弟子に舞踏の振りを付けていた。二十四日、兄危篤 の報せで妻と入院先に行くが持ち直し安堵する。(吉岡陽子編〈年譜〉、《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996、八〇七ページ)

12月13日以降は身辺が慌ただしいが、コラム第2回の執筆に充てるべき秋口には、特段それを妨げる要因が見出せない。「ポルノ小説」 というテーマ 自体が書きにくかったのだろうか(連載の依頼もしくは開始時に映画・小説・造形・詩篇でいくという大枠は決まっていたはずだ)。吉岡が〈ポルノ小説雑感〉 で言及している作品は次のごとくである。

 1 『指揮官夫人と其娘達』   『ガミアニ』  『南北戦争』  『蚤の浮かれ噺』  『ジュリアンの青春』  『トルー・ラブ』  『バルカン戦争』  『指揮官夫人と其娘達』
 2 『ロシヤ宮廷の踊子』
 3 『わが愛[いと]しの妖精フランク』   『南北戦争』
 4 『O嬢の物語』   『O嬢の物語』  『ロワッシイへ帰る』
 5 『城の中のイギリス人』   『城の中のイギリス人』

今回は〈1 『指揮官夫人と其娘達』〉の1冊《指揮官夫人と其娘達》、別題《バルカン戦争》あるいは《バルカン・クリーゲ》のことを書 く(他の本 は、いずれ書く機会もあろう)。「ポルノ小説」について書くにあたって吉岡が苦労し、それにもかかわらず5項目あるうちの最初に据えたのがこの小説だっ た。つまり、どうしてもこの作品に触れておきたかった。ところで《バルカン・クリーゲ》が手軽に読めるようになったのは、吉岡歿後刊の城市郎監修〈性の秘 本コレクションB〉のウィルヘルム・マイテル《バルカン・クリーゲ〔河出文庫〕》(河出書房新社、1997年6月4日)からだが、吉岡は当然これを読んで いない。城市郎の〈はじめに〉には「本書では、〔初刊の〕文藝市場社版をもとにし、〔十指に余る〕各種刊本を参照しつつ、現代の読者に読みやすい文章とす るようこころがけた」(同書、三ページ)とある。吉岡の〈1 『指揮官夫人と其娘達』〉の全文を引く。

 「性欲を刺激亢進し、人をして羞恥嫌悪の感性を生ぜしめるもの」が、法の規定するポルノ小説であるのだろう。戦後 の昭和二十六 年頃、それらに類する外国文学が花開くごとく、一斉に刊行され始めたのである。『ガミアニ』、『南北戦争』、『蚤の浮かれ噺』、『ジュリアンの青春』、 『トルー・ラブ』そして『バルカン戦争』などであった。私は一通りそれらを購って、読んでいる。ほとんどが発売と同時に、禁止処分を受けたようだ。そのな かで、今でも忘れ難い小説は、W・マイテル『バルカン戦争』である。これは二、三種類ほど出版されており、私はそのうちの二冊を持っていた。完訳本ではな く、二冊とも抄訳されたもので、「挿話」が異っていたりするので、補足しながら読んだ。しかしいずれも迫力に欠けて物足りなかった。なぜなら戦前に『バル カン戦争』の完訳本と思われる、秘密出版の『指揮官夫人と其娘達』を、私は読んでいたからである。今、本も参照する資料もないので、うまく紹介できない。 「戦争」という諸悪の根元を捉え、自制心も誇りも失った人間の肉欲を露呈するポルノ文学の傑作。戦争の裏面にかくされた、女性たちの受難の諸相を活写して いる。異国の兵隊たちから、嗜虐的な暴力の数々を受ける、美しい人妻や娘たちの姿態は悲惨というよりも、むしろ耽美的でさえあった。この貴重な本を、年嵩 の友人に返し、間もなく私は出征した。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三五五〜三五六ページ)

《バルカン・クリーゲ〔河出文庫〕》の巻末には、城市郎の解説〈『バルカン・クリーゲ』と軟派出版の帝王・梅原北明〉が48ページにわ たって掲載さ れている。吉岡が言及した版に関する書誌的事項をそこから摘する。なお[ ]内は鈴木敏文《性の秘本〔河出文庫〕》(河出書房新社、1996年4月4日) 巻末に掲載された城市郎〈わが所蔵する秘本リスト(抄)〉による補記。

 (1)《指揮官夫人と其娘達》(三田書院、昭和7年5月頃)[四六判 紺染革装 本文2色刷 頒価3円50銭]
 (2)矢野正夫訳《バルカン戦争》(東京書院、昭和26年6月)[四六判 325頁 280円 カバー帯]
 (3)松戸淳訳《秘話バルカン戦争》(紫書房、昭和26年7月)[B6判 238頁 200円 カバー帯]
 (4)藤井純逍訳《バルカン・クリーゲ 硝煙のかげに》(銀河書房、昭和26年[12月])[――]

〈わが所蔵する秘本リスト(抄)〉には
  「バルカン戦争」根岸達夫訳 浪速書房 昭和40年9月 新書判 211頁 280円
と いう一本が掲げられている。たまたま私の所蔵する《カラー版 バルカン戦争》(浪速書房、昭和43年1月15日)が同じ根岸達夫訳で、本文は昭和40年9月20日刊の版を流用して、新たに前付や由谷敏明の口絵、〈解 説〉を添えて再版したものである。根岸の訳文はこんなぐあいだ。
「その次の夜会には、この好色な女達は、目立たない普段着を着て現われた。そしてあたかも気位の高い上流階級の貞淑な夫人や令嬢のような気取り方で振舞つ たので、男達は、何か近づきがたい威厳を感じて、貴婦人を誘惑するという冒険的な、好奇心で一層の刺戟を感じたのだつた。/またある晩の夜会には、夫人や 娘たちは、自分の夫や兄弟の制服を着てあらわれた。この偽せ者の兵士は、大きい乳房と白い長い足と肉づきのよいお尻を持つ、恐ろしくエロチツクな兵隊達で あつた。中には、ズボンをあべこべに穿いて、ボタンを外している者もあつた。これが、男たちの肉欲を異常にそそり立てたことは当然である」(同書、七六〜 七七ページ)。
同じ箇所が城市郎《バルカン・クリーゲ〔河出文庫〕》では次のようになっている。
「次の夜会には、この好色な女たちは普段着を着て現われた。そしてあたかも貞淑な令嬢や淑女のように振舞ったので、貴婦人を手に入れるという冒険的な刺戟 を感じて、男たちの興奮はいっそう高まった。//また、ある夜、夫人や娘たちは自分の夫や兄弟の軍服を着てやってきた。/この贋の兵士たちは波打つ乳房 と、すらりした脚と、素晴らしい尻を持つ、まことに魅力的な兵隊たちだった。なかにはズボンをあべこべにはいて、ボタンをすっかりはずしている者もいた。 /それで、指揮官夫人は、今日の楽しみごとは全部後ろの入口を利用するようにと命令し、これはもちろん守られた」(同書、一三五ページ)。
根岸の訳も城の文も元版の訳文を基にしているといわれるが、これだけ違うと元の文がどうだったか気になる。あいにく元版《バルカン戦争》も元版と同じ本文 の《指揮官夫人と其娘達》も手許にないが、それを版下にして覆刻したと思しい青木信光編《バルカン戦争〈上〉〔秘本図書館 海外版〕》(図書出版美学館、1982年6月17日)があったので、同じ箇所を見よう(漢字は新字に改めた)。
「其後の或夜の事、又この好色な連中は彼女達の平常まとうて居る着物を着て現はれた。そして恰も立派な貞淑な淑女や令嬢の様に振舞つた。/これらの貴婦人 を手に入れる事が骨の打〔ママ〕れることのやうに外観上だけでも思はれるのは男達の興奮を高めた。/又或る時は夫人や娘達は自分の夫や兄弟の制服を着て来 た、そして其の時には何方がほんものか見分けがつかぬ位であつた。/このにせの兵隊は実に魅力のある恰好をして居た、波打つ乳房があり、キツチリした脚が あり、そして素破らしい臀を持つて居た、中にはズボンをアベコベに穿いてボタンをすつかりはづして居るものも沢山あつた。/指揮官夫人は今日は殿方は全部 背後の入口を利用するやうにと命令し、これは勿論守られた」(同書、二〇二〜二〇三ページ)。
元版の本文に近いのは城の方だが、吉岡の文章に親和性があるのは、根岸の方である。

閑話休題。吉岡の「これは二、三種類ほど出版されており、私はそのうちの二冊を持っていた」のは、(2)(3)(4)のうち2冊という ことだろう。 《ロシヤ宮廷の踊子》《蚤の浮かれ噺》《ジュリアンの青春》がいずれも昭和26年に東京書院から出ていることを考えあわせれば、(2)矢野正夫訳《バルカ ン戦争》と(3)か(4)のどちらかということになろうか。ただし(1)〜(4)のどれも実見していないので、これ以上詳しいことはわからない。《指揮官 夫人と其娘達》とはどんな出自の本なのか。城の解説にはこうある。「がんじがらめにされた北明は、昭和七年に入ると地下にもぐり、日の目をみることなく押 収された『戦争勃発!』(『バルカン・クリーゲ』の本邦初出版)を悼んで、文藝市場社の象徴ともいうべき『バルカン・クリーゲ』の再刊を企図する。警察の 目を欺くために『指揮官夫人と其娘達』と改題し、総革装・本文二度刷・オーナメント入りの美装本に仕立て、三円五十銭で〔領→頒〕布するつもりだったが、 事前に察知されてあえなく御用となり、かろうじて見本刷を残しただけで没収され、最後の夢も立ち所に潰え、完全に息の根を止められてしまい、身動きがとれ なくなり、さすが軟派出版界の帝王も、観念して兜をぬぎ、ついに軟派出版から一切手を引くことになって仕舞った」(前掲書、三七一ページ)。吉岡が読んだ のは「年嵩の友人」から借覧したこの「見本刷」だったのだろうか。Wikipediaの『バルカン・クリーゲ』の項には「外部リンク」として《閑話究題 XX文学 の館》が挙げられている。その〈XX文学の館 秘本縁起 「バルカン・クリーゲ」〉に《指揮官夫人と其娘 達》が書影とともに掲げられているので、解説と書誌を引く(表紙と本文の書影は同サイトでご覧いただきたいが、城市郎の〈解説〉中の書影(モノク ロ)や別冊太陽 《発禁本 ――明治・大正・昭和・平成 城市郎コレクション》(平凡社、1999)掲載の表紙(カラー)がスミや紺色なのに対して、明るいブルーグレーに見えるのはどうしたわけだろう。写真で見 るかぎり、本文の巻頭ページが同じであるだけに、どうにも解せない)。

「昭和七年六月頃、三田書院から刊行されたものと言われています。城市郎氏は北明の手になるものとしていますが、根拠となる情報源が分 りませんので、確定は控えます。」
「判型:四六判 頁数:371頁 発行:三田書院 刊年:昭和七年六月(?) 造本:本文二度刷、総革装 内容:上巻 第一編 〜 第二編/下巻 第一編/追加」

吉岡の「年嵩の友人」が誰なのか推測の域を出ないが、地下出版に通じた者であったとしても、押収を免れた「見本刷」(というと刷本状態で未製本の ようだが、おそらく版元製本はされていたか)を入手するのは容易ではあるまい。出征前の吉岡のように実見できた人間は、おのずと限られていよう。城市郎は 前出の解説(同書、三三八〜三三九ページ)でこう述べている。

 『バルカン・クリーゲ』は、あらゆる淫逸痴態を網羅した狂気の地獄図絵を描破しつくした近代随一の艶本としてもて はやされてき たが、そもそもいかなる意図をもって書かれたものかはかりがたいところがある。戦争への憎悪と抗議がこめられた反戦平和を希う気持を汲みとることもでき、 ひょっとしたら一種異様な反戦小説ではなかろうかとも思われる。
 作家の高見順(一九六五年歿)は、その点を認めた上で、つぎのように言っている。
  『バルカン戦争』は、たしかに単なる好色本というだけではなくて、そういう形で戦争の罪悪を暴露しているのだと、そう思わせられるところもある。年端も行 かぬ娘たちを、よってたかって犯した上、それを殺して、野原に捨てて行く。そういう話は、好色本としてはあまりにも残忍すぎる。いくら残忍を特徴とする好 色本としても、これはひどすぎる。
 だが、こういう話はほんの一部で、全体としてはやはり好色本にほかならない。好色的刺戟を強めるために、戦争の残忍性が利用されているという感じだ。性 的刺戟のための好色物語に、戦争というものを利用している。好色の満足のために戦争を利用している。
(『エロスの招宴』昭和三十三年二月、新潮社刊)

城市郎が引いた高見順の文章は、《エロスの招宴》の〈第二十四章 風狂の群〉冒頭の二段落である(初出は《週刊新潮》1957年10月 28日号)。 高見は前の第二十三章で「残忍と言へば、『蚤の自叙伝』と同じく、その方では有名なものだといふ『バルカン戦争』――この好色本も同じやうな残忍性が目立 つのである。いや、もつとひどい」(《高見順全集〔第18巻〕》勁草書房、1970年6月25日、二〇九ページ〔漢字は新字に改めた〕)と書いている。さ らに、おそらくは東京書院版を手許に置いて「バルカン半島をかつて幾度かおそつた戦争を背景にして、戦争の残忍さのため野獣のやうになつた人間の残忍な行 為がそこに描かれてゐる。男の姿がひとりも見られない「女だけの都」に侵入した軍隊が、女をとらへて淫虐のかぎりをつくす。一方、女の方でもさうなると、 兵隊におとらない乱倫のさまをくりひろげる」(同前)と要約した高見は、「〔……〕戦争悪をかういふ形で痛烈に暴露したものであると、さういふ説をなす人 もある。単なる好色本ではないといふ訳である」(同前)といなしている。吉岡は前掲文で「今、本も参照する資料もないので、うまく紹介できない」と書いて いるが、同文の執筆に際して高見の文章を(初出誌や単行本、それとも全集本で)読んだときの記憶が働いたのではないか(吉岡が敬愛する詩人・小説家の週刊 誌連載のエッセイ――しかも題名が「エロスの招宴」である――を見のがしていたとは考えにくい)。城が解説で引いたように、高見の文章は戦後、《バルカン 戦争》に言及した論評のひとつの典型だった。戦争悪の暴露という名を借りた「単なる好色本」に過ぎないというわけである。その高見の「性的刺戟のための好 色物語に、戦争というものを利用している」という方に力点を置いて、さらにそれを延長したのが吉岡の「異国の兵隊たちから、嗜虐的な暴力の数々を受ける、 美しい人妻や娘たちの姿態は悲惨というよりも、むしろ耽美的でさえあった」という評ではないか。美は倫理に優先するというのが《指揮官夫人と其娘達》を読 んだ当時の吉岡の評だとすれば、兵士として4年以上の歳月を満洲や朝鮮で過ごした後の吉岡の評価はどうなのだろうか。戦後の数種の版本を読みくらべてみた のは、そのあたりのことを確認したかったためではなかったか。ちなみに私が本書で最も注目したのは〈戦争酣[たけなわ]なりし時――バル カン・クリーゲ 上巻――〉の第一編・第五章の獣姦の挿話(《閑話究題 XX文学の館》には「騎兵隊長夫人はその寂しさを愛犬に紛らわし、その行為を覗き 見た歩兵隊中尉に迫られて…」と紹介されている)だった。スタイルこそ較べものにならないものの、安西冬衞の第一詩集《軍艦茉莉〔現代の藝術と批評叢書 2〕》(厚生閣書店、1929年4月18日)に近いものを感じたのだ(〈オダリスク〉や〈犬〉)。そして、吉岡が安西冬衞の詩業に通じていることは言うま でもあるまい。

聖家族|吉岡実

美しい氷を刻み
八月のある夕べがえらばれる
由緒ある樅の木と蛇の家系を断つべく
微笑する母娘
母親の典雅な肌と寝間着の幕間で
一人の老いた男を絞めころす
かみ合う黄色い歯の馬の放尿の終り
母娘の心をひき裂く稲妻の下で
むらがるぼうふらの水府より
よみがえる老いた男
うしろむきの夫
大食の父親
初潮の娘はすさまじい狼の足を見せ
庭のくろいひまわりの実の粒のなかに
肉体の処女の痛みを注ぐ
すべての家財と太陽が一つの夜をうらぎる日
母親は海のそこで姦通し
若い男のたこの頭を挟みにゆく
しきりと股間に汗をながし
父親は聖なる金冠歯の口をあけ
砕けた氷山の突端をかじる

私は《僧侶》の詩篇〈聖家族〉(C・14、初出は《季節》1958年7月号)に戦争の、「ポルノ小説」の遠い残響を聴く。高橋睦郎は本 篇の〈鑑賞〉 で「れいによって反聖家族と読めばいい。このころから社会問題になってきた崩壊家族が主題になっている。しかし、この崩壊家族は湿潤な日本の風土にふさわ しくなく、あっけらかんと壮大に崩壊する」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984、三三〜三四ページ)と喝破した。私には、吉岡が戦後の荒廃 した社会=心象を描くにあたって、大陸的な「あらゆる淫逸痴態を網羅した狂気の地獄図絵」(城市郎)という好色本まがいの設定をもってした、と思えてなら ない。それとも、その悪意と吊りあうだけの絶望を当時の作者は湛えていたというべきか。

〔付記〕
《ぶるうふいるむ物語》(立風書房、1975)の著者、三木幹夫(1925年生まれ)が《バルカン戦争(全)》(フランス書院、1982年9月)に付した 解説〈謎に包まれた強烈ハードポルノ〉には次のようにある。

 あれは、日本が戦争に負けて間もない、昭和20年代の半ばごろだった。活字に飢えていた私に、職場の先輩が1冊の 古本を貸して くれた。革装のその内容は、やっと青年期に入ったばかりの私へ、強烈きわまる衝撃を与えた。これが『バルカン戦争[クリーゲ]』である。〔……〕/一読 後、その本がほしくてたまらず〔……〕、先輩に譲ってくれるよう懇願したが。彼は「こないだ古本屋できいたら、時価1万円だっていってたよ。もっとも、お れは誰にも売る気はないけどね」と、あっさり断わられた。〔……〕現在の相場なら約20万円か。/後年、わかったことだが、その本は昭和初期に、かの有名 な発禁王#~原北明(1900〜1946)の文芸市場社が出した『バルカン・クリイゲ』だった。/〔……〕私に文芸市場社本を貸してくれた先輩は、同社 から通販により10円で入手したといっていた。/〔……〕この初訳本以後の邦訳異版はすべて梅原本の海賊版で、独訳本や仏訳本などから新たに邦訳されたも のは皆無といっていいのではなかろうか。じつに面妖な舶来ポルノといえよう。(同書、三二三〜三二九ページ)

吉岡が戦前に読んだ秘密出版の《指揮官夫人と其娘達》(三木の解説にこの書名は登場しないが)も、三木と元版《バルカン戦争》と似たよ うな関係だっ たと思わせる。《指揮官夫人と其娘達》が梅原北明の手になるものなら、「この貴重な本を」吉岡に貸した「年嵩の友人」はやはり通販で入手したものだろう か。本書が戦前の吉岡に深い影響を与えたことは、疑えないように思う。


吉岡実日記の手入れについて(2016年2月29日)

吉岡実の生前最後の本は1938年から40年にかけての日記を整理した《うまやはし日記〔りぶるどるしおる1〕》(書肆山田、1990 年4月15 日)だったし、生前最後に発表された作品は〈日記 一九四六年〉であり、(現在までのところ)最後の作品も遺稿として1996年に発表された日記〈日歴 (一九四八年・夏暦)〉である。その最晩年に、出征前後の若き日の日記をまとめた吉岡の真意を性急に結論づけることは控えるが、日記というジャンル=形式 が重要な意味をもつことは疑えない。吉岡が自身の日記として最初に公刊したのは《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968年9月1日)に収めら れた〈断片・日記抄〉である――雑誌発表を含めると〈日記抄――一九六七〉(《詩と批評》1967年9月号での原題は〈日記〉)が最初――。〔現代詩文 庫〕にはシリーズの各冊に共通する企画として自伝的な文章の書きおろしがあるが、吉岡は日記をもってこれに代えた。その間の事情は次のとおりだ。「自伝的 なものをまだ書く時期でもない。また、年譜的なものをつくる煩雑さにも耐えられない。たまたま旧い日記の断片があるので、少しくその時の雰囲気を伝えると ころを抄出し、綴り合せてみる。日記を書かなかった年代が多く、偏ったものになっている。それ故、私にとって数々の大切な事項が欠けてしまったが、無理に 工作することを避けた」(同書、一二五ページ)。〈断片・日記抄〉は「昭和二十一年一月五日」から始まっている。一方、〈日記 一九四六年〉(《るしお る》5号、1990年1月31日)は「一月一日」から始まっていて、その「敗戦第一年のお正月はさすがに餅、料理も少くかたちばかりだが、兄一家と祝う。 葉子(八歳)、瑠美子(六歳)は女の子らしく、奇麗な着物姿。静かな午後、遠く羽根つきの音がする。夜、《古今和歌集》を読む」(同誌、三二ページ)とい う記載は、吉岡がこの日から戦後の日記を書きはじめたことをうかがわせる。

 この「うまやはし日記」は、その一部を一九八〇年の「現代詩手帖」十月号の「吉岡実特集」によせたもので、次のよ うに付記して いる。――戦前の「日記」二冊が消失をまぬかれて残った。いずれも昭和十三―十五年のものである。冗長な記述を簡明にし、ここに収録する。もちろん作為は ない。現在休息中ゆえ、詩、文章などの作品を提示することが出来ない。稚拙な二十歳の「日記」を以って、その任を果す――と。

 最近刊行されはじめた、書肆山田の小冊子「るしおる」に、作品・文章を求められたが、休筆中なので、「うまやはし日記」の補遺で、そのせめ[、、]を果 そうと思った。省略したきわめて「私的事項」を拾い出して、挿入してゆくうち、思わずも熱が入り、八十余枚の原稿に成ってしまった。〔……〕

「一九九〇年二月七日」という日付をもつ《うまやはし日記》の〈あとがき〉(同書、一四二〜一四三ページ)である。その最後に「『うま やはし日記』 刊行の暁、感傷的な二冊の「原・日記」は消滅するはずである」とある以上、吉岡に日記の原本を遺す意思はなかった。本稿では、〈断片・日記抄〉と〈日記  一九四六年〉に重複する1946年1月から3月にかけての4日分の日記の内容を検討することで、吉岡の日記への手入れを考えてみたい。(以下、〈断片・日 記抄〉の記載を★、〈日記 一九四六年〉の記載を☆で表す。なお【 】の曜日は引用者の補記)

昭和二十一年
★一月五日【土曜】 村岡花子氏の家にゆき原稿もらってかえる。蒲田の闇市は人と物品の氾濫だ。鰯七匹十円。干柿五つ十円。飴五本十円、なんと恐しい世の 中。《ノヴァーリス日記》をよむ。
☆一月五日【土曜】 村岡花子氏の家にゆき原稿もらってかえる。蒲田の闇市は人と物品の氾濫だ。鰯七匹十円。干柿五つ十円。なんと恐しい世の中。《ノ ヴァーリス日記》を読む。

★一月十九日【土曜】 KUSAKA嬢にルイ・エモンの《白き処女地》をかして、彼女からイプセンの本をかりる。茂吉の《朝の螢》。
☆一月十九日【土曜】 KUSAKA嬢にルイ・エモンの《白き処女地》を貸し、彼女からイプセンの本を借る。茂吉《朝の螢》。

★二月九日【土曜】 黄昏、かえりみち靖国神社参拝。人から借りた《セヴニェ夫人手紙抄》を省線電車のなかでよむ。
☆ナシ

★三月二十四日【日曜】 午前中は兄と薪つくり。十時にピースを買いにゆく。一箇七円。横光利一《寝園》よみかえす。新橋の闇市をのぞき一皿五円のふかし 芋を食う。
☆三月二十四日(日曜) 午前中は兄と薪つくり。十時にピースを買いに行く。一個七円。横光利一《寝園》を読みかえす。夕刻、新橋の闇市をのぞき、一皿五 円のふかし芋を食う。

〈断片・日記抄〉の脱稿がいつなのか、正確な日付はわからない。だが、〔現代詩文庫〕シリーズの刊行開始が1968年だから、早くても 67年、おそ らく《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》刊行の年、1968年前半のことだろう。そのとき「旧い日記の断片があるので、少しくその時の雰囲気を伝えるところ を抄出し、綴り合せてみ」たのが★〈断片・日記抄〉であり、同じ日記(原本)を、《うまやはし日記》と同様に「省略したきわめて「私的事項」を拾い出し て、挿入してゆ」き、「冗長な記述を簡明にし、ここに収録」したのが☆〈日記 一九四六年〉だろう。つまり、★に手を入れたのが☆なのではなく、同じ「旧 い日記の断片」から1968年前後に★が、1990年前後に☆が産みだされた、と考えるべきではないか。

・1946年1月5日の「飴五本十円、」は★には入れたが、☆には入れなかった。吉岡の単なる転記漏れかもしれない。

・2月9日の「黄昏、かえりみち靖国神社参拝。人から借りた《セヴニェ夫人手紙抄》を省線電車のなかでよむ。」は★にだけ入れた(《セ ヴニェ夫人手 紙抄》はおそらく1943年刊の井上究一郎訳の岩波文庫版)。吉岡が後年これを意図的に省かなければならない理由は、「靖国神社参拝」だろうか(一方で、 吉岡の転記漏れの可能性も否定できない)。吉岡は、敗戦の半年後の1946年2月、どのような気持ちで靖国神社を参拝したのだろう。手掛かりがほしくて、 坪内祐三《靖国〔新潮文庫〕》(新潮社、2001年8月1日)を再読した。坪内は同書の第11章で、安藤鶴夫(1908〜69)が1945年秋、靖国神社 に間借りしていた能楽協会を取材した折りのことを回想して1967年8月に発表した〈歳月〉(《わたしの東京》求龍堂、1968年1月15日)を引いてい る。東京新聞文化部記者の安藤は、その日の午後2時から5時近くまでの約3時間、「〔……〕社務所の、あけはなった窓から、境内が、はっきり視線の中に入 る場所にいて、取材をしていたのだけれど、そのあいだ中、まったく、誰ひとり、通らなかった。/帰りがけ、〔能楽協会の〕三宅さんに、毎日、こんなふう に、誰ももう靖国神社に詣[もう]でるひとはいないのですか、と、きいたら、はい、まア、そうですな、といった。/ひとりで、また、玉砂利を踏んで、神殿 にぬかずいた。誰もいないので、誰に、遠慮も、気がねもなく、泣いた。しまいに、声が出、それが慟哭[どうこく]になった」(《靖国〔新潮文庫〕》、三一 〇ページ)。吉岡は1946年2月には、前年12月に入社した香柏書房に勤務しており、この土曜日は神田YMCA前の同社に出社したのだろう。「かえりみ ち」というのが、同居していた兄(長夫)の池上の家への帰路ということなら、現在のJR線(かつての省線)の最寄駅は水道橋駅か御茶ノ水駅で、靖国神社の ある九段北はその通り途ではない。先の安藤の文と照らしてみると、吉岡は参拝するためにわざわざ足を運んだようにも思える。いずれにしても、詳しいことは わからない。

・3月24日の「夕刻、」は★には入れなかった。

漢字やかなの表記の違いなど、文意に影響のない違いを割愛すると、顕著な異同は以上の3点である。吉岡が日記の原典に手を入れるのは(その記載を 採用するかしないかといういちばん大きなポイントを除けば)、おおむねこうした傾向であると判断できる。ちなみに〈日記 一九四六年〉には、1月は1日か ら31日まで(9日分の記載なしの日があって)22日分、2月は1日から27日まで(14日分の記載なしの日があって)14日分、3月は1日から31日ま で(13日分の記載なしの日があって)18日分、4月は2日・3日・6日・8日(記載された最後の日)の4日分、合計58日分の日記が掲載された。原日記 の記載を意図的に省いた分は、(仮にそれがあったとして)さほど多くない、という感触がある。詳細は〈日記 一九四六年〉に就いて見られたいが、同文で最 も興味深いのは、買ったり読んだりした本の著者名と書名が頻出することである。書名の数、実に42に及ぶ(このほかに作者の名前しか書かれていない本も何 冊かある)。日記の記載が58日分だから、ほぼ75パーセント、単純に4日に3冊の割で登場している勘定になる。関連する文(章)を摘する。

1月1日【火曜】 夜、《古今和歌集》を読む。
1月2日【水曜】 朝からキャメルをくゆらしながら、枕もとに散らかっている堀辰雄の本や茂吉《朝の螢》を読む。
1月4日【金曜】 みやげに餅と谷崎潤一郎《初昔》を頂く。梁さんは《西鶴集》だ。
1月5日【土曜】 《ノヴァーリス日記》を読む。
1月6日【日曜】 松田修《萬葉植物新考》を九十円で買う。
1月10日【木曜】 夜床の中でジイド《田園交響楽》を読む。
1月11日【金曜】 夜、《長塚節研究》を読む。
1月12日【土曜】 北原白秋《白南風》を買う。五十円。
1月15日【火曜】 朝、リルケ《マルテの手記》を少し読む。
1月16日【水曜】 途中の本屋で青柳瑞穂詩集《睡眠》を買う。
1月17日【木曜】 改造社版《作歌辞典》を買う。
1月19日【土曜】 KUSAKA嬢にルイ・エモンの《白き処女地》を貸し、彼女からイプセンの本を借る。茂吉《朝の螢》。
1月20日【日曜】 堀辰雄《風立ちぬ》をまた読みはじめる。
1月24日【木曜】 荷風《踊子》。
1月25日【金曜】 森銑三《渡辺崋山》。
1月26日【土曜】 小川町の古本屋で白秋《橡》を買う。
1月29日【火曜】 安倍能成《西遊抄》を求めた。伊藤佐喜雄《森鴎外》を読む。
1月31日【木曜】 佐佐木信綱編《萬葉辞典》二十円。保田與重郎《後鳥羽院》四円を買う。
2月4日【月曜】 谷崎潤一郎《文章読本》と岩波文庫《藤原定家歌集》を買う。夜遅くまで萩原朔太郎《遺稿下》を読む。
2月10日【日曜】(日曜) 神田の古本屋を漁り、《ノヴァーリス日記》と交換で堀内民一《萬葉大和風土記》を買う。
2月14日【木曜】 夜、日下嬢から借りたバルザック《絶対の探究》読む。
2月15日【金曜】(金曜日) 三島由紀夫《花ざかりの森》と短歌文学集《釋迢空編》を買う。
2月26日【火曜】 モーリス・バレス《エル・グレコ》を求める。
3月1日【金曜】 早速、机にむかって白秋《橡》を読む。
3月10日【日曜】 コンロに炭をおこし、直井潔《清流》を読む。
3月24日【日曜】(日曜) 横光利一《寝園》を読みかえす。
3月26日【火曜】 梶井基次郎《檸檬》を読む。午後、坪田譲治《【黒→異】人屋敷》の装幀を江古田の中尾彰氏のところに頼みにゆく。
3月27日【水曜】 夜、潤一郎《蓼喰ふ蟲》を読みはじめる。
3月30日【土曜】 《月下の一群》を買う。小型総革本で七十円也。
4月2日【火曜】 日高牧師から署名入りの《聖書》を頂く。
4月3日【水曜】 帰り神田で《定本吉井勇歌集》を求めた。夜、横光利一《機械》を読む。
4月8日【月曜】 夜、日高君から借りた永井荷風《腕くらべ》を楽しみながら読む。

ここからはさまざまな感慨が湧くが、兵士として4年強に亘って自由に読書することのままならなかった鬱積が吉岡をしてこれらの濫読(と あえて言いた い)に走らせた、とみることは的外れではないだろう。私にはこれらの書物が、現実という不定形な獲物に襲いかかり、なんとかこれを倒そうとする飢えた狼の 渾身の爪痕のように思えてならない。同時に、その一冊一冊がひとつひとつの詩句に見えてくるのをいかんともしがたい。

一九四六年(昭 和二十一年) 二十七歳
編 集の仕事で村岡花子、坪田譲治、恩地孝四郎、中尾彰らに原稿や装丁を依頼。同僚の日高真也に誘われて「新思潮」に入る。南山堂時代の先輩百瀬勝登と邂逅。 八月、香柏書房を退社。十月、先に辞めた日高真也の尽力で東洋堂へ入社。幸田成友のカロン『日本大王国志』、柳田国男『分類農村語彙』の編集を担当する。 『朝の螢』一巻しか知らなかった斎藤茂吉の他の歌集『赤光』『あらたま』、萩原朔太郎の詩集『月に吠える』『青猫』を初めて読む。(吉岡陽子編〈年譜〉、 《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996、七九二ページ)

一九四六年(昭和二十一 年) 二十七歳
一月、斎藤茂吉歌集《朝の螢》を読みのちに《赤光》《あらたま》に感銘。香柏書房の仕事で村岡花子や坪田譲治に原稿を依頼する。南山堂時代の先輩百瀬勝登 と邂逅。五年ぶりの月給。二月、恩地孝四郎宅へ装丁の謝礼を持参、これを機にか装丁の研究に励むようになる。同僚で友人の日高真也が小説を書きはじめる。 三月、文筆で暮らせるようになったのは四十歳過ぎだという坪田の話に自分もゆっくり作品を書いていきたいと考える。坪田譲治《異人屋敷》の装丁を中尾彰に 依頼。日本美術展覧会で日本画の綺麗すぎるのに驚く。四月、真也の父日高牧師から聖書を贈られる。坪田譲治、村岡花子らが出席してキリスト教系の出版社香 柏書房の創立祝い。八月、同社を退く。十月、日高真也の尽力で東洋堂に入社。幸田成友のカロン《日本大王国史》、柳田國男《分類農村語彙》などを手がけ る。十一月、萩原朔太郎詩集《月に吠える》《青猫》に初めて接し感銘を受ける。《凍港》や《黄旗》で山口誓子の句業をまとめて読む。(小林一郎編《吉岡実 年譜〔改訂第2版〕》、webサイト《吉岡実の詩の世界》、2012、二三五〜二三六ページ)

上に見るように、私が今までに編んだ吉岡実年譜は、吉岡の随想や日記の記載に多くを負っている。吉岡が随想や日記で言及した本のすべて を、同じ版で 読んでみたいと思う。なぜなら、そこには吉岡実の精神の軌跡が刻みこまれているに違いないからだ。とりわけ、詩作から離れていた時期の読書は重要だと考え る。吉岡がのちに《静物》となる詩篇を本格的に書きはじめるのは、この日記の数年後――おそらく1949年からである。

昭和二十四年八月一日 或る場所にある卵ほどさびしいものはないような気がする。これから出来るかぎり〈卵〉を主題 にした詩篇を書いてみたいと思う。(〈断片・日記抄〉)


永田耕衣の書画と吉岡実(2016年1月31日)

かつて私は〈永田耕衣と吉岡実――『耕衣百句』とそ の後〉に「吉岡実にとって永田耕 衣は、詩書画を打って一丸とした稀有な人格そのものだった」と書いた。今回は耕衣の書画集《錯》を手掛かりに、吉岡と耕衣の書画の関わりを探ってみたい。 ここに《錯》の販売促進用のチラシがある(天地190×左右160mm)。片面はカラー印刷で、上部に「金剛童子」を描いた耕衣画、 下部に本 書刊行の発起人代表・光谷揚羽の挨拶文が掲げられている。

永田耕衣書画集《錯》(永田耕衣書画集刊行会、1986年5月1日)のチラシ
永田耕衣書画集《錯》(永田耕衣書画集刊行会、1986年5月1日)のチラシ

片面はスミ一色で、本書の概要が印刷されている(原文横組み〔/は改行箇所〕)。
「永田耕衣書画集 錯/限定500部
全作品カラー収録(166点)/判型A4判・麻布クロス装/差込箱納
寄稿者
海上雅臣 高橋睦郎/棟方志功    西脇順三郎/三好豊一郎    岡部伊都子/塚本邦雄    須田剋太/岡田宗叡    須永朝彦/金子 晉    加藤郁乎/高柳重信    村上翠亭/村上翔雲    三橋敏雄/兜坂香月 吉岡 実
頒布 1986年5月1日/頒価 15,000円」
以下、永田耕衣書画集刊行会の住所(創文社内)、電話番号、郵便番号、振替口座番号が記されている。ついでに、本書の奥付も引いておこう(住所等は省 略)。

 著者 永田耕衣
 刊行 光谷揚羽
 印刷 創文社
 製本 須川製本所
 装幀 加川邦章〔湯川成一が装丁者として本名の外に使用した別名〕
 制作 湯川書房

 発行 永田耕衣書画集刊行会
 昭和六十一年五月一日 五百部発行
 頒価 壱萬五千圓(送料共)

次に掲げるのは《琴座》417号(1986年7月)の〈永田耕衣書画集・錯 愛語集〈続〉〉に掲載された吉岡の耕衣宛書簡である(同誌、二三ページ)。

 拝啓 久しくごぶさたいたしておりますが、お元気のことと拝察いたします。このたび、美事な『永田耕衣書画集・ 錯』が出来まし たことを、お祝い申上げます。先ずなによりも驚いたことは、小生所蔵の「不生」が最初に掲載されていたからです。光栄といっては妙ですが、喜んでいます。 「金剛」の名品二点がいまだ耕衣様の手元にあるのを知り、安心いたしました。作品と所蔵者を結びつけるたのしみ、それと選ばれた耕衣様のご苦心を感じたり しております。当然ながら、所蔵者不明で、数々の秀作がもれているのではないでしょうか。昔、田荷軒に懸っていた、巨大な赤牛、あれがないのは残念です。 小生が一番に心惹かれたのは、「羽痛女神像」です。大きさがわかりませんが、天地いっぱいに存在しているように見えます。中村苑子さん秘蔵というのも、め でたいことです。本当にくり返し見てたのしんでおります。さて、末筆になってしまいましたが、洩れ聞くところ、奥様の病状がはかばかしくないとのこと、耕 衣様のご心痛のほど、なんとお慰め申してよいやら、途方に暮れております。
 五月十八日

《錯》には、青江涼江に始まり吉岡で終わる77名の氏名を50音順で記した〈永田耕衣書画集刊行協賛者名簿〉が載っている(一三六〜一 三七ペー ジ)。おそらくこれが刊行を支援する最も広い関係者網であり、その内側に掲載作品の所蔵者がいて、さらにその内側に本書への寄稿者がいると考えられる。吉 岡実は、そのすべてに名を連ねている。〈目次・収録作品一覧〉で吉岡と本書の関わりを見よう(項目は「頁」「作品名」「所蔵者」、参考までに耕衣が揮毫し た賛を〔 〕内に補った)。

 ・13 不生(書)    吉岡実
 ・15 「日 記」抄 吉岡実
 ・109 梨花晩年夢仏    吉岡実 〔晩年や夢を手込めの梨花一枝〕
 ・110    曉暗鯰戯図    吉岡実 〔曉暗も人類無かれ桃の花〕
 ・116 鯰知蚤音恵仏    吉岡実 〔蚤の音鯰は知らず秋の暮〕
 ・117 女神虚無仏    吉岡実 〔白桃をいま虚無が泣き滴れり〕

〈「日記」抄〉は吉岡の文章、すなわち須磨の田荷軒に耕衣を訪ねた初対面の1967年4月27日の日記の再録(一九八〇年思潮社刊随想 集『「死児」 という絵』所収「日記抄―一九六七」抄)で、対向ページには田荷軒所蔵になる〈金剛(書)〉が配されている。前掲吉岡書簡にもあるように、耕衣の書画作品 を吉岡実所蔵の〈不生(書)〉で始めたあたり、作者の、そして本書の制作者たちの吉岡への厚遇が読みとれる(ちなみに〈不生(書)〉の対向ページの文章 は、棟方志功〈永田耕衣展を祝う〉の再録)。ところで、吉岡には《「死児」という絵》(思潮社、1980)や同書の増補版(筑摩書房、1988)に収録し た文章以外にも、耕衣の句や書画に触れた文章や書簡が数多くあり、主要なものは耕衣主宰の《琴座》誌に掲載されているので、それらを見てみよう。

☆ 銀椀鈔――永田耕衣宛書簡 《琴座》163号(1963年5月)

 拝啓 やっと春らしくなりました。お元気で書作の仕事に精進されていることと察します。いつもいつも耕衣の書が欲しいと思ってい ましたがお願いするのもあつかましいと思ってがまんしていました。書の展覧会を 催すことは「琴座」で知っていましたが、頒けていただけないだろうとあきらめていたところ昨日後援会員になれば書作品が手に入るとのこと早速申込みまし た。本当なら書作展に参り心ゆくまでに墨蹟をじかに見たいのですが仕事のため行けません。すばらしい会でありますように。〔……〕

☆ 銀椀鈔――永田耕衣宛書簡 《琴座》166号(1963年8月)

  雨もひとやすみ、ここ二、三日夏らしくなりました。先週の日曜日、寝床のなかで、貴重な書作品拝受しました。すばらしい墨蹟、近づいて見、遠ざかって見て たのしんでおります。適当な大きさなのも、狭い部屋なのでとても具合がよいのです。只今、風塵にさらしたくないので、飾棚の中に蔵しています。耕衣さんの 本意にそむく行為とは知りながら。返事がおくれたことをおわびします。
 六月十七日夜
 追伸。
 、さぞかし御盛会だったのでしょう。参れなかったのを残念に思いま す。さて最近、楠本憲吉さんから、排衣さんの
 百姓に今夜も桃の花ざかり
の短冊いただきました。まだお礼を申上げてないので、今夜にも手紙を書きます。小生、半年の間なにもしていません。耕衣さんのお仕事ぶりに恥入るばかり。

楠本憲吉宛書簡〔1963年6月 18日〕 《玉英堂稀覯本書目》275号(玉英堂書店、2004年5月)

拝 啓、お元気でお仕事のことと思います。早速に、耕衣短冊おとどけいただきながら、お礼を申すのが、たいへんおくれて申訳ございません。お電話でもと思った のですが、それも失礼と存じ、手紙をさしあげようとしているうちに、妙に無気力状態になり、今日に至りました。おゆるし下さい。貴重なもの、本当にありが とう存じました。今度の書作展の一点を頒けていただいたので、いっぺんに 二点も藏することができてうれしいところです。敬具

☆ 日記抄――耕衣展に関する七章 《琴座》235号(1969年11月)

五月二十六日 夜、信濃町の光亭で、郁乎、重信、それと初対面の海上雅臣、岡田宗叡氏と会う。七月に三越で展かれる永田耕衣展の打合せ。すいせん文、すいせん者の依頼の分担、案内状の発送などについ て。九時一応了る。料亭の部屋を飾る、志功の屏風、掛軸の肉筆がすばらしい。〔……〕

六月十三日 紀伊国屋サロンで、渡米前のいそがしい草野心平氏と会う。耕衣展のためのすいせん者になって頂くべく。資料として句集、書の写真をみせる。 〈金剛〉の二字をみて、これは本物だ、いいものを見せてくれた――承諾を得る。ほっとして白十字でコーヒーをのむ。夕五時。

七月十四日 午前中の会議をすまし、日本橋の三越へゆく。陽子が和服で現われたのに一寸びっくり。耕衣さんに陽子を紹介し、一緒にサロンを歩く。壁面に ぎっしり飾られた絵と書がまぶしい。一致して欲しかったのは、〈秋怨不動図〉と称す青色のきびしい作品だ。すでに売約済。図体の大きな赤い牛の姿に心惹か れた―〈牛臥揚蝶図〉これもすでに赤札がついている。正午なので外へ出、吉田のそばを食べる。一種の興奮をさますべく近くの喫茶でコーヒーをのむ。戻ると 耕衣さんは旧知の人たちにとりまかれ、家族の方も、光谷揚羽氏も客の応接でいそがしそうだ。全部の作品を丁寧にみる。〈近海地蔵〉は美しくしかも名句〈近 海に鯛睦み居る涅槃像〉の讃があり絶好のもの。陽子の好きな〈鯰仏〉は端麗。迷った末、小品であるが〈白桃女神像〉を予約する。草色と墨の淡彩だが、妙に 寸がつまって魅力がある。〈真風〉の普及版の一冊は飯島耕一へ贈くるため。赤い牛のオリジナルが入っているので特装版も一冊買う。暑い午後。

七月十五日 〔……〕

七月十八日 〔……〕

七月二十日 日曜 ドンクのパンの朝食。陽子洗濯。ひるね。芳来でラーメンを食い三越へゆく。高柳重信、三橋敏雄、寺田澄史、中村苑子氏らと会う。重信夫 妻〈老鴉夕焼図〉に執心するも、間一髪の差で入手出来ず、改めて〈近海地蔵〉を求める。午後六時終了。自から作品をかたずける耕衣さんの姿を見る。小さな 〈白桃女神像〉を持ちかえる。あわただしき別れ。宮益坂のトップで陽子とおちあう。わが猫エリ衰弱はげしく絶望的となる。書斉の壁へ〈白桃女神像〉を飾 る。

☆ 〈鯰佛〉と〈白桃女神像〉 永田耕衣全句集《非佛》栞〈田荷軒周囲〉(冥草舎、1973年6月15日)

 ある日、永田耕衣さんから薄くて大きな荷物がとどいた。包装をといて、私と妻は声をあげた。そこから、耕衣画〈鯰佛〉が出てきた からである。一通の手紙が添えられてあった。
 ――お元気のことと拝察しております。同封小品「鯰佛」が吉岡様の許に居りたがっていますので、迅くからお送りすべきなのに遅れてしまいましたが、同じ 大きさのサキの額に時々入れ替えてでも眺めて頂けるとありがたく存じます。謹しんで呈上申上ぐるしだいです。ボツボツ筆欲に燃えかけています。御清祥に御 越年を。奥様によろしく。――
 それは昭和四十四年の暮のことであった。思いもかけず、可憐な青彩のお地蔵さまが紅い蓮華をかざして、わが家に入ってきたのである。それには次の一句が 書かれている。

  蚤の音鯰は知らず秋の暮

 さかのぼって、その年の夏のこと、日本橋の三越で「書と絵による永田耕衣展」が 開かれたのである。関西では再三催されてはいたが、東京は初めてなので、在京の友人五、六人が成果を上げるべく、お手伝いをしたのだ。いささか心配してい たのだが、それは杞憂にすぎなかった。耕衣の句と書と絵の三位一体の強烈な魂の具現は、知人はもとより、多数の人々を魅了してしまったのである。
 私はひそかに高柳重信に言ったものである。われわれの永田耕衣をいつまでも隠匿して、愛したかったと。幸か不幸かその夢は破れた。

 私と妻は会場をぐるぐる回り、わが家を飾るにふさわしい作品を探した。そして妻は〈鯰佛〉を選び、私は〈白桃女神像〉に執着した。迷った末、耕衣さんに 意見を求めるという、非礼を冒してしまったのである。結局、〈白桃女神像〉を頒けて頂いた。それから四年、私の部屋にそれは揚げられている。筆染された文 字は、

  白桃をいま虚無が泣き滴れり

☆ 青葉台書簡――永田耕衣宛 《琴座》300号(1975年11月)

 〔……〕先日、また渡辺一考君が現われ、「不生」の額を持ってきてくれました。杉の黒塗の美しいその額に、早速耕衣書を入れ、玄 関に懸けましたら、いままで飾ってあった、アバティの色彩銅版画と趣きが一変して、厳しい雰囲気になりました。〔……〕

☆ 愛語鈔――永田耕衣宛書簡 《琴座》351号(1980年7月)

 傘寿の会に参加できてよかったと思います心のこもった素晴しい一夕でした。それに、書 画展も感銘しました。神戸という土地にも親しみを覚え、また参りたくなりました。出来たら、この秋にでも、耕衣さんのお宅に参り、鴉 か鯰の絵を手にしたいものです。〔……〕

☆兜子追 悼 《渦》1981年6・7月号(1981年6月)

 〔……〕
 昨年の春、永田耕衣傘寿の会が神戸の六甲荘で催された。二次会は、三宮のどん底という店で、百鬼夜行的な夜だった。私がかつて田荷軒で観た「金剛」の大 字が懸っているという、バーらんぶるへ、五、六人の酔漢と夜の街をさまよいつつ行った。そこに、したたか酔った兜子がいた。これが三度目の出合いであり、 最後であった。「金剛」の二字は、私の垂涎するものではなかった。
 〔……〕

☆ アンケート「そして、8月1日の……」 《麒麟》4号(1983年10月)〈同日異録B〉

★永田耕衣の「白桃図」を、居間の壁に掛ける。それまでは、この七月に急逝した、わが友高柳重信を悼み「弟よ/相模は/海と/著莪 の花」の染筆を掲げてあった。恵幻子よ、山川蝉夫よ、やすらかに成仏せよ。
〔……〕

☆ 青葉台つうしん――永田耕衣宛書簡 《琴座》397号(1984年9月)

  このところ、暑さが厳しく、いかがおすごしですか。この度の田荷軒訪問からだいぶ日が立ち、いまごろお礼を申し上げるのも、気がひけます。どうかお許し下 さい。土方巽さんも念願を果して、喜んでおりました。耕衣さんの容姿と、メリハリのある話しぶりには、感心していたようです。あの夜は、嵐山の宿に泊り、 翌日は京都市美術館で、憬れの画家バルチュス展を観て、夕方、清水寺へ参り、権兵衛の釜揚げうどんを食べて帰りました。本当は、耕衣さんとゆっくりお話が したかったのですが、土方さんが若い友人数人を、宿に待たせていたものですから。いつもながらあの書斎はくつろぎます。玄関の「花紅」の二字は、素晴しい と思いました。奥様、石井峰夫様によろしくお伝え下さい。
〔……〕

☆ 青葉台つうしん――永田耕衣宛書簡 《琴座》422号(1987年1月)

  拝復 このた びはお手紙と耕衣短冊を拝受して感激いたしました。亡き奥様の忌も明けられたとのこと、またなんと美しいご戒名を贈られたことでしょうか。最高のご供養だ と思いました。さて、頂いた短冊には、不滅の名句「コーヒ店永遠に在り秋の雨」が染筆されており、喫茶店好きの小生には何よりのものです。かつての傘寿の会の折に頂いた短冊の筆勢が、一休的であるならば、これには白隠の風韻を感じ ます。早速に、李朝石仏の脇に置いて、日々眺めております。本当にありがとう存じます。〔……〕

☆ 青葉台つうしん――永田耕衣宛書簡 《琴座》428号(1987年7月)

拝 啓、過日はお心のこもったお手紙と素晴しい絵を拝受いたしました。〔……〕お手紙によると、小生の稚拙な筆になる「葱室十一句」を、喜んで頂きうれしく思 います。そのうえ、立派な額に入れられ、田荷軒の一隅に、飾られたとのこと、面映ゆいばかりです。拝受いたしました、古代黄土顔料で彩られた可憐な仏さ ま。小生にはなぜか、唐子のように見えます。むかし人様から贈られた、古代裂を入れた額にぴったり収って、李朝石仏のわきに鎮座しております。本当にあり がとうございます。〔……〕

吉岡実が句集《葱室》(沖積舎、1987年4月24日)から撰した耕衣句の染筆
吉岡実が句集《葱室》(沖積舎、1987年4月24日)から撰した耕衣句の染筆

これらの書簡や文章で言及したものの外に、吉岡の所蔵になる耕衣の書画があることはいうまでもあるまい。そして、《琴座》に掲載された 以外に吉岡が 耕衣に宛てた書簡がいくつもあること、これはすでに確認している。そこで私はこんな書物を夢みる。吉岡実と永田耕衣の間で交わされた現存する書簡を発信順 に収め、書簡や文章中で吉岡が言及している耕衣の書画、言及してはいないが生前に所蔵し鍾愛したそれらをカラー図版にして掲載する。選句集《耕衣百句》 (コーベブックス、1976)のために吉岡が執筆した耕衣俳句の解説文〈覚書〉を、付録として加える。それを編むことが私に許されるのなら、冒頭で触れた 〈永田耕衣と吉岡実――『耕衣百句』とその後〉(《澤》2011年8月号〈特集・永田耕衣〉)を編者の解説として再録する。さて、書名はなにが佳いだろ う。吉岡実の文章だけなら《土方巽頌》に倣って《永田耕衣頌――〈書簡〉と〈随想〉に依る》とでもしたいところだが、この「永田耕衣・吉岡実往復書簡集 ――耕衣書画を併載」にはどのような命名も受けつけないものがある。

〔付記〕
〈☆日記抄――耕衣展に関する七章 《琴座》235号(1969年11月)〉には「五月二十六日」「六月十三日」「七月十四日」 「七月十五日」「七月十八日」「七月二十日」と六日分の記載しかないが、原文のママである。原稿の段階ではあと一日分の記載があって、なんらかの理由でそ れを削除したものの、題名の「七章」はそのまま残ってしまったものか。最初から「六日分」の記載しかなくて、標題を付けるときに「七日」と勘定しまちがえ ただけかもしれないが。

………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

以下は、永田耕衣書画集《錯》(永田耕衣書画集刊行会、1986年5月1日)所収の石井峰夫編〈永田耕衣個 展年譜〉(同書、一四〇〜一四一ページ)の見出しと開催会場だけを抄したもの。〔*印は吉岡実が観た個展を表す〕

第一回 永田耕衣書作展  昭三八・五/神戸新聞会館文化センター
第二回 永田耕衣書画展 昭四〇・二/神戸新聞会館文化センター
第三回 永田耕衣書画展 昭四〇・三/京都・四条「紅」画廊
第四回 永田耕衣個展(書と絵) 昭四一・五/神戸・元町「みなせ」画廊
第五回 永田耕衣書画展 昭四二・五/神戸そごう店美術画廊
第六回 書と絵による永田耕衣個展 & nbsp;  昭四四・七/東京・日本橋三越美術サロン *
第七回 永田耕衣書画展 昭四五・五/神戸そごう店美術画廊
第八回 永田耕衣展――書と絵による 昭四六・九/大阪・阪急百貨店美術画廊
第九回 永田耕衣展    昭四七・五/東京・銀座万葉洞 *
第十回 永田耕衣書画展 昭四八・五/神戸そごう店美術画廊
第十一回 永田耕衣展 昭四九・九/神戸・三宮さんちかギャラリー
第十二回 永田耕衣書画展 昭五〇・一/大阪・今橋画廊
第十三回 永田耕衣画賛小品展 昭五一・九/大阪・中之島『波宜亭』(新朝日ビル一階)
第十四回 永田耕衣展――書と絵による 昭五一・一一/大阪・阪急古書のまち『リーチ』
第十五回 田荷軒永田耕衣個展 昭五二・一一/神戸・元町画廊
第十六回 永田耕衣傘寿の会協賛個展 & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp;  昭五五・五/神戸・元町画廊 *


《うまやはし日記》のために(2015年12月31日)

吉岡陽子編〈年譜〉(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996)によれば、吉岡実は「一九二六年(大正十五・昭和元年)」「本所明徳尋常 小学校に入 学」、「一九三二年(昭和七年)」に同校を卒業して「本所高等小学校に入学」(同書、七八九ページ)。「一九四七年(昭和二十二年) 二十八歳」「二月、本所の中華料理店で明徳尋常小学校のクラス会(このクラス会は晩年まで続けられた)」(同前、七九二ページ)。そして、「一九八五年 (昭和六十年) 六十六歳/〔……〕六月、本所中学校で明徳尋常小学校の同窓会。記念に求めた『明徳開校百拾周年記念誌』の〈お世話になった人びと〉のアルバムの中に両親 の写真を見つける。戦前の父母の姿に出会い深い感動を覚える」(同前、八〇六〜八〇七ページ)とある。一方、その同窓会のことを書いた吉岡の随想〈学舎喪 失〉(初出は《文學界》1985年9月号〈私の風景〉欄)はこうだ。

 初夏の午後、私は地下鉄の浅草で降り、吾妻橋をわたった。「絶えぬ隅田の川の水」とはわが校歌の冒頭の句である。 今はいささか川面は濁っているが、隅田川はゆるやかに流れている。しかし、私の学んだ小学校は、戦後間もなく、廃校となり、すでに無い。
 「明徳開校百拾周年記念」の催しのある、本所東駒形の本所中学校へ向った。この中学校がその新しい姿である。「校歴」には、廃校の経由が明記されていな い。だが私の記憶では、焼け残った校舎に、罹災者たちが住みつき、再校の時機を失ったのであった。
  私は受付で会費をはらい、缶ビールと弁当を貰って、大きな会場に入った。すでに式典は始まっている。しばらく探し廻り、やっと「昭和七年卒業者」の表示の ある、席を見つけた。男女七、八人で一寸、気勢があがらない。だが懐しい顔があった。鰻屋のサブちゃん、寿司屋のマアちゃん、焼芋屋の長年坊そして下駄屋 の栄松たちは、かつての女生徒を酒の相手に喋っているではないか。そういえば、大先輩の十四世将棋終世名人木村義雄も、下駄屋の息子だったと聞く。「ヨッ ちゃんよく来た!」と迎えられた。サブちゃんは戦死した兄に替って、家業を継いだが、ほかの者はそれぞれ違う商売をえらんだようだ。
 私はともだちと別れ、「帽章」の複製と「記念誌」を買って、町へ出た。少年時代を過した二軒長屋の辺りは、家並が変ってはっきりしない。Y新聞販売店に なっている処のように思われた。まっすぐ浅草へ行かず、脇道をして、駒形橋をわたり、駒形堂にお参りをした。日も暮れかかっていた。

  白鷺の一声啼きてよぎりゆく薄暮の橋に灯のとぼりたる(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二七一〜二七二ページ)

このほど《明徳開校百拾周年記念誌――明徳校友会復活弐拾周年》(扉の書名の「徳」は旧字)を入手したので、同書の記載を参照しなが ら、《うまやは し日記》(書肆山田、1990)に描かれた吉岡の級友たちに登場してもらおう。まず奥付を見ると、発行日は「昭和六十年五月十四日発行」で、「限定版」と あるが限定部数等の記載はない。「発行 明徳校友会/東京都墨田区東駒形三丁目一番十号/墨田区立本所中学校内」、「編集 明徳開校百拾周年/記念事業実 行委員会/記念誌編纂委員会」、「印刷 合同印刷株式会社/〔住所・電話番号は略〕」である。本書の仕様は、B5判上製布装、組立函、総228ページ(最 初の台は4色、後はスミ1色。化粧扉の2ページ分以外すべてコート系の用紙なのは、写真や図版を主に掲載するためだろう)。前付の〈明徳開校百拾周年記念 事業〉には「記念誌の発刊、記念碑の建立、植樹、その他、懐かしい帽章の複製・連帯を謳する校友バツジの製作・現在まで判明した会員各位の名簿(第五集) の発行など」(〔一五ページ〕)とあり、吉岡の記述と合致する。次に〈目次〉の大項目を引く。

 グラビア
 発刊の辞および祝辞
 公文書に見る明徳小学校
 明徳小学校の遺品
 明徳小学校と校友会の沿革
 懐かしのアルバム
 学童集団疎開顛末記
 編集後記

この中の〈年表 明徳小学校と校友会の沿革――併びに地域・社会の歴史〉で、吉岡実誕生の1919年から卒業の32年までの間の重要項目を拾ってみよう。

 1923(大正12) 9月1日 関東大震災のため校舎焼失。
 1929(昭和4)    11月25日 威容があってモダンな鉄筋三階建の新校舎が完成。敷地面積・五五一二u、校舎延面積・五七二八u、区内校最大。
 1930 (昭和5)    3月31日 市立「中和図書館」が、中和小学校から「明徳尋常小学校」に移転してきた。のち「市立・東駒形図書館」と改称。/5月1 日 明徳 校は学級数二十六、職員三十名、児童数一四六〇名、ほぼ震災前と同数のマンモス校となる。/・この年、新校歌「絶えぬ隅田の川の水…」を制定する。(本 書、六三〜六八ページ)

本筋からはやや逸れるが、明徳校友会の相談役で大正6年卒業の木村義雄の〈回顧〉(〈発刊の辞および祝辞〉)を見ると、「町〔本所区表 町〕の中程に 篠塚地蔵というお地蔵様があって、月のうち四の日が縁日で賑かだった。それほど広くもない境内だが、夜店がぎっしりで紙芝居の屋台も割込んでいた。紙芝居 屋さんは声色がうまく、狂言はいつも水滸傳で、花和尚魯智深と九紋龍史進との、雪中の決戦という場面が手に汗を握った」(本書、一九ページ)という述懐が 興味深い(吉岡の日記にも篠塚地蔵尊が出てくる)。ちなみに木村終世名人は吉岡より14歳年長。吉岡は木村義雄のようには執筆しておらず、おそらくどの記 事にも出てこない。本書で唯一「吉岡實」が登場するのは〈懐かしのアルバム〉――扉裏には「明徳小学校の明治・大正・昭和の三代に亘る卒業記念写真帖で す。現在蒐め得た限りの集大成であり、敢えて当時のままの復刻としました。」とある――の〈昭和七年 一組〉の卒業写真に付せられた「六ノ一」の生徒氏名 としてである。

本所明徳尋常小学校、昭和7年6年1組の卒業記念写真(吉岡実は上から2段めの右から3人め)
本所明徳尋常小学校、昭和7年6年1組の卒業記念写真(吉岡実は上から2段めの右から3人め)
出典:明徳開校百拾周年記念事業実行委員会・記念誌編纂委員会編《明徳開校百拾周年記念誌――明徳校友会復活弐拾周年》(明徳校友会、1985年5月14 日、一一七ページ)

本所明徳尋常小学校、昭和7年卒業6年1組の担任田口信太郎先生と全生徒57名の氏名を録する(写真の上段から下段へ、左から右へ。表 記には旧字も用いた)。★印は《うまやはし日記》に登場する人物で、数字は同書のノンブル(以下同)。

高須 長藏・中原精八郎・中林傳次郎・大塚 次男・山口 信雄・松本 恭治・板垣 武男・川島善一郎・中島 俊雄・加茂 俊一・高岸  貞雄
中澤 一郎・★大角 輝男・佐藤 章・★小澤 稔・★中山 慶司・徳生 登・★山野邊三郎・樗木 壽敏・★安原 龜夫・増尾 六郎・吉岡 實・★山田  弘・飯塚 保
★池田福太郎・大林 一衞・小見 計・竹内 武雄・小熊惣一郎・牧上 勘三・杉本 陽一・★松本 長年・佐藤喜八郎・伊藤晴治郎・小林 正泰・富田 貢
青木 繁・堀越 光夫・富田 實・★佐藤 榮松・東海林 實・戸塚 林哉・★久保 文雄・★香取 和雄・内藤 政男・山森 重房・★福田 俊雄
石上 弘行・田村 孝・加部 隆三・★土切 正二・★土橋 鐵彦・★田口 先生・羽田 勝恵・杉野 茂・齋藤勝之助・宮本慶太郎・谷口 純三

★大角 輝男=94
★小澤 稔=24「一九三九年四月二日/夕暮どき、篠塚地蔵の前で、山野辺三郎と出会う。同級生の小沢が 殺[や]られたとのこと。小学校卒業以来、小沢稔(?)には会っていないが、噂では乾分数十人を持つ兄い[、、]だったらしい。可哀そうな気がした。奴の 姉は美人だった。」〔本書には小澤稔の姉とおぼしき女生徒の卒業写真も載っている〕
★中山 慶司=19・47・52・64・68・69・79・94・112・120
★山野邊三郎=〈学舎喪失〉・19・24・57・59・66・79・89・93・94
★安原 龜夫=94
★山田 弘=79・94
★池田福太郎=89
★松本 長年=〈学舎喪失〉
★佐藤 榮松=〈学舎喪失〉
★久保 文雄=93
★香取 和雄=94
★福田 俊雄=93
★土切 正二=19
★土橋 鐵彦=39「一九三九年五月十五日/土橋鉄彦君の遺稿集『愛日遺藁』を読んで、その文才に驚く。早速、兄さんの土橋利彦(塩谷賛)へ感想の手紙を 書く。」、120「一九四〇年一月二十日(晴)/朝、十時ごろ赤羽の法善寺へ行く。土橋鉄彦君の三回忌の法要。十年ぶりで家族に会う。兄の利彦さんと夭折 した友の想い出にふける。画家か小説家を志望していたそうだ。丘の墓地にお参りして帰った。午後三時過ぎ麻布へ廻る。慶ちゃんと面会したのは麻布三聯隊の 原の埃の吹く、寒い夕暮。」〔本書には土橋利彦の卒業写真も載っている〕
★田口 先生=79・94

残念なことに、「まあ坊」(他に「マア坊」「マアちゃん」とも)が誰だかわからない(〈学舎喪失〉・54・89・94・121)。昭和 7年卒業6年 1組の57人の名前から見当をつけると、「小林正泰」「内藤政男」「土切正二」の3人だが、「吉岡實」=「ヨッちゃん」の流儀でいけば姓の可能性もあるわ けで、特定は困難だ。とは言うものの、私としては、これに廐橋の通りの屋台寿司の「正坊」(48・57・60)を加えて、「土切正二」か、という推測に傾 いている。名前といえば、吉岡以外にも「實」が「富田實」「東海林實」とクラスに2人もいるのには驚かされる。ちなみに、同じく男子ばかり56人の6年2 組に「實」はいない。増田六助(79・94)も明徳尋常小学校の同級生のようだが、どうしたわけか卒業記念写真には載っていない。《うまやはし日記》の 1939年9月19日に登場する「島田富栄先生」(76)は、吉岡が卒業したときの6年4組(生徒は女子53名)の担任である。吉岡には、前掲〈学舎喪 失〉以外に同級生の同窓会について書いた随想はない。だが吉岡を見送った高橋睦郎の文章があり、幸いなことにその最終部分に吉岡の同級生たちが登場するの で、やや長いが引用する。吉岡が詳しくは書かなかった同窓会の雰囲気がうかがえる。

 数日後、私は一通の葉書を受けとった。そこには「吉岡実君の葬儀、ご苦労さまでした。私は小学校一年から六年まで ずっと吉岡君 と同級でした」とある。表書に「★香取青甌」とあるその名前は、私が二年前から選をしている「銀座百点」誌俳句欄の常連投稿者で、秀逸にも採った記憶があ る。「少年時代の吉岡さんについていろいろお聞かせいただきたいものです」と返事を書いた。香取さんからはまた葉書が来て、吉岡さんと香取さんは最近でも 少年時代のまま「ヨッちゃん」「カー坊」と呼びあっていたこと、小学校時代の仲間が今日に至るまで一年に一回集まって来たことを知った。
 八月も半ば過ぎ、陽子夫人から電話があった。吉岡の同級生の同窓会に私と睦ちゃんと誘われているんだけど、行く? もちろん二つ返事で出席することにし た。追って香取さんから手紙があり、同窓会の場所と世話人の電話番号を教えられた。すぐ世話人の★山ノ辺三郎さんに電話して、出席させていただく旨伝え た。
 八月二十三日夕刻六時半、地下鉄浅草駅吾妻橋口に出た私は迎えの山ノ辺さんの案内で吾妻橋を渡り、いかにも下町の小料理屋の風情の会場、お多紀に行っ た。出席者は十二、三人あったろうか、陽子夫人の顔もすでにあった。陽子夫人の隣には吉岡さんの写真が飾られていた。私の隣の六十歳そこそこにしか見えな い眼鏡の人が、香取です、と自己紹介をした。
 陽子夫人と私とを除く出席者すべて七十歳を越えているはずなのだが、そこにいない「ヨッちゃん」を連発し、おたがい幼年時代の通称で呼びあっているう ち、昭和初年の本所明徳尋常小学校の腕白の集まりと二重写しになってくる。後で送られて来たスナップ写真を見ると、どの写真の陽子夫人も私もうれしそうに 笑っている。一滴も飲まない「ヨッちゃん」も毎回最後まで付き合ったそうで、吉岡さんがこの集まりを大切にしていたことがわかる。
 陽子夫人によると、吉岡さんは三十年の結婚生活中、浅草まで来ても陽子夫人を伴って橋のこっちに来たことは一度もない、という。それほど大切にした幼年 時代の聖域への思いは遺著『うまやはし日記』に凝縮している。誰か『うまやはし日記』を映画にしてみようという、意欲ある監督はいないか。「童年往事」 「悲情城市」の台湾の〔候→侯〕孝賢監督では駄目かしらん、などと思い思いしている。(高橋睦郎〈吉岡実葬送私記〉、《現代詩読本――特装版 吉岡実》思潮社、1991、二五五〜二五六ページ)

★香取青甌=香取 和雄
★山ノ辺三郎=山野邊三郎


卒業記念写真とそこに記された同窓生の氏名は《うまやはし日記》における吉岡の交友関係を読みとくための最も重要な図像=資料である(本所高等小学校の卒 業記念写真は残っていないのだろうか)。同様に、出 征時の記念写真が吉岡の親族を読みとくための最も重要な図像=資料ということになる。最後に、冒頭で引いた〈年譜〉に登場する「アル バムの中に」見つけた「両親の写真」を掲げて、本稿を締めくくることにしよう。

「アルバムの中に」見つけた「両親の写真」
「アルバムの中に」見つけた「両親の写真」
出典:明徳開校百拾周年記念事業実行委員会・記念誌編纂委員会編《明徳開校百拾周年記念誌――明徳校友会復活弐拾周年》(明徳校友会、1985年5月14 日、一九九ページ)

写真の上段から下段へ、左から右へ。

 並木竹太郎・吉岡 いと・奥地 勝
 吉岡紋太郎・澤田政五郎・岡田伊之助

《うまやはし日記》にも登場する吉岡の叔父(父紋太郎の弟)である澤田政五郎(76・77・78・104)は1939年10月1日に亡 くなっているから、それより前の撮影。

〔追記1〕吉岡実の戦後の日記
《うまやはし日 記》には、1939年8月4日の浅草のとんかつ屋「喜多八」でのクラス会のこと(64-65)、8月11日の、そのクラス会の記念写真のこと(66)―― 《ユリイカ》1973年9月号、八五ページおよび《現代詩読本――特装版 吉岡実》口絵の「出征会にて」の写真はこれか――、10月15日の明徳尋常小学校同窓会のこと(80-81)――《ユリイカ》同号、八九ページの写真はこ れに違いない――、11月26日の福寿荘での本所高等小学校のクラス会のこと(92-93)が描かれている。《うまやはし日記》にたびたび登場する味形 (19・70・74・93・118)は、本所高等小学校時代のクラスメートである(明徳尋常小学校からの級友は「幼年時代の通称」で、本所高等小学校から の級友は苗字で呼ばれることに注目したい)。一方、吉岡実の戦後の日記には、明徳尋常小学校のクラス会(1947年2月2日と1948年7月3日)の様子 が描かれている。戦後の日記の記載については、大岡信との対話に吉岡のコメントがあるので、それも含めて引く。

……………………………………………………………………………………………………………………………………

昭和二十二年二月二日 日曜 小学校のクラス会を本所の中華料理店でする。★田口先生も老けられたが声が若い。★マア坊、★長蔵、★六 助、★俊一、 ★栄松が集った。消息のわかっているもの、★大角、★小見、★中山の慶ちゃん戦死。うなぎ屋の★さぶちゃんがいないのはさびしい。名物業平だんごはうま かった。(〈断片・日記抄〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》思潮社、1968、一〇八ページ)

★田口先生=田口信太郎
★マア坊
★長蔵=高須 長藏
★六助=増田六助
★俊一=加茂 俊一
★栄松=佐藤 榮松
★大角=大角 輝男
★小見=小見 計
★中山の慶ちゃん=中山 慶司
★さぶちゃん=山野邊三郎

……………………………………………………………………………………………………………………………………

七月三日(土曜)
 〈クラス会〉
 すり[、、]の多い地下鉄にのる/かね[、、]を持っていないから/安心してぼんやり/映画 のビラを見ていた/隅田公園は荒れ果てていても/涼みの人たちが川を見ていた/川の水もいくらか澄んで流れていた/むかしのように今でも/石垣に蟹がひそ んでいるかな/なつかしくゆっくり吾妻橋をわたる/恋びとたちのボートが幾つか浮いていた/僕は橋の上の淋しい男?/夜六時過ぎ/小料理屋に十人ほど集っ た/明徳尋常小学校昭和七年卒業生/うなぎ屋の★さぶちゃんは頭が禿げて二人の子の親/左官屋の★ろくすけは早死した同級生の姉が恋女房/すし屋の★まあ 坊はお惣菜屋の主人/支那そば屋の★けいちゃんだけが戦死/恩師★田口先生はこの春なくなられた/名残りつきない夜の宴/大粒の雨が降ってきた(〈日歴 (一九四八年・夏暦)〉、《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》書肆山田、1996、一三ページ)

★さぶちゃん=山野邊三郎
★ろくすけ=増田六助
★まあ坊
★けいちゃん=中山 慶司
★田口先生=田口信太郎

……………………………………………………………………………………………………………………………………

大岡 た とえばきみの場合、やはり日記でね、終戦直後ぐらいに同窓会をやって、そこに出てくる名前が書いてあるわけね。それが苗字はひとつも出てこない。
吉岡 そう、★さぶちゃんと か★マア坊とか。
大岡 そういう名前で出てく る人をうまく書くのは、非常に難しいと思 う。だけど、それをやったら非常に面白かろうっていう気もするんだ。〔……〕そういう関係のもってる雰囲気を正確に書くくらい難しいことないんだよな。吉 岡は、そういう体験を書けるかもしれない人だと思う。ただそれをやるとね、詩の方で作ってきた非常に硬質のものとそれがどう結びつくか、だ。
吉岡 痛いことを言うね、そ れなんだよ。ぼくにとって本所の生活って のは、おそらく書けると思うの、ある程度までね。高等小学校の頃なんてのは、焼芋屋へいってさ、それがわれわれの溜まり場ね。冬なんて焼芋の釜にあたっ て、ダベっていたものだな。うなぎ屋の★さぶちゃん、寿司屋の★マアちゃん、そういう人間書けると思うのよ。ただ、大岡が言った、詩でいままで考え、構築 してきたことと、どうつながるのかということね。
大岡 だから多分小説じゃな くて、一種のエッセイだろうね。遠景なら遠景に、そういう人物をかちっと嵌め込めば、吉岡風景ができると思う。(吉岡実・大岡信〔対話〕〈卵形の世界か ら〉、《ユリイカ》1973年9月号、一五七ページ)

★さぶちゃん=山野邊三郎
★マア坊
★マアちゃん

〔追記2〕江戸川乱歩の廐橋
江戸川乱歩の長篇小説《幽鬼の塔》(初刊は非凡閣、1941年7月29日)を、桃源社版江戸川乱歩全集(1963年7月)の覆 刻で読んだ (《江戸川乱歩全集〔第十五巻〕》沖積舎、2009年6月19日)。素人探偵、河津三郎(明智小五郎を思わせる)が塔での連続縊死をめぐる謎を究明する話 だが、冒頭の一節を引用しないわけにはいかない。

 彼はそのころ、毎晩のように黒の背広、黒の鳥打帽という、忍術使いのようないでたちで、隅田川の橋の上へ出かけて 行った。東京 名所にかぞえられるそれらの橋の上には、設計者の好みの構図によって、巨大な鉄骨が美しい人工の虹を描いていた。黒装束の素人探偵は深夜十二時前後に、橋 の袂にタクシーを乗り捨て、人通りのとだえたところを見すまして、その人工の虹の鉄骨の上によじのぼるのであった。
 闇のなかの幅の広い鉄骨は、黒装束のひとりの人間を充分下界から隠すことができた。彼はその冷え冷えとした大鉄骨の上に身を横たえ、まるで鉄骨の一部分 になってしまったかのように、身動きもしないで、二時間、三時間、闇の中に眼をみはり耳をすまして、その下を通りすがり、その下に立ちどまる人々を観察す るのであった。
 〔……〕
 この物語の発端をなす四月五日の夜、河津三郎は例の黒装束に身をかためて、廐橋の鉄骨の上に横たわっていた。
 もう十二時に近かった。両岸のネオンの電飾も消え、河ぞいの家々の窓もとざされ、橋の上の自動車の往き来もとだえがちになって、昼間雑沓の場所だけに、 その物淋しさはひとしおであった。(同書、一五九〜一六〇ページ)

さらに、これは偶然というほかないが、結末近くで卒業記念写真が登場する。「校長に面会して、口実を設けて、卒業生名簿や、卒業記念の 写真を見せて もらったが、その写真の一枚には、進藤、青木、大田黒の三人はもちろん、三田村までも、詰襟服を着た子供々々した顔を並べていたのである。/河津は、それ をたしかめたばかりでは満足しないで、なおもその八十何人の卒業生の顔を、ひとりひとり入念に眺めていった。すると、彼の眼がハッと一つの顔にぶつかっ た。予感が的中したのだ。そこに、あの最初の首吊り男鶴田正雄とそっくりの顔をした少年が、たくさんのいがぐり頭の中から、ヒョイとのぞいていたのであ る。/名簿を調べてみると、やはりこれは鶴田正雄に違いないことがわかった。ああ、なんということだ。小説家と代議士と画家と雑貨問屋とが、揃いも揃っ て、同じ中学の卒業生であったばかりか、あの奇怪な首吊り男までが、彼らの同期生であろうとは」(同書、二四五ページ)。
乱歩の〈あとがき〉によれば、本作は《日の出》1939年4月号から40年3月号まで連載された。吉岡の岳父、和田芳恵が戦前の10年間ほど《日の出》の 編集者だったというのも奇遇である。


吉岡実の〈アリス詩篇〉あるいは《アリス詩集》(2015年11月30日)

秋元幸人の〈《アリス詩篇》私註〉に「いずれにしても、「ルイス・キャロルを探す方法」とそれに続く、「『アリス』狩り」とから成る吉 岡の《アリス 詩篇》は、音読するに楽しく、聞いて心地よく、静かに繰り広げられるイメージを思い描いて美しい作品である。〔……〕その生涯の全詩篇を通読する時には、 人は必ずこの二篇から、吉岡実の新天地が拡がってゆくのを痛感することだろう」(《吉岡実アラベスク》、書肆山田、2002年5月31日、五〇ページ)と あるとおり、吉岡実の〈アリス詩篇〉は〈ルイス・キャロルを探す方法〉(G・11)と〈『アリス』狩り〉(G・12)から成る。だがこれは狭義の〈アリス 詩篇〉、すなわち《サフラン摘み》(1976)に収められた初期の2篇であって、吉岡にはこれらを含む「アリス詩集の夢」があった。鶴岡善久の〈〈サフラ ン摘み〉に関するaからeまでの私的な断片〉(《詩学》1977年3月号)に引かれている吉岡からの返信の「アリス詩ほめていただきありがとう存じます。 いずれあと二、三篇を作って一冊の本を夢見ています。………」(同誌、三八ページ)がその証である。同文で鶴岡が吉岡書簡に続けて

 吉岡さんが夢みたアリス詩の一冊の本は実現しなかった。アリスの詩は一応は〈サフラン摘み〉に収録されてしまっ た。しかしぼく はいまだアリス詩の一冊の本の夢をみつづけている。いつの日か吉岡さんを説き伏せて美しい限定本を作る本屋さんの力をかりて一冊の美しいアリス詩集を作る 仲立ちをしたいものだとぼくは夢みている。

と書いているように、アリス詩の一冊の本は実現しなかった(文中の「美しい限定本を作る本屋さん」は、鶴岡が政田岑生と組んで編集した 〈叢書溶ける 魚〉――吉岡の《液体》再刊は叢書の第2集――を出した版元、湯川書房を想起させる)。だがここに、限りなくそれに近い印刷物が実在する。《花の国のアリ ス――ALICE IN FLOWERLAND》(未生流中山文甫会、1976年2月4日)がそれだ。本書には〈ルイス・キャロルを探す方法〉を構成する2篇のうちの1篇〈わがア リスへの接近〉の再録と、のちに拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》(1980)に収められた〈人工花園〉(I・19)の初出が掲載されているのだ。《花の 国のアリス――ALICE IN FLOWERLAND》(以下《花の国のアリス》)は、1975年10月3日から8日にかけて新宿京王百貨店で開かれた〈第一回三人展 中山文甫・中山景之・中山尚子〉を記念して、翌年2月に限定1000部で発行された図録的な冊子である。同書の目次(〔 〕は小林による補記)と奥付を録 する。

一辨[ひとひら]の頁=武満 徹    6-7
Please be our guest.....〔英文〕    8-9
〔花の国のアリス・目次    10-11〕
内なるものを拒否する作家・中山文甫=浅野 翼    14-23
わがアリスへの接近=吉岡 実    25-32
花の国のアリス展〔図録〕    33-96
無限にかさなる宇宙 the cosmos=中山文甫    42
ブランコにのり旅に出よう function=中山尚子    49
微細なものが働く micro-cosm=中山景之    61
花の国のアリス展について=中山文甫    66-67
光がなければみえない=中山尚子    76-77
無限につづく時から=中山景之    86-87
インド・ナタマメの幻想=板根厳夫    98-103
人工花園=吉岡 実    104-107
見事な空間演出=早川良雄    108-109
呼びかける空間=豊口 協    110-113
博覧会方法論小考〔無署名〕    116-121
アリスが姿をみせるまで〔浅野 翼〕    122-128
〔展覧会スタッフ    128〕
年譜〔中山文甫・中山尚子・中山景之〕    130-149
〔筆者紹介    150-151〕
〔奥付    153〕

……………………………………………………

限定一〇〇〇部参拾参〔番号は筆書き〕番
花の国のアリス

写真=岩宮武二・本郷秀樹・国東照幸
ブックデザイン=国東照幸
イラストレーション=ジョン テニエル・フイリップ ガーフ

昭和五一年二月四日発行
編集=株式会社未生
発行者=中山文甫
発行所=未生流中山文甫会
大阪市北区葉村町四一 郵便番号=五三〇 電話=大阪〔略〕
東京都港区赤坂七―二―一〇―三〇六 郵便番号=一〇七 電話=東京〔略〕
昭和五一年一月二五日印刷
印刷=奥村印刷株式会社
製本=自信製本

〈わがアリスへの接近〉(G・11の1篇)の再録ページ(冒頭の見開き)〔出典:《花の国のアリス――ALICE IN FLOWERLAND》(未生流中山文甫会、1976年2月4日、ブックデザイン:国東照幸)〕 《花の国のアリス――ALICE IN FLOWERLAND》の表紙
〈わがアリスへの接近〉(G・11の1篇)の再録ページ(冒頭の見開き)出典:《花の国の アリス――ALICE IN FLOWERLAND》(未生流中山文甫会、1976年2月4日、ブックデザイン:国東照幸)〕(左) と同書の表紙(右)

本書の構成を私なりにまとめると、次のような\部になる。

T 
 一辨[ひとひら]の頁=武満 徹    6-7
 Please be our guest.....
〔英文〕    8-9
U 目次
 〔花の国のアリス・目次    10-11〕
V オマージュ
 内なるものを拒否する作家・中山文甫=浅野 翼 14-23
 わがアリスへの接近=吉岡 実 25-32
W 図録
 花の国のアリス展 33-96
 無限にかさなる宇宙 the cosmos=中山文甫 42
 ブランコにのり旅に出よう function=中山尚子 49
 微細なものが働く micro-cosm=中山景之 61
 花の国のアリス展について=中山文甫 66-67
 光がなければみえない=中山尚子 76-77
 無限につづく時から=中山景之 86-87
X 論考
 インド・ナタマメの幻想=板根厳夫 98-103
 人工花園=吉岡 実 104-107
 見事な空間演出=早川良雄 108-109
 呼びかける空間=豊口 協 110-113
Y あとがき
 博覧会方法論小考〔無署名〕 116-121
 アリスが姿をみせるまで〔浅野 翼〕 122-128
Z クレジット(1)
 〔展覧会スタッフ 128〕
[ 資料
 年譜〔中山文甫・中山尚子・中山景之〕     130-149
\ クレジット(2)
 〔筆者紹介 150-151〕
 〔奥付 153〕

このように見てくると、仮に「論考」としてまとめたXに置かれた吉岡の〈人工花園〉が(散文)詩と論考の中間形態のように思えてならな い。事実、〈人工花園〉は 段落冒頭を1字下げで始める書き方こそないものの(Xの他の文章にも字下げがないから、本書のレイアウトの方針に依るものかもしれず、吉岡が字下げをした かしていないかは原稿未見の段階では不明)、初出では句読点もあり、純然たる散文の形式で書かれ、拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》への収録に際して現行 の散文詩型に改められた。板根、早川、豊口の文は評論文であり、吉岡も必ずや〈第一回三人展 中山文甫・中山景之・中山尚子〉の会場に足を運び(最低でも資料写真を目にして)、本文を書いたものと思われる。狭義の〈アリス詩篇〉における、ルイス・キャロルが撮ったアリスたちの 写真に 相当するものである。残念ながら私は同展を観ていないが、本書に掲載された写真を見るかぎり、1970年の大阪万国博における近未来をイメージした諸諸の 展示物を想わせるものがある。さて今回、私が試みたのは、《花の国のアリス》の吉岡実詩の組体裁で、架空の書《アリス詩集》を制作することである。同書所 収の〈人工花園〉の基本版面は次のとおり。

〈人工花園〉(《花の国のアリス ――ALICE IN FLOWERLAND》所収)の基本版面
天地250mm 12ポイント 25字詰め 版面天地105mm(300ポ=105.42mm) 天アキ72.5mm 地アキ72.5mm 左右150mm 13行組 行間12ポイント 版面左右105mm(300ポ=105.42mm) 小口
ア キ30mm ノドアキ15mm

すなわち正方形の版面を用紙の天地中央に「小口アキ:ノドアキ=2:1」で配置している。実測と推定による上記の数値をテンプレートと して、InDesignで組んだのが下図の(右)である。

〈人工花園〉(I・19)の初出掲載ページ(冒頭の見開き)〔出典:《花の国のアリス――ALICE IN FLOWERLAND》(未生流中山文甫会、1976年2月4日、ブックデザイン:国東照幸)〕 《花の国のアリス》の基本版面で再現した〈人工花園〉の定稿(冒頭の見開き)〔InDesignによる〕
〈人工花園〉(I・19)の初出掲載ページ(冒頭の見開き)〔出典:《花の国のアリス ――ALICE IN FLOWERLAND》(未生流中山文甫会、1976年2月4日、ブックデザイン:国東照幸)〕(左)と《花の国のアリス》の基本版面で再現した〈人工花 園〉の定稿(冒頭の見開き)〔InDesignによる〕(右)

〈ルイス・キャロルを探す方法〉を構成するもう1篇〈少女伝説〉および《サフラン摘み》後の詩集に収められた〈夢のアステリスク〉 (H・22)など の広義の〈アリス詩篇〉、それらに先駆けて書かれた〈少女〉(F・5)、〈聖少女〉(F・10)、さらには〈『アリス』狩り〉とほぼ同時期に書かれた〈ピ クニック〉(G・7)を加えると、私の考える《アリス詩集》は次のような内容になる。

ルイス・キャロルを探す方法
  ――わがアリスへの接近……6-9
  ――少女伝説……10-16
『アリス』狩り……18-25
夢のアステリスク……26-31
人工花園……32-35
   *
少女……36-39
聖少女……40-41
ピクニック……42-44

吉岡実はアリスを折りこんだ詩を〈ルイス・キャロルを探す方法〉〈『アリス』狩り〉〈夢のアステリスク〉〈人工花園〉の4篇しか書かな かった。書け なかった、といった方が正しいかもしれない。それらはいずれも秋元幸人が愛したように、黙読にも音読にもたえうる佳篇である。《アリス詩集》を夢見る者の ひとりである私は、その想いが嵩じて、私版《吉岡実による『アリス詩集』》を編み、あまっさえ造本・装丁を手掛けることで《詩の国のアリス》を拵えてし まった。本書を秋元幸人に見てもらいたかった。《アリス詩集》のために書いた序文を掲げて、本稿を終えることにしよう。

ささやかな記念|小林一郎

吉岡実には、実現しなかった詩集が何冊かある。〈鰐叢書〉の一冊《ライラッ ク・ガーデン》、〈苦力〉などの馬の詩篇を集めた選集、そして〈アリス詩篇〉を集めた《アリス詩集》だ。二〇一〇年に四十八歳で逝った吉岡実研究家の秋元 幸人は〈アリス詩篇〉を愛した。詩人で、瀧口修造研究で知られる鶴岡善久は《アリス詩集》の刊行を夢みた。私は彼らが果たさなかった夢を私版の形で実現し たいと思う。吉岡実の歿後二十五年という年に、遅ればせに提出するささやかな記念である。本書制作のきっかけとなった《花の国のアリス――ALICE IN FLOWERLAND》(未生流中山文甫会、一九七六)の発行者・制作スタッフに心からの謝意を表する。

二〇一五年十一月

架空の書、小林一郎編《詩の国のアリス――吉岡実による『アリス詩集』》の表紙 架空の書、小林一郎編《詩の国のアリス――吉岡実による『アリス詩集』》(文藝空間、2015年11月30日)の口絵
架空の書、小林一郎編《詩の国のアリス――吉岡実による『アリス詩集』》(文藝空間、 2015年11月30日)の表紙〔装丁:編者〕(左)と 同書の口絵(右)

架空の書、小林一郎編《詩の国のアリス――吉岡実による『アリス詩集』》(文藝空間、2015年11月30日)の目次 架空の書、小林一郎編《詩の国のアリス――吉岡実による『アリス詩集』》(文藝空間、2015年11月30日)の〈初出と所収一覧〉
架空の書、小林一郎編《詩の国のアリス――吉岡実による『アリス詩集』》(文藝空間、 2015年11月30日)の目次(左)と同書の〈初出と所収一 覧〉(右)


吉岡実のフランス装(2015年10月31日)

吉岡実の単行詩集の装丁で特権的な地位を占めるのは、フランス装(フランス表紙)(*1)で ある。フランス装に近い、すなわち完全なフランス装ではないものを含めれば、
 @昏睡季節(1940)
 A液體(1941)
 B静物(1955)
 D紡錘形(1962)
 E静かな家(1968)
 F神秘的な時代の詩(1974)
 Iポール・クレーの食卓(1980)
と、 12冊中7冊に及ぶ。吉岡の単行本は基本的に著者自装だが、上記のうちFは湯川成一の、Iは亞令の装丁と考えられる。また@はフランス装もどき、Aは出征 中の吉岡に代わって友人たちが原案を実行したから、実質的に吉岡の手になるフランス装はBDEの3冊となる。吉岡が自身の装丁に関連してフランス装に言及 したのは、土方巽の《病める舞姫》(1983) についてだけであり、対象を「フランス装の書物」に拡げても、次の2篇に過ぎない。
 (1)〈《魚歌》の好きな歌〉:この未刊行の文章は《齋藤史全歌集》内容見本(大和書房、1977年10月)に発表され、のち、その推薦文の引用の形で 〈孤独の歌――私の愛誦する四人の歌人〉――初出は《短歌の本〔第一巻〕短歌の鑑賞》(筑摩書房、1979年10月20日)、定稿は《「死児」という絵 〔増補版〕》(同、1988、一四九〜一五九ページ)――の〈4 斎藤史〉に再録された。
 (2)〈孤独の歌――私の愛誦する四人の歌人〉の〈3 前川佐美雄〉――初出および定稿ともに同前

(1)の冒頭〔表 記は〈孤独の歌――私の愛誦する四人の歌人〉の〈4 斎藤史〉に照らして正した〕――
  ぐろりあ・そさえてという奇妙な出版社から刊行された〈新ぐろりあ叢書〉の一冊一冊に、当時の文学青年の多くは心躍らせたものであった。私もその仮フラン スとじの軽装本に魅せられたものである。二十冊ほど出たうちで、私は伊藤佐喜雄の長篇小説《花の宴》、津村信夫の《戸隠の絵本》をことに愛読した記憶があ る。そしてほかには前川佐美雄の《くれなゐ》であり、斎藤史の《魚歌》であった。歌集はこの二冊しか出ていなかったように思う。
 戦後、いち早く《くれなゐ》は古本屋で探し求めて、再読して青春時代の短歌憧憬の心を追体験した。しかし《魚歌》には永くめぐり逢えずにいたが、四、五 年前のこと、妻の実家で見つけて貰い受けた。
 初版は昭和十五年八月二十日刊行であるが、私の持っているのは十六年二月十日発行の再版本である。何の花か知らぬが一輪のかれんな押花がはさまっている のも、またうれしい。今、三百七十三首を通読して、ここに私の好きな歌二十六首を掲げる。

(2)の全文〔引用歌は 最後の一首を残して他は省略した〕――
 昭和十四年に、ぐろりあ[、、、、]・そさえて[、、、、]という小出版社から刊行された、前川佐美雄の自選歌集《くれなゐ》一巻を、私は読んでいた。 伝統的な短歌や俳句にあきたらなくなって、私は前衛派の石原純の指導する〈新短歌〉を定期購読し、また一方では日野草城の主宰する〈旗艦〉を買って、新し い短歌や俳句の習作を試みていた。そこで必然的に、前川佐美雄の作品に惹かれていったのである。
 〔3首引用〕
 いずれの短歌にも、青春の透明な精神ともいうべき祈り、自虐、不安が露呈されている。この歌集は、《植物祭》、《白鳳》、《大和》の三歌集から五百首抄 出されたものである。私は以上の三歌集を見たこともなければ、探し求めもしなかった。仮フランス装本《くれなゐ》一冊があれば、それで満足していた。戦前 からのものはぼろぼろになったので、買換えたものを所持している。
 〔2首引用〕
 亀井勝一郎の文章によると「前川氏は大和の旧家に生れた人である。その青年時代に、伝統的なものへの抵抗といふか、作歌の上でも旧来の歌風からの激しい 脱出をこころみたことは、『植物祭』『白鳳』などにあきらかである。しかも三十一文字といふ最も伝統的な形式を選んだ。これは一種の自己束縛と言ってよ い。」とあった。
 〔2首引用〕
 佐美雄の短歌にはいくらでも、近代人の憂愁――いってみれば、孤独な魂の呻吟を見出すことが出来る。しいて先蹤的作品を求めれば、萩原朔太郎の《月に吠 える》の詩篇ということになろうか。再び亀井勝一郎の言葉をかりれば「外部に向って発散すべきものを内に閉ぢこめ、内攻させながら、内攻の極点において爆 発といふ生命のかたちを大和の地で形成して行ったやうに思はれる。」――と。
 私のもっとも愛誦する一首を、最後に掲げて置く。

  ゆふ風に萩むらの萩咲き出せばわがたましひの通りみち見ゆ

私は近年までこの2冊の原本を見たことがなかった。ようやく入手した2冊はまさしくフランス装(*2)で、 これらが吉岡の自著自装本に影響を与えたことは間違いない。とりわけ、函付きの前川佐美雄歌集《くれなゐ〔新ぐろりあ叢書〕》(ぐろりあ・そさえて、 1939年9月28日)が吉岡実詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)の装丁の手本のひとつになったことは、疑う余地がない。

前川佐美雄歌集《くれなゐ〔新ぐろりあ叢書〕》(ぐろりあ・そさえて、1939年9月28日)の函と表紙〔装丁:棟方志功〕 吉岡実詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)の函と表紙〔装丁:吉岡実〕
前川佐美雄歌集《くれなゐ〔新ぐろりあ叢書〕》(ぐろりあ・そさえて、1939年9月28 日)の函と表紙〔装丁:棟方志功〕(左)と吉岡実詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)の函と表紙〔装丁:吉岡実〕(右)

〈吉岡実詩集基本版 面〉で調べた《静物》と、前川佐美雄の《くれなゐ》の概要を掲げる。なお下線は同じ数値であることを示す。

《静物》=天地寸法188mm 活字10.5ポイント 30字詰め 版面天地111mm 天のアキ49mm 地のアキ28mm 左右寸法131mm 11行組 行間10.5ポイント 版面左右77mm 小口寸法34mm ノド寸法20mm
《くれなゐ》=天地寸法188mm 活字10ポイント 25字詰め 版面天地88mm 天のアキ32mm 地のアキ63mm 左右寸法128mm 4首〔11行組〕 行間10ポイント 版面左右80mm 小口寸法34mm ノド寸法17mm

吉岡実詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)の函に入れた前川佐美雄歌集《くれなゐ〔新ぐろりあ叢書〕》(ぐろりあ・そさえて、1939年9月28日)の本体、《くれなゐ》の函に入れた《静物》の本体
吉岡実詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)の函に入れた前川佐美雄歌集《くれなゐ 〔新ぐろりあ叢書〕》(ぐろりあ・そさえて、1939年9月28日)の本体、《くれなゐ》の函に入れた《静物》の本体

判型(四六判)の天地が完全に同じ寸法であることは、函と本体を入れ替えられるということで、たまたま束も近似しているため、両者を入 れ替えること ができた(写真参照)。こんなことをしていると、《静物》のフランス表紙は《くれなゐ》のそれをそのままなぞっているととられるかもしれないが、それは違 う。本体を外から見ただけではわからないが、表紙を捲って見返しを外してみると、ノド寄りの表紙の切り方が《くれなゐ》はまっすぐの斜線だが、《静物》は カーヴを描いて湾曲しているのだ。なるほど、こうすれば角が不用意に折れまがることを避けられる。この湾曲した切り口は《静物》以外で見たことがないか ら、吉岡もしくは製本担当者の創意かもしれない(ただし、吉岡自身はこの方式をのちのフランス表紙では採用していない)。

フランス表紙のノド側を直線で切った前川佐美雄歌集《くれなゐ〔新ぐろりあ叢書〕》(ぐろりあ・そさえて、1939年9月28日)(左の2冊)と曲線で切った吉岡実詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)(右の2冊)
フランス表紙のノド側を直線で切った前川佐美雄歌集《くれなゐ〔新ぐろりあ叢書〕》(ぐろり あ・そさえて、1939年9月28日)(左の2冊)と曲線で切っ た吉岡実詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)(右 の2冊)
いずれも上段は見返しの効き紙側をフランス表紙から外して表紙の仕上げがわかるようにした状態、下段は表紙に挟んだ本来の状態(左下の《くれなゐ》の表紙 は、しおたれたため原装にあったグラシン紙が剥がされている)。

前川佐美雄歌集《くれなゐ》の仕様を詳述する。「 」は原本からの引用。/は改行を表す。

函――
ボール紙の機械函に和紙を題簽貼り(スミ1色刷り)。
表1=叢書名・書名・著者名、○内に植物のモチーフと「ぐろりあそさえて」を筆書きしたカット
背=書名・著者名
表4=「わが國の短歌を文學化する運動は、」と始まる25字詰め×10行の推薦文、家紋のようなマーク(《花の宴》にも同じマークあ り)、発行所名・定価

表紙――
四隅を内側に折り込んだフランス表紙。全面にグラシン紙をかけ(天地の端3mmほどを糊付け)、天・地・前小口を30mmの幅で折り返している。
表1=右から左に横組で「著雄美佐川前/ゐなれく/集歌」、植物をモチーフにしたカットと飾り罫をスミと赤の2色刷り。
背=「歌集 くれなゐ 前川佐美雄著 〔表紙の植物と同じカット〕 新ぐろりあ叢書」(文字はスミ刷り、カットは2色刷り)
表4=函の表4と同じマーク(スミ刷り)

見返し――
表紙と同じ系統の、斤量のやや軽い無地の用紙(前後とも二つ折の4ページ)を、表紙に接する効き紙に相当する方の丁をフランス表紙の折り返しに挟む。一 方、遊び紙の方の丁は前見返しは本扉に、後見返しは本体の最後の折丁のノドにそれぞれ糊付け。

本扉――
別丁でスミと水色の2色刷り。上から順に
・右から左に横書きで「書叢ありろぐ新」と手書きして飾り罫囲み(水色)
・縦組で「前川佐美雄著/歌集 くれなゐ」と2行にわたってスミ刷り
・右から左に横組で「京東/刊てえさそ・ありろぐ」(水色)

以下は本文用紙で、前付(6ページ)・本文(150ページ)・後付(8ページ)の計164ページ(8ページ×20台〔糸縢り〕+4 ページ×1台〔貼り込み 〕)。(前付・本文・後付の〔 〕の数字は隠しノンブル)

前付――
 〔1〕    (白)
 〔2〕    「くれなゐ目次」
 〔3〕    同前
 〔4〕    同前
 〔5〕    同前
 〔6〕    (白)

本文――
 〔1〕    題扉「歌集 くれなゐ」
 〔2〕    (白)
 〔3〕    「植物祭より 自大正十五年/至昭和三年」
 〔4〕    (白)
 5    「夜道の濡れ」3首
 〔……〕
 45    「羞明」2首
 〔46〕    (白)
 〔47〕    「白鳳より 自昭和六年/至昭和十年」
 〔48〕    (白)
 49    「億萬」3首
 〔……〕
 94    「神神」4首
 〔95〕    「大和より 自昭和十一年/至昭和十四年」
 〔96〕    (白)
 97    「修羅」3首
 〔……〕
 150    「韓紅」3首 「くれなゐ 終」

後付――
 151    「後記」
 152    同前
 〔153〕    奥付、「ぐろりあそさえて」の文字をデザイン化して周りを囲った検印紙を貼り込み
 〔154〕    奥付裏広告《花の宴》〔新ぐろりあ叢書(1)の扱い〕
 〔155〕    奥付裏広告《目白師》〔新ぐろりあ叢書(2)の扱い〕
 〔156〕    奥付裏広告《現代の俳句》〔新ぐろりあ叢書(3)の扱い〕
 〔157〕    奥付裏広告《ヱルテルは何故死んだか》〔新ぐろりあ叢書(5)の扱い〕
 〔158〕    (白)

《くれなゐ》も《魚歌》も、本体には〔新ぐろりあ叢書〕の番号が記されていないが、《魚歌》の奥付裏広告には、上の註記のように刊行順と思しい番号が振ら れていて、《くれなゐ》は新ぐろりあ叢書(4)の扱いである。


《くれなゐ》の内容で注目すべきは、まず
 〔3〕    「植物祭より 自大正十五年/至昭和三年」
 〔47〕    「白鳳より 自昭和六年/至昭和十年」
 〔95〕    「大和より 自昭和十一年/至昭和十四年」
のように全体を3部に分けて短歌を既刊・未刊の歌集から抄録している点だ。《静物》は17の詩篇から成るが、その前半は〈T 静物〉(10篇)、後半は 〈U 讃歌〉(7篇)である。この2部構成に《くれなゐ》はなんらかの影響を与えたのではないか。もうひとつは
 150    「韓紅」3首 「くれなゐ 終」
の 「くれなゐ 終」で、《静物》は奥付の対向ページに「詩集 畢」とある。もっとも《液體》(1941)の奥付対向ページにすでに「詩集 液體 畢」とある が、これとて《くれなゐ》に倣ったものでないとは言えない。なお、《くれなゐ》《静物》ともノンブルの位置は地の左右中央である。以上のように類似する点 もあれば、異なる点もある。《静物》が@函に題簽貼りをしていないこと。A〈後記〉を書いていないこと。B検印紙を貼っていないこと。C奥付裏広告を載せ ていないこと。D版元のマークを載せていないこと。大きく、以上の5点が異なる。CとDは私家版だからないのが当然で、@とBは貼り込みを避けた結果か。 問題はAだが、単行詩集には自筆のあとがきを収録しないという吉岡の方針が当初から定まっていたと考えたい。いずれにしても《静物》の造本・装丁を考える に際して、吉岡が《くれなゐ》を参照したことは確実だと思われる。一体に新しい本を一冊書くことはたいへんな労力を要する(《静物》は全篇書きおろし)。 造本・装丁も自分でしなければならない私家版ではなおさらだ。そのとき、永年愛読した本の形があれば、それをなぞろうとする行為は、単に労力の軽減を目的 とするだけではない。そこにオマージュの意が込められている、と見るべきである。繰りかえし読まれたあげく、ぼろぼろになるような本をつくること――これ が自分の詩集にフランス装を採用しつづけた吉岡実の含意だったように思われる。

フランス‐そう ‥ サウ【―装】〔名〕仮製 本の一つ。紙の四方を折り返し、ボール紙で裏うちしない表紙で、糸綴じした中身をくるみ、断裁されていない小口、天地をペーパーナイフで切る。わが国では 一般に仕上げ断ちした中身をくるむ。愛書家がこれを本製本に改装することを予想して考え出されたもの。(《日本国語大辞典 第二版〔第十一巻〕》小学館、2001年11月20日〔第三刷:2003年3月10日〕、一〇四四ページ)

《静物》初刊の3年後の1958年8月、吉岡が赤と黒の革装の「本製本に改装」したうちの一本は、自身が繙読してきた「ぼろぼろになっ た」著者本だったように思えてならない。(〈詩 集《静物〔革装本〕》の函と表紙〔太田大八氏所蔵〕〉参照)

………………………………………………………………………………

(*1) フランス装(フランス表紙)の歴史的展望は、貴田庄《西洋の書物工房――ロゼッタ・ストーンからモロッコ革の本まで〔朝日選書〕》(朝日新聞出版、 2014年2月25日)の〈第六章 フランスの革装本〉の〈一 仮綴本の誕生〉に詳述されている。そこには

 フランスでは少し前まで、文学書を中心として、多く の本が仮綴じで売られていた。〔……〕わが国でもフラン ス装と称して、稀に詩集などが仮綴本として売られることがある。しかし、なぜフランスで小説 や詩集が仮綴じのままで読者の手元に渡るようになったのか、その理由は十分に理解されていないようである。
  仮綴本とは折帖が糸でごく簡単にかがられ、その折帖の背に薄手の表紙がニカワで軽くとめられた、原則としてアンカットの状態の本をいう。未綴本の場合は、 アンカットの折帖の束を薄手の表紙で包んだだけである。これらの場合の表紙は本格的な表紙でなく、仮表紙と考えられている。アンカットというのは、印刷さ れた紙葉を折って作る折帖が化粧裁ちされないままで表紙のついた本をいい、天や前小口に袋状になった箇所ができる。そこでペーパーナイフが必要となる。読 者は袋とじになっているページをペーパーナイフで切って開け、読み進んでゆく。ただし、わが国の仮綴本では西洋のものと異なり、印刷時でのページの組付け が逆向きなため、印刷された紙葉が八ページや一六ページの折帖となった場合、地と前小口に袋状になった箇所ができる。これではペーパーナイフがずいぶん使 いにくい。ペーパーナイフを自分に向けて、自刃するようにナイフを動かし、袋綴じになっているページを開けることになる。わが国で稀に出版されるフランス 装ではこのことに配慮して、模倣するなら印刷の段階からまねるべきではないだろうか。
 仮綴本とはまた、出版元が本格的な製本をせず、その本を購入した人が自分の好む書物に仕上げることのできる本といえる。
〔……〕しかし時代 が進むにつれて、仮綴じによる出版物は、フランス語圏をのぞき、ほとんど姿を消してしまったのである。(同書、一二二〜一二三ページ)

とある。「仮綴本」と本稿におけるわが国の「フ ランス装」とでは、前者がまさに仮の、完成前の状態であるのに対して、後者が最終形である点で、決定的に異なる。仮綴本に函が付くことなど、ありえないだろう。

(*2) 日本におけるフランス装の歴史は、大貫伸樹《製本探索》(印刷学会出版部、2005年9月20日)の〈フランス装の歴史〉(同書、七九〜一二ページ)に詳しい。 同文が言及している「フランス装」の書目は以下のとおり(註記も 原文)。

田辺隆次編『小泉八雲読本』(第一書房、昭和十八年)
野口鶴吉『砂繪呪縛』(松竹株式会社出版部、昭和二十二年)    *見返しと表紙が糊付け
徳田秋聲『縮図』(小山書店、昭和二十二年)
川口松太郎『三味線武士』(矢貴書店、昭和二十二年)
井上友一郎『絶壁』(改造社、昭和二十四年)
井伏鱒二『本日休診』(文藝春秋社、昭和二十五年)    *四隅の折りが複雑で面白い
大佛二郎『帰郷』(六興出版社、昭和二十五年)
川口松太郎『新しいパリ新しいフランス』(文藝春秋社、昭和二十七年)
丹羽文雄『丹羽文雄作品集』(角川書店、昭和三十二年)    *芯ボールがある

谷崎潤一郎『盲目物語』(中央公論社、昭和二十一年改訂版)

野沢富美子『長女』(第一公論社、昭和十五年)
島木健作『随筆と小品』(河出書房、昭和十六年)
角田喜久雄『髑髏錢』(文化書院、昭和二十一年)
林芙美子『浅草ぐらし』(実業之日本社、昭和二十三年)

宮本百合子『明日への精神』(実業之日本社、昭
十五年

折田学『もんぱるの』(第三書院、昭和七年)

ラモン・フェルナンデス、高木佑一郎訳『女に賭ける』(芝書店、昭和十一年)
レイモン・ラディゲ、堀口大学訳『ドルヂェル伯の舞踏会』(白水社、昭和十四年)
ジュウル・ルナアル、岸田国士訳『博物誌』(白水社、昭和十五年)

芥川龍之介『河童』(細川書店、昭和
二十一年

矢内原忠雄『京詣歌集』(嘉信社、昭和十七年)
横光利一『實いまだ熟せず』(実業之日本社、昭和十四年)    函入り

山内義雄『窄き門』(白水社、昭和六年)
ポオル・ヴァレリイ『ヴァリエテ』(白水社、昭和六年)

アンドレ・ジイド『新日記抄』(改造社、昭和十二年)
桑木厳翼『プラトン講義』(春秋社、昭和十三年)
吉田絃一郎『わが旅の記』(第一書房、昭和十三年)
ポオル・ヴァレリイ『ヴァリエテ』(白水社、昭和十年)

山本有三『不惜身命』(創元社、昭和十四年)

『少年美術館』(岩波書店、昭和二十六年)
三好達治『詩集 朝菜集』(青磁社、昭和二十一年)

必ずしも仮フランス装(三方截ちした本文紙にフランス表紙を着せたも の)、すなわち本稿でいう「フランス装」の本ばかりではないが、フ ランス装本を概観するのに役立つ。横光利一の《實いまだ熟せず》 (実業之日本社、1939)に「函入り」と註記があるところを見ると、フランス装は基本的に函がないもの、と考えられる。


「無尽蔵事件」について(2015年9月30日)

吉岡実の自筆年譜には、背景を知らないと理解できない件[くだり]がある。たとえば「無尽蔵事件」がそれである。「昭和五十五年 一九 八〇年     六十一歳/〔……〕初秋、池袋の無尽蔵で、弥生土器を買う。店主・長尾百翁(泰次)と歴史、文学の話をする。店員・笹川竜則がウィンナーコーヒーをいれて くれる(のち、無尽蔵事件起こる)」(〈年譜〉、《現代の詩人1 吉岡実》中央公論社、1984、二三五ページ)。無尽蔵は「古美術 無盡蔵」。「無尽蔵事件」とは、長尾泰次[やすつぐ]が行方不明になり、笹川龍則が殺人容疑で逮捕起訴され、有罪となった事件である。私は骨董に暗く、 「無尽蔵事件」が騒がれた1982年は会社員になってほどなく、仕事を覚えるのが精一杯でTVも週刊誌もろくに見なかったから、事件の記憶はまったくな い。したがって、吉岡の自筆年譜で初めて「無尽蔵事件」に接した。この1982年は、古美術や骨董に関心があれば大いに耳目をそばだてたに違いない大事件 ――「三越の偽秘宝事件」が起きた年だった。Wikipediaの「三越事件」には「同年8月29日、東京日本橋本店で開催された「古代ペルシア秘宝展」 の出展物の大半が贋作である事が朝日新聞の報道により判明。一部は既に億単位の値がついていたとされる[2]」とある。この[2]の出典は《佐賀新聞》で、その「<あのころ>三越の偽秘宝事件/岡田社長解任に発 展」にはこうある。

1982(昭和57)年8月24日、「古代ペルシア秘宝展」が東京・日本橋の三越本店で開催されたが、展示品47点 の大半が偽物と間もなく判明した。2億円の売値が付いた品もあった。デパート業界の老舗だけに大きな問題となり、岡田茂社長の解任へと発展した。

自筆年譜に「三越事件」の記載はないが、吉岡は日本橋の三越本店での《古代ペルシア秘宝展》を観ているかもしれない(前掲年譜の直前に は「三越本店 で、良寛展を観る。天上大風」と記されている)。それというのも、「無尽蔵事件」を主題にした本に佐藤友之《夢の屍――無尽蔵殺人事件の謎を追う》(立風 書房、1985年4月15日、装丁:平野甲賀)があって、後見返しに掲載されている「鹿形飾金具(贋物)」(*)の 姿形が、いかにも吉岡好みなのだ。

「鹿形飾金具(贋物)」〔出典:佐藤友之《夢の屍――無尽蔵殺人事件の謎を追う》(立風書房、1985年4月15日、後見返し)〕 吉岡実《異霊祭〔特装版〕》(書肆山田、1974年7月1日、装丁:吉岡実)の表紙
「鹿形飾金具(贋物)」〔出典:佐藤友之《夢の屍――無尽蔵殺人事件の謎を追う》(立風書 房、1985年4月15日、後見返し)〕(左)と吉岡実《異霊祭〔特装版〕》(書肆山田、1974年7月1日、装丁:吉岡実)の表紙(右)

(*) 本文には「三越の秘宝展に「鹿形飾金具」(裏見返しの 写真参照)と名付けられた飾板が展示されていた。一匹の牡鹿が両脚を折り曲げて坐している。カタログの説明では、高さ七・五センチ、幅十二・八センチ。紀 元前六世紀の作で、南ロシアのスキタイ地方で出土したものとされ、四百五十万円の値がつけられていた。「鹿形飾金具」のモデルは、エルミタージュ美術館に ある」(《夢の屍》、一〇六ページ)と見える。

「無尽蔵殺人事件」の概要といきさつを、同書のジャケット袖の文で見よう。「一九八二年八月、東京日本橋三越デパート本店で開催された 「古代ペルシ ア秘宝展」の展示品はすべて贋物と判明。マスコミの話題が沸騰するなか、ニセ秘宝≠フルートに関わると見られた古美術店「無尽蔵」の店主・長尾泰次は、 すでに半年前、失踪していることがあきらかにされた。捜査当局は、店員の笹川龍則を長尾殺害の容疑で起訴したが、法廷に立った笹川は無実を叫んでいる。長 尾の死体はいまだに発見されず、その上、殺されたはずの長尾に会ったという者が相ついで登場した。「死体なき殺人」「生きている死人」と事件の謎はさらに 増した――。」
このジャケットの袖には、本文にない年表が掲げられていてありがたい。これも見ておこう。

●1982(昭57)年
2月末 「無尽蔵」店主・長尾泰次、行方不明。
4月1日 同店店員・笹川龍則、池袋署に失踪届を提出。
8月24日 東京日本橋三越デパート本店において「古代ペルシア秘宝展」開催。
8月29日 展示秘宝はニセモノ≠ニ判明。
9月初旬 「無尽蔵」とニセ秘宝との関わり問題化。
9月25日 捜査当局、長尾殺害説を発表。
12月4日 笹川龍則、横領容疑で別件逮捕さる。
12月8日 笹川、長尾「殺害」と「死体遺棄」を自白。
12月12日 当局により京浜運河の死体捜索が行なわれたが、死体発見できず。
●1983(昭58)年
2月7日 殺人・死体遺棄容疑で、笹川を再逮捕。
2月28日 殺人罪で起訴さる。
4月1日 第一回公判。
●1984(昭59)年
12月17日 検察側、懲役15年を求刑。
●1985(昭60)年
3月13日 判決=有罪(懲役13年)。

吉岡が前掲年譜を脱稿したのは1983年の秋と考えられるから、すでに笹川が殺人罪で起訴され、第一回公判が開かれた後だ。こうした背 景を(おぼろ げにではあっても)了解しないと、「池袋の無尽蔵で、弥生土器を買う。店主・長尾百翁(泰次)と歴史、文学の話をする。店員・笹川竜則がウィンナーコー ヒーをいれてくれる」と書かざるをえなかった吉岡実の心中は量りがたい。それは、かつて吉岡自身が巻きこまれたH氏賞事件(〈「H氏賞事件」と北川多喜子詩集《愛》のこと〉参 照)と並んで、身近で起きた戦後における最も奇怪な事件だった(戦後における、と限定するのは、吉岡が従軍した大東亜戦争こそその最大のものだったからで ある)。《夢の屍》によれば長尾泰次は大正15(1926)年、鎌倉生まれ。佐藤友之は

 事件当時、長尾は「無尽蔵」を始めて十年ばかり経っていた。骨董屋としては駆け出しに等しい。古くは江戸、明治の 時代から続い ている店は少なくない。開業わずか十年の「無尽蔵」を著名な収集家や古美術愛好家が贔屓にしていた。人間国宝の伝統芸能家、日本屈指の医師、やがて事件に 関わることになる東京国立博物館(業界では略して「東博」と呼んでいる)美術課長の小松茂美。ほとんど歴史がない店にこれだけの客を呼べる骨董屋はまれで ある。長尾はだれに対しても卑屈にならず、商売に固執せず、対等に議論を闘わせた。というより、いささか疳高い声で、時にマシン・ガンのように自論をまく し立てた。それはそれで客を魅了した。読書をよくし、独得な美意識をもっていた。長尾自身が「無尽蔵」の看板だった。
 「長尾さんには一種のカリスマ性があった。それが客を魅きつけた」
 と、ある古美術商は指摘している。
 身長百八十センチ、体重八十キロの体躯に、およそ年令に似つかわしくない派手な衣裳。坊主頭。奇異な声。こうした身体的特徽は、なおのことカリスマ性を 高めていた。
 開店当初「無尽蔵」は、ごくありふれた伝統的な古美術品を扱う骨董屋だった。朝鮮骨董[もの]にはいいものがあったといわれている。(同書、五二〜五三 ページ)

と長尾の姿を活写している。ちなみに《夢の屍》の発行人は、吉岡実の古くからの知友である下 野博[かばた・ひろむ]だが、吉岡が同書を読んでいるかは判らない。


「ねはり」と「受菜」あるいは〈衣鉢〉評釈(2015年8月31日)

30数年ぶりに外山滋比古の《異本論》(初版は1978年11月、みすず書房刊)を読みかえしていたら、こんな一節に出会った。

 古典作品を読むと、ところどころに、諸説紛々として定まる所を知らず、と言いたくなる難所に遭遇する。考えている と、これまで出されたどれも正しいとも言えるし、逆に、どれも不満足で、別の自分の考えの方がいいようにも考えられる。
  どうして、こうした諸説紛々の箇所が生れるのか。考えてみると、おそらく原文に、ある裂け目ができていて、読者、研究者の翻訳≠ェその裂け目から顔をの ぞかせるのだと考えることができそうだ。読む側の翻訳≠ヘ原文のすべての部分に対してなされているが、普通のところでは、大同小異の理解になって誤差が 表面化せず、潜在したままになっている。それが原文の乱れや裂け目につき当ると、各人の翻訳≠フ差がはっきりした形をとるようになる。それが諸説紛々の 正体である。
 このように見てくると、理解はすべて目に見えない翻訳であることが認められるようになるであろう。(《異本論〔ちくま文庫〕》筑摩書房、2010年7月 10日、一一〇〜一一一ページ)

テキスト(本文)が織物であるなら、その経糸と緯糸はさしずめ語とシンタックスだろう。吉岡実詩のテキストは、語のレベルではなんとか なっても、そ のシンタックスが障碍となりかねない場合が多い。ところがここに、初読のときから意味のわからない語句――外山が指摘するところの原文にできている、あ る裂け目=\―がふたつある。たったふたつしかないのかと言われると困るが、そのひとつは「ねはり」で、もうひとつは「受菜」である。〈わが馬ニコルスの 思い出〉(F・16)と〈衣鉢〉(D・16)の詩句を、前後のそれとともにライナーを付けて引く。問題の語がどちらも「とき」がらみなのは、単なる偶然だ ろうか。興味深い暗合である。

 48 自負の白塗りの柵をとび
 49 ねはりの綱で囚われるときまで
 50 黒雲千里

 32 そこでわたしたちは見る
 33 夜叉の女たちが茶釜を叩き
 34 琴を鳴らす爪の受菜のときを
 35 走る天井

「ねはり」は根張り(根が土中に張り広がること。根がはびこること)だろうが、「ねはりの綱」となるとわからなくなる。もつれた根のように絡みあって、綱 が強靱さをいやましているさま、とでもしておこうか。一方、「受菜」にいたっては、うけな、なのかジュサイなのかさえわからない。箏(*1)を奏するときのタームかもしれないと見当をつけて、そうし たサイトの掲示板に教えを請う書きこみをしたことがあったが、回答はなかった。ここまで書いてきて、千葉潤之介編の宮城道雄随筆集《新編 春の海〔岩波文庫〕》(岩波書店、2002年11月15日)を読了。内田百の 指導を受けただけあって、宮城の随筆は口述筆記による平易な言いまわしながら、ときに恐ろしいまでの切れ味を示す(〈眼の二重奏〉の義眼の話や〈白いカー ネーション〉の愛娘を喪った話)。
「町内の秋祭の太鼓[たいこ]、笛[ふえ]、神楽[かぐら]や、御神輿[おみこし]をかついで通る声なども、そばで聴くより、遠くから聴いた方が祭礼の情 緒があって面白いと思う。私は祭の気分は好きであるし、自分としては、こうしたことは、いつまでもすたらぬ方がよいと思っている」(〈四季の趣〉、同書、 八一ページ)。この一節からは、あの、長調の旋律なのに妙に物悲しい文部省唱歌〈村祭〉が想い出される。宮城と葛原しげる(〈村祭〉の「村の鎮守の神様の /今日はめでたい御祭日。/〔……〕」は葛原の作詞と言われる)は親交があっただけだけでなく、葛原作詞・宮城作曲の歌曲〈お山の 細道〉があるくらいだから、この想起はまんざら牽強付会というわけ でもないだろう。
閑話休題。吉岡が箏の専門書を読むことはあるまいと踏んで、宮城の随想集にあたりをつけたわけだが、「箏爪[ことづめ]」(二三九ページ)や「爪箱」(二 九三ページ)といった箏の専門用語が出てくるものの、肝心の「受菜」は同書には登場しなかった。この方面を探っていっても甲斐がないかもしれない。出発点 に戻って、〈衣鉢〉の評釈を試みてみよう。同詩の初出は書肆ユリイカの《ユリイカ》1961年1月号〔6巻1号(52号)〕。あれは吉岡実が存命中の、 25年以上前のこと。神田神保町の田村書店の店頭のウィンドウに〈衣鉢〉の肉筆原稿(おそらく陽子夫人の手になるもの)が並んでいた。今の私なら何を措い ても見せてもらう処だが、当時、そんなことは想いもよらず、内容を表示するラベルをガラス越しに読んだだけだったから、値段もわからない。端から購入する 気がなかったのだろう。

 衣鉢|吉岡実

たたみの黄いろ
わたしたちの皮膚のハアモニイ
わたしたちの四角い腰が坐る
始祖から今にいたるまで
たたみの疥癬性
夫婦が這う
赤ん坊が這う
もう少し這えば海へ出る
ざるをかざせば
さるすべりの紅
赤ん坊は力つきそこから先は老人が這う
火事の構造する障子の世界
つなみの礎石する瓦の空
老人は這う
黒い胴巻
老人は耳をたらして呟く
家紋と太い柱は遠い
げんげの畠を去るつめたい水
飲食の国は魂の岩の中
老人は力つき骨が這う
スピードがおちる
やわらかな苔の上では
もう夕暮ちかく
ぴかぴかの鎌形の月
如露できれいに洗うしらみやうじ
骨の美しいカーヴをくっきりと
初冬の道のべで
顕彰するために
ここからまたつづく
泥と水をまぜ細い竹を編みこんだ
囚れの矢来のような壁
そこでわたしたちは見る
夜叉の女たちが茶釜を叩き
琴を鳴らす爪の受菜のときを
走る天井
停るたたみ
わたしたちは家に入る
一匹のむかでを殺すため
泣き笑いの能面の伝統のうちに

たたみ(*2)を夫婦が這い、赤ん坊 が這い、赤ん坊のかわりに老人が這い、老人のかわりに 骨が這う。これが〈衣鉢〉のベーシックな構造である。「たたみの黄いろ/わたしたちの皮膚のハアモニイ」という冒頭の2行から、吉岡実詩独得のシンタック スは全開である。陽に焼け、毛羽立った畳を「たたみの黄いろ」の7文字で喚起し、すぐさま「わたしたち」=黄色人種[モンゴロイド]としての日本人の肌と 畳の親和性を宣言する。疥癬はヒゼンダニの寄生による皮膚感染症で、ふつう畳を介して感染することはないというが、古びた畳のもつ怪異をみごとに捉えた詩 句。「構造する」「礎石する」も吉岡語といっていいだろう。「火事の構造する障子の世界/つなみの礎石する瓦の空」は関東大震災をほのめかしているか。こ のあたり、〈衣鉢〉を収めた詩集の標題作〈紡錘形〉を思わせるものがある。「家紋と太い柱は遠い」は「始祖から今にいたるまで」の家系を保つこととと現在 の大黒柱を支えることの困難さを表している。そのせいだろうか、「げんげの畠を去るつめたい水/飲食の国は魂の岩の中」という浄福の光景を前にして、「老 人は力つき骨が這う」。そこは「たたみの疥癬性」ではなく、「やわらかな苔の上」だというのに。虱や蛆が出てきても、前にヒゼンダニがいたのだから、もう われわれは驚かない。「ここからまたつづく/泥と水をまぜ細い竹を編みこんだ/囚れの矢来のような壁」とあるが、第三の詩句からはのちの〈わが馬ニコルス の思い出〉の「ねはりの綱で囚われるときまで」を想起しないわけにはいかない。ここから明らかなように、なにものかに囚われるとき、言語の規範を逸脱して でもそれに抗そうとする激しい身振りが吉岡実詩の特徴として挙げられる。いかに「夜叉の女たち」とはいえ、「茶釜を叩」くとは尋常ではない。「琴を鳴ら す」に合わせるなら、ここで叩く和楽器は摺鉦[チャンチキ(コンチキ)]でなければならない。ちなみに「琴を鳴らす爪」は琴爪(正式には箏爪)といい、象 牙や竹でできている。前出の「骨」や「細い竹」との関連は偶然かもしれないが、みごとな符節と見ることもできる。「受菜」は、ここではやり過ごそう。「走 る天井/停るたたみ」も震災(吉岡は4歳で関東大震災に遭遇している)の暗示かもしれない。いずれにしても「わ たしたち」の「家」は、家霊のごとき百足に統治されている。ではここで、吉岡が〈衣鉢〉をどうとらえていたか見てみよう。

 雑誌〈ユリイカ〉通巻五十三号のうち、私は五篇の詩を発表している。これは多いとは言えないが、また少ないとも言 えない。一九 五七年の四月号に「僧侶」、五八年七月号に「死児」、五九年の十月号に「呪婚歌」、六〇年六月号に「波よ永遠に止れ」、そして最後は六一年一月号で、「衣 鉢」が掲載されている。(〈「死児」という絵〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、六九〜七〇ページ)

この文章(初出は《ユリイカ》1971年12月号)は伊達得夫遺稿集《ユリイカ抄》(1962)あるいは日本エディタースクール出版部 の再刊《詩人 たち――ユリイカ抄〔エディター叢書〕》(1971)を手許に置いて書かれているから、同書の〈雑誌「ユリイカ」目録〉に依ったものと思われる。

吉岡  でさ、旧「ユリイカ」に、飯島は何篇ぐらい発表してる? 意外に少いんじゃない。
飯島 案外少い。六、七 篇じゃないかな。
吉岡 ぼくも四篇〔マ マ〕だけ。意外に、「ユリイカ」に発表してないと思うよ。
飯島 そうね。ユリイ カ、ユリイカって前の「ユリイカ」のこと言ってるけどね、わりあい発表してる数も少いし。ぼくなんか六、七篇発表してね、まあまあいま読めるってのは二つ ぐらいしかない。あとはひどいもんなんだけどさ。(笑)まあ打率三割なら伊達は文句は言わない。
吉岡  そうかね。こっちはわりとね。最初が「僧侶」。あの時は飯島くんが伊達に推薦してくれてやっと、「僧侶」が載ったんだ。それから「死児」が載り、あと「呪 婚歌」と「衣鉢」……。こちらは、一寸打率がいいかな。(飯島耕一との対話〈詩的青春の光芒〉、《ユリイカ》1975年12月臨時増刊号〈作品総特集 現代詩の実験 1975〉、一九六ページ)

どちらにしても、伊達得夫の雑誌《ユリイカ》に掲載されたことが事実として述べられているだけで、評価は下されていない(4打数2安打 で5割、と言 いたいのだろう)。《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》は詩集《静かな家》までの詩篇を抄録した選詩集だが、そこに〈衣鉢〉は収められていない(同書の続編 《新選吉岡実詩集〔新選現代詩文庫110〕》に収められた)。これを〈衣鉢〉に対する評価と見てよいものか、断定しにくい。というのも、この選詩集には 《僧侶》巻末の〈死児〉(C・19)と《紡錘形》巻頭の〈老人頌〉(D・1)が続けて収められているからだ。《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》からこの2 篇を外すわけにはいかないから、結果として〈衣鉢〉が漏れたと考えれば辻褄は合う。〈死児〉の「V」と〈老人頌〉の全行を引く。

 V

死児は偶然見つける
世界中の寝台が
行儀よく老人を一人ずつ乗せて軋むのを
ゆるんだ数々の蛇口から
回虫が老人と死にみきりをつけ
はいだしてゆく方向に
野菜と肉の積まれた
働く胃袋が透視される
ときどき鉄砲の筒先が向けられて
悲鳴も聞えた
老人の浄福を祈り
ゆっくり山へ血を持ちはこび
頂から浴せる
因襲の恋人・夫婦たちの寝台に
ただ一つの理由で死児は哭く
セックスを所有しないので
回虫のごとく恥じる
いうなれば交情の暁
やわらかな絹の寝台
麦の畑の涼しい蔭の場所に住めぬ
死児は老いた母親の喪服のやみで
くりかえすひとりの乱行を
あらあらしい石の発芽を
禁制の増殖 断種の光栄
できれば消滅の知識をまなぶ
いまは緑の繻子の靴に踏まれる森の季候
去勢の噴水はきらめく
かぼちゃの花ざかり
死児は世界中の死せる老人と同衾する
 老人頌|吉岡実

さびしい裸の幼児とペリカンを
老人が連れている
病人の王者として死ぬ時のため
肉の徳性と心の孤立化を確認する
森の木の全体を鋸で挽き
出来るだけゆっくり
幽霊船を組立てる
それが寝巻の下から見えた
積込まれたのは欠けた歯ばかり
痔と肺患の故国より
老人は出てゆく
皮の下から続く深い波のうねりへ乗り
多毛の妻をうつぶせにする
黒い乳房の毒素で
人の心もさわがしくみだれ
くらげの体も曇っている
老人は腹蔵なく笑う
ばんざい
ばんざい
一度は死も新しい体験だから
蝶番のはずれた境界を越える夜は
裂かれぬ魚の腹はたえず発光し
たえず収縮し
そのうえ恐しく圧力を加えて
エロチックであり
礼儀正しい老人を眠らさぬ
ガーゼの月のなまめかしさで
老人は回想する
正確にいうならば創造するのだ
胃袋と膀胱のために
交代のない沙漠の夜を
はいえなや禿鷹の啼きごえを
星と沙の対等の市を
そして小舎の炎の中心に坐り
王者の心臓の器で
豪奢な血を沸騰させようとする
むなしく伏せられた
笊のごとき存在
みごとな裸の踊子も現われぬ
不安な毛の世界で
床屋の主人が剃刀をひらめかせ
老人の大頭を剃りあげる
石膏のつめたさ
美しい死者として
幼児とペリカンの守護神として
他人には邪魔にならぬ所へ移される

死児→幼児→赤ん坊、と老人の相手は変わるものの、これら3篇が共通した発想を根にもつことは明らかだ。それは家系に対する嫌悪であ り、吉岡が高橋 睦郎に語った日本のウェットな風土や近代性への反発≠ナある。こうして老人(たち)は「蝶番のはずれた境界を越え〔……〕他人には邪魔にならぬ所へ移さ れる」。このとき、「むなしく伏せられた/笊のごとき存在」は「ざるをかざせば/さるすべりの紅」に享けつがれる。

受菜がジュサイだろうがうけなだろうが、辞典で調べてみる必要がある。だが、諸橋轍次《大漢和辭典〔縮寫版 卷二〕》(大修館書店)の「受」に受菜はない。〈受歳[ジュサイ]〉という仏教用語が見えるだけだ(ただし〈受和受采[ジュワジュサイ]〉の項目に「甘は よく他の味と調和し、白はよく他の色に染る。立派な性質を有してゐる者は、學問をよく身につけるといふ喩」とある)。手近な古語辞典や国語辞典を調べてみ ても、たとえば小学館の《国語大辞典》に〈儒祭[ジュサイ]〉があるくらいだ。吉岡は〈耕衣粗描〉(初出は《現代俳句の世界13 永田耕衣 秋元不死男  平畑静塔集》(朝日新聞社、1985)の〈序文〉)で「此頃の近作を読むたびに、あまりにも「造語」が頻出するので、私は閉口することがある。〔……〕私 も詩作のなかで、しばしば「造語」を挿入するが、とても田荷軒主人にはかなわない」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三一三ペー ジ)と書いているから、受菜が「造語」である可能性も捨てきれない。吉岡実は造語に関して、どう考えていたのだろうか。単行本未収録の文章から引く。

2 乾いた婚姻図 「高階」これは小生の造語ではありませんが、辞書にはありませんね。戦前のモダニズム俳句あたり に使われたよ うに思います。「コウカイ」と読みます。いってみれば、日本の当時のホテル的な五、六階位の感じです。戦前の日本には、今みたいに十階、二十階はなかった からです。しかし、アメリカでは五、六階では妙でしょうね。おまかせします。(〔1974年10月10日付佐藤紘彰宛書簡〕、《Lilac Garden》Chicago Review Press、1976、ivページ)

 『ロリータ』の作者のウラジーミル・ナボコフの代表作に、「比類なき言語宇宙の構築」と謂われる長篇小説『青白い炎』がある。一詩人の九百九十九行の詩 篇の謎を、その友人が「解明」と「注釈」を試みるという構成である。
 私はたまたまその詩篇を読んで、「ムーンドロップ」という言葉に、心惹かれた。ここでは「月明り」と訳出されている。しかし、ナボコフの造語で、重層的 な意味が隠されているようだ。親しい英文学者にたずねたら、「突然の賜物」という「意」も、含まれているらしいと言う。(〈「ムーンドロップ」〉、《白い 国の詩》1989年4月号、三ページ)

戦前のモダニズム俳句(?)に登場する造語、ナボコフの長篇小説に登場する詩句にある造語(吉岡はそれを詩篇の標題としただけでなく、 詩集のタイトルとした)に触れるばかりで、自身の造語に言及したことはかつてなかった。ちなみに前掲〈耕衣粗描〉の中略部分はこうである。

たとえば、「純老人」「秘晩年」「荒神」「生霊」「夢屑」「素蠅」「深芹」「桜姥」「古みぞれ」などは詩的にもこな れているから よい。しかし、「真昼香」「脱糞会」「枯れ埃」「中止桜」「死周り」「乾時空」「鈴語」「古唇」などの難解語は限りなくある。(《「死児」という絵〔増補 版〕》、三一三ページ)

作品の胆となる核に造語を埋めこむことは、当たれば大きいが、外れればとりかえしがつかない。それだけの話かもしれない。さて、受菜と は文字どおり 菜を受けることとしたのでは、詩句における意味は通じない。音読み「受歳」「受采」や訓読み「うけな」も同様である。そこで湯桶読み、重箱読みを試みると 「ジュな」という音が浮かびあがってくる。これとてそのままでは通じないが、ジュナン=受難を言いさしたものとすれば、詩の風景はにわかに変わってくる。

 そこでわたしたちは見る
 夜叉の女たちが茶釜を叩き
 琴を鳴らす爪の受難のときを
 走る天井

これで一件落着か。そうではあるまい。吉岡は「受菜」と書いたのであって、「受難」とは書かなかった。「受難」はどこへ行ったのか。同 じ詩集《紡錘形》に収められた〈受難〉(D・17)である。

 受難|吉岡実

雪の下にねむる釘
考えられる!
造船所の裏の掘割で
子供と昆虫が暗号だけの愛を
試みている半世紀も前の事
憎しみは鋏や石臼のひびき
人びとの死面の格子
ぼくの次にだれが吠える
リンネルの空の下で
みせかけの海の波へ
ぼくが溺死したあとだれが泳ぐ
なぜ月が出る
トマトの山を半分かくし
現世の受難の野に
もう少し歩いて行けば
ぼくは死ぬより無関心になろう
拷問道具のうしろに
砂丘がおどろくほどぴんと張っている
信じられる!
髪の毛の下にうごく櫛

〈衣鉢〉と同じ1961年1月の《近代文学》〔16巻1号〕に発表された〈受難〉の14行めは、初出形「伝統の受難の野に」が詩集《紡 錘形》では定 稿形「現世の受難の野に」と改められた。〈衣鉢〉の最終行「泣き笑いの能面の伝統のうちに」と付きすぎるのを嫌ったためと思われる(《紡錘形》には〈衣 鉢〉〈受難〉の順で、続けて収録されている)。吉岡実は一方で〈衣鉢〉から〈受難〉という流れを「受菜」という造語(であろう)で暗示しつつ(《吉岡実全 詩集》では「受菜」と〈受難〉が同じ見開きに掲載されている)、他方で「伝統」という境界をつなぐ蝶番≠一度は書いて、のちに消すことで関係性を断ち 切った。この1961年1月、伊達得夫が急逝した。書肆ユリイカから出たかもしれない詩集《紡錘形》は、1962年9月、草蝉舎から吉岡の最も美しいフラ ンス装の自家版として刊行された。

――――――――――――――――

(*1) 吉岡実詩に「箏」は登場しない。「琴」は「電球の なかに夕の木琴が鳴る」(〈午睡〉A・28)、〈衣鉢〉(D・16)の問題の詩句、「この夕暮の琴座の星明り」(〈螺旋形〉H・10)、「              竪琴」(〈聖童子譚〉K・4)の4詩句に見えるが、箏に相当するのは〈衣鉢〉だけである。
(*2) 前田愛は《増補 文学テクスト入門》の〈第三章 言葉と身体〉の〈横たわる姿勢〉でこう指摘した。「しかし文明開化の時代になってたとえば、たたみの上に坐ってお習字をしていた寺子屋が小学校になって、 椅子と机が持ち込まれる。つまり、文明開化の時代から初めて日本人はヨーロッパふうの腰かけるという姿勢を学ぶことになるのです。その腰かけるという姿勢 が学校時代にきびしく訓練される。あるいはまた、近代的な軍隊を創設していく仕事が明治政府に課されたわけですけれども、徴兵された農民に対して、「気を つけ」「休め」、あるいは足並みをそろえた行進、そういう訓練をほどこす。こういう身体的な動きは、それまでの農民の生活のなかにはまったく組み込まれて いなかった身体的な習俗です。つまり近代の日本人は、あるいは学校で、あるいは兵営で、今までの日本人の身体のなかには組み込まれていなかった姿勢を訓練 されることになった。しかしこれは、明治の日本人のおもての生活であって、家に帰れば相変らずたたみの生活で、そこに横たわるという伝統的な生活が習俗と して残っている。腰かけるおもての姿勢と、たたみの上に横たわる姿勢、こういう二重構造をもっていたのですけれども、〔……〕」(《増補 文学テクスト入門〔ちくま学芸文庫〕》筑摩書房、1993年9月7日、七六ページ)。医書出版の南山堂を退いた19歳の吉岡が夢香洲書塾で佐藤春陵を補佐 して子どもたちに書道を教えていたのは、おそらくたたみ敷きの和室だった。現実には「たたみの上に横たわる姿勢」を愛しただろう吉岡は、〈衣鉢〉ではそれ を厳しく剔抉している。


吉岡実と恩地孝四郎(2015年7月31日)

吉岡実の装丁として知られる最も初期の作品は、塩田良平・和田芳恵編《一葉全集〔全7巻〕》(筑 摩書房、1953年8月10日〜1956年6月20日)だが、存疑作品として前年1952年のグレアム・グリーン(丸谷才一訳)《不良少年》(筑摩書房、 1952年5月20日)があり、自著自装を含めれば吉岡実詩集《液 體》(草 蝉舎、1941年12月10日)が最初の作品となる。近年でこそ「装幀」「装丁」を題名にした書籍は汗牛充棟の様相を呈しているが、戦前では津田青楓《装 幀圖案集》(芸艸堂、1929)くらいだった(同書は1974年に限定500部で覆刻再刊されたおり、原弘〈津田青楓の装幀図案〉と大河内昭爾〈作品解 説〉が付された)。吉岡が最初の著書《昏睡季節》(1940)や《液體》を刊行するにあたってなにを参考にしたのか、よくわかっていない。だが吉岡が彩管 を揮った《液體》の表紙絵は、竹久夢二の拓いた和風のモダンとでもいった土壌に開花したものと見なせる。石川桂子は、別冊太陽《竹久夢二の世界》(平凡 社、2014年9月6日)の〈装幀・挿画〉で「書物の表紙、見返し、扉、カバー、函の意匠を手掛けるこの仕事において、夢二は百人以上に及ぶ作家の書籍装 幀二百六十余冊に加え、自身も装幀を行いながら画集・詩集・絵本等の著書を五十七冊手掛けた」(同書、八六ページ)と指摘している。竹久は、吉岡が詩書に 親しみはじめた1930年代半ば、正確に言えば1934年に49歳で歿しているが、竹久自身の著作はともかく、その装丁本は吉岡が手に取ることもあったに 違いない。ただ、それらの竹久夢二装丁本のなかにフランス装(《液體》は並製フランス装である)があったことは確認できていない(*1)

文芸雑誌《若草》1925年12月号の表紙〔表紙絵:竹久夢二〕 吉岡実詩集《液體》(1941)の函と表紙
文芸雑誌《若草》1925年12月号の表紙〔表紙絵:竹久夢二〕(左)と吉岡実詩集《液體》 (1941)の函と表紙〔表紙絵:吉岡実〕 (右)

《液體》と並べて、竹久が表紙・扉・カットを手掛けた文芸雑誌《若草》を掲げてみた。もっとも、吉岡が木下夕爾の詩を読んだころの《若 草》はすでに 竹久の表紙ではなかったかもしれないが。その「夢二学校」に学んだのが、版画家の恩地孝四郎である(恩地孝四郎装丁本を一冊だけ挙げれば、萩原朔太郎詩集 《月に吠える》(1917)だろう)。吉岡の1946(昭和21)年2月17日の日記に「日曜の朝、二時間待ってやっとピース一個を手に入れる。昼飯はお はぎとシチューで満悦。荻窪の恩地家へ装幀のお礼をとどける」(《るしおる》6号、1990年5月31日、三〇ページ)という記載がある。「荻窪の恩地 家」は恩地孝四郎宅だろう(年譜によれば、恩地は1932年、中野から杉並区東荻町88番地=現杉並区荻窪4-2-22=に転居している)。1946年2 月当時、吉岡は前年の12月に入社したばかりの香柏書房(かつての勤務先、西村書店の社長西村知章が協力者を得て創った出版社)に在籍しているから、恩地 の装丁作品目録に当たればすぐにでも判明しそうなものだが、該当する作品はない。以下に、吉岡が西村書店に入社した1940年(筑摩書房が創業した年でも ある)から日記の1946年までの恩地孝四郎装丁を、恩地孝四郎装幀美術論集《装本の使命》(阿部出版、1992年2月1日)の〈恩地孝四郎装幀作品目 録〉に拠って掲げる(遺漏項目は◆印を付けて補った)。

一九四〇年 〔昭和十五年〕

  1. 『高野』  & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp; 小山いと子著    中央公論社刊    昭和十五年二月
  2. 『出帆』  & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp; 竹久夢二著    アオイ書房刊    昭和十五年三月
  3. 『おくのほそ道の記』     吉田絃二郎著    実業之日本社刊    昭和十五年五月
  4. 『新日本児童文庫7』     大河内正敏著    アルス刊    昭和十五年六月
  5. 『北原白秋詩集 新頌』     北原白秋著    八雲書林刊    昭和十五年十月
  6. 『素描』  & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp; 前田夕暮著    八雲書林刊    昭和十五年十二月
  7. 『東洋への道』     ハール・フェレンツ著    アルス刊    昭和十五年十二月

一九四一年 〔昭和十六年〕

  1. 『娘の家』  & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp; 小山いと子著    河出書房刊    昭和十六年三月
  2. 『南海の明暗』     深尾重光著    アルス刊    昭和十六年三月
  3. 『報ゆる心』  & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp; 友松円諦著    実業之日本社刊    昭和十六年四月
  4. 『ヒカリトソラマメ』     与田準一著    紀元社刊    昭和十六年十月
  5. 『マメノコブタイ』     大木惇夫著    帝国教育会出版部刊    昭和十六年十月
  6. 『篤農伝』  & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp; 和田伝著    河出書房刊    昭和十六年十月
  7. 『オイルシェール』     小山いと子著    中央公論社刊    昭和十六年十一月
  8. 『ゴグの手記』     大木惇夫著    アルス刊    昭和十六年

一九四二年 〔昭和十七年〕

  1. 『青い鳥』  & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp; メーテルリンク著(楠山正雄訳)    主婦之友社刊    昭和十七年三月
  2. 『鮎吉・船吉・春吉』     室生犀星著    小学館刊    昭和十七年四月
  3. 『報道写真への道』     真継不二夫著    玄光社刊    昭和十七年五月
  4. 『新児童文化4』     巽聖歌編    有光社刊    昭和十七年五月
  5. 『博物志』  & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp; 恩地孝四郎著    玄光社刊    昭和十七年六月
  6. 『ムッソルグスキー 荒野・暴風・生涯』     リーゼマン著(服部龍太郎訳)    興風館刊    昭和十七年八月
  7. 『工房雑記』  & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp; 恩地孝四郎著    興風館刊    昭和十七年十月

一九四三年 〔昭和十八年〕

  1. 『現代日本文明史十八世相史』 & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp;  柳田国男・大藤時彦著    東洋経済新報社刊 昭和十八年一月
  2. 『水の構図』    北原白秋・田中善徳著    アルス刊 昭和十八年一月
  3. 『山の動物』    室生犀星著 小学館刊    昭和十八年一月
  4. 『大いなる朝』    吉田絃二郎著 改造社刊    昭和十八年一月
  5. 『烈風』    前田夕暮著 鬼沢書店刊    昭和十八年二月
  6. 『虫・魚・介』    恩地孝四郎著    アオイ書房刊 昭和十八年三月
  7. 『詩と詩人』    河井酔茗著 駸々堂刊    昭和十八年三月
  8. 『児童詩の本』    北原白秋著    帝国教育会出版部刊 昭和十八年四月
  9. 『日本人はどれだけ鍛へられるか』    葉山英二著 新潮社刊    昭和十八年七月
  10. 『草・虫・旅』    恩地孝四郎著 龍星閣刊    昭和十八年八月
  11. 『動物詩集』    室生犀星著    日本絵雑誌社刊 昭和十八年九月
  12. 『灯燭記』    山西敏郎著 教学書房刊    昭和十八年十一月
  13. 『大東亜戦争海軍作戦写真記録』    大本営海軍報道部編纂    朝日新聞出版局編輯  昭和十八年十二月

一九四四年 〔昭和十九年〕

  1. 『森鴎外』    伊藤佐喜雄著    大日本雄弁会講談社刊 昭和十九年一月
  2. 『萩原朔太郎全集2』    室生犀星他編 小学館刊    昭和十九年二月
  3. 『海の少年飛行兵』    与田準一著 大和書店刊    昭和十九年五月
  4. 『ニッポン語』    高倉テル著 北原出版刊    昭和十九年六月

一九四五年 〔昭和二十年〕

  1. 『人類解放物語』    H・V・ルーン著(内山賢次訳)    時代社刊 吼和二十年十一月

一九四六年 〔昭和二十一年〕

  1. 『新しき政治と婦人の課題』 & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp;  市川房枝著    印刷局刊 昭和二十一年四月
  2. 『田山花袋集』    中村光夫編 東方書局刊    昭和二十一年四月
  3. 『鶴八鶴次郎』    川口松太郎著    新紀元社刊 昭和二十一年四月
  4. 『枯菊抄』    久保田万太郎著    新紀元社刊 昭和二十一年四月
  5. 『他人の中』    徳永直著 新興出版社刊    昭和二十一年四月
  6. 『山上の蝶』    井上康文著 寺本書房刊    昭和二十一年五月
  7. 『日本の花』    恩地孝四郎画・編・井上康文詩    富岳本社刊 昭和二十一年五月
  8. 『無為の設計』    川路柳虹著 富岳本社刊    昭和二十一年五月
  9. 『或る女』    有島武郎著 富岳本社刊    昭和二十一年六月
  10. 『新頌・富士』    前田夕暮著 富岳本社刊    昭和二十一年六月
  11. 『白南風(しらはえ)』    北原白秋著 アルス刊    昭和二十一年六月復興版
  12. 『人体頌歌』    恩地孝四郎編    富岳本社刊    昭和二十一年六月
  13. 『耕土』    前田夕暮著 新紀元社刊    昭和二十一年七月
  14. 『春の夜』    芥川龍之介著 雄鶏社刊    昭和二十一年七月
  15. 『日本植物歌集』 花岡譲二    寺本書房刊 昭和二十一年七月
  16. 『女優ナナ』    エミール・ゾラ著(山本恭子訳)    新文社刊 昭和二十一年七月
  17. 『三吉ものがたり』    室生犀星著 新洋社刊    昭和二十一年八月
  18. 『乾草の中の恋』    D・H・ローレンス著(葉河憲吉訳)    塙書房刊 昭和二十一年九月
  19. 『鉄の話』    中野重治著    新興出版社刊 昭和二十一年九月
  20. 『一房の葡萄』    有島武郎著 小学館刊    昭和二十一年九月
  21. 『国木田独歩全集』    国木田独歩著    鎌倉文庫刊 昭和二十一年十月
  22. 『萩原朔太郎詩集W 散文詩』    萩原朔太郎著 小学館刊    昭和二十一年十月
  23. ◆『森鴎外』    伊藤佐喜雄著    大日本雄弁会講談社刊 昭和二十一年十一月
  24. 『閉関記』    上林暁著 桃源社刊    昭和二十一年十一月
  25. 『日本の自然美』    武田久吉著 富岳本社刊    昭和二十一年十二月

吉岡実と恩地孝四郎をつなぐ書籍だけにどうにかして知りたいものだが、目を皿のようにしても吉岡の勤務先の出版社と関わりのありそうな 書籍は見あた らない。一方、◆印を付けた伊藤佐喜雄の《森鴎外》(大日本雄弁会講談社、1946年11月20日)は再刊本のためか〈恩地孝四郎装幀作品目録〉にはな い。1944年1月21日刊の同書の初版は目録に記載されており、吉岡が読んだのはこちらである(1946年1月29日の日記参照)。ちなみに伊藤の《森 鴎外》は、その〈藩校〉の章が吉岡実装丁の《森 鴎外全集〔別巻〕》(筑摩書房、1960年3月30日)に収められた。この《森鴎外》の再刊本(装丁は初版と異なる)のように目録に 採られなかった例もあるから、香柏書房もしくは西村書店刊の恩地孝四郎装丁本が存在しないとはかぎらない。今後の探索に俟つ。

伊藤佐喜雄《森鴎外》(大日本雄弁会講談社、1944年1月21日)のジャケットと同書の再刊本(同、1946年11月20日)の表紙〔いずれも装丁:恩地孝四郎〕
伊藤佐喜雄《森鴎外》(大日本雄弁会講談社、1944年1月21日)のジャケット と同書の再刊本(同、1946年11月20日)の表紙〔いずれも装 丁:恩地孝四郎〕

恩地孝四郎〈装本美術の構成〉(初出は《書窓》〔日本愛書会書窓発行所〕7〜14号、1935年10月〜1936年6月)に仮装(フラ ンス装)に関する記述があるので、引用する。

 仮装は,ただ糸かがりをし,簡単な上被で之を覆ひ,綴ぢ放しの截ち切らず,即ちアンカットが常道である。時にしや れて,又は特 に形を特別なものにするためには截たれるが,三方折り放しのままが本然の姿だ。之はつまり,読者が自分の好みに本装をするために用意された形式であつて, 刊行者は中味だけを提供するといふわけである。之を截たないのは,本装の折に截断によつて本が小形になることを忌むためである。紙の折都合よりももつと別 の形,当然の形より変へたい場合には,非常に舌を片よつて多く出したりする。それだけでみると随分変な奇態な外観を呈してゐる。仮装は,巷間之をフランス 装といふ程,フランスの本は仮装が多い。仏蘭西では所蔵家が自らさせる所蔵装綴が普及発達してゐるし,又自ら手がけて装本をたのしむの,彼国の美術心の発 達によるものと云へよう。日本の仮装は一般に相当親切に綴ぢられてゐるが本場の仮装の綴ぢは各詮自性,ただ散り散りにならぬ程度のぐたぐたなものが多い。 由来から考へればそれでいいわけであつて,かかる本は再読三読するためには本装をしておかねばならない。フランス装の名が出来てゐるだけあつて日本の本は 仮綴でも相当丁寧にかがられてゐるし,小口などもよくそろへてあるものも少くない。蓋し日本のやうに再製製本が大部分崩れた本の作りなほしやノートの合冊 位にしか用ひられぬ習慣や,又芸術的な製本をやる製本業が全く発達してゐない現状ではかうしたことも一方法であり,仮装も立派に一装本形態として独立性を 多分に持つて来るわけである。この仮装を,その観念を更に一層徹底させて,上被も用意せず,糸も通さない出版もある。所蔵装幀に対して一層懇切な刊行であ る。が之は,余り頁数の多いものや,ザツなものには余り見かけない。日本では二三あつたかないかの寡少な方法である。(《新装普及版 恩地孝四郎 装本の業》三省堂、2011年1月20日、一六五〜一六六ページ)

最後の「その観念を更に一層徹底させ」た「仮装」は、折丁を束ねただけのもののようで、驚かされる(もちろん見たこともない)。吉岡が 恩地文の初出 を目にした蓋然性は高くないが、管見に入ったかぎり戦前における最も詳しい仮装(フランス装)の説明である。もっとも、《新装普及版 恩地孝四郎 装本の業》の図版には恩地によるフランス装作品が見えない。恩地がフランス装を手掛けたことはあるのだろうか(《装本の使命》所収の文にも、自作のフラン ス装への言及はない)。竹久夢二装丁本と同様、ぜひ知りたいものだ。ここで恩地の略歴を、臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年5月3日)の記述を借りて掲げる。

恩地孝四郎(お んち・こうしろう)
一 八九一年東京生まれ。創作版画のパイオニアであり、写真家、詩人、装幀家として活躍。装幀家としては理論面でも総合的な体系づけをおこない、近代装幀術を 確立した功績は抜きん出ている。題字類の書き文字「恩地明朝」の格調の高さでも知られた。一九五五年没。(同書、二〇一ページ)

恩地孝四郎装丁本の代表作として、ただ1点、《書影の森》に採られたのが〔現代日本文學全集34〕の《加能作次郎・葛西善藏・牧野信 一・嘉村礒多 集》(1955年9月5日)だが、本稿では後述する〔現代日本文學全集89〕の《現代詩集》(1958年2月10日)を取りあげる。恩地は1955年6月 に63歳で亡くなっているから、同書を実際に指定して、かくあらしめたのは筑摩書房内部の人間に違いない(それが吉岡実であって少しもおかしくない)。孝 四郎の子息、恩地邦郎は〈業としての装本〉で〔現代日本文學全集〕を次のように評している。――1953(昭和28)年から1955(昭和30)年にかけ ての恩地の装丁は、

円熟と手練の業をみせてはいるが,手法は従来のくりかえしが多くなっている。
 しかし,筑摩書房の『現代日本文学全集』(昭和28年)のように,思想と技術の凝結を見せているものもある。当時の編集担当者であった土井一正氏はつぎ のように語っている。
  はじめて重要な仕事を担当し,緊張して原稿をとりに恩地家へおもむいた。先生は鼻歌まじりで原稿を仕上げ,渡された。それはトレーシングペーパーに,黒線 で画かれ,とてもこれが装幀の原稿とは思えなかった。帰社して,古田社長,臼井吉見氏などに相談すると,先生がいいのなら,それでいいのだろうということ で印刷にまわった。ところができ上がってきて立派にできているのでおどろいた。読者の反応もよく,装幀への言及が多かった。私は,筑摩の最も誇れる装幀で あったと思っている。
 私はこの全集が父の最後のすぐれたものと考えていたので,後に編集部長となった土井氏の意見を求めたのに対して答えられたエピソードである。(《新装普 及版 恩地孝四郎 装本の業》、一九三〜一九四ページ)

《装本の業》の〈恩地孝四郎装幀作品集〉には〔現代日本文學全集53〕の《斎藤緑雨・木下尚江・内田魯庵・上司小剣集》(1957年 10月8日)の カラー書影が、〈恩地孝四郎装幀作品カタログ〉には〔現代日本文學全集37〕の《川端康成集》(1955年11月5日)のモノクロ書影が掲げられ、後者に は「芥子色クロスにニッケル箔で幾何学模様,背文字は黒箔押し」(同書、一六一ページ)と概要が記されている。松田哲夫さんはこの「幾何学模様」を馬では ないかと喝破した。なるほどそうかもしれない。いや、そうとしか見えない。ではここで、筑摩書房の全集=叢書の屋台骨をつくった二つのシリーズから、前述 の恩地孝四郎装丁〔現代日本文學全集89〕の《現代詩集》と吉岡実装丁〔現代日本文學大系93〕の《現代詩集》(1973年4 月5日)の函〔表1〕の記載を掲げる(旧字を新字に改めた箇所がある)。

現代詩集
河井醉茗・伊良子清白・横瀬夜雨・川路柳虹・服部嘉香・福士幸次郎・三富朽葉・西條八十・堀 口大學・柳澤 健・北村初 雄・生田春月・佐藤 清・富田碎花・白鳥省吾・百田宗治・山村暮鳥・加藤介春・佐藤惣之助・大手拓次・尾崎喜八・金子光晴・竹内勝太郎・深尾須磨子・大木 惇夫・吉田一穂・佐藤一英・高橋新吉・草野心平・八木重吉・萩原恭次郎・壺井繁治・小野十三郎・岡本 潤・小熊秀雄・伊藤信吉・西脇順三郎・春山行夫・北 川冬彦・安西冬衞・村野四郎・竹中 郁・北園克衞・近藤 東・三好豊一郎・鮎川信夫・田村隆一・岡崎清一郎・安藤一郎・菱山修三・伊藤 整・笹澤美明・城  左門・岩佐東一郎・藏原伸二郎・山之口 貘・菊岡久利・大江満雄・逸見猶吉・藤原 定・尾形龜之助・山本太郎・丸山 薫・田中冬二・富永太郎・中原中 也・立原道造・津村信夫・伊藤静雄・田中克己・神保光太郎・谷川俊太郎・阪本越郎・大木 實・平木二六
現代詩小史(村野四郎)

現代日本文學全集 89
筑摩書房版

現代日本文學大系
93
現代詩集
富永太郎 富永太郎詩集  安西冬衞 軍艦茉莉  逸見猶吉 ウルトラマリン  田中冬二  海の見える石段  竹中郁  象牙海岸  大手拓次 藍色の蟇(抄)  丸山薫 物象詩集  壺井繁治 壺井繁治全詩集(抄)  北園克衞 黒い火  谷川俊太郎 二十億光年の孤独   竹内勝太郎 黒豹  飯島耕一 他人の空  山本太郎 歩行者の祈りの唄(抄)・山本太郎詩集(抄)・単独者の愛の唄(抄)・糾問者の惑いの唄(抄)・ 死法(抄)  谷川雁 大地の商人  鮎川信夫 橋上の人  田村隆一 四千の日と夜  大岡信 記憶と現在(抄)  會田綱雄 鹹湖  吉岡実 僧侶   清岡卓行 氷った焔  岩田宏 いやな唄  安東次男 CALENDRIER  天澤退二郎 朝の河  中村稔 鵜原抄(抄)  入澤康夫 わが出雲  わが鎮魂  石垣りん 表札など  澁澤孝輔 漆あるいは水晶狂い
付録 解説(篠田一士)

筑摩書房

恩地孝四郎装丁の〔現代日本文學全集89〕(A)と吉岡実装丁の〔現代日本文學大系93〕(B)の装丁を比較するまえに、両者の特徴を 述べる。まず 本文の基本組。これはほぼ同じ。【A:20字×28行×3段=1680字(400字× 4.2枚) B:20字 ×29行×3段=1740字(400字×4.35枚)】。総ページ数もほぼ同じだが、収録 内容はAの各詩人の代表詩 篇の抄録に対して、Bの原則、代表詩集を全篇収録する方針へ大きく変わった。すなわち【A:445ページに75詩人の詩を収める B:424ページに27 の詩集を収める】。そのあたりのことを、田村隆一の詩篇と詩集を例に見よう。【A:5ページに8篇(幻を見る人 その一、幻を見る人 その二、幻を見る人 その三、四千の日と夜、十月の詩、正午、立棺、三つの聲)を収める】。末尾に「(以上「四千の日と夜」―昭和三十一年刊―)」と出典表記があるように、詩 集刊行の翌翌年、早くも権威ある全集に抄録されたのに驚く。【B:12ページに全26篇(T 幻を見る人 四篇、Nu、叫び/U 腐刻画、沈める寺、黄金幻想、秋、声、予感、イメジ、皇帝、冬の音楽/V 四千の日と夜、十月の詩、正午、再会、車輪 その断片、遠い国、細い線、にぶい心/W 一九四〇年代・夏、立棺、三つの声)を収める】。末尾に「(初版 昭和三十一年三月、東京創元社刊)/編集部注  本詩集は思潮社版の現代詩文庫「田村隆一詩集」による。」とある。本書に田村の詩集が全篇収められていても、もう誰も驚かない。ここで、塩澤實信《古田 晁伝説》(河出書房新社、2003年2月28日)から〔現代日本文學全集〕の制作に関する記載を引こう。

 筑摩書房の『現代日本文学全集』は、島崎藤村を第一回配本にすることに成功を占う鍵があった。それは、古田晁、臼 井吉見の畏敬する同郷の輝く星であり、先行する『昭和文学全集』が第一回配本を許されなかった文豪だったからである。
 装幀は、角川版の原弘に対し、戦前のモダニズムの影を漂わす恩地孝四郎に依頼し、明るい向日的な黄土色を表紙に用いた。この色調は、その後の筑摩書房出 版物に、大きな影響をあたえたほどであった。
 収録する作家、著作権を継承する遺族との交渉には、編集部の全員が手分けして当たったが、難航する相手には社長の古田晁が、みずから出向いた。(同書、 二〇五ページ)
  文学全集と謳った五十六巻の中に『柳田国男集』を収録したり、与謝野寛・与謝野晶子・石川啄木・北原白秋の四詩人を一巻に収める、あるいは、『島崎藤村 集』『芥川龍之介集』『森鴎外集』につづく早い配本で、『斎藤茂吉集』を当てるといったユニークな巻建てと、視野の広さは、先行する角川版の『昭和文学全 集』をはるかに超えた本格的文学全集の雰囲気を漂わせていた。
 最初の実物見本が出来た時、全社員は恩地孝四郎の格調高い装幀と、島崎藤村の作家のスタートを決定づけた『破戒』の初版本の復元に感動した。
 「これならいける!」
 満足な給料も支給されない状況下で、彼らは筑摩書房復活の息吹の確信を、等しく持ったのだった。(同書、二〇八ページ)

臼井吉見のもとで〔現代日本文學全集〕の陣頭指揮を執ったのは百 瀬勝登で ある。吉岡は「現日」の担当者でこそなかったが(恩地との折衝は前述のように土井一正が当たった)、百瀬の紹介で筑摩書房に入社したのだから、何らかの関 わりがあったはずだ。残念ながら吉岡が「現日」に触れた文章は遺されていないので、詳しいことはわからない。筑摩の乾坤一擲の大プロジェクト(臼井は当初 100巻の予定を56巻に縮小、最終的に全97巻別巻2とした)が吉岡実(の装丁)に与えた影響は、それ以降の吉岡実装丁作品のうちに見ていくしかない。

恩地孝四郎装丁の《現代詩集〔現代日本文學全集89〕》(筑摩書房、1958年2月10日)と吉岡実装丁の《現代詩集〔現代日本文學大系93〕》(同、1973年4月5日)の函と表紙 恩地孝四郎装丁の《現代詩集〔現代日本文學全集89〕》(筑摩書房、1958年2月10日)と吉岡実装丁の《現代詩集〔現代日本文學大系93〕》(同、1973年4月5日)の函と本扉・見返し
恩地孝四郎装丁の《現代詩集〔現代日本文學全集89〕》(筑摩書房、1958年2月10日) と吉岡実装丁の《現代詩集 〔現代日本文學大系93〕》(同、1973年4月5日)の函と表紙(左)と《現代詩集〔現代日本文學全集89〕》と《現代詩集〔現代日本文學大系93〕》 の函と本扉・見返し(右)

AとBの最も著しい逕庭は本文用紙にある。一体に造本・装丁というと外側から、すなわち帯・函・ジャケット・表紙・見返し・本扉、の順 に視覚の滞空 時間は短くなっていく。下手をすると、ジャケットで覆われている表紙がどんなものか見ないことさえある。一冊の本でいちばん視覚の滞空時間が長いのは本文 ページで、数十枚の短篇でさえ数分では読めない。いわんや400字詰めで1600枚の〔現代日本文學全集〕や〔現代日本文學大系〕(*2)の場合においてをやである(吉岡の《僧侶》全篇が16ペー ジに収まってしまうのだ)。恩地は用紙についてこう述べる。

 次に茲に,本文の用紙,附随さして扉,挿画,見返し等の材料を述べる必要があらう。本文の用紙は普通装案者は関与 する場合が少 いが,これも一冊の本の美術効果の上からいつて装本意匠の中に加ふべきである。例へば甚だ壮重な外装をもつ本の本文紙が軽快なコットン紙であつたりするこ とは,手にとるものをしてだまされた様な空虚感を与へる。やはり装案者との協定を経て定める方が効果がある。しかし之が記述は一寸簡単にゆかぬ。種類が甚 だ多いし,名称を挙げるだけでは何にもならぬからだ。大略の所を述べて,細かい所は実物について考量して貰ひたい。概別すると本文印刷紙として用ひられて ゐる紙は,滑面のものとしては上質紙,白菱,金菱,金鵄,赤門,等々,〔……〕。上質紙は詩歌集等の上級出版に屢々用ひられてゐる。次に扉の用紙として適 当なのは上質紙であり一番無難である,本文より少し厚手のものがいい。他の紙であつてもそれは同様で,少くとも下の頁の刷字が透かない程度のものは是非用 ひねばならぬ。(〈装本美術の構成〉、《装本の業》、一七〇〜一七一ページ)

Aの本文用紙を選んだのが恩地孝四郎なのか、目にしたかぎりの資料からはわからなかった。用紙の選択を誰が主導したかは不明ながら、最 終的に恩地が 「協定を経て定め」たことはたしかで、この本文用紙が、刊行後60年近く経つというのに、驚くほど白い。明日をも知れぬ筑摩書房が「現日」の純白の本文用 紙に未来を託した、という気さえする(それに較べれば、AとBの表紙まわりの意匠の違いなど、装丁者が違う以上、当然だと言えばそれで済む)。刊行時には 目に痛いほどの白だったのではあるまいか。一方、Bの薄いクリーム色の本文用紙を選んだのは吉岡実だと思われる。ところで、吉岡実の装丁を論じた文献とし て逸することのできないものに、郡淳一郎による中島かほるのインタヴュー記事〈吉岡実と「社内装幀」の時代〉(《ユリイカ》2003年9月号)がある。こ こに全篇引用したいほどだが、そうもいかないので、〔現代日本文學大系〕および全集の装丁に関わる部分を存分に引く。末尾の( )内の数字は同誌の掲載 ページ。

吉岡さんが手がけた全集類の装幀をご覧になればわかるように、タイトル、巻数、出版社名という必要最小限の文字と、 ワンポイント のカットで構成しているのですが、「ヒラ」(本の表紙や函の表面)のタイトルがほとんど横組みの明朝体なんですね。吉岡さんはゴシック体は、ほとんど使わ なかったと思います。
 そして、タイトルの基本になるのが初号(四二ポイント相当)か一号(二七・五ポイント相当)の活字なんです。初号と一号では文字の肉厚が異なりますね。 初号は全体に肉が厚くて、一号、二号と小さくなるに従って縦棒が細くなってゆく。〔……〕吉岡さんはおそらく、特にこの初号活字の肉厚の文字のバランスが お好きだったのではないかと思います。(139)

それから吉岡方式ということで言うと、函にファンシー・ペーパーを貼ると、糊の水分で紙が少し伸びるんですね。函のヒラに横組みのセンター揃えでタイトル を入れる場合、左右中央に揃えてレイアウトすると、背を起点に紙を貼りますから、ヒラの文字が少しずれてしまうんですね。そのズレ加減を計算に入れて文字 の位置を決めるのだけれども、「文字が背のほうに寄っているのはいいんだ」というのが吉岡さんのアドバイスです。小口寄りはいけないと言われましたね。天 地の位置も、本当に天地中央に文字を置くと落ちて見えるから、少し上にずらさないといけないと教わりました。(141)

表紙を開けたところにある見返しについては、吉岡さんは淡クリーム白孔雀など、薄いクリーム色を好んで使われていました。あまりはっきりした色の見返しは 好まれなかったんです。ナチュラルな、うるさくない紙。一般的には表紙の色とのバランスで、見返しにはっきりと色のついた紙を用いることも多いのですが、 表紙を開いたら、そこからすでに本文が始まっているんだという意識が吉岡さんにはあったんだと思います。それと全集はたいてい厚くて重いので、やはり丈夫 な紙でないといけないということもあったでしょうね。後年は、ファンシー・ペーパーではシマメ紙もお好きでしたね。(143)

筑摩書房では、本文は編集者が自分で指定していました。帯もそうですね。でも吉岡さんは、そういう版面の作り方などについての相談も受けてらっしゃったと 思います。ただ、活字で本文を組むというのは制約が多くて、書体にしても文字の大きさにしても、ある程度自然に決まってきますよね。字間はベタ組が基本だ し、行間は二分(本文の文字の大きさの五〇パーセント)は詰まりすぎ、全角(一〇〇パーセント)は空きすぎだから二分四分(七五パーセント)空きが基本と いうように。(144)

―― 中島さんと吉岡さんが装幀で共同作業されたことはありますか。
中島 手となり、足とな りでお手伝いさせていただきました。たとえば黄色いクロスを表紙に使った『現代日本文学大系』(全九七巻、一九六八−七三年)などがそうですね。このマー クも、吉岡さんが「こんなのどう?」ってお描きになったのですよ。
―― 収録作家名は書き文字、その他の文字は写植ですね。
中島  そうですね。こういう巨大な全集のタイトルは書き文字でしたね。『世界文学全集』(全六九巻、一九六六―七〇年)や『筑摩世界文学大系』(全八九巻、一九 七一―九八年)もそうです。百巻くらいの全集は書き文字にするのが、なんとなく決まり事のようになっていたのではないでしょうか。
〔……〕
中島 これ〔中島が装丁 した『筑摩書房図書総目録 1940-1990』〕は「筑摩書房図書総目録」という文字だけ、オフセットでなく金版で押しているんです。だから黒々しているでしょう。いかにも筑摩ら しい、そして吉岡さん好みですね。
―― 「吉岡さん好み」?
中島 先ほども申し上げ たように、耐久性があり、しっかりとした重さがあるというのが大きいですね。「本ってものは重くなくちゃ」って、吉岡さん、よくおっしゃってました。だい たい書籍の束見本が出来上がると、まず重さ(*3)を手 で量るんですよ。「この重みがいい」って(笑)。そして「飽きがこない、くどくない、何年たっても書棚に置いてうるさくない本がいいんだ」と吉岡さんが おっしゃっていたのは覚えています。(145)

装幀については、穏やかなたたずまい、いつまで経っても飽きがこないもの、歳月に古びないもの、シンプルで落ちついていることをよしとされていました。何 をおいてもまず黒という色が大切で、インキの色数はいろいろあるけれど、何よりもまず黒なんだと強くおっしゃっていました。それから、「形」というものを 非常に大事にされていましたね。(147)
吉岡実にしたところで、全集=叢書類の装丁について一家言あったに違いないが、惜しむべし、中島かほるや筑摩の社内で装丁を担った人人(栃折久美子、吉田 澄、加藤光太郎、松沢園子たち)にしか語っていないようだ。ここは恩地孝四郎の見解に就くに如くはない。
〔……〕叢書類はその内容によつて多少の華素の差別はあるが,装案態度としては矢張,智能分子が勝つてゐる。科学類 にあつては単 冊書よりも稍装飾を多量にしたい。つまり多数の連列によるの単調を避けたいためです。之が内容の創作類である場合は,創作書の場合と似た創案過程が加はら なければならないが,併し内容が単冊書の場合とは異つてずつと多様であるわけだからその点ずつと趣きがちがふ。単冊の場合よりずつと智能的に扱つていい。 ずつと類型的になる。さもないと一冊の本には適合しても他には不適当といふ様な破目に陥る。だから矢張全体を通じての心持を自分に生かして装案する。そし て叢書に於ては,書棚で列冊された場合の美しさを予め考へて立案されなければならない。一冊だと大変いいが,多数列ぶととてもうるさくて,しつこくて助か らぬといふ様なことにならぬ様留意する必要がある。(〈装本美術の構成〉、《装本の業》、一七九ページ)
吉岡が言葉少なに語ったことも、これと大差なかったのではないか。すなわち〔現代日本文學全集〕における恩地の骨法をよく学んで、筑摩書房の全集=叢書装 丁の基盤を築いたのである。

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(*1) 竹久夢二は〈装幀に就いての私の意見〉(初出は 《新潮》1924年11月号)で「愛読の書は、自分の好みに従って自分で装幀するなり、製本屋へ注文して自分の好みで作らせるはずのものだ。すべての本 は、フランス風な仮装幀で沢山な訳だ」(《夢二デザイン》ピエ・ブックス、2005年4月11日、一一ページ)と主張している。装丁を依頼された他人の著 書は措くとしても、自身の著書には竹久の装丁がしっかりと施されているのだから、「フランス風な仮装幀で沢山」なのは「すべての本」ではなく、竹久が読む 竹久以外の人間が装丁した本でしかないだろう。
(*2)〔現代文学大系別冊〕として吉田精一《現代日本文学史》(非 売品)が刊行されたように、〔現代日本文學大系別冊〕として奥野健男《現代文學風土記》(非売品)が1968年8月25日に筑摩書房から刊行されている (ただしこの別冊は吉岡実の装丁ではないようだ)。なお《現代文學風土記》巻末には吉田精一編〈現代日本文學年表〉が付されており、これは吉田自身の《現 代日本文学史》掲載の年表の増補改訂版にあたる。
*3) Aの仕様は、二一八×一四八ミリメートル・四五二ページ・上製クロス装・機械函。重さは機械函が50g、本体が725g。Bの仕様 は、二一八 ×一四八ミリメートル・四三六ページ・上製クロス装・貼函。重さは貼函が115g、本体が765g。ちなみに本体と別冊索引を貼函に 収めた 《筑摩書房図書総目録 1940-1990》は全体で約2.6kg。


臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》のこと(2015年6月30日〔2016年10月31日追記〕〔2018年4月30日追記〕)

臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年5月3日)が刊行された。私が本書の刊行予定を知ったのは、装丁を担当する林哲夫さんのブログにおいてだった。一般に書籍の刊行予告は、企画がそうとう煮つまって、あとは作業時間を投入すれば発行できるという確証が得られた段階でオープンになる。刊行が予告されたあとは、読者は本が書店に並ぶのを待つしかないわけだ。ところが林さんは、本文のレイアウト(2014年の後半だったという)を終えて表紙まわりの作業に入った段階から、造本・装丁の進行状態をブログで公開するという「実況中継」方式で読者の待機時間を盛りあげてくれた。稀有なことである。完成までのその様子は、今年1月下旬から4月にかけて6回にわたって《daily-sumus2》で中継されており、私も2度ほどコメントを書きこんだ。興味深いことに、〈書影の森 筑摩書房の装幀1940-2014 再校〉に見える「吉岡実作と思われる三段八割広告」に関連する記事が、6年前の2009年6月16日の〈吉岡のサンヤツ〉にすでに登場している(「某氏」とは遠藤勁さんだろうか)。

  1. 書影の森 筑摩書房の装幀1940-2014
  2. 書影の森 筑摩書房の装幀1940-2014 再校
  3. 筑摩本・束見本
  4. 筑摩書房の装幀の装幀
  5. 書影の森 予約特典!
  6. 書影の森プルーフ

《daily-sumus2》に掲載された臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年4月25日〔装丁:林哲夫〕)の制作状況を伝える写真1 《daily-sumus2》に掲載された臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年4月25日〔装丁:林哲夫〕)の制作状況を伝える写真3 《daily-sumus2》に掲載された臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年4月25日〔装丁:林哲夫〕)の制作状況を伝える写真4 臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年5月3日)〔装丁:林哲夫〕の本扉と表紙
《daily-sumus2》に掲載された臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年5月3日)〔装丁:林哲夫〕の制作状況を伝える写真(出典:左から上掲の1、3、4)と同書の本扉と表紙(いちばん右)

編著者の臼田捷治さんは、これまでに5冊の単著を出している。《装幀時代》(晶文社、1999)、《現代装幀》(美学出版、2003)、《装幀列伝――本を設計する仕事人たち〔平凡社新書〕》(平凡社、2004)、《杉浦康平のデザイン〔同〕》(同、2010)、《工作舎物語――眠りたくなかった時代》(左右社、2014)である。吉岡の装丁は《装幀時代》と《現代装幀》で触れられていて、前者の〈吉岡実・栃折久美子――出版社のカラーを引きだす力〉は吉岡実の装丁と同時に筑摩書房の装丁に関する最も重要な文章のひとつである。私もたびたび《〈吉岡実〉の「本」》で引用させてもらった。これまでの臼田本が装丁家やブックデザイナーという固有名詞を基軸にした歴史=物語であったのに対して(杉浦康平論を書いたあと、松岡正剛率いる工作舎を舞台に、1970年代以降の若者たちの群像を描いたあたりから、臼田さんの対象への迫り方が変わってきたように思う)、本書が活版印刷黄金時代の代表的書物として筑摩書房の刊行物を取りあげたのは理に適っている。書物が最も書物らしかった時代の通史を描くのに、同社の出版物ほどふさわしいものは他に見出しがたいからだ(その要因は、後出の本書帯文に詳しい)。筑摩書房の創業は1940年、吉岡実が同社に入ったのは戦後の1951(昭和26)年である。

 ところで、この敗戦後の苦節時代を、筑摩書房はどういう陣容でくぐりぬけていたのか、定かではない。今たまたま手元にある、一番古い社員名簿を見ると、一九五三(昭和二八)年一月一日付けのものがある。つまり、次章で語る「現日」成功直前の苦境時代のものである。これを見ると、唐木・臼井・中村の三顧問を除いて、古田以下三〇人の構成になっている。敗戦後比較的早い時期にこの人数に達していたのではないかと思われる。しかし重役が一本[ママ]の煙草を分け合うというような状況だったのだから、この人数が食べていくのは大変なことであったと思われる。(柏原成光《友 臼井吉見と古田晁と――出版に情熱を燃やした生涯》紅書房、2013年11月28日、一四七ページ)

こうした苦闘を強いられた出版社が、それでもあるいはそれゆえに珠玉のような一冊一冊を生みだしていったことは驚嘆に値する。それを支えつづけた人びとへの畏敬の念も抑えがたい。そうした想いを書影でたどったのが本書であって(版元は当の筑摩書房ではなく、みずのわ出版だが)、《筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)との血縁が濃いことは改めて述べるまでもない。上に引いた柏原成光《友 臼井吉見と古田晁と》の巻末に〈資料について〉という解題つきの参考・引用文献の一覧が載っているので、摘する。このうち未見だった《古田晁記念館資料集》は、塩尻市立図書館に問いあわせて入手することを得た。

《〔創業50周年〕筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)のジャケット・函と晒名昇編《古田晁記念館資料集》(古田晁記念館、2003年10月30日)のジャケット
《〔創業50周年〕筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)のジャケット・函と晒名昇編《古田晁記念館資料集》(古田晁記念館、2003年10月30日)のジャケット

  1. 《筑摩書房の三十年》(筑摩書房、1970年12月25日)→和田芳恵《筑摩書房の三十年 1940-1970〔筑摩選書〕》(筑摩書房、2011年3月15日)
  2. 《回想の古田晁》(筑摩書房、1974年10月30日)→臼井吉見編《そのひと――ある出版者の肖像》(径書房、1980年10月30日)
  3. 臼井吉見《蛙のうた――ある編集者の回想》(筑摩書房、1965年4月25日)→臼井吉見《蛙のうた――ある編集者の回想〔筑摩叢書〕》(筑摩書房、1972年2月25日)
  4. 晒名昇編《古田晁記念館資料集》(古田晁記念館、2003年10月30日)
  5. 野原一夫《含羞の人》(文藝春秋、1982)
  6. 塩澤實信《古田晁伝説》(河出書房新社、2003)
  7. 竹之内静雄《先師先人〔講談社文芸文庫〕》(講談社、1992)
  8. 柏原成光《本と私と筑摩書房》(パロル舎、2009)
  9. 永江朗《筑摩書房 それから四十年 1970-2010〔筑摩選書〕》(筑摩書房、2011)

これを見てもわかるように、1と2の間には1973年10月30日の古田晁の死が横たわる。筑摩書房とは、1970年代の初めまでは、古田晁の別名だった。創業30年めの1970年には《筑摩書房の三十年》が非売品として、同じく50年めの1990年(吉岡実の亡くなった年)の翌年には「創業50周年」と冠した《筑摩書房図書総目録 1940-1990》――装丁者のクレジットはないが、「その端正さとグラマラスさをもって吉岡実と石岡瑛子のハイブリッドともいうべき両性具有性を体現する中島かほるの装幀」(橋本周馬)――が9,800円で市販書籍として、世に出た。だが、70年めの2010年には大規模な社史=書誌の刊行はなく、翌年に和田芳恵《筑摩書房の三十年 1940-1970》と永江朗《筑摩書房 それから四十年1970-2010》が出たものの、流通在庫を収めた販売のための図書目録以外は作られなかった。創業75年の今年2015年、その欠落を補って余りある本書が、最適の著者と装丁者を得て刊行された。臼田さんは書籍や雑誌の制作現場を知る、文字文化とグラフィックデザインを専門とする書き手であり、林さんはPR誌《ちくま》の表紙絵を担当したこともある画家にして、古書に通じたブックデザイナーである。この二人が組んだ以上、「ふつうの本」にならないことは目に見えている。
なにはともあれ、吉岡実に関する記載を見ることにしよう。本書の巻末には、編著者とブックデザイナー(組版担当でもある)の労作〈デザイナー・装幀担当者略歴+索引〉がある。その吉岡実の項のページノンブルに、掲載されている内容のあらましを補記する。なお【000『 』】の数字は図版番号、書名・誌名は書影(いずれもカラー写真)であることを表す。

*を付けた記事は本書に初出。他の林哲夫・栃折久美子・松田哲夫は、いずれも吉岡実装丁を評した最も重要な証言の再録。199ページ(索引には掲出されていない)には〈筑摩書房の三段八割新聞広告〉があって、解説は吉岡に言及している。第T部・第U部のくくりが《筑摩書房の三十年》・《筑摩書房図書総目録 1940-1990》に対応することは偶然ではないだろう。そして、第V部を含む全体が《書影の森――筑摩書房の装幀1940-2014》に対応することは言うまでもない。ここで本書の帯文を引いて、その刊行意図を探っておこう。

筑摩書房はわが国の装幀文化が、分野を問わず広く門戸を開いてきたよき伝統を体現してきたのであり、まさにその歩みは、装幀文化の縮図であり、みごとな見取り図だといってよい。実際、私はこれほどのロールモデルをほかに知らない。筑摩本の時代性を超えた功績であり、並びない魅力である。本書は、筑摩書房の装幀に携わった幾多のデザイナー、編集者、社内デザイナーの仕事の紹介をとおして、魅力あふれる豊かな実りの系譜を展望しようと企図した。そのことで、わが国の出版文化史に類いない光芒を放つとともに、出版界のひとつの指標となっている同社の装幀が果たしている役割を多角度から浮き彫りにできれば、と思う。

以下に、本書に登場するデザイナー・装幀担当者名を挙げる。装丁史の流れがわかりやすいように生年順(本書の索引は50音順)に掲げるが、鍋井克之が1888年生まれ、水戸部功が1979年生まれである(神田昇和/中川美智子/ミルキィ・イソベは生年未詳または未公開)。

鍋井克之
恩地孝四郎
中川一政
青山二郎
渡辺一夫
原弘
庫田叕
花森安治
風間完
吉岡実
田村義也
安野光雅
栃折久美子
粟津潔
田中一光
杉浦康平
瀬川康男
天野祐吉
加納光於
水野卓史
政田岑生
田名網敬一
司修
横尾忠則
和田誠
多田進
石岡瑛子
平野甲賀
小島武
菊地信義
佐藤晃一
中島かほる
渡辺千尋
原田治
高麗隆彦
羽良多平吉
南伸坊
加藤光太郎
日下潤一
久保制一
建石修志
柄澤齊
鈴木一誌
望月通陽
間村俊一
高橋雅之
杉浦日向子
祖父江慎
金田理恵
クラフト・エヴィング商會〔吉田篤弘〕
鈴木成一
有山達也
木庭貴信
水戸部功
 ○
神田昇和
中川美智子
ミルキィ・イソベ

風間完(1919〜2003)は吉岡実と同年の生まれだが、鍋井克之(1888〜1969)/恩地孝四郎(1891〜1955)/中川一政(1893〜1991)/青山二郎(1901〜79)/渡辺(渡邊)一夫(1901〜75)/原弘(1903〜86)/庫田叕(1907〜94)/花森安治(1911〜78)たちが、装丁における吉岡の先輩格に当たる。このなかで吉岡が言及したことがあるのは、恩地孝四郎だけだろう。筑摩書房での吉岡実装丁のルーツを探るうえで〔現代日本文學全集〕を手掛けた装丁家・恩地の存在は大きい。そのあたりのことは稿を改めて論じたい。
図版(書影)や文章は本書について見るに如くはないが、書名索引がないのは、本文と図版をあれこれ参照して読んでほしいという編著者の意向かもしれない。それほど何度でもページを翻して見、読むべき書物なのである。ちょうど《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)がそうであるように。そうしたなかで、付録の〈筑摩書房出版関連資料図版〉が面白い。吉岡がデザイン・レイアウトした内容見本もあるのだろうか。最後にこの書物の奥付を録することで、執筆・編纂、組版・造本・装丁、および制作に関わった人人に敬意を表する。いうまでもなく原本は縦組で、検印紙(印刷による再現で、貼込ではないが)があるのも楽しい、林さんらしい見事なレイアウト。

書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014

二〇一五年五月三日 初版第一刷発行

編著者 臼田捷治
発行者 柳原一コ
発行所 みずのわ出版
山口県大島郡周防大島町西安下庄庄北二八四五 庄区民館二軒上ル
〒七四二―二八〇六
電話・ファクス ○八二〇―七七―一七三九
E-mail ; 〔省略〕
URL ; http://www.mizunowa.com

企画協力……………多田進/松田哲夫/中川美智子/林哲夫
取材協力……………加藤光太郎
掲載本提供…………多田進/加藤光太郎/林哲夫
関連図版・資料提供………松田哲夫/林哲夫

印刷……………………………………………株式会社山田写真製版所
製本……………………………………………株式会社渋谷文泉閣
装幀+エディトリアルデザイン……………林哲夫
プリンティングディレクション……………高智之/黒田典孝(株式会社山田写真製版所)

© Shoji Usuda, 2015 Printed in Japan ISBN978-4-86426-032-9 C0071

〔追記〕
2015年5月19日、神田神保町の東京堂書店のホールで臼田捷治・松田哲夫・多田進3氏による《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》の刊行を記念するトークライブが開催された。編著者の臼田さんと並ぶこの本のもうひとりの立役者、ブックデザイン担当の林哲夫さんは7月に控えた作品展の制作のため欠席だったのが惜しまれる。みずのわ出版の柳原一コさんの挨拶のあと、臼田さんが機器の調整をしている間、編集者として筑摩書房に40年間(同社は今年創業75年だから、半分以上!)勤めた松田さんが口火を切った。入社した1969年当時、単行本はそれほどなく、叢書や個人全集といった全集類が多くて土壁色の本ばかりで変わりばえしないと感じたが、函から出してみると鮮やかなクロスの表紙だった。詩人でもあった吉岡実さんが装丁した個人全集で、シンプルだが力強い筑摩書房の装丁のイメージをつくったのがそれらだった、と自論を展開した。その後は臼田さんが操作する《書影の森》のキャプチャー画像を見ながら、多田さんを交えた3人で装丁作品にコメントしていく形式で進んだ。書影だけだとわかりにくいときは、南伸坊装丁になる赤瀬川原平《老人力》(1998)など、会場に持ちこんだ何冊かの原本が回覧された。当日のメモを基に、印象的だった項目を選んで記す。

ほかにも、興味深い指摘に充ちた2時間弱であった。しかるべきときに紹介できれば、と思う。
〔2018年4月30日追記〕
トークライブを聴いた、装丁家でイラストレーターの桂川潤は〈『書影の森』(みずのわ出版)について〉(初出は《出版ニュース》2015年8月上旬号)で「一九四〇年創業の筑摩書房の装丁スタイルは、同社のマークをデザインし、草創期の装丁を担当した青山二郎に始まり、恩地孝四郎装丁による大ヒット「現代日本文學全集」を経て、詩人としても知られた社内デザイナー吉岡実[みのる]によって完成された、というのが三人〔臼田・松田・多田〕の一致した見方だ。筑摩装丁の特徴は、センター合わせでシンメトリカルな格調高いスタイル。筑摩から出版した著訳書を自装したフランス文学者・渡辺一夫の装丁も筑摩スタイルとぴたりと重なる。端正な筑摩スタイルは、栃折久美子、中島かほる、加藤光太郎といった実力派の社内デザイナーに引き継がれ、また社外スタッフによる仕事も、自ずと筑摩スタイルを反映したシンメトリカルな装丁が多い。奇をてらわず、策を弄せず、燻[いぶ]し銀のような装丁ばかりだが、そんな本の顔が驚くほど鮮明に記憶に焼き付いているのはなぜだろう。〔……〕筑摩装丁では、表面的なデザイン技法ではなく、本をまるごと編んでいく力が求められた。多田さんが「筑摩には文字を読むだけではないすぐれた編集者がたくさんいた。それに尽きる」と語っていたのが印象的だった」(《装丁、あれこれ》彩流社、2018年1月30日、一〇六〜一〇七ページ)と書いている。私の知りえた、現役の装丁家による本書に関する最も真率な発言である。

大出俊幸さんが代表を務める〈本の会〉は今までに350回以上の例会を開いているが、調べてみると私の当時の勤務先、UPUの吉澤潔が「『エスクァイア日本版』の船出」を演題に講師として例会で喋ったのは1989年2月だった(吉澤さんは同誌の創刊編集長)。そのときは半分業務みたいな形だったが、興味深い演題と講師のときには時間を都合して聴きに行ったものだ。臼田捷治さん(2000年4月の「装丁の過去・現在・未来」)や松田哲夫さん(1990年1月の「筑摩書房の50年と“文学の森”」)、紀田順一郎さん(1992年6月の「内容見本に見る出版昭和史」)と初めてお目にかかったのも〈本の会〉の例会とその二次会でだった。そういえば、林哲夫さんに初めて挨拶したのも東京古書会館でのトークイヴェントでだった。《書影の森》のトークライブのあと、持参した保存用の一冊に臼田さんから署名してもらっただけでなく、撤収で忙しくしている柳原さん、さらには松田さんにもサイン(似顔絵入り)していただいた。そのことを林さんに報告したら、送ってくれれば署名して返送する(笑)と返事があった。林さん、今度ぜひ。筑摩本の話もいろいろ聴かせてください。

〔2016年10月31日追記〕
臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015)が、第50回造本装幀コンクールで日本書籍出版協会理事長賞〔専門書(人文社会科学書・自然科学書等)部門〕を受賞した。主宰者の発表に「書名:書影の森―筑摩書房の装幀1940-2014/出版社:みずのわ出版/装幀者:林哲夫/印刷会社:山田写真製版所/製本会社:渋谷文泉閣」とあるように、物[ブツ]としての本が評価されたものだ。第47回からは、同コンクールの応募作品のうち寄贈されたものは、国立国会図書館の「原装〔函・カバー等の外装を含む〕保存コレクション」として保存されることになったというから、時宜に適った措置といえよう。資料のデジタル化も結構だが(館内閲覧しかできないのは、なんとかならないものか)、その造本装丁が顕彰された出版物を画面上で視たところでなんになろう。折りにふれて本書を引いて、調べるつもりが想わず読みふけってしまうのは、物[ブツ]としていとおしいからである。臼田さん、林さん、柳原さん、そして制作に携わった未知の多くの方方に祝意を表する。受賞、おめでとうございます。
なお〈吉岡実の装丁作品(1)〉で触れている《校本 宮澤賢治全集〔全14巻(15冊)〕》(筑摩書房、1973〜1977)は吉岡実装丁を代表するものだが、「第八回造本装幀コンクールで、本全集が日本図書館協会賞を受賞」(筑摩書房の《新刊ニュース》)している。


吉岡実とマグリット(2015年5月31日)

――書かれた詩は、眼に見えないものであり、描かれた詩は、その姿を見ることができる。書く詩人は、身近な言葉によって考える。描く詩人は、眼に見える身近な形象によって考える。書かれたものとは、思考の眼に見えない描写であり、絵画とは、その眼に見えるものの描写である。(ルネ・マグリット〈詩とは……〉1967年遺稿)
(《「ル ネ・マグリット展」図録》朝日新聞社、1994、〔五〇ページ〕より)

吉岡実は随想〈奇妙な日のこと――三好豊一郎〉(初出は《三好豊一郎詩集1946〜1971》栞〈人と作品〉、サンリオ、1975年2月15日)を次のように結んでいる。

 書斎の次の部屋をのぞくと、あたかも芝居の書割のように一段高い所に、奇妙な座敷があるのだ。そこには、ぴかぴかの禿頭的な大頭の男が眠っていた。それはわが《囚人》の三好豊一郎ではないか。私はやっと救われた思いになる。そこで余裕の出た私はまじまじと、或は遠のいて見るのだ。まるでルネ・マグリットの絵の中の人物のように、愛すべき男がしっかりと固定されているようだ。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二〇一〜二〇二ページ)

ここで私は不審の念にかられる。マグリットの絵に「ぴかぴかの禿頭的な大頭の男」があっただろうかと。手近なマグリットの画集は、どれもみな収録作品の数が少なくて心もとないので、400点以上のカラー図版を掲載したRobert Hughes序文《The Portable Magritte》(Universe、2002)をひもとく。ざっと見たところぴたりと当てはまる作品はなかったが、〈Le Discours de la methode(方法序説)〉(1965)が近いか。マグリットは日本で出た画集や図録、雑誌に掲載された作品も多いので、吉岡が言及した絵が存在しないとは言いきれない。今後の探究に俟つ。

マグリットの油彩〈Le Discours de la methode(方法序説)〉(1965)
マグリットの油彩〈Le Discours de la methode(方法序説)〉(1965)

《筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)でマグリットを探すと画集が出ていたので、記載を引く(人名の漢字はママ)。吉岡が本書に目を通していることは確実だ。なお《マグリットの日本語版画集》によれば、これは「1971年の日本初のマグリット展開催にあわせて出版された限定1000部の画集」で、吉岡がこの日本初のマグリット展、すなわち東京国立近代美術館(1971年5月22日〜7月11日)および京都国立近代美術館(7月20日〜9月5日)で開かれた《ルネ・マグリット展》を観ている可能性はきわめて高い。それというのも、吉岡が編集していた《ちくま》第27号(1971年7月)に岡田隆彦の〈似ていること――マグリットの二重のイメジ〉が掲載されているからだ。岡田は当時《ちくま》にエッセイを連載しており、同展をきっかけにして、マグリットについて書くと吉岡に言いもしたことだろう。

ルネ・マグリット画集
ルネ・マグリットについて(エミール・ランギ) ルネ・マグリットの世界(渋沢竜彦) 作品解説(峯村敏明) 他
装幀 志賀紀子
B4変型判/上製・函入/図版106点 解説他46頁
1971年12月21日 14,000円    4384

32点のカラー図版を貼りこんだこの大判の画集にも「ぴかぴかの禿頭的な大頭の男」を描いた絵は収められていない。なお、目録の末尾に記載されている数字は原本番号で、筑摩書房社内で整理のために1点ごとに刊行順に付けたもの(ただし、正確さと網羅性に欠ける)。


マグリットは吉岡実の詩に一度だけ登場する。飯島耕一の言葉を題辞に引いた〈雷雨の姿を見よ〉(H・14)である(初出は《海》 1978年5月号)。その「2」の節の全行はこうだ。

ぼくは〈危険な思想〉というものは
もしかしたら眉唾ものだと思う
野には春の七草
「マグリットの
岩も
城も軽く浮んでいる」

同詩に引用された詩句の出典を博捜した高橋睦郎の〈鑑賞〉も、この節に関しては「飯島耕一の一種の楽天性への共感。」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984、一四四ページ)と記すだけで、出典を明らかにしえていない。もっとも吉岡は、金井美恵子との対談〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉(《現代詩手帖》1980年10月号)で引用詩について

ぼくの中でも、補足は自分で作って自分で括弧にいれると、リアリティが出るなと思っちゃう。全部が人の言葉とは限ってないわけ。作り変えもあるし……。で、この行とこの行をつなぐには引用をいれないと、という感じで、自分で作った引用をいれざるを得なくなってきているのね。〔……〕自分で敢て自分の詩句を括弧にいれるとリアリティを感じられるという錯覚を作っているわけだ。(同誌、九六ページ)

と披瀝しているくらいだから、「 」内が美術をめぐる飯島の文なのか、吉岡自作の「引用」なのかわからない。もちろんここで言及されているのはマグリットの油彩〈Le Chateau des Pyrenees(ピレネーの城)〉(1959)で、3行めの「野には春の七草」が後から挿入されたことを考えあわせれば、1〜2行めこそ飯島の言葉で、4〜6行めは吉岡が自分の言葉を「 」で括ってリアリティあらしめている、という推測すら成りたつ。
ときに、吉岡がマグリットの名を挙げずにその絵をスルスとした詩の第一は〈立体〉(F・3)で、それについては〈〈立体〉のスルスとしてのマグリット絵画〔追記〕〉で図版を掲げた。同評釈の本文と〔追記〕に付けくわえるべきことはない。
さらに《夏の宴》から、マグリットの名は登場しないが、マグリットがらみの一篇。〈雷雨の姿を見よ〉と同様、《吉岡実〔現代の詩人1〕》にも収められている、こちらは追悼詩。

ここではひとは真に見てはいない
表面[、、]
表面的[、、、]
表面化[、、、]する
それらの日常品は
私にはそれぞれの実体の
似姿に思われる
上は吉岡が宮川淳(1933〜77)に捧げた〈織物の三つの端布〉(H・16)に見える詩句だが、そのスルスは宮川の《紙片と眼差とのあいだに》に収められた〈ルネ・マグリットの余白に〉の「《表面》について考えながら、たとえば表面とそのさまざまな派生的な表現について、表面[、、]、表面的[、、、]、表面化[、、、]する……。」(T・二一三・2-3)である。いま阿部良雄・清水徹・種村季弘・豊崎光一・中原佑介編《宮川淳著作集〔全3巻〕》(美術出版社、1980〜81)――ちなみに同書は吉岡実の装丁――を繰ってみると、〈ルネ・マグリットの余白に〉には
(ルイス・キャロルとマグリットの関係について考えること。)

というはなはだ印象的な一行が記されている(T・二一五・6)。言い忘れたが、(T・二一五・6)は《宮川淳著作集》第T巻、二一五ページ、6行めを示す。《宮川淳著作集》の同じ巻の〈表面について ルイス・キャロル〉を開くと、予想にたがわずマグリットからの引用がある。すなわち「物体はその背後に他の物体があることを予想させる。」(T・三五三・6)であり、「物体は他にもっとふさわしい名称が見出せないほどそれ自身の名称に密着しているわけではない。」(T・三五四・8)である。《宮川淳著作集》に見えるマグリットからの引用を、もうひとつ掲げよう。

わたしのタブローはイメージからなる。ひとつのイメージの価値ある描写は自由への思考の方向づけなしにはなされることはできない。(T・三〇三・3-4)

これを「わたしの詩篇はイメージからなる。ひとつのイメージの価値ある描写は自由への思考の方向づけなしにはなされることはできない」と読みかえる誘惑には、抗しがたいものがある。ときに吉岡は、前掲の対談で〈織物の三つの端布〉について金井美恵子と次のように語っている。

金井  池田満寿夫の文章は明晰すぎるということなんでしょうかね。と言うか抽象的で陳腐に美しいということなんでしょうかね。
吉岡  抽象的でもないけど、非常に明晰で作りにくかった。で、土方巽のほかで作りやすかったのは飯島耕一。これまた野蛮な言葉を発しているわけ。ぼくにとって意外な言葉と言うか、生の言葉が必要なんだ。それだと作りいい。だから、あんまり文章が整いすぎちゃったエッセイからは、非常にとりにくい。宮川淳なんかその最たるものね。宮川淳はとるところが非常にむずかしいわけよ。だから、他の、外国の画家の言葉とかそういうのを散りばめないと宮川淳像は成り立たなかった。
金井 宮川さんの文章そのものが引用から成り立っているわけですものね。
吉岡 宮川淳のための「織物の三つの端布」、これが一番むずかしかったなあ。またおそらくうまく成功してないんじゃないかと思うよ。作品としてどうなのかとちょっと疑問になる。
金井 宮川淳から引用できそうな言葉というのは、宮川淳が使っている言葉じゃないということがあるかもしれないですしね。
吉岡 そういうこともあるかもわかんないしね。あまりにも詩的な文体であるためにこっちの感興を呼ばなかった。(《現代詩手帖》1980年10月号、九七ページ)

宮川淳を追悼するために宮川作品から引用しようとすると、地の文ではなく引用された文になりがちだという指摘が面白い(高橋睦郎の〈鑑賞〉に拠れば、「他の、外国の画家の言葉」はマグリットの言葉ではなく、ジョルジュ・ブラックのそれ)。また、飯島耕一や土方巽の言葉は引用しやすくて、池田満寿夫のそれは引用しにくいという処も興味深い。宮川や池田に美術とりわけ絵画がらみの文が多く、二人ともマグリットに親炙していることを考えると、引用をめぐる吉岡実/ルネ・マグリット、詩/絵画の比較検討は多くの課題を含んでいると思われる。その際、前掲詩の「〈危険な思想〉」と(アンドレ・ブルトンの提唱する)シュルレアリスムとの関係が最大の争点になるだろうが、ここはそれを本格的に論じる場ではない。他日を期す。

2015年、東京・六本木の国立新美術館で大規模な《マグリット展》が開かれた(会期は3月25日〜6月29日)。吉岡は、前述のように散文と詩でマグリットに言及しつつも、随想や年譜ではマグリット(展)に触れていない。1971年より後では《ルネ・マグリット展》(渋谷東急百貨店本店・富山県民会館美術館・熊本県立美術館、1982年8月〜12月)、《ルネ・マグリット展》(山口県立美術館・東京国立近代美術館、1988年4月〜7月)、そしてこれは吉岡の歿後だが《ルネ・マグリット展》(三越美術館・新宿・大丸梅田店大丸ミュージアム・福岡市美術館、1994年11月〜1995年5月)が開かれている。吉岡がどこかで原画を観ていておかしくないのだが、マグリットの絵は図版で観てもそれなりに感懐が湧く作風なので、万が一、回顧展を観ていないということもあり得る。ちなみに私は今回初めてマグリット展を観た。図版でおなじみの〈L'Homme au journal(新聞を読む男)〉(1928)や〈La Clairvoyance(透視)〉(1936)や〈L'Empire des lumieres,U(光の帝国U)〉(1950)や〈Souvenir de voyage(旅の想い出)〉(1955)――〈立体〉の評釈を書いた者にとって、これは眼福だった――や前述の〈Le Chateau des Pyrenees(ピレネーの城)〉(1959)やとりわけ〈Golconde(ゴルコンダ)〉(1953)を堪能した。出品されていなかった〈La Duree poignardee(突き刺された持続)〉(1938)は、ベルギー製の美麗な絵ハガキで渇を癒やした。前回の回顧展は2002年、Bunkamura ザ・ミュージアム(会期は7月6日〜8月25日)ほかで開かれた《マグリット展》である。かつては《ルネ・マグリット展》だったのが、ここ2回は《マグリット展》になっている。ルネ・マグリットではなく、マグリット。こんにち、この20世紀のヨーロッパ絵画の巨匠が日本人にとって(ますます)身近な存在になったことの証しだろう。


《マグリット/ミロ〔週刊美術館 10〕》(小学館、2000年4月11日)の〈マグリット物語――ブリュッセルにひそむ謎の小市民〉にこうある。「ルネ・マグリット。1898年ベルギー生まれ。性格はおとなしぐまじめ。15歳で初恋を経験し、その相手と23歳で結婚。家庭を愛し、生涯のほとんどをベルギーの首都ブリュッセルで過ごす――。/そう、その作品に出てくる紳士たちのように、マグリットはごくありふれた小市民だった。少なくともその外見は……。/けれどこの小市民、あまりにふつうすぎるところがかえって変だ。例えば、彼はふつうの格好で、つまり三つぞろいのスーツに山高帽という格好で、絵を描いた。アトリエは台所や食堂、居間の片隅を転々とする。どの床にも決して絵具をこぼさなかったという。/時間にも正確だった。待ち合わせ時間にも決して遅れない。たとえ友人の芸術家たちが、隣の部屋で熱っぽく議論している最中でも、ぴったり夜10時には就寝。ほとんど常軌を逸した小市民ぶりではないか?」(同書、一六ページ)。夜更けのダイニングテーブルで詩を書き――吉岡の〈自作について〉に見える「詩作に熱中している私の姿が、しばしば、部屋いっぱいに拡がり、とても側に居られない」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、二〇六ページ)とは、なんともマグリット的な光景ではないか――、わが国有数の出版社の役員まで勤めたわれらが詩人のことを想う。吉岡実は前掲の金井美恵子との対談で、あたかもルネ・マグリットその人であるかのように、こう語っていた。

だからぼくのはシュールレアリスムでも何でもなくてさ、一行、〔二→一〕行すべてリアリティだという自負はあるのね。それの集積でちょっと異様なものができてるはずだよ。(《現代詩手帖》1980年10月号、九六ページ)

最後は〈Le Chateau des Pyrenees(ピレネーの城)〉(1959)で締めてもらおう。マグリットの友人である弁護士ハリー・トルクツィナーが、ニューヨークの自分の事務所 の、隣のビルに面していた縦198×横142cmの窓を塞ぐために(!)依頼した200×145cmの作品である(図録《マグリット展》、読売新聞東京本社、2015〔刊行月日の記載なし〕、一九八ページによる)。用途とサイズを指定されて、これだけの絵画を成すマグリットの面目躍如たる傑作。吉岡がマグリットの作品として真っ先に挙げたところで、なんの不思議があろう。

マグリットの油彩〈Le Chateau des Pyrenees(ピレネーの城)〉(1959)
マグリットの油彩〈Le Chateau des Pyrenees(ピレネーの城)〉(1959)


吉岡実と木下夕爾(2015年4月30日)

丸谷才一は対談〈「明星」の詩と短歌〉で堀口大學にこう語る。

丸谷  ところで、「アンソロジー向きの詩」という言葉が英語にあって、「アンソロジー・ピース」というんですがね。これはほめる場合にも使われる。つまりアンソ ロジーによく入るような、という……。
堀口 整っているという 意味でしょうね。わかりもよくて奥行きもある。
丸谷 ええ、それから割 りに短い。それでまたちょっと軽蔑的、否定的な意味にも使われることがある。つまり万人向きとかね。
 ワーズワースの水仙の詩なんか、短くて、皆によくわかるし、皆知っている。つまり皆に口当りがいい詩だというので、よくも悪くもアンソロジー向きの詩と いうことになる。(丸谷才一《膝を打つ〔文春文庫〕》文藝春秋、2015年2月10日、三五四〜三五五ページ)

この伝でいくと、吉岡実のアンソロジー・ピースはさしずめ〈静物〉(B・1)、〈サフラン摘み〉(G・1)ということになる。〈僧侶〉 (C・8)は 各種の選集や詞華集に収められているが、アンソロジー・ピースと呼ぶには稜がありすぎはしないか。じじつ、石原千秋監修・新潮文庫編集部編《新潮ことばの 扉――教科書で出会った名詩一〇〇〔新潮文庫〕》(新潮社、2014年11月1日)に収録されている吉岡実詩は〈静物〉である。そして飯島耕一〈他人の 空〉と茨城のり子〈わたしが一番きれいだったとき〉のあいだに、堀口に見出された木下夕爾の席が用意されている。〈ひばりのす〉である。同書に収録されて いるのは、萩原朔太郎や島崎藤村など幾人かを除けば一人一篇だから、その詩人の代表作ということになろう。木下は《児童詩集》の詩人と見なされているの だ。

ひばりのす|木下夕爾

ひばりのす
みつけた
まだたれも知らない

あそこだ
水車小屋のわき
しんりょうしょの赤い屋根のみえる
あのむぎばたけだ

小さいたまごが
五つならんでる
まだたれにもいわない

その簡潔極まる略歴には「きのした・ゆうじ/(一九一四〜六五)/広島県生れ。「若草」に投稿した詩が堀口大學に認められ、注目され る。一九四九年 に詩誌「木靴」を創刊。俳句にも多く秀作をのこした。代表作に『児童詩集』『笛を吹くひと』など」(同書、五四ページ)とある。木下が生前に刊行した詩集 は以下の6冊である。

 《田舎の食卓》(詩文学研究会、1939)
 《生れた家》(詩文学研究会、1940)
 《昔の歌〔新選詩人叢書〕》(ちまた書房、1946)
 《晩夏》(浮城書房、1949)
 《児童詩集》(木靴発行所、1955)
 《笛を吹くひと》(的場書房、1958)

また句集に《南風抄》(風流豆本の会、1956)、《遠雷〔春燈叢書第七輯〕》(春燈社、1959)、歿後刊に安住敦編《定本 木下夕爾句集〔春燈叢書第三十三輯〕》(牧羊社、1966)、ほかがある。さて、吉岡実が木下夕爾(の詩)との関わりを初めて公表した随想〈木下夕爾との 別れ〉は次のような内容である。同文は1979年5月18日、《朝日新聞〔夕刊〕》に発表された。なお、吉岡文の引用は《「死児」という絵〔増補版〕》 (筑摩書房、1988、二一六〜二一九ページ)から。

――3年前の1976年の7月、同じ《朝日新聞》に〈回想の俳句〉を4回連載した。取りあげたのは、1:富田木歩と三ケ山孝子、2:吉 岡の自作、 3:石田波郷、4:田尻春夢と椿作二郎で、木下夕爾は迷ったすえ書かなかった。そして、愛蔵の句集《遠雷》から3句を引用。その寸評。同句集の〈あとが き〉から「戦時中何事も手につかず暮してゐた私は、俳句といふ未知の詩型に親しむことによつてわづかに日々の孤独をなぐさめられてきました」を引用。詩人 が俳句に没入した気持ちが理解できたのは、自分も当時、習作的な詩や俳句を書いていたからだ、としてこう続ける。

 木下夕爾と私との交流がはじまったのは、昭和十五年ごろからだろうか。当時の感傷的な若ものたちの愛好した雑誌 〈若草〉の詩人 から脱皮して、夕爾は〈文芸汎論〉に作品を発表する新鋭詩人であった。有名な〈四季〉にも、ときおり執筆していたように思う。文壇に背をむけ、詩と詩人を 優遇した高踏趣味のスマートな雑誌を、多くの文学青年が愛読していた。
 しかし私が夕爾を好きになったのは、限定百部の処女詩集《田舎の食卓》を手に入れて、読んだ時からである。昭和十四年に刊行されたこの詩集は、文芸汎論 詩集賞を受けた。たしか一部の人から、日本のフランシス・ジャムだと高く評価されたようでもあった。

――そして、詩篇〈田舎の食卓〉を全行(といっても6行だが)引用する。その2行め、吉岡文では「僕のまはりで」となっているが、そし てそれは旧仮 名遣いとしても正しいのだが、初版の詩集《田舎の食卓》では「僕のまわりで」だったのだ。吉岡が随想を執筆したときに拠った底本は、初版の詩集ではなかっ たのかもしれない。それとも、発表媒体の新聞社が校訂したのだろうか。

 一人のファンとして、私が手紙を出したのが、夕爾とのそれから二年間の文通のはじまりだった。まわりには、詩を解 する友もな く、稚拙な詩や歌をつくっていた私にとって、ときたま届く夕爾の手紙が唯一の慰めであった。遠い見も知らぬ広島の田園風物や日常生活を語る、夕爾の美しい 筆跡の文章を、私は詩を読むようにくりかえし読んだものだ。

――最初の著書、詩歌集《昏睡季節》を送ったところ、木下夕爾から礼状が来た。詩篇には触れず、3首ほどの短歌を褒めていた。「夕爾の 手紙類は戦災 で焼失してしまったので、今は確かめることは出来ない。〔……〕夕爾から第二詩集《生れた家》が送られてきたのも、そのころである。」そして、詩篇〈野〉 の引用。これは初版の詩集《生れた家》に拠ったか。

 私は一年後、すべての親しい人びとと別れて出征した。そして満洲、朝鮮の警護にあたり、約五年後の敗戦の年に復員 したのであ る。すでに木下夕爾は人気のある詩人になっていた。私は無事帰還したことを、いち早く報告し、旧交をあたためるのが自然のなりゆきだったかも知れない、だ がそれをしなかった。この時点で、私は木下夕爾とひそかに訣別したのである。
 生涯かわることなく、簡素平明なる詩風を通した、木下夕爾の最後の詩集《笛を吹くひと》は〔昭和三十五年→昭和三十三年〕に刊行されている。同じ年、詩 集《僧侶》によって、私はようやく世に認められるようになった。
以上が〈木下夕爾との別れ〉のあらましである。ここで二人の詩集の刊行状況を対比してみると興味深い。


木下夕爾 吉岡実
1939(昭和14) [1]田舎の食卓 ――
1940(昭和15) [2]生れた家 @昏睡季節
1941(昭和16) ―― A液體
1946(昭和21) [3]昔の歌 ――
1949(昭和24) [4]晩夏 ――
1955(昭和30) [5]児童詩集 B静物
1958(昭和33) [6]笛を吹くひと C僧侶

それまで吉岡は、若年のころに親しんだ詩歌人として木下夕爾の名を挙げたことはなかった。木下が吉岡(の詩)に言及したこともなかった はずだ。した がってこの随想は吉岡が詩的に出発した1940年前後に北園克衛や左川ちかだけでなく、堀口大學や木下夕爾にも近かったことを明かしたものとして、吉岡の 読者はもちろん、木下の愛読者にもある種の衝撃を与えたようである。私もまた〈木下夕爾との別れ〉によって両者の関係を初めて知り、木下の詩を読んだ。

   少年|木下夕爾

   毒蛇の舌のやうにやはらかい雨が
   南の方から来て頬を濡らした
   僕はいつも美しい包装の本を持つてあるいた
   自分の秘密のやうに
   誰もゐないところでそれをひらいて見るのだつた
   五月のくさむらにねころぶと
   いきなり大きい腕が僕を目隠しするのだつた……

〈少年〉は《田舎の食卓》と、のちの《昔の歌》にも収められているから、自愛の作品なのだろうが、私には西脇順三郎と北園克衛と萩原朔太郎の声色が出すぎ ているように思えてならない。吉岡が引いた標題作〈田舎の食卓〉は充分に木下夕爾の作品となっていたが、これはこれでフランシス・ジャムの勉強ぶりが透け て見えるようだ。もっとも木下の詩にはジャムの詩に著しい女に対する渇望が乏しい。ところで、吉岡実にはもう一篇、木下夕爾の詩に触れた散文が存在する。 今まで書籍に収められたことのない〈夕爾の詩一篇〉(《俳句とエッセイ》1982年1月号)である。〔 〕内は小林による校訂。

 木下夕爾の詩作品のなかから、好きな一篇を掲げよといわれ、私は少しばかり当惑した。なぜならば、戦後の夕爾の詩 篇は、読んで いないからだ。二年ほど前に書いた「木下夕爾との別れ」という文章で述べたように、二十歳のころ『田舎の食卓』と『生れた家』の二つの詩集に、接したにす ぎない。本来なら全詩業を通読し、現在の私の視点で、一篇を選ぶべきであるが、残念ながら、それも出来なかった。四十年前に、夕爾から贈られた〔方→第〕 二詩集『生れた家』が幸いあったので、なつかしく往時を偲びつつ、読み返してみた。
 冒頭の詩「街上某日」も「ゆふぐれ」も好きだが、表題になった「生れた家」も、わるくないと思った。しかし集中の名篇は、「昔の歌」 (Fragments)ということになる。
 夜が来た 夜よ 壮麗な夏の昼が夜のなかに蔵はれる さうして私も蔵ひこまれるのだつた 見しらぬ大きいもの のなかに――

 ――毎夜 私はリルケの詩集を枕がみにおいてねむつた
〔天ツキ→一字下ゲ〕小さな灯の下で その白い〔夏→頁〕のところどころに 草の汁でついた指紋がうねつてゐた それゆゑ私は いつでも晴れた日のくさむ らにすはることができた さうして 私は捕へることができた 幸福を――帽子を投げて昆虫を捕へるやうに

 早い朝の林のなかのプロムナアドよ――しかし私がそこを通るのは いつも神神の祝祭の終つたあとだ 空に向つて背のたかい椅子の足がならび パン屑みた いな花が点点とこぼれてゐる……樹脂が固まつてゐる 寂しいパンセのやうに ときをり 池はジレッ卜のやうに光つて まだ私の額につかまつてゐる夢をそぎ 落す……

 私は好んだ 青空と木の梢とがつくり出す あのエエテルのやうな世界を また 風と水とがゑがく あの美しい襞の世界を――ときをり私はそこに在りたい と希つた――けれどももしそれが出来たら ああ 母上よ たぶん私はすぐにかへつて来たでせう かへつて来て 小さい傷でいつぱいな 机のまへにすはるで せう さうして母上よ 私は あの花の種子を蒔いたかどうかをたづねるでせう ゐなくなつた犬のことを話したりするでせう
 「リルケの詩集……」という字句が示すように、たしかにリルケの影響が見られる。比較的長いこの 詩は、他の可憐な抒情詩と異なっている。錯綜する時間と空間の裡に、心情と景物が巧みに併置され、陰翳に富んでいる。夕爾の代表作といってよい、一篇だ。 当時の多くの詩を好む青年たちと、同じように、堀辰雄の文章に触発されて、私はリルケの作品を読み初めていた。おそらく、わが夕爾もそうであったであろう と思う。そして、読んでいたテキストは、茅野蕭々の名訳『リルケ詩集』であったような気がするのだ。(同誌、三六〜三七ページ)

吉岡の〈夕爾の詩一篇〉に触れるまえに、〈昔の歌(Fragments)〉の本文を見ておこう。同詩は初め《生れた家》に収められ、の ちに《昔の 歌》に標題作として再録された。《定本 木下夕爾詩集》(牧羊社、1972年5月30日)に採られた本文は後者である。校訂上、問題のある第2聯を比較しよう(収録した詩集をそれぞれ[生] [昔][定]と略記した)。字詰めも各詩集どおりとする。

 ――毎夜 私はリルケの詩集を枕がみにおいてねむつた
 小さな灯の下で その白い頁のところどころに 草の汁で
ついた指紋がうねつてゐた それゆゑ私は いつでも晴れた
日のくさむらにすはることができた さうして 私は捕へる
ことができた 幸福を――帽子を投げて昆虫を捕へるやうに    [生]〔漢字は新字に改めた〕

 ――毎夜 私はリルケの詩集を枕がみにお
いてねむつた 小さな灯の下で その白い頁
のところどころに 草の汁でついた指紋がう
ねつてゐた それゆゑ私は いつでも晴れた
日のくさむらにすはることができた さうし
て 私は捕へることができた 幸福を――帽
子を投げて昆虫を捕へるやうに    [昔]〔漢字は新字に改めた〕

――毎夜 私はリルケの詩集を枕がみにおいてねむつた 小さな灯
の下で その白い頁のところどころに 草の汁でついた指紋がうね
つてゐた それゆゑ私は いつでも晴れた日のくさむらにすわるこ
とができた さうして 私は捕へることができた 幸福を――帽子
を投げて昆虫を捕へるやうに    [定]

《昔の歌》は〔新選詩人叢書〕の「第四輯」で、著者の〈集のをはりに〉を新字に改めて引けば「旧著「田舎の食卓」及び「生れた家」の二 冊を主として この貧しい詩集を編むことにした。をさない夢をちりばめた、文字どほりの歌である。」(同書、六二ページ)とあるとおり、木下夕爾自身の編になる。私はこ の第2聯は[昔]の形を採るべきだと思う。[昔]と[定]の違いは冒頭の一字下げの有無だけだが(他の聯も同じ)、これを[定]のように一字下げ無しにす る根拠は、少なくとも《定本 木下夕爾詩集》の編纂の方針を述べた安住敦の文章を読むかぎり、ない。したがって吉岡が前掲〈夕爾の詩一篇〉で引いた〈昔の歌(Fragments)〉の 第2聯は

 ――毎夜 私はリルケの詩集を枕がみにおいてねむつた 小さな灯の下で その白い頁のところ どころに 草の汁でついた指紋がうねつてゐた それゆゑ私は いつでも晴れた日のくさむらにすはることができた さうして 私は捕へることができた 幸福 を――帽子を投げて昆虫を捕へるやうに

とすべきだと考える。よって、吉岡の〈夕爾の詩一篇〉で「〔天ツキ→一字下ゲ〕小さな灯の下で」とした箇所は「〔天ツキ→一字空けて前 行に追い込 む〕小さな灯の下で」と改める。ただし、ここで厄介なことが一つある。[定]が[生][昔]の「すはる」を「すわる」と改めているのだ。旧仮名遣い上、こ れはこれで正しい措置なのだが、本稿では著者(木下夕爾)と引用者(吉岡実)の誤記・誤用を訂する処までは踏みこまずにおく。吉岡の未刊行の随想に戻ろ う。

――木下夕爾の詩から好きな一篇を挙げるが、戦前の二詩集しか読んでおらず、著者から贈られた《生れた家》を読みかえした。〈街上某 日〉〈ゆふぐ れ〉〈生れた家〉も好きだが、集中の一篇となれば〈昔の歌(Fragments)〉だ(同詩の全篇引用は原典の複写[コピー]ではなく、手ずから書き写し たもの)。そして〈夕爾の詩一篇〉の核心部分が来る。

 「リルケの詩集……」という字句が示すように、たしかにリルケの影響が見られる。比較的長いこの詩は、他の可憐な 抒情詩と異なっている。錯綜する時間と空間の裡に、心情と景物が巧みに併置され、陰翳に富んでいる。夕爾の代表作といってよい、一篇だ。

吉岡とて〈ひばりのす〉を目にしていたはずだ。だが、こうした「簡素平明なる詩風」の作品ではなく、《昏睡季節》や《液體》を書いた当 時の吉岡がど こまで自覚的だったかはわからないが、「堀辰雄の文章に触発されて」「読み初めていた」「リルケの作品」に親しんだであろう詩人の作品に着目する。戦後の 木下がリルケの指ししめした道とは異なる《児童詩集》を著したのとは対照的に、吉岡はリルケの再読を通して《静物》という真の処女作を著した。吉岡実に とって戦前の《田舎の食卓》と《生れた家》の木下夕爾は、自分の進むべき道を往く先達の一人として映ったのではないだろうか。ピカソ(瀧口修造訳)―北園 克衛―左川ちか、に対するリルケ(堀辰雄訳)―堀口大學―木下夕爾というトライアングルは、これまで以上に重視されてよいように思う。

次に引く〈死者〉は、吉岡が読んでいないという戦後の《笛を吹くひと》の一篇。詩集では「広島原爆忌にあたり」と詞書きにある〈火の記 憶〉(初出は 被災10周年にあたる昭和30年すなわち1955年8月、《朝日新聞》に発表)のあとに置かれている。ゆえに、これらの詩篇を含む章の題〈冬の噴水 一九 二九年―一九三二年〉はどう考えても年代的におかしい。〈昭和二九年―昭和三二年〉が本来あるべき姿ではないか。

死者|木下夕爾

片びらきの鎧戸が
夜風に軋つていた
立ち止つて
僕はその音を聴いた
君がちよつと出かけている時と同じだと思いながら

あれから何日経つたろう
古びた鎧戸だけが
絶え間なく軋りながら
今も君を待つているようにみえる

僕は見た
マントを翼のように鳴らして
君が帰つてくるのを
垣根づたいに這いあがり
屋根から自分の部屋へはいろうとするのを
夜風がそれを引きずり出そうとするのを
そのたびに鎧戸が開いたり閉じたりするのを

僕は立ち止つて
外灯のうすらあかりで
それをみた
吉岡実が、同居していた友人の吉田健男(年上の女性と心中した)に捧げてもおかしくない追悼詩である。


最後に木下夕爾の俳句について。〈昔の歌(Fragments)〉の第2聯には「空に向つて背のたかい椅子の足がならび」があったか ら、椅子に注目してみた。《遠雷》の〈夏手套〉に次の句がある。

  緑蔭にして脚しろくほそき椅子

五・七・五で区切って読むと「りょくいんに/してあししろく/ほそきいす」となる。初句にはないが、二句には7音中3音、三句には5音中2音、サ 行の音があり、とりわけ「あししろく」が鋭く響く。誦しにくいくらいだ。同句を意味で区切って読むと「リョクインニシテ/アシシロクホソキ/イス」の七・ 八・二となろう。こちらの第二句は人物(とりわけうら若き女)の白くて繊い脚の描写にも読める。もっとも、雑誌や書籍に印刷された状態では末尾の「椅子」 が目に飛びこんでくるから、ほとんど意識されないが。《定本 木下夕爾句集》(牧羊社、1972年5月30日)には他に5句、椅子の句がある。( )内の数字は同書の掲載ページ。

  緑蔭の椅子人生長く倦みにけり    《遠雷》〈夏手套〉    (39)
  こほろぎやいつもの午後のいつもの椅子    《遠雷》〈山葡萄〉    (67)
  春の雷ききとめし背の椅子軋む    《春雷 その他》〈春昼〉    (103)
  緑蔭の椅子みな持てる四本の脚    《春雷 その他》〈五月来ぬ〉    (121)
  パイプ椅子鉄の灰皿棕梠の花    《遠雷以後》〈蝉の森〉    (171)

「春の雷」は作者の身じろぎまで伝わってくるようだ。私は吉岡の雄篇〈悪趣味な内面の秋の旅〉(G・31)の「秋の夜は挽棒状の脚/梯子状の背もたれのあ る/椅子に腰かけ/旅する者は考える」という詩句を想起した。《文藝》1975年11月号に発表されたこの詩の末尾には、脱稿したと思しい日付 「1975・9・22」が記されていた。吉岡が《朝日新聞》に〈回想の俳句〉を連載する前年秋のことである。

〔追記〕
詩集《笛を吹くひと》の巻頭には井伏鱒二の序詩〈陸稲を送る〉が掲げられていて、題辞に「ふるさとの木下夕爾君の詩「ひばりのす」 を読んで、〔……〕」とあるばかりか、詩篇の本文に〈ひばりのす〉を全行引いている。木下夕爾の代表作=〈ひばりのす〉は、作品そのものの力もさることな がら、井伏の序詩の存在も与って大きかった(同詩は岩波文庫版《井伏鱒二全詩集》にも収められている)。ちなみに、私の下の娘は〈陸稲を送る〉の5行めに 出てくる井伏のお膝元、荻窪の「東京衛生病院」で産まれた。私は同病院に往くたびに、教会通り(病院はキリスト教系)を歩く愉快を感じる。通りに「半分沈 んだ舟の/甲板に似た仕事場には/浅靴から深靴までの/色とりどりの商品が並んでいる」(〈幻場〉H・13))のような洗濯[クリーニング]屋があるから だ。


フラン・オブライエン(大澤正佳訳)《第三の警官》のこと(2015年3月31日)

フラン・オブライエンの長篇小説《第三の警官》を再読した。最初に読んだ版は初刊の単行本(筑摩書房、1973年9月25日)で、吉岡 実が読んだの もこれ。今回再読したのは、同じ大澤正佳訳の白水uブックス版(白水社、2013年12月20日)で、同書は〈海外小説 永遠の本棚〉と銘打たれている。初刊とuブックス版をつぶさに照合したわけではないが、送りがなを多めにしたくらいで、基本的に同じ訳文のようだ。

フラン・オブライエン(大沢正佳訳)《第三の警官》(筑摩書房、1973年9月25日)の本扉と同書の白水uブックス版(白水社、2013年12月20日)のジャケット
フラン・オブライエン(大沢正佳訳)《第三の警官》(筑摩書房、1973年9月25日)の本 扉と同書の白水uブックス版(白水社、2013年12月20日)のジャケット

吉岡実は親しい人との談笑のおり、なにか面白い本を読んだか尋ねるのが常だった(私でさえ訊かれたくらいだから、情報を得ることもさる ことながら、 相手がどの程度の人物なのか踏んでいる気配もあって、いま思いかえしても冷や汗が出る)。次に引く金井美恵子〈吉岡実とあう――人・語・物〉と城戸朱理 〈吉岡実と指環〉にそうした情景が描かれている。

 たしか去年か一昨年か、〔……〕それこそ平板で平明な照明と外に面した大きなガラス窓のある喫茶店で、入沢さんと 吉岡さん、そ れに私と姉と四人でコーヒーを飲んで雑談をし、吉岡さんとの雑談のなかでは、いつでも「何か最近おもしろい本はない? 教えてよ」という質問を受けること になっているのだが、その時もそう聞かれ、『ロリータ』はむろんお読みでしょうが、ナボコフを最近まとめて読んだ、と姉が答え、入沢さんは『セバスチャ ン・ナイトの生涯』は実に面白い小説だったと言い、私たちはそれにうなずき、あれは一種目まいのするような陰惨で滑稽な小説である、と誰かが言うのだが、 吉岡さんの反応は違う。
 ナボコフ? ああ、『ロリータ』ね。前に一度読みかけたけれど、あれは訳文がとんでもない悪文だろ?(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、 1984、二一六〜二一七ページ)

〔……〕吉岡さんはべらんめえ調の口調で、自分の愛する作家や作品のことを話され、コーヒーをおかわりし、そして私に「最近面白かった本は何だい?」と か、「何に興味があるの?」といった質問を矢継ぎばやに発せられるのが常だった。現代思想のことや海外の詩のことを尋ねられることが多く、ジャック・デリ ダやジル・ドゥルーズに大いに関心を抱き、W・C・ウイリアムズやチャールズ・オルソンらアメリカの詩人たちのことを知りたがられた。吉岡さん自身が愛す るものに関しては、散文集『「死児」という絵』にくわしいが、吉岡さんがよく興味をもって話されていたのは、オクタビオ・パスの「白」、チャールズ・オル ソンの「カワセミ」といった長詩やエリザベス・ビショップの詩「人間蛾[マン・モス]」などのことで、またジェームズ・ジョイスの衣鉢を継ぐアイルランド の作家、フラン・オブライエンの作品をことのほか愛されていたように思う。私の手元には絶版になったオブライエンの『第三の警官』があるが、これは吉岡さ んがわざわざ版元に連絡して取り寄せ、私に贈って下さったもので扉には次のような言葉が書かれている。「この小説を城戸朱理に読んで貰いたく、捧げる。  一九八四・六・四」。(《吉岡実の肖像》ジャプラン、2004年4月15日、一二三ページ)

吉岡実とナボコフに ついてはかつて書いたので、海外の詩 に触れておく。オルソン(出淵博訳)の〈かわせみ〉とパス(鼓直訳)の〈白〉は、篠田一士編《現代詩集〔集英社版世界の文学37〕》(集英社、1979年 2月20日)に収められている。吉岡が(編者から贈られて?)読んだのもこれだろう。エリザベス・ビショップには、吉岡歿後刊の小口未散編・訳による《エ リザベス・ビショップ詩集〔世界現代詩文庫〕》(土曜美術社出版販売、2001)があり、〈人間―蛾[マン―モス]〉は第一詩集《北と南》(1946)の 一篇として収録されている。なお、福田陸太郎・鍵谷幸信編《現代アメリカ・イギリス詩人論》(国文社、1972)所収の徳永暢三〈エリザベス・ビショッ プ〉には福田陸太郎訳の〈人間蛾〉が全行引かれているから、吉岡が目にしたのはこれかもしれない。これらの海外の詩に触発されて成った吉岡実詩が《薬玉》 (1983)や《ムーンドロップ》(1988)に結実したことは、付言するまでもない。吉岡はこのようにして、翻訳物を知友たちの評判に基づいて手にした り、読んだりしていたようだ。《第三の警官》初刊の出版元は筑摩書房だから、淡谷淳一さんや後輩の編集者から、〈僧侶〉(四 人めは《第三の警官》の語り手さながら、開幕早早殺されるが、終幕まで他の三人の僧侶と同様の、いや三人以上の活躍をする)の詩人好みの作品として推奨さ れたのだろうか(《第三の警官》はその後、1998年刊の〈筑摩世界文學大系68〉の《ジョイスU・オブライエン》に《スウィム・トゥー・バーズにて》と ともに収録された)。ここで興味深いのは、初刊の訳書が出てから1年以上経った1974年11月、吉岡が編集する《ちくま》67号に大澤正佳の〈フラン・ マイルズ・ブライアン――アイルランドの文人〉が掲載されていることだ(末尾には罫囲みで「フラン・オブライエン/大澤正佳訳 第三の警官 筑摩書房/価 一九〇〇円」と慎ましく書籍の広告が記されている)。――同文はのちに《スパーク/オブライエン〔集英社版世界の文学16〕》(集英社、1977年12月 20日)の、大澤による〈解説〉に吸収された。――〈フラン・マイルズ・ブライアン〉には次のよう な記載がある。

実のところ彼〔フラン・オブライエン〕は第一作に優るとひそかに自負していた第二作『第三の警官』の原稿をロングマ ンズ社〔第一作『スウィム・トゥー・バーズにて』の版元〕に委ねていたのだが、戦時中のこととて出版を謝絶されたのだった。(同誌、二ページ)
一 九一一年アイルランド北部のストラベインに生れたオノーラン〔フラン・オブライエンの本名〕は一九二三年にダブリンへ転居するまで正規の学校教育をうけて いない。家が貧しかったからというわけではない。〔……〕ケヴィン〔フラン・オブライエンの弟〕の筆は生気にあふれたオノーラン兄弟の日常をいきいきと写 しだしている。旺盛な知識欲に駆り立てられて手当たり次第の本を乱読し、「お話し」を創り合って興じ、〔……〕。(同誌、六ページ)

ところで、これに先立つ1971年5月の《ちくま》25号(これも吉岡編集)掲載の〈チャイルド・ホリッド顰め面紀行――アイルランド 文学の古さと 新しさ〉は、大澤の《フィネガンズ・ウェイク》論集である《ジョイスのための長い通夜》(青土社、1988)に収められる際、〈トンネルで酒浸り〉と改題 されたが、その最後にオブライエンによるジョイス論、〈トンネルで酒浸り〉が紹介されていた(ただし《第三の警官》への言及はない)。おそらくこれが、吉 岡実がフラン・オブライエンの名を知った最初だと思われる。


《第三の警官》は自転車をめぐる奇想小説という見方が一般的だが、ジョイスの後輩による小説だけあって、簡単に要約することができな い。幸いなこと に、訳者が《イギリスW〔集英社ギャラリー[世界の文学]5〕》(集英社、1990年1月24日)に付した〈文学作品キイノート〉に本書の〈あらすじ〉が 載っているので、それを拝借する。

 この作品の語り手は名前を持たず、左足は木の義足である。左はギリシアの昔から凶兆と結びつくとされており、この 語り手が「災 難にあうのはいつも左の方向」なのだ。彼の関心はただひたすら物理学者にして哲学者たるド・セルビィに向けられている。学生時代からこの碩学[せきがく] に傾倒してきた彼は長年の研究成果の出版資金を得るために雇人ジョン・ディヴニィと共謀して富裕な老人メイザーズを殺害する。ラスコーリニコフの老婆殺し に似た陰惨な設定だが、語り手はあくまでも無表情に、日常茶飯事を口にするようなさりげない調子で語りつづける。事件のほとぼりがさめた頃[ころ]、語り 手はメイザーズ邸に忍び込む。老人から奪った金箱をその床下に隠しておいたというディヴニィの言葉に従ったのである。彼は床下に手を差し入れる。金箱に触 れる。するとそれはするりと滑り落ちる。ディヴニィが金のかわりに爆薬を仕掛けておいたと判明するのは結末近くになってからである。異様な事態に戸惑った 語り手がふと目をあげるとメイザーズ老人が椅子[いす]におさまっている。老人の亡霊だ、と彼は直感する。今や彼自身も亡霊になっているとは夢にも御存知 ないのである。メイザーズ老人と奇妙な問答をかわしている最中に語り手の魂ジョーがひょいと登場してきて、これから先、語り手の行動をちくいち批評し忠告 することになる。彼は黒い金箱を求めてどこか次元が狂っているシュールリアリスティックな警察署に出頭し、カフカの「判決」や『審判』を思わせる不条理な 裁判にかけられ死刑の宣告をうける。三人の警官――巡査部長プラック、巡査マクリスキーン、そして結末近くまで姿を見せない「第三の警官」フォックス巡査 ――の管轄[かんかつ]下にあるこの異様な領域の住民はすべて自転車人間である。警官たちの主要な任務は自転車と自転車乗りとの間の原子交換から生ずる自 転車人間(あるいは人間自転車)の状態を確認することであり、プラック巡査部長は盗難車の捜索発見にいそしんでいるが、原子交換率の低下を狙って自転車を 盗み隠匿[いんとく]するのはほかならぬ彼自身なのである。
 プラックとマクリスキーンに導かれた語り手はリフトに乗って地下の領域を訪れる。そこは無数の扉を備え、「すべての部分は何度も反復されていて、どの場 所も他の場所である」ミノタウロスの家(ホルヘ・ルイス・ボルヘス「アステリオーンの家」一九五七年)そのままの迷宮であり、時間が停止している「永遠」 の領域である。語り手が次々と思いがけない事態に遭遇するたびにジョーが口をはさんで掛合い漫才めいた会話を展開するが、脱線とみえて実は事態の本質を浮 かび上がらせる仕掛けとして作者はジョーのほかにド・セルビィを準備している。ド・セルビィヘの言及は主として脚注という形で行われるが、彼は家屋、道 路、旅行、釘[くぎ]打ち、水などありとあらゆる事象について奇抜な一家言を持っている哲学的科学的異才として登場する。彼をめぐる叙述はことさらに衒学 [げんがく]的な報告調の文体が用いられており、語り手の自然な、とぼけた語り口と相挨[あいま]って作品全体のおかしみを増幅している。この碩学に続い て一団のド・セルビィ評釈者たちが現れ、さらに彼らのド・セルビィ論を論評する研究者たちの説も紹介される。その結果、Aなる評釈者のド・セルビィ論を論 評するBなる批評家を批判する研究者の説が開陳され、自転車の車輪の回転運動に似た堂々めぐりが展開することになる。(なおド・セルビィは『ドーキー古文 書』にも魔術的な科学の天才として再登場し、今は敬虔[けいけん]なカトリック信者として居酒屋に勤めている文学の天才ジェイムズ・ジョイスとの対面が企 てられるという奇抜な成行きとなる)。ド・セルビィの「科学実験」の一つに、並置した鏡にうつるわれとわが身の映像を望遠鏡で覗[のぞ]きこみ、無限に繰 り返されるわが分身の果てを見届けようとするものがある。また、マクリスキーンの手造りになる逸品の一つに精巧な箱細工があって、その箱はひとまわりずつ 小さいが見掛けは全く同一の箱を次々に内蔵しており、そのあげく今では目には見えない無限小の箱の製作が進行中である。並置された鏡に反復される映像、無 限小に達する箱細工――いわば循環小数の果てしない繰り返しが『第三の警官』の構成原理なのである。その世界に登場してくる人物はそれぞれ陰謀者と共謀 者、殺人犯と被害者、死刑執行人と死刑囚といった対をなし、ド・セルビィが語り手の歪[ゆが]められた鏡像であるように、相互に反映し合って いる。そして語り手の内部にジョーがひそみ、フォックス巡査が詰めている第二の警察署がメイザーズ老人の屋敷の壁の内側にあるように、すべては重ねた箱細 工と同じく内側へ内側へとのめりこみ、螺旋[らせん]状の循環運動を反復するのである。この小説の結びで語り手は再び警察署にやってくる。今度は頓死[と んし]したジョン・ディヴニィと二人連れであるが、描写は前回と殆[ほとん]ど同一である。物語は振り出しからもう一度(そしておそらくは果てしなく繰り 返して)語り直されようとしているのである。(同書、一四〇九〜一四一一ページ)

ここで「マクリスキーンの手造りになる逸品の一つに精巧な箱細工があって、その箱はひとまわりずつ小さいが見掛けは全く同一の箱を次々 に内蔵してお り、そのあげく今では目には見えない無限小の箱の製作が進行中である」とあるのが、初刊訳書の本扉の絵(前掲写真参照)のモチーフになっている。こうした 無限の反復とさらには逼塞感(「並置した鏡にうつるわれとわが身の映像」)は《第三の警官》に著しいもので、誰しもそれを感じるからだろう、オブライエン の歿後にようやく刊行された原著《The Third Policeman》(1967)の表紙まわりの装画がまさにこの本扉の絵だった。そこからは「「わたしは幼年時代 メリー・ミルクというミルクの/缶の レッテルに 女の子がメリー・ミルクの缶を抱え/ている姿の描かれている」/その缶を抱えている屋敷の女の子を眺めながら/わたしは水疱瘡に罹っていた」 という詩句を含む吉岡実の〈示影針(グノーモン)〉(G・ 27)が想起される。同詩篇は1975年9月の発表で、「 」内の詩句は澁澤龍彦からの引用だから、それが吉岡の中でオブライエンの「箱細工」と共振した だろうことは想像に難くない。そして、金子國義の絵によせた詩篇〈夢のアステリスク〉(H・ 22、初出は1978年3月20日刊行の金子國義版画集《LE REVE D'ALICE――アリスの夢》(角川書店)の出版案内カタログ(同、1978年2月))には「大きな箱から/順次に小さくなる箱を/開ける 開ける」と 箱細工そのものが登場するのである。


オブライエンの自転車の描写は圧倒的で、とくに結末(より正確に言うなら、この小説の最終ページ)に近い3 ページ分はぜひ引用したいと ころだが、先に〈あらすじ〉を長長と引いたので、該当箇所を示すにとどめる。すなわち「この自転車そのものには何か独特の調子というか個性といったものが あるようで、」から「有能な空気ポンプが彼女〔自転車〕の後のふとももにぬくぬくとしがみついていると思えば口に言い表わせないほど心丈夫というもので す。」(初刊:二六一〜二六三ページ、世界文學大系版:四四五〜四四六ページ、uブックス版:二九三〜二九五ページ)までの一段落がそれである。ところ で、私の知人にバイクを乗りまわすくせに自転車をこげない人がいた。ちなみに私は、エンジン(モーター)の付く乗り物とはいっさい関わらないようにしてい るから、自分で体感できる最高速度の乗り物は自転車である。吉岡実はどうだったろうか。下町のガキ大将だった吉岡が、自転車に乗れなかったはずがない。 オートバイ(詩篇〈孤 独なオートバイ〉(E・14)に、運転する者の視点が欠落しているのは興味深 い)はもちろんのこと、くるまを乗りまわす吉岡というのも想像できない。吉岡には馬や自転車が似合う。ここで吉岡実の詩に登場する自転車を見てみよう。

 ・自転車競走選手が衝突する(白昼消息、@・10)

 ・空走る一つの自転車のからまわり
 ・自転車のからまわり(無罪・有罪、E・2)

 ・メタフィジックな牛乳配達自転車(夏から秋まで、F・2)

 ・自転車で通る(ルイス・キャロルを探す方法〔わがアリスへの接近〕、G・11)

 ・自転車のチューブのようなもので(あまがつ頌、G・30)

そして、満を持して〈自転車の上の猫〉(G・15)が登場する。全行を引こう。

 闇の夜を疾走する
 一台の自転車
 その長い時間の経過のうちに
 乗る人は死に絶え
 二つの車輪のゆるやかな自転の軸の中心から
 みどりの植物が繁茂する
 美しい肉体を
 一周し
 走りつづける
 旧式な一台の自転車
 その拷問具のような乗物の上で
 大股をひらく猫がいる
 としたら
 それはあらゆる少年が眠る前にもつ想像力の世界だ
 禁欲的に
 薄明の街を歩いてゆく
 うしろむきの少女
 むこうから掃除人が来る

〈自転車の上の猫〉の初出は1974年4月、〈松井喜三男展「少 年少女」〉のパンフレットに 掲載、そのときは「マツイ・キミオの絵によせて」と詞書きがあった(詩集では削除)。同展は1970年に金子國義の最初の弟子となった松井喜三男 (1947〜81)の青木画廊での初の個展で、松井にはその名も〈自 転車の上の猫〉(1971)という絵があった。吉岡の詩はこれに寄せたものだが、そこには《第三の警官》の余韻が漂っていないだろう か。


オブライエンの代表的な長篇小説はすべて大澤正佳によって邦訳されている。近年刊行の版を挙げるならば、《スウィム・トゥ・バーズにて 〔白水uブッ クス〕》(白水社、2014)、《ハードライフ》(国書刊行会、2005)、《ドーキー古文書》(集英社〔《イギリスW〔集英社ギャラリー[世界の文学] 5〕》所収〕、1990)の3作がそれだ。だが、ここで触れておきたいのはそれらではなく、1941年発表の短篇、というより掌篇の〈ジョン・ダフィーの 弟〉(澤村灌・高儀進編《笑いの遊歩道――イギリス・ユーモア文学傑作選〔白水uブックス〕》白水社、1990年3月5日、所収)である。「フルネームで 呼ぶのは差し控える」(同書、一九一ページ)ため、主人公は「ジョン・ダフィーの弟」と呼ばれるが、本題である彼の話に入るまえに次のような人物たちが登 場する。いずれも一筆書きだ。

 ジョン・ダフィー=「ジョン・ダフィーの弟」の兄。
 ガムリー=ジョン・ダフィーを取りあげ、かつ一時間後に見とった医者。
 マーティン・スマリン=テリアを伴い、ステッキを持って公園の高台を横切る男。引退した定期機関運転士。
 ゴギンズ夫人=マーティン・スマリンの姉。服地卸商の故ポール・ゴギンズの未亡人。
 リーオ・コー=ゴギンズ夫人のいとこ。偽札造りの廉で刑務所に送られた。
 ダフィー=ジョン・ダフィーの弟の父にして、彼の持っている小型望遠鏡(これでマーティン・スマリンを見ている)の初めの所有者。商船の船員だったが、 1927年7月4日4時に発狂して、その晩、身柄を拘束する処へ移送された。

オブライエンはここまでで訳書の3ページを費やしてから(ちなみにこの掌篇の本文は8ページ強)、ぬけぬけとこう続ける。
「前述の多くの事 柄はジョン・ダフィーの弟の話とはほとんど本質的な関係がないとも言えようが、現代の文学は、単純な事件を、その事件を引き起こした背景にひそんでいる心 理学的・遺伝的要因を知る手掛かりを何も与えずに、真空の中で述べる段階を通り過ぎてしまったものと思いたい。しかし、これだけのことを言っておけば、も う、ジョン・ダフィーの弟の冒険がどんなものであったか、手短に記すことは許される。
 彼は、ある朝――一九三二年三月九日――起床し、着替え、質素な朝食を料理した。その直後、自分は汽車だという不思議な考えに取り憑かれてしまった。な ぜかは説明のしようもない。小さな男の子が自分は汽車だというふりをすることが間々[まま]あるし、世の中には、遠くから見ると、汽車に幾分似ていなくも ない肥った女がいるものではあるが。しかし、ジョン・ダフィーの弟は、自分は汽車である[、、、]と確信した――白い蒸気が騒々しい音を立てて足元から漏 れ、煙突のあるところから太い唸り声をリズミカルに発する、長い、轟然と走る巨大な汽車。」(同書、一九四〜一九五ページ)
この「汽車」が《第三の警官》の「自転車」と同類であることはいうまでもない。体調のすぐれなかった最晩年の吉岡がこの訳書を読んだとは思えないが、オブ ライエンの機関車人間もしくは人間機関車に触れたなら必ずや快哉を叫んだことだろう。私は〈ジョン・ダフィーの弟〉からマグリット描くところの〈La Duree Poignardee(突き刺された持続)〉(1939)を想起しないわけにはいかなかった。確かに「真空の中で述べる段階を通り過ぎてしまった」「現代 の文学」はこのようにでも書くしかないのだ、と思いながら。ちなみに、マグリットが油彩を描いた翌1940年に吉岡は《昏睡季節》を刊行し、さらにその翌 41年に吉岡は《液體》を出し、オブライエンはこの掌篇を発表している。

――「夏の日盛りの庭で/まるで青い食べ物のように/蒸気を出す/笑う女がいる」(〈悪趣味な夏の旅〉G・26)

マグリットの油彩〈La Duree Poignardee(突き刺された持続)〉(1939)
マグリットの油彩〈La Duree Poignardee(突き刺された持続)〉(1939)


吉岡実と福永武彦(2015年2月28日〔2017年3月31日追記〕)

手許に吉岡実が福永武彦に贈った詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962)がある。昨2014年11月、本サイトの12周年を自祝して落穂舎から購入した古書だ。写真を見ればわかるとおり、見返しに
  福永武彦様 1963.3.25 吉岡實
とブルーブラックのペン(おそらく吉岡愛用の万年筆)で書かれている。ちなみに、1963(昭和38)年3月25日は月曜日(先輩や 知友であれば、刊行直後に献呈署名入りを贈っているだろう)。私は吉岡さんに会うたびに新刊や古書で入手した詩集に署名してもらったが、ふだんは万年筆を 持ちあわせていないため、私のブラックインクのパーカーによるものが多い。写真の《サフラン摘み》の献呈署名は「小林一郎様/1984.12.9/吉岡 実」で、日付のスタイルは福永の場合と同じである(この日の明治大学詩人会の忘年会のことは〈吉岡実の話し方〉に書いた)。また、自宅で献呈署名したものには筆ペンによるものもある。

吉岡実が福永武彦に贈った詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962年9月9日)の見返しページ 吉岡実が小林一郎所蔵の詩集《サフラン摘み》(青土社、1976年9月30日)に署名した見返しページ
吉岡実が福永武彦に贈った詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962年9月9日)の見返しページ(左)と吉岡実が小林一郎所蔵の詩集《サフラン摘み》(青土社、1976年9月30日)に署名した見返しページ(右)

《紡錘形》は、妻の吉岡陽子を発行人として草蝉舎から限定400部で刊行された。小田久郎は次のように書いている。「一方、この年、単行詩集として は、岩田宏の『頭脳の戦争』を七月、吉岡実の『紡錘形』を九月に出版した。吉岡のは、私家版として吉岡が作ったものの発行、発売を引受けただけだったが 〔発行は思潮社ではない〕、思潮社が受託していた部数をあっという間に完売してしまった」(《戦後詩壇私史》新潮社、1995年2月25日、二四九ペー ジ)。つまり、発行部数のかなりの数は思潮社が販売し、残りは吉岡が手許に置いていた、ということになる。吉岡の自筆年譜の「昭和四十五年 一九七〇年    五十一歳」には「吉増剛造、出来たばかりの『黄金詩篇』を持って、会社を訪れる。『紡錘形』を贈る」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、 1984、二三三ページ)と見えるから、勤務先にも保管していたようだ。さらに興味深いことに、吉岡の随想〈誓子断想〉には「山口誓子氏に唯一度、私は出 会っている。上京された折、仕事のことで相談を受けたことがある。都内のホテルで半時間ほど、雑談しただけだが、私にとって有意義なひとときであった。出 来たばかりの詩集《紡錘形》を差上げたから、昭和三十七年のことだと思う」(《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、1988、一一四〜一一五ページ) とある。初対面の俳人に出版社の人間として会って、詩人として(いや、順番からいけばこちらが先だが、愛読者として)自分の新作の詩集を贈る。これと似た 状況が福永武彦との間に繰りひろげられた可能性は否定できない。しかし、吉岡の年譜(吉岡陽子編)の「一九六三年(昭和三十八年)四十四歳」には「『西脇 順三郎全詩集』を筑摩書房から刊行した縁で西脇順三郎の知遇を得る」という一行があるばかりで、詳細は不明だ。

吉岡実は福永武彦の名をただ一度、挙げている。《安藤元雄詩集〔現代詩文庫79〕》(思潮社、1983年4月1日)の裏表紙に掲載された無題の文章である。全文を引く。

 古本屋の雑多なる堆積の闇から、私は一冊の薄い本を、光のなかへ抽き出し、慰撫する。まだ真新しい、それは安藤元雄の処女詩集 《秋の鎮魂》であった。福永武彦の寄せた〈序〉の言葉がこの詩人の思念の本質を、的確に捉えているように思われる。――風景が彼の内部に沈んで来ると、そ こで意識の物たちは埃〔っ→つ〕ぽい現実を捨象し〔(ナシ)→て〕、暗い澱んだ瘴気を漂わせ始める――。清澄で内省的なこの詩人は、永い時間をかけた、 《船と その歌》を、一過程としつつ、やがて成熟した、作品《水の中の歳月》を創り上げた。

《秋の鎮魂》は1957年の、《船と その歌》は1972年の、《水の中の歳月》は1980年の刊行。ここで思い出されるのは、安藤元雄が吉岡について語った〈インタビュー・詩作について〉である。

 この詩集〔《船と その歌》〕の反響はだいぶありましたか。
 ――これはありました。それも書評やなんかではない形であったみたいです。〔……〕第一詩集の『秋の鎮魂』も、僕はまさかそこまでと思わなかったんです けど、吉岡実さんがね、自分で買って読んでてくれてた。僕は吉岡さんには当時あげなかったと思うんです。というのは吉岡さんていうのは随分遅くスタートし た詩人ですし、堀辰雄とかそっちの系統でもなかったから。僕のあげるリストに入っていなかったんです。そしたら吉岡実さんは、なんと古本屋で見つけたら面 白そうだからというので、買って読んでくれてた。〔……〕(《〔前橋文学館特別企画展 第七回萩原朔太郎賞受賞者展覧会図録〕安藤元雄――『秋の鎮魂』から『めぐりの歌』まで》(萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち 前橋文学館、2000年3 月4日、一五ページ)

安藤によれば、吉岡は「堀辰雄―福永武彦―安藤元雄」という系統ではないということになる。たしかに後輩の著書に序を寄せるような間柄を系統と言う なら、吉岡実は誰の系統でもなかった。ここで、1963年までの堀、福永、安藤の著作活動を整理しておこう。堀は1953(昭和28)年に48歳で病歿し ており、《堀辰雄全集〔全7巻〕》(新潮社、1954〜57)の編纂には福永も加わっている。福永武彦(1918〜79)は《ボオドレエルの世界》 (1947)、《塔》(1948)、詩集《ある青春》(同)、《風土〔第二部省略版〕》(1952)、《草の花》(1954)、《冥府》(同)、《冥府・ 深淵》(1956)、《愛の試み》(同)、《風土〔完全版〕》(1957)、《完全犯罪》(同)、《心の中を流れる河》(1958)、《愛の試み愛の終 り》(同)、《世界の終り》(1959)、《廃市》(1960)、《ゴーギャンの世界》(1961)、《告別》(1962)、と多くの著書、とりわけ小説 (集)がある。安藤元雄(1934〜)は《秋の鎮魂》(1957)。ちなみに吉岡実の著書は《昏睡季節》(1940)、《液体》(1941)、《静物》 (1955)、《僧侶》(1958)、《魚藍》(1959)、《吉岡實詩集》(同)、《紡錘形》(1962)。ところで福永の盟友・中村真一郎について、 吉岡は〈挨拶〔高見順賞受賞〕〉で次のように書いている。

 作家の中村真一郎氏とは、面識がある程度であるが、他の選考委員はみんな、親しい友人であり、また個性ゆたかな詩人である。そのような人たちに、《サフラン摘み》が認められたことが、私にはなによりもうれしい。(《現代詩手帖》1977年2月号、一九一ページ)

福永武彦・中村真一郎・丸谷才一《深夜の散歩――ミステリの楽しみ〔ハヤカワ・ライブラリ〕》(早川書房、1963年8月31日)のジャケットを拡げたところ
福永武彦・中村真一郎・丸谷才一《深夜の散歩――ミステリの楽しみ〔ハヤカワ・ライブラリ〕》(早川書房、1963年8月31日)のジャケットを拡げたところ

福永、中村とともに《深夜の散歩――ミステリの楽しみ〔ハヤカワ・ライブラリ〕》(早川書房、1963年8月31日)を著した丸谷才一は、グレア ム・グリーン(丸谷訳)《不良少年》(筑摩書房、1952)の装丁担当者の吉岡と知り、詩集《静物》を《秩序》同人にして友人である篠田一士 (1927〜89)に送るように勧めている(《深夜の散歩》ジャケット裏表紙の写真、福永・中村・丸谷のスリーショットは〈吉岡実の装丁作品(4)〉で 触れた丸谷の《エホバの顔を避けて》出版記念会のときのものか)。私は、丸谷が吉岡に詩集《紡錘形》を福永に送るように勧めたのではないかと推察した。そ して、ここまで書いてきた状況と矛盾しないか検討してみたが、矛盾しないまでも、そうだと決めるだけの根拠に欠ける。また、後出《本》誌を発行した堀内達 夫(吉岡は堀内の麥書房刊の伊藤信吉《ぎたる弾くひと――萩原朔太郎の音楽生活》を1971 年に装丁している)の線は、年代からいって考えられない。だが、個人的なつきあいを忖度しても始まらないので、《紡錘形》の内部に福永との関係を探ってみ た。読むのはもちろん献呈署名本である。この福永旧蔵本は、私が1989年5月に宮益坂の中村書店で購入してその年の暮れに吉岡さんと(最後に)お会いし たときに署名してもらった一本に較べて、極めて保存状態がよい美本で、書きこみ等は一切ない。

福永は詩人として出発しただけあって、小説家として一家を成したあとも詩を発表している。源高根《編年体・評伝福永武彦》(桜華書林、1982年5 月25日〔改版2刷:1986年5月25日〕)の〈野心と挫折 昭和三七年(四四歳)〉には「長く詩作を断っていたが、昭和三六年二月に「仮面」を、三七 年二月に「高みからの眺め」を、いずれも「註文によって」書いた。前者は「告別」の、後者は「幼年」の原型である」(同書、四〇ページ)とある。〈仮面〉 と〈高みからの眺め〉は《福永武彦詩集》(全集第13巻)の〈死と転生 及びその他の詩〉に含まれる。〈その他の詩〉はこの2篇と〈北風のしるべする病 院〉から成り、初出は次のようである。なお、福永がこのあと発表した詩は〈櫟の木に寄せて〉があるばかりだ。

 〈仮面〉――《風景》1961年4月号
 〈高みからの眺め〉――《文藝》1962年5月号
 〈北風のしるべする病院〉――《本》(第1巻第2号)1964年3月

吉岡がそのころ同じ雑誌に寄せた詩に、いずれも《紡錘形》に収められた次の2篇がある。

 〈鎮魂歌〉(D・15)――《風景》1961年2月号
 〈沼・秋の絵〉(D・21)――《文藝》1962年3月号

同じ雑誌の同じ号に福永の詩と吉岡の詩が載ったことは、1963年の時点では一度もなかったわけだ。のちに、福永最後の詩篇〈櫟の木に寄せて〉と吉岡の 〈悪趣味な内面の秋の旅〉(G・31)が《文藝》1975年11月号に載り、二人の詩が雑誌の同じ号を飾ることになった。だが、ここで注目したいのはそれ らではなく、〈仮面〉である。全行を引く。
仮面をかぶつた奴らが輪になつて踊り出すと、
坐つた奴らは溢れるやうな太鼓の音を早く、強く、
単調に、密林の腐蝕土の上に送り出す、
その音は火山の轟きのやうに地を舐めて走る、
すると夜が招きよせられる、この合図と共に、
葉群は恐怖に首をうなだれ、蔓草は自らを包み、
鳥はもう歌はない、小さな巣の中に身をちぢめる、
獣はもう出歩かない、牙ををさめ夜に化身する、
生きとし生ける者は悪念と呪詛との悪夢におびえる。
奴等はさまざまの仮面の中に素顔をかくし、
痙摯する両手は太鼓を叩き、燃える口は熱い息を吐き、
ひよろ長い両脚は不気味な踊りを踊り抜く、
奴らはもうやめられぬ、この太鼓の皮が裂けるまで、
この脚が二つに折れ、死が奴らに乗り移るまで、
ああ もう時間さへ止らない、仮面の中の顔が次第に死ぬと、
ゆらめく焔、飛びちる火花、めまぐるしい廻転が
赤と白との隈のひずみに新しい生気を吹き込む。
その時もし見えない手が奴らの仮面を引剥がすなら、
奴らは互ひに見るだらう、太古からのただ一つの顔、あなたを。

《紡錘形》の〈首長族の病気〉(D・11。初出は1959年11月の《鰐》4 号)を思わずにはいられない作品だが、福永が初出を読んだか不明である。こうは考えられないだろうか。雑誌《風景》(おそらく毎号送られてくる)で福永の 〈仮面〉を読んだ吉岡は、それまでの小説家=福永武彦という像に詩人=福永の要素を加えた、と(1948年刊行の《マチネ・ポエティク詩集》などの共著は あったが、処女詩集《ある青春》を含む福永の全詩篇を収めた《福永武彦詩集》が麥書房から最初に刊行されるのは1966年5月で、1963年当時、福永の 詩人としての印象は薄かったと思われる)。1960年代、福永は筑摩書房の《古典日本文学全集》で〈古代歌謡〉(古事記歌謡、日本書紀歌謡、琴歌譜、神楽 歌、催馬楽、風俗歌)や〈お伽草子〉(文正草子、浦島太郎、福冨長者物語)を訳しているが、著書ではないし、吉岡が装丁を手掛けているわけでもない。初め に言及した、著者と出版者の人間という山口誓子の場合と同様の関係は想定できないようだ。

最後に吉岡実と福永武彦の日記と冒頭の献呈署名本に触れておこう。私はかつて〈編集後記 110(2011年12月31日更新時)〉〈編集後記 63(2008年1月31日更新時)〉にこう書いた。

1945年9月1日〜12月31日、1946年1月3日〜6月9日、1947年6月18日〜7月31日の日記を収めた《福永武彦 戦後日記》(新潮社、2011年10月30日)が出た。吉岡実〈日記 一九四六年〉(《るしおる》5号、1990年1月31日・6号、1990年5月31 日)は1946年1月1日から4月8日までの日記だから、併せて読むと興味深い。1946年3月20日の記述――「三月二十日 曇、水曜/やや朝寝をし、 八時発列車にて加藤と共に上野駅を立つ。着席するを得。追分駅にて中村と落合ひ若菜屋にて閑談。信州の早春は始めてなり。夕食前堀〔辰雄〕氏を訪ふ。夜種 々の物語を若菜屋のこたつにあたりつつ為す」(福永武彦)。「三月二十日 坪田譲治先生の話を聞く。文筆で暮せるようになったのは四十歳を越してからとい う。あわてずゆっくり作品を書いてゆきたいと思う」(吉岡実)。《風土》(1952)も《静物》(1955)もまだ誕生していないこのとき、福永は世田 谷・九品仏の〔伯父の〕秋吉利雄家に、吉岡は兄の吉岡長夫家(大田・池上か)に仮寓し、それぞれ放送局〔社団法人日本放送協会〕と出版社〔香柏書房〕に勤 務していた。

古書落穂舎が《日本の古本屋》に吉岡実の詩集《紡錘形》を出品している。なんと「福永武彦宛献呈署名」入りである。家から近いので見に行きたいと ころだが、通信販売専門店なので手に取れないのが残念だ。目録に曰く「紡錘形 詩集/吉岡 實、草蝉舎、昭37/限定400部〈福永武彦宛献呈署名〉初版 函/古書落穂舎  95,000円」。福永は筑摩書房から1960年に《古典日本文学全集〔第1巻〕》の〈古代歌謡〉を、翌年に《同〔第18巻〕》の〈お 伽草子〉3篇を訳している(装丁は庫田叕)。《新選現代日本文学全集〔第32巻〕》(1960、装丁は恩地孝四郎・恩地邦郎)には短篇〈世界の終り〉を収 録しているが、単独の著書はないから、吉岡とは小説家と詩人の関係だろう。〔映画〕《廃市》(1984)を撮った大林宣彦さんから、ともに成城に住んでい ながら、敬愛する福永とはついに会わなかった、と成城のご自宅でうかがったことがある。吉岡さんに、福永と面識があったかは訊きもらした(福永武彦が活字 のうえで吉岡実に触れたことはない)。

持続する関心といえば聞こえはいいが、考えることにさしたる進展が見られないのは残念だ。機会があれば、昭和を代表するこれら二人の詩人と小説家のことを改めて考えてみたい。

〔2017年3月31日追記〕
福永武彦は1962年5月、詩〈高みからの眺め〉を《文藝》に発表しているが、8月と10月には同誌に鴎外論を分載している(〈鴎外、その野心〉 と〈鴎外、その挫折〉)。これは、乃木希典の殉死が漱石の《こゝろ》に与えた影響を論じた丸谷才一の〈徴兵忌避者としての夏目漱石〉と好一対を成す《灰 燼》論でもあるのだが、その末尾に

〔……〕鴎外の野心が高まるにつれ て、「灰燼」は二十世紀文学の新しい道である意識下の世界を描かなければならなくなり、それは既に彼のそれまでの文学の範疇からはみ出したところに位置し ていた。〔……〕そして鴎外は、どのような形ででも、自己の深層を語ることに苦痛を見出すような人間だったし、「人間のすることの動機は縦横に交錯して伸 びるサフランの葉の如く容易には自分にも分らない。」(「サフラン」)と言うように、単純明晰な形に還元して、心理よりは行為を表現することを好んでい た。〔……〕顕微鏡下に自分の「醜悪の心」をじっと見詰めることと、敢てそれをスケッチして人に見せることとは別の物だった。ヨーロッパからの贈り物は、 一将軍夫妻の死という偶然の事件でもろくも取り返され、あとに「石見人」としての森林太郎のみが残った。/〔……〕彼の現代小説は、ヨーロッパの小説の形 式を学んで東洋人の心境で書かれたものであり、それが「あそび」である限りは何でも書けるし何を書いてもよかったが、人の心の「暗黒の堺」を描くために は、小説家としての立場よりも人間としての立場を固執しすぎたように思われる。しかしそこを貫いてこそ、彼は人間の真実に達し得ただろうに。(《鴎外・漱 石・龍之介――意中の文士たち[上]〔講談社文芸文庫〕》講談社、1994年7月10日、五三〜五四ページ)

とある。小説家と してこう書いた以上、福永が「人の心の「暗黒の堺」を描く」ことを目指したのは必然であり(たとえば《夜の三部作》を見よ)、小説における福永の姿勢は詩 における同時期の吉岡の姿勢とも重なる(たとえば《僧侶》を見よ)。残念ながら、吉岡が福永の鴎外論に触れた形跡は見あたらないが、ともに「二十世紀文学 の新しい道である意識下の世界を描」くことを自らに課した小説家と詩人が、冒頭の詩集《紡錘形》を鎹[かすがい]のごとくにして交錯したと見るのは、はた して私の僻目だろうか。


*先輩=吉岡実が竹中郁(1904〜82)に贈った献呈署名入りの《紡錘形》(矢野書房の出品) には年月日が記されていない。なお、竹中郁は吉岡の散文には登場 しないが、《鑑賞現代俳句全集〔第10巻〕戦後俳人集T》(立風書房、1981、月報IX)の飯田龍太・大岡信・高柳重信との連載座談会H〈現代俳句を語 る〉で吉岡は「高屋窓秋というのは詩を読んでいなかったのかしら。たとえば安西冬衞だとか……。〔……〕ほかのそういう影響をひょっとしたら受けているん じゃないかな。ぼくはその作品〔「頭の中で白い夏野となつてゐる」〕は俳句として際立っているけど、詩の一行とした場合、竹中郁もあるし、安西冬衞もある んだよ」(同書、三ページ)と発言している。


《アイデア idea》367号〈特集・日本オルタナ文学誌 1945-1969 戦後・活字・韻律〉と《アイデア idea》368号〈特集・日本オルタナ精神譜 1970-1994 否定形のブックデザイン〉のこと(2015年1月31日)

吉岡実の著書と編纂書、作品掲載誌、装丁作品の書影、そしてその書誌を含む画期的な冊子=印刷物が登場した。《アイデア idea》367号〈特集・日本オルタナ文学誌 1945-1969 戦後・活字・韻律〉(誠文堂新光社、2014年10月10日)と《アイデア idea》368号〈特集・日本オルタナ精神譜 1970-1994 否定形のブックデザイン〉(同、2014年12月10日)である。どちらも構成は郡淳一郎(文の一部も)。郡さんの探究対象の核には稲垣足穂があるが、書 肆ユリイカおよび伊達得夫の業績に関連して、それ以降(およびそれ以前)の吉岡実の文業と装丁作品への目配りにもおさおさ怠りない。幸いなことに《吉岡実 書誌》に掲載漏れの書籍はなかったが、内田明による活字鑑定に相当する情報は、私の書誌に欠落しているものだ。〈日本オルタナ文学誌〉巻頭の〈活字サイズ 一覧〉に付せられた内田氏の文章にこうある。〔 〕内は小林の補記。

 昭和4年、五号=10.5ptの8分の1となる「トタン罫」サイズを大きさの基準として採用し、四号―一号の系統を五号の1・ 25倍と2・5倍になるよう調整した「新四号」「新一号」と称する「深宮式新活字」が売り出されたことに追随する活字会社もあり、最終的に昭和37年 〔《紡錘形》刊行の年である〕、日本工業規格としてまとめられた「活字の基準寸法」は、アメリカン・ポイントを活字の拠り所として採用しつつ、この「トタ ン罫の整数倍」によって初号から八号までの号数制活字サイズを定義した。
〔図版略〕
敗戦前の活字は、基本的に、原寸直彫で作られた型を複製して作られたものだった。時期や大きさが違えば異なる書体となるので、「築地後期五号」「築地ポイント系五号」や「秀英電胎9ポ」といった呼び方をする。
 昭和30年〔《静物》刊行の年である〕代頃から、ベントン母型彫刻機によって造られた活字が供給されるようになっていくが、本文サイズと中見出しサイズ では異なるパターン原図を使用していたようである(大見出しは原寸直彫系の書体が生き残っていた)。明らかに異なる書風と認められる場合、「岩田ベントン 小型系」「岩田ベントン中型系」といった呼び方をする。更に後の「パンチ母型」と呼ぶ製法の活字に「ベントン系」から書風の変化が認められる場合、「岩田 パンチ系」といった呼び方をする。(同誌、四〜五ページ)
これを踏まえて川本要作成の書誌を読むと、理解しやすい。ここで〈日本オルタナ文学誌〉掲載の吉岡実の著書と装丁作品(必ずしも吉岡が本文組を指定したと は限らない)の活字を抄してみよう。末尾の( )内の数字は書誌の本誌掲載ページを表す。リンクは本サイトの《吉岡実書誌》と《〈吉岡実〉の「本」》の該 当する書籍に張ってある。

ここからわかるのは、書肆ユリイカでは日活、思潮社では岩田と晃文堂、書肆山田も岩田と晃文堂、筑摩書房が晃文堂の活字を主に使用しているという傾 向だ。言うまでもないが、上記書籍の奥付には印刷所の名前は載っていても、使用活字のメーカー「日活」や「岩田」や「晃文堂」が表示されているわけではな い。例外は「精興社」書体が精興社、「凸版書体」が凸版印刷の開発した活字だということか。そうしたなかにあって、《吉岡実詩集》の奥付は注目に値する。印刷所以下の表示にこうあるからだ。当時はもちろん、現在でもここまで記載することは稀だろう。

印刷所―若葉印刷 製本―岩佐製本 製函所―永井製凾
判型―B5変形 二三〇×一四二ミリ
活字―本文・岩田母型九ポ明朝行間十二ポ全角アキ ノンブル・晃文堂六ポセンチュリイオールド
用紙―本文・神崎製紙ロストンカラー白九〇K
表紙・特種製紙マーメイドリップル厚口 見返・日清紡績NTケント
ブックデザイン―杉浦康平

ここから先は私の想像だが、本文に「岩田母型九ポ明朝」を選択したのはブックデザイナーの杉浦だろう。それと同様に、この表示を発案したのは杉浦で あり、出版者の小田久郎がそれに賛同し、著者の吉岡が同意した、といったところではないだろうか。印刷所を選ぶことは(とりわけ活版印刷の場合)、その社 が常備する活字=書体を使用することを意味する。実際には版元の思潮社と取引のある印刷所の活字を使用することになるわけだが、本文活字の選択は組版指定 者(《吉岡実詩集》では杉浦)の役割である。そう考えると、吉岡実の私家版詩集(組版指定は吉岡本人)の印刷所、すなわち《昏睡季節》の鳳林堂、《液體》 の大日本印刷株式会社、《静物》の中央製本印刷株式会社、《紡錘形》の株式会社精興社の4社が吉岡の選んだ印刷所ということになる(《僧侶》の中央精版印 刷株式会社をこれに加えていいかもしれない)。鳳林堂と吉岡の関係は不詳で(それまで勤めていた南山堂との線も考えられるが、未調査)、大日本印刷は当時 の勤務先の西村書店と取引関係があった(担当者も同じ)。中央製本印刷も当時の勤務先である筑摩書房の取引先、すなわち「自分〔吉岡〕の勤めてゐた出版社 に出入りしてゐた中どころの印刷所」(入沢康夫〈国語改革と私〉、丸谷才一編《国語改革を批判する〔日本語の世界16〕》、中央公論社、1983、二二八 ページ)。精興社も筑摩書房の取引先の印刷所。同社の組版料金はとくに高いわけではないようだが、《僧侶》の中央精版印刷に較べて安いということはないだ ろう。精興社の活字や版面の美しさは、吉岡実の詩集中随一だと言ってよい。
余談だが、城戸朱理によれば、吉岡実は《ムーンドロップ》の表紙の資材において、前著《薬玉》では部分的にしか使わなかった高級な資材を全面的に使用した という(《吉岡実の肖像》ジャプラン、2004年4月15日、五四〜五五ページを参照)。《紡錘形》はフランス装だから、資材に凝る代わりに、印刷所=使 用活字において気を吐いた形だ。同様のことは《サフラン摘み》(1976)、《夏の宴》(1979)でも言えて、ここでは片山健の鉛筆画に西脇順三郎の水 彩画、という対比になっている。吉岡実は受賞詩集の次の著書の造本・装丁に凝るのが常であった。
日活やモトヤ、岩田、晃文堂といった活字メーカー、凸版印刷、精興社といった印刷会社の書体の特徴について述べることは、今の私には手に余る。それらと吉岡実の選択眼については、なおさらである。今後の課題としたい。かわりに林哲夫さんの示唆に富んだ洞察を掲げよう。〈昏睡季節〉の 一節である。なお同文には、鳳林堂についての考証があるほか、私が提供した〈蜾蠃鈔〉は「コピーの版面なので断定はできないが、活字はけっこう荒れてい る。下の歌〔夜の蛾のめぐる燈りのひとところ/めくりし札はスぺードの女王〕には「の」が四個使われているなかに一つだけ別種の活字が混じっている。小さ な印刷所では有り勝ちなこと」という指摘がある。林さんには、ぜひ同文を写真・図版入りで一書にまとめていただきたいものである。

〔詩歌集『昏睡季節』の本文の〕書体は東京築地活版製造所の9ポイント明朝体(明治44年頃)とほぼ同一のようだ。ひらがなで言 えば「ふ」の頭の点が右にぐっとエビ反ってSカーブがへしゃげた感じになっているのが特徴的。秀英舎〜精興社の「ふ」はおおよそタテのセンターよりわずか に左寄りでSがもっと背筋が伸びたふうになっている。細かいことだが、これは古い味のある書体ではないだろうか。吉岡の好みが反映されているのか、単なる 偶然か。


隔月刊行の《アイデア idea》の次号、368号は〈日本オルタナ精神譜〉である。354号の〈特集・日本オルタナ出版史 1923-1945 ほんとうに美しい本〉(誠文堂新光社、2012年8月10日)に始まる日本オルタナ三部作は、ここに完結した。前号と同様に、吉岡実の著書、編纂書、装丁 作品の使用活字を見ていこう。

中村鐵太郎による〈吉岡実:筑摩書房〉の〔小伝〕は「何 次にもなる太宰治のほか、一葉、龍之介、賢治、順三郎、朔太郎全集などは「全集の筑摩」の一時代の顔を作ったといえる。組版の妙と、諧謔を交えた品格を見 せる装幀はつねに変わらない。土方巽『病める舞姫』は、装幀者のためにも記憶さるべき書物となった」(同誌、一一ページ)と結ばれている。ここに《病める 舞姫》の書誌を掲げて、三部作の専心周到な調査に感嘆しようではないか。だがそのまえに、再録に値する〈凡例〉を引いておこう。――「書誌情報は、書影を 掲載した出版物原本(以下「原本」と呼ぶ)の主に奥付から採録し、編者・訳者・著者、〈雑誌特集名〉、『標題・副題』、《叢書名》、発行所、版数(これを 記さない原本は初版)・発行年月日、制作スタッフ(発行者・編集者・装幀者・印刷者・製本者など)、資材、判型(原本の実測値から推定)、発行部数、定価 (消費税導入後は本体価格)、本文活字(サイズ・書体)、所蔵者の順に記載した」(同誌、〔八ページ〕)。

507| 土方巽 『病める舞姫』白水社、1983.3.10、発行者:中森季雄、装幀:吉岡実、印刷:精興社、印刷者:青木勇、製本:黒岩製本、菊判、2700円、活字:9ポ・精興社(同前、一七ページ)

吉岡実の詩書と装丁作品は、これら日本オルタナ三部作の新たなネットワークのもとで捉えなおされた。本のジャケットを剥いで背文字が見えるように棚に排した書影の壮挙は、使用活字の鑑定を記した書誌とともに、長く讃えられよう。三部作は、座右に置くべき工具書である。


詩篇〈模写――或はクートの絵から〉評釈(2014年12月31日〔2016年10月31日追記〕)

〈下田八郎の〈吉岡実 論〉と〈模写〉の初出〉で書いたように、詩篇〈模 写――或はクートの絵から〉(E・4)の初出は未詳だが、1963年末までに発表されたと考えられる。今回は〈模写〉の評釈を通じて 作品内部から制作年代を考察してみたい。吉岡実は《詩と批評》6号(1966年10月)の〈アンケート〉の各人への共通の質問

 1 近ごろ感動したもの(種類を問わない)
 2 私のこれからの仕事の予定
 3 私がこのごろ好きな詩人(古今東西を問わない)

に次のように答えている(同誌、九五ページ)。

 1 映画「サンダーボール〔策→作〕戦」の海底における格闘のシーン。高浜虚子の句集。
 2 「吉岡実詩集」(新詩集「静かな家」を含む全詩集)を出すこと。
 3 白石かずこ 高橋睦郎

つまり、1966年10月以前に《吉岡実詩集》(思潮社、1967年10月1日)(*1)の 企画が進行しており、同書には当時未刊の新詩集《静かな家》(思潮社、1968年7月23日)を収めることも決まっていたわけだ。ここで《静かな家》収録 の全16篇を発表順に並べてみよう。

詩篇標題(詩集番号・掲 載順)     初出《誌名》〔発行所名〕 掲載年月(号)

無罪・有罪(E・2)    《現代詩》〔飯塚書店〕 1959年3月号
  ――
劇のためのト書の試み(E・1)    《鰐》〔鰐の会〕 1962年9月
  ――
馬・春の絵(E・5)    《文藝》〔河出書房新社〕 1963年1月号
珈琲(E・3)    《美術手帖》〔美術出版社〕    1963年2月号
模写――或はクートの絵から(E・4)    未詳    1963年12月までに発表か
  ――
滞在(E・7)    《現代詩手帖》〔思潮社〕    1964年4月号
聖母頌(E・6)    《郵政》〔郵政弘済会〕    1964年7月号
   ――
桃――或はヴィクトリー(E・8)    《現代詩手帖》〔思潮社〕 1965年3月号
やさしい放火魔(E・9)    《無限》〔政治公論社〕 1965年11月
  ――
春のオーロラ(E・10)    《風景》〔悠々会〕 1966年3月号
静かな家(E・16)    《現代詩手帖》〔思潮社〕 1966年4月号
スープはさめる(E・11)    《詩と批評》〔昭森社〕 1966年5月号
ヒラメ(E・13)    《凶区》〔バッテン+暴走グループ〕 1966年10月
孤独なオートバイ(E・14)    《三田文学》〔三田文学会〕 1966年11月号
  ――
内的な恋唄(E・12)    《詩と批評》〔昭森社〕 1967年1月号
恋する絵(E・15)    《現代詩手帖》〔思潮社〕 1967年2月号

〈無罪・有罪〉は発表こそ早いが、作風が違うと見做されたのか、《紡錘形》(1962)に収録されずに置かれた旧作。詩集《静かな家》 の創作期間も 「1962―66」と記されている。〈劇のためのト書の試み〉は《鰐》終刊10号に掲載された、「伊達得夫の圏内」を離れた最初の作品。本篇を巻頭に据え たのは、吉岡に期するところあってのことだろう。作品数は1963年が3篇、64年が2篇、65年も2篇と手探り状態が続いたが、同年の〈やさしい放火 魔〉――吉岡は永田耕衣に宛てた書簡で「「無限」十九号に発表した《やさしい放火魔》はちかごろ好きな詩篇です。新刊ゆえ店頭でいちべついただければ幸甚 です。〔……〕十月十七日」(〈田荷軒愛語抄〉、《琴座》192号、1966年1月、二一ページ)と自信のほどを覗かせている――を書いてふっきれたので あろう、翌1966年には5篇が発表されている(1967年発表の2篇も66年末までには脱稿していよう)。前掲〈アンケート〉に「「吉岡実詩集」(新詩 集「静かな家」を含む全詩集)を出すこと」と書いた時点で、少なくとも〈ヒラメ〉までの13篇は書きあげていたはずだ。あるいは「ある小さな画廊で、同席 した高橋新吉にほめられ、勇気づけられる」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984、二三三ページ)と自筆の〈年譜〉にある〈孤独なオートバ イ〉もすでに書きあげていたか。〈内的な恋唄〉は創刊2年めの《詩と批評》に、〈恋する絵〉は例年春に作品を寄せている《現代詩手帖》に発表されており、 1966年秋には新詩集《静かな家》の構想が固まっていたに違いない(吉岡の心性を考えると、〈孤独なオートバイ〉の完成をもって固まった、と見たい)。


《静かな家》で特徴的な図形は円である。一体に吉岡はあるイメージ(図形)が気に入ると執拗なまでにそれを詩に使う傾向があり、《神秘 的な時代の 詩》における矢印が代表例だ。矢印ほど注目を浴びていないが、それに先立って《静かな家》の円がある。詩篇の発表順に、円の登場する詩句を書きぬいてみよ う。(円のヴァリエーションとしての筒(*2)が あり、泡(*3)が ある。映画《007 サンダーボール作戦》の海底での格闘は、泡を見せるための恰好の設定だった。)

無罪・有罪(E・2)
(なし)

劇のためのト書の試み(E・1)
(なし)

馬・春の絵(E・5)
・円柱球の馬を見ている
・かつてわたしが光で見た円柱球の馬なのか

珈琲(E・3)
(なし)

模写――或はクートの絵から(E・4)
・軍艦は全部円を廻る
 ときには円を割る

滞在(E・7)
・円が回避する円

聖母頌(E・6)
(なし)

桃――或はヴィクトリー(E・8)
(なし)

やさしい放火魔(E・9)
・火縄の円

春のオーロラ(E・10)
・それは大きな円の復活!

静かな家(E・16)
(なし)

スープはさめる(E・11)
・存在する円をくぐりぬける

ヒラメ(E・13)
(なし)ただし「矢印の赤に沿って」の詩句あり

孤独なオートバイ(E・14)
・円形のコンクリートの床?
・同心円が猛然と回転する
・円の癒着性!
・円の迷路へ
・同心円の反復から
 停止する半円の透明度

内的な恋唄(E・12)
・テーブルの円をまわり
「矢印」の詩句あり

恋する絵(E・15)
(なし)ただし「矢印の右往左往する」の詩句あり

ここでも〈孤独なオートバイ〉は特権的な位置を占めていて、《静かな家》での円の総ざらいをしているようだ。〈馬・春の絵〉の「円柱球 の馬」は立体 派[キュビスム]の絵画を暗示しているが、そのメカニカルな姿形は容易にオートバイに転化する。そこではサーキットの円とタイヤの円が同心円を成す。もっ とも、円は《静かな家》で初めて登場したイメージではない。たとえば前の詩集《紡錘形》の、〈模写〉とよく似た「ミロの絵から」という副題をもつ〈狩られ る女〉(D・18)に「ぼくの心に火の円を描く」があり、それは〈やさしい放火魔〉の「火縄の円」を想わせる。ついでだから書いておくが、〈○○あるいは /或は□□〉という標題をもつ吉岡実詩には〈模写〉のほかに次の5篇がある。なお、吉岡は詩句でも「或は」「あるいは」の両方を用いており、前期 (B〜G)は漢字を、後期(F〜K)はひらがなを主として使用したが、標題にもその傾向は現れている。

 巫女――あるいは省察(D・14)
 桃――或はヴィクトリー(E・8)
 ヒヤシンス或は水柱(G・3)
 サイレント・あるいは鮭(G・25)
 父・あるいは夏(H・12)

この標題だけを見ていると面白いことに気がつく。ここには3種類の表記のパターンがある。すなわち、

 (1)○○――あるいは/或は□□ と――でつなぐ
 (2)○○あるいは/或は□□ とベタでつなぐ
 (3)○○・あるいは/或は□□ と・でつなぐ

時系列による変化と取るべきだろうが、ここに〈馬・春の絵〉(E・5)を置いてみると、それは(3)の〈馬・あるいは春の絵〉の先駆形 ではなかったかと疑われる。ときに〈○・□の絵〉という詩は吉岡に2篇ある。ひとつは〈馬・春の絵〉、もうひとつは《紡錘形》の

 沼・秋の絵(D・21)

で、こちらも〈沼・あるいは秋の絵〉と読める。この際だから話題を拡げてしまえば、これら2篇に先立って

 夏の絵(B・9)
 冬の絵(C・6)

があり、吉岡は律儀にもB《静物》(1955)、C《僧侶》(1958)、D《紡錘形》(1962)、E《静かな家》(1968)と連 続する詩集に 一篇ずつ収めている(城戸朱理はその著書《吉岡実の肖像》の〈四季をめぐる絵〉に、これらを夏秋冬春の順に並べて再録した)。話をややこしくするようだ が、〈馬・春の絵〉のあとに発表された詩に〈春の絵〉(I・12)がある(初出は《讀賣新聞》1967年2月5日)。つまり、〈馬・春の絵〉と〈春の絵〉 は別物だという意識が吉岡にあったわけで、それは「馬=春の絵」ではなく「馬あるいは春の絵」と判断したからにほかならない。話題を〈○○あるいは/或は □□〉に戻そう。〈サイレント・あるいは鮭〉には「芦川羊子の演舞する〈サイレン鮭[じやけ]〉に寄せる」と詞書があって、この標題だけは地口めいている が、それ以外はみな

 巫女/省察
 桃/ヴィクトリー
 ヒヤシンス/水柱
 父/夏

すなわち、A/Bと明確な構造を示している。ここでA・Bはともに名詞だが、範疇が異なるため、読み手は快い混乱に陥る。これが巫女/ シャーマン、桃/栗では誰も驚かない。それらのなかでも〈模写――或はクートの絵から〉は異彩を放っている。

 模写/クートの絵から

は副題というよりも詞書に近く、クートの絵から模写した詩、の意に取れるからだ。ここで〈狩られる女〉(初出は《詩学》1961年5月 号)を読も う。例によって吉岡実詩の展開(とりわけ前後の詩句へのかかりぐあい)は難解である。幸いにも同詩は、Burton Watson編・佐藤紘彰訳の英訳詩抄《Lilac Garden: Poems of Minoru Yoshioka》(Chicago Review Press、1976)の〈From Spindle Form (1959‐62)〉に訳載されているので(同書、七〇ページ)、原文に続けて掲げる。

狩られる女――ミ ロの絵から(D・18)

偶然の配色の緑や黄のもやから
一人の女が生まれる
一本の紐を波うたせながら
ぼくの心に火の円を描く
その女の腰から左右に突きでる
棒の両端にとまる鳥
それはいつも子供のように哭く
すっかり肉付が了るまで
月に真横を見せ
挑戦する
闇の空に
野菜籠の下の海にもまた
容器が世界を変える
その内容が腐りかかった茶色から
黒くなる
小さな半島
スペインの内乱
歴史の霜の中の血
夏みかんを狩る
その蜜の脳髄のながれ
もしかしたら
ぼくは見すごしているかも知れぬ
驚愕にみちた砲身の地より
方向転換して
飛ぶ美しい婦人帽を
ふたたび太陽が正面に輝くならば

Hunted Woman
 from Miro's painting

Out of the haze of an accidental color scheme of greens and yellows
A woman is born
Making the wavy motion of a string
Draws a circle of fire in my heart
From the woman's hips, jutting out to left and right
A stick, on both ends of which birds are perched
They always cry like children
Until the modeling is completed
Turn their serious faces to the moon
And challenge
In the sky of darkness
And in the sea under a vegetable basket
A receptacle changes the world
Its contents turn from putrefying brown
To black
A small peninsula
A civil war in Spain
Blood in history's frost
Hunting summer tangerines
Flow of their honey brains
It's possible
I have overlooked
A beautiful ladies' hat
Which shifts direction
From the ground of gun barrels full of astonishments
And flies
If the sun again shines ahead

絵を描くという口実のもとに、吉岡は思う存分に色彩の乱舞を展開する。いかにもジョアン・ミロの油彩にありそうな図柄だが、具体的にこ の作品、と名 指しすることができない(強いて挙げれば〈アルルカンの謝肉祭〉あたりだろうか)。しかし、吉岡の詩句のスルスがミロの絵に見あたらないからといって嘆く には及ばない。「ミロの絵から」模写[、、]したものが〈狩られる女〉ではないのだ。狩られる女はミロの絵から登場するのではなく、「偶然の配色の緑や黄 のもやから[、、]」生まれる。吉岡の詩という画布には一人の女を出発点として、「その女の腰から[、、]左右に突きでる/棒の両端にとまる鳥」が描か れ、「その内容が腐りかかった茶色から[、、]/黒くなる/小さな半島/スペインの内乱/歴史の霜の中の血」と、あたかも「もや」から「霜」に変貌したよ うに、不可避的に進行する。だが、「夏みかんを狩る〔狩る主体は「ぼく」か「狩られる女」か、おそらくその両方であろう〕/その蜜の脳髄のながれ」が救済 のように顕ち現われる。あやうく呑みこまれそうになった「驚愕にみちた砲身の地より[、、]」「婦人帽」のある光輝く世界が訪れる。これが「驚愕にみちた 砲身の地から[、、]」でないのは、標題を含み4度登場する「から[、、]」を凌駕するものとして、渾身の身振りを示すためだ。ミロの絵に触発されて―― ミロの絵を典拠にして、ではない――開始された意識の流れは「夏みかん」によって救われた。

  夏蜜柑いづこも遠く思はるる    耕衣

これが「狩られる女/ミロの絵から」が到達した水準だった。では、その2年半後にはすでに書かれていたと目される「模写/クートの絵か ら」はどうか(詩句のあとのライナーは評者による)。

模写――或はクー トの絵から

沼の魚はすいすい泳ぐ    01
骨をからだ全体に張り出して    02
犬藻や中世の戦死者の髪の毛を    03
暗がりから 暗がりまでなびかせて    04
頭の上の尖った骨で光るのは?    05
もちろんくびられた女王の金髪だ    06
今晩だって砂浜へ大砲をすえたまま    07
中年の男が一人で戦争をはじめるだろう    08
日が出るまでに    09
その男はふとった幽霊になるだろう    10
首尾よく行けば    11
歴史的な楽園が見える?    12
干された蛸 干された蟹    13
網目と裂け目    14
雪のある陸地から    15
この軍艦の幾艘もつながれた島へくる    16
着飾った男と女のよりよい神秘の愛    17
わたしは祝祭してやりたいと思う    18
画家ならば美しい着物を    19
手足から胴まで棒のように    20
まきつけて    21
生命力が失われるまで立たせておく    22
昼より暗い空 或は蛙のとびまわる水草のなかへ    23
いま一歩の歩みが大切だ    24
死んだ少女の股までの百合の丈    25
赤粘土層のゆるやかな丘への駈け足    26
見ること 見えている中心は    27
不完全な燃焼の    28
ミルク・ゼリーと冷たい鉢    29
画家の高熱期も終り    30
わたしは現在をさびしい時代だと思う    31
秋から冬へかけて注意深く    32
軍艦は全部円を廻る    33
ときには円を割る    34
野菜園のある段畑へすすみ衝突して    35
くだかれたニンジン・キャベツ    36
わたしは走る・跳ねる見物人として    37
死んだ少年のむれ そのいたいたしい    38
美しいアスパラガス    39
画家は彼らのために涙をながすと思う    40
石に描かれた若い蛇の苦悩の肉体はいま    41
膿でなくなり拡がる平面    42
ときおりの雨にぬらされるだろう    43
まだ描かれない絵が 絵が所有する細い細い紐    44
テーブルの向うに山嶽 氷る甲虫の卵    45
わたしにそれらが見えない    46
真紅な色の持続をのぞんでいる    47

〈模写〉は1963年末までに発表されたと推定されるから、〈模写〉の異稿のようなところがある〈珈琲〉(《美術手帖》1963年2月 号)は、相前 後して発表された詩篇ということになる。手持ちの資料からはどちらが先に執筆されたか決めがたい。だが創作家たるもの、47行の詩を書いたあとで同種の テーマの10行の詩を書くものだろうか。1958年、189行の〈死児〉(C・19)と29行の〈喪服〉(C・15)が同じ7月に異なる雑誌に発表され た。〈喪服〉を掲載した《今日》が同人誌であることを勘案すれば、おそらく脱稿は〈喪服〉が先で、《ユリイカ》発表の〈死児〉はその後に書きあげられたと 考えられる。一体に創作家は新作を書くとき、まったく新しい一篇を書くのではない。それまでのすべての自作に、新たな一篇を書き、加えるのである。〈珈 琲〉→〈模写〉というのが執筆された順ならば、〈珈琲〉は〈模写〉の25〜31行めまで(【 】で括った詩句)を先取りしていよう。

珈琲

わたしは発見し【わたしは現在をさびしい時代だと思う】
答えるためにそこにいる
わたしは得意 ススキの茂みのなかで
わたしは聞くより 見る【見ること 見えている中心は】
半病人の少女の支那服のすそから【死んだ少女の股までの百合の丈】
がやき現われる血の石
わたしはそれにさわり叫ぶ
熱い珈琲を一杯【ミルク・ゼリーと冷たい鉢】
高い高い高射砲台へのぼる男【赤粘土層のゆるやかな丘への駈け足】
わたし以外にないと答える

一方で、本篇の冒頭「沼の魚はすいすい泳ぐ/骨をからだ全体に張り出して」から想起されるのは、〈馬・春の絵〉と対をなす〈沼・秋の 絵〉(D・ 21)である(初出は《文藝》1962年3月の復刊第一号)。吉岡は〈三つの想い出の詩〉に「「沼・秋の絵」は、美術雑誌で見た、シュルレアリスムの女流 画家レオノール・フィニの絵を題材にしたものだ。いってみれば、言葉で模写[、、]したようなものである。霊気の立ちこめる薄明の沼で、水浴している「わ がアフロディーテー」と、解して下さってもよい。「わたしはいつ愛撫できる?」と、思慕し、願望しているのだ」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、二〇二ペー ジ)と書いている(傍点は引用者)。ここはぜひ、典拠となったフィニの絵と詩を比較したい。

レオノール・フィニの油彩画〈終末〉(1949)
レオノール・フィニの油彩画〈終末〉(1949)

沼・秋の絵(D・21)

女がそこにひとりいる
乳房の下半分を
太藺や灯心草と同じように
沼へ沈め
陸地の動物のあらゆる嘴や蹄から
女のやさしい病気をかくして
微小なえびのひげに触れている
野蛮な深みに立ち
罰せられた岩棚で
わたしはいつ愛撫できる?
鋸をもつ魚の口
蟻のひと廻りする一メートル半径の馬の頭蓋
それが侮辱されて骨へ代るとき
わたしは否でも愛を認識できる
いつでも曖昧な人間の死がくりかえされ
水はうごく岸べから岸べへと
わたしの尿や血が悪化するまで
もし幻覚でなければ臨床的に
女はぬれた髪の毛をしぼられ
いっそう美しく空へ持ちあげられる
なんの歪みもなく
そこに数多く
死んだ猛禽類の羽毛が辷りつづける

「模写」をそのまま受けとって〈沼・秋の絵〉とフィニの〈終末〉(1949)を較べてみると、事は単純ではない。模写のための模写と見 えるものは、 想像力を発動する切っ掛けなのだ。絵筆が外界の対象物をなぞる時間内に、言語は別の回路をたどり、言葉による描写のつもりで読んでいるといつのまにか対象 の具体性は遠のき、限りなく箴言に近い吉岡の詩句に封じこめられている。「野蛮な深みに立ち/罰せられた岩棚で/わたしはいつ愛撫できる?」――風景や事 物が心的状況に結びつけられ、それが「まるで箴言的な言葉」(《土方巽頌》、筑摩書房、1987、二一四ページ)の定立として詩句と化すというのが構造的 な特徴である。詩篇はこう続く。「鋸をもつ魚の口/蟻のひと廻りする一メートル半径の馬の頭蓋/それが侮辱されて骨へ代るとき/わたしは否でも愛を認識で きる」――事物が時間の腐蝕で変化することを「侮辱」と受けとめ、それに対抗する別の行動が導きだされたとき、「わたしは否でも愛を認識できる」が詩篇の 要となった。詩句がなにごとかを定立せざるを得ない領域に押しあげられた恰好だが、事情は逆だろう。「愛を認識」するためには「それが侮辱されて骨へ代 る」必要があったのだ。吉岡の、図像を脳裡に結びやすい詩句と箴言的詩句の平衡と、そこに至る展開の妙は他の追随を許さない。後者は、この詩の場合、模写 なくしては生まれなかったものだが、前者をいくら積みあげていっても箴言的詩句には到達しない。両者の間には目も眩むような断裂が存在する。詩句は他者の 容喙を許さない共感覚の現場で生まれる。では〈模写〉は「クートの絵」を言葉で「模写」した作品なのか。ここでもう一度、文脈を尊重しながら詩篇をいくつ かのブロックに分けて読んでみよう。

模写――或はクートの絵から

沼の魚はすいすい泳ぐ
骨をからだ全体に張り出して
犬藻や中世の戦死者の髪の毛を
暗がりから 暗がりまでなびかせて

頭の上の尖った骨で光るのは?
もちろんくびられた女王の金髪だ

今晩だって砂浜へ大砲をすえたまま
中年の男が一人で戦争をはじめるだろう
日が出るまでに
その男はふとった幽霊になるだろう

首尾よく行けば
歴史的な楽園が見える?
干された蛸 干された蟹
網目と裂け目

雪のある陸地から
この軍艦の幾艘もつながれた島へくる
着飾った男と女のよりよい神秘の愛
わたしは祝祭してやりたいと思う

画家ならば美しい着物を
手足から胴まで棒のように
まきつけて
生命力が失われるまで立たせておく

昼より暗い空 或は蛙のとびまわる水草のなかへ
いま一歩の歩みが大切だ

死んだ少女の股までの百合の丈
赤粘土層のゆるやかな丘への駈け足

見ること 見えている中心は
不完全な燃焼の
ミルク・ゼリーと冷たい鉢

画家の高熱期も終り
わたしは現在をさびしい時代だと思う

秋から冬へかけて注意深く
軍艦は全部円を廻る
ときには円を割る

野菜園のある段畑へすすみ衝突して
くだかれたニンジン・キャベツ
わたしは走る・跳ねる見物人として

死んだ少年のむれ そのいたいたしい
美しいアスパラガス
画家は彼らのために涙をながすと思う

石に描かれた若い蛇の苦悩の肉体はいま
膿でなくなり拡がる平面
ときおりの雨にぬらされるだろう

まだ描かれない絵が 絵が所有する細い細い紐
テーブルの向うに山嶽 氷る甲虫の卵
わたしにそれらが見えない

真紅な色の持続をのぞんでいる

主として前半は4行を、後半は3行を中心にして、ときに2行を混ぜたブロック構成である。一体に吉岡は詩句の数をそろえて詩節を積みあ げていく作詩 法とは縁遠く、本篇の4行なり3行というのも意識的な操作とは思えない。それだけにブロックの最初に位置する詩句は、詩篇を駆動していく重要性を担ってい る。すなわち、23〜24行「昼より暗い空 或は蛙のとびまわる水草のなかへ/いま一歩の歩みが大切だ」こそ、〈狩られる女〉の11行め「闇の空に」と、 〈沼・秋の絵〉のフィニの油彩画、さらには〈珈琲〉全篇の勢いを借りて、吉岡が歩を進めた、要となる詩句といえる。それかあらぬか、この2行の前は22 行、後は23行とほぼ均衡する。それだけではない。前半22行の最初(「沼の魚は〔……〕なびかせて」)と最後(「画家ならば〔……〕立たせておく」)の ブロックは、配ったカードを回収するように、見事なまでの対比を見せる。だが、これとて計算ずくのものではあるまい。詩篇の半ばでギアを変えるために、ひ とまず仮の終熄を図った結果だと思われる。この中止状態が、後半23行の爆発的な展開を用意する。「見ること 見えている中心は」以下の3行は、凌辱され た少女の喩ではないか。それに対応する「死んだ少年のむれ そのいたいたしい」以下の3行は、陰茎を生殖のために使うことなく死んだ者たちへのレクイエム ではないか。年若い男性一般ととるか、戦地で散った弱年者ととるかは難しい処だが。それに続く、詩篇を締めくくる最後の7行をどう読むべきか。はじめの3 行は少年たちの野ざらしの姿のようでもあり、石版画の制作手順を書いたようでもある。厄介なのは次の3行の「紐」「山嶽」「卵」である。これらのイマー ジュは「まだ描かれない絵」だけあって、クートーのタブローよりもマグリットのそれ(たとえば〈アルンハイムの領地〉)を想わせる。しかも「わたしにそれ らが見えない」のである。そして最終行の「真紅な色の持続をのぞんでいる」がくる。本篇には色彩を表す語は「赤粘土層」があるだけだ。この「真紅」は強烈 である。クートーは色彩の使用に禁欲的で(たとえば、その棘だらけの人体にはおおむね暗い灰色や濃い緑色が施されている)、それだけに〈海岸のエロティコ マジー―Plage de l'Eroticomagie〉(1954)の真紅は著しい効果を上げているが、吉岡も最後の詩句でそれに倣ったものとみえる。

リュシアン・クートー〈海岸のエロティコマジー―Plage de l'Eroticomagie〉(1954)
リュシアン・クートー〈海岸のエロティコマジー―Plage de l'Eroticomagie〉(1954)

〈吉岡実と珈琲〉でも触れたよ うに、吉岡は唯一の詩論〈わたしの作詩法?〉に「シナ の少女」(詩論では「黒衣の」「満人の少女」)を登場させた。一方、珈琲と珈琲店は、煙草と並んで吉岡の最も親しんだ嗜好品であり、憩いの場所である。吉 岡にとってシナの少女と一杯の熱い珈琲は戦場にあって幻のように渇求された〈詩〉の別名ではなかったか。静かな家を出て、珈琲店に入る。一杯の熱い珈琲を 前にして、吾亦紅の暗紅色の穂を媒介にして、〈詩〉に入っていく。これでは珈琲店で詩を書くことなどできようはずがない。メビウスの輪をたどるようにして 共感覚の内側に入りこんでしまった者にとって、詩篇をもぎとってくることは、甘美な苦痛を伴った労役だったに違いない。それが「だからわたしは手帖を持ち 歩かない。喫茶店で、街角で、ふいに素晴しいと思える詩句なり意図うかが泛[うか]んでもわたしは書き留めたりしない。それは忘れるにまかせることにして いる。わたしにとって本当に必要であったら、それは再び現われるに違いないと信じている。わたしは詩を書く時は、家の中で机の上で書くべき姿勢で書く」 (〈わたしの作詩法?〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、八八ページ)、「喫茶店で原稿を読む人物をみるのさえ私は好きでない」 (〈白石かずこの詩〉、同前、一八九ページ)の真意だろう。「画家」とはおそらく、夢見られた詩人の姿である。

冒頭で述べたように、《静かな家》は単行詩集以前に当時の全詩集である《吉岡実詩集》に未刊詩集として収められた。そのためだろう、 《僧侶》以降の すべての詩集の巻末に付いている〈初出一覧〉を欠く。よって他の詩集よりも手間取ったが、16篇中15篇までは初出を特定できた(その成果は〈吉岡実詩集《静かな家》本文校異〉に 記してある)。だが〈模写〉の初出は、探索を始めて四半世紀が経つというのに、未だに発見できない。同じ「初出未詳」という記載でも、《吉岡実全詩篇標題 索引》(1995)では「〔1967年10月までに発表か〕」と及び腰で、《吉岡実詩集》に未刊詩集として収められた時点を下限としている。次の《吉岡実 全詩篇標題索引〔改訂第2版〕》(2000)も記載内容は同じ。最新の《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第3版〕》(2012)で

262 模写―― 或はクートの絵から(もしゃ あるいはクートのえから)[191-194]
沼の魚はすいすい泳ぐ
47行▽初出未詳(長田弘は《現代詩手帖》1964年2月号の吉岡実論で本篇の3行を、おそらく初出から引用しているから、1963年12月までに発表さ れたか)▼E静かな家・4

と初めて下限が繰りあがった。ここ数年、さまざまな書誌やデータベースで1963年までの吉岡実詩を検索して〈模写〉の初出を追い求め ているのだが、その影さえ見えない。なんとも挑戦しがいのある、相手にとって不足のない課題といわねばならない。

〔2016年10月31日追記〕
吉岡実の詩篇〈模写――或はクートの絵から〉(E・4)の初出誌が判明した。1963年8月発行、金子兜太 編集の俳句同人誌《海程》〔発行所の記載なし、発行者は出沢三太〕9号〔2巻9号〕がそれだ。ちなみに、初出形と定稿形(詩集《静かな家》収録)の間に は、ひらがなの促音(「っ」/「つ」)の表記を除いて、詩句に異同はない。

(*1)《吉岡実詩集》 は《紡錘形》(草蝉舎、1962)の販売を手掛けた思潮社が叢書 〔現代日本詩集〕(1962〜64)に吉岡実の巻をノミネートしながら実現に至らなかったあと(それがいつかは不明だが)、浮上した企画だと思われる。 ブックデザインに起用された杉浦康平の仕事ぶりも相俟って、同書の制作は必ずしもスムーズには進 捗しな かった。まず、吉岡の1967年3月1日の永田耕衣宛はがきに「全詩集も校了となり、四月には刊行されると思います。たのしみに待っていて下さい」とあ り、さらに同年8月2日消印のはがきには「全詩集どうやら八月には出版されることと思います。いましばらくお待ちを」とあるものの、実際に刊行されたのは 10月である(著者見本は9月末に出来)。

(*2)筒の登場する詩句
・終りに孔のたくさんある鉄の筒の胴廻りを計る馬・春の絵、E・5)
・肉が心でなく孔ある筒から出る(春のオーロラ、E・10)
・筒をぬける鳥(孤 独なオートバイ、E・14)

(*3)の登場する詩句
・水中の泡のなかで(
桃、 E・8)
・すでにない前方から泡がこぼれる(
孤独なオートバイ、 E・14)
・ささやく泡のながれのなかから(内的な恋唄、E・12)
・水中の泡の上昇するのを観察する
(恋する絵、E・15)


吉岡実と鷲巣繁男(2014年11月30日)

吉岡実と鷲巣繁男については、詩篇〈蜜はなぜ黄色なのか?〉(F・12)の評釈である〈「恋する幽霊」〉の〈蜜/鷲巣漢詩と〈落雁〉〉と いう節で、鷲巣への追悼詩〈落雁〉(J・17)を引いて書いたことがある(〈吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈〉所収)。今回は、しばらくまえに石神井 書林から吉岡実の鷲巣繁男宛はがき・書簡を購入したので(決して安い買い物ではないが、吉岡実の「新作」が読めるとなれば無駄な出費ではない)、それを基 に吉岡実と鷲巣繁男のことを考えてみたい。まず、《石神井書林古書目録》93号(2014年7月)を掲げる。

548 吉岡實自筆書簡・葉書(鷲巣 繁男宛)    108,000

書簡1通、葉書3通、賀状(印刷)5通。書簡は便箋4枚封筒入(昭56年)、鷲巣繁男の句集『石胎』への礼状。「好 きな句をあげ ます」と17句を丁寧に写し、文末には「電話を下さればほかのことはけってでも会いに参ります」とある。敬意溢れる文面。葉書は昭和40年代、ペン書 8〜10行。『天の狼』を譲ってもらい「まぼろしの名句集」「ながく愛蔵いたします」、『夜の果てへの旅』への礼状には「貴兄が小説を書かれたらと考えま す。一言苦言を・・・」。印刷賀状には義父和田義恵の喪中葉書があり「小生にとっても精神的支柱」とある。(同目録、二四ページ)

次に、はがき・書簡の発信順に丸中数字を振って概要を示す。なお「/」は改行箇所、宛名の鷲巣の「巣」はすべて旧字、特記以外は縦書 き・縦組みである。

@1966年11月3日 官製はがき〔5 円はがきに5円切手貼付〕

 〔はがき表〕札幌市北三十條西四丁目/鷲巣繁男様
 〔はがき表〕東京都北区滝野川七ノ三/公団滝野川アパート四〇四/吉岡実
 (以上ペン書き〔インクはブルーブラック、以下同〕)



拝復 いままで暖かった東京の十一月も、今日三日から急に寒くなりました。さぞかし北海道は寒いでしょう。詩集「夜の果への旅」とおはがきいただ きました。たえず精進されている、貴兄には頭がさがります。貴兄の独自な詩形、めざす世界が、「覚書」をよむと、わかるような気がします。この「覚書」に は感動しました。美しい散文です。小生の思いつきで云えば、貴兄が小説を書かれたらと考えます。一言苦言を、整えすぎたフォルム故、一度、私詩的なものを 書いて、みたらと思います。敬具
 (以上ペン書き)

○1966年11月4日王子局消印

註:鷲巣の第六詩集《夜の果への旅》(詩苑社、1966)の〈覚書〉には 「〔……〕大正十二年関東大震災で、母は私と幼児を抱き、大きな梁を一身に支へつつ圧死した」(《定本 鷲巢繁男詩集〔普及版〕》第2刷、国文社、1976年4月15日、二三九ページ)とある。

A1967年8月28日消印 官製はがき〔7 円はがき〕

 〔はがき表〕札幌市北三十條西四丁目/鷲巣繁男様
 〔はがき表〕東京都北区滝野川七ノ三/公団アパート四〇四/吉岡実
 (以上ペン書き)



拝復、東京は残暑といえ、連日三十度をこす暑さで、参っています。《天の狼》無事落手いたしました。早速にお知らせすべきところ、詩作に追われ て、心ならずも失礼しました。まぼろしの名句集、本当にありがとう存じます。長く愛藏いたします。過勞のため、風邪をひかれたそうですが、おからだを大切 に、ご精進のほど。


 (以上ペン書き)

○1967年8月28日王子局消印

B1968年(申年)年賀 私製はが き〔7円切手貼付〕

 〔はがき表〕札幌市北三十条西四丁目/鷲巣繁男様
 (以上ペン書き)



あけまして
おめでとう
ございます

〔サルの線画を赤色刷り〕

吉岡 実・陽子
東京都北区滝野川七の三
公団滝野川アパート四〇四
 (以上活字印刷)

○1967年(月日不明)王子局消印

C1969年7月30日消印 官製は がき〔7円はがき〕

 〔はがき表〕札幌市北三〇西四/鷲巣繁男様
 〔はがき表〕東京都目黒区青葉台/〔……〕/吉岡実
 (以上ペン書き)



拝復、暑中お見舞ありがとう存じます。今年はあまり勉強せず、新居でなまけています。貴兄には相変ずお元気で仕事をしていることと思います。昨年の暮、引 越通知と新年の挨拶状をだしたのですが、戾ってきました。小生が番地を間違えたのでしょう。失礼いたしました。実
 (以上ペン書き)

○1969年7月30日渋谷局消印

D1970年(戌年)年賀 私製はが き〔7円切手貼付〕

 〔はがき表〕065/札幌市北三〇西四/鷲巣繁男様
 (以上ペン書き)



〔イヌの版画を橙色刷り〕

あけましておめでとうございます

1970年元旦

東京都目黒区青葉台〔……〕
〔……〕 電話〔……〕

吉岡実・陽子

 (以上活字印刷)

○1970年1月1日目黒局消印

E1972年(子年)年賀 私製はが き〔7円切手貼付〕

 〔はがき表〕札幌市北三十西四/鷲巣繁男様
 (以上ペン書き)



あけましておめでとうございます

1972年・元旦

〔ネズミの線画を赤色刷り〕

吉岡実・陽子
東京都目黒区青葉台〔……〕

 (以上横組みで活字印刷)

○1972年1月1日目黒局消印

F1973年(丑年)年賀 私製はが き〔10円切手貼付〕

 〔はがき表〕與野市円阿彌四五三/鷲巣繁男様
 (以上ペン書き)



あけましておめでとうございます

1973年・元旦

〔ウシの版画を橙色刷り〕

吉岡実・陽子
東京都目黒区青葉台〔……〕

 (以上横組みで活字印刷)

○1972年12月31日渋谷局消印

G1977年11月28日 私製はが き〔20円切手貼付〕

 〔はがき表〕大宮市大字中丸八幡三二〇ノ二/鷲巣繁男様
 (以上ペン書き)



初冬の候 みなさまにはご清栄のことと思います
さて この秋のこと 妻の父和田芳恵儀宿痾のため長逝いたしました
妻にとってはもとより 小生にとっても精神的支柱ともいうべき人の死を見送ったいま 心いぶせきものがあります
ついては 年末年始のご挨拶を欠かせて頂きます
           昭和五十二年十一月二十八日

吉岡 実
  陽子
〒153  東京都目黒区青葉台〔……〕

 (以上グレーの罫囲みで活字印刷)

○1977年12月9日目黒局消印

H1981年5月4日 封書 便箋4 枚〔60円切手貼付〕

 〔封筒表〕330/大宮市大字南中丸八幡/三二〇―二―一〇二/鷲巣繁男様
 〔封筒裏〕東京都目黒区青葉台〔……〕/吉岡実
 (以上ペン書き)



拝啓、お元気でお仕事に精進されていることと思います。〔……〕
さて、だいぶ以前に、句集『石胎』を頂きながら、お礼を申し上げるのが、遅れまして、本当に申訳ありません。二、三日前にやっと通読いたしました。少しば かり、好きな句を掲げます。

  冬 海界 をんなのあくび吾に向き    34    冬 海界[うなさか] をんなのあくび吾に向き*

  銅像の背に逢ひし一日の果    36    銅像の背[そびら]に逢ひし一日[ひとひ]の果*

  水飲めば 子を曳き 恋もすぎにしこと    40    水飲めば 子を曳き 恋もすぎにしこと*

  熊笹に粗き日輪走るのみ    43    熊笹に粗き日輪走るのみ*

  児を叱る汗の荒畑坂をなし    44    児を叱る汗の荒畑坂をなし*

  春祭遠し 芋虫よこたはり    46    春祭遠し 芋虫よこたはり

  ぞくぞくと鶏がよこぎる風邪の妻    55    ぞくぞくと鶏[とり]がよこぎる風邪の妻*

  馬の耳もつともふぶき 山に向く    58    馬の耳もつともふぶき 山に向く

  露西亜飴なぶる 禿山のみの冬    81    露西亜飴なぶる 禿山のみの冬

  あぢさゐは ゆふべかなしき光吸ふ    98    あぢさゐは ゆふべかなしき光吸ふ*

  がくもんを忌む母と喰ふトマトなり    103    がくもんを忌む母と喰ふトマトなり

  とうすみのつるみ久しく 花懈き    105    とうすみのつるみ久しく 花懈[たゆ]き*

  鰐乾けり 少女キャラメルをこぼして恥づ    107    鰐乾けり 少女キャラメルをこぼして恥づ*

  草の実や孤りの道祖神貌浅く    120    草の実や孤りの道祖神[くなど]貌[かほ]浅く

  百合咲けり 詩にいつはりの恋を誌す    145    百合咲けり 詩にいつはりの恋を誌[しる]す

  をんなからかふ旱の山の朝蟬に    152    をんなからかふ旱の山の朝蟬に

  夏葡萄の種舌に 養痾終るかな    158    夏葡萄の種舌に 養痾終るかな

小生はやはり、初期作品に心惹れました。大人も小生同様に、俳人でなく、詩をつくる人間になって、よかったなと思います。呵々。都心近くに出られた時、電 話を下されば、他のことは、抛っても、会いに参ります。

不一  

                  五月四日

吉岡実

 鷲巣繁男様
 (以上ペン書き)

○1981年5月(日付不明)渋谷局消印

鷲巣繁男が「吉岡實」に宛てた第一句集《石胎》(国文社、1981年2月20日)の見返しページと同書の表紙
鷲巣繁男が「吉岡實」に宛てた第一句集《石胎》(国文社、1981年2月20日)の見返し ページと同書の表紙

註:吉岡が引用した句のあとの青文字の数字と句は、鷲巣繁男舊句帖《石 胎》(国文社、1981年2月20日)の掲 載ノンブルと掲載句形で、常用漢字は新字に改めた。《石胎》は旧字表記を採用しているが、吉岡は常用漢字を新字に改め、読み仮名(ルビ)を省略している。 鷲巣繁男の第一句集《石胎》は、単行本に先立って640部限定の《定本 鷲巢繁男詩集》(国文社、1971年9月1日)巻末の〈残夢暦日〉に〈「舊句帖・石胎」抄〉として初めて収録された。よって、吉岡が選んだ句で〈抄〉(吉 岡は当然これを読んでいる)に収録されている九句には*印を付した(〈抄〉の表記は、ひらがな/漢字・ルビで単行本と異なる箇所があるが、煩雑になるので 触れない)。

吉岡実が鷲巣繁男に宛てたはがき3通、印刷賀状ほか5通、書簡1通(1966〜81)
吉岡実が鷲巣繁男に宛てたはがき3通、印刷賀状ほか5通、書簡1通(1966〜81)

Hの最後で触れているように、(漢詩と小説こそ書かなかったものの)吉岡は鷲巣とともに俳句・短歌・詩・散文と、現代詩人としては珍し い部類に入る 多形式への挑戦者だった(少なくとも吉岡には、鷲巣の荘重な宗教詩よりも初期の俳句のほうが近しく感じられたことだろう)。二人の共通の知友である高橋睦 郎がやはりこの型の詩人であることはまことに興味深い。吉岡と鷲巣はいつ互いの存在を知ったのだろうか。吉岡は鷲巣に関して随想を残していないので、神谷 光信《評伝 鷲巢繁男》(小沢書店、1998年12月25日)で二人の関係をたどると、「この頃(1966年頃)から、繁男は吉岡實、澁澤龍彦、加藤郁乎ら、東京の詩 人たちと文通を通じてかなり繋がりをつくっていた。〔……〕繁男は能書であり、手紙は美しい手で書かれていた。〔昭和四十二年(一九六七年)〕七月十八 日、横浜の継母エレナなほが危篤状態となり、繁男は札幌から急遽駆け付けた。〔……〕札幌に帰る前、繁男は昭森社を訪れ、文通して友情を育んでいた吉岡 實、安西均、加藤郁乎、高橋睦郎らとしばし交歓した」(同書、二三八〜二三九ページ)とあり、どうやらこのときが初対面のようだ。だが、〈蜜/鷲巣漢詩と 〈落雁〉〉で引用した1967年12月12日付の吉岡実書簡にもあるとおり、吉岡実と鷲巣繁男を精神的に引き合わせたのは高柳重信であり、その師匠の富澤 赤黄男だったと言うべきだろう。高柳重信は鷲巣の歌集《蝦夷のわかれ》(書肆 林檎屋、1974年1月17日、初版1000部)の書評〈切実に歌わざるを得ない心〉(初出は《日本読書新聞》1974年3月25日)をこう始めている。

 鷲巣繁男より少し遅れて同じ富沢赤黄男を師と仰いだ僕にとって、彼は久しい間、どこかへ行ってしまったまま、いつ までも帰ってこない兄貴であった。
  敗戦の翌年、開拓団の一員として北海道へ渡ったまま、ほとんど旧知の人と会うことなく、さまざまな境遇の変化の中で過ぎていった鷲巣繁男の三十年近い歳月 は、いずれにしても尋常一様のものではなかったはずであるが、その間のわずかな消息を伝えたのは、『悪胤』に始まり『末裔の旗』『蛮族の眼の下』『メタモ ルフオーシス』と、次々に出版されるたびに富沢赤黄男を通じて手に渡る詩集だけであった。(《高柳重信全集〔第三巻〕》立風書房、1985年8月8日、三 〇一ページ)

上掲のはがき・書簡を見ると、第一詩集《悪胤》(北方詩話会、1950)から第五詩集《神人序説》(湾の会、1961)あたりまでは刊 行時に吉岡に 献じていないようだ。ここで鷲巣繁男の詩業を総覧して吉岡実の詩と対比することができれば、それに越したことはないのだが、いまの私には手に余る。いや、 この先いくら時間をかけても「総覧する」ことなどできそうにない。そこで、鷲巣の初期の詩を引いてこの稿を終えたい。エピグラフにアポリネールの詩集《ア ルコール》(1913)から〈狩の角笛〉の2行(堀口大學訳では「思い出は狩の角笛/風のなかに音[ね]は消えてゆく」)を原文で引いた〈立葵〉である。 同詩は鷲巣が1967年、吉岡に贈った第三詩集《蠻族の眼の下》(さろるん書房、1954)に収められている。

立葵|鷲巣繁男

たそがれの中にぼくはぼくの子を見失ふ
たそがれの中にぼくの見しらぬ子が匂ふ。

ほのぼのと地熱の中の立葵。うすものの、
黙して言はぬむかしの顔の立葵。

ふみ迷つた路地でぼくは歴史の扉を叩く。
漏れる灯はだれの心も照らしはしない。

片隅で悪しき物語を選ぶひとよ。
ものずきな夢をはぐくむものよ。

祭ばやしはきこえてくるが、なんと荒々しいゆききの呼吸[いき]だ。
ぼくの綿菓子はなびかない。

たそがれの中にきみはきみの子を見失ふ。
たそがれの中にきみの見知らぬ子が匂ふ。

ほのぼのと地熱の上の立葵。ゆきてかへらぬ、
血の胸板の、日々朽ちてゆく立葵。

コロニイの杳いワルツが灯を飾る。
遠稲妻は夜をめぐる。

「ほのぼのと地熱の中の立葵」「ほのぼのと地熱の上の立葵」「コロニイの杳いワルツが灯を飾る」が俳句を埋めこんだようなのは、意図的 なものだろ う。吉岡がはがき@で要望した「私詩的なもの」が表れているように思う。私は、吉岡が〈田村隆一・断章〉で引いている田村の詩篇〈にぶい心〉を想起した。


吉岡実と珈琲(2014年10月31日〔2015年3月31日追記〕)

  コーヒ店永遠に在り秋の雨  耕衣

吉岡実は〈《殺佛》三昧〉で「発表当時、たわいない句だと思っていたが、今度読んでみて、コーヒー好き、喫茶店好きの私にとって、大切 な一句だと感 じた」(《琴座》333号、1978年11月)と吐露している。同号の吉岡実〈永田耕衣句集《殺佛》愛吟句抄〉以来、この句は株を上げ、8年後の〈青葉台 つうしん――永田耕衣宛書簡〔1986年10月26日付〕〉には

 拝復 このたびはお手紙と耕衣短冊を拝受して感激いたしました。亡き奥様の忌も明けられたとのこと、またなんと美 しいご戒名を 贈られたことでしょうか。最高のご供養だと思いました。さて、頂いた短冊には、不滅の名句「コーヒ店永遠に在り秋の雨」が染筆されており、喫茶店好きの小 生には何よりのものです。かつての傘寿の会の折に頂いた短冊の筆勢が、一休的であるならば、これには白隠の風韻を感じます。早速に、李朝石仏の脇に置い て、日々眺めております。本当にありがとう存じます。今夜は久しぶりで、雨が降っています、秋の雨が。冬の訪れが早いとのこと。くれぐれもお身大切に。 (同誌422号、1987年1月、二五ページ)
とあって、87年3月の《洗濯船》別冊第2号掲載の〈耕衣三十句〉において「コーヒ店永遠に在り秋の雨」の名声は定まった。耕衣のこの句を目にするたび に、吉岡の〈珈琲〉(E・3)を思い出す。
珈琲|吉岡実

わたしは発見し
答えるためにそこにいる
わたしは得意 ススキの茂みのなかで
わたしは聞くより 見る
半病人の少女の支那服のすそから
がやき現われる血の石
わたしはそれにさわり叫ぶ
熱い珈琲を一杯
高い高い高射砲台へのぼる男
わたし以外にないと答える

このわずか10行の詩にどれほどの謎が含まれているか、恐ろしいほどである。1941年から45年にかけて、吉岡は中国大陸を転戦して いたが、〈わ たしの作詩法?〉に当時のことが出てくる。これが詩論に登場するのは、吉岡実詩の核心のひとつだからである。「或る別の部落へ行った。〔……〕わたしは、 暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなければ、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつ くる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦 紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、九三〜九四 ページ)。「吾亦紅」がなんとも効いている。この「黒衣の」「満人の少女」が〈珈琲〉の「半病人の少女」にも、次の〈恋する絵〉(E・15)の

ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている
〔……〕
コルクの木のながい林の道を
雨傘さしたシナの母娘
美しい脚を四つたらして行く
下からまる見え
の「シナの少女」「シナの母娘」にも見えてくるのをいかんともしがたい。〈珈 琲〉に戻れば、最初の2行――これらの詩句こそ喫茶店で想いうかび、忘れるままにまかせ、再び浮上して結局は原稿用紙に定着されたものではあるまいか―― はとりわけ謎に充ちている。

 わたしは(○○を)発見し
 (□□と)答えるためにそこ(=△△)にいる

というふうに、空欄だらけなのだ。それを埋めるための材料は3行め以下にある。たとえば「わたしは(血の石を)発見し/(「珈琲を」と)答えるた めにそこ(=ススキの茂みのなか)にいる」。しかしながら、このように答案を書いてもいっこうに謎が解けた気がしない。詩の高みに昇る「男」が「わたし」 (10行中に5回も出てくる)かというもうひとつの謎とともに。

吉岡実と「珈琲」である。林哲夫《喫茶店の時代――あのときこんな店があった》(編集工房ノア、2002年2月22日)の〈青木堂〉の 末尾に、吉岡 の《うまやはし日記》巻頭の1938(昭和13)年8月31日の記載(「後輩二人と本郷三丁目の青木堂でコーヒーをのむ」)が引かれている。《喫茶店の時 代》は第15回尾崎秀樹記念大衆文学研究賞を受賞、林さんはそれに関連して、日本出版学会関西部会で発表を行っている。その要旨に――『喫茶店の時代』と いう本が生まれる端緒は,私的な抜き書き・スクラップであった.読書の過程において注意を引かれた食物,レストラン,喫茶店などの記事を集めているとき, 同一の喫茶店についてさまざまな人たちが言及していることが気になった.たとえば本郷三丁目交差点近くにあった「青木堂」である.(日 本出版学会 - 『喫茶店の時代』をめぐって  林 哲夫 (2003年2月17日))―― とあって、古書を駆使した日頃の博捜ぶりがうかがわれる。私も改めて《うまやはし日記》をひもといてみた。

昭和十四年(一 九三九) 某月某日 夕方 より仮検査で本所区役所へ行く。高等小学校のクラスメート山野辺、土切、中山、味形らがいる。初めは眼の検査だった。「眼がすんだ人は道具[、、]をすぐ 出せるようにしときなさい」の声に、どっと笑いがひびく。「チンポコを握られるなんていやだなあ」。みんな無事通過す。蔵前通りの南屋でコーヒーをのみ、 談笑して別れた。

○十一月十三日 午後、本所区役所へ兵役の件で行く。山中博道の家に寄った。二時から第一補充兵証書の授与式がはじまる。三時に了った。帰りはまあ坊、福 太郎と一緒になり、石原町の「南や」に入って、コーヒーとパンを食べた。近くまあ坊はさぶちゃんと伊豆へ遊びに行くと言う。甲種合格のさぶちゃんは来月一 日に入営するそうだ

○十一月二十三日 夜になって雨。春陵さんと雷門前の珈琲店ブラジルへ行く。ここが句会の席だ。七時半ごろ「白鵶会」のめんめん、油桃、龍灯城、千鶴、春 夢、昌臣、行宇、四季男(小生)と集う。コーヒー、サンドイッチをとりながら、互選となる。結果、びりになりがっくり。会費五十銭はやすいと思った。水果 物を食べ、十時散会。

  珈琲をのみこぼす愁ひ白卓に

○十二月十八日 夜、春陵山人と歳の市へゆく。途中、春夢大人を誘い出し、浅草へ向う。雷門をくぐり、仲見世から人波にもまれて歩く。観音様に賽銭をあ げ、境内の羽子板市を見て廻る。絢爛と彩られた世界。芸妓をつれ、羽子板を買う酔人もいた。帰り、ニュートーキョーでビール、おでんで歌、俳句談義。それ からブラジル珈琲店で、春夢大人の短歌の数々を聞かされる。四十五、六でこの若々しさに、感服する。奥の方をふと見ると、女店員のひとりが、コーヒー用の ミルクを手にぬっていた。

昭和十五年(一九四〇)  一月二十三日 朝から履歴書を書く。やめて詩作にふけった。久しぶりでまあ坊が誘いにくる。遠いが三輪のキネマハウスへバスで行く。映画はつまらなくがっ かり。黒いオーバーのパーマネントの若い娘が隣に座る。客席はすいているのにと、思った。二本目の映画「男の世界」は見ていたの で、出ようとした時、その娘が肘でつく。あたしよ、中村葉子よ。奇遇に驚いてしまう。あの黒髪のおかっぱの少女はどこへいってしまったのか。いつも思慕し ていた、初恋のひと。さようなら、一つの夢。バスで浅草へ出、喫茶店スタアでコーヒーをのんだ。

○二月十四日 持ち込み原稿の『北海道の口碑と伝説』の整理に没頭する。出来ると、天皇陛下に献上するとのこと。午後、小林梁さんくる。今朝、西村さんは 朝鮮へ立ったと言う。なんの用なのだろう。夕刻、池田行宇がたずねてくる。神保町の喫茶店で、お茶をのみ、中村葉子のことにふれる。まだ店にいるよ、出征 したKの帰りを待っているんだとのこと。寒風の街で別れた。

珈琲がらみの記述を省略せずに引いた。はからずも《うまやはし日記》の精選のようになったのは、珈琲店が吉岡の精神生活の中心を占めて いたからであ る。体質的にアルコールに弱かった吉岡は、人が酒場に足を向けるときでも、喫茶店で珈琲を前にくつろぐことを好んだ。南山堂に勤めていたころは黒門町近く の芭蕉館で備えつけの俳句雑誌を読んだりしているし、私が駒場の日本近代文学館の帰りに渋谷のトップに入ると、新聞を読んでいるところだったりした。珈琲 店で原稿を書くことこそなかったが、吉岡にとって自宅と並んで最も心安まる場所だった。

茶房「霧笛」のチーズケーキと珈琲のセット 茶房「霧笛」の前の赤と白ふたつのビーチパラソル 珈琲店トップ渋谷道玄坂店のチーズケーキと珈琲のセット
茶房「霧笛」のチーズケーキと珈琲のセット(左)と店の前の赤と白ふたつのビーチパラソル (中)と珈琲店トップ渋谷道玄坂店のチーズケーキと珈琲のセット(右)

吉岡実が愛した珈琲店といえば、東京ではアンヂェラス(浅草)、ラドリオ(神保町)、トップ(渋谷)、京都ではイノダコーヒ(堺町三 条)が思いうか ぶ。《うまやはし日記》の店(現存するのか)も含めて、これらの店の珈琲がどんなものか味わってみたい。横浜の県立神奈川近代文学館に行った今年 (2014年)の7月6日に撮った写真を掲げて本稿を終えよう。1978年7月9日、吉岡実が土方巽たちと「四谷シモンの唄に聴きほれ」(《土方巽頌》筑 摩書房、1987、一一三ページ)たという茶房「霧笛」。そのチーズケーキと珈琲のセット、そして茶房前の赤と白ふたつのビーチパラソルだ。店の伝票の裏 には「CE COIN ME SOURIT(この一隅は私に微笑みかける)」と印刷されている。はたして36年前もここの珈琲は、吉岡たちに微笑みかけていただろうか。

〔2015年3月31日追記〕
先日、久しぶりに日曜の昼間の渋谷・道玄坂を歩いたが、人出の多さには驚かされる。一服するために珈琲店トップに入った。トップミックス(店独自のブレン ドコーヒー)とチーズケーキを注文して、思わず長居をしてしまった。そのときの写真をアップしておこう。


吉岡実と写真(2014年9月30日)

吉岡実と写真、吉岡実詩と写真について考えたい。肖像写真がないことで知られる西郷隆盛は1828(文政10)年に生まれ、1877 (明治10)年 に歿している。同時代の坂本龍馬(1836〜67)にはポートレートがあるから、写真に撮られるのが好きな人間と嫌いな人間がいるということだけかもしれ ない。吉岡実は明らかに後者だった。《ユリイカ》1973年9月号の吉岡実特集には、金井塚一男撮影による〈グラビア 吉岡実の眼〉が8ページにわたって掲載されているが、雑誌の特集でなければ撮影させなかっただろう。詩人としては拒否しても、編集者としては受けいれざる をえなかったのだ。〈吉岡実のレイアウ ト(3)〉にも書いたが、高見順文学振興会会報の《樹木》第2号(1984年3月5日)には〈高見賞の詩人たち〉として飯島耕一、吉 岡実、粒来哲蔵の3人が登場する。吉岡の肖像写真は今泉治身による撮りおろしで、尾花珠樹の〈編集後記〉が撮影の様子を伝えている。

一方、吉岡実氏は「写真はいちばん厭。しばらく考えさせてよ」。それはほとんど撮影拒否に近い声。三ヵ月後、「あな たがたの熱意 に負けた」と姿を現わしてくださった吉岡さん、こうなったらどこにでも立つし、どこでも歩くよ。ただし俺が自分からカメラの前に身をさらすのは、おそらく これが最後だ」と。人混みを縫い坂をのぼり、終着は閑静な公園のベンチ。別れぎわ、詩人は「詩は謎」の言葉をのこし、〈時空と謎とに身をまかせ〉るかのよ うに、ふたたび都市の雑踏のなかに……。(同誌、四〇ページ)

1989年3月、詩集《ムーンドロップ》が第4回詩歌文学館賞(現代詩部門)に選ばれたが、吉岡は受賞を辞退している。私はこれを吉岡 が自己の詩業 に対して厳しい(厳しすぎる)態度で臨んだものと理解してきた。それが第一の、そして最大の理由には違いない。だが、上の証言を併せて読むと、写真で自分 の姿を晒したくないという思いも大きかったのではないか(吉岡は70歳になろうとしていた)。種村季弘は〈吉岡実のための覚え書〉でつとに指摘している。 「この詩人の常同性への好み。〔……〕ダーク・スーツの男は、街中では群衆という隠れ蓑を着て姿を消してしまう。残るのは眼。見ること。覗くこと」(《ユ リイカ》1973年9月号、九二〜九三ページ)。被写体として写真に撮られることを好まなかった吉岡実。この見る人、覗く人の詩に、「写真」はどのように 登場するか(下線は引用者が説明のために付けたもの)。

・やっとみつかったお母さんの写真(〈灰色の手套〉A・25)―A

果物の終り(D・2) ―B

つねに死ぬ人のまわりにある羽毛の潮のながれ
けばだつ意識の外面ではじかれる
孔雀の血の粒
その真新しいくちばしの喚びの深層で
内的独白をくりかえす
死ぬ人の幼年期の肖像を 見た
つまれた菓子の間を疾走し
の 情事のゆえに下痢する
独楽の廻るスピードで失われてゆく微熱の時間
羞恥のセックスで靴下を穿く
幼女のまるいくるぶしへの侮蔑とともに
紋切型のの 心理的倒産があり
黒と白の斑の犬の轢死が少年の 視線を転化する
秘密写真へ
柔かい曲線のおびただしい泥沼へ
未熟なか ら
すわりよいの しりのくぼみに
都会うまれの少年期の遅い恋の始まり
ばらいろの繭を持つ従姉に 教育され
るいれきのある肥った叔母の 冷感で戦慄する
肉への廻り道
霧隠才蔵への入信と改宗
とかげの磔刑
また別の少女へのやさしい折檻
反抗と洪水はたえず少年の身の丈をせりあげる
後世の砂漠のなかに
父の無智との 無力な家の柱を回避する
オペラ館の極彩色の舞台の予言の歌手 たち
仮象で生きる喜劇役者たち
ガルボの 秘蹟の遠近感
アナベラの 絹の唇の触媒
永遠の視点はジイドリルケの書から俯瞰される
トンネルの闇で死滅した
家畜の臓物の臭いをかぎつけ
投影した少年の精神が氷の河を引き入れる
ついでに把握しがたい月の運行を
充分な死の恐怖の伝承と
繁る小麦の畑の生への集積の怒り
少年は孤独の肩をあらわにし
物の固い角を経験しはじめた
消えたランプの発端から終焉までを告発する
発生する癌の戦争
大砲の車輪のひと廻りする時
無意味に穴のふさがる時
多くの人類の死・猿にならねばならぬ無声の死
下等な両棲類の噛み合う快感の低い姿勢
横たわる死・だんじて横たわる死
古代の野外円形劇場の太陽の下の醜悪な消却作業
一人だけの少年は哭きわめく
粥状の物質の世界で
コップの嵐のなかで
まさに逆さまだ
偶像は
いま死ぬ人の半生の透視図
肖像の 少年は模倣するだろう
大人の習慣のぬれた羽毛をたらす死を
歩みよる曙光の拡がり

・或る新聞記事で首長族のことを改めて知った いまでもビルマのカレンニ地方に二千人も住んでいるとのこと 写真も載っているのでつくづく見た(〈首長族 の病気〉D・11)―C

・永劫に新しい戦争写真(〈やさしい放火魔〉E・9)―D

・写真に撮られるべく(〈マクロコスモス〉F・1)―E

・写真のなかで永遠に(〈崑崙〉F・8)―F

記念写真で すかこれは?(〈神秘的な時代の詩〉F・11)―G

わが家の記念写真(G・ 9)―H

おかあさんは 腰巻きする人
首つりのタモの木にそってゆき
朝日はのぼる
島の墓原で
百羽のツグミを食う猛き人
それが義理あるおとうさんの 暗き心
いやになるなあ
公園からとんでくる
ラグビーボールをスカートのなかへ
おねえさんは 隠したままだ
なので寄宿の猫は
沼面を走る雨にぬれる
幽鬼のように
いもうとは 善意の旅をしている
星ビカリする夜々を
みなさん揃いましたか
では記念写真をとりますよ
青空へむかって
にっこり笑って下さい
でもうまく映るだろうか
時すでにぼく
地中海沿岸地方の奥地で
コルクの木とともに成長している

父母の 写真 コダックの五匹のの 写真 船腹の 写真 赤ん坊の写真 墜落した飛行機の 写真 結婚式の写真 騎手の写真 女優のヌード写真 チャー ルズ・ラトウィジ・ドジソン教授が撮ったアリスの写真(〈『アリス』狩り〉G・12)―I


濡れた泥の上を疾走する/            「の 写真を見ている」〔/は改行箇所〕(〈寿星(カノプス)〉K・8)―J

軍艦の沈没してゆく場面の 写真を示すので(〈陰謀〉未刊詩篇・6)―K

〈果物の終り〉は写真/舞台/映画/文学といった諸ジャンルへの言及が見られる特異な詩篇であり、〈わが家の記念写真〉は写真そのもの を扱った詩篇 であるため、全篇を引いた。上掲のAからKまでの「写真」を、(T)印画紙に焼きつけられた紙焼写真と、(U)新聞や雑誌、写真集などに印刷された印刷写 真、とに分けてみよう(Eはどちらともつかない。というか、紙焼写真を写真集に展開するシーンと読みたい)。
 (T)紙焼写真……A・B・G・H
 (U)印刷写真……C・D・F・I・J・K
いずれの場合も、「写真」はこんにち主流のデジタル画像のカラー写真ではなく、アナログの白黒写真と考えられる。ただし、H・I・Jはカラー写真でもおか しくない。(T)と(U)は媒体の特性こそ異なるものの、ともに画像のコンテナとして詩篇に埋めこまれている。だが機能は(T)が詩の登場人物の自伝的要 素(定着された姿をつねに脱することを使命としている)として登場するのに対して、(U)は不安な社会としての外界のイマージュとして顕ちあらわれる。し かもD・I・Kは戦争を想起させる。(T)がおおむね親密なものだとすれば、(U)は禍禍しいものとして描かれている。これはどういうことだろうか。自分 の管理下にある(T)は見るものとして肯定し、そうでない(U)は見られるものとして否定する。こうしたメンタリティが、はからずも最初に述べた吉岡実と 肖像写真の関係に平行している。〈果物の終り〉という仮構された自伝には、素材として吉岡自身の体験が活かされているように思う。現実に先行する「秘密写 真」である「杏」から「梨」への喩は、その後の吉岡実詩には見出しがたい。「桃」という両者を兼ねそなえた果物を偏愛するに至るからである。同様の変化は 〈果物の終り〉と〈わが家の記念写真〉の家族の描き方にも表れている。一方で、Hの「寄宿の猫は/沼面を走る雨にぬれる/幽鬼のように」とJの「濡れた泥 の上を疾走する/           「犀の写真を見ている」」のように相似したイマージュも登場する。また、Iの「チャールズ・ラトウィジ・ドジソン 教授が撮ったアリスの写真」は〈ルイス・キャロルを探す方法〉(G・11)への自己言及になっている。ところで、吉岡も高く評価した西脇順三郎詩集《近代 の寓話》(創元社、1953年10月30日)の巻頭には序に当たる文章 がある。その一節は、西脇の写真論としても出色だ。

 私は個人としては詩集といったような代物で詩を公にしたくはなかったのだが友達のすすめで出すことにした。それで これ等の詩の 大部分はすでに新聞や雑誌に出したものであるが、しかしこの詩集のためにそれを訂正したところが多い。私の考えでは一つの作品は与えられた瞬間に於ては唯 一の形容をもっているが、それは常に変化して行くべきところを知らないのであって、決して定まるところが無いのだと思う。私の詩などは現代の画家と同じく 永久に訂正しつゞけるのであって、それは画人も詩人も同じことだ。一つの詩の存在は遂に無になるまで変化しつゞけるのである。詩の生命はパラドックスでな く理論としては無であると思う。
 こゝに出ている詩は勿論一時停止されている形にすぎない。しかしこの停止されているそれ等の形を取るまでに二十ペン以上も皆書きかえられているのであっ て、元の形のあとかたもないのである。ピカソやマティスのように若し写真を次から次へと取って残してみると面白いものだと思う。(同書、一〜二ページ)。

吉岡がこの序をどのように受けとめたかはわからない。しかし、のちの《静物》となる詩篇を書き継いでいた未来の詩人にとって、同文冒頭 の「この詩集 は単に「こわれた生垣」とか「女の舌の甘さ」を集めたのでなく、一つの詩的見地から人間を慰めるために時々書いたものを集めたのである」(同書、一ペー ジ)とともに、詩とはどうあるべきか、詩集とはどうあるべきかを考察するための有力な手掛かりになったことは充分に考えられる。それは西脇の執筆方法をそ のままなぞることではもちろんない。むしろその違いを際立たせるものだ。吉岡は、近代の寓話ならぬ現代の寓話、いや近代の実話を書くことを目的としてい た。筆をもって真を写すこと、それが戦後10年間の吉岡実の詩的な営みであり、戦中・戦後の体験は近代の寓話に安住することを許さなかった。変転きわまり ないものとそれを形に留めるものとしての写真が存在することは大きな啓示となり、詩への信頼を深めたに違いない。それが最初に結実したのが、《紡錘形》の 名篇〈果物の終り〉だった。吉岡はこの苛烈な成功をあえて繰りかえすことはせず、いっそうもどかしくてぞっとするような詩として〈わが家の記念写真〉へと おもむいた。

〈土方巽、篠田一士 1984・3〉(相田昭写真集《作家の周辺》新潮社、1994年10月20日、三五ページ) 新宿区新宿6-10の活魚割烹「加賀鮨」前の同じ場所〔2014年8月6日午後5時半撮影〕
〈土方巽、篠田一士 1984・3〉(相田昭写真集《作家の周辺》新潮社、1994年10月 20日、三五ページ)(左)と新宿区新宿6-10の活魚割烹「加賀鮨」前の同じ場所〔2014年8月6日午後5時半撮影〕(右)

実際の写真と吉岡の文章を並べてみよう。相田昭写真集《作家の周辺》(新潮社、1994年10月20日)の二一ページには〈吉増剛造、 吉岡実 1984・3〉があって、前掲《樹 木》(第2号)とグラスを手にした吉岡のリラックスした姿が収められている。だが、ここで注目したいのは〈土方巽、篠田一士 1984・3〉(同書、三五ページ)と1984年3月9日の吉岡実日記である。
「晴。 夕刻から寒さが戻る。赤坂見附へ出、バンでコーヒーをのみ、プリンスホテル別館の高見賞授賞式へ行く。詩集『夏の淵』で受賞の三好豊一郎の禿頭が輝いてい る。大勢の知己と会う。土方巽と元藤夫人もいた。パーティーも終り、新宿の鮨屋加賀が二次会の席というので、それぞれタクシーで向う。二階の座敷に上る と、篠田一士、飯島耕一、入沢康夫、渋沢孝輔、小田久郎そして、三好豊一郎とお嬢さんが坐っていた。大岡信と土方巽にはさまれたかたちになる。乾杯の音頭 をとらされた」(〈80 「夏の淵」――祝宴の余波〉、《土方巽頌》筑摩書房、1987、一六一ページ)。
相田の写真集には二階の座敷で独り本を読む篠田の写真もあり(〔三二〜三三〕ページ)、吉岡の日記と併せて読むと興味は尽きない。いったい、土方巽と篠田 一士という組み合わせが、三好豊一郎(あるいは吉岡実)を媒介にする以外のどんな場合に考えられるだろう。〈土方巽、篠田一士 1984・3〉をじっくり 見ると、電柱の看板に「活魚割烹 加賀鮨」とあり、住所の表示が「新宿6-10」と読める。Googleの地図検索でストリートビューを見ると、それらし い電柱の脇に停めてある配達用の三輪バイクの荷台にくくりつけてある木箱が〈土方巽、篠田一士 1984・3〉の箱と同じようだ(写真の手前のバイクは スーパーカブか)。30年の時を隔てて同一の箱か断定はできないが、写真・画像の力をまざまざと感じさせられる。

今年(2014年)の5月31日の土曜日、吉岡実の命日に巣鴨の真性寺の墓に詣でて、ついでにすぐ近くの「すがも田村」の前を通ったと ころ、同店が 5月25日をもって閉店していたのには驚いた。法要のあとの直会がここでされてきたからだ。幸いカメラを持参していたので、撮影した「すがも田村」の看板 と吉岡実の墓石の写真を掲げて、本稿を締めくくろう。

「すがも田村」の看板 真性寺の吉岡実の墓石
「すがも田村」の看板(左)と真性寺の吉岡実の墓石(右)〔2014年5月31日撮影〕

〔付記〕
吉岡実の遺稿〈日歴(一九四八年・夏暦)〉に「銀座の横丁をちょっと曲り/汁粉屋牡丹にはいる/渋好みの壁にグリア・ガアスンの写 真が貼ってある/あずきに包まれたこのくにのおはぎを知らぬ/異国の女グリア・ガアスンは美しきかな/〔……〕」(るしおる別冊《私のうしろを犬が歩いて いた――追悼・吉岡実》書肆山田、1996、一一ページ)とある。日付は「六月***日」だが、前後関係から「二十四日の木曜」か。注目すべきは「グリ ア・ガアスンの写真」だ。イギリスの女優グリア・ガースン(1904〜96)のおそらくはスチル写真だろう(それとも映画雑誌の切り抜きか)。彼女は、 1953年日本公開のMGM映画〈フォーサイト家の女(That Forsyte Woman)〉で主人公のアイリーン・フォーサイトを演じている。これが《サフラン摘み》に収められた「猫の主題による長篇詩」=〈フォーサイド家の猫〉(G・17)のスルスの一つだと 想像することは楽しい。


吉岡実詩における絵画(2014年8月31日)

音[サウンド]で絵を描くのさ。共感覚を得るために ね。――ジミー・ペイジ(エリック・デイヴィス〔石崎一樹訳〕《レッド・ツェッペリンW〔ロックの名盤!〕》水声社、2013年1月1日、八四ページ)

吉岡実詩における絵画の持つ意味について考えたい。《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)をひもといたことのあるほどの人なら、誰も が吉岡は絵を 描くように詩を書いたという印象を抱くだろう。吉岡自身、〈わたしの作詩法?〉で「或る人は、わたしの詩を絵画性がある、又は彫刻的であるという。それで わたしはよいと思う。もともとわたしは彫刻家への夢があったから、造形への願望はつよいのである」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、 1988、八九ページ)と書いていて、共感覚を得るために、詩で絵を描くことを志向していた。吉岡の「中期」を代表する詩集《サフラン摘み》にその名も 〈絵画〉という一篇がある(初出は《風景》1974年5月号)。

絵画(G・18)

画家がテーブルを描くとき
最初に灰色の物質を
心のなかに塗る
「見るとは
眼をとじることだ」
それによって
籠の洗われた韮や莢豆
緑の野菜類がストイックな影を加える
六月の午後は
肉類を煮ながら
いよいよ高みへ至る
大鍋の下から
女中の指を噛む
炎の形が出てくる
そこでテーブルは前方へ傾き
犬は庭へ戻る
皿の上で内包され
西洋李の〈赤〉は実相の中心になる
それを食べる子供の
黄金の口を見よ
しだいに外観はあいまいになり
地上で
「われわれの見得る
物は数すくない」
胡椒挽きや胡桃割り
それらの器具しか存在しなくなる
だから
厚盛りの背景は
いくつもの記号と音階に分割され
闇へ流出する

丸谷才一は〈菊なます〉で「今年〔一九七六年〕いちばん楽しんだ詩集は吉岡実の『サフラン摘み』だつた。『静物』や『僧侶』のころの魅 惑がもつと味 の濃いものになつて差出されてゐて、妙な酔ひ心地になるのだ。殊にいいのは『悪趣味な夏の旅』といふ一篇で、リズムと認識の揺れ具合が異様に官能的であ る」(《遊び時間2〔中公文庫〕》中央公論社、1983年7月10日、六九ページ)と書いた(〈悪趣味な夏の旅〉に触れた評をほかに知らない)。丸谷では ないが、私は〈絵画〉を読むたびに《静物》(1955)の巻頭詩篇を想い出す。

静物(B・1)

夜の器の硬い面の内で
あざやかさを増してくる
秋のくだもの
りんごや梨やぶどうの類
それぞれは
かさなったままの姿勢で
眠りへ
ひとつの諧調へ
大いなる音楽へと沿うてゆく
めいめいの最も深いところへ至り
核はおもむろによこたわる
そのまわりを
めぐる豊かな腐爛の時間
いま死者の歯のまえで
石のように発しない
それらのくだものの類は
いよいよ重みを加える
深い器のなかで
この夜の仮象の裡で
ときに
大きくかたむく

ここで指摘したいのは想の類似といったことではない。吉岡はこの二篇で、「絵を描くように詩を書いた」のではなく、「詩を書くようにし て絵を描い た」のだ。まず標題。〈静物〉とは静物画すなわちモチーフであり、〈絵画〉とは油彩画やアクリル画といったメチエを指す。しかし、この差は問題にならな い。いずれにしても絵画を描くことは世界の見方の提示であり、見ることはすなわち「眼をとじること」だ。視覚に映る外界を写すのではなく、心のなかをのぞ きこむことだ。吉岡実の詩風を「幻視的」と呼ぶとき、われわれは幻想を視ると捉えがちだが、眼球を内部に向けて反転させた状態で目に映るものを視るので あって、「幻」があらかじめ外在するわけではない。文字を紙に書きつけることによってのみ、見えてくる。書いたから見える。描いたがゆえに見えるのだ。そ れはただちに見るために描く、書くという具合に顚倒する。こうした視覚の原理は一般的に絵を描くことで具現化される。であれば、それが詩という言語作品で あっても「絵」と呼んで差しつかえない。吉岡実詩の幻視の構造は、〈静物〉から〈絵画〉に至るまで一貫している。


吉岡実のコレクションが公開されたのは、2003年5月1日〜10日、東京・有楽町の古美術店「織田有(ODAU)」で開催された《奠 雁展》が唯一 のもので、その所蔵する美術作品が公にされたことはない。ただし、紙上でのコレクションの公開となれば、《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実 〔るしおる別冊〕》(書肆山田、1996年11月30日)の坂本真典撮影のカラー図版〈吉岡実の小さな部屋〉がある。作者名と作品名を掲げるので、読者は よろしく《私のうしろを犬が歩いていた》に就いて作品を見られたい。

  1. ポール・デイヴィス〈猫とリンゴ〉
  2. アヴァティ〈かたつむりの散歩〉
  3. ヘルマン・セリエント〈異邦〉
  4. 河原温〈浴室〉
  5. 片山健〈とんぼと少女〉
  6. 佐熊桂一郎〈婦人像〉
  7. 斎藤真一〈しげ子 母の片身〉
  8. 三好豊一郎(題なし)
  9. 永田耕衣〈白桃図〉
  10. 西脇順三郎(題なし。スケッチ帳から)
  11. 小沢純〈グロヴナー公の兎〉
  12. ゾンネンシュターン(題なし。梱包用紙に鉛筆で)

1. は《サフラン摘み》の印税で購入したアクリル画(〈1990年、吉岡実の自宅にて吉岡陽子 さんと小林一郎〉参 照)。2. は1975年9月17日付永田耕衣宛て書簡に「先日、また渡辺一考君が現われ、「不生」の額を持ってきてくれました。杉の黒塗の美しいその額に、早速耕衣 書を入れ、玄関に懸けましたら、いままで飾ってあった、アバティの色彩銅版画と趣きが一変して、厳しい雰囲気になりました」(〈青葉台書簡〉、《琴座》 300号、1975年11月、六ページ)とある。3. は詩篇〈異邦〉(H・ 5)がある。9. は1985年9月30日の日記に「朝、気分転換に、居間の耕衣「白桃図」を、贈られたばかりの、小沢純の「グロヴナー公の兎」の油絵にかけ替える」(《土 方巽頌》筑摩書房、1987、一九二ページ)とある。10. は吉岡生前最後の詩集《ムーンドロップ》(1988)の表紙に金箔押しされている。11. は詩篇〈秋の領分〉(K・5)があり、 12. はその名も〈ゾンネンシュターンの船〉(G・ 24)がある。吉岡のこうした絵画の好みがなにに由るかは興味深い課題だが、《みづゑ》や《美術手帖》、《芸術新潮》といった美術雑誌や新聞の記事、それ らが告知する美術展、画廊の個展で複製や実物を観ていた(陽子夫人の談によれば、吉岡の愛読紙は《朝日新聞》であり、愛読誌は《週刊文春》だった。むろん これ以外の紙誌にも勤務先や喫茶店などで目を通していたに違いない)。それらの紹介者に瀧口修造や澁澤龍彦がいたことは以前にも書いた。

吉岡実の歿後の出版だが、金井美恵子《スクラップ・ギャラリー――切りぬき美術館》(平凡社、2005年11月1日)の作品の選択はま ことに吉岡実 ふうでもあって、見ていて飽きない。吉岡が金井に薦めた画家もいれば、金井が吉岡に推した画家もいるだろう。なかでも〈李朝民画〉はとりわけ吉岡実の絵画 の趣味を彷彿させる。――「立派な床の間に、小さな水墨の竹の絵が掛けられている。「これは?」と聞くと、「道具屋で探したものだよ」と土方巽は笑う。 「せめて、李朝民画の虎の絵か、白隠の達磨図ぐらい欲しいね」と私が言ったら、「どこにそんなのあるのよ」。いつか南青山辺りの古美術店を二人で歩きたい と思った」(〈76 来客の山荘の一夜〉、《土方巽頌》筑摩書房、1987、一五四ページ)。土方巽が金井美恵子であってもおかしくない。《スクラップ・ギャラリー》の美術家 の名前と金井の文の標題を掲げよう(●印は吉岡が言及したことのある美術家なので、掲載図版の作品名も番号を振って録する)。

◎長谷川潾二郎――静かな家の猫たち(詳細は後述)
◎モリス・ハーシュフィールド――透明さと柔らかさのテクスチャー
●マックス=ワルター・スワンベルク――女に憑かれた白鳥  @グンニ わが心の庭にただひとりいる人 A奇妙な懐胎、三相の1 B星の肖像 C私の人生の最も美しいものを祝うイマジニズムの星座 D双子の星の奇妙な日、十相の3
◎オーギュスト・ルノワールT――ジャンの父親の描いた絵
◎オーギュスト・ルノワールU――犬も子供も草も水も女も。
◎アンリ・ルソー――奇妙な近代画家
◎岡鹿之助――思索[パンセ]としての三色スミレ[パンセ]
◎フラ・アンジェリコ――天使の描いた沈黙
◎ダヴィッド、●ゴヤ――美しいコスチューム  @裸のマハ Aアルバ公爵夫人 Bマヌエル・オソーリオ・デ・スーニガ C着衣のマハ
◎マティス――マティスの窓
●シュレーダー=ゾンネンシュターン――ドン・キホーテとしての画家  @ポープル博士 A人生の模写 Bうらぶれた見込みのない文化財運送有限会社 C月の精の航路を行く国家の魔法の船 Dポッホリヒェン、知られざる平和の天使 E冒瀆された力
◎円山応挙――落語と写生
◎ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ――ゴッホとお金
◎ワトー――シテール島へ……
●李朝民画T――虎図の限りない魅力  @虎図 A虎図 B虎図
●李朝民画U――明窓浄几の空間  @蓮華図 十曲屏風(部分) A文房図(二枚のうちの一枚) B蓮華図 十曲屏風(部分) C蓮華図 十曲屏風(部分) D文房図(八曲屏風のうち六曲)
◎サーカス ポスター――サーカスの夢と運命
◎エドワード・ヒックス――平和なる王国の動物たち
◎エドワード&ナンシー・レディン・キンホルツ――メイド・イン・USAのエンヴァイラメント
●バルテュス――自画像のまなざし  @猫たちの王 Aエミリ・ブロンテ『嵐が丘』のための挿絵より Bホアン・ミロと娘ドロレス C地中海の猫
●ジャクソン・ポロック――ポロック、アメリカン・モダン・アートの神話  @ブルー・ポールズ・ナンバー11 A秋の旋律:ナンバー30
●フランシス・ベーコン――フランシス・ベーコンと映画  @ベラスケスの法王 イノセント10世の肖像による習作 A十字架の三つの習作 Bマイブリッジより:バケツを空ける女性と柵を這う子供
◎ラウル・デュフィ――生きる喜び
◎フランシスコ・デ・スルバラン、ファン・デ・スルバラン、ミケランジェロ・メリジ・ダ・カラヴァッジョ、ヨハネス・フェルメール――スティール・ライフ ――動かない物
◎高橋由一と長谷川潾二郎――豆腐・丸干し・茶碗
◎ジオット――同時代人としてのフランチェスコ
◎ジョセフ・コーネル――箱の旅人
◎アントニオ・リガブーエ――密猟者と動物たち

吉岡所蔵の美術作品のときとは異なり、吉岡実詩との関連を指摘するにとどめる。

  1. マックス=ワルター・スワンベルクは、その名も〈スワンベルグの歌〉(未刊詩篇・12)がある(〈詩篇〈スワンベルグの歌〉初出と再 録〉参照)。
  2. ゴヤは、〈あまがつ頌〉(G・ 30)に登場する。
  3. シュレーダー=ゾンネンシュターンは前述のとおり(〈ゾンネンシュ ターンの船〉)。
  4. バ ルテュスは、詩篇には登場しない。ただし、《ムーンドロップ》の帯の惹句に「バルテュス、クロソウスキー、ベーコンらの作品に穿孔する詩語――絵画の内側 で踠くものたちをひき伴れ、画面の底に身を潜めるものたちを揺さぶり、画布の背後にもうひとつの宇宙をゆらぎ立たせる詩篇群」とある。
  5. ポロックは、〈青 い柱は どこにあるか?〉(F・6)がある。
  6. ベーコンは、〈叙景〉(K・11)がある(〈吉岡実とフラ ンシス・ベーコン〉参 照)。

ジャン・ソセ編(澁澤龍彦著)《マックス・ワルター・スワーンベリ〔シュルレアリスムと画家叢書「骰子の7の目」別巻〕》(河出書房新社、1976年7月30日)ジャケットと函、《スワーンベリ展》(グリフィンスコーポレーション、1976年3月30日)の表紙 《スワーンベリ展》(グリフィンスコーポレーション、1976年3月30日)の中面ページ
ジャン・ソセ編(澁澤龍彦著)《マックス・ワルター・スワーンベリ〔シュルレアリスムと画家 叢書「骰子の7の目」別 巻〕》(河出書房新社、1976年7月30日)ジャケットと函、《スワーンベリ展》(グリフィンスコーポレーション、1976年3月30日)の表紙(左) と《スワーンベリ展》の中面ページ(右)

《スクラップ・ギャラリー》は、〈長谷川潾二郎――静かな家の猫たち〉の次の文章で始まる。

 薄塗りでグレーとエンジに塗られたキャンバスの布目が透ける背景に、幸福そうに満ち足りた寝顔と肢体で、まるで、 何かとても気 持の良い夢を見てうっすらとした微笑みを浮べているかのように、なんとも愛らしい様子で眠っている黒トラ柄の猫の絵を描いた画家・長谷川潾二郎のことを 知ったのは、詩人の吉岡実が、それを〈猫の絵の傑作〉と言って教えてくれたからなのだが、一九六六年に猫かれて『猫』と素っ気なく名付けられた絵のオリジ ナルを見たのは、ずっと後になってからだった。
 その絵が、仙台の美術館に寄贈された洲之内徹のコレクションに入っているのは知っていたけれど、なかなか仙台まで出かける機会などはなく、十年ほど前に あった六本木ストライプ・ギャラリーでの長谷川潾二郎回顧展にも、その名前を「太郎」という、ずっと恋焦れていた黒トラの絵は出品されていなかったのが残 念だったのだが、とは言え、そこでもう一匹の、というかもう一枚の猫の絵にめぐりあったのだから、残念という言葉は、本当はあてはまらないだろう。(同 書、八ページ)

洲之内徹の《気まぐれ美術館》(新潮社、1978)には吉岡が登場するから、現代画廊で〈猫〉と出会ったと考えられる。ただ、それがい つなのかはわ からない。一方、飼い猫(1960年に辻井喬の知人からわけてもらった2匹のシャム猫)の逃亡や死のあと、猫の絵を手に入れたいという願望は吉岡をとらえ ていたに違いない。長谷川潾二郎の〈猫〉(1966)を手にすることはできなかったが、1976年秋に刊行された《サフラン摘み》は吉岡の著作として最大 の印税をもたらし、ポール・デイヴィスの〈猫とリンゴ〉(1977)を入手しているからだ。同詩集には猫を詠った〈自転車の上の猫〉や〈フォーサイド家の 猫〉の他にも、〈わが家の記念写真〉〈『アリス』狩り〉〈田園〉〈異霊祭〉といった詩篇に猫が登場し、〈異霊祭〉はただちに「動物慰霊祭」を連想させる。 ちなみに〈絵画〉は、前後に〈フォーサイド家の猫〉と〈異霊祭〉を従えて《サフラン摘み》に収められている。長谷川の「猫の絵の傑作」が吉岡に猫の絵とと もにあることの幸福を夢見させたことは想像に難くない。詩に書くことによって飼い猫の霊を慰め、さらには猫を描いた絵画に慰められる。そこでは猫がやすら い、果物が実相の中心になる。こうした詩と絵画の渾然とした総体が吉岡実詩における絵画だ、と考えたい。吉岡が西脇順三郎や永田耕衣、あるいは三好豊一郎 のようには絵筆を執る必要がなかった所以である。

吉岡実と2匹のシャム猫〔どちらがデッカ(オス)でどちらがエリ(メス)かは不明〕
吉岡実と2匹のシャム猫〔どちらがデッカ(オス)でどちらがエリ(メス)かは不明〕
出典:〈グラビア 吉岡実の眼〉(《ユリイカ》1973年9月号、一〇八〜一〇九ページ)


吉岡実と落合茂(2014年7月31日〔2014年8月3日追 記〕)

さきごろ吉岡実のすべての装丁作品(〔特装〕限定版の一部を除く)の紹介を終えた。吉岡実装丁本の装画・カットを振りかえると、多くの 造形作家のな かで落合茂が印象に残っている。だがいきなり落合作品にいくまえに、吉岡生前の単行本の函や表紙を飾った造形作家名とジャンルを刊行順に見よう。最初は詩 集・詩篇。なお、装画とカットの区別は厳密なものではない。

  1. 昏睡季節 ――
  2. 液体  〔吉岡実〕(装画)
  3. 静物  真鍋博(装画)
  4. 僧侶  奈良原一高(写真)
  5. 紡錘形  真鍋博(装画)
  6. 静かな家  落合茂(装画)
  7. 異霊祭〔特装版〕  落合茂(装画)
  8. 神秘的な時代の詩  〔不明〕(カット)
  9. サフラン摘み  片山健(装画)
  10. 夏の宴  西脇順三郎(装画)
  11. ポール・クレーの食卓  片山健(装画)
  12. 薬玉  〔不明〕(カット)
  13. ムーンドロップ  西脇順三郎(装画)

戦前の2冊の詩集(1.と2.)の書名は筆による書き文字で、おそらく吉岡実自筆の書だ。また《液体》の表紙の女の顔は、吉岡が初恋の 人を描いたも のに違いない。なぜなら〈溶ける花〉(A・4)が「中村葉子に」捧げられているからだ。戦後の詩集・詩篇(3.以降)は書名がみな明朝体やゴチック体の活 字で組まれている。活字だけでは寂しいと思ったのか、すべての函もしくは表紙に装画・カット、写真などのヴィジュアル要素が添えられている。伊達得夫の書 肆ユリイカの詩集の多くがそうであったように。9.のジャケットには、〈無題〉と題名のクレジットまである。選詩集・英訳詩集は次のようだ。叢書の一冊で あることが多い。

  1. 吉岡實詩集  浜田伊津子(フォトコラージュ)
  2. 吉岡実詩集  〔不明〕(カット)
  3. 吉岡実詩集  〔不明〕(カット)
  4. Lilac Garden: Poems of Minoru Yoshioka 池田満寿夫(装画)
  5. 新選吉岡実詩集  〔不明〕(カット)
  6. 吉岡実  安野光雅(装画)
  7. Celebration In Darkness――Selected Poems of YOSHIOKA MINORU 〔不明〕(カット)

2.のロールシャッハテストのインクの染みのようなカットは、ブックデザイン担当の杉浦康平が手配したものだろうか。2.(もしかする と4.も) は、単行詩集に準じた(それぞれの叢書のフォーマットに縛られない)デザインの許された企画だったか。散文・その他は次のようだ。

  1. 魚藍  〔真鍋博〕(装画)
  2. 「死児」という絵  M・スタンチッチ(装画)
  3. 土方巽頌  中西夏之(オブジェ)、普後均(写真)
  4. 「死児」という絵〔増補版〕  〔原弘〕(装画)
  5. うまやはし日記  〔亞令〕(カット)

1.の細密な河豚の装画は、当時の詩集を一手に引きうけていた真鍋博だろうか。2.には、〈死児〉と題名のクレジットまである。同名の 詩篇の執筆を 触発した作品ゆえ、納得だ。吉岡は単行詩集にあとがきを付けることがなかった。《ポール・クレーの食卓》には例外的にあるが(ただし〈あとがき〉という標 題はない)、唯一の拾遺詩集だったためであり、作品は作品をして語らしめるという鉄則は揺るがない。詩集の巻末に〈初出一覧〉が付くのもその証しである。 しかし、一冊の詩集をまとめて世に問うに当たって、感懐を抱くこともあるだろう。自著を装丁しながら、装画やカット、写真などのヴィジュアル要素を添える ことには、文章で〈あとがき〉を書くことと同等もしくはそれ以上の感懐が込められている(ちなみに、あとがきが付された《ポール・クレーの食卓》は吉岡の 装丁ではない。吉岡の意を受けただろう亞令こと大泉史世の装丁だ)。この傾向は、自著以外の吉岡実装丁本にも見られる。吉岡は、他人の文学作品を批評でき ない、良し悪しを感じるだけだ、とことあるごとに表明していたが、装丁することこそ最大の批評行為だった。

金井美恵子《兎》(筑摩書房、1973年12月20日)の本扉とジャケット
金井美恵子《兎》(筑摩書房、1973年12月20日)の本扉とジャケット〔装画:落合茂〕

《筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991)にも載っているように、金井美恵子の短篇小説集《兎》(同、1973年12月20日)の装画は落合茂で、奥付 に「装画 落合 茂」とある。近年の金井の著書の装画・装丁はもっぱら姉の金井久美子の手になるが、《兎》は《愛の生活》(筑摩書房、1968)、《夢の 時間》(新潮社、1970)に次ぐ3冊めの小説集で、これが吉岡実装丁のようでもあり、そうでないようでもある(装丁者のクレジットがないところを見る と、筑摩の社内装であることは確かだ)。四六判・ジャケット装は当時も今も文芸書のスタンダードで、それが筑摩の刊行物で落合茂装画とくれば、反射的に吉 岡実装丁と考えたくなる。だが、この書名と著者名と装画のオーソドックスなレイアウトが吉岡実によると言い切るのは、なぜかしらためらわれる。書名の 「兎」が一文字というのが曲者で、判断がつきかねるのだ。それにしてもこの装画の兎、人間に似すぎではないか。その反応は、集中の短篇小説〈兎〉を読めば まったく正しいとわかる。本書の装丁者が人間に似すぎた兎をジャケットや表紙に掲げたかったのなら、落合茂の力量を俟つというのは、まことにもって理由の あることだ。その出来映えに満足したあまり、書名も著者名も太太とした明朝体で印字する。それが普段にない吉岡実装丁本になった、ということもないとは言 えない。しかし、新たな証言が管見に入るまで、本書を吉岡実装丁と認定することは控えたい(存疑作品としても扱わない)。

入沢康夫・落合茂《ランゲルハンス氏の島》(私家版、1962年7月1日)の表紙とジャケット ジョン・テニエル画のアリスとドド
入沢康夫・落合茂《ランゲルハンス氏の島》(私家版、1962年7月1日)の表紙とジャケット(左)とジョン・テニエル画のアリスとドド(右)

吉岡実装丁本という観点から離れて落合茂の装画を見たとき、ひときわ高くそびえるのが、入沢康夫との共著、《ランゲルハンス氏の島》 (私家版、 1962年7月1日)だ。次に《ランゲルハンス氏の島》の入沢の文と落合の絵の構成を記す。番号.(絵の掲載ページ)「絵と対応する文章の見出し(番 号)」――絵柄〔備考〕、の順である。

  1. (扉)「ランゲルハンス氏の島/入沢康夫・落合茂」――みぞおちのあたりを押さえる男の立ち姿〔《入沢康夫詩集〔現代詩文庫 31〕》(思潮社、1970年3月15日)47ページの絵〕
  2. (3)「1」――唐草模様の金属製のフレームが立派なベッド
  3. (7)「4」――皿に盛られたフォークの突き刺さった豚
  4. (10〜11)「7」――クラシックカーを背景にしてしゃがんで魚の骨を齧る男
  5. (12)「8」――葉を落とした樹樹とそれを映す水たまり
  6. (16〜17)「11」――三脚ないし四脚のひっくり返した椅子を載せた計11の丸テーブル
  7. (18〜19)「12」――門柱のような遺跡のある風景(手前には車の轍)の遠くに二人の男の後ろ姿
  8. (21)「13」――道路工事用のつるはしを持つ手だけ見える溝から掘り出した瓦礫の山〔前掲詩集54ページの絵〕
  9. (24)「16」――しならせた鞭で拍子をとる左目に眼帯をした肥大漢の歌うたい
  10. (28)「17」――刃先も柄もそれぞれ形の異なる三挺のナイフ
  11. (30)「19」――アイモ(35mmフィルム用撮影機)にしては装飾的過ぎる映画用カメラ
  12. (32)「21」――丸めて立てかけてある二本の絨緞の棒
  13. (35)「24」――爪先と甲と踵の処が尖ったハイヒールの片方そして蹄鉄一個
  14. (37)「25」――細い二本の木の枝に張られた蜘蛛のいない蜘蛛の巣
  15. (39)「26」――水草の咲く水面の彼方に傾く帆の張られていない戦艦〔前掲詩集63ページの絵〕
  16. (41)「27」――墜落防止用手摺り柵ごしの大きな葉の植物(芭蕉)とその向こうの水平線
  17. (42〜43)〔見出しなし(27の続き)〕――柵の処から水平線を望遠鏡で覗く男とそれを見まもる連れ合いらしい女
  18. (43の巻き折)〔見出しなし〕――拡げると通常のページの4倍ほど横長になる水平線の先端が豚の尻尾のようにくるんと巻いて中 空に消えている
  19. (45)「28」――釣り針と魚の形をした(裏側から見た)「FISHING TACKLE」という店の看板
  20. (47)〔見出しなし〕――手にナプキンを掛けた召使い〔前掲詩集65ページの絵〕

本書の表紙とジャケット、奥付には正方形を45度傾けた額に収まった絶滅した鳥ドドが掲げられている。この版画(とは入沢の文にある設 定)、どう見 てもルイス・キャロルの《不思議の国のアリス》にジョン・テニエルが付けた絵からの引用だ。上の構成で述べたように、仕掛けとして面白いのは17.と 18.であり、絵柄で印象的なのは4.のクラシックカーである。本書の前年、1961年に刊行された入沢の詩集《古い土地》(梁山泊)は最初の吉岡実装丁 になる入沢の著書だが、その函と表紙にも落合によってクラシックカーが描かれていた。

入沢康夫詩集《古い土地》(梁山泊、1961年10月15日)の函と表紙〔装本:カット 落合茂/構成 吉岡実〕 入沢康夫・落合茂《ランゲルハンス氏の島》(私家版、1962年7月1日)の「7」の絵
入沢康夫詩集《古い土地》(梁山泊、1961年10月15日)の函と表紙〔装本:カット 落合茂/構成 吉岡実〕(左)と入沢康夫・落合茂《ランゲルハンス氏の島》(私家版、1962年7 月1日)の「7」の絵(右)

《ランゲルハンス氏の島》は入沢康夫と落合茂の共著になっている。47ページの本文に20点の絵があるのだから、詩画集と呼んでかまわ ないだろう。 それなら、入沢の文章と落合の絵画のどちらが先にできたのだろうか。などと考えるのも、4.の「(10〜11)「7」――クラシックカーを背景にしゃがん で魚の骨を齧る男」は、落合の絵が先であってもちっともおかしくないと感じられるからだ。あるいは入沢の発案でタクシーとその運転手の話、ということが決 まった時点で二人が同時に制作を開始する。両方ともできあがった段階で文と絵を突きあわせてみる――そうした制作方法も充分に考えられるように思う。 1.・8.・15.・20.の4点を掲載した《入沢康夫詩集〔現代詩文庫31〕》や1点も収録していない《入澤康夫〈詩〉集成》(青土社、1973・ 1979・1996〔上巻〕)ではこの両者の衝突ないし融合の全貌を見ることができない。本書や、1977年に書肆山田から覆刻された版に 存在意義がある所以だ。ところで、本書の奥付には装丁者のクレジットがない。後述するように、当時の入沢と落合の現住所まで記されているというのに。これ は入沢がコンセプトを提案し、落合(装画のほか、装丁も手掛ける)が具体化した、つまり装丁は共著者の二人ということになるだろう。17.・18.を見て そう思う。入沢康夫の詩集としての《ランゲルハンス氏の島》の吉岡実の評は〈H 氏賞選考委員・吉岡実〉で紹介したが、そうした場であるだけに候補詩集の選考に集中していて、落合茂の装画に言及していないのが惜し まれる。この詩画集に関しては、H氏賞選考委員会における草野心平委員長の評を引くのが最適である。

 入沢君の作品についてはいろんな方がいわれましたが、詩と絵のコンビネーシヨンという形が、戦後日本の詩集のなか にでてきまし たけれども……これは外国の詩には前からあつたでしようけれども、あんなにピツタリした詩はなかつた。そういう意味で楽しかつた。ぼくは戦前「蛙」の詩集 で、いろいろな人に蛙のデツサンをやつてもらいましたけれども、それは、自分の好きな画家に、勝手に蛙のデツサンを描いてもらつて、それを『蛙』のなかに デツサンとしてぶちこんだ。それだけの話でして、そこには単なる友情みたいなものはありましたけれども、詩と絵との有機的な関連性は非常に少なかつたので す。ですから、日本の詩のなかで、はじめて絵と詩というものが、ああしたハツキリした形で、歯車のように――作者の意図と、絵かきの意図とがあわさつて、 二人でつくつたような本はなかつたようにおもいます。そういう意味でこれは非常に楽しい本です。ときどき向うの詩集をみておもしろいとおもうことがありま したけれども……ぼくはあまり外国の詩集をみていないから〔か〕も知れませんけれども、自分の目でみた範囲では、今まで絵と詩とコンビネーシヨンで、ピツ タリ息のあつた詩集はなかつた。ところがこんなにたのしい詩集がつくれたということは大変いいことだとおもいます。日本の詩集が、みんなそうなつてはこま りますけれども……H氏賞の選考は、ぼく個人としてむずかしい感じをもちました。(〈第13回日本現代詩人会H氏賞選考委員座談会〉、《詩学》1963年 7月号、五一ページ)

このときのH氏賞は高良留美子《場所》(思潮社、1962)が受賞。入沢は《ランゲルハンス氏の島》の次の詩集《季節についての試論》 (錬金社、1965)で1966年の第16回の同賞を受賞した。

長谷川四郎《恐ろしい本〔ちくま少年図書館〕》(筑摩書房、1970年5月20日)〔「さしえ」:落合茂〕 村山吉廣訳編《中国笑話集〔現代教養文庫〕》(社会思想社、1972年12月30日)〔「カバーデザイン」:落合茂〕 《詩学》1963年7月号の表紙〔落合茂〕
長谷川四郎《恐ろしい本〔ちくま少年図書館〕》(筑摩書房、1970年5月20日)〔「さし え」:落合茂〕(左)と村山吉廣訳編《中国笑話集〔現代教養文庫〕》(社会思想社、1972年12月30日)〔「カバーデザイン」:落合茂〕(中)と《詩 学》1963年7月号の表紙〔落合茂〕(右)

インターネットで検索しても、落合茂の画業はほとんど出てこない。そこで、数種のOPACや書誌のサイトで調べた結果、次の2点の作品 が判明した。 ひとつはイラストレーションで、長谷川四郎《恐ろしい本〔ちくま少年図書館〕》(筑摩書房、1970年5月20日)。筑摩の刊行物だが、吉岡実装丁ではな いと思われる。もうひとつは文庫本のジャケットデザインで、村山吉廣訳編《中国笑話集〔現代教養文庫〕》(社会思想社、1972年12月30日)。この ジャケットの線画は、中国の原典からもってきたもののようで、本文にも落合の描いた絵はない。
落合茂はイラストレーションやカット以外にも、装丁など広くグラフィックデザイン全般を守備範囲としていたようだ。一例を挙げれば、友人の入沢康夫の第一 詩集《倖せそれとも不倖せ〔正篇・補篇〕》(書肆ユリイカ、1955)の装丁・挿画は、落合茂と中塚純二(中塚も入沢の友人で、オカリナの制作者として著 名)である。同書は、田中栞に拠れば「B5判並製ジャケット装の二冊組(それぞれ中綴じの薄冊)。白い表紙もジャケットも表側には一切印刷がなく、書名な どは二冊をまとめて納めるビニール袋の下方につつましく刷られている。ジャケットの内側、前方の袖にタイトルや著者名が印刷され、これが表紙の顔をしてい る。正篇の袖は赤い刷り色の白抜き、補篇の袖は赤一色刷り。この形に呼応するように、正篇の後ろの袖に著者のあとがきと奥付が、補篇の後ろの袖には目次が 墨刷りされる。〔……〕詩題は紺、詩は墨という二色刷りで、自由な組版が視覚的にも楽しく、詩画集を連想させる作りである」(〈美を体感する人〉、《書肆 ユリイカの本》青土社、2009年9月15日、六二ページ)だ。この過激な仕様・体裁を作品そのもののあり方に適応したのが《ランゲルハンス氏の島》だっ たと言える。入沢が同詩で採用した「やさしいニュートラルな散文」(野村喜和夫)は、そうした観点からとらえられなければならない。
落合茂は、吉岡実が編集していた筑摩書房のPR誌《ちくま》の本文のカットを、1972年1月の第33号から1974年12月の第68号までの3年間、 36冊担当した。吉岡実装丁本で装画・カットを担当した以下の13冊のうち、DからHまでの5冊がこの期間に集中している。

@入沢康夫詩集《古 い土地》(梁山泊、1961)
A那珂太郎詩集《音楽〔限定版〕》(思 潮社、1965)、那珂太郎詩集《音楽 〔普及版〕》(思潮社、1966)
B吉岡実詩集《静かな家》(思潮 社、1968)
C森茉莉《記憶の絵》(筑 摩書房、1968)
D田村隆一《詩と批評C》(思 潮社、1972)
E田村隆一《詩と批評D》(思 潮社、1973)
F吉岡実詩《異霊祭〔特装版〕》(書 肆山田、1974)
G天澤退二郎《「評伝オルフェ」の試み 〔特装版〕》(書肆山田、1974)
H入沢康夫詩集《「月」そのほかの詩》(思 潮社、1974)
I野原一夫《含羞の人――回想の古田 晁》(文藝春秋、1982)
J竹西寛子《読書の歳月》(筑 摩書房、1985)
K平林敏彦詩集《水辺の光 一九八七年 冬》(火の鳥社、1988)
L安藤元雄詩集《夜の音》(書 肆山田、1988)

吉岡にしてみれば、落合は雑誌の本文カットも頼めるし(奇しくも、前掲《詩学》1963年7月号の表紙と本文のカットが落合だった)、 書籍の装丁用 のカット(いくつかは雑誌の本文カットの流用である)も頼める気心の知れた画家だった。《古い土地》や《ランゲルハンス氏の島》を通して吉岡から得た信頼 は、その後いささかも揺らぐことがなかった。落合茂は、40年近い吉岡実装丁本の歴史において最初に指を屈すべき造形作家である。

〔付記〕
遠藤勁さんの《雑食系男子徘徊記》(遠藤勁デザイン事務所、2010年5月1日)の〈茅場町の寿屋宣伝部〉には「松江中学の坂根さ んの同窓、画家・落合茂さんの住いは向ヶ丘弥生町にあったので、本郷の私の下宿から近く何度か伺った。後に吉岡実の装幀作品に精緻なカットを多く描かれる のだが、当時は電機メーカーのデザインに携っておられたようだ」(同書、九ページ)とある。「坂根さん」は、アートディレクターの坂根進。遠藤さんが高校 生のときの美術の先生である版画家・古野由男の前任地、旧制松江中学での教え子で、1957年当時、寿屋宣伝部で活躍していた。本文で触れた《ランゲルハ ンス氏の島》の奥付記載の著者の住所は、入沢(東京都港区芝白金今里町……)・落合(東京都文京区向ケ丘弥生町……)となっている。《雑食系男子徘徊記》 は《ランゲルハンス氏の島》復刻版の書影を掲げており、遠藤さんは折りこまれたイラストページを「絵本ならではの大胆な発想が面白い」(同前)と評してい る。
2004年8月31日の〈編集後記 22〉に 「落 合さんの姿を拝見したのは、故矢川澄子さん、故多田智満子さんも出席された〈吉岡実を偲ぶ会〉でだった」と書いたが、司会の高橋睦郎の指名にもかかわら ず、落合は登壇せず(予定されていた人間は、落合以外全員が登壇した)、吉岡実の思い出を語ることもなかった。残念だが、どこかに文章を発表したというこ ともないだろう。

〔2014年8月3日追記〕
拙文をお読みいただいた遠藤勁さんからさっそくメールを頂戴した。遠藤さんはそこで「私の記憶にある落合さんの アパートは、不忍通から本郷通へ向かって言問通を上り、今の弥生美術館へ行く道の角を曲がって、すぐ左手にあった二階建て木造だったように思います」と書 いていて、落合茂の住所が入沢方[、]となっていたという件は、その後の調べで詩人・入沢康夫とは無関係だったと結論づけている。よって、拙文に引いた該 当箇所も削除した。


吉岡実と真鍋博(2014年6月30日)

イラストレーター、アニメーター、エッセイストとして活躍した真鍋博(1932〜2000)は、吉岡実の日記に次のように登場する。 「〔昭和三十五 年〕三月十二日 土曜 栃折久美子と真鍋博の新居へ行く。可憐な奥さん。三カ月位の赤ん坊。二万三千円の家賃じゃ大変だと思う。セイブツ・アメリカン〈髪 の毛のなかの果物〉貰ってしまう」(〈断片・日記抄〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》思潮社、1968、一二二ページ)。土曜日は筑摩書房も半ドン だっただろうし、当時、真鍋の著書は同社から出ておらず――装丁作品には円地文子《欧米の旅》(1959年11月15日)があったが――、訪問が仕事の打 ち合わせだったのか、新居と長男誕生のお祝いだったのかわからない(お返しに作品を貰ったのだろう)。親しい画家に会社の後輩(当時は栃折も筑摩の社員) を引き合わせた、といったところか。真鍋博の〈瀧口修造に導かれて〉(《コレクション瀧口修造10〔月報〕》みすず書房、1991年5月30日)は瀧口修 造を回想した400字5枚ほどの文章だが、半分以上を伊達得夫、書肆ユリイカ、《ユリイカ》誌の話題に当てている。1957年2月、真鍋は瀧口の推薦を得 て、神田駿河台(筑摩書房も小川町にあった)のタケミヤ画廊で「動物」をテーマにした個展を同画廊最後(と真鍋は回想する)の無料展として開いた。伊達得 夫がそれを観に来た。

 通りに面したガラス戸のそばの椅子に坐った伊達さんは、なんと、つっかけ下駄をはいていたし、クツ下の色は、左右 ちがってい た。詩集や詩誌からうける清新なイメージとはちがい、格好はどうでもよい、という感じだった。伊達さんの仕事場は、すぐ近くの三省堂の向うの裏だった。後 に、その事務所をたずね、路地を入って二階へ上る急な傾斜の細い暗い階段を昇っていくと、なんと畳敷きの部屋があり、机が二つ並んでいて、それが「書肆ユ リイカ」だったのである。
 以後、若気の至りで、わたしは自由奔放にユリイカの仕事をさせてもらった。伊達さんは、だまってみているようでいながら、ご自分の美意識や趣味までわた しに示してくれていた。それをさぐるというか、そこからヒントをえて、小さいカットを仕上げ、表紙や装幀もやり、吉岡実さんの詩集『静物』や『紡錘形』の 表紙や函に絵を入れ、詩誌「鰐」(同人・飯島耕一、岩田宏、大岡信、清岡卓行、吉岡実)の表紙を描くことになるのであった。
 〔……〕
 わたしなど、瀧口さんについて語れるほどのエピソードを何一つもたないが、結果的に、この個展を期に、とうとう『ロートレアモン全集』に、なんと駒井哲 郎さんとたった二人、エッチングで「マルドロ〔ー→オ〕ルの歌」を挿入する大仕事をすることにつなげてくれた媒介者――霊媒師であった。(同書〔月報〕、 五〜六ページ)

次に〈真鍋博の略年譜〉(《真鍋博のプラネタリウム――星新一の插絵たち〔ちくま文庫〕》筑摩書房、2013年8月10日、〔二〇〇 ページ〕)の1955(昭和30)年から1964(昭和39)年までを引くが、上掲の個展は触れられていない(【 】内は小林の補記)。

こう見ると、《紡錘形》(1962年9月9日)の函・表紙・本扉の馬と羊のカット(陽子夫人は午年の、吉岡は未年の生まれ)が吉岡実と 真鍋博の共同作業の頂点だったようだ。それと並ぶのが岩田宏詩集《頭 脳の戦争》(思潮社、 1962年7月1日)で、こちらには「イラストレーション/真鍋博」「デザイン/吉岡実」とクレジットされている。以上2冊の装丁には、吉岡や岩田たちの 同人詩誌《鰐》(全10号)の表紙を真鍋が9号まで担当したことが与って大きい。〈詩誌『鰐』 - 田中栞日記 - Yahoo!ブログ〉に 「なお、第9号までは表紙絵を真鍋博が描いていた。色刷りされた鰐のイラストがオモテ表紙からウラ表紙に跨るように配されたダイナミックなレイアウトであ る。/最後の第10号だけは落合茂の版画が表紙を飾り、通常のA5判針金平綴じという冊子になっている。/本文組版はそれまでと同じなのだが、表紙デザイ ンと綴じが変わるだけで、どこにでもある平凡な小冊子に変貌してしまうから不思議だ」とあるように、9号までは伊達得夫の書肆ユリイカが発行していた (1961年の伊達急逝後、遅延していた10号の発行元は「大岡方 鰐の会」)。

吉岡実詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962)の函と表紙 吉岡実詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962)の本扉
吉岡実詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962)の函と表紙(左)と同書の本扉(右)〔カット:真 鍋博〕

〈瀧口修造に導かれて〉の14年前、真鍋博は〈忘れられない本〉(《朝日新聞》1977年12月19日)に伊達得夫のことを書いている。その〈書肆ユリイ カ刊『ロートレアモン全集』〉にはこうある。山川方夫からじきじきに初めての長篇小説《日々 の死》(平 凡出版、1959)を〈マルドロオルの歌〉の口絵のエッチング(一説に《ユリイカ》のカレンダー)のイメージで、と依頼されて装丁にも本格的に乗りだして 数年後、山川は交通事故で急逝。「伊達さんも、〔昭和〕三十六年、四十歳の若さで突如亡くなった。伊達さんを失って、ぼくの絵は変わった。悪の化身を描く のはやめにした。大事な人が亡くなりすぎる――ぼくは急に真昼と未来を描きはじめた」(同紙〈読書〉、一〇面)。真鍋の「転向」後の作品である《紡錘形》 のカットの明るさは、詩集の容姿としてそれなりにふさわしい(《僧侶》は「前期吉岡実」を代表する詩集だが、その造本・装丁は必ずしもそうではない。《静 物》のようなフランス装こそ「前期吉岡実」を体現するもので、《僧侶》の本扉に特色刷りされた紡錘形[、、、]のカットは同書の持つ過剰さの一面にほかな らない)。この〈忘れられない本〉は、長谷川郁夫《われ発見せり――書肆ユリイカ・伊達得夫》(書肆山田、1992)と田中栞《書肆ユリイカの本》(青土 社、2009)がともに引用・言及している文献だが、見たかぎりの真鍋の単行本には収められていない。同文は朝日 新聞社編《忘れられない本》(朝日新聞社、1979)に収録されたものの、真鍋の一連の回想文には矛盾する記述があって、一筋縄ではいかない。

吉岡実詩集《静かな家》(思潮社、1968)の函と表紙 吉岡実詩集《静かな家》(思潮社、1968)の本扉
吉岡実詩集《静かな家》(思潮社、1968)の函と表紙(左)と同書の本扉(右)〔装画:落 合茂〕

《紡錘形》の発行所は草蝉舎だが、要は私家版である(発売は思潮社)。《僧侶》を出版した書肆ユリイカが消滅した以上、私家版で出すほかなかった 吉岡実にとって、〈伊達得夫=書肆ユリイカ=《鰐》=真鍋博〉という系は、《紡錘形》を終焉の姿として閉じた。一方、《紡錘形》刊行と同じ1962年9月 に発行された《鰐》の終刊号に寄せた詩篇〈劇のためのト書の試み〉(E・1)は、落合茂装画の詩集《静かな家》(思潮社、1968)の巻頭を飾る(《紡錘 形》のときと同様、《静かな家》の函と本扉では馬と羊を組み合わせた図柄が反復されている)。ここに〈小田久郎=思潮社=所属同人詩誌なし=落合茂〉とい う新たな系の誕生を見た。これより後、吉岡実と真鍋博との共同作業がないのは、こうした背景を想定しないかぎり理解しにくい。

村野四郎《蒼白な紀行〔現代日本詩集11〕》(思潮社、1963年2月1日)の表紙 村野四郎《蒼白な紀行〔現代日本詩集11〕》(思潮社、1963年2月1日)の本扉
村野四郎《蒼白な紀行〔現代日本詩集11〕》(思潮社、1963年2月1日)の表紙(左)と同・本扉(右)〔装 丁:真鍋博〕

思潮社の〔現代日本詩集〕(1962〜1964)は全冊真鍋博装丁になる叢書で、《鰐》同人では飯島の《何処へ》(1963)、大岡の 《わが詩と真 実》(1962)、清岡の《日常》(1962)が出ている。吉岡と岩田の詩集が見えないのは、1962年に《紡錘形》と《頭脳の戦争》が出たばかりだから だろう。手許の村野四郎《蒼白な紀行》(1963年2月1日)の奥付裏広告を引けば、〔現代日本詩集〕は「A5版〔ママ〕本フランス装/装幀=真鍋博/各 巻三六〇円〒40」。NDL-OPACに拠れば1:小野十三郎《とほうもないねがい》、2:金子光晴《屁のやうな歌》、3:西脇順三郎《豊饒の女神》、 4:清岡卓行《日常》、5:谷川俊太郎《21》、6:高橋新吉《鯛》、7:安藤一郎《遠い旅》、8:大岡信《わが詩と真実》、9:黒田喜夫《地中の武 器》、10:高見順《わが埋葬》、11:村野四郎《蒼白な紀行》、12:鮎川信夫《橋上の人》、13:飯島耕一《何処へ》、14:安東次男《蘭・ CALENDRIER》、15:関根弘《約束したひと》、16:三好豊一郎《小さな証し》、17:山本太郎《西部劇》、18:高野喜久雄《闇を闇とし て》、19:会田綱雄《狂言》、20:安西均《夜の驟雨》、21:黒田三郎《もっと高く》、22:野間宏《歴史の蜘蛛》が刊行されている。全30巻構成の ラインナップには吉岡実の名も見えるが、結局刊行されず、それを補填するかのように全詩集の企画が進行した。
これらの本扉とフランス装の表紙まわりは真鍋博が担当して、本文組を編集者が指定したのだろう。フランス装といえば吉岡実の十八番だが、真鍋装丁の〔現代 日本詩集〕は吉岡の単行詩集《静かな家》の造本に影響を与えたように思う。《吉 岡実書誌》で 触れたとおり、《静かな家》の本文組版は同詩集の前年に刊行された《吉岡実詩集》の本文組版の流用である。そのためだろうか、同書の造本・装丁は吉岡の単 行詩集のなかでは清新さを欠く。全詩集ならともかく、単行詩集で本文活字が9ポというのはさびしいし、機械函の内側に表側と同じ印刷がされているのも、深 遠な意図に基づくというより、なにかの失敗だったとしか思えない。初出一覧がないことは、嘆いても嘆き足りない。奥付を本文の最終ページの対向に置くくら いなら、多少増 ペー ジしてでも初出一覧を含む後付に紙幅を割いてほしかった。これらのすべて、吉岡にしては珍しい詰めの甘さが〔現代日本詩集〕の造本・装丁に寄りかかったた めに生じたとは言えないにしても、その形を拉し来って、精神を等閑にしたようなのは残念だ(真鍋は裏表紙と本扉を同じテイストでまとめて、新生面を出して いる)。もっとも、こう書いたからといって《静かな家》の詩集としての価値が毫も下がるわけではない。私には、印刷・製本に贅を凝らした《紡錘形》より も、吉岡の「自費出版」型の造本(帯の付かない最後の詩集である)として、肩の力が入らないたたずまいが好ましく感じられる。《静かな家》のフランス装に は函入り[、、、]がふさわしい。《サフラン摘み》(1976)以降の吉岡の詩集は、「本フランス装」という容器に収まらない豊饒な作風へと変貌し、それ らの詩篇を収容した著者自装の書物は厚表紙の上製本仕様となる。


岡崎武志・山本善行=責任監修《気まぐれ日本文學全集 57 吉岡実》目次案(2014年5月31日)

岡崎武志・山本善行《古本屋めぐりが楽しくなる 新・文學入門》(工作舎、2008年6月20日)は見かけのポップさとは裏腹にゴリゴリの「文学書」書である。編集が大山甲日《大ザッパ論――20世紀鬼 才音楽家の全体像》《大ザッパ論2――鬼才音楽家の足跡 1967-1974》や黒岩比佐子《古書の森 逍遙――明治・大正・昭和の愛しき雑書たち》を手掛けた石原剛一郎さんだけに、本文(巻末〈本文人名索引〉が10ページ!)・装丁とも仕掛けは充分で、 ジャケットを覆い隠さんばかりの変型帯も楽しい。そのジャケットの袖にこうある。

 「文学」イコール「小説」では物足りない。
 随筆や詩も含めたジャンルの全体こそがまさに「文學」!
 「均一小僧」岡崎武志と、「古本ソムリエ」山本善行が
 喋り尽くす痛快娯楽「文學」談義。
 古本屋めぐりの悦楽の果てに、
 架空の「日本文學全集企画」が全貌を現わす!!

両氏の対談(文學漫談)でまず驚くのは、筑摩書房が文庫本を出すのを予見していたことだ。

筑摩が文庫を!  冗談が現実となった

岡崎――八〇年代後半か ら九〇年代半ばにかけて、文庫の世界で山本が挙げるトピックスって何かな。
山本――そら、なんと言 うてもまず「ちくま文庫」の創刊(一九八六年)やな。よう二人で言うとったやないか。文庫に関する冗談で「そのうち筑摩が文庫を出したりしてな」と か……。
岡崎――あのときは、そ んなことありえんという気持ちで言うてた。「筑摩が文庫で全集出したりしてな。宮沢賢治全集あたりを」とかも言うてた。
山本―― ちゃんと出てるがな(ちくま文庫版『宮沢賢治全集』1〜10、一九八六〜一九九五年)(笑)。しかし、あのときは驚いた。筑摩が文庫を出すんなら、もうこ れで日本に何が起こっても不思議やないと思うたな。いまなら、「みすず文庫」や「晶文社文庫」も夢じゃない。だいたい、それまでのイメージから筑摩と文庫 が結びつかへんかった。われわれには「筑摩信仰」とでも言うべき、特殊な思い入れがあるからな。筑摩と言うたら、函入りのカチッとした装幀の本をつくるっ てイメージやったから、軽装の文庫は似合わへん気がしてた。
岡崎――しかし、デザイ ンに安野光雅を起用して、さすがきれいな装幀の文庫になったな。クリームイエローで統一した背表紙も目立つし……ちょっと背の色が落ちやすいけどな。古本 屋でも講談社文芸文庫なんかと並んで値段も別格というところが多い。
山本――本棚に並べると きも、ちくまや講談社文芸文庫は著者別やなくて出版社別に並べたくなる。文庫で背中が魅力あるのは、ちくま、講談社文芸、福武ぐらいか。(一一二〜一一三 ページ)

そして、絶版文庫の書目の嵐(数十冊に一冊くらいの割で所蔵の文庫がある)。1970年代後半、大学生だったころがいちばん文庫本を 買った時期で、 それが40年ほど前だからもう少し絶版文庫を持っていてもよさそうなものだが、あいにく著者たちのような先見の明も探究心も持ち合わせていなかった。窪田 般弥訳の晶文社の黒い単行本――マックス・エルスントを彷彿させる司修の装画・装丁だった――が印象深いアポリネール《異端教祖株式会社》の文庫の話題は 嬉しいが(二二四ページ参照)、ジャケット装画がビアズレーと来れば「角川文庫版」ではなく鈴木豊訳の講談社文庫版だ。

〈文學漫談・その五 新・詩集入門〉は開始早早、《サフラン摘み》の書影を掲げて、こうある。
岡崎―― 〔……〕しかし、山本もいまだに詩集を読むし、ぼくもいまだに読んでる。本読みは多いけど、この大人になってからも詩集を読むという人がなかなかいない。 珍しいんやな。
山本――見たことないも んな。大人が電車のなかで詩集を読んでるの。〔……〕七〇年代は詩集がよく売れてたし、よく読まれたんと違うか。詩集のコーナーもいまより大きかったと思 う。古本屋でもけっこう詩集は並んでたし、値段も高かったんと違うかな。
岡崎―― 高かった。よく売れたんやろな。谷川俊太郎、田村隆一は別格としても、飯島耕一や吉岡実、清水昶[あきら]の昔の詩集の奥付を見ると、たいてい増刷されて いる。しかも四刷、五刷とかいってる。新刊の詩集が間違いなく現代文学の最前線にあって、大江健三郎や開高健の新作が話題になるように、吉岡実の『サフラ ン摘み』(青土社、一九七七〔ママ〕年)なんて詩集が話題になった。
山本―― そういうことは、その時代を肌で実感している者が語っておかないと、証言として残りにくい。あとになると、若い者には分からんようになるからな。そんな時 代があったということを。〔……〕雑誌も『現代詩手帖』(思潮社)のほか、『詩学』(詩学社)、それに『ユリイカ』(青土社)、このへんはいまでもあるけ ど、もっと熱っぽかったし、『カイエ』という冬樹社から出ていた雑誌(一九七八〜一九八〇年)にも詩のページがあった。そんな詩が元気だった時代が、八〇 年代の初めぐらいまでは続いたかな。(二九〇〜二九一ページ)

真打の〈文學漫談・その六 新・文學全集を立ちあげる〉。本稿の条件を設定する大事な箇所なので、以下に抄する。著者の二人は芥川龍之 介から花田清 輝までを収めた《ちくま日本文学全集〔全60巻〕》(1991〜93)を評価している(ただし、後出の上林暁は収録されていない)。

岡崎―― 〔……〕とにかく、ぼくらの新しい日本文学全集をつくろう。「ちくま日本文学全集」に匹敵するような文庫サイズの全集をな。上林暁は山本の編集で、一巻入 れることをまず決めておこう。(三八七ページ)
山本――編集を任された のはうれしいが、問題は上林暁の作品の何を選ぶかや。単行本未収録を中心にしたいとも思うし、代表作を集めたいとも思う、エッセイも入れたいし、これはな かなかにむずかしい。熱いセレクトになり過ぎるかもな。
岡崎―― しかし、まあ妥協はせずにやろう。五千部の部数で、定価を一五〇〇円に抑えるぐらいのところで考えていこう。ぼくらの後の世代の古本好きを刺激するような ものにしたいな。のちに古書価の付く文学全集にしたい。〔……〕まあ、全六〇巻としておこう。「ちくま日本文学全集」を見習う点はいくつかあると思うけ ど、どうかな。
山本――さっきも言った けど、一人一巻にしたこと。これは大きかったな。(三八八〜三八九ページ)
岡崎――〔……〕「ちく ま日本文学全集」のほうは、サイズも文庫判ということもあるけど、字面〔版面〕の大きさは「現日」〔筑摩書房の「現代日本文學全集」〕の半分で、一ページ がタテ三六字、ヨコ一五字〔行〕の一段組。平均五〇〇ページ。
山本――この一段組、と いうのが、老眼になったいまはありがたいなあ。
岡崎――さっきと同じ く、四七六ページある第1巻『芥川龍之介』(一九九一年)で字数を数えて、四〇〇字換算すると約六百数十枚。「現日」の三分の一しかない。単行本で言え ば、一・五冊から二冊ぐらい。(三九一ページ)
岡崎―― 「ちくま日本文学全集」が出て以降、これはいまなら入るやろ、という穏当なラインをつくっていこうか。例えば、小沼丹、後藤明生、小島信夫、山口瞳、種村 季弘、武田百合子、須賀敦子、洲之内徹、竹中労なんてところは、古本屋での人気も含めて、当然入ってくるやろ。営業のことも考えて、このへんの名前は欲し い。あ、まだ御存命やけど、庄野潤三を入れよう。庄野さんはぼくが編集をやらしてもらう。洲之内徹は『sumus』同人で画家の林哲夫さんに頼もう。あ、 同じく同人のライター荻原魚雷くんには古山高麗雄を、編集者の南陀楼綾繁くんには花森安治をやってもらおう。
〔……〕
山本――〔……〕詩集も 入れたい。『平井功詩集』『村山槐多詩集』。句集も入れたい。『永田耕衣句集』。永田耕衣はエッセイも入れよう。『わが物心帖』(文化出版局、一九八〇 年)を入れたい。〔……〕
岡崎―― 〔……〕『平井功詩集』なんて考えてたら、二〇〇巻ぐらい巻数を組まなあかんぞ。ただし『永田耕衣集』をつくって、句とエッセイを入れるのは賛成。それは それで目玉になると思う。それでも詩人の吉岡実とペアで一冊かな。詩人や俳人で一人、一巻は相当きついぞ。(三九二〜三九四ページ)
岡崎――〔……〕武満 〔徹〕に限らず、とにかくこの全集には、なるべく対談を入れたい。対談というと書いた文章じゃないから、これまでの全集では軽んじられることが多かった。 でも、その人がどういう人物かの早分かりになるし、肉声が聞ける。(四〇七ページ)

永田耕衣《わが物心帖》(文化出版局、1980年11月30日)のジャケット〔装画:永田耕衣〕(東京都立中央図書館所蔵本のカラーコピー)
永田耕衣《わが物心帖》(文化出版局、1980年11月30日)のジャケット〔東京都立中央 図書館所蔵本のカラーコピー、装画:永田耕衣〕

永田耕衣《わが物心帖》(文化出版局、1980年11月30日)に触れておこう。同書は〈高麗小仏〉から〈如来仏相のマスク〉までの 78篇の文章 を、田淵暁のモノクロ写真とともに収める。耕衣の〈はじめに〉によれば、主宰する俳誌《琴座》に十年来連載してきたもので、〈李朝民画 牡丹図〉の冒頭はこうだ。誰はばかることなく、「妄執」を繰りひろげている処が耕衣の真骨頂である。

 昭和四十四年七月十四日〜二十日、東京日本橋三越本店美術サロンで、「書と絵による永田耕衣展」開催、海上雅臣氏 の推輓と肝煎 りであった。会期中の七月十八日、私は詩人、吉岡実氏に随伴、浦和市の海上氏邸(花影小庵)を訪ねた。その時節、海上氏のコレクションを拝見中に、写真の 李朝民画「牡丹図」が、突然太陽のごとく出現した。私は絶叫した。こんな絵が描きたいのだ、とも叫んで垂涎した。
 爾後月日が経つほどに、この牡丹図が妄執のごとく忘れられなくなり、私は思い切って、花影小庵主にこの妄執を打ち明けた。妄執のアヤもあって、私が死ん だらお返しする、とはいったが、現今は死んでも手放せぬ、我が霊の秘蔵するところとなっている。(同書、一九ページ)

岡崎氏の提案する「吉岡実とペアで一冊」なら、吉岡の側にも同日のことを書いた〈日記抄――耕衣展に関する七章〉(《琴座》235号、 1969年 11月)と〈〈鯰佛〉と〈白桃女神像〉〉(永田耕衣全句集《非佛》栞〈田荷軒周囲〉冥草舎、1973)の2篇があるが、惜しむらくはどちらも単行本未収録 だ。よって、既刊本からのセレクトを旨とした〈第57巻[小林一郎=編]《吉岡実》の目次案〉(後述する)に盛り込めなかったのは残念である(〈日記抄〉 には「耕衣さんは朝鮮の素朴な花の絵に声をあげる」とある)。本論に戻ろう。山本・岡崎両氏による第一次五〇巻のリストがこれだ。

◎山本善行=選 第一次(五十音順)
足立巻一 天野忠 生島遼一 板倉靹音(翻訳詩集) 小沼丹 加能作次郎 鴨居羊子  河盛好蔵 上林暁 小出楢重 耕治人 小山清 武満徹 戸井田道三 殿山泰司 永井龍男 永田耕衣 中谷宇吉郎 野呂邦暢 福原麟太郎 松崎天民 矢川 澄子 山名文夫(装幀集) 由良君美 吉田健一

◎岡崎武志=選 第一次(五十音順)
鮎川信夫 安藤鶴夫 池田満寿夫 石田五郎 伊丹万作・十三 井上究一郎 小津安二郎(『東京物語』全カット、シナリオ収録) 久世光彦 串田孫一 小島 信夫 後藤明生 獅子文六 杉浦日向子 洲之内徹 武田百合子 種村季弘 田村隆一 花森安治 古山高麗雄 宮脇俊三 山口瞳 山本健吉(文庫解説集)  吉岡実 淀川長治 現代名作漫才集(四二〇ページ)

一冊一人集(伊丹万作・十三は親子で一冊だが)の人選もすごいが、山名文夫(装幀集)、山本健吉(文庫解説集)――これには参った。続 くページには全60巻構想に沿って、工作舎が制作したダミー(ジャケットの見本)まで撮影、掲載してある(〈新・文學入門/気まぐれ日本文學全集/工作舎〉参 照)。著者と編集者が盛りあがっている様子が目に見えるようだ。そして大喜利〈架空企画! 岡崎武志・山本善行=責任監修「気まぐれ日本文學全集」全六〇 巻構想〉が来る。その註記に曰く「本全集はあくまで架空[・・]の企画です。各巻の内容、選者については了解を得ているわけではありませんので、あらかじ めご了承願います」(四三〇ページ)。第57巻が[平出隆=編]の《吉岡実》である。これは読んでみたい。だが同全集は、対談にも再三登場する第20巻 [山本善行=編]《上林暁》の目次案があるだけで、他巻の収録内容はすべて空白なのだ(第06巻の《池田満寿夫》は[佐藤陽子編、自伝エッセイ・美術エッ セイ収録]で、これが最も詳しいもののひとつ)。幸いなことに、平出隆編の吉岡実詩は見当がつく。《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)に掲載された大岡信・入沢康夫・天沢退二郎・平出隆の討議の前段として四氏が約30篇ずつの詩を選んでいて、平出隆編の吉岡 実詩は次の34篇だったからである(最終的に掲載されたアンソロジーが〈代表詩40選〉)。詩集ごとにまとめて掲げる。

  1. 静物(B・1)、静物(B・2)、静物(B・3)、静物(B・4)、卵、過去(B静物)
  2. 告白、僧侶、苦力、死児(C僧侶)
  3. 老人頌、下痢、鎮魂歌(D紡錘形)
  4. 劇のためのト書の試み、孤独なオートバイ、やさしい放火魔、静かな家(E静かな家)
  5. わが馬ニコルスの思い出、コレラ(F神秘的な時代の詩)
  6. サフラン摘み、ルイス・キャロルを探す方法、悪趣味な内面の秋の旅、マダム・レインの子供、動物(Gサフラン摘み)
  7. 楽園、晩夏、螺旋形(H夏の宴)
  8. 薬玉、巡礼、垂乳根、青海波(J薬玉)
  9. 〔食母〕頌、わだつみ、晩鐘(Kムーンドロップ)

《静物》《僧侶》《サフラン摘み》《薬玉》に手厚く、《静かな家》の4篇が際立っている。随想は、これも平出隆監修の《現代詩読本―― 特装版 吉岡実》に再録された〈エッセイ〉を見ればよい。

  1. 吉岡実氏に76の質問(高橋睦郎)(現代詩文庫 14 吉岡実詩集)
  2. 済州島(「死児」という絵)
  3. 「想像力は死んだ 想像せよ」(「死児」という絵)
  4. 二つの詩集のはざまで(「死児」という絵〔増補版〕)
  5. 懐しの映画――幻の二人の女優(「死児」という絵)
  6. ベイゴマ私考――少年時代のひとつの想い出(「死児」という絵〔増補版〕)
  7. 好きな場所(「死児」という絵)
  8. 突堤にて(「死児」という絵)
  9. 「ムーンドロップ」(未刊行散文)
  10. 《うまやはし日記》より(うまやはし日記)

残念なことに対談が採られていない。そこで僭越ながら、私が編むならこうだという目次案を伝授しよう。詩篇は生前刊行の12詩集から、 計30篇を選 出した。なお、山本善行編になる《上林暁》は《星を撒いた街――上林曉傑作小説集》(夏葉社、2011)と《故郷の本箱――上林曉傑作随筆集》(同、 2012)の2冊に結実しているので、前述の第20巻[山本善行=編]《上林暁》の目次案と比較すると興味深い。

第57巻[小林一郎=編]《吉岡実》の目次案

[T=詩篇]
序歌、白昼消息(@昏睡季節)
風景、夢の翻訳――紛失した少年の日の唄(A液体)
静物(B・1)、静物(B・2)、過去(B静物)
僧侶、感傷、死児(C僧侶)
老人頌、首長族の病気(D紡錘形)
模写――或はクートの絵から、滞在(E静かな家)
夏から秋まで、わが馬ニコルスの思い出(F神秘的な時代の詩)
サフラン摘み、聖あんま語彙篇、ルイス・キャロルを探す方法〔わがアリスへの接近 少女伝説〕(Gサフラン摘み)
楽園、螺旋形、夏の宴(H夏の宴)
斑猫、猿(Iポール・クレーの食卓)
雞、青枝篇、落雁(J薬玉)
産霊(むすび)、聖童子譚、〔食母〕頌(Kムーンドロップ)

[U=短歌]
歌集《魚藍》〔全〕

[V=俳句]
句集《奴草》〔50句抄〕

[W=散文]
西脇順三郎アラベスク(「死児」という絵〔増補版〕)
覚書(耕衣百句)
1 青い柱はどこにあるか?、2 出会い・「ゲスラー・テル群論」、103 十二月は残酷な月、104 暗い新春、105 柩の前で、106 哀悼の一句、107 風神のごとく――弔辞(土方巽頌)

[X=対談]
飯島耕一との対話=詩的青春の光芒(《ユリイカ》1975年12月臨時増刊号)

(後付)
出典(初出と書誌)
吉岡実年譜
解説

これを「一ページがタテ三六字、ヨコ一五字〔行〕の一段組」で組むと、約296ページになる。以上は一種の思考実験だったわけだが、 [平出隆=編] や[城戸朱理=編](散文選集《吉岡実散文抄――詩神が住まう場所》の実績がある)と並んで、[松浦寿輝=編]や[小笠原鳥類=編]の《吉岡実》も読んで みたい(故人なら、[篠田一士=編]や[澁澤龍彦=編]、[土方巽=編]があったらと渇仰される)。手掛かりが少なくて予想がつきにくいだけに、愉しみも 大きい。

〔追記〕
丸谷才一・鹿島茂・三浦雅士《文学全集を立ちあげる》(文藝春秋、2006)は〈世界文学全集〉と〈日本文学全集〉の2篇から成 る。後者は語りおろしで、2006年になされた鼎談だろう。その〈白樺派、プロレタリア文学の問題〉の節で、上林暁はさんざんな扱われようだ。(《文学全 集を立ちあげる〔文春文庫〕》文藝春秋、2010年2月10日、二四四〜二四五ページ)

――〔=司会の湯川豊〕昭和の私小説系の作家をどうするか。滝井孝作、網野菊、藤枝静男……。葛西善蔵、嘉村礒多、 川崎長太郎。
丸谷 そのへんみんなや めようよ。
鹿島 上林暁とか川崎長 太郎とか、彼らはほんとに文章下手ですね。
――下手であることを誠実だと思っているふしもあります。藤枝静男だけはちょっとどうでしょう。
三浦 藤枝静男に関して も、僕はぜひとも、っていうふうには思わない。
丸谷 「名作集」に入れ たらいいでしょう。

筑摩書房の創業者、古田晁が太宰治に次いで敬愛した文人(筑摩から全19巻の増補改訂版全集が出ている)の作品は、山本善行だけでな く、関口良雄 (書影と書誌を編んだ和装本《上林暁文学書目》や上林に触れた随想を収めた遺稿集《昔日の客》がある)といった具眼の士からも評価されており、筑摩の「現 日」では井伏鱒二との二人集である(私は短篇小説〈夏暦〉のまえがきとあとがきに打たれた)。丸谷・鹿島・三浦の三人による《文学全集を立ちあげる》と岡 崎と山本の二人による〈新・文學全集を立ちあげる〉の巻立てを較べると、架空の文学全集の編纂がいかに興をそそるものかが実感できる。本稿はそれへの私な りの頌[オマージュ]である。ちなみに、鼎談の本文に吉岡実は登場しないが(西脇順三郎は登場する)、〈日本文学全集巻立て一覧〉の名作集、第79巻〈近 代詩集〉に収録されると考えていいだろう。収載詩篇は、《静物》《僧侶》《サフラン摘み》《薬玉》などの詩集から、標題作を含む抄録数篇といったところ か。


《魚藍》と魚籃坂(2014年4月30日〔2014年8月31 日追記〕)

吉岡実の歌集《魚藍》(限定70部記番)は和田陽子を発行者として、ふたりの結婚を記念すべく1959年5月9日、私家版で刊行され た。内容は吉岡 の最初の著書である《昏睡季節》(草蝉舎、1940)の〈序歌〉ならびに〈蜾蠃鈔〉(短歌44首旋頭歌2首)と同じで、新たに〈あとがき〉が付された。吉 岡は後年、随想にこう書いている。

 習作的詩歌集『昏睡季節』の〔……〕後半は短歌四十七首「蜾蠃鈔」と名づけた。記憶があいまいだが、蜾蠃はスガル と訓み、ハチ の一種。万葉集のなかに「スガルヲトメ」という華麗な表現があったように思う。これを改題したものが、現在の小歌集『魚藍』である。(〈新しい詩への目覚 め〉、《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、1988、八一ページ。初出は《現代詩手帖》1975年9月号)

吉岡は大岡信に「もとの表題は「蜾蠃鈔」というんだけど、活字がなくて『魚藍』にしたんだ」(《ユリイカ》1973年9月号、一四七 ページ)と改題 の理由を語っているが、ほんとうにそうだろうか。〈蜾蠃鈔〉は詩歌集《昏睡季節》の和歌の標題だったが、単独の歌集の書名は《魚藍》だという確たる根拠が なければならない。本稿ではその由って来るところを考察する。「魚藍」が東京・港区の地名「魚籃坂」に依るという説がある。詳細は後述するが、私はこれを 半分だけ肯定したい。吉岡は1950年代前半、ということはのちに詩集《静物》(1955)となる詩篇を書きついでいた当時を次のように振り返っている。 随想〈西脇順三郎アラベスク〉の〈3 化粧地蔵の周辺〉で西脇の詩〈山の暦(イン・メモーリアム)〉を引いてから、こう続けるのだ。なお、初出は《西脇順 三郎 詩と詩論〔第6巻〕》付録〈人と作品〉(筑摩書房、1975年10月31日)で、原題は〈西脇順三郎アラベスク〉。【 】内は私の註記である。

 これは、名詩集といわれる《近代の寓話》のなかの一篇〈山の暦(イン・メモーリアム)〉の一節であるが、私にとっ て、忘れるこ とのできない作品である。今から五年前【後出《じゅんさいとすずき》の刊行時からすれば1969年、随想の執筆時からすれば1970年】の秋の初めごろ だった。西脇先生は出来たばかりの随筆集《じゅんさいとすずき》に署名するため、来社された。百二十冊にサインをすませるとさすがに手首が痛くなったと、 西脇先生は苦笑された。そして急に思いつかれたように、三田に気に入った飲み屋があるから行こうと会田綱雄と私をタクシーにのせた。田町駅近くで降りる と、大通りに面して真黒い店構が見えた。それは文字通り黒塀という酒蔵【2014年の時点で存在を確認できない】であった。まだ四時ごろというのに、酒好 きの客が適当に入っているのも私たちをいっそう快い酔にさそった。日の傾くころ西脇先生は少し散歩しようと言われた。
 会田綱雄はたびたび先生と小旅行や散歩をしていたが、酒をたしなまない私にとっては、こうした先生とのそぞろ歩きは初めてだった。魚籃坂【東京都港区三田4丁目・高輪1丁目の境。坂の名は魚籃寺=港区三田4-8-34、から】、伊皿子坂【港区三田4丁目・高輪2丁目の境】を歩き、荻生徂徠の墓【長松寺=港区三田4-7-29】を見てから、細い横道の坂【幽霊坂】をのぼると、化粧地蔵【玉鳳寺=港区三田4-11-19】が立っていた。真白く塗られた地蔵さんの 顔は赤い涎れ掛けをして、むしろ青白くさえ見え、今でも一種の妖気を漂わせている。
 私は二十数年前のことを想い出していた。この地蔵さまの下の岩瀬という家に、若い画家吉田健男と下宿していたのだ【吉岡は1951年、魚籃坂の近くに下 宿し、二間続きの部屋に健男と住んだ】。家主は四十五、六の後家さんで、いつも赤いただれた瞼と眼をしていた。冬の深夜に、親子三人の寝顔を見ながら、私 は便所へかよったものだ。私たちは台所を出入り口にしていた。ちょうどそこには鶏小屋があって、真夏は糞[ふん]の臭いに閉口した。神経質な健男はことに いやがった。彼は子供のころ咽喉の病気をしたとかで、いつもかすれた声をして、不精者の私を叱るのだった。庭というか空地の向うに、まだ貧乏な三遊亭円生【1947年3月、「港区三田豊岡町」に転居】が住んでいたが、 不思議なことに落語を喋っているのを聞いたことはなかった。
 近くに徂徠の墓処があったので「鶏糞[ふん]の香や隣りは三遊亭円生師」と二人は笑った。もちろんそれは其 角【日 本橋茅場町に開いた江戸座に隣接して、荻生徂徠が起居し蘐園塾を開いていた】の「梅が香や隣りは荻生惣右衛門」のパロディーである。友人たちは、私と吉田 健男との共同生活は一年も持たないだろうと言ったが、昭和二十九年の夏、彼が軽井沢で年上の婦人と心中するまで続いた。
 この細長い部屋から私の詩集《静物》は生れた。
 夜遅く化粧地蔵の前を通るのを、いつも恐がっていたわが友吉田健男を、いま私は懐かしく想い出していた。(同前、二二九〜二三〇ページ)

魚籃寺の山門 魚籃寺 魚籃観世音菩薩像
魚籃寺の山門(左)と山門前に安置されている水子地蔵(中):魚籃寺は「元和三年 (1617)豊前国中津円応寺中に魚籃 院を開創、〔宝→寛〕永七年(1630)三田に移り、承応元年(1652)現地に建立、はじめ院号を水月院と称し安永三年(1774)現院号に改めた。本 尊の魚籃観音により魚籃坂の地名ができている」(東京都港区役所編《港区史〔上巻〕》東京都港区役所、1960年3月15日、三二三ページ)。なお西暦は 引用者の補記(以下同)。魚籃観世音菩薩像(右)〔出典:魚籃観世音菩薩像と魚籃寺(三田山 魚籃寺、刊行日記載なし、六ページ)〕

東京都港区役所編《港区史〔上巻〕》(東京都港区役所、1960年3月15日)は魚籃観音の由来について次のように記す。
「三田台の魚籃坂 という地名にとられている、浄土宗三田山魚籃寺の魚籃観音は奇瑞の仏として信仰された。その縁起にいうところでは、唐に魚をひさぐ美女がいた。多くの人が 恋したが、観音経を一日でおぼえたら従おうという。これは皆できた。さらに法華経を与えられて、馬郎という者だけがよくできたので結婚したが、その夜に女 は急死し、馬郎はたいへん悲しんで、その女を火葬にした。翌日一人の老人がきて、私は女の父であるから跡をみせてくれというので連れて行つてみると、灰の 中は全て仏骨であつた。老人はあの女は観音の化身であつて、私も分身の菩薩であるといつて消えうせた。これを奇縁として馬郎は仏道に入つたという。当寺本 尊の観音の面輪は唐の女らしく、右手に魚のはいつた籃、左手に天衣をたずさえた、たけ八、九寸の立像である。開山法誉が長崎からもたらしたものといつてい るが、『江戸砂子補正』には、もと伊皿子長応寺の置き物であつたのを、当寺でもらいうけ魚籃観音と名づけたものと記している。いずれにせよ、信仰を集めた ことは事実である。古川柳にも、
  魚籃様お使いがらという姿
魚のかごをさげた観音が、いかにもお使いに行くというかつこうだ、との意である。
  魚籃近所かと頼光聞き給ひ
 源頼光の四天王の一人、渡辺綱が三田の生まれであるという伝説のあるところから、「ははあ、お前の在所はあの魚籃観音の近所か」と頼光がきいたとの意、 いずれにせよ、かく信仰の対象さえ、川柳の毒舌にかかるところに、当代の信仰の質が思われるであろう」(〈第四編 近世 第十章 寺社と信仰 第四節 一 般民衆の信仰〉、同書、一〇四五〜一〇四六ページ)。
宇野信夫監修・正木信之撮影《六代目三遊亭圓生写真集》(少年社、1981年9月1日)の〈六代目三遊亭圓生年譜〉には、年齢は数え年として「昭和22年 (一九四七)・48歳」の項に「3月17日、大連から帰国。港区三田豊岡町(現三田五丁目)に落ち着く」(同書、一五六ページ)とある。圓生自身の《書き かけの自伝〔旺文社文庫〕》(旺文社、1985年3月25日)にはさらに詳しく、引き揚げ船の着いた諫早に届いたハガキの「裏を見たら、港区豊岡町に立ち のいているからという知らせなんです。家が焼けたということはずっと前に手紙がきてわかっていましたが、その後の消息が知れず、心配していましたがこれで やっと家族の安否が知れたわけです。一枚のハガキがあんなにうれしかったことはありません。/東京は、もちろん焼け野原だろうと思って帰ってきたんです が、いちばん上の娘が豊岡町に嫁[かた]ずいていまして、幸いそこが助かったので家内と子供たちもみんなそこへ身を寄せていました。電報を打っておいたの で迎えにもきてくれて、やっと豊岡町の家に落ち着きました」(同書、一二七ページ)とある。興味深いことに、写真集は昭和20年代のページに「三田豊岡町 時代の圓生夫妻(昭和25年ごろ)」(同書、七五ページ)というキャプションとともにモノクロ写真を掲げている。年代から見て、この圓生宅の至近にあった 岩瀬家(こちらも戦災を免れたものか)で吉岡実は《静物》を書いたのだ。さらに言えば、《僧侶》の〈冬の絵〉(C・6)にも当時の記憶が揺曳しているよ うに思う。

「三田豊岡町時代の圓生夫妻(昭和25年ごろ)」
「三田豊岡町時代の圓生夫妻(昭和25年ごろ)」
出典:宇野信夫監修・正木信之撮影《六代目三遊亭圓生写真集》(少年社、1981年9月1日、七五ページ)

吉岡が随想に引いた〈山の暦(イン・メモーリアム)〉の同じ箇所を読んでみよう。全87行の中ほどの33行である。句点の存在から見 て、吉岡は初版 《近代の寓話》(創元社、1953年10月30日)を底本にしたようだ。注目すべき箇所に下線を付す。6行め「家の方」は、鍵谷幸信編〈西脇順三郎年譜〉 に「昭和二十五年(一九五〇) 五十七歳/五月十日、港区芝白金台町一丁目八十番地へ移る」(《定本 西脇順三郎全集〔第12巻〕》筑摩書房、1994年11月20日、五三〇ページ)とあり、詩に書きこまれた各処は勤務先の慶應義塾大学からの帰路に点在す る。「江戸の三味線づくりのなんとかという/男の墓」は「江戸における三味線製作の始祖」(東京市)、「三味線のストラディヴァリ親子のような名匠」(俵 元昭)の異名を取る石村近江の墓で、魚籃寺の下の大信寺(港区三田4-7-20)にある。

いろいろ職業のことを考える。
カボカボと泥の中を歩いて
ヒルを取って渡世する老人もいる
がシェクスピアを読んで渡世する
奴もいるのだ
ぶらぶら家の方へ 帰る
寺町と いわれる程寺がないのに。
だがその理由が突然わかった。
実はバスの通る路か ら少し南の坂を
のぼると、お寺だらけだ。
中にはイギリスの別荘の裏門のよう
な門があり、住職は洋服に下駄を
はいて門をふいている。
この山腹の寺々の世界には
江戸を忍ぶ「ひより下駄」なら。
なにしろポケットに「マクベス」を入れて
いる男はあわない。
「マクベス」の中でこおろぎが鳴いて
いる。
化粧地蔵[お けしようじぞう]にリラの花をあげたらよい。

昔小伝馬町から芝高輪へ 転居して
中国により近づいたと言って
よろこんだ荻生徂徠バスの通り
面している。
江戸の三味線づくりのなんとかと いう
男の墓ぎょらん坂の中途だ
東海道の一部分であった二本榎の通りを
歩いて、やがて横みちを下りて
どこかへすがたを消す
富士山の頂上にイタドリが生えている
ことを発見したヨネ野口も
一緒に巴里へ行ったF先生も
皆この山の暦[こよみ]の中の薔薇となった。

幽霊坂 桜田通り
幽霊坂 岩瀬家のあった辺り(左)と桜田通りに面する坂下(右):玉鳳寺門前から幽霊坂(吉 岡文の「細い横道の坂」、港 区の案内杭には「坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしい」とある)を見下ろすと、坂下を東西に走るのは桜田通り (西脇詩の「バスの通る路」「バスの通り」)である。吉岡文の「地蔵さまの下」は、玉鳳寺の幽霊坂方面の「下」ではなく、山門正面の坂の「下」(ただし付 近の港区の掲示板に「1956年(昭和31年)当時 芝三田南寺町」と見え、「豊岡町」ではない)のようにも読めるが、一戸建てやアパート、マンションが 立ち並ぶ現地で岩瀬家を確認することはできなかった。

化粧地蔵 化粧地蔵
玉鳳寺 地蔵堂(左)と化粧延命地蔵(右):化粧地蔵は山門横の地蔵堂に安置されており、い つもシッカロール(ベビーパ ウダー)や果物が供えてある。玉鳳寺は「慶長四年(1599)八丁堀に開創、寛永十二年(1635)現地に移転、開山梅巌/おしろいを塗つて願をかけたお 化粧地蔵がある」(《港区史〔上巻〕》、三二二ページ)。玉鳳寺の古い表札に記されている住所は「芝區三田南寺町三十一番地」、すなわち西脇詩の「寺町」 である。

ひょっとすると吉岡は《静物》を出す直前の1955年に「麻布豊岡町の下宿を出て練馬の太田大八宅に近い江古田に間借」(吉岡陽子編 〈〔吉岡実〕年 譜〉)して以降、西脇・会田と散歩するまで芝三田豊岡町(現在の港区三田4丁目・5丁目)を訪れていないのかもしれない。西脇の詩(初出未詳だが 1950〜53年の執筆だろう)に書かれた地誌こそ、かつて吉田健男とともにあった吉岡の起居した地のものだった。詩人本人とともに20年後に当地を歩く のは、どれほど感慨深いことだろう。吉岡実詩がその種の地誌を取り込むことは決してないのだ。「私にとって、忘れることのできない作品である」ゆえんであ る。――筑摩書房は吉岡が入社した1951年当時、東大正門前に近い「文京区本郷台町9」にあった。吉岡は〈和田芳恵追想〉でこれを「本郷森川町」(現・ 弥生1、西片2、本郷6・7)と書いているが、あるいは同じか。通勤には都電を利用し、田村町(港区芝田村町は現・西新橋)で乗り換えて豊岡町の下宿に 帰っていたようだ(現在、都電はない。交差点付近のいたるところに「魚籃坂下」というバス停があるが、互いに少し離れている)。筑摩が「千代田区神田小川 町2-8」に移転したのは1954年12月のことである。――吉岡の詩における「化粧地蔵の周辺」は、鶏の糞さえ雪に埋まり、雪は蝟集して卵と化す。

雪(B・14)

ふりつづく雪に
すつかり匿された
鶏小屋のほのぐらいなかで
いきもののイマージュ
生きつづけるものの差恥
かなしい排泄の臭気がただよふ
内と外のけじめがなくなる時
しじまの裡で
牝鶏は卵をうみはじめる
雪よりも炎えた
白い卵が一層重みを増し
暗い照り合はない辺境から
意志を発して
ずりおちてくる
空間は感じやすい均衡をやぶり
きんいろの藁のうへに
苦痛の生をうけとめる
へこむものが
藁でなければ
この大地であらうか
しづまり輝きだす
一個の異様な物体のまへで
見えないもの 把握できないものに
おびえたりいらだつたり
叫喚するものたちがたしかにゐる
このひどい雪ぶりの向ふで
たじろぎ遠ざかる
それら
麻痺した烏賊のやうなむれ
薄明の金網の外では
次第に
塑像のやうに
下から埋まつてゆく
樹や
不安な社会がある

《魚藍》(1959)は《昏睡季節》(1940)、《液体》(1941)、《静物》(1955)、《僧侶》(1958)に続く吉岡実の 5冊めの著書 にして初の歌集である。漢字二字の熟語は、詩集の命名法の延長線上にある。その魚藍だが、そもそも「藍」は蓼科の一年草であり、そこから得られる濃青色の 天然染料(インディゴ)であり、その色(藍色)である。本来の「魚籃」なら、獲った魚を入れておく器、びく=魚籠だ。書名を《魚籃》としたのでは「びく」 と読まれる惧れがある。一方、「魚藍=ぎょらん」からは魚卵が想起される。さらに、かすかにではあるが、大手拓次の《藍色の蟇》ならぬ「藍色の魚」が。こ こで《静物》からもう一篇引こう。稿本で当初、中扉「T 静物」のすぐあとに置かれていた、印刷入稿時における《静物》の巻頭詩篇である(漢字は新字に改 めた)。

静物(B・2)

夜はいつそう遠巻きにする
魚のなかに
仮りに置かれた
骨たちが
星のある海をぬけだし
皿のうへで
ひそかに解体する
燈りは
他の皿へ移る
そこに生の飢餓は享けつがれる
その皿のくぼみに
最初はかげを
次に卵を呼び入れる

吉岡実自筆の〈静物〉(B・2)原稿
吉岡実自筆の〈静物〉(B・2)原稿〔なにかのアンソロジーのために書き写されたと思し い〕
出典:吉岡実詩稿「静物」コクヨ原稿用紙(20x20)2枚 - ヤフオク!

ここには魚もいれば卵もいる。もっともこの「卵」、魚卵というより鶏卵に読めるが。それはともかく、三十代の吉岡は魚籃坂の近く、二間 続きの部屋に 画家吉田健男と下宿して《静物》の詩篇を書き継いでいた。四十歳で独身生活を切り上げるに当たって、記念の歌集に《魚藍》と名付けた。それは、「その人た ち〔結婚を祝ってくれたまわりの幾人か〕にささやかでも心のこもったものをくばりたいと思った。私たちにとっても、他の人たちにとっても生涯記念になるも のを。私の未刊の詩を小冊子にしようかとも考えたが、いささか特異にすぎてふさわしく思えなかった。そこで二十代前後期につくった短歌で現存している四十 七首を文庫判の小冊子にした」(〈救済を願う時――《魚藍》のことなど〉、《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、1988、六四ページ)ものだった。 魚籃坂中腹に位置する魚籃寺の本尊は魚籃観世音菩薩――「此本尊は唐仏で、法誉上人が長崎にあつたのを持ち来つたものである。仏形面相唐女のごとく、右の 手に籃に魚の入つたのを持ち、左に天羽衣を携へた八九寸ばかりの立像である。此魚藍観音には次ぎの様な縁起が語り伝へられる」(《芝區誌 全》東京市芝區役所、1938年3月31日、一四〇〇ページ〔漢字は新字に改めた〕)として紹介されているのが、前掲の「三田台の魚籃坂という地名にとら れている、云云」の文章である(ただし同文は《芝區誌 全》を書きあらためたもの)。ここから容易に考えられるのは、陽子夫人を魚籃観音に見立てたという筋である。しかし吉岡実の想像力は祝婚歌を呪婚歌にして しまうほどに猛猛しいものだった。魚籃坂の魚籃寺の魚籃観音はそのままの姿で登場することができず、ギョランの音通で魚藍が用いられた(吉岡の造語にも思 えるが、現実には魚籃坂周辺の店舗の名にしばしば「魚藍」とあって、それを誤用とする指摘もある)。ギョランが背後に魚卵を擁することはすでに述べた。結 婚という吉岡の新たな出発を記念する書物の標題は、自身の詩的出発となった《静物》を書いた(近隣の)地名から「魚籃」→「ギョラン」→「魚藍」と変転し て現行のものとなった。一方で「籃」ならぬ「藍」から思い浮かぶのは「出藍の誉れ」という故事成語、「青は藍より出でて藍より青し」という諺である。こう は考えられないだろうか。最初の著書である詩歌集に付録のようにして載せた和歌のほうが、本来の眼目だった詩篇より優れていると認めたゆえの「藍」の一文 字だ、と。これらの理由によって、吉岡は二十歳のころの和歌を一冊にまとめるに際して(仮に活字があったとしても)蜾蠃鈔ではなく、魚藍という見慣れない 語を書名として採用したのではないか。吉岡は《魚藍》以降、本業の詩作ではのちに《紡錘形》(1962)にまとめられることになる、それまでの(《静物》 では色濃く、《僧侶》ではやや薄く、抱えもった)「単独者の私性」とでもいうべきものを突き抜けた未知の領域に踏み込んでいく。「単独者の私性」の原点で ある最初の著書、そこからの再録・再刊はそれを総括し、吉岡の生活と創作、あるいは人生と芸術とを大きく変える契機となった。付言すれば、吉岡が飛躍を期 して過去の著述をまとめなおしたのは、このときが初めてだった。生前最後の著書となった《うまやはし日記》(1990)はその大掛かりな再演と言えよう。 吉岡は二十歳前後の詩の始まりの向こうに散文作品もしくは長篇詩という新たな飛躍を展望していたが、病いがそれを阻んだ。

〔追記〕
魚籃坂を調べていて、意外なところで吉岡との関連性を見つけた。横溝正史の長篇小説《病院坂の首縊りの家》(《野性時代》1975〜1977年連載。初刊 《病院坂の首縊りの家――金田一耕助最後の事件》は角川書店、1978年2月刊)にこうある。

 〔……〕私がなぜこのようなことをくだくだしく書いているかといえば、これからお話しようとしている、あの世にも おぞましき事 件の舞台となった、いわゆる「首縊りの家」のある病院坂というのは、麻布と芝との境目にあたっているからである。その辺はやたらに坂の多いところで、いま 眼のまえに並んでいる二枚の地図をみても、魚籃[ぎょらん]坂とか伊皿子[いさらご]坂、名光[めいこう]坂とか三光[さんこう]坂、蜀江[しょっこう] 坂。義士外伝で有名な南部坂[なんぶざか]雪の別れの南部坂なども、ほど遠からぬところにあるらしい。ほかに仙台[せんだい]坂、明治[めいじ]坂、新 [しん]坂、奴[やっこ]坂、狸[たぬき]坂等々々、枚挙にいとまあらずだが、なかには暗闇[くらやみ]坂などという物騒な名前の坂もある。
 私がこれからお話しようとしている問題の坂は魚籃坂のちかくにあり、〔……〕(《病院坂の首縊りの家(上)〔角川文庫〕》角川書店、1978年12月 20日〔改版六版:2005年6月15日〕、一〇ページ)

1979年、《病院坂の首縊りの家》は市川崑監督作品として映画化された。その脚本を手掛けたのが久里子亭(市川のペンネーム)と、吉 岡の戦後間もないころの友人日高真也(出版社での同僚であり、吉岡を《新 思潮》〔第14次〕に 誘った文学青年)と同姓同名の人物なのである。脚本家日高真也氏は2002年に81歳で亡くなっていて(吉岡よりふたつ年下か)、死去を伝える記事に「サ ンケイスポーツ記者時代から脚本を手掛け、テレビドラマや映画に幅広く活躍した。代表作に市川崑監督の映画「細雪」「犬神家の一族」、テレビ時代劇シリー ズ「木枯し紋次郎」など」(共同ニュース) とある。吉岡は小説家志望だった日高にしか触れていないが、この脚本家は年齢からいっても吉岡の友人日高真也と見て差し支えないと思われる。日高は《病院 坂の首縊りの家》脚本化にあたって横溝の原作を読んでいるわけだから、上掲文の魚籃坂のくだりから吉岡(の住まい)を想いうかべたことだろう。


吉岡実と飯島耕一(2014年3月31日)

昨2012年10月の飯 島耕一逝去のおりの《朝日新聞デ ジタル》の記事は、処女詩集《他人の空》、詩集《ゴヤのファースト・ネームは》(高見順賞)、《北原白秋ノート》(歴程賞)、長篇小説《暗殺百美人》 (ドゥマゴ文学賞)、詩集《アメリカ》(読売文学賞・詩歌文学館賞)と代表的な著作を挙げていた。略歴には1956年「詩人の大岡信さんらとシュルレアリ スム研究会を立ち上げた。大岡さんのほか、清岡卓行、吉岡実らの詩人とともに59年に詩誌「鰐(わに)」を創刊した」、「萩原朔太郎や西脇順三郎などの詩 人論も著した」とあった。私は飯島の全著作を読んでいるわけではなく(吉岡は贈られた本はすべて読んでいるはずで、《現代詩読本》の口絵写真を観ると、自 宅の書棚の一等地には自著とともに飯島や大岡信の詩集が並んでいる)、詩集と詩人論はそれなりに読んでいるが、《北原白秋ノート》と《暗殺百美人》は未読 だった。これらの著作を手掛かりにして、吉岡実と飯島耕一のことを考えてみたい。

《北原白秋ノート》(小沢書店、1978年4月30日)は吉岡の《薬玉》誕生の契機(のひとつ)になったと考えられる。飯島の「白秋は もっと読まれ るべきである。そして知られるべきである。われわれは白秋の名のみを知っていて、白秋その人に無知のままなのだ」(同書、三〇六ページ)という〈あとが き〉の一節は、若年のころ白秋短歌に魅せられた吉岡にとっても頂門の一針だったに違いない。「もとより本書は入門的な書であり、また白秋の一面しか追体験 していない。白秋はもっともっとふところの深い詩人だということもぜひとも言っておきたい。『邪宗門』の白秋、『思ひ出』の白秋、『桐の花』の白秋につい てあまりにもぼくは語らなかった。むしろその他の白秋――『雀の生活』や『雀の卵』や『フレップ・トリップ』の白秋を紹介したかったからだ」(同前)とい う若い詩人や歌人に向けたメッセージは、だれよりも吉岡に届いた。私は次のような行文に注目した。なお、本書で斎藤茂吉への言及が多いのは、角川書店の 《短歌》誌に連載(1977年1月〜12月)したときのタイトルが〈白秋と茂吉を求めて〉だったことによるだろう。

白秋のあけっぴろげの散文はこちらも読むのに抵抗少なく、スピードをもって読めるが、茂吉の散文は読むのに時間がか かる。しかも 真意はどこにあるのかと、疑いながらかくされている部分まで読みとらなければと思いつつ読まさせられる。茂吉の散文は、何かをかくしている。そのとき白秋 はあけっぴろげだとまず言うことができる。果してあけっぴろげとはかくしていることの別の様態ではないか、との疑問が起きてくるほどにである。(〈茂吉の 白秋論〉、一三九〜一四〇ページ)

 この「夏日偶語」は大正元年(一九一二年)だから本章冒頭のパウル・クレーの「子供部屋宣言」と同じ年の執筆である。ミュンヘンでは「青騎士[ブラウエ ライター]」の運動ははじまったばかりだったし、パリではアポリネールが詩集『アルコール』を出そうとしていた。二十世紀の詩を方向づけたと言われる『ア ルコール』は一九一三年の刊行だから、『赤光』、『桐の花』と同年の刊行ということになる。萩原朔太郎は神経症に悩み、『月に吠える』の詩を準備してい た。ともかくこの数年はきわめて重要である。ヨーロッパや日本の近代詩にとっても、近代短歌にとっても。ひょっとしてこの数年が黄金時代である。(〈茂吉 の「夏日偶語」など〉、一六九〜一七〇ページ)

 ぼくは生ある球根などと言ったが、白秋にならって「玉」と言うべきかもしれない。「多摩綱領」の結びの一行は、「玉の幻術はかくして雲霧を岩上に弾く」 というのであった。その「玉」とは「気品と香気と律動の生々」と言いかえてもよいのだろう(白秋は玉[、]、『氷島』の朔太郎は自ら破れた玉 [、、、、、、]であったと言うべきか)。しかし今日、「気品と香気と律動の生々」の何と実現に困難なことだろう(朔太郎が一度、必然的にも破ってしまっ たのだ)。しかし思えばわれわれは散文の行分けにますます近くなり、小説と詩の境界の定かではなくなった、いわゆる現代詩を読むときも、知らず知らず、そ こに意味と主張と描写をではなく、やはり「気品と香気と律動の生々」を求めているのではなかろうか。(〈『牡丹の木』〉、三〇二〜三〇三ページ)

後知恵と言われるかもしれないが、吉岡の随想〈くすだま〉の冒頭「薬玉――いろいろの香料・薬草を入れた袋に、菖蒲や艾の造花を飾り、 五色の糸をた らす、一種の魔除け。それが本来の薬玉のすがたらしいのですが、現在では、進水式や開店祝いなどに使われています。「香気」と「俗気」をとじ込めた、相異 なる「玉」を合体させた「球形の世界」が、詩集『薬玉』なのです。/このような文章を、私は署名用のカードに印刷して、出来たばかりの詩集に添え、親しい 人たちに贈った。一昨年の晩秋のことである。/――ことだま、すだま、あらたま、いずれも玄妙な古語のひびきが、私は好きだ。それらに類似して、かつまた 「球体」のイメージを持つ「くすだま」を主題に、一篇の詩を書いた。その時すでに、新しい詩集の題名は決ったも同然であった」(《「死児」という絵〔増補 版〕》筑摩書房、1988、二九五ページ)という箇所など、飯島の〈『牡丹の木』〉の一節への返答に読める。《「死児」という絵〔増補版〕》で〈くすだ ま〉の次に〈白秋をめぐる断章〉が置かれているのも意味深長である。
《北原白秋ノート》からは、歌集《雀の卵》(アルス、1921)の〈大序〉に「窓から見てゐると裏の小竹林には鮮緑色の日光が光りそよいでゐる。丘の松に は蝉が鳴いて、あたりの草むらにも草蝉が鳴きしきつてゐる」とあると教えられた(同書、八三ページ)。吉岡実の私家版の発行所「草蝉舎」(住所は当時の自 宅である)はソウセンシャと読むが、この〈大序〉からヒントを得たのかもしれない。ほかにも〈茂吉の「ドナウ源流行」など〉ではオクタビオ・パスと Renga(連歌)に言及するなど、ここでの飯島の問題意識と《夏の宴》という究極の引用詩篇の完成後の吉岡の、あえていえば模索における関心が触れあっ た。それが本書の刊行された1970年代末から《薬玉》の諸篇が書かれた1980年代初めにかけてのことだった。飯島自身は《北原白秋ノート》もしくは白 秋作品と《薬玉》を関連づけた文章を遺していないようだが(*)、 私には本書が「後期吉岡実」を準備する重要な要素のひとつであり、最も大きな契機だったと感じられる。

(*)飯島は〈岡井隆との往復書簡〉 (《定型論争》風媒社、1991年12月10日)で
  しかしたしかに新しい型はあちこちに出来つつあるのかも知れません。岡井さんの返信を読んで、すぐに連想したのは、吉岡実の数年前の詩集『薬玉』のことで した。あの詩集は正直言って、長年の吉岡実の詩の支持者であり読者であるわたしにも、とっつきにくいところのある作品群にみちていました。どうも『サフラ ン摘み』や『夏の宴』までの吉岡さんの詩とはちがうのです。いまになって思うに、あれは吉岡さんの必死の新しい「型」の創出であって、その「型」にいきな りすんなりとは馴染めなかったのです。
 あの『薬玉』の「型」は、その元に、メキシコの現代詩人、オクタビオ・パスの長詩『白』のスタイルがあったか、と想像されます。その他にもあの『薬玉』 の型の元型はあるでしょう。そして吉岡実がまだ若い戦中の時代に愛読したという、茂吉〔小林註=白秋とあるべきか?〕の短歌の「型」も、どこかでプロトタ イプとして働いているかも知れません。(同書、五三〜五四ページ)

と、 当初《薬玉》になじめなかったと明かしている。この詩集が出現した当時、私もなにか途轍もないものが目の前にあることはわかっても、それがどうすごいのか うまくとらえることができなかった。ただそれは、詩型というより、語彙の面が主だった。詩型はその後、諒解できた部分もあるが、いまだに語彙の由って来る 処(典拠の意ではない)を理解しえたとは言い難い。


過日、長篇小説《暗殺百美人》(学習研究社、1996年10月30日)を入手しようとインターネットで古書を検索したところ、加藤郁乎に宛 てた署名本(こちらは市販本に先駆けて1996年2月25日、500部限定で私家版として刊行されたもの)がけやき書店から3000円で出品されていた。 前回、加藤郁乎について書いた手前もあり、これも縁だろうと購入した。

 一九八二年六月 信濃川のゆるやかに曲がるあたり
 八十八歳で人間離れしようとする一人の人が
 しきりに電報を打ちたがった
 老人は昭和のモダニズムの文学を代表する人物だった
 病院のある土地は河井継之助の長岡藩の隣地でもあった
 その旧幕府領の町の慈眼寺で、継之助は中立国たらんとする嘆願書を差出し、土佐の宿毛[すくも]生まれの二十三歳の軍監岩村精一郎に拒まれて、ついに [私家版:戦い→学研版:戦端を開く]も止むなしと決意していた
 ゴコウギサマというのは子供時代に父、母から聞いた藩主の夢でも見ていたのか、それとも、ひょっとしてそれは大公儀[おおこうぎ]、だったのか(同書、 四〇〜四一ページ)

飯島は固有名詞を避けているが、この「人」は西脇順三郎だ。ここでしばらく《暗殺百美人》から離れて、《田園に異神あり――西脇順三郎 の詩》(集英 社、1979年7月10日)を再読する。ちなみに、私家版《暗殺百美人》のジャケットの「女神の顔(?)の絵は新潟県小千谷に生を享けた三田の詩人J・N による(一九七六年)」(私家版、〔二一三ページ〕)である。

 西脇氏のこれまでの詩作品もそうでなかったとは決して言うことができないが、この「最終講義」という長い詩は、き わめて小説的 である。詩が小説的構造をもっているということだ。そして今日の小説の多くが、東西の文化のまじり合った文化の状況を対象としているとまったく同じ対象を 相手にする。その対象を西脇氏の詩の文体で捉えている、というよりその対象のあいだを氏は上下左右に、自在に駆けぬけているように見える。
 われわれは否応なくこの雑種、雑居文化のなかを通過して生きているのであるが、そのことをしかめ面して忌み嫌い、慨嘆するのでなく、讃歌とまでは行かな くとも、この状態を、かつてのアポリネールの長詩「地帯[ゾーン]」のようにうたいあげたのが、この西脇氏の「最終講義」であるとしていい。古い西洋と日 本を知る氏は、この東京の雑種文化をたのしみ、そこに諧謔を見出しているかのようである。(《田園に異神あり》、一一五ページ)

15年後に書くことになる自身の長篇小説を予告してはいまいか。《暗殺百美人》は飯島耕一の追悼特集を組んだ《現代詩手帖》2014年 2月号でも、 吉田文憲・北川透・吉増剛造・小池昌代らが高く評価している。だがこれを、中村真一郎のように「超現実小説」もしくは超現実派小説と呼ぶ意図がよくわから ない。私は、200年前のフランスと幕末の日本を暗殺という観点で切り結んだ特異な形式の歴史小説として読んだ。小説に限らず、散文における飯島の奔放な 書きぶりは今に始まったことではない(《北原白秋ノート》がそうだった)。そうした「跳躍」を本作にだけ見るのは当たらないのではないか。こうした奇妙な 味の小説は吉岡実の愛好するところでもあった。根本茂男の《柾 它希[まさたけ]家の人々》(冥草舎、1975)しかり、フラン・オブライエン(大沢正佳訳)の《第三の警官》(筑摩書房、 1973)しかり。余談ながら、飯島が本書を贈った加藤郁乎は東京の出身だが、父親が会津だった。吉岡が加藤に問う。

吉岡  郁乎さんはどこですか、出身は。
加藤 いやぁ、ぼくは会 津だと言って来たんだが、インチキですよ。いまでも、東北だと信じてる友人がいるらしいですね。生まれは東京なんです。わたしは目白の近く。
吉岡 そうだよ、東京な んだよ。ぼくは、あんた東京人だと思ってた。
加藤 インチキが好きだ からね。会津弁を子供の頃に覚えてるもんで使ったりするんですよ。今度、井上ひさし論を書いたときに牛込で育ったとバラしましたけれどもね。東京なんです よ。それも昔は豊玉郡と言っていたんですね。東京府……府の中でも市外なんですよ。
吉岡 お父さんの代から ですか。
加藤  親父は会津の人間です。これが江戸文学なのに白虎隊精神なんですよ。だから、子供のときには足袋ははかせて貰えないしね。「白虎隊の子孫がなんだ!」なん だ! っていったって、冬寒いのに足袋をはかなかった〔か〕らね。そういうスパルタ教育だかなんだかにやられましたよ。そして子供のときから親父の生家と 往き来していましたから、会津の。それで酔っぱらったりすると会津弁でインチキ遊びをやるんですよ。(吉岡実・加藤郁乎・那珂太郎・飯島耕一・吉増剛造 〔座談会〕〈悪しき時を生きる現代の詩――座談形式による特集〈今日の歌・現代の詩〉〉、《短歌》1975年2月号、七〇ページ)

《暗殺百美人》には、坂本龍馬・中岡慎太郎を暗殺したとされる佐々木只三郎(会津藩の旗本)が登場する。80ページ(「佐々木只三郎は 会津藩士、佐 々木源八[げんぱち]の三男として生まれ、長兄は、のち会津藩用人となった手代本直[てしろぎすぐ]右衛門である。」)から84ページ(「只三郎は見廻組 の与頭となった頃から、京の歌会に出席するようになった。只三郎はそれらの歌会の一つで、薩摩の京都留守居役を勤める八田知紀[はつたとものり]と会い、 歌人として知られる八田と親しくなった。」)にかけて、都合8箇所、佐々木只三郎の事績に触れた本文の下部に鉛筆で○印が記入されている。本書に書き込み があるのはここだけで、旧蔵者加藤郁乎の佐々木只三郎への関心の深さが認められる。
城戸朱理によれば、吉岡実は自身の《ムーンドロップ》と同じ年に刊行された飯島耕一の詩集《虹の喜劇[コメディ]》(思潮社、1988)を高く評価してい た(〈吉岡実エッセイ選を編纂して。〉参 照)。ならば《暗殺百美人》(初出は《三田文學》1994年8月・夏季号〜95年5月・春季号)にはどんな感想を持っただろう。飯島の最高の小説だと絶讃 したかもしれない。しなかったかもしれない。予想がつかないのだ。それがどうであれ、飯島は吉岡実存命なりせば必ずや本書の装丁を頼んだに違いない(学習 研究社の普及版の装丁は菊地信義で、《定型論争》も菊地の装丁)。そのとき、私家版《暗殺百美人》はどんな装いを身にまとったか。私家版に装丁のクレジッ トはないが、著者略歴や奥付の組み方を見れば、みすず書房(飯島の最も親しい出版社である)の制作になることは明らかだ。いずれにしても、吉岡が西脇の絵 をベタの地に白ヌキ反転して使うことは決してないだろう。

今回、飯島耕一の著作を読み返して、《定型論争》が吉岡実追悼文集だったことを再認識した。飯島にとって《薬玉》が衝撃的な詩集だった ことも今なら わかる。吉岡は飯島が《北原白秋ノート》で投げたボールをみごとに打ち返したのだ。飯島耕一は《朝日新聞》に寄せた追悼文〈吉岡実の死〉(冒頭に加藤郁乎 との電話でのやりとりが登場する)で吉岡を「日本の戦後最大の詩的才能だった」(《定型論争》、二一八ページ)と賞揚している。吉岡実を発見したのは、そ の飯島耕一の「詩的才能」だった。

飯島耕一《暗殺百美人》(私家版、1996年2月25日)の加藤郁乎への献呈・署名入り本扉とジャケット〔造本・装丁のクレジットはないが、みすず書房の制作か。限定500部、ジャケット絵:西脇順三郎〕
飯島耕一《暗殺百美人》(私家版、1996年2月25日)の加藤郁乎への献呈・署名入り本扉 とジャケット〔造本・装丁のクレジットはないが、みすず書房の制作か。限定500部、ジャケット絵:西脇順三郎〕


吉岡実と加藤郁乎(2014年2月28日)

内堀弘氏の《石神井書林古書目録》91号(2013年10月)は、表紙に「永田耕衣 瀧口修造 土方巽」と謳っていて、目録掲載のモノ クロの写真版 が貴重である。私はかねて吉岡実を取り巻く三大気圏を詩人の西脇順三郎、俳人の永田耕衣、舞踏家の土方巽の三人と見做してきたから、これは通常の目録とは 意味合いが違う。「永田耕衣 瀧口修造 土方巽」は2012年5月に亡くなった加藤郁乎旧蔵の書物だった。それらが《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》の書物と数多く重なっ ているのは驚くほどで、そのいちいちを指摘しないが、同号の《石神井書林古書目録》を概観してみたい(原文の改行箇所は/で表示した)。

《石神井書林古書目録》91号(2013年10月)の表紙
《石神井書林古書目録》91号(2013年10月)の表紙

瀧 口修造

 (1686)/瀧口修造の詩的実験 1927-1937 42,000/ 思潮社 昭42 限定1500部 函付/ビニールカバー付 加藤郁乎宛毛筆署名入/別紙添書・内容見本付

 (1692)三夢三話 105,000/ 瀧口修造 昭47 限定55部 秘冊草狂 袋付/加藤郁乎宛毛筆署名入

 (1688)画家の沈黙の部分 31,500/ 瀧口修造 昭44 初 みすず書房 函帯付/加藤郁乎宛署名入/函の元パラフィン紙にも献呈入。

あんま土方巽舞踏展

 (2199)/945,000/ アスベスト館 限定50部  昭43/38×56cm一枚漉き厚手紙による未綴の詩画集。詩人に対応して作家がオリジナル作品を刷る(10枚)。別葉に奥付、扉。 布装夫婦函。保護用外函(ダンボール・題箋付)保存状態は良好。詳細本文参照。

 2199 あんま(土方巽舞踏展)  限定50部 二重函       アスベスト館編 昭43 945,000/    38×56cm一枚漉き厚手紙による未綴の詩画集。目次(連名署名入・土方巽、飯島耕一、池田満寿夫、加藤郁乎、加納光於、渋沢龍 彦、瀧口修 造、田中一光、中西夏之、中村宏、野中ユリ、三木富雄、三好豊一郎、吉岡實)。詩人に対応して作家のオリジナル作品を刷る(10枚)。奥付、扉が付く。布 装夫婦函。保護用外函(ダンボール・題箋付)保存状態は良好。写 真8頁参照

永田耕衣

 (3372)眞風 31,500/ 永田耕衣 昭44 特装70部 函付カバー付/毛筆署名入 絵と俳句落款の和紙貼込/加藤郁乎宛自筆挨拶付

 (3356)永田耕衣小額 31,500/ ダンボール製の函に毛筆にて表題、加藤郁乎宛署名入。

以上は著者から加藤郁乎へ贈られた署名本や郁乎自身が制作に関わった書物だが、ほかにも同号の《石神井書林古書目録》の写真版ページには《吉岡実言及書 名・作品名索引〔解題付〕》もしくは吉岡の未刊の文章(随想や日記)に登場する本が多い。書目を挙げよう。

 日夏耿之介《黒衣聖母》
 瀧口修造《星と砂と〔特製本〕》
 《O氏の肖像》
 吉野弘《消息〔第二版〕》
 富澤赤黄男《天の狼〔増補改訂版〕》
 折笠美秋《虎嘯記》
 高柳重信《伯爵領》
 志摩聡《白鳥幻想》

以下は目録の本文ページ掲載の吉岡の著書。

 844  サフラン摘み 片山健装丁 初函カバ帯               吉岡實 昭51  18,900/    「サフラン摘〔み〕」専用署名箋に加藤郁乎宛署名入。

 845 薬玉  特製40部本。 二重函入                   吉岡實 昭61  147,000/    書肆山田刊。背は純白の革装。表紙平は薄い藍色の手染布装。本文耳付和紙。巻頭の和紙に毛筆詩三行署名入「屏風の向う側は紅葉づる黄金の秋 吉岡實」。布 装函入、保護用外函付。極美

 846 ムーンドロップ  西脇順三郎挿画 初函カバ帯           吉岡實 昭63  21,000/    「ムーンドロップ」専用署名箋に加藤郁乎宛毛筆署名入。

 847 うまやはし日記 私家版限定百部 カバ              吉岡實 平2   21,000/    「弧木洞版限定百部」の貼奥付。市版本と同装幀だが本文紙が異なり厚みをもつ。保存良好。

加藤郁乎宛署名の入っていない845《薬 玉》と847《うまやはし日 記》も郁乎に宛てたものではないだろうか。というのも、吉岡の特装版や限定版には署名や詩句の一節が書かれることはあっても、献呈が記されることはまずな いからだ。現に845は、吉 岡実家所蔵の著者本に献呈がないのは当然だが、古書で入手した手許の一本にも献呈はなく、私が吉岡さんから頂戴した唯一の本である847(《う まやはし日記〔弧木洞版〕》)も署名箋にマーキングペンで「呈」そして署名があるだけで、献呈はなかった。さて、これほど交友関係や読書傾向が似ているに もかかわらず、吉岡実と加藤郁乎の作品はずいぶんと隔たっていると感じられる。それをひとことで言うのは難しいが、〈郁乎断章〉の「私がはじめて、加藤郁 乎から貰った本は、昭和四十年の春に出た『終末領』であった。〔……〕処女詩集『終末領』には、九篇の作品が収められている。いずれもまだ俳諧調の語法が 感じられ、趣味の域を出ていないと、私は正直なところ思った。そのなかで「唄入り神化論」は七五調で、詠い上げているのに、むしろ心惹かれた。奇想の絶唱 である」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三二七ページ)が示すように、吉岡は郁乎の文業の軸足があくまでも俳句にあったと見てい たようだ。吉岡が出会った加藤郁乎の最初の著書が処女句集《球體感覺》(俳句評論社、1959)だったことが大きかったと思われるが、〈郁乎断章〉の最後 の断章「愛吟ひとつ」の全文は「私の愛好する、郁乎俳句を数えあげたら、きりがない。いま詩篇「弥勒」百三十九行より、次の一章句を、抽出するにとどめ る。//仙花の紙の鶴を立たせる」(同前、三三一ページ)である。〈郁乎断章〉の発表誌が《俳句研究》だったことを差し引いても、郁乎の詩篇よりも俳句を 買っていたという傍証になろう。吉岡の作品を「俳句のような詩」だとすれば、郁乎の作品はさしずめ「一行詩のような俳句」だ。吉岡実が前衛俳句の代表と見 做して いたのは、富澤赤黄男でも高柳重信でもなく、加藤郁乎だったように思う。


高橋睦郎《友達の作り方――高橋睦郎のFriends Index》(マガジンハウス、1993年9月22日)の〈加藤郁乎の巻〉は破格の郁乎評である。高橋は同文を「古いアルバムを見ていると、遊び仲間大勢 で写った写真の中に、かならずといっていいほど違和感のある一人がいる。遊び仲間を友達というなら、彼のことは反友達とでも呼べばいいのだろうか」と始め て、この「反」は「単に消極的な否定辞ではなく、積極的な形容詞の一面を持つ」と措定し、反友達の筆頭に加藤郁乎を挙げている。「真の反友達が友達になる ことはじつはありえない。先方は当方と先天的に相性が悪いのであって、この相性の悪さばかりはどんな理性をもってしてもいかんともなしがたいものらしい」 (同書、三二四〜三二五ページ)とある。相性の悪い「友達」(書名を想起せよ)のことを書いた文章だけに、なまじ要約するとニュアンスが抜けおちてしま う。この興味深い人物評の全文(5ページ分)をぜひ読んでいただきたいとお願いしつつ、次の箇所を引用したい。

 こんなこと〔西脇順三郎の講演会で、西脇に男と女ではどっちが好きか質問した人間が加藤郁乎だと初めて知ったこ と〕があったど れほど後だろうか、お茶の水の木造洋館の何とかいう画廊で野中ユリさんか誰かの個展のオープニングがあり、そこではじめて加藤さんに紹介された。紹介者は 澁澤龍彦さんではなかったろうか。ほかに鍵谷〔幸信〕さんや白石かずこさんがいたのも憶えている。オープニングの後、タクシーに分乗して二次会に向かっ た。
 ぼくは澁澤さん夫婦と並び、前の運転席の隣には男の子を連れた女性が乗った。アルコールが入っていくぶんハイになっていたぼくは何ということもなく「加 藤郁乎さんって変な人ですね」といった。ぼくとしては「変わった面白い人ですね」ほどのつもりでいったのだが、澁澤さんに「ハハハ変な人か。じつはきみの 前に乗っている人は加藤君の奥さんだよ」といわれて、急にバツが悪くなって黙りこんだ。
 このことが伝わったのかどうか、その後「加藤さんと何かあったのですか」としばしば聞くようになった。加藤さんがぼくのことをことごとにひどく罵る、と いうのだ。ぼくとしては半信半疑だったが、新宿二丁目のバー・ナジャその他で出会うたび、目に見えて不機嫌になるのに何度も出食わし、なるほど虫が好かな いとはこういうことをいうのか、と人間心理を学習する思いだった。
 そのうち「なぜ高橋なんかに原稿を頼むんだ。あんな下らない奴に書かせるな」といっているという話を、編集者から聞くようになった。ぼくのことが嫌いで 罵るのはいわゆるカラスの勝手という奴で、ぼくが文句をいう筋合いではない、しかし、原稿を頼むなというのは生存妨害ではないか、と北海道流寓からの関東 に帰住したばかりの鷲巣繁男さんにぐちったことがある。
 加藤さんともぼくとも親しい鷲巣さん笑っていうには「それはイクヤの嫉妬だよ。あいつは独占欲が強いからなあ」。いわれてみれば加藤さんとぼくは原稿を 依頼される雑誌が重なっている。それ以前に交友関係が共通している。げんに鷲巣さんがそうだし、澁澤さん、吉岡実さん、稲垣足穂さん然りだ。しかも、付き 合いの歴史は加藤さんのほうが古い。加藤さんとしては田舎者のそれこそ変な若僧に割りこまれた感じかもしれない。(同書、三二五〜三二六ページ)

これに「須永朝彦君の紹介で永田耕衣さんをひんぱんに訪ねるようになって、加藤さんの不快感はさらに増したようだ」(同書、三二八ペー ジ)とある神 戸の永田耕衣を加えれば、吉岡・加藤・高橋三人の関心がほぼ共通していることがわかる。すなわち、西脇順三郎・瀧口修造・土方巽・永田耕衣、鷲巣繁男・澁 澤龍彦・稲垣足穂である(ただし《友達の作り方》に瀧口修造の巻はない)。それにしても高橋睦郎の〈吉岡実氏に76の質問〉と〈鑑賞〉に較べたとき、加藤 郁乎の吉岡実論(人物・作品ともに)にこれといった見るべきものがないのは、なにゆえだろうか。吉岡は〈出会い――加藤郁乎〉〈郁乎断章〉と二篇の随想を 遺しているというのに。加藤に吉岡を追悼する文章がない事実をまえに、人間心理に不案内な者はただ頭をひねるばかりだ。


〈吉岡実の装丁作品〉の現在(2014年1月31日)

昨年(2013年)の12月に田村隆一《詩 と批評E》を紹介したことで、〈吉岡実の装丁作品〉はひとつの節目を迎えた。以前にも書いたように、手持ちの吉岡実装丁の書籍が払底 しつつあるのだ。今月の〈吉岡実の装丁作品(120)〉は瀬戸内晴美《人 なつかしき》を紹介した が、来月予定している野原一夫の本のあとは、未入手の吉岡実装丁の書籍を入手することが先決になる。こうした事情ゆえ、今後《〈吉岡実〉の「本」》には 〈吉岡実の装丁作品〉が不定期掲載になるが、なにとぞご容赦いただきたい。

〈吉岡実の装丁作品〉の記事をどのように作るか、振りかえってみたい。最初にこのページの成り立ちを述べておく。2002年11月に本 サイト《吉岡 実の詩の世界》を開設して間もなく、《〈吉岡実〉の「本」》のページを《〈吉岡実〉を語る》のスピンオフとして設定した。《〈吉岡実〉を語る》開始から2 箇月後の2003年1月のことだ。吉岡実の(装丁した)本に関する記事を《〈吉岡実〉を語る》に収容することの無理を悟ったからである。この軌道修正をし なければ、《〈吉岡実〉を語る》ではなく《〈吉岡実〉の「本」を語る》になっていたかもしれない。吉岡実と本の関係は、吉岡実と詩の関係に劣らぬほど深い のである。
原本収集の悩みは尽きない。現時点で吉岡実装丁本のコレクションが完全でないように、これらの記事を書きつつあった期間も、執筆と入手は本ページの車の両 輪で、対象となる〈吉岡実〉の「本」を書誌と原物の両面で探索・収集しつづけてきた。その際、インターネット上の情報が役立ったことは言うまでもない。一 例を挙げれば、《サフラン摘み〔改装本〕》など、存在そのものを古書店に教えられた。〈吉岡実の装丁作品〉の記事作成の拠り所になる〈装丁作品目録〉は、 《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)巻末の〈吉岡実資料〉を編む際、1990年秋に吉岡陽子さんに作成していただいた「装幀」リスト(註記に「装幀料が入った日 から探したので1月や2月に入ったのは前年にしたつもりです」とあった)をベースに、筑摩書房(画像「筑摩書房が吉岡実に依頼した案件の控え」参 照)や書肆山田(大泉史世さんからは、筑摩の不明分2点をご教示いただいたうえ、「他に、私の記憶(写