〈吉岡実〉を語る(小林一郎 編)

最終更新日 2021年9月30日

吉岡実の手蹟 〔詩篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿〕 吉岡実の手蹟〔詩篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿〕を入口に掲げた改築前の編者の書斎
吉岡実の手蹟〔詩篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿〕(左)と同手蹟を入口に掲げた改築前の編者の書斎(右)


目次

〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会【#15】〜【#16】(2021年9月30日)

《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉【その5】――大野一雄さんの巻(2021年9月30日)

吉岡実詩における発想法あるいは「ランダム刺激」としてのスタンチッチ〈死児〉(2021年9月30日)

〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会【#17】〜【#22】(2021年8月31日〔2021年9月30日追記〕)

《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉【その4】――江森國友さんの巻(2021年8月31日)

〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会【#23】〜【#25】(2021年7月31日)

《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉【その3】――入沢康夫さんの巻(2021年7月31日)

〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会【#26】〜【#29】(2021年6月30日)

《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉【その2】――飯島耕一さんの巻(2021年6月30日)

〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会【#00】〈目次〉(2021年5月31日)

《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉【その1】――安藤元雄さんの巻(2021年5月31日)

ジョルジュ・サンドの田園小説《笛師のむれ》のこと(2021年5月31日)

吉岡実詩の詩型――散文詩型(2021年4月30日)

新旧校本宮澤賢治全集と〈銀河鉄道の夜〉のこと(2021年4月30日)

昔語りあるいは澁澤龍彦《狐のだんぶくろ》(2021年4月30日)

〔南柯叢書―近代文学逍遙〕のこと(2021年3月31日)

虚構としての論文あるいは〈変宮の人・笠井叡〉校異(2021年3月31日)

郡司正勝の土方巽評(2021年2月28日)

〔近代作家年譜集成〕のこと(2021年2月28日)

沖建治とは誰(2021年2月28日〔2021年3月31日追記〕)

《土方巽頌》本文校異(抄)(2021年1月31日)

〈小林一郎が選ぶ吉岡実の3冊〉(2021年1月31日)

吉岡実と大岡昇平――盗作あるいは引用をめぐって(2020年12月31日)

加藤紫舟句集《光陰》のこと(2020年11月30日)

吉岡実と多田智満子(2020年10月31日)

吉岡実と藤富保男(2020年9月30日)

吉岡実作品の外国語訳(2020年9月30日)

吉岡実と稗田菫平(2020年8月31日)

PR誌月刊《ちくま》のこと(2020年7月31日)

吉岡実と加藤郁乎――ふたりの日記を中心に(2020年6月30日)

詩集《僧侶》小感(2020年6月30日)

あとがきに見る淡谷淳一さん(2020年5月31日〔2020年6月30日〜2021年9月30日追記〕)

大和屋竺の作品――吉岡実と映画(3)(2020年4月30日)

吉岡実と時代小説(2020年3月31日)

《うまやはし日記》に登場する映画――吉岡実と映画(2)(2020年2月29日)

吉岡実と江戸川乱歩(2020年1月31日)

吉岡実と吉野弘(2019年12月31日)

吉岡実と《カムイ伝》(2019年11月30日)

吉岡実とクリムトあるいは「胚種としての無」(2019年10月31日)

吉岡実と森家の人人(2019年9月30日)

吉岡実と浅草(1)――喫茶店アンヂェラス(2019年8月31日〔2020年10月31日追記〕)

東博歌集《蟠花》のこと(2019年7月31日〔2021年5月31日追記〕)

挨拶文のない署名用の栞〔高橋康也宛〕(2019年6月30日)

〈詩の未来へ――現代詩手帖の60年〉展のこと(2019年6月30日)

吉岡実と入沢康夫(2019年5月31日〔2019年6月30日追記〕)

吉岡実全詩篇〔初出形〕(2019年4月30日)

京浜詩の会〈吉岡実氏を囲んで〉のこと(2019年3月31日)

《薬玉》署名用カードあるいは土井一正のこと(2019年2月28日)

吉岡実と田中冬二もしくは第一書房の詩集(2019年1月31日)

吉田健男の肖像(2018年12月31日)

佃学の吉岡実論(2018年11月30日)

吉岡実と文学賞(2018年10月31日〔2019年2月28日追記〕)

吉岡実と鳥居昌三(2018年9月30日)

〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引〉の試み(2018年8月31日)

〈示影針(グノーモン)〉と《胡桃の中の世界》(2018年7月31日)

吉岡実の飼鳥(2018年6月30日)

書下ろしによる叢書〈草子〉のこと(2018年5月31日)

吉岡実と和田芳恵あるいは澁澤龍彦の散文(2018年4月30日)

吉岡実とヘルマン・セリエント(2018年3月31日)

吉岡実と四谷シモン(2018年2月28日)

宇野亜喜良と寺田澄史の詩画集あるいは《薬玉》をめぐる一考察(2018年1月31日)

〈青枝篇〉と《金枝篇》あるいは《黄金の枝》(2017年12月31日)

吉岡実未刊詩篇本文校異(2017年11月30日)

吉岡実と病気あるいは吉岡実の病気(2017年10月31日)

吉岡実と金子光晴(2017年9月30日)

〈冬の休暇〉と毛利武彦の馬の絵(2017年8月31日)

吉岡実と三島由紀夫(2017年7月31日)

《現代詩手帖》創刊号のこと(2017年6月30日〔2019年3月31日追記〕)

吉岡実と済州島(2017年5月31日)

吉岡実とピカソ(2017年4月30日)

吉岡実とケン玉(2017年3月31日)

《現代詩大事典》の人名索引〈吉岡実〉の項のこと(2017年2月28日)

吉岡実の引用詩(3)――土方巽語録(2017年1月31日)

《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第4版〕》を作成した(2017年1月31日)

吉岡実の引用詩(2)――大岡信《岡倉天心》(2016年12月31日)

吉岡実の引用詩(1)――高橋睦郎〈鑑賞〉(2016年11月30日)

太田大八さんを偲ぶ(2016年10月31日〔2019年8月31日追記〕)

詩篇〈模写――或はクートの絵から〉初出発見記(2016年10月31日)

秋元幸人〈森茉莉と吉岡実〉の余白に(2016年9月30日)

《土方巽頌》の〈40 「静かな家」〉の構成について(2016年8月31日)

吉岡実にとっての富澤赤黄男(2016年7月31日)

吉岡実と西東三鬼(2016年6月30日)

吉岡実と石田波郷(2016年5月31日)

俳人の作歌(2016年4月30日)

《指揮官夫人と其娘達》あるいは《バルカン・クリーゲ》のこと(2016年3月31日〔2021年5月31日補訂〕)

吉岡実日記の手入れについて(2016年2月29日)

永田耕衣の書画と吉岡実(2016年1月31日)

《うまやはし日記》のために(2015年12月31日)

吉岡実の〈アリス詩篇〉あるいは《アリス詩集》(2015年11月30日〔2020年9月30日追記〕〔2021年8月31日追記〕)

吉岡実のフランス装(2015年10月31日)

「無尽蔵事件」について(2015年9月30日)

「ねはり」と「受菜」あるいは〈衣鉢〉評釈(2015年8月31日)

吉岡実と恩地孝四郎(2015年7月31日)

臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》のこと(2015年6月30日〔2016年10月31日追記〕〔2018年4月30日追記〕)

吉岡実とマグリット(2015年5月31日)

吉岡実と木下夕爾(2015年4月30日〔2021年2月28日画像追加〕)

フラン・オブライエン(大澤正佳訳)《第三の警官》のこと(2015年3月31日)

吉岡実と福永武彦(2015年2月28日〔2017年3月31日追記〕)

《アイデアidea》367号〈特集・日本オルタナ文学誌1945-1969 戦後・活字・韻律〉と《アイデア idea》368号〈特集・日本オルタナ精神譜 1970-1994 否定形のブックデザイン〉のこと(2015年1月31日)

詩篇〈模写――或はクートの絵から〉評釈(2014年12月31日〔2016年10月31日追記〕)

吉岡実と鷲巣繁男(2014年11月30日)

吉岡実と珈琲(2014年10月31日〔2015年3月31日追記〕〔2020年4月30日追記〕)

吉岡実と写真(2014年9月30日)

吉岡実詩における絵画(2014年8月31日)

吉岡実と落合茂(2014年7月31日〔2014年8月3日追記〕)

吉岡実と真鍋博(2014年6月30日)

岡崎武志・山本善行=責任監修《気まぐれ日本文學全集 57 吉岡実》目次案(2014年5月31日)

《魚藍》と魚籃坂(2014年4月30日〔2014年8月31日追記〕)

吉岡実と飯島耕一(2014年3月31日)

吉岡実と加藤郁乎(2014年2月28日〔2020年5月31日追記〕)

〈吉岡実の装丁作品〉の現在(2014年1月31日)

〈父の面影〉と出征の記念写真(2013年12月31日)

吉岡実と佐藤春夫(2013年11月30日)

吉岡実と赤尾兜子(2013年10月31日)

吉岡実と岡井隆あるいは政田岑生の装丁(2013年9月30日)

《詩人としての吉岡実》の〈はしがき〉(2013年8月31日)

《新詩集》あるいは大森忠行のこと(2013年7月31日)

吉岡実の帯文(2013年6月30日〔2013年8月31日追記〕)

吉岡実と田村隆一(2013年5月31日)

吉岡実とジイド(2013年4月30日)

〈首長族の病気〉と〈タコ〉(2013年3月31日)

三橋敏雄句集《疊の上》十二句撰のこと(2013年2月28日)

吉岡実と堀辰雄(2013年1月31日)

《永田耕衣頌――〈手紙〉と〈撰句〉に依る》を編んで(2012年12月31日)

《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第3版〕》を作成した(2012年11月30日〔2017年1月31日追記〕)

吉岡実詩の変遷あるいは詩語からの脱却(2012年10月31日)

杢太郎と福永のサフランのスケッチ(2012年9月30日〔2015年12月31日追記・2016年12月31日修正〕〕)

吉岡実と篠田一士あるいは詩的言語とはなにか(2012年8月31日)

吉岡実と骨董書画(2012年7月31日)

宮柊二歌集《山西省》と長谷川素逝句集《砲車》のこと(2012年6月30日)

吉岡実と横光利一(2012年5月31日)

1919年生まれの吉岡実(2012年4月30日)

吉岡実の近代俳句選(2012年3月31日)

《筑摩書房 図書目録 1951年6月》あるいは百瀬勝登のこと(2012年2月29日〔2021年7月31日追記〕)

「H氏賞事件」と北川多喜子詩集《愛》のこと(2012年1月31日〔2019年12月31日追記〕)

吉岡実詩集本文校異について(2011年12月31日〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実詩歌集《昏睡季節》本文校異(2011年11月30日〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実詩集《液体》本文校異(2011年10月31日〔2019年4月15日追記〕)

城戸幡太郎《民生教育の立場から》のこと(2011年9月30日〔2014年1月31日追記〕)

〈吉岡実文学館〉を考える(2011年8月31日〔2013年5月31日追記〕〔2016年10月31日追記〕)

吉岡実詩集《静物》本文校異(2011年7月31日〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実詩に登場する植物(2011年6月30日)

野平一郎作曲〈Dashu no sho, for voice and alto saxophone(2003)〉のこと(2011年5月31日)

吉岡実詩集《ムーンドロップ》本文校異(2011年4月30日〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実と吉屋信子(2011年3月31日)

吉岡実詩集《薬玉》本文校異(2011年2月28日〔2019年1月31日追記〕〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実の未刊詩篇〈絵のなかの女〉を発見(2011年1月31日)

吉岡実詩集《ポール・クレーの食卓》本文校異(2010年12月31日〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実〈うまやはし日記〉本文校異(2010年11月30日)

マラルメ《骰子一擲》のこと(2010年10月31日)

吉岡実とフランシス・ベーコン(2010年9月30日)

《北海道の口碑伝説》のこと(2010年8月31日)

吉岡実と彫刻家(2010年7月31日)

吉岡実詩集《夏の宴》本文校異(2010年6月30日〔2019年4月15日追記〕)

発言本文を除く《吉岡実トーキング》(2010年5月31日)

吉岡実と瀧口修造(3)(2010年4月30日)

吉岡実と瀧口修造(2)(2010年3月31日)

吉岡実と瀧口修造(1)(2010年2月28日)

吉岡実詩集《サフラン摘み》本文校異(2010年1月31日〔2019年1月31日追記〕〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実の未刊行詩篇を発見(2009年12月31日)

吉岡実詩集《静かな家》本文校異(2009年11月30日〔2016年10月31日修正〕〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実と《現代詩手帖》(2009年10月31日)

吉岡実〈〔自筆〕年譜〉のこと(2009年9月30日〔2009年10月31日追記〕)

下田八郎の〈吉岡実論〉と〈模写〉の初出(2009年8月31日〔2016年10月31日追記〕)

ケッセルの《昼顔》と詩篇〈感傷〉(2009年7月31日)

吉岡実歌集《魚藍》本文校異(2009年6月30日)

詩篇〈銀幕〉と梅木英治の銅版画(2009年5月31日)

大竹茂夫展と詩篇〈壁掛〉(2009年4月30日)

吉岡実詩集《紡錘形》本文校異(2009年3月31日〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実と片山健(2009年2月28日)

吉岡実とリルケ(2009年1月31日)

〈わたしの作詩法?〉校異(2008年12月31日)

吉岡実詩集《僧侶》本文校異(2008年11月30日〔2019年4月15日追記〕)

青山政吉のこと(2008年10月31日〔2009年3月31日追記〕〔2018年12月31日追記〕)

吉岡実の書(2008年9月30日)

現代日本名詩集大成版《僧侶》本文のこと(2008年8月31日)

吉岡実と本郷・湯島――〈吉岡実〉を歩く(2008年7月31日)

吉岡実とつげ義春(2008年6月30日)

吉岡実と土方巽(2008年5月31日〔2008年7月31日追記〕)

吉岡実編集の谷内六郎漫画(2008年4月30日)

吉田健男の装丁作品(2008年3月31日〔2010年8月31日追記〕)

吉岡実とエズラ・パウンド(2008年2月29日)

吉岡実と三好豊一郎(2008年1月31日)

吉岡実と映画(1)(2007年12月31日)

吉岡実と西脇順三郎(2007年11月30日)

随想〈学舎喪失〉のこと(2007年10月31日)

吉岡実の愛唱歌(2007年9月30日)

吉岡実と《アラビアンナイト》(2007年8月31日〔2013年6月30日追記〕)

リュシアン・クートーと二篇の吉岡実詩(2007年7月31日〔2011年6月30日追記〕〔2016年10月31日追記〕)

《「死児」という絵〔増補版〕》の本文校訂(2007年6月30日)

吉岡実と澁澤龍彦(2007年5月31日〔2019年12月31日追記〕〔2020年7月31日追記〕)

吉岡実と吉田健男(2007年4月30日)

詩篇〈斑猫〉の手入れ稿(2007年3月31日)

吉岡実のスクラップブック(2)(2007年3月31日)

吉岡実のスクラップブック(1)(2007年2月28日)

《柾它希家の人々》のこと(2007年1月31日〔2014年9月30日追記〕)

高見順賞受賞挨拶(2006年12月31日)

吉岡実の書簡(4)――《吉岡実詩集》のこと(2006年11月30日)

初期吉岡実詩と北園克衛・左川ちか(2006年10月31日〔2010年11月30日追記〕)

吉岡実とサミュエル・ベケット(2006年9月30日)

吉岡実詩の鳥の名前(2006年8月31日)

鳥の名前(2006年7月31日)

吉岡実の短歌(2006年6月30日)

吉岡実と左川ちか(2006年5月31日)

吉岡実と富澤赤黄男(2006年4月30日)

吉岡実の「講演」と俳句選評(2006年3月31日)

吉岡実の〈小伝〉(2006年2月28日)

吉岡実散文の骨法(2006年1月31日)

吉岡実と音楽(2005年12月31日〔2006年3月31日追記〕)

吉岡実の書簡(3)(2005年11月30日)

吉岡実の書簡(2)(2005年10月31日〔2020年12月31日追記〕)

吉岡実〈突堤にて〉校異(2005年9月30日〔2006年4月30日追記〕)

吉岡実の書簡(1)(2005年8月31日)

吉岡実とジェイムズ・ジョイス(2005年7月31日)

詩篇〈死児〉の制作日(2005年6月30日)

吉岡実との談話(2)(2005年5月31日)

吉岡実との談話(1)(2005年4月30日)

吉岡実とオクタビオ・パス(2005年3月31日)

吉岡実の詩稿〈裸婦〉(2005年2月28日〔2005年5月31日追記〕)

《土方巽頌》と荷風の〈杏花余香〉(2005年1月31日)

厩橋を歩く(1)(2004年12月31日)

小森俊明氏作曲の吉岡実の歌曲(2004年11月30日)

吉岡実詩の中国語訳(2004年10月31日)

吉岡実とナボコフ(2004年9月30日〔2017年9月30日追記〕〔2021年5月31日追記〕)

吉岡実の視聴覚資料(1)(2004年8月31日〔2007年4月30日追記〕)

ポルノ小説《アリスの人生学校》(2004年7月31日)

吉岡実の未刊行詩三篇を発見(2004年6月30日〔2004年9月30日追記〕)

吉岡実愛蔵の稀覯書(2004年5月31日)

「吉岡實」から「吉岡実」へ(2004年4月30日〔2008年1月31日追記〕)

吉岡実の俳号(2004年4月30日〔2005年2月28日追記〕〔2017年12月31日追記〕)

吉岡実と村野四郎(2004年3月31日)

吉岡実宛書簡〔1989年11月5日付〕(2004年2月29日)

もろだけんじ句集《樹霊半束》のこと(2004年1月31日)

村松嘉津《プロヷンス隨筆》(2003年12月31日〔2004年7月31日追記〕)

北原白秋自選歌集《花樫》(2003年11月30日)

《ちくま》編集者・吉岡実(2003年10月31日)

インターネット上の「吉岡実」(2003年9月30日〔2003年10月31日追記〕)

吉岡実と《金枝篇》(2003年8月31日)

吉岡実詩集《静物》稿本(2003年7月31日〔2010年6月30日追記〕〔2011年7月31日追記〕)

2003年版〈吉岡実〉を探す方法(2003年6月30日)

〈詩人の白き肖像〉(2003年5月31日)

H氏賞選考委員・吉岡実(2003年5月31日)

〈父の戦友、吉岡実〉(平井英一さん、2003年4月22日)

〈首長族の病気〉のスルス(2003年4月15日〔2012年3月31日追記〕)

〈波よ永遠に止れ〉本文のこと(2003年3月31日)

吉岡実の話し方(2003年2月28日)

吉岡実の拳玉(2003年2月28日〔2006年9月30日追記〕)

吉岡実本の帯文の変遷(2003年1月31日〔2004年9月30日追記〕)

画家クートと詩〈模写〉の初出(2002年12月31日〔2016年10月31日追記〕)

吉岡実の年譜(2002年11月12日〔2012年8月31日追記〕〔2021年5月31日追記〕)


吉岡実全詩篇〔初出形〕(2019年4月30日)

(別ページ掲載の当該記事にとぶ)


京浜詩の会〈吉岡実氏を囲んで〉のこと(2019年3月31日)

2018年12月31日、ヤフオク!に〈吉岡実 葉書2通 各ペン7行 京浜詩の会宛 昭和38年4月〉が出品された。商品説明には「京浜詩の会への座談会出席承諾の件・保存状態良好です。」とあった。入札の開始が年末だったせいや、やはり同じころ出品された吉岡実の高橋康也宛書簡の入札にかまけていたせいもあって、落札することができなかった。いま考えると、もっと執拗にフォローすべきであったと悔やまれる。ところで、なにに限らずコレクション熱が嵩じてくると、市販のブツのコンプリート、限定のそれのコンプリート(これがなかなかに難しい)、最後が一点ものの蒐集、と深入りしていくわけだが、書物の場合は市販本、限定本、1点製本のルリユール、著者の生原稿や色紙・短冊、書簡や日記というぐあいに、ハードルはどんどん高くなっていく。私はいまだに詩歌集《昏睡季節》(草蝉舎、1940)を手に入れていない貧弱なコレクターに過ぎないが、ブツにフェティッシュにこだわるよりは、未知の情報に接したいという気持ちの方が強いことを告白しなければならない。万が一、《昏睡季節》と吉岡実の日記が同じ値段で手に入るという事態に立ちいたったならば、迷わず日記を選ぶ(《昏睡季節》は、幸運にも吉岡家蔵の手択本――といっても書きこみなどは一切ない――をしばらく手許に置くことができたという事情もあるが)。ひるがえって〈吉岡実 葉書2通 各ペン7行 京浜詩の会宛 昭和38年4月〉の情報的価値を言うなら、これは第一級のものだった。遅まきながら、同資料をじっくりと検討してみたい。はじめにヤフオク!に掲げられた商品写真を見よう。

〈吉岡実 葉書2通 各ペン7行 京浜詩の会宛 昭和38年4月〉
〈吉岡実 葉書2通 各ペン7行 京浜詩の会宛 昭和38年4月〉〔出典:ヤフオク!〕

光量が足りないうえ、手振れのため画像がぼやけていて、文面の判読は困難を極める。科学捜査研究所の手を借りて、画像解析したいくらいだ。自力で読みえたかぎり、次のようになる。

〔……〕
ただきたいと思います。
五月十一日の六時ころまでに参ればい
いですね。拝眉の折まで。
              敬具

………………………………………………

〔……〕
小生を囲む会にしていただいて、ありがと
う存じます。小生は理論的に筋道の
立つ話ができないからです。勝手を云っ
て申訳ありません。五月十一日に皆様
とお会するのをたのしみにしております。
               敬具

ハガキの表[オモテ]面(ヤフオク!掲載の写真は掲げないが)に見える宛名は京浜詩の会代表の竹内多三郎で、発信人は住所や社名が印刷された筑摩書房の社用ハガキに「吉岡実」と手書きされている。まさに「京浜詩の会への座談会に出席を承諾した」内容なのだが、京浜詩の会のことはこのハガキで初めて知った。先日、国立国会図書館の所蔵する月刊詩誌《京浜詩》(京浜詩の会)の当時のバックナンバーを閲覧した。残念ながら、吉岡実の寄稿も吉岡が出席した座談会の記事も載っていなかった。かわりに、京浜詩の会が主催した〈講師を招いての研究例会〉の案内があって、例会の様子がわかった。

《京浜詩》第25号(京浜詩の会、1963年8月10日)の〈講師を招いての研究例会〉の案内と奥付のページ 《京浜詩》第26号(同、1963年9月14日)の研究例会の案内
《京浜詩》第25号(京浜詩の会、1963年8月10日)の〈講師を招いての研究例会〉の案内と奥付のページ(左)と同・第26号(同、1963年9月14日)の研究例会の案内(右)〔いずれもモノクロコピー〕

国会図書館所蔵の《京浜詩》は1〜107号(1959年11月〜1971年8月)で、3号と11号が欠号。第25号の研究例会の案内に「G〔=ゴチ〕」や「9ポ」と書きこんだのは、同誌の編集兼発行人の竹内多三郎その人ではないだろうか(ほかにも、いたるところに書きこみや切りぬきがあり、雑誌の制作に使ったものと思しい)。より詳しい情報の第26号の文言を起こしてみよう。なお、9と10は第25号から補った。

京浜詩の会

講師を招いての研究例会
(どなたもお気軽にお出下さい)

毎月第二土曜日午后5時半より   会場 川崎市歯科医師会館

9 近代詩と現代詩 木原孝一
10 三六年詩壇の問題点 黒田三郎
11 詩と映画 清岡卓行
12 詩の中の眼 村野四郎
13 詩の朗読について 近〔東→藤〕東
14 タゴールの愛国詩と抵抗詩 大江満雄
15 山村暮鳥について 藤原定
16 現代詩随言 風山瑕生
17 女流詩人を囲んで 新川和江 内山登美子
18 詩人講演会 金子光晴 岩佐東一郎
19 宮沢賢治について 山本太郎
20 高村光太郎のこと 草野心平
21 三人の詩星 神保光太郎
22 現代詩の未来 長谷川竜生
23 アメリカの現代詩とリトルマガジンについて 諏訪優
24 吉岡実氏を囲んで 吉岡実
25 岩田宏氏を囲んで 岩田宏
26 戦後詩の一視点 堀川正美
27 (九月) 伊藤信吉
28 (十月) 西脇順三郎 小野十三郎 田村隆一(予定)
                (略敬称)

〈講師を招いての研究例会〉の講師と演題は判明したわけだが、かんじんの内容はほとんど誌面に残されていない。吉岡実の会以前では、第21号(1963年4月13日)の長谷川竜生〈現代詩の未来〉(同誌、二〜一三ページ)が例外だ()。本稿は「(未完)」で、末尾には「本文は三月九日川崎市歯科医師会館における録音から先生の許可を得て掲載いたしました。」とある。第24回の〈吉岡実氏を囲んで〉は、思うに、長谷川の講演を掲載した第21号を見本として添えて吉岡に講師役を依頼したところ、自分は「理論的に筋道の立つ話ができない」と逃げを打たれたため、それならフリートークあるいは質疑を交えた放談で、ということに落ち着いたのではないか。それとも、往年のTV番組《笑っていいとも!》のトークコーナー〈テレフォンショッキング〉のように、講師が順に次の講師を指名もしくは推薦していったのだろうか。諏訪優と吉岡実の接点は「猫」くらいしか思いつかないが、吉岡実と岩田宏は、のちに仲たがいするものの、前年1962年に吉岡が岩田の詩集《頭脳の戦争》(思潮社)を装丁しているくらいだから、当時は《鰐》の旧同人として往き来があったはずだ。また、長谷川竜生までの《歴程》つながりの講師陣も無視できない。ちなみに、研究例会の会場となった川崎市歯科医師会館の2019年現在の所在地は、神奈川県川崎市川崎区砂子2-10-10で、川崎駅東口から徒歩約5分の処だという。
ところで、京浜詩の会の講師を務めた1963年とは、吉岡にとってどんな年だったのか。吉岡はこの年4月で44歳。1月に〈馬・春の絵〉(E・5)、2月に〈珈琲〉(E・3)を書いたあと、作品は半年後の8月に〈模写――或はクートの絵から〉(E・4)があるだけだ。一方、天澤退二郎との〈新春対談〉(1月)や高柳重信たちとの〈第二回俳句評論賞選考座談会〉(2月)、草野心平たちとの〈第13回日本現代詩人会H氏賞選考委員座談会〉(7月)に出席しており、ギャラリーがいるとはいえ、京浜詩の会の研究例会で喋ることは億劫ではなかったと思しい。それにしても、演題[テーマ]を指定されて話すというのは吉岡の本領とはいえず、結局〈吉岡実氏を囲んで〉という、ほとんど〈題未定〉のようなことに立ちいたった。このときに、理路整然と自身の詩論を語れなかったことが負い目となったのだろう(京浜詩の会の研究例会では〈どのようにして詩を書くか〉という演題が示されたに違いない――というよりも、この時期、吉岡実に尋ねたいことがあるとすれば、これに尽きる)。それが、4年後に《詩の本》(筑摩書房、1967)の企画で〈詩の技法〉を乞われた際に、〈わたしの作詩法?〉を書きあげる原動力となった、と見るのはうがちすぎか。
さて、この一件を吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉の「一九六三年(昭和三十八年) 四十四歳」に付け加えるとすれば、

『西脇順三郎全詩集』を筑摩書房から刊行した縁で西脇順三郎の知遇を得る。
五月十一日夕刻、川崎市歯科医師会館での「京浜詩の会」(代表・竹内多三郎)の月例の研究例会で講師を務める。演題は「吉岡実氏を囲んで」。

とでもなろうか。その後、《現代詩手帖》や《ユリイカ》などの詩の雑誌が〔吉岡実特集〕を組むたびに、人と作品について吉岡実と吉岡に近しい詩人との対談を企画した淵源には、この公開座談会があったと見るべきだろう。吉岡実がこうした公開の場で自身の詩を語ったのは(語ったに違いないと考えるが)、私の知るかぎりこのときだけだ。自作詩の朗読さえ公開の場でしたことはなかったのだから、その後の吉岡が講演に類するあらゆる依頼を拒み続けたのも無理からぬものがある。

 文化講演とか詩の朗読の会などは、どうも好きではない。だから私は壇上で話をしたことも、詩の朗読をしたこともない。それは私のきわめて個人的な考えにすぎない。このような会合が多くの人達に有効にはたらくこともあるだろうと思う。明治大学には、私の親しい友人たちが人生の教師として、日々教壇に立っている。彼らも協力して「明治大学詩人会」の学生の有志で、一つの会を催そうとしている。失敗するより成功することが、望ましい。(〈詩祭に寄せて〉、《明治大学詩人会主催第1回詩祭》〈詩と朗読の夕べ〉、1984年6月24日、五ページ)

* 吉岡が講師の5月11日の第24回例会以降では、堀川正美〈戦後詩の一視点〉が《京浜詩》第25号(京浜詩の会、1963年8月10日、一〇〜一四ページ)に掲載されている。長谷川竜生(3月9日の第22回)と堀川(7月13日の第26回)のふたつが例外的に掲載にいたった経緯は、当時の《京浜詩》の誌面からは読みとれない。


《薬玉》署名用カードあるいは土井一正のこと(2019年2月28日)

吉岡実は随想〈くすだま〉(初出は《新潮》1985年11月号)を次のように始めている。

薬玉――いろいろの香料・薬草を入れた袋に、菖蒲や艾の造花を飾り、五色の糸をたらす、一種の魔除け。それが本来の薬玉のすがたらしいのですが、現在では、進水式や開店祝いなどに使われています。「香気」と「俗気」をとじ込めた、相異なる「玉」を合体させた「球形の世界」が、詩集『薬玉』なのです。
 このような文章を、私は署名用のカードに印刷して、出来たばかりの詩集に添え、親しい人たちに贈った。一昨年の晩秋のことである。
 ――ことだま、すだま、あらたま、いずれも玄妙な古語のひびきが、私は好きだ。それらに類似して、かつまた「球体」のイメージを持つ「くすだま」を主題に、一篇の詩を書いた。その時すでに、新しい詩集の題名は決ったも同然であった。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二九五ページ)

その「署名用のカード」が2018年11月24日、〈詩人吉岡実自筆サイン〉のタイトルでヤフオク!に出品された。出品者は西宮の「daichan412」、状態は「やや傷や汚れあり」、入札開始時の価格は200円、商品説明に「生前親交のあった表はため書き入り吉岡実さんのサイン。裏面は新刊本の案内でしょうか?/はがきより少し大きなサイズです。/経年のためやけはあります。かなり茶色に焼けています。/ノークレーム、ノーリターンでお願いします。」とある。入札の結果は、というと、ヤフオク!ではこのところ負けてばかりいたのだが、競り半ばで開始価格の10倍の値を付けて、無事に落札することができた。

《薬玉》署名用カード(表面)の〔献呈〕署名 《薬玉》署名用カード(裏面)の文章
《薬玉》署名用カード(表面)の〔献呈〕署名(左)と同(裏面)の文章(右)〔出典:ヤフオク!〕

《薬玉》署名用カード(裏面)の吉岡による詩集刊行の案内文を起こしてみよう。第二段落は、上掲の随想〈くすだま〉では少しく変更されている。

 秋も深まって来ました。前詩集『夏の宴』を出してから、早いもので四年の歳月が流れました。その間、若干の散文と詩を書いたにすぎません。一寸さびしい気がします。さて、ほぼ三年間の仕事の十九篇を収めた、新詩集『薬玉』を上梓いたしました。
 ――いろいろの香料・薬草を入れた袋に、菖蒲や艾の造花を飾り、五色の糸をたらす、一種の魔除け――。それが本来の「薬玉」のすがたらしいのですが、現在では、進水式や開店祝いなどに使われています。「香気」と「俗気」をとじ込めた、相異なる「玉」を合体させた「球形の世界」が、詩集『薬玉』なのです。
 鈴木一民・大泉史世ふたりが労をおしまずに、思いどおりのものを造ってくれました。

ヤフオク!の写真では細かい処まで読みとれないが、原物を見ると、古染/象牙/うす茶系の(「経年のためやけはあります。かなり茶色に焼けています。」ではない)、ハガキよりややラフな手触りの用紙(天地161×左右111mm)に茶色のインクで刷った活版印刷物で、表面の宛名の上を翔ぶ鳥のカットはいうまでもなく詩集《薬玉》のそれである(カットの寸法は、組立函の貼題簽のそれと同じ)。吉岡の文体は完全に書簡文で、私がこれまでに読んだもののなかでは、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987年9月30日)の献本時に同封した〈ごあいさつ〉という題の書簡(印刷物)が近い。

 私たちの敬愛した土方巽が逝ってから、早や一年半余が経ってしまいました。皆様には、それぞれの想いで、故人を追慕されていることでしょう。さて、昨年の夏、出版社のすすめで、土方巽に就ての「本」を書くことになりました。しかし、この「一個の天才」を十全に捉えることは、困難なことです。そこで、私は自分の「日記」を中心に据え、周辺の友人、知己各位の証言をもって、『土方巽頌』をまとめました。
 この本には、皆様の文章を、無断でかつきわめて断片的に「引用」させて頂いております。本来ならば、諒解を頂くのが礼儀とは存じます。しかし、時間的なこと、また叙述方法からも、このようなことに成ってしまいました。何卒、ご寛容のほどをお願い申し上げます。これは土方巽と私との二十年の交流から生まれた、ささやかな「本」です。ここに一冊送らせて頂きます。有難うございました。

  一九八七年九月二十八日
                                    吉岡 実  

「一九八七年九月二十八日」というのは、献本先に送る見本のできあがった、まさにその日の日付であろう。吉岡実と並ぶ《土方巽頌》の著者(たち)ともいえる人人には、一刻も早く本を届けなければならないのだから。
私が吉岡さんから刊行時にいただいた著書は《うまやはし日記》(書肆山田、1990)だけである。そのときは、短冊状の署名箋に太いマーカーで「呈   吉岡実」とあった。本の成り立ちなどは同書の〈あとがき〉に尽くされているから、挨拶文が不要だったこともある。だが、吉岡はすでに病床にあって、新たに執筆できなかったのではあるまいか。《サフラン摘み》(青土社、1976)や《夏の宴》(同、1979)には印刷した挨拶文はないようだし、あと考えられるのは《ムーンドロップ》(書肆山田、1988)くらいだが、はたしてあるものやらないものやら、見当がつかない。――と、第一稿を書いてきて《日本の古本屋》で検索すると、専用箋に署名のある《ムーンドロップ》が出品されているではないか。話の展開からすれば、これを入手しないわけにはいかない。さっそく購入の申し込みをして返信を待っていると、なんと手違いで売り切れの消し込みができておらず、在庫切れにつき、「注文キャンセル」となってしまった。ちなみに売価は\16,200だった。残念。

吉岡実が土井一正に宛てた《薬玉》署名用カードと同書に挟まれていた新聞の切り抜き
吉岡実が土井一正に宛てた《薬玉》署名用カードと同書に挟まれていた新聞の切り抜き

ところで、ヤフオク!の出品者、西宮の「daichan412」が誰かは吉岡実のことを何年も調べていれば見当がつくわけで(献呈先も)、この出品とは別に《日本の古本屋》で検索した署名用カード付きの《薬玉》を東京・青木書店から購入したところ、これが土井一正宛の一本だった。土井は吉岡の先輩格の筑摩書房の編集者で(《日本の古本屋》には志賀直哉や丹羽文雄から土井に宛てた肉筆書簡が出品されているから、存命ではないかもしれない)、本サイトでの土井一正への言及をまとめれば、

1950年代半ば、百瀬勝登の下で《現代日本文學全集》(装丁は恩地孝四郎)の編集を担当、のちに編集部長となった。
《一葉全集〔全7巻〕》(1953〜56)や和田芳恵《一葉の日記》(1956)を担当(装丁は2点とも吉岡)。
《ちくま》(1969年5月創刊)の初代編集者で、1年8ヵ月間刊行のあと、編集を吉岡にバトンタッチした。

となる。筑摩書房に限らず、編集者は現役を退くと担当者時代の文筆家との交流を回想したりするものだが、土井にはそうした著作がなく、創作にも手を染めていないようだ。よって、吉岡実に関する文章も残していない。だが、私が青木書店から購入した一本には、吉岡が《薬玉》で藤村記念歴程賞を受賞したと報じる新聞の切り抜きが挟まっていた。この切り抜きが土井一正の手になるという確証はないものの、私はそうだと思う。土井はこれを詩集に挟んで、かつての同僚の活躍を喜び、記念としたのだろう。いい機会だから、新聞の切り抜きの文面を起こしておこう(紙面の欄外に「'84・10・30」と鉛筆で手書きされた、15行のベタ記事である)。1984年10月の、朝日・毎日・読売・日本経済の各紙の縮刷版を調べてみたが、当該記事は見当たらず、掲載紙は未詳。ちなみに、10月30日の京都新聞には同様の記事があったが、北海道と中日の両紙にはなかった。

 第二十二回「藤村記念歴程賞」(歴程社主催)は、吉岡実氏の詩集『薬玉』(書肆山田刊)と、装丁独自の世界を純粋なかたちで展開している菊地信義氏の「装丁の業績」に決まった。副賞各二十五万円。
 授賞式は十一月十九日午後六時から、東京・新宿の朝日生命ホールで開かれる「歴程フェスティヴァル〈未来を祭れ〉」の席上で。なお、近代詩の父%崎藤村に敬愛を表して、今回から賞の名称に「藤村記念」を冠したという。

吉岡実は、《サフラン摘み》の高見順賞授賞式のことは随想に詳しく書いているが、《薬玉》の藤村記念歴程賞授賞式は

 一昨年の秋、第二十二回「藤村記念歴程賞」を、私は詩集『薬玉』で、菊地信義は「装幀の業績」で一緒に受賞した。装幀家としては初めてのことである。その「授賞理由」のことばが的確に、菊地信義の装幀理念を捉えている。――作者と読者のあいだに位置しながら、透明で濃密な一種の鏡として、作品の解説でもなく外的な装幀でもない装幀独自の世界をきわめて純粋なかたちで厳密執拗に展開している――と。
 新宿の朝日生命ホールでの授賞式の当夜、私は菊地信義に言った。「きみは弁舌が立つと聞いている。私は挨拶だけで逃げるから、そのぶん長く喋ってくれよ」。彼は自信にみちて、引き受けてくれた。菊地信義は壇上で、訥々と語りはじめる。それは人生論的で、満員の聴衆を充分に魅了できそうだった。しかし話はたえず、横道にそれて、うまくまとめられないようだった。隣の席ではらはらしながら、好漢菊地信義の顔を、私は眺めていたのだ。(〈菊地信義のこと〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三四七ページ)
と書いただけで、どのような人人が式に列席したのかはわからない。

 「歴程賞」の授与式の二次会の席で、いささか酔った心平さんが歩み寄り、私の手をしっかりと握って、「賞を貰ってくれてありがとう」と言った。これで『薬玉』も祝福されたのだ。それから五年の歳月が流れている。(〈心平断章――「H氏賞事件」ほか〉、《現代詩読本 草野心平るるる葬送》、思潮社、1989年3月1日、九一ページ)

 五年前のこと、詩集『薬玉』の歴程賞授与式の日、あなたは祝いの言葉を述べに、かけつけてくれましたね。後で聞けば、入院加療中の病院を抜け出して、来られたとのこと。(〈「善人」だったあなたへ〉、《現代詩手帖》1989年3月号〈〔鍵谷幸信〕弔辞〉、一四〇ページ)

土方巽や澁澤龍彦をはじめ幾多の知友に追悼詩や追悼文、弔辞を捧げて1990年5月に歿した吉岡実にとって、《薬玉》の藤村記念歴程賞受賞は最後の晴れの舞台を用意した形になった。《薬玉》を贈られた土井一正も、1984年11月19日の授与式には出席したのだろうか。

――ここまで書いてきて、2019年1月初め、ヤフオク!に吉岡が高橋康也に宛てたハガキが出品されていることを知った(出品時のタイトルは「吉岡実 ◆自筆肉筆 真筆 葉書◆高橋康也 宛◆ワーグナー『ニーベルンゲンの指環』完訳◆『薬玉』 歴程賞受賞◆『僧侶』H氏賞受賞詩人」。ハガキの説明に「ルイス・キャロル、サミュエル・ベケット、シェイクスピアなどの研究で知られ、英国よりCBE勲章を受章した、高橋康也の旧蔵品より―/現代詩のひとつの到達点とされる『僧侶』などの作品で、戦後最高の詩人の一人に数えられる、吉岡実。/今回のお品は、吉岡実の、自筆葉書です。/高橋康也へ宛てられたもので、高橋の『ニーベルンゲンの指環』の完訳のお祝いと、自著の『薬玉』が歴程賞を受賞したことを告げたもの」とある)。無事に落札できたのが次のハガキ。

吉岡実が高橋康也・廸に宛てたハガキ(1984年9月25日付、1984年9月26日〔18‐24〕目黒局消印)
吉岡実が高橋康也・廸に宛てたハガキ(1984年9月25日付、1984年9月26日〔18‐24〕目黒局消印)

吉岡実が高橋康也・廸に宛てたハガキ(1984年9月25日付、1984年9月26日〔18‐24〕目黒局消印)の文面を起こしておこう。

やっと秋晴れの日がつづくようになりました。
ワーグナーの『ニーベルンゲンの指環』の完訳を、
お祝い申上げます。高橋ご一家の美わ
しい共同作業の美わしい結晶!
妻と感銘をふかくしているところです。
さて、ささやかなる報告を。わが『薬玉』
が歴程賞を受けました。発表は、十月中
旬ごろになると思います。
          九月二十五日  実

書誌的事項を記しておく。《ニーベルンゲンの指環》は作:リヒャルト・ワーグナー、絵:アーサー・ラッカムの全4巻本が新書館から出ている。訳者は、第1巻〈ラインの黄金〉(1983年4月10日)が寺山修司だったが、同年5月に寺山が急逝したため、後続の3巻を高橋康也・高橋廸夫妻が共訳している。すなわち、
 第2巻〈ワルキューレ〉(1984年1月20日)
 第3巻〈ジークフリート〉(1984年4月20日)
 第4巻〈神々の黄昏〉(1984年9月10日)
吉岡の礼状の直前に高橋が贈ったのが、第4巻〈神々の黄昏〉だけだったのか、(第1巻を含む)全巻だったのか、はっきりわからない。初版の第1巻から第3巻までは、ジャケットの袖に〈★権力と愛の行方をひめた運命の指環をめぐる荘厳にして官能的な英雄物語――寺山修司〉が、そして第4巻のジャケットの袖に、〈★呪われた指環をめぐる崇高な英雄の悲劇――その円環の構造について――高橋康也〉が掲げられた(ウロボロス!)。吉岡歿後には《ラインの黄金――ニーベルングの指環》(1999年4月25日)が高橋康也・高橋宣也(第4巻の高橋康也による解説には「父母をはるかに凌駕するワグネリアンである息子・宣也」と書かれていた)の共訳で、同じ新書館から出ている。同書は〔The Originals of Great Operas and Ballets〕シリーズの一冊で、同シリーズには康也・廸訳〈ワルキューレ〉、康也・宣也訳〈ジークフリート〉、同じく〈神々の黄昏〉が含まれる。これでようやく「高橋ご一家の美わしい共同作業の美わしい結晶」が完結したわけだ。なお高橋康也は、表題の《ニーベルンゲンの指環》は寺山訳を受け継いだまでで、正しくは《ニーベルングの指環》だと第4巻で指摘している。

〔追記〕
《歴程》のスポークスマンともいうべき粟津則雄の〈詩人たちのフェスティヴァル〉(日本経済新聞、1984年11月25日)が《薬玉》の歴程賞授賞式に触れているので、関連する箇所を引く。

 〔……〕現に今年も、吉岡実氏の詩集「薬玉」とともに、菊地信義氏の装丁の業績が受賞している。〔……〕
 受賞したお二人については、鍵谷幸信氏と古井由吉氏に話をしてもらった。鍵谷氏は、いかにもこの人らしいスナップ・ショットをつらねたような語りくちを通して、吉岡氏の人と作品をあざやかに浮かびあがらせていたし、古井氏は、古井氏の作品も数多く装丁している菊地氏とのかかわりを語りながら、作家と装丁家との謎と不安をはらんだ内的な関係を、古井氏の小説世界を思わせるような暗いまなざしで描き出してくれた。そのあとの受賞者の挨拶も、こういうときにありがちな通りいっぺんのものではなく、それぞれの個性がむき出しのかたちで現われていて、私は、授賞式などという散文的なものではなく、ふしぎな対話劇に立ちあっているような思いをした。(同紙、二四面)

粟津の伝える、鍵谷による吉岡の「人と作品」はなんとしても聴きたかった(入場料を払えばだれでも参加できたというから、悔しいではないか)。そこで国会図書館所蔵の当時のバックナンバーを繰ってみると、《歴程》第315号(1985年1月号)に粟津の〈詩人たちのフェスティヴァル〉が掲載紙の許可を得て転載されているものの、《薬玉》の歴程賞受賞に関する記事は、鍵谷のものも含めて、見あたらなかった。鍵谷幸信はほかの処でも吉岡の《薬玉》について書いていないようで、残念至極。代わりに、第313号(1984年11月号)の表4に〈第十七回歴程フェスティバル『未来を祭れ』〉の告知広告が出ている。このプログラムが面白いので、抜粋して紹介しよう。

とき=昭和59年11月19日(月)午後5時30分開場・6時開演 ■ところ=新宿西口・朝日生命ホール ■入場料=1500円
第T部
 A 歴程大太鼓………………橋本千代吉
 B 第22回藤村記念歴程賞贈呈式
    選考経過………………粟津則雄
    賞贈呈…………………草野心平
    吉岡実について………鍵谷幸信
    菊地信義について……古井由吉
    受賞者挨拶……………吉岡実
              菊地信義
    花束贈呈

 C 恒例・2分間スピーチ 〔……〕(あいうえお順)
  ―――――休憩 10分―――――
第U部
 A 自作詩朗読〈旅五章〉 司会=山本太郎
    犬塚堯・宇佐見英治・渋沢孝輔・宗左近・三好豊一郎
 B 歴程劇『源内どこへ行く』 作=長谷川竜生
    〔……〕
 C フィナーレ
    歴程歌大合唱
    紅白「未来餅」進上………福島県郡山市・柏屋商店提供

第V部〉 懇親会(午後9時より)
    中国飯店「龍門」(新宿西口地下道・スバルビル名店街B2・朝日生命ビル地下隣・会費四千円・どなたもお気軽にどうぞ)

  司会……朝倉勇・赤坂長義・岡本喬・宗左近・花田英三
  進行……宮津博・八坂安守
  制作……粟津則雄・新藤凉子・財部鳥子・辻井喬・山本太郎

プログラムを見るだけで、同人たちがイベントに熟達していることがよく分かる。省略した人名も含めると、吉岡・菊地を除いた《歴程》同人や関係者は50余名にのぼる。壮観というもおろかである(中上健次や埴谷雄高も参加したというフェスティバル当日の様子は、前掲粟津文に詳しい)。ところで、《吉岡実年譜》の冒頭に〈吉岡実のスクラップブックとクリアファイルブック(吉岡家蔵)〉の背表紙の写真を掲げてある。5冊あるその真ん中の緑色のクリアファイルブックに〈第二十二回「藤村記念 歴程賞」のお知らせ〉と題する印刷物が保存されていた。吉岡実の自筆で「(1984.10.19)」「19日着」とメモがある処を見ると、郵送されたものと思しい。そこには、吉岡実詩集《薬玉》の「授賞理由」が次のように述べられている。

 畏怖と嫌悪の稲妻で現実を奥深く解体し、通時態(歴史)と共時態(非歴史)を激突させながら、華麗に枯死している精神の原世界の戦慄のスペクトルを放射する《薬玉》。これは、過去の芸術の前衛の技法の葬礼と再生誕を同時に行う奇蹟的な記念碑。二十世紀末日本からしか生れない世界に類を見ない独自に見事な詩業である。

菊地信義の「装丁の業績」の授賞理由は「作者と読者のあいだに位置しながら、透明で濃密な一種の鏡として、作品の解説でもなく外的な装飾でもない装丁独自の世界をきわめて純粋なかたちで厳密執拗に展開している。その持続的な努力と新鮮な結実は推賞するに足りる。」であり、吉岡は前掲〈菊地信義のこと〉では原文の「装丁」を「装幀」と(変えて)記している。なお、同賞のこのときの選考委員は安東次男、入沢康夫、草野心平、渋沢孝輔、宗左近、那珂太郎、粒来哲蔵、長谷川龍生、山本太郎、三好豊一郎、粟津則雄で、授賞理由を書いたのは委員長の粟津則雄に違いない。


吉岡実と田中冬二もしくは第一書房の詩集(2019年1月31日)

吉岡実は戦前の読書体験についてはかなり詳しく随想に書きのこしているが、愛読誌(とりわけ詩関係)についてはほとんど記していない。これは詩人としての企業秘密といった類ではなく、単行詩集ほど、あるいは俳句の雑誌ほど、熱心に読んでいなかったというだけのことかもしれない。それでも《文藝汎論》(1931〜44、全150冊)には二点の自著の出版広告――《昏睡季節》(1940)と《液體》(1941)――をそれぞれ載せているから、詩の雑誌として評価していたことは確かだ。ちなみにWikipediaには〈文藝汎論〉の項目がなく、「既存の項目から"文藝汎論"を検索する」にして探すと、
 岩佐東一郎
 逸見猶吉
 矢野目源一
 高祖保
 山中散生
といった人の名が挙がる。吉岡はこれらの詩人について書いたことはなく、北園克衛の新作が読みたくてチェックしていた、といったところではないだろうか(今回のテーマである田中冬二も《文藝汎論》には詩を発表しているが)。

 沼は雨になつた/野鴨が下りた/私は鉱泉宿の座敷に病んでゐた――。第一書房の小雑誌「セルパン」の広告欄で、詩集『山鴫』の引用されていた、この三行の詩句に、都会育ちの少年は、すっかり魅せられた。やがて『山鴫』を手に入れ、私は初めて田中冬二を知ったのだった。きわめて日本情緒の濃い、田舎の生活や山野の風景を、点綴しながら、不思議と、即物的で透明度がつよい、詩風だと思った。それから、私は次の詩集『花冷え』も手に入れ、珠玉の短章を愛誦した。――雨に暗い町/仏像等ならんだ骨董屋の店/花活には女郎花[をみなへし]と油点草[ほととぎす]がさしてあつた――。
 すでに耽読していた、佐藤春夫や北原白秋のかずかずの詩篇とくらべて、冬二の詩には、俳諧的な野趣と、モダンな感覚とが融合していた。それゆえ抵抗感がなく、疲れた心を、しばしば慰められたものだ。それからじつに、半世紀近く経てしまった。だから、私にとっては、未知の詩人と言ってもよい。この全集刊行を契機にして、その全容を知りたいと思う。ささやかな想い出のためにも。

吉岡が《田中冬二全集》の内容見本(筑摩書房、1984年11月)に寄せた〈想い出の詩人〉と題する推薦文である。ここで余談を少し。Wikipediaに「第一書房(だいいちしょぼう、1923年 創業 - 1944年3月31日 廃業)は、かつて存在した日本の出版社である。大正末年から戦前の昭和期に長谷川巳之吉が創業し、書物の美にフェティッシュにこだわり、絢爛とした造本の豪華本を刊行、「第一書房文化」と讃えられたことで知られる」とあるように、同社は戦前の詩集の読者には格別の存在で、その内容もさることながら造本・装丁に贅を尽くした本づくりで一時代を画した。茅野蕭々訳《リルケ詩集》(1939)は20代前半の吉岡の詩嚢を肥やした、そしてこちらは読んだ時期が不明だが、ケッセル(堀口大學訳)《昼顔》(1932)は〈感傷〉(C・18)に影響を与えたと思しい、同社刊行の翻訳書である。同じく雑誌のビブリオグラフィには「『セルパン』、編集・発行長谷川巳之吉(のち春山行夫が編集長)、1931年5月1日 創刊」と見える。小田光雄が《古雑誌探求》(論創社、2009)で引いているように、高見順の《昭和文学盛衰史》(講談社、1965年9月25日〔初刊は文藝春秋新社、1958〕)には「〔……〕当時の出版界の智慧者長谷川巳之吉(第一書房)が『セルパン』という雑誌を創刊した。その斬新な編集、しゃれた形式は、十銭という破格の定価と相俟って、この「詩・小説・思想・美術・音楽・批評」(と、表紙にあった。)の雑誌の出現をセンセイショナルなものにした。「パン屋のパンはとらずとも此のセルパンは召し上れ」という宣伝文も人を食ったものだった。この『セルパン』の編集にあたったのが、『新科学的』同人の福田清人であった」(〈第十一章 芸術派の群〉、同書、一六八ページ)とある(春山行夫は編集者にして詩人・随筆家、福田清人はのちに児童文学作家・文芸評論家)。後年、すでに筑摩書房の社員だった吉岡実が伊達得夫の《ユリイカ》を舞台にして詩壇に登場した背景には、《セルパン》(1931〜41)に親しんだことがあったかもしれない。さてこのあたりで、田中冬二の詩に戻ろう。吉岡が推薦文で引いた《山鴫》(第一書房、1935)と《花冷え》(昭森社、1936)の詩は、《田中冬二全集〔第1巻〕》(筑摩書房、1984年12月15日)では以下のとおり。



沼は雨になつた
野鴨が下りた
私は鉱泉宿の座敷に病んでゐた
あのW・Wグリーナの二聯銃[にれんじゆう]を棄てたまま
私はわづかに牛乳とカルルス煎餅[せんべい]と 少量のグレープ・ジュウスをゆるされてゐた
私は睡眠を貪[むさぼ]つた
ゆふぐれ 微睡[まどろみ]の中[うち] 私はアルカリ性炭酸の 鉱泉の水を汲みあげる音をきいた

朽葉[くちは]の匂ひをさせて雨が板屋根をうちはじめた

吉岡が推薦文に引いたのはこの詩の冒頭3行だったが、次の詩は全篇である。

油点草

雨に暗い町
仏像等ならんだ骨董屋の店
花活には女郎花[をみなへし]と油点草[ほととぎす]がさしてあつた

私には〈沼〉を引いた吉岡の心情がわかる気がする。というのは、ほかでもない書肆山田版の吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》(1976)の出版広告に、〈三重奏〉(F・17)の「女友だちは明日は帰ってゆくだろう/彼女の行手に立ちはだかる/わたしの絵のなかの森の道へ」という3行が引かれていたからだ(《神秘的な時代の詩》の広告は、たしか《ユリイカ》に載ったはずだ)。

長谷川郁夫《美酒と革嚢――第一書房・長谷川巳之吉》(河出書房新社、2006年8月30日)には、田中冬二の第二詩集《海の見える石段》(1930)が〔今日の詩人叢書〕の一冊として刊行されたことが書かれている。同叢書には吉岡が親しんだ(と思われる)書目も多い。三好達治《測量船》、青柳瑞穂《睡眠》、竹中郁《象牙海岸》などである。

 〔昭和五年〕七月九日の会〔第一書房「今日の詩人叢書」刊行の「打合せ夕食会」〕には、堀口さんと巳之吉、そして田中冬二、岩佐東一郎、城左門、青柳瑞穂、菱山修三、中山省三郎、三浦逸雄が集まった。三好達治、竹中郁の二人は都合で来られなかった、という(田中冬二「さびしき銀座」)。
 「今日の詩人叢書」の当初の計画は十冊。収録詩人・作品の選定には堀口さんがあたった。
 〔……〕
 堀口さん〔ヴァレリー「文学論」(堀口大學訳)〕を除いて、いずれも新進による第一もしくは第二詩集(例外は「航空術」、これは岩佐東一郎の第三詩集)。最年長は冬二の三十六歳。瑞穂、三十一歳、達治はもうじき三十歳。以下二十代半ばが四人、最年少の菱山修三は二十一歳。清新なイメージの企画だった。「PANTHEON」「オルフェオン」あるいは「文學」の寄稿者たちである。
 四六判、上製(背革の継表紙)、貼凾入り。限定千部、定価は一円。本文は百二十頁までとする。こうした方針も七月九日までには、各著訳者に伝えられていたものと思える。(同書、二〇〇ページ)

 田中冬二は、七月九日の帝国ホテルでの夕食会に招かれて、堀口さん以下出席者全員にはじめて会ったという。「以来これが御縁で先生の謦咳に接するに至った。私として生涯の幸せと思っている」(「堀口大學先生のプロフィル」)と記している。〔……〕冬二の第三詩集は「山鴫」、十年七月に第一書房から出版された。「花冷え」(十一年七月、昭森社)、「故園の歌」(十五年七月、アオイ書房)と詩集はつづく。(同書、二〇二ページ)

長谷川郁夫が指摘するように、この〔今日の詩人叢書〕(詩集は予告された全7冊、三好達治詩集《測量船》、岩佐東一郎詩集《航空術》、城左門詩集《近世無頼》、田中冬二詩集《海の見える石段》、青柳瑞穂詩集《睡眠》、竹中郁詩集《象牙海岸》、菱山修三詩集《懸崖》が刊行された)のラインナップを企画したのは堀口大學であり、吉岡実の昭和10年代の詩書の受容は、長谷川巳之吉=第一書房=堀口大學が先導した詩人たち(《山鴫》の田中冬二を筆頭とする)が大きな柱をなしていた。ちなみに、昭和30年代、伊達得夫の書肆ユリイカが刊行した現代詩人の個人選集(吉岡実も含まれる)のシリーズ名は、第一書房のそれとはわずか一文字違いの〔今日の詩人双書〕だった。これはもはや確信犯である。興味深いことに、吉岡は〈断片・日記抄〉(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968)や〈〔自筆〕年譜〉(《現代の詩人1 吉岡実》、中央公論社、1984)では、《吉岡實詩集》(書肆ユリイカ、1959)のシリーズ名を第一書房版と同じ「今日の詩人叢書」に誤記・誤植している。
さて、吉岡実は田中冬二について、全集の推薦文という形で文章を遺したが、田中冬二(吉岡より25歳年長)は吉岡実の作品には言及していないようだ。また、吉岡実と文学賞に書いたように、二人は1961年春の第11回H氏賞(吉岡が《僧侶》で受賞した翌翌年)の選考委員会で席を同じうしているが、田中は選考委員長として「審議に当つては各委員が各の意見を充分に吐露すると共に、相容れるべきは容れ、其の本領をつくし極めてスムーズに選考を了し得たことを附記する」(《詩学》1961年5月号、五一ページ)と書いただけで、他の選考委員(木下常太郎・西脇順三郎・村野四郎・安藤一郎・黒田三郎・清岡卓行・三好豊一郎・吉岡・山本太郎)の意見に触れていない。後年になるが、田中冬二は詩人とその作品全般について、次のように書いている(《奈良田のほととぎす》、ギャラリー吾八、1973年7月)。

詩人のサブスタンス

 詩人の作品は、その詩人のサブスタンスであることは、今更言うまでもないことだ。ところで、その詩人の性行や日常生活の状態を知ることは、作品とは別の趣があるばかりでなく、それは畢竟サブスタンスの源泉に直接触れることにもなる。たとえば日記書簡手記ノート等、そこにはその人の虚飾なき純粋のものが見られる。いくらなんでも日記のフィクションはないだろう。そうしたものの中から、作品以上のエトワスを見出したりする。これはたいへんたのしいことである。
 先頃私はある人の慫慂で、手記の一部をある雑誌に発表することにした。これは私の懐[ふところ]――台所を、そのままお目にかけるようなものだ。テーマは「サングラスの蕪村」と洒落てみたが、たいしたものではない。内容は思念をはじめ感想、あたらしいセンスとニュアンスのようなもの、浪曼的の夢、私だけのハイマート、其他日常見聞したこと、それからひとさまへの手紙の一節、ひとさまからの手紙の一節、その中には女性からの甘い言葉もある(これだけは公表出来ない)。兎も角この手記は私自身いつ見てもたのしい。それでこれからも書きつづけてゆくつもりだ。そして時機を見て一冊の書物にまとめたく思っている。別段ひとさまを傷つけたり、社会の安寧秩序を乱すものでないから、何も臆することはないと思う。

田中冬二の詩は一点一画をおろそかにしない厳しさに貫かれている。最後の詩集となった《八十八夜》(しなの豆本の会、1979年3月1日)の末尾にひっそりと置かれた次の詩でさえ、例外ではない。疑う者は、「バランタイン」「靴下」、「思い」「実現」の用法を見よ。

忘れえぬひと

美貌で爛熟した肉体
セクシーで微笑を湛えての
ウィンクに魅了される
そのひとと幾度かデートした
その帰りしなにそのひとは私に
或るときはウイスキーのバランタインをまた或るときは靴下をプレゼントとしてくれた
その靴下の色が私の好みにぴつたりで
そのひとのセンスがよく窺[うかが]われてゆかしかつた
デートを幾度も重ねていて思いがありながら実現に至らなかつた
それが反つて長い付き合いとなつたと言えよう
反面私はそのひとの揶揄[やゆ]に翻弄[ほんろう]されていたのかも知れない
それにしても私はそのひとを諦[あきら]めることは出来ない

いっぽう、その散文(例えば上掲〈詩人のサブスタンス〉)は浴衣がけとでもいえばいいのか、肩の力が抜けた洒脱なものだ。筑摩書房版全集の第1巻〔詩T〕と第2巻〔詩U〕がよそ行きのかしこまった姿だとすれば、第3巻の〔俳句・随想〕の随想は自室で寛ぐ姿であり、当方も寝転がって読めそうな気がする(俳句は少しく姿勢を正す必要があるが)。おしまいに、最初の句集《行人》(ちまた書房、1946)の冒頭句と、〈俳句拾遺〉の末尾句(絶筆である)を掲げる。ともに、食べ物をおりこんでいるのが嬉しい。

焚火して春の七草売つて居り
軽井沢に東京の香や下谷鰻重(《俳句公論》昭和55年〔1980年〕6月)

〔付記〕
吉岡実は《月下の一群》(これは戦後の日記に登場する)や《近代劇全集》、豪華版の全詩集などの第一書房の出版物を読んでいるはずだが、それらについて書き記したものは残っていない。そこで、〈日記 一九四六年〉に登場する青柳瑞穂詩集《睡眠〔今日の詩人叢書〕》(第一書房、1931年1月20日)をとりあげよう。当時、香柏書房に勤務していた吉岡はその日記で、

 一月十六日 朝、大森の村岡花子氏のところへ寄る。「あなたは詩を書かれるのですってね」と言われ、思わず顔をあからめる。人をそらさん人である。午後、坪田譲治氏をたずねる。火鉢をかこんで雑談。奥さんがふかし芋とお茶を出してくださる。心たのしい一刻。途中の本屋で青柳瑞穂詩集《睡眠》を買う。三時に神田の事務所へ戻る。遅い昼飯。十電舎の女子事務員がお茶をいれてくれる。やさしい娘さんだ。(《るしおる》5号、1990年1月31日、三四ページ)

と書いている(このころ坪田は西池袋に住んでいた)。青柳瑞穂は堀口大學門下の詩人だが、長谷川郁夫が「「睡眠」はながい間、青柳瑞穂のたった一冊の詩集だった。(昭和三十五年に「睡眠前後」が大雅洞でまとめられた。)〔……〕「仏蘭西新作家集」、〔……〕ラクルテル「反逆児」を第一書房から翻訳出版している。ただ、私には「オルフェオン」第三―七号に連載されたロートレアモン「マルドロオルの歌」が、部分訳であったにせよ、出版されなかったことを第一書房にとって残念なことだったと思われる」(《美酒と革嚢》、二〇二ページ)と書くように、今日では翻訳家として記憶されている。ロートレアモンの《マルドロオルの歌》は1994年に講談社の文芸文庫に入ったから、よけいにそう感じるのかもしれない。青柳の詩集《睡眠》は、吉岡の日記の時点で、刊行から15年が経っている。刊行時には入手できなかった眷恋の書だったかもしれない。《睡眠》の仕様は、一八八×一三〇ミリメートル・一三六ページ・上製丸背継表紙(背は革、平は紙)・天金・貼函(ただし、手許の一本はこれを欠く)。本書に装丁者のクレジットはないものの、長谷川巳之吉の意向が働いていることはまぎれもない。ところで、上製丸背継表紙は晩年の吉岡が愛用した造本・装丁の様式でもあるが、〔今日の詩人叢書〕のそれとの関連性は薄いようだ。吉岡は継表紙をA5判や菊判の本に採用しているが、それより小さい四六判の〔今日の詩人叢書〕は、華美というよりむしろ鈍重な印象を与える。本文用紙(扉は本文共紙)や印刷が見事なだけに、天金も含めて、外周りはオーバースペックではなかったか。保存の状態にもよろうが、所蔵の一本の背革(突きつけで、構造上の問題はないようだ)は、表1側のミゾの処で罅割れて、無残なまでに劣化している。吉岡は瑞穂《睡眠》に収められた、朔太郎《青猫》の口移しのような標題詩をどう読んだのだろう(Shift JISのテキストとして表示できる旧字は表示した)。

睡眠|青柳瑞穂

薄暗[うすぐら]い部屋[へや]のすみに
ひとり眠[ねむ]つてゐるは病氣[びやうき]のひとです
薄暮[はくぼ]のほのかなるあたりに
さくらの花[はな]の滿開[まんかい]はすこしく色[いろ]あせ
漂[ただよ]ふ晩春[ばんしゆん]のかすかな日[ひ]かげ
そこにながいまへから呼吸[こきふ]するのは
おほきな蝶[てふ]のはばたくやうだ
うす蒼[あを]い粉[こな]のある肌[はだへ]のうへに
さびしく艶[なま]めくおしろいのにほひ
目[め]をつむり深[ふか]いねむりにおちる
いまはいつもいつも眠[ねむ]る時間[じかん]です

やさしく しぜんに息[いき]づき
とほく幽明[いうめい]をさすらふ
ひとよ
あまりに暗[くら]く 暗[くら]く
いづこにか さくらの花[はな]のやうに
かよわくいためる肉體[からだ]は匂[にほ]ふ

青柳瑞穂詩集《睡眠〔今日の詩人叢書〕》(第一書房、1931年1月20日)の函 青柳瑞穂詩集《睡眠〔今日の詩人叢書〕》(第一書房、1931年1月20日)の表紙 第一書房刊行の〔今日の詩人叢書〕のうちの詩集6冊〔出典:《田中冬二展――青い夜道の詩人》(山梨県立文学館、1995年9月30日、一六ページ)〕
青柳瑞穂詩集《睡眠〔今日の詩人叢書〕》(第一書房、1931年1月20日)の函(左)と同・表紙(中)と第一書房刊行の〔今日の詩人叢書〕のうちの詩集6冊〔出典:《田中冬二展――青い夜道の詩人》(山梨県立文学館、1995年9月30日、一六ページ)〕(右)

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西池袋 水藤春夫作成〈坪田譲治年譜〉の「大正五年(一九一六) 二十六歳」の項には、「〔東京〕府下北豊島郡高田町大字小石川(狐塚)八六六番地(のち、豊島区雑司ヶ谷六丁目一一八五番地、現・豊島区西池袋二―三二―二○番地)に移転。以後ここに定住する」(《坪田譲治全集〔第12巻〕》、新潮社、1978年5月20日、三七六ページ)とある。吉岡が寄った「途中の本屋」が池袋なのか、どこかほかの処なのかわからないが、この日、坪田を訪ねたのは、香柏書房(東京都神田區錦町一ノ六)がこの年の7月15日に刊行する童話集《異人屋敷》(装丁:中尾彰)の打ち合わせのためだったかもしれない。10月30日には同じく中尾彰の装丁で童話集《魔法の庭》が香柏書房から出ているが、吉岡はそれを待たず、8月に同社を退いている。


吉田健男の肖像(2018年12月31日)

吉岡実が詩集《静物》(私家版〔発行人は太田大八〕、1955)にまとまる詩を書いていたころ、最も親しかった友人が、太田大八の多摩帝国美術学校図案科時代の後輩、吉田健男である。吉岡は1952年ころから、魚籃坂に近い化粧地蔵下の岩瀬家の二間続きの部屋に吉田健男と住んでいたが、この若い絵描きは1954年、年上の女性と心中してしまった。吉田健男は、絵本作家として大成した太田大八(1918〜2016)や昭和後期を代表する詩人となった吉岡実(1919〜90)のような、自身の仕事をなすまえに自ら命を絶った(ここで私事をさしはさむなら、私の昔の会社で同僚だったHは、その後、経営がうまくいかなくなって自死したが、やはり同僚だったMは「女が原因で死ぬならともかく、仕事のために死ぬなんて」と歎じた。口惜しい死だった)。私は吉田健男の事績を検証/顕彰するために、これまで〈吉岡実と吉田健男〉(2007年4月)と〈吉田健男の装丁作品〉(2008年3月)を書いたが、さきごろ〈〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引〉の試み〉(2018年8月)を書く段になって、その生年さえわからないことに愕然とした。次に掲げるのは、〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引 解題〉の吉田健男の項(未定稿)である。

吉田健男(よしだ・たけお、192?-1954)
生年は未詳。太田大八(1918-2016)の多摩帝国美術学校図案科時代の後輩の画家で、吉岡実の年少の友人。吉田健男のオジ(?)は翻訳家・英文学者・児童文学者の吉田甲子太郎(1894-1957)だという(太田大八談)。
  ――吉岡は〈西脇順三郎アラベスク〉の「3 化粧地蔵の周辺」で、健男と同居していたころのことを回想している。また〈〔自筆〕年譜〉に「健男の死を契機に、現れた女性T・Iと奇妙な恋愛遊戯」と書いている。
  ――吉岡実と吉田健男
  ――吉田健男の装丁作品

吉岡実と太田大八亡きあと、吉田健男を語れるのは大八の妻、太田十四子さんを措いてほかにない。2018年の9月下旬、1951年から居を構える東京・練馬のお宅に、十四子さんと、長男でイラストレーター・絵本作家の太田大輔さんを訪ねた(大輔さんは1953年の生まれで、1960年3月27日の吉岡の日記には「日曜 晴 とん子、エリカ、大輔、猫を見に来る」とある。吉岡はクリスマスにはプレゼントの玩具をくれる、おじさんのような存在だったという)。残念ながら、吉田健男の生年は判明しなかった。考えてみれば、半世紀以上前に亡くなった友人の経歴を詳細に記憶していることのほうが珍しかろう。かわりに観ることのできたのが、太田家所蔵のアルバムに収められた吉田健男の肖像写真である。吉岡が未完の随想〈蜜月みちのく行〉(初出は筑摩書房労組機関紙《わたしたちのしんぶん》1959年6月10日――すなわち陽子夫人との東北旅行のまさにひと月後の発行)で新婚旅行の出発にあたって、「カメラが欲しくなったので、太田大八に電話して持って来て貰うことにした。〔五月十日〕十二時半、神田淡路町のイエローカップで落ち合う。十五分ほど操作をきく」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二〇ページ)と書いた、そのカメラで太田大八が撮影したものだろうか。十四子さんのお許しを得て、吉田健男の肖像を掲げる。いずれも撮影の年代や場所は不明だが、横位置の2枚は服装からすると同じときのものだろう。室内での2点は、壁に映る影まで演出されているようで、撮影者のなみなみならぬ技量を感じさせる。4点とも椅子に腰かけているのは、ポートレートを撮るという(太田大八の)撮影意図が働いていたためか。なお、ここには掲げなかったが、吉田健男は1950年の夏、太田大八たちと神奈川・逗子の海岸に遊んでいる。

吉田健男の挿絵画家としてのデビュー作と思しい羽田書店編集部編《ふしぎなごてん――世界のお話〔こども絵文庫23〕》(羽田書店、1950年12月20日)は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる(紙の本としては閲覧できない)。2018年11月22日、練馬区立光が丘図書館内で閲覧(卒読)したので、概要を記す。〈もくじ〉の次にあるクレジットに「ひょうし くちえ  太田大八」「さしえ  吉田健男/太田大八/横田昭次」とあるように、外周りの主導権を握ったのは太田大八で、中面のヴィジュアルを吉田と太田と横田が分けあったのは、年末の慌しい日程のなかで、急いで絵を仕上げなければならない状況だったのか(書名に採られた一篇が〈もくじ〉では〈ふしぎな ごてん〉、本文ページでは〈はしらのうえのごてん〉と題されていて、内容からすれば確かに後者のほうがふさわしいのだが、書名優先だったのだろう)。誰がどの話に挿絵を描いたのか、絵柄からだけでは断定できない。Webcat Plusの目録も参照しつつ、〈もくじ〉を記す。

おいしいぱんは だれのもの アメリカのおはなし / 5
らくだの ねがい 中國のおはなし / 12
わらでつくった 牛 ロシヤのおはなし / 18
はんぶんの ひよこ スペインのおはなし / 31
ふしぎな ごてん インドのおはなし / 40
もりの はなよめ フィンランドのおはなし / 57

奥付には「昭和廿五年十二月十五日印刷/昭和廿五年十二月二十日発行/定価一五〇円/発行所 東京都千代田区神田駿河台三ノ四 株式会社羽田[はた]書店」(漢字は常用漢字に改めた)などと見える。カラー印刷の裏表紙には〔こども絵文庫〕既刊分の全22冊が紹介されている。第1冊は太田大八が初めて挿絵を手掛けた「うさぎときつねのちえくらべ(アメリカ童話)八波直則」で、第22冊は「アフリカの偉人……(社会科)丹野節子」――未見だが、NDL-OPACによれば絵は太田大八――。その後に、赤い文字で「以下続刊/羽田書店」と謳っている。羽田書店の〔こども絵文庫〕は、太田大八と吉田健男という二人の挿絵画家を生んだわけである。

吉田健男〔写真提供:太田大八家〕 吉田健男〔写真提供:太田大八家〕 吉田健男〔写真提供:太田大八家〕 吉田健男〔写真提供:太田大八家〕"
吉田健男(4点とも)〔写真提供:太田大八家〕

手許に《言語生活》第37号(1954年10月1日)がある。国立国語研究所が監修し、筑摩書房が発行した雑誌の本号の特集は〔作家の用字用語〕。〈目次〉の最後に「表紙…………吉田 健男」「カット…………太田 大八」とある。健男が心中したのがこの1954年の夏もしくは秋だから、最後の仕事のひとつだろう(吉岡は、この雑誌の編集や製作には関わっていないようだ)。表紙と太田大八のカットのページを掲げる。吉田健男の表紙は、学術的な雑誌によくみられるような目次=内容を織りこんだ機能的なものだが、バックの幾何学的な模様はいかにも力弱く見えてしまう。いっぽう太田大八のカットは、スピーディかつ安定したタッチ(クレヨンのような筆致)による手慣れた仕事で、扉には小舟が描かれている。十四子さんによれば長崎の海辺で育った大八は静岡・伊豆の海が好きで、よく出かけたという。「私」〔=吉岡〕が「D」=〔大八〕と行った「狭島というさびれた漁村」(当初は詩的散文、のちに随想の扱いになった〈突堤にて〉の冒頭)も関東近県のようだから、おおかた伊豆の海ででもあろうか。その地で編集されたと推察される詩集《静物》が出るのは、翌1955年の夏である(〈吉岡実詩集《静物》稿本〉の〔2010年6月30日追記〕を参照のこと)。

《言語生活》第37号(監修:国立国語研究所・発行:筑摩書房、1954年10月1日)の表紙〔吉田健男〕 《言語生活》第37号(監修:国立国語研究所・発行:筑摩書房、1954年10月1日)のカット〔太田大八〕 《言語生活》第37号(監修:国立国語研究所・発行:筑摩書房、1954年10月1日)のカット〔太田大八〕
《言語生活》第37号(監修:国立国語研究所・発行:筑摩書房、1954年10月1日)の表紙〔吉田健男〕(左)と同・扉のカット〔太田大八〕(中)と同・本文ページのカット〔太田大八〕(右)

〔付記〕
太田大八は、その自伝ともいうべき著書《私のイラストレーション史――紙とエンピツ》(BL出版、2009年7月1日〔初出は絵本ジャーナル《PeeBoo》1990〜94〕)で、吉田健男のことを次のように書いている。

 その頃〔1950年頃〕よく私と仕事を分けあっていた多摩美の後輩で吉田健男という男と一緒に、学校図書へ話を聞きに行くことにしました。
 私は戦時中からずっと着たまんまの、中学時代のオーバーを改造して作ったジャンパーにブラシをかけ、一緒に行く健男に言いました。
 「ものほしそうな顔をするな。胸を張って堂々と行こう」
 学校図書に行くと、名前は覚えていませんが丸刈りの社長さん自らが会ってくれました。
 それはとてつもない仕事の量だったのです。
 帰り道、健男と二人で喫茶店に入り、狸の皮算用を始めました。二人でこれをやり遂げれば、当時の私たちの生活では思いもよらぬ金額になる筈でした。しかし仕事の量と期限の関係で、他に応援を頼まなければなりません。
 羽田書店の仕事のおかげで、他社の仕事も僅かながら描けるし、この際「鶏口となるも牛後となるなかれ」とたいそう大時代なスローガンを唱えて独立を決意し、GHQを退職しました。(同書、五六ページ)。

「仕事を分けあっていた」というのは言葉の綾で、仕事を取ってきたのはもっぱら太田大八だったのではないか。1944年、太田大八と吉田健男は雑誌《多摩美術》学徒出陣号の編集委員を務めているが、ここでも太田が編集作業の助力を吉田に依頼したように思えてならない。だが、いきなりそこに行くまえに、興味深い資料を見ておきたい。多摩美術大学に学び、2012年まで同大学に奉職した高橋士郎(1943年生)の〈多摩美術大学の歴史(高橋士郎講義ノート)〉には〈参考文献〉が付されていて、その〈第3章 『多摩帝国美術学校』  徴兵猶予から学徒出陣へ 上野毛前期 (11年間)〉の1944年の項に「名簿」がgif画像で掲げてある。そこには「昭和十八年九月第九回」卒業までが記載されており、当時作成された資料と思われる。太田大八の名はその〈男子部卒業生名簿〉にはなく〈男子部學生名簿〉の方に、吉田健男などとともにある。すなわち、1943年当時、太田大八は在学中だったことになる。はたしてこれは信頼できるか。下図から、太田と吉田の記載を起こして掲げる。

〈男子部學生名簿〉(部分)。最下段に「圖案科」があり、二人目が太田で左端が吉田。
〈男子部學生名簿〉(部分)。最下段に「圖案科」があり、二人目が太田で左端が吉田。〔出典

太田大八 東京都神田區小川町二ノ一
吉田健男 〔東京都〕麻布區笄町七五

太田大八の住所は前掲の自伝(《私のイラストレーション史》)における――1928年(昭和3年)、10歳のころ、一家は長崎から東京に移り、神田小川町の交差点の角に洋品店を開いた。神田での生活は、1945年(昭和20年)2月25日の空襲で焼失するまでの約20年間続いた(同書、二九ページ参照)――という内容とも合う。問題は次に掲げる〈多摩帝国美術学校 学生一覧〉いう資料から生じる。太田大八は「第10回卒業生(昭和19年)1944年9/23 1940年入学」という見出しのもとに、図案科の卒業生として

太田大八  1918 長崎県/1944「多摩美術」学徒出陣号編集

と記されている。この資料には凡例がないが、記載は生年・出身地・多摩帝国美術学校おける関連事項、であろう。これらを太田の自伝と照らし合わせると、矛盾が生じるのだ。自伝の記載をまとめるとこうなる。「1918年(大正7年)12月28日、太田良三郎とふくの長男として大阪に生まれる。1938年、多摩帝国美術学校に入学する。大倉組(のちの大成建設)の経営するスマトラの農場監督(軍属)の仕事に就くために、校長・教頭に通常より一年早く卒業証書を書いてもらい、1941年、多摩帝国美術学校図案科を卒業する」。生後まもなく長崎県に移ったから、大阪/長崎の件は問題にしない。だが、名簿の「1944年(昭和19年)9月23日(第10回卒業生)」と自伝の「1941年卒業」の違いをどう考えるべきか。太田大八の自伝には戦後、「多摩美の同級生で復員していた永田久光等と「綜合デザイン社、スタヂオ・トーキョー」略称S・Tの看板を上げることになった」(同書、五〇ページ)とあり、名簿ではこの永田久光が太田と同じ1944年卒業となっている。ここからは、「1944年卒業」が有力のように思えてくる。いっぽう、吉田健男は「第12回卒業生(昭和21年)1946年3/23 1942年入学」という見出しのもとに、図案科の卒業生として

吉田健男  1944 勤労動員2学年/「多摩美術」学徒出陣号編集

と記されている。この「勤労動員2学年」もわかりにくい。勤労動員すなわち徴用で、1943年には徴用制度の整理と効率化が図られ、1944年3月までに288万人余りが徴用され、一般労働者全体の2割を占めるまでになった(Wikipedia)というから、1943年から44年にかけて新規徴用されたということか。いずれにしても、1942年に入学して1946年に卒業したことになっている。もう一度整理しよう。吉田健男(生年未詳)の在学期間は「1942年〜46年」の4年間、太田大八(1918年生)の在学期間は、自伝では「1938年〜41年」の3年間、名簿では「1940年〜44年」の4年間。自伝の記述を採ると、太田と吉田の在学期間が重ならなくなる。しかしながら、自伝に見える校長と教頭に付け届けまでして繰り上げ卒業を画策したという挿話(実際にはスマトラに行かず、半年ほどで退社して別の建築系の職「日本世界文化復興会」に就いたのだが)が虚構だとはとうてい思えない。ここに1944年の《多摩美術》〔学徒出陣号〕編集という別の事情が絡んでくる。

《多摩美術》〔学徒出陣記念特輯〕(1944)〔表紙:吉村芳松、編集委員:鈴木高・中森謙三・太田大八・堀友三郎・吉田健男〕
《多摩美術》〔学徒出陣記念特輯〕(1944)〔出典、表紙:吉村芳松、編集委員:鈴木高・中森謙三・太田大八・堀友三郎・吉田健男〕

原本未見なので、高橋士郎による記述以上の詳しいことはわからない。ただ名簿では、編集委員の中森謙三(西洋画)・鈴木高(彫刻科)の二人とも太田と同じ1944年卒業、堀友三郎(染色)が翌1945年卒業となっている(吉田は1946年卒業)。《多摩美術》〔学徒出陣記念特輯〕には〈名簿〉や〈編輯後記〉が載っているとあるから、そこから判明することも多いと期待される(吉田健男の生年がわかると、なおのことありがたいのだが)。太田大八の作品を概観するのに最適な《太田大八作品集》(童話館出版、2001年4月20日)の〈太田大八 年譜〉では、自伝と同じ「1938年入学、41年卒業」となっている。もっとも、《私のイラストレーション史――紙とエンピツ》(BL出版、2009)の〈太田大八 年譜〉は当然《太田大八作品集》のそれを参照しているはずだから、同じ内容でも傍証とはなりえない。その大学在籍期間については、今後の調査・探求に俟ちたい。


佃学の吉岡実論(2018年11月30日)

インターネットで文献探索していると、ときどき「これは」という資料に出くわす。ずいぶん前から佃学《詩と献身》(レアリテの会、1982)に〈吉岡実・覚書〉が収録されていることは知っていた。だが、この一篇だけのために古書価4,000円を投じるのはためらわれた。図書館で読めないかと画策したものの、国会図書館にないため、相互貸借による近隣の公立図書館での閲覧もかなわない(ところで、国会図書館内で1冊の単行本を1日で読むことは、不可能ではないにしろ、非効率である)。頼みの綱の日本近代文学館も所蔵しておらず、思案投げ首が続いた(神奈川近代文学館にあったはずだが、この本を読むために横浜まで出かけるのは億劫だ)。ある日〈日本の古本屋〉を見ると、半額2,000円のものが出ていたので購入に踏みきった。それを機にインターネットで佃学を検索してみると、この6月に田畑書店から《佃学全作品〔全3巻〕》が出ているではないか。〈吉岡実・覚書〉は全作品の第1巻に収録されているから、元本の稀少価値が薄れて安く出まわるようになったのか。詩論集《詩と献身》の内容(*)はこうだ。

佃学《詩と献身〔レアリテ叢書2〕》(レアリテの会、1982年3月1日)の表紙 《佃学全作品〔全3巻〕》内容見本(田畑書店、2018)の表紙
佃学《詩と献身〔レアリテ叢書2〕》(レアリテの会、1982年3月1日)の表紙(左)と《佃学全作品〔全3巻〕》内容見本(田畑書店、2018)の表紙(右)

T

幻日幻想――作品Xにいたる覚書〔書き下ろし〕
森川義信・覚書――重たい心〔「唄」5号(一九七四・十二)〕
衣更着信・覚書――精神の枝〔「apocr.」4号(一九七六・五)〕
吉岡実・覚書――くずれてゆく時間の袋〔「apocr.」3号(一九七六・二)〕
無垢への遡行、あるいはわがオブセッション〔「apocr.」6号(一九七七・四)〕

U

斎場の孤独――千々和久幸詩集『水の遍歴』をめぐって〔「邯鄲」5号(一九八一・一)〕
江森国友試論――その難解さの一面〔未発表〕
暮鳥断想――昼の月〔「Who's」20号(一九七八・三)〕
雑感として〔「詩研究」74〜77号(一九七三・九〜一九七四・七)〕
屋根裏の片隅から〔「詩と思想」(一九七三年十二月号)〕

V
寒蝉鳴尽〔未発表メモの抜粋〕

 おぼえがき

目次には副題が記されていないので、――のあとに掲げ、さらに〈おぼえがき〉にある初出の記録を〔 〕内に補った。Wikipediaの〈佃学〉に依れば、吉岡実論の初出誌《apocr.〔アポクチファ〕》誌は「1975年〔……〕7月、「apocr」を千々和久幸と創刊」とある。《吉岡実文献目録》にも掲載したいので、この初出誌を探すのだが、残念なことに所蔵している図書館は見当たらない。さて、《佃学全作品》内容見本の〈略年譜〉によれば、佃は1938年9月26日、香川県高松市にて出生。1994年9月23日、55歳で病没している。《詩と献身》の〈T〉で最も多く言及されている詩人は、佃と同郷の森川義信(1918〜42)であり、次いで森川とも親交のあった、これまた同郷の衣更着信(1920〜2004)であって、吉岡実(1919〜90)ではない。

 戦後出発した詩人たちにとって、戦争はある点では近代的経験のもっとも熾烈な試練だったということができるかもしれない。ぼくじしんはどちらかといえば、彼ら戦後的に出発した詩人たちよりも、一世代ないし二世代遅れてやってきた詩人たち、つまり旧「ユリイカ」による詩人の詩を好んできた。「荒地」を中心にした詩人たちの詩にはどうしてもナイーヴには入っていけなかったものだ(たとえばわれらが先達の一人衣更着信氏の詩集(思潮社版)をみても、率直にいってその抒情は冷たく、どこか感覚的な明晰さとは異質のものだ。冒頭にでてくる「左の肩ごしに新月をみた」という作品も、題名の奇妙さともども容易には受け入れがたい違和感がある。けれども最近何となくわかったのだが、この奇妙な題名の詩こそは、衣更着信という一人の詩人の戦後的決意の一端を表明した作品にほかならないのだということである。香川県の田舎から、戦後的混乱の渦中でまだ新月にすぎないが、やがてこうこうと満月になって輝きだすであろう東京の仲間たち、「荒地」グループの詩人たちへ送った一篇のメッセージこそこの作品の意味なのだということetc……)。(〈雑感として〉、本書、一二〇ページ)

「一世代ないし二世代」ではなく十年二十年だろうが、それはともかく、佃が親近感を表明している「旧「ユリイカ」による詩人の詩」に本書で触れているのが吉岡の詩だけだというのは注目に値する。そして森川や衣更着は「同郷の先達」としてではなく、「「荒地」を中心にした詩人たちの詩」の書き手として登場していることを考えあわせれば、佃がこの詩論集で試みているのは、己が理解しがたいものへの接近に他ならない。標題に「覚書」が頻出するのもそれゆえであろう。〈吉岡実・覚書――くずれてゆく時間の袋〉は

 吉岡実の詩について思いをめぐらすとはどういうことなのか? よくわからないが永年の読者の一人として気づいたことを断片的に書きとめてみたい。
 現代詩文庫『吉岡実詩集』(思潮社)をめくっていて最初に気づいたことは「挽歌」という二つの作品の径庭である。一つは最初の詩集『液体』の冒頭を飾る「挽歌」であり、もう一つは詩集『静物』にある「挽歌」という作品である。(本書、六〇ページ)

と始まる。続けて佃が引くのは、〈挽歌〉(A・1)の全行である。そのあとにこうある。

 これは『液体』の「挽歌」である。詩集『液体』は入隊後上梓されたということであるから、この作品は詩人の入隊前夜の作品といっていいであろう。同じ頃、断片的に詩を書き、わずかな作品を残して南方で憤死した森川義信の詩と比べると、けっして上手な作品とはいえないだろう。森川義信の詩の透明な論理性は最初から吉岡実にはなかったように思われる。悪くいえばこれは同時代のモダニズムの悪例の一つといっても過言ではないかもしれない。森川義信が余りの透明な明晰さゆえに憤死したとすれば、吉岡実はその不透明な屈折を生きのびたのだといえるかもしれない。しかしこれは吉岡実の劣性ではなくて吉岡実というきわめて戦後的な詩人の資質でもあったのだ。吉岡実の詩にいわれる通俗的な意味での難解さは、この詩人の基底にある言語感覚の非論理性に負うところが少なくないと思われる。(本書、六一〜六二ページ)

佃はこのあと吉岡実詩の特質のよってきたる処を追尋するのだが、吉岡実論の骨格はこの冒頭部分に尽きる。すなわち、「〔『液体』の「挽歌」は〕同時代のモダニズムの悪例の一つ」であり、「〔森川義信の余りの透明な明晰さに対し〕その不透明な屈折を生きのびた」「吉岡実の詩にいわれる通俗的な意味での難解さは、この詩人の基底にある言語感覚の非論理性に負うところが少なくない」――が佃の吉岡論の肝である。以下、いくつかの部分を挙げて、佃がそれをどのように展開したか検討してみよう。

 卵のイメージ。内閉的なもの[、、]のイメージは詩集『液体』にも全然みられないものではないが、大岡信との対談でも指摘されているとおり、それは詩集『静物』によって突如明確な輪郭を獲得したものである。確かにそれは造型的なもの[、、]の手ざわりを好む詩人の気質的な嗜好の産物には相違ないのだが、「神も不在の時」「密集した圏内から/雲のごときものを引き裂き」ながら「一個の卵が大地」に「うまれた」と歌ったとき、恐らく詩人は「塵と光りにみがかれた/一個の卵」のなかに己れの体験の構造、「くずれてゆく時間の袋」を密封したのだ。「密集した圏内」とは詩人自身が立ち会った戦争という異様な時代の別称でもあっただろう。(同書、六八〜六九ページ)

卵(のイメージ)のなかに「くずれてゆく時間の袋」(〈挽歌〉B・12、3行め)を密封した――これこそ佃の吉岡実論の核心であり(副題に選ばれたのもそれゆえである)、「くずれてゆく時間の袋」とは「不透明な屈折」と等価の、戦後を生きのびなければならなかった詩人の負荷のまたの名である。

 「膜のような空間をひき裂いてゆく」のは「手応えがない」「殺戮」を強制された詩人の憤怒である。こうして詩人は、「暗い深度」から「水死人」となって蘇り、詩集『静物』の「永い沈みの時」を経て詩集『僧侶』の「充分な時の重さと円みをもった血」の世界へと展開していくのである。
 作品「僧侶」はこのような詩人の異界体験の極限的な突出であった。そして作品「死児」はほかならぬ「水死人」の正嫡だったということができるだろう。
 「四人の僧侶」とは恐らく詩人の分身としての「四人の輜重兵」であり、その戦後的な《生》の構造である。この「四人の僧侶」の世界との奇妙な確執こそ、元輜重兵詩人吉岡実の確執でもあっただろう。(同書、七四ページ)

〈僧侶〉は異界体験の極限的な突出であった――「四人の僧侶」は詩人の分身としての「四人の輜重兵」であり、その戦後的な《生》の構造である――すなわち「異界」とは吉岡にとっての「戦争」であり、「僧侶」は「輜重兵」の分身[、、]である――という佃の指摘は鮮烈である。高橋新吉が、仏教徒として「僧侶」にお坊さんを読み取った(《詩学》1959年5月号〈詮衡委員感想〉)のとは真っ向から対立する考えだが、私には「この詩人の基底にある言語感覚の非論理性に負う」難解さ[、、、]が顔をのぞかせた結果としか思えない。

 つまり「恥部」とは吉岡実が強制された戦時体験であると同時に、詩人が生きついだ言語体験でもあったというべきだろう。詩人が「一個の卵」のなかに密封したものは、日本語(日本人)という経験の構造の「くずれてゆく時間の袋」だったのだ。それはどこかこの国の伝統的な風土のなかで特異な位置を占めつづけてきた名匠・名工たちの閉鎖的な名人芸の世界に通じる資質的な頑固さの証明でもあった。そして「地上から届けられた荷」「すっかり中味をぬきとられた袋」とは、このような時代の不運(?)を担ってこのとき詩人が直面した言語空間の異称だったといっていいだろう。つまり詩人は近代詩を蚕食した感傷的抒情、多くの場合浅薄な教養主義と土着的情緒との和合折衷にすぎなかった近代的知性を徹底的に否定・拒絶する(詩人の用語をかりれば「下痢する」)ことによって逆にモダニズムで暴発したこの国の不幸な感性の隘路を直系したのである(注2)。(同書、七六ページ)

「恥部」とは戦時体験であり、言語体験(言語空間)だった――感傷的抒情と近代的知性を「下痢する」ことで、感性の隘路を直系した――の前者、すなわち戦時体験と感傷的抒情は多くの吉岡論でしばしば指摘されてきたが、後者、すなわち言語体験(言語空間)と近代的知性は佃学独自の着眼といってよい。「この国の伝統的な風土のなかで特異な位置を占めつづけてきた名匠・名工たち」が具体的に誰を指すのか佃は明示していないが、私は詩人たちよりも泉鏡花や志賀直哉などの散文作家を想起してしまった。そして段落最後の(注2)は、この吉岡実論の末尾に置かれた後註である。

(注2)詩集『僧侶』には「感傷」という作品がある。「鎧戸をおろす/ぼくには常人の習慣がない/精神まで鉄の板が囲いにくる」とうたうとき、「鉄の板」で囲ったのか囲われたのか。それは「常人」の判断をこえて吉岡実の頑固な感受性のありかを明示しているというべきだろう。(同書、八一ページ)

佃が本論で用いたテクストは、現代詩文庫版《吉岡実詩集》(思潮社、1968)と《ユリイカ》(1973年9月号〔吉岡実特集〕)の二点だけのようだ。畏るべきことに、たったふたつの文献からでも吉岡実論は可能なのだ。いっぽう、詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)が刊行されたとき佃は二十歳だった。限定400部の初刊《僧侶》を手にすることができたのか、詳細は不明である。

〔追記〕
《佃学全作品〔全3巻〕》(田畑書店、2018年6月5日)は、近年ではその刊行が珍しい「現代詩人の全集」である。佃学夫人信子さんに依れば、この全集の本文は著者が生前用意していた自著の訂正本を底本としている(**)が、本稿では吉岡実が目にしたであろう初刊を引いた(だがしかし、佃学ははたして吉岡実に《詩と献身〔レアリテ叢書2〕》を献じただろうか)。つぶさに校合したわけではないが、全集では細かな言い回しが洗練されて、読みやすくなってはいるものの、論旨に影響するような訂正は施されていない。当然だろう。ところで、〔第3巻〕には佃学の作品のほか、〈附録〉として知友による追悼文が再録されている。山本哲也は、佃の一周忌に当たる1995年9月に発行された《邯鄲》19号〔佃学追悼特集〕で、〈佃学のいた場所〉を次のように始めている。「たとえば佃学が衣更着信について書く、山村暮鳥について書く。吉岡実について、森川義信について……それは佃学にとって対象への偏愛でもなければ、まして批判でもない。それは、自分がどこにいるかという佃自身のための自己確認にほかならなかった」(《佃学全作品〔第3巻〕》、三〇六ページ)。《詩と献身》の諸文章を「詩人の散文」だと言ったところで、礼を失したことにはならないだろう。私としてはそこに、詩人にしか書けない、詩をめぐる文章というほどの意味をこめたつもりだ。どこかで、一巻本の簡便な《佃学詩集》を出してくれないだろうか。

………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

(*)佃学の詩〈古き良き時代〉(《詩学》1989年3月号)に「やがてかれ〔幼い頃の息子〕は虫に熱中し/見るからにゾッとするようなカマキリの巨大なやつを/平然と掌にのせてためつすがめつ/日がなスケッチしてあきなかった/(ぼくの雑文集『詩と献身』の内扉のカットは、この頃の息子のものだ)」(同誌、二三〜二四ページ)という詩句がある。詩篇〈古き良き時代〉が収められた佃の第七詩集《艾》(邯鄲舎工房、1992年6月)は見ることができなかったが、《佃学全作品》における本文はこれと少し違っていて、当然のことながら、初出に手が入ったものが詩集に収められたに違いない。
(**)「〔佃学の「遺言状」に書かれた五つのうちの〕最後の一つに、
 一、全詩集刊行時の際は、訂正本を底本とすること。
 とありました。私は胸を突かれる思いで、すぐに書斎にある五つの本棚の一つ一つを探しました。そして、トビラのある年代物の本箱の最下段の中に、ひっそりとそれが一列に並べられているのを見つけました。」(佃信子〈いま、思うこと――混沌と瞑想と〉、《佃学全作品〔第3巻〕》田畑書店、2018年6月5日、三一〇ページ。初出は《邯鄲》19号〔佃学追悼特集〕、1995年9月)


吉岡実と文学賞(2018年10月31日〔2019年2月28日追記〕)

ウェブサイト《文学賞の世界》(管理人:pelebo@nifty.com)が興味深い。平成26年(2014年)11月1日の同サイト開設の際、次のような緒言が掲げられた(原文の改行箇所を追い込み、段落を/で示した)。

平成12年/2000年に(ひっそりと)始めた「直木賞のすべて」、そこから派生して平成19年/2007年に開設した「芥川賞のすべて・のようなもの」、ときまして、さらにこのたび「文学賞の世界」をオープンすることにしました。/「小説」に関するものが主となりますが、日本でこれまで行われてきた文学賞(やそれに類する企画)の数々を扱います。/といいますのも、ワタクシ自身、文学賞に関する資料はどうも不十分な文献が多い、ということを、いつも実感しているからです。/(たいてい主催者や受賞者・受賞作だけが紹介されていて、選考委員メンバーや選考日、候補者・候補作、公募のものであれば応募総数などなど、文学賞を知るうえで重要な要素が省略されているものが多い、という意味です)/せっかく直木賞と芥川賞のサイトをつくったので、そういった基礎資料もきちんとまとめておきたい、と思って始めることにしました。/まだまだ調べ切れていない賞も数多くあるのですが(……などと、wikipediaみたいな言い訳して、すみません)少しずつでも充実させていければと思います。(〈サブサイト開設に当たって。〉)

「選考委員メンバーや選考日、候補者・候補作、公募のものであれば応募総数などなど、文学賞を知るうえで重要な要素が省略されているものが多い」という指摘は鋭い。さっそく「吉岡実」を調べたところ、全部で7件の記載があった(丸中数字は小林が便宜的に付したもの)。

@1959年04月 第9回 H氏賞 『僧侶』 受賞
A1968年02月 第19回 読売文学賞 『吉岡実詩集』 候補
B1969年01月 第20回 読売文学賞 『静かな家』 候補
C1977年01月 第7回 高見順賞 『サフラン摘み』 受賞
D1984年03月 第2回 現代詩人賞 『薬玉』 候補
E1989年03月 第7回 現代詩人賞 『ムーンドロップ』 候補辞退
F1989年03月 第4回 詩歌文学館賞 『ムーンドロップ』 受賞辞退

吉岡が受賞した@とCおよび受賞を辞退したFは本サイトでもたびたび触れているが、AとBとDの候補およびEの候補辞退は初耳である。ことほどさように《文学賞の世界》の博捜ぶりには頭が下がる。もっとも《サフラン摘み》の無限賞の受賞辞退はともかく、《薬玉》の藤村記念歴程賞受賞が漏れているのは解せない。そう思って、同サイトが詩の文学賞として掲載している対象を確認したところ、以下の11の賞、すなわち

H氏賞/小熊秀雄賞/高見順賞/現代詩女流賞/現代詩人賞/現代詩花椿賞/萩原朔太郎賞/中原中也賞/小野十三郎賞/三好達治賞/鮎川信夫賞

がそれで、藤村記念歴程賞(2017年から「歴程賞」に改称)は含まれていなかった。とんだないものねだりだったので、恥じ入る。さて、同サイトで感心したのは「「文学賞の世界」内 選考委員名検索」というページへのリンクで、吉岡の場合、受賞したふたつ、H氏賞と高見順賞がこれに該当する。だが、まず受賞の方からいこう。@の第9回H氏賞は次のように記載されている(原文は罫を多用した見やすいレイアウトだが、引用にあたってはスペースの関係で改行箇所を追い込んで/で示したため、対象書籍の叢書名を〔 〕で括った)。

昭和34年/1959年度
=[ 決定 ] 昭和34年/1959年4月6日
=[ 媒体 ] 『詩学』昭和34年/1959年6月号、『現代詩手帖』昭和34年/1959年7月号選考経過掲載
受賞 吉岡 実 『僧侶』 昭和33年/1958年11月・書肆ユリイカ刊
候補 浜田知章 『浜田知章第二詩集』 昭和33年/1958年7月・山河出版社刊/水尾比呂志 『汎神論』 昭和33年/1958年3月・書肆ユリイカ刊/片瀬博子 『この眠りの果実を』 昭和32年/1957年10月・コルボオ詩話会刊/吉本隆明 『吉本隆明詩集』 昭和33年/1958年1月・書肆ユリイカ〔今日の詩人双書3〕/山田今次 『行く手』 昭和33年/1958年2月・コスモス社刊/天野 忠 『単純な生涯』 昭和33年/1958年9月・コルボオ詩話会刊/内山登美子 『ひとりの夏』 昭和33年/1958年1月・国文社〔ピポー叢書43〕/倉地宏光 『きみの国』 昭和33年/1958年2月・日本未来派発行所刊/北川多喜子 『愛』 昭和33年/1958年12月・時間社刊/茨木のり子 『見えない配達夫』 昭和33年/1958年11月・飯塚書店〔現代詩集3〕/安水稔和 『鳥』 昭和33年/1958年11月・くろおぺす社刊/磯村英樹 『生きものの歌』 昭和33年/1958年6月・書肆ユリイカ刊
会員投票の上位13詩集
会員投票による推薦候補22詩集
賞金3万円
選考委員 安西均(病気欠席)/安藤一郎/伊藤信吉/緒方昇/上林猷夫/木原孝一/草野心平/高橋新吉/土橋治重/長島三芳/西脇順三郎/三好豊一郎/村野四郎/山本太郎
全会員によるアンケート投票(総数55通)
第1回選考委員会昭和34年/1959年4月2日夜 [会場]東京「トミ・グリル」
第2回選考委員会4月6日夜 [会場]東京「トミ・グリル」
授賞式5月27日18:00〜「五月の詩祭」内 [会場]東京・赤坂「草月会館ホール」

《詩学》(1959年6月号)の誌面を詳しく見よう(以下、引用文の旧字は常用漢字に改め、かなはママとした)。まず〈詩壇の動き〉の「団体」の最初の項に「現代詩人会・H賞決定。現代詩人会では、さる4月6日午後6時より、東京・トミーグリルにおいて幹事会を開き、第9回H賞の詮衡にあたつたが、投票の結果、吉岡実詩集「僧侶」に授賞と決定した。なお、次点は北川多喜子集「愛」。」とあり、次に〔時の詩人〕という人物紹介のページに、無署名(編集部の木原孝一のペンになるか)の記事〈H賞をもらつた吉岡実〉が肖像写真付きで掲載されている。メインの〈第9回現代詩人会H賞詮衡〉は3ページにわたる詳報。冒頭に「現代詩人会H賞については、従来その詮衡経過が公表されたことはなかつたが、既に九人の受賞詩人を数える詩壇唯一の詩人賞としての意義を考え、本誌は特に乞うて事務当局の詮衡経過と、詮衡委員の感想をここに掲げることとした。」という前振りがあるが、詮衡経過を公表するにいたったのは、世にいう「H氏賞事件」が起きたためである。吉岡実(の《僧侶》)に言及した詮衡委員の感想は以下のとおり。
「僕は吉岡実氏の『僧侶』における硬質の美しさ、現実の鋭い截断と大胆な、対照に諷刺やユーモアを弾き出す面白味に引きつけられた。第一詩集『静物』の好ましさも記憶にあり、更にもつと困難な実験に進んでいる敢然とした態度は、若い詩人に最もふさわしいと思う。この次はどうなるか、大きな楽しみである。」(安藤一郎〔無題〕全文)
「〔……〕/私の中に最後に残されたのは、吉岡実の「僧侶」と、北川多喜子の「愛」であつた。吉岡実の作品は、雑誌で「僧侶」しか読んでいなかつたので、こん度はじめて詩集を読んだわけであるが、全体が漢語の多いガツチリとした硬い構造に包まれ、中世紀風の古いリズムには何か原型があるように感じられた。そして、この詩人の持つ偽悪的で、思考遮断のスタイルには、特有の自己閉塞が感じられ、素直な理解が拒まれるものがあつた。/〔……〕」(上林猷夫〈感想〉)
「ぼくは、アンケートの際は、殆ど詩集を読んでいないので比較が出来ず、白紙を出した。第一回の選衡会に、アンケートの集計をもとにして十三冊の詩集が選衡対象となるに及んで、第二回の選衡会までの四日間に全部読んだ。このなかで、ぼくが予選として考えたのは安水稔和、茨木のり子、内山登美子、高良留美子、吉岡実、それに北川多喜子の五[ママ]詩集である。ところで、安水のは、優れたのがはじめの三篇だけであとはその水増しの繰返し。内山、高良はともに感覚的で弱々しい。吉岡は力作僧侶一篇だけで、そのトボケた味は相当面白いけれど表現が散漫で採れない。結局、普辺[ママ]的な内容をもち、その内容と表現とが円満であり、粒の揃つているのは、茨木のり子と北川多喜子の二詩集である。決定単記投票には、ぼくは冷静に考えて、北川多喜子に投票した。茨木のり子の世界はあまりにも単純で割り切つているのにくらべて、北川多喜子の世界は複雑で深刻切実であると考えたからである。/〔……〕」(北川冬彦〈ぼくの意見〉)〔北川冬彦は《文学賞の世界》でも、この《詩学》の〈第9回現代詩人会H賞詮衡〉でも記載から漏れているが、れっきとした選考委員の一人である。付言するなら、北川多喜子の夫君でもある。〕
「詩集「僧侶」を読んで僧侶と題する詩は面白かつたが、その他の作品は、あまりよいと思わなかつた。僧侶という詩も、構成された形態の面白さで、技法の新しさを買うけれど、仏教徒の私は、如何にもバカにされ過ぎている気がして、一票を投ずることはしなかつた。」(高橋新吉〔無題〕全文)
「私は最後の詮衡委員会に於て、「愛」を推したが、「僧侶」に決まつたので、それでもよいと思つた。「愛」は現代詩という枠のなかでもがいているほか、稚拙なところもある。その枠からはみでた(或いは少し違つたところで)独自な仕事をして見せた点を買つておいた。「僧侶」は現代詩の枠のなかではあるが充実した仕事を見せ、表現はアンバランスなところもあるが技術的には確かだ。私はどちらにすべきか悩んだ。〔……〕」(土橋治重〔無題〕)
「毎年のようにH賞の選考に当つてきたが、賞のことをいうと、これまでの受賞詩集のうちには、あんまり気乗りしないのに、投票の結果、受賞にきまつてしまつたようなことが何度もあつた。なんとなく点をかせいだというようなのは、詩集の場合では、どうもおもしろいことではないようだ。/だが、今年の吉岡君の「僧侶」の受賞は、ぼくにとつては、じつにすつきりした気持だつた。ぼくは、この詩集が出るやすぐ新聞に書評をかつて出た程、気に入つた詩集だつたからである。/一つの作品集が、常識によつて点をかせいた[ママ]のではなくて、オリジナリテイの強さによつて受賞したということは、選考に当つた一人としても、実に後味のいいものであつた。/この詩集は一見難解で、一般の読者の耳には負えないかもしれないが、常識的な詩にあきた人々や十分にシュルレアリズムを消化した人々にとつては、非常に興味深い詩集である。詩法の原理としては、ブルトンたちと同系だけれども、もう少し意識的で、批評的だ。そしてすべての作品の主題が、汚辱と悪意にみちた廿世紀の醜聞に発している。/そのイメージの審美的衝撃力も又すばらしいものであつた。そしてこのような衝撃力は一つの作品が、文学として一番危険な状態におかれてはじめて獲得されるところのものであることを思わせた。/この「僧侶」のほかにも、注目されていい詩集が一二あつたことも確かだが、この「僧侶」にくらべると、やはりそれらの詩集はどこか、小規模な詩の機能主義から脱出しきれている[ママ]ところがあつた。いろいろな意味で、この詩集が受賞したことは、やつぱり当然なことでありながら、ほつとした気もちである。」(村野四郎〈詩集「僧侶」の受賞について〉全文)
「〔……〕/その結果、最終日の選衡委員会で、全委員一致した公正な方法によつて、私は私のもてる一票を行使したわけであるが、ここで第九回H賞が吉岡 実詩集「僧侶」にきまつた一瞬。私はいままで頭の中にあつた何日ぶりかの重たい緊張が、すつと空気のように解放されるのをおぼえた。そして同時に私は委員としての重労から解放されたことになるわけだが、今はひとりの詩人として受営[ママ]者吉岡 実に心よりおめでとうと伝へたいと思つている。」(長島三芳〔無題〕)

同じく、Cの第7回高見順賞は次のように記載されている。

昭和52年/1977年度
└[ 対象期間 ]─昭和50年/1975年12月1日〜昭和51年/1976年11月30日
=[ 決定 ] 昭和51年/1976年12月20日
=[ 発表 ] 昭和52年/1977年
=[ 媒体 ] 『現代詩手帖』昭和52年/1977年2月号選評掲載【吉岡実の〈挨拶〉は〈高見順賞受賞挨拶〉参照】
受賞 吉岡 実 『サフラン摘み』 昭和51年/1976年9月・青土社刊
候補 中村 稔 『羽虫の飛ぶ風景』 昭和51年/1976年6月・青土社刊/川崎 洋 『象』 昭和51年/1976年8月・思潮社刊/天沢退二郎 『les invisibles 目に見えぬものたち』 昭和51年/1976年10月・思潮社刊/北村太郎 『眠りの祈り』 昭和51年/1976年4月・思潮社刊/衣更着 信 『庚申その他の詩』 昭和51年/1976年7月・書肆季節社刊/嵯峨信之 『時刻表』 昭和50年/1975年12月・詩学社刊
選考会で話題にのぼったもの
選考対象24冊
正賞+副賞30万円+記念品
選考委員 入沢康夫/大岡信/田村隆一/中村真一郎/山本太郎
選考会昭和51年/1976年12月20日17:00〜 [会場]東京・市ヶ谷「萩の宮」
贈呈式昭和52年/1977年1月28日18:00〜 [会場]東京「赤坂プリンスホテル」

間然する処がないとは、こういうことを言うのだろう。となれば、引きつづきAの1968年02月 第19回 読売文学賞 『吉岡実詩集』 候補、Bの1969年01月 第20回 読売文学賞 『静かな家』 候補、Dの1984年03月 第2回 現代詩人賞 『薬玉』 候補、を調べないわけにはいかない。以下では、吉岡実に関する記載を赤字で表示しよう。

Aの第19回読売文学賞は次のように記載されている(詩歌俳句賞以外の、散文による各賞の詳細は省略した)。

昭和42年/1967年度
=[ 媒体 ] 『読売新聞』昭和43年/1968年2月2日発表、同日夕刊選評掲載
小説賞〔……〕
戯曲賞〔……〕
随筆・紀行賞〔……〕
評論・伝記賞〔……〕
詩歌俳句賞
受賞 土屋文明 歌集『青南集』[正](続) 昭和42年/1967年11月・白玉書房刊
候補 山本太郎 詩集『糺問者の惑いの唄』 昭和42年/1967年-月・思潮社刊/宗 左近 長篇詩『炎える母』 昭和42年/1967年10月・弥生書房刊 /吉岡 実 詩集『吉岡実詩集』 昭和42年/1967年10月・思潮社刊/木俣 修 歌集『去年今年』 昭和42年/1967年9月・短歌研究社刊/中村草田男 句集『美田』 昭和42年/1967年11月・みすず書房刊/加藤楸邨 句集『まぼろしの鹿』 昭和42年/1967年12月・思潮社刊/山口誓子 句集『定本山口誓子全句集』 昭和42年/1967年11月・集英社刊
研究・翻訳賞〔……〕
正賞記念品+副賞20万円
選考委員 岩田豊雄〔戯曲賞選評担当〕/大佛次郎/河盛好蔵/草野心平/小林秀雄/里見ク/永井龍男〔小説賞選評担当〕/中村光夫〔研究・翻訳賞選評担当〕/丹羽文雄/林房雄/福原麟太郎〔評論・伝記賞選評担当〕/堀口大學/水原秋桜子/宮柊二〔詩歌俳句賞選評担当〕/山本健吉〔随筆・紀行賞選評担当〕
贈呈式昭和43年/1968年2月10日11:30〜 [会場]東京・有楽町「読売会館貴賓室」

《讀賣新聞〔夕刊〕》(1968年2月2日、五面)に選評〈第19回 読売文学賞に輝く六作品〉があり、その末尾に〈候補作品〉として【詩歌・俳句部門】「〔……〕「吉岡実詩集」〔……〕」とある。このときは詩の受賞作品がなかった。

同じく、Bの第20回読売文学賞は次のように記載されている。

昭和43年/1968年度
=[ 決定 ] 昭和44年/1969年1月23日
=[ 媒体 ] 『読売新聞』昭和44年/1969年2月1日発表、同日夕刊選評掲載
小説賞〔……〕
戯曲賞〔……〕
随筆・紀行賞〔……〕
評論・伝記賞〔……〕
詩歌俳句賞
受賞 入沢康夫 詩集『わが出雲・わが鎮魂』 昭和43年/1968年4月・思潮社刊
受賞 飯田龍太 句集『忘音』 昭和43年/1968年11月・牧羊社〔現代俳句15人集〕
候補 大岡 信 詩集『大岡信詩集』 昭和43年/1968年2月・思潮社刊/吉岡 実 詩集『静かな家』 昭和43年/1968年7月・思潮社刊/福田栄一 歌集『きさらぎやよひ』 昭和43年/1968年5月・短歌新聞社〔古今歌集〕/近藤芳美 歌集『黒豹』 昭和43年/1968年10月・短歌研究社刊/鈴木貫介 歌集『南畝集』 昭和43年/1968年8月・新星書房刊/原 石鼎 句集『定本石鼎句集』 昭和43年/1968年10月・求竜堂刊/富安風生 句集『傘寿以後』 昭和43年/1968年4月・東京美術刊
研究・翻訳賞〔……〕
正賞硯+副賞20万円
選考委員 岩田豊雄/大佛次郎/河盛好蔵〔随筆・紀行賞選評担当〕/草野心平〔詩歌俳句賞『わが出雲・わが鎮魂』選評担当〕/小林秀雄/里見ク/永井龍男/中村光夫/丹羽文雄〔小説賞『不意の声』選評担当〕/林房雄/福原麟太郎〔評論・伝記賞選評担当〕/堀口大學/水原秋桜子〔詩歌俳句賞『忘音』選評担当〕/宮柊二/山本健吉〔小説賞『野趣』選評担当〕
最終選考委員会昭和44年/1969年1月23日
贈呈式3月3日16:00〜 [会場]東京・丸の内「東京会館」

《讀賣新聞〔夕刊〕》(1969年2月1日、七面)に選評〈第20回 読売文学賞に輝く六作品〉があり、その末尾に〈候補作品〉として【詩歌・俳句部門】「=詩=〔……〕「静かな家」吉岡実〔……〕」とある。受賞した入沢作品については、草野心平が〈戦後詩のせん鋭な冒険――数学的な操作〉を寄せている。読売文学賞に関してコメントすれば、Aの《吉岡実詩集》(刊行当時における全詩集に相当する)はともかく、Bで詩集《静かな家》がノミネートされているのには驚く。というのも、同書は単行詩集こそ1968年の刊行だが、詩集の本文は前年、1967年の《吉岡実詩集》(昭和42年/1967年度候補作品!)に収められているものと寸分違わないからである。ここはどう贔屓目に見ても、入沢康夫の《わが出雲・わが鎮魂》に分がある。

Dの第2回現代詩人賞は次のように記載されている。

昭和59年/1984年度
└[ 対象期間 ]─昭和58年/1983年1月1日〜12月31日
=[ 決定 ] 昭和59年/1984年3月3日
=[ 媒体 ] 『詩学』昭和59年/1984年6月号選評掲載
受賞 犬塚 堯 『河畔の書』 昭和58年/1983年8月・思潮社刊
候補 小柳玲子 『月夜の仕事』 昭和58年/1983年8月・花神社刊/宗 左近 『風文』 昭和58年/1983年11月・思潮社刊/西岡光秋 『菊のわかれ』 昭和58年/1983年6月・国文社刊/相澤 等 『築地魚河岸』 昭和58年/1983年11月・三州出版刊/足立巻一 『雑歌』 昭和58年/1983年8月・理論社刊/安西 均 『暗喩の夏』 昭和58年/1983年5月・牧羊社刊/鈴木 漠 『抽象』 昭和58年/1983年5月・書肆季節社刊
候補辞退 藤富保男 『文字文字する詩』 昭和58年/1983年8月・点点洞刊
会員投票の上位9詩集(犬塚堯を含む)
候補 有田忠郎 『セヴラックの夏』 昭和58年/1983年5月・書肆山田刊/岸本マチ子 『コザ 中の町ブルース』 昭和58年/1983年11月・花神社刊/北川 透 『魔女的機械』 昭和58年/1983年5月・弓立社刊/鈴木志郎康 『融点ノ探求』 昭和58年/1983年7月・書肆山田刊/吉岡 実 『薬玉』 昭和58年/1983年10月・書肆山田刊
候補辞退 渋沢孝輔 『薔薇・悲歌』 昭和58年/1983年8月・思潮社刊
選考委員会による追加6詩集
正賞30万円+記念品
選考委員 秋谷豊/小海永二/清水哲男/杉山平一/土橋治重[委員長]/那珂太郎/藤富保男
選考委員7名に委嘱9月12日
全会員による投票昭和58年/1983年1月31日締切(総数246票・うち白票および無効46票)
開票2月4日15:00〜 [会場]東京・神田「トミーグリル」
第1次選考委員会同日18:00〜 [会場]同
第2次選考委員会同日 [会場]同
第3次選考委員会3月3日13:00〜 [会場]東京・青山「朝日新聞社・青山寮」

《詩学》(1984年6月号)の〈第二回〈現代詩人賞〉選考のことば〉で選考委員が吉岡実(の《薬玉》)に触れている箇所を引く。
「〔……〕/賞は一冊というのが建前だから順次にしぼって行かなければならない。相談の上全委員の投票で半分にしぼることにした。/その結果、犬塚堯、鈴木漠、有田忠郎、吉岡実、岸本マチ子の五氏が残った。〔……〕/つづいて第二段では吉岡実氏と岸本マチ子氏が落ちた。吉岡氏の古代をあつかった独自の世界、岸本氏の現代詩としての自在なブルースを十分に認めたうえのことであった。」(土橋治重(選考委員長)〈選考経過と私見〉)
「〔……〕/私は犬塚堯氏の『河畔の書』を第一の候補として意中に置き、選考の席上、岸本マチ子さんの『コザ中の町ブルース』を委員推薦詩集として追加させていただいた。しかし、この二詩集にあくまでも固執するというわけではなく、他の吉岡実氏『薬玉』、宗左近氏『風文』、鈴木志郎康氏『融点ノ探求』、鈴木漠氏『抽象』など、いずれも私の注目する詩集であったから(ともに私にはない詩的世界があり、より想像力を刺激し、高揚してくれた)、そのどれかが有力候補として残れば、それを支持してもよいと考えていた。/〔……〕」(秋谷豊〈文明を直視する目、「河畔の書」〉)
「〔……〕私はむしろ、吉岡氏の「薬玉」の、私などの書く詩を一行に濃縮した、対句・語呂合せ、ユーモアを駆使して、箴言風の謎めく詩句を展開する面白さに舌を捲いて、自分を恥かしくさえ思ったが、在来の詩業より後退したなどの疑問が多く出された。/〔……〕」(杉山平一〈選考感想〉)
「〔……〕/同じく選考の過程で外された吉岡実『薬玉』は、読者の想像力を挑撥する書法の独自性が抜群であり、すぐれた詩集であるが、「現代詩人賞」の対象としては特異すぎると感じられた。/〔……〕」(那珂太郎〈感想〉)
「〔……〕/吉岡実『薬玉』。吉岡実独特の潜在意識的イメージ、苦悶、欲望の誘起、幻影の中の沈黙とノスタルジア。こういう抽象語では説明しきれないにしても、吉岡のこの三年間の仕事はやはり着実に――いや異様に動いていた。歪曲した事物と人物が何かを拒否して動き、あるいは点滅している吉岡詩学は、矢張り〈健全に〉発達性高気圧であることを証明していた。/〔……〕」(藤富保男〈雪窓閑話〉)

さてここで、候補を辞退したEの第7回現代詩人賞(Dの5年後)も見ておこう。同賞はこう記載されている。

平成1年/1989年度
└[ 対象期間 ]─昭和63年/1988年1月1日〜12月31日
=[ 決定 ] 平成1年/1989年3月4日
=[ 媒体 ] 『詩学』平成1年/1989年6月号選評掲載
受賞 安西 均 『チェーホフの猟銃』 昭和63年/1988年10月・花神社刊
候補 安水稔和 『記憶めくり』 昭和63年/1988年12月・編集工房ノア刊/難波律郎 『昭和の子ども』 昭和63年/1988年11月・私家版/宗 左近 『おお季節』 昭和63年/1988年10月・思潮社刊/北村太郎 『港の人』 昭和63年/1988年10月・思潮社刊/片岡文雄 『漂う岸』 昭和63年/1988年6月・土佐出版社刊/黒田達也 『ホモ・サピエンスの嗤い』 昭和63年/1988年8月・Almeeの会刊
候補除外 新井豊美 『半島を吹く風の歌』 昭和63年/1988年10月・花神社刊(H氏賞の候補として残す)
会員投票の上位8詩集(安西均を含む)
候補 和泉克雄 『彩色記』 昭和63年/1988年5月・鱗片社刊/生野幸吉 『杜絶』 昭和63年/1988年10月・詩学社刊
候補辞退 阿部岩夫 『ベーゲェット氏』 昭和63年/1988年10月・思潮社刊
候補辞退 吉岡 実 『ムーンドロップ』 昭和63年/1988年11月・書肆山田刊
選考委員会による追加4詩集
正賞高級置時計+副賞50万円
選考委員 秋谷豊/新川和江/辻井喬/中村稔(欠席/書面回答)/浜田知章/原子朗[委員長]/藤富保男
選考委員7名に委嘱昭和63年/1988年9月14日
全会員による記名投票平成1年/1989年1月31日締切(総数323票・うち無効3票・白票47票・有効273票)
開票2月4日14:30〜 [会場]東京・新橋「蔵前工業会館」
第1次選考委員会同日18:30〜 [会場]同
第2次選考委員会3月4日13:30〜 [会場]東京・新橋「蔵前工業会館」

《詩学》(1989年6月号)の日本現代詩人会の会長・上林猷夫による〈第七回現代詩人賞選考経過〉のうち、吉岡の辞退に関わる〈第一次選考委員会〉末尾と、それに続く〈第二次選考委員会〉の冒頭の記述を引く。
「現代詩人賞選考委員会では、理事会から申送られた候補詩集に追加すべき詩集があるかどうかを協議し、次の四詩集の追加が決定され、合計一一詩集を第七回現代詩人賞の候補詩集と決定した。
 阿部 岩夫「ベーゲェッ卜氏」
 和泉 克雄「彩色記」
 生野 幸吉「杜絶」
 吉岡  実「ムーンドロップ」」(〈第一次選考委員会〉)
「三月四日午後一時半から蔵前工業会館で第二次選考委員会が開かれた。
 まず、斎藤理事長から、阿部岩夫、吉岡実の両氏が辞退された旨報告があり、欠席の中村稔委員から送付されて来た候補詩集についての「所感」を原選考委員長にあずけて選考が開始された。」(〈第二次選考委員会〉)
5年前の第2回現代詩人賞で(今日的観点からすれば「後期吉岡実詩」を代表する)《薬玉》が受賞しなかった以上、自己にも他者にも批評眼の厳しい吉岡が、このたびの第7回現代詩人賞で《ムーンドロップ》の受賞を諾わなかったところで、なんの不思議もない。

Eで候補を辞退した十日ほどのち、吉岡が受賞を辞退したFの第4回詩歌文学館賞は次のように記載されている。

平成1年/1989年度
=[ 決定 ] 平成1年/1989年
=[ 媒体 ] 『すばる』平成1年/1989年6月号選評掲載
詩 受賞作なし
受賞辞退 吉岡 実 『ムーンドロップ』 昭和63年/1988年11月・書肆山田刊
最終選考対象5冊
短歌 受賞 馬場あき子 『月華の節』 昭和63年/1988年12月・立風書房刊
俳句 受賞 村越化石 『筒鳥』 昭和63年/1988年5月・浜発行所〔浜叢書〕
正賞鬼剣舞手彫り面+副賞各50万円
選考委員 井上靖[委員長]
詩 安西均/入沢康夫/三木卓[選評担当]
短歌 岡野弘彦/塚本邦雄[選評担当]/安永蕗子
俳句 金子兜太/野澤節子[選評担当]/三橋敏雄
最終選考平成1年/1989年3月14日
贈賞式5月20日 [会場]北上市

吉岡のこの受賞辞退は最終選考ののち、次のように新聞報道された。

詩歌文学館賞吉岡氏は辞退
 第四回詩歌文学館賞(日本現代詩歌文学館振興会、一ツ橋総合財団共催)の選考会が十五日開かれ、短歌部門は馬場あき子氏の「月華の節」、俳句郎門は村越化石氏の「筒鳥」に決まった。現代詩部門は吉岡実氏「ムーンドロップ」に決まったが、吉岡氏は本人の意思で辞退した。授賞式は五月二十日、岩手県北上市で行われる。(《毎日新聞》1989年3月16日、二六面)

また《すばる》(1989年6月号)の〈第四回詩歌文学館賞発表〉の「現代詩」の項には、「選考委員会において、吉岡実「ムーンドロップ」(書肆山田)が選ばれましたが、 吉岡実氏が受賞を辞退しました。」と見える。受賞辞退の件について、選考委員代表の三木卓は〈さらなる空間を示す〉と題する現代詩部門の選評(900字余り)で「候補詩集は五冊あったが、三人の選考者の意見が一致して吉岡実さんの「ムーンドロップ」(書肆山田)を推すことになるまで、時間はかからなかった。/〔……〕/以上のようなわけで、わたしは「ムーンドロップ」における吉岡さんの言葉の世界の一層の深まりと充実に感銘を受けると共に、これを詩歌文学館賞に相応しいものとして推した。吉岡さんに受けていただけなかったのは、返す返すも残念である。」(同誌、二五一ページ)と書いている。一方、吉岡は同賞辞退に触れた文章を公にしていない。

時期は前後するが、ここで同じく受賞を辞退した第4回無限賞を見ておこう。同賞は日外アソシエーツ編《最新 文学賞事典》(日外アソシエーツ、1989年10月25日)では次のように記されている(無限賞が《文学賞の世界》に掲載されていないための措置である)。

無限賞
竃ウ限によって昭和48年に創設された賞,単行本として発表されたすぐれた詩集に与える。
主催者 竃ウ限
選考委員 (第1回)西脇順三郎,村野四郎,草野心平,編集部
選考方法 単行本として発表された詩集が対象。
締切・発表 結果は「無限」誌上に発表。
賞・賞金 記念レリーフと賞金20万円
受賞者
第1回(昭48) 安藤一郎「磨滅」
第2回(昭49) 天野忠「天野忠詩集」
第3回(昭50) 三好豊一郎「三好豊一郎詩集」サンリオ出版
第4回(昭51) 北村太郎「眠りの祈り」思潮社
〔……〕(《最新 文学賞事典》、一七八ページ)

季刊詩誌《無限》第40号(1977年1月5日)の〈第四回無限賞受賞作品発表〉には、選考委員(西脇順三郎・草野心平・中桐雅夫・田村隆一・山本太郎)を代表して中桐が〈感想〉と題して受賞作品の北村太郎詩集《眠りの祈り》を称揚しているが、吉岡の《サフラン摘み》への言及は、当然ながら、ない。なお吉岡は、未刊の随想〈心平断章――「H氏賞事件」ほか〉(《現代詩読本――特装版 草野心平るるる葬送》、思潮社、1989年3月1日)にこの件のことを記している。ちなみにこのとき選考委員だった草野心平は、かつて吉岡が《僧侶》で受賞した第9回H氏賞と、のちに《薬玉》で受賞することになる第22回藤村記念歴程賞(次に掲げる)の選考委員でもあった。

受賞以外のこれらの文学賞を吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉(《吉岡実全詩集》筑摩書房、1996)に追加するとすれば、次のようになろうか。

一九六八年(昭和四十三年) 四十九歳
二月、『吉岡実詩集』が第十九回読売文学賞詩歌・俳句部門の候補作品となるも、受賞を逸する。

一九六九年(昭和四十四年) 五十歳
一月、詩集『静かな家』が第二十回読売文学賞詩歌・俳句部門の候補作品となるも、受賞を逸する。

一九七七年(昭和五十二年) 五十八歳
十一月、詩集『サフラン摘み』の第四回無限賞の受賞を辞退する。

一九八四年(昭和五十九年) 六十五歳
三月、詩集『薬玉』が第二回現代詩人賞の候補となるも、受賞を逸する。

一九八九年(昭和六十四年・平成元年) 七十歳
三月、詩集『ムーンドロップ』が第七回現代詩人賞の候補となるも、辞退する。また、同詩集の第四回詩歌文学館賞の受賞を辞退する。

この際せっかくだから、《文学賞の世界》に掲載されていない藤村記念歴程賞も録しておこう。ただし、受賞者の項目は中略した。

藤村記念歴程賞
詩壇に刺激を与えるため,「歴程」に寄せられた寄付金をもとにして,「歴程賞」が昭和38年創設された。昭和59年に「藤村記念歴程賞」と改称される。
主催者 歴程同人
選考委員 粟津則雄,朝倉勇,伊藤信吉,入沢康夫,草野心平,渋沢栄市,宗左近,那珂太郎,花田英三,山本太郎ほか。
選考方法 その年間の活字となった詩や詩論ばかりでなく,広い意味での詩的精神に貫かれた仕事に対しておくられる。
締切・発表 「歴程」誌上に発表。
賞・賞金 50万円
連絡先 〔住所・電話番号は略〕
受賞者
第1回(昭38) 伊達得夫「ユリイカ抄」と生前の出版活動に対して
〔……〕
第22回(昭59) 吉岡実「薬玉」書肆山田 菊地信義(装幀の業績に対して)(《最新 文学賞事典》、一七〇ページ)

《薬玉》は選考委員から「二十世紀末日本からしか生れない世界に類を見ない独自に見事な詩業」と評価された。吉岡は新宿・朝日生命ホールで行われた授賞式のようすを、随想〈菊地信義のこと〉(初出は《装幀=菊地信義》フィルムアート社、1986年12月1日)に書いている。

拙編《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》で吉岡が選考委員を務めた文学賞を調べてみると、H氏賞と高見順賞のふたつである。《文学賞の世界》に依れば、前者は「主催:日本現代詩人会(第9回までの名称:現代詩人会)、対象期間:1月1日〜12月31日に発行(奥付の発行年月日基準)、対象:刊行された新人によるすぐれた詩集、創設:平澤貞二郎の寄付により昭和25年/1950年創設」とあり、後者は「主催:高見順文学振興会→財団法人(公益財団法人)高見順文学振興会、対象期間:毎年12月1日〜翌年11月30日に刊行されたもの、対象:各年度の優秀詩集、創設:昭和45年/1970年1月24日、高見順の遺志により、高間秋子夫人から『高見順全集』の印税を有能な詩人の顕彰にあてたい、との申し出が思潮社の小田久郎社長のもとにあり、同社が運営事務を担うかたちで創設。なお思潮社は、昭和56年/1981年に運営事務を辞退することとなり、以後、高見順文学振興会の事務局で同事務を行うことになる」とある。前述したように、どちらも受賞の実績があるのは偶然ではないだろう。これらも《文学賞の世界》で調べてみるに如くはない。まず、H氏賞では第11回(昭和36年/1961年度)・第12回(昭和37年/1962年度)・第13回(昭和38年/1963年度)、とんで第18回(昭和43年/1968年度)と4回務めている。

第11回 H氏賞
昭和36年/1961年度
=[ 決定 ] 昭和36年/1961年4月1日
=[ 媒体 ] 『詩学』昭和36年/1961年6月号、『現代詩手帖』昭和36年/1961年5月号選考経過掲載
受賞 石川逸子 『狼・私たち』 昭和35年/1960年3月・飯塚書店〔現代詩集7〕
候補 牟礼慶子 『来歴』 昭和35年/1960年6月・世代社刊/粒来哲蔵 『舌のある風景』 昭和35年/1960年9月・歴程社刊/白石かずこ 『虎の遊戯』 昭和35年/1960年9月・世代社刊/山本太郎 『ゴリラ』 昭和35年/1960年11月・書肆ユリイカ刊/渡辺修三 『谷間の人』 昭和35年/1960年12月・東峰書院刊/嶋岡 晨 『偶像』 昭和35年/1960年8月・書肆ユリイカ刊/多田智満子 『闘技場』 昭和35年/1960年7月・書肆ユリイカ刊
会員投票の上位8詩集(石川逸子を含む)
候補 城 侑 『不名誉な生涯』 昭和35年/1960年8月・国文社刊
選考委員会による追加1詩集
賞金5万円+外国製万年筆
選考委員 木下常太郎/西脇順三郎/村野四郎/田中冬二/安藤一郎/黒田三郎/清岡卓行/三好豊一郎/吉岡実/山本太郎
全会員による投票
開票昭和36年/1961年2月13日
第1回選考委員会2月17日
第2回選考委員会3月27日
決定発表4月1日
授賞式5月27日18:00〜「五月の詩祭」内 [会場]東京・日比谷「第一生命ホール」

《詩学》(1961年5月号)の選考委員長・田中冬二のペンになる〈選考経過〉によれば、吉岡実は「理事会の委嘱の委員」のうちの一人で、第一回選考委員会(2月27日)、第二回選考委員会(3月27日)の双方に出席している。同文は「審議に当つては各委員が各の意見を充分に吐露すると共に、相容れるべきは容れ、其の本領をつくし極めてスムーズに選考を了し得たことを附記する。」と結ばれているが、吉岡を含む各委員の感想等は掲載されていない。また《現代詩手帖》(1961年5月号)には〈詩壇は女性詩人ブーム――H氏賞と武内俊子賞〉(目次の表記)という無署名の記事があって、H氏賞の選考経過にも触れている。記事には、田中委員長のコメントと木下常太郎・田中冬二(委員として)・三好豊一郎・黒田三郎の各選考委員の感想はあるが、吉岡実のそれは掲げられていない。

第12回 H氏賞
昭和37年/1962年度
=[ 決定 ] 昭和37年/1962年4月28日
受賞 風山瑕生 『大地の一隅』 昭和36年/1961年7月・地球社刊
候補 荒川法勝 『生物祭』 昭和36年/1961年6月・自然社刊/藤富保男 『正確な曖昧』 昭和36年/1961年6月・時間社刊/高野喜久雄 『存在』 昭和36年/1961年5月・思潮社/〔現代詩人双書第1冊〕/関口 篤 『われわれのにがい義務』 昭和36年/1961年8月・思潮社/〔現代詩人叢書3 〕/伊藤桂一 『竹の思想』 昭和36年/1961年12月・私家版/鷲巣繁男 『神人序説』 昭和36年/1961年8月・湾の会刊/天野 忠 『クラスト氏のいんきな唄』 昭和36年/1961年10月・文童社刊
会員投票の上位8詩集(風山瑕生を含む)
候補 入沢康夫 『古い土地』 昭和36年/1961年10月・梁山泊刊/わたなべかね -
選考委員会による追加詩集
賞金5万円+外国製万年筆
選考委員 安藤一郎/秋谷豊/安西均/草野心平/小海永二/嶋岡晨/中桐雅夫/三好豊一郎/村野四郎/吉岡実/吉野弘
全会員による投票
開票昭和37年/1962年3月5日
選考委員会4月28日 [会場]東京新橋「蔵前会館」
授賞式5月26日18:00〜「五月の詩祭」内 [会場]東京・日比谷「第一生命ホール」

《詩学》(1962年5・6月号)の〈詩壇の動き〉の「団体」の最初の項に「日本現代詩人会・H氏賞決定。さる4月24日の詮衡委員会において、風山瑕生詩集 『大地の一隅』に授賞決定した。次点は入沢康夫詩集 『古い土地』。」とある。これと別に風山瑕生による〈H氏賞受賞の感想〉が掲げられているが、同号は選考経過も選考委員の感想も報じていない。3年前の「H氏賞事件」の記憶が薄れ、授賞報道に熱がこもらなくなっているのではないか、という推測は当方の僻目か。付言すれば、入沢の《古い土地》の「装本」はカットが落合茂、構成が吉岡実である。

第13回 H氏賞
昭和38年/1963年度
=[ 決定 ] 昭和38年/1963年4月8日
=[ 媒体 ] 『詩学』昭和38年/1963年7月号選考座談会掲載【〈H氏賞選考委員・吉岡実〉参照】
受賞 高良留美子 『場所』 昭和37年/1962年12月・思潮社刊
候補 西垣 脩 『一角獣』 昭和37年/1962年8月・糸屋鎌吉〔青衣叢書4〕/菊地貞三 『奇妙な果実』 昭和37年/1962年11月・昭森社刊/堀場清子 『空』 昭和37年/1962年6月・冬至書房刊/片瀬博子 『おまえの破れは海のように』 昭和37年/1962年9月・思潮社刊/山本道子 『飾る』 昭和37年/1962年11月・思潮社刊/長田 晃 『遠い海 果しない列車』 昭和37年/1962年9月・現代詩研究所刊/斎藤広志 『荒野』 昭和37年/1962年-月・私家版
会員投票の上位8詩集(高良留美子を含む)
候補 入沢康夫 『ランゲルハンス氏の島』 昭和37年/1962年7月・私家版
選考委員会による追加詩集
賞金5万円+外国製万年筆
選考委員 草野心平/秋谷豊/安藤一郎/小海永二/村野四郎/吉岡実/吉野弘/安西均/中桐雅夫
全会員による投票
開票昭和38年/1963年3月21日
第1回選考委員会3月28日
選考委員会4月8日18:00〜 [会場]「トミーグリル」
授賞式5月25日18:00〜「五月の詩祭」内 [会場]東京・日比谷「第一生命ホール」

第12回の《古い土地》、そしてこの第13回の《ランゲルハンス氏の島》とたびたび候補に挙げられていた入沢康夫だが、《季節についての試論》(錬金社、1965年10月20日、200部限定)でH氏賞を受賞したのは1966年の第16回である。

第18回 H氏賞
昭和43年/1968年度
=[ 決定 ] 昭和43年/1968年
受賞 村上昭夫 『動物哀歌』 昭和42年/1967年9月・Laの会刊
受賞 鈴木志郎康 『罐製同棲又は陥穽への逃走』 昭和42年/1967年3月・季節社刊
賞金5万円+外国製万年筆
選考委員 安藤一郎/大岡信/草野心平/黒田三郎/山本太郎/入沢康夫/川崎洋/中島可一郎/西垣脩/三好豊一郎/吉岡実
授賞式5月10日18:00〜「五月の詩祭」内 [会場]東京・新宿「紀伊國屋ホール」

永年、H氏賞関連の記事を掲載している《詩学》だが、第18回の選考では関連記事が見あたらない。同誌1968年5月号の、黒田三郎による〈詩壇時評〉の冒頭にこうあるのが目にとまった。「五月十日(金)の夕方、五時半から、東京新宿の紀伊国屋ホールで五月の詩祭が開催され、村上昭夫、鈴本志郎康の両氏に日本現代詩人会H氏賞がおくられた。/この種の会合にここ数年僕は参加したことがなかったが、今年は選考委員でもあり、また理事でもあるので、心を励まして出席してみた。満員とまではいかなかったが、しかし、なかなか感じのいい会であった。療養中の村上昭夫氏に代り、弟さんがあいさつされたが、土井晩翠賞受賞のさいの村上氏の新聞の原稿をよみあげ、その心境には心うたれるものを覚えた。さらに鈴木志郎康氏は、不安について語り、今後受賞により、これまで職場では知られていなかった詩作がオープンになる、ということにふれてあいさつした。しかし、最後には、公開の席上では朗読に不適だと思われるプアプア詩を、自ら朗読してその面目を示した。/いずれも単なる儀礼に終らなかったのがよかった。村野四郎、入沢康夫の両氏による。「動物哀歌」「罐製同棲、又は陥罠[ママ]への逃走」についての話もよかった。/これらを通して、僕には両氏の詩がもっと親しくわかるようになったような感じさえした。鈴木氏が自分で「売春処女プアアプ[ママ]が家庭的アイウエオを行う」を朗読したことにより、僕には新たな理解を開かれた印象があった。」(同誌、一四ページ)。 これは選考会で鈴木の詩集を推した黒田の〈感想〉に替わる文章だが、吉岡を含む他の選考委員が〈感想〉を記していないのはさびしい。
吉岡は鈴木の受賞詩集に関して、後年、「〔……〕ぼくが思う鈴木志郎康というのは、『罐製同棲……』にあって、これは情報過多時代の傑作だろうと思うんですね。なんでこんなものができたのかを考えてみると、やはり同時代の、天沢退二郎とか吉増剛造とか、まあ、われわれ以後の人達には、日本語を毀しつつ自分の言葉をつくるという自在なものが風潮としてあった。そのとき、鈴木志郎康は、幸か不幸か広島に流されて、友達と離れた。逆に言うと、広島という土地で、非常に勝手気儘に書いていったということが、プアプア詩篇がでてきたことにつながっているんじゃないかと思うわけ。〔……〕初期の詩篇で言えば、「木目・波・壁」、「言葉」、「対話」、「結着」、どれもおもしろいな。『新生都市』になると、もちろんいくつかおもしろいのはあるけど、やはり『罐製同棲……』への準備ということがあると思う。それで、プアプア詩篇と『家庭教訓劇……』の詩篇を読むと、鈴木志郎康はどうなるんだろうと思っていたら、『やわらかい闇の夢』で、鮮やかな転換をしたわけね。ぼくなんかは、同じことを深めていく人よりも、変わっていく人に興味があるから、鈴木志郎康の転換は素晴しいと思った。」(吉岡実・飯島耕一・岡田隆彦・佐々木幹郎〔座談会〕〈思想なき時代の詩人〉、《現代詩手帖》1975年5月号〈特集=鈴木志郎康VS吉増剛造〉、一一八ページ)と評している。

次に高見順賞では、第9回(昭和54年/1979年度)から第13回(昭和58年/1983年度)まで、5回連続で選考委員を務めている(そのうち、第12回と第13回の2回は座長を兼任)。吉岡は選考に関する文章を、第9回は《現代詩手帖》1979年2月号に、第10回は《現代詩手帖》1980年2月号に、第11回は《現代詩手帖》1981年2月号に、第12回は《高見順文学振興会会報》1巻(1982年1月)に、第13回は《樹木》1号(1983年3月)に発表しているが、いずれも著書には未収録である。

第9回 高見順賞
昭和54年/1979年度
└[ 対象期間 ]─昭和52年/1977年12月1日〜昭和53年/1978年11月30日
=[ 決定 ] 昭和53年/1978年12月21日
=[ 発表 ] 昭和54年/1979年
=[ 媒体 ] 『現代詩手帖』昭和54年/1979年2月号選評掲載【〈吉岡実と三好豊一郎〉参照】
受賞 長谷川龍生 『詩的生活』 昭和53年/1978年4月・思潮社刊
候補 鮎川信夫 『宿恋行』 昭和53年/1978年11月・思潮社刊/安西 均 『金閣』 昭和53年/1978年5月・牧羊社刊/三好豊一郎 『林中感懐』 昭和53年/1978年5月・小沢書店刊/宗 左近 『縄文』 昭和53年/1978年11月・思潮社刊/佐々木幹郎 『百年戦争』 昭和53年/1978年6月・河出書房新社〔叢書・同時代の詩8〕/青木はるみ 『ダイバーズクラブ』 昭和53年/1978年9月・思潮社刊/墨岡 孝 『頌歌考』 昭和53年/1978年11月・詩学社刊
候補作8冊
選考対象としての参考資料34冊
正賞+副賞30万円+記念品
選考委員 飯島耕一/入沢康夫/中村真一郎/山本太郎/吉岡実
選考会昭和53年/1978年12月21日18:00〜 [会場]東京・市ヶ谷「萩の宮」
贈呈式昭和54年/1979年1月30日18:00〜 [会場]東京「赤坂プリンスホテル」
 私が市谷の旅館萩の宮に着いたのは、寒い夜の六時五分だった。それなのに、席には全員の方がそろっており、新参者の私は恐縮してしまった。わずか、五分の遅刻であったけれども。
 その席で事務局から、大岡信詩集《春 少女に》の発行日が、十二月五日になっているので、除外するとの報告を聞いた。今年は、五十代の人の詩集に、すぐれたものがいくつかあったが、私はひそかに、《春 少女に》を推す考えできたので、とまどってしまった。
 候補作を選ぶため、私の手元に届いていない、未読の詩集を若干だが、読まねばならなかった。時がたちいよいよ選考に入った。私は鮎川信夫《宿恋行》と安西均《金閣》の二冊を挙げた。久しぶりでまとめて読んだ鮎川の詩篇は、私にとって新鮮で、共感を覚えるものであった。(あえて蛇足を加えれば、渋谷東急プラザの、若い男女のひしめく紀伊国屋書店で、私は立読みした。街は歳末風景だった)。それから安西均の《金閣》だが、その巧緻な表現と構成によって、私は魅了された。こたつに入って、読むにふさわしい大人の詩である。三冊目を挙げるように言われたが、私はあえてしなかった。他の人の推せんする詩集を、時には肯定し、また否定した。
 夜も更けた。私は一冊に絞る段になって、長谷川龍生《詩的生活》を推した。なぜならここ三、四年精力的に《泉[フアンタン]という駅》、それから《直感の抱擁》を出し、いままた力作詩集を成就させた、長谷川の果敢な詩的生活[、、、、]に敬意を表したくなったからである。
 鮎川信夫、安西均とはまた別種の、成熟した詩境へ到達した、三好豊一郎《林中感懐》も、忘れてはならない詩集だと、私は思っている。(〈感想〉、《現代詩手帖》1979年2月号〈第九回高見順賞発表〉)
第10回 高見順賞
昭和55年/1980年度
└[ 対象期間 ]─昭和53年/1978年12月1日〜昭和54年/1979年11月30日
=[ 決定 ] 昭和54年/1979年12月12日
=[ 発表 ] 昭和55年/1980年1月10日
=[ 媒体 ] 『現代詩手帖』昭和55年/1980年2月号選評掲載
受賞 渋沢孝輔 『廻廊』 昭和54年/1979年10月・思潮社刊
候補 黒田喜夫 『不帰郷』 昭和54年/1979年4月・思潮社刊/中桐雅夫 『会社の人事』 昭和54年/1979年10月・晶文社刊/正津 勉 『青空』 昭和54年/1979年6月・思潮社刊/窪田般彌 『圓環話法』 昭和54年/1979年1月・思潮社刊/鈴木志郎康 『家の中の殺意』 昭和54年/1979年5月・思潮社刊/石垣りん 『略歴』 昭和54年/1979年5月・花神社刊/吉野 弘 『叙景』 昭和54年/1979年11月・青土社刊
候補作8冊
選考対象としての参考資料24冊
正賞+副賞30万円+記念品
選考委員 飯島耕一/入沢康夫/中村真一郎/中村稔/吉岡実
選考会昭和54年/1979年12月12日18:00〜 [会場]東京・市ヶ谷「萩の宮」
発表昭和55年/1980年1月10日
贈呈式1月31日18:00〜 [会場]東京「赤坂プリンスホテル」
 今年の選考はあまりにも、すんなり決ってしまった。候補詩集を、それぞれの選考委員が、美点をあげ推賞する情景もなく、ものたらない位だった。私は最初に、渋沢孝輔《廻廊》、鈴木志郎康《家の中の殺意》、正津勉《青空》を推した。《廻廊》は硬質の抒情を秘め、きわめて完成度が高い。《家の中の殺意》は、新しい境地が定着しはじめている。
 そして《青空》は、このごろとみに多い、日常詩や甘美な抒情詩のなかにあって、まれなる攻撃的詩である。いずれの詩集に決っても良いと思った。私が興味ぶかく思ったのは、入沢康夫氏が中桐雅夫《会社の人事》と黒田喜夫《不帰郷》をあげたことだった。昨年は、若い詩人を唯一人で推しつづけたからだ。たしかに近年、受賞者が老齢化していると思う。さて、《会社の人事》だが、たしかに成熟した良い詩集だが、あきたらないところもある。《不帰郷》は自己の文体を死守した労作だ。私も一票を投じたかった位であった。
 渋沢孝輔の《廻廊》は、最初から満票であり、これが受賞したことは当然であり、納得できる。私にとって、渋沢詩は難解な部分が多く、完全に読み切ることはできない。その謎の部分がまた魅力の一つでもある。
 新しく中村稔氏が委員に加わった。「世に稀れなる詩の読み手」と自称しているそうだから、心強いことである。(〈感想〉、《現代詩手帖》1980年2月号〈第十回高見順賞発表〉)
第11回 高見順賞
昭和56年/1981年度
└[ 対象期間 ]─昭和54年/1979年12月1日〜昭和55年/1980年11月30日
=[ 決定 ] 昭和55年/1980年12月19日
=[ 発表 ] 昭和56年/1981年
=[ 媒体 ] 『現代詩手帖』昭和56年/1981年2月号選評掲載【〈吉岡実の装丁作品(64)〉参照】
受賞 安藤元雄 『水の中の歳月』 昭和55年/1980年10月・思潮社刊
候補 多田智満子 『蓮喰いびと』 昭和55年/1980年10月・書肆林檎屋刊/鈴木志郎康 『わたくしの幽霊』 昭和55年/1980年6月・書肆山田刊/清岡卓行 『駱駝のうえの音楽』 昭和55年/1980年10月・青土社刊
候補作4冊
選考対象としての参考資料24冊
正賞+副賞30万円+記念品
選考委員 飯島耕一/篠田一士/中村稔/吉岡実/吉増剛造
選考会昭和55年/1980年12月19日18:30〜 [会場]東京・市ヶ谷「萩の宮」
贈呈式昭和56年/1981年1月30日18:00〜 [会場]東京「赤坂プリンスホテル」
 中村真一郎、入沢康夫両選考委員がやめられ、新しく篠田一士、吉増剛造両氏が加わっての選考会であった。この二人が初対面というのも意外であった。だから新鮮であると同時に、一種の緊張した雰囲気も感じられた。それぞれが未読の詩集を読みはじめる頃には、座もだいぶくつろいできた。
 私が推したいと思った詩集は、天沢退二郎《乙姫様》、多田智満子《蓮喰いびと》、鈴木志郎康《わたくしの幽霊》そして、安藤元雄《水の中の歳月》の四冊であった。しかし、予選は三冊ということなので、《乙姫様》を外さざるを得なかった。近来天沢君は自己の鉱脈を発見し、すぐれた散文形の詩を書いていると思う。だが《乙姫様》の中には常套化された作品もある。《死者の砦》の〈氷川様まで〉〈昇天峠〉のような詩が二、三篇あればと思った。多田智満子さんの《蓮喰いびと》は、女流には珍しく理知的に構成された良い詩集だと思った。ただ第三部の童謡風な作品を除外したら、詩集の統一がとれて強かったと思った(他の委員も同意見)。鈴木志郎康君の《わたくしの幽霊》は、新境地をひらいた詩集だと思った。その中心に据えられた〈数度の凌辱〉は近来の秀作だ。そこまでの前半にくらべ、後半の作品群に、死への思い入れが多く、疑問を覚えてしまった。
 私はいろいろと考え、安藤元雄君の《水の中の歳月》を推すことに決めた。寡作な詩人に依る手づくりの詩集だと思った。九カ年という長い制作期間につくられた、多少ニュアンスの違う詩篇を巧緻に配列し、みごとに統一した詩集である。一篇一篇の詩はそれほど強いと思えないのに、全体として見ると、意志(意識)の強さを感じる。妙な言い方かも知れないが、そこには内観の美がある。(〈感想〉、《現代詩手帖》1981年2月号〈第十一回高見順賞発表〉)
第12回 高見順賞
昭和57年/1982年度
└[ 対象期間 ]─昭和55年/1980年12月1日〜昭和56年/1981年11月30日
=[ 決定 ] 昭和56年/1981年12月17日
=[ 発表 ] 昭和57年/1982年
=[ 媒体 ] 『第十二回高見順賞のしおり 高見順文学振興会会報』[昭和57年/1982年1月]選評掲載【〈「恋する幽霊」――吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(12)――〈蜜はなぜ黄色なのか?〉〉の「蜜/鷲巣漢詩と〈落雁〉」参照】
受賞 鷲巣繁男 『行為の歌』 昭和56年/1981年4月・小沢書店刊
候補 知念栄喜 『加那よ』 昭和56年/1981年4月・沖積舎刊/北村太郎 『悪の花』 昭和56年/1981年10月・思潮社刊/大岡 信 『水府 みえないまち』 昭和56年/1981年7月・思潮社刊/藤井貞和 『ラブホテルの大家族』 昭和56年/1981年5月・書肆山田刊/鈴木志郎康 『水分の移動』 昭和56年/1981年10月・思潮社刊/『生誕の波動 歳序詩稿』 昭和56年/1981年10月・書肆山田刊/青木はるみ 『鯨のアタマが立っていた』 昭和56年/1981年11月・思潮社刊/北川 透 『情死以後』 昭和56年/1981年10月・アトリエ出版企画刊
候補作9詩集
正賞+副賞50万円+記念品
選考委員 飯島耕一/篠田一士/中村稔/吉岡実[座長]/吉増剛造
アンケート(200人)からの回答+事務局によって作成された一覧表+選考委員による推薦詩集18冊
選考会昭和56年/1981年12月17日18:00〜 [会場]東京・駿河台「山の上ホテル」
贈呈式昭和57年/1982年2月1日18:00〜 [会場]東京「赤坂プリンスホテル」
 先ずは、十二年の長きに亘り、高見順文学振興会の委嘱をうけ、高見順賞の運営にたずさわってきた、思潮社とその各位に、ご苦労さまとお礼を申上げる。
 今回の選考委員会では、私が年長の故に、座長をつとめることになった。不馴れのため、いささか進行が停滞した。
 多くの詩集の中から、私は四冊を推した。大岡信『水府』、藤井貞和『ラブホテルの大家族』、知念栄喜『加那よ』そして北川透『情死以後』である。ほかの委員もそれぞれ、四冊ないし三冊を選んだ。
 長い時間をかけ、討議したところ、『水府』と鷲巣繁男『行為の歌』の二冊にしぼられた。『水府』は多彩な言語表現を駆使して、現代の詩へ一つの富を加えていると思った。それから、『行為の歌』は、たしかに深遠で、荘重な世界がある。しかし、私には充分に解読できないところがある、信仰の問題だけではないだろうが、一種のもどかしさが残る。
 談笑のあとの長い沈黙――そして時間が経つ。しばらく休息して、全員で『行為の歌』を、受賞作に決めた。ほっとした空気がながれる。矮小化して行く、現代の詩のなかで、孤絶した『行為の歌』が選ばれたのも、意義があると、私は思った。(〈感想〉、《高見順文学振興会会報》1巻(1982年1月30日)〈第十二回高見順賞のしおり〉)
第13回 高見順賞
昭和58年/1983年度
└[ 対象期間 ]─昭和56年/1981年12月1日〜昭和57年/1982年11月30日
=[ 決定 ] 昭和58年/1983年1月18日
=[ 媒体 ] 『樹木』1号[昭和58年/1983年3月]選評掲載【〈吉岡実の装丁作品(44)〉〈吉岡実のレイアウト(3)〉参照】
受賞 入沢康夫 『死者たちの群がる風景』 昭和57年/1982年10月・河出書房新社刊
候補 藤井貞和 『日本の詩はどこにあるか』 昭和57年/1982年7月・砂子屋書房刊/白石かずこ 『砂族』 昭和57年/1982年7月・書肆山田刊/川崎 洋 『目覚める寸前』 昭和57年/1982年9月・書肆山田刊/会田綱雄 『糸瓜よ糸瓜』 昭和57年/1982年10月・矢立出版刊/藤村 壮 『窓の現象』 昭和57年/1982年3月・書肆季節社刊/清水 昶 『ワグナーの孤独』 昭和56年/1981年12月・思潮社刊/最匠展子 『そこから先へ』 昭和57年/1982年10月・青土社刊
候補作8詩集
正賞+副賞50万円+記念品
選考委員 篠田一士/中村稔/長谷川龍生/吉岡実[座長]/吉増剛造
アンケート(200人)からの回答+事務局によって作成された一覧表+選考委員による推薦詩集13冊
選考会昭和58年/1983年1月18日17:00〜 [会場]東京・駿河台「山の上ホテル」
贈呈式3月11日18:00〜 [会場]東京「赤坂プリンスホテル」
 朝からその日は大雨であった。風邪をこじらせていた私には、夕刻からの外出はつらい。お茶の水駅近くの茶豆館で、熱いコーヒーを啜り、気分をひきたて、駿河台の山の上ホテルへ赴いた。今宵の席は和室で、すでに新しく委員をつとめる、長谷川龍生氏が来ていた。しばらく、雑談し、あとは数冊の未見の候補作品を読んだ。
 今年は、すぐれた詩集が多い。そのなかで、白石かずこ『砂族』、藤井貞和『日本の詩はどこにあるか』、荒川洋治『遣唐』があり、若い世代では、平出隆『胡桃の戦意のために』などに、私は心惹れた。
 選考会がはじまると、私は『砂族』と『日本の詩はどこにあるか』そして入沢康夫『死者たちの群がる風景』の三冊を推した。白石かずこは、「砂漠と人間」という壮大な主題を、緊密なる文体で語り、感動させる。藤井貞和は、前作の『ラブホテルの大家族』で、現代最尖端の風俗を捉えて、哄笑を誘った。今度は一転して、古典的な風雅の世界を、破壊志向をひそめながら、歌い上げている。この二つのいずれかが、受賞作品に選ばれても、私は納得しただろう。
 入沢康夫『死者たちの群がる風景』への受賞が決定した。誰れもが予感していたことかも知れない。かつての名作『わが出雲・わが鎮魂』を遠いこだまと化すほど、この長篇連作詩は、死者と生者の交感を、複雑多岐に叙述して見事であった。(〈詩へ希望が持てた………〉、《樹木》1号(1983年3月10日)〈第十三回高見順賞〉〈選評〉)

これらも吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉に追加するとすれば、次のようになろうか。

一九六一年(昭和三十六年) 四十二歳
四月、第十一回H氏賞選考委員を務める。

一九六二年(昭和三十七年) 四十三歳
四月、第十二回H氏賞選考委員を務める。

一九六三年(昭和三十八年) 四十四歳
四月、第十三回H氏賞選考委員を務める。

一九六八年(昭和四十三年) 四十九歳
四月、第十八回H氏賞選考委員を務める。

一九七八年(昭和五十三年) 五十九歳
十二月、第九回高見順賞選考委員を務める。

一九七九年(昭和五十四年) 六十歳
十二月、第十回高見順賞選考委員を務める。

一九八〇年(昭和五十五年) 六十一歳
十二月、第十一回高見順賞選考委員を務める。

一九八一年(昭和五十六年) 六十二歳
十二月、第十二回高見順賞選考委員を務める(座長を兼任)。

一九八三年(昭和五十八年) 六十四歳
一月、第十三回高見順賞選考委員を務め(座長を兼任)、今回を最後に同賞選考委員を退く。

吉岡がこれらふたつの詩の賞の選考委員を務めたのは、推測するに、かつて自分自身が受けた賞という義理があって、断るに断れなかったためかもしれない。そして、筑摩書房という文芸書も手掛ける出版社の社員という立場が、これら以外の文学賞の選考委員に就くことを阻んだのかもしれない(社の業務としては、太宰治賞の下読みで〈愛の生活〉の金井美恵子を発見した経緯が随想〈少女・金井美恵子〉に書かれている)。だがそれ以上に、こうした賞の選考に関わること自体、負担を感じていたというのが実際のところではないだろうか。吉岡が次のように書いているからだ。「彼女としばしば会ったのは、銀座のサヱグサであった。いつも大きな袋から二、三十枚の原稿を取りだして、読めというので、私は当惑したものである。誰のであれナマの原稿を読まされるほど嫌なことはなく、今までも出来るだけ拒否してきたからだ。喫茶店で原稿を読む人物をみるのさえ私は好きでない」(〈白石かずこの詩〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一八九ページ)。さいわいなことに、吉岡が選考に関わった詩の賞は生原稿(むろん当時は手書きである)を読む形式ではなかったようだ。

〔追記〕
詩の賞の選考以外では、吉岡実は高柳重信に乞われて〈俳句評論賞〉の選考に関わっている。――金子兜太・神田秀夫・楠本憲吉・高柳重信・吉岡実・中村苑子〔座談会〕〈第二回俳句評論賞選考座談会〉(《俳句評論》25号、1963年2月)や、〈吉岡実の「講演」と俳句選評〉に引いた〈感想――俳句評論賞決定まで・経過報告と選後評〉(《俳句評論》72号、1967年9月)がその選評である。新人の詩作品では、《ユリイカ》の読者投稿欄の選評にゲストとして参加したことがある。そのときの談話は〔松浦寿輝・朝吹亮二・吉岡実(ゲスト)の対話批評〕〈奇ッ怪な歪みの魅力〉(《ユリイカ》1987年11月号)で読むことができる。新人の詩について書いた選評がないだけに、吉岡の詩観がうかがえる貴重な内容である。

〔2019年2月28日追記〕
日本現代詩歌文学館振興会・一ツ橋綜合財団編《詩歌文学館賞三〇年[詩・短歌・俳句]》(日本現代詩歌文学館振興会・一ツ橋綜合財団、2016年3月5日)という700ページを超える大冊がある。日本現代詩歌文学館館長で歌人の篠弘が同書に〈詩歌文学館賞の三〇年――井上靖氏の創意から〉を書いている(末尾に「二〇一五年一二月」とある)。序文に相当する文章である。その「4 本賞のエピソード」に、吉岡実の受賞辞退に関する瞠目すべき証言が記されている。吉岡本人はもちろん、第四回の詩の選考委員(安西均・入沢康夫・三木卓)もおそらく公表していないだろう事実が、初めて明らかになった。

 ここで、井上〔靖〕選考委員長時代の出来事として、第四回の詩部門における「受賞辞退」に触れておかなければなりません。吉岡実氏の詩集『ムーンドロップ』('88・11)が選考委員に推挙されます。〔井上〕先生は、同氏が筑摩書房の編集者であった時から面識もあり、かつ人間の存在を精力的に問うこの重鎮の詩作への授賞に賛同されておりました。
 選考会のあった〔一九〕八九年三月一四日の夜、選考委員の一人の安西均[あんざいひとし]氏と私が、目黒区青葉台のお宅を訪れ、約一時間にわたって同意をもとめましたが、不発に終わります。この折の吉岡氏の見解は、第一期の三回までの詩の受賞作からは「詩歌文学館賞の性格がわからず、新人賞めいたものに連なることはできない」と言うものでした。確かに詩の部門は、短歌・俳句の部門と異なって、当初において選考委員よりも年齢の若い、いわば後発の新鋭の詩人が受賞されておりました。第二期に入ったこの機会に、吉岡氏が受賞してくださることによって、「前年中に刊行された最も優れた作品集」という原則に立ち戻りたい、その先陣を切って欲しい旨を強調しましたが、受け容れられなかったのです。
 しかし、この吉岡氏のきびしい拒否に遭って、本賞の詩における評価の尺度が修正されてまいります。その端緒となった「受賞辞退」であり、むしろ吉岡氏の処決と評言に感謝しなければなりません。(同書、一六ページ)

〈吉岡実資料〉を編んだ1991年ころ、未見資料の調査のために小田久郎さんを思潮社に訪ねたことがある。そのおり、いろいろ秘話をうかがった。件の詩歌文学館賞辞退に関しては、吉岡からその経緯を聞いていたものの私には語るべきではないとされたのだろう、明言を避けられた。吉岡本人が書いていない以上、当事者ではない小田さんが私に伝えなければならない理由はない。だが、現・日本現代詩歌文学館館長の篠弘は、当時まさに賞を運営する立場の当事者だったわけで、この証言は重要である(「第一期の三回までの詩の受賞作」が何か、そしてそのときの選考委員が誰かは、《詩歌文学館賞三〇年[詩・短歌・俳句]》の本文に詳しい)。結局、本書には吉岡の《ムーンドロップ》が「第四回(平成元年)詩部門選出作」として記されているものの、〈受賞のことば〉のかわりに「選考委員会において、吉岡実『ムーンドロップ』(一九八八年十一月、書肆山田)が選ばれましたが、 吉岡実氏は受賞を辞退されました。」(同書、二六九ページ)とあるだけで、作品の選出も肖像写真・略歴の掲載もなく(これらはみな、他の受賞作にはある)、選考委員代表の三木卓の選評〈さらなる空間を示す〉(再録)も吉岡の受賞辞退の理由には触れていない。吉岡実の自作に対する矜持と、文学賞の選考に対する見識を思いしらされた一件だった。


吉岡実と鳥居昌三(2018年9月30日)

2018年7月28日、ヤフオク!に「【特選】吉岡実書簡 鳥居昌三宛 昭28(ペン書便箋2枚 封筒)」が出品された。開始価格は15,000円。不甲斐ないことに、例によって落札しそこなったが、書簡の文面を手掛かりに吉岡実と鳥居昌三の関係を探ってみたい。まず、書簡の年代の「昭28」だが、これを西暦にすれば1953年で、次の写真にもある「〔昭和〕53〔年〕」のどこをどう読み間違ったのか、1953年=昭和28年とした誤りで、言うまでもなく昭和53年=1978年が正しい。よって「昭28」ではなく、「昭53」。そもそも、吉岡の署名が昭和28年当時のものではない。

鳥居昌三宛吉岡実書簡(昭和53年4月28日付速達)  鳥居昌三宛吉岡実書簡(昭和53年4月28日付速達)部分
鳥居昌三宛吉岡実書簡(昭和53年4月28日付速達)(左)と同・部分(右)〔出典:ヤフオク!〕

念のために、鳥居昌三宛吉岡実書簡(昭和53年4月28日付速達〔封筒の表に4月28日「小川町」の消印・4月29日「伊東」の消印〕)の文面を起こすと、次のようになる。

〔筑摩書房の便箋に〕
拝復、おはがき頂きながら、返事がおくれまし
たことを、おわび致します。
なにかと、雑用に追われていましたものですから。
小生の初期からの愛読者であるとのこと、
本当にうれしく思います。
英文詩集は、小生にも二十冊位しか届かず、少数の
友人に贈っただけです。
とにかく、出版社へ注文されたらと思います。
普[ママ]装と特装があることはたしかです。
ゼロックスで、参考資料をとりました。
          四月二十八日
               吉岡実
  鳥居昌三様

〔筑摩書房の封筒の裏面に〕
〔昭和〕53〔年〕4〔月〕28〔日〕
〔……筑摩書房……〕
吉岡実

鳥居昌三が吉岡実に送ったハガキの内容は、1976年[春か]にChicago Review Pressから佐藤紘彰訳で刊行された英訳詩抄《Lilac Garden: Poems of Minoru Yoshioka》の入手方法についてであろう。私が同書の存在を知ったのは《読売新聞〔夕刊〕》(1979年10月20日)の〈手帳〉欄の紹介記事〈吉岡実氏の英訳詩集好評――アメリカで刊行〉(無署名)だったから、鳥居はこれ以前に本書を知ったことになる。とすれば、新倉俊一が《英語青年》1977年12月号に寄せた書評〈吉岡実の英訳詩集〉を読んだか、それを読んだ詩誌《VOU》の仲間あたりから聞かされたか。情報ソースの詮索はともかく、鳥居は著者の手持ちの一冊を頒けてもらえまいかと依頼したのであろう。それに対する吉岡の回答は文面のとおりで、ゼロックス(今日いうところのフォトコピー〔電子写真複写〕)で奥付ページを取って同封したと思しい。著者に直接問いあわせるあたり、なかなか情熱的な読者だが(吉岡の「初期からの愛読者である」!)、蒐集にあたっては好印象を与えなかったと、さる老舗の古書店主が私に語ったことがある。なにがあったのか具体的には聞けなかったが。ところで、鳥居昌三についてインターネットで検索しても、重要なことはなにも出てこない(画像検索すると、詩集の書影が多数ヒットするのが特徴といえようか)。日外アソシエーツ編の書誌、《日本の詩歌 全情報 27/90》(日外アソシエーツ、1992年3月19日、八二三ページ)には、鳥居の著書に関して次のようにある。

鳥居 昌三 とりい・しょうぞう
◇アルファベットの罠―鳥居昌三詩集 鳥居昌三
 著 伊東 海人舎 1984.6 1冊 21cm
  〈『Trap』別冊 限定版〉
◇黒い形而上学 鳥居昌三著 東京 Press[ママ]
 bibliomane 1961 67p 21cm
◇詩集 火の装置 鳥居昌三著 東京 Presse
 bibliomane 1959 45p 17cm 〈限定版〉

本稿執筆のために、これらの稀少詩集を集めるのも骨が折れるので、《鳥居昌三詩集》(指月社、2013年11月15日)で代用させてもらうことにする(ちなみに同書は、石神井書林から購入した)。これは鳥居昌三歿後刊行の全詩集には違いないのだが、著者の生年・歿年さえ記されていない、はなはだぶっきらぼうな編集といわねばならない。もっとも、書かれたものがすべてで、それを鍾愛すべき書物の形にまとめることができたなら、詩人=愛書家がいつ生まれていつ死んだかなど、どうでもいいことなのかもしれないが。《鳥居昌三詩集》の〈目次〉を抄する。

未刊詩篇 VOU No. 56-60, 1957-1958
火の装置
黒い形而上学
未刊詩篇 VOU No. 80-95, 1961-1964
背中の砂漠
アルファベットの罠
化石の海
風の記号

白石かずこ〈VOUクラブの鳥居昌三の詩と造本への愛の旅〉
鳥居房子〈海人舎のひと〉

詩集《黒い形而上学》冒頭の詩篇〈黒い風〉は3節から成り、その「」にギヨーム・アポリネールが登場する。ちなみに《鳥居昌三詩集》の詩篇本文は、すべて横組みである。

 

真昼の黄いろい砂でおおわれた街角に巨大な鍵を持った黒い天使が並び空を見あげている

9メエトルほどの上空をしわだらけの球体が旋回している

突然の風とともに砂が舞いあがる

黄いろい空間

6人の同じ顔をした裸の人間が3本の穴のあいたパラソルをさし急いで陸橋を渡っていく

向う側の広告塔の上でギョオム=アルベエル=ウラジミイル=アレクサンドル=アポリネエル・コストロヴィッキイという名の詩人に似た賭博師があくびをしながら三角のトランプを切っている

広告塔の中から黒メガネの剥製の女が現われタパコ・パウチの中から贋造紙幣をひきだしゆっくりと食べはじめる

レプラに罹っている太陽

非常に遠いところで一発ピストルが鳴る

黒い風

何かが腐敗しているにおい

そして

すべてが崩れはじめる

詩句と詩句の間には1行アキがある。師である北園克衛にこの形式の作品があるのか詳らかにしないが、12番めの詩句「そして」は大胆な用法で、みごとに決まっている(「」には「そして/また」「そして/しかし」という詩句も見える〔/は改行〕)。かつてVOUに在籍し、鳥居とは北園の歿後、だいぶ経ってから会ったという白石かずこは、本書巻末の解説で

彼は「若いバッカス」を死ぬまでつづけた。そして常に「祝災日」を己自身で発火したにもかかわらず、その日のくるまでは沈黙の世にも美しい造本のために、そこに詩を投げこむために生命をけずる作業を、彼の片腕である女神にまでも強いたときく。それ故に彼はこの世を、はやめに去ったあとも己の繊細にして鋭い破調をもつアイロニカル・ビューティと詠嘆の詩作品のみならず、美食の果てなき悦楽にも似た美しさに、まぶたが濡れ、光るような本をいくつもつくり、世に残した。その影には大いなる夫人の、バベルの塔をきづくが如きご苦労とフランス式造本にかけては日本で唯一、随一と思われる大家利夫がいたことを、ここに明記しないわけにはいかない。わたしすらもその恩恵をこうむり、まさにピンクとオレンジと青と緑のふしぎなる詩集「四つの窓」や落ちついたシルバーがかったグレイの「羊たちの午后」の特製本をつくって書物の永遠の座に残る光栄に欲[ママ]したのである。(同書、一九四ページ)

と書いている。「彼の片腕である女神」は鳥居房子を指すのだろう。そして、「大家利夫」は本書の発行者である。四六判並製本の《鳥居昌三詩集》は、これらの人人(と北園克衛)の手によって「そこに詩を投げこむため」の一冊となった。

《鳥居昌三詩集》(指月社、2013年11月15日)の表紙
《鳥居昌三詩集》(指月社、2013年11月15日)の表紙〔カットは北園克衛か〕

最後に、《鳥居昌三詩集》で最も印象深かった一篇を掲げる。前掲書誌に依れば、詩集《アルファベットの罠〔『Trap』別冊〕》(海人舎、1984年6月)の〈〓 占愛術〉〔〓には〇で囲んだ小文字のxが入る〕である。

マンドラゴラの薮にはいまも
太陽のミイラが眠ってい
眠れない縞蛇はエロチックに
エクス閣下夫人の頭蓋骨をくすぐっている

巨大な棺桶の中では
忠実な執事たちが「KLORAN」を朗読

ああ
世界は裂け目だらけで
黄金の指は無花果に溺れ
盲目のプロンプタァは
曲線のチョコレェトをしらない

肉食獣になりたいエクス閣下
にとっては非常に悲しいことだ


〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引〉の試み(2018年8月31日)

吉岡実言及造形作家名・作品名索引 小引

さきごろ吉岡実年譜の記載を確認しながら、@読んだ本、A観た舞台・映画、B訪れた土地、とともにC観た美術展、がその作品と人物を論じる際の重要なテーマだと感じた。吉岡の随想や日記、自筆年譜を読んでいると、じつにさまざまな展覧会に足を運んでいることがわかる。公表された記録に残っていない美術展がどれほどあるのか想像もつかないが、吉岡が文章に残したものにはそれなりの意味がある、という線を基本にした。その記録から漏れた美術展のうち、たとえば〈ポール・デルボー展〉は私との面談のおりに吉岡が言及したため、また〈ボナ・ド・マンディアルグ展〉は私が銀座・青木画廊の芳名帳に吉岡の名を確認したため、記載することができた。吉岡実が観た絵や彫刻(および仏像)、書や写真をつくった造形作家をめぐる本格的な論考のまえに、その準備作業として吉岡の詩篇や随想、私の《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》――吉岡の未刊行の散文や私との面談で触れられた内容を含む――に登場する画家や彫刻家を中心に、リスト化しておきたい。記述のしかたは《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》に準じるが、今回はその前半分として、造形作家名・作品名・展覧会名の索引を掲げる。すなわち本稿〈〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引〉の試み〉である。後半分を成す、それら造形作家と作品・展覧会の解題は後日を期したい。全篇が完成したあかつきには、独立したページ《吉岡実言及造形作家名・作品名索引〔解題付〕》として、本サイトに掲載する予定である。(編者・小林一郎)

吉岡実言及造形作家名・作品名索引 凡例

総則

  1. 〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引〉には、吉岡実が執筆した詩篇や散文で言及した造形作家名、その作品名および展覧会名を、後述する底本における吉岡の記載を項目見出しとして五十音順に並べ、底本の略記号と掲載ノンブルを掲げた。ただし、詩篇に登場する場合、その重要性に鑑みて、底本《吉岡実全詩集》の略記号・掲載ノンブルではなく、詩篇の標題(および副題)詩篇番号を掲げた(これにより、《吉岡実全詩集》未収録の未刊詩篇も対象とすることができた)。後者の方が底本の掲載ノンブルよりも把握しやすいためである。読者はこの索引をたどることで、吉岡実の原文に遡ることができる。
  2. 〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引〉の「言及造形作家名」と「言及作品名」「言及展覧会名」にリンクを張って該当名を編者が解題したのが、後半の〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引 解題〉である。本体の〈索引〉と区別するために、小字で表示した。編者の責任で対象を特定した「言及造形作家名」と「言及作品名」「言及展覧会名」を太字で表示した。未詳・未見・存疑などの理由で特定できなかった場合は、その旨を註記した。解題の執筆に際し、Wikipediaや《新潮世界美術辞典》(新潮社、1985)、《広辞苑〔第四版〕》(岩波書店、1991)ほかを参照した。読者はこの解題によって、吉岡実が実際に目にした(であろう)造形作家やその作品・展覧会を追尾できる(項目見出しのあとに「*」印のある展覧会は、吉岡の歿後に開催されたことを表す)。展覧会図録の刊行が確認できた場合は言及した。ただし「総則2」の具体的な内容は、本稿執筆の2018年8月時点で未完成のため、サンプルを数件、掲載するにとどめた。

細則

  1. 対象:〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引〉は、吉岡実が執筆した全詩篇と散文著書(未公刊の小林一郎編《吉岡実未刊行散文集》を含む)および小林一郎編《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》で言及されている造形作家名、その作品名・展覧会名を対象とした。また、吉岡が引用した他者執筆の文中に現れるそれらも同列に扱った。なお、西脇順三郎(詩人・英文学者)のような場合、造形作品(の創作)に関連する項目のみを対象とした。作品名・展覧会名だけが項目見出しになる場合(アングル〈泉〉、〈アングル展〉、など)は、作者名を〔 〕に入れて空見出しを立てた(〔アングル〕)。鑑真和上像などにも、実在の人物名である鑑真和上を〔 〕に入れて空見出しを立てた。
  2. 底本:各詩篇・散文の底本を次に掲げる。出典の表示の仕方は、まず資料名をアルファベットで略記し、掲載ノンブルをアラビア数字でそれに続けた。すなわち「飯田善国/飯田善國[いいだ・よしくに]……形は不安の鋭角を持ち……(H・11), H165, Se246, YS161, N342, 350-351」は「飯田善国」または「飯田善國」が詩篇〈形は不安の鋭角を持ち……〉(H・11)と《土方巽頌》の一六五ページ、《「死児」という絵〔増補版〕》の二四六ページ、《吉岡実散文抄》の一六一ページ、《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》の三四二ページ、三五〇ページ、三五一ページに登場することを表す。なお、数字・アルファベットによる略記号や底本の詳細な書誌は、本サイトの《吉岡実書誌》を参照されたい。
    1. 吉岡実詩篇の底本
      (8)《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日)〔《吉岡実全詩集》未収録の未刊詩篇は〈吉岡実未刊詩篇本文校異〉掲載の本文に依った〕
    2. 吉岡実散文著書等の底本
      S 《「死児」という絵》(思潮社、1980年7月1日)
      H 《土方巽頌》(筑摩書房、1987年9月30日)
      Se 《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988年9月25日)
      U 《うまやはし日記》(書肆山田、1990年4月15日)
      W 《私のうしろを犬が歩いていた》(書肆山田、1996年11月30日)の掲載図版
      YS 《吉岡実散文抄》(思潮社、2006年3月1日)
    3. 上記2の吉岡実散文著書以外で本索引の対象とした文章の底本
      小林一郎編《吉岡実未刊行散文集》(文藝空間、1999年5月31日)掲載のもの〔略記号はM
      小林一郎編《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》(2012年8月31日)掲載のもの〔略記号はN
  3. 表記:底本が2. 1、2. 2の項目見出しには、吉岡実の記述のまま(引用符も含めて)採ったが、校訂しなかった。ただし、明らかな誤記・誤植と考えられる箇所は訂正し、〔誤→正〕を記した。例:〔エッチング→メゾチント〕。なお底本が2. 3の項目見出しでは、吉岡の用法を尊重して、括弧はおおむね〈 〉を用いた。
  4. 作者名:〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引 解題〉には、索引の対象となった作品・展覧会の作者名を見出しに立てて、解題を記した(単独の作者名が立てられないときは、作品名や展覧会名を見出しに立てた)。作者名は一般的と思われる表記で掲げ、併せてその読み(カタカナ表記の人名は欧文綴り)と生歿年を付記した。編者が本サイト《吉岡実の詩の世界》に執筆した関連記事がある場合、――(二倍ダーシ)に続けて記事名を掲げ、リンクを張った。参照していただけるとありがたい。
  5. 冠称:作品の冠称はジャンルを中心に、吉岡実執筆の本文から採択した。
  6. 図録書名:吉岡実が手にした展覧会図録は、底本の記述からだけでは特定しにくいものがほとんどである。探索に努めたが、刊本を実見できなかった場合は、国立国会図書館(NDL)の書誌情報NDL-OPACをはじめ、各種の出版目録・所蔵目録・関連書誌・美術事典等に依って記載した(ただし、煩瑣を避けるため個個の典拠は表示しない)。また、吉岡の眼に触れたと思しい作品の図版を掲載している書籍や雑誌にも適宜、言及した。

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吉岡実言及造形作家名・作品名索引

あ行    か行    さ行    た行    な行    は行    ま行    や行    ら行    わ行

あ行

会田綱雄[あいだ・つなお]……M182
  ――詩と書の個展……M182, N334
青山雅美[あおやま・まさみ]/青山政吉[あおやま・まさきち]……M45, 51, 56, 223
赤瀬川原平[あかせがわ・げんぺい]……H76, 129, 159, 205
――阿修羅像……S42, Se26, YS19
アバティ/アヴァティ[Mario Avati]……N342, M79
  ――〈かたつむりの散歩〉……W〔20〕
――阿弥陀如来(浄瑠璃寺)……Se308
アルチンボルド[Giuseppe Arcimboldo]……サフラン摘み(G・1)
アルプ[Jean Arp / Hans Arp]……スープはさめる(E・11)
〔アングル[Jean-Auguste-Dominique Ingres]〕
  ――アングル〈泉〉……M164, N348
  ――〈アングル展〉……M164, N348

飯田善国/飯田善國[いいだ・よしくに]……形は不安の鋭角を持ち……(H・11), H165, Se246, YS161, N342, 350-351
池田龍雄[いけだ・たつお]……H14, 87, 134, 138, 159, 166, 205, 211, YS170
池田満寿夫[いけだ・ますお]……夏から秋まで――池田満寿夫の版画の題名を藉りて(F・2), 草の迷宮(H・9), S284, H20, 21, 28, 36, 131, 152, 154, 155, Se201, 246, 330, YS161, 168, N334, 344, 337, 350
石岡瑛子[いしおか・えいこ]……H59
一休宗純[いっきゅうそうじゅん]……M177
伊藤若冲[いとう・じゃくちゅう]
  ――〈伊藤若冲展〉……M160, N339
井上武吉[いのうえ・ぶきち]……H130
伊原通夫[いはら・みちお]……S302, Se215, YS128
  ――詩画集《ミクロコスモス》……S302. Se215, YS128-129

ヴォルス[Wols]……S291, Se206
梅木英治[うめき・えいじ]……銀幕(K・9)
  ――梅木英治銅版画展……N355
梅原龍三郎[うめはら・りゅうざぶろう]……S330, H207, 209, Se231, YS142, M43, 156, N327
  ――ガッシュの絵……S330. Se231, YS142

榎本了壱[えのもと・りょういち]……H181
マックス・エルンスト[Max Ernst]……郭公――マックス・エルンスト石版画展に寄せて(J・6)

欧陽詢[おうよう・じゅん]……Se258, U40
  ――「九成宮醴泉銘」……U51
大岡亜紀[おおおか・あき]……S287, H182
太田大八[おおた・だいはち]……S34, 107, Se20, 71, M21, 48, 54, 157, N328-330, 347
大竹茂夫[おおたけ・しげお]……壁掛(J・5)
岡崎和郎[おかざき・かずお]……Se330
小山内龍[おさない・りゅう]……S28, Se16
小沢純[おざわ・じゅん]……秋の領分(K・5), H192, N358
  ――〈グロヴナー公の兎〉……W〔29〕
落合茂[おちあい・しげる]……N330, 359

か行

風倉匠[かざくら・しょう]……H129-130
片山健[かたやま・けん]……生徒(I・18), S230-234, H114, 205, Se162-166, N340, 345, 360
  ――画集《美しい日々》……S230, Se162, N338
  ――個展……S233, Se165
  ――個展……S234, Se166
  ――片山健個展……N340, 335
  ――片山健展……H205
  ――第二画集《エンゼル・アワー》……S231, Se163
  ――第三画集《迷子の独楽》……S233, Se165
  ――デッサン展……S231, Se163
  ――〈とんぼと少女〉……W〔23〕
〔葛飾北斎[かつしか・ほくさい]〕
  ――富嶽三十六景……S21, Se11
  ――北斎展……S21, Se11, N334
勝本富士雄[かつもと・ふじお]……M45, 56
金井久美子[かない・くみこ]……H38, 55, 139, 165, 182, N356
金子国義/金子國義[かねこ・くによし]……夢のアステリスク――金子國義の絵によせて(H・22), H140, N359
金子光晴[かねこ・みつはる]
  ――〈金子光晴展〉……M160, N336
加納光於[かのう・みつお]……S20, H28, 132, 135, 138, 158, 175, Se10, YS168, N334
  ――「半島状〔ナシ→の〕!」展……S20, Se10, N334
椛島勝一[かばしま・かついち]……M112
加山又造[かやま・またぞう]……H94, 215
〔河井寛次郎[かわい・かんじろう]〕
  ――河井寛次郎遺作展……S22, Se12, M159, N335
河原温[かわら・おん]……M51
  ――〈浴室〉……W〔22〕
顔輝[がんき]……N341
  ――伝顔輝筆〈寒山拾得図〉……M162, N341
  ――顔真蹟〈蝦蟇鉄拐図〉……M162, N341
――〈韓国古代文化展〉……M166, N351
〔鑑真和上[がんじんわじょう]〕
  ――〈鑑真和上像〉……Se309, M164, N348

菊地信義[きくち・のぶよし]……Se346-347
  ――『平台/「菊地信義の本」展』……Se346
岸田劉生[きしだ・りゅうせい]……H27
  ――〈岸田劉生展〉……M163, N346
  ――「麗子像」……H27
徽宗皇帝[きそうこうてい]……Se343
  ――「山水図」……Se344
  ――「桃鳩図」……Se343-344
  ――伝徽宗皇帝筆「猫図」……Se344, M165, N350
北大路魯山人[きたおおじ・ろさんじん]……S250, 252, Se177-178, N344
  ――四角な灰皿……S250, 252, Se177-178
――吉祥天女像(浄瑠璃寺)……Se308
木葉井悦子[きばい・えつこ]……H205
――〈黄不動〉(三井寺〔園城寺〕)……M161, N340
キリコ[Giorgio de Chirico]……マクロコスモス(F・1)
  ――〈デ・キリコ展〉……M161, N340

虞世南[ぐ・せいなん]……Se256, U34
〔草野心平[くさの・しんぺい]〕
  ――〈草野心平展〉……N353
クート[Lucien Coutaud]……模写――或はクートの絵から(E・4)
国吉康雄[くによし・やすお]……S263, Se186
ポール・クレー[Paul Klee]……ポール・クレーの食卓(I・1), ぽーる・くれーの歌〈又は雪のカンバス〉(未発表詩篇・2), Se73, 245, YS53, 152, M45, 119, 163, N327

――〈現代詩オブジェ展〉……N347
――〈元代道釈人物画特別展観〉……N341

黄山谷[こう・さんこく]……M60, N337
合田佐和子[ごうだ・さわこ]……S20, H19, 38, Se10, M208, N334
  ――オブジェ展……S20, Se10, N334
〔弘法大師[こうぼうだいし]〕
  ――〈弘法大師と密教美術〉展……M165, N351
アーシル・ゴーキー[Arshile Gorky]……S291, Se206
フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ[Vincent Willem van Gogh]……M227
小林古径[こばやし・こけい]……Se343
駒井哲郎[こまい・てつろう]……N332
  ――安東次男と駒井哲郎の詩画集《からんどりえ》……M158, N332
ゴヤ[Francisco Jose de Goya y Lucientes]……あまがつ頌――北方舞踏派《塩首》の印象詩篇(G・30), H89〔=〈あまがつ頌〉の引用〕

さ行

斎藤清[さいとう・きよし]……S102, Se67, 257, U35, 71, 85, M154, 226, N322
斎藤真一[さいとう・しんいち]
  ――〈しげ子 母の片身〉……W〔25〕
〔坂本繁二郎[さかもと・はんじろう]〕
  ――〈坂本繁二郎追悼展〉……M160, N338
佐熊桂一郎[さくま・けいいちろう]
  ――〈婦人像〉……W〔24〕

ジョージ・シーガル[George Segal]……H109
〔清水將文[しみず・まさふみ]〕
  ――清水將文個展〈火と呪術〉……N355
下村観山[しもむら・かんざん]……S40, Se24, YS15
  ――虹の図……S40, Se24, YS15
シャガール[Marc Chagall]……H137
  ――〈シャガール展〉……N357
シュヴァル[Joseph Ferdinand Cheval]……雷雨の姿を見よ(H・14)
  ――〈理想の宮殿〉……雷雨の姿を見よ(H・14)
――〈正倉院拝観展〉……M163, N348
――〈初期伊万里展〉……N357
〔書肆山田〕
  ――〈テクストにそって―画家と装幀家と―書肆山田の〈本〉展〉*……N359
ジャスパー・ジョーンズ[Jasper Johns]……曙(H・8)
――〈十二神将立像〉とりわけ〈伐折羅大将像〉(新薬師寺金堂)……Se307, N328
エゴン・シーレ[Egon Schiele]……水鏡(H・6)
  ――〈エゴン・シーレ展〉……N346

菅木志雄[すが・きしお]……H173
スタンチッチ[Miljenko Stancic]……S107, 奥付, Se口絵, 70, YS50
  ――死児……S107, 奥付, 〔貼函〕, Se口絵, 70, YS50
スーチン[Haim Sutin / Chaim Sutin]……M227
スワンベルグ[Max Walter Svanberg]……スワンベルグの歌(未刊詩篇・12), N340

ヘルマン・セリエント[Hermann Serient]……異邦――へルマン・セリエントの絵によせて(H・5), H205
  ――〈異邦〉……W〔21〕
  ――〈ヘルマン・セリエント展〉……N354

――宋元山水画……Se24, YS16
副島蒼海[そえじま・そうかい]……M60
曽我蕭白[そが・しょうはく]……M160, N339
  ――〈近世異端の芸術展〉……N339
ゾンネンシュターン[Friedrich Schroder-Sonnenstern]……ゾンネンシュターンの船(G・24), N333
  ――(題なし。梱包用紙に鉛筆で)……W〔30〕

た行

――〈大威徳明王像〉……M165, N350
〔高島野十郎[たかしま・やじゅうろう]〕
  ――〈高島野十郎展〉……M208, N356
〔高橋新吉[たかはし・しんきち]〕
  ――〈高橋新吉書画展〉……M182, N339
高村光太郎[たかむら・こうたろう]……S238, Se167-168
高山泰造[たかやま・たいぞう]……M60
瀧口修造[たきぐち・しゅうぞう]……舵手の書――瀧口修造氏に(G・22), H11, 13-14, 16-17, 19, 28, 38, 41, 55-56, 58-59, 71, 102, 115-117, 138, 153, 157, 165, Se210, M154, N322, N340, 341, 346
  ――瀧口修造とジョアン・ミロの詩画集《ミロの星と共に》展示会……S316, Se210, N345
田鶴浜洋一郎[たづはま・よういちろう]……H167, 174, 187, 193
田中一光[たなか・いっこう]……H28, 133, YS168
田中岑[たなか・たかし]……H77
谷内六郎[たにうち・ろくろう]……M35, N326
谷川晃一[たにがわ・こういち]……H25, 52
俵屋宗達[たわらや・そうたつ]……Se342
  ――「仔犬図」/「犬図」……Se342-343
  ――「風神雷神図」……Se342
  ――「舞楽図」……Se342
  ――「蓮池水禽図」……Se342

――〈中国の絵画展〉……M165, N349
――〈中国名陶百選〉……M54, 158, N331
――〈中山王国文物展〉……M164, N348
褚遂良[ちょ・すいりょう]……Se257, U37

つげ義春[つげ・よしはる]……S230, H43, Se162, N338
  ――〈ねじ式〉……S230, Se162

〔ポール・デイヴィス[Paul Davis]〕
  ――ポール・デイヴィスのアクリル画〈猫とリンゴ〉……W〔19〕, N344, 355, 358
  ――〈ポール・デービスの世界展〉……N355
〔ポール・デルヴォー[Paul Delvaux]〕
  ――〈ポール・デルボー展〉……N341
――奠雁……Se282-283

富岡鉄斎[とみおか・てっさい]……S21, H194, 197, Se11
  ――〈鉄斎展〉……M161, N341
  ――〈富岡鉄斎展〉……N354
〔富本憲吉[とみもと・けんきち]〕
  ――〈富本憲吉遺作展〉……M160, N338
富本貞雄[とみもと・さだお]
  ――〔西脇順三郎の〕大きなカラーの肖像写真……Se241, YS155
アンドレ・ドラン[Andre Derain]……H168

な行

中尾彰[なかお・しょう]……M222
中川紀元[なかがわ・きげん]……M45
長沢蘆雪[ながさわ・ろせつ]……M160, N339
  ――〈近世異端の芸術展〉……N339
永田耕衣[ながた・こうい]……S21, 151, Se11, H18, 82, 167, 172, 192, 214, M20, 21, 30, N332-333, 338, 353
  ――〈羽痛女神像〉……M175
  ――「おしどり図」……S22, Se11, N334
  ――〈花紅〉……M168
  ――〈牛臥揚蝶図〉……M60
  ――〈近海地蔵〉……M60, 61
  ――「金剛」……S21, Se11, M59, 125-126, 174
  ――〈秋怨不動図〉……M60
  ――書画展……M121
  ――〈書と絵による永田耕衣展〉…… M59, 71,N337
  ――永田耕衣展……N339
  ――永田耕衣の書画集《錯》……M174, N354
  ――〈鯰佛〉……M60, 70, 71, N338
  ――「白桃図」……S21, Se11, W〔27〕, M159, N334
  ――〈白桃女神像〉……M60, 61, 71, N337
  ――〈不生〉……M79, 174
  ――〈老鴉夕焼図〉……M61
永田力[ながた・りき]……M52, N331
――〈那智瀧図〉……N353
中西夏之[なかにし・なつゆき]……S284, H14, 18, 20, 25, 28, 33, 36, 41, 53, 56, 83, 85, 87, 104-105, 131, 137, 147, 159, 206, 211, 奥付, Se201, 344, 346, YS167-168, 170, N336, 359
  ――卵のオブジェ……H〔ジャケット〕, 〔本扉〕, N336
  ――個展『むらさき』……Se346, N350
  ――〈中西夏之展〉……N357
中村宏[なかむら・ひろし]……H28, 62, 236, YS168
難波田龍起[なんばた・たつおき]……S236-238, Se166-168, M204, N328
  ――〈北国の家〉……S237, Se167
  ――奇妙な一枚の油絵……S236, Se166

ルイズ・ニーヴェルスン[Louise Berliawsky Nevelson]……雨(F・9)
西脇順三郎[にしわき・じゅんざぶろう]……S23, 26, 88, 209, 213, 330-331, 342, H26, 34, 45, 85, Se222-247, 285-286, 298, 300, 304, 314-315, N342, 344-349, 353, 360
  ――〈永遠の旅人 西脇順三郎 詩・絵画・その周辺〉展……M199, 202, N356
  ――個展……Se246
  ――〔詩集《夏の宴》の〕装幀に使った西脇順三郎先生の絵……S209, 342, Se153, 239-240
  ――(題なし。スケッチ帳から)……W〔28〕
  ――大理石の蛇……Se245, YS159
  ――小さな油絵……S335, Se234, YS146
  ――西脇順三郎絵画展……M132
  ――〈西脇順三郎画展〉……N336
  ――「西脇順三郎の絵画」展……Se246, M164, N348, YS161
  ――富嶽図……S331, Se232
  ――〈馥郁タル火夫ヨ――生誕百年西脇順三郎その詩と絵画〉展*……N360
  ――龍の絵……S332, Se233, YS144
  ――「龍の図」「虎の図」……S331-332, Se232, YS143, N341
――〈日本の詩歌展――詩・短歌・俳句の一〇〇年〉*……N359
――日本美術展覧会……M222, N326

野中ユリ[のなか・ゆり]……H11, 28, 59, 79, 126, 135, YS168

は行

〔ルドルフ・ハウズナー[Rudolf Husner]〕
  ――〈ルドルフ・ハウズナー展〉……M164, N349
白隠[はくいん]……Se11, H154, M60, 177, N337
長谷川等伯[はせがわ・とうはく]……H191
――〈八大童子立像〉(金剛峯寺)……M165, N351
羽永光利[はなが・みつとし]……H210, 238, YS177
浜口陽三[はまぐち・ようぞう]……S74, Se45, YS11, N331
  ――〔エッチング→メゾチント〕の佳作「白菜」……S74, Se45, YS11
林静一[はやし・せいいち]……S230, Se162, N338
――〈ぱるこ・ぽえとりい展〉……N339
バルテュス[Balthus]……H168-169, 194, 196, Se361
  ――「美しい日々」…… Se362
  ――「ギターのレッスン」…… Se361, 362
  ――「金魚」…… Se361
  ――「子供たち」…… Se361
  ――風景画「コメルス・サンタンドレ小路」…… Se361, 362
  ――バルテュス展……Se362, M168, N352
  ――「部屋」…… Se361
  ――肖像画「ホアン・ミロとその娘ドロレス」…… Se362
  ――「街」…… Se361
  ――「夢」…… Se361

ビアズレー[Aubrey Vincent Beardsley]……H94
ピカソ[Pablo Picasso]……S87, 102, 133, 161, H94, Se57, 67, 89, 110, 335, YS82, M101, 138, 154-155, N322, 350
  ――〈ピカソ秘蔵のピカソ展〉……M164, N348
樋口一葉[ひぐち・いちよう]……S250, Se176
  ――短冊……S250-251, Se176-177
土方巽[ひじかた・たつみ]
  ――詩画集《土方巽舞踏展 あんま》……N336, YS169
  ――「土方巽舞踏写真展」……YS179, N355

レオノール・フィニ[Leonor Fini]……ツグミ(I・21), M146
藤田嗣治[ふじた・つぐはる]……U129
  ――版画「麗人」……U129
藤村英雄[ふじむら・ひでお]……H150
ローラン・ブリジオ[Roland Bourigeaud]……フォーサイド家の猫(G・17)
文三橋[ぶん・さんきょう]……M60
――文展……U84

――〈平家納経〉……M161, N339
フランシス・ベーコン[Francis Bacon]……N355
ハンス・ベルメール[Hans Bellmer]……青い柱はどこにあるか?――土方巽の秘儀によせて(F・6), 聖少女(F・10), H54, Se359, M30, 151
  ――着色写真集[、、、、、]……Se359
  ――ハンス・ベルメール《人形写真集》……N337

――〈ボストン美術館所蔵日本絵画名品展〉……M165, N350
細江英公[ほそえ・えいこう]……H13-15, 131, 236, N336
  ――「とてつもなく悲劇的な喜劇」……H14, N336
堀内位智子[ほりうち・いちこ]……M51

ま行

ルネ・マグリット[Rene Francois Ghislain Magritte]……雷雨の姿を見よ(H・14), S285, H37, Se202
松井喜三男[まつい・きみお]……自転車の上の猫(G・15)
真鍋博[まなべ・ひろし]……M53, N331
〔ボナ・ド・マンディアルグ[Bona de Mandiargue]〕
  ――〈ボナ・ド・マンディアルグ展〉……N346

三木富雄[みき・とみお]……H28, 76, YS168
ミケランジェロ[Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni]……H138, M38
水谷勇夫[みずたに・いさお]……H194, 240, YS179
宮迫千鶴[みやさこ・ちづる]……H53
三好豊一郎[みよし・とよいちろう]
  ――(題なし)……W〔26〕
ホアン・ミロ[Joan Miro i Ferra]……狩られる女――ミロの絵から(D・18), S316, H115, 168, Se210, 220, 362
  ――瀧口修造とジョアン・ミロの詩画集《ミロの星と共に》展示会……Se210, N345
――弥勒菩薩半跏思惟像……S41, Se25, YS16

へンリー・ムア[Henry Spencer Moore]……舵手の書――瀧口修造氏に(G・22)
  ――〈ヘンリー・ムーア展〉……M160, N336
棟方志功[むなかた・しこう]……M59
ムンク[Edvard Munch]……白夜(G・23)
  ――〈ムンク展〉……M164, N348

――迷企羅像……Se308

黙庵[もくあん]……M162
  ――「四睡図」……M162

や行

八木一夫[やぎ・かずお]……M60
――薬師如来……Se307
安井曾太郎[やすい・そうたろう]……M43, 156, N327

横尾忠則[よこお・ただのり]……H14, 16
吉江庄蔵[よしえ・しょうぞう]……H94
吉田健男[よしだ・たけお]……S328-329, Se229-230, M157, N328
吉村益信[よしむら・ますのぶ]……H128-129
四谷シモン[よつや・しもん]……薄荷(K・6), H17, 19, 38-39, 41, 43, 76, 79, 112-113, 139, 179, 197, 208, 211, Se360, N338, 345, 353
  ――少女人形……Se360
  ――「ドイツの少年」……Se360
  ――第一回個展「未来と過去のイヴ」……Se360, N340
  ――四谷シモン人形展〈ラムール・ラムール〉……N349

ら行

――「両界曼荼羅」……Se367
〔良寛[りょうかん]〕
  ――〈良寛展〉……M163, N347
リラン[Li-lan]……S284, H20-21, 28, Se201, YS169

ルドン[Odilon Redon]……異霊祭(G・19)

ロダン[Francois-Auguste-Rene Rodin]……S88, 103, 143, Se57, 68, 97, 287-288, YS35, 37-39, 48, 90, M155, N327
アンリ・ローランス[Henry Laurens]……形は不安の鋭角を持ち……(H・11)

わ行

アンドリュー・ワイエス[Andrew Wyeth]……謎の絵(H・ 26)
和田芳恵[わだ・よしえ]……S244, Se173
  ――自筆の「寂」……S244, Se173
〔渡辺兼人[わたなべ・かねんど]〕
  ――渡辺兼人写真展〈逆倒都市〉……H139, M164, N349


吉岡実言及造形作家名・作品名索引 解題(2018年8月時点で未完成)

                                                                                                       

太田大八(おおた・だいはち、1918-2016)
「昭和・平成期の絵本画家,イラストレーター.長崎県出身.多摩帝国美術学校図案科卒.主な受賞歴は,日本童画会賞(昭和30年),小学館絵画賞(昭和33年),アンデルセン賞国内賞(昭和34年),サンケイ児童出版文化大賞(昭和40年),国際アンデルセン賞2席(昭和45年)《馬ぬすびと》,ドイツ民主共和国ライプチヒ国際図書芸衛展奨励賞(昭和50年),厚生省児童福祉文化賞(昭和51年),IBA国際図書芸術展金賞(昭和52年),講談社出版文化賞(絵本賞)(昭和56年),児童文化功労者(第29回)(平成1年),赤い鳥さし絵賞(第4回)(平成2年)《見えない絵本》,日本の絵本賞絵本にっぽん賞(第15回)(平成4年)《だいちゃんとうみ》,サンケイ児童出版文化賞(美術賞,第45回)(平成10年)《絵本西遊記》,モービル児童文化賞(第34回)(平成11年),産経児童出版文化賞(第49回)(平成14年)《えんの松原》.太田は昭和24年から児童図書や絵本などのイラストレーターとして活躍.児童出版美術連盟の設立に参加,長年にわたって理事長をつとめ,絵の著作権確立に尽力した.代表作に《馬ぬすびと》《かさ》《ながさきくんち》《近世のこども歳時記》《だいちゃんとうみ》《絵本西遊記》やSF小説《スパンキー》など.」(日外アソシエーツ編《20世紀日本人名事典 あ〜せ》、日外アソシエーツ、2004年7月26日、四八七ページの記述を元にアレンジした)
1951年、筑摩書房に入社した吉岡は、担当した〔小学生全集〕の挿絵を新進の挿絵画家・太田大八に依頼した。「童画家太田大八・十四子夫妻を知る。以後、一種の実家として、独身時代の憩いの場所となる」(〈〔自筆〕年譜〉1952年の項)。やがて太田の周辺にいた友人たちとも親しくなり、吉田健男とは1954年に健男が心中するまで同居した。吉岡が真の詩的出発を遂げた詩集《静物》(私家版、1955)の発行人は太田である。1959年、吉岡が和田芳恵の長女・陽子と結婚するに際しては、仲人を務めた。太田は、最晩年まで吉岡の詩に触発された絵を描く構想を抱いていたが、実現されなかった。太田が吉岡を語った文章に〈カメレオンの眼〉がある。
  ――太田大八さんを偲ぶ

リュシアン・クートー(Lucien Coutaud、1904-77)
「〔仏・画〕ガール県メーヌに家具職人の子として生る。ニームの美術学校に学んだ後、パリに出て二、三の研究所に通う。一九二八年頃より作品を発表し出したが、その後イタリアに遊び、初期ルネッサンス、特にピエロ・デラ・フランチェスカに感動したと伝えられる。帰仏後はシュールレアリスムの作品を発表しているが、四二年来は主としてサロン・ドオトンヌ及びテュイルリーに出品、四五年にはサロン・ド・メエの設立に参加した。その独特の、針と刺を想わせるような線と形の組合わせによる人体からは、一種の悲哀の情と夢幻が不思議な現実感となって、われわれに迫ってくる。最近の彼はタピストリーの下絵、建築装飾、バレエの装置など、装飾美術の方面にも、その多才ぶりを発揮している。現在、フランスの中堅作家中、最も注目される一人である。(嘉門〔安雄〕)」(今泉篤男・山田智三郎編《西洋美術辞典》、東京堂、1954年11月30日、一九八〜一九九ページ)
吉岡は詩篇〈模写――或はクートの絵から〉(E・4)を書いているほか、《静物》(1955)所収の〈風景〉(B・10)は稿本の段階では目次・本文とも〈クートーの風景〉という題名だった。

  ――1953年1月にわが国で初の個展が神奈川県立近代美術館で開かれ、4ページのリーフレットながら目録も刊行された(吉岡が同展を観た記録はないが、観ていなければおかしい)。1963年には来日して、東京と大阪で個展を開いている。
  ――詩篇〈模写――或はクートの絵から〉初出発見記

吉田健男(よしだ・たけお、192?-1954)
生年は未詳。太田大八(1918-2016)の多摩帝国美術学校図案科時代の後輩の画家で、吉岡実の年少の友人。吉田健男のオジ(?)は翻訳家・英文学者・児童文学者の吉田甲子太郎(1894-1957)だという(太田大八談)。
  ――吉岡は〈西脇順三郎アラベスク〉の「3 化粧地蔵の周辺」で、健男と同居していたころのことを回想している。また〈〔自筆〕年譜〉に「健男の死を契機に、現れた女性T・Iと奇妙な恋愛遊戯」と書いている。
  ――吉岡実と吉田健男
  ――吉田健男の装丁作品

四谷シモン(よつや・しもん、1944- )
「東京に生まれる。本名は小林兼光。1959年中学校を卒業し、日本デザイン・スクールに入学するが、間もなく中退する。幼少期から人形の制作に熱中し、1963年ハンス・ベルメールの人形を知ったことから、シュルレアリスムに深く傾倒するとともに、自らも関節の動く等身大人形の制作をはじめる。1967年芝居に使う人形を作ったのがきっかけで唐十郎と知りあい、71年に退団するまで状況劇場に役者として出演する。この間デパートのディスプレー用の人形制作や、大阪万国博覧会せんい館の仕事などを手がける。1973年青木画廊(銀座)で初めての個展を開催、女性の等身大人形12体を展示して大きな反響を呼ぶ。1974年第11回日本国際美術展に、82年富山県立近代美術館の「瀧口修造と戦後美術」展に招待出品。1978年エコール・ド・シモンを開校し、人形制作の指導にあたる。現在も特異なエロティシズムを漂わせる人形の制作にあたるとともに、役者としても活躍している。」(埼玉県立近代美術館編《なぜか気になる人間像――ピカソ、ダリ、ホックニーなど 徳島県立近代美術館所蔵名品展》埼玉県立近代美術館、1992年〔8月12日〕、八一ページ)
吉岡は詩篇〈薄荷〉(K・6)を《四谷シモン 人形愛》(美術出版社、1985年6月10日)に寄せている。

  ――吉岡が四谷の人形に最初に触れた雑誌《太陽》1970年2月号〔世界の人形〕の「人形と暮らす3 四谷シモン――犯された玩具」には、三体の人形(ベルメールの人形写真を参照して模造したもの、初の等身大の本格的なもの、マグリットへの愛をこめてつくったもの〔とともに立つ作者本人〕)が5ページに亘って紹介されている(写真撮影は石元泰博)。
  ――吉岡実と四谷シモン

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冒頭の小引の草稿を書いたのは、今をさかのぼること数年前――おそらく2014年に〈吉岡実詩における絵画〉を書いた前後――だっただろう。通常の記事と違って、こうした資料物の場合、企画してから脱稿するまで長い年月を要するのが常である(吉岡実を引きあいに出すのなら、編著《耕衣百句》がそれである。永田耕衣の全句業から百句を撰して若干の解説を書くというのが、その簡にして明なる企画だったに違いない)。ところで、人名索引や事項索引は個人全集の肝であると同時に、最大の難所でもある。《澁澤龍彦全集〔全22巻・別巻2〕》(河出書房新社、1993〜95)にCD-ROMの索引を付けるプランがあったと聞くが(全巻購読者への特典?)、立ち消えになったようだ。前回、《胡桃の中の世界》を全集本で再読したとき、人名索引(たとえば、アルチンボルド)や事項索引(たとえば、示影針)がないのをどれほど残念に思ったことか。著者の澁澤ほどの知の蓄積があれば索引は不要だろうが、常人がその世界に分け入るのに必要かつ不可欠な工具書が、これらの索引である。だれか《澁澤龍彦全集》の索引をつくるほどの猛者はいないか。(2018年8月)


〈示影針(グノーモン)〉と《胡桃の中の世界》(2018年7月31日)

「だが、吉岡が澁澤の方法を自家薬籠中のものとしたのは「澁澤龍彦のミクロコスモス」を詞書にもつ詩篇〈示影針(グノーモン)〉(G・27)をもって嚆矢とする。詩篇と澁澤龍彦《胡桃の中の世界》(青土社、1974)の関係については、他日を期したい」とは、〈吉岡実と和田芳恵あるいは澁澤龍彦の散文〉の結びの文だった。今回はその約束を果たすべく、〈示影針(グノーモン)〉と《胡桃の中の世界》(青土社、1974年10月1日)を読みくらべてみよう。

《ユリイカ》1975年9月号〈特集=澁澤龍彦 ユートピアの精神〉表紙 吉岡実〈示影針(グノーモン)〉の冒頭見開き(《ユリイカ》1975年9月号〈特集=澁澤龍彦 ユートピアの精神〉、一〇四〜一〇五ページ)
《ユリイカ》1975年9月号〈特集=澁澤龍彦 ユートピアの精神〉表紙(左)と吉岡実〈示影針(グノーモン)〉の冒頭見開き(同誌、一〇四〜一〇五ページ)(右)

まず詩篇の標題である「示影針(グノーモン)」は澁澤の著書に、次のように登場する。

 この建造物は一六三三年、英国王チャールズ一世の命により、宮廷付きの石工の長であったジョン・ミルンという者が、同じく石工のジョン・バトゥーンと協同で製作した。石材を正二十面体に切った幾何学的な日時計で、その各面は半球状に凹まされ、凹んだ半球内に示影針[グノーモン]や、いろいろな装飾的彫刻が彫りこまれている。(同書、三八ページ)

古来の日時計には多くの種類が数えられるが、澁澤は「〔一九三二年に死んだと推定される、今世紀の最も博学なフランスの錬金術研究家〕フルカネルリの断言するところによれば、このエディンバラの二十面体の日時計は、それらのどの形式とも一致しない。原型と思われるものは一つもないのである。しかしギリシアにおける日時計の古称である「グノモーン」は、語源的にグノーシス(知識)やグノーム(地中の精)と同じで、隠された知識や秘伝を意味するから、この古義に即して考えてみるならば、エディンバラの日時計が何の象徴であるかは、おのずから明らかになるにちがいない。すなわち、日時計の二十面体は、実際的な時計の効用を有するとともに、またグノーシス的な錬金術の奥義に近づくための、秘密の鍵をあらわしてもいるのである」(同前、三九ページ)と続けて、それを詳らかにしていく。すなわち全13篇を収めた《胡桃の中の世界》の、冒頭〈石の夢〉に次ぐ第二篇〈プラトン立体〉の一節だが、ここで提示された時計のモチーフは終わりから三つめに置かれた、本書の白眉〈ユートピアとしての時計〉で全面的に展開される。ときに、丸谷才一は《胡桃の中の世界》刊行当月(1974年10月)の《朝日新聞》の〈文芸時評〉で逸早く本書を取りあげた。「批評家がみんなせつせと『伊勢』『源氏』を論ずる今日このごろ、流行を横目で見て、平然と洋学にいそしむひねくれ者の代表を澁澤龍彦とする」(《雁のたより〔朝日文庫〕》朝日新聞社、1986年8月20日、二三二ページ)と始まる丸谷の時評は、紙幅のほとんどを〈ユートピアとしての時計〉に費やしている。ちなみに、当時の業務上の必要からいっても、また詩人としての関心からいっても、吉岡が各紙の文芸時評に目を通していたことは確実である。

 澁澤は、普通、中世の発明としてはグーテンベルクの印刷術があげられるだけで、それよりももつと大きな影響をもつと深いところで与へた歯車装置の時計の発明が無視されてゐると、言はれてみればまことにもつともなことを指摘する。そして、時計の発明者と伝へられる人物をいちいち検討してはしりぞけたあげく、十一世紀のベネディクト修道僧ヒルサウのギョームがそれだといふ「フランスの或る論者」の説を紹介するのだが、この「初耳」(もちろんわたしも初耳)の説は彼をずいぶん喜ばせたやうだ。機械時計とユートピアのアナロジーが、修道院を媒介にしてきれいに成立するからである。「機械時計から飛び出してくるのは、もはや自然の時間ではなく(中略)抽象的かつ論理的な時間でしかない」。ところが修道院といふのは「閉された、まさにユートピア的環境」で、しかも「ユートピアとは元来、歴史の無秩序な流れとは対立したものであり、論理的であって、完成を志向するものである。ユートピアの構造を支える諸部分は、歯車のように互いに噛み合って、固く結ばれ合っている。ユートピアとは、一本の軸を中心に回転する機械の世界なのである。機械時計の抽象的な時間は、そのままユートピア世界の時間でもあろう」と話は進むのだが、われわれはここで、さう言へば『ユートピア』の著者トマス・モアは、一時は修道院にはいらうとした、とか、馬の毛で織つた修道僧のシャツを着てゐた、とか思ひ浮べ、そのやうに禁欲的な人間が修道院の規律を俗世に及ぼさうとして、あの新月のやうな形の島の共産制を夢想したといふのは理屈に合つてゐる、と納得がゆくことだらう。(同書、二三三〜二三四ページ)

本題に戻ろう。吉岡詩の標題〈示影針(グノーモン)〉がいつ決定されたかは不明だが、詞書の「澁澤龍彦のミクロコスモス」は吉岡が詩篇の執筆を始めた当初から決定していたと思しい。吉岡が澁澤に捧げる詩を《胡桃の中の世界》からの引用を中心にまとめると決めたのは、同書の〈あとがき〉の次の一節に共感したからに違いない。すなわちそこには「『胡桃の中の世界』は、その内容から見て、私のリヴレスクな博物誌と名づけてもよかったろうし、あるいはまた、形象思考とか結晶愛好とかいった観点から、題名をつけてもよかったろうと思われるような種類の本だ。雑誌「ユリイカ」に連載(昭和四十八年一月より四十九年一月まで)のあいだは、暫定的に「ミクロコスモス譜」と題していた。私の神はミクロコスモスに宿らねばならぬと信じていたし、それに何よりも、かつて中国人や江戸期の随筆家の好んで用いたところの、譜という言葉を一度ぜひ使ってみたかったのである」(《胡桃の中の世界》、二五六ページ)とある。次に〈示影針(グノーモン)〉の本文を《サフラン摘み》(青土社、1976)収録形で掲げよう。初出との異同は、まず体裁上の面では「 」(鉤括弧)を伴う引用文が(一下〔一字下げ〕)だったのを(天ツキ〔下げず〕)に変えたほかは、引用文中の改行箇所を改めたくらいで、文言上の面では「2」の「抱いている」を「抱えている」に変えたのと、「4」で

「フップ鳥」
〔わたしたちの対象となり得ないもの→ウプパ ククファ フドフドと鳴きながら〕
〔動物から天使までのあらゆる存在に→砂漠のなかで〕
〔変身する可能性をもつ→地中の水や宝を見つける〕
「フップ鳥」

としたほかは、字句の変更はない。本稿では、吉岡実が澁澤龍彦の章句をどのように拉し来ったか示すべく、調べがついたかぎりの詩句の典拠を掲げる。すなわち、同詩(行末の数字は論者の付したライナー)を引いて吉岡の詩句にリンクを張り、リンク先に澁澤の原典を並べた(さしでがましいようだが、該当する章句をで表示した)。照合は《胡桃の中の世界》初版(青土社、1974年10月1日)に限った。原典である澁澤の文章は、吉岡の詩句の順番ではなく、《胡桃の中の世界》に登場する順番とした。なお、同詩における〔初出→定稿〕の異同の詳細は〈吉岡実詩集《サフラン摘み》本文校異〉を見られたい。

示影針(グノーモン)(G・27)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1975年9月号〔7巻8号〕一〇四〜一〇八ページ、本文9ポ22行1段組、5節79行。吉岡は1975年8月31日付の永田耕衣宛書簡で「猛暑の夏も今日で終る―この八月の最後の夜、やっとご返事が出来るようになりました。新句集《冷位》を一早く、渡辺一考君を通じて頂きながら、お礼を申上げずにいたことを深くおわび致します。丁度そのころ、ユリイカ九月号〈渋沢龍彦―ユートピアの精神〉という特集号の献詩を書いていました。そして恐しく心身を消耗していたからです」と書いている。

    澁澤龍彦のミクロコスモス 00

   1

「少女は消え失せ 01
はしなかったけれども 02
もう二度と姿を現わしはしなかった 03
現われて出てくる 04
やいなや 05
少女はすぐさま形態を 06
なくした」 07
それはとりわけ雷雨のはげしい夜 08
わたしは観念と実在と 09
つねに一致する 10
客体としての少女を求めているんだ 11
その内部にはしばしば綿がつめられている 12
「デルタの泥土のなかで 13
花を咲かせるという 14
大いなる原初の白蓮[ロータス]」 15
少女は言葉を分泌することがない 16

   2

「わたしは幼年時代 メリー・ミルクというミルクの 17
罐のレッテルに 女の子がメリー・ミルクの罐を抱え 18
ている姿の描かれている」 19
その罐を抱えている屋敷の女の子を眺めながら 20
わたしは水疱瘡に罹っていた 21
どんぐりやさやえんどう豆のなる 22
田舎の日々 23
体操する少女のはるかなる視点で 24
わたしは矮小し 25
「動物と植物の中間に位置する 26
貝殻や骨や珊瑚虫」 27
それら石灰質の世界へ 28
通過儀式を試みる 29

   3

漁師がやってくる 30
神話からもっとも遠い処まで 31
捕えたものは 32
一匹の鰈 33
「ロンボスの霊」 34
わたしの調査では 35
「ロンボスなるものの実体が まるで雲をつかむ 36
ようにあいまいもことして つくづく驚かされる」 37
わたしの好きな無へ奉仕する道具 38
螺旋志向! 39
「アパッチ族のシャーマンは ロンボスを回転させて 40
不死身になったり 未来を予見する」 41
そもそも 42
ここには受胎も生産もなく 43
「ロンボスとは子供の玩具以外の何物でもない」 44
素朴な唸り声を発している 45
「青銅の独楽」 46
かも知れない 47

   4

わたしの夢みる動物類とは 48
「不死鳥[フエニツクス] 一角獣[ウニコルニス] 火蜥蜴[サラマンドラ]」 49
とくに珍重するものは 50
「フップ鳥」 51
ウプパ ククファ フドフドと鳴きながら 52
砂漠のなかで 53
地中の水や宝を見つける 54
「フップ鳥」 55
「女を一個の物体の側へと近づける」 56
媒介をして 57
亀甲型の入れ子を多数うませる 58
「フップ鳥」 59
一度語ったことについては二度語ることはない 60
一度行なったことについては二度行なうことはない 61
「フップ鳥は母鳥が死ぬと 62
その屍体を頭の上にのせて 63
埋葬の場所を探し求める」 64
火のなかを 65
水のなかを 66
或は土のなかを―― 67

   5

「人間の想像力は 或る物体が一定の大きさのまま 68
留まっていることに 満足しないもののようである」 69
それと同時に 70
織物の目を拡大し 71
生命を縮小させる 72
わたしたち人類というものは 73
「最初の時計から 74
最初のセコンドが飛び出して以来 75
それまで神聖不可侵と考えられていた 76
自然の時間 77
神の時間が死に絶え 78
もはや二度と復活することがなかったのである」 79

                   *示影針=日時計のこと
●13-15行め 「デルタの泥土のなかで/花を咲かせるという/大いなる原初の白蓮[ロータス]」
 エジプトのヘルモポリス系の神話では、宇宙卵のテーマは、きわめて多くのヴァリアントを示しているという。その一つによれば、人類の守護者である女神クエレヘトは、そのまま原初の卵という意味なのである。デルタの泥土のなかで夜明けに花を咲かせるという、大いなる原初の白蓮[ロータス]も、別の伝説のなかでは、卵と同じ役割を演じているそうだ。(〈宇宙卵について〉117)

●49行め 「不死鳥[フエニツクス] 一角獣[ウニコルニス] 火蜥蜴[サラマンドラ]」
 見られる通り、古代の最も曖昧な科学と、聖書の最も疑わしい解釈とが、中世の動物誌のなかで見事に結びついたのである。こうした異教的な要素は、さらにまた、聖書には書かれていない鷲獅子[グリフイン]だとか、不死鳥[フエニクツス]〔不死鳥のルビは[フエニツクス]が正しい〕だとか、一角獣[ウニコルニス]だとか、火蜥蜴[サラマンドラ]だとかいった、空想上の怪獣に関するおびただしい記述によっても際立たせられた。しかも動物誌作者は、クテシアスやプリニウスと同様、これらの怪獣を空想上のものだとは少しも考えていなかったのであり、これらの怪獣を記述するに当っても、そこに必ず道徳的解釈をつけ加えることを忘れなかったのである。動物の客観的な性質を記述することが目的ではなくて、その裏に透けて見えるアレゴリーを探し出すことのみが目的だったのである。(〈動物誌への愛〉138-139)

●50-59行め とくに珍重するものは/「フップ鳥」/ウプパ ククファ フドフドと鳴きながら/砂漠のなかで/地中の水や宝を見つける/「フップ鳥」/「女を一個の物体の側へと近づける」/媒介をして/亀甲型の入れ子を多数うませる/「フップ鳥」
 どういうわけか、私はフップ鳥という鳥(日本語ではヤツガシラと称する。くわしく知りたければ百科事典をお調べいただきたい)が大へん好きなのであるが、その理由はおそらく、私が書物のなかで、この鳥に初めてお目にかかった時が、ジェラール・ド・ネルヴァルの美しい幻想譚『バルキス、暁の女王と精霊の王ソロモンの物語』を読んだ時だったからかもしれない。フップ鳥はバルキス、つまりシバの女王のアットリビュートで、いつも女王の身辺につきまとっている神秘的な鳥なのである。イスラム教の聖典『コーラン』(第二十七章、蟻)でも、フップ鳥はシバの国から情報をもって、鳥類の言葉を解するというソロモン王の宮廷へやってきた、名誉ある使いの鳥として描かれている。(〈動物誌への愛〉139-140)

●62-64行め 「フップ鳥は母鳥が死ぬと/その屍体を頭の上にのせて/埋葬の場所を探し求める」
 さらにまた、フップ鳥の特徴として挙げておかねばならないのは、この鳥が不潔で、しかも悪臭を発すると考えられたということだろう。それは一つには、アリストテレスやアイリアノスなどが詳細に記述した、この鳥の巣のつくり方に由来している。つまり、フップ鳥は人糞で巣をつくると信じられたのである。むろん、この説は科学的には正しくない。事実は、ただ巣のなかに雛鳥の糞が積って、グアノを形成するだけである。もう一つは伝説で、フップ鳥は母鳥が死ぬと、その屍体を頭の上にのせて、埋葬の場所を探し求めるというのだ。この鳥が中世の動物誌で、もっぱら親孝行のシンボルとされたのは、おそらく、ここに起源を有するはずである。(〈動物誌への愛〉141)

●52-54行め 〔わたしたちの対象となり得ないもの→ウプパ ククファ フドフドと鳴きながら〕/〔動物から天使までのあらゆる存在に→砂漠のなかで〕/〔変身する可能性をもつ→地中の水や宝を見つける〕
 フップ鳥は、ラテン語ではウプパ、古代エジプト語ではククファ、ヘブライ語ではドキパテ、シリア語ではキクパ、そしてアラビア語ではフドフドというが、いずれも、その鳴き声にちなんで名づけられたものと思われる。アラビア語の「フット、フット」は「そこだ、そこだ」の意味で、地中の水や宝を見つけ出すという、この鳥の不思議な能力にも関係があるだろう。(〈動物誌への愛〉142)
     *
那珂太郎は入沢康夫との共著《重奏形式による詩の試み――相互改作/「わが出雲」「はかた」》(書肆山田、1979年11月25日)で入沢の〈わが出雲〉のZの一部を次のように改作している。すなわち「一羽の首のないあをさぎが叫んでいつた/「教へて下さい わたしはどこへ/行くのでせう 一体どこへ/どこへ どこへ どこへ どこへ/ウプパ ククフア フドフド」」(同書、二七ページ)。那珂は最後の詩句に註して「魂まぎのモチイフを隠し、詩作行為自体が詩を求めることを暗示する。「ウプパ ククファ フドフド」は吉岡実の作品からの引用。彼への挨拶」(同書、四五ページ)と書いている。さらに同書の那珂・入沢対談〈試論「わが出雲」〉にはこうある(相互改作の初出は《現代詩手帖》1977年3月号で、吉岡の高見順賞受賞はその前年の12月)。
那珂 Zのパアトは、ちやうど吉岡さんの『サフラン摘み』が高見順賞になつたといふやうな時事的なことがあつて、入沢さんは特に吉岡さんと親しいし、吉岡さんのこんどの詩集から拝借して〈ウプパ ククファ フドフド〉と入れてみたんです。
入沢 これはなかなかいいんぢやないでせうか。元の形よりだいぶよくなつたと思ひます。しかも鳥ですから、〈フドフド〉が出てくるのは、ネルヴァルとの関はり(ネルヴァルの「暁の女王と精霊の物語」に、超自然的な力をもつたフドフドといふ鳥が出て来る)をいまひとつ強める意味でも、いいんぢやないでせうか。(同書、一〇六ページ)
●34行め 「ロンボスの霊」
 一方、ケレーニイの『テーバイ近郊のカベイロイ聖地』によれば、このロンボスは、「私たちが民族学から知る限りにおいて最も素朴な秘儀用器具」なのであって、ヘロドトスの伝えている古いプリュギアのカベイロイ密儀において崇拝されていた、勃起した男根を具えた小人[こびと]の神々が、このロンボスの霊と見なされていたという。男根的なものは、ケレーニイによれば、プリュギアにおいてのみならず先史時代のギリシア人にとっても、すでに霊魂のあるものだったのである。(〈ギリシアの独楽〉178)

●30-47行め 漁師がやってくる/神話からもっとも遠い処まで/捕えたものは/一匹の鰈/「ロンボスの霊」/わたしの調査では/「ロンボスなるものの実体が まるで雲をつかむ/ようにあいまいもことして つくづく驚かされる」/わたしの好きな無へ奉仕する道具/螺旋志向!/「アパッチ族のシャーマンは ロンボスを回転させて/不死身になったり 未来を予見する」/そもそも/ここには受胎も生産もなく/「ロンボスとは子供の玩具以外の何物でもない」/素朴な唸り声を発している/「青銅の独楽」/かも知れない
……しかし私たちがあれこれ推察するよりも、作者たるノディエ自身が、わざわざ小説『スマラ』の末尾に「ロンボスについての註」という文章をつけ加えて、学のあるところを見せているのだから、まず、その文章を検討するに如くはなかろう。
 「この言葉は、辞典編纂者や註釈者によって非常に不手際に解説され、そのために多くの珍妙な誤解を招いてきたので、私が将来の翻訳者のために、それに関する何らかの情報を残しておくのも無駄ではあるまいと思う」とノディエは書きはじめる、「その健全な考証学的知識に抜かりのないノエル氏でさえ、これを《魔術の実行において用いられる一種の車輪》としか見ていない。しかしながら、その彼とは同名異人の、かの尊敬すべき『漁業史』の著者が、形の一致に基づいた名前の一致に目をくらまされて、ロンボスを一種の魚と見なし、シチリアやテッサリアで用いられるこの不思議な道具を、事もあろうに[かれい]だと勘違いしているのとくらべれば、車輪の方がまだましであろう。ルキアーノスは青銅のロンボスについて語っているけれども、とにかく問題なのは魚ではないことを十分に証言している。ペロ・ダブランクールは《青銅の鏡》と翻訳したが、それは実際、ロンボスの形に作られた鏡があったからであり、ともすると形というものは、目に見えるがままの実体だと受け取られることになり勝ちだからである。」
 右に引用したノディエの文章のなかに、ロンボスを「魔術の実行において用いられる一種の車輪」と解釈している学者がいるのは、明らかにイユンクスと混同しているためであろう。ロンボスには一般に菱形という意味があり、またカレイやヒラメのような、菱形をした魚を指すこともあるらしい。ノディエの文中の「形の一散に基づいた名前の一致」とは、このことを指しているにちがいない。それにしても、ノディエの文章を読むと、近年にいたるまで、学者のあいだでも、ロンボスなるものの実体が、まるで雲をつかむように曖昧模糊としていたらしいことがよく分って、つくづく驚かされる。この文章のあと、ノディエは数名のギリシア・ラテンの詩人の詩句を引いて、ロンボスが魚や鏡とは何の関係もないこと、糸と一緒に回転するものであること、ローマの子供の遊ぶ独楽のようなものであることを、順々に証明して行くのである。そうして最後に、次のような結論を下す。
 「おそらく、この註を一読する労を惜しまなかった人は、ロンボスとは何かを私に質問するであろう。いずれにしても、はっきり言い得ることは、ロンボスとは、あの子供の玩臭以外の何物でもないということであって、その打ち上げと音とに何か恐ろしい、魔術的な効果があるらしいのであり、奇妙に類似した印象によって、今日では、ディアボロ(悪魔)という名のもとに復活しているところのものなのである。」
 こうしてみると、シャルル・ノディエの言う通り、古代ギリシアのロンボスが、少なくとも唸りを発する独楽の一種であったことは間違いないような気がしてくる。いったい、どうしてこれがイユンクスなどと混同されるようになったのか、その方がむしろ不思議なくらいであろう。また独楽であるとすれば、青銅の独楽というのは考えられないから、ルキアーノスの証言もあやしくなってくるだろう。(〈ギリシアの独楽〉179-181)
 おそらく、イニシエーションの過程で用いられる一種の楽器としてのロンボスの役割りは、古代ギリシアにおいても、あるいは現代のオセアニアやアフリカにおいても、それほど変ってはいないはずだと思われる。それは要するに、恐怖を惹起する神の声なのである。アパッチ族のシャーマンは、ロンボスを回転させて不死身になったり、未来を予見したりするともいう。また、ロンボスをぐるぐる回転させるのは、生き生きした螺旋の表現だとも考えられ、ここから螺旋のシンボリズムをみちびき出そうとする論者もあるらしい。(〈ギリシアの独楽〉182)
 イユンクスは車輪の形をしているし、ロンボスは、もしそれがディアボロとそっくりだとすれば、腰鼓状、つまり、頂点で接した二つの円錐形の形をしているのである。そういう幾何学的な形態のものが古代人によって考案され、彼らの生活のなかで、何らかの役割りを果していたということ自体が、私にとっては、一種の驚きの感情を呼びさますものなのだ。しかも、ここで大事なことは、そのような幾何学的な形態のものが、どこから眺めても、生産のための道具ではないということだろう。(〈ギリシアの独楽〉183)
     *
かつて吉岡実の装丁になる草野心平詩集《凹凸》(筑摩書房、1974年10月10日)を紹介したことがある。私はそこで「本書の表紙と本扉にある家紋の輪鼓[りゅうご]のようなカットはなんだろう(輪鼓は中間がくびれた形をした平安時代の玩具のひとつで、現代ならさしずめディアボロか)。これが《凹凸》(オウトツと読むのか、ボコデコとでも読むのか)とどう関係するのか、しないのか、よくわからない。「凹凸」が幾何学的な字面なだけに、あまり図案のようなカットでないほうがよかったのではないか。少なくとも本扉に「輪鼓紋」は不要だったと思う」と書いた。時間的にいって、単行本は無理だとしても、吉岡が〈ギリシアの独楽〉を初出誌(《ユリイカ》1973年10月号)で目にしていた可能性はあるだろう。

●26-27行め 「動物と植物の中間に位置する/貝殻や骨や珊瑚虫」
 「石と土との中間には、粘土および洞窟がある。土と金属との中間には、白鉄鉱その他の金属がある。石と植物との中間には、根や枝や果実を生ずる石化植物、すなわち珊瑚の種類がある。植物と動物との中間には、感覚と運動を有し、石に付着した根から生気を得る、海綿類もしくは植物獣がある。陸棲動物と水棲動物との中間には、海狸、川獺[かわうそ]、亀、淡水産の蟹などといった、水陸両棲の動物がある。水棲魚と鳥との中間には、飛魚がある。獣と人間との中間には、猿や尾長猿がある。そして全野生動物と叡知的な自然(天使や悪魔のような)との中間に、神は人間という、その一部が肉体として滅び、他の一部が叡知として不滅な存在を位置せしめたのである。」(〈怪物について〉197)

●74-79行め 「最初の時計から/最初のセコンドが飛び出して以来/それまで神聖不可侵と考えられていた/自然の時間/神の時間が死に絶え/もはや二度と復活することがなかったのである」
 無名にとどまっている時計の発明者に対して、グーテンベルクの名前が不当に喧伝されているような気がしてならないのは、私だけだろうか。なるほど、印刷術は偉大な発明でもあったであろうが、それは私たちの読書の仕方を変えたわけでもなく、エクリチュールを変えたわけでもなく、読む者と本文との関係を変えたわけでもないのである。私たちの精神の深部には何も影響をあたえず、ただ人間の思考の表現を空間的に拡大し、普及したというだけのことにすぎない。これに反して、機械時計の発明は、全く誰の目にもつかず、後世の学者の目さえ晦ませているほど暗々裡に遂行されたにもかかわらず、ひそかに私たちの精神を腐蝕する作用を永く及ぼしたのである。最初の時計から最初のセコンドが飛び出して以来、それまで神聖不可侵と考えられていた自然の時間、神の時間が死に絶えて、もはや二度と復活することがなかったのである。(〈ユートピアとしての時計〉206-207)
     *
〈ユートピアとしての時計〉のこの段落の直前には、次に掲げる段落が置かれている。「実際、時計は中世の民衆のあいだに、ある日、ひっそりと現われた。この奇妙な機械がいつ、どこで最初に製作されたかについては、諸説紛々としており、ある者は十一世紀と言い、他の者は十三世紀と言う。いまだに定説がないのである。ともかく時計は、べつに何も生産するわけではなく、何も破壊するわけではなく、ただひっそりと控え目に存在しているだけで、ひとびとの意識を根本的に変えたのである。もちろん、古代においても水時計、砂時計、日時計、蝋燭時計、あるいはまた月時計、星時計といったような時計の種類があることはあった。雄鶏の声で朝を知るという方法も、一種の自然の時計と言えば言えるかもしれない。ボードレールの散文詩に、「支那人は猫の目で時間を読む」という句があるのを御存知の方もあろう。しかし機械時計の歯車装置は、自然の時間、神の時間を加工するという意味で、いわば反自然の工房、悪魔の工房といった様相を帯びるのである」(〈ユートピアとしての時計〉206)。この「ボードレールの散文詩」はいうまでもなく《パリの憂鬱》の〈時計〉であって、吉岡の〈雲井〉(未刊詩篇・20、初出は《鷹》1989年10月号)の「2」に「(支那人は猫の眼で/時間を読む)/狂える隠者の詩句を/わたしはくちずさむ/〔……〕」とあるのは、澁澤の文(〈ユートピアとしての時計〉かどうかはわからないが)に依ったのに違いない。

●詩篇本文のあと *示影針=日時計のこと
 前にも述べたように、機械時計が誕生するまでの時計は、すべて自然の時計と言っても差支えないようなものばかりだった。日時計や月時計は、要するに天体の運行をそのまま反映したものである。水時計や砂時計は、これにくらべればやや複雑かつ巧緻であるが、それでもやはり、これらの時計が記録するのは自然の時間より以外のものではない。容器の細孔から流れ落ちる物質が、水であれ砂であれ等質の流動体であって、つねに一定のリズムに従っているところは、太陽や月の運行と異るところがないと言ってもよいほどであろう。そういう点から眺めれば、日時計のグノモーン[ママ]と全く同様、砂時計も水時計も、まさに自然のなかに埋没しているのである。(〈ユートピアとしての時計〉208-209)

●17-19行め 「わたしは幼年時代 メリー・ミルクというミルクの/罐のレッテルに 女の子がメリー・ミルクの罐を抱え/ている姿の描かれている」
 「ぼくが無限の観念と初めてぴったり触れ合ったのは、オランダの商標のついた、ぼくの朝食の原料であるココアの箱のおかげだ。この箱の一面に、レースの帽子をかぶった田舎娘の絵が描いてあったのだが、その娘は、左手に同じ絵の描かれた同じ箱をもち、薔薇色の若々しい顔に微笑を浮かべて、その箱を指さしていたのである。同じオランダ娘を数限りなく再現する、この同じ絵の無限の連続を想像しては、ぼくはいつまでも一種の眩暈[めまい]に襲われていた。理論的に言えばだんだん小さくなるばかりで、決して消滅することのない彼女は、からかうような表情でぼくを眺め、彼女自身の描かれた箱と同じココアの箱の上に描かれた、自分自身の肖像をぼくに見せるのだった。」
 ミシェル・レリスの告白の書『成熟の年齢』に出てくる、「無限」と題された、この作者の幼児体験と同じような体験を味わったことのある者は、おそらく私ばかりではあるまい。私は幼年時代、メリー・ミルクというミルクの罐のレッテルに、女の子がメリー・ミルクの罐を抱いている姿の描かれているのを眺めて、そのたびに、レリスの味わったのとそっくり同じ、一種の眩暈に似た感じを味わったおぼえがある。キンダー・ブックという絵本の表紙には、子供が小さなキンダー・ブックを見ている絵が描いてあって、その小さなキンダー・ブックには、やはり同じ子供が同じキンダー・ブックを眺めている。これも私には、得も言われぬ不思議な感じをあたえる絵であった。(〈胡桃の中の世界〉238-239)
     *
武井武雄の童画で知られる《キンダーブック》は、フレーベル館の月刊保育絵本。1927(昭和2)年創刊だというから、翌年生まれの澁澤の幼少時を彩った雑誌である。ちなみに私も幼稚園時代、親が買ってくれた《キンダーブック》を飽かずに眺めたものだ。武井武雄の絵は、子供心に単にモダンというにはほんの少しばかり不気味で、しかもそれが不快でないため、いわば癖になる作風だった。かっきりとした線で描かれた具象画という澁澤の絵画の好みは武井に代表される童画によって培われたという説がある。なるほど、と実感される。一方、吉岡が小さいころどんな絵を好んだのか、詳しいことはよくわからない。だが、こうした作風を好意をもって受け容れたのではあるまいか。ちなみに吉岡より一歳年長の太田大八(1918〜2016)は、自身と童謡について語った〈これからの子どもたちのためにできること〉で「僕が子どもの頃夢中になった、岡本帰一や初山滋、武井武雄の絵はすごくうまいし、今見てもすてきな絵だと思いますから」(武鹿悦子編《ひらひらはなびら――キンダーブック昭和の童謡童画集》フレーベル館、2007年12月25日、一三一ページ)と証言している。吉岡は太田の画風に惹かれて、担当する〈小学生全集〉(筑摩書房)の挿絵に起用しているだけに、このあたりの関係性は興味深い。

武井武雄の童画
武井武雄の童画

●68-69行め 「人間の想像力は 或る物体が一定の大きさのまま/留まっていることに 満足しないもののようである」
 どうやら人間の想像力は、或る物体が一定の大きさのままに留まっていることに、いっかな満足しないもののようである。想像力はつねに、対象の急激な拡大と収縮を可能ならしめるところの、不思議の国のアリスが飲んだ水薬のようなものを求めているかのごとくである。(〈胡桃の中の世界〉254)
     *
吉岡が《鏡の国のアリス》からの引用を含む〈ルイス・キャロルを探す方法〉(G・11)を発表したのは、〈示影針(グノーモン)〉に先立つこと3年前の1972年6月だった。吉岡はアリス詩篇に関して、「妻のからだに寄りかかり、午睡しながら、まだ四月なのにいろいろなことがあったなあと思った。暗中模索のため、二年間中止していた詩作を試み、〈葉〉という百三十行の連祷詩の一篇が出来たこと、それに続いて、〈ルイス・キャロルを探す方法〉すなわち、アリス詩二篇が出来たことだった。これは私の詩業のなかでも、独自性と新領域をきり拓いたものだった。私はこのときから、詩行為がつづけられるという兆を感じはじめていた」(〈高遠の桜のころ〉、《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、1988、二七ページ)と回顧している。ちなみに《サフラン摘み》収録詩篇で初出において初めて「 」(鉤括弧)が登場するのは、〈葉〉(G・4)の第92行の

「問題」は在るか?

で、これは引用ではなく、強調である。初出において次に「 」が登場する〈わがアリスへの接近〉(〈ルイス・キャロルを探す方法〉を構成する一篇)の第11・12行の

「ただ この子の花弁がもうちょっと
まくれ上がっていたら いうところはないんだがね[*]」

は引用の濫觴であり、吉岡は律儀にも詩篇末尾に「*ルイス・キャロル〈鏡の国のアリス〉岡田忠軒訳より」と出典を註記している。その後は〈悪趣味な冬の旅〉(G・6)や、これは《サフラン摘み》の前の詩集《神秘的な時代の詩》(1974)の収められることになるのだが――〈弟子〉(F・15)の「「便所はどうして神秘的に/高い処にあるのだ」」などを経て、〈マダム・レインの子供〉(G・5)の

「しばしば
肉体は死の器で
受け留められる!」

を露払いのようにして、土方巽語録を満載した〈聖あんま語彙篇〉(G・8)が登場する。ここまで来ればあとは一瀉千里で、「 」だけでなく〈 〉(山括弧)も登場して、引用もあれば強調もある《薬玉》と《ムーンドロップ》の「後期吉岡実詩」まではもう地続きである。だが、ここでどうしても触れておかなければならないのは、「瀧口修造氏に」の献辞をもつ〈舵手の書〉(G・22)の存在だ。

「人間の死の充満せる/花籠は/どうしてこれほど/軽い容器なのか?」
「光をすこしずつ閉じこめ/たり逆に闇を閉じこめたりする」
「五月のスフィンクス」
「鳥は完全なるものをくわえて飛ぶ」
「彼女は未知の怪奇なけむり/を吐く最新の結晶体」
「朝食のときからはじまる」
「曖昧な危倶と憶測との/霧が立ち罩めようとしている」
「黙って/歩いていってしまった」
「憑きものの水晶抜け」

以上は、詩句(詩行)単位ではなく「 」で括られた部分のみを引いたものだが(行頭の太字の数字は合い番号、/は原文改行を表す)、〈示影針(グノーモン)〉とは別の意味で、苦渋に充ちた引用=詩句だといわなければならない。なぜなら吉岡はここで、かつて自ら禁じたところの他者の詩篇からの引用、詩から詩をつくることを敢えてしているからである。出典の判明しているもの(作者はいずれも瀧口修造)を挙げれば

は詩篇〈花籠に充満せる人間の死〉の標題から
は《余白に書く》の散文〈宿命的な透視術――加納光於に〉の文言
は詩篇〈五月のスフィンクス〉の標題
は詩篇〈TEXTE EVANGELIQUE〉の詩句から
は詩篇〈実験室における太陽氏への公開状〉の詩句から
は《余白に書く》の散文〈朝食のときから始まる〉の標題
は出典未詳
は出典未詳
は出典未詳

他者の作品の標題を自身の詩篇の詩句として引くという点では、末尾に「*ゾンネンシュターンは「幻視者」といわれる異端の老人画家。引用句は、同展覧会目録より借用した。」と註した〈ゾンネンシュターンの船〉(G・24)――初出は〈舵手の書〉に続き、〈示影針(グノーモン)〉に先立つ詩篇――も同じだが、こちらは絵画作品(の邦訳題)だから、詩から詩をつくるという中毒を免れている分だけ引用の完成度も高く、苦渋の痕もとどめていない。

今回、《胡桃の中の世界》を再読してみて思うことは、その引用につぐ引用、列挙につぐ列挙がフレイザーの《金枝篇》を範としているのではないか、ということだ(もっとも澁澤は〈ギリシアの独楽〉の冒頭で「アドニス祭」に関連してフレイザーに言及しているものの、「アドニスの園」を農耕儀礼の一種と見なすそのイデオロギーには疑問を呈している)。本稿の冒頭に「吉岡が澁澤の方法を自家薬籠中のものとしたのは「澁澤龍彦のミクロコスモス」を詞書にもつ詩篇〈示影針(グノーモン)〉(G・27)をもって嚆矢とする」と掲げたのはこのことで、手法的には引用と典拠のそれが澁澤由来のものである一方、主題的には吉岡実という「わたし」の記憶や経験にとどまらない、集合的な「わたし」の、あえて言うなら民俗的なそれへと舵を切るきっかけとなったのが、澁澤龍彦が開示したこれらのミクロコスモスだったのではないか。吉岡が永田耕衣に宛てた書簡で「ユリイカ九月号〈渋沢龍彦―ユートピアの精神〉という特集号の献詩を書いて」「恐しく心身を消耗していた」と記したのは、吉岡実詩の歴史におけるコペルニクス的転回に対する率直な感懐だったように思える。では、吉岡実の詩篇〈示影針(グノーモン)〉と澁澤龍彦の著書《胡桃の中の世界》はどのような関係にあるのか。巖谷國士は本書の〈解題〉で次のように書いている。

 もうひとつ、本書の〈リヴレスクな〉側面についても付言しておこう。澁澤龍彦の多くの博物誌ふうの書物のなかでも、おそらくこれほど博引旁証の目立つものは少ないにちがいない。あまつさえ、ときには特定の書物の記述をそのまま借用して、自説のごとく展開してゆくといった場面も見られる。しばしば指摘されているように、原書の翻訳・引用が地の文に溶けこんでしまうのである。〔……〕澁澤龍彦の文章にしばしば見られた他の書物の流用あるいはパラフレーズの傾向は、この〈私のリヴレスクな博物誌〉でも大いに幅をきかせているのである。
 とはいえ、もちろんそれのみをもって非とするにはあたらないだろう。なぜなら他者の所説との融合こそは、澁澤龍彦の多かれ少なかれ自覚的な方法のひとつであり、しかも、彼の作家人格(=〈私〉)の構造にかかわる必然でもあったと考えられるからだ。彼はしばしば他者のうちに自己を見る。自己のうちに他者を見る。彼の〈私〉自体が特異な〈入れ子〉にも似て、ほかならぬ〈胡桃の中の世界〉のごときものを現出する。他面、だからこそまた、私たち読者にとっても、この書物は、いわば他者のものとは思えないような不思議な親密さをおびる結果となったのではなかろうか。
 ともあれ魅力的な著作ではある。『新編ビブリオテカ』版の巻末におさめられた中野美代子による「解説」にも、つぎのような指摘があったことを想起しておこう。
 〈〔……〕読者たる私たちは、ミシェル・レリスの文の中に著者の文が嵌めこまれ、さらにその著者の文中に私たちの幼児体験も嵌めこまれているという眩暈に襲われながら、読み進み、ついには本書全体の多様なモチーフも、この一文に入れ子のように嵌めこまれているのに気づくであろう。石も宇宙卵も幾何学も動物誌も、そして怪物も庭園も時計も。〉(《澁澤龍彦全集〔第13巻〕》、河出書房新社、1994年6月15日、六一〇〜六一一ページ)

この吉岡実詩のスルスで本書以外からとられた主なものが「少女」関連だったのは、ルイス・キャロスの《アリス》ものの霊験があらたかだったことの証左だろう。吉岡は難儀しつつも本書の「博引旁証」になじんだおかげで、フレイザー《金枝篇》の世界にさほどの抵抗なく入っていくことができた。その延長上に《薬玉》の世界が展開したことはいうまでもない。ところで中野美代子は後年、本書の〈東西庭園譚〉(吉岡は詩に引用していない)に登場するイエズス会の伝道師でありイタリア人の画家である人物を主人公にして、長篇小説《カスティリオーネの庭》(文藝春秋、1997)を書いた。ジャケット・表紙・見返し・本扉に銅版画《長春園西洋楼図》のうち〈海晏堂〉の東西南北の四面を配した、菊地信義の装丁になる美しい一本である。

吉岡実詩集《サフラン摘み》(青土社、1976年9月30日)のジャケット〔著者自装〕と澁澤龍彦《胡桃の中の世界》(青土社、1974年10月1日)のジャケット〔著者自装〕 吉岡実詩集《サフラン摘み》(青土社、1976年9月30日)の奥付と澁澤龍彦《胡桃の中の世界》(青土社、1974年10月1日)の奥付
吉岡実詩集《サフラン摘み》(青土社、1976年9月30日)のジャケット〔著者自装〕と澁澤龍彦《胡桃の中の世界》(青土社、1974年10月1日)のジャケット〔著者自装〕(左)と《サフラン摘み》と《胡桃の中の世界》の奥付(右)

好い機会だから、〈示影針(グノーモン)〉を収録した《サフラン摘み》と同詩の典拠となった《胡桃の中の世界》の仕様について触れることで、本稿の結びとしよう。《吉岡実書誌》に掲げた《サフラン摘み》初刊の記載に合わせて《胡桃の中の世界》のそれを書けば、こうなる。

詩集《サフラン摘み》初刊 一九七六年九月三〇日 青土社(東京都千代田区神田神保町一の二九 発行者清水康雄)刊 定価一八〇〇円 二二〇×一四二 総二一四頁 上製丸背布装 ジャケット(片山健画「無題」1973. 著者蔵) 組立函 帯 装画片山健 本文新字新かな 10ポ一四行組活版 印刷東徳 製本美成社

《胡桃の中の世界》初刊 一九七四年一〇月一日 青土社(東京都千代田区西神田一の三の一三 発行者清水康雄)刊 定価一四〇〇円 二一〇×一四九 総二六二頁 上製丸背クロス装 ジャケット〔装画クレジットなし〕 帯 ビニールカバー 本文新字新かな 9ポ四三字詰め一八行組活版 印刷東徳 製本美成社

同じ出版社の(おそらく)同じ担当者(《胡桃の中の世界》の〈あとがき〉には出版部の三輪利治――1999年3月5日、脳内出血で死去、55歳。高橋順子に詩篇〈さよなら連帯長――三輪利治さんを悼む〉(初出:《詩学》1999年5月号、再録:《現代詩手帖》1999年12月号)がある――と高橋順子への謝辞が見える)が手掛けた本だから似ているのは当然かもしれないが、吉岡が初めて青土社から詩集を出そうとしたとき、その先例に《胡桃の中の世界》があったことは(しかも最有力のそれであったことは)、ほとんど疑いないように思われる。《胡桃の中の世界》のA5判(正寸)・上製丸背クロス装・ジャケット・帯・ビニールカバーに対するに、《サフラン摘み》のA5判変型・上製丸背布装・ジャケット・組立函・帯。仕様が近接しているのもさることながら、両書とも印刷所が東徳、製本所が美成社であるのは、偶然というにはできすぎていないだろうか。本文用紙(クリーム系の書籍用紙)の銘柄はわからない。澁澤本の方が、吉岡詩集よりも1割増まではいかないが束があって、紙面もややラフである。ために、両書に共通する「不死鳥[フエニツクス]」「一角獣[ウニコルニス]」「火蜥蜴[サラマンドラ]」のルビを比較すると(活字のサイズは4.5ポと5ポで、微妙に異なるものの)、澁澤本の方がかすれ気味である。吉岡が詩集の本文でルビを使いはじめたのは《サフラン摘み》からで、そこまで想定して本文用紙を択んだのかはわからないが、なかなか見事な仕上がりになっている。比較的大きな(本文と同じくらいのサイズの)活字でゆったりと組んだ奥付は青土社の伝統だが、澁澤本に見える「著 者――澁澤龍彦」などの二倍ダーシは吉岡の回避するところで、「著 者 吉岡 実」となっている。

〔追記〕
美術評論家で世田谷美術館館長である酒井忠康の講演を録した〈澁澤龍彦の想像の画廊〉の冒頭「澁澤さんの仲間たち」に、次のような一節がある。

 澁澤龍彦さんの周囲にはもちろん文学者もたくさんおられて、その文学者の中には大いに啓発された三島由紀夫や、あるいは戦後文学を語る上では決して外すわけにいかない優れたお仕事をした文学者たちがたくさんおられます。私は改めて自分の書架から澁澤さんの『偏愛的作家論』を数日前に取り出して、澁澤さんの関心のある作家を確かめてみました。これは、二十人くらいの作家の作品論ないし人物論、あるいは自分との関わりについて書いた本です。石川淳(一八九九―一九八七)、〔……〕それから中井英夫(一九二二―九三)や詩人の吉岡実(一九一九―九〇)さんも入っている。
 余談ですが、私は、吉岡実さんとは生前に妙なところでときどきお会いすることがありました。とても優しい人なんですけど、蚊の鳴くような声でひそひそ喋ったり、ユーモアのセンスのある人でしたね。あるとき私の師匠の土方定一(一九〇四―八〇)が、この人の「僧侶」という詩を非常に高く評価して、刊行されてすぐにその詩集を買ってこいと言うので、買った帰りの電車の中で読んで衝撃を受けた思い出があります。筑摩書房にお勤めしていて、共通の友人に彫刻家の飯田善國(一九二三―二〇〇六)さんがいました。(菅野昭正編《澁澤龍彦の記憶》河出書房新社、2018年4月30日、一一三〜一一五ページ)

私は晩年の吉岡実と何度か面談する機会に恵まれたが、「ユーモアのセンスのある人」だと感じることはあっても、吉岡が「蚊の鳴くような声でひそひそ喋った」という記憶がない。少なくとも吉岡の人となりを酒井忠康にように語った人物はかつてなかった。ひそひそ声で語る詩人、美術関係者といえば、私などただちに瀧口修造に指を屈するのだが(残念なことに、瀧口の謦咳に接することはできなかった)、いまは疑問を提出するにとどめよう。


吉岡実の飼鳥(2018年6月30日)

吉岡実は《ユリイカ》1971年4月号の〈われ発見せり〉の欄(〈編集後記〉・奥付の上部に設置された、筆者が毎月替わる常設記事)に〈小鳥を飼って〉を発表した。当時、吉岡は51歳。前年の1970年には2月に《吉岡実詩集〔普及版〕》(思潮社)を刊行したものの、3月に詩篇〈低音〉(F・14)を発表したほかは、《俳句》11月号に〈鑑賞・石田波郷の一句〉を寄せたきりだったし、1971年には9月に〈叢書溶ける魚No.2〉として詩集《液体》(湯川書房、限定300部)を刊行したものの、《琴座》3月号に〈〔河原枇杷男句集〕《密》反鏡鈔〉を、4月にこの〈小鳥を飼って〉を、9月の《銀花》(秋の号)に〈永田耕衣との出会い――耕衣句抄〉を、10月に出版された《加藤郁乎詩集〔現代詩文庫〕》(思潮社)に〈出会い〉を書いたほか、めぼしいものといえば《ユリイカ》12月号の〈「死児」という絵〉ぐらいだった。詩作の筆を折って、旧作を刊行し、義理ある雑誌に俳句関係の文章をぽつぽつ書いていた、詩作に関するかぎり低調な時期だったといってよかろう。

小鳥を飼って|吉岡実

 ――ミソー(私の呼称)、鳥が飼いたいなあ
 突然妻が云いだした。妻は生来、蛾・蝶・鳥がきらいなので、私は驚く。
 ――ミソー、どんな鳥がよいか、云ってみなよ!
 ――大きいのがいいぞ、猫ぐらいのが。キボーシインコか、キバタンオウムはどうだろう?
 ――ミソー、それらオウムは、鳥の本をみると、七、八十年生きるんだよ、われら二人の死後も生きつづけるんだよ、後に託すべき子孫もないし
 ――気味がわるい 哀れでもあるな
 ――ミソー、むかし数寄屋橋の阪急のウインドにいたキレイナ鳥がほしい
 十年ぐらい前、阪急百貨店のウインドいっぱいに、いろんな小鳥を放っていたのを想い出す。美しい少女がエプロン姿で、肩や髪に青や黄色の小鳥をとまらせ、しなやかな手から餌を与えているのが夢の絵のように見えた。
 ――ミソー、猫の一周忌も過ぎたし、今日買いにゆこうよ
 それから小鳥屋、デパートを巡礼よろしく探し廻って、二人の中の青い鳥――キエリクロボタンという可憐な一番を買った。セキセイインコより大型で、頭は濃茶で、胸毛がオレンジ的黄色、全体がうすい緑で、黒い目を白い輪がとりまいて、玩具のような小鳥。カリフォルニアでこの春うまれたらしい。
 ――ミソー、水入、ボレーコ入、餌入、餌、どれも小さくておもしろい
 ――ミソー、キエリクロボタンはカワイイな、カワイイな、カワイイな、カワイイな
 秋近く、気温の変化か、病気か、妻の万遍ものカワイイなの呪文で、一羽が落鳥。妻は泪ぐむ。
 ――落鳥とはいい言葉だ
 小鳥屋もペット医者も異口同音に、一番の一羽が死ぬと、残った一羽もかならず後を追うという。それから一ヵ月目に生ける一羽も落鳥。最後までいずれが牡牝か不明だった。考えてもみなかったロマンチックな生物の世界。私も妻も、ささやかではあるが、「何かを発見」したかも知れない。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三〇〜三一ページ)

〈われ発見せり〉は、誌名《ユリイカ》――アルキメデスの言葉とされる“Eureka(エウレカ)”――にちなむ。あらかじめテーマが与えられていた随想なわけで、決められた字数(約800字)のなかでどう展開するかは文筆家の腕の見せどころである。文中の猫の一周忌というのは、1968年末、夫妻が北区滝野川の公団住宅から目黒区青葉台のマンションに転居する際、飼っていたシャム猫のデッカ(牡)がどさくさに紛れて失踪し、エリ(牝)もまもなく死んだことを指す。最後の段落は、キエリクロボタンの番の話以前にシャム猫の雌雄の最期を想定すると、夫妻の嘆きがひときわ身に染む。私は鳥を飼ったことがなく、その生態に詳しいわけでもない。だが動物園で珍しい鳥を観ると、それらを愛玩してみたくなる気持ちはわかる。その風貌からしばしば鳥になぞらえられた吉岡実にしてみれば、犬や猫とはまた違った意味で、最も親しみを感じた生き物がこれらの小鳥だったのではあるまいか。

【キボーシインコはインコ科ボウシインコ属】 【キバタンオウム】 【キエリクロボタンはインコ科ボタンインコ属】
左から 「キボウシインコ(黄帽子鸚哥)」はインコ科ボウシインコ属、「キバタンオウム(黄芭旦鸚鵡)」はオウム科キバタン属、「キエリクロボタンインコ(黄襟黒牡丹子鸚哥)」はインコ科ボタンインコ属

キエリクロボタンインコは「タンザニアを原産地とする小型インコです。日本にも輸入され、ごく一般的な品種として知られています。首の鮮やかな黄色に対して喉から上は覆面をかぶったかのように黒く、クチバシはオレンジ色です。翼には濃い緑に黄色が、お腹には淡い緑に黄色が混ざっています。多い時で8個と、一度に多くの卵を産みます。同じく「ラブバード」の一種であるルリコシボタンインコが生息する地域では、自然交配も多く見られます」(磯崎哲也監修・開発社著《世界のインコ――100種のかわいい鳥たち》ラトルズ、2016年10月31日、三一ページ)。吉岡はその後、〈飼鳥ダル〉(初出は《朝日新聞(夕刊)》1973年6月2日)と〈わが鳥ダル〉(初出は《群像》1975年2月号)でダルマインコのダルのことを随想に書いている。《世界のインコ》はたくさんのインコのカラー写真を収めた美しい本だが、ダルマインコは「目と目の間など、顔にある黒い模様がだるまのように見えることが、日本名の由来に。英語名では「口ひげインコ〔Moustache Parakeet〕」という意味が付けられています。好奇心旺盛で人なつこく、社交的な性格の持ち主。賢いので、人の言葉をすぐに覚え、上手におしゃべりしてくれます。寒さには強く、丈夫で、飼育しやすいインコです。ただし、ときに大きな声を発することがあるので、近隣に迷惑がかからないよう飼育場所を選ぶ必要があります」(同書、六九ページ)とある。〈小鳥を飼って〉に始まるこれら3篇の随想によれば、吉岡が飼った小鳥には、ダルマインコ以前にキエリクロボタン、十姉妹、錦華鳥がある。随想(しかも題にまで)にその名前が記されているのは、ダルマインコのダルだけである。下の写真で吉岡の肩に載っているのがダルだろう。

【ダルマインコはインコ科ホンセイインコ属】 金井塚一男〔写真〕〈グラビア 吉岡実の眼〉(《ユリイカ》1973年9月号、一一〇ページ)
インコ科ホンセイインコ属の「ダルマインコ(達磨鸚哥)」(左)と金井塚一男〔写真〕〈グラビア 吉岡実の眼〉(《ユリイカ》1973年9月号、一一〇ページ)(右)

かつて〈吉岡実詩の鳥の名前〉で指摘したことだが、吉岡の執筆した詩篇にダルマインコは登場しない。それどころかインコやオウムの類は〈蒸発〉(A・5)に鸚鵡が登場するだけだ(「温室で鸚鵡の金属性の嘴の」)。小鳥の随想に関するかぎり、「いずれの小品も、事実の経由を綴った、日常反映の記録にすぎない」(〈あとがき〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三六九ページ)は、額面どおり受けとってよいようだ。


書下ろしによる叢書〈草子〉のこと(2018年5月31日)

吉岡実は生前、12冊の単行詩集を刊行した。すなわち、

@詩歌集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)
A詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)
B詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)
C詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日)
D詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962年9月9日)
E詩集《静かな家》(思潮社、1968年7月22日)
F詩集《神秘的な時代の詩》(湯川書房、1974年10月20日)
G詩集《サフラン摘み》(青土社、1976年9月30日)
H詩集《夏の宴》(青土社、1979年10月30日)
I拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》(書肆山田、1980年5月9日)
J詩集《薬玉》(書肆山田、1983年10月20日)
K詩集《ムーンドロップ》(書肆山田、1988年11月25日)

である。このうち草蝉舎は吉岡の自宅だから、Bを含めて計4冊が私家版ということになる。したがって出版社から刊行したのは、残りの8冊――書肆ユリイカが1冊、思潮社も1冊、湯川書房も1冊、青土社が2冊、書肆山田が3冊――となる。書肆ユリイカは伊達得夫が起こした版元で、思潮社は伊達から薫陶を受けた小田久郎が起こした詩書専門の、湯川書房は湯川成一が起こした限定本中心の、青土社は伊達のもとで詩誌《ユリイカ》の編集を補佐した清水康雄が起こした出版社である。そして今回とりあげる書下ろしによる叢書〈草子〉を1973年から78年にかけて刊行したのが、山田耕一の起こした書肆山田だ(現在の代表者は鈴木一民)。上の一覧からわかるように、1970年代までの吉岡は、詩壇への登場を後押しした伊達得夫とその周辺の出版人たちとの濃密な関係のもとに、詩集を刊行していた(《紡錘形》の発行は草蝉舎だが、発売は思潮社)。《神秘的な時代の詩》の湯川書房は、それ以前、〈叢書溶ける魚No.2〉として《液体》(1971年9月1日)を300部限定で再刊している(叢書の編集は鶴岡善久と政田岑生)。吉岡にしてみればお手並み拝見といった処だったかもしれないが、大岡信や瀧口修造、土方巽、飯島耕一といった〈叢書溶ける魚〉の著者たちのラインナップにも心を動かされたかもしれない。それとよく似た経緯が、書肆山田との場合、拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》とそれ以前に出た詩《異霊祭》(1974年4月25日)において見られる。だがそのまえに、〈草子〉全体のラインナップを確認しておこう。余談だが、上記GからJまでの4詩集は、渡辺一考の書肆蕃紅花舎や南柯書局(永田耕衣の限定本などを手掛けた)から特装本が発行/発売されている。

書肆山田発行の書下ろしによる叢書〈草子〉の1:瀧口修造《星と砂と――日録抄》(1973年2月25日〔第二刷:1979年11月10日〕)、2:天沢退二郎《「評伝オルフェ」の試み》(1973年10月10日)、3:吉岡実《異霊祭》(1974年4月25日)、4:飯島耕一《ゴヤを見るまで》(1974年8月25日)、5:三好豊一郎《老練な医師》(1974年11月25日)、6:岩成達哉+風倉匠《レッスン・プログラム》(1978年7月10日)、7:高橋睦郎《巨人伝説》(1978年7月10日)、8:谷川俊太郎《質問集》(1978年9月20日)の、いずれも包紙
書肆山田発行の書下ろしによる叢書〈草子〉の1:瀧口修造《星と砂と――日録抄》(1973年2月25日〔第二刷:1979年11月10日〕)、2:天沢退二郎《「評伝オルフェ」の試み》(1973年10月10日)、3:吉岡実《異霊祭》(1974年4月25日)、4:飯島耕一《ゴヤを見るまで》(1974年8月25日)、5:三好豊一郎《老練な医師》(1974年11月25日)、6:岩成達哉+風倉匠《レッスン・プログラム》(1978年7月10日)、7:高橋睦郎《巨人伝説》(1978年7月10日)、8:谷川俊太郎《質問集》(1978年9月20日)の、いずれも包紙

・〈草子1〉瀧口修造《星と砂と――日録抄》(1973年2月25日、のち《コレクション瀧口修造3――マルセル・デュシャン/詩と美術の周囲/骰子の7の目/寸秒夢》、みすず書房、1996に収録)、別に特装版がある。
・〈草子2〉天沢退二郎《「評伝オルフェ」の試み》(1973年10月10日、のち《続・天沢退二郎詩集〔現代詩文庫112〕》、思潮社、1993に収録)、別に吉岡実装丁の特装版がある。
・〈草子3〉吉岡実《異霊祭》(1974年4月25日、のち詩集《サフラン摘み》、青土社、1976に収録)、別に吉岡実装丁の特装版がある。
・〈草子4〉飯島耕一《ゴヤを見るまで》(1974年8月25日)
・〈草子5〉三好豊一郎《老練な医師》(1974年11月25日)
・〈草子6〉岩成達哉+風倉匠《レッスン・プログラム》(1978年7月10日)
・〈草子7〉高橋睦郎《巨人伝説》(1978年7月10日)
・〈草子8〉谷川俊太郎《質問集》(1978年9月20日)

以前にも書いたことがあるが、2009年11月28日のアトリエ空中線10周年記念展〈インディペンデント・プレスの展開〉(渋谷のポスターハウスギャラリー長谷川)における山田耕一・間奈美子・郡淳一郎の三氏によるギャラリートーク〈瀧口修造の本と書肆山田の最初の10年〉の会場で特別展示された《星と砂と》の原稿(土渕信彦さん所蔵)は実に興味深いものだった。ペラの原稿用紙「LIFE C 155 20×20」17枚にわたる瀧口自筆の印刷入稿用原稿で、1枚め冒頭に「この組み方、草子の全体の構成により再考」とか、節表示のアラビア数字に対して「以下コノ数字ハ比較的大キナイタリックデ 位置ハ本文ト頭ヲ揃エルカ?」といった組版に関するメモが記されていて、瀧口が〈草子〉の装丁と本文組に心を砕いた様子がまざまざと伝わってくる。同原稿の冒頭には、鉛筆書きで(「草子」ではなく)「草紙1」とある。なお、吉岡は瀧口修造に捧げた詩篇〈舵手の書〉(G・22)の詩句に、同書の書名「星と砂と」を引用している。
さて〈草子〉の刊行日を見ていると面白いことに気が付く。〈草子1〉は叢書の発案者であり、装丁者でもある瀧口が先陣を切っていて、〈草子2〉の天沢(と〈草子3〉の吉岡、〈草子4〉の飯島、〈草子5〉の三好)はそれを見本に創作したに違いない。新聞や雑誌に詩を書くのとは異なり、冊子がどのような体裁なのかは、この書きおろしシリーズの最重要項目だったはずだ。本書の本体は折丁だけの冊子だが(四釜裕子の〈製本かい摘みましては(56)〉には「瀧口修造がアンドレ・ブルドンからおくられた二つ折りの「詩集」がそのかたちのアイディアのもとで、「草子」の名は浅草生まれ(浅草っ子)の山田〔耕一〕さんにあやかってという説もある、と、笑いながら山田さんがお話しになった」とある)、その小口帯状の包紙の裏面には〈草子刊行案内〉という広告が載っている。茶色の包紙の〈草子1〉から〈草子5〉までと、青い包紙の〈草子6〉から〈草子8〉までとではその表示のスタイルが変わっている(両者の間には4年近い歳月が存在している)。それを仮に前期スタイルと後期スタイルと呼ぼう。包紙(機能的には表紙もしくはジャケットと奥付裏広告に相当する)に刷数の表示はないが、手許の〈草子1〉は第二刷(1979年11月10日)の際に後期スタイルをとったものらしく、初刊時の状態が確認できない。以下、2号から8号までの〈草子刊行案内〉を摘する。なお、/印は改行箇所を表す。

・〈草子2〉天沢退二郎:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/*以下刊行予定 吉岡実号 大岡信号 入沢康夫号 清水昶号 吉増剛造号
・〈草子3〉吉岡実:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/3 吉岡実 異霊祭 360円
・〈草子4〉飯島耕一:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/3 吉岡実 異霊祭 360円/4 飯島耕一 ゴヤを見るまで 360円
・〈草子5〉三好豊一郎:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/3 吉岡実 異霊祭 360円/4 飯島耕一 ゴヤを見るまで 360円/5 三好豊一郎 老練な医師 360円
・〈草子6〉岩成達哉+風倉匠:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/3 吉岡実 異霊祭 360円/4 飯島耕一 ゴヤを見るまで 360円/5 三好豊一郎 老練な医師 360円/6 岩成達哉+風倉匠 レッスン・プログラム 450円/7 高橋睦郎 巨人伝説 450円/8 佐々木幹郎 近刊/9 吉増剛造/10 澁澤孝輔/11 大岡信
・〈草子7〉高橋睦郎:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/3 吉岡実 異霊祭 360円/4 飯島耕一 ゴヤを見るまで 360円/5 三好豊一郎 老練な医師 360円/6 岩成達哉+風倉匠 レッスン・プログラム 450円/7 高橋睦郎 巨人伝説 450円/8 佐々木幹郎 近刊/9 吉増剛造/10 澁澤孝輔/11 大岡信
・〈草子8〉谷川俊太郎:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/3 吉岡実 異霊祭 360円/4 飯島耕一 ゴヤを見るまで 360円/5 三好豊一郎 老練な医師 360円/6 岩成達哉+風倉匠 レッスン・プログラム 450円/7 高橋睦郎 巨人伝説 450円/8 谷川俊太郎 質問集 450円/佐々木幹郎 近刊/吉増剛造/澁澤孝輔/大岡信

煩瑣なまでに引用したのは、〈草子刊行案内〉の移りかわりを見るにつけ、シリーズものの刊行がいかにままならないか身につまされるからで、〈草子2〉にあった刊行予定の「吉岡実号 大岡信号 入沢康夫号 清水昶号 吉増剛造号」のうち、実際に出たのは吉岡の号だけである。同時刊行の〈草子6〉と〈草子7〉で「近刊」とされていた佐々木幹郎の号は結局、刊行されず、2か月後にはその佐々木を追いこして、それまでラインナップのどこにも名前のなかった谷川俊太郎の号が刊行されている。かくして、〈草子刊行案内〉で予告されていて日の目を見なかったのは、大岡信・入沢康夫・清水昶・吉増剛造・佐々木幹郎・澁澤孝輔の各号ということになる。吉岡は《異霊祭》発表の1974年当時、のちに詩集《サフラン摘み》(青土社、1976)としてまとまることになる諸作を書きついでいて、詩作はまさに絶好調だった。それにしても、全8節161行という長尺を書きおろすのは決して簡単ではなかっただろう。詩1篇とはいえ、れっきとした書籍である。今はただ、〈草子〉の吉岡実号の企画が実現されたことを喜ぶだけだ。
〈草子〉シリーズが長続きしなかったのには、いくつか原因が考えられる。定期刊行物ではないため、締切や制作の日程管理がうまくいかなかった。薄い冊子のため、販路や書店の棚が確保しづらかった。低価格の普及版と高価格の特装限定版の位置づけがはっきりしなかった。等。すなわち、進行・販売・原価管理上の諸問題。 しかしなによりも、器の新規性を活かす作品に恵まれなかったことが挙げられるだろう。それは、詩篇や散文作品として魅力が乏しかったことを意味しない。だが〈異霊祭〉は、《サフラン摘み》で読むほうが〈草子〉の一篇として読むよりじっくり味読できることもまた確かなのである。器としての稀少性を出すには、詩画集という方向もありえたが、瀧口修造の構想にその選択肢はなかったのだろう。〈草子〉の身軽さと美術作品は両立しそうにない。ただし、三好豊一郎《老練な医師》には城所祥の木版画が、岩成達哉+風倉匠《レッスン・プログラム》には風倉のデカルコマニーが、高橋睦郎《巨人伝説》の口絵には著者(?)によるカットが、それぞれ添えられている。ほかにも包紙の色の変更や、それへの文字の刷色の変更(1・2号はスミ、3〜5号は紫、6〜8号は青)などと併せて、叢書刊行中に細部の修正が加えられていったものと思しい。
吉岡が〈異霊祭〉執筆当時を振りかえった文章は見当たらない。だが、初出末尾にある「1974・2・14」が詩篇の脱稿日だとすれば、その10日後の1974年2月24日(日曜日)の日記に「夕方から雨。月桂冠一本抱え、井の頭線の浜田山へ出る。寒いので駅の近くの店でコーヒーをのみ、地図をたよりに歩く。状況劇場の稽古場開きである。唐十郎、李礼仙に迎えられる。まだ客は少く、若松孝二、足立正生に紹介された。久しぶりの土方巽と大いに語る。宴たけなわ、澁澤龍彦、種村季弘、松山俊太郎、四谷シモン、赤瀬川原平、三木富雄、中嶋夏ら現われる。いよいよ佳境に入り、余興になる。一番手は小林薫で、「そして神戸」の美声に聴きほれる。唐十郎の自作朗読そして李礼仙の唄の終ったところで、抜け出すと、外は雪になっていた。やがて修羅場と化すだろうとの予感。深夜の静かな豊多摩高校の庭を帰る。向うを一匹の犬が歩いていた」(《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、七六ページ)とある。《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》(書肆山田、1996)の書名は、吉岡の1948年7月12日(月曜日)の日記「日照りの乾いたみち/手をたらして歩く/進駐兵のたばこのからが落ちていた/駱駝の絵があった/私のうしろを犬が歩いていた」(同書、一五ページ)から採られた。その、四半世紀のちのもう一匹の「犬の肖像」との照応に戦慄する。詩《異霊祭》は、こうした感覚の持ち主によって生みだされた。詩篇〈異霊祭〉(G・19)から「1」を引く。

朝は砂袋に見える

夏の波の寄せる処で
母親を呼ぶように
紅い布を裂き
趣味のよい書物をひもとく
アラン
きみが叙述した矮小種族の好む虹色の二字
〈肉体〉
オパールの滝のなかの美貌の妹
沈む壜に入っている

死を近づける
また破裂をもたらす
新鮮な魚の目のように
何を待つ
アラン
悲劇とは仮死のなかの仮生

〈吉岡実資料〉(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991)を編むために、吉岡実の初出文献の件で蔵前の筑摩書房に淡谷淳一さんを訪ねた折りだった。なにかの拍子に、吉岡実詩の話になった。淡谷さんは即座に「朝は砂袋に見える/岬」という〈異霊祭〉の出だしは素晴らしい、と言われた。懐かしくも、忘れがたい想い出である。

〔追記〕
インターネットで〈異霊祭〉を検索していたら、品切れ本を中心とした書評ページ《失われた本を求めて 陰鬱な美青年 グラック》で、「最後に、この『陰鬱な美青年』が、ひとりの日本の詩人にインスピレーションを与えたのではないかと思われる例を挙げておく。吉岡実が1974年に描きあげた「異霊祭」という詩だ。確証はないが、語の選び方から察するに、わたしにはそんな気がしてならない。それに吉岡氏は当時、筑摩書房に勤務していたのだから、本書を手に取ったことも充分にありえるだろう。では、この「異霊祭」から第1節を引用してみよう(この詩は吉岡氏の代表作『サフラン摘み』に収録されている)」とあるのを見つけた。書評者のtakahata氏(同文の末尾には「by takahata: 2004.11.30」とある)が誰かわからないが、この貴重な指摘をやり過ごすわけにはいかない。しかしながら、ジュリアン・グラック(小佐井伸二訳)《陰欝な美青年》(筑摩書房、1970年7月25日)は絶版で、古書値もばかにならない。そこで、文遊社から2015年5月1日に刊行された再刊を入手したところ、訳者による〈あとがき〉に淡谷さんの名前を見出した。

 訳者もまた、少年の日から久しくこの作家に対して、とくになぜかこの小説に対してひそかな偏愛を抱いてきたが(少年の、水平線の向う側へのあこがれを、このようなかたちで、つまり「暗喩的な仕方とはまったく別な」かたちで、満たしてくれる作家が現代他にいるだろうか?)、もし訳者が『文学界』誌上にこの小説の最初の部分の窪田啓作氏による美しい翻訳を読むという偶然に恵まれなかったなら、またもし筑摩書房編集部の淡谷淳一氏からの遠い[、、]しかし絶えざるはげましがなかったなら、この[、、]訳書は生れていなかっただろう。願わくば、水平線の向う側へ帰ることなく旅立つ瞬間のあのめまい[、、、]がいささかでも訳文に移されているように!(ジュリアン・グラック(小佐井伸二訳)《陰欝な美青年》文遊社、2015年5月1日、三一三ページ)

吉岡実が淡谷淳一(吉岡に書き下ろしの評伝《土方巽頌》を書かせた後輩の編集者で、筑摩書房のフランス文学系の全集や大著を数多く手掛けた)を介して、小佐井伸二訳のジュリアン・グラック《陰欝な美青年》に触れた可能性はきわめて高い。

ジュリアン・グラック(小佐井伸二訳)《陰欝な美青年》(筑摩書房、1970年7月25日)の表紙と同書の再刊(文遊社、2015年5月1日)のジャケット
ジュリアン・グラック(小佐井伸二訳)《陰欝な美青年》(筑摩書房、1970年7月25日)の表紙と同書の再刊(文遊社、2015年5月1日)のジャケット

前掲takahata氏の書評にもあったように、吉岡実詩にグラック小説の直接の[、、、]反映が見られるわけではない。しかしながら、たしかに全体の醸しだす雰囲気には共通したものが感じられる。試みに初刊と再刊の帯文を掲げて《陰欝な美青年》の、アラン・パトリック・ミュルシソンの片鱗に触れてみよう。

[初刊帯文]
死は他人の奥にまだ眠っている死をゆさぶり、目覚めさせる、ちょうど女の腹のなかの子供のように………………
アランとは誰か?
あるいは何か?(表1)
ブルターニュ海岸ホテルの避暑客たち、ランボーを研究するジェラール、知的俗物ジャック、新婚早々のイレーヌとアンリ、青年グレゴリー、そして若く美しい誇りやかな娘クリステル、無為と倦怠が支配するヴァカンスに登場する「陰欝な美青年」アランをめぐる愛と死――この神秘的な小説は、同時に劇であり「神話」である。(表4)
[再刊帯文]
この眩暈を止めなければ、この無意味な死を――
ヴァカンスの倦怠を、不安に一変させる美青年、アランとは誰なのか?(表1)
「キリスト教は、……この地球上でかたちをなさなかったでしょう、もしキリストが降臨しなかったら。キリスト教が存在するためには、キリストが存在しなければならなかった、この村に、この日に生れ、神を信じない人間に釘付けにされたこの手を見せ、そして隠喩的な仕方とはまったく別の仕方で墓から消え去らねばならなかったのです。このような真似のできぬ現存なくしてどうして彼がひとびとを説得できたでしょう?」(表4)

再刊帯文の表4はアランがジェラールに語った言葉。それを含む「七月十九日」のジェラールの日記は「昨日、遂に、アランと知り合いになることができた」(同書、八二ページ)と始まる。私がアランの言葉で最も惹かれたのは、このキリスト教/キリストの一節ではない。そのほんの数ページまえの別の箇所である。ここは、吉岡が読んだかもしれない初刊から引くことにする。

〔……〕おそらく、作品の完成[、、]は、ポーの『楕円形の肖像』におけるように、あるいは人間の死をもたらすかもしれません。書かれた言葉のすでにきわめて危険な明暗をとおして詩人を知らずに導いてゆくあの透かしになったテクスト、あの磁化された目に見えないテクストが、いかなる魔力を包蔵しているか、誰にわかりましょう。すべての作品はいったん書いた字を消してその上にまた字を記した羊皮紙なのです――だから、作品が成功している場合は、消されたテクストは常に魔法のテクストです。(同書、七三ページ)

とりわけ「すべての作品はいったん書いた字を消してその上にまた字を記した羊皮紙なのです」からは、吉岡実が松浦寿輝詩集《ウサギのダンス》(七月堂、1982年11月15日)の栞に寄せた未刊の散文〈文字の上に文字でないものを℃u向する詩〉を想起しないわけにはいかない。


吉岡実と和田芳恵あるいは澁澤龍彦の散文(2018年4月30日)

小説家の和田芳恵は吉岡実の岳父だが、ここでは随筆〈文壇の片隅から〉(初出は《海》1974年8月号)の書きだしを読んでみたい。

 札幌の花月堂という和菓子屋に頼まれて、「杙刺[くいざ]し」という短い文章を書いた。北海道の四月にふさわしい言葉を書けということだった。東京から見れば、ほぼ、ひと月ほど遅れて桜の花が咲く。私は、こんな文章を書いた。
 私たちは「くい刺し」と言ったが、別な呼びかたもあるらしい。相手が地面に刺したくいを自分の刺し込むくいで、はじきとばす子供の遊び。うまく、はじけば、自分のものになった。
 雪が消えて、黒い土が顔を出すころ、私たち悪童連は山へはいり、せっせと、くいを作った。長さ二尺ぐらいで、先きが鋭く尖っていた。
 「くい刺し、やるべ」と誘いあい、放課後の小学校の広っぱで、夢中に闘いあった。
 私の生まれた長万部町国縫は、北海道では暖いほうだが、くい刺しは四月が頂点で、それからメンコ遊びになった。
 どうして、四月がくい刺しに向くかといえば、雪水を充分に吸い込んだ土の、しめり加減が、やわらか過ぎず、固くもなく、ねっとりとした頃合のせいである。和菓子の「ねりきり」の触感に似ていた。
 勝つ日もあれば、敗ける日もあった。
 一本もなく、くいをまきあげられて、すごすごと帰るときの、みじめったらしい気持。
 その日は付いていて、当るを幸い、相手をなぎたおし、縄で作ったくいを、背負って戻るときの、晴れがましさ。
 くいについた泥で、きものの背中をよごしてしまったと気づくのは、いつも、家へ近づいたころだった。
 母に叱られながら、私は炉ばたで、脱いだ着物の泥を、かわかしたものだった。
 月一回で変る、この「散らし」は、私のところで二百五十六回になっている。二十三年前から、始めたということなのだろう。
 〔……〕(《順番が来るまで》北洋社、1978年1月20日、九一〜九二ページ)

 ≠ナ括った五百三十字弱が自身の旧作になるわけだが、〈杙刺し〉は和田のほかの文集には収められていないようだ。では、この極めて短い随想は何年の「四月」に発表されたのだろうか。引用文からそれを導きだすことができる。〈文壇の片隅から〉の初出時(1974年8月)や「月一回で変る、この「散らし」は、私のところで二百五十六回になっている。二十三年前から、始めたということなのだろう」という記載を考えあわせると、チラシが毎月きちんと発行されているとするなら、創刊は1951年1月(すなわち1974年の「二十三年前」)、そこから起算すると〈杙刺し〉が発表されたのは1972年4月となる。〈文壇の片隅から〉を《海》に発表した1974年の2年前の1972年の、遅くとも早春には脱稿した文章だったということになろう。こうしたことを跡づけることのできる、和田の散文のおそるべき圧縮度である。内容のことをいえば、春先の土を和菓子「ねりきり」の触感に通じるとするあたりに、和田ならではの官能性を見ることができる。だが私がここで話題にしたいのは、和田の文章が吉岡の散文になにがしかの影響を与えたのではないかという点である。いったい人は初めてなにかする場合、まるきり無手勝流で臨むこともないとは限らないが、しかるべき準備期間があるならば、手近な先例から学ぶのが筋だと思われるからである。吉岡が乞われて散文を発表しはじめたのは、詩集《静物》(私家版、1955)を刊行して以後、それが多くの人の目に触れるようになったのは、続く《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)を刊行して詩人としての地歩を築いて以降ということになろう。当時の吉岡の読書生活の詳細はわからない。だが、1953年には勤務先の業務で塩田良平・和田芳恵編の《一葉全集〔全7巻〕》(筑摩書房、1953〜56)の装丁を担当していて、吉岡は当初、和田芳恵を一葉の研究者として知った。さらに、1956年に和田の書きおろし《一葉の日記》(筑摩書房)の装丁も手掛けるころには、小説家にして元小説雑誌の編集者というその経歴にも通じていた。つまり、吉岡が発表を想定した散文を書きはじめた時期、最も身近にいた文筆家の一人が和田芳恵だったわけである(なお吉岡は1959年、和田の長女・陽子と結婚している)。

吉岡実と和田芳恵〔出典:古河文学館編《和田芳惠展――作家・研究者・編集者として》古河文学館、1999年10月23日、五一ページ〕
吉岡実と和田芳恵〔出典:古河文学館編《和田芳惠展――作家・研究者・編集者として》古河文学館、1999年10月23日、五一ページ〕

ここで冒頭に引いた〈文壇の片隅から〉に嵌めこまれた〈杙刺し〉に戻ろう。吉岡の散文は和田の随想におけるそれほど改行や読点が多くはないが、比較的短い文を積みかさねて先へ先へと歩を進める呼吸には、互いに近いものが感じられる。若年のころの想い出を主題とする随想を締めくくる際の手法も、和田の「母に叱られながら、私は炉ばたで、脱いだ着物の泥を、かわかしたものだった」あたりに学んでいるようだ。なお、私が和田の小説ではなく随想を引いたのは、もちろん対比すべき吉岡に小説作品がないということが第一にあるが、和田の小説と吉岡の詩を比較するにはその間に設定すべき媒介が複雑すぎて手に余る、という事情による。和田の小説の文体に関しては、時代を画した丸谷才一の評「そして和田の二篇の情痴小説〔〈厄落し〉と〈接木の台〉〕は、いづれも、徳田秋聲から川端康成に至る奇妙に錯綜した時間の構造と言ひ(和田がこの技法に習熟してゐることは恐しいほどである)、頻繁な改行と言ひ、会話の多用と言ひ、まさしく当時〔昭和十年代〕の小説との近接を示してゐる。彼はひよつとすると、最も遅れて来た昭和十年代作家なのかもしれない。これはもちろん、それにふさはしいだけの成熟が備はつてゐるといふ意味で言ふのだけれども」(《雁のたより〔朝日文庫〕》朝日新聞社、1986年8月20日、一八一ページ)に尽きている。

アレキサンドリア局留便《O氏の肖像――大野一雄を肖像した長野千秋展》(アパッシュ館、1969年〔奥付に月日の記載なくも、9月以降に刊行か〕)に収録された吉岡実の〈内密な意識の個人的な秘儀〉と同書のポートフォリオ
アレキサンドリア局留便《O氏の肖像――大野一雄を肖像した長野千秋展》(アパッシュ館、1969年〔奥付に月日の記載なくも、9月以降に刊行か〕)に収録された吉岡実の〈内密な意識の個人的な秘儀〉と同書のポートフォリオ

吉岡実に〈内密な意識の個人的な秘儀〉と題する三百五十字ほどの短文がある。初出は《O氏の肖像》(アパッシュ館、1969)だが、同書のクレジットの表示が少しく曖昧なので、印刷物のありさまを再現しておく。私が古書落穂舎から数年まえに求めた一本は、天地300×左右415ミリメートルほどのポートフォリオ――洋風の帙で、表の「PORTFOLIO」というロゴの上に銀の地を引いて大きく「O氏の肖像」(書名であろう)、その下方のポートフォリオの生地にやや小さく「アレキサンドリア局留便」(これが副題なのか、著者もしくは編者を示すプロジェクト名なのか、はっきりしない)と、いずれもスミで文字(横組み)が刷られている――に、天地290×左右410ミリメートルほどの紙葉が13枚収められている【註1】。これらを踏まえて、便宜的に本書をアレキサンドリア局留便《O氏の肖像――大野一雄を肖像した長野千秋展》(アパッシュ館、1969年〔奥付に月日の記載なくも、9月以降に刊行か〕)としておく。吉岡の〈内密な意識の個人的な秘儀〉は《土方巽頌》(筑摩書房、1987)の〈18 「O氏の肖像」〉に、符号を二箇所(《 》と―)改めただけで、字句はそのままに吸収された。

 土方巽と笠井叡という恐るべき二人の舞踏家の師といわれる、大野一雄は久しい間、私にとっては幻の舞踏家であった。このつつましくも寡黙な表現者は、なかなか私たちの前にその全容を現わしてくれない。その人が今度『O氏の肖像』というユニークな映画を長野千秋の協力で創った。自己顕示欲の尠いと思われる大野一雄が、突然、映画を創ったのには一瞬奇異なものを、私は感じたが――。一時間十分凝視しているうちに、妙なことだが、これは他者に観せる演技ではなく、まして舞踏でもなく、肉体でもないと思われてくる。これはもしかしたら、大野一雄のきわめて内密な意識の個人的な秘儀なのかも知れないと。うす暗い他界の内陣で、生死もさだかでない血まみれの魚体を、トイレットペーパーで偏執的に包みこんでゆく姿に、私はある戦慄をおぼえた。(同書、三二〜三三ページ)

吉岡は〈18 「O氏の肖像」〉で、まず土方の章句を引いてから、自身の1969年8月24日の日記を掲げている。すなわち「夕暮、渋谷のフランセに行く。すでに飯島耕一、鈴木志郎康夫妻そして、大野一雄と長野千秋が待っていた。遅れて、土方巽、三好豊一郎が来たので、小さな映画事務所へ。そして長野千秋撮影、大野一雄出演の「O氏の肖像」を観る。終って加茂川で酒をのむ。土方巽の吐いた言葉が心に残った。若者たちをぬらす水は胸のあたり。しかし老婆、日本の老婆は静かにかがんでゆき、指先からすーっと水のなかへ入ってゆく、と――」(同書、三二ページ)。そして一行空けてから「『O氏の肖像』の記念冊子を作るというので、私は一文を寄せている。」(同前)と来て、上掲引用文になる(なお、標題の〈内密な意識の個人的な秘儀〉は吉岡がつけたものではないかもしれない)。私にはこの流儀が、本稿の初めに掲げた和田の骨法に通じるものに思えてしかたがないのだ。

澁澤龍彦【註2】のような、執筆した文章を精力的に書物にまとめていく文筆家と較べたとき、吉岡は〈内密な意識の個人的な秘儀〉を、たとえば「推薦文」というようなカテゴリーをつくって自著に収録するとは考えにくい。和田は吉岡と比較すればはるかに多くの著作を有して、歿後には全集【註3】もあるが、それでも北海道の和菓子屋のチラシに書いた〈杙刺し〉を単体で書籍に組みこむような編集はしなかっただろう。だが、自身の旧作を新作に嵌めこんで文章を展開する手法は、誰もが採るものではないように思う。これは編集的な著述の方法ではなかろうか(奇しくも、和田芳恵、吉岡実、澁澤龍彦の三人とも、編集者だった時期がある)。澁澤の1960年代の主著に《夢の宇宙誌――コスモグラフィア ファンタスティカ〔美術選書〕》(美術出版社、1964)がある。巖谷國士がその《澁澤龍彦論コレクション〔全5巻〕》(勉誠出版、2017〜18)で指摘しているように、本書は雑誌掲載稿をきわめて編集的に再構成した書物だった。ところで国書刊行会編集部編《書物の宇宙誌――澁澤龍彦蔵書目録》(国書刊行会、2006)は「澁澤龍彦が遺した蔵書1万余冊の全データと多数の写真が織りなす、夢と驚異の蔵書目録」だが、吉岡が澁澤と著書のやりとりを通じて、刊行当時、《夢の宇宙誌》を贈られたかどうかはわからない。だが、その時期はともかく、吉岡が《夢の宇宙誌》を読んだことは疑いようもない。同書冒頭の〈玩具について〉だけ見ても、そこには日時計(修道僧ジェルベエル――のちのローマ法王シルヴェステル二世――が造ったとされる)、ダイダロスとクレタ島、宮廷肖像画家ジュゼッペ・アルキ[ママ]ンボルド、「鉄の処女」、アスタルテといった、のちの吉岡実詩に現れるさまざまなアイテムが登場する。むろん、すべてのスルスが澁澤の著作だとは断言できないが、澁澤経由でこれらに親しんだことは明らかだろう。現にアルチンボルドが「野菜と果実と花ばかりを組み合わせて、ユーモラスな〔ルドルフ〕皇帝の顔を描いた」(《澁澤龍彦全集〔第4巻〕》河出書房新社、1993年9月13日、一九九ページ)ところの〈庭師〉が図版で掲載されている。これが〈サフラン摘み〉(G・1)の「春の果実と魚で構成された/アルチンボルドの肖像画のように」の淵源のひとつであることは動かないだろう。と、ここまで書いてきたが、私はこれ以上、具体的に澁澤龍彦の文章と吉岡実のそれを並べて比較することは避けたいと思う。散文に関するかぎり、職業的な書き手である澁澤と吉岡実という詩人の書く散文を突きあわせてみても大した発見は得られないだろう、という予感があるのだ。むしろ、澁澤のエッセイ(随想ではない)の断章形式と、吉岡の人物評における断章・断想という形式がもつ本質的な類似こそが興味深い。それは表現方法の次元に留まらず、世界を認識する姿勢における共通性を示していよう。吉岡が1950年代に和田の文章から学んだように、1970年代以降、澁澤の著作から多くを学んだことは、金井美恵子が肖像〈吉岡実とあう――人・語・物〉で「澁澤龍彦夫妻と何年か前四谷シモンの人形展で一緒になった時、本気で真面目に今のところ、おれは澁澤氏を一番気に入っているからね、と言い、澁澤龍彦が、今のところ[、、、、、]、かあ、と大笑いした」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984、二二四ページ)と書いていることが傍証となる。だが、吉岡が澁澤の方法を自家薬籠中のものとしたのは、「澁澤龍彦のミクロコスモス」と詞書にある詩篇〈示影針(グノーモン)〉(G・27)をもって嚆矢とする。この詩篇と澁澤龍彦《胡桃の中の世界》(青土社、1974)の関係については、他日を期したい。

私には、和田芳恵(1906〜77)と澁澤龍彦(1928〜87)という、およそ対蹠的な立場の文学者から散文の富を継承した詩人が吉岡実だったように思えてならない。

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【註1】 《O氏の肖像》は、土方巽公演〈土方巽と日本人――肉体の叛乱〉の一カ月半後に刊行された限定50部のオリジナル豪華詩画集《土方巽舞踏展 あんま》(アスベスト館、1968年12月1日、編集:アスベスト館)ほど知られていないようなので、やや詳しく記しておきたい。13枚の紙葉(ノンブルなし)に、仮に丸中数字で番号を振って内容を概説する。なお、本文はすべて縦組みである。
@厚手のトレーシングペーパーに、使用済みのチェコスロバキアの切手(躍動する馬の絵柄)を貼り、スミで人物(O氏?)の半身像を、銀色で「アレキサンドリア局留便」(横組み)と、おそらくシルクスクリーンで刷ってある。本書の扉に相当する。
A以下、用紙はすべて濃いクリーム色に淡いピンクのマーブル模様を漉きこんだファンシーペーパー。Aは〈目録〉すなわち目次である。追い込みで再録する。「大野一雄を肖像した長野千秋展/目録/土方巽 シビレット夫人/加藤郁乎 ある日のキリスト氏/三好豊一郎 オナンの如く/飯島耕一 O氏の運動/合田成男 O氏の肖像へ/鈴木志郎康 いとしいとしの眞空充肉充血皮袋ちゃん!/中西夏之 顔を吊るす双曲線/谷川晃一 OHONO-FARMAN TYPE-PIPE BIPLANE/吉岡実 内密な意識の個人的な秘儀/澁澤龍彦 泳ぐ悲劇役者」
B土方巽〔書簡文〕(標題なし)
C加藤郁乎〔散文〕〈ある日のキリスト氏〉
D三好豊一郎〔詩〕〈オナンの如く〉
E飯島耕一〔散文〕〈O氏の運動〉
F合田成男〔散文〕〈O氏の肖像へ〉
G鈴木志郎康〔散文〕〈いとしいとしの眞空充肉充血皮袋ちゃん!〉
H中西夏之〔図と散文〕〈顔を吊るす双曲線〉
I谷川晃一〔版画〕〈OHONO-FARMAN TYPE-PIPE BIPLANE〉……所蔵の四番本は別のオリジナル(74/100)をカラーコピーで複製したもの
J吉岡実〔散文〕〈内密な意識の個人的な秘儀〉……本文は18級20字詰め18行。標題が1行、署名が1行(どちらも赤系の刷色)なので、400字詰め原稿用紙1枚、もしくはペラ2枚の原稿だったと考えられる。
K澁澤龍彦〔散文〕〈泳ぐ悲劇役者〉……同文の〈解題〉(巖谷國士)には「一九六九年、アパッシュ館から刊行された『O氏の肖像――アレキサンドリア局留便』に発表。これは「大野一雄を肖像した長野千秋展」のリーフレット形式の「目録」でもあった。土方巽、加藤郁乎以下、多くの舞踊家、詩人、批評家、画家たちが大野一雄へのオマージュを書いている」(《澁澤龍彦全集〔第9巻〕》河出書房新社、1994年2月12日、五三二ページ)とある。
L刊記。追い込みで再録する。「壹阡九百六拾九年/アレキサンドリア局/大雅工芸社/クラフト・フォト・タイプ/蛇口刷インキ/刊行 アパッシュ館/〔やや小さく〕東京都世田谷区大原2―21―3/限定百部〔筆書き〕番」

【註2】 澁澤龍彦が和田芳恵を愛読していたかは定かでないが、エッセー集(というよりも随筆集と呼びたい)《玩物草紙》(朝日新聞社、1979年2月25日)の〈天ぷら〉(初出は《朝日ジャーナル》1978年5月5日号)に触れないわけにはいかない。

 その日、吉岡さんが奥さんを連れてこなかったのは、一つには奥さんの父君の和田芳恵さんの病態が思わしくなかったためもありますが、もう一つには、ポルノを見るつもりだったからかもしれないな、と私はひそかに思いました。もっとも、これは吉岡さんに確かめたわけではありませんから、私の勝手な想像です。
 父君の容態が明日をも知れぬという時に、ポルノを眺めるなどとは不謹慎だ、という意見があるかもしれませんが、私はそうは思いません。七十年の壮烈な生き方をした一作家の臨終に、数日来、親しく立ち会っていたればこそ、吉岡さんはその日、むらむらとポルノを見たくなったのではないでしょうか。いや、何もそんな理窟をつけるには及びますまい。私が勝手に吉岡さんの心中を忖度する権利も、むろん、ありません。ただ私は、和田さんの生涯にはポルノはむしろふさわしいので、これを眺めるのが必ずしも不謹慎なことだとは思わないだけです。
 〔……〕
 〔天ぷら屋で〕食事を終え、喫茶店でコーヒーを飲むと、吉岡さんはAさん〔筑摩書房の編集者、淡谷淳一氏〕と一緒に、あたふたと横須賀線で東京へ帰って行きました。
 その日の夜おそく、和田芳恵さんは亡くなられました。
 私は和田さんには一度もお目にかかったことがなく、その作品も、身を入れて読んだことが一度もないような人間ですが、この日のエピソードは、和田さんの死とからめて、おそらく死ぬまで忘れることがあるまいと思います。そういうことがあるものです。それは去年の十月四日でした。(同書、一二四〜一二九ページ)。

この悠揚として迫らぬ調子は(です・ますの文体とも相俟って)、著者の名を明かさなければ、澁澤龍彦だとわからないのではあるまいか。もっとも「私は、和田さんの生涯にはポルノはむしろふさわしいので、これを眺めるのが必ずしも不謹慎なことだとは思わない」というあたり、まぎれもなく澁澤の文章である。和田の死は吉岡にとって痛切な出来事だった。《群像》1977年12月号〔和田芳恵追悼〕の〈月下美人――和田芳恵臨終記〉は、竹西寛子も讃嘆したように吉岡実の散文のひとつの極致を示しているものだが、次のような箇所がある。

 十月四日は朝から大雨であった。そういえば入院の九月十九日も十一号の雨台風の日だった。川崎のO病院を退院して、おやじさんは長原の家に戻った。植木の緑にかこまれたわが家に入る時、病人の顔はいままで見せたことのない清々しい微笑さえ浮べだそうである。次に移る病院が遠すぎるので、途中下車よろしく、家でしばし治療と栄養を摂るためだと、静子夫人と主治医の言であった。しかし、私は前夜吐血し、輸血や点滴をしていた病人の状態を思うと、不吉なことを考えないわけにはゆかない。
 その日は生憎、私は仕事のため同僚と北鎌倉の澁澤龍彦宅に行っていた。打合せも終り、龍子夫人の運転するくるまで鎌倉へ出た。小町通りのひろみで天ぷらを食べ、たのしい一夕を過した。しかしその間も、長原の家のことを考え、心がおちつかなかった。九時過ぎに長原に行った。あらかじめ今日のことに備え、本も本棚もその他の器物も搬び出してしまったので、部屋は一変していた。新しいセミダブルのベッドの上に病人は寝ていた。おやじさんの顔を見て、もうだめだと思った。黄疸になっていて、唇も恐ろしく乾いている。なによりも、苦しむ力さえ失われつつあった。静子夫人も妻もあっちゃん〔和田芳恵の長男すなわち吉岡陽子の兄、昭〕も、ただあたふたとしていた。
 私はクッションの替りに、おやじさんの背に沿って寝た。そして肩や腰を撫でさするより仕方なかった。十二時近く、一度帰った自宅から呼び戻されて新津の先生が駈けつけた。すでに吐血と下血がはじまり、死は近かった。先生は一番大切で、むずかしい点滴をするから、しっかり病人の軀や手を押えて下さいといった。失敗はゆるされないという緊張が私たち全員にあった。紫色にはれ上った手を持った妻は、真剣な表情を見せていた。まさに注射するその瞬間、ぐらぐらと家が揺れ出した。それは大きな地震だった。それから三十分たっただろうか、私たちはおやじさんのつぶっていた眼が急に開き、白くなるのを見た。静子夫人は病人の頬に平手打をして、なにか叫んだ。
 肉親だけに看とられて十月五日午前一時三十二分、病人は死んだ。作家和田芳恵は死んだ。
 吉田のおばさんと姪の方がすぐ手伝いにきてくれた。涙とは妙なものだ。一人の者の涙に誘われ、だれもが涙を流していた。
 みんなで、おやじさん愛用の紺の浴衣を着せた。私は遺骸を持ち上げながら、博多帯をきゅっきゅっと巻いた。背中はまだぬるい温みがあった。爪先はつんと天を向いていた。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一七三〜一七四ページ)

澁澤龍彦は吉岡実の〈月下美人――和田芳恵臨終記〉を雑誌で読んで、随筆〈天ぷら〉を書いているのではないだろうか(「あたふたと」という、肝になる言いまわしが双方に出てくる)。澁澤なりの〈和田芳恵追悼〉として。

某氏が澁澤龍彦の《玩物草紙》(《朝日ジャーナル》連載)の切り抜きを手製本した冊子の〈天ぷら〉の誌面の1ページ 澁澤龍彦が吉岡実に贈った《玩物草紙》(朝日新聞社、1979年2月25日)標題紙裏のペン書き献呈署名
某氏が澁澤龍彦の《玩物草紙》(《朝日ジャーナル》連載)の切り抜きを手製本した冊子の〈天ぷら〉の誌面の1ページ(左)と澁澤が吉岡実に贈った《玩物草紙》(朝日新聞社、1979年2月25日)標題紙裏のペン書き献呈署名(右)

【註3】 和田芳恵の全集(ただし内容は〈道祖神幕〉や〈厄落し〉などの短篇小説群、〈塵の中〉と〈暗い流れ〉の二長篇小説、〈樋口一葉〉と〈一葉の日記〉の一葉研究、〈ひとつの文壇史〉や〈自伝抄〉などの代表的な随筆を収録したもので、正確には「選集」というべき構成)は、河出書房新社から五巻本で出ている(1978〜79)。澁澤龍彦の全集は公刊された全作品を網羅した《澁澤龍彦全集〔全22巻・別巻2〕》(1993〜95)と《澁澤龍彦翻訳全集〔全15巻・別巻1〕》(1996〜98)が、同じ河出書房新社から出ている。付言すれば、吉岡実の全集には、公刊されたすべての詩集ほかを収めた《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)があるが、俳句をはじめ散文や日記まで収めた「全集」はまだ刊行されていない。


吉岡実とヘルマン・セリエント(2018年3月31日)

インターネットの画像検索などという便利なツールがなかった時代、情報源としての専門雑誌の価値は今よりはるかに高かった。吉岡実の詩篇〈異邦〉(H・5、初出は〈ヘルマン・セリエント展〉パンフレット、青木画廊、1977年5月31日)の詞書「へルマン・セリエントの絵によせて」を読んでセリエントの絵が観たくても、おいそれと観ることはかなわなかったのである。私がセリエントの絵の図版に初めて接したのは、ペヨトル工房の《夜想》第19号〔特集★幻想の扉〕(1986年10月17日)だったと思う。〈異邦〉が再録された《夜想》の72〜73ページには、セリエントの〈集会〉と〈ペテン師〉(1976)が掲げられていた。なお、詩篇が「1974年個展パンフレットより」と註記にあるのは(前述のように、77年だから)誤り。次の見開き(74〜75ページ)には〈居酒屋〉(1977)、〈夜の旅〉、〈作品〉、〈スナックバー〉の4点の図版が、前の見開きと同様、モノクロで掲載されていて、当時はこれらが貴重な資料だった。吉岡は〈ヘルマン・セリエント展〉のパンフレットはいうまでもなく、《夜想》も観ているはずだが、その歿後に小沢正の文、へルマン・セリエントの画による《フェイク》(パロル舎、2001年11月26日)という書籍が刊行された。現在までのところ、日本ではこれがへルマン・セリエントの絵画を収めた最も重要な印刷物ということになろう。

小沢正の文、へルマン・セリエントの画による《フェイク》(パロル舎、2001年11月26日)のジャケット〔表紙絵は〈信号ラッパ吹きの名人〉〕 吉岡実の詩篇〈異邦〉(H・5)の初出〔出典:〈ヘルマン・セリエント展〉パンフレット(青木画廊、1977年5月31日)〕のコピーに小林一郎が詩集収録形との異同を朱書したもの
小沢正の文、へルマン・セリエントの画による《フェイク》(パロル舎、2001年11月26日)のジャケット〔表紙絵は〈信号ラッパ吹きの名人〉〕(左)と吉岡実の詩篇〈異邦〉(H・5)の初出〔出典:〈ヘルマン・セリエント展〉パンフレット(青木画廊、1977年5月31日)〕のコピーに小林一郎が詩集収録形との異同を朱書したもの(右)

ヘルマン・セリエントを紹介した青木画廊のウェブサイトに、セリエントのページがある。そこには作風を説明する画像(連作銅版画 “Masken und Maskierte”(仮面と仮装)より)や略歴とともに、本書の案内がある(なお、本文のサイズは一七四×一九〇ミリメートル)。

[画集]ヘルマン・セリエント/文・小沢正/「fake」
Serientの新・旧油彩作品約36点収録(オールカラー)。画集としても見応えがあります。(オリジナルイラスト/サイン入り)
2001年11月26日パロル舎発行
AB〔ママ〕判上製36頁◆\1,400+税

画家の立場からすれば「画集」だろうが、わたしたちはふつうこれを「絵本」と呼んでいる。小沢正のストーリーに合わせて、ヘルマン・セリエントが作品を描いたとは考えにくい。とすれば、吉岡が〈ヘルマン・セリエント展〉の資料の写真を観ながら〈異邦〉を執筆したであろうのと同様、小沢(児童向けの創作や訳書を多数もつ)もこの書籍のための資料写真を観て物語を紡いだことは充分に考えられる。本書の内容紹介には、「ぼくの生まれ育った土地では、素顔をさらしたり、自分の本性をむき出しにしたりするのが、忌むべきことと考えられていました…。「居住車」「青い家」などセリエントの絵36点と、小沢正のストーリーによる絵本」とある。あえて乱暴な括り方をするなら、本書におけるセリエントの作風は「ゾンネンシュターンの手法でアンソールの主題を描いたもの」とでもなろうか。もっともゾンネンシュターンは色鉛筆、セリエントは油彩、と表現方法の異なることはいうまでもないが。書名の“fake”は、でっち上げとか偽造・模造という意味の名詞である。一方、ジャズミュージックの世界では「即興演奏すること」を意味する(即興演奏は、アドリブ、インプロヴィゼーションとも)。略歴によれば、セリエントは二十歳前に金細工学校に在学しながらジャズに熱中してバンドを結成したそうだから、小沢はそれを踏まえてセリエントと「即興演奏」した、といわんとしているのだろう。それというのも、ふつうに考えれば「仮面」を織りこんだ題名のほうが内容――絵にしても、話の中身にしても――に似つかわしいからだ。

青木画廊編《一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961-2016》(風濤社、2017年5月31日)は、同書の惹句を借りるならば、「〔……〕ウィーン幻想派の紹介、金子國義、四谷シモンの展覧会デビューで、1960年代〜70年代はアヴァンギャルドの牙城となり、瀧口修造、澁澤龍彦もオブザーバー的にかかわった孤高の画廊。その画廊精神は現在にも引き継がれ、澁澤龍彦曰く「密室の画家」たちが発表の場を求めている。青木画廊で個展を開いた70数作家、寄稿文7本、座談会5本、展覧会パンフレットのテクスト90本で辿る55年間の軌跡、青木画廊大全!」である。吉岡は生前、青木画廊で開かれた展覧会に足繁く通いつつ、乞われて画廊発行のパンフレットに4篇の詩を寄せている。

自転車の上の猫(G・15)
異邦(H・5)
壁掛(J・5)
秋の領分(K・5)

これらの詩篇はその初出形が《一角獣の変身》に収められているが、〈異邦〉は同書の巻頭〈エルンスト・フックス〉(書名にも引かれた瀧口修造の〈一角獣の変身――エルンスト・フックスの作品を迎えて〉を収録)の項に続いて、二番めのへルマン・セリエントの項に、その油彩作品〈スナックバー〉(1968)、〈火の番人〉(1970)とともに掲げられている。ちなみに、《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》(書肆山田、1996年11月30日)のカラー図版〈吉岡実の小さな部屋〉には、セリエントの〈異邦〉が掲載されている。それを観るかぎり、吉岡の詩篇〈異邦〉も《フェイク》の「仮面」よりは、“fake”に近い標題だといえる。あるいは、詩はここまで絵画から離れてしまってもかまわない、という確信が《フェイク》の作者である小川に引き継がれたと見るべきか。

美術評論家の正木基は〈幻想レアリスムと青木画廊〉でセリエントをこう評している。「「密室」が外部的世俗の遮断、立籠とすれば、「隠遁」はそこからの遁走で、共に、現実否定に発する類縁的な処方と言えなくもない。絵と音楽へ熱中した後に4年間のヨーロッパ「漂泊」という履歴に注視するならば、ヘルマン・セリエントにとって市民社会、いや世界は、外部から見る対象なのだろう。彼は、祭りの仮装や人形劇の人形や道化芝居の道化役者のごとく派手に装い、しゃべり、笑い、歌い、踊りのさんざめく人群れを描く。が、そこに、内面の仮面が貼りつき、凍てついた彼らの表情の裏を幻視してしまうセリエントは、作品の単純化、デフォルメ、鮮烈な色彩というウィーン幻想レアリスムからの成果を以て、人間世界への風刺的批評を自ずから酷薄に描出してしまう」(《一角獣の変身》、一八三ページ)。

異邦(H・5)

初出は〈ヘルマン・セリエント展〉パンフレット(青木画廊、1977年5月31日)、〔三ページ〕、本文15級16行2段組、31行。【初出形→詩集収録形】で異同を示す。

    【(ナシ)→へルマン・】セリエントの絵によせて

聖堂の番人が箒をかついで帰ってくる
         人も消え
         にわとりも消え
わずかに藁塚のなかに存在する
火と【精→地】霊
〈死は働く者に近づく〉
行商人は旅を了えて居酒屋に入る
緑の壁の亀裂は深い
外の空のように
一人の老人の手のなかで
思考のぬけがら
の蛇
朱の酒杯をかたむけ
そのとなりの女は美しい
乳房と腕をしている
テーブルの下は暗い草むら
【鳥の→(トル)】仮面をかぶった
まま女は目くばせする
欲しいよ 水と蜜
【それ→女】はすでに鳥の貌そのもの
岩塩の一粒を咥え
〈食蓮人〉の邦へ飛び立つ
いまは遙かになった花咲く土地
血!
枯枝には魚の骨が引懸ってい【る→た】
月光のなかで
      中世の子守唄が聞える
  「鍛冶屋の前で
     托鉢僧が二人になった
         二人になった
   二つの頭から煙がのぼった」

へルマン・セリエント〈仮面を売る男〉〔出典:小沢正(文)・へルマン・セリエント(画)《フェイク》(パロル舎、2001年11月26日)、奥付の前のページに掲載〕● へルマン・セリエント〈異邦〉〔出典:《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》(書肆山田、1996年11月30日、〔二一ページ〕)〕
へルマン・セリエント〈仮面を売る男〉〔出典:小沢正(文)・へルマン・セリエント(画)《フェイク》(パロル舎、2001年11月26日)、奥付の前のページに掲載〕(左)と同〈異邦〉〔出典:《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》(書肆山田、1996年11月30日、〔二一ページ〕)〕(右)

吉岡の1986年1月10日の〈日記〉に「晴。午後遅く、銀座へ出、青木画廊で、ヘルマン・セリエント展を観る。三点ほどに赤丸が付いていた」(《土方巽頌》、筑摩書房、1987、二〇五ページ)とある。この展覧会は10日から23日まで開かれた〈仮面の行商人たち〉で、青木画廊でのセリエント展は初回が1968年、以降、1977年、1980年、そしてこの1986年に開かれている(吉岡歿後では、1991、95、97、2000、15年に開催)。日記の「赤丸」は売約済のことだから、吉岡がこのときセリエントの作品の売れ行きを気にかけていたことは間違いない。吉岡がセリエント作品の〈異邦〉をいつ入手したのか、詳しい経緯はわからない。だが奇妙なことに、吉岡が詩篇〈異邦〉を執筆するに際して参照したセリエント作品は、この〈異邦〉ではなく、《フェイク》の奥付の前のページに掲載されている〈仮面を売る男〉である。吉岡の歿後に刊行された本に載っていても証文にはならないが、この〈仮面を売る男〉、吉岡の詩篇〈異邦〉の初出媒体である前掲〈ヘルマン・セリエント展〉パンフレット(青木画廊、1977年5月31日)に掲げられたセリエント作品だったのである(パンフレット表紙の作品は〈カーニバル〉)。吉岡は、なんらかの事情で〈仮面を売る男〉を手に入れることができず、(代わりに、あるいは後年、〈異邦〉を入手したものの)手許に置くことのできなかった絵画を自分のことばに置き換えるという操作をして、詩篇を執筆したのだろうか。これをどう考えたらよいのか。吉岡が〈仮面を売る男〉と〈異邦〉にいつ接したのか。それは写真資料だったのか、原画だったのか。制作年さえはっきりしない〈異邦〉をいつ入手したのか(〈仮面を売る男〉はほんとうに入手できなかったのか。単に〈吉岡実の小さな部屋〉に載っていないだけではないのか)。そして、詩篇〈異邦〉は絵画〈異邦〉とどういう関係にあるのか。等等、究明したい点は数多いが、現時点では詳しいことがわからない。

絵画〈異邦〉が夕暮れの帰還だとすれば、〈仮面を売る男〉は早朝の出立といった感じで、私にはこれが吉岡の長篇詩〈波よ永遠に止れ〉(未刊詩篇・10)のタクラマカン砂漠への出立を想起させると指摘して、いまは前世のように懐かしいこれらヘルマン・セリエントの絵画群をめでることにしよう。


吉岡実と四谷シモン(2018年2月28日)

吉岡実が先輩知友に献じた詩は、二種に大別できる。すなわち献詩と追悼詩である(どちらの場合も対象となる人物の章句を題辞に引いたり、誰に献じたかを詞書に記したりして、それを明らかにしている)。吉岡の生前最後の詩集《ムーンドロップ》(1988)を例にとれば、四谷シモンに捧げた〈薄荷〉(K・6)が献詩、土方巽を追悼した〈聖あんま断腸詩篇〉(K・12)と澁澤龍彦の鎮魂のための〈銀鮫(キメラ・ファンタスマ)〉(K・17)が追悼詩である。《ムーンドロップ》の前の詩集《薬玉》(1983)には、西脇順三郎を追悼した〈哀歌〉(J・13)、同じく鷲巣繁男を追悼した〈落雁〉(J・17)はあるが、《夏の宴》(1979)に数多く見られた現存する人物へ献じた詩はない(註1)。すなわち〈薄荷〉は「後期吉岡実詩」で唯一の献詩であり、誰よりも四谷シモンその人に読まれることを前提にして書かれた作品と位置づけることができる。だが、いきなり〈薄荷〉(初出は《四谷シモン 人形愛》美術出版社、1985年6月10日)にいくまえに、〈官能的な造形作家たち〉(初出は1986年6月の《季刊リュミエール》4号)の1と2、すなわち吉岡が瀧口修造に依りつつハンス・ベルメールと四谷シモンについて書いた文章を見よう。

 1 ハンス・ベルメール

 瀧口修造には「ハンス・ベルメール断章」という、造形作家を讚えた、美しい断章がある。適宜引用させて貰う。――ベルメールの人形における球体はanagramme(語句の解体と組み替え)のためのメカニズムであり、一種の自在関節。/それはまた一箇の完全な真珠であり、/忍び寄る夕闇のなかのアナグラムによって、/一箇の完璧な疣であり、涙一滴の孤独な結石である。――。私もある一時期、ハンス・ベルメールに魅せられ、古本屋で着色写真集[、、、、、]を購ったものだ。ドイツ語の限定本である。読めないが充分たのしむことができた。そして「聖少女」と題する一篇の詩を書いた。その終章「その球体の少女の腹部と/関節に関係をつけ/ねじるねじる/茂るススキ・かるかや/天気がよくなるにしたがって/サソリ座が出る」
「断章」の一節を引用する。――人形作者としてベルメールは、孤独な原型人間のひとりとして出発することを宿命づけられていた。けれどなんと多くのそんな人たちが地上に彷徨していることだろう。不幸にも互いに知らず、視えぬ人形作者として……。――。やがて一人の青年が、澁澤龍彦の紹介文に依って、ハンス・ベルメールとその人形を知り、深い啓示を受ける。数多い潜在的なファンのなかから、視える[、、、]人形作者がうまれたのだ。

 2 四谷シモン

 私が初めて四谷シモンの名を知ったのは、雑誌「太陽」の人形特集の写真に依ってだった。その少女人形は、ベルメールの球体と関節をみごとに再現し、すべすべの股間には、聖痕さえ刻まれている。――何よりも少女はすでに「死」のからだじゅうを知りつくしていて、なんと優雅に振舞うことだろう。――。私はシモンの実物の人形を見たこともないが、親近感をおぼえた。
 土方巽の暗黒舞踏派の会か唐十郎の状況劇場・赤テントの下で、私は四谷シモンと出会ったように思う。その頃、彼は人形つくりを中止し、アングラ芝居の女形として活躍していた。新宿の花園神社の境内で催された、唐十郎作「由比正雪」に客演した四谷シモンの女形の凄艶な演技に、賛嘆したものだ。それから四、五年ほど役者稼業をして、また人形つくりに没頭しはじめる。その再生作品が「ドイツの少年」であった。まさしくベルメールの桎梏から脱した記念すべき人形体。金髪の等身大の裸形は、包茎を勃起させて、なんら恥入ることなく、爽かである。
 四谷シモンの第一回個展「未来と過去のイヴ」が、銀座の青木画廊で催された。等身大の女体十二体が陳列される。ガードルを付け、ハイヒールをはいた、金髪のアメリカ女のように見える。陰毛と秘所を婉然とさらしていた。――もっとも刺々しいもの、ハイヒールの踵も、尖った爪も、三角定規でさえも、みやびた(あれはどこから来たものか)腰のひとひねりのうちに抱きすくめられるだろう。――。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三五九〜三六一ページ)

ここで註すれば、《太陽》の人形特集は1970年2月号〈世界の人形〉の「人形と暮らす3 四谷シモン――犯された玩具」で、三体の人形(ベルメールの人形写真を参照して模造したもの、初の等身大の本格的なもの、マグリットへの愛をこめてつくったもの〔とともに立つ作者本人〕)が5ページに亘って紹介されている(写真撮影は石元泰博)。吉岡はそれより早く1968年6月、唐十郎率いる状況劇場の《由比正雪》で四谷シモンの女形を観ているから、役者として知ったのが先である。〈聖少女〉(F・10)の初出は《小説新潮》1969年11月号だから、吉岡はベルメールを介してシモンの人形と出会うべくして出会ったといえよう。では、吉岡とシモンはいつ出会ったのか。〈四谷シモン年譜〉に拠れば、1969(昭和44)年、25歳、「この頃、合田佐和子、瀧口修造、吉岡実〔……〕らを知る」(《SIMONDOLL》求龍堂、2014年5月31日、一五二〜一五三ページ)とある(なお後出《四谷シモン前編》の〈四谷シモン・プロフィール〉には、同様の主旨が前年の1968年の項に書かれている)。吉岡が随想に書いているように、互いに刺を通じたのがいつどこでだったのかははっきりしないが、シモンの〈日記・一九六九年夏〉に興味深い記載がある(吉岡実の日記に登場する四谷シモンに関しては、註2を参照)。

日記●一九六九年七月二十七日

 新宿紀伊国屋書店にて吉岡実の詩集を買う(320yen)。何んと詩を読む前に詩論と自伝を先に読んでしまった(毎度の事で私は本というものを必ず後書きから読むくせがある)。その自伝を読みつつ何回となくむねをつまらせた事であろう。地下鉄の渋谷で下りてかいだんを下りながら下の広場で私と吉岡氏が、だきあっている所が目にうつる。
 その夜、吉岡氏に電話をして今日のかんげきを話した。吉岡氏もよろこんでいる様子、私は毎日日記を書く事を薦められる。ついでに全詩集を分けてもらう事にした。何んとやさしい血の通った人間であろう。又一人人間を知りえた。私の吉岡氏に対する気持がかくじつになった。今日の日記が、これで終るという事だが、何んと大いなる始まりであろう。
〔……〕〔ちなみに、〈日記・一九六九年夏〉はこの日の記載から始まる。著者は吉岡の忠告を拳拳服膺したものと思しい。〕

 七月三十一日
 田園調布に家を見にゆく
 銀座で〔合田〕佐和子と吉岡氏に会う
 吉岡氏より全詩集を送られる
 夜 阿佐ヶ谷に行く
 唐〔十郎〕たち帰京(《機械仕掛の神》イザラ書房、1978年10月30日、二一〜二二ページ)

吉岡の〈2 四谷シモン〉で注目したいのは「その少女人形は、ベルメールの球体と関節をみごとに再現し、すべすべの股間には、聖痕さえ刻まれている」と「陰毛と秘所を婉然とさらしていた」という箇所である。シモンが〈長い長いお人形のお話〉で次のように書いているからだ。
「ぼくは初めから他の人形作家の作り方なんてものを聞いたり、読んだりなんてことは全然なかったわけなんです。自分勝手に色々やってきて、ベルメールにはっとしたということなんですが、ベルメールの性器のつけ方てのはすごいと思いましたね。ただ裂けているというんじゃなくて、パックリという感じで、形がとってもよかったですね。それとあと陰毛の部分ですね。人形に毛がついているというのはいいですね。ツルンとしている肌に毛が一本一本、いかにも生えているなっていうように、サワサワサワていう感じになっているのが一番いいですね。フワーとしているっていうのかな、そういう陰毛てのは人形にとっても似合うんですよ。ベターと陰毛がはりついているというのは全然だめですね。毛というのはむずかしいですよ。直毛じゃおかしいし、ある程度の長さがあって、綿みたいな感じになっていないとだめですからね」(《シモンのシモン》イザラ書房、1977年8月25日、六四〜六五ページ)。
ケネス・クラークいうところの“nude(裸体像)”に対する“naked(はだか)”の方を良しとするシモンの陰毛の好みと吉岡のそれが同じなのは興味深い。澁澤龍彦の〈天ぷら〉(初出は《朝日ジャーナル》1978年5月5日号。単行本では初出に一部、加筆あり)にこうある。

某氏が澁澤龍彦のエッセー《玩物草紙》(《朝日ジャーナル》連載)の切り抜きを手製本した冊子の表紙
某氏が澁澤龍彦のエッセー《玩物草紙》(《朝日ジャーナル》連載)の切り抜きを手製本した冊子の表紙

「吉岡さんは私の家へくるなり、/「今日はポルノを見せてもらいにきたんだ。きみのところには、たくさんあるだろうと思ってね」と言い出しました。/それも〔鎌倉の天ぷら屋に行くのと同様〕前からの約束だったので、私は書庫から、古いのや新しいのや、芸術的なのや通俗的なのや、アメリカのやフランスのや、写真のや絵のや、いろいろ取り揃えてきてテーブルの上に積み重ねました。/〔……〕/吉岡さんは懐中から取り出した眼鏡をかけて、アメリカやフランスの雑誌をぱらぱらめくりながら、ひとりごとのように、/「あんまり毛深いのや、割れ目がはっきり見えるようなのは好きじゃない。何というか、ふわふわと生えてるのが好きなんだな」と言いました」(《玩物草紙》朝日新聞社、1979年2月25日、一二四〜一二五ページ)。
吉岡がシモンの人形を所蔵した形跡はないが、澁澤はシモン人形を愛蔵していた。澁澤邸の書斎は、公開された写真からもわかるように、かなり広い。ちなみに、吉岡夫妻は都心のマンション住まいだったためか、蒐集した立体物は奠雁や石仏など、わりあい小振りな骨董が多い。

《太陽》1991年4月号〈特集・澁澤龍彦の世界――Encyclopedia Draconia〉掲載の〈シブサワ・コレクション 四谷シモンの少女人形〉(写真・細江英公)と四谷シモン〈人形〉の見開きページ 展覧会〈SIMONDOLL 四谷シモン〉(そごう美術館、2014年5月31日〜7月6日)会場に飾られた澁澤龍彦の肖像写真や「編み上げの黒い靴」の入ったガラスケース
《太陽》1991年4月号〈特集・澁澤龍彦の世界――Encyclopedia Draconia〉掲載の〈シブサワ・コレクション 四谷シモンの少女人形〉(写真・細江英公)と四谷シモン〈人形〉の見開きページ(左)と展覧会〈SIMONDOLL 四谷シモン〉(そごう美術館、2014年5月31日〜7月6日)会場に飾られた澁澤龍彦の肖像写真や「編み上げの黒い靴」の入ったガラスケース(右)

〈薄荷〉について、かつて私は〈「紅血の少女」――吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(15)――〈聖少女〉〉に書いたことがある(註3)。本稿では、吉岡実が四谷シモンの章句をどのように拉し来ったか示すべく、調べがついたかぎりの詩句の典拠を掲げる。すなわち、同詩の初出形(行末の数字は論者の付したライナー)を引いて吉岡の詩句にリンクを張り、リンク先にシモンの原典を並べた。出典は主として四谷シモンの著書、《シモンのシモン》(イザラ書房、1975年1月31日〔第二刷:1977年8月25日〕)と《機械仕掛の神》(イザラ書房、1978年10月30日)である。なお、初出→定稿の異同の詳細は〈吉岡実詩集《ムーンドロップ》本文校異〉を見られたい。

薄荷(K・6)〔初出形〕

     (人形は爆発する)四谷シモン 00

1

夏が過ぎ 01
    秋が過ぎ 02
        「造花の桜に 03
雪が降り 04
    灯影がボーとにじんでいる」 05
                 池の端の(大禍時[おおまがとき]) 06
振袖乙女の幾重もの裾の闇から 07
              わたしは生まれた 08
(半月[はにわり])の美しい子孫か 09
           「神は急に出てくるんだよ」 10
(非・器官的な生命)を超え 11
             (這子[はうこ]) ひとがた 12
人形は人に抱かれる 13
         (衣更忌[きさらぎ])の夜を 14

2

母親の印象は 15
      裸電球の下で 16
            白塗りの女戦士のようだ 17
赤い乳房が造り物に見える 18
            「カミソリでサーとなでると 19
中からまた肌色の乳房が 20
           殻をやぶって生まれてくる」 21
それに噛みつくから 22
         わたしは消化不良の子供 23
(唐子[からこ])の三つ折れ人形を 24
            背負って 25
                鈴虫の音色に聴きほれる 26
父親は冷酒をあおっては 27
           (毒婦高橋お伝)をたたえ 28
ヴァイオリンを彈く 29
         キー・キー・ギー 30
         「天国がどんどん遠くなる」 31

3

窓まで届かない月の光 32
          ニーナ・シモンの唄が好き 33
          縫いぐるみの(稲羽[いなば]の素兎[しろうさぎ])が好き 34
「固い真鍮のベッドで 35
          わたしは紗のような 36
          薄い布を身にまとって寝る」 37
花のように 38
     「ゆるやかな酸素に囲まれる」 39
     少女の輝く腹部を回転させよ 40
                  アー・アー・アァー 41
(官能的な生命) 42
        「人形にだって 43
               衣食住が必要である」 44
揚げ物を食べた後は淋しい 45
     この部屋の外は 46
            「巨大な蓮池の静寂を思わせる」 47

4

「編み上げの黒い靴 48
         それには犯しがたい 49
         (聖的)な影が存在する」 50
(土星)が近づく 51
        何のおしらせもなく…… 52


●00行め (人形は爆発する)四谷シモン
私はその人と芸術とか人形やらの話をしていて、酒の勢いも手伝ってその時「人形が爆発する」といったような自分でも考えたこともない奇妙なイメージを発見した。――〈僕の君の名は日記〉《シモンのシモン》四一ページ

●01-02行め 夏が過ぎ/秋が過ぎ
私の背中に二つの腫れ物がある日でき、最初は何か痒いのでそこに手をまわしてそこに触わるが、そのうちに痛みが出始め、七転八倒の苦しさを味わい、腫れ物は膿を孕んだ瘤のようになってしまい、私は何日も、いや何か月も俯せで暮らさなくてはならなくなり、高熱が来る日も来る日も続き、食べ物は喉を通らず、冷たい水のみの生活が続き、冬が過ぎ春が過ぎ、そろそろ初夏にさしかかる頃、膿が背中をとめどなく垂れ始め、腫れ物の中の生き物が蠢く。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》九〇ページ

●03-05行め 「造花の桜に/雪が降り/灯影がボーとにじんでいる」
雪の三月で夜。柳が揺れていて造花の桜に雪が降っていて、灯影がボーとにじんでる。――〈みにくい女の考察〉《シモンのシモン》一四二ページ

●07行め 振袖乙女の幾重もの裾の闇から
 私が居た一座は、赤いテントを地べたに立てて路上で芝居するのが常でしたから、舞台には石が転がり、雨の日はぬかるみ、真夏のアスファルトの時もあり、そこへ私は振袖姿で出て行くのです。外が暗くならないと芝居をやれませんでしたので、ビルのあちこちにネオンが灯もる頃の開演でした。――〈上るということ〉《機械仕掛の神》三三ページ

●10行め 「神は急に出てくるんだよ」
神は急に出て来るのだ。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》八二ページ

●16行め 裸電球の下で
 高い天井からは、薄暗い電球が、ぶら下がっているだけで、壁は固いコンクリート、床には剥き出しの便器がひとつ置いてあります。――〈主人のお仕置き〉《機械仕掛の神》四一ページ

●17行め 白塗りの女戦士のようだ
ぼくは戦う女、女戦士が好きです。――〈みにくい女の考察〉《シモンのシモン》一四九ページ
処刑される私は白塗りの女戦士だったし、どよめく人々は、目の前に所狭しと坐っていた客だったのだから。――〈人形は美しく死につづける〉《機械仕掛の神》九ページ

●18-21行め 赤い乳房が造り物に見える/「カミソリでサーとなでると/中からまた肌色の乳房が/殻をやぶって生まれてくる」
このバラの戦士はどこかあの少年に似て、それは赤い乳房が作り物に見えるからである。赤いカミソリでサーとなでると中からまた、肌色の乳房が殼を破ったように生まれてくる。――〈青いパリジェンヌ・・・フェリックス・ラビッス〉《シモンのシモン》七四ページ

●24行め (唐子[からこ])の三つ折れ人形を
日本の人形で好きなのは江戸時代の役者童子てのがありますね。三つ折れ人形になっていて、自在人形なんていわれている人形なんです。――〈長い長いお人形のお話〉《シモンのシモン》七一ページ

●26行め 鈴虫の音色に聴きほれる
その音はあまりにも大きすぎて、私の耳には聞こえない。しかし虫はその音を聞いているのかもしれない。鈴虫の音色は神の音。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》八〇ページ

●27行め、29行め 父親は冷酒をあおっては、ヴァイオリンを彈く
彼女〔僕の母親〕の夫、つまり僕の父親は大酒飲みのヴァイオリンひき、彼女は僕が小学校四年生のとき、家をとび出した。――〈人形とぼくとの共同生活〉《シモンのシモン》五〇ページ

●28行め (毒婦高橋お伝)をたたえ
彼女〔母〕が好むのは強い女、バンプ型の女。その極致として「毒婦」高橋お伝には尊敬に近い興味を示してきました。――〈人形とぼくとの共同生活〉《シモンのシモン》五一ページ

●30行め キー・キー・ギー
東野 〔君のお父さんは〕いつ頃いなくなっちゃったの。
シモン 10歳のころだからね、いつもヴァイオリンをキーキーやってたね。それだけ憶えてる。しんどかったね。楽師さんよ、タンゴをやってたね。〔……〕/こんなこと、はじめて話したな。つい話しちゃったという感じ。――東野芳明〈〔アート'74談義―1〕四谷シモン=人形師が後ろめたいとき〉《みづゑ》第827号(1974年2月)五二ページ

●31行め 「天国がどんどん遠くなる」
天国とはそんな所なのだろうか。そんなにいい所なのか。しかし私は必ず帰って来たい。たとえあの世にそんないい所があっても、私は帰りたい。何としてでも帰って来たい。天国などあるはずがない。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》七九ページ

●33行め ニーナ・シモンの唄が好き
私にとっての青春はまた新宿のキーヨの時代で、よくニーナ・シモンのレコードが懸っていた。私は彼女の哀愁のある歌い方が大好きで悪さをして金を稼いじゃレコード集めにやっきになっていた。――〈僕の君の名は日記〉《シモンのシモン》四一ページ

●34行め 縫いぐるみの(稲羽[いなば]の素兎[しろうさぎ])が好き
 それからずーっと人形ばかり創り出して、まあーその頃は縫いぐるみ人形が主なものだったんですが、自分でミシンを踏んで、綿を入れ、顔の目鼻だちをととのえて、一日中そんなことばかりして全然あきなかったんですね。――〈長い長いお人形のお話〉《シモンのシモン》五八〜五九ページ

●35-37行め 「固い真鍮のベッドで/わたしは紗のような/薄い布を身にまとって寝る」
固い真鍮のベッドで、アールのついた鉱物のベッドで、私は紗のような薄い布を身に纏って静かに寝たい。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》九二ページ

●39行め 「ゆるやかな酸素に囲まれる」
私は、ゆるやかな酸素に身体を囲まれている。――〈聖なる方へ〉《機械仕掛の神》七九ページ

●40行め 少女の輝く腹部を回転させよ
 天才であるが故に傷ましい人形のみ生涯の己子として末法の世に棲息し早くも二十年、いとおしい手作りの己子の肌、その滑らか透明な彼方、枯れた海辺の乾いた毛髪、抜け落ちる少女の金髪、琺瑯[エナメル]質の歯をほんの少し見せ恥らいながらも瘤起した桃色の陰部とインジゴブルーを上目使いに見せつける少女、手作りの美少女、そのせつない腹、やさしく盛り上り止まることをしらぬ苦しげな少女の腹部、転回する灰まみれの目、さすらいの死後をパノラマ化する自在人形のロマン力学、輪郭を神に曝らしころがる水気のない胴、体を切断する万力によるワイセツな殺戮、棒状の夕日射し込む美青年の部屋、点在するふくらはぎ、そっと唇押し当てる球体のひかがみ、体内からの苦痛を道連れにするゆるやかな骨折への旅。――〈思考の麻痺の導入部〉《シモンのシモン》一〇八〜一〇九ページ

●43-44行め 「人形にだって/衣食住が必要である」
やはり人形は衣食住があるんです。――〈人形とぼくとの共同生活〉《シモンのシモン》四九ページ

●45行め 揚げ物を食べた後は淋しい
〓[=「マ」に濁点]タム[オクサマ] バター[アブラ] フライ[アゲモノ]――〈ねつれつポエムとオムレツぽえじい〉《シモンのシモン》八ページ

●46行め この部屋の外は
私はと言えば
その部屋の外にいて
カーテンのかけられた窓をじっと守っているのです。――〈水の寸法〉《機械仕掛の神》八八〜八九ページ

●47行め 「巨大な蓮池の静寂を思わせる」
蓮の花が咲いていて、そこで休息がとれるのだろうか。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》七九ページ
 私はどこまで届くのだろうか。私は虫のように小さい。永遠は敵だ。私には敵がある。私は永遠が好きだ。永遠とは距離か。形ある距離か。神には距離があるのか。私にはわからない。上も下もない世界、無音の世界、静かな世界が。しかしこの世は静かではないかもしれない。もしかすると物凄い音がしているのではないだろうか。物凄い音が。神の音が。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》八〇ページ
 あの頃、昭和二十五年頃は、まだ昔がのこっていた。東京も、もっともっといい所だった。道幅は狭く、瓦屋根の店がまだのこっていたし、小さな小売店がギッシリと軒をつらねていた。あの頃の不忍池が懐かしい。/初夏の柳の緑がなんときれいで、蓮の花のなんと大きかった事か。/八重垣町から七軒町を通って広小路の映画館に、親の金をくすねちゃ通[かよ]っていたあの、夏の不忍池。――〈曇り日〉《機械仕掛の神》六八ページ

●48-50行め 「編み上げの黒い靴/それには犯しがたい/(聖的)な影が存在する」
さらさらとした金髪、それにガラスの青い眼、それに人形が身体につけるもので一番大事なのが編み上げの黒い靴です。何かそこに犯し難い聖的なものがあるみたいですね。――〈長い長いお人形のお話〉《シモンのシモン》六九ページ

●51-52行め (土星)が近づく/何のおしらせもなく……
〔……〕地球のすぐそこにあのわっかのあるでっかい土星が何のおしらせもなく近づき空いっぱいに見えたとしたら〔……〕――〈海峡〉《シモンのシモン》六ページ

06-08行めには典拠が見あたらない。前掲〈四谷シモン年譜〉に東京・五反田の生まれ(同書、一五二ページ参照)とあるから、四谷シモン=「わたくし」(定稿では「わたし」を「わたくし」と改めた)を「池之端の(大禍時[おおまがとき])/振袖乙女の幾重もの裾の闇から/わたくしは生まれた」としたのは、吉岡の詩的虚構だろう(ただし《シモンのシモン》の〈僕の君の名は日記〉に「お互い東京育ちの二人は(唐[十郎]は上野で私は池の端七軒町で生まれた)よく子供の頃の情話[はなし]をしては、〔……〕」(同書、四四ページ)とあるから、吉岡はそれに拠ったのかもしれない)。「五反田という土地は、今まで縁のないところだった。ところが会社が倒産したために失職し、昨年〔1979年〕、私はしばらくの間だが月一回、五反田公共職業安定所へ通うはめになった。失業保険金を貰うためだった。その帰りみち、池田山の小公園で桜の花を見たこともあった」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二八四〜二八五ページ)とあるように、吉岡は五反田には馴染みがなかった。また1979年暮れ、五反田(おそらくは南部古書会館)の古書展に出品されていた自身の著書《昏睡季節》(1939)をひと目見たいと思って、同所へ行っている。そうした不案内な土地を献詩の対象たる人物の誕生の地とすることを躊躇したあげくの措置だろう。一方、吉岡の随想〈湯島切通坂〉――初出は《美しい日本 22 文学の背景》(世界文化社、1982年〔月日記載なし〕)の〈〈北海道・東北・関東・中部〉漂泊のたましい〉中の一篇――は「私は上野広小路まで歩き、池之端の蓮玉庵へ寄った。森鴎外の『雁』のなかに、しばしば出てくる蕎麦屋である。江戸末期頃からの店であるらしい。すぐ近くに、蓮の多い不忍池がある」という文章で閉じられている。吉岡にとって、南山堂に奉公していた十代後半、毎日のように往き来していた湯島〜池之端〜上野広小路あたりなら、掌を指すようなものだ。これが06-08行めに池之端が登場する背景だと思われる。

11行めの「(非・器官的な生命)」はドゥルーズ=ガタリの「器官なき身体」を思わせる。四谷シモンの著作に登場してもおかしくないが、「非・器官的な生命」にしろ「器官なき身体」にしろ、シモンの人形に対する他者の評が典拠かもしれない。

12行めの「(這子[はうこ]) ひとがた」の這子は「子供のお守りの一。布を縫い合わせ、中に綿を入れ赤ん坊のはう姿にかたどったもの。あまがつ。はいはい人形。はうこ」だという。ひとがたは人形・人像で、「人の形。人の形に似せて作ったもの」。這子が「はいはいする赤ん坊」でもある点、ひとがたが人でもあり人形でもあることは興味深い。09行めの「(半月[はにわり])」が「半陰陽。ふたなり」だったように、「わたくし」は両者の境界上に存在する者である。

14行めの陰暦二月「きさらぎ」は、漢字ではふつう「如月」「更衣」「衣更着」と書く。「衣更忌」というのは吉岡の造語の可能性がある。ちなみに二月の季語から忌日を拾えば、鳴雪忌(内藤鳴雪)、義仲忌、実朝忌などがあるが、吉岡がこれらをほのめかしているとは思えない。

45行めの「揚げ物を食べた後は淋しい」からは、まったくもって奇妙な連想だと笑われそうだが、06-08行めでも触れた池之端の蕎麦屋・蓮玉庵のかき揚げそばが想起される。同店は1860年(安政6年)の創業。明治の文豪や斎藤茂吉・久保田万太郎・池波正太郎たちが愛した店だが、かつては知らず、味と値段に関しては言わぬが花というものだろう。

ときに「3」の後半からは、初稿にだいぶ手が入っているので、以下に定稿を掲げる。なお下線部は定稿で追加された字句であることを表す。

薄荷の花のように
        「ゆるやかな酸素に囲まれる」
        少女の輝く腹部を回転させよ
                     アー・アー・アァー
(官能的な生命)
        「人形にだって
               衣食住が必要である」

4

揚げ物を食べた後は淋しい
     この部屋の外は
            「巨大な蓮池の静寂を思わせる」
水音 羽音
     何のおしらせもなく
               (土星)が近づく

詩節[ストロフ]の切り方が変わったのもさることながら、初稿の

「編み上げの黒い靴 48
         それには犯しがたい 49
         (聖的)な影が存在する」 50

が抹消されたことが最大の相違である。この3行が削除された理由について考えてみたい。私はシモン人形をすべて見たわけではないが、少女の人形が履いている靴はスナップボタン留めの女の子用のフォーマルシューズで、「編み上げの黒い靴」を着用しているのは少年の人形だということは指摘できる。ところで、吉岡実の詩篇を掲載した初出の印刷物で最も高価だったのは、《ムーンドロップ》の〈銀幕〉(K・9)の発表媒体である梅木英治のオリジナル銅版画集《日々の惑星》(ギャラリープチフォルム、1986年12月3日)である。私はこれを購入した縁で、当時まだ健在だった梅木さんの新作展を渋谷のアートスペース美雷樹で観た。幸運にもそこで、来賓の四谷シモンから〈薄荷〉初出対向ページ掲載の銅版画(大きな帽子を被って、フリルの付いたドレスを纏い、短めのハイソックスにスナップボタン留めのフォーマルシューズを履いている少女、それとも少女の人形?)はたまたま詩と見開きになったのにすぎず、吉岡が絵を観て詩を書いたわけではない旨、訊くことができた。吉岡は初出の対向ページのこの作品を観て、「輝く腹部を」した「少女」に「編み上げの黒い靴」はふさわしくない、と一瞬にして悟ったのではあるまいか。それが「金髪の等身大の裸形は、包茎を勃起させて、なんら恥入ることなく、爽かである」ところの「ドイツの少年」(〈2 四谷シモン〉)についた書いた詩篇であればなんの問題もなかったはずだ。この3行を削除することで「4」は末尾の2行になってしまう。それを避けて、かつ「3」とのバランスをとるために詩節[ストロフ]の切り方を変え、「水音 羽音」を付け加えたのが定稿作成時の吉岡の手入れだった。「花のように」を「薄荷の花のように」としたのは、標題が〈薄荷〉とある以上、不思議でもなんでもないようなものの、なぜ「薄荷」なのかはいまひとつピンとこない。四谷シモンの2冊の著書に薄荷は登場しない(そこで最も目を引くのは柳である)。それはよいとしても、詩篇の内部から薄荷にたどりつけないのがなんとももどかしい。「人形が爆発する」から、発火/ハッカ/薄荷だとも思えない。標題をめぐる考察は今後の課題としたい。

吉岡実は随想〈本郷龍岡町界隈〉(初出は《旅》1978年12月号の〈私だけの東京 MY TOKYO STORY〉)を「秋のある日の午後、私は地下鉄の湯島で降り、切通坂をのぼった。シンスケという飲屋が今も同じ処にあって、なつかしい」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三八ページ)と始めている。シモンの文章を集成した《四谷シモン前編》に初めて収められた〈夏の湯島で〉(初出は《週刊朝日》1990年8月17日号〈気の合う仲間と味な店133――シンスケ〉)には次のようにある。

 湯島のシンスケにはまだ数えるほどしかきていない僕だけど、最初に入った時の雰囲気がどんぴしゃだったのが運のつき。店の作りがさっぱりしていて涼しげなのだ。今の世の中で本当に東京の粋を探すのは容易じゃない。臭くなく五月蠅[うるさ]くなく、目障りじゃない、そういうものって本当になくなっている。
 それで最初は京都の帰りに香純[かすみ](江波杏子)を絶対に連れて行きたくて、着いたその足で訪ねた。その夜は友だちと好きな店にいけたのが嬉しくて大分出来上がってしまった。後日香純に電話を入れたら、当たり前がきちんとしていて、今の世の中にはないものがあるといっていた。それで今度はどうしても松山(俊太郎)さんとも一緒に飲みたくて先日鎌倉の帰りに寄った。
 松山さんはインド哲学をやっていて、蓮の研究が一生の仕事のようで僕にはとてつもなく難しい人だけど、会うといつも自分は犬だといっているやさしい変人だ。それで松山さんにも聞いてみたら江戸と秋田の律儀さが同居している店といっていた。僕はシンスケに一目惚れしちゃったんだから一生懸命通わなくっちゃ。(《四谷シモン前編――Yotsuya Simon 創作・随想・発言集成》学習研究社、2006年12月20日、二五〇〜二五一ページ)

著者の意向が奈辺にあるかは措いて、私はこれを1990年5月末に歿した吉岡実を追悼する文章だと読んだ。

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註1 《夏の宴》収録詩篇の詞書や註記を摘して、標題のすぐ後にある文言には――を、詩篇本文の後にある註記には==を付けて掲げた。これらの詩篇中、題辞に登場する人物のうち、詩篇発表当時の物故者は宮川淳と瀧口修造のふたりである。

異邦(H・5)――へルマン・セリエントの絵によせて
水鏡(H・6)――〈肉体の孕む夢はじつに多様をきわめている〉 金井美恵子
曙(H・8)==* 引用句は主に、エズラ・パウンド(新倉俊一訳)、飯島耕一の章句を借用した。
草の迷宮(H・9)――〈目は時と共に静止する〉 池田満寿夫
螺旋形(H・10)==*ベケット(高橋康也訳)、土方巽などの章句を引用した。
形は不安の鋭角を持ち……(H・11)――〈複眼の所有者は憂愁と虚無に心を蝕ばまれる〉 飯田善國
雷雨の姿を見よ(H・14)――「ぼくはウニとかナマコとかヒトデといった/動物をとらえたいのだ/現実はそれら棘皮動物に似ている」/飯島耕一
織物の三つの端布(H・16)――「イマージュはたえず事物へ/しかしまた同時に/意味へ向おうとする」/宮川淳
使者(H・18)――笠井叡のための素描の詩
夏の宴(H・20)――西脇順三郎先生に
夢のアステリスク(H・22)――金子國義の絵によせて
裸子植物(H・25)――大野一雄の舞踏〈ラ・アルへンチーナ頌〉に寄せて
「青と発音する」(H・27)――「青ずんだ鏡のなかに飛びこむのは今だ」  瀧口修造
円筒の内側(H・28)――「言語というものは固体/粒であると同じに波動である」 大岡 信==(一九七九・一○・九)

註2 吉岡実の《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987)には「四谷シモン」が14回登場する。I以外は要約して掲げる。

@1968年6月22日、唐十郎率いる状況劇場の《由比正雪》(花園神社)を妻と観る。「四谷シモンの女形の妖しい美しさよ」。(〈7 唐十郎一家と赤テント〉、一七ページ)

A1968年7月3日、芦川羊子の処女公演《常に遠のいてゆく風景》(草月会館)を妻と観る。客の四谷シモンの顔を見る。(〈9 アスベスト館の妖精〉、一九ページ)

B1969年11月15日、大野慶人舞踏リサイタル《花と鳥》(厚生年金小ホール)を観たあと、阿佐ヶ谷の唐十郎の家へ行く。四谷シモンたちを交え、酒盛りが始まっていた。(〈22 「花と鳥」の夕べの後で〉、三八ページ)

C1970年6月13日夜、あやめの花を一抱えも持って、四谷シモンが来宅。人形や友人たちのことを喋る。(〈23 あやめの花〉、三九ページ)

D1970年8月28日、西武百貨店・ファウンテンホールでコレクション展示即売〈土方巽燔犧大踏鑑〉(ガルメラ商会主催)を妻と観る。二次会で四谷シモンたちと酒盛り。(〈24 「燔犠大踏鑑」〉、四一ページ)

E1970年9月30日、金井美恵子の夕べ(ノアノア)へ行く。「四谷シモンの泣かせる唄」。(25 黒塗りの下駄〉、四三ページ)

F1974年2月24日、状況劇場の稽古場開きに行く。宴たけなわ、四谷シモンたちが現れる。(〈43 雪の夜の宴〉、七六ページ)

G1974年11月28日、シアターアスベスト館落成記念の白桃房舞踏公演《サイレン鮭》を妻と観る。終了後、二階で四谷シモンたちと酒宴。(〈46 「サイレン鮭」〉、七八〜七九ページ)

H1978年7月9日、松山俊太郎夫妻、土方巽夫妻と大佛次郎記念館へ向かう。大野慶人夫妻の尽力で澁澤龍彦夫妻、種村季弘夫妻、唐十郎・李礼仙夫妻、四谷シモンと旧懐の一夕。茶房霧笛で「コーヒーをのみながら、四谷シモンの唄に聴きほれ、しばし別れを借しむ」。(〈58 港【が→の】見える丘公園で〉、一一二〜一一三ページ)

I〈日記〉 一九八二年二月二十二日
 夕方、銀座の青木画廊へ行く。四谷シモン人形展〔〈ラムール・ラムール〉〕を観る。金髪少女の裸形の三体には、精神性すら感じられた。近くの喫茶店に席がしつらえられ、高橋睦郎、渡辺兼人、金井久美子たちとおしゃべり。遅れて澁澤龍彦夫妻と金子国義が現われたので、小さな宴も華やぐ。(〈67 シモン人形〉、一三九〜一四〇ページ)

J1985年2月19日、四谷シモンのために書いた詩篇〈薄荷〉を推敲する。(〈92 「昼の月」〉、一七九〜一八〇ページ)

K1985年12月10日、転居が決まった経堂の高橋睦郎宅を妻と訪問。相客は澁澤龍彦夫妻(「澁澤龍彦とは、シモン『人形愛』出版記念会以来だ」)、四谷シモン。(〈103 十二月は残酷な月〉、一九七〜一九八ページ)

L1986年1月18日、妻と東京女子医大付属病院に土方巽を見舞う。土方の「右手を握って別れを告げる。喫煙所の椅子では四谷シモンと古沢俊美が待っている」。(〈104 暗い新春〉、二〇八〜二〇九ページ)

M1986年1月21日、土方巽容態悪化の報で入院先に駆けつける。「三階の待合兼喫煙所のあたりには、大野一雄・慶人、李礼仙、中西夏之、四谷シモンはじめ大勢の人がつめかけていた」。同夜、肝硬変肝臓癌併発で土方巽死去、五十七歳。(〈104 暗い新春〉、二一〇〜二一二ページ)

註3 私はその〈聖少女〉評釈の「V 〈薄荷〉」で、吉岡実詩における「人形」の変遷を概観し、〈あまがつ頌――北方舞踏派《塩首》の印象詩篇〉(G・30)の次の詩句を引いた。

・精神的な女は人形をつくる/「木毛 ハリコ 桐粉 鉛などで/形づくりをして/蝋絹 ときにはメリヤスを張る」/現在もっとも必要とする/うつろな頭をすげかえ 手足をとりかえ/血肉の壊滅は行われた

そして「鍵括弧内は製作にふれた人形作者(四谷シモン?)の文からの引用であろうか(少なくともベルメールの文章ではなさそうだ)」と書いたが、これに相当する章句は今回、四谷シモンの主要著書を再読したかぎり見あたらなかった。やはりこの引用句は天児・天倪[あまがつ]の制作方法であって、シモンドールのそれではないのだろう。四谷シモンは「私の制作方法」を次のように語っている(初出:《現代の眼――東京国立近代美術館ニュース》538号、2003年2月)。

  私の制作方法は、まず粘土で原型をつくり、石膏で型を取ったものに和紙を何層にも張り込んで乾燥させる。それを前後で割って繋ぎ合わせたものに作業をしていきます。指の爪や顔の表情など細かい仕事には桐塑[とうそ]、眼はガラスで、木のボールをそれぞれの関節につけます。身体全体にも桐塑を施し、きれいに磨きをかけた後は胡粉[ごふん]を用います。上塗り胡粉で肌色を表わしましたら細部の彩色、まずは眉、それから頬に化粧品の頬紅を刷り込み、睫毛を一本一本埋め込む。頬紅を刷り込むと、血の気がパッと走って、ああ、と思います。(〈私の人形史〉、《四谷シモン前編――Yotsuya Simon創作・随想・発言集成》学習研究社、2006年12月20日、二六四〜二六五ページ)


宇野亜喜良と寺田澄史の詩画集あるいは《薬玉》をめぐる一考察(2018年1月31日)

塚本邦雄は《吉岡実詩集》(思潮社、1967)をめぐって「豪華本、杉浦康平デザインは目次までが秀抜、あとは意匠枯淡にすぎてさびしい。もつとも宇野亜喜良の陰惨なカットなどつけたら相殺されて却つて無意味にもなるだらうが」(《麒麟騎手――寺山修司論・書簡集》、新書館、1974年7月10日、二四一ページ)と書いた。吉岡実の詩(塚本は終生、〈僧侶〉を高く買っていた)と同類のものとして宇野亜喜良のカットを見ていたわけだが、その発想をうながしたものはなんだったのか、かねてから気になっていた。1967年当時、宇野と吉岡との間に連繋があったようには見えないからだ。最近、宇野亜喜良のイラストレーションを伴った寺田澄史の〈新・浦嶼子伝〉を知るに及んで、これが塚本の発想の源だったのではないか、と想い到った。まず最初に、〈新・浦嶼子伝〉に触れた宇野亜喜良の文章を引こう(「左亭」はサウスポーである宇野の俳号)。

泣く男記憶の砂のくずれゆく 左亭

 俳句という日本の定型詩に感動したのは、三十代の終わりでした。
 寺田澄史さんという俳人と、『浦島太郎』という絵本を作ったときです。正確にいうと、田中一光・横尾忠則・永井一正・灘本唯人といった人たちと作った『日本民話グラフィック』という絵本の一つのパートでした。
 寺田さんの句は、固有の情景を重ねて、最後には大叙事詩的な『新・浦嶼[うらしま]子伝』になっていました。
 たとえば、「革舟に孤[ひと]り兒[こ]を曳[ひ]く耳のくらしま」という句。革舟はあまり日本的ではありません、北のほうの、それも古代的なイメージです。その舟が、耳の穴のような、バロック的な形態の洞窟を抜けていく句から始まって、「反魂の水オルガンよ朦朧と面輪から熄[き]え」という句で終焉を迎えます。当然のことですが、言語が文学的で、暗喩はオブジェ的でもある気がしました。
 そのあと寺山修司の句を読んだりすると、どうも俳句は一応の定型はあるけれど、結構自由なものらしいという気分になってきました。
 このコラムで俳句らしきものをリードコピーのように使っているのは、絵と文章と句のようなものと、三つがそれぞれ、たとえば別のことをいっていても、読者の方の頭の中でそれぞれの感覚で融合されて、それぞれ違った読み方が生まれたら楽しいと思っているからです。
 句は、浦島太郎の末路です。(《奥の横道――Aquirax Labyrinth 2007-2008》、幻戯書房、2009年5月8日、五八ページ。寺田句の引用は《日本民話グラフィック》に照らして校訂した)

文中の『日本民話グラフィック』は、灘本唯人・永井一正・宇野亜喜良・田中一光・横尾忠則の絵にそれぞれ滝来敏行・梶祐輔・寺田澄史・坂上弘・高橋睦郎の文を組みあわせた一種の詩画集(のオムニバス版)である(《日本民話グラフィック》、美術出版社、1964年12月30日〔装丁・扉構成:灘本唯人〕)。宇野=寺田の〈新・浦嶼子伝〉の典拠は浦島太郎。同様に、灘本=滝来の〈おどろおどろしき一寸法師を嫌悪する人に捧ぐ〉は一寸法師、永井=梶の〈ある神と文明の記録〉は桃太郎、田中=坂上の〈ドロボウと警官〉は花咲爺、横尾=高橋の〈堅々山夫婦庭訓〉はかちかち山を典拠に仰ぎ、制作している。また同書の巻末には、瀧口修造と亀倉雄策が文章を寄せていて、イラストレーターたちの船出を祝福する恰好になっている。この寺田澄史の俳句と宇野亜喜良の絵のパートを単行本にしたのが、限定400部の《新・浦嶼子伝》(トムズボックス、2002)のようだ(未見)。《日本民話グラフィック》の仕様は、二五〇×二六六ミリメートル・一三二ページ(本文横組み、丁付けなし)・上製角背継表紙(背・クロス、平・紙)。インターネットで画像検索すると、段ボールに貼題簽の輸送用函が付いていたらしいが、所蔵の古書はこれを欠く。本文用紙は色刷りの発色を良くするためだろう、微塗工紙と思しく、シミなどの経年変化が目立つのは函なしのためか。4色(フルカラー)のイラストレーションが多いなかにあって、宇野=寺田の〈新・浦嶼子伝〉の24ページは、絵(線画)がスミ、文(俳句)が茶系の刷色(宇野によれば「ローアンバー」)という禁欲的な版面になっており、同書のなかで異彩を放っている。

宇野亜喜良(絵)・寺田澄史(文)〈〈新・浦嶼子伝〉浦島太郎〉の「革舟に 孤り兒を曳く/耳の くらしま」掲載の見開きページ 宇野亜喜良(絵)・寺田澄史(文)〈〈新・浦嶼子伝〉浦島太郎〉の「反魂の 水オルガンよ/朦朧と 面輪から熄[き]え」掲載の見開きページ
宇野亜喜良(絵)・寺田澄史(文)〈〈新・浦嶼子伝〉浦島太郎〉の「革舟に 孤り兒を曳く/耳の くらしま」掲載の見開きページ(左)と同「反魂の 水オルガンよ/朦朧と 面輪から熄[き]え」掲載の見開きページ(右)〔出典はどちらも《日本民話グラフィック》(美術出版社、1964年12月30日)〕

吉岡実は1960年代の後半、高柳重信が率いた《俳句評論》周辺の俳人たち(寺田澄史もその有力な一人である)の作風に親近感を抱いていたようだ。

>寺田澄史作品集《副葬船》(俳句評論社、1964年3月7日)の夫婦函〔限定150部のうち特製本10部の「第参番」〕 >寺田澄史作品集《がれうた航海記――The Verses of the St. Scarabeus》(俳句評論社、1969年5月15日)のジャケット〔装丁・板画:坂井廣〕
寺田澄史作品集《副葬船》(俳句評論社、1964年3月7日)の夫婦函〔限定150部のうち特製本10部の「第参番」〕(左)と同《がれうた航海記――The Verses of the St. Scarabeus》(同、1969年5月15日)のジャケット〔装丁・板画:坂井廣〕(右)

寺田澄史の最初の作品集《副葬船》は1964年3月7日、俳句評論社から刊行された。吉岡は第二作品集《がれうた航海記――The Verses of the St. Scarabeus》(俳句評論社、1969年5月15日)に〈序詩〉を寄せている。そればかりではない。吉岡が珍しく聴衆をまえにして喋った〈審査の感想(俳句)――創刊十周年記念全国大会 録音盤〉の一節にこうある。

 寺田澄史さんは、もう大変に才能のある人で、これでもう全体が、大変すぐれた詩なんで、私はこれを一番に推したんですけど、加藤郁乎とか、そういう派に近くなって、もう俳句といわなくても、一行詩というか、詩でもいいんじゃないか。これは、ちょっと詩の方へ引っぱってみたいような人なんですけど、まあ俳句においといて異色ある作家と――。まあ加藤郁乎などもありますが、これも異色ある作家でしょう。(《俳句評論》78号、1968年3月、二三ページ)

この発言は自身の俳句評論賞の選後評を受けたもので、半年前の選後評〈感想――俳句評論賞決定まで・経過報告と選後評〉には、次のようにある(前記〈序詩〉はこの選後評を敷衍したものと見なせる)。

 寺田 澄史 3点〔〈がれうた航海記〉〕
 応募作品の中では、最も個性的で、全句の粒がそろい、一つの世界がある。一寸、加藤郁乎の中期の詩境を感じる。ひとことで、いえば、まさに、うんすんかるたの感触。
  おにくぎからむかふ水夫部屋がふたつ
  かいぐりかいぐり 蜃〔[おおはまぐり]〕がはく
  あなや〔 →、〕山椒ひとふくろのおひかぜ
  おかまこほろぎに時化がくるあふむけ
  からすたつ宇牟須牟加留多のてくらがり
  火がめぐるあまくちねずみふなぐるみ
などは秀作と思う。(《俳句評論》72号、1967年9月、三〇ページ。同誌の寺田句に照らして校訂した)

寺田は寡作の作家で、1964年の作品集《副葬船》、同年の詩画集〈新・浦嶼子伝〉、1969年の作品集《がれうた航海記》以降、著書としては1994年の作品集《席帆境》(夢幻航海社、限定30部。未見)、2002年の一種の再刊、《新・浦嶼子伝》しかない(*)。その第一句集《副葬船》には宇野亜喜良のイラストレーション2葉が掲げられていた。詩画集〈新・浦嶼子伝〉とどちらが先の企画かわからないが、制作は相前後して進行しただろう。1964年の3月と12月に刊行された《副葬船》と《日本民話グラフィック》が塚本邦雄と吉岡実の眼に触れた可能性はきわめて高い。それが塚本には《吉岡実詩集》のヴィジュアルをめぐる感想となったのだろうし、吉岡には〈がれうた航海記〉や《がれうた航海記》に寄せる共感の布石となったのだろう。しかし、吉岡実詩にその影響がすぐさま現れたわけではない。1980年以降のいわゆる休筆の期間中、吉岡は《古事記》を筆頭とする日本の古典文学に親しんだ。宇野と寺田の〈新・浦嶼子伝〉の最後のページには、あたかも同作の典拠を明示するかのように、〈風土記逸文・丹後国〉の次の一節が引かれていた。

ここに、嶼[しま]子、前[さき]の日[ひ]の期[ちぎり]を忘[わす]れ、
忽[たちまち]に玉匣[たまくしげ]を開[ひら]きければ、
即[すなは]ち瞻[めにみ]ざる間[あひだ]に、芳蘭[かぐは]しき體[すがた]、
風雲[かぜくも]に率[したが]ひて蒼天[あめ]に翩飛[とびか]けりき。

浦島太郎が乙姫との約束を忘れて玉手箱を開けると、瞬時にしてそのかぐわしい体は風と雲に乗って青空に飛び去ってしまった、というのだ。私の知っている〈浦島太郎〉は、玉手箱を開くや煙が立ちのぼって白髪の老人になってしまうという、《御伽草子》に始まり小学唱歌(乙骨三郎作詞)に流れこんだ説話だが、その結末は吉岡実詩を知る者にとって衝撃である。「浦島は鶴になり、蓬莱の山にあひをなす。亀は甲に三せきのいわゐをそなへ、万代を経しと也。扨こそめでたき様にも、鶴亀をこそ申し候へ。只人には情あれ、情の有る人は行末めで度由申し伝たり。其後浦島太郎は、丹後国に浦島の明神と顕れ、衆生済度し給へり。亀も同じ所に神とあらはれ夫婦の明神となり給ふ。めでたかりけるためしなり」(《御伽草子〔日本古典文学大系 38〕》、岩波書店、1958年7月5日、三四五ページ。ルビを省くなど、表記を改めた)。そう、吉岡が《薬玉》で描いた〈蓬莱〉、「蓬莱山」である。その観点から詩画集〈新・浦嶼子伝〉を読みなおすと、次のような句がある(常用漢字にある漢字はそれを用いた)。

黄蝋ともりたり
大亀の背の 秋

夕凪の 天蚕糸[てぐす]にとまり
振袖も をさな天児[あまがつ]

つかのまの 死を酔へば
かささぎ渡し 仄燃えに

朝な朝なの 水甕に
せめての父似が 酌まれけり

移り香も 魚族[いろくづ]の
島闇に 臥処あらたし

水母流しの くらがりや
ただひと秉[たば]の 髪を妊り

顔も露はに 海鴉
喚べば あへなや

高山れおなの〈野水・荷風・左亭〉には詩画集〈新・浦嶼子伝〉を「ひとり寺田の句集として『副葬船』や『がれうた航海記』よりすぐれているばかりでなく、一九六〇年代の前衛系の句集として屈指のものではないかと評者は信じている」とあるが、これらの寺田の句こそ吉岡実晩年の詩境を先取りした世界ではあるまいか。詩句が階段状に連なる《薬玉》の詩型が高柳重信の句の多行形式に触発されたものではないか、という指摘はかねてからなされていた。だが、重信を筆頭とする《俳句評論》の俳人たち――とりわけ寺田澄史――の作品が《薬玉》を誘因する詩境のひとつだった、というのが私の感懐である。「大岡信が〈飛騨〉を推し、わたしが〈坂東〉を讃えたので、重信は自信をもって新しい作風を確立した。それが《山海集》である。これらの新擬古典風な作品群を、わたしは愛誦する」(〈高柳重信・散らし書き〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一二四ページ。初出は《現代俳句全集〔第3巻〕》、立風書房、1977年11月5日)。「私は遅まきながら、『古事記』や柳田国男『遠野物語』や石田英一郎『桃太郎の母』などの「神話」や「民間伝承」に、心惹かれるようになった。私のもっとも新しい詩集『薬玉』は、それらとフレイザー『金枝篇』の結合に依って、成立しているのだ」(〈白秋をめぐる断章〉、同前、三〇五ページ。初出は《白秋全集〔第17巻〕》月報10、岩波書店、1985年9月5日)。現代俳句の「新擬古典風な作品群」、「神話」や「民間伝承」が後期吉岡実詩に与えた影響は計りしれない。

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(*)寺田澄史単独の著書ではないが、高柳重信が編んだ《昭和俳句選集》(永田書房、1977年9月10日)には、昭和34年から51年までの寺田の句、34収められている。そこには次の句(各年の冒頭句)が見える。

  昭和34年
  くわらくわらと 藁人形は 煮られけり

  昭和35年
  乾草や 牡山羊の胎に 海を縫ひ込む

  昭和38年
   *
  あるじは 野に
  牡牛は屋根に 焦げにけり

  昭和39年
   *       *
  父に似て 父にはあらず
  舟を舁いで ひとあし遅く

  昭和41年
  あなや 山椒ひとふくろのおひかぜ

  昭和42年
  からすたつ宇牟須牟加留多のてくらがり

  昭和43年
  粘土屋のうしろあるきの岬かな

  昭和44年
  沫雪してのちももんぐわあ剥かれけり

  昭和45年
  船たたむなどして南無あるく蝶あり

  昭和46年
  鳥雲にせうべんがくてき気球船

  昭和47年
  ふと箪笥を澪れくる水夫なるべし

  昭和48年
  火夫入用まごたらうむしは歩くなれ

  昭和49年
  春分とや藁屋根こそは屋根ならむ

  昭和50年
  熊笹から紙飛行機をひろひけり

  昭和51年
  ものの忌やひたひに置きし轡虫

高柳重信は巻末の〈あとがき〉で「この合同句集は、はじめ「俳句評論」の創刊二十周年を記念して計画されたが、それをいつそう意義あらしめるために、まず「俳句評論」に在籍中に故人となつた人たちを加え、また更に、それと同じ志操を貫いて来たと思われる近縁の数名の俳人の業績をも、これに包摂することにした。昭和全期を通じて格別な意義を持つ一つのエコールの歴史的な流れは、これによりいつそう明確になつたと思われる」(同書、三六三ページ)と書いている(現存作家の句は自選のようだ)。高柳は《昭和俳句選集》刊行の1977年に、《現代俳句全集〔全6巻〕》(立風書房)の編集委員を吉岡実・飯田龍太・大岡信と務めており、吉岡はもちろん、他の編集委員も本書を目にしたに違いない。本書に解説のようにして収められた川名大の〈昭和俳句史〉は、《現代俳句全集》と同じ顔ぶれで編んだ《鑑賞現代俳句全集〔全12巻〕》(立風書房、1980〜1981)月報に連載した編集委員たちの座談会 〈現代俳句を語る〉の基本文献のひとつとしての役割を果たしたように思える。


〈青枝篇〉と《金枝篇》あるいは《黄金の枝》(2017年12月31日)

かつて〈吉岡実と《金枝篇》〉と題して、フレイザー(永橋卓介訳)《金枝篇〔岩波文庫・全5冊〕》(岩波書店、改訳:1966〜67)を引いて、詩集《薬玉》(1983)や《ムーンドロップ》(1988)の詩句のスルスだと指摘した。そのときは、吉岡実詩は「個個に指摘しないが、《金枝篇》のそこここに「後期吉岡実」の世界と通じるものを認めずにはいられない」と書いて、具体的に挙げなかった。今回はその先を論じたい。初めに《金枝篇》の訳文(〈章名〉、巻数〔漢数字〕・ページ数〔アラビア数字〕)→〈詩篇名〉(詩集番号・その詩集での順番)/吉岡実の詩句を、5箇所掲げる。

・バイエルンのライン地方、あるいはまたヘッセンの農民は、豚や羊が脚を折った場合に、椅子の脚に副木をあて繃帯をするそうである。(〈第三章 共感呪術〉、一・114)

↓〈わだつみ〉(K・3)

「包帯を巻かれた
        牛の脚が見え
        椅子の折れた脚が見え」

・村の内儀たち娘たちが四阿でこきおろされている間に、蛙をこっそりつねったり叩いたりしてギャーと鳴かせる。(〈第十章 近代ヨーロッパにおける樹木崇拝の名残り〉、一・277)

↓〈甘露〉(J・14)

              (蛙をこっそりつねったり
               叩いたりしてギャーと鳴かせる)

・この競争には色々な形があるが、目標あるいは決勝点は大てい「五月の樹」か「五月の棒」となっている。(〈第十章 近代ヨーロッパにおける樹木崇拝の名残り〉、一・279)

↓〈甘露〉(J・14)

いましも荒れた地へ(五月の棒)をつき立てる
       短いもの 長いもの
                細いもの 太いもの
やがて(五月の樹)は繁茂するだろう

・次にこの屋根に穴をあけ、呪医が羽毛の房でもってそこから霊魂をはたきこむと、骨かそれに類するものの断片のような形をした霊魂が筵[むしろ]で受けとめられる。(〈第十八章 霊魂の危機〉、二・85)

↓〈甘露〉(J・14)

(屋根からおちる霊魂を
           莚で受けとめる)

・これと同じようにヴェーダ時代のヒンドゥーは、青いカケスに肺病を負わせて放した。(〈第十五章 災厄の転移〉、四・126)

↓〈甘露〉(J・14)

(青いカケスに肺病を負わせる)

こうして見ると、〈甘露〉(J・14)の詩句に転用されているのが圧倒的だとわかる。後で触れるように、〈甘露〉の初出や定稿の末尾には引用が《金枝篇》に依拠する旨の註があって、本篇が同書によりかかった作品であることが作者によって明示されている。一方、〈わだつみ〉(K・3、初出は《毎日新聞〔夕刊〕》1985年1月5日)にはそうした註記はなく、上掲の三行は《金枝篇》の訳文を基に吉岡が新たに描いた絵の趣きがあって、引用符=鉤括弧はあたかもこの絵をきりりと締める額縁のようである。比喩を続けるなら、〈甘露〉の引用符=パーレンは薬玉のようだ。だが、吉岡実詩と《金枝篇》との類縁と差異を考えるときまず挙げるべきは、《金枝篇》の章句を取りこんだこれらの詩篇ではなく、次に掲げる〈青枝篇〉(J・4)だと思われる。ここには、〈甘露〉や〈わだつみ〉に見られる逐字的な、あるいは改変的な章句の借用こそないものの、「後期吉岡実詩」に特徴的な発想が顕著だからである。

青枝篇|吉岡実

   T 地の霊

雨乞いの儀式とはなに
アネモネの緋色の朝
         ひとりの娘が丸裸になる
そしてシキミの枝で
         「砂 灰 粘土のうえに
                    男女の像」を描く
六根 清浄
六道 媾合
     ことほぐ ことばが聞こえ
ツグミやセキレイも交尾する
             遠方より
黒雲やトカゲが姿を見せる
            干割れた大地は
            荒むしろで覆われ
                    雨に打たれる
傘の形のような小屋のまわり
ははそ葉のそよぐ
        母のおとずれる今宵
娘は双生児をうんだようだ
            油煙の立ちこめる
                    聖域を出れば
天水桶に跳ねる
       大きな鯉
他者は滅びよ
      みどりの芽吹くところ
金棒をかざして
       幼児が現われる

   U 水の夢

天気のよい日には
聖なるカシワの木の間を
           見えかくれする(母)
女猟師の姿がある
鹿やイタチを追っているのか
             ガマの穂のゆれる沼辺に
             ホウネンエビが跳ねている
そこは近いようで遠い
鬼火と藁火との境界だ
          「言霊が成長し
                 石も成長する」
母恋うる夕べ
わたしは数珠玉を刈り
巫女の膝の門をくぐりぬける
             青蛙を踏んだ
すでに里は暮れつつ
ひとびとは納屋のなかで
           「男神の形のパンをつくり
                       かぼちゃの葉で包む」
土器に盛り 唱和せよ
          五穀豊穣
          五体満足
ラッパスイセンの咲く野の夜明け
つねに狩る者
      狩られる物の関係は哀しい
      枯葉とともにイノシシが穴へ落ち込む
わたしは水の面に想い描く
けがれた狩衣をことごとく脱ぐ
              女身を――

   V 火の狼

乙女がふたり
      料理をつくっている
魚の腹から出てきた
         銀砂子を撒くと
         大地に涼しい風が起る
カーテンのゆれる向う側は
            黄泉のくにか 薄荷の香がする
この世は蜜と灰で
        ざらざらしている
粟や芋を煮て
笹葉のみどりを添える
          神饌[みけ]で死者も蘇生するんだ
乙女がふたり
      声をあげ たがいのからだを
                   葦や藁で叩き合い
美しい身体をからっぽにする
             通過儀礼の終り
ひとは善い夢もみれば
          悪い夢もみる
荒畑をめぐり 墓地をめぐり
             行者は呪詞を唱えているようだ
「よろずのこと みな えそらごと」
                 野苺や童話の世界より
                           永久追放された
野生の「幻像」がよみがえる
             山河図のなかに
おお 大口真神
       生木は燃えて
             すすけた夕日の森を
                      わが狼は駈けて来る

   W 風の華

父が死んだら喜べ
        金槌でとんとん顎を砕き
        犬歯を口から取り外すんだ
のざらしの野を行き
フクロネズミの巣へ
         その歯を投げ入れよ マツカサの実とともに
やがて春の嵐がくる
         白い幣や注連縄もゆれ
         金屏風は倒れる 生れ出ずる 悲しみ
男児ならば鉄の歯を生やしている
               水をはこぶ母 野兎を屠る兄
浄火を起すべく 妹は裸になる
ここはウイキョウの薫りさえする
               「聖家族図」のようだ
されど時は逝き 人も逝く
            此岸の仕組はまさに混沌未分
花咲く地から
はるばる旅してきた少年がいる
              牝牛の形の帽子をかぶり
              「冥府下降」を試みつつ
石枕をして眠っている
          姉を探しているようだ
雨にぬれた竹筒を覗けば
           筒ぬけである
青空にはハトやスズメが飛び交い
               「馬頭女神像」は畑の中に立つ
去勢山羊のむれに囲まれ
           少年の裸身は汚れ 傷つく
                       麗しいまひるま
「死んだ番犬は何事も気づかない」

この〈青枝篇〉(初出は《日本経済新聞》1982年3月7日・14日・21日・28日連載の〈三月の詩T〜W〉。なお初出時の標題は「地の霊(春の伝説1)」・「水の夢(春の伝説2)」・「火の狼(春の伝説3)」・「空[くう]の華(春の伝説4)」である)の新聞連載時の総題〈春の伝説〉は、詩集《薬玉》において〈青枝篇〉に改題された。私の調べに漏れがなければ、本篇の詩句にフレイザー(永橋卓介訳)《金枝篇》からの引用はない(*)。試みに「 」で括られた(引用と思しき)詩句を以下に抜き出し、後註エリック・セランドに依る英訳(**)を併記する。

  「砂 灰 粘土のうえに/男女の像」
  “Sand ashes atop of the clay / The image of a man and woman”

  「言霊が成長し/石も成長する」
  “The spirit of the word grows / And the rocks grow also”

  「男神の形のパンをつくり/かぼちゃの葉で包む」
  “Make bread the shape of a male god / And wrap it in pumpkin leaves”

  「よろずのこと みな えそらごと」
  “All things are illusion”

  「幻像」
  “A dream”

  「聖家族図」
  “a picture of the holy family”

  「冥府下降」
  “the descent to Hades”

  「馬頭女神像」
  “A goddess with a horse's head”

  「死んだ番犬は何事も気づかない」
  “The dead watchdog unconcerned”

先に引いた詩篇〈甘露〉(初出は《すばる》1983年1月号)の末尾に「(引用句はおもにフレイザー《金枝篇》永橋卓介訳を借用した)」と註した時点で遅くとも吉岡は本書に触れているわけだから、〈春の伝説〉は《金枝篇》を踏まえつつ〈青枝篇〉に改題されたことになる。私はフレイザーの《The Golden Bough》の邦題が《金枝篇》となった経緯を知らない(ちなみに「金枝」とはヤドリギ〔宿り木・宿木・寄生木〕のことである)。ときに、丸谷才一や富士川義之はこの邦題を嫌って《黄金の枝》としている。フレイザー論を収めた富士川(ナボコフの《青白い炎》の訳者である)の《英国の世紀末》は吉岡歿後の1999年刊だから措くとしても、丸谷が《金枝篇》を退けて《黄金の枝》と書いていたのを当時の吉岡が目にしていた可能性はある。その吉岡が随想で「《金枝篇》」と書くのは、岩波文庫版の訳書を指すからである。では、《薬玉》における〈青枝篇〉の特徴をやや詳しく見ていこう。
吉岡はこの詩を「雨乞いの儀式とはなに」と始めている。その詩作品からだけではわかりにくいが、吉岡は「水」へのなみなみならぬ関心を持っていた。永田耕衣宛葉書(1980年6月25日消印)には「このところ、晴天つづきで、空梅雨になりそうです。小生人一倍、「水」のことを考えているので、夏の水不足が心配です。〔……〕」とあるし、私がもらった葉書も、春の雨が降っています、といった文言で始まっていた。戦前の東京下町に育った吉岡にとって、降雨は農作業に従事する者にとってのそれほど深刻な関心事ではなかったかもしれない。だが、馬を曳き、満洲の山野を行軍した戦時中の吉岡にとって、天候は季節の移りゆきとともに、敵との戦闘に次ぐ最大の関心事だったに違いない。天候が食糧に直結するという意味では、フレイザーの描いた未開の農民の心性から遠いものではなかっただろう。そこから四大元素(火・空気〔もしくは風〕・水・土)という四大の主題が浮上してくるのは、半ば必然である。

ここで、自分自身のために重要な語句に註しておく。主として《日本大百科全書〔全26巻〕》(小学館、第2版:1994)を用いた(原文は縦組。漢数字はアラビア数字に改めた)。それ以外の資料によった場合は、書名等を表示する。

アネモネ
湯浅浩史によればアネモネは「第2回十字軍遠征(1147)のころ、イタリアのピサ大聖堂のウンベルト僧正が運ばせた聖地からの土の中にアネモネの球根が混じっており、その土を使った十字軍殉教者の墓地から見慣れない血のような赤い花が咲いたという」(第4巻、433ページ)。

シキミ
シキミ科の常緑高木。井之口章次によれば樒は「枝葉を切ると一種の香気が漂うのでコウノキ、コウノハナ、あるいは墓に供えられることが多いのでハカバナともいう」(第10巻、649ページ)。

六根清浄
藤井教公によれば「「根[こん]」はサンスクリット語のインドリヤindriyaの漢訳語で、感覚器官とその器官の有する能力という意味。六根とは、眼[げん]根(視覚器官と視覚能力)、耳[に]根(聴覚器官と聴覚能力)、鼻[び]根(嗅覚[きゅうかく]器官と嗅覚能力)、舌[ぜつ]根(味覚器官と味覚能力)、身[しん]根(触覚器官と触覚能力)、意[い]根(思惟[しゆい]器官と思惟能力)の6種をいい、この六根が清浄になることを六根清浄という」(第24巻、600ページ)。

天水桶
宮本瑞夫によれば天水桶[てんすいおけ]は「単に天水ともよばれ、江戸時代、雨水[あまみず](天水)を雨樋[あまどい]などから引き、防火用にためておいた桶。〔……〕明治以後、消防設備の近代化により、しだいに廃されたが、第二次世界大戦中には、防火用水が家々の軒先に置かれた」(第16巻、366ページ)。

カシワ
ブナ科の落葉高木。萩原信介によればカシワは「厚い葉と厚い樹皮があるため風衝地や火山周辺地域、山火事跡地に低木状の純林をよくつくる。〔……〕台湾、朝鮮、モンゴルまで分布する。樹皮はタンニンの含有率がブナ科でもっとも高く、染色や革なめしとして用いられた。カシワは炊[かしい]葉の意味で柏餅[かしわもち]に、また神事に用いられ柏手となり残っている」(第5巻、227ページ)。

ホウネンエビ
武田正倫によれば豊年蝦は「節足動物門甲殻綱無甲目ホウネンエビ科に属する淡水動物。甲殻類の原型を思わせる原始的な形態をもつ。体長2センチほどの細長い円筒形で、甲をもたない。〔……〕大発生する年は豊年であるという言い伝えがあり、名はそれに由来する」(第21巻、394ページ)。

数珠玉
湯浅浩史によれば数珠玉は「有史以前から利用され、柳田国男[やなぎたくにお]は『人とズズダマ』(1952)で、その語源と由来を論じた。柳田は、ジュズダマの名は仏教の数珠[ジュズ]に基づくのではなく、珠[たま]や粒と関連する古語のツスやツシタマから、現代も方言に残るズズダマを経て、ジュズダマになったと推察した」(第11巻、649〜650ページ)。

青蛙
倉本満によればアオガエルは「両生綱無尾目アオガエル科に属するカエルのうち、体表が一様に緑色をしている種の総称。〔……〕一般に山間部や山沿いの湿地、水田の周辺に生息する。〔……〕産卵時に抱接した雌雄が後肢でゼリー状の卵塊をかき回すため、白い泡状となる。水辺の地上や土塊の間に産卵するが、モリアオガエルのように樹上に産卵する種もある」(第1巻、96〜97ページ)。

ラッパスイセン
喇叭水仙は「ヒガンバナ科の秋植え球根草。黄色または白色花を開き、副花冠はらっぱ状。切り花、花壇に用いる」(第23巻、754ページ)。

神饌
沼部春友によれば神饌は「神に召し上がり物として供える飲食物。ミケともいう。ミケは御食の義で、神酒はミキという。神饌は米、酒、塩、水が基本で、これに野菜、果物、魚貝類などもいっしょに供える。〔……〕現行の神社祭祀[さいし]における神饌の品目は、これを供する順に記すと、和稲[にぎしね](籾殻[もみがら]をとった米)、荒稲[あらしね](籾殻のついた米)、酒、餅[もち]、海魚、川魚、野鳥、水鳥、海藻、野菜、果物、菓子、塩、水と定められている」(第12巻、593ページ)。

通過儀礼
綾部恒雄によれば通過儀礼の過程は「通過儀礼ということばを初めて用いたのは、オランダの民族学者でフランスで活躍したファン・ヘネップである。通過儀礼にも比較的単純なものから複雑なものまでいろいろあるが、一般には儀礼の過程がいくつかの段階に分けられていることが多い。ファン・ヘネップは、もっともよくみられる通過儀礼の区分は、分離の儀礼rites de séparation、過渡の儀礼rites de marge、および統合の儀礼rites d'agrégationの3区分であると述べている。第一段階の分離の儀礼は、個人がそれまであった状態からの分離を象徴する形で行われる。〔……〕第二段階の過渡の儀礼は、個人がすでにこれまでの状態にはなく、また新たな状態にもなっていない過渡的無限定な状態にあることを示している。〔……〕また、過渡儀礼においては、男の女装、女の男装という中性化、司祭による聖なる王の罵倒[ばとう]という価値の転換、胎児化を象徴する始原回帰的行動など、過渡的不安定を示す行動が観察される。〔……〕第三段階の統合の儀礼は、分離儀礼と過渡儀礼を終えた個人が新しい状態となって社会へ迎え入れられる儀礼であり、一般に大規模な祝祭が行われる」(第15巻、777ページ)。

真神
真神[まかみ]は、日本に生息していた狼が神格化したもの。大口真神[おおくちのまがみ・おおぐちまかみ]、御神犬とも呼ばれる。薗田稔によれば三峯神社は「埼玉県秩父[ちちぶ]市大滝[おおたき]地区三峰に鎮座。〔……〕古来山中に生息した狼[おおかみ]を当社の眷属神[けんぞくしん]「大口真神[おおぐちまがみ]」とし、火盗除[よ]けの信仰が厚い」(第22巻、372ページ)。

犬歯
内堀雅行によれば犬歯は「哺乳[ほにゅう]類の歯の一種で、門歯の次に位置し、円錐[えんすい]形または鉤[かぎ]形で、普通は上下両顎[がく]の左右に各1対ずつ計4本ある。〔……〕ヒトの犬歯は糸切り歯ともいわれ、先がとがっているが、切歯(門歯)や臼歯[きゅうし]に比べて突出しない。ヒトの歯は全体として退化傾向にあり、とくに犬歯ではその傾向が強い」(第8巻、327ページ)。

フクロネズミ
オポッサムは「別名コモリネズミ,フクロネズミ。長い尾をもつネズミに似た姿のオポッサム科Didelphidaeに属する有袋類の総称。〔……〕北アメリカにすむ唯一の有袋類である。/大きさはネズミ大からネコ大の種まである。長い尾は多くの種で根もと近く以外は毛がなく,木の枝などに巻きつき,樹上での動きを助ける。四肢は短く,5指を有し,後足の親指にはつめがなく対向性で,枝を握るのに適する」(《世界大百科事典〔改訂新版〕》、平凡社、2007、第4巻、354ページ)。

ウイキョウ
星川清親によれば茴香[ういきょう]は「セリ科の多年草。全草に特有の香気がある。〔……〕古代エジプトで栽培され、古代ローマでは若い茎が食用とされた。中世ヨーロッパで、特異な香りと薬効のため魔法の草として知られ、しだいにフランス、イタリア、ロシア料理に不可欠なスパイスとなった」(第2巻、872ページ)。

聖家族図
名取四郎によれば聖家族は「キリスト教美術の図像の一つ。幼児イエスと母マリア、および養父ヨセフの慈愛に満ちた家族図。ヨセフのかわりにマリアの母アンナを加えた表現も聖家族図であるが、この場合は家系図の要素が強い。いずれにせよ、幼児イエスを中心に3人物像によって構成され、地上の聖三位[さんみ]一体を象徴する。この表現形式は14世紀に登場するが、とくに15、16世紀にイタリアをはじめ、ドイツ、スペインなどで流行した。聖アンナのいる聖家族図では、レオナルド・ダ・ビンチの『聖アンナと聖母子』(ルーブル美術館)がもっとも有名である」(第13巻、273〜274ページ)。

冥府
冥府は「死後におもむく他界の一つ。冥界,黄泉[よみ]などともいい,英語のhellがこれに相当する。〔……〕古代中国では,死者の霊魂の帰する所は〈黄泉〉〈九泉〉〈幽都〉などと呼ばれ,本来地下にあると考えられたが,後には北方幽暗の地にあるとする説も生じた」(《世界大百科事典〔改訂新版〕》、平凡社、2007、第28巻、36ページ)。

石枕
甘粕健によれば石枕は「古墳に用いられた石製の枕。滑石[かっせき]や蛇紋岩[じゃもんがん]、凝灰岩を加工、被葬者の頭を受ける馬蹄[ばてい]形またはΩ形の彫り込みがあるのが普通である。縁に二ないし三重に段を造り出し、そこに孔[あな]を巡らし、立花とよばれる勾玉[まがたま]を背中合わせに二つあわせたような飾りを差し込んだものが千葉県北部、茨城県南部を中心として東日本に分布している。西日本には馬蹄形の彫り込みだけの単純なものが多い」(第2巻、246ページ)。

番犬
犬は「世界の神話に現れる犬の中でも,とくに際だっているのはギリシア神話の冥府の番犬ケルベロスである。冥王ハデスとその妃ペルセフォネがすむ館の入口にいて,そこを通る死者たちを威嚇し生者の通過は許さぬと信じられたこの猛犬は,怪物の王テュフォンが,上半身は人間の女で下半身は蛇の形をした女怪エキドナに生ませた,どれも恐ろしい怪物の子の一つで,三つの犬の頭をもち,尾は生きた蛇で,背中からもたくさんの蛇の頭が生え出ており,頭の数は全部で50とも100ともいわれている」(《世界大百科事典〔改訂新版〕》、平凡社、2007、第2巻、490ページ)。

〈春の伝説〉を〈青枝篇〉としたについては、いくつかの理由が考えられる。まず本篇が《金枝篇》にインスパイアされた作品であることの表明である。これが外的な要因だとすれば、詩篇の標題という内的な要因がある。〈春の伝説〉というのは、漢語でかためた《薬玉》詩篇の標題としては間延びしている(吉岡が那珂太郎から詩集の題名を《波の音楽》でどうだろうと問われて、即座に《音楽》でいくようにと答えた挿話が想い起こされる)。だが《僧侶》に〈伝説〉(C・5)がある以上、この方面は却下される。そこで、本篇の直接的典拠でこそないが発想の基となった《金枝篇》方面を延長して、〈□枝篇〉という案が浮上する。この「□」には「金」ならぬ別の色が召喚される。〈春の伝説〉は「伝説」を避けた替わりに「春」を温存し、陰陽五行からの連想による「青=春」で「□」に「青」を代入して〈青枝篇〉を得た。――私にはそのような経緯が想像される。

今は亡き秋元幸人は〈吉岡実アラベスク〉の〈3《亀甲体》〉で〈青海波〉(J・19)の一節を引いて、
  ((生れ 生れ 生れ
            生れて(生[しよう])の始めに暗く))
の詩句について「〔……〕弘法大師空海著わすところの『秘藏寶鑰』などという、極めて古くまた特殊な仏教書からの引用」(《吉岡実アラベスク》書肆山田、2002年5月31日、三五ページ)だと指摘している。吉岡は空海のこの章句とどこで出会ったのだろう。詩篇の初出は《海》1983年6月号だから、それ以前に刊行された書物ということになるが、まったく手掛かりがないわけではない。というのも、以前の勤務先である筑摩書房から出ていた
  (1)渡辺照宏編《最澄・空海集〔日本の思想 1〕》(1969年9月20日)
  (2)宮坂宥勝《密教世界の構造――空海『秘蔵宝鑰』〔筑摩叢書〕》(1982年2月25日〔第6刷:1984年4月10日〕)
の2冊が存在するからで、とりわけ(2)の《密教世界の構造》(元版は《人間の種々相 秘蔵宝鑰『空海』〔日本の仏教 第4巻〕》筑摩書房、1967)が注目される。筑摩叢書版の〈四 人間の自覚〉の〈永遠の嘆き〉にはこうある。

 『秘蔵宝鑰』の書き出しは、次のような永遠を凝視する美しい詩ではじまる。

  悠悠[いういう]たり悠悠たり、はなはだ悠悠たり。
  内外[ないげ](仏教と仏教以外)の縑緗[けんじやう](書物)、千万の軸[ぢく]あり。
  杳杳[えうえう]たり 杳杳たり、はなはだ杳杳たり。
  道といひ、道といふに、百種の道あり。
  書[しよ](書写)死[た]え諷[ふう](読書)死[た]えなましかば、もと何[いか]んがせん。
  知らじ知らじ、吾[われ]も知らじ。……(以下七言一句欠文カ)
  思ひ思ひ思ひ思ふとも聖[しやう](聖者)も心[し]ることなけん。
  牛頭(中国古代の神農)、草を甞[な]めて病者を悲しみ、
  断菑[たんし](周旦公)、車を機[あやつ]つて迷方[めいはう]を愍[あは]れむ。
  三界(この世)の狂人[きやうじん]は狂[きやう]せることを知らず。
  四生(生きとし生けるもの)の盲者[まうじや]は盲[まう]なることを識[さと]らず。
  生[うま]れ生れ生れ生れて生[しやう]の始めに暗[くら]く、
  死[し]に死に死に死んで死の終りに冥[くら]し。

 この詩は、生あるものの永遠の嘆きを代弁している。〔……〕
 ある意味では、空海の無常観は、中世人のそれの先駆とみるよりも、むしろ中世人と同じような深い陰影を宿しながらも、人間生命の讃歌に転ずるための、明るい健康な生命力に裏づけられているようなところがある。右の『秘蔵宝鑰』序の詩と同じような生死の嘆きを、『教王経開題』で次のように述べている。

それ、生はわが願ひにあらざれども、無明[むみやう]の父、我を生ず。死は我が欲するにあらざれども、因業[いんごふ]の鬼、我を殺す。生はこれ楽にあらず、衆苦のあつまるところ。死もまた喜びにあらず、もろもろの憂へ、たちまちにせまる。生は昨日のごとくなれども、霜鬢[さうびん]たちまちに催す。強壮は今朝、病死は明夕なり。いたづらに秋葉の風を待つ命をたのんで、空[むな]しく朝露の日に催すかたちを養ふ。この身の脆[もろ]きこと、泡沫[はうまつ]のごとく、わが命の仮なること、夢幻[むげん]のごとし。

 そして、これに対し、翻[ひるが]えして次のようにいう。

悲しいかな、悲しいかな、三界[さんがい]の子。苦しいかな、苦しいかな、六道の客。善知識の善誘[ぜんいう]の力、大導師の大悲の功にあらずよりは、何ぞよく、流転[るてん]の業輪[ごふりん]を破つて、常住の仏果[ぶつくわ]に登らん。

 生死の無常観を契機として、人間の自覚へと誘[いざ]なってゆくのである。(同書、五五〜五七ページ)

一体に吉岡は詩篇においても、散文においても、永田耕衣や高橋新吉のようには宗教的な文言を多用することはなかった。だが、必要とあらば地の詩句であれ、引用による詩句であれ、要文をちりばめることを躊躇しなかった。《薬玉》の掉尾を飾る詩篇〈青海波〉の「((生れ 生れ 生れ/生れて(生[しよう])の始めに暗く))」がそれであり、〈青枝篇〉の「「よろずのこと みな えそらごと」」がそれである。後者、「「よろずのこと……」」は親鸞の語録《歎異抄》に見える章句の引用で(ごく一部、改変がある)、手近なテクストでは

  〔……〕よろづのこと、みなもてえそらごと、〔……〕(金子大栄校注《歎異抄〔岩波文庫〕》岩波書店、1981年7月16日改版〔1991年3月15日:第76刷〕、八八ページ)

と見える。長篇小説《親鸞》を著した五木寛之の〈私訳 歎異抄〉に依れば、「〔……〕すべては空虚な、偽りにみちた、評価のさだまらないむなしい世界である」(《歎異抄の謎――親鸞をめぐって・「私訳歎異抄」・原文・対談・関連書一覧〔祥伝社新書〕》祥伝社、2009年12月25日、一二七ページ)。《歎異抄》からのこの引用は、《秘蔵宝鑰》からの引用に較べて目立たない。それかあらぬか、秋元幸人もこの詩句を引いていないし、当然のことながら典拠も提示していない。それほど「すべてのことはみな絵空事だ」という感懐は折りに触れてふと想いうかべる、今日のわれわれにも親しいものだといえる。だがそれは、親鸞の悲歎が空海のそれに較べて浅く軽いことを意味しない。吉岡とて、同じような切迫の度合いで引用したに違いない。

最後に、答が出るかどうかわからない問を発してみる。吉岡実にとって《金枝篇》とはなんだったのか、という疑問である。《金枝篇》と詩との関連でわれわれがすぐに想起するのは、T・S・エリオットの長詩《荒地》(1922)だろう。深瀬基寛はその《エリオット〔鑑賞世界名詩選〕》(筑摩書房、1954年10月25日)で

 シンフォニー『荒地』の意図するものについては種々の解釈が許されるであらうが、全曲を流れてゐるモチーフとして使用されてゐるのは、エリオッ卜自らこの詩に附した註にも明らかなやうに、ミス・ウェストン(Miss Jessie L. Weston)の聖杯伝説に関する研究『祭祀よりロマンスヘ』From Ritual To Romanceであつた。同時にエリオッ卜はフレイザー(Frazer)の『金の枝』Golden Boughなどイギリスで熾な原始文化研究からもヒントを受け、植物祭(Vegetation ceremonies)などの原始民族の祭祀伝説を借りてこの詩の骨組をくみたてたのであつた。(同書、一九五ページ。漢字は新字に改めた)

と自説を展開している(ちなみに《エリオット〔鑑賞世界名詩選〕》の「再版」は吉岡実の装丁になると考えられる)。深瀬は冒頭の〈緒言にかへて〉では、E・M・フォースターの「わたしは問題の中核へひと思ひに飛び込んで、いつたいあの『荒地』といふ詩は何のことを詠つてゐる詩なのか端的に打ち明けよう。あれは、来るべくしてもはや手おくれとなつてどうしようもない春の水を、慈愛の雨を詠つてゐるのだ。あれは戦慄恐怖の詩なのだ。母なる大地は枯れ、海原は塩の大塊となり、大地を培ふべき雷雨は鳴動はしたが、実はもうあとの祭りだ。さうしてその戦慄恐怖があまりにも激烈なために、詩人は舌がしびれてしまつて、そのことを公然と口にすることが全く不可能になるのである……」(同書、一一ページ)という評言に賛意を表している。この詩の理解には「聖杯伝説」――漁夫王が性的能力を失った結果、国土は荒廃する。そこへ一人の騎士が登場して「危険の聖堂」に近づき、古代に男と女の象徴だった槍と聖杯を奪還することで呪いは解かれ、荒地に慈雨と豊饒が復帰する――が欠かせないと深瀬は指摘する。併せてJ・L・ウェストン(丸小哲雄訳)《祭祀からロマンスへ〔叢書・ウニベルシタス〕》(法政大学出版局、1981年11月2日)の〈第一章 序論〉には「数年前、J・G・フレイザー卿の画期的な著書『金枝篇』をはじめて研究した際、わたしは聖杯物語のいくつかの特徴とそこに叙述されている自然崇拝の特異な細部との間にみられる類似性に強い印象をうけた。物語を綿密に分析すればするほど、ますますその類似性は際立って来て、ついにわたしは、この不可思議な伝承――その性格、その突然の出現、それに帰せられている明白な重要性、そして続いて起る唐突で完全な消滅といった点においても等しく不可思議な伝承――の中に、かつては民間に流布していたが、のちには厳しい秘密の条件の下に生きのびることになったひとつの祭祀の曖昧な記録が残されていたかも知れないと考えることは果して可能かどうか自分に問うてみたのである」(同書、四ページ)とあることを考えれば、《金枝篇》から《荒地》が引きついだ「聖杯伝説」を踏まえて、吉岡が〈青枝篇〉を構想したことは充分あるように思える。なによりも、初出標題〈春の伝説〉に「聖杯伝説」が影響していないだろうか。

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(*) たしかに〈青枝篇〉には鉤括弧(「 」)で括られた詩句の逐語的引用こそ見られないものの、「雨乞い」や「狼/犬」「山羊」などには《金枝篇》の遠い残響が聴かれよう(ちなみに秋元幸人が〈雞〉(J・1)との関連で《吉岡実アラベスク》の〈吉岡実晩年の詩境〉で言及したのは、《金枝篇》の〈第四十八章 動物としての穀物霊〉の〈三 雄鶏としての穀物霊〉だった)。該当する箇所を、本文に引いたのと同様の形式で掲げる。

・プロスカの村では、旱魃を終らせて雨を降らせるため村の女たち娘たちが夜分に裸体となって村境まで行き、そこで地面に水をそそいだ。(〈第五章 天候の呪術的調節〉、一・153)

・一八九三年四月の末水飢饉のためシシリー島に大きな困窮の襲来したことがある。旱魃は半歳にも及んだ。太陽は毎日毎日、雲の片影だにない青空に昇っては沈んだ。うるわしい緑の帯のようにパレルモを取り巻いたコンカ・ドゥオロの園は、そのために枯れかかっていた。食糧は断絶に瀕していた。住民は大きな恐怖におののいた。およそ知られている限りの雨乞いの方法は試みられたが、いずれも更に効果はなかった。行列は街にも畑にも、引きもきらず続いた。男も女も子供たちですらも、数珠をつまぐりながら、幾夜か尊い御像の前に拝伏した。(〈第五章 天候の呪術的調節〉、一・173)

・〔……〕東プロシアのファイレンホーフの近傍では、狼が畑を走って行くのが見えると、農夫たちは尾を立ているか垂らしているかに注意するのであった。もし狼が尾を地に垂らしていたなら、それをつけて行って福を持って来てくれたと言って感謝し、その前に御馳走を置いてやることすらあった。ところが、もし尾を立てていたなら、そいつを狙って殺そうとした。つまりこの狼は、豊作の力をその尾にもった穀物霊なのである。(〈第四十八章 動物としての穀物霊〉、三・242)

・ギエンヌでは、最後の穀物が刈り取られると、一匹の去勢羊を畑じゅう引きまわす。それは「畑の狼」と呼ばれている。その角は花環や穀物の穂で飾られ、頭や躯も花束や色紐で飾られる。刈り手は残らずこの羊の後について、歌いながら行進して行く。最後に羊は畑で屠殺される。フランスのこの地方では、最後の刈り束のことを方言で coujoulage という。つまり去勢羊という意味である。それで去勢羊を屠殺することは、最後の刈り束に宿っていると信じられている穀物霊の死を表わすのである。しかしここでは、穀物霊の二つの異なった形――狼と去勢羊――が混同されている。(〈第四十八章 動物としての穀物霊〉、三・246)

・〔……〕上バイエルンのマルクトゥル近傍では、刈り束を「藁山羊」または単に「山羊」と呼んでいる。刈り束は広庭に山と積まれ、お互いに向かい合って立つ二列の男たちがこれをこなすのであるが、彼らはせっせと連枷を打ちおろしながら、束の中に「藁山羊」が見えるというような事を歌うのである。最後の山羊、つまり最後の刈り束は、スミレその他の草花の花環や、糸に通した菓子などで飾る。そして束の山の真中ほどに安置する。打穀者の一人が矢庭にとびついて、そのうまいところをかっさらおうとする。他の者たちは、時として脳天がたたき割られることもあるくらい、遠慮容赦なく連枷をうちおろすのである。〔……〕/〔……〕上バイエルンのトゥラウンシュタインでは、燕麦の最後の刈り束には「燕麦山羊」がいると信じられている。それは立てた古耙で表わされ、古鍋で頭をこしらえる。子供たちはこの「燕麦山羊」を殺すことを言いつかるのである。(〈第四十八章 動物としての穀物霊〉、三・257、258〜259)

(**) 詩篇〈青枝篇〉には、エリック・セランドが詩集《薬玉》全篇を英訳した《Kusudama》(FACT International、1991年〔月日不明〕)所収の〈Collection of Green Branches〉がある。《吉岡実書誌》の〈英訳詩集《Kusudama》解題〉でも触れているとおり、《Kusudama》から同詩を含む3篇がduration pressのサイトに掲げられているので、以下に〈青枝篇〉の〈T 地の霊〉〈U 水の夢〉〈V 火の狼〉〈W 風の華〉の英訳の各ページにリンクを張っておく。 〈1 Earth Spirit〉 〈2 Dream of Water〉 〈3 Fire Wolf〉 〈4 Wind Flower〉

エリック・セランドによる英訳詩集《Kusudama》(FACT International、1991年〔月日不明〕)の表紙
エリック・セランドによる英訳詩集《Kusudama》(FACT International、1991年〔月日不明〕)の表紙


吉岡実未刊詩篇本文校異(2017年11月30日)

初めに、私が2011年6月18日にAmazon.co.jpに投じた《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日)のカスタマーレビューを再掲する(標題等の表示を本サイトのそれに改めた)。未刊詩篇のタイトルに張ったリンクは、本稿掲載にあたって設定したもので、初稿のレビューにはない。

本書刊行(1996年)までに確認された吉岡実の全詩篇を集大成した、文字どおりの吉岡実全詩集(詩歌集《昏睡季節》所収の和歌を含む)。冒頭の詩篇〈春〉を欠いた初刷も出回ったが、版元の適切な処置により最小限の瑕疵で食いとめられた。〈本書の編集について〉の方針に基づく本文校訂もほとんど問題ないが、〈即興詩〉で詞書/献辞のように組まれている「私ノ時計ニ」は、初出誌を見ればわかるように、本文の一行め(ただし二字下げ)だろう。〈未刊詩篇 1947-90〉は《昏睡季節》から《ムーンドロップ》までの詩集に入っていない15篇から成り、本書刊行後に新たに6篇が発見されている。全詩集未収録詩篇に◆印を付して、目次の体裁で掲げる。

未刊詩篇 1947-90

海の章(未刊詩篇・1)
敗北(未刊詩篇・2)  717
即興詩(未刊詩篇・3)  717
汀にて(未刊詩篇・4)
断章(未刊詩篇・5)
陰謀(未刊詩篇・6)  718
遅い恋(未刊詩篇・7)  719
夜曲(未刊詩篇・8)  720
哀歌(未刊詩篇・9) 721
冬の森(未刊詩篇・11) 724
スワンベルグの歌(未刊詩篇・12)  725
序詩(未刊詩篇・13)
序詩(未刊詩篇・14)
絵のなかの女(未刊詩篇・15)
白狐(未刊詩篇・16)  727
亜麻(未刊詩篇・17)  730
休息(未刊詩篇・18)  731
永遠の昼寝(未刊詩篇・19)  733
雲井(未刊詩篇・20)  735
沙庭(未刊詩篇・21)  738

波よ永遠に止れ(未刊詩篇・10)  740

以上を加味した増補改訂版《吉岡実全詩集》もしくは《吉岡実全集〔第1巻〕詩集》の刊行が切望される。

《吉岡実全詩集》のカスタマーレビューは2017年11月現在、上掲の私の〈増補改訂版『吉岡実全詩集』もしくは『吉岡実全集〔第1巻〕詩集』の刊行が切望される〉を含めて、2007年5月25日掲載のゾーイ〈詩語の野生に達している〉、2015年8月31日掲載の案山子〈詩としての静謐な暗黒舞踏〉の3件がアップされている(いずれも★5つの満点)。もっともこれらを読んだ人が《吉岡実全詩集》を購入しようとするかは疑問で、レビュアーが言うのも妙な話だが、同書を読みたいと思うほどの者はレビューになんとあろうが入手するに違いない。ちなみに「Amazon」での中古の価格は、24,890円から320,000円までで(「日本の古本屋」では37,800円から200,000円まで)、2万円台なら、発売時の価格12,000円からいって、悪くない。見ればわかるとおり、私のカスタマーレビューは《吉岡実全詩集》初版の購入を促すことからはほど遠く、その完全版(に近い)刊行を望むものだった。残念なことに、2017年11月現在、それが実現する気配はない。以下に、吉岡実の既刊の各単行詩集の本文校異と同じ形式で未刊詩篇の本文校異を掲げ、来るべき増補改訂版《吉岡実全詩集》もしくは《吉岡実全集〔第1巻〕詩集》の刊行を待ちたい。なお、◇印の未刊詩篇15篇の本文〔 〕内の校異は〔初出形→《吉岡実全詩集》収録形〕を表す。

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海の章(未刊詩篇・1)

初出は《漁》(東洋堂発行)1947年9月号(2巻9号)一ページ、本文10ポ四分アキ20行1段組、16行。

貧しくて さびしくなつたら
海へ行こう
晴れた日の海へ行こう
でつかい魚たちが跳ね上り
どこにも金の波があふれている
午後の風をはらんだ白帆は
お母さんの乳房のようにやさしい
はるか遠くで 入道雲も微笑している
けつしてひとりぼつちを
さびしがるな そこらの岩かげに
蟹が泡を吹いて居眠りしているし
まかれた花びらみたいに鴎もとんでいる
そして夕焼の浜べで
ぬれたばらいろの貝がらをひろい
童謡を唄つてかえろう
灯のともつた 家にかえろう


敗北(未刊詩篇・2)

初出は《新思潮〔第14次〕》(玄文社発行)1947年9月(1巻2号)の〈詩二篇〉二四ページ、本文五号二分アキ11行1段組、6行。

神の掌がひらかれたが
影になる方向には
灰色の波が重り
歪んだ帽子へ消えると
蛇や百足虫が這ひ出し
私の骨が残つた


即興詩(未刊詩篇・3)

初出は《新思潮〔第14次〕》(玄文社発行)1947年9月(1巻2号)の〈詩二篇〉二五ページ、本文五号二分アキ11行1段組、7行。《吉岡実全詩集》で第一行が詞書/献辞のように組まれているのは誤り。

  私ノ時計ニ
蝶ガトビコンダ
スルト銀ノぜんまいヤ花ヤ
牛酪ヤ私ノ夢ガ
溢レダシ
イツペンニ
夏ノ窓ハ明ケテシマツタ


汀にて(未刊詩篇・4)

初出は《水産》〔本号より《漁》を改題〕(東洋堂発行)1948年7月号(3巻7号)二六〜二七ページ、本文9ポ15行1段組(コラム)、12行。作者名は「皚寧吉」。

ひぐれのなぎさをわたしはあるいてゐた
なにかをもとめてあるいてゐた
わたしのゆくさきにだれかのあしあとがのこつてゐた
てんてんとわたしのかなしみよりはるかにふかくすなにしづんでゐた
いくらわたしがついきゆうしてもあしあとはつづいてゐた
だれがこんなさびしいものをのこしていつたのか
すなはかすかにかわいてつめたかつた
かいそうのまつわつたいわのあたりにもまだつづいてゐた
とほくないだうみのうへをかもめがひとつとんでゐた
にさんどなきながらさつてしまつた
わたしはわたしのまへをゆくひとをもとめてあるきつづけた
つきがのぼるとばかにそのひとがこひしくてならなかつた


断章(未刊詩篇・5)

初出は《水産》(東洋堂発行)1948年8月号(3巻8号)一ページ、本文五号二分アキ11行1段組、9行。目次に記載なし。漁船と蟹の挿絵(クレジットなし)が詩篇を囲む。

永劫に舟の去りゆく
落日の海に魂のふるさとを求め
われ浮腫混沌の方角より
憔悴せる手をさしのばす
ああわが懊悩の手
清楚無限の波に洗はれ
ふたたび無垢の血よみがへり
はるかなる回帰線を越え
白鳥のいのちをつかまんとす


陰謀(未刊詩篇・6)

初出は《現代詩》(緑書房発行)1956年7月号(3巻6号)四八〜四九ページ、本文8ポ26字詰19行1段組(コラム)、19行分。

百匹の猫には百匹の敵がいる ある一匹の心やさしい猫がベンチの片隅で新聞をよんでいると見なれぬ手の折れた猫が並んで新聞をよみはじめる 帽子をかぶった心やさしい猫はスポーツの記事がよみたいと思っているのだが 隣の猫が戦争の悲惨なニュースをよむように指図する 心やさしい猫は美しい妻に贈物がしたいのだ 化粧品の広告がみたいと思う 折れた手で隣の猫がにやにや笑いながら 軍艦の沈没してゆく場面の写真を示すので 香水罎の類を彼方に眺め 自分も溺死する水兵の服をきて海中に沈んでしまう もちろん隣の猫は別の軍艦の甲板で折れた手を振っている 心やさしい猫は公園を出てレストランに向う 手の折れた猫がおくれたわびをいいながら 同じ食卓の前に腰かける 心やさしい猫は明日の仕事のため栄養分のあるものを注文する 手の折れた猫はもう自分が注文しといたからだいじょうぶだという 陰謀は食事に関係が多い 湯気の立つスープのかわりに 落下傘の包が食卓の上に置かれる 心やさしい猫は空腹のままそれを身につけてとびおりる たちまち十字砲火を浴び戦死する 折れた手で猫は雨でぬれた半旗を垂らし戸口から入ってしまう
                                           一九五六・五・二十一

遅い恋(未刊詩篇・7)

初出は《現代詩手帖》(世代社発行)1959年6月号(1号)六六〜六七ページ、本文9ポ27字詰14行1段組、12行分。初出時、約400字の散文〈詩人のノオト〉を付す。

ガリ氏の上半身は裸だ むしろ枯木の存在にちかく がらす板のむこうで 女医先生が手を器用にうごかしてのぞきこむ ガリ氏の尖〔つ→っ〕た内部を いささかガリ氏は羞しいのだ 少しばかり女医先生がすきなので 自分が人間の器官をうしな〔つ→っ〕て 深い根に支えられてない 黄昏の物体であり 鳥の巣ほどの夢もかかえず みずみずしい四月の葉に飾られてないことが い〔つ→っ〕そう内部をはたらきのないものにする だが光のなかで人間は真実の恋ができようか 女医先生はたしかに職業の恋をしはじめる つめたい手と眼で ガリ氏の患部を愛撫しながら そしてふたりだけの 暗い場所を甘い髪の匂いでみたす 盲目の世界で記録されたカルテは永遠に判読されぬだろう 世のすべての恋人たちの手紙のように


夜曲(未刊詩篇・8)

初出は《近代詩猟》(発行所の記載なし)1959年10月(27冊)六ページ、本文14ポ24字詰18行1段組、14行分。初出末尾「一九五八・八・四」は、吉岡陽子さんに依れば「一九五九・八・四」が正しい。

夜それも初夏の夜 ぼくは召使としてつつましく坐る それであらゆる型態の蛾をとらえる ほそい朝鮮服の妻のためにだ ぼくが喜色満面でかざす 蛾のかたじしの胴体は尻へつぼまり 豹の緊張した野性を誇示する 妻の眼のなかでそれに応えて おののく植物の生臭いひとなぜの風 いうまでもない 妻の心はいやおうもなく 蛾の鋭い歯で肉食される 花粉と汗をながす妻の全身を白磁のシーツで陰蔽した 下品な召使のしたごころから 蛾の翅の蝋のにぶい光から 鳥籠には粘土の鳥 まわりには全部まぶたをとざした家具類 ぼくと瀕死の妻は同一の管で 同時に水を吸いあげる 囁く泡のながれ その夢みる装飾帯 暁ちかく二人の間に赤ん坊が泣きながら割りこむ そんな幻覚を映して氷山が滑り込んでくる
                一九五八・八・四


哀歌(未刊詩篇・9)

初出は《鰐》(書肆ユリイカ発行)1960年2月(6号)八〜九ページ、本文五号21行1段組、35行。

それは或は風説だろう
ぼくと向きあった妻が魚の腸を
のりこえ
ぼくを不浄な庖丁で刺す
キャベツ・ジャガイモに看視され
ぼくは瀕死の客
スープの湯気の束の間の命
テーブルの上に
レモンの美しい膚があらわれ
正面から血を浴びる
妻よこころせよ
それがぼくの自尊心
ぼくの空腹が他人の便秘に
通ずる油ぎった岸べ
そこから他国へながれる川
料理された鶏の首と
ぼくの頭が藁で結ばれて
月下の水面を滑る
前世を
ぼくは耐え忍ぶ
〔爼→俎〕と胎児を
錐と姙婦をすり替える
ぼくの無償の詐術
髣髴と浮び上る
岩の頂で番のあざらしを凍らす
愛の復讐の記念像
陸の難破者をして仰がせる
ぼくの不倫・ぼくの殉教精神
麦畑へ火事を導びく
ついでにけしの畑
灯る人家を望み
ぼくと密通した人妻の
幼女のマヌカンを
ぼくは抱くだろう
糸杉の狂える夜ごと夜ごとを


波よ永遠に止れ(未刊詩篇・10)

初出は《ユリイカ》(書肆ユリイカ発行)1960年6月号(5巻6号)四八〜五三ページ、本文8ポ30字詰25行2段組、11節257行。初出目次の標題は「波よ永遠に止まれ」。初出「カット真鍋博」。《吉岡実詩集》(思潮社、1967年10月1日)に改稿再録(三一四〜三三五ページ、本文9ポ27字詰14行1段組)。

    ヘディン〈中央アジア探検記〔〉より→より〉〕

1

わたしは 二人の従者と一人の宣教師とともに
四頭馬車で砂漠の入口に着いた
ここからわたしの夢がはじまる
わたしにだけ見えて
ほかの三人の男には見ることのできない夢
幾世紀もの間 砂にうずもれた
伝説の王 眠りの女王の生活の歴史
もしかしたらわたしだけの幻覚だろうか
死んだ都のステンドグラスの寺院の窓から
ながれ出る河のながれ ともにながれる時のながれ
朝は凍りつき 夜あらゆるいきものの
骨を沈めているヤルカンド河のつめたいながれ

2

翌朝 わたしは従者の一人を呼んだ
わたしはその男を毛皮の男と名づける
けものの皮をはぐのがその男の神聖な職業だったから
毛皮の男はヤルカンドへ八頭のらくだと斧を求めに行った
もう一人の従者は近くの支那人の市場から水と麦粉蜂蜜麻袋などの必要品を買って戻る
その男をわたしは女中と呼ぶ
彼は回教徒のタブーを冒し 日の出前に物を食ったため
刑罰をうけ不具にされ
もう男ではないのだから
ロバの背にのせられたまま
女のような泣き声をあげたのを救けた
女中はサルト人にさそわれると
白楊の木の茂みへ
ときには聖なる墓地をよごしに行く
祈祷師の太鼓のなりやむ暁まで
悪霊のおどりをおどるのだ
宣教師には仕事はない 彼は昼は汗をかき
夕方はたらふく羊の肉を食い
夜は祈祷師の残り酒をのんでは吐く
わたしは気象の観測と
ゴブラン織のような地図をひろげる
その地図から
黄塵が湧きあがり われわれの貧しいキャラバンをつつむ
その地図の別の方角 緑色に塗られた印のところから
羚羊が現われ 泉がわきあふれ 甲虫がとびまわる
その地図の褐色にいろどられた丘や草原から
太陽が野兎や われわれの耳を照らす
双眼鏡の視界のかぎり 涯ない砂の原
あの雪のように汚れてないふくらみを見よ
そこにわたし以外の者の足跡があってはならない
生きる人間・死せる人間のものであれ
最初の遠征者・わたしの躯の重みを支える
わたしの足跡でなければならない
点々とつづき点々と消えまたつづく
わたしの生命の証しでなければならない
狼が吠えている
狼があらゆる闖入者を拒んでいる
わたしの願望のために
砂と星の領域を守って立っているのが見える
かたむく月 かたむく月
わたしも宣教師も
女中もひとりねの眠りにおちるだろう
毛皮の男はいつ戻るか
舟の竜骨のようなたくましいその男を
わたしは信頼して待つ
明日という朝 あさってという朝

3

タクラ・マカン砂漠を横断するキャラバンがあるときいて
わたしの宿を一人の老人がおとずれた
このからすのようなだみ声の老人
彼はわたしの目的を探りにきたのかも知れぬ
突然 流沙の中に永遠に姿を消した
死の都の財宝を
わたしたちが発見にきたのだと思っているのだろうか
老人は語るのである
若い頃の恐ろしい体験を
悪霊がいまなお廃墟の周囲にとどまり
黄金探求者たちを死にみちびく
みずみずしい果物一つ盛られてない皿
あざやかな満月の皿
そのまえで渇きながら黄金探求者は死んで〔ゆ→行〕く
半身は砂にうずもれ
あとの半身はつめたい金銀の器具におおわれて
山猫のむれが鳴く
じゃこうねずみのむれが鳴く
はじめは山猫がその人形のような餌食をみつける
次にじゃこうねずみのするどい歯が噛む
骨のなかの肉を
肉のなかの骨を
砂のなかの髪の毛を
暗のなかの食事はしずかに行われる
砂のうえの食事はしずかに終る
それから幾百年後に
別の黄金探求者たちは財宝のかわりに
別のものをみつけ出すだろう
奇妙な色と形をしたたくさんの支那ぐつが散乱しているのを
手にとろうとするとき
支那ぐつはたちまち塵のごとくくずれ
あとかたもなくなってしまう
……………………
老人が語りおわるころ珍しく雨がきた
わたしはこの口碑・伝説を一笑に〔附→付〕すことはできない
だがわたしの危険な旅行は中止されぬだろう
わたしには水平線の彼方に
美しく起伏する砂丘の鼓動が魂にひびいてくる
わたしのロマンチックな仮説が〔ベタ→全角アキ〕未知の世界
未知の空間へ記録されるかもしれない
もし不幸な運命がわたしの立っている砂の上
この砂の下へしのびよらなければ

4

わたしはここ数日
輻射熱と大気のなかにある塵の量と
温度の密接な関係を調査して暮す
宣教師は
すさまじい砂嵐の吹かぬかぎり
印度の金融商人の夜のみだらな酒宴によばれる
踊る女のへそにはめた虎眼石が輝く
深くて戻るすべのない闇
わたしはいまだかつて宣教師が祈りをあげているのも
土民の病人の看護する姿もみとめない
彼も一度は心をこめて祈る時がくる
みずからが突然の死にくびられる時
滴れない桃のしずく
滴れない梨のしずく
土民のかきならすジイザーという楽器を
女中が天幕の入口で奏でている
刑罰をうけた人間の魂がもつメランコリイ
水槽のなかの水が少しずつ泡だつような夜だ

5

毛皮の男が戻ってきた 八頭のらくだをつれて
それぞれのらくだの背につまれた乾草の匂いは甘く
わたしは緑地地帯の涼しい水が快く回想される
パンを焼くマラル・バシイの村の景物とともに
毛皮の男は白楊樹の太い幹へ
斧を一撃うちこむとその下へ寝る 〔生→い〕きづいている毛皮
大小さまざまならくだを円形につなぐ
蘆を気ままに食べるのをみながら
わたしは一箇の絵を観賞しているやすらぎをおぼえる
女中は恋人にふたたび会えたようにはしゃぎ
毛皮の男のために食事の準備をする
卵を割り マカロニを妙め
一羽の鶏の首を斧で断つ
わたしにはこれらのこともまた牧歌的な絵だ
何も始ってはいない 〔燈→灯〕をめぐる幾つかの大きな蛾
どうどうめぐりをくりかえす迷える蛾
それすらわたしたちの運命の暗示とは考えられぬ
わたしは生きて目的を果すであろう
天幕の入口からただちに砂漠へつづいている行程
これから幾日かわが愛すべき砂
わが憎むべき砂
未知の森 未知の空
未知の河 未知の水平線
未知の世界を進むためには
たがいに頼らなければならないわたしたちいきものたち

6

砂漠の年代記に記載されるべき日
わたしたちは出発する
門出を祝福する数十枚の支那の青銅銭が空へまかれた
わたしはらくだの背に乗りながら
コンパスを未知の方向へ確信のうちにのばす
宣教師は病気だといつわって去った
彼は今 屋根に集る群集の一人として見送るだろうか
遠ざかる屋根 遠ざかる人
遠ざかる泉
アジ〔ヤ→ア〕の美しい春だ
荒涼とした砂漠へ向う
わたしたち悲劇のキャラバンの鈴がひびく
八頭のらくだのつけている鉄の舌をもつ鈴
みちびきの鈴よ 弔いの鈴よ
不吉であれ 幸運であれ わたしたちはどこまでも
ともに旅するであろう
アジ〔ヤ→ア〕の美しい春を

7

北東風は終日吹きつづけ
空には星のかわりに砂がながれる
すべての植物類が影をひそめるころ
わたしたちは巨大な砂丘の迷宮にとじこめられた
滑る砂 らくだの足を沈める砂
水槽を積んだ背高らくだがころんだ
十五呎もある斜面で荷をおろしてらくだを休ませ
飼料の蘆の葉を与える
わたしたちは少量の水でのどをうるおしニッキを噛む
黒い綿毛のような雲の彼方に旧い河床を発見した
毛皮の男が先頭のらくだの上で叫んだ
北方に一時進路を変えよ
わたしのらくだが続く 女中のらくだが続く
荷物を積んだ五頭のらくだが続く しんがりを犬がおりる
再び砂丘が十呎の高さで疲れたキャラバンをとりかこむ
落日の波形の影がすべての砂丘の頂きを走る
やっと平坦な塵の上に出る 羊毛のようなやわらかい塵
ときたまらくだの蹄にふみくだかれる塩の結晶の不気味な音
わたしたちが野営地につく前に夜がきた
毛皮の男と女中が井戸を掘り
そのまわりを犬と鶏が深い関心をよせて見守る
井戸をほること そしていのちの水を得ること
これがわたしたちの金科玉条
生きること 三人の人間 八頭のらくだ 一匹の犬 これら生きものがいきること
今夜は水が得られるであろうか 蜜のように甘い水が
明日は復活祭だ

8

わたしたちは未踏の大砂漠にさしかかりつつある
こころよい西の微風 青空の反射にかがやくあざみの花
エシル・コールとよばれる「緑の湖」はどこにあるのか
毛皮の男も女中も知らない まぼろしの湖よ
ここで羊の最後の一頭を屠殺し 祝福された食事をする
血と屑肉は犬に与えた
翌日の真昼 天幕を取り外したら 敷物の下から
一吋半のさそりがとびでたのに驚く
今日は美しい渓谷と沼沢地を踏破し北東方へ進路を変えた
鷹が舞っている ライフルで撃つ 鷹は孤立した山へ去った
午後の沼の岸べは蛙の鳴き声 雁の叫び
わたしにとって長くない地上の楽園となろう
毛皮の男と女中は水浴びから戻らない
わたしは妻と子のための手紙を書く
妻と子のすきなタマリスクの花の匂いをこめて
とどかないかも知れない故に深い愛のことばを告げる

9

この人間の棲まぬ果で一人の男に出会う
塩を求め山中へ入って行く孤独な〔全角アキ→トル〕塩採取人が地上での最後の人間
新鮮な水を得ることのできる最後の土地
魅惑の渓谷を発って十数日を経た
砂丘は粘土の地表へ砂を灌ぎ灌ぎ はるか南西へ拡っている
黒い蝸牛にも似たキャラバン
わたしたちはすすむ すすむ 目的地を指し
千度も千歩を行く
岸べなき砂の大洋〔[おおうみ]→トル〕 黄色い大波 熱い水脈
犬〔と羊→トル〕が狂気のごとく水槽に近寄る
女中も狂気のごとく渇きをうったえて哭く
千の針に刺された朝の太陽 盲いて行くわたしたちの心臓
なめる黄金の水 水のなかの黄金の舌
この夕刻以後らくだには一滴の水も与えてやれぬだろう
見あげる砂の頂きにはわたしたちの荘厳なる墓地
雲のなかに消える
死んだ二頭のらくだのため
いまわしくも生きのこるわたしたちのため
蹌踉として永遠の砂丘をよじのぼるらくだたちよ
葬列の鈴を美しく鳴らせ
彼方の氷にとざされたる父なる山よ
そのゆたかな氷と雪を〔溶→とか〕せ
女中は最後の一滴の水まで盗み行方をくらます

10

それから幾日後 一羽の鶺鴒がとんできて希望をめざめさせる
毛皮の男はらくだの尿を酢と砂糖をまぜてのんだゆえ
恐しい嘔吐のため瀕死の状態にいた
わたしは〔水槽を持って→水を求めて〕死のキャラバンを離れる
目印のカンテラが砂の表面をしずかにしずかに照す
まどろみと幻想のうちに水晶の水とライラックの匂いをかぐ
たえずはいずり歩く わたしはミイラの末裔
コータン河の森の方向に
羊飼のかがりびでも見えぬであろうか
いまこの沈黙の夜がキャラバンの最後の場面なのか
否否わたしにはみちづれがある
頭上の星 鋼鉄の精神 鋤の柄の杖
東南の方角が霧に巻かれているのが見えた
次に灌木と葦のくさむら
ついに河岸にたどりついた時
わたしの跫音に鴨がとび立ち しばらくして水音が聴える
新鮮でつめたい美しい水
鴨がこの水の上に憩うていたのすら非常な冒涜に思われた
わたしは脈搏を計りそれからのんだギリシャの神々の美酒を
未来は茫漠として微笑む人生の悲惨な行事が空白になる一瞬
わたしは裸も同然で何一つ水を入れるものがない
混乱のなかの天の啓示
わたしは防水靴にいっぱい水を充たし
月光の林のなかを死につつあるキャラバンの方へ戻って行く
聖なる靴 一人の生命を救った この創造主 靴屋に幸いあれ

11

わたしは故国への帰路につく
ゆれる船 かたむく帆柱 さらば陸地よ さらば砂漠よ
  「そこでは〔、→全角アキ〕人間の意志も水流の巨大な力も〔、→全角アキ〕同様にそ〔ベタ→改行して二字下げ〕の狂暴〔改行→次行をベタで追込〕
  さを征服し得ない〔。→全角アキ〕恐るべきタクラ・マカン砂漠〔ベタ→改行して二字下げ〕が地上の森羅〔改行→次行をベタで追込〕
  万象を支配する神の名において宣言する〔。→全角アキ〕〔ベタ→改行して二字下げ〕《この地まで来れ〔、→全角アキ〕〔改行→次行をベタで追込〕
  されどこの地より進むなかれ この〔ベタ→改行して二字下げ〕地において汝らほこらしげ〔改行→次行をベタで追込〕
  なる波よ 永遠に止れ》」

                〔(本稿より八十行を削除して九六〇年五月一一日NHKより放送)→トル〕 


冬の森(未刊詩篇・11)

初出は《朝日新聞〔夕刊〕》(朝日新聞東京本社発行)1965年1月5日(28377号)五面、本文新聞活字一倍扁平17行1段組(コラム)、14行。初出・絵「待つ・海老原喜之助」。

そのところに月は満ち
マスクした枯木の梢が楕円形に
ひとりの幼児を囲んでいる

火花の記憶のなかに
ささげられた食物の世界
この青みがかった幼児の内海で
肉をかぶっていく骨が見える

フクロウの金環の爪でさかれた
母の口は暗く
それは名づけようもない過去

未来とは羊歯のかたち?
鉤のウサギの血を吸う雪?
幼児は問いつづけ
ついに大声になる


スワンベルグの歌(未刊詩篇・12)

初出は《婦人公論》(中央公論社発行)1969年2月号(54巻2号)の〈MY POESY まい・ぽえじい・2〉〔PETIT PETIT(プチプチ)のコーナー、二二○〜二二一ページ〕、本文8ポ20行1段組、34行。初出「イラスト・前田常作」(スミ・アカの2色刷)。初出註記「*スワンベルグ〔以下なし〕」。《ユリイカ》(青土社発行)1973年9月号(5巻10号)の〈吉岡実新詩集 神秘的な時代の詩・抄〉に改稿再録(一六八〜一六九ページ、本文8ポ26行2段組)、末尾「注記/詩集『神秘的な時代の詩』は、ここに掲載された作品のほかに、すでに思潮社版『現代詩文庫14・吉岡実詩集』に収められている「マクロコスモス」「フォーク・ソング」「夏から秋まで」「立体」および、現代詩手帖に発表された「わが馬ニコルスの思い出」などを含み、湯川書房より刊行される予定である。」

ものの成熟について
ひとは考えるべきだ!
桃が籠のなかで
甘いビラン状になるとき
老人司祭の死の舌が必要か?
ひとりの男と女の恋〔ナシ→は〕〔改行→追込〕
暁の熱い舟をつくり
そこでももいろの花火をかぶる
それらはきっと
すすまず浮かばず
聖なる母の毛のかたまり〔をすべる→の間をさまよう〕
星も輝かない
ももいろの氷の世界〔ナシ→にとじこめられる〕
ももいろの中年〔ナシ→の鳥〕
ゆがんだ弓なりの
やがて美しい五月が来るだろう
緑の布の上に
両側から吊〔ナシ→る〕される
なよなよとした双曲線の乳房
〔青空の孔から→夕日のなかの〕
〔ああなやましく→なやましい頭韻〕
〔想起せよ→トル〕
〔ナシ→その〕花模様の〔一角獣→花に〕
水をたらす
ビニールの漏斗で
〔ナシ→ひとは老衰すべきだ!〕
〔ナシ→錫の皿を廻し〕
〔ナシ→もろもろの〕ももいろの電話機の声
それから深夜
それから〔レモン→擬似果実〕
それから涙
暗い靴下をはいて
さびしい少年が来るんだ!
遠景の円柱を廻って
包帯のなかの処女性を
求めて〔・・・・・→……〕

〔※スワンベルグ→トル〕


序詩(未刊詩篇・13)

初出は寺田澄史作品集《がれうた航海記――The Verses of the St. Scarabeus》(俳句評論社刊)1969年5月15日、八〜九ページ、本文9ポ1段組1行アキ、3行。

うんすんかるたを想起させる

和洋折衷の精神と色彩をもつ

微小にして壮大な浪漫の世界


序詩(未刊詩篇・14)

初出は志摩聰句帖《白鳥幻想》(俳句評論社刊)1969年6月1日、八ページ、本文9ポ四分アキ1段組、2行。初出は対向の九ページにイラスト。「飾画:大沢一佐志」。

白地へ白く白鳥類は帰る

ありあけの美しき紫肉祭


絵のなかの女(未刊詩篇・15)

初出は《別冊一枚の繪》(一枚の繪発行)1981年10月(4号)〈花鳥風月の世界――新作/洋画・日本画選〉の〈第四章 月〉一八六ページ、本文12級1段組、18行。初出註記「本誌のための書き下ろし/●よしおか みのる(一九一九― )東京 詩人 H氏賞 高見順賞 戦後詩の芸術至上主義的な詩の不気味な魅力をたたえる。シュールレアリスムの絵画の美しさに近い面白さのある一篇。」(無署名)、初出は詩篇の上部に「弦田英太郎 青い首飾り 6号 油絵」がカラーで掲載されている。

《別冊一枚の繪》第4号〈花鳥風月の世界――新作/洋画・日本画選〉(一枚の繪、1981年10月1日)掲載の吉岡実の未刊詩篇〈絵のなかの女〉のページ
《別冊一枚の繪》第4号〈花鳥風月の世界――新作/洋画・日本画選〉(一枚の繪、1981年10月1日)掲載の吉岡実の未刊詩篇〈絵のなかの女〉のページ

「かげろうは消え
黄蜂はかえって行く」
野の丈なす草むら
そこでひとりの女が腰をひねった

地母神
イナンナの妹のかくしどころの闇から
蒼白なる魚のように
「賢者」や「愚者」がうみおとされた
「間接的(空間)世界」
にがり[、、、]や泡で形成されつつある

夏もたけて
「鳥が絵のなかの鳥」でありえても
「女が絵のなかの女」であるとはかぎらない
テーブルの端にローソクを燃やし
ドリアンを食べる女を抱く
荒らぶる魂の男は淋しい
庭の石床の上をはいまわりつつ
「ねずみ花火は消え……」


白狐(未刊詩篇・16)

初出は《現代詩手帖》(思潮社発行)1984年6月号(27巻6号)の〈特集・詩の未来へ〉三〇〜三二ページ、本文9ポ23行1段組、42行。

いなりの屋根を降りる
          われらは無を漂ってはいない
          血のかわりに言葉を発する
金屑がとぶ
     バンソウコウをすべての
抽象物に貼る
      何の目的で人は生きるか
      バラ色の水にうかぶネズミの死骸へ問え
喩の〔敍→叙〕述を替える
        ザクロの外側では
        老人から子供までの笑い声
蚊帳を吊った川の洲へ
          われらは渡る
穀物を刈るために
        もしくは
領巾ふす蛇の魂をしずめに
            燈火をかかげた
頭上へ絵画の枠をつくる
           鋸に挽かれる十本の杉
           死ぬ時に書く十行の詩
足をそろえて冷たい母
          白狐
          それは呼ばれた
          ムシロのざらざらした世界へ
思った思おうとした
         あまさかさまの日々
将棋盤の上で
      美しい相のやまとは昏れよ
のどかに
蜂をリンネルで
包む学者を見たことがある
            われら人生派は今も
自然を過して
      意味をつくる
商人は好きな葛湯をすすり
            夏の午後は入浴す
見えるさわれる
開かれる事物はどこへ
          こんかい
          コン・クワイ
                われらの奏でる嬉遊曲
姉妹を水門の上に立たせる

*「現代詩手帖」二十五周年記念号に是非とも作品を寄せよ、との小田久郎氏の要請をこばみがたく、十余年前の自動記述的な草稿に、若干の手を加え、『薬玉』の詩篇と同じ形態をととのえ、ここに発表する。     五月九日


亜麻(未刊詩篇・17)

初出は《文藝春秋》(文藝春秋発行)1986年5月号(64巻5号)八九ページ、本文8ポ13行1段組(コラム)、10行。

「赤と緑の線で出来た
          溝の中に放りこまれている」
男と女
   「メリーはジョンを愛している
    ジョンはメリーを愛している」
                  けれど内側は覗けない
絵画や音楽のように
         男と女は宗教的な祭儀を行う
「一つの丘みたいなもの」
            亜麻は風になびくほど成長する


休息(未刊詩篇・18)

初出は《現代詩手帖》(思潮社発行)1987年9月号(30巻9号)の〈澁澤龍彦追悼〉一四〜一五ページ、本文9ポ23行1段組、38行。

隣家の主婦がいそいそと
           〔思考の腐蝕する穴〕
円天井のアトリエに
         食べ物を届けに訪れる
「ゴムの浮袋のような
          寝台のうえで
パオロ氏は眠っている」
           この画家の視線はいずこへ
描きかけの画布を覗く
          「意味のとぎれる
       境界線」
硝煙のなかで
      「同じ側の脚を二本
       いっぺんに持ちあげている」
負傷した馬が見えた
         〔透視図法〕
燃える樹木
     傾く塔
ここでは遠近法を無視せよ
            死んだ兵士の靴の底の
            星形の鋲が迫って来る
「死体は仮の消滅で
         風景に似ている」
草はぼうぼう繁茂し
         水はこんこんと湧き出る
                    日々の運行
寝食を忘れるパオロ氏の
           「あの眼は
                どんなものの上にも
                止まることは許されない」
        〔イデアの世界〕
「女を夢みる者は
        馬を夢みることはないだろう」
少女のすべすべした
         「からだの表面は
                 未完の竹籠」
秋の過剰なる
      光線を宿している

              *澁澤龍彦と土方巽の言葉を引用している〔ナシ→。〕


永遠の昼寝(未刊詩篇・19)

初出は《永遠の旅人 西脇順三郎 詩・絵画・その周辺》(新潟市美術館刊)1989年4月1日、〈西脇順三郎賛歌〉一三一ページ、本文10ポ2段組、25行。自筆詩稿が《永遠の旅人 西脇順三郎 詩・絵画・その周辺》展(新潟市美術館、1989年4月1日〜5月14日)に展示された。

コオロギが鳴いて
        (宇宙の淋しさを
  告げ始める)
        秋の日の野原を行く
わたしは旅人
      (茶室的な岩から出る
 泉を飲む)
      心の淋しい時は
意識の流れに沿って
         漂泊するんだ
(非常な美人の医師が来る)
             赤と白の
ホウセンカの咲く
        ここは故里かも知れない
聖賢の書を読み
       わたしは思索にふける
(いかにして
      死を諦める
           ことができるか)
旅籠屋のつめたい畳で
          昼寝をしたようだ
(誰かがわたしの
        頭のうえを
             杏の実をもって
        たたいた)


雲井(未刊詩篇・20)

初出は《鷹》(鷹俳句会発行)1989年10月号(26巻10号)四六〜四九ページ、本文五号14行1段組、3節47行。カット:内田克巳。

1

(とろとろと眠りこむ
          〔牧神〕ではなく)
森の沼のほとりで
        (捕虫網をかざしてゆく
長い髪の寛衣の少女)
          を見かけたような気がする
わたしは灌木の間を
         〔雨後の茸[くさびら]〕を探しまわった
(明暗の境いを越え)
          さまよいつづける
(樹木の霊や
      鳥獣の魂)
           どんなものの上にも
止まることは許されない
           〔イデアの世界〕
わたしはなぜか思う
         (書かれた
    〔言葉〕は
         〔骨〕のように残るだろうか?)
手の届かぬ高みに
        〔月輪〕のように
                〔かたつむり〕がいる

2

(支那人は猫の眼で
         時間を読む)
狂える隠者の詩句を
         わたしはくちずさむ
波に洗われる
      海鳥の足跡
           死者の〔泥履[どろぐつ]〕
       紅い糸屑
今の世の〔空〕の
        〔透視図法〕を視よ
〔雲井〕に懸かる
        (虹もまた炭化する)

3

(しずこころなく散る)
           〔黄葉〕や〔籾殻〕
    そして〔記号〕
           ここは〔沙庭[さにわ]〕かもしれない
(燃えたり 凍ったり)
           する〔星辰〕の下で
〔煮果物[コンポート]〕を食べながら
           (蓮のつぼみ
     壺のすぼみ)
           を呪文のように唱えている
(その〔少女〕はまだ
          完全に〔地上〕に
降り立っていない)

             *瀧口修造そのほかの章句を引用している。


沙庭(未刊詩篇・21)

初出は《文學界》(文藝春秋発行)1990年1月号(44巻1号)九ページ、本文9ポ22行1段組(コラム〈扉の詩〉)、20行。

灯明のともる
      〔白地[あからさま]〕の座敷で
巫女のように
      〔紙衣[かみぎぬ]〕を着て姉はつぶやく
(火ねずみの
      かわごろもがほしい)
祖父母は
    染物用の大樽の向う側へ
〔地蔵[かくれたもの]〕
    として祀られた
離れ家で父は〔屯食[おにぎり]〕をほおばり
    母は〔毛糸玉〕に歯を立てる
(いつだって
      人間の形を所有したこと
のない家系?)
       ぼくと妹は掃除を了えて炬燵にいる
藁火のにおい
物の倒れる音
      (淡雪を頭にのせ〔神様〕が
家のなかに入って来る)


付録:吉岡実未発表詩篇本文校異

吉岡実は1990年5月31日、入院先の病院で亡くなった。歿後、最晩年に浄書したとみられる〈日歴(一九四八年・夏暦)〉が《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》(書肆山田、1996年11月30日)に発表されたが、それ以前も、それ以降も未発表の詩篇が活字化されることはなかった。私は《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)巻末の〈吉岡実資料〉作成のために思潮社の依頼を受け、吉岡実夫人陽子さんから借覧した関連資料を調査するなかで、吉岡実自筆の草稿から2篇の未発表詩を発見した。〈寒燈〉と〈ぽーる・くれーの歌〈又は雪のカンバス〉〉がそれである。以下に、〈吉岡実未刊詩篇本文校異〉と同じ体裁に整えて2篇を掲げる。さらに、吉岡実の創作とは見なさなかったため番外的な扱いになるが、北園克衛詩集《固い卵》の詩句の引用だけから成る〈詩人の白き肖像〉を補遺詩篇として掲げ、3篇を本稿の付録とする。吉岡の生前に刊行された単行詩集収録の詩篇262篇、未刊詩篇21篇、未発表詩篇2篇――以上が今日までに知られる吉岡実の「全詩篇」である。総数285篇。吉岡実詩の金字塔である《吉岡実全詩集》は、そのうち単行詩集収録詩篇のすべてと未刊詩篇15篇の計277篇を収録している。未発表詩篇(および補遺詩篇)に■印を付して、目次の体裁で掲げる。

未発表詩篇 1949(および補遺詩篇)

寒燈(未発表詩篇・1)
ぽーる・くれーの歌〈又は雪のカンバス〉(未発表詩篇・2)
詩人の白き肖像(補遺詩篇・1)


なお、未発表詩篇の本文〔 〕内は原稿上の手入れをそのまま起こした結果、衍字がある。

………………………………………………………………………………

寒燈(未発表詩篇・1)

B5判ほどのノートのようなものが裂かれて、この紙葉だけになっていたと記憶する。吉岡実自筆。署名なし。11行(手入れにより10行)。1949年9月20日脱稿と見られる。第八詩句「黄なびた蛙のあしはたれさがり」が〈風景〉(B・10)に流用された。詩篇全体に大きく「×」が付されている。誰ひとり詩を語らう友もない状態で詩作を試みた吉岡は、〈寒燈〉の写しを京都の青山雅美に送っている。戦時下の満洲で互いに詩人と画家と名乗りあって以来の旧友に。

吉岡実自筆の詩稿〈寒燈〉(1949年9月20日脱稿か)〔モノクロコピー〕
吉岡実自筆の詩稿〈寒燈〉(1949年9月20日脱稿か)〔モノクロコピー〕

古風な灯の下で
魚の鱗をたんねんにめくり
密封された女の心臓をさぐ〔つてゐ→る〕る
〔金銀の粉のただよふ夕べ→トル〕 〔終演の刻→トル〕
わたしはむちゆうで
なまめかしい傷ぐちへふかく沈む
月をつかんでしまふ
黄なびた蛙のあしはたれさがり
女の心臓の一帯には
もはや冬枯の草がしげり
折れかさな〔つてゐる→つてゐた〕

 〈二四、九、二十〉
 丸中数字で「28」 〔薄く〕丸中数字で「45」
 (雅美へ二四、十、二十送る)
 丸中数字で「十五」


ぽーる・くれーの歌〈又は雪のカンバス〉(未発表詩篇・2)

用紙は〈寒燈〉に同じ。吉岡実自筆。1949年9月23日脱稿と見られる。20行。冒頭に晩年の筆跡で「吉岡実」と署名がある。

吉岡実自筆の詩稿〈ぽーる・くれーの歌〈又は雪のカンバス〉〉(1949年9月23日脱稿か)〔モノクロコピー〕
吉岡実自筆の詩稿〈ぽーる・くれーの歌〈又は雪のカンバス〉〉(1949年9月23日脱稿か)〔モノクロコピー〕

この眠りの雪の地方にも
きんぽうげの春がきたやうな気配
春といふより猫の毛のしつとりした秋だ
澄んだ空から何もおちてこないひとところ
ひよろひよろのびる蔓があり
朝顔のやうな鳥が卵の萼をつけたまんま
こつそり咲いてしまつた
花のやうに〔わびし→明る〕い鳥
鳥のやうに鳴かない花
どつちがどつちでもかぎりなくさびしい
風があるのかないのか
光があるのかないのか
どこにもよけいないきものがゐないので
さつぱりわからない
だけどポール・クレーの瞳だけが
すつぽりとこのしづかなものうい風景を
収めてとじてゐる
雪のしずくのしきりにたれてゐる
その外側はまだ薄あをい
ゆふぐれだ

 〈二四、九、二三〉
 〔薄く〕丸中数字で「46」 丸中数字で「29」
 丸中数字で「十六」



詩人の白き肖像(補遺詩篇・1)

初出は吉岡が《北園克衛全詩集》(沖積舎、1983年4月3日)の栞に寄せた〈断章三つと一篇の詩〉から。本文11級31字詰24行2段組、33行。〈詩人の白き肖像〉は全篇が北園克衛詩集《固い卵》(文芸汎論社、1941年4月10日)の引用から成る。吉岡は「詩集《固い卵》に収められた二十五篇中の十六篇の詩から、一行から四行ほどの章句を、抽出して綴り合せたものである。いってみれば、わたしの内なる(北園克衞像)である」(前掲栞、九ページ)と書いている。原文である《固い卵》(正字旧かな使用)の詩句と校合し(〔吉岡詩←北園詩〕)、数字の後に引用元の北園詩篇の標題を補記した。参考までに、《固い卵》収録詩篇の標題を掲載順に追込で掲げる。なお〈 〉で括った詩篇は吉岡が〈詩人の白き肖像〉に引いた作品を表す。
〈悪い球根〉、〈アコイテスの歌〉、〈透明なグロテスク〉、緑のアクシヨン、Uボオトの線、硝子のコイル、〈インクの蛇〉、アスピリンの鳩、明るいシヤボン、〈白いドクトリン〉、〈一直線の頭〉、朝のピナクル、〈午前の肖像〉、固いパルク、〈ヒヤシンスの季節〉、新しい土地、〈半透明のカスケツト〉、溶ける貝殻、〈明るいドリアン〉、〈鉛のラケツト〉、〈泥のブロオチ〉、〈生きたキヤンドル〉、〈鉛筆の生命〉、〈休暇のバガテル〉、〈透明なオブヂエ〉


1 〔〈インクの蛇〉〕
雲雀の鳴いてゐる川のそばに
少年達は笛を吹き
やがて怠けて水の中に頭を漬ける

2 〔〈白いドクトリン〉〕
僕の影が葡萄の樹のやうにくねり

3 〔〈一直線の頭〉〕
南瓜畑の道をいそいでくる
町に出て
水を撒いた石疊の上をあるき

4 〔〈休暇のバガテル〉〕
ねぢれた椅子にもたれ
パインア〔ッ←ツ〕プルを〔食←喰〕ひ

5 〔〈鉛筆の生命〉〕
あ ここには
最早なにもない

6 〔〈午前の肖像〉〕
古典に近い
釦の〔よ←や〕うな人よ
水滴の
思ひとともに

7 〔〈透明なオブヂエ〉〕
ペンキの横の
ラケ〔ッ←ツ〕ト
あるひはトランク

8 〔〈ヒヤシンスの季節〉〕
〔涼←凉〕しい眼鏡をかけ
朝のミルクを飲み

9 〔〈悪い球根〉〕
枯れた柳の下の錆びた自〔転←動〕車にもたれた

10 〔〈半透明のカスケツト〉〕
眉の細い友よ

11 〔〈明るいドリアン〉〕
胡桃の皮を剥ぐ娘らの頬と
豌豆を浸すとき

12 〔〈生きたキヤンドル〉〕
風化する貝の上を

13 〔〈鉛のラケツト〉〕
肥えた思考は進まず

14 〔〈泥のブロオチ〉〕
思考の表面がキ〔ャ←ヤ〕ベツのやうに縮れる

15 〔〈透明なグロテスク〉〕
それは充分に退屈である

16 〔〈白いドクトリン〉〕
いきなり電球に墨を塗る

17 〔〈アコイテスの歌〉〕
この詩は亀のやうに心を暗くした
僕は亀の足の形をした匙で砂糖の重さを量り
同時に神の重さをも量〔っ←つ〕てゐた


吉岡実と病気あるいは吉岡実の病気(2017年10月31日)

吉岡実と病気あるいは吉岡実の病気について考察してみたい。まず、「病気」ならびにその周辺が吉岡実詩にどう描かれているか、全詩集に登場する順で見ていこう。いずれも各詩篇から該当する詩句を抜いたものである。

患者は白い窓掛に指紋を忘れ
朝の水銀にいのちを計られる(〈病室〉@・18)

第一詩集《昏睡季節》(1940)では、吉岡固有の声というよりは、左川ちかの声色で歌っている、というふうにきこえる。

白い橋で 病める女の あしうらに
かくされた 一枚の骨牌を やぶき
羊をつれて 私は秋の鏡を
さまよい 霧の隙間に 木曜日の
靴下を吊れば かなしみは
とおく 林檎のなかに忘れた(〈相聞歌〉A・11)

第二詩集《液体》(1941)では、秋の冷気を漂わせる息の長い調子を展開していて、《昏睡季節》とは別人の感がある。

ぼくは病気になりきり 毛布の下でえびの真似をしている(〈冬の絵〉C・6)

四人の僧侶
一人は枯木の地に千人のかくし児を産んだ
一人は塩と月のない海に千人のかくし児を死なせた
一人は蛇とぶどうの絡まる秤の上で
死せる者千人の足生ける者千人の眼の衡量の等しいのに驚く
一人は死んでいてなお病気(〈僧侶〉C・8)

らっきょうを噛る それがぼくの好みの時だ 病棟の毛布の深いひだに挟まれ ぼくは忍耐づよく待つ 治癒でなく死でなく 物の消耗の輝きを(〈回復〉C・12)

はげしく見開かれた馬の眼の膜を通じ
赤目の小児・崩れた土の家・楊柳の緑で包まれた柩
黄色い砂の竜巻を一瞥し
支那の男は病患の歴史を憎む(〈苦力〉C・13)

すべての女性の子宮を叩く
兵士の半分はやわらかく半分は病気で固まる(〈人質〉C・17)

察するところ女は人を殺してきたらしい
もし病弱な夫でなければ
じゃがいもの麻袋をかるがる担ぐ情夫(〈感傷〉C・18)

死児の発育と病気について
すべての医者は沈黙した(〈死児〉C・19)

商人の老獪な算術が病気をつくる(同前)

死児の病気の経過は
食物と父の怯懦の関係で
悪化の一途をたどり
最後は霧の硝煙で消える(同前)

第四詩集《僧侶》(1958)では、「ぼく」の「病気」はほとんど「孤独」と同義語である。一方で、僧侶や死児にとっては、死の底にあるさらに深い、さてなんと言えばよいのだろう、災厄のごとき状態を呈している。

さびしい裸の幼児とペリカンを
老人が連れている
病人の王者として死ぬ時のため
肉の徳性と心の孤立化を確認する(〈老人頌〉D・1)

ともあれぼくには別のことが気がかりだ たまたま彼女たちが病気になった場合だ(〈首長族の病気〉D・11)

女がそこにひとりいる
乳房の下半分を
太藺や灯心草と同じように
沼へ沈め
陸地の動物のあらゆる嘴や蹄から
女のやさしい病気をかくして
微小なえびのひげに触れている(〈沼・秋の絵〉D・21)

犯行者の持つ大きな模様 その鮮明な赤や黒の縞がとぐろまく地図の上を 向き合った人 向き合った動物 笑えば恐しく長い歯を現わす 外部から把えられた肺のなかの病気(〈修正と省略〉D・22)

第五詩集《紡錘形》(1962)では、「病気」はとりわけ女たちに抱え込まれた「実存」の別名ではなかろうか。

半病人の少女の支那服のすそから
がやき現われる血の石(〈珈琲〉E・3)

わたしがいま描く画面とはなに?
生き方とは関係なく
運転手のくびを絞める
ひとりの少年の金メッキの脱腸帯へ
接近する
それは病気のなかでそだつ
野生の桃(〈春のオーロラ〉E・10)

凍る都会の学校で
孔雀の母をころして
ひとりの少女が歩いてくる
《柳よ泣いて》を歌いながら
見える美しい止血器
病熱そのもの(同前)

自然な状態で
ぼくの絵を見ませんか?
病気の子供の首から下のない
汎性愛的な夜のなかの
日の出を
ブルーの空がつつむ(〈恋する絵〉E・15)

第六詩集《静かな家》(1968)では、「病気」は画布を充たす「大気」のごとき存在である。

それはたくさんの病人の夢を研究しなけりゃならん
〈退却してゆく臓器や血の出る肛門〉
わしも医者だから抒情詩の一篇や二篇は暗誦できる
今宵 生き損じの一人の老婆も無事に死んだし

かれこれテニス試合の時刻がくる
カメラと持てるだけの物を持って森まで行く
まっ白い弾むボールを追究する 悪寒するわしが見えるか
むきあった男女の間に生える カリフラワー 粉

この世に痛むものがはたしてあるか
わしが診察するのは鏡の中の患者の患部だけ
手も汚れず 悪臭もなく
でも疲れるんだ 鏡の表面にとどまるオレンジのように

〔……〕

血豆と乳房「それはただちに切開する」
それが終ったら力のかぎりあらゆる岩地を掘りかえせよ
何かが出る 何かに成るものが出る
そのときは看護婦を呼んで包帯をぐるぐる巻かせる

〔……〕

しかるべく手術をせん
しかるべく病巣なきときは
しかるべく印をつけ
しかるべく肉体を罰せん(〈『アリス』狩り〉G・12)

わたしは病気がち(〈田園〉G・14)

たしかムンクの絵の主題に
〈病める少女〉
というのがある(〈白夜〉G・23)

「罪深い魚は泳ぐ方角をまちがえている」
これは病人のうわごとだ(〈ゾンネンシュターンの船〉G・24)

第八詩集《サフラン摘み》(1976)では、「病気」は(偽の)自伝の一部に組みこまれている。

ぼくが半病人のひとりの少女を救うとき
洪水をながれる花と動物の頭
よろよろのぼる稲妻を見る(〈塩と藻の岸べで〉I・9)

第一〇詩集《ポール・クレーの食卓》(1980)で、「ぼく」は再び半病人の少女とまみえる。おそらくは、暗いオンドルのかげで老いた父に粟粥をつくっていた黒衣の少女と。

   祖父は眼をやみ
          祖母は膣をやむ(〈甘露〉J・14)

(青いカケスに肺病を負わせる)(同前)

第一一詩集《薬玉》(1983)で、祖父が陰茎ではなく眼を病んでいるのは象徴的だ。また「青いカケスに肺病を負わせる」は、《薬玉》の通奏低音ともいえるフレイザー(永橋卓介訳)《金枝篇》からの引用である。

人体の冬/燠炭のような病気の男が/足もとの柄杓で水をかけている(〈聖あんま断腸詩篇〉K・12)

第一二詩集《ムーンドロップ》(1988)では、「病気」は永遠の相の下、あたり一帯に蔓延しているようだ。

わたしはいまだかつて宣教師が祈りをあげているのも
土民の病人の看護する姿もみとめない
彼も一度は心をこめて祈る時がくる
みずからが突然の死にくびられる時(〈波よ永遠に止れ〉未刊詩篇・10)

砂漠の年代記に記載されるべき日
わたしたちは出発する
門出を祝福する数十枚の支那の青銅銭が空へまかれた
わたしはらくだの背に乗りながら
コンパスを未知の方向へ確信のうちにのばす
宣教師は病気だといつわって去った(同前)

この吉岡実詩最長の未刊詩篇では、結末における「わたし」の瀕死の渇きを宣教師が先取りしていると見える。出発前に宣教師が逃亡したことで「わたし」が生き延びたとも、そのせいで死に瀕したともいえよう。

ここで視点を変えて、吉岡実〈〔自筆〕年譜〉(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984)に現れた病気の記載を拾ってみよう。なお、末尾の( )内に出典を書いたものは吉岡の随想からの引用で、〈〔自筆〕年譜〉の記載ではない。

 大正十二年 一九二三年 四歳
九月一日、関東大震災に遭遇する。紅蓮の空を父に背負われて見る。避難先で肺炎にかかり、九死に一生を得る。

[大正十三年 一九二四年 五歳]
それは関東大震災の翌年の秋のこと、五歳の私は麻疹にかかり、バラック建の小屋に独り寝ていた。外国からの救済物資の赤ゲットをかぶり、共働きの両親の帰りを待っていた。心細く上気した幼児にとって、眼の前の空地に茂る、コスモスの花がなによりの慰めであった。(《「死児」という絵〔増補版〕》の〈幼児期を憶う一句〉)

 大正十五(昭和元)年 一九二六年 七歳
本所明徳尋常小学校に入学。二、三年生頃まで着物を着ている。四年生の時肋膜炎を病み、一学期休学する。

[昭和四十二年 一九六七年 四十八歳]
四月二十日 午後、澄さんと椿山荘へ。全出版人大会で永年勤続者として表彰される。〔……〕筑摩書房に入社してから、明日で満十六年。病気もせずよくやってきたと思う。(《「死児」という絵〔増補版〕》の〈日記抄――一九六七〉)

 昭和四十五年 一九七〇年 五十一歳
新春、肩に激痛、九段坂病院へ通院はじまる。

[昭和五十年 一九七五年 五十六歳]
〔……〕さて、昨年〔一九七五年〕の春ごろ、私は胃腸を病んだ。うつうつとしているその時、ふと「腸の先づ古び行く揚雲雀」が心のなかに浮んだ。これは実感的名句だと改めて思った。(《耕衣百句》の〈覚書〉)

 昭和五十二年 一九七七年 五十八歳
夏は天候不順で雨降りつづく。岳父和田芳恵発病、自宅治療の末、川崎駅前の太田病院へ入院する。

 昭和五十四年 一九七九年 六十歳
〔……〕秋、歯治療のため雪下歯科へ通院はじまる。

 昭和五十五年 一九八〇年 六十一歳
〔……〕大雨の日、虎の門病院で診察を受ける。悪質の病気ではなく安堵する。

上には吉岡実の病の記載を抜き書きしたが、一点だけ、岳父和田芳恵の病の記載をまぜておいた。というのは、ほかでもない、他者の病状について吉岡が最も詳細に書いたのが〈月下美人――和田芳恵臨終記〉(初出は《群像》1977年12月号)だからである。和田臨終の前日の10月4日、吉岡は仕事で鎌倉の澁澤龍彦宅を訪れていた(同夜のことは澁澤の随筆〈天ぷら〉に詳しい)。夜9時過ぎ、吉岡は長原の和田芳恵宅に行った。「私はクッションの替りに、おやじさんの背に沿って寝た。そして肩や腰を撫でさするより仕方なかった」(《「死児」という絵〔増補版〕》、一七三〜一七四ページ)。そして「肉親だけに看とられて十月五日午前一時三十二分、病人は死んだ。作家和田芳恵は死んだ。〔……〕みんなで、おやじさん愛用の紺の浴衣を着せた。私は遺骸を持ち上げながら、博多帯をきゅっきゅっと巻いた。背中はまだぬるい温みがあった。爪先はつんと天を向いていた」(同、一七四ページ)。

1990年6月1日付の夕刊各紙の報道によれば、吉岡実は1990年5月31日午後9時4分、急性腎不全のため東京都目黒区の東京共済病院で死去した。71歳だった。急性腎不全は腎不全のひとつで、急性腎障害とも呼ばれる。「具体的には、尿素などの窒素生成物が血液中に蓄積する高尿素窒素血症を生じる病態で、急激な腎機能低下の結果、体液の水分と電解質バランスの恒常性維持ができなくなった状態である。症状は食欲不振、悪心、嘔吐。治療を行わない場合は痙攣、昏睡へと進行する」(Wikipedia)という。人は、自身がどのような最期を迎えるのか、正確なことは誰にもわからない。吉岡は折りにふれて日記をつけていたが、死につながった最晩年の闘病期には書きのこしていないようだ。高橋睦郎の〈吉岡実葬送私記〉には、吉岡の病状をめぐってほかのどの文章よりも詳しい内容が記されている。以下にその経過を摘して、行頭に○印を付け、行末( )内に日付を補記する。さらに、吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉の「一九九〇年(平成二年)七十一歳」の項から、行頭に◎印を付けて該当個所に配する。

○咽喉の不調をいっていたようだが、食欲も普通にあり、さほど気にも止めなかった。(おそらく1989年10月21日)

○十二月になって電話すると、咽喉の不調が耳に移ったとかで訪問は延期になった。(1989年12月)

○年が変わって電話で新年の挨拶がてら体調を問うと、あいかわらず食欲がないという返事だった。(1990年1月)

◎一月、国立劇場で正月公演の歌舞伎を観る。「文学界」一月号に詩「沙庭」を発表(最後の詩篇となる)。

○電話口に出た陽子夫人の話で、経過はあまりいいとはいえないようだった。通院している共済病院の正月休み中に耳の自覚症状が再発し、そのうち食物が嚥下できなくなり、見る見る痩せた。夜もよく眠れないふうで、しょっちゅう起き上がっている。自分からバスに乗って共済病院まで行くほか、近所の病院にも、鍼の施療所にも通っているが、病因はわからない、最近は起居のたびに深い咳が出る、という。(1990年2月上旬か)

○〔書肆山田の〕鈴木〔一民〕さんから電話があったのは十五日過ぎだったろうか。心臓、腹部CT、胸部レントゲン、胃カメラを診てもらったがすべて異常なし、なお、咳の原因を知るため、医師の紹介で肺の専門家のいる東邦大学医学部付属大橋病院にレントゲン写真を持参して診てもらったところ、肺尖症の初期と診断された、という。(1990年2月15日過ぎか)

○二月二十日頃には声がかすれ、共済病院で声帯麻痺と診断された。(1990年2月20日頃)

◎二月、会田綱雄死去。声帯麻痺のため声が嗄れ嚥下力も落ち食欲が細る。

◎〔二月〕二十八日、道玄坂百軒店の道頓堀劇場へ行く(長年親しんだストリップ・ショーの見納め)。

○二月末には体重がついに四〇キロを割った。原因を知るための検査を繰り返すが結果はシロで、このことがかえっていらだちを強め、眠れない夜が続いた。(1990年2月末)

◎三月、共済病院で内科の精密検査を受け結果は正常。折笠美秋死去。

◎四月十五日、自宅で誕生日を祝う。りぶるどるしおるの一冊として『うまやはし日記』書肆山田より刊行。鈴木一民、大泉史世、宇野邦一が来宅。差入れの料理とワインで祝杯。近所に住む吉増剛造から復活祭のチョコレートの玉子と誕生日おめでとう≠フメッセージが届く。足腰弱り体重三七・五キロの痛々しい七十一歳。一週間で体重二キロ増えるが不調。足の甲が亀のように浮腫む。

◎〔四月〕二十二日、雨の中渋谷駅前で見舞いの飯島耕一夫人と妻が会い入院を勧められる。

◎〔四月〕二十三日、共済病院で検査の結果、翌日入院。腎不全のため週三回の人工透析を受ける。二四時間体制で中心静脈の栄養点滴。『うまやはし日記』弧木洞版限定一〇〇部、書肆山田より刊行。

○〔……〕二十四日深夜だったか鈴木さんより電話あり、体重が急に一キロ増え足にむくみが出たので、陽子夫人と共済病院に行って入院を要請、いったん帰されたあと、血液検査の結果、逆に病院側から電話があって緊急入院させたとのこと。腎臓透析を続けつつ原因究明、ということらしい。鈴木さんと連絡をとりつつ、確率五〇パーセントという恢復を祈るほかない。(1990年4月24日か)

○月末の電話で、何が起こってもの覚悟を決める。(1990年4月末)

◎五月九日、結婚記念日。初めての輸血。大泉史世から贈られた銀のスプーンでゼリーひと口食べる。

○吉岡さんから対面をいい出したのは、その日、陽子夫人が医師に尋ねた結果を、腎臓は今後よくなることはなく、透析には生涯通わなければならない、と伝えた結果らしい。(1990年5月11日)

○たしかに痩せたが、目にも光があり血色もよく、その感想を率直に口にしたが、気休めに聞こえたかもしれない。一日置きの透析の翌日は比較的元気なのだ、と後で聞いた。(1990年5月12日)

◎〔五月〕二十五日、白血球六〇〇から二〇〇に減少し個室に移され面会謝絶。

○二十五日深夜だったか、鈴木さんからの電話で、白血球が突如激減し、無菌治療室に入るところを心理的影響を慮って個室に移した由。(1990年5月25日か)

○二十八日にも電話で最終的段階に来たことを確認する。(1990年5月28日)

◎〔五月〕三十日、妻の夜の付き添いが許される。重態。

○逝去の三十一日は、〔……〕八時半頃、自宅待機中の大泉さんを電話で捕まえたが、今晩じゅうは持ちそうだというので安心して、〔……〕吉岡さんの臨終は九時四分というから、〔……〕(1990年5月31日)

◎〔五月〕三十一日、午後九時四分、急性腎不全のため永眠。臨終には妻の他、居合わせた鈴木一民、妻の親友辻綾子、従妹太田朋子が立ち会った。

◎六月一日、自宅で仮通夜。

◎〔六月〕二日、巣鴨の医王山真性寺で本通夜。

◎〔六月〕三日、葬儀。町屋火葬場で茶毘に付された。(以上、《現代詩読本――特装版 吉岡実》思潮社、1991、二五一〜二五四ページ、《吉岡実全詩集》筑摩書房、1996、八一〇ページ)

多くの読者と同じように、私は新聞紙上で逝去が報じられるまで、吉岡の病気のことはまったく知らなかった。ただ、1989年12月20日、つまり亡くなる半年ほどまえ、喫茶店トップ・渋谷駅前店の入口すぐ右手の席で13時から14時20分まで一対一で面談したおり(それが吉岡さんと話した最後になってしまった)、体調が優れないにもかかわらず会ってくださったのに、恐縮したことを憶えている。あのとき、吉岡さんはなにかを予期していたのだろうか。――15時から自宅近くの歯医者〔雪下歯科?〕に行く予定で、耳は中目黒の〔東京共済〕病院で治療しており、だいぶ痩せた(2キロ?)とのこと。黒革のコートに太い畦のセーターという服装(〈吉岡実との談話(2)〉)――。もともと小柄だった吉岡さんは、さほど痩せたようには見えなかったが、鼻をぐずつかせていて、風邪っぽいようだった。それでも快活で、半年後に亡くなるとはまったく予想できなかった。逝去の報に、天が墜ちたように感じたものだ。その日から27年半(といえば、吉岡さんが筑摩書房に勤務した期間に相当する)が経とうとしている。

吉岡実(40代前半か)〔出典:NHK人間講座 ねじめ正一《言葉の力・詩の力》日本放送出版協会、2001年4月1日、一三五ページ〕
吉岡実(40代前半か)〔出典:NHK人間講座 ねじめ正一《言葉の力・詩の力》日本放送出版協会、2001年4月1日、一三五ページ〕


吉岡実と金子光晴(2017年9月30日)

吉岡実は初の随想集《「死児」という絵》(思潮社、1980)を増補して〔筑摩叢書〕に収める際、「X」に32篇を追加する一方で、元版の「W」までに収録した〈ひるめし〉〈兜子の一句〉〈会田綱雄『鹹湖』出版記念会記〉〈不逞純潔な詩人――金子光晴〉〈吉田一穂の詩〉の5篇を除いた。曰く「ついては、意にみたない五篇を省いた」(〈あとがき〉、《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、1988、三七〇ページ)。吉岡はまた「この書物は、〔菊→A5〕判十ポ〔三四二→三五〇〕頁・布装上製凾入なので、当然ながら、部数も少く、当時としては価額も高かったものである」(同前、三六九ページ)とも書いている。元版の担当編集者だった八木忠栄の話だと、当初から増刷は想定せず、初版の製作部数を1200〜1300部に設定したという。それもあってか、吉岡実の散文大全として刊行時点でのあらゆる文章を収録せんとしたものと思しい(実際には、未収録の文章も散見されるが)。上記の5篇は総じて短文で(〔筑摩叢書〕の組体裁だと〈兜子の一句〉が1ページで、長い〈吉田一穂の詩〉でも3ページ、他の3篇は2ページ)、元版のゆったりとした組体裁(10ポ39字詰15行組)ならともかく、〔増補版〕の詰んだ組体裁(13級44字詰19行組)だと、ことさら短く見えたのかもしれない。ちなみに元版本文の組指定は吉岡ではなく、八木さんの手になる。〈ひるめし〉は興味深い食べ物随想だが(何軒かの店は、UPUが神田小川町にあったころ、よく通ったものだ)、この手の文章は〔増補版〕になく、吉岡はこうした傾向を封印したかったのかもしれない。兜子に関しては、後に執筆した〈赤尾兜子秀吟抄〉が〔増補版〕に収録されたが、会田綱雄・金子光晴・吉田一穂の三詩人に関しては、他に替わるものがなく、単に省かれた形になった。今回はその〈不逞純潔な詩人〉を手掛かりにして、吉岡実と金子光晴について考えたい。

初出〈不逞純潔な詩人〉(《週刊読書人》1960年9月12日号)の切り抜き(吉岡家蔵のスクラップブックのコピー)
初出〈不逞純潔な詩人〉(《週刊読書人》1960年9月12日号)の切り抜き(吉岡家蔵のスクラップブックのコピー)

不逞純潔な詩人――金子光晴|吉岡実

 戦後刊行された詩集《蛾》によって、はじめて金子光晴を知ったぼくにとって、どうしてこの恐るべき詩人をうまく語れるだろうか。ぼくにも理解でき、共感をさそわれるのは、臆面もない女への執着だ。《蛾》は、女の嬌慢と不倫、その肉性の美と醜の追求に終始して、永らくぼくを魅蠱した。
 それから《非情》・《人間の悲劇》・《水勢》という戦後の作品を読みあさり、《鮫》は比較的最近よんだ。高村光太郎、萩原朔太郎にない西欧と東洋の交感をぼくなりに感じた。笑われるかも知れないが、金子光晴の詩をよむとき、浪費のすさまじさをおぼえる。女への浪費、金の浪費、時間の、物の――。かくもぜいたくな人生の浪費の輝きにぼくはめくるめく。
   *
 金子光晴をもっとも愛し、深い理解を示す三人の詩人の編集になるこの全集は、この罪科深い偉大な詩人の全貌を一つの絶景から見せてくれる。
 すなわち、年代順にゆけば、処女詩集《赤土の家》から第一巻がはじまるところを、あえて初期の最もすぐれた詩集《こがね蟲》を据えていることだ。ぼくもこの書ではじめて通読したのだが、まさしく《こがね蟲》のごとく、角度によって色彩が変る美しさにみちた詩集だ。ほかに《大腐爛頌》・《水の流浪》・《鱶沈む》・《路傍の愛人》・《老薔薇園》という貴重な詩集が完全なかたちで収められている。清岡卓行の解説(第一巻)は、その使命を越えて、みごとな詩人論といえよう。
   *
 金子光晴は近ごろ、折にふれ小説への憧憬をもらしているが、《老薔薇園》などをみると、わかる気がする。人間的には謎と伝説にみち、詩人としては不逞純潔な金子光晴の全集が遅まきながら刊行されたのである。(《「死児」という絵》、三〇四〜三〇五ページ)

同文の初出は《週刊読書人》1960年9月12日号の書評〈金子光晴全集 全四巻〉。ここで第1巻刊行時の同全集の概要を見ておこう。というのも、同書刊行半年後の1961年1月、版元である書肆ユリイカの伊達得夫が亡くなったため、第2巻以降は伊達の盟友、森谷均の昭森社から刊行され、当初企画の4巻本の「詩全集」に、第5巻の散文集を加えた5巻本全集となったためだ(初刷は第1巻から第4巻までが800部、第5巻が1000部)。初出の吉岡の書評のあとには、〈金子光晴詩集〔ママ〕・全四巻〉として、次のようにある。 「編集―秋山清・安東次男・清岡卓行◇第一巻=「こがね虫」ほか(既刊)◇第二巻=「女たちへのエレジイ〔ママ〕」「落下傘」「鮫」「蛾」「鬼の児の唄」「非情」「水勢」「人間の悲劇」◇第三巻=「赤土の家」初期詩篇(未刊詩集)、初期評論集◇第四巻=後期評論集/各B6・平均四三〇頁・九〇〇円・書肆ユリイカ」。 《金子光晴全集〔全5巻〕》(書肆ユリイカ・昭森社、1960〜1971)の概要を同全集函の記載から引く。

・《金子光晴全集〔第1巻〕》(書肆ユリイカ、1960年7月15日)=こがね虫/大腐爛頌/水の流浪/鱶沈む/路傍の愛人/老薔薇園
・《同〔第2巻〕》(昭森社、1962年11月30日)=鮫/女たちへのエレジー/落下傘/鬼の児の唄
・《同〔第3巻〕》(同、1963年10月25日)=蛾/人間の悲劇/非情/水勢
・《同〔第4巻〕》(同、1964年10月20日)=屁のやうな唄/新詩集/落ちこぼれた詩をひろひあつめたもの/赤土の家/初期作品/日記一束
・《同〔第5巻〕》(同、1971年8月1日)=マレー蘭印紀行/芸術について/佐藤惣之助論/ある序曲/詩人/新憲法二十年を祝って/日本人の悲劇

《金子光晴全集〔全5巻〕》(第1巻:書肆ユリイカ・第2〜5巻:昭森社、1960年7月15日〜1971年8月1日)の函  《金子光晴全集第1巻》(書肆ユリイカ、1960年7月15日)の函と表紙
《金子光晴全集〔全5巻〕》(第1巻:書肆ユリイカ・第2〜5巻:昭森社、1960年7月15日〜1971年8月1日)の函(左)と同・第1巻の函と表紙(右)

吉岡がこの書評を執筆した背景には、「〔飯島耕一と伊原通夫の詩画集《ミクロコスモス》は〕書肆ユリイカにとっては、画期的出版であり、当時の出版界にも稀れな美しい本であった。部数は百部で、頒価千円という高価なもの故、その売れ行きを伊達得夫も飯島耕一も心配していた。二人は知己、友人にそれとなく買ってくれるように、すすめて歩いたらしい」(〈飯島耕一と出会う〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、二一五ページ)と同様の、義侠心のようなものがあったのではないか。それは、吉岡の書評よりも先に発表された田村隆一による第1巻の書評(《図書新聞》1960年8月27日号、原題〈金子光晴という詩人――カルメンを熱演したときのこと〉)と較べてみれば明らかだ。田村はそこで金子光晴との出会い(金子のカルメン、田村のドン・ホセ、金子の妻子が出演する8ミリ映画《カルメン》を撮影後、十日ほどして自身が肺病で入院した逸話)を悠悠と語って、「光晴というと、「実直」という言葉がわたしの頭にうかんでくる」(〈金子光晴という詩人〉、《詩と批評A》思潮社、1969年12月25日、二〇二ページ)と結論づけている。末尾はこうだ。「造本は近来の出色。実直に、真面目に生きようとするものは、すべて購うべし!」(同前)。これを読んでいるはずの吉岡は、田村文とかぶらないように、自身と金子詩集との関係、金子詩の印象を中心に手堅くまとめている。全集の内容に関しては、田村がほぼ第1巻目次の引きうつしなのに対して、吉岡の書評には、《蛾》(1948)、《非情》(1955)、《人間の悲劇》(1952)、《水勢》(1956)、《鮫》(1937)、さらには《赤土の家》(1919)、《こがね蟲》(1923)、《大腐爛頌》(1960)、《水の流浪》(1926)、《鱶沈む》(1927)、《路傍の愛人》(1960)、《老薔薇園》(1960)と、実に12冊も登場する。田村の書評も極端だったが、吉岡のそれもいささか総花的だったようだ。だが、「女の嬌慢と不倫、その肉性の美と醜の追求に終始して、永らくぼくを魅蠱した」詩集として《蛾》を読みなおすことは、《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)への新たなアプローチともなるだろう。

蛾 [|金子光晴

今宵かぎりの舞台といふので蛾は、その死顔を妖しく彩つた。
刑具のやうな重たい腕環、首かざりなど、はれの装ひをことごとく身にあつめて。

立ちあがらうとしてよろめく身の衰へ。のこつてゐる人気。ありあけ月。
おもひだすのは、扈従の日の憂きつとめと、密通の夜の人目をしのぶ辛労と。

蛾はきりきりと廻る。底のない闇の、冥府の鏡のなかにくるめくその姿。
悔と、嬌慢と、不倫の愛の、一時に花さく稀有なうつくしさ。

それこそ鬼どもが、死人の肉でかりにつくりあげた一瞬の蠱[まどはし]。
真空の美。フォースタ博士があの世からよびよせてみせたヘレーヌ姫のあで姿。

吉岡が金子について書いた文章はこの〈不逞純潔な詩人――金子光晴〉だけだが、その後、対談で二度、金子について語っている。以下に掲げよう。

金子光晴と西脇順三郎

吉岡 まあ金子光晴の晩年の詩は読んでないんでね。どうなんだろう。
飯島 いや、『六道』っていうのの断片だけどね、いいですよ。それに西脇さん。こないだ西脇さんのシリーズの第六巻で、新作が出てるでしょう、あれおもしろかったね。むさぼるように読んだもの。えらいもんだね、やっぱり。すぐに読みたくさせる力をもってる。それもそんなに力入れた詩じゃないでしょう、ただもう折々に書いた詩だけどね。このあいだ、那珂さんの『はかた』も貰ってすぐむさぼるように読んだけど、それと違った意味で西脇さんの近作ね……。
吉岡 近作って未発表作でしょ。雑誌に発表したもんより、あれがやっぱりいいね。そういう感じがしたな。
飯島 だれに頼まれたわけでもなくても、すぐ読む気になってね、読めるんだから、えらいもんだと思ったな。
吉岡 だけど、われわれはね、老人になって詩を書けるかどうか……どうだろうね。ぼくは書けないだろうと考える。ひとのことは分んないんだけど、まあ老年になって西脇さんとか金子さん、それから草野さんみたいに、タフで書いていくということは、ちょっとぼくなんかはできないんじゃないかという、ある諦観があるわけだ。というのは、もっとひねって言うと、まあ何十年書いちゃうとやっぱり自己模倣の域を出ないんではないかという怖れがぼくにはあるんだけど……。
飯島 それは西脇さんだって、いま書いてる詩は、ぜんぜん新しい詩じゃなくて、前に書いた詩と同じですよね、テーマから方法から。それでもいいっていうふうになるんでね。それは人によって違うんで、絶えず変貌していくタイプもある。まあ西脇さんは一回大変貌したけど、それ以後はそんな大変貌してないけど、おんなしことを書いてもいいっていう人もいるわけですよ。
吉岡 だから短歌と近くなるのかな。
飯島 それは散文だってそうよね。正宗白鳥の晩年の散文なんてのはおんなしことばっかり書いている、それでも毎回おもしろいわけ。
吉岡 そういう利点を備えられたら幸せね。
飯島 だから要するに歌なんだよな、白鳥の。月給の話を書いても、それから街でこのごろスカートが短くなったり長くなったりする話を書いても、それを何度も何度も、「中央公論」に書き、「読売新聞」に書きというふうにしてね、おんなじことを、それでも毎回読んで愉しいわけよ。そうなると散文じゃなくて歌だけどね。もっとも白鳥というのは、歌から遠く散文を書いた人だけど、晩年のものはあのそっけない散文が歌になってんだな。そうなると、そんなもう自己模倣なんていうのはさかしらな近代の考えであってね。
吉岡 あ、ほんと。(笑)じゃもう、そこでちょっと頭さげておこうかな。
飯島 自己模倣といっちゃっちゃいかんのですね。ピカソなんておんなじ絵ばっかり描いてる。十年も二十年もおんなじ女の顔描いてさ、全部がおもしろいってのはさ。
吉岡 わかったよ、それは。結局書くべき人は書いて、それで読者にゆだねるということだよ。
〔……〕(飯島耕一との対話〈詩的青春の光芒〉、《ユリイカ》1975年12月臨時増刊号〈作品総特集 現代詩の実験 1975〉、二一二〜二一四ページ)


物質的な言葉

〔……〕
吉岡 最近、散文で読んで感銘したのは金子光晴の自伝三部作。『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』ね。だけどそこでぼくが疑問を持ったのは、あれは非常に素晴しい自伝なんだけど、一回読めばわかるから、読み返しができないわけ。若いころから、金子光晴は小説を書きたがっていたらしいが、最後にはああいう自伝小説を書いた。残念だけれど、謎がない。
金井 そう言っちゃ何だけど、単純なんですよね、本当の意味で単純なわけ。
吉岡 所謂波瀾万丈の人生を鮮烈に描いた大した作品だとは思うけど、繰り返し読むかと言ったらぼくは読まないかも知れない。だからもっとね、金子光晴が想像力とフィクションをないまぜにした作品を書いてくれたら、何回も読んだんじゃないかということね。そこから、自分をひっくるめて言うと、ぼくなんかあんなに波瀾万丈じゃないし、単純な体験しかないので、自伝的なものを書いても繰り返し読んでもらえるような作品は出来ない。それならフィクションと現実をないまぜにして、変なものを書きたいと、そういうことも考えてるわけ。
金井 金子光晴の自伝というのも、波瀾万丈さに対する興味で読み続けていっちゃうものだし、こういうことをやったのかという物語的な部分に対する驚きというものですものね。だから極端に言っちゃえば、テレビとか新聞の記事を読むのと同じね。
吉岡 詩人は自伝を書いてはいけないんじゃないかと思ったりしている?
金井 でもそれは吉岡さんが書いたりする場合とまったく次元が違いますもの。
吉岡 だから西脇順三郎は自伝的なものを全然書いてない。自分は自伝を書くほど波瀾万丈ではない、非常に平凡であると言ってとうとう書かなかった。家族のことなんて皆無でしょ、あの人の文章には。だからわれわれの想像力を駆り立てる謎が、ひょっとしたらあるんだ。
 金子光晴だって、われわれが読み切っちゃったと思うのが僭越であって、読みとれない部分があると思うのね。ただ、作品化していく過程で相当フィクションをいれたほうが謎が出るんじゃないかと思う。
金井 それにちょっと鈍重な気がしませんか、金子光晴の自伝って。ありのままでさ。
吉岡 うん、素晴らしかったんだけど、なおかつそういうね……自分が散文を書く場合どうなんだということから引き比べてそういうこと思っちゃったのね。自分がどんなもの書けるかは皆目わからないことだけれど……。(金井美恵子との対談〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉、《現代詩手帖》1980年10月号〈特集=吉岡実〉、一〇二〜一〇三ページ)

飯島との対話は金子光晴が亡くなって半年後のもの。このとき吉岡は、金子の遺著《鳥は巣に 未完詩篇 六道》(角川書店、1975年9月30日)を読んでいない。飯島の金子詩への傾倒ぶりとは径庭があると言わねばならない。金井との対談は、吉岡が詩人の書く散文について思案していた時期だったようだ(吉岡自身、フィクションを交えた散文、すなわち小説への願望を語っていたことがある)。金子の自伝三部作(《どくろ杯》《ねむれ巴里》《西ひがし》)は《金子光晴全集〔第7巻〕》(中央公論社、1975年11月20日)のあと、1976年から77年にかけて中公文庫に入っているから、吉岡はこれで読んだのだろうか。私も《どくろ杯》《ねむれ巴里》は読んでいたので、二十数年ぶりに読みかえした(《西ひがし》は初めて読んだ)。金子の自伝には、言及されていない重要な事項も多いようだが、文章は総じて率直で、波瀾万丈の人生を叙すためにはこうした文体の功徳も大きかった。吉岡の指摘するとおり、繰りかえし繙読にたえるものかということになれば微妙で、私がもう一度読むとすればやはり二十数年後、内容をすっかり忘れたころに、ということになるだろうか。

〔付記〕
吉岡実は金子光晴との個人的な付き合いについて、なにも書きのこしていない。だが、西脇順三郎・金子光晴監修《詩の本〔全3巻〕》(筑摩書房、1967)の装丁を手がけているくらいだから、面識はあったに違いない(金子は〈T 詩の原理〉の巻頭に〈詩とは何か〉を執筆している)。また、証言はないが《定本 金子光晴全詩集》(筑摩書房、1967年6月30日)の装丁も吉岡だったかもしれない。原満三寿編〈〔金子光晴〕年譜〉の「昭和42年(1967)」には「11月20日、『若葉のうた』『定本金子光晴全詩集』の出版記念会(四谷〈主婦会館〉)開催。安東次男、松本亮、壺井繁治、秋山清、井沢淳、吉岡実、他、「あいなめ」同人などが出席」(原満三寿編《金子光晴〔人物書誌大系15〕》日外アソシエーツ、1986年10月9日、二四ページ)とあるし、同じ1967年には、12月15日付で献呈署名入りの《吉岡実詩集》(思潮社、1967)を金子に贈っている。これは、《詩の本》の最終回配本〈V 詩の鑑賞〉が12月15日の発行だから、出版社の社員として見本を監修者に渡すついでに、詩人として《吉岡実詩集》を献呈したと思しい。奇しくもこの年、金子光晴と吉岡実の全詩集が出揃ったわけだ。吉岡は、金子光晴逝去(1975年6月30日)の際には、自身が編集する《ちくま》77号(1975年9月)に会田綱雄の〈金子光晴先生(哀悼)〉を載せている。なお、金子光晴が吉岡実に言及した文章を私は知らない。

金子光晴に宛てた献呈署名入り《吉岡実詩集》(思潮社、1967)
金子光晴に宛てた献呈署名入り《吉岡実詩集》(思潮社、1967)〔出典:ほうろう青空バザール 2016年1月9日(土)& 10日(日)


〈冬の休暇〉と毛利武彦の馬の絵(2017年8月31日)

秋元幸人の〈吉岡実の《馬》の詩群〉は、〈吉岡実が《卵》を置く場所〉と並んで、屈指のモノグラフ《吉岡実アラベスク》(書肆山田、2002年5月31日)のなかでも出色の論考だが、私はそこで初めて毛利武彦(1920〜2010)の存在と毛利の馬の絵のことを知った。

〔……〕彼〔=吉岡実〕と《馬》との具体的な関係は、極めてスカトロジックなそれを基調としている。これは或いは新兵としての労役がもっぱらその方面に限られていたことに拠るからかも知れなくて、吉岡より一年後の一九四二年に近衛騎兵隊重機関銃部隊に入隊した過去を持ちながら、好んで馬を描きつづける画家毛利武彦もまた「馬の世話が大変で、馬の肛門まで手を入れて洗ってた」と述べたことが有る〔註=毛利武彦「タブローとしての日本画」一九八五年〕。戦後数十年を経てなお鮮やかなその経験は、毛利に在ってはいつかほろ苦い思い出と変じたものらしく、〔……〕(《吉岡実アラベスク》、二〇四ページ)

秋元は、引用末尾の省略部分で《毛利武彦画集》(求龍堂、1991年3月31日)の〈作品にふれて――作者覚書〉から作品〈30-馬と人〉〔1969年/224.0×151.8/麻紙,膠彩/第33回新制作協会展/箱根・芦ノ湖成川美術館蔵〕の覚書を引いてから、「軍馬の世話を任された兵士たちが後々までも忘れかねることの一つは、どうやら《糞尿まみれの藁》ということに集約されるようなのである」(同前)と続けている。博捜を極めた秋元の文献探索はここでも核心を突いており、私もまた上掲省略部分で秋元が引いた毛利による覚書を掲げないわけにはいかない。

騎兵隊のつらかった厩作業の寝藁の臭いが,不思議な懐かしさに変じていて,馬事公苑に写生に通いながら,ひそかに自分の戦争体験を反芻していた。(〈30-馬と人〉覚書、《毛利武彦画集》、二〇〇ページ)

秋元幸人が毛利武彦に言及したのは、《吉岡実アラベスク》で数えればこの八行だけだった。その本文と二つの註記に促されて毛利の画集で〈馬と人 1969年 150変〉を観て、私はすぐさま吉岡の詩篇〈冬の休暇〉(D・12、初出は《日本読書新聞》1960年3月7日号)を想起した。前後関係からいって、吉岡が毛利武彦の絵を観てから詩篇を書いたということはありえないし、毛利が吉岡実の詩を読んでいたということも、おそらくないだろう。だが、私はここに両者を並べて較べてみたいという誘惑に逆らうことができない。吉岡実の詩と毛利武彦の絵には、ともに馬のフォルム、馬の生命力に対する惜しみない讃嘆があるように思う。

毛利武彦の絵画〈馬と人 1969年 150変〉〔出典:《毛利武彦画集》求龍堂、1991年3月31日、五〇ページ〕
毛利武彦の絵画〈馬と人 1969年 150変〉〔出典:《毛利武彦画集》求龍堂、1991年3月31日、五〇ページ〕

毛利武彦の〈馬と人〉は不思議な画面構成をとっている。手前左方に、ほぼ横向きの黒い馬とその首に手をかけた同じく黒い人のシルエット。上段右方に、首を曲げた褐色の馬に跨る人とその右側に立つ人。やや見えにくいが、上段左角の黒いスペースには、右に頭を向けた青い馬の背に手を当てた人が左側に立っている。これら三組の馬と人が、それぞれ独立した画面ででもあるかのように、みながみな(馬も人も)裸身でたたずんでいる。三組を統括する単独の視点が画面の手前に設定できないのも、この絵を謎めいたものにしている。毛利の意図は、馬の三態を通じてすべての馬の姿を描くことにあったと言えようか。

秋元の論考〈吉岡実の《馬》の詩群〉で私がとりわけ注目するのは次の二箇所である。
「《馬》は、従って当然にも、吉岡実にとっては戦いを顕示する禍々しい生き物でもあった。このため、彼の詩に在っては、輓馬や荷馬或いはそれを操る者はしばしば強い死臭を帯び、それらの運搬するところのものは殺傷力を備えた物体、これを総じて静謐な日常を掻き乱す存在となることが多かった」(前掲書、二〇八ページ)。
「この一方で、吉岡は《馬》が本来備えている形態美に古来付与されてきた強靭で雄渾な生命力といったものにも注意を払うことを忘れていない。それは多く官能的な方向に敷衍され、時としてそれは、彼が必ずや愛誦していた筈の西東三鬼の名句「白馬を少女涜れて下りにけむ」の無意識の影響も遠く与ってか、女体の美そのものとも同一視されることがあった」(同前、二一一ページ)。
この、後者の言の後に秋元が引く吉岡実詩こそ〈冬の休暇〉である。原文は詩句を一字空けで追い込んでいく散文詩型だが、ここでは一字空けの処で詩句を改行して読んでみよう。原文にはあって失われたもの、それは詩句の混沌であり、次に掲げる改変型=行分け表記にあるのは時間の進行に伴う直截さである。

 そこでは灰色の馬と灰色でない馬とがすれちがう
 灰色の馬が牝らしく毛が長く垂れさがり
 別の馬は暗緑の牡なのだろうはげしく躍動する
 たがいのたてがみも尾も回転する毛の立体にまで高まって
 少女にはそれが見える
 完全な円のふちから
 ときどきはみ出るものがオレンジ色に光り
 中心はもう時間が経過したので黒い
 或晩にお父さんとお母さんがのぞかせた一角獣のように恐ろしく
 少女は自身の腿に熱を浴びる
 まだすれちがっている馬たち
 ピエロでない赤い帽子の男は
 少女が気づいた時から人ではなく
 だれもが持っている共犯のはにかみの心
 テントの底が深くなればなるほどゆっくり
 馬の方へちかづく
 命令するために非常に細長い棒をふりおろす
 電光もひきあげる街の看板の方へ
 今夜は充分泣けると少女は思う
 灰色の牝馬のすんなりした腹に異父弟が宿ったから
 このみじかい冬の休暇が終るとともに

「ピエロでない赤い帽子の男は 少女が気づいた時から人ではなく」というのは「灰色でない馬」=「暗緑の牡」を指すのだろうか。いずれにしても、終わりから二行めの「灰色の牝馬のすんなりした腹に異父弟が宿ったから」という詩句が曲者である。ここにいたって、吉岡の描いた人馬一体の交感図は完成をみる。「或晩にお父さんとお母さんがのぞかせた一角獣のように恐ろしく」は、遠く〈聖少女〉(F・10)の「紅顔の少女は大きな西瓜をまたぎ/あらゆる肉のなかにある/永遠の一角獣をさがすんだ!」を用意していよう。それが牽強付会でないことは、同詩の結末「言葉の次に/他人殺しの弟が生まれるよ!」で明らかだといえる。それにしても〈冬の休暇〉の骨格はみごとである。ここに、散文詩型において最高度の形をとっているそれに優るとも劣らない強力な傍証がある。Burton Watson編の英訳詩抄《Lilac Garden: Poems of Minoru Yoshioka》(Chicago Review Press、1976)のHiroaki Sato訳〈Winter Vacation〉(同書、六五ページ)である。

Winter Vacation | Minoru Yoshioka

There a horse which is gray and a horse which is not gray pass each other. The gray horse, which looks like a female, has long dangling hair, and the other horse, a dark green male perhaps, violently leaps and jumps. Both the manes and tails of the two horses become heightened to a rotating solid of hair, and the girl can see it. That which is occasionally forced out of the rim of the perfect circle gleams orange, and its center, because there has already been a lapse of time, is dark. It is as terrifying as the unicorn that one night father and mother gave a glimpse of, and the girl gets a splash of heat on her thighs. The horses are still passing each other. The man in a red cap, who is not Pierrot, is not a human being from the moment the girl noticed him, and the bashful heart of conspiracy that everyone has. The deeper the bottom of the tent becomes, the more slowly he goes near the horses. He swings down an extremely slender stick to give an order. Toward the town billboard to which even electric light withdraws. Tonight I can cry my heart out, the girl thinks. For a younger half brother has lodged in the svelte belly of the gray female horse. As this short winter vacation comes to an end.

これを読むと、吉岡がいかにこの詩を対位法的に展開しているかがわかる。《Lilac Garden》は、おもに《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968)掲載の詩篇を踏襲した選択だったが、同書に収められていない〈冬の休暇〉を佐藤紘彰(とバートン・ワトソン)が選んで訳載したことが納得できる佳篇である。毛利武彦もこの詩篇を歓んだのではあるまいか。


吉岡実と三島由紀夫(2017年7月31日)

澁澤龍彦は1970年11月25日の三島由紀夫自決直後に草した〈三島由紀夫氏を悼む〉(初出は《ユリイカ》1971年1月号、《偏愛的作家論》青土社、1972年6月10日、所収)でこう書いている。
「三島由紀夫氏は、何よりも戦後の日本の象徴的人物であったが、私にとっては、かけがえのない尊敬すべき先輩であり、友人であった。お付き合いをはじめたのは約十五年以前にさかのぼるが、私は自分の同世代者のなかに、このように優れた文学者を持ち得た幸福を一瞬も忘れたことはなかった。その作品を処女作から絶筆にいたるまで、すべて発表の時点で[、、、、、、]読んでいるという作家は、私にとって、三島氏を措いて他にいない。こういうことは、たまたま世代を同じくしなければあり得ないことである。私のささやかな魂の発展は、氏のそれと完全にパラレルであったと言える」(《澁澤龍彦全集〔第11巻〕》河出書房新社、1994年4月12日、一一九ページ)。
「すべて発表の時点で」の傍点は澁澤自身によるものだが、おそらくは吉岡実もその「処女作」と「絶筆」を読んでいるのではないか。吉岡は三島の処女短篇集《花ざかりの森》(七丈書院、1944年10月15日)刊行当時、一兵士として中国大陸にあったから「発表の時点で読んで」いないが、1945年11月に復員した三か月後には早くも同書を購っているのだ。「二月十五日(金曜日) 早春のような暖かさ。三島由紀夫《花ざかりの森》と短歌文学集《釋迢空編》を買う」(〈日記 一九四六年〉、《るしおる》6号、1990年5月31日、三〇ページ)。一方、自筆年譜の「昭和四十五年 一九七〇年 五十一歳」には「初冬、三島由紀夫の割腹死に衝撃を受ける」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984、二三三ページ)とあり、日記の「一九七〇年十一月二十五日」には「西脇順三郎先生と会田綱雄とラドリオで歓談の数刻。午後一時近く、駿河台下角の三茶書房のガラス戸の「三島由紀夫切腹、死亡!」との貼紙が眼を惹く。なんとなく胸苦しく、会社に戻ると、それは事実であり、愕然とする。夕刊で状況がわかった。楯の会の青年たちと、市ヶ谷の自衛隊へ乗り込み、刃傷したあと、三島由紀夫は切腹したという。しかも介錯を受け、首が斬り落されたとのこと故、いっそう衝撃を受けた。瞬時に「伝説の人」となってしまったから、もう会う機会は失われた。この夜は寝苦しく、明け方まで眠れなかった」(〈27 三島由紀夫の死〉、《土方巽頌》筑摩書房、1987、四五ページ)とその衝撃を記している。自決前年の九月、吉岡実はただ一度、三島由紀夫と対面しているのだ。《土方巽頌》の〈20 スペースカプセルの夕べ――奇妙な日のこと〉(初出〈奇妙な日のこと〉は《三好豊一郎詩集1946〜1971》栞、サンリオ、1975年2月15日)の前半はこうだ。

 一九六九年の九月二十四日は、私にとって忘れられない日になるかも知れない。雨の夕方だった。西脇順三郎、鍵谷幸信そして会田綱雄の三氏と須田町近くの牡丹へ行った。久しぶりで食べたシャモ料理だったが、私にはうまいとは思えなかった。おそらくからだの不調のせいだったろうか。寒い日で、赤々とした熾火の色と古風な座敷の雰囲気に、私はいくぶんか心がやすらいだ。かえりの薄暗い玄関に立つと、シャモの羽毛が幽かに漂っている。そして並べられた靴や雨傘にも羽毛が付着していた。私たちは雨の激しくなった外へ出た。
 淡路町の地下鉄入口前で三人と別れ、私は赤坂のスペースカプセルへ向った。土方巽と弟子たちの舞踏が見られるはずだ。まだ七時という時刻なのにこの界隈は真暗い小路と坂。一度だけ白石かずこの朗読を聞きにきたきりなので迷った。狭い地下へ入ると、天井全体が金属製の球体で蔽われ室内は冷たい光のなかにあった。二組ほどの男女の客と加藤郁乎が一人片隅で酒を飲んでいた。
 わたしたちの外に誰が呼ばれているのか、二人にもよくわからないので、妙に落着かないひとときだった。ショーが始まる少し前ごろから、客も来はじめる。三好豊一郎、松山俊太郎、種村季弘たちがきた。そして澁澤龍彦と恋人らしい女性が現われた。
 ろうそくの炎や鞭らしきものの影。芦川羊子を中心に女三人、男三人の黒ミサ風な奇異な踊りだ。しかしそれは、土方巽が少数の人間に顕示する暗黒的秘儀にくらべれば、ショー的でエロチックなダンスだ。畳ぐらいの大きさの真鍮板を自在に使って、激しい律動と音響のリズムにのって女の裸像を囲みこんだりするシーンはおもしろかった。柔かい肌と巨大な刃とも云える真鍮板の交錯は、観ている者を絶えずはらはらさせる。ああ肉体の硬さかな! 酒席の客はいささか興奮させられたことだろう。
 やがて終ると、土方巽がわたしたちの席へきた。さすがに疲れたので、私は早目に帰ろうとした時、一種のどよめきに似た雰囲気がつくられたようだ。三島由紀夫が一人の青年をつれて入ってきた。彼は旧知の澁澤龍彦や土方巽の席へ着いた。
 かねてから、三島由紀夫が私の詩をひそかに読んでいるということを、高橋睦郎から聞いていたので、いつの日か彼と会いたいものだと思っていた。この偶然は逃すべきでないと、私は帰ることをやめ自分の席へ戻り、三島由紀夫と初めて挨拶をかわした。酒と音楽のなかで、残念ながら親しく話合う情況ではなく、坐った位置も少しく遠かった。私は彼の闊達な表情を見ていた。二回日のショーが終ったのは十一時だろうか。三島由紀夫は礼をのべて去った。これがおたがいの最初で最後の出会いであった。(同前、三四〜三六ページ)

土方巽は三島由紀夫の長篇小説の題名を藉りた舞台作品〈禁色〉(1959)で実質的にデビューしているくらいだから、三島と親しかった。この夜の出会いも、土方巽が吉岡実を三島由紀夫に引きあわせたようなものだったと言えなくはない。かくして、吉岡の《土方巽頌》には三島由紀夫がたびたび登場する。

「舞踏ジュネ」の会〔一九六七年八月二八日〕から二カ月後に、笠井叡独舞公演「舞踏への招宴」が第一生命ホールで催された。私は初めて妻をつれて行った。招待席には常連のほか、瀧口修造と皮ジャンパー姿の三島由紀夫が見えた。(〈4 「変宮の人」〉、一一ページ)

 〈日記〉 一九七一年一月九日
 〔……〕土方巽と近くの喫茶店蘭で、舞踏、詩そして三島由紀夫のことなど、二時間も喋り合う。(〈29 アートヴィレッジにて〉、五一ページ)

 〈日記〉 一九七一年十月五日
 夕方、代々木八幡の青年劇場へ行く。笠井叡と「天使館」の舞踏の会。久しぶりで観る彼の踊りは素晴しかった。とくに帝国軍人の姿で日本刀をふりかざす一瞬、三島由紀夫を想起した。(〈31 秋水のように〉、五三ページ)

     3 「禁色」

「鶏が身悶えし、少年の手から羽を抜こうとする。白の海水パンツを着けた美少年の両脚は突っぱり、肘は強く胸側に緊められ、美貌は歪み、眼差は宙をさ迷っていた。緊張した背骨から流れ出る力が、突如、鳥を抱くあの心許なさ、やさしい愛を越え、手に狂暴な感情を走らせた。少年は後ろに退いた腰の股間に鶏をはさみ、身を沈めたのである。この行為の意味を決定的にしたのは、いつの間にか、少年の斜め後ろに現われた人物、ぴったり身に着いたグレイのズボン、半裸の男、そして、一部始終を見ていたその視線である。少年は見られたのだ。少年のなかで行為は禁忌となったのである。少年はぐったりとした鶏を置いて逃げようとした。舞台は突然、闇となり、少年の叫びと逃げる足音、無言のまま迫り追う男の息と足音が闇を揺すり、遠ざかった。」 (合田成男)(〈64 暗黒舞踏派宣言前後〉、一二二ページ)

     4 共演の少年

「褐色のドーランとオリーブ油を体に塗って、頭を剃り上げ、腰と足にぴたっとフィットした裾広の黒いジャージイのパンタロンで、『禁色』に土方さんは登場しました。そのパンタロンは当時のジャズを踊るときのコスチュームでもありました。音楽は土方さんご自身が横浜の私の家で、深夜に周りが静かになるのを見計って、性行為のクライマックスをうめき声や激しい呼吸音で録音したものでしたが、愛の言葉は『ジュテーム』とフランス語だったのです。私はとても不思議な思いで聞いておりました。ハーモニカのエンディングは静かなブルース調のメロディー(作曲、演奏安田収吾)で、後にフランス映画でも『墓に唾をかけろ』のハーモニカや『死刑台のエレベーター』のマイルス・ディヴィス、『運河』のモダン・ジャズ・クァルテットなどアメリカのジャズと結びついて流行りましたが、反抗、怖れ、ミステリー、そしてジャズ、『禁色』にはこれ等も全て含まれてあったように感じられるのです。」 (大野慶人)(同前、一二三ページ)

〈27 三島由紀夫の死〉で澁澤の三島由紀夫追悼文を引用(本稿の冒頭とは別の箇所)しているように、吉岡にとって三島由紀夫の自決がどれほどの衝撃だったか多言を要しない。事件当時、私は中学三年生だったが、なぜか新聞報道よりも当時のFM東京のラジオニュースが印象に残っている(ラジオではグランド・ファンク・レイルロードのライヴアルバムがかかっていたが、時代のBGMともなれば、同年4月にリリースされたマイルス・デイヴィス《ビッチェズ・ブリュー》だろう)。三島はEXPO'70で浮かれていた日本に、おのれの肉と血糊をもってその呪詛をたたきつけた。では、吉岡は三島由紀夫の文学をどう思っていたのか。飯島耕一を筆頭とする詩人たちとの座談会に就くに如くはない。

□ 三島由紀夫・戦後が鴎外にぶつかった

飯島 それから、一つ聞きたいんだけれども、最近ぼくは三島由紀夫というのがえらく気になるんですよ。いまごろになってね。きょうは西脇順三郎から始まって、最後に三島由紀夫のことをみんなに聞きたいなと思って来たんですけれども。ぼくが、三島由紀夫気になるなあと言ったら、ぼくの友人たちは変だ、変だと言うんですよ。まさか飯島がと、不思議がられる。なんか三島由紀夫という存在がいま欠けているんだなあということをよく考えるんですよ。吉岡さんなんかは……。
吉岡 三島由紀夫をあんまり読んでいないんだ。読んだのは、『仮面の告白』とか『愛の渇き』ぐらいで、あんまり読んでいない。有名な『金閣寺』も読んでいないし。だけど、『仮面の告白』はやっぱし天才の書いたものだとぼくは思うんだよ、はっきり言って。だから、これから読むようになると思うんだけど、ただ、三島に一回会えたということは、一つの出合いだと思うのよ。これは土方巽さんの弟子の舞踏をスペースカプセル〔を→で〕やったとき、バタバタッと来た客の中に三島がいたわけよ。
飯島 小さい人だったね。
吉岡 そうそう。ぼくのことも三島さん、知っているらしくて、そこではじめて挨拶をかわしたんだ。たった一回。ああいうスペースカプセルみたいな、ワーワーとしていたでしょ。だから、ほんとうに二言三言ことばをかわしただけ。生きている三島由紀夫を見た唯一の日だった。これはやはりよかったという感じがあってね。ぼくも、読むとしたらこれから読むんじゃないかという気がする。
那珂 三島由紀夫が死んで二、三日後に吉岡さんに逢ったとき、ひどくショック受けてたのをおぼえています。ぼくもそうだったから。時代の犠牲者ですよ、やっぱり……。
飯島 三島由紀夫はよくニセの宝石だとか、ニセモノだと言われているんだけど、このニセモノというのがぼくにはいまとってもおもしろいんだね。魅力的に感じられるんでね。生きているときの三島はむしろ嫌いだったんだけれど。ところが五年ぐらい経つと、生きているときの感じがなくなって、すごく気になるんだね。
吉岡 郁乎さんなんか親しいんじゃなかったかしら……。
加藤 吉岡実が羨ましいな。いやぁ、ぼくはまだ引っかかるところがあるんですよ。そんなに読んでいませんけどね。いま吉岡さんが『金閣寺』を挙げたけど、イメージとして覚えているのは、『金閣寺』の中に日本刀の刃をなめると甘いと言うのがあるでしょう。ああいうところはどうしようもないくらい、好きですよ。〔……〕
飯島 とにかく、ニセモノだとか言われたけれども、いまもフォニーだとか、フォニー論争なんて言うけれども、三島由紀夫のほうが立派なフォニーで、立派なニセモノだという気がするんだけどね。三島由紀夫のフォニーぶりは颯爽として、戦後の闇市臭い、インチキ金融ブローカーみたいなものに似ているだろう。ああいうキンキラ金の、死んだときもニセモノの軍服を着て切腹だけはホンモノだった。三島由紀夫が死んだときに戦後は終ったんだなあということを、すごく感じるんですよ。夕方のバスに乗っていたりするとね。
加藤 ああいうスキャンダラスなものをモデル小説で終らせないで、他にいい方法がないのかね。〔……〕
飯島 でも結局三島は敗北したんですね。誰に敗北したかというと、手近かなところでは鴎外に敗北したと思うんですよ。鴎外というのは、軍服もなにも全部本もので、三島はやること、なすこと、全部鴎外をねらったのが、裏目に出ているんですね。だから、鴎外に目標を定めて、戦後が鴎外にぶつかったようなもので、全部傷つき、最後はせめてニセモノの軍服を着て、アンチテーゼを出そうと思ったんだけれども、それすらもなにかわびしいようなね。
吉岡 飯島の三島論、大へんいいものが出たね、聞いているうち。
飯島 夕方のバスなんかに乗っていると、三島のことを考えるんだな。そうすると、ああ……というような感じがしてね。
加藤 あんた、惚れてるんだな。
飯島 ああ、意外にね。
加藤 惚れてるんだよ。惚れるっていうのはいいことだね。三島由紀夫に親しい土方巽の話によると、どの作品か知らないけれども、三島の作品の中に、猫を刀で切り殺する〔ママ〕という話があるんですってね。で、実際に庭で切ってみたそうですね、その感じを知るために。……剛造さんは読んでいるんじゃない?
吉増 ぼくも、いま飯島さんがほとんど説明なさったから、あとで言うのは恥しいんですけどね、吉岡さんと同じように、『仮面の告白』にとっても感心したんです、それ以後はどうもあんまり感心しないんですけどね。〔……〕
吉岡 唐突なたとえだけれども、横光利一と三島と似ているんじゃないかしら。そういう感じがするんだよ。横光利一はぼくの好きな作家なんだけど、いま不当に評価が低いわけよ。だけど、人物を人形のごとく動かす……やはり横光というのは大へんな作家だと思うのよ。ふたたび唐突なことだけれども、横光と三島というのは似ているんじゃないかというのを、いま思うのね。
飯島 だから、そういう意味で、横光が無視されているように、三島もおそらくだんだん無視されてくるんじゃないか。やはり横光より川端でしょ、日本は。だから、三島より誰かというのはわからんけれども。
吉岡 やっぱりリアリティを小説のほうに持って来たほうが強いんで、いわゆる虚構的にいこうという、新しい小説をつくろうという場合は、横光の悲劇があって、三島の悲劇があるんじゃないかという気がするのね。
吉増 それを飯島さんの言葉で言うと、涙線を刺激するほうと、そうじゃないほうということでしょうね。
加藤 それから三島という人は、歌が好きでしたね。
吉岡 春日井〔健→建〕を発見した人でしょう。
那珂 しかし、彼の小説には短歌的な要素はないでしょう。不思議に、ない。
加藤 王朝文学と言っちゃおかしいんですけれども、亀井勝一郎や中村真一郎の考えとは違ったアレで、昔の和歌の世界にひたっていても少しもおかしくなかったところがあるんじゃないんですか。〔……〕
(吉岡実・加藤郁乎・那珂太郎・飯島耕一・吉増剛造〔座談会〕〈悪しき時を生きる現代の詩――座談形式による特集〈今日の歌・現代の詩〉〉、《短歌》1975年2月号、八四〜八六ページ)

私は吉岡がこの座談会で三島の長篇小説《禁色》(新潮社、第一部《禁色》:1951、第二部《秘楽》:1953)に言及していないのを残念に思う。吉岡は同作を読んだのか、読まなかったのか。それというのも、宇野邦一が〈三島由紀夫という同時代人〉(《土方巽――衰弱体の思想》みすず書房、2017年2月10日)で「奇妙に例外的で印象に残る」(同書、一五四ページ)と指摘した、主人公である同性愛者の美青年(南悠一)が若い妻(康子)の出産に立ち会う場面が、吉岡実の詩篇〈マダム・レインの子供〉(G・5、初出は《ユリイカ》1973年1月号)を想起させるからである。宇野はそこで《禁色》から数行を引いて、「長々と続く倒錯的な狂言回しのあとに描かれたまったく例外的な場面である。青年はこのとき家族の絆に目覚めたわけではなく、生まれてくる生命の尊さを自覚したわけでもない。むしろこれは視線の転換という出来事なのである。そして視線の転換には、出産という「肉」の出来事、生命の劇に立ち会う場面が必要であり、三島文学の理知も作為も倒錯もこの出来事を何か絶対的な脅威として迎えている」(同書、一五五ページ)と評した。「視線の転換」とは、私に言わせれば「見られることに対する防御から、見ることによる攻撃への転身」である。三島の《禁色》の〈第二十五章 転身〉にはこうある。

 『見なければならぬ。とにかく、見なければならぬ』と彼は嘔吐[おうと]を催おしながら、心に呟[つぶや]いた。『あの光っている無数の紅い濡れた宝石のような組織、皮膚の下のあの血に浸[ひた]された柔かいもの、くねくねしたもの、……外科医はこんなものにはすぐ馴れる筈だし、僕だって外科医になれない筈はないんだ。妻の肉体が僕の欲望にとって陶器以上のものではないのに、その同じ肉体の内側も、それ以上のものである筈はないんだ』
 こんな強がりを、彼の感覚の正直さはすぐ裏切った。妻の肉体の裏返しにされた怖ろしい部分は、事実、陶器以上のものだったのである。彼の人間的関心は、妻の苦痛に対して感じていた共感よりもさらに深く、無言の真紅の肉に向けられ、その濡れた断面を見ることは、まるでそこに彼自身を不断に見ることを強いられているかのようであった。苦痛は肉体の範囲を出ない。それは孤独だ、と青年は考えた。しかしこの露[あら]わな真紅の肉は孤独ではなかった。それは悠一の内部にも確実に存在する真紅の肉につながり、これをただ見る者の意識の裡[うち]にも、たちまち伝播[でんぱ]せずにはいなかったからである。
 悠一はさらに清潔にかがやいた銀いろの残忍な器具が、博士の手にうけとられるのを見た。それは支点の外れるようになっている大きな鋏形の器具である。鋏の刃にあたる部分は、彎曲[わんきよく]した一双の大きな匙形[さじがた]で、その一方がまず深く康子の内部に挿し込まれ、もう一方が交叉させて挿し込まれたのち、はじめて支点が留められた。鉗子[かんし]である。
 〔……〕
 鉗子は肉の泥濘[ぬかるみ]になかに、柔かい嬰児[えいじ]の頭をさぐりあてた。それを挟[はさ]んだ。二人の看護婦が、左右から康子の蒼白[そうはく]な腹を押した。
 悠一は自分の無辜をひたすら信じた。むしろ念じたと謂[い]ったほうが適当である。
 しかしこのとき、苦しみの絶頂にいる妻の顔と、かつて悠一の嫌悪の源であったあの部分が真紅にもえ上っているのとを、見比べていた悠一の心は、変貌した。あらゆる男女の嘆賞にゆだねられ、ただ見られるためだけに存在しているかと思われた悠一の美貌は、はじめてその機能をとりもどし、今やただ見るために存在していた。ナルシスは自分の顔を忘れた。彼の目は鏡のほかの対象にむかっていた。かくも苛烈[かれつ]な醜さを見つめることが、彼自身を見ることとおなじになった。
 今までの悠一の存在の意識は、隈[くま]なく「見られて」いた。彼が自分が存在していると感じることは、畢竟[ひつきよう]、彼が見られていると感じることなのであった。見られることなしに確実に存在しているという、この新たな存在の意識は若者を酔わせた。つまり彼自身が見ていた[、、、、]のである。
 〔……〕
 ……羊水がしたたりおちた。目をつぶった嬰児の頭はすでに出ていた。康子の下半身のまわりで行われている作業は、嵐に抗する船の船員の作業のような、力をあわせた肉体労働に類していた。それはただの力であって、人力が生命を引き出そうとしていたのである。悠一は婦人科部長の白衣の皺[しわ]にも、働いている筋肉のうごきを見た。
 嬰児は桎梏[しつこく]から放たれて滑り出た。それは白いほのかな紫色をした半ば死んだ肉塊であった。何か呟[つぶや]いている音が湧[わ]いた。やがてその肉塊は泣き叫び、泣き叫ぶにつれて、すこしずつ紅潮した。(《禁色〔新潮文庫〕》新潮社、1969年1月30日、三六八〜三七〇ページ)

三島由紀夫は《禁色》執筆・刊行当時は20代後半で、まだ結婚しておらず(1958年、33歳のとき21歳の杉山瑤子と結婚)、このような出産の現場に立ち会うことができたのか、私には判断する材料がない。もっとも、自決の予行演習のようにして〈憂国〉の切腹シーンを書いているくらいだから、「人物を人形のごとく動かす」「虚構的にいこうという、新しい小説をつくろうという」執筆態度は三島の真骨頂で、驚くにはあたらない。若いころ医書出版社に勤めていた吉岡実にしたところで、現実に「出産という「肉」の出来事」に立ち会う経験があったとは思われない。ちなみに吉岡夫妻に子供はない。

マダム・レインの子供|吉岡実

マダム・レインの子供を
他人は見ない
恐しい子供の体操するところを
見たら
そのたびぼくらは死にたくなる
だからマダム・レインはいつも一人で
買物に来る
歯ブラシやネズミ捕りを
たまには卵やバンソウコウを手にとる
今日は朝から晴れているため
マダム・レインは子供に体操の練習をさせる
裸のマダム・レインは美しい
でもとても見られない細部を持っている
夏ならいいのだが
雪のふる夜をマダム・レインは分娩していたんだ
うしろからうしろからそれは出てくる
形而上的に表現すれば
「しばしば
肉体は死の器で
受け留められる!」
球形の集結でなりたち
成長する部分がそのまま全体といえばいえる
縦に血の線がつらなって
その末端が泛んでいるように見えるんだ
比喩として
或る魚には毛がはえていないが
或る人には毛がはえている
それは明瞭な生物の特性ゆえに
かつ死滅しやすい欠点がある
しかしマダム・レインの所有せんとする
むしろ創造しようと希っている被生命とは
ムーヴマンのない
子供と頭脳が理想美なのだ
花粉のなかを蜂のうずまく春たけなわ
縛られた一個の箱が
ぼくらの流している水の上を去って行く
マダム・レインはそれを見送る
その内情を他人は問わないでほしい
それは過ぎた「父親」かも知れないし
体操のできない未来の「子供」かも知れない
マダム・レインは秋が好きだから
紅葉をくぐりぬける

引用した《禁色》の直前には「マーキュロでもって真紅に塗られた裂け目にあてがわれたその帆布は、はげしい流出には音さえ立てた。局所麻酔の注射にはじまり、メスや鋏[はさみ]が、裂け目をさらにひろげて裂き、その血が帆布にほとばしって流れたとき、康子の真紅の錯綜[さくそう]した内部が、すこしも残忍なところのない若い良人の目にあらわに映った。悠一はあれほど陶器のように無縁のものと思っていた妻の肉体が、こうして皮膚を剥[は]がされてその内部をあらわにするのを見ては、もはやそれを物質のように見ることができない自分におどろいた」(前掲書、三六七〜三六八ページ)とある。吉岡が引用符で括った「しばしば/肉体は死の器で/受け留められる!」の出典がなにかわからないが、陶器のような肉体の裂け目の奥に見える真紅の錯綜した内部という、「絶対的な脅威」をまえにしたときの若い夫の驚異と同種のものであることは疑いない。

 ・マダム・レインの子供を/他人は「見ない」/恐しい子供の体操するところを/「見たら」
 ・裸のマダム・レインは美しい/でもとても「見られない」細部を持っている
 ・縦に血の線がつらなって/その末端が泛んでいるように「見えるんだ」
 ・縛られた一個の箱が/ぼくらの流している水の上を去って行く/マダム・レインはそれを「見送る」

三島の小説の主人公が(上掲引用の場面では)見ることに憑かれた人物であったように、〈マダム・レインの子供〉の話者もさながら見ることに憑かれた人物である。だが「他人」はそれを見ることができない。話者が「見た」というものを、ひたすら読むことができるだけだ。
ところで、「三島由紀夫が私の詩をひそかに読んでいる」という、その吉岡実詩とはなんだったのか。それは、大方の読者がそうであったように、《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)だと考えてよいのではないか。また「ひそかに」とは、三島が吉岡実詩について書いたことがなく、吉岡が三島に詩集を献じていないので、三島自ら入手したか周りの人間が調達したかして読んだ、というふうにとれる。その場合は部数の少ない単行詩集ではなく、《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959)だったかもしれない。晩年の三島がジェフリー・ボーナスとともに編んだ《New Writing in Japan》(Penguin Books、1972)には、自身の短篇〈憂国〉などの小説や秋山駿の評論とともに、吉岡の詩〈Still Life〔静物(B・2)〕〉と〈Past〔過去〕〉(ボーナス訳)が掲載されているが、二篇とも《吉岡實詩集》に収められているのだ。〈僧侶〉ではなく、《静物》からの二篇という処に編者ならではの着眼を見たい。三島による〈Introduction〉(ボーナス訳)には、詩人・吉岡実についての次の言及がある。

  Yoshioka Minoru, Anzai Hitoshi and Tamura Ryuichi are all the cold, rather monastic Apollo type. They enjoy a certain respect as leaders by virtue of thier accomplished poetic skills. For these three, the blood still flows from the wound as before.(同書、二三ページ)
 吉岡実や安西均、田村隆一はすべからく〔ママ〕冷たい、むしろ禁欲的なアポロン型の詩人である。彼らはその成果である詩的熟練の美によってリーダーとしてある尊敬を得ている。三人には、まだ以前のように血はその傷口から流れている。〔邦訳は小埜裕二訳〈翻訳・三島由紀夫英文新資料――序文(『New Writing in Japan』)〉(《新潮》1993年12月号、二五六〜二五七ページ)を借りた。〕

Yukio Mishima, Geoffrey Bownas編《New Writing in Japan》(Penguin Books、1972)の表紙
Yukio Mishima, Geoffrey Bownas編《New Writing in Japan》(Penguin Books、1972)の表紙

安西均の詩は〈Rain〔雨〕〉〈Nightingale〔鶯〕〉〈Hitomaro〔人麿〕〉、田村隆一の詩は〈Far-off Land〔遠い国〕〉〈Four Thousand Days And Nights〔四千の日と夜〕〉。以下、詩歌句の作者名だけ挙げれば、辻井喬、谷川俊太郎、白石かずこ、高橋睦郎(以上、詩)、塚本邦雄(短歌)、水嶋波津(俳句)。このなかでは、水嶋波津――句集に《遠樹集》(八幡船社、1969)のほか、《扉音〔瓶の叢書俳句篇〕》(茜書房、1969)があるとのことだが、後者は未見――の二四句が異彩を放っている。おそらく紙数の制約によるためだろう、本書には人選といい作品の選択といい、編者の強靭な志向が刻まれている。三島の選んだ〈Still Life〔静物(B・2)〕〉は、書きおろしの詩集《静物》(私家版、1955)入稿段階の稿本では、〈静物〔夜の器の硬い面の内で〕〉(B・1)のまえに位置する巻頭詩篇だった(註)。一方、〈過去〉は《静物》巻末に置かれた、集中で最も雄渾な作品だ。いずれも見事な選択である。その選択に較べると、前掲〈Introduction〉のレトリカルな評言はいささかもの足りない。三島歿後の二十年を生きた吉岡実の詩の総体を考えたとき、無署名の〈Biographical Notes on Authors〉の“YOSHIOKA MINORU: born in 1919 in Tokyo, he is one of the leading surrealist poets of the post-war years.[...].”(同書、二四九ページ)の「戦後の代表的なシュルレアリスム詩人の一人」が想いのほか的を射ていたと言えよう。刊行の時期からいって、三島がこの〈著者に関する経歴〉に目を通していたとは思えないのだが。

〔付記〕
大岡昇平・埴谷雄高〔対談〕《大岡昇平 埴谷雄高 二つの同時代史》(岩波書店、1984年7月23日)の〈三島事件の頃〉で、埴谷は《New Writing in Japan》に触れて「〔……〕かつて三島由紀夫がペンギン・ブックスで「ニュー・ライティング・イン・ジャパン」というアンソロジーを編集したことがあるんだ。稲垣足穂とか俺の『闇のなかの黒い馬』の『宇宙の鏡』というのも入っているし、吉行淳之介と安岡章太郎、大江健三郎と安部公房、それから評論は秋山駿、あと詩人で田村隆一とか吉岡実とか歌人の塚本邦雄まで入っている不思議なほどに広い範囲にわたった三島好みの編集で、ジェフリー・ボーナスという人が協力して訳している」(同書、三九六ページ)と大岡に語っている。最後に、《New Writing in Japan》の散文作品(解説文を含む)の目次を掲げる。

  Geoffrey Bownas     Translator's Preface  11
  Mishima Yukio     Introduction  15
  Inagaki Taruho     Icarus  27
  Haniya Yutaka     Cosmic Mirror  32
  Abe Kobo     Stick and Red Cocoon  41
  Oe Kenzaburo     The Catch  51
  Yoshiyuki Junnosuke     Sudden Shower  99
  Yasuoka Shotaro     The Pawnbroker's Wife  123
  Ishihara Shintaro     Ambush  133
  Mishima Yukio     Patriotism  152
  Akiyama Shun     The Simple Life  182
  〔……〕
  Biographical Notes on Authors  247

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(註) 〈静物〉連作の四篇中で各種のアンソロジーにいちばん多く採られているのは、冒頭の〈静物〔夜の器の硬い面の内で〕〉(B・1)だ。一方、この〈静物〔夜はいっそう遠巻きにする〕〉(B・2)は、鮎川信夫・関根弘・木原孝一・山本太郎・清岡卓行・大岡信編《現代詩全集〔第3集〕》(書肆ユリイカ、1959)に《静物》《僧侶》からの16篇の抄録として登場したのが最初で、次が《New Writing in Japan》のジェフリー・ボーナスによる英訳である。同詩はその後、《Ten Japanese Poets》(Granite Publications、1973)、《Contemporary Japanese Literature; An Anthology of Fiction, Film and Other Writing Since 1945》(Alfred A. Knopf、1977)、《Sei Budda di pietra――Antologia di poesia giapponese contemporanea》(Empiria、2000)、《PO&SIE numero 100――Poesie Japonaise》(Editions Belin、2002)、《[Four] Factorial――Speed Round & Translation》(Factorial Press、2005)といった多くのアンソロジーに欧文訳が掲載されている。その先陣を切ったボーナス訳を見よう(《New Writing in Japan》〔二〇三ページ〕)。

  STILL LIFE|Yoshioka Minoru

  Night crowds in
  Bones
  Pleced for a moment
  Among the fish
  Steal from the star-lit sea
  And decompose quietly
  On the plate

  The light
  Moves to another plate
  In whose hollow
  Lurks only living famine
  Begetting first the shadow
  And then the seed

最後の行の“the seed”は「種・種子」だろうから、「卵」の訳語としては違和感を覚える。次に佐藤紘彰の英訳を掲げる(《Lilac Garden: Poems of Minoru Yoshioka》Chicago Review Press、1976、一八ページ)。

  Still Life|Minoru Yoshioka

  The night recedes the further to encircle them
  The bones pleced
  Temporarily in the fish
  Extricate themselves
  From the sea where stars are
  And secretly dissolve
  On the plate
  The light
  Moves to another plate
  Where life's hunger is inherited
  In the hollow of the plate
  First the shadows
  Then the eggs are called in

私は初読のときから「卵」を“egg”と読んできたので――魚卵ではなく鶏卵――、佐藤紘彰の英訳に軍配を挙げたいと思う。ジェフリー・ボーナスが7行と6行に分けて1行空きにしているのも解せない。原詩に空きはない。


《現代詩手帖》創刊号のこと(2017年6月30日〔2019年3月31日追記〕)

永いこと探していた《現代詩手帖》の創刊号を《日本の古本屋》で見つけたので、〈吉岡実と《現代詩手帖》〉で触れていないことを書きたい。1959(昭和34)年6月1日発行の《現代詩手帖》創刊号(奥付には編集人・発行人は野々山登志夫とあるが、後出《戦後詩壇私史》で明らかなように小田久郎の編集になる)の巻号表示が「第1巻第1号」ではなく「第2巻第6号」なのは、継続前誌の《世代》を引きついだためで、国立国会図書館のNDL-OPACに依れば「編者および出版者:4巻2号(昭和36年2月)まで世代社」とある(その後は現在に至るまで思潮社)。その「所蔵情報」に「2巻7号(1959年7月)〜(欠:2巻10号,4巻11号,8巻5,8,10号)」とあるとおり、創刊号は同館に所蔵されていない。私が《吉岡実全詩篇標題索引》(文藝空間、1995)を編むために全詩篇の初出を探索していたころ、八方手を尽くして創刊号を探したが見ることあたわず、最後には思潮社の小田久郎さんを煩わせた。20年以上前のことだ。そのとき入手したのは吉岡実詩〈遅い恋〉(未刊詩篇・7)の見開きページと目次・奥付の3箇所のコピーだけだったが、のちになにかの書誌で吉岡がアンケート(?)に答えているのを知った。しかし改めて小田さんに頼むのも気が引けて、今日に至った。今回、念のために創刊号の全ページに目を通したところ、件の資料が判明しただけでなく、吉岡実や《僧侶》、H賞(当時は「H氏賞」ではなかった)や「H賞事件」への言及を拾うことができた。だが、まずは〈今月読んだ本〉の吉岡の項を見よう。ちなみに〈今月読んだ本〉は目次では「どうすればよい詩が書けるか」という大きな括りのなかで
 読書ノオト
 読むべき本 安東次男 他 六四
 今月読んだ本 大岡信 他 九四
とあって、吉岡実の名前は見えない。本文は「吉岡実」の署名のあとに、こうある(《現代詩手帖》創刊号、1959年6月、九四ページ)。

 ナボコフ「ロリータ」「トレント最後の事件」清岡卓行詩集「氷つた焔

これらは、ナボコフ(大久保康雄訳)《ロリータ〔上・下〕》(河出書房新社、1959年4月20日)、ベントリー(延原謙訳)《トレント最後の事件〔新潮文庫〕》(新潮社、1958年11月29日)()、清岡卓行詩集《氷った焔》(書肆ユリイカ、1959年2月1日)とみられる。ときに、〈今月読んだ本〉の執筆者は掲載順に「安東次男 飯島耕一 大岡信(**) 黒田喜夫 小海永二 中桐雅夫 鶴岡冬一 瀬木慎一 吉岡実 秋吉豊」の10人だが、割り付けが変則的で、タイトルのあと安東次男から中桐雅夫の項の途中までが九五ページ(見開きの左側)に、中桐の項の途中から秋吉豊の項までが九四ページ(見開きの右側)に、コラムのように、埋め草的に組まれている。想うに、これは見開きの右ページと左ページを組み違えたものではないか。ちなみに、本文は村野四郎選〈研究会作品〉なる10ページにわたる〈今月の新人〉(目次での表記)を紹介する記事である。

〈今月読んだ本〉が掲載されている見開き 吉岡実の詩〈遅い恋〉と散文〈詩人のノオト〉が掲載されている見開き(《現代詩手帖》創刊号、1959年6月、六六〜六七ページ)
〈今月読んだ本〉が掲載されている見開き(《現代詩手帖》創刊号、1959年6月、九四〜九五ページ)(左)と吉岡実の詩〈遅い恋〉と散文〈詩人のノオト〉が掲載されている見開き(同、六六〜六七ページ)(右)

〈今月読んだ本〉の九五ページの中桐までは執筆者の50音順だ。当初の入稿時には前記の6人までの原稿しかなくて、鶴岡冬一・瀬木慎一・吉岡実・秋吉豊の項はその後に、原稿が集まった順に組まれたのではないか。そんな慌しい状況を想定すると、《トレント最後の事件》の著者名が抜けているのも、吉岡がそう書いたのか、組版時に脱字したのか、即断できなくなる。

 ナボコフ「ロリータ」ベントリー「トレント最後の事件」清岡卓行詩集「氷つた焔

があるべき記載となろう。かつて〈吉岡実とナボコフ〉に書いた「《人間の文学 第28》あたりがナボコフとの出会いかもしれない。もちろんそれ以前に吉岡が《ロリータ》を読みかけたことはありえる。などともってまわった言い方をするよりも、1959年の最初の大久保康雄訳を覗いて見なかった、と考えるほうが不自然だと言ったほうがいい」という私の推定は〈今月読んだ本〉によって裏付けられたわけだが、執筆当時、《現代詩手帖》創刊号を実見できてさえいれば、と思わないでもない。こうして吉岡は《現代詩手帖》創刊号に、詩〈遅い恋〉(5篇掲載された〈作品〉の冒頭におかれた)とそれに付した散文〈詩人のノオト〉、読書ノオト〈今月読んだ本〉を寄せたわけだが、吉岡実に関する言及はどうかというと、次のようになる。なお太字は執筆者名や標題などを、( )内の〈 〉は引用文の小見出しを、数字は同誌の掲載ページを表す。

――〈だれが詩壇を動かしているか――詩壇地図をつくる人たち〉
〔《ユリイカ》が〕仲間うちの雑誌といわれるゆえんだが「今日」系統の平林敏彦、大岡信、飯島耕一、吉岡実、岩田宏、安東次男〔この後に脱字があるか〕系の栗田勇、江原順、小海永二、中原〔祐→佑〕介、東野芳明、「秩序」系の篠田一士、丸谷才一〔、〕中山公男、旧世代系の中村稔、橋本一明〔、〕「現代批評」系の清岡卓行、鮎川信夫、吉本隆明といった執筆ブレーンはかなり強力なものだ。(〈後つづくを信ずれど「ユリイカ」〉、11)

――〈どうやって詩壇に出るか――その人はこうして詩人になつた〉
たとえば多くの情実をしりぞけて、詩壇づきあいのほとんどなかつた吉岡実が「H賞」をもらい、その作品が正当に評価されるようになつたではないか。(〈詩そのものの力がその人を詩人にする〉、20)

村野四郎・鮎川信夫〔対談〕〈これからの詩はどうなるか〉
 編集部〔小田〕 いまの詩壇に眼を移して、可能性のある詩人とか傾向をとりあげるとすると…
 村野 いろいろあるだろうね。谷川俊太郎君にも、今度の吉岡実君の詩にも、あたらしい可能性をみとめることができますね。
 鮎川 ちよつと象徴的な云いかただけれどたしかにそう言えますね。全然ちがうけれども極端と云つてもいいと思うけれども。
 村野 どうですか、吉岡実君は。
 鮎川 ぼくはいいと思います。「静物」という詩集を出したときから。
 村野 非常に素質のある人ですね。直観的に鋭い。ぼくはほかにも書いたけれども、方法としてはあれはブルトンですね。ブルトンというよりも、もつと意志的な独創があるでしよう。作品の中にそういう秩序の縞目がみえるね。
 鮎川 それから、単に内面的な流動のイマジネーションじやなくて、わりあいにあのひと言語感覚そのものに対するイマジネーションがあるね。そういうところ、ちよつとただのシュールの亜流とちがうと思つたんですがね。
 村野 そうそう、そういうイマジネーションがあるということ、やはりこれはその詩人の認識の問題になつてくると思う。おもしろいのはテーマのあつかいかた。つまりあれは、二十世紀のスキャンダルをことごとくそのテーマにしている。それをイメージとして描き出す感覚的なやり方が非常におもしろくてあたらしいですね。
 鮎川 ある意味で云つたら欠点みたいなところもね。
 村野 だから可能性と危険性の極限にある詩だな。あれからちよつと出たらあぶなくなつてくる。だが詩というものはそういう場所でないとつくれないんだ。
 編集部 谷川さんの可能性というのは。
 村野 つまりああいうのはぼくこう思うんだよ。大げさな批評になるけれども、ああいう姿勢から、成熟してくると新しいリルケ的なものが出てくるんじやないかという期待がかけられているわけです。
 鮎川 ただ吉岡実をみんながいいと云い出すと疑問がおこつてくる。前からぼくはいいと思つていたけど、あの詩は根本的には……ちよつとうまく云えないけれども、根本的には混迷期の無方向性とから生まれてくるんじやないかと思うんです。自分の考えを直接に表現した詩とは反対な詩で、形而上学的なところがあるけれども、極度に内面化された詩と思うんですが、そういう極度に内面化された詩をそんなにみんながよくわかるというのは……おかしい(笑)なんだかへんだという気がする。満場一致であれがいいということがきまつたりすると。どうも狐につままれたみたい……。
 村野 いや、満場一致じやないね。満場一致じやなくても、あれが過半数できまつたということは、現代詩人会の幹事をみなおしたという感じさ。少なくともそのなかには、半分以上はああいうのがわかる詩人がいたということだな。――おこられるかな。(〈現代詩を分ける二つの可能性〉、52〜53)

――〈これが現代詩だ――今月の詩壇〉
とにかく、受賞を拒絶するだろうといわれていた吉岡実が受けとつたから落ちついたようなものの、あまり後味のよい選考経過でなかつたことだけは確かなようだ。吉岡の受賞は、一応だれにでも、受賞すべき人が受賞したという感じをあたえたであろう。〔……〕前に嵯〔蛾→峨〕信之が現代詩人会に入るのは嫌だといつてH賞を蹴つたことがあつたが、ここらでもう一人、吉岡実がH賞を拒絶すれば、この詩人勲章の見方もはつきりするようになつたのではないかと思うのである。吉岡に受賞拒否の気があつたということを聞いていただけに、ちよつと残念な気持もする。(〈H賞をめぐる怪事件〉、79)

SAN〈これが現代詩だ――今月の詩集〉
 昨年の暮から現在にかけて、注目される詩集が二つ出ている。一つは吉岡実の「僧侶」であり、もう一つは最近刊行された清岡卓行の処女詩集「氷つた焔」である。吉岡はこの詩集によつてH賞を与えられたわけだが、それはある意味では当然のことだつたといえよう。というのも、最近すつかり停滞がちだつた詩壇にとつて、「僧侶」が投げかけた波紋は、意外に大きなものだつたからである。もちろん、たかだか五百部か千部しか刷れないのが、現在の詩書の出版事情なのだから、大きな波紋とはいつても、その影響範囲はごく限られたものにちがいない。それでも、例えば高見順のような人までが〈「僧侶」という詩集が出ているんだつてね。ぼくもぜひ読みたいと思つているんだ〉と言つているのをわたしは聞いたことがあるほどだから、少なくとも、詩壇にとつてはやはりちよつとしたセンセーショナルな事件であつたにちがいない。吉岡の、現実の一点をみつめる執拗なまでに冷たい眼は綺麗事の作品を器用にまとめあげることを競いあつていた詩人たちにとつて、少なからず驚異であつたにちがいない。特に、この詩集の題名になつている作品〈僧侶〉は、だいぶ以前に発表されたものだが極めてショッキングな作品であつた。その意味で、この詩集のなかでも、もつとも魅力的な作品の一つである。詩集「僧侶」は、その意味で詩人たちに刺戟を与えることには成功したのだが、しかし、この詩集を正当に評価するためにはもう少し時間をかけてみる必要があるであろう。H賞を受けた詩集は、例えば、去年の富岡多惠子の「返礼」の場合をみてもうなずけるように、単なる〈時の詩集〉でしかない場合が多いからである。吉岡の作品がただの目新しさによつてではなく、ほんとうの意味で、すぐれた作品として評価されるためには、なにはともあれ〈解る作品〉になることが必要である。難解な作品というのは、たいていの場合、モチーフを十分に燃焼させきらずに書くことから生まれる。モチーフを十分に燃焼させるということは、ある程度までは、問題を整理する能力ということと重なるものである。わたしの読むかぎりでは、吉岡にはまだその意味での厳しさや深さはみられない。「僧侶」はかなり評判のよかつた詩集だが、この評判は多分に詩壇の附和雷同性にもとづいているものとわたしには思われる。ろくに読みもしないで、誰かがいいと言つたその言葉をそのまま受け売りして歩く無責任な奴が多いのではないだろうか。その証拠に、この詩集が出てから、わたしは多くの詩人たちがこの詩集に就て語るのを聞いたが、ちよつとつつこんで問い返すと、二三の人を除いては、まともには答えられないのがつねであつた。しかも、その二、三の人たちは〈実際のところ、わたしはちつとも面白いとはおもわないのだがね〉と言つていた。一例をあげると、次に引用する作品〈喪服〉も、われわれの目にはかなり以前からふれていた吉岡の吉岡らしい作品で、ここにも彼の長所と短所がよくあらわれている。
 ぼくが今つくりたいのは矩形の家
 そこで育てあげればならぬ円筒の死児
 勝算なき戦いに遭遇すべく
 仮眠の妻を起してはさいなむ
 粘土の肉体を間断なく変化させるために
 勃起とエーテルの退潮
 濕性の粗い布の下で夜昼の別なくこねる
 ぼくは石炭の凍る床にはいつくばい
 死児の哺乳をつづける
これは冒頭の数行だが、たしかにわれわれはこのなかに、言葉に対する彼の特異な感覚、異常な執拗さ、といつたものを認めることができる。だがこれは、ちよつと視点を移してみればわかるのだが、二、三十年前の日本のシュールの画家たちが、キャンバスに塗りたくつていたあの無意味に混乱していた絵を、そのまま文字で写してみたにすぎないのである。逆説的に言えば、このアナクロニズムこそが特筆すべき彼の作品の魅力なのであり、現代詩の盲点をたくみについたことにもなるのであろう。(〈専門家だけがダマされた「僧侶」〉、82〜83)

これらのなかで興味深いのは、なんといっても対談〈これからの詩はどうなるか〉での鮎川信夫の発言だ。村野四郎はすでに《東京新聞〔夕刊〕》(5月19日)に〈H賞をうけた吉岡実の「僧侶」〉を書いていたが、鮎川はこの時点では吉岡や《僧侶》について言及していなかったからである。「混迷期の無方向性」「極度に内面化された詩」という指摘は、鮎川ならではのものだろう。ところで、匿名時評で詩集を担当した「SAN」が誰かは、小田久郎《戦後詩壇私史》(新潮社、1995年2月25日)に就くに如くはない。「〔《ユリイカ》で匿名時評を書いていた〕この清水〔康雄〕の鋭い鉾先は、やがて創刊された「現代詩手帖」の匿名時評欄でも、物議をかもすような立ち廻りを演じることになる。たとえば創刊号では早くも、「注目される二冊の詩集」という評価を前提にしながらも、吉岡実の『僧侶』と清岡卓行の『氷った焔』をかなりあしざまにこきおろしている。書くほうも書かせるほうも、けっこう恐いもの知らずで向うみずな若者だったのである」(同書、一三三〜一三四ページ)。吉岡の〈詩人のノオト〉の末尾には「(よしおか・みのる氏は大正八年、東京生。詩集「僧侶」で本年度現代詩人会H賞を受賞。この五月には長い独身生活から足を洗うとのこと。現、筑摩書房広告部次長。)」(《現代詩手帖》創刊号、1959年6月、六七ページ)とある。これを書いたであろう小田久郎は当時28歳、のちに青土社を興して《ユリイカ》を復刊することになる清水康雄は27歳だった。

《現代詩手帖》創刊号(1959年6月)の奥付  《現代詩手帖》創刊号(1959年6月)の目次 《現代詩手帖》創刊号(1959年6月)の表紙
《現代詩手帖》創刊号(1959年6月)の奥付(左)と同・目次(中)と同・表紙(右)

* エドマンド・クレリヒュー・ベントリーの《トレント最後の事件》は、吉岡実の読書傾向のなかでは異色の書目である。既刊・未刊を問わず吉岡の遺した随想に翻訳物のミステリが登場したことは、フリイマン・クロフツの《クロイドン発十二時三十分》と《樽》(これとて森茉莉〈後記――原稿紛失の記〉を引用した文中に出てくるもの)のほかにはなかったからだ。集英社文庫版《トレント最後の事件》(1999年2月25日)の新保博久〈解説――黄金時代の開幕を告げた傑作〉に依れば、本作の初訳題は〈生ける死美人〉で、横溝正史が編集長をしていた雑誌《探偵小説》に掲載された。これに魅了された江戸川乱歩は中篇〈石榴〉をものしたという。同作は「温泉旅行に出かけた私は、投宿した旅館で『トレント最後の事件』を読んでいる猪俣という男と出会う。〔……〕」(Wikipedia)という筋だそうだから、吉岡が乱歩経由で《トレント最後の事件》に興味を抱いたという線もまったく考えられないわけではない。だが、吉岡が乱歩を愛読していたのは少年時代で、はたして〈石榴〉(初出は《中央公論》1934年9月号)まで読んでいたかどうか。NDL-OPACで調べると、1958年までに刊行された《トレント最後の事件》は次の6点である(その後、大久保康雄訳、宇野利泰訳、大西央士訳などがある)。
 @延原謙訳、黒白書房版、1935
 A延原謙訳、雄鶏社版〈おんどりみすてりい〉、1950
 B延原謙訳、新潮社版〈探偵小説文庫〉、1956
 C高橋豊訳、早川書房版〈世界探偵小説全集〉、1956
 D田島博訳、東京創元社版〈世界推理小説全集8〉、1956
 E延原謙訳、新潮社版〈新潮文庫〉、1958
吉岡が手にした訳書がCかDということもありえないわけではないが、〈今月読んだ本〉という企画内容からいっても、手軽な版であり、直近の刊行でもあるEの可能性がいちばん高いだろう。

ベントリー(延原謙訳)《トレント最後の事件〔新潮文庫〕》(新潮社、1958年11月29日)の表紙
ベントリー(延原謙訳)《トレント最後の事件〔新潮文庫〕》(新潮社、1958年11月29日)の表紙

ところで本書には、扉の裏に〈登場人物〉の記載があって、その次のページに「ギルバート・キース・チェスタトン へ」という献辞に続けて「ギルバート君、僕はこの小説を君に捧げる、その理由は、〔……〕/E・C・ベントリー」とある。ここで私がはしなくも思い出すのは、「ギルバートきみは善良すぎる/時計の竜頭を巻きながら/吊り棚から一丁の鋏をとり出して/旅へ出る」と始まる吉岡の詩篇〈悪趣味な夏の旅〉(G・26、初出は《新劇》1975年7月号)である。もっとも吉岡本人は金井美恵子との対談で
 金井 エッセイで、君と呼びかけた詩はいままで書いたことはないけれども、これからもしかしたら書くことがあるかも知れないとお書きになっていた文章があったでしょ(笑)、あれを読んで、あ、なるほどなと思ったんですけどね。
 吉岡 できないんだよね。
 金井 『サフラン摘み』の中に二つありますよね。
 吉岡 言葉はね。
 金井 固有名詞で出ていて、「異霊祭」のアラン、「悪趣味な夏の旅」のギルバートね。
 吉岡 ギルバートってのはね、昔そういう美男俳優がいたの、大根だけど。
 金井 ふーん。無声映画時代の?
 吉岡 だと思うのね。それがふと名前として出てきたのね。(〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉、《現代詩手帖》1980年10月号、一〇六ページ)
と語っているから、チェスタトンのことではないのだろう。だが、ここでレミニサンス(無意識的記憶)がまったく働いていないともいえない気がする。

** 大岡信は、ジョルジュ・ユニェ(江原順訳)《ダダの冒険 1916-1922》(美術出版社、1959)、風巻景次郎《中世の文学伝統――和歌文学論〔ラヂオ新書〕》(日本放送出版協会、1940)、ベーコンの随筆の3点を挙げて、ていねいにコメントしている。詳細を極めた《大岡信・全軌跡 年譜》(大岡信ことば館、2013年8月1日)にも見えない文章なので、註しておく。そういえば、今はなきオンライン書店bk1のウェブサイトの案件で〈今月読んだ本〉と同様の企画を晩年の大岡さんに依頼したところ、新刊は読んでいる時間がないので買わない旨の返信をもらったことがある。

〔2019年3月31日追記〕
ベントリーとチェスタトンといえば、中尾真理の書きおろし《ホームズと推理小説の時代〔ちくま学芸文庫〕》(筑摩書房、2018年3月10日)の〈第二部 推理小説の黄金時代(イギリスの場合)〉の第二章が、この二人のために割かれている。「〔……〕『トレント最後の事件』は複雑なトリックの解明と、副題にある「黒衣の女」とのロマンスが絡みあう長編小説となっている。コナン・ドイルの「ホームズ」ものはほとんどが短編であったし、チェスタトンの「ブラウン神父」ものも短編だった。ベントリーはトリックと人間ドラマ的な要素を分け、長編にしてその両者をじっくりと描いたのである」(〈E・C・ベントリー――大富豪と推理小説〉、同書、一六五ページ)。吉岡実がホームズ以降のこの手の小説に熱中した形跡は見えにくいが、少年のころには岡本綺堂の捕物帖を愛読したという(〈読書遍歴〉)。モダニストとミステリーは相性が好いようだ。吉岡に近しい人でいえば、西脇順三郎(アガサ・クリスティ《三幕の悲劇》を訳している)、丸谷才一(著書に《快楽としてのミステリー》がある)、田村隆一(クリスティを多く訳しているばかりか、自作の詩でも言及している)がその代表である。中尾の本にも、T・S・エリオットとホームズものの関係(六七ページ)、ジェイムズ・ジョイスとフランソワ・ウージェーヌ・ヴィドック(パリ警視庁創立当時の密偵)の《回想録》の関係(一〇七ページ〜)など、いろいろなことを考えさせる手掛かりが充ちていて、興味は尽きない。たまたま入沢康夫の評論集を読みかえしていたら、〈細部の神〉で詩と推理小説の関係を述べているのが目にとまった。
「〔……〕奇術や推理小説では、とかく人の見逃しがちの、とるに足りない(かのごとき)細部[ディテール]に、最も重要な鍵がひそんでいるケースが多いわけだが、詩の「真の魅力」についても、同じことが言える。何でもない助詞一つ、あるいは音韻のかすかな共鳴などが、一篇の詩の与える愉悦のほとんどを支えているといった事態は、一般に気付かれているよりもはるかに多いのではあるまいか。このような「細部にひそむ神」を発見するのが、推理小説の場合には名探偵、詩の場合には良き読者ということになるのだろう。/ところで、そのような名探偵の登場する作品、何度でも読み返したくなる推理小説とは、お前にとっては何なのか、ときかれれば、私としてはチェスタートンの「ブラウン神父」シリーズを挙げることになる。〔……〕およそ二十年、毎年最低五回は読み返して来ている。自分でも、どうしてこんなことになったのか、いささか不審なくらいだが、事実そうなのだから仕方がない。理屈をつければ、先に述べた意味での「細部の神」の顕現をブラウン神父に、そして作者G・K・チェスタートンに感じつづけているということなのだろう」(《詩にかかわる》、思潮社、2002年6月20日、一二七〜一二八ページ)。
一度、吉岡さんに捕物帖や推理小説についてうかがっておきたかった。さぞかしユニークな見解が聴けたのではないだろうか。たとえば「最近じゃ、小説そのものをあんまし読まないんだ」とか、「推理小説と探偵小説ってのはどう違うんだい? 乱歩あたりはなんて言ってるんだろう」とか。


吉岡実と済州島(2017年5月31日)

私は司馬遼太郎のよい読者ではないが、折にふれて読みかえす本のひとつに《街道をゆく 28 耽羅紀行〔朝日文庫〕》(朝日新聞社、1990年8月20日)がある。この「耽羅[タン/タム/トム/たむら]」とはなにか。現在の「済州島は、古代、耽羅という独立国だったのである」(同書、一四ページ)と街道をゆく人は語る。では済州島とはなにか。大日本帝国陸軍の兵士だった吉岡実(当時26歳)が、それまで転戦していた満洲から渡った運命的な土地である。私は《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》の1945(昭和20)年の項に「四月、満洲から朝鮮済州島へ渡る。上陸以来毎日輓馬で物資を搬び山奥へ移動。新星岳で野営し倒れた馬を食べて生きのびる。八月十五日、敗戦を迎える」と記したが、これは吉岡の随想〈済州島〉(初出は筑摩書房労組機関紙《わたしたちのしんぶん》1955年8月20日)に依る。〈済州島〉の全文を引く。

 朝鮮の一孤島済州島で終戦をむかえた。いつわりのないところ、私はほっとした気持だった。多くの兵隊もそれにちかい心情であったろう。ねじあやめ咲く春の満洲を出てから四ヶ月目であった。済州島は日本帝国の最後の橋頭堡であったらしい。恐らくあと一ヶ月戦いがつづいたら、済州島の山の中が、私の立っていた最後の地上になったであろう。それが反対に、死から私を庇護し、なつかしい再生の土地となった。済州島へ上陸以来、毎日輓馬で弾薬や食料を山の奥へ奥へと搬んでいた。そして野営をした処が新星岳だった。そのうち馬は倒れた。食料のとぼしい時なので、倒れた馬は殺して喰べた。ろくな飼料を与えられていない馬たちの肉は、脂がなく味気なかった。暇ができると、野苺をつみながら山の中腹で憩うのだ。われわれの島をかこむ夕映の海が見え、その輝く波の中に青々とした飛揚島が泛んでいた。ふりむけば、峯々が重なり、その奥深くに、名峯漢拏山がそびえていた。あっちこっちに石をつんだ垣がつらなっていた。そのかげのところどころに、馬の墓が簡単な石で象どられて、野草が供えられていた。われわれ人間のあいだには、異郷でさびしく死んだ人……などという哀悼の言葉がある。しかし異郷で死んだ馬にはそれがない。石の下で、今では完全な白骨となっていることだろう。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、四四〜四五ページ)

飛揚島 出典:徳山謙二朗《済州島・四季彩――FROM CHEJU》(海風社、1991年10月22日、五二ペーージ)
飛揚島 出典:徳山謙二朗《済州島・四季彩――FROM CHEJU》(海風社、1991年10月22日、五二ペーージ)

吉岡がこの文章を発表した1955年8月はまさに戦後10年、時あたかも詩集《静物》(私家版)を刊行した月で、当時は戦争の記憶も生生しかった済州島の概況を述べるまでもなかった。だが今日のわれわれは、必ずしもそれに通じていない。高野史男《韓国済州島――日韓をむすぶ東シナ海の要石〔中公新書〕》(中央公論新社、1996年10月25日)には〈第二次大戦下の状況〉として、次のようにある。
「第二次世界大戦中、済州島南西部と北部に日本海軍航空隊の基地が設けられ、中国大陸への航空作戦(南京渡洋爆撃など)の拠点とされたことがある。また済州島が東シナ海の要をなしているという戦略的位置の重要性から、大戦末期にはアメリカ軍の済州島への上陸作戦が予想されたため、日本軍大部隊(約七万といわれる)が駐屯し、全島要塞化の工事がなされた。海岸の崖には特攻隊の人間魚雷用の洞窟が掘られ、漢拏山北西部の御乗生[オスンセン]岳(一一六九メートル)には司令部用のトンネル式トーチカが築かれた。これらの労働には島民が強制的に使役された。/幸いにして島は戦場化することなく終戦となったが、日本軍は武装解除後、引き揚げるに際して若干の小火器、弾薬を漢拏山の火山地形を利用した洞穴陣地などに隠匿したとされ、これがのちに「四・三事件」の際に使用されることになる」(同書、三八ページ)。
吉岡の野営した新星岳がどこで、軍事的にどのような役割を担っていたのかわからない(飛揚島を見下ろす地点なら、翰林面だろうか)。「全島要塞化」が必至だとすれば、アメリカ軍が日本軍部隊を駆逐するのも時間の問題だっただろう。吉岡は九死に一生を得た想いだったに違いない。そのとき、苦楽を共にしてきた軍馬を屠って生きのびることはどんなだったか(吉岡実が数数の詩篇に馬の姿を描きこんだのは、鎮魂の意も含まれていよう)。吉岡の記述からは、この軍馬がどういう種類だったのか不明である。あの秋元幸人の画期的な〈吉岡実の《馬》の詩群〉(《吉岡実アラベスク》書肆山田、2002年5月31日、所収)も馬の品種については触れていない。世界戦争史の研究者、武市銀治郎の《富国強馬――ウマからみた近代日本〔講談社新書メチエ〕》(講談社、1999年2月10日)にはこうある。
「昭和十二年から二十年までの間に徴発された軍馬数は、敗戦で軍が解体されてしまったために正確な数値は失われてしまったが、おおよそ六十万ないし七十万頭に及んだものと推測される。また、満洲ではかなりの数の現地農民の馬を購買したが、戦争末期には現地の産業を維持することに注意が払われ、主として蒙古遊牧馬を購買した。/ちなみに事変勃発から終戦までに軍馬をもっとも多く用いたのは「支那方面」であり、その総出動馬数は二十四万三百十九頭で、八年間に十一万六千百十一頭を損耗し、終戦時残存馬数は十二万四千二百八頭であった。/その内訳は、日本馬が六万五千百七十四頭(五二パーセント)で、大陸馬が五万九千三十四頭(四八パーセント)であった。役種別では、乗馬、砲兵輓馬、砲兵駄馬及び戦列駄馬はすべて日本馬をもって充てられ、輜重馬はすべて大陸馬が充てられていた。/これら残存馬の約七七パーセントにあたる九万五千四百十九頭が、天津、北京、石家荘、山西、青島など二十地区の地点で中国側に引き渡された」(同書、一九五ページ)。
ここからは、「輜重馬はすべて大陸馬」で、満洲の農民の馬や蒙古遊牧馬を買って軍馬としたことがわかる(*)。 司馬の《耽羅紀行》の〈モンゴル帝国の馬〉には「蒙古馬は、アラブや中国西域の馬のように馬格が大きくない。体が小さいくせに頭が大きく、脚がみじかくふとく、なんだか不格好なのだが、長途の行軍に適しており、耐久力はじつにつよい。チンギス汗とその子孫たちはこの小さな馬に騎[の]ってはるかヨーロッパまで行ったのである。/現在のモンゴル高原の馬は混血によって歴史的蒙古馬とはずいぶんちがったものになっている。/十三世紀の大モンゴル帝国の馬は、済州島にだけのこっているといっていい」(同書、一五六ページ)と書かれてあり、興味はつきない。

「馬と大鎌」
「馬と大鎌」 出典:泉靖一《済州島》(東京大学出版会、1966年5月31日〔2刷:1971年3月25日〕、口絵写真 73)

もっとも、いま私が司馬の《耽羅紀行》で注目するのはそのまえの章〈神仙島〉の次の一節だ。

 〔……〕紀元前二一九年、方士[ほうし]の徐市[じよふつ](徐福とも書く)が秦の始皇帝に上書して「海中に三神山(蓬莱・方丈・瀛洲[えいしゆう])があって、仙人が住んでいる。ぜひ童男女をひきいて不老長生の薬を求めにゆきたい」といったという話が『史記』の「秦始皇紀」に出ている。
 徐市が、日本の紀州熊野浦にきた、という伝説があって、六朝[りくちよう]の末や唐代にかけて中国側で信じられたりしたが、むろん伝説の域を出ない。朝鮮では、耽羅[たんら](済州島)こそ徐市が不老長生の薬をもとめてやってきた瀛洲である、と言い継がれている。
 それほど漢拏山には薬用植物が多いのだともいわれている。(同書、一四五ページ)

吉岡の詩篇〈蓬莱〉(J・18、初出は1983年5月の《歴史と社会》2号)が思われるからである。

蓬莱|吉岡実

   1

(人間が死なずにすむ
          空間はないのか)
祖父はいまなお
       (蓬莱郷)を探究しつつ
                  青菜粥をすする
風すさぶ暗い軒より
         雉子の首を吊るす
                 家はすでに(遺構)だ
腐った木々で囲まれている
            (行きつく
             ところのない
             時と時のあいだ)
母屋のみは明るく
        紅白の縞の幕を張りめぐらす
なればこそ(霊魂)はとどまる
              (柞葉[ははそば])の母の捧げ持つ
   (軽いようで 重いもの
    小さいようで 大きなもの)
(白木の三方)が置かれた
            (歯朶 米 橙 いせえび
             榧 かちぐり 昆布)
(松)のみどりが中心に立てられる
                (飾られた風物詩)
ほうらい (宝来)
         (飲食[おんじき])するはらからの宴も終る
(いずこにも不死の人はいない)

   2

姉には(星菫)趣味がある
            鷹の羽を黒髪に飾り
麦藁と矢車草で
       (野兎)を編む
              それは(幽界)へ通ずる
(言葉)をこえた(発光体)だ
              (習習[しゆうしゆう]たる谷風)のように
川面や野づかさを越え
          巨きな樟のうろへかくれる
                      (形代[かたしろ])
やがて(霹靂[はたたがみ]とよもす天地[あめつち])

   3

(亀甲獣骨)に刻まれた文字
             その最初の(文字[もんじ])は
斧でたたかう
      (父)の一字ではなかろうか
暗くもなれば
      明るくもなる
            (社会構造)の迷路から
遥かなる処へ
      父は手甲脚絆すがたで
                砂鉄掘りに行って帰らず
消毒液のしばしにおう
          淋しい(逆旅[はたごや])のみちづれひとり
(聖なる父)ゆえ
        (女の姿と鱈の見境いがなくなる)

   4

((馬に起ることは
        (人間)にも起りうる))
妹はうらわかく
       孕んだはらを裂かれて
                 死んでゆき
(人は橋上を過ぎて行く)
            なれど(何者に語り得べき)――
ぼくは一篇の(鎮魂歌)を書く
              (骨も見えず 肉も見えない)
(白紙の世界)をさすらいつづけ
               (竹藪をぬけ出ると
                そこに老婆が立っていた)
日は高く 鶴は舞い
         岩根は低く 亀は這っている
         (可視線の書き割り)
扇をひらくように
        三葉 五葉
             そして七葉の松が白砂へ連らなる
    (箱庭)かもしれず
((いまは(自然)がむしろ
            (不自然)に見える時である))

とりわけ「((馬に起ることは/(人間)にも起りうる))」と始まる「4」は、吉岡の〈済州島〉に登場する馬を想起させる。徐市の「不老長生の薬」にしても、いかにも《薬玉》にふさわしいが、〈竪の声〉(J・2、初出は《現代詩手帖》1981年9月号)の一節、

野生の毒人参は生え 鵲は巣ごもり
束髪の母がオルガンをひびかせている

  ――おかあさん あれはなんですか
  ――碾臼だよ
  ――では孔のあるところから もれているものはなに
  ――時間だよ
  ――まわりにたまっているものは
  ――豆のかすだよ

というあたりも、済州島の風物と切りはなせないようだ(**)。〈苦力〉(C・13)が満洲の風土と分かちがたい詩篇であることはつとに知られるが、吉岡が終戦を迎えた「朝鮮の一孤島済州島」がその詩に深く刻まれていることもまた疑いないように思う。本稿の初めに引いた高野史男《韓国済州島》には「この島は北方の大陸アジアと南方の海洋アジアの性格を併せもち、また朝鮮海峡における対馬島の存在にも似て、日韓両国をつなぐ飛び石のような役割を果たしているのである」(同書、一九四ページ)とある。吉岡実は図らずも「北方の大陸アジア」満洲を知ったわけだが、「南方の海洋アジア」を実際に訪れることはなかった。私はいま、《静物》に現れる奇妙に明るい南海のイメージの底にあるのは、吉岡が1945年春から秋にかけて滞在した済州島のそれではないか、と感じている。《静物》の異色作〈夏の絵〉(B・9)こそ、その南海と(〈風景〉がそうだったように)リュシアン・クートーの絵の放恣な混淆ではなかったか。

夏の絵|吉岡実

商港や浚渫船もこの夏は
狂信的な緑の儀式へ参加する
同時に
マストはにぎやかに梢となり
鳥の斑のある卵をいくつもかかえる
大きな葉を風は
船長の帽子へ投げ入れる
さかさまにひっくりかえった船長の股に木の実が熟れる
前進せよ沖へ
緑の波の中へ
波も緑のモザイクの葉
停止せよ
棘の緑に船の旗も破られる
緑の祝日は
太陽すらのぞかせぬ
小便する船乗りの犬
それも緑のとげへ
縦横にみどりの毛糸でひっかかっている
すこしほどくと枯れだす
船は上陸した
横たわる
大きな樹木になって
根にかかえる千の石をおとし
枝々の間から
千の鳥を
沖の波にかこまれた
みずみずしい桃のなる
島へ帰らせる

私が知る日本海側の島は佐渡と隠岐だけだ。だが、いつの日か日本海・東シナ海・黄海のあいだにある火山島、済州島を訪れてみたい。高野史男《韓国済州島》から「自然が綾なす景勝・瀛洲[えいしゆう]十二景」(同書、一三九ページ)を掲げて、本稿を終えることにしよう。

  城山日出
  沙峰落照
  瀛邱春花
  橘林秋色
  正房夏曝
  鹿潭晩雪
  山浦釣魚
  古藪牧馬
  霊室奇岩
  山房窟寺
  龍淵夜帆
  西鎮老星

……………………………………………………………………………………………………………………………………

* 吉岡実は1941年から1945年まで輜重兵として中国大陸および済州島にあった。武市銀治郎の《富国強馬――ウマからみた近代日本〔講談社新書メチエ〕》(講談社、1999年2月10日)には「輜重兵とは戦闘兵科(歩・騎・砲・工兵)を支援する兵科で、糧秣・弾薬・衣服などの軍需品の運搬に任じたものである。これらは弾薬段列、糧食段列、架橋段列を構成して軍隊に続行し、通常これに衛生隊、野戦病院などを含めて輜重と称した。また、戦時には師団の予備馬を管理する馬廠[ばしよう]や傷病馬を保育する病馬廠を編成した」(同書、八六ページ)とある。

** 泉靖一《済州島》(東京大学出版会、1966年5月31日〔2刷:1971年3月25日〕)には「挽臼(kale) 直径四五センチメートル大の石を二枚組みあわせたもので(2)〔=搗臼〕とともに家庭でふつう使われている」(同書、二二三ページ)とあり、口絵には「碾磨小屋」や「碾磨(石うす)」の写真(1936年撮影)が掲げられている。また、泉に依れば「朝鮮〔本土〕に多いカササギは〔済州島に〕棲息していない」(同書、二一ページ)から、〈竪の声〉の「鵲は巣ごもり」は満洲の光景だろうか。なお、吉岡が泉の《済州島》(司馬遼太郎が高く評価した)に触れたかは不明である。

「碾磨(石うす)」
「碾磨(石うす)」 出典:泉靖一《済州島》(東京大学出版会、1966年5月31日〔2刷:1971年3月25日〕、口絵写真47 a 1936年)


吉岡実とピカソ(2017年4月30日)

吉岡陽子編〈年譜〉(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996)にはピカソに関する記載が2箇所ある。「一九三七年(昭和十二年) 十八歳/知人斎藤清(版画家)宅で見たピカソの詩(おそらく瀧口修造訳で「みづゑ」に掲載された「詩を書くピカソ」)に啓示を受ける。以後、北園克衛詩集『白のアルバム』や『左川ちか詩集』などを読む。友人たちと俳句を作る」(同書、七九〇ページ)と「一九八一年(昭和五十六年) 六十二歳/三月、〔……〕伊勢丹美術館で〈ピカソ秘蔵のピカソ展〉〔を観る〕」(同前、八〇三ページ)である。〈吉岡実と瀧口修造(3)〉の註(5)に記したとおり、吉岡実は随想で六回にわたって「ピカソの詩」に言及している。同註を再掲する。末尾の( )内は随想の発表年月。

 @「その頃、斎藤清氏の四谷のアパートで、ピカソの詩を発見し、興奮した。それは「みづゑ」かなにかだろう」(1959年8月)。
 A「数々の習作を試みたが俳句でも短歌でも個性を発揮できず、美術雑誌でみたピカソの詩に触発されて詩へ移行した」(1962年1月)。
 B「北園克衛とピカソ、それから左川ちかの詩にふれて、造型的なものへ転移していったのである」(1968年4月)。
 C「私がピカソの絵と詩を見たのは、たしか十七、八歳のころのことだ」(1982年3月)。
 D「北原白秋の短歌や佐藤春夫の詩に魅せられていた、少年期の私は偶然に読んだピカソと北園克衞の詩によって、別の詩の世界があるのを知った」(1983年4月)。
 E「知人斎藤清(版画家)宅で見たピカソの詩(おそらく瀧口修造訳で『みずゑ』に掲載された「詩を書くピカソ」)に啓示を受ける」(1984年1月)。

前掲年譜の典拠となったEを吉岡が書いたときに参看した瀧口修造の訳は《近代芸術〔美術選書〕》(美術出版社、1962)の可能性が高いが、瀧口は初出〈詩を書くピカソ〉(1937)以後もピカソの詩にたびたび触れており、〈詩を書くピカソ〉を収録した《近代芸術》の再刊や三刊を含めて、1949年以来の3度にわたる〈ピカソの詩〉や1973年の〈「ピカソの詩」余談〉がある。瀧口が〈詩を書くピカソ〉で訳出したピカソの詩句に

・香りは鶸が井戸の中で打つ影たちの通るのを聴き珈琲のしゞまの中で翼の白さを消す
・トレロで霧が発明したもつとも美しい針で彼の電球の衣裳を縫ふ闘牛

がある。また

 隅で菫色の剣時計紙の皺金属の肉片生命が頁[ペエジ]に一発見舞ふ紙は唱ふほとんど薔薇色な白い影の中のカナリヤリラ色の淡青色の影の中の空ろな白の中のひとすぢの流れ一つの手が影のぐるりで手に影をつくる一匹の非常に薔薇色の蝗一つの根が頭をあげる一本の釘何もない樹々の黒一つの魚一つの巣はだかの光の暑さは日傘を凝視める光の中の指たち紙の白さ白さの中のひかり太陽は火花散る狼を切る太陽そのひかりとても白い太陽強烈に白い太陽(《みづゑ》385号、1937年3月、〔本文の漢字は新字に改めた〕)

という詩章もある。「香りは」や「トレロで」は吉岡の戦前の詩句を、「隅で菫色の剣時計紙の皺金属の肉片生命が」は瀧口自身の《詩的実験》の諸作を、想いおこさせる。吉岡の詩的出発におけるピカソの詩の影響は、北園克衛や左川ちかの詩とともに、今後いっそう詳らかにされる必要がある。年譜後段、〈ピカソ秘蔵のピカソ展〉(伊勢丹美術館、1981年3月5日〜4月7日、主催東京新聞)は、1881年、スペインに生まれた20世紀美術の巨匠パブロ・ピカソの生誕100年を記念する展覧会である。吉岡は上に引いたようにピカソの詩については何度も書いたが、その絵について書いた随筆はない。だが吉岡にとって最も重要なピカソに関する記述は、唯一の詩論〈わたしの作詩法?〉(西脇順三郎・金子光晴監修《詩の本 U 詩の技法》筑摩書房、1967年11月20日)の次のくだりである。

 或る人は、わたしの詩を絵画性がある、又は彫刻的であるという。それでわたしはよいと思う。もともとわたしは彫刻家への夢があったから、造形への願望はつよいのである。詩は感情の吐露、自然への同化に向って、水が低きにつくように、ながれてはならないのである。それは、見えるもの、手にふれられるもの、重量があり、空間を占めるもの、実在――を意図してきたからである。だから形態は単純に見えても、多岐な時間の回路を持つ内部構成が必然的に要求される。能動的に連繫させながら、予知できぬ断絶をくりかえす複雑さが表面張力をつくる。だからわたしたちはピカソの女の顔のように、あらゆるものを同時に見る複眼をもつことが必要だ。中心とはまさに一点だけれど、いくつもの支点をつくり複数の中心を移動させて、詩の増殖と回転を計るのだ。暗示・暗示、ぼやけた光源から美しい影が投射されて、小宇宙が拡がる。(同書、二五九〜二六〇ページ)

今回、本稿を書くために《詩の本 U 詩の技法》(*)を再読した。「詩の技法」を語る際、同書で絵画や画家を引きあいに出している文を掲げる。

・マチエールとして画家が画面の絵具に対するように言葉の質感を探るのである。(三好豊一郎〈詩の素材〉、五五ページ)
・それは読むために書かれているというよりも、一枚のカンバスの上の記号やイメージと同じように、見られる[、、、、]ために書かれていると言える。(飯島耕一〈詩のイメージ〉、九〇ページ)
・シュールレアリスムの絵を描いていた何人もの若い画家は戦死した。〔……〕彼ら(詩人たち、画家たち)のあるものは戦場で死んだ。(同前、一〇一ペー ジ)
・詩人は、言葉を、それ自体が問題であるところの物としてとりあつかい、画家が画布の上に絵具を並べ、音楽家が時間の中に音を配列するように、紙の上に言葉を配列する。〔……〕詩人にとっての言葉のありようは、どうも、画家にとっての絵具のありよう、音楽家にとっての音のありようとはちがうようです。(入沢康夫〈詩の構成〉、一五〇〜一五二ページ)
・さらに、未来派の詩などにあるように字以外の図形や記号やを自由にとりいれるとすれば……、それは、かなり絵画の分野にも近寄った試みということになり ましょう。(同前、一六四ページ)
・或る絵画が見える、女体が想像される、亀の甲の固い物質にふれる。(吉岡実〈わたしの作詩法?〉、二五八ページ)
・或る人は、わたしの詩を絵画性がある、又は彫刻的であるという。(同前、二五九ページ)
・だからわたしたちはピカソの女の顔のように、あらゆるものを同時に見る複眼をもつことが必要だ。(同前、二六〇ページ)

こうして見ると、詩人にとっての言葉と画家にとっての絵具というアナロジーがほとんどであるなかで、〈わたしの作詩法?〉における吉岡の「絵画」「絵画性」「ピカソの女の顔」がいかに深く自己の作品に即した言及であるかがうかがえる(〈わたしの作詩法?〉は先に引いた「暗示・暗示、ぼやけた光源から美しい影が投射されて、小宇宙が拡がる」のあと、詩篇〈苦力〉を全行引用して、同作にまつわる満洲での兵隊時代を回顧して終わる)。それかあらぬか、同文の結語は

 わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(同前、二六五ページ)

と、あたかも「ピカソの女の顔」そのものである。それを踏まえて、以下では吉岡実詩における「ピカソの女の顔のように、あらゆるものを同時に見る複眼をもつ」ことの意味を探ってみたい。
臼田捷治は《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015)の〈はじめに――出版界のロールモデルとしての時代を超える魅力〉で、大学に入って出会った筑摩書房の書籍の筆頭に高階秀爾《現代美術〔グリーンベルト・シリーズ73〕》(1965年11月30日)と同《ピカソ――剽窃の論理》(1964年10月10日)を挙げている(同書、四ページ)。のちに美術出版社に勤務することになる臼田が高階の二冊に感銘を受けたのは、異とするに足りない。一方で、現代美術に限らず観ること全般に貪婪な関心を抱きつづけていた吉岡が、これら自社の出版物に眼を通さなかったと考えることは、私にはできない。吉岡が高階の《現代美術》と《ピカソ》を読了したという証拠は今までのところないが(**)、この半世紀前に刊行された著作の射程は、吉岡が歿した1990年は言うまでもなく、2017年の現時点をも覆っている。ちなみに私が初めて触れたのは、《現代美術》を増補して《20世紀美術〔ちくま学芸文庫〕》(筑摩書房、1993年4月7日)と改題した文庫版の「第十刷」(2005年11月10日)と、初刊《ピカソ――剽窃の論理》を増補した美術公論社版(1983年10月10日)を文庫化した《ピカソ――剽窃の論理〔ちくま学芸文庫〕》(同、1995年1月9日)である。以下では、吉岡歿後刊行の〔ちくま学芸文庫〕ではなく《現代美術》と《ピカソ》の初刊に依って、吉岡実詩におけるピカソの意味を考えていきたい。という傍から文庫版《ピカソ》巻頭の〈増補にあたって〉を引くことになるのだが、高階によれば、ピカソの「剽窃」とは次のようなものだ。

 改めて断るまでもないであろうが、本書に登場して来る「剽窃」という言葉は、通常そうであるように、否定的意味で用いられているのではない。それは、他人の作品を下敷きにしているという点では模倣であり、借用であるが、同時に、借用したものに基いて奔放自在に自己の創造力を展開して見せる点で、変奏と呼んだ方がよいかもしれない。その多様な変奏を通じて、ピカソという一人の天才の本質を探ろうというのが、本書の基本的モティーフである。(《ピカソ――剽窃の論理〔ちくま学芸文庫〕》、八ページ)

ここから想起されるのは、吉岡の戦前の著作である詩歌集《昏睡季節》(1940)と詩集《液體》(1941)の詩篇が、北園克衛や左川ちかのモダニスム詩、富澤赤黄男の新興俳句などを摂取しながら、直接的には瀧口修造訳によるピカソのシュルレアリスム詩を契機として書かれたという事実である。《ピカソ》初刊の〈ピカソ年譜〉の1935年には「ボワジュルーで書いたシュルレアリスム風の詩を出版」(同書、〔後付〕一〇ページ)とあるから、前掲の瀧口訳は2年後であり、18歳だった吉岡が当時の「シュルレアリスム(超現実主義)の時代」から「ゲルニカの時代」にかけてのピカソの絵画よりもその詩に傾倒したことは、ぜひとも強調しておきたい。「青の時代」以来、ピカソは無手勝流のようでいて、つねに過去の(ピカソにとっての)巨匠たちの作品に深く学び、これを剽窃し続けたことは、高階の《ピカソ》の随所にその指摘があり、引用する煩に堪えない。だが、ピカソの長い画歴にあって「キュビスムの時代」だけはそれと異質だった、と高階は記す。

 形態によって自己を語り、形態の変貌をつねに追求してやまないピカソが、キュビスムの時代だけは自らその形態を破壊して、全体の画面構成の中に吸収させてしまっているという事実や、後年あれほどまで鋭敏に、あらゆる社会現象に反応を示すようになるピカソの作品の中に、第一次世界大戦という空前のあの事件がまったく何の痕跡も残していないという事実は、一九〇七年から約十年間にわたって続けられた彼のキュビスム探求が、いかにその他の時期の彼の作品ときわ立って異った特徴を示しているかを雄弁に証拠立てるものであろう。(〈終章 ピカソ芸術の本質〉、《ピカソ――剽窃の論理》、一七三ページ)

ここから話はややこしくなる。吉岡実がピカソでない以上に、吉岡実の詩はピカソの詩でも、ましてやピカソの絵画でもない。だが、ピカソにとってのキュビスムが、私には吉岡の戦後の(ということは真の)詩的出発である詩集《静物》(私家版、1955)の作品と重なって見えてしたかたがないのである。それほどに《静物》は、それ以前の作品とも(その間には兵士として戦場に駆りだされるという未曽有の体験があった)、それ以降の作品とも見事なまでに断ち切れた姿を露わにしている。ここで戦前の作品は措くとして、《静物》(とそのグロテスクな変奏である《僧侶》)のあと、吉岡は陰に陽に作品の典拠を、先行する文学作品や絵画や舞台芸術に仰ぐようになる。中期から後期にかけての「引用」の問題はいうまでもない。これらはみな、ピカソにおける「剽窃」もしくは「変奏」と併行する。そうしたいわば「得意技」を禁じた《静物》は、だが、決してキュビスムふうでもましてやシュルレアリスムふうでもなかった。ここで〈わたしの作詩法?〉が発表されたのが1967年11月、すなわち詩集でいえば《紡錘形》(1962)と《静かな家》(1968)のあいだ、発表しつつあった詩篇でいえばのちの《神秘的な時代の詩》(1974)の時期だったことを想い起こそう。つまり、「ピカソの女の顔のように、あらゆるものを同時に見る複眼をもつ」ことの意味は、広く吉岡実詩全体を視野に入れるのと、1960年代後半という、より限定された時代(それを「方法的模索の時代」と呼んでも、あながち的外れではないだろう)に置くのとでは意味合いが異なるのだ。ここでは即断を避けたいと思う。ところで「ピカソの女の顔のように、あらゆるものを同時に見る複眼をもつ」の主語は「わたしたち」だった。もう一度、原文を掲げる。

だからわたしたちはピカソの女の顔のように、あらゆるものを同時に見る複眼をもつことが必要だ。

この「ピカソの女の顔のように」は、同時に見る[、、]に係るのか、複眼をもつ[、、]に係るのか。複眼とは「多数の小さな目が集まってできた目」のこと(例:トンボの目など)で、昆虫類・甲殻類・クモ類・ムカデ類などの節足動物で発達している。ゆえに、厳密には下図のようなキュビスムふうの人物の眼を指すのではない。しかし、いろいろな角度から物を見るという意味の「複眼的に見る」から想起するのは、まさにピカソのデッサン〈草上の昼餐〉(1961)――吉岡にはマネの〈草上の昼餐〉を踏まえた詩篇〈草上の晩餐〉(G・13)がある――そのものである。この「かつて彼が一九二〇年代に用いたような、明確で冷たい描線によって、対象を的確に捉える古典的デッサン」(《ピカソ――剽窃の論理》、一四四ページ)こそ、あらゆるものを同時に見る[、、]と同時にあらゆるものを同時に見る複眼をもつ[、、]最良の実例だといえよう。

マネ〈草上の昼餐〉(1863、カンヴァスに油彩) ピカソ〈マネによる「草上の昼食」のヴァリエーション〉(1961、カンヴァスに油彩) ピカソ〈草上の昼餐〉(1961、デッサン)
マネ〈草上の昼餐〉(1863、カンヴァスに油彩)(左)とピカソ〈マネによる「草上の昼食」のヴァリエーション〉(1961、カンヴァスに油彩)〔出典:《ピカソ秘蔵のピカソ展――生誕100年記念》図録(東京新聞、c1981)、図版68〕(中)とピカソ〈草上の昼餐〉(1961、デッサン)〔出典:高階秀爾《ピカソ――剽窃の論理》(筑摩書房、1964年10月10日、一三五ページ)〕(右)

彼女の右目は昼の明るい世界を見ているが、同時に[、、、]左目は夜の暗い世界を見ているため、その瞳孔は開いている。そして、彼女のギリシアふうの鼻梁は真横を向いているのに、鼻腔はふたつながらに見えている。異なる時間と空間を同じ紙面に定着すること。それをイメージではなく、オブジェを用いて行うこと。吉岡実がピカソの絵から学んだのは、この「詩法」だった。高階はキュビスムについて次のように書いている。

キュビスムの特徴としてしばしば指摘される視点の複数化(さまざまな方向から見た対象のかたちを同一画面に並置すること)とか、眼に見える姿ではなくて頭で理解する姿を描くという理知的傾向(見えないはずの裏側の面を描き出したりすること)も、煎じつめれば、眼に見えるかりそめの姿ではなくて、真にあるがままの対象の姿を把えたいという欲求から生まれたものにほかならなかった。これほど決定的なオブジェ(***)への執着はあるまい。(《現代美術》、四八ページ)

〔……〕キュビスムにおける対象の解体は、一般に言われているように画家の視点の複数化によってもたらされたものではない。むしろ逆に、統一原理としての空間の支えを失ったオブジェが、画家の容赦ない追求にあって空中分解してしまった結果が、視点の複数化としてあらわれて来たにすぎない。問題はあくまでも対象の解体にあったのである。(同前、五二ページ)

この指摘のあとに吉岡の「中心とはまさに一点だけれど、いくつもの支点をつくり複数の中心を移動させて、詩の増殖と回転を計るのだ。暗示・暗示、ぼやけた光源から美しい影が投射されて、小宇宙が拡がる」を置くと、吉岡実詩の特徴が(それが一見、どれほど絵画的・彫刻的に見えようとも)時間を取りこんだ、統一的な人格を恢復する=取り返しのつかない時間を愛惜する、といってもいい心性に支えられていることが明白になる。吉岡が詩篇において、巻く・撫でるといった動詞を用いてオブジェ=実在を確認する類の行為を執拗に描くのは、「空中分解してしまった」オブジェをかつてあった親密な時空に置きなおす代償行為にほかならない。

 「私にとって、絵とは破壊の集積である。私は描き、そしてすぐこわす」
 しばしば引用されるピカソのこの言葉は、ピカソの絵画の本質をたしかにいい当てている。ピカソは、自己の絵画とすら親しまない。彼は「人は自分自身のファンになってはならない」という。彼は自分の作り出した世界に安住することを好まない。彼はつねに公式化を警戒し、固定化を避ける。多くの画家たちは、多かれ少なかれ自己の絵画世界と馴れ親しむ。個性の弱い美術家は誰か他人の様式を模倣し、既成のパターンを踏襲することで自己の世界を作り、そこに居を定める。より独創的な芸術家は自己個有の様式を創造してそれを自己の世界とする。しかし、そのようにして作り上げた自己の世界を、片端から打ちこわして行く者はまれである。そしてそこにピカソの〈天才の秘密〉がある。(高階秀爾《ピカソと抽象絵画――近代世界美術全集7〔現代教養文庫457〕》社会思想社、1964年2月28日、六三〜六四ページ)

吉岡実が「私にとって、詩とは破壊の集積である。私は書き、そしてすぐこわす」と言ったとて、だれも怪しまないだろう。《昏睡季節》(1940)に始まり、《ムーンドロップ》(1988)に至るその作品の集積こそが、ピカソに対する吉岡実の最大の頌辞だったと思う。

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* 西脇順三郎・金子光晴監修《詩の本 U 詩の技法》(筑摩書房、1967年11月20日)は原論〈T 詩をつくる〉と各詩人による〈U わたしの作詩法〉のU部構成で、標題・執筆者は以下のとおり。

T 詩をつくる
 詩をつくるこころ  山本太郎
 詩の素材――現代詩の技法1  三好豊一郎
 詩のイメージ――現代詩の技法2  飯島耕一
 詩のリズム――現代詩の技法3  安西均
 詩の構成――現代詩の技法4  入沢康夫
U わたしの作詩法
 小さな三つの例  草野心平
 芸術としての詩  北園克衛
 ぼくの苦しみは単純なものだ  田村隆一
 見ている目  黒田三郎
 不毛と無能からの出発  長谷川龍生
 被分解者・被抑圧者の方法  黒田喜夫
 寓話  関根弘
 わたしの作詩法?  吉岡実
 御報告  岩田宏
 立場のある詩  石垣りん
 未来の記憶  長田弘

** 大岡信の随筆集《本が書架を歩みでるとき》(花神社、1975年7月10日)には〈高階秀爾〉の標題のもと、《ピカソ――剽窃の論理》と《現代美術》の二篇の書評が収められている(《ピカソ》評の初出誌紙年月は《朝日ジャーナル》1964年11月、《現代美術》評のそれは《日本読書新聞》1966年1月)。《現代美術》評において大岡は、文明論的観点から「〔現代美術は〕たとえば包装紙とか児童画、テレビや映画、本の装幀その他さまざまな場所に形を変えて出没し、人びとの生活にどんどん侵入しているのである」(同書、一九二ページ)と指摘している。《朝日ジャーナル》はともかく(後年のことだが、同誌は読まないと澁澤龍彦に語ったそうだから)、筑摩書房で宣伝広告を担当していた吉岡が《日本読書新聞》の書評を読んだ可能性はきわめて高い。

*** 高階秀爾は「オブジェ」と「イマージュ」を次のように定義している。「オブジェとは、その語源からも明らかなように、われわれの働きかけや運動に対して「投げ出されたもの」であり、われわれをとりまく外界のさまざまの「対象」、「客観的存在」であり、〔……〕文字通りの「もの[、、]」の世界である。イマージュは、〔……〕視覚的映像の世界であり、重みも、厚さも、質量も持たない二次元の色と形の世界である。オブジェが人間の触覚的働きかけを受けとめるものとすれば、イマージュは人間の視覚的働きかけを受けとめるものであると言ってもよい。」(《現代美術》、三〇〜三一ページ)


吉岡実とケン玉(2017年3月31日)

かつて〈吉岡実の拳玉〉と題して吉岡が制作した拳玉のオブジェを紹介したことがある。今回は吉岡実とケン玉の関係を考察してみたい。《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991年4月15日)には、拳玉(ケン玉)が2箇所、登場する。

・〈ケン玉達人 吉岡実――達人、渋沢テングの鼻を折る〉(初出は《週刊プレイボーイ》1968年11月15日号)
・澁澤龍彦〈吉岡実の断章――拳玉と俳句〉(初出は《ユリイカ》1973年9月号。なお副題の「拳玉と俳句」は《現代詩読本》収録時に付けられたもの)

話の都合上、〈ケン玉達人 吉岡実〉の全文を掲げよう。〔 〕内は小林による補記。

ケン玉達人 吉岡実(詩人)――達人、渋沢テングの鼻を折る|〔無署名〕

 「ぼくは、ヨーヨー、メンコ、ケン玉、石けりのガキ遊び五種〔ママ。ベイゴマ(*)が抜けている〕競技のいずれにも強い。特に強いのはケン玉で、これは達人ですな」
 と、当年とって49歳の吉岡実氏。本所駒形で生まれて育った。ガキ遊び五種競技に強いのもムリはない。詩集『僧侶』で最高のH氏賞をもらった有名な詩人だが、今だに、ケン玉にかけては狂≠ナある。
 吉岡氏は、岩田宏、飯島耕一、清岡卓行、大岡信(いずれも詩人)と一緒に鰐の会≠つくっているが、七年前〔→九年前〕にみんなで栃木県の太平山に遊びに行った。駅前のオモチャ屋でふと目にとまったのがケン玉。さっそく買い求めて旅館でケン玉大会を開いたのだが、四人の友人はアッケにとられた。
 吉岡氏のうまさは抜群。まるで魔術的だったのである。
 このうわさを聞いて、電話をかけてきたのが、渋沢龍彦氏(翻訳家)の夫人。
 「うちの主人も強いんですよ。昨日は五回連続して穴にいれたんです。挑戦させますわ」
 渋沢氏、やめておけばよかったのだ。玉を静かにつるして慎重に狙い、なるほど五回連続で穴にいれた〔「トメケン」〕。
 ところが相手が悪い。吉岡氏はニッコリ笑うや、玉を宙にクルクルぶんまわしては、スポスポカチンといれて失敗することがない〔「フリケン」〕。おまけに、次は玉を手にもち、台をぶんまわしてスポスポカチンなのである〔「飛行機」〕。
 「渋沢君、これがショックでね。ついにやめたそうですよ」
 以後、挑戦者はひとりとして現われないから、日本ケン玉名人位は吉岡氏のものといってよろしかろう。ところで、吉岡氏には悲願がある。
 「ケン玉は西洋からきたものでね。昔の映画『ペペ〔・〕ル・モコ』〔=『望郷』〕にすごいシーンがあった。主人公が裏切った男を殺そうとするときです。画面は不気味な静けさ。と、かたわらで一人の男がカチン、カチンとケン玉やってんだなあ。映画でも舞台でもいい。ぼくにサングラスかけさせて、あんな役やらせてくれないかなあ。そんな話があったら、ぜひお世話ください」
(初出「週刊プレイボーイ」一九六八年十一月)
〔初出掲載写真は自宅=東京都北区滝野川の公団アパートで撮影したものか〕

この記事と同じ年、吉岡実が筑摩書房労組機関紙《わたしたちのしんぶん》90号(1968年7月31日)の〈私の好きなもの〉欄に発表した未刊の散文〈好きなもの数かず〉は「ラッキョウ、ブリジット・バルドー、湯とうふ、映画、黄色、せんべい、土方巽の舞踏、たらこ、書物、のり、唐十郎のテント芝居、詩仙洞、広隆寺のみろく、煙草、渋谷宮益坂はトップのコーヒー。〔……〕つもる雪。」という400字余りの小文だが、その中ほどに「シャクナゲ、たんぽぽ、ケン玉をしている夜。」とある。――ちなみに吉岡実詩に「シャクナゲ/しゃくなげ/石楠花」は一度も登場せず、「たんぽぽ」「タンポポ」は1回ずつ登場するだけで、ケン玉も登場しない――。これまで挙げてきた事項を時系列に沿って並べると、

 @少年時代(大正末〜昭和初め)はガキ遊び五種競技、とりわけケン玉を得意とした。
 A1959年10月に《鰐》同人と栃木・太平山に旅行したおり、ケン玉大会を開き、魔術的なうまさを披露した。
 B1968年1月、ケン玉を手土産に加藤郁乎とともに澁澤龍彦宅を訪問し、「神技」を見せた。
 C1968年7月、「ケン玉をしている夜」が好きだと、勤務先の労組機関紙に随想を発表した。
 D1968年11月、週刊誌が吉岡のケン玉を取りあげ、吉岡は映画や舞台でケン玉をする役がやりたいと表明した。
 E1980年7月、蓋のない赤い木箱に入った白塗りのケン玉を〈現代詩オブジェ展〉に出品した。

《鰐》同人は吉岡のケン玉について書いていないので、澁澤龍彦が《風景》1968年2月号に発表した〈拳玉考〉――おそらく吉岡実の拳玉に言及した最も早い時期の文章――の前半を引く。

 詩人の吉岡実さんから、ある日、美しい拳玉を贈っていただいた。球が直径十センチほどもある、黄色く塗った巨大な拳玉である。少年時代をそぞろに想い出させる、これは嬉しい頂戴物である。
 私の父母などは、拳玉と言わずに、日月[じつげつ]ボールと称していた。大正時代に、そういう名前で一時流行したことがあるらしい。しかし私が小学生の頃、つまり支那事変の始まりかけた昭和十年代にも、拳玉は子供のあいだに大いに流行していて、校庭に出られない雨の日の休み時間など、薄暗い教室のなかで、男の子たちが半ズボンの腰をひょいひょい動かしながら、しきりに拳玉の球を操っていたようだった。
 この遊びにもコツがあって、投げ上げた球を受けとめるとき、膝を曲げ、腰をリズミカルに上下に動かさなければ絶対に駄目なのである。私は少年時代、こういう遊びが上手だったから、忘れていた身体の記憶をたちまち呼びもどし、今では、続けて十回も穴に入れることができるようになった。
 ところで、吉岡さんにいただいた拳玉は、私の子供の頃の拳玉とは幾らか形が違っていて、どうやらこれはヨーロッパの古い形のものではないかと思われる。私が子供の頃に使った拳玉は、ちょうど餅をつく杵のように、十字形になっていて、球を受ける皿が三つあった。まず投げた球の穴を棒の尖端にはめ、それから球を落さずに、次々に三つの皿に受けてゆくやり方を、私たちは「世界一周」などと呼んでいた。棒の尖端に鉛筆のサックをはめて、球が入りやすいようにしている者もいた。
 今、私の手もとにある拳玉は、これとは違って、十字形の横木のない、燭台のような形のものである。だから、球を受ける皿は一つしかない。こころみに『二十世紀ラルース辞典』を引いてみると、やはり同じ形の図が出ているから、たぶん、これがヨーロッパの古い形なのだろうと考えられる。(澁澤龍子編・沢渡朔写真《澁澤龍彦 ドラコニア・ワールド〔集英社新書ヴィジュアル版〕》集英社、2010年3月22日、一七六〜一七八ページ)

上記の@〜Eのケン玉がどれかを考えると、同じ「ケン玉」では紛らわしいので、〈拳玉考〉の「日月ボール」と「ビルボケ(bilboquet)」(省略した同文の後半に出てくる、「十字形の横木のない、燭台のような形の」ケン玉のフランス語)というぐあいに区別して呼べば、
 @日月ボール
 A日月ボール
 Bビルボケ
 Cビルボケ
 Dビルボケ
 E日月ボール
だろう。私は《週刊プレイボーイ》の記事を読んで以来、沢渡朔が撮った《澁澤龍彦 ドラコニア・ワールド》の写真を見るまでの30年以上、吉岡が映画や舞台でケン玉をする役がやりたいと表明していたそのケン玉をてっきり「日月ボール」だと思いこんでいたが(**)、これはどう考えても「ビルボケ」でなければならない(《週刊プレイボーイ》掲載の写真も、よく観ればビルボケである)。では、1967年末か1968年初めまでには入手していたビルボケ(ひとつは自身のための、もうひとつは澁澤に贈るための?)を、吉岡はどこで調達したのだろうか。それというのも、競技用のものも含めて、日月ボール型のケン玉は至る処で販売されているが、ビルボケは今日でも極めて珍しいからだ。ところで、冒頭に挙げた澁澤の〈吉岡実の断章〉にはケン玉をする吉岡の姿が興味深く描かれている。

 私は数年前に、吉岡さんから大きな拳玉をもらったことがある。どういう経緯から、吉岡さんが私に拳玉をくれることになったのか、今では全く失念しているけれども、いまだに私の眼底にありありと焼きついているのは、この拳玉を操る吉岡さんの、まことに鮮かな手つきと、得意然としたその笑い顔なのである。
 右足を軽く一歩前に踏み出し、右手に拳玉の柄を握り、糸の先についた重い球体の遠心力をうまく利用して、虚空に球体をぶーんと半回転させながら、とがった柄の先端に、穴のあいた球体をすぽりとはめこむ吉岡さんの技術たるや、百発百中、まさに神技と呼ぶにふさわしいものだった。
 私はそのとき、この拳玉を操る小柄なロマンス・グレーの詩人の姿と二重写しになって、目のくりくりした、すばしっこく怜俐そうな、下町育ちの吉岡少年の姿が浮かんでくるのを、如何ともしがたかった。大正八年生まれの吉岡少年は、筒袖の着物を着ていたろうか。いや、やっぱり半ズボンの洋服だろう。拳玉ばかりでなく、彼はメンコにもベーゴマにも、たくみな手並みを見せたにちがいない。(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、一六四〜一六五ページ)

私は幸運にも晩年の吉岡さんと何度かお話しする機会をもつことができたが、いずれも渋谷の珈琲店だったため、ケン玉を披露してもらうような状況ではなかった。それを残念に思う。だが、吉岡は親しかった誰にでもケン玉を披露したわけでもなさそうだ。

  『生れてはみたけれど』や『浮草物語』を見た時にはそうは思わなかったのだが、一九二三年生れの青木富夫氏の老紳士ぶりを目のあたりにしたせいで、突貫小僧が、詩人の吉岡実にそっくりだ、ということに気がついた。蒲田の生れと本所の生れで、場所こそ多少違うとは言え、それに、吉岡実が突貫小僧のような、にくたらしい悪ガキだったとも思えないのだが、まあ、あんなふうな姿で剣玉などをしてノホホンと遊び呆けていたのだろう。(〈原節子のパール入りネイル・エナメルの光り方は異様だ〉、《愉しみはTVの彼方に――IMITATION OF CINEMA》中央公論社、1994年12月10日、一二六ページ)

と書いたのは吉岡夫妻と親しく往き来した金井美恵子だが、氏が吉岡のケン玉を見たのかどうか、ここからだけではわからない。ケン玉をしたことのない人間がその妙技に接しても本当のありがたみがわからないため、吉岡はむやみに人に見せたりしなかったのではないか。《鰐》の同人たちや澁澤龍彦は見ている。《週刊プレイボーイ》の記者(とカメラマン)も見ている。相まみえることはなかっただろうが、突貫小僧=青木富夫や漫画家の滝田ゆうには見せたに違いない。土方巽や種村季弘にも見せるだろう。私には見せなかったかもしれない。馬にも乗れない、ケン玉もうまく操れないような者に自分の運動性を披露するには及ばない。だが、詩作となれば話は別だ。〈苦力〉(C・13)に描かれた運動性は、乗馬はもちろんだが、決して狙いを外すことのないケン玉の神技に通じるものがある。それは、魂から発した怖ろしいまでの技だ。土方巽の葬儀委員長を務めた澁澤龍彦とともに、棺のなかの土方に手を振った吉岡実がこの世紀のガキ大将に対して抱いていた感懐も、それに等しかろう。土方舞踏の運動性に震撼した「中期」以降の吉岡は、言葉と言葉を超えるものの間[あわい]に分けいってゆく。土方巽(1986年歿)や澁澤龍彦(1987年歿)のあとを追うようにして逝った吉岡実の棺には、白秋歌集《花樫》が納められた。もう一点なにか納めるとすれば、愛用のケン玉(日月ボールではなく、ビルボケ)しかない。ここでフランスの批評家ロジェ・カイヨワの《遊びと人間》を引いても牽強付会ということにはならないだろう。カイヨワはその〈五 遊びを出発点とする社会学のために〉でこう書いている。

つまり、役に立たなくなった武器類――弓、楯[たて]、吹矢筒[ふきやづつ]、石投げ器――は玩具になる。拳玉[けんだま]と独楽[こま]は、はじめのうちは呪術[じゆじゆつ]の道具であった。(ロジェ・カイヨワ著、多田道太郎・塚崎幹夫訳《遊びと人間〔講談社学術文庫〕》講談社、1990年4月10日、一〇八ページ)

 現在の遊びも、聖なる起源から脱しきっていないことが多い。エスキモーが拳玉[けんだま]の遊びをするのは、春分の時に限られている。しかも、その翌日は狩りに行ってはならないのである。このように潔斎[けつさい]期間のあることは、拳玉をすることが最初はたんなる娯楽以上のものであったと考えないかぎり説明がつかぬであろう。実際、それが行なわれる時には、さまざまの追憶の吟唱がそれに伴って行なわれるのである。イギリスでは、独楽[こま]遊びをする特定の日が今も続いている。時ならぬときに回される独楽は、取り上げてもよいことになっている。昔は、村、司祭区、町ごとに大きな独楽があって、きまった祭りの時に、信徒団の人たちが儀式としてこれを回していたことはよく知られている。(同書、一一三ページ)

吉岡が得意とした「ヨーヨー、メンコ、ケン玉、石けり、ベイゴマのガキ遊び五種」の由来は措くとしても、それらと弓、楯、吹矢筒、石投げ器や拳玉、独楽との類縁は明らかだ。エスキモーの拳玉遊びが春分だけで、「その翌日は狩りに行ってはならない」という指摘は、その間にいくつかの結節点を持ちつつ「後期吉岡実詩」の民俗学的世界に連繋していよう。ところで《うまやはし日記》(書肆山田、1990)の1939年4月3日の条には「雨。朝から本郷座へ行く。「望郷」のジャン・ギャバンは素晴しい。となりの女学生も泣いていた。外は寒くふるえた」(同書、二五ページ)と見える。吉岡はここでおそらく初めてビルボケを観た。それをケン玉と認識したかどうかわからないが、幸いなことに小林隆之・山本眞吾《映画監督ジュリアン・デュヴィヴィエ》(国書刊行会、2010年11月1日)に、同年の日本での《望郷》封切り当時の飯田心美による評価が録されている(同書、二四九〜二五〇ページ)。
「この映画に見られる魅力は、まず全体を運ぶ話術の巧さである。シークエンスからシークエンスに移る順序、人物の繰り出し方、それが彼としてかつて見られないほどの巧さで語られる。もちろんシナリオのよさにも依るのであろうが、ここにおけるデュヴィヴィエは従来の彼とは別人の感がある。それに加えて写実的手法を交ぜたカット及び小道具の使い方が、各画面を生彩あるものにしている。〔……〕最初の迷宮街カスバの紹介、レジス殺しの場におけるピエロの出し方、自動ピアノの音、子分の一人が絶えず手にする木製玩具、後半の老女とレコードなど、ここまで演出力が届けば、もう立派なものである。ここには、これまでのデュヴィヴィエ作品のような意余って力足らず、というところがない。すべての画面は彼の表したいものを充分に表しているのである」(〔……〕は同書)。
「子分の一人が絶えず手にする木製玩具」とは、日本のケン玉のようでありながらそれとは異質なあるもの=ビルボケを正確に表現するための苦肉の策だった。

〔追記〕
吉岡が感銘を受けた《ペペ・ル・モコ(望郷)》のケン玉について、誰か書いていないかとウェブを検索したら、ant's PUZ-Tさんが〈映画『望郷』と、けん玉〉という記事をアップしていた。

人望のあるペペには、彼を匿う仲間が5,6人いる。その仲間の中の脇役、ジミイとマックスは、大抵二人セットで、いつペペの近くにいるのだが、マックスはいつもニヤニヤしていて、ジミイは、大抵けん玉をしている。/〔……〕
改めてもう一度ジミイだけに注目して観なおしてみると、確かにけん玉の形は、日本の日月ボールではなく、シンプルな「ビルボケ」のようだ。/たまに「ビルボケ」をポケットに入れ、2個のボールのようなものでお手玉(ジャグリングというべきか)をしている場面もあるが、たいていは「ふりけん」という、玉を前に振り出して1回転させて剣にさす技を繰り返している。/せっかくなので、ざっくり数えてみたところ、合計23回トライして14回くらい成功させていた。よく分からないが、なかなかの腕前ではないだろか。/そんな、台詞が一言も無いのにある意味で存在感があるジミイとマックスだが、最後にペペがカスバを飛び出す重要なシーンに登場することもなくフェイドアウト。あくまで脇役なのだ。

成功率6割だとすると、吉岡がジミイ(ガストン・モド)の役をやりたがったのは、自分なら成功率100パーセントだから、(監督や演出家の意に従って)それを加減するのはお手の物だ、という自信があったためか。サングラス姿の吉岡実が映像に収められていたら、半裸の澁澤龍彦の写真といい勝負だったのに、惜しいことをした。ウェブで検索して、ようやく購入したビルボケ(***)の写真を最後に掲げる。このフランス産のケン玉、アンティークショップunikkで5,000円だった。褐色をした無垢の木製だが、高級家具にでも使われそうなその材質が何か、私には判らない。なんとなく、その質感と形態からルイズ・ニーヴェルスンの廃物芸術[ジャンクアート]を連想した。デスクに置いて眺めていると、地球儀のようにも、こけしのようにも見えてくる。ちなみにケン玉素人の私がトメケンで玉をケンに入れるまでに、25回を要した。これでフリケンや飛行機を決めるのは、至難の技以上のものがあると思う。
本稿自体が余談のようなものだから、どこでやめてもよいのだが、ついでに記しておきたいことがある。澁澤龍彦と映画《望郷》をめぐる奇縁である。龍彦の妹・幸子は出口裕弘のインタビューにこう答えている。「〔龍彦は〕フランス語は、まだ小町へ来る前の、雪ノ下のおじさんの家にいる頃から始めたんだ。というのは秘田余四郎(本名・姫田嘉男)という映画のスーパーインポーズをやっているおじさんが隣にいたんです。秘田余四郎といったら、あの頃のスーパーの第一人者。ペペル・モコ〔ママ〕の『望郷』とか、『天井桟敷の人々』とか何か、とにかくその手の古いフランス映画を全部訳した人」(〈妹からみた兄龍彦〉、『澁澤龍彦全集』編集委員会編《回想の澁澤龍彦》河出書房新社、1996年5月24日、四〇ページ)。これを裏付けるように、高三啓輔《字幕の名工――秘田余四郎とフランス映画》(白水社、2011年4月15日)には、澁澤龍彦が余四郎の妻ゆきと龍彦の妹たち(ひとりは幸子)とに挟まれて、腕を組みステップを踏む写真が掲載されている。「当時、社交ダンスが流行っていて、ダンスが得意だったゆきは借家のフロアで近所の若者たちに教えたりした。そのなかに龍彦やその妹たちも交じっていた」(同書、一一六ページ)。澁澤が映画《望郷》に言及した文章があるか詳らかにしないが(唯一、吉行淳之介に触れた〈終戦後三年目……〉で、秘田余四郎の人物紹介とともに《望郷》を引きあいに出しているのが目に留まった)、吉岡同様、秘田余四郎が字幕を付けた《望郷》を、わけてもそのケン玉のシーンを戦前か戦後、どこかの映画館で観ているに違いない。ちなみに、私が視聴したDVDには日本語の字幕スーパーのクレジットがなくて、誰の手になるものかわからない。

ウェブで検索してアンティークショップから購入したフランス産のケン玉「ビルボケ」
ウェブで検索してアンティークショップから購入したフランス産のケン玉「ビルボケ」。背景の写真は、前掲《澁澤龍彦ドラコニア・ワールド》所収、〈拳玉考〉を改題した〈拳玉〉(写真:沢渡朔)のもので、キャプションに「詩人・吉岡実から贈られた、お皿のない拳玉。」(同書、一七七ページ)とある。

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(*)1932年、向島区寺島町に生まれた漫画家の滝田ゆうは、1968年、《ガロ》に〈寺島町奇譚〉の連載を始めた。下の図〈玉の井絵草子〉(初出は《小説現代》1970年月11号)の扉絵には、日月ボールを首にかけた〈寺島町奇譚〉の主人公キヨシやキヨシの母親(髪型や割烹着姿が吉岡実の母親を彷彿させる)などとともに、茣蓙のトコ(床)に載ったベイゴマが描かれている。

滝田ゆう〈玉の井絵草子〉の扉絵(《滝田ゆう集〔第2期 現代漫画 E〕》筑摩書房、1971年1月30日、〔一ページ〕)
滝田ゆう〈玉の井絵草子〉の扉絵(《滝田ゆう集〔第2期 現代漫画 E〕》筑摩書房、1971年1月30日、〔一ページ〕)

「柄の先端の突起部分に球の穴を突き立てて遊ぶという剣玉は、たとえば『寺島町奇譚』では下町に育った滝田ゆうの作品世界に独特のノスタルジアを添えるオブジェ」(四方田犬彦《漫画原論〔ちくま学芸文庫〕》筑摩書房、1999年4月8日、一一〇ページ)であり、〈寺島町奇譚(上)〉を収めた《滝田ゆう漫画館〔第一巻〕》(筑摩書房、1992年8月20日、装丁:多田進)のジャケットには、表表紙に民芸調の日月ボールの、裏表紙にベイゴマとその紐の写真が、ワンポイントでカットのようにあしらわれている。なお、吉岡には随想〈ベイゴマ私考――少年時代のひとつの想い出〉(初出は《鷹》1983年7月号)があって《現代詩読本――特装版 吉岡実》にも収められているが、そこにケン玉は登場しない。

(**)澁澤龍彦所蔵のビルボケが最初に公開されたのは、《澁澤龍彦全集〔第4巻〕》月報4、河出書房新社、1993年9月3日)の武井宏・三橋一夫〔インタビュー〕(聞き手・出口裕弘)〈小学校時代のこと〉の表紙に掲げられたモノクロ写真だろう。同写真のキャプションには「澁澤龍彦愛好のヨーヨー(左)とコマ(中)とケンダマ(右)。ケンダマは吉岡実のプレゼント。「吉岡さんはケンダマが大変上手でした」(〔龍子〕夫人談)。」(同月報、一六ページ)とある。同写真は全集月報を集成した『澁澤龍彦全集』編集委員会編《回想の澁澤龍彦》(河出書房新社、1996年5月24日)では臼井正明〈中学校時代のこと〉のカットとして掲げれられているが、キャプションは「愛好したヨーヨー、コマ、ケンダマ」(同書、六五ページ)と簡略になり、吉岡が贈ったことは記されていない。

(***)手許のビルボケは、ケン先に玉を刺した写真の状態で高さ約21cm、玉の直径は約9cm、ケンの高さは約16.5cm(澁澤龍彦の〈拳玉〉や《週刊プレイボーイ》の記事の写真に照らすと、吉岡が使ったビルボケもだいたい同じ大きさのようだ)。穴の直径は約3.5cm。全体の重さは約380g。


《現代詩大事典》の人名索引〈吉岡実〉の項のこと(2017年2月28日)

安藤元雄・大岡信・中村稔監修《現代詩大事典》(三省堂、2008年2月20日)は、A5判・上製機械函・本文12.5級・三段組・832ページ (編集委員:大塚常樹・勝原晴希・國生雅子・澤正宏・島村輝・杉浦静・宮崎真素美・和田博文)。同書の〈吉岡実〉の項は編集委員でもある澤正宏が執筆して いて、吉岡の略歴は本サイトの《〈吉岡実〉人と作品》に掲げてある。つまり《現代詩大事典》の記載を下略したわけで、略したのは

 作風(25行)
 詩集・雑誌(6行)
 評価・研究史(4行)
 代表詩鑑賞(20行)〔採りあげられた詩篇は〈静物〔夜はいっそう遠巻きにする〕〉〕
 参考文献(7行)

である。略歴の37行に対して、下略部分は計62行、全体で99行になる。ちなみに吉岡と縁の深い北原白秋は208行、佐藤春夫は100行、西脇順 三郎は203行、瀧口修造は105行。こうして見ると、白秋と西脇は200行、春夫と瀧口(と吉岡)は100行で原稿をまとめるように企図されたと思し い。さて、本稿の標題である同事典の人名索引は近現代詩の研究者・疋田雅昭の作成で、

吉岡実  46, 375, 378, 379, 696, 728

とある。太字の「696」は見出し語を示しており、言うまでもなく澤正宏執筆の〈吉岡実〉を指す(なお、澤は〈作風〉〈詩集・雑誌〉で「初期」とし て《昏睡季節》《液体》、「前期」として《静物》《僧侶》、「中期」として《紡錘形》《静かな家》《神秘的な時代の詩》、「後期」として《サフラン摘 み》、「晩年期」として《夏の宴》《薬玉》《ムーンドロップ》の各詩集を挙げている)。他のノンブルの見出し語は次のとおり。

 46:飯島耕一
 375:一九九〇年代の詩
 378:一九七〇年代の詩
 379:一九八〇年代の詩
 728:鰐

〈飯島耕一〉では、〈鰐〉関連として吉岡実の名が登場している。〈鰐〉同人の他のメンバー、〈岩田宏〉〈大岡信〉〈清岡卓行〉ではどう書かれている か。岩田の項には、〈鰐〉がらみで吉岡が登場している(大岡と清岡の項には〈鰐〉も吉岡も登場しない)。なぜこのような事態になったのか。本事典の前付に は「XMLデータ製作」「XML組版プログラム作成」というクレジットがあるから、人名索引を作成する過程で本文から「吉岡実」を網羅的に抽出すれば、遺 漏は生じないはずだ。にもかかわらず、ざっとページを繰っただけでも、ほかにも「吉岡実」の人名索引から漏れている項目がいくつかある。以下に岩田の分を 含めて掲げ、〔 〕内に吉岡との関連を略記する。

 59:詩人と職業〔装丁家〕
 87:岩田宏〔〈鰐〉〕
 187:城戸朱理〔《非鉄》〕
 195:今日〔同人〕
 202:近代詩猟〔執筆者〕
 296:詩と批評〔参加〕
 338:書紀〔稲川方人の論〕
 490:那珂太郎〔《ユリイカ》〕
 691:ユリイカ〔〈死児〉〕

このなかで〈近代詩猟〉の項(執筆は内海紀子)などよくまとまっているが、人名索引の吉岡で関連づけられていない現状では、吉岡実に関心を持つ読者 がこの項を積極的に読むかどうか、疑わしい。さいわい私は晩年の吉岡さんから「《近代詩猟》に未刊行の詩篇を発表している」旨のハガキを貰ったから(つま り、探してみてくれという意)、日本近代文学館で〈夜曲〉(未刊詩篇・8、初出は同誌1959年10月〔27冊〕)を閲覧して、作品年譜に採録することが できた。ときに、同事典のレヴューで執筆者の偏向を指摘する声があったが、ある種の偏りが避けられない以上、人名や事項の索引という下部構造を盤石にして こそ、読者に有無を言わせぬ形で本書の価値を認めさせたであろうに。そうした観点から見ると、〈人名索引〉の凡例に「【見出し語】以外の人名・事項項目に ついては、記述の内容に応じて適宜掲出した。」(本書、〔後付〕一ページ)とあるのは、いかにももっともらしい言い草だが、出し惜しみ以外のなにものでも ない。本文という最大の資産を活かしきっていないのだ。この一事をもって本書に「工具書」としての及第点は与えられない。だが、《現代詩大事典》の本文が 労作であることは言うまでもない。人名・事項の項目が関心の結び目になるのなら、そこから網を織りあげていくことは読者各人に課せられた喜ばしい義務だろ う。私は渡邊浩史執筆の〈文芸汎論〉の項を興味深く読んだ。吉岡実の若年の詩に大きな影響を与えた雑誌として、同誌を記憶してきたからだ(吉岡は《昏睡季節》と《液體》の出版広告を《文芸汎論》に出している)。吉岡が近藤東(北園克衛や左川ちかと同じころに読んだ、と私に語ったことがある)や木下夕爾などの新進詩人を識ったのは、この《文芸汎論》からではないだろうか。

明治以降の主要詩集を35ページにわたって掲載した付録の小泉京美編〈近・現代詩年表〉は、「本年表の作成にあたっては、主に次の資料を参考にした」(本書、七四五ページ)として

(ア)小川和佑編〈戦後詩史年表〔1945〜1969〕〉(嶋岡晨・大野順一・小川和佑編《戦後詩大系W》三一書房、1971年2月15日)
(イ)小川和佑編〈日本現代詩史年表〔1868〜1970〕〉(村野四郎・関良一・長谷川泉・原子朗編《講座日本現代詩史4〔昭和後期〕》右文書院、1973年11月30日)
(ウ)三浦仁・佐藤健一編〈日本現代詩年表〔1868〜1975〕〉(分銅惇作・田所周・三浦仁編《日本現代詩辞典》桜楓社、1986年2月19日)
(エ)中村不二夫・小川英晴・森田進編〈明治から現代までの詩史年表〔1878〜1999〕〉(日本詩人クラブ編《「日本の詩」一〇〇年》土曜美術社出版販売、2000年8月30日)
(オ)深澤忠孝編〈現代詩 戦後60年年表――1945・8〜2004〉(《戦後60年〈詩と批評〉総展望〔保存版〕》思潮社、2005年9月15日)

の5点の年表を挙げている(〔 〕内の年号は年表の対象範囲、原文は書誌的に簡略に過ぎたので編者・出版者・出版年等を補った)。これに当の

(カ)小泉京美編〈近・現代詩年表〔1868〜2006〕〉(安藤元雄・大岡信・中村稔監修《現代詩大事典》三省堂、2008年2月20日)

を加えて、吉岡の生前に刊行されたすべての単行詩集――@《昏睡季節》(1940)、A《液体》(1941)、B《静物》(1955)、C《僧侶》 (1958)、D《紡錘形》(1962)、E《静かな家》(1968)、F《神秘的な時代の詩》(1974)、G《サフラン摘み》(1976)、H《夏の 宴》(1979)、I《ポール・クレーの食卓》(1980)、J《薬玉》(1983)、K《ムーンドロップ》(1988)――の掲載の有無をマトリクスに してみる(◎は掲載、×は非掲載、―は年表の対象範囲外であることを表す)。

@ A B C D E F G H I J K
(ア)
(イ) × × ×
(ウ) × × ×
(エ) × × × × × ×
(オ) ×
(カ) × × × × × ×

(カ)は《静物》の扱いに不満が残るが、まずは穏当な処だろう。「山宮允氏の『明治大正詩書総覧』という本がいかに労作だったかよく解る。以後、昭 和期にその後継的この種の書物のないのも、出版の点数の数倍になった昭和期ではどんなに努力しても、山宮氏の労作の水準にはとうてい到達できないという予 測もあるからであろう。ことに、戦後、それも昭和三十年代以後になると印刷事情が変り、続々と私刊本の詩集が刊行される。おおざっぱに見ても平均毎年一〇 〇〇点もあるだろうか」(小川和佑〈「年表」作製の憂鬱〉、《戦後詩大系W》月報4、六ページ)。事典や年表が先行する資料を挙げるのは、単に儀礼上のも のではない。それらをどう評価したかという明確な意思表示である。

安藤元雄・大岡信・中村稔監修《現代詩大事典》(三省堂、2008年2月20日)の函 《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)と《現代詩大事典》(三省堂、2008)の背
安藤元雄・大岡信・中村稔監修《現代詩大事典》(三省堂、2008年2月20日)の函(左)と《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)と《現代詩大事典》の背(右)


吉岡実の引用詩(3)――土方巽語録(2017年1月31日)

鉤括弧(かぎかっこ)
旧来、人の会話部分を書く際に文頭に置かれた「庵点」と改行を示す記号の「鈎画」の間とに囲まれていたところから、会話の箇所を囲む括弧として鉤括弧が出来たと言われている。/引用(引用符としての用法)、あるいは特に注意を喚起する語句を挿入する場合も用いられるようになった。(ウィキペディアの「括弧」の説明

吉岡実の詩篇に同時代の日本人の固有名詞が登場したのは、第七詩集《神秘的な時代の詩》(1974)からである。〈夏から秋まで〉(F・2)に「池田満寿夫の版画の題名を藉りて」、同じく〈青い柱はどこにあるか?〉(F・6)に「土方巽の秘儀によせて」と詞書にあるのがそれだ。一方、典拠のある吉岡実詩ということになれば、引用符のない《紡錘形》(1962)の〈首長族の病気〉(D・11、初出は1959年11月の《鰐》4号)、引用符のある単行詩集未収録の長詩〈波よ永遠に止れ〉(初出は《ユリイカ》1960年6月号)をもって嚆矢とする。引用詩に関しては、吉岡陽子編〈年譜〉(《吉岡実全詩集》筑摩書房、1998、七九九ページ)にこうある。

一九七二年(昭和四十七年) 五十三歳
六月、「別冊現代詩手帖(特集ルイス・キャロル)」に詩ルイス・キャロルを探す方法「わがアリスへの接近」「少女伝説」を発表。初めて固有名詞を多く使い引用も試みる。

一九七三年(昭和四十八年)五十四歳
「美術手帖」二月号に土方巽の言葉を引用した詩「聖あんま語彙篇」を発表。

《吉岡実全詩集》を順に読んでいくと最初に出会う「 」(鉤括弧)つきの詩句は〈弟子〉(F・15、初出は1972年8月の《無限》29号)だから、年譜の記載と併せて、その登場を1972年と見てよい。以下に掲載する詩句の行頭の七桁の数字は、07が詩集の序数を、15が何番めの詩篇を、037が何行めかを表す。

0715037   「便所はどうして神秘的に
0715038     高い処にあるのだ」

《神秘的な時代の詩》以降、吉岡の詩には詩の題名の後に詞書、〈 〉(山括弧)や「 」や( )(丸括弧)で括った章句つまり題辞[エピグラフ]とその作者名、献詞が多用され、詩の本文の後に註記、出典、等が頻出する(なお、《液體》に副題、《静物》と《僧侶》に献詞、《紡錘形》と《静かな家》に詞書が散見するが、本稿の検討対象としない)。それらを仮に
 詞書
 題辞[エピグラフ]とその作者名
 献詞
 註記
 出典
に分けて、全詩集の登場順に挙げる。詩の題名の後(――に続けて表す)と本文の後(アキに続けて表す)に文言のある詩篇を、それぞれ該当する区分に掲げる。

詞書
〈夏から秋まで〉(F・2)――池田満寿夫の版画の題名を藉りて
〈青い柱はどこにあるか?〉(F・6)――土方巽の秘儀によせて
〈サイレント・あるいは鮭〉(G・25)――芦川羊子の演舞する〈サイレン鮭[じやけ]〉に寄せる
〈示影針(グノーモン)〉(G・27)――澁澤龍彦のミクロコスモス   *示影針=日時計のこと
〈あまがつ頌〉(G・30)――北方舞踏派《塩首》の印象詩篇
〈異邦〉(H・5)――へルマン・セリエントの絵によせて
〈使者〉(H・18)――笠井叡のための素描の詩
〈夢のアステリスク〉(H・22)――金子國義の絵によせて   注 アステリスク=印刷用星形印*のこと
〈裸子植物〉(H・25)――大野一雄の舞踏〈ラ・アルへンチーナ頌〉に寄せて
〈郭公〉(J・6)――マックス・エルンスト石版画展に寄せて
〈哀歌〉(J・13)――追悼・西脇順三郎先生   *第二章は西脇順三郎『詩学』より抄出した。
〈銀鮫(キメラ・ファンタスマ)〉(K・17)――澁澤龍彦鎮魂詩篇   *澁澤龍彦とその知己たちの言葉を引用している。

題辞[エピグラフ]とその作者名
〈聖あんま語彙篇〉(G・8)――〈馬を鋸で挽きたくなる〉土方 巽
〈水鏡〉(H・6)――〈肉体の孕む夢はじつに多様をきわめている〉金井美恵子
〈草の迷宮〉(H・9)――〈目は時と共に静止する〉池田満寿夫
〈形は不安の鋭角を持ち……〉(H・11)――〈複眼の所有者は憂愁と虚無に心を蝕ばまれる〉飯田善國
〈雷雨の姿を見よ〉(H・14)――「ぼくはウニとかナマコとかヒトデといった/動物をとらえたいのだ/現実はそれら棘皮動物に似ている」/飯島耕一〔/は改行箇所。以下同〕

〈織物の三つの端布〉(H・16)――「イマージュはたえず事物へ/しかしまた同時に/意味へ向おうとする」/宮川淳
〈「青と発音する」〉(H・27)――「青ずんだ鏡のなかに飛びこむのは今だ」瀧口修造
〈円筒の内側〉(H・28)――「言語というものは固体/粒であると同じに波動である」/大岡 信
〈落雁〉(J・17)――(言葉よ 死の底より自らの蜜を分泌せよ) 鷲巣繁男
〈薄荷〉(K・6)――(人形は爆発する)――四谷シモン
〈聖あんま断腸詩篇〉(K・12)――〈神の光を臨終している〉――土方巽   *この作品は、おもに土方巽の言葉の引用で構成されている。また彼の友人たちの言葉も若干、補助的に使わせて貰っている。なお冒頭のエピグラムは、彼の辞世である。

献詞
〈舵手の書〉(G・22)――瀧口修造氏に
〈夏の宴〉(H・20)――西脇順三郎先生に

註記
〈示影針(グノーモン)〉(G・27)――澁澤龍彦のミクロコスモス   *示影針=日時計のこと
〈夢のアステリスク〉(H・22)――金子國義の絵によせて   注 アステリスク=印刷用星形印*のこと
〈竪の声〉(J・2)   *世阿弥の伝書にある「横[おう]ノ声」(明るく外向的で太い強い声)。「竪[しゆ]ノ声」(内向的でやわらかく細かに暗い感じの声)=観世寿夫の解説。
〈白狐〉(未刊詩篇・16)   *「現代詩手帖」二十五周年記念号に是非とも作品を寄せよ、との小田久郎氏の要請をこばみがたく、十余年前の自動記述的な草稿に、若干の手を加え、『薬玉』の詩篇と同じ形態をととのえ、ここに発表する。   五月九日

出典
〈ルイス・キャロルを探す方法〉(G・11)―わがアリスへの接近   *ルイス・キャロル〈鏡の国のアリス〉岡田忠軒訳より
〈ゾンネンシュターンの船〉(G・24)   *ゾンネンシュターンは「幻視者」といわれる異端の老人画家。引用句は、同展覧会目録より借用した。
〈曙〉(H・8)   * 引用句は主に、エズラ・パウンド(新倉俊一訳)、飯島耕一の章句を借用した。
〈螺旋形〉(H・10)    *ベケット(高橋康也訳)、土方巽などの章句を引用した。
〈哀歌〉(J・13)――追悼・西脇順三郎先生   *第二章は西脇順三郎『詩学』より抄出した。
〈甘露〉(J・14)    *引用句はおもにフレイザー《金枝篇》永橋卓介訳を借用した。
〈ムーンドロップ〉(K・10)   *題名と若干の章句をナボコフ『青白い炎』(富士川義之訳)から借用。
〈聖あんま断腸詩篇〉(K・12)――〈神の光を臨終している〉――土方巽   *この作品は、おもに土方巽の言葉の引用で構成されている。また彼の友人たちの言葉も若干、補助的に使わせて貰っている。なお冒頭のエピグラムは、彼の辞世である。
〈睡蓮〉(K・13)    *宇野邦一その他の章句を引用している。
〈銀鮫(キメラ・ファンタスマ)〉(K・17)――澁澤龍彦鎮魂詩篇   *澁澤龍彦とその知己たちの言葉を引用している。
〈波よ永遠に止れ〉(未刊詩篇・10)――ヘディン〈中央アジア探検記より〉

〈休息〉(未刊詩篇・18)   *澁澤龍彦と土方巽の言葉を引用している。
〈雲井〉(未刊詩篇・20)    *瀧口修造そのほかの章句を引用している。


ここで、《サフラン摘み》(1976)の詩篇で「 」の用いられている詩句を、最初に掲げた〈弟子〉と同じ形式で摘してみる(初出の発表順に並べた)。《サフラン摘み》を選んだのは、吉岡が自覚的に引用詩をつくりはじめたのがこの詩集からだからである。

(G・4)

0804092  「問題」は在るか?

ルイス・キャロルを探す方法(G・11)―わがアリスへの接近

0811011  「ただ この子の花弁がもうちょっと
0811012  まくれ上がっていたら いうところはないんだがね[*]」

ルイス・キャロルを探す方法(G・11)―少女伝説〔散文詩型のため、字アキで詩句を数えた〕

0811119  教授は今朝は「寒い」とひとこと云った

0811136  仇名は「コーツ」

悪趣味な冬の旅(G・6)

0806011  「ストッキング・スリッパ・コルセットが
0806012  堆まれている」

0806026  「料理がつくられる」

マダム・レインの子供(G・5)

0805018  「しばしば
0805019  肉体は死の器で
0805020  受け留められる!」

0805039  それは過ぎた「父親」かも知れないし
0805040  体操のできない未来の「子供」かも知れない

聖あんま語彙篇(G・8)

0808016  「赤子の頬にふれる
0808017  網の目から
0808018  わたしは何を覗けばよいのか
0808019  カモイの塵
0808020  くびれた茄子の尻
0808021  蛸の吸出しが吸い出したもの
0808022  それとも抽象された線
0808023  愛」

0808026  「わたしは寝床にまんじゅうを引き入れる」

0808033  「上に行けば精霊 下にあるもの
0808034  が人形」

0808036  「中間にあるものが肉体」

0808038  「ゴハンを食べて裏から出て行くようなのが『家』あるいは『東北本線』」

0808041  「キンカクシに歯を立てる」

0808046  「歯槽膿漏の親父がおふくろのおしめを
0808047  川で洗っている道端で兄が石を起し
0808048  たりすると
0808049  クルッとまるくなる虫がいる」

0808051  「物囲いの中でからだの寸法を計る」

0808070  「動かないものと動いている
0808071  ものの半分半分」

0808073  「聖なる角度を手探る者」

0808081  「魚の浮袋をパチンとつぶす」

0808086  「スギナを噛む老人の顎を外せば
0808087  火が吹き出る」

『アリス』狩り(G・12)

0812021  血豆と乳房「それはただちに切開する」

0812029  「髪をしなやかにしたいわ」といった一人の少女

0812058  「もう一人のアリスは十八歳になっても 継母の伯母に尻を
0812059  鞭打たれ あるときはズックの袋に詰められて 天井に吊る
0812060  される 美しき受難のアリス・ミューレイ……」

サフラン摘み(G・1)

0801002  「サフラン摘み」と

ピクニック(G・7)

0807004  われわれの「偉大な悪と愛」の時代は終るだろう

0807031  われわれは「暗喩」に近い存在である

田園(G・14)

0814004  「空間概念とは何か」

0814007  「星は暗闇で光るものだ」

0814015  「すぐに据え付けられますよ おかみさん
0814016  土は腐っているから」

0814022  「わが子よ わが犬よ
0814023  たのしく暮そうよ!」

0814036  「純粋な固体」を求めて

0814044  「花嫁」

0814050  スフィンクスに「兄弟」がいたかどうか
0814051  もしやそれは「姉妹」ではなかったか

0814060  「すべての血はすててはいけないぞ
0814061  血は煮つめれば
0814062  煮つめるほどうまくなる」

0814078  あらゆる「言語」に付く

0814084  「作品」をつくる天職を志向する

0814104  「とても重大な事柄だ」

0814116  「そこにある 豆の花 馬鍬 樫の棒
0814117  炎 くもの巣 灰 家霊」

0814119  「父母」の生活はなかったろう

0814126  「〈アート〉は退屈だわ」

0814130  「想像できるものは 想像できない
0814131  ものより〈生理感覚〉がある……」
0814132  わたしはいま「追悼詩」を叙述するんだ

フォーサイド家の猫(G・17)

0817006  「きみの所持する絵は
0817007  万有の闇のベールの向うに
0817008  存在するだけではないか」

0817086  「火食鳥を撃ちおとすことはわたしたちの習慣にはない」

0817091  「黄金では爪がとげない 太い木の柱がほしいよ」

0817093  「猫はきらいよ だって抱いても ぐにゃぐにゃして
0817094  支柱がないんですもの」

草上の晩餐(G・13)

0813012  「生き埋めの王国」だ

0813016  「雨期には
0813017  ヒルが人の足を噛む」

0813034  「空には満天の星」

異霊祭(G・19)

0819048  「精神の外傷」のようなものを

0819050  「蛋白質を最初に食べる
0819051  のは死人」

0819053  「最初に口をきくのは家畜
0819054  番人の妻」

0819119  「馬のかたちをした煙」に

0819154  「影に似ている」

0819161  「山上の石けり」を――

絵画(G・18)

0818004  「見るとは
0818005  眼をとじることだ」

0818023  「われわれの見得る
0818024  物は数すくない」

不滅の形態(G・16)

0816002  「不滅の形態」だ

0816015  「万物」の母だと考える
0816016  「万物」のなかには父は存在しない

0816020  「不滅の傷痕」そのもの

メデアム・夢見る家族(G・21)

0821034  「美神の絞殺」は行われているんだ

舵手の書(G・22)

0822005  「人間の死の充満せる
0822006     花籠は
0822007  どうしてこれほど
0822008          軽い容器なのか?」

0822011  「光をすこしずつ閉じこめ
0822012  たり逆に闇を閉じこめたりする」

0822026  「五月のスフィンクス」だ

0822034  「鳥は完全なるものをくわえて飛ぶ」

0822040  「彼女は未知の怪奇なけむり
0822041  を吐く最新の結晶体」

0822044  「朝食のときからはじまる」

0822054  「曖昧な危倶と憶測との
0822055  霧が立ち罩めようとしている」

0822061  「黙って
0822062  歩いていってしまった」

0822073  「憑きものの水晶抜け」の秋

白夜(G・23)

0823007  「とても重大なことだ」

0823014  「少女はつねに死体である」

0823018  「寝台の脚のまわりに草が生える」

ゾンネンシュターンの船(G・24)

0824001  「罪深い魚は泳ぐ方角をまちがえている」

0824013  透視された「大地の軸」が在る

0824020  「うずらは地に巣をつくる」

0824028  「もうすこし言葉すくなに
0824029  もうすこし呼吸を多く」

0824031  「六匹の塩漬鯡を肋木に
0824032  鉤で引っかけ
0824033  藁マットに火を放つ」

0824043  「ゾンネンシュターンの大演説が聞えてくる」

0824048  「四つの占領地帯」が必要だ
0824049  「なにゆえにテーブルには四つの脚
0824050  馬に四つの脚」

0824061  「地に
0824062  空に
0824063  そして海に
0824064  新記録を
0824065  達成する女」

0824070  「世界には雑草とわたしとかぶら」

0824075  「逃亡する魂」は気高い

0824078  船に「生の合乗り」がはじまるんだ

悪趣味な夏の旅(G・26)

0826007  「人間の体はきわめて凸凹がある」

0826020  「水に運ばれてゆく水」

0826025  「永遠に泥まみれの山羊の足」

0826028  「服が体に合っていない
0826029  と首のまわりに突っぱった
0826030  骨が出る」

0826034  「どちらが長く どちらが短いか」

0826040  「鹿はどこで水を飲むのか?」

0826058  「切りきざまれた
0826059  世界
0826060  布地の切口と切口を縫合せる
0826061  できるだけ平らにしてのばして
0826062  目的物を包む
0826063  それでも包みきれないものが突っぱって出たら
0826064  カナテコで叩き
0826065  びらびらした余分なものは
0826066  糊で貼りつける
0826067  当然それは内部増殖する
0826068  無理な形で
0826069  地平線までせりあがる
0826070  だから手順よく濡らして
0826071  生地をひっぱりながら
0826072  熱いアイロンをまんべんなくかける」

示影針(グノーモン)(G・27)

0827001  「少女は消え失せ
0827002  はしなかったけれども
0827003  もう二度と姿を現わしはしなかった
0827004  現われて出てくる
0827005  やいなや
0827006  少女はすぐさま形態を
0827007  なくした」

0827013  「デルタの泥土のなかで
0827014  花を咲かせるという
0827015  大いなる原初の白蓮[ロータス]」

0827017  「わたしは幼年時代 メリー・ミルクというミルクの
0827018  缶のレッテルに 女の子がメリー・ミルクの缶を抱え
0827019  ている姿の描かれている」

0827026  「動物と植物の中間に位置する
0827027  貝殻や骨や珊瑚虫」

0827034  「ロンボスの霊」

0827036  「ロンボスなるものの実体が まるで雲をつかむ
0827037  ようにあいまいもことして つくづく驚かされる」

0827040  「アパッチ族のシャーマンは ロンボスを回転させて
0827041  不死身になったり 未来を予見する」

0827044  「ロンボスとは子供の玩具以外の何物でもない」

0827046  「青銅の独楽」

0827049  「不死鳥[フエニツクス] 一角獣[ウニコルニス] 火蜥蜴[サラマンドラ]」

0827051  「フップ鳥」

0827055  「フップ鳥」
0827056  「女を一個の物体の側へと近づける」

0827059  「フップ鳥」

0827062  「フップ鳥は母鳥が死ぬと
0827063  その屍体を頭の上にのせて
0827064  埋葬の場所を探し求める」

0827068  「人間の想像力は 或る物体が一定の大きさのまま
0827069  留まっていることに 満足しないもののようである」

0827074  「最初の時計から
0827075  最初のセコンドが飛び出して以来
0827076  それまで神聖不可侵と考えられていた
0827077  自然の時間
0827078  神の時間が死に絶え
0827079  もはや二度と復活することがなかったのである」

カカシ(G・28)

0828004  「夜も昼も立っている者」

0828008  「焼魚
0828009  蓮根の煮つけ
0828010  冷飯」

悪趣味な内面の秋の旅(G・31)

0831004  「目覚めて夢みる人」

0831023  「時」の皮膚をただれしめたり
0831024  反対に「水」の流れを止める

0831034  「風景
0831035  それはある魂の
0831036  状態である」

0831044  「女の肉体の天然の富は失われた」

0831061  「仮泊の場にすぎない」
0831062  「自然と精神のあいまいな境界に位置する
0831063  幼児という存在には
0831064  動物から天使までの
0831065  あらゆる存在に変身しうる可能性がある」

0831070  かれらまがまがしき「幼児」は漂泊を試みているのだ

0831073  「幼児」は姉妹にみとられて

0831076  われわれが「アドニス」と呼称しているものは

0831081  形状をととのえている夢の「アドニス」のひとり

0831085  われわれが「ヴィーナス」と呼称しているものは

0831113  「パンヤをヘラのような器具を使って
0831114  奥のほうからたんねんに詰め込み
0831115  女神像を作る」

0831122  「ガラスの壁にへだてられている
0831123  感覚(世界)」の彼方

0831143  「われわれは本当に自己の身体のなかに収まって
0831144  いるのだろうか?」

あまがつ頌(G・30)

0830029  「月下に影を落さぬ
0830030  ランプ」

0830055  「キントンが食べたい」

0830078  「木毛 ハリコ 桐粉 鉛などで
0830079  形づくりをして
0830080  蝋絹 ときにはメリヤスを張る」

少年(G・29)

0829009  「わたしの内密な経験の貯蔵庫」

0829021  「男根の切断面から生える巴旦杏」

0829036  「わたしの魂は松の根に入り
0829037  その血からスミレが咲く」

0829050  「夜な夜な人間を火中に入れて
0829051  その死すべき部分を焼きつくそうとする」

こうして見ると、当初は強調の意味で用いられることの多かった鉤括弧が、次第に他者の章句の引用での使用に変わっていったことがわかる。引用での使用でとりわけ顕著な詩篇は

 聖あんま語彙篇(G・8):土方巽に捧げられている
 田園(G・14)
 舵手の書(G・22):瀧口修造に捧げられている
 ゾンネンシュターンの船(G・24):ゾンネンシュターンに捧げられている
 悪趣味な夏の旅(G・26)
 示影針(グノーモン)(G・27):澁澤龍彦に捧げられている
 悪趣味な内面の秋の旅(G・31)


の七篇である。〈田園〉は詩人自身をモチーフにしているから、自分に捧げたと見ることもできよう。〈悪趣味な内面の秋の旅〉については、かつて《詩人としての吉岡実》で「 」内の章句の出典を矢島文夫《ヴィーナスの神話〔美術選書〕》(美術出版社、1970年12月25日)を中心にして指摘したので、参照されたい(同様に、〈舵手の書〉の出典に関しては〈吉岡実と瀧口修造(2)〉で詳述した)。以上を概観して改めて感じるのは、《神秘的な時代の詩》以降の吉岡実詩における土方巽の、とりわけその語録の重要性である。

107 風神のごとく――弔辞

 土方さん、私は詩が書けなくなると、いつも君の活字になった、対談や座談会で発言した、まるで箴言的な言葉を探し出し、それに触発されながら、ずいぶん詩を書いて来たものです。私は自分の考える言葉よりも、きみの独特の口調の奇妙な表現の言葉のほうが、リアリティがあって、ずいぶん借用させて貰っていますね。それらの詩篇は、いずれも自信を持っています。きみは寛容にも許してくれました。現在企画中と聞いている『土方巽写真集』もちろん仮題のものですが、その中に、「聖あんま語彙篇」を入れることにしましたね。何としても、この本は実現したいものです。私は今、あまり詩が書けませんが、いずれ鎮魂歌として、「聖あんま断腸詩篇」を書くつもりです。(《土方巽頌》筑摩書房、1987、二一四〜二一五ページ)

吉岡実の引用詩は〈聖あんま語彙篇〉から始まった。高橋睦郎は〈父・あるいは夏〉(H・12)について〈鑑賞〉(《吉岡実〔現代の詩人 1〕》中央公論社、1984年1月20日)で「土方巽の文章というか語録というか、彼の言葉がなかったら生まれなかったろう、と作者はいう。不世出の実存的ダンサー、土方巽の常識的論理回路を外れたセンテンスのいくつかを生命の指標[ライフ・インデクス]ふうに奪うことで成立した作品」(同書、一三七〜一三八ページ)と書いている。残念なことに、〈聖あんま語彙篇〉は《吉岡実〔現代の詩人1〕》に採録されなかったから、〈鑑賞〉も書かれなかった(〈聖あんま語彙篇〉の代わりに、よりコンパクトな〈父・あるいは夏〉を採ったとも考えられる)。

吉岡 あまり言われないけど、土方巽を描いた『聖あんま語彙篇』(「美術手帖」5月号)、あれは面白いと思っているんだ。ぼくって人間はいままで材料ってのは使わない人間だったのね。自分のなかに蓄えてたものを使っていた。だけど、これからは、あえて意識的に材料を使うものを書いてもいいんじゃないか。(吉岡実・大岡信〔対話〕〈卵形の世界から〉《ユリイカ》1973年9月号、一五八ページ)

吉岡実の「引用詩」宣言である。吉岡の詩的後半生はここから始まる。本稿の初めに挙げた詞書・題辞[エピグラフ]とその作者名・献詞・ 註記・出典に「土方巽」が登場する詩篇、すなわち〈聖あんま語彙篇〉(G・8)より前の〈青い柱はどこにあるか?〉(F・6)と、後の〈螺旋形〉(H・10)、〈聖あんま断腸詩篇〉(K・12)、〈休息〉(未刊詩篇・18)に見える括弧類で挟まれた詩句を次に掲げる(なお、〈青い柱はどこにあるか?〉に括弧類は使われていない)。

螺旋形(H・10)

0910010 「想像力は死んだ
0910011         想像せよ」

0910016 「赤児はにごった材質のガラスで
0910017 出来た蠅取り器のような感じがする」

0910022 「幼児はかさぶたと
0910023 キャラメルをなめて成長する」

0910027 〈有為転変〉

0910030 「死は
0910031 不完全な生の完成である」

0910033 「しんしんと砂糖水を飲む」

0910042 「眼球の内奥の蛇腹が硬化し伸び縮みしにくくなり」

0910049 「肉体を分節のない一個の骨の如き
0910050 完璧な表層たらしめる」

0910056 「濡れてささくれだつ板に
0910057 兎をなすりつける」

0910059 〈仮の地〉と呼んだ

0910063 「血球一つ落ちていない風景が展開してくる」

0910064 *ベケット(高橋康也訳)、土方巽などの章句を引用した。

聖あんま断腸詩篇(K・12)――〈神の光を臨終している〉――土方巽

T 物質の悲鳴

1212001 「この狂おしい
1212002        美貌の青空」

1212004 「あの老婆も狼煙の一種で
1212005             あったかもしれない」

1212008         みたいような(処)へ差しかかる
1212009 「物質の悲鳴が聞こえた」

1212011 「言葉が堕胎されている!」

1212014 「人間的な言語が多量すぎる」

1212018 「光じゃありませんよ
1212019           もう闇ですよ」
1212020 ここは(仮の地)?

1212022 「灰柱まで
1212023      私の死への歩行が続いている」

U メソッド

1212024 「にわとりの頸をひねり
1212025            裸電球をひねる」

1212027        「形や像を越え
1212028               一つの抽象的な
1212029 次元へ向っているようだ」

1212032 「闇と光を交配させる」
1212033            という(行為)を私は好きだ

1212035        「幽霊の乳を飲んでいる」
1212036        (赤児)のようなものが見える

1212038       凍った(形象)を追求し

1212040            (絵画)で説明できない時は
1212041 (本能)で試みよ
1212042         「ここまでが生体で
1212043          ここからが死体だ」

1212046             「土間の消壺に近づいてゆく」
1212047 男の(裸体)を消す
1212048          炸裂するように弾ける
1212049      (星形)

V テキスト

1212051 「葛[かづら]を被[かづき]て松の実を食み
1212052            鳥の(卵)[かひご]を煮て食[くら]ひて

1212054         (𨳯) [まら]を吸ふ
1212055               なれば(嬭房) [ちぶさ]は張り
1212056 (開[くぼ]の口)より
1212057        (神識)[たましひ]を昇らせる
1212058                 (奇異)[あ]しき事かな

1212060       (銅荒炭)[あかがねあらすみ]の上に
1212061               (鉄丸)[てちぐあん]を置きて呑み
1212062 地獄に堕ちむ」

1212063  暗黒舞踏のフェスティバル「舞踏懺悔録集成」における、講演のためのテキス トをつくる時、私は『日本霊異記』を参考にした。それを拾い読みしていて、この章句を見つけた。古代から「母子相姦」の悲劇があり、それはこれからも、永遠に続くことだろう。――(H)

W 故園追憶

1212072 私は(骸骨)で生まれたのだ/

1212075 ああ(骨の涼しさ)/
1212076 湯気のような(肉体)を着せられて/

1212085 姉とは突然に(家)からいなくなるものだ/

1212092 父親はそれを(神品)として大事にする/

1212099 ついでに(女陰)も/

1212117 この頃は(夢の沈澱物のような私)/

1212124 ニガリの効いた(時空)/

1212139 雨は鮒の(精霊)に降り注ぐ/
1212140                  私はいまでは(精神)の洟をたらしている/

1212144 (物質)か(言語)/

1212148 (人間)は火種を貰って来る/

1212154 (時間)/

X (衰弱体の採集)

1212157 「金属という(身体)
1212158           凍結炭素という(身体)」

1212160        (人体)というものは光に漉かれる
1212161 「おばあさんというのは
1212162            一枚・二枚で数えるものだよ」

1212166           濡れ雑巾に刺った(魚の骨)を

1212170 「燃えている布切を
1212171           犬のからだに詰める」

1212173 衰弱した(風景)を
1212174          「影が光に息づかせている」
1212175 老婆たちは(物語)をつくり
1212176              「数えきれない
1212177     気流と呼吸のなかを
1212178              通過してきたのだ」



1212183 (紐)のようなものだった

1212185   「蟻の卵や蜘蛛の巣」

1212191 「からだに(霞)をかけている」



1212193             (雪っ原)
1212194 未練がましく(火)を起し

1212196 「火箸で(文字)を書き始めた」

Y 挽歌

Z 像と石文

1212228 「言葉から肉体が発生する」

1212231         (無体)と化しつつある
1212232 (泥型立身像)
1212233        このささくれた(幻像)を記憶せよ

1212235      「血と霊と風と虫とが交合する」

1212237        「書く者は衰弱し
1212238         死者にかぎりなく近付く」
1212239 そのように刻まれた(石文)

1212241 「大暴風雨にさらされている
1212242              鹿のようなものが見えた」

[ 慈悲心鳥

1212244              (亡霊)ではなく
1212245          (誰?)
1212246 「骨まで染めるような
1212247           夕焼」

1212249        (魂と炎の世界)
1212250 
1212251 「慈悲心鳥がバサバサと骨の羽を拡げてくる」

1212252 *この作品は、おもに土方巽の言葉の引用で構成されている。また彼の友人たちの言葉も若干、補助的に使わせて貰っている。なお冒頭のエピグラムは、彼の辞世である。

休息(未刊詩篇・18)

0018002            〔思考の腐蝕する穴〕

0018005 「ゴムの浮袋のような
0018006           寝台のうえで
0018007 パオロ氏は眠っている」

0018010           「意味のとぎれる
0018011        境界線」

0018013       「同じ側の脚を二本
0018014        いっぺんに持ちあげている」

0018016          〔透視図法〕

0018022 「死体は仮の消滅で
0018023          風景に似ている」

0018028            「あの眼は
0018029                 どんなものの上にも
0018030                 止まることは許されない」
0018031         〔イデアの世界〕
0018032 「女を夢みる者は
0018033         馬を夢みることはないだろう」

0018035          「からだの表面は
0018036                  未完の竹籠」

0018038               *澁澤龍彦と土方巽の言葉を引用している。

――土方巽はたいへんな読書家で、吉岡詩のこわい読み手。酒の席ですごいことを言う。具体的には思い出せない。百鬼夜行の状況での特殊なことばだから消えてしまう性質のその語録は、将来出るだろうが。(1985年5月23日の吉岡実の談話)――

アスベスト館にて土方巽と吉岡実(1980年ころ)。〔今日までに公開された唯一のツーショット〕
アスベスト館にて土方巽と吉岡実(1980年ころ)。〔今日までに公開された唯一のツーショット〕
出典:《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991年4月15日、〔二〇ページ〕

〔付記〕
吉本隆明は〈舞踏論〉(1989年2月22日、ボディサットヴァ文化研究所主催《未来からの風2》第一部〈トークディスカッション《肉体論》〉における発言)で「とにかくメタファーには、拡大されるべきものがある。〔……〕丸(句点)さえ取ってしまえば文章のリズムがまるで違ってきて、まったく違う意味になってしまうことだってあり得る。土方〔巽〕さんの文章というのはさながら吉岡実の詩のようですから、そういうことをしても悪くないですよ」(《吉本隆明〈未収録〉講演集11――芸術表現論》筑摩書房、2015年10月10日、二四六〜二四七ページ)と語っているが、主客が転倒しているようで、解せない。本稿で述べてきたことから明らかなように、実態に即しているのは「吉岡実の詩というのはさながら土方巽の語録のようですから、」ではないのか。そのことと、一貫して吉岡実詩に句点が用いられていないことは別の問題である


《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第4版〕》を作成した(2017年1月31日)

2012年11月30日――本サイト《吉岡実の詩の世界》を開設して10周年の記念の日である――に公開した《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第3版〕》(文藝空間)に手を入れた〔改訂第4版〕を作成したので、PDFファイルを公開する。以下に同資料のあとがき〈吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第4版〕 への追記〉と仕様を録して、《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第4版〕》の紹介に代える。

吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第4版〕への追記
2016年9月20日、30年来の懸案だった〈模写――或はクートの絵から〉の初出が判明した。一方で、ウェブサイト《吉岡実の詩の世界――詩人・装丁家吉岡実の作品と人物の研究》を掲載してきた株式会社ジュピターテレコム(ブランド名はJ:COM)がWebSpaceの提供をやめることになり、開設以来14年の長きにわたり親しんできたURLともお別れする(新しいURLはhttp://ikoba.d.dooo.jp/)。これを機に、PDF版《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第4版〕》を公開する。〔改訂第3版〕からのおもな変更点は、〈模写――或はクートの絵から〉と〈序詩〔うんすんかるたを想起させる〕〉の項の修正、本資料の版次・公開日の新表示である。遠からず本資料を冊子体として印刷刊行したい。(2016年12月31日)
 《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第4版〕》 2017/1/31 【PDFファイル】 760KB

《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第4版〕》 小林一郎編纂、文藝空間刊。A5判・本文64ページ横組・2色刷。索引例言、詩篇目録、索引本文〔全286篇(筑摩書房版《吉岡実全詩集》未収録の6篇を追補)の詩篇番号・詩篇標題・副題・よみがな・全詩集掲載ノンブル、詩篇本文冒頭1行、詩篇節数・詩句の本文行数・初出媒体の詳細情報・初収録単行詩集あるいは変改吸収した詩篇、備考〕、索引覚書を掲載。(2017年1月31日、PDFファイル公開)

昨秋の〈詩篇〈模写――或はクートの絵から〉初出発見記〉をお読みいただいた郡淳一郎さんから「「模写」発見、おめでとうございます。吉岡実と、彼をインデックスとする近代日本出版史全体の貴重な知見と、その方法論を惜しみなく公開して下さり、心より感謝しております」という過褒なるお葉書をいただいた。今後とも、成果(ささやかではあるが)とそこに至る経緯を明らかにしていきたいと思う。郡さん、ありがとうございました。


吉岡実の引用詩(2)――大岡信《岡倉天心》(2016年12月31日)

吉岡実の引用詩を考える際に、題辞に大岡信を引いた詩篇〈円筒の内側〉(H・28)をその具体的な作品として選び、そこに引用されてい る詩句をつぶ さに検証したい。初めに、全詩集に収められた定稿を引く(行頭の2桁数字は論者によるライナー)。リンクをはって、高橋睦郎の〈鑑賞〉(《吉岡実〔現代の 詩人1〕》中央公論社、1984年1月20日)と大岡信の原文等を掲げる。なお、★高橋のあとの( )内の数字は〈鑑賞〉の文章の掲載ページを表す。★大 岡の原文は中略した場合だけ〔……〕と表示し、前略・後略の場合は特段の表示をしない。00行の/は改行箇所。

  円筒の内側|吉岡実

  00  「言 語というものは固体/粒であると同じに波動である」 /大岡 信
    1
  01    「石 や木とじかに結びついている」
  02    子供の頃
  03    狩野川のほとりで
  04    ハ ヤ・マルタ・フナを釣り
  05    ぼくは猿股をぬらす
  06    日の暮つ方
  07    ぬるぬるしている
  08    硬骨魚
  09    鯰をついに捕え
  10    「存在としての自然ではなく
  11    生成としての
  12    自然」
  13    そのものを知った
      2
  14    「子 供は強引に成長する」
  15    木の芽時
  16    香貫山を見れば
  17    「とびかかって来る
  18    緑」
  19    ぼくは間もなく
  20    アデノイドの手術を受けるんだ
  21    むっとする闇のかなた
  22    「そこに巨大な女が横たわっ ている
  23    ことを想像せよ」
      3
  24    「円 筒の中は静まりかえり」
  25    猫は死にゆき
  26    鯉も死にゆき
  27    いずれにしても淋しい秋だ
  28    もしかしたら
  29    人も死んでゆく
  30    「葡萄の房
  31    みたいなかたち」
      4
  32    露もしとどに
  33    裏山を越え
  34    妹がつづらおりの径を降りてくる
  35    「涙を浮かべない眼で
  36    事物を見よ」
  37    言語がはらむ
  38    観念の内容をつきとめよ
  39    「処 女陵辱」
  40    この文字は美しい
  41    しかし顔をそむけよ 弟
  42    「夢と現実の
  43    隙間」
  44    に潜在する
  45    「ツクネイモ山水」
  46    そのはるか上に懸る
  47    「冴え冴えとした
  48    月」
  49    ぼくが老人だったらこのようにつぶやく
  50    「言葉の方からのみ
  51    人生を眺めると人生は
  52    煙のごとし」
      5
  53    「生物と鉱物の両方が騒がし く
  54    わき立っている
  55    地表」
  56    そこでの生活はつらい
  57    「尋常の食物では
  58    彼らを養うことは出来ない」
  59    ぼくのはらからは
  60    ひたすら思考し
  61    「沈 黙に聞き入る能力」
  62    をたくわえる
  63    頭部は巻貝のような人たちだ
  64    「冷えすぎたハム」
  65    この興ざめたものを嚥下す
  66    それゆえに
  67    「からだのなかにつねに
  68    フォルム感覚が見えない形で
  69    生み出される」
  70    そのまわりに散乱する
  71    糸屑や卵子
  72    (言葉)
  73    もろもろの具象を
  74    箒やはたきをかけて
  75    舞いあがらせる
  76    発止!
  77    ワラ半紙一枚の聖域
      6
  78    「璧を通して
  79    青空が見える家」
  80    からぼくは旅に出る
  81    桜並木の長い道がつきたところで
  82    (点滅信号)を仰ぐ
  83    其所から
  84    「氷河が溶解し
  85    世界の洪水がはじまる」
  86              (一九七九・一○・九)

……………………………………………………………………………………………………………………………………

「言語というものは固体
粒であると同じに波動である」
               大岡 信
★高橋(169)
例 によって題名のすぐ後の括弧の中は献げられた相手の言葉、ただし、「大岡信」と出典が銘記されているにもかかわらず、原文は「語はウェーヴィクルの類同物 ではないだろうか。それは不可分で個性的な粒子性をもつが、同時に、波動性において真に〈ことば〉の生命を示す」(『彩耳記』「断章[」)。
★大岡(《彩耳記》所収〈断章[〉。《大岡信著作集13》青土社、1978年2月28日、98〜99ページ)
 語はウェーヴィクルの類同物ではないだろうか。
 それは不可分[インデヴィデユルアル]で個性的[インデヴィデユルアル]な粒子性をもつが、同時に、波動性において真に〈ことば〉の生命を示す。

「石や木とじかに結びついている」
★高橋(171)
「石や木とじかに結びついている」は出典未詳。
★大岡(詩集《遊星の寝返りの下で》所収〈咒[じゆ]〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、0554ページ)の「一部改作による引用」 (《遊星の寝返りの下で》巻末の〈*(ノート)〉、《大岡信全詩集》、0598ページ)に思える。
死者よ この乾ききった岩石に棲み そして遙かな樹根に棲め

ハヤ・マルタ・フナを釣り
★高橋(170-171)
「ハヤ・マルタ・フナを釣り/ぼくは猿股をぬらす」……マルタとサルマタの音の響き合いは、つづく行の「日の暮つ方」という万葉調の用語とともに、音韻を たいせつにする大岡への敬意の表現だろう。
★大岡(詩集《水府 みえないまち》所収〈螢火府〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月 16日、0778ページ)
昼間なら
マルタもハヤも野の中央を縦横し、

はだしで清流にしやがみ、オイベッサンを何びきもみつけ、その砂粒をむしり、ハヤやマルタを釣る餌とする。 (同書、0779ページの散文)

「存在としての自然ではなく
生成としての
自然」
★高橋(170)
飯島の「じっとしている/植物よりも/動いているもの」と大岡の「存在としての/自然ではなく/生成としての自然」(『眼・ことば・ヨーロッパ』「芸術と 自然」)を並べれば、これは似ている。
★大岡(《眼・ことば・ヨーロッパ》の〈芸術と自然〉中の一篇〈自然の復権――風景画から自然画へ〉。《大岡信著作集11》青土社、1977年2月25 日、182ページ)
  アンフォルメル(ぼくはアクション・ペインティングをも含めたものとしてこの言葉を用いているのだが)絵画は、したがって造形美術の恥部に直接手をさしの べ、その秘密をあばこうとしたのである。というのも、右のような思想に支えられている限り、絵画というものは「在[あ]る」ものではなく、むしろ「成る」 ものだという、きわめて魅力的でしかも危険な信仰が生じるのは、必然の成行きだからである。二十世紀の抽象絵画は、画面というものが外部の対象から完全に 独立した、色と形から成る自律的な二次元平面であるという事実の確認から出発した。画面はそれ自体で存在する新しい一個の事物であり、抽象絵画の存在理由 もこの一点への信仰を除いてはあり得なかった。だが、アンフォルメルの思想は、それ自体の中に、この信仰をさえ揺さぶる要素を含んでいたのだ。画面はもは や一個の完結した事物ではなく、その背後の多次元的な(恐らくは、とりわけ時間の次元をも含んだ)生成する世界への、ひとつの通路のごときものとみなされ ねばならなかった。それは、新たな〈自然〉への接近を意味していたとはいえないだろうか。存在としての自然ではなく、生成としての自然、いやむしろ、生成 としての自然という熱した観念への接近を。

「子供は強引に成長する」
★高橋(171)
「子供は強引に成長する」(詩『水府』「調布V」)。原典では大岡の子息についていっている箇所だが、ここでは大岡じしんのことに「強引に」捩じ曲げられ ている。
★大岡(詩集《水府 みえないまち》所収〈調布V〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、0743〜0744ページ)
子どもはどんどん大きくなるが
親みづからには老いゆく自覚のないことを
ある日ふと怖ろしいと知る
路上の胡人、ぼくといふ他人

「とびかかって来る
緑」
★高橋(171-172)
「とびかかって来る/緑」と「そこに巨大な女が横たわっている/ことを想像せよ」は『現代詩文庫24大岡信詩集』「日記抄」より。原典では箱根に登っての 印象であるものがここでは少年期から青年期への過渡的時期の心象風景として利用されている。
★大岡(〈日記抄〉、《大岡信詩集〔現代詩文庫24〕》思潮社、1969年7月15日、110ページ)
〔1951年(昭和26年)〕6・30
  山を登りながら見たあの美しいスロープの緑、それは僕にひとつの啓示を与える。美とは驚きであるとボオドレエルがいったが、それは語源から考えられること だ。surprendreは「とびかかる」の意味であって、我々がsurprendreされるということは、つまり、対象によってとびかかられることなの だ。対象を見るのではない、対象が我々にとびかかってくるのだ。surprendre(対象)→surpris(自己)、この関係こそ、美を形造る。箱根 のあの十国峠の緑のスロープは、たしかに僕にむかってとびかかってきた。

「そこに巨大な女が横たわっている
ことを想像せよ」
★高橋(171-172)
「とびかかって来る/緑」と「そこに巨大な女が横たわっている/ことを想像せよ」は『現代詩文庫24大岡信詩集』「日記抄」より。原典では箱根に登っての 印象であるものがここでは少年期から青年期への過渡的時期の心象風景として利用されている。
★大岡(〈日記抄〉、《大岡信詩集〔現代詩文庫24〕》思潮社、1969年7月15日、110〜111ページ)
〔1951年(昭和26年)〕7・1
夜 の闇に包まれた広大なスロープ、それを夢見ることは怖ろしい。巨大な実感だ。そこに一人の巨大な女が横わっていることを想像せよ。むしろ実感せよ。すると 君は、不意に激しい欲情が身内に起るのを感ずる。その女は、君の欲情の対象であり、しかも君の欲情それ自身である。君は彼女の巨大な柔かい腹部を探るであ ろう。それはしっとりと濡れて温かく、いい匂いを放っている。いい匂い……むしろ女の匂い。君は次第に深みへ没してゆく。君は深い叢に迷いこむ。柔かい、 濡れた粘膜。樹液の分泌。君は一個の蟻である。君は一つの死、長い眠りである。君は彼女の「中で」眠りたい。君はやがて眠るであろう。君はその時単なる 「眠るもの」にすぎない。然しいつでも、僕らの生は眠りのために費されるし、それ以外の目的をもってはいないのだ。

「円筒の中は静まりかえり」
★高橋(172)
「円筒の中は静まりかえり」は「……静まりかえったコップのなかの……」(詩『透視図法――夏のための』「罎とコップのある」)の改変。「コップ」が「円 筒」となったについては、アデノイドの口腔に象徴される少年の内部の表現に「円筒」がふさわしいと考えられたためか。
★大岡(詩集《透視図法―夏のための》所収〈罎とコップのある〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、0511ページ)
街路のひびきをうかがうように静まりかえったコップのなかの、三分がた凍った水が、かすかな蒸気をあげている。それを眼の湿布が吸いとる。水は徐々にぬく もり、コップが私にくれる眼差しは、平凡な静物のウィンクにすぎなくなる。
  とどまれよ、秋波!
  こい、寒波!

猫は死にゆき
鯉も死にゆき
★高橋(172-173)
「猫」や「鯉」の「死」をとおして「人」の「死」の意味を知る。
★大岡(〈日記抄〉、《大岡信詩集〔現代詩文庫24〕》思潮社、1969年7月15日、113ページ)
〔1951年(昭和26年)〕9・13
  猫が死に、鯉が死んだ。死ということの何という不思議。「肉体の死」という極めて観念的な事実から、不意に「死んだ肉体」という極めて露出的な事実の中へ 突き出され、或は引きずりこまれ、人は激しい当惑を感ずる。ここにある断層、それは我々が通常自明のこととしている、眼に見えるすべてのものは理解でき る、という観念を一瞬のうちに不安の中へ突き落すことによって、充分戦慄的である。我々は死んだ肉体を眼前に見る。しかもそれは我々の凡ゆる理解を絶して いる。何とも言い様のない矛盾。

「葡萄の房
みたいなかたち」
★高橋(173)
「葡萄の房/みたいなかたち」(『大岡信詩集』「地名論」の中の「音楽の房」の改変か)の「死」。
★大岡(詩集《わが夜のいきものたち》所収〈地名論〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、0419ページ)
おお 見知らぬ土地を限りなく
数えあげることは
どうして人をこのように
音楽の房でいっぱいにするのか

「涙を浮かべない眼で
事物を見よ」
★高橋(173)
「涙を浮かべない眼で/事物を見よ」は「けれどもつひに/涙など知らぬ顔に/晴れ渡つてゐる/いとしい/敵」(『悲歌と祝祷』「渡る男」)の改変か。
★大岡(詩集《悲歌と祝祷》所収〈渡る男〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、0615ページ)
けれどもつひに
涙など知らぬ顔[がほ]に
晴れ渡つてゐる
いとしい

「処女陵辱」
★高橋(173-174)
「処女陵辱」については『狩月 記』「断章Y」に、ある座談会に出席した後の速記録に「凌辱」としゃべったつもりのところが「陵辱」となっていたことから始まり、「凌」と「陵」の「言語 がはらむ/観念の内容をつきとめ」る作業過程が述べられている。おそらく作者は大岡のこの文章を読んで、「処女陵辱」の文字に新鮮な戦慄を覚えたのだろ う。
★大岡(《狩月記》所収〈断章Y〉。《大岡信著作集13》青土社、1978年2月28日、296〜300ページ)
 ある座談会に出 た。速記原稿がまわってきて、私の発言の中に「処女陵辱」という文字があるのを見た。たしかに私は「リョウジョク」という言葉を使ったのたが、私の頭に あったのは「凌辱」という文字だったので、「陵」の字には戸惑った。はじめは速記者のミスであろうかと思った。しかし、この文字が何度も出てくるので、戸 惑いは狼狽に変った。
 この速記はまちがっている、と私は思い、「陵」を「凌」に訂正した。しかし、速記者は文字をよく知っている人々である。気になって、広辞苑を開いてみ た。
 りょうじょく【凌辱・陵辱】@人をあなどりはずかしめること。A女を暴力で犯すこと。
 私はうなった。陵辱も正しい文字遣いなのか。「凌」の字は当用漢字ではない。したがって、「陵」の字が採用されたのにちがいない。私は速記者に不明を詫 びる思いで、再び「凌」を「陵」に戻した。
 事の経過はそれだけたったが、私の気持はこの結果をすんなりと受入れたがらなかった。言ってみれば、語感と人が呼ぶものの問題らしかった。

「夢と現実の
隙間」
★高橋(174)
「夢と現実の/隙間」は「夢と現実のあいだに隙間があるという考えの誘惑」(『狩月記』「断章I」)の省略。
★大岡(《狩月記》所収〈断章I〉。《大岡信著作集13》青土社、1978年2月28日、241〜242ページ)
 夢と現実のあいだに隙間があるという考えの誘惑。
 一衣帯水。一方は夢に、他方は現実に連っている、限定できない細いひろがり。
 それを、ある人々は光のごときものとして想像するだろう。
 別の人々は、闇のごときものとして想像するだろう。
 空間という便利な語を用いることができるなら、夢と現実のあいだの隙間は、見えていて同時に見えない空間という風にしか表現できない種類の空間である。

「冴え冴えとした
月」
★高橋(174)
「冴え冴えとした/月」は「月光はかたく冴える」(『悲歌と祝祷』「とこしへの秋のうた――藤原俊成による」)の変形。
★大岡(詩集《悲歌と祝祷》所収〈とこしへの秋のうた――藤原俊成による〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、0638ページ)
 氷る

多摩川の里に氷張りつめ
月光はかたく冴える
凄愴の影ををどらせて氷の上にあられが降る
氷は固くしまり
わたしの心はくだける

 月冴ゆる氷のうへにあられ降り心くだるる玉川のさと

「言葉の方からのみ
人生を眺めると人生は
煙のごとし」
★高橋(174)
「言葉の方からのみ/人生を眺めると人生は/煙のごとし」は『狩月記』「断章U」より。
★大岡(《狩月記》所収〈断章U〉。《大岡信著作集13》青土社、1978年2月28日、257〜258ページ)
 言葉は恐ろしい。
 人生は煙のごときか。
 言葉の方からのみ人生を眺めると、人生は煙のごとしというほかないのだ。
 それでは、言葉以外のどっちの方から人生を眺めるというんだよ。オマエは言葉以外の何ものでもないではないか。
 だから、言っただろう? 人生も、詩も、同じようにわからんものなんですと。ただし、人生はその無秩序において、言葉はその秩序において。

「生物と鉱物の両方が騒がしく
わき立っている
地表」
★高橋(175)
「生物と鉱物の両方が騒がしく/わき立っている/地表」は「あぢむら騒ぎ/しろがね融ける地表に」(『悲歌と祝祷』「燈台へ!」)の変形。なるほど、「あ ぢむら」(=アジガモの群)は生物だし、「しろがね」(=銀。いうまでもなく)は鉱物だ。
★大岡(詩集《悲歌と祝祷》所収〈燈台へ!〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、0618ページ)
あぢむら騒ぎ
しろがね融ける地表に
狂ひたつ生きものたちの
水晶体はけぶる
祖先のからだの髪と管は炎える
★大岡(谷川俊太郎との対話《批評の生理》思潮社、1978年7月15日、138ページ)
「あ ぢむら騒ぎ」というのはアジ鴨の群がいっせいに騒ぎ立てるようなことだけれども、自分のイメージのなかではもっと一般的に、非常に騒がしい生物の群という ことで、「しろがね融ける」は象徴的に言えば金属類がわき立ち融けていく現代ということなんだな。だから生物と鉱物の両方が騒がしくわき立っているような 地表というイメージ。

「尋常の食物では
彼らを養うことは出来ない」
★高橋(175-176)
「尋常の食物では/彼らを養うことはできない」は「桃を賦すにはまだ稚ない十二人の弟たちに/柔らかい肉 硬い歯を与えるために/父親は死んで柘榴とな り」(『春 少女に』「稲妻の火は大空へ」)の翻案か。
★大岡(詩集《春 少女に》所収〈稲妻の火は大空へ〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、0704ページ)

桃を賦すにはまだ稚ない十二人の弟たちに
柔らかい肉 硬い歯を与えるために

父親は死んで柘榴となり 荒地に立つた
きみは曠野で御しがたい牝[めす]馬となり 喃語[なんご]を唾棄した

「沈黙に聞き入る能力」
★高橋(176)
その家族は「沈黙に聞き入る能力」(おそらく『彩耳記』「断章XIV」の「静寂を聴くことへの、ひとりの人間の深まり」の翻案)を持つユマニスティックな 家族、そのユマニスムは「頭部は巻貝のような」と表現される。
★大岡(《彩耳記》所収〈断章XIV〉。《大岡信著作集13》青土社、1978年2月28日、170〜173ページ)
 心理学者にいわせると――あえて心理学者と限ることもないが――ある少年なり少女なりが「わたしは今、静けさの中に聴き入っている」というようなとき、 その少年あるいは少女は、すでに青年になっているのだという。
 なるほどその通りだと思う。
 直接的な知覚としての音響を聴くことから、知覚を超越した静寂を聴くことへの、ひとりの人間の深まりは、聴くという言葉の内容そのものをも深める。
 〔……〕
  それゆえ、言語の固有の本質は、単に翻訳可能という点だけではあり得ず、同時に[、、、]翻訳不可能な固有性をもつ点にこそ、その固有の本質 [、、、、、]があるといわねばならない。それは矛盾の塊りである。だが、その矛盾ゆえに、私たちは絶えず他のいかなる記号にも移すことのできない、言語 固有の静寂に聴き入る[、、、、、、、、、、、、]ことができるのだ。
 何が私たちを、詩という、常に定義の彼方に逃れ去るものにむかって駆りたてるといって、この言語の静寂に聴き入ること以上にダイナミックな刺戟はないの である。私たちは、この静寂に聴き入るとき、常に、少年から青年になろうとする瞬間にある。

「からだのなかにつねに
フォルム感覚が見えない形で
生み出される」
★高橋(176)
「からだのなかにつねに/フォルム感覚が見えない形で/生み出される」は出典未詳。
★大岡(谷川俊太郎との対話《批評の生理》思潮社、1978年7月15日、129ページ)

自 然界を実際に歩いているときには個々のものに接しているわけだけれども、それらに本当の意味で形を与えるのは、自分自身のなかの意味あるいは感覚の体系だ と思うんだ。世界観とか人生観という言い方もできるけれども、女のからだが月々完全な形の卵子を生み出しているみたいに、人間のからだのなかにつねにフォ ルム感覚が見えない形で生み出されていて、そこに個別の一つのものがひっかかってきたときに言葉になる。そういう考えが僕にはある。

(言葉)
もろもろの具象を
箒やはたきをかけて
舞いあがらせる
発止!
★高橋(176)
なお、括弧に括られてはいないが、「(言葉)/もろもろの具象を/箒やはたきをかけて/舞いあがらせる/発止!」は『悲歌と祝祷』「霧のなかから出現する 船のための頌歌」の「言葉よ/発止!」から来ていること明らかである。
★大岡(詩集《悲歌と祝祷》所収〈霧のなかから出現する船のための頌歌〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、0664〜0665ページ)
人の涼しい影は
幼い神神の頬笑む土地をよぎる
大地は低くうたふ

マックス・エルンストは巣に帰らず
ヘンリ・ミラーはオレンジの芳香に埋もれ
スヴェーデンボリは木星人と青い婚姻
地に姫殺し溢れ
土蔵はいたるところで水揚げされる
涼しい女の言葉よ
いまこそ土地の血管をゑぐれ
こほろぎ棲む草の根よりもうるほひある
言葉よ

発止!

「璧を通して
青空が見える家」
★高橋(177)
「壁を通して/青空が見える家」は「壁は剥げ落ちて、居ながらにして壁を通して青空が見えるような家だったのだ」(『肉眼の思想』「イメージ時代の中のデ ザイン」)の省略。大岡が家庭を持ってはじめて住んだ住居の記述が大岡または主人公の生活の原点として利用されている。
★大岡(《肉眼の思想》所収〈イメージ時代の中のデザイン〉の「ホウキから掃除機へ」〔小見出し〕。《大岡信著作集11》青土社、1977年2月25日、 317〜318ページ)
一 日中家の前にはバスを待つ人々が並んで、暇つぶしに僕の家をじろじろのぞきこむ。のぞきこむのも道理で、この家は軒がさがって玄関は久しい前からあけたて できなくなっていたし、壁は剥げ落ちて、居ながらにして壁を通して青空がみえるような家だったのだ。友人たちは、たたみの下に竹が生えているようなこの家 を面白がって、大事にしろとはげましてくれるし、僕もこの家を愛していたのだが、とてもそんなのんきなことを言ってはいられなくなった。

「氷河が溶解し
世界の洪水がはじまる」
★高橋(177)
「氷河が溶解し/世界の洪水がはじまる」は「洪水せまる/胴震ひのみやこ」(『悲歌と祝祷』「霧のなかから出現する船のための頌歌」)の翻案か。
★大岡(詩集《悲歌と祝祷》所収〈霧のなかから出現する船のための頌歌〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、0662ページ)
たてがみは冷える
竹やぶは鳴る
つるむ戯[たは]れ女[め]
くるしむ戯[たは]れ男[を]
洪水せまる
胴震ひのみやこ
広場の微光は透明になる

ふるへて

……………………………………………………………………………………………………………………………………

高橋睦郎が〈鑑賞〉で「なお、この作品に引用された出典については、とくに大岡信氏の教示を得た。作者が一篇の作品の完成度のためにど れほど原典に 沿うか、あるいはまた離れるかの例として、ここに示すのも意味のないことではあるまい」(前掲書、一六九〜一七〇ページ)と断っているように、吉岡が引用 した章句の著者でなければわからない、改変・変形・翻案された詩句の出典の指摘はとりわけ貴重である。以下では、そこから漏れているいくつかの出典の典拠 や周辺の事項をめぐって逍遙してみたい。

■00行めの題辞「「言語というものは固体/粒であると同じに波動である」/大岡 信」の典拠は 前出のとおりだが、谷川俊太郎は〈大岡の知――石ころと括約筋〉でこう指摘している。「以前に書いた小文の中で、私は大岡をウェーヴィクルにたとえたこと がある。ウェーヴィクルとはイギリスの天体物理学者アーサー・エディントンのつくった新語で、物質の基本状態であるパーティクル(粒子)とウェーヴ(波 動)の両属性を一語で表したものだが、大岡が自身の随想に「語はウェーヴィクルの類同物ではないだろうか」と書いているのを読んで、その言葉が同時に大岡 自身をもよく語っていると感じたのだ」(《現代詩読本―― 特装版大岡信》思潮社、1992年8月20日、二八九ページ)。いま谷川の「以前に書いた小文」を明らかにしえないが、まず大岡がエディントンによる新造 語「ウェーヴィクル(wavicle)」に「語」との類同性を見いだし、前後関係は不明ながら、その大岡文を読んだ谷川も吉岡も、ウェーヴィクルとウェー ヴィクルに感応する大岡との間に類同性を見いだしたことになる。谷川文が(散文だけあって)大岡の書いたままを引き、吉岡詩が(詩の題辞ではあっても)大 岡の書いたままとは大いに異なる表記を伴っているのは、興味深い。大岡を真中に置いた谷川と吉岡の比較論の手掛かりにさえなりそうな気がする。

■01行めの「石や木とじかに結びついている」の典拠と思しい大岡の詩句を掲げてみたが、もしかすると吉岡が金井美恵子との対談〈一回 性の言葉―― フィクションと現実の混淆へ〉(《現代詩手帖》1980年10月号)で「ぼくの中でも、補足は自分で作って自分で括弧にいれると、リアリティが出るなと 思っちゃう。全部が人の言葉とは限ってないわけ。作り変えもあるし……。で、この行とこの行をつなぐには引用をいれないと、という感じで、自分で作った引 用をいれざるを得なくなってきているのね。〔……〕そうじゃないと、こっちがリアリティを感じられなくなってきている。自分で敢て自分の詩句を括弧にいれ るとリアリティを感じられるという錯覚を作っているわけだ」(同誌、九六ページ)と語っている「自分の詩句を括弧にいれ」た実例のようにも思え、微妙なと ころだ。飯島耕一に捧げた〈雷雨の姿を見よ〉(H・14)を「「スナガニが砂を掘って/ひそんでいる穴」」と始めたのと同じ筆法でこの詩を始めたかったた めだと言えば、強弁だろうか。

■04行めの「ハヤ・マルタ・フナを釣り」の出典に関しては、上掲のとおり詩集《水府 みえないまち》(思潮社、1981年7月1日) 所収〈螢火 府〉の本文と詩篇に付された散文だが、この04行に限らず、「1」「2」で吉岡が典拠としたのが大岡の〈略歴〉(谷川俊太郎との対話《批評の生理》所収) であることは動かない。同文から抄する。
★大岡(谷川俊太郎との対話《批評の生理》思潮社、1978年7月15日、12ページ)
小学五年の時扁桃腺炎とアデノイドの手術をしてから、割合丈夫になった。〔……〕
飼ったもの――目白(何羽も)、鶏、鶯(傷ついていたため短命)、犬猫、鯰、のちに山羊(ただし牡で何の役にもたたず)。〔……〕

捕ったもの――昆虫さまざま、ハヤ、マルタ、フナなど川の生物、螢たくさん。〔……〕
中学校は沼津中学(現沼津東裔校)。学校は沼津東郊の香貫[かぬき]山と狩野川に前後を抱きしめられる位置にあった。
〈円 筒の内側〉で増幅された〈螢火府〉の詩句は大岡の後年の詩集《故郷の水へのメッセージ》に再びその姿を表す。〈詠唱〉には鯰(と鮠と丸太)が、〈産卵せよ 富士〉には(鮠と丸太と)鮎(中国ではナマズを指すという)が登場するのだ。詩篇発表の前後関係からいって、これらが「ぬるぬるしている/硬骨魚/鯰をつ いに捕え」(07-09行め)の典拠ではありえない。大岡自身の詩句→それを改変・変形・翻案した吉岡の詩句→さらにそれを踏まえた大岡の詩句、すなわち 《水府》→《夏の宴》→《故郷の水へのメッセージ》という流れになろうか。
★大岡(詩集《故郷の水へのメッセージ》(花神社、1989年4月10日)所収〈詠唱〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年 11月16日、1194ページ)
亀も飼つた 犬も猫も 妊娠中の
 鯰も飼つて トッポーン 川へ帰した
〔……〕
オエベッサンで鮠[はや]も釣つた
 丸太も手掴み ピシャーリ
★大岡(同詩集所収〈産卵せよ富士〉。《大岡信全詩集》思潮社、2002年11月16日、1228ページ)
小浜池[こはまがいけ]にも 柿田川[かきだがは]にも
鮠[はや]・丸太・鮎のきらめき
きみの流れで泳ぐとき
ぼくらのふくらむちんぽこも
たちまち縮んで
豆粒のピストルになった

■45行めの「「ツクネイモ山水」」は、高橋に拠れば「大岡の言葉に間違いなきも出典未詳」(174)。ウィキペディア〈南画〉の項の 「日本南画」 に「明治20年にフェノロサ、岡倉覚三(天心)主導の東京美術学校開設で「つくね芋山水」としてマンネリ化した南画は旧派として排除された」とあるから、 私はてっきり大岡信《岡倉天心〔朝日評伝選4〕》(朝日新聞社、1975年10月15日)にあるものと当て込んで同書を再読したのだが、あにはからんや 「ツクネイモ山水」も「つくね芋山水」も登場しない。よって出典未詳だが、中野美代子《龍の住むランドスケープ――中国人の空間デザイン》(福武書店、 1991年10月22日)の〈U 地平線のない風景――11 桂林案内〉に「つくね芋の山水」という項がある。志賀重ミ《日本風景論》(政教社、1894)の〈日本の風景と朝鮮、支那の風景〉の一節を引いている中野 は、その「蕷薯[ツクイモ]一樣の畫を描きて假形的に山水を眼前に現はし、〔……〕」に注目して、「これは木正兒[まさる]の文章に「つくね芋の山水は 油繪の風景ほど實感が無い」〔〈支那かぶれ〉1936〕とあるのに引きつがれている。もっとも青木は、のちに「南画の山水は無上に好きにな」〔同前〕り、 『江南春』において、江南の風景や風物の繊細さをゆったりと語るにいたった」(同書、二三四ページ参照〔一部表記を改めた〕)と指摘している。ならば、出 処のわからない「「ツクネイモ山水」=大岡の言葉」は青木が典拠か。

■64行めの「「冷えすぎたハム」」について高橋は「出典未詳」(176)と書いているが、この鉤括弧で括られた詩句の背景には拙編《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》の1979 年「十月、青木画廊で〈ボナ・ド・マンディアルグ展〉を観る」があるに違いない。いま、日にちが特定できないのだが(初日ではなかった)同年10月、私は 銀座・青木画廊で〈ボナ・ド・マンディアルグ展〉(開催期間は10月3日の水曜から20日の土曜まで)を観ている。そのとき画廊の芳名帖に吉岡実の署名が あるのを見た(吉岡はオープニングの日に足を運んだのかもしれない)。63行めの「頭部は巻貝のような人たちだ」はボナの作品を踏まえている。ボナの夫君 アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグは《ボナ わが愛と絵画〔叢書創造の小径〕》(新潮社、1976年9月10日)の巻末近くでボナの「頭部は巻貝のような人たち」の作品についてこう書いている。 「〔『牝狼』の〕牝の人狼は身寵っており、その恐しい狩猟は、妊娠後ボナによって描かれた数多くの女=かたつむりに彼女を似させる腹のふくらみをさらに強 調しており、女性の腹から子供がとび出すように、かたつむりの角の生えた頭が螺旋からとび出したり、或いは男性の腹の下から男性器が突き出るように突き出 していたりする、古代アステカ人のものといっても通用しそうな描写」(生田耕作訳、同書、一〇五〜一〇八ページ)。

〈ボナ・ド・マンディアルグ展〉(青木画廊、1979年10月3日〜20日)カタログの表紙 〈ボナ・ド・マンディアルグ展〉(青木画廊、1979年10月3日〜20日)カタログの裏表紙
〈ボナ・ド・マンディアルグ展〉(青木画廊、1979年10月3日〜20日)カタログの表紙(左)と同・裏表紙(右)

手許に《ボナ――BONA》と題した同展のカタログがあるので、概要を記す。仕上がり232×186mmの巻三つ 折り(6ページもの)で、横組。表紙の図版のみカラー、ほかはスミ刷り。隠しノンブルなので、仮に表紙から順を追ってノンブルを振る。
 (表紙)カラー図版1点(題名不明)
 (p.2)澁澤龍彦〈SPIRA MIRABILIS DE BONA〉
 (p.3)モノクロ図版1点(題名不明)
 (p.4)アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ〔竹本忠雄訳〕〈ボナ――そのエロチック・デッサンの牧歌的不思議〉/出品目録(油彩4点、色鉛筆 10点、版画17点)
 (p.5)モノクロ図版9点
 (裏表紙)ボナ・ド・マンディアルグ略歴/肖像写真(Photo by Irina Ionesco 1975 Paris)/青木画廊の住所・電話番号

澁 澤龍彦の〈SPIRA MIRABILIS DE BONA〉は「ボナの絵のなかに、羊の角のような、三半規管のような、くるくると巻いたカタツムリが現われるようになったのは、いつごろからだろうか。そ れほど昔のことではあるまい。ともあれ、ひとたび出現したカタツムリは、もうそれ以後、彼女の絵の世界から容易には出て行きそうもない気配であり、くるく ると巻いたカタツムリの螺旋は、どうやら彼女の世界の紋章となったかのような趣きがある。このカタツムリ、このスピラ・ミラビリス(驚くべき螺旋)を私は 愛する」と始まる。吉岡実がこの文章を読んだことは確実で、
 59    ぼくのはらからは
 60    ひたすら思考し
 61    「沈黙に聞き入る能力」
 62    をたくわえる
 63    頭部は巻貝のような人たちだ
は、大岡の「静寂を聴くことへの、ひとりの人間の深まり」を翻案した「「沈黙に聞き入る能力」」から、続く
 64    「冷えすぎたハム」
 65    この興ざめたものを嚥下す
を繋ぐ詩句として「自分の詩句を括弧にいれ」たの同等の効果を、澁澤の章句を踏まえて(鉤括弧で括らないで、改変・変形・翻案して)成したものと考えられ る。ここで
 静寂を聴く → 耳 → 三半規管 → 巻貝のような頭部
と いう連想が働いていることは疑いを容れない。さらに想像を恣にするならば、展覧会のオープニングパーティーで「冷えすぎたハム」が供されたのかもしれな い。いみじくも吉岡自身が入沢康夫との対談〈模糊とした世界へ〉(《現代詩手帖》1967年10月号)の「作品と現実とのかかわり方」の項で語っているで はないか。

吉岡  〔……〕自分で振りかえってみて、や はり一つの日録というか日記に近いものにぼくのなかではなっていますよ。西脇先生のこの頃の詩が或る日記であると同じように、ぼくも振りかえってみて、そ の時代その時代の日録に近いものになっていますね、他人から見たらわからないと思うけど。(同誌、六〇ページ)

さらに、吉岡は当の大岡にはこう語っていたではないか。

吉岡  〔……〕ぼくが詩を書く場合、頼まれ てから一カ月が最良の期間なの。一カ月のうち二十日間は遊ぶわけよ、心の一点にとめて。あとの四、五日が陣痛期。〔……〕だから締切の十日ぐらい前から、 そこらで雑誌読んだり本読んだり、ちょっと気を引くものを読む。でこんど原稿用紙に向う、それで、まあわりと一気に書いてる。だけど書いても、直さない。 というのは、あんまり考えすぎてはいけないんだ。詩は自分で考えて書くんだけれども、あるところから、神がかりというか、与えられることばが出てくる感じ がする。その最初に出てきたことばをできるだけ大切にしたい。そう思うから、自分で書き直すことをしない。それをしたら、別の考えがまたそこで入ってきて 純度がなくなってしまう。そこで、うちの奴に清書を頼み、自分を空白にして待つ。そうすると荒けずりの原初的な詩の草稿が出来上るわけよ。それに手を入れ ていく作業を続ける。それを三回ぐらい繰返して最後の三日ぐらいでひとつのものを完成させる。だからきみが言った、早くできてんじゃないかってのは、まさ にそうだ。詩は、最初の一行からあんまり考えていっては動きがとれなくなるんだ。研ぎすまされた言葉の併置だけじゃ、その詩は動き出さないと思う。つまら ない詩の行が、骨を包む肉のように挾まることが詩を柔軟にして、真のリアリティを保有させることになる。とぼくは信じている。とはいっても、まあ単純なん だよね。(吉岡実・大岡信〔対話〕〈卵形の世界から〉《ユリイカ》1973年9月号、一五五ページ)

■72〜76行めの「(言葉)/もろもろの具象を/箒やはたきをかけて/舞いあがらせる/発止!」は前出の指摘のとおりだろうが、大岡 の《岡倉天 心》の「この文章〔「網走まで」〕の最後の方に出てくる「何しろ」、この不思議な魅力をもつ一語は、志賀直哉という小説家の一種野性的な直観力の一証左と してあげられうるものだが、天心という人も、英文の文章を書きながら、自発的直観的に湧きたってくるこの種の言葉を発止と受けとめる鋭敏さと心の躍動を もっていた人のように思う」(同書、二七一ページ)も影響しているだろう。

さて、詩句の典拠をめぐる探索はひとまず終わった。残すは詩篇のあとに付された次の文言(仮に86行めとした)である。

 86              (一九七九・一○・九)

これはもちろん1979年10月9日を表すが、この日はいったなんだろうと考えるとなかなかに難しい。吉岡が草稿に大きく×印を付け て抹消した詩篇〈寒燈〉には、本文の終わったあとに
 〈二四、九、二十〉
とあり、さらに
     (雅美へ二四、十、二十送る)
と 書かれていることから、詩篇のあとの日付(昭和24年9月20日)はおそらく脱稿日と考えられる。だが、こんにち見ることのできる吉岡実詩の初出形にこそ このスタイルの脱稿日は残っているものの、詩集に収められた日付はこの〈円筒の内側〉の「(一九七九・一○・九)」だけなのだ。初出時点で〈青い柱はどこ にあるか?〉(F・6)に「一九六七・五・一五」とあったのも、〈コレラ〉(F・18)に「〈一九六九・一〇・五〉」とあったのも、〈聖あんま語彙篇〉 (G・8)に「(正月・七草)」とあったのも、〈異霊祭〉(G・19)に「1974・2・14」とあったのも、〈悪趣味な内面の秋の旅〉(G・31)に 「1975・9・22」とあったのも、詩集ではすべて省かれているというのに。そして〈円筒の内側〉よりもあとの〈哀歌〉(J・13)でも初出時点には あった「(一九八二・六・一〇 通夜の日)」が詩集で省かれていることは、軌を一にしている。これはじっくりと考えるに値する問題だが、その前に大岡信 《岡倉天心〔朝日評伝選4〕》と吉岡実の関わりへと迂回しなければならない。

……………………………………………………………………………………………………………………………………

大岡の《岡倉天心》は〈序 五浦行〉で始まる。同文は吉岡が編集を担当していた《ちくま》1975年5月の第73号に掲載された。その 経緯は吉岡の 随想〈大岡信・四つの断章〉の「3」(初出は《大岡信著作集〔第14巻〕》月報(青土社、1978年3月31日)の〈大岡信・二つの断章〉)に詳しいか ら、ここでは大岡の談話〈牧水、天心、子規、虚子について〉を引こう。

 僕はものを書く時、特に本を一冊書き下ろすのは苦しくて たまらない。期日までに調べ たりして書こうとは思うんですけれど、調べれば調べるほど、あれもこれも知らなかったということが出てくる。どんな小さなことでも無限に広がるのは当然な ことなんですが、書き出すにはそれをどこかで断ち切らなければならないわけです。心理的には過飽和状態というところまでいって、どこかで針の穴みたいなも のがあいてそこから空気がすごい勢いで吹き出すのを待ちながら耐えている。書く前に調べるというのはそういう状態を作っていることなんです。
 こ の本の場合、非常にありがたいことがありました。親しい友人のひとりである吉岡実君が、雑誌「ちくま」の編集をやっている。彼は自分がいいと思った人の文 章をゆっくりと載せていけば、必ずいい雑誌ができるという信念を持ってやっているんですが、「ちくま」はそのためにユニークな雑誌になっています。その吉 岡君が、たまには何か書かないかと言ってくれたわけです。それで、天心のことを調べるために茨城県の五浦海岸に行ってきたことでも書こうか、ということに なりました。僕としては、あわよくば、それが針の穴にならないかと思ったわけです。その原稿を見て、彼が、うん、これは面白いよ、と言ってくれた。僕も、 何とかこれで始まりそうだな、という小さな安堵がありました。そして実際に、この「ちくま」の文章を頭にもってきて、何とか事は始まったんです。
  しかし、そのあともそうすらすらは行かなくて、担当の廣田一さんは、追いこみにかかってから二ヵ月ぐらいの間、原稿を取りに僕の家へ定期便をやるような形 になりました。廣田さんとは、その時かぎりの執筆者と編集者の関係ではない親身なつきあい方でやれたから、少しは気が楽でした。
 本の構成につい ては、初めから構想を立てておいても意味がないような書き方になりまして、特に第二章の「白い狐の幻影」は、それ一章で一五〇ページにも及んでいます。書 いていていつまでたっても章が変らないので、自分でも絶望的になり、この本、書き上げられるのかどうか不安になった記憶があります。本としてはどうもバラ ンスがひどく悪い。しかし僕の場合、きちんとした構成という点からすると、いつもこういうことになるんで、いわゆる論文のようなものを書かねばならないの だったら、一生のあいだ苦労しつづけということになったんじゃないかという気がしております。(《大岡信著作集〔〔第9巻〕〕》青土社、 1978年4月30日、五二八〜五二九ページ)

《岡倉天心》の執筆・刊行の背景はここに尽くされている。では、吉岡は大岡のこの本をどう読んだのか。飯島耕一との対談に依るに如くは ない。

吉岡  最近、大岡信の『岡倉天心』、読んでね、さすがに傑作だと思った。もういち早く飯島くんは褒めてたね。ぼくはきょう読み終ったの。もう感動させる作品なん だな。大岡のだってエッセイは、そんなに読んでないのよ、わるいけど。こんどの『岡倉天心』はほんとに醇乎たる作品になってるという思いが深い。
飯島 『紀貫之』よりいいか もしらんですね。
吉岡 さて、飯島くんなら分 析的にできるんじゃないかと思うんだけど。
飯島  天心の詩「White Fox」ね、あれに打ちこんでいますね。ああいうふうに「恋愛」というものに対して大岡信は……いまや「恋愛」ということばもなくなったみたいな時代で しょう。でも、彼はそういう初心の、非常に純真な恋愛ってものに強烈に関心もってるんだな。それがあの本のいちばん根本になってるんじゃないかと思います けどね。だから今まで東洋風の革命家天心ということが流布していたけど、あの「白い狐」の詩を読んでからちょっと疑いをもったわけよね。あんなに純真な恋 愛詩を書く人が、あんな雑駁なことばで革命を語るってことはありえないと思ったんじゃないですか。そこから解きほぐしていって、天心の恋文を読み、そんな ことはあり得ないということに思い到って、一人の人間てものは、革命への情熱があると同時に、そういう純真な恋愛への情熱もあるんだという、そういう柔軟 な観点で、どうしても天心像を描きなおさなきゃいかんと思ったんじゃないですか。そういう意味であの本の一番のキイ・ポイントは、熱烈な恋愛ですね。だか ら一種の憧れであるし、ロマンチシズムですけどね。そういうものが一番根本的にあるんで、彼がシュルレアリスムに関心をもったのも、なにも人を驚かすとか ナンセンスを求めるとか、そういうものはあの人には全くないわけでしょ。シュルレアリスムに関心をもったのも、そういうひたむきな憧れみたいなね。それは 二十世紀ではシュルレアリスムに一番ロマンチンズムがありますからね。だから、彼はロマンチシズムってのは非常にあるんで、あるときは「保田與重郎論」書 いたりしたけど、あれも一種のロマンチシズムではあるしね。あっちのほうへ傾いていくと、ちょっと困るんじゃないかと思うんだけど。(笑)やっぱり、そう いうロマンチシズムってことに彼は同情がつよい人だから、保田與重郎にもちょっと魅力を感じるときもあったんでしょう、批判的に書いていても、あれだけ長 く熱心に論ずることはね。
吉岡  ぼくはきのう大岡くんと会った時、だから、いろいろ質問してみたのさ。ぼくが散文書くともうせき込んで、結論へなだれ込んでしまうんだけど、大岡のあれを 読むとき、傍道への入り方が、実に巧妙なのね。あらゆるところで、傍道へ導入してゆくんだが、その時に使うことばがひとつひとつ違ってんのね。これは恐る べきこと。そういうとこが細心なのね。すーっと書いちゃって急にまた過去の時代を入れたりね。そういうことを感じながら読んでったら、案に巧緻にできてる わけ。彼の天心の体験期間というのは長いんだが、しかし実際に書きだして二ヵ月足らずで書上げちゃったのね。おそらく原稿を推敲に推敲したろうということ を、ぼくは聞いたら、大岡はぜんぜんしないというんだ。
飯島 推敲なんかしないだろ う。したら、ああはいかない。かっととりのぼせて書いている。
吉岡 しないで、それでしか も首尾一貫して、ああいう完成度の高いものができたとは、一寸驚異……。たしかに大岡はあれを一種の詩として書いてるわけだ。あるエネルギーと醒めた狂気 で。だからそういう点で、醇乎たるエッセイができている。
飯島 そうですね。あれはい いものだ。ぼくはずっとここ数年の彼のものを見てて、まああんまり感心もしないし、ちょっと困ると思うものもあったけど、(笑)『天心』は感心した。書き 上げたときは大分昂奮していたな。
吉岡 だから、そういう点、 非常に嬉しかったしね。
飯島  なにしろ、ああいうふうにつき合いのいい人だから、あっちこっちでサービスばっかりしてるけれど、『天心』論は本気になった、寝食忘れてやったんだな。だ から適当に書いて推敲したなんていうもんじゃなくて、のめり込んで書いてる。そういうときはいいんだな。ロマンチシズム型だからね。『天心』は自分でも一 応満足してるんじゃないかな。もう実に古風な精神だけどね、あそこで言われてることは。でも、ああいうのは、ぼくらにはピンとくるな。実に、まさに現代風 じゃないことばっかりだけれどね。細部に分け入るっていうのも、そういうふうに一人の人間てものを、これは革命家とか、これはなんとかっていうふうに分け ないで、正確に書きたいと思うことが、彼には強くあるんだな。
吉岡  大岡のあればかしじゃなくて、まあ評伝的なものは、著者の研究調査も必要だろうが、引用の文学といっちゃ極論なんだけど、それに近いものではないかな。ぼ くは「引用」っていうことに、いまとても関心があるんですよ。評論というものの多くは引用の巧緻な、組立て方と、切り取り方で成立っているだろう。『天 心』読んでて、ほんとにそういうことを考えた。(吉岡実・飯島耕一〔対話〕〈詩的青春の光芒〉、《ユリイカ》1975年12月臨時増刊号〈作品総特集 現代詩の実験 1975〉、二一八〜二二一ページ)

吉岡の発言でとりわけ重要なのは、最後の「ぼくは「引用」っていうことに、いまとても関心があるんですよ。評論というものの多くは引用 の巧緻な、組 立て方と、切り取り方で成立っているだろう。『天心』読んでて、ほんとにそういうことを考えた」である。そして「ぼくが散文書くともうせき込んで、結論へ なだれ込んでしまうんだけど、大岡のあれを読むとき、傍道への入り方が、実に巧妙なのね。あらゆるところで、傍道へ導入してゆくんだが、その時に使うこと ばがひとつひとつ違ってんのね。これは恐るべきこと。そういうとこが細心なのね」もゆるがせにできない。これを、先に引いた吉岡の作詩法「詩は、最初の一 行からあんまり考えていっては動きがとれなくなるんだ。研ぎすまされた言葉の併置だけじゃ、その詩は動き出さないと思う。つまらない詩の行が、骨を包む肉 のように挾まることが詩を柔軟にして、真のリアリティを保有させることになる」と照らしあわせてみると、詩篇〈円筒の内側〉の書法こそ、大岡の《岡倉天 心》の悠揚迫らざる書きぶり(とりわけその〈二 白い狐の幻影〉)に学んだものだとはいえないだろうか。そのとき吉岡を鼓舞したのは

 天心がガードナー夫人から依嘱されて物語を構想したとき に、ありうべきさまざまな物 語の中から、わざわざ信太妻伝説を選んだということの意味を軽々しく見るべきではない。詩人というものは、彼が真にその名に値する詩人であるなら、必ずや こういう持続的に保たれつづける内密の主題を持っているものであって、だれかが見つけ出さないかぎり、それはいつまでも人眼につかないところでまどろんで いるのである。(同書、二二二〜二二三ページ)

という、詩に寄せる大岡の確信であったに違いない。こうして吉岡は、もしかするとこれが最後の詩集になるかもしれないという予感に包ま れながら(先 に指摘した脱稿日の記載はここに帰着する)、大岡信に捧げた詩篇〈円筒の内側〉で自身の「引用詩集」すなわち《夏の宴》を締めくくったのである。大岡が書 いているように、《The White Fox(白狐)》は天心が創作した英文による三幕オペラで、イザベラ・ガードナー夫人に捧げられたが、そこに象嵌されているインドの閨秀詩人プリヤムヴィ ダ・デーヴィ・パネルジー作の詩句を大岡訳で引く。

 言葉は思想の寡婦[やもめ]でしかない
 黒と白の、なんという冷い服で装われて!
 私の歌はかよわい堤防
 たけりたつ恋の潮を一瞬なりと
 せきとめようとしてなす術[すべ]もなく。
 わがひとよ、私にはあなたを捉[とら]える術がない
 あなたを縛る術がない、言葉によっても韻によっても。
 わがひとよ、あなたを捉える術がない
 私には術がない、こんなにもあなたを私の歌に編んで、私のものと呼びたいのに。(《岡倉天心》、一〇七〜一〇八ページ)

こ の箇所こそ《白狐》の紋中紋ともいうべき本篇の中心的主題である(大岡は一四九〜一五〇ページでもこの天心=パネルジーの詩句を、今度はもとの英文ととも にもう一度挙げている)。天心における《The White Fox》は大岡が最も力を入れて書いている処なので同書について見るに如くはないが、吉岡がここから得たのは先行する詩句を自作の詩篇に引用することの目 眩く効用だったのではないだろうか。これまで見てきたことからもわかるように、吉岡は引用詩篇において基本的に他の詩人の散文から章句を引くことはあって も、詩句をそのまま引くことを忌避してきた。それゆえ、大岡が指摘したパネルジーの詩句の天心オペラへの転生に衝撃を受けたのではあるまいか。私にはそう 思えてならない。高橋英夫は《花から花へ――引用の神話引用の現在》(新潮社、1997年6月25日)の最終章〈無限神話の現在へ――引用と言葉[ミユト ス]〉で入沢康夫と大岡信の二人を「引用詩人[ポエタ・キータンス]poeta citans」と呼んだ。

 とはいえ二人の詩の相違も少くない。『潜戸から・潜戸へ』でも明瞭であるが、大岡信は「他者」をつねに導入し、 「他者」をたえ ず貫通しようとするような引用の「極端」な拡充者だからである。大岡信の引用は、他人の詩句や文章を切り取ってはめこむコラージュの意味での引用ではない (もちろん、それも多いのではあるが)。個体である作者の単独独創権、個人所有権のような観念を能うかぎり稀薄化した言語世界をまず劃定し、その世界の中 に、他のもろもろの形態や機能と組み合されながら引用もまた出現してくる、これが大岡信にとっての引用である。(同書、二九八ページ)

吉岡実の引用は基本的に「他人の詩句や文章を切り取ってはめこむコラージュの意味での引用」である。言い換えれば、吉岡の引用の手法 は、山城喜憲の 言を借りるなら「浩瀚な著作の中から、精髄となる要文を抽出した」「表章本」(慶應義塾大学附属研究所斯道文庫編《図説書誌学――古典籍を学ぶ》勉誠出 版、2010年12月24日、一二〇ページ)をつくる行為に相当する。このとき、大岡の引用はそれとは大きく隔たる。実例として、大岡が《現代詩手帖》 1980年10月の吉岡実特集号に寄せた詩篇〈秋から春へ・贋作吉岡実習作展〉に如くものはない。〈静物〉〈伝説〉〈水のもりあがり〉〈讃歌〉という、吉 岡実詩の標題をそのまま拉し来った4篇である。最も長い〈讃歌〉を掲げる。

讃歌|大岡信

プクプク鳥を寝床に引き入れて
詩を孵す
キンカクシに金冠をかぶせて
老人になる
犯罪性は必ずしも
明瞭でない
したがつて
危険人物

明瞭な生物の特性とは
腋の下に毛がある
程度のことではない
比喩として許すのみ

「肉 言葉
それについて語るのはむずかしい」

「わが馬ルスィコン」のギャロップは
まるまるとした理想の尻のロコモーション
「それについて語るのはむずかしい」

春は曙
牛乳屋さんの立話
朝刊をはやくも垣根で
立読みしたな
私は神秘的に高い処にある
便所の窓から
国見をしてゐるのだ
脱糞の快さに
隅田川の万柔の雲が
また思はれるよ

プクプク鳥は
ハツラツと今日も
草上の露の命をついばむ
そのほそいほそい
愚かにも聖なるランニング姿
その顔や足や性器を包む
光輝ある丈夫な皮袋

プクプク鳥をつれた
内面的な悪趣味の旅は孤独だ
オートバイを駆つて
煌々と一個の月へ向つてゆく
一個の大海の卵だ

ここには引かなかったが、〈水のもりあがり〉に二度登場する「「ぼくは画家だから」」は〈裸婦〉(D・7)からの逐語的引用。上に引い た〈讃歌〉の「 」(鉤括弧)のある詩句のうち、

 「肉 言葉
 それについて語るのはむずかしい」

は〈葉〉(G・4)からの逐語的引用。「「わが馬ルスィコン」」は〈わが馬ニコルスの思い出〉(F・16)の改変で、吉岡が〈幻場〉 (H・13)の 「スンレオロ街まできて」で行ったのと同じ手法(高橋睦郎は「スンレオロはロオレンスの逆。あるいはフロオレンスの逆でフが落ちたか」(140)と〈鑑 賞〉で指摘している)によるものだろう。大岡に吉岡が乗りうつったかの感がある詩句である。

 古典詩歌の読解、鑑賞の仕事の拡充が、いつしか改作や模作や擬作、一口にいってパロディを包含するに至ったのだ が、それらは枚 挙に遑がない。一篇のすべてが古典からの採取、つまり花集め[アントロギア]であるような作もある。〔……〕これらの系列の延長上に、大岡信の博大な読書 と思索に発した「読書詩」(仮に、私がそう呼ぶ)があり、実はそれにもまして『紀貫之』『詩人・菅原道真』『岡倉天心』などの評伝および作家・作品論、詩 歌原論『うたげと孤心』、いくつもの連句集、海外詩人との連詩集があって、これらすべてのジャンルが大岡信において「他者」というトポスヘの接近ないし 「他者」召喚の舞台となり、引用的世界の変幻見定めがたい諸相への普遍的対応となっている、と指摘しなければならない。(《花から花へ》、三〇三ページ)

高橋英夫は大岡が「他者」と出会った最高の状態の一例として《岡倉天心》の〈あとがき〉を引く。その引用が、吉岡が随想〈大岡信・四つ の断章〉で引 いた箇所と重なるのだ(もっとも高橋と吉岡の引用で重なるのは「書き出してから、〔……〕ある瞬間ふとうまく噛み合ったと感じることである。」の部分で、 前後は少しく異なる)。〈円筒の内側〉の題辞で吉岡が谷川俊太郎と向きあったように、《岡倉天心》の〈あとがき〉で吉岡が高橋英夫と向きあう。象徴的な光 景である。

吉岡に「*「現代詩手帖」二十五周年記念号に是非とも作品を寄せよ、との小田久郎氏の要請をこばみがたく、十余年前の自動記述的な草稿 に、若干の手 を加え、『薬玉』の詩篇と同じ形態をととのえ、ここに発表する。    五月九日」と詩篇後の註記にある〈白狐〉がある。初出形は《吉岡実全詩集》に収められているから(初出は《現代詩手帖》1984年6月号)、「十余年前の 自動記述的な草稿」――ということは《神秘的な時代の詩》の末期か《サフラン摘み》の初期に相当するが、作風からすれば前者だろう――に近づけるべく、詩 句の字下げをキャンセルして追い込みで掲げる。

白狐(未刊詩篇・16)

いなりの屋根を降りる/われらは無を漂っては いない/血のかわりに言葉を発する/金屑がとぶ/バンソウコウをすべての/抽象物に貼る/何の目的で人は生きるか/バラ色の水にうかぶネズミの死骸へ問え /喩の叙述を替える/ザクロの外側では/老人から子供までの笑い声/蚊帳を吊った川の洲へ/われらは渡る/穀物を刈るために/もしくは/領巾ふす蛇の魂を しずめに/燈火をかかげた/頭上へ絵画の枠をつくる/鋸に挽かれる十本の杉/死ぬ時に書く十行の詩/足をそろえて冷たい母/白狐/それは呼ばれた/ムシロ のざらざらした世界へ/思った思おうとした/あまさかさまの日々/将棋盤の上で/美しい相のやまとは昏れよ/のどかに/蜂をリンネルで/包む学者を見たこ とがある/われら人生派は今も/自然を過して/意味をつくる/商人は好きな葛湯をすすり/夏の午後は入浴す/見えるさわれる/開かれる事物はどこへ/こん かい/コン・クワイ/われらの奏でる嬉遊曲/姉妹を水門の上に立たせる

「十余年前の自動記述的な草稿に、若干の手を加え」た箇所がどこなのかわからない。だが、本篇が〈白狐〉=〈狐会[こんかい]〉とい う、伝説上の狐 「葛の葉」を主人公とする地歌や人形浄瑠璃・歌舞伎を踏まえていることは明らかだ。《土方巽頌》(筑摩書房、1987年9月30日)の1973年1月18 日の日記に「夜、九時ごろ、突然に土方巽は金柑を一袋持ち、種村季弘は苺一函をみやげに現われる。〔……〕「二十七晩」の舞台のこと、文学一般のことな ど。またテレビで観たばかりの能狂言「釣狐」のすごさが話題に上る」(同書、六二ページ)とあるから、狐に対する関心はこのころすでにあったものと思われ る。吉岡の狐に寄せる想いは〈狐〉(H・ 15、初出は《文學界》1978年1月号〈扉の詩〉)に籠められている。ちなみに狂言〈釣狐〉の鷺流での名称は「吼噦[こんかい]」だという(「狐会」は 宛て字)。吉岡が大岡の《岡倉天心》を通じて《白狐》を知ったのが1975年だとすれば、詩篇〈白狐〉の自動記述的な草稿はそれ以前、草稿に「若干の手を 加え、『薬玉』の詩篇と同じ形態をととのえ、ここに発表」したのが1984年。吉岡は〈西脇順三郎アラベスク 6 冴子夫人の通夜〉(初出は1975年6 月)に「しのだ寿司」《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二三五ページ)と記している。これは西日本の年配者が用いることのある呼称だ というから(関東ではふつう全国的な「稲荷寿司」を用いる)、当時の吉岡の脳裡に白狐/葛の葉/信太・信田のモチーフが潜在していたとも考えられる。〈白 狐〉は引用詩の一種には違いないが、「 」(鉤括弧)を用いていない。その意味で大岡の〈秋から春へ・贋作吉岡実習作展〉に倣ったものといえる。吉岡実は 大岡信とともにここで嬉遊曲を奏でているのだ。

大岡信は吉岡実の引用詩に関して、その歿後早くから違和を唱えていた。

大岡  「 」(鍵括弧)に関しては引用しているという体裁であることは確かで、しかもその引用が必ずしも正確に原文のままかというと必ずしもそうじゃないんです ね。それは作為が入った引用なんです。ぼくが『夏の宴』の「円筒の内側」という作品を〔吉岡実の代表詩に〕選んだのは、ぼくの詩[ママ]が引用されてい て、だから意味がよく分かったからなんですが、やはり正確には引用してないんですね。半分くらいしか正確ではない。でもその引用はよく分かったんですが、 他の人のものからの引用はどういうコンセプトで引用したのかよく分からない。それが読者としてはちょっと辛いなと思うんですね。
〔……〕
大岡  彼の書き方は、この作品の主題はこうだということを、読者からすれば捉えにくいやり方で詩を成熟させてきたでしょう。だけど晩年〔の『薬玉』『ムーンド ロップ』〕になると、さっき話題に出たように古代神話的なものと自分の家族の姿が多く出てくる。それらが全体として不思議な形に織り合わされて布を作って いったでしょう。そこでは明らかな主題があるんですよ。〔……〕日本の家族ですね。薄暗いしめっぽい家族の共同性というものがあって、それと古代社会の神 話的なイメージを結びつけることによって、彼なりの現代日本の見取図を書きたいということがあったと思う。それは主題性という意味では、それまで彼があま りはっきり出さなかったものを強烈に押し出したという気がしているんですね。ところがもう一方では、括弧が見えにくく防壁を作っていて、それでイライラす ることがあるんですね。吉岡、もうちょっとはっきり言えよってね。そこのところが晩年の詩集の大きな謎ですね。(大岡信・入沢康夫・天沢退二郎・平出隆 〔討議〕〈自己侵犯と変容を重ねた芸術家魂――『昏睡季節』から『ムーンドロップ』まで〉、《現代詩読本――特装版 吉岡実》思潮社、1991、四六ページ)

〔……〕彼の引用(あるいは引用をよそおった)詩は、若い追随者を生み出した割には私にはよく わからないものが多く、評判が良ければ良いだけ、彼自身は悩んでいるだろうと思うことが多いのだった。しかしこれは話題にするにはデリケートすぎる点も あった。一回り年下の人間の、吉岡に対する友情の限界が、そのような一種の遠慮にあらわれていたのかもしれない。(〈吉岡実を送ることば――後日の註〉、 詩集《捧げるうた 50篇》花神社、1999年6月30日、二三二ページ)

大岡は吉岡詩の引用がどういうコンセプトで成されたかわからないと難じたが、むしろ引用句のコンテクストが読めないことを指摘すべき だった。大岡が 〈円筒の内側〉を理解したように、おそらく金子國義は〈夢のアステリスク〉(H・22)を、宮川淳は〈織物の三つの端布〉(H・16)を(ただしこの追悼 詩を宮川が読むことはなかったが)理解しえただろう。大岡は〈死んだ宮川淳を呼びだす独りごと〉(詩集《光のとりで》花神社、1997)で、吉岡の追悼詩 と同様、題辞に宮川の文(阿部良雄宛書簡)――「それに、ぼくは/自分が美術史などというものに/興味を失っているのをいよいよ/感じている」――を引き ながら、吉岡とはまったく異なる筆法で宮川を偲んでいる。それは宮川の題辞を受けた「それなら何に きみは興味があつたといふのか/宮川淳よ」という呼び かけに始まり、末尾近くにこうある。

きみは「深さ」や
「奥行き」や
「意味」の力に
感じやすい人だつたから
「表面」を
あれほど鋭く見渡すことができたのだ

これと吉岡の〈織物の三つの端布〉の

ここではひとは真に見てはいない
表面[、、]
表面的[、、、]
表面化[、、、]する
それらの日常品は
私にはそれぞれの実体の
似姿に思われる

と較べると――引用符はないが、出典は《紙片と眼差とのあいだに》に収められた〈ルネ・マグリットの余白に〉の「《表面》について考え ながら、たと えば表面とそのさまざまな派生的な表現について、表面[、、]、表面的[、、、]、表面化[、、、]する……。」(阿部良雄・清水徹・種村季弘・豊崎光 一・中原佑介編《宮川淳著作集〔第T巻〕》美術出版社、1980年5月1日、二一三ページ)である――、大岡の不満の理由がよくわかる。吉岡の引用は原文 のコンテクストを把握しなければ理解不能ということはないが、コンテクストを把握することが詩篇の理解を増大させる。同様のことは《万葉集》から柿本人麻 呂「朝影にわが身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去[い]にし子故に」の一部「朝影にわが身はなりぬ」を自作の詩〈朝・卓上静物図譜〉引いた大岡にも当て はまる。だが、大岡がそれに触れて谷川俊太郎に「「朝影にわが身はなりぬ」に由来があると読みとってもらわなくても、それだけで或る種のイメージは浮ぶの じゃないか、それでいいという判断でやっているわけ。しかしひょっとして、何かあると思って調べてくれれば、それはそれで一層いい」(対話《批評の生理》 思潮社、1978年7月15日、117ページ)と語るように、古典文学の全集や古語辞典から探索が可能だという点において、大岡の引用は吉岡のそれに較べ て開かれている。両者のこの差は大きい。大岡の追悼詩の場合においても、原文に溯って文脈を読解するまでもなく、詩句は了解可能だ。むろん大岡と宮川、吉 岡と宮川の個人的関係の深浅もあるだろうが、宮川淳という人物と彼の書きのこした文章を回想するコンセプトこそ同一でありながら、引用に対する大岡と吉岡 のアプローチが別のものであったことの証左である。――一方、大岡の〈金子國義のための少女三態〉(詩集《火の遺言》花神社、1994)が吉岡の〈夢のア ステリスク〉に近く見えるのは、金子の描く少女像に触発された詩篇創作の回路が吉岡のそれと同様だったためだろう。だが、ここでも「 」内の少女の台詞は 完全に大岡のものになっていて(おそらく金子からの引用ではない)、吉岡詩の「 」内の詩句があくまでも他者の章句である(と装っている)のとは別の次元 にある――。大岡が宮川淳の書簡に応えるようにして116行の詩の本文を書いたのに対して、吉岡の引いた章句は、題辞の「イマージュはたえず事物へ/しか しまた同時に/意味へ向おうとする」以下、宮川の総体を表す(と吉岡が判断した)ものだったから、その出典は《宮川淳著作集》の処処方方にわたり、コンテ クストを剥奪された章句が詩句としてわかりにくいものになることは避けがたい。大岡信のモノローグ=総合・求心的に対し、吉岡実のダイローグ=断片・遠心 的作詩法と言うべきか。

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ここでようやく、初出詩篇の本文のあとに置かれ、定稿の詩集でもそのまま残された1979年10月9日という日付(「86 (一九七九・一○・九)」)の意味に立ちかえることにしたい。吉岡実は自筆の〈年譜〉(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984)の「昭和五十五 年 一九八〇年    六十一歳」の条に「大雨の日、虎の門病院で診察を受ける。悪質の病気ではなく安堵する」と書いている。この件に関して随想ではいっさい触れていないが、そ のまえに体調に異変でもきたしたのだろうか。

昭和五十三年  一九七八年& nbsp;   五十九歳
春、 詩「雷雨の姿を見よ」を『海』五月号へ発表。七月十二日、筑摩書房倒産。友人知己から見舞の電話殺到する。残務整理に没頭。在職二十八年、十一月十五日、 退社。『エピステーメー』宮川淳追悼号へ詩「織物の三つの端布」を発表。竹西寛子から、冬至梅の鉢を貰う。十二月二十五日、給料なき給料日。淋しい師走。

昭和五十四年  一九七九年    六十歳
新 春、五反田の職業安定所の失業保険の説明会へ出る。国立小劇場の文楽「ひらかな盛衰記」お筆笹引の段に感動する。詩「金柑譚」を『海』五月号へ発表。還暦 を迎える。飯島家で祝いの小宴、大岡信・かね子夫妻、岡田隆彦・史乃夫妻、それと耕一・奈美子夫妻。戯れ書きを交換する。晩春、東京国立近代美術館の岸田 劉生展を観る。夏、瀧口修造急逝、美しい死顔よ。青山の梨洞より、李朝石仏を迎え、部屋に安置する。和田一族と妻と北海道の国縫まで墓参り旅行。盛夏、宗 左近の家に招かれる。粟津則雄、柴田道子(初対面)ほか数人。貴重な骨董品を見ながら、香夫人の手料理のもてなしを受ける。秋、歯治療のため雪下歯科へ通 院はじまる。芳恵、昭の三周忌を、古河宗願寺で営む。詩集『夏の宴』を青土社より刊行。冬、瀧口家を訪れ、遺骨へバラの花、チョコレート、『夏の宴』を供 える。綾子夫人からオリーブの実をいただく。

こうして前前年と前年の年譜の記載を読むと、勤務先の倒産そして退職、還暦、瀧口修造の死去、詩集《夏の宴》の出版と身辺は慌ただし い。そして、こ の1980年には拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》と随想集《「死児」という絵》を相次いで刊行している。まるでなにかにせきたてられるかのように。それ がすべて体調の異変によるものではないにしろ、詩人としての総まとめにかかっている印象は拭いがたい。その中心に位置するのはいうまでもなく《夏の宴》で ある。私には、これが最後の詩集になるかもしれないと吉岡が考えていたように思えてならない。ひとつには書名のもとになった詩篇〈夏の宴〉を捧げた西脇順 三郎の装画で本書を飾っていること。もうひとつが、これまで述べてきた巻末の詩篇〈円筒の内側〉を、詩集刊行から逆算すれば書きおろしのようにして大岡信 に捧げていること――吉岡や大岡の詩的局面と関わるものではないが、1979年8月、大岡は日本現代詩人会の会長(任期2年)に選ばれている――、であ る。それが先輩や友人に対する吉岡の挨拶だった。


吉岡実の引用詩(1)――高橋睦郎〈鑑賞〉(2016年11月30日)

吉岡実の選詩集として一冊の書籍の形をとっているのは、次の5タイトルである。

 1=吉 岡實詩集 《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959年8月10日)――《液体》《静物》《僧侶》〈未刊詩篇〉の計54篇
 2=吉岡実詩集 《吉岡実 詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968年9月1日)――《静物》《僧侶》《紡錘形》《静かな家》〈未刊詩篇から〉《魚藍》〈拾遺詩篇から〉《液体》 の計72篇
 3=新選吉岡実詩集 《新 選吉岡実詩集〔新選現代詩文庫110〕》(思潮社、1978年6月15日)――《静物》《僧侶》《紡錘形》《静かな家》《神秘的な時代の詩》《サフラン摘 み》〈未刊詩篇から〉の計53篇
 4=吉岡実 《吉岡実〔現 代の詩人1〕》(中央公論社、1984年1月20日)――《静物》《僧侶》《紡錘形》《静かな家》《神秘的な時代の詩》《サフラン摘み》《夏の宴》の計 45篇
 5=続・吉岡実詩集  《続・吉岡実詩集〔現代詩文庫129〕》(思潮社、1995年6月10日)――《静物》《僧侶》《紡錘形》《静かな家》《神秘的な時代の詩》《サフラン摘 み》《夏の宴》の計60篇

このうち《続・ 吉岡実詩集》は《新選吉岡 実詩集》の増補改訂版で、現在までのところ30年以上前に刊行された《吉 岡実》とともに、最も射程の長い選詩集といえる。なお《静物》《僧侶》《紡錘形》《静かな家》《神秘的な時代の詩》の各詩篇は、および(す なわち)に分割してその全 篇が収められている。《吉 岡實詩集》は「編集解説篠田一士」を 謳っているが、編者が明記されていない他の4タイトルには著者である吉岡の意向がなんらかの形で反映していると考えられる。これらのなかで吉岡の自作自解 が含まれるのは、《吉岡実 詩集》の詩論〈わたしの作詩法?〉(〈苦力〉に言及)との 自作についての〈三つの想い出の詩〉(〈沼・秋の絵〉〈静かな家〉〈青い柱はどこにあるか?〉に言及)にすぎない。では、本文に掲げたすべての吉岡実詩に対し て高橋睦郎の〈鑑賞〉が副えられており、高橋は執筆に当たって吉岡本人に取材して自作自解とは別のアプローチでその詩の謎に迫っている。他の選詩集には見 られないこの〈鑑賞〉を中心に、吉岡実の引用詩を考察したい。

高橋睦郎の《友達の作り方――高橋睦郎のFriends Index》(マガジンハウス、1993年9月22日)は総勢77人の友達の巻から成るが、高橋はそこで吉岡実との出会いを次のように書いている(吉岡 は、澁澤龍彦、土方巽、細江英公、吉野史門、永田耕衣、加藤郁乎、西脇順三郎、安東次男、山本健吉、樋口良澄、長谷川郁夫の巻にも登場する)。

 吉岡さんとは一九六六年に知り、以後四半世紀にわたって親しくさせてもらったが、そのきっかけは横尾忠則だった。 たしか入沢康 夫さんの受賞パーティーの流れだった、と思う。たまたまぼくの前に腰掛けた吉岡さんは、特徴のある大きな目でぼくを見るなり、高橋睦郎君だろう、横尾忠則 の装幀で憶えていたからすぐわかったよ、といった。(〈吉岡実の巻〉、同書、一二〇ページ)

高橋睦郎詩集《眠りと犯しと落下と》(草月アートセンター、1965)〔跋:三島由紀夫、装丁:横尾忠則、写真:沢渡朔〕の表紙と中面 出典:《横尾忠則全装幀集 1957-2012》(パイインターナショナル、2013年6月9日、一六ページ)
高橋睦郎詩集《眠りと犯しと落下と》(草月アートセンター、1965)〔跋:三島由紀夫、装丁:横尾忠則、写真:沢渡朔〕の表 紙と中面
出典:《横尾忠則全装幀集 1957-2012》(パイ インターナショナル、2013年6月9日、一六ページ)

この「入沢康夫さんの受賞パーティー」は詩集《季節についての試論》(1966)で受賞した第16回H氏賞だろう(吉岡は《僧侶》で第 9回の同賞を 受賞)。一方、吉岡は《詩と批評》1966年10月号の〈アンケート〉の「3 私がこのごろ好きな詩人(古今東西を問わない)」という問に「白石かずこ  高橋睦郎」と回答している。また、翌1967年の《現代詩手帖》12月号でその年の問題作は何かと問われて、「〔……〕連祷千行の長篇詩―高橋睦郎《讃 歌》(改題して「頌」)。白石かずこ《My Tokyo》。〔……〕入沢康夫《『マルピギー氏の館』のための素描》。しかし一番印象にのこるのは、飯島耕一の連作詩《見えるもの》。それにつづく、近 作《私有制にかんするエスキス》であろう」(〈飯島耕一「見えるもの」・他〉、同誌、六四ページ)と答えている。もって高橋に寄せる期待の大きさを見るべ きである。さらに1968年9月刊行の《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》は、高橋睦郎による詩人論〈吉岡実氏に76の質問〉を飯島耕一の作品論〈吉岡実の 詩〉とともに掲載するに至る。その高橋が吉岡実詩に正面から取りくんだのが、選詩集《吉岡実〔現代の詩人1〕》の〈鑑賞〉である。前者の詩人論は吉岡に とっても重要なもので、《吉岡実》に書きおろした〈年譜〉の「昭和四十三年 一九六八年    四十九歳」の条に「夏、〔……〕資生堂パーラーで、高橋睦郎のインタヴューを受ける(「吉岡実氏に76の質問」)」と書いている。当時のインタヴュー取材 の相手として、高橋睦郎こそ最適の訊き役だったのである。高橋にとってもこの作業は大きな意味をもっていた。――「ぼくが吉岡さんの仕事に真剣に対峙した のは二回。六八年夏、思潮社刊現代詩文庫14『吉岡実詩集』のために『吉岡実氏に76の質問』を有楽町の鳥料理店でおこなった時と、八三年やはり夏、中央 公論社刊現代の詩人1『吉岡実』の作品鑑賞のため、数度にわたってお宅で膝突き合わせて一篇一篇の成り立ちにつき細かく質問した時だ。六八年はまだ女時の 自覚がさほど深刻でなく、八三年は女時を脱していたから、まずすっきり行った、と思う。/ことに後のほうは、ぼくに女時を脱したばかりの高揚感があったか ら、作業は大変ではあったが、そのぶん充実して愉しかった。吉岡さんも作業終了後、「こんな疲れること相手が睦ちゃんじゃなきゃしないね」といったが、出 来上がりはそれなりに気に入ってくれたのではなかったろうか」(〈吉岡実の巻〉、前掲書、一二三ページ)。

《吉岡実〔現代の詩人1〕》は全12巻から成る戦後詩人の叢書の第1巻。同叢書に吉岡や清岡卓行、飯島耕一、大岡信といった《鰐》の同 人、鮎川信 夫、田村隆一、黒田三郎といった《荒地》の同人、川崎洋、谷川俊太郎といった《櫂》の同人、石垣りん、茨木のり子、吉原幸子といった女流詩人(以上は便宜 的な区分であり、厳密なそれではない)を揃えたのは、全巻編集の大岡信と谷川俊太郎である。中央公論社は、本叢書に先駆けて同じ判型でやはり鑑賞を色刷り にした〔日本の詩歌〕全30巻・別巻1(1967〜1970)を刊行している。余談だが、その第20巻は中野重治・小野十三郎・高橋新吉・山之口貘の四人 集で、飯島耕一が鑑賞を書いている高橋新吉集の本文は94ページ分である(〔現代の詩人〕は一人で1巻)。吉岡は追悼文〈ダガバジジンギヂさん、さような ら〉(《ユリイカ》1987年7月号〈追悼高橋新吉〉)で次のように書いている。

 さて、高橋新吉さんはなぜか、自分のシンパ的な者に対しても、癇にさわると容赦なく痛罵をあびせるので、私はいつ もはらはらし どうしでした。或る日、ラドリオに呼び出されて、「今度会ったら、飯島耕一の奴をぶん殴ってやる」と、唐突に言われて、驚きました。その理由とは、中央公 論社『日本の詩歌』の解説のなかで、飯島耕一がタブーの「ある事件」に触れているからなのでした。私は友人のために弁明につとめます。あなたはすでに伝説 の人ですから、何を書かれてもよいのではないでしょうか。解説を書くということは、その人と仕事を尊敬していなければ出来ないことなのですから、と。
 飯島耕一に早速伝えると、笑って応えたのでした。高橋新吉さんが度々電話をかけて来て、原稿の進み具合や、うまく書けているか、などと言うので、いささ か困惑していたようです。作者と距離をもってこそ、「作家論」は成立するゆえ、私は飯島耕一に同情したのでした。(同誌、四三ページ)

飯島耕一が触れているタブーの「ある事件」とはなんだろう。高橋自身の〈自伝〉(そこにも猛烈な挿話が記されている)からの引用でない とすれば、二 一九〜二二〇ページにかけての、あるいは二三一ページの記載を指すのだろうか。《吉岡実〔現代の詩人1〕》に戻れば、同書に収録されて、高橋睦郎〈鑑賞〉 が付された吉岡実詩は以下の7詩集から、計45篇である。

《静物》全17篇から5篇 静物(B・3)/挽歌(B・12)/雪(B・14)/寓話(B・15)/犬の肖 像(B・16)

《僧侶》全19篇から6篇 牧歌(C・7)/僧侶(C・8)/夏――Y・Wに(C・10)/苦力(C・13)/聖家族(C・14)/死児(C・19)

《紡錘形》全22篇から3篇 紡錘形T(D・4)/紡錘形U(D・5)/田舎(D・10)

《静かな家》全16篇から1篇 聖母頌(E・6)

《神秘的な時代の詩》全18篇から4篇 立体(F・3)/聖少女(F・10)/夏の家(F・13)/三重奏(F・17)

《サフラン摘み》全31篇から14篇 サフラン摘み(G・1)/タコ(G・2)/マダム・レインの子供(G・5)/わが家の記念写真(G・9)/ ルイス・キャロルを探す方法(G・11)〔わがアリスへの接近〕/草上の晩餐(G・13)/田園(G・14)/フォーサイド家の猫(G・17)/動物 (G・20)/舵手の書(G・22)/ゾンネンシュターンの船(G・24)/示影針(グノーモン)(G・27)/カカシ(G・28)/少年(G・29)

《夏の宴》全28篇から12篇 楽園(H・1)/部屋(H・2)/晩夏(H・7)/父・あるいは夏(H・12)/幻場(H・13)/雷雨の姿を見よ(H・ 14)/織物の三つの端布(H・16)/悪趣味な春の旅(H・19)/夏の宴(H・20)/野(H・21)/謎の絵(H・26)/円筒の内側(H・28)


いずれも選詩集のに含まれる《静物》《僧侶》《紡錘形》《静 かな家》《神秘的な時代の詩》の詩篇に比して、それ以降の詩集である《サフラン摘み》《夏の宴》からの作品に手厚いことがこの選の特徴である。高橋の鑑賞 が近作の二詩集に顕著な「引用詩」に言及することの多いのもむべなるかな。

「静物」。これは詩集『静物』劈頭の同名作品四篇のうちの第三篇。他の三篇が比較的大人しいのに対して、この一篇は のちの『僧 侶』以降の吉岡実詩の複雑な構造の萌芽を含んでいるようだ。この構造が意外にわが国文学の発想――最初に提出されたイメジがつぎのイメジを産み、そのイメ ジがさらにつぎのイメジを喚起するという記紀歌謡以来の詩法と通じるところがあるかもしれないことを指摘しておこう。「つながれる」「咽喉」という細長い イメジが「かぼそい肉体」に繋がり、「かぼそい肉体」が「美しい蛇」を喚び、「蛇」が「秤とともに傾く」ヘルメースの「蛇」であることから「金の重み」 に……というふうに。作者はこの方法を弱年、短歌・俳句に親しんだ中から無意識のうちに吸収したのだろう。俳句といえば、意味としてでなく物として提出す るという俳句独自の方法こそ、一貫した吉岡実詩の方法だ。「酒のない瓶の内の/コルクにつながれる/ぼくらの咽喉」に始まり、「半分溺れたまま/ぼくらの 頭/光らぬものを繁殖する」に終わるこの一篇、渇きと飢えの時代の静物画の方法を借りた自画像、ということになろうか。

本書の冒頭詩篇〈静物〉(B・3)の〈鑑賞〉である。――この一篇はのちの『僧侶』以降の吉岡実詩の複雑な構造の萌芽を含んでいる―― この構造が意 外にわが国文学の発想=記紀歌謡以来の詩法と通じるところがある――作者はこの方法を弱年、短歌・俳句に親しんだ中から無意識のうちに吸収した――渇きと 飢えの時代の静物画の方法を借りた自画像――。これらの創見を詩句の語釈に織り交ぜていく行文は見事だ。高橋は吉岡のコメントも自身の〈鑑賞〉の素材とし て文中に溶けこませて記しているが、吉岡がかつて執筆した文章や高橋の質問に答えた(と判断される)内容を部分的に引用させてもらおう。なお、標題のあと の( )の詩篇番号と――以下は小林による補記である。

・「雪」(B・14)。卵という物体との出会いが、すなわち静物という主題との出会いだった、と作者はいう。――吉岡の昭和24年8月 1日の日記から。

・この詩的青春の中から生まれたのが『僧侶』、前詩集が静物を主題にしているのに対して、人間を主題にしているといえるかもしれない、と作者はい う。なぜ静物のあとが人間か? について、少人数集まっての『静物』の出版記念会のさい、出席者のひとりが「これからは人間を書いてください」と発言した ことがきっかけになった、と作者は述懐している。―― 吉岡実・大岡信〔対話〕〈卵形の世界から〉から。

・この作品〔「僧侶」(C・8)〕の中で成功したので、以後繰返しの使用はみずから禁じた、ついでにいえば「僧侶」という言葉、終りのパートに出てくる 「されば」という言葉も、以後の使用を自禁した、と作者はいう。〔……〕なお、「死んでいてなお病気」という表現も、作者は以後の制詞としている。

・〔「死児」(C・19)〕I=死児の提示。スタンチッチの「死児」の影響は題名のほかほとんどないと作者はいうが、冒頭に提示される「大きなよだれかけ の上」の「死児」はあきらかにスタンチッチ作品から来ている。〔……〕Z=死児の永遠の増殖。〔……〕「姉が孕み/姉が産む」からだ。このパートの最後の 六行は作者によれば伊達得夫が最も賞めたところだが、解釈の言語を拒否しているという意味でも最も詩の言語として高まっているといえるだろう。――吉岡の 随想〈「死児」という絵〉から。

・「三重奏」(F・17)。〔……〕この小説的方法に深入りしなかったが、深入りしてみるだけの価値はあった、と作者は述懐している。

・「サフラン摘み」(G・1)。『朝日新聞』夕刊文化欄の「研究ノート」、三浦一郎教授による壁画「サフラン摘み」発見の記事が発想の原点になっている。 破損が多いためサフランを摘んでいるのが少年であるか猿であるか不明という記述が作者の注意を惹き、この愛すべき一篇が産まれるきっかけになった。 〔……〕ただ、論理性といっても散文の論理ではなく、あくまでも詩の論理であり、作者が詩は謎でなければならないというその謎は、論理性のゆえにかえって くっきりと際立つという結果を獲[え]ている。

・「タコ」(G・2)。〔……〕テレヴィ ジョンで見たタコの交接・排卵の映像が契機になっていると作者はいうが、その映像のかなりプリミティヴな描写がまん中の散文形部分で、これを挟んで二つの 行分け部分があるというサンドイッチ構造が、この作品の特徴である。――吉岡の散文〈〈タコ〉自註〉から。

・「ルイス・キャロルを探す方法」(G・11)。長い方法論の旅をつづけていた作者が久しぶりの思いがけないみずみずしさで読者を驚かせ、作者が新しい境 地に入ったことを示した記念すべき作品。『現代詩手帖別冊』ルイス・キャロル特集の写真ページにキャプションでもと言われて気楽に引受けた結果がこの作品 となった。――高橋康也〈吉岡実がアリス狩りに出発するとき〉から。

・「フォーサイド家の猫」(G・17)。〔……〕作者所蔵の松井喜三男という若い画家の猫の絵が発想の核になっている、と作者はいう。〔……〕「こうばこ して大髭をうごかす猫」についてはおもしろい挿話がある。絵が届いたあとこの猫にだけ髭がないのに気づいて画家に電話すると、さっそく来て特別大きな髭を 描いた、と。

・「舵手の書」(G・22)。〔……〕この作品が献げられた瀧口修造とは土方巽や唐十郎の会、あるいは誰彼の個展会場で出会って会話する程度の付合いだっ たが、彼の周囲に集まる人人のあいだではいちばん年齢が近いということもあって、肝胆相照していたと思う、と作者はいう。〔……〕題名中の「舵手」は作者 の好きな言葉のひとつだが、詩を含む現代芸術の静かな、しかし決然たる導き手でありつづけた瀧口修造にはまことに的確な形容というべきだろう。

・「ゾンネンシュターンの船」(G・24)。〔……〕作者のゾンネンシュターンとの出会いは一九六四年銀座青木画廊の個展の時だ、という。

・「示影針(グノーモン)」(G・27)。〔……〕作者と澁澤龍彦の出会いは一九六六年発行の加藤郁乎句集『形而情学』の新橋なだ万での出版記念会のおり だった。彼が自分を評価してくれていることを知って以後急速に親しくなった、と作者はいう。〔……〕1=冒頭の引用は何からのものか不詳。作者じしんにも 記憶がない。この引用文献の記憶が不確かというのもこの作者の大きな特徴で、それだけ地の文と引用文が精妙に溶けあっているということかもしれない。―― 「作者と澁澤龍彦の出会いは一九六六年発行 の加藤郁乎句集『形而情学』の新橋なだ万での出版記念会のおりだった」は、澁澤との出会いではなく土方巽との出会いだろう。それというのも、吉岡が 1960年4月6日の日記に「渋沢龍彦夫妻とお茶をのむ」と書いているからだ(記述の調子からいっても、初対面ではなさそうだ)。

・「少年」(G・29)。〔……〕なお、引用のほとんどは矢島文夫著『ヴィーナスの神話』より。

・「部屋」(H・2)。〔……〕引用はイーズラ・パウンドその他。引用ではないが、〈楽句[フレーズ]〉という一語もパウンドにふさわしい。

・「父・あるいは夏」(H・12)。土方巽の文章というか語録というか、彼の言葉がなかったら生まれなかったろう、と作者はいう。――吉岡の弔辞〈風神の ごとく〉にも同様の主旨が書かれている。

・「幻場」(H・13)。〔……〕引用は飯島耕一、イーズラ・パウンドその他。

・「雷雨の姿を見よ」(H・14)。〔……〕飯島〔耕一〕は作者がはじめて出会った詩人であり、もしこの出会いがなかったら詩を書きつづけたかどうかわか らないという、重要な友人である。――吉岡の随想〈飯島耕一と出会う〉から。

・「織物の三つの端布」(H・16)。〔……〕作者と宮川〔淳〕の関わりは宮川の数少い著書の一冊である『引用の織物』の装釘を作者が担当し、その出来上 がりを宮川がことのほか喜んだ、という淡いものだ。〔……〕あれだけ多くの引用をしながら、身辺に書物を置かないというエピソードにも惹かれた。〔……〕 宮川淳はまったく肉体を感じさせない人、精神しかないのではないかと思われた、と作者はいう。〔……〕*引用はいわゆるコンセプチュアル・アートの原点と もいうべきマルセル・デュシャンの代表作「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁さえも」についての宮川淳の文章から。

・「夏の宴」(H・20)。〔……〕しかし、それは文章の勢いというもので、作者は現在も〈なつのうたげ〉と呼んでいるようだ。〔……〕引用の詩はほとん ど西脇の散文から。西脇の散文の奇妙な香気はその詩に劣らず作者の愛するところだ。〔……〕W=西脇順三郎の言葉で作者が最も好きなもののひとつ。した がって、ここでこれに付け加えるものは何もない、と。――吉岡の随想〈西脇順三郎アラベスク〉から。

・ 「円筒の内側」(H・28)。〔……〕大岡〔信〕は飯島とともに作者の最も古く、心を許しあった詩人仲間である。〔……〕当然のことながら作者にとっては 引用の精確度より作品の完成度のほうが問題なのである。なお、この作品に引用された出典については、とくに大岡信氏の教示を得た。作者が一篇の作品の完成 度のためにどれほど原典に沿うか、あるいはまた離れるかの例として、ここに示すのも意味のないことではあるまい。――吉岡の随想〈大岡信・四つの断章〉か ら。つぶさに掲げることはしなかったが、〈円筒の内側〉の〈鑑賞〉は大岡信に「教示を得た」だけに、《夏の宴》の引用詩篇とそのスルスに関する最も精細な 分析になっており、〈円筒の内側〉論として刮目に値する。吉岡自身、引用詩として渾身の力を込めた雄篇である。


以上の本篇に選んだ作品群と、吉岡が書きおろした自作についての〈三つの想い出の詩〉の三篇は重複しないから、そちらの三篇における吉 岡発言の興味深い箇所も見ておきたい。

・「沼・秋の絵」(D・21)は、美術雑誌で見た、シュルレアリスムの女流画家レオノール・フィニの絵を題材にしたものだ。いってみれば、言葉で 模写したようなものである。霊気の立ちこめる薄明の沼で、水浴している「わがアフロディーテー」と、解して下さってもよい。――「模写」をそのまま受け とって詩篇とフィニの〈終末〉(1949)を較べてみると、一筋縄ではゆかない。模写のための模写のようなものは、詩的想像力を発動する切っ掛けなのだ。 (「白紙状態」――吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(3)――〈立体〉)

・この詩篇〔〈静かな家〉(E・16)〕は、一種の副産物のようなものだった。「沼・秋の絵」はすでに出来、その夜は、「修正と省略」に没頭していた。深 夜一時ごろ、遂に完成した。ほっとし、茶でも淹れて貰おうと、隣りの部屋を覗くと、妻の姿が見えない。何時、何処へ行ったのだろうか。今までにないことな ので、不安にかられた。私は所在ないまま、原稿用紙に向っていた。いやむしろ心を鎮め、気をまぎらわすべく、自動記述の方法で詩を書きはじめたようなもの だった。/それから、一時間ほどして、妻が帰って来た。丁度その時、私の詩も、「女中が一人帰ってくる」の一行で、成立しているのだ。〔……〕「静かな 家」は、私の作品の中でも、短時間で成立した異例の詩篇である。――私はこのくだりを読むたびに、1965年6月14日、わずか一日でビートルズのメン バー全員による〈I've Just Seen A Face〉と〈I'm Down〉を、ポール・マッカートニー一人による〈Yesterday〉を録音したことを想い出す(作曲とリードヴォーカルはいずれもマッカートニー)。 〈Yesterday〉も作者がある朝、起きたらすでに完全な曲の形で存在していたという(歌詞はあとから旋律に充てはめて、伴奏も同様にあとから書い た)。

・この詩〔〈青い柱はどこにあるか?〉(F・6)〕には、「土方巽の秘儀によせて」との詞書きがある。飯島耕一の紹介で、土方巽を知り、初めて暗黒舞踏の 「ゲスラー・テル群【(ナシ)→論】」を、草月会館で観て、衝撃を受け た。〔……〕以来、私は親しい芸術家たちの肖像を、数多く詩で描くようになった。それだけに、最初のこの詩は思い出深いものがある。〔……〕私は今まで、 自作の解説をしたことがない。なぜなら、「詩自体」より、明解な説明が出来ないし、また書けないからだ。俳句、短歌そして詩のような短詩型では、作者の作 品自解ほど、興醒めなものはないと、つねづね私は思っているのだ。

こうして見ると、《サフラン摘み》や《夏の宴》(およびそれ以降の詩集)に「引用詩」がいかに大きく寄与しているかがわかる。〈死児〉 や〈沼・秋の 絵〉が同時代の外国の造形作家の作品から触発されて成ったことも注目に値する。暗黒舞踏を造形の一種とするなら、吉岡が音楽にほとんど惹かれなかったの は、それが時間の中に変貌する芸術であることもさることながら、「物」が見えないことが最大の要因だったのではないか。そもそも相性の好くない音楽と「引 用詩」だが、吉岡実詩に具体的な楽曲がほとんど登場しないことは別途考える必要がある。


太田大八さんを偲ぶ(2016年10月31日〔2019年8月31日追記〕)

絵本作家・挿絵画家の太田大八さんが2016年8月2日、亡くなられた。97歳だった。〈最近の〈吉岡実〉〉に書いたように、太田さんは吉岡実詩集《静物》(私家版、1955)の発行者である。1955(昭和30)年といえば、太田さんが挿絵画家として活動を始めて間もないころだ。三浦雅士編集の《ユリイカ》1973年9月号〔特集・吉岡実〕に寄せた〈カメレオンの眼〉は吉岡実との出会いや人柄を語って余す処のない回想だが、太田さんの著書には収められていないようだ。追悼の意味を込めて、同文を掲げる。

カメレオンの眼|太田大八

 カメレオンの目をしたこの男が私の家に現れてからもう二十四年にもなっている。
 筑摩書房から絵の依頼で来たと云うのだが、最初から職業の顔を全く感じない滑稽なほど子供じみた人柄丸出しのこの男は珍らしいというより貴重な種類の人間に思えた。私は彼の来るのを楽しみにし、やがて家族同様のつき合いが始まった。
  当時昭和25年頃の駒込上富士前町の私の借家は文字通りの掘立小屋で風が吹くと床下から砂を舞上げ、大雪の朝目をさますと、家の中一杯真白く雪が積っていたこともあるひどい家だった。そんな私の家へ吉岡はよく遊びに来るようになった。私も時折本郷赤門前の裏通りにあった筑摩書房に彼を訪ねたことがあった。ペンキ塗り木造二階建の洋館のギシギシした階段を上っていくと、うす暗い机の上から亀のような顔をこっちへむけて「ようー」といっていた、今の小川町の筑摩のビルに彼を訪ねてもその頃と全く同じ顔で「ようー」というのである。
 昭和26年から私は練馬に移り住むようになった。
 吉岡は練馬の私の家がいくらか広くなり借家の気がねもないせいか よく泊りに来た。下町育ちの抑揚で「とん子ゴアンあるー」来るとよくそういっていた。とん子とは私の女房十四子の呼び名である。長女のエリカはまだ三歳であった。
 この頃私の家にはいろんな居候がいた。私の後輩の絵描き吉田健男、彼も吉岡とは共通の友人となったのだが、この男も純粋にして正直な故に心中という現代にしては美しすぎる形をとって私達の前から去っていった。吉岡と私それに健男の弟と三人で軽井沢の警察へ骨を引取りに行ったこともあった。又北海道から葉書一本の紹介でころがり込んで来た村田ゆう子という娘、彼女もどうゆうつもりか名前通りゆうゆうと私の家に居ついてしまった。それに中国の捕虜生活から釈放されて帰って来た美校時代の友人国友俊太郎これ等の連中の出たり入ったりの雑居生活が始まった。みんな若くそれぞれの明日の夢を追いかけていた。家に金がないと女房は皆んなから50円づつ集めて肉をかったりして御馳走を作った。豊富な話題と旺盛な食欲でみんなよく笑い、よく食べた。吉岡も下宿にいるより私の家から通勤することが多かった。夜彼が帰って来てやっと家族そろったという感じだった。
 怪談話に目を見開いて真剣に聞き感心するのも吉岡だった。芸者ワルツは傑作であると激賞したり、一つ覚えの八百屋お七を悲鳴に近い声で歌ったりしていた。
 私の為にペンネームを考えてやるといって首をひねっていろんな文字を選んで、極[キワメ]甚内[ジンナイ]がいい、そう云う彼は真剣であり絶対的なのである。
 彼の詩を読んで闇の海に光芒を発して流れる無数の死児を見るような、壮絶な風景に出会ったり、猥雑な倦怠の時間にとじこめられていて気がつくと冷いガラスの器の中にいる自分を発見する快さを感じるのだが。
 日常の彼の未熟児的言動から彼の感覚の深みを計ることは困難である。彼の目は多視点を持って明るく、粘液とゴムの弾力をかくしおおせた虚構の枯れた肉体だけを見せているから。
 彼は私の家を本家と呼び、親元というが、こんなひねた息子をもった覚えはない。然しかみさんを貰うということで、和田芳恵さんを訪ねたことがある。
 昭和34年、和田陽子嬢と結婚し世帯をもった。やっと彼は独立し本家から出ていったのである。(同誌、八七〜八八ページ)

太田さんの逝去を報じた各紙が代表作として挙げているのは、自作の絵本《かさ》(文研出版、1975)と《だいちゃんとうみ》(福音館書店、1979)、そして太田さんの絵を呉承恩作・周鋭編・中由美子訳が盛りたてる《絵本西遊記》(童心社、1997)である。いずれ劣らぬ傑作だが、ここでは挿絵本としての処女作、ジョーエル・チャンドラー・ハリス作・八波直則訳《うさぎときつねのちえくらべ――リーマスじいやの夜話〔こども絵文庫1〕》(羽田書店、1949年11月10日〔初版の発行は1949年10月5日か〕)を読んでみたい。太田さんはこの本について「絵本への道は突然開けた」として、福音館書店 母の友編集部《絵本作家のアトリエ 1》(福音館書店、2012年6月10日)でこう語っている。

 〔一九〕四九年のある日のこと。神田を歩いていると、「よう!」とだれかに呼び止められた。見れば、中学時代の同級生〔=進士益太〕。彼は、羽田[はた]書店という出版社で児童書の編集長をしていた。
 「太田くん、中学のとき美術部だったし、絵描けるんだろ? うちで仕事しないか?」。
 この言葉がきっかけで、太田さんは最初の絵本『うさぎときつねのちえくらベ リーマスじいやの夜話[よばなし]』を手がけることになる。
 「だから、おれと絵本の出合いは本当にたまたま。あのとき、彼とすれ違っていなかったら、全然違う人生だったかもしれない」。
〔……〕
 出合いは偶然だったが、絵本や挿絵の仕事と相性はよかったのだろう。社会の状況もあったとはいえ、それまでは次々と仕事を変えてきた太田さんが、以後六十年にわたって取り組むことになるのだから。(同書、一七ページ)

《うさぎときつねのちえくらべ》は針金で2箇所、平綴じした逆目の本文用紙を厚表紙でくるんだ角背・紙装の上製本で、一八二×一七〇ミリメートル、七八ページ。見返しの見開きに赤一色による動物のカット10点(前見返し・後見返しとも同じ図柄)、巻頭に四色の別丁口絵と青色と赤色二色の本扉。本文(スミ一色)に挿絵計25点。《鳥獣戯画》(平安時代末期〜鎌倉時代初期)を彷彿させる見事な出来で、処女作からこの水準の作品を生み出したことに感嘆する。

ジョーエル・チャンドラー・ハリス作・八波直則訳《うさぎときつねのちえくらべ――リーマスじいやの夜話〔こども絵文庫 1〕》(羽田書店、1949年11月10日〔初版の発行は1949年10月5日か〕)の表紙 ジョーエル・チャンドラー・ハリス作・八波直則訳《うさぎときつねのちえくらべ――リーマスじいやの夜話〔こども絵文庫 1〕》(羽田書店、1949年11月10日〔初版の発行は1949年10月5日か〕)の見返しの見開き
ジョーエル・チャンドラー・ハリス作・八波直則訳《うさぎときつねのちえくらべ――リーマスじいやの夜話〔こども絵文庫1〕》(羽田書店、1949年11月10日〔初版の発行は1949年10月5日か〕)の表紙(左)と同・見返しの見開き(右)

ジョーエル・チャンドラー・ハリス作・八波直則訳《うさぎときつねのちえくらべ――リーマスじいやの夜話〔こども絵文庫 1〕》(羽田書店、1949年11月10日〔初版の発行は1949年10月5日か〕)の本扉と口絵 ジョーエル・チャンドラー・ハリス作・八波直則訳《うさぎときつねのちえくらべ――リーマスじいやの夜話〔こども絵文庫 1〕》(羽田書店、1949年11月10日〔初版の発行は1949年10月5日か〕)の本文最後の挿絵
同・本扉と口絵(左)と同・本文最後の挿絵(右)

J・C・ハリスの「リーマスじいや」(Uncle Remus)ものは、近年の版では河田智雄訳《リーマスじいやの物語――アメリカ黒人民話集〔講談社文庫〕》(講談社、1983)が入手しやすい。ここで、1960年代までの八波訳を概観しておこう。

@やつなみ・なおのり訳《ウサギどんキツネどん――黒んぼじいやのした話》(世界文学社、1949年2月25日)、絵:山六郎
A八波直則訳《うさぎときつねのちえくらべ――リーマスじいやの夜話〔こども絵文庫1〕》(羽田書店、1949年11月10日)、絵:太田大八 *国立国会図書館所蔵の《うさぎときつねのちえくらべ》は、メリーランド大学所蔵プランゲ文庫の原装物と発行者(羽田書店)寄贈の改装物の2冊があるが、どちらもデジタル化されており、2冊とも奥付には1949年9月28日印刷・10月5日発行とある。私の入手した一本は、1949年11月5日印刷・11月10日発行とあるが(刷数や版数の表示はない)、初刊は上記の1949年10月5日だと考えられる。
B八波直則訳《ウサギどん キツネどん――リーマスじいやのした話〔岩波少年文庫〕》(岩波書店、1953年1月15日)、絵:A・B・フロースト
Cやつなみなおのり訳《うさぎどんとくまのはちみつ〔雨の日文庫 第6集9〕》(麦書房、1959年6月30日)、絵:さいとうとしひろ
D八波直則訳編《うさぎどん きつねどん1〔子ども図書館〕》(大日本図書、1967年12月10日)、絵:太田大八、装丁:杉田豊
E八波直則訳編《うさぎどん きつねどん2〔子ども図書館〕》(大日本図書、1969年7 月10日)、絵:太田大八、装丁:杉田豊

ジョーエル・チャンドラー・ハリス作・八波直則訳《うさぎときつねのちえくらべ――リーマスじいやの夜話〔こども絵文庫 1〕》(羽田書店、1949年11月10日〔初版の発行は1949年10月5日か〕)の〈うさぎの さかなとり〉の挿絵〔太田大八〕 チャンドラ・ハリス作・八波直則訳編《うさぎどん きつねどん1〔子ども図書館〕》(大日本図書、1967年12月10日)の〈あがって いく もの おりる もの〉の挿絵〔太田大八〕 チャンドラ・ハリス作・八波直則訳編《うさぎどん きつねどん1〔子ども図書館〕》(大日本図書、1967年12月10日)と同2(同、1969年7月10日)の表紙〔装丁:杉田豊〕
ジョーエル・チャンドラー・ハリス作・八波直則訳《うさぎときつねのちえくらべ――リーマスじいやの夜話〔こども絵文庫 1〕》(羽田書店、1949年11月10日〔初版の発行は1949年10月5日か〕)の〈うさぎの さかなとり〉の挿絵(左)とチャンドラ・ハリス作・八波直則訳編《うさぎどん きつねどん1〔子ども図書館〕》(大日本図書、1967年12月10日)の〈あがって いく もの おりる もの〉の挿絵(中)とチャンドラ・ハリス作・八波直則訳編《うさぎどん きつねどん1〔子ども図書館〕》(大日本図書、1967年12月10日)と同2(同、1969年7月10日)の表紙〔装丁:杉田豊〕(右)

@の世界文学社版は本書と同年の2月25日の刊行だから、太田さんが作画の参考にしたかわからないが、Bの岩波少年文庫版のA・B・フローストの絵は原本にあったものだろうから、見ているはずだ(講談社文庫版にはフローストのほか、コンデ、チャーチ、ケンブル、ビアードの挿絵が載っている)。DEは続き物で、太田さんはAとはまったく異なる、小学校低学年向けの絵本調の絵を新たに二色で描いている。太田さんの再登板は、訳者による希望だろうか。67年前の本書(A)の訳文がなんとも素晴らしいものなので、〈うさぎの さかなとり〉(Dでは〈あがって いく もの おりる もの〉となっている)を引く。

第5夜 うさぎの さかなとり

 ある日のこと、うさぎどんや、きつねどんや、あらいぐまどんや、くまどんなど、みんながよって、じめんをたがやし、とうきびばたけを、つくることにしたね。
 みんな、いっしんに、はたらいてる。おてんとさんが かんかんてりつける。うさぎどん、つかれてしまった。それでも、みなから なまけものだと いわれたくなかったので、草[くさ]をひきぬいて、つみあげたりなんかしてた。けれど、しばらくすると、
 「いたい! 手にいばら[、、、]のとげがささった!」
と、大きなこえでどなり、みなのいるところから はなれて、木[こ]かげへいこうと でていった。しばらくいくと、つるべのさがった いどがあったね。
 「こいつは、すずしそうだ。ひとつ、あのつるべのなかに はいって、ひるねをしてやろう。」
と、うさぎどん、つるべのなかに、ぴょんととびこんだな。すると、つるべは、どうなったとおもうね?
 そう。そう、つるべは、するすると、下へすべりおちていったんだよ。うさぎどん、おどろいたのなんの! どこまで おちてくか、わからんものね、
 ところが、すぐに、ぱちゃんと、つるべが水にあたった。うさぎは、じっとちぢこまってた。これから どうなるものやら、と、きがきでない。ぶるぶる、ぶるぶる、ふるえておった。
 はなしかわって、はたけのきつねどん。うさぎどんから 目をはなさないでいると、うさぎどんが、はたらくのをやめて、でていったもんだから、そっと、そのあとから、つけていったのさ。
 なにをするつもりだろう、と、みてると、いどのなかにとびこむなり、みえなくなったじゃないか! おどろいたね、きつねどん。草[くさ]の上に、どかりとすわると、くびをひねってかんがえた。
 けれど、さっぱり わけがわからん。
 「こいつは、びっくりしたね。はてと。うさぎどん、あのあなのなかにおかねでもかくしとるのかな? それとも、たからものでも みつけだしたのかな? よし、ひとつ、みにいくことにしよう。」
 と、いどのそばへ、はいよって、耳をたてたが、なんのおとも きこえてこない。おもいきって、そのなかを のぞいてみたが、なんにもみえない。
 さて、うさぎどんのほうは、こわくてならない。すこしでも、みうごきしたら、つるべからおちてしまうとおもうと、いきたきもせず、おいのりのことばを となえてた。
 すると、きつねどんのこえがした。
 「おおい! うさぎどんや! そこで、だれとあってるんだい?」
 すると、うさぎどんが へんじした。
 「ぼくかね、いや、ちょっと さかなつりを やってるのさ。みなさんのおひるの ごちそうに、さかなをさしあげよう、とおもってね。」
 「うさぎどん、その下のところの水には、さかながたくさんいるかい?」
 「いくらでもいるよ、きつねどん。なん十ぴき、なん百[びやく]ぴきってね。さかなで 水が わきかえるくらいだよ! どうだい、きつねどんも、ここへおりてきて、さかなとりの てつだいをしてくれないかね?」
 「どうしたら、そこへおりていけるんだい?」
 「そこの つるべに とびこんだら いいんだ。するするっと、下へおりられるぜ!」 
うさぎどんのはなしが、とてもうまくて、たのしそうだったものだから、きつねどん、いわれたとおり、つるべにとびのった。すると、つるべは、するするする!
 ところが、きつねどんのおもさで、こんどは、うさぎどんののったつるべが、はんたいに、するするする、と、上へあがってったな。ちょうど、まんなかのところで、ふたつのつるべが、すれちがったときだ。うさぎどんが、こんなうたを うたったもんだ。
  さよなら きつねどん ごきげんよう
  いっておいでよ おだいじに
  あがっていくもの おりるもの
  あんたは するする いどのそこ
 いどのそとへでるなり、うさぎどん、どんどんかけだし、にんげんたちのいるところへいって、
 「きつねどんが、いどのなかへはいって、あんたたちの、のむ水をよごしてますよ。」と、どなった。そして、また、いそいでひきかえし、いどのなかの きつねどんにいった。――
  てっぽうもって にんげんどん
  いそいで こっちへ やってくる
  ひきあげられたら きつねどん
  すぐに にげだせ いちもくさん!
  それから、いちじかんほどしたとき、はたけでは、うさぎどんときつねどんが、とてもせっせと はたらいていた。これまで、こんなに、ねっしんに、はたらいたことは、いちどもなかったくらいにね。ただ、ときどき、うさぎどんは ぷっとふきだしてわらい、きつねどんは、おもいだしたように にやにや、にがわらいをしてたとさ。(《うさぎときつねのちえくらべ》、二〇〜二四ページ)

黒人霊歌[ゴスペル]よりもロックンロール(1949年当時、まだ誕生していないが)を想わせるこうした作風――ハリスの原文にあるものなのか、八波の訳文のものなのかわからない――に、太田さんがリアルなペン画の挿絵で応えたことに衝撃を覚える。「〔昭和二十二年〕十二月十二日 数寄屋橋のところで、突然よっぱらった濠洲兵にあごをなぐられた。痛かったがどうしようもない。無念。でも歯は大丈夫なので安心する。《赤と黒》をよみつづける」(〈断片・日記抄〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》思潮社、1968、一一〇ページ)。NDL-OPACで検索すると、太田さんは1949年から50年にかけて羽田書店の〔こども絵文庫〕で、セギュール夫人(鈴木力衛訳)《ロバものがたり》、丹野節子《アフリカの偉人――シュワイツェル博士》、末広恭雄《コイの子の旅》、福田三郎《動物園の人気もの》、渋沢秀雄《八つの宝石》、北野道彦《発明ものがたり》、崎浦治之《ほげい船にのって》の7タイトルの絵を担当している。羽田書店の〔こども絵文庫〕20数巻(1949年〜51年)は、筑摩書房の〔小学生全集〕全100巻(1951年7月〜1957年11月)に先行する企画だったから、吉岡が太田さんを訪ねたのは〔こども絵文庫〕で知ったからに違いない。「また筑摩書房の小学生全集が始まったとき、この挿絵の依頼に来た吉岡実は、一九九〇年彼が没するまで家族同様の親しい友人となりました。彼は戦後最大の詩人と言われ、彼の詩から受けたビジュアルなイマジネーションは、私のイラストレーションのよい刺激になっているにちがいありません」(太田大八《私のイラストレーション史――紙とエンピツ》、BL出版、2009年7月1日、五七〜五八ページ)。ちなみにNDL-OPACで「著者=太田大八×出版者=筑摩書房」を検索すると、次の23件がヒットする(リストの「新版」は再刊だろうから、タイトルの実数は23よりも減る)。実見していないが、末広恭雄の魚の本、崎浦治之の捕鯨の本が太田さんの手掛けた両シリーズに登場していて、興味深い。ここで余談を。東京・駒場の日本近代文学館所蔵の《筑摩しんぶん》(月3回、1日・11日・21日発行)の6号・7号・9号・10号(1959年6月11日〜7月21日)に水産学者で随筆家の末広恭雄(1904〜88)がコラム《魚の歳時記》を連載している(〈アユ〉〈ドジョウ〉〈マンボウ〉〈ウナギ〉)。《筑摩しんぶん》自体に吉岡が関与した形跡は見えないが、〔小学生全集〕以来の担当者ということで、この連載に関わっているかもしれない。余談終わり。

 1    クオレ 愛の物語    アミーチス 原作・柏熊達生 著・太田大八 絵    昭和26 中学生全集 51
 2 ニュー ルンベルクの名歌手    田中泰三 著・太田大八 絵    昭和26 中学生全集 56
 3 も のいう魚たち    末広恭雄 著・太田大八 絵    昭和26 小学生全集 2
 4 私 たちの作文 高学年    来栖良夫 編・太田大八 絵    昭和26 小学生全集 10
 5 中 学生詩集    巽聖歌 編・太田大八 絵    昭和27 中学生全集 69
 6 八 犬伝ものがたり    滝沢馬琴 原作・高木卓 著・太田大八 絵    昭和27 中学生全集 83
 7 捕 鯨の旅    崎浦治之 著・太田大八 絵    昭和28 小学生全集 33
 8 く もの糸    芥川龍之介 著・太田大八 絵 昭和29    小学生全集 44
 9 アラビアンナイト    森田草平 著・太田大八 絵    昭和30 小学生全集 63
10 エヴェレストの頂上へ    近藤等 著・太田大八 絵    昭和30 小学生全集 70
11 黒馬ものがたり    アンナ・シュウエル 原作・臼井吉見 著・太田大八 絵    昭和30 小学生全集 73
12 世界史の人びと 5     昭和30    
13 世界史の人びと 8     昭和31    
14 隊長ブーリバ    ゴーゴリ 原作・小沼文彦 訳・太田大八 絵    昭和31 世界の名作 13
15 日本史の人びと 1     昭和31    
16 クオ・ヴァディス    シェンキウィッチ 原作・山口年臣 著・太田大八 絵    昭和32 世界の名作 20
17 クジラを追って    崎浦治之 著・太田大八 絵    昭和37 新版小学生全集 8
18 くもの糸    芥川龍之介 著・太田大八 絵 昭和37    新版小学生全集 32
19 黒馬ものがたり    アンナ・シュウエル 原作・臼井吉見 著・太田大八 絵    昭和37 新版小学生全集 42
20 エヴェレストの頂上へ    近藤等 著・太田大八 絵    昭和38 新版小学生全集 98
21 私たちの作文 上    来栖良夫 編・太田大八 絵    昭和38 新版小学生全集 90
22 私たちの作文 下    来栖良夫 編・太田大八 絵    昭和38 新版小学生全集 91
23 しごとと人生 1〜2    松田道雄 編・太田大八 絵    1976 ちくま少年図書館 33〜34 社会の本

いずれにしても、太田さんが絵本や挿絵の仕事と偶然出合って、羽田書店の〔こども絵文庫〕を皮切りに、筑摩書房の〔小学生全集〕や〔中学生全集〕に腕を揮っていた昭和20年代後半、吉岡はのちの《静物》にまとめる詩篇をひそかに書きついでいた。当時の吉岡にとって最も身近な絵画作品とは、太田大八や吉田健男が子供の本のために描いたこれらの挿絵だったと言ってもいいだろう。あまりに身近すぎて、詩集《静物》のヴィジュアルに起用するのがためらわれたほどだった(同詩集の「卵」の絵は真鍋博の手になる)。しかし、太田さんは吉岡が初めて詩人の自覚をもって出版した私家版詩集の発行者という栄誉を担った。後年、吉岡実の童話(!)に太田大八が絵をつけるという企画があったというが、実現しなかった。いま《静物》の著者と発行者は天空のどこかで、二人を結びつけただろう《うさぎときつねのちえくらべ》を前にして、それもまた浮世の定め、と語りあっているのではあるまいか。

太田大八〈ウサギが角を曲るとき〉(1977)〔矢川澄子「メルヘンの世界から」/世界文化社〕
太田大八〈ウサギが角を曲るとき〉(1977)〔矢川澄子「メルヘンの世界から」/世界文化社〕
出典:《日本の童画 13〔安野光雅・太田大八・堀内誠一〕》(第一法規出版、1981年8月10日、四四ページ)

矢川澄子著(画:味戸ケイコ・東逸子・上野紀子・宇野亜喜良・太田大八・小野寺マリレ・司修・直江真砂・長沢秀之・牧野鈴子・松永禎郎・柳瀬桂治)《メルヘンの世界から〔メルヘンの部屋3〕》(世界文化社、刊行年月日記載なし)に太田さんが寄せた〈ウサギが角を曲るとき〉(1977)に登場する人物は、ドン・キホーテとハンフリー・ボガートとアリスか。だが、窓の外の街角をウサギが曲がる処は、どう見てもバルテュスだ(もちろん《アリス》のウサギなのだが、《うさぎときつねのちえくらべ》のうさぎと錯覚しそうになる)。矢川とのコラボレーションの先に、描かれることのなかった吉岡実との童話=画集を想像したくなるのは私だけではないだろう。ところで太田大八と詩人のコラボレーションといえば、谷川俊太郎との詩画集《詩人の墓》(集英社、2006)と、同じく対談〔聞き手:山田馨〕《詩人と絵描き――子ども・絵本・人生をかたる》(講談社、2006)が想いうかぶ。太田さんは後者で「未来の一冊の絵本」として次のように語っている。

山田 太田さんは、しばらくは注文仕事をやめて、自分に関心がある仕事だけに集中したいとおっしゃっていましたね。そのあたりのことを話していただけますか。
太田 詩のことばの中に、リアリティーを感じるものと抽象的なものがあると同じように、絵の中にも、現実的なものと抽象的なものがあると思うんですよ。ぼくが今いちばんやりたいのは、決まったテーマに向けて描くというのじゃなくて、自分の心の底にある抽象的な部分を描き出したいわけです。それをね、絵本にできればいいなと思っている。これがいちばんの願望です。昔、友達に吉岡実(詩人、一九一九〜九〇年)という詩人がいてね。彼の詩をモチーフにして描こうかなと、思ったことがあるんですよ。でも彼の場合どっちかというとかなり暗い面があったり、深刻な面があったりして、明るさがない。明るいもの、暗いもの、両方に出会って描ければたのしいなと思うわけです。そういう願いがあるんですよ。
山田 そういう絵本をつくりたいんですね。
谷川 それはテキストがあっても、気に入ればやってもいいという感じですか。それとも最初から自分で全部やるという感じですか。
太田 だからね、詩人と画家という二つの立場がぶつかったところで、何か起きるかわかんない、でも何かが起きる。そういうのがね、おもしろいと思っているんですよ。抽象的に描くことは、できないものがないくらいに表現の幅が広いしね。できると思うんです。その詩を読んで、イメージがふくらんでいく、そういうものができたらいいなと思ってるわけです。
谷川 ぼくには、これは太田さんに描いていただければいいな、というちょっと長めの詩があるんですけど。非常に具体的な詩なんです。物語になっているんです。太田さんは、もう今年は自分の好きなものだけやるっておっしゃったんで、遠慮してたんですけど。もし読んでいただけるのであれば、コピーを置いていきます。ぜひ太田さんに描いていただきたいと思っています。
太田 わかりました。前に谷川さんとした仕事の、『とき』と『うちのじどうしゃ』については、いろいろ話しましたよね。どちらもかなり具体的な絵をつけました。
谷川 今度は抽象的な絵になるんですか?
太田 自分としては、自分勝手に描けるものっていうのがうれしいんです。
谷川 物語って言ったのは、「詩人の墓」という詩なんですよ。〔……〕(同書、二七九〜二八一ページ)

童話に絵画作品をつけるという当初の企画は吉岡の死によってついえたが、太田さんは《詩人の墓》でクレーのような、ミロのような、カンディンスキーのような見事な抽象画を描いている。それらのなかで、おそらく吉岡も喜んだに違いないデフォルメされた女体が妙に生生しい。

〔付記〕
松沢徹詩集《寓話》(黄土社、1974)の目次の最終行に「装幀 太田大八」とある。この第二詩集も第一詩集と同様、著者のご指名のようだ。太田さんが手掛けた装画・装丁本は、その画業に較べて驚くほど少ない。調べ方が悪いのか、いま私の手許にある太田さんが他の著者のために装丁した本は上記の一冊だけ。吉岡に関係のありそうな本では、武田泰淳《火の接吻》(筑摩書房、1955年7月20日)――太田さんはジャケットにクレーのような絵を描いている――と山本和夫《詩の作り方〔入門百科14〕》(ポプラ社、1965年1月15日)――装丁は難波淳郎(吉岡が装丁した石垣りん散文集《焔に手をかざして》(筑摩書房、1980年3月5日)のカットや、吉岡が編集していた《ちくま》の1976年1年間の本文のカットを担当している)、太田さんはカットに近い挿絵を描いている――の二冊。吉岡実装丁本はあらかたが手許に揃っているから、いずれは太田大八装丁本と照合して、両者の関連を明らかにしたいものだ。


〈神奈川近代文学館資料検索〉の「検索項目」は、ありがたいことに三つ掛け合わせて検索することができる。とりわけ「装幀・挿画者名(図書のみ)」を選べるのが素晴らしい(刊行「年月日」の表示も)。もっとも、これで「太田大八」を検索語に指定すると、当然ながら「装幀=太田大八」と「挿画=太田大八」が区別なくヒットしてしまう。該当する資料189件のうち、重複書誌を取り除いた186件は以下のとおりだ(行末の〔〕内は図書の請求記号)。なお、筑摩書房の〈小学生全集〉と〈中学生全集〉の計12タイトルには★印を付けた。

1    子供に讀んで聞かせるお話の本 冬の卷 民主保育連盟,兒童文學者協會共編 羽田書店 1949.12.20(昭24) 〔N01/06074〕
2    名犬ものがたり 北野道彦著 実業之日本社 1950.1.5(昭25) 〔N01/00963〕
3    お話十二か月 4月-6月の巻 小出正吾編著 実業之日本社 1950.3.20(昭25) 世界童話の泉 〔N01/10083〕
4    覆面の騎士 大佛次郎著 湘南書房 1950.5.1(昭25) 〔オサ3/フ7〕
5    子供に讀んで聞かせるお話の本 夏の卷 民主保育連盟,兒童文學者協會共編 羽田書店 1950.6.20(昭25) 〔N01/06072〕
6    子供に讀んで聞かせるお話の本 秋の卷 民主保育連盟,兒童文學者協會共編 羽田書店 1950.9.15(昭25) 〔N01/06073〕
7    お話十二か月 10月-12月の巻 小出正吾編著 実業之日本社 1950.10.5(昭25) 世界童話の泉 〔N01/10084〕
8    お話十二か月 1月-3月の巻 小出正吾編著 実業之日本社 1950.12.20(昭25) 世界童話の泉 〔N01/10082〕
9    グリム童話集 グリム[著] 三十書房 1951.4.30(昭26) 新児童文庫 16 〔N01/03398〕
10    美しい心・正しい人 5年生 児童文学者協会編 実業之日本社 1951.5.25(昭26) 〔N01/21640〕
11    中学生全集 51 筑摩書房 1951.8.15(昭26) 〔N01/22170b〕★
12    ペリー艦隊來航記 上 鈴木三重吉著 西荻書店 1951.8.30(昭26) 三色文庫 〔スズ8/ヘ1-1〕
13    ペリー艦隊来航記 中 鈴木三重吉著 西荻書店 1951.8.30(昭26) 三色文庫 7 〔スズ8/ヘ1-2〕
14    ペリー艦隊來航記 下 鈴木三重吉著 西荻書店 1951.8.30(昭26) 三色文庫 〔スズ8/ヘ1-3〕
15    中学生全集 56 筑摩書房 1951.9.20(昭26) 〔N01/22171〕★
16    小学生全集 10 筑摩書房 1951.11.15(昭26) 〔N01/22061〕★
17    六年の世界名作読本 関野嘉雄[ほか]編 実業之日本社 1951.11.20(昭26) 〔N01/16169〕
18    女学生の生活と友情論 村岡花子著 小峰書店 1951.12.25(昭26) 〔N04/1269〕
19    中学生全集 69 筑摩書房 1952.1.31(昭27) 〔N01/22174〕★
20    中学生全集 81 筑摩書房 1952.7.25(昭27) 〔N01/22175〕★
21    王冠のあるヘビ グリム[ほか][作] 牧書店 1952.10.28(昭27) 学校図書館文庫 31 〔N01/03093〕
22    世界動物ものがたり 北野道彦[ほか]著 実業之日本社 1952.11.20(昭27) お話博物館 〔N01/21576〕
23    片目のパン人形 マーガレット・シドニー[著] 河出書房 1953.2.10(昭28) 〔N01/01251〕
24    お母さんありがとう 村岡花子[ほか]監修 実業之日本社 1953.5.1(昭28) 〔N01/02113〕
25    小学生全集 33 筑摩書房 1953.5.20(昭28) 〔N01/22082〕★
26    五年の国語副読本 児童文学者協会編 実業之日本社 1953.9.10(昭28) 〔N02/4654〕
27    世界のもうじゅう 北野道彦[ほか]著 実業之日本社 1953.11.25(昭28) お話博物館 〔N01/21582〕
28    世界童話名作全集 19 鶴書房 1953.12.25(昭28) 〔S07/43〕
29    小学生全集 44 筑摩書房 1954.1.15(昭29) 〔N01/22093〕★
30    世の中につくした人たち 進士益太[ほか]著 実業之日本社 1954.6.25(昭29) お話博物館 〔N01/21585〕
31    おもしろい理科 2年生 大日本図書 1954.10.30(昭29) こども図書館 〔N01/08909〕
32    おもしろい理科 3年生 大日本図書 1954.10.30(昭29) こども図書館 〔N01/08910〕
33    おもしろい理科 4年生 大日本図書 1954.12.20(昭29) こども図書館 〔N01/08911〕
34    おもしろい理科 5年生 大日本図書 1954.12.20(昭29) こども図書館 〔N01/08912〕
35    おもしろい理科 6年生 大日本図書 1954.12.20(昭29) こども図書館 〔N01/08913〕
36    小学生全集 63 筑摩書房 1955.2.5(昭30) 〔S04/080/チク/5-63〕★
37    光りをもとめて 4年生 日本子どもを守る会編 ポプラ社 1955.4.1(昭30) 再版 新しい道徳の本 〔N01/26337〕
38    まごころ 4 後藤福次郎編著 新装版 文化建設社 1955.4.5(昭30) 68版 新しい徳育ストーリーズ 〔N01/23574〕
39    まごころ 6 後藤福次郎編著 新装版 文化建設社 1955.4.5(昭30) 68版 新しい徳育ストーリーズ 〔N01/23575〕
40    小学生全集 70 筑摩書房 1955.6.30(昭30) 〔N01/22117〕★
41    小学生全集 73 筑摩書房 1955.9.15(昭30) 〔N01/22121〕★
42    ふしぎな国のアリス 光吉夏弥文 トツパン 1955.12.10(昭30) トツパンの絵物語 〔N01/19959〕
43    こうのとりになった王さま 植田敏郎文 トツパン 1956.3.25(昭31) トツパンの絵物語 〔N01/19964〕
44    世界の名作 1 筑摩書房 1956.3.30(昭31) 〔N01/22222〕
45    世界の名作 3 筑摩書房 1956.3.30(昭31) 〔N01/22224〕
46    世界の名作 5 筑摩書房 1956.3.30(昭31) 〔N01/22226〕
47    世界の名作 4 筑摩書房 1956.4.5(昭31) 〔N01/22225〕
48    世界の名作 2 筑摩書房 1956.4.10(昭31) 〔N01/22223〕
49    そらのひつじかい 今西祐行著 泰光堂 1956.4.15(昭31) ひらがなぶんこ 13 〔N02/350〕
50    世界の名作 6 筑摩書房 1956.4.30(昭31) 〔N01/22227〕
51    世界の名作 7 筑摩書房 1956.5.15(昭31) 〔N01/22228〕
52    少年少女のための国民文学 4 福村書店 1956.5.25 〔N02/1483〕
53    少年少女のための国民文学 1 福村書店 1956.6.1 〔N02/1480〕
54    世界の名作 8 筑摩書房 1956.6.20(昭31) 〔N01/22229〕
55    ほらふき男爵の冐険 植田敏郎文 トツパン 1956.7.5(昭31) トツパンの絵物語 〔N01/19955〕
56    世界の名作 9 筑摩書房 1956.7.15(昭31) 〔N01/22230〕
57    世界名作全集 142 大日本雄弁会講談社 1956.7.15(昭31) 〔N02/2358〕
58    世界の名作 10 筑摩書房 1956.7.31(昭31) 〔N01/22231〕
59    三年生の童話 浜田廣介監修 ひかりのくに昭和出版 1956.8.15(昭31) ひかりのくに学年別童話集 〔N02/44〕
60    世界の名作 11 筑摩書房 1956.8.30(昭31) 〔N01/22232〕
61    少年少女のための国民文学 2 福村書店 1956.9.1 〔N02/1481〕
62    世界の名作 12 筑摩書房 1956.9.15(昭31) 〔N01/22233〕
63    日本古典童話全集 4 小峰書店 1956.9.20(昭31) 〔N01/21481〕
64    世界の名作 13 筑摩書房 1956.10.10(昭31) 〔N01/22234〕
65    少年少女のための国民文学 9 福村書店 1956.10.15 〔N02/1487〕
66    世界の名作 14 筑摩書房 1956.10.15(昭31) 〔N01/22235〕
67    未明・譲治・廣介童話名作集 6年生 坪田譲治[ほか]著 実業之日本社 1956.10.15(昭31) 〔S07/64〕
68    世界の名作 15 筑摩書房 1956.11.10(昭31) 〔N01/22236〕
69    世界の名作 16 筑摩書房 1956.11.30(昭31) 〔N01/22237〕
70    少年少女のための国民文学 3 福村書店 1956.12.10 〔N02/1482〕
71    世界の名作 17 筑摩書房 1956.12.15(昭31) 〔N01/22238〕
72    世界の名作 18 筑摩書房 1956.12.20(昭31) 〔N01/22239〕
73    世界の名作 19 筑摩書房 1956.12.25(昭31) 〔N01/22240〕
74    ガリバーりょこうき スイフト原作 大日本雄弁会講談社 c1957 講談社の二年生文庫 5 〔N01/18739〕
75    少年少女のための国民文学 7 福村書店 1957.2.1 〔N02/1485〕
76    少年少女のための国民文学 12 福村書店 1957.2.15 〔N02/1488〕
77    世界の名作 20 筑摩書房 1957.3.15(昭32) 〔N01/22241〕
78    少年少女のための国民文学 13 福村書店 1957.4.1 〔N02/1489〕
79    世界の名作 21 筑摩書房 1957.4.5(昭32) 〔N01/22242〕
80    少年少女のための国民文学 8 福村書店 1957.4.10 〔N02/1486〕
81    少年少女のための国民文学 6 福村書店 1957.6.1 〔N02/1484〕
82    少年少女のための国民文学 14 福村書店 1957.6.10 〔N02/62〕
83    たから島 スティーブンスン原作 実業之日本社 1957.6.20(昭32) 名作絵文庫 〔N01/08864〕
84    日本の文学 小学3年生 亀井勝一郎,滑川道夫,古谷綱武編 あかね書房 1957.6.30 〔N01/24721〕
85    日本の文学 小学4年生 亀井勝一郎,滑川道夫,古谷綱武編 あかね書房 1957.6.30 〔N01/24722〕
86    少年少女のための国民文学 15 福村書店 1957.7.1 〔N02/1490〕
87    ノンニ少年の大航海 ヨン・スウエンソン著 宝文館 1957.7.5(昭32) かもしか少年文庫 〔N01/03493〕
88    ぼくらの郷土 1 和歌森太郎編 小峰書店 1957.11.10(昭32) 〔N01/21511〕
89    目で見る学習百科事典 第1巻 小峰書店編集部編 小峰書店 1957.12.10(昭32) 〔N01/52000〕
90    戦争っ子 大蔵宏之著 金の星社 1957.12.25(昭32) 児童小説シリーズ 〔N01/04745〕
91    現代児童名作全集 13 大日本雄弁会講談社 1958.3.5(昭33) 〔N02/1729〕
92    目で見る学習百科事典 第2巻 小峰書店編集部編 小峰書店 1958.3.10(昭33) 〔N01/52001〕
93    マーク・トウェーン物語 プラウドフィット著 実業之日本社 1958.6.1(昭33) 少年少女世界の本 24 〔N01/19675〕
94    目で見る学習百科事典 第3巻 小峰書店編集部編 小峰書店 1958.6.1(昭33) 〔N01/52002〕
95    目で見る学習百科事典 第4巻 小峰書店編集部編 小峰書店 1958.10.1(昭33) 〔N01/52003〕
96    赤い鳥代表作集 1 与田凖一[ほか]編 小峰書店 1958.10.15(昭33) 日本児童文学集成 第1期 〔S05/0205〕
97    ラング世界童話全集 6 アンドルー・ラング作 東京創元社 1958.11.10(昭33) 〔N01/22324〕
98    赤い鳥代表作集 2 与田凖一[ほか]編 小峰書店 1958.11.15(昭33) 日本児童文学集成 第1期 〔S05/0207〕
99    赤い鳥代表作集 3 与田凖一[ほか]編 小峰書店 1958.11.25(昭33) 日本児童文学集成 第1期 〔S05/0208〕
100    新選日本児童文学 1 鳥越信[ほか]編 小峰書店 1959.3.10(昭34) 日本児童文学集成 第2期 〔N01/02806〕
101    新選日本児童文学 3 鳥越信[ほか]編 小峰書店 1959.4.10(昭34) 日本児童文学集成 第2期 〔N01/02808〕
102    少年少女日本名作物語全集 12 講談社 1959.5.25(昭34) 〔N01/21104〕
103    学習日本風土記 第4巻 木内信蔵[ほか]編 講談社 1959.7.10(昭34) 〔N01/21206〕
104    学習日本風土記 第3巻 木内信蔵[ほか]編 講談社 1959.8.10(昭34) 〔N01/21205〕
105    世界童話文学全集 12 講談社 1959.10.10(昭34) 〔N01/21226〕
106    世界童話文学全集 6 講談社 1959.11.10(昭34) 〔N01/21220〕
107    学習日本風土記 第6巻 木内信蔵[ほか]編 講談社 1959.12.10(昭34) 〔N01/21208〕
108    生活する子ら 4年生 日本作文の会編 小峰書店 1959.12.25(昭34) 〔N01/21441〕
109    新中学生全集 13 筑摩書房 1960.1.30(昭35) 〔N01/09020〕★
110    生活する子ら 5年生 日本作文の会編 小峰書店 1960.2.5(昭35) 〔N01/21442〕
111    生活する子ら 6年生 日本作文の会編 小峰書店 1960.2.5(昭35) 〔N01/21443〕
112    偉人の研究事典 中村新太郎[ほか]編著 小峰書店 1960.3.21(昭35) 〔N01/41258〕
113    世界童話文学全集 1 講談社 1960.5.10(昭35) 〔N01/21216〕
114    日本少年少女童話全集 5 東京創元社 1960.5.10(昭35) 〔N01/22335〕
115    新美南吉童話全集 第3巻 新美南吉著 大日本図書 1960.7.11(昭35) 〔N01/01786〕
116    日本童話全集 2 坪田譲治著 あかね書房 1960.7.15 〔N01/05490〕
117    世界童話文学全集 17 講談社 1960.9.10(昭35) 〔N01/21231〕
118    絵でみるこども百科じてん 滑川道夫,遠藤五郎,堀山欽哉編 小峰書店 1960.9.20(昭35) 〔N01/41272〕
119    世界児童文学全集 30 坪田譲治,高橋健二,石井桃子編 あかね書房 1960.10.15 〔N01/20118〕
120    世界童話文学全集 13 講談社 1961.1.10(昭36) 〔N01/21227〕
121    世界名作全集 179 大日本雄弁会講談社 1961.1.25(昭36) 〔N02/2395〕
122    世界名作全集 179 講談社 1961.1.25(昭36) 〔N01/21152〕
123    少年少女物語日本歴史 第1巻 桑田忠親著 実業之日本社 1961.1.30(昭36) 〔K03/5361〕
124    児童世界文学全集 22 偕成社 1961.3.12(昭36) 〔N01/20485〕
125    少年少女世界伝記全集 3 講談社 1961.6.10(昭36) 〔N02/4441〕
126    児童世界文学全集 25 偕成社 1961.7.25(昭36) 〔N01/20487〕
127    少年少女世界伝記全集 7 講談社 1961.10.10(昭36) 〔N02/4445〕
128    少年少女世界伝記全集 11 講談社 1961.11.10(昭36) 〔N02/4449〕
129    斎田喬幼年劇全集 2学期編 斎田喬著 誠文堂新光社 1961.11.30(昭36) 〔N01/23597〕
130    斎田喬幼年劇全集 3学期編 斎田喬著 誠文堂新光社 1962.1.31(昭37) 〔N01/23598〕
131    日本古典童話全集 4 小峰書店 1962.3.31(昭37) 〔S07/86〕
132    斎田喬幼年劇全集 1学期編 斎田喬著 誠文堂新光社 1962.5.15(昭37) 〔N01/23596〕
133    少年少女日本文学全集 6 講談社 1963.2.25(昭38) 〔N02/1421〕
134    岩波少年少女文学全集 28 岩波書店 1963.3.11(昭38) 〔90Y/イワ/1-28〕
135    岩波少年少女文学全集 29 岩波書店 1963.4.30(昭38) 〔90Y/イワ/1-29〕
136    少年少女現代日本文学全集 10 偕成社 1963.9.5(昭38) 〔S06/91Y/カイ/16-10〕
137    少年少女日本文学全集 24 講談社 1963.10.25(昭38) 〔K02/0183〕
138    アンデルセン童話全集 2 アンデルセン作 講談社 1963.11.30(昭38) 〔N02/3203〕
139    オクスフォード世界の民話と伝説 2 講談社 1964.5.5(昭39) 〔N02/4632〕
140    オクスフォード世界の民話と伝説 3 講談社 1964.6.10(昭39) 〔N02/4633〕
141    オクスフォード世界の民話と伝説 5 講談社 1964.8.5(昭39) 〔N02/4634〕
142    オクスフォード世界の民話と伝説 6 講談社 1964.9.5(昭39) 〔N02/4635〕
143    壺井栄児童文学全集 3 壺井栄著 講談社 1964.9.20(昭39) 〔N02/876〕
144    オクスフォード世界の民話と伝説 8 講談社 1964.11.5(昭39) 〔N02/4637〕
145    オクスフォード世界の民話と伝説 11 講談社 1965.2.5(昭40) 〔N02/4640〕
146    白ステッキの歌 赤座憲久著 講談社 1965.2.20(昭40) 児童文学創作シリーズ 〔N02/230〕
147    こどもノンフィクション 19 来栖良夫,石川光男,神戸淳吉編 小峰書店 1965.3.20(昭40) 〔N02/4129〕
148    新版中学生全集 22 筑摩書房 1965.9.5 3版 〔S06/080/チク/8-22〕★
149    日本童話名作選集 4 あかね書房 1965.9.30(昭40) 〔S05/0216〕
150    名作にまなぶ私たちの生き方 6 神宮輝夫[ほか]編 小峰書店 1965.11.1(昭40) 〔S07/97〕
151    秋の目玉 福田清人著 講談社 1966.7.10(昭41) 児童文学創作シリーズ 〔N02/1094〕
152    あるハンノキの話 (短編集) 今西祐行著 実業之日本社 1966.12.25 創作少年少女小説 〔N01/B/35646〕
153    よみうりどうわ 10 読売少年新聞部編 盛光社 1967.3.10 〔N02/1582〕
154    暁の目玉 福田清人作 講談社 1968.10.20(昭43) 〔N02/1093〕
155    新選日本児童文学 3 鳥越信[ほか]編 小峰書店 1969.4.5(昭44) 日本児童文学集成 第2期 〔S05/0499〕
156    坪田譲治童話全集 第11巻 坪田譲治著 岩崎書店 1969.5.10(昭44) 〔S05/0396〕
157    新選日本児童文学 1 鳥越信[ほか]編 小峰書店 1969.6.5(昭44) 日本児童文学集成 第2期 〔S05/0497〕
158    新選日本児童文学 2 鳥越信[ほか]編 小峰書店 1969.6.5(昭44) 日本児童文学集成 第2期 〔S05/0498〕
159    浦上の旅人たち 今西祐行著 実業之日本社 1969.6.15 創作少年少女小説 〔N02/346〕
160    少年少女ベルヌ科学名作 NO.11 ジュール=ベルヌ著 新版 学習研究社 1969.10.20(昭44) 〔N02/3609〕
161    びわの実学校名作選 少年版 坪田譲治編 AJBC版 東都書房 1970.12.1(昭45) 〔S07/1575〕
162    2年のどくしょ 2しゅう 小川末吉[ほか]編 光文書院 [1971] 〔S07/3352〕
163    おおかみのまゆ毛 松谷みよ子著 大日本図書 1971.6.30 子ども図書館 〔N02/1144〕
164    たのしいどくしょ 1ねん 毎日文庫読書教材研究会,平井充良編 教育同人社 1971.9 〔S07/2125〕
165    たのしいどくしょ 2ねん 毎日文庫読書教材研究会,平井充良編 教育同人社 1971.9 〔S07/2126〕
166    楽しい読書 3年 毎日文庫読書教材研究会,平井充良編 教育同人社 1971.9 〔S07/2127〕
167    楽しい読書 4年 毎日文庫読書教材研究会,平井充良編 教育同人社 1971.9 〔S07/2128〕
168    楽しい読書 5年 毎日文庫読書教材研究会,平井充良編 教育同人社 1971.9 〔S07/2129〕
169    楽しい読書 6年 毎日文庫読書教材研究会,平井充良編 教育同人社 1971.9 〔S07/2130〕
170    戦争児童文学傑作選 3 日本児童文学者協会編 童心社 1971.9.1(昭46) 〔K02/0240〕
171    こどもの世界文学 21 神宮輝夫[ほか]責任編集 講談社 1971.9.10(昭46) 〔N02/2543〕
172    小さな河 恁エ健二郎著 信濃教育会出版部 1974.9.20(昭49) 〔S07/1489〕
173    少年少女日本文学全集 24 講談社 1977.2.10(昭52) 〔K02/0280〕
174    新版宮沢賢治童話全集 8 宮沢賢治著 岩崎書店 1978.12.20 〔S07/2309〕
175    教室 (詩集) 伊達温著 黄土社 1979.3.5(昭54) 〔K02/3366〕
176    日本児童文学名作選 13 あかね書房 1980.2.25(昭55) 12刷 〔S05/0551〕
177    『あの子』はだあれ 早船ちよ著 新日本出版社 1982.3.25 新日本少年少女の文学 15 〔S07/1995〕
178    日本の昔話 柳田国男著 新潮社 1983.6.25(昭58) 新潮文庫 〔ヤナ3/ニ17〕
179    中学生の文学 4 成城国文学会編 ポプラ社 1984.4.20(昭59) 〔S05/0256〕
180    遙かなりローマ 今西祐行作 岩崎書店 1985.12.16 現代の創作児童文学 16 〔S07/401〕
181    長崎源之助全集 7 長崎源之助著 偕成社 1987.6 〔ナガ35/1-7〕
182    今西祐行全集 第10巻 今西祐行著 偕成社 1990.8 〔イマ6/1-10〕
183    今昔ものがたり 杉浦明平作 岩波書店 1995.7.14 2刷 岩波少年文庫 〔スギ20/コ2〕
184    宮沢賢治絵童話集 9 宮沢賢治[著] くもん出版 2011.5.28 12刷 〔b/ミヤ〕
185    宮沢賢治絵童話集 4 宮沢賢治[著] くもん出版 2013.4.24 13刷 〔b/ミヤ〕
186    全集古田足日子どもの本 第9巻 古田足日著 童心社 2015.6.15 3刷 〔フル13/1-9〕

〔2019年8月31日追記〕
太田大八さんが亡くなられて丸3年が経った。太田さんは1918年12月の生まれだから(吉岡より1歳年長)、昨2018年は生誕100年だった。先日、106番の安藤一郎等編《世界童話文学全集 6〔アメリカ童話集〕》(講談社、1959年11月10日)を入手した。同書の「装本」は秋岡芳夫、「レイアウト」は安野光雅である。太田さんは巻頭の〈オズのまほうつかい〉(L・フランク・バウム作、白木茂訳)で、2色とモノクロの「さしえ」を担当しているほか、合計4点のカラーの口絵・さしえを描いている。2色のさしえから1ページ大のもの5点すべてを、カラー口絵・さしえから2点を択んで、以下に掲げる。同書の奥付裏広告によれば、《世界童話文学全集〔全18巻〕》は第1巻がギリシア神話、第18巻が世界童謡集。表紙は背・革、平・クロス、表紙1にはくぼみをつけて、カラーのカット(本文とは別の〈オズのまほうつかい〉)と別タイトル、巻数を印刷した題簽を貼るといった凝りようで、見た目は派手なくせに、造りは堅牢。定価は360円。本書の前年に刊行された吉岡の詩集《僧侶》(書肆ユリイカ)が300円だったから、子供向けの本としてはかなり高額だ。個人での購読よりも、学級文庫や図書館の購入を想定した造本のようだ。

〈オズのまほうつかい〉の2色さしえ 〈オズのまほうつかい〉の2色さしえ 〈オズのまほうつかい〉の2色さしえ 〈オズのまほうつかい〉の2色さしえ 〈オズのまほうつかい〉の2色さしえ 〈オズのまほうつかい〉のカラー口絵 〈オズのまほうつかい〉のカラーさしえ 《世界童話文学全集 6〔アメリカ童話集〕》(講談社、1959年11月10日)の表紙
(左から)〈オズのまほうつかい〉(L・フランク・バウム作、白木茂訳)の2色さしえ(5点)と同・カラー口絵・さしえ(2点)と同作を収録した《世界童話文学全集 6〔アメリカ童話集〕》(講談社、1959年11月10日)の表紙〔装本:秋岡芳夫〕 絵はいずれも太田大八

上掲の186件以外にも、太田大八による挿絵は数多く存在する。そのひとつ、〈吉岡実と《アラビアンナイト》〉に掲げた森田草平《アラビアンナイト〔小学生全集63〕》(筑摩書房、1955年2月5日)の表紙絵、口絵(いずれもカラー)と挿絵(モノクロ)の5年後に手掛けた中近東ふうの挿絵――《少年少女世界文学全集 41〔東洋編 1〕》(講談社、1960年11月20日)に収録の〈王書物語〉と〈トルコ民話〉――を掲げる。なお、〈王書物語〉の挿絵は5点から、〈トルコ民話〉の挿絵は3点から、択んだ。ちにみに、リンクを張った本書の国立国会図書館の書誌は、ヴィジュアルに関する情報を欠いている。本書から拾えば、「装本」は池田仙三郎、「さしえ」は沢田重隆・田中田鶴子・油野誠一・太田大八・田中実一・大沢昌助の6人である。

〈王書物語〉のカラー口絵 〈王書物語〉のモノクロ扉絵 〈王書物語〉のモノクロ挿絵 〈トルコ民話〉のモノクロ扉絵 〈トルコ民話〉のモノクロ挿絵
(左から)〈王書物語〉のカラー口絵、同・モノクロ扉絵、同・モノクロ挿絵、〈トルコ民話〉のモノクロ扉絵、同・モノクロ挿絵 いずれも《少年少女世界文学全集 41〔東洋編 1〕》(講談社、1960年11月20日)収録の太田大八の絵


詩篇〈模写――或はクートの絵から〉初出発見記(2016年10月31日)

2016年9月20日は、当サイト《吉岡実の詩の世界》にとって記念すべき日となるだろう。1967年10月刊行の思潮社版《吉岡実詩集》に収録されて以来、その初出掲載媒体と(当然のことながら)初出本文が判らなかった詩篇〈模写――或はクートの絵から〉(E・4)のそれが判明したのである。ことの次第はこうだ。9月18日(日)、〈ヤフオク!〉に「○『海程』昭和38年8月第9号編集金子兜太」が出品された(出品者はimagon427さん)。そこには表紙と裏表紙の写真とともに、

○『海程』昭和38年8月第9号編集金子兜太
  <全48ページ>  
  
○作品
 「特別寄稿作品<詩>」吉岡 実
 「特別作品15句」林田紀音夫 〔……〕
 「同人作品」〔……〕 堀 葦男 〔……〕 隈 治人 〔……〕 金子兜太

○文章
「意識と知識」金子兜太(1ページ)
 〔……〕

・経年によるやけや手擦れがあります。
・表紙裏表紙ともにふち周りが濃くやけています。
・どのページもふち周りが濃くやけています。
・表紙の角に一か所しみがあります。
・冊子を綴じてあった穴が2つあいています。
・神経質な方はご遠慮ください。

とあった。この「「特別寄稿作品<詩>」吉岡 実」という1行を見たとき、「すわ、吉岡実の新発見の未刊行詩篇か」と色めいたが、「昭和38年8月」とあるのに気がついて、〈模写――或はクートの絵から〉に違いないと直感した。それというのも、今まで《〈吉岡実〉を語る》の

などで散散書いたように、同詩篇は1963(昭和38)年に執筆・発表された可能性が高いと考えてきたからだ。主な理由は、この年、フランスの画家リュシアン・クートー(すなわち「クートの絵」の作者)が来日していること、詩人の長田弘がおそらく初出から3行を引用してコメントしていること、の2点である。ただし、1963年執筆・発表と推定するまでには、生前の吉岡さん本人や陽子夫人、さらには長田さんにまで問いあわせる非礼を犯しながら、ついに初出探索につながる情報を得られなかったという経緯がある。ところで、前掲オークションの終了日時は1週間後の9月25日(日)午後8時過ぎである。開始価格は「300円」と手頃なのでなんとしても落札したいが、一刻も早く誌面を見て〈模写――或はクートの絵から〉なのか新発見の未刊行詩篇なのか確認したい。自宅から国立国会図書館のOPACで《海程》を検索するも、当該号は所蔵されていない。次に俳句文学館のOPACで検索すると、ありがたいことにちゃんと所蔵されている(ちなみに日本近代文学館も同号を所蔵しているが、駒場には別件で前の週に行ったばかりだし、なによりもわが家からは俳句文学館が近い)。翌19日(月)は仕事で動けなかった。雨模様の20日(火)に新宿・百人町の同館を訪ね、《海程》9号を閲覧した。〈目次〉にはまぎれもなく「寄稿―模写 或はクートの絵から……………吉 岡  実…2」とある。30年来、探索していた詩篇との出会いである。ページを繰る間ももどかしく本文に目を通すと、どうやら異同はなさそうだ(天気が良くなかったので、対校すべき本文である詩集《静かな家》は持参しなかった)。ようやく落ち着いてほかのページを見ると、表紙3(奥付も同ページ)の〈編集後記〉に《海程》の編集者(であり同人代表)である金子兜太が「吉岡実さんの新作をいただいた。約半年間どこにも作品をだしていないので、吉岡ファンの多い俳壇への良きプレゼントであるはず。」と書いているではないか。確かに吉岡はこの年、詩篇〈珈琲〉(E・3)を《美術手帖》2月号に発表して以降、詩を発表していない(金子と吉岡の間で「最近、詩の方はどうですか?」「いやぁ、この半年ほど書いてなかったんでね」といったやりとりがあったかもしれない)。〈模写――或はクートの絵から〉の発表時期に関するかぎり私の推測は的を射ていたものの、掲載誌の《海程》にまで調べが及ばなかった。かくして30年ほどまえ、吉岡実の単行詩集収録の全262詩篇の初出の探索を志して以来、荏苒として今日に至った。吉岡は、永田耕衣の《琴座》や高柳重信の《俳句評論》には何度も寄稿しているが、先走っていえば、金子兜太の《海程》には〈模写――或はクートの絵から〉を寄せただけではないだろうか。今後の調査に俟ちたい。

本稿は、《文献探索2007》(金沢文圃閣、2008年)に掲載した〈個人書誌《吉岡実の詩の世界》をwebサイトにつくる〉に倣いつつ、執筆した。最後に今回のオークションで入手した、〈模写――或はクートの絵から〉を掲載した金子兜太編集の俳句同人誌《海程》〔発行所の記載なし、発行者は出沢三太〕9号〔2巻9号〕(1963年8月)の写真を掲げて、本稿を終えよう。
《海程》9号(1963年8月)の〈編集後記〉と奥付 《海程》9号(1963年8月)の〈模写――或はクートの絵から〉の本文 《海程》9号(1963年8月)の〈目次〉 《海程》9号(1963年8月)の表紙1
《海程》9号(1963年8月)の〈編集後記〉と奥付、同・〈模写――或はクートの絵から〉の本文、同・〈目次〉、同・表紙(左から)


秋元幸人〈森茉莉と吉岡実〉の余白に(2016年9月30日)

巻末に〈小説西脇先生訪問記〉を付録のように収めた秋元幸人の随筆集《吉岡実と森茉莉と》(思潮社、2007年10月25日)は書名の とおり前半を 吉岡実に、後半を森茉莉に充てた構成になっていて、吉岡に関する3篇、森に関する2篇の随筆をあたかも屏風の蝶番のようにつなぐのが〈森茉莉と吉岡実〉で ある。これは吉岡実装丁になる森茉莉の3冊めの随筆集《記 憶の絵》(筑 摩書房、1968年11月30日)刊行にまつわる森と吉岡の文章を中心に据えた、両者の交遊をたどる論考でもある。秋元の文献の博捜ぶりはふだんにも増し て広く、気合が入っている。と書いたからといって、それを叙する秋元の筆が高雅であることはいうまでもなく、森茉莉への献呈署名入りの思潮社版《吉岡実詩 集》(1967年10月1日)を神田・神保町は田村書店の店主から贈られた僥倖を枕に、同詩集こそ家蔵する和書で「最も珍重するもののひとつ」(本書、六 五ページ)と締めくくるあたり、随筆家としての秋元の力量がいかんなく発揮されている。私としては「森茉莉と吉岡実は、方法こそ違え、共に上辺[うわべ] から奥へ、表層から深部へと我々読者を力強く引っ張っていってくれる作者たちなのであって、彼らは退屈な此岸に留まる人でも奇怪な彼岸に行きっぱなしの人 でもなかった」(本書、六三ページ)という断案を含む本文を味読せよ、と言えば済んでしまうのだが、2点だけ秋元の触れていない森茉莉の文章を紹介した い。本稿の標題を「余白に」とする所以である。

〔書簡〕宮城まり 子宛(一九六七年? 一〇月四日付)

  この間は鮭の白ソース菠薐草入りとトマト玉葱サラダと、焼肉をごちそうさまでした。もしかしたら出る、熊日の、私の三分の二生記の中の「鮭の白ソース」と 「続・鮭の白ソース」を早く読んでいただきたいわ。熊日の三枚こま切れのずいひつは面白いことのところは続に、続々まであるのです。私の処女出パン(きら ひな言葉です)の時装ていをして下さつた、今では詩人で何とか賞の吉岡実さんが、私の熊日のずいひつを今あづかつてゐて、吉岡さんの、まだみたことのない 奥さんは不幸なことに私の時々抜けてゐるらしいこま切れを一、二、の順に百枚も帳面に張りつけていらつしやいます。早く読んでいたゞきたいと思つてゐまし たが、まづ順にはりつけてからのことらしいもやうです。〔……〕(《森茉莉全集8〔マドゥモァゼル・ルウルウ〕》筑摩書房、1994年1月10日、七一二 ページ)

「夏の間」――或る残酷物語

 去年の夏は惨澹たる夏だつた。私は、強いとはいへないといふよりむしろ弱い頭に、一年半も前からとり憑かれてゐるもの(それは深刻な恐怖と絶望である) があつて、そのとり憑いたものはとり憑いたままで、そこへ二年前(多分二年前)に、熊本日々に連載された随筆かと思ふと小説の切れつぱしのやうな、三枚づ つにこま切れになつた私の三分の一生記が筑摩書房から出ることになつた。(今度どこかに出た筑摩書房の広告に、四半分の一の自伝、と書いてあつたのは怒 [いか]りである。二十六歳までを書いたのであるから、四半分の一と言ふと、現在百四歳になる筈だからだ)とり憑いてゐるものといふのは去年の二月に中篇 を出した超長篇小説(私としてはである)の後篇が、書き出しの二枚で止まつてしまつてどうしてもかうしても出て来ないといふ絶望である。(私はフィクショ ンの小説の時にはいつも、《今度は書けない》といふ恐怖にとり憑かれ、それが長く続いて絶望するのである)筑摩の本の方は、推敲も楽だし、頁が足りないた めの書き足しもする【く の字点】出来たので別に惨澹ではなかつたのだが、その書き足しが十三篇、大変にうまく出来て、新聞の切抜きを貼りつけた紙の束と一緒に、筑摩書房と書いた 厚い大きな紙袋にをさまつた日、私はもう二つ三つ書き足しを造らへようと言ひ、担当の吉岡実氏も賛成したので、私はその貴重な紙袋をもつて部屋に帰つた。 ところがその紙袋を屑屋に持つて行かれたのである。〔……〕呑気といふのか、馬鹿といふのか、どんなことが起つても頭の芯までは届かない具合で、泰然とし てゐる私も(それは胆が据つてゐるのではなくて、神経が緊張する時の筋の彎縮度が生れつき弱くて弛んでゐるためのやうである)、原稿の袋が新聞の山と一し よに消え去つたのを見た時には頭の芯が冷たくなつた。吉岡氏がどんなに呆れ返るだらう、といふ考へが頭を占領し、直ぐに報らせれば屑屋の家に在るかも知れ ない、といふことにも気がつかなくて、ただ【く の字点】青息吐息で三日間を暮したので、新聞の切抜きを貼つた紙束と、二度とふたたび、それと同じには書けない、よく出来た書き足しとは、どこかの溶解炉 の中でゆめの如くに溶け去つたのだ。
 〔……〕(《森茉莉全集3〔私の美の世界/記憶の絵〕》筑摩書房、1993年9月20日、六三二〜六三四ページ)

私の知るかぎり、森茉莉が吉岡実に言及したのは以上の2篇――書簡・随筆とも森茉莉〔早川暢子編〕《貧乏サヴァラン〔ちくま文庫〕》 (筑摩書房、 1998年1月22日)に収録されている――と、執筆時期としてはその中間(1968年秋)に位置する《記憶の絵》の〈後記――原稿紛失の記〉の計3篇 で、秋元の随筆は上掲2篇には触れていない。もちろん、森茉莉と吉岡実に関して並びなき博覧強記を誇る秋元がそれを知らなかったはずはない。叙述の展開 上、触れるに及ばずと判断したからにすぎまい。〈「夏の間」――或る残酷物語〉は小島千加子の〈解題〉によると「本巻〔《森茉莉全集3》〕所収「記憶の 絵」の「後記」(【五 二七→五二八】頁)に記されている出来事を詳述している」(同書、七〇〇ページ)もので、内容からすれば筑摩書房のPR誌《ちくま》に載ってもおかしくな い文章だが、そうはならなかった。第一、《ちくま》の創刊が1969年の5月、と森が《群像》同年2月号に随筆を発表したよりも後である。だがそれよりも なによりも、《記憶の絵》の巻末に〈後記――原稿紛失の記〉がある以上、屋上屋を架す必要はない。もっとも、この随筆が《記憶の絵》刊行のプロモーション に一役買ったかどうかは疑わしい。森茉莉自身、〈「夏の間」――或る残酷物語〉をどの単行本にも入れず、今日われわれが 手軽に読めるようになったのは《森茉莉全集3〔私の美の世界/記憶の絵〕》の〈一九六〇年代のエッセイ〉に初めて収録されてからである(前述のように、同 文の最も入手しやすい版は《森茉莉全集》を底本として「食」の短篇を編んだ文庫オリジナルの《貧乏サヴァラン》)。《記憶の絵》の単行本は1968年の刊 行だが、その後、旺文社文庫(1982年4月23日)とちくま文庫(1992年2月24日)が出た。旺文社文庫版には白石かずこが解説を寄せている。「最 初、懐古的な気持ちでこの明治大正随筆式写真館にはいったものは、よみすすむにつれ、これは一幕物の巴里で演じられる芝居かと錯覚し、いや、短篇の超短い ものだが、美事、美事と思っているうちに、森茉莉の縦横な筆の中で、いつのまにか日常の中で眠らせ、窒息させていた自分というメフィストを生き返らせ、精 神の自由と美の美味しさに、舌つづみをうっている自分に気づくのである」(同書、二五六ページ)。ちなみに吉岡実に森茉莉の新聞連載の文章を一本にまとめ るよう依頼したのは、白石かずこである。なお同文庫版では、経緯は不明だが、かんじんの〈後記――原稿紛失の記〉が省かれている。

秋元幸人《吉岡実と森茉莉と》(思潮社、2007年10月25日)のジャケット
秋元幸人《吉岡実と森茉莉と》(思潮社、2007年10月25日)のジャケット

《吉岡実と森茉莉と》は、〈吉岡実と北園克衛――『圓錐詩集』から戦後詩へ〉〈吉岡実と大岡信――Voila deux collines enchantees!〉〈吉岡実の食卓――吉岡実と土方巽〉〈森茉莉と吉岡実〉〈森茉莉と巴里〉〈森茉莉と下町〉〈小説西脇先生訪問記〉の7篇を収め る、今のところ秋元幸人が吉岡実のことを書いた最後の著書である。


《土方巽頌》の〈40 「静かな家」〉の構成について(2016年8月31日)

吉岡実の評伝《土方巽頌》(筑摩書房、1987年9月30日)は副題に「〈日記〉と〈引用〉に依る」とあるとおり、吉岡の〈日記〉と、土方巽およびその人と作品に親炙した人人の記した文章の〈引用〉を骨格としている。そして本書を他の土方巽関連の書物と分かつように、要所要所に吉岡が土方や土方以外の暗黒舞踏の踊り手に捧げた詩篇を配している。本稿では、吉岡の詩集《静かな家》(思潮社、1968年7月23日)の書名を踏襲した土方の舞台《静かな家前篇・後篇》をめぐる記述を手掛かりに、《土方巽頌》の成りたちを見てみよう。構成=アスベスト館、担当=合田成男・國吉和子〈土方巽年譜〉には「昭和四十八(一九七三)年 四十五歳」の項に「九月 燔犠大踏鑑、西武劇場公演(踊り子フーピーと西武劇場のための十五日間)「静かな家前篇・後篇」の演出・振付・出演(西武劇場)、出演者には他に芦川羊子、小林嵯峨、仁村桃子、和栗由紀夫、山田一平、大須賀勇、ら。/十月 大駱駝艦・天賦典式「陽物神譚」(日本青年館)に特別出演。舞台出演の最後。以後、演出・振付に専念」(土方巽遺文集《美貌の青空》筑摩書房、1987年1月21日、二四七ページ)とある。すなわち土方が舞台に立った最後からふたつめの作品が、これだった。《土方巽頌》の〈40 「静かな家」〉の本文に番号を振って、以下に掲げる。

@「〈静かな家〉ですがとても一口では言えません。今回は『田の草取りよりは戦争は楽だ』という背景を通過したのです。私の生家もかつては『英霊の家』という表札がかかっていましたが、この間帰ってみた時は家屋敷は跡形もなく日本の少女だけが怪物的に生きのびているのを目撃しました。」 (土方巽)

A〈日記〉 一九七三年九月二日
 午さがり、西武パルコ劇場へ行く。出来たばかりで、「暗黒舞踏派」の舞台としては一寸立派すぎる。土方巽作品・踊り子フーピーと西武劇場のための十五日間と称し、「静かな家」前篇後篇を二回に分けての公演だった。若い男女の舞い手二十四、五人の舞踏劇でたしかに力作ではあるが、冗漫で単調な構成に見えた。しかし、土方巽の独舞は秀逸。瀧口修造夫妻、天沢退二郎夫妻、岡田隆彦夫妻らと会った。/同月十五日・午後一時ごろ、パルコのウエアハウスで陽子とコーヒーをのみ、劇場へ行き、「静かな家」後篇を観る。三時間近く、緊張をしいられる舞台だった。――あらゆる芸術家にはかつての自己の作品を、引用し、変形し、増殖してゆくという、営為がある。この作品にもそれがあるように思われた。めずらしく、誰とも会わず、受付の土方夫人に挨拶して帰る。

B「夏の盛りの蛙の合唱、虫の音、雀などのさえずる鳥の声、お経のように果てしなく詠唱される瞽女の歌などだ。時たま、戦闘の射撃音の乱射、緊張をかきたてる電話の音が空間をケイレンさせ、不明瞭な、雑音の交じった外国語放送……。そして舞台を横切るドテラの女達の下駄の音、聞きとり難い東北弁のセリフ、着物の裾を端折って尻を客席に向けてのアヤーという声、つんざくような叫び声、男達が四つんばいになりだらりと舌をだし、ハアハアとはいずり回る犬の吐く息……。ジックリと時間をかけて演じられる。特に土方巽の肉体は、ゲッソリとやせ、しかし明確に筋肉と骨と内臓をムダなく見せ一分のスキもない。ある時は上手の隅で破れかぶれのドテラの極彩色をまとった背を客席に向け、わずかずつ中央に向けて歩みながら、徐々に背からずり落してゆく衣裳、露わになる白塗の背、腰、又、超スロービデオで見るように、手を前に出し屈曲させ、首をかしげさせ、腰を床に落してゆくのに、大げさにいえば永遠の時を費しているように見えた。」 (古沢俊美)

C「舞台に立つだけの仕上げのできたとき、彼の体からは肉という肉が削ぎ落されていた。鳩尾から腹にかけて、肉がないというよりも『虚』が露出しているという感じがあった。腕や腿にも、もはや筋肉と呼ぶべきものはなく、清浄な『筋』だけが勁く静かに動いている。それを見つめながら、彼の節食や鍛錬を思い描いてみても、そもそもボクサーの減量の苦闘とは質がちがっている。土方巽の場合、肉の削ぎ落しはすでにして手段ではなく自己目的なのだ。」(出口裕弘)

D 結局 妻とはバロック芸術の花飾り
  ほとばしることが出来る?
  建物の正面へ
  再び生きかえるツタの葉が見えるかね!
  宗教的なステンドグラスの
  永遠保存が可能ならば
  まばゆく開け
  散り行く量のなかに
  大麦の種子
  あらかじめ受け入れねばならない
  夫が刷画をする
  絹を裂く朱漆りの小さな絵
  スギの木の向うにある
  川をながれながれて行く馬と兵隊の
  世界の静かさ
  女中が一人帰ってくる
    「静かな家」より

見てのとおり、@は土方巽の文章。初出は「燔犠大踏鑑「静かな家前篇・後篇」 昭和四十八年九月二日―一六日 西武劇場」(《美貌の青空》、二三九ページ)だとあり――おそらく公演のプログラム冊子だが、未見――吉岡が依ったのは《美貌の青空》の本文だろうか。《美貌の青空》での記載は

 静かな家に住んでみたいと思って四十六年たちましたが、静かな大騒動が起っている家の中に現在も住んでいるという訳です。
 〔……〕
 「静かな家」ですがとても一口では言えません。今回は「田の草取りよりは戦争は楽だ」という背景を通過したのです。私の生家もかつては「英霊の家」という表札がかかっていましたが、この間帰ってみた時は家屋敷は跡形もなく日本の少女だけが怪物的に生きのびているのを目撃しました。〔……〕(〈静かな家〉、同書、九八ページ)

で、吉岡は「 」を〈 〉や『 』に改めているが、これは土方の文章を一重鉤括弧(「 」)で括って引用したための措置と思われる。

Aは吉岡の日記。「一九七三年九月二日」は舞台初日で、前篇を観ている。「同月十五日」は千秋楽の前日で、後篇。そのためか「めずらしく、誰とも会わず、受付の土方夫人に挨拶して帰」っている。ちなみに1973年9月15日は土曜日で祝日(敬老の日)だった。

Bは古沢俊美の舞台評。初出は《日本読書新聞》1973年9月24日(月曜日)8面の〈舞踏〉。標題は〈静かな家〉。「蘇生する死体」、「堂々と商業劇場を略奪――四つんばいの肉体が永遠の時をつむぎ出し」という見出しや「透み渡る風の音」、「死と隣り合せのワルツ」という小見出しが配されている。吉岡は省略した箇所を「……」で表記しているが、これが省略であるということは判りにくい。通常、(略)、(中略)、私なら〔……〕と表記するところだからだ。以下に該当する箇所の原文を〔 〕内に補って掲げる(あるいは〔B←原文〕)。

 〔スコットランドの森林にひびきわたるバッグ・パイプの狩りの音、演奏前の期待をかきたて、しかしいつ果てるともないオーケストラの練習音、無踏会のための軽快なワルツ、祝祭のため、或いはワグナー風の荘重なファン・ファーレ、ある時は小きざみにかすかに、そして高らかに力強くリズムを繰り返す大小の鐘・太鼓・シンバルなどの打楽器、電子音、式典用のオルガン、流麗なバイオリンとピアノ組曲、勇壮活発な運動会に流される吹奏楽といった極めてヨーロッパ風の(こんな言い方は今時あまり使われないが、しかしそうとしか言いようのない)楽の音が殆ど洪水のように主調音として場内をかけめぐる中でわずかにかぼそく間歇的に絞り出されるのが、〕夏の盛りの蛙の合唱、虫の音、雀などのさえずる鳥の声、お経のように果てしなく詠唱される瞽女の歌などだ。時たま、戦闘の射撃音の乱射、緊張をかきたてる電話の音が空間をケイレンさせ、不明瞭な、雑音の交じった外国語放送〔……←いや、中国語(?)放送、哀愁の糸をふるわせる朝鮮の歌(?)が、かいま場内を横切る〕。
 そして舞台を横切るドテラの女達の下駄の音、聞きとり難い東北弁のセリフ、着物の裾を端折って尻を客席に向けてのアヤーという声、つんざくような叫び声、男達が四つんばいになりだらりと舌をだし、ハ〔ア←ァ〕ハ〔ア←ァ〕とはいずり回る犬の吐く息〔……。←、童謡風の女達の合唱などが踊り手自身による音だ。
 客席、最後尾で見ていて、そうした音ばかりきいていたわけでは無論ない。舞台のソデとホリゾントをおおってコの字形に雨戸がタテ三段に五十枚ほど丸太に吊るされ、地がすりの黒地を刻々と汗と白いドーランで浸食させていく踊り手の肉体の集積は確かに舞台で繰りひろげられていた。踊りの技法はこれまで何回となく、イヤというほど見てきた暗黒舞踏のものだし、それ以上に、極めて緩慢に、〕ジックリと時間をかけて演じられる。特に土方巽の肉体は、ゲッソリとやせ、しかし明確に筋肉と骨と内臓をムダなく見せ一分のスキもない。ある時は上手の隅で破れかぶれのドテラの極彩色をまとった背を客席に向け、わずかずつ中央に向けて歩みながら、〔徐←序〕々に背からずり落してゆく衣裳、露わになる白塗の背、腰、又、超スロービデオで見るように、手を前に出し屈曲させ、首をかしげさせ、腰を床に落してゆくのに、大げさにいえば永遠の時を費しているように見えた。〔そして他の世界と日本の舞踊とハッキリ違うのは、床にあお向けに寝て、或いは安楽椅子の上での安息の姿態での殆んど、重病もしくは死と隣り合わせのワルツだろう。この時ほど場内になりひびく、ワルツそのものと対比的でしかも、たしからしさを感じさせる踊りは他にない。〕

さすがに吉岡の引用は的確だが、音響効果や音楽の演出に関する記載を割愛している点が興味深い。さらに、「序々に」を「徐々に」と訂している箇所が目を引く。本書の校正時にそれを訂正した可能性もあるが、そもそも原稿は古沢の舞台評の複写(コピー)に手を入れたものなのか、それとも吉岡が紙面から一字一句書きうつしたものなのか。

Cは出口裕弘の舞台評。初出は《芸術生活》1973年1月号(一五八ページ)で、モノクロ写真構成の〈鑑賞席〉(一五七〜一五九ページ)の〈土方巽の暗黒舞踏「燔犠大踏鑑」〉に添えられている。ただし舞台は、出口文〈「時」に逆らう〉の末尾に、改行して「(10・26〜11・22 東京・新宿文化)」とあるとおり、1973年9月の《静かな家前篇・後篇》ではなく、1972年10月〜11月の《土方巽作品集「四季のための二十七晩」――燔犠大踏鑑・第二次暗黒舞踏派結束記念公演》である。撮影者は「本誌 倉橋正」。吉岡の引用に該当する出口文の段落は以下のとおり。

 舞台に立つだけの仕上げのできたとき、彼の軀からは肉という肉が削ぎ落されていた。鳩尾から腹にかけて、肉がないというよりも、「虚」が露出しているという感じがあった。腕や腿にも、もはや筋肉と呼ぶべきものはなく、清淨な「筋」だけが勁[つよ]く静かに動いている。それを見つめながら、彼の節食や鍛錬を思い描いてみても、そもそもボクサーの減量の苦闘とは質がちがっている。土方巽の場合、肉の削ぎ落しはすでにして手段ではなく自己目的なのだ。〔少なくとも、彼の軀が観客の眼にさらされる最初の一瞬には、そうとしか思われない。〕

吉岡の引用に見える「体」は出口の原文では「軀」、吉岡の引用では「肉がないというよりも」のあとの読点(、)が脱落している。また初出では「勁く」に[つよ]とルビが振ってあったが、出口裕弘《風の航跡》(泰流社、1978年2月15日、二二九ページ)の本文ではルビが振られていない。同様に、初出「清淨」は単行本では「清浄」に改められた(なお単行本での標題は〈土方巽・「時」に逆らう〉)。ルビの有無と漢字の旧新からだけでは、吉岡が依拠したのが初出誌か単行本か判定しづらいが、単行本の可能性が高いように思う。ただし、双方とも《土方巽頌》巻末の〈引用資料〉には挙げられていない。吉岡が初出末尾の公演日に着目していれば、Cの出口の舞台評を《静かな家前篇・後篇》の項には引かなかったかもしれない。あるいは、それと知りつつこの項に据えたのなら、同公演と《土方巽作品集「四季のための二十七晩」――燔犠大踏鑑・第二次暗黒舞踏派結束記念公演》との連続性・類似性を強調したかったのかもしれない(「――あらゆる芸術家にはかつての自己の作品を、引用し、変形し、増殖してゆくという、営為がある。この作品にもそれがあるように思われた」)。今ある資料からだけでは、そこのところはどちらとも判断しかねるが、いずれにしても、〔体←軀〕から推測すれば、吉岡が出口の原文を書きうつしたものと考えられる。なお、出口裕弘は《土方巽頌》でもう一箇所、1974年11月28日の〈日記〉に登場する(同書、七九ページ)。この日、吉岡と共に白桃房舞踏公演《サイレン鮭》を観ている。

《芸術生活》1973年1月号、〈鑑賞席〉(一五七〜一五九ページ)の〈土方巽の暗黒舞踏「燔犠大踏鑑」〉の出口裕弘〈「時」に逆らう〉(一五八ページ)〔モノクロコピー〕。舞台写真は《土方巽作品集「四季のための二十七晩」――燔犠大踏鑑・第二次暗黒舞踏派結束記念公演》のもので、撮影者は「本誌 倉橋正」。 デザイン:田中一光の燔犧大踏鑑《静かな家前篇・後篇》のポスターにも《土方巽作品集「四季のための二十七晩」》の第五夜〈ギバサン〉(吉岡は1972年11月16日に観ている)の舞台写真が使われた(撮影:山崎博、タイトル文字:三島由紀夫、文:種村季弘)。(右)
《芸術生活》1973年1月号、〈鑑賞席〉(一五七〜一五九ページ)の〈土方巽の暗黒舞踏「燔犠大踏鑑」〉の出口裕弘〈「時」に逆らう〉(一五八ページ)〔モノクロコピー〕。舞台写真は《土方巽作品集「四季のための二十七晩」――燔犠大踏鑑・第二次暗黒舞踏派結束記念公演》のもので、撮影者は「本誌 倉橋正」。(左)
田中一光デザインの燔犧大踏鑑《静かな家前篇・後篇》のポスターにも《土方巽作品集「四季のための二十七晩」》の第五夜〈ギバサン〉(吉岡は1972年11月16日に観ている)の舞台写真が使われた(撮影:山崎博、タイトル文字:三島由紀夫、文:種村季弘)。(右)


Dは吉岡の自作〈静かな家〉(E・16、初出は《現代詩手帖》1966年4月号)の37行めから最終52行めまでの引用。《吉岡実〔現代の詩人1〕》(中央公論社、1984年1月20日)の〈自作について〉のための書きおろし〈三つの想い出の詩〉で、本詩篇についてこう書いている。

 この詩篇は、一種の副産物のようなものだった。「沼・秋の絵」はすでに出来、〔昭和三十七年正月の〕その夜は、「修正と省略」に没頭していた。深夜一時ごろ、遂に完成した。ほっとし、茶でも淹れて貰おうと、隣りの部屋を覗くと、妻の姿が見えない。何時、何処へ行ったのだろうか。今までにないことなので、不安にかられた。私は所在ないまま、原稿用紙に向っていた。いやむしろ心を鎮め、気をまぎらわすべく、自動記述の方法で詩を書きはじめたようなものだった。
 それから、一時間ほどして、妻が帰って来た。丁度その時、私の詩も、「女中が一人帰ってくる」の一行で、成立しているのだ。「まあッ失礼ね、(女中が一人帰ってくる)なんて」、妻は照れかくしに、怒って見せた。気晴しに、渋谷まで足を伸ばし、街を歩いてきたとのこと。また、詩作に熱中している私の姿が、しばしば、部屋いっぱいに拡がり、とても側に居られないとも、言うのだった。「静かな家」は、私の作品の中でも、短時間で成立した異例の詩篇である。昭和四十三年の夏、ほかに十五篇の詩を収め、詩集『静かな家』は刊行された。(同書、二〇六ページ)

詩篇の制作が1962年、発表が1966年、詩集の刊行が1968年(吉岡は1967年4月2日、初めて土方の舞踏に接しており、詩集《静かな家》は土方に献本したおそらく最初の新刊詩集)、土方の舞台が1973年。「静かな家」は、10年以上ものあいだ深く静かに潜行していた。吉岡が省略した詩篇冒頭から36行めまでの前半部分を引こう。

  パセリの葉のみどりの
  もりあがった形
  ぼくたちに妻があることは幸せ
  と叫んでいる男
  それは洋服のなかにいるというわけではない
  なおも酸性を求めて
  高い青竹の幹の節々をとんでいる
  クロアゲハの闇の金粉に
  溺れているように見える
  植物的人間
  妻とはなに?
  その食べている棚の上の
  ママレードの中心
  それぞれの夫の《ここに砂漠は始まる》
  食事は始まる
  詰りつつある壜のなかへ壜
  しかも夕暮
  息の上の
  紅蓮の舌から見える
  下る坂の鐘の舌は中世風に
  まるまるとして
  ひとつの十字架へ沿って降りて行く
  ではニッキはどんな地上から
  はこばれてくる?
  愛する唇へ
  ヴィクトリアのカエルまで雨でぬらす
  子供二人を先頭にして
  やってくるのだ
  春の嵐!
  これがほんとの抒情的なのか?
  母のうちなる柱
  その毛の描写できない六拍子
  森と同化している
  集まる鳥の
  うわむきに黒い細分化した
  蹠のなかの苦悩

初出〈静かな家〉が当初の制作時のままかどうかわからないが、いずれにしても土方巽の舞踏に接する以前の吉岡実詩ということになる。土方はこの詩篇に吉岡生来のものと異なるなにか(その即興性、その親密かつ平穏な超現実性)を嗅ぎつけて、そこから己の舞台を構想したのだろうか(「静かな家に住んでみたいと思って四十六年たちましたが、静かな大騒動が起っている家の中に現在も住んでいるという訳です」)。《静かな家》以降の吉岡は、《ポール・クレーの食卓》と《薬玉》を除くすべての詩集――すなわち《神秘的な時代の詩》《サフラン摘み》《夏の宴》《ムーンドロップ》――に土方への献詩や追悼詩、土方の舞踏や言葉から触発された詩篇を収めている。だが土方が自作の題名に藉りたのはそれらではなく、初期吉岡実詩の最後を飾る詩集とそのタイトルポエムだった。それは吉岡実詩の稀代の読み手としての自負ででもあった。


吉岡実にとっての富澤赤黄男(2016年7月31日)

1991年10月、浅草・木馬亭で〈吉岡実を偲ぶ会〉(発起人飯島耕一・大岡信・入沢康夫・種村季弘・高橋睦郎)が開かれ、近くの酒席 で二次会が あった。本来なら私が出るような場ではなかったが、筑摩書房の淡谷淳一さんに勧められるまま、出席させてもらった。出てよかった。隣りには中西夏之さん、 向かいには飯島晴子さんといった、こう した席ででもなければお会いできないような方から生前の吉岡さんのことを聞けたからである。俳句の話に限れば、《鷹》に執筆を頼むと、印刷所に入れなけれ ばならない絶妙のタイミングで原稿が届く、吉岡さんは俳誌の進行の裏も表も知りつくしているという飯島さ んの話も興味深かったが、吉岡実がいちばん好きだった俳人は富澤赤黄男だったのではないかという指摘には驚いた。周りの人との歓談での発言だったので、そ れ以上詳しく聞くことはできなかったが、永田耕衣でも山口誓子でもなく赤黄男だ、というのは記憶に残った。そしてその前年、吉岡さんが亡くなった1990 年の夏、《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991年4月15日)の〈吉岡実資料〉のための打ちあわせで監修の平出隆さん、編集の大日方公男さんとともに吉岡陽子さんをお宅に訪 うたとき、高柳重信が急逝した際、吉岡さんは本当に気落ちしたとうかがった。壮健でなかったとはいえ、自分より5歳年下の高柳が60歳の若さで他界したこ とは、痛恨の極みだった(詳細は吉岡の随想や追悼文に詳しい)。高柳の俳句や評論への信頼が第一にあったのはもちろんだが、赤黄男の弟子だったことも大き い、と今にして思う。《鷹》1972年10月号掲載の〈現代俳句=その断面〉の冒頭「俳句との出会い」にはこうある。

 藤田〔湘 子〕 きょうは詩人の吉岡〔実〕さん、歌人の佐佐木〔幸綱〕さん、それに俳壇から金子〔兜太〕、高柳〔重信〕のお二人においでいただきました。それぞれの ジャンルで活躍している方ばかりですが、はじめに、どんなふうにして言語表現とかかわり合うようになったのか、形式との出会いといいますか、できれば俳句 との出会い、そのへんのところを、すこしお話ねがえませんか。
 高柳  これは詩でも、短歌でも、俳句でも同じだろうけれども、自分というものと言語表現というものがどこかで出会うには、それなりの理由があるはずなんだけれ ど、ぼくの手許には、吉岡さんが兵隊に行くときにつくった詩集というのかな、あるいは歌集と呼んだほうがいいのか、それがあるんですよ。それをみるとぼく は、やっぱり涙ぐましい感じがするんだけれども、あのとき、吉岡さんがああいう小さな本を、なぜ出す気になったかというような話を聞いてみると、そういう ことが少しわかってくると思うんですよ。
 吉岡 なんだったのかし ら、それは。『液体』じゃないでしょ。
 高柳 ちがいますね。たく さんの短歌が載っている本で、たしか昭和十五年の発行だった。
 吉岡 『昏睡季節』という のがあったんですけど、それ?
 高柳 うん、それ。その本 に「手紙にかえて」という挾み込みの文章があって、出版のいきさつが書いてあった。
 吉岡 お宅にあるの? そ れはずいぶん不思議だな。(笑)(同誌、一二〜一三ページ)

吉岡は後年、随想〈わが処女詩集《液体》〉(初出は《現代詩手帖》1978年9月号)にこのことを書いている。

 現在、《昏睡季節》を所有しているのは、ほんの数人の友人だけである。そのなかの一人に高柳重信がいる。彼の言葉 によると、師 匠・富澤赤黄男の没後、その書架を整理していた時、この詩集を発見したそうである。彼は富澤未亡人に貰い受けたらしい。そのなかに、「手紙にかへて」とい う一葉が挿入されていたのである。彼はコピーして呉れた。私さえ忘れていた文章であった。

 〔……〕

 まことに恥しい文章を引用したが、次の《液体》の出版の動機も同じようなものであった。いずれも〈遺書〉のつもりだったのである。《液体》は【三十三→ 三十二】篇から、十二篇だけを一般に公表しているが、《昏睡季節》はまだ一篇も、そのような意味では活字化されていない。友人たちも信義あつく、一行とい えども引用すらしていない。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、七四〜七六ページ)

《昏睡季節》はある時期まで吉岡が触れたくない話題だった。だが、〈新しい詩への目覚め〉(初出は《現代詩手帖》1975年9月号)や 上掲〈わが処 女詩集《液体》〉あたりから吉岡の姿勢に変化が現れる。《昏睡季節》所収の詩篇を前者では5篇、後者では1篇引用しているのだ。座談会〈現代俳句=その断 面〉での高柳の発言がきっかけだろうが、《昏睡季節》こそが自身の詩的出発だったという自覚が生じたのではあるまいか。北園克衛の詩篇とともに当時の吉岡 実詩に大きな影を落としているのが、富澤赤黄男の俳句だった。

   赤黄男句私抄

  爛々と虎の眼に降る落葉    〈天の狼〉 
  寒雷や一匹の魚天を搏ち
  火口湖は日のぽつねんとみづすまし
  蜂の巣に蜜のあふれる日のおもたさ
  影はただ白き鹹湖の候鳥[わたりどり]
  瞳に古典紺々とふる牡丹雪
  蝶墜ちて大音響の結氷期
  冬の川キンキンたればふところで
  椿散るああなまぬるき昼の火事
  花粉の日 鳥は乳房をもたざりき
  海鳥は絶海を画かねばならぬ
  黴の花イスラエルからひとがくる
  幻の砲軍を曳いて馬は斃れ
  ゆく船へ蟹はかひなき手をあぐる
  蜜柑酸ゆければふるさとの酸ゆさかな
  恋びとは土龍のやうにぬれてゐる

  大地いましづかに揺れよ 油蝉    〈蛇の笛〉 
  石の上に 秋の鬼ゐて火を焚けり
  甲虫たたかへば 地の焦げくさし
  流木よ せめて南をむいて流れよ
  大露に 腹割つ切りしをとこかな
  秋天や われもかなしき侏儒[こびと]のひとり
  歯の缺けし男饒舌 一茶の忌
  やけくそに空罐[かん]を叩けば 日が没ちる
  切株はじいんじいんと ひびくなり
  男根の意識 たちまち驢馬啼き狂ひ

  満月光 液体は呼吸する    〈黙示〉 
  無名[アノニム]の空間 跳び上る 白い棒
  偶然の 蝙蝠傘が 倒れてゐる
  冬【縄→蠅】や 空[クウ]にひらいた土偶の目
  灰の 雨の 中の ヘヤピンを主張せよ
  蛇よ匍ふ 火薬庫を草深く沈め

  賑やかな骨牌[かるた]の裏面[うら]のさみしい絵    〈拾遺〉 
  雨の夜のふたりが噛る塩せんべい
  林檎は紅しいま大阪は昏れてゆく
  犬肉を啖ひわれ文芸のことは語らず
  紺碧のうつつの中の曼珠沙華
  螢掌にかりそめごとは言はずけり
  雨蛙きみ毒盃をかたむけよ
  夜鴉や愕然として灯に対す
  羽抜鳥 炎天ここにきはまりぬ

吉岡が未刊行の随想〈赤黄男句私抄〉(《富澤赤黄男全句集》栞、書肆林檎屋、1976年12月10日)で挙げた赤黄男の句である。富澤赤黄男が俳 句という形式を藉りて一行詩を書いたように、詩という形式で詩篇を書くこと――それこそが赤黄男の精神を受けつぐことだと思いさだめて、俳句から詩に転じ た吉岡の最初の著作が詩歌集《昏睡季節》(1940)であり、それをさらに押しすすめたのが詩集《液體》(1941)だった。そのことを裏書きするかのよ うに、吉岡が自ら句集を公刊することは生涯なかった。

朝は蝶の脚へ銀貨を吊す
感湿性植物の茎の内部で
釦のとれた婚礼が始まる
蝋燐寸の臭ひに微睡む空気よ
白い手套が南方に垂れ
造花に翳つてゆく倦怠
檣壁へ逆さまに体温を貼り
卓子の汚点で曇天を吸ひとる
停車場の鏡に鱗形の夢を忘れ
尖塔へ喪はれた童貞と星を飾る    (〈春〉@・1)

聖母祭の樹の下を発車する
脳髄の午睡へ沙漠をはさむ
温室で鸚鵡の金属性の嘴の
重量が遠い女の乳房に沈み
手袋に飛行機は入らぬとて
メロンの輪切うすく仰ぐと
透ける少年と犬の舌の冷い
不眠性も終らない中に舶来
の手帛でつつまれてしまう    (〈蒸発〉A・5)

赤黄男の処女句集《天の狼》の刊行は1941年8月1日で、吉岡はすでに出征していたため入手することができなかった。〈赤黄男句私 抄〉によれば、 吉岡が赤黄男の全貌を俯瞰したのは、1960年ころに高柳重信と識って《天の狼〔増補改訂版〕》(1951)と《蛇の笛》(1952)を贈られてからだと いう。それまで吉岡はどの版で赤黄男の作品を読んでいたのだろうか。私は《現代俳句集〔現代日本文學全集 91〕》(筑摩書房、1957年4月5日)の〈富澤赤黄男集〉だと思う。これは《天の狼》から184句、未刊の《風景画》から70句、《蛇の笛》から 238句の合計492句を抄したもので、編者は赤黄男自身だろう。吉岡が〈赤黄男句私抄〉で引いた《黙示》と〈拾遺〉を除く句の大半はこの〈富澤赤黄男 集〉に見える。両者を照らしてみると、初期の句ほど愛着が深く、近作になるほど淡くなっている(《黙示》は収録されていないが、その傾向はさらに顕著 だ)。《現代俳句集》刊行当時、のちの《僧侶》の詩篇を書きつつあった吉岡にとって、富澤赤黄男は永遠に《天の狼》の作者だったのである。
「素朴な俳句の読者である私には、これら抽象化の強力な作品は、俳句の枠を超えた「削殺の様式[ステイル]」の詩としか思えない。〔……〕同時代の詩人北 園克衛の詩句に非常に類似している、このリアリティを消失した俳句は私には愛せない」(〈富澤赤黄男句集《黙示》のこと〉、《「死児」という絵〔増補 版〕》、一一一ページ)。リアリティの有無――これが赤黄男の句だけでなく、広く吉岡の受容する詩歌の好悪の基準になった。リアリティが感じられないもの は、たとえ自作であっても(自作であればなおのこと)認めることができない。これが1960年代前半、《昏睡季節》の20年後の、吉岡の峻厳きわまりない 姿勢だった。それは、作品のリアリティを作品それ自体の裡に求める赤黄男の美学――晩年の《黙示》の詩学と、吉岡の求めるリアリティが火花を散らした瞬間 でもあった。ともに祖型を《天の狼》に仰ぎながら、この懸隔を赤黄男と吉岡がのちに歩んだの道の違い(句と詩)にだけ帰すことはできない。俳句型式に求め るものの違いが両者の乖離を結果したと見るべきだろう。
〈吉岡実の俳号〉で あえて書かなかったこと がある。句会で用いた俳号「四季男[しきお]」は赤黄男[かきお]の音を踏まえていまいか。《旗艦》に投稿したときの筆名「皚寧吉」は白雪皚皚を連想させ るが、放恣な想像を続けるなら、この白は「白」秋と「赤」「黄」男の向うを張ったものではないか。戦後の吉岡は、田尻春夢や椿作二郎などの旧友たちとの句 会にこそ参加したものの、句誌にはついに作品を寄せなかった。自身の俳句をすべて詩篇の中に封じたのだ。

富澤赤黄男の全句集三種――《定本・富澤赤黄男句集》(定本・富澤赤黄男句集刊行会、1965年11月1日)と《富澤赤黄男全句集》(書肆林檎屋、1976年12月10日)の本扉と現代俳句の世界16《富澤赤黄男 高屋窓秋 渡邊白泉〔朝日文庫〕》(朝日新聞社、1985年5月20日)のジャケット
富澤赤黄男の全句集三種――《定本・富澤赤黄男句集》(定本・富澤赤黄男句集刊行会、1965年11月1日)と《富澤赤黄男全 句集》(書肆 林檎屋、1976年12月10日)の本扉と現代俳句の世界16《富澤赤黄男 高屋窓秋 渡邊白泉〔朝日文庫〕》(朝日新聞社、1985年5月20日)のジャケット

吉岡実が富澤赤黄男に言及した章句を探していたら、《俳句評論》第200号終刊号〈追悼・惜別の高柳重信〉(1983年12月)に寄せ た〈高柳重信 断想〉にたしかに「戦前、『旗艦』で活躍した、私のもっとも好きな俳人、富澤赤黄男の愛弟子が重信であるのも、宿縁といえよう」(《「死児」という絵〔増 補版〕》、三一五〜三一六ページ)とあった。どうやら私は「『旗艦』でもっとも好きな俳人」と読んでいたらしい。ここは素直に「私のもっとも好きな俳人= 富澤赤黄男」と受けとるべきだった。また〈高柳重信・散らし書き〉(《現代俳句全集〔第3巻〕》立風書房、1977年11月5日)には「重信が唯一の師と 敬慕するモダニズム俳句の始祖・富澤赤黄男の全句集を、わたしはいま通読しているのだが、多行様式の俳句は、遂に一句も見出しえなかった。そのかわりに、 赤黄男は数多くの詩篇をひそかに書き残している」(同前、一一八ページ)という指摘がある。吉岡が句集出版の発起人(高柳重信ら他全30名)の一人となっ た《定本・富澤赤黄男句集》(定本・富澤赤黄男句集刊行会、1965年11月1日)の〈補注〉や〈拾遺〉をひもとくと、多行様式の俳句と詩篇(?)が掲載 されている。昭和15年の《風昏集》]には
  落日の断崖に立ち
  いまいちまいの貝殻をなげる
昭和17年5月号の《琥珀》には
  春は
  渡し舟、
  ……
  白い鷄ものつて渡る

  火を噴く山ははるかにて
  ……
  草の芽
昭和21年9月号の《太陽系》には
  春昼の
  つめたく酸ゆき果実
  かな
昭和21年10月号の《琥珀》には
  むらさきの、
  匂袋の
  十三夜。
とある。漢字(まれにふりがなを付ける)とひらがなとカタカナをべた書きした戦前の《天の狼》から/ /(一字アキ)や/――/(二倍ダーシ)を多用した 戦後の《蛇の笛》や《黙示》に至る赤黄男句の表記の変遷は、《静物》の節制禁欲から《ムーンドロップ》の繚乱放恣に至る吉岡実詩の表記のそれと機を一にし ているようで、こうした面にも注目しないわけにはゆかない。


吉岡実と西東三鬼(2016年6月30日)

吉岡実が西東三鬼に触れて最も痛切な文章は、三鬼が亡くなった1962年4月に先立つ同年1月号の《俳句》に寄せた書評〈富澤赤黄男句集《黙示》のこと〉 の冒頭の一節である。
 大岡信から西東三鬼と富澤赤黄男の両氏が大病だといわれた時、私はたいへんな衝撃をうけた。敬愛するこの二人の創 造活動が一時 なりにも停止し、また再起できないようであったら、俳句界のためというより、むしろ私のために痛恨事である。久しい間、私は両氏の近業をまとめて読むこと を切望していたから。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一〇九ページ)

三鬼生前最後の句集《変身》は同年2月、角川書店から刊行された。もし《変身》が上掲文の執筆前に出ていれば、赤黄男の《黙示》ととも に必ずや鑑賞 の対象となっただろう。吉岡に本格的な三鬼論がないだけに、かえすがえすも惜しまれる。それというのも、子規以降の俳人を縦横に語った座談会――飯田龍 太・大岡信・高柳重信・吉岡実〈現代俳句を語る〉――でも、三鬼の句は「水枕ガバリと寒い海がある」が登場するだけだからである。座談会の〈「白い夏野」 の意味〉の一節に見える同句の前後を《鑑賞現代俳句全集〔第10巻〕戦後俳人集T》(立風書房、1981年1月20日、月報\)から引く。

吉岡  ちょっと訊くけど、高屋窓秋の「頭の中で白い夏野となつてゐる」の句が、俳句では一つのモダニズムといっちゃ悪いけど、それの一つの原点なの?
高柳 それまで、こうい う句はなかったんですね。
吉岡 高屋窓秋というの は詩を読んでいなかったのかしら。たとえば安西冬衞だとか……。
高柳 読んでいたと思い ますよ。
吉岡 ほかのそういう影 響をひょっとしたら受けているんじゃないかな。ぼくはその作品は俳句として際立っているけど、詩の一行とした場合、竹中郁もあるし、安西冬衞もあるんだ よ。だから窓秋なんかはむしろ
   山鳩よ見れば回りに雪が降る
 ああいうのがぼくは絶品だと思うんだよ。
高柳 まもなく、そうい う句を書くようになりましたね。
吉岡 窓秋は相当に詩を 読んでいたんじゃないかなという感じするんだけどな。
高柳 そういう作品を書 いたときの窓秋さんは、二十一か二でしょう。
飯田 その問題がいま俳 壇でいちばんわからないところ。詩と俳句とのかかわり。
高柳  新興俳句系の俳人で良心的な勉強家は、それなりに詩集や詩の雑誌を読んでいたと思います。ただ、これはぼくの体験でもありますが、いわゆる詩論の形では、 なかなか肝腎なところが呑みこめ ないのです。言葉の問題を言葉で説いているからです。そこで美術雑誌などを手にして美術論の形で読むと、わりあいに納得がいくんですね。だから、篠原鳳作 の日記などを読むと、「少なくとも一ケ月に一冊は美術雑誌を読むこと」と書いてある。とにかく新しい文芸思潮を身につけようと努力はしているのです。
大岡 初々しいねえ。 (笑)
高柳  いずれにせよ、そこでようやく日常次元から独立した言葉の世界へ一歩を踏み出そうとするわけです。窓秋の「白い夏野」は、その第一作ということに意義があ る。それを現代詩では二十年も三十年も前から知っていると言われても、とにかく第一歩を踏み出さなければ、さらに四十年も五十年も置きざりになる。涙ぐま しい門出なんです。
大岡 その場合、最初に 俳句型式ありというのが絶対の前提なんだよね。とにかくそれを俳句型式の中でやりたいんだ。そういうことだと思うの。
吉岡 高屋窓秋がそれを やっている……。
大岡 とにかく誰が最初 にやるかということが重要になってくる。
吉岡 西東三鬼の例の
   水枕ガバリと寒い海がある
 これなんか澁澤龍彦にこてんぱにやられたんだ。こんなのがなんで名句だなんて言うけど、歴史的な価値ですね。
大岡 歴史的な意味の問 題。
吉岡 あれは歴史的に名 句なんだな。どうということないんだけど。(同月報、三〜四ページ)

澁澤龍彦は〈吉岡実の断章〉――この「断章」という形式が吉岡の随想のひとつのスタイルである――でこう書いている。「水枕ガバリと寒 い海がある   三鬼//かつて拙宅で酒を飲んでいるとき、私が右の名高い三鬼の句を、「オノマトペと比喩が通俗でだめだ」と徹底的に否定し、それに対して加藤郁乎と吉 岡さんが三鬼を擁護して、いつ果てるともなく議論したことがあった。そのうち、私たちは例によって泥酔して(もっとも、吉岡さんは飲まないけれども)、議 論の最終的な結着を見るにはいたらなかったが、私は今でも、その時の意見を撤回する気はさらさらないのである」(《ユリイカ》1973年9月号、六九ペー ジ)。確かに安西冬衞の詩篇の荘重な暗喩に親しんだ澁澤にとって、「水枕」「ガバリと」「寒い海」はいかにも軽く映っただろう。だが、俳句の歴史という文 脈に置いたとき、一句はやはり偉とするに足る。自身、歯科医師でもあった三鬼以前に、病床の己をこのように見すえた句は存在しなかったのではないか。そし てこの句を含む第一句集《旗》(三省堂、1940)や第二句集《夜の桃》(七洋社、1948)は、吉岡の作品と多くのものを共有する。ただしそれは、吉岡 の初期の俳句と、というよりも、吉岡の中期の詩篇と、といったほうがいっそう正確なのだが。

・松の花柩車の金の暮れのこる〔《旗》〕――凩や柩車の曲る街はづれ〔《奴草》〕

・ 黒人の掌[て]の桃色にクリスマス〔《夜の桃》〕――四階に住んでいる/画家と犬はなんだろう?/白塗りの星条旗の下で/叩かれている犬/写真に撮られる べく/ハンバーグを食う/タライのなかの黒人〔マクロコスモス(F・1)〕

・ 白馬を少女瀆れて下りにけむ〔《旗》〕――紅血の少女は大きな西瓜をまたぎ〔聖少女(F・10)初出形〕

・ 木枯や馬の大きな眼に涙〔《夜の桃》〕――わが馬ニコルスの水色の大きな瞳孔の/ふたたびまばたくまで/潜在的世界には/犯罪的な言葉が屹立する〔わが馬 ニコルスの思い出(F・16)〕

・ 昇降機しづかに雷の夜を昇る〔《旗》〕――高層温室で眠るべくエレベーターで昇る/みにくい花嫁花婿/同時にブドウが熟れる/まず大切なのは水の飲み方/ 船の帆を墨染にする/海の上のコレラに罹らぬために/裸になって蝶のように/ゼンマイの口でしずしず水を吸うんだよ!〔コレラ(F・18)〕

・ 緑蔭に三人の老婆わらへりき〔《旗》〕――ドジソン家の姉妹ルイザ マーガレット ヘンリエッタ 緑蔭へ走りこむ馬 読書をつづける盛装の三人 見よ寝巻 のなかは巻貝三個〔ルイス・キャロルを探す方法(G・11)――〈少女伝説〉〕

・海から誕生光る水着に肉つまり〔《変身》〕――ひとりの女が悪い想像からうまれるように/塩と水からタコは出現したのだ/漆黒の抽象絵画/砂は砂によっ て埋まり/貝は内部で生きる/それは過去のことかも知れない/夏の沖から泳ぐ女がくる〔タコ(G・2)〕――「この夏もある海岸で/黄色い海水着をきる/ 娘」〔この世の夏(H・24)〕

吉岡が永田耕衣句集《吹毛集》(近藤書店、1955)以前に西東三鬼句を読んでいたことは確かだが、その初めはいつなのか。残念ながらそれを記した文章は 見あたらない。1940年前後、すなわち吉岡が《旗艦》の富澤赤黄男の句に惹かれたころに、新興俳句の作家として三鬼の存在を知った可能性は充分にある。 《旗》刊行時に購読していれば、三鬼に触れた文章や談話に出て来そうなものだ。断言はできないが、戦前は句集の形では読んでいないのかもしれない。そんな ことをあれこれ考えるのも、吉岡が《旗艦》に投じた句はともかく、稿本詩集《赤鴉》(弧木洞、2002年5月31日)に収められた同時期の句稿〈奴草〉の 句が、赤黄男よりも三鬼に近いと感じられるからだ。吉岡実句集《奴草》(書肆山田、2003年4月15日)から引く。

 赤貝のひらく昼なり雨遠し〔〈奴草〉〕
 蛤の砂吐く夜の寝ぐるしき
 虹とほく眸を蜂のよぎりゆく
 夕立のあとに時計の音のこり
 雪ぞらや樽に落ゆく魚の首
 月の道足からつづく人の影
 寒月やさかしまにゆく人の影
    *
 フリイジヤ少年たばこ吸い初めぬ〔拾遺〕
 微熱あるひとのくちびるアマリリス
 ゆく春や白く灯りし聖母像

飯田善國著《見えない彫刻》出版記念時の芳名帖(1977年)の西脇順三郎・吉岡実・飯島耕一の墨跡
飯田善國著《見えない彫刻》出版記念時の芳名帖(1977年)の西脇順三郎・吉岡実・飯島耕一の墨跡
出典:夏目書房「飯田善国他芳名帖/西脇順三郎/吉岡実/飯島耕一/吉増剛造/井上輝夫/海藤日出男/橋元ヒロ子/飯田善国 他<<古書 古本 買取 神田神保町・池袋」

川名大は《現代俳句 上〔ちくま学芸文庫〕》(筑摩書房、2001年5月9日)の〈西東三鬼〉で、その作風をこう解説している。「西東三鬼の作品活動は昭和十年代の新興俳句運 動を通して無季俳句の可能性を追求した時期と、戦後、山口誓子[せいし]の「天狼[てんろう]」同人として自ら進んで誓子と行動を共にした時期とに大きく 二分される。昭和十五年八月に「京大俳句」弾圧事件で検挙されて以後、戦中に沈黙を余儀なくされた時期を隔てて、無季俳句から伝統的な有季俳句への転向が あったわけであるが、それは単なる季語の有無という形式上の問題ではなく、詩法上の大きな転換であった。したがって三鬼俳句の評価は戦前を是とする者と、 戦後を是とする者とに分かれている」(同書、二六三ページ)。吉岡は戦前と戦後の三鬼俳句のどちらを是としたであろうか。先に引いた中期吉岡実詩を顧る に、やはり戦前の句に愛着があったのではないだろうか。ちなみに前掲吉岡実中期の詩篇は、三鬼の歿後に書かれている。

 よく遊べ月下出でゆく若衆猫〔《変身》〕
 沖に船氷菓舐め取る舌の先
 鳶の輪の上に鳶の輪冬に倦く
    *
 禁断の書[ふみ]よセードの緑光に〔拾遺〕
 リアリズムとは何ぞ葡萄酸つぱけれ

〔付記〕
通雅彦は《円環と卵形――吉岡実ノート》(思潮社、1975年6月15日、初出:《後継者たち》10〜23号〔1966年6月 〜1969年5月〕の〈吉岡実に対するノート〉)の〈第三章 円環――俳句〉で西東三鬼の句を論じている。通はそこで《旗》の昭和十一年の〈三章〉の全句 「小脳を冷やし小さき魚をみる」「水枕ガバリと寒い海がある」「不眠症魚は遠い海にゐる」を挙げて、「〔……〕この一句〔「小脳を冷やし小さき魚をみ る」〕に三鬼現実の種々なリアリティーが、言語の実質放映、言語そのものを扇形の焦点とした、影の沃野を体感させるのであり、それがため一見単純に見える この一句に、全人的なものが、もろにぶち込まれて、うようよと、わずか十七文字の間隙に動めいているのがくみとれて来る」(同書、五四ページ)と書いてい る(通は〈第四章 放射――現代俳句〉でも三鬼の句を論じているが、その行文は晦渋を極める)。一体に通のこの本は、吉岡実詩の特質を「円環」と「卵形」 と捉え、膨大な「ノート」を積みあげているのだが、上掲文からもわかるように、たとえば三鬼(の句)と吉岡(の詩)がどう切り結ぶかについてはいっこうに 分明ではない。せっかく「滅びつつピアノ鳴る家蟹赤し」「蟹と居て宙に切れたる虹仰ぐ」「雲立てり水に死にゐて蟹赤し」(《今日》)や、ほか三句といった 三鬼作品を九句も引いているのだから、吉岡実詩とそれらがどう関係するのか訊きたいと思うのは私だけではないだろう。私は「小脳を冷やし小さき魚をみる」 を次のように読む。この句は「水枕ガバリと寒い海がある」の直前に置かれており、その先駆的なヴァリエーションである。「小脳を〔水枕で〕冷やし、私は 〔大脳の肥大した人間に較べて〕小脳がいきいきと運動系をつかさどる小魚の有する視覚が乗りうつったかのように、寒い海を游ぎまわる」――そのように深読 みしてはじめて、吉岡の溺死への願望/恐怖と、三鬼の句とのかかわりを設定しうるだろう。「不眠症魚は遠い海にゐる」は〈静物〉(B・2)を想わせる処が あるものの、俳句としては「水枕」や「小脳を」に及ばない。そしてまた「蟹」三句やほか三句が〈三章〉を超えることもない。


吉岡実と石田波郷(2016年5月31日)

吉岡実が石田波郷の人と俳句に触れた文章をめぐって、かつて私は〈吉 岡実散文の骨法〉を書いた。そこでは吉岡が引いた波郷の「女来と帶纒き出づる百日紅」を掲げただけだったが、随想集《「死児」という 絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)では、掲句のほかに

 英霊車去りたる街に懐手〔《鶴の眼》〕
 バスを待ち大路の春をうたがはず〔《鶴の眼》〕
 朝顔の紺の彼方の月日かな〔《風切》〕

の3句が引かれている。《風切》の「女来と」を含めて、愛吟句といってよいだろう。《鶴の眼》(沙羅書店、1939)、《風切》(一条書房、 1943)と、いずれも波郷初期の句集である。ここで波郷の句集を《石田波郷全集〔第一巻〕俳句T》(角川書店、1970年11月30日)の村山古郷〈解 題〉(同書、二九〇〜二九一ページ参照)で概観しておこう。

 @石田波郷句集(沙羅書店、1935年11月25日)
 A鶴の眼(沙羅書店、1939年8月25日)
 B行人裡(三省堂、1940年3月25日)
 C大足(甲鳥書林、1941年4月20日)
 D風切(一条書房、1943年5月5日)
 E病鴈(壺俳句会、1946年11月20日)
 F風切 再刻版(臼井書房、1947年5月25日)
 G風切以後(山王書房、1947年12月15日)
 H雨覆(七洋社、1948年3月25日)
 I胸形変(松尾書房、1949年11月15日)
 J惜命(作品社、1950年6月15日)
 K臥像(新甲鳥、1954年5月20日)
 L定稿惜命(琅玕洞、1955年5月20日)
 M春嵐(琅玕洞、1957年3月)
 N酒中花(東京美術、1968年4月15日)
 O酒中花以後(東京美術、1970年5月26日)


吉岡は波郷の句業全体を総括した文章を本に収めなかったが、前掲〈吉岡実散文の骨法〉でその全文を引いた〈鑑賞・石田波郷の一句〉には「私が波郷の句を愛 惜するようになつたのは、戦後である。/全詩業をみわたすとき『惜命』一巻が絶唱だと思う」(《俳句》1970年11月号〈石田波郷特集(全集発刊記 念)〉、六一ページ)とある。また、座談会――飯田龍太・大岡信・高柳重信・吉岡実の連載座談会〈現代俳句を語る〉(《鑑賞現代俳句全集〔第11巻〕戦後 俳人集U》立風書房・月報X、1981年2月20日)――では次のように語っている。

波郷について

吉岡 草田男は波郷を超 すと、龍太さんは買っているわけですね。ぼくは草田男、好きですよ。ただ俳句というものは宿命があると思うの。波郷のいわゆる泣かせるところで、ある点は とどまっちゃうと思うのね。
飯田 冷たいな、吉岡さ んは。(笑)
吉岡 草田男、もちろん 好きよ。大胆で……。ただ、波郷は早く死んだのね。草田男がこれで八十歳ぐらいになっちゃうと、絶対損すると思うよ。波郷のあの薄幸の生涯と、あの泣かせ る俳句のほうが強いんじゃないかと……。
大岡  ぼくも波郷を好きだったんですけど、このごろ感じているのは、波郷さんの句には、こちらでかなり補わないと一本でピーンと立ってこないところがあるんじゃ ないかということを感じているんです。それはあの人が俳句は文学ではないとか、そういう言い方で言っていることとも照応するわけで、言ってみれば、中村草 田男の句はやっぱり文学ですよ。その違いのような気がするのね。波郷さんの句は好きなんだが、どうもピンとこないものがある。
高柳  好き嫌いで言えば、ぼくも波郷が好きなんです。独特な情感があります。敗戦直後、その波郷の『胸形変』という闘病俳句が評判になったとき、やはり病気で死 にかけていたぼくは、それに挑戦しました。波郷俳句は病床日誌のようなものと照らしあわせて初めてよくわかるんで、完全に独立した言語世界にはなっていな い。そういう日常の事実にもたれかからぬ作品を目指して、それが『蕗子』になった。だが、俳人たちが実際に作品を読む平均的な力からすると、あまり厳密に 言葉の世界へ突き進んだものは馴染めないようで、むしろ波郷のように情緒的な曖昧さのある句が歓迎される。厳密に 言えば波郷俳句の「てにをは」は少しあやふやで、かなり有名な句にも大岡さんの言うようになにかを補わないと読めないものがあります。
吉岡  それはわかる。だからぼくが現在、波郷を最高に買っているんじゃなくて、それは冷たいと言われたけど、泣かせる俳句で終わるんじゃないかと、どうも思っ ちゃうのよ。新しいもの出ているよ。即物も結局、龍太さんがやっぱり素十にきたと言っているんでしょう。誓子の即物じゃなくて。だからそういう意味で、ぼ くは思っちゃうの、ひょっとしたら波郷が末永く愛されるというふうに。(笑)
大岡 すると君が波郷の 句であげるのはどういう句かな。
   霜の墓抱き起こされし時みたり〔《惜命》〕
飯田 だいぶ厳しくなっ てきたな。
大岡 あの句もなかなか むずかしい句なんだよね。なんだっけ、鵙の句……。
吉岡 たばしるや鵙叫喚 す胸形変〔《惜命》〕
大岡 ああいうあたりか ね、やっぱり。
吉岡 麻薬うてば十三夜 月遁走す〔《惜命》〕
とか、いまになると、多少彼の意気ごみとこっちの鑑賞は違うけどね。
   朝顔の紺の彼方の月日かな〔《風切》〕
 こういうのは永遠に生きのびていく感じするのよね。
高柳 波郷は「俳句は切 字ひびきけり」だから、「あ・うん」というかたちで作者から読者へなにか響けばいいんで、それが魅力です。まあ吉岡さんは俳人でないから俳句を外から楽し んでいればいい立場で。(笑)
吉岡  いや、そんな失礼なことはないのよ。いまだって若い人の俳句も読むから、俳句は好きだし。だけど、日本の詩の中で中原中也というのがいま抜群の人気でしょ う。大岡はどうか知らんけど、ぼくなんか中也って全然好きじゃない人。だけど、世の中の移り変り……これは仕方のないことであって、中也がいま最高の人気 ですよね。いかなる故にかわからないけれど、読み継がれていくんですね。だからそれに近く波郷はいくんではないかと……。
高柳  俳人として実際に俳句を作る側は、かなり無理を承知で無理をしますね。だから、たいていは妙なことになる。でも新しく俳句形式に富をもたらすためには、そ の無理をしないわけにはいかない。草田男も、その無理をした一人でしょう。しかし、波郷は俳句を破壊することを恐れた。とにかくあまり長生きをすると駄目 になりますね。(笑)
吉岡 いや、それは詩人 もそうだよ。
大岡 あそこまで生きて すごいのは、高濱虚子だけだよ。アハハハ。(同月報、四〜五ページ)

座談会などの談話の常で、吉岡発言の要旨はたどりにくいが、書き言葉ふうにまとめてみれば次のようになるだろうか。

 飯田龍太によれば、同じ「人間探求派」でも中村草田男は石田波郷を超えるとのことだが、私も草田男は好きだ。とりわけその大胆な ところが。ただ、俳句には俳句の宿命があって、波郷の「泣かせるところ」でとどまっってしまうのではないか。波郷は早くに死んだが、草田男が長命で八十歳 ぐらいになると絶対に損をする。波郷の薄幸の生涯と泣かせる俳句のほうが強いのではないか。
 たしかに大岡信や高柳重信が指摘するように、独立した言語世界にはなっていない作品、日常の事実にもたれかかった作品、なにかを補わないと読めないもの が波郷の俳句にはある。だから、波郷を最も高く買っているわけではなく、どうしても泣かせる俳句で終わるように思える。だが、それゆえに波郷の句は末永く 愛されるのだろう。
  霜の墓抱き起こされし時みたり〔《惜命》〕
  たばしるや鵙叫喚す胸形変〔同〕
  麻薬うてば十三夜月遁走す〔同〕
 こうした句は、今日では波郷の意気ごみほどには深く鑑賞することができない。しかし、
  朝顔の紺の彼方の月日かな〔《風切》〕
は永遠に生きのびていく感じする。ところで、いま日本の詩では中原中也が抜群の人気である。私は中也の詩は全く好きではないが、世の中の移り変りは仕方の ないことで、いかなる理由かはわからないが、読み継がれていく。波郷もそれに近いのではないか。
 高柳重信は、俳人はあまり長生きをすると駄目になると言うが、なにもそれは俳人に限らない。詩人にしても同じことだ。

ここで吉岡の波郷への言及を《「死児」という絵〔増補版〕》から引いてみよう。経過がわかりやすいよう、初出の発表順に番号を付けて並 べる。

@少年時代から好きだった俳句にいまだ大変愛情をもっている。虚子、茅舎、誓子、赤黄男、三鬼、楸邨、草田男、波郷 から前衛俳句 の加藤郁乎までたえず読んでいる。むしろ読まずにいられないのである。こころの一つの慰めといえようか。とりわけ、神戸隠棲の永田耕衣を逸するわけにはい かない。十三、四年前、偶然読んだ句集『吹毛集』一巻で、未知のこの俳人が一挙にわたしに親しい人となった。根源的というか、人間絶景説を唱える独自独往 の耕衣の俳句は、恐らく一つの極点と思われる。乱雑な読書遍歴が一つの比類ない個性との出会いを導いてくれたともいえるであろう。――〈読書遍歴〉(初 出:《週刊読書人》1968年4月8日)

Aある日、出入りの本屋さんが一冊の本を持ってきた。それが永田耕衣句集『吹毛集』であった。私にとって、それは未知の俳人であったが『吹毛集』という題 名が気に入った。私は読みながら驚嘆した。誓子、波郷、草城、三鬼というこれまでに読んできた俳人とまったく異質の鮮烈な個性を放つ作家を発見したから だ。――〈永田耕衣との出会い〉(初出:《銀花》第7号、1971年9月30日)

B〈3 波郷の三句〉――〈回想の俳句〉(初出:《朝日新聞》1976年7月18日)

Cわたしはいま、「友はみな征けりとおもふ懐手」のあとに、石田波郷の一句を置きたいという誘惑にかられる。――〈高柳重信・散らし書き〉(初出:《現代 俳句全集〔第三巻〕》立風書房、1977年11月5日)

D戦後になって、私は萩原朔太郎の詩を読み、西脇順三郎の詩を解し、新しい詩の世界の魔力にとりつかれてしまった。また一方では、斎藤茂吉の短歌と高浜虚 子の俳句にも魅了されていたのだった。それらの影響によって、土屋文明、宮柊二らの短歌を読み、山口誓子、石田波郷らの俳句を読んでいる。私は今も、声調 と韻律のすぐれた二つの定形詩を、漫然と愛好しているのに、すぎないのだ。だからとても解釈とか鑑賞を行うことは、その任ではないゆえ、ここに四人の歌人 の作品を選んで、掲げるだけである。――〈孤独の歌――私の愛誦する四人の歌人〉(初出:《短歌の本〔第一巻〕短歌の鑑賞》筑摩書房、1979年10月 20日)

Eいずれも諧謔味があふれ、従来から読んできた、秋桜子や誓子それから波郷らの端麗な俳句とは、趣を異にしている。私はたちまち耕衣俳句に魅せられてし まった。ことに「天心にして脇見せり春の雁」が好きだ。ここでは時間・空間が一瞬うごきを止め、うしろを振り向く雁の姿のみが悠然と見える。私はある随筆 の末尾をこの一句で飾ったのを、いま思い出した。しかし、私がもっとも愛着するのは、連作〈鯰笑図〉七句である。――〈耕衣秀句抄〉(初出:《俳句の本 〔第一巻〕俳句の鑑賞》筑摩書房、1980年4月8日)

これらを要するに、1955年10月に初めて触れた永田耕衣以前に親しんでいた俳人の代表が山口誓子であり石田波郷だった、という構図 になる。それ では「私が波郷の句を愛惜するようになつたのは、戦後である。/全詩業をみわたすとき『惜命』一巻が絶唱だと思う」という評価はどこから生まれたのだろ う。言い換えれば、吉岡はどの版で波郷の句を読んだ(読みなおした)のだろう。

 《石田波郷句集〔角川文庫〕》(角川書店、1952年3月15日)
 《定本石田波郷全句集》(創元社、1954年4月30日)
 《波郷自選句集〔新潮文庫〕》(新潮社、1957年10月5日)


これらのいずれかだろうが、《石田波郷句集〔角川文庫〕》がそれのような気がする。本書には《鶴の眼》(1)、 《風切》(2)、《病雁》(3)、《雨 覆》(4)、 《惜命》(5)の5 句集、総句数1525句が収められている。のちに《静物》(私家版、1955)となる詩篇を書いていた時期――耕衣の句に出会う直前――の吉岡は、《鶴の 眼》の「昇降機菊もたらせし友と乗る」の〈馬酔木発行所 五句〉などを懐かしく読むとともに、「雁や残るものみな美しき」「秋の夜の憤ろしき何々ぞ」(《病雁》)、「束の間や寒雲燃えて金焦土」(《雨覆》)、 「砂町は冬木だになし死に得んや」「横光忌黙契いよゝ頑に」「雪はしづかにゆたかにはやし屍室」「寒夜水飲めばこの最小の慾望よ」(《惜命》)といった句 のもっている私性、というよりも作者の生に打たれたのではあるまいか。私はこれらの句のあとに、「わたしが水死人であり/ひとつの個の/くずれてゆく時間 の袋であるということを/今だれが確証するだろう」と始まる〈挽歌〉(B・12)を置きたいという誘惑にかられる。
一方、出征前の(すなわち神田・淡路町の出版社に勤めていて、生身の俳人をかいま見ていたころの)吉岡は、波郷が《鶴の眼》で描いた世界に近しかった。 〈鑑賞・石田波郷の一句〉で「すでに波郷は俳壇の輝ける星であつた。私は波郷へ近づくことをしなかつた。愛しながら俳句を捨て、私はひそかに超現実風な詩 作を試みつつあつたから。/それらはあとで、詩集『液体』になるはずであつた」(前掲《俳句》)と記したが、俳句を書くことこそ諦めたものの、「超現実風 な詩作」であるはずの《液體》は思いのほか「プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ」「あえかなる薔薇撰りをれば春の雷」の《鶴の眼》の抒情に通じている。北 園克衛ふうの語法にさえ惑わされなければ、それは容易に見てとれるだろう。
さて、吉岡実詩最大の屈折点は第二詩集《液體》(草蝉舎、1941)と第三詩集《静物》(私家版、1955)の間に存在する。その背景をなしているのは、 1941年から45年にかけて兵隊として戦場に駆りだされたことと、わが国がその戦いに敗れたことである。吉岡より25歳年長の西脇順三郎にとっても、戦 争の影響は大きかった。日本語による西脇の第一詩集《Ambarvalia》(椎の木社、1933)と第二詩集《旅人かへらず》(東京出版、1947)の 間には屈折点がある。だが、屈折後の西脇にとっては過去の自身の語法の否定だったものが、吉岡には自己の存在の否定につながりかねない危機だったという点 において、その角度はいっそう大きなものだった(ふたりにとって詩集のインターバルはともに14年だったが、西脇の屈折は戦中に、吉岡の屈折は戦後に訪れ た)。その危機を把握するのに際して、戦後、病を得て死線をさまよった波郷の句が、その生が吉岡の前に大きく立ちはだかったのではないだろうか(波郷は 1944年3月、華北で胸膜炎を発病)。《旅人かへらず》は吉岡の詩語を覚醒させたが、戦後の波郷の句は吉岡の生を奮いたたせた(6)。 その経験が吉岡をして生涯、俳句とつきあわせる要因のひとつとなった。私は次の波郷句を〈静物〉の傍に置きながら、そう考える。

 白桃や心かたむく夜の方〔《雨覆》〕

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村山古郷の〈解題〉によれば、《石田 波郷句集〔角川文庫〕》は「『鶴の眼』 『風切』の初版本は四季別であったが、本書では作句年代順に編成し直し、各作句年代を記入している。他の三句集はすべて作句年代順編集であるから、本書は 全巻作句年代順という点に特色がある。/〔……〕、収録句には、初版本と比して、かなり改訂の手が加えられている。/巻首に波郷の写真、巻末に山本健吉の 「解説」、波郷の「年譜」が附けられている」(《石田波郷全集〔第二巻〕俳句U》角川書店、1971年2月27日、三七九ページ)である。
(1)《鶴の眼》:初刊本より20句 を削除、96句を増補して339句を収め、初版本の四季分類を作句年代順に改めている。
(2)《風切》:初 版本が四季分類であるのを年代順四季別に改め、77句削除、34句加えて275句収録。
(3)《病雁》:分 類は初版本と同様であるが、合計28句を削除し、28句を増補して、111句の収録句数は初版本と同数。
(4)《雨覆》:初 版本が冬春夏秋の順で四季別であるのを解体し、作句年代順に改め「樋遣川村」「焦土」「予後」「野分中」の4篇に分け、句数は14句を削除して17句増 補、初版本より3句増の276句。
(5)《惜命》:初 版本(総句数506句)の21句を削除して新たに39句を加え、524句を収める。

(6)清瀬の療養所で波郷と 同じ病棟にいた結城昌治は〈波郷さんと私〉で《惜命》について次のように書いている。「波郷さんは愚痴をこぼさない人だった。怒ることはあったが、嘆言は 決して口にしなかった。そして恐らく、辛いとき悲しいときは俳句に一念を凝らしていた。病苦があり貧苦があったが、そこには句作三昧の毎日もあった。「惜 命」一巻はその当然の成果であろう。枕元に手帳を置いて、消燈後の暗がりの中でも鉛筆を走らせていることが珍しくなかった。私は波郷俳句の魅力に取憑かれ て一時は句作に熱中し、やがて不肖のまま俳句から遠去かった者だが、その一因には石田波郷を越えられなかったら無意味だと思ったせいがある。これは石田波 郷という人物と俳句に身近に触れてしまった不幸とも言えるし、あるいは僥幸だったとも考えられる。とにかく、波郷さんは「俳句の弔鐘はおれが撞いてやる」 と言われたそうだが、確かにその自負を成し遂げたと私は思っている」(《石田波郷全集〔第一巻〕》月報第1号、四ページ)。波郷の身近にいて作句から離れ たのは吉岡実だけではなかった。


俳人の作歌(2016年4月30日)

吉岡実の未刊の散文に〈忘れ得ぬ一俳人の一首〉がある。初出は大野誠夫・馬場あき子・佐佐木幸綱編《短歌のすすめ――現代に生きる不滅 の民衆詩〔有 斐閣選書〕》(有斐閣、1975年8月10日)。その〈私の愛誦歌〉というコーナーに発表されている。同文の前半は、例によって詩人である自分と短歌との 関わりを一筆書きしたもので、こんなぐあいだ。

 私には一冊の歌集がある。それは、私の晩婚を祝ってくれた先輩・知友へ記念として配った文庫判【十六→二十八】頁 の小冊子であ る。これを造ってくれたのが、今は故き伊達得夫であったのも懐しい思い出だ。題名は《魚藍》で、短歌四十五首、旋頭歌二首を収めてある。いずれも十代後半 から二十歳ごろまでの、稚拙なものばかりである。
  夜の駅の時計の針のうごくのをふとみしあとのあはきかなしみ
  秋ひらく詩集の余白夜ふかみ蟻のあしおとふとききにけり
  横禿の男が笊で売りあるく青き蜜柑に日の暮れそめぬ
 少年の頃から、いろいろと短歌や俳句の本を読み耽っていたものだ。ことに俳句のほうは十人ほどの仲間とで、吟行や句会をやって勉強したが、短歌は独習し たにすぎない。その頃もっとも愛読した北原白秋の影響を受けている。ほかには、啄木、夕暮、牧水、千樫の歌を読み、それから前川佐美雄へと移り、やがて詩 の世界へ入っていったのである。
 私には、改造文庫の《朝の螢》を所持していた記憶があるのだから、当然茂吉の歌にふれたと思うのだが、深い関心を示さなかったらしい。(同書、二七三〜 二七四ページ)

吉岡の随想に親しんできた者にとって、目新しいことが書かれているわけではない。ここで注目すべきは、歌集《魚藍》から何を選ぶかだろ う(「横禿 の……」は大岡信が吉岡との対談で褒めているように、のちの詩人吉岡実を先取りした作で、本人も気に入っていた一首)。いずれにしても、実作を示しての自 己紹介といったところである。主題の「忘れ得ぬ一俳人の一首」は後半で展開される。

 私の心のなかに、不思議にも一首の歌がきざまれている。それは、
  こころみにここにおきみてわすれけんさだめのみかみなくなくとむる
 これは私たちの俳句の指導をしてくれた、田尻春夢の唯一の短歌である。冬の夜道を歩きながら、彼が私に囁くように聞かせてくれたこの一首が、三十年以上 経った今でも、ときどき私の口をつい【で→て】出てくるのだ。
  春夢は「走馬燈かたへは海の真の闇」の辞世の一句を最後に、亡き妻を追って入水自殺をしてしまった。春夢の親友の俳人椿作二郎が遺稿句集《走馬燈》一巻を 編んでいるが、その彼の言葉によると、短歌、自由詩、随想、日記類一切を焼却して、なにひとつ残さなかったとのことである。それ故、この一首も知らないと のこと。はたして、これは誰の歌なのであろうか。春夢の歌か――それとも私の歌なのか――、ともあれ、私の青春時代の大切な一首である。(同書、二七四 ページ)

秋艸道人会津八一ばりの総ひらがな書きは、田尻春夢が口伝えで歌を披露したためで、仮にこれを漢字を交えて表記するなら

  試みに此処に置き見て忘れけん定めの御神泣く泣く【尋む/求む/覓む】【止む/留む/停む】る

と、「とむ」(マ行下二段活用)が二義にわたるか。どちらにしても、「こころみに」「ここに」「みかみ」「なくなく」といった音が呪文 めいて響く歌 の意味をたどることは難しい。とりわけ「定めの御神」が難物である。運命の神、などとしてはこの混沌とした行文を捉えそこなうように思う。

吉岡実の俳句については、四季男・皚寧吉という俳号を中心に書いたことがある(〈吉岡実の俳号〉)。 そこでは触れることができなかったが、吉岡には〈俳句との出会い〉を語った重要な座談会がある。《馬酔木》の水原秋桜子の門流として登場した戦後派俳人、 藤田湘子が主宰する俳誌《鷹》1972年10月号掲載の〈現代俳句=その断面〉がそれである。吉岡が随想に書いた話題も多いが、田尻春夢のことを率直に 語っている貴重な談話なので、煩を厭わずに引く。

 藤田  きょうは詩人の吉岡〔実〕さん、歌人の佐佐木〔幸綱〕さん、それに俳壇から金子〔兜太〕、高柳〔重信〕のお二人においでいただきました。それぞれのジャン ルで活躍している方ばかりですが、はじめに、どんなふうにして言語表現とかかわり合うようになったのか、形式との出会いといいますか、できれば俳句との出 会い、そのへんのところを、すこしお話ねがえませんか。
 高柳 〔……〕
 吉岡  〔……〕/どういう俳句体験かな、詩的体験というのがわかんないんだけど、やっぱりぼくなんか、一人の人の出会いということがあると思うんですよ。それは 本所駒形の二軒長屋にいてそのとき十二、三かな……。そこが差配の家を建てるために、差配の家と交換することになったんですよ。差配の家というのは厩橋に あって、差配がいうには、自分のとこの上に下宿人を置いている、交換するけど、しかし、その下宿人をそのまんま置いてほしいという条件があって、交換した わけです。そこに佐藤春陵という、あとで書家になった人ですけど、筆耕というのか、図版とか地図、広告のチラシの下書きとかやって、細々と暮らしてたわけ よね。その人が文学青年だった、盛岡の人なんだけど。それでぼくは外で遊ぶけど、昼間つまんなくなると彼のとこへ行く。すると彼が本を読んでくれたり、俳 句、短歌の手ほどきをしてくれた。夜なんか、しずかにゴーリキーの『どん底』を読んでくれたりなんかした。それでぼくも俳句や、短歌を、同時につくったわ け。そのときの手本というのが啄木、牧水、千樫の歌集でどれも改造文庫だった。そして、一番愛読したのが白秋の『花樫』だよ。今でもぼろぼろになっている のを持っているんだよ。それから前田夕暮の『原生林』かなァ……。そういうのを【借→貸】してくれて、それを夢中で読んだから、俳句より歌のほうが先だっ たような気がしますねェ、ぼくは。で、その人も好きだったし、ぼく自身が蕪村というのが好き…なんか目に見えるようなのね、非常にはいりいいわけね。だか らぼくに とって、芭蕉というのは非常にむずかしくて、蕪村が少年でもほぼわかる感じ……。そんなとこから本所にいる仲間が何人か集まって、俳句会みたいなのをやっ たわけですよ。
 藤田 昭和の初期ですか。
 吉岡 そうですね。藤田さ んも知ってる田尻春夢という人が指導者みたいでした。
 藤田 戦後、東京湾で身投 げして亡くなった……。
 吉岡  奥さんを亡くされたあと、まもなく、身投げしちゃった。小さな写真屋さんでしたよ。彼は理論派ですからわれわれを引っぱってくれて、そのときなんていう名 前で句会をやってたか、いまちょっと忘れちゃったんだけど〔句会の名は「白鵶句会」〕、ガリ版で刷って、十人ぐらい集まって……。
 藤田 戦後は神田の……。
 吉岡  そうなんです。椿作二郎さんの家で。いまでも覚えてんだけど、戦前、浅草の雷門の角に「ブラジル」という喫茶店があって、そこで句会をやったのが、ぼくに はいちばん印象に残ってますね。「珈琲をのみこぼす愁ひ白卓に」はそこの風景です。あとは各人の家へ行ったりなんかして……。そういう人の手引きによって 短歌と俳句とほとんど同時だけど、どっちかというと短歌のほうを多くつくったな。
 藤田 そうですか。
 吉岡 ええ。で、それは戦 後につづくわけですけどね。だけど、けっきょく俳句作家になれなかったね。俳句はあまりうまくなかったっていうわけなんだ、どうも。そのうちに謀叛を起こ して、草城の「旗艦」のほうがおもしろいということになって、「旗艦」へ二、三回投稿したですね。 二 句はいったことは確かだけども、そのときの一句が「赤とんぼ娼婦の蒲団干してある」。そのころ富沢赤黄男、片山桃史が活躍していたわけでしょ。それでこっ ちはペイペイで、二句でとどまっておしまいになっちゃったですがね。
 佐佐木 俳人の方にはずい ぶんお会いになっているわけですか、そのころは。
 吉岡 いや、ぜんぜん。 だって東京の小っちゃなとこでやって、いちばん偉いのはその田尻春夢っていう人です……。これは余談ですが、椿さんがたったひとりで、『田尻春夢全句集』 をつくりました。和紙に手書で、製本までしています。ぼくが待っているのはその八冊目です。
 藤田 「馬酔木」の三句級 の人だったですね。春夢さんはぼくらが戦後まもなく「馬酔木」で多少知られるようになったときに、神田周辺で……。
 吉岡 松江川さんという床 屋さんの二階へ集ったものです。
 藤田 そうですね。その松 江川というのが椿作二郎、いまでも、「鶴」にいますよ。秋桜子が八王子にいたときに、ときどき八王子へ行って頭刈ってた人なんですよ。吉岡さんが、「俳句 評論」の大会のとき、ぼくの句集を待っておられると聞いて……。
 吉岡 『途上』ですね、 持ってます。
 藤田 ええ、びっくりし ちゃってね。
 吉岡 そのころはみんなの 句集を買って読んだわけですよ。
 藤田 そうですか。
 吉岡 あれは昭和二十三年 ごろで、俳句会の名は「秋扇」といったかな、あとで名前がなんか変わったんですよ。「蘆刈」に。
 藤田 ぼくの知っているの は「蘆刈」ですね。
 吉岡 「秋扇」なんです最 初は。それが「蘆刈」になった。
 藤田 ガリ版の句稿を、作 二郎さんが秋桜子に選してもらってたのを見たことがある。
 吉岡  だけどやっぱり、田尻さんのことばを聞くのがいちばんため[、、]になりましたね。実作者としてもユニークだけど、理論派としてね。あの人は不幸にして、 「馬酔木」にいたためによくなかったんです。あの人は生活俳句ですよ、ただ叙景じゃなくてね。田尻さんとしては生活を入れちゃったから不遇だったんじゃな いか。
 藤田 吉岡さんはいくつぐ らい……。
 吉岡  それがねぼくが二十八、九じゃないかなァ。だけど、ぼくはその前にもうすでに『液体』って詩集持ってますからね。だから同時に両方できない。俳句会の楽し さというの、ありますね。番茶とお菓子で、自分の句が採られるか採られないかという楽しみね。この楽しさにおぼれてはいけない、ここでみんなと訣別すべき であると。それで二十九ぐらいのとき、自分の詩を確立するために、涙をのんで俳句と訣別しちゃったんです。ただ、郷愁として俳句を読むことが好きです。い まちょっと読まないけども、いろんな俳人を興味もって読んだですよ。(同誌、一二〜一四ページ)

吉岡が座談会で回想する「郷愁としての俳句」はおおよそ次のような構図だった。
《馬酔木》の田尻春夢は戦前、二十歳前後の吉岡や同じく《馬 酔木》の椿作二郎(本名・松江川三郎、戦後は石田波郷の《鶴》に入った)の属していた〈白鵶句会〉の指導者で理論派、生活俳句を身上とした。戦後の 1948年ころ、句会は〈秋扇〉(その後〈蘆刈〉)となり、吉岡も句会や吟行に参加している(当時の俳号は「四季男」か)。戦前の吉岡は、生地本所での気 の置けない句会を楽しむ一方で、生来のモダニスト気質から日野草城の《旗艦》にも接近していた。富澤赤黄男や片山桃史に惹かれ、作品を読むだけでは足り ず、新興俳句の同誌に投句をはじめる(筆名は終刊号の一句のみ「吉岡實」だが、他はすべて「皚寧吉」)。かくのごとく、吉岡の俳句の背後には《馬酔木》と 《旗艦》があって、俳号も句会と投句とでふたつを厳密に使いわけていた。あたかも「俳」と「詩」あるいは「うたげ」と「孤心」のように。藤田湘子の呼びか けに応じてこの座談会に俳人として出席したのが、加藤楸邨(はじめ《馬酔木》に拠った)に師事した金子兜太と、《旗艦》の富澤赤黄男を師と仰いだ高柳重信 だったことは、はなはだ興味深い。
吉岡の俳号での作句は、1949年1月30日の吟行会での「黄梅やふるきいらかの波うてる」――《水産》同年2月号の(おそらくは吉岡の変名である)春海 鯨太〈瑞泉寺探梅抄〉は「白梅や/焦眉煩悩の意なし」「紅梅や/つぼみにこもる花の息」「黄梅や/ふるきいらかの照るしづか」の3句――を最後に終わりを 告げ、吉岡が再び俳句に手を染めるのは、詩人「吉岡実」として《ユリイカ》1975年12月臨時増刊号に発表した〈あまがつ頌――北方舞踏派《塩首》の印 象詩篇〉(G・30)においてである。そこにあるのは「余技としての俳句」=「文人俳句」ではなく、詩篇を緊密に構成する、揺るぎない俳句作品だった。


昭和十四年(一九 三九)十二月十八日
  夜、春陵山人と歳の市へゆく。途中、春夢大人を誘い出し、浅草へ向う。雷門をくぐり、仲見世から人波にもまれて歩く。観音様に賽銭をあげ、境内の羽子板市 を見て廻る。絢爛と彩られた世界。芸妓をつれ、羽子板を買う酔人もいた。帰り、ニュートーキョーでビール、おでんで歌、俳句談義。それからブラジル珈琲店 で、春夢大人の短歌の数々を聞かされる。四十五、六でこの若々しさに、感服する。奥の方をふと見ると、女店員のひとりが、コーヒー用のミルクを手にぬって いた。(《うまやはし日記》書肆山田、1990、一〇一ページ)

吉岡が田尻春夢の短歌に言及したのは、この日記だけのようだ。先の「冬の夜道を歩きながら、彼が私に囁くように聞かせてくれた」という 記述とは状況 が異なるが(それとも、同夜の帰宅時のことか)、吉岡実が二十歳前後に指導を受けた俳人から謎めいた一首を託されたことは紛れもない。吉岡は戦後もしばら くは春夢や作二郎たちと交流を重ねて吟行までしているが、短歌を新たに作った形跡はない。田尻春夢=吉岡実の「こころみにここにおきみてわすれけんさだめ のみかみなくなくとむる」を最後に、作歌を封印したのだろうか。謎は尽きない。それにしても吉岡はなぜこの随想を《「死児」という絵》に収録しなかったの だろう。短歌との触れあいを語った部分はたしかに他の随想と重複する。それを削除すれば(つまり引用した後段だけを採れば)、原稿分量があまりにも短く なってしまう。かといって田尻春夢のことを語れば、話はおのずと俳句に傾く。それではそもそもの〈忘れ得ぬ一俳人の一首〉という主旨から外れる。それやこ れやで、手を入れてまで《「死児」という絵》に収めるには及ばないと判断したとも考えられる。だが、私はこんなふうにも思う。――随想の末尾で懸念したよ うに、もしかするとこれは春夢の一首ではなく、自分の作った歌だったのではないか――。それが吉岡をして単行本に入れることを躊躇させたほんとうの理由 だったのではあるまいか、と。
ここまで書いてきて、念のために吉岡実未刊行散文集(本サイトにアップしてある見出しだけのものに、本文[テキスト]を入れた作業用の完全版ファイル)で 吉岡の短歌を探してみた。すると、《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》(書肆山田、1996年11月30日)に〈吉岡実遺 稿〉として発表された〈日歴(一九四八年・夏暦)〉の「六月二十日」の日記に次の短歌があるではないか。

 一本の篠竹を這う豆の蔓のびあまりたれば風にゆれおり(同書、九ページ)

これは、かつての《うまやはし日記》の短歌がそうだったように、吉岡の自作と思われる。1939年に田尻春夢から伝授されただろう「こころみにここにおき みてわすれけんさだめのみかみなくなくとむる」とこの一首がどうかかわるかは、にわかに断じえない。吉岡が本格的に《静物》の詩篇を書きはじめるのは日記 の翌翌1950年からだから、「豆の蔓」をもって吉岡実の歌のわかれとする誘惑には抗しがたい。だが、その点については稿を改めて論じよう。

〔付記〕
小池光・三枝ミ之・佐佐木幸綱・菱川善夫編《現代短歌ハンドブック》(雄山閣出版、1999年7月20日)の〈現代・歌集100〉 で小池光が《魚藍》の項目を執筆している。「収録歌数はごく少ないが白秋のモダニズムをよく消化して完成度高い歌のたたずまいを示す」として、「土葱を抱 へもどれる母親にまつはる子らや夕枇杷の花」を一首引いている(同書、一一一ページ)。これなど、白秋の短歌よりも田尻春夢の俳句に近いものを感じさせ る。


《指揮官夫人と其娘達》あるいは《バルカン・クリーゲ》のこと(2016年3月31日〔2021年5月31日補訂〕)

《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)は元版の《「死児」という絵》(思潮社、1980)に第X章を増補したものだが、その「X」、すなわち《「死児」という絵〔増補版〕》の最後にはポルノをめぐる4篇の文章が収められている。4篇の初出は以下のとおり。なお〈「官能的詩篇」雑感〉に「「ポルノ詩に就いて書けませんか?」と、A君は言う」(同書、三六三ページ)とあるところから、《季刊リュミエール》の連載コラム〈ポルノ〉の編集担当は《土方巽頌》(筑摩書房、1987)を手掛けることになる淡谷淳一さんだろう。

 ◎ロマン・ポルノ映画雑感 《季刊リュミエール》1号(1985年9月)
 ◎ポルノ小説雑感 《季刊リュミエール》3号(1986年3月)
 ◎官能的な造形作家たち 《季刊リュミエール》4号(1986年6月)
 ◎「官能的詩篇」雑感 《季刊リュミエール》5号(1986年9月)

《季刊リュミエール》2号〈特集=フランソワ・トリュフォーとフランス映画〉は1985年12月20日に出ているから、休載は吉岡の側の事情だろう。それを探るべく、〈吉岡実年譜〉を見てみよう。

一九八五年(昭和六十年) 六十六歳
〔……〕七月、土方巽、元藤Y子に招かれて京都へ行く。三好豊一郎、元藤べら、芦川羊子と祇園祭見物。天龍寺、三千院、寂光院、蓮華寺、曼殊院、詩仙堂、智積院、三十三間堂などを拝観する。神奈川近代美術館で〈生誕百年記念・萬鐵五郎展〉。十一月、鈴木一民と京都市美術館で〈富岡鐵斎展〉を観る。絵画、書跡、器玩など五百余点という壮観さに圧倒される。大冊三七〇頁の図録を買う。奈良へ行き西田画廊主、西田考作に紹介され、離れ座敷に一泊。十二月、経堂の高橋睦郎宅へ招かれる。澁澤龍彦夫妻、四谷シモンと手料理や鴨鍋の会食。十三日、高座渋谷の南大和病院に兄を見舞う。十四日、元藤Y子と広尾で会い土方巽の病気を知らされる。病状は本人に伝えていないとのこと。十五日、アスベスト館に土方巽を見舞うが元気な様子で、弟子に舞踏の振りを付けていた。二十四日、兄危篤の報せで妻と入院先に行くが持ち直し安堵する。(吉岡陽子編〈年譜〉、《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996、八〇七ページ)

12月13日以降は身辺が慌ただしいが、コラム第2回の執筆に充てるべき秋口には、特段それを妨げる要因が見出せない。「ポルノ小説」というテーマ自体が書きにくかったのだろうか(連載の依頼もしくは開始時に映画・小説・造形・詩篇でいくという大枠は決まっていたはずだ)。吉岡が〈ポルノ小説雑感〉で言及している作品は次のとおりである。

 1 『指揮官夫人と其娘達』――『ガミアニ』  『南北戦争』  『蚤の浮かれ噺』  『ジュリアンの青春』  『トルー・ラブ』  『バルカン戦争』  『指揮官夫人と其娘達』
 2 『ロシヤ宮廷の踊子』
 3 『わが愛[いと]しの妖精フランク』――『南北戦争』
 4 『O嬢の物語』――『O嬢の物語』  『ロワッシイへ帰る』
 5 『城の中のイギリス人』――『城の中のイギリス人』

今回は〈1 『指揮官夫人と其娘達』〉の1冊《指揮官夫人と其娘達》、別題《バルカン戦争》あるいは《バルカン・クリーゲ》のことを書く(他の本は、いずれ書く機会もあろう)。「ポルノ小説」について書くにあたって吉岡が苦労し、それにもかかわらず5項目あるうちの最初に据えたのがこの小説だった。つまり、どうしてもこの作品に触れておきたかった。ところで《バルカン・クリーゲ》が手軽に読めるようになったのは、吉岡歿後刊の城市郎監修〈性の秘本コレクションB〉のウィルヘルム・マイテル《バルカン・クリーゲ〔河出文庫〕》(河出書房新社、1997年6月4日)からだが、吉岡は当然これを読んでいない。城市郎の〈はじめに〉には「本書では、〔初刊の〕文藝市場社版をもとにし、〔十指に余る〕各種刊本を参照しつつ、現代の読者に読みやすい文章とするようこころがけた」(同書、三ページ)とある。吉岡の〈1 『指揮官夫人と其娘達』〉の全文を引く。

 「性欲を刺激亢進し、人をして羞恥嫌悪の感性を生ぜしめるもの」が、法の規定するポルノ小説であるのだろう。戦後の昭和二十六年頃、それらに類する外国文学が花開くごとく、一斉に刊行され始めたのである。『ガミアニ』、『南北戦争』、『蚤の浮かれ噺』、『ジュリアンの青春』、『トルー・ラブ』そして『バルカン戦争』などであった。私は一通りそれらを購って、読んでいる。ほとんどが発売と同時に、禁止処分を受けたようだ。そのなかで、今でも忘れ難い小説は、W・マイテル『バルカン戦争』である。これは二、三種類ほど出版されており、私はそのうちの二冊を持っていた。完訳本ではなく、二冊とも抄訳されたもので、「挿話」が異っていたりするので、補足しながら読んだ。しかしいずれも迫力に欠けて物足りなかった。なぜなら戦前に『バルカン戦争』の完訳本と思われる、秘密出版の『指揮官夫人と其娘達』を、私は読んでいたからである。今、本も参照する資料もないので、うまく紹介できない。「戦争」という諸悪の根元を捉え、自制心も誇りも失った人間の肉欲を露呈するポルノ文学の傑作。戦争の裏面にかくされた、女性たちの受難の諸相を活写している。異国の兵隊たちから、嗜虐的な暴力の数々を受ける、美しい人妻や娘たちの姿態は悲惨というよりも、むしろ耽美的でさえあった。この貴重な本を、年嵩の友人に返し、間もなく私は出征した。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三五五〜三五六ページ)

《バルカン・クリーゲ〔河出文庫〕》の巻末には、城市郎の解説〈『バルカン・クリーゲ』と軟派出版の帝王・梅原北明〉が48ページにわたって掲載されている。吉岡が言及した版に関する書誌的事項をそこから摘する。なお【 】内は画像検索で実見した奥付にある刊行日、[ ]内は鈴木敏文《性の秘本〔河出文庫〕》(河出書房新社、1996年4月4日)巻末に掲載された城市郎〈わが所蔵する秘本リスト(抄)〉による補記。

 (1)《指揮官夫人と其娘達》(三田書院、昭和7年5月頃)[四六判 紺染革装 本文2色刷 頒価3円50銭]
 (2)矢野正夫訳《バルカン戦争》(東京書院、昭和26年6月【30日】)[四六判 325頁 280円 カバー帯]
 (3)松戸淳訳《秘話バルカン戦争》(紫書房、昭和26年7月【10日】)[B6判 238頁 200円 カバー帯]
 (4)藤井純逍訳《バルカン・クリーゲ 硝煙のかげに》(銀河書房、昭和26年[12月])[――]

城市郎〈わが所蔵する秘本リスト(抄)〉には
  「バルカン戦争」根岸達夫訳 浪速書房 昭和40年9月 新書判 211頁 280円
という一本が掲げられている。たまたま私の所蔵する《カラー版 バルカン戦争》(浪速書房、昭和43年1月15日)が同じ根岸達夫訳で、本文は昭和40年9月20日刊の版を流用して、新たに前付や由谷敏明の口絵、〈解説〉を添えて再版したものである。根岸の訳文はこんなぐあいだ。
「その次の夜会には、この好色な女達は、目立たない普段着を着て現われた。そしてあたかも気位の高い上流階級の貞淑な夫人や令嬢のような気取り方で振舞つたので、男達は、何か近づきがたい威厳を感じて、貴婦人を誘惑するという冒険的な、好奇心で一層の刺戟を感じたのだつた。/またある晩の夜会には、夫人や娘たちは、自分の夫や兄弟の制服を着てあらわれた。この偽せ者の兵士は、大きい乳房と白い長い足と肉づきのよいお尻を持つ、恐ろしくエロチツクな兵隊達であつた。中には、ズボンをあべこべに穿いて、ボタンを外している者もあつた。これが、男たちの肉欲を異常にそそり立てたことは当然である」(同書、七六〜七七ページ)。
同じ箇所が城市郎《バルカン・クリーゲ〔河出文庫〕》では次のようになっている。
「次の夜会には、この好色な女たちは普段着を着て現われた。そしてあたかも貞淑な令嬢や淑女のように振舞ったので、貴婦人を手に入れるという冒険的な刺戟を感じて、男たちの興奮はいっそう高まった。//また、ある夜、夫人や娘たちは自分の夫や兄弟の軍服を着てやってきた。/この贋の兵士たちは波打つ乳房と、すらりした脚と、素晴らしい尻を持つ、まことに魅力的な兵隊たちだった。なかにはズボンをあべこべにはいて、ボタンをすっかりはずしている者もいた。/それで、指揮官夫人は、今日の楽しみごとは全部後ろの入口を利用するようにと命令し、これはもちろん守られた」(同書、一三五ページ)。
根岸の訳も城の文も元版の訳文を基にしているといわれるが、これだけ違うと元の文がどうだったか気になる。あいにく元版《バルカン戦争》も元版と同じ本文の《指揮官夫人と其娘達》も手許にないが、それを版下にして覆刻したと思しい青木信光編《バルカン戦争〈上〉〔秘本図書館 海外版〕》(図書出版美学館、1982年6月17日)があったので、同じ箇所を見よう(漢字は新字に改めた)。
「其後の或夜の事、又この好色な連中は彼女達の平常まとうて居る着物を着て現はれた。そして恰も立派な貞淑な淑女や令嬢の様に振舞つた。/これらの貴婦人を手に入れる事が骨の打〔ママ〕れることのやうに外観上だけでも思はれるのは男達の興奮を高めた。/又或る時は夫人や娘達は自分の夫や兄弟の制服を着て来た、そして其の時には何方がほんものか見分けがつかぬ位であつた。/このにせの兵隊は実に魅力のある恰好をして居た、波打つ乳房があり、キツチリした脚があり、そして素破らしい臀を持つて居た、中にはズボンをアベコベに穿いてボタンをすつかりはづして居るものも沢山あつた。/指揮官夫人は今日は殿方は全部背後の入口を利用するやうにと命令し、これは勿論守られた」(同書、二〇二〜二〇三ページ)。
元版の本文に近いのは城の方だが、吉岡の文章に親和性があるのは、根岸の方である。

閑話休題。吉岡の「これは二、三種類ほど出版されており、私はそのうちの二冊を持っていた」のは、(2)(3)(4)のうち2冊ということだろう。《ロシヤ宮廷の踊子》《蚤の浮かれ噺》《ジュリアンの青春》がいずれも昭和26年に東京書院から出ていることを考えあわせれば、(2)矢野正夫訳《バルカン戦争》と(3)か(4)のどちらかということになろうか。ただし(1)〜(4)のどれも実見していないので、これ以上詳しいことはわからない。《指揮官夫人と其娘達》とはどんな出自の本なのか。城の解説にはこうある。「がんじがらめにされた北明は、昭和七年に入ると地下にもぐり、日の目をみることなく押収された『戦争勃発!』(『バルカン・クリーゲ』の本邦初出版)を悼んで、文藝市場社の象徴ともいうべき『バルカン・クリーゲ』の再刊を企図する。警察の目を欺くために『指揮官夫人と其娘達』と改題し、総革装・本文二度刷・オーナメント入りの美装本に仕立て、三円五十銭で〔領→頒〕布するつもりだったが、事前に察知されてあえなく御用となり、かろうじて見本刷を残しただけで没収され、最後の夢も立ち所に潰え、完全に息の根を止められてしまい、身動きがとれなくなり、さすが軟派出版界の帝王も、観念して兜をぬぎ、ついに軟派出版から一切手を引くことになって仕舞った」(前掲書、三七一ページ)。吉岡が読んだのは「年嵩の友人」から借覧したこの「見本刷」だったのだろうか。Wikipediaの『バルカン・クリーゲ』の項には「外部リンク」として《閑話究題 XX文学の館》が挙げられている。その〈XX文学の館 秘本縁起 「バルカン・クリーゲ」〉に《指揮官夫人と其娘達》が書影とともに掲げられているので、解説と書誌を引く(表紙と本文の書影は同サイトでご覧いただきたいが、城市郎の〈解説〉中の書影(モノクロ)や別冊太陽《発禁本――明治・大正・昭和・平成城市郎コレクション》(平凡社、1999)掲載の表紙(カラー)がスミや紺色なのに対して、明るいブルーグレーに見えるのはどうしたわけだろう。写真で見るかぎり、本文の巻頭ページが同じであるだけに、どうにも解せない)。

「昭和七年六月頃、三田書院から刊行されたものと言われています。城市郎氏は北明の手になるものとしていますが、根拠となる情報源が分りませんので、確定は控えます。」
「判型:四六判 頁数:371頁 発行:三田書院 刊年:昭和七年六月(?) 造本:本文二度刷、総革装 内容:上巻 第一編 〜 第二編/下巻 第一編/追加」

吉岡の「年嵩の友人」が誰なのか推測の域を出ないが、地下出版に通じた者であったとしても、押収を免れた「見本刷」(というと刷本状態で未製本のようだが、おそらく版元製本はされていたか)を入手するのは容易ではあるまい。出征前の吉岡のように実見できた人間は、おのずと限られていよう。城市郎は前出の解説(同書、三三八〜三三九ページ)でこう述べている。

 『バルカン・クリーゲ』は、あらゆる淫逸痴態を網羅した狂気の地獄図絵を描破しつくした近代随一の艶本としてもてはやされてきたが、そもそもいかなる意図をもって書かれたものかはかりがたいところがある。戦争への憎悪と抗議がこめられた反戦平和を希う気持を汲みとることもでき、ひょっとしたら一種異様な反戦小説ではなかろうかとも思われる。
 作家の高見順(一九六五年歿)は、その点を認めた上で、つぎのように言っている。
  『バルカン戦争』は、たしかに単なる好色本というだけではなくて、そういう形で戦争の罪悪を暴露しているのだと、そう思わせられるところもある。年端も行かぬ娘たちを、よってたかって犯した上、それを殺して、野原に捨てて行く。そういう話は、好色本としてはあまりにも残忍すぎる。いくら残忍を特徴とする好色本としても、これはひどすぎる。
 だが、こういう話はほんの一部で、全体としてはやはり好色本にほかならない。好色的刺戟を強めるために、戦争の残忍性が利用されているという感じだ。性的刺戟のための好色物語に、戦争というものを利用している。好色の満足のために戦争を利用している。
(『エロスの招宴』昭和三十三年二月、新潮社刊)

城市郎が引いた高見順の文章は、《エロスの招宴》の〈第二十四章 風狂の群〉冒頭の二段落である(初出は《週刊新潮》1957年10月28日号)。高見は前の第二十三章で「残忍と言へば、『蚤の自叙伝』と同じく、その方では有名なものだといふ『バルカン戦争』――この好色本も同じやうな残忍性が目立つのである。いや、もつとひどい」(《高見順全集〔第18巻〕》勁草書房、1970年6月25日、二〇九ページ〔漢字は新字に改めた〕)と書いている。さらに、おそらくは東京書院版を手許に置いて「バルカン半島をかつて幾度かおそつた戦争を背景にして、戦争の残忍さのため野獣のやうになつた人間の残忍な行為がそこに描かれてゐる。男の姿がひとりも見られない「女だけの都」に侵入した軍隊が、女をとらへて淫虐のかぎりをつくす。一方、女の方でもさうなると、兵隊におとらない乱倫のさまをくりひろげる」(同前)と要約した高見は、「〔……〕戦争悪をかういふ形で痛烈に暴露したものであると、さういふ説をなす人もある。単なる好色本ではないといふ訳である」(同前)といなしている。吉岡は前掲文で「今、本も参照する資料もないので、うまく紹介できない」と書いているが、同文の執筆に際して高見の文章を(初出誌や単行本、それとも全集本で)読んだときの記憶が働いたのではないか(吉岡が敬愛する詩人・小説家の週刊誌連載のエッセイ――しかも題名が「エロスの招宴」である――を見のがしていたとは考えにくい)。城が解説で引いたように、高見の文章は戦後、《バルカン戦争》に言及した論評のひとつの典型だった。戦争悪の暴露という名を借りた「単なる好色本」に過ぎないというわけである。その高見の「性的刺戟のための好色物語に、戦争というものを利用している」という方に力点を置いて、さらにそれを延長したのが吉岡の「異国の兵隊たちから、嗜虐的な暴力の数々を受ける、美しい人妻や娘たちの姿態は悲惨というよりも、むしろ耽美的でさえあった」という評ではないか。美は倫理に優先するというのが《指揮官夫人と其娘達》を読んだ当時の吉岡の評だとすれば、兵士として4年以上の歳月を満洲や朝鮮で過ごした後の吉岡の評価はどうなのだろうか。戦後の数種の版本を読みくらべてみたのは、そのあたりのことを確認したかったためではなかったか。ちなみに私が本書で最も注目したのは〈戦争酣[たけなわ]なりし時――バルカン・クリーゲ 上巻――〉の第一編・第五章の獣姦の挿話(《閑話究題 XX文学の館》には「騎兵隊長夫人はその寂しさを愛犬に紛らわし、その行為を覗き見た歩兵隊中尉に迫られて…」と紹介されている)だった。スタイルこそ較べものにならないものの、安西冬衞の第一詩集《軍艦茉莉〔現代の藝術と批評叢書2〕》(厚生閣書店、1929年4月18日)に近いものを感じたのだ(〈オダリスク〉や〈犬〉)。そして、吉岡が安西冬衞の詩業に通じていることは言うまでもあるまい。

聖家族|吉岡実

美しい氷を刻み
八月のある夕べがえらばれる
由緒ある樅の木と蛇の家系を断つべく
微笑する母娘
母親の典雅な肌と寝間着の幕間で
一人の老いた男を絞めころす
かみ合う黄色い歯の馬の放尿の終り
母娘の心をひき裂く稲妻の下で
むらがるぼうふらの水府より
よみがえる老いた男
うしろむきの夫
大食の父親
初潮の娘はすさまじい狼の足を見せ
庭のくろいひまわりの実の粒のなかに
肉体の処女の痛みを注ぐ
すべての家財と太陽が一つの夜をうらぎる日
母親は海のそこで姦通し
若い男のたこの頭を挟みにゆく
しきりと股間に汗をながし
父親は聖なる金冠歯の口をあけ
砕けた氷山の突端をかじる

私は《僧侶》の詩篇〈聖家族〉(C・14、初出は《季節》1958年7月号)に戦争の、「ポルノ小説」の遠い残響を聴く。高橋睦郎は本篇の〈鑑賞〉で「れいによって反聖家族と読めばいい。このころから社会問題になってきた崩壊家族が主題になっている。しかし、この崩壊家族は湿潤な日本の風土にふさわしくなく、あっけらかんと壮大に崩壊する」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984、三三〜三四ページ)と喝破した。私には、吉岡が戦後の荒廃した社会=心象を描くにあたって、大陸的な「あらゆる淫逸痴態を網羅した狂気の地獄図絵」(城市郎)という好色本まがいの設定をもってした、と思えてならない。それとも、その悪意と吊りあうだけの絶望を当時の作者は湛えていたというべきか。

〔付記〕
《ぶるうふいるむ物語》(立風書房、1975)の著者、三木幹夫(1925年生まれ)が《バルカン戦争(全)》(フランス書院、1982年9月)に付した解説〈謎に包まれた強烈ハードポルノ〉には次のようにある。

 あれは、日本が戦争に負けて間もない、昭和20年代の半ばごろだった。活字に飢えていた私に、職場の先輩が1冊の古本を貸してくれた。革装のその内容は、やっと青年期に入ったばかりの私へ、強烈きわまる衝撃を与えた。これが『バルカン戦争[クリーゲ]』である。〔……〕/一読後、その本がほしくてたまらず〔……〕、先輩に譲ってくれるよう懇願したが。彼は「こないだ古本屋できいたら、時価1万円だっていってたよ。もっとも、おれは誰にも売る気はないけどね」と、あっさり断わられた。〔……〕現在の相場なら約20万円か。/後年、わかったことだが、その本は昭和初期に、かの有名な発禁王#~原北明(1900〜1946)の文芸市場社が出した『バルカン・クリイゲ』だった。/〔……〕私に文芸市場社本を貸してくれた先輩は、同社から通販により10円で入手したといっていた。/〔……〕この初訳本以後の邦訳異版はすべて梅原本の海賊版で、独訳本や仏訳本などから新たに邦訳されたものは皆無といっていいのではなかろうか。じつに面妖な舶来ポルノといえよう。(同書、三二三〜三二九ページ)

吉岡が戦前に読んだ秘密出版の《指揮官夫人と其娘達》(三木の解説にこの書名は登場しないが)も、三木と元版《バルカン戦争》と似たような関係だったと思わせる。《指揮官夫人と其娘達》が梅原北明の手になるものなら、「この貴重な本を」吉岡に貸した「年嵩の友人」はやはり通販で入手したものだろうか。本書が戦前の吉岡に深い影響を与えたことは、疑えないように思う。


吉岡実日記の手入れについて(2016年2月29日)

吉岡実の生前最後の本は1938年から40年にかけての日記を整理した《うまやはし日記〔りぶるどるしおる1〕》(書肆山田、1990 年4月15 日)だったし、生前最後に発表された作品は〈日記 一九四六年〉であり、(現在までのところ)最後の作品も遺稿として1996年に発表された日記〈日歴 (一九四八年・夏暦)〉である。その最晩年に、出征前後の若き日の日記をまとめた吉岡の真意を性急に結論づけることは控えるが、日記というジャンル=形式 が重要な意味をもつことは疑えない。吉岡が自身の日記として最初に公刊したのは《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968年9月1日)に収めら れた〈断片・日記抄〉である――雑誌発表を含めると〈日記抄――一九六七〉(《詩と批評》1967年9月号での原題は〈日記〉)が最初――。〔現代詩文 庫〕にはシリーズの各冊に共通する企画として自伝的な文章の書きおろしがあるが、吉岡は日記をもってこれに代えた。その間の事情は次のとおりだ。「自伝的 なものをまだ書く時期でもない。また、年譜的なものをつくる煩雑さにも耐えられない。たまたま旧い日記の断片があるので、少しくその時の雰囲気を伝えると ころを抄出し、綴り合せてみる。日記を書かなかった年代が多く、偏ったものになっている。それ故、私にとって数々の大切な事項が欠けてしまったが、無理に 工作することを避けた」(同書、一二五ページ)。〈断片・日記抄〉は「昭和二十一年一月五日」から始まっている。一方、〈日記 一九四六年〉(《るしお る》5号、1990年1月31日)は「一月一日」から始まっていて、その「敗戦第一年のお正月はさすがに餅、料理も少くかたちばかりだが、兄一家と祝う。 葉子(八歳)、瑠美子(六歳)は女の子らしく、奇麗な着物姿。静かな午後、遠く羽根つきの音がする。夜、《古今和歌集》を読む」(同誌、三二ページ)とい う記載は、吉岡がこの日から戦後の日記を書きはじめたことをうかがわせる。

 この「うまやはし日記」は、その一部を一九八〇年の「現代詩手帖」十月号の「吉岡実特集」によせたもので、次のよ うに付記して いる。――戦前の「日記」二冊が消失をまぬかれて残った。いずれも昭和十三―十五年のものである。冗長な記述を簡明にし、ここに収録する。もちろん作為は ない。現在休息中ゆえ、詩、文章などの作品を提示することが出来ない。稚拙な二十歳の「日記」を以って、その任を果す――と。

 最近刊行されはじめた、書肆山田の小冊子「るしおる」に、作品・文章を求められたが、休筆中なので、「うまやはし日記」の補遺で、そのせめ[、、]を果 そうと思った。省略したきわめて「私的事項」を拾い出して、挿入してゆくうち、思わずも熱が入り、八十余枚の原稿に成ってしまった。〔……〕

「一九九〇年二月七日」という日付をもつ《うまやはし日記》の〈あとがき〉(同書、一四二〜一四三ページ)である。その最後に「『うま やはし日記』 刊行の暁、感傷的な二冊の「原・日記」は消滅するはずである」とある以上、吉岡に日記の原本を遺す意思はなかった。本稿では、〈断片・日記抄〉と〈日記  一九四六年〉に重複する1946年1月から3月にかけての4日分の日記の内容を検討することで、吉岡の日記への手入れを考えてみたい。(以下、〈断片・日 記抄〉の記載を★、〈日記 一九四六年〉の記載を☆で表す。なお【 】の曜日は引用者の補記)

昭和二十一年
★一月五日【土曜】 村岡花子氏の家にゆき原稿もらってかえる。蒲田の闇市は人と物品の氾濫だ。鰯七匹十円。干柿五つ十円。飴五本十円、なんと恐しい世の 中。《ノヴァーリス日記》をよむ。
☆一月五日【土曜】 村岡花子氏の家にゆき原稿もらってかえる。蒲田の闇市は人と物品の氾濫だ。鰯七匹十円。干柿五つ十円。なんと恐しい世の中。《ノ ヴァーリス日記》を読む。

★一月十九日【土曜】 KUSAKA嬢にルイ・エモンの《白き処女地》をかして、彼女からイプセンの本をかりる。茂吉の《朝の螢》。
☆一月十九日【土曜】 KUSAKA嬢にルイ・エモンの《白き処女地》を貸し、彼女からイプセンの本を借る。茂吉《朝の螢》。

★二月九日【土曜】 黄昏、かえりみち靖国神社参拝。人から借りた《セヴニェ夫人手紙抄》を省線電車のなかでよむ。
☆ナシ

★三月二十四日【日曜】 午前中は兄と薪つくり。十時にピースを買いにゆく。一箇七円。横光利一《寝園》よみかえす。新橋の闇市をのぞき一皿五円のふかし 芋を食う。
☆三月二十四日(日曜) 午前中は兄と薪つくり。十時にピースを買いに行く。一個七円。横光利一《寝園》を読みかえす。夕刻、新橋の闇市をのぞき、一皿五 円のふかし芋を食う。

〈断片・日記抄〉の脱稿がいつなのか、正確な日付はわからない。だが、〔現代詩文庫〕シリーズの刊行開始が1968年だから、早くても 67年、おそ らく《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》刊行の年、1968年前半のことだろう。そのとき「旧い日記の断片があるので、少しくその時の雰囲気を伝えるところ を抄出し、綴り合せてみ」たのが★〈断片・日記抄〉であり、同じ日記(原本)を、《うまやはし日記》と同様に「省略したきわめて「私的事項」を拾い出し て、挿入してゆ」き、「冗長な記述を簡明にし、ここに収録」したのが☆〈日記 一九四六年〉だろう。つまり、★に手を入れたのが☆なのではなく、同じ「旧 い日記の断片」から1968年前後に★が、1990年前後に☆が産みだされた、と考えるべきではないか。

・1946年1月5日の「飴五本十円、」は★には入れたが、☆には入れなかった。吉岡の単なる転記漏れかもしれない。

・2月9日の「黄昏、かえりみち靖国神社参拝。人から借りた《セヴニェ夫人手紙抄》を省線電車のなかでよむ。」は★にだけ入れた(《セ ヴニェ夫人手 紙抄》はおそらく1943年刊の井上究一郎訳の岩波文庫版)。吉岡が後年これを意図的に省かなければならない理由は、「靖国神社参拝」だろうか(一方で、 吉岡の転記漏れの可能性も否定できない)。吉岡は、敗戦の半年後の1946年2月、どのような気持ちで靖国神社を参拝したのだろう。手掛かりがほしくて、 坪内祐三《靖国〔新潮文庫〕》(新潮社、2001年8月1日)を再読した。坪内は同書の第11章で、安藤鶴夫(1908〜69)が1945年秋、靖国神社 に間借りしていた能楽協会を取材した折りのことを回想して1967年8月に発表した〈歳月〉(《わたしの東京》求龍堂、1968年1月15日)を引いてい る。東京新聞文化部記者の安藤は、その日の午後2時から5時近くまでの約3時間、「〔……〕社務所の、あけはなった窓から、境内が、はっきり視線の中に入 る場所にいて、取材をしていたのだけれど、そのあいだ中、まったく、誰ひとり、通らなかった。/帰りがけ、〔能楽協会の〕三宅さんに、毎日、こんなふう に、誰ももう靖国神社に詣[もう]でるひとはいないのですか、と、きいたら、はい、まア、そうですな、といった。/ひとりで、また、玉砂利を踏んで、神殿 にぬかずいた。誰もいないので、誰に、遠慮も、気がねもなく、泣いた。しまいに、声が出、それが慟哭[どうこく]になった」(《靖国〔新潮文庫〕》、三一 〇ページ)。吉岡は1946年2月には、前年12月に入社した香柏書房に勤務しており、この土曜日は神田YMCA前の同社に出社したのだろう。「かえりみ ち」というのが、同居していた兄(長夫)の池上の家への帰路ということなら、現在のJR線(かつての省線)の最寄駅は水道橋駅か御茶ノ水駅で、靖国神社の ある九段北はその通り途ではない。先の安藤の文と照らしてみると、吉岡は参拝するためにわざわざ足を運んだようにも思える。いずれにしても、詳しいことは わからない。

・3月24日の「夕刻、」は★には入れなかった。

漢字やかなの表記の違いなど、文意に影響のない違いを割愛すると、顕著な異同は以上の3点である。吉岡が日記の原典に手を入れるのは(その記載を 採用するかしないかといういちばん大きなポイントを除けば)、おおむねこうした傾向であると判断できる。ちなみに〈日記 一九四六年〉には、1月は1日か ら31日まで(9日分の記載なしの日があって)22日分、2月は1日から27日まで(14日分の記載なしの日があって)14日分、3月は1日から31日ま で(13日分の記載なしの日があって)18日分、4月は2日・3日・6日・8日(記載された最後の日)の4日分、合計58日分の日記が掲載された。原日記 の記載を意図的に省いた分は、(仮にそれがあったとして)さほど多くない、という感触がある。詳細は〈日記 一九四六年〉に就いて見られたいが、同文で最 も興味深いのは、買ったり読んだりした本の著者名と書名が頻出することである。書名の数、実に42に及ぶ(このほかに作者の名前しか書かれていない本も何 冊かある)。日記の記載が58日分だから、ほぼ75パーセント、単純に4日に3冊の割で登場している勘定になる。関連する文(章)を摘する。

1月1日【火曜】 夜、《古今和歌集》を読む。
1月2日【水曜】 朝からキャメルをくゆらしながら、枕もとに散らかっている堀辰雄の本や茂吉《朝の螢》を読む。
1月4日【金曜】 みやげに餅と谷崎潤一郎《初昔》を頂く。梁さんは《西鶴集》だ。
1月5日【土曜】 《ノヴァーリス日記》を読む。
1月6日【日曜】 松田修《萬葉植物新考》を九十円で買う。
1月10日【木曜】 夜床の中でジイド《田園交響楽》を読む。
1月11日【金曜】 夜、《長塚節研究》を読む。
1月12日【土曜】 北原白秋《白南風》を買う。五十円。
1月15日【火曜】 朝、リルケ《マルテの手記》を少し読む。
1月16日【水曜】 途中の本屋で青柳瑞穂詩集《睡眠》を買う。
1月17日【木曜】 改造社版《作歌辞典》を買う。
1月19日【土曜】 KUSAKA嬢にルイ・エモンの《白き処女地》を貸し、彼女からイプセンの本を借る。茂吉《朝の螢》。
1月20日【日曜】 堀辰雄《風立ちぬ》をまた読みはじめる。
1月24日【木曜】 荷風《踊子》。
1月25日【金曜】 森銑三《渡辺崋山》。
1月26日【土曜】 小川町の古本屋で白秋《橡》を買う。
1月29日【火曜】 安倍能成《西遊抄》を求めた。伊藤佐喜雄《森鴎外》を読む。
1月31日【木曜】 佐佐木信綱編《萬葉辞典》二十円。保田與重郎《後鳥羽院》四円を買う。
2月4日【月曜】 谷崎潤一郎《文章読本》と岩波文庫《藤原定家歌集》を買う。夜遅くまで萩原朔太郎《遺稿下》を読む。
2月10日【日曜】(日曜) 神田の古本屋を漁り、《ノヴァーリス日記》と交換で堀内民一《萬葉大和風土記》を買う。
2月14日【木曜】 夜、日下嬢から借りたバルザック《絶対の探究》読む。
2月15日【金曜】(金曜日) 三島由紀夫《花ざかりの森》と短歌文学集《釋迢空編》を買う。
2月26日【火曜】 モーリス・バレス《エル・グレコ》を求める。
3月1日【金曜】 早速、机にむかって白秋《橡》を読む。
3月10日【日曜】 コンロに炭をおこし、直井潔《清流》を読む。
3月24日【日曜】(日曜) 横光利一《寝園》を読みかえす。
3月26日【火曜】 梶井基次郎《檸檬》を読む。午後、坪田譲治《【黒→異】人屋敷》の装幀を江古田の中尾彰氏のところに頼みにゆく。
3月27日【水曜】 夜、潤一郎《蓼喰ふ蟲》を読みはじめる。
3月30日【土曜】 《月下の一群》を買う。小型総革本で七十円也。
4月2日【火曜】 日高牧師から署名入りの《聖書》を頂く。
4月3日【水曜】 帰り神田で《定本吉井勇歌集》を求めた。夜、横光利一《機械》を読む。
4月8日【月曜】 夜、日高君から借りた永井荷風《腕くらべ》を楽しみながら読む。

ここからはさまざまな感慨が湧くが、兵士として4年強に亘って自由に読書することのままならなかった鬱積が吉岡をしてこれらの濫読(と あえて言いた い)に走らせた、とみることは的外れではないだろう。私にはこれらの書物が、現実という不定形な獲物に襲いかかり、なんとかこれを倒そうとする飢えた狼の 渾身の爪痕のように思えてならない。同時に、その一冊一冊がひとつひとつの詩句に見えてくるのをいかんともしがたい。

一九四六年(昭 和二十一年) 二十七歳
編 集の仕事で村岡花子、坪田譲治、恩地孝四郎、中尾彰らに原稿や装丁を依頼。同僚の日高真也に誘われて「新思潮」に入る。南山堂時代の先輩百瀬勝登と邂逅。 八月、香柏書房を退社。十月、先に辞めた日高真也の尽力で東洋堂へ入社。幸田成友のカロン『日本大王国志』、柳田国男『分類農村語彙』の編集を担当する。 『朝の螢』一巻しか知らなかった斎藤茂吉の他の歌集『赤光』『あらたま』、萩原朔太郎の詩集『月に吠える』『青猫』を初めて読む。(吉岡陽子編〈年譜〉、 《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996、七九二ページ)

一九四六年(昭和二十一 年) 二十七歳
一月、斎藤茂吉歌集《朝の螢》を読みのちに《赤光》《あらたま》に感銘。香柏書房の仕事で村岡花子や坪田譲治に原稿を依頼する。南山堂時代の先輩百瀬勝登 と邂逅。五年ぶりの月給。二月、恩地孝四郎宅へ装丁の謝礼を持参、これを機にか装丁の研究に励むようになる。同僚で友人の日高真也が小説を書きはじめる。 三月、文筆で暮らせるようになったのは四十歳過ぎだという坪田の話に自分もゆっくり作品を書いていきたいと考える。坪田譲治《異人屋敷》の装丁を中尾彰に 依頼。日本美術展覧会で日本画の綺麗すぎるのに驚く。四月、真也の父日高牧師から聖書を贈られる。坪田譲治、村岡花子らが出席してキリスト教系の出版社香 柏書房の創立祝い。八月、同社を退く。十月、日高真也の尽力で東洋堂に入社。幸田成友のカロン《日本大王国史》、柳田國男《分類農村語彙》などを手がけ る。十一月、萩原朔太郎詩集《月に吠える》《青猫》に初めて接し感銘を受ける。《凍港》や《黄旗》で山口誓子の句業をまとめて読む。(小林一郎編《吉岡実 年譜〔改訂第2版〕》、webサイト《吉岡実の詩の世界》、2012、二三五〜二三六ページ)

上に見るように、私が今までに編んだ吉岡実年譜は、吉岡の随想や日記の記載に多くを負っている。吉岡が随想や日記で言及した本のすべて を、同じ版で 読んでみたいと思う。なぜなら、そこには吉岡実の精神の軌跡が刻みこまれているに違いないからだ。とりわけ、詩作から離れていた時期の読書は重要だと考え る。吉岡がのちに《静物》となる詩篇を本格的に書きはじめるのは、この日記の数年後――おそらく1949年からである。

昭和二十四年八月一日 或る場所にある卵ほどさびしいものはないような気がする。これから出来るかぎり〈卵〉を主題 にした詩篇を書いてみたいと思う。(〈断片・日記抄〉)


永田耕衣の書画と吉岡実(2016年1月31日)

かつて私は〈永田耕衣と吉岡実――『耕衣百句』とそ の後〉に「吉岡実にとって永田耕 衣は、詩書画を打って一丸とした稀有な人格そのものだった」と書いた。今回は耕衣の書画集《錯》を手掛かりに、吉岡と耕衣の書画の関わりを探ってみたい。 ここに《錯》の販売促進用のチラシがある(天地190×左右160mm)。片面はカラー印刷で、上部に「金剛童子」を描いた耕衣画、 下部に本 書刊行の発起人代表・光谷揚羽の挨拶文が掲げられている。

永田耕衣書画集《錯》(永田耕衣書画集刊行会、1986年5月1日)のチラシ
永田耕衣書画集《錯》(永田耕衣書画集刊行会、1986年5月1日)のチラシ

片面はスミ一色で、本書の概要が印刷されている(原文横組み〔/は改行箇所〕)。
「永田耕衣書画集 錯/限定500部
全作品カラー収録(166点)/判型A4判・麻布クロス装/差込箱納
寄稿者
海上雅臣 高橋睦郎/棟方志功    西脇順三郎/三好豊一郎    岡部伊都子/塚本邦雄    須田剋太/岡田宗叡    須永朝彦/金子 晉    加藤郁乎/高柳重信    村上翠亭/村上翔雲    三橋敏雄/兜坂香月 吉岡 実
頒布 1986年5月1日/頒価 15,000円」
以下、永田耕衣書画集刊行会の住所(創文社内)、電話番号、郵便番号、振替口座番号が記されている。ついでに、本書の奥付も引いておこう(住所等は省 略)。

 著者 永田耕衣
 刊行 光谷揚羽
 印刷 創文社
 製本 須川製本所
 装幀 加川邦章〔湯川成一が装丁者として本名の外に使用した別名〕
 制作 湯川書房

 発行 永田耕衣書画集刊行会
 昭和六十一年五月一日 五百部発行
 頒価 壱萬五千圓(送料共)

次に掲げるのは《琴座》417号(1986年7月)の〈永田耕衣書画集・錯 愛語集〈続〉〉に掲載された吉岡の耕衣宛書簡である(同誌、二三ページ)。

 拝啓 久しくごぶさたいたしておりますが、お元気のことと拝察いたします。このたび、美事な『永田耕衣書画集・ 錯』が出来まし たことを、お祝い申上げます。先ずなによりも驚いたことは、小生所蔵の「不生」が最初に掲載されていたからです。光栄といっては妙ですが、喜んでいます。 「金剛」の名品二点がいまだ耕衣様の手元にあるのを知り、安心いたしました。作品と所蔵者を結びつけるたのしみ、それと選ばれた耕衣様のご苦心を感じたり しております。当然ながら、所蔵者不明で、数々の秀作がもれているのではないでしょうか。昔、田荷軒に懸っていた、巨大な赤牛、あれがないのは残念です。 小生が一番に心惹かれたのは、「羽痛女神像」です。大きさがわかりませんが、天地いっぱいに存在しているように見えます。中村苑子さん秘蔵というのも、め でたいことです。本当にくり返し見てたのしんでおります。さて、末筆になってしまいましたが、洩れ聞くところ、奥様の病状がはかばかしくないとのこと、耕 衣様のご心痛のほど、なんとお慰め申してよいやら、途方に暮れております。
 五月十八日

《錯》には、青江涼江に始まり吉岡で終わる77名の氏名を50音順で記した〈永田耕衣書画集刊行協賛者名簿〉が載っている(一三六〜一 三七ペー ジ)。おそらくこれが刊行を支援する最も広い関係者網であり、その内側に掲載作品の所蔵者がいて、さらにその内側に本書への寄稿者がいると考えられる。吉 岡実は、そのすべてに名を連ねている。〈目次・収録作品一覧〉で吉岡と本書の関わりを見よう(項目は「頁」「作品名」「所蔵者」、参考までに耕衣が揮毫し た賛を〔 〕内に補った)。

 ・13 不生(書)    吉岡実
 ・15 「日 記」抄 吉岡実
 ・109 梨花晩年夢仏    吉岡実 〔晩年や夢を手込めの梨花一枝〕
 ・110    曉暗鯰戯図    吉岡実 〔曉暗も人類無かれ桃の花〕
 ・116 鯰知蚤音恵仏    吉岡実 〔蚤の音鯰は知らず秋の暮〕
 ・117 女神虚無仏    吉岡実 〔白桃をいま虚無が泣き滴れり〕

〈「日記」抄〉は吉岡の文章、すなわち須磨の田荷軒に耕衣を訪ねた初対面の1967年4月27日の日記の再録(一九八〇年思潮社刊随想 集『「死児」 という絵』所収「日記抄―一九六七」抄)で、対向ページには田荷軒所蔵になる〈金剛(書)〉が配されている。前掲吉岡書簡にもあるように、耕衣の書画作品 を吉岡実所蔵の〈不生(書)〉で始めたあたり、作者の、そして本書の制作者たちの吉岡への厚遇が読みとれる(ちなみに〈不生(書)〉の対向ページの文章 は、棟方志功〈永田耕衣展を祝う〉の再録)。ところで、吉岡には《「死児」という絵》(思潮社、1980)や同書の増補版(筑摩書房、1988)に収録し た文章以外にも、耕衣の句や書画に触れた文章や書簡が数多くあり、主要なものは耕衣主宰の《琴座》誌に掲載されているので、それらを見てみよう。

☆ 銀椀鈔――永田耕衣宛書簡 《琴座》163号(1963年5月)

 拝啓 やっと春らしくなりました。お元気で書作の仕事に精進されていることと察します。いつもいつも耕衣の書が欲しいと思ってい ましたがお願いするのもあつかましいと思ってがまんしていました。書の展覧会を 催すことは「琴座」で知っていましたが、頒けていただけないだろうとあきらめていたところ昨日後援会員になれば書作品が手に入るとのこと早速申込みまし た。本当なら書作展に参り心ゆくまでに墨蹟をじかに見たいのですが仕事のため行けません。すばらしい会でありますように。〔……〕

☆ 銀椀鈔――永田耕衣宛書簡 《琴座》166号(1963年8月)

  雨もひとやすみ、ここ二、三日夏らしくなりました。先週の日曜日、寝床のなかで、貴重な書作品拝受しました。すばらしい墨蹟、近づいて見、遠ざかって見て たのしんでおります。適当な大きさなのも、狭い部屋なのでとても具合がよいのです。只今、風塵にさらしたくないので、飾棚の中に蔵しています。耕衣さんの 本意にそむく行為とは知りながら。返事がおくれたことをおわびします。
 六月十七日夜
 追伸。
 、さぞかし御盛会だったのでしょう。参れなかったのを残念に思いま す。さて最近、楠本憲吉さんから、排衣さんの
 百姓に今夜も桃の花ざかり
の短冊いただきました。まだお礼を申上げてないので、今夜にも手紙を書きます。小生、半年の間なにもしていません。耕衣さんのお仕事ぶりに恥入るばかり。

楠本憲吉宛書簡〔1963年6月 18日〕 《玉英堂稀覯本書目》275号(玉英堂書店、2004年5月)

拝 啓、お元気でお仕事のことと思います。早速に、耕衣短冊おとどけいただきながら、お礼を申すのが、たいへんおくれて申訳ございません。お電話でもと思った のですが、それも失礼と存じ、手紙をさしあげようとしているうちに、妙に無気力状態になり、今日に至りました。おゆるし下さい。貴重なもの、本当にありが とう存じました。今度の書作展の一点を頒けていただいたので、いっぺんに 二点も藏することができてうれしいところです。敬具

☆ 日記抄――耕衣展に関する七章 《琴座》235号(1969年11月)

五月二十六日 夜、信濃町の光亭で、郁乎、重信、それと初対面の海上雅臣、岡田宗叡氏と会う。七月に三越で展かれる永田耕衣展の打合せ。すいせん文、すいせん者の依頼の分担、案内状の発送などについ て。九時一応了る。料亭の部屋を飾る、志功の屏風、掛軸の肉筆がすばらしい。〔……〕

六月十三日 紀伊国屋サロンで、渡米前のいそがしい草野心平氏と会う。耕衣展のためのすいせん者になって頂くべく。資料として句集、書の写真をみせる。 〈金剛〉の二字をみて、これは本物だ、いいものを見せてくれた――承諾を得る。ほっとして白十字でコーヒーをのむ。夕五時。

七月十四日 午前中の会議をすまし、日本橋の三越へゆく。陽子が和服で現われたのに一寸びっくり。耕衣さんに陽子を紹介し、一緒にサロンを歩く。壁面に ぎっしり飾られた絵と書がまぶしい。一致して欲しかったのは、〈秋怨不動図〉と称す青色のきびしい作品だ。すでに売約済。図体の大きな赤い牛の姿に心惹か れた―〈牛臥揚蝶図〉これもすでに赤札がついている。正午なので外へ出、吉田のそばを食べる。一種の興奮をさますべく近くの喫茶でコーヒーをのむ。戻ると 耕衣さんは旧知の人たちにとりまかれ、家族の方も、光谷揚羽氏も客の応接でいそがしそうだ。全部の作品を丁寧にみる。〈近海地蔵〉は美しくしかも名句〈近 海に鯛睦み居る涅槃像〉の讃があり絶好のもの。陽子の好きな〈鯰仏〉は端麗。迷った末、小品であるが〈白桃女神像〉を予約する。草色と墨の淡彩だが、妙に 寸がつまって魅力がある。〈真風〉の普及版の一冊は飯島耕一へ贈くるため。赤い牛のオリジナルが入っているので特装版も一冊買う。暑い午後。

七月十五日 〔……〕

七月十八日 〔……〕

七月二十日 日曜 ドンクのパンの朝食。陽子洗濯。ひるね。芳来でラーメンを食い三越へゆく。高柳重信、三橋敏雄、寺田澄史、中村苑子氏らと会う。重信夫 妻〈老鴉夕焼図〉に執心するも、間一髪の差で入手出来ず、改めて〈近海地蔵〉を求める。午後六時終了。自から作品をかたずける耕衣さんの姿を見る。小さな 〈白桃女神像〉を持ちかえる。あわただしき別れ。宮益坂のトップで陽子とおちあう。わが猫エリ衰弱はげしく絶望的となる。書斉の壁へ〈白桃女神像〉を飾 る。

☆ 〈鯰佛〉と〈白桃女神像〉 永田耕衣全句集《非佛》栞〈田荷軒周囲〉(冥草舎、1973年6月15日)

 ある日、永田耕衣さんから薄くて大きな荷物がとどいた。包装をといて、私と妻は声をあげた。そこから、耕衣画〈鯰佛〉が出てきた からである。一通の手紙が添えられてあった。
 ――お元気のことと拝察しております。同封小品「鯰佛」が吉岡様の許に居りたがっていますので、迅くからお送りすべきなのに遅れてしまいましたが、同じ 大きさのサキの額に時々入れ替えてでも眺めて頂けるとありがたく存じます。謹しんで呈上申上ぐるしだいです。ボツボツ筆欲に燃えかけています。御清祥に御 越年を。奥様によろしく。――
 それは昭和四十四年の暮のことであった。思いもかけず、可憐な青彩のお地蔵さまが紅い蓮華をかざして、わが家に入ってきたのである。それには次の一句が 書かれている。

  蚤の音鯰は知らず秋の暮

 さかのぼって、その年の夏のこと、日本橋の三越で「書と絵による永田耕衣展」が 開かれたのである。関西では再三催されてはいたが、東京は初めてなので、在京の友人五、六人が成果を上げるべく、お手伝いをしたのだ。いささか心配してい たのだが、それは杞憂にすぎなかった。耕衣の句と書と絵の三位一体の強烈な魂の具現は、知人はもとより、多数の人々を魅了してしまったのである。
 私はひそかに高柳重信に言ったものである。われわれの永田耕衣をいつまでも隠匿して、愛したかったと。幸か不幸かその夢は破れた。

 私と妻は会場をぐるぐる回り、わが家を飾るにふさわしい作品を探した。そして妻は〈鯰佛〉を選び、私は〈白桃女神像〉に執着した。迷った末、耕衣さんに 意見を求めるという、非礼を冒してしまったのである。結局、〈白桃女神像〉を頒けて頂いた。それから四年、私の部屋にそれは揚げられている。筆染された文 字は、

  白桃をいま虚無が泣き滴れり

☆ 青葉台書簡――永田耕衣宛 《琴座》300号(1975年11月)

 〔……〕先日、また渡辺一考君が現われ、「不生」の額を持ってきてくれました。杉の黒塗の美しいその額に、早速耕衣書を入れ、玄 関に懸けましたら、いままで飾ってあった、アバティの色彩銅版画と趣きが一変して、厳しい雰囲気になりました。〔……〕

☆ 愛語鈔――永田耕衣宛書簡 《琴座》351号(1980年7月)

 傘寿の会に参加できてよかったと思います心のこもった素晴しい一夕でした。それに、書 画展も感銘しました。神戸という土地にも親しみを覚え、また参りたくなりました。出来たら、この秋にでも、耕衣さんのお宅に参り、鴉 か鯰の絵を手にしたいものです。〔……〕

☆兜子追 悼 《渦》1981年6・7月号(1981年6月)

 〔……〕
 昨年の春、永田耕衣傘寿の会が神戸の六甲荘で催された。二次会は、三宮のどん底という店で、百鬼夜行的な夜だった。私がかつて田荷軒で観た「金剛」の大 字が懸っているという、バーらんぶるへ、五、六人の酔漢と夜の街をさまよいつつ行った。そこに、したたか酔った兜子がいた。これが三度目の出合いであり、 最後であった。「金剛」の二字は、私の垂涎するものではなかった。
 〔……〕

☆ アンケート「そして、8月1日の……」 《麒麟》4号(1983年10月)〈同日異録B〉

★永田耕衣の「白桃図」を、居間の壁に掛ける。それまでは、この七月に急逝した、わが友高柳重信を悼み「弟よ/相模は/海と/著莪 の花」の染筆を掲げてあった。恵幻子よ、山川蝉夫よ、やすらかに成仏せよ。
〔……〕

☆ 青葉台つうしん――永田耕衣宛書簡 《琴座》397号(1984年9月)

  このところ、暑さが厳しく、いかがおすごしですか。この度の田荷軒訪問からだいぶ日が立ち、いまごろお礼を申し上げるのも、気がひけます。どうかお許し下 さい。土方巽さんも念願を果して、喜んでおりました。耕衣さんの容姿と、メリハリのある話しぶりには、感心していたようです。あの夜は、嵐山の宿に泊り、 翌日は京都市美術館で、憬れの画家バルチュス展を観て、夕方、清水寺へ参り、権兵衛の釜揚げうどんを食べて帰りました。本当は、耕衣さんとゆっくりお話が したかったのですが、土方さんが若い友人数人を、宿に待たせていたものですから。いつもながらあの書斎はくつろぎます。玄関の「花紅」の二字は、素晴しい と思いました。奥様、石井峰夫様によろしくお伝え下さい。
〔……〕

☆ 青葉台つうしん――永田耕衣宛書簡 《琴座》422号(1987年1月)

  拝復 このた びはお手紙と耕衣短冊を拝受して感激いたしました。亡き奥様の忌も明けられたとのこと、またなんと美しいご戒名を贈られたことでしょうか。最高のご供養だ と思いました。さて、頂いた短冊には、不滅の名句「コーヒ店永遠に在り秋の雨」が染筆されており、喫茶店好きの小生には何よりのものです。かつての傘寿の会の折に頂いた短冊の筆勢が、一休的であるならば、これには白隠の風韻を感じ ます。早速に、李朝石仏の脇に置いて、日々眺めております。本当にありがとう存じます。〔……〕

☆ 青葉台つうしん――永田耕衣宛書簡 《琴座》428号(1987年7月)

拝 啓、過日はお心のこもったお手紙と素晴しい絵を拝受いたしました。〔……〕お手紙によると、小生の稚拙な筆になる「葱室十一句」を、喜んで頂きうれしく思 います。そのうえ、立派な額に入れられ、田荷軒の一隅に、飾られたとのこと、面映ゆいばかりです。拝受いたしました、古代黄土顔料で彩られた可憐な仏さ ま。小生にはなぜか、唐子のように見えます。むかし人様から贈られた、古代裂を入れた額にぴったり収って、李朝石仏のわきに鎮座しております。本当にあり がとうございます。〔……〕

吉岡実が句集《葱室》(沖積舎、1987年4月24日)から撰した耕衣句の染筆
吉岡実が句集《葱室》(沖積舎、1987年4月24日)から撰した耕衣句の染筆

これらの書簡や文章で言及したものの外に、吉岡の所蔵になる耕衣の書画があることはいうまでもあるまい。そして、《琴座》に掲載された 以外に吉岡が 耕衣に宛てた書簡がいくつもあること、これはすでに確認している。そこで私はこんな書物を夢みる。吉岡実と永田耕衣の間で交わされた現存する書簡を発信順 に収め、書簡や文章中で吉岡が言及している耕衣の書画、言及してはいないが生前に所蔵し鍾愛したそれらをカラー図版にして掲載する。選句集《耕衣百句》 (コーベブックス、1976)のために吉岡が執筆した耕衣俳句の解説文〈覚書〉を、付録として加える。それを編むことが私に許されるのなら、冒頭で触れた 〈永田耕衣と吉岡実――『耕衣百句』とその後〉(《澤》2011年8月号〈特集・永田耕衣〉)を編者の解説として再録する。さて、書名はなにが佳いだろ う。吉岡実の文章だけなら《土方巽頌》に倣って《永田耕衣頌――〈書簡〉と〈随想〉に依る》とでもしたいところだが、この「永田耕衣・吉岡実往復書簡集 ――耕衣書画を併載」にはどのような命名も受けつけないものがある。

〔付記〕
〈☆日記抄――耕衣展に関する七章 《琴座》235号(1969年11月)〉には「五月二十六日」「六月十三日」「七月十四日」 「七月十五日」「七月十八日」「七月二十日」と六日分の記載しかないが、原文のママである。原稿の段階ではあと一日分の記載があって、なんらかの理由でそ れを削除したものの、題名の「七章」はそのまま残ってしまったものか。最初から「六日分」の記載しかなくて、標題を付けるときに「七日」と勘定しまちがえ ただけかもしれないが。

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以下は、永田耕衣書画集《錯》(永田耕衣書画集刊行会、1986年5月1日)所収の石井峰夫編〈永田耕衣個 展年譜〉(同書、一四〇〜一四一ページ)の見出しと開催会場だけを抄したもの。〔*印は吉岡実が観た個展を表す〕

第一回 永田耕衣書作展  昭三八・五/神戸新聞会館文化センター
第二回 永田耕衣書画展 昭四〇・二/神戸新聞会館文化センター
第三回 永田耕衣書画展 昭四〇・三/京都・四条「紅」画廊
第四回 永田耕衣個展(書と絵) 昭四一・五/神戸・元町「みなせ」画廊
第五回 永田耕衣書画展 昭四二・五/神戸そごう店美術画廊
第六回 書と絵による永田耕衣個展 & nbsp;  昭四四・七/東京・日本橋三越美術サロン *
第七回 永田耕衣書画展 昭四五・五/神戸そごう店美術画廊
第八回 永田耕衣展――書と絵による 昭四六・九/大阪・阪急百貨店美術画廊
第九回 永田耕衣展    昭四七・五/東京・銀座万葉洞 *
第十回 永田耕衣書画展 昭四八・五/神戸そごう店美術画廊
第十一回 永田耕衣展 昭四九・九/神戸・三宮さんちかギャラリー
第十二回 永田耕衣書画展 昭五〇・一/大阪・今橋画廊
第十三回 永田耕衣画賛小品展 昭五一・九/大阪・中之島『波宜亭』(新朝日ビル一階)
第十四回 永田耕衣展――書と絵による 昭五一・一一/大阪・阪急古書のまち『リーチ』
第十五回 田荷軒永田耕衣個展 昭五二・一一/神戸・元町画廊
第十六回 永田耕衣傘寿の会協賛個展 & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp;  昭五五・五/神戸・元町画廊 *


《うまやはし日記》のために(2015年12月31日)

吉岡陽子編〈年譜〉(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996)によれば、吉岡実は「一九二六年(大正十五・昭和元年)」「本所明徳尋常 小学校に入 学」、「一九三二年(昭和七年)」に同校を卒業して「本所高等小学校に入学」(同書、七八九ページ)。「一九四七年(昭和二十二年) 二十八歳」「二月、本所の中華料理店で明徳尋常小学校のクラス会(このクラス会は晩年まで続けられた)」(同前、七九二ページ)。そして、「一九八五年 (昭和六十年) 六十六歳/〔……〕六月、本所中学校で明徳尋常小学校の同窓会。記念に求めた『明徳開校百拾周年記念誌』の〈お世話になった人びと〉のアルバムの中に両親 の写真を見つける。戦前の父母の姿に出会い深い感動を覚える」(同前、八〇六〜八〇七ページ)とある。一方、その同窓会のことを書いた吉岡の随想〈学舎喪 失〉(初出は《文學界》1985年9月号〈私の風景〉欄)はこうだ。

 初夏の午後、私は地下鉄の浅草で降り、吾妻橋をわたった。「絶えぬ隅田の川の水」とはわが校歌の冒頭の句である。 今はいささか川面は濁っているが、隅田川はゆるやかに流れている。しかし、私の学んだ小学校は、戦後間もなく、廃校となり、すでに無い。
 「明徳開校百拾周年記念」の催しのある、本所東駒形の本所中学校へ向った。この中学校がその新しい姿である。「校歴」には、廃校の経由が明記されていな い。だが私の記憶では、焼け残った校舎に、罹災者たちが住みつき、再校の時機を失ったのであった。
  私は受付で会費をはらい、缶ビールと弁当を貰って、大きな会場に入った。すでに式典は始まっている。しばらく探し廻り、やっと「昭和七年卒業者」の表示の ある、席を見つけた。男女七、八人で一寸、気勢があがらない。だが懐しい顔があった。鰻屋のサブちゃん、寿司屋のマアちゃん、焼芋屋の長年坊そして下駄屋 の栄松たちは、かつての女生徒を酒の相手に喋っているではないか。そういえば、大先輩の十四世将棋終世名人木村義雄も、下駄屋の息子だったと聞く。「ヨッ ちゃんよく来た!」と迎えられた。サブちゃんは戦死した兄に替って、家業を継いだが、ほかの者はそれぞれ違う商売をえらんだようだ。
 私はともだちと別れ、「帽章」の複製と「記念誌」を買って、町へ出た。少年時代を過した二軒長屋の辺りは、家並が変ってはっきりしない。Y新聞販売店に なっている処のように思われた。まっすぐ浅草へ行かず、脇道をして、駒形橋をわたり、駒形堂にお参りをした。日も暮れかかっていた。

  白鷺の一声啼きてよぎりゆく薄暮の橋に灯のとぼりたる(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二七一〜二七二ページ)

このほど《明徳開校百拾周年記念誌――明徳校友会復活弐拾周年》(扉の書名の「徳」は旧字)を入手したので、同書の記載を参照しなが ら、《うまやは し日記》(書肆山田、1990)に描かれた吉岡の級友たちに登場してもらおう。まず奥付を見ると、発行日は「昭和六十年五月十四日発行」で、「限定版」と あるが限定部数等の記載はない。「発行 明徳校友会/東京都墨田区東駒形三丁目一番十号/墨田区立本所中学校内」、「編集 明徳開校百拾周年/記念事業実 行委員会/記念誌編纂委員会」、「印刷 合同印刷株式会社/〔住所・電話番号は略〕」である。本書の仕様は、B5判上製布装、組立函、総228ページ(最 初の台は4色、後はスミ1色。化粧扉の2ページ分以外すべてコート系の用紙なのは、写真や図版を主に掲載するためだろう)。前付の〈明徳開校百拾周年記念 事業〉には「記念誌の発刊、記念碑の建立、植樹、その他、懐かしい帽章の複製・連帯を謳する校友バツジの製作・現在まで判明した会員各位の名簿(第五集) の発行など」(〔一五ページ〕)とあり、吉岡の記述と合致する。次に〈目次〉の大項目を引く。

 グラビア
 発刊の辞および祝辞
 公文書に見る明徳小学校
 明徳小学校の遺品
 明徳小学校と校友会の沿革
 懐かしのアルバム
 学童集団疎開顛末記
 編集後記

この中の〈年表 明徳小学校と校友会の沿革――併びに地域・社会の歴史〉で、吉岡実誕生の1919年から卒業の32年までの間の重要項目を拾ってみよう。

 1923(大正12) 9月1日 関東大震災のため校舎焼失。
 1929(昭和4)    11月25日 威容があってモダンな鉄筋三階建の新校舎が完成。敷地面積・五五一二u、校舎延面積・五七二八u、区内校最大。
 1930 (昭和5)    3月31日 市立「中和図書館」が、中和小学校から「明徳尋常小学校」に移転してきた。のち「市立・東駒形図書館」と改称。/5月1 日 明徳 校は学級数二十六、職員三十名、児童数一四六〇名、ほぼ震災前と同数のマンモス校となる。/・この年、新校歌「絶えぬ隅田の川の水…」を制定する。(本 書、六三〜六八ページ)

本筋からはやや逸れるが、明徳校友会の相談役で大正6年卒業の木村義雄の〈回顧〉(〈発刊の辞および祝辞〉)を見ると、「町〔本所区表 町〕の中程に 篠塚地蔵というお地蔵様があって、月のうち四の日が縁日で賑かだった。それほど広くもない境内だが、夜店がぎっしりで紙芝居の屋台も割込んでいた。紙芝居 屋さんは声色がうまく、狂言はいつも水滸傳で、花和尚魯智深と九紋龍史進との、雪中の決戦という場面が手に汗を握った」(本書、一九ページ)という述懐が 興味深い(吉岡の日記にも篠塚地蔵尊が出てくる)。ちなみに木村終世名人は吉岡より14歳年長。吉岡は木村義雄のようには執筆しておらず、おそらくどの記 事にも出てこない。本書で唯一「吉岡實」が登場するのは〈懐かしのアルバム〉――扉裏には「明徳小学校の明治・大正・昭和の三代に亘る卒業記念写真帖で す。現在蒐め得た限りの集大成であり、敢えて当時のままの復刻としました。」とある――の〈昭和七年 一組〉の卒業写真に付せられた「六ノ一」の生徒氏名 としてである。

本所明徳尋常小学校、昭和7年6年1組の卒業記念写真(吉岡実は上から2段めの右から3人め)
本所明徳尋常小学校、昭和7年6年1組の卒業記念写真(吉岡実は上から2段めの右から3人め)
出典:明徳開校百拾周年記念事業実行委員会・記念誌編纂委員会編《明徳開校百拾周年記念誌――明徳校友会復活弐拾周年》(明徳校友会、1985年5月14 日、一一七ページ)

本所明徳尋常小学校、昭和7年卒業6年1組の担任田口信太郎先生と全生徒57名の氏名を録する(写真の上段から下段へ、左から右へ。表 記には旧字も用いた)。★印は《うまやはし日記》に登場する人物で、数字は同書のノンブル(以下同)。

高須 長藏・中原精八郎・中林傳次郎・大塚 次男・山口 信雄・松本 恭治・板垣 武男・川島善一郎・中島 俊雄・加茂 俊一・高岸  貞雄
中澤 一郎・★大角 輝男・佐藤 章・★小澤 稔・★中山 慶司・徳生 登・★山野邊三郎・樗木 壽敏・★安原 龜夫・増尾 六郎・吉岡 實・★山田  弘・飯塚 保
★池田福太郎・大林 一衞・小見 計・竹内 武雄・小熊惣一郎・牧上 勘三・杉本 陽一・★松本 長年・佐藤喜八郎・伊藤晴治郎・小林 正泰・富田 貢
青木 繁・堀越 光夫・富田 實・★佐藤 榮松・東海林 實・戸塚 林哉・★久保 文雄・★香取 和雄・内藤 政男・山森 重房・★福田 俊雄
石上 弘行・田村 孝・加部 隆三・★土切 正二・★土橋 鐵彦・★田口 先生・羽田 勝恵・杉野 茂・齋藤勝之助・宮本慶太郎・谷口 純三

★大角 輝男=94
★小澤 稔=24「一九三九年四月二日/夕暮どき、篠塚地蔵の前で、山野辺三郎と出会う。同級生の小沢が 殺[や]られたとのこと。小学校卒業以来、小沢稔(?)には会っていないが、噂では乾分数十人を持つ兄い[、、]だったらしい。可哀そうな気がした。奴の 姉は美人だった。」〔本書には小澤稔の姉とおぼしき女生徒の卒業写真も載っている〕
★中山 慶司=19・47・52・64・68・69・79・94・112・120
★山野邊三郎=〈学舎喪失〉・19・24・57・59・66・79・89・93・94
★安原 龜夫=94
★山田 弘=79・94
★池田福太郎=89
★松本 長年=〈学舎喪失〉
★佐藤 榮松=〈学舎喪失〉
★久保 文雄=93
★香取 和雄=94
★福田 俊雄=93
★土切 正二=19
★土橋 鐵彦=39「一九三九年五月十五日/土橋鉄彦君の遺稿集『愛日遺藁』を読んで、その文才に驚く。早速、兄さんの土橋利彦(塩谷賛)へ感想の手紙を 書く。」、120「一九四〇年一月二十日(晴)/朝、十時ごろ赤羽の法善寺へ行く。土橋鉄彦君の三回忌の法要。十年ぶりで家族に会う。兄の利彦さんと夭折 した友の想い出にふける。画家か小説家を志望していたそうだ。丘の墓地にお参りして帰った。午後三時過ぎ麻布へ廻る。慶ちゃんと面会したのは麻布三聯隊の 原の埃の吹く、寒い夕暮。」〔本書には土橋利彦の卒業写真も載っている〕
★田口 先生=79・94

残念なことに、「まあ坊」(他に「マア坊」「マアちゃん」とも)が誰だかわからない(〈学舎喪失〉・54・89・94・121)。昭和 7年卒業6年 1組の57人の名前から見当をつけると、「小林正泰」「内藤政男」「土切正二」の3人だが、「吉岡實」=「ヨッちゃん」の流儀でいけば姓の可能性もあるわ けで、特定は困難だ。とは言うものの、私としては、これに厩橋の通りの屋台寿司の「正坊」(48・57・60)を加えて、「土切正二」か、という推測に傾 いている。名前といえば、吉岡以外にも「實」が「富田實」「東海林實」とクラスに2人もいるのには驚かされる。ちなみに、同じく男子ばかり56人の6年2 組に「實」はいない。増田六助(79・94)も明徳尋常小学校の同級生のようだが、どうしたわけか卒業記念写真には載っていない。《うまやはし日記》の 1939年9月19日に登場する「島田富栄先生」(76)は、吉岡が卒業したときの6年4組(生徒は女子53名)の担任である。吉岡には、前掲〈学舎喪 失〉以外に同級生の同窓会について書いた随想はない。だが吉岡を見送った高橋睦郎の文章があり、幸いなことにその最終部分に吉岡の同級生たちが登場するの で、やや長いが引用する。吉岡が詳しくは書かなかった同窓会の雰囲気がうかがえる。

 数日後、私は一通の葉書を受けとった。そこには「吉岡実君の葬儀、ご苦労さまでした。私は小学校一年から六年まで ずっと吉岡君 と同級でした」とある。表書に「★香取青甌」とあるその名前は、私が二年前から選をしている「銀座百点」誌俳句欄の常連投稿者で、秀逸にも採った記憶があ る。「少年時代の吉岡さんについていろいろお聞かせいただきたいものです」と返事を書いた。香取さんからはまた葉書が来て、吉岡さんと香取さんは最近でも 少年時代のまま「ヨッちゃん」「カー坊」と呼びあっていたこと、小学校時代の仲間が今日に至るまで一年に一回集まって来たことを知った。
 八月も半ば過ぎ、陽子夫人から電話があった。吉岡の同級生の同窓会に私と睦ちゃんと誘われているんだけど、行く? もちろん二つ返事で出席することにし た。追って香取さんから手紙があり、同窓会の場所と世話人の電話番号を教えられた。すぐ世話人の★山ノ辺三郎さんに電話して、出席させていただく旨伝え た。
 八月二十三日夕刻六時半、地下鉄浅草駅吾妻橋口に出た私は迎えの山ノ辺さんの案内で吾妻橋を渡り、いかにも下町の小料理屋の風情の会場、お多紀に行っ た。出席者は十二、三人あったろうか、陽子夫人の顔もすでにあった。陽子夫人の隣には吉岡さんの写真が飾られていた。私の隣の六十歳そこそこにしか見えな い眼鏡の人が、香取です、と自己紹介をした。
 陽子夫人と私とを除く出席者すべて七十歳を越えているはずなのだが、そこにいない「ヨッちゃん」を連発し、おたがい幼年時代の通称で呼びあっているう ち、昭和初年の本所明徳尋常小学校の腕白の集まりと二重写しになってくる。後で送られて来たスナップ写真を見ると、どの写真の陽子夫人も私もうれしそうに 笑っている。一滴も飲まない「ヨッちゃん」も毎回最後まで付き合ったそうで、吉岡さんがこの集まりを大切にしていたことがわかる。
 陽子夫人によると、吉岡さんは三十年の結婚生活中、浅草まで来ても陽子夫人を伴って橋のこっちに来たことは一度もない、という。それほど大切にした幼年 時代の聖域への思いは遺著『うまやはし日記』に凝縮している。誰か『うまやはし日記』を映画にしてみようという、意欲ある監督はいないか。「童年往事」 「悲情城市」の台湾の〔候→侯〕孝賢監督では駄目かしらん、などと思い思いしている。(高橋睦郎〈吉岡実葬送私記〉、《現代詩読本――特装版 吉岡実》思潮社、1991、二五五〜二五六ページ)

★香取青甌=香取 和雄
★山ノ辺三郎=山野邊三郎


卒業記念写真とそこに記された同窓生の氏名は《うまやはし日記》における吉岡の交友関係を読みとくための最も重要な図像=資料である(本所高等小学校の卒 業記念写真は残っていないのだろうか)。同様に、出 征時の記念写真が吉岡の親族を読みとくための最も重要な図像=資料ということになる。最後に、冒頭で引いた〈年譜〉に登場する「アル バムの中に」見つけた「両親の写真」を掲げて、本稿を締めくくることにしよう。

「アルバムの中に」見つけた「両親の写真」
「アルバムの中に」見つけた「両親の写真」
出典:明徳開校百拾周年記念事業実行委員会・記念誌編纂委員会編《明徳開校百拾周年記念誌――明徳校友会復活弐拾周年》(明徳校友会、1985年5月14 日、一九九ページ)

写真の上段から下段へ、左から右へ。

 並木竹太郎・吉岡 いと・奥地 勝
 吉岡紋太郎・澤田政五郎・岡田伊之助

《うまやはし日記》にも登場する吉岡の叔父(父紋太郎の弟)である澤田政五郎(76・77・78・104)は1939年10月1日に亡 くなっているから、それより前の撮影。

〔追記1〕吉岡実の戦後の日記
《うまやはし日 記》には、1939年8月4日の浅草のとんかつ屋「喜多八」でのクラス会のこと(64-65)、8月11日の、そのクラス会の記念写真のこと(66)―― 《ユリイカ》1973年9月号、八五ページおよび《現代詩読本――特装版 吉岡実》口絵の「出征会にて」の写真はこれか――、10月15日の明徳尋常小学校同窓会のこと(80-81)――《ユリイカ》同号、八九ページの写真はこ れに違いない――、11月26日の福寿荘での本所高等小学校のクラス会のこと(92-93)が描かれている。《うまやはし日記》にたびたび登場する味形 (19・70・74・93・118)は、本所高等小学校時代のクラスメートである(明徳尋常小学校からの級友は「幼年時代の通称」で、本所高等小学校から の級友は苗字で呼ばれることに注目したい)。一方、吉岡実の戦後の日記には、明徳尋常小学校のクラス会(1947年2月2日と1948年7月3日)の様子 が描かれている。戦後の日記の記載については、大岡信との対話に吉岡のコメントがあるので、それも含めて引く。

……………………………………………………………………………………………………………………………………

昭和二十二年二月二日 日曜 小学校のクラス会を本所の中華料理店でする。★田口先生も老けられたが声が若い。★マア坊、★長蔵、★六 助、★俊一、 ★栄松が集った。消息のわかっているもの、★大角、★小見、★中山の慶ちゃん戦死。うなぎ屋の★さぶちゃんがいないのはさびしい。名物業平だんごはうま かった。(〈断片・日記抄〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》思潮社、1968、一〇八ページ)

★田口先生=田口信太郎
★マア坊
★長蔵=高須 長藏
★六助=増田六助
★俊一=加茂 俊一
★栄松=佐藤 榮松
★大角=大角 輝男
★小見=小見 計
★中山の慶ちゃん=中山 慶司
★さぶちゃん=山野邊三郎

……………………………………………………………………………………………………………………………………

七月三日(土曜)
 〈クラス会〉
 すり[、、]の多い地下鉄にのる/かね[、、]を持っていないから/安心してぼんやり/映画 のビラを見ていた/隅田公園は荒れ果てていても/涼みの人たちが川を見ていた/川の水もいくらか澄んで流れていた/むかしのように今でも/石垣に蟹がひそ んでいるかな/なつかしくゆっくり吾妻橋をわたる/恋びとたちのボートが幾つか浮いていた/僕は橋の上の淋しい男?/夜六時過ぎ/小料理屋に十人ほど集っ た/明徳尋常小学校昭和七年卒業生/うなぎ屋の★さぶちゃんは頭が禿げて二人の子の親/左官屋の★ろくすけは早死した同級生の姉が恋女房/すし屋の★まあ 坊はお惣菜屋の主人/支那そば屋の★けいちゃんだけが戦死/恩師★田口先生はこの春なくなられた/名残りつきない夜の宴/大粒の雨が降ってきた(〈日歴 (一九四八年・夏暦)〉、《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》書肆山田、1996、一三ページ)

★さぶちゃん=山野邊三郎
★ろくすけ=増田六助
★まあ坊
★けいちゃん=中山 慶司
★田口先生=田口信太郎

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大岡 た とえばきみの場合、やはり日記でね、終戦直後ぐらいに同窓会をやって、そこに出てくる名前が書いてあるわけね。それが苗字はひとつも出てこない。
吉岡 そう、★さぶちゃんと か★マア坊とか。
大岡 そういう名前で出てく る人をうまく書くのは、非常に難しいと思 う。だけど、それをやったら非常に面白かろうっていう気もするんだ。〔……〕そういう関係のもってる雰囲気を正確に書くくらい難しいことないんだよな。吉 岡は、そういう体験を書けるかもしれない人だと思う。ただそれをやるとね、詩の方で作ってきた非常に硬質のものとそれがどう結びつくか、だ。
吉岡 痛いことを言うね、そ れなんだよ。ぼくにとって本所の生活って のは、おそらく書けると思うの、ある程度までね。高等小学校の頃なんてのは、焼芋屋へいってさ、それがわれわれの溜まり場ね。冬なんて焼芋の釜にあたっ て、ダベっていたものだな。うなぎ屋の★さぶちゃん、寿司屋の★マアちゃん、そういう人間書けると思うのよ。ただ、大岡が言った、詩でいままで考え、構築 してきたことと、どうつながるのかということね。
大岡 だから多分小説じゃな くて、一種のエッセイだろうね。遠景なら遠景に、そういう人物をかちっと嵌め込めば、吉岡風景ができると思う。(吉岡実・大岡信〔対話〕〈卵形の世界か ら〉、《ユリイカ》1973年9月号、一五七ページ)

★さぶちゃん=山野邊三郎
★マア坊
★マアちゃん

〔追記2〕江戸川乱歩の厩橋
江戸川乱歩の長篇小説《幽鬼の塔》(初刊は非凡閣、1941年7月29日)を、桃源社版江戸川乱歩全集(1963年7月)の覆 刻で読んだ (《江戸川乱歩全集〔第十五巻〕》沖積舎、2009年6月19日)。素人探偵、河津三郎(明智小五郎を思わせる)が塔での連続縊死をめぐる謎を究明する話 だが、冒頭の一節を引用しないわけにはいかない。

 彼はそのころ、毎晩のように黒の背広、黒の鳥打帽という、忍術使いのようないでたちで、隅田川の橋の上へ出かけて 行った。東京 名所にかぞえられるそれらの橋の上には、設計者の好みの構図によって、巨大な鉄骨が美しい人工の虹を描いていた。黒装束の素人探偵は深夜十二時前後に、橋 の袂にタクシーを乗り捨て、人通りのとだえたところを見すまして、その人工の虹の鉄骨の上によじのぼるのであった。
 闇のなかの幅の広い鉄骨は、黒装束のひとりの人間を充分下界から隠すことができた。彼はその冷え冷えとした大鉄骨の上に身を横たえ、まるで鉄骨の一部分 になってしまったかのように、身動きもしないで、二時間、三時間、闇の中に眼をみはり耳をすまして、その下を通りすがり、その下に立ちどまる人々を観察す るのであった。
 〔……〕
 この物語の発端をなす四月五日の夜、河津三郎は例の黒装束に身をかためて、厩橋の鉄骨の上に横たわっていた。
 もう十二時に近かった。両岸のネオンの電飾も消え、河ぞいの家々の窓もとざされ、橋の上の自動車の往き来もとだえがちになって、昼間雑沓の場所だけに、 その物淋しさはひとしおであった。(同書、一五九〜一六〇ページ)

さらに、これは偶然というほかないが、結末近くで卒業記念写真が登場する。「校長に面会して、口実を設けて、卒業生名簿や、卒業記念の 写真を見せて もらったが、その写真の一枚には、進藤、青木、大田黒の三人はもちろん、三田村までも、詰襟服を着た子供々々した顔を並べていたのである。/河津は、それ をたしかめたばかりでは満足しないで、なおもその八十何人の卒業生の顔を、ひとりひとり入念に眺めていった。すると、彼の眼がハッと一つの顔にぶつかっ た。予感が的中したのだ。そこに、あの最初の首吊り男鶴田正雄とそっくりの顔をした少年が、たくさんのいがぐり頭の中から、ヒョイとのぞいていたのであ る。/名簿を調べてみると、やはりこれは鶴田正雄に違いないことがわかった。ああ、なんということだ。小説家と代議士と画家と雑貨問屋とが、揃いも揃っ て、同じ中学の卒業生であったばかりか、あの奇怪な首吊り男までが、彼らの同期生であろうとは」(同書、二四五ページ)。
乱歩の〈あとがき〉によれば、本作は《日の出》1939年4月号から40年3月号まで連載された。吉岡の岳父、和田芳恵が戦前の10年間ほど《日の出》の 編集者だったというのも奇遇である。


吉岡実の〈アリス詩篇〉あるいは《アリス詩集》(2015年11月30日〔2020年9月30日追記〕〔2021年8月31日追記〕)

秋元幸人の〈《アリス詩篇》私註〉に「いずれにしても、「ルイス・キャロルを探す方法」とそれに続く、「『アリス』狩り」とから成る吉岡の《アリス詩篇》は、音読するに楽しく、聞いて心地よく、静かに繰り広げられるイメージを思い描いて美しい作品である。〔……〕その生涯の全詩篇を通読する時には、人は必ずこの二篇から、吉岡実の新天地が拡がってゆくのを痛感することだろう」(《吉岡実アラベスク》、書肆山田、2002年5月31日、五〇ページ)とあるとおり、吉岡実の〈アリス詩篇〉は〈ルイス・キャロルを探す方法〉(G・11)と〈『アリス』狩り〉(G・12)から成る。だがこれは狭義の〈アリス篇〉、すなわち《サフラン摘み》(1976)に収められた初期の2篇であって、吉岡にはこれらを含む「アリス詩集の夢」があった。鶴岡善久の〈〈サフラン摘み〉に関するaからeまでの私的な断片〉(《詩学》1977年3月号)に引かれている吉岡からの返信の「アリス詩ほめていただきありがとう存じます。いずれあと二、三篇を作って一冊の本を夢見ています。………」(同誌、三八ページ)がその証である。同文で鶴岡が吉岡書簡に続けて

 吉岡さんが夢みたアリス詩の一冊の本は実現しなかった。アリスの詩は一応は〈サフラン摘み〉に収録されてしまった。しかしぼくはいまだアリス詩の一冊の本の夢をみつづけている。いつの日か吉岡さんを説き伏せて美しい限定本を作る本屋さんの力をかりて一冊の美しいアリス詩集を作る仲立ちをしたいものだとぼくは夢みている。

と書いているように、アリス詩の一冊の本は実現しなかった(文中の「美しい限定本を作る本屋さん」は、鶴岡が政田岑生と組んで編集した〈叢書溶ける魚〉――吉岡の《液体》再刊は叢書の第2集――を出した版元、湯川書房を想起させる)。だがここに、限りなくそれに近い印刷物が実在する。《花の国のアリス――ALICE IN FLOWERLAND》(未生流中山文甫会、1976年2月4日)がそれだ。本書には〈ルイス・キャロルを探す方法〉を構成する2篇のうちの1篇〈わがアリスへの接近〉の再録と、のちに拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》(1980)に収められた〈人工花園〉(I・19)の初出が掲載されているのだ。《花の国のアリス――ALICE IN FLOWERLAND》(以下《花の国のアリス》)は、1975年10月3日から8日にかけて新宿京王百貨店で開かれた〈第一回三人展 中山文甫・中山景之・中山尚子〉を記念して、翌年2月に限定1000部で発行された図録的な冊子である。同書の目次(〔 〕は小林による補記)と奥付を録する。

一辨[ひとひら]の頁=武満徹    6-7
Please be our guest.....〔英文〕    8-9
〔花の国のアリス・目次    10-11〕
内なるものを拒否する作家・中山文甫=浅野 翼    14-23
わがアリスへの接近=吉岡 実    25-32
花の国のアリス展〔図録〕    33-96
無限にかさなる宇宙 the cosmos=中山文甫    42
ブランコにのり旅に出よう function=中山尚子    49
微細なものが働く micro-cosm=中山景之    61
花の国のアリス展について=中山文甫    66-67
光がなければみえない=中山尚子    76-77
無限につづく時から=中山景之    86-87
インド・ナタマメの幻想=板根厳夫    98-103
人工花園=吉岡 実    104-107
見事な空間演出=早川良雄    108-109
呼びかける空間=豊口 協    110-113
博覧会方法論小考〔無署名〕    116-121
アリスが姿をみせるまで〔浅野 翼〕    122-128
〔展覧会スタッフ    128〕
年譜〔中山文甫・中山尚子・中山景之〕    130-149
〔筆者紹介    150-151〕
〔奥付    153〕

……………………………………………………

限定一〇〇〇部参拾参〔番号は筆書き〕番
花の国のアリス

写真=岩宮武二・本郷秀樹・国東照幸
ブックデザイン=国東照幸
イラストレーション=ジョン テニエル・フイリップ ガーフ

昭和五一年二月四日発行
編集=株式会社未生
発行者=中山文甫
発行所=未生流中山文甫会
大阪市北区葉村町四一 郵便番号=五三〇 電話=大阪〔略〕
東京都港区赤坂七―二―一〇―三〇六 郵便番号=一〇七 電話=東京〔略〕
昭和五一年一月二五日印刷
印刷=奥村印刷株式会社
製本=自信製本

〈わがアリスへの接近〉(G・11の1篇)の再録ページ(冒頭の見開き)〔出典:《花の国のアリス――ALICE IN FLOWERLAND》(未生流中山文甫会、1976年2月4日、ブックデザイン:国東照幸)〕 《花の国のアリス――ALICE IN FLOWERLAND》の表紙
〈わがアリスへの接近〉(G・11の1篇)の再録ページ(冒頭の見開き)〔出典:《花の国のアリス――ALICE IN FLOWERLAND》(未生流中山文甫会、1976年2月4日、ブックデザイン:国東照幸)〕(左)同書の表紙(右)

本書の構成を私なりにまとめると、次のような\部になる。

T 
 一辨[ひとひら]の頁=武満 徹    6-7
 Please be our guest.....〔英文〕    8-9
U 目次
 〔花の国のアリス・目次    10-11〕
V オマージュ
 内なるものを拒否する作家・中山文甫=浅野 翼 14-23
 わがアリスへの接近=吉岡 実 25-32
W 図録
 花の国のアリス展 33-96
 無限にかさなる宇宙 the cosmos=中山文甫 42
 ブランコにのり旅に出よう function=中山尚子 49
 微細なものが働く micro-cosm=中山景之 61
 花の国のアリス展について=中山文甫 66-67
 光がなければみえない=中山尚子 76-77
 無限につづく時から=中山景之 86-87
X 論考
 インド・ナタマメの幻想=板根厳夫 98-103
 人工花園=吉岡 実 104-107
 見事な空間演出=早川良雄 108-109
 呼びかける空間=豊口 協 110-113
Y あとがき
 博覧会方法論小考〔無署名〕 116-121
 アリスが姿をみせるまで〔浅野 翼〕 122-128
Z クレジット(1)
 〔展覧会スタッフ 128〕
[ 資料
 年譜〔中山文甫・中山尚子・中山景之〕     130-149
\ クレジット(2)
 〔筆者紹介 150-151〕
 〔奥付 153〕

このように見てくると、仮に「論考」としてまとめたXに置かれた吉岡の〈人工花園〉が(散文)詩と論考の中間形態のように思えてならない。事実、〈人工花園〉は段落冒頭を1字下げで始める書き方こそないものの(Xの他の文章にも字下げがないから、本書のレイアウトの方針に依るものかもしれず、吉岡が字下げをしたかしていないかは原稿未見の段階では不明)、初出では句読点もあり、純然たる散文の形式で書かれ、拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》への収録に際して現行の散文詩型に改められた。板根、早川、豊口の文は評論文であり、吉岡も必ずや〈第一回三人展 中山文甫・中山景之・中山尚子〉の会場に足を運び(最低でも資料写真を目にして)、本文を書いたものと思われる。狭義の〈アリス詩篇〉における、ルイス・キャロルが撮ったアリスたちの写真に相当するものである。残念ながら私は同展を観ていないが、本書に掲載された写真を見るかぎり、1970年の大阪万国博における近未来をイメージした諸諸の展示物を想わせるものがある。さて今回、私が試みたのは、《花の国のアリス》の吉岡実詩の組体裁で、架空の書《アリス詩集》を制作することである。同書所収の〈人工花園〉の基本版面は次のとおり。

〈人工花園〉(《花の国のアリス――ALICE IN FLOWERLAND》所収)の基本版面
天地250mm 12ポイント 25字詰め 版面天地105mm(300ポ=105.42mm) 天アキ72.5mm 地アキ72.5mm 左右150mm 13行組 行間12ポイント 版面左右105mm(300ポ=105.42mm) 小口アキ30mm ノドアキ15mm

すなわち正方形の版面を用紙の天地中央に「小口アキ:ノドアキ=2:1」で配置している。実測と推定による上記の数値をテンプレートとして、InDesignで組んだのが下図の(右)である。

〈人工花園〉(I・19)の初出掲載ページ(冒頭の見開き)〔出典:《花の国のアリス――ALICE IN FLOWERLAND》(未生流中山文甫会、1976年2月4日、ブックデザイン:国東照幸)〕 《花の国のアリス》の基本版面で再現した〈人工花園〉の定稿(冒頭の見開き)〔InDesignによる〕
〈人工花園〉(I・19)の初出掲載ページ(冒頭の見開き)〔出典:《花の国のアリス――ALICE IN FLOWERLAND》(未生流中山文甫会、1976年2月4日、ブックデザイン:国東照幸)〕(左)と《花の国のアリス》の基本版面で再現した〈人工花園〉の定稿(冒頭の見開き)〔InDesignによる〕(右)

〈ルイス・キャロルを探す方法〉を構成するもう1篇〈少女伝説〉および《サフラン摘み》後の詩集に収められた〈夢のアステリスク〉(H・22)などの広義の〈アリス詩篇〉、それらに先駆けて書かれた〈少女〉(F・5)、〈聖少女〉(F・10)、さらには〈『アリス』狩り〉とほぼ同時期に書かれた〈ピクニック〉(G・7)を加えると、私の考える《アリス詩集》は次のような内容になる。

ルイス・キャロルを探す方法
  ――わがアリスへの接近……6-9
  ――少女伝説……10-16
『アリス』狩り……18-25
夢のアステリスク……26-31
人工花園……32-35
   *
少女……36-39
聖少女……40-41
ピクニック……42-44

吉岡実はアリスを折りこんだ詩を〈ルイス・キャロルを探す方法〉〈『アリス』狩り〉〈夢のアステリスク〉〈人工花園〉の4篇しか書かなかった。書けなかった、といった方が正しいかもしれない。それらはいずれも秋元幸人が愛したように、黙読にも音読にもたえうる佳篇である。《アリス詩集》を夢見る者のひとりである私は、その想いが嵩じて、私版《吉岡実による『アリス詩集』》を編み、あまっさえ造本・装丁を手掛けることで《詩の国のアリス》を拵えてしまった。本書を秋元幸人に見てもらいたかった。《アリス詩集》のために書いた序文を掲げて、本稿を終えることにしよう。

ささやかな記念|小林一郎

吉岡実には、実現しなかった詩集が何冊かある。〈鰐叢書〉の一冊《ライラック・ガーデン》、〈苦力〉などの馬の詩篇を集めた選集、そして〈アリス詩篇〉を集めた《アリス詩集》だ。二〇一〇年に四十八歳で逝った吉岡実研究家の秋元幸人は〈アリス詩篇〉を愛した。詩人で、瀧口修造研究で知られる鶴岡善久は《アリス詩集》の刊行を夢みた。私は彼らが果たさなかった夢を私版の形で実現したいと思う。吉岡実の歿後二十五年という年に、遅ればせに提出するささやかな記念である。本書制作のきっかけとなった《花の国のアリス――ALICE IN FLOWERLAND》(未生流中山文甫会、一九七六)の発行者・制作スタッフに心からの謝意を表する。

二〇一五年十一月

架空の書、小林一郎編《詩の国のアリス――吉岡実による『アリス詩集』》の表紙 架空の書、小林一郎編《詩の国のアリス――吉岡実による『アリス詩集』》(文藝空間、2015年11月30日)の口絵
架空の書、小林一郎編《詩の国のアリス――吉岡実による『アリス詩集』》(文藝空間、2015年11月30日)の表紙〔装丁:編者〕(左)と同書の口絵(右)

架空の書、小林一郎編《詩の国のアリス――吉岡実による『アリス詩集』》(文藝空間、2015年11月30日)の目次 架空の書、小林一郎編《詩の国のアリス――吉岡実による『アリス詩集』》(文藝空間、2015年11月30日)の〈初出と所収一覧〉
架空の書、小林一郎編《詩の国のアリス――吉岡実による『アリス詩集』》(文藝空間、2015年11月30日)の目次(左)と同書の〈初出と所収一覧〉(右)

〔2020年9月30日追記〕
漫画評論家の永山薫はバルチュスを論じた〈増殖と消費の螺旋の中で〉で、「制度を維持するための社会的マチズモ」が必要としていた少女愛をタブーとする「防波堤」は、「写真術と印刷術の進歩による大量生産大量消費の荒波に浸食され、ついには決壊する。/この一九六九年から八一年にかけての決壊の経緯を日本を中心に時系列化してみよう。」として、@〜Cの時代を設定する(「防波堤の決壊」の節)。
 @一九七〇年前後――少女ヌード草創期
 A七〇年代前半――アリスブーム
 B七〇年代後半――少女ヌードの増殖
 C八〇年代――ロリータブーム到来
吉岡実のアリス詩は、このAを時代背景にして誕生した。永山はAをこう詳述する。

 『別冊現代詩手帖第二号 ルイスキャロル』(思潮社、一九七二)、高橋康也編『アリスの絵本』(牧神社出版、一九七三)あたりから。ディレッタント的な知識層が仕掛けたアリスブームが始まる。テニエルの挿絵とともにこれまで一部にしか知られていなかったルイス・キャロル撮影の様々な仮装した少女の写真が紹介された。これにインスパイアされて大成功を収めたのが沢渡朔撮影の『少女アリス』(河出書房新社、一九七三)である。沢渡は『不思議の国のアリス』のイメージを引用し、八歳のモデル(サマンサ)に様々なコスチュームをまとわせ、幻想的な図像を展開して見せた。これが、その後の少女写真ブームの発火点となる。美術の世界では金子國義の版画集『アリスの夢』(角川書店、一九七八)と同個展(大阪フォルム画廊東京店、一九七八)、画集『アリスの画廊』(美術出版社、一九七九)、個展「アリスのクリスマス」(渋谷西武デパート)、バレエ《アリスの夢》(原宿ラフォーレミュージアム、一九八一、西武劇場、一九八二)へと続き、現在も根強い人気を保っている。(《ユリイカ》2014年4月号〔特集*バルテュス――20世紀最後の画家〕、二三三〜二三五ページ)

手堅い見取り図であって、吉岡実は沢渡朔の写真集にこそ関わっていないが、金子國義の版画集《アリスの夢》(の内容見本)、画集《アリスの画廊》までのすべてに、アリスがらみの詩篇を寄せている。すなわち、〈ルイス・キャロルを探す方法〉(〈わがアリスへの接近〉と〈少女伝説〉)、〈『アリス』狩り〉、〈夢のアステリスク〉〔初出〕、〈夢のアステリスク〉〔再録〕である。沢渡朔の《少女アリス》については、イギリスのデザイン集団Hipgnosisに触れた〈編集後記 157〉(2015年11月30日更新時)を参照されたい。

〔2021年8月31日追記〕
ルイス・キャロルのアリスは、原著に添えられたジョン・テニエルの挿絵以来、さまざまにヴィジュアル化されてきた。近年では、〈アリス幻想〉展(会場=スパンアートギャラリー、会期=c2007〔画像検索すると展覧会の告知ハガキがヒットするのだが、会期が記されていない!〕)が開かれ、図録として《キャロル考現学 または アリスをめぐる幻想》(さわらび本工房、2007年11月26日)が刊行された。今までにアリスをテーマにしてきた造形作家たちのほか、初めて創作した(と思われる)作家も多い。金子國義(作品は〈王女に扮したアリス〉2007)や沢渡朔(作品は〈『少女アリス、1973年』より#13」)にはすでにアリスをめぐる作品集がある一方、四谷シモン(作品は〈ポートレート〉2007)は初めてアリスを描いたのではないだろうか。丸尾末広や山本タカトの描き下ろしも、自在にアリスを料理していて、興味深い。以下に、26人の出展作家の氏名を掲げる(五十音順)。
東逸子/上田風子/宇野亜喜良/大友ヨーコ/勝本みつる/金子國義/北見隆/桑原弘明/酒井駒子/沢渡朔/千之ナイフ/高橋竜男/建石修志/谷川晃一/土井典/トレヴァー・ブラウン/ナイジェル・ハリス/中村宏/鳩山郁子/ヒロタサトミ/丸尾末広/森口裕二/山本タカト/吉田光彦/四谷シモン/和田誠
本書の各作品はA4判のポートフォリオの片面に印刷されているため、それぞれ額装して飾ることも可能だ。なお、キュレーターは宇野亜喜良、解説は谷川渥、企画は種村品麻(上掲《アリスの絵本》で図版監修をした種村季弘の子息)で、三人は解説冊子に文章を寄せている。


吉岡実のフランス装(2015年10月31日)

吉岡実の単行詩集の装丁で特権的な地位を占めるのは、フランス装(フランス表紙)(*1)である。フランス装に近い、すなわち完全なフランス装ではないものを含めれば、
 @昏睡季節(1940)
 A液體(1941)
 B静物(1955)
 D紡錘形(1962)
 E静かな家(1968)
 F神秘的な時代の詩(1974)
 Iポール・クレーの食卓(1980)
と、12冊中7冊に及ぶ。吉岡の単行本は基本的に著者自装だが、上記のうちFは湯川成一の、Iは亞令の装丁と考えられる。また@はフランス装もどき、Aは出征中の吉岡に代わって友人たちが原案を実行したから、実質的に吉岡の手になるフランス装はBDEの3冊となる。吉岡が自身の装丁に関連してフランス装に言及したのは、土方巽の《病める舞姫》(1983)についてだけであり、対象を「フランス装の書物」に拡げても、次の2篇に過ぎない。
 (1)〈《魚歌》の好きな歌〉:この未刊行の文章は《齋藤史全歌集》内容見本(大和書房、1977年10月)に発表され、のち、その推薦文の引用の形で〈孤独の歌――私の愛誦する四人の歌人〉――初出は《短歌の本〔第一巻〕短歌の鑑賞》(筑摩書房、1979年10月20日)、定稿は《「死児」という絵〔増補版〕》(同、1988、一四九〜一五九ページ)――の〈4 斎藤史〉に再録された。
 (2)〈孤独の歌――私の愛誦する四人の歌人〉の〈3 前川佐美雄〉――初出および定稿ともに同前

(1)の冒頭〔表記は〈孤独の歌――私の愛誦する四人の歌人〉の〈4 斎藤史〉に照らして正した〕――

 ぐろりあ・そさえてという奇妙な出版社から刊行された〈新ぐろりあ叢書〉の一冊一冊に、当時の文学青年の多くは心躍らせたものであった。私もその仮フランスとじの軽装本に魅せられたものである。二十冊ほど出たうちで、私は伊藤佐喜雄の長篇小説《花の宴》、津村信夫の《戸隠の絵本》をことに愛読した記憶がある。そしてほかには前川佐美雄の《くれなゐ》であり、斎藤史の《魚歌》であった。歌集はこの二冊しか出ていなかったように思う。
 戦後、いち早く《くれなゐ》は古本屋で探し求めて、再読して青春時代の短歌憧憬の心を追体験した。しかし《魚歌》には永くめぐり逢えずにいたが、四、五年前のこと、妻の実家で見つけて貰い受けた。
 初版は昭和十五年八月二十日刊行であるが、私の持っているのは十六年二月十日発行の再版本である。何の花か知らぬが一輪のかれんな押花がはさまっているのも、またうれしい。今、三百七十三首を通読して、ここに私の好きな歌二十六首を掲げる。

(2)の全文〔引用歌は最後の一首を残して他は省略した〕――

 昭和十四年に、ぐろりあ[、、、、]・そさえて[、、、、]という小出版社から刊行された、前川佐美雄の自選歌集《くれなゐ》一巻を、私は読んでいた。伝統的な短歌や俳句にあきたらなくなって、私は前衛派の石原純の指導する〈新短歌〉を定期購読し、また一方では日野草城の主宰する〈旗艦〉を買って、新しい短歌や俳句の習作を試みていた。そこで必然的に、前川佐美雄の作品に惹かれていったのである。
 〔3首引用〕
 いずれの短歌にも、青春の透明な精神ともいうべき祈り、自虐、不安が露呈されている。この歌集は、《植物祭》、《白鳳》、《大和》の三歌集から五百首抄出されたものである。私は以上の三歌集を見たこともなければ、探し求めもしなかった。仮フランス装本《くれなゐ》一冊があれば、それで満足していた。戦前からのものはぼろぼろになったので、買換えたものを所持している。
 〔2首引用〕
 亀井勝一郎の文章によると「前川氏は大和の旧家に生れた人である。その青年時代に、伝統的なものへの抵抗といふか、作歌の上でも旧来の歌風からの激しい脱出をこころみたことは、『植物祭』『白鳳』などにあきらかである。しかも三十一文字といふ最も伝統的な形式を選んだ。これは一種の自己束縛と言ってよい。」とあった。
 〔2首引用〕
 佐美雄の短歌にはいくらでも、近代人の憂愁――いってみれば、孤独な魂の呻吟を見出すことが出来る。しいて先蹤的作品を求めれば、萩原朔太郎の《月に吠える》の詩篇ということになろうか。再び亀井勝一郎の言葉をかりれば「外部に向って発散すべきものを内に閉ぢこめ、内攻させながら、内攻の極点において爆発といふ生命のかたちを大和の地で形成して行ったやうに思はれる。」――と。
 私のもっとも愛誦する一首を、最後に掲げて置く。

  ゆふ風に萩むらの萩咲き出せばわがたましひの通りみち見ゆ

私は近年までこの2冊の原本を見たことがなかった。ようやく入手した2冊はまさしくフランス装(*2)で、これらが吉岡の自著自装本に影響を与えたことは間違いない。とりわけ、函付きの前川佐美雄歌集《くれなゐ〔新ぐろりあ叢書〕》(ぐろりあ・そさえて、1939年9月28日)が吉岡実詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)の装丁の手本のひとつになったことは、疑う余地がない。

前川佐美雄歌集《くれなゐ〔新ぐろりあ叢書〕》(ぐろりあ・そさえて、1939年9月28日)の函と表紙〔装丁:棟方志功〕 吉岡実詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)の函と表紙〔装丁:吉岡実〕
前川佐美雄歌集《くれなゐ〔新ぐろりあ叢書〕》(ぐろりあ・そさえて、1939年9月28日)の函と表紙〔装丁:棟方志功〕(左)と吉岡実詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)の函と表紙〔装丁:吉岡実〕(右)

〈吉岡実詩集基本版面〉で調べた《静物》と、前川佐美雄の《くれなゐ》の概要を掲げる。なお下線は同じ数値であることを示す。

《静物》=天地寸法188mm 活字10.5ポイント 30字詰め 版面天地111mm 天のアキ49mm 地のアキ28mm 左右寸法131mm 11行組 行間10.5ポイント 版面左右77mm 小口寸法34mm ノド寸法20mm
《くれなゐ》=天地寸法188mm 活字10ポイント 25字詰め 版面天地88mm 天のアキ32mm 地のアキ63mm 左右寸法128mm 4首〔11行組〕 行間10ポイント 版面左右80mm 小口寸法34mm ノド寸法17mm

吉岡実詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)の函に入れた前川佐美雄歌集《くれなゐ〔新ぐろりあ叢書〕》(ぐろりあ・そさえて、1939年9月28日)の本体、《くれなゐ》の函に入れた《静物》の本体
吉岡実詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)の函に入れた前川佐美雄歌集《くれなゐ〔新ぐろりあ叢書〕》(ぐろりあ・そさえて、1939年9月28日)の本体、《くれなゐ》の函に入れた《静物》の本体

判型(四六判)の天地が完全に同じ寸法であることは、函と本体を入れ替えられるということで、たまたま束も近似しているため、両者を入れ替えることができた(写真参照)。こんなことをしていると、《静物》のフランス表紙は《くれなゐ》のそれをそのままなぞっているととられるかもしれないが、それは違う。本体を外から見ただけではわからないが、表紙を捲って見返しを外してみると、ノド寄りの表紙の切り方が《くれなゐ》はまっすぐの斜線だが、《静物》はカーヴを描いて湾曲しているのだ。なるほど、こうすれば角が不用意に折れまがることを避けられる。この湾曲した切り口は《静物》以外で見たことがないから、吉岡もしくは製本担当者の創意かもしれない(ただし、吉岡自身はこの方式をのちのフランス表紙では採用していない)。

フランス表紙のノド側を直線で切った前川佐美雄歌集《くれなゐ〔新ぐろりあ叢書〕》(ぐろりあ・そさえて、1939年9月28日)(左の2冊)と曲線で切った吉岡実詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)(右の2冊)
フランス表紙のノド側を直線で切った前川佐美雄歌集《くれなゐ〔新ぐろりあ叢書〕》(ぐろりあ・そさえて、1939年9月28日)(左の2冊)と曲線で切った吉岡実詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)(右の2冊)
いずれも上段は見返しの効き紙側をフランス表紙から外して表紙の仕上げがわかるようにした状態、下段は表紙に挟んだ本来の状態(左下の《くれなゐ》の表紙は、しおたれたため原装にあったグラシン紙が剥がされている)。

前川佐美雄歌集《くれなゐ》の仕様を詳述する。「 」は原本からの引用。/は改行を表す。

函――
ボール紙の機械函に和紙を題簽貼り(スミ1色刷り)。
表1=叢書名・書名・著者名、○内に植物のモチーフと「ぐろりあそさえて」を筆書きしたカット
背=書名・著者名
表4=「わが國の短歌を文學化する運動は、」と始まる25字詰め×10行の推薦文、家紋のようなマーク(《花の宴》にも同じマークあり)、発行所名・定価

表紙――
四隅を内側に折り込んだフランス表紙。全面にグラシン紙をかけ(天地の端3mmほどを糊付け)、天・地・前小口を30mmの幅で折り返している。
表1=右から左に横組で「著雄美佐川前/ゐなれく/集歌」、植物をモチーフにしたカットと飾り罫をスミと赤の2色刷り。
背=「歌集 くれなゐ 前川佐美雄著 〔表紙の植物と同じカット〕 新ぐろりあ叢書」(文字はスミ刷り、カットは2色刷り)
表4=函の表4と同じマーク(スミ刷り)

見返し――
表紙と同じ系統の、斤量のやや軽い無地の用紙(前後とも二つ折の4ページ)を、表紙に接する効き紙に相当する方の丁をフランス表紙の折り返しに挟む。一方、遊び紙の方の丁は前見返しは本扉に、後見返しは本体の最後の折丁のノドにそれぞれ糊付け。

本扉――
別丁でスミと水色の2色刷り。上から順に
・右から左に横書きで「書叢ありろぐ新」と手書きして飾り罫囲み(水色)
・縦組で「前川佐美雄著/歌集 くれなゐ」と2行にわたってスミ刷り
・右から左に横組で「京東/刊てえさそ・ありろぐ」(水色)

以下は本文用紙で、前付(6ページ)・本文(150ページ)・後付(8ページ)の計164ページ(8ページ×20台〔糸縢り〕+4ページ×1台〔貼り込み〕)。(前付・本文・後付の〔 〕の数字は隠しノンブル)

前付――
 〔1〕  (白)
 〔2〕  「くれなゐ目次」
 〔3〕  同前
 〔4〕  同前
 〔5〕  同前
 〔6〕  (白)

本文――
 〔1〕  題扉「歌集 くれなゐ」
 〔2〕  (白)
 〔3〕  「植物祭より 自大正十五年/至昭和三年」
 〔4〕  (白)
 5  「夜道の濡れ」3首
 〔……〕
 45  「羞明」2首
 〔46〕  (白)
 〔47〕  「白鳳より 自昭和六年/至昭和十年」
 〔48〕  (白)
 49  「億萬」3首
 〔……〕
 94  「神神」4首
 〔95〕  「大和より 自昭和十一年/至昭和十四年」
 〔96〕  (白)
 97  「修羅」3首
 〔……〕
 150  「韓紅」3首 「くれなゐ 終」

後付――
 151  「後記」
 152  同前
 〔153〕  奥付、「ぐろりあそさえて」の文字をデザイン化して周りを囲った検印紙を貼り込み
 〔154〕  奥付裏広告《花の宴》〔新ぐろりあ叢書(1)の扱い〕
 〔155〕  奥付裏広告《目白師》〔新ぐろりあ叢書(2)の扱い〕
 〔156〕  奥付裏広告《現代の俳句》〔新ぐろりあ叢書(3)の扱い〕
 〔157〕  奥付裏広告《ヱルテルは何故死んだか》〔新ぐろりあ叢書(5)の扱い〕
 〔158〕  (白)

《くれなゐ》も《魚歌》も、本体には〔新ぐろりあ叢書〕の番号が記されていないが、《魚歌》の奥付裏広告には、上の註記のように刊行順と思しい番号が振られていて、《くれなゐ》は新ぐろりあ叢書(4)の扱いである。


《くれなゐ》の内容で注目すべきは、まず
 〔3〕  「植物祭より 自大正十五年/至昭和三年」
 〔47〕  「白鳳より 自昭和六年/至昭和十年」
 〔95〕  「大和より 自昭和十一年/至昭和十四年」
のように全体を3部に分けて短歌を既刊・未刊の歌集から抄録している点だ。《静物》は17の詩篇から成るが、その前半は〈T 静物〉(10篇)、後半は〈U 讃歌〉(7篇)である。この2部構成に《くれなゐ》はなんらかの影響を与えたのではないか。もうひとつは
 150  「韓紅」3首 「くれなゐ 終」
の「くれなゐ 終」で、《静物》は奥付の対向ページに「詩集 畢」とある。もっとも《液體》(1941)の奥付対向ページにすでに「詩集 液體 畢」とあるが、これとて《くれなゐ》に倣ったものでないとは言えない。なお、《くれなゐ》《静物》ともノンブルの位置は地の左右中央である。以上のように類似する点もあれば、異なる点もある。《静物》が@函に題簽貼りをしていないこと。A〈後記〉を書いていないこと。B検印紙を貼っていないこと。C奥付裏広告を載せていないこと。D版元のマークを載せていないこと。大きく、以上の5点が異なる。CとDは私家版だからないのが当然で、@とBは貼り込みを避けた結果か。問題はAだが、単行詩集には自筆のあとがきを収録しないという吉岡の方針が当初から定まっていたと考えたい。いずれにしても《静物》の造本・装丁を考えるに際して、吉岡が《くれなゐ》を参照したことは確実だと思われる。一体に新しい本を一冊書くことはたいへんな労力を要する(《静物》は全篇書きおろし)。造本・装丁も自分でしなければならない私家版ではなおさらだ。そのとき、永年愛読した本の形があれば、それをなぞろうとする行為は、単に労力の軽減を目的とするだけではない。そこにオマージュの意が込められている、と見るべきである。繰りかえし読まれたあげく、ぼろぼろになるような本をつくること――これが自分の詩集にフランス装を採用しつづけた吉岡実の含意だったように思われる。

フランス‐そう ‥サウ【―装】〔名〕仮製本の一つ。紙の四方を折り返し、ボール紙で裏うちしない表紙で、糸綴じした中身をくるみ、断裁されていない小口、天地をペーパーナイフで切る。わが国では一般に仕上げ断ちした中身をくるむ。愛書家がこれを本製本に改装することを予想して考え出されたもの。(《日本国語大辞典第二版〔第十一巻〕》小学館、2001年11月20日〔第三刷:2003年3月10日〕、一〇四四ページ)

《静物》初刊の3年後の1958年8月、吉岡が赤と黒の革装の「本製本に改装」したうちの一本は、自身が繙読してきた「ぼろぼろになった」著者本だったように思えてならない。(〈詩集《静物〔革装本〕》の函と表紙〔太田大八氏所蔵〕〉参照)

………………………………………………………………………………

(*1)フランス装(フランス表紙)の歴史的展望は、貴田庄《西洋の書物工房――ロゼッタ・ストーンからモロッコ革の本まで〔朝日選書〕》(朝日新聞出版、2014年2月25日)の〈第六章 フランスの革装本〉の〈一 仮綴本の誕生〉に詳述されている。そこには

 フランスでは少し前まで、文学書を中心として、多くの本が仮綴じで売られていた。〔……〕わが国でもフランス装と称して、稀に詩集などが仮綴本として売られることがある。しかし、なぜフランスで小説や詩集が仮綴じのままで読者の手元に渡るようになったのか、その理由は十分に理解されていないようである。
 仮綴本とは折帖が糸でごく簡単にかがられ、その折帖の背に薄手の表紙がニカワで軽くとめられた、原則としてアンカットの状態の本をいう。未綴本の場合は、アンカットの折帖の束を薄手の表紙で包んだだけである。これらの場合の表紙は本格的な表紙でなく、仮表紙と考えられている。アンカットというのは、印刷された紙葉を折って作る折帖が化粧裁ちされないままで表紙のついた本をいい、天や前小口に袋状になった箇所ができる。そこでペーパーナイフが必要となる。読者は袋とじになっているページをペーパーナイフで切って開け、読み進んでゆく。ただし、わが国の仮綴本では西洋のものと異なり、印刷時でのページの組付けが逆向きなため、印刷された紙葉が八ページや一六ページの折帖となった場合、地と前小口に袋状になった箇所ができる。これではペーパーナイフがずいぶん使いにくい。ペーパーナイフを自分に向けて、自刃するようにナイフを動かし、袋綴じになっているページを開けることになる。わが国で稀に出版されるフランス装ではこのことに配慮して、模倣するなら印刷の段階からまねるべきではないだろうか。
 仮綴本とはまた、出版元が本格的な製本をせず、その本を購入した人が自分の好む書物に仕上げることのできる本といえる。〔……〕しかし時代が進むにつれて、仮綴じによる出版物は、フランス語圏をのぞき、ほとんど姿を消してしまったのである。(同書、一二二〜一二三ページ)

とある。「仮綴本」と本稿におけるわが国の「フランス装」とでは、前者がまさに仮の、完成前の状態であるのに対して、後者が最終形である点で、決定的に異なる。仮綴本に函が付くことなど、ありえないだろう。

(*2)日本におけるフランス装の歴史は、大貫伸樹《製本探索》(印刷学会出版部、2005年9月20日)の〈フランス装の歴史〉(同書、七九〜一二七ページ)に詳しい。同文が言及している「フランス装」の書目は以下のとおり(註記も原文)。

田辺隆次編『小泉八雲読本』(第一書房、昭和十八年)
野口鶴吉『砂繪呪縛』(松竹株式会社出版部、昭和二十二年)  *見返しと表紙が糊付け
徳田秋聲『縮図』(小山書店、昭和二十二年)
川口松太郎『三味線武士』(矢貴書店、昭和二十二年)
井上友一郎『絶壁』(改造社、昭和二十四年)
井伏鱒二『本日休診』(文藝春秋社、昭和二十五年)  *四隅の折りが複雑で面白い
大佛二郎『帰郷』(六興出版社、昭和二十五年)
川口松太郎『新しいパリ新しいフランス』(文藝春秋社、昭和二十七年)
丹羽文雄『丹羽文雄作品集』(角川書店、昭和三十二年)  *芯ボールがある

谷崎潤一郎『盲目物語』(中央公論社、昭和二十一年改訂版)

野沢富美子『長女』(第一公論社、昭和十五年)
島木健作『随筆と小品』(河出書房、昭和十六年)
角田喜久雄『髑髏錢』(文化書院、昭和二十一年)
林芙美子『浅草ぐらし』(実業之日本社、昭和二十三年)

宮本百合子『明日への精神』(実業之日本社、昭十五年)

折田学『もんぱるの』(第三書院、昭和七年)

ラモン・フェルナンデス、高木佑一郎訳『女に賭ける』(芝書店、昭和十一年)
レイモン・ラディゲ、堀口大学訳『ドルヂェル伯の舞踏会』(白水社、昭和十四年)
ジュウル・ルナアル、岸田国士訳『博物誌』(白水社、昭和十五年)

芥川龍之介『河童』(細川書店、昭和二十一年)

矢内原忠雄『京詣歌集』(嘉信社、昭和十七年)
横光利一『實いまだ熟せず』(実業之日本社、昭和十四年)  函入り

山内義雄『窄き門』(白水社、昭和六年)
ポオル・ヴァレリイ『ヴァリエテ』(白水社、昭和六年)

アンドレ・ジイド『新日記抄』(改造社、昭和十二年)
桑木厳翼『プラトン講義』(春秋社、昭和十三年)
吉田絃一郎『わが旅の記』(第一書房、昭和十三年)
ポオル・ヴァレリイ『ヴァリエテ』(白水社、昭和十年)

山本有三『不惜身命』(創元社、昭和十四年)

『少年美術館』(岩波書店、昭和二十六年)
三好達治『詩集 朝菜集』(青磁社、昭和二十一年)

必ずしも仮フランス装(三方截ちした本文紙にフランス表紙を着せたもの)、すなわち本稿でいう「フランス装」の本ばかりではないが、フランス装本を概観するのに役立つ。横光利一の《實いまだ熟せず》(実業之日本社、1939)に「函入り」と註記があるところを見ると、フランス装は基本的に函がないもの、と考えられる。


「無尽蔵事件」について(2015年9月30日)

吉岡実の自筆年譜には、背景を知らないと理解できない件[くだり]がある。たとえば「無尽蔵事件」がそれである。「昭和五十五年 一九 八〇年     六十一歳/〔……〕初秋、池袋の無尽蔵で、弥生土器を買う。店主・長尾百翁(泰次)と歴史、文学の話をする。店員・笹川竜則がウィンナーコーヒーをいれて くれる(のち、無尽蔵事件起こる)」(〈年譜〉、《現代の詩人1 吉岡実》中央公論社、1984、二三五ページ)。無尽蔵は「古美術 無盡蔵」。「無尽蔵事件」とは、長尾泰次[やすつぐ]が行方不明になり、笹川龍則が殺人容疑で逮捕起訴され、有罪となった事件である。私は骨董に暗く、 「無尽蔵事件」が騒がれた1982年は会社員になってほどなく、仕事を覚えるのが精一杯でTVも週刊誌もろくに見なかったから、事件の記憶はまったくな い。したがって、吉岡の自筆年譜で初めて「無尽蔵事件」に接した。この1982年は、古美術や骨董に関心があれば大いに耳目をそばだてたに違いない大事件 ――「三越の偽秘宝事件」が起きた年だった。Wikipediaの「三越事件」には「同年8月29日、東京日本橋本店で開催された「古代ペルシア秘宝展」 の出展物の大半が贋作である事が朝日新聞の報道により判明。一部は既に億単位の値がついていたとされる[2]」とある。この[2]の出典は《佐賀新聞》で、その「<あのころ>三越の偽秘宝事件/岡田社長解任に発 展」にはこうある。

1982(昭和57)年8月24日、「古代ペルシア秘宝展」が東京・日本橋の三越本店で開催されたが、展示品47点 の大半が偽物と間もなく判明した。2億円の売値が付いた品もあった。デパート業界の老舗だけに大きな問題となり、岡田茂社長の解任へと発展した。

自筆年譜に「三越事件」の記載はないが、吉岡は日本橋の三越本店での《古代ペルシア秘宝展》を観ているかもしれない(前掲年譜の直前に は「三越本店 で、良寛展を観る。天上大風」と記されている)。それというのも、「無尽蔵事件」を主題にした本に佐藤友之《夢の屍――無尽蔵殺人事件の謎を追う》(立風 書房、1985年4月15日、装丁:平野甲賀)があって、後見返しに掲載されている「鹿形飾金具(贋物)」(*)の 姿形が、いかにも吉岡好みなのだ。

「鹿形飾金具(贋物)」〔出典:佐藤友之《夢の屍――無尽蔵殺人事件の謎を追う》(立風書房、1985年4月15日、後見返し)〕 吉岡実《異霊祭〔特装版〕》(書肆山田、1974年7月1日、装丁:吉岡実)の表紙
「鹿形飾金具(贋物)」〔出典:佐藤友之《夢の屍――無尽蔵殺人事件の謎を追う》(立風書 房、1985年4月15日、後見返し)〕(左)と吉岡実《異霊祭〔特装版〕》(書肆山田、1974年7月1日、装丁:吉岡実)の表紙(右)

(*) 本文には「三越の秘宝展に「鹿形飾金具」(裏見返しの 写真参照)と名付けられた飾板が展示されていた。一匹の牡鹿が両脚を折り曲げて坐している。カタログの説明では、高さ七・五センチ、幅十二・八センチ。紀 元前六世紀の作で、南ロシアのスキタイ地方で出土したものとされ、四百五十万円の値がつけられていた。「鹿形飾金具」のモデルは、エルミタージュ美術館に ある」(《夢の屍》、一〇六ページ)と見える。

「無尽蔵殺人事件」の概要といきさつを、同書のジャケット袖の文で見よう。「一九八二年八月、東京日本橋三越デパート本店で開催された 「古代ペルシ ア秘宝展」の展示品はすべて贋物と判明。マスコミの話題が沸騰するなか、ニセ秘宝≠フルートに関わると見られた古美術店「無尽蔵」の店主・長尾泰次は、 すでに半年前、失踪していることがあきらかにされた。捜査当局は、店員の笹川龍則を長尾殺害の容疑で起訴したが、法廷に立った笹川は無実を叫んでいる。長 尾の死体はいまだに発見されず、その上、殺されたはずの長尾に会ったという者が相ついで登場した。「死体なき殺人」「生きている死人」と事件の謎はさらに 増した――。」
このジャケットの袖には、本文にない年表が掲げられていてありがたい。これも見ておこう。

●1982(昭57)年
2月末 「無尽蔵」店主・長尾泰次、行方不明。
4月1日 同店店員・笹川龍則、池袋署に失踪届を提出。
8月24日 東京日本橋三越デパート本店において「古代ペルシア秘宝展」開催。
8月29日 展示秘宝はニセモノ≠ニ判明。
9月初旬 「無尽蔵」とニセ秘宝との関わり問題化。
9月25日 捜査当局、長尾殺害説を発表。
12月4日 笹川龍則、横領容疑で別件逮捕さる。
12月8日 笹川、長尾「殺害」と「死体遺棄」を自白。
12月12日 当局により京浜運河の死体捜索が行なわれたが、死体発見できず。
●1983(昭58)年
2月7日 殺人・死体遺棄容疑で、笹川を再逮捕。
2月28日 殺人罪で起訴さる。
4月1日 第一回公判。
●1984(昭59)年
12月17日 検察側、懲役15年を求刑。
●1985(昭60)年
3月13日 判決=有罪(懲役13年)。

吉岡が前掲年譜を脱稿したのは1983年の秋と考えられるから、すでに笹川が殺人罪で起訴され、第一回公判が開かれた後だ。こうした背 景を(おぼろ げにではあっても)了解しないと、「池袋の無尽蔵で、弥生土器を買う。店主・長尾百翁(泰次)と歴史、文学の話をする。店員・笹川竜則がウィンナーコー ヒーをいれてくれる」と書かざるをえなかった吉岡実の心中は量りがたい。それは、かつて吉岡自身が巻きこまれたH氏賞事件(〈「H氏賞事件」と北川多喜子詩集《愛》のこと〉参 照)と並んで、身近で起きた戦後における最も奇怪な事件だった(戦後における、と限定するのは、吉岡が従軍した大東亜戦争こそその最大のものだったからで ある)。《夢の屍》によれば長尾泰次は大正15(1926)年、鎌倉生まれ。佐藤友之は

 事件当時、長尾は「無尽蔵」を始めて十年ばかり経っていた。骨董屋としては駆け出しに等しい。古くは江戸、明治の 時代から続い ている店は少なくない。開業わずか十年の「無尽蔵」を著名な収集家や古美術愛好家が贔屓にしていた。人間国宝の伝統芸能家、日本屈指の医師、やがて事件に 関わることになる東京国立博物館(業界では略して「東博」と呼んでいる)美術課長の小松茂美。ほとんど歴史がない店にこれだけの客を呼べる骨董屋はまれで ある。長尾はだれに対しても卑屈にならず、商売に固執せず、対等に議論を闘わせた。というより、いささか疳高い声で、時にマシン・ガンのように自論をまく し立てた。それはそれで客を魅了した。読書をよくし、独得な美意識をもっていた。長尾自身が「無尽蔵」の看板だった。
 「長尾さんには一種のカリスマ性があった。それが客を魅きつけた」
 と、ある古美術商は指摘している。
 身長百八十センチ、体重八十キロの体躯に、およそ年令に似つかわしくない派手な衣裳。坊主頭。奇異な声。こうした身体的特徽は、なおのことカリスマ性を 高めていた。
 開店当初「無尽蔵」は、ごくありふれた伝統的な古美術品を扱う骨董屋だった。朝鮮骨董[もの]にはいいものがあったといわれている。(同書、五二〜五三 ページ)

と長尾の姿を活写している。ちなみに《夢の屍》の発行人は、吉岡実の古くからの知友である下 野博[かばた・ひろむ]だが、吉岡が同書を読んでいるかは判らない。


「ねはり」と「受菜」あるいは〈衣鉢〉評釈(2015年8月31日)

30数年ぶりに外山滋比古の《異本論》(初版は1978年11月、みすず書房刊)を読みかえしていたら、こんな一節に出会った。

 古典作品を読むと、ところどころに、諸説紛々として定まる所を知らず、と言いたくなる難所に遭遇する。考えている と、これまで出されたどれも正しいとも言えるし、逆に、どれも不満足で、別の自分の考えの方がいいようにも考えられる。
  どうして、こうした諸説紛々の箇所が生れるのか。考えてみると、おそらく原文に、ある裂け目ができていて、読者、研究者の翻訳≠ェその裂け目から顔をの ぞかせるのだと考えることができそうだ。読む側の翻訳≠ヘ原文のすべての部分に対してなされているが、普通のところでは、大同小異の理解になって誤差が 表面化せず、潜在したままになっている。それが原文の乱れや裂け目につき当ると、各人の翻訳≠フ差がはっきりした形をとるようになる。それが諸説紛々の 正体である。
 このように見てくると、理解はすべて目に見えない翻訳であることが認められるようになるであろう。(《異本論〔ちくま文庫〕》筑摩書房、2010年7月 10日、一一〇〜一一一ページ)

テキスト(本文)が織物であるなら、その経糸と緯糸はさしずめ語とシンタックスだろう。吉岡実詩のテキストは、語のレベルではなんとか なっても、そ のシンタックスが障碍となりかねない場合が多い。ところがここに、初読のときから意味のわからない語句――外山が指摘するところの原文にできている、あ る裂け目=\―がふたつある。たったふたつしかないのかと言われると困るが、そのひとつは「ねはり」で、もうひとつは「受菜」である。〈わが馬ニコルスの 思い出〉(F・16)と〈衣鉢〉(D・16)の詩句を、前後のそれとともにライナーを付けて引く。問題の語がどちらも「とき」がらみなのは、単なる偶然だ ろうか。興味深い暗合である。

 48 自負の白塗りの柵をとび
 49 ねはりの綱で囚われるときまで
 50 黒雲千里

 32 そこでわたしたちは見る
 33 夜叉の女たちが茶釜を叩き
 34 琴を鳴らす爪の受菜のときを
 35 走る天井

「ねはり」は根張り(根が土中に張り広がること。根がはびこること)だろうが、「ねはりの綱」となるとわからなくなる。もつれた根のように絡みあって、綱 が強靱さをいやましているさま、とでもしておこうか。一方、「受菜」にいたっては、うけな、なのかジュサイなのかさえわからない。箏(*1)を奏するときのタームかもしれないと見当をつけて、そうし たサイトの掲示板に教えを請う書きこみをしたことがあったが、回答はなかった。ここまで書いてきて、千葉潤之介編の宮城道雄随筆集《新編 春の海〔岩波文庫〕》(岩波書店、2002年11月15日)を読了。内田百の 指導を受けただけあって、宮城の随筆は口述筆記による平易な言いまわしながら、ときに恐ろしいまでの切れ味を示す(〈眼の二重奏〉の義眼の話や〈白いカー ネーション〉の愛娘を喪った話)。
「町内の秋祭の太鼓[たいこ]、笛[ふえ]、神楽[かぐら]や、御神輿[おみこし]をかついで通る声なども、そばで聴くより、遠くから聴いた方が祭礼の情 緒があって面白いと思う。私は祭の気分は好きであるし、自分としては、こうしたことは、いつまでもすたらぬ方がよいと思っている」(〈四季の趣〉、同書、 八一ページ)。この一節からは、あの、長調の旋律なのに妙に物悲しい文部省唱歌〈村祭〉が想い出される。宮城と葛原しげる(〈村祭〉の「村の鎮守の神様の /今日はめでたい御祭日。/〔……〕」は葛原の作詞と言われる)は親交があっただけだけでなく、葛原作詞・宮城作曲の歌曲〈お山の 細道〉があるくらいだから、この想起はまんざら牽強付会というわけ でもないだろう。
閑話休題。吉岡が箏の専門書を読むことはあるまいと踏んで、宮城の随想集にあたりをつけたわけだが、「箏爪[ことづめ]」(二三九ページ)や「爪箱」(二 九三ページ)といった箏の専門用語が出てくるものの、肝心の「受菜」は同書には登場しなかった。この方面を探っていっても甲斐がないかもしれない。出発点 に戻って、〈衣鉢〉の評釈を試みてみよう。同詩の初出は書肆ユリイカの《ユリイカ》1961年1月号〔6巻1号(52号)〕。あれは吉岡実が存命中の、 25年以上前のこと。神田神保町の田村書店の店頭のウィンドウに〈衣鉢〉の肉筆原稿(おそらく陽子夫人の手になるもの)が並んでいた。今の私なら何を措い ても見せてもらう処だが、当時、そんなことは想いもよらず、内容を表示するラベルをガラス越しに読んだだけだったから、値段もわからない。端から購入する 気がなかったのだろう。

 衣鉢|吉岡実

たたみの黄いろ
わたしたちの皮膚のハアモニイ
わたしたちの四角い腰が坐る
始祖から今にいたるまで
たたみの疥癬性
夫婦が這う
赤ん坊が這う
もう少し這えば海へ出る
ざるをかざせば
さるすべりの紅
赤ん坊は力つきそこから先は老人が這う
火事の構造する障子の世界
つなみの礎石する瓦の空
老人は這う
黒い胴巻
老人は耳をたらして呟く
家紋と太い柱は遠い
げんげの畠を去るつめたい水
飲食の国は魂の岩の中
老人は力つき骨が這う
スピードがおちる
やわらかな苔の上では
もう夕暮ちかく
ぴかぴかの鎌形の月
如露できれいに洗うしらみやうじ
骨の美しいカーヴをくっきりと
初冬の道のべで
顕彰するために
ここからまたつづく
泥と水をまぜ細い竹を編みこんだ
囚れの矢来のような壁
そこでわたしたちは見る
夜叉の女たちが茶釜を叩き
琴を鳴らす爪の受菜のときを
走る天井
停るたたみ
わたしたちは家に入る
一匹のむかでを殺すため
泣き笑いの能面の伝統のうちに

たたみ(*2)を夫婦が這い、赤ん坊 が這い、赤ん坊のかわりに老人が這い、老人のかわりに 骨が這う。これが〈衣鉢〉のベーシックな構造である。「たたみの黄いろ/わたしたちの皮膚のハアモニイ」という冒頭の2行から、吉岡実詩独得のシンタック スは全開である。陽に焼け、毛羽立った畳を「たたみの黄いろ」の7文字で喚起し、すぐさま「わたしたち」=黄色人種[モンゴロイド]としての日本人の肌と 畳の親和性を宣言する。疥癬はヒゼンダニの寄生による皮膚感染症で、ふつう畳を介して感染することはないというが、古びた畳のもつ怪異をみごとに捉えた詩 句。「構造する」「礎石する」も吉岡語といっていいだろう。「火事の構造する障子の世界/つなみの礎石する瓦の空」は関東大震災をほのめかしているか。こ のあたり、〈衣鉢〉を収めた詩集の標題作〈紡錘形〉を思わせるものがある。「家紋と太い柱は遠い」は「始祖から今にいたるまで」の家系を保つこととと現在 の大黒柱を支えることの困難さを表している。そのせいだろうか、「げんげの畠を去るつめたい水/飲食の国は魂の岩の中」という浄福の光景を前にして、「老 人は力つき骨が這う」。そこは「たたみの疥癬性」ではなく、「やわらかな苔の上」だというのに。虱や蛆が出てきても、前にヒゼンダニがいたのだから、もう われわれは驚かない。「ここからまたつづく/泥と水をまぜ細い竹を編みこんだ/囚れの矢来のような壁」とあるが、第三の詩句からはのちの〈わが馬ニコルス の思い出〉の「ねはりの綱で囚われるときまで」を想起しないわけにはいかない。ここから明らかなように、なにものかに囚われるとき、言語の規範を逸脱して でもそれに抗そうとする激しい身振りが吉岡実詩の特徴として挙げられる。いかに「夜叉の女たち」とはいえ、「茶釜を叩」くとは尋常ではない。「琴を鳴ら す」に合わせるなら、ここで叩く和楽器は摺鉦[チャンチキ(コンチキ)]でなければならない。ちなみに「琴を鳴らす爪」は琴爪(正式には箏爪)といい、象 牙や竹でできている。前出の「骨」や「細い竹」との関連は偶然かもしれないが、みごとな符節と見ることもできる。「受菜」は、ここではやり過ごそう。「走 る天井/停るたたみ」も震災(吉岡は4歳で関東大震災に遭遇している)の暗示かもしれない。いずれにしても「わ たしたち」の「家」は、家霊のごとき百足に統治されている。ではここで、吉岡が〈衣鉢〉をどうとらえていたか見てみよう。

 雑誌〈ユリイカ〉通巻五十三号のうち、私は五篇の詩を発表している。これは多いとは言えないが、また少ないとも言 えない。一九 五七年の四月号に「僧侶」、五八年七月号に「死児」、五九年の十月号に「呪婚歌」、六〇年六月号に「波よ永遠に止れ」、そして最後は六一年一月号で、「衣 鉢」が掲載されている。(〈「死児」という絵〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、六九〜七〇ページ)

この文章(初出は《ユリイカ》1971年12月号)は伊達得夫遺稿集《ユリイカ抄》(1962)あるいは日本エディタースクール出版部 の再刊《詩人 たち――ユリイカ抄〔エディター叢書〕》(1971)を手許に置いて書かれているから、同書の〈雑誌「ユリイカ」目録〉に依ったものと思われる。

吉岡  でさ、旧「ユリイカ」に、飯島は何篇ぐらい発表してる? 意外に少いんじゃない。
飯島 案外少い。六、七 篇じゃないかな。
吉岡 ぼくも四篇〔マ マ〕だけ。意外に、「ユリイカ」に発表してないと思うよ。
飯島 そうね。ユリイ カ、ユリイカって前の「ユリイカ」のこと言ってるけどね、わりあい発表してる数も少いし。ぼくなんか六、七篇発表してね、まあまあいま読めるってのは二つ ぐらいしかない。あとはひどいもんなんだけどさ。(笑)まあ打率三割なら伊達は文句は言わない。
吉岡  そうかね。こっちはわりとね。最初が「僧侶」。あの時は飯島くんが伊達に推薦してくれてやっと、「僧侶」が載ったんだ。それから「死児」が載り、あと「呪 婚歌」と「衣鉢」……。こちらは、一寸打率がいいかな。(飯島耕一との対話〈詩的青春の光芒〉、《ユリイカ》1975年12月臨時増刊号〈作品総特集 現代詩の実験 1975〉、一九六ページ)

どちらにしても、伊達得夫の雑誌《ユリイカ》に掲載されたことが事実として述べられているだけで、評価は下されていない(4打数2安打 で5割、と言 いたいのだろう)。《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》は詩集《静かな家》までの詩篇を抄録した選詩集だが、そこに〈衣鉢〉は収められていない(同書の続編 《新選吉岡実詩集〔新選現代詩文庫110〕》に収められた)。これを〈衣鉢〉に対する評価と見てよいものか、断定しにくい。というのも、この選詩集には 《僧侶》巻末の〈死児〉(C・19)と《紡錘形》巻頭の〈老人頌〉(D・1)が続けて収められているからだ。《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》からこの2 篇を外すわけにはいかないから、結果として〈衣鉢〉が漏れたと考えれば辻褄は合う。〈死児〉の「V」と〈老人頌〉の全行を引く。

 V

死児は偶然見つける
世界中の寝台が
行儀よく老人を一人ずつ乗せて軋むのを
ゆるんだ数々の蛇口から
回虫が老人と死にみきりをつけ
はいだしてゆく方向に
野菜と肉の積まれた
働く胃袋が透視される
ときどき鉄砲の筒先が向けられて
悲鳴も聞えた
老人の浄福を祈り
ゆっくり山へ血を持ちはこび
頂から浴せる
因襲の恋人・夫婦たちの寝台に
ただ一つの理由で死児は哭く
セックスを所有しないので
回虫のごとく恥じる
いうなれば交情の暁
やわらかな絹の寝台
麦の畑の涼しい蔭の場所に住めぬ
死児は老いた母親の喪服のやみで
くりかえすひとりの乱行を
あらあらしい石の発芽を
禁制の増殖 断種の光栄
できれば消滅の知識をまなぶ
いまは緑の繻子の靴に踏まれる森の季候
去勢の噴水はきらめく
かぼちゃの花ざかり
死児は世界中の死せる老人と同衾する
 老人頌|吉岡実

さびしい裸の幼児とペリカンを
老人が連れている
病人の王者として死ぬ時のため
肉の徳性と心の孤立化を確認する
森の木の全体を鋸で挽き
出来るだけゆっくり
幽霊船を組立てる
それが寝巻の下から見えた
積込まれたのは欠けた歯ばかり
痔と肺患の故国より
老人は出てゆく
皮の下から続く深い波のうねりへ乗り
多毛の妻をうつぶせにする
黒い乳房の毒素で
人の心もさわがしくみだれ
くらげの体も曇っている
老人は腹蔵なく笑う
ばんざい
ばんざい
一度は死も新しい体験だから
蝶番のはずれた境界を越える夜は
裂かれぬ魚の腹はたえず発光し
たえず収縮し
そのうえ恐しく圧力を加えて
エロチックであり
礼儀正しい老人を眠らさぬ
ガーゼの月のなまめかしさで
老人は回想する
正確にいうならば創造するのだ
胃袋と膀胱のために
交代のない沙漠の夜を
はいえなや禿鷹の啼きごえを
星と沙の対等の市を
そして小舎の炎の中心に坐り
王者の心臓の器で
豪奢な血を沸騰させようとする
むなしく伏せられた
笊のごとき存在
みごとな裸の踊子も現われぬ
不安な毛の世界で
床屋の主人が剃刀をひらめかせ
老人の大頭を剃りあげる
石膏のつめたさ
美しい死者として
幼児とペリカンの守護神として
他人には邪魔にならぬ所へ移される

死児→幼児→赤ん坊、と老人の相手は変わるものの、これら3篇が共通した発想を根にもつことは明らかだ。それは家系に対する嫌悪であ り、吉岡が高橋 睦郎に語った日本のウェットな風土や近代性への反発≠ナある。こうして老人(たち)は「蝶番のはずれた境界を越え〔……〕他人には邪魔にならぬ所へ移さ れる」。このとき、「むなしく伏せられた/笊のごとき存在」は「ざるをかざせば/さるすべりの紅」に享けつがれる。

受菜がジュサイだろうがうけなだろうが、辞典で調べてみる必要がある。だが、諸橋轍次《大漢和辭典〔縮寫版 卷二〕》(大修館書店)の「受」に受菜はない。〈受歳[ジュサイ]〉という仏教用語が見えるだけだ(ただし〈受和受采[ジュワジュサイ]〉の項目に「甘は よく他の味と調和し、白はよく他の色に染る。立派な性質を有してゐる者は、學問をよく身につけるといふ喩」とある)。手近な古語辞典や国語辞典を調べてみ ても、たとえば小学館の《国語大辞典》に〈儒祭[ジュサイ]〉があるくらいだ。吉岡は〈耕衣粗描〉(初出は《現代俳句の世界13 永田耕衣 秋元不死男  平畑静塔集》(朝日新聞社、1985)の〈序文〉)で「此頃の近作を読むたびに、あまりにも「造語」が頻出するので、私は閉口することがある。〔……〕私 も詩作のなかで、しばしば「造語」を挿入するが、とても田荷軒主人にはかなわない」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三一三ペー ジ)と書いているから、受菜が「造語」である可能性も捨てきれない。吉岡実は造語に関して、どう考えていたのだろうか。単行本未収録の文章から引く。

2 乾いた婚姻図 「高階」これは小生の造語ではありませんが、辞書にはありませんね。戦前のモダニズム俳句あたり に使われたよ うに思います。「コウカイ」と読みます。いってみれば、日本の当時のホテル的な五、六階位の感じです。戦前の日本には、今みたいに十階、二十階はなかった からです。しかし、アメリカでは五、六階では妙でしょうね。おまかせします。(〔1974年10月10日付佐藤紘彰宛書簡〕、《Lilac Garden》Chicago Review Press、1976、ivページ)

 『ロリータ』の作者のウラジーミル・ナボコフの代表作に、「比類なき言語宇宙の構築」と謂われる長篇小説『青白い炎』がある。一詩人の九百九十九行の詩 篇の謎を、その友人が「解明」と「注釈」を試みるという構成である。
 私はたまたまその詩篇を読んで、「ムーンドロップ」という言葉に、心惹かれた。ここでは「月明り」と訳出されている。しかし、ナボコフの造語で、重層的 な意味が隠されているようだ。親しい英文学者にたずねたら、「突然の賜物」という「意」も、含まれているらしいと言う。(〈「ムーンドロップ」〉、《白い 国の詩》1989年4月号、三ページ)

戦前のモダニズム俳句(?)に登場する造語、ナボコフの長篇小説に登場する詩句にある造語(吉岡はそれを詩篇の標題としただけでなく、 詩集のタイトルとした)に触れるばかりで、自身の造語に言及したことはかつてなかった。ちなみに前掲〈耕衣粗描〉の中略部分はこうである。

たとえば、「純老人」「秘晩年」「荒神」「生霊」「夢屑」「素蠅」「深芹」「桜姥」「古みぞれ」などは詩的にもこな れているから よい。しかし、「真昼香」「脱糞会」「枯れ埃」「中止桜」「死周り」「乾時空」「鈴語」「古唇」などの難解語は限りなくある。(《「死児」という絵〔増補 版〕》、三一三ページ)

作品の胆となる核に造語を埋めこむことは、当たれば大きいが、外れればとりかえしがつかない。それだけの話かもしれない。さて、受菜と は文字どおり 菜を受けることとしたのでは、詩句における意味は通じない。音読み「受歳」「受采」や訓読み「うけな」も同様である。そこで湯桶読み、重箱読みを試みると 「ジュな」という音が浮かびあがってくる。これとてそのままでは通じないが、ジュナン=受難を言いさしたものとすれば、詩の風景はにわかに変わってくる。

 そこでわたしたちは見る
 夜叉の女たちが茶釜を叩き
 琴を鳴らす爪の受難のときを
 走る天井

これで一件落着か。そうではあるまい。吉岡は「受菜」と書いたのであって、「受難」とは書かなかった。「受難」はどこへ行ったのか。同 じ詩集《紡錘形》に収められた〈受難〉(D・17)である。

 受難|吉岡実

雪の下にねむる釘
考えられる!
造船所の裏の掘割で
子供と昆虫が暗号だけの愛を
試みている半世紀も前の事
憎しみは鋏や石臼のひびき
人びとの死面の格子
ぼくの次にだれが吠える
リンネルの空の下で
みせかけの海の波へ
ぼくが溺死したあとだれが泳ぐ
なぜ月が出る
トマトの山を半分かくし
現世の受難の野に
もう少し歩いて行けば
ぼくは死ぬより無関心になろう
拷問道具のうしろに
砂丘がおどろくほどぴんと張っている
信じられる!
髪の毛の下にうごく櫛

〈衣鉢〉と同じ1961年1月の《近代文学》〔16巻1号〕に発表された〈受難〉の14行めは、初出形「伝統の受難の野に」が詩集《紡 錘形》では定 稿形「現世の受難の野に」と改められた。〈衣鉢〉の最終行「泣き笑いの能面の伝統のうちに」と付きすぎるのを嫌ったためと思われる(《紡錘形》には〈衣 鉢〉〈受難〉の順で、続けて収録されている)。吉岡実は一方で〈衣鉢〉から〈受難〉という流れを「受菜」という造語(であろう)で暗示しつつ(《吉岡実全 詩集》では「受菜」と〈受難〉が同じ見開きに掲載されている)、他方で「伝統」という境界をつなぐ蝶番≠一度は書いて、のちに消すことで関係性を断ち 切った。この1961年1月、伊達得夫が急逝した。書肆ユリイカから出たかもしれない詩集《紡錘形》は、1962年9月、草蝉舎から吉岡の最も美しいフラ ンス装の自家版として刊行された。

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(*1) 吉岡実詩に「箏」は登場しない。「琴」は「電球の なかに夕の木琴が鳴る」(〈午睡〉A・28)、〈衣鉢〉(D・16)の問題の詩句、「この夕暮の琴座の星明り」(〈螺旋形〉H・10)、「              竪琴」(〈聖童子譚〉K・4)の4詩句に見えるが、箏に相当するのは〈衣鉢〉だけである。
(*2) 前田愛は《増補 文学テクスト入門》の〈第三章 言葉と身体〉の〈横たわる姿勢〉でこう指摘した。「しかし文明開化の時代になってたとえば、たたみの上に坐ってお習字をしていた寺子屋が小学校になって、 椅子と机が持ち込まれる。つまり、文明開化の時代から初めて日本人はヨーロッパふうの腰かけるという姿勢を学ぶことになるのです。その腰かけるという姿勢 が学校時代にきびしく訓練される。あるいはまた、近代的な軍隊を創設していく仕事が明治政府に課されたわけですけれども、徴兵された農民に対して、「気を つけ」「休め」、あるいは足並みをそろえた行進、そういう訓練をほどこす。こういう身体的な動きは、それまでの農民の生活のなかにはまったく組み込まれて いなかった身体的な習俗です。つまり近代の日本人は、あるいは学校で、あるいは兵営で、今までの日本人の身体のなかには組み込まれていなかった姿勢を訓練 されることになった。しかしこれは、明治の日本人のおもての生活であって、家に帰れば相変らずたたみの生活で、そこに横たわるという伝統的な生活が習俗と して残っている。腰かけるおもての姿勢と、たたみの上に横たわる姿勢、こういう二重構造をもっていたのですけれども、〔……〕」(《増補 文学テクスト入門〔ちくま学芸文庫〕》筑摩書房、1993年9月7日、七六ページ)。医書出版の南山堂を退いた19歳の吉岡が夢香洲書塾で佐藤春陵を補佐 して子どもたちに書道を教えていたのは、おそらくたたみ敷きの和室だった。現実には「たたみの上に横たわる姿勢」を愛しただろう吉岡は、〈衣鉢〉ではそれ を厳しく剔抉している。


吉岡実と恩地孝四郎(2015年7月31日)

吉岡実の装丁として知られる最も初期の作品は、塩田良平・和田芳恵編《一葉全集〔全7巻〕》(筑 摩書房、1953年8月10日〜1956年6月20日)だが、存疑作品として前年1952年のグレアム・グリーン(丸谷才一訳)《不良少年》(筑摩書房、 1952年5月20日)があり、自著自装を含めれば吉岡実詩集《液 體》(草 蝉舎、1941年12月10日)が最初の作品となる。近年でこそ「装幀」「装丁」を題名にした書籍は汗牛充棟の様相を呈しているが、戦前では津田青楓《装 幀圖案集》(芸艸堂、1929)くらいだった(同書は1974年に限定500部で覆刻再刊されたおり、原弘〈津田青楓の装幀図案〉と大河内昭爾〈作品解 説〉が付された)。吉岡が最初の著書《昏睡季節》(1940)や《液體》を刊行するにあたってなにを参考にしたのか、よくわかっていない。だが吉岡が彩管 を揮った《液體》の表紙絵は、竹久夢二の拓いた和風のモダンとでもいった土壌に開花したものと見なせる。石川桂子は、別冊太陽《竹久夢二の世界》(平凡 社、2014年9月6日)の〈装幀・挿画〉で「書物の表紙、見返し、扉、カバー、函の意匠を手掛けるこの仕事において、夢二は百人以上に及ぶ作家の書籍装 幀二百六十余冊に加え、自身も装幀を行いながら画集・詩集・絵本等の著書を五十七冊手掛けた」(同書、八六ページ)と指摘している。竹久は、吉岡が詩書に 親しみはじめた1930年代半ば、正確に言えば1934年に49歳で歿しているが、竹久自身の著作はともかく、その装丁本は吉岡が手に取ることもあったに 違いない。ただ、それらの竹久夢二装丁本のなかにフランス装(《液體》は並製フランス装である)があったことは確認できていない(*1)

文芸雑誌《若草》1925年12月号の表紙〔表紙絵:竹久夢二〕 吉岡実詩集《液體》(1941)の函と表紙
文芸雑誌《若草》1925年12月号の表紙〔表紙絵:竹久夢二〕(左)と吉岡実詩集《液體》 (1941)の函と表紙〔表紙絵:吉岡実〕 (右)

《液體》と並べて、竹久が表紙・扉・カットを手掛けた文芸雑誌《若草》を掲げてみた。もっとも、吉岡が木下夕爾の詩を読んだころの《若 草》はすでに 竹久の表紙ではなかったかもしれないが。その「夢二学校」に学んだのが、版画家の恩地孝四郎である(恩地孝四郎装丁本を一冊だけ挙げれば、萩原朔太郎詩集 《月に吠える》(1917)だろう)。吉岡の1946(昭和21)年2月17日の日記に「日曜の朝、二時間待ってやっとピース一個を手に入れる。昼飯はお はぎとシチューで満悦。荻窪の恩地家へ装幀のお礼をとどける」(《るしおる》6号、1990年5月31日、三〇ページ)という記載がある。「荻窪の恩地 家」は恩地孝四郎宅だろう(年譜によれば、恩地は1932年、中野から杉並区東荻町88番地=現杉並区荻窪4-2-22=に転居している)。1946年2 月当時、吉岡は前年の12月に入社したばかりの香柏書房(かつての勤務先、西村書店の社長西村知章が協力者を得て創った出版社)に在籍しているから、恩地 の装丁作品目録に当たればすぐにでも判明しそうなものだが、該当する作品はない。以下に、吉岡が西村書店に入社した1940年(筑摩書房が創業した年でも ある)から日記の1946年までの恩地孝四郎装丁を、恩地孝四郎装幀美術論集《装本の使命》(阿部出版、1992年2月1日)の〈恩地孝四郎装幀作品目 録〉に拠って掲げる(遺漏項目は◆印を付けて補った)。

一九四〇年 〔昭和十五年〕

  1. 『高野』  & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp; 小山いと子著    中央公論社刊    昭和十五年二月
  2. 『出帆』  & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp; 竹久夢二著    アオイ書房刊    昭和十五年三月
  3. 『おくのほそ道の記』     吉田絃二郎著    実業之日本社刊    昭和十五年五月
  4. 『新日本児童文庫7』     大河内正敏著    アルス刊    昭和十五年六月
  5. 『北原白秋詩集 新頌』     北原白秋著    八雲書林刊    昭和十五年十月
  6. 『素描』  & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp; 前田夕暮著    八雲書林刊    昭和十五年十二月
  7. 『東洋への道』     ハール・フェレンツ著    アルス刊    昭和十五年十二月

一九四一年 〔昭和十六年〕

  1. 『娘の家』  & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp; 小山いと子著    河出書房刊    昭和十六年三月
  2. 『南海の明暗』     深尾重光著    アルス刊    昭和十六年三月
  3. 『報ゆる心』  & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp; 友松円諦著    実業之日本社刊    昭和十六年四月
  4. 『ヒカリトソラマメ』     与田準一著    紀元社刊    昭和十六年十月
  5. 『マメノコブタイ』     大木惇夫著    帝国教育会出版部刊    昭和十六年十月
  6. 『篤農伝』  & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp; 和田伝著    河出書房刊    昭和十六年十月
  7. 『オイルシェール』     小山いと子著    中央公論社刊    昭和十六年十一月
  8. 『ゴグの手記』     大木惇夫著    アルス刊    昭和十六年

一九四二年 〔昭和十七年〕

  1. 『青い鳥』  & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp; メーテルリンク著(楠山正雄訳)    主婦之友社刊    昭和十七年三月
  2. 『鮎吉・船吉・春吉』     室生犀星著    小学館刊    昭和十七年四月
  3. 『報道写真への道』     真継不二夫著    玄光社刊    昭和十七年五月
  4. 『新児童文化4』     巽聖歌編    有光社刊    昭和十七年五月
  5. 『博物志』  & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp; 恩地孝四郎著    玄光社刊    昭和十七年六月
  6. 『ムッソルグスキー 荒野・暴風・生涯』     リーゼマン著(服部龍太郎訳)    興風館刊    昭和十七年八月
  7. 『工房雑記』  & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp; 恩地孝四郎著    興風館刊    昭和十七年十月

一九四三年 〔昭和十八年〕

  1. 『現代日本文明史十八世相史』 & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp;  柳田国男・大藤時彦著    東洋経済新報社刊 昭和十八年一月
  2. 『水の構図』    北原白秋・田中善徳著    アルス刊 昭和十八年一月
  3. 『山の動物』    室生犀星著 小学館刊    昭和十八年一月
  4. 『大いなる朝』    吉田絃二郎著 改造社刊    昭和十八年一月
  5. 『烈風』    前田夕暮著 鬼沢書店刊    昭和十八年二月
  6. 『虫・魚・介』    恩地孝四郎著    アオイ書房刊 昭和十八年三月
  7. 『詩と詩人』    河井酔茗著 駸々堂刊    昭和十八年三月
  8. 『児童詩の本』    北原白秋著    帝国教育会出版部刊 昭和十八年四月
  9. 『日本人はどれだけ鍛へられるか』    葉山英二著 新潮社刊    昭和十八年七月
  10. 『草・虫・旅』    恩地孝四郎著 龍星閣刊    昭和十八年八月
  11. 『動物詩集』    室生犀星著    日本絵雑誌社刊 昭和十八年九月
  12. 『灯燭記』    山西敏郎著 教学書房刊    昭和十八年十一月
  13. 『大東亜戦争海軍作戦写真記録』    大本営海軍報道部編纂    朝日新聞出版局編輯  昭和十八年十二月

一九四四年 〔昭和十九年〕

  1. 『森鴎外』    伊藤佐喜雄著    大日本雄弁会講談社刊 昭和十九年一月
  2. 『萩原朔太郎全集2』    室生犀星他編 小学館刊    昭和十九年二月
  3. 『海の少年飛行兵』    与田準一著 大和書店刊    昭和十九年五月
  4. 『ニッポン語』    高倉テル著 北原出版刊    昭和十九年六月

一九四五年 〔昭和二十年〕

  1. 『人類解放物語』    H・V・ルーン著(内山賢次訳)    時代社刊 吼和二十年十一月

一九四六年 〔昭和二十一年〕

  1. 『新しき政治と婦人の課題』 & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp;  市川房枝著    印刷局刊 昭和二十一年四月
  2. 『田山花袋集』    中村光夫編 東方書局刊    昭和二十一年四月
  3. 『鶴八鶴次郎』    川口松太郎著    新紀元社刊 昭和二十一年四月
  4. 『枯菊抄』    久保田万太郎著    新紀元社刊 昭和二十一年四月
  5. 『他人の中』    徳永直著 新興出版社刊    昭和二十一年四月
  6. 『山上の蝶』    井上康文著 寺本書房刊    昭和二十一年五月
  7. 『日本の花』    恩地孝四郎画・編・井上康文詩    富岳本社刊 昭和二十一年五月
  8. 『無為の設計』    川路柳虹著 富岳本社刊    昭和二十一年五月
  9. 『或る女』    有島武郎著 富岳本社刊    昭和二十一年六月
  10. 『新頌・富士』    前田夕暮著 富岳本社刊    昭和二十一年六月
  11. 『白南風(しらはえ)』    北原白秋著 アルス刊    昭和二十一年六月復興版
  12. 『人体頌歌』    恩地孝四郎編    富岳本社刊    昭和二十一年六月
  13. 『耕土』    前田夕暮著 新紀元社刊    昭和二十一年七月
  14. 『春の夜』    芥川龍之介著 雄鶏社刊    昭和二十一年七月
  15. 『日本植物歌集』 花岡譲二    寺本書房刊 昭和二十一年七月
  16. 『女優ナナ』    エミール・ゾラ著(山本恭子訳)    新文社刊 昭和二十一年七月
  17. 『三吉ものがたり』    室生犀星著 新洋社刊    昭和二十一年八月
  18. 『乾草の中の恋』    D・H・ローレンス著(葉河憲吉訳)    塙書房刊 昭和二十一年九月
  19. 『鉄の話』    中野重治著    新興出版社刊 昭和二十一年九月
  20. 『一房の葡萄』    有島武郎著 小学館刊    昭和二十一年九月
  21. 『国木田独歩全集』    国木田独歩著    鎌倉文庫刊 昭和二十一年十月
  22. 『萩原朔太郎詩集W 散文詩』    萩原朔太郎著 小学館刊    昭和二十一年十月
  23. ◆『森鴎外』    伊藤佐喜雄著    大日本雄弁会講談社刊 昭和二十一年十一月
  24. 『閉関記』    上林暁著 桃源社刊    昭和二十一年十一月
  25. 『日本の自然美』    武田久吉著 富岳本社刊    昭和二十一年十二月

吉岡実と恩地孝四郎をつなぐ書籍だけにどうにかして知りたいものだが、目を皿のようにしても吉岡の勤務先の出版社と関わりのありそうな 書籍は見あた らない。一方、◆印を付けた伊藤佐喜雄の《森鴎外》(大日本雄弁会講談社、1946年11月20日)は再刊本のためか〈恩地孝四郎装幀作品目録〉にはな い。1944年1月21日刊の同書の初版は目録に記載されており、吉岡が読んだのはこちらである(1946年1月29日の日記参照)。ちなみに伊藤の《森 鴎外》は、その〈藩校〉の章が吉岡実装丁の《森 鴎外全集〔別巻〕》(筑摩書房、1960年3月30日)に収められた。この《森鴎外》の再刊本(装丁は初版と異なる)のように目録に 採られなかった例もあるから、香柏書房もしくは西村書店刊の恩地孝四郎装丁本が存在しないとはかぎらない。今後の探索に俟つ。

伊藤佐喜雄《森鴎外》(大日本雄弁会講談社、1944年1月21日)のジャケットと同書の再刊本(同、1946年11月20日)の表紙〔いずれも装丁:恩地孝四郎〕
伊藤佐喜雄《森鴎外》(大日本雄弁会講談社、1944年1月21日)のジャケット と同書の再刊本(同、1946年11月20日)の表紙〔いずれも装 丁:恩地孝四郎〕

恩地孝四郎〈装本美術の構成〉(初出は《書窓》〔日本愛書会書窓発行所〕7〜14号、1935年10月〜1936年6月)に仮装(フラ ンス装)に関する記述があるので、引用する。

 仮装は,ただ糸かがりをし,簡単な上被で之を覆ひ,綴ぢ放しの截ち切らず,即ちアンカットが常道である。時にしや れて,又は特 に形を特別なものにするためには截たれるが,三方折り放しのままが本然の姿だ。之はつまり,読者が自分の好みに本装をするために用意された形式であつて, 刊行者は中味だけを提供するといふわけである。之を截たないのは,本装の折に截断によつて本が小形になることを忌むためである。紙の折都合よりももつと別 の形,当然の形より変へたい場合には,非常に舌を片よつて多く出したりする。それだけでみると随分変な奇態な外観を呈してゐる。仮装は,巷間之をフランス 装といふ程,フランスの本は仮装が多い。仏蘭西では所蔵家が自らさせる所蔵装綴が普及発達してゐるし,又自ら手がけて装本をたのしむの,彼国の美術心の発 達によるものと云へよう。日本の仮装は一般に相当親切に綴ぢられてゐるが本場の仮装の綴ぢは各詮自性,ただ散り散りにならぬ程度のぐたぐたなものが多い。 由来から考へればそれでいいわけであつて,かかる本は再読三読するためには本装をしておかねばならない。フランス装の名が出来てゐるだけあつて日本の本は 仮綴でも相当丁寧にかがられてゐるし,小口などもよくそろへてあるものも少くない。蓋し日本のやうに再製製本が大部分崩れた本の作りなほしやノートの合冊 位にしか用ひられぬ習慣や,又芸術的な製本をやる製本業が全く発達してゐない現状ではかうしたことも一方法であり,仮装も立派に一装本形態として独立性を 多分に持つて来るわけである。この仮装を,その観念を更に一層徹底させて,上被も用意せず,糸も通さない出版もある。所蔵装幀に対して一層懇切な刊行であ る。が之は,余り頁数の多いものや,ザツなものには余り見かけない。日本では二三あつたかないかの寡少な方法である。(《新装普及版 恩地孝四郎 装本の業》三省堂、2011年1月20日、一六五〜一六六ページ)

最後の「その観念を更に一層徹底させ」た「仮装」は、折丁を束ねただけのもののようで、驚かされる(もちろん見たこともない)。吉岡が 恩地文の初出 を目にした蓋然性は高くないが、管見に入ったかぎり戦前における最も詳しい仮装(フランス装)の説明である。もっとも、《新装普及版 恩地孝四郎 装本の業》の図版には恩地によるフランス装作品が見えない。恩地がフランス装を手掛けたことはあるのだろうか(《装本の使命》所収の文にも、自作のフラン ス装への言及はない)。竹久夢二装丁本と同様、ぜひ知りたいものだ。ここで恩地の略歴を、臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年5月3日)の記述を借りて掲げる。

恩地孝四郎(お んち・こうしろう)
一 八九一年東京生まれ。創作版画のパイオニアであり、写真家、詩人、装幀家として活躍。装幀家としては理論面でも総合的な体系づけをおこない、近代装幀術を 確立した功績は抜きん出ている。題字類の書き文字「恩地明朝」の格調の高さでも知られた。一九五五年没。(同書、二〇一ページ)

恩地孝四郎装丁本の代表作として、ただ1点、《書影の森》に採られたのが〔現代日本文學全集34〕の《加能作次郎・葛西善藏・牧野信 一・嘉村礒多 集》(1955年9月5日)だが、本稿では後述する〔現代日本文學全集89〕の《現代詩集》(1958年2月10日)を取りあげる。恩地は1955年6月 に63歳で亡くなっているから、同書を実際に指定して、かくあらしめたのは筑摩書房内部の人間に違いない(それが吉岡実であって少しもおかしくない)。孝 四郎の子息、恩地邦郎は〈業としての装本〉で〔現代日本文學全集〕を次のように評している。――1953(昭和28)年から1955(昭和30)年にかけ ての恩地の装丁は、

円熟と手練の業をみせてはいるが,手法は従来のくりかえしが多くなっている。
 しかし,筑摩書房の『現代日本文学全集』(昭和28年)のように,思想と技術の凝結を見せているものもある。当時の編集担当者であった土井一正氏はつぎ のように語っている。
  はじめて重要な仕事を担当し,緊張して原稿をとりに恩地家へおもむいた。先生は鼻歌まじりで原稿を仕上げ,渡された。それはトレーシングペーパーに,黒線 で画かれ,とてもこれが装幀の原稿とは思えなかった。帰社して,古田社長,臼井吉見氏などに相談すると,先生がいいのなら,それでいいのだろうということ で印刷にまわった。ところができ上がってきて立派にできているのでおどろいた。読者の反応もよく,装幀への言及が多かった。私は,筑摩の最も誇れる装幀で あったと思っている。
 私はこの全集が父の最後のすぐれたものと考えていたので,後に編集部長となった土井氏の意見を求めたのに対して答えられたエピソードである。(《新装普 及版 恩地孝四郎 装本の業》、一九三〜一九四ページ)

《装本の業》の〈恩地孝四郎装幀作品集〉には〔現代日本文學全集53〕の《斎藤緑雨・木下尚江・内田魯庵・上司小剣集》(1957年 10月8日)の カラー書影が、〈恩地孝四郎装幀作品カタログ〉には〔現代日本文學全集37〕の《川端康成集》(1955年11月5日)のモノクロ書影が掲げられ、後者に は「芥子色クロスにニッケル箔で幾何学模様,背文字は黒箔押し」(同書、一六一ページ)と概要が記されている。松田哲夫さんはこの「幾何学模様」を馬では ないかと喝破した。なるほどそうかもしれない。いや、そうとしか見えない。ではここで、筑摩書房の全集=叢書の屋台骨をつくった二つのシリーズから、前述 の恩地孝四郎装丁〔現代日本文學全集89〕の《現代詩集》と吉岡実装丁〔現代日本文學大系93〕の《現代詩集》(1973年4 月5日)の函〔表1〕の記載を掲げる(旧字を新字に改めた箇所がある)。

現代詩集
河井醉茗・伊良子清白・横瀬夜雨・川路柳虹・服部嘉香・福士幸次郎・三富朽葉・西條八十・堀 口大學・柳澤 健・北村初 雄・生田春月・佐藤 清・富田碎花・白鳥省吾・百田宗治・山村暮鳥・加藤介春・佐藤惣之助・大手拓次・尾崎喜八・金子光晴・竹内勝太郎・深尾須磨子・大木 惇夫・吉田一穂・佐藤一英・高橋新吉・草野心平・八木重吉・萩原恭次郎・壺井繁治・小野十三郎・岡本 潤・小熊秀雄・伊藤信吉・西脇順三郎・春山行夫・北 川冬彦・安西冬衞・村野四郎・竹中 郁・北園克衞・近藤 東・三好豊一郎・鮎川信夫・田村隆一・岡崎清一郎・安藤一郎・菱山修三・伊藤 整・笹澤美明・城  左門・岩佐東一郎・藏原伸二郎・山之口 貘・菊岡久利・大江満雄・逸見猶吉・藤原 定・尾形龜之助・山本太郎・丸山 薫・田中冬二・富永太郎・中原中 也・立原道造・津村信夫・伊藤静雄・田中克己・神保光太郎・谷川俊太郎・阪本越郎・大木 實・平木二六
現代詩小史(村野四郎)

現代日本文學全集 89
筑摩書房版

現代日本文學大系
93
現代詩集
富永太郎 富永太郎詩集  安西冬衞 軍艦茉莉  逸見猶吉 ウルトラマリン  田中冬二  海の見える石段  竹中郁  象牙海岸  大手拓次 藍色の蟇(抄)  丸山薫 物象詩集  壺井繁治 壺井繁治全詩集(抄)  北園克衞 黒い火  谷川俊太郎 二十億光年の孤独   竹内勝太郎 黒豹  飯島耕一 他人の空  山本太郎 歩行者の祈りの唄(抄)・山本太郎詩集(抄)・単独者の愛の唄(抄)・糾問者の惑いの唄(抄)・ 死法(抄)  谷川雁 大地の商人  鮎川信夫 橋上の人  田村隆一 四千の日と夜  大岡信 記憶と現在(抄)  會田綱雄 鹹湖  吉岡実 僧侶   清岡卓行 氷った焔  岩田宏 いやな唄  安東次男 CALENDRIER  天澤退二郎 朝の河  中村稔 鵜原抄(抄)  入澤康夫 わが出雲  わが鎮魂  石垣りん 表札など  澁澤孝輔 漆あるいは水晶狂い
付録 解説(篠田一士)

筑摩書房

恩地孝四郎装丁の〔現代日本文學全集89〕(A)と吉岡実装丁の〔現代日本文學大系93〕(B)の装丁を比較するまえに、両者の特徴を 述べる。まず 本文の基本組。これはほぼ同じ。【A:20字×28行×3段=1680字(400字× 4.2枚) B:20字 ×29行×3段=1740字(400字×4.35枚)】。総ページ数もほぼ同じだが、収録 内容はAの各詩人の代表詩 篇の抄録に対して、Bの原則、代表詩集を全篇収録する方針へ大きく変わった。すなわち【A:445ページに75詩人の詩を収める B:424ページに27 の詩集を収める】。そのあたりのことを、田村隆一の詩篇と詩集を例に見よう。【A:5ページに8篇(幻を見る人 その一、幻を見る人 その二、幻を見る人 その三、四千の日と夜、十月の詩、正午、立棺、三つの聲)を収める】。末尾に「(以上「四千の日と夜」―昭和三十一年刊―)」と出典表記があるように、詩 集刊行の翌翌年、早くも権威ある全集に抄録されたのに驚く。【B:12ページに全26篇(T 幻を見る人 四篇、Nu、叫び/U 腐刻画、沈める寺、黄金幻想、秋、声、予感、イメジ、皇帝、冬の音楽/V 四千の日と夜、十月の詩、正午、再会、車輪 その断片、遠い国、細い線、にぶい心/W 一九四〇年代・夏、立棺、三つの声)を収める】。末尾に「(初版 昭和三十一年三月、東京創元社刊)/編集部注  本詩集は思潮社版の現代詩文庫「田村隆一詩集」による。」とある。本書に田村の詩集が全篇収められていても、もう誰も驚かない。ここで、塩澤實信《古田 晁伝説》(河出書房新社、2003年2月28日)から〔現代日本文學全集〕の制作に関する記載を引こう。

 筑摩書房の『現代日本文学全集』は、島崎藤村を第一回配本にすることに成功を占う鍵があった。それは、古田晁、臼 井吉見の畏敬する同郷の輝く星であり、先行する『昭和文学全集』が第一回配本を許されなかった文豪だったからである。
 装幀は、角川版の原弘に対し、戦前のモダニズムの影を漂わす恩地孝四郎に依頼し、明るい向日的な黄土色を表紙に用いた。この色調は、その後の筑摩書房出 版物に、大きな影響をあたえたほどであった。
 収録する作家、著作権を継承する遺族との交渉には、編集部の全員が手分けして当たったが、難航する相手には社長の古田晁が、みずから出向いた。(同書、 二〇五ページ)
  文学全集と謳った五十六巻の中に『柳田国男集』を収録したり、与謝野寛・与謝野晶子・石川啄木・北原白秋の四詩人を一巻に収める、あるいは、『島崎藤村 集』『芥川龍之介集』『森鴎外集』につづく早い配本で、『斎藤茂吉集』を当てるといったユニークな巻建てと、視野の広さは、先行する角川版の『昭和文学全 集』をはるかに超えた本格的文学全集の雰囲気を漂わせていた。
 最初の実物見本が出来た時、全社員は恩地孝四郎の格調高い装幀と、島崎藤村の作家のスタートを決定づけた『破戒』の初版本の復元に感動した。
 「これならいける!」
 満足な給料も支給されない状況下で、彼らは筑摩書房復活の息吹の確信を、等しく持ったのだった。(同書、二〇八ページ)

臼井吉見のもとで〔現代日本文學全集〕の陣頭指揮を執ったのは百 瀬勝登で ある。吉岡は「現日」の担当者でこそなかったが(恩地との折衝は前述のように土井一正が当たった)、百瀬の紹介で筑摩書房に入社したのだから、何らかの関 わりがあったはずだ。残念ながら吉岡が「現日」に触れた文章は遺されていないので、詳しいことはわからない。筑摩の乾坤一擲の大プロジェクト(臼井は当初 100巻の予定を56巻に縮小、最終的に全97巻別巻2とした)が吉岡実(の装丁)に与えた影響は、それ以降の吉岡実装丁作品のうちに見ていくしかない。

恩地孝四郎装丁の《現代詩集〔現代日本文學全集89〕》(筑摩書房、1958年2月10日)と吉岡実装丁の《現代詩集〔現代日本文學大系93〕》(同、1973年4月5日)の函と表紙 恩地孝四郎装丁の《現代詩集〔現代日本文學全集89〕》(筑摩書房、1958年2月10日)と吉岡実装丁の《現代詩集〔現代日本文學大系93〕》(同、1973年4月5日)の函と本扉・見返し
恩地孝四郎装丁の《現代詩集〔現代日本文學全集89〕》(筑摩書房、1958年2月10日) と吉岡実装丁の《現代詩集 〔現代日本文學大系93〕》(同、1973年4月5日)の函と表紙(左)と《現代詩集〔現代日本文學全集89〕》と《現代詩集〔現代日本文學大系93〕》 の函と本扉・見返し(右)

AとBの最も著しい逕庭は本文用紙にある。一体に造本・装丁というと外側から、すなわち帯・函・ジャケット・表紙・見返し・本扉、の順 に視覚の滞空 時間は短くなっていく。下手をすると、ジャケットで覆われている表紙がどんなものか見ないことさえある。一冊の本でいちばん視覚の滞空時間が長いのは本文 ページで、数十枚の短篇でさえ数分では読めない。いわんや400字詰めで1600枚の〔現代日本文學全集〕や〔現代日本文學大系〕(*2)の場合においてをやである(吉岡の《僧侶》全篇が16ペー ジに収まってしまうのだ)。恩地は用紙についてこう述べる。

 次に茲に,本文の用紙,附随さして扉,挿画,見返し等の材料を述べる必要があらう。本文の用紙は普通装案者は関与 する場合が少 いが,これも一冊の本の美術効果の上からいつて装本意匠の中に加ふべきである。例へば甚だ壮重な外装をもつ本の本文紙が軽快なコットン紙であつたりするこ とは,手にとるものをしてだまされた様な空虚感を与へる。やはり装案者との協定を経て定める方が効果がある。しかし之が記述は一寸簡単にゆかぬ。種類が甚 だ多いし,名称を挙げるだけでは何にもならぬからだ。大略の所を述べて,細かい所は実物について考量して貰ひたい。概別すると本文印刷紙として用ひられて ゐる紙は,滑面のものとしては上質紙,白菱,金菱,金鵄,赤門,等々,〔……〕。上質紙は詩歌集等の上級出版に屢々用ひられてゐる。次に扉の用紙として適 当なのは上質紙であり一番無難である,本文より少し厚手のものがいい。他の紙であつてもそれは同様で,少くとも下の頁の刷字が透かない程度のものは是非用 ひねばならぬ。(〈装本美術の構成〉、《装本の業》、一七〇〜一七一ページ)

Aの本文用紙を選んだのが恩地孝四郎なのか、目にしたかぎりの資料からはわからなかった。用紙の選択を誰が主導したかは不明ながら、最 終的に恩地が 「協定を経て定め」たことはたしかで、この本文用紙が、刊行後60年近く経つというのに、驚くほど白い。明日をも知れぬ筑摩書房が「現日」の純白の本文用 紙に未来を託した、という気さえする(それに較べれば、AとBの表紙まわりの意匠の違いなど、装丁者が違う以上、当然だと言えばそれで済む)。刊行時には 目に痛いほどの白だったのではあるまいか。一方、Bの薄いクリーム色の本文用紙を選んだのは吉岡実だと思われる。ところで、吉岡実の装丁を論じた文献とし て逸することのできないものに、郡淳一郎による中島かほるのインタヴュー記事〈吉岡実と「社内装幀」の時代〉(《ユリイカ》2003年9月号)がある。こ こに全篇引用したいほどだが、そうもいかないので、〔現代日本文學大系〕および全集の装丁に関わる部分を存分に引く。末尾の( )内の数字は同誌の掲載 ページ。

吉岡さんが手がけた全集類の装幀をご覧になればわかるように、タイトル、巻数、出版社名という必要最小限の文字と、 ワンポイント のカットで構成しているのですが、「ヒラ」(本の表紙や函の表面)のタイトルがほとんど横組みの明朝体なんですね。吉岡さんはゴシック体は、ほとんど使わ なかったと思います。
 そして、タイトルの基本になるのが初号(四二ポイント相当)か一号(二七・五ポイント相当)の活字なんです。初号と一号では文字の肉厚が異なりますね。 初号は全体に肉が厚くて、一号、二号と小さくなるに従って縦棒が細くなってゆく。〔……〕吉岡さんはおそらく、特にこの初号活字の肉厚の文字のバランスが お好きだったのではないかと思います。(139)

それから吉岡方式ということで言うと、函にファンシー・ペーパーを貼ると、糊の水分で紙が少し伸びるんですね。函のヒラに横組みのセンター揃えでタイトル を入れる場合、左右中央に揃えてレイアウトすると、背を起点に紙を貼りますから、ヒラの文字が少しずれてしまうんですね。そのズレ加減を計算に入れて文字 の位置を決めるのだけれども、「文字が背のほうに寄っているのはいいんだ」というのが吉岡さんのアドバイスです。小口寄りはいけないと言われましたね。天 地の位置も、本当に天地中央に文字を置くと落ちて見えるから、少し上にずらさないといけないと教わりました。(141)

表紙を開けたところにある見返しについては、吉岡さんは淡クリーム白孔雀など、薄いクリーム色を好んで使われていました。あまりはっきりした色の見返しは 好まれなかったんです。ナチュラルな、うるさくない紙。一般的には表紙の色とのバランスで、見返しにはっきりと色のついた紙を用いることも多いのですが、 表紙を開いたら、そこからすでに本文が始まっているんだという意識が吉岡さんにはあったんだと思います。それと全集はたいてい厚くて重いので、やはり丈夫 な紙でないといけないということもあったでしょうね。後年は、ファンシー・ペーパーではシマメ紙もお好きでしたね。(143)

筑摩書房では、本文は編集者が自分で指定していました。帯もそうですね。でも吉岡さんは、そういう版面の作り方などについての相談も受けてらっしゃったと 思います。ただ、活字で本文を組むというのは制約が多くて、書体にしても文字の大きさにしても、ある程度自然に決まってきますよね。字間はベタ組が基本だ し、行間は二分(本文の文字の大きさの五〇パーセント)は詰まりすぎ、全角(一〇〇パーセント)は空きすぎだから二分四分(七五パーセント)空きが基本と いうように。(144)

―― 中島さんと吉岡さんが装幀で共同作業されたことはありますか。
中島 手となり、足とな りでお手伝いさせていただきました。たとえば黄色いクロスを表紙に使った『現代日本文学大系』(全九七巻、一九六八−七三年)などがそうですね。このマー クも、吉岡さんが「こんなのどう?」ってお描きになったのですよ。
―― 収録作家名は書き文字、その他の文字は写植ですね。
中島  そうですね。こういう巨大な全集のタイトルは書き文字でしたね。『世界文学全集』(全六九巻、一九六六―七〇年)や『筑摩世界文学大系』(全八九巻、一九 七一―九八年)もそうです。百巻くらいの全集は書き文字にするのが、なんとなく決まり事のようになっていたのではないでしょうか。
〔……〕
中島 これ〔中島が装丁 した『筑摩書房図書総目録 1940-1990』〕は「筑摩書房図書総目録」という文字だけ、オフセットでなく金版で押しているんです。だから黒々しているでしょう。いかにも筑摩ら しい、そして吉岡さん好みですね。
―― 「吉岡さん好み」?
中島 先ほども申し上げ たように、耐久性があり、しっかりとした重さがあるというのが大きいですね。「本ってものは重くなくちゃ」って、吉岡さん、よくおっしゃってました。だい たい書籍の束見本が出来上がると、まず重さ(*3)を手 で量るんですよ。「この重みがいい」って(笑)。そして「飽きがこない、くどくない、何年たっても書棚に置いてうるさくない本がいいんだ」と吉岡さんが おっしゃっていたのは覚えています。(145)

装幀については、穏やかなたたずまい、いつまで経っても飽きがこないもの、歳月に古びないもの、シンプルで落ちついていることをよしとされていました。何 をおいてもまず黒という色が大切で、インキの色数はいろいろあるけれど、何よりもまず黒なんだと強くおっしゃっていました。それから、「形」というものを 非常に大事にされていましたね。(147)
吉岡実にしたところで、全集=叢書類の装丁について一家言あったに違いないが、惜しむべし、中島かほるや筑摩の社内で装丁を担った人人(栃折久美子、吉田 澄、加藤光太郎、松沢園子たち)にしか語っていないようだ。ここは恩地孝四郎の見解に就くに如くはない。
〔……〕叢書類はその内容によつて多少の華素の差別はあるが,装案態度としては矢張,智能分子が勝つてゐる。科学類 にあつては単 冊書よりも稍装飾を多量にしたい。つまり多数の連列によるの単調を避けたいためです。之が内容の創作類である場合は,創作書の場合と似た創案過程が加はら なければならないが,併し内容が単冊書の場合とは異つてずつと多様であるわけだからその点ずつと趣きがちがふ。単冊の場合よりずつと智能的に扱つていい。 ずつと類型的になる。さもないと一冊の本には適合しても他には不適当といふ様な破目に陥る。だから矢張全体を通じての心持を自分に生かして装案する。そし て叢書に於ては,書棚で列冊された場合の美しさを予め考へて立案されなければならない。一冊だと大変いいが,多数列ぶととてもうるさくて,しつこくて助か らぬといふ様なことにならぬ様留意する必要がある。(〈装本美術の構成〉、《装本の業》、一七九ページ)
吉岡が言葉少なに語ったことも、これと大差なかったのではないか。すなわち〔現代日本文學全集〕における恩地の骨法をよく学んで、筑摩書房の全集=叢書装 丁の基盤を築いたのである。

――――――――――――――――

(*1) 竹久夢二は〈装幀に就いての私の意見〉(初出は 《新潮》1924年11月号)で「愛読の書は、自分の好みに従って自分で装幀するなり、製本屋へ注文して自分の好みで作らせるはずのものだ。すべての本 は、フランス風な仮装幀で沢山な訳だ」(《夢二デザイン》ピエ・ブックス、2005年4月11日、一一ページ)と主張している。装丁を依頼された他人の著 書は措くとしても、自身の著書には竹久の装丁がしっかりと施されているのだから、「フランス風な仮装幀で沢山」なのは「すべての本」ではなく、竹久が読む 竹久以外の人間が装丁した本でしかないだろう。
(*2)〔現代文学大系別冊〕として吉田精一《現代日本文学史》(非 売品)が刊行されたように、〔現代日本文學大系別冊〕として奥野健男《現代文學風土記》(非売品)が1968年8月25日に筑摩書房から刊行されている (ただしこの別冊は吉岡実の装丁ではないようだ)。なお《現代文學風土記》巻末には吉田精一編〈現代日本文學年表〉が付されており、これは吉田自身の《現 代日本文学史》掲載の年表の増補改訂版にあたる。
(*3) Aの仕様は、二一八×一四八ミリメートル・四五二ページ・上製クロス装・機械函。重さは機械函が50g、本体が725g。Bの仕様 は、二一八 ×一四八ミリメートル・四三六ページ・上製クロス装・貼函。重さは貼函が115g、本体が765g。ちなみに本体と別冊索引を貼函に 収めた 《筑摩書房図書総目録 1940-1990》は全体で約2.6kg。


臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》のこと(2015年6月30日〔2016年10月31日追記〕〔2018年4月30日追記〕)

臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年5月3日)が刊行された。私が本書の刊行予定を知ったのは、装丁を担当する林哲夫さんのブログにおいてだった。一般に書籍の刊行予告は、企画がそうとう煮つまって、あとは作業時間を投入すれば発行できるという確証が得られた段階でオープンになる。刊行が予告されたあとは、読者は本が書店に並ぶのを待つしかないわけだ。ところが林さんは、本文のレイアウト(2014年の後半だったという)を終えて表紙まわりの作業に入った段階から、造本・装丁の進行状態をブログで公開するという「実況中継」方式で読者の待機時間を盛りあげてくれた。稀有なことである。完成までのその様子は、今年1月下旬から4月にかけて6回にわたって《daily-sumus2》で中継されており、私も2度ほどコメントを書きこんだ。興味深いことに、〈書影の森 筑摩書房の装幀1940-2014 再校〉に見える「吉岡実作と思われる三段八割広告」に関連する記事が、6年前の2009年6月16日の〈吉岡のサンヤツ〉にすでに登場している(「某氏」とは遠藤勁さんだろうか)。

  1. 書影の森 筑摩書房の装幀1940-2014
  2. 書影の森 筑摩書房の装幀1940-2014 再校
  3. 筑摩本・束見本
  4. 筑摩書房の装幀の装幀
  5. 書影の森 予約特典!
  6. 書影の森プルーフ

《daily-sumus2》に掲載された臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年4月25日〔装丁:林哲夫〕)の制作状況を伝える写真1 《daily-sumus2》に掲載された臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年4月25日〔装丁:林哲夫〕)の制作状況を伝える写真3 《daily-sumus2》に掲載された臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年4月25日〔装丁:林哲夫〕)の制作状況を伝える写真4 臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年5月3日)〔装丁:林哲夫〕の本扉と表紙
《daily-sumus2》に掲載された臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年5月3日)〔装丁:林哲夫〕の制作状況を伝える写真(出典:左から上掲の1、3、4)と同書の本扉と表紙(いちばん右)

編著者の臼田捷治さんは、これまでに5冊の単著を出している。《装幀時代》(晶文社、1999)、《現代装幀》(美学出版、2003)、《装幀列伝――本を設計する仕事人たち〔平凡社新書〕》(平凡社、2004)、《杉浦康平のデザイン〔同〕》(同、2010)、《工作舎物語――眠りたくなかった時代》(左右社、2014)である。吉岡の装丁は《装幀時代》と《現代装幀》で触れられていて、前者の〈吉岡実・栃折久美子――出版社のカラーを引きだす力〉は吉岡実の装丁と同時に筑摩書房の装丁に関する最も重要な文章のひとつである。私もたびたび《〈吉岡実〉の「本」》で引用させてもらった。これまでの臼田本が装丁家やブックデザイナーという固有名詞を基軸にした歴史=物語であったのに対して(杉浦康平論を書いたあと、松岡正剛率いる工作舎を舞台に、1970年代以降の若者たちの群像を描いたあたりから、臼田さんの対象への迫り方が変わってきたように思う)、本書が活版印刷黄金時代の代表的書物として筑摩書房の刊行物を取りあげたのは理に適っている。書物が最も書物らしかった時代の通史を描くのに、同社の出版物ほどふさわしいものは他に見出しがたいからだ(その要因は、後出の本書帯文に詳しい)。筑摩書房の創業は1940年、吉岡実が同社に入ったのは戦後の1951(昭和26)年である。

 ところで、この敗戦後の苦節時代を、筑摩書房はどういう陣容でくぐりぬけていたのか、定かではない。今たまたま手元にある、一番古い社員名簿を見ると、一九五三(昭和二八)年一月一日付けのものがある。つまり、次章で語る「現日」成功直前の苦境時代のものである。これを見ると、唐木・臼井・中村の三顧問を除いて、古田以下三〇人の構成になっている。敗戦後比較的早い時期にこの人数に達していたのではないかと思われる。しかし重役が一本[ママ]の煙草を分け合うというような状況だったのだから、この人数が食べていくのは大変なことであったと思われる。(柏原成光《友 臼井吉見と古田晁と――出版に情熱を燃やした生涯》紅書房、2013年11月28日、一四七ページ)

こうした苦闘を強いられた出版社が、それでもあるいはそれゆえに珠玉のような一冊一冊を生みだしていったことは驚嘆に値する。それを支えつづけた人びとへの畏敬の念も抑えがたい。そうした想いを書影でたどったのが本書であって(版元は当の筑摩書房ではなく、みずのわ出版だが)、《筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)との血縁が濃いことは改めて述べるまでもない。上に引いた柏原成光《友 臼井吉見と古田晁と》の巻末に〈資料について〉という解題つきの参考・引用文献の一覧が載っているので、摘する。このうち未見だった《古田晁記念館資料集》は、塩尻市立図書館に問いあわせて入手することを得た。

《〔創業50周年〕筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)のジャケット・函と晒名昇編《古田晁記念館資料集》(古田晁記念館、2003年10月30日)のジャケット
《〔創業50周年〕筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)のジャケット・函と晒名昇編《古田晁記念館資料集》(古田晁記念館、2003年10月30日)のジャケット

  1. 《筑摩書房の三十年》(筑摩書房、1970年12月25日)→和田芳恵《筑摩書房の三十年 1940-1970〔筑摩選書〕》(筑摩書房、2011年3月15日)
  2. 《回想の古田晁》(筑摩書房、1974年10月30日)→臼井吉見編《そのひと――ある出版者の肖像》(径書房、1980年10月30日)
  3. 臼井吉見《蛙のうた――ある編集者の回想》(筑摩書房、1965年4月25日)→臼井吉見《蛙のうた――ある編集者の回想〔筑摩叢書〕》(筑摩書房、1972年2月25日)
  4. 晒名昇編《古田晁記念館資料集》(古田晁記念館、2003年10月30日)
  5. 野原一夫《含羞の人》(文藝春秋、1982)
  6. 塩澤實信《古田晁伝説》(河出書房新社、2003)
  7. 竹之内静雄《先師先人〔講談社文芸文庫〕》(講談社、1992)
  8. 柏原成光《本と私と筑摩書房》(パロル舎、2009)
  9. 永江朗《筑摩書房 それから四十年 1970-2010〔筑摩選書〕》(筑摩書房、2011)

これを見てもわかるように、1と2の間には1973年10月30日の古田晁の死が横たわる。筑摩書房とは、1970年代の初めまでは、古田晁の別名だった。創業30年めの1970年には《筑摩書房の三十年》が非売品として、同じく50年めの1990年(吉岡実の亡くなった年)の翌年には「創業50周年」と冠した《筑摩書房図書総目録 1940-1990》――装丁者のクレジットはないが、「その端正さとグラマラスさをもって吉岡実と石岡瑛子のハイブリッドともいうべき両性具有性を体現する中島かほるの装幀」(樽本周馬)――が9,800円で市販書籍として、世に出た。だが、70年めの2010年には大規模な社史=書誌の刊行はなく、翌年に和田芳恵《筑摩書房の三十年 1940-1970》と永江朗《筑摩書房 それから四十年1970-2010》が出たものの、流通在庫を収めた販売のための図書目録以外は作られなかった。創業75年の今年2015年、その欠落を補って余りある本書が、最適の著者と装丁者を得て刊行された。臼田さんは書籍や雑誌の制作現場を知る、文字文化とグラフィックデザインを専門とする書き手であり、林さんはPR誌《ちくま》の表紙絵を担当したこともある画家にして、古書に通じたブックデザイナーである。この二人が組んだ以上、「ふつうの本」にならないことは目に見えている。
なにはともあれ、吉岡実に関する記載を見ることにしよう。本書の巻末には、編著者とブックデザイナー(組版担当でもある)の労作〈デザイナー・装幀担当者略歴+索引〉がある。その吉岡実の項のページノンブルに、掲載されている内容のあらましを補記する。なお【000『 』】の数字は図版番号、書名・誌名は書影(いずれもカラー写真)であることを表す。

*を付けた記事は本書に初出。他の林哲夫・栃折久美子・松田哲夫は、いずれも吉岡実装丁を評した最も重要な証言の再録。199ページ(索引には掲出されていない)には〈筑摩書房の三段八割新聞広告〉があって、解説は吉岡に言及している。第T部・第U部のくくりが《筑摩書房の三十年》・《筑摩書房図書総目録 1940-1990》に対応することは偶然ではないだろう。そして、第V部を含む全体が《書影の森――筑摩書房の装幀1940-2014》に対応することは言うまでもない。ここで本書の帯文を引いて、その刊行意図を探っておこう。

筑摩書房はわが国の装幀文化が、分野を問わず広く門戸を開いてきたよき伝統を体現してきたのであり、まさにその歩みは、装幀文化の縮図であり、みごとな見取り図だといってよい。実際、私はこれほどのロールモデルをほかに知らない。筑摩本の時代性を超えた功績であり、並びない魅力である。本書は、筑摩書房の装幀に携わった幾多のデザイナー、編集者、社内デザイナーの仕事の紹介をとおして、魅力あふれる豊かな実りの系譜を展望しようと企図した。そのことで、わが国の出版文化史に類いない光芒を放つとともに、出版界のひとつの指標となっている同社の装幀が果たしている役割を多角度から浮き彫りにできれば、と思う。

以下に、本書に登場するデザイナー・装幀担当者名を挙げる。装丁史の流れがわかりやすいように生年順(本書の索引は50音順)に掲げるが、鍋井克之が1888年生まれ、水戸部功が1979年生まれである(神田昇和/中川美智子/ミルキィ・イソベは生年未詳または未公開)。

鍋井克之
恩地孝四郎
中川一政
青山二郎
渡辺一夫
原弘
庫田叕
花森安治
風間完
吉岡実
田村義也
安野光雅
栃折久美子
粟津潔
田中一光
杉浦康平
瀬川康男
天野祐吉
加納光於
水野卓史
政田岑生
田名網敬一
司修
横尾忠則
和田誠
多田進
石岡瑛子
平野甲賀
小島武
菊地信義
佐藤晃一
中島かほる
渡辺千尋
原田治
高麗隆彦
羽良多平吉
南伸坊
加藤光太郎
日下潤一
久保制一
建石修志
柄澤齊
鈴木一誌
望月通陽
間村俊一
高橋雅之
杉浦日向子
祖父江慎
金田理恵
クラフト・エヴィング商會〔吉田篤弘〕
鈴木成一
有山達也
木庭貴信
水戸部功
 ○
神田昇和
中川美智子〔追記:永江朗《筑摩書房 それからの四十年 1970-2010〔筑摩選書〕》(筑摩書房、2011年3月15日)によれば、1944年生まれ〕
ミルキィ・イソベ

風間完(1919〜2003)は吉岡実と同年の生まれだが、鍋井克之(1888〜1969)/恩地孝四郎(1891〜1955)/中川一政(1893〜1991)/青山二郎(1901〜79)/渡辺(渡邊)一夫(1901〜75)/原弘(1903〜86)/庫田叕(1907〜94)/花森安治(1911〜78)たちが、装丁における吉岡の先輩格に当たる。このなかで吉岡が言及したことがあるのは、恩地孝四郎だけだろう。筑摩書房での吉岡実装丁のルーツを探るうえで〔現代日本文學全集〕を手掛けた装丁家・恩地の存在は大きい。そのあたりのことは稿を改めて論じたい。
図版(書影)や文章は本書について見るに如くはないが、書名索引がないのは、本文と図版をあれこれ参照して読んでほしいという編著者の意向かもしれない。それほど何度でもページを翻して見、読むべき書物なのである。ちょうど《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)がそうであるように。そうしたなかで、付録の〈筑摩書房出版関連資料図版〉が面白い。吉岡がデザイン・レイアウトした内容見本もあるのだろうか。最後にこの書物の奥付を録することで、執筆・編纂、組版・造本・装丁、および制作に関わった人人に敬意を表する。いうまでもなく原本は縦組で、検印紙(印刷による再現で、貼込ではないが)があるのも楽しい、林さんらしい見事なレイアウト。

書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014

二〇一五年五月三日 初版第一刷発行

編著者 臼田捷治
発行者 柳原一コ
発行所 みずのわ出版
山口県大島郡周防大島町西安下庄庄北二八四五 庄区民館二軒上ル
〒七四二―二八〇六
電話・ファクス ○八二〇―七七―一七三九
E-mail ; 〔省略〕
URL ; http://www.mizunowa.com

企画協力……………多田進/松田哲夫/中川美智子/林哲夫
取材協力……………加藤光太郎
掲載本提供…………多田進/加藤光太郎/林哲夫
関連図版・資料提供………松田哲夫/林哲夫

印刷……………………………………………株式会社山田写真製版所
製本……………………………………………株式会社渋谷文泉閣
装幀+エディトリアルデザイン……………林哲夫
プリンティングディレクション……………高智之/黒田典孝(株式会社山田写真製版所)

© Shoji Usuda, 2015 Printed in Japan ISBN978-4-86426-032-9 C0071

〔追記〕
2015年5月19日、神田神保町の東京堂書店のホールで臼田捷治・松田哲夫・多田進3氏による《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》の刊行を記念するトークライブが開催された。編著者の臼田さんと並ぶこの本のもうひとりの立役者、ブックデザイン担当の林哲夫さんは7月に控えた作品展の制作のため欠席だったのが惜しまれる。みずのわ出版の柳原一コさんの挨拶のあと、臼田さんが機器の調整をしている間、編集者として筑摩書房に40年間(同社は今年創業75年だから、半分以上!)勤めた松田さんが口火を切った。入社した1969年当時、単行本はそれほどなく、叢書や個人全集といった全集類が多くて土壁色の本ばかりで変わりばえしないと感じたが、函から出してみると鮮やかなクロスの表紙だった。詩人でもあった吉岡実さんが装丁した個人全集で、シンプルだが力強い筑摩書房の装丁のイメージをつくったのがそれらだった、と自論を展開した。その後は臼田さんが操作する《書影の森》のキャプチャー画像を見ながら、多田さんを交えた3人で装丁作品にコメントしていく形式で進んだ。書影だけだとわかりにくいときは、南伸坊装丁になる赤瀬川原平《老人力》(1998)など、会場に持ちこんだ何冊かの原本が回覧された。当日のメモを基に、印象的だった項目を選んで記す。

ほかにも、興味深い指摘に充ちた2時間弱であった。しかるべきときに紹介できれば、と思う。
〔2018年4月30日追記〕
トークライブを聴いた、装丁家でイラストレーターの桂川潤は〈『書影の森』(みずのわ出版)について〉(初出は《出版ニュース》2015年8月上旬号)で「一九四〇年創業の筑摩書房の装丁スタイルは、同社のマークをデザインし、草創期の装丁を担当した青山二郎に始まり、恩地孝四郎装丁による大ヒット「現代日本文學全集」を経て、詩人としても知られた社内デザイナー吉岡実[みのる]によって完成された、というのが三人〔臼田・松田・多田〕の一致した見方だ。筑摩装丁の特徴は、センター合わせでシンメトリカルな格調高いスタイル。筑摩から出版した著訳書を自装したフランス文学者・渡辺一夫の装丁も筑摩スタイルとぴたりと重なる。端正な筑摩スタイルは、栃折久美子、中島かほる、加藤光太郎といった実力派の社内デザイナーに引き継がれ、また社外スタッフによる仕事も、自ずと筑摩スタイルを反映したシンメトリカルな装丁が多い。奇をてらわず、策を弄せず、燻[いぶ]し銀のような装丁ばかりだが、そんな本の顔が驚くほど鮮明に記憶に焼き付いているのはなぜだろう。〔……〕筑摩装丁では、表面的なデザイン技法ではなく、本をまるごと編んでいく力が求められた。多田さんが「筑摩には文字を読むだけではないすぐれた編集者がたくさんいた。それに尽きる」と語っていたのが印象的だった」(《装丁、あれこれ》彩流社、2018年1月30日、一〇六〜一〇七ページ)と書いている。私の知りえた、現役の装丁家による本書に関する最も真率な発言である。

大出俊幸さんが代表を務める〈本の会〉は今までに350回以上の例会を開いているが、調べてみると私の当時の勤務先、UPUの吉澤潔が「『エスクァイア日本版』の船出」を演題に講師として例会で喋ったのは1989年2月だった(吉澤さんは同誌の創刊編集長)。そのときは半分業務みたいな形だったが、興味深い演題と講師のときには時間を都合して聴きに行ったものだ。臼田捷治さん(2000年4月の「装丁の過去・現在・未来」)や松田哲夫さん(1990年1月の「筑摩書房の50年と“文学の森”」)、紀田順一郎さん(1992年6月の「内容見本に見る出版昭和史」)と初めてお目にかかったのも〈本の会〉の例会とその二次会でだった。そういえば、林哲夫さんに初めて挨拶したのも東京古書会館でのトークイヴェントでだった。《書影の森》のトークライブのあと、持参した保存用の一冊に臼田さんから署名してもらっただけでなく、撤収で忙しくしている柳原さん、さらには松田さんにもサイン(似顔絵入り)していただいた。そのことを林さんに報告したら、送ってくれれば署名して返送する(笑)と返事があった。林さん、今度ぜひ。筑摩本の話もいろいろ聴かせてください。

〔2016年10月31日追記〕
臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015)が、第50回造本装幀コンクールで日本書籍出版協会理事長賞〔専門書(人文社会科学書・自然科学書等)部門〕を受賞した。主宰者の発表に「書名:書影の森―筑摩書房の装幀1940-2014/出版社:みずのわ出版/装幀者:林哲夫/印刷会社:山田写真製版所/製本会社:渋谷文泉閣」とあるように、物[ブツ]としての本が評価されたものだ。第47回からは、同コンクールの応募作品のうち寄贈されたものは、国立国会図書館の「原装〔函・カバー等の外装を含む〕保存コレクション」として保存されることになったというから、時宜に適った措置といえよう。資料のデジタル化も結構だが(館内閲覧しかできないのは、なんとかならないものか)、その造本装丁が顕彰された出版物を画面上で視たところでなんになろう。折りにふれて本書を引いて、調べるつもりが想わず読みふけってしまうのは、物[ブツ]としていとおしいからである。臼田さん、林さん、柳原さん、そして制作に携わった未知の多くの方方に祝意を表する。受賞、おめでとうございます。
なお〈吉岡実の装丁作品(1)〉で触れている《校本 宮澤賢治全集〔全14巻(15冊)〕》(筑摩書房、1973〜1977)は吉岡実装丁を代表するものだが、「第八回造本装幀コンクールで、本全集が日本図書館協会賞を受賞」(筑摩書房の《新刊ニュース》)している。


吉岡実とマグリット(2015年5月31日)

――書かれた詩は、眼に見えないものであり、描かれた詩は、その姿を見ることができる。書く詩人は、身近な言葉によって考える。描く詩人は、眼に見える身近な形象によって考える。書かれたものとは、思考の眼に見えない描写であり、絵画とは、その眼に見えるものの描写である。(ルネ・マグリット〈詩とは……〉1967年遺稿)
(《「ルネ・マグリット展」図録》朝日新聞社、1994、〔五〇ページ〕より)

吉岡実は随想〈奇妙な日のこと――三好豊一郎〉(初出は《三好豊一郎詩集1946〜1971》栞〈人と作品〉、サンリオ、1975年2月15日)を次のように結んでいる。

 書斎の次の部屋をのぞくと、あたかも芝居の書割のように一段高い所に、奇妙な座敷があるのだ。そこには、ぴかぴかの禿頭的な大頭の男が眠っていた。それはわが《囚人》の三好豊一郎ではないか。私はやっと救われた思いになる。そこで余裕の出た私はまじまじと、或は遠のいて見るのだ。まるでルネ・マグリットの絵の中の人物のように、愛すべき男がしっかりと固定されているようだ。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二〇一〜二〇二ページ)

ここで私は不審の念にかられる。マグリットの絵に「ぴかぴかの禿頭的な大頭の男」があっただろうかと。手近なマグリットの画集は、どれもみな収録作品の数が少なくて心もとないので、400点以上のカラー図版を掲載したRobert Hughes序文《The Portable Magritte》(Universe、2002)をひもとく。ざっと見たところぴたりと当てはまる作品はなかったが、〈Le Discours de la methode(方法序説)〉(1965)が近いか。マグリットは日本で出た画集や図録、雑誌に掲載された作品も多いので、吉岡が言及した絵が存在しないとは言いきれない。今後の探究に俟つ。

マグリットの油彩〈Le Discours de la methode(方法序説)〉(1965)
マグリットの油彩〈Le Discours de la methode(方法序説)〉(1965)

《筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)でマグリットを探すと画集が出ていたので、記載を引く(人名の漢字はママ)。吉岡が本書に目を通していることは確実だ。なお《マグリットの日本語版画集》によれば、これは「1971年の日本初のマグリット展開催にあわせて出版された限定1000部の画集」で、吉岡がこの日本初のマグリット展、すなわち東京国立近代美術館(1971年5月22日〜7月11日)および京都国立近代美術館(7月20日〜9月5日)で開かれた《ルネ・マグリット展》を観ている可能性はきわめて高い。それというのも、吉岡が編集していた《ちくま》第27号(1971年7月)に岡田隆彦の〈似ていること――マグリットの二重のイメジ〉が掲載されているからだ。岡田は当時《ちくま》にエッセイを連載しており、同展をきっかけにして、マグリットについて書くと吉岡に言いもしたことだろう。

ルネ・マグリット画集
ルネ・マグリットについて(エミール・ランギ) ルネ・マグリットの世界(渋沢竜彦) 作品解説(峯村敏明) 他
装幀 志賀紀子
B4変型判/上製・函入/図版106点 解説他46頁
1971年12月21日 14,000円    4384

32点のカラー図版を貼りこんだこの大判の画集にも「ぴかぴかの禿頭的な大頭の男」を描いた絵は収められていない。なお、目録の末尾に記載されている数字は原本番号で、筑摩書房社内で整理のために1点ごとに刊行順に付けたもの(ただし、正確さと網羅性に欠ける)。


マグリットは吉岡実の詩に一度だけ登場する。飯島耕一の言葉を題辞に引いた〈雷雨の姿を見よ〉(H・14)である(初出は《海》1978年5月号)。その「2」の節の全行はこうだ。

ぼくは〈危険な思想〉というものは
もしかしたら眉唾ものだと思う
野には春の七草
「マグリットの
岩も
城も軽く浮んでいる」

同詩に引用された詩句の出典を博捜した高橋睦郎の〈鑑賞〉も、この節に関しては「飯島耕一の一種の楽天性への共感。」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984、一四四ページ)と記すだけで、出典を明らかにしえていない。もっとも吉岡は、金井美恵子との対談〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉(《現代詩手帖》1980年10月号)で引用詩について

ぼくの中でも、補足は自分で作って自分で括弧にいれると、リアリティが出るなと思っちゃう。全部が人の言葉とは限ってないわけ。作り変えもあるし……。で、この行とこの行をつなぐには引用をいれないと、という感じで、自分で作った引用をいれざるを得なくなってきているのね。〔……〕自分で敢て自分の詩句を括弧にいれるとリアリティを感じられるという錯覚を作っているわけだ。(同誌、九六ページ)

と披瀝しているくらいだから、「 」内が美術をめぐる飯島の文なのか、吉岡自作の「引用」なのかわからない。もちろんここで言及されているのはマグリットの油彩〈Le Chateau des Pyrenees(ピレネーの城)〉(1959)で、3行めの「野には春の七草」が後から挿入されたことを考えあわせれば、1〜2行めこそ飯島の言葉で、4〜6行めは吉岡が自分の言葉を「 」で括ってリアリティあらしめている、という推測すら成りたつ。
ときに、吉岡がマグリットの名を挙げずにその絵をスルスとした詩の第一は〈立体〉(F・3)で、それについては〈〈立体〉のスルスとしてのマグリット絵画〔追記〕〉で図版を掲げた。同評釈の本文と〔追記〕に付けくわえるべきことはない。
さらに《夏の宴》から、マグリットの名は登場しないが、マグリットがらみの一篇。〈雷雨の姿を見よ〉と同様、《吉岡実〔現代の詩人1〕》にも収められている、こちらは追悼詩。

ここではひとは真に見てはいない
表面[、、]
表面的[、、、]
表面化[、、、]する
それらの日常品は
私にはそれぞれの実体の
似姿に思われる
上は吉岡が宮川淳(1933〜77)に捧げた〈織物の三つの端布〉(H・16)に見える詩句だが、そのスルスは宮川の《紙片と眼差とのあいだに》に収められた〈ルネ・マグリットの余白に〉の「《表面》について考えながら、たとえば表面とそのさまざまな派生的な表現について、表面[、、]、表面的[、、、]、表面化[、、、]する……。」(T・二一三・2-3)である。いま阿部良雄・清水徹・種村季弘・豊崎光一・中原佑介編《宮川淳著作集〔全3巻〕》(美術出版社、1980〜81)――ちなみに同書は吉岡実の装丁――を繰ってみると、〈ルネ・マグリットの余白に〉には
(ルイス・キャロルとマグリットの関係について考えること。)

というはなはだ印象的な一行が記されている(T・二一五・6)。言い忘れたが、(T・二一五・6)は《宮川淳著作集》第T巻、二一五ページ、6行めを示す。《宮川淳著作集》の同じ巻の〈表面について ルイス・キャロル〉を開くと、予想にたがわずマグリットからの引用がある。すなわち「物体はその背後に他の物体があることを予想させる。」(T・三五三・6)であり、「物体は他にもっとふさわしい名称が見出せないほどそれ自身の名称に密着しているわけではない。」(T・三五四・8)である。《宮川淳著作集》に見えるマグリットからの引用を、もうひとつ掲げよう。

わたしのタブローはイメージからなる。ひとつのイメージの価値ある描写は自由への思考の方向づけなしにはなされることはできない。(T・三〇三・3-4)

これを「わたしの詩篇はイメージからなる。ひとつのイメージの価値ある描写は自由への思考の方向づけなしにはなされることはできない」と読みかえる誘惑には、抗しがたいものがある。ときに吉岡は、前掲の対談で〈織物の三つの端布〉について金井美恵子と次のように語っている。

金井  池田満寿夫の文章は明晰すぎるということなんでしょうかね。と言うか抽象的で陳腐に美しいということなんでしょうかね。
吉岡  抽象的でもないけど、非常に明晰で作りにくかった。で、土方巽のほかで作りやすかったのは飯島耕一。これまた野蛮な言葉を発しているわけ。ぼくにとって意外な言葉と言うか、生の言葉が必要なんだ。それだと作りいい。だから、あんまり文章が整いすぎちゃったエッセイからは、非常にとりにくい。宮川淳なんかその最たるものね。宮川淳はとるところが非常にむずかしいわけよ。だから、他の、外国の画家の言葉とかそういうのを散りばめないと宮川淳像は成り立たなかった。
金井 宮川さんの文章そのものが引用から成り立っているわけですものね。
吉岡 宮川淳のための「織物の三つの端布」、これが一番むずかしかったなあ。またおそらくうまく成功してないんじゃないかと思うよ。作品としてどうなのかとちょっと疑問になる。
金井 宮川淳から引用できそうな言葉というのは、宮川淳が使っている言葉じゃないということがあるかもしれないですしね。
吉岡 そういうこともあるかもわかんないしね。あまりにも詩的な文体であるためにこっちの感興を呼ばなかった。(《現代詩手帖》1980年10月号、九七ページ)

宮川淳を追悼するために宮川作品から引用しようとすると、地の文ではなく引用された文になりがちだという指摘が面白い(高橋睦郎の〈鑑賞〉に拠れば、「他の、外国の画家の言葉」はマグリットの言葉ではなく、ジョルジュ・ブラックのそれ)。また、飯島耕一や土方巽の言葉は引用しやすくて、池田満寿夫のそれは引用しにくいという処も興味深い。宮川や池田に美術とりわけ絵画がらみの文が多く、二人ともマグリットに親炙していることを考えると、引用をめぐる吉岡実/ルネ・マグリット、詩/絵画の比較検討は多くの課題を含んでいると思われる。その際、前掲詩の「〈危険な思想〉」と(アンドレ・ブルトンの提唱する)シュルレアリスムとの関係が最大の争点になるだろうが、ここはそれを本格的に論じる場ではない。他日を期す。

2015年、東京・六本木の国立新美術館で大規模な《マグリット展》が開かれた(会期は3月25日〜6月29日)。吉岡は、前述のように散文と詩でマグリットに言及しつつも、随想や年譜ではマグリット(展)に触れていない。1971年より後では《ルネ・マグリット展》(渋谷東急百貨店本店・富山県民会館美術館・熊本県立美術館、1982年8月〜12月)、《ルネ・マグリット展》(山口県立美術館・東京国立近代美術館、1988年4月〜7月)、そしてこれは吉岡の歿後だが《ルネ・マグリット展》(三越美術館・新宿・大丸梅田店大丸ミュージアム・福岡市美術館、1994年11月〜1995年5月)が開かれている。吉岡がどこかで原画を観ていておかしくないのだが、マグリットの絵は図版で観てもそれなりに感懐が湧く作風なので、万が一、回顧展を観ていないということもあり得る。ちなみに私は今回初めてマグリット展を観た。図版でおなじみの〈L'Homme au journal(新聞を読む男)〉(1928)や〈La Clairvoyance(透視)〉(1936)や〈L'Empire des lumieres,U(光の帝国U)〉(1950)や〈Souvenir de voyage(旅の想い出)〉(1955)――〈立体〉の評釈を書いた者にとって、これは眼福だった――や前述の〈Le Chateau des Pyrenees(ピレネーの城)〉(1959)やとりわけ〈Golconde(ゴルコンダ)〉(1953)を堪能した。出品されていなかった〈La Duree poignardee(突き刺された持続)〉(1938)は、ベルギー製の美麗な絵ハガキで渇を癒やした。前回の回顧展は2002年、Bunkamura ザ・ミュージアム(会期は7月6日〜8月25日)ほかで開かれた《マグリット展》である。かつては《ルネ・マグリット展》だったのが、ここ2回は《マグリット展》になっている。ルネ・マグリットではなく、マグリット。こんにち、この20世紀のヨーロッパ絵画の巨匠が日本人にとって(ますます)身近な存在になったことの証しだろう。


《マグリット/ミロ〔週刊美術館 10〕》(小学館、2000年4月11日)の〈マグリット物語――ブリュッセルにひそむ謎の小市民〉にこうある。「ルネ・マグリット。1898年ベルギー生まれ。性格はおとなしぐまじめ。15歳で初恋を経験し、その相手と23歳で結婚。家庭を愛し、生涯のほとんどをベルギーの首都ブリュッセルで過ごす――。/そう、その作品に出てくる紳士たちのように、マグリットはごくありふれた小市民だった。少なくともその外見は……。/けれどこの小市民、あまりにふつうすぎるところがかえって変だ。例えば、彼はふつうの格好で、つまり三つぞろいのスーツに山高帽という格好で、絵を描いた。アトリエは台所や食堂、居間の片隅を転々とする。どの床にも決して絵具をこぼさなかったという。/時間にも正確だった。待ち合わせ時間にも決して遅れない。たとえ友人の芸術家たちが、隣の部屋で熱っぽく議論している最中でも、ぴったり夜10時には就寝。ほとんど常軌を逸した小市民ぶりではないか?」(同書、一六ページ)。夜更けのダイニングテーブルで詩を書き――吉岡の〈自作について〉に見える「詩作に熱中している私の姿が、しばしば、部屋いっぱいに拡がり、とても側に居られない」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、二〇六ページ)とは、なんともマグリット的な光景ではないか――、わが国有数の出版社の役員まで勤めたわれらが詩人のことを想う。吉岡実は前掲の金井美恵子との対談で、あたかもルネ・マグリットその人であるかのように、こう語っていた。

だからぼくのはシュールレアリスムでも何でもなくてさ、一行、〔二→一〕行すべてリアリティだという自負はあるのね。それの集積でちょっと異様なものができてるはずだよ。(《現代詩手帖》1980年10月号、九六ページ)

最後は〈Le Chateau des Pyrenees(ピレネーの城)〉(1959)で締めてもらおう。マグリットの友人である弁護士ハリー・トルクツィナーが、ニューヨークの自分の事務所 の、隣のビルに面していた縦198×横142cmの窓を塞ぐために(!)依頼した200×145cmの作品である(図録《マグリット展》、読売新聞東京本社、2015〔刊行月日の記載なし〕、一九八ページによる)。用途とサイズを指定されて、これだけの絵画を成すマグリットの面目躍如たる傑作。吉岡がマグリットの作品として真っ先に挙げたところで、なんの不思議があろう。

マグリットの油彩〈Le Chateau des Pyrenees(ピレネーの城)〉(1959)
マグリットの油彩〈Le Chateau des Pyrenees(ピレネーの城)〉(1959)


吉岡実と木下夕爾(2015年4月30日〔2021年2月28日画像追加〕)

丸谷才一は対談〈「明星」の詩と短歌〉で堀口大學にこう語る。

丸谷 ところで、「アンソロジー向きの詩」という言葉が英語にあって、「アンソロジー・ピース」というんですがね。これはほめる場合にも使われる。つまりアンソロジーによく入るような、という……。
堀口 整っているという意味でしょうね。わかりもよくて奥行きもある。
丸谷 ええ、それから割りに短い。それでまたちょっと軽蔑的、否定的な意味にも使われることがある。つまり万人向きとかね。
 ワーズワースの水仙の詩なんか、短くて、皆によくわかるし、皆知っている。つまり皆に口当りがいい詩だというので、よくも悪くもアンソロジー向きの詩ということになる。(丸谷才一《膝を打つ〔文春文庫〕》文藝春秋、2015年2月10日、三五四〜三五五ページ)

この伝でいくと、吉岡実のアンソロジー・ピースはさしずめ〈静物〉(B・1)、〈サフラン摘み〉(G・1)ということになる。〈僧侶〉(C・8)は各種の選集や詞華集に収められているが、アンソロジー・ピースと呼ぶには稜がありすぎはしないか。じじつ、石原千秋監修・新潮文庫編集部編《新潮ことばの扉――教科書で出会った名詩一〇〇〔新潮文庫〕》(新潮社、2014年11月1日)に収録されている吉岡実詩は〈静物〉である。そして飯島耕一〈他人の空〉と茨城のり子〈わたしが一番きれいだったとき〉のあいだに、堀口に見出された木下夕爾の席が用意されている。〈ひばりのす〉である。同書に収録されているのは、萩原朔太郎や島崎藤村など幾人かを除けば一人一篇だから、その詩人の代表作ということになろう。木下は《児童詩集》の詩人と見なされているのだ。

ひばりのす|木下夕爾

ひばりのす
みつけた
まだたれも知らない

あそこだ
水車小屋のわき
しんりょうしょの赤い屋根のみえる
あのむぎばたけだ

小さいたまごが
五つならんでる
まだたれにもいわない

その簡潔極まる略歴には「きのした・ゆうじ/(一九一四〜六五)/広島県生れ。「若草」に投稿した詩が堀口大學に認められ、注目される。一九四九年に詩誌「木靴」を創刊。俳句にも多く秀作をのこした。代表作に『児童詩集』『笛を吹くひと』など」(同書、五四ページ)とある。木下が生前に刊行した詩集は以下の6冊である。

 《田舎の食卓》(詩文学研究会、1939)
 《生れた家》(詩文学研究会、1940)
 《昔の歌〔新選詩人叢書〕》(ちまた書房、1946)
 《晩夏》(浮城書房、1949)
 《児童詩集》(木靴発行所、1955)
 《笛を吹くひと》(的場書房、1958)

また句集に《南風抄》(風流豆本の会、1956)、《遠雷〔春燈叢書第七輯〕》(春燈社、1959)、歿後刊に安住敦編《定本 木下夕爾句集〔春燈叢書第三十三輯〕》(牧羊社、1966)、ほかがある。さて、吉岡実が木下夕爾(の詩)との関わりを初めて公表した随想〈木下夕爾との別れ〉は次のような内容である。同文は1979年5月18日、《朝日新聞〔夕刊〕》に発表された。なお、吉岡文の引用は《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988、二一六〜二一九ページ)から。

――3年前の1976年の7月、同じ《朝日新聞》に〈回想の俳句〉を4回連載した。取りあげたのは、1:富田木歩と三ケ山孝子、2:吉岡の自作、3:石田波郷、4:田尻春夢と椿作二郎で、木下夕爾は迷ったすえ書かなかった。そして、愛蔵の句集《遠雷》から3句を引用。その寸評。同句集の〈あとがき〉から「戦時中何事も手につかず暮してゐた私は、俳句といふ未知の詩型に親しむことによつてわづかに日々の孤独をなぐさめられてきました」を引用。詩人が俳句に没入した気持ちが理解できたのは、自分も当時、習作的な詩や俳句を書いていたからだ、としてこう続ける。

 木下夕爾と私との交流がはじまったのは、昭和十五年ごろからだろうか。当時の感傷的な若ものたちの愛好した雑誌〈若草〉の詩人から脱皮して、夕爾は〈文芸汎論〉に作品を発表する新鋭詩人であった。有名な〈四季〉にも、ときおり執筆していたように思う。文壇に背をむけ、詩と詩人を優遇した高踏趣味のスマートな雑誌を、多くの文学青年が愛読していた。
 しかし私が夕爾を好きになったのは、限定百部の処女詩集《田舎の食卓》を手に入れて、読んだ時からである。昭和十四年に刊行されたこの詩集は、文芸汎論詩集賞を受けた。たしか一部の人から、日本のフランシス・ジャムだと高く評価されたようでもあった。

――そして、詩篇〈田舎の食卓〉を全行(といっても6行だが)引用する。その2行め、吉岡文では「僕のまはりで」となっているが、そしてそれは旧仮名遣いとしても正しいのだが、初版の詩集《田舎の食卓》では「僕のまわりで」だったのだ。吉岡が随想を執筆したときに拠った底本は、初版の詩集ではなかったのかもしれない。それとも、発表媒体の新聞社が校訂したのだろうか。

 一人のファンとして、私が手紙を出したのが、夕爾とのそれから二年間の文通のはじまりだった。まわりには、詩を解する友もなく、稚拙な詩や歌をつくっていた私にとって、ときたま届く夕爾の手紙が唯一の慰めであった。遠い見も知らぬ広島の田園風物や日常生活を語る、夕爾の美しい筆跡の文章を、私は詩を読むようにくりかえし読んだものだ。

――最初の著書、詩歌集《昏睡季節》を送ったところ、木下夕爾から礼状が来た。詩篇には触れず、3首ほどの短歌を褒めていた。「夕爾の手紙類は戦災で焼失してしまったので、今は確かめることは出来ない。〔……〕夕爾から第二詩集《生れた家》が送られてきたのも、そのころである。」そして、詩篇〈野〉の引用。これは初版の詩集《生れた家》に拠ったか。

 私は一年後、すべての親しい人びとと別れて出征した。そして満洲、朝鮮の警護にあたり、約五年後の敗戦の年に復員したのである。すでに木下夕爾は人気のある詩人になっていた。私は無事帰還したことを、いち早く報告し、旧交をあたためるのが自然のなりゆきだったかも知れない、だがそれをしなかった。この時点で、私は木下夕爾とひそかに訣別したのである。
 生涯かわることなく、簡素平明なる詩風を通した、木下夕爾の最後の詩集《笛を吹くひと》は〔昭和三十五年→昭和三十三年〕に刊行されている。同じ年、詩集《僧侶》によって、私はようやく世に認められるようになった。
以上が〈木下夕爾との別れ〉のあらましである。ここで二人の詩集の刊行状況を対比してみると興味深い。


木下夕爾 吉岡実
1939(昭和14) [1]田舎の食卓 ――
1940(昭和15) [2]生れた家 @昏睡季節
1941(昭和16) ―― A液體
1946(昭和21) [3]昔の歌 ――
1949(昭和24) [4]晩夏 ――
1955(昭和30) [5]児童詩集 B静物
1958(昭和33) [6]笛を吹くひと C僧侶

それまで吉岡は、若年のころに親しんだ詩歌人として木下夕爾の名を挙げたことはなかった。木下が吉岡(の詩)に言及したこともなかったはずだ。したがってこの随想は吉岡が詩的に出発した1940年前後に北園克衛や左川ちかだけでなく、堀口大學や木下夕爾にも近かったことを明かしたものとして、吉岡の読者はもちろん、木下の愛読者にもある種の衝撃を与えたようである。私もまた〈木下夕爾との別れ〉によって両者の関係を初めて知り、木下の詩を読んだ。

   少年|木下夕爾

   毒蛇の舌のやうにやはらかい雨が
   南の方から来て頬を濡らした
   僕はいつも美しい包装の本を持つてあるいた
   自分の秘密のやうに
   誰もゐないところでそれをひらいて見るのだつた
   五月のくさむらにねころぶと
   いきなり大きい腕が僕を目隠しするのだつた……

〈少年〉は《田舎の食卓》と、のちの《昔の歌》にも収められているから、自愛の作品なのだろうが、私には西脇順三郎と北園克衛と萩原朔太郎の声色が出すぎているように思えてならない。吉岡が引いた標題作〈田舎の食卓〉は充分に木下夕爾の作品となっていたが、これはこれでフランシス・ジャムの勉強ぶりが透けて見えるようだ。もっとも木下の詩にはジャムの詩に著しい女に対する渇望が乏しい。ところで、吉岡実にはもう一篇、木下夕爾の詩に触れた散文が存在する。今まで書籍に収められたことのない〈夕爾の詩一篇〉(《俳句とエッセイ》1982年1月号)である。〔 〕内は小林による校訂。

 木下夕爾の詩作品のなかから、好きな一篇を掲げよといわれ、私は少しばかり当惑した。なぜならば、戦後の夕爾の詩篇は、読んでいないからだ。二年ほど前に書いた「木下夕爾との別れ」という文章で述べたように、二十歳のころ『田舎の食卓』と『生れた家』の二つの詩集に、接したにすぎない。本来なら全詩業を通読し、現在の私の視点で、一篇を選ぶべきであるが、残念ながら、それも出来なかった。四十年前に、夕爾から贈られた〔方→第〕二詩集『生れた家』が幸いあったので、なつかしく往時を偲びつつ、読み返してみた。
 冒頭の詩「街上某日」も「ゆふぐれ」も好きだが、表題になった「生れた家」も、わるくないと思った。しかし集中の名篇は、「昔の歌」(Fragments)ということになる。
 夜が来た 夜よ 壮麗な夏の昼が夜のなかに蔵はれる さうして私も蔵ひこまれるのだつた 見しらぬ大きいもののなかに――

 ――毎夜 私はリルケの詩集を枕がみにおいてねむつた
〔天ツキ→一字下ゲ〕小さな灯の下で その白い〔夏→頁〕のところどころに 草の汁でついた指紋がうねつてゐた それゆゑ私は いつでも晴れた日のくさむらにすはることができた さうして 私は捕へることができた 幸福を――帽子を投げて昆虫を捕へるやうに

 早い朝の林のなかのプロムナアドよ――しかし私がそこを通るのは いつも神神の祝祭の終つたあとだ 空に向つて背のたかい椅子の足がならび パン屑みたいな花が点点とこぼれてゐる……樹脂が固まつてゐる 寂しいパンセのやうに ときをり 池はジレッ卜のやうに光つて まだ私の額につかまつてゐる夢をそぎ落す……

 私は好んだ 青空と木の梢とがつくり出す あのエエテルのやうな世界を また 風と水とがゑがく あの美しい襞の世界を――ときをり私はそこに在りたいと希つた――けれどももしそれが出来たら ああ 母上よ たぶん私はすぐにかへつて来たでせう かへつて来て 小さい傷でいつぱいな 机のまへにすはるでせう さうして母上よ 私は あの花の種子を蒔いたかどうかをたづねるでせう ゐなくなつた犬のことを話したりするでせう
 「リルケの詩集……」という字句が示すように、たしかにリルケの影響が見られる。比較的長いこの詩は、他の可憐な抒情詩と異なっている。錯綜する時間と空間の裡に、心情と景物が巧みに併置され、陰翳に富んでいる。夕爾の代表作といってよい、一篇だ。当時の多くの詩を好む青年たちと、同じように、堀辰雄の文章に触発されて、私はリルケの作品を読み初めていた。おそらく、わが夕爾もそうであったであろうと思う。そして、読んでいたテキストは、茅野蕭々の名訳『リルケ詩集』であったような気がするのだ。(同誌、三六〜三七ページ)

吉岡の〈夕爾の詩一篇〉に触れるまえに、〈昔の歌(Fragments)〉の本文を見ておこう。同詩は初め《生れた家》に収められ、のちに《昔の歌》に標題作として再録された。《定本 木下夕爾詩集》(牧羊社、1972年5月30日)に採られた本文は後者である。校訂上、問題のある第2聯を比較しよう(収録した詩集をそれぞれ[生][昔][定]と略記した)。字詰めも各詩集どおりとする。

 ――毎夜 私はリルケの詩集を枕がみにおいてねむつた
 小さな灯の下で その白い頁のところどころに 草の汁で
ついた指紋がうねつてゐた それゆゑ私は いつでも晴れた
日のくさむらにすはることができた さうして 私は捕へる
ことができた 幸福を――帽子を投げて昆虫を捕へるやうに    [生]〔漢字は新字に改めた〕

 ――毎夜 私はリルケの詩集を枕がみにお
いてねむつた 小さな灯の下で その白い頁
のところどころに 草の汁でついた指紋がう
ねつてゐた それゆゑ私は いつでも晴れた
日のくさむらにすはることができた さうし
て 私は捕へることができた 幸福を――帽
子を投げて昆虫を捕へるやうに    [昔]〔漢字は新字に改めた〕

――毎夜 私はリルケの詩集を枕がみにおいてねむつた 小さな灯
の下で その白い頁のところどころに 草の汁でついた指紋がうね
つてゐた それゆゑ私は いつでも晴れた日のくさむらにすわるこ
とができた さうして 私は捕へることができた 幸福を――帽子
を投げて昆虫を捕へるやうに    [定]

《昔の歌》は〔新選詩人叢書〕の「第四輯」で、著者の〈集のをはりに〉を新字に改めて引けば「旧著「田舎の食卓」及び「生れた家」の二冊を主としてこの貧しい詩集を編むことにした。をさない夢をちりばめた、文字どほりの歌である。」(同書、六二ページ)とあるとおり、木下夕爾自身の編になる。私はこの第2聯は[昔]の形を採るべきだと思う。[昔]と[定]の違いは冒頭の一字下げの有無だけだが(他の聯も同じ)、これを[定]のように一字下げ無しにする根拠は、少なくとも《定本 木下夕爾詩集》の編纂の方針を述べた安住敦の文章を読むかぎり、ない。したがって吉岡が前掲〈夕爾の詩一篇〉で引いた〈昔の歌(Fragments)〉の第2聯は

 ――毎夜 私はリルケの詩集を枕がみにおいてねむつた 小さな灯の下で その白い頁のところどころに 草の汁でついた指紋がうねつてゐた それゆゑ私は いつでも晴れた日のくさむらにすはることができた さうして 私は捕へることができた 幸福を――帽子を投げて昆虫を捕へるやうに

とすべきだと考える。よって、吉岡の〈夕爾の詩一篇〉で「〔天ツキ→一字下ゲ〕小さな灯の下で」とした箇所は「〔天ツキ→一字空けて前行に追い込む〕小さな灯の下で」と改める。ただし、ここで厄介なことが一つある。[定]が[生][昔]の「すはる」を「すわる」と改めているのだ。旧仮名遣い上、これはこれで正しい措置なのだが、本稿では著者(木下夕爾)と引用者(吉岡実)の誤記・誤用を訂する処までは踏みこまずにおく。吉岡の未刊行の随想に戻ろう。

――木下夕爾の詩から好きな一篇を挙げるが、戦前の二詩集しか読んでおらず、著者から贈られた《生れた家》を読みかえした。〈街上某日〉〈ゆふぐれ〉〈生れた家〉も好きだが、集中の一篇となれば〈昔の歌(Fragments)〉だ(同詩の全篇引用は原典の複写[コピー]ではなく、手ずから書き写したもの)。そして〈夕爾の詩一篇〉の核心部分が来る。

 「リルケの詩集……」という字句が示すように、たしかにリルケの影響が見られる。比較的長いこの詩は、他の可憐な抒情詩と異なっている。錯綜する時間と空間の裡に、心情と景物が巧みに併置され、陰翳に富んでいる。夕爾の代表作といってよい、一篇だ。

吉岡とて〈ひばりのす〉を目にしていたはずだ。だが、こうした「簡素平明なる詩風」の作品ではなく、《昏睡季節》や《液體》を書いた当時の吉岡がどこまで自覚的だったかはわからないが、「堀辰雄の文章に触発されて」「読み初めていた」「リルケの作品」に親しんだであろう詩人の作品に着目する。戦後の木下がリルケの指ししめした道とは異なる《児童詩集》を著したのとは対照的に、吉岡はリルケの再読を通して《静物》という真の処女作を著した。吉岡実にとって戦前の《田舎の食卓》と《生れた家》の木下夕爾は、自分の進むべき道を往く先達の一人として映ったのではないだろうか。ピカソ(瀧口修造訳)―北園克衛―左川ちか、に対するリルケ(堀辰雄訳)―堀口大學―木下夕爾というトライアングルは、これまで以上に重視されてよいように思う。

次に引く〈死者〉は、吉岡が読んでいないという戦後の《笛を吹くひと》の一篇。詩集では「広島原爆忌にあたり」と詞書きにある〈火の記憶〉(初出は被災10周年にあたる昭和30年すなわち1955年8月、《朝日新聞》に発表)のあとに置かれている。ゆえに、これらの詩篇を含む章の題〈冬の噴水 一九二九年―一九三二年〉はどう考えても年代的におかしい。〈昭和二九年―昭和三二年〉が本来あるべき姿ではないか。

死者|木下夕爾

片びらきの鎧戸が
夜風に軋つていた
立ち止つて
僕はその音を聴いた
君がちよつと出かけている時と同じだと思いながら

あれから何日経つたろう
古びた鎧戸だけが
絶え間なく軋りながら
今も君を待つているようにみえる

僕は見た
マントを翼のように鳴らして
君が帰つてくるのを
垣根づたいに這いあがり
屋根から自分の部屋へはいろうとするのを
夜風がそれを引きずり出そうとするのを
そのたびに鎧戸が開いたり閉じたりするのを

僕は立ち止つて
外灯のうすらあかりで
それをみた
吉岡実が、同居していた友人の吉田健男(年上の女性と心中した)に捧げてもおかしくない追悼詩である。


最後に木下夕爾の俳句について。〈昔の歌(Fragments)〉の第2聯には「空に向つて背のたかい椅子の足がならび」があったから、椅子に注目してみた。《遠雷》の〈夏手套〉に次の句がある。

  緑蔭にして脚しろくほそき椅子

五・七・五で区切って読むと「りょくいんに/してあししろく/ほそきいす」となる。初句にはないが、二句には7音中3音、三句には5音中2音、サ行の音があり、とりわけ「あししろく」が鋭く響く。誦しにくいくらいだ。同句を意味で区切って読むと「リョクインニシテ/アシシロクホソキ/イス」の七・八・二となろう。こちらの第二句は人物(とりわけうら若き女)の白くて繊い脚の描写にも読める。もっとも、雑誌や書籍に印刷された状態では末尾の「椅子」が目に飛びこんでくるから、ほとんど意識されないが。《定本 木下夕爾句集》(牧羊社、1972年5月30日)には他に5句、椅子の句がある。( )内の数字は同書の掲載ページ。

  緑蔭の椅子人生長く倦みにけり   《遠雷》〈夏手套〉    (39)
  こほろぎやいつもの午後のいつもの椅子   《遠雷》〈山葡萄〉    (67)
  春の雷ききとめし背の椅子軋む    《春雷その他》〈春昼〉    (103)
  緑蔭の椅子みな持てる四本の脚    《春雷その他》〈五月来ぬ〉    (121)
  パイプ椅子鉄の灰皿棕梠の花   《遠雷以後》〈蝉の森〉    (171)

「春の雷」は作者の身じろぎまで伝わってくるようだ。私は吉岡の雄篇〈悪趣味な内面の秋の旅〉(G・31)の「秋の夜は挽棒状の脚/梯子状の背もたれのある/椅子に腰かけ/旅する者は考える」という詩句を想起した。《文藝》1975年11月号に発表されたこの詩の末尾には、脱稿したと思しい日付「1975・9・22」が記されていた。吉岡が《朝日新聞》に〈回想の俳句〉を連載する前年秋のことである。

〔追記〕
詩集《笛を吹くひと》の巻頭には井伏鱒二の序詩〈陸稲を送る〉が掲げられていて、題辞に「ふるさとの木下夕爾君の詩「ひばりのす」を読んで、〔……〕」とあるばかりか、詩篇の本文に〈ひばりのす〉を全行引いている。木下夕爾の代表作=〈ひばりのす〉は、作品そのものの力もさることながら、井伏の序詩の存在も与って大きかった(同詩は岩波文庫版《井伏鱒二全詩集》にも収められている)。ちなみに、私の下の娘は〈陸稲を送る〉の5行めに出てくる井伏のお膝元、荻窪の「東京衛生病院」で産まれた。私は同病院に往くたびに、教会通り(病院はキリスト教系)を歩く愉快を感じる。通りに「半分沈んだ舟の/甲板に似た仕事場には/浅靴から深靴までの/色とりどりの商品が並んでいる」(〈幻場〉H・13))のような洗濯[クリーニング]屋があるからだ。

東京・荻窪の教会通りにある洗濯[クリーニング]店「東京社」(2021年2月16日撮影)
東京・荻窪の教会通りにある洗濯[クリーニング]店「東京社」(2021年2月16日撮影)


フラン・オブライエン(大澤正佳訳)《第三の警官》のこと(2015年3月31日)

フラン・オブライエンの長篇小説《第三の警官》を再読した。最初に読んだ版は初刊の単行本(筑摩書房、1973年9月25日)で、吉岡 実が読んだの もこれ。今回再読したのは、同じ大澤正佳訳の白水uブックス版(白水社、2013年12月20日)で、同書は〈海外小説 永遠の本棚〉と銘打たれている。初刊とuブックス版をつぶさに照合したわけではないが、送りがなを多めにしたくらいで、基本的に同じ訳文のようだ。

フラン・オブライエン(大沢正佳訳)《第三の警官》(筑摩書房、1973年9月25日)の本扉と同書の白水uブックス版(白水社、2013年12月20日)のジャケット
フラン・オブライエン(大沢正佳訳)《第三の警官》(筑摩書房、1973年9月25日)の本 扉と同書の白水uブックス版(白水社、2013年12月20日)のジャケット

吉岡実は親しい人との談笑のおり、なにか面白い本を読んだか尋ねるのが常だった(私でさえ訊かれたくらいだから、情報を得ることもさる ことながら、 相手がどの程度の人物なのか踏んでいる気配もあって、いま思いかえしても冷や汗が出る)。次に引く金井美恵子〈吉岡実とあう――人・語・物〉と城戸朱理 〈吉岡実と指環〉にそうした情景が描かれている。

 たしか去年か一昨年か、〔……〕それこそ平板で平明な照明と外に面した大きなガラス窓のある喫茶店で、入沢さんと 吉岡さん、そ れに私と姉と四人でコーヒーを飲んで雑談をし、吉岡さんとの雑談のなかでは、いつでも「何か最近おもしろい本はない? 教えてよ」という質問を受けること になっているのだが、その時もそう聞かれ、『ロリータ』はむろんお読みでしょうが、ナボコフを最近まとめて読んだ、と姉が答え、入沢さんは『セバスチャ ン・ナイトの生涯』は実に面白い小説だったと言い、私たちはそれにうなずき、あれは一種目まいのするような陰惨で滑稽な小説である、と誰かが言うのだが、 吉岡さんの反応は違う。
 ナボコフ? ああ、『ロリータ』ね。前に一度読みかけたけれど、あれは訳文がとんでもない悪文だろ?(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、 1984、二一六〜二一七ページ)

〔……〕吉岡さんはべらんめえ調の口調で、自分の愛する作家や作品のことを話され、コーヒーをおかわりし、そして私に「最近面白かった本は何だい?」と か、「何に興味があるの?」といった質問を矢継ぎばやに発せられるのが常だった。現代思想のことや海外の詩のことを尋ねられることが多く、ジャック・デリ ダやジル・ドゥルーズに大いに関心を抱き、W・C・ウイリアムズやチャールズ・オルソンらアメリカの詩人たちのことを知りたがられた。吉岡さん自身が愛す るものに関しては、散文集『「死児」という絵』にくわしいが、吉岡さんがよく興味をもって話されていたのは、オクタビオ・パスの「白」、チャールズ・オル ソンの「カワセミ」といった長詩やエリザベス・ビショップの詩「人間蛾[マン・モス]」などのことで、またジェームズ・ジョイスの衣鉢を継ぐアイルランド の作家、フラン・オブライエンの作品をことのほか愛されていたように思う。私の手元には絶版になったオブライエンの『第三の警官』があるが、これは吉岡さ んがわざわざ版元に連絡して取り寄せ、私に贈って下さったもので扉には次のような言葉が書かれている。「この小説を城戸朱理に読んで貰いたく、捧げる。  一九八四・六・四」。(《吉岡実の肖像》ジャプラン、2004年4月15日、一二三ページ)

吉岡実とナボコフに ついてはかつて書いたので、海外の詩 に触れておく。オルソン(出淵博訳)の〈かわせみ〉とパス(鼓直訳)の〈白〉は、篠田一士編《現代詩集〔集英社版世界の文学37〕》(集英社、1979年 2月20日)に収められている。吉岡が(編者から贈られて?)読んだのもこれだろう。エリザベス・ビショップには、吉岡歿後刊の小口未散編・訳による《エ リザベス・ビショップ詩集〔世界現代詩文庫〕》(土曜美術社出版販売、2001)があり、〈人間―蛾[マン―モス]〉は第一詩集《北と南》(1946)の 一篇として収録されている。なお、福田陸太郎・鍵谷幸信編《現代アメリカ・イギリス詩人論》(国文社、1972)所収の徳永暢三〈エリザベス・ビショッ プ〉には福田陸太郎訳の〈人間蛾〉が全行引かれているから、吉岡が目にしたのはこれかもしれない。これらの海外の詩に触発されて成った吉岡実詩が《薬玉》 (1983)や《ムーンドロップ》(1988)に結実したことは、付言するまでもない。吉岡はこのようにして、翻訳物を知友たちの評判に基づいて手にした り、読んだりしていたようだ。《第三の警官》初刊の出版元は筑摩書房だから、淡谷淳一さんや後輩の編集者から、〈僧侶〉(四 人めは《第三の警官》の語り手さながら、開幕早早殺されるが、終幕まで他の三人の僧侶と同様の、いや三人以上の活躍をする)の詩人好みの作品として推奨さ れたのだろうか(《第三の警官》はその後、1998年刊の〈筑摩世界文學大系68〉の《ジョイスU・オブライエン》に《スウィム・トゥー・バーズにて》と ともに収録された)。ここで興味深いのは、初刊の訳書が出てから1年以上経った1974年11月、吉岡が編集する《ちくま》67号に大澤正佳の〈フラン・ マイルズ・ブライアン――アイルランドの文人〉が掲載されていることだ(末尾には罫囲みで「フラン・オブライエン/大澤正佳訳 第三の警官 筑摩書房/価 一九〇〇円」と慎ましく書籍の広告が記されている)。――同文はのちに《スパーク/オブライエン〔集英社版世界の文学16〕》(集英社、1977年12月 20日)の、大澤による〈解説〉に吸収された。――〈フラン・マイルズ・ブライアン〉には次のよう な記載がある。

実のところ彼〔フラン・オブライエン〕は第一作に優るとひそかに自負していた第二作『第三の警官』の原稿をロングマ ンズ社〔第一作『スウィム・トゥー・バーズにて』の版元〕に委ねていたのだが、戦時中のこととて出版を謝絶されたのだった。(同誌、二ページ)
一 九一一年アイルランド北部のストラベインに生れたオノーラン〔フラン・オブライエンの本名〕は一九二三年にダブリンへ転居するまで正規の学校教育をうけて いない。家が貧しかったからというわけではない。〔……〕ケヴィン〔フラン・オブライエンの弟〕の筆は生気にあふれたオノーラン兄弟の日常をいきいきと写 しだしている。旺盛な知識欲に駆り立てられて手当たり次第の本を乱読し、「お話し」を創り合って興じ、〔……〕。(同誌、六ページ)

ところで、これに先立つ1971年5月の《ちくま》25号(これも吉岡編集)掲載の〈チャイルド・ホリッド顰め面紀行――アイルランド 文学の古さと 新しさ〉は、大澤の《フィネガンズ・ウェイク》論集である《ジョイスのための長い通夜》(青土社、1988)に収められる際、〈トンネルで酒浸り〉と改題 されたが、その最後にオブライエンによるジョイス論、〈トンネルで酒浸り〉が紹介されていた(ただし《第三の警官》への言及はない)。おそらくこれが、吉 岡実がフラン・オブライエンの名を知った最初だと思われる。


《第三の警官》は自転車をめぐる奇想小説という見方が一般的だが、ジョイスの後輩による小説だけあって、簡単に要約することができな い。幸いなこと に、訳者が《イギリスW〔集英社ギャラリー[世界の文学]5〕》(集英社、1990年1月24日)に付した〈文学作品キイノート〉に本書の〈あらすじ〉が 載っているので、それを拝借する。

 この作品の語り手は名前を持たず、左足は木の義足である。左はギリシアの昔から凶兆と結びつくとされており、この 語り手が「災 難にあうのはいつも左の方向」なのだ。彼の関心はただひたすら物理学者にして哲学者たるド・セルビィに向けられている。学生時代からこの碩学[せきがく] に傾倒してきた彼は長年の研究成果の出版資金を得るために雇人ジョン・ディヴニィと共謀して富裕な老人メイザーズを殺害する。ラスコーリニコフの老婆殺し に似た陰惨な設定だが、語り手はあくまでも無表情に、日常茶飯事を口にするようなさりげない調子で語りつづける。事件のほとぼりがさめた頃[ころ]、語り 手はメイザーズ邸に忍び込む。老人から奪った金箱をその床下に隠しておいたというディヴニィの言葉に従ったのである。彼は床下に手を差し入れる。金箱に触 れる。するとそれはするりと滑り落ちる。ディヴニィが金のかわりに爆薬を仕掛けておいたと判明するのは結末近くになってからである。異様な事態に戸惑った 語り手がふと目をあげるとメイザーズ老人が椅子[いす]におさまっている。老人の亡霊だ、と彼は直感する。今や彼自身も亡霊になっているとは夢にも御存知 ないのである。メイザーズ老人と奇妙な問答をかわしている最中に語り手の魂ジョーがひょいと登場してきて、これから先、語り手の行動をちくいち批評し忠告 することになる。彼は黒い金箱を求めてどこか次元が狂っているシュールリアリスティックな警察署に出頭し、カフカの「判決」や『審判』を思わせる不条理な 裁判にかけられ死刑の宣告をうける。三人の警官――巡査部長プラック、巡査マクリスキーン、そして結末近くまで姿を見せない「第三の警官」フォックス巡査 ――の管轄[かんかつ]下にあるこの異様な領域の住民はすべて自転車人間である。警官たちの主要な任務は自転車と自転車乗りとの間の原子交換から生ずる自 転車人間(あるいは人間自転車)の状態を確認することであり、プラック巡査部長は盗難車の捜索発見にいそしんでいるが、原子交換率の低下を狙って自転車を 盗み隠匿[いんとく]するのはほかならぬ彼自身なのである。
 プラックとマクリスキーンに導かれた語り手はリフトに乗って地下の領域を訪れる。そこは無数の扉を備え、「すべての部分は何度も反復されていて、どの場 所も他の場所である」ミノタウロスの家(ホルヘ・ルイス・ボルヘス「アステリオーンの家」一九五七年)そのままの迷宮であり、時間が停止している「永遠」 の領域である。語り手が次々と思いがけない事態に遭遇するたびにジョーが口をはさんで掛合い漫才めいた会話を展開するが、脱線とみえて実は事態の本質を浮 かび上がらせる仕掛けとして作者はジョーのほかにド・セルビィを準備している。ド・セルビィヘの言及は主として脚注という形で行われるが、彼は家屋、道 路、旅行、釘[くぎ]打ち、水などありとあらゆる事象について奇抜な一家言を持っている哲学的科学的異才として登場する。彼をめぐる叙述はことさらに衒学 [げんがく]的な報告調の文体が用いられており、語り手の自然な、とぼけた語り口と相挨[あいま]って作品全体のおかしみを増幅している。この碩学に続い て一団のド・セルビィ評釈者たちが現れ、さらに彼らのド・セルビィ論を論評する研究者たちの説も紹介される。その結果、Aなる評釈者のド・セルビィ論を論 評するBなる批評家を批判する研究者の説が開陳され、自転車の車輪の回転運動に似た堂々めぐりが展開することになる。(なおド・セルビィは『ドーキー古文 書』にも魔術的な科学の天才として再登場し、今は敬虔[けいけん]なカトリック信者として居酒屋に勤めている文学の天才ジェイムズ・ジョイスとの対面が企 てられるという奇抜な成行きとなる)。ド・セルビィの「科学実験」の一つに、並置した鏡にうつるわれとわが身の映像を望遠鏡で覗[のぞ]きこみ、無限に繰 り返されるわが分身の果てを見届けようとするものがある。また、マクリスキーンの手造りになる逸品の一つに精巧な箱細工があって、その箱はひとまわりずつ 小さいが見掛けは全く同一の箱を次々に内蔵しており、そのあげく今では目には見えない無限小の箱の製作が進行中である。並置された鏡に反復される映像、無 限小に達する箱細工――いわば循環小数の果てしない繰り返しが『第三の警官』の構成原理なのである。その世界に登場してくる人物はそれぞれ陰謀者と共謀 者、殺人犯と被害者、死刑執行人と死刑囚といった対をなし、ド・セルビィが語り手の歪[ゆが]められた鏡像であるように、相互に反映し合って いる。そして語り手の内部にジョーがひそみ、フォックス巡査が詰めている第二の警察署がメイザーズ老人の屋敷の壁の内側にあるように、すべては重ねた箱細 工と同じく内側へ内側へとのめりこみ、螺旋[らせん]状の循環運動を反復するのである。この小説の結びで語り手は再び警察署にやってくる。今度は頓死[と んし]したジョン・ディヴニィと二人連れであるが、描写は前回と殆[ほとん]ど同一である。物語は振り出しからもう一度(そしておそらくは果てしなく繰り 返して)語り直されようとしているのである。(同書、一四〇九〜一四一一ページ)

ここで「マクリスキーンの手造りになる逸品の一つに精巧な箱細工があって、その箱はひとまわりずつ小さいが見掛けは全く同一の箱を次々 に内蔵してお り、そのあげく今では目には見えない無限小の箱の製作が進行中である」とあるのが、初刊訳書の本扉の絵(前掲写真参照)のモチーフになっている。こうした 無限の反復とさらには逼塞感(「並置した鏡にうつるわれとわが身の映像」)は《第三の警官》に著しいもので、誰しもそれを感じるからだろう、オブライエン の歿後にようやく刊行された原著《The Third Policeman》(1967)の表紙まわりの装画がまさにこの本扉の絵だった。そこからは「「わたしは幼年時代 メリー・ミルクというミルクの/缶の レッテルに 女の子がメリー・ミルクの缶を抱え/ている姿の描かれている」/その缶を抱えている屋敷の女の子を眺めながら/わたしは水疱瘡に罹っていた」 という詩句を含む吉岡実の〈示影針(グノーモン)〉(G・ 27)が想起される。同詩篇は1975年9月の発表で、「 」内の詩句は澁澤龍彦からの引用だから、それが吉岡の中でオブライエンの「箱細工」と共振した だろうことは想像に難くない。そして、金子國義の絵によせた詩篇〈夢のアステリスク〉(H・ 22、初出は1978年3月20日刊行の金子國義版画集《LE REVE D'ALICE――アリスの夢》(角川書店)の出版案内カタログ(同、1978年2月))には「大きな箱から/順次に小さくなる箱を/開ける 開ける」と 箱細工そのものが登場するのである。


オブライエンの自転車の描写は圧倒的で、とくに結末(より正確に言うなら、この小説の最終ページ)に近い3 ページ分はぜひ引用したいと ころだが、先に〈あらすじ〉を長長と引いたので、該当箇所を示すにとどめる。すなわち「この自転車そのものには何か独特の調子というか個性といったものが あるようで、」から「有能な空気ポンプが彼女〔自転車〕の後のふとももにぬくぬくとしがみついていると思えば口に言い表わせないほど心丈夫というもので す。」(初刊:二六一〜二六三ページ、世界文學大系版:四四五〜四四六ページ、uブックス版:二九三〜二九五ページ)までの一段落がそれである。ところ で、私の知人にバイクを乗りまわすくせに自転車をこげない人がいた。ちなみに私は、エンジン(モーター)の付く乗り物とはいっさい関わらないようにしてい るから、自分で体感できる最高速度の乗り物は自転車である。吉岡実はどうだったろうか。下町のガキ大将だった吉岡が、自転車に乗れなかったはずがない。 オートバイ(詩篇〈孤 独なオートバイ〉(E・14)に、運転する者の視点が欠落しているのは興味深 い)はもちろんのこと、くるまを乗りまわす吉岡というのも想像できない。吉岡には馬や自転車が似合う。ここで吉岡実の詩に登場する自転車を見てみよう。

 ・自転車競走選手が衝突する(白昼消息、@・10)

 ・空走る一つの自転車のからまわり
 ・自転車のからまわり(無罪・有罪、E・2)

 ・メタフィジックな牛乳配達自転車(夏から秋まで、F・2)

 ・自転車で通る(ルイス・キャロルを探す方法〔わがアリスへの接近〕、G・11)

 ・自転車のチューブのようなもので(あまがつ頌、G・30)

そして、満を持して〈自転車の上の猫〉(G・15)が登場する。全行を引こう。

 闇の夜を疾走する
 一台の自転車
 その長い時間の経過のうちに
 乗る人は死に絶え
 二つの車輪のゆるやかな自転の軸の中心から
 みどりの植物が繁茂する
 美しい肉体を
 一周し
 走りつづける
 旧式な一台の自転車
 その拷問具のような乗物の上で
 大股をひらく猫がいる
 としたら
 それはあらゆる少年が眠る前にもつ想像力の世界だ
 禁欲的に
 薄明の街を歩いてゆく
 うしろむきの少女
 むこうから掃除人が来る

〈自転車の上の猫〉の初出は1974年4月、〈松井喜三男展「少 年少女」〉のパンフレットに 掲載、そのときは「マツイ・キミオの絵によせて」と詞書きがあった(詩集では削除)。同展は1970年に金子國義の最初の弟子となった松井喜三男 (1947〜81)の青木画廊での初の個展で、松井にはその名も〈自 転車の上の猫〉(1971)という絵があった。吉岡の詩はこれに寄せたものだが、そこには《第三の警官》の余韻が漂っていないだろう か。


オブライエンの代表的な長篇小説はすべて大澤正佳によって邦訳されている。近年刊行の版を挙げるならば、《スウィム・トゥ・バーズにて 〔白水uブッ クス〕》(白水社、2014)、《ハードライフ》(国書刊行会、2005)、《ドーキー古文書》(集英社〔《イギリスW〔集英社ギャラリー[世界の文学] 5〕》所収〕、1990)の3作がそれだ。だが、ここで触れておきたいのはそれらではなく、1941年発表の短篇、というより掌篇の〈ジョン・ダフィーの 弟〉(澤村灌・高儀進編《笑いの遊歩道――イギリス・ユーモア文学傑作選〔白水uブックス〕》白水社、1990年3月5日、所収)である。「フルネームで 呼ぶのは差し控える」(同書、一九一ページ)ため、主人公は「ジョン・ダフィーの弟」と呼ばれるが、本題である彼の話に入るまえに次のような人物たちが登 場する。いずれも一筆書きだ。

 ジョン・ダフィー=「ジョン・ダフィーの弟」の兄。
 ガムリー=ジョン・ダフィーを取りあげ、かつ一時間後に見とった医者。
 マーティン・スマリン=テリアを伴い、ステッキを持って公園の高台を横切る男。引退した定期機関運転士。
 ゴギンズ夫人=マーティン・スマリンの姉。服地卸商の故ポール・ゴギンズの未亡人。
 リーオ・コー=ゴギンズ夫人のいとこ。偽札造りの廉で刑務所に送られた。
 ダフィー=ジョン・ダフィーの弟の父にして、彼の持っている小型望遠鏡(これでマーティン・スマリンを見ている)の初めの所有者。商船の船員だったが、 1927年7月4日4時に発狂して、その晩、身柄を拘束する処へ移送された。

オブライエンはここまでで訳書の3ページを費やしてから(ちなみにこの掌篇の本文は8ページ強)、ぬけぬけとこう続ける。
「前述の多くの事 柄はジョン・ダフィーの弟の話とはほとんど本質的な関係がないとも言えようが、現代の文学は、単純な事件を、その事件を引き起こした背景にひそんでいる心 理学的・遺伝的要因を知る手掛かりを何も与えずに、真空の中で述べる段階を通り過ぎてしまったものと思いたい。しかし、これだけのことを言っておけば、も う、ジョン・ダフィーの弟の冒険がどんなものであったか、手短に記すことは許される。
 彼は、ある朝――一九三二年三月九日――起床し、着替え、質素な朝食を料理した。その直後、自分は汽車だという不思議な考えに取り憑かれてしまった。な ぜかは説明のしようもない。小さな男の子が自分は汽車だというふりをすることが間々[まま]あるし、世の中には、遠くから見ると、汽車に幾分似ていなくも ない肥った女がいるものではあるが。しかし、ジョン・ダフィーの弟は、自分は汽車である[、、、]と確信した――白い蒸気が騒々しい音を立てて足元から漏 れ、煙突のあるところから太い唸り声をリズミカルに発する、長い、轟然と走る巨大な汽車。」(同書、一九四〜一九五ページ)
この「汽車」が《第三の警官》の「自転車」と同類であることはいうまでもない。体調のすぐれなかった最晩年の吉岡がこの訳書を読んだとは思えないが、オブ ライエンの機関車人間もしくは人間機関車に触れたなら必ずや快哉を叫んだことだろう。私は〈ジョン・ダフィーの弟〉からマグリット描くところの〈La Duree Poignardee(突き刺された持続)〉(1939)を想起しないわけにはいかなかった。確かに「真空の中で述べる段階を通り過ぎてしまった」「現代 の文学」はこのようにでも書くしかないのだ、と思いながら。ちなみに、マグリットが油彩を描いた翌1940年に吉岡は《昏睡季節》を刊行し、さらにその翌 41年に吉岡は《液體》を出し、オブライエンはこの掌篇を発表している。

――「夏の日盛りの庭で/まるで青い食べ物のように/蒸気を出す/笑う女がいる」(〈悪趣味な夏の旅〉G・26)

マグリットの油彩〈La Duree Poignardee(突き刺された持続)〉(1939)
マグリットの油彩〈La Duree Poignardee(突き刺された持続)〉(1939)


吉岡実と福永武彦(2015年2月28日〔2017年3月31日追記〕)

手許に吉岡実が福永武彦に贈った詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962)がある。昨2014年11月、本サイトの12周年を自祝して落穂舎から購入した古書だ。写真を見ればわかるとおり、見返しに
  福永武彦様 1963.3.25 吉岡實
とブルーブラックのペン(おそらく吉岡愛用の万年筆)で書かれている。ちなみに、1963(昭和38)年3月25日は月曜日(先輩や知友であれば、刊行直後に献呈署名入りを贈っているだろう)。私は吉岡さんに会うたびに新刊や古書で入手した詩集に署名してもらったが、ふだんは万年筆を持ちあわせていないため、私のブラックインクのパーカーによるものが多い。写真の《サフラン摘み》の献呈署名は「小林一郎様/1984.12.9/吉岡実」で、日付のスタイルは福永の場合と同じである(この日の明治大学詩人会の忘年会のことは〈吉岡実の話し方〉に書いた)。また、自宅で献呈署名したものには筆ペンによるものもある。

吉岡実が福永武彦に贈った詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962年9月9日)の見返しページ 吉岡実が小林一郎所蔵の詩集《サフラン摘み》(青土社、1976年9月30日)に署名した見返しページ
吉岡実が福永武彦に贈った詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962年9月9日)の見返しページ(左)と吉岡実が小林一郎所蔵の詩集《サフラン摘み》(青土社、1976年9月30日)に署名した見返しページ(右)

《紡錘形》は、妻の吉岡陽子を発行人として草蝉舎から限定400部で刊行された。小田久郎は次のように書いている。「一方、この年、単行詩集としては、岩田宏の『頭脳の戦争』を七月、吉岡実の『紡錘形』を九月に出版した。吉岡のは、私家版として吉岡が作ったものの発行、発売を引受けただけだったが〔発行は思潮社ではない〕、思潮社が受託していた部数をあっという間に完売してしまった」(《戦後詩壇私史》新潮社、1995年2月25日、二四九ページ)。つまり、発行部数のかなりの数は思潮社が販売し、残りは吉岡が手許に置いていた、ということになる。吉岡の自筆年譜の「昭和四十五年 一九七〇年   五十一歳」には「吉増剛造、出来たばかりの『黄金詩篇』を持って、会社を訪れる。『紡錘形』を贈る」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984、二三三ページ)と見えるから、勤務先にも保管していたようだ。さらに興味深いことに、吉岡の随想〈誓子断想〉には「山口誓子氏に唯一度、私は出会っている。上京された折、仕事のことで相談を受けたことがある。都内のホテルで半時間ほど、雑談しただけだが、私にとって有意義なひとときであった。出来たばかりの詩集《紡錘形》を差上げたから、昭和三十七年のことだと思う」(《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、1988、一一四〜一一五ページ)とある。初対面の俳人に出版社の人間として会って、詩人として(いや、順番からいけばこちらが先だが、愛読者として)自分の新作の詩集を贈る。これと似た状況が福永武彦との間に繰りひろげられた可能性は否定できない。しかし、吉岡の年譜(吉岡陽子編)の「一九六三年(昭和三十八年)四十四歳」には「『西脇順三郎全詩集』を筑摩書房から刊行した縁で西脇順三郎の知遇を得る」という一行があるばかりで、詳細は不明だ。

吉岡実は福永武彦の名をただ一度、挙げている。《安藤元雄詩集〔現代詩文庫79〕》(思潮社、1983年4月1日)の裏表紙に掲載された無題の文章である。全文を引く。

 古本屋の雑多なる堆積の闇から、私は一冊の薄い本を、光のなかへ抽き出し、慰撫する。まだ真新しい、それは安藤元雄の処女詩集《秋の鎮魂》であった。福永武彦の寄せた〈序〉の言葉がこの詩人の思念の本質を、的確に捉えているように思われる。――風景が彼の内部に沈んで来ると、そこで意識の物たちは埃〔っ→つ〕ぽい現実を捨象し〔(ナシ)→て〕、暗い澱んだ瘴気を漂わせ始める――。清澄で内省的なこの詩人は、永い時間をかけた、《船と その歌》を、一過程としつつ、やがて成熟した、作品《水の中の歳月》を創り上げた。

《秋の鎮魂》は1957年の、《船と その歌》は1972年の、《水の中の歳月》は1980年の刊行。ここで思い出されるのは、安藤元雄が吉岡について語った〈インタビュー・詩作について〉である。

 この詩集〔《船と その歌》〕の反響はだいぶありましたか。
 ――これはありました。それも書評やなんかではない形であったみたいです。〔……〕第一詩集の『秋の鎮魂』も、僕はまさかそこまでと思わなかったんですけど、吉岡実さんがね、自分で買って読んでてくれてた。僕は吉岡さんには当時あげなかったと思うんです。というのは吉岡さんていうのは随分遅くスタートした詩人ですし、堀辰雄とかそっちの系統でもなかったから。僕のあげるリストに入っていなかったんです。そしたら吉岡実さんは、なんと古本屋で見つけたら面白そうだからというので、買って読んでくれてた。〔……〕(《〔前橋文学館特別企画展 七回萩原朔太郎賞受賞者展覧会図録〕安藤元雄――『秋の鎮魂』から『めぐりの歌』まで》(萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち 前橋文学館、2000年3月4日、一五ページ)

安藤によれば、吉岡は「堀辰雄―福永武彦―安藤元雄」という系統ではないということになる。たしかに後輩の著書に序を寄せるような間柄を系統と言うなら、吉岡実は誰の系統でもなかった。ここで、1963年までの堀、福永、安藤の著作活動を整理しておこう。堀は1953(昭和28)年に48歳で病歿しており、《堀辰雄全集〔全7巻〕》(新潮社、1954〜57)の編纂には福永も加わっている。福永武彦(1918〜79)は《ボオドレエルの世界》(1947)、《塔》(1948)、詩集《ある青春》(同)、《風土〔第二部省略版〕》(1952)、《草の花》(1954)、《冥府》(同)、《冥府・深淵》(1956)、《愛の試み》(同)、《風土〔完全版〕》(1957)、《完全犯罪》(同)、《心の中を流れる河》(1958)、《愛の試み愛の終り》(同)、《世界の終り》(1959)、《廃市》(1960)、《ゴーギャンの世界》(1961)、《告別》(1962)、と多くの著書、とりわけ小説(集)がある。安藤元雄(1934〜)は《秋の鎮魂》(1957)。ちなみに吉岡実の著書は《昏睡季節》(1940)、《液体》(1941)、《静物》(1955)、《僧侶》(1958)、《魚藍》(1959)、《吉岡實詩集》(同)、《紡錘形》(1962)。ところで福永の盟友・中村真一郎について、吉岡は〈挨拶〔高見順賞受賞〕〉で次のように書いている。

 作家の中村真一郎氏とは、面識がある程度であるが、他の選考委員はみんな、親しい友人であり、また個性ゆたかな詩人である。そのような人たちに、《サフラン摘み》が認められたことが、私にはなによりもうれしい。(《現代詩手帖》1977年2月号、一九一ページ)

福永武彦・中村真一郎・丸谷才一《深夜の散歩――ミステリの楽しみ〔ハヤカワ・ライブラリ〕》(早川書房、1963年8月31日)のジャケットを拡げたところ
福永武彦・中村真一郎・丸谷才一《深夜の散歩――ミステリの楽しみ〔ハヤカワ・ライブラリ〕》(早川書房、1963年8月31日)のジャケットを拡げたところ

福永、中村とともに《深夜の散歩――ミステリの楽しみ〔ハヤカワ・ライブラリ〕》(早川書房、1963年8月31日)を著した丸谷才一は、グレアム・グリーン(丸谷訳)《不良少年》(筑摩書房、1952)の装丁担当者の吉岡と知り、詩集《静物》を《秩序》同人にして友人である篠田一士(1927〜89)に送るように勧めている(《深夜の散歩》ジャケット裏表紙の写真、福永・中村・丸谷のスリーショットは〈吉岡実の装丁作品(4)〉で触れた丸谷の《エホバの顔を避けて》出版記念会のときのものか)。私は、丸谷が吉岡に詩集《紡錘形》を福永に送るように勧めたのではないかと推察した。そして、ここまで書いてきた状況と矛盾しないか検討してみたが、矛盾しないまでも、そうだと決めるだけの根拠に欠ける。また、後出《本》誌を発行した堀内達夫(吉岡は堀内の麥書房刊の伊藤信吉《ぎたる弾くひと――萩原朔太郎の音楽生活》を1971年に装丁している)の線は、年代からいって考えられない。だが、個人的なつきあいを忖度しても始まらないので、《紡錘形》の内部に福永との関係を探ってみた。読むのはもちろん献呈署名本である。この福永旧蔵本は、私が1989年5月に宮益坂の中村書店で購入してその年の暮れに吉岡さんと(最後に)お会いしたときに署名してもらった一本に較べて、極めて保存状態がよい美本で、書きこみ等は一切ない。

福永は詩人として出発しただけあって、小説家として一家を成したあとも詩を発表している。源高根《編年体・評伝福永武彦》(桜華書林、1982年5月25日〔改版2刷:1986年5月25日〕)の〈野心と挫折 昭和三七年(四四歳)〉には「長く詩作を断っていたが、昭和三六年二月に「仮面」を、三七年二月に「高みからの眺め」を、いずれも「註文によって」書いた。前者は「告別」の、後者は「幼年」の原型である」(同書、四〇ページ)とある。〈仮面〉と〈高みからの眺め〉は《福永武彦詩集》(全集第13巻)の〈死と転生 及びその他の詩〉に含まれる。〈その他の詩〉はこの2篇と〈北風のしるべする病院〉から成り、初出は次のようである。なお、福永がこのあと発表した詩は〈櫟の木に寄せて〉があるばかりだ。

 〈仮面〉――《風景》1961年4月号
 〈高みからの眺め〉――《文藝》1962年5月号
 〈北風のしるべする病院〉――《本》(第1巻第2号)1964年3月

吉岡がそのころ同じ雑誌に寄せた詩に、いずれも《紡錘形》に収められた次の2篇がある。

 〈鎮魂歌〉(D・15)――《風景》1961年2月号
 〈沼・秋の絵〉(D・21)――《文藝》1962年3月号

同じ雑誌の同じ号に福永の詩と吉岡の詩が載ったことは、1963年の時点では一度もなかったわけだ。のちに、福永最後の詩篇〈櫟の木に寄せて〉と吉岡の〈悪趣味な内面の秋の旅〉(G・31)が《文藝》1975年11月号に載り、二人の詩が雑誌の同じ号を飾ることになった。だが、ここで注目したいのはそれらではなく、〈仮面〉である。全行を引く。
仮面をかぶつた奴らが輪になつて踊り出すと、
坐つた奴らは溢れるやうな太鼓の音を早く、強く、
単調に、密林の腐蝕土の上に送り出す、
その音は火山の轟きのやうに地を舐めて走る、
すると夜が招きよせられる、この合図と共に、
葉群は恐怖に首をうなだれ、蔓草は自らを包み、
鳥はもう歌はない、小さな巣の中に身をちぢめる、
獣はもう出歩かない、牙ををさめ夜に化身する、
生きとし生ける者は悪念と呪詛との悪夢におびえる。
奴等はさまざまの仮面の中に素顔をかくし、
痙摯する両手は太鼓を叩き、燃える口は熱い息を吐き、
ひよろ長い両脚は不気味な踊りを踊り抜く、
奴らはもうやめられぬ、この太鼓の皮が裂けるまで、
この脚が二つに折れ、死が奴らに乗り移るまで、
ああ もう時間さへ止らない、仮面の中の顔が次第に死ぬと、
ゆらめく焔、飛びちる火花、めまぐるしい廻転が
赤と白との隈のひずみに新しい生気を吹き込む。
その時もし見えない手が奴らの仮面を引剥がすなら、
奴らは互ひに見るだらう、太古からのただ一つの顔、あなたを。

《紡錘形》の〈首長族の病気〉(D・11。初出は1959年11月の《鰐》4号)を思わずにはいられない作品だが、福永が初出を読んだか不明である。こうは考えられないだろうか。雑誌《風景》(おそらく毎号送られてくる)で福永の〈仮面〉を読んだ吉岡は、それまでの小説家=福永武彦という像に詩人=福永の要素を加えた、と(1948年刊行の《マチネ・ポエティク詩集》などの共著はあったが、処女詩集《ある青春》を含む福永の全詩篇を収めた《福永武彦詩集》が麥書房から最初に刊行されるのは1966年5月で、1963年当時、福永の詩人としての印象は薄かったと思われる)。1960年代、福永は筑摩書房の〔古典日本文学全集〕で〈古代歌謡〉(古事記歌謡、日本書紀歌謡、琴歌譜、神楽歌、催馬楽、風俗歌)や〈お伽草子〉(文正草子、浦島太郎、福冨長者物語)を訳しているが、著書ではないし、吉岡が装丁を手掛けているわけでもない(写真参照)。初めに言及した、著者と出版者の人間という山口誓子の場合と同様の関係は想定できないようだ。

福永武彦訳〈古代歌謡〉を収めた《古事記・風土記・日本霊異記・古代歌謡〔古典日本文学全集1〕》(筑摩書房、1960年5月4日)の表紙〔装丁:庫田叕〕
福永武彦訳〈古代歌謡〉を収めた《古事記・風土記・日本霊異記・古代歌謡〔古典日本文学全集1〕》(筑摩書房、1960年5月4日)の表紙〔装丁:庫田叕〕

最後に吉岡実と福永武彦の日記と冒頭の献呈署名本に触れておこう。私はかつて〈編集後記 110(2011年12月31日更新時)〉〈編集後記 63(2008年1月31日更新時)〉にこう書いた。

1945年9月1日〜12月31日、1946年1月3日〜6月9日、1947年6月18日〜7月31日の日記を収めた《福永武彦 戦後日記》(新潮社、2011年10月30日)が出た。吉岡実〈日記 一九四六年〉(《るしおる》5号、1990年1月31日・6号、1990年5月31日)は1946年1月1日から4月8日までの日記だから、併せて読むと興味深い。1946年3月20日の記述――「三月二十日 曇、水曜/やや朝寝をし、八時発列車にて加藤と共に上野駅を立つ。着席するを得。追分駅にて中村と落合ひ若菜屋にて閑談。信州の早春は始めてなり。夕食前堀〔辰雄〕氏を訪ふ。夜種々の物語を若菜屋のこたつにあたりつつ為す」(福永武彦)。「三月二十日 坪田譲治先生の話を聞く。文筆で暮せるようになったのは四十歳を越してからという。あわてずゆっくり作品を書いてゆきたいと思う」(吉岡実)。《風土》(1952)も《静物》(1955)もまだ誕生していないこのとき、福永は世田谷・九品仏の〔伯父の〕秋吉利雄家に、吉岡は兄の吉岡長夫家(大田・池上か)に仮寓し、それぞれ放送局〔社団法人日本放送協会〕と出版社〔香柏書房〕に勤務していた。

古書落穂舎が《日本の古本屋》に吉岡実の詩集《紡錘形》を出品している。なんと「福永武彦宛献呈署名」入りである。家から近いので見に行きたいところだが、通信販売専門店なので手に取れないのが残念だ。目録に曰く「紡錘形 詩集/吉岡 實、草蝉舎、昭37/限定400部〈福永武彦宛献呈署名〉初版函/古書落穂舎  95,000円」。福永は筑摩書房から1960年に《古典日本文学全集〔第1巻〕》の〈古代歌謡〉を、翌年に《同〔第18巻〕》の〈お伽草子〉3篇を訳している(装丁は庫田叕)。《新選現代日本文学全集〔第32巻〕》(1960、装丁は恩地孝四郎・恩地邦郎)には短篇〈世界の終り〉を収録しているが、単独の著書はないから、吉岡とは小説家と詩人の関係だろう。〔映画〕《廃市》(1984)を撮った大林宣彦さんから、ともに成城に住んでいながら、敬愛する福永とはついに会わなかった、と成城のご自宅でうかがったことがある。吉岡さんに、福永と面識があったかは訊きもらした(福永武彦が活字のうえで吉岡実に触れたことはない)。

持続する関心といえば聞こえはいいが、考えることにさしたる進展が見られないのは残念だ。機会があれば、昭和を代表するこれら二人の詩人と小説家のことを改めて考えてみたい。

〔2017年3月31日追記〕
福永武彦は1962年5月、詩〈高みからの眺め〉を《文藝》に発表しているが、8月と10月には同誌に鴎外論を分載している(〈鴎外、その野心〉と〈鴎外、その挫折〉)。これは、乃木希典の殉死が漱石の《こゝろ》に与えた影響を論じた丸谷才一の〈徴兵忌避者としての夏目漱石〉と好一対を成す《灰燼》論でもあるのだが、その末尾に

〔……〕鴎外の野心が高まるにつれて、「灰燼」は二十世紀文学の新しい道である意識下の世界を描かなければならなくなり、それは既に彼のそれまでの文学の範疇からはみ出したところに位置していた。〔……〕そして鴎外は、どのような形ででも、自己の深層を語ることに苦痛を見出すような人間だったし、「人間のすることの動機は縦横に交錯して伸びるサフランの葉の如く容易には自分にも分らない。」(「サフラン」)と言うように、単純明晰な形に還元して、心理よりは行為を表現することを好んでいた。〔……〕顕微鏡下に自分の「醜悪の心」をじっと見詰めることと、敢てそれをスケッチして人に見せることとは別の物だった。ヨーロッパからの贈り物は、一将軍夫妻の死という偶然の事件でもろくも取り返され、あとに「石見人」としての森林太郎のみが残った。/〔……〕彼の現代小説は、ヨーロッパの小説の形式を学んで東洋人の心境で書かれたものであり、それが「あそび」である限りは何でも書けるし何を書いてもよかったが、人の心の「暗黒の堺」を描くためには、小説家としての立場よりも人間としての立場を固執しすぎたように思われる。しかしそこを貫いてこそ、彼は人間の真実に達し得ただろうに。(《鴎外・漱石・龍之介――意中の文士たち[上]〔講談社文芸文庫〕》講談社、1994年7月10日、五三〜五四ページ)

とある。小説家としてこう書いた以上、福永が「人の心の「暗黒の堺」を描く」ことを目指したのは必然であり(たとえば《夜の三部作》を見よ)、小説における福永の姿勢は詩における同時期の吉岡の姿勢とも重なる(たとえば《僧侶》を見よ)。残念ながら、吉岡が福永の鴎外論に触れた形跡は見あたらないが、ともに「二十世紀文学の新しい道である意識下の世界を描」くことを自らに課した小説家と詩人が、冒頭の詩集《紡錘形》を鎹[かすがい]のごとくにして交錯したと見るのは、はたして私の僻目だろうか。


*先輩=吉岡実が竹中郁(1904〜82)に贈った献呈署名入りの《紡錘形》(矢野書房の出品)には年月日が記されていない。なお、竹中郁は吉岡の散文には登場しないが、《鑑賞現代俳句全集〔第10巻〕戦後俳人集T》(立風書房、1981、月報IX)の飯田龍太・大岡信・高柳重信との連載座談会H〈現代俳句を語る〉で吉岡は「高屋窓秋というのは詩を読んでいなかったのかしら。たとえば安西冬衞だとか……。〔……〕ほかのそういう影響をひょっとしたら受けているんじゃないかな。ぼくはその作品〔「頭の中で白い夏野となつてゐる」〕は俳句として際立っているけど、詩の一行とした場合、竹中郁もあるし、安西冬衞もあるんだよ」(同書、三ページ)と発言している。


《アイデア idea》367号〈特集・日本オルタナ文学誌 1945-1969 戦後・活字・韻律〉と《アイデア idea》368号〈特集・日本オルタナ精神譜 1970-1994 否定形のブックデザイン〉のこと(2015年1月31日)

吉岡実の著書と編纂書、作品掲載誌、装丁作品の書影、そしてその書誌を含む画期的な冊子=印刷物が登場した。《アイデア idea》367号〈特集・日本オルタナ文学誌 1945-1969 戦後・活字・韻律〉(誠文堂新光社、2014年10月10日)と《アイデア idea》368号〈特集・日本オルタナ精神譜 1970-1994 否定形のブックデザイン〉(同、2014年12月10日)である。どちらも構成は郡淳一郎(文の一部も)。郡さんの探究対象の核には稲垣足穂があるが、書 肆ユリイカおよび伊達得夫の業績に関連して、それ以降(およびそれ以前)の吉岡実の文業と装丁作品への目配りにもおさおさ怠りない。幸いなことに《吉岡実 書誌》に掲載漏れの書籍はなかったが、内田明による活字鑑定に相当する情報は、私の書誌に欠落しているものだ。〈日本オルタナ文学誌〉巻頭の〈活字サイズ 一覧〉に付せられた内田氏の文章にこうある。〔 〕内は小林の補記。

 昭和4年、五号=10.5ptの8分の1となる「トタン罫」サイズを大きさの基準として採用し、四号―一号の系統を五号の1・ 25倍と2・5倍になるよう調整した「新四号」「新一号」と称する「深宮式新活字」が売り出されたことに追随する活字会社もあり、最終的に昭和37年 〔《紡錘形》刊行の年である〕、日本工業規格としてまとめられた「活字の基準寸法」は、アメリカン・ポイントを活字の拠り所として採用しつつ、この「トタ ン罫の整数倍」によって初号から八号までの号数制活字サイズを定義した。
〔図版略〕
敗戦前の活字は、基本的に、原寸直彫で作られた型を複製して作られたものだった。時期や大きさが違えば異なる書体となるので、「築地後期五号」「築地ポイント系五号」や「秀英電胎9ポ」といった呼び方をする。
 昭和30年〔《静物》刊行の年である〕代頃から、ベントン母型彫刻機によって造られた活字が供給されるようになっていくが、本文サイズと中見出しサイズ では異なるパターン原図を使用していたようである(大見出しは原寸直彫系の書体が生き残っていた)。明らかに異なる書風と認められる場合、「岩田ベントン 小型系」「岩田ベントン中型系」といった呼び方をする。更に後の「パンチ母型」と呼ぶ製法の活字に「ベントン系」から書風の変化が認められる場合、「岩田 パンチ系」といった呼び方をする。(同誌、四〜五ページ)
これを踏まえて川本要作成の書誌を読むと、理解しやすい。ここで〈日本オルタナ文学誌〉掲載の吉岡実の著書と装丁作品(必ずしも吉岡が本文組を指定したと は限らない)の活字を抄してみよう。末尾の( )内の数字は書誌の本誌掲載ページを表す。リンクは本サイトの《吉岡実書誌》と《〈吉岡実〉の「本」》の該 当する書籍に張ってある。

ここからわかるのは、書肆ユリイカでは日活、思潮社では岩田と晃文堂、書肆山田も岩田と晃文堂、筑摩書房が晃文堂の活字を主に使用しているという傾 向だ。言うまでもないが、上記書籍の奥付には印刷所の名前は載っていても、使用活字のメーカー「日活」や「岩田」や「晃文堂」が表示されているわけではな い。例外は「精興社」書体が精興社、「凸版書体」が凸版印刷の開発した活字だということか。そうしたなかにあって、《吉岡実詩集》の奥付は注目に値する。印刷所以下の表示にこうあるからだ。当時はもちろん、現在でもここまで記載することは稀だろう。

印刷所―若葉印刷 製本―岩佐製本 製函所―永井製凾
判型―B5変形 二三〇×一四二ミリ
活字―本文・岩田母型九ポ明朝行間十二ポ全角アキ ノンブル・晃文堂六ポセンチュリイオールド
用紙―本文・神崎製紙ロストンカラー白九〇K
表紙・特種製紙マーメイドリップル厚口 見返・日清紡績NTケント
ブックデザイン―杉浦康平

ここから先は私の想像だが、本文に「岩田母型九ポ明朝」を選択したのはブックデザイナーの杉浦だろう。それと同様に、この表示を発案したのは杉浦で あり、出版者の小田久郎がそれに賛同し、著者の吉岡が同意した、といったところではないだろうか。印刷所を選ぶことは(とりわけ活版印刷の場合)、その社 が常備する活字=書体を使用することを意味する。実際には版元の思潮社と取引のある印刷所の活字を使用することになるわけだが、本文活字の選択は組版指定 者(《吉岡実詩集》では杉浦)の役割である。そう考えると、吉岡実の私家版詩集(組版指定は吉岡本人)の印刷所、すなわち《昏睡季節》の鳳林堂、《液體》 の大日本印刷株式会社、《静物》の中央製本印刷株式会社、《紡錘形》の株式会社精興社の4社が吉岡の選んだ印刷所ということになる(《僧侶》の中央精版印 刷株式会社をこれに加えていいかもしれない)。鳳林堂と吉岡の関係は不詳で(それまで勤めていた南山堂との線も考えられるが、未調査)、大日本印刷は当時 の勤務先の西村書店と取引関係があった(担当者も同じ)。中央製本印刷も当時の勤務先である筑摩書房の取引先、すなわち「自分〔吉岡〕の勤めてゐた出版社 に出入りしてゐた中どころの印刷所」(入沢康夫〈国語改革と私〉、丸谷才一編《国語改革を批判する〔日本語の世界16〕》、中央公論社、1983、二二八 ページ)。精興社も筑摩書房の取引先の印刷所。同社の組版料金はとくに高いわけではないようだが、《僧侶》の中央精版印刷に較べて安いということはないだ ろう。精興社の活字や版面の美しさは、吉岡実の詩集中随一だと言ってよい。
余談だが、城戸朱理によれば、吉岡実は《ムーンドロップ》の表紙の資材において、前著《薬玉》では部分的にしか使わなかった高級な資材を全面的に使用した という(《吉岡実の肖像》ジャプラン、2004年4月15日、五四〜五五ページを参照)。《紡錘形》はフランス装だから、資材に凝る代わりに、印刷所=使 用活字において気を吐いた形だ。同様のことは《サフラン摘み》(1976)、《夏の宴》(1979)でも言えて、ここでは片山健の鉛筆画に西脇順三郎の水 彩画、という対比になっている。吉岡実は受賞詩集の次の著書の造本・装丁に凝るのが常であった。
日活やモトヤ、岩田、晃文堂といった活字メーカー、凸版印刷、精興社といった印刷会社の書体の特徴について述べることは、今の私には手に余る。それらと吉岡実の選択眼については、なおさらである。今後の課題としたい。かわりに林哲夫さんの示唆に富んだ洞察を掲げよう。〈昏睡季節〉の 一節である。なお同文には、鳳林堂についての考証があるほか、私が提供した〈蜾蠃鈔〉は「コピーの版面なので断定はできないが、活字はけっこう荒れてい る。下の歌〔夜の蛾のめぐる燈りのひとところ/めくりし札はスぺードの女王〕には「の」が四個使われているなかに一つだけ別種の活字が混じっている。小さ な印刷所では有り勝ちなこと」という指摘がある。林さんには、ぜひ同文を写真・図版入りで一書にまとめていただきたいものである。

〔詩歌集『昏睡季節』の本文の〕書体は東京築地活版製造所の9ポイント明朝体(明治44年頃)とほぼ同一のようだ。ひらがなで言 えば「ふ」の頭の点が右にぐっとエビ反ってSカーブがへしゃげた感じになっているのが特徴的。秀英舎〜精興社の「ふ」はおおよそタテのセンターよりわずか に左寄りでSがもっと背筋が伸びたふうになっている。細かいことだが、これは古い味のある書体ではないだろうか。吉岡の好みが反映されているのか、単なる 偶然か。


隔月刊行の《アイデア idea》の次号、368号は〈日本オルタナ精神譜〉である。354号の〈特集・日本オルタナ出版史 1923-1945 ほんとうに美しい本〉(誠文堂新光社、2012年8月10日)に始まる日本オルタナ三部作は、ここに完結した。前号と同様に、吉岡実の著書、編纂書、装丁 作品の使用活字を見ていこう。

中村鐵太郎による〈吉岡実:筑摩書房〉の〔小伝〕は「何 次にもなる太宰治のほか、一葉、龍之介、賢治、順三郎、朔太郎全集などは「全集の筑摩」の一時代の顔を作ったといえる。組版の妙と、諧謔を交えた品格を見 せる装幀はつねに変わらない。土方巽『病める舞姫』は、装幀者のためにも記憶さるべき書物となった」(同誌、一一ページ)と結ばれている。ここに《病める 舞姫》の書誌を掲げて、三部作の専心周到な調査に感嘆しようではないか。だがそのまえに、再録に値する〈凡例〉を引いておこう。――「書誌情報は、書影を 掲載した出版物原本(以下「原本」と呼ぶ)の主に奥付から採録し、編者・訳者・著者、〈雑誌特集名〉、『標題・副題』、《叢書名》、発行所、版数(これを 記さない原本は初版)・発行年月日、制作スタッフ(発行者・編集者・装幀者・印刷者・製本者など)、資材、判型(原本の実測値から推定)、発行部数、定価 (消費税導入後は本体価格)、本文活字(サイズ・書体)、所蔵者の順に記載した」(同誌、〔八ページ〕)。

507| 土方巽 『病める舞姫』白水社、1983.3.10、発行者:中森季雄、装幀:吉岡実、印刷:精興社、印刷者:青木勇、製本:黒岩製本、菊判、2700円、活字:9ポ・精興社(同前、一七ページ)

吉岡実の詩書と装丁作品は、これら日本オルタナ三部作の新たなネットワークのもとで捉えなおされた。本のジャケットを剥いで背文字が見えるように棚に排した書影の壮挙は、使用活字の鑑定を記した書誌とともに、長く讃えられよう。三部作は、座右に置くべき工具書である。


詩篇〈模写――或はクートの絵から〉評釈(2014年12月31日〔2016年10月31日追記〕)

〈下田八郎の〈吉岡実 論〉と〈模写〉の初出〉で書いたように、詩篇〈模 写――或はクートの絵から〉(E・4)の初出は未詳だが、1963年末までに発表されたと考えられる。今回は〈模写〉の評釈を通じて 作品内部から制作年代を考察してみたい。吉岡実は《詩と批評》6号(1966年10月)の〈アンケート〉の各人への共通の質問

 1 近ごろ感動したもの(種類を問わない)
 2 私のこれからの仕事の予定
 3 私がこのごろ好きな詩人(古今東西を問わない)

に次のように答えている(同誌、九五ページ)。

 1 映画「サンダーボール〔策→作〕戦」の海底における格闘のシーン。高浜虚子の句集。
 2 「吉岡実詩集」(新詩集「静かな家」を含む全詩集)を出すこと。
 3 白石かずこ 高橋睦郎

つまり、1966年10月以前に《吉岡実詩集》(思潮社、1967年10月1日)(*1)の企画が進行しており、同書には当時未刊の新詩集《静かな家》(思潮社、1968年7月23日)を収めることも決まっていたわけだ。ここで《静かな家》収録の全16篇を発表順に並べてみよう。

詩篇標題(詩集番号・掲 載順)     初出《誌名》〔発行所名〕 掲載年月(号)

無罪・有罪(E・2)    《現代詩》〔飯塚書店〕 1959年3月号
  ――
劇のためのト書の試み(E・1)    《鰐》〔鰐の会〕 1962年9月
  ――
馬・春の絵(E・5)    《文藝》〔河出書房新社〕 1963年1月号
珈琲(E・3)    《美術手帖》〔美術出版社〕    1963年2月号
模写――或はクートの絵から(E・4)    未詳    1963年12月までに発表か
  ――
滞在(E・7)    《現代詩手帖》〔思潮社〕    1964年4月号
聖母頌(E・6)    《郵政》〔郵政弘済会〕    1964年7月号
   ――
桃――或はヴィクトリー(E・8)    《現代詩手帖》〔思潮社〕 1965年3月号
やさしい放火魔(E・9)    《無限》〔政治公論社〕 1965年11月
  ――
春のオーロラ(E・10)    《風景》〔悠々会〕 1966年3月号
静かな家(E・16)    《現代詩手帖》〔思潮社〕 1966年4月号
スープはさめる(E・11)    《詩と批評》〔昭森社〕 1966年5月号
ヒラメ(E・13)    《凶区》〔バッテン+暴走グループ〕 1966年10月
孤独なオートバイ(E・14)    《三田文学》〔三田文学会〕 1966年11月号
  ――
内的な恋唄(E・12)    《詩と批評》〔昭森社〕 1967年1月号
恋する絵(E・15)    《現代詩手帖》〔思潮社〕 1967年2月号

〈無罪・有罪〉は発表こそ早いが、作風が違うと見做されたのか、《紡錘形》(1962)に収録されずに置かれた旧作。詩集《静かな家》 の創作期間も 「1962―66」と記されている。〈劇のためのト書の試み〉は《鰐》終刊10号に掲載された、「伊達得夫の圏内」を離れた最初の作品。本篇を巻頭に据え たのは、吉岡に期するところあってのことだろう。作品数は1963年が3篇、64年が2篇、65年も2篇と手探り状態が続いたが、同年の〈やさしい放火 魔〉――吉岡は永田耕衣に宛てた書簡で「「無限」十九号に発表した《やさしい放火魔》はちかごろ好きな詩篇です。新刊ゆえ店頭でいちべついただければ幸甚 です。〔……〕十月十七日」(〈田荷軒愛語抄〉、《琴座》192号、1966年1月、二一ページ)と自信のほどを覗かせている――を書いてふっきれたので あろう、翌1966年には5篇が発表されている(1967年発表の2篇も66年末までには脱稿していよう)。前掲〈アンケート〉に「「吉岡実詩集」(新詩 集「静かな家」を含む全詩集)を出すこと」と書いた時点で、少なくとも〈ヒラメ〉までの13篇は書きあげていたはずだ。あるいは「ある小さな画廊で、同席 した高橋新吉にほめられ、勇気づけられる」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984、二三三ページ)と自筆の〈年譜〉にある〈孤独なオートバ イ〉もすでに書きあげていたか。〈内的な恋唄〉は創刊2年めの《詩と批評》に、〈恋する絵〉は例年春に作品を寄せている《現代詩手帖》に発表されており、 1966年秋には新詩集《静かな家》の構想が固まっていたに違いない(吉岡の心性を考えると、〈孤独なオートバイ〉の完成をもって固まった、と見たい)。


《静かな家》で特徴的な図形は円である。一体に吉岡はあるイメージ(図形)が気に入ると執拗なまでにそれを詩に使う傾向があり、《神秘的な時代の詩》における矢印が代表例だ。矢印ほど注目を浴びていないが、それに先立って《静かな家》の円がある。詩篇の発表順に、円の登場する詩句を書きぬいてみよう。(円のヴァリエーションとしての筒(*2)があり、泡(*3)がある。映画《007 サンダーボール作戦》の海底での格闘は、泡を見せるための恰好の設定だった。)

無罪・有罪(E・2)
(なし)

劇のためのト書の試み(E・1)
(なし)

馬・春の絵(E・5)
・円柱球の馬を見ている
・かつてわたしが光で見た円柱球の馬なのか

珈琲(E・3)
(なし)

模写――或はクートの絵から(E・4)
・軍艦は全部円を廻る
 ときには円を割る

滞在(E・7)
・円が回避する円

聖母頌(E・6)
(なし)

桃――或はヴィクトリー(E・8)
(なし)

やさしい放火魔(E・9)
・火縄の円

春のオーロラ(E・10)
・それは大きな円の復活!

静かな家(E・16)
(なし)

スープはさめる(E・11)
・存在する円をくぐりぬける

ヒラメ(E・13)
(なし)ただし「矢印の赤に沿って」の詩句あり

孤独なオートバイ(E・14)
・円形のコンクリートの床?
・同心円が猛然と回転する
・円の癒着性!
・円の迷路へ
・同心円の反復から
 停止する半円の透明度

内的な恋唄(E・12)
・テーブルの円をまわり
「矢印」の詩句あり

恋する絵(E・15)
(なし)ただし「矢印の右往左往する」の詩句あり

ここでも〈孤独なオートバイ〉は特権的な位置を占めていて、《静かな家》での円の総ざらいをしているようだ。〈馬・春の絵〉の「円柱球 の馬」は立体 派[キュビスム]の絵画を暗示しているが、そのメカニカルな姿形は容易にオートバイに転化する。そこではサーキットの円とタイヤの円が同心円を成す。もっ とも、円は《静かな家》で初めて登場したイメージではない。たとえば前の詩集《紡錘形》の、〈模写〉とよく似た「ミロの絵から」という副題をもつ〈狩られ る女〉(D・18)に「ぼくの心に火の円を描く」があり、それは〈やさしい放火魔〉の「火縄の円」を想わせる。ついでだから書いておくが、〈○○あるいは /或は□□〉という標題をもつ吉岡実詩には〈模写〉のほかに次の5篇がある。なお、吉岡は詩句でも「或は」「あるいは」の両方を用いており、前期 (B〜G)は漢字を、後期(F〜K)はひらがなを主として使用したが、標題にもその傾向は現れている。

 巫女――あるいは省察(D・14)
 桃――或はヴィクトリー(E・8)
 ヒヤシンス或は水柱(G・3)
 サイレント・あるいは鮭(G・25)
 父・あるいは夏(H・12)

この標題だけを見ていると面白いことに気がつく。ここには3種類の表記のパターンがある。すなわち、

 (1)○○――あるいは/或は□□ と――でつなぐ
 (2)○○あるいは/或は□□ とベタでつなぐ
 (3)○○・あるいは/或は□□ と・でつなぐ

時系列による変化と取るべきだろうが、ここに〈馬・春の絵〉(E・5)を置いてみると、それは(3)の〈馬・あるいは春の絵〉の先駆形 ではなかったかと疑われる。ときに〈○・□の絵〉という詩は吉岡に2篇ある。ひとつは〈馬・春の絵〉、もうひとつは《紡錘形》の

 沼・秋の絵(D・21)

で、こちらも〈沼・あるいは秋の絵〉と読める。この際だから話題を拡げてしまえば、これら2篇に先立って

 夏の絵(B・9)
 冬の絵(C・6)

があり、吉岡は律儀にもB《静物》(1955)、C《僧侶》(1958)、D《紡錘形》(1962)、E《静かな家》(1968)と連 続する詩集に 一篇ずつ収めている(城戸朱理はその著書《吉岡実の肖像》の〈四季をめぐる絵〉に、これらを夏秋冬春の順に並べて再録した)。話をややこしくするようだ が、〈馬・春の絵〉のあとに発表された詩に〈春の絵〉(I・12)がある(初出は《讀賣新聞》1967年2月5日)。つまり、〈馬・春の絵〉と〈春の絵〉 は別物だという意識が吉岡にあったわけで、それは「馬=春の絵」ではなく「馬あるいは春の絵」と判断したからにほかならない。話題を〈○○あるいは/或は □□〉に戻そう。〈サイレント・あるいは鮭〉には「芦川羊子の演舞する〈サイレン鮭[じやけ]〉に寄せる」と詞書があって、この標題だけは地口めいている が、それ以外はみな

 巫女/省察
 桃/ヴィクトリー
 ヒヤシンス/水柱
 父/夏

すなわち、A/Bと明確な構造を示している。ここでA・Bはともに名詞だが、範疇が異なるため、読み手は快い混乱に陥る。これが巫女/ シャーマン、桃/栗では誰も驚かない。それらのなかでも〈模写――或はクートの絵から〉は異彩を放っている。

 模写/クートの絵から

は副題というよりも詞書に近く、クートの絵から模写した詩、の意に取れるからだ。ここで〈狩られる女〉(初出は《詩学》1961年5月 号)を読も う。例によって吉岡実詩の展開(とりわけ前後の詩句へのかかりぐあい)は難解である。幸いにも同詩は、Burton Watson編・佐藤紘彰訳の英訳詩抄《Lilac Garden: Poems of Minoru Yoshioka》(Chicago Review Press、1976)の〈From Spindle Form (1959‐62)〉に訳載されているので(同書、七〇ページ)、原文に続けて掲げる。

狩られる女――ミ ロの絵から(D・18)

偶然の配色の緑や黄のもやから
一人の女が生まれる
一本の紐を波うたせながら
ぼくの心に火の円を描く
その女の腰から左右に突きでる
棒の両端にとまる鳥
それはいつも子供のように哭く
すっかり肉付が了るまで
月に真横を見せ
挑戦する
闇の空に
野菜籠の下の海にもまた
容器が世界を変える
その内容が腐りかかった茶色から
黒くなる
小さな半島
スペインの内乱
歴史の霜の中の血
夏みかんを狩る
その蜜の脳髄のながれ
もしかしたら
ぼくは見すごしているかも知れぬ
驚愕にみちた砲身の地より
方向転換して
飛ぶ美しい婦人帽を
ふたたび太陽が正面に輝くならば

Hunted Woman
 from Miro's painting

Out of the haze of an accidental color scheme of greens and yellows
A woman is born
Making the wavy motion of a string
Draws a circle of fire in my heart
From the woman's hips, jutting out to left and right
A stick, on both ends of which birds are perched
They always cry like children
Until the modeling is completed
Turn their serious faces to the moon
And challenge
In the sky of darkness
And in the sea under a vegetable basket
A receptacle changes the world
Its contents turn from putrefying brown
To black
A small peninsula
A civil war in Spain
Blood in history's frost
Hunting summer tangerines
Flow of their honey brains
It's possible
I have overlooked
A beautiful ladies' hat
Which shifts direction
From the ground of gun barrels full of astonishments
And flies
If the sun again shines ahead

絵を描くという口実のもとに、吉岡は思う存分に色彩の乱舞を展開する。いかにもジョアン・ミロの油彩にありそうな図柄だが、具体的にこ の作品、と名 指しすることができない(強いて挙げれば〈アルルカンの謝肉祭〉あたりだろうか)。しかし、吉岡の詩句のスルスがミロの絵に見あたらないからといって嘆く には及ばない。「ミロの絵から」模写[、、]したものが〈狩られる女〉ではないのだ。狩られる女はミロの絵から登場するのではなく、「偶然の配色の緑や黄 のもやから[、、]」生まれる。吉岡の詩という画布には一人の女を出発点として、「その女の腰から[、、]左右に突きでる/棒の両端にとまる鳥」が描か れ、「その内容が腐りかかった茶色から[、、]/黒くなる/小さな半島/スペインの内乱/歴史の霜の中の血」と、あたかも「もや」から「霜」に変貌したよ うに、不可避的に進行する。だが、「夏みかんを狩る〔狩る主体は「ぼく」か「狩られる女」か、おそらくその両方であろう〕/その蜜の脳髄のながれ」が救済 のように顕ち現われる。あやうく呑みこまれそうになった「驚愕にみちた砲身の地より[、、]」「婦人帽」のある光輝く世界が訪れる。これが「驚愕にみちた 砲身の地から[、、]」でないのは、標題を含み4度登場する「から[、、]」を凌駕するものとして、渾身の身振りを示すためだ。ミロの絵に触発されて―― ミロの絵を典拠にして、ではない――開始された意識の流れは「夏みかん」によって救われた。

  夏蜜柑いづこも遠く思はるる    耕衣

これが「狩られる女/ミロの絵から」が到達した水準だった。では、その2年半後にはすでに書かれていたと目される「模写/クートの絵か ら」はどうか(詩句のあとのライナーは評者による)。

模写――或はクー トの絵から

沼の魚はすいすい泳ぐ    01
骨をからだ全体に張り出して    02
犬藻や中世の戦死者の髪の毛を    03
暗がりから 暗がりまでなびかせて    04
頭の上の尖った骨で光るのは?    05
もちろんくびられた女王の金髪だ    06
今晩だって砂浜へ大砲をすえたまま    07
中年の男が一人で戦争をはじめるだろう    08
日が出るまでに    09
その男はふとった幽霊になるだろう    10
首尾よく行けば    11
歴史的な楽園が見える?    12
干された蛸 干された蟹    13
網目と裂け目    14
雪のある陸地から    15
この軍艦の幾艘もつながれた島へくる    16
着飾った男と女のよりよい神秘の愛    17
わたしは祝祭してやりたいと思う    18
画家ならば美しい着物を    19
手足から胴まで棒のように    20
まきつけて    21
生命力が失われるまで立たせておく    22
昼より暗い空 或は蛙のとびまわる水草のなかへ    23
いま一歩の歩みが大切だ    24
死んだ少女の股までの百合の丈    25
赤粘土層のゆるやかな丘への駈け足    26
見ること 見えている中心は    27
不完全な燃焼の    28
ミルク・ゼリーと冷たい鉢    29
画家の高熱期も終り    30
わたしは現在をさびしい時代だと思う    31
秋から冬へかけて注意深く    32
軍艦は全部円を廻る    33
ときには円を割る    34
野菜園のある段畑へすすみ衝突して    35
くだかれたニンジン・キャベツ    36
わたしは走る・跳ねる見物人として    37
死んだ少年のむれ そのいたいたしい    38
美しいアスパラガス    39
画家は彼らのために涙をながすと思う    40
石に描かれた若い蛇の苦悩の肉体はいま    41
膿でなくなり拡がる平面    42
ときおりの雨にぬらされるだろう    43
まだ描かれない絵が 絵が所有する細い細い紐    44
テーブルの向うに山嶽 氷る甲虫の卵    45
わたしにそれらが見えない    46
真紅な色の持続をのぞんでいる    47

〈模写〉は1963年末までに発表されたと推定されるから、〈模写〉の異稿のようなところがある〈珈琲〉(《美術手帖》1963年2月 号)は、相前 後して発表された詩篇ということになる。手持ちの資料からはどちらが先に執筆されたか決めがたい。だが創作家たるもの、47行の詩を書いたあとで同種の テーマの10行の詩を書くものだろうか。1958年、189行の〈死児〉(C・19)と29行の〈喪服〉(C・15)が同じ7月に異なる雑誌に発表され た。〈喪服〉を掲載した《今日》が同人誌であることを勘案すれば、おそらく脱稿は〈喪服〉が先で、《ユリイカ》発表の〈死児〉はその後に書きあげられたと 考えられる。一体に創作家は新作を書くとき、まったく新しい一篇を書くのではない。それまでのすべての自作に、新たな一篇を書き、加えるのである。〈珈 琲〉→〈模写〉というのが執筆された順ならば、〈珈琲〉は〈模写〉の25〜31行めまで(【 】で括った詩句)を先取りしていよう。

珈琲

わたしは発見し【わたしは現在をさびしい時代だと思う】
答えるためにそこにいる
わたしは得意 ススキの茂みのなかで
わたしは聞くより 見る【見ること 見えている中心は】
半病人の少女の支那服のすそから【死んだ少女の股までの百合の丈】
がやき現われる血の石
わたしはそれにさわり叫ぶ
熱い珈琲を一杯【ミルク・ゼリーと冷たい鉢】
高い高い高射砲台へのぼる男【赤粘土層のゆるやかな丘への駈け足】
わたし以外にないと答える

一方で、本篇の冒頭「沼の魚はすいすい泳ぐ/骨をからだ全体に張り出して」から想起されるのは、〈馬・春の絵〉と対をなす〈沼・秋の 絵〉(D・ 21)である(初出は《文藝》1962年3月の復刊第一号)。吉岡は〈三つの想い出の詩〉に「「沼・秋の絵」は、美術雑誌で見た、シュルレアリスムの女流 画家レオノール・フィニの絵を題材にしたものだ。いってみれば、言葉で模写[、、]したようなものである。霊気の立ちこめる薄明の沼で、水浴している「わ がアフロディーテー」と、解して下さってもよい。「わたしはいつ愛撫できる?」と、思慕し、願望しているのだ」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、二〇二ペー ジ)と書いている(傍点は引用者)。ここはぜひ、典拠となったフィニの絵と詩を比較したい。

レオノール・フィニの油彩画〈終末〉(1949)
レオノール・フィニの油彩画〈終末〉(1949)

沼・秋の絵(D・21)

女がそこにひとりいる
乳房の下半分を
太藺や灯心草と同じように
沼へ沈め
陸地の動物のあらゆる嘴や蹄から
女のやさしい病気をかくして
微小なえびのひげに触れている
野蛮な深みに立ち
罰せられた岩棚で
わたしはいつ愛撫できる?
鋸をもつ魚の口
蟻のひと廻りする一メートル半径の馬の頭蓋
それが侮辱されて骨へ代るとき
わたしは否でも愛を認識できる
いつでも曖昧な人間の死がくりかえされ
水はうごく岸べから岸べへと
わたしの尿や血が悪化するまで
もし幻覚でなければ臨床的に
女はぬれた髪の毛をしぼられ
いっそう美しく空へ持ちあげられる
なんの歪みもなく
そこに数多く
死んだ猛禽類の羽毛が辷りつづける

「模写」をそのまま受けとって〈沼・秋の絵〉とフィニの〈終末〉(1949)を較べてみると、事は単純ではない。模写のための模写と見 えるものは、 想像力を発動する切っ掛けなのだ。絵筆が外界の対象物をなぞる時間内に、言語は別の回路をたどり、言葉による描写のつもりで読んでいるといつのまにか対象 の具体性は遠のき、限りなく箴言に近い吉岡の詩句に封じこめられている。「野蛮な深みに立ち/罰せられた岩棚で/わたしはいつ愛撫できる?」――風景や事 物が心的状況に結びつけられ、それが「まるで箴言的な言葉」(《土方巽頌》、筑摩書房、1987、二一四ページ)の定立として詩句と化すというのが構造的 な特徴である。詩篇はこう続く。「鋸をもつ魚の口/蟻のひと廻りする一メートル半径の馬の頭蓋/それが侮辱されて骨へ代るとき/わたしは否でも愛を認識で きる」――事物が時間の腐蝕で変化することを「侮辱」と受けとめ、それに対抗する別の行動が導きだされたとき、「わたしは否でも愛を認識できる」が詩篇の 要となった。詩句がなにごとかを定立せざるを得ない領域に押しあげられた恰好だが、事情は逆だろう。「愛を認識」するためには「それが侮辱されて骨へ代 る」必要があったのだ。吉岡の、図像を脳裡に結びやすい詩句と箴言的詩句の平衡と、そこに至る展開の妙は他の追随を許さない。後者は、この詩の場合、模写 なくしては生まれなかったものだが、前者をいくら積みあげていっても箴言的詩句には到達しない。両者の間には目も眩むような断裂が存在する。詩句は他者の 容喙を許さない共感覚の現場で生まれる。では〈模写〉は「クートの絵」を言葉で「模写」した作品なのか。ここでもう一度、文脈を尊重しながら詩篇をいくつ かのブロックに分けて読んでみよう。

模写――或はクートの絵から

沼の魚はすいすい泳ぐ
骨をからだ全体に張り出して
犬藻や中世の戦死者の髪の毛を
暗がりから 暗がりまでなびかせて

頭の上の尖った骨で光るのは?
もちろんくびられた女王の金髪だ

今晩だって砂浜へ大砲をすえたまま
中年の男が一人で戦争をはじめるだろう
日が出るまでに
その男はふとった幽霊になるだろう

首尾よく行けば
歴史的な楽園が見える?
干された蛸 干された蟹
網目と裂け目

雪のある陸地から
この軍艦の幾艘もつながれた島へくる
着飾った男と女のよりよい神秘の愛
わたしは祝祭してやりたいと思う

画家ならば美しい着物を
手足から胴まで棒のように
まきつけて
生命力が失われるまで立たせておく

昼より暗い空 或は蛙のとびまわる水草のなかへ
いま一歩の歩みが大切だ

死んだ少女の股までの百合の丈
赤粘土層のゆるやかな丘への駈け足

見ること 見えている中心は
不完全な燃焼の
ミルク・ゼリーと冷たい鉢

画家の高熱期も終り
わたしは現在をさびしい時代だと思う

秋から冬へかけて注意深く
軍艦は全部円を廻る
ときには円を割る

野菜園のある段畑へすすみ衝突して
くだかれたニンジン・キャベツ
わたしは走る・跳ねる見物人として

死んだ少年のむれ そのいたいたしい
美しいアスパラガス
画家は彼らのために涙をながすと思う

石に描かれた若い蛇の苦悩の肉体はいま
膿でなくなり拡がる平面
ときおりの雨にぬらされるだろう

まだ描かれない絵が 絵が所有する細い細い紐
テーブルの向うに山嶽 氷る甲虫の卵
わたしにそれらが見えない

真紅な色の持続をのぞんでいる

主として前半は4行を、後半は3行を中心にして、ときに2行を混ぜたブロック構成である。一体に吉岡は詩句の数をそろえて詩節を積みあ げていく作詩 法とは縁遠く、本篇の4行なり3行というのも意識的な操作とは思えない。それだけにブロックの最初に位置する詩句は、詩篇を駆動していく重要性を担ってい る。すなわち、23〜24行「昼より暗い空 或は蛙のとびまわる水草のなかへ/いま一歩の歩みが大切だ」こそ、〈狩られる女〉の11行め「闇の空に」と、 〈沼・秋の絵〉のフィニの油彩画、さらには〈珈琲〉全篇の勢いを借りて、吉岡が歩を進めた、要となる詩句といえる。それかあらぬか、この2行の前は22 行、後は23行とほぼ均衡する。それだけではない。前半22行の最初(「沼の魚は〔……〕なびかせて」)と最後(「画家ならば〔……〕立たせておく」)の ブロックは、配ったカードを回収するように、見事なまでの対比を見せる。だが、これとて計算ずくのものではあるまい。詩篇の半ばでギアを変えるために、ひ とまず仮の終熄を図った結果だと思われる。この中止状態が、後半23行の爆発的な展開を用意する。「見ること 見えている中心は」以下の3行は、凌辱され た少女の喩ではないか。それに対応する「死んだ少年のむれ そのいたいたしい」以下の3行は、陰茎を生殖のために使うことなく死んだ者たちへのレクイエム ではないか。年若い男性一般ととるか、戦地で散った弱年者ととるかは難しい処だが。それに続く、詩篇を締めくくる最後の7行をどう読むべきか。はじめの3 行は少年たちの野ざらしの姿のようでもあり、石版画の制作手順を書いたようでもある。厄介なのは次の3行の「紐」「山嶽」「卵」である。これらのイマー ジュは「まだ描かれない絵」だけあって、クートーのタブローよりもマグリットのそれ(たとえば〈アルンハイムの領地〉)を想わせる。しかも「わたしにそれ らが見えない」のである。そして最終行の「真紅な色の持続をのぞんでいる」がくる。本篇には色彩を表す語は「赤粘土層」があるだけだ。この「真紅」は強烈 である。クートーは色彩の使用に禁欲的で(たとえば、その棘だらけの人体にはおおむね暗い灰色や濃い緑色が施されている)、それだけに〈海岸のエロティコ マジー―Plage de l'Eroticomagie〉(1954)の真紅は著しい効果を上げているが、吉岡も最後の詩句でそれに倣ったものとみえる。

リュシアン・クートー〈海岸のエロティコマジー―Plage de l'Eroticomagie〉(1954)
リュシアン・クートー〈海岸のエロティコマジー―Plage de l'Eroticomagie〉(1954)

〈吉岡実と珈琲〉でも触れたよ うに、吉岡は唯一の詩論〈わたしの作詩法?〉に「シナ の少女」(詩論では「黒衣の」「満人の少女」)を登場させた。一方、珈琲と珈琲店は、煙草と並んで吉岡の最も親しんだ嗜好品であり、憩いの場所である。吉 岡にとってシナの少女と一杯の熱い珈琲は戦場にあって幻のように渇求された〈詩〉の別名ではなかったか。静かな家を出て、珈琲店に入る。一杯の熱い珈琲を 前にして、吾亦紅の暗紅色の穂を媒介にして、〈詩〉に入っていく。これでは珈琲店で詩を書くことなどできようはずがない。メビウスの輪をたどるようにして 共感覚の内側に入りこんでしまった者にとって、詩篇をもぎとってくることは、甘美な苦痛を伴った労役だったに違いない。それが「だからわたしは手帖を持ち 歩かない。喫茶店で、街角で、ふいに素晴しいと思える詩句なり意図うかが泛[うか]んでもわたしは書き留めたりしない。それは忘れるにまかせることにして いる。わたしにとって本当に必要であったら、それは再び現われるに違いないと信じている。わたしは詩を書く時は、家の中で机の上で書くべき姿勢で書く」 (〈わたしの作詩法?〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、八八ページ)、「喫茶店で原稿を読む人物をみるのさえ私は好きでない」 (〈白石かずこの詩〉、同前、一八九ページ)の真意だろう。「画家」とはおそらく、夢見られた詩人の姿である。

冒頭で述べたように、《静かな家》は単行詩集以前に当時の全詩集である《吉岡実詩集》に未刊詩集として収められた。そのためだろう、 《僧侶》以降の すべての詩集の巻末に付いている〈初出一覧〉を欠く。よって他の詩集よりも手間取ったが、16篇中15篇までは初出を特定できた(その成果は〈吉岡実詩集《静かな家》本文校異〉に記してある)。だが〈模写〉の初出は、探索を始めて四半世紀が経つというのに、未だに発見できない。同じ「初出未詳」という記載でも、《吉岡実全詩篇標題索引》(1995)では「〔1967年10月までに発表か〕」と及び腰で、《吉岡実詩集》に未刊詩集として収められた時点を下限としている。次の《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第2版〕》(2000)も記載内容は同じ。最新の《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第3版〕》(2012)で

262 模写―― 或はクートの絵から(もしゃ あるいはクートのえから)[191-194]
沼の魚はすいすい泳ぐ
47行▽初出未詳(長田弘は《現代詩手帖》1964年2月号の吉岡実論で本篇の3行を、おそらく初出から引用しているから、1963年12月までに発表さ れたか)▼E静かな家・4

と初めて下限が繰りあがった。ここ数年、さまざまな書誌やデータベースで1963年までの吉岡実詩を検索して〈模写〉の初出を追い求め ているのだが、その影さえ見えない。なんとも挑戦しがいのある、相手にとって不足のない課題といわねばならない。

〔2016年10月31日追記〕
吉岡実の詩篇〈模写――或はクートの絵から〉(E・4)の初出誌が判明した。1963年8月発行、金子兜太編集の俳句同人誌《海程》〔発行所の記載なし、発行者は出沢三太〕9号〔2巻9号〕がそれだ。ちなみに、初出形と定稿形(詩集《静かな家》収録)の間には、ひらがなの促音(「っ」/「つ」)の表記を除いて、詩句に異同はない。

(*1) 《吉岡実詩集》》(思潮社、1967)は《紡錘形》(草蝉舎、1962)の販売を手掛けた思潮社が叢書〔現代日本詩集〕(1962〜64)に吉岡実の巻をノミネートしながら実現に至らなかったあと(それがいつかは不明だが)、浮上した企画だと思われる。ブックデザインに起用された杉浦康平の仕事ぶりも相俟って、同書の制作は必ずしもスムーズには進捗しなかった。まず、吉岡の1967年3月1日の永田耕衣宛はがきに「全詩集も校了となり、四月には刊行されると思います。たのしみに待っていて下さい」とあり、さらに同年8月2日消印のはがきには「全詩集どうやら八月には出版されることと思います。いましばらくお待ちを」とあるものの、実際に刊行されたのは10月である(著者見本は9月末に出来)。

(*2) 筒の登場する詩句
・終りに孔のたくさんある鉄の筒の胴廻りを計る(馬・春の絵、E・5)
・肉が心でなく孔ある筒から出る(春のオーロラ、E・10)
・筒をぬける鳥(孤独なオートバイ、E・14)

(*3) 泡の登場する詩句
・水中の泡のなかで(桃、E・8)
・すでにない前方から泡がこぼれる(孤独なオートバイ、E・14)
・ささやく泡のながれのなかから(内的な恋唄、E・12)
・水中の泡の上昇するのを観察する(恋する絵、E・15)


吉岡実と鷲巣繁男(2014年11月30日)

吉岡実と鷲巣繁男については、詩篇〈蜜はなぜ黄色なのか?〉(F・12)の評釈である〈「恋する幽霊」〉の〈蜜/鷲巣漢詩と〈落雁〉〉と いう節で、鷲巣への追悼詩〈落雁〉(J・17)を引いて書いたことがある(〈吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈〉所収)。今回は、しばらくまえに石神井 書林から吉岡実の鷲巣繁男宛はがき・書簡を購入したので(決して安い買い物ではないが、吉岡実の「新作」が読めるとなれば無駄な出費ではない)、それを基 に吉岡実と鷲巣繁男のことを考えてみたい。まず、《石神井書林古書目録》93号(2014年7月)を掲げる。

548 吉岡實自筆書簡・葉書(鷲巣 繁男宛)    108,000

書簡1通、葉書3通、賀状(印刷)5通。書簡は便箋4枚封筒入(昭56年)、鷲巣繁男の句集『石胎』への礼状。「好 きな句をあげ ます」と17句を丁寧に写し、文末には「電話を下さればほかのことはけってでも会いに参ります」とある。敬意溢れる文面。葉書は昭和40年代、ペン書 8〜10行。『天の狼』を譲ってもらい「まぼろしの名句集」「ながく愛蔵いたします」、『夜の果てへの旅』への礼状には「貴兄が小説を書かれたらと考えま す。一言苦言を・・・」。印刷賀状には義父和田義恵の喪中葉書があり「小生にとっても精神的支柱」とある。(同目録、二四ページ)

次に、はがき・書簡の発信順に丸中数字を振って概要を示す。なお「/」は改行箇所、宛名の鷲巣の「巣」はすべて旧字、特記以外は縦書 き・縦組みである。

@1966年11月3日 官製はがき〔5 円はがきに5円切手貼付〕

 〔はがき表〕札幌市北三十條西四丁目/鷲巣繁男様
 〔はがき表〕東京都北区滝野川七ノ三/公団滝野川アパート四〇四/吉岡実
 (以上ペン書き〔インクはブルーブラック、以下同〕)



拝復 いままで暖かった東京の十一月も、今日三日から急に寒くなりました。さぞかし北海道は寒いでしょう。詩集「夜の果への旅」とおはがきいただ きました。たえず精進されている、貴兄には頭がさがります。貴兄の独自な詩形、めざす世界が、「覚書」をよむと、わかるような気がします。この「覚書」に は感動しました。美しい散文です。小生の思いつきで云えば、貴兄が小説を書かれたらと考えます。一言苦言を、整えすぎたフォルム故、一度、私詩的なものを 書いて、みたらと思います。敬具
 (以上ペン書き)

○1966年11月4日王子局消印

註:鷲巣の第六詩集《夜の果への旅》(詩苑社、1966)の〈覚書〉には 「〔……〕大正十二年関東大震災で、母は私と幼児を抱き、大きな梁を一身に支へつつ圧死した」(《定本 鷲巢繁男詩集〔普及版〕》第2刷、国文社、1976年4月15日、二三九ページ)とある。

A1967年8月28日消印 官製はがき〔7 円はがき〕

 〔はがき表〕札幌市北三十條西四丁目/鷲巣繁男様
 〔はがき表〕東京都北区滝野川七ノ三/公団アパート四〇四/吉岡実
 (以上ペン書き)



拝復、東京は残暑といえ、連日三十度をこす暑さで、参っています。《天の狼》無事落手いたしました。早速にお知らせすべきところ、詩作に追われ て、心ならずも失礼しました。まぼろしの名句集、本当にありがとう存じます。長く愛藏いたします。過勞のため、風邪をひかれたそうですが、おからだを大切 に、ご精進のほど。


 (以上ペン書き)

○1967年8月28日王子局消印

B1968年(申年)年賀 私製はが き〔7円切手貼付〕

 〔はがき表〕札幌市北三十条西四丁目/鷲巣繁男様
 (以上ペン書き)



あけまして
おめでとう
ございます

〔サルの線画を赤色刷り〕

吉岡 実・陽子
東京都北区滝野川七の三
公団滝野川アパート四〇四
 (以上活字印刷)

○1967年(月日不明)王子局消印

C1969年7月30日消印 官製は がき〔7円はがき〕

 〔はがき表〕札幌市北三〇西四/鷲巣繁男様
 〔はがき表〕東京都目黒区青葉台/〔……〕/吉岡実
 (以上ペン書き)



拝復、暑中お見舞ありがとう存じます。今年はあまり勉強せず、新居でなまけています。貴兄には相変ずお元気で仕事をしていることと思います。昨年の暮、引 越通知と新年の挨拶状をだしたのですが、戾ってきました。小生が番地を間違えたのでしょう。失礼いたしました。実
 (以上ペン書き)

○1969年7月30日渋谷局消印

D1970年(戌年)年賀 私製はが き〔7円切手貼付〕

 〔はがき表〕065/札幌市北三〇西四/鷲巣繁男様
 (以上ペン書き)



〔イヌの版画を橙色刷り〕

あけましておめでとうございます

1970年元旦

東京都目黒区青葉台〔……〕
〔……〕 電話〔……〕

吉岡実・陽子

 (以上活字印刷)

○1970年1月1日目黒局消印

E1972年(子年)年賀 私製はが き〔7円切手貼付〕

 〔はがき表〕札幌市北三十西四/鷲巣繁男様
 (以上ペン書き)



あけましておめでとうございます

1972年・元旦

〔ネズミの線画を赤色刷り〕

吉岡実・陽子
東京都目黒区青葉台〔……〕

 (以上横組みで活字印刷)

○1972年1月1日目黒局消印

F1973年(丑年)年賀 私製はが き〔10円切手貼付〕

 〔はがき表〕與野市円阿彌四五三/鷲巣繁男様
 (以上ペン書き)



あけましておめでとうございます

1973年・元旦

〔ウシの版画を橙色刷り〕

吉岡実・陽子
東京都目黒区青葉台〔……〕

 (以上横組みで活字印刷)

○1972年12月31日渋谷局消印

G1977年11月28日 私製はが き〔20円切手貼付〕

 〔はがき表〕大宮市大字中丸八幡三二〇ノ二/鷲巣繁男様
 (以上ペン書き)



初冬の候 みなさまにはご清栄のことと思います
さて この秋のこと 妻の父和田芳恵儀宿痾のため長逝いたしました
妻にとってはもとより 小生にとっても精神的支柱ともいうべき人の死を見送ったいま 心いぶせきものがあります
ついては 年末年始のご挨拶を欠かせて頂きます
           昭和五十二年十一月二十八日

吉岡 実
  陽子
〒153  東京都目黒区青葉台〔……〕

 (以上グレーの罫囲みで活字印刷)

○1977年12月9日目黒局消印

H1981年5月4日 封書 便箋4 枚〔60円切手貼付〕

 〔封筒表〕330/大宮市大字南中丸八幡/三二〇―二―一〇二/鷲巣繁男様
 〔封筒裏〕東京都目黒区青葉台〔……〕/吉岡実
 (以上ペン書き)



拝啓、お元気でお仕事に精進されていることと思います。〔……〕
さて、だいぶ以前に、句集『石胎』を頂きながら、お礼を申し上げるのが、遅れまして、本当に申訳ありません。二、三日前にやっと通読いたしました。少しば かり、好きな句を掲げます。

  冬 海界 をんなのあくび吾に向き    34    冬 海界[うなさか] をんなのあくび吾に向き*

  銅像の背に逢ひし一日の果    36    銅像の背[そびら]に逢ひし一日[ひとひ]の果*

  水飲めば 子を曳き 恋もすぎにしこと    40    水飲めば 子を曳き 恋もすぎにしこと*

  熊笹に粗き日輪走るのみ    43    熊笹に粗き日輪走るのみ*

  児を叱る汗の荒畑坂をなし    44    児を叱る汗の荒畑坂をなし*

  春祭遠し 芋虫よこたはり    46    春祭遠し 芋虫よこたはり

  ぞくぞくと鶏がよこぎる風邪の妻    55    ぞくぞくと鶏[とり]がよこぎる風邪の妻*

  馬の耳もつともふぶき 山に向く    58    馬の耳もつともふぶき 山に向く

  露西亜飴なぶる 禿山のみの冬    81    露西亜飴なぶる 禿山のみの冬

  あぢさゐは ゆふべかなしき光吸ふ    98    あぢさゐは ゆふべかなしき光吸ふ*

  がくもんを忌む母と喰ふトマトなり    103    がくもんを忌む母と喰ふトマトなり

  とうすみのつるみ久しく 花懈き    105    とうすみのつるみ久しく 花懈[たゆ]き*

  鰐乾けり 少女キャラメルをこぼして恥づ    107    鰐乾けり 少女キャラメルをこぼして恥づ*

  草の実や孤りの道祖神貌浅く    120    草の実や孤りの道祖神[くなど]貌[かほ]浅く

  百合咲けり 詩にいつはりの恋を誌す    145    百合咲けり 詩にいつはりの恋を誌[しる]す

  をんなからかふ旱の山の朝蟬に    152    をんなからかふ旱の山の朝蟬に

  夏葡萄の種舌に 養痾終るかな    158    夏葡萄の種舌に 養痾終るかな

小生はやはり、初期作品に心惹れました。大人も小生同様に、俳人でなく、詩をつくる人間になって、よかったなと思います。呵々。都心近くに出られた時、電 話を下されば、他のことは、抛っても、会いに参ります。

不一  

                  五月四日

吉岡実

 鷲巣繁男様
 (以上ペン書き)

○1981年5月(日付不明)渋谷局消印

鷲巣繁男が「吉岡實」に宛てた第一句集《石胎》(国文社、1981年2月20日)の見返しページと同書の表紙
鷲巣繁男が「吉岡實」に宛てた第一句集《石胎》(国文社、1981年2月20日)の見返し ページと同書の表紙

註:吉岡が引用した句のあとの青文字の数字と句は、鷲巣繁男舊句帖《石 胎》(国文社、1981年2月20日)の掲 載ノンブルと掲載句形で、常用漢字は新字に改めた。《石胎》は旧字表記を採用しているが、吉岡は常用漢字を新字に改め、読み仮名(ルビ)を省略している。 鷲巣繁男の第一句集《石胎》は、単行本に先立って640部限定の《定本 鷲巢繁男詩集》(国文社、1971年9月1日)巻末の〈残夢暦日〉に〈「舊句帖・石胎」抄〉として初めて収録された。よって、吉岡が選んだ句で〈抄〉(吉 岡は当然これを読んでいる)に収録されている九句には*印を付した(〈抄〉の表記は、ひらがな/漢字・ルビで単行本と異なる箇所があるが、煩雑になるので 触れない)。

吉岡実が鷲巣繁男に宛てたはがき3通、印刷賀状ほか5通、書簡1通(1966〜81)
吉岡実が鷲巣繁男に宛てたはがき3通、印刷賀状ほか5通、書簡1通(1966〜81)

Hの最後で触れているように、(漢詩と小説こそ書かなかったものの)吉岡は鷲巣とともに俳句・短歌・詩・散文と、現代詩人としては珍し い部類に入る 多形式への挑戦者だった(少なくとも吉岡には、鷲巣の荘重な宗教詩よりも初期の俳句のほうが近しく感じられたことだろう)。二人の共通の知友である高橋睦 郎がやはりこの型の詩人であることはまことに興味深い。吉岡と鷲巣はいつ互いの存在を知ったのだろうか。吉岡は鷲巣に関して随想を残していないので、神谷 光信《評伝 鷲巢繁男》(小沢書店、1998年12月25日)で二人の関係をたどると、「この頃(1966年頃)から、繁男は吉岡實、澁澤龍彦、加藤郁乎ら、東京の詩 人たちと文通を通じてかなり繋がりをつくっていた。〔……〕繁男は能書であり、手紙は美しい手で書かれていた。〔昭和四十二年(一九六七年)〕七月十八 日、横浜の継母エレナなほが危篤状態となり、繁男は札幌から急遽駆け付けた。〔……〕札幌に帰る前、繁男は昭森社を訪れ、文通して友情を育んでいた吉岡 實、安西均、加藤郁乎、高橋睦郎らとしばし交歓した」(同書、二三八〜二三九ページ)とあり、どうやらこのときが初対面のようだ。だが、〈蜜/鷲巣漢詩と 〈落雁〉〉で引用した1967年12月12日付の吉岡実書簡にもあるとおり、吉岡実と鷲巣繁男を精神的に引き合わせたのは高柳重信であり、その師匠の富澤 赤黄男だったと言うべきだろう。高柳重信は鷲巣の歌集《蝦夷のわかれ》(書肆 林檎屋、1974年1月17日、初版1000部)の書評〈切実に歌わざるを得ない心〉(初出は《日本読書新聞》1974年3月25日)をこう始めている。

 鷲巣繁男より少し遅れて同じ富沢赤黄男を師と仰いだ僕にとって、彼は久しい間、どこかへ行ってしまったまま、いつ までも帰ってこない兄貴であった。
  敗戦の翌年、開拓団の一員として北海道へ渡ったまま、ほとんど旧知の人と会うことなく、さまざまな境遇の変化の中で過ぎていった鷲巣繁男の三十年近い歳月 は、いずれにしても尋常一様のものではなかったはずであるが、その間のわずかな消息を伝えたのは、『悪胤』に始まり『末裔の旗』『蛮族の眼の下』『メタモ ルフオーシス』と、次々に出版されるたびに富沢赤黄男を通じて手に渡る詩集だけであった。(《高柳重信全集〔第三巻〕》立風書房、1985年8月8日、三 〇一ページ)

上掲のはがき・書簡を見ると、第一詩集《悪胤》(北方詩話会、1950)から第五詩集《神人序説》(湾の会、1961)あたりまでは刊 行時に吉岡に 献じていないようだ。ここで鷲巣繁男の詩業を総覧して吉岡実の詩と対比することができれば、それに越したことはないのだが、いまの私には手に余る。いや、 この先いくら時間をかけても「総覧する」ことなどできそうにない。そこで、鷲巣の初期の詩を引いてこの稿を終えたい。エピグラフにアポリネールの詩集《ア ルコール》(1913)から〈狩の角笛〉の2行(堀口大學訳では「思い出は狩の角笛/風のなかに音[ね]は消えてゆく」)を原文で引いた〈立葵〉である。 同詩は鷲巣が1967年、吉岡に贈った第三詩集《蠻族の眼の下》(さろるん書房、1954)に収められている。

立葵|鷲巣繁男

たそがれの中にぼくはぼくの子を見失ふ
たそがれの中にぼくの見しらぬ子が匂ふ。

ほのぼのと地熱の中の立葵。うすものの、
黙して言はぬむかしの顔の立葵。

ふみ迷つた路地でぼくは歴史の扉を叩く。
漏れる灯はだれの心も照らしはしない。

片隅で悪しき物語を選ぶひとよ。
ものずきな夢をはぐくむものよ。

祭ばやしはきこえてくるが、なんと荒々しいゆききの呼吸[いき]だ。
ぼくの綿菓子はなびかない。

たそがれの中にきみはきみの子を見失ふ。
たそがれの中にきみの見知らぬ子が匂ふ。

ほのぼのと地熱の上の立葵。ゆきてかへらぬ、
血の胸板の、日々朽ちてゆく立葵。

コロニイの杳いワルツが灯を飾る。
遠稲妻は夜をめぐる。

「ほのぼのと地熱の中の立葵」「ほのぼのと地熱の上の立葵」「コロニイの杳いワルツが灯を飾る」が俳句を埋めこんだようなのは、意図的 なものだろ う。吉岡がはがき@で要望した「私詩的なもの」が表れているように思う。私は、吉岡が〈田村隆一・断章〉で引いている田村の詩篇〈にぶい心〉を想起した。


吉岡実と珈琲(2014年10月31日〔2015年3月31日追記〕〔2020年4月30日追記〕)

  コーヒ店永遠に在り秋の雨  耕衣

吉岡実は〈《殺佛》三昧〉で「発表当時、たわいない句だと思っていたが、今度読んでみて、コーヒー好き、喫茶店好きの私にとって、大切な一句だと感じた」(《琴座》333号、1978年11月)と吐露している。同号の吉岡実〈永田耕衣句集《殺佛》愛吟句抄〉以来、この句は株を上げ、8年後の〈青葉台つうしん――永田耕衣宛書簡〔1986年10月26日付〕〉には

 拝復 このたびはお手紙と耕衣短冊を拝受して感激いたしました。亡き奥様の忌も明けられたとのこと、またなんと美しいご戒名を贈られたことでしょうか。最高のご供養だと思いました。さて、頂いた短冊には、不滅の名句「コーヒ店永遠に在り秋の雨」が染筆されており、喫茶店好きの小生には何よりのものです。かつての傘寿の会の折に頂いた短冊の筆勢が、一休的であるならば、これには白隠の風韻を感じます。早速に、李朝石仏の脇に置いて、日々眺めております。本当にありがとう存じます。今夜は久しぶりで、雨が降っています、秋の雨が。冬の訪れが早いとのこと。くれぐれもお身大切に。(同誌422号、1987年1月、二五ページ)

とあって、87年3月の《洗濯船》別冊第2号掲載の〈耕衣三十句〉において「コーヒ店永遠に在り秋の雨」の名声は定まった。耕衣のこの句を目にするたびに、吉岡の〈珈琲〉(E・3)を思い出す。

珈琲|吉岡実

わたしは発見し
答えるためにそこにいる
わたしは得意 ススキの茂みのなかで
わたしは聞くより 見る
半病人の少女の支那服のすそから
がやき現われる血の石
わたしはそれにさわり叫ぶ
熱い珈琲を一杯
高い高い高射砲台へのぼる男
わたし以外にないと答える

このわずか10行の詩にどれほどの謎が含まれているか、恐ろしいほどである。1941年から45年にかけて、吉岡は中国大陸を転戦していたが、〈わたしの作詩法?〉に当時のことが出てくる。これが詩論に登場するのは、吉岡実詩の核心のひとつだからである。「或る別の部落へ行った。〔……〕わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなければ、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、九三〜九四ページ)。「吾亦紅」がなんとも効いている。この「黒衣の」「満人の少女」が〈珈琲〉の「半病人の少女」にも、次の〈恋する絵〉(E・15)の

ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている
〔……〕
コルクの木のながい林の道を
雨傘さしたシナの母娘
美しい脚を四つたらして行く
下からまる見え

の「シナの少女」「シナの母娘」にも見えてくるのをいかんともしがたい。〈珈琲〉に戻れば、最初の2行――これらの詩句こそ喫茶店で想いうかび、忘れるままにまかせ、再び浮上して結局は原稿用紙に定着されたものではあるまいか――はとりわけ謎に充ちている。

 わたしは(○○を)発見し
 (□□と)答えるためにそこ(=△△)にいる

というふうに、空欄だらけなのだ。それを埋めるための材料は3行め以下にある。たとえば「わたしは(血の石を)発見し/(「珈琲を」と)答えるためにそこ(=ススキの茂みのなか)にいる」。しかしながら、このように答案を書いてもいっこうに謎が解けた気がしない。詩の高みに昇る「男」が「わたし」(10行中に5回も出てくる)かというもうひとつの謎とともに。

吉岡実と「珈琲」である。林哲夫《喫茶店の時代――あのときこんな店があった》(編集工房ノア、2002年2月22日)の〈青木堂〉の末尾に、吉岡の《うまやはし日記》巻頭の1938(昭和13)年8月31日の記載(「後輩二人と本郷三丁目の青木堂でコーヒーをのむ」)が引かれている。《喫茶店の時代》は第15回尾崎秀樹記念大衆文学研究賞を受賞、林さんはそれに関連して、日本出版学会関西部会で発表を行っている。その要旨に――『喫茶店の時代』という本が生まれる端緒は,私的な抜き書き・スクラップであった.読書の過程において注意を引かれた食物,レストラン,喫茶店などの記事を集めているとき,同一の喫茶店についてさまざまな人たちが言及していることが気になった.たとえば本郷三丁目交差点近くにあった「青木堂」である.(日本出版学会 - 『喫茶店の時代』をめぐって  林 哲夫 (2003年2月17日))――とあって、古書を駆使した日頃の博捜ぶりがうかがわれる。私も改めて《うまやはし日記》をひもといてみた。

昭和十四年(一九三九) 某月某日 夕方より仮検査で本所区役所へ行く。高等小学校のクラスメート山野辺、土切、中山、味形らがいる。初めは眼の検査だった。「眼がすんだ人は道具[、、]をすぐ出せるようにしときなさい」の声に、どっと笑いがひびく。「チンポコを握られるなんていやだなあ」。みんな無事通過す。蔵前通りの南屋でコーヒーをのみ、談笑して別れた。

○十一月十三日 午後、本所区役所へ兵役の件で行く。山中博道の家に寄った。二時から第一補充兵証書の授与式がはじまる。三時に了った。帰りはまあ坊、福太郎と一緒になり、石原町の「南や」に入って、コーヒーとパンを食べた。近くまあ坊はさぶちゃんと伊豆へ遊びに行くと言う。甲種合格のさぶちゃんは来月一日に入営するそうだ。

○十一月二十三日 夜になって雨。春陵さんと雷門前の珈琲店ブラジルへ行く。ここが句会の席だ。七時半ごろ「白鵶会」のめんめん、油桃、龍灯城、千鶴、春夢、昌臣、行宇、四季男(小生)と集う。コーヒー、サンドイッチをとりながら、互選となる。結果、びりになりがっくり。会費五十銭はやすいと思った。水果物を食べ、十時散会。

  珈琲をのみこぼす愁ひ白卓に

○十二月十八日 夜、春陵山人と歳の市へゆく。途中、春夢大人を誘い出し、浅草へ向う。雷門をくぐり、仲見世から人波にもまれて歩く。観音様に賽銭をあげ、境内の羽子板市を見て廻る。絢爛と彩られた世界。芸妓をつれ、羽子板を買う酔人もいた。帰り、ニュートーキョーでビール、おでんで歌、俳句談義。それからブラジル珈琲店で、春夢大人の短歌の数々を聞かされる。四十五、六でこの若々しさに、感服する。奥の方をふと見ると、女店員のひとりが、コーヒー用のミルクを手にぬっていた。

昭和十五年(一九四〇)  一月二十三日 朝から履歴書を書く。やめて詩作にふけった。久しぶりでまあ坊が誘いにくる。遠いが三輪のキネマハウスへバスで行く。映画はつまらなくがっかり。黒いオーバーのパーマネントの若い娘が隣に座る。客席はすいているのにと、思った。二本目の映画「男の世界」は見ていたので、出ようとした時、その娘が肘でつく。あたしよ、中村葉子よ。奇遇に驚いてしまう。あの黒髪のおかっぱの少女はどこへいってしまったのか。いつも思慕していた、初恋のひと。さようなら、一つの夢。バスで浅草へ出、喫茶店スタアでコーヒーをのんだ。

○二月十四日 持ち込み原稿の『北海道の口碑と伝説』の整理に没頭する。出来ると、天皇陛下に献上するとのこと。午後、小林梁さんくる。今朝、西村さんは朝鮮へ立ったと言う。なんの用なのだろう。夕刻、池田行宇がたずねてくる。神保町の喫茶店で、お茶をのみ、中村葉子のことにふれる。まだ店にいるよ、出征したKの帰りを待っているんだとのこと。寒風の街で別れた。

珈琲がらみの記述を省略せずに引いた。はからずも《うまやはし日記》の精選のようになったのは、珈琲店が吉岡の精神生活の中心を占めていたからである。体質的にアルコールに弱かった吉岡は、人が酒場に足を向けるときでも、喫茶店で珈琲を前にくつろぐことを好んだ。南山堂に勤めていたころは黒門町近くの芭蕉館で備えつけの俳句雑誌を読んだりしているし、私が駒場の日本近代文学館の帰りに珈琲店トップ渋谷道玄坂店に入ると、新聞を読んでいるところだったりした。珈琲店で原稿を書くことこそなかったが、吉岡にとって自宅と並んで最も心安まる場所だった。

茶房「霧笛」のチーズケーキと珈琲のセット 茶房「霧笛」の前の赤と白ふたつのビーチパラソル 珈琲店トップ渋谷道玄坂店のチーズケーキと珈琲のセット
茶房「霧笛」のチーズケーキと珈琲のセット(左)と店の前の赤と白ふたつのビーチパラソル(中)と珈琲店トップ渋谷道玄坂店のチーズケーキと珈琲のセット(右)

吉岡実が愛した珈琲店といえば、東京ではアンヂェラス(浅草)、ラドリオ(神保町)、トップ(渋谷)、京都ではイノダコーヒ(堺町三条)が思いうかぶ。《うまやはし日記》の店(現存するのか)も含めて、これらの店の珈琲がどんなものか味わってみたい。横浜の県立神奈川近代文学館に行った今年(2014年)の7月6日に撮った写真を掲げて本稿を終えよう。1978年7月9日、吉岡実が土方巽たちと「四谷シモンの唄に聴きほれ」(《土方巽頌》筑摩書房、1987、一一三ページ)たという茶房「霧笛」。そのチーズケーキと珈琲のセット、そして茶房前の赤と白ふたつのビーチパラソルだ。店の伝票の裏には「CE COIN ME SOURIT(この一隅は私に微笑みかける)」と印刷されている。はたして36年前もここの珈琲は、吉岡たちに微笑みかけていただろうか。

〔2015年3月31日追記〕
先日、久しぶりに日曜の昼間の渋谷・道玄坂を歩いたが、人出の多さには驚かされる。一服するために珈琲店トップに入った。トップミックス(店独自のブレンドコーヒー)とチーズケーキを注文して、思わず長居をしてしまった。そのときの写真をアップしておこう。

〔2020年4月30日追記〕
2020年4月10日、林哲夫《喫茶店の時代――あのとき こんな店があった》が〔ちくま文庫〕で再刊された。巻末に《ボン書店の幻――モダニズム出版社の光と影〔ちくま文庫〕》(筑摩書房、2008)の著者でもある石神井書林の内堀弘さんが〈解説日記〉を書いていて、「一月十五日(水)/林哲夫さんの個展を見に、渋谷の喫茶店ウィリアム モリスに出かける。」(同書、三六七ページ)と始めている。私もこの個展を観に行って、林さんに挨拶早早、坪内祐三急逝を語りあったものだ。ちなみに坪内祐三は本書に2箇所――《靖国》の著者として、亀和田武とのトークショーの相方として――登場するが、引用はされていない。ここで、嬉しい知らせを。西武新宿線・都立家政駅前の喫茶店「ふじの木」が2018年に閉店して吃驚落胆していたところ(2009年5月には美人姉妹で有名だった駅前の「一貫堂書店」も閉店)、さきごろ「パティスリー ふじの木」として移転再オープンした。学生時代、同人詩誌《続》の小畑雄二や吉澤修平たちと飽きることなく語りあった「わが古戦場」――吉岡実は武蔵野茶廊をこう呼んだ――が復活したことは、歓びにたえない。


吉岡実と写真(2014年9月30日)

吉岡実と写真、吉岡実詩と写真について考えたい。肖像写真がないことで知られる西郷隆盛は1828(文政10)年に生まれ、1877 (明治10)年 に歿している。同時代の坂本龍馬(1836〜67)にはポートレートがあるから、写真に撮られるのが好きな人間と嫌いな人間がいるということだけかもしれ ない。吉岡実は明らかに後者だった。《ユリイカ》1973年9月号の吉岡実特集には、金井塚一男撮影による〈グラビア 吉岡実の眼〉が8ページにわたって掲載されているが、雑誌の特集でなければ撮影させなかっただろう。詩人としては拒否しても、編集者としては受けいれざる をえなかったのだ。〈吉岡実のレイアウ ト(3)〉にも書いたが、高見順文学振興会会報の《樹木》第2号(1984年3月5日)には〈高見賞の詩人たち〉として飯島耕一、吉 岡実、粒来哲蔵の3人が登場する。吉岡の肖像写真は今泉治身による撮りおろしで、尾花珠樹の〈編集後記〉が撮影の様子を伝えている。

一方、吉岡実氏は「写真はいちばん厭。しばらく考えさせてよ」。それはほとんど撮影拒否に近い声。三ヵ月後、「あな たがたの熱意 に負けた」と姿を現わしてくださった吉岡さん、こうなったらどこにでも立つし、どこでも歩くよ。ただし俺が自分からカメラの前に身をさらすのは、おそらく これが最後だ」と。人混みを縫い坂をのぼり、終着は閑静な公園のベンチ。別れぎわ、詩人は「詩は謎」の言葉をのこし、〈時空と謎とに身をまかせ〉るかのよ うに、ふたたび都市の雑踏のなかに……。(同誌、四〇ページ)

1989年3月、詩集《ムーンドロップ》が第4回詩歌文学館賞(現代詩部門)に選ばれたが、吉岡は受賞を辞退している。私はこれを吉岡 が自己の詩業 に対して厳しい(厳しすぎる)態度で臨んだものと理解してきた。それが第一の、そして最大の理由には違いない。だが、上の証言を併せて読むと、写真で自分 の姿を晒したくないという思いも大きかったのではないか(吉岡は70歳になろうとしていた)。種村季弘は〈吉岡実のための覚え書〉でつとに指摘している。 「この詩人の常同性への好み。〔……〕ダーク・スーツの男は、街中では群衆という隠れ蓑を着て姿を消してしまう。残るのは眼。見ること。覗くこと」(《ユ リイカ》1973年9月号、九二〜九三ページ)。被写体として写真に撮られることを好まなかった吉岡実。この見る人、覗く人の詩に、「写真」はどのように 登場するか(下線は引用者が説明のために付けたもの)。

・やっとみつかったお母さんの写真(〈灰色の手套〉A・25)―A

果物の終り(D・2) ―B

つねに死ぬ人のまわりにある羽毛の潮のながれ
けばだつ意識の外面ではじかれる
孔雀の血の粒
その真新しいくちばしの喚びの深層で
内的独白をくりかえす
死ぬ人の幼年期の肖像を 見た
つまれた菓子の間を疾走し
の 情事のゆえに下痢する
独楽の廻るスピードで失われてゆく微熱の時間
羞恥のセックスで靴下を穿く
幼女のまるいくるぶしへの侮蔑とともに
紋切型のの 心理的倒産があり
黒と白の斑の犬の轢死が少年の 視線を転化する
秘密写真へ
柔かい曲線のおびただしい泥沼へ
未熟なか ら
すわりよいの しりのくぼみに
都会うまれの少年期の遅い恋の始まり
ばらいろの繭を持つ従姉に 教育され
るいれきのある肥った叔母の 冷感で戦慄する
肉への廻り道
霧隠才蔵への入信と改宗
とかげの磔刑
また別の少女へのやさしい折檻
反抗と洪水はたえず少年の身の丈をせりあげる
後世の砂漠のなかに
父の無智との 無力な家の柱を回避する
オペラ館の極彩色の舞台の予言の歌手 たち
仮象で生きる喜劇役者たち
ガルボの 秘蹟の遠近感
アナベラの 絹の唇の触媒
永遠の視点はジイドリルケの書から俯瞰される
トンネルの闇で死滅した
家畜の臓物の臭いをかぎつけ
投影した少年の精神が氷の河を引き入れる
ついでに把握しがたい月の運行を
充分な死の恐怖の伝承と
繁る小麦の畑の生への集積の怒り
少年は孤独の肩をあらわにし
物の固い角を経験しはじめた
消えたランプの発端から終焉までを告発する
発生する癌の戦争
大砲の車輪のひと廻りする時
無意味に穴のふさがる時
多くの人類の死・猿にならねばならぬ無声の死
下等な両棲類の噛み合う快感の低い姿勢
横たわる死・だんじて横たわる死
古代の野外円形劇場の太陽の下の醜悪な消却作業
一人だけの少年は哭きわめく
粥状の物質の世界で
コップの嵐のなかで
まさに逆さまだ
偶像は
いま死ぬ人の半生の透視図
肖像の 少年は模倣するだろう
大人の習慣のぬれた羽毛をたらす死を
歩みよる曙光の拡がり

・或る新聞記事で首長族のことを改めて知った いまでもビルマのカレンニ地方に二千人も住んでいるとのこと 写真も載っているのでつくづく見た(〈首長族 の病気〉D・11)―C

・永劫に新しい戦争写真(〈やさしい放火魔〉E・9)―D

・写真に撮られるべく(〈マクロコスモス〉F・1)―E

・写真のなかで永遠に(〈崑崙〉F・8)―F

記念写真で すかこれは?(〈神秘的な時代の詩〉F・11)―G

わが家の記念写真(G・ 9)―H

おかあさんは 腰巻きする人
首つりのタモの木にそってゆき
朝日はのぼる
島の墓原で
百羽のツグミを食う猛き人
それが義理あるおとうさんの 暗き心
いやになるなあ
公園からとんでくる
ラグビーボールをスカートのなかへ
おねえさんは 隠したままだ
なので寄宿の猫は
沼面を走る雨にぬれる
幽鬼のように
いもうとは 善意の旅をしている
星ビカリする夜々を
みなさん揃いましたか
では記念写真をとりますよ
青空へむかって
にっこり笑って下さい
でもうまく映るだろうか
時すでにぼく
地中海沿岸地方の奥地で
コルクの木とともに成長している

父母の 写真 コダックの五匹のの 写真 船腹の 写真 赤ん坊の写真 墜落した飛行機の 写真 結婚式の写真 騎手の写真 女優のヌード写真 チャー ルズ・ラトウィジ・ドジソン教授が撮ったアリスの写真(〈『アリス』狩り〉G・12)―I


濡れた泥の上を疾走する/            「の 写真を見ている」〔/は改行箇所〕(〈寿星(カノプス)〉K・8)―J

軍艦の沈没してゆく場面の 写真を示すので(〈陰謀〉未刊詩篇・6)―K

〈果物の終り〉は写真/舞台/映画/文学といった諸ジャンルへの言及が見られる特異な詩篇であり、〈わが家の記念写真〉は写真そのもの を扱った詩篇 であるため、全篇を引いた。上掲のAからKまでの「写真」を、(T)印画紙に焼きつけられた紙焼写真と、(U)新聞や雑誌、写真集などに印刷された印刷写 真、とに分けてみよう(Eはどちらともつかない。というか、紙焼写真を写真集に展開するシーンと読みたい)。
 (T)紙焼写真……A・B・G・H
 (U)印刷写真……C・D・F・I・J・K
いずれの場合も、「写真」はこんにち主流のデジタル画像のカラー写真ではなく、アナログの白黒写真と考えられる。ただし、H・I・Jはカラー写真でもおか しくない。(T)と(U)は媒体の特性こそ異なるものの、ともに画像のコンテナとして詩篇に埋めこまれている。だが機能は(T)が詩の登場人物の自伝的要 素(定着された姿をつねに脱することを使命としている)として登場するのに対して、(U)は不安な社会としての外界のイマージュとして顕ちあらわれる。し かもD・I・Kは戦争を想起させる。(T)がおおむね親密なものだとすれば、(U)は禍禍しいものとして描かれている。これはどういうことだろうか。自分 の管理下にある(T)は見るものとして肯定し、そうでない(U)は見られるものとして否定する。こうしたメンタリティが、はからずも最初に述べた吉岡実と 肖像写真の関係に平行している。〈果物の終り〉という仮構された自伝には、素材として吉岡自身の体験が活かされているように思う。現実に先行する「秘密写 真」である「杏」から「梨」への喩は、その後の吉岡実詩には見出しがたい。「桃」という両者を兼ねそなえた果物を偏愛するに至るからである。同様の変化は 〈果物の終り〉と〈わが家の記念写真〉の家族の描き方にも表れている。一方で、Hの「寄宿の猫は/沼面を走る雨にぬれる/幽鬼のように」とJの「濡れた泥 の上を疾走する/           「犀の写真を見ている」」のように相似したイマージュも登場する。また、Iの「チャールズ・ラトウィジ・ドジソン 教授が撮ったアリスの写真」は〈ルイス・キャロルを探す方法〉(G・11)への自己言及になっている。ところで、吉岡も高く評価した西脇順三郎詩集《近代 の寓話》(創元社、1953年10月30日)の巻頭には序に当たる文章 がある。その一節は、西脇の写真論としても出色だ。

 私は個人としては詩集といったような代物で詩を公にしたくはなかったのだが友達のすすめで出すことにした。それで これ等の詩の 大部分はすでに新聞や雑誌に出したものであるが、しかしこの詩集のためにそれを訂正したところが多い。私の考えでは一つの作品は与えられた瞬間に於ては唯 一の形容をもっているが、それは常に変化して行くべきところを知らないのであって、決して定まるところが無いのだと思う。私の詩などは現代の画家と同じく 永久に訂正しつゞけるのであって、それは画人も詩人も同じことだ。一つの詩の存在は遂に無になるまで変化しつゞけるのである。詩の生命はパラドックスでな く理論としては無であると思う。
 こゝに出ている詩は勿論一時停止されている形にすぎない。しかしこの停止されているそれ等の形を取るまでに二十ペン以上も皆書きかえられているのであっ て、元の形のあとかたもないのである。ピカソやマティスのように若し写真を次から次へと取って残してみると面白いものだと思う。(同書、一〜二ページ)。

吉岡がこの序をどのように受けとめたかはわからない。しかし、のちの《静物》となる詩篇を書き継いでいた未来の詩人にとって、同文冒頭 の「この詩集 は単に「こわれた生垣」とか「女の舌の甘さ」を集めたのでなく、一つの詩的見地から人間を慰めるために時々書いたものを集めたのである」(同書、一ペー ジ)とともに、詩とはどうあるべきか、詩集とはどうあるべきかを考察するための有力な手掛かりになったことは充分に考えられる。それは西脇の執筆方法をそ のままなぞることではもちろんない。むしろその違いを際立たせるものだ。吉岡は、近代の寓話ならぬ現代の寓話、いや近代の実話を書くことを目的としてい た。筆をもって真を写すこと、それが戦後10年間の吉岡実の詩的な営みであり、戦中・戦後の体験は近代の寓話に安住することを許さなかった。変転きわまり ないものとそれを形に留めるものとしての写真が存在することは大きな啓示となり、詩への信頼を深めたに違いない。それが最初に結実したのが、《紡錘形》の 名篇〈果物の終り〉だった。吉岡はこの苛烈な成功をあえて繰りかえすことはせず、いっそうもどかしくてぞっとするような詩として〈わが家の記念写真〉へと おもむいた。

〈土方巽、篠田一士 1984・3〉(相田昭写真集《作家の周辺》新潮社、1994年10月20日、三五ページ) 新宿区新宿6-10の活魚割烹「加賀鮨」前の同じ場所〔2014年8月6日午後5時半撮影〕
〈土方巽、篠田一士 1984・3〉(相田昭写真集《作家の周辺》新潮社、1994年10月 20日、三五ページ)(左)と新宿区新宿6-10の活魚割烹「加賀鮨」前の同じ場所〔2014年8月6日午後5時半撮影〕(右)

実際の写真と吉岡の文章を並べてみよう。相田昭写真集《作家の周辺》(新潮社、1994年10月20日)の二一ページには〈吉増剛造、 吉岡実 1984・3〉があって、前掲《樹 木》(第2号)とグラスを手にした吉岡のリラックスした姿が収められている。だが、ここで注目したいのは〈土方巽、篠田一士 1984・3〉(同書、三五ページ)と1984年3月9日の吉岡実日記である。
「晴。 夕刻から寒さが戻る。赤坂見附へ出、バンでコーヒーをのみ、プリンスホテル別館の高見賞授賞式へ行く。詩集『夏の淵』で受賞の三好豊一郎の禿頭が輝いてい る。大勢の知己と会う。土方巽と元藤夫人もいた。パーティーも終り、新宿の鮨屋加賀が二次会の席というので、それぞれタクシーで向う。二階の座敷に上る と、篠田一士、飯島耕一、入沢康夫、渋沢孝輔、小田久郎そして、三好豊一郎とお嬢さんが坐っていた。大岡信と土方巽にはさまれたかたちになる。乾杯の音頭 をとらされた」(〈80 「夏の淵」――祝宴の余波〉、《土方巽頌》筑摩書房、1987、一六一ページ)。
相田の写真集には二階の座敷で独り本を読む篠田の写真もあり(〔三二〜三三〕ページ)、吉岡の日記と併せて読むと興味は尽きない。いったい、土方巽と篠田 一士という組み合わせが、三好豊一郎(あるいは吉岡実)を媒介にする以外のどんな場合に考えられるだろう。〈土方巽、篠田一士 1984・3〉をじっくり 見ると、電柱の看板に「活魚割烹 加賀鮨」とあり、住所の表示が「新宿6-10」と読める。Googleの地図検索でストリートビューを見ると、それらし い電柱の脇に停めてある配達用の三輪バイクの荷台にくくりつけてある木箱が〈土方巽、篠田一士 1984・3〉の箱と同じようだ(写真の手前のバイクは スーパーカブか)。30年の時を隔てて同一の箱か断定はできないが、写真・画像の力をまざまざと感じさせられる。

今年(2014年)の5月31日の土曜日、吉岡実の命日に巣鴨の真性寺の墓に詣でて、ついでにすぐ近くの「すがも田村」の前を通ったと ころ、同店が 5月25日をもって閉店していたのには驚いた。法要のあとの直会がここでされてきたからだ。幸いカメラを持参していたので、撮影した「すがも田村」の看板 と吉岡実の墓石の写真を掲げて、本稿を締めくくろう。

「すがも田村」の看板 真性寺の吉岡実の墓石
「すがも田村」の看板(左)と真性寺の吉岡実の墓石(右)〔2014年5月31日撮影〕

〔付記〕
吉岡実の遺稿〈日歴(一九四八年・夏暦)〉に「銀座の横丁をちょっと曲り/汁粉屋牡丹にはいる/渋好みの壁にグリア・ガアスンの写 真が貼ってある/あずきに包まれたこのくにのおはぎを知らぬ/異国の女グリア・ガアスンは美しきかな/〔……〕」(るしおる別冊《私のうしろを犬が歩いて いた――追悼・吉岡実》書肆山田、1996、一一ページ)とある。日付は「六月***日」だが、前後関係から「二十四日の木曜」か。注目すべきは「グリ ア・ガアスンの写真」だ。イギリスの女優グリア・ガースン(1904〜96)のおそらくはスチル写真だろう(それとも映画雑誌の切り抜きか)。彼女は、 1953年日本公開のMGM映画〈フォーサイト家の女(That Forsyte Woman)〉で主人公のアイリーン・フォーサイトを演じている。これが《サフラン摘み》に収められた「猫の主題による長篇詩」=〈フォーサイド家の猫〉(G・17)のスルスの一つだと 想像することは楽しい。


吉岡実詩における絵画(2014年8月31日)

音[サウンド]で絵を描くのさ。共感覚を得るためにね。――ジミー・ペイジ(エリック・デイヴィス〔石崎一樹訳〕《レッド・ツェッペリンW〔ロックの名盤!〕》水声社、2013年1月1日、八四ページ)

吉岡実詩における絵画の持つ意味について考えたい。《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)をひもといたことのあるほどの人なら、誰もが吉岡は絵を描くように詩を書いたという印象を抱くだろう。吉岡自身、〈わたしの作詩法?〉で「或る人は、わたしの詩を絵画性がある、又は彫刻的であるという。それでわたしはよいと思う。もともとわたしは彫刻家への夢があったから、造形への願望はつよいのである」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、八九ページ)と書いていて、共感覚を得るために、詩で絵を描くことを志向していた。吉岡の「中期」を代表する詩集《サフラン摘み》にその名も〈絵画〉という一篇がある(初出は《風景》1974年5月号)。

絵画(G・18)

画家がテーブルを描くとき
最初に灰色の物質を
心のなかに塗る
「見るとは
眼をとじることだ」
それによって
籠の洗われた韮や莢豆
緑の野菜類がストイックな影を加える
六月の午後は
肉類を煮ながら
いよいよ高みへ至る
大鍋の下から
女中の指を噛む
炎の形が出てくる
そこでテーブルは前方へ傾き
犬は庭へ戻る
皿の上で内包され
西洋李の〈赤〉は実相の中心になる
それを食べる子供の
黄金の口を見よ
しだいに外観はあいまいになり
地上で
「われわれの見得る
物は数すくない」
胡椒挽きや胡桃割り
それらの器具しか存在しなくなる
だから
厚盛りの背景は
いくつもの記号と音階に分割され
闇へ流出する

丸谷才一は〈菊なます〉で「今年〔一九七六年〕いちばん楽しんだ詩集は吉岡実の『サフラン摘み』だつた。『静物』や『僧侶』のころの魅惑がもつと味の濃いものになつて差出されてゐて、妙な酔ひ心地になるのだ。殊にいいのは『悪趣味な夏の旅』といふ一篇で、リズムと認識の揺れ具合が異様に官能的である」(《遊び時間2〔中公文庫〕》中央公論社、1983年7月10日、六九ページ)と書いた(〈悪趣味な夏の旅〉に触れた評をほかに知らない)。丸谷ではないが、私は〈絵画〉を読むたびに《静物》(1955)の巻頭詩篇を想い出す。

静物(B・1)

夜の器の硬い面の内で
あざやかさを増してくる
秋のくだもの
りんごや梨やぶどうの類
それぞれは
かさなったままの姿勢で
眠りへ
ひとつの諧調へ
大いなる音楽へと沿うてゆく
めいめいの最も深いところへ至り
核はおもむろによこたわる
そのまわりを
めぐる豊かな腐爛の時間
いま死者の歯のまえで
石のように発しない
それらのくだものの類は
いよいよ重みを加える
深い器のなかで
この夜の仮象の裡で
ときに
大きくかたむく

ここで指摘したいのは想の類似といったことではない。吉岡はこの二篇で、「絵を描くように詩を書いた」のではなく、「詩を書くようにして絵を描いた」のだ。まず標題。〈静物〉とは静物画すなわちモチーフであり、〈絵画〉とは油彩画やアクリル画といったメチエを指す。しかし、この差は問題にならない。いずれにしても絵画を描くことは世界の見方の提示であり、見ることはすなわち「眼をとじること」だ。視覚に映る外界を写すのではなく、心のなかをのぞきこむことだ。吉岡実の詩風を「幻視的」と呼ぶとき、われわれは幻想を視ると捉えがちだが、眼球を内部に向けて反転させた状態で目に映るものを視るのであって、「幻」があらかじめ外在するわけではない。文字を紙に書きつけることによってのみ、見えてくる。書いたから見える。描いたがゆえに見えるのだ。それはただちに見るために描く、書くという具合に顚倒する。こうした視覚の原理は一般的に絵を描くことで具現化される。であれば、それが詩という言語作品であっても「絵」と呼んで差しつかえない。吉岡実詩の幻視の構造は、〈静物〉から〈絵画〉に至るまで一貫している。


吉岡実のコレクションが公開されたのは、2003年5月1日〜10日、東京・有楽町の古美術店「織田有(ODAU)」で開催された《奠雁展》が唯一のもので、その所蔵する美術作品が公にされたことはない。ただし、紙上でのコレクションの公開となれば、《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》(書肆山田、1996年11月30日)の坂本真典撮影のカラー図版〈吉岡実の小さな部屋〉がある。作者名と作品名を掲げるので、読者はよろしく《私のうしろを犬が歩いていた》に就いて作品を見られたい。

  1. ポール・デイヴィス〈猫とリンゴ〉
  2. アヴァティ〈かたつむりの散歩〉
  3. ヘルマン・セリエント〈異邦〉
  4. 河原温〈浴室〉
  5. 片山健〈とんぼと少女〉
  6. 佐熊桂一郎〈婦人像〉
  7. 斎藤真一〈しげ子 母の片身〉
  8. 三好豊一郎(題なし)
  9. 永田耕衣〈白桃図〉
  10. 西脇順三郎(題なし。スケッチ帳から)
  11. 小沢純〈グロヴナー公の兎〉
  12. ゾンネンシュターン(題なし。梱包用紙に鉛筆で)

1. は《サフラン摘み》の印税で購入したアクリル画(〈1990年、吉岡実の自宅にて吉岡陽子さんと小林一郎〉参照)。2. は1975年9月17日付永田耕衣宛て書簡に「先日、また渡辺一考君が現われ、「不生」の額を持ってきてくれました。杉の黒塗の美しいその額に、早速耕衣書を入れ、玄関に懸けましたら、いままで飾ってあった、アバティの色彩銅版画と趣きが一変して、厳しい雰囲気になりました」(〈青葉台書簡〉、《琴座》300号、1975年11月、六ページ)とある。3. は詩篇〈異邦〉(H・5)がある。9. は1985年9月30日の日記に「朝、気分転換に、居間の耕衣「白桃図」を、贈られたばかりの、小沢純の「グロヴナー公の兎」の油絵にかけ替える」(《土方巽頌》筑摩書房、1987、一九二ページ)とある。10. は吉岡生前最後の詩集《ムーンドロップ》(1988)の表紙に金箔押しされている。11. は詩篇〈秋の領分〉(K・5)があり、12. はその名も〈ゾンネンシュターンの船〉(G・24)がある。吉岡のこうした絵画の好みがなにに由るかは興味深い課題だが、《みづゑ》や《美術手帖》、《芸術新潮》といった美術雑誌や新聞の記事、それらが告知する美術展、画廊の個展で複製や実物を観ていた(陽子夫人の談によれば、吉岡の愛読紙は《朝日新聞》であり、愛読誌は《週刊文春》だった。むろんこれ以外の紙誌にも勤務先や喫茶店などで目を通していたに違いない)。それらの紹介者に瀧口修造や澁澤龍彦がいたことは以前にも書いた。

吉岡実の歿後の出版だが、金井美恵子《スクラップ・ギャラリー――切りぬき美術館》(平凡社、2005年11月1日)の作品の選択はまことに吉岡実ふうでもあって、見ていて飽きない。吉岡が金井に薦めた画家もいれば、金井が吉岡に推した画家もいるだろう。なかでも〈李朝民画〉はとりわけ吉岡実の絵の趣味を彷彿させる。――「立派な床の間に、小さな水墨の竹の絵が掛けられている。「これは?」と聞くと、「道具屋で探したものだよ」と土方巽は笑う。「せめて、李朝民画の虎の絵か、白隠の達磨図ぐらい欲しいね」と私が言ったら、「どこにそんなのあるのよ」。いつか南青山辺りの古美術店を二人で歩きたいと思った」(〈76 来客の山荘の一夜〉、《土方巽頌》筑摩書房、1987、一五四ページ)。土方巽が金井美恵子であってもおかしくない。《スクラップ・ギャラリー》の美術家の名前と金井の文の標題を掲げよう(●印は吉岡が言及したことのある美術家なので、掲載図版の作品名も番号を振って録する)。

◎長谷川潾二郎――静かな家の猫たち(詳細は後述)
◎モリス・ハーシュフィールド――透明さと柔らかさのテクスチャー
●マックス=ワルター・スワンベルク――女に憑かれた白鳥  @グンニ わが心の庭にただひとりいる人 A奇妙な懐胎、三相の1 B星の肖像 C私の人生の最も美しいものを祝うイマジニズムの星座 D双子の星の奇妙な日、十相の3
◎オーギュスト・ルノワールT――ジャンの父親の描いた絵
◎オーギュスト・ルノワールU――犬も子供も草も水も女も。
◎アンリ・ルソー――奇妙な近代画家
◎岡鹿之助――思索[パンセ]としての三色スミレ[パンセ]
◎フラ・アンジェリコ――天使の描いた沈黙
◎ダヴィッド、●ゴヤ――美しいコスチューム  @裸のマハ Aアルバ公爵夫人 Bマヌエル・オソーリオ・デ・スーニガ C着衣のマハ
◎マティス――マティスの窓
●シュレーダー=ゾンネンシュターン――ドン・キホーテとしての画家  @ポープル博士 A人生の模写 Bうらぶれた見込みのない文化財運送有限会社 C月の精の航路を行く国家の魔法の船 Dポッホリヒェン、知られざる平和の天使 E冒瀆された力
◎円山応挙――落語と写生
◎ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ――ゴッホとお金
◎ワトー――シテール島へ……
●李朝民画T――虎図の限りない魅力  @虎図 A虎図 B虎図
●李朝民画U――明窓浄几の空間  @蓮華図 十曲屏風(部分) A文房図(二枚のうちの一枚) B蓮華図 十曲屏風(部分) C蓮華図 十曲屏風(部分) D文房図(八曲屏風のうち六曲)
◎サーカス ポスター――サーカスの夢と運命
◎エドワード・ヒックス――平和なる王国の動物たち
◎エドワード&ナンシー・レディン・キンホルツ――メイド・イン・USAのエンヴァイラメント
●バルテュス――自画像のまなざし  @猫たちの王 Aエミリ・ブロンテ『嵐が丘』のための挿絵より Bホアン・ミロと娘ドロレス C地中海の猫
●ジャクソン・ポロック――ポロック、アメリカン・モダン・アートの神話  @ブルー・ポールズ・ナンバー11 A秋の旋律:ナンバー30
●フランシス・ベーコン――フランシス・ベーコンと映画  @ベラスケスの法王 イノセント10世の肖像による習作 A十字架の三つの習作 Bマイブリッジより:バケツを空ける女性と柵を這う子供
◎ラウル・デュフィ――生きる喜び
◎フランシスコ・デ・スルバラン、ファン・デ・スルバラン、ミケランジェロ・メリジ・ダ・カラヴァッジョ、ヨハネス・フェルメール――スティール・ライフ ――動かない物
◎高橋由一と長谷川潾二郎――豆腐・丸干し・茶碗
◎ジオット――同時代人としてのフランチェスコ
◎ジョセフ・コーネル――箱の旅人
◎アントニオ・リガブーエ――密猟者と動物たち

吉岡所蔵の美術作品のときとは異なり、吉岡実詩との関連を指摘するにとどめる。

  1. マックス=ワルター・スワンベルクは、その名も〈スワンベルグの歌〉(未刊詩篇・12)がある(〈詩篇〈スワンベルグの歌〉初出と再録〉参照)。
  2. ゴヤは、〈あまがつ頌〉(G・30)に登場する。
  3. シュレーダー=ゾンネンシュターンは前述のとおり(〈ゾンネンシュターンの船〉)。
  4. バルテュスは、詩篇には登場しない。ただし、《ムーンドロップ》の帯の惹句に「バルテュス、クロソウスキー、ベーコンらの作品に穿孔する詩語――絵画の内側で踠くものたちをひき伴れ、画面の底に身を潜めるものたちを揺さぶり、画布の背後にもうひとつの宇宙をゆらぎ立たせる詩篇群」とある。
  5. ポロックは、〈青い柱はどこにあるか?〉(F・6)がある。
  6. ベーコンは、〈叙景〉(K・11)がある(〈吉岡実とフランシス・ベーコン〉参照)。

ジャン・ソセ編(澁澤龍彦著)《マックス・ワルター・スワーンベリ〔シュルレアリスムと画家叢書「骰子の7の目」別巻〕》(河出書房新社、1976年7月30日)ジャケットと函、《スワーンベリ展》(グリフィンスコーポレーション、1976年3月30日)の表紙 《スワーンベリ展》(グリフィンスコーポレーション、1976年3月30日)の中面ページ
ジャン・ソセ編(澁澤龍彦著)《マックス・ワルター・スワーンベリ〔シュルレアリスムと画家叢書「骰子の7の目」別巻〕》(河出書房新社、1976年7月30日)ジャケットと函、《スワーンベリ展》(グリフィンスコーポレーション、1976年3月30日)の表紙(左)と《スワーンベリ展》の中面ページ(右)

《スクラップ・ギャラリー》は、〈長谷川潾二郎――静かな家の猫たち〉の次の文章で始まる。

 薄塗りでグレーとエンジに塗られたキャンバスの布目が透ける背景に、幸福そうに満ち足りた寝顔と肢体で、まるで、何かとても気持の良い夢を見てうっすらとした微笑みを浮べているかのように、なんとも愛らしい様子で眠っている黒トラ柄の猫の絵を描いた画家・長谷川潾二郎のことを知ったのは、詩人の吉岡実が、それを〈猫の絵の傑作〉と言って教えてくれたからなのだが、一九六六年に猫かれて『猫』と素っ気なく名付けられた絵のオリジナルを見たのは、ずっと後になってからだった。
 その絵が、仙台の美術館に寄贈された洲之内徹のコレクションに入っているのは知っていたけれど、なかなか仙台まで出かける機会などはなく、十年ほど前にあった六本木ストライプ・ギャラリーでの長谷川潾二郎回顧展にも、その名前を「太郎」という、ずっと恋焦れていた黒トラの絵は出品されていなかったのが残念だったのだが、とは言え、そこでもう一匹の、というかもう一枚の猫の絵にめぐりあったのだから、残念という言葉は、本当はあてはまらないだろう。(同書、八ページ)

洲之内徹の《気まぐれ美術館》(新潮社、1978)には吉岡が登場するから、現代画廊で〈猫〉と出会ったと考えられる。ただ、それがいつなのかはわからない。一方、飼い猫(1960年に辻井喬の知人からわけてもらった2匹のシャム猫)の逃亡や死のあと、猫の絵を手に入れたいという願望は吉岡をとらえていたに違いない。長谷川潾二郎の〈猫〉(1966)を手にすることはできなかったが、1976年秋に刊行された《サフラン摘み》は吉岡の著作として最大の印税をもたらし、ポール・デイヴィスの〈猫とリンゴ〉(1977)を入手しているからだ。同詩集には猫を詠った〈自転車の上の猫〉や〈フォーサイド家の猫〉の他にも、〈わが家の記念写真〉〈『アリス』狩り〉〈田園〉〈異霊祭〉といった詩篇に猫が登場し、〈異霊祭〉はただちに「動物慰霊祭」を連想させる。ちなみに〈絵画〉は、前後に〈フォーサイド家の猫〉と〈異霊祭〉を従えて《サフラン摘み》に収められている。長谷川の「猫の絵の傑作」が吉岡に猫の絵とともにあることの幸福を夢見させたことは想像に難くない。詩に書くことによって飼い猫の霊を慰め、さらには猫を描いた絵画に慰められる。そこでは猫がやすらい、果物が実相の中心になる。こうした詩と絵画の渾然とした総体が吉岡実詩における絵画だ、と考えたい。吉岡が西脇順三郎や永田耕衣、あるいは三好豊一郎のようには絵筆を執る必要がなかった所以である。

吉岡実と2匹のシャム猫〔どちらがデッカ(オス)でどちらがエリ(メス)かは不明〕
吉岡実と2匹のシャム猫〔どちらがデッカ(オス)でどちらがエリ(メス)かは不明〕
出典:〈グラビア 吉岡実の眼〉(《ユリイカ》1973年9月号、一〇八〜一〇九ページ)


吉岡実と落合茂(2014年7月31日〔2014年8月3日追記〕)

さきごろ吉岡実のすべての装丁作品(〔特装〕限定版の一部を除く)の紹介を終えた。吉岡実装丁本の装画・カットを振りかえると、多くの造形作家のなかで落合茂が印象に残っている。だがいきなり落合作品にいくまえに、吉岡生前の単行本の函や表紙を飾った造形作家名とジャンルを刊行順に見よう。最初は詩集・詩篇。なお、装画とカットの区別は厳密なものではない。

  1. 昏睡季節 ――
  2. 液体 〔吉岡実〕(装画)
  3. 静物 真鍋博(装画)
  4. 僧侶 奈良原一高(写真)
  5. 紡錘形 真鍋博(装画)
  6. 静かな家 落合茂(装画)
  7. 異霊祭〔特装版〕 落合茂(装画)
  8. 神秘的な時代の詩 〔不明〕(カット)
  9. サフラン摘み 片山健(装画)
  10. 夏の宴 西脇順三郎(装画)
  11. ポール・クレーの食卓 片山健(装画)
  12. 薬玉 〔不明〕(カット)
  13. ムーンドロップ 西脇順三郎(装画)

戦前の2冊の詩集(1.と2.)の書名は筆による書き文字で、おそらく吉岡実自筆の書だ。また《液体》の表紙の女の顔は、吉岡が初恋の人を描いたものに違いない。なぜなら〈溶ける花〉(A・4)が「中村葉子に」捧げられているからだ。戦後の詩集・詩篇(3.以降)は書名がみな明朝体やゴチック体の活字で組まれている。活字だけでは寂しいと思ったのか、すべての函もしくは表紙に装画・カット、写真などのヴィジュアル要素が添えられている。伊達得夫の書肆ユリイカの詩集の多くがそうであったように。9.のジャケットには、〈無題〉と題名のクレジットまである。選詩集・英訳詩集は次のようだ。叢書の一冊であることが多い。

  1. 吉岡實詩集 浜田伊津子(フォトコラージュ)
  2. 吉岡実詩集 〔不明〕(カット)
  3. 吉岡実詩集 〔不明〕(カット)
  4. Lilac Garden: Poems of Minoru Yoshioka 池田満寿夫(装画)
  5. 新選吉岡実詩集 〔不明〕(カット)
  6. 吉岡実 安野光雅(装画)
  7. Celebration In Darkness――Selected Poems of YOSHIOKA MINORU 〔不明〕(カット)

2.のロールシャッハテストのインクの染みのようなカットは、ブックデザイン担当の杉浦康平が手配したものだろうか。2.(もしかすると4.も)は、単行詩集に準じた(それぞれの叢書のフォーマットに縛られない)デザインの許された企画だったか。散文・その他は次のようだ。

  1. 魚藍 〔真鍋博〕(装画)
  2. 「死児」という絵 M・スタンチッチ(装画)
  3. 土方巽頌 中西夏之(オブジェ)、普後均(写真)
  4. 「死児」という絵〔増補版〕 〔原弘〕(装画)
  5. うまやはし日記 〔亞令〕(カット)

1.の細密な河豚の装画は、当時の詩集を一手に引きうけていた真鍋博だろうか。2.には、〈死児〉と題名のクレジットまである。同名の詩篇の執筆を触発した作品ゆえ、納得だ。吉岡は単行詩集にあとがきを付けることがなかった。《ポール・クレーの食卓》には例外的にあるが(ただし〈あとがき〉という標題はない)、唯一の拾遺詩集だったためであり、作品は作品をして語らしめるという鉄則は揺るがない。詩集の巻末に〈初出一覧〉が付くのもその証しである。しかし、一冊の詩集をまとめて世に問うに当たって、感懐を抱くこともあるだろう。自著を装丁しながら、装画やカット、写真などのヴィジュアル要素を添えることには、文章で〈あとがき〉を書くことと同等もしくはそれ以上の感懐が込められている(ちなみに、あとがきが付された《ポール・クレーの食卓》は吉岡の装丁ではない。吉岡の意を受けただろう亞令こと大泉史世の装丁だ)。この傾向は、自著以外の吉岡実装丁本にも見られる。吉岡は、他人の文学作品を批評できない、良し悪しを感じるだけだ、とことあるごとに表明していたが、装丁することこそ最大の批評行為だった。

金井美恵子《兎》(筑摩書房、1973年12月20日)の本扉とジャケット
金井美恵子《兎》(筑摩書房、1973年12月20日)の本扉とジャケット〔装画:落合茂〕

《筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991)にも載っているように、金井美恵子の短篇小説集《兎》(同、1973年12月20日)の装画は落合茂で、奥付に「装画 落合 茂」とある。近年の金井の著書の装画・装丁はもっぱら姉の金井久美子の手になるが、《兎》は《愛の生活》(筑摩書房、1968)、《夢の時間》(新潮社、1970)に次ぐ3冊めの小説集で、これが吉岡実装丁のようでもあり、そうでないようでもある(装丁者のクレジットがないところを見ると、筑摩の社内装であることは確かだ)。四六判・ジャケット装は当時も今も文芸書のスタンダードで、それが筑摩の刊行物で落合茂装画とくれば、反射的に吉岡実装丁と考えたくなる。だが、この書名と著者名と装画のオーソドックスなレイアウトが吉岡実によると言い切るのは、なぜかしらためらわれる。書名の「兎」が一文字というのが曲者で、判断がつきかねるのだ。それにしてもこの装画の兎、人間に似すぎではないか。その反応は、集中の短篇小説〈兎〉を読めばまったく正しいとわかる。本書の装丁者が人間に似すぎた兎をジャケットや表紙に掲げたかったのなら、落合茂の力量を俟つというのは、まことにもって理由のあることだ。その出来映えに満足したあまり、書名も著者名も太太とした明朝体で印字する。それが普段にない吉岡実装丁本になった、ということもないとは言えない。しかし、新たな証言が管見に入るまで、本書を吉岡実装丁と認定することは控えたい(存疑作品としても扱わない)。

入沢康夫・落合茂《ランゲルハンス氏の島》(私家版、1962年7月1日)の表紙とジャケット ジョン・テニエル画のアリスとドド
入沢康夫・落合茂《ランゲルハンス氏の島》(私家版、1962年7月1日)の表紙とジャケット(左)とジョン・テニエル画のアリスとドド(右)

吉岡実装丁本という観点から離れて落合茂の装画を見たとき、ひときわ高くそびえるのが、入沢康夫との共著、《ランゲルハンス氏の島》(私家版、1962年7月1日)だ。次に《ランゲルハンス氏の島》の入沢の文と落合の絵の構成を記す。番号.(絵の掲載ページ)「絵と対応する文章の見出し(番号)」――絵柄〔備考〕、の順である。

  1. (扉)「ランゲルハンス氏の島/入沢康夫・落合茂」――みぞおちのあたりを押さえる男の立ち姿〔《入沢康夫詩集〔現代詩文庫31〕》(思潮社、1970年3月15日)47ページの絵〕
  2. (3)「1」――唐草模様の金属製のフレームが立派なベッド
  3. (7)「4」――皿に盛られたフォークの突き刺さった豚
  4. (10〜11)「7」――クラシックカーを背景にしてしゃがんで魚の骨を齧る男
  5. (12)「8」――葉を落とした樹樹とそれを映す水たまり
  6. (16〜17)「11」――三脚ないし四脚のひっくり返した椅子を載せた計11の丸テーブル
  7. (18〜19)「12」――門柱のような遺跡のある風景(手前には車の轍)の遠くに二人の男の後ろ姿
  8. (21)「13」――道路工事用のつるはしを持つ手だけ見える溝から掘り出した瓦礫の山〔前掲詩集54ページの絵〕
  9. (24)「16」――しならせた鞭で拍子をとる左目に眼帯をした肥大漢の歌うたい
  10. (28)「17」――刃先も柄もそれぞれ形の異なる三挺のナイフ
  11. (30)「19」――アイモ(35mmフィルム用撮影機)にしては装飾的過ぎる映画用カメラ
  12. (32)「21」――丸めて立てかけてある二本の絨緞の棒
  13. (35)「24」――爪先と甲と踵の処が尖ったハイヒールの片方そして蹄鉄一個
  14. (37)「25」――細い二本の木の枝に張られた蜘蛛のいない蜘蛛の巣
  15. (39)「26」――水草の咲く水面の彼方に傾く帆の張られていない戦艦〔前掲詩集63ページの絵〕
  16. (41)「27」――墜落防止用手摺り柵ごしの大きな葉の植物(芭蕉)とその向こうの水平線
  17. (42〜43)〔見出しなし(27の続き)〕――柵の処から水平線を望遠鏡で覗く男とそれを見まもる連れ合いらしい女
  18. (43の巻き折)〔見出しなし〕――拡げると通常のページの4倍ほど横長になる水平線の先端が豚の尻尾のようにくるんと巻いて中空に消えている
  19. (45)「28」――釣り針と魚の形をした(裏側から見た)「FISHING TACKLE」という店の看板
  20. (47)〔見出しなし〕――手にナプキンを掛けた召使い〔前掲詩集65ページの絵〕

本書の表紙とジャケット、奥付には正方形を45度傾けた額に収まった絶滅した鳥ドドが掲げられている。この版画(とは入沢の文にある設定)、どう見てもルイス・キャロルの《不思議の国のアリス》にジョン・テニエルが付けた絵からの引用だ。上の構成で述べたように、仕掛けとして面白いのは17.と18.であり、絵柄で印象的なのは4.のクラシックカーである。本書の前年、1961年に刊行された入沢の詩集《古い土地》(梁山泊)は最初の吉岡実装丁になる入沢の著書だが、その函と表紙にも落合によってクラシックカーが描かれていた。

入沢康夫詩集《古い土地》(梁山泊、1961年10月15日)の函と表紙〔装本:カット 落合茂/構成 吉岡実〕 入沢康夫・落合茂《ランゲルハンス氏の島》(私家版、1962年7月1日)の「7」の絵
入沢康夫詩集《古い土地》(梁山泊、1961年10月15日)の函と表紙〔装本:カット 落合茂/構成 吉岡実〕(左)と入沢康夫・落合茂《ランゲルハンス氏の島》(私家版、1962年7月1日)の「7」の絵(右)

《ランゲルハンス氏の島》は入沢康夫と落合茂の共著になっている。47ページの本文に20点の絵があるのだから、詩画集と呼んでかまわないだろう。それなら、入沢の文章と落合の絵画のどちらが先にできたのだろうか。などと考えるのも、4.の「(10〜11)「7」――クラシックカーを背景にしゃがんで魚の骨を齧る男」は、落合の絵が先であってもちっともおかしくないと感じられるからだ。あるいは入沢の発案でタクシーとその運転手の話、ということが決まった時点で二人が同時に制作を開始する。両方ともできあがった段階で文と絵を突きあわせてみる――そうした制作方法も充分に考えられるように思う。1.・8.・15.・20.の4点を掲載した《入沢康夫詩集〔現代詩文庫31〕》や1点も収録していない《入澤康夫〈詩〉集成》(青土社、1973・1979・1996〔上巻〕)ではこの両者の衝突ないし融合の全貌を見ることができない。本書や、1977年に書肆山田から覆刻された版に存在意義がある所以だ。ところで、本書の奥付には装丁者のクレジットがない。後述するように、当時の入沢と落合の現住所まで記されているというのに。これは入沢がコンセプトを提案し、落合(装画のほか、装丁も手掛ける)が具体化した、つまり装丁は共著者の二人ということになるだろう。17.・18.を見てそう思う。入沢康夫の詩集としての《ランゲルハンス氏の島》の吉岡実の評は〈H氏賞選考委員・吉岡実〉で紹介したが、そうした場であるだけに候補詩集の選考に集中していて、落合茂の装画に言及していないのが惜しまれる。この詩画集に関しては、H氏賞選考委員会における草野心平委員長の評を引くのが最適である。

 入沢君の作品についてはいろんな方がいわれましたが、詩と絵のコンビネーシヨンという形が、戦後日本の詩集のなかにでてきましたけれども……これは外国の詩には前からあつたでしようけれども、あんなにピツタリした詩はなかつた。そういう意味で楽しかつた。ぼくは戦前「蛙」の詩集で、いろいろな人に蛙のデツサンをやつてもらいましたけれども、それは、自分の好きな画家に、勝手に蛙のデツサンを描いてもらつて、それを『蛙』のなかにデツサンとしてぶちこんだ。それだけの話でして、そこには単なる友情みたいなものはありましたけれども、詩と絵との有機的な関連性は非常に少なかつたのです。ですから、日本の詩のなかで、はじめて絵と詩というものが、ああしたハツキリした形で、歯車のように――作者の意図と、絵かきの意図とがあわさつて、二人でつくつたような本はなかつたようにおもいます。そういう意味でこれは非常に楽しい本です。ときどき向うの詩集をみておもしろいとおもうことがありましたけれども……ぼくはあまり外国の詩集をみていないから〔か〕も知れませんけれども、自分の目でみた範囲では、今まで絵と詩とコンビネーシヨンで、ピツタリ息のあつた詩集はなかつた。ところがこんなにたのしい詩集がつくれたということは大変いいことだとおもいます。日本の詩集が、みんなそうなつてはこまりますけれども……H氏賞の選考は、ぼく個人としてむずかしい感じをもちました。(〈第13回日本現代詩人会H氏賞選考委員座談会〉、《詩学》1963年7月号、五一ページ)

このときのH氏賞は高良留美子《場所》(思潮社、1962)が受賞。入沢は《ランゲルハンス氏の島》の次の詩集《季節についての試論》(錬金社、1965)で1966年の第16回の同賞を受賞した。

長谷川四郎《恐ろしい本〔ちくま少年図書館〕》(筑摩書房、1970年5月20日)〔「さしえ」:落合茂〕 村山吉廣訳編《中国笑話集〔現代教養文庫〕》(社会思想社、1972年12月30日)〔「カバーデザイン」:落合茂〕 《詩学》1963年7月号の表紙〔落合茂〕
長谷川四郎《恐ろしい本〔ちくま少年図書館〕》(筑摩書房、1970年5月20日)〔「さしえ」:落合茂〕(左)と村山吉廣訳編《中国笑話集〔現代教養文庫〕》(社会思想社、1972年12月30日)〔「カバーデザイン」:落合茂〕(中)と《詩学》1963年7月号の表紙〔落合茂〕(右)

インターネットで検索しても、落合茂の画業はほとんど出てこない。そこで、数種のOPACや書誌のサイトで調べた結果、次の2点の作品が判明した。ひとつはイラストレーションで、長谷川四郎《恐ろしい本〔ちくま少年図書館〕》(筑摩書房、1970年5月20日)。筑摩の刊行物だが、吉岡実装丁ではないと思われる。もうひとつは文庫本のジャケットデザインで、村山吉廣訳編《中国笑話集〔現代教養文庫〕》(社会思想社、1972年12月30日)。このジャケットの線画は、中国の原典からもってきたもののようで、本文にも落合の描いた絵はない。
落合茂はイラストレーションやカット以外にも、装丁など広くグラフィックデザイン全般を守備範囲としていたようだ。一例を挙げれば、友人の入沢康夫の第一詩集《倖せそれとも不倖せ〔正篇・補篇〕》(書肆ユリイカ、1955)の装丁・挿画は、落合茂と中塚純二(中塚も入沢の友人で、オカリナの制作者として著名)である。同書は、田中栞に拠れば「B5判並製ジャケット装の二冊組(それぞれ中綴じの薄冊)。白い表紙もジャケットも表側には一切印刷がなく、書名などは二冊をまとめて納めるビニール袋の下方につつましく刷られている。ジャケットの内側、前方の袖にタイトルや著者名が印刷され、これが表紙の顔をしている。正篇の袖は赤い刷り色の白抜き、補篇の袖は赤一色刷り。この形に呼応するように、正篇の後ろの袖に著者のあとがきと奥付が、補篇の後ろの袖には目次が墨刷りされる。〔……〕詩題は紺、詩は墨という二色刷りで、自由な組版が視覚的にも楽しく、詩画集を連想させる作りである」(〈美を体感する人〉、《書肆ユリイカの本》青土社、2009年9月15日、六二ページ)だ。この過激な仕様・体裁を作品そのもののあり方に適応したのが《ランゲルハンス氏の島》だったと言える。入沢が同詩で採用した「やさしいニュートラルな散文」(野村喜和夫)は、そうした観点からとらえられなければならない。
落合茂は、吉岡実が編集していた筑摩書房のPR誌《ちくま》の本文のカットを、1972年1月の第33号から1974年12月の第68号までの3年間、36冊担当した。吉岡実装丁本で装画・カットを担当した以下の13冊のうち、DからHまでの5冊がこの期間に集中している。

@入沢康夫詩集《古い土地》(梁山泊、1961)
A那珂太郎詩集《音楽〔限定版〕》(思潮社、1965)、那珂太郎詩集《音楽〔普及版〕》(思潮社、1966)
B吉岡実詩集《静かな家》(思潮社、1968)
C森茉莉《記憶の絵》(筑摩書房、1968)
D田村隆一《詩と批評C》(思潮社、1972)
E田村隆一《詩と批評D》(思潮社、1973)
F吉岡実詩《異霊祭〔特装版〕》(書肆山田、1974)
G天澤退二郎《「評伝オルフェ」の試み〔特装版〕》(書肆山田、1974)
H入沢康夫詩集《「月」そのほかの詩》(思潮社、1974)
I野原一夫《含羞の人――回想の古田晁》(文藝春秋、1982)
J竹西寛子《読書の歳月》(筑摩書房、1985)
K平林敏彦詩集《水辺の光 一九八七年冬》(火の鳥社、1988)
L安藤元雄詩集《夜の音》(書肆山田、1988)

吉岡にしてみれば、落合は雑誌の本文カットも頼めるし(奇しくも、前掲《詩学》1963年7月号の表紙と本文のカットが落合だった)、書籍の装丁用のカット(いくつかは雑誌の本文カットの流用である)も頼める気心の知れた画家だった。《古い土地》や《ランゲルハンス氏の島》を通して吉岡から得た信頼は、その後いささかも揺らぐことがなかった。落合茂は、40年近い吉岡実装丁本の歴史において最初に指を屈すべき造形作家である。

〔付記〕
遠藤勁さんの《雑食系男子徘徊記》(遠藤勁デザイン事務所、2010年5月1日)の〈茅場町の寿屋宣伝部〉には「松江中学の坂根さんの同窓、画家・落合茂さんの住いは向ヶ丘弥生町にあったので、本郷の私の下宿から近く何度か伺った。後に吉岡実の装幀作品に精緻なカットを多く描かれるのだが、当時は電機メーカーのデザインに携っておられたようだ」(同書、九ページ)とある。「坂根さん」は、アートディレクターの坂根進。遠藤さんが高校生のときの美術の先生である版画家・古野由男の前任地、旧制松江中学での教え子で、1957年当時、寿屋宣伝部で活躍していた。本文で触れた《ランゲルハンス氏の島》の奥付記載の著者の住所は、入沢(東京都港区芝白金今里町……)・落合(東京都文京区向ケ丘弥生町……)となっている。《雑食系男子徘徊記》は《ランゲルハンス氏の島》復刻版の書影を掲げており、遠藤さんは折りこまれたイラストページを「絵本ならではの大胆な発想が面白い」(同前)と評している。
2004年8月31日の〈編集後記 22〉に「落合さんの姿を拝見したのは、故矢川澄子さん、故多田智満子さんも出席された〈吉岡実を偲ぶ会〉でだった」と書いたが、司会の高橋睦郎の指名にもかかわらず、落合は登壇せず(予定されていた人間は、落合以外全員が登壇した)、吉岡実の思い出を語ることもなかった。残念だが、どこかに文章を発表したということもないだろう。

〔2014年8月3日追記〕
拙文をお読みいただいた遠藤勁さんからさっそくメールを頂戴した。遠藤さんはそこで「私の記憶にある落合さんのアパートは、不忍通から本郷通へ向かって言問通を上り、今の弥生美術館へ行く道の角を曲がって、すぐ左手にあった二階建て木造だったように思います」と書いていて、落合茂の住所が入沢方[、]となっていたという件は、その後の調べで詩人・入沢康夫とは無関係だったと結論づけている。よって、拙文に引いた該当箇所も削除した。


吉岡実と真鍋博(2014年6月30日)

イラストレーター、アニメーター、エッセイストとして活躍した真鍋博(1932〜2000)は、吉岡実の日記に次のように登場する。 「〔昭和三十五 年〕三月十二日 土曜 栃折久美子と真鍋博の新居へ行く。可憐な奥さん。三カ月位の赤ん坊。二万三千円の家賃じゃ大変だと思う。セイブツ・アメリカン〈髪 の毛のなかの果物〉貰ってしまう」(〈断片・日記抄〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》思潮社、1968、一二二ページ)。土曜日は筑摩書房も半ドン だっただろうし、当時、真鍋の著書は同社から出ておらず――装丁作品には円地文子《欧米の旅》(1959年11月15日)があったが――、訪問が仕事の打 ち合わせだったのか、新居と長男誕生のお祝いだったのかわからない(お返しに作品を貰ったのだろう)。親しい画家に会社の後輩(当時は栃折も筑摩の社員) を引き合わせた、といったところか。真鍋博の〈瀧口修造に導かれて〉(《コレクション瀧口修造10〔月報〕》みすず書房、1991年5月30日)は瀧口修 造を回想した400字5枚ほどの文章だが、半分以上を伊達得夫、書肆ユリイカ、《ユリイカ》誌の話題に当てている。1957年2月、真鍋は瀧口の推薦を得 て、神田駿河台(筑摩書房も小川町にあった)のタケミヤ画廊で「動物」をテーマにした個展を同画廊最後(と真鍋は回想する)の無料展として開いた。伊達得 夫がそれを観に来た。

 通りに面したガラス戸のそばの椅子に坐った伊達さんは、なんと、つっかけ下駄をはいていたし、クツ下の色は、左右 ちがってい た。詩集や詩誌からうける清新なイメージとはちがい、格好はどうでもよい、という感じだった。伊達さんの仕事場は、すぐ近くの三省堂の向うの裏だった。後 に、その事務所をたずね、路地を入って二階へ上る急な傾斜の細い暗い階段を昇っていくと、なんと畳敷きの部屋があり、机が二つ並んでいて、それが「書肆ユ リイカ」だったのである。
 以後、若気の至りで、わたしは自由奔放にユリイカの仕事をさせてもらった。伊達さんは、だまってみているようでいながら、ご自分の美意識や趣味までわた しに示してくれていた。それをさぐるというか、そこからヒントをえて、小さいカットを仕上げ、表紙や装幀もやり、吉岡実さんの詩集『静物』や『紡錘形』の 表紙や函に絵を入れ、詩誌「鰐」(同人・飯島耕一、岩田宏、大岡信、清岡卓行、吉岡実)の表紙を描くことになるのであった。
 〔……〕
 わたしなど、瀧口さんについて語れるほどのエピソードを何一つもたないが、結果的に、この個展を期に、とうとう『ロートレアモン全集』に、なんと駒井哲 郎さんとたった二人、エッチングで「マルドロ〔ー→オ〕ルの歌」を挿入する大仕事をすることにつなげてくれた媒介者――霊媒師であった。(同書〔月報〕、 五〜六ページ)

次に〈真鍋博の略年譜〉(《真鍋博のプラネタリウム――星新一の插絵たち〔ちくま文庫〕》筑摩書房、2013年8月10日、〔二〇〇 ページ〕)の1955(昭和30)年から1964(昭和39)年までを引くが、上掲の個展は触れられていない(【 】内は小林の補記)。

こう見ると、《紡錘形》(1962年9月9日)の函・表紙・本扉の馬と羊のカット(陽子夫人は午年の、吉岡は未年の生まれ)が吉岡実と 真鍋博の共同作業の頂点だったようだ。それと並ぶのが岩田宏詩集《頭 脳の戦争》(思潮社、 1962年7月1日)で、こちらには「イラストレーション/真鍋博」「デザイン/吉岡実」とクレジットされている。以上2冊の装丁には、吉岡や岩田たちの 同人詩誌《鰐》(全10号)の表紙を真鍋が9号まで担当したことが与って大きい。〈詩誌『鰐』 - 田中栞日記 - Yahoo!ブログ〉に 「なお、第9号までは表紙絵を真鍋博が描いていた。色刷りされた鰐のイラストがオモテ表紙からウラ表紙に跨るように配されたダイナミックなレイアウトであ る。/最後の第10号だけは落合茂の版画が表紙を飾り、通常のA5判針金平綴じという冊子になっている。/本文組版はそれまでと同じなのだが、表紙デザイ ンと綴じが変わるだけで、どこにでもある平凡な小冊子に変貌してしまうから不思議だ」とあるように、9号までは伊達得夫の書肆ユリイカが発行していた (1961年の伊達急逝後、遅延していた10号の発行元は「大岡方 鰐の会」)。

吉岡実詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962)の函と表紙 吉岡実詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962)の本扉
吉岡実詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962)の函と表紙(左)と同書の本扉(右)〔カット:真 鍋博〕

〈瀧口修造に導かれて〉の14年前、真鍋博は〈忘れられない本〉(《朝日新聞》1977年12月19日)に伊達得夫のことを書いている。その〈書肆ユリイ カ刊『ロートレアモン全集』〉にはこうある。山川方夫からじきじきに初めての長篇小説《日々 の死》(平 凡出版、1959)を〈マルドロオルの歌〉の口絵のエッチング(一説に《ユリイカ》のカレンダー)のイメージで、と依頼されて装丁にも本格的に乗りだして 数年後、山川は交通事故で急逝。「伊達さんも、〔昭和〕三十六年、四十歳の若さで突如亡くなった。伊達さんを失って、ぼくの絵は変わった。悪の化身を描く のはやめにした。大事な人が亡くなりすぎる――ぼくは急に真昼と未来を描きはじめた」(同紙〈読書〉、一〇面)。真鍋の「転向」後の作品である《紡錘形》 のカットの明るさは、詩集の容姿としてそれなりにふさわしい(《僧侶》は「前期吉岡実」を代表する詩集だが、その造本・装丁は必ずしもそうではない。《静 物》のようなフランス装こそ「前期吉岡実」を体現するもので、《僧侶》の本扉に特色刷りされた紡錘形[、、、]のカットは同書の持つ過剰さの一面にほかな らない)。この〈忘れられない本〉は、長谷川郁夫《われ発見せり――書肆ユリイカ・伊達得夫》(書肆山田、1992)と田中栞《書肆ユリイカの本》(青土 社、2009)がともに引用・言及している文献だが、見たかぎりの真鍋の単行本には収められていない。同文は朝日 新聞社編《忘れられない本》(朝日新聞社、1979)に収録されたものの、真鍋の一連の回想文には矛盾する記述があって、一筋縄ではいかない。

吉岡実詩集《静かな家》(思潮社、1968)の函と表紙 吉岡実詩集《静かな家》(思潮社、1968)の本扉
吉岡実詩集《静かな家》(思潮社、1968)の函と表紙(左)と同書の本扉(右)〔装画:落 合茂〕

《紡錘形》の発行所は草蝉舎だが、要は私家版である(発売は思潮社)。《僧侶》を出版した書肆ユリイカが消滅した以上、私家版で出すほかなかった 吉岡実にとって、〈伊達得夫=書肆ユリイカ=《鰐》=真鍋博〉という系は、《紡錘形》を終焉の姿として閉じた。一方、《紡錘形》刊行と同じ1962年9月 に発行された《鰐》の終刊号に寄せた詩篇〈劇のためのト書の試み〉(E・1)は、落合茂装画の詩集《静かな家》(思潮社、1968)の巻頭を飾る(《紡錘 形》のときと同様、《静かな家》の函と本扉では馬と羊を組み合わせた図柄が反復されている)。ここに〈小田久郎=思潮社=所属同人詩誌なし=落合茂〉とい う新たな系の誕生を見た。これより後、吉岡実と真鍋博との共同作業がないのは、こうした背景を想定しないかぎり理解しにくい。

村野四郎《蒼白な紀行〔現代日本詩集11〕》(思潮社、1963年2月1日)の表紙 村野四郎《蒼白な紀行〔現代日本詩集11〕》(思潮社、1963年2月1日)の本扉
村野四郎《蒼白な紀行〔現代日本詩集11〕》(思潮社、1963年2月1日)の表紙(左)と同・本扉(右)〔装 丁:真鍋博〕

思潮社の〔現代日本詩集〕(1962〜1964)は全冊真鍋博装丁になる叢書で、《鰐》同人では飯島の《何処へ》(1963)、大岡の 《わが詩と真 実》(1962)、清岡の《日常》(1962)が出ている。吉岡と岩田の詩集が見えないのは、1962年に《紡錘形》と《頭脳の戦争》が出たばかりだから だろう。手許の村野四郎《蒼白な紀行》(1963年2月1日)の奥付裏広告を引けば、〔現代日本詩集〕は「A5版〔ママ〕本フランス装/装幀=真鍋博/各 巻三六〇円〒40」。NDL-OPACに拠れば1:小野十三郎《とほうもないねがい》、2:金子光晴《屁のやうな歌》、3:西脇順三郎《豊饒の女神》、 4:清岡卓行《日常》、5:谷川俊太郎《21》、6:高橋新吉《鯛》、7:安藤一郎《遠い旅》、8:大岡信《わが詩と真実》、9:黒田喜夫《地中の武 器》、10:高見順《わが埋葬》、11:村野四郎《蒼白な紀行》、12:鮎川信夫《橋上の人》、13:飯島耕一《何処へ》、14:安東次男《蘭・ CALENDRIER》、15:関根弘《約束したひと》、16:三好豊一郎《小さな証し》、17:山本太郎《西部劇》、18:高野喜久雄《闇を闇とし て》、19:会田綱雄《狂言》、20:安西均《夜の驟雨》、21:黒田三郎《もっと高く》、22:野間宏《歴史の蜘蛛》が刊行されている。全30巻構成の ラインナップには吉岡実の名も見えるが、結局刊行されず、それを補填するかのように全詩集の企画が進行した。
これらの本扉とフランス装の表紙まわりは真鍋博が担当して、本文組を編集者が指定したのだろう。フランス装といえば吉岡実の十八番だが、真鍋装丁の〔現代 日本詩集〕は吉岡の単行詩集《静かな家》の造本に影響を与えたように思う。《吉 岡実書誌》で 触れたとおり、《静かな家》の本文組版は同詩集の前年に刊行された《吉岡実詩集》の本文組版の流用である。そのためだろうか、同書の造本・装丁は吉岡の単 行詩集のなかでは清新さを欠く。全詩集ならともかく、単行詩集で本文活字が9ポというのはさびしいし、機械函の内側に表側と同じ印刷がされているのも、深 遠な意図に基づくというより、なにかの失敗だったとしか思えない。初出一覧がないことは、嘆いても嘆き足りない。奥付を本文の最終ページの対向に置くくら いなら、多少増 ペー ジしてでも初出一覧を含む後付に紙幅を割いてほしかった。これらのすべて、吉岡にしては珍しい詰めの甘さが〔現代日本詩集〕の造本・装丁に寄りかかったた めに生じたとは言えないにしても、その形を拉し来って、精神を等閑にしたようなのは残念だ(真鍋は裏表紙と本扉を同じテイストでまとめて、新生面を出して いる)。もっとも、こう書いたからといって《静かな家》の詩集としての価値が毫も下がるわけではない。私には、印刷・製本に贅を凝らした《紡錘形》より も、吉岡の「自費出版」型の造本(帯の付かない最後の詩集である)として、肩の力が入らないたたずまいが好ましく感じられる。《静かな家》のフランス装に は函入り[、、、]がふさわしい。《サフラン摘み》(1976)以降の吉岡の詩集は、「本フランス装」という容器に収まらない豊饒な作風へと変貌し、それ らの詩篇を収容した著者自装の書物は厚表紙の上製本仕様となる。


岡崎武志・山本善行=責任監修《気まぐれ日本文學全集 57 吉岡実》目次案(2014年5月31日)

岡崎武志・山本善行《古本屋めぐりが楽しくなる 新・文學入門》(工作舎、2008年6月20日)は見かけのポップさとは裏腹にゴリゴリの「文学書」書である。編集が大山甲日《大ザッパ論――20世紀鬼 才音楽家の全体像》《大ザッパ論2――鬼才音楽家の足跡 1967-1974》や黒岩比佐子《古書の森 逍遙――明治・大正・昭和の愛しき雑書たち》を手掛けた石原剛一郎さんだけに、本文(巻末〈本文人名索引〉が10ページ!)・装丁とも仕掛けは充分で、 ジャケットを覆い隠さんばかりの変型帯も楽しい。そのジャケットの袖にこうある。

 「文学」イコール「小説」では物足りない。
 随筆や詩も含めたジャンルの全体こそがまさに「文學」!
 「均一小僧」岡崎武志と、「古本ソムリエ」山本善行が
 喋り尽くす痛快娯楽「文學」談義。
 古本屋めぐりの悦楽の果てに、
 架空の「日本文學全集企画」が全貌を現わす!!

両氏の対談(文學漫談)でまず驚くのは、筑摩書房が文庫本を出すのを予見していたことだ。

筑摩が文庫を!  冗談が現実となった

岡崎――八〇年代後半か ら九〇年代半ばにかけて、文庫の世界で山本が挙げるトピックスって何かな。
山本――そら、なんと言 うてもまず「ちくま文庫」の創刊(一九八六年)やな。よう二人で言うとったやないか。文庫に関する冗談で「そのうち筑摩が文庫を出したりしてな」と か……。
岡崎――あのときは、そ んなことありえんという気持ちで言うてた。「筑摩が文庫で全集出したりしてな。宮沢賢治全集あたりを」とかも言うてた。
山本―― ちゃんと出てるがな(ちくま文庫版『宮沢賢治全集』1〜10、一九八六〜一九九五年)(笑)。しかし、あのときは驚いた。筑摩が文庫を出すんなら、もうこ れで日本に何が起こっても不思議やないと思うたな。いまなら、「みすず文庫」や「晶文社文庫」も夢じゃない。だいたい、それまでのイメージから筑摩と文庫 が結びつかへんかった。われわれには「筑摩信仰」とでも言うべき、特殊な思い入れがあるからな。筑摩と言うたら、函入りのカチッとした装幀の本をつくるっ てイメージやったから、軽装の文庫は似合わへん気がしてた。
岡崎――しかし、デザイ ンに安野光雅を起用して、さすがきれいな装幀の文庫になったな。クリームイエローで統一した背表紙も目立つし……ちょっと背の色が落ちやすいけどな。古本 屋でも講談社文芸文庫なんかと並んで値段も別格というところが多い。
山本――本棚に並べると きも、ちくまや講談社文芸文庫は著者別やなくて出版社別に並べたくなる。文庫で背中が魅力あるのは、ちくま、講談社文芸、福武ぐらいか。(一一二〜一一三 ページ)

そして、絶版文庫の書目の嵐(数十冊に一冊くらいの割で所蔵の文庫がある)。1970年代後半、大学生だったころがいちばん文庫本を 買った時期で、 それが40年ほど前だからもう少し絶版文庫を持っていてもよさそうなものだが、あいにく著者たちのような先見の明も探究心も持ち合わせていなかった。窪田 般弥訳の晶文社の黒い単行本――マックス・エルスントを彷彿させる司修の装画・装丁だった――が印象深いアポリネール《異端教祖株式会社》の文庫の話題は 嬉しいが(二二四ページ参照)、ジャケット装画がビアズレーと来れば「角川文庫版」ではなく鈴木豊訳の講談社文庫版だ。

〈文學漫談・その五 新・詩集入門〉は開始早早、《サフラン摘み》の書影を掲げて、こうある。
岡崎―― 〔……〕しかし、山本もいまだに詩集を読むし、ぼくもいまだに読んでる。本読みは多いけど、この大人になってからも詩集を読むという人がなかなかいない。 珍しいんやな。
山本――見たことないも んな。大人が電車のなかで詩集を読んでるの。〔……〕七〇年代は詩集がよく売れてたし、よく読まれたんと違うか。詩集のコーナーもいまより大きかったと思 う。古本屋でもけっこう詩集は並んでたし、値段も高かったんと違うかな。
岡崎―― 高かった。よく売れたんやろな。谷川俊太郎、田村隆一は別格としても、飯島耕一や吉岡実、清水昶[あきら]の昔の詩集の奥付を見ると、たいてい増刷されて いる。しかも四刷、五刷とかいってる。新刊の詩集が間違いなく現代文学の最前線にあって、大江健三郎や開高健の新作が話題になるように、吉岡実の『サフラ ン摘み』(青土社、一九七七〔ママ〕年)なんて詩集が話題になった。
山本―― そういうことは、その時代を肌で実感している者が語っておかないと、証言として残りにくい。あとになると、若い者には分からんようになるからな。そんな時 代があったということを。〔……〕雑誌も『現代詩手帖』(思潮社)のほか、『詩学』(詩学社)、それに『ユリイカ』(青土社)、このへんはいまでもあるけ ど、もっと熱っぽかったし、『カイエ』という冬樹社から出ていた雑誌(一九七八〜一九八〇年)にも詩のページがあった。そんな詩が元気だった時代が、八〇 年代の初めぐらいまでは続いたかな。(二九〇〜二九一ページ)

真打の〈文學漫談・その六 新・文學全集を立ちあげる〉。本稿の条件を設定する大事な箇所なので、以下に抄する。著者の二人は芥川龍之 介から花田清 輝までを収めた《ちくま日本文学全集〔全60巻〕》(1991〜93)を評価している(ただし、後出の上林暁は収録されていない)。

岡崎―― 〔……〕とにかく、ぼくらの新しい日本文学全集をつくろう。「ちくま日本文学全集」に匹敵するような文庫サイズの全集をな。上林暁は山本の編集で、一巻入 れることをまず決めておこう。(三八七ページ)
山本――編集を任された のはうれしいが、問題は上林暁の作品の何を選ぶかや。単行本未収録を中心にしたいとも思うし、代表作を集めたいとも思う、エッセイも入れたいし、これはな かなかにむずかしい。熱いセレクトになり過ぎるかもな。
岡崎―― しかし、まあ妥協はせずにやろう。五千部の部数で、定価を一五〇〇円に抑えるぐらいのところで考えていこう。ぼくらの後の世代の古本好きを刺激するような ものにしたいな。のちに古書価の付く文学全集にしたい。〔……〕まあ、全六〇巻としておこう。「ちくま日本文学全集」を見習う点はいくつかあると思うけ ど、どうかな。
山本――さっきも言った けど、一人一巻にしたこと。これは大きかったな。(三八八〜三八九ページ)
岡崎――〔……〕「ちく ま日本文学全集」のほうは、サイズも文庫判ということもあるけど、字面〔版面〕の大きさは「現日」〔筑摩書房の「現代日本文學全集」〕の半分で、一ページ がタテ三六字、ヨコ一五字〔行〕の一段組。平均五〇〇ページ。
山本――この一段組、と いうのが、老眼になったいまはありがたいなあ。
岡崎――さっきと同じ く、四七六ページある第1巻『芥川龍之介』(一九九一年)で字数を数えて、四〇〇字換算すると約六百数十枚。「現日」の三分の一しかない。単行本で言え ば、一・五冊から二冊ぐらい。(三九一ページ)
岡崎―― 「ちくま日本文学全集」が出て以降、これはいまなら入るやろ、という穏当なラインをつくっていこうか。例えば、小沼丹、後藤明生、小島信夫、山口瞳、種村 季弘、武田百合子、須賀敦子、洲之内徹、竹中労なんてところは、古本屋での人気も含めて、当然入ってくるやろ。営業のことも考えて、このへんの名前は欲し い。あ、まだ御存命やけど、庄野潤三を入れよう。庄野さんはぼくが編集をやらしてもらう。洲之内徹は『sumus』同人で画家の林哲夫さんに頼もう。あ、 同じく同人のライター荻原魚雷くんには古山高麗雄を、編集者の南陀楼綾繁くんには花森安治をやってもらおう。
〔……〕
山本――〔……〕詩集も 入れたい。『平井功詩集』『村山槐多詩集』。句集も入れたい。『永田耕衣句集』。永田耕衣はエッセイも入れよう。『わが物心帖』(文化出版局、一九八〇 年)を入れたい。〔……〕
岡崎―― 〔……〕『平井功詩集』なんて考えてたら、二〇〇巻ぐらい巻数を組まなあかんぞ。ただし『永田耕衣集』をつくって、句とエッセイを入れるのは賛成。それは それで目玉になると思う。それでも詩人の吉岡実とペアで一冊かな。詩人や俳人で一人、一巻は相当きついぞ。(三九二〜三九四ページ)
岡崎――〔……〕武満 〔徹〕に限らず、とにかくこの全集には、なるべく対談を入れたい。対談というと書いた文章じゃないから、これまでの全集では軽んじられることが多かった。 でも、その人がどういう人物かの早分かりになるし、肉声が聞ける。(四〇七ページ)

永田耕衣《わが物心帖》(文化出版局、1980年11月30日)のジャケット〔装画:永田耕衣〕(東京都立中央図書館所蔵本のカラーコピー)
永田耕衣《わが物心帖》(文化出版局、1980年11月30日)のジャケット〔東京都立中央 図書館所蔵本のカラーコピー、装画:永田耕衣〕

永田耕衣《わが物心帖》(文化出版局、1980年11月30日)に触れておこう。同書は〈高麗小仏〉から〈如来仏相のマスク〉までの 78篇の文章 を、田淵暁のモノクロ写真とともに収める。耕衣の〈はじめに〉によれば、主宰する俳誌《琴座》に十年来連載してきたもので、〈李朝民画 牡丹図〉の冒頭はこうだ。誰はばかることなく、「妄執」を繰りひろげている処が耕衣の真骨頂である。

 昭和四十四年七月十四日〜二十日、東京日本橋三越本店美術サロンで、「書と絵による永田耕衣展」開催、海上雅臣氏 の推輓と肝煎 りであった。会期中の七月十八日、私は詩人、吉岡実氏に随伴、浦和市の海上氏邸(花影小庵)を訪ねた。その時節、海上氏のコレクションを拝見中に、写真の 李朝民画「牡丹図」が、突然太陽のごとく出現した。私は絶叫した。こんな絵が描きたいのだ、とも叫んで垂涎した。
 爾後月日が経つほどに、この牡丹図が妄執のごとく忘れられなくなり、私は思い切って、花影小庵主にこの妄執を打ち明けた。妄執のアヤもあって、私が死ん だらお返しする、とはいったが、現今は死んでも手放せぬ、我が霊の秘蔵するところとなっている。(同書、一九ページ)

岡崎氏の提案する「吉岡実とペアで一冊」なら、吉岡の側にも同日のことを書いた〈日記抄――耕衣展に関する七章〉(《琴座》235号、 1969年 11月)と〈〈鯰佛〉と〈白桃女神像〉〉(永田耕衣全句集《非佛》栞〈田荷軒周囲〉冥草舎、1973)の2篇があるが、惜しむらくはどちらも単行本未収録 だ。よって、既刊本からのセレクトを旨とした〈第57巻[小林一郎=編]《吉岡実》の目次案〉(後述する)に盛り込めなかったのは残念である(〈日記抄〉 には「耕衣さんは朝鮮の素朴な花の絵に声をあげる」とある)。本論に戻ろう。山本・岡崎両氏による第一次五〇巻のリストがこれだ。

◎山本善行=選 第一次(五十音順)
足立巻一 天野忠 生島遼一 板倉靹音(翻訳詩集) 小沼丹 加能作次郎 鴨居羊子  河盛好蔵 上林暁 小出楢重 耕治人 小山清 武満徹 戸井田道三 殿山泰司 永井龍男 永田耕衣 中谷宇吉郎 野呂邦暢 福原麟太郎 松崎天民 矢川 澄子 山名文夫(装幀集) 由良君美 吉田健一

◎岡崎武志=選 第一次(五十音順)
鮎川信夫 安藤鶴夫 池田満寿夫 石田五郎 伊丹万作・十三 井上究一郎 小津安二郎(『東京物語』全カット、シナリオ収録) 久世光彦 串田孫一 小島 信夫 後藤明生 獅子文六 杉浦日向子 洲之内徹 武田百合子 種村季弘 田村隆一 花森安治 古山高麗雄 宮脇俊三 山口瞳 山本健吉(文庫解説集)  吉岡実 淀川長治 現代名作漫才集(四二〇ページ)

一冊一人集(伊丹万作・十三は親子で一冊だが)の人選もすごいが、山名文夫(装幀集)、山本健吉(文庫解説集)――これには参った。続 くページには全60巻構想に沿って、工作舎が制作したダミー(ジャケットの見本)まで撮影、掲載してある(〈新・文學入門/気まぐれ日本文學全集/工作舎〉参 照)。著者と編集者が盛りあがっている様子が目に見えるようだ。そして大喜利〈架空企画! 岡崎武志・山本善行=責任監修「気まぐれ日本文學全集」全六〇 巻構想〉が来る。その註記に曰く「本全集はあくまで架空[・・]の企画です。各巻の内容、選者については了解を得ているわけではありませんので、あらかじ めご了承願います」(四三〇ページ)。第57巻が[平出隆=編]の《吉岡実》である。これは読んでみたい。だが同全集は、対談にも再三登場する第20巻 [山本善行=編]《上林暁》の目次案があるだけで、他巻の収録内容はすべて空白なのだ(第06巻の《池田満寿夫》は[佐藤陽子編、自伝エッセイ・美術エッ セイ収録]で、これが最も詳しいもののひとつ)。幸いなことに、平出隆編の吉岡実詩は見当がつく。《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)に掲載された大岡信・入沢康夫・天沢退二郎・平出隆の討議の前段として四氏が約30篇ずつの詩を選んでいて、平出隆編の吉岡 実詩は次の34篇だったからである(最終的に掲載されたアンソロジーが〈代表詩40選〉)。詩集ごとにまとめて掲げる。

  1. 静物(B・1)、静物(B・2)、静物(B・3)、静物(B・4)、卵、過去(B静物)
  2. 告白、僧侶、苦力、死児(C僧侶)
  3. 老人頌、下痢、鎮魂歌(D紡錘形)
  4. 劇のためのト書の試み、孤独なオートバイ、やさしい放火魔、静かな家(E静かな家)
  5. わが馬ニコルスの思い出、コレラ(F神秘的な時代の詩)
  6. サフラン摘み、ルイス・キャロルを探す方法、悪趣味な内面の秋の旅、マダム・レインの子供、動物(Gサフラン摘み)
  7. 楽園、晩夏、螺旋形(H夏の宴)
  8. 薬玉、巡礼、垂乳根、青海波(J薬玉)
  9. 〔食母〕頌、わだつみ、晩鐘(Kムーンドロップ)

《静物》《僧侶》《サフラン摘み》《薬玉》に手厚く、《静かな家》の4篇が際立っている。随想は、これも平出隆監修の《現代詩読本―― 特装版 吉岡実》に再録された〈エッセイ〉を見ればよい。

  1. 吉岡実氏に76の質問(高橋睦郎)(現代詩文庫 14 吉岡実詩集)
  2. 済州島(「死児」という絵)
  3. 「想像力は死んだ 想像せよ」(「死児」という絵)
  4. 二つの詩集のはざまで(「死児」という絵〔増補版〕)
  5. 懐しの映画――幻の二人の女優(「死児」という絵)
  6. ベイゴマ私考――少年時代のひとつの想い出(「死児」という絵〔増補版〕)
  7. 好きな場所(「死児」という絵)
  8. 突堤にて(「死児」という絵)
  9. 「ムーンドロップ」(未刊行散文)
  10. 《うまやはし日記》より(うまやはし日記)

残念なことに対談が採られていない。そこで僭越ながら、私が編むならこうだという目次案を伝授しよう。詩篇は生前刊行の12詩集から、 計30篇を選 出した。なお、山本善行編になる《上林暁》は《星を撒いた街――上林曉傑作小説集》(夏葉社、2011)と《故郷の本箱――上林曉傑作随筆集》(同、 2012)の2冊に結実しているので、前述の第20巻[山本善行=編]《上林暁》の目次案と比較すると興味深い。

第57巻[小林一郎=編]《吉岡実》の目次案

[T=詩篇]
序歌、白昼消息(@昏睡季節)
風景、夢の翻訳――紛失した少年の日の唄(A液体)
静物(B・1)、静物(B・2)、過去(B静物)
僧侶、感傷、死児(C僧侶)
老人頌、首長族の病気(D紡錘形)
模写――或はクートの絵から、滞在(E静かな家)
夏から秋まで、わが馬ニコルスの思い出(F神秘的な時代の詩)
サフラン摘み、聖あんま語彙篇、ルイス・キャロルを探す方法〔わがアリスへの接近 少女伝説〕(Gサフラン摘み)
楽園、螺旋形、夏の宴(H夏の宴)
斑猫、猿(Iポール・クレーの食卓)
雞、青枝篇、落雁(J薬玉)
産霊(むすび)、聖童子譚、〔食母〕頌(Kムーンドロップ)

[U=短歌]
歌集《魚藍》〔全〕

[V=俳句]
句集《奴草》〔50句抄〕

[W=散文]
西脇順三郎アラベスク(「死児」という絵〔増補版〕)
覚書(耕衣百句)
1 青い柱はどこにあるか?、2 出会い・「ゲスラー・テル群論」、103 十二月は残酷な月、104 暗い新春、105 柩の前で、106 哀悼の一句、107 風神のごとく――弔辞(土方巽頌)

[X=対談]
飯島耕一との対話=詩的青春の光芒(《ユリイカ》1975年12月臨時増刊号)

(後付)
出典(初出と書誌)
吉岡実年譜
解説

これを「一ページがタテ三六字、ヨコ一五字〔行〕の一段組」で組むと、約296ページになる。以上は一種の思考実験だったわけだが、 [平出隆=編] や[城戸朱理=編](散文選集《吉岡実散文抄――詩神が住まう場所》の実績がある)と並んで、[松浦寿輝=編]や[小笠原鳥類=編]の《吉岡実》も読んで みたい(故人なら、[篠田一士=編]や[澁澤龍彦=編]、[土方巽=編]があったらと渇仰される)。手掛かりが少なくて予想がつきにくいだけに、愉しみも 大きい。

〔追記〕
丸谷才一・鹿島茂・三浦雅士《文学全集を立ちあげる》(文藝春秋、2006)は〈世界文学全集〉と〈日本文学全集〉の2篇から成 る。後者は語りおろしで、2006年になされた鼎談だろう。その〈白樺派、プロレタリア文学の問題〉の節で、上林暁はさんざんな扱われようだ。(《文学全 集を立ちあげる〔文春文庫〕》文藝春秋、2010年2月10日、二四四〜二四五ページ)

――〔=司会の湯川豊〕昭和の私小説系の作家をどうするか。滝井孝作、網野菊、藤枝静男……。葛西善蔵、嘉村礒多、 川崎長太郎。
丸谷 そのへんみんなや めようよ。
鹿島 上林暁とか川崎長 太郎とか、彼らはほんとに文章下手ですね。
――下手であることを誠実だと思っているふしもあります。藤枝静男だけはちょっとどうでしょう。
三浦 藤枝静男に関して も、僕はぜひとも、っていうふうには思わない。
丸谷 「名作集」に入れ たらいいでしょう。

筑摩書房の創業者、古田晁が太宰治に次いで敬愛した文人(筑摩から全19巻の増補改訂版全集が出ている)の作品は、山本善行だけでな く、関口良雄 (書影と書誌を編んだ和装本《上林暁文学書目》や上林に触れた随想を収めた遺稿集《昔日の客》がある)といった具眼の士からも評価されており、筑摩の「現 日」では井伏鱒二との二人集である(私は短篇小説〈夏暦〉のまえがきとあとがきに打たれた)。丸谷・鹿島・三浦の三人による《文学全集を立ちあげる》と岡 崎と山本の二人による〈新・文學全集を立ちあげる〉の巻立てを較べると、架空の文学全集の編纂がいかに興をそそるものかが実感できる。本稿はそれへの私な りの頌[オマージュ]である。ちなみに、鼎談の本文に吉岡実は登場しないが(西脇順三郎は登場する)、〈日本文学全集巻立て一覧〉の名作集、第79巻〈近 代詩集〉に収録されると考えていいだろう。収載詩篇は、《静物》《僧侶》《サフラン摘み》《薬玉》などの詩集から、標題作を含む抄録数篇といったところ か。


《魚藍》と魚籃坂(2014年4月30日〔2014年8月31日追記〕)

吉岡実の歌集《魚藍》(限定70部記番)は和田陽子を発行者として、ふたりの結婚を記念すべく1959年5月9日、私家版で刊行された。内容は吉岡の最初の著書である《昏睡季節》(草蝉舎、1940)の〈序歌〉ならびに〈蜾蠃鈔〉(短歌44首旋頭歌2首)と同じで、新たに〈あとがき〉が付された。吉岡は後年、随想にこう書いている。

 習作的詩歌集『昏睡季節』の〔……〕後半は短歌四十七首「蜾蠃鈔」と名づけた。記憶があいまいだが、蜾蠃はスガルと訓み、ハチの一種。万葉集のなかに「スガルヲトメ」という華麗な表現があったように思う。これを改題したものが、現在の小歌集『魚藍』である。(〈新しい詩への目覚め〉、《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、1988、八一ページ。初出は《現代詩手帖》1975年9月号)

吉岡は大岡信に「もとの表題は「蜾蠃鈔」というんだけど、活字がなくて『魚藍』にしたんだ」(《ユリイカ》1973年9月号、一四七ページ)と改題の理由を語っているが、ほんとうにそうだろうか。〈蜾蠃鈔〉は詩歌集《昏睡季節》の和歌の標題だったが、単独の歌集の書名は《魚藍》だという確たる根拠がなければならない。本稿ではその由って来るところを考察する。「魚藍」が東京・港区の地名「魚籃坂」に依るという説がある。詳細は後述するが、私はこれを半分だけ肯定したい。吉岡は1950年代前半、ということはのちに詩集《静物》(1955)となる詩篇を書きついでいた当時を次のように振り返っている。随想〈西脇順三郎アラベスク〉の〈3 化粧地蔵の周辺〉で西脇の詩〈山の暦(イン・メモーリアム)〉を引いてから、こう続けるのだ。なお、初出は《西脇順三郎 詩と詩論〔第6巻〕》付録〈人と作品〉(筑摩書房、1975年10月31日)で、原題は〈西脇順三郎アラベスク〉。【 】内は私の註記である。

 これは、名詩集といわれる《近代の寓話》のなかの一篇〈山の暦(イン・メモーリアム)〉の一節であるが、私にとって、忘れることのできない作品である。今から五年前【後出《じゅんさいとすずき》の刊行時からすれば1969年、随想の執筆時からすれば1970年】の秋の初めごろだった。西脇先生は出来たばかりの随筆集《じゅんさいとすずき》に署名するため、来社された。百二十冊にサインをすませるとさすがに手首が痛くなったと、西脇先生は苦笑された。そして急に思いつかれたように、三田に気に入った飲み屋があるから行こうと会田綱雄と私をタクシーにのせた。田町駅近くで降りると、大通りに面して真黒い店構が見えた。それは文字通り黒塀という酒蔵【2014年の時点で存在を確認できない】であった。まだ四時ごろというのに、酒好きの客が適当に入っているのも私たちをいっそう快い酔にさそった。日の傾くころ西脇先生は少し散歩しようと言われた。
 会田綱雄はたびたび先生と小旅行や散歩をしていたが、酒をたしなまない私にとっては、こうした先生とのそぞろ歩きは初めてだった。魚籃坂【東京都港区三田4丁目・高輪1丁目の境。坂の名は魚籃寺=港区三田4-8-34、から】、伊皿子坂【港区三田4丁目・高輪2丁目の境】を歩き、荻生徂徠の墓【長松寺=港区三田4-7-29】を見てから、細い横道の坂【幽霊坂】をのぼると、化粧地蔵【玉鳳寺=港区三田4-11-19】が立っていた。真白く塗られた地蔵さんの顔は赤い涎れ掛けをして、むしろ青白くさえ見え、今でも一種の妖気を漂わせている。
 私は二十数年前のことを想い出していた。この地蔵さまの下の岩瀬という家に、若い画家吉田健男と下宿していたのだ【吉岡は1951年、魚籃坂の近くに下宿し、二間続きの部屋に健男と住んだ】。家主は四十五、六の後家さんで、いつも赤いただれた瞼と眼をしていた。冬の深夜に、親子三人の寝顔を見ながら、私は便所へかよったものだ。私たちは台所を出入り口にしていた。ちょうどそこには鶏小屋があって、真夏は糞[ふん]の臭いに閉口した。神経質な健男はことにいやがった。彼は子供のころ咽喉の病気をしたとかで、いつもかすれた声をして、不精者の私を叱るのだった。庭というか空地の向うに、まだ貧乏な三遊亭円生【1947年3月、「港区三田豊岡町」に転居】が住んでいたが、不思議なことに落語を喋っているのを聞いたことはなかった。
 近くに徂徠の墓処があったので「鶏糞[ふん]の香や隣りは三遊亭円生師」と二人は笑った。もちろんそれは其角【日本橋茅場町に開いた江戸座に隣接して、荻生徂徠が起居し蘐園塾を開いていた】の「梅が香や隣りは荻生惣右衛門」のパロディーである。友人たちは、私と吉田健男との共同生活は一年も持たないだろうと言ったが、昭和二十九年の夏、彼が軽井沢で年上の婦人と心中するまで続いた。
 この細長い部屋から私の詩集《静物》は生れた。
 夜遅く化粧地蔵の前を通るのを、いつも恐がっていたわが友吉田健男を、いま私は懐かしく想い出していた。(同前、二二九〜二三〇ページ)

魚籃寺の山門 魚籃寺 魚籃観世音菩薩像
魚籃寺の山門(左)と山門前に安置されている水子地蔵(中):魚籃寺は「元和三年(1617)豊前国中津円応寺中に魚籃院を開創、〔宝→寛〕永七年(1630)三田に移り、承応元年(1652)現地に建立、はじめ院号を水月院と称し安永三年(1774)現院号に改めた。本尊の魚籃観音により魚籃坂の地名ができている」(東京都港区役所編《港区史〔上巻〕》東京都港区役所、1960年3月15日、三二三ページ)。なお西暦は引用者の補記(以下同)。魚籃観世音菩薩像(右)〔出典:魚籃観世音菩薩像と魚籃寺(三田山 魚籃寺、刊行日記載なし、六ページ)〕

東京都港区役所編《港区史〔上巻〕》(東京都港区役所、1960年3月15日)は魚籃観音の由来について次のように記す。
「三田台の魚籃坂という地名にとられている、浄土宗三田山魚籃寺の魚籃観音は奇瑞の仏として信仰された。その縁起にいうところでは、唐に魚をひさぐ美女がいた。多くの人が恋したが、観音経を一日でおぼえたら従おうという。これは皆できた。さらに法華経を与えられて、馬郎という者だけがよくできたので結婚したが、その夜に女は急死し、馬郎はたいへん悲しんで、その女を火葬にした。翌日一人の老人がきて、私は女の父であるから跡をみせてくれというので連れて行つてみると、灰の中は全て仏骨であつた。老人はあの女は観音の化身であつて、私も分身の菩薩であるといつて消えうせた。これを奇縁として馬郎は仏道に入つたという。当寺本尊の観音の面輪は唐の女らしく、右手に魚のはいつた籃、左手に天衣をたずさえた、たけ八、九寸の立像である。開山法誉が長崎からもたらしたものといつているが、『江戸砂子補正』には、もと伊皿子長応寺の置き物であつたのを、当寺でもらいうけ魚籃観音と名づけたものと記している。いずれにせよ、信仰を集めたことは事実である。古川柳にも、
  魚籃様お使いがらという姿
魚のかごをさげた観音が、いかにもお使いに行くというかつこうだ、との意である。
  魚籃近所かと頼光聞き給ひ
 源頼光の四天王の一人、渡辺綱が三田の生まれであるという伝説のあるところから、「ははあ、お前の在所はあの魚籃観音の近所か」と頼光がきいたとの意、いずれにせよ、かく信仰の対象さえ、川柳の毒舌にかかるところに、当代の信仰の質が思われるであろう」(〈第四編 近世 第十章 寺社と信仰 第四節 一般民衆の信仰〉、同書、一〇四五〜一〇四六ページ)。
宇野信夫監修・正木信之撮影《六代目三遊亭圓生写真集》(少年社、1981年9月1日)の〈六代目三遊亭圓生年譜〉には、年齢は数え年として「昭和22年(一九四七)・48歳」の項に「3月17日、大連から帰国。港区三田豊岡町(現三田五丁目)に落ち着く」(同書、一五六ページ)とある。圓生自身の《書きかけの自伝〔旺文社文庫〕》(旺文社、1985年3月25日)にはさらに詳しく、引き揚げ船の着いた諫早に届いたハガキの「裏を見たら、港区豊岡町に立ちのいているからという知らせなんです。家が焼けたということはずっと前に手紙がきてわかっていましたが、その後の消息が知れず、心配していましたがこれでやっと家族の安否が知れたわけです。一枚のハガキがあんなにうれしかったことはありません。/東京は、もちろん焼け野原だろうと思って帰ってきたんですが、いちばん上の娘が豊岡町に嫁[かた]ずいていまして、幸いそこが助かったので家内と子供たちもみんなそこへ身を寄せていました。電報を打っておいたので迎えにもきてくれて、やっと豊岡町の家に落ち着きました」(同書、一二七ページ)とある。興味深いことに、写真集は昭和20年代のページに「三田豊岡町時代の圓生夫妻(昭和25年ごろ)」(同書、七五ページ)というキャプションとともにモノクロ写真を掲げている。年代から見て、この圓生宅の至近にあった岩瀬家(こちらも戦災を免れたものか)で吉岡実は《静物》を書いたのだ。さらに言えば、《僧侶》の〈冬の絵〉(C・6)にも当時の記憶が揺曳しているように思う。

「三田豊岡町時代の圓生夫妻(昭和25年ごろ)」
「三田豊岡町時代の圓生夫妻(昭和25年ごろ)」
出典:宇野信夫監修・正木信之撮影《六代目三遊亭圓生写真集》(少年社、1981年9月1日、七五ページ)

吉岡が随想に引いた〈山の暦(イン・メモーリアム)〉の同じ箇所を読んでみよう。全87行の中ほどの33行である。句点の存在から見て、吉岡は初版《近代の寓話》(創元社、1953年10月30日)を底本にしたようだ。注目すべき箇所に下線を付す。6行め「家の方」は、鍵谷幸信編〈西脇順三郎年譜〉に「昭和二十五年(一九五〇) 五十七歳/五月十日、港区芝白金台町一丁目八十番地へ移る」(《定本 西脇順三郎全集〔第12巻〕》筑摩書房、1994年11月20日、五三〇ページ)とあり、詩に書きこまれた各処は勤務先の慶應義塾大学からの帰路に点在する。「江戸の三味線づくりのなんとかという/男の墓」は「江戸における三味線製作の始祖」(東京市)、「三味線のストラディヴァリ親子のような名匠」(俵元昭)の異名を取る石村近江の墓で、魚籃寺の下の大信寺(港区三田4-7-20)にある。

いろいろ職業のことを考える。
カボカボと泥の中を歩いて
ヒルを取って渡世する老人もいる
がシェクスピアを読んで渡世する
奴もいるのだ
ぶらぶら家の方へ帰る
寺町といわれる程寺がないのに。
だがその理由が突然わかった。
実はバスの通る路から少し南の坂を
のぼると、お寺だらけだ。
中にはイギリスの別荘の裏門のよう
な門があり、住職は洋服に下駄を
はいて門をふいている。
この山腹の寺々の世界には
江戸を忍ぶ「ひより下駄」なら。
なにしろポケットに「マクベス」を入れて
いる男はあわない。
「マクベス」の中でこおろぎが鳴いて
いる。
化粧地蔵[おけしようじぞう]にリラの花をあげたらよい。

昔小伝馬町から芝高輪へ転居して
中国により近づいたと言って
よろこんだ荻生徂徠バスの通り
面している。
江戸の三味線づくりのなんとかという
男の墓ぎょらん坂の中途だ
東海道の一部分であった二本榎の通りを
歩いて、やがて横みちを下りて
どこかへすがたを消す
富士山の頂上にイタドリが生えている
ことを発見したヨネ野口も
一緒に巴里へ行ったF先生も
皆この山の暦[こよみ]の中の薔薇となった。

幽霊坂 桜田通り
幽霊坂 岩瀬家のあった辺り(左)と桜田通りに面する坂下(右):玉鳳寺門前から幽霊坂(吉岡文の「細い横道の坂」、港区の案内杭には「坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしい」とある)を見下ろすと、坂下を東西に走るのは桜田通り(西脇詩の「バスの通る路」「バスの通り」)である。吉岡文の「地蔵さまの下」は、玉鳳寺の幽霊坂方面の「下」ではなく、山門正面の坂の「下」(ただし付近の港区の掲示板に「1956年(昭和31年)当時 芝三田南寺町」と見え、「豊岡町」ではない)のようにも読めるが、一戸建てやアパート、マンションが立ち並ぶ現地で岩瀬家を確認することはできなかった。

化粧地蔵 化粧地蔵
玉鳳寺 地蔵堂(左)と化粧延命地蔵(右):化粧地蔵は山門横の地蔵堂に安置されており、いつもシッカロール(ベビーパウダー)や果物が供えてある。玉鳳寺は「慶長四年(1599)八丁堀に開創、寛永十二年(1635)現地に移転、開山梅巌/おしろいを塗つて願をかけたお化粧地蔵がある」(《港区史〔上巻〕》、三二二ページ)。玉鳳寺の古い表札に記されている住所は「芝區三田南寺町三十一番地」、すなわち西脇詩の「寺町」である。

ひょっとすると吉岡は《静物》を出す直前の1955年に「麻布豊岡町の下宿を出て練馬の太田大八宅に近い江古田に間借」(吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉)して以降、西脇・会田と散歩するまで芝三田豊岡町(現在の港区三田4丁目・5丁目)を訪れていないのかもしれない。西脇の詩(初出未詳だが1950〜53年の執筆だろう)に書かれた地誌こそ、かつて吉田健男とともにあった吉岡の起居した地のものだった。詩人本人とともに20年後に当地を歩くのは、どれほど感慨深いことだろう。吉岡実詩がその種の地誌を取り込むことは決してないのだ。「私にとって、忘れることのできない作品である」ゆえんである。――筑摩書房は吉岡が入社した1951年当時、東大正門前に近い「文京区本郷台町9」にあった。吉岡は〈和田芳恵追想〉でこれを「本郷森川町」(現・弥生1、西片2、本郷6・7)と書いているが、あるいは同じか。通勤には都電を利用し、田村町(港区芝田村町は現・西新橋)で乗り換えて豊岡町の下宿に帰っていたようだ(現在、都電はない。交差点付近のいたるところに「魚籃坂下」というバス停があるが、互いに少し離れている)。筑摩が「千代田区神田小川町2-8」に移転したのは1954年12月のことである。――吉岡の詩における「化粧地蔵の周辺」は、鶏の糞さえ雪に埋まり、雪は蝟集して卵と化す。

雪(B・14)

ふりつづく雪に
すつかり匿された
鶏小屋のほのぐらいなかで
いきもののイマージュ
生きつづけるものの差恥
かなしい排泄の臭気がただよふ
内と外のけじめがなくなる時
しじまの裡で
牝鶏は卵をうみはじめる
雪よりも炎えた
白い卵が一層重みを増し
暗い照り合はない辺境から
意志を発して
ずりおちてくる
空間は感じやすい均衡をやぶり
きんいろの藁のうへに
苦痛の生をうけとめる
へこむものが
藁でなければ
この大地であらうか
しづまり輝きだす
一個の異様な物体のまへで
見えないもの 把握できないものに
おびえたりいらだつたり
叫喚するものたちがたしかにゐる
このひどい雪ぶりの向ふで
たじろぎ遠ざかる
それら
麻痺した烏賊のやうなむれ
薄明の金網の外では
次第に
塑像のやうに
下から埋まつてゆく
樹や
不安な社会がある

《魚藍》(1959)は《昏睡季節》(1940)、《液体》(1941)、《静物》(1955)、《僧侶》(1958)に続く吉岡実の5冊めの著書にして初の歌集である。漢字二字の熟語は、詩集の命名法の延長線上にある。その魚藍だが、そもそも「藍」は蓼科の一年草であり、そこから得られる濃青色の天然染料(インディゴ)であり、その色(藍色)である。本来の「魚籃」なら、獲った魚を入れておく器、びく=魚籠だ。書名を《魚籃》としたのでは「びく」と読まれる惧れがある。一方、「魚藍=ぎょらん」からは魚卵が想起される。さらに、かすかにではあるが、大手拓次の《藍色の蟇》ならぬ「藍色の魚」が。ここで《静物》からもう一篇引こう。稿本で当初、中扉「T 静物」のすぐあとに置かれていた、印刷入稿時における《静物》の巻頭詩篇である(漢字は新字に改めた)。

静物(B・2)

夜はいつそう遠巻きにする
魚のなかに
仮りに置かれた
骨たちが
星のある海をぬけだし
皿のうへで
ひそかに解体する
燈りは
他の皿へ移る
そこに生の飢餓は享けつがれる
その皿のくぼみに
最初はかげを
次に卵を呼び入れる

吉岡実自筆の〈静物〉(B・2)原稿
吉岡実自筆の〈静物〉(B・2)原稿〔なにかのアンソロジーのために書き写されたと思しい〕
出典:吉岡実詩稿「静物」コクヨ原稿用紙(20x20)2枚 - ヤフオク!

ここには魚もいれば卵もいる。もっともこの「卵」、魚卵というより鶏卵に読めるが。それはともかく、三十代の吉岡は魚籃坂の近く、二間続きの部屋に画家吉田健男と下宿して《静物》の詩篇を書き継いでいた。四十歳で独身生活を切り上げるに当たって、記念の歌集に《魚藍》と名付けた。それは、「その人たち〔結婚を祝ってくれたまわりの幾人か〕にささやかでも心のこもったものをくばりたいと思った。私たちにとっても、他の人たちにとっても生涯記念になるものを。私の未刊の詩を小冊子にしようかとも考えたが、いささか特異にすぎてふさわしく思えなかった。そこで二十代前後期につくった短歌で現存している四十七首を文庫判の小冊子にした」(〈救済を願う時――《魚藍》のことなど〉、《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、1988、六四ページ)ものだった。魚籃坂中腹に位置する魚籃寺の本尊は魚籃観世音菩薩――「此本尊は唐仏で、法誉上人が長崎にあつたのを持ち来つたものである。仏形面相唐女のごとく、右の手に籃に魚の入つたのを持ち、左に天羽衣を携へた八九寸ばかりの立像である。此魚藍観音には次ぎの様な縁起が語り伝へられる」(《芝區誌 全》東京市芝區役所、1938年3月31日、一四〇〇ページ〔漢字は新字に改めた〕)として紹介されているのが、前掲の「三田台の魚籃坂という地名にとられている、云云」の文章である(ただし同文は《芝區誌 全》を書きあらためたもの)。ここから容易に考えられるのは、陽子夫人を魚籃観音に見立てたという筋である。しかし吉岡実の想像力は祝婚歌を呪婚歌にしてしまうほどに猛猛しいものだった。魚籃坂の魚籃寺の魚籃観音はそのままの姿で登場することができず、ギョランの音通で魚藍が用いられた(吉岡の造語にも思えるが、現実には魚籃坂周辺の店舗の名にしばしば「魚藍」とあって、それを誤用とする指摘もある)。ギョランが背後に魚卵を擁することはすでに述べた。結婚という吉岡の新たな出発を記念する書物の標題は、自身の詩的出発となった《静物》を書いた(近隣の)地名から「魚籃」→「ギョラン」→「魚藍」と変転して現行のものとなった。一方で「籃」ならぬ「藍」から思い浮かぶのは「出藍の誉れ」という故事成語、「青は藍より出でて藍より青し」という諺である。こうは考えられないだろうか。最初の著書である詩歌集に付録のようにして載せた和歌のほうが、本来の眼目だった詩篇より優れていると認めたゆえの「藍」の一文字だ、と。これらの理由によって、吉岡は二十歳のころの和歌を一冊にまとめるに際して(仮に活字があったとしても)蜾蠃鈔ではなく、魚藍という見慣れない語を書名として採用したのではないか。吉岡は《魚藍》以降、本業の詩作ではのちに《紡錘形》(1962)にまとめられることになる、それまでの(《静物》では色濃く、《僧侶》ではやや薄く、抱えもった)「単独者の私性」とでもいうべきものを突き抜けた未知の領域に踏み込んでいく。「単独者の私性」の原点である最初の著書、そこからの再録・再刊はそれを総括し、吉岡の生活と創作、あるいは人生と芸術とを大きく変える契機となった。付言すれば、吉岡が飛躍を期して過去の著述をまとめなおしたのは、このときが初めてだった。生前最後の著書となった《うまやはし日記》(1990)はその大掛かりな再演と言えよう。吉岡は二十歳前後の詩の始まりの向こうに散文作品もしくは長篇詩という新たな飛躍を展望していたが、病いがそれを阻んだ。

〔追記〕
魚籃坂を調べていて、意外なところで吉岡との関連性を見つけた。横溝正史の長篇小説《病院坂の首縊りの家》(《野性時代》1975〜1977年連載。初刊《病院坂の首縊りの家――金田一耕助最後の事件》は角川書店、1978年2月刊)にこうある。

 〔……〕私がなぜこのようなことをくだくだしく書いているかといえば、これからお話しようとしている、あの世にもおぞましき事件の舞台となった、いわゆる「首縊りの家」のある病院坂というのは、麻布と芝との境目にあたっているからである。その辺はやたらに坂の多いところで、いま眼のまえに並んでいる二枚の地図をみても、魚籃[ぎょらん]坂とか伊皿子[いさらご]坂、名光[めいこう]坂とか三光[さんこう]坂、蜀江[しょっこう]坂。義士外伝で有名な南部坂[なんぶざか]雪の別れの南部坂なども、ほど遠からぬところにあるらしい。ほかに仙台[せんだい]坂、明治[めいじ]坂、新[しん]坂、奴[やっこ]坂、狸[たぬき]坂等々々、枚挙にいとまあらずだが、なかには暗闇[くらやみ]坂などという物騒な名前の坂もある。
 私がこれからお話しようとしている問題の坂は魚籃坂のちかくにあり、〔……〕(《病院坂の首縊りの家(上)〔角川文庫〕》角川書店、1978年12月20日〔改版六版:2005年6月15日〕、一〇ページ)

1979年、《病院坂の首縊りの家》は市川崑監督作品として映画化された。その脚本を手掛けたのが久里子亭(市川のペンネーム)と、吉岡の戦後間もないころの友人日高真也(出版社での同僚であり、吉岡を《新思潮》〔第14次〕に誘った文学青年)と同姓同名の人物なのである。脚本家日高真也氏は2002年に81歳で亡くなっていて(吉岡よりふたつ年下か)、死去を伝える記事に「サンケイスポーツ記者時代から脚本を手掛け、テレビドラマや映画に幅広く活躍した。代表作に市川崑監督の映画「細雪」「犬神家の一族」、テレビ時代劇シリーズ「木枯し紋次郎」など」(共同ニュース)とある。吉岡は小説家志望だった日高にしか触れていないが、この脚本家は年齢からいっても吉岡の友人日高真也と見て差し支えないと思われる。日高は《病院坂の首縊りの家》脚本化にあたって横溝の原作を読んでいるわけだから、上掲文の魚籃坂のくだりから吉岡(の住まい)を想いうかべたことだろう。


吉岡実と飯島耕一(2014年3月31日)

昨2012年10月の飯 島耕一逝去のおりの《朝日新聞デ ジタル》の記事は、処女詩集《他人の空》、詩集《ゴヤのファースト・ネームは》(高見順賞)、《北原白秋ノート》(歴程賞)、長篇小説《暗殺百美人》 (ドゥマゴ文学賞)、詩集《アメリカ》(読売文学賞・詩歌文学館賞)と代表的な著作を挙げていた。略歴には1956年「詩人の大岡信さんらとシュルレアリ スム研究会を立ち上げた。大岡さんのほか、清岡卓行、吉岡実らの詩人とともに59年に詩誌「鰐(わに)」を創刊した」、「萩原朔太郎や西脇順三郎などの詩 人論も著した」とあった。私は飯島の全著作を読んでいるわけではなく(吉岡は贈られた本はすべて読んでいるはずで、《現代詩読本》の口絵写真を観ると、自 宅の書棚の一等地には自著とともに飯島や大岡信の詩集が並んでいる)、詩集と詩人論はそれなりに読んでいるが、《北原白秋ノート》と《暗殺百美人》は未読 だった。これらの著作を手掛かりにして、吉岡実と飯島耕一のことを考えてみたい。

《北原白秋ノート》(小沢書店、1978年4月30日)は吉岡の《薬玉》誕生の契機(のひとつ)になったと考えられる。飯島の「白秋は もっと読まれ るべきである。そして知られるべきである。われわれは白秋の名のみを知っていて、白秋その人に無知のままなのだ」(同書、三〇六ページ)という〈あとが き〉の一節は、若年のころ白秋短歌に魅せられた吉岡にとっても頂門の一針だったに違いない。「もとより本書は入門的な書であり、また白秋の一面しか追体験 していない。白秋はもっともっとふところの深い詩人だということもぜひとも言っておきたい。『邪宗門』の白秋、『思ひ出』の白秋、『桐の花』の白秋につい てあまりにもぼくは語らなかった。むしろその他の白秋――『雀の生活』や『雀の卵』や『フレップ・トリップ』の白秋を紹介したかったからだ」(同前)とい う若い詩人や歌人に向けたメッセージは、だれよりも吉岡に届いた。私は次のような行文に注目した。なお、本書で斎藤茂吉への言及が多いのは、角川書店の 《短歌》誌に連載(1977年1月〜12月)したときのタイトルが〈白秋と茂吉を求めて〉だったことによるだろう。

白秋のあけっぴろげの散文はこちらも読むのに抵抗少なく、スピードをもって読めるが、茂吉の散文は読むのに時間がか かる。しかも 真意はどこにあるのかと、疑いながらかくされている部分まで読みとらなければと思いつつ読まさせられる。茂吉の散文は、何かをかくしている。そのとき白秋 はあけっぴろげだとまず言うことができる。果してあけっぴろげとはかくしていることの別の様態ではないか、との疑問が起きてくるほどにである。(〈茂吉の 白秋論〉、一三九〜一四〇ページ)

 この「夏日偶語」は大正元年(一九一二年)だから本章冒頭のパウル・クレーの「子供部屋宣言」と同じ年の執筆である。ミュンヘンでは「青騎士[ブラウエ ライター]」の運動ははじまったばかりだったし、パリではアポリネールが詩集『アルコール』を出そうとしていた。二十世紀の詩を方向づけたと言われる『ア ルコール』は一九一三年の刊行だから、『赤光』、『桐の花』と同年の刊行ということになる。萩原朔太郎は神経症に悩み、『月に吠える』の詩を準備してい た。ともかくこの数年はきわめて重要である。ヨーロッパや日本の近代詩にとっても、近代短歌にとっても。ひょっとしてこの数年が黄金時代である。(〈茂吉 の「夏日偶語」など〉、一六九〜一七〇ページ)

 ぼくは生ある球根などと言ったが、白秋にならって「玉」と言うべきかもしれない。「多摩綱領」の結びの一行は、「玉の幻術はかくして雲霧を岩上に弾く」 というのであった。その「玉」とは「気品と香気と律動の生々」と言いかえてもよいのだろう(白秋は玉[、]、『氷島』の朔太郎は自ら破れた玉 [、、、、、、]であったと言うべきか)。しかし今日、「気品と香気と律動の生々」の何と実現に困難なことだろう(朔太郎が一度、必然的にも破ってしまっ たのだ)。しかし思えばわれわれは散文の行分けにますます近くなり、小説と詩の境界の定かではなくなった、いわゆる現代詩を読むときも、知らず知らず、そ こに意味と主張と描写をではなく、やはり「気品と香気と律動の生々」を求めているのではなかろうか。(〈『牡丹の木』〉、三〇二〜三〇三ページ)

後知恵と言われるかもしれないが、吉岡の随想〈くすだま〉の冒頭「薬玉――いろいろの香料・薬草を入れた袋に、菖蒲や艾の造花を飾り、 五色の糸をた らす、一種の魔除け。それが本来の薬玉のすがたらしいのですが、現在では、進水式や開店祝いなどに使われています。「香気」と「俗気」をとじ込めた、相異 なる「玉」を合体させた「球形の世界」が、詩集『薬玉』なのです。/このような文章を、私は署名用のカードに印刷して、出来たばかりの詩集に添え、親しい 人たちに贈った。一昨年の晩秋のことである。/――ことだま、すだま、あらたま、いずれも玄妙な古語のひびきが、私は好きだ。それらに類似して、かつまた 「球体」のイメージを持つ「くすだま」を主題に、一篇の詩を書いた。その時すでに、新しい詩集の題名は決ったも同然であった」(《「死児」という絵〔増補 版〕》筑摩書房、1988、二九五ページ)という箇所など、飯島の〈『牡丹の木』〉の一節への返答に読める。《「死児」という絵〔増補版〕》で〈くすだ ま〉の次に〈白秋をめぐる断章〉が置かれているのも意味深長である。
《北原白秋ノート》からは、歌集《雀の卵》(アルス、1921)の〈大序〉に「窓から見てゐると裏の小竹林には鮮緑色の日光が光りそよいでゐる。丘の松に は蝉が鳴いて、あたりの草むらにも草蝉が鳴きしきつてゐる」とあると教えられた(同書、八三ページ)。吉岡実の私家版の発行所「草蝉舎」(住所は当時の自 宅である)はソウセンシャと読むが、この〈大序〉からヒントを得たのかもしれない。ほかにも〈茂吉の「ドナウ源流行」など〉ではオクタビオ・パスと Renga(連歌)に言及するなど、ここでの飯島の問題意識と《夏の宴》という究極の引用詩篇の完成後の吉岡の、あえていえば模索における関心が触れあっ た。それが本書の刊行された1970年代末から《薬玉》の諸篇が書かれた1980年代初めにかけてのことだった。飯島自身は《北原白秋ノート》もしくは白 秋作品と《薬玉》を関連づけた文章を遺していないようだが(*)、 私には本書が「後期吉岡実」を準備する重要な要素のひとつであり、最も大きな契機だったと感じられる。

(*)飯島は〈岡井隆との往復書簡〉 (《定型論争》風媒社、1991年12月10日)で
  しかしたしかに新しい型はあちこちに出来つつあるのかも知れません。岡井さんの返信を読んで、すぐに連想したのは、吉岡実の数年前の詩集『薬玉』のことで した。あの詩集は正直言って、長年の吉岡実の詩の支持者であり読者であるわたしにも、とっつきにくいところのある作品群にみちていました。どうも『サフラ ン摘み』や『夏の宴』までの吉岡さんの詩とはちがうのです。いまになって思うに、あれは吉岡さんの必死の新しい「型」の創出であって、その「型」にいきな りすんなりとは馴染めなかったのです。
 あの『薬玉』の「型」は、その元に、メキシコの現代詩人、オクタビオ・パスの長詩『白』のスタイルがあったか、と想像されます。その他にもあの『薬玉』 の型の元型はあるでしょう。そして吉岡実がまだ若い戦中の時代に愛読したという、茂吉〔小林註=白秋とあるべきか?〕の短歌の「型」も、どこかでプロトタ イプとして働いているかも知れません。(同書、五三〜五四ページ)

と、 当初《薬玉》になじめなかったと明かしている。この詩集が出現した当時、私もなにか途轍もないものが目の前にあることはわかっても、それがどうすごいのか うまくとらえることができなかった。ただそれは、詩型というより、語彙の面が主だった。詩型はその後、諒解できた部分もあるが、いまだに語彙の由って来る 処(典拠の意ではない)を理解しえたとは言い難い。


過日、長篇小説《暗殺百美人》(学習研究社、1996年10月30日)を入手しようとインターネットで古書を検索したところ、加藤郁乎に宛 てた署名本(こちらは市販本に先駆けて1996年2月25日、500部限定で私家版として刊行されたもの)がけやき書店から3000円で出品されていた。 前回、加藤郁乎について書いた手前もあり、これも縁だろうと購入した。

 一九八二年六月 信濃川のゆるやかに曲がるあたり
 八十八歳で人間離れしようとする一人の人が
 しきりに電報を打ちたがった
 老人は昭和のモダニズムの文学を代表する人物だった
 病院のある土地は河井継之助の長岡藩の隣地でもあった
 その旧幕府領の町の慈眼寺で、継之助は中立国たらんとする嘆願書を差出し、土佐の宿毛[すくも]生まれの二十三歳の軍監岩村精一郎に拒まれて、ついに [私家版:戦い→学研版:戦端を開く]も止むなしと決意していた
 ゴコウギサマというのは子供時代に父、母から聞いた藩主の夢でも見ていたのか、それとも、ひょっとしてそれは大公儀[おおこうぎ]、だったのか(同書、 四〇〜四一ページ)

飯島は固有名詞を避けているが、この「人」は西脇順三郎だ。ここでしばらく《暗殺百美人》から離れて、《田園に異神あり――西脇順三郎 の詩》(集英 社、1979年7月10日)を再読する。ちなみに、私家版《暗殺百美人》のジャケットの「女神の顔(?)の絵は新潟県小千谷に生を享けた三田の詩人J・N による(一九七六年)」(私家版、〔二一三ページ〕)である。

 西脇氏のこれまでの詩作品もそうでなかったとは決して言うことができないが、この「最終講義」という長い詩は、き わめて小説的 である。詩が小説的構造をもっているということだ。そして今日の小説の多くが、東西の文化のまじり合った文化の状況を対象としているとまったく同じ対象を 相手にする。その対象を西脇氏の詩の文体で捉えている、というよりその対象のあいだを氏は上下左右に、自在に駆けぬけているように見える。
 われわれは否応なくこの雑種、雑居文化のなかを通過して生きているのであるが、そのことをしかめ面して忌み嫌い、慨嘆するのでなく、讃歌とまでは行かな くとも、この状態を、かつてのアポリネールの長詩「地帯[ゾーン]」のようにうたいあげたのが、この西脇氏の「最終講義」であるとしていい。古い西洋と日 本を知る氏は、この東京の雑種文化をたのしみ、そこに諧謔を見出しているかのようである。(《田園に異神あり》、一一五ページ)

15年後に書くことになる自身の長篇小説を予告してはいまいか。《暗殺百美人》は飯島耕一の追悼特集を組んだ《現代詩手帖》2014年 2月号でも、 吉田文憲・北川透・吉増剛造・小池昌代らが高く評価している。だがこれを、中村真一郎のように「超現実小説」もしくは超現実派小説と呼ぶ意図がよくわから ない。私は、200年前のフランスと幕末の日本を暗殺という観点で切り結んだ特異な形式の歴史小説として読んだ。小説に限らず、散文における飯島の奔放な 書きぶりは今に始まったことではない(《北原白秋ノート》がそうだった)。そうした「跳躍」を本作にだけ見るのは当たらないのではないか。こうした奇妙な 味の小説は吉岡実の愛好するところでもあった。根本茂男の《柾 它希[まさたけ]家の人々》(冥草舎、1975)しかり、フラン・オブライエン(大沢正佳訳)の《第三の警官》(筑摩書房、 1973)しかり。余談ながら、飯島が本書を贈った加藤郁乎は東京の出身だが、父親が会津だった。吉岡が加藤に問う。

吉岡  郁乎さんはどこですか、出身は。
加藤 いやぁ、ぼくは会 津だと言って来たんだが、インチキですよ。いまでも、東北だと信じてる友人がいるらしいですね。生まれは東京なんです。わたしは目白の近く。
吉岡 そうだよ、東京な んだよ。ぼくは、あんた東京人だと思ってた。
加藤 インチキが好きだ からね。会津弁を子供の頃に覚えてるもんで使ったりするんですよ。今度、井上ひさし論を書いたときに牛込で育ったとバラしましたけれどもね。東京なんです よ。それも昔は豊玉郡と言っていたんですね。東京府……府の中でも市外なんですよ。
吉岡 お父さんの代から ですか。
加藤  親父は会津の人間です。これが江戸文学なのに白虎隊精神なんですよ。だから、子供のときには足袋ははかせて貰えないしね。「白虎隊の子孫がなんだ!」なん だ! っていったって、冬寒いのに足袋をはかなかった〔か〕らね。そういうスパルタ教育だかなんだかにやられましたよ。そして子供のときから親父の生家と 往き来していましたから、会津の。それで酔っぱらったりすると会津弁でインチキ遊びをやるんですよ。(吉岡実・加藤郁乎・那珂太郎・飯島耕一・吉増剛造 〔座談会〕〈悪しき時を生きる現代の詩――座談形式による特集〈今日の歌・現代の詩〉〉、《短歌》1975年2月号、七〇ページ)

《暗殺百美人》には、坂本龍馬・中岡慎太郎を暗殺したとされる佐々木只三郎(会津藩の旗本)が登場する。80ページ(「佐々木只三郎は 会津藩士、佐 々木源八[げんぱち]の三男として生まれ、長兄は、のち会津藩用人となった手代本直[てしろぎすぐ]右衛門である。」)から84ページ(「只三郎は見廻組 の与頭となった頃から、京の歌会に出席するようになった。只三郎はそれらの歌会の一つで、薩摩の京都留守居役を勤める八田知紀[はつたとものり]と会い、 歌人として知られる八田と親しくなった。」)にかけて、都合8箇所、佐々木只三郎の事績に触れた本文の下部に鉛筆で○印が記入されている。本書に書き込み があるのはここだけで、旧蔵者加藤郁乎の佐々木只三郎への関心の深さが認められる。
城戸朱理によれば、吉岡実は自身の《ムーンドロップ》と同じ年に刊行された飯島耕一の詩集《虹の喜劇[コメディ]》(思潮社、1988)を高く評価してい た(〈吉岡実エッセイ選を編纂して。〉参 照)。ならば《暗殺百美人》(初出は《三田文學》1994年8月・夏季号〜95年5月・春季号)にはどんな感想を持っただろう。飯島の最高の小説だと絶讃 したかもしれない。しなかったかもしれない。予想がつかないのだ。それがどうであれ、飯島は吉岡実存命なりせば必ずや本書の装丁を頼んだに違いない(学習 研究社の普及版の装丁は菊地信義で、《定型論争》も菊地の装丁)。そのとき、私家版《暗殺百美人》はどんな装いを身にまとったか。私家版に装丁のクレジッ トはないが、著者略歴や奥付の組み方を見れば、みすず書房(飯島の最も親しい出版社である)の制作になることは明らかだ。いずれにしても、吉岡が西脇の絵 をベタの地に白ヌキ反転して使うことは決してないだろう。

今回、飯島耕一の著作を読み返して、《定型論争》が吉岡実追悼文集だったことを再認識した。飯島にとって《薬玉》が衝撃的な詩集だった ことも今なら わかる。吉岡は飯島が《北原白秋ノート》で投げたボールをみごとに打ち返したのだ。飯島耕一は《朝日新聞》に寄せた追悼文〈吉岡実の死〉(冒頭に加藤郁乎 との電話でのやりとりが登場する)で吉岡を「日本の戦後最大の詩的才能だった」(《定型論争》、二一八ページ)と賞揚している。吉岡実を発見したのは、そ の飯島耕一の「詩的才能」だった。

飯島耕一《暗殺百美人》(私家版、1996年2月25日)の加藤郁乎への献呈・署名入り本扉とジャケット〔造本・装丁のクレジットはないが、みすず書房の制作か。限定500部、ジャケット絵:西脇順三郎〕
飯島耕一《暗殺百美人》(私家版、1996年2月25日)の加藤郁乎への献呈・署名入り本扉 とジャケット〔造本・装丁のクレジットはないが、みすず書房の制作か。限定500部、ジャケット絵:西脇順三郎〕


吉岡実と加藤郁乎(2014年2月28日〔2020年5月31日追記〕)

内堀弘氏の《石神井書林古書目録》91号(2013年10月)は、表紙に「永田耕衣 瀧口修造 土方巽」と謳っていて、目録掲載のモノクロの写真版が貴重である。私はかねて吉岡実を取り巻く三大気圏を詩人の西脇順三郎、俳人の永田耕衣、舞踏家の土方巽の三人と見做してきたから、これは通常の目録とは意味合いが違う。「永田耕衣 瀧口修造 土方巽」は2012年5月に亡くなった加藤郁乎旧蔵の書物だった。それらが《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》の書物と数多く重なっているのは驚くほどで、そのいちいちを指摘しないが、同号の《石神井書林古書目録》を概観してみたい(原文の改行箇所は/で表示した)。

《石神井書林古書目録》91号(2013年10月)の表紙
《石神井書林古書目録》91号(2013年10月)の表紙

瀧口修造

 (1686)/瀧口修造の詩的実験1927-1937 42,000/思潮社 昭42 限定1500部 函付/ビニールカバー付 加藤郁乎宛毛筆署名入/別紙添書・内容見本付

 (1692)三夢三話 105,000/瀧口修造 昭47 限定55部 秘冊草狂 袋付/加藤郁乎宛毛筆署名入

 (1688)画家の沈黙の部分 31,500/瀧口修造 昭44 初 みすず書房 函帯付/加藤郁乎宛署名入/函の元パラフィン紙にも献呈入。

あんま土方巽舞踏展

 (2199)/945,000/アスベスト館 限定50部 昭43/38×56cm一枚漉き厚手紙による未綴の詩画集。詩人に対応して作家がオリジナル作品を刷る(10枚)。別葉に奥付、扉。布装夫婦函。保護用外函(ダンボール・題箋付)保存状態は良好。詳細本文参照。

 2199 あんま(土方巽舞踏展) 限定50部 二重函       アスベスト館編 昭43 945,000/38×56cm一枚漉き厚手紙による未綴の詩画集。目次(連名署名入・土方巽、飯島耕一、池田満寿夫、加藤郁乎、加納光於、渋沢龍彦、瀧口修造、田中一光、中西夏之、中村宏、野中ユリ、三木富雄、三好豊一郎、吉岡實)。詩人に対応して作家のオリジナル作品を刷る(10枚)。奥付、扉が付く。布装夫婦函。保護用外函(ダンボール・題箋付)保存状態は良好。写真8頁参照

永田耕衣

 (3372)眞風 31,500/永田耕衣 昭44 特装70部 函付カバー付/毛筆署名入 絵と俳句落款の和紙貼込/加藤郁乎宛自筆挨拶付

 (3356)永田耕衣小額 31,500/ダンボール製の函に毛筆にて表題、加藤郁乎宛署名入。

以上は著者から加藤郁乎へ贈られた署名本や郁乎自身が制作に関わった書物だが、ほかにも同号の《石神井書林古書目録》の写真版ページには《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》もしくは吉岡の未刊の文章(随想や日記)に登場する本が多い。書目を挙げよう。

 日夏耿之介《黒衣聖母》
 瀧口修造《星と砂と〔特製本〕》
 《O氏の肖像》
 吉野弘《消息〔第二版〕》
 富澤赤黄男《天の狼〔増補改訂版〕》
 折笠美秋《虎嘯記》
 高柳重信《伯爵領》
 志摩聡《白鳥幻想》

以下は目録の本文ページ掲載の吉岡の著書。

 844 サフラン摘み 片山健装丁 初函カバ帯               吉岡實 昭51  18,900/「サフラン摘〔み〕」専用署名箋に加藤郁乎宛署名入。

 845 薬玉 特製40部本。 二重函入                   吉岡實 昭61  147,000/書肆山田刊。背は純白の革装。表紙平は薄い藍色の手染布装。本文耳付和紙。巻頭の和紙に毛筆詩三行署名入「屏風の向う側は紅葉づる黄金の秋 吉岡實」。布装函入、保護用外函付。極美

 846 ムーンドロップ  西脇順三郎挿画 初函カバ帯           吉岡實 昭63  21,000/「ムーンドロップ」専用署名箋に加藤郁乎宛毛筆署名入。

 847 うまやはし日記 私家版限定百部 カバ              吉岡實 平2   21,000/「弧木洞版限定百部」の貼奥付。市版本と同装幀だが本文紙が異なり厚みをもつ。保存良好。

加藤郁乎宛署名の入っていない845《薬玉》と847《うまやはし日記》も郁乎に宛てたものではないだろうか。というのも、吉岡の特装版や限定版には署名や詩句の一節が書かれることはあっても、献呈が記されることはまずないからだ。現に845は、吉岡実家所蔵の著者本に献呈がないのは当然だが、古書で入手した手許の一本にも献呈はなく、私が吉岡さんから頂戴した唯一の本である847(《うまやはし日記〔弧木洞版〕》)も署名箋にマーキングペンで「呈」そして署名があるだけで、献呈はなかった。さて、これほど交友関係や読書傾向が似ているにもかかわらず、吉岡実と加藤郁乎の作品はずいぶんと隔たっていると感じられる。それをひとことで言うのは難しいが、〈郁乎断章〉の「私がはじめて、加藤郁乎から貰った本は、昭和四十年の春に出た『終末領』であった。〔……〕処女詩集『終末領』には、九篇の作品が収められている。いずれもまだ俳諧調の語法が感じられ、趣味の域を出ていないと、私は正直なところ思った。そのなかで「唄入り神化論」は七五調で、詠い上げているのに、むしろ心惹かれた。奇想の絶唱である」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三二七ページ)が示すように、吉岡は郁乎の文業の軸足があくまでも俳句にあったと見ていたようだ。吉岡が出会った加藤郁乎の最初の著書が処女句集《球體感覺》(俳句評論社、1959)だったことが大きかったと思われるが、〈郁乎断章〉の最後の断章「愛吟ひとつ」の全文は「私の愛好する、郁乎俳句を数えあげたら、きりがない。いま詩篇「弥勒」百三十九行より、次の一章句を、抽出するにとどめる。//仙花の紙の鶴を立たせる」(同前、三三一ページ)である。〈郁乎断章〉の発表誌が《俳句研究》だったことを差し引いても、郁乎の詩篇よりも俳句を買っていたという傍証になろう。吉岡の作品を「俳句のような詩」だとすれば、郁乎の作品はさしずめ「一行詩のような俳句」だ。吉岡実が前衛俳句の代表と見做していたのは、富澤赤黄男でも高柳重信でもなく、加藤郁乎だったように思う。


高橋睦郎《友達の作り方――高橋睦郎のFriends Index》(マガジンハウス、1993年9月22日)の〈加藤郁乎の巻〉は破格の郁乎評である。高橋は同文を「古いアルバムを見ていると、遊び仲間大勢で写った写真の中に、かならずといっていいほど違和感のある一人がいる。遊び仲間を友達というなら、彼のことは反友達とでも呼べばいいのだろうか」と始めて、この「反」は「単に消極的な否定辞ではなく、積極的な形容詞の一面を持つ」と措定し、反友達の筆頭に加藤郁乎を挙げている。「真の反友達が友達になることはじつはありえない。先方は当方と先天的に相性が悪いのであって、この相性の悪さばかりはどんな理性をもってしてもいかんともなしがたいものらしい」(同書、三二四〜三二五ページ)とある。相性の悪い「友達」(書名を想起せよ)のことを書いた文章だけに、なまじ要約するとニュアンスが抜けおちてしまう。この興味深い人物評の全文(5ページ分)をぜひ読んでいただきたいとお願いしつつ、次の箇所を引用したい。

 こんなこと〔西脇順三郎の講演会で、西脇に男と女ではどっちが好きか質問した人間が加藤郁乎だと初めて知ったこと〕があったどれほど後だろうか、お茶の水の木造洋館の何とかいう画廊で野中ユリさんか誰かの個展のオープニングがあり、そこではじめて加藤さんに紹介された。紹介者は澁澤龍彦さんではなかったろうか。ほかに鍵谷〔幸信〕さんや白石かずこさんがいたのも憶えている。オープニングの後、タクシーに分乗して二次会に向かった。
 ぼくは澁澤さん夫婦と並び、前の運転席の隣には男の子を連れた女性が乗った。アルコールが入っていくぶんハイになっていたぼくは何ということもなく「加藤郁乎さんって変な人ですね」といった。ぼくとしては「変わった面白い人ですね」ほどのつもりでいったのだが、澁澤さんに「ハハハ変な人か。じつはきみの前に乗っている人は加藤君の奥さんだよ」といわれて、急にバツが悪くなって黙りこんだ。
 このことが伝わったのかどうか、その後「加藤さんと何かあったのですか」としばしば聞くようになった。加藤さんがぼくのことをことごとにひどく罵る、というのだ。ぼくとしては半信半疑だったが、新宿二丁目のバー・ナジャその他で出会うたび、目に見えて不機嫌になるのに何度も出食わし、なるほど虫が好かないとはこういうことをいうのか、と人間心理を学習する思いだった。
 そのうち「なぜ高橋なんかに原稿を頼むんだ。あんな下らない奴に書かせるな」といっているという話を、編集者から聞くようになった。ぼくのことが嫌いで罵るのはいわゆるカラスの勝手という奴で、ぼくが文句をいう筋合いではない、しかし、原稿を頼むなというのは生存妨害ではないか、と北海道流寓からの関東に帰住したばかりの鷲巣繁男さんにぐちったことがある。
 加藤さんともぼくとも親しい鷲巣さん笑っていうには「それはイクヤの嫉妬だよ。あいつは独占欲が強いからなあ」。いわれてみれば加藤さんとぼくは原稿を依頼される雑誌が重なっている。それ以前に交友関係が共通している。げんに鷲巣さんがそうだし、澁澤さん、吉岡実さん、稲垣足穂さん然りだ。しかも、付き合いの歴史は加藤さんのほうが古い。加藤さんとしては田舎者のそれこそ変な若僧に割りこまれた感じかもしれない。(同書、三二五〜三二六ページ)

これに「須永朝彦君の紹介で永田耕衣さんをひんぱんに訪ねるようになって、加藤さんの不快感はさらに増したようだ」(同書、三二八ページ)とある神戸の永田耕衣を加えれば、吉岡・加藤・高橋三人の関心がほぼ共通していることがわかる。すなわち、西脇順三郎・瀧口修造・土方巽・永田耕衣、鷲巣繁男・澁澤龍彦・稲垣足穂である(ただし《友達の作り方》に瀧口修造の巻はない)。それにしても高橋睦郎の〈吉岡実氏に76の質問〉と〈鑑賞〉に較べたとき、加藤郁乎の吉岡実論(人物・作品ともに)にこれといった見るべきものがないのは、なにゆえだろうか。吉岡は〈出会い――加藤郁乎〉〈郁乎断章〉と二篇の随想を遺しているというのに。加藤に吉岡を追悼する文章がない事実をまえに、人間心理に不案内な者はただ頭をひねるばかりだ。

〔2020年5月31日追記〕
緊急事態宣言が明けた5月下旬、小笠原鳥類さんから詩篇〈動物実験の思い出、ではない〉を掲載した《早稲田学報》(1241号)を頂戴した。近年、小笠原さんの詩に多く見られる吉岡実への言及/吉岡実からの引用を含む新作である。感想を認めたメールに、同誌の「作品以外では〈早稲田の詩人〉がたいへん興味深いものでした。この詩人も、あの詩人も早稲田――という感じがしました。いま吉岡実と加藤郁乎のことを調べているのですが、郁乎は出てきませんね(もっともその本業は、俳句ですが)。」と書いたところ、「平岡先生江中先生が編集していた頃の「早稲田文学」1996年10月号で、加藤郁乎さんが飯島耕一さんとの対談で「いま読むと、吉岡の初期の詩って面白いね。あとはあんまり好きじゃない、あんな冒険してるようなのは。」(69ページ)と言っていたのを思い出しました。やや意外であるかもしれません。」とご返事いただいた。私の《吉岡実参考文献目録》にも当の記載はあるものの、かんじんの飯島耕一・加藤郁乎〔対談〕〈ともに語るにたるものこそ――詩・句・散文〉をかつてコピーしたファイルが見つからない。全体を再読するのは国会図書館での閲覧が可能になってから、ということで、とりあえず加藤郁乎が晩年の吉岡実の詩(「後期吉岡実詩」としての《薬玉》《ムーンドロップ》の時代)には肯定的でなかったことに留意しておこう。一体に吉岡の旧友たちは(飯島耕一を除いて)「後期吉岡実詩」を持て余しているようで、一世代以上若い詩人たちが熱狂的に迎えたのとは好対照をなしている。読み手がいつ、どの「吉岡実詩」と出会ったかは、「初期」「前期」「中期」「後期」のどの作風を評価するかにもつながる、検討に値する問題だろう。


〈吉岡実の装丁作品〉の現在(2014年1月31日)

昨年(2013年)の12月に田村隆一《詩 と批評E》を紹介したことで、〈吉岡実の装丁作品〉はひとつの節目を迎えた。以前にも書いたように、手持ちの吉岡実装丁の書籍が払底 しつつあるのだ。今月の〈吉岡実の装丁作品(120)〉は瀬戸内晴美《人 なつかしき》を紹介した が、来月予定している野原一夫の本のあとは、未入手の吉岡実装丁の書籍を入手することが先決になる。こうした事情ゆえ、今後《〈吉岡実〉の「本」》には 〈吉岡実の装丁作品〉が不定期掲載になるが、なにとぞご容赦いただきたい。

〈吉岡実の装丁作品〉の記事をどのように作るか、振りかえってみたい。最初にこのページの成り立ちを述べておく。2002年11月に本 サイト《吉岡 実の詩の世界》を開設して間もなく、《〈吉岡実〉の「本」》のページを《〈吉岡実〉を語る》のスピンオフとして設定した。《〈吉岡実〉を語る》開始から2 箇月後の2003年1月のことだ。吉岡実の(装丁した)本に関する記事を《〈吉岡実〉を語る》に収容することの無理を悟ったからである。この軌道修正をし なければ、《〈吉岡実〉を語る》ではなく《〈吉岡実〉の「本」を語る》になっていたかもしれない。吉岡実と本の関係は、吉岡実と詩の関係に劣らぬほど深い のである。
原本収集の悩みは尽きない。現時点で吉岡実装丁本のコレクションが完全でないように、これらの記事を書きつつあった期間も、執筆と入手は本ページの車の両 輪で、対象となる〈吉岡実〉の「本」を書誌と原物の両面で探索・収集しつづけてきた。その際、インターネット上の情報が役立ったことは言うまでもない。一 例を挙げれば、《サフラン摘み〔改装本〕》など、存在そのものを古書店に教えられた。〈吉岡実の装丁作品〉の記事作成の拠り所になる〈装丁作品目録〉は、 《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)巻末の〈吉岡実資料〉を編む際、1990年秋に吉岡陽子さんに作成していただいた「装幀」リスト(註記に「装幀料が入った日 から探したので1月や2月に入ったのは前年にしたつもりです」とあった)をベースに、筑摩書房(画像「筑摩書房が吉岡実に依頼した案件の控え」参 照)や書肆山田(大泉史世さんからは、筑摩の不明分2点をご教示いただいたうえ、「他に、私の記憶(写植を打ちましたので)では、下記の出版社にそれぞれ 何点かの装幀本があります。担当者におたしかめ下さい」と、白水社、青土社、思潮社、立風書房、花神社の担当者を紹介していただいた)に提供を仰いだ吉岡 実装丁作品の情報を加味したものである。その中心が吉岡家所蔵の著者本だが、件の《サフラン摘み〔改装本〕》は 函が市販本と同じで、さらに本体がジャケットで覆われていたために特装本であると気づかなかったのだろう。同書と同じ刊行日(1977年1月15日)に蕃 紅花舎版《サフラン摘み〔私刊本〕》(限定5部)というとんでもない代物が上梓されていたという事情もある。それにしても、吉岡陽子さんと筑摩書房の淡谷 淳一さん、書肆山田の大泉史世さんのご配慮はかたじけなかった。また、《現代詩読本》編集部の大日方公男さんの後押しがなければ、同じことを一個人でしよ うとしてもこれほどスムーズにはいかなかっただろう。記して感謝する。
こうして成ったのが《吉岡実書誌》の【装丁作品目録】(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、三一六〜三一八ページ)で、1941年の「吉岡実詩集《液体》(一二月 草蝉舎)」から1990年の「巖谷國士《澁澤龍彦考》(二月 河出書房 新社)」まで、全124タイトルを掲載している。ただ今日の観点からすると、1974年の「吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》(一〇月 湯川書房)」と 1980年の「吉岡実詩集《ポール・クレーの食卓》(五月 書肆山田)」の2冊はこのリストから外すべきである。黄色いエナメルのような貼函の《神秘的な 時代の詩》は発行者・湯川成一の装丁と考えられるし、《ポール・クレーの食卓》は装丁者の表示こそないものの亞令(大泉史世)の装丁だからである。その2 冊を除いた122タイトルを冊子版【装丁作品目録】の最終形(定稿)とするなら、ウェブページ《吉岡実書誌》の〈W 装丁作品目録〉は 現在通行の電子版〈装丁作品目録〉ということになる。電子版には、冊子版【装丁作品目録】の122タイトルに、1956年の「和田芳恵《一葉の日記》(筑 摩書房、一九五六年六月三〇日)」から1984年の「井出孫六《峠――はるかなる語り部》(白水社〔日本風景論〕、一九八四年一一月二二日)」までの53 タイトルを追加しており、現時点では合計175タイトルである。
すべては集書、原物確認に始まる。吉岡実装丁本をいま新刊で入手することは不可能に近いから、原物確認すなわち古書の探索ということになる。この場合の古 書には2種類あって、吉岡が装丁したことが判っているものとそうでないものとである。後者は古書店や図書館でブラウジングすることが基本で、その際、キー になるのは著者と出版社である。むろん「吉岡実」と「筑摩書房」が最上位にくるが、くだくだしいので以下は詳述しない。前者は、種種の証言(その最たるも のが吉岡自身の言明である)から書誌情報を作成し、それを手掛かりに図書館所蔵本や古書を探索することになる。私の場合、国立国会図書館や日本近代文学 館、そして近隣の公共図書館(初版以外の刷りの本を見たいときなど、これが役に立つ)の利用がほとんどだが、遠方の図書館のこともある。書籍ではなく雑誌 の例だが、〈苦力〉の初出を掲載した《現代詩》(書肆パトリア発行)の当該号は日本現代詩歌文学館(岩手県北上市)で閲覧した。それがそこにあれば、時間 と費用の許すかぎり見にいくまでである。存在しないものを存在させることはできないが、存在するものを実見することはできる。当該書籍をインターネットで 検索することは言うまでもない。OPACや《日本の古本屋》などの古書の検索サイト以外にも、オークション情報をメールで通知してくれるサービスがあるこ とを付言して、先へ進もう。
原物が手許にあるとする。最高のコンディションは新刊で購入したときの状態だが、グラシン(パラフィン)・帯・函は本体よりも破損・紛失しやすい。装丁を 論ずべき対象書籍(吉岡実の自著を除く)の帯に言及しない理由は、石垣りん詩集《略歴》に触れた〈吉岡実の装丁作品(104)(2012年6月 30日)〉で 述べた。執筆の準備は、書籍を計測するところから始まる。サイズは本文用紙の天地×左右をミリメートルで測る。吉岡実装丁本は、四六 判 (188×128ミリメートルが多い)を除くと、いわゆる正寸サイズが少ないから、寸法を記すのがいちばん確実である。書誌学では、 本の大き さを外形の高さ(センチメートル単位、端数は切り上げ)で表すから、四六判の場合、通常19センチメー トルとなる。吉岡実装丁に関わる記載の場合、本文用紙の寸法が判らないことには話にならない。次は総ページ数。本のページ数は物理的に2の倍数(1丁の表 裏)だが、本文の場合、糸かがりの製本なら8もしくは16の倍数、本扉や口絵が本文用紙と異なるペラものの場合は別丁貼りこみとなる。ここからは私の流儀 になるが、前付や後付のシロ(白紙ページ)も含めて、並製本なら表の表紙と裏の表紙に挟まれた全部のページ数を、上製本なら前の見返しと後の見返しに挟ま れた全部のページ数を、「総ページ数」と称している。束見本を作るときに必要なページ数だと考えればいい。書誌学では印刷された最終のページ付(ノンブ ル)をもってページ数とするが、造本・装丁の観点からすれば、仕様における総ページ数は「別丁で何ページ、本文用紙で何ページの合計何ページ」でないと設 計できない。要は、これらの数字から原物が再現できることに意味があるのだ。そこから必然的に導かれるのは、各資材の銘柄に始まる細目の特定である。紙装 表紙や見返しに使用されている特徴的な用紙(いわゆるファンシーペーパー)ならそれなりの調べ方もあるが、本文用紙となると原物から特定するのは難しい。 実のところ、造本の再現のためにはこれがいちばん肝心なのだが、残念ながら〈吉岡実の装丁作品〉で本文用紙の銘柄を追究することはかなわなかった。
大略、このようにして対象図書の仕様を記す。瀬戸内晴美《人なつかしき》では「本書の仕様は一八八×一三〇ミリメートル・二四六ペー ジ・上製 丸背紙装・ジャケット。ジャケットの図柄は花(上)と水紋(下)だが、作者のクレジットはない」となる。「上製丸背紙装」は説明不要だろう。「ジャケッ ト」はカバーという語を使いたくないためで、他意はない。さて、装丁者のクレジットは@扉裏やその周辺、A目次(たいてい本文見出しのあとの、最後の 行)、B奥付やその周辺、に記されることが多い。著者名や出版社名ほど重要視されていないため、担当編集者の名前と同様、掲げられないこともある。吉岡実 の装丁であることがクレジットされている場合、可能なかぎり引用し、クレジットの記載箇所を示した。ソウテイの漢字表記は原本のクレジットを採用する方針 を採ったが、「装幀」の場合がほとんどであり、吉岡も自身の文章では「装幀」と書く(私は「装丁」を用いるが、ここではその理由を述べない)。
執筆前の準備を進める一方で、対象図書を読むという基本的な作業が欠かせない。とはいうものの、特別なことをするわけではない。四六判の文芸書なら数日で 読めるだろう。このとき留意するのは、標題や本文に本のヴィジュアルをイメージさせるような記述があるかどうかだ。ゲラを通読(精読)してからでないと作 業にとりかからない装丁家もいると聞くが、吉岡がそこまでしたかどうかわからない。担当編集者との打ち合わせだけですませた可能性もある。いずれにして も、読者は本文の組み体裁や表紙まわりを変えて読むわけにはいかないから、版元製本をそのまま受けいれるほかない。詩に限らず、吉岡実の作品生成の現場に 立ち会いたいと思うほどの人なら、本文を純粋に読んで、しかるのちに本扉、見返し、表紙、ジャケットや函、(そしてこれは吉岡の指定とは限らないが)帯、 という具合に、本文から外へ、ふだん書物に接するのとは逆に鑑賞を進めていくのがポイントだ。つまり、外装から本扉まではなるべく視点を合わせず、はしが きなり、目次なり、中扉なり、担当編集者であれ出版社の本文組版の専門家であれ、吉岡以外の人間が指定したページから焦点を合わせて読みはじめるのがよ い。そうして読了した結果、著者の宇宙の幾分かを脳髄に貯蔵した段階で、改めて吉岡実装丁の表紙まわり(外装)を味わう。そのとき、二つの宇宙の衝突から なにものかを引きだして文章にする。代表的な一篇や一節を引用する。〈吉岡実の装丁作品〉の記事執筆の要諦はこれに尽きよう。

吉岡実装丁本(吉岡実の著書を除く)を刊行順に排列した書棚の一部
吉岡実装丁本(吉岡実の著書を除く)を刊行順に排列した書棚の一部

近年では珍しくなった函入りの単行本が多い吉岡実装丁本を収めた書棚を眺めていて感じるのは、さまざまな著者や出版社の本であるにもか かわらず、決 して騒がしくないということだ。吉岡が本格的に商業出版物の装丁を始めたのは1950年代で、時あたかも活版印刷による書籍の黄金時代だった。最後の装丁 作品は、DTPによる組版が実用化する1990年、歿する3箇月前の刊行である。それは奇しくも詩集《静物》(1955)に始まり詩篇〈沙庭〉で終わる吉 岡の詩歴と重なる。〈吉岡実〉という作品を貫く二筋の糸が詩篇と装丁だった。その最高の達成は、いうまでもなく全12冊の吉岡実の単行詩集である。


〈父の面影〉と出征の記念写真(2013年12月31日)

4年ほどまえ、〈吉岡実 〈〔自筆〕年譜〉のこ と〉に 「《風景》1974年3月号に掲載されたまま単行本に未収録の随想〈父の面影――さがしもの〉の原稿は、吉岡の自筆で市販のコクヨ製200字詰め用紙2枚 にわたって21行の本文が書かれている」として、吉岡実自筆原稿のモノクロコピーの画像を掲げておいた(コピーの加減で1枚のように見えるが、ペラ2枚で ある)。

〈父の面影――さがしもの〉(《風景》1974年3月号掲載)の吉岡実自筆原稿(2枚完)〔モノクロコピー〕 〈父の面影――さがしもの〉掲載誌面〔モノクロコピーに小林が赤字で校訂を記入〕
〈父の面影――さがしもの〉(《風景》1974年3月号掲載)の吉岡実自筆原稿(2枚完) 〔モノクロコピー〕(左)と同・掲載誌面〔モノクロコピーに小林が赤字で校訂を記入〕(右)

上(左)の画像は再掲。原稿を掲載した上(右)の雑誌《風景》の〈父の面影〉の本文は

 私の家に恐しく破損し、汚れた粗末な一冊のノートブックがある。これは終戦のとき、そこにいた朝鮮済州島から、米 兵の厳重な私 物検査をくぐり抜けて、持ち帰ったアルバムである。それには私の兵隊生活と家族の写真が貼られている。兄一家のもの、初恋の人のもの、それに母の唯一の写 真が遺されている。いずれも三十年以上の過去の歳月で茶褐色に変色している。
 そのなかでどうしたことか父の写真が欠落しているのだ。父母は昭和十六年、十七年と続いて死んでいる。今日、私は記憶の奥から父の面影を呼び戻そうとす るのだが、あいまいで鮮明なデテールが捉えられないのだ。果して父は美男子、それとも醜男であったのか。そんなわけで父の写真を一度も妻に見せてないの で、妻はよく不審がって云う――あなたのお父さんってどんな人、日本人じゃないのではないの。もしかしたら、いなかったんじゃないの?――と。私は自分の ためにも、妻のためにも、一枚の父の写真を探している。(同誌、三九ページ)

である。〈父の面影――さがしもの〉というふうに標題を処理したのは吉岡実未刊行散文の整理をした私で、自筆原稿を見ればわかるとお り、吉岡は一行 めに「―さがしもの―」とやや小さく書いて、二行めに「父の面影」を置いてメインの標題としている。おそらく雑誌社から「さがしもの」について400字で 書いてください、と依頼されたのだろう。ふだん気にもとめていなかったが、そういえば親父の写真がないんで探していたな、そのことでも書くか。といったと ころではないだろうか。原稿と掲載誌を比較すると、《風景》では第三段落の「そんなわけで」が追い込まれ(続く読点も削られ)、「いなかったんぢゃない の」が「いなかったんじゃないの」になっている。後者は新かなづかいに統一したためであり、前者は三段組みのコラムの行数を調整したためである。第一段落 でノートのアルバムを紹介し、第二段落でそこに父の写真がなく(自分も面影が喚び起こせず)、本来の第三段落で自分のためにも、妻のためにも父の写真を探 している――という構成からすれば、第二段落と第三段落をひとつに繋げてしまうのは、いかにもまずい。吉岡実の随想の原稿は吉岡家にもほとんど残っていな いようだから、本来の意図とは異なる印刷物しか現存しないときの本文の決定は難しい。〈父の面影〉では、自筆原稿を活かして、「そんなわけで」のまえで改 行して(読点も復活させて)、全部で三段落の当初の構成を採りたい。
ときに、《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)には「出征の記念写真」として、実を囲んだ吉岡一家の集合写真が掲載されている。吉岡が〈父の面影〉を書いたあと、親戚あた りからもらったものだろうか。吉岡の年譜や当時の日記を参照すると、ここにいておかしくないのは、写真のキャプションにある父紋太郎、母いと、兄長夫のほ かに、姉政子(いちばん右の縦縞の着物の女性か)、夢香洲書塾で寝食を共にした佐藤春陵(特定できず)、嫂初江と姪葉子(長夫の右隣の二人だろう)。父の 左の二人は叔父叔母もしくはその連れ合いに見えるが、叔父沢田政五郎は1939年10月に事故がもとで亡くなっているから、谷中の叔母という人だろうか。 服装や立ち位置から、近隣の住民とは思えない。実や長夫と似た背格好の若者(長夫といとの間、後方)は「谷中の叔母」の息子(?)順一か。制服制帽姿は政 五郎三女の夫、清水敬巡査か。いずれにしても、後列の人物になるとお手上げである(黒眼鏡の長身の人物はだれ?)。写真の撮影時期は、年譜に照らせば、 1941年6月だと考えられる。撮影者は、当時のことだからむろんプロの写真家で、想像をたくましくすれば、田尻写真館の春夢田尻彦二郎その人かもしれな い。

「▲出征の記念写真。吉岡実を囲み、母いと(右)、父紋太郎(左)、兄長夫(右から4人目)。」
「▲出征の記念写真。吉岡実を囲み、母いと(右)、父紋太郎(左)、兄長夫(右から4人 目)。」
出典:《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)、 口絵〔二ページ〕


吉岡実と佐藤春夫(2013年11月30日)

佐藤春夫の詩は、北原白秋の短歌と並んで、若き日の吉岡実の心を掴んで離さなかった。吉岡自身の文章で振り返ろう。まず1939(昭和 14)年、吉 岡実満二十歳の日記。「九月十一日/晴。岩波文庫『猟人日記』と『笛師のむれ』が届く。佐藤春夫の短篇と詩を読む」(《うまやはし日記》、書肆山田、 1990、七四ページ)。次は、随想〈救済を願う時――《魚藍》のことなど〉で歌集《魚藍》から自作を何首か披露したあと「一読して誰の影響をうけたか は、すくなくとも短歌の好きな人にはわかるであろう。このなかのほとんどが、北原白秋の《花樫》(桐の花・雲母集・雀の卵・葛飾閑吟集などから抄したも の)、やや違うがその頃、愛読した《佐藤春夫詩鈔》の抒情が色濃く現われているから。〔……〕いってみれば私は白秋の詩には耽れなかった。ひたすら《桐の 花》と《雲母集》のみへ帰依していた。詩は佐藤春夫だけを読んでいた。今思うと、それ故に私は幸であったのか、不幸であったのかわからない。あまりにも純 一にこの二人の詩家を愛しすぎて、別のすぐれた歌人斎藤茂吉や、別のすぐれた詩人萩原朔太郎に出会う機会を失ってしまったのだから」(《「死児」という絵 〔増補版〕》、筑摩書房、1988、六五〜六六ページ)。さらに、沈復(松枝茂夫訳)《浮生六記》に触れて、初版は春夫の解説の文章に惹かれて一本購った こと、新訳では共訳者としての春夫の名が省かれたことを書いている(同前、二七三〜二七四ページ参照)。決定的なのは、歌集《魚藍》(私家版、1959) 〈あとがき〉の次の一節である。

歌集「魚藍」はぼくの十代後半の作品です。その頃、愛読した岩波文庫の「佐藤春夫詩鈔」、改造文庫の北原白秋歌集 「花樫」の影響を認めることができます。

《佐藤春夫詩鈔》(正しくは 《春夫詩鈔》)はその後《春夫詩抄》と改題されて同文庫のカタログに収まるが、現在は品切れのようだ。ときに白凰社から〈青春の詩集〉という全35巻の叢 書が出ている。この佐藤春夫詩集は西脇順三郎の編になる。吉岡は〈白秋をめぐる断章〉の「1 西脇順三郎詩の中の白秋」で「私はうかつにも、西脇順三郎編の『北原白秋詩集』があることを知らなかった。順三郎の晩年まで、その近くにいたが、ついぞ白 秋に就て語るのを、聞いたことがない。この二人の詩人は、おそらく交流がなかった筈である。敬意からこの一巻を編んだものであろう。私は一本を購って、通 読した。惜しいことにそこには、順三郎の白秋の詩への言及がないのだ」(同前、三〇〇ページ)と書いたが、これが〈青春の詩集〉のシリーズで、西脇は春夫 と白秋のほかに島崎藤村と萩原朔太郎の計四詩集を編んでいる。吉岡が〈青春の詩集〉の《佐藤春夫詩集》(1965年9月1日)を読んだかはっきりしない が、この集がたまたま手許にあるので、引用は同書からする(底本は1952年、創元社刊の《定本佐藤春夫全詩集》だとクレジットにある)。

西脇順三郎編《佐藤春夫詩集〔青春の詩集〕》(白凰社、1965年9月1日〔新装版第7刷:1995年4月20日〕)のジャケットと沈復(松枝茂夫訳)《浮生六記(浮生夢のごとし)〔岩波文庫〕》(岩波書店、1981年10月16日)の表紙
西脇順三郎編《佐藤春夫詩集〔青春の詩集〕》(白凰社、1965年9月1日〔新装版第7刷: 1995年4月20日〕)のジャケットと沈復(松枝茂夫訳)《浮生六記(浮生夢のごとし)〔岩波文庫〕》(岩波書店、1981年10月16日)の表紙

水辺[すゐへん]月夜[げつや]の歌|佐藤春夫

せつなき恋[こひ]をするゆゑに
月かげさむく身[み]にぞ沁[し]む。
もののあはれを知るゆゑに
水のひかりぞなげかるる。
身をうたかたとおもふとも
うたかたならじわが思ひ。
げにいやしかるわれながら
うれひは清[きよ]し、君ゆゑに。

これなど、《昏睡季節》の序歌「あるかなくみづを/ながるるうたかた/のかげよりあはき/わかきひのゆめ」の本歌のようだし(その恋情 は、春夫に較べるとほとんど秘められている)、

断章|佐藤春夫

さまよひくれば秋ぐさの
一つのこりて咲きにけり、
おもかげ見えてなつかしく
手折[たを]ればくるし、花ちりぬ。

は同じ題名の〈断章〉(@・14)の「わがこころになやみはてず/あをぞらにくものわく」を想わせる(上掲の二篇は、春夫の第一詩集 《殉情詩集》冒 頭の〈同心草〉に見える、吉岡の《静物》における〈静物〉的位置を占める作品)。吉岡の二行詩は、元のもっと長い(おそらくは春夫ふうの、かな主体で和文 脈の文語による)詩の一部を拉し来ったのでは、と想ったこともあった(《詩人としての吉岡 実》の〈「初期吉岡 実」〉)。吉岡の〈断章〉は、夕闇にそこだけ暮れのこったような春夫のこの詩にも、何物かを負っているようだ。ところで、西脇順三郎には佐藤春夫を追悼し た〈田園の憂欝(哀歌)〉(詩集《禮記》収録)があるが、吉岡は春夫を追悼する詩文を残していない。というより、若年のころに耽読したこと以外書きしるし ておらず、面識があったかも定かではない(白秋の講演目当てに出かけると、当の白秋は欠席で、朔太郎が酩酊していたという話は随想にあったけれども)。白 秋の歌以上に、吉岡の青春の詩として、どこかに封印してきたのだろうか。歌集《魚藍》と春夫詩の比較検討は今後の課題だ。


吉岡実と赤尾兜子(2013年10月31日)

吉岡実は赤尾兜子(1925-81)について三度、文章を書いている。
 @〈兜子の一句〉(《渦》1979年1月号〔原題なし〕)
 A〈兜子追悼〉(《渦》1981年6・7月号)
 B〈赤尾兜子秀吟抄〉(《赤尾兜子全句集》栞〈赤尾兜子ノート〉、立風書房、1982年3月1日)
@ は《「死児」という絵》(1980)に収められたが、《「死児」という絵〔増補版〕》(1988)では「意にみたない」(〈あとがき〉)として省かれた。 「兜子の近作一句を選」んだコメントは、その短さ(吉岡の文は約300字)ゆえに除かれたか。なお、同文は《鑑賞赤尾兜子百句》(立風書房、1994年3 月20日)に諸家112人のひとりとして収録されている。Aは未刊行。Bは〔増補版〕に収められ、Aについて「昨年の梅雨の頃、「渦」の兜子追悼号に、私 は小文を寄せている。それには、淡い三度のふれあいを追想して、わずか四句を掲げているだけだった。その時は、枚数の都合で、書けなかったことを、ここに 書きとめておきたい」(同書、三三二ページ)とある。吉岡は、人間兜子の記憶が生生しいAを捨ててBを採ったわけだが、東の詩人が西の俳人との経緯を綴っ た〈兜子追悼〉は貴重である。

 私は今までに、赤尾兜子とは三度しか会っていない。『蛇』、『虚像』の作者と最初に出会ったのは、永田耕衣さんの 会の時であっ た。兜子は新しい句境を求めて、悩み、逡巡しつつ、新しい作品を発表しているように、見えた。二次会のバーの一隅で、私は兜子とふたりきりになると、「伝 統回帰」と言われようとも、現在のような句作を、続けるように言った。
 兜子と二度目に会ったのは、句集『歳華集』の出版記念会の時であった。招待を受けて、私はしばらくためらっていた。出不精な私にとって、一、二泊の旅行 になるし、生来、会合そのものが好きでなかった。しかし、『歳華集』を通読して、その見事な成果に敬意を表したくなって、出席した。大岡信が隣にいた。参 集者も多く、まるで結婚式のように豪華な雰囲気の会だった。当然ながら、兜子とゆっくり話をする機会はなかった。わずかなひととき、彼の「書」がところど ころに飾られた、ロビーのような処で、書に就て語り合ったくらいだった。
 昨年の春、永田耕衣傘寿の会が神戸の六甲荘で催された。二次会は、三宮のどん底という店で、百鬼夜行的な夜だった。私がかつて田荷軒で観た「金剛」の大 字が懸っているという、バーらんぶるへ、五、六人の酔漢と夜の街をさまよいつつ行った。そこに、したたか酔った兜子がいた。これが三度目の出合いであり、 最後であった。「金剛」の二字は、私の垂涎するものではなかった。
 兜子自死の後で、届いた「俳句研究」五月号の近詠雪中の鳰¥\五句のあまりにも、暗い調べに驚いた。
  冬の雁霊界のこと聴きをれば
 この一句がそれを象徴している。そして、「渦」四月号が届いた。底冷′ワ句が冷めたく心に泌みる。次の一句のように。
  本を売り心の隅に鎌鼬
 私は、久しい前から、『歳華集』に続く新句集を、待ち望んでいたのに、兜子はそれを編むことなく、長逝してしまったのは、惜しまれる。(もしかしたら、 句稿の整理・構成はしているかも知れない)――。
 二、三年前に、手紙と半紙より少し大き目の和紙に、染筆したものを貰った。「大雷雨鬱王と会ふあさの夢」の一句であった。
 『歳華集』は秀句、佳吟にことかかないが、私は今、ここに一句を、掲げたいと思う。兜子の自画像のように見えるからだ。
  空鬱々さくらは白く走るかな
 五月もすでに末、私たちの周囲から、さくらの花は消えていた。

吉岡が兜子と初めて会った「永田耕衣の会」は、1974年1月、神戸・舞子ヴィラで開かれた永田耕衣全句集《非佛》出版記念会(兜子の 発起による) である。「八年ほど前、私は久しぶりに、『神秘的な時代の詩』を上梓した。試行錯誤にみちたこの詩集は、当然のことながら理解されなかった。そのような 折、兜子から手紙が来た。今、その手紙はわが家のいずこかに、ある筈だが見ることは出来ない。しかし文意は覚えている。〔原文、引用のため改行〕まばゆい 丘の上に出ると/馬の交尾/の影のしていることが/暁の彫刻である〔原文、引用終わり〕この四行に、感動したとあった。「少女」と題する四十二行の詩であ る。私はやさしく慰撫された思いであった」(《「死児」という絵〔増補版〕》、三三二〜三三三ページ)とBにあるのは、吉岡が会の発起人へ挨拶を兼ねて 贈った一本に対する返礼だろう。このころから鬱症状に悩まされていた兜子は、1981年3月17日、阪急電鉄御影駅近くの踏切で鉄道事故のため急逝した。 自死だったと了解している吉岡は、沈痛な色調に染められた追悼文よりは、《赤尾兜子全句集》の栞に寄せた全業績を振りかえる文章をよしとした(吉岡は、同 時刊行の《三橋敏雄全句集》栞の文章も増補版に収 めているから、二篇を一対として揃える意 図もあっただろう)。兜子の代表作《歳華集》(角川書店、1975)から4句掲げる。いずれも〈少女〉(F・5)や〈わが馬ニコルスの思い出〉(F・ 16)、〈過去〉(B・17)といった吉岡実詩との浅からぬ縁を感じさせる作品である。

機関車の底まで月明か 馬盥
帰るラガー鱝[えひ]水槽のなかに死ぬ
数々のものに離れて額の花
火傷[やけど]の犬われに蹤ききて鳥渡る

吉岡実詩集《神秘的な時代の詩〔特装版〕》(赤尾兜子旧蔵)の献呈署名ページ
吉岡実詩集《神秘的な時代の詩〔特装版〕》(赤尾兜子旧蔵)の献呈署名ページ
出典:吉岡実『神秘的な時代の詩』限150部 黒崎彰版画装 赤尾兜子旧蔵 - アート・デザイン・工芸の古書 PP BOOKSTORE - ヤフオク!

〔追記〕
句集《歳華集》出版記念会の出席者の集合写真が和田悟朗編著《赤尾兜子の世界〔昭和俳句文学アルバム1〕》(梅里書房、1991年3月15日)に掲載され ており、吉岡も写っている。写真は同書で見ていただくとして、キャプションを引こう。
「「『歳 華集』出版を祝い兜子を励ます会」の記念写真。前列左より、永田耕衣、高柳重信、大岡信、陳舜臣、兜子、司馬遼太郎、富田碎花、小野十三郎、吉岡実。二列 目左より、足立巻一、加藤隆久、福田義文、奈良本辰也、末次摂子、(一人おいて)高安国世、吉田弥寿夫、梅原猛、須田剋太、港野喜代子、津高和一。その他 に、田辺聖子、榊莫山、中西勝、白川渥、竹中郁、鈴木六林男、堀葦男、赤尾龍治、林田紀音夫、春木一夫、岩宮武二、白井房夫、鈴木豊一、木村重信、田村奎 三、井上青竜、小泉美喜子、佐藤廉、安田章生、和田悟朗など〔昭和50年6月、生田神社〕」(同書、二三ページ)。
錚錚たる顔触れとはこのことをいうのだろう。キャプションにはないが、九四ページの同会のスナップ写真(金屏風を背に、兜子が立って挨拶している)でも吉 岡の姿が確認できる。


吉岡実と岡井隆あるいは政田岑生の装丁(2013年9月30日)

吉岡実は同時代の俳人として高柳重信(1923-83)を最も信頼していた。同時代の歌人として信頼していたのは、岡井隆だったように 思う。いった いに吉岡は、高柳や永田耕衣をはじめとする俳人や俳句については多くを書きのこしたが、同時代の歌人や短歌についてはほとんど語っていない。《「死児」と いう絵〔増補版〕》に収められたのが〈私の好きな岡井隆の歌〉と〈二人の歌人――塚本邦雄と岡井隆〉の二篇だったというのは象徴的である。吉岡の未刊行の 散文に〈偏愛の歌〉(《岡井隆全歌集〔T・U〕》内容見本、思潮社、1987年7月)という推薦文がある(同年8月15日刊の〔T〕の別冊《岡井隆論考》 に再録)。仮名遣いを現代かなづかいに統一し、引用された《マニエリスムの旅》の短歌の表記を訂して掲げる。

 『土地よ、痛みを負え』が出版された頃、岡井隆と出会い、一本を贈られた。以来、私はその人柄と歌に魅せられ、今 日まで注視し て来たのだ。「渤海のかなた瀕死の白鳥を呼び出しており電話口まで」――。或る年、忽然と彼は身を隠してしまった。まるで瀕死の白鳥のように。そんな岡井 隆を欽慕して、間もなく、初期作品から『眼底紀行』までの全歌集が編まれた。その栞に、私も一文を寄せている。
 数年後、岡井隆は歌の世界に復帰し、それからは意欲的に、『鵞卵亭』をはじめ、数冊の歌集を公刊しつづけた。そして『マニエリスムの旅』、『禁忌と好 色』へと、一つの頂点をかたち造っている。どちらかと言えば、私は、『マニエリスムの旅』を偏愛している。
 故知らね 囁沼[ささやきぬま]に芹を摘[つ]む 黄檗の僧ふり向きにけり
 湯のあとを胡瓜かじれる童子ありひたすらにあの緑を噛むも
 冬波は沖まで硬くむら立てりひややかに人は笑ひはじめぬ

岡井隆全歌集の栞に一文を寄せたとあるが、吉岡の〈私の好きな岡井隆の歌〉は《現代短歌大系〔第7巻〕》(三一書房、1972)月報に 掲載されたも ので、当時の全歌集すなわち《岡井隆歌集》(思潮社、1972)の栞に寄せた文ではない。岡井は《岡井隆全歌集〔U〕》(思潮社、1987年9月15日) の〈あとがき〉でこう振りかえっている。
「以後一九七五年「西行をめぐる断章・他」を「磁場」に書くまでは、作歌を断った。この約五年の間の中断によって、わたしの歌についての考え方は、かなり 大きく変った。読者が見ればどうかわからないが自分で感じていることを箇条書きすると次のようなことになろう。
 第一に、自分の歌に興味をもってくれる少数の友人(年齢のいかんを問わない)知己のために書くことになった。その人たちにわかればいいのだから、かなり ブッキッシュな素材を扱ったり、特殊な話題をもち出してもよかった。知識階級(今はほとんど死語だが)の一員として育てられた閲歴を、ほこりもしないが、 かくそうともしなかった。中産階級(これも死語)の給料生活者として、父の代から自分の代まで生活したことを肯定してうたった。
 第二に、手法とか技法とかに、奇妙なストイシズムを課する必要はないと思った。「アララギ」で学んだ歌い方もよければ、塚本邦雄と一しょに開拓した「前 衛短歌」の諸方法も結構である。詞書、連作、散文との組合せ、なんでもいいのであって、あらゆる技法(といったって大して広いものではないが)について、 エピキュリアン(享楽主義者)でありたい。そのためには、遊戯のこころをつねに新鮮に保ちたいものだ、と思って来た。
 第三に、一切の政治的イデオロギーから自由でありたい。それでいて、いかなる書きものも、発表すれば、一定の政治性をもつということに、自覚的でありた い。
 第四、歌壇ならびに結社の指導的な立場といったものからは、つねに解放されてありたい。
 まだあるだろうが、さしあたりこの四つのことから、『鷲卵亭』より『マニエリスムの旅』あたりまでの作歌動機は、導き出されているだろう。旧仮名づかい にしたり、古典的作法を意識的にとり入れたり、歌謡風の崩し書きをこのんだり、いずれも、右の四項目から出ているといえる」(同書、五〇七〜五〇八ペー ジ)。
岡井の作風のこうした変化を、吉岡は肯定的に受けとめたようだ。とりわけ「第一」と「第二」は、吉岡自身の1980年代の詩作の姿勢に通じるものがある。 岡井の試みが現代短歌で許されるのならば、《薬玉》のような試みが現代詩でも許されるはずだ。岡井の短歌に触れた吉岡は心強く思ったに違いない。その岡井 が吉岡の詩について語りつづけているのは、人も知るとおりだ。

岡井隆歌集《マニエリスムの旅》(書肆季節社、1980年5月〔日付け記載なし〕)の本扉と函〔装丁:政田岑生〕 岡井隆歌集《マニエリスムの旅》(書肆季節社、1980年5月〔日付け記載なし〕)の函と表紙
岡井隆歌集《マニエリスムの旅》(書肆季節社、1980年5月〔日付け記載なし〕)の本扉と 函〔装丁:政田岑生〕(左)と同・函と表紙(右)

吉岡偏愛の歌集《マニエリスムの旅》(書肆季節社、1980年5月〔日付け記載なし〕)は、塚本邦雄の一連の著書のプロデュースで知ら れる政田岑生 の装丁である(同書の岡井の〈あとがき〉は、解説を執筆した塚本と本書を出版した書肆季節社の発行者である政田への謝辞で締めくくられている)。政田岑生 の造本装丁は、杉浦康平と吉岡実の両極の中間に位置するように見える。本書の函でいえば、表紙1は吉岡ふうだが、図像の扱いはカットというより作品に近 い。吉岡は図像をカットとして使用する。ときに、この人体図の位置、高すぎないか。いずれにしても、著者名はもう少し小さくていいだろう。背と表紙4に図 像を配するあたりは杉浦ふうだ。吉岡は通常、表紙4に出版社のマークを入れるだけである。布装の表紙にこれといった特徴はないが、書名と著者名を双柱罫で つなぐ背文字の処理は珍しい。吉岡は表紙まわりに罫を用いない。表紙の色がサフランの花の淡い紫なのは偶然だろう。それとも岡井の要望か。

〔追記〕
塚本邦雄は〈詞彩共鳴――杉浦康平論〉(《断言微笑》、読売新聞社、1978年8月14日)で、日本文を形成する漢字・平仮名・片 仮名をこれほど卓抜な意匠と化したデザイナーはなく、伝行成筆の〈和漢朗詠集〉と同様、その作品はあらゆる意味で革命的であり、未知の極点に近づこうとし ている、と杉浦康平のレイアウトを称揚した。杉浦の造本装丁になる自著《百句燦燦》(講談社、1974)を「旧い天球儀図と天文分野図を鏤め、鑑賞作品そ のものを七彩染分け[レインボー]で箱に切り嵌めた眺めは、既刊本約六十冊の中でも、書名通り燦たる光を放つてゐる」(同書、五六ページ)と、その装丁を 讃えた。デザイナーとしての読みを自著の造本に求めたのである。政田(元来は詩人であり、歿後に一巻の詩集がある)が杉浦から学んだのは、その造形理論で ある以上に、一冊の書物がそれまでの書物群になにをもたらすか、という哲学だったように思う。


《詩人としての吉岡実》の〈はしがき〉(2013年8月31日)

以下の短文は、この秋にPDFファイルで公開を予定している現在執筆中の長篇評論《詩人としての吉岡実》の〈はしがき〉である。書名は 単に《吉岡 実》でもよかったのだが、いずれ「装丁家としての吉岡実」に焦点を合わせた一文も書きたいので、自身が編んだ人文書院版ボードレール全集に福永武彦が寄せ た〈詩人としてのボードレール〉にあやかって「詩人としての」を冠した。言うならば、本書の序文として書いた「〈吉岡実〉人と作品」である。

 吉岡実は、歿後刊行の稿本詩集《赤鴉》を除き、生前に十二冊の詩集を刊行した。戦前の《昏睡季節》と《液体》はい ずれも出征前 に遺書として編まれた。復員後は書きおろしの《静物》と、同人誌や商業誌に発表した詩篇に書きおろしを加えた《僧侶》を自費で刊行。後者がH賞を受賞する に及んで、詩人として地歩を築いた。一九七六年の《サフラン摘み》は高見順賞を受賞した代表作である。詩人であると同時に出版人でもあった吉岡は、高等小 学校を卒業後、医学書専門の出版社に奉公した。戦前は書塾を手伝った一時期もあったが、戦後は二、三の出版社を経て筑摩書房に勤務。事実上の倒産を機に退 職するまで、一貫して出版界にあった。その後も詩人として、装丁家として活躍し、《薬玉》で藤村記念歴程賞を受賞。一九九〇年に七十一歳で病歿した。未刊 詩篇を含む全詩集と歌集は《吉岡実全詩集》としてまとめられている。
  吉岡実は文学活動を短歌から始めた。少年時に兄事した書家の佐藤春陵の感化が大きい。北原白秋の影響下に短歌・旋頭歌を詠み、ほぼ 同時期 に、佐藤たちの句会に参加して俳句もつくった。新興俳句から学ぶ処が多く、富澤赤黄男を擁した《旗艦》に投稿した十数句が掲載されている。自作が初めて活 字になったのも、皚寧吉の筆名で《旗艦》へ投じた俳句だった。その後、瀧口修造訳のピカソの詩や北園克衛、左川ちかのモダニズム詩に触れて詩作に転じ、詩 歌集《昏睡季節》と詩集《液体》を刊行。現存する《赤鴉》は初期の和歌を集めた〈歔欷〉と俳句を集めた〈奴草〉から成るが、《昏睡季節》につながると目さ れる詩篇は用紙が破りとられて削除された。
  出征前の《赤鴉》と《昏睡季節》《液体》の二詩集を「初期吉岡実」、真の詩的出発といえる戦後の《静物》と《僧侶》を「前期吉岡 実」、さら に《神秘的な時代の詩》と《サフラン摘み》を「中期吉岡実」、《薬玉》と《ムーンドロップ》を「後期吉岡実」の作品として、ここでは論じたい。すなわち、 最初期の短詩型二集と、全十二冊の詩集から選んだ八冊の詩集の巻頭と巻末の作品を中心に、詩人としての吉岡実の歩みを概観する。
  吉岡には、これらの短歌や俳句、詩以外に、散文集《「死児」という絵》(元版および増補版)、評伝《土方巽頌》、《うまやはし日 記》を始めとする日記などの散文、さらには対談を含む未刊行の談話がある。これらも適宜参照しながら、吉岡実の詩業を見ていこう。

ついでと言ってはなんだが、《詩人としての吉岡実》の目次も掲げておく(ノンブルは除いた)。論じる対象作品の選択が機械的だと言うな かれ。標題と なった詩篇はもちろんだが、吉岡実の詩集の巻頭と巻末(冒頭と末尾)の作品がいかに重要かは、本サイトでことあるごとに強調してきた。今は亡き秋元幸人の 《吉岡実アラベスク》(書肆山田、2002)以降、吉岡実の作品を論じた文章にかぎれば、じつに寥寥たるものがある。本サイト《吉岡実の詩の世界》を開設 して10年。その間の蓄積を踏まえて、本書を刊行(公開)する。

詩人としての吉岡実・目次

 はしがき

「初期吉岡実」――《赤鴉》と《昏睡季節》と《液体》
 T 〈歔欷〉冒頭の短歌――「凍る夜〔……〕」
 U 〈歔欷〉末尾の旋頭歌――「風船玉つき〔……〕」
 V 〈奴草〉冒頭の俳句――「春雨や人の言葉に嘘多き」
 W 〈奴草〉末尾の俳句――「凩や柩車の曲る街はづれ」
 X 《昏睡季節》巻頭の詩篇――〈春〉(@・1)
 Y 《昏睡季節》巻末の詩篇――〈昏睡季節2〉(@・20)
 Z 《液体》巻頭の詩篇――〈挽歌〉(A・1)
 [ 《液体》巻末の詩篇――〈夢の翻訳〉(A・32)
 【註】 「初期吉岡実」――《赤鴉》と《昏睡季節》と《液体》

「前期吉岡実」――《静物》と《僧侶》
 T 《静物》巻頭の詩篇――〈静物〉(B・1)
 U 《静物》巻末の詩篇――〈過去〉(B・17)
 V 《僧侶》巻頭の詩篇――〈喜劇〉(C・1)
 W 《僧侶》巻末の詩篇――〈死児〉(C・19)
 【註】 「前期吉岡実」――《静物》と《僧侶》

「中期吉岡実」――《神秘的な時代の詩》と《サフラン摘み》
 T 《神秘的な時代の詩》巻頭の詩篇――〈マクロコスモス〉(F・1)
 U 《神秘的な時代の詩》巻末の詩篇――〈コレラ〉(F・18)
 V 《サフラン摘み》巻頭の詩篇――〈サフラン摘み〉(G・1)
 W 《サフラン摘み》巻末の詩篇――〈悪趣味な内面の秋の旅〉(G・31)
 【註】 「中期吉岡実」――《神秘的な時代の詩》と《サフラン摘み》

「後期吉岡実」――《薬玉》と《ムーンドロップ》
 T 《薬玉》巻頭の詩篇――〈雞〉(J・1)
 U 《薬玉》巻末の詩篇――〈青海波〉(J・19)
 V 《ムーンドロップ》巻頭の詩篇――〈産霊(むすび)〉(K・1)
 W 《ムーンドロップ》巻末の詩篇――〈〔食母〕頌〉(K・19)
 【註】 「後期吉岡実」――《薬玉》と《ムーンドロップ》

 吉岡実書誌(単行詩集篇)
 あとがき

――詩篇標題のあとの丸中数字(詩集番号)は何番めの詩集かを、アラビア数字はその詩集での掲載順を示す。


《新詩集》あるいは大森忠行のこと(2013年7月31日)

吉岡実は戦後10年間の総決算として詩集《静物》(私家版、1955)を書きおろしたあと、《新詩集》や《今日》(1954年6月創刊 〜1958年 12月終刊〔10号〕)や《季節》(1956年10月創刊〜1958年9月終刊?〔12号〕)といった既存の同人誌に参加している。《新詩集》と《今日》 は同人だったが、《季節》は作品を寄せただけだったかもしれない。手許に《新詩集》が創刊号から第8号まであるので(終刊未詳)、同誌に掲載された作品を 通して、吉岡実詩が書きおろしから雑誌発表に移行しつつあった当時を振りかえってみよう(これ以降、吉岡は同人誌・商業誌を問わず、雑誌を主たる発表媒体 とする)。同誌創刊号の編集発行者は佐川英三と鶴岡冬一のふたりで、《日本現代詩辞典》(桜楓社、1986、一九九ページ・三三五ページ)の両名の項はこ うなっている。

佐川英三  さがわえいぞう 詩人。大正二・ 九・四〜(1913〜)。奈良県吉野郡生まれ。本名大田行雄。中学中退後、大阪鍼灸学校卒。第一書房編集部・北斗書院勤務を経て印刷業。奈良県十津川出身 の詩人野長瀬正夫の啓発により一七歳のころから詩作を始め、「日本詩壇」に投稿。「豚」「現代詩精神」「花」を経て、「日本未来派」編集同人。詩集『戦場 歌』(昭14・10 第一書房)『若い湖』(昭27・6 日本未来派発行所)『絃楽器』(昭29・5 同)『現代紀行』(昭47・1 宝文館)のほか、編 著『高村光太郎詩がたみ 愛と真実』(昭43 同)がある。    (編集部)

鶴岡冬一  つるおかふゆいち 詩人。大正六・七・二〇(1917〜)。北海道函館市生まれ。本名松山福太郎。第三高等学校文科修了。教員・翻訳官・国家公務員をへて 文筆業に。中学時代にブラウニング・キーツなどに親しみ、三高の「嶽水会雑誌」に書いていたのが最初である。戦後、「現代詩」「時間」「新日本詩人」など に主として発表する。詩集に『花盗人』(昭32)『残酷な季節』(昭33)、訳書にC=D=ルーイス著『詩をどう読むか』(昭32)、評論集に『不安の克 服』(昭36)『小説の現実と理想』(昭52)がある。現実を根底に据えた手固い詩風である。  & amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; nbsp; (安宅夏夫)

《新詩集》は同辞典にも三省堂の《現代詩大事典》にも載っておらず、詳しいことはわからない。発行所の「蜂の会」は、鶴岡冬一が主宰す る詩人のグ ループだったようだ。印刷の実務を担ったのが佐川英三だろうか。創刊号(1955年6月1日発行)の目次のジャンルと作者名を掲げよう。詩は原子朗・那須 博・牧野芳子・手塚武・乾直恵・首藤三郎・長谷川吉雄・石川宏・高島菊子・中野嘉一・上田静栄・田中真幸・黒部節子・鶴岡冬一・佐川英三。評論は鶴岡冬 一・中野嘉一。訳詩は菊盛英夫・上田保・鶴岡冬一。書評が奥田博史。表紙は笠木実、カットは鉄指公蔵。鶴岡は編集発行者だけでなく、書き手としても八面六 臂の活躍である。なお、創刊号に同人名簿の類の記載はない。次に引く〈編集後記〉で紹介されている菊盛英夫や上田保は、ゲスト格か。

 編集後記
☆蜂の会新詩集も多くのひとびとの御協力や援助によつてようやく発刊されました。
☆蜂の会新詩集のモットーとする所は何よりも芸術の純粋性を守りつづけることにあるのですが、〔……〕
☆この号に御寄稿下さつた菊盛英夫氏は〔……〕。上田保氏は〔……〕。又表紙絵をお願いした笠木実氏は〔……〕。尚、事務の都合により今後東京在住同人の 原稿送先[、、、、]は鶴岡の方へお願い致します。振替は東京七二、一五八番(鶴岡)
☆ われわれのなすべきことは多い。しかし先づ当面の仕事は現代詩のパターンを造るというよりも現代詩とは何かということの探求にある。敢えて教条を掲げざる 所以だが、和して同ぜず、各自の個性を尊重して内部批評を厳正に行い互に啓発督励しあつてゆく集団、《蜂の会》はそういう会である。ごらんの如く多彩なメ ンバアであるが今後も力量と意欲に満ちた人々をどしどし加えたい。
☆《蜂の会》は単に詩人の集団であるだけでなく他の芸術分野とも交流をはかり、詩人の閉塞主義を打破したい。〔……〕(佐川)
☆次号発行は十月。(《新詩集》創刊号、六三ページ)

そして、奥付のまえに〈蜂の会会員規定〉が置かれている。

 蜂の会会員規定
一、誌代概算三〇〇円前納者を会員とする。会員は投稿自由。
一、投稿は編集部で選衡の上《新詩集》に掲載する。原稿は返戻しない。
一、会員の内優秀な者は同人会にて選衡の上、同人に推薦する。
一、同人は別に定める規約による。
  蜂の会編集部
 振替横浜六八六番 電話藤沢五三四四番(同前)

吉岡はこれを見て会員になり、作品を提示した結果、同人に推薦されたと思しい。なぜそう推測されるかというと、第2号(1956年1月 1日発行)の 〈受贈深謝〉の9冊の詩集のなかに「吉岡実「静物」(私家版)」(同誌、二五ページ)とあるばかりか、〈寓話〉(B・15)と〈静物〉(B・4)の2篇 が、詩篇のあとに「詩集「静物」より」という断わり書きを伴って、同号に再録されているからである(同誌、四四〜四五ページ)。気になる2篇の本文だが、 〈寓話〉の全角アキや〈静物〉のかなづかいが一部底本の詩集《静物》と異なるものの、詩句への手入れはなされていない。

《新詩集》第2号(蜂の会、1956年1月1日)に再録された〈寓話〉と〈静物〉(B・4)
《新詩集》第2号(蜂の会、1956年1月1日)に再録された〈寓話〉と〈静物〉(B・4)

ただし、これにはもうひとつ別の線が考えられる。浅草・染太郎での《僧侶》出版記念会(1959年1月30日)にも出席した大森忠行が 蜂の会の主要 メンバーだったらしいのである(第2号掲載の金子光晴の随想〈雑感〉による)。大森が吉岡と同じ第2号から登場しているところをみると、ふたりは同時に入 会した、あるいは同人になったとも考えられるが、このあたりになると資料が不足していて、吉岡が大森と知り合った方が先なのか、《新詩集》あるいは蜂の会 に入った方が先なのか、判然としない。大森忠行は詩作のほか美術関連の著作をもち、飯塚書店の雑誌《現代詩》1959年3月号の〈無罪・有罪〉(E・2) では大辻清司の写真と吉岡の詩の「構成」(誌面のレイアウトだろう)をしている。そればかりか、《現代詩手帖》同年10月号に〈孤絶のアバンギャルド〉と いう吉岡実論を執筆している。まさしく当時の吉岡実詩の伴走者といえよう。《静物》の詩の再録で《新詩集》に登場した吉岡だが、同誌に発表した新作は〈告白〉〈島〉の2 篇である。1956年に発表したのがこれらを含む5篇だから、吉岡にとって同誌がいかに大きな存在だったかがわかる。

 1956年発表の吉岡実詩
 4月 告白(C・2、《新詩集》〔蜂の会〕3号)
 5月 喜劇(C・1、《詩学》〔詩学社〕5月号〔11巻6号〕)
 7月 陰謀(未刊詩篇・6、《現代詩》〔緑書房〕7月号〔3巻6号〕)
 11月 島(C・3、《新詩集》〔蜂の会〕4号)
 12月 仕事(C・4、《今日》〔書肆ユリイカ〕6号)

のちに《僧侶》となる詩集の初期詩篇を書いて、同人誌(《新詩集》と《今日》)や商業誌(《詩学》と《現代詩》)に陸続と発表しはじめ た吉岡だが、 《新詩集》の第5号(1957年5月1日発行)の〈編集後記〉で鶴岡冬一が「☆同人消息としては大森忠行氏と吉岡実氏が退いて新同人岡村巌氏を迎えた」 (同誌、〔表紙3〕)と報じている。第4号(第3号の〈編集後記〉では1956年7月下旬発行と予告されたが、同人誌のつねとして遅れ、実際には10月下 旬ころ発行されたか)に〈島〉を寄せた前後で、吉岡は大森とともに同人を退き、おそらくは蜂の会も退会した模様だ。飯島耕一に誘われて入った《今日》を作 品発表の舞台にして、本格的な活動を始めたためと思われる。吉岡は1957年4月、伊達得夫の詩誌《ユリイカ》に〈僧侶〉(C・8)を携え、満を持して登 場するのである。

〔付記〕
大森忠行(1926-82)は1970年代後半、岩崎美術社発行の書籍で翻訳や解説を担当している。それらの巻末の紹介文を参考にした略歴と、書誌を記す (□印は原物または書影未見)。
――1926年、京都に生まれる。多摩美術大学講師(専門教育学科・基礎デザイン論)。日本現代詩人会会員。デザインの実際活動と同時に、造形芸術に関す る論文やエッセイを多数発表。主な著訳編解説書に以下がある。

 □ 大森忠行第一詩集《罪の季節》(〔京都〕北洋社、1949)
 □ 中谷健次監修、大森忠行編《東京こども絵風土記》(共同出版、1955)
 ■ 角川書店編、大森忠行解説《埴輪〔角川写真文庫〕》(角川書店、1956)
 □ 大森忠行編《ニューカットデザイン3000》(岩崎書店、1959)
 □ アーサー・ホーキンズ編、大森忠行訳《アート・ディレクターの仕事》(ダヴィッド社、1963)
 ■ 大森忠行・河原淳編《カット・デザイン・モチーフ》(ダヴィッド社、1963)
 ■ 粟津潔・大森忠行編《イラストレーション・イメージ》(ダヴィッド社、1965)
 □ 河原淳・大森忠行著《デザイン・マネジメント》(ダイヤモンド社、1965)
 □ 勝本富士雄・河原淳・難波淳郎画、大森忠行編《カット・デザイン・アイデア》(岩崎美術社、1966)
 □ モホリーナギ著、大森忠行訳《ザ・ニュー・ヴィジョン――ある芸術家の要約》(ダヴィッド社、1967)
 ■ 大森忠行解説《紋章のデザイン》(岩崎美術社、1969)
 ■ 大森忠行解説《ビアズリーのイラストレーション》(岩崎美術社、1970)
 ■ 大森忠行解説《アール・ヌーボー――そのグラフィック・イメージ〔双書・美術の泉〕》(岩崎美術社、1974)
 ■ ペトル・ヴィトリフ解説、大森忠行訳《アール・ヌーボー・デッサン集》(岩崎美術社、1977)
 ■ 大森忠行著《デザインと伝統――美と技術の論理を問い直す》(伝統と現代社、1978)
 ■ 大森忠行解説《元禄女絵づくし〈和国百女〉》(岩崎美術 社、1979)
 □ 大森忠行詩集《大津絵》(詩学社、1988)

実見したものを中心に、装丁家としての大森忠行の作品(の一部)を以下に掲げる。1950年代の作品は、同じく吉岡の友人だった吉田健男のそれとともに、初期の吉岡実装丁に影響を与えた可 能性がある。

 ■ 正木ひろし著《真夜中の来訪者》(現代社、1956)
 □ エフトゥシェンコ著・草鹿外吉訳編《エフトゥシェンコの詩と時代》(光和堂、1963)
 □ F・グリーン著・仲昇訳《ベトナム戦争――写真と記録 歴史の告発》(河出書房新社、1966)
 □ 伊藤整・下村冨士男編《日本文学の歴史9――近代の目ざめ》(角川書店、1968)
 □ 吉田精一・下村冨士男編《日本文学の歴史10――和魂洋才》(角川書店、1968)
 □ 稲垣達郎・下村冨士男編《日本文学の歴史11――人間賛歌》(角川書店、1968)
 ■ 加賀山直三著《歌舞伎の型〔改訂版〕》(東京創元新社、1968) *奥付には「レイアウト」担当とあり。
 ■ 岡潔・林房雄著《心の対話》(日本ソノサービスセンター、1968)
 ■ 保田與重郎・中河與一著《日本の心――心の対話》(日本ソノサービスセンター、1969)
 ■ 今西錦司・下村寅太郎著《学問の建設――心の対話》(日本ソノサービスセンター、1969)
 ■ 会田雄次・遠山景久著《喧嘩の哲学――心の対話》(日本ソノ書房、1969)
 ■ 摂津茂和著《新ゴルフ千一夜〔産報レジャー選書〕》(産報、1972)
 ■ 小松左京編《性文化を考える》(みき書房、1974)
 ■ ガーデンライフ編《花と植木の病害虫百科〔ガーデンシリーズ〕》(誠文堂新光社、1976)
 ■ 京都市参事会編著、角田文衛解説《平安通志》(新人物往来社、1977)
 ■ 大森忠行著《デザインと伝統――美と技術の論理を問い直す》(伝統と現代社、1978)
 ■ 尾上菊五郎・中村鴈治郎・沢村源之助・尾上大五郎著《日本の芸談 1――歌舞伎1》(九藝出版、1978)
 ■ 花柳章太郎・喜多村緑郎・曽我廼家五カ・沢田正二郎著《日本の芸談 5――新派・新国劇・喜劇》(九藝出版、1978)
 ■ 尾上松之助・上山草人・浦辺粂子・斎藤寅二郎・内田吐夢著《日本の芸談 6――映画》(九藝出版、1979)
 ■ 桜川忠七・松旭斎天勝・一輪亭花咲・鏡味小仙・橘つや著《日本の芸談 7――雑芸》(九藝出版、1979)
 ■ 別所源二著《青春と戦争――ある戦中派の手記》(光和堂、1980)


吉岡実の帯文(2013年6月30日〔2013年8月31日追記〕)

吉岡実の署名の入った帯文は、最近まで次の5冊だとされていた。行頭に丸中数字を振って、《吉岡実 未刊行散文集 初出一覧》の記載を借りる。このうち、Cと Dは思潮社の現代詩文庫版《城戸朱理詩集》(1996)と同《高貝弘也詩集》(2002)の〈詩人論・作品論〉で手軽に読むことができる。

@☆現代俳句の一変奏 高柳重信句集《日本海軍》帯(1979年9月30日、立風書房刊)112
A☆〔〈みれん〉は……〕 飯島耕一短篇集《三つの物語》帯(1980年11月25日、書肆山田刊)123
B☆〔今は亡き師高柳重信の……〕 夏石番矢句集《メトロポリティック》帯(1985年7月25日、牧羊社刊)170
C☆〔元素[エレマン](幼児体験)と……〕 城戸朱理詩集《召喚》帯(1985年10月27日、書肆山田刊)171
D☆〔《中二階》と《深沼》の……〕 高貝弘也詩集《敷き藺》帯(1987年8月30日、思潮社刊)187

今年(2013年)の3月、次の1冊が吉岡の執筆した帯文のリストに加わった。AとBの間になる。

☆単独の鹿 小中英之歌集《翼鏡》帯(1981年10月10日、砂子屋書房刊)―

 「さくら花ちる夢なれば単独の鹿あらはれて花びらを食む」
――なぜかこの一首が、小中英之の自刻像のように、見える。群から離れ、独り暁闇に佇む、鹿の影。
 この歌人は、濁世と宿痾の「間[かん]」を漂いつつ、みずからの「神[しん]」を慰撫し、『翼鏡』一巻を詠みあげた。

小中英之歌集《翼鏡》(砂子屋書房、1981年10月10日)の函と帯〔文:吉岡実〕
小中英之歌集《翼鏡》(砂子屋書房、1981年10月10日)の函と帯〔文:吉岡実〕

これらは詩人・吉岡実が執筆した帯文であって、筑摩書房で業務上、執筆したであろう担当書籍の帯文(それがあるとして)とは性格を異に する。無署名 の帯文の執筆が簡単だったはずはないが、署名入りの場合は、原稿分量の多寡にかかわらず、苦労しながら書いたようだ。城戸朱理の随想〈わたしの処女詩集の ころ〉がその間の事情を伝えているので、やや長いが見てみよう。

 〔詩集『召喚』の〕本文はすでに印刷に入り、装幀は決まったというものの、ひとつだけ問題が残った。帯をどうする かである。そのことを書肆山田で尋ねられたとき、私は帯のことなどまったく考えていなかったから何も思いつかず、吉岡さんと相談してみますと答えたのだっ た。
〈十月九日 二時、渋谷TOPで吉岡実氏とお会いして、『召喚』の帯のことを相談する。帯文の執筆を快諾された ので『召喚』三校をお渡しする〉

  この日、私は署名はなくても構わないので何か書いていただけないでしょうかと吉岡さんにお願いした。何も思いつかなかった結果の出来事で、吉岡実の帯文で はなく、吉岡実が書いたものであるらしい帯文というものに、稚気の入り混った感興を覚えたりもしたのだが、吉岡さんはそれを私の「遠慮」と受け止めたらし い。あっさりと「いいよ」と答えられ、それから二人でしばらく猫について話をしていた記憶がある。

〈十月十六日 七時、下北沢シャノアール。吉岡実氏から帯文の原稿をいただく。八時半、池袋、書肆山田に届け る。途中、吉岡さんから電話で帯文の語句、変更の連絡あり。詩集のための作業のすべてを完了する〉

 結局、印刷された帯文は次のようなものである。

元素[エレマン](幼児体験)と食物[アリマン](知識経験)に依って、複雑に織り成された、連作詩篇といえよ う。(言葉の丑満時)から発光している故に、全面的消滅の危惧もあろうか。しかし、この詩篇は(魂)にはたらきかけてくる(装置)がある。

  原稿を受け取ったとき、すでに「吉岡実」という署名がはっきりと記されていて、私はその御好意に感謝した。「元素[エレマン]」「食物[アリマン]」「言 葉の丑満時」「全面的消滅」などの言葉は『召喚』の詩句からの引用である。とはいえ、原稿をいただいてから、わずか二時間ほどの間に、最後の一文のひとつ の語句をめぐって、印象深い曲折があった。
 吉岡さんは最初、「この詩篇は(魂)にはたらきかけてくる(謎)がある」と書いたらしい。だが、吉岡さんにとって「謎」という言葉は詩の言葉であって、 散文のそれではなかった。書き上げてから迷ったらしく、「謎」を線で消して、私が原稿を受け取ったときには「(魂)にはたらきかけてくるものがある」とい う文章になっていた。私には、それが吉岡さんの言葉らしからぬ曖昧さを孕んでいるように思えたので、「もの」よりは「謎」の方がいいと思うと進言し、瞬 時、考え込まれてから吉岡さんは「そうだね」と言って再び元の「謎」という言葉を書き込まれた。
 その原稿を持って、私は書肆山田に向かったのだが、そこに吉岡さんから電話が入り、「謎」ではなく「装置」にしようという連絡があった。その声には先刻 の迷いはかけらもなく、帰る道すがら吉岡さんはその一語をもとめてずっと考えておられたのだなと私は思った。
 刊行後、吉岡氏の書誌を研究されている小林一郎氏から、吉岡実が単行詩集に帯文を寄せたのはこれがはじめてではないかという連絡をいただいた。書肆山田 の大泉史世氏は「吉岡さんの書かれたものに注文をつけるのだから、近頃の若い人は――」と苦笑された。出来上がった本をあちこちに送ってから、ある日、返 礼なのか、土方巽氏から宅急便で加賀のかぶと鰊の漬物が届けられ、驚いた。
 このようにして私の最初の「書物」は、ついに完成した。(《吉岡実の肖像》、ジャプラン、2004年4月15日、一八〜二一ページ)

最後の一文「しかし、この詩篇は(魂)にはたらきかけてくる(装置)がある」は「(謎)→もの→(謎)→(装置)」と三転したわけだ (原稿を見ていないので、パーレンは未確認)。ちなみに、

〔……〕
元素[エレマン]、食物[アリマン]
魂にはたらきかけ
全面的消滅を内包する
〔……〕

という詩句をその中程にもつ詩篇〈白の肖像〉の末尾には「(私は、豊崎光一と署名のある「Les Georgiquesの方へ」と「翻訳と/あるいは引用」、そのように題されるふたつの論考から任意の文節を取り出し、ある脈絡によって再び構築する。そ して、驚く。これを産む[、、]ものはいったい誰であるのか?」(《城戸朱理詩集〔現代詩文庫〕》、思潮社、1996年9月1日、七六ページ)と註してあ る。詩篇〈表記の水〉には「手の中の水 声のなかに (その)装置のなかに」と「言葉の丑満時[うしみつどき]」という詩句がある。吉岡の帯文の主要な文 言は、まさしく城戸の詩から引いたものだった。その城戸の詩篇は豊崎の「論考から任意の文節を取り出し、ある脈絡によって再び構築」したものだという。こ うしたありかたを吉岡は「詩の言葉」である(謎)ではなく、(装置)という「散文の言葉」に収斂させた。城戸朱理の〈わたしの処女詩集のころ〉は、帯文と いう小さな、しかし重要な散文に向かう吉岡実の姿勢を見事に描いている。
豊崎光一〈Les Georgiquesの 方へ――un dess(e)in〉(初出は《風の薔薇》創刊号、1982年6月)にこうある(出典は豊崎光一《他者と(しての)忘却》、筑摩書房、1986年11月 28日、二〇ページ)。

 すべては、一つの「場面[セーヌ]」から始まる以前に、一つの引用、すなわち一つの反復から始まっていた。始まり が始まりの中から始まったことは決してないし、これからもないだろう。その引用(エグゼルグ)にはこう読まれる――
もろもろの風土、季節[セゾン]、音[ソン]、色、闇、光、元素[エレマン]、食物[アリマン]、響き、沈黙、 運動、休息、すべてがしたがってわれわれという機械、われわれの魂にはたらきかけるのである。
J-J・ルソー(『告白』)

件の「元素、食物」は、ジャン=ジャック・ルソーの《告白》の〈第九巻〉に「しばしば精神をかきみだす動物的組織、それをなんとかして 精神の助けと なるように働かせえたなら、どんなに理性のあやまちが救われ、悪徳の発生がふせげることか! 気候、季節、音、色、闇、光、元素、食物、喧騒、静寂、運 動、休息、そうしたすべてがわれわれの肉体の機構にはたらきかけ、したがってわれわれの魂にはたらきかける。それらすべては、われわれを自由に支配してい る諸感情をその根元において統制するための、ほとんど確実な無数の手がかりを提供している」(桑原武夫訳)と登場する。「召喚=引用」の探索の旅に終わり はあるのだろうか。

〔追記〕
クロード・シモンの大作《農耕詩》は、原著発行から31年後の2012年2月、芳川泰久の訳で白水社から刊行された。「『薬玉』、美しくいとわしい農耕詩――。」(金井美恵子)

〔2013年8月31日追記〕
「今は亡き師高柳重信の〔……〕」と夏石番矢句集《メトロポリティック》(牧羊社、1985)に帯文を寄せた吉岡だが、著者の《Ban'ya/ウェブリブログ》の〈30年前の吉岡実のはがき〉に第一句集《猟常記》(静地社、1983)への礼状が画像で公開されている。文面を録させていただく。

『獵常記』を頂きながら、お礼を申上げるのが遅れましたことを、お詫びいたします。それは読む時機を、考えていたからのこと。さて、本日一読し、深い愉悦をおぼえました。近来の詩歌俳句の作品で、これほど、実驗志向と成熟度を、かねそなえた書物は、稀れだと思います。評論活動もさることながら、これからは、句作への精進を望みます。
五月四日   実

これで次の句集に帯文を頼まない法はないだろう。なお、吉岡は〈重信と弟子〉の〈4 喪服の祝宴〉で夏石番矢の句業に触れて「初めて、句集『猟常記』に依り、いささか奇想で感性のするどい俳句作品を知ったのだ」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三二五ページ)と書いている。吉岡が遺した、最も若い世代の俳人への言及だと思われる。


吉岡実と田村隆一(2013年5月31日)

同人誌《荒地〔第二次〕》全6冊が刊行されたのは1947年9月から1948年6月までで、吉岡実たちの《鰐》(全10冊、1959年8月から1962年9月まで)と較べても長いとは言えないが、《荒地》の名は戦後詩の代表的なエコルとして喧伝された。《荒地》派の詩人で吉岡と最も親しかったのは、三好豊一郎だろう。三好は土方巽の「文章道の師」(《土方巽頌》、筑摩書房、1987、一五四ページ)であり、吉岡とは暗黒舞踏を通じた知友でもあった。三好に次いで親しかったのはおそらく田村隆一か北村太郎で、黒田三郎・中桐雅夫(二人とも吉岡と同年生まれ)がそれに続き、鮎川信夫(吉岡の未刊行散文に鮎川詩集への言及がある)・吉本隆明(吉岡編集の《ちくま》に吉本の実朝論が掲載されている)に対して敬意はともかく、親愛の情を抱いていたかは定かでない。木原孝一(《アンソロジー抒情詩》に〈喪服〉を採った)や加島祥造との接点は不明だ。
吉岡実詩と《荒地》派の詩を考えるときすぐさま思い出されるのは、北村太郎の吉岡評である。北村は《現代詩手帖》1978年10月号〈特集・戦後詩の10篇――読解と討議〉で「彼の出している残酷さ、性的なもの、矛盾、醜悪だとか、暗い中のすばらしい美しさだとか、そういうもののイメージは、あとの吉岡さんを予告するように非常に苦労して書いてると思いますよ。だけどこの一篇ということで〔〈死児〉を〕出した意味を考えると、どんなに言語世界だ、抽象の世界だと言っても、ちょっと本音が出てるという感じがするね。〔……〕ただ、〔《僧侶》の〕言葉の使いかたやリズムということになると、三好豊一郎と田村隆一の影響がそうとうあるんじゃないかなという気がしましたね。とくに三好の詩をそうとう詳しく読んでるんじゃないかなという気がしましたね」(同誌、一〇四ページ)と指摘している。三好の第一詩集《囚人》(岩谷書店、1949)と吉岡の事実上の第一詩集《静物》(私家版、1955)との関係は詳細に検討されなければならないが、《囚人》と田村の第一詩集《四千の日と夜》(東京創元社、1956)の関係も解明が待たれる。
吉岡の随想〈田村隆一・断章〉(初出は《ユリイカ》1973年5月号)に拠れば、二人は1959年4月17日、筑摩書房の同僚の紹介で出会った(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一八三ページ参照)。この筑摩の同僚のSという女性は、一体だれなのだろうか。吉岡の随想は四つの断章から成る。仮に丸中数字を付すと、@は田村との出会いとその場となった喫茶店デミアンの女主人とのエピソード、Aは所蔵する《四千の日と夜》二冊のうち、妻が求めた一冊に献辞つきの署名をさせたこと(1961年3月6日の日記に拠れば、吉岡の方に田村がした署名は「ニッカのブラックをご馳走してくれた愉しい夜の記念に!」)、Bは〈にぶい心〉全篇の引用と少年時代の回想、Cは《緑の思想》(思潮社、1967)をめぐる顛末、という構成になっている。Cはこうだ。

 ある日、田村隆一と小川町のシンコーグリルでビールを飲んでいたとき、おれは今度、〈青いウンコ〉という詩集を出すと云った。私は一瞬、え、〈青いインコ〉ずいぶん可憐な題の詩集だと思った。いや〈青いウンコ〉だと呵々大笑。彼には会心の表題らしく、いいだろうをくりかえした。私は内心困っていた。もしかしたらその頃、不摂生な生活をやめて、健康のために彼は毎日苦労して、青汁を飲んでいたためかもしれない。そしてひそかに、青いウンコを排泄していたのだろう。それからだいぶたって、新しい詩集が世に出た。それは《緑の思想》である。(《「死児」という絵〔増補版〕》、一八六ページ)

アルコールで弱った体を青汁で癒やす田村を想像するところが、えも言われずおかしい。そして結語のすばらしさ。この断章は、吉岡の1967年6月20日の日記「ラドリオで田村隆一とビール。田園に住み青汁をのみ、昔日の面影無し? 川路聖謨の偉大さを熱心に語る健康なる隆一」(同前、一三ページ)を想起させる(《緑の思想》は同年9月1日発行)。いずれにしても、本篇は吉岡が詩人について書いた文章のなかで出色のものである。城戸朱理編纂の《吉岡実散文抄――詩神が住まう場所》(思潮社、2006)に採られていないのが惜しまれる。ときに、吉岡と三好を媒介するのが土方巽なら、吉岡と田村を媒介するのは西脇順三郎である。新倉俊一は西脇の《Ambarvalia》と《旅人かへらず》を収めた文庫本の解説で田村の詩篇〈ワインレッドの夏至〉に言及して、その前半25行を引いたが、私は《新年の手紙》(青土社、1973)に収められた〈灰色の菫〉に注目したい。

灰色の菫――順三郎先生に|田村隆一

67年の冬から
68年の初夏まで
ぼくは「ドナリー」でビールを飲んでいた
朝の九時からバーによりかかって
ドイツ名前のビールを飲んでいると
中年の婦人が乳母車を押しながら
店に入ってきて
ぼくとならんでビールを飲んだりしたものだ
アメリカン・フットボールのスコア・ボードが
花模様の壁にぶらさがっていて
腸詰がそのそばでゆらゆらしている
金文字で1939年創業と酒棚に入っている
この北米中西部の大学町なら
老舗[しにせ]のほうだ
1939年はW・H・オーデンが
ニューヨークの五十二番街で
「灰とエロス」のウイスキーを飲んでいた「時」だ
その「時」は燃えて燃えて燃えつきて
世界は灰になった

「ドナリー」の夜は
アメリカの髭の詩人や中国の亡命者たちと
ぼくはむやみに乾杯したものだ
世界が灰になったおかげで
ぼくらはもう生きた言葉を使わなくてもいい
経済用語と政治的言語とで
夜はたちまちすぎて行くのだから
詩と神さまは死んだふりをしていればいいのである

今年の春
ぼくは「ドナリー」にふらっと入って行った
ぼくにとっては三年ぶりだが
「ドナリー」のおやじにとってはつい昨日のことだ
髭の詩人や亡命者たちはもういないが
スコア・ボードだってブランクのままだ
勝者も負者もいないとは
いささか淋しいが
おやじの仏頂面はたのもしい

さて
ビールにはもうあきた
裏口からそっと出て行こうか
ギリシャの方へ
バッカスの血とニンフの新しい涙が混合されている
葡萄酒を飲みに
「灰色の菫」という居酒屋の方へ

初出は、政治公論社の季刊詩誌《無限》第29号(1972年8月のこの号は西脇順三郎の総特集で、献詩が11篇収められている)。むろん田村は、西脇の〈菫〉(《Ambarvalia》所収)を踏まえている。

菫|西脇順三郎

コク・テール作りはみすぼらしい銅銭振りで
あるがギリシヤの調合は黄金の音がする。
「灰色の董」といふバーへ行つてみたまへ。
バコスの血とニムフの新しい涙が混合されて
暗黒の不滅の生命が泡をふき
車輪のやうに大きなヒラメと共に薫る。

田村の献詩は吉岡に衝撃を与えたと思しい。それというのも、同じ号に載った吉岡の詩篇〈弟子〉(F・15)にはそもそも初出の誌面に献詩である旨の詞書がなかったのに、後年の吉岡はその点をめぐって奇妙なほど混乱しているのだ。〈西脇順三郎アラベスク〉の〈7 「夏の宴」〉にこうある。

 私はいつか西脇先生に捧げる詩を書かなければならないと考えていた。なぜかというと、今から六、七年ほど前、「無限」の西脇順三郎特集号に、〈弟子〉という短い詩を書いて献げていた。当時考えるところがあって、私は二年間ほど詩作を止めていた。そんな精神状態のなかで書いた詩なので、詩集《神秘的な時代の詩》を編むとき、先生への献詩である詞書を、削除してしまったのであった。はたして、先生はそのことに気づかれていられるかどうかは知らない。しかし、私は心苦しく感じていた。だいぶ前に刊行された詩集《鹿門》のなかに、〈ヨシキリ〉という短い詩がある。先生が私のために書いてくださったからである。(《「死児」という絵〔増補版〕》、二三六ページ)

私はかねてから吉岡の混乱の原因を量りかねていたが、西脇詩から田村詩をつくる骨法に、つまり田村の「弟子」ぶりに、ショックを受けたのではないか。これでは、西脇順三郎先生の弟子だなどと言えたものではない。田村の自在な引用(むしろ換骨奪胎)に比して、吉岡の引用は腰が引けているというか、律義に引用符を付けて(しかも2種類)、おそるおそるといった感じである。

〔……〕
〈永遠とは今の現在のこと〉
〔……〕
「便所はどうして神秘的に
 高い処にあるのだ」
〔……〕

吉岡はこれ以前、《俳句評論》創刊十周年記念全国大会の講演で「しかし、ここにいらっしゃる皆さん、新しい作家というのは、そうじゃなくて、相当に意欲的に、たとえば、あの見てきた「欲望」という映画と、あれとを結びつけようとか、そういう考えで、やっていらっしゃると思うんで――、僕は、俳句は俳句から学ばず、他のものから学んでほしいと――、詩は詩から学ばず、違ったものから学んでほしいと、そういうふうに思いますので、皆さんも、これから、よい作品を書いて下さるように、お願いします」(《俳句評論》78号、1968年3月、二四ページ)と語っている。こうした作詩法を掲げていた詩人を脅かすだけの衝撃力が、田村の献詩にはあった。ここから中期吉岡実詩の「引用」が始まる。1969年12月に「田村隆一編集の季刊詩誌「都市」に依頼されて「コレラ」を書いた後、思うところあり詩を発表することを暫く止める」(〈〔吉岡実〕年譜〉)のは、真に偶然ではなかった。

〔付記〕
吉岡と田村の出会いの仲介者に関しては、別の説がある。《田村隆一全詩集》(思潮社、2000年8月26日)の田野倉康一編〈年譜〉に拠れば「一九五九年(昭和三十四年) 三十六歳/〔……〕四月、飯島耕一の引きあわせにより、神田小川町のコーヒー店デミアンで吉岡実に会う」(同書、一四五五ページ)である。仲介者こそ異なるものの、あるいは同じ日のことか。後考を俟つ。

献詩の11篇
@会田綱雄〈地獄谷〉、A飯島耕一〈ルッソーと西脇さんの帽子〉、B岡崎清一郎〈西脇順三郎先生〉、C加藤郁乎〈Credo――西脇順三郎詩伯に〉、D草野心平〈或る永遠〉、E慶光院芙沙子〈詩人なりせば――西脇順三郎氏に捧ぐ〉、F多田智満子〈秋の詩人――西脇順三郎先生に〉、G田村隆一〈灰色の菫――西脇順三郎先生へ〉、H瀧口修造〈青い羽根のあるコラージュ文――西脇順三郎氏に〉、I村野四郎〈ゴムの木の下――西脇順三郎氏に〉、J吉岡実〈弟子〉。以上、掲載順。


吉岡実とジイド(2013年4月30日)

吉岡実にとって、アンドレ・ジイド(1869-1951)はライナー・マリア・リルケ(1875-1926)と対になる存在だった。吉 岡の詩と散文にはこうある。

永遠の視点はジイドとリルケの書から俯瞰される(〈果物の終り〉D・2。初出は《同時代》9号、1959年6月)

あ る少女への恋に悩み、職場を同じくする苦しさから離職しなければならなかった二十歳の青春。〔……〕リルケの詩とジイドの小説などがその頃の枕頭の書とい えようか。(〈読書遍歴〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、五七ページ。初出は《週刊読書人》1968年4月8日)

また、そのころの読書傾向をこう振りかえっている。

二〇歳ごろの私は、当時の風潮で、西欧の翻訳文学を、読みあさっていたものである。とくにフランスの小説を好み、 ジョルジュ・サ ンド『笛師のむれ』やスタンダール『パルムの僧院』そしてアンドレ・ジイドの諸作品であった。(〈沈復『浮生六記』〉、同前、二七三ページ。初出は《朝日 ジャーナル》1982年3月26日号)
吉岡の公刊された日記や随想を総合すると、「アンドレ・ジイドの諸作品」は次のようだと考えられる(《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》参 照)。訳書の刊行順に掲げる。
  1. 山内義雄訳《窄き門》(白水社、1931)――レシ
  2. 川口篤訳《田園交響楽〔岩波文庫〕》(岩波書店、1933)――レシ
  3. 山内義雄訳《贋金つくり》(白水社、1935)――ロマン
  4. 川口篤訳《背徳者〔岩波文庫〕》(岩波書店、1936)――レシ
  5. 堀口大學訳《女の学校・ロベエル》(第一書房、1937)――レシ
  6. 三好達治訳《アンドレ・ワルテル――手記及び詩〔新潮文庫〕》(新潮社、1938)――ジイド処女出版の詩的散文
  7. 河盛好蔵訳《コンゴ紀行〔岩波文庫〕》(岩波書店、1938)――日記

1939(昭和14)年の「三月某日(日 附不明) 『贋金つく り』読めどむずかしく、あきらめる。『闇の力』読み終る。次は『舞姫タイス』。」(〈うまやはし日記〉、同前、二五三ページ)に惑わされてはいけない。戦 後、本格的に詩を書きはじめた吉岡が最も惹かれたのは、「多視点小説」(西岡亜紀《福永武彦論――「純粋記憶」の生成とボードレール》、東信堂、2008 年10月30日、七〇ページ)たる《贋金つくり》だったに違いない。たしかに、トルストイの戯曲《闇の力》やアナトール・フランスの小説《舞姫タイス》を 読む人間にとって、《贋金つくり》は難物だっただろう。ジイドの諸作のうち《背徳者》(1902)、《窄き門》(1909)、《田園交響楽》 (1919)、《女の学校・ロベエル》(1929・1930)は、作者による分類に従えば物語[レシ]である。《パリュード》(1895)や《法王庁の抜 穴》(1913)といった茶番劇[ソチ](《小学館ロベール仏和大辞典》には「ジッドが自己の茶番的要素を含んだ一連の風刺小説を、「物語」、「小説」と 区別するため用いた名称」とある)が挙がっていないのは興味深い。だが9年後、1948年3月16日の日記には「ジイド《法王庁の抜穴》読了。もう一度よ んでみよう」(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一一〇ページ)と登場する。おそらくこの石川淳訳の岩波文庫版(岩波書店、 1928)と同様に、ジイド唯一の小説[ロマン]である《贋金つくり》(訳者はのちに《贋金つかい》と改題した)が、自身の詩を模索していてリルケの《ロ ダン》を再発見した吉岡に読了あるいは再読を強いなかったとは考えにくい。そうした観点からこの長篇小説を再読してみた(山内義雄訳《贋金つかい〔新潮文 庫〕》新潮社、1969年2月15日)。

作家があまり正確に人物を描写しようとすると、とかく読者の想像力を助けるかわりに、かえってその発露を妨げる結果 になる。だか ら読者に、好き勝手に人物を想像させたほうがいい、と彼〔エドゥワール〕は考えた。彼はこれから書こうとしている小説のことを考えていた。それは、いまま で書いたものとは似ても似つかないものになるはずだった。『贋金[にせがね]つかい』、この題がいいかどうか、それには自信が持てなかった。予告をしたの はまずかったな。読者を釣ろうとしての《近刊》予告、あれはたしかに愚劣な習慣だ。だれも釣られはしないだろうし、そして、作者はそれにしばられる……そ れに、その題目がいいか悪いか、彼には自信が持てなかった。彼は、ずっと前から、この作品のことばかり考えつづけていた。だが、まだ一行すら、書いてはい ない。そのかわり、彼は一冊のノートに、心覚えだとか思いつきなどをいろいろ書きこんでおいたのだった。
 彼は、スーツ・ケースのなかから、そのためのノートを取りだした。そして、万年筆をポケットからだした。彼は書く。

   小説から、特に小説本来のものでないあらゆる要素を除き去ること。〔……〕(同書、一〇二ページ)

「小説から、特に小説本来のものでないあらゆる要素を除き去ること」という主張が、ジイドの小説《贋金つかい》の登場人物である小説家 エドゥワール が、これから書こうとしている小説『贋金つかい』に関する心覚えや思いつきをいろいろ書きこんでおいたノートに今まさに記された章句であることは注目され る。作中人物たる小説家がこれから書くはずの、ジイドの実在する小説《贋金つかい》と同題の作品『贋金つかい』の創作ノートに埋めこまれた主張、という目 も眩むような入れ子構造には、フィクションに対する絶大な信頼と、それにもかかわらず、あるいはそれゆえに、慎重にならざるをえないジイドの執筆態度が示 されている。吉岡の詩篇〈果物の終り〉はどうか。

つねに死ぬ人のまわりにある羽毛の潮のながれ
けばだつ意識の外面ではじかれる
孔雀の血の粒
その真新しいくちばしの喚びの深層で
内的独白をくりかえす
死ぬ人の幼年期の肖像を見た
〔……〕
黒と白の斑の犬の轢死が少年の視線を転化する
〔……〕
霧隠才蔵への入信と改宗
〔……〕
オペラ館の極彩色の舞台の予言の歌手たち
〔……〕
ガルボの秘蹟の遠近感
アナベラの絹の唇の触媒
永遠の視点はジイドとリルケの書から俯瞰される
トンネルの闇で死滅した
〔……〕
充分な死の恐怖の伝承と
〔……〕
多くの人類の死・猿にならねばならぬ無声の死
下等な両棲類の噛み合う快感の低い姿勢
横たわる死・だんじて横たわる死
〔……〕
いま死ぬ人の半生の透視図
肖像の少年は模倣するだろう
大人の習慣のぬれた羽毛をたらす死を
歩みよる曙光の拡がり

この詩には「死」と、作者吉岡の来歴を思わせる浅草にまつわる固有名詞(「霧隠才蔵」「オペラ館」「ガルボ」「アナベラ」)と文芸の用 語(「内的独 白」)が入りみだれている。そして詩篇のほぼ中央に位置する「永遠の視点はジイドとリルケの書から俯瞰される」という定言。ここで吉岡実詩の詩句や標題に おける「永遠」と「視点」の用例を見よう。なお「永遠に」は、対象としなかった。

・永遠の心と肉の悪臭(〈死児〉C・19)
・永遠の視点はジイドとリルケの書から俯瞰される(〈果物の終り〉D・2)
・永遠がなければ次永遠に(〈呪婚歌〉D・9)
・裂かれたカンバスよりもっと永遠でない闇から(〈馬・春の絵〉E・5)
・永遠保存が可能ならば(〈静かな家〉E・16)
・石の建築物といっても永遠(〈マクロコスモス〉F・1)
・永遠の一角獣をさがすんだ!(〈聖少女〉F・10)
・永遠の明暗のなかで(〈神秘的な時代の詩〉F・11)
・鉄棒こそかりそめの永遠よ!(〈夏の家〉F・13)
・〈永遠とは今の現在のこと〉(〈弟子〉(F・15)
・眠っている時は永遠の花嫁の歯のように(〈ルイス・キャロルを探す方法――わがアリスへの接近〉G・11)
・「虹のもつ永遠のスペクトル」(〈草の迷宮〉H・9)
・            それが永遠であれば
                   永遠に(〈天竺〉J・9)
・            わが(永遠の母)の聖俗性を伝えよ(〈青海波〉J・19)
〈永遠の昼寝〉(未刊詩篇・19)
・蹌踉として永遠の砂丘をよじのぼるらくだたちよ(〈波よ永遠に止れ〉未刊詩篇・10)

・体操する少女のはるかなる視点で(〈示影針(グノーモン)〉G・27)

「永遠」の「視点」の方から詩句を解きほぐすことは難しそうだ。いやここは「永遠の視点」だった。むしろ「はるかなる視点」という、現 世のはずれか らのような詩句のほうがこれに近い。では「俯瞰」はどうか。次の〈ポール・クレーの食卓〉の詩句が、唯一の用例である。無人の部屋である以上、猫の仰瞰に 対して「俯瞰する」するのはカメラアイしかありえない。それさえ「できない」。テーブルクロスで覆われた卓を横から見る、天に駈けあがることも地に潜るこ ともできない視線――。

腸詰の皮と骨ばかりの魚は沈む
俯瞰することのできない水の市に
とりのこされた布の断崖
猫がちらりと見上げる
暗い光線をだいているおもみで
からの罎は立っている(〈ポール・クレーの食卓〉I・1、11-16行め)

「永遠の視点は〔書物〕から俯瞰される」と一般化してみると、この詩句の特異さがよくわかる。これが「永遠の視点から〔書物〕を俯瞰す る」なら、そ れなりに文意は通るし、理解もしやすい。だが、よく考えてみれば「永遠の視点」が無から生まれるはずもなく、それがもし書物から生まれるものなら、ジイド の小説であろうがリルケの詩集であろうが、ものごとを俯瞰するための視点の台座になりうる。人がなにかを切実に求めるなら、それがどんなものであれ必ずや なにかしらを得ていく。詩法を模索する詩人には、詩から直接得るものはむしろ少なかったかもしれない。ときに、ジイドは《贋金つくり》執筆当時の日記を公 刊している。《贋金つくりの日記》(限定版刊行は《贋金つくり》と同じ1926年)である。邦訳は、戦前に堀口大學訳で金星堂版ジイド全集(1934)、 鈴木健郎訳で建設社版アンドレ・ジイド全集(1934)と単行本(白水社、1935)があり、戦後に堀口訳で新潮社版アンドレ・ジイド全集(1951)、 鈴木訳で単行本(三笠書房、1952)、角川文庫(角川書店、1954)、角川書店版ジイド全集(1957)などがある。吉岡の詩句「ジイド〔……〕の 書」が本書だとして、《贋金つくりの日記》を検証してみよう。引用文は《アンドレ・ジイド全集〔第15巻〕》(新潮社、1951年8月31日)の堀口大學 訳。なお、漢字は正字を新字に改め、くの字点は開いた。繰り返し記号(ゝゞ々など)はひらがなや漢字に置き換えた。末尾の( )の数字は同書での掲載ペー ジ。

 ところで、この仕事を在来の小説のタイプに近づけようとすればするだけ、困難は増すもののやうだ。と同時にまた、 僕が一朝、こ の仕事を風変りなものにしようと腹をきめさへしたら、今日[けふ]の所謂困難は大方消え失せて仕舞ふやうにも思はれる。僕がこの仕事を、他の何物とも類似 しないものであることを認めてゐる以上、(然もこれはむしろ僕の望むところなのだ)何を苦しんで、話の筋の因果関係や統一を求めたりする必要があるだらう か? 今度僕が採用する形式を以てするなら、却つて間接にこれ等のことの批評さへ出来るのではないだらうか。たとへば、ラフカディオが、数々の出来事を一 つの筋に結び合はせようと試みて失敗するやうに仕組んだり、無用の人物、無駄な仕草、無益な会話などを用ひたり、また、小説の中のさまざまな出来事も、決 して一つの筋を形造らない[、、]やうに作り上げたりすることによつて。(17)

 僕は、マルタン・デュ・ガールの物語の、あの記述的な態度を非難する者だ。ああして、年年歳歳歩みを続け、彼の小説家としての提灯は、検べようとする事 件を何時も定[き]まつて真正面から照し出す。事件は一つ一つ順送りに必ず一度は列次の先頭に立つてその光を浴びるのだが、ただ彼等相互の線は、如何なる 場合にも決して交錯することがない。そこにはまた陰影もなければ、遠近もない。これは、すでに、トルストイを読んで僕の気になる処だつた。彼等はパノラマ を作つてゐるのだが、芸術は絵画を作るにある。最初に先づ、何処から光線を注ぐかその角度を研究[、、]しなければならない。それによつて、あらゆる陰影 が決定されるわけだ。各各のものの姿は、その影に倚つてこそ初めて安定を得るのだ。

 去つて行く人物は、背後からだけしか観察出来ないと承知すること。

 この作を立派なものに書き上げるには、これが自分の一世一代の小説であり、また最後の著述であると、先づ自分で信じなければならない。僕は、ありつた け、何もかも、これに注ぎ込むつもりだ。(20)

 Xの作品の対話の誤つてゐる点は、彼の作中人物が常に、読者の為めにものを云つてゐる点にある。作者が、彼等に万事の説明方を委ねてゐる点にある。作中 人物が、その相手に向つてだけしかものを云はぬやうに注意するのが大切だ。(22)

 僕にとつての問題は、《如何にして成功するか?》ではなく、《如何にして不朽にするか[、、、、、、]?》にあるのだ。
 すでに久しく、僕は、自分に対する批判の訴訟は、控訴院で勝つて見せる心算でゐる。僕は、再読される為めにしか筆はとらない。(28)

 この作品を書き続けて行く上に僕が感じるこの非常な困難は、ともすれば、この書に含まれてゐる根本的な欠陥の当然な結果かも知れないのだ。〔……〕厳格 に云ふと、この作品には、僕の努力を集中さすべき中心が一つもない。楕円形のやうなもので、この作品は、二つの焦点の周囲に分極作用を示すのだ。つまり、 一方にあつては、出来事、事実、外界の事象、他の一方にあつては、これ等の事柄を材料として作品を創作しようとする小説家の努力があるのだ。この後のもの が実は、重要な主題であつて、これが新しい中心を形成するので、物語の中軸を抜き去つて、想像の世界にこれを引摺りこむ結果になる。要するに、この小説の 生ひ立ちの記を書きつけてゐるこの手帖は、全部小説のうちに流しこんで、読者にとつては随分五月蠅[うるさ]いことであらうが、かまはずに、これを基にし て重要な興味を作り上げる決心だ。(30)

 僕の小説は、実に妙な具合に、逆に発展して行く。理由は、現在の行為の動機となる事柄で既に過去の時に起きてゐて、云はねばならない事が、あれこれと、 絶えず僕に見つかるからだ。だから、新しい章は、次ぎ次ぎに順を追うて加はるのではなしに、最初僕が第一章だと思つてゐたものを、漸次後へ後へと追ひやつ て逆に加はるのだ。(37)

 僕には、自分自身の名で、自分の考を表現するより、作中人物にものを云はせる方が、はるかに容易だ。殊に、その作中人物が、僕と異なる性質であれば、あ るほど一層容易だ。僕は、かつてまだ、ラフカディオの独白及びアリッサの日記以上に良いものも、また容易に書けたものも知らない。あれを書きながら、僕は 自分を忘れてゐる。僕は別な人間になつてゐる。〔……〕完全に自己を忘却するの境地にまで、自己抛棄を押し進めることが大切だ。(45)

 『贋金つくり』の文章は、人の注意を引いてはならない。この作品は、表面的な興味や、機智は絶対に示してはならない。小手先の器用な奇術師のやうな連中 に、「何の変哲もないぢやないか」と叫ばせるやうな、極めて平平坦坦たる手法で語られなければならない。(49)

 この小説は、すでに引かれた線の延長の上に、その続を構成しまいとする所に、困難がある。云はば、それは、不断の出現であらねばならない。つまり、各各 の章は、それぞれ、読者の心に対して新しい問題を提出するものであり、手引きであり、方向を与へるものであり、押しやる力であり、飛躍であらなけれなばな らない。然も読者は、弩[いしゆみ]を放れた石のやうに、僕から離れなければならないのだ。投げた人の手元にまた舞ひ戻つて来るブゥムランのやうに、読者 が僕に刃向つて来ることも僕は拒まない心算だ。(50)

 僕が新しい創作をしようと思ふのは、決して新しい人間を描き度い為めではなく、実はそれ等の人間を現はす新しい手法の為めだ。この現に書きつつある小説 は、唐突に終る筈だ。それも決して主題が涸渇したがためではない、主題は 寧ろ汲み尽せないと云ふ感じを与ふべきだ。寧ろ、それとは反対に、主題の拡張、主題の輪郭の遁走そのものによつて終を告げるやうにするのだ。主題に纏[ま とまり]がついたりしてはいけない、それは寧ろ、散り散りになり、崩れなければいけない……。(57)

リルケの詩よりもその《ロダン》から多くを摂取したように、吉岡はジイドの小説よりも《贋金つくりの日記》から多くを学んだのではない か。「話の筋 の因果関係や統一を求める必要はない」――「芸術は絵画を作るにある」――「作中人物はその相手に向かってものを言う」――「再読されるためにしか執筆し ない」――「二つの焦点の周囲に分極作用を示す作品」――「妙な具合に逆に発展していく小説」――「完全な自己忘却、自己放棄」――「極めて平坦な手法で 語ること」――「不断の出現。手引き、方向を与えるもの、押しやる力、飛躍」――「人間を現わす新しい手法」と「唐突な終わり」。これらは〈果物の終り〉 に直接的な影響を与えた以上に、〈わたしの作詩法?〉に至る吉岡の詩法を根本から鍛錬した、と私には思える。


〈首長族の病気〉と〈タコ〉(2013年3月31日)

吉岡実は自作詩篇の自解に対して懐疑的だった。例外的に、《鰐》4号(1959年11月)発表の〈首長族の病気〉(D・11)と《ユリイカ》1972年 10月臨時増刊号発表の〈タコ〉(G・2)に は、作品制作にまつわる作者自身による後年の散文が残されている。《現代詩》1958年6月号発表の〈苦力〉(C・13)に言及した〈わたしの作詩法?〉 (初出は《詩の本2〔詩の技法〕》、筑摩書房、1967)と並んで、稀少な記録である。〈作品ノート〔〈首長族の病気〉〕〉と〈〔〈タコ〉〕自註〉の、い ずれも全文を引く。

 昭和三十四年十一月三日の朝日新聞のかこみ記事『ビルマの〔「〕クビナガ族〔」〕』から取材した。今なおかかる奇 習の人たちが いることに悲痛をおぼえる。半分は記事を忠実に写し、あと半分はぼくの虚構である。或る種の材料をもとに一篇の詩を書いたことは、ぼくの詩生涯において初 めてのことである。(日本文芸家協会編《日本詩集 1961-1》、国文社、1961年7月5日、二〇八ページ)

 〈タコ〉という詩は、私の長い詩作体験のなかでも珍しいものである。なぜならこの詩の発想――というより主題の発見は、テレビの自然科学映画から得たか らである。偶然観たタコの生態に興味をおぼえ、大急ぎで、ありあわせの紙にメモをとろうとしたが、瞬時に過ぎ去る映像とナレーションなので、最小限の事項 を得ただけである。ものの本でタコのことを調べることもなく、あとは私の想像力(創造力)で一気に書き上げた。だからこの詩は、科学的には正確ではない。 しかし私にとっては、リアリティのある作品になったという自負もあったが一抹の不安もあった。
 一九七二年の「ユリイカ―〔詩的→現代詩の〕実験」に発表した。寺田透さんが〈タコ〉をおもしろい詩だと、評価されているのを人づてに聞いて、私はまず はよかったと安堵したものである。(《無限》41号〈現代百人一詩自選自註〉、1977年12月、一六〇〜一六一ページ)

吉岡が材を取った《朝日新聞〔朝刊〕》1959年11月3日付 〔第26503号〕3面のコラム記事〈だんだん首輪ふやす――ビルマの「クビナガ族」〉を追い込みで引く。改行箇所は/で表示した。

「ロイコー(ビルマのカレンニ地方の町)の西側一帯には、世界の奇族首長族*二千人が住んでいる。正式にはパダン族といい、カレン 族の一種。/ 女は、五、六歳ごろからシンチュウの輪を首にはめ、大きくなるにつれて、首輪の数をふやしてゆく。ついにはアゴをつきあげるまで首輪を重ねる。/首輪の中 はカラでなく、一本の長いシンチュウの棒である。これを首いっぱいにまきつけ、足に巻き、さらに両手首には銀の輪をはめる。大変な重さである。/さすがに 起居は不自由らしく、足もとになにが落ちても拾えない。体もひ弱く、小さい。歩くところはペンギン鳥みたいで、むしろ、いたましい感じがする。/首が長い ほど美人とされるからだとか、女を従属させるためだとか、理由はいろいろいわれるが、なぜ首輪をつけるか、村長も『大昔からやっているので……』というだ けで何も知らなかった。/政府はこの悪習を止めさせようとしているが、なかなかきき目はないらしい。それでも一人、二人、首輪をつけない女もいた。そうい う女はカソリックに多く、首に十字をつっている。不思議に精霊信仰のこの山奥にカソリックがよく入っていた。/首輪をはめたり、輪をふやすには特別の技術 がいる。このため二つか、三つの部落に一人の技師≠ェおり、部落を巡回して首輪の調節をやっている。たまたま調節のため首輪を外したところを見た者の話 によると、日に焼けない、白い、長い首がヌーっとつき出し、実に不気味だったという。=写真はロイコー西方セスク部落で丸山支局長撮影/(ラングーン=丸 山バンコック支局長)」。

吉岡の詩句(初出と再録すなわち前掲《日本詩集 1961-1》の本文は同形)と記事との対応を見よう。〈首長族の病気〉は詩句と詩句の間が全角アキの散文詩型だが、便宜的に全角アキの処で改行して、説 明の必要上、行頭にライナーを付した。……のあとの赤字表記が記事の本文である。

01 或る新聞記事で首長族のことを改めて知った…… 〈だんだん首輪ふやす――ビルマの「クビナガ族」〉
02 いまでもビルマのカレンニ地方に二千人も住んでいるとのこと…… ロイコー(ビルマのカレンニ地方の町)の西側一帯には、世界の奇族首長族*二千人が住んでいる。
03 写真も載っているのでつくづく見た……写 真はロイコー西方セスク部落で丸山支局長撮影
04 すべての女が首輪をはめ
05 いたいけな幼女も立っている……女は、 五、六歳ごろからシンチュウの輪を首にはめ、
06 ここでは罪人でなく美人の矜持を重い枷として…… 首が長いほど美人とされるからだとか、女を従属させるためだとか、
07 ぼくは思いだした少年の頃
08 外国の地理風俗事典で見たことを
09 彼女たちは体の成長と同じに真鍮の輪をつぎつぎとふやし…… 大きくなるにつれて、首輪の数をふやしてゆく。
10 あごをつきあげるまで重ねる……ついには アゴをつきあげるまで首輪を重ねる。
11 でも人間の首にも制限があるから
12 それらの形態をふみ外さない枠で止める
13 それ以上長くしたら危険だ
14 鹿・狐と同じ動物に変化する
15 或は死ぬだろう
16 ぼくは想像力がとぼしいから
17 彼女たちの交合の夜の闇までみとおせない
18 真鍮の輪と輪のかちかちという軋み
19 その無機質の冷たいささやきがたえず
20 首長族の男の肉性を刺戟し
21 その満月の狩を唾や汚物でまつる
22 火のなかに彼女たちは沈む臼
23 ともあれぼくには別のことが気がかりだ
24 たまたま彼女たちが病気になった場合だ
25 三つの部落に一人の首輪の技師がいるらしい…… このため二つか、三つの部落に一人の技師≠ェおり、
26 首長族の女は庭の大きな樹にしばられて泪をうかべる
27 一番上の輪から外していく
28 それを木の枝にかける
29 最後の大きな輪をかけたときさしもの太い生木も裂けた〔初出形=再録形:という→詩集形:(トル)〕
30 技師はそのときはじめて……たまたま調節 のため首輪を外したところを見た者の話によると、
31 日に当ったこともなく湿り……日に焼けな い、
32 白く長い軟体物が……白い、長い首が
33 自分の丈より高くぬうっと突き出た実感に思わず吐瀉し…… ヌーっとつき出し、実に不気味だったという。
34 手当料をとらず森へかけこんだ〔初出形=再録形:そうである→詩集形:(トル)〕

01-06は記事にほぼ対応、07-08は回想、09-10には両者が重ねあわされている。11-15はここまでを前提とした推測だが、14で麒 麟[ジラフ]を出したら凡庸になるところ、みごとな手綱さばきだ。16-22は吉岡ならではの詩句、とくに「火のなかに沈む臼」という暗喩がすばらしい。 23-24の病気(標題が〈首長族の病気〉であることを想い出そう)を緩衝材にして、30-33で再び記事に戻る。29と34の初出形および再録形「とい う」「そうである」が詩集で削除されたのは、対応する新聞記事が存在しないことの矛盾を回避するためではない。〈首長族の病気〉という散文詩をいわば喩の かたまりとして差し出すのに、この伝聞形式が夾雑物となるからである。伝聞が「閉じた」ものだとすれば、逆に「開く」こと。それがエンディングの手入れの 意味である。〈作品ノート〔〈首長族の病気〉〕〉は再録詩篇に付されていた。吉岡がスルスとなった新聞の日付まで明らかにしている以上、詩篇と記事を読み くらべてもらってかまわない――いな、むしろそうしてほしいという作者の意気込みがそこに感じられる。ともすれば《僧侶》(1958)のappendix と受けとられがちな《紡錘形》(1962)で、吉岡は「或る種の材料をもとに」詩を書くという新しい手法=姿勢を身につけた。そして、それは年を経るごと に顕著になっていく。私は本篇を吉岡実詩における引用の濫觴(ただし引用符を伴わない)、遥かに遠く後期吉岡実詩を準備した詩篇だととらえたい。

〈タコ〉は新聞記事ではなく、テレビの自然科学映画から想を得ている。高橋睦郎がその〈鑑賞〉で「〔……〕テレヴィジョンで見たタコの 交接・排卵の 映像が契機になっていると作者はいうが、その映像のかなりプリミティヴな描写がまん中の散文形部分で、これを挟んで二つの行分け部分があるというサンド イッチ構造が、この作品の特徴である。〔……〕「それは過去のことかも知れない」というタコの交接・排卵に象徴される宿命論にむかって、「夏の沖」という 未来から「泳ぐ女」というなまなましい偶然が侵入してくる、とも読める」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月20日、七四〜七五 ページ)と書いているとおり、吉岡の回想的な発言は前掲〈〔〈タコ〉〕自註〉の内容と一致する。ここでもう一度引けば、「テレビの自然科学映画」の「瞬時 に過ぎ去る映像とナレーション」で「最小限の事項を得た」「あとは私の想像力(創造力)で一気に書き上げた」詩篇〈タコ〉。〈タコ〉が掲載された《ユリイ カ》1972年10月臨時増刊号の原稿締切がいつかわからないが、吉岡の執筆の常態からすれば、〈首長族の病気〉ほどでないにしろ、ひと月よりも前に書き あげていたということはないだろう。臨時増刊号の発売日も正確にはわからない。奥付の発行日が「10月25日」だから、通常の10月号(同じく「10月1 日」)と11月号(「11月1日」)の間、それも11月号に近いころに違いない。そこで、〈タコ〉のスルスを探求すべく1972年9月の《朝日新聞縮刷版 〔No.615〕》のテレビ番組欄で調べてみると、はたしてそれらしき放送番組があった。9月13日(水)23時15分から45分までの30分間、NHK テレビの「記録映画「考える動物たち」語り手中里アナ〔元NHKチーフアナウンサーの中里欣一氏か〕」(同書、四三八ページ)がそれだ。もしこの〈記録映 画「考える動物たち」〉が、吉岡が「テレヴィジョンで見たタコの交接・排卵の映像」だとすると、なんたる偶然か、放送翌日の9月14日(木)の日記が《土 方巽頌》(筑摩書房、1987)に掲げられている。

 夜、雨の中を厚生年金小ホールへ行く。玉野黄市の第一回舞踏会・哈爾賓派結成公演の「長須鯨」を観る。舞台いちめ んに敷きつめ られたぼろ蒲団のうえで、玉野黄市がのたうち廻る。手で綿をむしり、口にくわえ、恍惚となる時、綿埃りまでがライトに照らし出され、美的に戦慄するのだ。 終って近くの喫茶店で祝杯。瀧口修造、大野一雄、種村季弘、矢川澄子、李礼仙、麿赤児そして中嶋夏たち。(同書、五七〜五八ページ)

さらにその翌15日(金)は敬老の日で祝日。おそらくこの日、「大急ぎで、ありあわせの紙にメモをと」った「最小限の事項を」もとに 〈タコ〉が「一 気に書き上げ」られた、と私は推測する。NHKのアーカイブに〈記録映画「考える動物たち」〉のビデオでもあれば事態ははっきりするのだが、インターネッ トで調べたかぎりでは不明だった。吉岡が掲載誌名を「ユリイカ―詩的実験」と書きあやまっているのは、原物を確認せずに記憶で書いたためだろう(《瀧口修 造の詩的実験 1927〜1937》を連想させるのも興味深い)。「寺田透さんが〈タコ〉をおもしろい詩だと、評価されているのを人づてに聞いて、私はまずはよかったと 安堵したものである」は、状況から考えて《ユリイカ》の編集人・三浦雅士を介してだったと思われる。当時(1972年10月)、寺田は吉岡が編集する筑摩 書房のPR誌《ちくま》に〈毎月雑談〉を連載中だったが、吉岡に面と向かって言ったのではない、というわけだ。西脇順三郎に《僧侶》評がないのと同様、寺 田透に本格的な吉岡実論(リクエストできるなら《サフラン摘み》について)がないのは、かえすがえすも残念である。

〔付記〕
NHKアーカイブスの保存番組を検索すると〈デジタル大図鑑 考える動物たち〉(教育テレビ、2002年2月2日放 送)がヒットする。番組公開ライブラリーまで出向かねば見られず、未見である。


三橋敏雄句集《疊の上》十二句撰のこと(2013年2月28日)

2012年10月、Yahooオークションに「吉岡実肉筆原稿「三橋敏雄 畳の上十二句」ペン書14行署名 封筒付」が出品された。出品者は「yotsuya_ao」、物品の概要に「吉岡実の肉筆原稿です。俳人の三橋敏雄の句を十二句選定した原稿です。B4原稿 用紙1枚完。表題の書かれた封筒付き。原稿にはタタミ折りアトがあります。写真により状態をお確かめの上、ノークレームノーリターンでお願いいたします。 発送はゆうメールを予定しています」とあった。残り時間を勘案して入札しようとしていたやさき、オークションが時間前に終了してしまったため、入札するこ とさえできなかった(落札者は「ecole40arida」、落札価格は10,500円)。オークションに掲載された写真を次に掲げる。

〈吉岡実肉筆原稿「三橋敏雄 畳の上十二句」〉
〈吉 岡実肉筆原稿「三橋敏雄 畳の上十二句」〉(出典:Yahooオークション

筆跡は間違いなく吉岡実の自筆である。20字詰め×30行の原稿用紙は詩 篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿の ものと同じに見える。そうだとすれば、晩年の吉岡が辻井喬からもらって愛用した原稿用紙だ。吉岡による郵送用角封筒の表書きは「疊の上十二句」。オーク ションの写真と三橋敏雄句集《疊の上》(立風書房、1988年12月25日)を照らして、吉岡の原稿をテキストデータに起こしてみよう。句の行頭の丸中数 字は作業用の仮番号、行末の漢数字は《疊の上》掲載ページである。

三橋敏雄 疊の上 十二句
            吉岡実

@諸家の句集堆く積み頭を垂るる 八
Aくらやみの冬木の櫻ただKし 九
B〔不明〕
C〔不明〕
D〔不明〕
E〔不明〕
F地中よりあく穴うれし蝉しぐれ 六七
G龜も蚯蚓も泣くと云爾[しかいふ]國いかに 七二
H敗戰の嘗て其日の菎麻の花 七六
I當今[たうぎん]の昔赤子や冬霞 八七
J待つとなき天變地異や握 九九
K玉蟲がゐる筈の木をめぐり過ぐ 一〇八

吉岡が三橋敏雄の俳句に触れた文(撰を含む)は、次のふたつが知られている。ひとつは《俳句研究》1977年11月号の〈三橋敏雄五十 句〉(この撰 は未刊行)、いまひとつは《三橋敏雄全句集》(立風書房、1982年3月1日)栞の〈三橋敏雄愛吟抄〉。〈三橋敏雄愛吟抄〉に見える「以前、三橋敏雄の秀 句、佳吟を選んで、雑誌か月報に短いものを、私は書いたことがある。残念ながら、その切抜が見付からないので、参照せずに、全句業を読み返した(未刊句集 『長濤』を含む)」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三三六ページ)の雑誌か月報に書いた短いもの≠ェ〈三橋敏雄五十句〉だろ う。これは三橋の句集《まぼろしの鱶》(俳句評論社、1966)から十七句、《真神》(端溪社、1973)から二十三句、《青の中》(コーベブックス、 1977)から十句を撰んだもの。次に〈五十句〉と〈愛吟抄〉にともに採られている重複十二句を掲げる。吉岡のお気に入りの句である。

かもめ来よ天金の書をひらくたび    《まぼろしの鱶》
少年ありピカソの青のなかに病む    《まぼろしの鱶》
寒蝉やわが色黒き妹達    《まぼろしの鱶》
いつせいに柱の燃ゆる都かな    《まぼろしの鱶》
黒人街黒人みづから電気消す    《まぼろしの鱶》
昭和衰へ馬の音する夕かな    《真神》
蝉の穴蟻の穴よりしづかなる    《真神》
絶滅のかの狼を連れ歩く    《真神》
緋縮緬噛み出す箪笥とはの秋    《真神》
孤つ家に入るながむしのうしろすがた    《真神》
素頭のわれは秀才夏霞    《青の中》
むささびや大きくなりし夜の山    《青の中》

冒頭の〈三橋敏雄 畳の上十二句〉に戻ろう。〈吉 岡実年譜〔改訂第2版〕〉に よれば吉岡は1989年7月、「京王プラザホテルでの三橋敏雄《疊の上》の〔第23回〕蛇笏賞受賞を祝う会に出席」しているから、著者から贈られた句集を 読了後、○印でも付けた中から十二句を撰ぶことはたやすかったに違いない。しかし、この撰句が印刷物として発表されたことを聞かない。思案していても埒が 明かないので、《疊の上》を手掛けた編集者の宗田安正さんに、撰句がどこかに発表されていないかご教示いただくことにした。宗田さんは吉岡の句集《奴草》 の〈解題〉を書いていて、この件について伺うのに最もふさわしい方である。宗田さんからの電話によると、雑誌の特集的なものも含めて〈疊の上十二句〉がど こかに発表された形跡がないだけでなく、三橋敏雄夫人の孝子さんもこの原稿についてはご存じなかった、とのことだ。原稿は角封筒入りなのだから、著者に手 渡すために書かれたのだろうが、はたしてこれが三橋敏雄本人の手に渡ったものか、宗田さんにも判断がつきかねる様子だった。句集からお気に入りの句を原稿 用紙に書き写して作者に献呈するのは、吉岡流の作者への敬愛であり、作品への敬意だろう(私の拙い篆刻「吉岡實」の雅印にさえ、お返し に詩篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿を賜ったくらいだ)。ときに〈疊の上十二句〉の不明の四句B〜Eは、一〇ページから六六ページまでの九十句の中から撰ばれ たに違いない。その中で私が惹かれた七句を挙げてみよう。

世に失せし齒の數數や櫻餠    〈昭和五十八年〉
日永しと止まれる振子時計かな    〈昭和五十九年〉
長き夜をちちもみれうぢをそはりぬ    〈昭和五十九年〉
品川や驛の別れを知らぬ秋    〈昭和六十年〉
乳呑兒のしと三秒や梨の花    〈昭和六十一年〉
二箇所より同時にあがる雲雀かな    〈昭和六十一年〉
海へ去る水はるかなり金魚玉    〈昭和六十一年〉

句集の表記は正字歴史的仮名遣いなので、Shift JISで表示できるのものは正字を踏襲した。上述のように、吉岡実は三橋敏雄の句に関して二度(〈疊の上十二句〉を含めれば三度)筆を執っているわけだ が、三橋が吉岡の詩に触れた文章はないようだ。しかし、西東三鬼(三橋は渡邊白泉および三鬼の門下)の句業を介して、互いの仕事に敬意を払っていたことは 疑いを容れない。吉岡のこの十二句撰も、そうした光のもとで見るのがふさわしい。


吉岡実と堀辰雄(2013年1月31日)

 堀辰雄はほとんど一作ごとに発展してゆく小説家であった。自然にそ うなるというよりはむしろ、なんらかの新しい発展の方向が探りあてられるまで、次の一歩を踏みだすのを意識的に抑えようとする型の小説家であった。(菅野 昭正)

吉岡実の戦前の2冊の詩集、《昏睡季節》(草蝉舎、1940)と《液體》(同、1941)を語るとき、必ず引きあいに出されるのが北園 克衛である。 私自身何度かそう書いたし、今も基本的にその考えに変わりはない。吉岡本人がその影響を明言していることも手伝って、吉岡の人と作品を紹介した短文に照ら すまでもなく、すでに定説となっている。しかしそれにひけをとらない重要な人物として、堀辰雄を逸するわけにはいかない。吉岡実にとっての堀辰雄――ひと つは吉岡の戦後の詩に決定的な影響を与えたリルケへの導き手として、そしてもうひとつは《聖家族》に代表される純粋造本の担い手として。吉岡は随想〈読書 遍歴〉と二十歳のときの日記に次のように書いている。

 詩歌の方では、岩波文庫の『蕪村俳句集』『春夫詩鈔』と改造文庫の白秋の『花樫』を耽読したといってもよいだろ う。そして読む だけではあきたらなくなって、短歌をつくったりした。戦後、結婚の記念として印刷した、小歌集『魚藍』には、白秋模倣の歌四十七首が収められている。北園 克衛とピカソ、それから左川ちかの詩にふれて、造型的なものへ転移していったのである。ある少女への恋に悩み、職場を同じくする苦しさから離職しなければ ならなかった二十歳の青春。堀辰雄の文章から、たぶんリルケをわたしなりに発見したのではなかったか。浅草仲見世の清水屋書店に行き、茅野蕭々訳の『リル ケ詩集』を求めたときの感激を、今も忘れられない。リルケの詩とジイドの小説などがその頃の枕頭の書といえようか。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑 摩書房、1988、五六〜五七ページ)

 〔一九三九年〕八月二十三日
 夕四時ごろ、支那そば屋の慶ちゃんの家にゆき、連れ出して浅草から上野へ出る。不忍の池でボート遊び。白や桃色の蕾が大きな葉の中に見える。湯島天神下 を通り、古本屋で『白秋小唄集』を求める。広小路の水戸屋でソーダ水や蜜豆を食べた。慶ちゃんのおごり。田原町で別れた。古書目録で注文した、堀辰雄『聖 家族』(江川版)が届いていた。(《うまやはし日記》、書肆山田、1990、六八〜六九ページ)

江川書房版《聖家族》は1932年2月の刊行。日記にあるように、吉岡はしばしば限定本を目録買いしていて(未刊の随想〈断章三つと一 篇の詩〉には 「その頃、ガリ版刷りのささやかな詩歌本の古書目録を出しては、通信販売する専門の店があった」とあり、北園克衛詩集はそこで入手している)、本書もそう して購ったものの一冊だろう。吉岡の1939年6月18日(日曜)と同月28日の日記には「晴。浅草仲見世の清水屋書店で、渇望の茅野蕭々訳『リルケ詩 集』を買う。一円八十銭。あり金五円なのでつらいところ。」、「夜、『風立ちぬ』を読む。」(《うまやはし日記》、五〇ページ、五三ページ)とある。念願 の《リルケ詩集》を奥付の刊行日(6月10日)の8日後に入手して耽読した吉岡は、リルケへと導いた堀辰雄の代表作《風立ちぬ》のおそらくは限定本 (1938年の野田書房版)をその高揚のなかで読んだ(それにしたところで、何度めかの繙読だっただろう)。谷田昌平の〈堀辰雄との縁[えにし]〉によれ ば、堀がリルケに親しみはじめたのは1934(昭和9)年ころからで、「この年、彼が編集に携わった月刊同人雑誌「四季」の創刊号から三号続けて、「マル テ・ロオリッツ・ブリッゲの手記」を訳載し、翌年には「四季」を日本で最初の「リルケ研究」号として編集した」(《濹東の堀辰雄――その生い立ちを探 る》、彌生書房、1997年7月15日、一四三ページ)とある。吉岡が堀辰雄経由でリルケを知ったのは、リアルタイムではなくおそらく後追いだろうが、こ れらの雑誌を通してだったに違いない。もっとも、谷田によれば「堀辰雄の単行本ははじめの頃はほとんどが限定出版で、限られた読者しか手にすることができ なかった。わずかに普及版としてもう少し広い読者に読まれたと思われるのは、昭和五年に改造社から出た『不器用な天使』(新鋭文学叢書)と、昭和十一年 (一九三六年)に野田書房から出たエッセイ集『狐の手套』、普及版『聖家族』くらいで、やはり文藝雑誌での読者が主で、単行本で読む一般読者はまだ多くは なかったと思われる」(同前、一三六ページ)から、〈リルケ雑記〉を収めた《狐の手套》(野田書房、1936)だった可能性も捨てきれない。だが、吉岡が 堀のどの版によってリルケに親しんだかが重要なのではない。重要なのは、戦地に携えた数冊の本のなかに没収の恐れがある翻訳書、リルケの《ロダン》が 入っていて、それが戦時下の吉岡実の詩の拠り所になったという影響の内実である。吉岡とリルケの関係をめぐっては、かつて〈吉岡実とリルケ〉に書いたので、抜粋する。

・リルケの本格的な影響は戦後10年を経た詩集《静物》(私家版、1955)に至ってようやく現われた。
・戦時下の中国 大陸で、そして戦後間もない東京で自身の詩を模索していた吉岡を、リルケの《ロダン》は霊感に頼らない「手仕事の精神」で鼓舞した。若き日に彫刻家を夢み ていた吉岡が本書を手にしたのは、あるいはロダンへの関心が主だったかもしれない。しかし結果として、ロダンの「彫刻」よりも、さらにはリルケの「詩」よ りもはるかに大きなものをもたらしたこの評伝は、吉岡の詩的出発を促す糧となったのである。
・吉岡がリルケから学んだのは、現実の「物」と対峙する詩精神のありかただった。戦争を挟んで初読から十数年を経て、《リルケ詩集》もまた《ロダン》とと もに吉岡実の詩的出発を準備したといえよう。
・《薬玉》(1983)、《ムーンドロップ》(1988)と続く後期詩篇群を書きはじめる直前、吉岡実はリルケの思想的圧縮点を示す《ドゥイノの悲歌》に 対抗すべく、一度は20世紀後半における「現世をテーマの長篇詩」を奏でようとしたのだった。

《液體》の語彙に白秋、北園と並んで堀口大學と堀辰雄の影響があると指摘したのは種村季弘だった(〈吉岡実のための覚え書〉)。だが、 私が堀辰雄の 作品から想起するのは吉岡の次の一首である。これは歌稿〈歔欷〉、《昏睡季節》の〈蜾蠃鈔〉、歌集《魚藍》のいずれにも見えるが、最も早い時点と思しい 《うまやはし日記》の1939年9月7日(木曜日)にこの歌だけが記されているのをどう考えればいいのか。吉岡が軽井沢に行った形跡は前後の日記の記載に 見えない。一方で、東京に居つづけたという証拠もない。手持ちの資料からは不明とするしかない。私は、一首は東京にあった吉岡がかの地の外国人の娘を想像 裡に定着した作品だと考える。あるいは堀辰雄とルノワールへの吉岡のオマージュだと。

 やがて向うの灌木の中から背の高い若い外国婦人が乳母車を押しながら私の方へ近づいて来るのを私は認めた。私はち つともその人 に見覚えがないやうに思つた。私がその道ばたの大きな桜の本に身を寄せて道をあけてゐると、乳母車の中から亜麻色の毛髪をした女の児が私の顔を見てにつこ りとした。私もつい釣り込まれて、につこりとした。が、乳母車を押してゐたその若い母は私の方へは見向きもしないで、私の前を通り過ぎて行つた。それを見 送つてゐるうち、ふとその鋭い横顔から何んだか自分も見たことがあるらしいその女の若い娘だつた頃の面影が透かしのやうに浮んで来さうになつた。――堀辰 雄〈美しい村〉

夏野ゆく金髪少女の横顔をかすめる影あり落ち葉なりけり(軽井沢)――吉岡実
戦後の吉岡が堀辰雄の世界から遠ざかったあとも、その影響は思わぬ処で姿を現わす。《季節》1958年7月号に発表された〈聖家族〉(C・14)がそれ だ。この詩は《僧侶》に収録された作品中、いちばん最後に雑誌に発表された詩篇である(執筆は書きおろしの〈感傷〉の方があと)。詩篇に登場する老いた男 =夫=父親は、母娘の夫であり父である老いた男で、母親の姦通相手の若い男と対比されている。
聖家族|吉岡実

美しい氷を刻み
八月のある夕べがえらばれる
由緒ある樅の木と蛇の家系を断つべく
微笑する母娘
母親の典雅な肌と寝間着の幕間で
一人の老いた男を絞めころす
かみ合う黄色い歯の馬の放尿の終り
母娘の心をひき裂く稲妻の下で
むらがるぼうふらの水府より
よみがえる老いた男
うしろむきの夫
大食の父親
初潮の娘はすさまじい狼の足を見せ
庭のくろいひまわりの実の粒のなかに
肉体の処女の痛みを注ぐ
すべての家財と太陽が一つの夜をうらぎる日
母親は海のそこで姦通し
若い男のたこの頭を挟みにゆく
しきりと股間に汗をながし
父親は聖なる金冠歯の口をあけ
砕けた氷山の突端をかじる

これはキリスト教における聖家族(幼児イエスと母マリア、父ヨセフの三人の家族)ではない。むろん、堀辰雄の同題の「ロマン(長篇小 説)の模型みた いな短篇小説」(福永武彦)には似ても似つかない。キリスト教的でも、堀辰雄ふうでもない聖家族。むしろ俗にまみれた、俗の極致の家族というべきだろう。 高橋睦郎は〈聖家族〉の鑑賞で「れいによって反聖家族と読めばいい。このころから社会問題になってきた崩壊家族が主題になっている。しかし、この崩壊家族 は湿潤な日本の風土にふさわしくなく、あっけらかんと壮大に崩壊する。〔……〕家族を構成するものが男性(夫、父、息子)と女性(妻、母、娘)だとした ら、作者の視線はもっぱら女性、妻、母、娘の強さ、たくましさのほうへ注がれ、男性、夫、父は弱さ、みじめったらしさを代表し、息子的なものは母親の情事 の対象にしかならない」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984、三三〜三四ページ)と書く。「樅の木と蛇の家系」は西洋の紋章の図柄のよう で(はたしてそうした紋章が実在するのか不明だが)、そのままこの父母娘の家族の来歴を語っている。詩篇の一家があくまでも「聖家族」なら、ここに欠けて いるのはイエス・キリストに対応する幼児である(堀の短篇に母と娘、そして息子に相当する若者は登場するが、父は存在しない)。大いなる空位としての男児 の存在、あるいは不在。〈聖家族〉を収めた詩集《僧侶》を読んだ者にとってただちに想起されるのは、あの死児たち――〈喪服〉(C・15)の「円筒の死 児」であり、〈死児〉(C・19)の「死児」――だ。選詩集《吉岡実〔現代の詩人1〕》が誰の選になるのかわからないが(吉岡か、高橋か、それとも両者の 協議によるか)、《僧侶》からの抄録が〈牧歌〉〈僧侶〉〈夏〉〈苦力〉〈聖家族〉〈死児〉の6篇で、しかも〈聖家族〉のあとに〈死児〉が置かれているのは まことに意味深いといわねばならない。

ここで吉岡実と筑摩書房版堀辰雄全集について記しておこう。《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)に掲載した〈吉岡実資料〉の装丁作品の目録作成にあたって、筑摩書房関係の資料は淡谷淳一さんの手を煩わせた。次の 「'90.11.28」という私の確認印が入ったコピーの原本は、横長のカード(ほぼA5判サイズだが、コピーで拡大・縮小されているかもしれない)であ る。

筑摩書房が吉岡実に依頼した案件の控え〔原紙のコピーに小林がメモを記入したモノクロコピー〕
筑摩書房が吉岡実に依頼した案件の控え〔原紙のコピーに小林がメモを記入したモノクロコピー〕

一部の雑誌や全集のタイトルはゴム印(縦書き)だが、ほとんどが肉筆で、筑摩書房が吉岡に依頼した案件が3段にわたって記されている。 担当者が依頼 のたびに記入したらしく、筆跡はまちまちである。書ききれなくなってあとから欄外に書いた形跡もある(上部の2行)。このため必ずしも刊行順ではないが、 以下にそれを控えの順番どおりに起こしてみる。各項の(番号)と【発表年月】は、引用者が便宜的に付けた。筑摩在社時代(1951-78)の案件は詩人吉 岡実に対してのもの、同社退社後の案件はフリーランスとしての仕事である。各案件に相当する記載が《〈吉 岡実〉の「本」》《吉岡実年譜》《吉 岡実書誌》にあるので個個に解説しないが、5桁の数字は ISBNコードの書名記号。(3)と(17)は《吉岡実書誌》に記したように同内容。(7)と(31)は重複かもしれない。

(1)リュミエール 1.3.4.5【1985.9, 1986.3, 6, 9】

(2)田中冬二全集 内容見本【1984.11】 (16)ちくま '87/2【1987.2】
(3)愛蔵版現代文学大系 67【初刊:1967.12】 (17)筑摩現代文学大系 別1【1981.12】 (31)西脇・詩と詩論【1975.10】
(4)詩の本 2【初刊:1967.11】 (18)西脇全集 別巻【1983.7】 (32)堀辰雄全集【1977.5-1980.10】
(5)現代日本文学大系 93【初刊:1973.4】 (19)兎とよばれた女(80233)すいせん文【1983.10】 (33)82267 日本漫遊記(装丁)【1989.6】
(6)文芸展望 49/7【1974.7】 (20)人なつかしき(81166)装幀【1983.10】
(7)西脇順三郎・詩と詩論【1975.10】 (21)和語と漢語のあいだ(82193)装丁【1985.6】
(8)詩の自覚の歴史(装釘)【1979.2】 (22)読書の歳月(82196)装丁【1985.6】
(9)詩集 人類 月報 装幀・普及版〃【1979.6, 11】 (23)《宮沢賢治》鑑(82216)装丁【1986.9】
(10)短歌の本 1【1979.10】 (24)02101 文庫 東京百話 天【1986.12】
(11)焔に手をかざして(81120)装幀【1980.3】 (25)美貌の青空(87100)装丁【1987.1】
(12)石川啄木全集 4(月報)【1980.3】 (26)土方巽頌(82236)【1987.9】
(13)俳句の本 1【1980.4】 (27)ウンガレッティ全詩集(83088)装丁【1988.1】
(14)現代短歌全集 6(月報)【1981.3】 (28)回想 戦後の文学(82242)〃【1988.4】
(15)プルースト・印象と隠喩 83563(装幀)【1982.8】 (29)双書 328 「死児」という絵〔増補〕【1988.9】

(30)物いふ小箱(81264)装丁【1988.11】

ここで問題になるのは(32)で、ゴム印による「堀辰雄全集」には(月報)とも(装丁)とも補記がなく、吉岡が本書とどうかかわったの かわからな い。装丁作品の目録作成の作業途中で疑問に思って淡谷さんに確認したところ、寄贈書とのことだった。当時はさして気にとめなかったが、このことの意味を改 めて考えてみたい。(7)は《西脇順三郎 詩と詩論 Y》月報の随想〈西脇順三郎アラベスク〉である(永田耕衣の主宰誌からの原稿依頼に対する返事が遅れたことを耕衣宛の1975年8月31日付書簡で詫びた 吉岡は「西脇順三郎《詩と詩論》月報の締切が同 じころという巡りあわせがあるのです。その構想も出来ず、まず十五枚という小生うまれて初めてともいうべき枚数に、毎日おろおろしているところです」と苦 衷を明かしている)。西脇順三郎全集は吉岡実装丁だったが、《西脇順三郎 詩と詩論》シリーズの装丁がだれか表示されておらず、私の印象では吉岡実装丁ではない気がする。吉岡は詩人としてこの案件に関わったのだから、執筆文を掲 載した《Y》を見本として受けとっただけだろう。他の5巻も手許に置いておきたかった吉岡は、これを随想の原稿執筆料との相殺かなにかで寄贈してもらった のではないか。そのあたりが(s7)の実態のような気がする。同様に、(32)の刊行開始時点でまだ筑摩に在籍していた吉岡は、その後はフリーランスと なって堀辰雄全集になんらかの形で関与した――装丁の手助けをするなり、素材の吟味に一役買うなりした――ため、寄贈を受けたのではないか。ただし堀辰雄 全集は本扉裏に「裝幀/岡 鹿之助」とクレジットがあり、第1巻月報には「本全集の装幀者は岡鹿之助氏ですが、函・表紙・扉の絵も今回新たに描いていただ いたものです」、岡歿後の1978年5月の第6巻月報には「今回の装丁のお仕事では、表紙の箔押しの線の出し方に至るまで厳しいチェックを重ねていただき ました」とあるから、装丁者が岡鹿之助であることは動かない。さもなくば、ふつう「寄贈書」と言わないが、堀辰雄全集を購読したかった吉岡が自社の出版物 なので社内販売割引で買った、とも考えられないことはない。いずれにしても《堀辰雄全集〔全8巻・別巻2巻〕》が吉岡の自宅の書架に並んだことであろう。 ちなみに同全集は、第13回造本装幀コンクールで優秀賞(全集部門)を受賞している。

堀辰雄の著書の造本については、軽井沢高原文庫副館長・大藤敏行の〈堀辰雄の純粋造本〉(《近現代のブックデザイン考 I――書物にとっての美》武蔵野美術大学 美術館・図書館、2012年10月22日)が詳しい。以下、大藤論文や《明治大学図書館|図書館について|刊行物|図書の譜(明治大学図書館紀要)|1号》の 〈純粋造本――江川書房と野田書房〉(執筆者名の記載なし)を手がかりにして堀の著書の造本について考えてみたい。対象を吉岡が古書目録で注文した江川書 房版《聖家族》と、吉岡が読んだ《風立ちぬ》を野田書房版のそれと想定して、2冊に絞る。郡司勝義の〈書誌〉によれば、《聖家族》と《風立ちぬ》は次のご とくである。

3 聖家族/ 昭和七年二月二十日発行/江川 書房(東京市外渋谷町原二十七番地、江川正之)刊行/印刷者 白井赫太郎/B6変型判(12.5×16.5cm)紙表紙装厚手カバー 附貼函入  本文七十三頁 定価二円(一―一五〇)、一円五十銭(一五一―五〇〇)/五百部限定刊行(越前局紙刷著者署名百五十部(一―一五〇)、木炭紙刷三百五十 部(一五一―五〇〇))/*/序(横光利一) 五/聖家族七(《堀辰雄全集〔別巻二〕》筑摩書房、1980年10月25日、四四一〜四四二ページ)

15 風立ちぬ/ 昭和十三年四月十日発行/野田書房(東京市牛込区柳町二十四番地、野田誠三)刊行/印刷者 松村保/A5判背洋紙コーネル表紙装鋲〔ママ〕函入 本文百九 十五頁 定価二円/五百部限定刊行/*/風立ちぬ 七/ 序曲 九/ 春 一三/ 風立ちぬ四九/ 冬 一一九/ 死のかげの谷 一六一(同前、四四六ページ)

ここで注目したいのは《聖家族》のB6変型判(12.5×16.5cm)というサイズだ。手許にある日本近代文学 館による名著複刻全集 の《聖家族》はB6判の天地がカットされ、ちょっと寸が詰まった感じだ。私の《吉岡実書誌》は本文ページの仕上がり天地×左右の寸法 だから、 《聖家族》のそれを測ると157×118mmで、吉岡の詩 集《昏睡季節》の172× 121mmは近似値といえる。《昏睡季節》の本文用紙は出征を前にした吉岡への友人たちからの餞別だったから(吉岡がフリーハンドで用紙を選択したわけで はなかったから)、単純な比較はできないものの、詩集をB6変型判にした背景に《聖家族》がまったく影響していなかったとはいえまい。それよりもなにより も、詩集の造本において吉岡が本書に範を仰いだ証拠が《聖家族》のフランス装である。いったい和紙袋綴じの造本を並製フランス装にする必要がどこにあると いうのか。いかなる意味でも活字だけ(「*」のような洒落た約物ひとつ使われていない)で組まれた《聖家族》に対して、《昏睡季節》の表紙は(おそらく吉 岡の手になる)毛筆だが、これは《昏睡季節》が吉岡の「遺書」だったことを考えれば納得がいく。「表紙以外は書名なしの純白装。〔……〕純白の局紙に漆黒 の活字のとりあわせは気品にあふれる。フランス装」(大藤敏行、前掲書、〇六三ページ)の《聖家族》に吉岡が感銘を受けたことは想像に難くない。一方《風 立ちぬ》との関係は《聖家族》と《昏睡季節》ほど直接ではないが、後年の限定版における吉岡実装丁の骨法に影響を与えている。普及版(とりわけ詩書)にお ける継ぎ表紙の採用も、若いころに出あった《風立ちぬ》に負うところが大きい。
林哲夫さんが〈近現代のブッ クデザイン考 I〉で 指摘しているように、堀辰雄も吉岡実も限定本屋をやりたがっていた。大藤敏行は〈堀辰雄の純粋造本〉を次のように結んでいる。――「堀夫人の答えで今も私 の耳に残っているのは、「主人はもしお金があったら、ほんとうは本屋になりたかったようですよ」という言葉であった。ここで言われている本屋とは、本を造 ること、小さな出版社を興すと いった意味合いである。/自分の書物を 自分の造りたいように造り、友達 の書物も自分の好みや友達の好みに合うように造る。そうした人生を送れたらどんなによいだろうか、と堀が夢に描いていたかもしれない思いの一部は、今紹介 してきたような見事な書物となって、結実したと言えるのではないであろうか」(前掲書、〇七五ページ)。

「そこでちょっと土地の話をしてみたいんですけれども、さっきの西脇さんの話に引っかけると、田村隆一と話していて、二人とも意見が一 致したのは、 モダニズムというのは北陸と東京の下町に出るというんですよ。北陸というのは新潟も入れてね。それから下町というのは、堀辰雄から吉岡実にいたるまでとい う話になったわけ。日本のモダニストは大抵そこから出ている。これはどうしてか、実に不思議だというんですよ。彼の説によると、両方とも薩長の力が及ばな かったところだと言うんだな……」とは飯島耕一の発言だが(吉岡実・加藤郁乎・那珂太郎・飯島耕一・吉増剛造〔座談会〕〈悪しき時を生きる現代の詩――座 談形式による特集〈今日の歌・現代の詩〉〉、《短歌》1975年2月号、六九ページ)、北陸・新潟のモダニストは瀧口修造・西脇順三郎で、東京の下町は (堀辰雄・吉岡実に限れば)本所である。前者は措いて、東京の下町に出るモダニズムとはなにか。これは難問だ。少なくとも20世紀全般にわたる日本と欧米 の芸術を視野に入れなければ、容易に解けない。確かに下町生まれ共通の気質というのはある。若年の吉岡が15歳年長の堀に同郷(ただし当時、堀は東京・杉 並や軽井沢にあった)の小説家として親しみを覚えたのも事実だろう。だがそれは、きっかけではあっても、その文学に親炙し自身もモダニストの道を歩む理由 にはならない。それなりの内的な必然性がなければならない。加えて検討の対象となるテキストの問題がある。堀辰雄は、本稿で触れた筑摩書房版全集以前にも 新潮社と角川書店から元版や普及版といった形で何度も全集が出ていて、研究の基礎となる文献に事欠かない。他方、吉岡実は全集はおろか未刊行の散文の集成 さえ刊行されていない。吉岡実と堀辰雄という魅力的な主題にもかかわらず、東京の下町とモダニズム/モダニストという観点から両者を論じるにふさわしい環 境にないというのが現在、2013年ということになろうか。と言い訳したうえでのことだが、昭和前期のモダニズム文学と東京の下町、とりわけ浅草は深い関 係にある(堀の短篇〈水族館〉は、浅草を描いて興味深い)。今後は吉岡実と浅草の関係を探求する機会をもちたい。

〔付記〕
新潮社の編集者だった谷田昌平は元版堀辰雄全集の造本について、堀の弟子である福永武彦を引きあいに出して、次のように書いている。なお、《回想 戦後の文学》は吉岡 実の装丁になる。

福永さんは大変な凝り性で、本の編集や本造りに異常なまでの情熱を示した。自分の著作の編集や本造りにその情熱をそ そいだだけで なく、『堀辰雄全集』の編集に携わった折にもその情熱は遺憾なく発揮された。この全集では、初出、本文の異同などを色刷りの脚注で入れ、造本は背皮、雁皮 紙袋〔ママ〕、面取り、布袋〔ママ〕貼函入りにするという豪華なものであったが、こういう好みを頑固に主張して譲らなかったのは福永さんであった。堀辰雄 の『ルウベンスの偽画』『聖家族』『風立ちぬ』等の初版本は、何れも行アケ、改頁などの余白を生かした緻密な編集と、清楚で風格の高い造本に特色のある限 定本だが、本に愛着の深い福永さんは、そんな堀辰雄にふさわしい全集を作ることに力をそそいだものと思われる。(〈堀辰雄との縁[えにし]〉、前掲書、一 四〇〜一四一ページ)

 新潮社の『堀辰雄全集』は昭和二十九年三月に第一巻が刊行された。菊判・背皮・面取り厚表紙・雁皮紙[がんぴし]装、布装函入という豪華な造本で、初出 誌・本文校異などが色刷りの脚注で入るという型破りの本だった。定価は千円。小説の単行本が二、三百円のころである。/編集委員では、神西清氏も本造りに 神経質な人だったが、脚注を色刷りにする二色刷り、豪華な造本などを主張して譲らなかったのは福永武彦氏だった。今は児童文学者になっている前川康男さん が、最初『堀辰雄全集』の担当だったが、福永さんの情熱と社の方針との調整に随分骨折ったようだ。(谷田昌平〈福永武彦――人生が芸術であるかのように生 きる〉、《回想 戦後の文学》、筑摩書房、1988年4月25日、一七ページ)

《永田耕衣頌――〈手紙〉と〈撰句〉に依る》を編んで(2012年12月31日)

小澤實さん主宰の《澤》2011年8月号の永田耕衣特集を踏まえて、「いずれは長文の〈吉岡実と永田耕衣〉を書かねばならない」と同月 の〈編集後記〉に 書いたものの、まだ実現していない。本格的な論考執筆の準備作業として、このほど自家製の吉岡実著《永田耕衣頌――〈手紙〉と〈撰句〉に依る》を企画し、 制作した。著作権を尊重する立場から、吉岡が執筆した本文(書簡や随想)、撰した耕衣の俳句をここに掲載するわけにいかないので、《吉岡実未刊行散文集 初出一覧》と同じように、私の作業になる目次初 出一覧編者あとがきを 掲載しよう。なお《永田耕衣頌》には、各本文の末尾に初出などの書誌関連の情報を記しており、重複を厭って〈初出一覧〉を設けていない。本文の組体裁につ いては〈編者あとがき〉に詳述したが、版面の様子がわかるように、私の〈永田耕衣と吉岡実――『耕衣百句』とその後〉と吉岡の書簡・随想を掲載した見開き を掲げる。

小林一郎〈永田耕衣と吉岡実――『耕衣百句』とその後〉の見開き 吉岡実の書簡と随想を掲載した見開き
小林一郎〈永田耕衣と吉岡実――『耕衣百句』とその後〉の見開き(左)と吉岡実の書簡〔右 ページ〕と随想〔左ページ〕を掲載した見開き(右)

目 次

〔《永 田耕衣頌》註記〕
〈永田耕衣宛吉岡実書簡〉の底本は、印 が《琴座》掲載分を、印 が姫路文学館永田耕衣文庫所蔵の吉岡実書簡を表わし、書簡の本文は校訂しなかった。文末尾に初出情報や差出郵便局の消印の情報を記した。
随想や撰句は表記の乱れを統一し、引用文は原本と照らして校訂した。なお未刊行の随想などで、わかりやすいように編者が標題を補った箇所がある。標題の原 題は文末尾の初出の情報に記した。

永田耕衣と吉岡実――『耕衣百句』とその後 小林一郎 vii
▽一九六三年一月一六日 永田耕衣宛はがき 三
一九六三 年一月一六日 永田耕衣宛 四
一九六三 年四月一一日 永田耕衣宛 五
一九六三 年六月一七日 永田耕衣宛 五
一九六四 年二月三日 永田耕衣宛書留封書 七
一九六五 年一〇月一七日 永田耕衣宛 九
一九六七 年三月一日 永田耕衣宛はがき 九
一九六七 年三月八日 永田耕衣宛封書 一〇
一九六七 年四月八日 永田耕衣宛 一二
〔一九六 七年〕五月三〇日 永田耕衣宛封書 一三
一九六七 年六月二八日消印 永田耕衣宛はがき 一四
一九六七 年八月二日消印 永田耕衣宛はがき 一五
一九六七 年一〇月二三日消印 永田耕衣宛はがき 一五
一九六七 年一一月一三日消印 永田耕衣宛はがき 一六
一九六七 年一一月二四日消印 永田耕衣宛はがき 一七
一九六八 年一月四日 永田耕衣宛はがき 一八
一九六八 年九月二三日消印 永田耕衣宛はがき(その一) 一九
一九六八 年九月二三日消印 永田耕衣宛はがき(その二) 二〇
一九六九 年七月一日 永田耕衣宛速達はがき(その一) 二一
一九六九 年七月一日 永田耕衣宛はがき(その二) 二二
一九六九 年八月七日 永田耕衣宛はがき 二三
一九六九 年九月七日 永田耕衣宛はがき 二三
一九六九 年九月二三日 永田耕衣宛速達封書 二四
日記抄――耕衣展に関する七章 二六
一九七〇 年五月一日 永田耕衣宛はがき 三〇
一九七〇 年九月八日消印 永田耕衣宛はがき 三一
一九七〇 年九月二三日 永田耕衣宛現金書留封書 三一
一九七一 年三月二三日消印 永田耕衣宛はがき 三二
永田耕衣との出会い 三四
〈鯰佛〉と〈白桃女神像〉 三九
一九七五 年七月七日消印 永田耕衣宛はがき 四二
永田耕衣句集《冷位》愛吟句抄 四三
一九七五 年九月一七日 永田耕衣宛 四七
覚書 四八
一九七八 年四月六日消印 永田耕衣宛はがき 六四
一九七八 年〔五月か〕 永田耕衣宛 六五
一九七八 年七月二五日消印 永田耕衣宛はがき 六五
一九七八 年八月二三日消印 永田耕衣宛はがき 六六
《殺佛》三昧 六八
永田耕衣句集《殺佛》愛吟句抄 七〇
一九七九 年一二月二八日 永田耕衣宛 七二
耕衣秀句抄 七三
一九八〇 年五月一九日 永田耕衣宛 八〇
一九八〇 年六月二五日消印 永田耕衣宛はがき 八一
永田耕衣句集《肉体》十句抄 八二
一九八二 年三月一〇日 永田耕衣宛 八四
永田耕衣句集《殺祖》愛好句抄 八六
五月の句――耕衣の句から 八八
一九八三 年五月四日消印 永田耕衣宛はがき 九二
一九八四 年一月二〇日 永田耕衣宛 九三
永田耕衣句集《物質》愛誦句抄 九四
一九八四 年八月六日 永田耕衣宛 九六
耕衣粗描 九八
一九八五 年一月二四日 永田耕衣宛 一〇三
一九八五 年一二月九日 永田耕衣宛はがき 一〇四
一九八六 年五月一八日 永田耕衣宛 一〇四
一九八六 年一〇月八日 永田耕衣宛 一〇六
一九八六 年一〇月二六日 永田耕衣宛封書 一〇七
一九八六 年一〇月二六日 永田耕衣宛 一〇八
耕衣三十句 一一〇
耕衣*葱室 十一句 一一六
一九八七 年六月一〇日 永田耕衣宛 一一八
一九八七 年一〇月二二日消印 永田耕衣宛はがき 一二〇
一九八七 年一一月一九日消印 永田耕衣宛はがき 一二一
一九八八 年九月二一日 永田耕衣宛 一二二
一九八九 年一月一日か 永田耕衣宛 一二二
耕衣句集『人生』十七句撰 一二四
一九八九 年三月二〇日 永田耕衣宛 一二八
(付録)耕衣百句――吉岡実編 一二九
編者あとがき 一四四

初出一覧

永田耕衣と吉岡実――『耕衣百句』とその後 小林一郎 《澤》二〇一一年八月号〈特集・永田耕衣〉
▽一九六三年一月一六日 永田耕衣宛はがき 《特別展「虚空に遊ぶ 俳人 永田耕衣の世界」図録》(姫路文学館、一九九六年一〇月四日)
一九六三 年一月一六日 永田耕衣宛 《琴座》一六〇号(一九六三年二月一日)〈銀椀鈔〉
一九六三 年四月一一日 永田耕衣宛 《琴座》一六三号(一九六三年五月一日)〈銀椀鈔〉

一 九六三年六月一七日 永田耕衣宛 《琴座》一六六号(一九六三年八月一日)〈銀椀鈔〉
一九 六四年二月三日 永田 耕衣宛書留封書 本書
一九六五 年一〇月一七日 永田耕衣宛 《琴座》一九二号(一九六六年一月一日)〈田荷軒愛語抄〉
一九六七 年三月一日 永田耕衣宛はがき 本書
一九六七 年三月八日 永田耕衣宛封書 本書
一九六七 年四月八日 永田耕衣宛 《琴座》二〇七号(一九六七年五月一日)〈愛語紛々〉
〔一九六 七年〕五月三〇日 永田耕衣宛封書 本書
一九六七 年六月二八日消印 永田耕衣宛はがき 本書
一九六七 年八月二日消印 永田耕衣宛はがき 本書
一九六七 年一〇月二三日消印 永田耕衣宛はがき 本書
一九六七 年一一月一三日消印 永田耕衣宛はがき 本書
一九六七 年一一月二四日消印 永田耕衣宛はがき 本書
一九六八 年一月四日 永田耕衣宛はがき 本書
一九六八 年九月二三日消印 永田耕衣宛はがき(その一) 本書
一九六八 年九月二三日消印 永田耕衣宛はがき(その二) 本書
一九六九 年七月一日 永田耕衣宛速達はがき(その一) 本書
一九六九 年七月一日 永田耕衣宛はがき(その二) 本書
一九六九 年八月七日 永田耕衣宛はがき 本書
一九六九 年九月七日 永田耕衣宛はがき 本書
一九六九 年九月二三日 永田耕衣宛速達封書 本書
日記抄――耕衣展に関する七章 《琴座》二三五号(一九六九年一一月一日)
一九七〇 年五月一日 永田耕衣宛はがき 本書
一九七〇 年九月八日消印 永田耕衣宛はがき 本書
一九七〇 年九月二三日 永田耕衣宛現金書留封書 本書
一九七一 年三月二三日消印 永田耕衣宛はがき 本書
永田耕衣との出会い 《銀花》第七号秋の号(一九七一年九月三〇日)
〈鯰佛〉と〈白桃女神像〉 永田耕衣全句集《非佛》栞〈田荷軒周囲〉(一九七三年六月一五日、冥草舎刊)
一九七五 年七月七日消印 永田耕衣宛はがき 本書
永田耕衣句集《冷位》愛吟句抄 《琴座》三〇〇号(一九七五年一一月一〇日)原題〈冷位 愛吟句抄〉
一九七五 年九月一七日 永田耕衣宛 《琴座》三〇〇号(一九七五年一一月一〇日)〈青葉台書簡〉
覚書 吉岡実編《耕衣百句》(一九七六年六月二一日、コーベブックス刊)
一九七八 年四月六日消印 永田耕衣宛はがき 本書
一九七八 年〔五月か〕 永田耕衣宛 《琴座》三二八号(一九七八年六月一日)〈愛語鈔〉
一九七八 年七月二五日消印 永田耕衣宛はがき 本書
一九七八 年八月二三日消印 永田耕衣宛はがき 本書
《殺佛》三昧 《琴座》三三三号(一九七八年一一月一日)
永田耕衣句集《殺佛》愛吟句抄 《琴座》三三三号(一九七八年一一月一日)原題〈殺佛 愛吟句抄〉
一九七九 年一二月二八日 永田耕衣宛 《琴座》三四六号(一九八〇年二月一日)〈愛語鈔〉
耕衣秀句抄 《俳句の本》第一巻〈俳句の鑑賞〉(一九八〇年四月八日、筑摩書房刊)
一九八〇 年五月一九日 永田耕衣宛 《琴座》三五一号(一九八〇年七月一日)〈愛語鈔〉
一九八〇 年六月二五日消印 永田耕衣宛はがき 本書
永田耕衣句集《肉体》十句抄 《琴座》三五一号(一九八〇年七月一日)原題〈『肉体』十句抄〉
一九八二 年三月一〇日 永田耕衣宛 《琴座》三七一号(一九八二年五月一日)〈「殺祖」愛好句抄〉
永田耕衣句集《殺祖》愛好句抄 《琴座》三七一号(一九八二年五月一日)原題〈「殺祖」愛好句抄〉
五月の句――耕衣の句から 《琅玕》一九八三年五月号(一九八三年五月一日)
一九八三 年五月四日消印 永田耕衣宛はがき 本書
一九八四 年一月二〇日 永田耕衣宛 《琴座》三九三号(一九八四年五月一日)〈物質愛誦句抄〉十一句撰
永田耕衣句集《物質》愛誦句抄 《琴座》三九三号(一九八四年五月一日)原題〈物質愛誦句抄〉
一九八四 年八月六日 永田耕衣宛 《琴座》三九七号(一九八四年九月一日)〈青葉台つうしん〉
耕衣粗描 《現代俳句の世界13 永田耕衣 秋元不死男 平畑静塔集》(一九八五年一月二〇日、朝日新聞社刊)〈序文〉
一九八五 年一月二四日 永田耕衣宛 《琴座》四〇二号(一九八五年三月一日)〈青葉台つうしん〉
一九八五 年一二月九日 永田耕衣宛はがき 本書
一九八六 年五月一八日 永田耕衣宛 《琴座》四一七号(一九八六年七月一日)〈永田耕衣書画集・錯 愛語集〈続〉〉
一九八六 年一〇月八日 永田耕衣宛 《琴座》四二一号(一九八六年一一月一日)〈青葉台つうしん〉
一九八六 年一〇月二六日 永田耕衣宛封書 本書
一九八六 年一〇月二六日 永田耕衣宛 《琴座》四二二号(一九八七年一月一日)〈青葉台つうしん〉
耕衣三十句 《洗濯船》別冊第二号(一九八七年三月二五日)〈『耕衣百句』以後の耕衣〉
耕衣*葱室 十一句 《琴座》四二八号(一九八七年七月一日)
一九八七 年六月一〇日 永田耕衣宛 《琴座》四二八号(一九八七年七月一日)〈青葉台つうしん〉
一九八七 年一〇月二二日消印 永田耕衣宛はがき 本書
一九八七 年一一月一九日消印 永田耕衣宛はがき 本書
一九八八 年九月二一日 永田耕衣宛 《琴座》四四五号(一九八九年二月一日)〈〈人生〉愛語鈔 その一―田荷軒あて―〉
一九八九 年一月一日か 永田耕衣宛 《琴座》四四五号(一九八九年二月一日)〈青葉台つうしん〉
耕衣句集『人生』十七句撰 《琴座》四四五号(一九八九年二月一日)
一九八九 年三月二〇日 永田耕衣宛 《琴座》四四七号(一九八九年四月一日)〈愛語鈔―田荷軒あて―〉
(付録)耕衣百句――吉岡実編 吉岡実編《耕衣百句》(一九七六年六月二十一日、コーベブックス刊)
編者あとがき 本書

編者あとがき

「永 田耕衣さんから突然、手紙がきた。〔……〕このとき から私と耕衣さんの文通がはじまる。爾来十年、私は永田耕衣にだけ手紙を書いてきたように思う。私にとって手紙を書くことは、死ぬほどつらい作業といえる のだから。なんということだろうか、私は今日に至るまで、わが妻にすら一葉のはがきも書いていない。」 ――吉岡実

 詩人の吉岡実(1919-90)が俳人の永田耕衣(1900-97)に多くの手紙を書いていたことは、耕衣主宰の俳誌《琴座》に吉岡 からの来簡と してしばしば掲載されていたことからも明らかである。吉岡に評伝《土方巽頌》の一書があり、随想〈西脇順三郎アラベスク〉の連作がある一方、耕衣との親密 な関係を表わす作品がまとまっていないことを、私はかねがね残念に思っていた。
 あるとき吉岡実書簡の編纂を思いたって、まず想起したのが耕衣に宛てた書簡の存在だった。吉岡実書簡の《琴座》への掲載は一九六三年二月の一六〇号が最 初だと思われるが、吉岡が〈永田耕衣との出会い〉(本書、三四ページ)に書いているように、耕衣句集《與奪鈔》を注文購入した一九六〇年ころから文通が始 まっている。吉岡が亡くなる前年の一九八九年三月には〈愛語鈔―田荷軒あて―〉として《琴座》に最後の掲載を見ている。
 一九九六年秋に、姫路文学館で〈虚空に遊ぶ 俳人 永田耕衣の世界〉展が開かれ、《琴座》未掲載の吉岡実書簡が展示された。阪神淡路大震災で倒壊した田荷軒から発掘された貴重な資料の一部だった。私は二〇 〇五年に至ってようやく、耕衣の高弟であり永田耕衣の会の代表である金子晉さんに《琴座》に掲載されていない書簡について教えていただくことにした。金子 さんからご本人宛の吉岡実はがき三通のコピーを、さらに続いて姫路文学館の学芸員の方の手を煩わせて、同館・永田耕衣文庫所蔵の吉岡実の永田耕衣宛の書簡 三十一通のコピーをお送りいただいた。私がこの新資料の出現に驚倒驚喜したことはいうまでもない。金子さんからの手紙の一部を引く。
 「姫路文学館が所蔵する永田耕衣宛ての吉岡実書簡三十一通を学芸員の竹廣裕子さんがコピーして送ってくれましたのでお届け致します。/これらはいずれ も、阪神大震災で倒壊した永田耕衣宅より掘り出されたものです。/耕衣翁が吉岡実さんの書簡をいかに大切に保存していたかが判る大事な資料記録でもありま す。」(二〇〇五年六月二一日付)
     *
 以上は、二〇〇五年七月七日という仮想された刊行日を持つ作業用タイトル《永田耕衣宛吉岡実書簡集》のために書きかけた〈編者あとがき〉である。そのこ ろ私は《永田耕衣宛吉岡実書簡集》を〈文藝空間叢書2〉として同叢書の第一弾《吉岡実未刊行散文集》(文藝空間、一九九一年組版了、未刊行)と同じ体裁で 組みあげるべく、吉岡が耕衣に宛てた書簡をテキストエディタで入力してから、DTPソフト(Adobe PageMaker 6.5J)を用いて、本文はどうにか形を整えた。それが放置されるにいたった経緯ははっきり憶えていないが、おそらくこうだっただろう。「遊びの時間は終 わった」もしくは「今はまだその時ではない」。当時、すなわち二〇〇五年七月のサイト《吉岡実の詩の世界》の定期更新を見ると〈吉岡実とジェイムズ・ジョ イス〉、〈吉岡実の装丁作品〉(岡田史乃句集《浮いてこい》の紹介)などがあり、〈編集後記〉には「新たに一篇、吉岡実の未刊行散文を発見した。題して 〈五月の句――耕衣の句から〉」とか「吉岡実が勤務した南山堂や西村書店、香柏書房などの出版社についても、しかるべき準備をしてから書きたいと思う」な どとある。永田耕衣宛吉岡実書簡を綺麗な冊子にまとめること(むろん、読者は自分一人である)よりも、多くの吉岡実詩の愛好者に向けて新たな記事を書きつ づけることを優先したものだろう。そして、その選択は正しかったと思う。
 二〇一一年四月、旧知の小澤實さんから主宰誌《澤》の永田耕衣特集号(同年八月発行)に〈永田耕衣と吉岡実〉を書いてほしいというメールをいただいた。 快諾したことはいうまでもない。執筆のときに重宝したのが《永田耕衣宛吉岡実書簡集》のプリントアウトだった。ところでPageMakerのファイルは二 〇一〇年夏にパソコンをリプレースした際、新しい機械にソフトがインストールできず、そうこうしているうちに古い機械は電源が入らなくなり、元のDTP環 境に戻って作業することさえできなくなった(PageMakerは6.5Jの次の7.0Jが最新版にして最終版)。二〇一二年五月、Adobe InDesign CS6というDTPソフトを導入した。さいわいなことに《永田耕衣宛吉岡実書簡集》のファイルは新しい機械に保存しておいたので、ようやくここにすべてを 新しい環境で進める準備(元の原稿と組版用ツール)が整った。
 そのときひらめいたのが《永田耕衣頌――〈手紙〉と〈撰句〉に依る》の構想である。吉岡が耕衣に宛てた書簡を年代順に並べたものをベースにして、さらに そこへ《「死児」という絵》や同〔増補版〕に吉岡が収録した耕衣に言及した散文はもちろん、吉岡による耕衣句の撰(おもに《琴座》に掲載された)を織りこ んでいく。《澤》に書いた〈永田耕衣と吉岡実〉は、序にかえて巻頭に据える。全体の骨格はこれでいいとして、どんな版面にするかが問題だ。編纂の要諦とは 「なにを」と同時にそれを「どう」見せるか、だからだ。
 〈文藝空間叢書〉(いうまでもなく仮想の書物だ)のときには、淡谷淳一さん編集の〈筑摩叢書〉の《「死児」という絵〔増補版〕》を参照した。それに倣っ たPageMakerの《永田耕衣宛吉岡実書簡集》をInDesignに変換すると、フォントも変えなければならないし、組体裁も崩れる。ここは流用など 考えずに新規に構想しなおすべきだ、と悟った。想いうかべたのが、これもまた淡谷さん編集の《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》である。しかし私は 四六判ではなくA5判にして、どうしても本文(随想や撰句)を10ポ、書簡を9ポで組みたかった。そこで参照すべき本は、八木忠栄さん編集の《「死児」と いう絵》(思潮社、一九八〇)である。同書は「本文新字新かな 10ポ三九字詰一五行組活版」(《吉岡実書誌》)で、本文・ノンブル・柱はこれを踏襲し、 書簡の9ポ組は同書の〈あとがき〉に倣うことにした。すなわち、書きおろしの《土方巽頌》に対するブリコラージュ《永田耕衣頌》の内容を、最初の散文集 《「死児」という絵》の体裁に盛ることにしたわけだ。
     *
 《「死児」という絵》の吉岡実の〈あとがき〉(わずか十三行だが、簡にして要を得た文章)に較べて、ながながと書いてしまった。最後になったが、本書は 吉岡が永田耕衣に宛てた書簡と耕衣に言及した文章、ならびにそれと不可分の耕衣句の撰を収めている。吉岡実編纂になる《耕衣百句》は〈覚書〉を吉岡の著作 として本文に、同書の本体をなす選句集〈耕衣百句〉は付録として本書巻末に掲載した。いつの日か、永田耕衣が吉岡実に宛てた書簡とともに《吉岡実・永田耕 衣往復書簡集》が編まれることを期待しつつ、本書をおくる。

         二〇一二年五月三一日

小林一郎

〔追記〕
《耕衣百句》を手掛けた渡辺一考さんが次のように書いている。「先日、間村〔俊一〕さんが「耕衣百句」の本文に用いた一号活字が分 からないといっていたが、あの活字は元活の活字で今はなくなってしまった。昔は元活、日活、秀英、築地、岩田と云った活字メーカーがあって、文字の形や縦 横の肉の比率が異なっていた。旧漢字を揃えるには上海や台湾から活字もしくは字母を輸入するしかなく、上海の活字にもっとも近いのが元活の活字だった」(〈椿花書局〉、 《ですぺら掲示板2.0》、2011年6月6日)。元活については「活字は母型屋が変わると微妙に縦横の肉厚の比率が異なる。また活字の回りの面積も微細 に異なる。元活の活字が私にはもっとも気に入った。なによりも、母型を削る機械の精度が違う。精度が違えばエッジがシャープである」(〈櫻井幡雄さんのことなど〉、同前、2008年8月12日)とある。《耕衣 百句》を手にしてまず感じるのは、思いのほか軽いことと、一号活字による耕衣俳句の圧倒的な存在感である。築地や岩田に較べて、元活に関する情報はほとん どなきに等しい。元活の活字や母型についても詳しく知りたいと思う。


《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第3版〕》を作成した(2012年11月30日〔2017年1月31日追記〕)

2000年12月31日(前世紀最後の日である)に刊行した《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第2版〕》(文藝空間)に手を入れた〔改訂第 3版〕を作成したので、PDFファイルを公開する。以下に同書のあとがき〈公開に際して〉と仕様を録して、《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第3版〕》の紹介に 代える。

《吉岡実全詩篇標 題索引〔改訂第3版〕》公開に際して

《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第2版〕》で本索引の初版に追補した〈序詩〉(詩篇番号137)以降、〈海の章〉(35)、〈断章〉(174)、〈汀にて〉 (191)、〈序詩〉(138)、〈絵のなかの女〉(40)の5篇の未刊詩篇を発見した(いずれも全詩集未収録)。こうしたこともあって、手許の編者本は 訂正を要する赤字や未刊詩篇の書誌を印字した付箋で見苦しいありさまを呈している。当初は初出未詳の〈模写――或はクートの絵から〉(262)の探索が 成った時点で本索引〔改訂第3版〕を上梓するつもりでいたが、とりあえず現時点で改訂し、公開する。それを後押しした要因がいくつかあるので、説明しよ う。

第一に、2008年11月から2011年11月にかけて、《昏睡季節》から《ムーンドロップ》までの吉岡実の全詩集に収録された詩篇 の本文校異を《吉岡実の詩の世界――詩人・装丁家吉岡実の作品と人物の研究》(http: //members.jcom.home.ne.jp/ikoba/)【追記: 2017年2月から「http://ikoba.d.dooo.jp/」に変更】に掲載したこと。詳細は同サイトの〈吉岡実詩集本文校異について〉に譲る が、この調査で吉岡の手入れが初出と初版のあいだで最も著しいことがわかった。これを踏まえて、定稿たる《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)を補完す る資料として、吉岡の和歌(短歌と旋頭歌)・俳句・詩篇を含む全詩業の初出形を発表順に載録した《吉岡実の全詩業》を作成中である(研究用のため、公開の 予定はない)。この《全詩業》に対応した、詳細な初出情報を記した索引の改訂新版が不可欠になった。

第 二に、本索引を電子ファイル化することで、頻繁な改訂作業に耐え、随時の公表が容易になること。これは《現代詩読本――特装版吉岡実》(思潮社、 1991)に掲載した〈吉岡実資料〉の不備の解消を目的としてウェブサイト《吉岡実の詩の世界》を開設した動機に等しい。もっとも電子ファイルをhtml で記述するなら、本索引の冊子体の紙面の水準を維持することは難しい。漢字の異体字やルビによるふりがな表示のほか、本文の書体やサイズなど、レイアウト 面の精度は望むべくもない。こうした状況に鑑みて、今回はDTPソフトAdobe InDesignでページアップしたものをPDFファイル化するのが最適だと判断した。印刷・製本こそしないものの、〔改訂第2版〕と同様、印刷物の版下 として通用する紙面を目標に制作した。

第 三に、そうした意図を実現するツールの扱いに慣れてきたこと。私は《吉岡実の詩の世界》を初めはAdobe GoLiveでオーサリングしていたが、現在はフリーソフトのKompoZerで作業している。KompoZerはわがサイトにはまず申し分なく、高価な 市販ソフトの必要を認めない。しかし、私にとって印刷物はウェブページほどシンプルではない。《吉岡実全詩篇標題索引》初版は、Macintoshのワー ドプロセッサEGWORDで組み、LaserWriterでプリントアウトしたものを縮小して、両面コピーした。本文はリュウミンと中ゴシックの和文2書 体で、淡緑の本文用紙のA版6部本など、いま見てもそれなりに美しい。〔改訂第2版〕には制作環境のクレジットがないが、Adobe PageMakerで組んで、こちらは軽印刷した。いずれにしても、いまの私に〔改訂第2版〕と同等の効果をウェブページで上げることは不可能である。

InDesign の機能を習得する意味も兼ねて、《吉岡実の全詩業》に先だって《吉岡実全詩集》の再現を部分的に試みた。活版印刷最後の大冊と謳われたこの書物の組版から 学ぶべき点は多い。使用活字の選択と組体裁。標題や題辞・詞書まわりの行ドリと行間、それらがページの最後に来たときの処理方法。詩句の本文では《薬玉》 詩型の階段状の字下げ(とりわけ括弧類を含むときの調整方法)。今回、本文書体に選んだ小塚明朝体で表示できないUnicodeの漢字(これは未解決で、 書体をMingLiU-ExBやPMingLiUに変えて仮置きしてある)。ときに、《眼の冒険――デザインの道具箱》(紀伊國屋書店、2005)の著者 としても知られるグラフィックデザイナーの松田行正さんは、〈文字組み=アイデンティティ〉で次のように語っている。
それからあらゆる雑誌を買ってきて、一週間集中して細かく研究しました。当時、木村裕治さんが担当されていた 『ハイファッショ ン』は気になる雑誌でした。でも、真似ようとしても真似られない壁があったんです。だから、どういう書体が使われていて、どういう組み方がされているかと か、流行のレイアウトや文字組みはどんなものなのかとか徹底的に研究していったんです。一つ何かをつかめばハードルはぐっと下がる。この作業はやっておい てよかったなと、今でも思いますね。(樋口泰行・中屋真紀《Adobe InDesign 文字組みの基本と実践》、誠文堂新光社、2010年1月29日、二九〜三〇ページ)
私にとっての 組版の研究は、分析と考察だけでは不充分だ。実際に組んで、指定したものがどのように組みあがるか実見しないと、最も重要な部分はみえてこない。細部の違 いがはたして全体にどのような変容をもたらすか。生成の現場に立ちあうとは、それを見すえることにほかならない。吉岡実詩の本文の校異――詩句の一字一字 を照合して原稿や印刷物の状態を分析し考察すること――もまったく同じだ。吉岡は詩篇を執筆するだけでなく、《液体》を除くすべての単行詩集の本文を著者 として制作者として校正し、(《ポール・クレーの食卓》以外の)全単行詩集の本文組を指定し、さらには造本装丁した。目に見えるすべてを指定して、12冊 の詩集をつくった。詩人・装丁家吉岡実の作品の研究とは、その総体を相手どることだと片時も忘れてはならない。

  2012年11月30日
小林一郎
 《吉岡実全詩篇標題索 引〔改訂第3版〕》 2012/11/30  【PDFファイル】 846KB

《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第3版〕》 小林一郎編纂、文藝空間刊。 A5判・本文64ページ横組・2色刷。索引例言、詩篇目録、索引本文〔全286篇(筑摩書房版《吉岡実全詩集》未収録の5篇を追補)の詩篇番号・詩篇標 題・副題・よみがな・全詩集掲載ノンブル、詩篇本文冒頭1行、詩篇節数・詩句の本文行数・初出媒体の詳細情報・初収録単行詩集あるいは変改吸収した詩篇、 備考〕、索引覚書を掲載。(2012年11月30日、PDFファイル公開)

〔付記〕
奥付の表示だが、現時点では以下の「〔……〕」が未定もしくは個人情報のため掲示しない項目である。印刷物として刊行する際には正式に記載することになろ う。

吉岡実全詩篇標題索引〔改訂 第3版〕

1995年5月31日    初版限定36部(A版6部・B版30部)発行
2000年12月31日 〔改訂第2版〕限定120部(A版20部・B版100部)発行
2012年11月30日 〔改訂第3版〕PDFファイル公開

頒 価    〔……〕円(税別)
編纂者    小林一郎(こばやし・いちろう)
発行所    文藝空間
    〔…(住所)…〕
    郵便番号 〔……〕
    電話番号 〔……〕
    郵便振替 〔……〕
組 版    もろだけんじ(トリウム商會)
出 力    トリウム商會
装 丁    もろだけんじ(トリウム商會)
版 画    小林一郎

――――――――――――――――――――

◎本書の仕様
A5判正寸(210×148mm)・左開き横組・本文64ページ2色(スミ・特色アカ)・表紙4ページ4色
◎Adobe InDesign CS6の設定
[索引]
・本文=小塚明朝 Pro R(漢字・仮名・約物 11Q)+Adobe Caslon Pro Regular(英字・アラビア数字 11Q 文字垂直・水平比率各105%) 字送り11H 行送り17H 42字詰め42行 天地/左右中央 段落先 頭・折り返し字下げなし/行末約物半角/ぶら下げなし/行中の句点は全角ドリ/調整最小値四分
・ノンブル(ノド寄せ)=Adobe Caslon Pro Regular 14Q
・柱(小口から13H下げ)=Adobe Caslon Pro Regular+小塚明朝 Pro R 13Q
・見出し(2行ドリ)=小塚明朝 Pro M 16Q
・中扉(2行ドリ)=小塚明朝 Pro M(C15+M100+Y100〔特色アカ〕) 16Q
[目録(pp.10-16)][奥付裏広告(p.64)
・本文=小塚明朝 Pro R 10Q 字送り10H 行送り16H 46字詰め・24字詰め44行  天アキ16.5mm/左右中央
・見出し(2行ドリ)=小塚明朝 Pro R 11Q


吉岡実詩の変遷あるいは詩語からの脱却(2012年10月31日)

大岡昇平・平野謙・佐々木基一・埴谷雄高・花田清輝が責任編集した《全集・現代文学の発見》の第13巻(學藝書林、1969年2月10 日)は《言語 空間の探検》という勇ましい標題で、私はいまでもときどき手に取る(2004年に「新装版」が出た)。本書は吉岡実《静物》(1955)から(静物/静物 /静物/静物/卵/冬の歌/夏の絵/讃歌/挽歌/寓話/犬の肖像/過去)を抄録している。

《言語空間の探検〔全集・現代文学の発見・第13巻〕》(學藝書林、1969年2月10日)の函と吉岡実「静物」の扉ページ〔装本:粟津潔〕
《言語空間の探検〔全集・現代文学の発見・第13巻〕》(學藝書林、1969年2月10日) の函と吉岡実「静物」の扉ページ〔装本:粟津潔〕

あるとき私はページに目をさらしながら、妙なことに気づいた。一体に吉岡は、自作の詩に振り仮名(野村保惠に依れば「読みが難しいと思 われる漢字に 付けたり、特別な読み方をする漢字・漢字群に付けたり」する)としてのルビは付けない。ところが《言語空間の探検》の《静物》では「燈[あか]り」「咽喉 [のど]」「秤[はかり]」「殷賑[いんしん]」「咽[むせ]び」「夥[おびただ]しい」「希[ねが]われる」「外[はず]れている」「啖[く]う」「跨 [また]いでくる」「涎[よだれ]」「嫣然[えんぜん]」「眦[まなじり]」「殺戮[さつりく]」とある。もっとも「妙なこと」というのは、ルビそのもの ではない。これらの振り仮名は《現代詩集〔現代文学大系67〕》(筑摩書房、1967年12月10日)に収録された《静物》全篇の振り仮名とまったく同じ で、おそらく吉岡は《言語空間の探検》の掲載原稿として《現代詩集》の《静物》を指定したのだろう。再録に際して最新の刊本をテキストにすること自体、な んの不思議もない。私はかつて〈吉岡実詩集《静物》本文校異〉に 「《現代詩集〔現代文学大 系67〕》の《静物》にパラルビを付けたのが誰なのかわからないが、推察するに、〔現代文学大系〕の編集部ではないだろうか。吉岡が用意した本文原稿の難 読漢字に編集部が読みがなを振り、吉岡がそれを了承した、というあたりが実情に近いように思う」と書いたが、今もその考えに変わりはない。「妙なこと」と いうのは、抄録詩篇に「夥[おびただ]しい」(2箇所ある)のほかに「おびただしい」が2箇所あることだ。もちろん、表記の不統一を言いたてたいのではな い。詩句において、語に最もふさわしい表記を追求するのは詩人として当然の営為である。この「夥[おびただ]しい/おびただしい」こそ吉岡実の謂う「詩 語」なのではないか、という点に遅まきながら気づいたのだ。

吉岡  今度全詩集を校正していながら、なん としんどい作品ばかりであるか、と感じたんですよ。詩には或るたのしさがなければいけないんじゃないか、という感じがこの頃してきたんです。われわれの詩 は詩語で書きすぎているんじゃないか、もっと俗ななまなましいものが入ってくる必要があるんじゃないか、そういうものがやはり栄養があるんじゃないだろう か、と。ぼく自身も固いフォルムでなくて、やわらかくなりたい、くだけたいという意識があって、『静かな家』はそういうものになっていると思います。で も、自ずから固くなるかもわからない。天沢君が「軟化」と指摘したのはうまいと思います。
(吉岡実・入沢康夫〔対談〕〈模糊とした世界へ〉、《現代詩手帖》1967年10月号〈特集=吉岡実の世界〉、五四ページ)

問=今後、どんな詩を書いていきたいとお考えですか。
答=『僧侶』などでは一種の詩語を使っていました。今後は、言葉としてはわかりやすく、内容はよくわからないもの、もどかしくてゾッとするもの、俗性をま といつつ高いものができたらと思います。
問=『静かな家』は?
答=それに近いものです。
(高橋睦郎〈吉岡実氏に76の質問〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968年9月1日、一四五ページ)

うかつなことに私はこの「(一種の)詩語」を漢語だとばかり思って、なんの疑問も抱かなかった。もっともそう思わせるだけの理由はあ る。たとえば 《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》の《僧侶》の抄録詩篇を挙げれば(告白/仕事/伝説/僧侶/単純/夏/固形/苦力/聖家族/喪服/感傷/死児)で、こ の、威風あたりを払う漢語の行列が「(一種の)詩語」の誇示でなくてなんだろう。しかし吉岡実の最初の創作が短歌であったことに想いをいたせば、詩語が和 語であることの可能性に気づいてしかるべきだった。用例を挙げよう。

・牧歌(A・10)
歯車が夥しくおちてゆく(第1行)

・ 或る葬曲の断想――〈墓地にて〉(A・23)
午睡は夥しく(第1行)

・ 液体U(A・27)
〔……〕/夥しい両側の皮膚が透かしになりな/〔……〕(第6行)

・ 冬の歌(B・8)
冬の夜明けの夥しい反響のなかに(第40行)

・ 讃歌(B・11)
秋の木の実が夥しい(第23行)

・ 挽歌(B・12)
星のようにおびただしいくらげのしずしずのぼってゆくのを(第13行)

・ 犬の肖像(B・16)
おびただしい犬の排泄のなかで(第38行)

・ 夏(C・10)
夥しい未成年の魚の裸体(第17行)

・ 美しい旅(C・16)
おびただしいナプキンの波(第6詩句)

・ 死児(C・19)
姉が産む夥しい死児の夜の祝祭(第157行)
その夥しい血の闇から(第163行)

・ 果物の終り(D・2)
柔かい曲線のおびただしい泥沼へ(第15行)

・陰画(D・6)
死人のおびただしい口が明瞭に見えぬ(第23詩句)

・ 呪婚歌(D・9)
つかむならば炎える夥しい藁の束(第8行)

・ 巫女――あるいは省察(D・14)
箒のような白髪のおびただしい樹木と(第4行)

・ 寄港(D・19)
夜の波の下のおびただしい繃帯の魚(第27詩句)

・ 不滅の形態(G・16)
打ち付けられた夥しい釘と(第18行)

・ 野(H・21)
青草はおびただしい蛍を生む(第10行)

・ 雞(J・1)
                   夥しく散乱するもの(第36行)

なかでも注目されるのが〈雞〉で、初出時に「散乱するもの」だったのが、《薬玉》では「夥しく散乱するもの」と改められた。初出時の標 題〈にわと り〉が旧字の〈雞〉に変更されたのと同じ方向の手入れであり、「夥しく」が「数多く」では用をなさない。「ぼく自身も固いフォルムでなくて、やわらかくな りたい、くだけたいという意識があって、〔……〕。でも、自ずから固くなるかもわからない」と予想したとおり、吉岡はここぞというときは「詩語」の使用を 躊躇しなかった。おそらく入沢や高橋に語ったころ、すなわち思潮社版《吉岡実詩集》(1967)をまとめることでそれまでの詩業を振りかえったあたりか ら、吉岡は「夥[おびただ]しい/おびただしい」に代表される和語による「(一種の)詩語」の使用を封印して、「多くの」などのより見慣れた/こなれた日 常語で漢語による強面とは別様の効果を出そうとしたのではないか。「言葉としてはわかりやすく、内容はよくわからないもの、もどかしくてゾッとするもの、 俗性をまといつつ高いもの」を目指して。《静かな家》(1968)と《神秘的な時代の詩》(1974)の二詩集にそれらがまったく登場しないのは、いわゆ る詩語を使用しないで詩をつくることがどこまで可能かという、それまでの詩業の観点からすれば果敢な、いなむしろ無謀な試みの結果と受けとることができ る。しかし、詩語の一方的な禁止が必ずしも目指すところの詩をつくることに結びつかないと見るや、吉岡は決然としてそれを翻す。前言は覆されるために存在 する。吉岡実にとって、詩語との関係はそのようなものであったと考えられる。


杢太郎と福永のサフランのスケッチ(2012年9月30日〔2015年12月31日追記・2012年9月30日〕)

吉岡実は若年のころ画家彫刻家を夢見たが、残念ながら今日まで自作の彫刻はもちろん絵画も公開されておらず、吉岡がどのような美術作品 を ものしたかわからない(ただし、拳玉を素材に用いたオブジェはある)。詩人や小説家には絵をよくする者が多く、なかでも植物図譜で知られるのが《百花譜》 (初刊は1979年)の木下杢太郎(1885-1945)と《玩草亭百花譜》(初刊は1981年)の福永武彦(1918-79)である。福永の書名は、自 身の小説《草の花》(1954)にちなんで付けた号と杢太郎の百花譜にあやかっている。吉岡は杢太郎にも福永にも言及していないが、奇しくも二人の百花譜 にサフランが登場する(福永宛の署名の入った詩集《紡錘形》があるというが、未見。【2016年12月31日追記:のちに入手。〈吉岡実と福永武彦〉を参照のこと。】《紡錘形》刊行の直 前、福永は久しぶりの詩〈高みからの眺め〉を《文藝》1962年5月号に発表している)。

木下杢太郎画〈サフラン〉 福永武彦画〈サフラン〉
木下杢太郎画〈サフラン〉 (左):木下杢太郎(前川誠郎編)《新編百花譜百選〔岩波文庫〕》(岩波書店、2007年1月16日)と福永武彦画〈サフラン〉 (右):福永武彦画文集《玩草亭百花譜〔上巻〕》(中央公論社、1981年5月25日)

杢太郎画の対向ページ――木下杢太郎(前川誠郎編)《新編百花譜百選〔岩波文庫〕》(岩波書店、2007年1月16日、一七八ページ) ――の文を引く。なお、872枚の原色版をB4判2冊に収めた初刊《百花譜》の4年後、1983年刊の澤柳大五郎選《百花譜百選》にも74番として〈サフ ラン〉が収録されている。

87  サフラン

昭和廿年三月廿五日 日曜日

  [日記]三月廿五日 日
 朝、庫を少し整理す。〔…〕植物園にまはる。山茱萸とまんさくのみ花をつく、(他に紅白の梅花)。三時過〔…〕来訪。いろ〔くの字点〕悲観的の話をする。
 夜植物四種を写生す(山茱萸、満作、黄水仙、□□[〔空白〕])

東京大空襲の二週間後、杢太郎はなにを想いながら絵筆を走らせたのだろうか。前川誠郎は〈解説〉で「そして三月十日(土)の晩に東京大 空襲というカ タストロフィがくる。本郷西片町の太田家周辺は辛うじて難を免れたが、大学の医局は焼けた。「南山堂、金原、〔ドイツ語出版の〕南江堂皆焼けた。〔本郷〕 警察、区役所もやけた。」このような極限的状況下において植物写生はさすがに無理であって、二月十一日紀元節のせんりょうから三月廿四日の山茱萸[さん しゅゆ]までの四十日間は一枚も画作がない」(同書、二一二〜二一三ページ)と書いている。言うまでもなく、南山堂は吉岡が1934年(昭和9 年)から1938年(昭和13年)まで勤めた医学書の出版社である。
――私の妻の母は1930年(昭和5年)、本所生まれの空襲体験者だが、東 京スカイツリーは見たくないと言っている。戦時中、東武鉄道本社の上空で米軍の爆撃機と一戦を交えた日本軍の飛行機から操縦士が脱出したものの、パラ シュートが開かずそのまま墜落するのを目撃したからだ。近所の人人は、無駄と知りつつ布団を抱えて落下地点へ走ったという。その東武伊勢崎線業平橋駅も (ちなみに吉岡実の生まれは「東京市本所区中ノ郷業平町」)、東京スカイツリーの開業に合わせてとうきょうスカイツリー駅と改称した。――
1979 年3月、木下杢太郎《百花譜》の刊行を記念して丸善で展覧会が聞かれた。福永武彦の夫人貞子は《玩草亭百花譜〔下巻〕》(中央公論社、1981年7月25 日)の〈あとがき〉に「会場の入口近くに、武彦の文章が、大きなパネルになって掲げられていた」(同書、一六七ページ)と書いている。「達意の文字による 短い心覚えを伴つたこれらの写生帖を、一枚また一枚と見て行くとき、私たちは彼がひそかにその命の焔の長くは燃え続きさうにないことを知つて、最後の夢を ここに托して情熱の一切を傾けたのではなかつたのかと、つい想像したくもなるのである」と書いた福永武彦その人が同年夏に亡くなるとは、なんという暗合だ ろう。次に、福永画〈サフラン〉の文字――福永武彦画文集《玩草亭百花譜〔上巻〕》(中央公論社、1981年5月25日、九二ページ)――を起こす。

サフラン Crocus sativus L. (あやめ科)
十月十一日にクローカスとサフランの球根を或は水栽培にし或は庭に植ゑた その中の一つが一昨日庭の隅で開きはじめたので小さな鉢に入れて机上に置いたら 今日はすつかり開き切つたので慌てて寫生する
17/11/1976

雌蕊を薬用やスパイスとして用いるサフランは晩秋に咲くから、この時期のスケッチに登場することになんの不思議もないが、吉岡の詩集 《サフラン摘 み》は1976年9月30日に発行されており、福永はサフランを写生しながら吉岡の新刊を想起しなかっただろうか(吉岡が福永に献本したか定かではない が、中村真一郎は読んでいる)。福永はこの年、筑摩書房から著書こそ出していないものの、萩原朔太郎全集と二度めの中島敦全集(いずれも吉岡実装丁)の内 容見本に推薦文を寄せている。二人の間で直接やりとりはなかっただろうが、晩秋の東京の空のもと、地中海沿岸を原産とする淡い紫色のサフランが花開いた処 を想像すると、心が晴ればれする。

〔2015年12月31日追記・2016年12月31日修正〕
2015年12月下旬、渋谷・宮益坂の中村書店で中村真一郎に宛てた詩集《サフラン摘み》(献呈署名本)を見た。函に経年変化がほとんど見られない極美本 である。ほぼハガキ大のベージュ色のカードにブルーブラックのペン書きで吉岡実自筆のメッセージが記されてある。
「中村眞一郎様/このたび、小生の詩集を推していただきありがとう存じます。遅ればせながら、贈らせていただきます。/〔一九七六年〕十二月二十一日/吉 岡実」
と いう文面で、それとは別に財団法人高見順文学振興会の謹呈用短冊も挟んであった(按ずるに、1976年9月30日の刊行直後には著者の吉岡から高見順賞選 考委員の中村に献本していなかったということか)。同賞の選考対象の詩集がどのように調達されたかわからないが、これは中村真一郎が選考会の当日 (1976年12月20日)、会場(東京・市ヶ谷「萩の宮」)で読んだ一本ではないようだ。吉岡は、中村が「自分の処へは来ていない」とでも言ったのを、 高見順賞の事務方を務めた思潮社の小田久郎さんあたりから聞いたのだろうか。そうした背景まで想像させる興味深い献呈署名本である。ちなみに中村書店の古 書価格は21,600円。

高見順賞選考委員・中村真一郎に献じた詩集《サフラン摘み》に添えられた吉岡実自筆のメッセージカードと財団法人高見順文学振興会の謹呈用短冊
高見順賞選考委員・中村真一郎に献じた詩集《サフラン摘み》に添えられた吉岡実自筆のメッセージカードと財団法人高見順文学振 興会の謹呈用短冊


吉岡実と篠田一士あるいは詩的言語とはなにか(2012年8月31日)

吉岡実の詩を早くから評価した批評家に篠田一士(1927-89)がいる。その最初にして最大の功績は《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959年8月10日)の編および解説だ。篠田の吉岡論で、今日判明している最も早い時期の文章は〈長詩の野心作〉(日本読書新聞、1958年6月30日)だが、これは〈死児〉(C・19)発表直後の時評である(のち新潮社刊《文藝年鑑1959》に再録)。吉岡の詩集《僧侶》が書肆ユリイカから1958年11月に刊行されるや、発行人の伊達得夫が《ユリイカ》1959年1月号に篠田の詩集評を掲載したのは〈死児〉の時評を嘉したからだし、H氏賞受賞の余勢を駆って《吉岡實詩集》に篠田を起用したのは、伊達の采配である(ちなみに、篠田は《僧侶》の出版記念会にも参加している)。《吉岡實詩集》の巻頭に収められた解説〈詩的言語についての三つの断章〉は、ひとつには紙数の制限もあり、篠田の「詩的言語」論を踏まえないと理解しにくい(ここは「断章」などと構えず、本来の篠田らしく滔滔と述べてほしかった)。同文と同じころに執筆された日本の現代詩関連のエッセイを収めた《詩的言語》(晶文社、1968年5月20日)につきながら、そのあたりを探ってみよう。同書の帯文に「茂吉・朔太郎・白秋から戦後詩人に至る言語世界の緊密な解明」とあるように、当時の篠田の主要な関心は近現代詩人の言語の解明にあった。そもそも「詩的言語」は英語のpoetic language(詩的表現)の直訳で、篠田がこれを採用した背景にはそれなりの配慮が働いていたに違いない。「詩的言語」が《詩的言語》に最初に登場するのは〈訳詩糾問〉の次の文においてである。( )内の数字は《詩的言語》の掲載ページノンブル。

 日本の近代詩のヨーロッパ的志向を考えた場合、『海潮音』以下の名訳詩集は、まさにヨーロッパ詩と日本詩のあいだに、不要な、いや、むしろ有害な緩衝地帯をつくりだした。そこでは、ヨーロッパの詩的言語も、日本の詩的言語も無視され、偽りの詩的言語が横行しているのである。(39)

「詩的言語」が、詩的表現ないし詩語や韻文とどう違うのかはわからない。〈訳詩糾問〉の次に置かれたエッセイ〈詩と小説のあいだで〉にはこうある。

〔……〕ヴァレリーによれば、詩はできるかぎり、「現実世界」〔……〕から遠ざかって、日常的な世界とは異質の、別の想像的世界を形成しなければならない――それゆえに、詩的言語は、ひとつひとつの言葉としては、たとえ、日常的平談俗語使うとしても、それが詩作品を構成する瞬間には、もはや日常的な機能を失って、想像的世界に奉仕するというのである。(41-42)

 フローベールとともに、小説は終ったというエリオットも、また詩は終ったというウイルスンも、ともに正確な判断なのだろう。ふたりとも、『ボヴァリー夫人』の作者の裡に、小説の、というよりも文学的世界を構築している詩的言語のcrisisを認識したことは間違いない。(45)

 やはり、ぼくは韻文と散文のあいだ、つまり、詩的言語と小説的言語の挾間に立ってみる必要がある。(46)

すると韻文=「詩的言語」で、散文=小説的言語なのか。どうやら、そうでもないらしい。

 それならば、小説作品がその独創性を誇りうるのはなにか。ぼくはすでに小説的言語という言い方を詩的言語に対比して用いた。そして、さらにぼくは散文と韻文という古典的な対比を一応考慮の外においている。
  小説的言語はつねにふたつの極をもつ。ひとつは日常的な現実世界であり、もうひとつは想像的世界である。ちょうど、楕円の形態がふたつの中心点の距離によって決定されるように、小説的言語はこのふたつの極への牽引を意識しながら、実に多様な小説作品を生みだしてきた。もう一度たとえてみるならば、異った焦点をもつ、ふたつの鏡の照明によって、はじめてその全貌を明らかにする物体のように、現実世界と想像世界の両方から照射を受けて、ようやく文学性を獲得しうるのだ。従って小説的言語はこのふたつの極との関連をつねに保持しないかぎり、その機能を見失うことになる。
 これに対して、詩的言語はいくら卑俗な日常性をもつ言語をもちいても、かならず、それは現実世界に背を向けて、まっしぐらに想像的世界を目指す。ここでは一定方向をもつ直線図形がえがかれるのだ。(48)

ここでようやく「詩的言語」の定義らしいものが登場する。「いくら卑俗な日常性をもつ言語をもちいても、かならず、それは現実世界に背を向けて、まっしぐらに想像的世界を目指す」――これはわかる。しかし、小説的言語の楕円の形態が直前に提示されているため、「詩的言語」が円[、]ではなくて「一定方向をもつ直線図形」だと書かれても理解は追いつかない。さらに篠田は「小説的言語とはレシである」(50)と断定する。

 レシはひとつの運動である。それは、たとえていえば無窮動のように、無限の彼方から無限の彼方へと運行してゆく。この流れによる律動感こそ、レシのレシたる本質だといっていい。
 もちろん、レシは言葉で書かれる。それは少くとも外観上は、ぼくたちが日常的な場において用いる言葉となんら変りはない。従って日常的な言葉同様に、かならず意味をもつ。つまり、記号としての職分を果しうるのである。しかし、その言葉がひとたびレシの流れのなかに身を投ずると、そこには、日常的なものと峻別しうる言語的世界が生れる。だが、小説的言語は現実世界から離脱することは許されない。当然意味の重荷を背負わざるをえない。幸いなことに、言語的世界は多義を認める。詩的言語の世界も、もちろん多義的ではあるが、そこでは多義性はひとつの過渡的な段階なのだ。多義の局面をすぎて、詩作品はひとしなみに意味をもたない瞬間を実現する。(51)

末尾の「〔詩的言語の世界においては〕多義の局面をすぎて、詩作品はひとしなみに意味をもたない瞬間を実現する」はおそらく先の「一定方向をもつ直線図形」に対応するのだろうが、その説明をこそ主たる内容とするのがこのエッセイの眼目ではなかったのか。だが、その説明は読者には与えられない。〈詩と小説のあいだで〉は次に引く段落で唐突に終わる。

 結論を書こう。小説が多義性をもつかぎり、言いかえれば、ふたつの極を見失わないかぎり、小説は滅びもしなければ、変貌することもない。あるいは、詩を吸収消化するなどということができるはずもない。そして、ふたつの極の連結を保証し、小説作品を作品たらしめるのは、つねにレシの運動である。(51)

小説と小説的言語については一応了解できたとして、詩と「詩的言語」については篠田だけが納得して、読者は「詩作品はひとしなみに意味をもたない瞬間を実現する」とはなんなのか、手掛かりすら与えられずに放りだされる。そもそも「大人も子供もひとしなみに〔=同列に〕扱う」が本来の用法であるように、「〔レシと〕詩作品はひとしなみに意味をもたない瞬間を実現する」という具合に、小説なり小説的言語なりレシなりを補って読もうとすると、それらは多義的ではあっても、詩作品がそうであるように「多義の局面をすぎて、〔……〕意味をもたない」のではない、と規定されている(まさか「多義の局面をすぎて、詩作品は〔多義の局面と〕ひとしなみに意味をもたない瞬間を実現する」などといいたいのではなかろう)。用語の選択と用法自体が篠田の論旨を裏切る。読者の頭のなかでは、篠田がものしたエッセイという乗り物に乗ってどこかへ移動しようとするたびに、進行方向に立ちふさがるなにものかに衝突する。結論を書こう。篠田はここ(〈詩と小説のあいだで〉)で小説的言語の説明(解読ではない)には成功したが、「詩的言語」の解読はもちろんその説明にも失敗した。

 たとえば、吉岡実の詩作品をまえにして、ここには連歌に通ずる連想の詩的効果があるなどときいたようなことを言う似非ペダンチスムが若い前衛詩人のあいだで流行しているらしいが、いったいどういうつもりなのだろうか。なるほど連歌にはきわめて自由なイメージの連想操作が認められることはたしかかもしれないが、連歌の連歌たるゆえんはそんなイメージといった曖昧なものにあるのではない。ぼくには連歌が達成した究極の詩的成果をどうしても高く評価できないが、連歌の独創性があるとすれば、すでに生命の末期症状にきた短歌の詩的言語のいっさいをあの複雑にして煩瑣な約束事という外的なものにしばりつけることによって、その衰弱をかろうじて防ぎとめたことではないか。だが、そのために言語の内面と外界のバランスはくずれ去り、詩的言語としては十全を欠くようにみえる。吉岡の場合は事情はまったく対照的だ。彼の詩的言語の由来をもとめるとすれば、どうしても一九三〇年前後の、あのいまとなっては錯乱的とよぶしかない詩的言語の実験にまでさかのぼらなければならぬ。それは言語のひとつの形式の大壊滅の直後にやってきた。形式への信頼はあったが、形式そのものはまだ生れえない。だが新しい形式への予感はみなぎっている。勢い、形式は抽象となり、概念となって詩人たちの頭脳を支配し、彼らの紡ぎだす詩的言語は外界を見失なって、ひたすら内へ向うより道はなかった。内面をみつめるしかない言語はちょうどバベルの塔の工人たちのそれのように、ついには言語そのものを否認し、見失なうことになるのは当然の道行きだろう。だが、吉岡はこの、あまりに内面的で、錯乱的な言語のなかに今日の日本の詩の未来を読みとり、おのれの詩を賭けた。
 連歌の詩人たちが詩的言語の保持をその言語の外的条件にひたすら託しているのに対して、吉岡は彼の放埓な言語に形式を与えるためにはその内面に拠るしかないのである。そして吉岡は見事にその苦役に堪えつづけ、彼自身の、そして同時にぼくたちの新しい詩的言語の形式を創りだしつつある。イメージの連想操作などというようなことをいってみても、所詮吉岡の不抜の言語の表皮をなでるにすぎない。
 吉岡の詩と連歌の類比は好事家の閑つぶしにはふさわしいトピックかもしれないが、日本の詩の現状についてはいささかも開明するところはない。(100-101)

本書U部の〈白秋瞥見〉(初出は《短歌》1964年4月号)に挿まれた、「詩的言語」を梃子に吉岡実を論じた件である。篠田は《吉岡實詩集》の解説をこの調子でいくべきだった。いやむしろ、〈詩的言語についての三つの断章〉への不満がこの白秋論に数十行の吉岡論を混入させることなったという方が正しいか。篠田は後年、その名も〈詩的言語――入沢康夫を手がかりに〉(初出は《講座 文学〔第3巻〕》、岩波書店、1976年2月)を書いて、吉岡実論〈詩人の運動神経について〉(初出は《文學界》1977年8月号)などとともに、《詩的言語》に続く詩論集《現代詩髄脳》に収めている。われわれは〈断章〉と同時に、あるいはそのまえに同文につかなければ、篠田の吉岡論の中核となる「詩的言語」という概念についての理解が得られないのだ。すなわち〈詩的言語――入沢康夫を手がかりに〉の次の一節は、単行本《詩的言語》の冒頭に据えられてしかるべき言説だった。

 詩作品における言葉の機能を、それがたえず喚起するポエジーの興奮のさなかに身をおいて、追駆してゆけば、結局、言葉のひとつひとつが持っている日常性からの離脱、そして、作品を読みおわり、さらに、その作品全体を読みかえしてみるとき、そこに用いられた言葉の群れは、たがいに、あるいは折れ重なり、あるいは引き離れながら、ひとつの小宇宙を形づくって、われわれの日常的なせせこましい場に対して、劃然たる屹立性を誇示するのである。こうした自律性と屹立性を、どういう言い方で表現すればいいのか、それがぼくの腐心するところだった。
 日本語のありがたさで、かりに詩における言葉という言い方をしても、それは単数にもなれば、複数にもなる。それはそれでいい。詩語と言えば、一語、あるいは、二、三語の結合体でしかないが、詩の言葉ならば、もっと流動的な拡がりをもって、作品を構成する全部の言葉をも包含しうるのである。しかし、その言葉の群れが、たえず自律性を保持しながら、その総体において、日常的な場への屹立性を内に秘めている事情を指示しないまでも、せめて暗示でもしてくれるには、詩の言葉では、あまりにも弱々しい。どうしても、新しい用語を考えるしかない。こうして、やっとの思いで、ぼくは詩的言語という文字を書きはじめた。生硬は覚悟の上だったが、いまも、なお、その無様な感覚ゆえに、この言い方はできるかぎり慎むようにしている。
 ついでに、もうひとつ打明け話を補足しておくならば、詩的言語という言い方を使おうとしたとき、陰の擁護者というか、使嗾の役割をしてくれたのはpoetic languageという英語だった。この言い方も新しい用法で、もともとは日本語の「詩語」に当るpoetic dictionという言葉が十九世紀初頭のロマン派勃興以降徐々にすたれ、今世紀に入って自由詩型の確立とともに、完全な廃語になったのと時を同じくして、登場したものである。つまり、一九三〇年あたりから、ぼつぼつ口にされ、文字になってきた英語で、今日でも辞典には正式に採用されていない。なかなか厄介で、複雑をはらんでいる語法である。
 話を手短に端折って言えば、poetic languageなり、あるいは、そのあと二十年ぐらいして追っかけるようにして出てきたlang[u]age poetiqueというフランス語にしても、また、当面の問題である「詩的言語」という日本語にしても、それぞれの言語における多少の生硬な違和感をかきたてながらも、ほかに、これといったより適切な言葉もないまま、文学用語として活用されているのは、自由詩型を主体とする現代詩がひろく行われているためである。つまり、この現代詩を味わい、その魅力をわれひとともに説きあかすためには、どうしても「詩的言語」という言葉が、一番ふさわしいからである。(《現代詩髄脳》、集英社、1982年2月10日、一〇六〜一〇七ページ)

ちなみに「詩的言語」なる言いまわしは、吉岡実の詩はもちろん、文章にも談話にも出てこない。


吉岡実と骨董書画(2012年7月31日)

吉岡実は永田耕衣の詩(この場合、俳句)書画を愛したのはもちろんだが、小澤實さんが「ふたりとも李朝の水滴など美術が好きだったことも、うまがあった理由かもしれないとも思っています」というとおり、骨董を愛好する点でも深くつながっていた。吉岡が耕衣に宛てた1987年6月10日付書簡に「「永田耕衣の日」から、丁度一ケ月になりますね。もうお疲れもとれたことと思います。当夜、耕衣独演と大野一雄独舞が、白眉でした。翌日、元町画廊でお別れしてから、鈴木一民とエリック・セランドをつれて、京都へ出たのです。天下一品の餃子屋aaで、高瀬川の流れを眺めながら、ビールと餃子を食べ、近くのフランソワでしばし小憩。祇園一力茶屋の辺りを歩き小さな骨董屋を覗いたものです。奥の座敷の畳にころがっている、ゴムマリほどの鉄製の真黒な鈴を見つけました。鈴口がまるで、鯰の口のようになっていて、愛玩できそうなので求めました。一応、室町時代のものとのことですが、どんなものでしょうか。今度の旅のよき思い出として、大切にするつもりです」(〈青葉台つうしん〉、《琴座》428号、1987年7月、六ページ)とある。この「鈴口がまるで、鯰の口のようになっていて」という処がすばらしい。しかし吉岡実と骨董をいうなら、なにを措いても城戸朱理の〈骨董〉につかなければならない。

 〔……〕購われるか、贈られるかして吉岡家に運び込まれたらしい骨董は、李朝の奠雁、李朝石仏、弥生土器、古丹波の甕、李朝民画の虎図、李朝の虎の瑠璃香炉、北大路魯山人作織部灰皿などである。また、好ましく思われたとおぼしきが、宋白磁合子、白隠の書画、李朝の匙、河井寛次郎の初期から中期にかけての作品のいくつか、そして円空仏など。ただし、魯山人作織部灰皿は義父、和田芳恵の遺品であるので、本人が求めたのは、おおむね李朝のものばかりということになる。しかも、李朝では白衣の人々による儒教的な倫理観の反映として白磁ばかりが作られたというのに、彼が魅せられたらしいのが、木工品や石仏、民画など明らかに傍流のものばかりであること、さらには所蔵の李朝の焼き物としてただひとつだけ現れるのが、白磁ではなしに瑠璃香炉、呉須を刷いた、おそらくは鮮やかな青の、そして李朝という時代のなかでは、どちらかと言うと珍しく稀少な品であるはずの小品だけというのは、やはり奇妙なことであるだろう。柳宗悦が、民族の「哀しみの色」と呼んだ「白」に吉岡実は反応しなかったのであろうか?(《吉岡実の肖像》、ジャプラン、2004年4月15日、一〇六〜一〇七ページ)

さらに、吉岡実にとって骨董はなんだったかという自問に対しては、

 実際にお付き合いしている間に、吉岡さんから骨董を買った話は、思い出話を別にして、一度しか聞くことがなかった。それは吟蝉で、蝉を模した玉[ぎょく]。殷から漢のころまで、死者を葬うときに口に含ませたものらしいが、その風習自体に関心を覚えた吉岡さんは、吟蝉という言葉自体も自らの詩のなかで使っている。日本橋を歩いているときに、とある古美術店で偶然に見かけ、その場で購ったのだという。かすかに、上代の金彩の痕を留めているという、その玉のことを語りながら、吉岡さんはいささか得意気であったが、これは骨董買いをする人間なら誰でも同じようなものであるから、吉岡さんの入手された吟蝉がことさらに貴重なものだというようなことを意味するわけではない。/だが、上代から今日に至るまで、中国では珍重されつつも、日本では受容されることのなかった「玉」に吉岡実が惹かれたということは、いささか象徴的である。玉の吟蝉、「ゆるやかなふくらみ」を持つ奠雁、金井美恵子が「丸い頭と小さな胴体を持つ石像」と語る李朝石仏‥‥張力を有する表面、あるいは、むっくり[、、、、]としたもの。/おそらく、そうであるならば、吉岡実にとってそれが白磁である必要はなかったのだ。彼が李朝のものを好んだのは、「衰弱の形式」(青山二郎)としての李朝期のものが持つ完璧ではない丸さへの偏執からではなかったのか。(同前、一〇九〜一一〇ページ)

と推定している。私は骨董に暗くて、この推定の可否を論じることはできない。ただ、ひとつだけ疑問に思う点がある。「吟蝉」についてである。城戸朱理に比較して吉岡実と面談する機会のはるかに少なかった私も、おそらく同じころに、骨董を買った話をうかがったことがある。〈吉岡実との談話(1)〉から、1989年5月4日の談話メモを引く。
――「東洋古美術の甍堂で金蚕を見つけたのが、近ごろ嬉しかった。黒くてリアルなんだ。店の主人は鉄製と言ったけど、手に金粉が付いてきたから金蚕だろう。金蚕は、石田英一郎《桃太郎の母》で読んだだけ。小澤實氏と入った店で、高橋睦郎氏が別のを。」
面談のとき、金蚕と言われても私には判らなかった。知らないとはっきり言ったのがよかったのかもしれない。吉岡さんは素人相手にこまやかな説明をしてくれた。それが上掲城戸文と同じものを指すのだとすれば、「金蚕[きんさん]」であって、「吟蝉[ぎんせん]」ではない。吉岡実詩に金蚕は登場するが(〈青海波〉J・19)、吟蝉は登場しないことも傍証になるだろう。一方で吉岡は、骨董というよりも古美術といったほうがいい書画について、随想を残している。

「雅」という茶褐色の表紙の図録一冊が、わが家に届いた。それは、瀬津雅陶堂が、一代の茶人益田孝の鍾愛の旧蔵品を、折々に展示し、その遺徳を偲んでの行事であるらしい。これは第四回目の催の図録である。鈍翁の蒐集品は、天平、平安期の仏教美術、絵巻説話画、茶器、金工品、宗達光琳派の作品、古筆、墨蹟から、大和古墳出土品まで、膨大なものだそうだ。(ちなみに、昨年の夏、白崎秀雄『鈍翁・益田孝』が刊行された。渇望久しいものなので、一気に読み感銘した。)(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三四四ページ)

随想〈徽宗皇帝「猫図」〉(初出は《目の眼》1982年7月号)の一節である。引用文からはわかりにくいが、この図録(というにはあまりに立派で、図版貼り込みからは美術書の風格さえただよってくる)、〔瀬津巖編〕《雅――益田鈍翁》(瀬津雅陶堂、1980年10月1日)に伝徽宗皇帝筆の〈猫図〉が掲載されている。吉岡は「さて、「猫図」であるが、一瞬、私は霊気にうたれる思いであった。衛藤駿解説によると、「額のまるい斑点と尻尾のみが黒い白猫が、背をまるめ、銀の眼を見ひらいて踊る。ただそれだけの絵であるが、悠揚たる気品がただよい、大自然の神韻を聴く想いがする。」とある。私には、実物の色彩も、その大きさもわからない。ただ天地は暗く、宇宙の中心に神秘的な白い球体が存在し、呼吸しているのだ。物理的な大きさなど、どうでもよい。まさに、「大自然の神韻を聴く」と言ってもよく、大自然そのものの「生命」に触れた、と言っても間違いではないだろう。凡百の猫の絵は、この前では消滅するかもしれない。/私もいつの日か、この「猫図」を拝みたいものだと、願っている」(同前、三四四〜三四五ページ)と続けている。ポール・デイヴィスのアクリル画〈猫とリンゴ〉(1977)を所蔵していた詩人の面目躍如たるものがある。

〔瀬津巖編〕《雅――益田鈍翁》(瀬津雅陶堂、1980年10月1日)の表紙 〔瀬津巖編〕《雅――益田鈍翁》(瀬津雅陶堂、1980年10月1日)掲載の伝徽宗皇帝筆の〈猫図〉
〔瀬津巖編〕《雅――益田鈍翁》(瀬津雅陶堂、1980年10月1日)の表紙(左)と同書掲載の伝徽宗皇帝筆の〈猫図〉(右)

引用文中の「衛藤駿解説」が《雅――益田鈍翁》に見えないのは一体どうしたことだろう。たしかに巻頭の瀬津巖〈ごあいさつ〉に続いて、衛藤の紹介文〈益田鈍翁――その茶美の境地〉が収められていて、そこには吉岡が随想に書いた典拠の文、すなわち「鈍翁の蒐集品は、当時にあってほとんど顧みられることのなかった大和古墳出土の考古学的遺品をはじめ、天平、平安期の佛教美術、絵巻説話画、名物ものの茶器、蒔絵、金工品、宗達光琳派の諸作品、古筆、禅林墨蹟、さらには中国漢代楽浪[らくろう]の発掘品、宋元画、古代オリエントの遺物におよんでいる」(同書、〔七ページ〕)はあるものの、解説に相当する文章はおろか、徽宗皇帝も〈猫図〉も出てこない。吉岡は衛藤の〈猫図〉の解説をどこで読んだのだろうか。謎である。さて、その〈猫図〉に触れた近年の文章に、竹田博志〈徽宗皇帝――風流天子の素顔〉がある。

 それにしても、この猫はただ者ではない。画面からひしと伝わってくる恐ろしいまでの存在感・エライ猫――伝徽宗皇帝筆といわれるこの猫は、「皇帝の猫」でもあろうが「猫の皇帝」なのだ。そんな気がする。
 実作者の立場からこの絵をたたえるのは、中国の宋元画を画業の師表の一つとしている日本画家の小泉淳作氏。
 「実物をよく見ると、一本一本の毛を実に丹念に見事に描いている。大変な描写力。あたりを払うような強烈な威厳が備わり、絵のまわりには、見る者に有無を言わさぬ神妙な空気が漂っている」
 〔……〕
  この猫は、大正七年の徳川侯爵家の売り立て目録に、水戸家蔵品「麝香猫[じやこうねこ]」として載っている。その後、近代日本の代表的数寄者で大コレクターの益田鈍翁の秘蔵するところとなった(鈍翁の古美術収集をめぐる好敵手の明治の元勲、井上馨は、先にとりあげた徽宗皇帝筆「桃鳩図」を所持し、それが大の自慢だった)。(日本経済新聞社編《美の巨人たち――天才、その華麗なる懊悩》、日本経済新聞社、2000年4月21日、一九八ページ)

〈猫図〉(宋時代 絹本着色 22.8×27.2cm 個人蔵)もカラー図版で同書に収められている。頭蓋に対して、胴体が異様に大きくて(どう見ても、体毛がふっくらしているためとは思えない)、なんとも不気味な皇帝猫である。吉岡は先に引用した〈徽宗皇帝「猫図」〉の前の処でこう書いている。「或る時、画家の中西夏之と、絵の話などをしていたら、「近ごろ、あんなに衝撃をうけた絵はなかった」と言った。その絵とは、伝徽宗皇帝筆の「猫図」であるとのことだった。古画の世界のことを、私はとくに知っているわけではない。だから、徽宗といえば「桃鳩図」と思っていたから、「猫図」がこの世に存在すると聞いて、心から驚いたものだ。画家は近いうちに、「猫図」の掲載された図録を探し出して送ると約束してくれた」(《「死児」という絵〔増補版〕》、三四四ページ)そうだから、これが前掲の《雅》なのだろう。日本に伝存する唯一の徽宗真筆とされる〈桃鳩図〉に較べて知られていない〈猫図〉だが、吉岡ならずともこの「猫の皇帝」を拝みたくなるではないか。


宮柊二歌集《山西省》と長谷川素逝句集《砲車》のこと(2012年6月30日)

吉岡実・加藤郁乎・那珂太郎・飯島耕一・吉増剛造の座談会〈悪しき時を生きる現代の詩――座談形式による特集〈今日の歌・現代の詩〉〉 (《短歌》 1975年2月号)の〈現代の歌人とその周辺〉という節で、加藤郁乎は「釈迢空の『古代感愛集』もよかったけれども、そんなものできかない」と前登志夫を 「現代短歌のトップ」と呼んで絶賛している。それを受けて吉岡実は「読みたいね。彼の歌集というのは手に入んないのね。〔……〕歌人前登志夫を知らないわ けね、ぼくたちは、それでたまたまそういう歌集がうまく手に入らなくてね。ぜひ読みたいね」と応じている。そのあと、飯島耕一が成瀬有の〈雨季〉五十首を 称賛すると、吉岡は新人の短歌には触れずに、こう切り出す。

吉岡  宮柊二さんの『山西省』でしたか、あ れ読むと、やっぱり戦争文学の一つの極致だと思うよ。戦争文学、いろいろあるでしょ。小説もあったり、記録もあったり、俳句もあるかな……長谷川素逝だと か、若干あると思うけどね。やはり宮さんのこれは傑作だね。おそるべき歌集だと思うんだよ。ぜひ読んで欲しいですね。(同誌、七五ページ)

注目すべき発言である。加藤・飯島が現代歌人について思いつくまま語っているのに対して、吉岡は宮柊二(1912-86)の《山西省》 を「戦争文学 の一つの極致だ」と称揚しているからだ。《現代短歌全集10〔昭和21年〜24年〕》(筑摩書房、1980年6月25日)には《山西省》が全篇収録されて いる。小口信治によるその書誌を引けば「『山西省[さ んしいしよ う]』 第三歌集。昭和二四年六月二〇日、古径社発行。定価二〇〇円。体裁・B6判紙装、カバー有。「序」(エピグラム)一丁、目次六頁、本文一八〇頁、 「後記」五頁、「続後記」一一頁、正誤表有。五号活字一頁三首組。歌数三七四首」(同書、四七八ページ)である。座談会のあった1975年当時、平野謙・ 大岡昇平・安岡章太郎・開高健・江藤淳編《戦争文学全集〔別巻〕》(毎日新聞社、1972)には〈山西省 抄〉が収録されているが、《山西省》の完本は初刊以外、まだなかったようだ。吉岡が読んだのもおそらく初刊だろう。それなら、吉岡が話頭を転じたのは唐突 でもなんでもなくて、前登志夫の歌集が手に入りにくい――手に入りにくいがぜひ読みたい――ぜひ読んでほしい手に入りにくい歌集に《山西省》がある――と いうように連想の糸が一本通っていたともいえる。なお、高野公彦の《宮柊二集1》(岩波書店、1989)の〈後記〉には、1949年4月15日に500部 限定出版、普及版も同年6月20日に同社から刊行された、とある。吉岡発言に戻れば、戦争文学に該当する歌集はなにも《山西省》に限らない。ここは「ぜひ 読んで欲しい」に力点を置いた選書と考えるべきだ(吉岡はこの座談会以外で宮柊二に触れていない)。《現代短歌全集》で《山西省》を読んでみよう(詞書、 ルビは割愛した)。

文庫本万葉集を秘めてきぬ装具はづして背嚢を探る

まどろめば胸どに熱く迫り来て面影二つ父母よさらば

春聯の朱おとろへし門潜り欄に竜の昏き鱗見つ

おほかたは言挙ぐるなくひたぶるに戦ひ死にき幾人の友

おんどるのあたたかきうへに一夜寝て又のぼるべし西東の山

石家庄をしきり南下する匪隊あり青便衣にして騎隊を混ゆと

鞍傷に朝の青蠅を集らせて砲架の馬の口の草液

暗谷に昨夜墜ちゆきし馬思へば朝光ぬちに寄り合ひし馬

ほとんどに面変しつつわが部隊屍馬ありて腐れし磧も越ゆ

氷雨に一夜ありきし山西のあかつきあけて雲灼くる道

哀しみは永久にしあらむ夕ぐれの杏に紅き光は満ちて

朝に夕に白秋先生偲びつつ三年は過ぎぬ寒き大陸に

麻畠に沿ひて過ぎをり毛を刈りて涼しくなれる緬羊の群

静かなる悲しみ盈ちぬ石庭に冷やき五月の光射しつつ

高原の空近けれや夕焼けの寒き茜に兵は染みつつ

目の下の磧右岸に林あり或る時は雨降り或る時は没陽射す

棗の葉しみみに照れば雨過ぎて驢馬と庭鳥と一所に遊ぶ

一斉に進入せり弾雨下を後続衛生輜重通信部隊

陽を覆ふ黄塵厚し馬も人もつらなりゆきつつ声も立てなく

一日荒れし風の名残に紅の雲ひかりつつ夕ベあかるし

この夕べこころがけたる色分けの支那地質図を壁に貼りつつ

宵よりぞ二重の窓をしむるゆゑ寒ききさらぎの月も仰がず

しきりなく朝けの空ゆ散らひつつ乾きし雪のおどろに積る

夕べより青みどろなす空のいろうつそみ響く青きそのいろ

戦を苦しかりきと言はねどもおもひに入れば涙溜るを

ある夜半に目覚めつつをり畳敷きしこの部屋は山西の黍畑にあらず

大森に支那蕎麦屋なす君が嬬地図にたどりて今日尋ねゆく

戦場に起き伏しし日と夜のものに身を裹む今日とすでにすでに異ふ

前掲《戦争文学全集〔別巻〕》は、小説や戯曲、短歌・俳句のほか、日記や軍歌、漫画(田河水泡《のらくろ》)などを収録している。以下 に俳句の目次 を掲げる。ほとんどが抄録のなかにあって、《日清戦争》(「新聞『日本』俳句欄より」と註記されているから、これ自体、抄出である)と、吉岡が触れた長谷 川素逝句集《砲車》(三省堂、1939)のふたつだけは「抄」となっていない。

  1. 寒山落木 俳句稿 正岡子規
  2. 《日清戦争》 肋骨 他
  3. 戦争俳句 瀬川疎山編
  4. 砲車 長谷川素逝
  5. 日野草城句集 日野草城
  6. 旗薄 清水清山
  7. 旗 西東三鬼
  8. 行人裡 石田波郷
  9. 現代俳句 横山白虹
  10. 万緑 中村草田男
  11. 加藤楸邨俳句集 加藤楸邨
  12. 陣火 本田功
  13. 北方兵団 片山桃史
  14. 街 東京三
  15. 支那事変句集 西村鏡月 他
  16. 白嶽 飯田蛇笏
  17. 聖戦俳句集 山口誓子
  18. 加藤楸邨俳句集 加藤楸邨
  19. 月下の俘虜 平畑静塔
  20. 寒雷 金子兜太
  21. 大東亜戦争 第一俳句集 吉田冬葉編
  22. 聖戦俳句集 田村木国編

長谷川素逝(1907-46)の《砲車》には次のような句が見える。《増補 現代俳句大系〔第3巻〕昭和13年〜昭和15年》(角川書店、1981)では、高浜虚子による同句集の〈序〉や森澄雄の〈作品解説〉が素逝の句を引いてい るが、あえてそれには目を瞑り、輜重兵だった吉岡実との関連で選んだ。

わが馬をうづむと兵ら枯野掘る

凍る夜は馬より下りてあるくなり

南京城内にして鳥の巣のかかる樹を

馬ゆかず雪はおもてをたたくなり

むし暑く馬のにほひの貨車でゆく

輜重らの汗砲弾の箱を割る

おくれつつかをりやんの中に下痢する兵

コレラ怖ぢ土民コレラの汚物と住む

てつかぶと月にひかると歩哨に言ふ

――わたしも二十二歳で、満洲へ出征して、忍苦の兵隊生活を、ほぼ五ヵ年に亘ってすごした。そのなかでわずかに、日記一冊と詩一冊の ノートを残した ものだが、短歌や俳句も若干つくった。記憶にのこるのは、次のただ一句である。「鳥の巣のわづかに見えて冬木立」。(〈高柳重信・散らし書き〉、《「死 児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一二二ページ)


吉岡実と横光利一(2012年5月31日)

吉岡実は横光利一について多くを語っていない。残された断片的な証言は、随想〈読書遍歴〉における「そのほか、漱石の「心」、龍之介の 短篇、とりわ け「藪の中」、荷風の「おかめ笹」、潤一郎の「春琴抄」、康成の「雪国」、利一の「機械」など特に好きな小説であった」(《「死児」という絵〔増補 版〕》、筑摩書房、1988、五六ページ)だったり、《うまやはし日記》における「〔昭和十四年(一九三九)〕六月二十六日/『機械』再読」や「七月二十 四日/仮寝のあと、『日輪』を読む。華麗な文章に酔う」(同書、書肆山田、1990、五三ページ・六〇ページ)だったり、〈断片・日記抄〉における「〔昭 和二十一年〕三月二十四日 〔……〕横光利一《寝園》よみかえす」(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一〇六ページ)だったり、〈日 記 一九四六年〉における「四月三日 〔……〕夜、横光利一《機械》を読む」(《るしおる》6号、1990年5月31日、三三ページ)だったりするよう に、横光の小説を読んだという記載にとどまる。だが、これらの小説を(おそらくはそのすべてを)再読三読していることは注目に値する。一体に《うまやはし 日記》の青年吉岡実は同じ書物を二度三度と繰りかえし読んでいるが、1939年に「再読」している〈機械〉など、戦後間もない1946年にも読んでいる。 吉岡の読んだ〈機械〉が同一のエディションか不明だが、戦前版は《寝園〔昭和名作選集(1)〕》(新潮社、1939年5月24日)だと《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》で 見当をつけておいた。それが正しいとすれば、刊行後ひと月で早くも再読していたことになる。いずれにしても、横光への熱中ぶりをうかがうに足る。

横光利一《日輪〔改造文庫(第二部 第四十九篇)〕》(改造社、1929年2月3日)と横光利一《寝園〔昭和名作選集(1)〕》(新潮社、1939年5月24日、装丁:有島生馬)の表紙
横光利一《日輪〔改造文庫(第二部 第四十九篇)〕》(改造社、 1929年2月3日)と横光利一《寝園〔昭和名作選集(1)〕》 (新潮社、1939年5月24日、装丁:有島生馬)の表紙

横光利一の名は上掲の日記以降、〈読書遍歴〉にしか登場しないが、吉岡は戦後も一貫して支持していたものと思われる。吉岡実・加藤郁 乎・那珂太郎・ 飯島耕一・吉増剛造〔座談会〕〈悪しき時を生きる現代の詩――座談形式による特集〈今日の歌・現代の詩〉〉の〈三島由紀夫・戦後が鴎外にぶつかった〉とい う節で飯島耕一にこう語っているからだ。

吉岡  唐突なたとえだけれども、横光利一と 三島と似ているんじゃないかしら。そういう感じがするんだよ。横光利一はぼくの好きな作家なんだけど、いま不当に評価が低いわけよ。だけど、人物を人形の ごとく動かす……やはり横光というのは大へんな作家だと思うのよ。ふたたび唐突なことだけれども、横光と三島というのは似ているんじゃないかというのを、 いま思うのね。
飯島 だから、そういう 意味で、横光が無視されているように、三島もおそらくだんだん無視されてくるんじゃないか。やはり横光より川端でしょ、日本は。だから、三島より誰かとい うのはわからんけれども。
吉岡 やっぱりリアリ ティを小説のほうに持って来たほうが強いんで、いわゆる虚構的にいこうという、新しい小説をつくろうという場合は、横光の悲劇があって、三島の悲劇がある んじゃないかという気がするのね。(《短歌》1975年2月号、八六ページ)

横光利一(1898-1947)の三つの小説、中篇《日輪》(1923年5月発表)、短篇〈機械〉(1930年9月発表)、長篇《寝 園》(1930 年11月〜12月、1932年5月〜11月連載)を読んでみよう。日記の記述を勘案すると、吉岡が読んだであろう刊本は前掲写真の二冊だが、本文の引用は 河出書房版《横光利一全集》(1955-56)に拠り、漢字は新字に改めた。

 「卑弥呼は反絵の片眼の方へ背を向けた。さうして、腰を縛つた古い衣の紐を取り、その脇に廻つた結び目を解きほどくと、彼女の衣は、 葉を取られた桃のやうな裸体を浮べて、彼女の滑らかな肩から毛皮の上へ辷り落ちた。
  反耶の大きく開かれた二つの眼には、童男の捧げた衣の方へ、静に動く円い彼女の腰の曲線が、霧を透した朝日の光りを区切つたために、七色の虹となつて浮き 立ちながら花壇の上で羽叩く鶴の胸毛をだんだんにその横から現してゆくのが映つてゐた。さうして、反絵の動かぬ一つの眼には、彼女の乳房の高まりが、反耶 の銅の剣に戯れる鳩の頭のやうに微動するのが映つてゐた。卑弥呼は裸体を巻き変へた新しい衣の一端で、童男の捧げた指先を払ひながら部屋の中を見廻した。
 「王よ。此の部屋を吾に与へよ。吾は此処に停まらう。」
 彼女は静に反耶の傍へ近寄つた。さうして、背に廻らうとする衣の二つの端を王に示しながら、彼の胸へ身を寄せかけて微笑を投げた。
 「王よ。吾は耶馬台の衣を好む。爾は吾のために爾の与へた衣を結べ。」
 反耶は卑弥呼を見詰めながら、その衣の端を手にとつた。悦びに声を潜めた彼の顔は、髯の中で彼女の衣の射る絹の光りを受けて薄紅色に栄えてゐた。部屋の 中で訶和郎の死体が反絵の腕を辷つて倒れる音がした。反絵の指は垂れ下つた両手の先で、頭を擡げる十匹の蚕のやうに動き出すと、彼の身体は胸毛に荒荒しい 呼吸を示しながら次第に卑弥呼の方へ傾いていつた。」――《日輪》十九

「実は私は九州の造船所から出て来たのだがふと途中の汽車の中で一人の婦人に逢つたのがこの生活の初めなのだ。婦人はもう五十歳あまり になつてゐて 主人に死なれ家もなければ子供もないので、東京の親戚の所で暫く厄介になつてから下宿屋でも始めるのだと云ふ。それなら私も職でも見つかればあなたの下宿 へ厄介になりたいと冗談のつもりで云ふと、それでは自分のこれから行く親戚へ自分といつてそこの仕事を手伝はないかとすすめてくれた。私もまだどこへ勤め るあてとてもないときだし、ひとつはその婦人の上品な言葉や姿を信用する気になつてそのままふらりと婦人と一緒にここの仕事場へ流れ込んで来たのである。 すると、ここの仕事は初めは見た目は楽だがだんだん薬品が労働力を根柢から奪つていくと云ふことに気がついた。それで今日は出よう明日は出ようと思つてゐ るうちに、ふと今迄辛抱したからにはそれではひとつここの仕事の急所を全部覚え込んでからにしようと云ふ気にもなつて来て、自分で危険な仕事に近づくこと に興味を持たうとつとめ出した。ところが私と一緒に働いてゐるここの職人の軽部は、私が此の家の仕事の秘密を盗みに這入つて来たどこかの間者だと思ひ込ん だのだ。彼は主人の細君の実家の隣家から来てゐる男なので何事にでも自由がきくだけにそれだけ主家が第一で、よくある忠実な下僕になりすましてみることが 道楽なのだ。」――〈機械〉

 「梶は手紙を読み終つた。かうまで云ひわけを云つて金を差し出して来てゐる奈奈江に、何の理由があつて腹立ててゐたのであらう。何も 他人が困らう と怒らうと捨てておいても良いものを、わざわざ主人に使ひをさせて、遠慮をしいしい金を持たしてよ来す謙虚な心もあるにかかはらず、それを高くとまり、ま だ何やらかやらと思ひ迷つてゐる自分を思へば、何とへだたりのある仁羽と自分の二人であらうと思はざるを得ないのだつた。
 しかし、それにしても、梶はさきから贈られた通ひを中に、ぢつたばつたと上を下への心の苦しみをさせ続けてゐる自分の意地汚なさに気がついて、これがな るほど貧しいものの心かと、頬杖ついたままぐつたりとして動く気にはならなかつた。
 彼は夜になるまでさうして家から外へ出なかつたが、奈奈江にあてて礼と一緒に貰ひものを返す手紙を書いてから、それを出すとも出すまいともつかず、机の 中へしまひ込んで外へ出ていつた。しかし、彼はまだ奈奈江から貰つた金額がどれほどあるのか見てゐないのだ。恐らく万といふ字はつくであらうが、もし貰つ た額が意外に少いものであつたなら、それをうつかり突き返したときの奈奈江の困憊の仕方が眼にも見え、これはじつくりと今まで思案をしただけあつたと、思 はぬ喜びをとある街角で唐突に感じ出した。けれども、間もなく明治座の裏へ出て、河岸に添つて下つていくうちに、ひたひたと満ちた川水の上に流れるともな く流れてゐる一条の煙が眼についた。すると、心は急にがくりと折れて、蕭蕭とした気が梶の胸に満ち溢れて来始めた。彼は河岸に蹲み込んだまま、水中にぽつ りとただ一本立つてゐる寒むげな杭に見入つてゐると、まるでその眼前の風景とは反対に、いつか異国の旅先きで見たことのある寝園の風景がぽつかりと頭の中 に浮き上つて来るのだつた。彼はその前で、ただ支那の天子ひとりが登ることを許されたといふ大理石の竜の彫刻の厚い鱗の上を、反り身になつて渡つてみた日 のかつての豪華な一刻の夢を、今のわが身にひきくらべてはかなく思ひ出さざるを得なかつた。」――《寝園》

とうてい同じ人間が書いたものとは思えない、異様な緊張感に満ちた文章である。横光が志賀直哉の小説に学んだことはよく知られる。吉岡 もまた自筆年 譜の1934年(十五歳)に「志賀直哉の作品を読む」と記しているし、二十歳の日記には《和解》を読み感銘したと書いている。小説家だった横光と、小説を 書く意欲は見せたものの実際に書くことのなかった吉岡を単純に較べることはできないが、横光の小説は力技で志賀のリアリズム小説の圏外に脱出しようとする 際の痙攣的な文章――三篇のなかでは《日輪》において最も著しい――の営みであり、同時に題材も書き手の身辺に採らないという両面作戦の敢行だった。吉岡 実の場合、その随想には志賀の小説のリアリズムの影響が見てとれる(それは〈突堤にて〉という「詩的散文」においても当てはまる)。吉岡発言の横光評をま とめると「人物を人形のごとく動かす大へんな作家」で、「虚構的にいこうという、新しい小説をつくろうというところに横光の悲劇がある」となろう。飯島 の、横光よりは川端であって、三島よりも誰かはわからないという発言に対しては、リアリティのある川端の方に分があるとしているようだ(吉岡の愛読した川 端作品が《雪国》だったことを想い出そう)。敗戦後ほどなく逝った横光の作品が戦前の代表作ばかりなのはわかるとして、この座談会に限らず、吉岡に戦後の 川端作品への言及がないのはどうしたことだろう。いったい吉岡は〈眠れる美女〉や〈片腕〉を読まなかったのだろうか。読まなかったはずがない。川端が虚構 的にいった新しい小説は自身の詩の世界にあまりに隣接していて、対他的な存在としてとらえられなかったのだろうか。それともそこにこそ川端のリアリティが 込められていて、もはや虚構と見なすことができないほど一体化していると感じられたのか。小説における虚構とリアリティという設定とは別の、両者の作品の 分析を経なければ解き明かせない問題を含んでいるように思われる。最後に、吉岡が触れていない横光初期の代表作、同時代の詩人・安西冬衛(1898- 1965)の散文詩を想起させる新感覚の文章の一節を掲げる。

 「磨かれた大理石の三面鏡に包まれた光の中で、ナポレオンとルイザとは明暗を閃めかせつつ、分裂し粘着した。争ふ色彩の尖影が、屈折 しながら鏡面で衝撃した。
 「陛下、お気が狂はせられたのでございます。陛下、お放しなされませ。」
  しかし、ナポレオンの腕は彼女の首に絡まりついた。彼女の髪は金色の渦を巻いてきらきらと慄へてゐた。ナポレオンの残忍性はルイザが藻掻けば藻掻くほど怒 りと共に昂進した。彼は片手に彼女の頭髪を縄のやうに巻きつけた。――逃げよ。余はコルシカの平民の息子である。余はフランスの貴族を滅ぼした。余は全世 界の貴族を滅ぼすであらう。逃げよ。ハプスブルグの女。余は高貴と若さを誇る汝の肉体に、平民の病ひを植ゑつけてやるであらう。
 ルイザはナポレオンに引き摺られてよろめいた。二人の争ひは、トルコの香料の匂ひを馥郁と撒き散らしながら、寝台の方へ近づいて行つた。緞帳が閉められ た。ペルシャの鹿の模様は暫く緞帳の襞の上で、中から突き上げられる度毎に脹れ上つて揺れてゐた。
 「陛下、お気をお鎮めなさりませ。私はジョセフィヌさまへお告げ申すでございませう。」
 緞帳の間から逞しい一本の手が延びると、床の上にはみ出てゐた枕を中へ引き摺り込んだ。
 「陛下、今宵は静にお休みなされませ。陛下はお狂ひなされたのでございます。」
 ペルシャの鹿の模様は鎮まつた。彫刻の裸像はひとり円柱の傍で光つた床の上の自身の姿を見詰めてゐた。すると、突然、緋の緞帳の裾から、桃色のルイザ が、吹きつけた花のやうに転がり出した。裳裾が宙空で花開いた。緞帳は鎮まつた。ルイザは引き裂かれた寝衣の切れ口から露はな肩を出して倒れてゐた。彼女 は暫く床の上から起き上らうとしなかつた。掻き乱された彼女の金髪は、波打つたまま大理石の床の上へ投げ出された。
 彼女は漸く起き上ると、青ざめた頬を涙で濡らしながら歩き出した。彼女の長い裳裾は、彼女の苦痛な足跡を示しつつ緞帳の下から憂鬱に繰り出されて曳かれ ていつた。
 ナポレオンの部屋の重々しい緞帳は、そのまま湿つた旗のやうに明方まで動かなかつた。」――〈ナポレオンと田虫〉四


1919年生まれの吉岡実(2012年4月30日)

インターネットで吉岡実を検索するときには「吉岡実 詩」とか「吉岡実 詩人」と指定することが多い。いうまでもなく詩と詩人に無関係 の吉岡実をな るべく排除したいからだが、ときにはわざと「吉岡実」や「吉岡實」で試してみることもある。あれこれしているうちに、先日、こんなものまであるのかと感心 させられたサイトに出会った。それは《同姓同 名探しと名前ランキング | 姓名、名前、名字、苗字の分布と由来》で、 さっそく「吉岡実」を調べてみた。

電話帳の掲載件数をもとに該当する人数(実際の人口ではありません)を探します。一般的に世帯主の名前が掲載されて いますので、女性の名前や今どきのお子様の珍しい名前などはあまり該当しないと思います。

という注意書きのあとに「吉岡 実さんの同姓同名の人数は全国に 106人」と表示されて、北海道から沖縄までの47地域の人数と総人数が出てくる(「吉岡實」を調べたら「吉岡 實さんの同姓同名の人数は全国に 11人」と出た)。インターネット上の吉岡実や吉岡實には、これら電話帳に掲載されている方たちの情報が記載されている可能性があるわけだ。吉岡は全国で 多い名字の第151位、吉岡実は吉岡姓のなかで第6位とのことだ。東京都を見ると、1,031,223人の総人数に対して吉岡実は6人である。100万人 強中の6人が多いのか少ないのかよくわからないが、人数の多い順に12位(4人)までの地域を挙げてみる。

 北海道 8人
 千葉県 7人
 福岡県 6人
 東京都 6人
 山口県 5人
 京都府 5人
 埼玉県 5人
 徳島県 4人
 群馬県 4人
 広島県 4人
 兵庫県 4人
 大阪府 4人

電話帳に掲載されていない「吉岡実さん」の人数など見当もつかないから、この数字を基にするしかないが、そもそも母数である各地域の 「電話帳の掲載 件数」が違う。それにしても、この人数は感覚的につかみづらい。そこで、47都道府県各地域の比率(「吉岡 実さんの同姓同名の人数」÷「電話帳の掲載件数」つまりここで言う「総人数」)を、日本の総人口128,057,352人 (2010年の国 勢調査時)に占める「吉岡実さん」に置き換えてみよう。結果が1,000人以上の上位16地域に限った。

 徳島県 3,152人
 島根県 2,057人
 山口県 1,919人
 京都府 1,634人
 石川県 1,561人
 福井県 1,430人
 群馬県 1,318人
 長崎県 1,270人
 香川県 1,261人
 千葉県 1,213人
 滋賀県 1,208人
 福岡県 1,179人
 奈良県 1,121人
 北海道 1,020人
 広島県 1,013人
 富山県 1,001人

徳島県の人口が日本の総人口と同じだったら、じつに3,152人もの吉岡実が同県にいるという勘定になる。上の、人数の多かった各地域 の12位まで にはそれほど地域的な偏りはなかったが、こちらは中部や西日本に多い結果となった。姓はともかく名は親が付けるのがふつうだろうから、東日本の吉岡さんよ りも中部・西日本の吉岡さんのほうが「実」(ミノルと読むのかマコトと読むのか、女性ならミノリかもしれない)と命名することが多いとは言えそうである。 さて、ひとさまの名前ばかりでは申し訳ないので「小林一郎」を検索してみると、「小林 一郎さんの同姓同名の人数は全国に 510人」と出た。そのうち東京都は43人。ちなみに私は電話帳に掲載していないから、ここには含まれない。ブログもSNS(ソーシャル・ネットワーキン グ・サービス)もやらない。吉岡実詩の読者に伝えたいことを毎月一回ウェブサイトに発表するだけで、ブログやSNSとは係わりたくないのだ。

吉岡実は生まれが1919年、大正8年で、亡くなったのが1990年、平成2年である。その生涯には昭和の実質62年あまり(昭和元年 と同64年は ともに7日間)がまるまる含まれ、その一生はソビエト社会主義共和国連邦の誕生(1922年)から解体(1991年)までとほぼ重なる。ウィキペディアが 掲載する1919年生まれには、以下のような人物がいる。誕生日は割愛して、リストの一部を掲げる。

 J・D・サリンジャー
 田端義夫
 風間完
 やなせたかし
 鮎川哲也
 芥川隆行
 水上勉
 菅井汲
 ナット・キング・コール
 根本順吉
 吉岡実
 奈良林祥
 野村芳太郎
 渡邉暁雄
 安東次男
 大西巨人
 大野晋
 加藤周一
 金子兜太
 宮澤喜一
 アート・ブレイキー
 佐治敬三

歌手の田端義夫、漫画家のやなせたかし、俳人の金子兜太の三氏が健在なのは心強い。吉岡実が存命なら、今年2012年の誕 生日4月15日に93歳を迎えたわけだ。吉岡が亡くなった1990年の物故者はどうだろう。同じくウィキペディアのリストの一部を掲げる。

 キース・ヘリング
 北川冬彦
 グレタ・ガルボ
 池波正太郎
 藤山寛美
 高峰三枝子
 吉岡実
 出門英
 渡邉暁雄
 宮田輝
 高柳健次郎
 滝田ゆう
 土門拳
 奥村土牛
 芥川隆行
 永井龍男
 アート・ブレイキー
 幸田文
 ロアルド・ダール
 浜口庫之助
 土屋文明
 林忠彦

ナレーターの芥川隆行、指揮者の渡邉暁雄、ジャズドラマーのアート・ブレイキーの 三氏が吉岡実と生歿年を同じくする。この三人という数が多いのか少ないのか比較するすべがないが、吉岡の詩集と渡邉の音源(とりわけ二度にわたって日本 フィルハーモニー交響楽団を指揮したシベリウスの交響曲全集)、ブレイキーのアルバム(とりわけ自身が率いたジャズ・メッセンジャーズ名義の作品)を同時 に享受する感覚を忘れてはならない。だがそれは、同時代性などというものではない。この三人のパフォーマーとしての生涯と作品に想いを致すことが、吉岡実 と詩のむすびつきを照らしだすに違いない、と考えるからだ。


吉岡実の近代俳句選(2012年3月31日)

〈吉岡実の「講演」と俳句選評〉に 引用した〈感想――俳句評論賞決定まで・経過報告 と選後評〉(《俳句評論》72号、1967年9月)を読むと、吉岡実が同時代の新人の俳句をどう選んだかがうかがえる。明治以降の俳句に関しては、個個の 俳人への散発的な言及はみられるものの、近代俳句選のような形でまとまった文章は存在しない。だがここに、飯田龍太・大岡信・高柳重信・吉岡実の連載座談 会〈現代俳句を語る〉(《鑑賞現代俳句全集〔全12巻〕月報 I〜XII》、立風書房、1980年5月1日〜1981年4月20日)があり、吉岡の明治以降の俳句観が披瀝されている。宗田安正の手が入ったと思われる 《高柳重信全集〔第3巻〕》(立風書房、1985年8月8日)所収の座談会〈現代俳句を語る〉に拠って引用句を掲げ、句への吉岡のコメントがある場合、 ――の後に引いた(子規の「遺羽子」は、初出連載の「遣羽子」に戻した)。なお、本稿末尾に引用句の校異を掲げた。 

 正岡子規
・鶏頭の十四五本もありぬべし
 ――その〔明治〕三十三年というと、あの句ですね。〔引用句〕あの時期で、俳句をやめていくというか少なくなっていくんだね。俳句はなくなっていっちゃ うんだね。
・ちりこんだ杉の落葉や心太[ところてん]
 ――ここでちょっと子規の初期の俳句を、おれが選んできたから。蕪村的だと思うんだけど。〔引用句〕
・あはれさやらんぷを辷る灯取虫
・足柄や花に雲おく女郎花[をみなへし]
 ――こんなのはまさに新しい蕪村だと思うんだ。〔引用句〕
・冬枯や蛸[たこ]にぶら下る煮売茶屋
 ――こんなのは蕪村。ぼくも戦前は芭蕉がわかんなくて蕪村一辺倒だったからよくわかるのね。いま、戦後は主観的な作風の芭蕉の方がずっといいと思うんだ よ。
・のら猫や思ふがまゝに恋ひわたる
 ――一つおもしろい句があるんだ。これは大岡にちょっと聞きたいんだけど。〔引用句〕なんて、これはちょっと最後がおもしろいんだな。「恋ひわたる」 と。
・すり鉢に薄紫の蜆[しじみ]かな
 ――これ、とてもいいと思うね。
・すさまじや杉菜ばかりの岡一つ
・白河や二度越ゆる時秋の風
 ――時間と空間が同時に捉えられているみたいで好きな句だよ。
・日のあたる石にさはればつめたさよ
 ――次のこれなんか新しいと思うのよ。〔引用句〕これは歌にもちょっといきそうな感じなんだけど、とてもいい句だと思うのね。
・赤蜻蜒[とんぼ]筑波に雲もなかりけり
 ――これはまさに蕪村ですよね。
・凩に大提灯の静かさよ
 ――それからもう一つ好きなのは、ぼく自身が下町生まれで、子供のころ浅草へしょっちゅう行っていたんだけど、これは浅草を詠んだ句で、〔引用句〕これ なんか浅草の雷門の夜の情景が出ている。
・遣羽子に去年の娘見えぬかな
 ――これもおもしろくて抜いてきたんです。生涯に千句ぐらい作ったのかな。何句作ったか知らないけど、ぼくが読んだなかでも相当にいい句があるし、これ が虚子や碧梧桐だとかにつながっていくんだと思うんですよね。

 河東碧梧桐
・春風や道標元禄四年なり
 ――実は碧梧桐は今度読んだのね。だけど自由律やなんかだと読めないのね。自由律なら、放哉や山頭火なんかのほうがずっといいんだな。さっき大岡がいっ た「赤い椿」の句、その前後のところにわりといい句があったんで一応あげてみますと、〔引用句〕なんていうのがあるね。
・四五本の棒杭残る汐干かな
 ――それから好きな句は〔引用句〕
・春寒し水田の上の根なし雲
・河骨[かはほね]の花に集る目高かな
 ――それから次の一句もいいよ。〔引用句〕この前後にわりといい句がある。しかしあまり俳人として、いわゆるぼくみたいな素人が読んで、おもしろくない なあという感じがするんですね。

 高浜虚子
・冬の蠅仁王の面[おも]を飛び去らず
 ――たとえば虚子の句なんだけど〔引用句〕力強いよね。
・秋の蠅ぱつととんでは又日向
 ――これは非常に斬新なのね。
・かたまりて菫咲きけり草の中
 ――とか、魅力は虚子の句に感じるよ。さっきの「赤い椿」やなんかと同じ時代なのにね。当時は両巨頭として双璧と称されていたんだろうけど、ちょっと差 があったんじゃないんだろうかというのが実感。
・遠山に日の当りたる枯野かな
 ――明治三十三年なんだけど、後年有名になった〔引用句〕そういうのがあるのね。こんなの子規としちゃ全然評価しなかったのかな。
・桐一葉日当りながら落ちにけり
 ――それにすぐ続いて〔引用句〕があるね。いまは有名な句なんだけど。
・金亀子[こがねむし]擲[なげう]つ闇の深さかな
 ――なんて、ここ名句がそろっているね。いまの我々は素人でなにも碧梧桐を勉強しているわけじゃない。しかし客観的にみてもずばぬけて虚子がすぐれてい る。
・コレラの家を出し人こちへ来りけり
 ――大正二年ごろの〔引用句〕これはちょっと異様な詠みぶりだよ。茂吉にもこういうとらえかたの歌があるんだよね。
・海鼠笊にあり下女つんつるてん猫へつついに在り
 ――これなんかどうですかね。〔引用句〕こんなのをつくった自在さは見事でした。我々現代詩は新しいことをやりたいわけね。で、苦心しているんだけど。 これが大正六年の句。

 飯田蛇笏
・かりそめに燈籠おくや草の中
 ――蛇笏のぼくの好きな句を選んだけど。〔引用句〕
・赤貧洗ふがごとく金魚飼ひにけり
 ――〔引用句〕おもしろいと思うね。
・芋の露連山影を正しうす
 ――有名な句になっちゃうけど〔引用句〕ここいらは代表作だと思うんだけど、鏨[たがね]で彫るような俳人ですね。ちょっと厳し過ぎるんじゃないかな あ。
・死病えて爪うつくしき火桶かな
 ――ロマンチックな句、いっぱいあるよ。〔引用句〕
・流燈やひとつにはかにさかのぼる

 前田普羅
・茅[かや]枯れてみづがき山は蒼天[そら]に入る
 ――山が入ってゆくようなおもしろさがありますね。
・奥白根かの世の雪をかがやかす
 ――これ、泣かせるんじゃない。それに清らかになるね。

 原石鼎
・頂上や殊に野菊の吹かれ居り
 ――初期に高名な句がありますね。〔引用句〕
・蔓踏んで一山の露動きけり

 村上鬼城
・闘鶏の眼つぶれて飼はれけり
 ――これ、名句になっちゃうのかな。鬼城の。〔引用句〕やっぱりいい句でしょう。
・春寒やぶつかり歩く盲犬
 ――というのもあるけど、あんまりたいしたことない?

 渡辺水巴
・かたまつて薄き光の菫[すみれ]かな
 ――じゃ、名句はこれか。可憐な句ですね。〔引用句〕

 水原秋桜子
・梨咲くと葛飾の野はとの曇り
 ――ぼくにとって、茂吉に『赤光』と『あらたま』があればいいように、秋桜子はやっぱり『葛飾』なのね。ぼくなんかことに本所生まれで「葛飾」というの は子供のころから、見知った土地と密着しているから、あの風物はまさに絵のように見えるんだよ。〔引用句〕
・葛飾や桃の籬も水田べり

 高野素十
・かつぎゆく雲雀の籠は空[から]なりき
 ――素十の句で、ちょっと三句ぐらいあげてみましょう。〔引用句〕
・屋根替の一人下りきて庭通る
 ――意外に、こういうの好きなのね。
・食べてゐる牛の口より蓼の花
・夕鴨やはるかの一つ羽ばたける
 ――こんなの、ちょっと好きね。
・空をゆく一とかたまりの花吹雪
 ――こういうのはものすごく大らかな、ゆったりとした感じがあるのね。だから、ぼくは素十をすこしも知らなかったんだけど、それだけに読んでみたいと感 じはしますね。

 阿波野青畝
・なつかしき濁世[じょくせ]の雨や涅槃像
 ――もう一つ、青畝の有名な句、〔引用句〕これはすごいね。この句は残る名句だと思う。まさに此岸から読んでいる感じがものすごくおもしろいわけね。

 高屋窓秋
・山鳩よ見れば回りに雪が降る
 ――ほかのそういう影響をひょっとしたら受けているんじゃないかな。ぼくはその作品は俳句として際立っているけど、詩の一行とした場合、竹中郁もある し、安西冬衛もあるんだよ。だから窓秋なんかはむしろ〔引用句〕ああいうのがぼくは絶品だと思うんだよ。

 西東三鬼
・水枕ガバリと寒い海がある
 ――西東三鬼の例の〔引用句〕これなんか澁澤龍彦にこてんぱにやられたんだ。こんなのがなんで名句だなんて言うけど、歴史的な価値ですね。

 石田波郷
・たばしるや鵙叫喚す胸形変
・麻薬打てば十三夜月遁走す
 ――とか、いまになると、多少彼の意気ごみとこっちの鑑賞は違うけどね。
・朝顔の紺の彼方の月日かな
 ――こういうのは永遠に生きのびていく感じするのよね。

 加藤楸邨
・死ねば野分生きてゐしかば争へり
 ――観念句か知らんけどさ。〔引用句〕これ、やっぱしぼくのなかに生きてるのね。これは人間の生き方の一つの至言だと思うんだよ。生きていれば、人間 闘っているんだな。「鰯雲」より桁違いに好きな作品だ。

座談会の席での発言だから、会話の流れによっては吉岡の意図どおり句を披露できたか疑問は残る。だが、これらのほとんどがテーマに沿っ て事前に選ば れた句であることは間違いない。その際、〈子規における俳句と短歌〉の節における吉岡発言のように、「こういうことは言えないの。ぼくは子規の短歌は読ん でないのよ。俳句だって今度まじめに読んだだけで、短歌で抒情的な主観的なものは解消したんじゃないか。そうでもないのかしら。そういう作品が多いんじゃ ないだろうかと想像するんだけど」(同書、三三二ページ)と、初めて熟読したのは子規のほかは碧梧桐と素十くらいで、ひごろ読み親しんだ句、吉岡の詩嚢を 肥やしただろう句が準備されたことは想像に難くない。とりわけ次の3句が興味深い。

かたまりて菫咲きけり草の中    高浜虚子
かたまつて薄き光の菫かな    渡辺水巴
空をゆく一とかたまりの花吹雪    高野素十

満開の桜が吹雪のように散るさまの「空をゆく」を除いても、かたまって咲く草花にこれほどまで反応するのはどうしたことだろう。〈死 児〉(C・ 19)の「歴史家の墓地の菫で物語られる」に始まり、「造られる花のスミレ」(〈恋する絵〉E・15)、「むらさきのスミレが咲く」(〈フォークソング〉 F・7)、「女神の水色のスミレの酢を求めて」(〈弟子〉F・15)、「花咲くスミレの墓地で」(〈わが馬ニコルスの思い出〉F・16)といった詩句が、 前期から中期にかけての吉岡実詩(とりわけ詩集《神秘的な時代の詩》)に登場するのは紛れもない事実だが、後期にもわずかながら登場する。引用句前後の吉 岡発言にも、これといってヒントになりそうなものは見あたらない。凝縮した花の姿に俳句形式を透視した――などということもありそうにない。ここは素直に 味読して、先へ進もう。菫の次に注目したいのは、

すさましや杉菜許りの岡一つ    正岡子規
遠山に日の当りたる枯野かな    高浜虚子
茅枯れてみづがき山は蒼天に入る    前田普羅
頂上や殊に野菊の吹かれ居り    原石鼎

これらの岡の上や山の頂への憧憬はなにを語るのか。「芦川羊子の演舞する〈サイレン鮭[じやけ]〉に寄せる」と献辞のある〈サイレント・あるいは鮭〉 (G・25)の前半を追込みで引く。

薄明の山の川を遡る/鮭のからだは空胴のように暗く/多くの物とすれちがう/ときに死せる子供と/母親はかがんだ姿 勢をして/ 入ってゆくようだ/冷たい半肉の伽藍へ/時経ると血が噴き出される/そのほかもろもろのもの/水垢/小骨/手桶をもつ男/綿菓子/きわめて日常的な万物が 流転する/水面すれすれに/赤紙飛行機はとどまり/野の百合は飛翔する/暁の丘へ/のぼる若い女を見たことがある/二股の美しい尾をかざし/〈還元不能〉 な言葉を求めているようだ/〔……〕

この「川を遡る鮭」にして「暁の丘へのぼる若い女」こそ、生命の根源にして詩(俳句と言っても同じだ)の誕生の別名ではなかったか。そ こは血にまみ れた産道であり、なにものにも還元することのできない言葉のうぶすなである。吉岡はそうした、ある種の秘境を俳句に求めていたのかもしれない。あるいは、 その秘境に通じる小さな緑の扉を。

――――――――――

引 用句の校異 底本(《高柳重信全 集〔第3巻〕》)と《鑑賞現代俳句全集〔全12巻〕》掲載句形との異同を【〈現代俳句を語る〉掲載形→《鑑賞現代俳句全集〔全12巻〕》および各俳人の当 該句集(の復刻版)・全句集・全集などの掲載形】としたが、漢字は新字に統一し、振り仮名[ルビ]は割愛した。また、作者に(生年-歿年)を付し、わかっ た範囲で俳句の後に《出典》(成立年・刊行年)を掲げた。

 正岡子規(1867-1902)
鶏頭の十四五本もありぬべし    《俳句稿》(明治33年)
ちりこんだ杉の落葉や心【太→ふと】    《寒山落木 巻一》(明治25年)
あはれさやらんぷを辷る灯取虫    《寒山落木 巻一》(明治25年)
足柄や花に雲おく女郎花    《寒山落木 巻一》(明治25年)
冬枯や蛸【に→(トル)】ぶら下る煮売茶屋    《寒山落木 巻一》(明治25年)
のら猫や思ふがまゝに恋ひわたる    《寒山落木 巻二》(明治26年)
すり鉢に薄紫の蜆かな    《寒山落木 巻二》(明治26年)
すさま【じ→し】や杉菜【ばか→許】りの岡一つ    《寒山落木 巻二》(明治26年)
白河や二度【越→こ】ゆる時秋の風    《寒山落木 巻二》(明治26年)
日のあたる石にさはればつめたさよ    《寒山落木 巻三》(明治27年)
赤蜻【蜒→蛉】筑波に雲もなかりけり    《寒山落木 巻三》(明治27年)
凩に大提灯の静かさよ    《寒山落木 巻三》(明治27年)
遣羽子に去年の娘見えぬかな    《寒山落木 巻四》(明治28年)

 河東碧梧桐(1873-1937)
春風や道標元禄四年なり    《碧梧桐全句集》〈新俳句〉(1992)
四五本の棒杭残る汐干かな    《碧梧桐句集》(1916)/《碧梧桐全句集》〈新俳句〉(1992)
春寒し水田の上の根なし雲    《碧梧桐句集》(1916)/《碧梧桐全句集》〈新俳句〉(1992)
河骨の花に集る目高かな    《碧梧桐全句集》〈新俳句〉(1992)


 高浜虚子(1874-1959)
冬の蠅仁王の面を飛び【去→さ】らず    明治26年12月25日
秋の蠅ぱつととんでは又日向    この句は《高濱虛子全俳句集〔上 巻・下巻〕》(毎日新聞社、1980)に見えない。

かたまりて菫咲きけり草の中    《虚子句集》(1915)
遠山に日の当りたる枯野かな    明治33年12月/《五百句》(1937)
桐一葉日当りながら落ちにけり    明治40年10月/《虚子句集》(1915)/《五百句》(1937)
金亀子擲つ闇の深さかな    明治41年8月11日/《虚子句集》(1915)/《五百句》(1937)
コレラの家を出し人こちへ来りけり    大正3年7月5日/《五百句》(1937)
海鼠笊にあり下女つんつるてん猫へつついに在り    大正6年 この句は《高濱虛子全俳句集〔上巻・下巻〕》(毎日新聞社、1980)に見えない。

 飯田蛇笏(1885-1962)
かりそめに燈籠おくや草の中    《山廬集》(1932)
赤貧洗ふが【ごと→如】く【金→錦】魚【(ナシ)→を】飼ひにけり    《山廬集》(1932)
芋の露連山影を正【し→(トル)】うす    《山廬集》(1932)
死病【え→得】て爪うつくしき火桶かな    《山廬集》(1932)
流燈や【ひと→一】つにはかにさかのぼる    《山廬集》(1932)

 前田普羅(1884-1954)
茅枯れてみづがき山は蒼天に入る    《定本普羅句集》(1972)
奥白根かの世の雪をか【が→ゞ】やかす    《定本普羅句集》(1972)

 原石鼎(1886-1951)
頂上や殊に野菊の吹かれ居り    《花影》(1937)
蔓踏んで一山の露動きけり    《花影》(1937)

 村上鬼城(1865-1938)
闘鶏の眼つぶれて飼はれけり    《鬼城句集》(1917)
春寒やぶつかり歩く盲犬    《定本鬼城句集》(1940)

 渡辺水巴(1882-1946)
かたまつて薄き光の菫かな    《白日》(1936)

 水原秋桜子(1892-1981)
梨咲くと葛飾の野はとの曇り    《葛飾》(1930)
葛飾や桃の籬も水田べり    《葛飾》(1930)

 高野素十(1893-1976)
かつぎゆく雲雀の籠は空なりき    《初鴉》(1947)
屋根替の一人下りきて庭通る    《初鴉》(1947)
食べてゐる牛の口より蓼の花    《初鴉》(1947)
夕鴨やはるかの一つ羽ばたける    《初鴉》(1947)
空をゆく一とかたまりの花吹雪    《野花集》(1953)

 阿波野青畝(1899-1992)
なつかし【き→の】濁世の雨や涅槃像    《万両》(1931)

 高屋窓秋(1910- 99)
山鳩よ【見→み】れば【回→まは】りに雪が【降→ふ】る    《白い夏野》(1936)

 西東三鬼(1900- 62)
水枕ガバリと寒い海がある    《旗》(1940)

 石田波郷(1913- 69)
たばしるや鵙叫喚す胸形変    《惜命》(1950)
麻薬【打→う】てば十三夜月遁走す    《惜命》(1950)
朝顔の紺の彼方の月日かな    《風切》(1943)

 加藤楸邨(1905- 93)
死ねば野分生きてゐしかば争へり 《野哭》(1948)


《筑摩書房 図書目録 1951年6月》あるいは百瀬勝登のこと(2012年2月29日〔2021年7月31日追記〕)

吉岡実は1951(昭和26)年4月、筑摩書房に入社したが、入社の経緯を記した文章はない。一方、5年前の1946年1月15日(火曜)の日記に

 朝、リルケ《マルテの手記》を少し読む。八時四十分出勤。午後、〔勤務先の香柏書房の〕西村〔知章〕氏と出版協会へ行く。南山堂時代の先輩の百瀬勝登氏とばったり。郷里長野の青年学校の先生をやめ、筑摩書房に入社したとのこと。夕五時というのにお茶の水の谷は暗く、ニコライ堂の上にきらめく冬の星は冷めたし。(〈日記 一九四六年〉、《るしおる》5号、1990年1月31日、三三ページ)

とあり、吉岡の書いた文章に筑摩書房が登場した最初だと思われる。吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉の1951年のくだりには「東洋堂を辞め四月、編集部に勤める百瀬勝登の口添えで筑摩書房に入社。社長古田晁、顧問臼井吉見、唐木順三、中村光夫。新企画の『小学生全集』を担当。傍ら図書目録や『一葉全集』の内容見本を作り装丁、造本まで手がけた縁で和田芳恵と親しくなる」(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996、七九三ページ)とあるから、百瀬を介して新企画の要員として請われたものか。ここで百瀬について述べる。「百瀬勝登」をNDL-OPACで検索すると、ブレンターノ(百瀬勝登訳)《五つの夢》(地平社、1948年6月30日)と《万葉短歌選――若き人々のための》(古川書房、1985年5月15日)の2件がヒットするが、歌集や作品集はない。百瀬は、和田芳恵執筆の《筑摩書房の三十年》(筑摩書房、1970年12月25日)に登場する。上林暁の小説に拠ってはいるが、社史として書かれているので、和田の筆になる百瀬を見ることにしよう。

 〔上林暁の短篇小説〕「嶺光書房」のなかで、山田老人が初校を見て、再校は、あちらで国民学校の教師をしている人が厳密に見ることになっていると上林暁に言うのも、筑摩書房の実体が、古田の郷里の実家に移っていたからである。この国民学校は誤りで、当時、小野村の青年学校の教師をしていた百瀬勝登のことである。
 明治四十年生れの百瀬勝登は、松本中学、松本高校で、臼井吉見や古田晁の二級下であった。松本高校から、京都大学の哲学科にはいった。百瀬は早熟な文才を短歌の制作で示していた。郷里の先輩島木赤彦、太田水穂にも会ったが、百瀬は文学結社には批判的で、歌壇では自由な立場をとった。
 百瀬勝登は大学二年のとき、左翼運動にはいり、逮捕されたのち、獄中で転向を誓い、帰郷して、短歌の世界に没入した。そういう経歴のため勤め口がなかったためである。松本高校でドイツ語を教わった尾崎賢三郎の世話で、東大前の南山堂に入ったのは、昭和九年の末であった。百瀬は、南山堂に六年近く勤めたが、古田晁が筑摩書房をはじめた昭和十五年には、城戸幡太郎主宰の『教育科学研究』という雑誌を発行していた西村書店で編集の仕事をしていた。
 あの古田晁が出版社をはじめたかという感懐はあったが、百瀬は、かたくなに訪ねなかった。翌年、百瀬は、店主の西村と意見が合わず、辞めて帰郷、四月の新学期から小野青年学校で教鞭をとっていた。
 上伊那郡小野村は、古田晁の郷里東筑摩郡筑摩地村と隣接しているので、小野青年学校は、両村が共同の組合立になっていた。
 昭和二十年の夏の或る日、小野駅前の百瀬勝登の下宿へ、突然、古田晁が訪ねて来た。
「東京では仕事にならないのでこちらで印刷しているが、校正を見てくれる人がない。君に頼む」
 古田が手にして来たのは〔上林暁の作品集〕『夏暦』の校正刷であった。百瀬は、これを手はじめに筑摩書房の校正を見ることになった。(同書、一〇二〜一〇四ページ)

1907年生まれの百瀬はちょうど吉岡より一回り年長で(和田は1906年生まれ)、南山堂―西村書店―筑摩書房と、吉岡と勤務先を同じくした出版人だが、上掲の吉岡日記では西村書店で一緒だったことは読みとれない。《万葉短歌選》の〈あとがき〉に65歳で現役を退いたとあるから(同書、三一六ページ参照)、筑摩書房を退社したのは1972年ころか(《筑摩書房の三十年》の〈社員一覧表(四十五〔1970〕年六月十八日現在)〉には「社友」とある)。《ユリイカ》の吉岡実特集号あたりに出版人としての吉岡の思い出を書いておいてくれればよかったのだが、残念ながらそうした文章は見当たらない。ちなみに筑摩選書版《筑摩書房の三十年》(2011年3月15日、一二四ページ)には元版よりも鮮明な写真で、39歳(吉岡日記に登場する1946年ころ)の百瀬の肖像が掲載されている。吉岡は、筑摩書房に入社間もないころを〈和田芳恵追想〉にこう書く。

 私は昭和二十六年に、筑摩書房に入って、新企画の《小学生全集》を、先輩の一人と担当した。準備期間であり、時間に余裕があったため、図書目録をつくることを命ぜられた。たまたまその出来あがりがよかったので、初の個人全集《一葉全集》の内容見本をつくるように言われた。
 私はその時、はじめて和田芳恵なる人と出会ったのだ。いきが合ったせいか、内容見本も当時としては立派なものが出来た。装幀造本まで、私は手がけるようになってしまった。いくたびかお茶をのみ、雑談したりして、親しくなって、一葉研究の他に、《作家たち》と《十和田湖》《離愁記》などの小説を書いていることを知った。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一七五〜一七六ページ)

一体に書籍の組版指定は、表紙・扉類は別にして、本文よりも目次、目次よりも奥付のほうが難しい。活字の書体やサイズ、字割り、行間のアキなど、勘案すべき要素が急増するからである。まして図書目録のような販促物は、下の写真のように縦組と横組の混在もあって、よほどのベテランでなければ手に負えない代物だ。一般的な書籍よりもはるかに難しい。復員して5年半、吉岡はこの間に活字による組版指定の技術を完全に習得したものとみえる。

《筑摩書房 図書目録 1951年6月》の表紙 《筑摩書房 図書目録 1951年6月》の中面〔一六〜一七ページ〕 
《筑摩書房 図書目録 1951年6月》の表紙(左)と同・中面〔一六〜一七ページ〕(右)

図書目録の仕様は、一八〇×一二八ミリメートル・中綴じ・表紙4ページ本文32ページ(表紙は別紙で表紙1・4のみスミと臙脂の2色、本文スミ1色の活版印刷)。表紙の要素はすべて、本文の基本版面内に配置されている。内容からいって、ともすれば堅くなりがちなところを、表紙を横組にしてカットと色面で変化をつけているのが見事だ。目録の図書を全篇掲載するのは煩雑なので、各ページから最初と最後の著者名(訳者名)《書名〔備考〕》を(〜)で結んで摘する。なお【 】は目録のノンブル。仮名遣いはママ、漢字は新字に統一した。

【表紙1】図書目録/1951年6月/〔ヴィジュアル:植物のカットと幾何学的色面の組み合わせ〕/筑摩書房
【表紙2】
武者小路実篤・志賀直哉・小宮豊隆・安倍能成・中谷宇吉郎・小倉金之助・和辻哲郎・谷川徹三・大内兵衛・高橋誠一郎・辰野隆《わが師わが友》〔近刊〕〜井上頼豊《ロシアの民謡》〔近刊〕
【1】哲学・思想・宗教〔全27タイトル〕
田辺元《政治哲学の急務》〜田辺元《カントの目的論》
【2】
田辺元《ヴァレリイの芸術哲学》〜和辻哲郎《鎖国》
【3】
ヘーゲル(速水敬二訳)《哲学体系》〜サロモン・マイモン自伝(小林登訳)《一放浪哲学者の生涯》
【4】
大島康正《時代区分の成立根拠》〜ブルクハルト(樺俊雄訳)《世界史的考察》
【5】
島田虔次《中国に於ける近代思惟の挫折》〜アウグスチヌス(高桑純夫訳)《ソリロキア・浄福の生》
【6】
エックハルト(相原信作訳)《神の慰めの書》〜内村鑑三《四福音書の研究》
【7】評論〔全13タイトル〕
平野謙《島崎藤村》〜唐木順三《三木清》
【8】
唐木順三《現代史への試み》〜林達夫《歴史の暮方》
【9】歴史・紀行・民俗〔全5タイトル〕
李志常(岩村忍訳)《長春真人西遊記》〜石田英一郎《河童駒引考》
【10】国文学・中国文学〔全6タイトル〕
野間光辰《西鶴新攷》〜西尾実《国語教育学の構想》
【11】
吉川幸次郎《杜甫私記〔全4巻〕》〜土屋文明《万葉集私注〔全20巻〕》
【12】美術・随筆・書簡〔全5タイトル〕
高村光太郎《印象主義の思想と芸術》〜宮本顕治・宮本百合子《十二年の手紙》
【13】文学〔全38タイトル〕
モリエエル(辰野隆訳)《孤客》〜シャミッソー(手塚富雄訳)《影を売つた男》
【14】
メリメ(杉捷夫訳)《カルメン》〜シェイクスピア選集(中野好夫訳)《ロミオとジュリエット》
【15】
ネルヴァル(佐藤正彰訳)《夢と人生》〜ジイド(辰野隆ほか数氏訳)《秋の断想》
【16-17】
辰野隆・落合太郎・鈴木信太郎監修《ヴァレリイ全集〔全25巻〕》
【18】
《文学講座〔全6巻〕》〜ゲオルギウ(河盛好蔵訳)《二十五時》
【19】
平林たい子《かういふ女》〜椎名麟三《長篇 その日まで》
【20】
森鴎外《意地》〜中島敦《李陵》
【21】
宇野浩二解説《島崎藤村詩集〔復原版〕》〜《中島敦全集〔全3巻〕》
【22】
《井伏鱒二選集〔全9冊〕》
【23】
《中野重治選集〔全10巻〕》
【24】《中学生全集〔全100巻〕》
野上弥生子《1 アルプスの山の乙女》〜吉田甲子太郎《3 アンクル・トムの小屋》
【25】
吉田精一《4 私たちの詩集》〜木俣修《9 私たちの歌集》
【26】
井上丹治《10 蜜蜂の話》〜宇野浩二《15 十五少年漂流記》
【27】
峰田周一《16 偉大な数学者たち》〜八田貞義《21 細菌とのたたかい》
【28】
臼井吉見《22 大正名作選》〜大類伸《27 物語西洋史 中世》
【29】
吉田秀和・小倉朗・別宮貞雄《28 私たちの歌曲集》〜三好達治《33 私たちの句集》
【30】
大島泰平《34 新聞の話》〜谷川徹三《39 小泉八雲選》
【31】
日本放送協会《40 私とは何か》〜高橋邦太郎《45 リンカーンのあごひげ》
【32】
中沢公平《マルコ・ポーロ旅行記》〜〔著者名なし〕《孔子》
【表紙3】御注文について
【表紙4】〔CHIKUMAの鷹のマーク〕

すでに何度も書いたことだが、原則として自社の出版物に装丁者として社員の名前がクレジットされることはないから、入社した1951年から依願退社した1978年までの筑摩書房の出版物は吉岡実装丁の可能性があると考えないと、見落としかねない。もっとも、上で触れた190タイトル(いくつかは「近刊」で、最後の《孔子〔中学生全集〕》のように刊行されなかったものもある)を含む《筑摩書房 図書目録 1951年6月》掲載図書は、年代[クロノロジー]的にいって吉岡の装丁ではありえないから、対象から外していいだろう。候補選定の基礎となるのは、元版《筑摩書房の三十年》の巻末資料〈小社発行図書総目録〉(自 昭和15年6月18日/至 昭和45年6月18日)であって(こちらでカウントすると、吉岡の入社以前に刊行された書籍は約250タイトル)、筑摩選書版の巻末資料〈年譜(1940-1970)〉は網羅性に欠ける。1970年以降は創業50周年を記念した《筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)が格段に詳しい内容を誇るが、掲載が刊行順でないため、〈装丁作品目録〉のデータと突き合わせづらいのが難点だ。創業70周年(2010年がそれに当たった)の冊子体図書総目録がないのは、残念千万と言うもおろかである。

〔追記〕
ブレンターノ(百瀬勝登訳)《五つの夢》(地平社、1948)は、行分けの詩が文語調(《万葉集》に親しんだ訳者の素養が活かされている)で取りつきにくいが、「『少年の魔法のつのぶえ』の作者のメルヘンで、訳が本格的」(神宮輝夫〈子どもの文学の新周期―1945-1960〉)という評にあるように、いま読んでも楽しめるみごとなものだ。私が手にしたのは府中市立図書館所蔵の初版で、見返しに「熊井一郎様/百瀬勝登」とペン書きの献呈署名がある。裏表紙に「書き込み有り/汚れ有り」と図書館の注意書きが貼られているとおり、本書には青のボールペンでかなりの箇所に書き込みがある。これがどう見ても読者のものではない。出版者側の人間の手になるものと断定していいと思う。それどころか、旧字を新字に改めて引けば、

・さてこんどは、校長先生は戸〔(欠字)→口〕の方へ向つてさけびました。(一六ページ)
・その頭を王女様の膝にのせ、埃[ほこり]が空へまひあがるほどの大鼾を、咽喉[のど]と鼻〔でかい→から立て〕て眠つてゐます。(一一二〜一一三ページ)
・そこでピチャンポチャンは舟に四つの車輪を取附け、ツビンツビンは森から六匹の熊を呼びだして、〔(欠字)→前[まへ]〕綱[づな]をひいてみんなをカランカラン国まで運んでくれたら、大きな生姜[しやうが]入りの菓子を一つづつやらうと約束しました。(一二三ページ)

を見ると、訳者自身の書き込みとも思えるが、大部分を占める読点や一字二字の筆跡ではサンプルが少なくて、署名の文字と比較しづらい。以下に同書の署名と〔懶→[忄に頼]〕の訂正箇所を写真で掲げる。私にはこれが同じ人間の筆跡かどうか鑑定できない。

ブレンターノ(百瀬勝登訳)《五つの夢》(地平社、1948年6月30日、装丁:初山滋)〔府中市立図書館所蔵本〕表紙 ブレンターノ(百瀬勝登訳)《五つの夢》(地平社、1948年6月30日)〔府中市立図書館所蔵本〕見返しの署名 ブレンターノ(百瀬勝登訳)《五つの夢》(地平社、1948年6月30日)〔府中市立図書館所蔵本〕本文三〇ページへの書き込み 
ブレンターノ(百瀬勝登訳)《五つの夢》(地平社、1948年6月30日、装丁:初山滋)〔府中市立図書館所蔵本〕表紙(左)と同書・見返しの署名(中)と同書・本文三〇ページへの書き込み(右)

この本の来歴を整理してみると、@1948年の発行から遠くない時期に訳者・百瀬勝登からメーリケの訳者として知られる熊井一郎に献呈され、Aいかなる理由か不明ながら、百瀬(に近い出版者側の人間?)が本文に訂正を施し、Bいかなる事情か不明ながら、わりあい近年に府中市立図書館に入った(所蔵印がないかわりに、ICタグが貼られている)。筆記用具や筆跡の経年変化の具合から、@とAはどう考えてもこの順番でしかありえない。とすると、一度献呈した本を取り戻して(?)訂正を施したことになる。それとも訳者が古書店で見つけた署名本を買い戻して、訂正したうえで図書館に寄贈したか。しかし、寄贈の印もないし、古書店のラベルの痕跡もない。これが本当に訳者自身による訂正本なら、本のどこかに由緒が記されていてもいいくらいで、《五つの夢》を翻刻する際の貴重なテキストになることは確かだが、真相は不明だ。国会図書館の子ども資料室や関西総合閲覧室にある本とも較べてみれば、もう少しはっきりしたことがわかるかもしれない。

〔2021年7月31日追記〕
筑摩書房における吉岡実装丁本を調査するために、このところ近くの公共図書館から筑摩本を借りだしている。先日手にしたのは、佐藤清郎の《ゴーリキーの生涯》(1973年9月25日)、菊判8ポ2段組584ページの大冊である。著者の〈あとがき〉にこうある(末尾には「一九七三年盛夏/著者」)。

 現代はどこかこの本の「谷間の時代」に似ている。混迷、無気力、絶望、享楽、デカダン、自己満足、無関心、暴力……と多様な人間行為の横行からセックス文学の流行まで。「谷間の時代」の初めにゴーリキーの没落がささやかれ、その終りにはふたたびそのカム・バックが待望された。人はいつまでも谷間を這ってはいられないのだ。われわれはまたあの昭和初期のようにゴーリキーによって鼓舞される時代を持つかもしれない。
 〔……〕
 終りに、激励と支援を惜しまれなかった筑摩書房の関係者――百瀬勝登氏、松下裕氏の積年のご厚意に感謝するとともに、『若きゴーリキー』から引き続いてお世話になった編集部の大西寛氏に厚くお礼を申し上げる。
 〔……〕(同書、五七五ページ)

佐藤清郎の《若きゴーリキー》(1968年12月20日)は四六判282ページ。〈あとがき〉に「終りに、資料の渉読中から激励を受け、さらにさまざまなご尽力にあずかった筑摩書房の百瀬勝登氏に心からお礼を申上げる。」(同書、二七九ページ)とある。「昭和初期のゴーリキー」で文学に開眼した吉岡ではあるが(佐藤樹光による《どん底》や《母》の朗読)、《ゴーリキーの生涯》は社内装丁であるにしても(装丁者のクレジットなし)、吉岡の手になるものではないようだ。松下裕は、今日ではチェーホフ作品の翻訳者として著名。百瀬勝登は本書の担当者ではなく、編集部の大西寛の上司として出版企画を推進した、といった処だろうか。


「H氏賞事件」と北川多喜子詩集《愛》のこと(2012年1月31日〔2019年12月31日追記〕)

吉岡実は1959年5月、詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)で第9回H氏賞(当時の名称は「H賞」)を受賞したが、このことに関して驚くほど寡黙で、書籍として刊行された《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)でも《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(同、1987)でも同賞の受賞に言及しておらず、未刊行の散文で二度触れているだけだ。

一九五八年詩集『僧侶』刊行。一九五九年五月、和田陽子と結婚。第九回H賞受賞。(〈小伝〉、《現代日本名詩集大成 11》、東京創元社、1960年9月10日、三一〇ページ)

〔昭和三十四年〕三月三十日 木原孝一から電話、現代詩人協会に入る意志あるかと打診がある。入ればH賞をくれるらしい。いっとき、考えさせて貰う。どうも気に入らぬのでことわる。/三月三十一日 伊達得夫、清岡卓行来る。現代詩人協会に入って、H賞を受けろとのこと。友情に感謝するが翻意せず。/〔……〕/四月七日 現代詩人協会から改めてH賞を受けるようにと言ってくる。受諾し、伊達得夫へまず知らせる。その折、今日の詩人叢書の一冊として《吉岡実詩集》を出すこと決定。(〈断片・日記抄〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968年9月1日、一一九〜一二〇ページ)。
賞に対して恬淡としていた面はあるだろう。しかし、なによりも第9回H氏賞にまつわる「事件」を忌避する気持が、この沈黙に働いていなかったとはいえまい。草野心平に触れつつ吉岡が「H氏賞事件」について書いたのは、その晩年、1980年代のことである。「昭和三十四年 一九五九年 四十歳/初春、『僧侶』第九回H氏賞に推されるが辞退する。しかし友人らに奨められ、賞を受ける(いわゆる「H氏賞事件」起こり、草野心平の推輓を知る)」(〈年譜〉、《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月20日、二三二ページ)。そして〈心平断章――「H氏賞事件」ほか〉の
 「H氏賞事件」と謂われる一寸としたことが「詩壇」で起った。私の『僧侶』の授賞をめぐって、「怪文書」が新聞社や関係者などに、配られたのだ。だいぶ後で私は知ったのだが――当夜の選考委員会の席に、草野心平が遅れて来て、「オレは『僧侶』に一票入れるよ」と言ったらしい。まだ票決の段階に入っていない時なので、一部の人から、それは「事前演説」であり、違反だということになった。それが事件の発端になったようだ。当時、私は「ユリイカ」周辺におり、既成の詩壇とは、一線を画していた。この「事件」を他人事のように外部から眺めていた。(《草野心平 るるる葬送〔現代詩読本〕》、思潮社、1989年3月1日、九〇〜九一ページ)

原稿を見ていないので断言できないが、副題「――「H氏賞事件」ほか」を付けたのは編集部で、吉岡がタイトルに書いたのは「心平断章」だけだったろう。それにしても、文中の「 」の多さは尋常ではない。吉岡はふだん、このような文章を決して書かない。いわゆる、ひとつの、を連発しているのは、この件に触れることが乗り気でなかった証しである。賞の主催団体である日本現代詩人会(当時は「現代詩人会」。吉岡が〈断片・日記抄〉で「現代詩人協会」と書いているのは誤り)のウェブページ《H氏賞事件 ――その経過と結果 | 日本現代詩人会》に事件のあらましが載っている。書籍で同じ内容を掲載しているのが鎗田清太郎・丸地守〈日本現代詩人会六〇年史〉(日本現代詩人会編《資料・現代の詩2010》、『資料・現代の詩2010』刊行委員会日本現代詩人会、2010)だが、それによると、ことの発端は吉岡が書いたような草野心平の事前演説ではなく、事務担当・木原孝一の選挙運動と受けとられかねない行為(選考委員会招集のハガキに吉岡実・安水稔和・茨木のり子の三詩集の名が記されていた)にあった。草野にしても木原にしても他意はなく、単にH賞には《僧侶》がふさわしい(臆測をほしいままにすれば、《僧侶》にH賞を授与することが現代詩人会にとって箔が付く)とでも考えたのではないか。曲折があったものの、最終の無記名・単記投票の結果は《僧侶》が最多の7票、以下、北川多喜子詩集《愛》が5票、《吉本隆明詩集》が1票だった。鮎川信夫編集解説の《吉本隆明詩集〔今日の詩人双書3〕》(書肆ユリイカ、1958)はともかく、こんにち北川多喜子の第一詩集《愛》を誰が読むだろう。同書は国立国会図書館にも日本近代文学館にも所蔵されていないので、〈日本の古本屋〉で検索して古書を入手した。なお北川多喜子の著書をCiNii Booksで検索したところ該当作はなく、Webcat Plusで山本和夫編《現代少年詩集〔新日本少年少女文学全集40〕》(ポプラ社、1961)がヒットした(本書は未見)。

北川多喜子詩集《愛》(時間社、1958年12月29日)の表紙と同・挟み込み冊子《北川多喜子を理解するために(各界諸家推薦の言葉)》
北川多喜子詩集《愛》(時間社、1958年12月29日)の表紙と同・挟み込み冊子《北川多喜子を理解するために(各界諸家推薦の言葉)》

北川多喜子詩集《愛》(時間社、1958年12月29日)の仕様は、二三六×一六三ミリメートル・七六ページ・並製・紐で中綴じ・くるみ表紙がんだれ装。帯文(表1に式場隆三郎・田中絹代・武田泰淳、表4に草野心平・三好達治・村野四郎)。二色刷りの扉の裏に「デッサン 林武/装釘 原安佑」のクレジット。小扉のあとに西脇順三郎の〈序〉(4ページ)、深尾須磨子〈北川夫人〉(3ページ)、林武のデッサン(1ページ)。〈愛――日日の不安〉の扉のあとから本文が始まる。五燭の電燈/愛/脱出のねがい/対決/月/格闘/土の抵抗/断崖/海の顔/荒海/川/首/火刑/魔境/早春(本文、合計34ページ)。林武のデッサン(1ページ)。〈跋〉として井伏鱒二(2ページ)、小野十三郎(2ページ)、今村太平(1ページ)、田中澄江(1ページ)、大江満雄(3ページ)。〈あとがき〉が北川冬彦(2ページ)、多喜子(1ページ)。〈目次〉(2ページ)、末尾に再び「デッサン 林武/装釘 原安佑」のクレジット。二色刷りの奥付(1ページ)。本体と別にA5判10ページの《北川多喜子を理解するために(各界諸家推薦の言葉)》という挟み込み冊子が付く。本体の〈序〉〈跋〉〈デッサン〉〈装釘〉の人名がクレジットされている同冊子表紙の下方に、本書の概要が記されているので引く。「B5変形大型判,上質紙百斤,フランス装極美麗本,定価355円(改訂)〒32」。「B5変形大型判」「上質紙百斤」はいいとして、「極美麗本」かどうかも問わないとして、私の手にしている古書が原装だとすれば、断じて「フランス装」ではない。単なる中綴じである。挟み込み冊子《北川多喜子を理解するために(各界諸家推薦の言葉)》には、中根巖(医博、方南病院長)に始まり櫻井勝美(詩人/「時間」同人)に終わる51人の推薦の言葉が掲載されている。標題を引くのは煩に堪えないので、肩書き抜きで執筆者名のみ掲げる(掲載順。旧字は原文)。

中根巖/田中絹代/四家文子/武田泰淳/澤村貞子/三好達治/村野四郎/草野心平/北園克衛/式場隆三郎/塩月正雄/南博/金子光晴/藏原伸二郎/飯田心美/橋本忍/鐡指公藏/滋野辰彦/原安佑/高橋新吉/安西均/木原孝一/三井ふたばこ/上林猷夫/土橋治重/中村千尾/塚谷晃弘/小海永二/植草圭之助/飯島正/加藤玉枝/榮田清一郎/宇井英俊/小林勝/依田義賢/鎗田清太郎/安藤一郎/澁川驍/真壁仁/宮崎孝政/長江道太郎/扇谷義男/三好豊一郎/長島三芳/鵜澤覺/杉山市五郎/江頭彦造/町田志津子/影山誠治/長尾辰夫/櫻井勝美

推薦の言葉のなかから、第9回H氏賞の選考委員を務めた村野、草野、木原の三人の現代詩人会幹事と、選考には関わっていないがモダニズム詩の重鎮である北園の評を見よう。

○ 村野四郎(詩人)
 シュペルヴィエルの詩の中にある、生と死の仕切りを、できるだけ薄く透明にしたのは、リルケだと、マルセル・レイモンは書きましたが、北川多喜子さんの仕切りをとって了ったのは誰なのでしょう。
 多喜子さんはオルフェのように、その境を自由に出入りする。その様子が私たちに、ある時は、とても新鮮な知覚を与えます。(《北川多喜子を理解するために(各界諸家推薦の言葉)》、一〜二ページ)

○ 草野心平(詩人)
 無気味で温暖なこれら一聯の夢は、リアリティに裏打ちされてゐるために突飛でなくまっとうである。
 詩の可能性といふものは計り知れない。(同前、二ページ)

○ 北園克衛(詩人)
 この詩集は、次ぎの二つの理由から、文学的業蹟としての価値を高く買うものです。
  その一つは、「時間」が永い間主張してきたネオ・リアリズムの理論が非常にフレクシブルに肉化されて、散文詩としてのスタイルを完成している点です。このことは、この詩集の全作品がそれぞれ均整のある作品となっていることでも明かであります。それから他の一つの理由はこの著の簡潔で弾力性に富んだ詩的想像力の独自性にかかるものですが、単純で素朴な表現のなかに微妙なフィクションをモザイクのように構成しているのは極めで魅力です。(同前、二ページ)

劇的迫力を持つ詩集 木原孝一(詩人)
 北川多喜子氏のこの詩集の魅力のひとつは、ヴィジョンの鮮明さにあります。そのヴィジョンは頭のなかにムリヤリにつくりあげたというものではなく、きわめて自然に内部風景としてつかまえられています。そしてさらに注目すべきことは、その内部風景のなかでは、なにかが必ず動いている、ということです。そのために、読者はこの鮮明なヴィジョンを見つめたとき、同時に詩人の内的ドラマをありありと見せられてしまうわけです。
 私はこの幾つかの詩のなかに、アヴァンギャルド映画のシナリオと同質のものを感じとったことを告白しましよう。それはカラアでなく、モノトオンで製作されねばなりません。
 なぜなら、このようなヴィジョンをカラアで再現し得るような手腕を持つ映画作家は、残念ながらまだどこにもいないからです。そしてそれは現代詩人のなしとげねばならぬ特権的な仕事のひとつでもあります。(同前、四ページ)

肩書きの(詩人)が《愛》帯文担当の時間社の編集者の間違いではないかと目を疑うような文言のオンパレードだが、これが《時間》の主宰者・北川冬彦への挨拶だと考えれば理解できないでもない。しかし著書への礼状など(どこから見てもそうだ)、篋底に秘すべき性質のものであって、それをとくとくと冊子にまとめてどうしようというのか。《静物》(私家版、1955)を出しただけの吉岡実にはまだ《ユリイカ》周辺の知友しかなかったにしろ、版元の社主・伊達得夫は違う。「推薦の言葉」を依頼できる「各界の諸氏」も多かろう。《僧侶》は、詩篇本文のほかは目次と創作期間、初出一覧と著書目録、奥付だけで、帯文も序も後書きもない(吉岡と伊達以外で制作に関わったのは、函の写真を撮影した奈良原一高ただひとり)。これが見識というものだろう。結果的に事件の発端を用意した木原孝一は、当時《詩学》の編集者でもあったが、16年後、日本現代詩人会についての文章でH氏賞とH氏賞事件を次のように総括した。

昭和二十六年、匿名の某氏の後援によって、現代詩人会に詩人賞が設けられ、その第一回は「時間」の詩人、殿内芳樹の詩集『断層』と決定した。この詩人賞は、長い間、後援者が明らかにされなかったが、そのイニシァルをとってH氏賞と呼ばれることになった。H氏賞は新人賞か、功労賞かその性格が不明確だったが、昭和三十九年〔上林猷夫の〈日本現代詩人会三十年史〉(後出)に拠れば「昭和三十五年一月十五日」(五六ページ)である〕、いわゆるH氏賞事件を契機として、「H氏賞選考基準」が定められ「この賞は新人のすぐれた詩集を広く社会に推奨することを目的とする」こととなった。H氏賞事件とは、昭和三十四年度のH氏賞をめぐって、その性格が曖昧なところから、二派に分れて論争が行われたもので、匿名の投書、怪文書などがあらわれて、ジャーナリズムの話題となった事件である。この事件は、現職幹事全員の辞任、当時の北川冬彦幹事長の脱退によって終止符を打ち、現代詩人会は新しく、日本現代詩人会と名を変え、H氏賞選考基準を設けて新発足した。このとき、H氏賞の後援者H氏は長い間のヴェールをとり、素顔をあらわした。H氏とは、かつてのプロレタリア詩人会の委員長平沢貞二郎が、戦後、実業家となり、新詩人育成のために賞金を提供したものであった。(《日本の詩の流れ〔日本の詩〕》、ほるぷ出版、1975年12月1日、二〇四〜二〇五ページ)

H氏賞は創設当初から新人賞であって、功労賞ではない。「H氏賞は新人賞か、功労賞かその性格が不明確だったが」に、木原の痛烈な皮肉を読まなければならない。分銅惇作・田所周・三浦仁編の《日本現代詩辞典》(桜楓社、1986)と安藤元雄・大岡信・中村稔監修、大塚常樹・勝原晴希・國生雅子・澤正宏・島村輝・杉浦静・宮崎真素美・和田博文編の《現代詩大事典》(三省堂、2008)の北川多喜子(多喜・多紀、こと田畔多紀もしくは田畔佳代子)の項を引くことで、北川作品の紹介に代える(執筆は、《日本現代詩辞典》が桜井勝美、《現代詩大事典》が山根龍一)。

北川多紀 きたがわ たき 詩人。明治四五・五・七〜(1912- )。本名田畔[たぐろ]多紀。福島県相馬郡生まれ。北川冬彦夫人。『愛』(昭34 時間社)は、極めて日常身辺的な事象を昇華させて鬼気迫る夢幻的な詩的現実の世界を創造している。ネオ=リアリズム詩の一成果を示すものとしての評価を得ている。ほかに『女の棧[かけはし]』(昭53 同)がある。「時間」同人。「ヨーロッパの見聞」(「時間」昭40・l〜41・7)により、第二回北川冬彦賞受賞。(《日本現代詩辞典》)

北川多紀〈きたがわ・たき〉 一九一二・五・七〜
 福島県相馬郡生まれ。多喜子とも表記。本名、田畔[たぐろ]佳代子。北川冬彦夫人。一九五四(昭29)年、「時間」同人となる。第一詩集『愛』(五八・一二 時間社)は病床で見た幻覚を綴ったもので、夢と現実、生と死の間を一行き交う作風は、「『時間』が永い間主張してきたネオ・リアリズムの理論が非常にフレクシブルに肉化されて、散文詩としてのスタイルを完成している」(付録小冊子・北園克衛の推薦の辞)とされる。「ヨーロッパの見聞」で第二回北川冬彦賞、「横光利一さんと私の子」ほかで第六回同賞を受賞。ほかに詩集『女の桟[かけはし]』(七八・一 時間社)がある。(《現代詩大事典》)

北川の没年だが、菅野俊之の〈H氏賞事件と北川多紀〉(《〔福島〕自由人》24号、2009年10月)は、南相馬市在住の詩人・若松丈太郎の調査に拠りつつ、「平成十三〔2001〕年ごろということになるが、この点については今後の調査に俟ちたい」(同誌、一一二ページ)としている。12歳年長だった北川の夫・冬彦と、北川より7歳年少だった吉岡実は、ともに1990年4月・5月と相前後して亡くなっている。吉岡実に北川多紀および北川冬彦に触れた文章はない。

〔2019年12月31日追記〕
《現代詩手帖》1959年7月号(創刊第2号)の別丁目次のあとの別刷巻頭口絵はモノクロ1丁だが、〔五ページ〕の〈詩人をデザインする〉は鳥居良禅撮影の西脇順三郎(文責・編集部の短文〈わが詩法〉を付す)、〔六ページ〕が〈特集・現代詩人会〉である。〈特集・現代詩人会〉のテーマはふたつ。ひとつは「滑り出した新幹事長」という、東京新聞・北村俊史撮影の現代詩人会新幹事長・北川冬彦のスケート姿(短文のタイトルは〈わが健康法〉)。もうひとつの「五月の詩祭スナップ」は高田新撮影の4点の組写真で、@会場入口、A室生犀星氏に敬意を評する北川冬彦氏、そしてBとCにこの年4月に《僧侶》で第9回H賞を受賞した吉岡実が登場する。原典のキャプションとともに掲げよう(なお授賞式は、〈吉岡実と文学賞〉に記したように、「5月27日18:00〜「五月の詩祭」内 [会場]東京・赤坂「草月会館ホール」」である)。難波律郎と話し込む吉岡の隣で、うつむく北川冬彦の姿が印象的だ。

「B 受賞者吉岡実氏とその人柄を語る平林敏彦氏」 「C 懇親会。手前から北川、吉岡、難波律郎氏、」
「B 受賞者吉岡実氏とその人柄を語る平林敏彦氏」(左)と「C 懇親会。手前から北川、吉岡、難波律郎氏、」(右)〔出典:《現代詩手帖》1959年7月号、〔六ページ〕〕

――――――――――

第9回H氏賞の選考委員は次の15名。いずれも現代詩人会の幹事である。安西均、安藤一郎、伊藤信吉、緒方昇、上林猷夫、北川冬彦、木原孝一(副幹事長)、草野心平、高橋新吉、土橋治重(副幹事長)、長島三芳、西脇順三郎(幹事長)、三好豊一郎、村野四郎、山本太郎。上林猷夫の〈日本現代詩人会三十年史〉には「第九回H氏賞は、直ちに各新聞、雑誌に通知すると同時に、事前の約束に従って、「詩学」五月号に事務当局からの選考経過と、各選考委員が感想を執筆することになった。しかし、十四名〔安西均は病気のため欠席〕の選考委員中、感想を書いたのは、安藤一郎、緒方昇、上林猷夫、北川冬彦、高橋新吉、土橋治重、村野四郎、長島三芳の八名であった。今回の選考方法は、無記名、単記投票であったが、従来通り選考委員それぞれの見識に従って決められるべきものであった。「詩学」に「選評感想」を書いたことで、当然ながら投票詩集が分った。ところが、二位になった北川多喜子『愛』に投票したものの中に、投書をしたものがいるのではないかと、投書主が確認出来ないままに、幹事相互間に疑心暗鬼を生じ、また、詩壇ジャーナリズムが明確な根拠もないのに臆測記事を流し、問題がひろがって行った」(日本現代詩人会編《資料・現代の詩》、講談社、1981年6月20日、五二ページ)とある。《詩学》1959年5月号の〈第九回現代詩人会H賞詮衡委員感想〉で吉岡実に言及したのは安藤・上林・北川・高橋・土橋・村野・長島の7名で、西脇の感想が書かれなかったのはかえすがえすも残念だ。西脇には《愛》巻頭の〈序〉ではなく、《僧侶》の感想をこそ! 菅野俊之は前掲文で「西脇順三郎は候補詩集を読んでいないという不可解な理由で〔選考を〕棄権したが、苦渋の選択だったのかも知れない」(同誌、一〇九ページ)と推測している。奇怪なばかりか幼稚で醜悪なこの「H氏賞事件」(たかが新人賞の選考ではないか)は、西脇順三郎による《僧侶》評の発表という千載一遇の機会を奪った。第9回H氏賞受賞者の吉岡実の側から見たとき、問題はこの一点に尽きよう。事を起こした現代詩人会の某幹事は、このことだけでも責めに値する。


吉岡実詩集本文校異について(2011年12月31日〔2019年4月15日追記〕)

2008年11月30日、詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)の刊行50周年を記念して掲載を開始した吉岡実詩集本文校異は、2011年11月30日の詩歌集《昏睡季節》(草蝉舎、1940)をもって全12冊262篇の掲載を完了した。吉岡実が生前に刊行した全詩集の本文校異を掲載日とともに一覧にする。

@吉岡実詩歌集《昏睡季節》本文校異(2011年11月30日)
A吉岡実詩集《液体》本文校異(2011年10月31日)
B吉岡実詩集《静物》本文校異(2011年7月31日)
C吉岡実詩集《僧侶》本文校異(2008年11月30日)
D吉岡実詩集《紡錘形》本文校異(2009年3月31日)
E吉岡実詩集《静かな家》本文校異(2009年11月30日)
F吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》本文校異(2009年12月31日)
G吉岡実詩集《サフラン摘み》本文校異(2010年1月31日)
H吉岡実詩集《夏の宴》本文校異(2010年6月30日)
I吉岡実詩集《ポール・クレーの食卓》本文校異(2010年12月31日)
J吉岡実詩集《薬玉》本文校異(2011年2月28日)
K吉岡実詩集《ムーンドロップ》本文校異(2011年4月30日)


吉岡実詩集本文校異は完了までに丸3年を要した、本サイトにおいて一、二を争う大きなプロジェクトとなった。一区切りついた現時点で総括を記すことは私にとって歓ばしい義務である。本稿では、こうした文書をパーソナルコンピュータ(PC)で作成し、ウェブページに公開することの効用と限界について述べる。効用はあとで触れるが、限界については上記の吉岡実詩集本文校異を閲覧する者にとって不可欠な情報となろう。それは、おもにインターネットにおける文字(とりわけPCで標準の文字コードであるシフトJISにない漢字)の表示に関する問題である。
21世紀を現代とすれば、現代文を表記するのに私は現行のシステムに特段の不便を感じない。PCのキーボードを叩いて文を綴りながら、手書きとどう違うか考える気も起こらないくらい、この執筆方法はなじんだものになっている。そんなことを言えるのも私が旧字・旧仮名で執筆しないからであって、塚本邦雄のような用字・用語(正字・歴史的仮名遣い)で文章を書こうと思えば、新字・新かなを前提にしたPCのシステムは桎梏と化す。アルファベットのキーを叩いてローマ字を綴り、かなを変換するIME(日本語変換プログラム)は想定したようには機能せず、執筆する者の思考は寸断され、最悪の場合、一文字一文字入力する破目に陥らないとも限らない。IMEの不便さえしのげば、「ゐ・ゑ」の旧仮名文字が標準装備されている仮名の表示・印刷はまだどうにかなる。それが漢字になると、点の向きひとつ違っても新字と旧字は別物だし、そうした漢字はシフトJISには新字しか用意されていない。ウェブページにユニコードで表示できる漢字(たとえば「雞」)でも、それをコピーしてテキストファイル(アルファベットや数字を含む文字と、句読点や括弧などの記号から成る)に保存すると「?」に化けてしまう。このように手蔓がまったくなくなってしまうのを防ぐために、本サイトのトップページでは「雞〔ニワトリ〕」とすると宣言したが、吉岡実詩集本文校異では原文を尊重して〔ヨミガナ〕を付していない。ところで私は、テキストファイルで表示できない文書は作成しないことにしているから、自分の文章にユニコードは使わない。これはあとで述べるように、文章(新字・新かなであろうが、旧字・旧仮名であろうが)の作成はテキストエディタで行ない、原則としてワードプロセッサを使用しないからだ。電子テキストの裸形をなすテキストデータを扱うのがテキストエディタであり、テキストデータに余分な衣裳をまとわせるのがワードプロセッサだと言ってもいい。もっとも、他者の文章を掲げる必要のある評論や研究では「ユニコードは使わない」とうそぶいていられない。「旧字は新字に、歴史的仮名遣いは現代かなづかいに改めた」と断わって引用文を掲げるのも、ひとつの方策ではある。だが詩集の本文校異ともなれば、可能なかぎり底本を忠実に再現しなければならないことは言を俟たない。話を具体的にするために、吉岡実の初刊単行詩集本文の表記をふりかえっておこう。

@《昏睡季節》 旧字旧仮名(ひらがなの拗促音は並字)
A《液体》 旧字旧仮名(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)
B《静物》 旧字旧仮名(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)
C《僧侶》 旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)
D《紡錘形》 旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)
E《静かな家》 新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)
F《神秘的な時代の詩》 新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)
G《サフラン摘み》 新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)
H《夏の宴》 新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)
I《ポール・クレーの食卓》 新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)
J《薬玉》 新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)
K《ムーンドロップ》 新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)

本文旧字旧仮名が@〜B、旧字新かながCとD、新字新かながE〜K。(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)が@〜E、(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)がF〜Kとなる。電子テキストで可能なかぎり原文を忠実に再現しようとした場合、問題なのが@〜Dの初刊単行詩集の旧字の字体である(《液体》本文校異の〈液體U〉の旧字使用形を参照のこと)。吉岡実詩集本文校異は、詩篇の初出―初刊(単行詩集)―集成(《吉岡実詩集》や《吉岡実全詩集》など)に印刷された詩句を、《吉岡実全詩集》掲載形を基底[コピー]テキストにして、相違点を異読[ヴァリアント]として明示する形を採っている。校異の解説・解題では、この異読を便宜的に吉岡実の「手入れ」と呼んだが、そこには原稿上の誤記や組版上の誤植を訂正することを著者が認めた変更が含まれるわけだから、それらは「校訂」や「校正」と呼ぶのが正確である。吉岡実詩の創造過程の追跡を主眼にした場合、異読の表示に表記体系の変更に伴う漢字やかなづかいの違いまで持ちこむのは得策でない。吉岡の手入れであるだろう、有意の差異が埋もれてしまう危険性があるからだ。では、一連の本文校異の表記体系として採用すべきはどのようなものか。吉岡実詩は《神秘的な時代の詩》(1974)以降、すなわち思潮社版《吉岡実詩集》(1967)のあと、漢字は新字、かなづかいは新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)となり、その表記の方針は吉岡が1990年に亡くなるまで変わらなかった。吉岡実詩集本文校異ではこれを受けて、旧仮名表示しか存在しない《昏睡季節》(1940)を除いて基底テキストを新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)に統一し、漢字は新字に統一した。初刊の《液体》と《静物》(1955)の旧仮名は、のちに吉岡自身によって新かなに改められているので、新かなを採用した。つまり、中期・後期の吉岡実詩の表記方針を初期・前期の吉岡実詩のそれに適用したことになる。校異をPCで作成しウェブページに公開するに際して、それらと親和性の高い表記体系にする(かなは旧仮名も新かなも新かなに、漢字は旧字も新字も新字に統一する)ことで、一件落着かと思われた。
だが、これで終わりではなかった。新字に統一した場合でも変わらない「蠟」や「鷗」といった漢字を、シフトJISが採用する「蝋」や「鴎」という拡張新字体で表わさざるをえなかったのだ。吉岡は印刷物でこれらの拡張新字体を意図的に用いたことはなかった(新聞社や雑誌社・出版社、印刷所の都合によると思われる使用例はある)。したがって「蠟」や「鷗」とするのが本筋だが、これらは目下の私の作業環境であるOS(Microsoft Windows7)では「環境依存文字(unicode)」のためテキストファイルでは画面表示も印刷もできないことは、すでに述べた「雞」の場合と同様である。校異の解説で拡張新字体は本意でないと釈明しながら使用している所以だ。私が吉岡実詩集本文校異をウェブページ掲載のhtmlでも、Word文書でも、Excelファイルでもなく、テキストファイルで操作することを最優先にしているのは、第一に電子テキストの根幹をなすテキストデータを最上位に置いたため、拡張新字体を環境依存文字に優先させたからであり、第二に文字情報をレスポンスよく処理するためにテキストエディタで作業するからである。拡張新字体の使用を除いた漢字の表記方針は、《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)の〈本書の編集について〉の「(5) 用字・表記については、前記の各底本に準拠し、字体は新字体に統一する。「未刊詩篇」もこれに準ずる」(同書、七七二ページ)と一致する。全詩集が本文の表記に吉岡実詩後半(中期・後期)の表記体系を採用している理由は書かれていないが、これまでに述べてきた事柄から充分に納得いくものだ。さらに、吉岡実詩の〔〕という手入れの状況を詩篇の初出―初刊―集成の本文間で照合するには、テキストファイルで作業するに如くはない。具体例を挙げて説明しよう。〈挽歌〉(A・1)の本文をコピーして、テキストエディタを開いてペーストしテキストデータにすると、の太字はキャンセルされて次のようになる。
洋〔1Y燈→S灯→23燈〕は消え
頭骸をつき出る
銹びたフォークの尖に
一匹の狐がめざめた
それは医者のにぎる
北十字星よりも
距離を冷たく
呼吸管へ起伏し
ぬれた夕刊紙でつつまれ
少年たちは饒舌に
よごれた食器の中で
翼を焚き
落葉へかさな〔1YS2つ→3っ〕て
ながれてしま〔1ふ→YS23う〕
の異読はさほど重要でないと判断した場合、その表示を削除して整理すると
洋燈は消え
〔……〕
落葉へかさな〔12つ→3っ〕て
ながれてしま〔1ふ→23う〕
となり、校異の本文は「かさなつ/って」「しまふ/う」という(ひらがなの拗促音の並字/小字)と旧仮名/新かなの相違に帰着する。すなわち、〈挽歌〉には後年の吉岡実による詩句への手入れはない、ということになる。こうしたテキストデータのハンドリングには、可能なかぎりテキストファイルにした本文が最適だ。繰りかえすが、本文の電子テキストの基本はテキストファイルである。初出形であれ最終形であれ、詩篇の読解・研究の出発点は底本の確定であり、本文の策定である。印刷本による近・現代の詩人の本文校異はたいていの場合、異同箇所だけを摘した略記型の記述なので、本文の読解や比較・分析には通常の文章に戻す、つまり基底テキストに異読を嵌入する必要がある。作者の創造的な手入れに特化した分析では、誤記や誤植、表記体系の変更に伴う漢字や仮名の改変など、ノイズとなる要素を除去しなければならない。これを印刷本で最初から行なうとなると、本文を準備するだけで一仕事になってしまう。整えられたテキストデータから必要に応じて本文を作成することは、印刷本からの作業に較べてはるかに簡単だし、間違いも少ない。自分が必要とする本文(たとえば「作者の創造的な手入れ」だと思われる異読を嵌入した本文)を自在につくりだすことができる――これが作品をテキストデータ化することの最大の利点である。詩句の高速検索が可能なことは言うまでもない(印刷テキストとの比較・照合を考えると、プリントアウト時の書体は「MS明朝」などの固定ピッチフォントがベストだ)。このように校異の本流ができていれば、支流を加えることは容易である。かつて私は、本サイトで流布本における《僧侶》本文について解説を加えた。

現代日本名詩集大成版《僧侶》本文のこと(2008年8月31日)
吉岡実の装丁作品(60)(2008年9月30日)

作者の手入れのあった可能性のある本文をトレースしていけば、すなわち〈吉岡実詩集《僧侶》本文校異〉に上記のアンソロジー収録の内容を加え、さらにそれ以前に刊行されている《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959)――複数回増刷されている本書を本文校異の対象として、いずれは精査したい――も加味すれば、詩集《僧侶》本文の変遷の大筋をたどることができる。しかしながら結論を先に言ってしまえば、力点を置くべき処はおのずと限られてくる。吉岡の制作態度からいって、詩集になって以降の本文の直しは誤記・誤植の訂正がほとんどで、実質的要素(サブスタンティブス)の変更はまずないから、初出―初刊の間の手入れこそ集中的に解明されるべきだ。その際、本文だけでなく掲載した媒体も細かく見る必要がある。
ところで、インターネット掲載の引用文に底本が明示されることは稀だ。原文の完全な再現が想像以上に難しいという別の側面もある。ためしに「吉岡実 僧侶」でGoogle検索してみると、約18,000件がヒットし、トップ10のうち6件が〈僧侶〉(C・8)全文を掲げているが、底本を明示しているものは皆無だ。再現の面では、10行めの漢字の表記にみな苦労している。6件のうち、ユニコード使用の「一人は自瀆」が1件、拡張新字体使用の「一人は自涜」が4件(そのうち〈僧侶 - 日本ペンクラブ:電子文藝館〉は私が著作権者に許可をもらって掲載したもの)。「一人は自潰」というのが1件あったのには、驚き、あきれた。どう考えても底本の誤植ではなく、OCRによる誤変換のチェック漏れだろう。こういう本文を検証もせずに孫引きすると、吉岡実詩に存在しない詩句が流通することになる(自潰とは「腫瘍がその部位ではこれ以上大きくなれなくなった時起こす潰瘍化」だと〈ももの時間  猫の乳癌〉にある)。ついでながら、9節から成る〈僧侶〉を「連作」とするのも誤りだ。詩篇〈僧侶〉は初出時から一貫して全行がまとめて発表・掲載されており、連作ではない。ある節だけ引かれた〈僧侶〉にどこかで触れて、各節が個別に発表されたものと臆断したか。インターネットに掲載する本文は、自分が執筆したものでないかぎり出典を表示(もしくは引用元にリンク)すべきだし、なによりも引用文は正確でなければならない。
吉岡実詩集本文校異のプロジェクトでは、原資料(印刷物〔のコピー〕)を直接参照しなくても概要が復元できるような記述を心掛けた。次の〈僧侶〉のように解題に詳述したから、初出本文の画像情報がなくても推察は可能だろう。画像情報の重要性はまぎれもないが、今回は印刷用原稿や稀少な図像に限定して掲載し、通常の本文版面は割愛した。なお、本文活字の組方・書体は、縦組・明朝体をデフォルトとして言及せず、ほかのときだけ記載した。

初出は《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1957年4月号〔2巻4号〕三七〜四一ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ22行1段組、9節84行。なお、節表示のアラビア数字やローマ数字の位置は、が二字下がり、が天ツキ、が三字下がりだが、本稿では天ツキに統一し、数字の表示内容に異同がないため、を含めて校異の対象としなかった(以下同)。

現時点では残念ながら、吉岡実詩集本文校異はウェブページならではの使い勝手の面が考慮されていない。〔〕の異同を含んだリニアな詩篇本文のテキストデータという素材にすぎない。ただしそれは、吉岡実の全12詩集を構成する262篇の印刷テキストを電子テキストに転写した最初のものである。《吉岡実全詩集》は15年前すでに「最後の活版印刷」と言われた(活字製版による書籍は、書肆山田などごく少数の版元の出版物として、今日でも新刊が出されている)。いまや学術版編集は、活版印刷どころか印刷テキストですらなく、電子テキストに切り換わりつつある。電子テキストの問題点と利便性は本稿でそのあらましを指摘した。
今日、20世紀後半=昭和後期を代表する詩人吉岡実の全詩業を読解・研究することは、ひとり日本人にとどまらず、広く日本語を解するあらゆる人人にとっての歓びであると信じ、私の吉岡実詩集本文校異の試みがその礎となることを願っている。

――――――――――

* 本稿を執筆するにあたって、ピーター・シリングスバーグ(明星聖子・大久保譲・神崎正英訳)《グーテンベルクからグーグルへ――文学テキストのデジタル化と編集文献学》(慶應義塾大学出版会、2009年9月25日)、ルー・バーナード・キャサリン・オブライエン・オキーフ・ジョン・アンスワース編(明星聖子・神崎正英監訳、松原良輔・野中進訳)《人文学と電子編集――デジタル・アーカイヴの理論と実践》(慶應義塾大学出版会、2011年9月5日)を参照した。シリングスバーグは専門とするヴィクトリア朝小説のデジタルアーカイブについてこう書いている。
 W・M・サッカレーの作品の編集に長期間携わったことと、「ヴィクトリア朝小説の諸相」への新たな関心とが、私にある一つの方策を思いつかせた。それは、不可能な夢のような提案の核となるものであり、ヴィクトリア朝小説のデジタル・アーカイブの構築を体系的に行うためのものだ。まず、当時の装丁のままの初版本の画像から始まる。続いて、デジタル化されたオリジナルのテキストが含まれ、それに加えて、大胆な編集者によって編まれた新しいテキストと、出版その他の歴史的な註釈が与えられる。私は想像する。最初のホームページが、根茎を蓄えた地下室というか書庫への扉と同じ役割を果たし、利用者はそこを通って、ヴァーチャルな書誌のなかへと入っていくのである。書架のエリアは、まるで本物のような書物が並んでおり、クリック一つで、年代順(この場合、たとえば私は一八五九年に刊行された小説すべてを見ることができる)、著者名アルファベット順、初版の値段順、形式順などで配列し直すことができる(たとえば、一二シリングで発売された二巻本小説を、三六シリングで発売された三巻本小説と区別することができる)。私は夢見ている、このヴァーチャルな書架のなかに、パリッシュ、テイラー、ウルフ、メッツドルフ、サドラー、マクリーンといったコレクションに集められた書物が一体となり、それどころかボドリーアンや、ブリティッシュ・ライブラリーの書物も一体となることを。そして、キーボードを操作するだけで、その書架から好きな本を取り出して読めるのだ。さらにテキストを調べ、並行[パラレル]テキストを瞥見[べっけん]し、歴史・テキス卜についての註を読み、難解な箇所を冗長モードまたはバックグラウンドモードに回し、ハイパーリンクを――好きなところでいいのだが――映画や舞台での脚色、翻訳、その他関連する書評やコメントに向けて貼ることができる。(〈第6章 電子テキストのじめじめした貯蔵室〉、同書、二〇五〜二〇六ページ)
私はこの「不可能な夢のような」デジタルアーカイブを、本サイト《吉岡実の詩の世界》に掲載する文章をまとめる際の情報(冊子資料、インターネット資料とも)をその内容だけでなく、取得や解釈といった行為まで含んで包括的に構築したもの、というふうに理解した。

〔2019年4月15日追記〕
吉岡実の生誕100周年(2019年4月15日)を記念して、〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉(小林一郎 編)〔A4判縦位置で印刷すると、約[293]ページ〕を新規ページとしてアップした。ただし、本サイトでは《〈吉岡実〉を語る》の一項目という位置づけのため、トップページの〈目次〉には掲出しない。


吉岡実詩歌集《昏睡季節》本文校異(2011年11月30日〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実の詩歌集(ただし原本の表記は「詩集」)《昏睡季節》は1940年10月10日、草蝉舎すなわち吉岡の自宅を発行所にして自費で出版された。吉岡最初の著書であり、20篇の詩作品から成る〈昏睡季節〉と1篇の和歌作品〈蜾蠃〔スガル〕鈔〉(短歌44首および旋頭歌2首)の二部構成で、すべてが書きおろしである。なお、同書に目次はない。和歌作品の校異はすでに〈吉岡実歌集《魚藍》本文校異〉で行なったので、本校異では20篇の詩作品を対象とし、 自筆原稿形、 詩歌集《昏睡季節》掲載形、 《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)掲載形のうち、からまでの詩句を校合した本文とその校異を掲げた。これにより、詩歌集《昏睡季節》各詩篇の初出形本文がその後どう変化したかたどることができる。本稿は、からまでの印刷上の細かな差異(具体的には漢字の字体の違い)を指摘することが主眼ではないので、シフトJISのテキストとして表示できる漢字はそれを優先した。このため、不本意ながらユニコードによる「蠟」の代わりにシフトJISの「蝋」を使用している点をご諒解いただきたい。最初に《昏睡季節》各本文の記述・組方の概略を記す。

自筆原稿:2011年11月時点で未見。漢字は旧字、かなは旧仮名(拗促音は並字)で書かれたものと考えられる。では〈白昼消息〉(@・10)の3行めが
  頸の青い子供が燻銀色の硝子杯で電流をのみ
   こぼした
と20字で折り返してあるから、原稿は20字詰で書かれていたかもしれない。

詩歌集《昏睡季節》(草蝉舎〔東京市本所区厩橋二ノ十三 著作兼刊行者吉岡実〕、1940年10月10日):本文旧字旧仮名(ひらがなの拗促音は並字)使用、9ポ20字詰(行数は最多で)14行1段組。印刷所の鳳林堂(東京市日本橋区茅場町二ノ三)に関しては、林哲夫氏の〈昏睡季節〉が詳しい。

《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日):本文新字旧仮名(ひらがなの拗促音は並字)使用、10ポ20字詰19行1段組。なお《吉岡実全詩集》の底本は 詩歌集《昏睡季節》。
漢字の表示だが、の旧字はウェブ上で正確に再現できないので掲載を見あわせ、新字で表示した(したがって「感〔濕→湿〕性植物の〔莖→茎〕の内部で」などとしない)。からまでの変更箇所を概観すると――は吉岡実の歿後刊行だから、旧字から新字への変更は随想(後出の解題参照)に吉岡が引用したときの表記に倣ったか――、執筆や刊行当時の新聞・雑誌の表記基準に応じたものといえよう。なお〈吉岡実詩集本文校異について〉を参照のこと。

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《昏睡季節》詩篇細目

  詩篇標題(詩集番号・掲載順、詩篇本文行数、初出〔発行所名〕掲載年月日)

(@・1、10行、詩集《昏睡季節》〔草蝉舎〕1940年10月10日)
(@・2、7行、詩集《昏睡季節》〔草蝉舎〕1940年10月10日)
(@・3、8行、詩集《昏睡季節》〔草蝉舎〕1940年10月10日)
(@・4、6行、詩集《昏睡季節》〔草蝉舎〕1940年10月10日)
遊子の歌(@・5、5行、詩集《昏睡季節》〔草蝉舎〕1940年10月10日)
朝の硝子(@・6、6行、詩集《昏睡季節》〔草蝉舎〕1940年10月10日)
歳月(@・7、4行、詩集《昏睡季節》〔草蝉舎〕1940年10月10日)
あるひとへ(@・8、5行、詩集《昏睡季節》〔草蝉舎〕1940年10月10日)
七月(@・9、6行、詩集《昏睡季節》〔草蝉舎〕1940年10月10日)
白昼消息(@・10、6行、詩集《昏睡季節》〔草蝉舎〕1940年10月10日)
臙脂(@・11、6行、詩集《昏睡季節》〔草蝉舎〕1940年10月10日)
面紗せる会話(@・12、19行、詩集《昏睡季節》〔草蝉舎〕1940年10月10日)
放埒(@・13、6行、詩集《昏睡季節》〔草蝉舎〕1940年10月10日)
断章(@・14、2行、詩集《昏睡季節》〔草蝉舎〕1940年10月10日)
葛飾哀歌(@・15、6行、詩集《昏睡季節》〔草蝉舎〕1940年10月10日)
桐の花(@・16、3行、詩集《昏睡季節》〔草蝉舎〕1940年10月10日)
杏菓子(@・17、5行、詩集《昏睡季節》〔草蝉舎〕1940年10月10日)
病室(@・18、6行、詩集《昏睡季節》〔草蝉舎〕1940年10月10日)
昏睡季節1(@・19、7行、詩集《昏睡季節》〔草蝉舎〕1940年10月10日)
昏睡季節2(@・20、9行、詩集《昏睡季節》〔草蝉舎〕1940年10月10日)

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序歌(@・0)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)〔前付四ページ〕、本文9ポ1段組、4行。詩篇の部〈昏睡季節〉と和歌の部〈蜾蠃鈔〉から成る《昏睡季節》全体にかかる序の短歌。のちの歌集《魚藍》(1959)には、濁点を取りさった形で収められている(〈《吉岡実全詩集》巻頭作品〉参照)。
あるかなくみづを
ながるるうたかた
のかげよりあはき
わかきひのゆめ


(@・1)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)三ページ、本文9ポ1段組、10行。吉岡の随想〈新しい詩への目覚め〉(初出:《現代詩手帖》1975年9月号)に新字旧仮名で全行引用されている。
朝は蝶の脚へ銀貨を吊す
感湿性植物の茎の内部で
釦のとれた婚礼が始まる
蝋燐寸の臭ひに微睡む空気よ
白い手套が南方に垂れ
造花に翳つてゆく倦怠
檣壁へ逆さまに体温を貼り
卓子の汚点で曇天を吸ひとる
停車場の鏡に鱗形の夢を忘れ
尖塔へ喪はれた童貞と星を飾る


(@・2)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)四ページ、本文9ポ1段組、7行。吉岡の随想〈新しい詩への目覚め〉(初出:《現代詩手帖》1975年9月号)に新字旧仮名で全行引用されている。
注射器の午前九時十二分
露台の女の透明な胸奥に
麦藁蜻蛉の眼球の砕粉がちる
虹の輪を廻して鼻毛のふちを
鮑貝かぶつた懶惰な狩猟者達がゆく
氷菓子の断面に太陽が溶け
鶏が甃の上の黄色い精虫をついばむ


(@・3)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)五ページ、本文9ポ1段組、8行。吉岡の随想〈新しい詩への目覚め〉(初出:《現代詩手帖》1975年9月号)に新字旧仮名で全行引用されている。《「死児」という絵〔増補版〕》所収の同文では1行めと2行め、7行めと8行めがそれぞれ一文字分高く始められているが、手入れか誤植か不明(同文の初出や《「死児」という絵》では、引用詩の字下ゲ・行アキが〔増補版〕とも異なっている)。
 蛇の腹の瘡痕に仄めく昼の星

   硝子管の中ではしきりと木の葉がちる

白い卓子のふちを走る柩車の轍のひびき
  瞳膜へ蜘蛛が巣をはる

   遠い靴下のさきに広告気球がのぼる
     鋪道で子供が電球をこわした

 秋が窓からきらきら光らせ
   爪をきりこぼす


(@・4)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)六ページ、本文9ポ1段組、6行。吉岡の随想〈新しい詩への目覚め〉(初出:《現代詩手帖》1975年9月号)に新字旧仮名で全行引用されている。
亜鉛の錘が雪の蠅をつぶす
褐色な牡蠣の液汁が街を蔽ひ
時計の針は北へ折れ曲る
赤馬の鼻孔に夜行列車が到着した
地殻と粗い舌へ蝋燭の焔ゆらぎ
娼婦の骨盤に羽をひろげて鴉が下りる


遊子の歌(@・5)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)七ページ、本文9ポ1段組、5行。
朝夕の
襟飾がおもたくて
私は乳房のふくらみに
羊を飼ひ
草笛を吹く


朝の硝子(@・6)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)八ページ、本文9ポ1段組、6行。
裏がへされた微風が掌から
林檎の花の明るさに澪れる

山脈を旋回する反射鏡の光に
揺籃のみどり児は小便を匂はす

黒い犬は皿の上の朝をなめる
樹脂が流れゆく雲に粘りつく


歳月(@・7)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)九ページ、本文9ポ1段組、4行。
盲縞に昏れゆく眼瞼のうらで
切断される蜥蜴の尾の悲しさよ
色褪せた風の間を冷たく静かに
透明な時間が流れてゆく


あるひとへ(@・8)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)一〇ページ、本文9ポ1段組、5行。
のこりし一本の巻煙草のにがみよ
たそがれてゆく窓掛と犬の遠吠え
まちわびて吹くけむりの輪のなか
いつしかに新月のきらめけれども
むなしくもああきみはきたらずや


七月(@・9)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)一一ページ、本文9ポ1段組、6行。
氷菓子はとけて
銀の匙をつたはり
爪の紅へにじみゆく
淡い夏の夕

鏡の中の女の捲毛に
風がひとすぢゆれてる


白昼消息(@・10)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)一二ページ、本文9ポ1段組、6行。吉岡の随想〈新しい詩への目覚め〉(初出:《現代詩手帖》1975年9月号)に新字旧仮名で全行引用されている。《「死児」という絵》と同〔増補版〕所収の同文では「自転車競争選手」となっているが、手入れか誤植か不明(同文の初出では「競走」)。
自転車競走選手が衝突する
夏蜜柑の内房の廊へ粘液がふき出す

頸の青い子供が燻銀色の硝子杯で電流をのみこぼした

傾斜地帯から円錐型帽子へながれこむ
一枚の風と約束と花蕊と

女の客が曲り角の化粧品店にはいつた


臙脂(@・11)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)一三ページ、本文9ポ1段組、6行。
洋皿に春の蚊がとまり睡い日
鍵盤のなみへ薔薇や夢がただよひ
石鹸の泡から果実がうれて出る
糸で吊るされた水母に金矢を刺し
頸飾をかけて令嬢は結婚した

手巾のうすくよごれた都会の憂愁


面紗せる会話(@・12)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)一四〜一五ページ、本文9ポ1段組、19行。では本篇だけ見開きにまたがる作品となっている。
花びらのうへに死んでゐる指のあとを
見ると あたし泣けるの
銀の針で その背後を失つた哀れな人を
女のやはらかな耳朶から
ほりだしたいの

硝子のやうにたのしい触手をもつ
あたしたちよ あなたの泪が靴の裏で
汚れるわ 十字架の蔭に 鼻孔をひろ
げる喪服の男のことなんか ぬれてゐる
樹液の香を唇にぬつて 忘れなさいな
紅の茸は湖のほとりに 咲いてゐるわよ
蒼黝い幹の疣に 夕ぐれを巻き
つけ 黄色の布と
距離のない春の光線を
明日の虹の流れへ すててきて
あきらめるわ

空をとべない風より 草むらに
墜ちてくる星を拾つて 掌の上にのせて
あたためませう


放埒(@・13)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)一六ページ、本文9ポ1段組、6行。
真昼の影へ花粉がこぼれ
白い液体の底に指環はしづむ
肥つた紳士は皮膚の上を彷徨ひ
夢の女を探す……靴あとのこして
室内には夜の空気がふくらみ
螺線階段を青い虫の這ひあがる


断章(@・14)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)一七ページ、本文9ポ1段組、2行。
わがこころになやみはてず
あをぞらにくものわく


葛飾哀歌(@・15)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)一八ページ、本文9ポ1段組、6行。三首の旋頭歌に等しい形式を採っている。
川下る舟の灯にかかる青けむり
家々もはやあたたかき夕餉なるらし

古き橋わたりゆきつつ娼婦たたずむ
おくれ毛のあせし油香匂ほし風ふく

赤き星ひとつきらめき犬吠ゆる土手
草ゆれてゆくひともなく遠くつづけり


桐の花(@・16)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)一九ページ、本文9ポ1段組、3行。
白紙のうらにうつすらと哀しみわく午後

私は鉛筆の芯を尖らしては折る

雨あがりの窓べに桐の花がひとつおちた


杏菓子(@・17)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)二〇ページ、本文9ポ1段組、5行。
蛞蝓が這つて光つた空間を
落下傘で一滴の乳酪がおりてきた
草色の山脈は煽風機で歪曲する
噴水へ刺繍された午の月
忘れた衣装の女が杏菓子をたべる


病室(@・18)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)二一ページ、本文9ポ1段組、6行。
患者は白い窓掛に指紋を忘れ
朝の水銀にいのちを計られる

昼間の隙の青空で風船玉ふくらみ
再び失はれた追憶が雲に乗る

圧搾器から今日も葡萄の汁と
夕暮がしたたりそめる


昏睡季節1(@・19)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)二二ページ、本文9ポ1段組、7行。
水の梯子を
迷彩を失つた季候や
夜が眼鏡をかけてのぼつてゆく
葉巻の煙の輪の中で女達は滅び
電球に斑点がふえる
物憂く廻転する椅子の上に
目の赤い魚が一匹乾いてゐた


昏睡季節2(@・20)
初出は詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)二三ページ、本文9ポ1段組、9行。吉岡の随想〈わが処女詩集《液体》〉(初出:《現代詩手帖》1978年9月号)に新字旧仮名で全行引用されている。
牛乳の空罎の中に
睡眠してゐる光線と四月の音響
牡猫の耳のやうに透けてうすく
砂の上に日曜日が倒れてうづまる
麺麭が風に膨らむと卵は水へながれ
堊には花の影が手をひろげて傾く
眠り薬を嚥みすぎた男が口を尖らし
銅貨や皺くちやの紙幣を吐き出す
夜を牽いて蝙蝠が弔花をとびめぐる

――――――――――

校異を見ればわかるように、個別の詩句への手入れはない。の間にある相違は漢字が旧字から新字になったという表記体系の変更だけである。これは吉岡が生前《昏睡季節》を再刊しなかったため、の底本となったことによる。もっとも再刊の機会がまったくなかったわけではない。「《吉岡実初期作品叢書》T 歌稿篇」を謳った歌集《魚藍〔新装版〕》(深夜叢書社、1973)に続いて刊行が予定されていた「初期詩集」が出ていれば、《昏睡季節》が「《吉岡実初期作品叢書》U 詩稿篇」となって新たなテクストの誕生した可能性は否定できない。しかし、その確率は限りなく低い。それを詳述するまえに、吉岡実の初期作品(戦前の著作)の再刊の状況を振りかえってみよう。まず、詩歌集《昏睡季節》(1940)の後半の和歌作品を独立させた歌集《魚藍》が1959年に結婚の記念として私家版で刊行された。同歌集は、前述のように1973年に新装版が深夜叢書社から出ている(その間の1968年には、〈あとがき〉を含めた全篇が現代詩文庫版詩集に収録されている)。これは吉岡にとって短歌がすでに終わったジャンルであって、吉岡が著者ではなく、編者として刊行を推進・認知したためである。次の詩集《液體》(1941)は、1971年に湯川書房から〈叢書溶ける魚No.2〉として再刊されている。このとき吉岡は、叢書の性格からいって《昏睡季節》の全体もしくは詩篇の部を再刊してもよかったはずだ。しかし同書刊行の1971年以前、吉岡が公的に《昏睡季節》に言及したことはなく(厳密に言えば、《昏睡季節》の刊本そのもの、《昏睡季節》刊行時の出版広告、《液體》奥付裏の〈吉岡実作品集〉における既刊紹介の三つが存在するが、戦後の吉岡実詩の読者にとっては無きに等しい)、この時点で《昏睡季節》の詩篇を積極的に再刊する意思は皆無だった。その《昏睡季節》の存在を早い時点で吉岡に質したのは、吉岡が俳人として最も恃んでいた高柳重信だった。吉岡実・佐佐木幸綱・金子兜太・高柳重信・藤田湘子の座談会〈現代俳句=その断面〉の冒頭〈俳句との出会い〉に次の一節がある(《鷹》1972年10月号〔通巻第100号〕、一二〜一三ページ)。
 高柳 〔……〕ぼくの手許には、吉岡さんが兵隊に行くときにつくった詩集というのかな、あるいは歌集と呼んだほうがいいのか、それがあるんですよ。それをみるとぼくは、やっぱり涙ぐましい感じがするんだけれども、あのとき、吉岡さんがああいう小さな本を、なぜ出す気になったかというような話を聞いてみると、そういうことが少しわかってくると思うんですよ。
 吉岡 なんだったのかしら、それは。『液体』じゃないでしょ。
 高柳 ちがいますね。たくさんの短歌が載っている本で、たしか昭和十五年の発行だった。
 吉岡 『昏睡季節』というのがあったんですけど、それ?
 高柳 うん、それ。その本に「手紙にかえて」という挾み込みの文章があって、出版のいきさつが書いてあった。
 吉岡 お宅にあるの? それはずいぶん不思議だな。(笑)
高柳が《昏睡季節》を所有していたのは、富澤赤黄男に宛てた一本が高柳の目に留まった偶然による。吉岡は、戦後すでに貴重だった《液體》を献じたであろう仲間の詩人たちにさえ《昏睡季節》を献じることはおろか、呈示することも、いや話題にすることさえなかっただろう。それというのも、《昏睡季節》の詩は、詩集の編集後に一種の教育召集で軍隊の世界をかいま見た吉岡にとっては習作以外のなにものでもなかったからである。戦地で受けとった《液體》と異なり、自宅(草蝉舎)に戻って元の生活を続けた吉岡は、詩集の印刷が進行するさなかでも「いやこれは違う。自分の書きたいものはこれではない」という内なる声を聴いたはずだ。それを押しきって公刊に踏みきったのは、遺書として「召集令状を前に詩集を編んだ悲壮な当時の気持」(〈手紙にかへて〉)に忠実だったからに過ぎない。それは人間としては許せても、詩人としては許せない行為だったのだろう。生前の吉岡が《昏睡季節》からわずか6篇を随想で紹介しただけで――それも〈春〉と〈夏〉を引いたからついでに〈秋〉〈冬〉も披露するという、見方によっては投げやりな執筆態度で――ついに再刊することがなかった背景には、こうした事情があった。しかし、作者自身の評価と吉岡実詩における《昏睡季節》の意義とは別ものである。それをこれから見ていきたい。最初に《昏睡季節》の詩の書かれた順序だが、全篇書きおろしのため詩集の本文から推測するしかない。まずは周辺情報として、1939(昭和14)年、1940(昭和15)年当時の吉岡実詩のありさまを《うまやはし日記》(書肆山田、1990)に探ることから始めたい(【 】内の曜日は小林の補記)。
昭和十四年(一九三九)

 四月二十五日【火】
 との曇り。樹光さん女子学校へ教えに行く。詩想にふける。ガルシンの諸短篇を読む。(三〇ページ)

 五月三十一日【水】
 『アドルフ』、『春夫詩鈔』を読む。夜、習字に没頭。詩集を兵隊にゆく前に出したいと思う。(四六〜四七ページ)

 十一月六日【月】 
 詩作を試みるが、不発。西村さんの文意では一日でも早く、手伝って欲しいらしいのだ。いささか迷ってしまう。〔……〕(八五ページ)

 十二月二十九日【金】 
 反古類、草稿の整理。幼稚な詩、歌、俳句を読みかえす。夜、ノヴァーリス『青い花』。(一〇三ページ)

昭和十五年(一九四〇)

 一月二日【火】 
 晴。朝、雑煮を八つも食べた。詩や歌を考える。夜遅く、兄と松倉町の支那そば屋へ行った。(一〇九ページ)

 一月二十三日【火】 
 朝から履歴書を書く。やめて詩作にふけった。〔……〕(一二一ページ)

 二月四日【日】 
 兄夫婦の結婚三周年記念日。二日なのだが日曜日の今日にしたのだ。父と兄は葉子をつれて亀の湯に行き、部屋は静かになる。母は三つ目通りまで、父の好物の海苔を買いに出る。詩作にふける。壁に懸かった藤田嗣治の「麗人」の版画の下で。〔……〕(一二九ページ)

 二月六日【火】 
曇。今朝も西村書店は閉っていた。古本屋で一時間ほど時間をつぶして戻る。廊下の長椅子に石川女史がぼんやりしていた。事務室の人に鍵をあけて貰って入る。湯をわかしてふたりでお茶を飲む。女史は詩を書いているのを知ったようだ。どこかに発表しているの。書きためているだけ。まあ、ほんとの宝ものねと、妙なことを言って、帰った。大日本印刷から、どさっとゲラが届く。西村、小林両氏も出ず、一日中、封筒の宛名書き。外は牡丹雪が降っていた。(一三〇〜一三一ページ)

 三月六日【水】 
 朝、牛込の大日本印刷へ行く。三階の出張校正室に通される。〔……〕夜八時過ぎまでかかった。夜、詩想にふける。〔……〕(一三九ページ)
1938年夏、南山堂を退職した吉岡は、最初の徴兵までのほぼ二年間を詩作のための執行猶予期間として、それまでに手を染めていた短歌・俳句から現代詩へと大きくカーブを切った。日記の記述で興味深いのは、あたかも思考が徴兵のことに陥るのを避けるかのように詩想にふけったり、詩作を試みたりする姿だが、ここで重要なのは1939年5月31日の「詩集を兵隊にゆく前に出したいと思う」である。吉岡はこのときまでにどのくらい詩を書きためていたのか。同年末の「反古類、草稿の整理。幼稚な詩、歌、俳句を読みかえす」は、幼稚な詩を破棄したのか、それとも見所のある詩を残したのか。吉岡が詩を書いているのを知った祥文閣(西村書店と同室の出版社)の石川鈴子と「どこかに発表しているの」「書きためているだけ」「まあ、ほんとの宝ものね」というやりとりがあった1940年2月6日の時点で、蜂が蜜を貯めるようにして成った詩はどのようなものだったのか。《吉岡実全詩集》の扉には《昏睡季節 1940》と記されているが、これは吉岡の戦後の詩集がそうであるような制作期間ではなく、刊行年次ととらえるべきではないか(現に《昏睡季節》の刊本には「皇紀二六〇〇年/うまやはし版」(同書、〔前付二ページ〕)とあるだけで、吉岡自身は制作期間を明記していない)。上の日記の引用には登場しないが、当時の吉岡の読書経験で特記すべきは《リルケ詩集》《左川ちか詩集》との出会いである。

『春夫詩鈔』を読む。(1939年5月31日)
浅草仲見世の清水屋書店で、渇望の茅野蕭々訳『リルケ詩集』を買う。(6月18日)
夜遅く『リルケ詩集』を読む。(7月25日)
『左川ちか詩集』届く。(7月27日)
湯島天神下を通り、古本屋で『白秋小唄集』を求める。(8月23日)
佐藤春夫の短篇と詩を読む。(9月11日)
『リルケ詩集』を読む。(11月1日)

北原白秋的・佐藤春夫的な短歌や旋頭歌に近い抒情詩から北園克衛的・左川ちか的な超現実主義の詩に急速に移行していったのがこの1939年だと考えられる。その変遷を図式化してみると、「【1】北原白秋→【2】佐藤春夫→【3】リルケ(茅野蕭々訳)→【4】北園克衛・左川ちか」となる。《リルケ詩集》(正確にはリルケの《ロダン》)がほんとうに吉岡実詩の血肉と化すのは《静物》(1955)である。二十歳前の反射神経の鋭敏なころの読書はすぐさま自作に影響したものと思われるが、【1】的なものから【4】的なものへの推移という大きな流れは動かない。それを前提にして、20篇を傾向別に分けてみよう。【3.5】は【3】リルケ(茅野蕭々訳)と【4】北園克衛・左川ちかの間というより、「短歌や旋頭歌に近い抒情詩」寄りの「超現実主義の詩」の意、同様に【2.5】は【2】佐藤春夫と【3】リルケ(茅野蕭々訳)の間というより「超現実主義の詩」寄りの「抒情詩」の意である。

(@・1) 【4】

(@・2)
【4】

(@・3)
【3.5】

(@・4)
【4】
遊子の歌
(@・5)
【2】
朝の硝子
(@・6)
【3.5】
歳月
(@・7)
【3.5】
あるひとへ
(@・8)
【1】
七月
(@・9)
【2】
白昼消息
(@・10)
【4】
臙脂
(@・11)
【4】
面紗せる会話
(@・12)
【2.5】
放埒
(@・13)
【4】
断章
(@・14)
【1】
葛飾哀歌
(@・15)
【1】
桐の花
(@・16)
【2】
杏菓子
(@・17)
【4】
病室
(@・18)
【3.5】
昏睡季節1
(@・19)
【3.5】
昏睡季節2
(@・20)
【3.5】

吉岡が《昏睡季節》を編む際、詩篇を【1】から【4】へ、短歌や旋頭歌に近い抒情詩から超現実主義ふうの詩へ、という自身の詩的軌跡に即して配置したとすれば、次のような構成になっただろうと考えられる。

【1】
あるひとへ(@・8)
断章(@・14)
葛飾哀歌(@・15)
【2】
遊子の歌(@・5)
七月(@・9)
桐の花(@・16)
面紗せる会話(@・12)
【3】
(@・3)
朝の硝子(@・6)
歳月(@・7)
病室(@・18)
昏睡季節1(@・19)
昏睡季節2(@・20)
【4】
(@・1)
(@・2)
(@・4)
白昼消息(@・10)
臙脂(@・11)
放埒(@・13)
杏菓子(@・17)

これを見てただちに気づくのは、生前の吉岡が《昏睡季節》からわずか6篇を随想で紹介したうち、4篇(〈春〉〈夏〉〈冬〉〈白昼消息〉)が【4】から、2篇(〈秋〉〈昏睡季節2〉)が【3】から引かれていることだ。【4】の作風が《液體》に近接していることからわかるように、後年の吉岡が〈わが処女詩集《液体》〉で「〔……〕二十篇の文体に統一なく、まさに雑多である」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、七六ページ)と慊焉たるものを覚えたのは【1】【2】の和歌的発想の抒情詩が混入していたからである。短歌・旋頭歌を括弧にくくって「切断される蜥蜴の尾」(〈歳月〉@・7)とした余勢を駆って【3】【4】だけで詩篇の部〈昏睡季節〉を構成していれば、詩歌集《昏睡季節》を自身の最初の著作として認知したかもしれない、と想像することもあるいは許されよう。吉岡が長いこと《液體》を処女詩集と称してきたのは、単に「詩歌集」と「詩集」の違いが理由であるはずがない。個個の「詩篇」を集めたものが「詩集」と成るのではなく、「詩集」を構成する詩作品が「詩篇」と呼ぶに値するのである。かくして、吉岡自身の評価では《昏睡季節》と《液體》は比較の対象にすらならない別次元のものだった。1940年元旦、伊良子清白(1877-1946)が「皇紀二千六百年の日の御旗今朝の衢[チマタ]に續くかしこさ」と詠んだ時代に、短詩型文学を離れてひとり現代詩を書こうとした吉岡実は、自己の内部を模索した結果をこれらの詩篇や和歌に刻んだ。最後に、標題に関する考察を試みる。標題が季節や月の詩は次の5篇である(うち2篇は詩句にも登場する)。〈春〉、〈夏〉、〈秋〉「秋が窓からきらきら光らせ」、〈冬〉、〈七月〉「淡い夏の夕」。標題ではなく詩句に季節や月が登場する詩は4篇。〈白昼消息〉「夏蜜柑の内房の廊へ粘液がふき出す」、〈臙脂〉「洋皿に春の蚊がとまり睡い日」、〈面紗せる会話〉「距離のない春の光線を」、〈昏睡季節2〉「睡眠してゐる光線と四月の音響」。以上の9篇をさきほどの【1】から【4】という仮想された時系列に配置してみる。

【1】該当なし
【2】〈面紗せる会話〉「距離のない春の光線を」、〈七月〉「淡い夏の夕」
【3】〈昏睡季節2〉「睡眠してゐる光線と四月の音響」、〈秋〉「秋が窓からきらきら光らせ」
【4】〈春〉、〈臙脂〉「洋皿に春の蚊がとまり睡い日」、〈夏〉、〈白昼消息〉「夏蜜柑の内房の廊へ粘液がふき出す」、〈冬〉

現実の季節のめぐりのなかで、眼前の時間を無条件に取りいれるのが創作であるはずがない。大日本帝国の東京市の一角で、迫りくる徴兵という一大事をまえに、1939年の春から翌1940年春まで、吉岡が詩を考えないときはなかった。「四季男」を俳号にもつ青年は春を、自分が誕生した四月を「昏睡季節」と規定し、自身の生と等価である一冊の書物を産みおとした。後年、本書を「遺書」と呼ぶ所以である。《昏睡季節》の制作はどう進行したのか。吉岡の〈手紙にかへて〉や随想を参照してまとめるとこうなる。1940年5月27日(月)、臨時召集を受けた吉岡は、その夜からおそらく6月3日(月)にかけて詩稿を整理し、薄い一冊のノオトの詩集《昏睡季節》を完成。友に託す。6月5日(水)、目黒の輜重隊に入隊。それは補充兵を教育するための教育召集であったらしく、馬の扱いを習いつつ軍隊の密室的世界をかいま見て、7月23日(火)に元の生活に戻る。その間、約50日。10月3日(木)の夜遅く、詩集に添える〈手紙にかへて〉を脱稿。完成した詩集(奥付の記載は10月10日)は、先に触れた高柳重信が師事した富澤赤黄男や、書簡をやりとりする間柄だった木下夕爾など、敬畏する先達に献呈された。当然、北園克衛にも送られたに違いない。ノオトの詩集が《昏睡季節》と名付けられたのは、巻末の詩篇〈昏睡季節〉を脱稿したあとのことだろう(1940年4月と考えたいが、本当のところそれがいつかはわからない)。「表題はあきらかに、ランボーの『地獄の季節』を意識した形跡がある。私もそのころすでに、小林秀雄訳の岩波文庫で、それを読んでいたからだろうと思う」(〈新しい詩への目覚め〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、八一ページ)。最後に、書名の「昏睡」を「昏」と「睡」に分解して、それぞれを詩句に探ってみよう。

蝋燐寸の臭ひに微睡む空気よ(〈春〉@・1)
盲縞に昏れゆく眼瞼のうらで(〈歳月〉@・7)
洋皿に春の蚊がとまり睡い日(〈臙脂〉@・11)
牛乳の空罎の中に/睡眠してゐる光線と四月の音響(〈昏睡季節2〉@・20)
眠り薬を嚥みすぎた男が口を尖らし(同前)

「昏睡」は意識が完全に消失して目覚めさせることができない状態で、ときには反射も消失するから、つねに可逆的な「睡眠」とは異なる。上掲の詩句に睡眠はあっても、昏睡に該当する状況は描かれていない。昏睡の原因は、大脳半球の障害、脳幹(感覚神経路や運動神経路がある)の障害、代謝異常の三つに大別されるという。医書出版社に奉公していた吉岡が自らの状況・心境を医学用語である「昏睡」に込めたとしても、不思議はない。昏睡が垂直軸の急激な下降を表わせば、季節は水平軸の緩慢な推移を表わす。この見取り図に従って制作されたのが巻末の〈昏睡季節〉2篇と冒頭の〈春〉〈夏〉〈秋〉〈冬〉である。しかし吉岡にはそうした傾向の作品、シュルレアリスムふうの詩だけで《昏睡季節》を構成する時間が残されていなかった。詩集の柱や梁はこれらが担いつつ、床や天井、壁や窓には、それまでに書きためた和歌的な発想の抒情詩をも採用せざるをえなかった。それが、自身の生と等価だったから。戦争による徴兵という外的な圧力によって、初期吉岡実詩の一断面が、歌のわかれとともに詩歌集《昏睡季節》の形をとって永遠に残されたのである。

〔付記〕
吉岡実の1939年7月9日(日)の日記に

 〔……〕夜、『地獄の一季節』を読む。(《うまやはし日記》、五六ページ)

とある。当時、小林秀雄訳の《地獄の季節》(原タイトル:Une saison en enfer)は、初刊の白水社版(1930)も吉岡の回想にある岩波文庫版(1938)も書名は《地獄の季節》で、数は訳されていない。小林が訳稿を最初に載せた《文学》創刊号から5号(1929年10月〜1930年2月)に連載したときの題が〈地獄の一季節〉だったというから、吉岡はこの初出を古本かなにかで読んだのかもしれない。岩波文庫の初版はベリッション版に拠っており、1957年の改版後には入っていない〈この季節は〉という文――小林は「ランボオが、「地獄の季節」の序詞の積りで書いたものと見当をつけて、ベリッションが、彼の編纂したランボオ集に序詞風に挿入したもの」(〈後記〉、《地獄の季節〔岩波文庫〕》、岩波書店、1938年8月5日、一三六ページ)と書いている――が冒頭に置かれている。

〔2019年4月15日追記〕
吉岡実の生誕100周年(2019年4月15日)を記念して、〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉(小林一郎 編)〔A4判縦位置で印刷すると、約[293]ページ〕を新規ページとしてアップした。ただし、本サイトでは《〈吉岡実〉を語る》の一項目という位置づけのため、トップページの〈目次〉には掲出しない。


吉岡実詩集《液体》本文校異(2011年10月31日〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実の詩集《液体》は1941年12月10日、草蝉舎すなわち吉岡実の自宅を発行所にして自費で出版された。収められた32篇すべてが書きおろしである。本校異では、 自筆原稿形、 詩集《液体》掲載形、《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959)掲載形、《吉岡実詩集》(思潮社、1967)掲載形、詩集《液体》再刊(湯川書房、1971)掲載形、《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)掲載形のうち、からまでの詩句を校合した本文とその校異を掲げた。――および流布本として定評のある《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968)――には全32篇のうちの12篇が抄録されているが、それ自体、作者によるある時期の提示のしかただったことを考慮して、今回はこれら12篇を校異の対象とし、抄録された詩篇である旨を「〔抄〕に入集」と解題に記した。これにより、吉岡が詩集《液体》各詩篇の初出形本文にその後どのように手を入れたかたどることができる。本稿は、からまでの印刷上の細かな差異(具体的には漢字の字体の違い)を指摘することが主眼ではないので、シフトJISのテキストとして表示できる漢字はそれを優先した。このため、ユニコードによる「蠟」の代わりに不本意ながらシフトJISの「蝋」を使用している点をご諒解いただきたい。ただし詩集《液体》再刊では、すべてこの拡張新字体の「蝋」が使用されている。漢字に関しては、の旧字はウェブ上で正確に再現することができないので、掲載を見あわせた(参考までに、校異のあとに標題詩篇〈液體U〉の旧字使用形を掲げる)。最初に《液体》各本文の記述・組方の概略を記す。なお混乱を避けるために、以下では本詩集の初刊の書名を《液體》、再刊のそれを《液体》と表記する。とくに初刊であることを問題にしないときは、《吉岡実全詩集》に倣って《液体》と表記する。
自筆原稿:2011年10月現在、未見。吉岡実自筆の《液體》稿本(詩集印刷用原稿)の詳細は不明だが、吉岡の随想〈軍隊のアルバム〉(初出は筑摩書房労組機関紙《わたしたちのしんぶん》82号、1967年5月20日)に「わたしの大切なもの――というテーマで書くことを承諾してしまったが、いざ考えてみるとむずかしいので困った。〔……〕別な方では、詩集《静物》の原稿(これは書下し故に、唯一の原稿の残っているもの)。それに二十歳前後の日記。詩ノート」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、四五ページ)とあるところを見ると、おそらく稿本は焼失し、「二十歳前後の〔……〕詩ノート」に《液體》関連の草稿が現存する可能性が残ると推測される。

詩集《液體》初刊(草蝉舎〔東京市本所区厩橋二の一三吉岡方 発行者吉岡実〕、1941年12月10日):本文旧字旧仮名(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、五号(行数は最多で)17行1段組。二部構成〈T 午前〉(16篇)〈U 午後〉(16篇)の区分あり。

《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959年8月10日〔校異の底本には初刷と見なされる一本を使用した〕):本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ18行1段組。本書巻頭に〈T 液体(1940〜1941)〉として以下の12篇が掲載されている。〈挽歌〉(01)・〈蒸発〉(02)・〈牧歌〉(03)・〈乾いた婚姻図〉(04)・〈忘れた吹笛の抒情〉(05)・〈風景〉(06)・〈花遅き日の歌〉(07)・〈液体T〉(08)・〈液体U〉(09)・〈午睡〉(10)・〈灯る曲線〉(11)・〈夢の飜訳――紛失した少年の日の唄〉(12)。初刊にあったT・Uの区分はない。

《吉岡実詩集》(思潮社、1967年10月1日):本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ27字詰14行1段組。本書巻末に〈6|液体 1940〜41〉としてと同じ12篇が掲載された(T・Uの区分なし)。

詩集《液体》再刊(湯川書房〈叢書溶ける魚No.2〉、1971年9月10日):本文新字新かな(ひらがな・和語の拗促音は並字、カタカナ・外来語の拗促音は小字)使用、五号17行1段組。32篇すべてを掲載(T・Uの区分なし)。

《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ27字詰19行1段組。32篇すべてを掲載(T・Uの区分なし)。なお《吉岡実全詩集》の底本は詩集《液体》再刊である。
《液體》は全32篇、《液体》も全32篇の詩作品を収める。ところが、著者にして詩集編者の吉岡は、その散文において詩篇の数をつねに33とし、一度も32篇と書いていない。これはいったいなぜか。
(A)『液体』には超現実風な詩篇三十三、私家版百部。ぼくは、兵隊時代から持ち歩いた一冊を持っている、No.七七。(〈詩集・ノオト〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、七三ページ。初出:《詩学》1959年4月号)

(B)遺書のつもりで、それまでに書いた詩篇三十三を《液体》一巻に編んだ。(〈救済を願う時――《魚藍》のことなど〉、同、六八ページ。初出:《短歌研究》1959年8月号)

(C)「〔……〕《液体》には超現実風な詩篇三十三、私家版百部。ぼくは、兵隊時代から持ち歩いた一冊を持っている、No.七七」とある。/そのユリイカ版に《液体》を収める時、三十三篇から十二篇を選んだ。〔……〕そして今日まで「抄」のまま踏襲されてきている。/こんど、叢書〈溶ける魚〉に入れるにあたり、思いきって復元することにした。よかれあしかれ、それが真の姿であるからだ。(〈覚書〉、初出:《液体〔叢書溶ける魚No.2〕》、湯川書房、1971年9月10日、〔四五ページ〕)

(D)《液体》は三十三篇から、十二篇だけを一般に公表しているが、《昏睡季節》はまだ一篇も、そのような意味では活字化されていない。〔……〕その〔《液体》の〕成立や挿話は、しばしば書いたり、語ってきたので、くりかえしたくはない。《液体》から、まだ公表していない詩を三篇ほど紹介して、責めを果したいと思う。(〈わが処女詩集《液体》〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、七六〜七七ページ。初出:《現代詩手帖》1978年9月号)
以上が、吉岡実が《液体》の作品数に触れたすべてである。(C)の「 」内は(A)の引用だから実質的には三回だが、こうまで確信をもって書いているからには、それなりの根拠があるに違いない。私が披見できた《液體》は吉岡家蔵本(ただし77番本ではなく70番本で、献辞などの書き入れはない)と、吉岡が《静物》刊行の半年ほどまえの1955年1月6日に太田大八氏(《静物》の発行人)に献じた番外本(無記番)の二冊だけだが、33篇めの詩の痕跡はどこにも発見できなかった。これといった思案もないまま、なにげなく《液體》の〈目次〉を見ているうちに、あることに気づいた。最後の詩〈夢の飜譯〈紛失した少年の日の唄〉〉のあとに一行アキがきて、〈あとがき〈小林梁・池田行之〉〉とある。下の写真でわかるように、この二行とも前の行に較べるとかなり長い。吉岡は(A)を執筆する際、「No.七七」の目次で詩篇の数をカウントするときに、〈午前の部〉16篇に続けて〈午後の部〉を〈あとがき〈小林梁・池田行之〉〉を含めた17篇と誤ってしまったのではないか。一行アキがあるので、かなり苦しい説ではあるが、どうもそんな気がする。

吉岡実詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)の〈目次〉後半(〔目次〕二〜三ページ)
吉岡実詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)の〈目次〉後半(〔目次〕二〜三ページ)

(A)の〈詩集・ノオト〉は初出のあと、すぐ《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959)の巻末に収められたから、以後の吉岡が《液体》について書こうとして〈詩集・ノオト〉を参照するたびに、「詩篇三十三」が再生産されていったのではないか。(C)で二部構成をやめて全篇を再録した際、編者(鶴岡善久・政田岑生)や発行者(湯川成一)は不審に思わなかったのだろうか。元本が33篇で、再刊本が32篇では困るではないか。(D)の本文は〈詩集・ノオト〉(または〈覚書〉)を参照しつつ執筆されたが、未公表の三篇〈誕生〉〈微風〉〈静物〉の引用元は《液體》か《液体》しかないわけだから、吉岡はこのときにも詩篇の数をカウントし(なおさ)なかったとみえる。三篇を「まだ公表していない」とするのは、〔抄〕に入集していないとともに、随想などに引用していない、の意だろう。なお〈吉岡実詩集本文校異について〉を参照のこと。

…………………………………………………………………………………………………………

《液体》詩篇細目

  詩篇標題(詩集番号・掲載順、詩篇本文行数、初出〔発行所名〕掲載年月日)

 〔午前の部〕
挽歌(A・1、14行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
花冷えの夜に(A・2、6行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
朝餐(A・3、11行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
溶ける花(A・4、10行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
蒸発(A・5、9行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
秋の前奏曲(A・6、9行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
失題(A・7、9行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
絵本(A・8、12行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
孤独(A・9、4行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
牧歌(A・10、11行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
相聞歌(A・11、12行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
誕生(A・12、4行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
乾いた婚姻図(A・13、13行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
微風(A・14、6行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
静物(A・15、4行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
忘れた吹笛の抒情(A・16、11行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日) 
 〔午後の部〕
透明な花束(A・17、5行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
微熱ある夕に(A・18、9行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
風景(A・19、10行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
ひやしんす(A・20、10行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
花遅き日の歌(A・21、10行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
みどりの朝に(A・22、13行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
或る葬曲の断想(A・23、12行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
失われた夜の一楽章(A・24、8行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
灰色の手套(A・25、11行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
液体T(A・26、11行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
液体U(A・27、11行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
午睡(A・28、10行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
花の肖像(A・29、10行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
灯る曲線(A・30、10行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
哀歌(A・31、8行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)
夢の翻訳(A・32、12行、詩集《液體》〔草蝉舎〕1941年12月10日)

――――――――――

午前の部→23(トル)〕


挽歌(A・1)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)三ページ、本文五号1段組、14行。〔抄〕に入集(01)。
洋〔1Y燈→灯→23燈〕は消え
頭骸をつき出る
銹びたフォークの尖に
一匹の狐がめざめた
それは医者のにぎる
北十字星よりも
距離を冷たく
呼吸管へ起伏し
ぬれた夕刊紙でつつまれ
少年たちは饒舌に
よごれた食器の中で
翼を焚き
落葉へかさな〔YS2つ→っ〕て
ながれてしま〔ふ→YS2う〕


花冷えの夜に(A・2)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)四ページ、本文五号1段組、6行。
涙線がきれて
遠い窓の灯がきえる
夜は苑い〔12つ→っ〕ぱいに噴水して
白い繃帯をといてしま〔ふ→う〕
注射針のさきで呼吸してる星よ
花は冷えてねむれなか〔12つ→っ〕た


朝餐(A・3)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)五ページ、本文五号1段組、11行。
指揮者の手に
遅刻した春の山脈つらなり
林の館へ曲る
朝の洋燈の芯と
湖がめくれて
髪毛の植物性油が匂〔→2う〕
街には白い封筒が一枚
静にながれてゆく
莨の口からやがて
ふ〔え→ぇ〕ると帽子に
鳥が卵をうみにくる


溶ける花(A・4)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)六ページ、本文五号1段組、10行。吉岡の随想〈女へ捧げた三つの詩〉(初出:《現代の眼》1961年11月号)に全行引用されている。
     〈中村葉子に〉

春の葉脈に神々が膨脹して〔→2い〕る
金貨の見える丘よ
聖書の上で海盤車がひかる
扉をひらくと青空が一枚
浴室の石鹸の泡にぬれる
風見鳥は夜へま〔→2わ〕り
少年たちは白い皮膚へ沈んでゆく
天使の〔頸→頚→頸〕のあたりに漂着する
穴のある靴下と蝶
猫の唾液で花が溶けて〔→2い〕た


蒸発(A・5)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)七ページ、本文五号1段組、9行。〔抄〕に入集(02)。
聖母祭の樹の下を発車する
脳髄の午睡へ沙漠をはさむ
温室で鸚鵡の金属性の嘴の
重量が遠い女の乳房に沈み
手袋に飛行機は入らぬとて
メロンの輪切うすく仰ぐと
透ける少年と犬の舌の冷〔い→S23た〕
不眠性も終らない中に舶来→S23い不眠性も終らない中に舶〕
(ナシ)→S23来〕の手帛で〔つつ→S23包〕まれてしま〔ふ→YS2う〕


秋の前奏曲(A・6)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)八ページ、本文五号1段組、9行。
朝の皿を拭き〔をは→おわ〕り
蜻蛉たちがつなが〔12つ→っ〕てとんでゆく
いくら麺麭をふくら〔(ナシ)→23ま〕せても
故郷のない私の尖〔12つ→っ〕た咽喉骨
折れたとらんぷよりつめたい
角の洗濯屋の子供の瞳
影とひかりの間から
鳥打帽子ななめにかぶり
爪をみがいて秋がや〔12つ→っ〕てきた


失題(A・7)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)九ページ、本文五号1段組、9行。
病犬の瞳孔を
無数の砲弾が通過する
卵巣に仙人掌の花が萎え
皿に毛虫が繁殖して〔→2い〕る
灰色の魚骨の隙間で
歪んだ太陽が氷結しながら
手品師の汗臭い襯衣へ墜ち
死産〔兒→児〕の蹠より
敗〔戰→戦〕した艦隊が出てゆく


絵本(A・8)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)一〇ページ、本文五号1段組、12行。
春のパセリの匂〔→2う〕まど
眼帯をは〔→2ず〕す朝です
異人さんの子供の青い靴下
寺院の鐘が聞える
みじかいおま〔→2え〕の手紙と
貝がらの〔→2よ〕うな雲と
犬は絵本もよめません
卵焼きのだいすきな叔母様
体温器はし〔→2ず〕かにねむり
蝶がと〔→2お〕りすぎる
インキのついた指
明日は雨がふるで〔せ→しよ→しょ〕う


孤独(A・9)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)一一ページ、本文五号1段組、4行。
対角線の蝋燭く〔→2ず〕れて
花びら白紙をこえゆく
死せる魚族の鱗に蔽〔→2わ〕れ
月蝕の館でわれひとり眠る


牧歌(A・10)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)一二ページ、本文五号1段組、11行。〔抄〕に入集(03)。
歯車が夥しくおちてゆく
神の掌より
杳なところ波があがる
笛を吹けよ
雨にぬれた青い葦の葉
羊たちはのびたり縮んだり
癈→YS廃→廢→廃〕園への道が見えなくなる
洋〔燈→灯→23燈〕の内側を拭き
重〔YS2つ→っ〕てくる蝶の翅をめくる
遅刻した短剣が月へ刺さり
花びらがしきりに溢れた


相聞歌(A・11)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)一三ページ、本文五号1段組、12行。
白い橋で 病める女の あしうらに
かくされた 一枚の骨牌を やぶき
羊をつれて 私は秋の鏡を
さまよ〔→2い〕 霧の隙間に 木曜日の
靴下を吊れば かなしみは
と〔→2お〕く 林檎のなかに忘れた
夜光時計の〔→2よ〕うに 冷たい
花つぶす 爪に啼く鳥よ
繃帯のかなたを ああ 泪と
あなたの朝の汽船がゆく

   反歌

横顔を 魚族よぎれば 胸廓の
花く〔づほ→2ずお〕れぬ 君よい〔→2ず〕こに


誕生(A・12)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)一四ページ、本文五号1段組、4行。吉岡の随想〈わが処女詩集《液体》〉(初出:《現代詩手帖》1978年9月号)に全行引用されている。
母胎が氷結する早晨
濁〔12つ→っ〕た血液の坩堝より
爬虫類に蔽〔→2わ〕れた太陽へ
一頭の青く濡れた馬かけのぼる


乾いた婚姻図(A・13)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)一五ページ、本文五号1段組、13行。〔抄〕に入集(04)。
花やピストルも
いつしか枯葉の下になり
カレンダアのごとく
葬送の列へ滑り
皿の上に夢は冷えゆく
高階の夜の婚礼も
女の手鏡にばかし
華麗にたちのぼり
男たちは〔癈→YS廃→廢→廃〕園に
競売人の抱〔へ→S2え〕てる
蒸溜水盤から
音もなくこぼれて
やがて乾いてしま〔ふ→YS2う〕


微風(A・14)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)一六ページ、本文五号1段組、6行。吉岡の随想〈わが処女詩集《液体》〉(初出:《現代詩手帖》1978年9月号)に全行引用されている。
灰色の括弧の中に〔→2い〕る星たちよ
僕はひとりぼ〔12つ→っ〕ちで誕生日を祝〔→2い〕
円頂塔の雲を手袋でなでたりする
幼いころ失〔12つ→っ〕た緑の矢が戻〔12つ→っ〕てきた
その晩から彼女の胸ふかくに
一羽の透明な鳩が見えはじめた


静物(A・15)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)一七ページ、本文五号1段組、4行。吉岡の随想〈わが処女詩集《液体》〉(初出:《現代詩手帖》1978年9月号)に全行引用されている。
鵞鳥の〔頸→頚→頸〕ねむく
異人墓地へ曲り
午後の鼓膜から
女飛行士が下る


忘れた吹笛の抒情(A・16)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)一八ページ、本文五号1段組、11行。〔抄〕に入集(05)。
喪服の馬車が通〔YS2つ→っ〕てゆく
吹笛へ雨はふり
くすりびんのなかで
孔雀をひらいてはこ〔YS2つ→っ〕そり
水脈をかぞ〔へをは→YS2えおわ〕ると
ねむくなる僕は
たえず〔螢→蛍〕どもを匙でとら〔へ→S2え〕る
柔かい巣の上にできた斜塔へのぼり
青い樹木の年輪をぬけだし
灯る聖水盤の下をさまよ〔ふ→YS2う〕
ああ獅子の首を索めて


午後の部→23(トル)〕


透明な花束(A・17)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)二一ページ、本文五号1段組、5行。
神の足跡へ傾斜してゆく
花と魚族の婚姻図
商館区の紳士は洋杖で
垂れさが〔12つ→っ〕た女体をたたき
窓帷にすばやく蛇をみつける


微熱ある夕に(A・18)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)二二ページ、本文五号1段組、9行。
紡車のはるかなる丘
片道切符をちぎると
南風の街々から
果液がながれあふれて
昏れてゆく〔搖→揺〕籃に
い〔ひ→い〕そびれたことばが重く
噴水へ突然こわれた椅子おち
眼球は月と共に溶解し
鏡に微熱がある


風景(A・19)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)二三ページ、本文五号1段組、10行。〔抄〕に入集(06)。
猿の頭に夕の灯がともり
肺管へま〔ひ→S2い〕おちる花びら
露台の夫人の指のあ〔ひ→S2い〕だに
ふるさとの泉があふれ
麦稈帽子い〔YS2つ→っ〕ぱいこもる慕愁
単音よりも遠いひとよ
眠りのほとりに
布の〔や→S2よ〕うに僕の一枚の皮膚がし〔づ→S2ず〕むと
青いけむりがたち
砂丘の尖〔YS2つ→っ〕た寺院の鐘が聞える


ひやしんす(A・20)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)二四ページ、本文五号1段組、10行。
午前の昇降機は六階に停まる
温室咲きのヒヤシンス
半休日の交換手の耳から
こぼれでる蜜蜂たち
罅のある巡査の眼鏡をうり
まよ〔→2い〕やすいシャボンの泡すく〔→2う〕
一本の試験管となり
火の音にふと母性をした〔→2い〕
楡の木の下で旅装する
風船玉のしぼまぬうちに


花遅き日の歌(A・21)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)二五ページ、本文五号1段組、10行。〔抄〕に入集(07)。
薬品〔1YS罎→壜→罎〕のなかで朝をまとうた牝鹿の
薔薇色のや〔は→S2わ〕らかい咽喉のあたりを
流浪する女たちは天鵞絨の傷の〔や→S2よ〕う
にやさしく私のねが〔ひ→S2い〕を羽毛襟巻へ
飼〔YS2つ→っ〕て〔ゐ→S2い〕る金魚の呼吸のひとこまに
秘めたころ退屈な水分の多量な妖し
い土曜日の指輪の内側の匂〔へ→S2え〕る華麗
な路へ曲〔YS2つ→っ〕てゆく婚礼自動車を追〔ふ→YS2う〕
死んだ鳥をかついだ男が急に煙草の
灰へく〔づ→S2ず〕れると街〔燈→灯→23燈〕がとも〔YS2つ→っ〕た


みどりの朝に(A・22)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)二六ページ、本文五号1段組、13行。
     〈朝の序曲〉

四月の鏡から柔かい卵が浮び上る
おも〔→2い〕だせない手帛の縁の頭文字
朝の時計のなかで
水脈がし〔→2ず〕かにゆれて〔→2い〕る
化粧室の鍵がみつからない奥様よ
栗鼠が虹をとびこえます
新鮮な電報をやぶりきると
旅客機の音が聞える
莨をすこし吸〔→2い〕すぎました
塑像はまだ〔濕つ→湿っ〕て〔→2い〕ま〔せ→しよ→しょ〕う
重役の頭を一直線に上昇する
縞ズボンのポケットから
折目のない青空が出てくる


或る葬曲の断想(A・23)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)二七ページ、本文五号1段組、12行。
     〈墓地にて〉

午睡は夥しく
花あんずの〔→2よ〕うに冷え
白い距離を走る
そこに炎える手紙を
南へむけてたらすと
抹殺された夜の傷口がしきり
蔦の窓を〔搖→揺〕曳し
濫ふれる水も
あきらめることなく昏れ
旅びとは風船の周囲をめぐり
や〔12つ→っ〕と死の旗をみつける
数字に扮装した甲虫の中に


失われた夜の一楽章(A・24)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)二八ページ、本文五号1段組、8行。初出標題「失はれた夜の一樂章」。
遠ざか〔12つ→っ〕てゆく青い水泡
脣は蝙蝠となり
北側の硝子が粉〔碎→砕〕される
さようなら
左の爪に傷ついた月の出よ
す〔12つ→っ〕かり乾いた眼球の底で
喪の日に燐寸が燃えつきる
銀行員の肋骨で山鳩が啼いた


灰色の手套(A・25)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)二九ページ、本文五号1段組、11行。
いちめんにひろがる白い雲
なんべんも色鉛筆をなめました
や〔12つ→っ〕とみつか〔12つ→っ〕たお母さんの写真
あんずの花はよく匂〔→2い〕ますね
十字架のたそがれるころ
麦酒がこぼれて
私は旗の〔→2よ〕うにひとり
ああ遠いみ〔→2ず〕うみにし〔→2ず〕んだ
豆売娘のやさしい肩掛よ
墓地への道はながか〔12つ→っ〕た
太陽を蔽うてる灰色の手套の下


液体T(A・26)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)三〇ページ、本文五号1段組、11行。〔抄〕に入集(08)。
水晶の粒にみどりの蛇の影がゆら
ゆらふる〔へ→S2え〕て〔ゐ→S2い〕たと思〔ふ→YS2う〕まに手紙
が配達されたので網膜が冷たくな
りながら湖へひろがり眠る女の明
るいトルソを蔽うて隅の方より南
の街へ燬け縮んでゆく赤い風船玉
がとびだす脳髄のうちで粉〔碎→YS砕→碎→砕〕され
た秋のガラス類が唾液に溶解はじ
めるほのかな音は菩提樹の葉をつ
た〔は→S2わ〕りテラスの石卓にわすれた朝
の月を羽毛の〔や→S2よ〕うに濡らして〔ゐ→S2い〕た


液体U(A・27)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)三一ページ、本文五号1段組、11行。〔抄〕に入集(09)。
その指ききにあらゆる物体が溶化し
て虚空に剥奪される神々は〔輕→YS軽→輕→軽〕く震〔搖→YS揺→搖→揺〕
し累積された存在が瞬間の映像と接
触する血液が氷下で計量され枝を離
れる二重奏は〔みどり→S23緑〕の帽子に均衡を〔(ナシ)→S23失い〕
失ひ→失い→S23(トル)〕夥しい両側の皮膚が透〔(ナシ)→S23かし〕になりな
がら植物類へこぼれ忘れた約束と薄
明を華麗な王冠にうけまもなく地図
へおりてくる子供らを季節風にめく
られた金属で支〔へ→S2え〕換〔氣→YS気→氣→気〕筒を出てゆく
朝の驢馬を音もなく粉〔碎→YS砕→碎→砕〕する水の上


午睡(A・28)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)三二ページ、本文五号1段組、10行。〔抄〕に入集(10)。
水平線へ体温計をつみかさねる
腕の青い血管のひとす〔ぢ→S23じ〕にふる
さとの霧ふかい提〔燈→灯→23燈〕を失〔ひ→S2い〕さぼ
てんの〔*→荊→S2*→莿〕に傷ついた卵巣を金貨 [*=草冠に剌]
で覆うて逃亡する冷たい蜘蛛の
息に翳る病院の廊下の硝子に映
YS2つ→っ〕た女の胸廓に花葩がちりつく
すと蝋燭は消え噴水があが〔YS2つ→っ〕た
り洋籠がひらくと鱗がふ〔YS2つ→っ〕てく
る電球のなかに夕の木琴が鳴る


花の肖像(A・29)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)三三ページ、本文五号1段組、10行。
温室ノ硝子ヘアツマル
女ノ耳カラ花粉ガ氾濫シテ
午前中ノ小鳥タチハ透明ニナリ
角砂糖ノ街ヲトビサル
鉛筆ノ〔ヤ→ヨ〕ウナ風ハ折レテ
駱駝ノ雲ガ眠ルコロ
亜麻ノ花ニカ〔ヘツ→エツ→エッ〕テユク
古風ナ乳母車ノワダチノ音ヨ
冷エル眸ノ底モ斑ラニユレ
鈴ガ鳴ルト昏レル


灯る曲線(A・30)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)三四ページ、本文五号1段組、10行。〔抄〕に入集(11)。
廻転扉をゆるくおしたら剃刀が雲を
切りおとしてしま〔ふ→YS2う〕たくさんの神経
をのぼ〔YS2つ→っ〕たりおりたりする春の蛇に
冷えてゆく異国女の脂肪がぬれてる
希臘風の客間の灯る鏡の瞬間にふと
銀の匙を失〔YS2つ→っ〕た夢を緬羊の瞳の中で
歯磨粉と混乱させては青銅の首をか
ぎりなく溶ける花にうかべ月よりも
上昇する音符に試験飛行士が衝突す
ると皿がわれて葡萄の種子がひかる


哀歌(A・31)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)三五ページ、本文五号1段組、8行。
毛皮にう〔→2ず〕ま〔12つ→っ〕て
み〔→2ず〕うみはねむり
手帖の白い頁から
春のくらげらわき
一匙の雲啜るまも
わすれられぬひと
冷えた眸のそこに
花とともに溶ける


夢の翻訳(A・32)
初出は詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)三六ページ、本文五号1段組、12行。初出標題は「夢の飜譯」(での標題は「夢の飜訳」)。〔抄〕に入集(12)。
     〈紛失した少年の日の唄〉

金魚が紛失する午後の音譜線を走る
少年は蝋にまみれながらも牧師様の
帽子をこまかくちぎり暖かい卵をさ
かんにぬけ星とぬれた植物の隙間へ
のぼ〔YS2つ→っ〕てゆく伯爵夫人の扇をと〔ら→YS2ろ〕う
と手をのばしたら山羊の乳液があふ
れだし緑の周囲がまるく縮んだかと
思〔ふ→YS2う〕とたちまち旅行〔證→YS証→證→証〕明書と平行す
る夏の雲よりもはやく待避〔驛→YS駅→驛→駅〕が映る
女医の水晶の眼鏡へ蛾がおちて間な
くシャボン玉が湧きふりか〔へ→S2え〕る風に
葡萄が灯り首輪のない犬がもうきた

――――――――――

校異を見ればわかるように、《液體》と《液体》とでは漢字・かなとも、表記体系が別のものに変わっている。以下に、標題詩篇〈液體U〉(A・27)を旧字旧仮名で再現してみる。旧字をシフトJISで再現できない漢字は、新字を赤く表示した。つまり、赤の新字を旧字にしたものがの詩集《液體》での表記ということになる。
その指ききにあらゆる物體が溶化し
空に奪される~々は輕く震搖
し累積された存在が瞬間の映像と接
觸する血液が氷下で計量され枝を離
れる二重奏はみどりの子に衡を
失ひ夥しい兩側の皮膚がになりな
がら植物へこぼれ忘れた約束と薄
明を華麗な王冠にうけまもなく地圖
へおりてくる子供らを季風にめく
られた金屬で支へ換氣筒を出てゆく
朝の驢馬をもなく粉碎する水の上
なお吉岡は、《液體》でも《昏睡季節》でも「々」は使用しているが、「ゝ」や「ゞ」は使っていない。


 雑誌の本文組に「箱組」という、字下げや改行なしに文字や記号類がびっしりと詰まった組み方があって、リード文や短い本文に使用される。20字なら20字の字詰めで何行か組むとき、最終行も20字ぴったりに収めるのをとくに「完箱[かんぱこ]」(「完全箱組」の意か)と呼ぶ。このように組むと文字のブロックが全き矩形になるので、レイアウト上、誌面に独得の効果を与えることができる。ヴィジュアル重視のグラフィック雑誌で多用されるが、もとは広告の表現手法だろう。《液體》にこの箱組が多いことは驚くほどで、最後の行だけ2字足りない〈花遅き日の歌〉を含めれば、32篇中9篇にのぼる。9篇の字詰めと行数を一覧表にする。

#
標題 字詰め 行数 文字数 備考
1
蒸発(A・5) 12
9
108

2
静物(A・15) 7
4
28

3
花遅き日の歌(A・21) 16
10
158
(最終行は14字)
4
液体T(A・26) 15
11
165

5
液体U(A・27) 16
11
176

6
午睡(A・28) 14
10
140

7
灯る曲線(A・30) 16
10
160

8
哀歌(A・31) 8
8
64

9
夢の翻訳(A・32) 16
12
192


雑誌や広告の完箱の散文は、専用の字詰めの原稿用紙を埋めていって最後のマスに句点(。)が来るようなものだが、句読点・字アキともに無い《液體》では、行の変わりめと文節の切れめがなるべく合致するように詩句が整えられている(本稿では両者の合致を詩の完箱とする)。その志向性にもかかわらず、7×4の〈静物〉と8×8の〈哀歌〉以外、行の変わりめと文節の切れめがずれている詩句が見られる。もっともそれは、吉岡が完箱という形式よりも詩句の生成を優先したからで、上に挙げた9篇のうち、詩の完箱を実現している〈静物〉と〈哀歌〉を除いた7篇すべてが、(や現代詩文庫)の〔抄〕に入集している。吉岡は箱組を《液體》の代表的な詩型(この、液体の表面張力を表象する矩形)とし、クレシェンドを奏でるがごとく、詩集後半の〈U 午後〉に集約的に配置した。この詩型の発見こそ、吉岡を俳句という磁場から別の、詩の無重力空間へ解きはなつ契機となったと考えられる。ところで《液體》は奥付も箱組だが、原稿を吉岡が書いたかは定かでない。次の詩集《静物》(1955)は、奥付原稿(15字×5行+6字=81字)を校正時に加筆・訂正して、刊本では完箱(16字×5行=80字)に改めている。戦後、詩の箱組は顧みられなかったが、吉岡の箱組への偏愛はこんなところにも潜んでいた。



詩集《液体》再刊(湯川書房、1971)の漢字表記について一言する。本書の奥付はきわめてシンプルで、印刷所に関しても「印刷鈴木美術印刷」と記してあるだけだ。これが現在、大阪市浪速区日本橋東にある鈴木美術印刷株式会社(1961年創業)ならば、ウェブサイト《ようこそ鈴木美術印刷株式会社へ》に同社の創業後の沿革が掲載されている。現在、同社の主要印刷物はDM・ポスター・カタログ・パンフレット・チラシとあるから、創業当初の凸版(活版)印刷から平版(オフセット)のカラー印刷に移行していったことがわかる。本書刊行当時の同社の活版印刷物を検証していないので確かなことは言えないが、本書の本文で使用されている五号明朝の活字が9ポや10ポのポイント活字ほど装備されていなかったことはありえよう。本書が基本的に「本文新字新かな」でありながら、新字であるべき処に旧字や拡張新字体が使用されているのは、なんらかの事情が背景にあったと考えるしかない。その原因(著者の原稿・校正か、編集者の指定・校正か、印刷所の文選・組版か)の究明はともかく、吉岡実の著書にしては珍しく、使用漢字に統一感がない。校異の対象としなかったが、本書で「送」「羽」「前」「咲」「平」などの当用漢字(当時)が入るべき処に旧字が使用されているのは、いったいどう考えたらいいのか。私には論理的に解明する術がない。気をとりなおして、本文校訂に関わる箇所を中心に問題となる漢字を検討してみよう。以下、 詩集《液體》初刊と 詩集《液体》再刊が同じ場合は(……)と、さらに《吉岡実全詩集》も同じ場合は(……)と補記する。

挽歌(A・1)
・洋〔1Y燈→灯→燈〕は消え(燈)

朝餐(A・3)
・朝の洋燈の芯と(燈)

溶ける花(A・4)
・天使の〔頸→頚→頸〕のあたりに漂着する

牧歌(A・10)
・〔癈→YS廃→廢→廃〕園への道が見えなくなる
・洋〔1Y燈→灯→燈〕の内側を拭き(燈)

乾いた婚姻図(A・13)
・男たちは〔癈→YS廃→廢→廃〕園に

静物(A・15)
・鵞鳥の〔頸→頚→頸〕ねむく

忘れた吹笛の抒情(A・16)
・たえず〔1YS螢→蛍〕どもを匙でとら〔1へ→YS23え〕る

花遅き日の歌(A・21)
・灰へく〔1づ→YS23ず〕れると街〔1Y燈→灯→燈〕がとも〔1YS2つ→3っ〕た(燈)

液体T(A・26)
・がとびだす脳髄のうちで粉〔碎→YS砕→碎→砕〕され(碎)

液体U(A・27)
・て虚空に剥奪される神々は〔輕→YS軽→輕→軽〕く震〔搖→YS揺→搖→揺〕(輕)(搖)
・られた金属で支〔1へ→YS23え〕換〔氣→YS気→氣→気〕筒を出てゆく(氣)
・朝の驢馬を音もなく粉〔碎→YS砕→碎→砕〕する水の上(碎)

午睡(A・28)
・さとの霧ふかい提〔1Y燈→灯→燈〕を失〔1ひ→YS23い〕さぼ(燈)

夢の翻訳(A・32)
・思〔1ふ→YS23う〕とたちまち旅行〔證→YS証→證→証〕明書と平行す(證)
・る夏の雲よりもはやく待避〔驛→YS駅→驛→駅〕が映る(驛)

これを見ると、では「燈」と「灯」が混在していた、あるいは書きわけられていたのが、《吉岡実詩集》でひとたび「灯」に統一されたのち、(およびそれを底本にした)に至ってで「燈」だったものは「燈」に、「灯」だったものは「灯」に戻されたことがわかる(では「灯[とも]る」や「灯[ひ]」の場合は「灯」を、「街燈」「提燈」などでは「燈」が用いられている)。つまり、同じ本文をは混在ととり、は書きわけととったのである。それ以外は下のごとし。〔頸→頚→頸〕は頚が拡張新字体のため、旧に復したと思しい。〔癈→YS廃→廢→廃〕は、癈・廢が旧字のため新字に改めたと思しい。〔碎→YS砕→碎→砕〕も碎が旧字のため、〔輕→YS軽→輕→軽〕も輕が旧字のため、〔搖→YS揺→搖→揺〕も搖が旧字のため、〔氣→YS気→氣→気〕も氣が旧字のため、〔證→YS証→證→証〕も證が旧字のため、〔驛→YS駅→驛→駅〕も驛が旧字のため、新字に改めたと思しい。これらの旧字の使用状況は、高い確度での原稿が印刷物としてのの原本、もしくはそのフォトコピーだった可能性を示している。



《液體》巻末〈あとがき〉の原文は旧字旧仮名である。《吉岡実全詩集》には新字で再録されているので、シフトJISで表示できるかぎりの旧字で引用する。
 畏友吉岡實兄は御召に應じ、現在大陸に活躍してゐる。召集令状を受けると第二詩集たる本書刊行の一切を私達に嘱して勇躍征途に上つた。私達は元來淺學菲才、且、超現實主義の詩は本當のところ深く解し得ない。從つてその任にあらずとは思つたが、出征する畏友の命に背くのも不本意と、駑馬に鞭打つて、漸く茲に上梓する運びとなつた。
 本書の内容の採擇並に配列は一切著者の指圖に從ひ、裝幀は著者の自畫及その指定に係る素材を用ひて、之に私達の考案を若干加へ、御覧の通りのものにした次第である。戰野遠く、校正・下刷などを著者に校閲してもらふ事が出來ず、著者の希望に副はない所も隨分多い事であらう。從つて本詩集について讀者諸賢から御褒めを頂く點があれば、すべて著者の手柄であり、御叱りを受ける點があれば、一切私達の到らなかつた罪である。
 なほ本書刊行に就いて一方ならぬ御助力を頂いた小坂孟・佐藤春陵・西村知章の三氏に厚く御禮を申上ぐる次第である。
  昭和十六年十二月
                    小林 梁
                    池田行之
〈あとがき〉に登場する小坂孟は、本書奥付からわかるように大日本印刷株式会社の担当者。吉岡実が校正した城戸幡太郎《民生教育の立場から》(西村書店、1940年3月25日)、北海道庁編《北海道の口碑伝説》(日本教育出版社、1940年3月30日)の奥付にも小坂の名が記されている。《うまやはし日記》の読者には親しい夢香洲書塾の佐藤春陵は、吉岡を文学に導いた書家にして俳人。西村知章は西村書店の社長で、吉岡は1939年末に夢香洲書塾を退いて翌40年2月に同書店に入社後、1941年夏に出征するまで西村のもとで書籍の編集に携わった。小林梁は西村の知人の甥で、吉岡と出会った当時は開成館に勤務。編集者か。池田行之が《うまやはし日記》の池田行宇と同一人物なら、吉岡と佐藤春陵の俳句仲間。吉岡が〈溶ける花〉を捧げた中村葉子の消息に詳しいところを見ると、南山堂時代の同僚と思しい。費用面はおそらく吉岡の兄の長夫が管理し、制作面では南山堂・夢香洲書塾・西村書店、各時代の知己が結集した吉岡の詩集《液體》は、刊行の経緯を見るにつけても戦場に消えた若者の「遺稿集」さながらである。《液體》の装丁は目次裏に「著者自装」とあるから吉岡実でいいとして、詩篇の本文組を指定したのは誰か。この問にはあとで答えることにして、詩の行数(最少は4行、最多は14行)と行間の関係を比較してみよう。なお32篇のうち〈溶ける花〉は献辞入り、〈相聞歌〉は「反歌」という見出し入りのため、詩篇本文だけの組版と体裁が異なるので、検討の対象としなかった。「詩篇の本文行数・詩篇本文の幅・行間(本文活字の倍数)」を測った数値を掲げる。

詩篇の本文行数 詩篇本文の幅[mm]
行間(本文活字の倍数)
4
37
二倍(2.0)
5
48
二倍(2.0)
6
45
全角四分(1.25)
8
55
全角(1.0)
9
62
全角(1.0)
10
69
全角(1.0)
11
68
二分四分(0.75)
12 64
二分(0.5)
13
70
二分(0.5)
14
75
二分(0.5)

少ない行数ほど行間を広く取って、多い行数ほど行間を狭くする。その結果、行数で3.5倍もの開きがあるにもかかわらず、詩篇本文の幅は約2倍に抑えられている。これは、すべての詩篇を1ページに収めるという原則を振りだしに、ページ内で安定的な版面を設計した結果にほかならない。吉岡が〈詩集・ノオト〉で回想した「昭和十六年の夏、ぼくにも召集令状がきた。すだれを巻き上げて入ってきた郵便夫が魔の使いに見えた。母は驚愕した。四日ほどしか時間がない。ぼくはそれから二日間『液体』の整理編集に没頭した。あと一日は恋人と隅田川のほとりを歩いた」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、七二ページ。初出:《詩学》1959年4月号)という切迫した時間内に「4行のときの行間は二倍アキ、14行のときの行間は二分アキ」などと吉岡が決めたとは想像しがたい。おそらく詩篇の本文を確定する、すなわち「詩ノート」から稿本を作るのが精いっぱいだっただろう。組版に関しては、詩篇はすべて1ページに1篇、行間を調節して見栄えよく、といった「著者の希望」が小林・池田両氏に伝えられたのではないか。召集令状がきてすぐに吉岡が《液體》を編集した1941年6月以降、半年かけて詩集を形にするのに際して、こうした両氏の苦労があったに違いないと想像する。



「リルケの詩や『マルテの手記』を愛読していたが、深遠すぎて、詩作のうえでは、影響を受けなかった。まだ私は本気で、詩を書くことを、考えてはいなかったようだ。遊戯するように、超現実風の詩を、少しばかりつくったにすぎない。それらの詩を収めた、私の処女詩集『液体』が知己の手で、出版されたのは、大東亜戦争の始まった年の冬であった」(〈リルケ『ロダン』――私の一冊〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、二八七ページ。初出:《東京新聞〔夕刊〕》1982年4月19日)は、後期吉岡実詩(のちに《薬玉》となる詩篇)を書きつつあった著者による、40年後の《液體》の総括である。

〔2019年4月15日追記〕
吉岡実の生誕100周年(2019年4月15日)を記念して、〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉(小林一郎 編)〔A4判縦位置で印刷すると、約[293]ページ〕を新規ページとしてアップした。ただし、本サイトでは《〈吉岡実〉を語る》の一項目という位置づけのため、トップページの〈目次〉には掲出しない。


城戸幡太郎《民生教育の立場から》のこと(2011年9月30日〔2014年1月31日追記〕)

吉岡実《うまやはし日記》(書肆山田、1990)の1940(昭和15)年2月16日(金)と2月21日(水)に《民生教育の立場か ら》に関する記 述がある。すなわち「朝から、城戸幡太郎『民生教育の立場から』の校正にはげむ」と「気分すぐれないが西村書店へ行く。『民生教育の立場から』のゲラを終 日読む」(同書、一三四・一三六ページ)である。《吉岡実言及書名・作品名 索引〔解題付〕》の当該項目を借りて《民生教育の立場から》の説明とする。

《民生教育の立場から》 (西村書店、1940年3月25日)〔259 -799〕
教 育心理学者・城戸幡太郎〔1893-1985〕の著作。吉岡は「朝から、城戸幡太郎『民生教育の立場から』の校正にはげむ。読みながら感銘をおぼえた」と 書いている。城戸のほか、安部磯雄・岡潔・沖野岩三郎・乙竹岩造・神近市子・桐生悠々・久布白落実・倉橋惣三・権田保之助・高島平三郎・野口援太郎・羽仁 五郎・牧野富太郎・正木ひろし・三木安正・山高しげり・山田わか・吉田熊次の著作集が出ている学術著作集ライブラリーの《城戸幡太郎著作集〔全7巻〕》の 第6巻として扉から奥付までを原寸で収録、復刻されている(学術出版会、2008年2月25日)。★原物未見。

同時期の日記に登場する《北海道の口碑と伝 説》―― 正しくは北海道庁編《北海道の口碑伝説》(日本教育出版社、1940年3月30日)では、当時吉岡が勤務していた西村書店は制作会社として黒子に徹してい るが、《民生教育の立場から》は西村書店が発行所だ。本書の仕様は、二〇八×一四七ミリメートル(推定)・三八六ページ(前付一四 ページ・本 文三七〇ページ・奥付一丁〔裏白〕)で、復刻版を参看したため函の有無・製本仕様は不明。以下に、本書の概要を記す。引用文の漢字は新字に改め(踊り字の 二の字点は同の字点に改変)、かなづかいは原文のママとした。

◎本扉:城戸幡太郎著/民生教育の立場から/西村書店刊

◎ 題辞:輿論を指導する教学を/国民を感激さす政治を/世界を啓発する文化を

◎ 〈序〉の末尾には「皇紀二千六百年の紀元節を迎へて/著者」とあるが、これは1940(昭和15)年2月11日のことである。おしまいの二つの段落を引こ う。文中の城戸の《生活技術と教育文化》(賢文館、1939年6月10日)は戦後の1946年に萬里閣から再刊されており、後述する。
 わたくしは、さきに『生活技術と教育文化』なる著述において民生教育なる一章を設けたが、それは単なる題目にすぎ ず、それが如 何なる立場の教育を意味したかを十分に解明することができなかつた。留岡清男君は特にこの民生教育なる用語に対し、その意義を質問し、民生教育の立場を明 かにすることを要求された。わたくしは何かの機会にその責任を果したいと思つてゐたところ、たまたま西村書店主西村知章君から教育に関する著述の出版を促 されたので、それを機会にわたくしの立場を明かにして見たいと考へたが、それについて熟慮執筆するの余裕が与へられず、本書もこれまで雑誌や新聞に発表し た論文を纒めたものになつてしまひ〔小林註:本書に初出の記録は掲載されていない〕、民生教育の理論や体系については一言も触れることができなかつたこと は甚だ申訳がない。しかし本書を特に『民生教育の立場から』と題したからには、その立場だけは明瞭にしておかねばならぬ。
 わたくしがこれまで日本の教育について考へたことは、如何にすれば教育の力によつて益々国家の丕基を鞏固にし、八洲民生の慶福を増進することができるか といふことであつた。この長期建設期における重要国策として認められてゐる生産力の拡充とか労働力の確保とかいふことも国民の生活力を涵養することなしに は達せられず、民生の慶福は国民の生活力を旺盛にすることによつて増進され、国家の丕基はそれによつて益々鞏固なものとなるのである。要するに民生教育の 立場から考へられる将来の教育は、国民の生活力を涵養するために新しき生活技術を発見し、新東亜建設の基礎となる教育文化の発展によつて国民の生活を刷新 することである。(本書、二〜三ページ)
◎ 〈目次〉〔一 …… 二 …… は原本ではそれぞれ独立した一行だが、改行箇所を斜線(/)に替えて追い込みで表示した。またノンブルは省略した〕
第一章 教育治国の本義
一  教学の刷新/二 政権と教権/三 教政一致への認識
第二章 新東亜の教育政策
一  民族性と国民性/二 新東亜教育と東亜協同体/三 興亜教育の三原則
第三章 日本教育の再建
一  文化新様式の創造/二 日本の教育文化/三 教育改革の根本問題/四 現代の学校問題/五 教育立地の問題/六 教育革新の目標/七 国民教育と教育科 学運動
第四章 民生教育の政策
一  教育政策と社会政策/二 職業統制と計画教育/三 職業教育と職業指導/四 人的資源の利用厚生/五 義務教育免除の問題
第五章 児童保護教育の必要
一  貧困児童の教育問題/二 精神薄弱児の教育/三 児童虐待の防止/四 不良少年の教護
第六章 国民基礎教育の建直
一  国民学校案について/二 国民教育と幼児教育/三 保母に必要なる素養/四 教科改造の問題/五 教科書問題の検討/六 師範教育の改革
第七章 青年大衆教育の確立
一  教育的年齢の問題/二 大衆教育の体系/三 青年教育の組織化/四 産業政策と青年教育/五 青少年の保護立法/六 中等学校の改革/七 入学試験廃止 の問題
第八章 大学教育の問題
一  国家と大学/二 大学教育の改革/三 忘れられた私学の使命/四 大学と青年文化/五 大学生としての教養/六 指導力ある教育/七 新東亜教育と大学 の再組織
◎ 奥付〔下の写真参照〕
昭和十五年三月二十日印刷
昭和十五年三月二十五日発行

 民生教育の立場から
     定価 金壹円八拾銭
   ○
著作者 城戸幡太郎
発行者 西村知章
   東京市神田区小川町一ノ一内神田ビル
印刷者 小坂孟
   東京市牛込区市谷加賀町一ノ一二
   ○
発行所 西村書店
   東京市神田区小川町一ノ一内神田ビル
     電話神田(25)四五五・四五六
     振替貯金口座東京一六四八六四

大日本印刷株式会社印刷 〔原文は右から左への横組〕
《民生教育の立場から》(西村書店、1940年3月25日)の奥付〔《城戸幡太郎著作集〔第6巻〕》による復刻〕
《民生教育の立場から》(西村書店、1940年3月25日)の奥付〔《城 戸幡太郎著作集〔第6 巻〕》による復刻〕

本書〈序〉に登場する留岡清男(1898-1977)は社会教育活動家・教育科学研究者で、西村書店から《生活教育論》(1940年7 月31日)を 出しているから、西村知章は城戸にも留岡にも近かったと思われる。吉岡は1939(昭和14)年11月5日の日記に「西村知章さんから手紙がきた。小出版 社を始めたと言う。学者肌の人かと思った」と書いている。留岡の《生活教育論》の〈序〉の終わりの部分を引く。当時の吉岡実日記は未刊行だが、同書の校正 の手伝いもしていたか。

 なほ、私は、この「生活教育論」を自ら進んで出版する意志と勇気をもたなかつたのであるが、西村書店西村知章氏の 切なるすすめ によつて、つひに出版することになつたのである。そのために、原稿の整理や送届けが遅れがちになつて、多大の迷惑をかけてしまつた。また、校正に当つて は、非常に綿密な注意を戴いた。西村書店に対して深謝する次第である。

  昭和十五年七月七日
           教育科学研究会東京事務局に於て
                         著者(同書、三ページ)

吉岡が《民生教育の立場から》を「読みながら感銘をおぼえた」のはどのような点だったのだろうか。今日、私が読んで興味を惹かれるのは次ような箇所であ る。
「人 的資源の教育的開発には技術教育こそ重大な役目を果すもので、文学や哲学の如き一般文化的教養は音楽や体操と同様に教育におけるリクリエーシヨンとして社 会生活の裡に学んで行くこともできるのであるが、技術の教育は特に学校といふ特殊の組織的教育機関なくしては効果を納め得ないのである。現在の如き法文学 部の教育ならば、図書館でなり、ラヂオでなり学習することができるのであつて、特に大学の如き設備を必要とはしないのである。青年の教育についても特にこ の点に注意して技術教育を主とする組織的教育機関を完備し、これによつて青年大衆の職能教育を行ふことが国家の必要とする国民教育の完成であるといへるの である。以上の如き見地から見れば、中学校は高等学校の準備教育でなく、それ自身一つの完成教育であり、進んで高等教育を受けんとするものは広く青年大衆 から能力のあるものを選抜して教育を施すべきで、現在のやうに高等の専門教育が能力本位ではなく資力本位であることは教育資本主義の弊習であり、人的資源 の教育的開発としては決して国家のために悦ぶべきことではないのである」(〈第三章 日本教育の再建〉の〈三 教育改革の根本問題〉、本書、八四〜八五 ページ)。
「文学や哲学の如き一般文化的教養は〔……〕社会生活の裡に学んで行くこともできる」という一節には、吉岡実も体験的に共感したのではあるまいか。もっと も吉岡にとっての「社会生活」の実態は、その後の帝国陸軍および戦後日本という過酷きわまりないものであったが。
《民生教育の立場から》に著者のあとがきがないのは残念だが、戦後に再刊された城戸の《生活技術と教育文化》(萬里閣、1946年6月5日)の〈序〉にこ うある。「わたくしは昭和十九年六月十三日突然検事の命令によつて世田谷署に留置され、翌年五月十三日漸く自由の身となつた。検束の理由はわたくしたちが 共産主義を信奉して教育運動を行つたといふ嫌疑であつた。そしてその証拠としてあげられたものは、岩波講座「教育科学」と雑誌「教育」並びに「教育学辞 典」に執筆した諸論文であり、著述としては賢文館より刊行した「生活技術と教育文化」と「幼児教育教育論」〔正しくは「幼児教育論」〕並びに西村書店より 刊行した「民主〔ママ〕教育の立場から」であつた」(同書、三ページ)。自身の著書名を誤記・誤植しているのは、手許にないため記憶に頼って書いたからだ ろう。にもかかわらず《民生教育の立場から》を挙げているのは、城戸がこれらの著作になみなみならぬ自負とそれを裏書きする一貫した姿勢を保っていたから だと考えたい。
戦後の吉岡は城戸幡太郎(の著書)について、なにも触れていない。石田波郷との関連で、西村書店のあった内神田ビルに言及した以外は。「昭和十四、五年ご ろ、私は淡路町の内神田ビルの一室にある、小さな出版社に勤めていた。そこの階段や便所の前ですれちがう、着ながしの和服姿の大きな青年の姿に心惹かれ た。共同湯沸場でよく一緒になる、馬酔木発行所の娘さんから、それが石田波郷だと聞いた」(《俳句》1970年11月号、六一ページ)。戦後、吉岡が教育 学界に詳しい西村知章と関わった期間が短く――吉岡は1945(昭和20)年12月、西村書店の社長が協力者を得て創った香柏書房に入社、翌1946年8 月、香柏書房を退社――、その後は筑摩書房と城戸の付きあいがほとんどなかったことにもよるだろう。

〔2014年1月31日追記〕
城戸幡太郎には、〈教育改革の旗の下に〉(1980年2月7日、NHK教育テレビ《わたしの自叙伝》で放送) という録音資料がある。私はCD(NHKサービスセンター発行・大空社発売、2012年5月22日)で城戸の話を聴いた。予想されたことだが、吉岡実や西 村書店への言及はなかった。同CD(《NHKわたしの自叙伝 11〔教育・宗教 2〕》)のパッケージでは
生活綴り方運動と出会い、勤労主義から生活主義に転じ た
祖父の薫陶を受け「自由であること」が教育観の基調となった。東大時代「発達心理学」を研究し、子どもに対する興味を持った。冷害の東北と北海道で生活綴 り方運動と出会い、その運動と合流したことで弾圧をうけ、戦後は「教育科学」を標榜した。」
と紹介されている。城戸の口調には、どことなく同じ愛媛県出身の大江健三郎に似たものを感じた。丸い黒縁眼鏡をかけた風貌もその印象を強めている。


〈吉岡実文学館〉を考える(2011年8月31日〔2013年5月31日追記〕〔2016年10月31日追記〕)

中村稔《文学館を考える――文学館学序説のためのエスキス》(青土社、2011年2月28日)を読んだ。帯文に「知的営為の保存と継承 /文学者の遺 稿、初出誌、初版、遺品等、文学者の息遣いを伝える文学遺産にどう対処すべきか。そのために文学館は何をすべきか。文学館の理念、施設から運営の実務にい たるまでのあらゆる問題を系統的、網羅的、具体的に検討し、省察したわが国で初めての文学館論。図書を愛する人びとに必携の書」とあるように、現在のとこ ろ文学館を考えるための唯一の書物といっていいだろう。本書に吉岡実への言及は見えないが、本サイト《吉 岡実の詩の世界》を展開していくための創見に満ちている。以下では本文に即して、来るべき〈吉岡実文学館〉を――ひとつの思考実験と して――構想してみよう。なお叙述の都合上、本文の項目ごとに見出しと(a)等の記号を付し、改行箇所を/で表わした。

中村稔《文学館を考える――文学館学序説のためのエスキス》(青土社、2011年2月28日)のジャケット
中村稔《文学館を考える――文学館学序説のためのエスキス》(青土社、2011年2月28 日)のジャケット

(1)【文学館の図書館的機能について】
 文学館の本来の使命は、文学資料、すなわち、(a)肉筆原稿、(b)初出誌、 (c)初版本、(d)推敲を経た後日の刊本、(e)日記、(f)書簡、(g)創作ノート、(h)書き入れ本その他の蔵書、さらに(i)研究書等をひろく収 集、保存、整理し、研究者等の閲覧に供することにある。きわめて限られた少数の読者のための図書館的機能を果たすことが本来、文学館の役割である。だか ら、こうした活動に意義を認める篤志家、自治体等がなければ成り立ちえない。日本近代文学館のばあいであれば、数多くの作家、学者、出版社等の支援と好意 によって、これまで維持されてきたといってよい。俳句文学館、日本現代詩歌文学館等も、おおむね、こうした図書館的機能を中心とする文学館である。(一九 ページ)

吉岡実の場合、詩集の(1-a)肉筆 原稿は日本近代文学館が所 蔵するB《静物》(1955)の稿本以外に存在しないと思われる。戦前の二詩集、@《昏睡季節》(1940)とA《液体》(1941)の肉筆原稿はおそら く戦災で焼失し、C《僧侶》(1958)以降すべての詩集の原稿は陽子夫人の浄書になるものだからである(随想を含む散文は、吉岡実の自筆原稿と思われ る)。(1-b)初出誌〈模写――或はクートの絵から〉(E・4)を除く全詩篇 の発表媒体とその本文が判明している。むろん、新たに未刊行詩篇の発見される可能性は残っている。(1-c)初版本は《静物》以降は各地の図書館や文学館 が所蔵する詩集も多いが、私家版(とりわけ初期のもの)は部数も少ない稀書のため、未所蔵となっている。(1-d)推敲を経た後日の刊本の代表は何種類かの《吉 岡実詩集》で、現時点での最終刊本は《吉岡実全詩集》(1996)である。(1-e)日 記は生前最後の書籍《うまやはし日記》 (1990)を筆頭に、雑誌や書籍に掲載されたものがいくつもある。(1-f)書 簡は永田耕衣宛のものが耕衣の主宰誌《琴座》に随時掲載されていたが、書簡集のようにまとまったものはまだない。(1-g)創作ノートに類する資料の存在は現在に至るま で確認されていない。(1-h)書き入れ本その他の蔵書は 不明の点が多いが、書架を背景にした肖像写真等から蔵書の一部が窺える。何冊かの手沢本を見たかぎり、吉岡は蔵書に書きこみをしなかったようだ。(1- i)研究書は 吉岡実の生前に一冊、歿後に四冊があるが、二冊のモノグラフをもつ秋元幸人の早逝が惜しまれる。日本近代文学館には吉岡実の著書20冊をはじめ、《今日》 や《鰐》といった同人詩誌の揃い、数多くの吉岡実詩の初出掲載誌があり、俳句文学館には吉岡の俳句仲間の貴重な句集がある。私が日本現代詩歌文学館が所蔵 する〈苦力〉(C・13)の初出誌である《現代詩》を岩手・北上まで探索にいったのは、同詩の掲載号が日本近代文学館でも国立国会図書館でも欠号だったか らである。

(2)【文学者の顕彰、文学者の研究について】
 真に文学者を顕彰するのであれば、まず、(a)その文学者の資料をひろ く収集、保存、整理する、といった本来の文学館の活動が中心とならねばなるまい。その上で、(b)その文学者に関する研究評論類をひろく収集、保存、整理 する。これも文学館に求められる本来の活動である。その上で、(c)刊行物の発行であろう。〔……〕/特に個人文学者の記念館のばあい、文学館はその文学 者研究のメッカともいうべき、そこへ行けばすべての研究資料が完備している施設であってほしい。そうすることによって、はじめてその文学者の顕彰の基礎が つくられるのだ、と私は考える。 (二三ページ)

(2-a)その文学者の資料は、 吉岡実の場合はまだ全集が出ていないから、刊行分は個個の単行本および全詩集、未刊行分は初出誌紙ということになる。(2-b)その文学者に関する研究評論類はまず(1- i)だが、書籍に収録された、あるいは雑誌や新聞に掲載されたもの以外にも、インターネットだけで公開されている文献が数多くある。《吉岡実参考文献目録》は紙媒体に発表された研究評論類に限定し て採録しているが、ネット上の重要な文章に関してはこの《〈吉岡実〉を語る》ほかで言及するようにしている。(2-c)刊行物の発行で 最初に想いうかぶ企画は、現在、姫路文学館永田耕衣文庫が所蔵する吉岡実の永田耕衣宛書簡(耕衣からの来簡を併せた往復書簡集が希ましい)であり、吉岡の 談話や対談・座談会など、エクリチュールにあらざるものの集成である(私はこれらの編集をほぼ終えている)。後者はもっぱら自他の詩歌句について語ったも のだから、自作解説を好まなかった吉岡の証言としても貴重である。なお、未刊行の散文(これも編集を完了している)は(2-a)その文学者の資料としてい ずれ吉岡実全集に収録すべきものである。

(3)【収蔵庫の重要性について】
 文学館の建物の設計を依頼し、あるいは公募するばあい、どういう性格の文学館とする かという理念が明確でなければ、施主の側が設計者に必要条件を呈示できない。(a)資料の収集、保存、研究者等の閲覧、利用を中心とする図書館的機能か、 (b)啓蒙、普及、顕彰等のための展示を中心とする博物館的機能か、(c)文学研究、文学活動の中核的機能か。それらのすべてを兼ねることはできないのだ から、これらの間の兼ねあいをどうするか。こうしたことを充分検討し、地理的条件、敷地の条件、何よりも予算、それも開館後の維持・管理の費用まで考慮し てはじめて、設計者に呈示する条件がきまるのだといってよい。/それでもなお、私は文学館における収蔵庫の重要性はいかに強調しても強調しすぎるというこ とはないと考えている。展示中心の博物館的機能を目的とする文学館であっても、収蔵品をもたない展示はありえない。資料を収める収蔵庫とこれを取り扱う職 員こそ文学館活動の基盤である。(三四〜三五ページ)

実際に吉岡実文学館を建てるとなれば、建物を設計しなければならない。今回はウェブサイト上の架空の空間ということで、そちらには深入 りしない。しかし、(3-a)閲覧、利用を中心とする図 書館的機能、(3-b)展示 を中心とする博物館的機能、(3-c)文 学研究、文学活動の中核的機能、 のどれを重視するかは決定する必要がある。私は《吉岡実の詩の世界》を公開するにあたって、サイトの概要を「小林一郎が調査・著述・作成する、詩人・装丁 家吉岡実の人と作品を研究するページ。吉岡実の著書を資料面から補完し、鑑賞と研究に資する。年譜・書誌・参考文献目録ほか」と記した。別言すれば、小林 ひとりが執筆者・編集者・制作者であること。吉岡実の詩人と装丁家の両面を研究すること。リアルな世界の吉岡の著書に対して、ヴァーチャルな指標としてそ れに作用すること。具体的な掲載項目としては、吉岡実年譜(これは吉岡陽子さん編の年譜を転載することができた)・吉岡実書誌・吉岡実参考文献目録である こと――これらはどちらかといえば(3-a)に近く、吉岡実文学館のストックに相当する。一方、《吉岡実の詩の世界》の真の目的が(3-b)の吉岡実作品 の啓蒙、普及、顕彰、そして それと表裏一体の関係にある(3-c)文学研究、文学活 動であることは紛れもない。それはフローというよりも、つねに新しい吉岡実像の提示といえようか。私は同時にそれが、吉岡実を 具体例とする新しい研究方法であることを願っている。

(4)【収集すべき文学資料、とりわけ図書について】
文学館とは文学資料を収集、保存し、研究者等の閲覧に供する施設で あることが、その第一義的な存在意義である。コレクションのない美術館が展示ホールにすぎないのと同様、文学資料のない、あるいは乏しい文学館はその名に 値しない。/文学資料とは(a)図書、(b)雑誌、(c)原稿、(d)創作ノート、(e)メモの類、(f)日記、(g)書簡、(h)自筆の書画、(i)愛 蔵した書画、(j)筆記具等の日常の身の廻り品等をいう。日本近代文学館では、図書、雑誌を除く、原稿その他を特別資料とよんでいる。資料の性質により、 収集、整理、保管、利用等に違いがあり、これらを一様に取り扱うことはできない。/特定の文学者の記念館のばあい、収集すべき図書としては、その文学者が 刊行した(k)単行本のすべて、それに生前、死後に刊行された(l)全集、(m)選集、(n)文庫版、さらにその文学者の作品が収録されている(o)文学 全集、(p)アンソロジーをふくみ、その文学者に関する(q)研究書、(r)評論、(s)回想等の伝記的資料となる図書までふくむ。(四六〜四七ページ)

(4-d)創作ノートは (1-g)で「現在に至るまで確認されていない」と書いたが、よく考えれてみればK《ムーンドロップ》(1988)の目次の初案がこれに相当したように、 ほかにもまだ存在するかもしれない。(4-e)メモで は、自身の家系を系図にまとめようとした(おそらくは未完成の)それが印象に残っている。(4-f)日記は、 吉岡が活字化していいと考えたものはほとんど公表されているのではないか。ただし《うまやはし日記》が刊行されれば「感傷的な二冊の「原・日記」は消滅す るはずである」という〈あとがき〉の文言をそのまま受けとめていいものかどうか。L《赤鴉》(2002)の原本が消滅を免れたように、「原・日記」も現存 するのではないか。(4-i)愛蔵した書画は、 吉岡実文学館の美術館的・博物館的資料として、展覧には最適である(吉岡の歿後には、典雁のコレクションが展覧された)。《サフラン摘み》のジャケット原 画のようにすでに人手に渡った書画も一堂に会したら、さぞや壮観であろう。《吉岡実参考文献目録》は(4-q)研究書、(4-r)評論、(4-s)回想等の伝記的資料をひとくくりにしている が、これは細分化したほうがいいかもしれない。個個に解題を付すことは無理としても、言及されている作品名を補記することは、吉岡実研究に大いに役立つだ ろう。同様に《吉岡実書誌》は(4-l)全集、(4-m)選集、(4-n)文庫版、(4-o)文学全集、(4-p)アンソロジーに再録された作品をみな〈主要作 品収録書目録〉にまとめているが、こちらも分けるべきか。

(5)【初版本とその意義について】
 個人文学者の記念館であれ、地域文学館であれ、対象とする文学者に関する収集する 資料として、第一に図書、ことに(a)初版本がある。初版本収集の意味は、流布本との比較による(b)推敲過程探求の資料であることにあるが、推敲につい ては原稿との関係で後に考えることとする。〔……〕/だが、初版本がただ一種と即断することはできない。漱石初版の複刻版の製作を手がけた、当時は日本近 代文学館の職員、後に神奈川近代文学館の事務局長をつとめた倉和男さんから教えられたことだが、数種の初版本を比較検討しなければ、真の初版本を確定でき なかったという。活字を組んで版を作り、印刷機にかけて印刷していく間、当時の本のばあい、しばしば活字の脱落や飛び出しがみられるそうである。また、北 川太一さんの調査によれば、龍星閣から刊行された高村光太郎『智恵子抄』の初版第一刷には誤植が多かったと作者が語っているが、その後徐々に訂正されたも のの、第八刷と第九刷との間で明らかに改版されているという。/だから、奥付を信頼して初版ときめこむことの危険、初版第一刷にありがちな誤植を考慮して 私たちは初版本を見なければならない。(四八〜四九ページ)

吉岡実の12冊の単行詩集の(5-a)初 版本の初刷部数は次の とおり。@100部、A100部、B200部、C400部、D400部、E270部、F700部、G不明(6刷で計9,000部)、H1,000部、 I800部、J2,000部、K1500部。不明分を除いて平均すれば、1冊あたり約670部になる。その作品のもつ影響力に比して、部数の少なさに驚 く。最初の《昏睡季節》を私家版で刊行したとき、吉岡はすでに出版社の編集者だった(装丁の業務はまだしていなかったようだ)。出版に精通した人間がつく ればこうなるという例が、これら12冊の詩集である。(5-b)推 敲過程探求の資料の面からは、不要な行アキが混入したH《夏の宴》(1979)以外、本文に致命的な瑕疵は見あたらない。それ 以上に見事なのが部数の設定で、とりわけ《静物》の200部、E《静かな家》(1968)の270部には声を失う。

(6)【資料管理に必要な情報および装幀について】
 受け入れた資料をどう整理し、管理するかは、パーソナル・コン ピュータ(以下たんに「コンピュータ」という)を利用しているばあいと、手書きで処理しているばあいとで、方法がまるで違うけれども、管理すべき情報の本 質に違いがあるわけではない。文学館が管理すべき情報は、豊富であればあるほど望ましいが、労力、費用等により自ら限度があることは止むをえない。また、 文学館の在り方によってどれほど詳細な情報を管理するかも違うかもしれない。/図書であれば、(a)著者名、(b)題名、(c)出版社名、(d)出版年月 日、(e)寄贈者、(f)遺族の住所・氏名、(g)初版・再版の別などは最低限必要な管理情報だが、(h)序文・跋文の筆者、(i)装幀者名、(j)第何 刷かの刷次も管理しておきたい情報である。/〔……〕/私は書誌情報として装幀者名を記述しておくべきだと考えている。見方によれば、図書とは内容をなす 文章と外装する装幀との総合作品である。装幀は時代と共に趣きを異にし、装幀者の個性によっても趣きを異にする。装幀は展観の対象ともなるし、研究の対象 ともなるはずである。書誌情報の一つとして装幀者名を記述し、装幀者からの検索も可能なようにしたいと私は考えている。(八二〜八三ページ)

(6-h)序文・跋文の筆者は 句集や歌集では重要な書誌情報である。吉岡が宗田安正句集《個室》(1985)に寄せた〈『個室』の俳人への期待〉は、俳句文学館の「序・跋目録」で検索 して発見したものだ。(6-i)装幀者名は 通常、扉の裏や目次の最後、もしくは奥付に記載されており、(6-a)著 者名の ように函やジャケット、表紙・本扉に記されることはない。さらにまた、出版社の社員が装丁した場合、編集者と同様、クレジットされないのがふつうである (筑摩書房在籍中の吉岡実がそうだった)。神奈川近代文学館の資料検索は「検索項目」に「装幀・挿画者名(図書のみ)」を指定することができる。そこに 「吉岡実」と入力すると次の41件がヒットする(〔 〕内は、図書の請求記号)。

1.  あいうえお  村岡空著 世代 社 1960.5.1 〔K02/5013〕
2.  句集  柿の花 三好達治著 筑摩書房 1976.6.30(昭51) 〔ミヨ/カ2〕
3.  ガラスの 魚 (詩集) 井手文雄著 勁草書房 1983.7.15(昭58) 〔K02/0833〕
4.  貴種と転 生 四方田犬彦著 新潮社 1987.9.25(昭62) 2刷 〔ヨモ/キ1〕
5.  球体の息 子 高橋睦郎著 小沢書店 1978.2.20井(昭53) 〔タカ78/キ1〕
6.  清岡卓行 詩集 清岡卓行著 思潮社 1970.12.1 〔b〕
7.  詩人の血  高橋睦郎著 小沢書店 1977.8.20(昭52) 〔タカ78/シ1〕
8.  詩と批評  A 田村隆一著 思潮社 1976.9.25 3版 〔タム8/1-1〕
9.  詩と批評  B 田村隆一著 思潮社 1977.5.25 4刷 〔タム8/1-2〕
10.  詩と批 評 C 田村隆一著 思潮社 1976.9.1 3版 〔タム8/1-3〕
11.  詩と批 評 D 田村隆一著 思潮社 1977.6.1 3刷 〔タム8/1-4〕
12.  詩と批 評 E 田村隆一著 思潮社 1978.10.15 〔タム8/1-5〕
13.  澁澤龍 彦考 巌谷國士著 河出書房新社 1990.2.20 〔918/シブ7/1〕
14.    澁澤龍彦著 白水社 1981.11.9 〔シブ7/シ1〕
15.  詩集 人類 西脇順三郎著 限定[版] 筑摩書房 1979.6.20(昭54) 〔ニシ14/シ5〕
16.  聖とい う場 高橋睦郎著 小沢書店 1978.10.10(昭53) 〔タカ78/セ2〕
17.  高橋新 吉全集 1 高橋新吉著 限定版 青土社 1982.7.15 〔タカ43/1-1〕
18.  高橋新 吉全集 2 高橋新吉著 限定版 青土社 1982.3.15 〔タカ43/1-2〕
19.  高橋新 吉全集 3 高橋新吉著 限定版 青土社 1982.5.15 〔タカ43/1-3〕
20.  高橋新吉全集 4 高橋新吉著 限定版 青土社 1982.8.15 〔タカ43/1-4〕
21.  高柳重 信全句集 高柳重信著 母岩社 1972.3.7(昭47) 〔K03/1745〕
22.  高柳重信全集 1  高柳重信著 立風書房 1985.7.8(昭60) 〔タカ65/1-1〕
23.  高柳重信全集 2  高柳重信著 立風書房 1985.7.8(昭60) 〔タカ65/1-2〕
24.  高柳重信全集 3  高柳重信著 立風書房 1985.8.8(昭60) 〔タカ65/1-3〕
25.  太宰治  上 野原一夫著 リブロポ―ト 1981.12.10(昭56) 〔ノハ/タ1-1〕
26.  太宰治  下 野原一夫著 リブロポ―ト 1981.12.10(昭56) 〔ノハ/タ1-2〕
27.  読書の 歳月 竹西寛子著 筑摩書房 1985.6.30(昭60) 〔タケ49/ト1〕
28.  鳥の歌  丸谷才一著 福武書店 1987.9.16(昭62) 2刷 〔マル11/ト1〕
29.  西脇順 三郎 変容の伝統 新倉俊一著 花曜社 1979.9.25 〔918/ニシ14/2〕
30.  日本の 現代小説 篠田一士著 集英社 1980.5.10 〔シノ6/ニ1〕
31.  萩原朔 太郎その他 那珂太郎著 小沢書店 1976.4.20(昭51) 2刷 〔ナカ95/ハ2〕
32.  詩集  百たびののち 三好達治著 筑摩書房 1975.7.30(昭50) 〔ミヨ/ヒ2〕
33.  風 船 壺井繁治[著] 筑摩書房 1957.6.20 〔K03/1898〕
34.  宝篋と 花讃 江森国友著 限定 母岩社 1971.5.1 〔エモ2/ホ1〕
35.  本の周 辺 布川角左衛門著 日本エディタースクール出版部 1979.1.10 〔S06/020/32〕
36.  本の周辺 布 川角左衛門著 日本エディタースクール出版部 1980.7.10 4刷 〔020/6〕
37.  水辺の 光 (詩集) 平林敏彦著 火の鳥社 1988.6.1 〔K02/4440〕
38.  《宮沢 賢治》鑑 天澤退二郎著 筑摩書房 1986.9.30(昭和61) 〔アマ4/ミ3〕
39.  やさし い言葉 (詩集) 石垣りん著 花神社 1984.4.21 〔K02/0706〕
40.  夜の音  安藤元雄著 書肆山田 1988.6.10 〔アン13/ヨ1〕
41.  略歴  石垣りん著 花神社 1979.5.9 〔K02/0707〕


日本近代文学館の所蔵検索では「フリーワード」に「装幀 吉岡実」と入力すると、上掲の「31. 萩原朔太郎その他」のほか、《定本那 珂太郎詩 集》と《異霊祭〔限定版〕》の計3件がヒットする。国会図書館のNDL-OPACはそもそも装丁者名を採録していないから、神奈川近代文学館の資料検索は 貴重である。ところで、装丁といった場合は書籍の外装(函やジャケット、表紙、本扉)を指すことは問題ないとして、目次や奥付、本文組は含まれるのか含ま れないのか。「ブックデザイン」や「造本」との違いはそのあたりにあるように思うが、吉岡実装丁では「装幀」というクレジットが多く、これは書籍の外装に 限定するのがふさわしかろう。吉岡はしばしば随想に「造本装幀は云云」と書いており、これは外装に加えて目次や本文組を(編集者と共同して)担当したもの と考えられる。

(7)【書誌情報のコンピュータ利用について】
 書誌情報を整理するばあい、コンピュータを利用するときは、資料情報の 入力は一度で足り、検索のキーワードにより、著者名、題名等の書誌情報は直ちに見いだすことができる。事務管理用の情報から閲覧者に提供すべき情報を区別 して提供することも容易である。台帳、目録、カードを作成する必要もない。コンピュータの導入が省力化に大いに役立つことは間違いない。/しかも、(a) 国立情報学研究所の総合目録データベース(NACSIS-CAT, NC)等を検索し、各種のデータベース中にすでに入力されている情報はダウンロードし、文学館独自の書誌情報を補充すれば、すべてを自ら入力する必要はな い。これに加えて、この総合データベースに収録されていない図書、雑誌について新たに入力すれば足りるわけである。/しかし、コンピュータを利用すること には大きな陥穽が潜んでいることに留意しなければならない。まず、入力は所詮人間の手作業である。人間の作業にはつねに間違いがあることは避けがたい。一 旦間違えれば見直しはきわめて難しい。一方、台帳、目録、カード等を自ら作成し、あるいは転記する都度、その図書、雑誌に接することになるから、おのずか ら、自館にどのような資料が新たに収蔵されることになったか、などに詳しい知識をもつことになり、何人かの手作業を経ていく間に間違いに気付くこともあ る。コンピュータで簡便にすませれば、情報を入手することはできても、知識が体験になって職員の身につくわけではない。また、既成の情報にたよると、どう しても受身になりがちで、それぞれの館に適した分類や整理の体系を築くのは難しい。そのためにはよほど自覚的な姿勢を必要とするだろう。(八三〜八四ペー ジ)

(7-a)国立情報学研究所の総合目 録データベースは当該資料 がどの機関(施設)に所蔵されているかわかってありがたいが、いかんせん検索結果が少なすぎる。著者名=吉岡実でヒットするのは6件、しかも単著はわずか に3件である。いずれにしても、データベースの書誌は紙の目録情報(日本近代文学館ではまだ使用できる)と同列に扱って、そこからたどりついた原物を確認 しなければ鵜呑みにできない。最近、インターネット上のある書誌(図書館のOPACではない)で出版社が精興社になっていたので、あの活版印刷で知られた 老舗の印刷所が一般書を出すのかと思って、原本の奥付を見たら、印刷所=精興社で、版元は別の出版社だった。私もまれに印刷日と発行日を取りちがえること があるので大きなことは言えないが、入力した人間が奥付を読みまちがえたのだろう。誤りのもとだからいまどき奥付に印刷日を記載するのはやめてほしいもの だが、出版社にしてみれば増刷時に初刷発行=何年何月何日、何刷発行=何年何月何日と2行にしたいのかもしれない。私が本サイトに書籍の発行年月日まで書 くのは、資料を実見したことを確認するためでもある(ただし、本文中の吉岡実の著書は年号だけの簡略表示)。

(8)【肉筆資料に関し入力すべき書誌事項について】
 私たちが特別資料とよんでいる肉筆資料の整理が難しいのは書籍、 雑誌と違って、資料そのものから基本的データさえ不明なばあいが多いからである。さしあたって調査未了の事項があっても、これは後日補充することとし、速 かに台帳の記入、カードを作成、あるいはコンピュータ入力の作業は進めなければならない。/入力すべき書誌事項を、すでに紹介した文学館職員研修講座の記 述から引用すると、日本近代文学館では以下のような事項を入力している。/「(a)数量、(b)寸法、(c)受入先、(d)購入・寄贈・寄託年月日、 (e)執筆・制作の年月日、(f)資料の状態、(g)配架場所などは各分類に共通する」が、その他必要な情報として、人名を標目に立てるものと事項を標目 に立てるものの二種に分かれ、人名を標目に立てるばあい、/@(h)原稿―タイトル、原稿・草稿の別、肉筆・ワープロ・清書原稿・自筆・他筆などの別、原 稿用紙の字詰め、筆記具、初出・初版に関する書誌的データ、起草時期(分かれば)未発表であればその旨/A(i)書簡―資料名は○○宛書簡とし、発信日付 (自記日付が優先し無記の場合は消印)を付記、発信地、封書・葉書・絵葉書の別、便箋・巻紙・罫紙などの別、封筒の有無、内容の要約、受信人は補助カード (コンピュータの場合はキーワードとして入力)による/B(j)日記―何に書かれているか(日記帳、ノートなど)、筆記具、既発表(何にいつ)・未発表の 別/以下は項目のみあげれば、C(k)自筆文書、D(l)筆墨、E(m)原画、F(n)絵画、彫刻、G(o)切抜、H(p)印刷物、I(q)文書、J (r)写真、K(s)遺品、L(t)その他の如くである。/こうした整理、分類が一朝一夕でできないことはいうまでもない。各文学館が試行錯誤して各自の 方法を確立するより、こうした情報は文学館間で共有すべきだと私は考える。(八七〜八八ページ)

吉岡実の肉筆資料を詩集《静物》稿本を例に検証してみよう。(8-a)数量は1冊。本文は全部で39丁(そのうちペラの貼込が2丁)。(8-b)寸法は天地265×左右184ミリメートル。(8-c)受入先は日本近代文学館。(8-d)購入・寄贈・寄託年月日は、正確にはわからないが、寄贈時に中村稔に宛てた陽子夫人の書簡が2002年4月18日付なので、2002年4月とする。(8-e)執筆・制作の年月日は、稿本の最初の扉原稿に「吉岡實詩集/静物/1955.5.5」と三行横書きしてあるから、1955年5月5日としておく。なお、奥付は「昭和三十年八月二十日刊」と印刷されているが、稿本は「昭和三十年七月三十一日発行」である。(8-f)資料の状態は、袋綴じの原稿の背を糸でかがった諸製本で、吉岡自身が半永久的な保存を目指したことは確実である。(8-g)配架場所は不明だが、特別資料として一般資料(図書・雑誌)とは別置にしてあるのだろう。ここでは(8-t)その他として扱っておくが、装丁原稿はそれ自体が吉岡実の作品だから、刊本と対にしたその展示は吉岡実文学館の要素として欠かせない(吉岡実を偲ぶ会では、書肆山田の刊行物の装丁原稿が額装のうえ展示された)。真鍋博がカットを描いた《静物》の装丁原稿が現存するかは不明(稿本《静物》といっしょに保存されてはいなかった)。

(9)【企画展のテーマについて】
 常設展を止め、あるいは常設展のためのスペースを大幅に縮減すると、企画展が中心に なるので、豊富な展示企画をもつ必要がある。(a)対象とする文学者の名作を掘り下げて次々に相当期間をおいて展示していくことを私は一例として考えてい る。/作品ごとでなくても、斎藤茂吉についていえば、『赤光』『あらたま』の時代、『遠遊』『遍歴』の時代、『ともしび』の時代、『白桃』『暁紅』『寒 雲』の時代、『小園』『白き山』の時代、『つきかげ』の時代、というような(b)時代区分によって、それぞれの時代の茂吉の歌境をふかめた展示が考えられ るであろう。/また、短歌とは別に、「茂吉の随筆」「茂吉と万葉集」ないし「茂吉と柿本人麻呂」「茂吉と医業」といった(c)テーマで展示を企画すること も考えられるし、「茂吉の故郷と歌境」「茂吉の滞欧体験」「茂吉と永井ふさ子」ないし「茂吉の女性関係」といった企画もありうるであろう。(一一四ペー ジ)

(9-a)対象とする文学者の名作と いうことになれば、吉岡の場合、《僧侶》、G《サフラン摘み》(1976)、J《薬玉》(1983)の三詩集は外せない。(9-b)時代区分は 難しいところだが、1945年まで、1955年から1970年まで、1972年から1980年まで、1981年から歿年の1990年まで、を仮に「初期」 「前期」「中期」「後期」としたい。「前期」「中期」「後期」を代表する詩集が前掲の《僧侶》《サフラン摘み》《薬玉》である。(9-c)テーマで展示を企画とは、まさに私が毎月 《〈吉岡実〉を語る》でやっていることで、〈吉岡実の何何〉〈吉岡実と何何〉は、事物・書物・人物と、それこそ枚挙に遑がない。吉岡実全集における事項 名・書名・人名の各索引がこれらに相当することになるだろう。

(10)【収蔵資料の公表について】
 文学館の収蔵する資料は研究者等の閲覧に供することだけでは足りない。資料は公表 しなければならない。公表しなければ、資料は死蔵しているにひとしい。/公表には、従来は文学館が刊行している(a)館報、ニュース、紀要その他の刊行物 に掲載することが通常であったし、今後も、これらの刊行物に掲載して公表する必要があるけれども、現在では、あわせて、(b)インターネットをつうじて公 表することが、刊行物の配布以上に多数の人々に注目される機会を提供するので、インターネットの利用を考える必要がある。/ただ、刊行物に掲載するにも、 インターネットを利用するにも、これに先立って、(c)資料の翻刻が必要である。しかし、肉筆資料を翻刻し、刊行物に掲載することは決して容易なことでは ない。たとえば、明治期の筆書きの書簡を読解して、翻刻して、掲載するには、崩し字や筆者特有の書体等を読み解かなければならないが、それには当然、熟 練、知識、経験、能力等が必要である。さらに、たとえば、資料の制作時期を特定するためには、資料の内容、資料の用紙の種類等、様々な状況から推定しなけ ればならない。その文学作品、書簡等に関する周辺の事情を知らなければ、資料の内容が分らないことが多いし、文学者がどういう原稿用紙を使用していたかを 知ることも制作時期の推定に役立つのである。(一八九ページ)

(10-a)館報、ニュース、紀要そ の他の刊行物は当該文学館を訪れる者には入手しやすいが、同じものが(10-b)インターネットをつうじた公表、たとえば PDFで見られればそれに越したことはない。本文の公開が難しければ、目次だけでも充分に有効だろう。(10-c)資料の翻刻は 必須で、写真版は原物の存在を裏付けるための補足にとどめるべきだ(校訂が必要になる場合もあるだろう)。同時に、文学者の業績の概観、当該資料の来歴や 全体におけるその位置づけ、特徴を簡潔にまとめた解題も欠かせない。こうした基礎的な作業の累積をまって初めて、吉岡実全集も吉岡実文学館も可能になると 考える。

〔追記〕
冒頭に《文学館を考える――文学館学序説のためのエスキス》が、現在のところ文学館を考えるための唯一の書物だと記したが、中村稔には本書に先立って、旭 川から鹿児島まで全国56の文学館を訪ね、その興趣に触れ、さまざまな苦況を実感した《文学館感傷紀行》(新潮社、1997年11月30日)がある。さら に同書とその補遺を収めたのが《中村稔著作集 第5巻 紀行・文学と文学館》(青土社、2005年7月1日)だ。《文学館感傷紀行》の56館、補遺の9館の合わせて65館のうち、私が訪れたことがあるのは13 館だけだが、備忘のために掲げておこう。

中村稔《文学館感傷紀行》(新潮社、1997年11月30日)のジャケット
中村稔《文学館感傷紀行》(新潮社、1997年11月30日)のジャケット

前橋文学館――群馬県前橋市〔2000年に安藤元雄展を観た〕
姫路文学館――兵庫県姫路市〔1996年に永田耕衣展を観た〕
鎌倉文学館――神奈川県鎌倉市〔1990年に澁澤龍彦展を観た〕
神奈川近代文学館――神奈川県横浜市〔2001年に野間宏と戦後派の作家たち展を観た〕
俳句文学館――東京都新宿区
軽井沢高原文庫――長野県軽井沢町〔1987年に福永武彦展を観た〕
大佛次郎記念館――神奈川県横浜市
世田谷文学館――東京都世田谷区〔1996年に土方巽展、2002年 に西脇順三郎展、2007年に植草甚一展を観た〕
日本現代詩歌文学館――岩手県北上市〔1994年に現代詩のフロンティア――モダニズムの系譜%Wを観た〕
東京都近代文学博物館――東京都目黒区
宮沢賢治記念館――岩手県花巻市
日本近代文学館――東京都目黒区
古河文学館〔1999年に和田芳恵展を観た〕


中村稔は〈古河文学館〉(1998年12月23日訪問)で「私はかねて和田芳惠の一葉研究の偉大な業績、晩年の珠玉のような小説に甚大な敬意を払い、ま た、吉岡実との関係で親近感を覚えてきた。とはいえ、和田芳惠自身は古河の出身ではない。吉岡実夫人の母親である和田夫人が古河の出身であり、いまも古河 在住というゆかりである。そして、「寂」という文字だけが刻まれている和田芳惠の墓石にも関心を抱き続けてきた。古河にあるというその墓石の写真があっ た。林の中とおぼしく、潅木にかこまれた墓石はいかにも「寂」という文字にふさわしく、底光りする地味な文学者にふさわしいものであった。私は巣鴨のとげ ぬき地蔵に隣接する、ごみごみした墓地の吉岡実の墓を思いだしたのだが、「寂」という墓石は吉岡のような前衛的な詩人にはふさわしくないことも事実であ る。/それでも、この僅かな空間は和田芳惠の仕事の一端を伝えるにも足りない」(《中村稔著作集》、五九七ページ)と書いている。

〔2013年5月31日追記〕
堀井憲一郎《いますぐ書け、の文章法〔ちくま新書〕》(筑摩書房、2011年9月10日)は、資料集めと原稿執筆の要諦を次のように指摘する。

 完全なオリジナルをめざそうとすると、たとえば、無意味に資料集めをしたりする。
 定年退職後、よし、あまり知ら れていない郷土の偉人について、自費出版の本をひとつ書き上げようではないかと〔……〕おもいたったお父さんがやってしまう失敗は「まず、資料をコンプ リートしよう、きちんと資料を集めるんだ」という準備をしてしまうことですね。資料を集め出したお父さんは、まず、本を書けません。仮説なき調査、という 陥穽にはまってるのがそもそもの問題だけど、資料を集めて全体像をつかんで、その全体を書こうとしている、その頭の働きが無茶なんですね。
 〔……〕オリジナルなんて、たった一つの新しい視点さえ示せばいいのだ。
 だから「偉人についてなにか書きたい」とおもっていたら、資料なんか集めてないで、すぐに書きなさい。資料集めてる時間で、書こう。本を書くのに大事な のは、とにかく「前へ進む力」であって、何も偉人の全体像を示すことではない。そんなところにオリジナルは存在しない。あなたが引っかかった「なにか一つ のポイント」を、その人を選んだ引っ掛かりを突破口として、とにかく徹底的に鋭くつっこんでいくしかない。資料集めはあとだよ。全容を提示しようとする な。ひとつの側面だけ示せば十分です。(〈とにかく前へ進む力〉、同書、一四五〜一四六ページ)

「本を書くのに大事なのは、とにかく「前へ進む力」であって、何も偉人の全体像を示すことではない」。これは至言で、ピンポイントで書 きはじめて、 足りない(再確認したい)資料があれば書いたあとで補強(もしくは確認)のために入手する。そこから新たに発見したものがあるなら、また別のタイトルで文 章を書けばいい。「資料館」の形をとるのはその結果であって、目的ではない。目的は、書くことそれ自体にある。

〔2016年10月31日追記〕
吉岡実の詩篇〈模写――或はクートの絵から〉(E・4)の初出誌が判明した。1963年8月発行、金子兜太 編集の俳句同人誌《海程》〔発行所の記載なし、発行者は出沢三太〕9号〔2巻9号〕がそれだ。ちなみに、初出形と定稿形(詩集《静かな家》収録)の間に は、ひらがなの促音(「っ」/「つ」)の表記を除いて、詩句に異同はない。


吉岡実詩集《静物》本文校異(2011年7月31日〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実の詩集《静物》は1955年8月20日、私家版すなわち吉岡の自費で出版された第三詩集にして戦後初の詩集で、17篇すべてが書きおろしである。本校異では、 自筆原稿形、 詩集《静物》掲載形、《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959)掲載形、《吉岡実詩集》(思潮社、1967)掲載形、《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)掲載形のうち、の一部は解題で言及)からまでの詩句を校合した本文とその校異を掲げた。これにより、吉岡が詩集《静物》各詩篇の初出形本文にその後どのように手を入れたかたどることができる。本稿は、からまでの印刷上の細かな差異(具体的には漢字の字体の違い)を指摘することが主眼ではないので、シフトJISのテキストとして表示できる漢字はそれを優先した。このため、不本意ながらユニコードによる「瀆」の代わりにシフトJISの「涜」を使用している点をご諒解いただきたい。最初に《静物》各本文の記述・組方の概略を記す。

自筆原稿:吉岡実自筆の《静物》稿本(詩集印刷用原稿)は、吉岡の歿後、陽子夫人によって東京・目黒の日本近代文学館に寄贈された。稿本の概要をまとめた拙論〈吉岡実詩集《静物》稿本〉の記載から詩篇の標題と本文に関する部分を解題に盛りこんだが、必ずしも自筆原稿の内容すべてを反映したものではない。なお、入沢康夫〈国語改革と私〉には吉岡の談として「『静物』は、自分の勤めてゐた出版社に出入りしてゐた中どころの印刷所に、頼んで引受けてもらつた。自分は当時広告部にゐて、すつかり新仮名になじんでしまつてゐたので、校正は社内の校閲部のヴェテランの友人に特に見てもらつて、誤りが出るのを防いだ。しかし、自分だけでは誤りが正せなかつたらう。それで、次にユリイカから詩集を出した時には、原稿の段階から新仮名で書いた」(丸谷才一編《国語改革を批判する〔日本語の世界16〕》、中央公論社、1983、二二八ページ)とある。

詩集《静物》(私家版〔東京都練馬区南町四の六二七九 発行者太田大八〕、1955年8月20日):本文旧字旧仮名(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、五号30字詰および24字詰・25字詰11行1段組。二部構成〈T 静物〉〈U 讃歌〉の区分あり。

《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959年8月10日):本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ30字詰および24字詰・25字詰18行1段組。T・Uの区分なし。初版の奥付であっても刷りによって版面が異なる点に関しては、〔追記〕を参照されたい。

《吉岡実詩集》(思潮社、1967年10月1日):本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ27字詰14行1段組。T・Uの区分なし。

《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ27字詰19行1段組。T・Uの区分なし。なお《吉岡実全詩集》の底本は《吉岡実詩集》。
漢字に関しては、の旧字はウェブ上で正確に再現することができないので、掲載を見あわせた(参考までに、校異のあとに巻頭詩篇〈静物〉の旧字使用形を掲げた)。の旧字が以降は新字使用に方針転換されたため、変更(燈→灯、戾→戻、絲→糸、繩→縄、罐→缶、墮→堕)に漏れた場合は、校異の対象として異同を掲げた。以降、では使用されなかった漢字の反復記号の同の字点(々)が使用されている。かなに関しては、全17篇を通じて、旧仮名遣いが新かなづかいに変更された箇所が106、ひらがなの促音が並字(つ)から小字(っ)に変更された箇所が39あり、カタカナの拗促音はすべて小字である。からまでの手入れ箇所を概観すると――ごく一部のサブスタンティブな変更を除けば――執筆や刊行当時の新聞・雑誌の表記基準に応じたものといえよう。詩篇の節番号の数字の位置(字下げ)は最終形を収めた《吉岡実全詩集》に倣って三字下げに統一し、字下げ・行どりは校異の対象としなかった。献辞の字下げも《吉岡実全詩集》のそれに準じた。なお〈吉岡実詩集本文校異について〉を参照のこと。

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《静物》詩篇細目

  詩篇標題(詩集番号・掲載順、詩篇本文行数、初出〔発行所名〕掲載年月日)

〔T 静物〕
静物(B・1、21行、詩集《静物》〔私家版〕1955年8月20日)
静物(B・2、13行、詩集《静物》〔私家版〕1955年8月20日)
静物(B・3、15行、詩集《静物》〔私家版〕1955年8月20日)
静物(B・4、21行、詩集《静物》〔私家版〕1955年8月20日)
或る世界(B・5、9行分、詩集《静物》〔私家版〕1955年8月20日)
(B・6、16行、詩集《静物》〔私家版〕1955年8月20日)
(B・7、12行、詩集《静物》〔私家版〕1955年8月20日)
冬の歌(B・8、40行、詩集《静物》〔私家版〕1955年8月20日)
夏の絵(B・9、28行、詩集《静物》〔私家版〕1955年8月20日)
風景(B・10、28行、詩集《静物》〔私家版〕1955年8月20日)
〔U 讃歌〕
讃歌(B・11、34行、詩集《静物》〔私家版〕1955年8月20日)
挽歌(B・12、37行、詩集《静物》〔私家版〕1955年8月20日)
ジャングル(B・13、21行、詩集《静物》〔私家版〕1955年8月20日)
(B・14、35行、詩集《静物》〔私家版〕1955年8月20日)
寓話(B・15、18行、詩集《静物》〔私家版〕1955年8月20日)
犬の肖像(B・16、7節40行、詩集《静物》〔私家版〕1955年8月20日)
過去(B・17、30行、詩集《静物》〔私家版〕1955年8月20日)

――――――――――

01T 静物→234(トル)〕

静物(B・1)
初出は詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)六〜八ページ、本文五号11行1段組、21行。《静物》の冒頭は初刊以来、一貫してこの〈静物〉で、吉岡実の手になる稿本でも最初の作品として製本されているが、次に述べるように、印刷所に渡った段階では本詩篇は〈静物〉連作の二番めに置かれていた。吉岡は詩集の校正段階のある時点で、〈静物〔夜の器の硬い面の内で〕〉こそ巻頭詩篇にふさわしいと断を下したのである(稿本での第一行は「夜の器の硬い面の内側で」とあったのを、鉛筆で「側」一文字を抹消してある)。
夜の器の硬い面の内で
あざやかさを増してくる
秋のくだもの
りんごや梨やぶ〔だ→234ど〕うの類
それぞれは
かさな〔123つ→っ〕たままの姿勢で
眠りへ
ひとつの諧調へ
大いなる音楽へと沿うてゆく
めいめいの最も深いところへ至り
核はおもむろによこた〔は→234わ〕る
そのま〔は→234わ〕りを
めぐる豊かな腐爛の時間
いま死者の歯のま〔へ→234え〕で
石の〔や→234よ〕うに発しない
それらのくだものの類は
いよいよ重みを加〔へ→234え〕る
深い器のなかで
この夜の仮象の裡で
ときに
大きくかたむく


静物(B・2)
初出は詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)一〇〜一一ページ、本文五号11行1段組、13行。稿本では、第一行が「非在〔もしくは「非存」、二文字めは「土」「子」どちらかを先に書いて上書きしている〕の鏡」とあったのを赤線で消してある(下の写真参照)。稿本で当初、中扉「T 静物」のすぐあとに置かれていた〈静物〔夜はいつそう遠巻きにする〕〉こそ、印刷入稿時における《静物》の巻頭詩篇だった(〈吉岡実詩集《静物》稿本〉参照)。

吉岡実詩集《静物》稿本の〈静物〉(B・2)冒頭〔《日本近代文学館》第189号から〕
吉岡実詩集《静物》稿本の〈静物〉(B・2)冒頭〔《日本近代文学館》第189号から〕
夜はい〔123つ→っ〕そう遠巻きにする
魚のなかに
仮りに置かれた
骨たちが
星のある海をぬけだし
皿のう〔へ→234え〕で
ひそかに解体する
12燈→34灯〕りは
他の皿へ移る
そこに生の飢餓は享けつがれる
その皿のくぼみに
最初はかげを
次に卵を呼び入れる


静物(B・3)
初出は詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)一二〜一三ページ、本文五号11行1段組、15行。
酒のない瓶の内の
コルクにつながれる
ぼくらの咽喉
ぼくらのかぼそい肉体
秤とともに傾く美しい蛇
ぼくらの眼は金の重みをもたぬ
記憶すべきは太陽
つねに新しい距離があり
ぼくらの心臓は
馬の腸のながい管を巻かぬ
夏の回廊を一廻りして
くらげばかりの夜の海へ
半分溺れたまま
ぼくらの頭
光らぬものを繁殖する


静物(B・4)
初出は詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)一四〜一六ページ、本文五号11行1段組、21行。
台所の汚れた塩
犬のたれさがる陰茎
屋根のつきでた釘の頭

それらのもろい下部構造の一角を
暗い鏡へ映しながら
やがては
まだ形をなさぬ胎児の手足
画家の心象の岸べの馬
計算されない数字
類似の抽象まで
他の部屋 他の次元へ
はこび入れる

それらの異質のものを同じ高さで
同じ角度で静止させる
夜の仕事の華麗なる狡猾さである
しかし
重すぎるので
ただ一個の卵はそのまま
窓の卓に置かれて〔ゐ→234い〕る

そこには夜のみだらな狼〔藉→籍→34藉〕もなく
煌〔煌→234々〕と一個の卵が一個の月へ向〔123つ→っ〕て〔ゐ→234い〕る


或る世界(B・5)
初出は詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)一八〜一九ページ、本文五号30字詰11行1段組、9行分。吉岡が《静物》を編集する当たって、おそらく詩ノートに書いた下書きを一篇ごとに原稿用紙に清書した段階では詩篇の順番は決まっておらず、詩集の構成が決定してから鉛筆で通しノンブルを記入したものと思われる。この時点では「14」「15」とノンブルを記した、刊本の《静物》のどこにも見えない〈音楽〉という詩篇が存在したはずだ。稿本の〈或る世界〉に鉛筆書きノンブルのないことを傍証として、〈或る世界〉はその〈音楽〉に替わる新原稿と考えられる(〈吉岡実詩集《静物》稿本〉参照)。
薄明のなかで 呼びおこされ うごきだし やがて立ちあがり 喚〔ば→234ぼ〕うとする 黄いろい原形のむれ つまりなめくじのごときもののむらがるカオス その拡大された皺の下から現〔は→234わ〕れる ぼくたちの形相 猛烈な汗のながれる ぼくたちの鼻 生きるための嘔吐をくりか〔へ→234え〕す ぼくたちの咽喉 しかも冬の日にはげしくさらされて 日〔日→234々〕亀裂を深めてゆく ぼくたちの歯 その暗い奥へたえず追〔ひ→234い〕か〔へ→234え〕され 巻きか〔へ→234え〕〔123つ→っ〕てゆく ぼくたちの舌 いま 落日の皿の海に沈みかける 脂のきれた骨の世界 その前にきて ぼくたちの突然巨大にな〔123つ→っ〕た口が凍る涎をたらす


(B・6)
初出は詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)二〇〜二一ページ、本文五号11行1段組、16行。
雨のぬらした藁の寝床から
若い女は鮮明な姿態で起き上る
そのかたちについて
樹も起き上る
まぶしい太陽の下で
羞恥の斑が花の〔や→234よ〕うに
女のかくれた幹をながれる
う〔づ→234ず〕くまる裸の樹
その渇く内部
やがてまた地から
充分な樹液が注がれ滑らかになる
さ〔へ→234え〕ぎるもののない野へ
しなやかな姿勢で
根の瘤から
いまはじめて樹は
男の〔や→234よ〕うに立ち上る


(B・7)
初出は詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)二二〜二三ページ、本文五号11行1段組、12行。吉岡は1949年8月1日の日記に「或る場所にある卵ほどさびしいものはないような気がする。これから出来るかぎり〈卵〉を主題にした詩篇を書いてみたいと思う」と書いている。
吉岡実詩集《静物》稿本の〈卵〉(B・7)冒頭〔《日本近代文学館》第190号から〕
吉岡実詩集《静物》稿本の〈卵〉(B・7)冒頭〔《日本近代文学館》第190号から〕
「いきてゐるものの影もなく/死の臭ひものぼらぬ」と読める
神も不在の時
いきて〔ゐ→234い〕るものの影もなく
死の臭〔ひ→234い〕ものぼらぬ
深い虚脱の夏の正午
密集した圏内から
雲のごときものを引き裂き
粘質のものを氾濫させ
森閑とした場所に
うまれたものがある
ひとつの生を暗示したものがある
塵と光りにみがかれた
一個の卵が大地を占めて〔ゐ→234い〕る


冬の歌(B・8)
初出は詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)二四〜二八ページ、本文五号11行1段組、40行。吉岡の随想〈女へ捧げた三つの詩〉に依れば、tまたはTは池田友子である。
     〔〈tに〉→234Tに〕

その夜の空の華やかでさびしい殷賑
塵のなかから離れ
いくつかの星は沈む
大きな氷る器のなかに

われわれにどうして反響が聴かれようか
この愛のないところには

多くの屋根
太陽に育ちゆくこともない
われわれの石の屋根
冬の狭い窓は
男の固い心臓の上に
切れた紐の端をたらす
ここには多くのものは〔12戾→34戻〕らない
猫や風の叫びの他には

きしむベッ〔12ト→34ド〕で男はうつむく
まるで汚れた藁の奥に
死を凌駕するもの
結び目のないもの
法外な愛の充足を
手でさがすかの〔や→234よ〕うに

やがてすべての窓はひらかれなくなるだ〔ら→234ろ〕う
小さな風景一つ映しはしないだ〔ら→234ろ〕う
その吹きさらされた外を
沈んでい〔123つ→っ〕た多くの星
それに蹤いてい〔123つ→っ〕た多くのミニッツ
それらは一度は通〔123つ→っ〕てい〔123つ→っ〕たかも知れぬ
その眠らぬ男の眼や
皮膚のなかを

ひとりの女の愛を求める
男の淫らな歯に囚〔は→234わ〕れた咽び
枯れた野の木の根には
限りなく春へ捧げられる地の液が注がれるのに

あふれることもない
ただ深さだけを示すひとつの海の秩序がたもたれる
その男の暗い眼のなかで
いまはじめて
多くの沈んだ星はぬれ
徐〔徐→234々〕に光りだす
大きな器をとりまく
冬の夜明けの夥しい反響のなかに


夏の絵(B・9)
初出は詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)三〇〜三二ページ、本文五号11行1段組、28行。
商港や浚渫船もこの夏は
狂信的な緑の儀式へ参加する
同時に
マストはにぎやかに梢となり
鳥の斑のある卵をいくつもかか〔へ→234え〕る
大きな葉を風は
船長の帽子へ投げ入れる
さかさまにひ〔123つ→っ〕くりか〔へ→234え〕〔123つ→っ〕た船長の股に木の実が熟れる
前進せよ沖へ
緑の波の中へ
波も緑のモザイクの葉
停止せよ
棘の緑に船の旗も破られる
緑の祝日は
太陽すらのぞかせぬ
小便する船乗りの犬
それも緑のとげへ
縦横にみどりの毛〔12絲→34糸〕でひ〔123つ→っ〕かか〔123つ→っ〕て〔ゐ→234い〕る
すこしほどくと枯れだす
船は上陸した
横た〔は→234わ〕る
大きな樹木にな〔123つ→っ〕て
根にかか〔へ→234え〕る千の石をおとし
枝〔枝→234々〕の間から
千の鳥を
沖の波にかこまれた
み〔づ→234ず〕み〔づ→234ず〕しい桃のなる
島へ帰らせる


風景(B・10)
初出は詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)三四〜三六ページ、本文五号11行1段組、28行。本詩篇は、稿本の段階では目次・本文とも〈クートーの風景〉という題名だった(「クートー」については〈画家クートと詩〈模写〉の初出〉〈リュシアン・クートーと二篇の吉岡実詩〉および〈詩篇〈模写――或はクートの絵から〉評釈〉参照のこと)。その〈クートーの風景〉が校正のある時点で〈風景〉に変わったわけである。
緑の樹は
すみずみまで
けものの歯の中から
船や海岸や館の庭まで繁りつくす
つ〔ひ→234い〕には棘ばかりのバラの蔓は
石の出窓をのりこえ
女の奥ふかくの卵型の殻のふちまで
とりかこみそ〔123つ→っ〕と支〔へ→234え〕る
それは泛かんでしま〔123つ→っ〕た
発端のない世界の変りはてたすがた
注ぐ雨にかたむく世界
稲妻の光にひととき映されて
台所をこのんで歩く鶏たち
パン職人の旺盛なる欲情の手にい〔123つ→っ〕ぱい
黄なびた蛙の脚はたれさがり
それへ近づく
非常に静かにな〔123つ→っ〕た空
緑の弱〔弱→234々〕しく洩れてくる
落日の地方
ブリキ製の亀の手足や
首のひとゆれが見える町の家の灯
母親が現〔は→234わ〕れる
器の中に食物が捧げられ
いちじくの葉に
美しくわれだす露が示される
黄色に枯れてゆく
事物や風景の下で
家族は団欒する


01U 讃歌→234(トル)〕


讃歌(B・11)
初出は詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)三八〜四一ページ、本文五号11行1段組、34行。
ぼくには拡がりが必要だ
さわやかな水の響が希〔は→234わ〕れる
ある夕べの部屋で
女の肖像をみつける
ぼくはその不倫にとまど〔ふ→234う〕
別の意味で感動しようとする
物の混同の機能を証明できないか
き〔は→234わ〕めて貧しい食堂の隅
詮索する
女の死
いまはじめてぼくのうちで女は死んだのだ
枠から遠ざかる
肖像の中の女の眼
その女の髪の中で
輝いた星は
いま曇〔123つ→っ〕て外れて〔ゐ→234い〕る
残酷な生存の世界から
全人類が眠〔123つ→っ〕た後
ぼくは一本の〔123繩→縄〕の端の円で
新しい世界
夜明けの釘をさがす
反映する空へ正確にちかづく
秋の木の実が夥しい
ぼくの飢〔ゑ→234え〕
ぼくの渇きが現〔は→234わ〕れる
地上を這〔ふ→234う〕朝のランプ
その新鮮な啓示の卓の卵
何ものにも容れられてない
ぼくの純粋なる振動
火 河 人間をこえ
全身の露をはら〔ひ→234い〕おとし
りりしくも
卵を啖〔ふ→234う〕若い獣へと
ぼくは大きく転身する


挽歌(B・12)
初出は詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)四二〜四六ページ、本文五号11行1段組、37行。
わたしが水死人であり
ひとつの個の
く〔づ→234ず〕れてゆく時間の袋であるとい〔ふ→234う〕ことを
今だれが確証するだ〔ら→234ろ〕う
永い沈みの時
永い旅の末
太陽もなく
夕焼の雲もとばず
まちかどの恋びとのささやきも聴かない

かたちのないわたしの口がつぶやく
むなしいわたしの声の泡
かたちのないわたしの眼がみる
星の〔や→234よ〕うにおびただしいくらげのし〔づ→234ず〕し〔づ→234ず〕のぼ〔123つ→っ〕てゆくのを
かすかに点じられた
微粒のくらげの眼
沈んでゆくわたしの荷を
い〔123つ→っ〕せいに一瞥する
それにはおそろしく沈黙の年月がある〔や→234よ〕うに思〔は→234わ〕れた

わたしの死の証人たち
それはくらげのむれなのか
やたらにわたしの恥部をな〔12ぜ→34で〕る
海の藻の類の触手なのか
わたしをうけ入れるために
ひとつの場所を設定する
も〔123つ→っ〕と深く
も〔123つ→っ〕とはるかな暗みへ置かれる
水平な岩であるのか

地上から届けられた荷
す〔123つ→っ〕かり中味をぬきとられた袋の周辺では
お〔ほ→234お〕くの世界
お〔ほ→234お〕くの過去と未来
お〔ほ→234お〕くの生の過剰と貧困
それらすべてを跨いでくる
ひとつの死の大きさ
そのしずかな全体

腐れかか〔123つ→っ〕た半身をひきず〔123つ→っ〕て
幾千種の魚が游泳する


ジャングル(B・13)
初出は詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)四八〜五〇ページ、本文五号24字詰・25字詰11行1段組、21行。本文は四八〜四九ページが24字詰で、五〇ページが25字詰で折り返してある。本書の四八〜四九ページ以外は25字詰で折り返してあることから、24字詰は組版上の不統一と考えられる。
木が茂る 実は熟れる 茂るまま枯れる
沈黙の中で 或は形而上の外で 実がおちる
枯れた枝の上に しばらくは幻象の重みが谺する
また茂る 永遠にくりか〔へ→234え〕す 無償のみどり
黄色の視線 まれには深紅の微点 ここには
生の乱費 生の惑〔は→234わ〕し 生の脅威 鳥はとぶ 反映に炎えつづける雲
渇く天の井戸 切実なる死の庇護 夏がすぎて秋へ 蛇がは〔ひ→234い〕ま〔は→234わ〕る
肉体の到達の場がない のたうつ寸秒が 滅びが美に価する
異形の卵がふえる それら雑種の卵が空間をし〔づ→234ず〕かに塡めてゆく
すべてに死のみごもる季節
木の根の瘤 石の下 罌粟の花 落日
あまりにも繁殖する世界 別にもう一つの世界が輝く〔(ベタ)→(全角アキ)→34(ベタ)〕ならば
あまりにも暗い きのこの密生する地の屋根
雨また雨のふりそそぐ 河のながれ
猛獣はたちまち交尾し 終る 喝釆のない田舎芝居の舞台の裡で 叫ぶ
午睡の岩は千丈も裂かれる 神の手も血ぬれて
突然の死と空間の恍惚たる交感状態 夜でも昼でもなく
皮とい〔ふ→234う〕皮がむかれて垂れさがる風景
その間からのぞく 青〔青→234々〕とした遠方
他になにものも示されない 見えぬ
わ〔づ→234ず〕かな極地の薄明に 泛かぶ 結晶する牙 生れながらの未だ浄らかな牙の他は


(B・14)
初出は詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)五二〜五五ページ、本文五号11行1段組、35行。
ふりつづく雪に
す〔123つ→っ〕かり匿された
鶏小屋のほのぐらいなかで
いきもののイマージュ
生きつづけるものの差恥
かなしい排泄の臭気がただよ〔ふ→234う〕
内と外のけじめがなくなる時
しじまの裡で
牝鶏は卵をうみはじめる
雪よりも炎えた
白い卵が一層重みを増し
暗い照り合〔は→234わ〕ない辺境から
意志を発して
ずりおちてくる
空間は感じやすい均衡をやぶり
きんいろの藁のう〔へ→234え〕に
苦痛の生をうけとめる
へこむものが
藁でなければ
この大地であ〔ら→234ろ〕うか
し〔づ→234ず〕まり輝きだす
一個の異様な物体のま〔へ→234え〕で
見えないもの 把握できないものに
おびえたりいらだ〔123つ→っ〕たり
叫喚するものたちがたしかに〔ゐ→234い〕る
このひどい雪ぶりの向〔ふ→234う〕で
たじろぎ遠ざかる
それら
麻痺した烏賊の〔や→234よ〕うなむれ
薄明の金網の外では
次第に
塑像の〔や→234よ〕うに
下から埋ま〔123つ→っ〕てゆく
樹や
不安な社会がある


寓話(B・15)
初出は詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)五六〜五九ページ、本文五号25字詰11行1段組、18行。自筆原稿末尾に「一九五五・三・五.」と稿本中唯一、脱稿日らしき記述がある(〈吉岡実とフランシス・ベーコン〉参照)。
肉屋の千匹の蠅 とび終り 〔12包→34庖〕丁刃物の類は 仮設の暗がりから あとずさりして 一段と深い世界へ沈みゆき

慰めのない 真夏の仕事場 凍る肉の重い柱 さかさにつるされる 完全に浄められた空間 すでに人間のはげしい咀嚼の音もと〔ほ→234お〕ざかり
(一行アキ)→234(ベタ)〕
今この店先の調理台のう〔へ→234え〕に 尾もない頭もない 一つの肉の原型 魅せられた〔や→234よ〕うに よこた〔は→234わ〕〔123つ→っ〕て

すべてのものの耳がゆれ立ち
すべてのものの舌が巻かれる時

苦痛の鉤からは〔づ→234ず〕れた凝脂の肉の神
虚しい過去 生の真昼の空を夢みようとする

  甘い太陽とみどりの草 臓腑の中で輝く 河
  と星屑 角の間へぼうぼう風をとばし 疾走
  する四肢の下で みだれる夕焼の雲 小鳥の
  脱糞 金の藁の中で つねに反芻される 自
  我のエクスタシイ
  地平の端を 汚れた鼻づらで冒す 兇悪な笑
  〔ひ→234い〕と 混淆の涎 ときに牝の尻の穴 柔媚な
  紅の座を嚊ぎつけ 嫣然と眦をほそめてゆく
  時――ああ果は 滂沱たる放尿の海

主人の猫ものぞかぬ 化石めいた深夜のホリゾント すな〔は→234わ〕ち店先の部厚い矩形の処刑台をきしませ 裂かれた肉の衣装のかげから 触発されたもの 突然立ち上りよみが〔へ→234え〕り みるみる形成されだす 裸の牡牛の像

へばりついた梁で 夜あけまでみぶる〔ひ→234い〕する 肉屋の千匹の蠅


犬の肖像(B・16)
初出は詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)六〇〜六五ページ、本文五号11行1段組、7節40行。稿本では最初の題名が〈雨ざらしの犬〉であり、同時に、あるいは後日〈犬の肖像〉と副題が付けられ、最終的に〈犬の肖像〉となった。「雨ざらしの犬」は本文に見える詩句だが、〈犬の肖像〉には遠く及ばない。〈雨ざらしの犬――犬の肖像〉にしたところで同断である。
   1

或る時わたしは帰〔123つ→っ〕てくるだ〔ら→234ろ〕う
やせて雨にぬれた犬をつれて
他の人にもしその犬の烈しい存在
深い精神が見えなか〔123つ→っ〕たら
その犬の口をのぞけ
狂気の歯と凍る涎の輝く

   2

多くのもの
犬にと〔123つ→っ〕ては不用のもの
一人の男にと〔123つ→っ〕ては少ないが
意味のあるもの
ころがる〔123罐→缶〕の灰色
雑多なとぐろまく紐の類
机の上の乾酪
釘へさがるズボンのね〔ぢ→234じ〕れた束
自涜と枯れた花にわ〔づ→234ず〕かに慰められる
破廉恥な生活のわたしの天体
輝く涎の犬は見上げる

   3

いまわたしのまなびたいことは
木枯の電柱の暗い下で
股の周辺を汚物でぬらしながら
怒りに吠える
匿名の犬の位置へ至ることだ

   4

き〔は→234わ〕めて自然な路傍の受胎にはじまり
涜れて輝かしい自己の発生に負目なく
しかも一匹の系類に〔も→(トル)→34も〕みとられず
空樽のかたわらで
孤独の骨の存在を終る
雨ざらしの犬

   5

たと〔へ→234え〕ば結晶する月の全面へ血の爪をかけるほどの
わたしに肉の渇き
心の飢〔ゑ→234え〕が一度でもあ〔123つ→っ〕たか
わたしの頭をぬらし
わたしの塩辛い眼をながれる
雨と真実の汗があ〔123つ→っ〕たか
否 わたしは永遠にぬれざる亡霊

   6

わたしは犬の鼻をなめねばならぬ
あたらしい生涯の〔12墮→34堕〕落を試みねばならぬ
おびただしい犬の排泄のなかで

   7

その犬の舌から全世界の飢〔ゑ→234え〕が呼ばれる
その犬の耳から全世界の雨がたれる


過去(B・17)
初出は詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)六六〜六九ページ、本文五号25字詰11行1段組、30行。吉岡は随想〈誓子断想〉に本篇から9行引用したあと、「これは私の〈過去〉という詩の一節であるがこの奇怪な形の魚を過去[、、]の象徴として造型したことに、私は自負をもっていた」と書いている。
その男はま〔づ→234ず〕ほそいくびから料理衣を垂らす
その男には意志がない〔や→234よ〕うに過去もない
鋭利な刃物を片手にさげて歩き出す
その男のみひらかれた眼の隅へ走りすぎる蟻の一列
刃物の両面で照らされては床の塵の類はざわざわしはじめる
もし料理されるものが
一個の便器であ〔123つ→っ〕ても恐らく
その物体は絶叫するだ〔ら→234ろ〕う
ただちに窓から太陽へ血をながすだ〔ら→234ろ〕う
いまその男をし〔づ→234ず〕かに待受けるもの
その男に欠けた
過去を与〔へ→234え〕るもの
台のう〔へ→234え〕にうごかぬ赤え〔ひ→234い〕が置かれて在る
斑のある大きなぬるぬるの背中
尾は深く地階へまで垂れて〔ゐ→234い〕る〔や→234よ〕うだ
その向〔ふ→234う〕は冬の雨の屋根ばかり
その男はすばやく料理衣のうでをまくり
赤え〔ひ→234い〕の生身の腹へ刃物を突き入れる
手応〔へ→234え〕がない
殺戮において
反応のないことは
手がよごれないとい〔ふ→234う〕ことは恐しいことなのだ
だがその男は少し〔づ→234ず〕つ力を入れて膜の〔や→234よ〕うな空間をひき裂いてゆく
吐きだされるもののない暗い深度
ときどき現〔は→234わ〕れてはうすれてゆく星
仕事が終るとその男はかべから帽子をは〔づ→234ず〕し
戸口から出る
今まで帽子でかくされた部分
恐怖からまもられた釘の個所
そこから充分な時の重さと円みをも〔123つ→っ〕た血がおもむろにながれだす

――――――――――

校異を見ればわかるように、《静物》は234とでは漢字もかなも表記の体系が大きく変わっている。冒頭で触れたように、吉岡は新聞や雑誌などの媒体が戦後の時流に合わせてつくった表記に則って出版社の広告業務を担当した関係で、その後は《静物》の単行詩集がそうであったような旧字・旧仮名で作品を書くことが難しくなっていった。以下に、巻頭詩篇〈静物〉を可能なかぎり旧字・旧仮名で再現してみよう。旧字を再現できない新字は赤で表示した。つまり、赤を旧字にしたものがの詩集《静物》ということになる。
靜物|吉岡實

夜のの硬い面の
あざやかさを揩オてくる
秋のくだもの
りんごや梨やぶだうの類
それぞれは
かさなつたままの姿勢で
眠りへ
ひとつの諧調
大いなる樂へと沿うてゆく
めいめいの最も深いところへ至り
核はおもむろによこたはる
そのまはりを
めぐる豐かな腐爛の時間
いま死の齒のまへで
石のやうに發しない
それらのくだものの類は
いよいよ重みを加へる
深いのなかで
この夜の假象の裡で
ときに
大きくかたむく
その後、吉岡の単行詩集の本文表記は、《僧侶》(1958)以降はかなが旧仮名から新かなに、《静かな家》(1968)以降は漢字が旧字から新字に変わっていくわけだが、基本的に漢字に読みがなのルビは付かない。ところがここに《静物》全篇を収録した《現代詩集〔現代文学大系67〕》(筑摩書房、1967年12月10日)があって、この本文がぱらルビなのである。ルビを除いた本文の漢字・かなの表記は、後述する二箇所を除いて、の《吉岡実詩集》(思潮社、1967年10月1日)とまったく同一だから、《現代詩集〔現代文学大系67〕》の原稿は《吉岡実詩集》の校了紙/責了紙(もしくはその入稿用の原稿)だったかもしれない。それというのも、吉岡が永田耕衣に宛てた1967年3月1日付のはがきに「全詩集〔思潮社版《吉岡実詩集》のこと〕も校了となり、四月には刊行されると思います。たのしみに待っていて下さい」(姫路文学館永田耕衣文庫所蔵)とあるからだ。次に《現代詩集〔現代文学大系67〕》掲載形 ← 《吉岡実詩集》掲載形で、ぱらルビのある詩句を挙げる。
燈[あか]りは ← 灯りは 〈静物〉(B・2)

ぼくらの咽喉[のど] ← ぼくらの咽喉 〈静物〉(B・3)
秤[はかり]とともに傾く美しい蛇 ← 秤とともに傾く美しい蛇 〈静物〉(B・3)

ぼくたちの突然巨大になつた口が凍る涎[よだれ]をたらす ← ぼくたちの突然巨大になつた口が凍る涎をたらす 〈或る世界〉(B・5)

その夜の空の華やかでさびしい殷賑[いんしん] ← その夜の空の華やかでさびしい殷賑    〈冬の歌〉(B・8)
男の淫らな歯に囚われた咽[むせ]び ← 男の淫らな歯に囚われた咽び    〈冬の歌〉(B・8)
冬の夜明けの夥[おびただ]しい反響のなかに ← 冬の夜明けの夥しい反響のなかに    〈冬の歌〉(B・8)

棘[とげ]の緑に船の旗も破られる ← 棘の緑に船の旗も破られる 〈夏の絵〉(B・9)

ついには棘[とげ]ばかりのバラの蔓[つる]は ← ついには棘ばかりのバラの蔓は    〈風景〉(B・10)
それは泛[う]かんでしまつた ← それは泛かんでしまつた 〈風景〉(B・10)

さわやかな水の響が希[ねが]われる ← さわやかな水の響が希われる    〈讃歌〉(B・11)
いま曇つて外[はず]れている ← いま曇つて外れている 〈讃歌〉(B・11)
秋の木の実が夥[おびただ]しい ← 秋の木の実が夥しい 〈讃歌〉(B・11)
卵を啖[く]う若い獣へと ← 卵を啖う若い獣へと 〈讃歌〉(B・11)

それらすべてを跨[また]いでくる ← それらすべてを跨いでくる 〈挽歌〉(B・12)

枯れた枝の上に しばらくは幻象の重みが谺[こだま]する ← 枯れた枝の上に しばらくは幻象の重みが谺する 〈ジャングル〉(B・13)
生の乱費 生の惑[まど]わし 生の脅威 鳥はとぶ 反映に炎えつづける雲 ← 生の乱費 生の惑わし 生の脅威 鳥はとぶ 反映に炎えつづける雲    〈ジャングル〉(B・13)
異形の卵がふえる それら雑種の卵が空間をしずかに 塡[う]めてゆく ← 異形の卵がふえる それら雑種の卵が空間をしずかに塡めてゆく    〈ジャングル〉(B・13)
木の根の瘤 石の下 罌粟[けし]の花 落日 ← 木の根の瘤 石の下 罌粟の花 落日    〈ジャングル〉(B・13)
わずかな極地の薄明に 泛[う]かぶ 結晶する牙 生れながらの未だ浄[きよ]らかな牙の他は ← わずかな極地の薄明に 泛かぶ 結晶する牙 生れながらの未だ浄らかな牙の他は    〈ジャングル〉(B・13)

すつかり匿[かく]された ← すつかり匿された 〈雪〉(B・14)
麻痺した烏賊[いか]のようなむれ ← 麻痺した烏賊のようなむれ 〈雪〉(B・14)

地平の端を 汚れた鼻づらで冒す 兇悪な笑いと 混淆の涎[よだれ] ときに牝の尻の穴 柔媚な紅の座を嚊ぎつけ 嫣然[えんぜん]と眦[まなじり]をほそめてゆく時――ああ果は 滂沱たる放尿の海 ← 地平の端を 汚れた鼻づらで冒す 兇悪な笑いと 混淆の涎 ときに牝の尻の穴 柔媚な紅の座を嚊ぎつけ 嫣然と眦をほそめてゆく時――ああ果は 滂沱たる放尿の海 〈寓話〉(B・15)

殺戮[さつりく]において ← 殺戮において 〈過去〉(B・17)
《現代詩集〔現代文学大系67〕》の《静物》末尾には「(初版 昭和三十年八月、自〔ママ〕家版)」(同書、四二三ページ)と註記があるが、校異を見ればわかるように、本文はの初版を再現したものではない。にぱらルビを施したその本文は、刊行の時期からいってもの間に位置している。前述したように、冒頭の「燈[あか]りは ← 灯りは」と「包丁刃物の類は ← 庖丁刃物の類は」(〈寓話〉B・15)は漢字の変更漏れだろう。さらに同書には底本・校訂方針・文責が記されていない。一方、のちに《僧侶》を全篇収録した《現代詩集〔現代日本文學大系93〕》(筑摩書房、1973年4月5日)は詩篇の漢字にルビはなく(初版《僧侶》にもない)、註記に「(初版 昭和三十三年十一月二十日、ユリイカ刊)/編集部注 本詩集は思潮社版『吉岡実詩集』による」(同書、二八六ページ)と、簡単ながら書誌と底本が記されている。《現代詩集〔現代文学大系67〕》の《静物》にぱらルビを付けたのが誰なのかわからないが、推察するに、〔現代文学大系〕の編集部ではないだろうか。吉岡が用意した本文原稿の難読漢字に編集部が読みがなを振り、吉岡がそれを了承した、というあたりが実情に近いように思う。こうしたこともあったため、《現代詩集〔現代文学大系67〕》の《静物》本文は今回の校異に組みいれることをせず、参考資料としてここに掲げた。

〔追記〕《吉岡實詩集》における《静物》本文の問題点

《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959)の《静物》本文の問題点をまとめておこう。本書は増刷しているにもかかわらず、奥付は一貫して初版発行日「1959年8月10日」と記載するだけなので、実見できた各本を刷りの早いと思われる順に【1】【2】と区分のうえ、便宜的に何何本と呼んで他と弁別し、その特徴を付記する。
【1】評者所蔵中村書店本(1990年購入)。日本近代文学館所蔵本も同じ。特徴は奥付裏が〔今日の詩人双書〕と〔海外の詩人双書〕の広告。巻末の〈詩集・ノオト〉の刷り位置が詩篇本文より約1文字上。初刷り本と考えられる。今回の《静物》校異ではの底本とした。
【2】評者所蔵田村書店本(1996年購入)。国立国会図書館所蔵本および東京都立多摩図書館所蔵本も同じ。特徴は奥付裏が白。巻末の〈詩集・ノオト〉の刷り位置が詩篇本文より約2文字下。後刷り本と考えられる。
余談になるが、日本近代文学館所蔵本は原装で、古書店のラベルを剥がしたような跡が後見返しにあるものの、状態は良い(献辞等はない)。それに較べて私がもっている本は、2冊とも背がダメージを受けており、中村書店本にいたっては、本文用紙の最初と最後の丁が表紙・見返しまわりにくっついたままちぎれ、中身がすっぽり外れてしまった。造本設計に無理があったとしか思えない(製本が糸かがりなので、今のところ本体がばらばらになる懼れはない)。なお同館の所蔵検索で表示される《吉岡實詩集》は、書誌としてたいへん優れている。とりわけ「シリーズ」に仏文表記(正しくは「Poetes d'aujour d'hui」だが)まで載録しているのには感心させられた。

表題 吉岡實詩集 / 吉岡實著, 篠田一士編集解説
シリーズ 今日の詩人双書 = Poetes d'aujourd'hui ; 5
出版者 ユリイカ
出版地 東京
出版年 1959
出版年月日 昭和34.8
数量・大きさ 148p, 図版1枚 ; 17cm
注記 表紙 : 浜田伊津子
著者標目 吉岡, 実(1919-)
著者標目 篠田, 一士(1927-1989)
参照ID BA65593014

本筋に戻れば、これらの各本が完全に同一の版面なら一括してとして扱えばいいのだが、本によって版面の状態が異なるので厄介だ。その間の事情を記した田中栞《書肆ユリイカの本》(青土社、2009年9月15日)から、神奈川近代文学館の本に関する記述を引き(〔 〕内は小林の補記)、これを【3】神奈川近代文学館所蔵本とする(未見)。
 『吉岡實詩集』(「今日の詩人双書」第五巻、奥付の発行日は昭和三四年八月一〇日)は三冊所蔵しており、奥付の発行年月日は同じだが、制作時期が全部異なるようだ。印刷面の比較(一〇五頁参照〔=「活版印刷で紙型を取った場合、別本の版面の大きさを比較して、大きさが異なれば、小さいほうが後に印刷された本だと判断できる」〕)などから、次のような順だろうと推測できる。
・一冊目(昭和三四年八月発行)……富本憲吉文庫所蔵本。奥付裏に「今日の詩人双書」第四巻までのラインナップが記されたリスト(広告)〔1957年3月10日刊《山本太郎詩集》、1957年8月30日刊《安東次男詩集》、1958年1月10日刊《吉本隆明詩集》、1958年6月1日刊《黒田三郎詩集》〕が掲載されている。〔初刷り本〕
・二冊目(昭和三四年八月から三五年一〇月までの間に制作。本書と同版である国会図書館本は、一〇一頁に記したように〔=〈ユリイカの出版物の国会図書館への納本状況〉「35・10・17(18冊)……吉岡實詩集」〕、昭和三五年一〇月一七日に、一三か月分の発行日の出版物一八冊がまとめて納本されたうちの一冊として受け入れられている。したがって本書も、納本受入印の日付までの期間のうちのどこかの時点で制作されたものと考えられる)……坂本一亀旧蔵本。国立国会図書館本と同版。奥付裏の双書広告なし。〔後刷り本〕
・三冊目(昭和三六年に制作?)……木村嘉長旧蔵本。本文の版が縮み、後刷本(増刷)である。「詩壇に最大の波紋を投げた問題の詩集「僧侶」全篇収録!」という帯つき。吉岡から詩人木村にあてて昭和三七年に寄贈したもの。〔さらに後刷り本〕(同書、一一八ページ)
田中栞《書肆ユリイカの本》の刊行を記念して開催された〈書肆ユリイカの本〉展(東京古書会館2階ギャラリー、2009年10月)における展示本のキャプションにはこうあった。――「5『吉岡實詩集』篠田一士編 昭和34年8月発行 ※奥付の発行年月日を代えない増刷あり。初刷には奥付裏に「今日の詩人双書」4点・「海外の詩人双書」5点〔1958年1月10日刊《プレヴェール詩集》、1958年1月15日刊《アンリ・ミショオ詩集》、1958年8月10日刊《ルネ・シャール詩集》、1958年8月10日刊《カミングズ詩集》、1959年3月31日刊《ゴットフリート・ベン詩集》〕の出版告知あり。『僧侶』帯(灰色上質紙製)つきは後刷本、さらにその後の増刷あり(奥付の罫に傷あり)。/ジャケット画・浜田伊津子 展示本は初刷で、『現代詩全集』等の広告チラシ1葉つき」――これらを踏まえて、以下の校異ではを上記【1】【2】で表示するとともに、【3】を細分化して、1冊めの富本憲吉文庫所蔵本を【3a】、2冊めの坂本一亀旧蔵本を【3b】、3冊めの木村嘉長旧蔵本を【3c】と呼ぶことにする。すなわち【3a】は【1】と同じ初刷り、【3b】は【2】と同じ後刷り、【3c】はさらに後刷りということになる。ここで《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》後刷り本の〈静物〉(B・4)の問題の箇所を掲げよう。

《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》後刷り本の〈静物〉(B・4)の版面(本文8・9行めが誤植)
《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》後刷り本の〈静物〉(B・4)の版面(本文8・9行めが誤植)

静物(B・4)

【1】=【3a】画→ 【2】=【3b】(ナシ)→34画〕 家の心象の岸べの馬
【1】=【3a】計→ 【2】=【3b】(ナシ)→34計〕 算されない数字

すなわち、後刷り本である田村書店本、国立国会図書館所蔵本、東京都立多摩図書館所蔵本(これは途中で所蔵館が変わっており、最初に収蔵された東京都立日比谷図書館での受入印の日付は「昭37. 2. 27」で、国会図書館への納本よりも1年4箇月ほど後)、そして神奈川近代文学館所蔵坂本一亀旧蔵本の各本では、「画家の心象の岸べの馬」「計算されない数字」とあるべき処がそれぞれ「家の心象の岸べの馬」「算されない数字」となっている。「算されない数字」はともかく、「家の心象の岸べの馬」はこれはこれで意味が通ってしまうだけに、痛いミスプリントだ。
私の手許には本書〔《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》〕の初版と思われる古書と、後刷りと思われる古書とが1冊ずつある。両者の外見はまったく同じで(ただし後者にが付いていた可能性もある)、奥付も同一だが、前者の奥付が裏白なのに対して、後者の奥付の裏は〔今日の詩人双書〕4冊と〔海外の詩人双書〕5冊の広告になっている。これがいちばんの違いである。本文も、よく見ると前者の誤植が後者で訂正されている(事情はむしろ逆で、誤植のある方を「初版」、訂正されている方を「後刷り」と呼んでいるのだが)。
上掲文は2008年11月、私が〈吉岡実詩集《僧侶》本文校異〉に書いた文章で、これに続けて収録詩集《僧侶》の誤植などの組版上の不具合を4つほど指摘している。しかし、ここまで記してきたように、「初版」と「後刷り」を取りちがえた記述ゆえに誤りである。よってここに、「初版は奥付裏が〔今日の詩人双書〕4冊と〔海外の詩人双書〕5冊の広告になっている本で、後刷りは奥付裏が白の本である」と訂正する。もっとも、取りちがえるには取りちがえるだけの理由があった。【1】は組版的に善本で、それゆえかつての私は【2】の誤植を正したのが【1】だと推測したわけだ。
ここから先は今の私の想像だが、活字を組んだまま刷る「原版刷り」だったに違いない初刷りの後、紙型を取る際、組みあげた版をぶつけるなどしたトラブルがあったのではないか。その結果、ページ隅の活字の転倒という《僧侶》の不具合や〈静物〉(B・4)の2行にわたる行頭1文字の脱落が生じたまま紙型化されたものと思しい(〈詩集・ノオト〉の刷り位置の変化が、事故か意図的なものかはわからないが)。そもそも原版刷りは小部数の印刷物に適した方式である。当初は版元もそれほど部数を見こんでいなかったのだろう。それが予想を超えた好評のため、急遽増刷することになった(吉岡実詩を特集・紹介した《文學界》1959年11月号の存在が大きかったろう)。紙型の元になった組版の不具合は、急ぎの作業ということもあって見すごされた。《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》の初版(初刷り)本になかった不具合が後刷り本に起きた経緯は、こうしたものではなかっただろうか。田中栞の指摘する原版刷りと紙型鉛版刷りの版面の比較検討からも導かれる結論だが、著者校正をきちんとしたはずの初版にあれほどの不具合が残るはずがない、と考える方がいっそう筋が通っている。吉岡実は《現代詩手帖》1959年11月号に発表した未刊の随想〈体の弱つた妻と心の弱つた僕と〉で、「ユリイカよりぼくの全詩集ともいうべき「吉岡実詩集」が出た。はじめて自費でない本を出版できたのをよろこぶ」と書いて、自ら祝しているのである。

〔2011年8月31日追記〕
〈吉岡実詩集《静物》稿本〉に、奥付の 自筆原稿形と詩集《静物》掲載形を、校異を介して掲げておいた。

〔2019年4月15日追記〕
吉岡実の生誕100周年(2019年4月15日)を記念して、〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉(小林一郎 編)〔A4判縦位置で印刷すると、約[293]ページ〕を新規ページとしてアップした。ただし、本サイトでは《〈吉岡実〉を語る》の一項目という位置づけのため、トップページの〈目次〉には掲出しない。


吉岡実詩に登場する植物(2011年6月30日)

日本の近現代詩人で最も幅広く研究の対象となっているのは、宮澤賢治だろう(次いで萩原朔太郎、中原中也あたりか)。宮澤の場合、文学以外の研究者が自分 の専門とする領域(それが自然科学であれ、仏教であれ)から行なった研究が多いように思う。たまたま近くの図書館に桜田恒夫〔解説・写真〕《賢治のイーハ トーブ植物園》(岩手日報社、1996年10月20日)があったので、読んでみた。詩や童話など宮澤の文章からの引用と、そこに登場する植物の解説、著者 が撮影した植物の写真の三つがセットになった内容だった。以下に写真掲載の植物名を〈索引〉から拾う。

アイリス、アオイ、アオキ、アカシア、アケビ、アザミ、アザレア、アジサイ、アステルベ、アスナロ、アスパラガス、アセビ、アネモネ、 アヤメ、ア ワ、アンテリナム、イグサ、イタドリ、イチイ、イチゴ、イチジク、イチハツ、イトスギ、イヌガヤ、イワカガミ、ウイキョウ、ウコンザクラ、ウズノシュゲ、 ウツギ、ウッコンコウ、ウツボグサ、ウド、ウメ、ウメバチソウ、ウルイ、エゾマツ、エンドウ、オオマツヨイグサ、オキナグサ、オシロイバナ、オニゲシ、オ ニユリ、オモダカ、オリザサチヴァ、カエデ、ガガイモ、カカリア、カキツバタ、カシ、カタクリ、カツラ、ガマ、カヤ、カラスウリ、カラマツ、カリン、カン ゾウ、カンナ、キイチゴ、キチガイナ スビ、キビ、キミカゲソウ、キャラボク、キュウカ、キュウリ、キリ、キンポウゲ、クサワタ、クチナシ、クマザサ、グミ、クリプトメリア、クルミ、クレス、 クロッカス、クロマツ、クロモジ、クワ、ケール、ケヤキ、コウゾ、コケモモ、コブシ、ゴボウ、コヌカグサ、ゴマ、コメツガ、コムギ、サイカチ、サクラ、サ クラソウ、サクランボ、ササゲ、サツキ、サボテン、サラジュ、サルオガセ、サルトリイバラ、サルノコシカケ、シコタンマツ、ジシバ リ、シドケ、シノザサ、シバ、シラカバ、シラネアオイ、シャガ、シャクナゲ、シャムピニオン、ジュズダマ、スイセン、スギ、スギゴケ、スギナ、スズカケノ キ、スズメノカタビラ、スズメノテッポウ、スズラン、スミレ、セキチク、セリ、セルリー、ゼンマイ、ターニップ、タケ、タデ、タマナ、タマネギ、タラノ キ、タンポポ、チガヤ、チゴユリ、チシャ、チャ、チャボヒバ、チューウリップ、ツバイモモ、ツバキ、ツメクサ、ツユクサ、ツリガネソウ、ドイツトウヒ、ト ドマツ、ナスタシヤ、ニレ、ニンジン、ネギ、ネズコ、ネコヤナギ、ノバラ、ハイビャクシン、ハイマツ、ハクサンチドリ、ハコヤナギ、葉桜、ハタンキョウ、 バナナ、ハナヤサイ、ハマナシ、バラ、バンクスマツ、ハンノキ、ヒカゲノカ ズラ、ヒナゲシ、ヒノキ、ヒヤシンス、フキ、フジ、プリムラ、フレップス、ヘリオトロープ、ホウナ、ホウレンソウ、ホタルカズラ、ボタン、ホップ、マグノ リア、マダ、マチョ、マツ、マメ、ミズ、ミズキ、ミズバショウ、ミョウガ、ムスカリ、モウセンゴケ、モミ、モロコシ、ヤドリギ、ヤマツツジ、ヤマブキ、ユ キナ、ユキヤナギ、ユッカ、ユリ、ヨモギ、ライラック、ラン、レンゲソウ、レンゲツツジ、ワラビ

以上、202種。おなじみのものも多いが、初めて聞くようなものもある(たとえばアステルベ、ムスカリ)。私には吉岡実詩に登場する植 物の解説・写 真を掲載する準備も能力もないので、《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)の本文から植物名を拾うにとどめる(未刊詩篇に〈絵のなかの女〉を追補し た)。記載は、吉岡が記した植物名と出典。同じ詩篇に複数回登場する場合も、一回しか登場しない場合と同列に扱った。同じ植物で呼称が異なる場合も、名寄 せはしない(ウォーターメロンとスイカ/水瓜/西瓜、ひつじぐさと水蓮/睡蓮は別にした)。辞書・事典類に掲載されている語は問題ないが、犬藻やシナゲシ はどうしたものか。後者を漢字で書けば支那罌粟となろうが、吉岡が雛罌粟から造語した可能性も捨てきれない。よって、通常の事典や図鑑類に掲載されていな い犬藻とシナゲシのふたつは採録を見あわせた。固有の品種でない語なども採らなかった。例を挙げれば、植物、藁(以上、30回)、藻(19回)、くだもの /果実(計14回)、野菜(10回)などである(ちなみに「動物」は全詩句中、25回登場する)。また○○色として登場する植物も採らなかった。ももいろ (13回)/桃色(4回)、ばらいろ/ばら色/バラ色(以上、各4回)/薔薇色(2回)などである。

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林檎    〈朝の硝子〉    (@・6)
夏蜜柑    〈白昼消息〉    (@・10)
薔薇    〈臙脂〉    (@・11)
桐    〈桐の花〉    (@・16)
杏    〈杏菓子〉    (@・17)
葡萄    〈病室〉    (@・18)

メロン    〈蒸発〉    (A・5)
仙人掌    〈失題〉    (A・7)
パセリ    〈絵本〉    (A・8)
葦    〈牧歌〉    (A・10)
林檎    〈相聞歌〉    (A・11)
ヒヤシンス    〈ひやしんす〉    (A・20)
楡    〈ひやしんす〉    (A・20)
あんず    〈或る葬曲の断想――〈墓地にて〉〉    (A・23)
蔦    〈或る葬曲の断想――〈墓地にて〉〉    (A・23)
あんず    〈灰色の手套〉    (A・25)
菩提樹    〈液体T〉    (A・26)
亜麻    〈花の肖像〉    (A・29)
葡萄    〈灯る曲線〉    (A・30)
葡萄    〈夢の翻訳――〈紛失した少年の日の唄〉〉    (A・32)

りんご    〈静物〉    (B・1)
梨    〈静物〉    (B・1)
ぶどう    〈静物〉    (B・1)
桃    〈夏の絵〉    (B・9)
バラ    〈風景〉    (B・10)
いちじく    〈風景〉    (B・10)
罌粟    〈ジャングル〉    (B・13)

玉葱    〈仕事〉    (C・4)
レモン    〈牧歌〉    (C・7)
蕪    〈僧侶〉    (C・8)
ぶどう    〈僧侶〉    (C・8)
桃    〈単純〉    (C・9)
西瓜    〈夏〉    (C・10)
へちま    〈固形〉    (C・11)
たんぽぽ    〈固形〉    (C・11)
らっきょう    〈回復〉    (C・12)
ざくろ    〈回復〉    (C・12)
瓜    〈苦力〉    (C・13)
高粱    〈苦力〉    (C・13)
ねじあやめ    〈苦力〉    (C・13)
粟    〈苦力〉    (C・13)
楊柳    〈苦力〉    (C・13)
樅    〈聖家族〉    (C・14)
ひまわり    〈聖家族〉    (C・14)
ばら    〈人質〉    (C・17)
桃    〈感傷〉    (C・18)
睡蓮    〈感傷〉    (C・18)
じゃがいも    〈感傷〉    (C・18)
麦    〈死児〉    (C・19)
かぼちゃ    〈死児〉    (C・19)
菫    〈死児〉    (C・19)
ばら    〈死児〉    (C・19)
蓮華    〈死児〉    (C・19)

杏    〈果物の終り〉    (D・2)
梨    〈果物の終り〉    (D・2)
小麦    〈果物の終り〉    (D・2)
とうがん    〈下痢〉    (D・3)
梨    〈下痢〉    (D・3)
ゼラニュウム    〈裸婦〉    (D・7)
苺    〈裸婦〉    (D・7)
玉葱    〈編物する女〉    (D・8)
苺    〈編物する女〉    (D・8)
にんじん    〈呪婚歌〉    (D・9)
オレンジ    〈呪婚歌〉    (D・9)
麦    〈呪婚歌〉    (D・9)
にんじん    〈田舎〉    (D・10)
西瓜    〈巫女〉    (D・14)
さるすべり    〈衣鉢〉    (D・16)
げんげ    〈衣鉢〉    (D・16)
竹    〈衣鉢〉    (D・16)
トマト    〈受難〉    (D・17)
夏みかん    〈狩られる女〉    (D・18)
杏    〈寄港〉    (D・19)
りんご    〈寄港〉    (D・19)
綿    〈寄港〉    (D・19)
巴旦杏    〈灯台にて〉    (D・20)
コスモス    〈灯台にて〉    (D・20)
へちま    〈灯台にて〉    (D・20)
チーク    〈灯台にて〉    (D・20)
太藺    〈沼・秋の絵〉    (D・21)
灯心草    〈沼・秋の絵〉    (D・21)
いちじく    〈修正と省略〉    (D・22)
菱    〈修正と省略〉    (D・22)
葡萄    〈修正と省略〉    (D・22)

トマト    〈劇のためのト書の試み〉    (E・1)
葛    〈無罪・有罪〉    (E・2)
仏手柑    〈無罪・有罪〉    (E・2)
桜んぼ    〈無罪・有罪〉    (E・2)
ススキ    〈珈琲〉    (E・3)
百合    〈模写〉    (E・4)
ニンジン    〈模写〉    (E・4)
キャベツ    〈模写〉    (E・4)
アスパラガス    〈模写〉    (E・4)
芝    〈馬・春の絵〉    (E・5)
リンゴ    〈馬・春の絵〉    (E・5)
ナツメ    〈馬・春の絵〉    (E・5)
燕麦    〈聖母頌〉    (E・6)
西瓜    〈聖母頌〉    (E・6)
桃    〈桃〉    (E・8)
タンポポ    〈桃〉    (E・8)
桃    〈春のオーロラ〉    (E・10)
柳    〈春のオーロラ〉    (E・10)
ヒース    〈スープはさめる〉    (E・11)
キュウリ    〈スープはさめる〉    (E・11)
ストロベリー    〈内的な恋唄〉    (E・12)
サンゴ樹    〈内的な恋唄〉    (E・12)
テッポーユリ    〈内的な恋唄〉    (E・12)
麦    〈内的な恋唄〉    (E・12)
ケシ    〈内的な恋唄〉    (E・12)
糸杉    〈内的な恋唄〉    (E・12)
コンニャク    〈ヒラメ〉    (E・13)
アネモネ    〈孤独なオートバイ〉    (E・14)
バナナ    〈孤独なオートバイ〉    (E・14)
レンゲ    〈孤独なオートバイ〉    (E・14)
サボテン    〈孤独なオートバイ〉    (E・14)
スミレ    〈恋する絵〉    (E・15)
麻    〈恋する絵〉    (E・15)
クワイ    〈恋する絵〉    (E・15)
コルク    〈恋する絵〉    (E・15)
パセリ    〈静かな家〉    (E・16)
竹    〈静かな家〉    (E・16)
ニッキ    〈静かな家〉    (E・16)
ツタ    〈静かな家〉    (E・16)
大麦    〈静かな家〉    (E・16)
スギ    〈静かな家〉    (E・16)

パイナップル    〈マクロコスモス〉    (F・1)
葦    〈マクロコスモス〉    (F・1)
ハハコグサ    〈マクロコスモス〉    (F・1)
タケニグサ    〈マクロコスモス〉    (F・1)
コルク    〈マクロコスモス〉    (F・1)
スズカケ    〈マクロコスモス〉    (F・1)
クチナシ    〈夏から秋まで〉    (F・2)
カヤツリグサ    〈夏から秋まで〉    (F・2)
ミカン    〈夏から秋まで〉    (F・2)
ススキ    〈夏から秋まで〉    (F・2)
リンゴ    〈立体〉    (F・3)
朝鮮アサガオ    〈立体〉    (F・3)
鈴懸    〈色彩の内部〉    (F・4)
クスノキ    〈色彩の内部〉    (F・4)
葦    〈色彩の内部〉    (F・4)
ヒルガオ    〈少女〉    (F・5)
スイカ    〈青い柱はどこにあるか?〉    (F・6)
サクラ    〈青い柱はどこにあるか?〉    (F・6)
スミレ    〈フォークソング〉    (F・7)
梨    〈フォークソング〉    (F・7)
トウモロコシ    〈フォークソング〉    (F・7)
ミカン    〈崑崙〉    (F・8)
イチジク    〈崑崙〉    (F・8)
バラ    〈崑崙〉    (F・8)
トウモロコシ    〈雨〉    (F・9)
ススキ    〈雨〉    (F・9)
ザクロ    〈雨〉    (F・9)
西瓜    〈聖少女〉    (F・10)
ススキ    〈聖少女〉    (F・10)
かるかや    〈聖少女〉    (F・10)
天竺牡丹    〈神秘的な時代の詩〉    (F・11)
ニンジン    〈神秘的な時代の詩〉    (F・11)
蘭    〈神秘的な時代の詩〉    (F・11)
紅葉    〈蜜はなぜ黄色なのか?〉    (F・12)
笹    〈夏の家〉    (F・13)
トリカブト    〈夏の家〉    (F・13)
ミモザ    〈夏の家〉    (F・13)
アザミ    〈弟子〉    (F・15)
スミレ    〈弟子〉    (F・15)
スミレ    〈わが馬ニコルスの思い出〉    (F・16)
ニンジン    〈わが馬ニコルスの思い出〉    (F・16)
カシ    〈わが馬ニコルスの思い出〉    (F・16)
ハマムギ    〈わが馬ニコルスの思い出〉    (F・16)
ツバキ    〈わが馬ニコルスの思い出〉    (F・16)
鉄砲ユリ    〈三重奏〉    (F・17)
サボテン    〈三重奏〉    (F・17)
三色スミレ    〈コレラ〉    (F・18)
センニンカズラ    〈コレラ〉    (F・18)
ニンニク    〈コレラ〉    (F・18)
サクランボ    〈コレラ〉    (F・18)
ブドウ    〈コレラ〉    (F・18)
ゴム    〈コレラ〉    (F・18)
とうもろこし    〈コレラ〉    (F・18)

サフラン    〈サフラン摘み〉    (G・1)
ブドウ    〈タコ〉    (G・2)
ヒヤシンス    〈ヒヤシンス或は水柱〉    (G・3)
ヤマモモ    〈ヒヤシンス或は水柱〉    (G・3)
ユズ    〈ヒヤシンス或は水柱〉    (G・3)
松    〈ヒヤシンス或は水柱〉    (G・3)
アネモネ    〈葉〉    (G・4)
バラ    〈葉〉    (G・4)
栗    〈葉〉    (G・4)
菜の花    〈葉〉    (G・4)
芹    〈葉〉    (G・4)
ハタンキョウ    〈葉〉    (G・4)
紅葉    〈マダム・レインの子供〉    (G・5)
ザクロ    〈悪趣味な冬の旅〉    (G・6)
イチジク    〈悪趣味な冬の旅〉    (G・6)
胡麻    〈悪趣味な冬の旅〉    (G・6)
水瓜    〈悪趣味な冬の旅〉    (G・6)
コウリャン    〈悪趣味な冬の旅〉    (G・6)
麻    〈悪趣味な冬の旅〉    (G・6)
ドロの木    〈悪趣味な冬の旅〉    (G・6)
梨    〈悪趣味な冬の旅〉    (G・6)
アジサイ    〈ピクニック〉    (G・7)
チシャ    〈ピクニック〉    (G・7)
葡萄    〈ピクニック〉    (G・7)
茄子    〈聖あんま語彙篇〉    (G・8)
生姜    〈聖あんま語彙篇〉    (G・8)
西瓜    〈聖あんま語彙篇〉    (G・8)
胡瓜    〈聖あんま語彙篇〉    (G・8)
スギナ    〈聖あんま語彙篇〉    (G・8)
タモ    〈わが家の記念写真〉    (G・9)
コルク    〈わが家の記念写真〉    (G・9)
ナツメ    〈生誕〉    (G・10)
ニラ    〈ルイス・キャロルを探す方法〔わがアリスへの接近〕〉    (G・11)
イチジク    〈ルイス・キャロルを探す方法〔少女伝説〕〉    (G・11)
ツタ    〈ルイス・キャロルを探す方法〔少女伝説〕〉    (G・11)
バラ    〈ルイス・キャロルを探す方法〔少女伝説〕〉    (G・11)
キヅタ    〈ルイス・キャロルを探す方法〔少女伝説〕〉    (G・11)
カリフラワー    〈『アリス』狩り〉    (G・12)
オレンジ    〈『アリス』狩り〉    (G・12)
桃    〈『アリス』狩り〉    (G・12)
燈心草    〈『アリス』狩り〉    (G・12)
オリーブ    〈『アリス』狩り〉    (G・12)
ひまわり    〈『アリス』狩り〉    (G・12)
水蓮    〈草上の晩餐〉    (G・13)
ぜんまい    〈田園〉    (G・14)
梨    〈田園〉    (G・14)
羊歯    〈田園〉    (G・14)
ウォーターヒヤシンス    〈田園〉    (G・14)
タマネギ    〈田園〉    (G・14)
蜜柑    〈田園〉    (G・14)
樫    〈田園〉    (G・14)
とうもろこし    〈田園〉    (G・14)
ミカン    〈不滅の形態〉    (G・16)
大豆    〈不滅の形態〉    (G・16)
韮    〈絵画〉    (G・18)
西洋李    〈絵画〉    (G・18)
胡瓜    〈異霊祭〉    (G・19)
茄子    〈異霊祭〉    (G・19)
蓮    〈異霊祭〉    (G・19)
セロリ    〈メデアム・夢見る家族〉    (G・21)
綿    〈メデアム・夢見る家族〉    (G・21)
百合    〈メデアム・夢見る家族〉    (G・21)
仙人掌    〈舵手の書〉    (G・22)
ストロベリー    〈舵手の書〉    (G・22)
キャベツ    〈舵手の書〉    (G・22)
薔薇    〈舵手の書〉    (G・22)
オレンジ    〈舵手の書〉    (G・22)
パセリ    〈白夜〉    (G・23)
リンゴ    〈ゾンネンシュターンの船〉    (G・24)
サボテン    〈ゾンネンシュターンの船〉    (G・24)
かぶら    〈ゾンネンシュターンの船〉    (G・24)
百合    〈サイレント・あるいは鮭〉    (G・25)
朝顔    〈悪趣味な夏の旅〉    (G・26)
ひなげし    〈悪趣味な夏の旅〉    (G・26)
綿    〈示影針(グノーモン)〉    (G・27)
白蓮[ロータス]    〈示影針(グノーモン)〉    (G・27)
どんぐり    〈示影針(グノーモン)〉    (G・27)
さやえんどう豆    〈示影針(グノーモン)〉    (G・27)
蓮根    〈カカシ〉    (G・28)
へちま    〈カカシ〉    (G・28)
玉葱    〈少年〉    (G・29)
じゃがいも    〈少年〉    (G・29)
ブドウ    〈少年〉    (G・29)
巴旦杏    〈少年〉    (G・29)
ひまわり    〈少年〉    (G・29)
松    〈少年〉    (G・29)
スミレ    〈少年〉    (G・29)
粟    〈あまがつ頌〉    (G・30)
稗    〈あまがつ頌〉    (G・30)
茄子    〈あまがつ頌〉    (G・30)
さんざし    〈あまがつ頌〉    (G・30)
あけび    〈あまがつ頌〉    (G・30)
杉    〈あまがつ頌〉    (G・30)
ねこじゃらし    〈悪趣味な内面の秋の旅〉    (G・31)
アネモネ    〈悪趣味な内面の秋の旅〉    (G・31)
梨    〈悪趣味な内面の秋の旅〉    (G・31)
そらまめ    〈悪趣味な内面の秋の旅〉    (G・31)
ヒース    〈悪趣味な内面の秋の旅〉    (G・31)
芝    〈悪趣味な内面の秋の旅〉    (G・31)
麦    〈悪趣味な内面の秋の旅〉    (G・31)
百合    〈悪趣味な内面の秋の旅〉    (G・31)
石榴    〈悪趣味な内面の秋の旅〉    (G・31)
葡萄    〈悪趣味な内面の秋の旅〉    (G・31)
棕櫚    〈悪趣味な内面の秋の旅〉    (G・31)

花菖蒲    〈楽園〉    (H・1)
天人唐草    〈蝉〉    (H・3)
おおばこ    〈蝉〉    (H・3)
百合    〈蝉〉    (H・3)
バラ    〈蝉〉    (H・3)
柳    〈蝉〉    (H・3)
バナナ    〈子供の儀礼〉    (H・4)
無花果    〈子供の儀礼〉    (H・4)
胡椒    〈子供の儀礼〉    (H・4)
柘榴    〈子供の儀礼〉    (H・4)
冬瓜    〈子供の儀礼〉    (H・4)
げんげ    〈子供の儀礼〉    (H・4)
松    〈子供の儀礼〉    (H・4)
立葵    〈水鏡〉    (H・6)
栗    〈晩夏〉    (H・7)
柳絮    〈草の迷宮〉    (H・9)
ねじあやめ    〈草の迷宮〉    (H・9)
ウォーターメロン    〈草の迷宮〉    (H・9)
アネモネ    〈螺旋形〉    (H・10)
さくら    〈螺旋形〉    (H・10)
枝豆    〈父・あるいは夏〉    (H・12)
紫蘇    〈父・あるいは夏〉    (H・12)
巴旦杏    〈幻場〉    (H・13)
薄荷    〈幻場〉    (H・13)
ゼラニウム    〈雷雨の姿を見よ〉    (H・14)
葛    〈狐〉    (H・15)
かたくり    〈狐〉    (H・15)
つりふねそう    〈織物の三つの端布〉    (H・16)
栗    〈金柑譚〉    (H・17)
金柑    〈金柑譚〉    (H・17)
百合    〈使者〉    (H・18)
竹    〈使者〉    (H・18)
薄荷    〈悪趣味な春の旅〉    (H・19)
葦    〈悪趣味な春の旅〉    (H・19)
葡萄    〈夏の宴〉    (H・20)
タラの木    〈夏の宴〉    (H・20)
イタドリ    〈夏の宴〉    (H・20)
林檎    〈夏の宴〉    (H・20)
ネクタリン    〈夏の宴〉    (H・20)
キンポウゲ    〈夏の宴〉    (H・20)
薔薇    〈夏の宴〉    (H・20)
西瓜    〈夏の宴〉    (H・20)
トチ    〈夏の宴〉    (H・20)
胡瓜    〈夏の宴〉    (H・20)
うまごやし    〈夏の宴〉    (H・20)
オリーブ    〈夢のアステリスク〉    (H・22)
綿    〈夢のアステリスク〉    (H・22)
夾竹桃    〈夢のアステリスク〉    (H・22)
虎杖    〈詠歌〉    (H・23)
杉    〈この世の夏〉    (H・24)
あんず    〈この世の夏〉    (H・24)
キャベツ    〈裸子植物〉    (H・25)
オリーヴ    〈「青と発音する」〉    (H・27)
葡萄    〈円筒の内側〉    (H・28)
ツクネイモ    〈円筒の内側〉    (H・28)
桜    〈円筒の内側〉    (H・28)

ライラック    〈ライラック・ガーデン〉    (I・3)
かんらん    〈ライラック・ガーデン〉    (I・3)
冬瓜    〈家族〉    (I・11)
梨    〈春の絵〉    (I・12)
スイカ    〈スイカ・視覚的な夏〉    (I・13)
アイリス    〈花・変形〉    (I・14)
クローバー    〈花・変形〉    (I・14)
通草    〈鄙歌〉    (I・15)
胡桃    〈紀行〉    (I・16)
とるこききょう    〈人工花園〉    (I・19)
がま    〈人工花園〉    (I・19)
羊歯    〈人工花園〉    (I・19)
アナナス    〈人工花園〉    (I・19)
アロエ    〈人工花園〉    (I・19)
アンセリウム    〈人工花園〉    (I・19)
燕麦    〈人工花園〉    (I・19)
大麦    〈人工花園〉    (I・19)
マグノリア    〈人工花園〉    (I・19)
とりかぶと    〈人工花園〉    (I・19)
メリネ    〈人工花園〉    (I・19)
グロリオサ    〈人工花園〉    (I・19)
ブバリア    〈人工花園〉    (I・19)
われもこう    〈人工花園〉    (I・19)
イチゴ    〈人工花園〉    (I・19)
アマリリス    〈人工花園〉    (I・19)
あかのまんま    〈人工花園〉    (I・19)
ヒイラギ    〈猿〉    (I・20)
天人唐草    〈ツグミ〉    (I・21)

松 〈雞〉 (J・1)
灯心草 〈雞〉    (J・1)
とうもろこし 〈雞〉    (J・1)
ぶどう    〈竪の声〉    (J・2)
毒人参    〈竪の声〉    (J・2)
オシロイバナ    〈影絵〉    (J・3)
トウキビ    〈影絵〉    (J・3)
竹    〈影絵〉    (J・3)
葡萄    〈影絵〉    (J・3)
アネモネ    〈青枝篇〉    (J・4)
シキミ    〈青枝篇〉    (J・4)
カシワ    〈青枝篇〉    (J・4)
ガマ    〈青枝篇〉    (J・4)
かぼちゃ    〈青枝篇〉    (J・4)
ラッパスイセン    〈青枝篇〉    (J・4)
薄荷    〈青枝篇〉    (J・4)
粟    〈青枝篇〉    (J・4)
笹    〈青枝篇〉    (J・4)
葦    〈青枝篇〉    (J・4)
マツカサ    〈青枝篇〉    (J・4)
ウイキョウ    〈青枝篇〉    (J・4)
竹    〈壁掛〉    (J・5)
百合根    〈壁掛〉    (J・5)
オレンジ    〈巡礼〉    (J・7)
トマト    〈巡礼〉    (J・7)
桃    〈巡礼〉    (J・7)
すもも    〈巡礼〉    (J・7)
紅葉    〈巡礼〉    (J・7)
粟    〈巡礼〉    (J・7)
葱    〈秋思賦〉    (J・8)
山吹    〈天竺〉    (J・9)
やまもも    〈天竺〉    (J・9)
粟    〈天竺〉    (J・9)
稗    〈天竺〉    (J・9)
菊    〈薬玉〉    (J・10)
巴旦杏    〈薬玉〉    (J・10)
蕨手    〈薬玉〉    (J・10)
カミツレ    〈薬玉〉    (J・10)
トウモロコシ    〈春思賦〉    (J・11)
巴旦杏    〈春思賦〉    (J・11)
ひつじぐさ    〈垂乳根〉    (J・12)
にら    〈垂乳根〉    (J・12)
無花果    〈垂乳根〉    (J・12)
唐辛子    〈垂乳根〉    (J・12)
タラの木    〈哀歌〉    (J・13)
ヒョータン    〈哀歌〉    (J・13)
葫蘆[ころ]    〈哀歌〉    (J・13)
瓢箪    〈哀歌〉    (J・13)
かやつりぐさ    〈哀歌〉    (J・13)
すすき    〈哀歌〉    (J・13)
ボタンヅル    〈哀歌〉    (J・13)
えびかずら    〈甘露〉    (J・14)
ニワトコ    〈甘露〉    (J・14)
柳    〈甘露〉    (J・14)
葦牙[あしかび]    〈甘露〉    (J・14)
メボウキ    〈東風〉    (J・15)
桃    〈東風〉    (J・15)
竹    〈東風〉    (J・15)
匂いスミレ    〈東風〉    (J・15)
梨    〈東風〉    (J・15)
松    〈東風〉    (J・15)
槲[かしわ]    〈求肥〉    (J・16)
亜麻    〈求肥〉    (J・16)
丁子    〈落雁〉    (J・17)
歯朶    〈蓬莱〉    (J・18)
橙    〈蓬莱〉    (J・18)
榧    〈蓬莱〉    (J・18)
松    〈蓬莱〉    (J・18)
矢車草    〈蓬莱〉    (J・18)
樟    〈蓬莱〉    (J・18)
竹    〈蓬莱〉    (J・18)
マホガニー    〈青海波〉    (J・19)
瓜    〈青海波〉    (J・19)
桃    〈青海波〉    (J・19)
桑    〈青海波〉    (J・19)
松    〈青海波〉    (J・19)
無花果    〈青海波〉    (J・19)
葫蘆[ころ]    〈青海波〉    (J・19)
柊    〈青海波〉    (J・19)

苦艾    〈産霊(むすび)〉    (K・1)
賢木[さかき]    〈産霊(むすび)〉    (K・1)
カタバミ    〈カタバミの花のように〉    (K・2)
松    〈わだつみ〉    (K・3)
柳    〈聖童子譚〉    (K・4)
芥子    〈聖童子譚〉    (K・4)
ふくべ    〈聖童子譚〉    (K・4)
麦    〈聖童子譚〉    (K・4)
葦    〈聖童子譚〉    (K・4)
西洋梨    〈秋の領分〉    (K・5)
コスモス    〈秋の領分〉    (K・5)
柏    〈秋の領分〉    (K・5)
桜    〈薄荷〉    (K・6)
薄荷    〈薄荷〉    (K・6)
蓮    〈薄荷〉    (K・6)
糸杉    〈雪解〉    (K・7)
スミレ    〈雪解〉    (K・7)
蓮華    〈寿星(カノプス)〉    (K・8)
桜    〈寿星(カノプス)〉    (K・8)
西瓜    〈銀幕〉    (K・9)
マッシュルーム    〈銀幕〉    (K・9)
葦    〈銀幕〉    (K・9)
柘榴    〈ムーンドロップ〉    (K・10)
篠笹    〈ムーンドロップ〉    (K・10)
松    〈聖あんま断腸詩篇〉    (K・12)
蕗    〈聖あんま断腸詩篇〉    (K・12)
茗荷    〈聖あんま断腸詩篇〉    (K・12)
菖蒲    〈聖あんま断腸詩篇〉    (K・12)
葱    〈聖あんま断腸詩篇〉    (K・12)
葦    〈聖あんま断腸詩篇〉    (K・12)
蔦    〈聖あんま断腸詩篇〉    (K・12)
菊    〈聖あんま断腸詩篇〉    (K・12)
葱    〈睡蓮〉    (K・13)
ざくろ    〈睡蓮〉    (K・13)
睡蓮    〈睡蓮〉    (K・13)
青葡萄    〈睡蓮〉    (K・13)
百合    〈睡蓮〉    (K・13)
匂いあやめ    〈睡蓮〉    (K・13)
茴香    〈睡蓮〉    (K・13)
銀梅花[みると]    〈睡蓮〉    (K・13)
無花果    〈睡蓮〉    (K・13)
おだまき    〈苧環(おだまき)〉    (K・14)
おきなぐさ    〈晩鐘〉    (K・15)
金雀枝    〈晩鐘〉    (K・15)
羊歯    〈銀鮫(キメラ・ファンタスマ)〉    (K・17)
オリーヴ    〈銀鮫(キメラ・ファンタスマ)〉    (K・17)
馬尾藻[ほんだわら]    〈〔食母〕頌〉    (K・19)
さるすべり    〈〔食母〕頌〉    (K・19)
花蓮[はちす]    〈〔食母〕頌〉    (K・19)

キャベツ    〈哀歌〉    (未刊詩篇・9)
ジャガイモ    〈哀歌〉    (未刊詩篇・9)
レモン    〈哀歌〉    (未刊詩篇・9)
麦    〈哀歌〉    (未刊詩篇・9)
けし    〈哀歌〉    (未刊詩篇・9)
糸杉    〈哀歌〉    (未刊詩篇・9)
羊歯    〈冬の森〉    (未刊詩篇・11)
桃    〈スワンベルグの歌〉    (未刊詩篇・12)
ドリアン    〈絵のなかの女〉    (未刊詩篇・15)
ザクロ    〈白狐〉    (未刊詩篇・16)
杉    〈白狐〉    (未刊詩篇・16)
亜麻    〈亜麻〉    (未刊詩篇・17)
ホウセンカ    〈永遠の昼寝〉    (未刊詩篇・19)
杏    〈永遠の昼寝〉    (未刊詩篇・19)
蓮    〈雲井〉    (未刊詩篇・20)
白楊    〈波よ永遠に止れ〉    (未刊詩篇・10)
桃    〈波よ永遠に止れ〉    (未刊詩篇・10)
梨    〈波よ永遠に止れ〉    (未刊詩篇・10)
蘆    〈波よ永遠に止れ〉    (未刊詩篇・10)
ニッキ    〈波よ永遠に止れ〉    (未刊詩篇・10)
あざみ    〈波よ永遠に止れ〉    (未刊詩篇・10)
タマリスク    〈波よ永遠に止れ〉    (未刊詩篇・10)
ライラック    〈波よ永遠に止れ〉    (未刊詩篇・10)
葦    〈波よ永遠に止れ〉    (未刊詩篇・10))

バナナ    〈蜾蠃鈔)    (@・21)
唐黍    〈蜾蠃鈔)    (@・21)
薊    〈蜾蠃鈔)    (@・21)
蘆    〈蜾蠃鈔)    (@・21)
矢車    〈蜾蠃鈔)    (@・21)
林檎    〈蜾蠃鈔)    (@・21)
葦    〈蜾蠃鈔)    (@・21)
葱    〈蜾蠃鈔)    (@・21)
枇杷    〈蜾蠃鈔)    (@・21)
蜜柑    〈蜾蠃鈔)    (@・21)
筍    〈蜾蠃鈔)    (@・21)
桐    〈蜾蠃鈔)    (@・21)

――――――――――――――――――――

上記掲載回数が3回以上の植物を多い順に挙げてみよう(複数ある表記の場合、おおむねひらがな/カタカナ/漢字の順で列挙)。ぶどう/ ブドウ/葡萄 (15回)、葦/蘆(12回)、桃(11回)、スイカ/水瓜/西瓜、梨、ばら/バラ/薔薇(以上、10回)、いちじく/イチジク/無花果、松、りんご/リ ンゴ/林檎(以上、9回)、ざくろ/ザクロ/石榴/柘榴(8回)、あんず/杏、スミレ/菫、竹、百合(以上、7回)、とうもろこし/トウモロコシ、ハタン キョウ/巴旦杏、麦(以上、6回)、アネモネ、粟、さくら/サクラ/桜、歯朶/羊歯、すすき/ススキ、にんじん/ニンジン、ミカン/蜜柑(以上、5回)、 オリーヴ/オリーブ、オレンジ、キャベツ、キュウリ/胡瓜、スギ/杉、タマネギ/玉葱、ツタ/蔦、葱、薄荷、柳、綿(以上、4回)、あざみ/アザミ/薊、 亜麻、イチゴ/苺、糸杉、カシワ/柏/槲[かしわ]、栗、けし/芥子/罌粟、コルク、サボテン、じゃがいも/ジャガイモ、水蓮/睡蓮、とうがん/冬瓜、灯 心草/燈心草、トマト、茄子、にら/ニラ/韮、蓮、パセリ、バナナ、ひまわり、へちま、紅葉、レンゲ/蓮華(以上、3回)。これら全部で58種の植物のう ち、次の29種が野菜だったり、果実や種子が食用になったりするものなのは注目に値する。アワ、アンズ、イチゴ、イチジク、オリーブ、オレンジ、キャベ ツ、キュウリ、クリ、ザクロ、ジャガイモ、スイカ、タマネギ、トウガン、トウモロコシ、トマト、ナシ、ナス、ニラ、ニンジン、ネギ、パセリ、ハタンキョ ウ、バナナ、ブドウ、ミカン、ムギ、モモ、リンゴ。花らしい花は次の10種。アザミ、アネモネ、ケシ、スイレン、スミレ、ハス、バラ、ヒマワリ、ユリ、レ ンゲ。木らしい木は次の5種。イトスギ、カシワ、スギ、マツ、ヤナギ。ここからなにか結論めいたことを引きだすのは難しいが、静物画の対象にふさわしいも のが多いということは言える。「りんごや梨やぶどうの類」(〈静物〉B・1)。秋のくだものに代表される吉岡実の植物は、目で食べられることを欲してい る。

〔付記〕
桜田恒夫 《賢治のイーハトーブ植物園》には〈参考文献〉(同書、〔二一五ページ〕)として次の書目――レファレンスブック(参考図書類)とテキスト(本文)――が 挙 げられている。該当するであろう書目に、国立国会図書館の書誌NDL-OPACをリンクさせてみた(書名の〔 〕は小林の補記、複数巻の書目のリンクは割 愛した)。細かいことだが、〈参考文献〉を謳う以 上、標題の表記に正確を期すのはもちろんのこと、辞書や事典の類であっても編者名・版次・刊行年を掲げるべきである。

牧野新〔日本〕植物図鑑(北隆館)
万有百科大事典植物編(小学館)
〔図解〕植物観察事典(地人書館)
〔図説〕草木辞苑(柏書房)
英米文学植物民俗誌(冨山房)
花の歳時記〔カラー版〕(淡交社)

新修宮沢賢治全集(筑摩書房)
校本宮沢賢治全集(筑摩書房)
宮沢賢治語彙辞典(東京書籍)
年譜宮沢賢治伝(中公文庫)

国語大辞典(小学館)
広辞苑(岩波書店)
大漢和辞典(大修館)

仏教〔語〕大辞典(東京書籍)

《新修宮沢賢治全集》は一般読者向け本文、《校本宮沢賢治全集》は研究者向け本文、《宮沢賢治語彙辞典》はレキシコン(文筆家個人における語彙・用語 集)、《年譜宮沢賢治伝》は伝記で、どれも文学研究に欠かすことのできない基本的文献だ。吉岡実にはこれらに相当するものがひとつとして存在しない。いず れはわが《吉岡実の詩の世界》を基に、それらを編んでみたいものだ。


野平一郎作曲〈Dashu no sho, for voice and alto saxophone(2003)〉のこと(2011年5月31日)

《吉岡実書誌》の〈V 主要作品収録書目録〉二〇〇八年 〔平成二〇年〕の記載を引く。「Japanese Love Songs(日本の恋歌)〔録音資料〕 メゾソプラノ:小林真理、アルトサクソフォン:クロード・ドゥラングル 二〇〇八年一二月 BIS ▽舵手の書(抜粋)〔野平一郎作曲のDashu no sho, for voice and alto saxophone(2003)の歌詞〕 *ライナーノーツ〔Dashu no sho (The Helmsman's Book), ...〕 *舵手の書〔1・5・6節〕原詩のローマ字表記および英訳」
ライナーノーツ〔Dashu no sho (The Helmsman's Book), ...〕を和訳してみる。「〈舵手の書〉は、野平一郎(1953-)の作品の土台として用いられた吉岡実(1919-90)によるシュルレアリスム詩で、美しさと実現に至らない着想の要素とを鮮やかに示している。詩篇はもう一人のシュルレアリスト詩人である瀧口修造に捧げられているが、瀧口は武満徹の精神的父とみなされる(武満は作曲家としての経歴の初期に多くの瀧口の詩を音楽にしている)。野平一郎は東京藝術大学とパリ国立高等音楽院で作曲を学び、リゲティ、ドナトーニ、エトヴェシュ、ファーニホウの下で学んだ。1990年からは東京藝術大学教授であり、現在、作曲とピアニストとしての経歴に専念している。その業績全体により、サントリー音楽賞と芸術選奨文部科学大臣賞を受賞」(《Japanese Love Songs》、ブックレット、六〜七ページ)。CDではトラック11が野平作品で、クレジットに「NODAIRA, ICHIRO (b. 1953)/DASHU NO SHO for voice and alto saxophone(2003)(Lemoire)    9' 35/Text: adapted from a poem by Minoru Yoshioka/Commissioned by Claude Delangle」とある。ブックレットに歌詞(ローマ字表記の原詩と英訳〔訳者名の記載なし、ただしブックレット全体の英訳者はAndrew Barnett〕)が載録されているので、ローマ字表記を原文に戻して引用する(ブックレットに節番号はない)。

1
雨は The rain
夏の仙人掌の棘の上に降る falls on the prickles of the summer cactus
それは一つのスタイルだ that is a certain style
ガートルード・スタイン嬢は語った Ms Gertrude Stein reported,
「人間の死の充満せる ‘The flower basket,
   花籠は     swollen with the deaths of people,
どうしてこれほど why is it such
         軽い容器なのか?」     a lightweight container?’
それを両手で支えて holding it in both hands
眼をみひらいて近づければ and bringing one's wide-open eyes closer to it
「光をすこしずつ閉じこめ ‘gradually shutting in the light
たり逆に闇を閉じこめたりする」 or on the contrary shutting in the darkness’
これは近世の神話といえるんだ one might say that it is a modern-day myth


5
人は自由な手を所持している Man possesses two free hands
それゆえに and thus
不自由な薔薇の頭を大切に抑えて carefully holds the hampered head of roses
「黙って ‘silently
歩いていってしまった」 walked away’
それは形態学上 morphologically speaking
きわめて自己撞着的だと this is extremely self-contradictory
へンリー・ムアは夢の王妃を鉄で造る Henry Moore sculpts the queen of the dreams in iron
炎のような内面 the interior like the flame
オレンジのなかの黒曜石 obsidian within the orange
それが島だ there is the island
青い海をリードする the helmsman and the octopus
舵手と蛸 conduct the blue sea


6
なぜ夜明けの聖像群はフィルムのように Why, at dawn, does the group of sacred images fade
灰色に沈んでいるのか into the grey, like in a film?
「憑きものの水晶抜け」の秋 autumn of ‘a possession beyond the crystal’
詩を書く少年の腰のあたりまで around the waist of an adolescent writing a poem
白い波がうち奇せ the white waves break
竜骨は海岸に出現する the keel emerges on the beach

Text: Minoru Yoshioka (1919-90), extracts from the poem‘Dashu no sho’, included in‘Safurantsumi’ (‘Saffron Picking’, Seidosha, 1976), used by the composer as the basis of the work‘Dashu no sho’

《Japanese Love Songs(日本の恋歌)》(BIS-CD-1630、2008年12月)のブックレット表紙
《Japanese Love Songs(日本の恋歌)》(BIS-CD-1630、2008年12月)のブックレット表紙

〈舵手の書〉(G・22)はかつて外国語に訳されたことがないはずだから、抄とはいえ貴重な翻訳である。野平の〈舵手の書〉の曲とCDの演奏についてだが、これが私には難物である。小林真理のメゾソプラノとクロード・ドゥラングルのアルトサクソフォンによる歌と演奏は、絶妙の掛け合いをみせる。小林の歌は(歌詞が日本語であることは確かなのだが)、やはり歌詞よりもアーティキュレーションを味わうべきものだと感じられる。ドゥラングルのサックスはしっとりとした質感を保ちつつ、縦横に駆けめぐり、ジャズの荒荒しさとは別の、この楽器が本来持っているゆかしさを発揮している。音楽全般に興味を示さなかった吉岡実が、この現代音楽を聴いてどう思ったか。黙って首を振っただろうか、それともこちらが予想もしなかったことを言っただろうか。訊いてみたかった。


吉岡実詩集《ムーンドロップ》本文校異(2011年4月30日〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実の詩集《ムーンドロップ》は1988年11月25日に書肆山田から刊行された。1984年12月から1988年9月までに発表された詩篇19作品を収める(なお、〈聖童子譚〉に変改吸収された〈小曲〉が1984年9月に、同じく〈少年 あるいは秋〉が10月に発表されている)。本稿では、 雑誌・新聞掲載用入稿原稿形、 初出雑誌・新聞掲載形、 《ムーンドロップ》(書肆山田、1988)掲載形、《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)掲載形のうち、からまでの詩句を校合した本文とその校異を掲げた。これにより、吉岡が詩集《ムーンドロップ》各詩篇の初出形本文にその後どのように手を入れたか、たどることができる。本稿は印刷上の細かな差異(具体的には、漢字の字体の違い)を指摘することが主眼ではないので、シフトJISのテキストとして表示できる漢字はそれを優先した(原本を再現するため、「」などのユニコード文字を使った箇所がある)。なお、漢字が新字の本文の新字以外の漢字は、シフトJISのテキストで表示可能なかぎり、校異としてこれを載録した。初めに《ムーンドロップ》各本文の記述・組方の概略を記す。

雑誌・新聞掲載用入稿原稿:おそらく陽子夫人の手になる詩集掲載用入稿原稿とともに2011年4月の時点で未見だが、漢字は新字、かなは新かな(拗促音は小字すなわち捨て仮名)で書かれたと考えられる。

初出雑誌・新聞:各詩篇の本文前に記載した。本文の表示は基本的に新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用なので、特記なき場合はこれを表わす。

《ムーンドロップ》(書肆山田、1988年11月25日):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、12ポ13行1段組(ただし〈聖あんま断腸詩篇〉のみ五号15行1段組)。

《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ19行1段組。なお《吉岡実全詩集》の底本は《ムーンドロップ》。
詩篇の節番号の数字の位置(字下げ)は最終形を収めた《吉岡実全詩集》に倣って三字下げに統一し、字下げ・行どりは校異の対象としなかった。本文前の献辞や詞書、本文後の註記の字下げも《吉岡実全詩集》のそれに準じた。ところで、吉岡は《ムーンドロップ》の詩篇の標題、詞書、本文、註記で数種類の括弧を使用している。具体的には以下の六種類である。使用頻度順に、
パー レン ( ) 296 箇所
鉤括弧 「 」 149箇所
亀甲 〔 〕 114箇所
二重鉤括弧
『 』 2箇所
二重パーレン (( )) 1箇所
山括弧 〈 〉 1箇所
本校異では、本文の読みがな=ルビや傍点を[ ]に入れて示し、印刷物のように行間に表示する方法を採らなかった。異同箇所は〔 〕に入れて指摘した。これらの措置により本文の字下げがわかりにくくなっているが、[ ]や〔 〕を外せば原本の状態が復元できよう。異同箇所を表わす〔 〕内の( )の中は、校正用語を借用して手入れの説明とした。たとえば、詩句のあとの〔(三下)→23(天ツキ)〕は、初出形では天から三字下げで置かれていた詩句が《ムーンドロップ》と《吉岡実全詩集》では天ツキに変更になったことを表わす。この「天ツキ」だが、括弧類で詩句が始まる場合、123とも半角の括弧が組版の天のラインに接する「ベタ」がほとんどである(一部の新聞などでは半角括弧に先立って半角アキで始まる――見かけは全角に括弧が鋳こまれているのと同じ――こともある)。本校異では半角括弧も一文字としてカウントし、半角括弧二つをもって一文字分の扱いとしなかった。これは、第一に吉岡が括弧類を一桝に書いているのを重視したことと、第二にシフトJISでは和文の括弧類が全角のため、「天ツキ=ベタ」の場合と半角アキで始まる場合を技術的に区別できないことによる。吉岡自身は、原稿では一字分(ときには数文字分)空けたあとの桝目に最初の文字を記して、起こしの括弧類は天のラインの上部に(あたかも組版の「ぶら下げ」と反対の「突き出し」のようにはみ出させて)書いている(〈吉岡実の手蹟〔詩篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿〕〉参照)。この書法は雑誌・新聞掲載用入稿原稿である陽子夫人による浄書稿もおそらく同じで(厳密に言えば、前掲括弧類のうち起こしと受けの鉤括弧「 」だけは一桝に書かれず、原稿用紙に書かれた文字と同じ桝目の隅に、文字と同居する形で書かれている。玉英堂書店出品の陽子夫人の手になる〈雷雨の姿を見よ〉(H・14)の原稿〔出典:玉英堂書店 : 吉岡実詩稿〕を参照のこと)、字句の配置を原稿のまま再現したと思われる印刷物に〈わだつみ〉〈銀幕〉〈銀鮫(キメラ・ファンタスマ)〉〈〔食母〕頌〉初出形がある。なお〈吉岡実詩集本文校異について〉を参照のこと。

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《ムーンドロップ》詩篇細目

  詩篇標題(詩集番号・掲載順、詩篇本文行数、初出《誌紙名》〔発行所名〕掲載年月日(号)〔(巻)号〕)

産霊(むすび)(K・1、62行、《ユリイカ》〔青土社〕1986年12月臨時増刊号〔18巻14号〕)
カタバミの花のように(K・2、29行、《朝日新聞〔夕刊〕》〔朝日新聞東京本社〕1985年7月26日〔35760号〕)
わだつみ(K・3、32行、《毎日新聞〔夕刊〕》〔毎日新聞東京本社〕1985年1月5日〔39054号〕)
聖童子譚(K・4、〔1 夏〕〔2 秋〕〔3 冬〕〔4 春〕83行、《ユリイカ》〔青土社〕1984年12月臨時増刊号〔16巻14号〕)
 少年 あるいは秋(〈聖童子譚〉に変改吸収、14行、《別冊婦人公論》〔中央公論社〕1984年10月〔秋・5巻4号〕)
 小曲(〈聖童子譚〉に変改吸収、20行、《Mainichi Daily News》〔毎日新聞社〕1984年9月17日〔22128号〕)

秋の領分(K・5、32行、〈小沢純展〉パンフレット〔青木画廊〕1985年9月17日)
薄荷(K・6、4節50行、《四谷シモン人形愛》〔美術出版社刊〕1985年6月10日)
雪解(K・7、20行、《文學界》〔文藝春秋〕1986年1月号〔40巻1号〕)
寿星(カノプス)(K・8、5節78行、《海燕》〔福武書店〕1986年1月号〔5巻1号〕)
銀幕(K・9、39行、梅木英治銅版画集《日々の惑星》〔ギャラリープチフォルム刊〕1986年12月3日)
ムーンドロップ(K・10、5節80行、《潭》〔書肆山田〕1985年4月〔2号〕)
叙景(K・11、36行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1986年8月号〔29巻8号〕)
聖あんま断腸詩篇(K・12、〔T 物質の悲鳴〕〔U メソッド〕〔V テキスト〕〔W 故園追憶〕〔X (衰弱体の採集)〕〔Y 挽歌〕〔Z 像と石文〕〔[ 慈悲心鳥〕196行、《新潮》〔新潮社〕1986年6月号〔83巻6号〕)
睡蓮(K・13、3節64行、《海燕》〔福武書店〕1987年11月号〔6巻11号〕)
苧環(おだまき)(K・14、34行、《季刊花神》〔花神社〕1987年8月〔1巻2号〕)
晩鐘(K・15、4節74行、《新潮》〔新潮社〕1988年5月号〔85巻5号(通巻1000号)〕)
青空(アジュール)(K・16、20行、《文學界》〔文藝春秋〕1988年1月号〔42巻1号〕)
銀鮫(キメラ・ファンタスマ)(K・17、6節112行、《ユリイカ》〔青土社〕1988年6月臨時増刊号〔20巻7号〕)
(K・18、35行、《毎日新聞〔夕刊〕》〔毎日新聞東京本社〕1987年12月28日〔40120号〕)
〔食母〕頌(K・19、4節74行、《中央公論文芸特集》〔中央公論社〕1988年9月〔秋季・5巻3号〕)
初出一覧

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産霊(むすび)(K・1)
初出は《ユリイカ》〔青土社〕1986年12月臨時増刊号〔18巻14号〕一六〜一九ページ、本文9ポ22行1段組、62行。
〔聖なる蜘蛛〕
       風をこばみ 露にあらがう日々
「緑となった躰を
        最後にひとしきり
                痙攣させて……」
(〔紡→23績〕麻[うみお])の屑のうえに
          〔匿名の器のような
            三つの卵をうむ〕
一つは(扇)のごとく浮遊し
一つは(書物)のごとく沈澱し
一つは(精液)のごとく消滅する
               〔(ナシ)→23野の〕夕映えの空の下で
「見ることは一瞬にして尽きるよ」
                捕虫網をかざしながら
わが少年は帰る
       (祓除人形[はらいひとがた])の流れる岸べを
限りなく溯行せよ
        石船型の(都市)まで
「影のなかには
       無数の知覚や記号が
       胚種としてひしめいている」
舗道の隅で
     「犬の糞を見て
            突然
     そこに(人生)があると叫んだ」〔(五下)→23(九下)〕
狂気の画家のように醒めて
            「子供として死に
             大人として再生する」
手順を模倣せよ
       少年はしばしの間(生と死)の境界線に
       身(魂)を置いている
〔狼と犬の間〕=黄昏どき
            「裸婦はものうく
肉体をさらしている」
          苦艾の匂いがする?
      〔〔→23(〕母胎[マトリクス]〔〕→23)〕
          「何かが現われるというより
何かがたえまなく
        消えてゆく」
              やさしい(闇)
草や苔などが繁茂し
         生物が殖えてゆく
(産霊[むすび])の世界
       太陽や神力の(業[わざ])を受け〔続→23継〕ぎ
賢木[さかき]で斎[いわ]い浄めて
        「言語の通用する
        (日常圏[テリトリー])を排除せよ」
(紫電金線)のなかで
          美しくはげしく
                 汚物は流れる
(白紙)の上に
       〔思考を抱える主体〕
        少年は物(語)を書くだろうか〔(八下)→23(七下)〕
「〔気持がいいとても→23意味のとぎれる境界線〕」
          〔眼の前→23(トル)〕で熟しつつある〔(一〇下)→23(一二下)〕
「一つの(果実)は
         〔(→23〔〕羽根 蜜 帆柱
                 なによりも処女性
晴雨計 歯型
      スポンジの多孔質
              腐敗と喪失〔)→23〕〕などの
多くの(部分)を含んでいる」

カタバミの花のように(K・2)
初出は《朝日新聞〔夕刊〕》〔朝日新聞東京本社〕1985年7月26日〔35760号〕七面、本文7.5ポ3段組、30行。初出・絵「加納光於」。顔写真とともに、横組で「よしおか・みのる 1919年、東京生まれ。シュルレアリスティックなイメージにあふれた詩集『僧侶』で第9回H氏賞。著書に『サフラン摘み』(高見順賞)、『〈死児〉という絵』、『薬玉』(歴程賞)など。」と紹介がある。本書〈初出一覧――〉には「(改作)」と記されている。
「兎を抱く少女像」
       これは今わた〔(ナシ)→23く〕しが見ている〔(七下)→23(九下)〕
朱塗りの額縁に収まった〔(天ツキ)→23(二二下)〕
          絵画[、、]なのか?〔(一〇下)→23(一六下)〕
「これは絵ではない」
        窓の外の崖の上で〔(八下)→23(一〇下)〕
カタバミの花はそよぎ〔(天ツキ)→23(一八下)〕
         雲は〔(ナシ)→23空を〕揺曳している〔(九下)→23(八下)〕
「青には大きさがない
        それは大きさを〔(八下)→23(一〇下)〕〔(追込)→23(改行・一七下)〕超えている」
夏→23涼しい風〕のひるさがり
      兎を抱いて少女が来る〔(六下)→23(一〇下)〕
二番煎じの→23わたくしは〕〔(改行)→23(追込)〕
    〔(四下)→23(トル)〕紅茶を〔すす→23啜〕り
          〔わたしは妄想する→23(トル)〕
「事物と密着した部分へ〔(天ツキ)→23(一〇下)〕
         指を差し入れる」〔(九下)→23(二一下)〕
蝉がジージー鳴く
       竹すだれを透かして眺めよ〔(七下)→23(八下)〕
「肉体という〔(天ツキ)→23(二下)〕
    広大なる風景」〔(四下)→23(八下)〕
           男たちが遠方の藪や川で〔(一一下)→23(天ツキ)〕
探しあぐねているもの[、、]を〔(天ツキ)→23(一一下)〕
          女たちは素早く手に入れる〔(一〇下)→23(二二下)〕
吹出物だらけの少女よ
          「野の風は
               もはや帰らぬ」
やがて〔きみ[、、]→23少女〕は身籠り
        赤ん坊を産む時〔(八下)→23(九下)〕
        「光は影からもがき出てくる」〔(八下)→23(一六下)〕

わだつみ(K・3)
初出は《毎日新聞〔夕刊〕》〔毎日新聞東京本社〕1985年1月5日〔39054号〕四面、本文新聞活字1倍扁平1段組、31行。初出「写真・佐々木正和」。冒頭にも記したように、入稿原稿を忠実に再現したためだろう、他のほとんどの詩篇と異なり行頭の起こしの鉤括弧(「)とパーレン(()が天のラインの上部に組まれている。ここでは字下げの異同を初出形に対する手入れとして記載したが、最初=1行めの鉤括弧と文字(「祖)の間と最終=31行めの鉤括弧と文字(「真)の間を結んだ線を天のラインと仮定すると、9行め(ぼくは遊行のすえ家路をたどる)、20行め(洗われる下着や(撞木))、29行め(白波立つ 沸騰点より)の各詩句は、一字下げではなく天ツキということになる。
「祖父は山へ柴刈りにゆき
            松の小枝とともに
  谷の淵へ落ちてゆき〔(二下)→23(三下)〕
           祖母は川へ洗濯にゆき〔(一一下)→23(一二下)〕
(空虚舟[うつほぶね])で〔漂→23ただよ〕い出る」
           時じく 散る花 鳴く鳥〔(一一下)→23(一三下)〕
「死も一つの放浪である」
            とは〔賢者→23中世の詩人〕のことばだ
 ぼくは遊行のすえ家路をたどる〔(一下)→23(天ツキ)〕
               一歩〔二→23一〕歩ゆるやかに〔(一五下)→23(一四下)〕
「金色の亀が這っている大地」
        (夜見[よみ]) 遠見〔(八下)→23(一四下)〕
              此処からこの世を眺めよ〔(一四下)→23(二一下)〕
「包帯を巻かれた
        牛の脚が見え
        椅子の折れた脚が見え」
                   薄明がくる
「花咲く木の下に眠る女」
            〔わが妹→23ぼくの許婚〕のふとももが見える
 洗われる下着や(撞木)〔(一下)→23(天ツキ)〕
            みどりの網の目をひろげる〔(一二下)→23(一一下)〕
                   (地下茎)〔(一九下)→23(二三下)〕
     〔さざなみ (白骨) 裂けた岩→23(トル)〕
「わだつみの彼方は
         永遠に(妣[はは])のくに」
                   〔(ナシ)→23さざなみ 裂けた岩〕
               〔(ナシ)→23(白骨)〕
「母は船の帆のように美しく
       光と風を受け」〔(七下)→23(一三下)〕
              〔(ナシ)→23大きく〕孕んでいる〔(一四下)→23(二〇下)〕
 白波立つ 沸騰点より〔(一下)→23(天ツキ)〕
           父はいきいきと(朽木)で〔(ナシ)→23は〕なく〔(一一下)→23(一〇下)〕
「真紅の鯛を釣り上げる」

聖童子譚(K・4)
初出は《ユリイカ》〔青土社〕1984年12月臨時増刊号〔16巻14号〕一六〜二〇ページ、本文9ポ22行1段組、〔1 夏〕〔2 秋〕〔3 冬〕〔4 春〕83行。初出註記に「*(1)は別冊「婦人公論」、(2)は「英文毎日ニュース」に発表したものである。」とあるように〈少年 あるいは秋〉(《別冊婦人公論》〔中央公論社〕1984年10月〔秋・5巻4号〕三七三ページ、14行)と〈小曲〉(《Mainichi Daily News》〔毎日新聞社〕1984年9月17日〔22128号〕九面の〈20:20――20 Poems by 20 Poets in 20 Lines〉、20行、ローマ字表記〈Shookyoku〉とRoger Pulversによる英訳〈A Short Piece of Music〉を付す)のそれぞれ全行を変改吸収。〔1 夏〕は〈少年 あるいは秋〉をとして、〔2 秋〕は〈小曲〉をとして、〈聖童子譚〉本文との異同を記した。
   1 夏

ぼくは(父)を憎んでいるようだ
(母)のかくしどころの〔(天ツキ)→123(三下)〕
           (深淵)より〔(一一下)→123(一四下)〕
A1にがり→23藻〕や〔A1泡→23水〕沫とともに
          胎生の(弟)が浮かび上る〔A1(一〇下)→23(八下)〕
(句読点)の(点)のように
             あいまいな夏の日々
鯉は腹を割かれつつ
         一つの(呪文)をくりかえす
その口唇はやわらかく
          今宵の(姉)のようだ
荒ぶる魂 冷えるかかと
ぼくは〔A1(ナシ)→23ブリキの〕水鉄砲で〔A1(天ツキ)→23(一一下)〕
       (実体)なきものを撃ちつづける〔A1(七下)→23(天ツキ)〕

   2 秋

眼のまえで
     「一つの石が
           空中で溶け失せても
      驚かない」
絶世の美人がいる
       日傘をくるくる廻し〔 夕日のなかに→123(トル)〕〔(七下)→123(八下)〕
(ナシ)→123(一七下)夕日のなかに〕
ぼくは少年だから
        あらゆる〔B1(ナシ)→23(〕章句〔B1(ナシ)→23)〕に
               疑問符を打つ〔B1(一五下)→23(一七下)〕
「彼女の正体」を見よ
      柳の葉のかげから〔B1現われた幽霊?→23(トル)〕〔(六下)→123(一〇下)〕
      〔B1それともアフロディーテーの末裔?→23(一八下)現われた幽霊?〕〔(六下)→(一〇下)〕
今もツバメが飛びかい
          芥子の花が咲きみだれ
この世かあの世か判断できない
              「カーテンの
レース織りに包まれる」〔(天ツキ)→(二下)→23(三下)〕
            村落から沼沢地まで〔(一二下)→(一三下)→23(一四下)〕
「死ぬ人は駆け足だ」
          すでに〔B1(ナシ)→23晩〕秋〔B1のはじまり→23(トル)〕

   3 冬

「ふくべ棚のあなたより
           現われ出でる
北斗七星」
     旧家の中庭の狭筵[さむしろ]で
              母は詠っているようだ
狐は川から魚を取る
 猿は木から果実を取る
            みはるかす蒼海原〔から→23(トル)〕〔(一二下)→23(一四下)〕
父は手ぶらで帰って来る
           〔「→23(〕粟散辺土[ぞくさんへんど]〔」へ→23)に〕
隣人はいそいそと
        「麦の袋を数えたり
         墓碑銘を刻んだり」

   4 春

かげろうは消え→23かりうどは帰って行く〕
       土蜂〔はかえってゆく→23とともに〕〔(七下)→23(一〇下)〕
野の〔丈なす草むら→23仮りの住処〕へ〔(天ツキ)→23(二下)〕
         待ちつづけるもの〔(九下)→23(一〇下)〕
待〔(ナシ)→23た〕された(磐根[いわね])をめぐり
            ざわざわする 木立の木の葉〔(一二下)→23(一三下)〕
            ざわざわする (皺を持つ鏡)〔(一二下)→23(一三下)〕
それらの(霊媒〔化→23(トル)〕[メデイアム])
         土摺り 草摺り 岩摺り〔(九下)→23(八下)〕
探し求めよ!
      真言
        炭素
          卵
           福袋
             竪琴
「事物と〔ことば→23言葉〕は
        同じ傷口から〔(八下)→23(七下)〕
血を流す」
     カンノンビラキ
            の金色の扉より覗け
(秩序[コスモス]〔(ナシ)→23)〕を裂く〔)→23(トル)〕
       ひとりの女が腰をひねった
陽気立つ(空桑[くうそう])のおくから
  (賢者)も
  (愚者)も
       産みおとされる
              石のごとく 蝋のごとく
           漂泊の岸に〔(一一下)→23(九下)〕
葦の葉の舟は流れ
        いずこも春のひるさがり
水枕の恋しい(身削[みそ]ぎ)の母よ
              ぼくはいまだ(小男[おぐな])だ
蝶や小鳥の舞いとぶ
         花園を這いまわり
(ナシ)→23(〕黄頷蛇[さとめぐり]〔(ナシ)→23)〕を捕え〔た→23る〕

秋の領分(K・5)
初出は〈小沢純展〉パンフレット〔青木画廊〕1985年9月17日、本文16級17行1段組、32行。表紙に冒頭の4行が3倍アキの追込・横組で記されている。詩篇の本文用紙は薄葉紙。本書〈初出一覧――〉には「(改作)」と記されている。
「西洋梨の実はどっしりと
腰がすわり〔(天ツキ)→23(一二下)〕
     (豆電球)が点滅して〔(五下)→23(天ツキ)〕
               入っている」〔(一五下)→23(一〇下)〕
ぼくの〔つく→23造〕った
       この(作品)を見て〔(七下)→23(六下)〕
赤面症の〔從→23従〕妹は言う
         「死んだお母さんの肖像ね」
どこにでも見かける→23そうかも知れない〕
         〔(ナシ)→搖れる→揺れる〕「コスモスの波間」で〔(九下)→23(八下)〕
ぼくは瞑想する
       「何ものも説明しえない
                  体験は夢を〔導→23みちび〕く」
グロヴナー公の森〔を歩→23は深〕く
           鳥は啼き 草木は茂る
(影の書割り)
       「女たちの胎の〔なか→23中〕に入っている
 (火薬)を〔(一下)→23(二下)〕
      男たちは巧みに取り出している」〔(六下)→23(七下)〕
(ナシ)→23(二二下)(淫祠邪神)の苑〕
吐き気がする〔(改行)→23(全角アキ)(追込)〕
吐き気がする
      茸採りの一人の少年は帰って〔ゆき→23行く〕〔(六下)→23(一三下)〕
           〔冷えたサイダーを飲む→23(トル)〕
領地の終るところ
        柏の大樹の根もとをめぐり
        柏の葉を食べつづける野兎
(ナシ)→23道標のような〕
                    (鉄の彫刻体)〔(二〇下)→23(六下)〕
          〔(ナシ)→23その〕内部にさざなみの立つ〔(一〇下)→23(一三下)〕
暁がくるまで
      ぼくは思考し
            「横たわる紙の上で
             デッサンする」

薄荷(K・6)
初出は《四谷シモン人形愛》〔美術出版社刊〕1985年6月10日、九六ページ、本文13級3段組、4節52行。対向ページ全面に人形を描いた四谷シモンの銅版画を掲載。なお、初出44行め(衣食住が必要である」)と45行め(揚げ物を食べた後は淋しい)の間に行アキはない。
     (人形は爆発する)〔(ナシ)→23―――〕四谷シモン

   1

夏が過ぎ
    秋が過ぎ
        「造花の桜に
雪が降り
    灯影がボーとにじんでいる」
                 池〔の→23之〕端の(大禍時[おおまがとき])
振袖乙女の幾重もの裾の闇から
              わた〔(ナシ)→23く〕しは生まれた
(半月[はにわり])の美しい子孫か
           「神は急に出てくるんだよ」
(非・器官的な生命)を超え
             (這子[はうこ]) ひとがた
人形は人に抱かれる
         (衣更忌[きさらぎ])の夜を

   2

母親の印象は
      裸電球の下で
            白塗りの女戦士のようだ
赤い乳房が造り物に見える
            「カミソリでサーとなでると
中からまた肌色の乳房が
           殻をやぶって生まれてくる」
それに噛みつくから
         わた〔(ナシ)→23く〕しは消化不良の子供
(唐子[からこ])の三つ折れ〔人形を→23(トル)〕
            〔(ナシ)→23人形を〕背負って〔(一二下)→23(九下)〕
                鈴虫の音色に聴きほれる
父親は冷酒をあおっては
           (毒婦高橋お伝)をたたえ
ヴァイオリンを〔彈→23弾〕く
         キー・キー・ギー
         「天国がどんどん遠くなる」

   3

窓まで届かない月の光
          ニーナ・シモンの唄が好き
          縫いぐるみの(稲羽[いなば]の〔素→23白〕兎[しろうさぎ])が好き
「固い真鍮のベッドで
          わた〔(ナシ)→23く〕しは紗のような
          薄い布を身にまとって寝る」
(ナシ)→23薄荷の〕花のように
     「ゆるやかな酸素に囲まれる」〔(五下)→23(八下)〕
     少女の輝く腹部を回転させよ〔(五下)→23(八下)〕
                  アー・アー・アァー〔(一八下)→23(二一下)〕
(官能的な生命)
        「人形にだって
               衣食住が必要である」

   〔(ナシ)→234〕

揚げ物を食べた後は淋しい
     この部屋の外は
            「巨大な蓮池の静寂を思わせる」

   〔4→23(トル)〕

「編み上げの黒い靴→23(トル)〕
         〔それには犯しがたい→23(トル)〕
         〔(聖 的)な影が存在する」→23(トル)〕
(ナシ)→23水音 羽音〕
(土星)が近づく→23「何のおしらせもなく〕〔(天ツキ)→23(五下)〕
        〔何のおしらせもなく……→23(土星)が近づく」〕〔(八下)→23(一五下)〕

雪解(K・7)
初出は《文學界》〔文藝春秋〕1986年1月号〔40巻1号〕九ページ、本文9ポ1段組〔コラム〈扉の詩〉〕、20行。カット:司修。
雲形定規を操作して
         ぼくは(何か)を描いている
それは朝日に輝く
        蜘蛛の巣の糸か
               茜空の下の糸杉か
今は(肉)を主題とする
  (心)の問題であるから
             もしかしたら沐浴する
姉→23女中〕の似姿かもしれない
          神殿の園に咲く〔(一〇下)→23(一一下)〕
                 スミレの花のように〔(一七下)→23(一八下)〕
「ぼくの〔目→23眼〕差しをどこまでも
吸取紙のように吸い込む」〔(天ツキ)→23(一下)〕
            これは描かれた絵ではなく〔(一二下)→23(一三下)〕
たえず書き替えられる
          (言葉・記号)
聖俗いずれの領域にも属し
            「ブリキの上を歩く虚しさ」
月光 鱗光
     谷川から雪解の音がする

寿星(カノプス)(K・8)
初出は《海燕》〔福武書店〕1986年1月号〔5巻1号〕一六〜一九ページ、本文9ポ24行1段組、5節78行。初出巻末ページ〈執筆者一覧〉に「吉岡実(よしおか みのる)一九一九年生れ。著書「僧侶」」とある。
   1

「海山の傾斜や
       岩の露出を登ったり
                降りたりする」
ぼくは(化石少年)だった
            (三葉虫)や(〔蛍→螢→蛍〕石)を手にする
「この採集物はすこしも
           (言葉)に似ていない」
むしろ(絵画)に似ている
            テーブルの上にならべたら
妹が来てつぶやく
        「お父さんのからだの(癌)のようね」
新月の夜は
     母と兄は赤粥を〔すす→23啜〕り
茨垣でかこまれた
        大盥のなかで
              身もだえる姉がいる

   2

「少女はそこに寝て
         下肢をそっと閉じている」
これは(石像)ではない
           ひとつの(幽態)
ぼくの構想する(作品)は
            複雑な媒介が必要だ
                     びしょびしょに
濡れた泥の上を疾走する
           「犀の写真を見ている」
夏の沼で
    「沈むことに始まり
    浮くことで終る」〔(四下)→23(五下)〕
            (蓮華)や(子供)も見えた〔(一二下)→23(一三下)〕
もろもろの(印象)を
          「眼の中に書きとめる」
隠→23暗〕喩から韻律へ
       それは推移する
              放物線から曲線へ
翔ぶならば鳶!
       はるかに
           水の上を走る稲妻

   3

「萌え出ずるも
   枯れるも
       いずれも同じ野辺の草」
雪消えの瀬を
      せかるる谷川の水の
               (最初の渦巻)
「ここで時間は分岐する」
            樹々は濡れ すべての(道)は濡れ
(根棲[ねずみ])→23野鼠〕はがちがち歯を鳴らす
              薄明を逍遥せよ〔(一四下)→23(一二下)〕
この世とあの世を繋ぐ
          (板戸一枚の山水図)
(苔衣)の者とともに
          父は鉄杖を握って巡っている
墜ちるならば
      (水分[みくまり])の闇へ……
鶯のように可憐に
        「一つの瀑布が囀り初める」

   4

「狂者ニ非ザレバ
        興スコト能ハズ」
                乳母から教えられた
        獄死せる賢者の
(浄句)をとなえて
         ぼくは(作品)を造りつつある
「この世に姿を現さない
美しい物を抱きしめたい」〔(天ツキ)→23(一下)〕
            一瓲の桜の花びらを浴びる〔(一二下)→23(一三下)〕
    (象牙の乳房)〔(四下)→23(六下)〕
           〔(ナシ)→23(〕寿星[カノプス]〔(ナシ)→23)〕のひかり〔(一一下)→23(一三下)〕

   5

「ヘアードライヤーで
早くかわかしなさい」〔(天ツキ)→23(一下)〕
          これがぼくの(作品)の形姿?〔(一〇下)→23(一一下)〕
(水車の水受板)
        水をかぶったり 廻ったり
「兄の寂寞を
      妹が慰める」
            (ハーベスト・ムーン)
(秋の満月)
      「眠れるものなら
              とっくに
       眠っているよ」

銀幕(K・9)
初出は梅木英治銅版画集《日々の惑星》〔ギャラリープチフォルム刊〕1986年12月3日、1段組、39行。行頭の起こしの鉤括弧(「)は天のラインの上部に組まれているが、冒頭で述べた理由によって、校異の対象としなかった。
            場末の映画館の夏の終り
「スクリーンの隅のほうに
            なにやら
鰐らしきものが見えたわ」
            乳母ガブリエルが叫んだ
しかしぼくにはそれが
          「西瓜を食う水兵」のように見えた
「すべての(光)を
         吸収する(青)」
                 そんなかわたれ〔[、、、、]→23(トル)〕時
上衣を脱ぎ
     裸になる乳母ガブリエルの
                 「人体のもっとも
不可視的な(器官)が紅潮する」
               そこからぴんぴん
     (翼)が生えたように
ぼくには見えた
       「透明光線となってほとばしる」
  (アウラ)
       「暗い籠のなかに在る
        マッシュルーム」
それを数え それを
         (布地[テイシユ])ペーパーで包み
ぼくは成長してきた
         葦の葉や浮木の漂う
(汚れた岸)から
        ボートをこぎ出す
                ぼくは礼装の一人の男
真夜中のみずうみの上で
           「届く言葉と
    届かない言葉を」〔(四下)→23(一二下)〕
ぼくは識別して
       不眠の眼を光らせる
                (強度の表面)
「軽金属と合成樹脂で
          組み合わされた」
    (惑星)にも
          「スクリーンのように
           無数の傷が付いている」

ムーンドロップ(K・10)
初出は《潭》〔書肆山田〕1985年4月〔2号〕四〜九ページ、本文9ポ21行1段組、5節80行。なお、で註記のアステリスク(*)が90度傾いて誤植されている。
   1

      生ぬるいセルロイド色に
月は衰弱する
      わたくしが気になるのは
      ほかでもなく
      ロベルト夫人の下着の下の梨形の
  (臀部)
      その全体の重み
             その(共犯性)
露出する両手へ交感せよ
           〔(→23「〕不安な感じで腿を持ちあげる〔)→23」〕
12遙→遥〕かな(狭間[はざま])に
        (白波)が見える
                  「どうでもいいの
                     どうでも」〔(二一下)→23(二二下)〕

   2

春の鶯は鳴く
      雪の塚のやさしい盛〔(ナシ)→23り〕上り
      (むらさきの穴の収縮)
「非地上的なる
       調和の世界に
             呼吸している」
(物悲しげな裸像)
           「土台は大きい
            ほどいいの」
草地の中を
     紳士たちは(水鉢)を持って廻っている
     最初の一歩を踏み出してから
五→23数〕年経っている
             わた〔(ナシ)→23く〕しはしばしば思う
             彼女の所有していた物のことを
             (経典)(槍)(仔鹿)(髑髏[ひとがしら])
柘榴の木の〔蔭→23陰〕で
       「からだが地上から浮いている
       ことに気づいていない」〔(七下)→23(八下)〕
ロベルト夫人
      (神の模像?)
             「それを覆っている
雲はみなひと雫に凝縮する」
             屈辱 涙 (愛の頽落)のように

   3

「星一つない夜の
        青い蛾を誘い込む」
                      わた〔(ナシ)→23く〕しはこの章句の隠喩[、、、、、]を
                      次のように解読する
檜垣や草花にかこまれた
           (四阿[あずまや])の床〔机→23几〕に
少年をすわらせている
          ロベルト夫人は心のなかで唱える
          (神秘的な花粉)を消すこと!
(青虫から
     蝶への変態[メタモルフオーシス])
              「そのキラキラした
              一瞬が見たいのよ」〔(一四下)→23(一五下)〕
葦笛→23篠笹〕の鳴る方へ
       オシドリが二羽
       すいすい游いでいる
                (菱形の池)
軒端にかかる
      (月明り[ムーンドロツプ])
             「これは出来のわるい
                  墨絵だわ」〔(一八下)→23(一九下)〕

   4

「蛾が一匹パタパタ音を
           立てて飛んでいる」
(昧爽[あかとき])
    長い回廊の柱をへめぐり
               「残飯桶と箒を持つ
腰の曲った雑役婦」
         ペタペタ
         足を引き摺りやってくる
苔むす敷石まで
          「この肉色のポンプが
               すきだね」〔(一五下)→23(一六下)〕
「万物が矛盾的に遍在する」
             (虚空[おおぞら])の下で
                    (異化)された(美)
女の(霊体[アストラル])は水を飲む
              「太陽にさらされて
           (金の骨)が透けて見える
                烏賊が欲しい」〔(一六下)→23(一七下)〕

   5

                     わた〔(ナシ)→23く〕しは(詩行[ライン])を〔(二一下)→23(二〇下)〕
                     つらねたかったが失敗し……〔(二一下)→23(二〇下)〕
「幽霊との出会いは延期された[、、、、、、、、、、、、、]」

    *題名と若干の章句をナボコフ『青白い炎』(富士川義之訳)から借用。

叙景(K・11)
初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1986年8月号〔29巻8号〕三〇〜三一ページ、本文五号22行1段組、35行。本書〈初出一覧――〉には「(改作)」と記されている。
「あの時
    野原に舞い降りる
            鳥を描こうとしていた」
それなのに
     (画家)はなぜか
             肉屋と(肉塊)を描いている
        もしあの時
凍れる肉屋の
      (心的[メンタル]な空間)を想起していたら
                     おそらく
「泳ぐ女や
     唇から垂れる蜜」
             〔もしくは→23(トル)〕
「記号のまばたく」→23(トル)〕
         〔(星座)を→23(トル)〕
              〔(ナシ)→23を〕描いていたかも知れない〔(一四下)→23(一三下)〕
(庭の干草も虫の音も……)→23(トル)〕
             今この(地上)では〔(一三下)→23(天ツキ)〕
「動くことと〔(天ツキ)→23(九下)〕
 動かないこととが等しい」〔(一下)→23(一〇下)〕
             フルーツパーラーの椅子に〔(一三下)→23(天ツキ)〕
(画家)は凭れながら〔(天ツキ)→23(一二下)〕〔(改行)→23(追込)〕
          〔まどろんで→23眺めて〕いる
初〔夏→23秋〕の街路を
      (黄金の果物)を抱えた
                 (少年)が通り
(模造板)にのせられて
           (死者)が通って行く
「光線をたえず
       送りつづける」
              (蒼穹[あおぞら])の下で
「眼で呼吸する」
        わが(画家)は
               〔(ナシ)→23「このとき〕競走馬を調教している
(父親)〔を眺めているようだ→23の勇姿を描こうとしていた」〕
(ナシ)→23(一七下)(庭の千草も……)〕
(ナシ)→23(四下)(庭の千草も虫の音も……)〕
(ナシ)→23(一七下)そして(心的[メンタル]な空間)に〕
(ナシ)→23「記号のまばたく〕
(ナシ)→23(八下)(星座)」〕
(ナシ)→23(一三下)を描いているようだ〕

聖あんま断腸詩篇(K・12)
初出は《新潮》〔新潮社〕1986年6月号〔83巻6号〕二二〇〜二三〇ページ、本文9ポ23行1段組、〔T 物質の悲鳴〕〔U メソッド〕〔V テキスト〕〔W 故園追憶〕〔X (衰弱体の採集)〕〔Y 挽歌〕〔Z 像と石文〕〔[ 慈悲心鳥〕196行。初出標題の前に「長篇詩――土方巽追悼」とある。次の写真は珍しく吉岡実自筆の印刷用浄書原稿にも見えるが、署名も組版上の指定もなく、実際に使用されたものかどうかわからない。自筆原稿の標題から本文13行めまでをとして、加えて《ムーンドロップ》に先立って刊行された《土方巽頌》(筑摩書房、1987年9月30日)掲載形(全篇)をとして、他との異同を記した。

〈聖あんま断腸詩篇〉冒頭の吉岡実自筆原稿 出典:平出隆監修《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991年4月15日、〔七ページ〕)
〈聖あんま断腸詩篇〉冒頭の吉岡実自筆原稿 出典:平出隆監修《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991年4月15日、〔七ページ〕)
     〈神の光を臨終している〉〔(全角アキ)→(三倍アキ)→(二倍アキ)→23―――〕土方巽〔地ゾロエ〕

   T 物質の悲鳴〔四下〕

「この狂おしい
       美貌の青空」
             軍〔雞→123鶏〕の首をつかんでいる
「あの老婆も狼煙の一種で
            あったかもしれない」
私は生きている者
        〔と→123そ〕して一度は通って
        みたいような(処)へ差しかかる
「物質の悲鳴が聞こえた」
            小鳥の声も聞こえるなかで
「言葉が堕胎されている!」
             散乱するもの
                   肉片 破片 記号
「人間的な言語が多量すぎる」
              ゴムの鳩を抱いて
少女が立っている
        この異常な明るさは
「光じゃありませんよ
          もう闇ですよ」
ここは(仮の地)?
         オガクズが敷かれていた
「灰柱まで
     私の死への歩行が続いている」

   U メソッド

「にわとりの頸をひねり
           裸電球をひねる」
男の後姿を見よ
       「形や像を越え
              一つの抽象的な
次元へ向っているようだ」
            犬だって塀沿いに影めいて
            走っている
「闇と光を交配させる」
           という(行為)を私は好きだ
藁の積まれた処
       「幽霊の乳を飲んでいる」
       (赤児)のようなものが見える
身をかがめて
      凍った(形象)を追求し
私は路上を巡りつづける
           (絵画)で説明できない時は
(本能)で試みよ
        「ここまでが生体で
         ここからが死体だ」
蠅→蝿→蠅〕叩きで
    冷えた畳表を叩き
            「土間の消壺に近づいてゆく」
男の(裸体)を消す
         炸裂するように弾ける
     (星形)〔(五下)→(六下)→23(五下)〕

   V テキスト

「葛[かづら]を被[かづき]て松の実を食み
           鳥の(卵[かひご])を煮て食[くら]ひて
桑摘女は児を撫〔ぜ→23で〕
        (𨳯[まら])を吸ふ
              なれば(房[ちぶさ])は張り
(開[くぼ]の口)より
       (神識[たましひ])を昇らせる
                (奇異[あ〔や→(トル)→や〕])しき事かな
嗚呼やがては
      (銅荒炭[あかがねあらすみ])の上に
              (鉄丸[てちぐわん])を置きて呑み
地獄に堕ちむ」

     暗黒舞踏のフェスティバル「舞踏懺悔録集成」における、講演のためのテキストをつくる時、私は『日本霊異記』を参考にした。それを拾い読みしていて、この章句を見つけた。古代から「母子相姦」の悲劇があり、それはこれからも、永遠に続く〔(ナシ)→23こと〕だろう。――(H)

   W 故園追憶

私は(骸骨)で生まれたのだ/弥生の曇った空の下で/こ
の秘密は父母しか知らない/ああ(骨の涼しさ)/湯気の
ような(肉体)を着せられて/初めて産声をあげる/みど
りごに成り/ブリキの匙で片栗粉を口に流しこまれる/甘
露!/だから途中から肉が付き/梨頭の子供へ変る/ほん
とうに冷えた砂枕が好き/夏のひるさがり/姉とは突然に
(家)からいなくなるものだ/
              鳶が風を切って降りて来る
/草深い外の面の沼で/沈んでいる亀/畷を歩きながら死
んでいる人たち/風のさわぐ日に限って/鹿肉を売る商人
が来る/父親はそれを(神品)として大事にする/蕗の葉
や芋の葉の上に/ころがる滴玉/また道端で転んでいる老
人が多かった/私は板のささくれた面に/クレヨンで/兎
の絵を描く/ついでに(女陰)も/今朝早く水田から上っ
てくる/女を見た/私は美しい少年へと/身の丈が伸びる
/なまなましい蛇の抜け殻/
             裏庭の七面鳥がホロホロと鳴
く/引き抜かれた/草のように衰弱している人の声/棚の
上から招き猫が転がり/暗い畳表へとんであがる雀/天狗
の面やおかめの面が掛けられた/粗い壁/濡れた笊/寝床
に入ると/眼をつむって/柿など啜っている/花嫁姿の人
を想う/この頃は(夢の沈澱物のような私)/
                     太い醤油瓶
の間に/張られた蜘蛛の巣が破れた/埃と手拭のにおいの
する/母親の肩にさわる/板の間に置かれた/茗荷は淋し
い/ニガリの効いた(時空)/どんどん色の変ってゆく/
鯖を洗っている兄/古い糊のような/臭いのする/掛け軸
の龍/
   肥桶の周りを/恐るおそる駈け廻る/聖なる赤い着
物の日本の少女たち/樟脳の香気/霞んでゆき/人さらい
の懐は深く/空気で出来ているように/感じられた/村の
晩秋/雨は鮒の(精霊)に降り注ぐ/
                 私はいまでは(精神)
の洟をたらしている/人体の冬/燠炭のような病気の男が
/足もとの柄杓で水をかけている/(物質)か(言語)/
見よ/馬が風雪に晒されている光景/蹄鉄の火花から/
(人間)は火種を貰って来る/私は一生カルメラを焼いて
/暮したいと思ったり/この寒夜を/家のなかで沸騰する
薬〔缶→罐→缶〕が在る/塩鱈が出刃庖丁で切られている/(時間)/
永遠に終らないもの――

   X (衰弱体の採集)

          地上にへばりついている
「金属という(身体)
          凍結炭素という(身体)」
紙を漉くように
       (人体)というものは光に漉かれる
「おばあさんというのは
           一枚・二枚で数えるものだよ」
私が子供の頃
      そう教えられた
暗いどこの家の中でも
          濡れ雑巾に刺った(魚の骨)を
丹念にぬいている
        老婆がいたり
              痰切り飴をなめながら
「燃えている布切を
         犬のからだに詰める」
                   老婆もいたり
衰弱した(風景)を
         「影が光に息づかせている」
老婆たちは(物語)をつくり
             「数えきれない
    気流と呼吸のなかを
             通過してきたのだ」

   *

腹の赤茶けた泥鰌を
         田圃で取っている
老人のからだから垂れているものは
                汗や影などではなく
(紐)のようなものだった
            それはまた土に滲みてゆく
  「蟻の卵や蜘蛛の巣」
            のようなものだった
骨も外され
     五臓六腑も辺りに撒かれ
菖蒲の匂いのする
        春先の泡水の流れる処で
「からだに(霞)をかけている」

   *

葱の根の白さを洗っている
            (雪っ原)
未練がましく(火)を起し
            私は灰の上に
「火箸で(文字)を書き始めた」

   Y 挽歌

箸向ふ
   弟[おと]のごとき
        君は旅立つ
葦原の 朝露の
       遠つくに
           心を痛み
別れ行きし
     天雲[あまくも]の
        思ひ迷[まと]はひ
             夜昼しらず
また還り来ぬ
      はふ蔦の
          家無[いへな]みや
春鳥[はるとり]の 音[ね]のみ啼きつつ
           夕まけて
野づかさを越ゆ
       望月の満[た]れる
あひびきの
     荒山中[あらやまなか]
        君が心燃えつつ
射[い]ゆ猪鹿[しし]のごと
       消[け]やすき命[いのち]
噫乎[ああ]
  闇夜なす
      闇夜なす
          闇……

   反歌

ひさかたの
     天[あめ]の奥処[おくか]ゆ
日の照れば
     さはに
        利鎌[とかま]にさ渡る鵠[くぐひ]

   Z 像と石文

「言葉から肉体が発生する」
             この認識をみとめよ
雨傘をさしたまま
        (無体)と化しつつある
(泥型立身像)
       このささくれた(幻像)を記憶せよ
それを冒す
     「血と霊と風と虫とが交合する」
森を抜けるんだ
       「書く者は衰弱し
        死者にかぎりなく近付く」
そのように刻まれた(石文)
             現われたり 消えたり
「大暴風雨にさらされている
             鹿のようなものが見えた」

   [ 慈悲心鳥

菊の束で大地を叩いている者
             (亡霊)ではなく
         (誰?)
「骨まで染めるような
          夕焼」
比喩的に言えば
       (魂と炎の世界)


「慈悲心鳥がバサバサと骨の羽を拡げてくる」

      ・注 →23*〕この作品は、おもに土方巽の言葉の引用で構成されている。また彼の友人たちの言葉も若干、補助的に使わせて貰っている。なお冒頭のエピグラムは、彼の辞世である。

睡蓮(K・13)
初出は《海燕》〔福武書店〕1987年11月号〔6巻11号〕一八〜二一ページ、本文9ポ23行1段組、3節63行。初出巻末ページ〈執筆者一覧〉に「吉岡実(よしおか みのる)一九一九年生れ。著書「藥玉」」とある。
   1

池面の水の襞はきらめく
           日課の枝おろしを了えて
庭師エレマンは手足を洗い
            〔四阿[あずまや]〕の床で午睡をむさぼる
アラビアの火焔文字のように
             (神鳥は飛びながら
      空中にとどまり
腟→23膣〕をひらき
     風によって懐妊する)
               これは夢かうつつ〔か→23(トル)〕?
(芸術と非芸術は連続している)
               禁欲的な存在としての
(葱のような細い脚)
          「お嬢ちゃんなにかご用ですか」
          「ああエレマンさん
           ざくろの木の下にいる
           蛇を殺して!」
日暮れても水はぬるい
          むくむくと
               (やわらかな泥にみちた
〔脳髄〕の内部から)
          睡蓮の花が咲き出る

   2

秋きたりなば
      (空から雲の色を受けたり
       また〔朝→23月〕の光を受けたり)
「青葡萄ぐらいの
        贅沢なかたちがほしい」
薪の山を築きながら
         庭師エレマンは妄想する
衣服を脱ぐ〔ドロテア夫人〕
             (視線の意のままに
変容しながら身を委ねる)
            これは心を震わせる〔物語〕だ
百合 匂いあやめ 茴香
           〔逸楽的〕な薬草園の辺りで
(夜蝉が鳴いている)

   3

(庭園も一つの世界である)
             光がつよくなれば
             影もまた濃くなる
銀梅花[みると]や無花果の繁る処
           「ああエレマンさん
            ハーブキャンデーを持ってきて
            のどがカラカラなの」
(現代において
       〔絵画〕〔(ナシ)→23や〔物語〕〕
           はいかに可能か)〔(一一下)→23(一六下)
羞恥心なく欲望なく
         (巨人と小人に前後から
襲われている
      ドロテア夫人)
両腿のくぼみに
       綾織りの薄い下着を絡ませる
(活人画的な不自然さ)
           そこに介在する
(見える形と
      見えない力)
            その官能の〔微香性〕
いまも不変の〔形姿〕として
             (〔わたし→23ドロテア夫人〕は
  外から形成されている)
             めくるめく〔周縁〕
(ナシ)→23(二下)〔植物相[フローラ]〕の館から遠く〕
(滝は光の幕を
       作っているように見える)

              *宇野邦一その他の章句を引用している〔(ナシ)→23。〕

苧環(おだまき)(K・14)
初出は《季刊花神》〔花神社〕1987年8月〔1巻2号〕一四〜一五ページ、本文10ポ19行1段組、34行。
糸巻きの糸をたぐる
         若い乙女の姿が見える
   (中世の秋)
         「人間は一つの中心から
等距離の円周に在る」
          (しずのおだまきくりかえし
                  くりかえし……)
狭霧[さぎり]立ちのぼる
       (骨の山)
            「象形文字が翼を開く」ように
(ナシ)→23(〕斑鳩[じゆずかけ]〔(ナシ)→23)〕は翔び越える
        〔(→23「〕これは杉戸に描かれた泥絵〔)→23」〕か〔(八下)→23(一〇下)〕
もしくは
    (人生)に匹敵する
             (物語)か
風になびく草の穂
        「(生)に対し
         (死)のなんと長いことだろう」
雨にぬれた瑞枝[みずえ]を
        〔は→23這〕いまわる(尺蠖[しやくとり])
「そこでは見えるものと
     見えないもの
           とのあいだの(敷居)がつねに動いている」
(紫の太い柱)
       村落の人たちは
              「見ることを
妨げられた見物人」
         未明の小川で
               みそぎをしている
(稚児)のつぶやきを聞け
            「わた〔(ナシ)→23く〕しはいつも
            (石女[うまずめ])の姉を宿している」
おだまきの葉に置く→23水滴をためている〕
         〔水滴のように→23おだまきの花のように〕〔(九下)→23(八下)〕

晩鐘(K・15)
初出は《新潮》〔新潮社〕1988年5月号〔85巻5号(通巻1000号)〕二八〇〜二八三ページ、本文9ポ23行1段組、4節75行。
   1

母は買物袋を
      床になげ出し
            窓のカーテンを開ける
(外界はまるでたえまない
            浮遊物のようだ)
紫の繻子のマントを着た
           〔法王様〕の肖像だね!
母はなっとくして母家へ戻る
             緑に包まれた
        〔金魚鉢〕
             のような狭い庭
(あらゆる絵具は
        空を飛び交っている)
と認識せよ
     〔想念〕もまた
            (読みとり得ぬもの)
ぼくが現在描きつつある
           〔絵画〕なるものは
(夕陽のなかの岩塊)
          であるかも知れない

   2

おきなぐさが
      銀毛の房をはやし
              風に吹かれて
        飛びちる日々
イザベルが訪れる
        (意のままに発現される
衣服のなかの臀)
        柔らかな羽根で包みこまれる
ビーズ玉の輝き
       (砂漠で乙女とともに
       悦楽に耽る者は幸いなり)〔(七下)→23(八下)〕
と説いている
      〔〔賢→23隠〕者〕のことをぼくは想う
狂える〔力〕には
        〔形〕がない
              〔停滞した身体〕
  〔模像〕のようなイザベル
こんどの絵はからだを掻く
            〔不器用な犬〕
   みたいに見えるわ!
            〔昂揚せる絶望感〕
(あらゆる〔白〕は
         見るたびに
              柔らかく裂けて〔行→23ゆ〕く)

   3

(覆布をとりのぞくと
          その下には何もない)
                    という〔欠落感〕
(すべて〔絵画〕とは
          不透明なるものに
依存した
    〔透明〕なものなのだ)
               ぼくが仕上げつつある
〔図像〕そのものは
         〔不吉な不調和〕に輝く
〔黄金と紺青〕の
        色彩のしとねの上で
                 廃棄された
(老婆の脚はからだの
          残りの部分にほんとうに
          根付いているわけではない)
しかしこれは
      〔物語〕であって
              〔絵画〕ではないだろう

   4

(立ちのぼる煙
       ひびく晩鐘)
             恵み深い一日の終り
金雀枝の花と
      サラダの匂いが
             風ではこばれてくる
(父は肉を食い
       母は草を食む)
              ぼくは古謡をくちずさみ
(逸脱する〔(改行)→23(追込)〕
     〔生〕の〔(五下)→23(トル)〕
         〔波動〕をおさえている)

青空(アジュール)(K・16)
初出は《文學界》〔文藝春秋〕1988年1月号〔42巻1号〕九ページ、本文9ポ1段組〔コラム〈扉の詩〉〕、20行。初出標題は、本文では「((青空[アジユール]))」、目次では「青(アジュール)空」。カット:犬飼直彦。
甘酸っぱい(青空[アジユール])の下で
            暗い穴から〔這→23は〕い出して
また穴へ戻る
      (けいとねずみ)を観察する
ぼくは(物語)の少年のように
              「生きつつあるのか
              死につつあるのだ」〔(一四下)→23(一五下)〕
(影は空壜から生まれる)
            冬のまひるま
(視線)と(事物)との間に在る
               (半透明な膜)
濡れた流し場を透視せよ
           そこの闇に焔をとじこめ
大釜で(まゆ)を煮殺す
           (母親)の姿が見えた
(文脈から外れている)
           (神秘の板戸)をあける
「牡蠣の殻の底に残った
           幾滴かの浄水」
朝のまだ淡い(青空[アジユール])

銀鮫(キメラ・ファンタスマ)(K・17)
初出は《ユリイカ》〔青土社〕1988年6月臨時増刊号〔20巻7号〕四八〜五三ページ、本文9ポ24行1段組、6節107行。初出に詞書「澁澤龍彦鎮魂詩篇」なし。行頭の起こしの括弧、すなわちパーレン(()・亀甲(〔)・鉤括弧(「)が天のラインの上部に組まれているが、冒頭で述べた理由によって、校異の対象としなかった。
     澁澤龍彦鎮魂詩篇

   1

(枕もとへ
     永遠に
        スープは運ばれる)
ことを疑うことなく
         ぼくが〔制作〕に耽ける日夜
(何かが起る!)
        「ドアを開けると
                便器に女がすわっていた」
股間の金毛を露わにしたまま
             仮面をかぶっている
〔美と畸形〕
      あるいは〔富と貧困〕
                これは〔紋切型〕の
        〔物語〕であって
〔メティエ〕がそのまま
           〔思想〕であるところの
〔絵画〕とはいえない
          (凍てついて久しい
      星の下)
          ぼくは河の蘆荻の向うに
「鶴が一本脚で
       立ったまま微動だにしないのを
じっと眺めていた」

   2

(岩塩の立方体を
        間近に見える)
               ようにぼくの描いた
〔内臓の宮殿〕
       まばゆく
           白昼の光に照らされる
真珠 包帯 羊歯
        甲殻類 パイプ 空蝉
   草石蚕〔(三下)→23(五下)〕
      書物〔(六下)→23(八下)〕
    蟻塚〔(四下)→23(六下)〕
  少女〔(二下)→23(四下)〕
    そして砂漠〔(四下)→23(六下)〕
         それらもろもろの〔物質[マテリア]〕〔(九下)→23(一一下)〕
(肉や血や汗の〔臭→23にお〕いから
           限りなく隔たっている)〔(一一下)→23(一二下)〕
ぼくは〔認識者〕
        として〔世界〕を
   (下からも
        上からも見ない)

   3

月の光を吸いこんで
         深海の底へ下降した
     〔銀鮫〕
         すなわち(キメラ・ファンタスマ)
「その生身から
       肉状の突起が全部で四本
                  まるで四足獣
のように生えている」
          有用性の〔苦役〕をまぬがれ
解放された〔存在〕の
          〔神話の怪獣〕
                 さながらの
(キメラ・ファンタスマ)

   4

「多くの門をくぐると
          自分がどこにいるのか
分らなくなる」
       見えている
            〔曠野〕の
      〔牛と老人〕
あれらは〔暗い穴〕
         そのものなのだ
ぼくは今日も
      えたいの知れない
              〔神殿〕や〔塔〕の周辺を
巡っているようだ
        (鳥たちの鳴き声)
        (女たちの笑い声)
番人は箒と塵取りで
         〔排泄物〕を片づけている
すべてが(現実と
        寸分変らぬ光景)
                それに比較すると
〔絵画と言語〕なるものは
            (何ひとつ確かなところがない)
この旅の終り
      ぼくの(身体は発熱しつつあるか
          もしくは凍結しつつある)
曇れる空のもと
       (ヘラクレスの
              〔睾丸〕のような
大きなオリーヴの実)
          しばし仰ぎ見ていた

   5

〔瑪瑙の断面〕
       メランコリア
             〔迷宮〕
(球体と直線から成る
          中空の建築物)
                 ここは住みやすい
          〔空間〕ではない〔(一〇下)→23(九下)〕
〔神の侍女〕に導かれ
          ぼくは〔他人の夢〕を
夢見ている
     (荷車で暗い鏡をはこぶ男)
優雅な夕べ
     (二人でいる孤独)
              石塀で遮断されている
          〔花園〕

   6

いかなる時でも
       〔芸術家〕は
             〔対象〕の
〔幻影〕だけで事足りるのだ
             (何かが起らねばならぬ)
      と絶えず考えよ
〔形而上的〕なる
        〔不安〕から
              それは喚起される〔(一四下)→23(一五下)〕
        〔静かな鼓動〕
(砂山から
     犬が首だけ突き出している)

           *澁澤龍彦とその知己たちの言葉を引用している。

(K・18)
初出は《毎日新聞〔夕刊〕》〔毎日新聞東京本社〕1987年12月28日〔40120号〕四面、本文新聞活字1倍扁平1段組、35行。初出標題「かささぎ」、初出「写真・佐々木正和」、また「よしおか・みのる 一九一九年、東京生まれ。主な詩集に「静物」「僧侶」「サフラン摘み」など。近刊書に「土方巽頌」。」と紹介がある。
(蝋をたらしたような冬)
            わたくしは仕事場で〔独→23ひと〕り
ストーブにたきぎをくべて
            「彼女のベッドには
        枕がなく〔(八下)→23(二一下)〕
ベッドカバーはたたまれていた」
               という(物語)を
書いているのではない
          「死者は透明な花嫁と
   浮遊している」
          という敬虔なる(絵画)を描く
(光と闇)のなかでの
          (日々)
「肉体はつねに
       (異物)に支えられて
                 生きている」
一人の画家として
        「地に落ちた
              女の蒼白い裸体を眺める」
わたくしは妄想するのだ
           「天使たちはいったい
      歯や性器を
           備えているのであろうか?」
それは(想念)であって
           (床に置かれた絵)ではない
「虫の入っていない
         うす緑色の捕虫網のように」
この室内は淋しい
        「考えもしなかった
     〔(ナシ)→23(〕こと〔(ナシ)→23)〕を〔(五下)→23(三下)〕
        考えている」
              薬〔缶→罐→缶〕の湯気はながれた
雪の舞う(世界)へ
         カシャカシャと鳴きながら
一羽のかささぎが飛びまわる

〔食母〕頌(K・19)
初出は《中央公論文芸特集》〔中央公論社〕1988年9月〔秋季・5巻3号〕七八〜八一ページ、本文10ポ22行1段組、4節74行。初出末尾「(一九八八・八・八)」。初出巻末の〈編集後記〉に「☆〔食母〕という言葉が拓くイメージ。吉岡実氏の詩は御自身が最後の、と言われる作品です。」(E〔江阪満か〕)とある。行頭の起こしの括弧、すなわち亀甲(〔)・パーレン(()が天のラインの上部に組まれているが、冒頭で述べた理由によって、校異の対象としなかった。
   1

〔泣き女〕がめそめそと
           哭きながら
                行列の先導をつとめる
        (鳴りひびく鈴)
それらのしんがりを行く
           〔侏儒〕や〔去勢羊〕たち
(草木の影すら
       見えないほの暗い
   地平線)
       これは〔英雄[ヒーロー]〕の〔死〕の儀式ではなく
(語りえぬもの)
        〔母〕なる〔写像〕を探す
〔道〕なきみちの旅
         〔分岐〕するありふれた〔処〕で
(一人の女が
      〔奇妙な記号〕となる)

   2

夕焼けの映える
       磯辺に残された
              〔斎串[いわいぐし]〕や〔馬尾藻[ほんだわら]〕
(死と思考の対立する)
           波打際
              (衣服もひとつの
      〔言語〕である)
              と仮定できるならば
それらのものを脱ぎ
         (若い〔母〕は身体を洗っている)
〔霊的な空間〕をつくる
           〔乳房〕と
                〔臀部〕ではなく
かりそめの〔物〕が宿っている
              (一つの丘みたいなもの)
        〔丘〕の上へ
〔青い牛〕を連れて
         〔老人〕はぜいぜい息を切らせつつ
〔道〕にそって行き
         〔襞〕にそって行き
         〔襞〕を超える
                (老残の身の半分は液体)
〔仮寝〕の仮死の
        (魂のなかに生起する)
                   〔死人の山〕
              〔宝の山〕
迂回せよ
    月の光に照らされて
             あらわに見えて来る
    〔膣状陥没点〕……

   3

〔幽都〕より還って
         〔泣き女〕が哭きやむ時
                    地滑りが起る
櫛 鋸 瓶 鏡 ふいごと共に
              (粉々に飛び散る
      〔言葉〕の稲妻)
(この世の栄光の終り)?
            さるすべりの樹の周囲で
おろおろする男たち
         動物ビスケットをかじる子供たち
  ((死ハ人生ノ
        出来事デハナイ))
風に吹かれ
     〔花蓮[はちす]〕の広い葉の上から
                 零れ落ちる
         〔白露〕のように

   4

(美しい緑の衝立)の蔭から
             産声が聞こえる
〔にがり〕と〔泡沫〕を浴びて
              〔嬰児[みどりご]〕は生まれた
   (鉛に包まれた〔(三下)→23(四下)〕
          黄金)〔(一〇下)→23(一一下)〕
             のごとく〔(一三下)→23(一四下)〕
〔母〕なるものに抱かれている
              〔〔外面[とのも]→23外[と]の面[も]〕〕は明るく
      (かげろうは消え
              蛇はかえってゆく)
野の丈なす草むらに〔(ナシ)→23……。〕

――――――――――

1984年から1988年にかけて発表された《ムーンドロップ》に関わる全21篇の吉岡実詩を並べてみよう。【 】内の番号は《ムーンドロップ》収録詩篇の初出発表順。

1984年
9月 〈小曲〉〔〈聖童子譚〉に変改吸収〕
10月 〈少年 あるいは秋〉〔〈聖童子譚〉に変改吸収〕
12月 【01】〈聖童子譚〉(K・4)

1985年
1月 【02】〈わだつみ〉(K・3)
4月 【03】〈ムーンドロップ〉(K・10)
6月 【04】〈薄荷〉(K・6)
7月 【05】〈カタバミの花のように〉(K・2)
9月 【06】〈秋の領分〉(K・5)

1986年
1月 【07】〈雪解〉(K・7)、【08】〈寿星(カノプス)〉(K・8)
6月 【09】〈聖あんま断腸詩篇〉(K・12)
8月 【10】〈叙景〉(K・11)
12月 【11】〈銀幕〉(K・9)、【12】〈産霊(むすび)〉(K・1)

1987年
8月 【13】〈苧環(おだまき)〉(K・14)
11月 【14】〈睡蓮〉(K・13)
12月 【15】〈鵲〉(K・18)

1988年
1月 【16】〈青空(アジュール)〉(K・16)
5月 【17】〈晩鐘〉(K・15)
6月 【18】〈銀鮫(キメラ・ファンタスマ)〉(K・17)
9月 【19】〈〔食母〕頌〉(K・19)

【01】 〈聖童子譚〉(K・4)に関しては、〈小曲〉初出時に併載されたローマ字表記〈Shookyoku〉とRoger Pulversによる英訳〈A Short Piece of Music〉を掲げる。
Shookyoku / Yoshioka Minoru
Me no mae de
            "Hitotsu no ishi ga
                               kuuchuu de tokeuse temo
                               o d o r o k a n a i
Zessei no bijin ga iru
                      higasa o kurukuru mawashi yuuhi no naka ni
Boku wa shoonen dakara
                      arayuru shooku ni
                                       gimonfu o utsu
"Kanojo no shootai" o miyo
                          yanagi no ha no kage kara arawareta yuurei?
                                     soretomo Afurodiitee no matsuei?
Ima mo tsubame ga tobikai
                         keshi no hana ga sakimidare
Konoyo ka anoyo ka handan dekinai
                                 "Kaaten no
Reesuori ni tsutsumareru"
                         sonraku kara shootakuchi made
"Shinu hito wa kakeasi da"
                          sudeni aki no hajimari

A Short Piece of Music / by Minoru Yoshioka
I see an unrivalled beauty
                          "who would remain calm
                                                even if a rock
                          melted into thin air"
before her very eyes
                    twirling her parasol      into the setting sun
as I am a boy
             I question
                       each and every chapter and verse
let's look at her "true form"
                             a ghost from the shade of the willows?
                             or a descendant of Aphrodite?
the swallows fly past once again
                                the mustard flowers bloom like crazy
"people whose time is up don't stand still!"
                                 enveloped in the curtain's
                                                           lace
                                 stretching from the village to the swamp
so that no one can tell if it's this world or that
                                                  autumn is upon us now
                                          ― translated by Roger Pulvers
【02】 〈わだつみ〉(K・3)に関しては、行頭の括弧類と詩句の字下げとの関係がわかるように、初出形を掲げる(読みがな=ルビは割愛)。
「祖父は山へ柴刈りにゆき
            松の小枝とともに
  谷の淵へ落ちてゆき
           祖母は川へ洗濯にゆき
(空虚舟)で漂い出る」
           時じく 散る花 鳴く鳥
「死も一つの放浪である」
            とは賢者のことばだ
 ぼくは遊行のすえ家路をたどる
               一歩二歩ゆるやかに
「金色の亀が這っている大地」
        (夜見)遠見
              此処からこの世を眺めよ
「包帯を巻かれた
        牛の脚が見え
        椅子の折れた脚が見え」
                   薄明がくる
「花咲く木の下に眠る女」
            わが妹のふとももが見える
 洗われる下着や(撞木)
            みどりの網の目をひろげる
                   (地下茎)
     さざなみ (白骨) 裂けた岩
「わだつみの彼方は
         永遠に(妣)のくに」
「母は船の帆のように美しく
       光と風を受け」
              孕んでいる
 白波立つ 沸騰点より
           父はいきいきと(朽木)でなく
「真紅の鯛を釣り上げる」
【03】 〈ムーンドロップ〉(K・10)に関しては、〈吉岡実とナボコフ〉参照。

【04】 〈薄荷〉(K・6)について吉岡は、1985年2月19日の日記に「四谷シモンのために書いた詩「薄荷」を推敲する」と書いている。なお、初出対向ページ掲載の銅版画はたまたま詩と見開きになったのにすぎず、吉岡が絵を観て詩を書いたわけではない旨、四谷氏本人からうかがったことがある。

【05】 〈カタバミの花のように〉(K・2)に関して、辻井喬は「これは記述主義的に書かれた詩ではありません。〔……〕それ〔『うまやはし日記』〕を読んで「カタバミの花のように」を読むと、彼が、どれだけ自分の体験したものだけを書いているか、自分の直接体験したもの以外はすべて括弧に入れてしまい、体験したものを自分自身の内容物に還元する、つまり、現象学的還元をやっているかがわかってきます」(《詩が生まれるとき――私の現代詩入門〔講談社現代新書〕》、講談社、1994年3月20日、六一ページ)と書いている。

【06】 〈秋の領分〉(K・5)に関連して吉岡は、1985年9月30日の日記に「朝、気分転換に、居間の耕衣「白桃図」を、贈られたばかりの、小沢純の「グロヴナー公の兎」の油絵にかけ替える」と書いている。〈グロヴナー公の兎〉の写真版は、るしおる別冊《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実》(書肆山田、1996)にカラーで掲載されている。〈小沢純展〉パンフレットの作品リストに掲げられているのは〈グロヴナー公の兎〉〈夏〉〈住〔ママ〕復書翰 ゲレスハイム〉〈同 ミュンツアー〉〈休暇〉〈夜の庭〉〈レイチェル〉〈狩人〉〈She was〉〈季節〉〈ワーグナー〉〈ルドヴィヒU〉〈遊び場〉〈SH〉〈晴雨計〉〈領地〉〈距離〉〈アデル〉の18点である。

【07】 〈雪解〉(K・7)について、私はかつて〈吉岡実と瀧口修造(1)〉に「吉岡実がなんら掣肘を受けずに書いた詩に瀧口修造の水彩画〔吸取紙に描いたもの〕を併せることは可能でも、「瀧口画に触発された吉岡詩」は原理的に不発に終わらざるをえないのではないかという気がする。しかしこの不首尾は吉岡に負い目として残り、それがほぼ10年の歳月を経て〈雲井〉を書かせたと考えられる」と書いたが、本篇もその作詩の試みのひとつといえるかもしれない。

【08】 〈寿星(カノプス)〉(K・8)で《ムーンドロップ》の標題に初めてパーレンが登場した。〈東風〉(J・15)のコメントでも触れたが、寿星は竜骨座[カリーナ]の首星。全天で天狼[シリウス]に次ぐ輝星で、南極星・老人星とも呼ばれる。詩の本文なら「寿星」に[カノプス]という読みがな=ルビが付くところだ。吉岡は標題に〈示影針(グノーモン)〉(G・27)以来の「新聞の読みがな方式」を踏襲し、以後の《ムーンドロップ》の10篇中4篇がこの方式の標題となっている。

【09】 〈聖あんま断腸詩篇〉(K・12)に関して吉岡は、土方巽の弔辞〈風神のごとく〉で「私は今、あまり詩が書けませんが、いずれ鎮魂歌として、「聖あんま断腸詩篇」を書くつもりです」と書いている。また1986年の「二月二十日。夜、芦川羊子へ電話し、レコードのタイトルを告げる。「慈悲心鳥がバサバサと骨の羽を拡げてくる」」、同じく「四月十五日、晴。追悼詩「聖あんま断腸詩篇」ついに完成す。わが誕生日」(《土方巽頌》所収〈補足的で断章的な後書〉)とある。

【10】 〈叙景〉(K・11)に関しては、〈吉岡実とフランシス・ベーコン〉参照。

【11】 〈銀幕〉(K・9)に関しては、〈詩篇〈銀幕〉と梅木英治の銅版画〉参照。〈銀幕〉を再録した梅木英治幻想画集《最後の楽園》(国書刊行会、1992年9月20日)の梅木英治〈自筆プロフィール〉に「1986年、渡辺一考氏の推薦で、銅版画集「daily planet 日々の惑星」のため詩人吉岡実氏より頌「銀幕」を賜わる」(ジャケット・袖)とある。

【12】 〈産霊(むすび)〉(K・1)に関しては、〈吉岡実とフランシス・ベーコン〉参照。なお、半村良の長篇小説に《産霊山[むすびのやま]秘録》(早川書房、1973)がある。

【13】 〈苧環(おだまき)〉(K・14)は、〈カタバミの花のように〉〈薄荷〉〈睡蓮〉とならんで植物名を標題とする詩篇。苧環は紡いだ麻糸を中が空洞になるように丸く巻きつけたもので、パーレン内の詩句は「いにしへのしづのをだまきくりかえし昔を今になすよしもがな」(《伊勢物語》第三十二段)を踏まえている。苧環は餡入りの求肥餅の上にそば粉でいくつもの筋を付けた和菓子でもある。「未明の小川で」は小川未明(1882-1961)のほのめかし、「わたくしはいつも/(石女[うまずめ])の姉を宿している」は土方巽の章句のようだ。

【14】 〈睡蓮〉(K・13)は「大野一雄の舞踏に寄せて」書かれたものか。大野一雄舞踏研究所作成の年表〈大野一雄について〉に依れば、〈睡蓮〉は1987年の「6月、シュツットガルト・世界演劇祭に参加、フェスティバルのオープニングで、新作「睡蓮」発表。ドイツ、スイス巡演」、「8月、銀座セゾン劇場の土方巽追悼公演企画に参加。「睡蓮」上演」とあるから、吉岡が観たのは後者だろう(1988年の「10月、東京ドイツ文化センターにて「睡蓮」上演」ともある)。本文の「ドロテア夫人」はシュルレアリスムの画家・版画家・彫刻家・作家で、マックス・エルンストの妻だったドロテア・タニングか。

セドナでのエルンスト夫妻 1946年
セドナでのエルンスト夫妻 1946年 出典:ドロテア・タニング(荒川裕子・坂上桂子訳)《ドロテア・タニング》(彩樹社、1993年9月1日)

〔2011年5月31日追記〕
2000年7月20日〜10月1日、東京ステーションギャラリーで開かれたマックス・エルンスト展の図録《マックス・エルンスト 彫刻・絵画・写真――シュルレアリスムの宇宙》の一三六ページに同じ写真が掲載されている(撮影:ジョン・カスネッツィス)。キャプションには「ドロテア・タニングとマックス・エルンスト、セメントによる彫刻作品《カプリコーン》とともに/1948年、アリゾナ州セドナ」とあり、上掲書籍の「1946年」と異なる。図録のエルンスト年譜(ユルゲン・ペッシ)によれば、《カプリコーン》の完成は1948年だから、写真は同年に撮られたものと思われる。ご教示いただいた小笠原鳥類さんに感謝する。

【15】 〈鵲〉(K・18)で本文が「かささぎ」、標題が「かささぎ」を改題して「鵲」となったのは、本文が「にわとり」、標題が「にわとり」を改題して「雞」となったのと軌を一にしている。カササギは吉岡実詩に都合3回登場するが、他の2回は「恋する女は鵲のように軽やかに松の枝にとまる」(〈子供の儀礼〉H・4)、「野生の毒人参は生え 鵲は巣ごもり」(〈竪の声〉J・2)と、いずれも漢字の「鵲」である。

【16】 〈青空(アジュール)〉(K・16)の標題だが、マラルメの詩篇"L'Azur"がスルスのひとつと考えられる。【10】〈叙景〉では「(蒼穹[あおぞら])の下で」と「蒼穹」にルビを振って「あおぞら」と読ませていた。「青空」は本篇の標題と詩句を含めて吉岡実詩に27回登場するが、「蒼空」や「蒼穹[ソウキュウ]」は一度も登場しない。

【17】 〈晩鐘〉(K・15)に関しては、〈吉岡実とフランシス・ベーコン〉参照。

【18】 〈銀鮫(キメラ・ファンタスマ)〉(K・17)に先立ち、吉岡は澁澤龍彦(1928-87)を追悼して、1987年9月に〈休息〉(未刊詩篇・18)を発表している。

【19】 〈〔食母〕頌〉(K・19)の「食母」はどこからきたのか。《老子》の〈第二十章〉から引く([二十四]は註番号)。
ただわたしだけが人々と違って、道という乳母[うば]を大切にしたいと思っている。
我れ独[ひと]り人に異[こと]なりて、食母[しょくぼ]を貴[たっと]ぶ。
我獨異於人[二十三]、而貴食母[二十四]。
二十四 而貴食母 「食」は養うの意味で、「食母[しょくぼ]」は養う母、すなわち乳母のこと。「母」は末に対する本を示す。「食母」で、道を意味する。
(蜂屋邦夫訳注《老子〔岩波文庫〕》岩波書店、2008年12月16日、九〇〜九六ページ)
――――――――――

《ムーンドロップ》に顕著なのが一人称「わたくし」である。吉岡実のほかの詩集、たとえば《薬玉》に見られる一人称「わたし」は《ムーンドロップ》にはないものの、詩集の〈ムーンドロップ〉(K・10)【03】、〈薄荷〉(K・6)【04】、〈カタバミの花のように〉(K・2)【05】、〈苧環(おだまき)〉(K・14)【13】、〈睡蓮〉(K・13)【14】の「わたくし」は、初出では「わたし」だった(ただし初出〈ムーンドロップ〉は「わたくし」が一箇所、「わたし」が三箇所と混在)。一方、〈鵲〉(K・18)【15】は初出から「わたくし」で、《ムーンドロップ》編集の際に、「わたくし」に一本化する方針に従って【03】、【04】、【05】、【13】、【14】とも〔わたし→23わたくし〕になったものだろう。吉岡の詩集で「わたくし」が最初に登場したのは〈巡礼〉(J・7)で、《薬玉》の〈巡礼〉が《ムーンドロップ》的なのはここにも要因がある。《ムーンドロップ》の《薬玉》に対する立ち位置は、《夏の宴》の《サフラン摘み》に対するそれを彷彿させる。《ムーンドロップ》と《薬玉》の共通点は、どちらも《薬玉》詩型を採用していること、収録作品数がともに19篇であること、(〈聖あんま断腸詩篇〉を除き)本文がともに12ポ組であることなど数多いが、ひとつだけ挙げるすれば《ムーンドロップ》で最も早く発表された詩篇〈聖童子譚〉が《薬玉》の世界を決定づけた〈巡礼〉を想わせることだ(私はしばしば、どちらがどちらの詩集の詩篇だったか混乱してしまうことがある)。

《ムーンドロップ》の詩篇の排列について考えてみよう。吉岡が《ムーンドロップ》を編むにあたって初期に決定した順番をここで仮に「初期順番」と呼ぶことにする(自筆の目次原稿とその内容については〈吉岡実との談話(2)〉〈詩集《ムーンドロップ》解題〉で紹介した)。以下に「初期順番」順(01〜18)の表を掲げるが、%は平均行数(59.6行)に対する割合で、100%以上、つまり平均よりも長い詩篇を赤字で表示した(標題・行数は初出形)。いずれも逸することのできない重要な作品だが、【04】と【12】を除くすべての「平均よりも長い詩篇」が、3〜8という節から成っているのが注目される。「初期順番」で巻末の15〜17に力作を据えているあたりは、一巻の詩集のクライマックスを展開した痕跡といえるだろう。なお表には登場しないが、巻末にはこの時点ですでに〈〔食母〕頌〉が予定されていた。

標題(掲載順) 初期順番  発表順 節数 行数  
寿星(カノプス)(K・8) 01 【08】 5 78 131
カタバミの花のように(K・2) 02 【05】
30 50
わだつみ(K・3) 03 【02】
31 52
聖童子譚(K・4) 04 【01】 4 83 139
秋の領分(K・5) 05 【06】
32 54
薄荷(K・6) 06 【04】 4 52 87
雪解(K・7) 07 【07】
20 34
産霊(むすび)(K・1) 08 【12】
62 104
銀幕(K・9) 09 【11】
39 65
ムーンドロップ(K・10) 10 【03】 5 80 134
叙景(K・11) 11 【10】
35 59
((青空[アジユール]))(K・16) 12 【16】
20 34
聖あんま断腸詩篇(K・12) 13 【09】 8 196 329
苧環(K・14) 14 【13】
34 57
睡蓮(K・13) 15 【14】 3 63 106
晩鐘(K・15) 16 【17】 4 75 126
銀鮫(キメラ・ファンタスマ)(K・17) 17 【18】 6 107 180
かささぎ(K・18) 18 【15】
35 59
合計


1072
平均


59.6

その後、吉岡はこのプランを再考して《ムーンドロップ》を刊行するわけだが、最晩年の吉岡に詩集の編纂について尋ねると(そんなことを正面切って訊かれて、面食らったろう)、――詩集を編むとき、詩の順番は勘や感じみたいなもので決める。〈産霊(むすび)〉は高貝弘也氏酷愛の詩篇だったので、もっとあと(「初期順番」では8番め)にあったのを〈寿星(カノプス)〉と入れ替えてトップにもってきた。最後に置く詩篇は〈〔食母〕頌〉と決まっていた。詩集冒頭の「〔聖なる蜘蛛〕」という詩句はマラルメ(出典は《ユリイカ》特集号の誰かの文章)から――という旨の返事だった。一方、タイトルポエムをどこに置くかはいくつか流儀があって、〈サフラン摘み〉(G・1)のような巻頭、〈僧侶〉(C・8)のような中程、〈静かな家〉(E・16)のような巻末、がある。〈僧侶〉型の〈ムーンドロップ〉(K・10)が全19篇のちょうど真ん中に位置するのは、《薬玉》の〈薬玉〉(J・10)とまったく同じで、意図したものに違いない(《ムーンドロップ》はほかでも《薬玉》の排列を踏襲しているが、個個の指摘は割愛する)。次に掲載順(K・1〜19)の表を掲げる。

標題(掲載順 初期順番  発表順 節数 行数  
産霊(むすび)(K・1) 08 【12】
62 102
カタバミの花のように(K・2) 02 【05】
29 48
わだつみ(K・3) 03 【02】
32 53
聖童子譚(K・4) 04 【01】 4 83 137
秋の領分(K・5) 05 【06】
32 53
薄荷(K・6) 06 【04】 4 50 83
雪解(K・7) 07 【07】
20 33
寿星(カノプス)(K・8) 01 【08】 5 78 129
銀幕(K・9) 09 【11】
39 64
ムーンドロップ(K・10) 10 【03】 5 80 132
叙景(K・11) 11 【10】
36 59
聖あんま断腸詩篇(K・12) 13 【09】 8 196 324
睡蓮(K・13) 15 【14】 3 64 106
苧環(K・14) 14 【13】
34 56
晩鐘(K・15) 16 【17】 4 74 122
青空(アジュール)(K・16) 12 【16】
20 33
銀鮫(キメラ・ファンタスマ)(K・17) 17 【18】 6 112 185
鵲(K・18) 18 【15】
35 58
〔食母〕頌(K・19) 【19】 4 74 122
合計


1150
平均


60.5

「初期順番」のような中間的な資料がほかにないので断言をはばかるが、吉岡が詩篇の排列で苦慮したことはなかったのではあるまいか。その数少ない例外が《神秘的な時代の詩》と《ムーンドロップ》である。ここで目を転じて、未刊詩篇の数を見てみよう。《薬玉》(制作期間:1981-83)の未刊詩篇は〈絵のなかの女〉(未刊詩篇・15)一篇だったが、《ムーンドロップ》(制作期間:1984-88)では〈白狐〉(未刊詩篇・16)、〈亜麻〉(同・17)、〈休息〉(同・18)の三篇を数える。詩集に未収録の詩篇が多いということは、制作期間中の作品が必ずしも充実したものばかりではなかった、「意に満たなかった」ものもあることを物語る。そのためかどうか、1989年3月に《ムーンドロップ》が第4回詩歌文学館賞(現代詩部門)に選ばれたとき、吉岡は受賞を辞退している。辞退の理由は明らかにされていないが、《僧侶》(H氏賞)、《サフラン摘み》(高見順賞)、《薬玉》(藤村記念歴程賞)と並んで《ムーンドロップ》が受賞詩集として挙げられることを潔しとしなかったため、とは考えられないか。「昨年の十一月末、ここ五年間の作品十九篇より成る、詩集『ムーンドロップ』を刊行した。わが友、土方巽と澁澤龍彦への追慕の詩二篇を収めており、私にとって大切な詩集である」(〈「ムーンドロップ」〉、初出:《白い国の詩》1989年4月号、《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991、二三九ページ)という作者の回想が《ムーンドロップ》の成り立ちを端的に示している。

《薬玉》詩型については〈大竹茂夫展と詩篇〈壁掛〉〉で触れたので、ここでは《ムーンドロップ》に顕著なスタイルを説明する。

     「一つの石が
           空中で溶け失せても
      驚かない」

これは〈聖童子譚〉(K・4)【01】の一節(初出形・詩集形とも同じ)だが、

     「一つの石が
      空中で溶け失せても
      驚かない」

の二行めを一行めの字数分だけ下げたものと解することができる。「三行めを一行めと同じ位置に揃える」――この種の詩型を「《ムーンドロップ》詩型」と呼びたい。これが《薬玉》詩型なら、三行めも同様に下げて

     「一つの石が
           空中で溶け失せても
                    驚かない」

となるところだが、散らし書き的な詩句の並びから生じる違和が違和でなくなったとき、吉岡はそれに揺さぶりをかけて新たな詩型を模索した。さらに《薬玉》に較べて括弧類が多用されている《ムーンドロップ》は、《薬玉》以上に対句的・対比的な詩句の並置が多い。〈聖童子譚〉から引く(*印は便宜的に入れたものである)。

ぼくは(父)を憎んでいるようだ
   (母)のかくしどころの

          柳の葉のかげから現われた幽霊?
          それともアフロディーテーの末裔?(初出形)

        「麦の袋を数えたり
         墓碑銘を刻んだり」

  (賢者)も
  (愚者)も

吉岡実詩のスタイルのショーケース的作品となった〈聖あんま断腸詩篇〉(K・12)【09】から引こう。

        「ここまでが生体で
         ここからが死体だ」

       「書く者は衰弱し
        死者にかぎりなく近付く」

こうした並置が《薬玉》以前の詩篇にまったく見られなかったわけではない。それどころか、吉岡実詩全般の特徴のひとつだといっていい。だが、《ムーンドロップ》では本来の用法での引用符であり同時に強調の役目を担う鉤括弧(「 」)を伴うことで、対比の関係をいっそう鋭くしている。これらの手法――括弧類の多用と字下げの使い分け――を併用することで、詩型における詩句の重さを自在に計量して作品の文脈や構造を複雑化する一方で、語彙そのものは過度に難解に傾くことを避ける。これが吉岡実が最晩年に自らに課した詩法だったと思われる。それらの上に、〈睡蓮〉(K・13)や〈晩鐘〉(K・15)や〈銀鮫(キメラ・ファンタスマ)〉(K・17)の〔絵画〕と〔物語〕、〈鵲〉(K・18)の(絵画)と(物語)のテーマが縦横に展開されたのである。

〔付記〕
本詩集の単行本巻末(〔一三八〜一三九ページ〕)に掲載されている〈初出一覧――〉には、いくつか誤りがある。すでに各詩篇の本文前に詳細な初出記録を掲げたので、〈初出一覧――〉と原典を校合した結果を本文の校異と同様の書式で記し、誤記・誤植を正しておこう。

初出一覧――

産霊 「ユリイカ」臨時増刊一九八六・〔一一→一二〕
カタバミの花のように 「朝日新聞」一九八五・七・二六夕刊(改作)
わだつみ 「毎日新聞」一九八五・一・五夕刊
聖童子譚 「ユリイカ」臨時増刊一九八四・〔一一→一二〕
秋の領分 小沢純展パンフレット 一九八五・九・一七(改作)
薄荷 『四谷シモン 人形愛』一九八五・六〔(ナシ)→・一〇〕
雪解 「文学界」一九八六・一
寿星 「海燕」一九八六・一
銀幕 梅木英治銅版画集『日々の惑星』一九八六・〔九→一二・三〕
ムーンドロップ 「潭」2 一九八五・四
叙景 「現代詩手帖」一九八六・八(改作)
聖あんま断腸詩篇 「新潮」一九八六・六
睡蓮 「海燕」一九八七・一一
苧環 「花神」2号 一九八七・八
晩鐘 「新潮」一九八八・五(千号記念号)
青空 「文学界」一九八八・一
銀鮫 「ユリイカ」臨時増刊一九〔八七・一一→八八・六〕
「毎日新聞」一九八七・一二・二八夕刊
〔食母〕頌 「中央公論〔(ナシ)→文芸特集〕」一九八八・〔一〇文芸→九・秋〕号

〔2019年4月15日追記〕
吉岡実の生誕100周年(2019年4月15日)を記念して、〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉(小林一郎 編)〔A4判縦位置で印刷すると、約[293]ページ〕を新規ページとしてアップした。ただし、本サイトでは《〈吉岡実〉を語る》の一項目という位置づけのため、トップページの〈目次〉には掲出しない。


吉岡実と吉屋信子(2011年3月31日)

吉岡実は1948(昭和23)年7月2日(金曜日)の日記に次のように書いている(/は原文)。

七月二日
 〈鎌倉〉
 吉屋信子さんのかえり/大仏さまの庭にきて/べんとうをたべる/夏の樹のかげで/ひまな写真屋さんがひとり/犬とたわむれていた/赤い門を出ながら/静かだと思った(吉岡実遺稿〈日歴(一九四八年・夏暦)〉、るしおる別冊《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実》、1996年11月30日、書肆山田、一二ページ)

当時の吉岡は、1946(昭和21)年8月に香柏書房を退社し(入社は前年の12月)、先に同社を辞めた日高真也の尽力で同年10月に東洋堂へ入社後、書籍の編集に従事していた。もっとも、吉屋信子の本は東洋堂から出ていない。そのあたりの事情を大岡信との対談〈卵形の世界から〉(《ユリイカ》1973年9月号)での吉岡発言からまとめよう。東洋堂(発行者:龜井義雄〔東京都中央区木挽町三ノ四〕)と隆文堂、大洋出版の三社は社名こそ異なるものの同じ出版社で、東洋堂は学術的な本を出しており、吉岡はカロン(幸田成友訳)《日本大王国志》や柳田國男《分類農村語彙》を担当した。隆文堂の方は大衆的な本の版元で、吉屋信子の《女の階級》や長谷川伸の作品を出していたという。長篇小説《女の階級》は、1936(昭和11)年4月11日から9月19日にかけて《読売新聞》に連載されたのが初出。同年10月15日には早くも日活映画《女の階級》(監督:千葉泰樹)が公開されている。吉屋の人気からいって当然、書籍化されてしかるべきで、《春陽堂日本小説文庫目録(抄)》に依れば、〈日本小説文庫〉の「449?」として「1937.12.?」に刊行されている(この初刊は原本未見)。連載から12年後の1948(昭和23)年2月15日、《女の階級》は上倉大造の装丁で隆文堂から再び刊行された(国立国会図書館所蔵のマイクロフィッシュは再刊本の「三版」で、同年7月30日発行。装丁は牛窪忠)。吉岡実が鎌倉に吉屋信子を訪ねたのがこの7月だったわけで、いかなる要件だったのか、冒頭の引用からはわからない。ただ、12月21日の日記に「牛窪忠さんから《宮沢賢治詩集》をもらう」(〈断片・日記抄〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一一三ページ)とあり、隆文堂の編集者として牛窪忠装丁の「三版」の件で訪問した可能性も否定できない。刊行後25年経った大岡との対談で、書名まで挙げて吉屋の著書に触れているのだから、《女の階級》の編集担当でこそなけれ、それなりの関わりがあっておかしくない(吉岡が隆文堂で谷内六郎の漫画を担当して出版した経緯は〈吉岡実編集の谷内六郎漫画〉を参照されたい)。

吉屋信子《女の階級〔3版〕》(1948年7月30日、装丁:牛窪忠)の奥付〔国立国会図書館所蔵のマイクロフィッシュ〕 吉屋信子《女の階級〔3版〕》(1948年7月30日、装丁:牛窪忠)の本扉〔国立国会図書館所蔵のマイクロフィッシュ〕 吉屋信子《女の階級》(隆文堂、1948年2月15日、装丁:上倉大造)の本扉 吉屋信子《女の階級》(隆文堂、1948年2月15日、装丁:上倉大造)の表紙
吉屋信子《女の階級〔3版〕》(隆文堂、1948年7月30日、装丁:牛窪忠)の奥付と本扉〔国立国会図書館所蔵のマイクロフィッシュ〕(左ふたつ)、同書・初版(同、同年2月15日、装丁:上倉大造)の本扉と表紙(右ふたつ)

ここで視点を変えて、吉屋信子(1896-1973)の1948年作の俳句(全二七句)から引用する。本文は《吉屋信子全集〔第12巻〕》(朝日新聞社、1976年1月15日)に拠りつつ、《吉屋信子句集》(東京美術、1974年3月30日)を参照した。「蠅帳の裡の翠微[すいび]や胡瓜もみ」(吉岡の〈雷雨の姿を見よ〉(H・14)の「『蠅帳から/食べかけのサバの煮つけを/取り出す』/美しい日本の夏/もっとも光を受け入れやすい/水泡[みなわ]!」を想わせる)の後がきには「以後六、七、八月と投句開始以来初めて休み。小説執筆に追われた。九月号より再び投句」と見える。吉屋のこの年の小説の連載は1月から12月までが《童貞》、4月から10月までが《空蝉の記》、加えて短篇を6本執筆しているが、これで前後の年に較べて執筆量が極端に多いわけではないのだから驚かされる。投句を休んだのは、俳句に注ぐべき時間が取れなかっただけだろうか。詳細は不明ながら、この1948年のおしまいの句「わが心かわけり庭に水を打つ」(前がきは「ある時」)がなにかを物語っているようだ。ところで、飯田龍太・大岡信・高柳重信・吉岡実共編《鑑賞現代俳句全集〔全12巻〕》の第12巻〈文人俳句集〉(立風書房、1981年3月20日)に、池上不二子の鑑賞による〈吉屋信子〉が収載されている。その最後の鑑賞句、吉屋の「秋灯下古りし机の幾山河」(1950年)は、吉岡の「秋灯や背のいたみたる茂吉集」(1948年)を想わせる。しかし、なによりも吉岡と吉屋の二人が接近したのは、富田木歩(1897-1923)の俳句においてである。吉岡の随想〈回想の俳句〉の「1 富田木歩と三ヶ山孝子の句」(初出:《朝日新聞》1976年7月4日)から、木歩への言及を引く。

 夏になると、不思議に口をついて出る俳句がある。それは私が二十歳ごろに愛誦した、富田木歩の一句である。

  提灯をつけて来る児や茄子の花

 このまるで、幻燈画のような情緒の世界から、私の少年の日々がよみがえる。私の生まれ育った本所東駒形はどぶ板の町だった。だから、とんぼや小魚を捕りには、向島小梅の三圍神社か水戸様(隅田公園)へ行った。たまに遠く曳舟や堀切のあたりまで出かけた。まだそこには茄子の花が咲く風情があった。
 いまにして思うと、私は木歩の俳句そのものよりも、あしなえで学校にも行けず、いろはがるたと軍人めんこで、文字を覚えたといわれる悲惨な境涯に、心惹かれたのかも知れない。
 戦後、無二の友新井声風編の《富田木歩全集》によって、広く世に知られるようになったと思う。もう一句、私の心のなかに生き残った句がある。改めて調べて見て、一字一句誤りなく覚えていたのはうれしい。まさしく辞世句ともいうべきものだ。

  夢に見れば死もなつかしや冬木風

(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一三五〜一三六ページ)

若い吉岡が木歩を読んだのは新井声風編《定本木歩句集》(交蘭社、1938)だったろうか。吉屋の文章は《底のぬけた柄杓――憂愁の俳人たち》(新潮社、1964年7月5日)に収められた〈墨堤に消ゆ――〈富田木歩〉〉(初出:《小説新潮》1963年8月号)で、「もうかれこれ――十二三年前のことだった。私がふと手にした俳誌のなかの随筆欄で一人の薄命の俳人のことをチラリと知った。/そのひとの名は〈富田木歩〉だった。なぜ私はこの俳人の名とその句を今まで知らなかったのか、じぶんのうかつ千万に驚きはずかしくなった」(同書、三五ページ)というのが書きだしだから、吉岡が吉屋に木歩の句を語ったのでないことは確かだ。おそらく面談時にも俳句の話題は出なかったのではないか。「梅の瑞泉寺へ椿作二郎、田尻春夢、池田行宇らと吟行。〔……〕この頃、親しい俳句仲間と離れこれからは詩を書いて行きたいと決意」と1949年の〈吉岡実年譜〉(吉岡陽子編)にあるからだ。卵を主題にした詩を書きたいという信条が吐露されたのもこの時期である。ちなみに吉岡が引いた二句のうち、後者は〈墨堤に消ゆ〉の冒頭に登場する。吉屋は先の引用に続けてこう書いている。

 ――ともかくやっと遅まきながら私はその富田木歩を忘れ得ぬ俳人として覚え込んだ。いつかはこの人のことを調べたいと願っていた。だが句集を探しても絶版なのか手に入らなかった。
 せめて、その句碑だけでも見たいと向島三囲神社へ行って境内をきょときょとしたがそれがなかなか見つからなかった。有名な(夕立や田を見めぐりの神ならば)の宝井其角のやその他の碑らしいものはあちこちにあったが、現代の青年俳人だった木歩のは見当らないので仕方なく社務所を訪れると、玄関に若い奥さんが出られて、わざわざ案内して下すった。
 それはなんと、神社を入るとすぐの右側の木陰の奥にあったのだ、そそっかしい私はそこを通り過ぎて社殿の方へまっしぐらに進んでしまったのだった。自然石の表に(夢に見れば死もなつかしや冬木風)とある……残念ながら私の勝手な(好み)に従えばその句は薄幸の生涯を二十七歳で閉じた人にあまり付[つ]きすぎる気がした。悲惨な最後を遂げた人と思うだけに、かえってその(死をなつかしい)という文字が味気なかった……。傍の白木の木標に(富田木歩句碑)と記されて、碑の文字は臼田亜浪の筆とあって少しがっかりした、なにも亜浪の筆跡がいけないというのではなく、私は木歩の文字で見たかったのだ。だが私はその句碑の前にしばらく立っていた。春浅い日の暮色のせまる境内には詣でる人影もなくしんかんとしていた。帰りかけるとあとを追って来た若奥さんが「句集がありましたが、一冊だけですからお返しになって下さい」と差し出された。ほんとうにありがたかった!
 家へ帰って灯の下でその句集をひもとくとやっと木歩の生涯の句を知ることが出来た。そして幸いにも私の好きな句がはなびらの散っているように、どの頁にも見えた。
   門松にひそと子遊ぶ町の月
   桜草灯下に置いて夕餉かな
   月浴びて縁に子等をり神楽獅子
   風鈴売荷をあげてゆき昼ひそむ
   使ひ女の袖で汗拭[ふ]く哀れかな
 木歩の生れて育った明治大正の本所区向島小梅町あたりの下町の巷の情緒と季感がなんとみずみずしく漂う十七文字の抒情短詩であろう……それは俳句として評するのでなく、私の好きな句として感動して受け取れる。
 句碑に彫られたあの句も、それに前がきが(亡き人々を夢に見て)とあるのを句集で知ると納得がいった。
 その句集はいまから二十五年前の昭和十三年刊で新井声風編とあった。

(《底のぬけた柄杓――憂愁の俳人たち》、三五〜三七ページ)

《静物》を書こうとしている詩人・吉岡実と小説家にして俳人の吉屋信子が戦後3年めの夏に(おそらくは業務上の連絡で)面談し、互いに知ることなく薄命の俳人・富田木歩を鍾愛し、のちにそれを文章に残したことは興味深い(吉岡はむろん吉屋文を読んだに違いない)。吉岡が吉屋の俳句について書いていないのは残念だが、〈回想の俳句〉に木歩を取りあげたことで充分顕彰されているように思う。それにしても吉屋の文章の運びの、吉岡の随想のそれになんと似ていることか。

〔付記〕
久保欽哉編《春陽堂書店発行図書総目録(1879年〜1988年)》(春陽堂書店、1991年6月30日)の「昭和12年(1937)」には次のようにあるが、「階段」は「階級」の誤植だと思われる(同書、三二九ページ)。
 月:12  書名:日本小説文庫 女の階段  著・訳・編者:吉屋信子  判型:菊半  頁:424  価(円):0.55


吉岡実詩集《薬玉》本文校異(2011年2月28日〔2019年1月31日追記〕〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実の詩集《薬玉》は1983年10月20日に書肆山田から刊行された。1981年から83年までに発表された詩篇19作品を収める(なお、〈秋思賦〉に変改吸収された〈断想〉が1978年11月に発表されている)。本稿では、 雑誌・新聞掲載用入稿原稿形、 初出雑誌・新聞掲載形、 《薬玉》(書肆山田、1983)掲載形、 《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)掲載形のうち、からまでの詩句を校合した本文とその校異を掲げた。これにより、吉岡が詩集《薬玉》各詩篇の初出形本文にその後どのように手を入れたか、たどることができる。本稿は印刷上の細かな差異(具体的には、漢字の字体の違い)を指摘することが主眼ではないので、シフトJISのテキストとして表示できる漢字はそれを優先した(漢字を再現するため、「䱱」などのユニコード文字を使った箇所がある)。なお、漢字が新字の本文の新字以外の漢字は、シフトJISのテキストで表示可能なかぎり、校異としてこれを載録した。初めに《薬玉》各本文の記述・組方の概略を記す。

雑誌・新聞掲載用入稿原稿:おそらく陽子夫人の手になる詩集掲載用入稿原稿とともに2011年2月の時点で未見だが、漢字は新字、かなは新かな(拗促音は小字すなわち捨て仮名)で書かれたと考えられる。

初出雑誌・新聞:各詩篇の本文前に記載した。本文の表示は〈落雁〉以外、基本的に新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用なので、特記なき場合はこれを表わす。

《薬玉》(書肆山田、1983年10月20日):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、12ポ15行1段組。

《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ19行1段組。なお《吉岡実全詩集》の底本は 《薬玉》。
詩篇の節番号の数字の位置(字下げ)は最終形を収めた《吉岡実全詩集》に倣って三字下げに統一し、字下げ・行どりは校異の対象としなかった。本文前の献辞や詞書、本文後の註記の字下げも《吉岡実全詩集》のそれに準じた。ところで、吉岡は《薬玉》の詩篇の本文および註記で数種類の括弧を使用している。具体的には以下の六種類である。使用頻度順に、
パーレン ( ) 256箇所
鉤括弧 「 」 63箇所
二重パーレン (( )) 14箇所
亀甲 〔 〕 1箇所
山括弧 〈 〉 1箇所
二重鉤括弧 『 』 1箇所
本校異では、本文の読みがな=ルビや傍点を[ ]に入れて示し、印刷物のように行間に表示する方法を採らなかった。異同箇所は〔 〕に入れて指摘した。これらの措置により本文の字下げがわかりにくくなっているが、[ ]や〔 〕を除けば原本の状態が復元できよう。異同箇所を表わす〔 〕内の( )の中は、校正用語を借用して手入れの説明とした。たとえば、詩句のあとの〔(三下)→23(天ツキ)〕は、初出形では天から三字下げで置かれていた詩句が《薬玉》と《吉岡実全詩集》では天ツキに変更になったことを示す。この「天ツキ」だが、括弧類で詩句が始まる場合、123とも半角の括弧が組版の天のラインに接する「ベタ」がほとんどである(一部の新聞などでは半角括弧に先立って半角アキで始まる――見かけは全角に括弧が鋳こまれているのと同じ――こともある)。本校異では半角括弧も一文字としてカウントし、半角括弧二つをもって一文字分の扱いとしなかった。これは、第一に吉岡が括弧類を一桝に書いているのを重視したことと、第二にシフトJISでは和文の括弧類は全角のため、「天ツキ=ベタ」の場合と半角アキで始まる場合を技術的に区別できないことによる。吉岡自身は、原稿では一字分空けた桝目に最初の文字を記して、起こしの括弧類は天のラインの上部に(あたかも組版の「ぶら下げ」と反対の「突き出し」のようにはみ出させて)書いている(〈吉岡実の手蹟〔詩篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿〕〉参照)。この書法は雑誌・新聞掲載用入稿原稿である陽子夫人による浄書稿もおそらく同じで、これをそのまま再現している印刷物は、《薬玉》に関するかぎり、ひとつもない。なお〈吉岡実詩集本文校異について〉を参照のこと。

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《薬玉》詩篇細目

  詩篇標題(詩集番号・掲載順、詩篇本文行数、初出《誌紙名》〔発行所名〕掲載年月日(号)〔(巻)号〕)

(J・1、40行、《朝日新聞》〔朝日新聞東京本社〕1981年1月3日〔34131号〕)
竪の声(J・2、35行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1981年9月号〔24巻9号〕)
影絵(J・3、24行、太陽シリーズ30――太陽美人画シリーズU《夏の女》〔平凡社〕1982年5月25日)
青枝篇(J・4、〔T 地の霊〕〔U 水の夢〕〔V 火の狼〕〔W 風の華〕116行、《日本経済新聞》〔日本経済新聞社〕1982年3月7日・14日・21日・28日〔34638号・34645号・34652号・34658号〕連載)
壁掛(J・5、24行〈大竹茂夫展〉パンフレット〔青木画廊〕1982年3月27日)
郭公(J・6、33行〈M.エルンスト,ケルンのダダ展―MAX ERNST, DADA in KOLN 1919/FIAT MODES PEREAT ARS〉パンフレット〔佐谷画廊〕1982年12月8日)
巡礼(J・7、8節112行、《ユリイカ》〔青土社〕1981年11月臨時増刊号〔13巻14号〕)
秋思賦(J・8、39行、《ユリイカ》〔青土社〕1982年12月臨時増刊号〔14巻13号〕)
 断想(〈秋思賦〉に変改吸収、8行、《CURIEUX――求龍》〔求龍堂〕1978年11月〔4号〕)
天竺(J・9、39行、《毎日新聞〔夕刊〕》〔毎日新聞東京本社〕1982年8月16日〔38200号〕)
薬玉(J・10、2節80行、《海燕》〔福武書店〕1982年4月号〔1巻4号〕)
春思賦(J・11、41行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1983年1月号〔26巻1号〕)
垂乳根(J・12、75行、《海燕》〔福武書店〕1982年10月号〔1巻10号〕)
哀歌(J・13、3節58行、《ユリイカ》〔青土社〕1982年7月号〔14巻7号〕)
甘露(J・14、4節68行、《すばる》〔集英社〕1983年1月号〔5巻1号〕)
東風(J・15、51行、《をがたま》〔をがたまの会〕1983年2月〔冬・8号〕)
求肥(J・16、30行、《花神》〔花神社〕1983年9月〔秋・3巻3号〕)
落雁(J・17、4節67行、《饗宴》〔書肆林檎屋〕1983年6月〔夏・10号〕)
蓬莱(J・18、4節72行、《歴史と社会》〔リブロポート〕1983年5月〔2号〕)
青海波(J・19、4節84行、《海》〔中央公論社〕1983年6月号〔15巻6号〕)
初出一覧

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(J・1)
初出は《朝日新聞》〔朝日新聞東京本社〕1981年1月3日〔34131号〕一五面、本文7.5ポ13行3段組、39行。初出標題「にわとり」。
松の梢のむこうの日の出
俗調の一幅の絵を仰ぎ見るようだ〔(天ツキ)→23(一一下)〕
ならば神話の記述の一節を
想起しようか――〔(天ツキ)→23(一二下)〕
「常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめよ」
歩くにわとり〔(天ツキ)→23(一七下)〕
ねむるにわとり〔(天ツキ)→23(一七下)〕
よく→23(トル)〕観察すればその力強い姿態はまさしく
粘土と細い管と羽毛が集り〔(天ツキ)→23(一七下)〕
金の爪やダイナモを包んでいる
まがいもの〔(天ツキ)→23(一四下)〕
生者必滅の藁の地上で
もんどり打つおんどり〔(天ツキ)→23(一〇下)〕
とき[、、]〔の声→23(トル)〕を〔あ→23告〕げよ〔(天ツキ)→23(二〇下)〕
水辺の灯心草が揺れたり
ジャムの壜が〔揺→23割〕れたり〔(天ツキ)→23(一一下)〕
横隔膜までぴくぴくする〔(ナシ)→23春〕〔(天ツキ)→23(二一下)〕
母や娘のみどりの黒髪から
へアーピンも抜けおちる〔(天ツキ)→23(一二下)〕
仮寝の夢の苫屋に
庖丁とか樟脳を用意し〔(天ツキ)→23(八下)〕
苔の上の父にはしびん〔[、、、]→23(トル)〕を用意せよ〔(天ツキ)→23(一八下)〕
冥→23瞑〕想的な暗さ
鍛冶屋のふいご〔[、、、]→23(トル)〕(子宮)は収縮する〔(天ツキ)→23(六下)〕
菜をつつくにわとり〔(天ツキ)→23(二二下)〕
卵をうむにわとり〔(天ツキ)→23(二二下)〕
ここは恩寵の現し世だろうか〔(ナシ)→23――〕
とうもろこし畑で〔(天ツキ)→23(一五下)〕
氷の岬で〔(天ツキ)→23(二三下)〕
「男たちは遠方で戦っている」
火花の明るさ〔(天ツキ)→23(一四下)〕
くびくくられる
めんどりのように〔(天ツキ)→23(七下)〕
(ナシ)→23(一五下)虚空も仰がず〕
「女たちは墓穴にまたがって難産をする」
(ナシ)→23夥しく〕散乱するもの〔(天ツキ)→23(一九下)〕
種子や枯葉のたぐい
いま幾本かの羽毛はかるがると〔(天ツキ)→23(九下)〕
護符のように〔(天ツキ)→23(二三下)〕
夕日のみずうみの空へ舞い上〔り……→23る〕

竪の声(J・2)
初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1981年9月号〔24巻9号〕二〇〜二二ページ、本文9ポ23行1段組、35行。初出標題「竪[しゆ]の声」。
「心は閑[しず]かにして 目を遠く見よ」
母恋いのちりめん模様の空のもとをさまよう 

  マッチをすると わたしの好きな 青い軟玉の
  石が見える

        (ぶどうの表面)

この球体は「光と半透明と闇」の
三つの層に分れている

  母は冷淡で わたしと妹を追放した
  黒白[あやめ]もわからぬ世界へ
  父は入江の中洲で
  やつめうなぎを釣っていた

「雪は犬の伯母」という 江戸諺語がなつかしい
暑い街を 犬が走ることもない 現世の夏

  「夢みられるものの肉化」そのもの
  場末の映画館で
  父は老衰し
  妹は孕み
  「ガルボは鉄の戦車」だとわたしは讃え

「暗黒(肉体)は光を食って生き
光(魂)はそれ自体の内部を生きている」

  この賢者の言葉も
  蒸溜器か暗箱の比喩みたいだと思う
  わたしは注文があれば 三脚を担いで
  断崖の上に立つ
  そして「すがる乙女」を撮った

野生の〔(ナシ)→23毒〕人参〔が→23は〕生え 〔やまあらしが→23鵲は〕巣〔をつく→23ごも〕り
束髪の母がオルガンをひびかせている

  ――おかあさん あれはなんですか
  ――碾臼だよ
  ――では孔のあるところから もれているものはなに
  ――時間だよ
  ――まわりにたまっているものは
  ――豆のかすだよ

「竪[しゆ]ノ声」
(いまでも聴こえる母の声であろうか)

     *世阿弥の伝書にある「横[おう]ノ声」(明るく外向的で太い強い声)。「竪[しゆ]ノ声」(内向的でやわらかく細かに暗い感じの声)=観世寿夫の解説〔(ナシ)→23。〕

影絵(J・3)
初出は〈太陽シリーズ30――太陽美人画シリーズU〉の《夏の女》〔平凡社〕1982年5月25日、一一ページ、本文24級楷書体1段組、23行(刷色は朱)。初出詞書「〈夏の女〉によせる」。
かくれんぼう遊びの子供たち→23(トル)〕
干草や枯柴のかげへ
         〔かくれて→23(トル)〕消えてゆく
(ナシ)→23(一四下)かくれんぼう遊びの子供たち〕
四つ辻のあたり
死馬の眼におびえ〔(天ツキ)→23(七下)〕
        オシロイバナの匂〔(ナシ)→23い〕にむせび〔(八下)→23(一五下)〕
少女も何かのなかに隠れる
         〔そこは幽界のように暗く→23「煮つめられた〕〔(九下)→23(一二下)〕
(ナシ)→23(一三下)膠や粥がある」〕
杉皮で蔽われた小屋の奥で〔(天ツキ)→23(二〇下)〕
        〔煮つめられた膠[にかわ]や粥[かゆ]がある→23(トル)〕
半襟の母がまぐわっているのは
老いた父ではなく〔(天ツキ)→23(一四下)〕
        「〔植物→23水〕神」のように見える〔(八下)→23(二二下)〕
月光を浴びて→23雷鳴は遠のき〕
      青いトウ〔モロコシ→23キビ〕が立つ
地上〔(ナシ)→23よりも〕はるかに〔遠→23暗〕く〔(天ツキ)→23(一五下)〕
    〔とどろく雷鳴で →23(トル)〕そよぐ竹むらへ〔(四下)→23(天ツキ)〕
とうすみとんぼや〔(天ツキ)→23(七下)〕
        〔すだま→23ひとがた〕が浮遊する〔(八下)→23(一五下)〕
                夏の終り〔(一六下)→23(天ツキ)〕
「紅玉石は〔(天ツキ)→23(四下)〕〔(追込)→23(改行)(五下)〕葡萄の房をみのらせる」
           美しい詩句のように〔(一一下)→23(一六下)〕
少女は「物の魂」を受胎する

青枝篇(J・4)
初出は《日本経済新聞》〔日本経済新聞社〕1982年3月7日・14日・21日・28日〔34638号二四面・34645号二四面・34652号二四面・34658号二四面〕連載の〈三月の詩T〜W〉、本文7.5ポ1段組、27行・29行・29行・29行。初出標題「地の霊(春の伝説1)」「水の夢(春の伝説2)」「火の狼(春の伝説3)」「空[くう]の華(春の伝説4)」。
   T 地の霊

雨乞いの儀式とはなに
アネモネの緋色の朝
         ひとりの娘が丸裸になる
そしてシキミの枝で
「砂 灰 粘土のうえに〔(天ツキ)→23(九下)〕
           男女の像」を描く〔(一一下)→23(二〇下)〕
六根 清浄
六道 媾合
ことほぐ ことばが聞〔(ナシ)→23こ〕え〔(天ツキ)→23(五下)〕
ツグミやセキレイも交尾する
             遠方より
黒雲やトカゲが姿を見せる
干割れた大地は〔(天ツキ)→23(一二下)〕
荒むしろで覆われ〔(天ツキ)→23(一二下)〕
        雨に打たれる〔(八下)→23(二〇下)〕
傘の形のような小屋のまわり
ははそ葉のそよぐ
        母のおとずれる今宵
娘は双生児をうんだようだ
油煙の立ちこめる〔(天ツキ)→23(一二下)〕
        聖域を出れば〔(八下)→23(二〇下)〕
天水桶に跳ねる
       大きな鯉
他者は滅びよ
      みどりの芽吹くところ
金棒をかざして
       幼児が現われる

   U 水の夢

天気のよい日には
聖なるカシワの木の間を
           見えかくれする(母)
女猟師の姿がある
鹿やイタチを追っているのか
      ガマの穂のゆれる沼辺に〔(六下)→23(一三下)〕
      ホウネンエビが跳ねている〔(六下)→23(一三下)〕
そこは近いようで遠い
      鬼火と藁火との境界〔(ナシ)→23だ〕〔(六下)→23(天ツキ)〕
      「言霊が成長し〔(六下)→23(一〇下)〕
             石も成長する」〔(一三下)→23(一七下)〕
母恋うる夕べ
わたしは数珠玉を刈り
巫女の膝の門をくぐりぬける
             青蛙を踏んだ
すでに里は暮れつつ
ひとびとは納屋のなかで
      「男神の形のパンをつくり〔(六下)→23(一一下)〕
            かぼちゃの葉で包む」〔(一二下)→23(二三下)〕
土器に盛り 唱和せよ
          五穀豊穣
          五体満足
ラッパスイセンの咲く野の夜明け
つねに狩る者
   狩られる物の関係は哀しい〔(三下)→23(六下)〕
   枯葉とともにイノシシが穴へ落ち込む〔(三下)→23(六下)〕
わたしは水の面に想い描く
けがれた狩衣をことごとく脱ぐ
              女身を――

   V 火の狼

乙女がふたり
      料理をつくっている
魚の腹から出てきた
         銀砂子を撒くと
         大地に涼しい風が起る
カーテンのゆれる向う側は
      黄泉のくにか 薄荷の香がする〔(六下)→23(一二下)〕
この世は蜜と灰で
        ざらざらしている
     粟や芋を煮て〔(五下)→23(天ツキ)〕
     笹葉のみどりを添える〔(五下)→23(天ツキ)〕
     神饌〔(みけ)→23[みけ]〕で死者も蘇生するんだ〔(五下)→23(一〇下)〕
乙女〔(ナシ)→23が〕ふたり
     声をあげ たがいのからだを〔(五下)→23(六下)〕
        葦や藁で叩き合い〔(八下)→23(一九下)〕
        美しい身体をからっぽにする〔(八下)→23(天ツキ)〕
            通過儀礼の終り〔(一二下)→23(一三下)〕
ひとは善い夢〔を→23も〕みれば
          悪い夢もみる
荒畑をめぐり 墓地をめぐり
      〔賢→23行〕者は呪詞を唱えているようだ〔(六下)→23(一三下)〕
「よろずのこと みな えそらごと」
野苺や童話の世界より〔(天ツキ)→23(一七下)〕
          永久追放された〔(一〇下)→23(二七下)〕
野生の「幻像」がよみがえる
             山河図のなかに
   おお 大口真神〔(三下)→23(天ツキ)〕
生木は燃えて〔(天ツキ)→23(七下)〕〔(全角アキ)(追込)→23(改行)(一三下)〕すすけた夕日の〔野→23森〕を
           わが狼は駈けて来る〔(一一下)→23(二二下)〕

   W 風の華

父が死んだら喜べ
        金槌でとんとん顎を砕き
        犬歯を口から取り外すんだ
のざらしの野を行き〔 山を越え→23(トル)〕
  フクロネズミの巣へ〔 その歯を投げ入れよ→23(トル)〕〔(二下)→23(天ツキ)〕
           〔(ナシ)→23その歯を投げ入れよ 〕マツカサの実とともに〔(一一下)→23(九下)〕
やがて春の嵐がくる
    白い幣や注連〔縄→繩→縄〕もゆれ〔(四下)→23(九下)〕
金屏風は倒れる 生れ出ずる 悲しみ〔(天ツキ)→23(九下)〕
  男児ならば鉄の歯を生やしている〔(二下)→23(天ツキ)〕
        水をはこぶ母 野兎を屠る兄〔(八下)→23(一五下)〕
浄火を起すべく 妹は裸になる
    ここはウイキョウの薫りさえする〔(四下)→23(天ツキ)〕
            「聖家族図」のようだ〔(一二下)→23(一五下)〕
されど時は逝き 人も逝く
    此岸の仕組はまさに混沌未分〔(四下)→23(一二下)〕
ヒナギクの→23(トル)〕花咲く地から
  はるばる旅してきた少年がいる〔(二下)→23(天ツキ)〕
        牝牛の形の帽子をかぶり〔(八下)→23(一四下)〕
        「冥府下降」を試みつつ〔(八下)→23(一四下)〕
石枕をして眠っている
          姉を探しているようだ
雨にぬれた竹筒を覗けば〔(全角アキ)(追込)→23(改行)(一一下)〕筒ぬけである
青空にはハトやスズメが飛び交い
「馬頭女神像」は畑の中に立つ〔(天ツキ)→23(一五下)〕
    去勢山羊のむれに囲まれ〔(四下)→23(天ツキ)〕
  少年の裸身は汚れ 傷つく〔(二下)→23(一一下)〕
        麗〔わ→23(トル)〕しいまひるま〔(八下)→23(二三下)〕
    「死んだ番犬は何事も気づかない」〔(四下)→23(天ツキ)〕

壁掛(J・5)
初出は〈大竹茂夫展〉パンフレット〔青木画廊〕1982年3月27日、〔二ページ〕、本文14級1段組24行(〈大竹茂夫展と詩篇〈壁掛〉〉参照)。
乙女→23娘〕たちは遊んでいる
  善き遊びから 悪しき遊びへ〔(二下)→23(九下)〕
     割れ竹で蛇を挟み〔(五下)→23(天ツキ)〕
ときめきつつ叫ぶ〔(天ツキ)→23(八下)〕
        この世は汚物で満ちよ〔(八下)→23(一六下)〕
「オンパロス」へ供えられた
       〔かたつむり→23百合根〕〔(七下)→23(一三下)〕
            鱈の頭〔(一二下)→23(一六下)〕
               〔紅い糸ぐるま→23胞衣〕〔(一五下)→23(一九下)〕
ここは売買の市場から遠い
            聖なる胎内くぐり〔(ナシ)→23だ〕
内側には橙色の絹が張ってあり
          〔五→23十六〕段の石段だってある〔(一〇下)→23(一四下)〕
  蓬髪の白い老人に抱かれ〔(二下)→23(天ツキ)〕
         〔乙女→23一人の娘〕は恥しい花鉢を濡らす〔(九下)→23(一一下)〕
他の部屋へ廻れば
むらさき色→23はなだいろ〕に手を染め〔(天ツキ)→23(八下)〕
二人の〔乙女→23娘〕も遊んでいるようだ
  琺瑯引きのバケツの中へ〔(ナシ)→23交互に〕〔(二下)→23(天ツキ)〕
             犬釘〔(全角アキ)→23や〕小鳥〔(全角アキ)→23や〕仮面〔 胞衣→23(トル)〕〔(一三下)→23(一四下)〕
             死〔者→23人〕の〔金歯→23櫛〕も投げ入れる〔(一三下)→23(一四下)〕
春のひととき
   まるで美しい壁掛[タピストリー]が織られてゆくように〔(三下)→23(六下)〕
(ナシ)→23正面の〕建物の屋根から霞がかかって来る

郭公(J・6)
初出は〈M.エルンスト,ケルンのダダ展―MAX ERNST, DADA in KOLN 1919/FIAT MODES PEREAT ARS〉パンフレット〔佐谷画廊〕1982年12月8日、〔四〜五ページ〕、本文10ポ1段横組、31行。初出標題「郭公あるいはい森」。佐谷画廊の佐谷和彦は〈あとがき〉に「カタログにはM・エルンストに強い関心をお持ちの詩人吉岡実さんから「郭公 あるいは青い森」と題する詩をこの展覧会のためにお寄せいただいた。当画廊の展覧会カタログは今回で24号を数えるが,詩が載るのは始めてである。またテキストは本江邦夫さんにお願いしご寄稿いただいた。この詩とテキストにより,この展覧会は一層のふくらみと厚味を増すこととなった。感謝申し上げる次第である」(〔表紙3〕)と書いている。なお、〔芸術は滅びるとも/流行は栄えよ〕の括弧は、初出では白ヌキの二重亀甲(〘 〙の両端が閉じている)だった。
     〔マックス・エルンスト FIAT MODES PEREAT ARS展に寄せて→23マックス・エルンスト石版画展に寄せて〕

帽子工場の裏へまわる
          (隆起する床板)のおくに
定規や針山が見える
         裸電球がぴかぴか照らす
(壁のあいだから〔(追込)→23(改行)(八下)〕花が生まれる)
               木目のあとも
  みずみずしい葉脈のように〔(二下)→23(天ツキ)〕
(少女の手に掴まれた〔(天ツキ)→23(一二下)〕
          稲妻)〔(一〇下)→23(二二下)〕
             郭公も啼かない 夜々〔(一三下)→23(天ツキ)〕
人台の下から〔出てく→23現われ〕る〔(天ツキ)→23(一〇下)〕
          工場長いわく〔[・・・]→23(トル)〕〔(一〇下)→23(二〇下)〕
  〔〘→23〕芸術は滅びるとも〔(二下)→23(三下)〕
           流行は栄えよ〔〙→23〕〕〔(一一下)→23(一二下)〕
色とりどりの糸屑が
         大地をおおいつくす日まで
(擦過する 擦過する)
           一列縦隊の兵士たちがいるようだ
模造銃〔剣の尖→23(トル)〕から 白煙がのぼり
        (きみらの包茎は脱皮する〔(八下)→23(一二下)〕
  ダイヤモンドのような多面体)〔(二下)→23(天ツキ)〕
                朝日を浴びて輝く〔(一六下)→23(一四下)〕
礼装用へルメットをかぶって
             〔(ナシ)→23聖〕三角塔まで行け
   やがて冬になるだろう〔(三下)→23(天ツキ)〕
(振子の発端)を捉える〔(天ツキ)→23(一〇下)〕
           (眼の高さ)を揺曳する〔空→23星屑〕〔(一一下)→23(二一下)〕
羽目板にかこまれて
         (増殖 切断 転写)
(ナシ)→23(一九下)何の脈絡もないところに〕
麻袋が一つ残った
        (それは三倍の大きさがある)

巡礼(J・7)
初出は《ユリイカ》〔青土社〕1981年11月臨時増刊号〔13巻14号〕一〇〜一五ページ、本文9ポ22行1段組、110行。初出時に節の数字はなく、一行アキ。
   〔(ナシ)→231〕

廊下で二人の女とすれちがった
ひとりは三輪車に〔(天ツキ)→23(一四下)〕
跨がっている〔(天ツキ)→23(二二下)〕
たしかにそれはわたくしの妹
紅い本の数ページを〔(天ツキ)→23(一三下)〕
読んでいる
オレンジとかトマトの記述が多い〔(天ツキ)→23(五下)〕
偉人の伝記である〔(天ツキ)→23(二〇下)〕
もうひとりは肥えた
母で体重測定器へのっている〔(天ツキ)→23(九下)〕
安物の服を着た内部はぐしゃぐしゃで
そこから流れ出ている〔(天ツキ)→23(一七下)〕
文体 死体
さなだむしもひとついる〔(天ツキ)→23(五下)〕
家訓に曰く
シーツは血や汚物でよごれたことはない〔(天ツキ)→23(五下)〕
永遠に 雪景色だ〔(天ツキ)→23(二三下)〕
荷車に大きな物をのせて
父が街を去って行くと同時に〔(天ツキ)→23(一一下)〕
主題が明確になる〔(ナシ)→23か――〕

   〔(ナシ)→232〕

砲煙はたなびき
モルタルで作られた〔(天ツキ)→23(七下)〕
戦艦であろうか〔(天ツキ)→23(一六下)〕
岩山であろうか〔(天ツキ)→23(二三下)〕
軍隊が攻撃しつつある
光明の時〔(天ツキ)→23(一〇下)〕
内臓までが見え〔る→23た〕
草花はちぎれ〔(天ツキ)→23(八下)〕〔(全角アキ)(追込)→23(改行)(一四下)〕織物はちぎれ
(ナシ)→23(二〇下)毛髪はちぎれる〕
ぴかぴかした皿のうえに〔羽毛がつもる→23(トル)〕
すべての個の身体は分解し〔(天ツキ)→23(一一下)〕
遊魂は星形をつかむ〔(天ツキ)→23(二三下)〕

   〔(ナシ)→233〕

起りうることが起るならば
起りうることは起れ〔(天ツキ)→23(一二下)〕
起りえないことが起りえないならば
起りえないことは起るな〔(天ツキ)→23(一六下)〕

   〔(ナシ)→234〕

蝉しぐれのまひるま
異物を挿入された〔(天ツキ)→23(九下)〕

 母
  母
   穴
  妹
 妹

雁は西へ翔ぶ〔(天ツキ)→23(四下)〕
(一行アキ)→23(トル)〕
人間の(女)というものは必ずひっくり返る→23(トル)〕
(一行アキ)→23(トル)〕
ここは何処だと問えば
山海境[せんがいきよう]〔(天ツキ)→23(一〇下)〕
桃やすももが咲きみだれ〔(天ツキ)→23(一三下)〕
白玉多し〔(天ツキ)→23(一三下)〕
鳥獣はしばしば わが名を呼び
母を呼ぶ
兵士は豕[いのこ]を好み〔(天ツキ)→23(四下)〕
老人はちみもうりょうを好む〔(天ツキ)→23(四下)〕
山中に谷はうがたれ
爽水は流れ 流れ 故園へ帰る〔(天ツキ)→23(九下)〕
日々は過ぎ
䱱魚[さんしよううお]は残った〔(天ツキ)→23(五下)〕
ならば変化自在の芸文の世界を讃えよ→23(トル)〕
妹は水浴〔派→23ずき〕で泡沫をまとい
尺→23尸〕鳩[よぶこどり]のように〔(天ツキ)→23(一三下)〕
観念の仙人をさがしつづける〔(天ツキ)→23(一九下)〕
(ナシ)→23ならば変化自在の芸文の世界を讃えよ〕

   〔(ナシ)→235〕

煙立つ
忘却である空間〔(天ツキ)→23(三下)〕
さい[、、]の目に刻まれたものは何?〔(天ツキ)→23(一〇下)〕
男性的なもの――
(火と空気)〔(天ツキ)→23(八下)〕
または詩のようなもの 詩自体〔(天ツキ)→23(一四下)〕
女性的なもの――
(水と土)〔(天ツキ)→23(八下)〕
(ナシ)→23(一三下)または愛のようなもの 愛自体〕
星はきらめき

蜘蛛は自己の眼で卵をかえす

   〔(ナシ)→236〕

詩人は地をはいまわりつつ
荒血を頭から浴びる〔(天ツキ)→23(一二下)〕
わたくしは妹の出産に立ち会ったのだ
詩の降臨〔(ナシ)→23に〕〔(天ツキ)→23(一七下)〕
今宵は涼しい風がわたり
書物はひるがえった〔(天ツキ)→23(一一下)〕
散文的に〔(天ツキ)→23(二〇下)〕
(一行アキ)→23(トル)〕
さらば からくれないの紅葉のくにより
汚穢のバケツを提げ〔(天ツキ)→23(一八下)〕
わたくしに近似の男は橋をわたり
舟にのって〔(天ツキ)→23(一五下)〕
12遙→遥〕かなる真夜中のダマスクス……へ
大理石の世界を巡りめぐり
恥辱にまみれた〔(天ツキ)→23(一二下)〕
一行の詩のごとき〔(天ツキ)→23(一九下)〕
一匹の蚤の跳ねるのを見たり〔(天ツキ)→23(一九下)〕

   〔(ナシ)→237〕

ここで本卦がえり
洪水が来た→23粟茎の燃えつきる〕〔(天ツキ)→23(八下)〕
その暁の〔混沌未分から→23渾沌たる原場〕〔(天ツキ)→23(一六下)〕
(ナシ)→23人や〕犬や猫のむくろが出てくる
人は人をつれて消えて行くようだ→23(トル)〕
地上へ音なく降る霜〔(天ツキ)→23(一四下)〕
詠嘆調で叙述〔す→23せよ〕〔(天ツキ)→23(二三下)〕
きぎす ほととぎす
袋角の雄鹿のあらあらしい〔(追込)→23(改行)(一二下)〕声の闇
(ナシ)→23朱塗りの鳥居をくぐる〕
つきあたりに〔(天ツキ)→23(一〇下)〕
なまこ色の壁が存在する

   〔(ナシ)→238〕

誰かがわたくしの頭のうえを杏の実で叩く (啓示的に)→23(トル)〕
(一行アキ)→23(トル)〕
不用意に使えば
人間の手の中で腐る〔(天ツキ)→23(七下)〕
もしくは死ぬ〔(天ツキ)→23(一六下)〕
ことばと肉体の一部分
反語的に考えれば それは生きているのだ〔(天ツキ)→23(一〇下)〕
洞窟の奥で
火焔のいただきで〔(天ツキ)→23(五下)〕

今日 わたくしは何もしなかった
何もしなかった〔(天ツキ)→23(一五下)〕

地上で起る事は地上で終る

秋思賦(J・8)
初出は《ユリイカ》〔青土社〕1982年12月臨時増刊号〔14巻13号〕二八〜三〇ページ、本文9ポ22行1段組、39行。4行めから11行めまで、〈断想〉(《CURIEUX――求龍》〔求龍堂〕1978年11月〔4号〕、一ページ)全行を変改吸収(〈断想〉初出形をとして、〈秋思賦〉本文との異同を記した)。末尾の詩句を括るのは二重パーレンで⦅ ⦆が印刷物の形だが、シフトJISでは表示できないので、半角パーレンをふたつ重ねた(( ))で代用した(以下、同)。
かの夏の終りに
       水死した詩人の遺留品
                 (ワラ半紙一枚の詩)

むらさき色に手を染めあげ
「水没して行く 水夫」
もしもそこが秋の霧の海であるならば
へだたった〔処に→(トル)→23ところに〕大地が在る
葱の香 書物 古靴 塩
記憶の娼婦の美服のなかでうごいている
「牙と爪をもたぬもの」
それら仮〔り→123(トル)〕の世の仮の〔像[かたち]→123象[すがた]〕は今も美しく……

(鉄よりも重い
       真昼の水)
            日向で燐寸は燃え
木綿は濡れ 灰は乾き
          死者はぬくぬくと
                  (半醒半眠のうちにある)
千鳥が石に似た卵をうむ
    川原や洞穴から〔(四下)→23(一一下)〕
           転生がはじまるか〔(一一下)→23(一八下)〕
かの詩人が好んでくちずさむ
             〔(ナシ)→23(〕黄金の対句〔?→23)がある〕
(エデンは東方に
        地獄は西方に)
               今ことばと物を隔てる〔(一五下)→23(天ツキ)〕
(水牛の大きな像がつくられた)〔(天ツキ)→23(一〇下)〕
    盲人たちの手で〔(四下)→23(天ツキ)〕
           極彩色に塗られる〔(一一下)→23(七下)〕
その浮袋のようなものの上へ
        初穂を供え
             初潮の娘をまたがせる
まもなく嵐が来るだろう
           竹筒の墓の傾く日々
沓形斧を探し
      地層を〔堀→23掘〕りつづける
               一人の老人の独白を伝えよう
(九万九千の身の毛の穴)
            ことごとく開き
(ベタ)→23(一行アキ)〕
((人間はたったひとりで焼け焦げる))

天竺(J・9)
初出は《毎日新聞〔夕刊〕》〔毎日新聞東京本社〕1982年8月16日〔38200号〕四面、本文新聞活字1倍扁平3段組、39行。初出「写真・佐々木正和」。
水雞[くいな]の啼く日
      桶屋はタガを担いで
      「関節硬直」の村落を出る〔(六下)→23(一五下)〕
(あれは わたしの分身か)
             峠の下で
こんにゃくを串に刺す女が見え
蠅→蝿→蠅〕叩きでハエをころす
          裸の子供が見える
(ここは まだまだ この世)
        つねに油煙は立ちこめ〔(八下)→23(一四下)〕
恋心[れんしん]の乙女もいれば
         死ぬ人もまだいる
遠いようで近い不壊のくに
            天竺への道
まむしやのづちの類がうようよしている
(変質した「知」の漂流物も)〔(天ツキ)→23(一八下)〕
曠野を越え
     桶屋は円形のタガを地に置き
つるつるした白玉や
      赤い腰巻の内部を夢む〔(六下)→23(九下)〕
生木は裂かれ
     黒穂は刈られ〔(五下)→23(六下)〕
           祭儀のはじまり〔(一一下)→23(一二下)〕
青空へひびく
      山吹鉄砲のポーンという音
「円が円であるように
          人間が人間である時」
やまももで肉を養い
         粟と稗で骨を養う
ここは苔むす「無」の世界〔(天ツキ)→23(一七下)〕
「腐った木の呼びかけを聞いて
         返事をしてはならない」〔(九下)→23(一四下)〕
桶屋は汗をながしつつ
          岩にタガをはめる
岩が声を発す
      時まで待てよ
         それが永遠であれば〔(九下)→23(一二下)〕
               永遠に〔(一五下)→23(一八下)〕
(伝承に謂〔[い]→23(トル)〕う〔12(全角アキ)→(トル)〕「岩の声のみに答えよ」)

薬玉(J・10)
初出は《海燕》〔福武書店〕1982年4月号〔1巻4号〕一六〜一九ページ、本文9ポ22行1段組、2節80行。初出標題「藥玉」。初出巻末ページ〈執筆者一覧〉に「吉岡実(よしおか みのる)一九一九年生れ。著書「僧侶」「サフラン摘み」」とある。
   1

菊の花薫る垣の内では
祝宴がはじめられているようだ
祖父が〔鷄→23鶏〕の首を断ち
         三尺さがって
             祖母がねずみを水漬けにする〔(一三下)→23(一五下)〕
父はといえば先祖の霊をかかえ
草むす河原へ〔(天ツキ)→23(一四下)〕
声高に問え 母はみずからの意志で
                何をかかえているか
みんなは盗み見るんだ
      たしかに母は陽を浴びつつ〔(六下)→23(一〇下)〕
              大睾丸を召しかかえている〔(一四下)→23(一〇下)〕
   〔12萬→万〕歳三唱
満艦飾の姉は巴旦杏を噛む
     その内景はきわめて単純化され〔(五下)→23(一二下)〕
                   ぴくぴくと〔(一九下)→23(二六下)〕
        紅門は世界へ開かれている〔(八下)→23(二一下)〕
真鍮の一枚板へ突き当り
           死にかかっているのが
優しい兄である〔(天ツキ)→23(二一下)〕
   かげろうもゆる春の野末の暗がり〔(三下)→23(天ツキ)〕
           蕨手のように生えてくる〔(一一下)→23(一五下)〕
それがわが妹だ
       だれだって拍手したくなる
家系の序列ととのえ
   二の膳 三の膳もととのう夜〔(三下)→23(九下)〕
ぼくは家中をよたよたとぶ
            大蚊[ががんぼ]をひそかに好む
青や黄や紅色で分割された
        一族の肉体の模型図ができ上る〔(八下)→23(一二下)〕
        その至高点とは〔(ナシ)→23今も〕金色に輝く〔(八下)→23(一二下)〕
神武帝御影図
      〔鳴→23嗚〕呼 〔藥→23薬〕玉は割られ
神聖農耕器具は塵埃にうずもれて行き……〔(天ツキ)→23(六下)〕

   2

「かめの中の水を鎌でさっと切り
       断面止まれと叫んだ」〔(七下)→23(一五下)〕
父もはかなくなった
         狐火のまがまがしい秋
出窓から眺めれば
        岩の上へ涙をたらす
海鴉一羽
振りかざされる
       火〔縄→繩→縄〕
無限大になってゆく
         円の中で
破船の腹の稜線がむっちり 見える
なみ なみ 注がれる 淫水
渦巻く波へ
沈んでゆく妊婦の腹をめぐる
             くらげの内壁に静電気が起り
             交感 照〔応→23射 剥落〕 消滅
             死の生臭い音がする
なむさんぼう
        ぼくにはどうしても〔(八下)→23(六下)〕
        姉であったとは断定できない〔(八下)→23(六下)〕
夜明けになればきっと
    死人満載の菱形の陸地が発見されるだろう〔(四下)→23(一〇下)〕
熱いスープを啜り
        母と妹はいそいそと
           カミツレの花を摘みに出る〔(一一下)→23(八下)〕
日常用雑貨の周辺はるかに
       ボーッと白鳥の浮かぶ〔(七下)→23(一二下)〕
紺園があり
       火焔のなかで喚く男が見え〔(七下)→23(五下)〕
         経文一帖ひらひらたたまれる〔(九下)→23(五下)〕
手に熱くにぎられた
         虬[みずち]
       金剛や言霊の泯びる処
ひえびえとした枯草を刈って
       母も妹もきりぎしまで行く〔(七下)→23(一三下)〕
                   猫足を見よ〔(一九下)→23(二五下)〕
               冬の靄は立ちこめて来る〔(一五下)→23(一四下)〕
ぼくは日々戦っている
   修辞的な意味で 書法的にも〔(三下)→23(一〇下)〕
雪の塹〔濠→23壕〕には敵が潜伏している
              かも知れず
ことば
あるいは かたち〔(天ツキ)→23(三下)〕
新藁のうえに
鳥の卵が数顆うみ落とされている

春思賦(J・11)
初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1983年1月号〔26巻1号〕一四〜一五ページ、本文9ポ25行1段組、40行。
女の子が生まれた
        (不可解なものは何もない)
地上はつねに明るく
         キリギリスが三匹死んでいる
母はトウモロコシの種子を播き
              父は大木を伐り倒す
燃える夕陽のなかで
         それはしばしば(絵画)に似ている
しかし(生成変化)をくりかえし
               人間は(白骨)〔(ナシ)→23と〕化す
  (形そのものが影であり〔(二下)→23(天ツキ)〕
             影そのものが形である)〔(一三下)→23(一一下)〕
春の氷の割れ目に落ちて
           父は溺死したようだ
  もろもろの(文字)は消え〔(二下)→23(天ツキ)〕
              (災厄をはこび去る器)〔(一四下)→23(一二下)〕
岸べを流れ
     水は流れない 日夜
((われわれの(生と死)とは
             同時に存在することはない))
巴旦杏の〔うすむらさきの→23あおじろい〕
           花が裸の枝に咲けば〔(一一下)→23(九下)〕
母は〔いそいそと→23念仏となえ〕
       野ねずみをころし 腸を抜き
あまつさえ竹矢来へ(桃符)を貼る
                煤はらい厄はらいせよ
煙突掃除夫が現われる
          (鏡にうつる顔は
           近くもなければ遠くもない)〔(一一下)→23(一八下)〕
(塔)のかなたへ→23(前世)の岩から〕
        〔(女の影がかかると→23鶴が翔び立つ〕
                 〔土台石はくずれた)→23永き日が暮れ〕〔(一七下)→23(一四下)〕
雷雨が迫りつつあると
          気象台の警報が聞こえる
  (大事)なものを〔(二下)→23(天ツキ)〕
          濡らしてはならない〔(一〇下)→23(八下)〕
華やげる雨傘をひろげ
          (無限)にひろげ
(葦〔縄→繩→縄〕でしば〔(ナシ)→23ら〕れた〔(追込)→23(改行)(九下)〕幽霊)
           そのものを少女は迎え入れる〔(一一下)→23(一二下)〕

垂乳根(J・12)
初出は《海燕》〔福武書店〕1982年10月号〔1巻10号〕一八〜二一ページ、本文9ポ22行1段組、75行。初出表紙に標題・執筆者名とともに本文を14行近く掲載(一八ページに掲載された「人の歯ぎしりにまじっ」まで、改行箇所を/で表わす追込表記)。初出巻末ページ〈執筆者一覧〉に「吉岡実(よしおか みのる)一九一九年生れ。著書「僧侶」「サフラン摘み」」とある。
風のとおる夏の座敷で
          祖父は死にかかっている
「捕虫器のなかの活火山」
            のようにぺこぺこと震動し
  細い骨をかずかず突き出す〔(二下)→23(天ツキ)〕
              八重むぐらへ〔(一四下)→23(一二下)〕
虻はとび かたつむりのはっている
                家系の石臼の在る処
たしかにここが地上ならば
            (兜羅綿)という
綿ですっかり覆われている
            しばしば
  「虫の葉っぱを噛む音が〔(二下)→23(天ツキ)〕
人の歯ぎしりにまじって聞こえてくる」
                  死んだ金魚は臭い
水をはこんで妹がくる
          奥襖を開ければ
                 ひつじぐさが咲く
          裏の池の中心に
呼ばれる
    庭師に符丁で呼ばれる
              (七人・七鬼)
父はせつなく(切字)の用法を考え
            「紙の上で尻もちをつく」〔(一二下)→23(一六下)〕
  ――あけぼのや七人七夢にらの露〔(二下)→23(一下)〕
兄は氷のう[、、、]を頭にのせ
          (紙銭)や(雁木玉)をかぞえる
          かぞえ終るか
                望月の欠けたる夜
「湿粘地とは生と死と(白粥)が循環する
            原初的な(消尽点)である」〔(一二下)→23(一五下)〕
ならば眺望せよ
       〔遥→遙→遥〕かなる(黒〔12繩→縄〕山)
「アラヌモノハ
       アルモノニオトラズ
                アル」
(身毒)の園は何処
         野山を越え 書物を越え
霞める滝や
     観念を踏破して
            見えるだろうか
電球ひとつ灯る
       金殿玉楼のなかで
姉はすこやかに
       卵子を生み出している
                 昨日も今日も
それを油紙でガサガサ包む
            「生膚断ち」
            「死膚断ち」
「高つ神の災」の賑わうまほろば
               悪世の雨は降る
        けがした頭をバリカンで刈られている
        ぼくは白布をかぶせられた
「啜られている無花果の
           音が聞こえなくなる」
   (肉体)を借りなかった
              (精神)がなかったように
   (言語)を借りなかった
              (精神)というものはない
金物の寿命もつきる
         エコーなき(作品)の青銅体 累々
かの世へ(泥降り)して
           「カボカボと泥の中を歩いて
ヒルを取って渡世する
          老人もいる」
                (言霊)のさきわう
  消〔し→23(トル)〕炭色の陸を抜けて
海へ
旭日輝けば〔(天ツキ)→23(二下)〕
     まだまだ肉体へ奉仕する〔(五下)→23(七下)〕
母は浴室から戻って
         まるはだかのまま
「唐辛子でまぶした
         肉を食べ
             絹の座布団へすわった」

哀歌(J・13)
初出は《ユリイカ》〔青土社〕1982年7月号〔14巻7号〕四六〜四九ページ〈追悼=西脇順三郎〉、本文9ポ21行1段組、3節58行。初出は註記「*第二章は西脇順三郎『詩学』より抄出した。/なお他の個所でも、引用した「章句」がある。」のあとに「(一九八二・六・一〇 通夜の日)」とある。「2」のヒョータン・葫蘆・橋・いもむしの四語は、のゴチック体が23では明朝体に改められた。「2」の改行箇所を/で示せば、は「言語の世界は一つの立派な音の象徴の世/界であるから、「ヒョータン」という音/はいかにも実体の「葫蘆[ころ]」をよく象徴し/ているように思われる。しかしこれは日/本人だけであって、日本語を知らない人/にはこの音は何か「橋」のような印象を/与えるかも知れない。反対にフランス語/のグルド(gourde)=瓢箪=はフランス語を/知らない人には、この音はむしろ「いもむ/し」をよく象徴すると思うかも知れない。」で23の改行箇所と異なり、8行め以降で18字詰箱組の字間を調整している。
     追悼・西脇順三郎先生

   1

わたしの世界は 小さな峠の茶屋で
トコロテンを食べて
         寝ころんで
  タラの木
  道にすてられた茶碗のかけら
  人間の性器
          永遠に淋しい存在を
考える
   「会陰は淋しい」
春の小川の岸をめぐれば
           「万物呼応[コレスポンダンス]」〔(一一下)→23(一〇下)〕
「ミソサザイは青い小枝に巣をつくり」
                  泥と水泡の下で
「亀の頭が甲羅の中にひきこもる」
                カルマだ
            脳髄の意識の流れを渉り
詩人は自己浄化せよ
         風そよぐ岩のいただきに
「われ存す」

   2

 言語の世界は一つの立派な音の象徴の世
 界であるから、「ヒョータン」という音は
 いかにも実体の「葫蘆[ころ]」をよく象徴して
 いるように思われる。しかしこれは日本
 人だけであって、日本語を知らない人に
 はこの音は何か「橋」のような印象を与
 えるかも知れない。反対にフランス語の
 グルド(gourde)=瓢箪=はフランス語を知
 らない人には、この音はむしろ「いもむ
 し」をよく象徴すると思うかも知れない。
             〈アポコペ〉

   3

自然が結んでいる
        ものを離し
             離している
ものを結ぶ
     「紅絹〔[もみ]→23(トル)〕のひだで
            鯉をいけどりにする」
その時ひとは 至上の声を聞く
              おお〔(全角アキ)→23「〕パパイ!〔(ナシ)→23」〕
かやつりぐさの
       彼方の
          かりそめの
               野原を帰る
農夫は不浄の黄金の手をもつ
             「現実」の父かもしれない
崖のうえに出る
       すすきの穂と月のように
「遠近関係」でなく
         「連結並置」すれば
野〔原→23川〕をはるばると行く
          女は「連想」の母だろうか
汝 見とどけよ
       「有であると同時に無である世界」
       藪にからむボタンヅル
       にわっとりが鳴く
       この水車小屋の暁闇から
       つぎつぎに弟や妹が生まれ出る
       まれには
       旅人も生まれ出る

            *第二章は西脇順三郎『詩学』より抄出した。

甘露(J・14)
初出は《すばる》〔集英社〕1983年1月号〔5巻1号〕二八〜三二ページ、本文10ポ18行1段組、4節68行。
   1

乳母が帰ってくる
        (影の彼女は八つの乳房を持つ)
   何かがはいっている
            磁気を帯びた
            その袋をのぞけ〔(一二下)→23(一八下)〕
(くろごめ 赤鯛 えびかずらの実 御幣など)
  入っているかも知れない〔(二下)→23(三下)〕
             杉皮小屋が閉じられたように〔(一三下)→23(一四下)〕
             (人間はみずからを閉ざす)〔(一三下)→23(一四下)〕
(屋根からおちる霊魂を
           莚で受けとめる)
   祖父は眼をやみ
          祖母は膣をやむ
ニワトコの花が咲くころだ

   2

(眼の上に銅貨を置かれた
            商人)
父は死につつある
        迷宮の肛門を抜け
        石化する(糞)は雨露を弾く
みはるかす夕べの空には
           (毛のはえた星)
         その下にとどまる(肉体)はむず痒い〔(九下)→23(一一下)〕
うずらをわなで捕える男は唄う
   (愛して死ぬ
         愛して死ぬ)
               皮ぐるみ 血ぐるみ
(咬噛動物)のはいまわる
            みどりの森から 枯れた沼へ
母はいつまでも柳の木のかげで
  (蛙をこっそりつねったり〔(二下)→23(一四下)〕
         叩いたりしてギャーと鳴かせる)〔(九下)→23(一五下)〕
そして ちはやぶる 荒ぶる(神)を招く
  (死者の名はすでに古い〔12(二下)→(三下)〕
             秋の木葉のように)〔12(一三下)→(一四下)〕

   3

(青いカケスに肺病を負わせる)
               三人の美少年のひとりか
ぼくはブリキの兜をかぶり
            朝の窓から外を眺める
(葦牙[あしかび])のそよぐ漣を渉りゆく
              鷺足は墨の〔一→23ひと〕刷け
((泡立てて水の中を通過する(時間)と煙))
        消えかかる
(麗人の絹の腕)
        濡れた草花におおわれ
        ダヴィンチの飛行機の模型が見えた
(太陽が金箔をまき散らし
            影は紫にそまる)
真昼へ生唾を吐く
        姉の大口を覗けよ
                (海水[うしお]のつぶたつ)
  (顎は鋼刃 瞳は紅玉の輝き)
いましも荒れた地へ(五月の棒)をつき立てる
       短いもの 長いもの
                細いもの 太いもの
やがて(五月の樹)は繁茂するだろう
  野猪も仔を生みにくる〔(二下)→23(三下)〕
            もぞもぞと成れる(御嚢[みふくろ])〔(一二下)→23(一三下)〕
            (影の皮の八つの乳房)〔(一二下)→23(一三下)〕
吸いつく 吸う 吸いあげる
             吸いつくす(甘露)

   4

ひとよ可能ならば
        (彼岸から持ち来たる
                  ものに形を与えよ)
(ナシ)→23(〕色界〔(ナシ)→23)〕はすでに滅び
        (一世界)のみが在った〔(八下)→23(一〇下)〕
        (碾臼的装置)〔(八下)→23(一〇下)〕
               (水輪)の上を〔(一五下)→23(一七下)〕
(金輪)はゆるやかに廻っている

         *〔(→23(トル)〕引用句はおもにフレイザー《金枝篇》永橋卓介訳を借用した〔)→23。〕

東風(J・15)
初出は《をがたま》〔をがたまの会〕1983年2月〔冬・8号〕二〜五ページ、本文五号15行1段組、51行。目次・本文の署名は「吉岡實」。
地表すれすれに
       〔めぼうき→23メボウキ〕の花は咲き
                青いバッタは飛ぶ
村の巫女は言〔つ→23っ〕た
        (田園は神がつくり
         都会は人がつくる)
                其所から出ることはない〔(一六下)→23(一八下)〕
ぼくは高々と竹馬に乗り
           (円環的時間)の中で成長する
家の白襖はいまも閉じられ
            (斧で殺された者は見えず)
草をはうアシナガグモが見え
             (老人星)が見えた
紗幕の向うに〔は→23(トル)〕
       ((一個の(桃)はひとりの女〔(七下)→23(六下)〕
           と同じほど生きている))〔(一一下)→23(一九下)〕
石囲いの屋敷の
       (六畳間)と(八畳間)の
                   (間)に在る
裸庭のやみを覗け
        湯浴みし(湯母[ゆおも])は弟を抱き
                     父を抱き
(祖霊)をし〔つ→23っ〕かりと抱く
            (情景世界)
                  午下りの(水潦[にわたずみ])
石は横たわり
      (風は屍を旋回する)
ぼくは何をすればよいのだ
            馬盥へ(すだま)は宿り
竹の枝へ雀はとまる
         (梢は刁刁[ち〔よ→ょ→よ〕うち〔よ→ょ→よ〕う]として小さくそよぐ)
兄の悪しき妄想だろうか
           牝牛の腹を割く
                  血肉は消尽し
(生皮の内部)はぼうぼう燃えていた
                 穀物祭の夜のように
(浄化作用)が行われつつある
              匂いスミレは匂い
(梨の木の下の地面を
          ころげまわる女の影)
あれなるは懐妊せる
         ぼくの母のすがたかも知れない
しばし東風は吹きめぐる
           滝の上 老松 砂洲
           赭岩から(息づく水)が噴き出す
(畑の畝から生まれる
          女神)
             ひとは(妹)と呼ぶ
はるかなる(過去) はるかなる(未来)
   否
    (すべてが現在だ)

求肥(J・16)
初出は《花神》〔花神社〕1983年9月〔秋・3巻3号〕二〜三ページ、本文五号17行1段組、30行。
わたしが子供であった頃
           夕空高く
(龍の頭を持つ
       大きな鳥)が飛んでいた
(草は生え 花は咲き
          人は死んで行く……)
兄は(器官のない身体)と化し
              (石)と
(火)のあいだを
        ゆききする(水)
屏風の向う側は
       (紅葉[もみ]づる)
             黄金の秋
(父は槲[かしわ]の枝を持ち
         母は土の瓶子[へいじ]を持つ)
播殖期だ
    (思考)と(言語)でなく
(肉体)をみちびき入れる
            (呪詞)をとなえ
            (巣出[すで]る)蟹をとらえ
(万燈)を灯せよ
        (神はみのかさつけて来る)
                     穀霊祭の終り
雨に打たれて
      家畜の影は遠ざかり
               〔亞→23亜〕麻畑の朝が明けた
(牧牛女スジャーターの捧げる)
               供物とはなに
白→23紅〕と〔紅→23白〕の(求肥[ぎゆうひ])を
         姉は受けとる

落雁(J・17)
初出は《饗宴》〔書肆林檎屋〕1983年6月〔夏・10号〕一六〜二一ページ、本文12ポ15行1段組、4節67行。初出標題の前に「追悼詩」とある。漢字の旧字使用とひらがなの拗促音の並字使用は、他の掲載詩篇を見ても《饗宴》誌の編集方針だと考えられるので、一連の〔(旧字)→23(新字)〕と〔(拗促音の並字)→23(拗促音の小字)〕は本校異の対象としなかった。
     (言葉よ 死の底より自らの蜜を分泌せよ) 鷲巣繁男

   1

((すべて(現世)は火をつけられ
 すべて(現世)は燃えひろがり))
                倒壊する
                    淫祠邪教の(都会)
蓬頭の(死母)が全身で支える
              (大梁の下で
                    わたしと弟は救われた)
来てみれば秋
      ここは(落雁)の見える寂しい
                    水の上の光景だ
(西空へ裂かれた
        血潮雲)
            わたしは(負)の荷を担いつつ
(古き世の母親)のうるわしい
              (((霊魂[プネウマ])の立ち上り))を見た

   2

(迂遠なり言語空間)
          振りむくな
               いのこずちは茂り
               (空〔12罐→缶〕山をなす)
いたる処
    ((見えるような(道)は
               風化した(道)だ))
わたしは遊行する詩徒か
           (歩めば 炎え上る身体
            発すれば 炎え出ずる言葉)
ささら打ち
     たたら踏み
          (肉が霊にあこがれ
           霊が肉をいとおしむ)
全人的な(善悪)の概念を
            変容せしめ
                 習合する日々
丁子の樹はいま花咲き
          薬油をたっぷりたくわえる
   (瓦斯体より
甦れ つねに新しく
         わたしの言葉)

   3

粉挽き唄が聞こえる
         (孤屋)の羽目板から覗け
(荒服)の人は胡坐かく
           破れ畳のささくれた上に
(存在する詩)
       それを待伏せしているようだ
                    風にとばされし
(〔十銭区間→23女と聴いた音楽会〕の〔赤い薄ぺらな→23(トル)〕
            〔(ナシ)→23赤い薄ぺらな〕切符)〔(一二下)→23(一〇下)〕
               それは(悪霊)を退散させる〔(一五下)→23(一九下)〕
(護符)であるかもしれない
             (天国もあれば まだ地獄もある)
床下の(不可〔触→23侵〕)の暗い穴
            くちなわ たにぐく こおろぎ
            ひむし くえびこ いき〔ずみた→23すだ〕ま
            〔(童の呪宝)もたむろしている→23(陋巷のトラコーマの老婆)の夢の冬籠り〕〔(一二下)→23(天ツキ)〕

   4

原義として言えば
        (青年は肉体をもち
                 老年は知恵をもつ)
その(不可分の関係)を知れ
             違和感もなく
わたしは認識する
        (形而上学は
              深山に無く
              密室に無く
                   典籍に無く
       凡〔傭→23庸〕なる炉辺の猫にある)
生きている限り
       人等よ
          (((時空)と(謎)に身をまかせよ))

蓬莱(J・18)
初出は《歴史と社会》〔リブロポート〕1983年5月〔2号〕一五八〜一六三ページ、本文9ポ18行1段組、4節72行。
   1

(人間が死なずにすむ
          空間はないのか)
祖父はいまなお
       (蓬莱郷)を探究しつつ
                  青菜粥をすする
風すさぶ暗い軒より
         雉子の首を吊るす
                 家はすでに(遺構)だ
腐った木々で囲まれている
            (行きつく
             ところのない
             時と時のあいだ)
母屋のみは明るく
        紅白の縞の幕を張りめぐらす
なればこそ(霊魂)はとどまる
              (柞葉[ははそば])の母の捧げ持つ
   (軽いようで 重いもの
    小さいようで 大きなもの)
(白木の三方)が置かれた
            (歯朶 米 橙 いせえび
             榧 かちぐり 昆布)
(松)のみどりが中心に立てられる
                (飾られた風物詩)
ほうらい (宝来)
         (飲食[おんじき])するはらからの宴も終る
(いずこにも不死の人はいない)

   2

姉には(星菫)趣味がある
            鷹の羽を黒髪に飾り
麦藁と矢車草で
       (野兎)を編む
              それは(幽界)へ通ずる
(言葉)をこえた(発光体)だ
              (習習[しゆうしゆう]たる谷風)のように
川面や野づかさを越え
          巨きな樟のうろへかくれる
                      (形代[かたしろ])
やがて(霹靂[はたたがみ]とよもす天地[あめつち])

   3

(亀甲獣骨)に刻まれた文字
             その最初の(文字[もんじ])は
斧でたたかう
      (父)の一字ではなかろうか
暗くもなれば
      明るくもなる
            (社会構造)の迷路から
12遙→遥〕かなる処へ
      父は手甲脚絆すがたで
                砂鉄掘りに行って帰らず
消毒液のしばしにおう
          淋しい(逆旅[はたごや])のみちづれひとり
(聖なる父)ゆえ
        (女の姿と鱈の見境いがなくなる)

   4

((馬に起ることは
        (人間)にも起りうる))
妹はうらわかく
       孕んだはらを裂かれて
                 死んでゆき
(人は橋上を過ぎて行く)
            なれど(何者に語り得べき)――
ぼくは一篇の(鎮魂歌)を書く
              (骨も見えず 肉も見えない)
(白紙の世界)をさすらいつづけ
               (竹藪をぬけ出ると
                そこに老婆が立っていた)
日は高く 鶴は舞い
         岩根は低く 亀は這っている
         (可視線の書き割り)
扇をひらくように
        三葉 五葉
             そして七葉の松が白砂へ連らなる
   (箱庭)かもしれず〔(三下)→23(四下)〕
((いまは(自然)がむしろ
            (不自然)に見える時である))

青海波(J・19)
初出は《海》〔中央公論社〕1983年6月号〔15巻6号〕二二〜二五ページ、本文9ポ26行1段組、4節84行。
   1

模造マホガニーの長椅子にねて
              瓜や桃の実をほおばる
わが母の双面体を見よ
          (やしゃとぼさつ)の二股膏薬を貼り
脚をたかだかと組みかえる
            (毛は雲のごとく
                    血は露のごとし)
   ((美しければ(幻影)と
   (実在)はほとんど一つとなる))
                  (大祓)の夜々は
(桑樹)の枡形のうろへ
           (幽世[かくりよ])から
                 西風が吹きよせる
(よく隠れし者は
        よく生くるなり)
                わが父は帰るであろうか
戸口に立つ
     (箒)のように顕現せよ
                (星 犬 松明)
(檜扇)をばたばたあおぎ
            産婆が来た
                 ここは(宗教的領域)

   2

(木の葉の冠をした
         裸の子供が
              金の笏を持って現われる)
それをぼくだと認知する
           (うから→23一族[うから]〕)も姿を見せない
                       (麁草[あらくさ])の世界〔(二三下)→23(二二下)〕
桑摘み乙女に抱かれ
         (えびなます)で養われる
(日八日夜八夜[ひやかよやよ])
        鯉の口は紅を刷き
                (吐き出しても
                       吐き出しきれぬ)
もどかしいもの
       (言葉)
           (我)という概念の中の(汝)よ
   ((生れ 生れ 生れ
            生れて(生[しよう])の始めに暗く))
(詩人)と謂われる
         おぞましい(存在)と成れ
(やわたの藪)の〔おく→23奥〕で
           (手負いの猪の仔)〔(一一下)→23(一〇下)〕
                    わが姉は看取り〔(二〇下)→23(一九下)〕
(歯のこぼれた鋸)のように
             わが兄は松の根に隠れる
                        (歌垣)
麗〔わ→23(トル)〕しい(農耕詩)の一節だ

   3

((無花果をつたわり
         (太陽)が地上へ降りる))
家の中には何も
       (生じも滅しもしない)
                  唯ひとつの(葫蘆[ころ])と
(種婆[たなば])へと化身する
          わが母がいるだけだ
                   夕べ湯文字を巻き
襦袢をまとい
      (愛の裂傷)を負いつつ
                 まさに(再生儀礼)へ
月下はるけく
      (青海波[せいがいは])
           十重二十重と打ちつらなる
半円状の白い波がしら
          (鱶の泳法)を試み
                   かつ乗り切る
(生死循環)の時間の中で
            わが(永遠の母)の聖俗性を伝えよ
それは遍在するだろう
          (顕世[うつしよ])に

   4

((ものの(形)とは
         一枚の(死衣)をかぶせられ
         はじめて見えてくるものである))
   箸 貝 櫛 (金蚕)
             そして(蛇)
                   脱皮 脱皮 脱離
わたしは成長する
        (棺桶の釘を抜き取り)
                   柊の葉をかざして
朝日さす廃屋の(かまど)へ
             (火)を起す
                   火吹き男ひとり
それはわたしの(擬[もどき])かもしれない
                (荒筵)を敷きつめるところ
   (朽鶏[くだかけ])が来る

――――――――――

「《薬玉》詩型」が吉岡実詩の初出段階でいつ登場し、いつ完成をみたか。これは「後期吉岡実詩」の一端を明らかにする、重要な視点である。1981年から83年にかけて発表された全21篇の吉岡実詩を並べてみる。【 】内の数字は《薬玉》に収録された詩篇の初出発表順。

1981年
1月 【01】〈雞〉(J・1)
9月 【02】〈竪の声〉(J・2)
10月 【―】〈絵のなかの女〉(未刊詩篇・15)
11月 【03】〈巡礼〉(J・7)

1982年
3月 【04】〈壁掛〉(J・5)、【05】〈青枝篇〉(J・4)
4月 【06】〈薬玉〉(J・10)
5月 【07】〈影絵〉(J・3)
7月 【08】〈哀歌〉(J・13)
8月 【09】〈天竺〉(J・9)
10月 【10】〈垂乳根〉(J・12)
12月 【11】〈郭公〉(J・6)、【12】〈秋思賦〉(J・8)

1983年
1月 【13】〈春思賦〉(J・11)、【14】〈甘露〉(J・14)
2月 【15】〈東風〉(J・15)
4月 【―】〈断章三つと一篇の詩〉の「一篇の詩」である〈詩人の白き肖像〉
5月 【16】〈蓬莱〉(J・18)
6月 【17】〈青海波〉(J・19)、【18】〈落雁〉(J・17)
9月 【19】〈求肥〉(J・16)

【01】 《薬玉》で最も早く発表され、のちに詩集冒頭に置かれた〈雞〉(初出時〈にわとり〉)の詩句はすべて天ツキで、詩集収録時に《薬玉》詩型に改められた。詩型面では〈にわとり〉の前の詩篇、1980年3月発表の〈ツグミ〉(I・21)と隔絶がなかったことになる。〈ツグミ〉〈にわとり〉と鳥の詩が続いたのは偶然で、本篇の執筆は1981年の十二支、酉にちなんだものだろう。本文はすべて「にわとり」で、標題が「雞」に変えられたのは漢字の題名が並ぶ《薬玉》の世界の幕開きにふさわしい。

【02】 〈竪の声〉は初出形・詩集形とも、〈にわとり〉や《薬玉》詩型とは異なる、本詩集で異色のラインの連ね方になっている。一行アキで分節されたブロックごとに、天ツキ(いずれも二行で構成)・二字下げ(こちらは行数も書法もかなりフリー)が施してある。主題が詩型を要求した「二声の詩」とでもいえようか。――(二倍ダーシ)での会話の表示は、随想〈小鳥を飼って〉でも見られる。

【―】 未刊詩篇〈絵のなかの女〉が《夏の宴》期の詩型・表記に近いという指摘は〈吉岡実の未刊詩篇〈絵のなかの女〉を発見〉ですでに行なった。《薬玉》詩型にしたらどうなるかは、各人で試みられたい。試案を掲げる。
「かげろうは消え
        黄蜂はかえって行く」
野の丈なす草むら
        そこでひとりの女が腰をひねった
地母神
イナンナの妹のかくしどころの闇から
                 蒼白なる魚のように
                          「賢者」や「愚者」がうみおとされた
「間接的(空間)世界」
           にがり[、、、]や泡で形成されつつある
夏もたけて
     「鳥が絵のなかの鳥」でありえても
     「女が絵のなかの女」であるとはかぎらない
テーブルの端にローソクを燃やし
               ドリアンを食べる女を抱く
                           荒らぶる魂の男は淋しい
庭の石床の上をはいまわりつつ
              「ねずみ花火は消え……」
【03】 〈巡礼〉も基本的に天ツキの詩である。雁行を模した「母/母/母/穴/妹/妹/妹」のカリグラムは初出形の方が衝撃的で、《薬玉》詩型では他の詩句にまぎれて減殺されている。あるいは、《薬玉》詩型にすることで衝撃を抑えたというべきか。本篇にいたって《薬玉》の「主題が明確にな」ったように思われる。なお難字の「䱱魚」は中国古代の地誌《山海経》の〈中山経〉に「休水出焉,〔……〕其中多䱱魚(休水がここから出て、〔……〕川の中に䱱魚[さんしよううお]が多い)」と見え、「尸鳩[よぶこどり]」は〈西山経〉〈北山経〉に登場する。

【04】 〈壁掛〉が初出時で最初の《薬玉》詩型(ただしプロトタイプ)の詩篇となる。校異や〈大竹茂夫展と詩篇〈壁掛〉〉でわかるように、詩句の括りが詩集形と異なるため、天ツキで始める詩句が変わっている。さらに、詩句の字下げを前行の文字数分してから次行の詩句を配置するという原則が確立していないため、字下げの文字数は初出形と詩集形で大きく異なっている。初出の詩型は、類例を他に求めれば、書の「散らし書き」が最も近い。吉岡がそれまでの天ツキの詩からこうした「散らし書き」ふうの書法に転じた理由ははっきりしないが、そこに大竹茂夫の絵画に伍する気持ちがまったくなかったとは考えにくい。

【05】 〈青枝篇〉は初め〈春の伝説〉の総題のもと、四回にわたって新聞連載された。吉岡が本篇を四回に分けて執筆したか一挙に書きおろしたか不明だが、あらかじめ全体を構想していたことは、初出時の各篇の標題から明らかである。標題・署名を除いた本文版面は22字詰×29行の新聞の文化面のコラムゆえ、天地に余裕がなく、詩句の字下げが吉岡の意図どおり実現できなかった可能性が残る。

【06】 〈薬玉〉において《薬玉》詩型の模索が続く一方で、
  破船の腹の稜線がむっちり 見える
  〔二行略〕
  沈んでゆく妊婦の腹をめぐる
               くらげの内壁に静電気が起り
               〔一行略〕
               死の生臭い音がする
のような特徴的な詩句の展開も見られる。天ツキの詩句が複数続くなど、《薬玉》詩型を自家薬籠中のものとするまでにはまだ日数を要したタイトルポエムである。

【07】 発表媒体こそ〈絵のなかの女〉の《別冊一枚の繪》第4号〈花鳥風月の世界――新作/洋画・日本画選〉と似た印象を与えるが、〈影絵〉は〈太陽シリーズ30――太陽美人画シリーズU〉の《夏の女》の目次・巻頭口絵に続く序詩の扱いで、絵は伴っていない。《薬玉》刊行後、初出形が〈『薬玉』、声の変容〉という題で雑誌の吉岡実特集号に再録された。詩篇の前に次の文章(無署名)が置かれている。
『薬玉』における言語道断の言葉振り。その怪力は『薬玉』全篇を貫く。しかし、『薬玉』所収の詩篇すべてが現在みられるような形で発表されたわけではない。吉岡実氏が『薬玉』における階段状の連詩形を採用したのは一九八二年前半のことと推定されるが、ここでは一九八二年夏の別刷「太陽」誌に掲載された初出「影絵」を紹介したいと思う。『薬玉』における「影絵」決定稿と比較して、その変容を確認していただきたい。(《洗濯船》第6号〈吉岡実特集〉、1984年7月1日、四四ページ)
前掲校異で「その変容を確認し」たわけだが、通常の字句の手入れに加えて字下げにも変更が施されていて、修正の全貌は容易につかみがたい(初出で詩句の末尾が20字詰のラインに接する行が五つもあるが、これが原稿段階のものか、組版時の校正による改変か決めがたい)。吉岡の修正のうち、字句の訂正等を赤で、詩句の位置指定(字下げ等の移動)を青で再現して、初出形(の再録)への手入れを画像で掲げる。

吉岡実の手入れ〔初出形→詩集形〕を小林一郎が赤字(字句の訂正)と青字(詩句の位置指定)で再現した詩篇〈影絵〉(《洗濯船》第6号〈吉岡実特集〉、1984年7月1日、四四〜四五ページに加筆)
吉岡実の手入れ〔初出形→詩集形〕を小林一郎が赤字(字句の訂正)と青字(詩句の位置指定)で再現した詩篇〈影絵〉(《洗濯船》第6号〈吉岡実特集〉、1984年7月1日、四四〜四五ページに加筆)

【08】 詩句を階段状にずらして、論理的にも感覚的にも、塊であることを示す詩想の最小単位を連ねることで詩篇を構築した《薬玉》詩型の完成形を、この〈哀歌〉に見ることができる。かつて本篇について「一九八二年六月五日の西脇逝去後、吉岡は《現代詩手帖》七月号の追悼座談会〔……〕に出席し、《新潮》八月号に〈西脇順三郎アラベスク(追悼)〉を執筆し、《ユリイカ》七月号にこの〈哀歌〉を寄せており、追悼詩にそれほど多くの時間が割けたとは思えない」(〈「矢印を走らせて」――吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(8)――〈崑崙〉〉の「X「崑崙」すなわち《薬玉》」)と書いたが、そうした自動筆記にも似た状況のなかで、「1」の全詩句や「3」の最初の4行などで、単に上から下に流れるだけでなく、散らし書きのような自在な展開を見せている。なお「万物呼応[コレスポンダンス]」が23で(一〇下)になっているのはおそらく誤植で、初出の(一一下)という本来の姿に校訂すべきであろう。

【09】 〈天竺〉の詩句は初出では20字以内に収まっていたが、詩集では最長が32字と、1.6倍に伸びている。同じく新聞に掲載された〈青枝篇〉と同様の状況だろう。冒頭の「水雞[くいな]」は初出の新聞でも同じで、吉岡が原稿に「水雞」と書いた時点で、〈にわとり〉を〈雞〉に改題することが決まったのかもしれない。

【10】 〈垂乳根〉では対句的表現が目に付く。すなわち、
  それを油紙でガサガサ包む
              「生膚断ち」
              「死膚断ち」
あるいは、
     (肉体)を借りなかった
                (精神)がなかったように
     (言語)を借りなかった
                (精神)というものはない
がそれだ。《薬玉》詩型とそのバリエーションは、通常の天ツキの詩句よりも細かなニュアンスを伝えうる。本文に「(紙銭)や(雁木玉)をかぞえる」とあるが、吉岡は1983年4月22日の〈日記〉に「夕四時すぎ、池袋の西武百貨店の「青山伝統工芸散歩道」〔……〕藤村英雄のとんぼ玉数個を買う」(《土方巽頌》、筑摩書房、1987、一五〇ページ)と書いており、こうした呪物が登場するのも《薬玉》の特徴である。

【11】 〈郭公〉で注目すべきは〔 〕の使用である。吉岡実の40年以上にわたる詩歴で、初めて詩句に亀甲括弧が登場したからである(次の《ムーンドロップ》では、堰を切ったようにいたる処に出現する)。その〔芸術は滅びるとも/流行は栄えよ〕は「芸術は滅びるとも/流行は栄えよ」でいいような気もするが、ここでは誰か(たとえばエルンスト)の発言の引用というより、もっと普遍的な色合いを出したかったのかもしれない。石碑に刻まれた箴言かなにかのように。

【12】 〈秋思賦〉でも新しい括弧である二重パーレンが初登場する(このあと発表された《薬玉》詩篇で多く使用)。いったいこの二重パーレン、吉岡実詩(と宮澤賢治詩)以外の詩句に出てくることはほとんどなく、通常の日本語の文章でも英和辞典の註記の記載で見かける程度ではないか。((人間はたったひとりで焼け焦げる))にも〈郭公〉の箴言ふうの表現に近いものを感じる。こうした駄目押しのような詩句を(行アキまでつくって)末尾にもってくることは、吉岡実詩の変容を物語っている。

【13】 〈秋思賦〉に続く〈春思賦〉にも二重パーレンが出てくる。((われわれの(生と死)とは/同時に存在することはない))は、『われわれの「生と死」とは/同時に存在することはない』と同様の使用法である。しかし、これではあまりに散文表現に近いことも確かだ(《薬玉》では二重鉤括弧『 』はただ一箇所、〈哀歌〉の註記で使用されている)。そもそも〈秋思賦〉を最後に、《薬玉》では「 」が使われておらず、吉岡は引用句をパーレンで括ることが多くなる。

【14】 〈甘露〉において吉岡は、《金枝篇》に登場する「蛙をこっそりつねったり叩いたりしてギャーと鳴かせる」、「「五月の樹」か「五月の棒」」、「次にこの屋根に穴をあけ、呪医が羽毛の房でもってそこから霊魂をはたきこむと、骨かそれに類するものの断片のような形をした霊魂が筵で受けとめられる」、「青いカケスに肺病を負わせて放した」といった章句を( )で括って、自らの詩句としている(〈吉岡実と《金枝篇》〉参照)。この詩篇を書いたことで、〈春の伝説〉を〈青枝篇〉と改題する準備が整った。

【15】 〈東風〉の「老人星」は竜骨座の首星カノープスの中国名。1986年1月には〈寿星(カノプス)〉(K・8)が発表されている。老人星[ろうじんせい]は「ろうじんしょう」とも読み、吉岡実に〈老人頌〉(D・1)があることは言を俟たない。吉岡さんはマガジンハウスの雑誌《鳩よ!》1984年7月号が《薬玉》からの再録詩篇に本篇を指定してきたことを、意外とも思い、ことのほか喜んでいた。

【16】 〈蓬莱〉の「2」の5行め「それは(幽界)へ通ずる」は、おそらく〈影絵〉の9行め〔そこは幽界のように暗く→23「煮つめられた〕が転生した詩句だろう。本篇には基本的に字下げの変更がなく、《薬玉》詩型はここに完成を見た。ときに、蓬莱山にちなんだ慶事菓子に「蓬莱饅頭」がある。神仙思想と和菓子が同居するのが《薬玉》の世界である。

【17】 〈青海波〉でも字句の訂正に伴う字下げの変更だけで、《薬玉》詩型は初出時のものが保たれている。最終行「(朽鶏[くだかけ])が来る」を書いた時点で、吉岡は本篇を新しい詩集の巻末詩篇として巻頭の〈雞〉と呼応させようと決めたのではないか。それは、本篇の「(生死循環)の時間の中で」や〈東風〉の「(円環的時間)の中で成長する」といった詩句を詩集において具現化したものだった。

【18】 〈落雁〉の落雁とは空から舞い下りる雁だが、乾菓子・打菓子でもある。本篇については、かつて〈「恋する幽霊」――吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(12)――〈蜜はなぜ黄色なのか?〉〉の「蜜/鷲巣漢詩と〈落雁〉」で言及したことがある。そこでは触れなかったが、永田耕衣句集《吹毛集》(近藤書店、1955)の「天心にして脇見せり春の雁」の存在も無視できない。

【19】 〈落雁〉に続く〈求肥〉は牛皮、求肥飴のことで、柔軟で弾力ある和菓子。吉岡の1984年7月19日の〈日記〉に「みやげの雲龍は、明日の朝の茶うけ」(《土方巽頌》、一六九ページ)とあり、和菓子を嗜好したことが窺える。スジャーターを牧牛女人(漢訳名は難陀婆羅[ナンダバラ])とするのは経典の《因果経》だというから、古代インドの女性が求肥を捧げる図は汎神論的で、《薬玉》を打ちあげるのにふさわしい。

ここで《薬玉》の詩篇の排列について考えてみよう。次は発表順(【01】〜【19】)の表だが、%は平均行数(56.8行)に対する割合で、100%以上、つまり平均よりも長い詩篇は赤字で表示した。発表媒体の性格もあり、長い詩すなわち力篇とは限らないが、いずれも逸することのできない重要な作品である(行数は初出時のもの)。【03】と【10】を除くすべての「平均よりも長い詩篇」が、2〜4節から成っているのが注目される(その【03】の〈巡礼〉も、詩集では8節に分けられている)。〈巡礼〉(J・7)こそ、それまでの吉岡実詩が臨界に達した――《サフラン摘み》における〈葉〉(G・4)に相当する――問題作だが、表からもそれは窺えよう。さらに【16】〜【18】と力作が続いており、このあたりで吉岡に一巻の詩集の構想が見えてきたと考えられる。

標題 発表順 節数 行数
雞(J・1) 【01】
39 69
竪の声(J・2) 【02】
35 62
巡 礼(J・7) 【03】
110 194
壁掛(J・5) 【04】
24 42
青 枝篇(J・4) 【05】 4 114 201
薬 玉(J・10) 【06】 2 80 141
影絵(J・3) 【07】
23 40
哀 歌(J・13) 【08】 3 58 102
天竺(J・9) 【09】
39 69
垂 乳根(J・12) 【10】
75 132
郭公(J・6) 【11】
31 55
秋思賦(J・8) 【12】
39 69
春思賦(J・11) 【13】
40 70
甘 露(J・14) 【14】 4 68 120
東風(J・15) 【15】
51 90
蓬 莱(J・18) 【16】 4 72 127
青 海波(J・19) 【17】 4 84 148
落 雁(J・17) 【18】 4 67 118
求肥(J・16) 【19】
30 53
合計

1079
平均

56.8 100

その後、吉岡はこれらの詩篇を編纂して《薬玉》にまとめるわけだが、《薬玉》の排列は、大きくは発表順を採用しつつも、細かい処ではそれと別の原理が働いている。吉岡には詩集の末尾を大作で締めくくる傾向があって、《僧侶》の〈死児〉(C・19)、《サフラン摘み》の〈悪趣味な内面の秋の旅〉(G・31)はその典型である。《薬玉》もその例に漏れない。こうして「平均よりも長い詩篇」、節のある詩を要所要所に排し、巻末に向かってクレッシェンドしていくという《薬玉》の骨格ができあがる。一方、タイトルポエムをどこに置くかはいくつか流儀があって、〈サフラン摘み〉(G・1)のような巻頭、〈僧侶〉(C・8)のような中程、〈静かな家〉(E・16)のような巻末、がある。〈薬玉〉(J・10)は〈僧侶〉型で、全19篇のちょうど真ん中に位置する。下に掲載順(J・1〜19)の表を掲げる。

標題(掲載順 発表順 節数 行数
雞(J・1) 【01】
40 70
竪の声(J・2) 【02】
35 61
影絵(J・3) 【07】
24 42
青 枝篇(J・4) 【05】 4 116 202
壁掛(J・5) 【04】
24 42
郭公(J・6) 【11】
33 58
巡 礼(J・7) 【03】 8 112 195
秋思賦(J・8) 【12】
39 68
天竺(J・9) 【09】
39 68
薬 玉(J・10) 【06】 2 80 140
春思賦(J・11) 【13】
41 72
垂 乳根(J・12) 【10】
75 131
哀 歌(J・13) 【08】 3 58 101
甘 露(J・14) 【14】 4 68 119
東風(J・15) 【15】
51 89
求肥(J・16) 【19】
30 52
落 雁(J・17) 【18】 4 67 117
蓬 莱(J・18) 【16】 4 72 126
青 海波(J・19) 【17】 4 84 147
合計

1088
平均

57.3 100

多くの詩篇を編んで一巻の詩集が形を成すまでにはさまざまな要因が働いており、上記は詩篇の内容を考慮に入れず、作品を行数という側面からだけ見た場合である(作品の長さは、それ自体きわめて重要なファクターではあるが)。詩集編纂の内実とも絡めて詩篇の内容を探ることは、詩型の変遷や初出以降の手入れの分析も踏まえた総合的な研究でなければならない。

〔付記〕
本詩集の単行本の巻末(一〇八〜一〇九ページ)に掲載されている〈初出一覧――〉には、いくつか誤りがある。すでに各詩篇の本文前に詳細な初出記録を掲げたので、ここでは〈初出一覧――〉と原典を校合した結果を本文の校異と同様の書式で記し、誤記・誤植を正しておこう。

初出一覧――

「朝日新聞」一九八一年一月三日(改題、原題「にわとり」)
竪の声 「現代詩手帖」一九八一年九月号
影絵 〔「太陽」別刷→太陽シリーズ「夏の女」〕一九八二年〔夏号→五月〕
青枝篇 「日本経済新聞」一九八二年三月七日、一四日、二一日、二八日(改題、原題「春の伝説」)
壁掛 大竹茂夫展案内状・青木画廊・一九八二年三月二七日
郭公 マックス・エルンスト石版画展パンフレット・佐谷画廊・一九八二年一二月〔(ナシ)→八日〕
巡礼 「ユリイカ」〔別冊→臨増〕現代詩の実験・一九八一年一一月
秋思賦 「ユリイカ」〔別冊→臨増〕現代詩の実験・一九八二年一二月
天竺 「毎日新聞」一九八二年八月一六日夕刊
薬玉 「海燕」一九八二年四月号
春思賦 「現代詩手帖」一九八三年一月号
垂乳根 「海燕」一九八二年〔九→一〇〕月号
哀歌 「ユリイカ」一九八二年七月号
甘露 「すばる」一九八三年一月号
東風 「をがたま」一九八三年二月〔一日→、冬号〕
求肥 「花神」一九八三年〔(ナシ)→九月、〕秋号
落雁 「饗宴」一九八三年〔夏、→六月、夏・〕第一〇号
蓬莱 「歴史と社会」一九八三年〔春、→五月、第〕二号
青海波 「海」一九八三年〔五→六〕月号

〔2019年1月31日追記〕
2019年1月、ヤフオク!に吉岡実の高橋康也宛ハガキ(1980年12月16日〔18‐24〕渋谷局消印)が出品された。題して〈吉岡実 ◆自筆肉筆 真筆 葉書◆高橋康也 宛◆『ウロボロス』女たちは墓穴にまたがって難産をする◆『僧侶』H氏賞受賞詩人◆ベケット〉。残念ながら競り落とすことができなかったが、詩篇〈雞〉の生成にかかわる重要な証言を含む内容なので、原物の写真を掲げ、吉岡が書いた文面を起こしてみる。

高橋康也宛吉岡実書簡(1980年12月16日〔18‐24〕渋谷局消印ハガキ)〔出典:ヤフオク!〕
高橋康也宛吉岡実書簡(1980年12月16日〔18‐24〕渋谷局消印ハガキ)〔出典:ヤフオク!〕

あわただしい年の瀬、いかがおすごしですか。過日
は新著《ウロボロス》を頂き、ありがとう存じます。
さて、只今朝日新聞正月三日(?)のための詩篇
を書いていますが、ベケットの詩句の一行を借用
いたしました。「女たちは墓穴にまたがって難産
をする」に感銘を受けたためです。引用の注を
付け〔たいの→ようと思ったの〕ですが、「古事記」「金枝篇」の一行も
使っており、それ〔(ナシ)→ら〕を明示すると、きざ[、、]になる
ので、〔(ナシ)→すべて〕やめました。ご〔〓→諒〕承のほど、お願いいた
します。           十五日   実

この年の11月に出た高橋の新著《ウロボロス》(晶文社)は、吉岡実に言及した〈想像力が死ぬとき〉や〈終りに始めあり〉を含む。上掲文中の〔〓(抹消された元の字がわからない)→諒〕以外の吹き出しは行間に書かれており、一度(最後まで)書いたあと、手を入れたものと思しい。私は本稿〈吉岡実詩集《薬玉》本文校異〉を2011年2月に発表したあと、《詩人としての吉岡実》(文藝空間、2013年9月28日)の〈「後期吉岡実」――《薬玉》と《ムーンドロップ》〉の章で、《薬玉》の巻頭詩篇〈雞〉(J・1)と巻末詩篇〈青海波〉(J・19)について書いている。前者の一節を、その註ごと引く。

 第一の引用「常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめよ」は《古事記》の天の岩屋戸神話にある「常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめて」から来ている。ただし、吉岡が執筆時に接したのは《古事記》そのものではなく、南方熊楠《十二支考》の〈鶏に関する伝説〉だったかもしれない。そこには「ニワツトリまたニワトリは庭に飼うからの名だ。〔……〕「神代巻」や『古事記』に、天照大神岩戸籠りの時、八百万の神、常世の長鳴鳥を聚め互いに長鳴せしめたと見ゆ。本居宣長曰く、常世の長鳴鳥とは鶏をいう。」(註4)とある。本篇の発表媒体は全国紙の新年を寿ぐ文芸欄で、吉岡の詩、吉行淳之介と河野多恵子の随想という取りあわせだった。吉岡に対して十二支の詩を、という依頼だったかは不明だが、酉年にちなんでニワトリの詩を設定した時点で、《十二支考》の召喚は半ば約束されたようなものである。〔……〕
 〔……〕
 第二の引用「男たちは遠方で戦っている」は永橋卓介訳のフレイザー《悪魔の弁護人》の「男たちが遠方の村を攻めにいっているとき、妻はそこに残っている男と姦通してはならないとされている。」(註6)によろう。
 第三の引用「女たちは墓穴にまたがって難産をする」はベケットの戯曲《ゴドーを待ちながら》のポッツォの台詞「どうせ、女たちは墓石にまたがってお産をしているようなものなのだ、」とウラジーミルの台詞「墓にまたがっての難産。」(註7)による。
 十二支にちなんだ作品に見える《古事記》あるいは南方熊楠とフレイザーとベケット。いったいだれが吉岡実詩におけるこの組みあわせを予想しただろう。さきほどその萌芽が《サフラン摘み》に見えると言ったが、それはことばの綾であり――ベケットは〈螺旋形〉(H・10)にその名を註記のうえ、章句を引かれたが――、《薬玉》や《ムーンドロップ》が書かれたあとだからそう言えるのであって、少なくとも一九八〇年の時点でそれを予言できたのは、当の吉岡を含めてだれひとりいなかった。

(註4)南方熊楠《十二支考》の引用は《十二支考(下)〔岩波文庫〕》(岩波書店、1994年1月17日)、二一四ページによったが、振り仮名は省略した。吉岡が本書に触れたとすれば、飯倉照平校訂《十二支考(1〜3)〔東洋文庫〕》(平凡社、1972〜73)だろう。
〔……〕
(註6)J・G・フレーザー(永橋卓介訳)《悪魔の弁護人》(《世界教養全集〔19〕》、平凡社、1962年12月24日)、四〇六ページ。《悪魔の弁護人》The Devil's Advocateは、はじめ《サイキス・タスク》Psyke's Taskとして出版された。《サイキス・タスク――俗信と社会制度》の岩波文庫版は1939年6月15日刊だが、当時の吉岡が新刊で読んだ記録はない。
(註7)安堂信也・高橋康也共訳《ベケット戯曲全集〔1〕》(白水社、1967年10月20日)、一八一、一八三ページ。

ながながと旧稿を引いたのは、私が推測した第一・第二・第三の引用の出典が一応は正しいことを示したかったからだ。それにしても、引用に注を付けないという吉岡の述懐は、特筆に値する(のちには付ける場合もあった)。先行する他者の文言を詩篇に引いて、しかもそのスルスを明かさないのは、詩篇の謎を保つための大胆な戦略である。「引用の注を付け」て「それらを明示すると、きざ[、、]になるので」「やめました」と高橋に漏らしているのは、吉岡なりの(含羞に充ちた)自身の方法の開示ではなかったか。さるにても、これは重要な証言だった。初出〈にわとり〉(《朝日新聞》1981年1月3日)は、詩型こそ後年の「《薬玉》詩型」ではなく天ツキの行分け詩だが、《古事記》や《金枝篇》からの引用と典拠の方法を採用した、謂うならば古色を帯びたモダニズム詩の第一作だった。ここから、吉岡実の「後期」が始まる。

〔2019年4月15日追記〕
吉岡実の生誕100周年(2019年4月15日)を記念して、〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉(小林一郎 編)〔A4判縦位置で印刷すると、約[293]ページ〕を新規ページとしてアップした。ただし、本サイトでは《〈吉岡実〉を語る》の一項目という位置づけのため、トップページの〈目次〉には掲出しない。


吉岡実の未刊詩篇〈絵のなかの女〉を発見(2011年1月31日)

《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)に未収録の〈絵のなかの女〉と題する18行の未刊詩篇を発見した。掲載誌は一枚の繪発行の《別冊一枚の繪》第4号〈花鳥風月の世界――新作/洋画・日本画選〉(1981年10月1日)で、目次の「第四章 月」には「〈詩〉吉岡実 谷川俊太郎」と題名抜きで作者名しか載っていない(谷川作品は〈もうひとつのかお〉)。目次の込みいったレイアウトから人名を拾いだすのは、けっこう骨が折れる(インターネットの古書情報で本誌の存在を知り、吉岡実詩の再録であることを覚悟のうえ、不見点で注文したところ未刊詩篇だったのには驚いた)。各ページには頒布される絵画と詩歌句(新作および物故者の既発表作品の引用)が取りあわされていて、〈絵のなかの女〉の註記には「本誌のための書き下ろし/●よしおか みのる(一九一九― )東京 詩人 H氏賞 高見順賞 戦後詩の芸術至上主義的な詩の不気味な魅力をたたえる。シュールレアリスムの絵画の美しさに近い面白さのある一篇。」(無署名)とあり、詩篇の上部に「弦田英太郎 青い首飾り 6号 油絵」がカラーで掲載されている。〈花鳥風月の世界〉全体の構成から見て、吉岡実の詩と弦田英太郎(1920- )の絵の取りあわせに必然性があるとは思えない。すなわち、吉岡が弦田の絵を見て詩を書いたわけでも、弦田が吉岡の詩を読んで絵を描いたわけでもなく、編集者の手によって両者が同じページに配されたのにすぎまい。舞子や裸婦を得意とする弦田の絵自体が悪いわけではないが、註記の「シュールレアリスムの絵画の美しさに近い面白さのある一篇」とはかけはなれた画風と言わざるをえない。もっとも、吉岡実の好む絵画と吉岡実の詩風が一致するとは限らない。吉岡は《一枚の繪》1982年5月号の〈風景のあるエッセイ〉に随想〈宗達「仔犬図」〉を寄せていて(この号の同欄の他の著者は福田恆存・石垣りん・山田太一・宮脇俊三)、こちらは《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)に収録されている。

《別冊一枚の繪》第4号〈花鳥風月の世界――新作/洋画・日本画選〉(一枚の繪、1981年10月1日)掲載の吉岡実の未刊詩篇〈絵のなかの女〉のページ
《別冊一枚の繪》第4号〈花鳥風月の世界――新作/洋画・日本画選〉(一枚の繪、1981年10月1日)掲載の吉岡実の未刊詩篇〈絵のなかの女〉のページ

絵のなかの女|吉岡実

「かげろうは消え
黄蜂はかえって行く」
野の丈なす草むら
そこでひとりの女が腰をひねった

地母神
イナンナの妹のかくしどころの闇から
蒼白なる魚のように
「賢者」や「愚者」がうみおとされた
「間接的(空間)世界」
にがり[、、、]や泡で形成されつつある

夏もたけて
「鳥が絵のなかの鳥」でありえても
「女が絵のなかの女」であるとはかぎらない
テーブルの端にローソクを燃やし
ドリアンを食べる女を抱く
荒らぶる魂の男は淋しい
庭の石床の上をはいまわりつつ
「ねずみ花火は消え……」

〈絵のなかの女〉発表の1981年、休筆明けの吉岡は1月に〈雞〉(J・1)、9月に〈竪の声〉(J・2)、11月に〈巡礼〉(J・7)という、のちの《薬玉》を構成する詩篇を発表しはじめている。しかし本篇はこれらと同様、《薬玉》詩型ではなく、詩型や表記は《夏の宴》(1979)に最も近い。また、以前や以後の詩篇との類似をうかがわせる詩句が散見する点で、1981年発表の他の3篇とは大きく異なる。各詩句と近しい詩句を……に続けて掲げ、出典を記す(《薬玉》詩型の字下げは省略した)。

「かげろうは消え……(かげろうは消え(〈〔食母〕頌〉K・19、72行)
黄蜂はかえって行く」……蛇はかえってゆく)(同前、73行)
野の丈なす草むら……野の丈なす草むらに……。(同前、74行)
そこでひとりの女が腰をひねった……ひとりの女が腰をひねった(〈聖童子譚〉K・4、70行)

地母神……いにしえの地母神像(〈悪趣味な内面の秋の旅〉G・31、111行)
イナンナの妹のかくしどころの闇から……イナンナ イシュタル ヴィーナス(同前、133行)、(母)のかくしどころの/(深淵)より(〈聖童子譚〉K・4、2-3行)
蒼白なる魚のように……蒼白な肉も見えず(〈夏の宴〉H・20、43行)
「賢者」や「愚者」がうみおとされた……(賢者)も/(愚者)も/産みおとされる(〈聖童子譚〉K・4、72-74行)
「間接的(空間)世界」……「間接的な世界」(〈夏の宴〉H・20、39行)
にがり[、、、]や泡で形成されつつある……〔にがり〕と〔泡沫〕を浴びて(〈〔食母〕頌〉K・19、65行)

夏もたけて
「鳥が絵のなかの鳥」でありえても……絵のなかの馬がそれを拒む(〈三重奏〉F・17、33行)
「女が絵のなかの女」であるとはかぎらない……わたしの絵のなかの森の道へ(同前、45行)
テーブルの端にローソクを燃やし……ローソクをたてたテーブルに(〈夏の宴〉H・20、40行)
ドリアンを食べる女を抱く……ネクタリンの実は(同前、41行)
荒らぶる魂の男は淋しい……わたしの荒ぶる魂よ眠れ(〈詠歌〉H・23、31行)
庭の石床の上をはいまわりつつ……詩人は地をはいまわりつつ(〈巡礼〉J・7、75行)
「ねずみ花火は消え……」……「ねずみ花火が這いまわり/百足が這いまわる」(〈金柑譚〉H・17、7-8行)

〈絵のなかの女〉発表前の詩篇に〈三重奏〉(F・17)、〈悪趣味な内面の秋の旅〉(G・31)、〈金柑譚〉(H・17)、〈夏の宴〉(H・20)、〈詠歌〉(H・23)、ほぼ同時期に発表された詩篇に〈巡礼〉(J・7)、発表後の詩篇に〈聖童子譚〉(K・4)、〈〔食母〕頌〉(K・19)がある。第三グループの詩篇と本篇の関係はわかりやすい。吉岡の場合、新たに詩を書きながら詩句に詰まったとき、過去の自作の一節を拝借することはままあった。〈秋思譜〉(J・8)に変改吸収された〈断想〉(《CURIEUX――求龍》4号、1978年11月)などがそれで、〈断想〉は詩集に収録されず、新たな詩〈秋思譜〉の捨石となった。同様に〈絵のなかの女〉から〈〔食母〕頌〉が生まれ、前者は後者の捨石となった。それはいい。だが、「ローソクをたてたテーブルに/ネクタリンの実は」(〈夏の宴〉)と「テーブルの端にローソクを燃やし/ドリアンを食べる女を抱く」(〈絵のなかの女〉)の関係はどう考えたらいいのか。これを合理的に解釈するには、〈絵のなかの女〉の全詩句は発表された1981年に書きおろされたものではなく、「絵のなかの女」というテーマに合致した詩句を〈夏の宴〉の捨石となった詩篇の初案(もしくは定稿にいたる途次の状態)から引きぬいたものだった、とでもする以外ない。むろん、これは想像である。しかし、〈絵のなかの女〉が《薬玉》(1983)に収録されなかったのは事実であり、その冒頭の3行が吉岡実最後の詩集《ムーンドロップ》(1988)の巻末詩篇〈〔食母〕頌〉の最後の詩行「(かげろうは消え/蛇はかえってゆく)/野の丈なす草むらに……。」に再生したことも、また事実である。《神秘的な時代の詩》(1974)から最晩年の吉岡実詩まで――「後期吉岡実詩」の全域を含む――を串刺しにするモザイク模様の一篇。〈絵のなかの女〉をそう評してみたい。


吉岡実詩集《ポール・クレーの食卓》本文校異(2010年12月31日〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実の詩集《ポール・クレーの食卓》は1980年5月9日に山田耕一の書肆山田から850部限定で刊行された(6月9日に800部刊行された「再版」の発行者は鈴木一民)。1957年から1980年までに発表された拾遺詩篇21作品を収める。本稿では、 雑誌・新聞・書籍掲載用入稿原稿形、 初出雑誌・新聞・書籍掲載形、 《ポール・クレーの食卓》(書肆山田、1980)掲載形、《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)掲載形のうち、からまでの詩句を校合した本文とその校異を掲げた。これにより、吉岡が詩集《ポール・クレーの食卓》各詩篇の初出形本文にその後どのように手を入れたか、たどることができる。本稿は印刷上の細かな差異(具体的には、漢字の字体の違い)を指摘することが主眼ではないので、シフトJISのテキストとして表示できる漢字はそれを優先した。なお、漢字が新字の本文の新字以外の漢字は、シフトJISのテキストで表示可能なかぎり、校異としてこれを載録した。初めに《ポール・クレーの食卓》各本文の記述・組方の概略を記す。

雑誌・新聞・書籍掲載用入稿原稿:おそらく陽子夫人の手になる詩集掲載用入稿原稿とともに2010年12月の時点で未見だが、漢字は新字、かなは新かな(拗促音は小字すなわち捨て仮名)で書かれたと考えられる。

初出雑誌・新聞・書籍:各詩篇の本文前に記載した。本文の表示は基本的に新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用なので、特記なき場合はこれを表わす。

《ポール・クレーの食卓》(書肆山田、初版は1980年5月9日〔校異の底本には最終増刷本である1980年6月9日発行の「再版」を使用した〕):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、五号〔散文詩型の部分では19字詰と20字詰〕10行1段組。

《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ〔散文詩型の部分では19字詰と20字詰〕19行1段組。なお《吉岡実全詩集》の底本は 《ポール・クレーの食卓》。
詩篇の節番号のローマ数字およびアステリスクの位置(字下げ)は最終形を収めた《吉岡実全詩集》に倣って三字下げに統一し、字下げは校異の対象としなかった(行ドリはローマ数字・アステリスクとも《吉岡実全詩集》では二行中央だが、これも校異の対象外とした)。《吉岡実全詩集》で制作年代を「1959〜1980」と記しているのは、以下の記載からも明らかなように、「1957〜1980」が正しい。なお〈吉岡実詩集本文校異について〉を参照のこと。


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《ポール・クレーの食卓》詩篇細目

  詩篇標題(詩集番号・掲載順、詩篇本文行数、初出《誌紙名》〔発行所名〕掲載年月日(号)〔(巻)号〕)

ポール・クレーの食卓(I・1、37行、《現代詩》〔緑書房〕1957年5月号〔4巻4号〕)
サーカス(I・2、45行、《實存主義》〔理想社〕1958年9月〔15号〕)
ライラック・ガーデン(I・3、40行、《今日》〔書肆ユリイカ〕1958年12月〔10号〕)
唱歌(I・4、17行、《朝日新聞》〔朝日新聞東京本社〕1959年7月26日〔26404号〕)
夜会(I・5、11行分、《讀賣新聞〔夕刊〕》〔読売新聞社〕1959年9月28日〔29776号〕)
斑猫(I・6、30行、《詩学》〔詩学社〕1960年1月号〔15巻1号〕)
(I・7、13行、《讀賣新聞〔夕刊〕》〔読売新聞社〕1961年10月5日〔30512号〕)
晩春(I・8、4行、《いけ花龍生》〔龍生華道会〕1962年6月号〔26号〕)
塩と藻の岸べで(I・9、22行、《花椿》〔資生堂出版部〕1962年6月〔7月号・13巻6号〕)
九月(I・10、23行、《北海道新聞〔夕刊〕》〔北海道新聞社〕1964年9月7日〔7930号〕)
家族(I・11、10行、《文藝春秋》〔文藝春秋〕1966年3月号〔44巻3号〕)
春の絵(I・12、13行、《讀賣新聞》〔読売新聞社〕1967年2月5日〔32455号〕)
スイカ・視覚的な夏(I・13、15行、《讀賣新聞〔夕刊〕》〔読売新聞社〕1968年8月19日〔33015号〕)
花・変形(I・14、U節18行、《いけばな草月》〔草月出版部〕1966年5月〔53号〕)
鄙歌(I・15、26行、《文學界》〔文藝春秋〕1969年12月号〔23巻12号〕)
紀行(I・16、18行、《旅》〔日本交通公社〕1977年8月号〔51巻8号〕)
影の鏡(I・17、11行、山本美智代オフセット版画集2《銀鏡――MIRRORING》〔アトリエ山本刊〕1976年12月5日)
生徒(I・18、5行、〈片山健個展〉パンフレット〔かんらん舎〕1979年9月10日)
人工花園(I・19、*印で4節に分かつ40行分、第一回三人展記念《ALICE IN FLOWERLAND――花の国のアリス》〔未生流中山文甫会刊〕1976年2月4日)
(I・20、20行、《讀賣新聞〔夕刊〕》〔読売新聞社〕1980年1月25日〔37177号〕)
ツグミ(I・21、29行、《蘭》〔蘭発行所〕1980年3月号〔100号〕)

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ポール・クレーの食卓(I・1)

初出は《現代詩》〔緑書房〕1957年5月号〔4巻4号〕二一ページ、本文9ポ23行2段組、37行。

孤独な心になじみの物は
一度はすべて固い光の形を解いて
人の住まぬ暗い家にはいり
尊大な金属のかげに
いきいきとした像をむすび
ささやかに屯する
このせまい室内のおくでは
フォークはなえた草のように生え
唇をうしなったグラスは宙にかたむき
にがい酒はながれる
腸詰の皮と骨ばかりの魚は沈む
俯瞰することのできない水の市に
とりのこされた布の断崖
猫がちらりと見上げる
暗い光線をだいているおもみで
からの罎は立っている
卓の上に棲みついて独り
だれだって立っているということがさびしくなる
しぜんにほそいくびになる
招かれないので
朝から晩まで戸口の隅に
つぼまったまま滴をたらしている雨傘
卓のまわりは椅子が寄り
皿や器が集ってくる
そのなかには無益にも食いあらされた皿もある
そ〔(ナシ)→23れ〕にもまして哀しいのは汚れない皿
棚のうえに重〔(ナシ)→23な〕り重〔(ナシ)→23な〕り
そのまま夜はバターの下でひびかない
こころなごむ宴も終りちかく
母のふくらむ腹をした
塩の壺のなかから
声がでてくる
応えがないのでまたもとのところへ戻る
永遠に拭く人の現われぬ食卓
四方から囲〔こ→23(トル)〕む
白いかべはたった今
海をのんだのかひっそりとして

サーカス(I・2)

初出は《實存主義》〔理想社〕1958年9月〔15号〕三〇〜三三ページ、本文五号12行1段組、45行。執筆者名の後に「一九一九年東京に生る。筑摩書房勤務。詩集『静物』。」とある。

小さな街には小さな火事があり
樽と風を入れる場所がある
そこでガリ氏はぬけめなく
サーカスを開催する
大きな土色の心臓の真〔(ナシ)→23ん〕中に
最初の太い鉄の棒をつきさす
ガリ氏の凍えた血や皮膚がうごき
極彩色の天幕をはりめぐらす
急に明るみにさしだされた
臓腑や膀胱は
悲しいラッパ クラリネットの類
ガリ氏のほそい手足は
繩→23縄〕とびの上手な猿
となりに眠る女の臀部
炎の輪をくぐりぬけてゆく
光る馬
興行主の娘だけが
全体のからだを賭ける
それで一座の花形玉乗り
ぐるりに眼玉の観客を呼び入れよう
猫の眼玉も賑やかに光らせよう
ガリ氏たちの深刻で猥雑なサーカス
子供たちには眼の毒だ
両親の間に眠らせる
開幕時間が迫ってきた
見物人が来ない
着飾った男女が来ない
枯葉や骨になったものたちが集まるばかりだ
そして次々と暗いさじきへのぼっている
陰気な天幕のサーカスでは
ラッパも息がぬけて出る
太鼓は盲腸の手術
叩く手がすべる
骨についてきた少しの毛の端が
くすくす哄いだす
何も始まらぬ前から嗤われてはおしまいだ
天幕の外の寒い星のなかへ引込んでくれ
ガリ氏は精〔魂→23根〕つきて
心臓の鉄の棒によりかかる
玉乗り娘は切符売と逃げてゆく
女は完全な馬になって
敷藁の上に倒れてしまう
これが終演〔23!〕
つぶれた天幕をひきずる
雨のなかの道化師はガリ氏一人でたくさんだ

ライラック・ガーデン(I・3)

初出は《今日》〔書肆ユリイカ〕1958年12月〔10号〕一八ページ、本文8ポ23行2段組、40行。

   〔バレー〈ライラツク・ガーデン〉より→23(トル)〕

紫のいろは夜のみつぎもの
すべての音楽が沈みやすいように
すこしずつ泡だちながら
庭から星を消す
それはまわりのライラックの花咲く頃
石の像はささやかれる
嫉妬にも愛にも
抽象的な倦怠をかたどる
欠けた耳をたれたまま
そのかげから
美しい妻はいざなわれる
心をぬれた鳥がかけぬけ
不倫の腰帯 橙色の男のうでのなかで
純粋な恋の跳躍
ただいちどしかできない角度
かんらんの枝のおもみで女は支えられる
喜ばしい罪の肌着のひと裂き
なやましい絹の足がまじわるとき
髯の男この〔舘→23館〕の主はとびだしてどなる
かけだす犬 ランプをまもる猫たち
髯の男は欲情の大きな輪をひろげてゆく
花〔と→23の〕破綻の中心に
おのれの情人たる緑の着物の女をよこたえる
咲きそびれたライラック以外の花の
めざめる声をききながら
下男は玩具の猿の踊り
女中は玩具の蛇の踊り
ライラックの花のしげみで
まっちをするな
夜鶯を鳴かすな
舘→23館〕のろうそくのひかりを蠱惑する海辺の風を
ことごとくまねきいれる
ひだの多い美しい妻の裳で
愛をいつわる女の乳房のふかさを石にきざみ
秋の海の反響はかすかになってゆく
いまは人物も不在の庭の空を
夜鶯も鳴き過ぎる
他の種の花も匂いだす
狂ってのぼる黄色い月は
近〔ず→23づ〕く朝のみつぎもの

唱歌(I・4)

初出は《朝日新聞》〔朝日新聞東京本社〕1959年7月26日〔26404号〕一七面、本文新聞活字一倍扁平、17行。初出標題「牧歌」、初出「え 南大路[みなみおおじ]一[はじめ]」。本文の後に「(「今日」同人)」とある。

男は不足なものをさがす
夏の植物が少年たちと絡みあう
薄明の世界から出る
ある愛の生きながらえている邦へ
古代の氷山を背景にして
こわれた軍艦がひもで岸につながれる
雨と光熱のありあまる港
異端の音楽を聴く
男は見なければならぬ
他の人がひとりもいない真昼の首都
窓わくの奥のうごかない海のなかで
おぼれるリボンの輝き
すべての毛をぬぎさった
ひとりの少女をめざめさせるため
男は小声で祈り
シナの墨でぬられたフカの腹を裂く
美しい汗の夜のはじまり

夜会(I・5)

初出は《讀賣新聞〔夕刊〕》〔読売新聞社〕1959年9月28日〔29776号〕四面〈詩とデッサン〉、本文新聞活字一倍扁平19字詰1段組、10行分。初出「え 加山[かやま]又造[またぞう]」。

母が今夜うんだ卵をだく少年は 眼をふせたまま 死せる魚の口へ 首から下をとじこめられる 父は文明人種の特質を発揮し〔(ベタ)→23(全角アキ)〕舟板の上で可憐な少女の緑の髪を〔解→23梳〕く 口臭を放ちながら ついでに蝋の結晶した星を 定規で組立てた天体へ置く 魔性の家族のさびしい夜会 夏の果物のなかの種子も浮遊する 彼らが未知の現実を会得するためには 苦い心で水銀の運動をくりかえさねばならぬ 夢の体系を失う暁まで

斑猫(I・6)

詩篇〈斑猫〉初出形への吉岡実の手入れ〔吉岡家蔵スクラップブックのモノクロコピー〕
詩篇〈斑猫〉初出形への吉岡実の手入れ〔吉岡家蔵スクラップブックのモノクロコピー〕

初出は《詩学》〔詩学社〕1960年1月号〔15巻1号〕八一ページ、本文9ポ18行2段組、30行(〈詩篇〈斑猫〉の手入れ稿〉参照)。

わたしの記憶の
ほしいままな〔る網目→23(トル)〕
その〔想像の→23(トル)〕石組みの柱の向う
噛みくだかれた花々の〔修羅→23茎〕の〔極み→23下に〕
ひとりの少女がいるらしく
死んだとは信じられぬ拡りをもつ髪
立〔つ→23っ〕ているのでなく
坐せるでもなく
ゆるやかに持ちあげられた
水のなかの腕
そのときから円いへそのなかに棲む〔斑猫→23ハンミョウ〕
また豊かに二つに分けられる乳房
圧せられて眠りにおちている
耳たてた虎
硬いひげにおびえる男たち
わたしもいまそのひとりなのか
真紅のひとでに染められて微笑する
藪→薮→藪〕のおくの唇
少女の着ているものはレースでなく
深海の波でなく
休止符にうずまる音楽
覗かせぬ下半身
少年と見まごう小さなあくび
大きな眼のなかをたえず
狩猟蜂がとびまわる
わたしが近づくため
腋毛から異体の血がながれ
男の枯れた茎の髄へたまる
歩みよる冬
燃える案山子を見た

(I・7)

初出は《讀賣新聞〔夕刊〕》〔読売新聞社〕1961年10月5日〔30512号〕五面、本文新聞活字一倍扁平1段組、13行、村野四郎〈現代詩のわかりにくさ――それは精神文化の流れとともにある〉の文中に罫囲みで掲載。

案内図がある
低い柵のまえに
まず横から そして正面から
よく見よ
蜂が旋律本能から死んでいくのを
力で〔(ナシ)→23は〕なく響き
全部の窓のレースに斑ができる
心のなかで〔(ナシ)→23は〕なく
貯蔵庫へたくわえられる髪の毛
そのなかを沈んで行く星
反対に浮び上る卵
霧の〔今日から→23はれてゆく〕森の空で
大きな斧がゆっくり上向く

晩春(I・8)

初出は《いけ花龍生》〔龍生華道会〕1962年6月号〔26号〕二ページ〈四行詩〉、本文16級ゴチック1段組、4行。初出「絵・堀内規次」、初出時〈理解のいとぐち〉〔無署名〕を付す。

理解のいとぐち
なぜだか、なにかしら、悩ましい。人々は時々そんな経験をする。理屈で考えてもよくわからない。しかし、理屈のとどかない多くのものでなり立っているのが、人間、ことに複雑な現代の、人間だ。その理屈の底に横わる暗くて奥深い世界、そこへ直観のゾンデやメスをいれるのが、現代詩の役割の一つだ。この詩には晩春の悩ましさがエロティックな生きものとして見事に生けどりされている。
詩人吉岡実は、独特な軟体動物的官能力と直観力で現代の最深部のドラマを造型する超現実主義的詩人の第一人者。H賞受賞者。画家堀内規次は、現代人の心象風景を柔軟で洗煉された感受性のカンバスの上で抒情する暢達な作風の第一線作家。「同時代」所属。

ぼくは赤面する
水にぬれたことのない〔肉→螢→蛍〕色の月がのぼるとき
暗い甲板をすべって行く ぼくの花嫁の後姿を見ながら
水母の巣へ戻りたがっている波を感じる

塩と藻の岸べで(I・9)

初出は《花椿》〔資生堂出版部〕1962年6月〔7月号・13巻6号〕五ページ、本文9ポ1段組、22行。初出「画・脇田和」。

雨後の首府
春から夏にかけて
多くの髯を剃る男たちの中から
ぼくが半病人のひとりの少女を救うとき
洪水をながれる花と動物の頭
よろよろのぼる稲妻を見る
ぼくも少女もそのとき
幼児の発言を聞いたと信じる
不滅の不幸・不滅の愛
うごかぬ化石の背景
それは星の下で絹のように黒く
ひとつの卓子から地球の周囲まで
同時に蔽〔う→23っ〕ている
いまぼくに本当の恋情がめざめ
あらゆる海溝のひとでが真紅に輝くとき
ぼくの記憶の妻は灰色の長い縞の布としてたれる
少女のひめやかなあくび
くりかえす生きる悦び〔!→23(トル)〕
それはぼくをつつむ薔薇色の繭
悩ましい水母の冷感のうちで
少女の脚が恐しく長いとさとる
宗教的な塩と藻の岸べで

九月(I・10)

初出は《北海道新聞〔夕刊〕》〔北海道新聞社〕1964年9月7日〔7930号〕五面、本文新聞活字一倍扁平1段組、23行。執筆者名の後に「(現代詩人会会員)とある。初出「え 田畔司朗[たぐろしろう]」。

岩棚が見える
さらに多くをのぞんだら
冷たい霧の沖も見えてくるだろう
そんな悲劇的な塩の上で
蛸〔(たこ)→23(トル)〕がうまれる
つぎには
血のないあらゆる袋が浮ぶんだ
もしかしたら
楕円の中ではなく
美しい夏ではなく
ぼくたちの愛をたしかめる
ここはつつしみ深い所ではないだろう
精神上の理由で
ぼくたちは一羽の秋の燕をみつける
砂とともにすべる
伽藍〔(がらん)→23(トル)〕の船の底
ぼくたちの力が眠り草をめざめさせたとき
まさに近親相姦の朝焼だ
標的のかげの太陽の下では
ぼくたちには見える
死んだ鴎と同数の花嫁
そして感じる両棲類の体温を
いつまでも〔これから→23(トル)〕

家族(I・11)

初出は《文藝春秋》〔文藝春秋〕1966年3月号〔44巻3号〕八七ページ、本文8ポ1段組〔コラム〕、10行。作者名は「吉岡實」。

ぼくは生まれる
ところをえらばずに火事の家で
やがて水平になってゆく
板の下の聖なる母
ぼくと同時に生まれたのはなに?
水→23くらげ〕・貝・それともソーセージ
ぼくの観念がかわる
死が円みを意味するとしたら
二つにわれた冬瓜をかかえ
聖なる父が家を出るのを見て笑う

春の絵(I・12)

初出は《讀賣新聞》〔読売新聞社〕1967年2月5日〔32455号〕一八面、本文7.5ポ1段組、13行。本文の後に「大正八年東京生まれ、筑摩書房取締役。昭和三十四年詩集「僧侶」で第九回H氏賞受賞。日本現代詩人会員、鰐の会同人。」とある。

梨〔[なし]→23(トル)〕の畑で
キラキラ→23きらきら〕輝くのは
カタツムリ?
それとも死んだ兵士の心?
ぼくたちが家畜小屋から眺〔[なが]→23(トル)〕める
奇妙な世界の絵は
円で造られた黒
その焦点を泳ぐスワン
天気はどうか?
春は→23(トル)〕ある種の〔(改行)→23(追込)〕
水生植物を下の方へつけ〔(ナシ)→23る〕
黒人の歯のなかへ〔(追込)→23(改行)〕〔(ナシ)→23春の〕蝶〔[ちよう]→23(トル)〕を
少女が捕えに行く

スイカ・視覚的な夏(I・13)

初出は《讀賣新聞〔夕刊〕》〔読売新聞社〕1968年8月19日〔33015号〕七面〈八月のうた〉、本文新聞活字一倍扁平1段組、15行。初出「写真・橋本彰禧記者」。

スイカを割る
今晩八時ハーン〔!→23(トル)〕
肉色の姉妹
肉色のスイカの四分の一の円
恋する二匹の猫
高いヘイから見おろす
肉色の月は明晩どこに出るかね?
肉色をえぐるサディストのサジの先
紳士は見つけるだろうか?
さびしい家
さびしいスイカのタネ
歯型のある青い皮〔!→23(トル)〕
この世界には見とどけられぬものが多い
甘い汁でふとるふとる
肉色の姉妹の老婆

花・変形(I・14)

初出は《いけばな草月》〔草月出版部〕1966年5月〔53号〕三二ページ、本文9ポ〔漢字:ゴチック、かな・カナ:アンチック〕11行2段組、U節18行。

   T
沼地の岸から戻ってくる
ひとりの老婆を見たことがある?
黄色いアイリスの咲く
ぼくらの内的構図へ
赤い赤ん坊をうみにくる
ひとりの老婆のたのしげな唄声
枯木・枯葉の楽園で
馬蹄形の星が
あらゆる色のなかの赤を輝かせる
   U
砂浜の滑り台をすべってゆく
ひとりの老婆を見たことがある?
五→23四〕つ葉のクローバーがかこむ
微視的な日の出
髪をとくそれは老婆でなく
匿名の若い母親
赤い赤ん坊がたらしている
よだれの向日性の夏
あらゆる色のなかの黄を輝かせる

鄙歌(I・15)

初出は《文學界》〔文藝春秋〕1969年12月号〔23巻12号〕九ページ、本文9ポ13行2段組、26行。初出標題「ヘアー」。カットあり。

わたしの好きな常套句〔の引用→23(トル)〕
ヘアー〔の下の果実→23(トル)〕
ヘアー〔(ナシ)→23の森〕
そこでは〔恐怖の→23ふらちな〕麩を煮つめて
ヘアーの黄金→23通草〕の下で身もだえする〔恋人→23乙女〕
枯木のかげ〔へ→23に〕入り
ヘアー →23(トル)〕かみにくい皮を噛〔み→23む〕
固い函で未熟なイチゴをかこむ→23野ずえの川で〕
部分からその全体が現われるまで
甲冑を洗え!
そこにはどんな〔形態の蛇が赤い舌を出す→23先祖の悪霊が浮び出る?〕
あるいは砂かむりで→23(トル)〕
花咲く母の吸盤が見えるか?→23(トル)〕
ヘアーの夕焼
まさに淋しいドラムカンを叩〔く旅→23き〕
股→23(トル)〕旅人〔が来る→23は去る〕〔(追込)→23(改行)〕水路から道路へ
雪ふる舟 来る車
それから父離れの幼児は死出の→23朱の鳥居をくぐり〕
天翔ける〔種子→23乙女〕
ヘアー
次に→23(トル)〕わたしに確認できるのはなに?
傾斜→23風景〕とはいかなる位置から測ればよいのか〔ね→23(トル)〕
ヘアー→23石塔〕の下でなく疾走する車の下で
塩のように新鮮に
(ナシ)→23ヘアー〕
見れば見るほど大きい
わたしの恋人 〔反処女!→23死兎〕

紀行(I・16)

初出は《旅》〔日本交通公社〕1977年8月号〔51巻8号〕一四〇ページ〈今月の詩〉、本文20級ゴチック1段組、18行。初出写真キャプション「水納島(沖縄)'76「旅」写真コンテスト最優秀作品 カメラ 三笘正勝」。

胡桃のように
反→23軋みつつ〕回転するわれわれの地球儀
その上を滑りつづける
白い→23朝の〕波
海胆
「ヴィーナスは青い海に立つ波〔(追込)→23(改行)〕の真白い〔(改行)→23(追込)〕
泡から生まれた」
という神話をわたしはいまでも好きだ
この世の最初の淫らな形をした
古代人が崇拝する
〈蛇の卵〉
すなわち子宮の表徴〔(ナシ)→23のしたたり〕
緑柱石の洞窟の水から
夏の夕暮れ
わたしは抜け出し
そして見つける
突堤の納屋のなかでブランコして
いる白い水着の女〔(ナシ)→23を……〕

影の鏡(I・17)

初出は山本美智代オフセット版画集2《銀鏡――MIRRORING》〔アトリエ山本刊〕1976年12月5日、六ページ、本文12級1段組、11行。

観念をまもるために
死や呪いとさえ手をにぎるだろう
わがアミエルの憂愁
たとえ〈鏡〉の影の世界〔の→23(トル)〕
(ナシ)→23の〕できごとであったとしても
「女たちが食べたり 飲んだりする
ことが耐えられない」
この瞑想者の精神のやすらぐ
仮の宿りとは
「すべてが消えさり 分解する」
〈星布〉のなかに……

生徒(I・18)

初出は〈片山健個展〉パンフレット〔かんらん舎〕1979年9月10日、〔二〜三ページ〕、本文7ポ1段組、5行。初出時標題なし。初出に絵・片山健「「美しい日々」より 1969」(〈吉岡実と片山健〉参照)。執筆者名の後に「(詩人)」とある。

木造の古い小学校の便所の暗がりで
女生徒は飛びあがりつつ小水をするんだ
もし覗く者がいるなら それは虎の〔假→23仮〕面をかぶった神
男生徒は夏の校庭を影を曳きながら 歩きまわる
半ズボンの間から 回虫を垂らしつつ 永遠に

人工花園(I・19)

初出は第一回三人展記念《ALICE IN FLOWERLAND――花の国のアリス》〔未生流中山文甫会刊〕1976年2月4日、一〇四〜一〇七ページ、本文12ポ25字詰13行1段組、*印で3節に分かつ34行分。

(天ツキ)→23(一字サゲ)〕農家の納屋に人々はどうして最初に入らなければならないのか? この大地で生きる人間なら〔、→23(トルアキ)〕そこがもっとも自然な入口である〔。→23(トル)〕
(天ツキ)→23(一字サゲ)〕干草のつまれた上に寝ているのは〔、→23(トルアキ)〕家畜じゃなくて〔、→23(トルアキ)〕アリスのすてていった人形たちと赤錆のストーブ〔、→23(トルアキ)〕馬鍬〔。→23(トルアキ)〕では首の太い牡牛の灰色のがんじょうな姿は〔、→23(トルアキ)〕どこへ行ったのだろう〔。→23(トルアキ)〕とるこききょうの咲く野を越え〔、→23(トルアキ)〕がまの穂や羊歯の生い茂る沼地へ行ったのかも知れない〔。→23(トルアキ)〕なぜなら〔、→23(トルアキ)〕人々の妄想の鏡のなかで〔、→23(トルツメ)〕すでにアリスの靴や靴下そして下着まで濡れているんだ〔。→23(トル)〕
(天ツキ)→23(一字サゲ)〕アナナス〔、→23(トルアキ)〕アロエ〔、→23(トルアキ)〕アンセリウム――この人工の楽園へ〔、→23(トルアキ)〕人々はアリスより先にたどりつけるだろうか〔。→23(トル)〕
   *
(天ツキ)→23(一字サゲ)〕人々は枯草色の道草の迷路をたどって行くと〔、→23(トルアキ)〕ものの熟れた香りでめまいを感じて立ちどまる〔。→23(トルアキ)〕そしてじぶんの肉体がさかさまでないのでうしろめたくなる〔。→23(トルアキ)〕なぜならば〔、→23(トルアキ)〕人々は生まれて初めて〔、→23(トルアキ)〕空そのものを足で踏んでいるんだ〔。→23(トルアキ)〕生物学的な感触では〔、→23(トルアキ)〕ビニール袋の上を歩いているようだ〔。→23(トルアキ)〕見あげる天井は暗く〔、→23(トルアキ)〕燕麦や大麦の穂がびっしり生えそろって〔、→23(トルツメ)〕垂れている〔、→23(トルアキ)〕垂れる大地〔。→23(トル)〕
(天ツキ)→23(一字サゲ)〕青空に咲く花〔、→23(トルアキ)〕マグノリア〔、→23(トルアキ)〕とりかぶと〔、→23(トルアキ)〕メリネ〔、→23(トルアキ)〕グロリオサ〔、→23(トルアキ)〕ブバリア〔。→23(トル)〕
(ナシ)→23   *〕
(天ツキ)→23(一字サゲ)〕禁欲的な時間とは〔、→23(トルアキ)〕たとえていえばこんな水底をのぞく時を云うのではないだろうか〔。→23(トルアキ)〕沼の岸べでは〔、→23(トルアキ)〕花が花を抱き〔、→23(トルアキ)〕水泡が水泡を抱きかかえて〔、→23(トルアキ)〕水面まで浮〔び→23き〕上ってくる〔。→23(トルアキ)〕明滅する光と闇のなかで〔、→23(トルアキ)〕人は人を抱く〔。→23(トル)〕
(天ツキ)→23(一字サゲ)〕われもこう〔、→23(トルアキ)〕野ごま〔。→23(トル)〕
   *
(天ツキ)→23(一字サゲ)〕古代の聖人の言葉にこんなのがある〔。→23(トル)〕
(天ツキ)→23(一字サゲ)〕「人間というのはどうして〔、→23(トル)〕
(天ツキ)→23(一字サゲ)〕のぞきが好きなのだろう」
だから人々は人生の旅の終りに〔、→23(トルアキ)〕巨大なる〔野→23(トル)〕イチゴを見つけて〔、→23(トルアキ)〕てっぺんの小さな孔から〔、→23(トルアキ)〕その内部を覗くんだ〔。→23(トルアキ)〕なにが見える?
(天ツキ)→23(一字サゲ)〕アマリリス〔、→23(トルアキ)〕あかのまんま〔。→23(トルアキ)〕この憂き世で〔、→23(トルツメ)〕だれもがアリスを見つけるとはかぎらない〔。→23(トル)〕

(I・20)

初出は《讀賣新聞〔夕刊〕》〔読売新聞社〕1980年1月25日〔37177号〕九面、本文7.5ポ1段組、20行。

「父の手のうえに乗る
裸の猿」
その金毛の長い手が触診する
かまどの内側はつねに
炎の快楽の夜だ
掛かった大鍋でいつまでも
煮られている豆
「似たような事が起っている」
情緒てんめんと
ぼくの姉妹たちは開腹されて
「芯にある種子を
花咲かせる」
母はと見れば
魔除けの魚の頭や
ヒイラギの葉を飾り
神棚の燈明のゆらぐはるかな闇に属し
聖化しつつある
朝がくればぼくのはらからの
「汚れた夢は
冬の太陽の光に洗われる」

ツグミ(I・21)

初出は《蘭》〔蘭発行所〕1980年3月号〔100号〕二〇〜二一ページ、本文9ポ17行1段組、29行。

横向きの女の細い首のすぐわきから
跳び出してくる
犀や
ペリカン
わたしはそのような「背後のない表面」
だけのレオノール・フィニの絵が
なつかしい
「呼吸器音」が聴こえて
今朝は天人唐草の花が咲く
「忘却である空間」
たよりない煙がのぼっている
「岩盤の起伏した
曙の丘」
近づいて仰げば
あるいは淋しい虎がいる
かもしれない
わたしは羽枕をだきつつ
異国の諺を思い出す
「魚は頭から腐ってゆく」
たしかに
人も頭から燐化してゆく
「記憶である時間」
つるつる溶けるつららのつらなり
それは「聖具」のように輝き
「まるで少女期の秘密の
水脈に向って
呼び水する」
(ナシ)→23時は〕きさらぎやよい
ツグミは高い梢にとまって鳴く

――――――――――

吉岡実は単行詩集の初刊にあとがきを付けなかった。例外は《昏睡季節》(1940)に挿みこまれた〈手紙にかへて〉と《ポール・クレーの食卓》のあとがきだが、〈あとがき〉という標題は見えない。

 この小詩集は、今までの詩集に収録されなかった作品で成立っている。言ってみれば、拾遺集である。〈ポール・クレーの食卓〉、〈サーカス〉、〈ライラック・ガーデン〉の三篇は当然、詩集《紡錘形》に入るべきものであったが、作風が少し異なると考え、割愛したものである。ほかの詩篇は、小品であり、また甘く稚拙であるため、どこにも再録しなかっただけである。
 書肆山田・山田耕一氏の懇望に負け、二十数年に亘る小詩篇を探し出してきて、雑然と編んだものにすぎない。忸怩たる思いであるが、同氏との永い交流から生れた記念本ということでご理解いただきたいと思う。
 〈猿〉、〈ツグミ〉の二篇は、現在の詩境の作品である。ここしばらく詩を書くことも、まして詩集一巻を世に問うこともないので、あえて繰り入れ、末尾を飾ることにした。

   一九八〇・三・二九
                吉岡 実

吉岡の区分をなぞってみると、全21篇は次のようになる。――《吉岡実全詩集》(1996)の「ポール・クレーの食卓 1959-80」に倣って、発表時期からすればどの詩集に入るか、補記した(〈拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》解題〉参照)。

ポール・クレーの食卓――「僧侶 1956-58」
サーカス――「僧侶 1956-58」
ライラック・ガーデン――「紡錘形 1959-62」
   *
唱歌――「紡錘形 1959-62」
夜会――「紡錘形 1959-62」
斑猫――「紡錘形 1959-62」
霧――「紡錘形 1959-62」
晩春――「紡錘形 1959-62」
塩と藻の岸べで――「紡錘形 1959-62」
九月――「静かな家 1962-66」
家族――「静かな家 1962-66」
春の絵――「神秘的な時代の詩 1967-1972」
スイカ・視覚的な夏――「神秘的な時代の詩 1967-1972」
花・変形――「静かな家 1962-66」
鄙歌――「神秘的な時代の詩 1967-1972」
紀行――「夏の宴 1976-79」
影の鏡――「夏の宴 1976-79」
生徒――「夏の宴 1976-79」
人工花園――「サフラン摘み 1972-76」
   *
猿――「ポール・クレーの食卓 1959-80」
ツグミ――「ポール・クレーの食卓 1959-80」

これを見ると、いかに「紡錘形 1959-62」のころ多数の詩篇を書いたか、如実にわかる。また、新聞社からの執筆依頼に応えて書いた詩篇も数多い。これらはH賞受賞の影響が大きかろう。新聞社にしたところで、大家以外に詩を発注するとなると、賞の受賞者というのは安定感抜群である。最初の三篇、最後の二篇以外が「小品であり、また甘く稚拙である」という断案は、吉岡実にして二十行前後の新聞紙面では伸び伸びと普段の冒険ができなかったことを物語っている。詩集でいちばん手入れ箇所が多いのは〈人工花園〉(I・19)だが、句読点を取ってアキとする機械的な措置がほとんどで、意味に関わる手入れは「水面まで浮〔び→23き〕上ってくる」と「巨大なる〔野→23(トル)〕イチゴを見つけて」くらいだ。実際の手入れが多いのは〈ヘアー〉改め〈鄙歌〉(I・15)である。詩篇の初出形本文にどのように手を入れたかは前掲校異によってたどれるが、「改稿」の度合いが著しいので(吉岡が〈収録作品初出記録〉で「(改稿改題)」としたのは本篇のみ)、初出形と詩集収録形の双方を掲げる。

ヘアー|〔初出形〕

わたしの好きな常套句の引用
ヘアーの下の果実
ヘアー
そこでは恐怖の麩を煮つめて
ヘアーの黄金の下で身もだえする恋人
枯木のかげへ入り
ヘアー かみにくい皮を噛み
固い函で未熟なイチゴをかこむ
部分からその全体が現われるまで
甲冑を洗え!
そこにはどんな形態の蛇が赤い舌を出す
あるいは砂かむりで
花咲く母の吸盤が見えるか?
ヘアーの夕焼
まさに淋しいドラムカンを叩く旅
股旅人が来る水路から道路へ
雪ふる舟 来る車
それから父離れの幼児は死出の
天翔ける種子
ヘアー
次にわたしに確認できるのはなに?
傾斜とはいかなる位置から測ればよいのかね
ヘアーの下でなく疾走する車の下で
塩のように新鮮に
見れば見るほど大きい
わたしの恋人 反処女!

鄙歌|〔詩集収録形〕

わたしの好きな常套句
ヘアー
ヘアーの森
そこではふらちな麸を煮つめて
通草の下で身もだえする乙女
枯木のかげに入り
かみにくい皮を噛む
野ずえの川で
部分からその全体が現われるまで
甲冑を洗え!
そこにはどんな先祖の悪霊が浮び出る?
ヘアーの夕焼
まさに淋しいドラムカンを叩き
旅人は去る
水路から道路へ
雪ふる舟 来る車
朱の鳥居をくぐり
天翔ける乙女
ヘアー
わたしに確認できるのはなに?
風景とはいかなる位置から測ればよいのか
石塔の下でなく疾走する車の下で
塩のように新鮮に
ヘアー
見れば見るほど大きい
わたしの恋人 死兎

〔付記〕
本詩集の単行本の巻末(八六〜八七ページ)に掲載されている〈収録作品初出記録〉には、いくつか誤りがある。すでに各詩篇の本文前に詳細な初出記録を掲げたので、ここでは〈収録作品初出記録〉と原典を校合した結果を本文の校異と同様の書式で記し、誤記・誤植を正しておこう。なお〈ツグミ〉の掲載号は、初版の「四月号」が底本にした再版では「三月号」と訂正されている。

収録作品初出記録

ポール・クレーの食卓 〔ユリイカ版『吉岡実詩集』一九五九年→「現代詩」一九五七年五月号〕
サーカス 〔同右→「實存主義」一九五八年九月(十五号)〕
ライラック・ガーデン 〔同右→「今日」一九五八年十二月(十号)〕
唱歌 「朝日新聞」一九五九年七月二六日(改題)
夜会 「讀賣新聞〔(ナシ)→(夕刊)〕」一九五九年九月二八日
斑猫 「詩学」一九六〇年一月号
「讀賣新聞〔(ナシ)→(夕刊)〕」一九六一年十月五日
晩春 「〔(ナシ)→いけ花〕龍生」一九六二年六月号
塩と藻の岸べで 「花椿」一九六二年七月号
九月 「北海道新聞〔(ナシ)→(夕刊)」一九六四年九月七日
家族 「文藝春秋」一九六六年三月号
春の絵 「讀賣新聞」一九六七年二月五日
スイカ・視覚的な夏 「讀賣新聞〔(ナシ)→(夕刊)」一九六八年八月十九日
花・変形 「〔(ナシ)→いけばな〕草月」一九六六年五月 〔号→五十三号〕
鄙歌 「文學界」一九六九年十二月号(改稿改題)
紀行 「旅」一九七七年八月号
影の鏡 アトリエ山本「銀鏡」一九七六年〔九月一日→十二月五日〕
生徒 片山健個展案内状 一九七九年〔八月→九月十日〕
人 工花園 未生流作品集『花の国のアリス』一九七六年二月四日
「讀賣新聞〔(ナシ)→(夕刊)」 一九八〇年一月二五日
ツグミ 「蘭」一九八〇年三月号

〔2019年4月15日追記〕
吉岡実の生誕100周年(2019年4月15日)を記念して、〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉(小林一郎 編)〔A4判縦位置で印刷すると、約[293]ページ〕を新規ページとしてアップした。ただし、本サイトでは《〈吉岡実〉を語る》の一項目という位置づけのため、トップページの〈目次〉には掲出しない。


吉岡実〈うまやはし日記〉本文校異(2010年11月30日)

吉岡実の〈うまやはし日記〉は、初め 《現代詩手帖》1980年10月号〔増頁特集・吉岡実〕に発表された(1938年8月30日〜1939年9月9日の日記本文と〈付記〉)。その後、若干の字句の訂正を施しつつ、ほぼ初出形のまま随想集《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988年9月25日)に収載。最後に、これらを改訂増補した形で《うま やはし日記〔りぶるどるしおる1〕》(書肆山田、1990年4月15日)に収められた(1938年8月31日〜1940年3月6日の日記本文と〈あとがき〉)。本校異では初出形〈うまやはし日記〉に吉岡がその後どのように手を入れたかたどれるように、からまでの章句の異同を掲げた。初めに〈うまやはし日記〉各本文の記述・組方の概略を記す。
雑誌用入稿原稿形:2010年11月の時点で未見だが、漢字は新字、かなは新かな(拗促音は小字すなわち捨て仮名)で書かれたと考えられる(〈うまやはし日記〉の元になった「原・日記」は、漢字はおそらく旧字、かなは旧仮名、すなわち1940年10月刊の《昏睡季節》に挿入された〈手紙にかへて〉と同様の表記で書かれたか)。
雑誌《現代詩手帖》1980年10月号掲載形:本文の表示は新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用。同誌、五七〜六二ページ。8ポ20字詰27行3段組。
随想集《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988年9月25日):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用。同書、二五一〜二六四ページ。13級44字詰19行組。
《うまやはし日記〔りぶるどるしおる1〕》(書肆山田、初版第一刷:1990年4月15日、第二刷:1996年3月15日):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用。同書、〔一一〕〜七二ページ。9ポ25字詰15行組。なお、本校異の底本には第二刷を使用した。
煩瑣になるので校異の対象とはしなかったが、各本文での見出しの日付の表示は次のとおり。
:天ツキで見出しの日付(明朝体)、一字アキで日記の本文(明朝体)。
:一字下ゲで見出しの日付(ゴチック体)、一字アキで日記の本文(明朝体)。
:一行で見出しの日付(日記の本文よりポイントを下げたゴチック体)を一字分上げた下ツキで組み、改行して一字下ゲで日記の本文(明朝体)。
本校異では、見やすさとスペースを勘案して、見出しの日付はの体裁に倣った(ただし、ゴチック体をボールド体にしていない)。吉岡は処処、日記本文や見出しの日付に続けて( )内に曜日を記載しているが、参考のため、本校異ではすべての見出しの日付に続けて【 】内に曜日を補記した。また、本文の明らかな誤記・誤植は〔誤→正〕の形で校訂してある。
日記の本文中、『 』で括られたすべての書名・全86件(『 』のない万葉集・俳句歳時記も同様)にリンクを張って《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》の当該箇所と関連づけた。なお、全88件のうち重複するのは次の9タイトル――『一茶俳句集』『夜の歌』『ボヴァリー夫人』『箴言集』『春の岬』『ナナ』『和解』『リルケ詩集』『〔若山〕牧水歌集』――である。

――――――――――

 昭和十三年〔(ナシ)→23(一九三八)〕

 八月〔12三十→三十一〕日【三十一日は水曜日】 貯金帳(八十円)と退店手当(三十円)を貰う。五年間の小僧生活の哀しさ、懐しさ。店の連中と別れの挨拶。英子は「さようなら」の一言。葉子は「本当は好きだった」の謎めいた言葉。後輩二人と本郷三丁目の青木堂でコーヒーをのむ。皆に見送られ雨の中を、自動車に乗った。夕方、厩橋の家に着く。荷物が本ばかりなので、母は呆れた。

 九月〔12一→二〕日【二日は金曜日】 浅草を歩く。てんぷらの三定の隣りの玩具屋には、おもちゃが溢れている。子供のころこの店の前で、ゼンマイ仕掛の昆虫や刀を欲しがって、父母を困らせたものだ。ひょうたん池の樹の下で、鯉や緋鯉の遊泳を見た。

 〔12(ナシ)→ 九月三日【土】 日暮れ方から、母と砧村の家に出かける。途中、姉の家に寄った。ここは六、七年ぶりか。義兄英一郎さん、おばあさんと相性がわるく、父も兄も来ていない。祖師ヶ谷大蔵の村田家をたずねた。駅の辺から真暗で、虫の声がしきり。裏庭から入ったので、芳子さんが声をあげて驚く。母は話しがつきないのか、仲々寝ない。房坊、保坊と寝た。〕

 〔12(ナシ)→ 九月四日【日】 空は〔燈→澄〕んでいる。房坊と保坊をつれて、田圃へ蛙をとりに行く。麦の波。時おり蜻蛉が流れてゆく。小田急電車の響が聞えた。午後、東宝撮影所まで行く。そこは想像していた「夢のような世界」ではない。男優女優の姿さえわびしく見えた。夜、母と帰る。〕

 九月五日【月】 今日から佐藤樹光さんの家に身を寄せる。父が息子をよろしくと、挨拶に来た。気ままに勉強しながら、書塾を手伝うことになった。

 九月七日【水】 男二人の生活。炊事、掃除、買い出しをする。料理は樹光さんの担当だ。夕方、野菜と魚を買いに、北新市場へ行く。近所のおかみさん連で賑やかだ。若い男はひとりもいないので、恥しかった。

 十一月十四日【月】 塾に来る女の子に、初めのころは「お兄さん」と言われた。男の子にはうさんくさそうに思われた。やがて習字に朱筆を入れ、甘く朱丸をつけてやると、「先生」と呼ぶようになった。午後から夕方までに、二百人位来るようだ。『蟹工船』再読。

 昭和十四年〔12(ナシ) →(一九三九)〕

 一月一日【日】 二十歳すぎると、正月もつまらなくなる。古川英子よ何処でどのように暮しているのか――。『田園交響楽』『一茶俳句集』再読。

 某月某日〔12(日附不明)→(トル)〕 夕方より仮検査で本所区役 所へ行く。高等小学校のクラスメート山野辺、土切、中山、味形らがいる。初めは眼の検査だった。「眼がすんだ人は道具[、、]をすぐ出せるようにしときなさい」の声に、どっと笑いがひびく。「チンポコを握られるなんていやだなあ」。みんな無事通過す。蔵前通りの南屋でコーヒーをのみ、談笑して別れた。

 三月某日〔12(日附不明)→(トル)〕 『贋金つくり』読めどむずかしく、あきらめる。『闇の力』読み終る。次は『舞姫タイス』12(ナシ)→、 漱石の『心』〕。

 〔12(ナシ)→ 三月二十一日【火】 夜、神田の鈴蘭通りをぶらつく。カルコ『追つめられた男』と問題の排日小説『き もの』を買った。〕

 三月二十三日【木】 ひねもす万葉集を読む。

 三月二十四日【金】 夜、父も兄も不在のため、母に呼ばれて家に戻る。嫂のお産が今日明日となった。十一時過ぎ、自動車を探しに暗い通〔12(ナシ)→り〕へ出る。よっぱらいが二、三人歩いていた。病院へ向う母と嫂を見送る。風がまだ寒い。

 三月〔12二十五日・二十六日→二十五日〕【二十五日は土曜日】 朝早く母が帰ってきた。未だ生まれぬとのこと。夢香洲書塾に戻る。午後二時半、木工業の小林さんが、「女の子が生まれた」と知らせてくれる。傘を一本持っていくように頼まれた。飴玉をしゃぶりながら、横川橋を渡る。〔さんいく→賛育〕会病院の入口で、母に傘を渡して、亀戸の天神様のあたりを歩く。石炭舟にしとしと雨が降っていた。いつしか錦糸公園に来ている。ここで小学生時代よく運動会をしたものだ。

  樹々の芽の青みふくらむ公園の砂場の砂に雨しづかなり(姪葉子生れし日に)

 三月二十八日【火】 パニョル『トパース』12(ナシ)→、芥川龍之介の短篇の〕再読。『ドミニック』読みはじめる。母に女の子の名前を考えてくれと言われる。みなみ 敦子 葉子 伊勢〔12 普志子→(トル)〕など。

 三月三十日【木】 『マノン・レスコ〔(ナシ)→23ー〕』12(ナシ)→読み終る。マノン、マノン、シュヴァリエ〕。

 三月三十一日【金】 夕刻、このごろ気まずくなった佐藤さんと、蔵前橋通りの八千代館へ映画を見に行く。客は近所のおかみさん、子供、小僧、職工それにふんどしかつぎと〔12言→い〕ったところで雰囲気が好き。帰りそば屋で夕食をすませ、実家へ寄る。嫂は退院して、赤ん坊を抱いていた。

 四月一日【土】 窓の白樺の木が美しいみどりの芽を吹いている。夜の一階の書塾は、老若男女でいっぱいだ。便所に二階の居間から、恥しくて行けないので、時々、植木鉢で用をたす。『ワーヅワース詩集』『人形の家』『蕪村俳句集』

 四月二日【日】 夕暮どき、篠塚地蔵の前で、山野辺三郎と出会う。同級生の小沢が殺[や]られたとのこと。小学校卒業以来、小沢〔12みのる→稔(?)〕には会っていないが、噂では乾分数十人を持つ兄い[、、]だったらしい。可哀そうな気がした。奴の姉は美人だった。

 四月三日【月】 雨。朝から本郷座へ行く。「望郷」のジャン・ギャバンは素晴しい。となりの女学生も泣いていた。外は寒くふるえた。南山堂へは寄らず、赤門まで散歩。夜、ジイド『コンゴー紀行』を読む。一時間ほど習字。

 四月六日【木】 中村葉子から手紙がきた。慕ってくれているらしい。Kとの恋はどうなったのだろうか。窓の外は雨。父もだいぶ老いた、一日も早くつとめ[、、、]をやめさせること。夜、〔12作歌にふける→『ク レーヴの奥方』を再読し、典雅な雰囲気に酔う〕。

 四月〔四→23八〕日【八日は土曜日】 土曜日なので、お習字の子供は午前中で帰る。北川作子がいちばん愛くるしい。午後遅くから隅田公園を散歩。墨堤の桜の木の枝に、蕾が赤らんでいる。真赤な夕陽が灰色の雲のふちを金色に染め、待乳山聖〔12殿→天〕の屋根へ沈んで行く。
 〔(ベタ)→23(一行アキ)〕
 〔12(ナシ)→ 四月九日【日】 墨堤はもう桜の花ざかり。言 問橋の上から、白い富士がくっきりと見えた。夕方から、東京病院に入院中の鈴鹿の叔母を見舞いにゆく。付添いは千代ちゃんだ。しばらくおしゃべり、七時に帰った。〕

 四月十六日【日】 花曇り。日曜日なので、ぶらりと駒形橋を渡って浅草へ。染め〔(ナ シ)→た〕黒が褪めたグラニットの上衣、虫喰いの 穴のあるセエ〔12ー→(ト ル)〕ター、膝がぬけた鼠色のズボン、汚れた靴。大道の蛇屋の能書を聞く。隅田川を潮干狩の舟〔12か花見の舟→(トル)〕がゆきかっていた。鳩が夥し く飛んでいた。

 〔12(ナシ)→ 四月十七日【月】 ジャム『夜の歌』を読む。『北ホテル』を 読み初める。めんめんたる哀調のチャルメラを吹き、飴売 爺さんが、この 横丁を通って行った。〕

 〔12(ナシ)→ 四月十八日(火曜)【火】 葉ざくらの墨堤。 公園の池で、どじょうをハンカチですくっている青年。心やすまる光景。帰りは待合ばか りの須崎町を通る。朝がえりらしい芸者さんがキラキラ光るドレスの裾を、ひきずって歩いていた。一日中、課題の半紙六字の清書を書く。〕

 四月十九日【水】 紅雀のようにお喋りする少女庄司和子。この子だった「お兄さん」と言ったのは。お母さんが来て、今日限り塾をさがらせるとのこと。女 学校の進学の勉強をするためらしい。ドストエフスキー『貧 しき人々』読 み続ける。夜、家に寄ると、父は相変らず畳の上にごろりと、うたた寝をしていた。

 四月二十一日【金】 洗濯。久しぶりでひっぱり出し、「新短歌」に目をとおす。あとは『月下の一群』。夜、家に行く と、母が茹卵をくれた。茹卵を食べる と、不思議に桜の花が浮んでくる。

 四月二十二日【土】 けぶる春雨。なぜか佐藤さんは、昔の流行歌を口吟む。きっと亡き妻まさ子さんを想い出しているのだろう。

  窓に凭り指で硝子に字などかく昼の春雨ひとの恋しき

 〔12(ナシ)→ 四月二十三日【日】 恋猫が泣いている。 しず かな雨。家に寄ると、母のぐちを聞かされる。赤ん坊が産れて、なにやかやの出費が二百 円だと言う。小遣いを貰いそびれる。帰り、魚清で買物、鮭二切れ。樹光さんは銀座に出かけた。吾妻橋の上にたたずむ。ポンポンと鳴らしながら、一銭蒸汽舟 が時折り通る。浅草の清水屋書店で、岩波文庫『河 童』『その妹』を 買った。帰りは駒形橋を通った。〕

 〔12(ナシ)→ 四月二十五日【火】 との曇り。樹光さん 女子 学校へ教えに行く。詩想にふける。ガルシンの諸短篇を読む。〕

 〔12(ナシ)→ 四月二十六日【水】 春の大掃除。二食主義だ から、昼飯時でもふたりは働く。夜、富士館で「土」を見る。すばらしい田園詩。〕

 四月二十七日【木】 はげしい春雷。稽古に来ていた女の子は手で耳をふさぎ、お習字どころではなかった。子供たちの傘や靴の下足番をしながら、『花樫』『野原の郭公』を読む。夜八時過 ぎ、八百金にほうれんそうを 買いに行き、帰りに家に寄る。襖のむこうから父の寝息が聞える。間もなく母が戻った。出征者 を見送ってきたとのこと。おこわを食べさせてくれた。

 〔12(ナシ)→ 四月二十八日【金】 夜、けん坊に会うた め、 樹光さんは盛岡へ帰った。上野駅には出征兵士がかなりいた。頭痛と寒気。早目に寝 る。〕

 〔12(ナシ)→ 四月二十九日【土】 晴。天長節。樹光さんに 代って神棚に燈明をともし、炊きたてのごはんを供える。家の前に国旗を掲げた。出張か ら戻った兄とトコロテンを食べる。夜、金光亭へカツライスを食べにゆく。遠く浅草の灯。〕

 四月三十日【日】 頭痛。気晴しが必要だ。言問橋を渡り、二天門をくぐって浅草寺境内に入る。鳩が青々と茂った銀杏の木の上をとんで〔12(ナシ)→い〕た。「笑いの王国」 を観る。梅園かほるふけ[、、]て淋しい。タコ清でタコとサザエを食って、久しぶりに吾妻橋を渡って帰る。夜、寝ながら本を見ていると、玄関で音がした。 父が立っている。二、三日顔を見せないから、躰でもわるい〔(ナ シ)→の〕かと思って来たそうだ。

 〔12(ナシ)→ 五月一日【月】 午後二時頃、お習字の子供た ちが来る。なぜか女の子の多くは着物で現われる。妙になまめかしい空気が漂う。夕方、 片づけをすませ家にゆく。兄貴が小遣い一円くれた。夢香洲書塾に戻ると、樹光大人は帰っていた。啄木の短冊や郷土玩具の馬のおみやげ。夜、『桃の雫』を読 む。〕

 五月二日【火】 ラ・ロシュフコー『箴言 集』『ボヴァリー夫 人』。今日こそはと思っても、何も書けない。短歌が 二つほど。虞世南を臨書。

 五月三日【水】 空には鯉のぼり。佐藤家の小さな床の間に、太刀と人形二つが飾られた。遠く盛岡へ里子に出している、幼児〔12ケン→け ん〕ちゃんの ためだ。いささかセンチになる。夜、理髪屋へ〔12(ナ シ)→ゆ く〕。

 〔12(ナシ)→ 五月四日【木】 午後、洗濯。獨歩の諸短篇と『脂肪の塊』を読む。〕

 五月五日【金】 母の心づくしの金太郎・桃太郎人形が飾ってあった。菖蒲湯に入りそびれる。夕暮。佐藤さんと四谷塩町へ行く。アパートハウス・ハマを訪 れたが、斎藤清(版画家)さんは不在で奥様と客だけだった。

 五月七日【日】 「旗艦」にたわむれに出した句が掲げられてあり、驚く。

  春雨や人の言葉に嘘多き

  〔(二字下ゲ)→(一 字下ゲ)〕『春の岬』『野づかさ』『原生林』

 〔12(ナシ)→ 五月九日【火】  風にみな柳白めり朝の月

 朝のうすい月が柳の上に消えかかっていた。青々と茂り初めた岸の草にまじって、ところどころ紅と白との躑躅の花が咲きみだれている。都鳥はもう何処へ 行ってしまったのか、一羽も見えない。
 『ドルヂェル伯の舞踏会』を 読む。島田清次郎の『地上』の ほうがはるかに良いと思った。〕

 五月十日【水】 〔12佐 藤さん→薄日の朝なり。ラ ルボウ『仇ご ころ』を読む。「東桜会誌」をひっぱり出して、向島商業在学中の友だちを偲ぶ。作文 「蝉」は良いと思う。パール・バック『母』を 読む。夜、『春の岬』を 読む。夕方、春陵さん(樹光)〕は相沢春洋先生のとこ ろへ。五目豆とアミと海苔の佃煮 の夕食。『一茶俳句集』読 む。夜、褚〔逐→遂〕 良を臨書。

 〔12(ナシ)→ 五月十一日【木】 午下り、チャルメラ吹 きの 飴売爺さんがやって来る。『ボヴァリー夫 人』を読み継ぐ。〕

 〔12(ナシ)→ 五月十二日【金】 曇。

  蜘蛛の吐く糸やはらかく黄昏るる
  ゆく春やあまき切手の舌ざはり

 『暗夜行路』を読みはじ める。夕食後、みかん、りんごを食べる。 佐藤さん外出したので、家へ行く。母ひとりいる。今夜から、二階の部屋を、夜だけ予習室 として、近所の人に貸したとのこと。(愛ちゃん、芳子ちゃんに)家庭教師がくるらしい。母は北新市場からわが好物のあられを買ってくる。〕

 五月十三日【土】 雨の中を、神田の南明座まで行く。「パンドラの筐」のルイズ・ブルックスに魅了される。悩ましいルル。電車の乗替えを間違え、両国か ら亀沢町まで歩く。灰色の空。女生徒犬井鈴。きみは六年生だ、やがて現われなくなる日も遠くない。『赤と黒』読み続ける。

 〔12(ナシ)→ 五月十四日【日】 雨になりそうな朝。ひとと き臨書をし、『近代劇十二講』を ひもとく。春陵さんが伊勢屋の腕白 坊主ふたりをつれて くる。しばしの子守り。午後、浅草へ行く。国際キネマで「ステージ・ドア」を見る。帰り家に寄る。父ひとり、おまんじゅう、せんべいを出してくれた。〕

 五月十五日【月】 土橋鉄彦君の遺稿集『愛 日遺藁』を読ん で、その文才に驚く。早速、兄さんの土橋利彦(塩谷賛)へ感想の手紙を書く。

  夕光る鏡の上のチョコレートのうすき歯のあと夏はきたりぬ

 五月十八日【木】 午後二時ごろ、本所石原町の街を散歩。本屋で『僧 の婚礼』『ナナ』を 買う。夕食は前日の残りの精進揚 ですます。欧陽詢を臨書。直哉『和解』読 み感銘す。

 〔12(ナシ)→ 五月十九日【金】  虎耳草鰥夫の窓に咲きに けり

 二階の窓の鉢植の雪の下がうす桃色の小さな花を咲かせた。夕方、伊勢屋のラジオで相撲放送を聞く。父は葉子のお守りをしていた。ネーブルをご馳走してく れる。夜遅くまで、『ナナ』を 読みふける。〕

 〔12(ナシ)→ 五月二十日【土】 朝早く、春陵さんと隅田公 園まで散歩に出る。午後、春陵さんが朗読する『金 色夜叉』にききほ れた。作歌のこころ み。

  昼ふかし厨の外の草むらの
  卵のからにたまるさみだれ〕

 五月二十二日【月】 ケッセル『昼顔』。 明後日は、嫂の実家 の松井田へ行くことになった。母と〔12(ナ シ)→初枝さんと〕葉子〔12と初枝さん→(トル)〕のお守り。三、四日の泊り。

 〔12(ナシ)→ 五月二十三日【火】 『新心理主義文学』を取 り出して読む。なんとか『ユリシイズ』を 読まんとしたが、若干で止 める。〕

 〔12(ナシ)→ 五月二十四日【水】 朝七時頃、母と嫂と葉子 を連れ、タクシーをつかまえ上野駅へ。八時四十分発の汽車で松井田へ向う。嫂の実家に 里帰りといったところ。雨の青い田圃に二、三羽鷺がおりている。北高崎で途中下車し、石塚家に寄る。玉子丼の昼飯が出る。午後二時過ぎ駅へ戻り、汽車に乗 る。松井田は淋しい田舎町、泥の道路を燕が飛び交っている。水沢家の両親に迎えられる。挨拶もそこそこに、裏の畑へ出る。葱坊主がゆれている。隣りの畑で 老婆がひとり葱を掘っていた。おばあさんの造る手打ちそばをご馳走になる。夜、硝子戸がガタガタ揺れて鳴った。徳治さん(嫂の兄)が「浅間の爆発だッ!」 と叫んだ。曇った夜空に、真赤な光が点滅している。石と石とが当って発する光。明日は妙義山へ行くことになる。〕

 五月二十五日【木】〔12  松井田の町は芝居の書割りのような、古 風な街道といったところ。朝早く起き、裏の井戸で顔を洗う。青い麦の穂波の上を、燕が すいすい飛んでいる。母は疲れたようだ。雨もあがったので、崖ふちを歩く。カッコーカッコーと閑古鳥の声が聞えて来る。おそらく浅間の方だ。目の前には奇 峰妙義山がそびえていた。→   瀬の音や崖の草はふかたつむり

 朝七時に起きる。井戸で顔を洗う。どこからか、郭公の鳴く声が聞える。朝食をすませ、近くの蚕小屋を見に行く。道のべの矢車の花。親類、近所の人たちと おしゃべり。徳治さんのくるまで妙義山麓へ向う。また雨になった。土産物屋兼食堂の角屋が嫂の姉松枝のとつぎ先の片山家である。一家に迎えられた。雲か靄 のなかに、峨峨たる妙義の峰がそびえているのだ。夕食は鯉のあらいなどを頂く。ここの長女知代も人みしりしなくなる。東雲館の風呂に一緒に入ったことも あった。「これが山鈴蘭よ」と、持ってくる。夜、神社下の東雲館に湯を貰いに行く。主人がお茶と菓子でもてなしてくれた。蛙の声、水の音。九時過ぎ、母と 二階で寝た。〕

 〔12(ナシ)→ 五月二十六日【金】 朝、小鳥の囀りで眼がさ める。水色の空。嫂の妹利恵さんは向いの家の茶摘みの手伝いに出かけた。片山の長男正 坊と草の道を下りると桑畑。村の子が「これ雀の卵」と二つくれた。うす紫の桐の花が幻のように咲いている。白秋の『桐の花』へ連想がつらなる。午後 いちば んで、老いた母を残し、みんなで妙義神社へ参詣する。杉の大木の間、高い石段をのぼって行く。登山者の姿も二、三人ぐらいしか見かけなかった。夕方、ひと り土手のようなところを歩いていると、藪の中から、女の子の声が聞える。三人の女の子と、知代ちゃんが筍を探しているのだ。「一緒に掘ってッ」と言われ、 藪の中に入る。手足や顔がとても痛かった。あたりには木苺が生っている。松の高い枝の上に、昼の白い月が浮んでいた。〕

 〔12(ナシ)  五月二十七日【土】 明らむ 窓の障子に、蛾や 蚊がぶつかる音。晴れた空。今日は土曜日で、登山する人が多勢くるとのこと。早朝に登 山した五、六人の仲間の一人が石門の処で墜ちて死んだと、報せが届く。「人が死んでお山を汚すと雨になる」といわれている。妙な気分になった。午後いちば んで、徳治さんの迎えのくるまで、山道を降りる。野にあざみ、れんげが咲いている。松井田の近隣を歩き、その夜も一泊した。

  水たるる桶の古びし井戸の辺を黄にむらさきにあやめ咲きけり〕

 〔12(ナシ)→ 五月三十一日【水】 『ア ドルフ』『春夫詩 鈔』を読む。夜、習字に没頭。詩集を兵隊にゆく前に出したいと思う。〕

 〔12(ナシ)→  六月二日【金】〔(天ツキ)→(一字下ゲ)〕 三囲神社にお参り。その禁止の池で二、三の子供が小蝦をとっている。言問橋を渡る、遠 く富士山が見える。観音さまの裏で、ベイゴマ仲間の慶ちゃんとばったり。六区のひょうたん池まで話しながら歩く。緑の木かげ、朱色の鯉が沈んでいた。〕

 六月八日【木】 腹痛。本所区役所より「検査通達書交付ノ件」……云〔12々→云〕の葉書が届く。夜、俳句歳時記を繙く。

 六月十日【土】 夜八時ごろ徳の山の縁日のにぎわいをぶらぶら歩く。笹を一鉢買って、厩橋の通りの正坊の屋台に寄る。まぐろ三つたこ二つ食いながら、お 喋り。ねぢり鉢巻姿も板についたなと思った。

 六月十一日【日】 日曜、久しぶりで早稲田の〔12金→全〕線座へ行く。ベティ・デヴィスの「痴人 の愛」もよかったし、レビュー探偵 映画「絢爛たる殺人」もよかっ た。ついでに高田南町の依田家をたずねる。お母さんと栄子夫人は縫い物をしていた。夕食を御馳走になっていると、依田さんが戻る。雨で夜店が出せないから と、松江川さん(椿作二郎)も現〔12(ナ シ)→わ〕れる。句友 三人で夜遅くまで談笑した。

 六月十二日【月】 朝、徴兵検査の件で、区役所へ行く。四、五人しかいないのですぐ済んだ。三つ目通りの古本屋でポール・モーラン『夜ひらく・夜とざ す』二十五銭で求めた。

 〔12(ナシ)→ 六月十四日(水曜)【水】 朝早く、春陵さん 上野へ行く。行きちがいになったか、盛岡のお母さんと姉さん、そしてけん坊が来る。し ばらく相手をしていると、春陵さん戻った。昨日がまさ子さんの一周忌、それでみんな上京したのだ。肉親だけにして、家に行く。珍客、鵜塚の伯父さんが来て いた。たしか、娘時代の母がこの家に世話になっていたそうだ。〕

 〔12 六月十五日【木】  佐藤春陵さんの愛妻まさ子さんの一周 忌。 盛岡からお母さんとお姉さんが謙坊をつれて上京した。→(ト ル)〕

 六月十七日【土】 夕方、家に呼ばれる。姉と猛が寿司を食べていた。兄が帰 り〔12次いで、→、次いで〕父が戻った。本当に楽しい一家団 欒図。 姉が帰る時こっそり、父は幾 枚かの札を渡していた。

 六月十八日〔12(ナシ) →(日曜)〕【日】 〔12(ナシ)→晴。〕浅草仲見世の清水屋書店で、渇望の茅 野蕭々訳『リルケ詩 集』を買う。一円八 十銭。あり金五円なので〔12、→(トル)〕つらいところ。〔12(ナシ)→午後から、なぜか品川へ行く。暑い日盛りの 道路をただ歩く。 「大阪商船新 造船あるぜんちな丸世界一周祝賀披露」とある。遠くから眺め、浦島橋を渡り、札の辻橋に出た。そして高輪の泉岳寺にお参りする。生れて初めて来たのだ。大 勢の田舎の女学生にまじって、四十七士の墓を廻る。たちのぼる香煙。

  品川や馬糞はなるる白き蝶〕

 〔12(ナシ)→ 六月二十二日【木】 涼しい朝。『弟子』読み つづける。夕方まで子供たちの習字をみる。家へ寄ると、母がべっこう飴をくれた。小雨 となる。夜、「九成宮醴泉銘」を臨書する。〕

 〔12(ナシ)→ 六月二十三日【金】  梨畑の花の中より 夕煙

 子供の頃、市川真間の鈴鹿家でよく遊んだ。順ちゃん武ちゃん千代子ちゃん利恵ちゃんのいとこたち。裏は一面の梨畑がひろがっていた。追想の一句。〕

 六月二十四日【土】 『木歩句集』を 読む。

 六月二十五日【日】 雨の上野広小路で市電を乗換え、シネマパレスへ。「第七天国」のジャネット・ゲーナは可憐だった。夜、支那そば屋の慶ちゃんがりゅ う[、、、]とした背広姿で誘いに来た。玉木座で万才を見る。雨で割引入場料一人十銭。久しぶりで大いに笑った。

 〔12(ナシ)→ 六月二十六日【月】 『機 械』再読。家に寄る と、父が五十銭札二枚くれる。夜、『孔雀船』『俳諧七部集』を読む。〕

 六月二十七日【火】 曇。『おかめ笹』

 〔12(ナシ)→ 六月二十八日【水】 夜、『風立ちぬ』を読 む。〕

 六月三十日【金】 朝湯〔12(ナ シ)→へ〕ゆくと、片脚の な い人がいた。支那事変で、失ったなと直感した。かすかに見覚えのある顔だ。『窄き門』を読む。〔12(ナシ)→夕方、みそかそばを食べ、久しぶりで春 陵さんと散歩に出る。水戸公園、浅草六区を歩いた。夜、夢香洲書塾に戻る。家にゆき、 母の使いでほてい薬局にゆく。帰りみち、まあ坊の屋台で、お茶をのみおしゃべり。客二人が入ってくる。小僧さん風のほうが「ゲソをください」と言う。あと で「ゲソ」て何んだいと聞くと、「烏賊の足よ」とまあ坊。まぐろ三つ食べ、九銭を母の蟇口からはらった。「たいへん高いおだちんだね」と、母と父は笑っ た。〕

 七月三日【月】 『ドリアン・グレイの画 像』読みはじめる。 「旗艦」七月号に一句出る。

  葉桜に毛虫うごめき雪崩る

 〔12(ナシ)→ 七月五日(水曜)【水】 朝風の涼しいうち、『仮名手本忠臣蔵』など読む。佐藤春 陵さんとの生活、いよいよ破綻ちか しか。燈を消す と雨。〕

 七月七日【金】 事変二周年記念日。戦没、戦傷者のため黙祷する。『神 々は渇く』読む。

 〔12(ナシ)→ 七月九日【日】 朝、よいめざめだ。どこから かハーモニカが聞える。『箴言集』を 拾い読み。夕刻から浅草の鬼 灯市へ行く。今日の一 日のお参りで、四万六千日に匹敵するとのこと。たいへんな賑わいだ。N堂にいた頃、小店員の英子が風鈴つきの鬼灯の鉢を買ってきて、店の窓に吊るしたっ け。英子そして葉子よ、きみたちはどこにいるの? 夜、『地 獄の一季節』を 読む。〕

 〔12(ナシ)→ 七月十一日【火】  秋の蚊に踊子の脚た くま しき

 『若山牧水歌集』『モントリオール』を読む。昼飯は冷 むぎ。雨が降りはじめる。窓の笹の 葉に赤とんぼが雨やどり。〕

 七月十二日【水】 家に寄ると、母は泣いている。兄夫妻といさかいがあったらしい。涙する母を十年ぶりで見た。正坊の屋台で、さぶちゃんと会う。三人で 徴兵検査のことばかり話題になる。

 〔12(ナシ)→ 七月十四日【金】 朝、亀の湯から戻り、 臨書 にはげむ。午後遅く散歩に出る。横川橋をわたり、錦糸公園に着く。小学生の頃、ここが 運動会の場所だったのを想い出す。足をのばし江東楽天地に行く。ニュース劇場に入る。入場料十銭也。万才、自転車の曲芸まで、たっぷりたのしめた。九時、 星を仰いだ。〕

 〔12(ナシ)→ 七月十五日【土】 地獄の釜のふたのあく日。 夕方、神田へ行く。南明座に入り、九時過ぎ出て、夜店の古本を探して歩く。今夜は(藪 入りで)、実家に泊るのだ。父母のそばに。〕

 七月十六日【日】 朝から新宿へ出る。紀伊〔國→23国〕屋、伊勢丹を見て時間をつぶす。十時 からムーランルウジュの開場だ。踊 り子の白く長い脚の乱 舞は悩ましくなる。外は午後の陽がぎらぎら。本郷帝大前の本屋で、『カ ンデード』を買う。

 七月十八日【火】 灯火管制始まる。

 七月二十日【木】 散歩から戻ると、徴兵検査の予習のことで、友だちが来たと言う父の言葉にびっくり。二十三日の筈だ。夕暮の街を走って本所高等小学校 に向う。校門のところで、さぶちゃんがしおたれ「もう終っちゃったよ」。悄然と暗い道を戻った。

 七月二十二日【土】 雨。新協劇団へ「デッ〔12ト→ド〕・エンド」の切符を申込む。オニール『奇妙な幕間狂言』を読み〔そむ→23は じめる〕。

 七月二十三日【日】 葉子のお祝いで赤飯を炊く。兄と亀の湯に行く。十年ぶりのことかも知れない。左脚を失った男とまた会った。昔近所にいた新さんと言 う人だった。思いがけず戦争の話を聞かされた。夜、正坊のところへ行き、お茶を〔12頂 き→呑み〕ながら、徴兵検 査予備講演の内容を教えて貰って安心す る。

 〔12(ナシ)→ 七月二十四日【月】 仮寝のあと、『日輪』を 読む。華麗な文章に酔う。夕刻、家に寄ると、父母は浅草へ芝居を観に行ったとのこと。 新国劇調の(梅沢昇一座?)。篠塚地蔵尊の縁日を歩いた。川上栄子さんとばったり。人妻にまだなりきれない美しさ。四つ辻でしばらく話をして別れた。〕

 〔12(ナシ)→ 七月二十五日【火】 夜、厩橋から市電に 乗 る。三筋町、竹町、上野広小路を通る。本郷座で「きらめく星座」の豪華なる氷上レヴュー 映画。もう一つは「早春」で、思春期の少女の物語。Y、Eのことを思う。夜遅く『リルケ詩集』を読む。〕

 七月二十七日【木】  〔12(ナ シ)→自分は〕次男だと 思って いたら、本当は三男らしい。区役所で調べて貰ったら「三男」だった。『左 川ちか詩集』届く。

 七月二十九日【土】  ゆきずりの女をしたうてさりかねし白き舗道に春もゆくめり

 七月三十日【日】 父から十円いただく。兄夫妻はめかして、葉子をつれて出かけた。母と枝豆を食べる。〔12玉木座で万才を見た→二円で新しい下駄を 買う〕。夜、上野広小路の写真館で、兄と一緒に写して貰う。

 〔12(ナシ)→ 七月三十一日【月】 遠い煙突のうえに銀 いろ の雲が漂っている。沈みかかる夕陽。ねぐらへ帰る鳥のむれ。夜、華やげる銀座へ出、新 橋演舞場に行く。新協劇団の「デッド・エンド」を観る。休憩中、テラスに立つと、下の川にボート遊びの若い人たちが見える。期待はずれでがっかり。外は雷 雨となっていた。〕

 八月一日【火】 夕食後、近所の写真屋で記念写真を撮る。わが長き髪のために。その足で理髪店に寄り、坊主頭になった。ひとにぎりの髪毛を、母に渡す。

 八月三日【木】 母の声に起される。午前四時だ。ひとりで牛島神社をお参りする。まだ時間があるので、浅草の観音様まで足をのばした。五時半、区役所に 入る。学科試験の結果は、算術六点、公民七点、読方十点を得る。身体検査は、胸囲、体重、身長の順で計られた。それから視力検査。〔12(日記中肛門と性 器の検査の記述がないのが不思議である。当然あったと思う)→正 午 で休憩となる。みんなは控所に戻って弁当を食べる〕。午後一時十五分から、内科の診断 と血液検査〔12と→で〕終了。区長の前にゆき、徴兵官両角少将 の前に出る。「第二乙種合格」を宣 せられた。

 八月四日【金】 雨が降ったり止んだり。夕方、〔12喜→慶〕ちゃんとクラス会の会場〔12(ナ シ)→浅草の〕とんかつ屋 「喜多八」へ行く。皆、立派な青年になっ ていた。

 〔12(ナシ)→ 八月五日【土】 嵐。オニール『地平の彼方』再読。桃の種がなぜだ かこと新しく見える。〕

 〔12(ナシ)→ 八月七日【月】 「東邦書策」に、わが作品が 掲出されている。雅号「白苔」となっていた。夕刊で「定山渓心中」の記事を読む。N堂 にいた頃、医学書をよく買いにきた、秀才型学生と同名だ。もしそうなら、冥福を祈る。〕

 〔12(ナシ)→ 八月十日【木】 母や兄が、こちらの生活態度 を心配しているようだ。無口の父も同じ思いかもしれない。『木 母集』と 短歌研究書を読 む〕

 〔12(ナシ)→ 八月十一日【金】 午後、さぶちゃんがク ラス 会の記念写真を持ってきてくれる。坊主頭だがよく撮れていた。このうちの幾人が「醜の 御盾」となるのだろうか。みんなの武運長久を祈る。〕

 〔12(ナシ)→ 八月十五日【火】 蜘蛛がけんめいに巣を 張っ ている。春陵先生は愛妻まさ子さんの命日なので、いそがしそうだ。夜、錦糸町の古本屋 で『ほるとかる文』を無理 して買った。〕

 八月十八日【金】 谷中の叔母さんと利恵ちゃんが来ていた。父も久しぶりで妹と姪の顔を見て、機嫌がよい。寿司をみんなで食べた。順一さんには、手紙と 写真を渡すよう頼んで、夢香洲書塾に帰る。

 〔12(ナシ)→ 八月十九日【土】 朝湯のなかで雨を聴 く。家 に寄ると、母がじゃがいもを茹てくれる。志賀直哉『和 解』はじめ数 篇を読む。父との写 真出来てくる。一枚だけよく撮れていた。〕

 八月二十日【日】 目黒キネマで「暴君ネロ」。

 〔12(ナシ)→ 八月二十一日【月】 隅田川のほとりの散 歩 で、水死人とゆきあった。植木の蜘蛛の巣に蠅がかかっている。なにかしら不安な気持の 日。山本有三『波』を読 む。〕

 〔12(ナシ)→ 八月二十三日【水】 夕四時ごろ、支那そ ば屋 の慶ちゃんの家にゆき、連れ出して浅草から上野へ出る。不忍の池でボート遊び。白や桃 色の蕾が大きな葉の中に見える。湯島天神下を通り、古本屋で『白 秋小唄集』を 求める。広小路の水戸屋でソーダ水や蜜豆を食べた。慶ちゃんのおごり。田原町 で別れた。古書目録で注文した、堀辰雄『聖家 族』(江川版)が届い ていた。〕

 〔12(ナシ)→ 八月二十五日【金】 夜遅く、蚊帳に入って寝 ながら、春陵さんと話し合う。いずれも偏屈同士ゆえ、この家を出たほうがよいだろう。 一種の居候なのだから。友情を大切にしようと思う。〕

 〔12(ナシ)→ 八月二十六日【土】 すがすがしい朝。春 陵先 生も機嫌うるわしい。腹蔵なく語り合ってよかったのだ。今まであげなかったがと、十円 くれる。夕方、円タクを拾い盛岡へ帰る先生を上野まで送る。広小路の夜店で手相見をしている、鈴木さんのところへ寄る。モーリに行き、「蜜豆をギリシャの 神は知らざりき」のみつまめを食べた。松江川三郎が本名だと言う。十時ごろ帰宅。夢香洲書塾の夜は静かだ。虫の声が聞えて。〕

 八月二十八日【月】 銀座全線座で、「真夏の夜の夢」。

 八月二十九日【火】 カンカン帽をかぶって、味形君がたずねて来た。薄暮の隅田川のほとりを歩き、枕橋のたもとの氷水屋で、ひと休みして別れる。彼は甲 種合格で、やがて兵隊に行くのだ。

 〔12(ナシ)→ 八月三十日【水】 晴。十一時近く、四谷 の斎 藤清さんのところへ遊びに行く。不在なので奥さんとおしゃべり。冷しハブ茶。一時間ほ どで戻り、二階のアトリエで油絵、デッサン帳を見せて貰う。今度、二科に五点出品したとのこと。この恵まれない画家に幸運あれ。大通りまで送られる。〕

 九月四日【月】〔12 曇 天。『牧水歌集』繙 く。号外出る。阿部首 相声明……「今次欧州戦争勃発に際しては帝国は之に介入せず専ら支那事変の解決に邁進 せんとす」。→  六角の 鉛筆のかげ夜ふけて馬追虫めぐり秋とな り〔め→ぬ〕る
  あるかなく水を流るる泡沫の影よりあはき若き日の夢〕

 〔12 九月五日【火】  ジャム『夜の歌』読 む。「ロンドン特電四 日 発」……ドイツ戦闘艦一隻は爆弾をまともに受け大損害をうけ、ブルンスビュッテルに於 ても戦艦一隻に大いなる損害を与えた、右空襲は好ましからぬ天候の下に行われたが、敵空軍は逆襲し、高射砲も活躍し、英軍側も若干の損害を蒙った。
「ベルリン特電四日発」四日夜のラジオ放送によれば、四日十二機よりなるイギリス爆撃隊がウィルヘルムスハーフェン・クックスハーフェンなどの要港を襲撃 し、多数の爆弾を投下したが、被害は軽少で十二機の内五機をクックスハーフェン附近で射落した。なお右は宣戦布告以来最初の対独行動であり最初の空襲で あった。
「ニューヨーク発同盟至急報」UP通信社の報道によれば四日午後ニューヨークに於てパリがドイツ空軍により空襲をうけているとのラジオ放送が傍受された、 但しまだ確報はない。米国きょう中立宣言。スペイン中立正式声明。優勢なるドイツ軍のため廻廊二都市陥落。戦線ワルソーに近づく。→(トル)〕

 九月七日【木】  夏野ゆく金髪少女の横顔をかすめる影あり落ち葉なりけり〔(五 字アキ)→(六 字アキ)→(ベタ)〕(軽井沢)

 九月九日【土】 日照り雨。さつまいも三つばか〔し→23り〕食べる。『アンドレ・ワルテルの手記及詩』読 む。夕方まで本の整理。兵 役通知来る。「第 二乙〔12輜重→種〕兵第四壱五吉岡実」とあった。

12付記 戦前の「日記」 二冊が消失をまぬかれて残った。いずれも 昭和十三〜十四年のものである。冗長な記述を簡明にし、ここに収録する。もちろん作為 はない。現在休息中ゆえ、詩・文章などの作品を提示することが出来ない。稚拙な二十歳の「日記」を以って、その任を果す。〔(改行して下ツキ)→(追 込)〕(九月十二日)→(ト ル)〕

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吉岡はの〈あとがき〉(末 尾に「一九九〇年二月七日」の日付を持 つ)に 本書の成り立ちを書いているので、全文を引く。
 この「うまやはし日記」は、その一部を一九八〇年の「現代詩手帖」十月号の「吉岡実特集」によせたもので、次のよ うに付記している。――戦前の「日記」 二冊が消失をまぬかれて残った。いずれも昭和十三―十五年のものである。冗長な記述を簡明にし、ここに収録する。もちろん作為はない。現在休息中ゆえ、 詩、文章などの作品を提示することが出来ない。稚拙な二十歳の「日記」を以って、その任を果す――と。

 最近刊行されはじめた、書肆山田の小冊子「るしおる」に、作品・文章を求められたが、休筆中なので、「うまやはし日記」の補遺で、そのせめ[、、]を果 そうと 思った。省略したきわめて「私的事項」を拾い出して、挿入してゆくうち、思わずも熱が入り、八十余枚の原稿に成ってしまった。連載しても数年はかかるだろ うから、いっそ単行本にしましょう、ということになった。しかも「りぶるどるしおる」最初の一冊となるという。面映ゆいがうれしいことだ。『うまやはし日 記』刊行の暁、感傷的な二冊の「原・日記」は消滅するはずである。
書誌的事項を加えながら、〈あとがき〉をパラフレーズしよう。
(1)書肆山田の季刊誌《るしおる》〔1989年1月創刊〜2007年5月休刊(全64号)〕に作品(詩篇)か文章(随想)を求められたが、現在休筆中な ので新作を提示 できない。
(2)そこで、《現代詩手帖》(1980年10月号・吉岡実特集)に寄せた〈うまやはし日記〉(文字数にして四百字詰め原稿用紙約16枚)の補遺で責めを 果たそうと思った。
(3)省略したきわめて「私的事項」を拾い出して挿入してゆくうちに熱が入り、1939年9月10日〜1940年3月6日分の新稿を含めて、4倍強の約 69枚 の原稿になった。
(4)《るしおる》に連載しても完結までに数年はかかるだろうから、版元とのあいだで単行本(書籍)にしようということになった。
(5)単行本(書籍)のプランは、叢書〔りぶるどるしおる〕の最初の一冊として結果し、第二冊のS・ベケット、宇野邦一訳《伴侶》と同時に刊行された。
(6)《うまやはし日記》刊行のあかつき、1938〜40年(昭和13〜15年)の感傷的な二冊の「原・日記」は消滅するはずである。
振 りかえれば吉岡は、現代詩文庫でシリーズに共通する企画、〈自伝〉の原稿を求められたおり、自伝のかわりに〈断片・日記抄〉を書いて責めを果たした(《吉 岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968)。公刊された吉岡実日記の濫觴である。吉岡は、詩人としてでも散文家としてでもなく、編集者として昔日 の自身の日記を再生した。この窮余の一策は、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987)を書きおろす際にも講じられた。三度目の 〈うまやはし日記〉から《うまやはし日記》が誕生した背景にも、同じ動機があったと思われる。〈断片・日記抄〉は詩集において付随的な文章だったし、《土 方巽頌》の〈日記〉はあくまでも土方巽との関連でピックアップされたそれだった。《うまやはし日記》がそれらと異なるのは、日記=本文となった点である。 そのことで吉岡が詩句と同じように章句に集中した結果、ある日の記述がのちの日の記述と呼応する、あえて言えば小説的な箇所が《うまやはし日記》に生じ た。
 塾に来る女の子に、初めのころは「お兄さん」と言われた。男の子にはうさんくさそうに思われた。やがて習字に朱筆 を入れ、甘く 朱 丸をつけてやると、「先生」と呼ぶようになった。(1938年11月14日、一六ページ)

いつしか錦糸公園に来ている。ここで小学生時代よく運動会をしたものだ。(1939年3月25日、二二ページ)

父もだいぶ老いた、一日も早くつとめ[、、、]をやめさせること。(4月6日、二五ページ)

 紅雀のようにお喋りする少女庄司和子。この子だった「お兄さん」と言ったのは。お母さんが来て、今日限り塾をさがらせるとのこと。女学校の進学の勉強を す るためらしい。〔……〕夜、家に寄ると、父は相変らず畳の上にごろりと、うたた寝をしていた。(4月19日、二八ページ)

夜八時過ぎ、八百金にほうれんそうを買いに行き、帰りに家に寄る。襖のむこうから父の寝息が聞える。(4月27日、三一ページ)

夕暮。佐藤さんと四谷塩町へ行く。アパートハウス・ハマを訪れたが、斎藤清(版画家)さんは不在で奥様と客だけだった。(5月5日、三五ページ)

 朝湯へゆくと、片脚のない人がいた。支那事変で、失ったなと直感した。かすかに見覚えのある顔だ。(6月30日、五四ページ)

正坊の屋台で、さぶちゃんと会う。三人で徴兵検査のことばかり話題になる。(7月12日、五七ページ)

午後遅く散歩に出る。横川橋をわたり、錦糸公園に着く。小学生の頃、ここが運動会の場所だったのを想い出す。(7月14日、五七ページ)

 散歩から戻ると、徴兵検査の予習のことで、友だちが来たと言う父の言葉にびっくり。二十三日の筈だ。夕暮の街を走って本所高等小学校に向う。校門のとこ ろ で、さぶちゃんがしおたれ「もう終っちゃったよ」。悄然と暗い道を戻った。(7月20日、五九ページ)

兄と亀の湯に行く。十年ぶりのことかも知れない。左脚を失った男とまた会った。昔近所にいた新さんと言う人だった。思いがけず戦争の話を聞かされた。夜、 正坊のところへ行き、お茶を呑みながら、徴兵検査予備講演の内容を教えて貰って安心する。(7月23日、六〇ページ)

 晴。十一時近く、四谷の斎藤清さんのところへ遊びに行く。不在なので奥さんとおしゃべり。冷しハブ茶。一時間ほどで戻り、二階のアトリエで油絵、デッサ ン帳を 見せて貰う。今度、二科に五点出品したとのこと。この恵まれない画家に幸運あれ。大通りまで送られる。(8月30日、七一ページ)

この月かぎり、父は勤めを辞めることになった。月給五十数円が入らなくなるのだが。ともかく私たちもこれで一安心だ。(1940年3月6日、一三九〜一四 〇 ページ)
おしまいに引いたのは本書の最後の文章。こうした人物の出し入れが「作為はない」からほど遠い手練のわざであることは言うまでもない。(3)の「私的事 項」の挿入部分は、それ自体興味深いものだが、個個に指摘しないので、読者はよろしく校異につかれたい。なお、で 削除された1939年9月5日の新聞記事の一部は5日発行の6日付《東京朝日新聞〔夕刊〕》に見える(もしかすると「原・日記」には新聞の切り抜きが貼付 されていたかもしれない)。満19歳から20歳までの吉岡実日記には、盛岡や松井田、泉岳寺など初めて訪れた土地が凝縮した筆致で描かれている。俳句で鍛 えられた自然描写も本書に彩りを添えている。吉岡の日記は《うまやはし日記》ののち、1946年1月〜4月分や1948年6月〜7月分が発表された。前者 は生前最後の作品、後者は遺作である。

〔追記〕
《東京朝日新聞〔夕刊〕》1939(昭和14)年9月6日(5日発行)の一面トップ見出しは5段抜きで「英空軍編隊大挙して/独の諸軍港を猛爆す/二戦闘 艦に巨弾命中」であ る。以下に同記事の本文を引く(漢字は新字に改め、かなづかいはママとし、ふりがなは省いた)。
【ロンドン特電四日発】公報によれば四日イギリス爆撃機隊はウイルヘルムスハーフエン及びブルンスビユツテル等の要 港を襲撃し、ウイルヘルムスハーフエン 近く のシリツクヘルン水路近くでドイツ戦闘艦一隻は爆弾をまともに受けて大損害を受け、ブルンスビユツテルに於ても戦闘艦一隻に大なる損害を与へた、右空襲は 好ましからぬ天候の下に行はれたが、敵空軍は逆襲し、高射砲も活躍し、英軍側は若干の損害を蒙つた
【ロンドン四日発同盟】英国政府は四日イギリス空軍部隊は西北ドイツの軍港ウイルヘルムスハーフエンに碇泊中のドイツ艦隊を爆撃したと発表した
【ロンドン四日発同盟】英空軍爆撃部隊は四日北海に臨むドイツ第二の軍港ウイルヘルムスハーフエンを大挙襲撃、同港碇泊中のドイツ艦隊に対し大空爆を敢行 し たが右空爆の成果に関し情報省は四日夜次の如く発表した「英空軍の重爆撃部隊は四日ウイルヘルムスハーフエン軍港に碇泊中のドイツ艦隊に大空爆を行つたが こ の爆撃で爆弾数個は直接ドイツ軍艦に命中し主力艦二隻に大損害を与へた」
英機五機撃墜さる【ベルリン特電四日発】四日夜のラヂオ放送によれば四日十二機より成るイギリス爆撃部隊がウイルヘルムスハーフエン、クツクスハーフエン などの要港を襲撃し多数の爆弾を投下したが、被害は軽少で英は十二機の内五機クツクスハーフエン附 近で射落されたと、なほ右は宣戦布告以来最初の対独軍事行動であり、最初の空襲である

同紙面から4段抜き見出しを拾えば「西部戦線に戦機」「本格的大戦の時期/独ソ同盟成立で決せん」「廻廊二都市陥落/戦線ワルソーに近 づく」で、吉 岡が9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻による第二次世界大戦開始を受けて、これらの記事を抄録することで〈うまやはし日記〉を終えようとしたのは納 得できる。そのとき「「第二乙輜重 兵第四壱五吉岡実」とあった」という日記の最後の一文は新聞記事とも呼応し、吉岡のその後の運命を暗示して充分な効果を挙げている。だが、《うまやはし日記》として〈う まやはし日記〉とほぼ同量の、以降の日記本文を増補をする段になると、ここでの新聞記事の引用はいかにも重い。吉岡が《うまやはし日 記》でこれらの記事を削除した背景には、そうした事情が働いていたのではないか。また、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》との違いを打ち出した かったということもあろう。


マラルメ《骰子一擲》のこと(2010年10月31日)

この5月に《マラルメ全集〔全5巻〕》(筑摩書房、1989-2010)が最終回配本の第1巻〈詩・イジチュール〉をもって完結した。 私は全集の完 結を心待ちにしていたが、期待は外れた。本篇や別冊の〈解題・註解〉の内容に不満があったわけではない。 伊藤裕一郎訳《骰子一擲》の書誌が記載されていなかったからである。もっとも邦訳全集に邦訳の網羅的書誌は必須ではないから、私の不満は見当違いだろ う。吉岡実は〈「官能的詩篇」雑感〉の〈3 『骰子一擲』〉にこう書いている(初出は《季刊リュミエール》5号、1986年9月)。

 未知の人から贈られた『骰子一擲』で、私は初めて、この難解なる詩篇を読んだというより、見たのだった。いつ頃のことなのか、伊 藤裕一郎訳の 小冊子に は、発行年月も発行所も明記されてないので、わからない。おぼろげながらも、異様な書法と「詩の未来図」に驚嘆したものだった。私は今、「詳細なノート」 の付いた、秋山澄夫訳の『骰子一擲』を読み、詩誌「阿礼」に発表された、江原順訳を読み、なんとか解読の手がかりを掴みたいと思っている。
 つい最近のこと、ある画廊で、澁澤孝輔と行き合った。私は『骰子一擲』には、「性的イメージ」が色濃く出ているように思うと言ったら、「それはそうです よ」とこともなげに答える。たしかに、「宇宙全体」を投影すると謂われる、この詩篇には当然のことかも知れないと、私なりに納得した。(《「死児」という 絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三六七ページ)

《吉岡 実言及書名・作品名索引〔解題付〕》に も書いたことだが、伊藤裕一郎訳《骰子一擲》は書誌さえ未詳の謎の印刷物なのである(もしかすると、雑誌発表の抜刷冊子かもしれない)。私がなぜ伊藤裕一 郎訳にこだわるかと言えば、それが吉岡の《薬玉》詩形のスルスとしてなんらかの影響を与えているだ ろうことが確実だからである。ただし吉岡本人は(創作家にはよくあることだが)、マラルメを読んだのは《薬玉》詩形よりも後だと語っているから、長詩 《白》を書くことで真にマラルメと出 会ったオクタビオ・パスと同様の事情がそこに働いていたと見ることもできる(〈吉 岡実とオクタビ オ・パス〉参照)。伊藤による訳書は今後の探索に俟つとして、吉岡が挙げたほかの邦訳を見てみよ う。
秋山澄夫訳《骰子一擲》(思潮社、1972年11月)は、画・星崎孝之助の限定100部特装版だが、未見。1984年12月1日に 同社から改訂版《骰子一擲》が出ていて、こちらは見やすい。なお、1966年に50部だけ作られた非売品があるとのことだから、これが本書の原型か(こ ちらも未 見)。江原順訳は、詩誌《阿礼》34号(1986年3月)に掲載された。本文ページの標題〈骸子の一擲は決して僥倖を排すまじ〉は〈骰子の……〉の誤植だ ろう。表紙・目次の標題はともに〈骰子一擲〉で、表紙には「空間と像と韻律が重層的にからみあう詩法の極致を問う問題の作」と惹句がある。

秋山澄夫訳《骰子一擲〔改訂版〕》(思潮社、1984年12月1日)のV面見開き 江原順訳〈骰子一擲〉(詩誌《阿礼》34号、1986年3月)のV面見開き〔モノクロコピー〕
秋山澄夫訳《骰子一擲〔改訂版〕》(思潮社、1984年12月1日)のV面見開き(左)と江原順訳〈骰子一擲〉(詩誌《阿礼》 34号、 1986年3月)のV面見 開き〔モノクロコピー〕(右)

《UN COUP DE DES》(代表的な邦題は〈骰子一擲〉もしくは〈賽の一振り〉で、近年は後 者が優勢)の 秋山訳が横組でなされた事実は見すごせない。もっとも秋山が〈Un Coup de Des〉の訳と論を連載した初出誌《教養諸学研究》(24号、1966年10月・27号、1967年7月)は左開き・横組であり、左ページに仏文の原詩、 右ページに邦文の訳詩という初出の体裁が《骰子一擲》のベースにあったことは確かだが。《マラルメ全集〔第1巻〕》も〈賽 の一振り〉だけ巻末からの左開き・横組 で、仏文と同じ行の方向性が採用されているのは、この「特異な形態による詩作品」(〈凡例〉、同書 別冊、iページ)が要求する必然だろう。本篇の初出は《コスモポリス》1897年5月号。その後、著名な画商アンブロワーズ・ヴォラールがルドンの挿絵 を添えた200部限定の詞画集の 刊行を企画した。マラルメの死によって未刊に終わった豪華本《骰子一擲》である。

この新版のためにマラルメは方眼紙の大判ノートブックを使って、活字の配置の他、余白の幅、それぞれの活字〔ディド活字のタイプ フェイスがこの 作品にふさ わしいというマラルメの判断にもとづいて、印刷はフィルマン=ディド印刷所と決まった〕の大きさや種類などを精密に書きこんだ印刷用の割付雛形[マケツ ト]をみずからつくりあげた。(清水徹の解題・註解〈賽の一振り〉の「ヴォラールによる豪華本刊行計画」、《マラルメ全集〔第1巻 別冊〕》、六三一ページ)

このマケットは、マラルメ/モレル著、柏倉康夫訳《賽の一振りは断じて偶然を廃することはないだろう――原稿と校正刷  フランソワーズ・モレルによる出版と考察》(行路社、2009年3月25日)にカラーのファクシミリ版が掲げられていて、容易に見ることができ る。これが興味深い。《マラルメ全集〔第1巻〕》の清 水徹による解題・註解〈賽の一振り〉の「翻訳について」には「書体について触れれば、原文ロマン体は明朝活字、イタリック体は斜体とし、またマラルメが作 品内でしばしば 用い ている大文字だけで組まれた語は、明朝体・イタリック体のそれぞれ「細ゴチック」とした。また日本語活字の種類の制限から、原文で強調のため単語の冒頭の みを大文字とする場合は、他との違いを表示できなかったものもある」(同書 別冊、六五三ページ)と書かれている。これは、書体と綴りをマトリクスにして考えるとわかりやすい。整理してみよう。

原文のロマン体(印刷用語では立体) → 邦訳の明朝体
原文のイタリック体 → 邦訳の斜体
 ・セ リフのある書体(ロマン体とイタリック体)を鱗が特徴の書体(明 朝体)の正体=立体と斜体に置き換えたもの

原文の大文字だけで組まれた語 → 邦訳では「細ゴチック」
 ・原 文では綴りのレベルだから、邦文に相当する書体が存在す るわけではない
 ・「明朝体〔……〕の〔……〕「細ゴチック」」は組版上矛盾するから、正体=立体の「細ゴチック」(と 斜体の「細ゴチック」)に読み替えたい
 ・実際の版面は、細ゴチックではなくアンチック程度のウエイトの太明朝(正体=立体と斜体)が用いられている

〈賽の一振り〉の訳者が採らなかったように、漢字・ひらがな・カタカナの意図的な使いわけや括弧類の使用を採択しないとなれば、正体= 立体/斜体、 欧文のセリフ(和文の鱗あり)/欧文のサンセリフ=ゴチック(和文の鱗なし)の対比と、活字の大小を組みあわせたこうした表示法――前掲マラルメ/モレル 本の訳者・柏倉康夫によれば「使用される活字は、大文字から最小の小文字まで大きさが異なる四種類と、活字の太さが違う一種類の、合計五種類のローマン字 体。それに大きさ、太さが異なる四種類のイタリック字体の計九種類の活字が駆使されている」 (〈あとがき〉、同書、一九五ページ)――は、本篇のような稀有なる記号の散乱を身上とする詩の翻訳の場合、充分に有効である。
ここで秋山訳と江原訳、そし て清水訳を引用したい のだが、htmlファイルで再現するには技術的な困難が伴う。窮余の一策として、詩句の配置(字下ゲ)や行アキ、文字の大きさ・書体のすべてをキャンセル した素のテキストに して、全XI面のうちVまでの3見開きを引く(見開きの区切りを――で示した)。読者はどうか全篇をそれぞれの原典(印刷物)でお読みいただきたい。

秋山澄夫訳|骰子一擲

骰子一擲
――
いかで
たとえ 永遠的な環境 において
投げられるとも
難破の底から
――
たとえば
傾く
天蓋のもと
怒り狂う
不動の
白い
深渕
は絶望的に 羽搏き
つばさ
は のぞみのない飛翔のまえに伏せられ
噴出するものを蔽い
波頭をきり
内部に要約しているにしても
二者択一のかかる帆により底深く埋葬された 影 を
帆幅
に一致させるまで
こちら またあちら の舷にかたむいた
船体
の殻としてぽっかり口をあけた深みを

江原順訳|骰子一擲

骰子の一擲は
――
決して
難破船の底から
永遠の
さまざまな状況に投ぜられた時でさえ
――
例えば
渕[ふち]は
翼の
絶望的に平[たいら]なす
斜濤[よこなみ]のしたで
白く泡だち
たゆたい
怒り
その翼は
跳び損ね 前に倒れ
噴きあがる濤[なみ]面にかぶさり
沸[わ]きたつ波浪を切って
寄せ返す波の帆で 深渕に
帆幅だけ埋められていく影
一舷から他舷へと傾[かし]ぐ
龍骨ほどの
大口開く深渕を
深い底に縮めるのだ

清水徹訳|賽の一振り

賽の一振り
――
断じてそれが
たとえ 永遠の状況において
投じられるにせよ
難破の底から
――
あるいは
すなわち
〈底知れぬ深み〉が
白々と
静まり
たけりくるいつつ
絶望的なまでに
平らなる傾きの
翼のもと
その翼の傾きのもとに
前もって 飛翔を立ち上げる困難により落ちかかり
そして波の噴出を覆い
跳躍を水面に切る翼
はるか内部に 要約する
深みへと埋葬された亡霊を この代わりの帆によって
帆幅一杯に
一致せんばかりの
大きく口を開けた深み そのまま
船体として
右また左へと傾く

吉岡実は《薬玉》(1983)や《ムーンドロップ》(1988)では本文書体に明朝しか使用しなかったが、鉤括弧以外にもさまざまな括 弧 類を多用して、 複数の書体を用いるのと同等の効果を挙げた。吉岡が業務とした装丁や三八(さんやつ=新聞に掲載する書籍広告)の指定はマケットそのものである。そうした 作業がお手の物だった吉岡がマラルメのような版面にしなかったのは、その種の指定を詩 篇に持 ちこむ意思がなかったからと考えるほかない。《薬玉》詩形が想いのほか古典的なたたずまいを見せているのは、マラルメが想定した「それぞ れの活字の大きさや種類」 の使用には歯止めをかけたためである。《薬玉》詩形は吉岡実詩に《骰子一擲》の書法をそのまま適用したものではない。吉岡が 採用したのは、階段状の字下げによる、それ自体は詩句の線的な展開(ただし三次元を志向する)と、多様な書体に代わる多様な括弧類の使用だった。
最後に、アルベール・ティボーデとギィ・ミショーがそれぞれ のマラルメ論で《骰子一擲》に触れた箇所 から引こう。

『骰子一振り』は〔……〕白紙の頁の謎を前にした詩人の単独性へと世界を還元する。そこには偶然の働きを点々と連ねて稀有なる記号 が記される が、それらは 不可能な永遠の頁、時間の外に金の釘で留められた星座を暗示する以外の価値をもたない。(A・ティボーデ、田中淳一・立仙順朗訳《マラルメ論》、沖積舎、 1991年10月25日、三一四ページ)

マラルメはひとつの確認から出発した。それは、短詩が常に多くの余白[、、]に囲まれている、ということである。その余白を、作品のまわりに配置された沈 黙のような余白を、思考や意味の要求そのものにしたがって、ページの上に散乱させる[、、、、、]ことによって、もっとうまく利用してもよいのではない か。(ギィ・ミショー、田中成和訳《ステファヌ・マラルメ》、水声社、1993年3月30日、二三〇ページ)

前者は〈わたしの作詩法?〉の一節といっても通用しそうだし、後者は《薬玉》詩形の発想を語ったものとも読める。後期吉岡実詩は、詩 型の面だけとっても(《骰子一擲》を20世紀が生んだ最高の作品だとするオク タビオ・パス経由で)マラルメに幾許かを負っていることは疑えない。ちなみに〈「官能的詩篇」雑感〉の〈3 『骰子一擲』〉の直前すなわち 〈2 愛の詩〉の末尾には、パスと《骰子一擲》のことが書かれている。伊藤裕一郎訳《骰子一擲》にその辺の事情を側面から照らす内容が記されている 可能性がある以上、探索を続け たい。

〔付記〕
《筑摩世界文學大系 48〔マラルメ ヴェルレーヌ ランボオ〕》(筑摩書房、1974年5月25日)の〈翻訳目録〉〈参考文献〉に秋山澄夫の名はあるが(《イジチュー ル》ほかの訳と〈Un Coup de Des〉の訳と論)、伊 藤裕一郎の名は見えない。マラルメの最も詳細な翻訳目録と思われる原山重信の〈マラルメ翻訳文献書誌(V)―戦後編(中)(1961-1980)〉(《昭 和 大学教養部紀要》27号、1996年12月)と同〈マラルメ翻訳文献書誌(W)―戦後編(下)(1981-1997)〉(同28号、1997年12月)に 伊藤訳《骰子一擲》 はない。マラルメ/モレル著、柏倉康夫訳《賽の一振りは断じて偶然を廃することはないだろう》に収められた原詩の訳と〈あとがき〉に相当するテキストが柏 倉氏のサイト《S・マラルメ『賽の一振り』》〈試訳〉〈解説〉として掲載されている。また《Index des mots des poesies de Stephane Mallarme(ステファヌ・マラルメ『詩集』単語インデックス――Stephane Mallarme, Poesies [Edition Deman, 1899], Index des mots A-Z)》は「マラルメが用いた単語が詩篇や散文の文脈のなかで、どの ように用いら れているかを知る」(同書、一九七ページ)ための強力なツールである。


吉岡実とフランシス・ベーコン(2010年9月30日)

 私にとっていま関心があるのは何人かの画家で、なかでもフランシス・ベーコンが一番気になっている。バルテュスもそうだが、なんといってもベーコンは不可解な画家である。奇っ怪な、崩れた肉塊をものすごくきれいな色のパックに封じ込めた絵を、なぜ描かなければならなかったのか。顔も躰の形もみな歪んでしまっているのを「これが絵だ」と提出しているところが、やはり恐ろしい。三枚組絵[トリプティック]は壁画のような大画面で、そうしたことは画集を観ただけでは分からない。
  ベーコンがわざわざ難しく描こうとしたとは思えない。やはり、自然に描きたいということからこうした画風になったのだろう。もう八十歳近いはずだが、ともかく同時代人のわけで、現代画家のベーコンがなぜこのような絵を描いたのか、謎は尽きない。作品の解説書は当然あるのだろうが、日本ではまだ目録しかないようだ。松浦寿輝によれば、ジル・ドゥルーズが『感覚の論理』の題でベーコン論を書いているという(のちに山縣煕訳《感覚の論理――画家フランシス・ベーコン論》、法政大学出版局、2004年9月25日)。――人が叫ぶとすれば、それは常に、眼にはみえず感じ取ることのできない力、すべての光景を混乱させ、苦悩や感覚をさえ凌駕する力、そうした力に襲われたからである。それこそが「恐怖よりはむしろ叫びを画く」と主張することでベーコンが言おうとしていることである(〈8 力を画くこと〉、同書、五六ページ)。――
 ベーコン以外で関心があるのは、バルテュスと鉄斎だ。鉄斎はたいへんな画家だと思う。鉄斎とバルテュスが私の詩の世界にうまく入ればと思うが、同時にはベーコンを含めた三人が共存できないかもしれないから、とりあえずベーコンが一番近いところにいるといえる(私はまた、バルテュスの兄でもあるクロソフスキーの絵に惹かれている。《潭》に発表した〈ムーンドロップ〉はクロソフスキーとナボコフの《青白い炎》に触発されて書いた詩だ)。
 奇っ怪なイメージを自分の絵の枠に閉じ込めているベーコンの絵をそのまま文字にするのではなく、ベーコンについてあと一、二篇は書いて、次の詩集《ムーンドロップ》を構成したいと思っている。

上掲は、吉岡実が松浦寿輝・朝吹亮二との鼎談(対話批評)〈奇ッ怪な歪みの魅力〉(《ユリイカ》1987年11月号)でフランシス・ベーコンについて語った発言を基に、私が書き言葉ふうにまとめたもので、吉岡が執筆した文章ではない(これは吉岡が散文でベーコンに言及したことがないための苦肉の策で、他意はない)。一方、吉岡はバルテュスに対しては〈官能的な造形作家たち〉(初出は1986年6月の《季刊リュミエール》4号)の一節でオマージュを捧げている。興味深いことに、ともに20世紀の具象画の巨匠であったフランシス・ベーコン(1909-92)とバルテュス(1908-2001)は面識があった。ベーコンはあるインタヴューで次のように語っている。

 MA〔=ミシェル・アルシャンボー〕 フランシス・ベイコン、前回は現代画家の話になりました。あなたはバルテュスに会ったことがあると思います。彼の絵の世界はあなたにとってまったく無縁のものですか、それとも、その逆に、彼の作品にはあなたを引きつけるものがありますか?
 FB〔=フランシス・ベイコン〕 彼の絵には感心するところもいくつかあるけれど、でも、むろん僕たちはお互いにまったくかけ離れていると思う。彼の風景はいいと思う。特に大好きなものが2、3枚ある。でも、彼の作品で一番好きなのは、だいぶ昔のパリ時代の絵で、戦前のものだけど、ヴァージョンが二つあって、たしか《街路》というタイトルだった。僕の記憶では、片方のヴァージョンの方がもう一方よりも街路に人間がたくさんいて、それに、二つのヴァージョンの作風がまるで違ったんじゃないかな。後のヴァージョンの方が何もかもより正確で、かつより明確で。両方とも好きだな。〔……〕

ここで注目したいのは「あなたはバルテュスに会ったことがあると思います」に付された五十嵐賢一による訳注だ。「1977年にベイコンはローマに短期滞在し、当地のヴィルラ・メディチで、イザベル・ロースソーンの仲立ちでバルテュスに会っている。言及されている彼の《街路》の二つのヴァージョンのうち、人物の少ない方は1929年、人物が多く、しかも描き方が明確な方は1933年の作。ベイコンはこの対談のようにバルテュスをある程度評価しているが、一方、バルテュスはベイコンの死後、ベイコンについてこう述べている。「かつてベイコンという哀れな人間がいた。偉大な画家だったが、でも彼の作品は好きではなかった。絵では、己の感情を抑制することができなければならないし、己を律することができなければならないのだ」(『フィガロ』1995年7月)」。(ミシェル・アルシャンボー、五十嵐賢一訳《フランシス・ベイコン 対談》、三元社、1998年1月25日、五〇ページ)。吉岡実はバルテュスについては文章を遺しながら、なぜベーコンについては鼎談で言及しただけだったのか。これは考察に値する問題だ。だが、即答は控えよう。ひとつ言えるのは、吉岡にとってベーコンは「官能的な造形作家」ではなかったということである。

フランシス・ベーコン〈絵画〉(1946)
フランシス・ベーコン〈絵画〉(1946)

ベーコン初期の代表作に〈絵画〉(1946)がある。この「絵画」と吉岡実の詩篇〈寓話〉(B・15、脱稿はおそらく1955年3月5日)は、どちらがどちらの挿し絵とも説明文ともつかない、至近性を持っている。吉岡がベーコンについて散文で書くとなれば、〈寓話〉の存在を避けて通るわけにはいかない。ベーコンの絵画を語ることは、自作の詩篇を語ることと同様に困難だ。一方、吉岡がベーコンのことを詩で書けばこうなる、という見本が〈叙景〉(K・11)だ。この36行の詩篇はベーコンの伝記も踏まえた、吉岡実による〈フランシス・ベーコン頌〉である。

「あの時/野原に舞い降りる/鳥を描こうとしていた」/それなのに/(画家)はなぜか/肉屋と(肉塊)を描いている/もしあの時/凍れる肉屋の/(心的[メンタル]な空間)を想起していたら/おそらく/「泳ぐ女や/唇から垂れる蜜」/を描いていたかも知れない/今この(地上)では/「動くことと/動かないこととが等しい」/フルーツパーラーの椅子に/(画家)は凭れながら眺めている/初秋の街路を/(黄金の果物)を抱えた/(少年)が通り/(模造板)にのせられて/(死者)が通って行く/「光線をたえず/送りつづける」/(蒼穹[あおぞら])の下で/「眼で呼吸する」/わが(画家)は/「このとき競走馬を調教している/(父親)の勇姿を描こうとしていた」/(庭の千草も……)/(庭の千草も虫の音も……)/そして(心的[メンタル]な空間)に/「記号のまばたく/(星座)」/を描いているようだ

上に追込の形で引いた〈叙景〉は《現代詩手帖》1986年8月号、すなわち件の鼎談の1年以上前に発表されているから、吉岡がこれから書きたいと言っていたものは、鼎談の翌1988年5月、《新潮》通号1000号発表の〈晩鐘〉(K・15)に結実したと考えられる。次に〈晩鐘〉の第1節を掲げる。「紫の繻子のマントを着た/〔法王様〕の肖像だね!」はベーコンの〈ベラスケスの法王インノセント十世の肖像による習作〉(1953)を踏まえているに違いない。

母は買物袋を
      床になげ出し
            窓のカーテンを開ける
(外界はまるでたえまない
            浮遊物のようだ)
紫の繻子のマントを着た
           〔法王様〕の肖像だね!
母はなっとくして母家へ戻る
             緑に包まれた
        〔金魚鉢〕
             のような狭い庭
(あらゆる絵具は
        空を飛び交っている)
と認識せよ
     〔想念〕もまた
            (読みとり得ぬもの)
ぼくが現在描きつつある
           〔絵画〕なるものは
(夕陽のなかの岩塊)
          であるかも知れない

フランシス・ベーコン〈ベラスケスの法王インノセント十世の肖像による習作〉(1953)
フランシス・ベーコン〈ベラスケスの法王インノセント十世の肖像による習作〉(1953)

最後に、ベーコンのことばから生まれた詩句を挙げよう。展覧会図録、東京国立近代美術館編《フランシス・ベーコン》(東京新聞、1983)の挟込〈デイヴィッド・シルヴェスターとのテレビ・インタビューからの抜粋(1975)〉の「私は歩道の犬の糞を見ていました。突然に、これだ! 人生はこんなものだ、ということを了解しました」を踏まえたのが、〈産霊(むすび)〉(K・1、初出は《ユリイカ》1986年12月臨時増刊号)の次の詩句である。原文は《薬玉》詩形の4行だが、追込で引く。

舗道の隅で/「犬の糞を見て/突然/そこに(人生)があると叫んだ」

私が吉岡さんと最後に話したのは1989年12月20日のことだ。ベルギーの画家ポール・デルヴォーについて尋ねると、「北の丸〔東京国立近代美術館〕のデルヴォー展は観たが、「夜の画家」だとわかってしまって。前は好きだったけれど。いま好きなのは、バルテュスとクロソフスキーとベーコンだ」ということで、鉄斎の名は出なかったように思う。美術家三人を扱った随想〈官能的な造形作家たち〉の一人としてバルテュスにオマージュを捧げつつも(他の二人はハンス・ベルメールと四谷シモン)、亡くなる半年ほど前まで、フランシス・ベーコンは吉岡実の脳裡を去らなかった。


《北海道の口碑伝説》のこと(2010年8月31日)

《うまやはし日記》の昭和15年2月14日(水)に《北海道の口碑伝説》に関する記述がある(同書、一三二ページ)。ここでは《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》の当該項目を引こう。

北海道庁編《北海道の口碑伝説》(日本教育出版 社、1940年3月30日)〔764-112〕
吉岡は「持ち込み原稿の『北海道の口碑と伝説』の整理に没頭する。出来ると、天皇陛下に献上するとのこと」と書いている。発行者:北海道連合教育会。印刷 者は小坂孟(東京市牛込区市谷加賀町一丁目十二番地)、印刷は大日本印刷株式会社で、翌年刊行の吉岡実詩集《液体》(草蝉舎、1941年12月10日)の 印刷者・印刷所と同じである。発売所:富貴堂。

日 記中の書名《北海道の口碑と伝説》は最終的に《北海道の口碑伝説》となった。本文冒頭の見出しこそ《北海道の口碑・伝説》だが、ほかは函の背・平、本体の 表紙の背・平、本扉(以上は書き文字)、奥付ともすべて《北海道の口碑伝説》となっている。これは《北海道の口碑と伝説》を誤記・誤植とするのではなく、 working titleとすれば解決する(日記の浄書原稿を作成したとき、吉岡の手許に同書はなかったはずだ)。《うまやはし日記》のその後の記述を見ていくと、3月 6日(水)に次のようにある。ちなみにこの日は、同日記に登場する最後の日。

 朝、牛込の 大日本印刷へ行く。三階の出張校正室に通される。ガラス張りの室内は明るいかぎり。いくつもの室で、雑誌社、出版社の連中がゲラを読んだり、係の人と打合 せをしたり。正午、四階の食堂でご馳走になる。夕刻まで西村さんと校正に没頭する。小坂孟さんが時々、打合せにきた。夜八時過ぎまでかかった。夜、詩想に ふける。この月かぎり、父は勤めを辞めることになった。月給五十数円が入らなくなるのだが、ともかく私たちもこれで一安心だ。(同書、一三九〜一四〇ペー ジ)

私の知っている1980年代の大日本印刷の出張校正室とほとんど同じなのに驚くが、日 記にしばしば登場する印刷者の「小坂孟さん」は営業担当者だったのだろうか。戦後刊行の書籍の奥付でも見かける。日記の前前日、3月4日(月)には「夕 刻、堀内夫人来る。石川女史と仕事の打合せをしているようだ。西村さんは無関心で、ゲラ読みに熱中している。夫人は遠慮してか話しかけてこない。ちらちら 横顔を見るばかり。石川女史を誘って帰っていった。校正にも身が入らない」(同書、一三九ページ)とあり、両日とも《北海道の口碑伝説》の校正作業だった と思われる。だが、その書のどこを探しても、刊行時吉岡が勤務していた西村書店のクレジットはない。おそらく社長の西村知章が「編集プロダクション」とし て製作を請け負った受注案件だったのではないか。《うまやはし日記》を読むかぎり、吉岡に北海道庁とのコネクションがあった形跡は見当たらないのである。 《北海道の口碑伝説》の構成の概略を以下に記す(数字は掲載記事の開始〜終了ノンブルで、前付は記事ごとに別ノンブル。漢字は新字に改めた)。

〈序〉(北海道庁長官・戸塚九一郎) 一〜三
〈巻頭図版〉 〔モノクロ口絵写真二丁、裏白〕
〈北海道の口碑伝説分布図〉 〔折込地図一葉、裏白〕
〈目次〉 一〜一九
〈挿入図版及刷込図版目次〉 一〜七

〈石 狩支庁〉 一〜三/〈渡島支庁〉 四〜三九/〈檜山支庁〉 四〇〜八一/〈後志支庁〉 八二〜一〇六/〈空知支庁〉 一〇七〜一〇八/〈上川支庁〉 一〇 九〜一一一/〈留萌支庁〉 一一二〜一一六/〈宗谷支庁〉 一一七〜一二二/〈網走支庁〉 一二三〜一三〇/〈胆振支庁〉 一三一〜一三五/〈日高支庁〉  一三六〜一四六/〈十勝支庁〉 一四七〜一五三/〈釧路国支庁〉 一五四〜一五八/〈根室支庁〉 一五九〜一六五/〈札幌市〉 一六五〜一六七/〈函館 市〉 一六七〜一八〇/〈小樽市〉 一八〇〜一九〇/〈室蘭市〉 一九〇〜一九四/〈釧路市〉 一九四〜二〇一/〈帯広市〉 二〇一〜二〇三/〈旭川市〉  なし

奥付 〔二〇五〕
「昭和十五年三月二十五日印刷/昭和十五年三月三十日発行/北海道の口碑伝説 ―全一冊―/一部 金二円五十銭
――――――――
編 者 北海道庁/発行者 札幌市北一条西五丁目一番地 北海道連合教育会 代表者 大西正一/印刷者 東京市牛込区市谷加賀町一丁目十二番地 小坂孟/発行所 札幌市南一条西一丁目八番地 日本教育出版社/発売所 札幌市南一条西三丁目 六番地 合名会社富貴堂 電話代表六〇九〇/大日本印刷株式会社印刷」

北海道庁編《北海道の口碑伝説》(日本教育出版社、1940年3月30日)の奥付 北海道庁編《北海道の口碑伝説》(日本教育出版社、1940年3月30日)の本扉
北海道庁編《北海道の口碑伝説》(日本教育出版社、1940年3月30日)の奥付 (左)、同・本扉(右)

文体はおおむね簡潔な現代文(やや古色が入る)だが、なかには森銑三《物 いふ小箱》を 思わせるような逸品もある、といえば褒めすぎだろうか。少なくとも「自ら遺漏なきを期しがたきも、以て時局下道民の郷土愛を昂め、道史傍証の一助たるを得 ば幸甚なり」(北海道庁長官・戸塚九一郎〈序〉、二ページ)という目的は達成した、自治体による郷土史本である。本文では最後に登場する〈帯広市〉の全文 を、原本の組体裁をなるべく活かして録する(漢字は旧字も使用した)。

      帶廣市(帶廣市役所調)

一、伏古チヨマトーに繞はる傳説

  或年十勝日高兩土人間に戰爭が起り、十勝土人は大敗した。其の後再び兩土人間に戰爭が起り、今度は日高土人が敗軍した。そして退却に方り、非常の空腹のた め歩行も自由ならず、今の伏古土人學校附近の沼から、數羽の鳥を獲つて之を食し、一時空腹を凌いで居た。ところが間もなく背面又前面を包圍されて退路を失 ひ、終に日高土人は沼中に身を投じ、溺死する者が多數に上つた。爾來この沼を土人語でチヨマトーと稱した。即ち腐敗した沼といふ意義で、今に土人等は國道 に架せられた帶廣市の西端の板橋を、チヨマトー橋と稱して居る。(明治四十年十二月十五日發行十勝史二三及二四頁)但し此の橋は大正十年橋下の沼水を埋め て、國道を東西に接續したため廢絶されて今はない。なほ之と似通つた一、二の傳説がある。

こ の伏古別のチホマトーといふ名の起りは、昔釧路や北見の方の惡者どもが方々の寳物を掠めて來て、同勢約六十人が、この沼の鴨をとつて食つて居たところを他 の者に攻め立てられ、沼に飛び込んで溺れたところから、チホマといふ惡いといふ意味の名をつけた。(明治四十年三月二十七日伏古酋長ツウレナ和名武田源五 郎よりの吉田巖聴書に依る)
大正五年十一月三日伏古アイヌ伏根弘三より吉田巖聴書の一節に、「昔時シピチヤリ(今の日高國内の地名)の敵衆約六十人が攻寄せて來た時、或トカチの靈能 者によつて觀破せられ、五十九人はこの沼に追込められて溺死し、他の一人は辛うじてシピチヤリに遁げかへるを得た。五十九の怨靈があるから、禍を蒙るとい ふ考でチホマと稱するに至つた。トウは沼の夷語である。
大正五年十一月三日伏古アイヌの主唱で、明治天皇桃山御陵遙拝地を、沼の南畔に卜して小祠を創立せんとした。老アイヌは一齊に沼の名チホマの不吉を唱へた のでカムイトウと改稱することになつたといふことである(吉田巖稿本十勝國神居沼古謠の一節)

  なほ現今チホマトウ又はカムイトウ(神居沼)として知らるゝ區域は、主として帶廣市基線西二十三番地(谷口清太郎被給與地)同西二十五番地(舊日新小學校 附屬地)に跨り、相接伴する卵形の沼と、國道の南基線西二十二番地の細長い檞葉形で、木賊の叢生した沼との小部分に過ぎない。然し往時に溯れば附近は一帶 の湖水地であつて、字名に殘る伏古別[フシコベツ](廢川の義)の示す通り、出水等の際は沼水が川に續いて渺茫とした湖沼となり、一定の形状を捕捉するこ とが出來なかつたやうに思はれる。その後附近の土地の開拓せらるゝに隨つて次第に水が涸れ、遂に今日の状態を呈するに至つたのである。         (以上帶廣市吉田巖記録による)

北海道庁編《北海道の口碑伝説》(日本教育出版社、1940年3月30日)の函と表紙 北海道庁編《北海道の口碑伝説》(日本教育出版社、1940年3月30日)の本文ページ
北海道庁編《北海道の口碑伝説》(日本教育出版社、1940年3月30日)の函と表紙 (左)、同・本文ページ(右)

本 書の仕様は、二一六×一五〇ミリメートル・二四八ページ・上製布装(書名は書き文字、金箔押し)・機械函。本文の基本組は9ポ・53 字詰×16行・行間五 号。縦組両柱方式、ノンブルは二分漢数字。本文中の写真(目次では「刷込図版」)は90点に上り、建造物の写真にはタイトルのほかに「昭和十四年十一月二 十七日/津軽要塞司令部検閲済」といった記載がある。
《北海道の口碑伝説》の装丁者ははたして吉岡実だろうか。これがどうもよくわからない。というのも、学術書に準ずる体裁(菊判・上製・函入)の本書は、類 書を見本に手堅くまとめた印象で、編集者・製作者独自の配置[レイアウト]が伺われないのだ。書名の書文字は、クレジットがないものの北海道庁長官・戸塚 九一郎が順当で、吉岡の書の可能性はない。思うに原稿整理、前付(〈序〉〈巻頭図版〉〈北海道の口碑伝説分布図〉〈目次〉〈挿入図版及刷込図版目次〉)・ 写真を含む本文・後付(奥付)の指定、そして校正が吉岡実の担当だったのではないか(本体および函の装丁は誰か別人、たとえば社長・西村知章の可能性もあ る)。作業の範囲を少なく見積もっても、原稿整理は吉岡の担当であり、400字詰原稿用紙約430枚のしかも複数の執筆者の書き下ろしを極めて短期間で刊 行するあたり、手練れの仕事と言わなければならない。いくら年度内納品とはいえ、原稿整理に没頭してからわずか1箇月半で完成というのは驚異的なスピード であり、もって当時20歳の吉岡実の書籍編集者としての力量をおもんみるべきである。

〔付記〕
福永武彦の未完の長篇小説に《夢の輪》がある(見やすい版は《福永武彦全集〔第12巻〕》、新潮社、1987)。舞台になった北海道の架空の街「寂代[さ びしろ]」に、福永が終戦後の一冬を過ごした帯広[おびひろ]が投影していることは争えない。《夢の輪》に口碑伝説的な記述はないが、一見場違いなアイヌ やユーカラへの言及は戦時中の日本(人)を相対化する視点として不可欠である。福永がこの長篇を書く際に《北海道の口碑伝説》を参照することはなかっただ ろうか。


吉岡実と彫刻家(2010年7月31日)

吉 岡実が若いころに彫刻家を夢見たことは、本人もたびたび書いたし談話でも言及しているので、よく知られる。いくつかの略伝がそれに触れているが、吉岡自筆 の〈小伝〉中の「彫刻家を夢みて果さず。」(《現代日本名詩集大成 11》、東京創元社、1960年9月10日、〔三一〇ページ〕)がその濫觴だろう。後続の略伝にも

  • 夜学の商業学校に通うも、彫刻家を夢み、また俳句短歌を学ぶ。(1968)
  • 彫刻家を志すも果さず。(1973)
  • 昭和九年、高等小学校卒業後、彫刻家を夢みたが果たさず、医書出版南山堂に勤務。(1977)
  • 高等小学校を卒業後、彫刻家を夢みたが断念。(1987)
  • 幼少期彫刻家を志したが果たさず、出版社に勤務しつつ夜学に通い文学書に親しむ。(1988)
  • 高等小学校卒業後、彫刻家を夢みたが果たさず医書出版南山堂に勤務し、そのかたわら夜学に通う。(2002)

とある(《〈吉岡実〉人と作品》参 照)。彫刻家の夢が破れて、@医書出版南山堂勤務、A 向島商業学校(夜間)通学、B文学書多読精読、が三つながら同時進行する形で、短歌・俳句・詩などの文学作品の創作はその後のことになる。詩人・装丁家と しての吉岡実は、拳玉のオブジェを 除けば彫刻はおろか公表された形では絵画も残しておらず、造形作品を制作した形跡はない(詩を書き、美術を愛し、自著以外にも装丁を残したという点で共通 する瀧口修造とはここが異なる)。彫刻家の夢は潰えたまま浮上することがなかったのか。いま一度、吉岡の談話から探ってみよう。

  • 吉岡  おれは最初彫刻家をゆめみていたんだよ。それがダメで絵になつて、それから詩で絵をかこうと思つた。自分としては空間だけをつくりだそうとしたのが『静 物』で、それから動物的・人間的な世界へ進もうと思つて『僧侶』ができたんだよ。(天沢退二郎との対談〈新春対談〉、《現代詩》1963年1月号、四〇 ページ)
  • 吉岡 ぼくが子供の頃、漠然と夢見たのは彫刻家ですね。いろんな事情で彫刻家が駄目にな り、絵かきも駄目で、それで詩を書いて しまった。書く場合にも、手にとれるものが欲しい。(入沢康夫との対談〈模糊とした世界へ〉、《現代詩手帖》1967年10月号、五六ページ)
  • 吉岡  〔……〕ぼくなんかはとくに、彫刻でもやりたかったような少年だったから、ひょっとしたら北園克衛の詩に、造形的なものを感じたのかも知れない。『円錐詩 集』とか『白のアルバム』という作品にね。(大岡信との対話〈卵形の世界から〉、《ユリイカ》1973年9月号、一四五ページ)
  • 吉岡 たとえばね、飯島くんが運慶を書けないということ。なんか新しい詩を書こうとして ると、日本的風物に わずらわされちゃいけないっていう意識が、ぼくのなかにもあるわけね。それは新しい外国の彫刻のほうを詩にしたほうが新しくなるという、錯覚なのかもわか んないんだけど、あるのね。(飯島耕一との対話〈詩的青春の光芒〉、《ユリイカ》1975年12月臨時増刊号、二〇七ページ)

造形への願望は詩を書くことで解消した、というのが吉岡の出した結論である。では、随想などの散文に登場する「彫刻」「彫刻家」はどう だろうか。な お、標題後の数字は《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)のノンブル。

  • わたしは詩を書く時は、家の中で机の上で書くべき姿勢で書く。いってみれば、きわめて事務的に事をはこんで行く。だから彫刻家や 画家、いや手 仕事の職人に類似しているといえよう。(〈わたしの作詩法?〉、八八)
  • 或る人は、わたしの詩を絵画性がある、又は彫刻的であるという。それでわたしはよいと思う。もともとわたしは彫刻家への夢があっ たから、造形 への願望はつよいのである。(同前、八九)
  • ラドリオとはスペイン語の〈煉瓦〉を意味する言葉だと聞いたことがある。〔……〕数多く飾られた抽象彫刻やデッサンにまじって、 一寸場違いな 感じの額が、いちばん奥の壁に懸っている。(〈遥かなる歌――啄木断想〉、一四七)
  • 難 波田龍起氏は詩人的画家である。それは若き日に彫刻家であり、詩人である高村光太郎という偉大なる芸術家と出会ったということによる。〔……〕光太郎は自 己の作品(彫刻・詩)にきびしいかわり、他人の作品にも常に第一級の作品を求めるという真摯の人であったというから、おのずから若き難波田氏もその精神を 学ばれたといえる。(〈昆虫の絵――難波田龍起〉、一六七〜一六八)
  • 『夏の宴』の詩篇の多くは、親しい詩人、作家、彫刻家、画家それに舞踏家たちの言葉を、引用してつくられている。(〈二つの詩集 のはざま で〉、二八五〜二八六)
  • 『ロダン』一巻は、リルケがロダンの精神と彫刻を讃美しながら、自己の「詩論」を展開しているように、私には思われた。(〈リル ケ『ロダン』 ――私の一冊〉、二八八)
  • そ の夕べは豪雨だった。私はびしょ濡れになりながら、二子玉川駅近くの岡崎和郎邸を探し歩いた。〔……〕ここに屯する四人の男は、岡崎夫人にとって、昨日ま では一面識もない、人間なのである。しかも主人の彫刻家は遠く、アメリカヘ行っているのだった。(〈郁乎断章〉、三三〇)
  • だがなんといっても神田の喫茶店のシンボルはラドリオだと思う。若い人で賑やかだが、私はここでウインナーコーヒーを飲みなが ら、煤けた彫刻 類を見ているといちばん心がやすまる。(〈ひるめし〉、《「死児」という絵》、思潮社、1980、六二)

引 用文には高村光太郎(1883-1956)、Auguste Rodin(1840-1917)、岡崎和郎(1930- )という固有名詞が挙がっていて、ラドリオの彫刻も二度登場する。注目すべきはロダンだが、ロダンの彫刻作品に対して吉岡は想いのほか冷淡である。おそら く彫刻(家)への興味から《ロダン》に触れた吉岡 は、思いがけずリルケのことばに惹きつけ られていった。これが、戦前から戦後にかけての吉岡実の軌跡だった。ちなみに同書は、吉岡が応召の際に携えた三冊のうちの一冊である。

  さて、リルケの『ロダン』であるが、巨匠ロダンへの詩人の純粋な魂が、いかに傾倒していったかの、告白の書である。しかし、私にとっては、ロダンの偉大さ は、どうでもよかった。透明な空間へ鋳こまれたような、リルケの言葉――肉体の鎖、螺条、蔓。罪の甘露が痛苦の根からのぼって行く、重くみのった葡萄のよ うに房なす形象――というような陰影深い詩的文体に、私は魅せられた。(〈リルケ『ロダン』――私の一冊〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、 1988、二八七ページ)

リルケの《ロダン》に開眼して《静物》(1955)を書いた吉岡が、高村光太郎の彫刻にどれだけ感化されたかは不明というほかない(筑 摩書房以前の 勤務先・東洋堂の社長宅に寄寓する際に、《高村光太郎詩集》を忘れなかった吉岡ではあるが)。最後に詩篇を見よう。

  • 彫刻された男女のために(〈無罪・有罪〉E・2)
  • 暁の彫刻である(〈少女〉F・5)
  • 血の彫刻を仰げ(〈コレラ〉F・18)
  • 窓べの少女の金髪は彫刻されたように暗く(〈フォーサイド家の猫〉G・17)
  • 一つの彫刻を組み立てる(〈曙〉H・8)
  • 彫刻のそばへゆく(〈形は不安の鋭角を持ち……〉H・11)
  • 彫刻的に(〈夢のアステリスク〉H・22)

むろんこれ以外にも彫刻家は詩篇に登場していて、

  • アルプの乳形の石(〈スープはさめる〉E・11)
  • 老嬢ルイズ・ニーヴェルスンの/スイ星の球のつまった/箱をさがす(〈雨〉F・9)
  • ヘンリー・ムアは夢の王妃を鉄で造る(〈舵手の書〉G・22)
  • そしてわたしはアンリ・ローランスの/言葉を思い出す(〈形は不安の鋭角を持ち……〉H・11)

のJean Arp(1887-1966)、Louise Nevelson(1900-88)、Henry Moore(1898-1986)、Henri Laurens(1885-1954)などが実在の作家だ。しかし、なんといっても〈形は不安の鋭角を持ち……〉の題辞「複眼の所有者は憂愁と虚無に心を 蝕ばまれる」の作者・飯田善國(1923-2006)を逸するわけにはいかない。前掲「『夏の宴』の詩篇の多くは、親しい〔……〕彫刻家〔……〕たちの言 葉を、引用してつくられている」の彫刻家は飯田を指すのだから。飯田は文筆に優れ、〈〈謎[エニグマ]〉に向って――吉岡実〉で吉岡実詩を「修辞・比喩・ 暗喩・想像・感覚・そして妖しい感情の肉体までを逆説の危機に晒して氏が追求してきたもの、氏自身もおのれの詩法を解き明すことができないと明言している その詩法の秘められたモティーフは、「世界の謎」についての言説であった」(《彫刻の思想》、小沢書店、1995年10月20日、三六二ページ)と喝破し た。しかし、二人が談笑する折は、詩よりも彫刻や造形作品についての話題が多かったのではあるまいか。彫刻について問われて、飯田が大略次のように吉岡に 語ったと想像することは許されるだろう。

 彫刻が絵画と異る芸術であることをはっきり示す ひとつは、それが画面という特定の二次元平面に自己を限定しない性質をあげなければならない。それは、原則として三次元の立体であり、人はその周囲をめ ぐったり、それに手を触れたり、ときには、その下をくぐったりもする。建築と似ているのはこの点である。/また、それは、木・ブロンズ・鉄・銅・その他あ らゆる現実の物質を素材として、それを直接成形することから作品が出来上る。そのことから、彫刻はすでに「作品」であると同時に、現実の空間に置かれてい る机・寝具・靴・電気スタンドなどと等価の「事物」として空間に存在する。/さらに、「絵画」がそのイルージョンを見る者に強制する性質をもつのに対し、 「彫刻」は、見る者になにひとつ強制しないともいえる。そのことは彫刻が物体として存在する一面があることを物語っている。(飯田善國《彫刻家――創造へ の出発〔岩波新書〕》、岩波書店、1991年5月20日、三四ページ)

 ムーアが二十世紀の人間の爬虫類的側面に眼を向けたの は、ピカソやジャコメッティの作品の示唆があったのかも知れない。それにしても、それらの示唆、そして引用[、、]からムーアは自分のイメージを遥か遠い ところまで運んでいる。ここのところが、ムーアの偉大さである。/引用する者、引用できる者は無数にいるが、引用の地点から、引用の核をより深く、大き く、ひとつの独創のイメージへまで運搬し、育てあげることのできる者は、すでに平凡ではない。(同前、二一四〜二一五ページ)

 触覚は思考や推量を跳び越えて、事物そのものの本質を伝える。触覚を媒介とするとき、事物の表層と内部とは区別できぬ全体として 一挙に認知さ れ、把握される。一挙に認知されるという、触覚のこの直達性、直接性、こそ私たちの生の基層を成すものだ。(同前、二三九ページ)

吉 岡実詩を評して、言語による彫刻、と呼ぶ向きがある。だがそれは、詩句の展開が惹き起こす内容上の凹凸によるのでもなければ、ましてや括弧類が跋扈する 《薬玉》詩型の視覚上の段差によるのでもない。絵画のもつイルージョン性、すなわち「世界を統一する事物の物語り性」を斥けて、自分の詩を「一個の物体と して空間に置かれ」(同前、三五ページ)た彫刻たらしめること。それが晩年の、とりわけ《ムーンドロップ》(書肆山田、1988)の詩篇を貫く吉岡実の姿 勢である。吉岡はこのようにして、彫刻家たらんとする初志を半世紀以上ものあいだ堅持したのである。

道標のような
      (鉄の彫刻体)
             その内部にさざなみの立つ
暁がくるまで
      ぼくは思考し
            「横たわる紙の上で
             デッサンする」

(〈秋の領分〉K・5、末尾)


吉岡実詩集《夏の宴》本文校異(2010年6月30日〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実の詩集《夏の宴》は1979年10月30日に青土社から刊行された。詩作品28篇を収め、詩集刊行後に発表された〈円筒の内側〉(1979年11月)と〈「青と発音する」〉(1979年12月)の2篇を除いて、〈楽園〉(1976年8月)から〈この世の夏〉(1979年8月)までの全26篇が本詩集以前に雑誌・新聞・書籍、あるいはホーム壁面に発表されている。なお、〈円筒の内側〉と〈「青と発音する」〉2篇の原稿は、詩集刊行に先立って各媒体に掲載が予定されていたと考えられるため、各媒体掲載形を初出として扱う。本稿では、 雑誌・新聞・書籍掲載用入稿原稿形、 初出雑誌・新聞・書籍掲載形、 《夏の宴》(青土社、1979)掲載形、 《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)掲載形のうち、からまでの詩句を校合した本文とその校異を掲げた。これにより、吉岡が詩集《夏の宴》各詩篇の初出形本文にその後どのように手を入れたか、たどることができる。本稿は印刷上の細かな差異(具体的には、漢字の字体の違い)を指摘することが主眼ではないので、シフトJISのテキストとして表示できる漢字はそれを優先した。なお、漢字が新字の本文の新字以外の漢字は、シフトJISのテキストで表示可能なかぎり、校異としてこれを載録した。初めに《夏の宴》各本文の記述・組方の概略を記す。

雑誌・新聞・書籍掲載用入稿原稿:詩集掲載用入稿原稿とともに2010年6月の時点で未見だが、漢字は新字、かなは新かな(拗促音は小字すなわち捨て仮名)で書かれたと考えられる。

初出雑誌・新聞・書籍:各詩篇の本文前に記載した。本文の表示は基本的に新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用なので、特記なき場合はこれを表わす。

《夏の宴》(青土社、初版は1979年10月30日〔校異の底本には最終増刷本である1980年2月15日発行の「二版」を使用した〕):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ〔散文詩型の部分では22字詰〕14行1段組。

《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ〔散文詩型の部分では22字詰〕19行1段組。なお《吉岡実全詩集》の底本は 《夏の宴》。

詩篇の節番号のアラビア数字・ローマ数字およびアステリスクの位置(字下げ)は最終形を収めた《吉岡実全詩集》に倣って三字下げに統一し、字下げは校異の対象としなかった(題辞や詞書・註記の字下げも《吉岡実全詩集》に合わせた)。単行詩集には〔1976〜1979〕と制作期間の表示がある。なお〈吉岡実詩集本文校異について〉を参照のこと。

…………………………………………………………………………………………………………

《夏の宴》詩篇細目

  詩篇標題(詩集番号・掲載順、詩篇本文行数、初出《誌紙名》〔発行所名〕掲載年月日(号)〔(巻)号〕)

楽園(H・1、31行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1976年8月号〔19巻9号〕)
部屋(H・2、34行、《新潮》〔新潮社〕1976年12月号〔73巻12号〕)
(H・3、40行、《ユリイカ》〔青土社〕1978年7月号〔10巻8号〕)
子供の儀礼(H・4、56行、《文藝》〔河出書房新社〕1976年10月号〔15巻10号〕)
異邦(H・5、31行、〈ヘルマン・セリエント展〉パンフレット(青木画廊、1977年5月31日)
水鏡(H・6、5節86行、《文藝》〔河出書房新社〕1977年11月号〔16巻11号〕)
晩夏(H・7、22行、《流行通信》〔流行通信〕1977年10月号〔164号〕)
(H・8、66行、《ユリイカ》〔青土社〕1976年11月臨時増刊号〔8巻13号〕)
草の迷宮(H・9、6節100行、《池田満寿夫20年の全貌》、美術出版社、1977年11月3日)
螺旋形(H・10、63行、《海》〔中央公論社〕1977年5月号〔9巻5号〕)
形は不安の鋭角を持ち……(H・11、V節52行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1978年4月号〔21巻4号〕)
父・あるいは夏(H・12、35行、《カイエ》〔冬樹社〕1978年8月号〔1巻2号〕)
幻場(H・13、38行、《月下の一群》〔海潮社〕1976年12月〔冬・2号〕)
雷雨の姿を見よ(H・14、8節126行、《海》〔中央公論社〕1978年5月号〔10巻5号〕)
(H・15、17行、《文學界》〔文藝春秋〕1978年1月号〔32巻1号〕)
織物の三つの端布(H・16、*印が3節を従える74行、《エピステーメー》〔朝日出版社〕1978年11月号〔4巻10号〕)
金柑譚(H・17、5節84行、《海》〔中央公論社〕1979年5月号〔11巻5号〕)
使者(H・18、6節67行、《新劇》〔白水社〕1977年8月号〔24巻8号通292号〕)
悪趣味な春の旅(H・19、43行、《日本読書新聞》〔日本出版協会〕1977年1月17日〔1889号〕)
夏の宴(H・20、Y節120行、《文藝》〔河出書房新社〕1978年10月号〔17巻10号〕)
(H・21、12行、《街頭詩の試み》〔地下鉄千代田線明治神宮前駅ホーム壁面、パレフランス提供〕1979年6月〜8月)、詩のアンソロジー《地下鉄のオルフェ》(オーデスク、1981年4月〔日付記載なし〕)に再録
夢のアステリスク(H・22、***節58行、1978年3月20日刊の金子國義版画集《LE REVE D'ALICE――アリスの夢》(角川書店)出版案内カタログ 1978年2月)
詠歌(H・23、37行、《ユリイカ》〔青土社〕1979年7月号〔11巻9号〕)
この世の夏(H・24、20行、《朝日新聞〔夕刊〕》〔朝日新聞東京本社〕1979年8月20日〔33641号〕)
裸子植物(H・25、40行、《肉体言語》〔「肉体言語」舎〕1979年3月〔9号〕)
謎の絵(H・26、17行、《東京新聞〔夕刊〕》〔中日新聞東京本社〕1979年1月5日〔13124号〕)
「青と発音する」(H・27、55行、《雷鳴の頸飾り――瀧口修造に》、「雷鳴の頸飾り」刊行会、1979年12月10日)
円筒の内側(H・28、6節85行、《ユリイカ》〔青土社〕1979年11月臨時増刊号〔11巻14号〕)

――――――――――

楽園(H・1)

初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1976年8月号〔19巻9号〕二〇〜二一ページ、本文9ポ23行1段組、31行。吉岡は随想〈藤と菖蒲〉の「2 菖蒲」で本篇を引用して、制作の背景に触れている。

私はそれを引用する
他人の言葉でも引用されたものは
すでに黄金化す
「植物の全体は溶ける
(一一下)→23(五下)〕その恩〔12寵→竉〕の温床から
(一三下)→23(一二下)〕花々は生まれる」
かつて近世の女植物学者はそのように書いた
灰色の川のふちに乱れ咲く
百千の花菖蒲はまるで
翼の折れた鳥のような花弁を垂らす
悪天候の楽園のなかで
私は不可解な麩という食べものを千切り
浅瀬を游ぎまわる小魚を養う
そして妄想をくりかえし
老いたる姉妹のように
木馬にまたがる
いずれにせよ
「人間の全体は溶ける」
かかる時点で地の上に何が遺るか
      水の上に何が浮ぶか
見れば見るほど微少なる
「熱い灰の一盛りと
          火箸」
それは永遠に運搬できぬしろもの
この世にまだパン粉を捏ねる人がいるとしたら
その〔反→23全〕人間的な人の背後を
老いたる兄弟は通り
川のながれにまかせて
夢の波に乗る
謎[エニグマ]
沖は在る

部屋(H・2)

初出は《新潮》〔新潮社〕1976年12月号〔73巻12号〕一四六〜一四七ページ、本文9ポ21行1段組、34行。カット:福島秀子。

塵のなかで
「ひたすら美が
(七下)→23(八下)〕ながらえるように」
二人の女は向きあっている
楯形模様の敷物の上で
永い時をともに過すために
任意の距離はたもたれる
年上の坐せる女がたぐりよせているのは
あきらかに緋色の一本の毛糸であって
〈楽句[フレーズ]〉ではない
それは光を発しながら
木蔭を通り
氷塊をぬける
「美は滅びるか
(七下)→23(八下)〕または変化する」
(ナシ)→23この〕地上で
たぐられているのは
もう一人の若い女の所持する
〈核[コア]〉を包む
毛糸の玉のような物質だ
ひざの間で回転しつつ
濡れたり乾いたり
それは外側から縮小してゆき
やがて草むらに
蛇のごとく消える
二人の女は〈無限〉という概念から
ときはなたれて
「いまでは象牙のように
(七下)→23(一二下)〕静止している」
もしかしたら
二人の女のいるのは部屋の内
というよりも
その下は潮がくぐりぬけてゆく
岩棚のようにさえ思われる

(H・3)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1978年7月号〔10巻8号〕一二〜一三ページ、本文9ポ23行1段組、39行。

「一匹の蜂がブーンと飛びまわっている」
炎天の寂〔莫の→23寞〕
まひるま→23(トル)〕
野山を越え
日傘をさして乙女がやってくる
(ナシ)→23唄うように〕
わたしの好きなアメスイスト
       ラピスラズリ
       〔蝉の声→23(トル)〕
伊太利の宗教画家は
「たえず〔円→23露〕の中を廻って歩む」
乙女→23蝉〕のために
天人唐草の花を前景に
描きこみ
「いわしのようにやせた
母親」
から生まれた
タークワーズのような〔(追込)→23(改行)〕乙女のために
染物屋の主人は紫の馬を染め〔(改行)→23(追込)〕
あげる〔(追込)→23(改行)〕十三夜
槌の音が聞えてくる
「人生のなかばにして
叢林にふみ迷う」
(ナシ)→23男と〕
妻子は沼で
おおばこの葉でかえるを釣っている
まるで墨絵のようだ
つきなみな慣用句だが
「涙は百合と
バラの間に落ちる」
いおりをむすぶ
心がけのよい者は
赤飯を食べ
水浴派の乙女をかいま見る
しかし
「悪人は柳の下を急ぐ」
生〔け→23(トル)〕垣の外で
こおろぎは鳴く
「荷が重すぎる」
石綿や鉛で
みろくぼさつは創られてはいない

子供の儀礼(H・4)

初出は《文藝》〔河出書房新社〕1976年10月号〔15巻10号〕一六八〜一七一ページ、本文9ポ22行1段組、56行。本文カット:野中ユリ。

わたしはチョークで黒板に描く
水腫の父の足と指
それからバナナを積む舟を……
母は愛の潮にのって行く

尋ねあてられるだろうか? アスタルテの妹
「朝食に卵をたべる女」
「ドライアイスの函を持つ女」
熱帯では犬の鼻も効かなくなる

母の毛皮姿を想い出す
洗えば洗うほど強くなる穴のあいたもの[、、]
わたしは嬰児でなく現在の姿で
鳩の糞のように落ちてきたのかも知れない

あらがねの頭で認識した
〈女〉のなかには見分けがたい流体が介在する
うごく魚や藻や水
視力喪失の愛

「靴紐が血のように太腿からたれている」
人はそのような熱する女を忘れない
わたしは液状のものを発射する
夜の気配のこめた無花果の木へ向って

アルマジロは汚れた巣のなかで からだをまるめる
褐色の象牙の玉のように淋しく光る
兄は「綿布と三枚の羽でくるまった鉄線」
でつくられた単位フォルム 担架で搬ばれて行った

火蓋 かさぶたは剥落し
わたしの薬莢は炸裂する
藍瓶をのぞく母の股ぐらの闇へ
屋台商人が塩・酢・胡椒を売りに来た

しばしば姉の水浴び姿をかいま見た
「虚空に花降り音楽聞こえ 霊香四方に薫ず」
「天人も 羽なき鳥のごとくに 上がらんとすれば衣なし」
の姦視の〈羽衣〉的な聖性の春であった

父は柘榴を食べ終ると
「〔拳銃→23出刃とバケツ〕を両手にさげて街を出た」
父の見る芋づる式の夢は何〔?→23(トル)〕 芋の葉の露
父は地上に帰らない

旧い伝説によると
「裸の女が蒔いた種子は畑で
よく成長する」
大きな冬瓜にまたがる娘たちがいる

わたしは複雑な構造のものは嫌いだ
単純なものは
月の光を浴びてよく見える
ケシ→23げんげ〕の花のかげで番人夫婦が共寝していた

わたしの求めているのは
「語られる歴史」→23(トル)〕不妊の母なのか〔?→23(トル)〕
「人間の手の下から生まれる」
粘土の女身像は半月の空洞を持つ

カーディナル
恋する女は鵲のように軽やかに松の枝にとまる
禍いの波動そのものだ
「水でなく火によって養分を与えられている」

サンゴ色の祭壇で
「世界が袋のなかに戻る」
日まで〔(ナシ)→23(全角アキ)〕待てばよいのだろうか〔?→23(トル)〕
わたしの眼はまだ未開の状態のままである

異邦(H・5)

初出は〈ヘルマン・セリエント展〉パンフレット(青木画廊、1977年5月31日)、〔三ページ〕、本文15級16行2段組、31行。なお初出の25行め「魚」が俗字(脚が連火ではなく「大」)で印字されているのは、原稿の字形を忠実に再現したためと考えられるので、校異の対象としなかった。《夜想》再録ページの絵は、セリエントの〈集会〉と〈ペテン師〉(1976)。同誌に本篇が「1974年個展パンフレットより」とあるのは誤り。

〈異邦〉(初出形)の再録
〈異邦〉(初出形)の再録 出典:《夜想》第19号〔特集★幻想の扉〕(ペヨトル工房、1986年10月17日、七二〜七三ページ)

    〔(ナシ)→23へルマン・〕セリエントの絵によせて

聖堂の番人が箒をかついで帰ってくる
         人も消え
         にわとりも消え
わずかに藁塚のなかに存在する
火と〔精→23地〕霊
〈死は働く者に近づく〉
行商人は旅を了えて居酒屋に入る
緑の壁の亀裂は深い
外の空のように
一人の老人の手のなかで
思考のぬけがら
の蛇
朱の酒杯をかたむけ
そのとなりの女は美しい
乳房と腕をしている
テーブルの下は暗い草むら
鳥の→23(トル)〕仮面をかぶった
まま女は目くばせする
欲しいよ 水と蜜
それ→23女〕はすでに鳥の貌そのもの
岩塩の一粒を咥え
〈食蓮人〉の邦へ飛び立つ
いまは〔12遙→遥〕かになった花咲く土地
血!
枯枝には魚の骨が引懸ってい〔る→23た〕
月光のなかで
      中世の子守唄が聞える
  「鍛冶屋の前で
     托鉢僧が二人になった
         二人になった
   二つの頭から煙がのぼった」

水鏡(H・6)

初出は《文藝》〔河出書房新社〕1977年11月号〔16巻11号〕二六四〜二六九ページ、本文9ポ23行1段組、5節93行。本文カット:中村忠良。吉岡は金井美恵子との対談で引用詩について「美恵子を描いた「水鏡」も、君の言葉だけでは、うまくいかないので、実は飯田善国のエッセイから若干だが借用している。ただ、ぼくが言っておきたいのは、いずれの詩篇も詩句からはとってないんだよ。あれはみんな対象になった人のエッセイからとって括弧にいれて、それを詩にもってきているんだ」と語っている。金井の短篇小説〈声〉(初出:《文芸展望》1978年冬〔1月〕、単行本:《単語集》筑摩書房、1979)では題辞に〈水鏡〉から五行引かれており(初出にはない)、本文にも「わたしは「文藝」の十一月号の吉岡実の詩を読んでいて」という記述がある。金井には〈水鏡〉(初出:《文藝》1980年1月号、単行本:《くずれる水》集英社、1981)と題する短篇小説もある。

    〈肉体の孕む夢はじつに多様をきわめている〉 金井美恵子

   1

「冷たいスープの入ったガラスの
器の表面に
浮いた水滴の曇り」
の夏
わたしは形而上的室内で
死につつある父を
影の棺に収める
〈樹上の処女〉〔(ナシ)→23の〕ひとり
ナナイ
南無!
踏みはずし 踏みこたえ
縄梯子で地上へ戻る
そして読書し
紅茶をすする午後

   2

「古代の神官のまとう
寛衣の紫」
のような内湾を浮遊する〈ムーン・ジェリー〉
すなわちミズクラゲのむれ
それらの子エフィラ
また無性生殖をいとなむ
ポリプ
夕日の波間で
「白っ子の内臓のような柔かな
丸い起伏の世界」
愛や
観念を孕み
わたしは岬をめざして泳ぐ
「胚種としての無」
漂いゆく〈ムーン・ジェリー〉
透明なるもの
さらば
水神エア

   3

「〔生者を死者の国へ搬び→23(トル)〕〔(改行)→23(追込)〕
死者(男)を生者(女)の国へ呼び返す」

うごく水脈
音楽〔[リズム]→23(トル)〕
火の粉

天井から水がポタポタ落ちる夜
わたしはフライパンを洗いながら思う
「人は肉体によって交わるより
視線で交わる」

女たちを飛び越え
〈独白〉と〈断片〉しか残さず
多くの男たちは死んでゆく

「妊婦は真横を向き
背景には〔(追込)→23(改行)〕一個の苔むすしゃれこうべ」
これは絵であるのだろうか?

「二元の世界を往復する者は呪われる」

わたしは歯痛の薄明のなかで
ノートを書く
「死と結ばれないような→23(トル)〕
〈性〉を信用しない」→23(トル)〕
まして〈美〉はなおさらだ→23(トル)〕
「心の中にもし癒しようのない→23(トル)〕
傷があるならば→23(トル)〕
傷の分だけ→23(トル)〕
わたしは美に近づける→23(トル)〕

   4

わたしはぬるい湯舟につかり
恥骨が白骨化してゆくのを
感じながら
「流れる水の面の底の
石のように
その存在をきわだたせる」
エゴン・シーレの
生涯と章句を想い出す

「人は夏の盛りに
秋の樹木を感得する」

まるでこの家は
水底のようだ
夢からさめればいつも
水藻→23藻草〕や
言葉や
みじんこが舞っている
つけくわえれば
立葵の花のはるか下で
わたしは眼球に点滴され〔(ナシ)→23てい〕る

   5

「なぜわたしは蛾よりもはかない
羽音の瞬間に
魅せられたのだろう」
他人の夢のなかで
「生きている以上年を取る」
わたしの自己認識だ
いってみれば
「鏡の観照に終りというものがない」
ように秋から冬へ
「金属の分子の間を通過する」
溺死者や微生物
浄土観

霧のなかの映画は了った――
わたしは居心地の
わるい処から
冬の裸木のシルエットを眺める

晩夏(H・7)

初出は《流行通信》〔流行通信〕1977年10月号〔164号〕の〈十月の詩〉八〜九ページ、本文18Q22行1段組、22行。写真:奈良原一高。

夏きたりなば
母親はプリーツのスカートを
ひらひら波うたせつつ
水玉を産む
ごつごつした岩棚の下に
次に美しい息子を産む
緑の〔藻→23海〕草の中に
これこそ人間が行う〔絶望的な→23(トル)〕遊戯〔(ナシ)→23の一つ〕
雨に打たれ
太陽は沈みゆき
砂山から
父親は水〔腫→23虫〕の足を垂らす
夜の紐のように
「肉体はいつもちぐはぐな
結びつきをする」
舟の底で
悲しきカナリヤの鳴く
暁の秋とおからじ
蟹の甲羅〔(ナシ)→23や〕
栗の毬
「複雑なものよりも単純なものは
よく輝きよく成長する」

(H・8)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1976年11月臨時増刊号〔8巻13号〕二二〜二五ページ、本文9ポ22行1段組、65行。引用詩句に関しては〈吉岡実とエズラ・パウンド〉を参照のこと。

「火の消えたような
          褐色の肉類」
を→23(トル)〕食べながら
われら中年の男は相談する
有ることから無いことまで
そ・う・だ・ん・す・る
「下手な韻文はくりかえし
てはいけない」
物をじかに扱うことが必要だ
ゆえに空気枕を常用する
「ピアノ教師のように
(一一下)→23(一二下)〕女生徒のうしろへ廻る」
この冬の夜は
「遠すぎて聞えてこない夜鶯の声」
スリルがある てすりがある
狩猟小屋の階段を降り
地上すれすれを飛ぶ
蛾や精霊
「一枚の紙をいまも深くのぞきこむ
習性を失っていない」
あ→23或〕る近代詩人は断言した
「ジャスパー・ジョーンズの作品にはいつも
ある殺人 ある殺戮の
翌朝の感じがある」
叙述的に
一つの彫刻を組み立てる
用語と用語をつらねて
死刑執行書を組み立てる
それによって
「現在の肉食哺乳動物とはかなり異る」
生きものが死ぬ
それは自然なことであって
世間を納得させる
われら中年の男は松明で照らされて
「大きな蚕を一匹
         漆喰の壁から抽き出す」
明日は晴れるだろうか
雉の羽の輝く森の空は――
柱に括りつけられた
木の鴨
それがやがて〔12薮→藪〕や草地へ置かれる時
一つの磔刑図が出来る
「〔カラカラとゲタ→23ことばは美徳を鼓吹する〕
は兄弟であるのか?→23と同時に悪徳も鼓吹する〕」
われらは考えつつコーヒーをのみ
「雨乞いをする人々の
(一一下)→23(一二下)〕消炭のような顔」
を→23(トル)〕見るかもしれない
紅鶴の眠っている処は
火気注意!
単調な形と色をくりかえす
雲の峰〔(ナシ)→23があり〕
干草の山〔(ナシ)→23がある〕
日当りながら
われら中年の男は芸術様式を信奉しない
「素材は木と金属」
の火銃を捧げ持ち
装弾する
われらを代行して
そ・う・だ・ん・す・る
画家→23かりゅうど〕の眼は受像する〔(全角アキ)→23(改行)〕墜ちゆく鳥影を〔(ナシ)→23――〕
空気は硬く冷たく
「池の水面は
       錫箔でなければならない」
曙のはじまり……

  〔12注→*〕 引用句は主に、エズラ・パウンド〔(ナシ)→23(新倉俊一訳)〕、飯島耕一の章句を借用した〔12(ナシ)→。〕

草の迷宮(H・9)

初出は《池田満寿夫20年の全貌》(美術出版社、1977年11月3日)一一八〜一一九ページ、本文16Q35行2段組、6節100行。なお瀬木慎一編の池田満寿夫自選画集《陽光のように――8人の詩人によるオマージュ》(総美社、1983年5月25日)に再録された際、計7行が抜けているのは、原稿にした初出のノド寄りの4行と3行のコピーミスが原因と考えられる。

      〈目は時と共に静止する〉〔――→(二倍アキ)→(全角アキ)〕池田満寿夫

   1

「狼の鳴声や
天井をはっているサソリや
野ざらしの白骨」
その悪夢の表面を
「動きつづける線
そして 斑点のような色彩」
にとりまかれて
わたしは育ちつつあった

   2

満州国
柳絮とぶ
奉天
暗いオンドルの部屋
張家口
「馬車でほこりをかぶりながら
支那街を通りすぎる」
そしてねじあやめ
咲く丘へ
ウォーターメロンを食べながら
わたしは朝鮮鴉を石で打つ
王者のように
死者のように
「突然マンホールに落ちる」
その時たしかに
わたしは少年になったのだ
見たまえ
青空にきみの心臓が浮び
鼓動している
「たまたまその
少女が裸でいるのも
不思議ではない」
となりの庭で
行為する両親たち
正面が赤く燃え……

   3

「刻まれた眼はうごくか?」
頭部の両側にある
うごかないようで うごく
魚の眼
呼吸する氷の下で
夏は終るだろう
「描かれた眼はうごかない」
魚の眼は告げる
「きみらの眼は閉じられてゆく」
朝焼の草むらの
カマキリの交尾をみつめながら
「自然の暗さに接近している」

   4

わたしは何者になったのか?
「音もなく岩石が宙へ昇り
ガラスが割れ
楽器類が燃える」
そんな奇蹟がいったいあり得るだろうか〔?→23(トル)〕
便器にしゃがみながら
三つの沼へ
わたしは頭髪のフケをふりそそぐ
見える観念がある
石の波
机の下の犬
「横に倒された
女陰」
金曜日は雨
「わたしは靴職人になりたかった」
耳濡れ
乳濡れ
武装した馬を曳き
下着の女が長靴をはいて来る
草の迷路を――

   5

倒れる男
スプリンター
プリンター
眼は開きっぱなし
痛みの感覚があるかぎり
わたしは手に直結している物を信じる
切断された銅版や
人型や鳥型
すべてを平面化す
「虹のもつ永遠のスペクトル」
しかし海と樹木は立方体へ還元する
また涙も実物そっくり
用紙の上に滴らす
認識や感情の外に
だからいつまでも
「物体は裸のままの物体である
ことを保留されている」
タンポ
ヘラ
ローラー

   6

わたしは不意の舟にのり
松脂粉末をもち
昆虫採集に出かける
迷宮では
線は死んでいる
扉と窓をあければ
シートをかぶったスフィンクス
わたしは攻撃する
「電気ドリルや鋼鉄の三角刀などの
道具を使って
傷をつけたり
穴をあけたりする」
(ナシ)→23しかし〕蟹星雲のはるか下で
いぜん聳えるスフィンクスの処女

螺旋形(H・10)

初出は《海》〔中央公論社〕1977年5月号〔9巻5号〕三〇〜三二ページ、本文9ポ24行1段組、62行。引用詩句に関しては〈吉岡実とサミュエル・ベケット〉を参照のこと。

アネモネの咲く庭で
わたしは考える
看守という職業の意味と形式を
監視する塔のなかは
長いかいがらに長い貝の美体が入って
いるように暗い
ただ緑の蝶がとびまわる
わたしは自己同一視するために
近くを見ることはない
「想像力は死んだ
        想像せよ」
望遠鏡でさまざまの被造物を見る
白鳥や牡牛や鯰
壁神の下で
産褥の産婆いわく
「赤児はにごった材質のガラスで
出来た蠅取り器のような感じがする」
別の表現をすれば
それは足が短く
胴はスズメ蛾のようにふくらみ
測量器械の錘のように地点を指している
「幼児はかさぶたと
キャラメルをなめて成長する」
いちご
いたちごっこ
愛と殺意 生成 消滅 無
〈有為転変〉
数珠〔(全角アキ)→23(改行)〕数珠つながりの死
「死は
不完全な生の完成である」
と歯ぎしりする哲人の家で
「しんしんと砂糖水を飲む」
少年は見えない糸を棒や身体に巻きつけて
青空と波の間で
肥大化する
わたしは戦争が勃発するまで
遠い地平を眺める
はなやかな花のさくら散る日
井戸の滑車の音も聞えず
齢をとるに従って
「眼球の内奥の蛇腹が硬化し伸び縮みしにくくなり」
周囲が見えない
この夕暮の琴座の星明り
蛭取り老人は行く
紫の水の波のうごきに
心をゆだねる
反英雄として
「肉体を分節のない一個の骨の如き
完璧な表層たらしめる」
受苦 受苦
忘れた荷物を負う
ある種の娘は股の間から
赤い腸や紐を垂らし
人の子を誘惑するんだ
「濡れてささくれだつ板に
兎をなすりつける」
青年は納豆を喰っている口元から
〈仮の地〉と呼んだ
ここは黒白空間
物を投げる
物を投げる
「血球一つ落ちていない風景が展開してくる」

             *ベケット〔・→23(高橋康也訳)、〕土方巽などの章句を引用した〔12(ナシ)→。〕

形は不安の鋭角を持ち……(H・11)

初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1978年4月号〔21巻4号〕二二〜二四ページ、本文9ポ23行1段組、V節52行。

      〈複眼の所有者は憂愁と虚無に心を蝕ばまれる〉〔(二倍アキ)→23(全角アキ)〕飯田善國

   T

枝の上で小鳥がチッチと鳴く
「夢みられるものの
肉化する」
早春のゲルマンの森のなかで
わたしは〈無名性[アノニム]〉を志向し
「描写というものを棄てたかわりに
時間をとりこむ」
たとえば
「穴ぼこを掘り
土や小石なんかを箱に入れて
その箱を抜くと
土の形が出来る」
雨に打たれ
消滅してゆく四角い呪物
そしてわたしはアンリ・ローランスの
言葉を思い出す
〈人はいつか無意識を表現しなければならない〉
ひたひたと流れる
地下水
「野の草は
土の中から
時をみて
地上に現われる」
そして風にゆらゆら吹かれる

   U

「人は同時に二つ以上の
時点に
存在することはできない」
わたしは肉体が恋しくなると
手を汚して
絵のそばへゆく
「皮膚みたいなもの 血みたいなもの」
でそれは蔽われている
満月の下で
わたしは言霊や死を近くに感じたら
釘や車輪
彫刻のそばへゆく
なぜなら
黙示的に夜の
「地下鉄の堅い椅子に黙って
坐っている女」
のように
人生を包みこみ
紙ヤスリのすれる音をさせているからだ
カノン
カノン
「もし癒しようのない傷があるならば
傷の分だけ きみの心は
美に近づける」
胡座かいて
怪我する男は口ずさむ

   V

「形は不安の鋭角をもち
色は冷たくそれを匿す」

父・あるいは夏(H・12)

初出は《カイエ》〔冬樹社〕1978年8月号〔1巻2号〕二四〜二五ページ、本文9ポ21行1段組、35行。

「鰤の血の頭のそばを
大股で過ぎる時
世界はすっかり変っていた」
わたしの爪は鉤爪と化し
もろもろの肉を裂く
少年期の能力をそなえつつ
からだを白く塗る
もしも塗りのこされた部分があれば
青草の上に寝て
「枝豆を噛みこぼす
女」
に塗ってもらうんだ
意識と言葉の関係のように
不可解でかつ親密に
「身を投げ込めば
人型があっさり出来る」
朝の海で
「浅瀬で心臓を溺らせている
人影を見る」
それは旅人かも知れない
たまたま
「縁の下から四つん這いで
出てきた
娘」
であるかも知れない
紫蘇の匂いを嗅ぎながら
わたしは横切る
「表層世界」
そこがどこまでも見通せるなら
わたしには感知できる
「犬に打負かされた
人間の裸体」
西日をあびて
「断面に必死で際立つ者」
父を――

幻場(H・13)

初出は《月下の一群》〔海潮社〕1976年12月〔冬・2号〕〈特集幻獣 Imaginary Beings〉四〇〜四一ページ、本文9ポ30行1段組、38行。

大通りに
「肉屋のそそり立つ」
スンレオロ街まできて
若い娘は消えた
「不潔な風景」の
川沿いを行けば木蔭のあるきみらの故郷
「星の刻から薄闇」まで
「盗んだ肉」で命ながらえ
靴屋の主人は一つの詩句をくちずさむ
「恐怖がわれわれを襲うからには
われわれも恐怖に反逆しないわけには行かない」
この店の奥はまるで
「ネリアの洞窟のように
大きな巻貝の形をしている」
半分沈んだ舟の
甲板に似た仕事場には
浅靴から深靴までの
色とりどりの商品が〔竝→23並〕んでいる
若い娘はいそいそと
緑色の皮のブーツに脚を入れる
靴屋の主人は薬湯を飲み
「咲いている巴旦杏の間で」
プリーツ プリーツとつぶやく
「あら はいらないわ〔(全角アキ)→23(改行)〕でもデザインはこれがいいし
なんとかならないかしら」
「なんとかしやしょう」
薄荷の香のただよう
「影で刻まれた門」の前で
「鉄靴」をはかせて
「若い娘を老提督と寝かせる」
溶けるローソクの受皿のかげで
靴屋の主人は骨化しつつ
金塗りの喇叭をりょうりょうと響かせた
月下のきみらの生地
スンレオロ街は「木と金属」の素材で出来た→23(トル)〕
(ナシ)→23そこは〕奥行のない平面の世界〔(ナシ)→23だ〕
裏に廻れば
豆畑がえんえんと拡がる

雷雨の姿を見よ(H・14)

初出は《海》〔中央公論社〕1978年5月号〔10巻5号〕三二〜三八ページ、本文9ポ25行1段組、8節126行。

吉岡陽子夫人の手になる〈雷雨の姿を見よ〉の雑誌掲載用入稿原稿(出典:玉英堂書店)
吉岡陽子夫人の手になる〈雷雨の姿を見よ〉の雑誌掲載用入稿原稿(出典:玉英堂書店
説明に「No. 26501   吉岡実詩稿/9枚 価格:450,000円/『雷雨の姿を見よ』 ペン640字詰表題共完 拵帙入 「詩集夏の宴」(昭54.10 青土社刊)所収」とある。

      「ぼくはウニとかナマコとかヒトデといった
      動物をとらえたいのだ
      現実はそれら棘皮動物に似ている」
      〔(一六下)→(一八下)〕飯島耕一

   1

「スナガニが砂を掘って
ひそんでいる穴」
を覗き
瀬戸内海沿岸で育った
ぼくは子供の時から
「じっとしている
植物よりも
動いているもの
じつにこわれやすい皮膚のなかのやわらかいもの
火山
棘皮動物
時間」
への執着があった
「空は卵の白身のように
ぼくを包んでおり
そのなかを
ぼくは動いていた」
自己中心的な日常意識の外へ
朝の蛇はゆく
ことばの護符のように

   2

ぼくは〈危険な思想〉というものは
もしかしたら眉唾ものだと思う
野には春の七草
「マグリットの
岩も
城も軽く浮んでいる」

   3

「ぼくの詩のイメージに比べる」
と日本の海は暗すぎる
そのなかに
浮ぶ島々は
寂しすぎる




円環もなし
線もなし
暗く
璧の向う
ガラス戸の向うに
海鼠が存在する
その複雑な内部の構造を
内視せよ
おそらく〈世界〉の難解さのみが
唯一つそれ[、、]に匹敵する

   4

「なぜぼくは
雷雨を愛好するのだろう?」
それはたしかに
女の肉体を思わせる
亀裂の入った
影像
ぼくは女の細い首を抱く
『二つの青い千鳥が
君の眼の静かな
水面をかき乱す』

   5

夏のある一刻
「歴史がイメージに
逆襲される」
青空といっしょに
まる見えになる死者たち
「骨組をあらわにされた
ピアノが灰の下に
深く沈んでいた」
聖化された
町や土地をよく記憶するために
ぼくは海岸を歩く
イソギンチャクやヒトデのいる
風景に期待してはならない
距離は狂っている
「一度書かれた言葉は消すな!」
身のまわりから
筆記具を片づける
そして
百年前に見た男のように
ぼくは焼火箸を地へ突き入れる
八月は逝く

   6

「詩人という変光星は何をなすか?」
ゼラニウムの鉢に朝日がさす
庭を掃き
空の下に立つ男
「すべては飛ばない」
ぼくらの日月
絵をのぞきこむ
ことしか何もできない
「魂の状態[エタ・ダーム]」
そこにある あるもの
松葉杖や小石
エックス光線に透視されて
沸騰する

奥深くはいりこんで行き
ぼくは壁や柱に
頭をぶっつけたりして
ついに見つける
蠅取り紙がびらびらゆれながら
一匹の蠅をとらえている
昼さがりの四行詩
眼差しの深くやさしい

汝よ
夜が来れば
一個の星に接近する

   7

ぼくは紺碧の空を見ると
あの増殖癖の一人の男を思い出す
「〈理想の宮殿〉という異形の塔は 三十数年もか
けて シュヴァルという郵便配達夫が 日々の仕
事の途次 石をひろい それを積んで建てたもの
である」
ここに人は住むことはできない
もし宿るならば
反権力の人々の夢
老人は日々石をひろうという〈方法〉を会得した
「この石は一つの言語だった」
それは霊感の歌〔(ナシ)→23だった〕
他界への通路の標識かもしれない
死の塔
ぼくらはその存在する周辺で
時間にせきたてられ
うろうろしている
ここは何処?

   8

『蠅帳から
食べかけのサバの煮つけを
取り出す』
美しい日本の夏
もっとも光を受け入れやすい
水泡[みなわ]!

(H・15)

初出は《文學界》〔文藝春秋〕1978年1月号〔32巻1号〕九ページ、本文9ポ1段組〔コラム〈扉の詩〉〕、17行。カット:伊庭新太郎。なお初版の2行めは
  「まして狐のからだのうごきは謎
と起こしの鉤括弧が付いていた(受けの鉤括弧はナシ)。

人の心のうごきは謎
まして狐のからだのうごきは謎
葛〔と→23や〕かたくりの花の茂みで
わが心の狐を見つけよ
蟻塚や
罠にとらわれて死に行く
人の顔
口には一枚の油揚をくわえ
彼方の〔隠れ→23あばら〕家へ入る
これはゴシック趣味の夢
「水甕の底に
蚯蚓が一匹と
死んだ小魚の骨が見つかった」
明るい此岸から眺めると
「人間に化けた狐の影は
かかとと爪先を丸めて浮くように歩く」
春の野をむらさき色に染めて

織物の三つの端布(H・16)

初出は《エピステーメー》〔朝日出版社〕1978年11月号〔4巻10号〕二四八〜二五三ページ、本文10ポ14行1段組、*印が3節を従える74行。引用詩句に関しては〈吉岡実の装丁作品(49)〉を参照のこと。

      「イマージュはたえず事物へ
      しかしまた同時に
      意味へ向おうとする」    〔宮川淳→23(トル)〕
                    〔(ナシ)→23宮川淳〕

   *

「(この積み藁が紫色である)のは
私にそう見えるからだ」
いま秋の強い射光の下で
「重さから軽みへ
大地的なものから
大気的なものへ」
私は美のディスクールを試みる
「空間のなかに
開かれる
もうひとつの空間」
それはきわめて曖昧な時間を経て
浄化された青だ
「生きることを許された
(空間)である」
渓流のほとりで
つりふねそうの花をながめ
私は或る西欧の画家のことばを思う
〈しばしば見かけるのは
空を飛んでいる
鳥だ〉

   *

「ここは室内に似ている」
茶色のテーブル・クロス
の上に在る
ライター(〔白色→23一つ〕)
灰皿(煙草の吸がら)
湯呑(二つ)
鉛筆(消しゴム)
「見ることは透明に脱落して
見える
ものを浮び上らせる」
ここではひとは真に見てはいない
表面[、、]
表面的[、、、]
表面化[、、、]する
それらの日常品は
私にはそれぞれの実体の
似姿に思われる
「ここがどこで〔もない→23(トル)〕
(ナシ)→23もない〕ところであるからだ」
私が見て共感しているのは
「逆に存在は遠ざかり
不在のきらめく」
草に坐る婦人の
「選ばれた脚」

   *

「この欲望のモーターは独身者の機械の
最後の(もっとも
突起した)部分である」
へだてられている
へだて
られている
冷却されたガラス板の
向う側では
〈動物が卵(または袋)のなかに孕まれているように
混沌とした情念のなかに(記号・作品)が
孕まれている〉
うずまき状のエーテルの層から
つつましやかに
すっぽりと氷の膜で包まれた
「花嫁という
新しいモーターが出現する」
下部に羽根をつけた
内燃機関のからくりを透視せよ
〈重く つや消しの 力のこもった
音〉
がする
「近づくことのできない
この純粋な外面の
輝き」
それは悪や死の
化身ではないのか〔?→23(トル)〕
この時点から
「善悪の対立をこえて
男女
の対立となっている」

金柑譚(H・17)

初出は《海》〔中央公論社〕1979年5月号〔11巻5号〕三二〜三五ページ、本文9ポ26行1段組、5節83行。初版では「1」の16行めと17行めの間、「4」の15行めと16行めの間(初出ではいずれもページのノドにかかっている)に1行アキがあったが、二版(および訂正初版〔奥付が初版で本文が二版のもの〕)で修正された。引用詩句に関しては〈吉岡実の装丁作品(49)〉の〔追記〕を参照のこと。

2012年2月、Yahoo! JAPANのオークションに出品された〈吉岡実詩稿「金柑譚」、ペン書、640字×5枚、詩集『夏の宴』所収〉の画像 2012年2月、Yahoo! JAPANのオークションに出品された〈吉岡実詩稿「金柑譚」、ペン書、640字×5枚、詩集『夏の宴』所収〉の画像
2012年2月、Yahoo! JAPANのオークションに出品された〈吉岡実詩稿「金柑譚」、ペン書、640字×5枚、詩集『夏の宴』所収〉の画像(商品の説明に「右上部をホッチキスで5枚止めてあります。原稿用紙の中央で折れあり。」)

   1

大股で駈けつつ
しかも不動の少年を見たことがある
たしかに
街や樹木は後退してゆき
〈影の青〉に変りつつあった
少年よ きみは裸になろうとしている
(ナシ)→23「〕ねずみ花火が這いまわり
百足が這いまわる〔(ナシ)→23」〕
夏の夕べの砂場のなかや
「→23〈〕草葉のかげ〔」→23〉〕
ブリキ屋の娘のひざを抱〔く→23き〕
白い日覆の学帽をぬげば
金柑頭
淫水性にとむ
きみの灰色の詰襟の服は雨覆そのもの
小鳥のように丘の方へ飛ぶ
ことができない
ベンチの上でいずれ雷雨に打たれる

   2

「患者は何よりも主体である」
と言う医者の言葉は正しい
少年よ きみの
「内部はひじょうに複雑骨折した
人体」
であると同時に
「障子にはられた
白紙が宇宙に風を起す」
ビビビーッ ビビッと鳴る
少年よ きみは
「物の厚さ
球や穴の直径を計る器具」
ノギスのようなもので
肉や愛を計る

   3

いが栗が落ち
〈氷塊の要素〉が地からせり出す
夕かたまけて
少年よ きみは
「一輪の花の匂いをかぐように
書物を読む」
そしてノートをとった

 ヘルメスの父はゼウス 母は美しい半女神〔(改行)→23(追込)〕のマイア
   異母兄アポローン(女神レートーの子)
 ポロスと女乞食ペニアの子がエロス(クピ〔(改行)→23(追込)〕ドー)
 〔(二下)→23(一下)〕〔(ナシ)→23〈〕エロス〔(ナシ)→23〉〕
 神々はすべて水銀だ!

   4

少年よ きみの内なる
姉をののしり
母をののしれ
「女の目と鼻の間から
生まれいづる」
牛頭馬頭の双生児を祀り
煮凝りのようなものを吐く
「蜘蛛の子が散る」
ように万物は消滅し
「枝蛙の鳴くあたりの木々」
の奥をたどって行けば
草の下の汚洞のなかへ
「兎はぐらりと傾いて
横倒しになる」
サイレント映画のように
肉体はまどろみ
風景もまどろんでいる
〈モワレ〔様模→23模様〕〉
の裡に横倒しになった

野狐
手榴弾も存在する

   5

「若死するも人の一生」
ならば夢想し
ろうそくかかげて
老婆と共に廊下を駈けぬけよ
今晩 北の風 晴れ
少年よ きみは大志をいだかず
もろもろの物を触診し
直立する
はるかなる獅子頭の下で
金柑を食うたのしさ
いざ転生の旅が始まる
「ばら色の初湯から
紫色の死水へ」
少年よ きみはゴム靴をはいたまま
〈無時間の世界〉
を行き行く
(ナシ)→23………〕
「知らぬことの一切を試みよ!」

使者(H・18)

初出は《新劇》〔白水社〕1977年8月号〔24巻8号通292号〕一〇〜一三ページ、本文12Q21行1段組、6節66行、笠井の〈黄泉比良坂〉(1975年、目黒公会堂)〔写真:金英沫〕と芦川羊子の〈ひとがた〉(1976年、アスベスト館)〔写真:山口晴久〕の舞台写真各1点を掲載。

      笠井叡のための素描の詩

   1

白い塩の山をふた廻りして
まず水を飲み干す
その時点からすでに
わたしの肉体は〈悪の死体〉に近似する
流れ出る蛭子
(ナシ)→23月読のひかりのなかへ〕

   2

野を使者は通りすぎる
凍ってゆく水と舟
仮死してゆく兎
真昼の夢は
夜の夢よりさらに背信的だ
封ぜられた沼のほとり
猟師の殺気だつ眼と手斧を
わたしは丹田に受ける
ひとつの人格が崩れ
百合の花は開花し
両性具有の霊を受胎する
霞のかかる肉体……

   3

書物を閉じ
身体を繙いて
円卓にまたがる変宮の人
「わたしは腹のなかから
両手を出した」
人間は何をしてもよい
   何をしてもよい
「さまざまな異層をくぐり抜け」
まざまざと〈暗黒の水晶〉の結晶作用を視る
荒業の至福
虎は消去され
使者は裸身を一枚の布で包まれる
そして永遠に
「花嫁を待つ花婿のように
お〔ぼ→23び〕えていなければならない」

   4

見える 舞台から降りる
見えぬ 民
見える 地から降りる
見えぬ 自然
見える 肉から降りる
見えぬ 虹

   5

「雨のような
亀裂の肉体を顕示せよ
音にさらわれ
わたしの肉体は徐々に光度を低下させて
ついに闇のうちに消えかかり〔(ナシ)→23」〕
贖罪そのものの
観念と化すだろう
アストラル
アラベスク
アメーバのごとく〔」→23(トル)〕

   6

今宵は〈印象の食物〉を摂り
「女の肉を床として
          わたしは舞踏する」
足の裏に世界がある
反世界には竹〔藪→薮→藪〕と絹の言語がある
常套手段の秘儀とは
「男が女の肉体を借用して
虚構をつくる」
わたしは全きさらしものになり
肉体を忘れる
「肉体はいかなる
〈表面〉をも有していない〔(ナシ)→23」〕
多くの人もその断面を眺めるだけだ
魂の〈表現〉としての
引潮の時刻が来る
「床が氷のように冷たく足を噛む」
わたしは〈九字〉を切る→23ここに呼吸する人はいない〕
ここに呼吸する人はいない→23わたしは〈九字〉を切る〕

悪趣味な春の旅(H・19)

初出は《日本読書新聞》〔日本出版協会〕1977年1月17日〔1889号〕一面、本文9ポ22行2段組、43行。カット:金井久美子。初出は顔写真と80字余りの略歴(誤記・誤植あり)を掲げる。

樹木とろうそくが直立する
青空の下で
「〔(一文字欠ケ)→23地〕底からふたたび
地〔(一文字欠ケ)→23表〕へ出る」
蛇や蜘蛛
それから涙のような水滴
人はわたしを旅人と呼ぶことはない
まして子供だと言明する
人もこの世にはいない
薄荷の香りにむせつつ春の野を
「卵を半分に割って
食う」
姉とともに行く
「鼠の衣 鴉の皮」
探しもとめて
廃橋を渡り
ついに日暮れては塔の上で
壁の亀裂を見る
月光に照らされて
「石には何の痕跡もなく
灰色の壁は年代記を伝えてはいない」
さなきだに淋しい沼沢地
朝は悪しき葦はそよぐ
「空と地をめぐる
詩の一行」
のごとくに
白鳥が水の上に浮かんでいる
その水を掻く脚が
膨張する局面をつくる
生まれては 消えゆく
泡のなかに
存在するものが燃え
存在するものが凍結する
人は単調な思考を好み
人は単調なフレーズをくりかえす
泡は水に逗留する
しかしわたしら姉弟は旅立つだろう
紫色の窓掛の家から
石灰岩の頂きを望む時
「皮膚が血を覆っている」
というよりむしろ
「血が皮膚を覆っている」
日の出を見た

夏の宴(H・20)

初出は《文藝》〔河出書房新社〕1978年10月号〔17巻10号〕二二〇〜二二六ページ、本文9ポ22行1段組、6節120行。吉岡は〈西脇順三郎アラベスク〉の「7 「夏の宴」」で本篇制作の経緯を回想している。

      西脇順三郎先生に

   〔(ナシ)→23T〕

草むらより
「黎明を走る臭猫」
を追かける
麻服の一人の青年がいるとしたら
それはわたしかも知れない
ひとびとに
「葡萄畑へ行って働け
      (死ね)」
とののしられる
わたしは「漂布者」だった
タラの木や
イタドリの茂みを通り
鉛管や古い罎の町に出た
その辺りで石灰を噛んでいる
犬と鶏たち
夜は隠者の書を読む
〈眼の下へ指をつっこんで
見よ
そうすれば物の形が変化する〉
わたしの観念の波間を
「まるい魚」
は漂う
非現世的なことばとできごとの終り
「紫のランプの下で
ときどき
ラムネを飲む」

   〔2→23U〕

「この世界では
人間も花も岩も
同じ外界物にすぎない」
と認識して
画布のうえに
「星の光りのような
剃刀で暗黒な林檎をむいている
男」
を描く人間がいる
それはわたしに類似した者だ
マッチ棒の先にある
炎と
「間接的な世界」
ローソクをたてたテーブルに
ネクタリンの実は
いまだ見えず
蒼白な肉も見えず
詞華集一巻も見えず
   ただ〈えてるにたす〉という
(三下)→23(天ツキ)〕文字が刻まれている
「なにしろ概念というやつは
一つの存在には存在であるが
看板のようには
よく見えない」

   〔3→23V〕

岸辺にキンポウゲの花が咲き
尺取虫は雑木林を出る
死人へささげられた
ひとつまみの塩
「石は永遠に
水の音を立てない」
川の瀬の岩へ
さわやかに
女が片足をあげて
「精神の包皮」
を洗っている姿が見える
「ポポイ」
わたしはしばしば
「女が野原でしゃがむ」
抒情詩を書いた
これからは弱い人間の一人として
山中へ逃げる
「そこには
カモシカのやさしい眼や
薔薇のような
雪がある」
高い枝
もっと高い処で
思案し
思考する
〈下にあるものも
上にあるものも同じことだ〉

   〔4→23W〕

「わたしの詩の世界は
藪→薮→藪〕の中の鶯の巣のように
少年が撃つ空気銃の一発で破滅するかも知れない」

   〔5→23X〕

西瓜の種子を播く
そして西瓜そのものを作り
西瓜を持って西瓜畑を歩く人がある
砂地の外で
画家は形而上的な絵しか描かない
   線と色彩の発する
   不透明な枠や
   棒や
   濡れたトチの実しか表現しない
砂けむりたつ
夏の道をとぼとぼ行きつつ
「臥婦のあの虎のような
尻」
をわたしは心に描く
「胡瓜の花はきみがねむっている
ときにも咲いている」
染物屋の裏の
道の暗がりで
うまごやしを食べている馬の影を見よ
   「淋しさというものは
   地上から来る」

   〔6→23Y〕

幾何学的なものも一つの構造なら
「曲線のぐにゃぐにゃに
出来ているのも
構造である」
ボール箱のなかへ
わたしは針金や紐を入れる
そして最後に
光沢のある骨を入れる
それが動物の骨であるのか人間の骨であるのか
ひとびとよ問うことはない
「生命の終りは死の終り」
というように
わたしは言語をもてあそぶ者
また言語によって
再生される者である
自己の格言を記す
すなわち
   「蛾は月をめざさず
   濁世の家の灯をめざす」

(H・21)

初 出は《街頭詩の試み》〔地下鉄千代田線明治神宮前駅ホーム壁面、パレフランス提供、1979年6月〜8月の「第一期」〕で、縦約130×横約165cmの額が掲げられた。その後、詩のアンソロジー《地下鉄のオルフェ》(オーデスク、1981年4月〔日付記載なし〕、限定2000部)に再録された(二四〜二五ページ、本文12ポ11行1段組、12行)。本校異には再録形を掲げた。《街頭詩の試み》の実質的な企画者である飯島耕一は同書〈まえがき〉で、第三期の作者のひとり清岡卓行の「いちばん外形が銀色の枠で、それに接続して赤葡萄酒色の枠があり、その内部の乳白色のガラス板に、詩が黒で縦書きされている。すっきりした書体。ガラス板の裏から螢光灯が照明しており、詩の文字が鮮明に浮かびあがっている」(同書、九〜一〇ページ)という文章を紹介している。

「自然界は人間の俗界よりすぐれている〔(ナシ)→23」〕
稲妻の走りまわる沼の面へ
「ほとばしる水晶体」
野をたどる父よ
行灯のあかりのなかで
母が生むものが
ほおずき色の人間であるならば……
「見ることは 驚くこと」
あけぼのの横雲の下で
青草はおびただしい〔12螢→蛍〕を生む
自己か他者
「いずれかが幽霊である」

夢のアステリスク(H・22)

初出は1978年3月20日刊行の金子國義版画集《LE REVE D'ALICE――アリスの夢》(角川書店、限定版99部)の出版案内カタログ(同、1978年2月)〔二〜三ページ〕、本文16ポ26行3段組、***節60行。のちに《金子國義アリスの画廊》(美術出版社、1979年7月10日)〔改訂新版第1刷(1993年6月15日)も元版と同じテキスト〕に再録された(一二〇〜一二一ページ、本文13Q1段組、***節58行)。再録形は初出形よりも《夏の宴》収録形に近く、《夏の宴》収録形と異なるのは終わりから6行めの「精霊」(初出形と同じ)、末尾の「註 アステリスク *のこと」の2箇所。

1978年3月20日刊行の金子國義版画集《LE REVE D'ALICE――アリスの夢》(角川書店、限定版99部)の出版案内カタログ(同、1978年2月)〔二〜三ページ〕 1978年3月20日刊行の金子國義版画集《LE REVE D'ALICE――アリスの夢》(角川書店、限定版99部)の出版案内カタログの表紙と同カタログを収める畳紙[たとうがみ]
〈夢のアステリスク〉(初出) 出典:1978年3月20日刊行の金子國義版画集《LE REVE D'ALICE――アリスの夢》(角川書店、限定版99部)の出版案内カタログ(同、1978年2月)〔二〜三ページ〕(左)と同カタログの表紙とカタログを収める畳紙[たとうがみ] 〔レイアウトは、四谷シモン人形展《未来と過去のイヴ》(青木画廊、c1973〔年10月27日〕)を担当した鶴本正三か〕(右)

      〔――→23(トル)〕金子國義の絵によせて〔――→23(トル)〕

   *

読書する少女→23(トル)〕
それはわたしの好きな構図である→23(トル)〕
ことに→23(トル)〕その部屋は
深紅のソファや錫の皿で充ち
馬蠅がとびまわる
夜であればさらによい
〈天使的[アンジエリツク]なアリス〉のように〔(ナシ)→23つつましく〕
つつましく→23(トル)〕読書する少女を
彫刻的に
わたしは観察する
椅子や石像の上で〔(ナシ)→23は〕なく
少女は兄のひざに腰かけて
右→23左〕手に本をささげている
「歴史とともに古く
俗悪なほど純粋で
痴呆的なほど甘美なる」
桃色のメリヤスの
ズロースをずりさげて
太股をあらわにする
少女の骨化しつつある右手がしっかり
つかんでいるどくろ

   **

ここは河霧のながれる
オリーブの葉陰の下かもしれない
「緑の蛙は鳴き
褐色のなめくじは這う」
冥府の迷路をめぐり
熱い蒸気のたちこめた
脱衣室から脱出してくる
黒人の青年〔(ナシ)→23よ〕
きみは烙印された舟板にのって
磔刑図の少女をさがす
大きな箱から
順次に小さくなる箱を
開ける 開ける
羅列から
羅刹の邦へ
橋桁を行き
冷水プールを泳ぎ
肉を沈める黒人の青年
ザウワークラウトを噛み
綿畑のなかで
エナメルのような裸像と化し
球根→23青空〕を頂く

   ***

夾竹桃の花〔咲く→23散る〕窓〔(ナシ)→23べ〕で
読書する→23毛糸を編む〕少女
これはわたしの想像する〈淫らな聖画〉である
ジッパーの内側に
少女の裸の乳房はかくされている
一皮それを剥ぐと
死んだ内臓のかわりに
うぶげの兎がまるで水子のように
二つの耳を折って
さかさまに浮んでいる
浄らかな朝
肉体と〔精霊→23霊魂〕のように
分離する
「→23(トル)〕〈皮と骨〉
(ナシ)→23「〕それは近くに
共存しているようで
きわめて遠くへだたっている」

                   〔(ナシ)→23注 アステリスク=印刷用星形印*のこと〕

詠歌(H・23)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1979年7月号〔11巻9号〕二一〜二三ページ、本文9ポ22行1段組、37行。

「長石の色をした雨は打ちつづける」
野ざらしの
川はながれながれ

  峯に虎杖
  鹿の立ち隠れ

慰みに
むらさきの首長き鴨をはがいじめにせよ
かの世に遠く
うつつの鍋は煮え立ち
蚊柱は立ち
「じなっとした煎餅を食べたり」
母はむかし好色な軍曹に抱かれたり

  白塩言語神変だよ

「子供は植物と同じように
陽のなかで育つ」
という現象がある
しかしわたしはいつまでも
「花の中にうずまっている
雨の光り」

電柱の碍子や
藁の山へ
雪は降りつづける
かまどの火や灰の周囲をまわって
なめくじのように
出て行く父の声

  舟行けば岸移る
  幾星霜

「肉は言葉をなぞり
言葉は肉のかたちをとる」
作業を了えて
わたしの荒ぶる魂よ眠れ
押入の蒲団の上は
「げに静かなる霊地かな」
一言の呪訶のごとく
春霞のかなたに
潜在する

  石の下の蛤

この世の夏(H・24)

初出は《朝日新聞〔夕刊〕》〔朝日新聞東京本社〕1979年8月20日〔33641号〕三面、本文7.5ポ1段組、20行。木口木版:小林敬生。引用詩句に関しては〈吉岡実とエズラ・パウンド〉を参照のこと。

「孔子は歩いて杉林に入り」
の叙述の清らかさ
よりも
「美人が月に向っている」
と詠んだ古代の夭折詩人の一句が好きだ
肉感的な春を思わせる
「あんずの花は
東から西へと咲きほころぶ」
ように移り
変る自然や倫理観がある
この世に
めくるめく夏はくるか
「わびしい屋根に猫がうずくまる」
まずしい街から
「この夏もある海岸で
黄色い海水着をきる
娘」
の裸を妄想せよ
「暗がりのなかで
金色は光りをあつめる」

裸子植物(H・25)

初 出は《肉体言語》〔「肉体言語」舎〕1979年3月〔9号〕六〜七ページ、本文16Q26行1段組、41行。目次では献辞が「大野一雄の舞踏〈ラ・アルへンチーナ頌〉に寄せて」とあり、誤植されていない。なお、初出では起こしの鉤括弧(「)がすべて本文の天よりも上に突き出て組まれているが、校異の対象としなかった。

      大野一雄の〔無→23舞〕踏〈ラ・アルへンチーナ頌〉に寄せて

人知れず野の草の上に
「子を産みおとす
老婆」
のように大股をひらく
舞姫アルヘンチーナの橙色の裳裾の拡がり
「見せるものと
見せたくないものを
一緒に見せる」
正午の物置小屋の闇のなかに
「宿っている肉体」
肉体に宿っている→23(トル)〕
おできだらけの子供が抱える
「棒のように硬直する
塩鱈」
仰ぐ青空もすでになく
へだてられた大地
そこでひとは真に語っていない
とどのつまり
「肛門から大気を
吸っている」
白塗りの老人は叫ぶ
「信じられるのは
このキャベツだけだ〔23!〕」
ふらちな振舞の遊び
と愛を受け入れよ
娼婦の紅いマントの内側は
ざらざらした
「触覚的空間」
豆電燈は明滅し
剥落するものが見える

古靴
裸子植物の胚珠のようなもの
「右もあれば
左もある」
世俗なる世界を越え
花飾りをつけた帽子の影の下に
「開かれた
干物のような
人間の肉体(あるいは魂)」
が浮遊している

謎の絵(H・26)

初出は《東京新聞〔夕刊〕》〔中日新聞東京本社〕1979年1月5日〔13124号〕七面、本文新聞活字1倍扁平1段組、17行。なお10行めの「(かい)」は、ルビを行間に組まない新聞独得の読み仮名表記で、元の原稿にはない(新聞社が独自に付けた)振り仮名の可能性が高い。

岸辺に近く
ごつごつした岩がある
そのかたわらで漁夫が漁具を砂地に置き
しばし休息しているように
わたしたちには見えた
それはアンドリュー・ワイエスの素描だった

「そこは存在や意識の地上に対し
イマージュの地上と呼ぶべきものかもしれない」

同じ処に暗褐色の濡れた岩がある
人は消え 釣竿と櫂〔(かい)→23(トル)〕が置かれたままだ
ここには仰ぐ〔青空→23月)〕はなく
打ちよせ 引きさがってゆく 波の音が聞える

画家の完成させた絵を
わたしはそのように認識し心ひかれた
家に戻って語りあったら
岩に置かれたものはたしかに
〈猟銃〉と〈斧〉だったと妻は言いつづける

「青と発音する」(H・27)

初出は《雷鳴の頸飾り――瀧口修造に》(「雷鳴の頸飾り」刊行会、1979年12月10日)一〇一〜一〇五ページ、本文14ポ17行1段組、55行。

      「青ずんだ鏡のなかに飛びこむのは今だ」〔(ベタ)→(三倍アキ)→(二倍アキ)〕瀧口修造

秋されば
オリーヴの実のぶらさがる
そこに開かれた
「黄金の窓」
が在り
「血管の走ったかまど」
も在る
うつしよの隠れ家を出るんだ
泥沼のはるか上の
「空所」
は淋しい
つれづれなるまま
「青
と発音する」
わたしの
「胸中の山水」
をのぼって行く者がひとりいるようだ
「野鼠の中の不発弾」
を探しているのだろうか
夜が明けたら
岩盤にぶつかるものがある
シーニュ シーニュ シーニュ
まるで
「剃刀の氷滑り」
のように鋭く迫る
記号と空〔12罐→缶〕
どこから始り
どこで終るのか
ゆゆしきわたしの夢
ゆゆしき
「火という文字
風という文字」
あとはつけたりに
〈愛〉と〈死〉という文字を書きそえよ
「タコのようなそいつの手で」
できることならば
もろもろの文字を抹消させよ
市にたそがれは来る
白玉
氷あずき
「美しい女は知らずに
匙をとる」
その青い骨格がもえつきる時
わたしを襲うのは
蜂や稲光りではなく
「この大音響のする
産衣」
ゆゆしき湯文字の姉のししむら
「ここに生きる
元素」
を目に留め
わたしは認識をあらたにす
「むしろ生命は
アリバイのなかに
烈しい存在を示すことになる」

円筒の内側(H・28)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1979年11月臨時増刊号〔11巻14号〕三四〜三九ページ、本文9ポ22行1段組、6節85行。なおは、題辞の作者名「大岡 信」の配置を「〔……〕波動である」のあと全角アキにしたうえ、左に1行分平行移動させている。

      「言語というものは固体
      粒であると同じに波動である」〔12(二倍アキ)→(全角アキ)〕大岡〔(半角アキ)→23(全角アキ)〕信

   1

「石や木とじかに結びついている」
子供の頃
狩野川のほとりで
ハヤ・マルタ・フナを釣り
ぼくは猿股をぬらす
日の暮つ方
ぬるぬるしている
硬骨魚
鯰〔は→23を〕ついに捕え
「存在としての自然ではなく
生成としての
自然」
そのものを知った

   2

「子供は強引に成長する」
木の芽時
香貫山を見れば
「とびかかって来る
緑」
ぼくは間もなく
アデノイドの手術を受けるんだ
むっとする闇のかなた
「そこに巨大な女が横たわっている
ことを想像せよ」

   3

「円筒の中は静まりかえり」
猫は死にゆき
鯉も死にゆき
いずれにしても淋しい秋だ
もしかしたら
人も死んでゆく
「葡萄の房
みたいなかたち」

   4

露もしとどに
裏山を越え
妹がつづらおりの径を降りてくる
「涙を浮かべない眼で
事物を見よ」
言語がはらむ
観念の内容をつきとめよ
「処女陵辱」
この文字は美しい
しかし顔をそむけよ 弟
「夢と現実の
隙間」
に潜在する
「ツクネイモ山水」
そのはるか上に懸る
「冴え冴えとした
月」
ぼくが老人だったらこのようにつぶやく
「言葉の方からのみ
人生を眺めると人生は
煙のごとし」

   5

「生物と鉱物の両方が騒がしく
わき立っている
地表」
そこでの生活はつらい
「尋常の食物では
彼らを養うことは出来ない」
ぼくのはらからは
ひたすら思考し
「沈黙に聞き入る能力」
をたくわえる
頭部は巻貝のような人たちだ
「冷えすぎたハム」
この興ざめたものを嚥下す
それゆえに
「からだのなかにつねに
フォルム感覚が見えない形で
生み出される」
そのまわりに散乱する
糸屑や卵子
(言葉)
もろもろの具象を
箒やはたきをかけて
舞いあがらせる
発止!
ワラ半紙一枚の聖域

   6

「璧を通して
青空が見える家」
からぼくは旅に出る
桜並木の長い道がつきたところで
(点滅信号)を仰ぐ
其所から
「氷河が溶解し
世界の洪水がはじまる」

                            (一九七九・一○・九)

――――――――――

この詩集が刊行された1979年当時は前の詩集《サフラン摘み》(1976)との類似にばかり目がいったが(吉岡実が両書を姉妹篇として提出したことは疑えない)、吉岡のその後の展開を知っている時点からすれば、次の《薬玉》(1983)と通じる詩風を《夏の宴》に見て当然である。私は「中期吉岡実」を締めくくるこの詩集に、吉岡実晩年の詩境の萌芽を見たいと思う。《薬玉》を先取りした《夏の宴》の特徴を要約するなら、内容面では神話や民間伝承への言及、形式面では引用詩句に施された階段状の字下げが挙げられる(「旧い伝説によると/「裸の女が蒔いた種子は畑で/よく成長する」/大きな冬瓜にまたがる娘たちがいる」の引用詩句など、いかにもフレイザーの《金枝篇》からのようだが、出典を詳らかにしない)。高橋睦郎が〈鑑賞〉で「読者としては引用の原典を探索するもよし、引用形が地の文と溶けあっている具合を愉しむもよし、この作品〔詩集巻頭の〈楽園〉〕もそういう自由な読みかたの勧めとも受けとれる」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月20日、一三二ページ)と書いたように、われわれも自分なりの読みの態度を決めなければばならない。

《夏の宴》の文体で特徴的なのが、詩句の繰り返しである。吉岡は語のレベルに関しては、金井美恵子との対談で「ここでぼくの秘密を公開すれば中期までの作品は、たとえば「魚」が出たら二度と「魚」は出ないし、「窓」が出てきたら二度と「窓」は出てこないというように、すべて一回性で来ている、同じものを繰り返さないのが特色なの。おそらく皆無ですよ。一回出てきたらそれはもう出てこない」(〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉、《現代詩手帖》1980年10月号、九八ページ)と語っている。一方、詩句のレベルでは(対句的な用法も含めて)かなり自由に繰り返しを展開している。

かかる時点で地の上に何が遺るか
      水の上に何が浮ぶか(〈楽園〉H・1)

     托鉢僧が二人になった
         二人になった(〈異邦〉H・5)

受苦 受苦(〈螺旋形〉H・10)

物を投げる
物を投げる(同前)

カノン
カノン(〈形は不安の鋭角を持ち……〉H・11)

へだてられている
へだて
られている(〈織物の三つの端布〉H・16)

人間は何をしてもよい
   何をしてもよい(〈使者〉H・18)

開ける 開ける(〈夢のアステリスク〉H・22)

《夏の宴》では詩句における「引用」や「固有名詞」や「階段状表記」の影に隠れがちだが、こうしたスタイルは吉岡実詩のある面を顕していて、研究に値する。

随想〈「想像力は死んだ 想像せよ」〉(初出:《現代詩手帖》1977年5月号)は詩論の体裁こそとっていないものの、当時の吉岡の詩作に対する姿勢を語った重要な文章である。吉岡はそこで「ある時期から、詩を書きながら、私は自己の想像力の枯渇したことを感じた。今までは豊かなイメージの湧出に、愉悦とその定着への抑制に精神を集中すれば、私はそれなりの詩の生成に立会えた。しかしこの頃は他人の言葉の引用と、素材的資料、地名、人名を挿入しながら内なるリアリティの確立を試みているのである」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、八四ページ)と書いている。談話でもたびたび心情を吐露したように、《サフラン摘み》に較べれば「想像力の枯渇」――と言うよりも「想像力の減衰」だろう――は否定できない。しかし「想像力を超えるものは、真の創造をもたらす想像力以外にないだろうから」(同前)という決意のもと、吉岡実はここから、この真夏の極地から未踏の詩世界への登攀を開始する。やがて《薬玉》という「後期吉岡実」の巨峰が姿を現わすだろう。

〔付記〕
本詩集の単行本の巻末(奥付対向ページ)に掲載されている〈初出誌紙一覧〉には、いくつか誤りがある。すでに各詩篇の本文前に詳細な初出記録を掲げたので、ここでは〈初出誌紙一覧〉と原典を校合した結果を本文の校異と同様の書式で記し、誤記・誤植を正しておこう。

初出誌紙一覧
楽園 「現代詩手帖」 1976・8
部屋 「新潮」 1976・12
「ユリイカ」 1978・7
子供の儀礼 「文藝」 1976・10
異邦 「ヘルマン・セリエント展」 1977・5
水鏡 「文藝」 1977・11
晩夏 「流行通信」 1977・10
「ユリイカ」 1976・11増刊号
草の迷宮 『池田満寿夫20年の全貌』 1977・11
螺旋形 「海」 1977・5
形は不安の鋭角を持ち…… 「現代詩手帖」 1978・4
父・あるいは夏 「カイエ」 1978・8
幻場 「月下の一群」 1976・12
雷雨の姿を見よ 「海」 1978・5
「文学界」 1978・1
織物の三つの端布 「エピステーメー」 1978・11
金柑譚 「海」 1979・5
使者 「新劇」 1977・8
悪趣味な春の旅 「〔(ナシ)→日本〕読書新聞」 1977・1・17
夏の宴 「文藝」 1978・10
「街頭詩の試み」 1979・6〔(ナシ)→〜8〕
夢のアステリスク 〔「金子国義アリスの画廊」 1979・7→金子國義版画集『LE REVE D'ALICE――アリスの夢』出版案内カタログ 1978・2〕
詠歌 「ユリイカ」 1979・7
この世の夏 「朝日新聞」 1979・8・20
裸子植物 「肉体言語」第九号 1979・3
謎の絵 「東京新聞〔(ナシ)→夕刊〕」 1979・1・5
「青と発音する」 『雷鳴の頸飾り』 1979・12
円筒の内側 「ユリイカ」  1979・11〔(ナシ)→臨時〕増刊号

〔2019年4月15日追記〕
吉岡実の生誕100周年(2019年4月15日)を記念して、〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉(小林一郎 編)〔A4判縦位置で印刷すると、約[293]ページ〕を新規ページとしてアップした。ただし、本サイトでは《〈吉岡実〉を語る》の一項目という位置づけのため、トップページの〈目次〉には掲出しない。


発言本文を除く《吉岡実トーキング》(2010年5月31日、小林一郎)

秋元幸人(1961.6.10.-2010.4.29.)に捧ぐ

はじめに

吉 岡実が行なった対談や座談会は、まだ一本にまとめられていない。生前に出版されなかったのは吉岡自身の意向によろうが(私が詩書の編集者だったらぜったい に企画した)、ぜひとも手軽な形で読みたいものだ。今回は、吉岡実が出席した対談・座談会等の簡単な掲載記録と記事の小見出しを摘することで(小字で記 載)、架空の書物《吉岡実対談・座談会集》を概観しよう。なお、出席者が二名のものを「対談」、三名のものを「鼎談」、それより多いものを「座談会」と区 分して、年代順に並べた。――小林一郎〈吉岡実の対談・座談会集〉(2004年3月31日)

2010年5月31日で、吉岡実が亡くなってちょうど20年になる。1996年に歌集《魚藍》を含む《吉岡実全詩 集》が、2003年に全句集に相当する《奴 草》が刊行され、韻文に関するかぎり吉岡実作品の公刊はほぼ終了した (ほかに歌集《歔欷》と句集《奴草》 を収めた《赤 鴉》が2002年に小部数ながら刊行されている)。散文は1996年の追悼文集《私のうしろを 犬が歩いていた》に遺稿〈日歴(一九四八年・夏暦)〉が公表されだけで、その後は生前発表の未 刊行散文の書籍化も進展がない。これは吉岡実(の書誌)を研究する者にとって由由しき事態で、書籍の形でないと単行本所収の散文に対応した《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題 付〕》を増補できない。吉岡実が執筆・公表した散文がこの状態だから、口 頭での談話記事や対談が一本になっていないのはいたしかたないとはいえ、それらが吉岡実研究にとって不可欠の重要資料であることに変わりはない。
今回、私は〈吉岡実の対談・座談会集〉に載せたリストに、吉岡実単独の談話やインタビューを加えて、《吉岡実未刊行散文集》に対応する形で《吉岡実トーキング》を編纂した。か つて吉岡家には土方巽の雑誌連載 〈病める舞姫〉を二穴で仮綴じした冊子があった(これは吉岡が《病める舞姫》の 造本・装丁を担当する際に、編集部から提供されたものかもしれない)。《吉岡実トーキング》はその冊子と同じ精神で、簡便な形をとりつつも吉岡実の発言を 可能なかぎり集積して、歿後20年を期してデジタルデータ化したものである。これをhtmlファイルにしたのは、ウェブページとして公開することが目的で はなく(著作権上の問題をクリアしていないので、現状では公開できない)、最低限のレイアウトを施して《吉岡実の詩の世界》の 参照箇所にリンクを設定することと、シフトJISのテキストで表示できない文字をユニコードで表示することが目的だった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

凡例

  1. 吉岡実が生前発表した口頭による発言を、T 談話・インタビュー、U 対談、V 鼎談、W 座談会の4部に分けて、それぞれ発表順に排した。
  2. 底本には〈目次〉にある初出形を用いた。T・3W・6は のちに書籍に収められた再録形があるので、再録形に照らして初出形を校訂した。
  3. 漢字・仮名遣いとも底本をなるべく生かした。小見出しや発言者名の字下げ(W・ 1を除く)も踏襲し、 底本のゴチックはボールドで表示した。
  4. 事実関係を正すための補記は、書名・人名の訂正以外は極力控えた。文意の不明な箇所は〔 〕で括って校訂したが、表記の統一はし なかった。
  5. 発言中の吉岡の著作(青色で表示)以外の書名を『白い夏野』◆の ように表示して、《吉岡 実言及書名・作品名索引〔解題付〕》の増補作業に備えた。
  6. T・2の本文の監督名・作品名にリンクを設定し て、註を付した〔〈発言本文を除く《吉岡実トーキン グ》〉では省略〕。《吉岡実言及映画作品名索引〔解題付〕》に向けた試みである。
  7. 座談会記事中の出席者の作品紹介などは、底本にあった位置ではなく記事の前にまとめて置いた。その際、新たに立てた小字の見出し にはリンクを 設定した〔〈発言本文を除く《吉岡実トーキング》〉では省略〕。
  8. 掲載された写真の説明や本文と関連する他の文献の紹介を文末の〈編者註〉で行なった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

目次

T 談話・インタビュー

 T・1 〔談話〕〈審査の感想(俳句)――創刊十周年記念全国大会 録音盤〉(《俳句評論》78号、 1968年3月)

 T・2 〔談〕〈純粋と混沌――大和屋竺と新しい作家たち〉(《映 画芸術》1969年3月号)

 T・3 小笠原賢二〈「厳粛なる暗黒の祝祭」の世界――高見順賞受賞の 吉岡実氏に聞く〉(《週刊読書 人》1169号、1977年2月21日)の吉岡実の発言

 T・4 〔インタビュー〕〈吉岡実氏にテレビをめぐる15の質問〉(《現 代詩手帖》1978年3月号 〈特集=テレビをどう見るか〉)

 T・5 (R)〈一車線の文章――初の随想集『「死児」という絵』(思 潮社刊)を出す吉岡実氏〉(《日 本読書新聞》2065号、1980年7月14日)の吉岡実の発言

 T・6 〔談話〕〈戦後日本の一大天才〉(《ダブ ル・ノーテーション》1985年7月23日〈土方巽 リーディング〉)

 T・7 〈〔高橋新吉死去に関する談話〕〉(《毎 日新聞》1987年6月6日)

U 対談

 U・1 〔吉岡実・天沢退二郎の対談〕〈新春対談〉(《現 代詩》1963年1月号)

 U・2 〔吉岡実・入沢康夫の対談〕〈模糊とした世界へ〉(《現 代詩手帖》1967年10月号〈特集= 吉岡実の世界〉)

 U・3 高橋睦郎〈吉岡実氏に76の質問〉(《吉 岡実詩集〔現代詩文庫14〕》思潮社、1968年9月 1日)

 U・4 〔吉岡実・大岡信の対話〕〈卵形の世界から〉(《ユ リイカ》1973年9月号〈特集=吉岡 実〉)

 U・5 〔吉岡実・飯島耕一の対話〕〈詩的青春の光芒〉(《ユ リイカ》1975年12月臨時増刊号〈作 品総特集 現代詩の実験 1975〉)

 U・6 〔金井美恵子・吉岡実の対談〕〈一回性の言葉――フィクション と現実の混淆へ〉(《現代詩手 帖》1980年10月号〈特集=吉岡実〉)

V 鼎談

 V・1 〔祐乗坊宣明・小宮山量平・吉岡実の座談会〕〈読者と本の結び つき――出版広告はどうあるべきか〉(《圖 書新聞》1961年2月4日〔週刊589号〕)

 V・2 〔松浦寿輝・朝吹亮二・吉岡実(ゲスト)の対話批評〕〈奇ッ怪な歪みの魅力〉(《ユリイカ》1987年11月号)

W 座談会

 W・1 〔金子兜太・神田秀夫・楠本憲吉・高柳重信・吉岡実・中村苑子の座談会〕〈第二回俳句評論賞選考座談会〉(《俳句評論》25号、1963年2月)

 W・2 〔安藤一郎・中桐雅夫・吉野弘・小海永二・秋谷豊・安西均・吉岡実・村野四郎・草野心平の座談会〕〈第13回日本現代詩人会H氏賞選考委員座談会〉(《詩学》1963年7月号〈特集=H氏賞〉)

 W・3 〔吉岡実・佐佐木幸綱・金子兜太・高柳重信・藤田湘子の座談会〕〈現代俳句=その断面〉(《鷹》1972年10月号)

 W・4 〔吉岡実・加藤郁乎・那珂太郎・飯島耕一・吉増剛造の座談会〕〈悪しき時を生きる現代の詩――座談形式による特集〈今日の歌・現代の詩〉〉(《短歌》1975年2月号)

 W・5 〔吉岡実・飯島耕一・岡田隆彦・佐々木幹郎の座談会〕〈思想なき時代の詩人〉(《現代詩手帖》1975年5月号〈特集=鈴木志郎康VS吉増剛造〉)

 W・6 〔飯田龍太・大岡信・高柳重信・吉岡実の連載座談会〕〈現代俳句を語る〉(《鑑賞現代俳句全集〔全12巻〕》立風書房・月報 I〜XII、1980年5月1日〜1981年4月20日)

 W・7 〔金子晋・高柳重信・吉岡実・三橋敏雄・高橋睦郎・永田耕衣・鈴木六林男・多田智満子・桂信子・鶴岡善久・津高和一・足立巻一・中村苑子・飯島晴子・加藤三七子・島津亮・鈴木漠・坂戸淳夫・小川双々子・赤尾兜子の座談会〕〈シンポジュウム 永田耕衣の世界〉(《俳句》1980年9月号)

 W・8 〔吉岡実・大岡信・那珂太郎・入沢康夫・鍵谷幸信の座談会〕〈比類ない詩的存在――西脇順三郎追悼座談会〉(《現代詩手帖》1982年7月号)

 W・9 〔オクタビオ・パス・吉岡実・大岡信・渋沢孝輔・吉増剛造の特別座談会〕〈言語と始源〉(《現代詩手帖》1985年1月号)

初出一覧(発表順)

編者あとがき


T 談話・インタビュー

――

T・1 〔談話〕〈審査の感想(俳句)――創刊十周年記念全国大会 録音盤〉(《俳句評論》78号、1968年3月)

〔小見出しなし〕

談話本文(400字詰原稿用紙約12枚)は省略

編者註…… 初出は《俳句評論》〔俳句評論社〕1968年3月〔10巻3号通78号〕21〜24ページ。編集人・高柳重信の〈あとがき〉に「昨秋の全国大会における、 高屋窓秋・大岡信・吉岡実らの諸氏の談話を掲載した。出来るだけ、当日の生まの感じを残したいと思い、録音したままを、ほとんど手を入れずに発表した」 (同誌、〔四二ページ〕)とある(〈吉 岡実の「講演」と俳句選評〉を参照のこと)。

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T・2 〔談〕〈純粋と混沌――大和屋竺と新しい作家たち〉(《映画芸術》1969年3月号)

〔小見出しなし〕

談本文(400字詰原稿用紙約8枚)は省略

編者註…… 初出は《映画芸術》〔映画芸術社〕1969年3月号〔17巻3号通259号〕92〜93ページ。〈今月の作家論〉のコーナーに、鈴木志郎康執筆の〈性の封 じ込め――足立正生「避姙革命」「堕胎」〉とともに掲載された。同号には高橋鐵・土方巽・泉大八・山本晋也の座談会〈セックスと芸術――日本SEX映画批 判〉も掲載されている。

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T・3 小笠原賢二〈「厳粛なる暗黒の祝祭」の世界――高見順賞受賞の吉岡実氏に聞く〉(《週刊読書人》1169号、1977年2月21日)の吉岡実の発言

新しい形式を模索する――「見ること」から多くの養分を吸収
乾いた硬質な造型性――職人の手仕事のように仕上げる
小説にも意欲燃やす――懸案の恋愛体験≠ニ軍隊体験

発言本文(400字詰原稿用紙約4枚)は省略

編者註…… 初出は小笠原賢二〈「厳粛なる暗黒の祝祭」の世界――高見順賞受賞の吉岡実氏に聞く〉(《週刊読書人》1977年2月21日〔1169号〕1面。吉岡実の 顔写真と《サフラン摘み》の函写真、各1点掲載。本文の吉岡発言(本文全体で15字×330行中の92行分)のみ掲げた。のちに小笠 原賢二《黒衣の文学誌 ――27人の〈創作工房〉遍歴〔雁叢書102〕》(雁書館、1982年8月15日)に再録されたので、照合して校訂した【初出形→再録形】。

……………………………………………………

T・4 〔インタビュー〕〈吉岡実氏にテレビをめぐる15の質問〉(《現代詩手帖》1978年3月号〈特集=テレビをどう見るか〉)

〔小見出しなし〕

インタビュー本文(400字詰原稿用紙約14枚)は省略

編者註……初出は《現代詩手帖》 〔思潮社〕1978年3月号〔21巻3号〕〈特集=テレビをどう見 るか〉115〜118ページ(「詩人の〈眼〉」中の一篇で、目次には〈「テレビをめぐる15の質問」への回答〉とある)。 標題の次に「インタビュー・編集部」とクレジットされている(編集人は山村武善)。吉岡実はテレビ番組に出演しなかったが、1994年5月15日放映の NHK教育テレビ《日曜美術館》の〈幻想の王国――澁澤龍彦の宇宙〉で、土方巽の告別式で澁澤とともに棺の中の土方に別れを告げるシーンが流れた(〈吉 岡実の視聴覚資料(1)〉を参照のこと)。

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T・5 (R)〈一車線の文章――初の随想集『「死児」という絵』(思潮社刊)を出す吉岡実氏〉(《日本読書新聞》2065号、1980年7月14日)の吉岡実の 発言

〔小見出しなし〕

発言本文(400字詰原稿用紙約2枚)は省略

編者註…… 初出は(R)〈一車線の文章――初の随想集『「死児」という絵』(思潮社刊)を出す吉岡実氏〉(《日本読書新聞》〔日本出版協会〕1980年7月14日 〔2065号〕)2面のコラム〈顔〉。吉岡実の顔写真1点掲載。「 」付きの吉岡の発言(発言だけでわかりにくい箇所は地の文も引いた)をすべて掲げた。 なお本文中に「但し、吉岡氏自身が「兄貴的存在」と呼ぶ太田大八氏と組んで「絵本」をつくる計画はある」と見えるが、この「絵本」は実現しなかった。

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T・6 〔談話〕〈戦後日本の一大天才〉(《ダブル・ノーテーション》1985年7月23日〈土方巽リーディング〉)

〔小見出しなし〕

談話本文(400字詰原稿用紙約1枚)は省略

編者註……初出は《ダブル・ノー テーション》〔ユー・ピー・ユー〕1985年7月23日〔2号〕 〈土方巽リーディング〉71〜72ページ。初出誌の版元に務めていた関係で、私は取材に同行する幸運に恵まれた(詳細は〈み なづきの水――吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(序章)――追悼吉岡実〉の「六月二六日(火)」を参 照のこと)。その席で吉岡さんから土方巽にぜひ会っておくように勧められた。ひと月後、私はアスベスト館の一室で土方巽の謦咳に接した。

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T・7 〈〔高橋新吉死去に関する談話〕〉(《毎日新聞》1987年6月6日)

〔小見出しなし〕

談話本文(400字詰原稿用紙約1枚)は省略

編者註…… 初出は《毎日新聞》〔毎日新聞東京本社〕1987年6月6日〔39917号〕23面。原題は〈詩人、吉岡実氏の話〉で、本文記事〈極限のダダイスト詩人/ 高橋新吉氏が死去〉のあとに付けられたコメント。吉岡家所蔵の切り抜きには、吉岡本人の手で「毎日新聞 昭和六十二年六月六日(土)」とメモ書きがある。 吉岡は追悼文〈ダガバジジンギヂさん、さようなら〉(《ユリイカ》1987年7月号)を書いている。

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U 対談

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U・1 〔吉岡実・天沢退二郎の対談〕〈新春対談〉(《現代詩》1963年1月号)

〔小見出しなし〕

対談本文(400字詰原稿用紙約7枚)は省略

編者註…… 初出は《現代詩》〔飯塚書店〕1963年1月号〔10巻1号通121号〕〈特集=新春対談〉40〜41ページ。全部で18本の対談の顔触れは、@金子光 晴・茨木のり子、A富士正晴・井上俊夫、Bペギー葉山・岩田宏、C石垣りん・山田正弘、D山本太郎・宗左近、E松村禎三・谷川俊太郎、F黒田喜夫・関根 弘、G安西均・新川和江、H中野嘉一・飯島耕一、I菅原克己・寺尾知江子、J武満徹・大岡信、K高田敏子・滝口雅子、L上田敏雄・礒永充能、M三好豊一 郎・金太中、N安水稔和・大江昭三、O長谷川竜生・寺山修司、P吉岡実・天沢退二郎、Q鮎川信夫・吉野弘。吉岡・天沢対談には、出席者の顔写真各1点を掲 載。吉岡実は基本的に対談で(自身の)詩以外をテーマにすることはなかったが、本篇はその最初の対談でありながら、掲載誌が吉岡実特集でない点が特筆され る。

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U・2 〔吉岡実・入沢康夫の対談〕〈模糊とした世界へ〉(《現代詩手帖》1967年10月号〈特集=吉岡実の世界〉)

詩を書くことと詩論を書くこと
作品の変化について
吉岡実の詩の出発
吉岡実の詩の言葉
作品と現実とのかかわり方
白紙の状態から書き始める

対談本文(400字詰原稿用紙約37枚)は省略

編者註…… 初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1967年10月号〔10巻10号〕〈特集=吉岡実の世界〉52〜61ページ。出席者のツーショット「対談中の入沢康夫 (左)、吉岡実(右)両氏」と顔写真各1点を掲載。編集人・八木忠栄の〈編集日録抄G――一九六七年六月〜八月〉の「8月23日(水)」に「夕方、新宿の馬上盃で吉岡実・入沢康夫対談。吉岡さんはよくしゃべってくれ、それを入沢さんがうまく論 理づけてまとめながら 進行した」(《現代詩手帖》2010年2月号、159ページ)とある。

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U・3 高橋睦郎〈吉岡実氏に76の質問〉(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》思潮社、1968年9月1日)

人間について
日本および日本人について
日常生活について
結婚について
老年および死について
金について
殺人について
神について
文学との出会い
詩作への動機
戦争体験について
だれのために書くか
戦後詩と自分の詩
前衛について
日本語について
セックスについて
今後の詩の方向
小説の計画
詩の新しい世代に
ついでにお聞きします

本文(400字詰原稿用紙約25枚)は省略

編者註…… 初出は高橋睦郎執筆のインタビュー形式による詩人論〈吉岡実氏に76の質問〉(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》思潮社、1968年9月1日、 138〜146ページ)。吉岡は自筆〈年譜〉の1968年の項に「夏、〔……〕資生堂パーラーで、高橋睦郎のインタヴューを受ける(「吉岡実氏に76の質 問」)。」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984年1月20日、233ページ)と書いている。〈吉岡実氏に76の質問〉は平出隆監修《現代詩 読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991年4月15日)に〈吉岡実エッセイ・インタビュー〉として再録された。底本には初出を採った。本文は再録形に照らして書名の 「 」を『 』に、年齢の才を歳に訂したが、校訂の表示はしなかった。

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U・4 〔吉岡実・大岡信の対話〕〈卵形の世界から〉(《ユリイカ》1973年9月号〈特集=吉岡実〉)

吉岡実前史を求めて
少年期の書物群
卵が登場する
俳句からの脱出
さまざまな出合い
傲慢であることが必要だ
ストリップの宇宙
言語彫刻の現場
散文の沃野へ
固有名詞の世界へ〔〈目次〉では「固有名詞の魅惑」〕
かぎりなく脱皮する〔同・「限りなく脱皮する」〕

対話本文(400字詰原稿用紙約66枚)は省略

編者註…… 初出は《ユリイカ》〔青土社〕1973年9月号〔5巻10号〕〈特集=吉岡実〉142〜158ページの「対話」。出席者の顔写真各8点を掲載。初出形を一 部削除して、《新選吉岡実詩集〔新選・現代詩文庫110〕》(思潮社、1978)と《続・吉岡実詩集〔現代詩文庫129〕》(同、1995)に収録。吉岡 は「三宅やす子の『私の写真』」について随想〈読書遍歴〉でも書いているが、三宅やす子著に《私の写真》は見あたらない(《吉岡実 言及書名・作品名索引〔解題付〕》の〈三宅克己〉を参照のこと)。

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U・5 〔吉岡実・飯島耕一の対話〕〈詩的青春の光芒〉(《ユリイカ》1975年12月臨時増刊号〈作品総特集 現代詩の実験 1975〉)

「鰐」の時代
伊達得夫の「ユリイカ」
「僧侶」の時代
「神秘的な時代の詩」
「ゴヤのファースト・ネームは」と「新年の手紙」
運慶とシュルレアリスム
「日本回帰」の問題
可能性としての茂吉
金子光晴と西脇順三郎
70年代の詩人たち
詩的フォルムへ
『岡倉天心』
『詩禮傳家』

対話本文(400字詰原稿用紙約80枚)は省略

編者註…… 初出は《ユリイカ》〔青土社〕1975年12月臨時増刊号〔7巻12号〕〈作品総特集 現代詩の実験 1975〉192〜221ページ。吉岡は同じ号に詩篇〈あまがつ頌〉(G・30)を寄せている。飯島発言にある特別展〈鎌倉時代の彫刻〉(東京国立博物 館)の会期は昭和50年10月7日〜11月24日だが、この「対話」の実施日は不明。

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U・6 〔金井美恵子・吉岡実の対談〕〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉(《現代詩手帖》1980年10月号〈特集=吉岡実〉)

体験と想像力
俳句・短歌と現代詩
引用詩について
繰り返しを避ける
物質的な言葉
目の人
丸くて寸づまりのもの
一切新しいものはない
「具体」への志向

対談本文(400字詰原稿用紙約95枚)は省略

編者註…… 初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1980年10月号〔23巻10号〕〈特集=吉岡実〉90〜111ページ。出席者の顔写真各1点を掲載(吉岡・金井とも、 指に煙草をはさんでいる)。吉岡の写真は《現代詩手帖》1990年7月号の〈追悼、吉岡実〉の扉ページに流用された。

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V 鼎談

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V・1 〔祐乗坊宣明・小宮山量平・吉岡実の座談会〕〈読者と本の結びつき――出版広告はどうあるべきか〉(《圖書新聞》1961年2月4日〔週刊589号〕)

両極に分解する――効果のある広告、ない広告
宿命的な配給機構――映画に似た投機的な性格
新聞は報道義務を――出版社 フェティシズム破れ
読書人口はふえる――販売調査を利用したい
五十万の書評紙を――中核的読者をつかむこと
新聞は見識を持て――公共的なPRで協力を

座談会本文(400字詰原稿用紙約31枚)は省略

編者註…… 初出は《圖書新聞》〔圖書新聞社〕1961年2月4日〔週刊589号〕2〜3面。出席者の顔写真各1点を掲載。記事中に囲みで「出席者」として「朝日新聞 東京本社出版業務部次長 祐乗坊宣明氏/理論社社長 小宮山量平氏/筑摩書房宣伝課長 吉岡実氏/(発言順)」とある。のちに祐乗坊は石原龍一とともに、 森田誠吾編《三段八割秀作集》(精美堂、1972)の選を担当した(〈森 田誠吾氏が逝去〉を参照のこと)。

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V・2 〔松浦寿輝・朝吹亮二・吉岡実(ゲスト)の対話批評〕〈奇ッ怪な歪みの魅力〉(《ユリイカ》1987年11月号)

〔小見出しなし〕

作品と対話批評本文(400字詰原稿用紙約42枚)は省略

編者註…… 初出は《ユリイカ》〔青土社〕1987年11月号〔19巻12号通256号〕249〜(鼎談は252〜)261ページ。吉岡の日記は〈アンケート「そして、8月1日の……」〉(《麒麟》4号〈同日異録B〉、1983年10月)で、「このところ、夏バテしている。昨夜久しぶりで焼肉レストラン「力」の料理を食べたせいか、いささか元気になる。妻の好きなM駅ビル3Fのペラペラで、コーヒーを啜った。力[りき]がついたので「花神」のための小詩篇を、一気に書きはじめる。しかし、不発」(同誌、11ページ)などと見える。

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W 座談会

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W・1 〔金子兜太・神田秀夫・楠本憲吉・高柳重信・吉岡実・中村苑子の座談会〕〈第二回俳句評論賞選考座談会〉(《俳句評論》25号、1963年2月)

渡部杜茂子
西本弥生
寺田澄史
前川弘明
竹本健司
志摩聰
再び渡部杜茂子
佐藤輝明
渡部杜茂子と竹本健司
安井浩司
大岡頌司
とにかく絞ろう
それではどうする

座談会本文(400字詰原稿用紙約69枚)は省略

編者註…… 初出は《俳句評論》〔俳句評論社〕1963年2月〔5巻1号通25号〕8〜29ページ。掲載誌の冒頭に「俳句評論賞發表/入選 該當者なし/佳作賞 ほーかす・ぽーかす譚 寺田澄史/ 鵙の贄 西本彌生/ 青年の河 前川弘明/ いたちの唄 渡部杜茂子/選外佳作 青江涼江/ 花見干潟 大岡頌司/ ~田肇/ 遠景海郷 佐藤輝明/ ぱすてる館舊詩帖 志摩聰/ 孤獨の繪 竹本健司/ 囮の舌 松岡緑男/ 村上賀彦/ 安井浩司/審査員 岡井隆 金子兜太 ~田秀夫 楠本憲吉 高柳重信 永田耕衣 吉岡實/主催 俳句評論社」、続いて〈俳句評論賞佳作賞作品〉4作と4名の〈受賞の言葉〉を掲載。座談会記事の最初と最後の見開きを除いた18ページにわたり、3段組本 文の上段を9名の〈俳句評論賞選外佳作〉の紹介に充てている。このときの選評が契機となったと思しい志摩聰と吉岡実の関係については、〈吉 岡実の未刊行詩篇を発見〉を参照のこと。

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W・2 〔安藤一郎・中桐雅夫・吉野弘・小海永二・秋谷豊・安西均・吉岡実・村野四郎・草野心平の座談会〕〈第13回日本現代詩人会H氏賞選考委員座談会〉(《詩 学》1963年7月号〈特集=H氏賞〉)

選考経過

座談会本文(400字詰原稿用紙約21枚)は省略

編者註……初出は《詩学》〔詩学 社〕1963年7月号〔18巻7号通196号〕〈特集=H氏賞〉 46〜51ページ。この座談会をもとに、かつて〈H氏賞選考委員・吉岡実〉を書いた。入沢康夫の《ランゲルハンス氏の島》 の絵は落合茂によるものだが、 1960年代の吉岡実装丁で最も数多く起用されたのが落合茂のカットだった。ただし、落合の絵に限らず、吉岡に詩画集と呼べる著書はない。

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W・3 〔吉岡実・佐佐木幸綱・金子兜太・高柳重信・藤田湘子の座談会〕〈現代俳句=その断面〉(《鷹》1972年10月号)

俳句との出会い
短歌をつくるとお小遣いをくれる
『前略十年』のころ
魅力的な写真
あつかましい自然
見る自然≠ヘつまらない
ボキャブラリーの不足
踏みとどまって見る
俳壇はいつも二流時代
結社の主宰者
作品を書くための滑走路
《湘子後記》

牧歌(詩集『液体』より)

佐佐木幸綱氏の作品(「'72短歌年鑑」より)

金子兜太氏の作品(「'72俳句研究年鑑」より)

高柳重信氏の作品(『高柳重信全句集』より)

座談会本文(400字詰原稿用紙約84枚)は省略

編者註…… 初出は《鷹》〔鷹俳句会〕1972年10月号〔9巻10号通100号〕12〜35ページ。タイトルページに出席者の顔写真各1点掲載のほか、藤田を除くゲ スト出席者の作品紹介のコラムに顔写真をそれぞれ1点掲載。吉岡は藤田湘子句集《一個〔現代俳句叢書18〕》(角川書店、1984年10月20日)を特集 した《俳句》1985年6月号に「姉妹の美貌に瀧の氷りけり」を掲げて、〈「謎」めいた一句〉という随想を書いている(〈編集後 記 39〉参照)。

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W・4 〔吉岡実・加藤郁乎・那珂太郎・飯島耕一・吉増剛造の座談会〕〈悪しき時を生きる現代の詩――座談形式による特集〈今日の歌・現代の詩〉〉(《短歌》 1975年2月号)

日本一の詩人・西脇順三郎さん
抱腹絶倒の歌
出生・過去・海やまを走る
現代の歌人とその周辺
三島由紀夫・戦後が鴎外にぶつかった

座談会本文(400字詰原稿用紙約112枚)は省略

編者註…… 初出は《短歌》〔角川書店〕1975年2月号〔22巻2号〕58〜87ページ。タイトルページに出席者(吉岡実・加藤郁乎・那珂太郎・飯島耕一・吉増剛 造)の顔写真各1点を掲載。小見出しの上に出席者の顔写真(本文では□で表示)をカット的に配置している(掲載順に飯島・吉岡・吉増・那珂・加藤)。座談 形式による特集〈今日の歌・現代の詩〉のもう一方は、上田三四二・岡野弘彦・馬場あき子・島田修二・片山貞美・篠弘〈文学的責任としての今日の歌〉。

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W・5 〔吉岡実・飯島耕一・岡田隆彦・佐々木幹郎の座談会〕〈思想なき時代の詩人〉(《現代詩手帖》1975年5月号〈特集=鈴木志郎康VS吉増剛造〉)

受け身の詩人鈴木志郎康
具体的事実を了解する
散文に対する鮮明な意識
こわい詩人、正直な詩人
自身を虚構化し踊らせる
詩における散文脈とは何か
一篇の長篇詩への夢

座談会本文(400字詰原稿用紙約57枚)は省略

編者註…… 初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1975年5月号〔18巻5号〕〈特集=鈴木志郎康VS吉増剛造〉116〜129ページ。タイトルページに出席者の顔写真 各1点掲載。編集人・八木忠栄は〈編集ノート〉に「〔……〕この二人の詩人は現代詩の二つの極点を示す存在でありながら、またあからさまに共通した地平に 位置しているように思われる」(同誌、238ページ)と書いている。な お吉増剛造《朝の手紙》(小沢書 店、1974)の装本は、加納光於による。

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W・6 〔飯田龍太・大岡信・高柳重信・吉岡実の連載座談会〕〈現代俳句を語る〉(《鑑賞現代俳句全集〔全12巻〕》立風書房・月報 I〜XII、1980年5月1日〜1981年4月20日)

正岡子規の場合
子規における芭蕉と蕪村
子規における俳句と短歌
勇敢な人の勇敢なふるまい
子規の初期の佳句など
子規の連句否定の意味
俳句だけでなかった子規
再び子規の佳句
子規を短詩型に専念させたもの
融通無碍だった子規
三人三様の字
碧梧桐と虚子
【碧梧桐の佳句など→(トル)】
碧梧桐をかっていた子規
いわゆる見どころのある句とない句
虚子の方法
虚子の俳句復帰の原因
碧梧桐の無中心主義
碧梧桐の悲劇
頭でつくる俳句、身体でつくる俳句
蛇笏の俳句
普羅という人
石鼎の名句など
鬼城の月並み
江戸っ子俳人水巴
インテリ俳人四Sの登場
俳壇外も受け入れた四S
当時の俳壇・歌壇・詩壇
バランスをとった虚子
四人の図式、四人の共通点
決定的な新鮮さ
素十の方法
青畝の特色
弟子を育てない俳人
つかみにくい新興俳句の実体
【新興俳句運動と戦争→(トル)】
【時代の動きと短歌・俳句の関係→(トル)】
【時代への反抗の代替物?→(トル)】
方法意識の導入
【「白い夏野」の意味→(トル)】
定型を重んじた新興俳句
新興俳句と自由律俳句
放浪の詩人
放哉か、山頭火か
【新興俳句と自由律俳句の共通性→(トル)】
草田男の魅力
波郷について
楸邨と「俳」
楸邨の一つの体質
楸邨と草田男の岐路
戦前の女流、戦後の女流
鷹女と赤黄男
【鷹女と久女・多佳子→四Tと久女】
【汀女・立子など→(トル)】
戦前の俳句・戦後の俳句
【戦後俳人にも成果が……→(トル)】
【俳句形式への情熱が……→(トル)】
自句自解をめぐって
龍太を俎上にすると……

〈連載座談会〉 @ A B C D E F G H I J K

座談会本文(400字詰原稿用紙約215枚)は省略

編者註…… 初出は《鑑賞現代俳句全集〔全12巻〕》立風書房、1980年5月1日〜1981年4月20日、〈月報 I〜XII〉の3〜8ページ(ただし〈月報 XI〉は5〜7ページ)。@に出席者の写真「左より大岡信、飯田龍太、吉岡実、高柳重信」を、Bに子規・虚子・碧梧桐の短冊の写真「左より子規、虚子、碧 梧桐の筆蹟(俳句文学館蔵)」を掲載。底本には他の本文に倣って初出形〈連載座談会 現代俳句を語る〉を採り、《高柳重信全集〔第3巻〕》(立風書房、1985年8月8日、330〜384ページ)所収の再録形〈現代俳句を語る〉に照らして 初出形の誤記・誤植(表記変更を含む)を校訂した【初出形→再録形】(編者による校訂は〔 〕で表示)。なお、字下げなどの体裁の変更は校訂しなかった。〈《鑑賞現代俳 句全集〕》解題〉も参照されたい。

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W・ 7 〔金子晋・高柳重信・吉岡実・三橋敏雄・高橋睦郎・永田耕衣・鈴木六林男・多田智満子・桂信子・鶴岡善久・津高和一・足立巻一・中村苑子・飯島晴子・加藤 三七子・島津亮・鈴木漠・坂戸淳夫・小川双々子・赤尾兜子の座談会〕〈シンポジュウム 永田耕衣の世界〉(《俳句》1980年9月号)

はじめに
「寝釈迦」の句について
凡聖不二の境
「近海に…」の句
存在即エロチシズム
「夢の世に」の句
季霊ということ
「髪脱け落つる」の句
重層的な読みかた
視点の自在さ
二重の自画像
活力としての無常

永田耕衣二十句

座談会本文(400字詰原稿用紙約80枚)は省略

編者註…… 初出は《俳句》〔角川書店〕1980年9月号〔29巻10号通371号〕168〜195ページ。タイトルのあとに次のように出席者のクレジットがある。 「金子晋(琴座) 高柳重信(俳句評論) 吉岡実(詩人) 三橋敏雄(天狼・俳句評論) 高橋睦郎(詩人) 永田耕衣(琴座) 鈴木六林男(花曜・天狼)  多田智満子(詩人) 桂信子(草苑) 鶴岡善久(詩人) 津高和一(画家) 足立巻一(作家) 中村苑子(俳句評論) 飯島晴子(鷹) 加藤三七子(か つらぎ・黄鐘) 島津亮(俳人) 鈴木漠(詩人) 坂戸淳夫(俳句評論) 小川双々子(地表) 赤尾兜子(渦)」。吉岡が《肉体》から選んだ十句は《琴 座》351号(1980年7月)に〈『肉体』十句抄〉として掲載されている。この円卓の評定があったのは1980年5月14日、神戸・六甲荘で開かれた 〈傘寿・永田耕衣の日〉においてである。

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W・8 〔吉岡実・大岡信・那珂太郎・入沢康夫・鍵谷幸信の座談会〕〈比類ない詩的存在――西脇順三郎追悼座談会〉(《現代詩手帖》1982年7月号)

人がらと生地
西脇順三郎との出会い
思考と表現の過程
詩集にあらわれる詩的世界の展開
底流としてのイメージと音感
詩における構築された舞台

座談会本文(400字詰原稿用紙約72枚)は省略

編者註…… 初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1982年7月号〔25巻7号〕24〜41ページ。タイトルの後に出席者の顔写真各1点、本文中に西脇順三郎のスナップ写 真3点(うち1点は「小千谷にて・1979」)、西脇と金子光晴のツーショット「金子光晴と・1969年ごろ」を掲載。この記事は安東伸介・鍵谷幸信・山 本晶編《回想の西脇順三郎》(慶應義塾三田文学ライブラリー、1984)に収録された。また、《現代詩手帖》2009年10月号〔52巻10号〕の〈特集 金子光晴と西脇順三郎――創刊50周年記念 復刻・現代詩手帖〉に初出の誤植を正して、同じ体裁で再掲載された。

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W・9 〔オクタビオ・パス・吉岡実・大岡信・渋沢孝輔・吉増剛造の特別座談会〕〈言語と始源〉(《現代詩手帖》1985年1月号)

日本詩との出会い
伝統詩と現代詩
縦のアメリカ
翻訳と詩
ブニュエルと映画
アジアへの視点

座談会本文(400字詰原稿用紙約82枚)は省略

編者註…… 初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1985年1月号〔28巻1号〕38〜58ページ。タイトルページにパスと吉岡・大岡・渋沢・吉増の、本文中に「オクタビ オ・パス」と「パス夫妻」の写真、計4点を掲載。編集後記(編集人・樋口良澄)に「今号の座談会は急遽決まった来日の中での過密なスケジュールを調整し行 なわれた。詩人と話したいというのはパス氏自身の強い希望であらかじめ準備された吉岡氏らの英訳、仏訳の詩篇を読み込み、対していく姿勢は詩人の真摯さを 思わずにはいられなかった」(同誌、232ページ)とある。

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初 出一覧(発表順)

1960年代

 V・1 〔祐 乗坊宣明・小宮山量平・吉岡実の座談会〕〈読者と本の結びつき ――出版広告はどうあるべきか〉(《圖書新聞》〔圖書新聞社〕1961年2月4日〔週刊589号〕2〜3面)――座談会本文は400 字詰原稿用紙 約31枚

 U・1 〔吉 岡実・天沢退二郎の対談〕〈新春対談〉(《現代詩》〔飯 塚書店〕1963年1月号〔10巻1号通121号〕〈特集=新春対談〉40〜41ページ)――対談本文は400字詰原稿用紙約7枚

 W・1 〔金 子兜太・神田秀夫・楠本憲吉・高柳重信・吉岡実・中村苑子の座談 会〕〈第二回俳句評論賞選考座談会〉(《俳句評論》〔俳句評論社〕1963年2月〔5巻1号通25号〕8〜29ページ)――座談会本 文は400字 詰原稿用紙約69枚

 W・2 〔安 藤一郎・中桐雅夫・吉野弘・小海永二・秋谷豊・安西均・吉岡実・ 村野四郎・草野心平の座談会〕〈第13回日本現代詩人会H氏賞選考委員座談会〉(《詩学》〔詩学社〕1963年7月号〔18巻7号通 196号〕 〈特集=H氏賞〉46〜51ページ)――座談会本文は400字詰原稿用紙約21枚

 U・2 〔吉 岡実・入沢康夫の対談〕〈模糊とした世界へ〉(《現代詩 手帖》〔思潮社〕1967年10月号〔10巻10号〕〈特集=吉岡実の世界〉52〜61ページ)――対談本文は400字詰原稿用紙約37枚

 T・1 〔談 話〕〈審査の感想(俳句)――創刊十周年記念全国大会 録音盤〉(《俳 句評論》〔俳句評論社〕1968年3月〔10巻3号通78号〕21〜24ページ)――談話本文は400字詰原稿用紙約12枚

 U・3 高 橋睦郎〈吉岡実氏に76の質問〉(《吉岡実詩集〔現代詩文 庫14〕》思潮社、1968年9月1日、138〜146ページ)――本文は400字詰原稿用紙約25枚

 T・2 〔談〕 〈純粋と混沌――大和屋竺と新しい作家たち〉(《映画 芸術》〔映画芸術社〕1969年3月号〔17巻3号通259号〕92〜93ページ)――談本文は400字詰原稿用紙約8枚

1970年代

 W・3 〔吉 岡実・佐佐木幸綱・金子兜太・高柳重信・藤田湘子の座談会〕〈現 代俳句=その断面〉(《鷹》〔鷹俳句会〕1972年10月号〔9巻10号通100号〕12〜35ページ)――座談会本文は400字詰 原稿用紙約 84枚

 U・4 〔吉 岡実・大岡信の対話〕〈卵形の世界から〉(《ユリイカ》 〔青土社〕1973年9月号〔5巻10号〕〈特集=吉岡実〉142〜158ページ)――対話本文は400字詰原稿用紙約66枚

 W・4 〔吉 岡実・加藤郁乎・那珂太郎・飯島耕一・吉増剛造の座談会〕〈悪し き時を生きる現代の詩――座談形式による特集〈今日の歌・現代の詩〉〉(《短歌》〔角川書店〕1975年2月号〔22巻2号〕 58〜87ページ) ――座談会本文は400字詰原稿用紙約112枚

 W・5 〔吉 岡実・飯島耕一・岡田隆彦・佐々木幹郎の座談会〕〈思想なき時代 の詩人〉(《現代詩手帖》〔思潮社〕1975年5月号〔18巻5号〕〈特集=鈴木志郎康VS吉増剛造〉116〜129ページ)――座 談会本文は 400字詰原稿用紙約57枚

 U・5 〔吉 岡実・飯島耕一の対話〕〈詩的青春の光芒〉(《ユリイ カ》〔青土社〕1975年12月臨時増刊号〔7巻12号〕〈作品総特集 現代詩の実験 1975〉192〜221ページ)――対話本文は400字詰原稿用紙約80枚

 T・3 小 笠原賢二〈「厳粛なる暗黒の祝祭」の世界――高見順賞受賞の吉岡実 氏に聞く〉(《週刊読書人》1977年2月21日〔1169号〕1面)の吉岡実の発言――発言本文は400字詰原稿用紙約4枚

 T・4 〔イ ンタビュー〕〈吉岡実氏にテレビをめぐる15の質問〉(《現 代詩手帖》〔思潮社〕1978年3月号〔21巻3号〕〈特集=テレビをどう見るか〉115〜118ページ)――インタビュー本文は400字詰原稿用紙約 14枚

1980年代

 W・6 〔飯 田龍太・大岡信・高柳重信・吉岡実の連載座談会〕〈現代俳句を語 る〉(《鑑賞現代俳句全集〔全12巻〕》立風書房、1980年5月1日〜1981年4月20日、〈月報 I〜XII〉の3〜8ページ(ただし〈月報 XI〉は5〜7ページ))――座談会本文は400字詰原稿用紙約215枚

 T・5 (R) 〈一車線の文章――初の随想集『「死児」という絵』(思潮社 刊)を出す吉岡実氏〉(《日本読書新聞》〔日本出版協会〕1980年7月14日〔2065号〕)2面の吉岡実の発言――発言本文は 400字詰原稿 用紙約2枚

 W・7 〔金 子晋・高柳重信・吉岡実・三橋敏雄・高橋睦郎・永田耕衣・鈴木六 林男・多田智満子・桂信子・鶴岡善久・津高和一・足立巻一・中村苑子・飯島晴子・加藤三七子・島津亮・鈴木漠・坂戸淳夫・小川双々子・赤尾兜子の座談会〕 〈シンポジュウム 永田耕衣の世界〉(《俳句》〔角川書店〕1980年9月号〔29巻10号通371号〕168〜195ページ)―― 座談会本文は 400字詰原稿用紙約80枚

 U・6 〔金 井美恵子・吉岡実の対談〕〈一回性の言葉――フィクションと現実 の混淆へ〉(《現代詩手帖》〔思潮社〕1980年10月号〔23巻10号〕〈特集=吉岡実〉90〜111ページ)――対談本文は 400字詰原稿用 紙約95枚

 W・8 〔吉 岡実・大岡信・那珂太郎・入沢康夫・鍵谷幸信の座談会〕〈比類な い詩的存在――西脇順三郎追悼座談会〉(《現代詩手帖》〔思潮社〕1982年7月号〔25巻7号〕24〜41ページ)――座談会本文 は400字詰 原稿用紙約72枚

 W・9 〔オ クタビオ・パス・吉岡実・大岡信・渋沢孝輔・吉増剛造の特別座談 会〕〈言語と始源〉(《現代詩手帖》〔思潮社〕1985年1月号〔28巻1号〕38〜58ページ)――座談会本文は400字詰原稿用 紙約82枚

 T・6 〔談 話〕〈戦後日本の一大天才〉(《ダブル・ノーテーショ ン》〔ユー・ピー・ユー〕1985年7月23日〔2号〕〈土方巽リーディング〉71〜72ページ)――談話本文は400字詰原稿用紙約1枚

 T・7 〈〔高 橋新吉死去に関する談話〕〉(《毎日新聞》〔毎日新聞 東京本社〕1987年6月6日〔39917号〕23面)――談話本文は400字詰原稿用紙約1枚

 V・2 〔松浦寿輝・朝吹亮二・吉岡実(ゲスト)の対話批評〕〈奇ッ怪な歪みの魅力〉(《ユリイカ》〔青土社〕1987年11月号〔19巻12号通256号〕249〜(鼎談は252〜)261ページ)――対話批評本文は400字詰原稿用紙約42枚

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編者あとがき

こういう会は初めてで、私の生き方として鼎談、対談、講演一切しない 主義でおります。――吉岡実〈シンポジュウム 永田耕衣の世界〉(1980 年5月14日の〈傘寿・永田耕衣の日〉にて)

 ホ ルヘ・ルイス・ボルヘス(木村榮一訳)《ボルヘス、オラル》(書肆風の薔薇、1987年11月10日)の〈訳者あとがき〉に「これはボルヘスの講演を集め たものなので、『ボルヘス講演集』という訳題も考えたのだが、口頭で自らの考えを語る、という意味を生かしたいと思い、あえて原文をそのままかたかな書き し『ボルヘス、オラル』とした」(同書、一七〇ページ)とある。編者は《吉岡実トーキング》収載の文献を探索しているあいだ、この「進行中の案件 (work in progress)」を〈エクリチュールにあらざるもの〉と呼んできたが、まさか《吉岡実のエクリチュールにあらざるもの》と題するわけにもいかず、ご覧 のような標題になった。私は著者以外の人間がいたずらに凝った題名を付けることには反対だから、このなんの衒いもない、あえて言えば無愛想なタイトルに満 足している。
 談話・インタビュー7篇、対談6篇、鼎談2篇、座談会9篇の合計24篇が、「吉岡実が語ったこと」のすべてとしてここにまとめられた。このうちの何篇か は、《吉岡実の詩の世界》の記事に引用するため、以前にテキストデータ化していたが、多くの記事(とりわけ座談会)は今回初めてテキストデータ化した。そ れらの大半は年月を経たコピー原稿のため、OCR作業は困難をきわめた。光学的に取りこんだ画像が文字として認識されないため、ものによっては何十行も手 でタイプして入力するしかなかったものもある。しかし、それを労苦と言うのは当たらない。題辞に引いた吉岡発言を信じるなら、どうしても断わりきれなかっ た依頼に応じた結果がこれら24篇であり、その貴重さにおいて吉岡が筆を執った文章に劣るものではないからである。
 文献入手後、2010年3月にOCRによる入力、4月に組版(htmlファイル化)、5月に文字校正および動作確認をした。ウェブページの制作(今回は アップロードしないから、正確にはhtmlファイルの作成)には印刷・製本の工程がないため、ファイル完成の時点で作業終了となる。これはいつもながら奇 妙な感覚だ。印刷物づくりが基本になっている私のような人間には、電子的な文書の作成は「不実な恋人」のようで手応えがない。《吉岡実未刊行散文集 初出一覧》―― 《吉岡実未刊行散文集》の本文はDTPで組んだから「版下制作そのもの」だった――に続いて、このような形で吉岡実の作品をまとめられたことは嬉しい。将 来的には、《吉岡実全集》の〈談話・対談・座談会〉として《吉岡実トーキング》の内容が公刊されることを期待したい。

  吉岡実歿後二十年の二〇一〇年五月三一日 東京・練馬にて

小林一郎


吉岡実と瀧口修造(3)(2010年4月30日)

未刊詩集《静かな家》までを収めた《吉岡実詩集》(思潮社、1967)は刊行当時の吉岡の「戦後の全詩集」だった。正確に言えば、戦前作品は《液体》(草蝉舎、1941)から抄録の12篇だけで、《昏睡季節》(同、1940)は採られていない。それどころか、吉岡はこのときまで随想等で《昏睡季節》に言及したことさえなかった(1)。しかし、《昏睡季節》は「幼稚・生硬で、詩的な美しさに欠けている」(〈わが処女詩集《液体》〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、七六ページ)とする吉岡の自己評価を額面どおり受けとるのはナイーブに過ぎる。私は、吉岡が《昏睡季節》を処女詩集と認めなかった最大の理由は、詩人に「雑多」(同前)とまで言わせた詩集全体を統べるスタイルの欠如にあるのであって、一篇一篇の詩の良し悪しが問題だったわけではないと考える。「わがこころになやみはてず/あをぞらにくものわく」(〈断章〉@・14、全篇)など、多くの読者の愛誦する一篇だろう。語調が短歌由来であることはこの詩の美点でこそあれ、「幼稚・生硬」からは遠い。
吉岡が詩を書く以前に慣れ親しんだ文学形式は和歌である。和歌は律が一定なため内容を考えるだけでよく、詩のようにはスタイルを考慮する必要がなかった。それが自由詩を書きはじめるや否や5音・7音の律という箍が外れて、一篇の詩句の長さも行数も随意になる。複数の「随意な一篇」を束ねてひとつのスタイルを構築するには、一篇の「詩」を書くこととは別の、一冊の「詩集」を作る観点が必要になる。書いた詩をまとめたのが《昏睡季節》で、詩集を形成する詩を書いたのが《液体》だというのが吉岡の実感だっただろう。二詩集とも書きおろし、かつ召集を知らされたあとの短期間の編集作業ながら、吉岡はこの一年で詩を書く歌人から詩人へと変貌を遂げた。想えば《昏睡季節》を構成する詩には手本が多すぎた。短歌から詩に移ったばかりの吉岡は自己のスタイルをつかみあぐねていて、手当たりしだい「これは」と感じたスタイルを試みた。そのなかには、口語短歌くずしのものもあれば、北園克衛や左川ちかを意識した詩句も散見する。吉岡の最初の著書、詩歌集《昏睡季節》の〈春〉〈夏〉〈秋〉〈冬〉という四つの冒頭詩篇から〈秋〉を見よう。

秋|吉岡実

 蛇の腹の瘡痕に仄めく昼の星

   硝子管の中ではしきりと木の葉がちる

白い卓子のふちを走る柩車の轍のひびき
  瞳膜へ蜘蛛が巣をはる

   遠い靴下のさきに広告気球がのぼる
     鋪道で子供が電球をこわした

 秋が窓からきらきら光らせ
   爪をきりこぼす

字下げと行アキを駆使した展開は充分に練られている。今日の目からすると、この書法はモダニズムの風と同時に、あるいはそれ以上に和歌の散らし書きを想起させる(決して《薬玉》風ではない)。吉岡はなぜこれを他の3篇〈春〉〈夏〉〈冬〉のように

蛇の腹の瘡痕に仄めく昼の星
硝子管の中ではしきりと木の葉がちる
白い卓子のふちを走る柩車の轍のひびき
瞳膜へ蜘蛛が巣をはる
遠い靴下のさきに広告気球がのぼる
鋪道で子供が電球をこわした
秋が窓からきらきら光らせ
爪をきりこぼす

としなかったのか。〈春〉〈夏〉〈秋〉〈冬〉で統一的なスタイルを追求したのなら、他の3篇と同じにすればよかった。〈秋〉だけにあるのは、手本にしたモダニズムの書法と和歌の散らし書きの混淆であり、それを許容する詩人の二重性である。きらめく物体をそこここに配置しながら、詩句全体が醸しだすひんやりと湿った感触は吉岡が求めた「乾燥した事物」(〈救済を願う時――《魚藍》のことなど〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、六七ページ)とは微妙にずれている。それは、当時の現代短歌、吉岡が愛読してやまなかった《花樫》の北原白秋を思わせる。吉岡実の和歌は歌集以外のこんなところにも伏していた。一方、瀧口の初期詩篇は次のようなものだ。

 銅錢と白薔薇とが協和音を構成するとつばさのある睡眠がさけびだす。 そのなかには異常に青い草が繁茂する地方へ跳ねやる虹のように強靱な弾條がある。 田舎は土龍のように美しいがその寒さにおののく掌は正確なので顔を蔽うのに充分な引力を提供する。 すべての音を発する物質と同じにあの睡眠も意志に属していたのかしら? そこから脳髄が月のように細密な脳髄が見える。 寒冷な鏡面には無数の神様が附着している。 この瞬間の噴水は花のごとく綺麗である。 あふれる無用物をもって花の意志をもって新建築術をもくろむ葉巻色の喉をした建築師の二つの眼は義眼である。 そして彼の姓名がしだいに無機物に変化しつつあるのを意識している。 ひとすじの黄金の光線は小鳥の発声器を突きとおしたまう。 合理的なる午前七時よ。

《詩的実験》の二番めに置かれた〈ETAMINES NARRATIVES〉の「1」(初出は〈山繭〉22号、1927年)である。全部で11の詩句(読点はなく、センテンスとして自立している)は吉岡のそれに比べてかなり長い。また、前後の詩句との関わりは吉岡のそれと同様、可能なかぎり低く設定されている。にもかかわらずシンタックスは厳密に作用していて、詩句をシャッフルしても作品として成立するかといえば、そのようなことはない。吉岡の処女詩集の標題作は2篇ある。その1篇は

昏睡季節1|吉岡実

水の梯子を
迷彩を失つた季候や
夜が眼鏡をかけてのぼつてゆく
葉巻の煙の輪の中で女達は滅び
電球に斑点がふえる
物憂く廻転する椅子の上に
目の赤い魚が一匹乾いてゐた

である。〈ETAMINES NARRATIVES〉に倣えば改行箇所はぐっと減り、「水の梯子を迷彩を失つた季候や夜が眼鏡をかけてのぼつてゆく 葉巻の煙の輪の中で女達は滅び電球に斑点がふえる 物憂く廻転する椅子の上に目の赤い魚が一匹乾いてゐた」と3センテンスに、もう1篇の〈昏睡季節2〉を同様にアレンジすれば「牛乳の空罎の中に睡眠してゐる光線と四月の音響 牡猫の耳のように透けてうすく砂の上に日曜日が倒れてうづまる 麺麭が風に膨らむと卵は水へながれ堊には花の影が手をひろげて傾く 眠り薬を嚥みすぎた男が口を尖らし銅貨や皺くちやの紙幣を吐き出す 夜を牽いて蝙蝠が弔花をとびめぐる」と5センテンスになる。瀧口の「銅錢と白薔薇とが協和音を構成するとつばさのある睡眠がさけびだす」に対し、吉岡は「麺麭が風に膨らむと卵は水へながれ堊には花の影が手をひろげて傾く」と、両者の語法の類似を超えて、こちらには抒情性が保たれている。「いうならば、コンクリートの壁に冷酷にも触れたバラの花の痛ましさを」(〈救済を願う時〉、同前)と呼びかわすこの詩句は美しい。吉岡は《詩的実験》のはじめに置かれた作品に触れて、おそらく安心立命しただろう。「赤イウロコノ魚ガ巧ミニ衝突スル街路ニ」(瀧口修造〈LINES〉)――「目の赤い魚が一匹乾いてゐた」(吉岡実〈昏睡季節1〉)。
吉岡が《昏睡季節》に初めて言及したのは1972年、座談会で高柳重信に指摘されてである(2)。瀧口が《瀧口修造の詩的実験 1927〜1937》をまとめるのに三十年かかったように、吉岡も《昏睡季節》を書いたことを認めるまでに三十年以上かかった。吉岡が瀧口に捧げた〈舵手の書〉の発表がその翌翌74年。この符合は単なる偶然だろうか。前回見たように、〈舵手の書〉は《詩的実験》から作品の標題や詩句をほとんどそのまま流用している(3)。吉岡実は献呈詩において、原則として詩人の散文から章句を引用しても、詩からは詩句を引用しないことを身上にしていた(4)。瀧口の詩(の標題)を引用したことは、吉岡にとって《詩的実験》は現役の詩人の詩作品ではない、歴史上の人物の歴史的な作であるということを示しているのだろうか。――宮川淳を追悼した〈織物の三つの端布〉(H・16)の場合とともに、今後の課題としたい。
詩作品における引用とは、他人の章句を自身の詩句にすることである。その出自を明示するために「 」をはじめとする引用符で括って、詩句が帰属していた他者性を際立たせる。それはそれとして、三十年以上前の自分の詩句はどこまでいっても自分のものであり他人の章句でない、と明言できるだろうか。瀧口が《詩的実験》に添付した〈瀧口修造の詩的実験1927―1937添え書き〉を「私のなかのひとりの他人がこのような標題を選ばせた」と始めているのは、まことに象徴的である。吉岡が瀧口の詩的実験から得たものは、三十年、四十年前の詩句は、かつてはそうであったにしろ、もはや自身のものではないという認識だった。このとき初めて、吉岡實という青年が三十年前に書いた超現実的な詩句は、吉岡実にとって他人の章句となる。
1970年代の「中期吉岡実詩」は、固有名詞(人名)の導入と他人の章句の引用という形で、もっぱら普通名詞と自前の詩句で綴られた《静物》から《神秘的な時代の詩》までの「前期吉岡実詩」と明らかな対照をなす。これは拡大膨張を続けた《神秘的な時代の詩》の詩句の外皮を、〈わたしの作詩法?〉(1967)で総括したもろもろの禁制から成る詩学をひとつひとつ裏返すことによって剥がして、自身の詩の転生を図ったのである。しかし、吉岡実の詩の内実にそれを探ることは得策ではない。なぜなら、私がこれまで吉岡実の詩について論じたことのほとんどがそれに当たるからだ(《吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈》参照)。ここで眼を転じて、詩篇の長さに着目してみよう。《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)の各詩集の詩篇本文のページ数を詩篇の数で割ったもの、一篇あたりの平均ページ数が以下の表である(項目は詩集番号・詩集名・刊行年)。

@昏睡季節(1940) 0.8
A液体(1941) 0.9
B静物(1955) 1.8
C僧侶(1958) 2.5
D紡錘形(1962) 1.9
E静かな家(1968) 2.8
F神秘的な時代の詩(1974) 3.8
Gサフラン摘み(1976) 4.1
H夏の宴(1979) 3.5
Iポール・クレーの食卓(1980) 1.5
J薬玉(1983) 3.7
Kムーンドロップ(1988) 3.9

これらすべてを平均すれば一篇のページ数は2.6となる。すなわち、数値の大きいものは長く、小さいものは短い。戦前の@とAは1未満、戦後の「前期吉岡実詩」のうちB〜Eはほぼ2〜3前後、F〜K(Fは「前期」、GとHは「中期」、JとKは「後期」に収めたい)がほぼ4前後なのは、そこで詩法の大きな転換があったことを物語る(Iは22年間にわたる拾遺詩集のため、ほかと傾向が異なる)。転換の要因はいくつか考えられるが、その筆頭は「ある時期から、詩を書きながら、私は自己の想像力の枯渇したことを感じた」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、八三ページ)と書き、談話でもたびたび触れた「想像力の枯渇」である。虚構を旨とする吉岡実詩にあって、想像力の枯渇は作品の存亡に関わる一大事だった(あとひとつ挙げるなら、「長篇詩」への憧憬である)。しかし、吉岡の全キャリアを通じて「詩」という形式で「絵」を描きたいという「造形への願望」(〈わたしの作詩法?〉、同前、八九ページ)は動かなかった。吉岡実詩の起源たる《昏睡季節》の前に瀧口訳のピカソ詩(5)があり、《サフラン摘み》の前に《瀧口修造の詩的実験 1927〜1937》があった。おそらく《ムーンドロップ》の後は、《コレクション瀧口修造》が晩期の吉岡実詩を賦活したに違いない。だが、吉岡が一度は試みた瀧口修造全集の現実的な展開、《コレクション瀧口修造〔全13巻・別巻〕》(みすず書房、1991-98)を生前に見ることはなく、「現世をテーマの長篇詩」(〈最近関心のあるテーマ〉、《現代日本執筆者大事典77/82 第四巻(ひ〜わ)》、日外アソシエーツ、1984年8月25日)が書かれることもなかった。

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(1) 吉岡が《昏睡季節》に最初に言及したのは、(2)に引いた座談会〈現代俳句=その断面〉(《鷹》1972年10月号)においてである。その後、1973年9月の大岡信との対話〈卵形の世界から〉や、1975年9月の〈新しい詩への目覚め〉、1976年10月の〈赤黄男句私抄〉、1978年9月の〈わが処女詩集《液体》〉、1980年1月の〈二つの詩集のはざまで〉といった随想で、詩集に触れたり詩篇を引用したりしている。そして《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)の〈あとがき〉に「二十数年間に亘る雑文の数々を通読して、気づいたことは、処女詩集《液体》にまつわる、《昏睡季節》や《魚藍》に就ての言及の多いことだ。まだ世に知られることがなかった私が、詩への没入を語れば、必然的に処女作周辺の説明におち入ってしまったわけである」(同書、三六九ページ)が最後となった(ただし〈あとがき〉の初出は1980年刊の同書初版)。他者による言及は、高柳重信の〈吉岡実と俳句形式〉(《ユリイカ》1973年9月号)をもって嚆矢とするが、高柳はそこで詩句を引用していない。

(2) 吉岡実・佐佐木幸綱・金子兜太・高柳重信・藤田湘子の座談会〈現代俳句=その断面〉の〈俳句との出会い〉に次のようなやりとりがある。高柳は自分から書名を言っていない。

 高柳 〔……〕ぼくの手許には、吉岡さんが兵隊に行くときにつくった詩集というのかな、あるいは歌集と呼んだほうがいいのか、それがあるんですよ。それをみるとぼくは、やっぱり涙ぐましい感じがするんだけれども、あのとき、吉岡さんがああいう小さな本を、なぜ出す気になったか、というような話を聞いてみると、そういうことが少しわかってくると思うんですよ。
 吉岡 なんだったのかしら、それは。『液体』じゃないでしょ。
 高柳 ちがいますね。たくさんの短歌が載っている本で、たしか昭和十五年の発行だった。
 吉岡 『昏睡季節』というのがあったんですけど、それ?
 高柳 うん、それ。その本に「手紙にかえて」という挾み込みの文章があって、出版のいきさつが書いてあった。
 吉岡 お宅にあるの? それはずいぶん不思議だな。(笑)(《鷹》1972年10月号、一二〜一三ページ)

(3) 小笠原賢二《黒衣の文学誌――27人の〈創作工房〉遍歴〔雁叢書102〕》(雁書館、1982年8月15日)には吉岡実の発言「自分の想像力だけではなくて、パウンドなんかの例にもあるように、他人の言葉をもっと縦横に利用して気軽に書いていってもいいんじゃないか、という気になったんです。文字通りの引用もありますけど、書き換えたり、逆のことをいったりで、ずいぶん自分に合うようにつくり変えたりもしてます」(〈吉岡実「厳粛なる暗黒の祝祭」の世界〉、同書、一六九ページ)が記されている(初出は〈「厳粛なる暗黒の祝祭」の世界――高見順賞受賞の吉岡実氏に聞く〉、《週刊読書人》1169号、1977年2月21日)。

(4) 吉岡実は金井美恵子との対談〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉で「引用詩」ついて次のように語っている。

金井 あの括弧は何でしょうね。最初はもちろん引用であることを明示するために使っただけというのじゃないと思うんですけどね。
吉岡 ゴチでもいいわけなんだけど、最初は道義的にひとの言葉であることを示すために使ったのだけれど。〔……〕ただ、ぼくが言っておきたいのは、いずれの詩篇も詩句からはとってないんだよ。あれはみんな対象になった人のエッセイからとって括弧にいれて、それを詩にもってきているんだ。たった一つの例外は、瀧口さんに捧げた「青と発音する」だけはどうしても、瀧口さんの「言葉」だけで作れなくなって、詩句が二、三はいっている。(《現代詩手帖》1980年10月号、九六ページ)

状況は追悼詩〈「青と発音する」〉(H・27)だけでなく、献呈詩〈舵手の書〉(G・22)でも同じだったと思われる。

(5) 吉岡実は随想で六回にわたって「ピカソの詩」に言及している。@「その頃、斎藤清氏の四谷のアパートで、ピカソの詩を発見し、興奮した。それは「みづゑ」かなにかだろう」(1959年8月)。A「数々の習作を試みたが俳句でも短歌でも個性を発揮できず、美術雑誌でみたピカソの詩に触発されて詩へ移行した」(1962年1月)。B「北園克衛とピカソ、それから左川ちかの詩にふれて、造型的なものへ転移していったのである」(1968年4月)。C「私がピカソの絵と詩を見たのは、たしか十七、八歳のころのことだ」(1982年3月)。D「北原白秋の短歌や佐藤春夫の詩に魅せられていた、少年期の私は偶然に読んだピカソと北園克衞の詩によって、別の詩の世界があるのを知った」(1983年4月)。E「知人斎藤清(版画家)宅で見たピカソの詩(おそらく瀧口修造訳で『みずゑ』に掲載された「詩を書くピカソ」)に啓示を受ける」(1984年1月)。瀧口修造訳によるという記述が登場するのはEが最初で、これ以前のある時点でそれが瀧口の〈詩を書くピカソ〉だったことを知ったわけだ。典拠は《近代芸術〔美術選書〕》(美術出版社、1962)の可能性が高いが、瀧口は初出〈詩を書くピカソ〉(1937)以後もピカソの詩にたびたび触れているから(〈詩を書くピカソ〉の入っている《近代芸術》の再刊や三刊を含め、1949年以来の3度にわたる〈ピカソの詩〉や1973年の〈「ピカソの詩」余談〉がある)、吉岡がいつ、なにに拠ったのか断定できない。


吉岡実と瀧口修造(2)(2010年3月31日)

吉岡実の詩篇〈舵手の書〉(G・22)は《現代詩手帖》1974年10月臨時増刊号〈瀧口修造〉に発表された。前回の〈雲井〉(未刊詩篇・20)が瀧口の《余白に書く 2》(みすず書房、1982年7月1日)を最も多く参照していたように、本篇が依っているのは《瀧口修造の詩的実験 1927〜1937》(思潮社、初版:1967年12月1日、縮刷版:1971年12月15日)と《余白に書く》(みすず書房、1966年5月30日)である。次に掲げる項目は、●吉岡実の詩句……典拠と思われる瀧口修造の〈標題〉や章句【 】内はその〈標題〉(出典名のないものは《瀧口修造の詩的実験》からで、数字は同書における掲載ノンブル)である。

●夏の仙人掌の棘の上に降る……〈仙人掌兄弟〉【〈仙人掌兄弟〉四六】
●「人間の死の充満せる/   花籠は……〈花籠に充満せる人間の死〉【〈花籠に充満せる人間の死〉六〇】
●「光をすこしずつ閉じこめ/たり逆に闇を閉じこめたりする」……そして光をすこしずつ閉じこめたり逆に闇をとじこめたりする.【〈宿命的な透視術――加納光於に〉、《余白に書く》、二八ページ、初出:加納光於展、南画廊、1960年5月】
●地上の星・ガルボ!……〈地上の星〉【〈地上の星〉一二四】
●「五月のスフィンクス」だ……〈五月のスフィンクス〉【〈五月のスフィンクス〉一四〇】
●星と砂と……《星と砂と》【《星と砂と――日録抄〔草子1〕》、書肆山田、1973年2月25日】
●「鳥は完全なるものをくわえて飛ぶ」……そこから突然鳩のような鳥が玉葱のように完全なものを銜えて飛びたった。【〈TEXTE EVANGELIQUE〉六四】
●「彼女は未知の怪奇なけむり/を吐く最新の結晶体」……彼女は未知の怪奇なけむりを吐く最新の結晶體、死後の思春期である。【〈実験室における太陽氏への公開状〉一〇一】
●「朝食のときからはじまる」……〈朝食のときから始まる〉【〈朝食のときから始まる――池田満寿夫に〉、《余白に書く》、七九ページ、初出:池田満寿夫銅版画展、日本橋画廊、1963年9月】
○「曖昧な危倶と憶測との/霧が立ち罩めようとしている」……出典未詳
○「黙って/歩いていってしまった」……出典未詳
○「憑きものの水晶抜け」の秋……出典未詳

本篇の約1年後に書かれた「澁澤龍彦のミクロコスモス」と副題のある〈示影針(グノーモン)〉(G・27)に比べて、「 」で括られた章句の少ないのが特徴だ。しかし、地の詩句がすべて吉岡によるものだという保証もない。たとえば「地上の星・ガルボ!」の次行「きみの巨大な唇をたどれる不死の人は存在するだろうか」からマン・レイの油彩大作〈天文台の時刻に――恋人たち〉(1932-34)を想起しないでいるのは困難であり、のちに巖谷國士が「瀧口修造のマン・レイへの興味と共感は根ぶかい」(《封印された星――瀧口修造と日本のアーティストたち》、平凡社、2004年12月5日、四〇ページ)と書くように、吉岡も瀧口のマン・レイに寄せる興味と共感を仄めかせたと見るべきだ。また第5節の1行め「人は自由な手を所持している」の「自由な手」が、瀧口の抄訳しているポール・エリュアールの詩画集《自由な手》(マン・レイと共著、1937)に依っていることも明らかだ。これらを踏まえて〈舵手の書〉を吉岡が瀧口と彼の共感するアーティストたちに捧げた献詩ととらえるなら、詩句に登場する唯一のアーティストであるへンリー・ムアも、瀧口という青海原の波頭のひとつに過ぎないと思えてくる。「へンリー・ムアは夢の王妃を鉄で造る/炎のような内面/オレンジのなかの黒曜石/それが島だ/青い海をリードする/舵手と蛸」を瀧口の散文〈へンリー・ムーアの彫刻〉を参照して読まねばならぬ道理はない。吉岡が導きいれたムアは「舵手と蛸」という真珠を獲得するためにアコヤガイの貝殻内に混入された異物のごとき存在である。思えば引用した瀧口の作品の標題や章句こそ、吉岡にとっての「黒曜石」であり「島」であり、青海を行き青海に棲む舵手にして蛸であろうとする意志をともに持つ者として瀧口を顕彰することが、本篇の眼目であった。このとき、吉岡が詩篇に見える引用符つきの標題・章句すべてを最初に(抜き書きして)並べて、その間を自身の詩句で埋めていって詩篇を書いていったとは思えない。詩篇末尾部の初出形と詩集収録形を見よう(〈舵手の書〉全体の異同は〈吉岡実詩集《サフラン摘み》本文校異〉参照)。

   5

人は自由な手を所持している
それゆえに
不自由な薔薇の頭を大切に抑えて
「黙って
〔(一下)→(天ツキ)〕歩いていってしまった」
それは形態学上
きわめて自己撞着的だと
へンリー・ムアは夢の王妃を鉄で造る
炎のような内面
オレンジのなかの黒曜石
それが島だ
青い海をリードする
舵手と蛸
〔(ナシ)→   6〔節番号〕〕
なぜ夜明けの聖像群はフィルムのように
灰色に沈んでいるのか
〔(ナシ)→「憑きものの水晶抜け」の秋〕
詩を書く少年の腰のあたりまで
白い波がうち寄せ
〔龍→竜〕骨は海岸に出現する

手入れの主眼は本文の14行め以降を新たな節にしたことと、「「憑きものの水晶抜け」の秋」という詩句を挿入したことである。手入れには、詩句をなめらかに繋いでいくのではなく、分節化して岩のようにごつごつした塊の詩句を連ねていくという方針が見てとれる。瀧口の章句(のように見える「 」で括られた章句)は吉岡の詩想を断ち切るものとして、つまり「へンリー・ムア」よりも大きな異物性を発すべく働いている。詩の声部は他者のことば(のように見えるもの)を導きいれることによって転轍されるのであって、重層化されるのではない。節の区分も詩句間の断絶を後押しする結果になっている。吉岡は「形態は単純に見えても、多岐な時間の回路を持つ内部構成が必然的に要求される。能動的に連繋させながら、予知できぬ断絶をくりかえす複雑さが表面張力をつくる」という自身の作詩法の理念はそのままに、具体的な展開手法を大きく変えたのである。〈舵手の書〉は引用詩であると同時に「親しい芸術家たちの肖像を、数多く詩で描くようになった」(〈三つの想い出の詩〉、《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984、二一〇ページ)献呈詩の早い時期の一篇である。引用の手法が次の詩集《夏の宴》(1979)で成熟する以前の作品だけに、詩(正確には「詩的実験」)と散文の〈瀧口修造〉を丸呑みしようとする吉岡の不敵ともいえる試みが、X線写真を見るように透視できる。

吉岡実と瀧口修造をめぐる注目すべき座談会がある。粟津則雄・飯島耕一・大岡信・武満徹〈滝口修造の存在〉(《現代詩手帖》1968年10月号)で、《コレクション瀧口修造 別巻》(みすず書房、1998年7月24日)で1ページ半の〈瀧口修造と吉岡実〉はおそらく両者を比較した唯一の文献である。

大岡 〔……〕瀧口さんのイメージの質は、たとえば雲母を剥がしながら一片一片を強いきれいな光にかざしているみたいな感じがあるんだ。軽くて透明で、しかも強靱に光を受けとめているという感じがある。〔……〕そういうものをもっている瀧口さん的詩人は、戦後詩人のなかではまだ全然出ていないと思う。
飯島 遠い遠いいとこみたいな感じがするのは吉岡実だな。根本的には血縁を結ぶ。
大岡 そうね。ただ、瀧口さんの真っ青に晴れわたったところは吉岡実にはない。
飯島 それはない。むしろ逆みたいなものだ。
大岡 吉岡実は暗い肉色の世界へつっこんでいく。
粟津 『瀧口修造の詩的実験』の最初のほうの作品は、しばしば吉岡実の初期の作品を思わせるね。
飯島 吉岡の意識としては北園克衛のことが頭にあるんだろうけれど、北園克衛に似なくて親戚のおじさんに似てしまった(笑)。二人ともからだつきまで似ているし、歴史的、倫理的でないところも似ているが(笑)、ただ色合いが全然違う。
大岡 詩集の最初に出ている「LINES」とか「ETAMINES NARRATIVES」を読んでいると、突飛な連想だけど、ブラウニングの詩にいう、「すべて世はこともなし」という、ああいう感じを、はるかに透明にして乾かして太陽の光を燦々とあびさしたような感じがする。〔……〕ブラウニングの時代のものとはもちろん全然違うんだけれども。吉岡実になるともっと世界が暗くよどんできたところで書いている。
飯島 たとえば「いま美人をきったところである」とか「彼女の喉の機械を見よ」とかいう行を拾ってみても、アッと驚くような一種独特のユーモアがある。
武満 それはありますね。
大岡 ユーモアは凄くある。
飯島 もっと違ったふうに虚心に読んだら、おかしくてたまらないようなところがあるだろうな。
大岡 吉岡実には青空のイメージはあまりないね、星はあるんだけれど。その星も、ぼくの感じるのは、地面から生えてきた異様なものなんだな。瀧口さんはそうじゃなくて、地球は宇宙空間のなかに投げ出されたものとしての大地という感じだ。〔……〕(同書、八一五〜八一六ページ)

以上をまとめれば、@吉岡の詩は瀧口の詩を暗く反転させたもので、A両者は歴史的・倫理的でない点、美的でユーモアのある点が共通する。これに付け加えれば、B見ることが開示する世界を「一つのスタイル」(〈舵手の書〉)で定着したのが両者の詩作品ということになろう。しかしその見る処(対象)はかなり隔たっていて、吉岡はしばしば光よりも暗部に執着し(「人間の死の充満せる/花籠は/どうしてこれほど/軽い容器なのか?」/それを両手で支えて/眼をみひらいて近づければ/「光をすこしずつ閉じこめ/たり逆に闇を閉じこめたりする」)、それは詩句に衝撃的なリアリティを付与すると同時に、存在することのおぞましさを仮借なく描くことに通じる。そこに瀧口の詩との決定的な違いがある。それが瀧口と吉岡を含む読者にとってはっきりするのは1960年代末になったからである。瀧口と吉岡の詩を比較する際に注意しなければならないのは、《瀧口修造の詩的実験》と《昏睡季節》(1940)と《液体》(1941)という戦前の詩業を対比するか、《瀧口修造の詩的実験》と《吉岡実詩集》(思潮社、1967)というほぼ同時に刊行された「全詩集」で対比するか、という点である。座談会の大岡と飯島は後者の、粟津は前者の立場で発言しているため、議論が噛みあわずに流れていってしまったのは惜しまれる。

LINES|瀧口修造

赤イウロコノ魚ガ巧ミニ衝突スル街路ニ
顔ヲヒソマセテイルト
精密ナ息切レノ内部デ
花ガ重タク
虎ハ離レル

葦ハ
クラリネットノ煩悶ヲスル
真珠貝ニ気附イテイル夕立雲ヲ
傾斜ニ変更シテ

凹ンダ少女ガ朝ノ街ニユラユラシテイル
ムラサキノ硝子ヲワクワクサセナガラ
薔薇ノ花瓣ニ放火シテ
ボティチェリノ少年ヲ慕ッタ記憶ガ
金メッキノ花飾ニツメヨル
彼女ノ黒子ハ微風ヲ起スホド青イ

《詩的実験》は目次が巻末に置かれていて、扉の次の見開きは白。最初の本文として登場する行分け・漢字カタカナ表記の〈LINES〉(初出は《山繭》21号、1927年6月)が《昏睡季節》や《液体》にあったとしても違和感はない。本篇は吉岡を詩に開眼させた〈詩を書くピカソ〉(1937)に10年も先立ち、むろんのこと《液体》に先行するのだが、戦前の吉岡が瀧口の詩篇を読んでいたかははっきりとしない。吉岡の活動を見るかぎり当時の愛読誌の筆頭は《文藝汎論》で、《山繭》や《詩と詩論》などの初出誌を探索してまで瀧口詩に触れた可能性は低い。

花の肖像(A・29)|吉岡実

温室ノ硝子ヘアツマル
女ノ耳カラ花粉ガ氾濫シテ
午前中ノ小鳥タチハ透明ニナリ
角砂糖ノ街ヲトビサル
鉛筆ノヨウナ風ハ折レテ
駱駝ノ雲ガ眠ルコロ
亜麻ノ花ニカエッテユク
古風ナ乳母車ノワダチノ音ヨ
冷エル眸ノ底モ斑ラニユレ
鈴ガ鳴ルト昏レル

カタカナ表記が〈LINES〉や〈地球創造説〉(初出は1928年11月の《山繭》34号、1929年9月の《詩と詩論》第5冊に転載)から来ているのか、吉岡がさまざまなスタイルに挑戦した手本から来ているのか断定できない(本篇に先行するカタカナ表記作品が存在しただろうことは疑いない)。昭和初年(2年から12年まで)の瀧口詩と初期吉岡実詩が似ていることに多くの人が気づいたのは、先に述べたように1960年代に入ってからである。《鰐》同人(とりわけ吉岡実と飯島耕一、大岡信)から渇望されていた瀧口の「戦前の全詩集」(瀧口による〈瀧口修造の詩的実験1927〜1937添え書き〉)が陽の目をみたのは1967年12月であり、吉岡の《液体》抄(ただし〈花の肖像〉は収録されていない)を含む「全詩集」が同じ思潮社から刊行されたのが、奇しくも同年の10月だった。吉岡は《瀧口修造の詩的実験 1927〜1937》をどう読んだのか。

〔滝口修造詩集は……〕|吉岡実

 滝口修造詩集は〈鰐〉グループ編集によって、〈鰐叢書〉第一集として刊行される筈であった。それは永遠に全容を現わさない幻の詩集――それをぼくらがみずからつくり、心ゆくまで耽読したいからである。しかし不幸にして伊達得夫の死によって挫折した。これまでに滝口修造詩集は刊行寸前にいつも不運にみまわれ三度四度その機会が失われたといわれる。いままで、断片的に再録される歴史的詩篇に、わずかにぼくらは渇をいやしてきた。
 今日ここに小田久郎氏の執念によって、《滝口修造の詩的実験》が刊行される。はじめてその全結晶体にじかにふれられる時が来たのである。(《瀧口修造の詩的実験 1927〜1937》内容見本、思潮社、〔1967年11月1日〕)

「いままで、断片的に再録される歴史的詩篇に、わずかにぼくらは渇をいやしてきた」と「はじめてその全結晶体にじかにふれられる時が来た」の二文は、吉岡が《詩的実験》以前に瀧口の詩の全貌に触れていなかっただけでなく、昭和初年の発表時にそれらに接する機会がなかっただろうという推測を許す。前掲座談会によれば、飯島が瀧口詩に触れたのは創元文庫(《日本詩人全集〔第6巻〕》創元社、1952)で、吉岡にしたところで大差なかったのではないか。しかしこのころ吉岡が拠り所にしていたのは西脇順三郎であって、瀧口修造ではなかった。次回は《瀧口修造の詩的実験》がその後の吉岡実詩にどのような影響を与えたのかを考えてみよう。


吉岡実と瀧口修造(1)(2010年2月28日)

吉岡実にとって瀧口修造とは誰だったのか。これは大いなる謎である。瀧口と同世代の北園克衛(1902-78)は《昏睡季節》や《液体》といった吉岡の詩的出発を用意したし、瀧口の師でもあった西脇順三郎(1894-1982)は《静物》に始まる吉岡の戦後のキャリア全域を覆う存在だった。瀧口修造(1903-79)は詩人・美術評論家・造形作家とされるが、《瀧口修造の詩的実験 1927〜1937》を筆頭とする詩作品はごくわずかであり、後年、美術評論の筆を執らなくなる一方、ドローイングなどの造形作品を残した。しかし私が問いたいのは瀧口のこうした多面的な活動のどれを吉岡が重視したかということとも違う。吉岡実年譜を摘してみよう。

一九三七年(昭和十二年) 十八歳
知人斎藤清(版画家)宅で見たピカソの詩(おそらく瀧口修造訳で「みづゑ」に掲載された「詩を書くピカソ」)に啓示を受ける。

一九六七年(昭和四十二年) 四十八歳
十月、〔……〕瀧口修造の誕生日と『詩的実験』の刊行を祝う会の後、西脇順三郎に誘われて飯島耕一、大岡信と西脇家を訪問。

一九七四年(昭和四十九年) 五十五歳
秋、西落合の瀧口修造宅を訪ね『手造り諺詩集』を纏めるよう依頼する。

一九七八年(昭和五十三年) 五十九歳
在職二十七年半、十一月十五日依願退社。南天子画廊の瀧口修造とジョアン・ミロの詩画集〈ミロの星と共に〉展示会へ行く。

一九七九年(昭和五十四年) 六十歳
七月一日、瀧口修造死去。瀧口家を弔問、柩にオリーブの枝を供える。〔……〕十月、詩集『夏の宴』青土社より刊行。瀧口家を訪れ遺骨に薔薇とチョコレート『夏の宴』を供え、綾子夫人からオリーブの実を戴く。十二月、瀧口修造に捧げる作品集『雷鳴の頸飾り』に追悼詩「青と発音する」を発表。

一九八〇年(昭和五十五年) 六十一歳
六月、〔……〕草月会館で瀧口修造を偲ぶ会。

《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)の年譜(吉岡陽子編)に登場する瀧口修造を見るかぎり、そこから西脇や北園よりも強烈な存在をうかがうことはできない。だが、ほんとうにそうだろうか。吉岡の詩的転回を準備した瀧口訳のピカソ詩については〈初期吉岡実詩と北園克衛・左川ちか〉で触れたが、吉岡の詩的終焉にも瀧口(の章句)が立ちあっているのだ。亡くなる半年ほどまえに発表された、最後から二番めの詩篇〈雲井〉(未刊詩篇・20、《鷹》1989年10月号)がそれだ。同詩末尾の註記には「*瀧口修造そのほかの章句を引用している。」とあるが、そこに登場する( )や〔 〕で括られた引用句・引用文を、吉岡が最も多く参照したであろう瀧口の《余白に書く 2》(みすず書房、1982年7月1日)のテクストと照合したのが以下である(項目は、●吉岡実の詩句……瀧口修造のテクスト、【 】内は同文の《余白に書く 2》における標題、掲載ページノンブル〔漢数字〕・同行数〔アラビア数字〕)。なお地の詩句「波に洗われる/海鳥の足跡」も引用文と同列に扱った。

○(とろとろと眠りこむ/〔牧神〕ではなく)……出典未詳
○(捕虫網をかざしてゆく/長い髪の寛衣の少女)……出典未詳
○〔雨後の茸[くさびら]〕……出典未詳
○(明暗の境いを越え)……出典未詳
●(樹木の霊や/鳥獣の魂)……樹木の霊や、鳥獣の魂もいまや必死であろう。【暗中手記、二一九・13】
◎〔イデアの世界〕……本篇より先に、澁澤龍彦追悼詩篇の〈休息〉(未刊詩篇・18)に「どんなものの上にも/止まることは許されない」/〔イデアの世界〕」とある。
○(書かれた/〔言葉〕は/〔骨〕のように残るだろうか?)……出典未詳
●〔月輪〕……胎蔵界曼荼羅が大日如来を中心に、朱くはなやぐ官能の世界をすら展ろげているのに対して、金剛界曼荼羅は暗緑の基調のなかに月輪[ガナリン]と呼ばれる白色円をモチフとして、諸仏をすら微視世界に圧縮している、冷厳でいて比類を見ぬ幽雅とでもいう世界がともすれば、本来の均衡から外れて私を惹きつける。【時空への投華を、二九三・5-8】
○〔かたつむり〕……出典未詳
◎(支那人は猫の眼で/時間を読む)……出典未詳(後述)
●波に洗われる/海鳥の足跡……打ち寄せる波に洗われる寸前の、海鳥の足跡。【雲の収斂 彷徨観想者の手稿、一七一・3】
○〔泥履[どろぐつ]〕……出典未詳
○〔空〕……出典未詳
◎〔透視図法〕……本篇より先に、前掲〈休息〉に「〔透視図法〕」とある。
○〔雲井〕……出典未詳
●(虹もまた炭化する)……虹もまた炭化する刻印の運命をもつものか。【雲の収斂 彷徨観想者の手稿、一七五・7】
○(しずこころなく散る)……出典未詳
○〔黄葉〕……出典未詳
○〔籾殻〕……出典未詳
○〔記号〕……出典未詳
○〔沙庭[さにわ]〕……出典未詳
○(燃えたり 凍ったり)……出典未詳
○〔星辰〕……出典未詳
○〔煮果物[コンポート]〕……出典未詳
●(蓮のつぼみ/壺のすぼみ)……壺のすぼみと花のつぼみの悲しくもおどけた出会いがある。【クロマトポイエマ讃、一二〇・5-6】/そのとき私はふと「蓮のつぼみと壺のすぼみ」という日本語の語呂合せを思いついたのだが、そこには英詩〔“a sad and droll meeting of the curve of a vase and its prolonged-into-bud of loto[ママ]s”、A divagation upon invisible monuments: /Tribute to CHROMATOPOIEMA: The work of Junzaburo Nishiwaki & Yoshikuni Iida、(巻末横組)四一・2-3〕にあった動勢はない。【狂花思案抄、三一九・7-8】
○(その〔少女〕はまだ/完全に〔地上〕に/降り立っていない)……出典未詳

出典未詳の詩句のうちどれが「瀧口修造の章句」かはっきりしない。あるいは《余白に書く 2》以外の瀧口の書物からの引用があるかもしれないが、出典の探索はここまでにしよう。( )や〔 〕で括られた章句を発したのが瀧口だろうがボードレール(「(支那人は猫の眼で/時間を読む)」は散文詩《パリの憂鬱》の一節で、吉岡はこれを澁澤龍彦のエッセイから引用したと思しい)だろうが、原典が散文だろうが散文詩だろうが問わない、というのが晩年の吉岡が到った境地だから、出典未詳の詩句の典拠を博捜することはいささか私の手に余る。さてここで、瀧口修造と吉岡実の作品発表の歴史をふりかえって、両者の関係を調べる手掛かりとしたい。

  1. 1937年3月の瀧口の〈詩を書くピカソ――Guitare de Picasso〉(《みづゑ》385号)を読んだ吉岡は1940年10月、詩歌集《昏睡季節》を刊行。
  2. 1966年5月、瀧口は《余白に書く》を刊行。
  3. 1967年11月、《瀧口修造の詩的実験 1927〜1937》(思潮社、12月)の刊行をまえに、吉岡はその内容見本に推薦文〈〔滝口修造詩集は……〕〉を寄せる。
  4. 1973年9月、瀧口は《ユリイカ》吉岡実特集号に韻文〈独り言の形式で――吉岡実に〉を寄せる。
  5. 1974年10月、吉岡は《現代詩手帖》臨時増刊号に〈舵手の書――瀧口修造氏に〉(G・22)を寄せる。
  6. 1974年秋、吉岡は筑摩書房編集部の依頼で瀧口に全集出版を打診するも、承認を得ず。
  7. 1976年9月ころ、瀧口は吉岡に〈〔時よ、アラン!〕〉の短章を贈る(1)
  8. 1979年7月1日、瀧口修造病歿(75)。
  9. 1979年8月、吉岡は追悼文〈日記風走り書き〉(〈舵手の書〉を再録)を《ユリイカ》に寄せる。
  10. 1979年12月、吉岡は追悼詩〈「青と発音する」〉(H・27)を《雷鳴の頸飾り》に寄せる。
  11. 1982年7月、〈独り言の形式で――吉岡実に〉を収めた瀧口の《余白に書く 2》刊行。
  12. 1987年9月、吉岡は〈瀧口修造死去〉〈瀧口修造の三回忌〉〈六本木の朝明け〉〈バルチュスの絵を観にゆく、夏――〈日記〉1984年より〉ほかを収めた《土方巽頌》を刊行。
  13. 1989年10月、吉岡は〈雲井〉(未刊詩篇・20)を《鷹》に寄せる。
  14. 1990年5月31日、吉岡実病歿(71)。

晩年の吉岡をめぐって、山田耕一氏から興味深い話を聴いた。瀧口修造の歿後――瀧口の章句をそのまま標題に引いた〈「青と発音する」〉(2)のあとか――、吉岡に瀧口の吸取紙を託して詩篇を執筆してもらおうと依頼したが、いつまで経っても完成せず、吸取紙は瀧口綾子夫人のもとに返されたというのである。この吸取紙は、巖谷國士《封印された星――瀧口修造と日本のアーティストたち》(平凡社、2004年12月5日)の〈瀧口修造小事典〉の「吸取紙」の項に

 水彩もしばしばこころみたが、吸取紙に描いたものがとくに意味ぶかい。紙の吸いこむ絵具やインクのにじみから、特有のオートマティックな効果が生まれる。「陰陽の片割れのほかに、行為の証拠物件か、それとも余剰行為か、罪やおそるべし。捨てるに忍びず、私はそれで三冊の本をつくった」(「手が先き、先きが手」)という。(同書、八三〜八四ページ)

とあるそれだろう。詩篇がもし完成していれば、瀧口修造の水彩と併せた吉岡実初の詩画集が誕生したかもしれない。しかし、吉岡が誰の絵画であれ抽象的な作風を好んだとは思えない。吉岡がいかに具象画を愛したかは〈画家・片山健のこと〉の一節、「期日がだいぶ過ぎた頃、片山健は一枚の絵を持って現われた。それは地の泥に埋った、木の切株や胎児らしきものの形態である。私はこの自我を押通す画家を前に、当惑した。この絵を見返しに使い、私の所持するあの夏の林の絵をカバーにするという提案をし、諒解して貰った」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一六四ページ)を読めば充分だろう。瀧口修造の吸取紙をまえに、詩篇の執筆に難渋した(あるいは、当惑した)ことは想像にかたくない。私はここで瀧口の吸取紙の図版を引く替わりに、件の〈手が先き、先きが手〉を(巖谷文の前後を含む形で)引用したい。それというのも、おしまいの段落の「記号」が〈雲井〉の「〔記号〕」のスルスに思えてならないからだ。

 ブルーのインクが一種の色彩に代り、水を使いはじめる。毛筆は無用、スポンジ使用。万年筆は折れ、Gペンから手近な割箸まで。インクもペリカンなどのドローイング・インクを併用する。
 乾くのを待ってページをめくるのがもどかしく、吸取紙を使う。一気に吸着することも目前の行為に連続性をあたえる。
 しかし瞬間の定着が、紙の色面に一種の抑えた効果を生む。ふと、絵画の小窓のひとつを叩いているのか、裏口の敷居をまたいでいるのか…と思うことがある。だが引返す。動機がそこにはなかったから。
 紙面からインクと水の大部分を吸った吸取紙がつぎつぎと推〔ママ〕積し、存在[、、]しはじめる。陰陽の片割れのほかに、行為の証拠物件か。それとも余剰行為か、罪やおそるべし。
 捨てるに忍びず、私はそれで三冊の本をつくった。皮肉にも、無数の線たちに一度もあたえなかった名前を戯れてつける。「マティアス・グリューネウァルトの失われた日記、または画家のハンドブック」“BLOTTING PAPER IS SOMETHING. ET CETERA”他の題は失念(当時Y・O・の手に渡った。)
 手そのものが、人間の共有行為の記号。そこに人は運命までも読む。(《余白に書く 2》、二〇八〜二〇九ページ。初出は《季刊トランソニック》2号〔春〕、1974年4月)

吉岡実がなんら掣肘を受けずに書いた詩に瀧口修造の水彩画を併せることは可能でも、「瀧口画に触発された吉岡詩」は原理的に不発に終わらざるをえないのではないかという気がする。しかしこの不首尾は吉岡に負い目として残り、それがほぼ10年の歳月を経て〈雲井〉を書かせたと考えられる。俳句雑誌から詩篇を依頼された吉岡は、なにかのきっかけ(3)で〈独り言の形式で――吉岡実に〉(末尾に「ミ 実よ弾け/ノ 野末は/ル 瑠璃の夜の深み」というアクロスティックの句がある)を収めた《余白に書く 2》を手に取ってぱらぱらと見ているうちに、昔日の瀧口に対する負債を返済するかのように詩句を綴りはじめる、とその詩篇のそこここに瀧口の章句が埋めこまれてゆく。〔沙庭〕には吸取紙が敷きつめられ、「虹もまた炭化する」という戦慄的な章句を含む〈雲の収斂 彷徨観想者の手稿――加納光於〈葡萄彈―遍在方位について〉とともに〉から、標題は自ずと〈雲井〉に落ち着く……。ピカソの詩(4)から啓示を受けた吉岡の詩的生涯のすえに、こうした〈瀧口修造〉のいる光景を想像したくなる。その後の吉岡はわずかに〈沙庭〉(未刊詩篇・21)を得ただけで、《昏睡季節》以来半世紀にわたる詩作の筆を擱いたのである。

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(1) 瀧口の次の短章は、おそらく新刊の《サフラン摘み》(青土社、1976)の礼状として書かれたものだろう。

    吉岡実に

時よ、アラン!
朽ちるべくして
蘇らせるこの手品
鬼気爽やかに
サフラン摘みのひるさがり

(《コレクション瀧口修造 5 余白に書く U》、みすず書房、1994年5月25日、二〇六ページ)

「アラン」は〈異霊祭〉(G・19)に見える人名で、金井美恵子との吉岡の対談に依れば、エドガー・アラン・ポーも含まれる。同詩篇の「人は生活費のために/他人のいやがる仕事をする/われわれの考え及ばぬ奸智さをもって/アラン/『貝類学の手引』をでっちあげる」は、西川正身編〈ポオ年譜〉の「一八三九年 三十歳/年の初め、教科書用に『貝類学の手引き』(The Conchologist's First Book)を出版」(佐伯彰一・福永武彦・吉田健一編《ポオ全集 第3巻〔新装版〕》、東京創元社、1970年1月20日、八五三ページ。初刊は東京創元新社、1963年12月20日)にでも依ったものだろう。付言すれば、同巻には吉田健一訳〈覚書(マルジナリア)〉が収められている。〈独り言の形式で――吉岡実に〉は“MARGINALIA”と欧文の標題を付した《余白に書く》の続編に収められており、その「何処かそこらの喫煙室で/私はやけにエコーの灰を叩きながら/あなたと欄外[、、]という話を交していた」という行を想えば、ポーと瀧口と吉岡という新たな主題が浮かびあがってくる。

(2) 〈「青と発音する」〉の標題は〈サム・フランシスとともに〉(初出:サム・フランシス展〈Blue balls〉、南画廊、1961年5月)の「青、青、私にはもうそれを青と発音する以外に手がないのだ。」(《余白に書く》、みすず書房、1966年5月30日、三七ページ)、同じく題辞の「青ずんだ鏡のなかに飛びこむのは今だ」は〈はじめに〉(初出:山田美年子銅版画展、南天子画廊、1961年7月)の「青ずんだ鏡のなかに飛びこむのは今だ。」(同前、四一ページ)から採られている。

(3) 論者(小林一郎)はもろだけんじの筆名で、引用と典拠の研究から構想し〈王殺しのテーマ〉を主題に書きおろした句集《樹霊半束〔TREE-SPIRIT: SEMI-LATTICE〕》(文藝空間、1989年9月15日)を刊行(再刊)しているが、同書の初刊本(本革製のバインダー仕様)は同年4月15日の吉岡実の誕生日に生誕70年を祝して献じられた。「樹霊半束」と「(樹木の霊や/鳥獣の魂)」という詩句に関わりがあるのかは、訊きそびれた。

(4) 〈初期吉岡実詩と北園克衛・左川ちか〉で挙げていない瀧口訳のピカソの詩章のひとつに

 隅で菫色の剣時計紙の皺金属の肉片生命が頁[ペエジ]に一発見舞ふ紙は唱ふほとんど薔薇色な白い影の中のカナリヤリラ色の淡青色の影の中の空ろな白の中のひとすぢの流れ一つの手が影のぐるりで手に影をつくる一匹の非常に薔薇色の蝗一つの根が頭をあげる一本の釘何もない樹々の黒一つの魚一つの巣はだかの光の暑さは日傘を凝視める光の中の指たち紙の白さ白さの中のひかり太陽は火花散る狼を切る太陽そのひかりとても白い太陽強烈に白い太陽(《みづゑ》385号、1937年3月、〔本文の漢字は新字に改めた〕)

がある。これらの詩章と戦前の吉岡実詩(《昏睡季節》《液体》)との詳細な比較検討は、今後の課題としたい。


吉岡実詩集《サフラン摘み》本文校異(2010年1月31日〔2019年1月31日追記〕〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実の詩集《サフラン摘み》は1976年9月30日に青土社から刊行された。詩作品31篇を収め、〈葉〉(1972年4月)から〈少年〉(1976年5月)までの全篇が本詩集以前に雑誌・新聞・書籍、あるいは駅のホーム壁面に発表されている。本稿では、 雑誌・新聞・書籍掲載用入稿原稿形、 初出雑誌・新聞・書籍掲載形、 《サフラン摘み》(青土社、1976)掲載形、 《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)掲載形のうち、からまでの詩句を校合した本文とその校異を掲げた。これにより、吉岡が詩集《サフラン摘み》各詩篇の初出形本文にその後どのように手を入れたか、たどることができる。本稿は印刷上の細かな差異(具体的には、漢字の字体の違い)を指摘することが主眼ではないので、シフトJISのテキストとして表示できる漢字はそれを優先した。このため、ユニコードによる「禱」や「瀆」や「蠟」の代わりに、不本意ながらシフトJISの「祷」や「涜」や「蝋」を使用している点をご諒解いただきたい。なお、漢字が新字の本文の新字以外の漢字は、シフトJISのテキストで表示可能なかぎり、校異としてこれを載録した。初めに《サフラン摘み》各本文の記述・組方の概略を記す。

雑誌・新聞・書籍掲載用入稿原稿:詩集掲載用入稿原稿とともに2010年1月の時点で未見だが、漢字は新字、かなは新かな(拗促音は小字すなわち捨て仮名)で書かれたと考えられる。

初出雑誌・新聞・書籍:各詩篇の本文前に記載した。本文の表示は〈少年〉以外、基本的に新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用なので、特記なき場合はこれを表わす。

《サフラン摘み》(青土社、初版は1976年9月30日〔校異の底本には最終増刷本である1979年10月30日発行の「六版」を使用した〕):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ〔散文詩型では23字詰と25字詰〕14行1段組。

《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ〔散文詩型では23字詰と25字詰〕19行1段組。なお《吉岡実全詩集》の底本は 《サフラン摘み》。

ひらがな・カタカナの拗促音の表記は、最終形を収めた《吉岡実全詩集》に合わせて小字に統一した。詩篇の節番号のアラビア数字・ローマ数字およびアステリスクの位置(字下げ)は《吉岡実全詩集》に倣って三字下げに統一し、字下げは校異の対象としなかった(詞書や註記の字下げも《吉岡実全詩集》に合わせた)。本詩集の標題「サフラン摘み」は《吉岡実全詩集》では〔サフラン摘み 1972-76〕となっていて、続く前付には献辞〔23K・M・Yに献ず〕があり、単行詩集ではその対向ページに〔1972〜1976〕と独立して制作期間の表示がある。なお〈吉岡実詩集本文校異について〉を参照のこと。

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《サフラン摘み》詩篇細目

  詩篇標題(詩集番号・掲載順、詩篇本文行数、初出《誌紙名》〔発行所名〕掲載年月日(号)〔(巻)号〕)

サフラン摘み(G・1、42行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1973年7月号〔16巻7号〕)
タコ(G・2、*印が3節を従える34行、《ユリイカ》〔青土社〕1972年10月臨時増刊号〔4巻12号〕)
ヒヤシンス或は水柱(G・3、40行、《風景》〔悠々会〕1972年6月号〔13巻6号〕)
(G・4、125行、《ユリイカ》〔青土社〕1972年4月号〔4巻4号〕)
マダム・レインの子供(G・5、42行、《ユリイカ》〔青土社〕1973年1月〔5巻1号〕)
悪趣味な冬の旅(G・6、85行、《中央公論》〔中央公論社〕1972年7月号〔87巻7号〕)
ピクニック(G・7、33行、《芸術生活》〔芸術生活社〕1973年7月号〔26巻7号〕)
聖あんま語彙篇(G・8、4節87行、《美術手帖》〔美術出版社〕1973年2月号〔364号〕)
わが家の記念写真(G・9、23行、《文學界》〔文藝春秋〕1973年11月号〔27巻11号〕)
生誕(G・10、19行、《讀賣新聞》〔読売新聞社〕1974年3月24日〔35051号〕)
ルイス・キャロルを探す方法(G・11、〔わがアリスへの接近=43行〕〔少女伝説=*印で14節に分かつTおよびUの66行分〕109行、《別冊現代詩手帖 ルイス・キャロル――アリスの不思議な国あるいはノンセンスの迷宮》〔思潮社〕1972年6月〔1巻2号〕)
『アリス』狩り(G・12、76行、《アリスの絵本――アリスの不思議な世界》〔牧神社刊〕1973年5月1日)
草上の晩餐(G・13、34行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1974年4月号〔17巻4号〕)
田園(G・14、12節134行、《ユリイカ》〔青土社〕1973年9月号〔5巻10号〕)
自転車の上の猫(G・15、18行〈松井喜三男展〉パンフレット〔青木画廊〕1974年4月13日)
不滅の形態(G・16、20行、《別冊小説新潮》〔新潮社〕1974年7月〔夏季・26巻3号〕)
フォーサイド家の猫(G・17、*印で5節に分かつ85行、《ユリイカ》〔青土社〕1973年11月〔5巻13号〕)
絵画(G・18、30行、《風景》〔悠々会〕1974年5月号〔15巻5号〕)
異霊祭(G・19、8節161行、《異霊祭》〔書肆山田刊〈書下ろしによる叢書 草子3〉〕1974年4月25日)
動物(G・20、29行、《季刊俳句》〔中央書院〕1973年10月〔1号〕)
メデアム・夢見る家族(G・21、75行、《文芸展望》〔筑摩書房〕1974年7月〔夏・6号〕)
舵手の書(G・22、6節76行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1974年10月臨時増刊号〔17巻11号〕)
白夜(G・23、28行、《鷹》〔鷹俳句会〕1974年10月号〔11巻10号〕)
ゾンネンシュターンの船(G・24、5節89行、《ユリイカ》〔青土社〕1974年12月臨時増刊号〔6巻15号〕)
サイレント・あるいは鮭(G・25、41行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1975年1月号〔18巻1号〕)
悪趣味な夏の旅(G・26、6節72行、《新劇》〔白水社〕1975年7月号〔22巻7号〕)
示影針(グノーモン)(G・27、5節79行、《ユリイカ》〔青土社〕1975年9月号〔7巻8号〕)
カカシ(G・28、15行、《旅》〔日本交通公社〕1975年9月号〔49巻10号〕)
少年(G・29、6節52行、《饗宴》〔書肆林檎屋〕1976年5月〔春・1号〕)
あまがつ頌(G・30、X節90行、《ユリイカ》〔青土社〕1975年12月臨時増刊号〔7巻12号〕)
悪趣味な内面の秋の旅(G・31、7節145行、《文藝》〔河出書房新社〕1975年11月号〔14巻11号〕)

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サフラン摘み(G・1)

初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1973年7月号〔16巻7号〕二六〜二七ページ、本文9ポ25行1段組、42行、目次の作者名は「吉岡實」。初出「本文カット・司修」。

クレタの或る王宮の壁に
「サフラン摘み」と
呼ばれる華麗な壁画があるそうだ
そこでは 少年が四つんばいになって
サフランを摘んでいる
岩の間には碧い波がうずまき模様をくりかえす日々
だがわれわれにはうしろ姿しか見えない
少年の額に もしも太陽が差したら
星形の塩が浮んでくる
割れた少年の尻が夕暮れの岬で
突き出されるとき
われわれは 一茎のサフランの花の香液のしたたりを認める
波が来る 白い三角波
次に斬首された
美しい猿の首が飾られるであろう
目をとじた少年の闇深く入りこんだ
石英のような顔の上に
春の果実と魚で構成された
アルチンボルドの肖像画のように
腐敗してゆく すべては
表面から
処女の肌もあ〔がら→23らが〕いがたき夜の
エーゲ海の下の信仰と呪咀に
なめされた猿のトルソ
そよぐ死せる青い毛
ぬれた少年の肩が支えるものは
乳母の太股であるのか
猿のかくされた陰茎であるのか
大鏡のなかにそれはうつる
表意文字のように
夕焼は遠い円柱から染めてくる
消える波
褐色の巻貝の内部をめぐりめぐり
『歌』はうまれる
サフランの花の淡い紫
招く者があるとしたら
少年は岩棚をかけおりて
数ある仮死のなかから溺死の姿を藉りる
われわれは今しばらく 語らず
語るべからず
泳ぐ猿の迷信を――
天蓋を波が越える日までは

タコ(G・2)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1972年10月臨時増刊号〔4巻12号〕一二〜一四ページ、本文10ポ25字詰1段組、*印が3節を従える34行。

   *

火をへだてて呼びかける
やさしいタコの母親は藻をまさぐり
サンゴの棚にたれさがって
下を向く
フジツボの信仰深い孔へ
青びかりした累卵を送りこまんとする
そのそばに船長の屍体が
官能的に横たわっているときは
八点鐘を打つ
それからはじめて
タコの母親はとりみだした恋人のように
動く岩を抱く

   *

タコの生殖はとても呪われたフォームを見せる それは濡れて裂かれた傘のような肉の散乱にちかい タコのオスの七つの足は水を抱きこむ そして残されたごく先細りの一つの足がくだの器官の役目をする ちょっと見ると 靴の紐のようにみすぼらしく タコのメスの小さな孔を探し求めて入りこむ これが交接といえるだろうか 水は起伏してながれる 透明な世界では悦びもなく射精は終る すぐそばにタコのメスのみひらかれた眼がある それには汎神論的な悪意が感じられる 受胎せるタコのメスは海の底の石の巣へゆっくり帰って行く 二十万粒の透明な卵を生むために それから絶食状態のまま ブドウの房のようにたれさがった袋の卵群へ 必死に泡を吹きつづける それは呼吸に必要な酸素を送るためだ ゆらぐ海草のかげで タコの母親はただ一度の排卵で腐る肉質へと替る

   *

ひとりの女が悪い想像からうまれるように
塩と水からタコは出現したのだ
漆黒の抽象絵画
砂は砂によって埋まり
貝は内部で生きる
それは過去のことかも知れない
夏の沖から泳ぐ女がくる

ヒヤシンス或は水柱(G・3)

初出は《風景》〔悠々会〕1972年6月号〔13巻6号〕五二〜五五ページ、本文9ポ12行1段組、43行。

ミルクをのむときわれら男はいつも考える
ラジエーターのなかに
見え隠れする
ヒヤシンスのムラサキのむらがる花
恋せる女をとりかこんでは
飛上る〔(改行)→23(追い込み)〕
夜間飛行機
だから下を向く輸卵管が見え
われら男は容積のある〔(改行)→23(追い込み)〕
物体をもとめて行く
何方へ
未完の地獄絵図〔(ナシ)→23の在るところ〕
礼拝して
丸焼けの窓から
来襲する雷獣を久しいあいだ夢みて
数ある用のなかの→23馬丁は死馬を繋ぐ〕
一つの用をたす→23(トル)〕
冷たいゼリーのながれる
幹のまわり〔(ナシ)→23に〕
ギリシア悲劇の父が訪れる
バイキンのついた
夜具→23ヤマモモ〕・ヤギの乳房のふくらむ初夏〔が再びくる→23には〕
すぐに役立つものがほしい
乱軍・ラプソディー→23たとえば人には死の褥〕
ゆるやかにとける雪の山
やがて抜歯デー〔(ナシ)→23がくる〕
ユズの実をしぼる母の背後は暗い〔か?→23(トル)〕
交わる〔蠅→蝿→蠅〕のパイの皿
そこでフィルムにかぶさるナレーション聞け!
きみらにとって戦争体験とは何か?
みるかげもないミカゲ石
それは今でなく
末世の松へ戻る物の影
そのミステリー小説がすき
死せる裸体美人
藻の下をくぐりぬける
まっくろいもの
管理人はそれをつまびらかにはしない
円天井から上は豆の蔓〔(ナシ)→23がのび〕
鱒がはねる
ミリュウ
ここでみずから見ることを
水柱!

(G・4)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1972年4月号〔4巻4号〕一二〜一七ページ、本文9ポ24行1段組、135行、目次に「連祷詩」とある。

モップの棒の立てかけてある
その起源のなんと遠いこと
デパートの洗面所の
衛生的な木蔭の抒情詩
ぴかぴかした床がすきだ
だから
われわれの恥しい〔(改行)→23(追い込み)〕
擬似排便を見よ!
かたちなき灰玉
掃除婦こそこの黄金時代の
過去の器官のメカニズムを衝く
聖女勢
かくして〔(改行)→23(追い込み)〕
緋色の衣はなびき
乳兄妹がうまる
ときにはバケツ抱き父を抱き
土離れ
手法の変則を試みては散文的に
舟で〔(改行)→23(追い込み)〕
層の下の層を求めて
湖へ帰る
カンテンの半透明な世界へ
作品自体は血の気の乏しい夢をはらむ
それだから人類をシンカンさせる
浮袋の黒人の唄〔(ナシ)→23が聞え〕
思考は移る
旧き大陸のコスチーム劇は終り
デンポー→23洗われた布はなびく〕
(ナシ)→23いま〕鋲打銃で撃たれる
すべての硬質の物とまたは全汚物
肉 言葉
それについて語るのはむずかしい
回路があるとしたら
潜在的〔(ナシ)→23な空洞〕に
洗われた布→23(トル)〕
ここで見失ってはいけない
沐浴せる姙婦と火食鳥の〔声を→23すがた〕
その外的な衝突〔の→23と〕消〔(ナシ)→23去〕法の関係を
問うことができるか?
われわれは肥大する菱形をもち
マンホールのフタをひと廻りする
非人称性の都市
それは一つを用意し
二つを用意しないことによって
戦いはおわり
やがて苔むす消火器〔(改行)→23(追い込んで全角アキ)〕
臼砲
ちらちら覗く〔(改行)→23(追い込み)〕
反橋の下〔(ナシ)→23には〕
どれもこれも水虫頭の赤ん坊
流せ水
心あらば
ゴム手袋をはめてつかみだす
再生できない魂
言語
その甘皮かぶり
咲けよアネモネ→23(トル)〕
構造上から固有名詞の乱用を避け
影また影
放電アースで
ググ具象的
絞められたデズデモーナ
中世以来の絵馬の処女出産図
(ナシ)→23咲けよアネモネ〕
開きっぱなしのカメラ・ワーク
大尻を出して
カーテンのかげの
あらゆる読者を驚かせる
でも批評家は火山と家畜の運命を語る
作者を探しに谷へ
意味とリアリティとは別のものか
省察せよ
単純なタイル 多角なスタイル
バラの羊水のながれ出る
われわれの暁には
さかさまの〔(改行)→23(追い込み)〕
袋にたまるものがある
ひとつの歴史・ひとつの比喩・ひとつの栗
質素な物質
老婆のしずかな食べ方を
表現論としてまなぶ
作者の主題の外れたところで 改めて窓から眺めようか
菜の花畑〔(改行)→23(追い込み)の〕
なまなましい夫婦群〔(ナシ)→23を〕
修辞学的に考えても最良でない
アンモニアの匂い
すべからく中心の孔を開示せよ
清掃聖父は再び
火掻棒で多くのものを突く
作品営為とはそのようなものの彼方〔(ナシ)→23の〕
籾の山
幼児が向う側へまわり
そして造物母を犯す
書くこと〔(改行)→23(追い込んで全角アキ)〕
書かれること
近似性のみずみずしさ
変化ではなく
ハサミムシは消失する
あでやかな春〔(ナシ)→23の川まで〕
われわれは遊行する
芹つむ乙女の籠のなかになにか
「問題」は〔(改行)→23(追い込み)〕
在るか?
決定的なもののない世界像
ここはどこのこと
汚染されることの法悦
走る扁平タイヤの内在する
抽象死
まぎらわしい日々

発泡スチロールの函〔(ナシ)→23は積まれる〕
そのへだたりが必要だ
なまものは腐る
ハタンキョウのように
地上から消えて行く映画
青い水のプール
一字の愛
作品の終章は多くの場合パターン化の傾向〔(ナシ)→23がある〕
意識のあるうちに注意せよ
それにかかわる
人工的霊感
高まる波の夏
ものの具
装飾性をすなわち消せ
岩が出る
ニガリが宿る平面
歩むことができない作者の姿をはじめて見つけた!
下水溝への入口
書物の帝国
それがあるいは出口の金門
もしかしたら作品の終りの冬がくる
スズメガの太い胴まわり
われわれはこれを読むことが可能だろうか?
ハアハアする肺魚
――

                  〔(連祷詩《粘土説》の一部)→23(トル)〕

マダム・レインの子供(G・5)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1973年1月〔5巻1号〕一六〜一七ページ、本文9ポ24行1段組、42行。

マダム・レインの子供を
他人は見ない
恐しい子供の体操するところを
見たら
そのたびぼくらは死にたくなる
だからマダム・レインはいつも一人で
買物に来る
歯ブラシやネズミ捕りを
たまには卵やバンソウコウを手にとる
今日は朝から晴れているため
マダム・レインは子供に体操の練習をさせる
裸のマダム・レインは美しい
でもとても見られない細部を持っている
夏ならいいのだが
雪のふる夜をマダム・レインは分娩していたんだ
うしろからうしろからそれは出てくる
形而上的に表現すれば
「しばしば
(五下)→23(天ツキ)〕肉体は死の器で〔(追い込み)→23(改行)〕受け留められる!」
球形の集結でなりたち
成長する部分がそのまま全体といえばいえる
縦に血の線がつらなって
その末端が泛んでいるように見えるんだ
比喩として
或る魚には毛がはえていないが
或る人には毛がはえている
それは明瞭な生物の特性ゆえに
かつ死滅しやすい欠点がある
しかしマダム・レインの所有せんとする
むしろ創造しようと希っている被生命とは
ムーヴマンのない
子供と頭脳が理想美なのだ
花粉のなかを蜂のうずまく春たけなわ
縛られた一個の箱が
ぼくらの流している水の上を去って行く
マダム・レインはそれを見送る
その内情を他人は問わないでほしい
それは過ぎた「父親」かも知れないし
体操のできない未来の「子供」かも知れない
マダム・レインは秋が好きだから
紅葉をくぐりぬける

悪趣味な冬の旅(G・6)

初出は《中央公論》〔中央公論社〕1972年7月号〔87巻7号〕三二八〜三三一ページ、本文9ポ23行1段組、85行。

酢の過ぎ〔し→23る〕悪しき想い出のために
なます〔のすのもの→23(トル)〕を食べて
一人称のわたしの旅立ち
火田・水田帯をながれ出る
ミズカキをつけた子孫よさらば
ここはすでに透視画のように
つねならず 月の出を見た
ザクロ・イチジクの実のすずなりの彼方とは
何処のことであるのか
可塑的な聖性の乳房を求めて
(一下)→23(天ツキ)〕「ストッキング・スリッパ・コルセットが
(二下)→23(天ツキ)〕堆まれている」
ナフタリン臭いバラ色の
〈共食信仰〉の地をさまよい行く
まだ見えてこない
音楽の内部をうずめる肉柱のような生暖いものは
そこに空想はなく危険な生活がある
もろもろの洗濯物は燃え
夏の水はながれた

伏せられた柄杓千里の下の道を行けば
通ずる 通ずる
有機的に行き暮れる
有罪の首府へ――と
古人の云う包茎・テンソクの愉悦する日々
おお――オンドル装置を破壊せよ
「料理がつくられる」
それは抽象観念である
人民たちによって四肢へ鉄棒を突きこまれて
いる黒毛の野豚のボデーに触れ
その大いなる死の影の重いことを恐れる
過度の虚構は
或は現実そのものではないか
問いはじめよ
ドラが鳴らされる以前に
ドドッとたちのぼる蒸気と
沈む軍艦のスカートがまる見え
物質合成の歴史と長いツララは先細り
二人称のわたし・すなわち兵士きみらは逝く
カササギのかすめとぶ
雪の塹壕のすてきな敵を囲周して
だれでもがもつ心臓の奥に潜在する
正面の格子のなかに
飾られている馬蹄形の星々がある
胡麻よりも軽やかな護符をもつ死人
さながらに

蛇と桶の間で
藁をきざむ淋しい行為そのもののつづく
それからの歳月の円をふちどる血糊の道のり
いつも斜めの水瓜やコウリャン畑を越え
三人称のわたし・彼らは悪しき足をひきずり
丈高かりし麻の葉の母を追想する
むかし〔‥‥→23……〕ムカデに驚きし乙女を夢孕む
ドロの木のみどり芽ぶく日は
美しきメイストームの丘から
濡れ壁を通りぬけて
〈詩〉の〈語〉いわさず嗤うべき
一人称のわたしはなぜ
生皮の上を渡って行くのだろう
数多くある観念のうちから
不要の物をえらんでは
生木を裂く
肌着の汚れた女の側に
たしかに枝の細いところで
ナナフシのいんさんな移動を見た
二人称のわたし・君らの七変化の運命だそれは
生きている空間のピンク色より鮮やかに
その昆虫は負の形態の固定観念を示し
輝く徐々に

これこそ悪趣味な一人称のわたしの生き方に近い
白波立てる海辺で
貴婦人の蝶マスクせる尻の上で
廃墟灰掻き歩きの旅も終った
三人称のわたし・彼らが見るのは退屈な編物映画
今ここには
保存すべき物がない
水槽の氷片のように
消えるあまりに多くのもの
地理と枕と書物
つらなる雲は不運の兆しかもしれず
朝のコーヒーをのむとき
ズッズッ
ずれる芸術の土台のすべて
すばらしい梨の木の群れ咲く花々
すばらしい巣ごもりの
父娘のやさしく野蛮な生命を認める

ピクニック(G・7)

初出は《芸術生活》〔芸術生活社〕1973年7月号〔26巻7号〕〔一四〇〜一四一ページ〕、本文12ポ20行1段組、32行。

まるで〔地すべりの→23(トル)〕音楽のように
(ナシ)→23アジサイの花の色は変る〕
過去のカテドラルのように
われわれの「偉大な悪と愛」〔を→23の時代は終るだろう〕
夕焼〔を認知せよ→23の林のなかで〕
ウラジーミル・ナボコフは記述する
水浴せる少女の手から脚へ さらに届かないところへ
口は淋しく記号のような
パンセを求める
兎の毛の内部には
洋服を縫う針や形をととのえる
コテやハサミが
秩序よく収納されている
この家では女中がしゃべったり
しゃべらなかったり
長い靴下を干しに〔池→23チシャ畑〕へゆく
草の上に置かれる一個の籠には
うまく焼き上った鶏冠の肉と
それをとりまく野菜の数々がある
これがピクニックのたのしみ
すすむ少女
ずるずる沈む中年男の夢枕
ゆるむ脱腸帯〔(ナシ)→23のまま〕
番人が柄杓を持って
青い水を汲みにきたりこなかったり
考えを替える川はながれ
「理性の時代」は終るかもしれない→23石はとどまる〕
死垂る紫の葡萄〔(ナシ)→23棚〕の下で
シャワーを浴びる母娘を
遠巻きに〔する→23して〕
われわれは「暗喩」に近い存在である
へアーピンの山を〔(ナシ)→23はるか〕
兎→23夜鷹〕がとび越える

聖あんま語彙篇(G・8)

初出は《美術手帖》〔美術出版社〕1973年2月号〔364号〕一五一〜一五二ページ、本文8ポ24行3段組、4節87行。

    〈馬を鋸で挽きたくなる〉土方 巽

   1

わたしは見たんだぞッ!
薄明のたつみの方角をめざして
一人の老婆のそろえた両手のさきの指の
高さまで
水面はもちあがって来る
それがやがて水平になったとき
みせものの
なつかしい風情だ
うさん臭さうしろ暗さ
具体性はすでになく
金粉は撒かれる
優雅な命のこと切れるような日没の
観念の枠から外れる
関節の平野へ
言語から舞踏へと景色を替え
「赤子の頬にふれる
(一下)→23(天ツキ)〕網の目から
(一下)→23(天ツキ)〕わたしは何を覗けばよいのか
(一下)→23(天ツキ)〕カモイの塵
(一下)→23(天ツキ)〕くびれた茄子の尻
(一下)→23(天ツキ)〕蛸の吸出しが吸い出したもの
(一下)→23(天ツキ)〕それとも抽象された線
(一下)→23(天ツキ)〕愛」
器物へのなかま入り
を了えるために
「わたしは寝床にまんじゅうを引き入れる」

   2

往古より
大鋸ありき
棒に巻かれて
いる布や紅い糸ありき
火のついた母の半白髪が好き
真綿でフクフクくるまれた姉の足をたどって
「上に行けば精霊 下にあるもの
(一下)→23(天ツキ)〕が人形」
そしてのっぴきならない
「中間にあるものが肉体」
やがて明け方
「ゴハンを食べて裏から出て行くようなのが『家』あるいは『東北本線』」
だからそば屋の十一番目の末子は
飴でなく
「キンカクシに歯を立てる」
つまり
夜は単調ゆえに耽美的だ
生姜をすりおろすように
木舞[コマイ]編み職人の唄が聞える

   3

「歯槽膿漏の親父がおふくろのおしめを
(一下)→23(天ツキ)〕川で洗っている道端で兄が石を起し
(一下)→23(天ツキ)〕たりすると
(一下)→23(天ツキ)〕クルッとまるくなる虫がいる」
身丈を小さくすること
「物囲いの中でからだの寸法を計る」
これがいわゆる仮埋葬
割箸を裂きつつ
煉獄舞踏図を考える
わたしは水虫の人
川流れの西瓜を
死人と一緒に喰う
疱瘡だらけの真夜中の人物はだれ?
湯気が出る
戸板にのせられて
鮭の頭をかじる男が見える
炎天の下で
イボイボの胡瓜がなっている
宗教画のように

   4

長靴をはいたまま
花嫁は戻る
碍子と雪の世界から
ポタポタわたしを産むために
押入の中へ入る
「動かないものと動いている
(一下)→23(天ツキ)〕ものの半分半分」
わたしは首尾よく生れ出るだろうか?
「聖なる角度を手探る者」
となるべく
なぜか恐しい
堕し薬の煮える音響だ
麻袋をかぶった馬が立ちあがり立ちあがり
招魂せんとする
祭壇と灰の床
これはごく常識的な形式ではないか
「魚の浮袋をパチンとつぶす」
ほど自然自体だ
わたしの夢みる軟骨に必要なのは
物の発情とコールタールの悪臭である
蘇生のユーモアもともに
「スギナを噛む老人の顎を外せば
(一下)→23(天ツキ)〕火が吹き出る」

      〔(正月・七草)→23(トル)〕

わが家の記念写真(G・9)

初出は《文學界》〔文藝春秋〕1973年11月号〔27巻11号〕九ページ、本文9ポ23行1段組、23行、目次に「扉の詩」とある。

おかあさんは腰巻きする人
首つりのタモの木にそってゆき
朝日はのぼる
島の墓原で
百羽のツグミを食う猛き人
それが義理あるおとうさんの暗き心
いやになるなあ
公園からとんでくる
ラグビーボールをスカートのなかへ
おねえさんは隠したままだ
なので寄宿の猫は
沼面を走る雨にぬれる
幽鬼のように
いもうとは善意の旅をしている
星ビカリする夜々を
みなさん揃いましたか
では記念写真をとりますよ
青空へむかって
にっこり笑って下さい
でもうまく映るだろうか
時すでにぼくは
地中海沿岸地方の奥地で
コルクの木と〔共と→23とも〕に成長している

生誕(G・10)

初出は《讀賣新聞》〔読売新聞社〕1974年3月24日〔35051号〕二三面、本文8ポ1段組、20行、「エッチング・出岡実」。

横板の上に支那服の上半身をのぞかせ
一人の男が祈っている
手を組み合せて
半数の爪は黄色い木片のようだ
かたわらの毛布の下に〔(改行)→23(追い込み)〕
横たわっているものが
その妻かも知れない
大きな口のなかで鋸歯を挽く
膿の花をところどころに染めて
包帯がその琺瑯質の太股を
遠くから巻いてくる
傷つく母なる声
支那服の男の裾は〔12遙→遥〕かなる闇へ拡っているようだ
竜や香華の紋章をつけた
朱〔(ナシ)→23塗り〕の太い柱の方へ
そこだけが明るく
男と女のまわりは停止しているのに
回転している壺やナツメの実
よく見れば
一人の男が生れつつある

ルイス・キャロルを探す方法(G・11)

初出は《別冊現代詩手帖 ルイス・キャロル――アリスの不思議な国あるいはノンセンスの迷宮》〔思潮社〕1972年6月〔1巻2号〕一五七〜一六四ページ、本文9ポ25行1段組、〔わがアリスへの接近=43行〕〔少女伝説=*印で14節に分かつTおよびUの66行分〕109行、扉に「Photo by Lewis Carroll / Poem & Montage by Minoru Yoshioka」とある(〈吉岡実のレイアウト(2)〉参照)。目次の標題は単に「キャロルを探す方法」。

わがアリスへの接近

三人の少女
アリス・マードック
アリス・ジェーン・ドンキン
アリス・コンスタン〔・ス→23ス・〕ウェストマコット
彼女らの眼は何を見ているのか?
彼方にかかる縄梯子
のびたりち〔じ→23ぢ〕んだりするカタツムリ
刈りとられるマーガレットの黄と〔色→23白〕の花の庭で
彼女らの脚は囲まれている
どこから〔(全角アキ)→23(ベタ)〕それは筒のようにのぞくことができるか?
(一下)→23(天ツキ)〕「ただ〔、→23(トルアキ)〕この子の花弁がもうちょっと
(一下)→23(天ツキ)〕まくれ上がっていたら〔、→23(トルアキ)〕いうところはないんだがね[*]」
彼女らの心はものみなの上を
自転車で通る
チーズのチェシャ州の森
氷塊をギザギザの鋸の〔刄→23刃〕で挽く大男が好き
鞄のなかは鏡でなく
肉化された下着
歴史家の父の死体にニスをかけて
床の下の世界から
旅する谿のみどりの水をくぐる
一人の少女を捕えよ
なやましく長い髪
眠っている時は永遠の花嫁の歯のように
ときどきひらかれる
言語格子
鉛筆をなめながら
わが少女アリス・リ〔ッ→23(トル)〕デル
きみはたしかに四番目に浅瀬をわたってくる
それは仮称にすぎない
〈数〉の外にいて
あらゆる少女のなかのただひとりの召女!
きみはものの上を通らずに
灰と焔の最後にきた
それでいてきみは濡れている
雨そのもの
ニラ畑へ行隠れの
鳩の羽の血
形があるようでなく
ただ見つけ出さなければならない浄福の犯罪
大理石の内面を截れ
アイリス・紅い縞・秋・アリス
リ〔ッ→23(トル)〕デル!

         *ルイス・キャロル〔《→23〈〕鏡の国のアリス〔》→23〉〕岡田忠軒訳より

少女伝説

   T

ド〔ッグ→23ジ〕ソン家の姉妹ルイザ マーガレット 〔ア→23ヘ〕ンリエッタ〔(全角アキ)→23(ベタ)〕緑蔭へ走りこむ馬 読書をつづける盛装の三人 見よ寝巻のなかは巻貝三個

   *

父ジョージ・マクドナルドはひげをのばし 長女リリーの唇は イチジクの汁でよごれる 婦人帽の下からツタの葉を茂らせる継母 父に抱れて 鳥の巣を採る弟

   *

アグネス・フロレンス・プライスは今日も一つの大きな人形を抱く 中世のかつらをつけた裁判官の姿をした人形を わたしの罪を罰して! 縞の下着をつけていることを

   *

エリザベス・〔ヒュースィ→23ハッセ〕ー よい名それとも変な名 ロバー・〔ヒュースィ→23ハッセ〕ー教授の娘 絹のソファーへ横たわって 午後は母を待つ 母は医者を待つ 夜は父を待つ 母を待つ父を わたしは待つ 絹を傷つける虎を待つ

   *

ああアイリーン・ウィルソン・トッドよ 風に吹かれたあの長い髪が庭の木を巻く 恐ろしいことに木の幹がつるつるしている 死んでいる木 生きている木 叩くなら木の股を 大梯子へあがって兄の首を吊すこと

   *

窓から見えるエフイー・ミレエ〔ス→23ー〕 父と母と〔妹→23娘〕がこの窓から飛びおりるのを〔(ベタ)→23(全角アキ)〕上からのぞいたような気がする

   *

フフフ笑うフランクリン夫人の娘時代に似ている うつむくバラのなかのローズ 子守唄は自分で唄うのよ バラよ眠るなかれ!

   *

マリ〔(ナシ)→23リ〕ア・ホワイトの白いマリがころがってゆく 止るところがあるだろうか ランベス・パレスの荘重な門で止る 恐しい顔をして叔父が門を閉めたから

   *

マ〔ドリーヌ→23デライン〕・キャサリン・パーネル 水兵服が好き 水浴びが好き 横顔が好き

   *

C・バーカー牧師の娘メイは椅子の上へ立っている 靴のまま この狼藉の恍惚 十二〔才→23歳〕になったら飛びおりる

   *

メリークリスマス 病める雪 病める七面鳥の声 わたしはメ〔(ナシ)→23ア〕リー・マクドナルド ジョージ・マクドナルドの娘 うずくまる母と姉 鮭の燻製がきらい

   *

エラ・モニア〔ー→23・〕ウイリアムズ 廊下をほうきで掃く どこまでもどこまでも暗い家 教授は今朝は「寒い」とひとこと云った

   *

主任判事→23首席裁判官〕デンマン卿の娘グレイス・デンマン 石の階段の一番下が彼女の憩いの世界 重い大きな鎚で赤いカニを一撃したら 恋する女の心にちかづく

   *

父は芸術家アーサー・ヒューズ つくられたものアグネス ウサギのように毛のある服を着て おしっこしたくなる 春から夏まで キヅタの棚の下の召使たちの恋

   U

テニ〔ス→23ソ〕ン夫人の姪アグネス・グレイス・ウェルドは赤い乗馬頭巾とマントを着け 馬のうしろに幼い友だちを呼ぶ 〔コートゥス教区司祭→23クロフト牧師〕館の使用人の娘〔クロフト・レクトリー→23(全角アキ)仇名は「コーツ」〕 教授の娘エリザベス・〔ヒュセイ→23ハッセー〕 芸術家の娘〔ア→23エ〕ミイ・ヒューズ T・B〔(ナシ)→23・〕ストロング博士の姪ゾーイ ジョージ・マクドナルドの娘 髪がうまくとかせない〔イレ→23アイリ〕ー〔ネ→23ン〕 その姉メアリー 〔ピュー→23パ〕トニ〔ィ→23(トル)〕ーの教区〔(ナシ)→23牧〕師の娘ベアトリス・へン〔レイ→23リー〕 エレン・テリイの妹たちマリオンとフロレンス リポン僧正の娘フローレンス・ビッカーステス ピュ〔ッシ→23ージ〕ー博士の孫娘〔カ→23ケイ〕ティー・ブライ〔ヌ→23ン〕 ジョ〔ー→23(トル)〕ン・ミレ〔エス→23ー〕の娘メアリ クランボ〔ヌ→23ーン〕教区〔司祭→23牧師〕の娘〔ダイ→23ディ〕ンフナ・エリス
          遅れてきたのは誰? あら支那の娘の〔紛→23扮〕装したアレクサンドラ・キッチンだわ いとしのクシイー けさ水汲みに行って 最初に見たのはなんなの? 串の魚それとも〔(全角アキ)→23(ベタ)〕舟を漕ぐ農夫 蝶を捕える青空の下の網 聞かせてよ 支那のウグイスはどんな鳴き方をするか? ペルシャ模様の八個の箱の上で 夢みるクシイーよ 川のほとりで〔(全角アキ)→23(ベタ)〕最後に見たものはなんなの?〔(全角アキ)→23(二倍アキ)〕あなた自身の肉体 その影に心があるようで ないように見える なまめかしくも幼い聖痕?
                   みんなでこれからキャロルおじさんを探すのよ それは包帯で巻かれた幽霊群のなかで 副葬花束を持った人だわ!

『アリス』狩り(G・12)

初出は《アリスの絵本――アリスの不思議な世界》〔牧神社刊〕1973年5月1日、二一〜二四ページ、本文五号28字詰28行1段組、76行、目次にある「アリス狩りのためのアリス工房 Alice workshop for the hunting of Alice」中の一篇。

それはたくさんの病人の夢を研究しなけりゃならん
〈退却してゆく臓器や血の出る肛門〉
わしも医者だから抒情詩の一篇や二篇は暗誦できる
今宵 生き損じの一人の老婆も無事に死んだし
 
かれこれテニス試合の時刻がくる
カメラと持てるだけの物を持って森まで行く
まっ白い弾むボールを追究する 悪寒するわしが見えるか
むきあった男女の間に生える カリフラワー 粉
 
この世に痛むものがはたしてあるか
わしが診察するのは鏡の中の患者の患部だけ
手も汚れず 悪臭もなく
でも疲れるんだ 鏡の表面にとどまるオレンジのように
 
父母の写真 コダックの五匹の猫の写真 船腹の写真 赤ん坊
の写真 墜落した飛行機の写真 結婚式の写真 騎手の写真 
女優のヌード写真 チャールズ・ラトウィジ・ドジソン教授が
撮ったアリスの写真
 
〈静止せる剃刀や魚 潜在せる雷や桃〉
〈森や山の動物よりも檻の中の動物〉
〈ただ一人の少女が走り回っている〉
〈沼のほとりの燈心草と雨〉〔(全角アキ)→23(ベタ)〕それらをわしは嗜好する
 
血豆と乳房「それはただちに切開する」
それが終ったら力のかぎりあらゆる岩地を掘りかえせよ
何かが出る 何かに成るものが出る
そのときは看護婦を呼んで包帯をぐるぐる巻かせる
 
ではこのように
ではこのように鵞鳥
とはいうものの
とはいうものの月光
 
「髪をしなやかにしたいわ」といった一人の少女
そののびやかな腿を内包する 鏡のなかで
立体的な物は越えられる しかし平面は走れない
オリーブをしぼる母の背後は暗い 夜具と山羊
 
馬をすすましめ 河をすすましめ 受胎をすすましめ 軍艦を
すすましめ 飲食をすすましめ ゲームをすすましめ 時計を
すすましめ 矢印をすすましめ 物語をすすましめ 死をすす
ましめ
 
むかし外国の漫画でよんだことのある場面を想起せよ
長い石の塀が立つ
それは草むらの一隅のように見える法廷で
声女・アリスは答える
 
『塀』には死体が塗りこめられていましたか
わかりません(三匹の猫)
『塀』には高さがありましたか
わかりません(ひまわりの花)
 
『塀』は何で出来ていましたか
わかりません(心臓のようなもの)
『塀』は何を囲んでいましたか
わかりません(先祖の家系)
 
『塀』は今も立ってそこに在りますか
わかりません(時と鳥)
『塀』はではどこに存在するのですか
わかりません(永遠に保護色)
 
しかるべく手術をせん
しかるべく病巣なきときは
しかるべく印をつけ
しかるべく肉体を罰せん
 
わしの知っとる
(一下)→23(天ツキ)〕「もう一人のアリスは十八歳になっても 継母の伯母に尻を
(一下)→23(天ツキ)〕鞭打たれ あるときはズックの袋に詰められて 天井に吊る
(一下)→23(天ツキ)〕される 美しき受難のアリス・ミューレイ……」
 
それにしてもわしは覗きたい 袋とペチコートの内側を
なまめかしい少女群の羽離れする 甘美な季節の終り
かくも深く彼女らの皮膚を穿ち 水と塩を吸い
夜は火と煙を吹き上げる 謎の言語少女よいずこ
 
上向き下向き横向き
緋色の衣をまとった大僧正の形をして
焼死せんとする恋しき人を求める
わしは消火器をもつ老たる男 暗緑の壁紙の家にいる
 
死ねば都 ここがギリシア悲劇の見せどころ
西の方からとどく キン〔バ→23パ〕ラ鳥の声
あらゆる少女の胴から下は紅くれない
下品なハンカチを所有することを認識し 洗濯せよ 言葉!
 
夏の空の色あせる時
わしも詩人だからたまには形而上的な怪我をするんだ
今宵 書き損じの一人の少女の『非像』を追想する
落涙する屋根の上の人 それは汝かも知れず?

草上の晩餐(G・13)

初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1974年4月号〔17巻4号〕八〜九ページ、本文9ポ1段組、35行。

ヒンズー教寺院の庭を巡り歩く
多くの夜は
小さいものから大きくなる
大きいものから小さくなる
現実世界へ照応する
肉体を考察し
ビスケットを噛り
わたしは長椅子にながながと寝る
モーヴ色の部屋
たちまち謎の植物が成長し
ここはまさしく
「生き埋めの王国」だ
パラソルをさした
古代レディーの妖しい笑に誘われる
慈悲の詩〔(ナシ)→23人〕
「雨期には
ヒルが人の足を噛む」
繊細な構造の〔世界→23迷宮〕から来る
わたしは想像上の旅人〔(ナシ)→23のひとり〕
いま両手にあるものは
固い物と柔かい物
それぞれを持ち
あまつさえ腐る物を口に咥える
恐らく死ぬときまで――
その暁に大切な心は
永遠にぬれざる〔(改行)→23(追い込み)〕
死の内なる亀
恩寵があれば
紐の張りわたされた
聖なる水蓮の咲くほとりへ〔(改行)→23(追い込み)〕
着くだろう
髯をはやした二人の友と
半裸の若い女のたわむれている
草の上でささやかに
食べ〔る→23れば〕
(ナシ)→23「空には満天の星」〕

田園(G・14)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1973年9月号〔5巻10号〕六〇〜六七ページ、本文9ポ24行1段組、12節134行。目次には「長詩」とある。

   1

洗濯女のエプロンのかげで
わたしは生まれた
ということ
「空間概念とは何か」
となりの人が問う
それはたしかに
「星は暗闇で光るものだ」
水面にうかんだ微生物よりも
キノコ類に近似している
父の肝臓で石は育ち
わたしは草の上へ置かれた
長方形の〈言葉〉の管を吸っているのは
青いポールを持つわたしでなく
バッタの一種だった

   2

「すぐに据え付けられますよ おかみさん
(一下)→23(天ツキ)〕土は腐っているから」
エナメル塗りの牛の頭蓋はまつられる
石臼の上に
夜の明けるころは
老人たちは帰って行く
揺籃へ
「わが子よ わが犬よ
(一下)→23(天ツキ)〕たのしく暮そうよ!」
釘の山で母は唄っている

   3

父は猛獣狩スタイルの女が好き
いつもパンを焼くフライパンの尻を叩きながら
赤袋角をあらわに突き出していた
それは滞り それは窓の外で
濡れている ぜんまいや蛇のように
新しい石鹸のようにそれは滑り
朝まで用がある

   4

白とピンクに染められた寺院の門をくぐり
わたしは遊んでいた
梨の木の群と
ざらざらした梨の実を食べては
「純粋な固体」を求めて
不安な谿を降る
坐る人 歩く罪人
子守のひざのうえで
わたしは探しているのだ
狩られた毛のなかの野兎を
深い傷口の奥に
もしかしたら甘い蜜がかもされている
「花嫁」
わたしの一番好きな〈観念〉!

   5

馬具屋が舟にのってやってくる
反詩的社会から
彼のために歌を唄う一人の少女が憎らしい
歴史家なら検討する
スフィンクスに「兄弟」がいたかどうか
もしやそれは「姉妹」ではなかったか
その奇妙な像が馬みたいに水を飲む姿を
馬具屋の粗い前掛のかげで
テニス靴の少女は夢見る

   6

氷売りが絹のテントのまわりを歩く正午は
死者への礼節が大切だ
汚れた鳩とシャツにかこまれて
肉屋の親方がみまかる
ヤギ ウサギ キジ ウシ ブタ ウマ
「すべての血はすててはいけないぞ
(一下)→23(天ツキ)〕血は煮つめれば
(一下)→23(天ツキ)〕煮つめるほどうまくなる」

   7

それがわれらの肉体をつくり
大砲の砲身をあたためる
煙や煤が出るよりさきに筒口から
眼球や兵士の手首が出る
それから味の濃いスープが溢れる
人類よ肥えよ!
資本系の羊歯が茂って
岸からハートの丘を埋めてゆく
まな板の上に在る
開かれた卵

   8

沼の霧がたちこめる彼方から
日はのぼり
ウォーターヒヤシンスは咲く
だれにも幼年時代はある
文体で喩えれば
あらゆる「言語」に付く
金色のセンイのようなもの
わたしはあこがれる
肉屋のマイスターになることを
岩の上の家で
ソーセージをつくり
「作品」をつくる天職を志向する
どういうことか
それはむりな姿勢をたもつことだよ

   9

大刃で切る肉の断面は
失われた地図のように見える
ヘットとラードの冷たい肌ざわり
白きヘッドの父はタマネギ畑から帰り
哀しきバラードを唄う母のローブは汚れる
これこそ男と女とけものの三位一体の
舌は釘付けにされた
めくるめく官能の地の床に

   10

わたしは病気がち
白い壁のなかをゆききする
緑の心臓をもつ子供
発育ざかりの少女を求めて
さしずめ 詰めた〈時〉を探す
ゆるやかな川のほとりで
石の下に養われているカニやエビを捕え
信仰的に
ときどきふりむく
「とても重大な事柄だ」
何かのなかに何かが生じ
何かのなかに何かが滅し
何かのなかに何かが残る
蜜柑の皮のなかには房が九つある

   11

意味なきリアリティを併置すれば
前世紀的風景だ
秣の下をゆく旅人たち
肥った猫のように
酒と名づけるものは発酵する
こわれた大瓶のへりで
春の蝶がひげを巻く
「そこにある 豆の花 馬鍬 樫の棒
(一下)→23(天ツキ)〕炎 くもの巣 灰 家霊」
たとえばそれらがわれわれの近くになかったら
「父母」の生活はなかったろう
はるかなる梁の巣の燕よ 戻れ!

   12

回想を改葬せよ
浅瀬をわたる騎兵隊
とうもろこしの毛に包まれ
従姉がいったことばを
大人になって わたしは思い出した
「〈アート〉は退屈だわ」
枝を戻ってくる蝸牛の殻のように
この世の内部は艶消しになって
いて視えない宿命
「想像できるものは 想像できない
(一下)→23(天ツキ)〕ものより〈生理感覚〉がある……」
わたしはいま「追悼詩」を叙述する〔(ナシ)→23んだ〕
水に向っている
テーブルの男のように

自転車の上の猫(G・15)

初出は〈松井喜三男展「少年少女」〉パンフレット〔青木画廊〕1974年4月13日、本文10ポ18行1段組、18行。《夜想》再録ページの絵は、松井喜三男の〈自転車の上の猫〉(サインの年号は「〔19〕71」)。

〈自転車の上の猫〉(初出形)の再録
〈自転車の上の猫〉(初出形)の再録 出典:《夜想》第19号〔特集★幻想の扉〕(ペヨトル工房、1986年10月17日、九四ページ)

    〔マツイ・キミオの絵によせて→23トル〕

闇の夜を疾走する
一台の自転車
(ナシ)→23その〕長い時間の経過のうちに
乗る人は死に絶え
二つの車輪のゆるやかな自転の軸の中心から
みどりの植物が繁茂する
美しい肉体を
一周し
走りつづける
旧式な一台の自転車
その拷問具のような乗物の上で
大股をひらく猫がいる
としたら
それはあらゆる少年が眠る前にもつ想像力の世界だ
暗喩→23禁欲〕的に
薄明の街を歩いてゆく
うしろむきの少女
むこうから〔犬→23掃除人〕が来る

不滅の形態(G・16)

初出は《別冊小説新潮》〔新潮社〕1974年7月〔夏季・26巻3号〕二四〜二五ページ、本文9ポ12行1段組〔コラム〕、20行。初出「本文カット・原田維夫」。

わたしに必要なのはミカンの皮でなく
「不滅の形態」だ
長く細い針金を使って
はるかなる地下の象の骨格を調べる
それは繊細な構造をもち
毛根のような緑の夢をはらむ
花嫁衣裳の内部に似ている
石壁の迷路を行け
たのしいこともつらいこともある
大豆袋の下にはネズミが棲む
倉庫の梁をわたり
わたしは血豆を創造する
いつも思考しながら
歴史家は滝のなかで女を幻視し
「〔萬→23万〕物」の母だと考える
「〔萬→23万〕物」のなかには父は存在しない
わたしが心から求めているのは
打ち付けられた夥しい釘と
生皮を張った堅い板
「不滅の傷痕」そのもの

フォーサイド家の猫(G・17)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1973年11月〔5巻13号〕五〇〜五四ページ、本文9ポ22行1段組(散文詩型は23字詰)、*印で5節に分かつ85行、目次に「猫の主題による長篇詩」とある。

わたしの部屋に一枚の小さな絵が掛けてある
だがこの絵を見た人はいない
この絵を描いた画家だって見たとはいえない
ただマチエールを造っただけだから
人はそれでは
「きみの所持する絵は
万有の闇のベールの向うに
存在するだけではないか」
と反問する
仕方ないから共存する妻とともに
わたしはその三匹の猫のたむろする絵を語る
できるだけ古典的な描写で試みようか
わが家の板の壁を飾る
唯一の絵の周辺を歩きながら
反現世的な閉ざされたフォーサイド家の内部を解体する

   *

わたしはかつての或る夏の夕方
一人の女の胎内をくぐりぬけると
潜在する森と雪の浄土圏があるのではないかと考えた
高階の円塔の迷路を廻り
逸楽の画家ローラン・ブリジオの描く
着飾った貴婦人の肖像を眺めていた
薔薇型の大きな帽子をかぶった女
薄いランジェリーの女
印度衣装を全体にかぶった女
いずれも下半身を露わに出している
肉性が正面をむくとき
予言者を狼狽させる
シンメトリーの偏愛図
バックを流れるのは音楽でなければ
宮殿の回廊や庭園の噴水の霧であるのだろう
巻かれた雲と毛のなかに
窪地にかくされた小石類をのぞかせる
可視的な月光体とはなにか
聖地をさまよう探索者たちの魂
その真紅のデテールから
三匹の猫がうまれた

   *

わたしはソファーに坐りながら
頭上のカンバスの枠から出る
画家の手を噛む猫を見る
これは三つの側面にかこまれていない
一つの世界ではないだろうか?
緑の山の前に人が立ち止るのは
母を恋うる時だ
窓べの少女の金髪は彫刻されたように暗く
父の王が殺されたのを悟り
彼女は両腕に一匹ずつの猫を抱いている
右側の猫は茶色でとても肥えて
固い枕のように傾むく
だからおのずと左側の黒と白のぶちの猫は背をまるくする
押されているのは時間帯でなく
グレーのカーテンのひだのようだ
紐でひきしぼられていないのに
天井の方へたぐられているからだ
悲劇の少女にはふりむく真の正面がない
水色のスカートの腰をよじって
ねぐらへ鳥の飛ぶのを仰ぎつづける
だからうしろへ廻って祭壇の隅に
こうばこして大髭をうごかす猫の存在を知らない
遊戯の運動をくりかえしつつ
静止する一瞬間を捉え
手をなめたり耳を掻くその灰色の猫
意識と無意識の中間に位する
猫の沈黙は恐しい

   *

エスキモーはどうして猫を描かないのだろう 昨夜カナダ・エスキモー展を巡りながら わたしと妻はふしぎに思った 多くはモノクロームのあざらしと魚である 白い歯をむき出して 氷の山の頂に 星のように輝いているせいうち そのほかはふくろうの絵ばかりだった 地中に眠る魚の葉骨を咥えて 斑のある羽をひろげている母喰鳥 その眼は女の驚きの表情だった 暗い花の群生のなかで 折れた翼を敷いている もう一羽の大きなふくろうをみつめていると やがて猫に変貌するように わたしと妻には思えた 薄明のエスキモーの国には あとは子供と犬しか住んでいないのだろう

   *

「火食鳥を撃ちおとすことはわたしたちの習慣にはない」
燃える羽ぶとんのなかで
死せる王と王妃の装飾過剰の歴史と
黄金の蛙股のベッドの脚の下で
恋する三匹の猫の神話を――人は知っているだろうか
「黄金では爪がとげない 太い木の柱がほしいよ」
声する猫を追いはらって
「猫はきらいよ だって抱いても ぐにゃぐにゃして
支柱がないんですもの」
古代の閨秀詩人はそのような言葉を遺している

絵画(G・18)

初出は《風景》〔悠々会〕1974年5月号〔15巻5号〕五四〜五五ページ、本文10ポ19行1段組、29行。初出「カット・風間完」。

画家がテーブルを描くとき
最初に灰色の物質を
心のなかに塗る
「見るとは
(一下)→23(天ツキ)〕眼をとじることだ」
それによって
籠の洗われた韮や莢豆
緑の野菜類がストイックな影を加える
六月の午後は
肉類を煮ながら
いよいよ高みへ至る
大鍋の下から
女中の指を噛む
炎の形が出てくる
そこでテーブルは前方へ傾き
犬は庭へ戻る
皿の上で内包され
西洋李の〈赤〉は実相の中心になる
それを食べる子供の
黄金の口を見よ
しだいに外観はあいまいになり
(ナシ)→23地上で〕
「われわれの見得る
(一下)→23(天ツキ)〕物は数すくない」
胡椒挽きや胡桃割り
それらの器具しか存在しなくなる
だから
厚盛りの背景は
いくつもの記号と〔言葉→23音階〕に分割され
闇へ流出する

異霊祭(G・19)

初出は《異霊祭》〔書肆山田刊〈書下ろしによる叢書 草子3〉〕1974年4月25日、四〜一八ページ、本文五号13行1段組、8節161行。

   1

朝は砂袋に見える

夏の波の寄せる処で
母親を呼ぶように
紅い布を裂き
趣味のよい書物をひもとく
アラン
きみが叙述した矮小種族の好む虹色の二字
〈肉体〉
オパールの滝のなかの美貌の妹
沈む壜に入っている

死を近づける
また破裂をもたらす
新鮮な魚の目のように
何を待つ
アラン
悲劇とは仮死のなかの仮生

   2

雨の日に
しみじみと歩く郵便夫一人の生活
べんべんと生きる詩人一人の夢
アラン
きみは発見する
鉤形の月の下に棲息する
画家の魂をもつ鳥
叢をさまよい歩くアオコヤツクリ
彼の探すものは
彼の生活帯のなかにはないのだ
枝や木の実やワラジムシの世界から翔びたち
危険な世界を通り
青いものをあつめてくる
青い布 青いガラスの破片 そして青いハブラシ
人里から青い王冠を咥えて
巣に帰ってくる
聖領の鳥

   3

アラン
われわれには必要なものがありすぎる
必要なものから
より必要なものを選び
それはたしかに必要だと考える
われわれには不用のものがありすぎる
不用のものから
より不用のものを選び
それはたしかに不用だと考える
そしてたえず不用のものから
必要なものをつくるんだ
たとえば
「精神の外傷」のようなものを

   4

アラン
「蛋白質を最初に食べる
(二下)→23(天ツキ)〕のは死人」
では
「最初に口をきくのは家畜
(二下)→23(天ツキ)〕番人の妻」
たまたま春の太陽が輝くならば
彼らはともに海原を水滴のように
回転し
漂ってすすむ
まるで
きみらの汚辱の家から
なめくじが母国を探すように
星への旅をつづける
いってみれば滞る〈現在〉と称する
われわれの〈時間の塩〉の下で
ぽっかり濡れた孔が
現出する
いや反対に消滅するんだ
アラン
なめくじは遠くへゆく
人の通わぬ孤絶の島へゆっくり移動する
秋までは
蝶や蜜蜂は華やいでいる
或る高さを保って
花冠のほとりに

   5

テーマはあらかじめ設定できる
しかし生物の運命は
毛皮のなかの痕のように昏くて視えない
ルドンの銅版画の過失の点の黒
鐘をつくのが仮面の人なら
涙するのは誰?
よじれる縄に永遠に縛られる
アラン
仮面の兵士の大きな口をのぞいてごらん
赤いぬるぬるの舌ではなくて
その奥深い闇の器には
鉄の玉が突き出ている
アラン
酩酊せよ
陰気な兄弟とともに
聞こえぬ鐘!
やがてわれわれの都市に雪が降る
のでおごそかに
出口が閉ざされて
いるように思われるのだ
内側から力を入れて押したら
二つに割れて
春の鳩が数羽とび出すだろう
アラン
くすぐったくはないか
ゴシック装飾の扉の中心の合せ目に
木の枝が少し触れている

   6

続くものは続き
続かないものは続かず
というのは真理かも知れない
続くものから
続かないものへ
形態を替え
言語を替え
色彩を替えたら
アラン
きみの夜半の作業は
みじめな胡瓜のうらなりにつらなる
妻の不幸なる生涯を
美しい物語につくるんだ
茄子の花はうすむらさきに咲く
口紅は濃くしてやって下さい
死顔には
それなりの〔〈→23(トル)〕生命〔〉→23(トル)〕がありますゆえ
「馬のかたちをした煙」に
妻をのせて
アラン
きみは行き行く
氷る父親の土地へ

   7

人は生活費のために
他人のいやがる仕事をする
われわれの考え及ばぬ奸智さをもって
アラン
『貝類学の手引』をでっちあげる
内部しかない貝
そしてたえず巨大なものを産む
サンゴ色の膜
英雄から精神異常者までまるごと孕む
恐しい貝の研究
罪な分析を忘れるべく
アラン
われわれは外套を着て
酒の街へ出る
一匹のうずくまる猫を探しに……
はだしになる
栗色の毛深い処女
エリ!

   8

蓮の葉のかげで
ほそぼそと生きのびる人
兎の耳をつるす
国家を守護する人
われわれのなかの理想的な生き方ではないか
まさに意味ある誤解
それらの世俗的営為せる者は
仰向けに倒れる
石があれば石の下に
アラン
きみは渡り歩くだろう
大鋸の刃の輝く観念の世界から
「影に似ている」
その物自体を求めて
毒蛇のとぐろまく道を行く
そこには奥行がある
アラン
きみとわれわれは
いましばし試みようか
「山上の石けり」を――

                 〔1974・2・14→23(トル)〕

動物(G・20)

初出は《季刊俳句》〔中央書院〕1973年10月〔1号〕六六〜六七ページ、本文五号17行1段組、29行、目次に「〔招待席〕/詩」のあと、「戦後詩の懸崖で一貫して至高の稜線を持して崩れぬ高峰」とある。

それは伝聞によると
雨のなかで
しかも生きている動物のようだ
〈線〉をたくさん集めて
崖下へ走ってゆく
紅色の動物の肥大するハートの影
耳を突き出し
背中をかくして
草をたべている犀のように
白い壁の隅に立ち
たしかに濡れた皮張りの椅子のようだ
からだを中心で折って
毛や骨をテーブルの下へ置き
さびしい巣の方へ
ゆっくり歩いてゆく
〈動物〉とは
いったいなんだろうか
すでに〈面〉をたくさん組みこみ
綺想体の子をつれて
いま長い綱をわたるところだ
その下は或は砂漠かも知れない
わたしたちの認識のしきみを超え
夜は紐をひきずり
死んだ動物は声を発し
跳板のところで一回転して
やがて泡で埋まってゆく
足を見せ
眼をかくし
ひとつの〈歌〉を終らせる

メデアム・夢見る家族(G・21)

初出は《文芸展望》〔筑摩書房〕1974年7月〔夏・6号〕一〇〜一三ページ、本文9ポ21行1段組、75行。

わが家族はつどい来る
その紅蓮地獄の内部を見よ
エーテルはとどこおり
寒冷でもなく白熱でもなく
それでいてあらゆる肉は焼き上る
メデアム
はるかなる星の光が届く
黒いシジミの水桶へ
その中間に
仮想物質がびまんし
波の形をした死者が泳ぐ
メデアム
わたしはなつかしき故郷の納屋にねて
ながながと語る
何から何まで
形而上の問題になる
ふかふかした物体の上に
寝ることの大切なことを群衆に説き
足の方から
モーブ色のスリッパをぬいで
地上に落とす
自然の葉の茂る泉のほとり
わが父は燕尾服のまま横たわる
死のためでなく
生きるために
種子を保存する
メデアム
亀裂せる妹の腹を越え
やがて翼をつけた砲身のように飛ぶ
仮想敵がいるようだ
母は魂の全一性を支えて
いる針金のようなもの
空はあくまでも青く
「美神の絞殺」は行われているんだ
入子風ボートに乗って
いそいそ葬式にきた
屋根職人がつくる
天蓋の下は不滅の闇であろうか
とにかく大鍋の下で
火種を養って一家団欒せよ
運ばれてくる
それはブツブツ泡ふく鵞鳥のからだと脚
セロリの七〔、→23・〕八本
料理は言葉で出来ているらしく
時がたつと変色する
メデアム
そこで大理石の土台が据えられ
わが母は記念柱となる
わたしはそのような霊界がすきだ
仮面をかぶった兄ならば笑えるだろう
岩窟の前に立ち
考古学者のように
力でもって万物の化石を引き出す
綿で包まれた炎もともに
いま長椅子の上へ
やけどした姉がとびあがるとき
死せる虎の皮は美しい
もちろんわが家族は
わたしの恋人が裸になることをのぞんでいる
四つの円柱がまもなく立つ
わたしの人生の恩師も
小さな入口から入ってくる
両刃の斧をかかえて
これが到り着くところ
メデアム
水はいつも流れている
人は横梁を渡らなければならない
底があるとしたら
底には血がたまっているんだ
縄と皮の張られた土地には
旅人の求めている
筒深い百合の花が咲く
これが牧歌的生活ではないか
たのしきかな 夢みるはらからは浮遊する
メデアム

舵手の書(G・22)

初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1974年10月臨時増刊号〔17巻11号〕八八〜九一ページ、本文9ポ25行1段組、5節75行。

    瀧口修造氏に

   1

雨は
夏の仙人掌の棘の上に降る
それは一つのスタイルだ
ガートルード・スタイン嬢は語った
「人間の死の充満せる
(八下)→23(三下)〕花籠は
(一下)→23(天ツキ)〕どうしてこれほど
        軽い容器なのか?」
それを両手で支えて
眼をみひらいて近づければ
「光をすこしずつ閉じこめ〔たり→23(トル)〕
(全角アキ)→23たり〕逆に闇を閉じこめたりする」
これは近世の神話といえるんだ

   2

砂漠近くの映画館で
われらは観測する
地上の星・ガルボ!
きみの巨大な唇をたどれる不死の人は存在するだろうか
きみがもし物を食べているとしたら
それは不思議な時間である
きみの黄金孔のなかに
たえず消えてゆく漂着物がある
肋骨 岩石 羊飼い 詩
鳶の輪が無限に近く拡大される
その下にあるものは
唯一のメモリアル
「五月のスフィンクス」だ

   3

われら〈弟〉は考える
〈母〉は烏髪と長い乳房を持つ
しかし
〈姉〉は内部に一個の〔12螢→蛍〕石を
匿しているにすぎない
虚無の苦痛のなかに
星と砂と
「鳥は完全なるものをくわえて飛ぶ」
だが水底では
魚は不完全なるものをくわえて泳ぐ
太陰暦の春に
われら〈弟〉はいつも見失う
〈姉〉という呼称の人を
「彼女は未知の怪奇なけむり
(一下)→23(天ツキ)〕を吐く最新の結晶体」
火花のなかで
枯葉のなかで

   4

「朝食のときからはじまる」
表現行為のなかには
われらの眼が吸う飲物がある
ストロベリージュース
のように
色であって色でない
犯罪者の歯がバリバリ噛む
キャベツの芯のように
形であって形でない
名づけようのないもの
「曖昧な危倶と憶測との
(一下)→23(天ツキ)〕霧が立ち罩めようとしている」
声と言葉の
記号の世界にも……

   5

人は自由な手を所持している
それゆえに
不自由な薔薇の頭を大切に抑えて
「黙って
(一下)→23(天ツキ)〕歩いていってしまった」
それは形態学上
きわめて自己撞着的だと
へンリー・ムアは夢の王妃を鉄で造る
炎のような内面
オレンジのなかの黒曜石
それが島だ
青い海をリードする
舵手と蛸
(ナシ)→23   6〔節番号〕〕
なぜ夜明けの聖像群はフィルムのように
灰色に沈んでいるのか
(ナシ)→23「憑きものの水晶抜け」の秋〕
詩を書く少年の腰のあたりまで
白い波がうち寄せ
龍→23竜〕骨は海岸に出現する

白夜(G・23)

初出は《鷹》〔鷹俳句会〕1974年10月号〔11巻10号〕一八〜一九ページ、本文五号二分アキ17行1段組、28行。

たしかムンクの絵の主題に
〈病める少女〉
というのがある
わたしがその絵を
見い出した時
そこに秘められた〔昔→23音〕が視覚化され
「とても重大なことだ」
と考えた
パセリの緑の葉を
口の端にくわえて
次から次へと
清潔な敷物の唐草模様の上を
跳びはねてゆく
「少女はつねに死体である」
というのは
家畜商人の符牒だ
寒い国では
「寝台の脚のまわりに草が生える」
白い壁に白い旗を掲げ
テーブルの上でキノコの
ごった煮を食べている家族を
わたしは想像する
やがて膜が張られて
牛乳の巨大な桶のなかに
夜明けが来る
それから切藁を
食べる馬が見えるんだ
氷れる山嶽の上に

ゾンネンシュターンの船(G・24)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1974年12月臨時増刊号〔6巻15号〕四六〜五一ページ、本文10ポ26行1段組、5節89行。

   1

「罪深い魚は泳ぐ方角をまちがえている」
これは病人のうわごとだ
われわれの泳ぐ
海とは汎自然的で
すべての波は円環のなかを
車輪のように廻っている
肋骨の間のハートのように
巣の上の卵のように
いまだギリシアの紋章は遠い
船窓から望まれる
道徳的な陸地は
緑なす断崖に一個のリンゴを輝かせて
透視され〔る→23た〕「大地の軸」が在る

   2

猛けき雷鳴のとどろく
われわれの都市へ人々は集まり
サンゴや砂を発見する
ときには反歴史的な
言語や死に方を選ぶんだ
水を求める者とともに
「うずらは地に巣をつくる」
というのになぜか
人は頭に巣をつくり
とてつもなく大きな〈ウロボロス蛇〉を
不用意にも産む
一枚の絹に包まれる
われわれの〈太陽星[ゾンネンシユターン]〉を仰げ
口許には赤いグラスをみちびき
「もうすこし言葉すくなに
(一下)→23(天ツキ)〕もうすこし呼吸を多く」
人は生きるべきだ

   3

「六匹の塩漬鯡を肋木に
(一下)→23(天ツキ)〕鉤で引っかけ
(一下)→23(天ツキ)〕藁マットに火を放つ」
これこそ本当に哄笑する精神なのだ
それから動物園通りを歩く
家出人
その特徴(身長 手術あと 歯の治療 いぼ ほくろ)
などであるから
室内温水プールで見つけよ
水着の美女の尻
ムラサキ色の蝶のとぶ
夏の終りに
「ゾンネンシュターンの大演説が聞えてくる」
人よ 荷物を運搬するな
人よ 手を運べ
人よ 心を運べ

   4

画家が生きるためには
「四つの占領地帯」が必要だ
「なにゆえにテーブルには四つの脚
(一下)→23(天ツキ)〕馬に四つの脚」
と問うことは冒涜だ
わたしの母は
四つの乳房を持ち
悪しき子供たちを養っている
青銅の庭で
サボテンを栽培する
(花を持った蕾状のもの 金平糖のような芽
(一下)→23(天ツキ)〕掻き子の季節)
棘の上の露
精霊を呼びながら
「地に
(一下)→23(天ツキ)〕空に
(一下)→23(天ツキ)〕そして海に
(一下)→23(天ツキ)〕新記録を
(一下)→23(天ツキ)〕達成する女」
そのうえ時間の領域でも
尻と顔の共存せる
偉大なる乳母
形而上の母よ安心せよ
「世界には雑草とわたしとかぶら」
しか存在しないのだから

   5

虹の砂漠から
大股で女軽業師が走ってくる
ヒキガエルやワニを踏みわけて
「逃亡する魂」は気高い
円の地平を越え
湾曲する湾から出航する
船に「生の合乗り」がはじまるんだ
幕舎には兎の神
森にはめしいたライオン
はるかに巡査は影絵のように見え
われわれは岸を離れる
菫色の鳥は翔けよ
無効なる汚物の上を
船ならばやがて沈むだろう
予言者ゾンネンシュターンは願うんだ
色鉛筆で紙に描かれた絵ならば
すみやかに
忘却されることを

          〔註 ゾンネンシュターンは「幻視者」と/いわれる異端の老人画家。カッコの/中の引用句は、同展覧会目録より借/用した。→*ゾンネンシュターンは「幻視者」といわれる異端の老人画家。/引用句は、同展覧会目録より借用した。→*ゾンネンシュターンは「幻視者」といわれる異端の/老人画家。引用句は、同展覧会目録より借用した。(/=改行箇所)〕

サイレント・あるいは鮭(G・25)

初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1975年1月号〔18巻1号〕一〇〜一一ページ、本文9ポ25行1段組、41行。

    芦川羊子の演舞する〈サイレン鮭[じやけ]〉に寄せる

薄明の山の川を遡る
鮭のからだは空胴のように暗く
多くの物とすれちがう
ときに死せる子供と
母親はかがんだ姿勢をして
入ってゆくようだ
冷たい半肉の伽藍へ
時経ると血が噴き出される
そのほかもろもろのもの
水垢
小骨
手桶をもつ男
綿菓子
きわめて日常的な万物が流転する
水面すれすれに
赤紙飛行機はとどまり
野の百合は飛翔する
暁の丘へ
のぼる若い女を見たことがある
二股の美しい尾をかざし
〈還元不能〉な言葉を求めているようだ
寺院の石階の下に
半身は汚れた藁で覆われて
顕現される
よこたわる鮭と
鉤にかけられた青空が在る
人はいつも人とすれちがい
水流のせせらぎを聞く
鮭はしばしば真紅の炎と遭遇する
別離の日々
〈時〉めくサイレンは鳴りひびく
塩漬の世界とは
永い旅の終りの比喩ではないのか
物はいつも物によって壊される
浄化された闇のなかで
若い女が襦袢をぬぎ湯浴するとき
肉体はほろび 一つの〈模像〉に還る
サーモンピンク
サイレント
鮭の皮
そこで人は眼をとじ口をとじ〔〔全角アキ〕さびしい夢をみ→23(トル)〕る

悪趣味な夏の旅(G・26)

初出は《新劇》〔白水社〕1975年7月号〔22巻7号〕五八〜六一ページ、本文9ポ23行1段組、6節72行、表紙に「詩 吉岡実 悪趣味な夏の旅」とある。

   1

ギルバートきみは善良すぎる
時計の竜頭を巻きながら
吊り棚から一丁の鋏をとり出して
旅へ出る

   2

わたしは友人だから
ギルバートきみの好きな常套句を引用する
「人間の体はきわめて凸凹がある」
そしていつもその周囲を
きみは廻りつづけている
ドラムカンのボデーを計るように
中腰になって
ギルバートきみは
夕暮れの街を歩〔(ナシ)→23いてゆ〕く

   3

モスグリーンの彼方へ
吸盤の花咲く妹と母を立たせて
ギルバートきみは
朝顔とダイヤモンドの都市から
追放されたのだ
それはまるで
「水に運ばれてゆく水」
のように自然なことなのだ
ギルバートきみの眼から
涙のかわりに黄色い糸屑が出る
ここはどこか?
「永遠に泥まみれの山羊の足」
の国だ
マッチをすると大きな石が現われる

   4

「服が体に合っていない
と首のまわりに突っぱった
骨が出る」
だからギルバートきみは
死にかかった兵士の制服をつくるのは下手だ
布と手足と
「どちらが長く どちらが短いか」
いつまでも考える
ひなげしの咲く
野原に坐って

   5

仕立職人の仕事には
非日常的な面がたぶんにある
「鹿はどこで水を飲むのか?」
ギルバートきみはそんなことを思いながら
半ダースの針を口にくわえる
それから暗い電燈をつけ
巨大な布地を鋏でジョキジョキ裁断する
その粗い毛織物の下で
事実うごきつづけている
意識や樹木や霧
もしくは肉体がある
ギルバートきみのデッサンは正確だ
紙をあてて腕や胸の線をなぞり
さいごに腿のところでテープを貼る
夏の日盛りの庭で
まるで青い食べ物のように
蒸気を出す
笑う女がいる

   6

わたしは友人だから
ギルバートきみの仕事の仕上りをみとどける
「切りきざまれた
世界
布地の切口と切口を縫合せる
できるだけ平らにしてのばして
目的物を包む
それでも包みきれないものが突っぱって出たら
カナテコで叩き
びらびらした余分なものは
糊で貼りつける
当然それは内部増殖する
無理な形で
地平線までせりあがる
だから手順よく濡らして
生地をひっぱりながら
熱いアイロンをまんべんなくかける」

示影針(グノーモン)(G・27)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1975年9月号〔7巻8号〕一〇四〜一〇八ページ、本文9ポ22行1段組、5節79行。
吉岡は1975年8月31日付の永田耕衣宛書簡で「猛暑の夏も今日で終る―この八月の最後の夜、やっとご返事が出来るようになりました。新句集《冷位》を一早く、渡辺一考君を通じて頂きながら、お礼を申上げずにいたことを深くおわび致します。丁度そのころ、ユリイカ九月号〈渋沢龍彦―ユートピアの精神〉という特集号の献詩を書いていました。そして恐しく心身を消耗していたからです」と書いている。

    澁澤龍彦のミクロコスモス

   1

「少女は消え失せ
はしなかったけれども
もう二度と姿を現わしはしなかった
現われて出てくる
やいなや
少女はすぐさま形態を
なくした」
それはとりわけ雷雨のはげしい夜
わたしは観念と実在と
つねに一致する
客体としての少女を求めているんだ
その内部にはしばしば綿がつめられている
(一下)→23(天ツキ)〕「デルタの泥土のなかで
(一下)→23(天ツキ)〕花を咲かせるという
(一下)→23(天ツキ)〕大いなる原初の白蓮[ロータス]」
少女は言葉を分泌することがない

   2

(一下)→23(天ツキ)〕「わたしは幼年時代 メリー・ミルクというミルクの
(一下)→23(天ツキ)〕〔12罐→缶〕のレッテルに 女の子がメリー・ミルクの〔12罐→缶〕を抱〔(ナシ)→23え〕
(一下)→23(天ツキ)〕〔い→23(トル)〕ている姿の描かれている」
その〔12罐→缶〕を抱えている屋敷の女の子を眺めながら
わたしは水疱瘡に罹っていた
どんぐりやさやえんどう豆のなる
田舎の日々
体操する少女のはるかなる視点で
わたしは矮小し
(一下)→23(天ツキ)〕「動物と植物の中間に位置する
(一下)→23(天ツキ)〕貝殻や骨や珊瑚虫」
それら石灰質の世界へ
通過儀式を試みる

   3

漁師がやってくる
神話からもっとも遠い処まで
捕えたものは
一匹の鰈
「ロンボスの霊」
わたしの調査では
「ロンボスなるものの実体が まるで雲をつかむ
(一下)→23(天ツキ)〕ようにあいまいもことして つくづく驚かされる」
わたしの好きな無へ奉仕する道具
螺旋志向!
「アパッチ族のシャーマンは ロンボスを回転さ〔(ナシ)→23せて〕
(一下)→23(天ツキ)〕〔せて→23(トル)〕不死身になったり 未来を予見する」
そもそも
ここには受胎も生産もなく
「ロンボスとは〔(全角アキ)→23(ベタ)〕子供の玩具以外の何物でもない」
素朴な唸り声を発している
「青銅の独楽」
かも知れない

   4

わたしの夢みる動物類とは
(一下)→23(天ツキ)〕「不死鳥[フエニツクス] 一角獣[ウニコルニス] 火蜥蜴[サラマンドラ]」
(一下)→23(天ツキ)〕とくに珍重するものは
(一下)→23(天ツキ)〕「フップ鳥」
わたしたちの対象となり得ないもの→23ウプパ ククファ フドフドと鳴きながら〕
動物から天使までのあらゆる存在に→23砂漠のなかで〕
変身する可能性をもつ→23地中の水や宝を見つける〕
(一下)→23(天ツキ)〕「フップ鳥」
(一下)→23(天ツキ)〕「女を一個の物体の側へと近づける」
媒介をして
亀甲型の入れ子を多数うませる
(一下)→23(天ツキ)〕「フップ鳥」
一度語ったことについては二度語ることはない
一度行なったことについては二度行なうことはない
(一下)→23(天ツキ)〕「フップ鳥は母鳥が死ぬと
(一下)→23(天ツキ)〕その屍体を頭の上にのせて
(一下)→23(天ツキ)〕埋葬の場所を探し求める」
火のなかを
水のなかを
或は土のなかを――

   5

(一下)→23(天ツキ)〕「人間の想像力は 或る物体が一定の大きさのまま
(一下)→23(天ツキ)〕留まっていることに 満足しないもののようである」
それと同時に
織物の目を拡大し
生命を縮小させる
わたしたち人類というものは
(一下)→23(天ツキ)〕「最初の時計から
(一下)→23(天ツキ)〕最初のセコンドが飛び出して以来
(一下)→23(天ツキ)〕それまで神聖不可侵と考えられていた
(一下)→23(天ツキ)〕自然の時間
(一下)→23(天ツキ)〕神の時間が死に絶え
(一下)→23(天ツキ)〕もはや二度と復活することがなかったのである」

                   *示影針=日時計のこと

カカシ(G・28)

初出は《旅》〔日本交通公社〕1975年9月号〔49巻10号〕二〇〇ページ〔対向の二〇一ページは後出カラー写真〕、本文20級1段組、15行、「嵯峨野の案山子 '74「旅」写真コンテスト入選作品 カメラ 河原誠三」。

シジミの化石の出る
水田の周〔圍→23囲〕から夏は逝く
男と女の仮相をして
「夜も昼も立っている者」
の棲む処では
鳥の群も向きを変え
羊羮のような山の方へゆく
「焼魚
蓮根の煮つけ
冷飯」
の食事は終り
夢みるべく人はみなへちま棚の下に集る
この村落では言霊とともに
目隠しの屏風のなかで
赤ん坊が生まれる

少年(G・29)

初出は《饗宴》〔書肆林檎屋〕1976年5月〔春・1号〕二〜六ページ、本文は旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、12ポ15行1段組、6節53行。漢字の旧字使用とひらがなの拗促音の並字使用は、他の掲載詩篇を見ても《饗宴》誌の編集方針だと考えられるので、一連の〔(旧字)→23(新字)〕と〔(拗促音の並字)→23(拗促音の小字)〕は本校異の対象としなかった。

   1

蝶や蜜蜂のように
遠くへ向う
わたしは少年だったから
草原の平面を割って
ゆくキツネと狩人に化けた死人を見たようだ
水辺の花は標的のようにおののき
少年の頭髪は濡れる
春はうずらの肥える斑の多い季節

   2

「わたしの内密な経験の貯蔵庫」
そこでは芽ぶく玉葱やじゃがいものかわりに
青いブドウの房を抱え
生薬屋の娘を抱え
腐るものすべてを抱えて
地階へ降りてくる
観念の大男が見えるんだ

   3

理由はいくらでもつく
少年のすきな闇のなかには
柱のようなもの
球形のようなもの
それらが存在する
「男根の切断面から生える巴旦杏」
を採りにくる
農夫の娘を見つけ
わたしは熱い地の風を浴びた

   4

箱のなかで成長する
虎がいるように
少年は亀甲体のなかで
日々成長する
しかしいまなお
千鳥という鳥は
図案のなかにしか翔んでいない
外はひまわりの花の傾く夏も終り

   5

姉妹よ きみらはどうして
炎で構成されているのだ
すでに
「わたしの魂は松の根に入り
その血からスミレが咲く」
兄弟よ きみらは
松やスミレを焼きほろぼす

   6

眼のなかで水をつりあげ
もしくは太陽をつりあげる
水母神がいるように思われた
岩棚の奥に
天然自然のものを
人々は多く窓から覗くことしかできない
だが少年〔は→23よ〕探〔す→23せ〕
現し世の彼方に
ときじくの果実を〔……→23――〕
そこここでは→23(トル)〕
事実ものが動きつづけている
「夜な夜な人間を火中に入れて
その死すべき部分を焼きつくそうとする」
美しい漁師の娘がいる

あまがつ頌(G・30)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1975年12月臨時増刊号〔7巻12号〕二〇〜二五ページ、本文9ポ22行1段組、X節90行。

    北方舞踏派《塩首》の印象詩篇

   T

すでに秋
自転車のチューブのようなもので
全身を巻かれ
雨のなかに立って
馬がいるじつに寂しく
藁と泥で盛り上った結界に
開かれた口が在る
魚や獣の骨片を
人々が隠蔽するために投げ入れた
汚れた穴から
長い杖をふりかざして
胎内のからくりを
告発しながら
這い上ってくる者がいる
杖で叩かれた周囲は陥没した
粟飯

稗の穂はなびき
まるでゴヤの描く
紅服の美少年が出現する
地に乳は溢れ
〈物語[イストワール]〉のはじまり

   U

棺桶の底で
塩をきしませ
こってり明礬をきかして
紫の茄子を染めあげた
飢餓説話を伝承せよ
うろうろするあまがつの子供たち
「月下に影を落さぬ
ランプ」
そこにさんざしの花を飾り
腰高障子にかこまれて
紙一重の
かもしかの生死を視よ
シャーマンは北方志向す
はぐろの荘厳の山へ
ざらめ雪は降る
人々は黒塗りの首をたれ
火打石を打ちあわせては
火種を取り
肉体を回収する
混合物[アマルガム]の闇のなかより――

   V

干葉汁をすする歯黒の童女かな
   *
葛山麓糞袋もたぬかかし達
   *
湯殿より人死にながら山を見る
   *
雪おんな出刃山刀を隠したり
   *
喪神川畜生舟を沈めける
   *
線香花火塩首なればくずれけり
   *
あけびの実たずさえゆくやわがむくろ

   W

箸二本を持ち めし碗のふちを鳴し
雪の野原をさまよいゆく
白子の五人の姿が見えるか
聖像画のように
杉の葉で呪縛されたまま叫ぶ
「キントンが食べたい」
肉体は閉ざされ
電圧は極点まであがる
しょせん〈魂の在所〉は無いのだろうか?
女は紙と鋏しか所有せず
幾粒かの黒いクレオソート丸を噛み
膠を煮つめて夜は
漬け物樽の辺を歩くじつに悲しく
この濁世での尋ね人
(霊と繭の中間)の
絶世の美少年は宣言する
観念を守るために
土石柱を
既成言語を
〈タスカロラ海溝〉へ沈めよ!

   X

紫の嵐の波は
風がつくるものでなく
数多くの生身の男たちがつくる
透視された内臓の波
ゼラチン状に
肉の岸へ打ちよせ回帰する
花の拷問図法
精神的な女は人形をつくる
「木毛 ハリコ 桐粉 鉛などで
形づくりをして
蝋絹 ときにはメリヤスを張る」
現在もっとも必要とする
うつろな頭をすげかえ 手足をとりかえ
血肉の壊滅は行われた
廃物穀物倉の暗い片隅での
〈物語[イストワール]〉の終り――
骨折り 肉たたみ
愛する美少年と
チューブの馬は同一のままである
顕示された穴へ
混合物[アマルガム]として再び埋没する

悪趣味な内面の秋の旅(G・31)

初出は《文藝》〔河出書房新社〕1975年11月号〔14巻11号〕二二四〜二三一ページ、本文9ポ23行1段組、7節145行。初出「本文カット/吉原英雄」。
吉岡は1975年8月31日付の永田耕衣宛書簡で「〔……〕過日、〈琴座〉三百号記念号へ執筆せよとの速達の手紙を頂きながら、今日まで明快な返事が出来ず困っておりました。それは、西脇順三郎《詩と詩論》月報の締切が同じころという巡りあわせがあるのです。その構想も出来ず、まず十五枚という小生うまれて初めてともいうべき枚数に、毎日おろおろしているところです。その上、運わるく(これもすでに二カ月前に依頼されたもの)ある文芸誌に長い詩を書かねばなりません。小生は、二つも原稿書きがあると、どうしても気が散ってうまくゆきません」と書いている。

   1

内なる旅とは負の回路をめぐり
霧のたちこめる入江から
ねこじゃらしの茂る道を行く
「目覚めて夢みる人」
殺虫剤の臭う街の日々
生者は苦役にはげみつつ
死者はサングラスをかけて休息する
バイオリン形の女を求めて
旅する者はときに少年のように
転倒する
旅[トリツプ] 夢遊状態[トリツプ]
こわれるものがあり こわれないものがあり
こわれつつあるものがあり
その中間に分裂するものがある
転倒する道化師
転倒するフラスコ
転倒する言語
転倒する建築物
すべて過剰なもの
一茎のアネモネのほかは

   2

妊娠やはしかのように
突然やってくる悲劇の正常性
「時」の皮膚をただれしめたり
反対に「水」の流れを止める
非現実性の湾に泛ぶ
一個の梨がある
あたかも存在の核が空っぽになった
種の人間
種の下降へのねがいとは
死へ向ってささやく
耳にここちよい子守唄
旅する者は肉襦袢を脱いで眠るだろうか
雨にぬれて鷹がとぶ

   3

「風景
それはある魂の
状態である」
旅する者の地上に
いまや残るものといったら
そらまめの花か
空洞体にすっぽり収まる同量の闇だけ
それすらフレーム
だんだん縮小するフレーム フレーム
フレームの内側に抑圧され
「女の肉体の天然の富は失われた」
あきらかに
アルミニュウムとガラスの被膜づくりの
立方体の天井から
発生しはじめた赤い糸屑は浮遊する
施工人は驚き 庭師も驚く
旅する者はみずからの
相似形の骨体を求めて歩く
みちびきの犬が小便をかけまわる
ヒースの草むらを通り
雄型の池をめぐる 微風のように
雌型の花壇をめぐる 冷水のように
そしてわれわれの旅する者は
倒立像に化す
霜ふる芝生の枯れた園に
器官[オルガン]のごとく
しかし其処すら
「仮泊の場にすぎない」

   4

「自然と精神のあいまいな境界に位置する
幼児という存在には
動物から天使までの
あらゆる存在に変身しうる可能性がある」
われわれが知っている
隣人の幼児はやわらかい手足を持ち
泣いたり 尿をながしている
しかしその実相としては
かれらまがまがしき「幼児」は漂泊を試みているのだ
内的な戦闘を経験し
堅固な家のベッドへ戻ってくる
「幼児」は姉妹にみとられて
粘土ののっぺらぼうに化す
或は地獄をおしすすむ英雄になる

   5

われわれが「アドニス」と呼称しているものは
ことばの産物にすぎない
しかし内的な衰弱を感じる
われわれ旅する者の側からみる
父親のすがたとは
形状をととのえている夢の「アドニス」のひとり
もしくは母親の縫っているうぶぎに包まれた
影のかたつむり
擬似男性
われわれが「ヴィーナス」と呼称しているものは
ことばの詐術にすぎない
秋の夜は挽棒状の脚
梯子状の背もたれのある
椅子に腰かけ
旅する者は考える

   6

われわれに
近づいてくる
機械が変質を仕掛けてくる
かぼそい砲金の管や鉤状の機械は潤滑油にぬれ
ハイスピードで繊維を紡ぐ
そして花模様をゆっくりと織りながら
空気入りの物体を包む
それは正四角の木箱
といえばそう見え
または弾力あるタイヤ
と思えばその手ざわりがある
情緒的な雰囲気で
母親がのぞきこめば胎児を確認できるかもしれない
ぐっと見方を替えて
砂まみれの顔せるわれわれの友
旅する者の眼差しには
水遊びのあとの少女が夢想される
イナンナ
イシュタル
薄明の世界に遠のく
いにしえの地母神像
燐!

   7

「パンヤをヘラのような器具を使って
奥のほうからたんねんに詰め込み
女神像を作る」
種族の住む処を求めて
メンルン氷河地帯に入った
われわれの探索の終りかもしれぬ
旅する者は見聞するだろう
アフロディーテーの化身たる
生ける女神を仰ぐ
「ガラスの壁にへだてられている
感覚(世界)」の彼方
おお〈雪女リディニ〉が出現する
 
 『ああ美しきかな
 なんじの瞳は鴿[ハト]のごとし
 なんじの腹はつみかさねたる麦のまわりを〔〔改行して二下〕→23(追い込み)〕
  百合花をもてかこめるがごとし
 なんじの頸は象牙のやぐらのごとし
 なんじの唇は石榴の半片に似たり
 なんじの髪 体毛は葡萄のごとし
 なんじの身の丈は棕櫚の樹に等しく
 ああ偉大なるかな』
 
イナンナ イシュタル ヴィーナス
この世の高き処で
雪の泡をはんらんさせ
聖なる氷の床の上で
雪男と〈雪女リディニ〉の婚姻が行われた
白一色の不定形のもののまぐわいとは
おたがいがおたがいを抱き込め
月光を浴びつつ反響し
消し去ってゆき
自己同一性を成就する

「われわれは本当に自己の身体のなかに収まって
いるのだろうか?」
旅する者はわが心に問う

                   〔1975・9・22→23(トル)〕

――――――――――

校異では初出と単行詩集・全詩集の比較対照に終始したが、単行詩集・全詩集の〈ルイス・キャロルを探す方法〉の本文には校訂すべき処が4箇所があるので、以下に掲げる。まず〔少女伝説〕Tの第1節初出形を字詰め(25字)どおりに再現する。

ドッグソン家の姉妹ルイザ マーガレット アンリエッ
タ 緑蔭へ走りこむ馬 読書をつづける盛装の三人 見
よ寝巻のなかは巻貝三個

これに修正が入ったため、単行詩集・全詩集(同じく25字詰)とも、次のようになっている。

ドジソン家の姉妹ルイザ マーガレット ヘンリエッタ
緑蔭へ走りこむ馬 読書をつづける盛装の三人 見よ寝
巻のなかは巻貝三個

詩句の意味からいってもイメージからいっても、「ヘンリエッタ」のあとの(もともとあった)全角アキを欠かすわけにはいかない。つまりここは

ドジソン家の姉妹ルイザ マーガレット ヘンリエッタ
 緑蔭へ走りこむ馬 読書をつづける盛装の三人 見よ
寝巻のなかは巻貝三個

でなければならない。行頭の全角アキは省略した、という説は成り立たない。単行詩集・全詩集の〈タコ〉第2節の散文詩型(25字詰)に、全角アキが行頭に来ている処が2箇所あるからである。なお、行頭の全角アキを回避する方法として、前の行で字間を割って1文字送るという組版の調整方法があるが、《サフラン摘み》では採られていない。さらに校訂が必要な別のパターンがあるので挙げよう。同じく〔少女伝説〕Uの後半、初出形を途中から引く。

〔……〕ミレエスの娘メアリ クランボヌ教区司祭の娘
ダインフナ・エリス
          遅れてきたのは誰? あら支那の
娘の紛装したアレクサンドラ・キッチンだわ いとしの
クシイー けさ水汲みに行って 最初に見たのはなんな
の? 串の魚それとも 舟を漕ぐ農夫 蝶を捕える青空
の下の網 聞かせてよ 支那のウグイスはどんな鳴き方
をするか? ペルシャ模様の八個の箱の上で 夢みるク
シイーよ 川のほとりで 最後に見たものはなんなの?
 あなた自身の肉体 その影に心があるようで ないよ
うに見える なまめかしくも幼い聖痕?
                   みんなでこれ
からキャロルおじさんを探すのよ それは包帯で巻かれ
た幽霊群のなかで 副葬花束を持った人だわ!

htmlファイルの横組表示でわかりにくければ、テキストファイルに変換して縦組表示にするとはっきりするのだが、「遅れてきたのは誰?」の上のアキは「一〇下」という固定値ではない。前行の「ダインフナ・エリス」+(全角アキ)+(改行〔より正確には、1行分用紙を進めることを意味する「LF=Line Feed」としての改行〕)を受ける相対的な位置関係をここから読みとらなければ、作品の意図を見うしなうことになる。次の「なまめかしくも幼い聖痕?」と「みんなでこれからキャロルおじさんを探すのよ」の間の改行箇所も同断である。最後に9行から成るブロックの終わりのほう、単行詩集・全詩集で

川のほとりで最後に見たものはなんなの?□□あなた自身の肉体

と詩句の間で二倍アキになっているのはTの「ヘンリエッタ」の場合と同様、全角アキでなければならない(初出には改行箇所があって紛らわしいことは紛らわしいが)。上記の〔少女伝説〕Uの校訂結果をまとめると

ーの娘メアリ クランボーン教区牧師の娘ディンフナ・
エリス
    遅れてきたのは誰? あら支那の娘の扮装した
アレクサンドラ・キッチンだわ いとしのクシイー け
さ水汲みに行って 最初に見たのはなんなの? 串の魚
それとも舟を漕ぐ農夫 蝶を捕える青空の下の網 聞か
せてよ 支那のウグイスはどんな鳴き方をするか? ペ
ルシャ模様の八個の箱の上で 夢みるクシイーよ 川の
ほとりで最後に見たものはなんなの? あなた自身の肉
体 その影に心があるようで ないように見える なま
めかしくも幼い聖痕?
           みんなでこれからキャロルおじ
さんを探すのよ それは包帯で巻かれた幽霊群のなかで
 副葬花束を持った人だわ!

となる。〈ルイス・キャロルを探す方法〉の〔少女伝説〕の如上の4箇所は、来るべき《吉岡実全集》にこの詩篇(吉岡実詩のなかで屈指の傑作である)を収録する際には、ぜひ執筆時の試みを活かす形に改めてもらいたい。

〔付記〕
本詩集の単行本の巻末(奥付対向ページ)に掲載されている〈初出誌紙一覧〉には、残念ながらいくつか誤りがある。すでに各詩篇の本文前に詳細な初出記録を掲げたので、ここでは〈初出誌紙一覧〉と原典を校合した結果を本文の校異と同様の書式で記し、誤記・誤植を正しておこう。

初出誌紙一覧
サフラン摘み 「現代詩手帖」1973. 7.
タコ 「ユリイカ」1972. 〔11→10〕 臨増
ヒヤシンス或は水柱 「風景」1972.〔7→6〕.
「ユリイカ」1972. 4.
マダム〔(ナシ)→・〕レインの子供 「ユリイカ」1973. 1.
悪趣味な冬の旅 「中央公論」1972. 7.
ピクニック 「芸術生活」1973. 7.
聖あんま語彙篇 「美術手帖」1973. 2.
わが家の記念写真 「文学界」1973. 11.
生誕 「読売新聞」1974. 3.〔(ナシ)→24.〕
ルイス・キャロルを探す方法 「〔(ナシ)→別冊〕現代詩手帖」1972.6 〔臨増→(トル)〕
〔(ナシ)→『〕アリス〔(ナシ)→』〕狩〔(ナシ)→り〕 『アリスの絵本』1973. 5 牧神社
草上の晩餐 「現代詩手帖」1974. 4.
田園 「ユリイカ」1973. 9.
自転車の上の猫 「松井喜三男展」パンフレット 1974. 4.
不滅の形態 「別冊小説新潮」1974. 夏季号
フォーサイド家の猫 「ユリイカ」1973. 11.
絵画 「風景」1974. 5.
異霊祭 『異霊祭』1974. 4 書肆山田
動物 「季刊俳句」197〔4. 秋→3. 10 1号〕
メデアム・夢見る家族 「文芸展望」1974. 夏〔(ナシ)→ 6号〕
舵手の書 「現代詩手帖」1974. 10 臨増
白夜 「鷹」1974. 10.
ゾンネンシュターンの船 「ユリイカ」1974. 12 臨増
サイレント・あるいは鮭 「現代詩手帖」1975. 1.
悪趣味な夏の旅 「新劇」1975. 7.
示影針 「ユリイカ」1975. 9.
カカシ 「旅」1975. 9.
少年 「饗宴」1976. 春〔(ナシ)→ 1号〕
あまがつ頌 「ユリイカ」1975. 12 臨増
悪趣味な内面の秋の旅 「文芸」1975. 11.

発表媒体名や発表年月日を誤ると、文献探索する者をミスリードしてしまう。媒体名の漢字の新字/旧字の別も大事なことには違いないが(文献にたどりつく際に支障がないので、〔付記〕では校異の対象としなかった)、類推がきかないこうした点こそ正確でありたい、という自戒の念をこめて掲げる。

〔2019年1月31日追記〕高橋康也宛吉岡実書簡(1976年4月13日付封書)のこと
2019年1月初め、ヤフオク!に吉岡実が高橋康也に宛てた書簡(封書とハガキ各1点)が出品された。ハガキは競り落としたが、封書は逸した(3万円を超えた時点で退いた)。この封書には吉岡が〈ルイス・キャロルを探す方法〉(G・11)の校閲を高橋に依頼したことが書かれていたのだから、入手できないのは残念だった、などと暢気に構えるわけにはない。だがいきなりそこに行くまえに、状況を確認しておこう。〈ルイス・キャロルを探す方法〉の初出本文の人名・地名は、単行詩集に収められる際に全面的に見直されている。〔わがアリスへの接近〕においては

 アリス・コンスタン・スウェストマコット → アリス・コンスタンス・ウェストマコット
 わが少女アリス・リッデル → わが少女アリス・リデル
 リッデル! → リデル!

と軽微だったが、〔少女伝説〕においては

 ドッグソン → ドジソン
 アンリエッタ → ヘンリエッタ
 エリザベス・ヒュースィー → エリザベス・ハッセー
 ロバー・ヒュースィー → ロバー・ハッセー
 エフイー・ミレエス → エフイー・ミレエー
 マリア・ホワイト → マリリア・ホワイト
 マドリーヌ・キャサリン・パーネル → マデライン・キャサリン・パーネル
 メリー・マクドナルド → メアリー・マクドナルド
 エラ・モニアーウイリアムズ → エラ・モニア・ウイリアムズ
 主任判事 → 首席裁判官

 テニスン → テニソン
 コートゥス教区司祭館の使用人の娘クロフト・レクトリー → クロフト牧師館の使用人の娘 仇名は「コーツ」
 エリザベス・ヒュセイ → エリザベス・ハッセー
 アミイ・ヒューズ → エミイ・ヒューズ
 イレーネ → アイリーン
 ピュートニィー → パトニー
 ベアトリス・へンレイ → ベアトリス・へンリー
 ピュッシー → ピュージー
 カティー・ブライヌ → ケイティー・ブライン
 ジョーン・ミレエス → ジョン・ミレー
 クランボヌ → クランボーン
 ダインフナ・エリス → ディンフナ・エリス

と大幅に修正されている(わかりやすいように手入れの結果を整理してみた)。初出時の原稿作成にあたって欧文綴りの人名をカタカナ表記する際、外国語に不案内な吉岡は語学に堪能な身近な人物に頼んだはずだ(私には具体的なある人物が想いうかぶが、確証がないので氏名は記さない)。その人はおそらくフランス語の素養を積んだためであろう、アリスをはじめとするイギリス人の名前をフランス語ふうに読みといてカタカナにして示したと思しい。初出を読んだ人間が人名の表記に疑問を抱いて吉岡に伝えたとすれば、それはルイス・キャロル論を書いた、かつては編集者だった種村季弘であってもおかしくない(吉岡は《種村季弘のラビリントス》の推薦文〈逸楽的刺戟と恩恵と〉で、「あの印象深い緑の一冊の書物――《ナンセンス詩人の肖像》がなかったら、私のアリス詩篇すなわち〈ルイス・キャロルを探す方法〉が現在のような形で、まとまったかどうか疑わしい。当時はまだ、ルイス・キャロルへの言及はほとんどなく、私は種さんの書いたチャールズ・ラトウィジ・ドジソンの略伝〈どもりの少女誘拐者〉を、唯一の参考文献としたものである」と書いている)。だが、吉岡が〈ルイス・キャロルを探す方法〉を詩集に収めるにあたって校閲を依頼したのは、イギリス文学の泰斗・高橋康也であり(初出掲載号の《別冊現代詩手帖》は、高橋の全面的な助言・助力によって成った)、その証左となるのが件の書簡だった。原物の写真を掲げよう。

吉岡実が高橋康也に宛てた封書の文面(1976年4月13日付)〔出典:ヤフオク!〕
吉岡実が高橋康也に宛てた封書の文面(1976年4月13日付)〔出典:ヤフオク!〕

念のために、吉岡実が高橋康也に宛てた1976年4月13日付の封書の文面を起こしておこう。なお、ヤフオク!出品時のタイトルは〈吉岡実 ◆自筆肉筆 真筆 書簡◆高橋康也 宛◆『サフラン摘み』 高見順賞受賞◆『僧侶』H氏賞受賞詩人◆アリス詩篇 ベケット ルイスキャロル〉で、その説明には「ルイス・キャロル、サミュエル・ベケット、シェイクスピアなどの研究で知られ、英国よりCBE勲章を受章した、高橋康也の旧蔵品より―/現代詩のひとつの到達点とされる『僧侶』などの作品で、戦後最高の詩人の一人に数えられる、吉岡実。/今回のお品は、吉岡実の、自筆書簡です。/高橋康也へ宛てられたもので、高見順賞を受賞することになる、『サフラン摘み』のことなどが記されていて、興味深いです」とある。

拝啓
お元気で、お仕事のことと思います。
この二月でしたか、田中、森本兩君と参りま
したが、仕事のひきつぎなどで、ゆっくりお話も
できず残念でした。さてその折申上げたア
リス詩篇の人名の訂正のこと、いよいよ必要
になりました。ご多忙のことと思いますが、よろ
しくお願い申上げます。コピーを同封しま
したので、それに手を入れて頂ければ幸甚です。
昨日、青土社の三浦、三輪兩君に会い、新詩
集の原稿を渡し、ほっとしたところです。
題名はいろいろ迷いましたが、妻のすすめ
る《サフラン摘み》といたしました。一寸、や
さしすぎるかも知れませんが、面白いと思いま
す。七月ごろには刊行されるでしょう。
勝手ですが、家にでも電話下されば、頂きに
参ります。            不一
          四月十三日
              吉 岡 実
 高橋康也様

吉岡実の随想〈「想像力は死んだ 想像せよ」〉(初出は《現代詩手帖》1977年5月号〈一語の魔・魔の一語〉)冒頭の「ある早春の朝、私は所用があって、近くの高橋康也さんの家を訪問した。ここは鉢山とか南平台という美しい地名の隣接した閑静なところである」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、八三ページ)がこの1976年2月のことなのかわからないが、高橋家は吉岡と同じ目黒区青葉台にある。したがって、高橋から連絡をもらった吉岡は自宅からなら徒歩で訪問したに違いない。ここで、文中の人名に註しておく。「田中、森本兩君」は筑摩書房の編集者、田中昌太郎・森本政彦と思しい。「青土社の三浦、三輪兩君」は、当時《現代思想》編集長だった三浦雅士と出版部の三輪利治。文面によれば、1976年4月12日(月曜日である)に《サフラン摘み》の原稿(おそらく陽子夫人が浄書した手書きのそれ)を出版社の編集担当・制作担当に渡したのだから、このときの〈ルイス・キャロルを探す方法〉の人名や地名の表記は初出時の印刷物とほとんど同じだっただろう。その後、詩集の校正が初校・再校と進んでいったある段階で、高橋の校閲の成果を反映した赤字が加えられたに違いない。そうしたさなか、先に述べた〈ルイス・キャロルを探す方法〉の〔少女伝説〕で改めるべき4箇所は、人名・地名の修正作業に紛れて、本来あるべき姿から遠ざかっていったのではあるまいか。詩集の刊行が、予告された7月から実際に出た9月末までずれこんだのは、描きおろしを依頼した片山健の装画がなかなか仕上がらなかったことにもよろうが(随想〈画家・片山健のこと〉参照)、本文の校了まで、予想以上に時間がかかったためだと思われてならない。そうした制作の裏側の事情をうかがわせる書簡が、吉岡が高橋に宛てた1976年4月13日付のこの封書だったのである。

〈ルイス・キャロルを探す方法〉の初出誌を編集した桑原茂夫は、高橋康也を追悼した〈キャロル・キャラクターの持ち主〉(高橋迪編《思い出は身に残り――高橋康也追想録》中央公論事業出版、2004年5月30日)で次のように書いている。

 「別冊現代詩手帖」第2号「ルイス・キャロル」号の編集にとりかかっていた1972年春にぼくは初めて高橋康也さんにお会いすることができた。詩人・吉岡実さんのあたたかいすすめによる出会いだった。
 「ルイス・キャロル」の特集企画は、1969年、ぼくが月刊「現代詩手帖」の編集者として種村季弘さんの連載エッセイ「ナンセンス詩人の肖像」を担当しているとき、ルイス・キャロルの思いがけない一面を知ってから、いつかはと念じる企画になっていた。やがて「別冊現代詩手帖」の編集に取り組むようになり、その第一号として「泉鏡花」号を編集し、それなりに評価を得ることができたので、第二号に懸案のルイス・キャロル特集を提案することができた。
 ウソのようなホントの話なのだが、当時はルイス・キャロルといっても、かの『不思議の国のアリス』の作者であることさえ、ピンとくる人が少なかったので、実は大胆な企画提案だったのである。詩人たちのなかでは、ぼくが信頼していた、滝口修造さんをはじめ、加藤郁乎さんや天沢退二郎さん、矢川澄子さんたちに声をかけ賛同してもらっていたが、ちょうどその頃「しばらく詩を書かない」と公言していた吉岡実さんにも、ほかならぬアリスでありキャロルだからと、お願いしに行った。そのときだった。吉岡さんが勤務していた筑摩書房でルイス・キャロル全集の企画が進んでおり、その中心に高橋康也さんという英文学者がいること、なかなかの人なので一度会って相談してみよというアドバイスをいただいたのである。
 〔……〕
 ちなみにこのとき吉岡実さんは、「ルイス・キャロルを探す方法」という名作を寄せてくれたのだが、これはキャロル撮影の少女写真を見ながらという趣向の作品で、少女ひとりひとりの名前が重要な意味を持っていた。そこで慎重を期していちいち高橋さんに発音と表記を確認し、それを吉岡実さんにお届けした。その時点で高橋さんは、吉岡作品にほとんどエキサイティングな期待を抱いていたようである。(同書、一四五〜一四六ページ)

「筑摩書房で進んでいたルイス・キャロル全集の企画」は日の目をみなかった。とはいえ、1977年12月20日、高橋康也・沢崎順之助訳で《ルイス・キャロル詩集――不思議の国の言葉たち》――チャールズ・ラトウィジ・ドジソン少年が13歳の時に書いた詩から始めて、二つの『アリス』物語、『スナーク狩り』、『シルヴィーとブルーノ』など主要作品から〈詩〉を摘みとって編み上げた“不思議の国”のアンソロジー(文庫版裏表紙)――がほかならぬ筑摩から出ているのは、幻に終わった全集のなごりに違いない。なお、前掲吉岡書簡に見える田中昌太郎は《ルイス・キャロル詩集》初版の、森本政彦はその初版に《不思議の国のアリス》の献詩を加え、旧訳・旧註を推敲した文庫版の担当者である(高橋は〈あとがき〉でふたりの「機知と熱意と忍耐」に感謝を捧げている)。文庫版は、《原典対照 ルイス・キャロル詩集〔ちくま文庫〕》(1989年4月25日)として、ジャケットや各扉ページにキャロル撮影の少女の写真を添えて刊行された。それは、〈ルイス・キャロルを探す方法〉の初出で、キャロルの写真を材に詩とモンタージュのみならずレイアウトまで手掛けた吉岡を慶ばせたことだろう。

アリス詩篇をめぐる吉岡実と高橋康也のやりとりのなかで最も重要なのは、いうまでもなく高橋の〈吉岡実がアリス狩りに出発するとき〉(初出は《ユリイカ》1973年9月号〔特集=吉岡実〕、のち高橋康也《ノンセンス大全》、晶文社、1977)である。初出はこう始まっている。(同誌、九八〜九九ページ)

 吉岡実氏はまる二年余にわたるほぼ完全な沈黙を、最近、数篇の「アリス詩」によって破ったように見える(『別冊現代詩手帖第2号』の「ルイス・キャロルを探す方法」および『アリスの絵本』の「『アリス』狩り」)。氏の愛読者をもってひそかに自任し、かつたまたま同時に[、、、、、、、]ルイス・キャロルに魅せられていたぼくとしては、このことは二重の意味で大きな喜びであり、驚きであった。
 〔……〕
 吉岡氏と「アリス」との因縁については、実はすでに紛れもない物証があったのだから、ぼくのうかつさはほとんど救いがたいと言わなければならない。思潮社の現代詩文庫の「吉岡実詩集」(一九六八)の巻末に収められた高橋睦郎氏との対話の終り近くで、氏自身が証言していたのだ!

 問=最近感動した本は?
 答=「ふしぎな国のアリス」

ここで注目すべきは「思潮社の現代詩文庫の「吉岡実詩集」(一九六八)」という出典の明示である。

 〔……〕「最近感動した本は『ふしぎな国のアリス』だ」という、その「最近」とは厳密にいつなのか。……
 こうなると、ものを解明したがる二流の性[さが]の人間としては、ものを創る一流の人間をつかまえて、甲斐なき愚問を発しないではいられなくなる。二年前パリでベケッ卜に会って質問したとき、「いや、どういうわけか私はキャロルに惹かれたことはないのです」という答えが返ってきて、ジョイスやボルヘスの場合を思いくらべつつ、「やっぱり」と合点しながらも、少しがっかり(?)した覚えがある。吉岡氏との一席をもうけて下さるという「ユリイカ」編集部の申し出に、結局、ぼくはおののきながら応じたのであった。実際には「アリス」以外のよもやまの話に花が咲いてしまったのだが、以下が、テープを聞き直しながら要約した吉岡氏の話のさわりの部分である。(同誌、一〇〇ページ)

私の手許に、吉岡実が高橋康也に宛てた《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、「一九七二年九月十五日第六刷」)がある(2019年1月、渋谷の中村書店で購入)。本扉には「高橋康也様 1973, 7, 24/吉岡実」と献呈署名が黒もしくはブルーブラックインク(経年変化で色が判別しにくい)のポールペンで記されている。この1973年7月24日(火曜日)は、「吉岡氏との一席をもうけて下さるという「ユリイカ」編集部の申し出に、結局、ぼくはおののきながら応じた」面談のその日だったのではあるまいか。いま「吉岡が高橋康也に宛てた」と書いたが、この本は吉岡が贈った[、、、]ものではなく、高橋が持参した一本にありあわせの筆記具で記したものと思しい(毛筆〔筆ペン〕は除いて、吉岡が本格的に献呈署名する際に用いたのは、決まってブルーブラックインキのパーカー製万年筆だった)。今日まで吉岡の署名本を少なからず見てきたが、ポールペンによるそれは初めてである。

吉岡実が高橋康也に宛てた《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、「一九七二年九月十五日第六刷」)の本扉 吉岡実が高橋康也に宛てた《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、「一九七二年九月十五日第六刷」)の〈春のオーロラ〉の見開きページ
吉岡実が高橋康也に宛てた《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、「一九七二年九月十五日第六刷」)の本扉(左)と同書の〈春のオーロラ〉の見開きページ(右)

 ええ、そこへ『アリス』が来るわけですが、ああ、『静かな家』でも「少女」がそんなに何回も出てきますか〔文庫本で数えても六回、ほかにも「処女」や「姉」「妹」などがある〕。そう、少女エロティシズムか……だから、もともと悪い人間なんだな。成人のストリップは見られるけど、少女のは見られない。願望というやつかな。へえ、キャロルは芝居好きだったの。ストリップがあったら、きっと見たろうね。(同誌、一〇二ページ)

この献呈署名入りの高橋康也旧蔵本には「『静かな家』でも「少女」がそんなに何回も出てきますか〔文庫本で数えても六回、ほかにも「処女」や「姉」「妹」などがある〕」に相当する2段組の本文の上下の欄外に、鉛筆書きで「V」字のチェックが書き込まれている。吉岡との対話のあと、「話のさわり」に註するために高橋が律儀に勘定したものに違いない。同書にはほかにこれといった書き込みはないが、〈僧侶〉(C・8)の標題ページに、カナダ・トロントの書店のものと思しいレシート(1990年9月7日)が挟んである。高橋がこれを栞がわりにしたのなら、この年の5月31日に亡くなった吉岡実を偲んで、〈僧侶〉を再読したときのものか。ちなみに、高橋康也は同年6月の吉岡の葬儀には、2月に「癌研究所付属病院にて」受けた「肺癌手術」(高橋宣也・河合祥一郎作成〈高橋康也 年譜〉、《思い出は身に残り》、二六六ページ)の病後を養っていたため、出席できなかったようだ。追悼文を依頼して当然の思潮社の《現代詩手帖》や青土社の《ユリイカ》にも、そしてその他の媒体にも高橋の文が見えないのはそうした事情によるからではないか。その高橋康也がひもといた吉岡実詩が〈僧侶〉だったとすれば、それを知る者にとって感慨もひとしおである。私が吉岡の本で最初に購入したのは《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、「一九七三年十一月一日第七刷」)で、入ったばかりの大学の生協においてだった。

〔2019年4月15日追記〕
吉岡実の生誕100周年(2019年4月15日)を記念して、〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉(小林一郎 編)〔A4判縦位置で印刷すると、約[293]ページ〕を新規ページとしてアップした。ただし、本サイトでは《〈吉岡実〉を語る》の一項目という位置づけのため、トップページの〈目次〉には掲出しない。


吉岡実の未刊行詩篇を発見(2009年12月31日)

《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)に未収録の未刊行詩篇を1篇、発見した。《日本の古本屋》は私が最も頻繁に使う古書サイトだが、書誌のためのツールとしても利用できるのはありがたい。先日、吉岡実関係の書籍をブラウズしていたところ、愛知・尾張旭市の永楽屋から「白鳥幻想/志摩聡〔ママ〕、俳句評論社、昭44、1冊/限定120部高柳重信序文、吉岡実序詩(署名箋入)」が6,000円で出品されていた(本書の存在はこのとき初めて知ったが、その後、国立国会図書館の所蔵本――著者から寄贈された一本で、「〔昭和〕44. 6.18」の受入印がある――を実見した)。ときに「吉岡実序詩」といえば、すぐに思い出されるのが次の詩篇である。拙編《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第2版〕》(文藝空間、2000)の同詩の項から、未刊詩篇の番号を改変して引く(索引の凡例は割愛)。

135 序詩(じょし)[――]
うんすんかるたを想起させる
3行▽寺田澄史作品集《がれうた航海記――The Verses of the St. Scarabeus》(俳句評論社刊)1969年5月15日▼未刊詩篇・13

《白鳥幻想》の〈序詩〉のデータを《がれうた航海記》(限定120部)のそれと同じ形式に整えて、来るべき《吉岡実全詩篇標題索引》に増補する日のために、原稿化しておこう(詩篇番号の「b」は135の次に挿入するための仮のもので、次回改訂時には正規の番号に付けかえたい)。

135b 序詩(じょし)[――]
白地へ白く白鳥類は帰る
2行▽志摩聰句帖《白鳥幻想》(俳句評論社刊)1969年6月1日▼未刊詩篇・14

〈序詩〉はわずか2行の、しかも多分に挨拶的な詩篇であるが(儀礼的ではない)、この「白地へ白く白鳥類は帰る」は注目に値する。《白鳥幻想》刊行の1969年、吉岡はのちの詩集《神秘的な時代の詩》(湯川書房、1974)の作品群を書いており、「白地」が次の2篇に登場するのだ。

白地に赤く/燃えるランジェリー/燃えるフロア(〈蜜はなぜ黄色なのか?〉F・12)

白地に赤く死のまる染めて(〈わが馬ニコルスの思い出〉F・16)

時代は下り、1990年、生涯最後の作品となった〈沙庭〉(未刊詩篇・21)の冒頭はこうだ。

灯明のともる/      〔白地[あからさま]〕の座敷で

これらが単なる語句のレベルに留まるというなら、《サフラン摘み》(青土社、1976)の最後を締めくくる〈悪趣味な内面の秋の旅〉(G・31)の結末に近い絶唱を挙げないわけにはいかない。

イナンナ イシュタル ヴィーナス
この世の高き処で
雪の泡をはんらんさせ
聖なる氷の床の上で
雪男と〈雪女リディニ〉の婚姻が行われた
白一色の不定形のもののまぐわいとは
おたがいがおたがいを抱き込め
月光を浴びつつ反響し
消し去ってゆき
自己同一性を成就する

2003年の志摩聰の歿後、岩片仁次・坂戸淳夫・寺田澄史編《志摩聰全句集》(夢幻航海社、2004年2月22日)が限定75部で刊行された(《白鳥幻想》の吉岡の〈序詩〉も再録されている)。全句集の〈あとがき〉(無記名だが発行人でもある岩片仁次のペンになるか)が志摩聰の俳句に触れた吉岡の発言を引いているので、掲げる(要約発言の原典は《俳句評論》1963年2月号の金子兜太・神田秀夫・楠本憲吉・高柳重信・吉岡実・中村苑子〈第二回俳句評論賞選考座談会〉)。

 〔……〕「附篇T」に録した「ぱすてる館旧詩帖」について、いくばくかのつけ足しをしておきたい。この一連は昭和三十七年に募集された第二回俳句評論賞に応じたものである。結果は「選外佳作」であったが、七人の選考委員〔金子兜太・神田秀夫・楠本憲吉・高柳重信・吉岡実、岡井隆・永田耕衣〕のうちの吉岡実は、これを第二位に推した(註・各選者は三名を選出)。以下は、この選考座談会の発言の一部要約である/「この志摩聰が問題。これは僕にはちょっと手に負えない」(神田秀夫)。「ゲテモノ(金子兜太発言)と言われればゲテモノだけれど、徹底している。その面白さがある。仮りに前衛俳句などと言うことを言うなら、ここまで徹底した方がいい」(吉岡実)。「やぶれかぶれじゃないか」(楠本憲吉)。「それで僕なりに詩を感じた。だから面白いと思った」(吉岡)「このパターンだとあまり沢山は書けないでしょう。それに、あまり繰り返すと鼻につくんじゃないか」(高柳重信)。「そういう点はある」(吉岡)。「可能性の問題ですね」(楠本)。「自分のパターンを持たないで、漫然と見よう真似見〔ママ〕で書いている連中よりは、こういう、いわば手に負えないような感じでも、パターンを持って書いている点で、僕は、この人を割合に高く買います。問題は、このパターンのあとで、次の別なパターンを展開することが出来るか、その能力があるかどうか、ということですね。〈才能抜群〉というマークを僕はつけているんだけれど、これは、なまなかの才能では難しいでしょうね」(高柳)。(同書、四九二〜四九三ページ)

著者は初刊《白鳥幻想》の〈後記〉(1969年4月26日の日付がある)の一節で、「この、折紙ヨットのような小句帖を、師事する高柳重信氏、私淑する吉岡実氏の言葉で飾り得たことは、わたしにとって、全くの幸せである。深く感謝する次第である」(同書、四三ページ)と、高柳〈序文――いまも、彼は=rと吉岡〈序詩〉に礼を尽くしている。参考までに本書奥付の記載を録する。

〔蒸気機関車を象った検印(貼込)〕

白 鳥 幻 想
(限定120部)
昭和44年6月1日

著 者   志摩[しま] 聰[そう](*)
発行者   高柳重信
印刷者   平光善久

発行所
俳句評論社
東京都澁谷区上原3丁目4番13号
電話・東京(03)467-0941
頒価200円

これで吉岡実が生前に発表した詩は、計285篇になった。すなわち《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第2版〕》掲載の281篇に、その後発見された〈吉岡実の未刊行詩三篇を発見〉の3篇、そして今回の1篇である。こうなると、高柳重信率いる俳句評論社刊行の句集に吉岡が寄せた文章や詩がまだほかにもあるかもしれない、と考えたくなる。そこで国立国会図書館のNDL-OPACで「出版者」に「俳句評論社」と指定して検索してみると23件がヒットした。その23件の俳句評論社本の最初が火曜会作品集《火曜》(1960年7月1日)で、著者は目次順に、岩片仁次・大岡頌司・大原テルカズ・小川実・加藤郁乎・鎌田矩夫・塩原風史・志摩聰・高柳重信・寺田澄史・鳥海多佳男・中村苑子・野田誠・松岡緑男・岬沃助の15名である。15名の著者のなかには吉岡実の随想でお馴染みの名がいくつも見えており、このあたりを手始めに探索するのが筋のようだ。

(*)志摩聰句集《個展》(川瀬書店、1958年2月8日)の奥付の著者名には「志摩[しま]聰[さとし]」とルビが振ってある(だが1971年2月1日、俳句評論社刊の句集《汽罐車ネロ》のそれにはルビなし)。本書奥付の「聰[そう]」は、高柳重信[しげのぶ]の俳名高柳重信[ジュウシン]に倣ったものか。


吉岡実詩集《静かな家》本文校異(2009年11月30日〔2016年10月31日修正〕〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実の《静かな家》は単行本として1968年に思潮社から刊行された。ただし、同書は前年1967年思潮社刊行の《吉岡実詩集》に「4|静かな家1962―66」の標題で未刊詩集として全篇収録されているから、詩集としての公表はそちらのほうが早い。《静かな家》は16篇を収め、〈無罪・有罪〉(1959年3月)から〈恋する絵〉(1967年2月)までの全篇が本詩集以前に雑誌に発表されている。本稿では、 雑誌掲載用入稿原稿形、 初出雑誌掲載形、 《吉岡実詩集》(思潮社、1967)掲載形、 詩集《静かな家》(思潮社、1968)掲載形、 《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)掲載形のうち、からまでの詩句を校合した本文とその校異を掲げた。後述のようにの本文は同一組版なので、「」 とまとめて表示した。これにより、吉岡が詩集《静かな家》各詩篇の初出形本文にその後どのように手を入れたか、たどることができる。本稿は印刷上の細かな差異(具体的には、漢字の字体の違い)を指摘することが主眼ではないので、シフトJISのテキストとして表示できる漢字はそれを優先した。このため、ユニコードによる「蠟」や「禱」の代わりに、不本意ながらシフトJISの「蝋」や「祷」を使用している点をご諒解いただきたい。なお、新字を採用した本文の新字以外の漢字は、シフトJISのテキストで表示可能なかぎり、校異としてこれを載録した。初めに《静かな家》各本文の記述・組方の概略を記す。

雑誌掲載用入稿原稿:詩集掲載用入稿原稿とともに、2016年10月の時点で未見。書肆山田の大泉史世さんに依れば、吉岡実の詩集掲載用入稿原稿は、初出の切りぬきなどではなく、陽子夫人か吉岡本人が浄書するのを常とした。だが、本書はそうではなかった。陽子夫人は「〔詩集《静かな家》の〕初出紙誌がわからない理由は、わたしが〔思潮社版《吉岡実詩集》(1967)に〕白い表紙を付けて綴じてあったのを、〔吉岡が〕そのまま詩集作りに使ったからだと思います。昭和43年〔1968年〕は3月にマンションを決め、その前、半年は、私1人で探し廻っていた時期で、詩集のための浄書をした記憶がないのです」(小林一郎宛書簡)とふりかえっている。〈初出一覧〉のない思潮社版《吉岡実詩集》の制作が先行したため、本来、詩集掲載用入稿原稿とともに書きおこされる初出〔紙誌〕一覧のデータが欠落したものと想われる。

初出雑誌:各詩篇の本文前に記載した。

《吉岡実詩集》(思潮社、1967年10月1日):本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ27字詰14行1段組。

詩集《静かな家》(思潮社、1968年7月23日):本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ27字詰14行1段組。本書に掲載の本文はの《吉岡実詩集》の組版を流用しているため、両者の間に異同はない。

《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ27字詰19行1段組。なお《吉岡実全詩集》の底本は 《吉岡実詩集》。

《静かな家》の雑誌掲載用入稿原稿は漢字は新字、かなは新かな(拗促音は小字すなわち捨て仮名)で書かれたと考えられる(後出〈スープはさめる〉原稿の写真版と解説を参照されたい)。ひらがな・カタカナの拗促音は、最終形を収めた《吉岡実全詩集》で小字に統一されたこともあり、本校異では初出形がこれと異なる場合も《吉岡実全詩集》に合わせて小字表記とした。なお〈吉岡実詩集本文校異について〉を参照のこと。

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《静かな家》詩篇細目

  詩篇標題(詩集番号・掲載順、詩篇本文行数、初出《誌名》〔発行所名〕掲載年月(号)〔(巻)号〕)

劇のためのト書の試み(E・1、39行、《鰐》〔鰐の会〕1962年9月〔10号〕)
無罪・有罪(E・2、*印で4節に分かつ48行、《現代詩》〔飯塚書店〕1959年3月号〔6巻3号〕)初出「写真・大辻清司、構成・大森忠行」
珈琲(E・3、10行、《美術手帖》〔美術出版社〕1963年2月号〔216号〕)初出「絵・加山又造」
模写――或はクートの絵から(E・4、47行、《海程》〔発行所の記載なし、発行者は出沢三太〕1963年8月〔2巻9号〕)
馬・春の絵(E・5、20行分、《文藝》〔河出書房新社〕1963年1月号〔2巻1号〕)
聖母頌(E・6、29行、《郵政》〔郵政弘済会〕1964年7月号〔16巻7号〕)
滞在(E・7、25行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1964年4月号〔7巻4号〕)
桃――或はヴィクトリー(E・8、28行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1965年3月号〔8巻3号〕)
やさしい放火魔(E・9、71行、《無限》〔政治公論社〕1965年11月〔秋季・19号〕)
春のオーロラ(E・10、41行、《風景》〔悠々会〕1966年3月号〔7巻3号〕)
スープはさめる(E・11、37行、《詩と批評》〔昭森社〕1966年5月号〔1巻1号〕)
内的な恋唄(E・12、95行、《詩と批評》〔昭森社〕1967年1月号〔2巻1号〕)
ヒラメ(E・13、51行、《凶区》1966年10月〔15号〕)
孤独なオートバイ(E・14、102行、《三田文学》〔三田文学会〕1966年11月号〔53巻4号〕)
恋する絵(E・15、42行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1967年2月号〔10巻2号〕)
静かな家(E・16、52行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1966年4月号〔9巻4号〕)

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劇のためのト書の試み(E・1)

初出は《鰐》〔鰐の会〕1962年9月〔10号〕二〜三ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、五号20行1段組、39行。

それまでは普通のサイズ
ある日ある夜から不当に家のすべての家具調度が変化する
リズムにのって 暗い月曜日の風のなかで
音楽はユーモレスク
視覚的に大きなコップ 大きな歯ブラシ
天井までとどく洋服ダンス
部屋いっぱいのテーブル
家族四人が匿れるトマト
父・洋服が大きくて波うち会社へ出られず
兄・靴が大きくてラセン巻き
妹・月経帯が大きくてキララいろ
母・大きな容器の持ちはこびで疲れてたおれる
父に電話がかかる
拡声器のように大きな声が父の不正な仕事をあばく
兄は女を孕ます罪をあばかれる
電話機の闇
妹は火山口のような水洗便所のふちで
恋人の名を呼ぶ
母はどうしているか 母は催眠錠の下にいる
塀の外はどうなっているのか 洗濯物で見えぬ
ある日ある朝から順調にサイズが小さくなる
小さな鏡 小さな寝台
小さなパン 観念のような
妹《わたしは飢えているわ》
兄《何があったのだろう この窓の外で
  火事や地震じゃない 別の出来事が
  ぼくたちの罪じゃない》
夕暮から地平の上のほろびの技術
かたむく灯
かたむく煙突
かたむく家
父母の死骸は回転している洋服ダンスの中
兄妹はレンガの上に腰かけ
雨がふっている
ふくらむスポンジの世界
兄《とにかくぬれないところ どこがあるだろう》
兄妹立ちあがる未来の形で
聞える?
恋するツバメの鳴き声

無罪・有罪(E・2)

初出は《現代詩》〔飯塚書店〕1959年3月号〔6巻3号〕一三〜一八ページ、本文新字新かな(カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ1段組、48行、「写真・大辻清司、構成・大森忠行」。本篇は《静かな家》に収録されるまえ、篠田一士編集・解説《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959年8月10日)の〈W未刊詩篇〉に収められており、その本文は初出雑誌掲載形の改頁箇所をアステリスクに変更(すなわち〔(改頁)→   *〕)したほかは、漢字を一文字改めた(17行め「なみだぐましく妻のぬれた〔躯→軀〕は今はレンガ色」)だけである。

判事はときどき歩く
彼が裁いた男の心の惨劇の迷路の葛の茂り
初夏の月が望遠する
バスケットのなかの大きな蟹のあやしげな行為
重みのある毛布を裂く
馥郁とした血のオルガスムス
少年少女の心中死体が導火される
それぞれ瞬間
美しい電流が生まれる
幻〔燈→34灯〕画の仏手柑
胎児は手袋をぬぐだろう
(改頁)→*→4   *〕
判事は地下道へ入る
優しい妻と子は劇場で〔笑→34歌〕劇を見る
兇器がみつかるまで
判事は長い歳月を孤独な壁を撫〔ぜ→34で〕る
不具の記憶のくりかえし
なみだぐましく妻のぬれた〔躯→34軀〕は今はレンガ色
彼はもぐらのように洞察した
一人の美しい裸形の少女のトルソの二叉
眼を近づければ兇器
細い線の針金
それが輪を形づくる
判事は霧の密室からはい上る
犯罪の起源は
人の心の細胞の花火
兇器は真の犯罪には不要のものかも知れず
(改頁)→*→4   *〕
無能な容疑者は肉の枠のなかに
片目をあけている
もう一つの眼の夢は桜んぼのつるつるにさわり
閉じられた物狂わしい深〔淵→渕→淵〕
空走る一つの自転車のからまわり
食事から殺意へ
不安から満腹の子供への呪咀
逃走の脱糞
愛の放尿のこころみ
自転車のからまわり
窓から街へ
光から暗へ
送転する万華鏡の人
無罪の容疑者は野末で
両方の眼をとじ
子供全部を滅ぼした
祝砲を聞いた
(改頁)→*→4   *〕
ストップ
永遠に
彫刻された男女のために
可能ならば
無罪も有罪もなく

珈琲(E・3)

初出は《美術手帖》〔美術出版社〕1963年2月号〔216号〕七五ページ、本文新字新かな使用、8ポ1段組、10行、「絵・加山又造」。

わたしは発見し
答えるためにそこにいる
わたしは得意 ススキの茂みのなかで
わたしは聞くより 見る
半病人の少女の支那服のすそから
かがやき現われる血の石
わたしはそれにさわり叫ぶ
熱い珈琲を一杯
高い高い高射砲台へのぼる男
わたし以外にないと答える

模写――或はクートの絵から(E・4)

初出は《海程》〔発行所の記載なし、発行者は出沢三太〕1963年8月〔2巻9号〕二〜三ページ、本文新字新かな(ひらがなの促音とカタカナの拗音は小字)使用、8ポ21字詰1段組、47行、カット(クレジットなし)。〈目次〉と本文ページ柱に「寄稿」とある。《海程》の編集者であり同人代表である金子兜太が〈編集後記〉に「吉岡実さんの新作をいただいた。約半年間どこにも作品をだしていないので、吉岡ファンの多い俳壇への良きプレゼントであるはず。」と書いている。

沼の魚はすいすい泳ぐ
骨をからだ全体に張り出して
犬藻や中世の戦死者の髪の毛を
暗がりから 暗がりまでなびかせて
頭の上の尖った骨で光るのは?
もちろんくびられた女王の金髪だ
今晩だって砂浜へ大砲をすえたまま
中年の男が一人で戦争をはじめるだろう
日が出るまでに
その男はふとった幽霊になるだろう
首尾よく行けば
歴史的な楽園が見える?
干された蛸 干された蟹
網目と裂け目
雪のある陸地から
この軍艦の幾艘もつながれた島へくる
着飾った男と女のよりよい神秘の愛
わたしは祝祭してやりたいと思う
画家ならば美しい着物を
手足から胴まで棒のように
まきつけて
生命力が失われるまで立たせておく
昼より暗い空 或は蛙のとびまわる水草のなかへ
いま一歩の歩みが大切だ
死んだ少女の股までの百合の丈
赤粘土層のゆるやかな丘への駈け足
見ること 見えている中心は
不完全な燃焼の
ミルク・ゼリーと冷たい鉢
画家の高熱期も終り
わたしは現在をさびしい時代だと思う
秋から冬へかけて注意深く
軍艦は全部円を廻る
ときには円を割る
野菜園のある段畑へすすみ衝突して
くだかれたニンジン・キャベツ
わたしは走る・跳ねる見物人として
死んだ少年のむれ そのいたいたしい
美しいアスパラガス
画家は彼らのために涙をながすと思う
石に描かれた若い蛇の苦悩の肉体はいま
膿でなくなり拡がる平面
ときおりの雨にぬらされるだろう
まだ描かれない絵が 絵が所有する細い細い紐
テーブルの向うに山嶽 氷る甲虫の卵
わたしにそれらが見えない
真紅な色の持続をのぞんでいる

馬・春の絵(E・5)

初出は《文藝》〔河出書房新社〕1963年1月号〔2巻1号〕一二〜一三ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、10ポ25字詰1段組、22行分。

わたしはそのとき競馬場の芝生にねて 円柱球の馬を見ている 一二回跳ねるのを見た! もしかりにわたしの家の戸棚のなかに 馬が死んでいると確認したら どれほどわたしを悦ばせることか わたしは早速そのスポンジ化した馬の臀を両手で抑える それは夜まで続く 不惑の人生をかえりみて 少数者の自由を守ろうと思う 戸棚からころがりだす酒壜と血まみれのハンドル 終りに孔のたくさんある鉄の筒の胴廻りを計る 水に打たれて伸縮度を加える馬の首 それはわたしにとっては過ぎた戦いの心の患部だ それが女の首と太さが同等だった〔とき→34時〕のわたしのおどろき リンゴのように半分噛られた星の下で 隣人みんなの哀れみを受ける 裂〔(ナシ)→34か〕れたカンバスよりもっと永遠でない闇から 愛撫する馬の腹へ わたしは口をつけて囁く 《人間の幸福は各個人の生得のもの》 女は蹄鉄の下からスカートをつける ピンクとグレーのゆるやかなカーブの藪の道へ帰って行く わたしはだれにも聞けないのだ 女は死んだ馬なのか 雨のなかでいまでも跳ねる かつてわたしが光で見た円柱球の馬なのか 朝がきたらしいああいちじるしいナツメの実 わたしは歯刷子で歯をみがき それを取りおとすだろう 世界はいつも余分なものをつくり わたしに余分な仕事を与える

聖母頌(E・6)

初出は《郵政》〔郵政弘済会〕1964年7月号〔16巻7号〕一四〜一五ページ、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ25行1段組、29行。執筆者名の後に「(日本現代詩人会会員)」とある。

わたしたち再びうまれるとしたら
さびしいヴィオレット色の甘皮からだ
それはいじるより見る方が美しい
ところどころ夏のくだものの房をつけ
しずかに稲妻を走らせる
亜鉛のドームの下はやわらかい馬の口
鉄がゆっくりうごく→34こぼれる一粒の燕麦〕
わたしたち再びうまれるとき
西瓜の畑で月は輝くか
いま いまとはいかなる紐の切れ目
大小の羊が下半身の毛を刈られる
わたしたちの母を匿すんだ
青や赤で染められた
地図の上に
分割されつつある暗い世界の一つの小屋
そこでわたしたちの母は長い髪をかきあげる
力でなく心でどこまでも高く
モノクロームの禿山
そこは叩くところでないんだ
わたしたちの死せる父を埋める聖地
つねに
苦悩の虹・熱い滝
わたしたちの母は誠実だから次のものを見る
ランプの光に
殺虫剤のなかで色を変える染色体
セロファンで包まれた
乳歯
それがわたしたち・二十世紀のわたしたち
スピードを加えて水がながれる

滞在(E・7)

初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1964年4月号〔7巻4号〕八〜九ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は小字)使用、五号1段組、25行。

わたしはいつも考える
ドアのノブのやわらかい恐怖
滞在とはなに?
火事のなかではぜる大きな楽器を見ている
わたしは不可視のものを
笑ったりしないだろう
それが氷上なら
わたしは女の腰をかかえて滑って行く
円が回避する円
あらゆる現実を分割して
回路を戻るソーセージがある
それは新しい観念だ
青いペンキ塗りのポンプへわたしは接近する
上下にうごかないことが
死を語るなら 死へも接する
だからわたしは寒い食事がすきだ
凍る心のガラスの破片の細部まで見せる
鯛の美しい擬態
それこそ注目せよ
そこから続く長い長い橋
淋しいホテルの裏口を出ながら
わたしは考える
雨傘のなかの小さな愛を
疾走する自動車のハンドル
すべて→34(トル)〕左へ左へときられる

桃――或はヴィクトリー(E・8)

初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1965年3月号〔8巻3号〕二〇〜二一ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、五号15行1段組、28行。目次での標題は「桃・あるいはヴィクトリー」。

水中の泡のなかで
桃がゆっくり回転する
そのうしろを走るマラソン選手
わ ヴィクトリー
挽かれた肉の出るところ
金門のゴール?
老人は拍手する眠ったまま
ふたたび回ってくる
桃の半球を
すべりながら
老人は死人の能力をたくわえる
かがやかしく
大便臭い入江
わ ヴィクトリー
老人の口
それは技術的にも大きく
ゴムホースできれいに洗浄される
やわらかい歯
そのうごきをしばらくは見よ〔(ナシ)→34!〕
他人の痒くなっていく脳
老人は笑いかつ血のない袋をもち上げる
黄色のタンポポの野に
わ ヴィクトリー
12螢→蛍〕光灯の心臓へ
振子が戻るとしたら
カタツムリのきらきらした通路をとおる
さようなら
わ ヴィクトリー

やさしい放火魔(E・9)

初出は《無限》〔政治公論社〕1965年11月〔秋季・19号〕二二〜二五ページ、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、20級19行1段組、71行。

夏ははげ頭なんか刈りたくないと
チャリーはいつも思う
まして少女のうぶ毛の口のまわりを
剃りたくないと考える
ミルクのみ人形の腹のように
いやらしい雨期をおもわせるんだ
理髪師チャリーは毎日
冷蔵庫の白い肌をふいていたいと思う
それはすきな消防車の鐘のように
爆発しそうな内臓をしている
猫へやる魚が死んでならび
コカ・コーラのビンはガチガチ鳴る
チャリーの求めてる冷たい水と
凍った不定形な涙
かつて少年だった記憶もなく
彼の記録は森林放火十四回
三十二才のチャリーは悲鳴をあげ
血のうえに母と妹をカモメのように
飛ばせている
永劫に新しい戦争写真
それから停電のなかの滑車の下降
髭のはえていることが大人なら
チャリーは酢の中の大人
カマスに喰われるイワシの毒性のない肉質
肥っていることが罪なら
チャリーの体重は零
頭は燃えるアメリカネズミの尾
火〔12繩→縄〕の円
ぐるぐる廻っているんだ
それは電気よりも精神的なもの
チャリーの呪う心は皮をはがれたウサギのように
他の人の厚塗りの人類愛からはみだして
けいれんする絵画
公衆を冷笑する
患部でなく全体的患部
他の人の観察できない
蜜蝋の赤
チャリーの逃げる劇
ひとつの鉄の柱から他の柱へ
アメリカの高層気流から
シナのさかれたフカの水墨の海へ
逃げるチャリーが見えるか?
他の人の心はマッチが擦られるほど熱くない
しかし今日この午後でも
やさしい放火魔チャリー・コルデンの
よだれは熱くしたたる
あらゆる現実の森林は火を産むさびしいしとねだ
タバコ・フィルター・セルロイドの函
チャリーの道具はどれも小さく
だれもが持っている日常性から
非日常性へオクタアブが替る
廃物芸術
チャリーの反商業主義の勝利だろうか?
サース・キャニオンの他の人の物干場から
とおく見える慰めの夜の火柱
チャリーは逃げることを拒否する
むしろ訪れる
むしろ静止
岩のセミの出来のわるい眼
見ることを禁じよ
生きる悦びの黒い枝々
牛乳しぼりの女と鳥がゆっくりと行なう
美しい死方
煙たなびく彼方の花嫁衣装
チャリーは頭の中の火
もえる翼 自己の火を消している
《外出のときは 雨具をおわすれなく》
 《外出のときは 雨具をおわすれなく》
やさしい男チャリー・コルデン
亀甲のなかへの精射
雨期が近づくまで

春のオーロラ(E・10)

初出は《風景》〔悠々会〕1966年3月号〔7巻3号〕五二〜五三ページ、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ23行1段組、41行。

わたしがいま描く画面とはなに?
生き方とは関係なく
運転手のくびを絞める
ひとりの少年の金メッキの脱腸帯へ
接近する
それは病気のなかで〔うごく→34そだつ〕
野生の桃
夏がくると白くぬりかえる
天使の顔
むしろ正面をむくとき
急にドーナツを食う老婆たち!
ひとりの少年を走らせる
桝のなかの桝?
デパートのマヌカンが腰から下を
溶かしている夜から朝まで
公害地〔帶→34帯〕の音楽は《マヘリアの祈り》
門へ至るところで
犯された姉のたらしている繃〔帶→34帯〕
わたしの未想像の画面から
独立して
巻かれている ず〔ー→34う〕っと下の方で
ひとりで少年がまたいで行く
黒麦の世界とはなに?
乳でやしなわれた大人の死ぬシャリ・シャリの楽園
肉が心でなく孔ある筒から出る
凍る都会の学校で
孔雀の母をころして
ひとりの少女が歩いてくる
《柳よ泣いて》を歌いながら
見える美しい止血器
病熱そのもの
モチーフそのもの
少年の縞ある心
その細部のなかの細部を
水平にまでもちあげて行く
少女の雨傘
それは大きな〔圓→34円〕の復活!
サソリ座がぴくりと反ったのが見えない?
わたしと大人たち
とても悪い方法だが口のなかへ
アイスクリームを入れる

スープはさめる(E・11)

吉岡陽子夫人の手になる〈スープはさめる〉の雑誌掲載用入稿原稿(出典:Yahoo!オークション)
吉岡陽子夫人の手になる〈スープはさめる〉の雑誌掲載用入稿原稿(出典:Yahoo!オークション)

この雑誌掲載用入稿原稿で注目すべきは、編集者が記入したと思しい赤字による指定である。写真の解像度が低くて判読しにくいが、指定は原稿の小字や約物に対して施されているように見える。出典のYahoo!オークションのクレジット「吉岡実詩稿 スープはさめる草蝉原稿用紙(32×20)3枚完」の「草蝉」は正しくは「草蝉舎」である。
初出は《詩と批評》〔昭森社〕1966年5月号〔1巻1号〕二〇〜二一ページ、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、五号21行1段組、37行。編集担当者のひとり清岡卓行は初出誌巻末の〈後記〉に「創刊号は、詩作品の小特集となったので、一人二頁という窮屈な条件でお願いしたが、快く御寄稿下さった諸氏に感謝したい」と書いている。

紅紫のヒースの荒野へ
芝刈機をゆっくり
押して行く
ひとりの老婆を見たことがある?
ノイズの静かな暁
それは製図家の青い消ゴムで
こすられる
〈肉にかこまれた星〉
ながれるコマーシャル・ソング
ファシストたちの死んでいる
沼地での夏
泳ぎまわるミズスマシ
天然色の処女の肉体は
事をすすめる
白い骨へやさしいキッス
すなわち老婆は姙み
任意のとなりへ横たわる
内部で起ることは外部にも起る
あざやかに長大なキュウリが採れる
さびしい村で
青いイボイボがその良心
痛がる黒い赤ん坊
じゃ愛が正しかったのか?
すすむ者と戻る者の
同時に通る
ホット・コーナーで老婆の発する
消音ピストル
存在する円をくぐりぬける
アルプの乳形の石
死ぬものがないときは
なかんずく人びとは高熱をだす
腕のなかの情婦もともに
水へ浮ぶコルクの栓
挟むものを変えよ
ひとりの老婆の臼歯の
生えそろう時まで
さめたスープは桃色の膜を張る

内的な恋唄(E・12)

初出は《詩と批評》〔昭森社〕1967年1月号〔2巻1号〕二〇〜二三ページ、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、五号13行2段組、95行。

殺人者のすきなストロベリージュース
とても赤くって
ガラスの器へ注がれる!
注がれる魂の花文字
きみたちが死ぬの〔が→34は〕喜ばしい
かれらの停電の電車の〔函→凾→函〕詰の墓が
しなやかにきみたちと
だき合って悩ましい夜!
エレベーターの上で
少女を絞め殺すべき契約を欲する
ストローでかきまわすんだ
うすめられて行く
夕焼の空のストロベリージュースを
きみの母の血でなければ
かれらの妹の植物化した直腸の液
ぼくは殺人者で
死にたがっている猫
電子オルガンが鳴っている午後を
黄金の肛門から出る水子
ぼくが水子で
きみたちが多淫な猫の腹と子宮
かれらが爆弾をはれつさせるんだ
氷の上へ
ソーセージの工場へ
ぼくの父の麻薬の舌の下へ
ぼくの弟は痴漢で冬のさびしい森を行く
《そこにはたくさんの女がいる》
眼をふせよ!
あらゆる建築物の裏側で
すべる砂のひびきが聞えるんだ
うずまくデコレーションケーキ
女騎手の咽喉がつまる
きみらのラッパ状の管もつまる
タイルの浴室へ
あふれるサンゴ樹
あふれる兵隊の星
ドラムを叩いてよ! 夏の夜を
飛ぶフォーク
食肉
匂いのつよいテッポーユリ
の全開期
ぼくが殺した運転手
きみらが殺した服飾デザイナー
かれらが殺したミス・シナ
テーブルの円をまわり
沈んでくる秋の霧
自然な状態で上むくスプーン
とじられる唇
映画のフ〔イ→34ィ〕ルムのなかで
とじられる独裁者の
手術の巨大な胃袋の傷
時間をかけて
溶かされて行く
女への愛 樹木への愛
交尾する犬への愛
蛮国への物質的な血の愛
今夜十時から臨時ニュースがある
ぼくが殺人者になった
喜ばしい〔食事→34読書〕時だ
水を吸〔い→34(トル)〕あげる母の涙の魚
ナット・キングコールの唄
教会音楽風な
神秘なブルー一色の
矢印〔の緑の一日→34(トル)〕
ぼくの不倫がつくる
麦畑へ
きみたちが火事をみちびく
ついでに〔けし→34ケシ〕の畑まで
灯る人家を焼き
密通した人妻の
幼女のマヌカンをぼくは抱くだろう?
糸杉の狂える夜ごと夜ごとを
きみがぼくを殺しにくる
ささやく泡のながれのなかから
ストロベリージュースの
甘い鼻の上
ソファーの灰色をけばだて
かれらがきみらを殺しにくる
ぼくの便秘が
きみたちの空腹へ通ずる朝まだき
かれらの石油くさい岸から
他国へながれでる河とニワトリ
子供は育ってはいけない
むしろ生れてはなお罰せられるんだ
妻が夫をうけ入れるとき
花火が凍る
闇の空
夜それとも真昼
ぼくらの終りの合図?
水時計のうごく水
漂う秒〔計→34針〕
唐草模様のうごく枯葉
ぼくは気も狂わないで生きている
きみたち・かれらも
ガラスの器のうごく蜜のように

ヒラメ(E・13)

初出は《凶区》1966年10月〔15号〕三九〜四一ページ「ゲスト作品」、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ22行1段組、51行、目次での標題は「ひらめ」。

ヒラメは海のなかで泳ぐ
信仰
たわむれに
捕えられるため
ぴくぴくうごく砂の浅瀬
貝がら類で
首までうずまる
老婆がちょっとほほえんだ
あれが合図なら
死ぬべきか?
生くるべきか?
波の下へ
老婆の腰巻が降りて行く
矢印の赤に沿って
反回転
ヒラメの両面が
すこしずつ滑らかになる
冷たく熱く
北から南から
ひきよせられて
二つの眼がひらかれる
ヒラメ
溺れる少年のばたばたする裸の脚
とてもガソリン臭い
射精のなかを
走るイカ
浮ぶストロー・ハット
浮ぶ涙
誰が死ぬのだろう?
この干潮の花の月の出
暗いトウフの半面
全体としては裂け目のふかいペルソナ
ぬげる黄色い水着
ぬけるマヌカンの手足
漂うコンニャク
ふたたび漂う
腰巻のなかへつきつける懐中電〔燈→34灯〕
はっきり見えた!
消防夫たち
役にたたない長いホースを
ひきずって行く
乾く海岸線
ヒラメは
平面な水墨世界で
ある種の口をひらき
ある種の毛をはやし
いよいよあいまいな形へ向う
岬の灯台のエロチックな光の下で
あいまいな心自体
そのとき
おそくとも夏は逝く

孤独なオートバイ(E・14)

初出は《三田文学》〔三田文学会〕1966年11月号〔53巻4号〕三五〜三九ページ、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ21行1段組、102行。

海岸の砂地より少し高い平面を
廻っている
円形のコンクリートの床?
それは原色のヒトデのように
夏へ向う
青年の赤いマフラー
同心円が猛然と回転する
姙婦の多量発生の
春の終りへ感情移入!
よごれた個人の下着の見える
やがて夕暮れだ
機械の棒で操作される魂の中心を
一台のオートバイが走っている
一サイクルのスピードで
一サイクルのなかに
試みられる
円の癒着性!
孤独なオートバイの裸体
合成塗料のなやましい匂い
円の迷路へ
なだれこむ黄色いアネモネ
高鳴る水
〈くださいアスピリンを二錠〉
走る車輪
筒をぬける鳥
まず換気弁がぬれる
それから処女性のシリンダーが
潜在しているのがわかる?
機械がつくるさびしい関係を告知せよ
走る車輪の下のまだ青いバナナ
ささやくエンジンの愛
あるときは見える
検眼パネル
しゃべるしゃべるガソリンの口
しゃべらない沈黙の電気
走る気体
モーターの内部で
やわらかい真紅の絹はグラスをつつむ
白いヘルメットをかぶり
とてもたのしい衝突?
細いけむりが出る
精霊たちの裂かれるパンツ
そのはるか下を
四つんばいの父母の像
つるつるの頭の上で
読みあげる
孔の数
ベビーの死亡 出生率
貸借対照表
宗教の方眼紙の彼方へ
ばらまかれるレンゲの花
そして胆汁
抱きあった恋人たちが立ちさり
気まぐれな猫がはらみ
あるものが来る
あるものの他のものが見え
記号や畝のように
スタンドの青いサボテンのとげの絵
さかさまのサソリの鋏
ゆっくりひらき
切られる矩形の咽喉
すでにない前方から泡がこぼれる
ガラガラくずれながら
積まれてゆくビールの〔12罐→缶〕
全部叩かれる
男女の悲鳴〔!→34(トル)〕
水車に沿って
マンドリンの腹へ沿って
オートバイが走っている闇へ
次はマリンバや太鼓
まわる車輪へ白髪が発生し
ゴムのタイヤの象皮性を見せよ
ようするに破壊でもなければ
再構成でもない
空間を予想する
雨にぬれるオートバイ
グッドバイ
野獣のなかの締められたバルブ
少年の腰をだきたくなる
少女の脱脂綿にふれたくなる
孤独なオートバイのサドル
試みられる精神・金属の羞恥度
時間とはどんな白線?
同心円の反復から
停止する半円の透明度
出ていかないカニ
海岸へだれも近づくな!
走る心で
うしろへ戻って
ある日の暁まで廻るハンドルへ
美しい血が循環する
寒暖計
皮下溢血!
超スピードで出てゆくガラス
月光いっぱいにいま入ってくるイカ
女のオナニズムの
欲望のモーターの内部で
ホット・ケーキがつぶれるんだ
葬儀人夫の
わけのわからぬ連祷唱
テンテンテン………
孤独なオートバイが走る

恋する絵(E・15)

初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1967年2月号〔10巻2号〕二八〜二九ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は小字)使用、五号1段組、42行。

造る生活
造られる花のスミレ
ばらまかれたあるものをはさむ
洗濯バサミ・洗濯バサミ
それは夜の続きで
水中の泡の上昇するのを観察する
恋する丈高い魚
白いタイルの上では
考えられない黒人たち
その歯のなかの蜂
雨ふる麻
ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている
肥えると同時にやせる蝶
ひろがると同時につぼまる網
ごぞんじですか?
ぼくの想像姙娠美
海へすすんで行く屍体
造られた塩と罪の清潔感!
幼時から風呂がきらいだ
自然な状態で
ぼくの絵を見ませんか?
病気の子供の首から下のない
汎性愛的な夜のなかの
日の出を
ブルーの空がつつむ
コルクの木のながい林の道を
雨傘さしたシナの母娘
美しい脚を四つたらして行く
下からまる見え
そこで停る
東洋のさざなみ
これこそうすももいろの絵
うすももいろのビンやウニ
うすももいろの〔ミミ→34耳〕
すすめ〔龍→34竜〕騎兵!
うすももいろの
矢印の右往左往する
火薬庫から浴室まである
恋する絵

静かな家(E・16)

初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1966年4月号〔9巻4号〕三八〜四〇ページ、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、五号21行1段組、52行。

パセリの葉のみどりの
もりあがった形
ぼくたちに妻があることは幸せ
と叫んでいる男
それは洋服のなかにいるというわけではない
なおも酸性を求めて
高い青竹の幹の節々をとんでいる
クロアゲハの闇の金粉に
溺れているように見える
植物的人間
妻とはなに?
その食べている棚の上の
ママレードの中心
それぞれの夫の《ここに砂漠は始まる》
食事は始まる
詰りつつある壜のなかへ壜
しかも夕暮
息の上の
紅蓮の舌から見える
下る坂の鐘の舌は中世風に
まるまるとして
ひとつの十字架へ沿って降りて行く
ではニッキはどんな地上から
はこばれてくる?
愛する唇へ
ヴィクトリアのカエルまで雨でぬらす
子供二人を先頭にして
やってくるのだ
春の〔風→34嵐〕!
これがほんとの抒情的なのか?
母のうちなる柱
その毛の描写できない六拍子
森と同化している
集まる鳥の
うわむきに黒い細分化した
蹠のなかの苦悩
結局 妻とはバロック芸術の花飾り
ほとばしることが出来る?
建物の正面へ
再び生きかえるツタの葉が見えるかね!
宗教的なステンドグラスの
永遠保存が可能ならば
まばゆく開け
散り行く量のなかに
大麦の種子
あらかじめ受け入れねばならない
夫が刷画をする
絹を裂く朱塗りの小さな絵
スギの木の向うにある
川をながれながれて行く馬と兵隊の
世界の静かさ
女中が一人帰ってくる

――――――――――

《静かな家》は〈 〉と《 》を引用符号に使用している(山括弧はここでは会話や曲名、強調のためのもので、通常の国文の「 」や『 』に当たる)。本校異ではに倣って〈 〉と《 》に統一したが、にはこれらに加えて< >と≪ ≫が混在していて、数も多い(なお< >と≪ ≫は「かっこ」でWP変換されるが、本来、縦組用の約物ではない)。2種類の約物が存在する事態を「意図的な使いわけ」とする根拠は見あたらない、「校正上の不統一」としたのがの立場だろう。このような混乱はの約物を引き継いだ結果とも考えられるので、を引きくらべてみると、〈やさしい放火魔〉以外のすべての場合では等しい、つまり〈 〉も《 》も、< >も≪ ≫も、初出形と詩集掲載形が同じだったのである。校異の本文にこれらを加えると煩雑きわまりないので、以下に山括弧/数学記号の不等号が登場する詩句だけを抜き出して、の異同を照合して掲げる。

劇のためのト書の試み(E・1)
妹〔12≪→《〕わたしは飢えているわ〔12≫→》〕
兄〔12≪→《〕何があったのだろう この窓の外で
  〔……〕
  ぼくたちの罪じゃない〔12≫→》〕
兄〔12≪→《〕とにかくぬれないところ どこがあるだろう〔12≫→》〕

馬・春の絵(E・5)
《人間の幸福は各個人の生得のもの》

やさしい放火魔(E・9)
《→≪→《〕外出のときは 雨具をおわすれなく〔》→≫→》〕
  〔《→≪→《〕外出のときは 雨具をおわすれなく〔》→≫→》〕

春のオーロラ(E・10)
公害地帯の音楽は〔12≪→《〕マヘリアの祈り〔12≫→》〕
12≪→《〕柳よ泣いて〔12≫→》〕を歌いながら

スープはさめる(E・11)
12<→〈〕肉にかこまれた星〔12>→〉〕

内的な恋唄(E・12)
12≪→《〕そこにはたくさんの女がいる〔12≫→》〕

孤独なオートバイ(E・14)
〈くださいアスピリンを二錠〉

静かな家(E・16)
それぞれの夫の〔12≪→《〕ここに砂漠は始まる〔12≫→》〕

このことが指し示すのは、《吉岡実詩集》所収の《静かな家》の入稿用原稿は陽子夫人が筆写したものではなく、初出雑誌に掲載された印刷物だったのではないか、という疑いである。浄書稿であれば、〈 〉と< >、《 》と≪ ≫の混ざった組版があがっても、校正時に統一しやすい。これに対して、印刷物が入稿用原稿だと、意識的に使用活字を指定しないかぎり、先行する組版に引きずられて同じ約物を再現することになりがちである。山括弧と数学記号の不等号の混植という組版上の些細な綻びが、逆説的に詩集入稿用浄書原稿が存在しなかったことを証明したといえようか。

吉岡実は次に引く〈三つの想い出の詩〉(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月20日)で《静かな家》に言及している(同書には《静かな家》から〈聖母頌〉1篇を収録)。吉岡は同文で〈静かな家〉を全行引用したあと、こう続ける。

 この詩篇は、一種の副産物のようなものだった。「沼・秋の絵」はすでに出来、その夜は、「修正と省略」に没頭していた。深夜一時ごろ、遂に完成した。ほっとし、茶でも淹れて貰おうと、隣りの部屋を覗くと、妻の姿が見えない。何時、何処へ行ったのだろうか。今までにないことなので、不安にかられた。私は所在ないまま、原稿用紙に向っていた。いやむしろ心を鎮め、気をまぎらわすべく、自動記述の方法で詩を書きはじめたようなものだった。
 それから、一時間ほどして、妻が帰って来た。丁度その時、私の詩も、「女中が一人帰ってくる」の一行で、成立しているのだ。「まあッ失礼ね、(女中が一人帰ってくる)なんて」、妻は照れかくしに、怒って見せた。気晴しに、渋谷まで足を伸ばし、街を歩いてきたとのこと。また、詩作に熱中している私の姿が、しばしば、部屋いっぱいに拡がり、とても側に居られないとも、言うのだった。「静かな家」は、私の作品の中でも、短時間で成立した異例の詩篇である。昭和四十三年の夏、ほかに十五篇の詩を収め、詩集『静かな家』は刊行された。(同書、二〇六ページ)

〈静かな家〉が詩集のタイトルポエムとなったことからは、「自動記述の方法で詩を書」く方向、つまり《僧侶》(1958)の対極を行こうとする意思が読みとれる。一方、詩型の面に目を転じれば、散文詩型の詩篇は《僧侶》では19篇中9篇(吉岡の詩集中最多)だったが、《静かな家》では16篇中ただ1篇である。高橋睦郎が前掲書の〈鑑賞〉で指摘しているように、《紡錘形》(1962)から《神秘的な時代の詩》(1974)までが「文体・発想法」の「過渡期十数年」(同前、四九ページ)なら、それは同時に散文詩型作品が減っていく過程でもあった(散文詩型の詩篇は《神秘的な時代の詩》でついになくなる)。吉岡が散文詩型を出て再びそこに戻ったとき、独身者の夢想を封じこめたこの矩形の箱に対する想いは消えていた。《サフラン摘み》(1976)に純然たる散文詩型作品はないが、〈タコ〉(G・2)三幅対の中央部分や〈ルイス・キャロルを探す方法〉(G・11)の〔少女伝説〕(とりわけU)、〈フォーサイド家の猫〉(G・17)の4節めなどにその高度な運用が見られる。1981年以降は、いわゆる《薬玉》詩型の階段状の行分け詩が中心となり、散文詩型の作品は吉岡実詩の表舞台から消える。《静かな家》を「初期吉岡実詩」の終焉と見る所以である。

〔付記〕
《土方巽頌》の〈日記〉1968年8月31日には笠井叡の舞踏を観たあと、寿司屋での小宴の席に思潮社から詩集《静かな家》の見本が届いたことが、同じく9月28日には大野一雄・土方巽・高井富子の舞踏を観たあと、日本料理店で親しい人たちに《静かな家》を配ったことが書かれている。実際に《静かな家》ができたのは、奥付の発行日(1968年7月23日)よりも1箇月以上後だったようだ。

〔2019年4月15日追記〕
吉岡実の生誕100周年(2019年4月15日)を記念して、〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉(小林一郎 編)〔A4判縦位置で印刷すると、約[293]ページ〕を新規ページとしてアップした。ただし、本サイトでは《〈吉岡実〉を語る》の一項目という位置づけのため、トップページの〈目次〉には掲出しない。


吉岡実と《現代詩手帖》(2009年10月31日)

思潮社発行の月刊誌《現代詩手帖》は今年2009年、創刊50周年を迎え、6月には記念の特集号も編まれた。吉岡実が詩篇や散文を寄せた雑誌は数数あるが、同誌はおそらく最多掲載回数を誇る。詩集《静物》(私家版、1955)を書きおろした吉岡は、《新詩集》《今日》《季節》といった既存の同人誌に参加するいっぽう(前二誌は同人だったが《季節》は作品を寄せただけか)、《ユリイカ》《詩学》《現代詩》などの総合詩誌にも精力的に詩篇を発表し、それらをまとめたのが詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)である。1959年6月発行の《現代詩手帖》創刊号(版元は世代社)発表の詩篇とそれに付した散文以降、歿する前年1989年3月の鍵谷幸信への弔辞まで、吉岡が同誌に発表した詩篇・散文、アンケート、インタビュー・対談・座談会を初出の発表順に掲げる。

1959(昭和34)年
6月 遅い恋(未刊詩篇・7)、詩人のノオト(未刊)
11月 体の弱つた妻と心の弱つた僕と(未刊)

1961(昭和36)年
2月 アンケート「六一年度に期待する新人」(未刊)

1964(昭和39)年
4月 滞在(E・7)

1965(昭和40)年
3月 桃――或はヴィクトリー(E・8)

1966(昭年41)年
4月 静かな家(E・16)

1967(昭和42)年
2月 恋する絵(E・15)
10月〈特集・吉岡実の世界〉 立体(F・3)、模糊とした世界へ〔入沢康夫との対談〕(未刊)
12月 飯島耕一「見えるもの」・他(未刊)

1968(昭和43)年
4月 白石かずこ詩集▽白石かずこの詩(《「死児」という絵》)
11月 雨(F・9)

1969(昭和44)年
10月 わが馬ニコルスの思い出(F・16)

1972(昭和47)年
6月 ルイス・キャロルを探す方法――〔わがアリスへの接近〕〔少女伝説〕(G・11)〔《別冊現代詩手帖 ルイス・キャロル――アリスの不思議な国あるいはノンセンスの迷宮》〕

1973(昭和48)年
7月 サフラン摘み(G・1)

1974(昭和49)年
4月 草上の晩餐(G・13)
10月〔臨時増刊号〕 舵手の書(G・22)

1975(昭和50)年
1月 サイレント・あるいは鮭(G・25)
5月 思想なき時代の詩人〔飯島耕一・岡田隆彦・佐々木幹郎との座談会〕(未刊)
9月 新しい詩への目覚め――北園克衞『圓錐詩集』(《「死児」という絵》)

1976(昭和51)年
8月 楽園(H・1)

1977(昭和52)年
2月 挨拶〔高見順賞受賞〕(未刊)
5月 「想像力は死んだ 想像せよ」(《「死児」という絵》)

1978(昭和53)年
3月 吉岡実氏にテレビをめぐる15の質問〔インタビュー〕(未刊)
4月 形は不安の鋭角を持ち……(H・11)
9月 わが処女詩集『液体』(《「死児」という絵》)

1979(昭和54)年
2月 感想〔第九回高見順賞発表〕(未刊)

1980(昭和55)年
2月 感想〔第十回高見順賞発表〕(未刊)
10月〈特集・吉岡実〉 うまやはし日記▽昭和十三年(一九三八)、昭和十四年(一九三九)(《「死児」という絵〔増補版〕》、《うまやはし日記》)、一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〔金井美恵子との対談〕(未刊)

1981(昭和56)年
2月 感想〔第十一回高見順賞発表〕(未刊)
5月 藤と菖蒲(《「死児」という絵〔増補版〕》)
9月 竪の声(J・2)

1982(昭和57)年
7月 比類ない詩的存在〔大岡信・那珂太郎・入沢康夫・鍵谷幸信との西脇順三郎追悼座談会〕(未刊)

1983(昭和58)年
1月 春思賦(J・11)

1984(昭和59)年
6月 白狐(未刊詩篇・16)

1985(昭和60)年
1月 言語と始源〔オクタビオ・パス・大岡信・渋沢孝輔・吉増剛造との座談会〕(未刊)

1986(昭和61)年
2月 風神のごとく――弔辞(《土方巽頌》)
8月 叙景(K・11)

1987(昭和62)年
9月 休息(未刊詩篇・18)

1989(昭和64/平成元)年
3月 「善人」だったあなたへ(未刊)

上掲の初出作品の特徴を述べれば「詩篇の60年代」―「随想の70年代」―「対談・座談会の80年代」となろうか。初出のほかにも、他媒体発表の詩篇が毎年恒例のように年末の〈現代詩年鑑〉に再録されたし、吉岡の人物と作品に言及した文章も生前だけで80篇近く掲載されていて、吉岡実と《現代詩手帖》の縁は浅からぬものがある。そうしたなかで、1967年の全詩集的な《吉岡実詩集》と80年の初の随想集《「死児」という絵》(いずれも思潮社刊)に合わせた特集号の存在は特筆される。これらの書籍や雑誌特集号の総括的なありかたは、青土社の《ユリイカ》吉岡実特集号(1973年9月)が《サフラン摘み》(青土社、1976)を用意したのとは対照的で、興味深い。

《現代詩手帖》1967年10月号 《現代詩手帖》1980年10月号
《現代詩手帖》1967年10月号(左)と同・1980年10月号(右)

《現代詩手帖》は創刊(吉岡実が詩壇で頭角を表わしてきた時期に等しい)以来、吉岡の歿後も伴走した唯一にして無二の詩誌である(そこにこの半世紀間、同誌と思潮社を担いつづけた小田久郎氏と歴代の編集者の多大な貢献があったことはいうまでもない)。ちなみに《現代詩手帖》(《別冊現代詩手帖》を含む)に初出の吉岡実詩は20篇を数え、《ユリイカ》〔青土社〕の19篇をからくも抑えてトップであり、全詩篇284篇の7%に相当する。だが私は詩の数ではなく、中期吉岡実詩を代表する〈サフラン摘み〉一篇を掲載した詩誌として、《現代詩手帖》を永く記憶するだろう。

〔追記〕
《ユリイカ》〔青土社〕に初出の吉岡実詩19篇は以下のとおり。休筆明けの1970年代の作品は凄まじいとしか言いようがなく、《サフラン摘み》が青土社から出たのも頷ける。

1969(昭和44)年
8月 夏の家(F・13)

1972(昭和47)年
4月 葉(G・4)
11月〔臨時増刊号〕 タコ(G・2)

1973(昭和48)年
1月 マダム・レインの子供(G・5)
9月〈特集・吉岡実〉 田園(G・14)
11月 フォーサイド家の猫(G・17)

1974(昭和49)年
12月〔臨時増刊号〕 ゾンネンシュターンの船(G・24)

1975(昭和50)年
9月 示影針(グノーモン)(G・27)
12月〔臨時増刊号〕 あまがつ頌(G・30)

1976(昭和51)年
11月〔臨時増刊号〕 曙(H・8)

1978(昭和53)年
7月 蝉(H・3)

1979(昭和54)年
7月 詠歌(H・23)
11月〔臨時増刊号〕 円筒の内側(H・28)

1981(昭和56)年
11月〔臨時増刊号〕 巡礼(J・7)

1982(昭和57)年
7月 哀歌(J・13)
12月〔臨時増刊号〕 秋思賦(J・8)

1984(昭和59)年
12月〔臨時増刊号〕 聖童子譚(K・4)

1986(昭和61)年
12月〔臨時増刊号〕 産霊(むすび)(K・1)

1988(昭和63)年
6月〔臨時増刊号〕 銀鮫(キメラ・ファンタスマ)(K・17)

ちなみに《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕に掲載された吉岡実詩は〈僧侶〉(C・8、1957年4月)、〈死児〉(C・19、1958年7月)、〈呪婚歌〉(D・9、1959年10月)、〈波よ永遠に止れ〉(未刊詩篇・10、1960年6月)、〈衣鉢〉(D・16、1961年1月)の5篇で、奇しくも毎年1篇ずつ発表されている。「雑誌〈ユリイカ〉通巻五十三号のうち、私は五篇の詩を発表している。これは多いとは言えないが、また少ないとも言えない」(〈「死児」という絵〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、六九ページ)。


吉岡実〈〔自筆〕年譜〉のこと(2009年9月30日〔2009年10月31日追記〕)

吉岡実が《薬玉》刊行時(1983年10月)に脱稿した〈〔自筆〕年譜〉(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月 20日)について、私はかつて次のように書いた。
「〈年譜〉は唯一、吉岡実自筆の年譜。〈吉岡実詳細年譜〉(《ユリイカ》1973年9月号〈特集=吉岡実〉)を基本にしつつ、加えられた鑑賞記録が充実し ている。400字詰原稿用紙換算で約22枚。1984年1月31日付東京新聞夕刊の〈大波小波〉は「難解詩人はけっこう凡人でもあって、よろしい。この年 譜、歯医者に通うことまで書いてあって、それが詩とどんな関係がある? といいたくなるが、やっぱりシュールな関係があるのであろう。/現代詩がひところ の人気を取り戻すために、吉岡実なんかが歯医者通いまで含めた自伝小説を書くことを希望しておこう」(薬玉〈シュールな関係〉)と評した。「歯医者通いま で含めた自伝小説」は書かれなかったが、のちの《土方巽頌》はこの評を意識しているか」(〈吉 岡実の年譜〉、前後のつながりを考慮して一部改変した)。
吉岡の詩篇を陽子夫人が浄書することは広く知られるところだが、散文に関しては夫人が原稿に目を通すことはあっても、清書することはなかったようだ。ちな みに《風景》1974年3月号に掲載されたまま単行本に未収録の随想〈父の面影――さがしもの〉の原稿は、吉岡の自筆で市販のコクヨ製200字詰め用紙2 枚にわたって21行の本文が書かれている。

〈父の面影――さがしもの〉(《風景》1974年3月号掲載)の吉岡実自筆原稿(2枚完)〔モノクロコピー〕
〈父の面影――さがしもの〉(《風景》1974年3月号掲載)の吉岡実自筆原稿(2枚完) 〔モノクロコピー〕

〈〔自筆〕年譜〉は、吉岡自身の随想や日記をソースに執筆したものと思われる。逆にその記述をもとに随想化して発表したのが、次に引く 〈昭和四十二 年〉の後半の記載を展開した〈遠い『記憶の絵』――森茉莉の想い出〉(初出:《鷹》1988年2月号)である。〈〔自筆〕年譜〉は《土方巽頌》以前では最 長の文章(書きおろし)だったためか、いくつかの誤記・誤植を残すこととなった。以下に、固有名詞を中心に問題箇所を校訂する形で「誤字や本人の勘違い」 (陽子夫人)を掲げるが、旧字を新字で表わした『文学界』などは指摘しなかった(本サイトでは《文學界》や《文藝》と表記)。

 昭和十二年 一九三七年 十八歳
知人斎藤清(版画家)宅で見たピカソの詩(おそらく瀧口修造訳で『み〔ず→づ〕ゑ』に掲載された「詩を書くピカソ」)に啓示を受ける。

 昭和十四年 一九三九年 二十歳
仕事に疑問をもち、南山堂を退社。夢香洲書塾(佐藤宅)へ仮寓し、子供たちに習字を教える。〔これは前年、昭和十三(一九三八)年のことである〕

 昭和三十四年 一九五九年 四十歳
書肆ユリイカの「今日の詩人〔叢→双〕書」の一冊として、『吉岡実詩集』を刊行。

 昭和四十二年 一九六七年 四十八歳
夏、神田の喫茶店白門で、金井美恵子と初めて会う。十九歳、太宰賞候補になり来社。〔夏、→(トル)〕世田谷代沢の喫茶店邪宗門で、森茉莉と会い、自伝 『記憶の絵』出版の相談をする。

 昭和四十八年 一九七三年 五十四歳
秋、『ユリイカ』で「吉岡実」特集号刊行。父母の三十三回忌の法事を、巣鴨真性寺でいとなむ。〔秋、→(トル)〕筑摩書房の創立者、古田晁急逝。〔……〕 〔師走→夏〕、『魚藍』復刻版を深夜叢書より刊行。

 昭和四十九年 一九七四年 五十五歳
秋、山形県鶴岡市番田へ行く。「北方舞踏派」結成公演「塩首」を観る。東京の暗黒舞踏派が参加する。羽黒山を松山俊太郎と参詣する。〔これは翌年、昭和五 十(一九七五)年「秋」のことである。《土方巽頌》の〈50 「塩首」〉を参照のこと〕

 昭和五十一年 一九七六年 五十七歳
春、英訳詩抄『ライラック・ガーデン』(佐藤紘彰訳編)シカゴレヴュー〔(ナシ)→プレス〕より刊行される。

 昭和五十六年 一九八一年 六十二歳
詩「巡礼」を『ユリイカ』〔別冊→臨時増刊〕(現代詩の実験)に発表。

 昭和五十七年 一九八二年 六十三歳
〔詩→散文〕「西脇順三郎アラベスク(追悼)」を『新潮』八月号に発表。

 昭和五十八年 一九八三年 六十四歳
澁澤〔瀧→龍〕彦、三好豊一郎、種村季弘、池田満寿夫、鶴岡善久のいずれも夫人同伴。〔……〕草月会館の「〔龍→瀧〕口修造を偲ぶ会」で、中西夏之、池田 龍雄、東野芳明、加納光於、巌谷国士らと談笑する。

〔付記〕
吉岡実の公刊日記と〈〔自筆〕年譜〉が同じ内容を扱っている例を、一組だけ挙げる。

昭和二十三年〕二月二十九日 姉に弁当を貰って芝の行本晋介のところへゆき、一緒に浅草 へ出る。 ロック座で全裸にちかいメリー松原をみて驚嘆、おおバタフライ。シュークリームとココア。弁当分けて食う。(〈断片・日記抄〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫 14〕》、思潮社、1968、一一〇ページ)

友人と浅草へ行き、ロック座で全裸にちかいメリー松原の踊りを見て驚嘆する。(〈昭和二十三年  一九四八年 二十九歳〉)

吉岡は〈郁乎断章〉(初出:《俳句研究》1983年7月号)でジプシー・ローズ(1934-67)に触れて「メリー松原、吾妻京子、キ ティ福田など の魅力あるストリッパーたちのうちでも、ジプシー・ローズは日本人離れのした肢体と、官能美をそなえていた。まだ秘処にバタフライを付けている懐しい時 代。私は浅草の小さな劇場[こや]で、はじめてジプシー・ローズの踊りとその白い裸身をまぶしく、仰ぎ見たものだった。客演していた田谷力三の熱唱が終る と、同行した年長の知人がつかつかと舞台へ近寄り、花束を捧げたので、私はあっけにとられた。それからしばらく後、知人は自殺してしまった」(《「死児」 という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三二九ページ)と書いている。これなど日記の記述をもとに膨らませたものに違いない。この「年長の知人」は 「行本晋介」――〈〔自筆〕年譜〉では「友人」――とどういう関係なのだろうか。〈断片・日記抄〉の〈〔昭和二十二年〕 十月二十五日〉には 「「開拓新聞」の校正は七時までかかる。クラブ東京の地下室に住む行本晋介をたずねる。丁度夕食の時なので、丼一杯の彼のあやしげな手料理を食う。クラブ ではダンスをやっているのだろう、音楽が聞えてくる。コロナを吸う、孤独な男たち」(前出、一一〇ページ)と見えるのだが。

〔2009年10月31日追記〕
枝川公一《ふりむけば下町があった》(新潮社、1988年11月15日)を読んでいたら、「東京倶楽部」に関する文章があった(〈映画館「東京倶楽部」は かならず九時終映、の不思議〉)。

これらの三つの劇場〔東京倶楽部、隣りの常盤[ときわ]座(現在休館)、その隣りの金龍[きんりゆう]館(現在浅 草松竹)〕には、二階部分を渡り廊下で結んで、一つの窓口で入場料を払えば、三館の演[だ]し物が見られるシステムがあった。往年の浅草ファンには、「三 館共通」として親しまれた。(同書、二五ページ)

これを読んだり、ウェブ上の写真を見たりすると、吉岡の「クラブ東京」は東京倶楽部(1913年開業・1991年閉鎖、台東区浅草1丁 目にあった洋 画専門の映画館。別名、浅草東京クラブ・東京クラブ)という気がしてくるが、残念なことに「地下室」の記述がない。吉岡の日記からは、61年前の土曜の 夜、根を詰めた仕事に疲れきって、空腹のまま友人の住む建物(これがふつうの住居でないことは確かだ)を訪ねた独身者の姿が浮かんでくる。


下田八郎の〈吉岡実論〉と〈模写〉の初出(2009年8月31日〔2016年10月31日追記〕)

詩人の下田八郎は詩誌《時間と空間》(時間と空間の会)36号(1996年1月)から45号(2000年7月)にかけて、9回にわたっ て〈吉岡実 論〉を連載した(38号は休載)。《時間と空間》46号(2001年1月)の〈追悼・下田八郎氏〉によれば、氏は2000年7月11日に亡くなっており、 〈吉岡実論〉はおそらくあと1回で完結の予定だったらしい。この未完の長篇評論(400字詰原稿用紙で約390枚)が、その後書籍としてまとめられた形跡 はなく、今日広く知られているとは言いがたい(現に私も、村上精二さんのウェブサイトの紹介文で知った)。先日、国立国会図書館所蔵の《時間と空間》を閲 覧したので、下田八郎〈吉岡実論〉の概要を報告する。各回の標題を太字で表記(〔 〕内のローマ数字T〜Xは、原 文になかったものを小林が補った):見出し、[ ]内に号数と発行年月、掲載ページを並字で、さらに行を改めて、本文中に引用された吉岡実の作品名を小字 で掲げた。

吉岡実論〔T〕:歌集 魚藍/詩集 液体 [36号、1996年1月、51-63]

雪 (B・14)、俳句「赤トンボ」「石垣の」「歯磨粉」「秋灯や」、短歌「横禿の」「縄とびす」「土葱を」、挽歌(A・1)、牧歌(A・10)、風景(A・ 19)、液体T(A・26)、液体U(A・27)、午睡(A・28)、短歌「やぶれたる」「唐黍の」「葦枯れし」、苦力(C・13)

吉岡実論〔U〕:詩集「静物」より [37号、1996年7月、70-87]

俳 句「微熱ある」「ゆく春や」「黄梅や」「冬の日の」、冬の歌(B・8)、静物(B・1)、静物(B・2)、静物(B・3)、雪(B・14)、卵(B・ 7)、苦力(C・13)、讃歌(B・11)、静物(B・4)、犬の肖像(B・16)、樹(B・6)、夏の絵(B・9)、過去(B・17)

吉岡実論〔V〕:詩集「僧侶」より [39号、1997年7月、59-73]

僧侶(C・8)、告白(C・2)、聖家族(C・14)、喪服 (C・15)、死児(C・19)

吉岡実論〔W〕:〈苦力〉 〈詩集 紡錘形〉 紡錘形(T)(U) [40号、1998年1月、87-100]

苦力(C・13)、喜劇(C・1)、老人頌(D・1)、下痢 (D・3)、紡錘形T(D・4)、紡錘形U(D・5)、呪婚歌(D・9)、田舎(D・10)、巫女――あるいは省察(D・14)、首長族の病気(D・ 11)、冬の休暇(D・12)、修正と省略(D・22)

吉岡実論〔X〕:〈静かな家〉 [41号、1998年7月、71-83]

受難(D・17)、寄港(D・19)、模写――或はクートの絵か ら(E・4)、馬・春の絵(E・5)、滞在(E・7)、聖 母頌(E・6)、桃――或はヴィクトリー(E・8)、やさしい放火魔(E・9)、沼・秋の絵(D・21)、劇のためのト書の試み(E・1)、孤独なオート バイ(E・14)

吉岡実論(Y):「神秘的な時代の詩」へ [42号、1999年1月、79-88]

神 秘的な時代の詩(F・11)、鎮魂歌(D・15)、受難(D・17)、寄港(D・19)、沼・秋の絵(D・21)、劇のためのト書の試み(E・1)、珈琲 (E・3)、内的な恋唄(E・12)、恋する絵(E・15)、色彩の内部(F・4)、少女(F・5)、聖少女(F・10)、崑崙(F・8)

吉岡実論(Z):〔見出しナシ〕 [43号、1999年7月、92-99]

低音(F・14)、劇のためのト書の試み(E・1)、わが馬ニコ ルスの思い出(F・16)、コレラ(F・18)、牧歌(C・7)、青い柱はどこにあるか?――土方巽の秘儀によせて(F・6)、葉(G・4)

吉岡実論([):「サフラン摘み」 [44号、2000年1月、101-111]

サフラン摘み(G・1)、織物の三つの端布(H・16)、葉 (G・4)

吉岡実論(\):「サフラン摘み」以後 [45号、2000年7月、104-112]

葉(G・4)、タコ(G・2)、マダム・レインの子供(G・ 5)、わが馬ニコルスの思い出(F・16)、『アリス』狩り(G・12)、舵手の書――瀧口修造氏に(G・22)、示影針(グノーモン)――澁澤龍彦のミ クロコスモス(G・27)

吉岡実最初期の俳句・短歌から詩集《サフラン摘み》(1976)すなわち私がいうところの「中期吉岡実」までを時系列で追って、各時期 の特徴をとら えるスタイルは、通雅彦の《円環と卵形――吉岡実ノート》(思潮社、1975)や鶴山裕司の《詩人について》(四夷書社、1998)と同じである。まずは 穏当な叙述方法といえようが、年譜的な予定調和の展開に足許を掬われる危険もある。下田八郎の吉岡実論はどうだろうか。詩集《静かな家》を論じた〔X〕の 一部を引いてみる。

〔……〕詩集『静かな家』は決して平静な詩とは云えない。平常心へ向けての詩である。変形した檻に投げこまれて、詩人は四苦八苦し ている。

頭の上の尖った骨で光るのは ?
歴史的な楽園が見える ?

 この二行の疑問文は詩人が心の動揺をかくせずにいることを語っている。それは個人に関係なく始められ、個人の死で閉じられる。

わたしは祝祭してやりたいと思う
わたしは現在をさびしい時代だと思う

画家は彼らのために涙を流すと思う

テーブルの向うに山ごと氷る甲虫の卵
わたしはそれらが見えない
真紅な色の持続を望んでいる 〈模写〉

 この何ひとつ心を開こうとしない表現。それらしく見えるのは人間が言葉として存在している時だけである。〈クートの絵から〉とい う献辞〔ママ〕にある奇怪な魚たち、無残な死体の兵士たち等、どれをとっても、死体は生きものとしてゆさぶりつゞけられている。

死んだ少女の股までの百合の丈/赤粘土層のゆるやかな丘への駈け足/見ること 見えている中心は/不完全な燃焼の/ミルクゼ リーと冷たい鉢〈模写〉

  ここにはひたむきに下方志向へと実生活の根が張りつめている。戦争と背中合せの中世の歴史は、決してお伽話ではなく、現実の物語から死生観を換〔ママ〕起 させる。人は死を選ぶのではなく、選ばさせられる。この作品だけでなく、これ以後の傾向として通称〔ママ〕名詞が頻繁に使われ始める。蛸、蟹、大砲、軍 艦、ニンジン、キャベツ、蛇、甲虫 等々雑然とした風景である。〔……〕(《時間と空間》第41号、1998年7月、七四〜七五ページ)

これは〈模写――或はクートの絵から〉(初出未詳)を論じた箇所だが、独得の言いまわしで彩られた下田の解釈の当否は問わない。私が注 目したいの は、同詩出典である。〈模写〉に限らず、下田がここまでの本論で引いた吉岡実詩の典拠はおそらく《吉岡実詩集》(思潮社、1967)だが、そこでの本文が 「テーブルの向うに山嶽 氷る甲虫の卵」である〈模写〉第45行の詩句が、下田文では「テーブルの向うに山ごと氷る甲虫の卵」となっているのは、初出形を 引いたためだろうか。そうは思えない。クレジットのないことにもよるが、〈吉岡実論〉の展開そのものが初出形の登場を許さないのだ。上掲文中の吉岡実詩の 引用には、転記ミスと思しいところが6箇所(「頭の上の尖った骨で光るのは ?」「歴史的な楽園が見える ?」、 「画家は彼らのために涙をすと思う」、「わたしそれらが見えない」 「真紅な色の持続をんでいる」、「ミルクゼリー と冷たい鉢」の下線部)もある。こうした文章を書く際、詩句の一字一句をおろそかにしない姿勢が求められる。細かいことを言うようだが、原文で隣りあって いない詩句を並べた引用は1行空けるべきだし、上掲引用にはない「紡錘形」にいたっては(具体例を挙げるのは控えるが)、正しい表記の方が少ないほどだ。 吉岡がこれを見たらなんと思うだろう。いったい著者や編集部はちゃんと校正したのか。

――――

以下では〈模写〉の初出をめぐる最近の状況を述べる。先日、手許の吉岡実研究文献を整理していたところ、天沢退二郎・岡田隆彦・長田弘 〔鼎談〕〈合評形式による現代詩人11人論U――吉岡実論〉(《現代詩手帖》1964年2月号)の

長田 抒情ということに関連して補足するが「裸婦」のなかのぼくは画家だから≠ニいう言 葉をおもいうかべながら「模写」のなかの
 死んだ少年のむれ そのいたいたしい
 美しいアスパラガス
 画家は彼らのために涙をながすと思う
というところをオーバーラップさせつつ読むとね、吉岡実もかれらのために涙をながすのかなあと思っちゃってね。哀しいんだな。もっと冷酷であってほしいの にね。優しい人はやはりやさしくなってゆくしかないんだろうか。(同誌、三二ページ)

という発言を改めて読んで、長田弘による〈模写〉の引用は初出からだったのではないか、という考えがふいに湧きおこった。詩集《静かな 家》 (1968)には制作年代として「1962-66」と表示されていて、(1959年3月発表の〈無罪・有罪〉を例外とすれば)確かに1962年9月発表の 〈劇のためのト書の試み〉から1967年2月発表(脱稿は1966年末か)の〈恋する絵〉までの、〈模写〉を除く全篇が詩集収録前に雑誌掲載されている。 したがって、拙編《吉岡実年譜〔作品 篇〕》

一九六七(昭和四二)年 四七〜四八歳 〔……〕/模写――或はクートの絵から(E・4、四七行)初出未詳〔◆この年一〇月までに発表か〕191

と記載した初出年次を(《静かな家》は単行詩集に先駆けて、1967年10月刊の思潮社版《吉岡実詩集》に全篇収録された)、上掲鼎談 が行なわれた であろう1963年末を下限とすべく繰りあげることは、詩集の制作年代「1962-66」とも合致してまことに好都合である。だとすれば、初出探索の捷径 は《僧侶》(1958)と《紡錘形》(1962)で吉岡実詩を掲載したことがある定期刊行物の1962年から66年までのバックナンバーをしらみつぶしに 調べていくことかもしれない。そこでさっそく《詩学》に当たりなおしてみたが、予想していたこととはいえ、空振りだった。ただ、塚本邦雄が〈詩人につい て〉(1959年7月号)という文章で、左川ちかの詩〈死の髭〉を 称揚しているのを初めて読むことができたのは、予期しない収穫だった。

〔付記〕
下田八郎は〈吉岡実論〉連載直前の《時間と空間》35号(1995年7月)に詩〈樹木祭〉を発表している。散文では、31号(1993年7月)に原田道子 詩集《新宿・太郎の壕》(螻の会、1992)の書評、32号(1994年1月)に川杉敏夫詩集《芳香族》(詩学社、1993)の長文の書評、34号 (1994年12月)に小津安二郎作品についてのエッセイを発表している。同誌の追悼文に依れば、下田には18篇から成る《半島》(下田八郎、1989年 8月15日)という250部限定の詩集があるが、〈吉岡実論〉の連載中は詩を発表していないから、この〈樹木祭〉が最後の詩作品かもしれない。追込で引用 しよう。

樹木祭|下田八郎

昔から樹木は/互いに/他の生物を追いかけ/追い越さねばならなかった/ああ 血なまぐさい丘をのぼりつめて

そ のため/樹木は千年も、より速く出発して/幾世紀をも走りつづけた/更に千年よりはるか遠く/人類の先々に待伏せていた/地上に/         地下 に/茨の間に手足を引きずってきた/進歩が澱み/沼地のなかに/何時も敵をつくり続けた/樹海深く/岩奨のクレーターに/けもの達を食い漁り/昆虫の飲も のを奪い

息のと絶えた道/樹海にとり残されて/枯れた腕 記憶の小指に/樹界の鳥たちは喉を焦し/鎮守の祭りは禁足を犯して/鍵のかかった 空/蔦にからまれた出足の/果実は沼地に落ち/村境を奪はれ/烏瓜の燃える/空屋に首を晒してきた

千 年を足止めされ/これから先の/千年を先取りするため/互いが距離をつめ寄った樹木は/古層時代から/走りつづけ/巨大な爬虫類を追い越し/巨獣を追い抜 いた/今、人類を追いかけているのか/亜層世紀に埋まった樹木の/掘り返され、汲み上げられた/油田から/巨大なプラントが火を吹きあげている/埋葬され た生の世界/ゴジラが復譬を始めたばかりだ/地球始まって以来の繁栄と貧困/地球始まって以来の格差が/地鳴りを呼んで

終わりから四つめの詩句の「復譬」は「復讐」の誤りだろうが、すべて原文のママである。本篇は吉岡の〈樹〉(B・6)を踏まえたもの か。ちなみに下田は〈吉岡実論〔U〕〉で同詩を引用している。

〔2016年10月31日追記〕
吉岡実の詩篇〈模写――或はクートの絵から〉(E・4)の初出誌が判明した。1963年8月発行、金子兜太編集の俳句同人誌《海程》〔発行所の記載なし、 発行者は出沢三太〕9号〔2巻9号〕がそれだ。ちなみに、初出形と定稿形(詩集《静かな家》収録)の間には、ひらがなの促音(「っ」/「つ」)の表記を除 いて、詩句に異同はない。


ケッセルの《昼顔》と詩篇〈感傷〉(2009年7月31日)

吉岡実の詩篇〈感傷〉(C・18)は詩集《僧侶》(1958)にあって異色の、筋のある物語ふうの作品である。吉岡が金井美恵子との対談〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉で「金井 でも、アリスの詩の時はわたしは嬉しかったな。何て言ったっけ、桃と少女の出てくる詩が土方さんも好きでね。「感傷」という詩ね。/吉岡 あれは意外な人に好かれてるのね。あれは、ジョゼフ・ケッセルの『昼顔』という小説をぼくは戦前から読んでいるからね。映画の影響ではない」(《現代詩手帖》1980年10月号、一一〇ページ)と語っているように、この詩を好む人は多い。土方巽の表明は「いかにも」と思わせるし、天澤退二郎はラジオの吉岡実特集番組で本篇を朗読している。一方、小説の《昼顔》(原著《Belle de Jour》は1929年刊行)は今日、ルイス・ブニュエル監督、カトリーヌ・ドヌーヴ主演のフランス映画《昼顔》(1967)の原作として知られるが、むろん映画とは別個の独立した作品である。吉岡が「戦前から読んでいる」のは堀口大學訳の長篇小説《昼顔》(第一書房、1932年6月15日)に違いない。現在、本書をあまり見ないのは、大久保久雄編〈第一書房刊行図書目録〉が記す「(六月二十九日風俗を害する理由により発売禁止)」(林達夫・福田清人・布川角左衛門編著《第一書房 長谷川巳之吉》、日本エディタースクール出版部、1984、二七九ページ)という措置が影響したものか。ちなみに、国立国会図書館は本書の第一書房版を所蔵していない。

ジョセフ・ケッセル(堀口大學訳)《昼顔》(第一書房、1932年6月15日)の表紙 ジョセフ・ケッセル(堀口大學訳)《昼顔》(第一書房、1932年6月15日)の本扉
ジョセフ・ケッセル(堀口大學訳)《昼顔》(第一書房、1932年6月15日)の表紙(左)と同・本扉(右)

吉岡の《うまやはし日記》(1990)の「昭和十四年(一九三九)」には「五月二十二日/ケッセル『昼顔』。〔……〕」(同書、四二ページ)と見えるが、本書をいつ入手したのだろう。後に茅野蕭々訳《リルケ詩集》(第一書房、1939年6月10日)を刊行早早の同月18日に入手している吉岡だが、《昼顔》を新刊で発禁前に購入したことは、13歳という当時の吉岡の年齢を考えれば、まずなかっただろう(日記の《昼顔》は、《指揮官夫人と其娘達》のときのように、出征を前に年長の友人から借覧したものか)。それならば、1958年8月8日に吉岡が〈感傷〉を脱稿したとき、第一書房版(もしくは後出の他の版)を手許に置いて詩作しただろうか。その可能性は低いと思う。吉岡が戦災でほとんどの蔵書を失っている点は度外視しても、〈感傷〉は「典拠の詩学」をもとに執筆したにしては生生しすぎる。上掲の対談からも、記憶のなかにある《昼顔》の女主人公の人物像を手掛かりに、想像力の赴くまま創作した様子がうかがえる。ここで《昼顔》の邦訳書をリストにしておこう。

  1. 堀口大學訳(第一書房、1932年6月15日)
  2. 堀口大學訳(八雲書店、1946年10月20日)
  3. 堀口大學訳(新潮社、1951年6月20日)
  4. 堀口大學訳(新潮社〔新潮文庫〕、1952年8月15日)
  5. 堀口大學訳《世界文学全集〔第1期19〕》(河出書房、1954年8月20日)
  6. 桜井成夫訳(角川書店〔角川文庫〕、1954年12月10日)
  7. 山崎剛太郎訳(三笠書房、1971年5月31日〔書誌にある1967年9月刊は未見〕)

3.から6.にかけての版で吉岡が再読していて不思議はないが、戦後の《昼顔》に関する言及がないので、詳しいことはわからない。ここで、1.の本邦初訳から詩篇〈感傷〉との対応がうかがえる〈プロロオグ〉を全文引用する。訳書でわずか2ページと短いながらも、《昼顔》のライトモチーフとして不可欠な一節である(*)。それに続けて〈感傷〉冒頭の1を追込で掲げる。

 その頃八歳[やつつ]になつたセヴリィヌは、自分の室から母の室へ行くのに、長い廊下を通らなければならなかつた。彼女はこの途中を退屈がつて、何時も駈けて通ることにしてゐた。或る朝彼女は、廊下の中ほどまで来て、立ち止まつた。廊下のそこの所に、浴室へ通ずる戸口があつて、それが丁度開[あ]いたところだつた。一人の鉛管工が中から出て来た。身丈[せい]の低い、厚ぼつたい男だつた。彼の目なざしが、まばらな睫[まつげ]の間を洩れて、小娘のうへに注がれた。不断はもの怖[おぢ]しないセヴリイヌが、この時は怖れをなして、あとずさりした。
 この身振が男を決心させた。彼は素早くあたりを見廻して、さて、両手でセヴリィヌを抱き寄せた。彼女は身近[みぢか]に、瓦斯と精力の匂ひを感じた。髭[ひげ]の生えた二つの唇が彼女の首すぢを焼いた。彼女は抵抗した。
 職工は黙りこくつて肉感的に笑つて居た。彼の両手は着物の下で、やはらかい彼女の肉体を撫で廻した。急にセヴリィヌが抵抗しなくなつた。彼女は硬直して、まつ蒼になつた。男は彼女を床板にねかして、そのまま音も立てずに去[い]つてしまつた。
 家庭教師[ガヴアネス]が、倒れてゐるセヴリィヌを見つけた。家人は、彼女が滑つて転んだものと思つた。彼女もさう信じた。(同書、五〜六ページ)

鎧戸をおろす/ぼくには常人の習慣がない/精神まで鉄の板が囲いにくる/街を通るガス管工夫が偶然みて記憶する/箱のなかに匿れた一人の男/便器にまたがるぼくをあざわらう/桃をたべる少女はうしろむき/帽子をまぶかくかぶるガス管工夫の槌の一撃を憎む/少女の桃を水道で洗わせず/狭い蜜のみなもとを涸していったから/幼い袋の時代/大人の女の汗の夏を知らぬ/少女もいつかは駈けこむだろう/ぼくの箱の家/正面の法律事務所の畸型の入口の柱を抱くだろう/それまで休業だ/屋根から寝台まで縞馬を走らせ/ペンキを塗り廻る/すでに伽藍の暗さ

《昼顔》と類似の詩句は以下の節にはみられない。ここで想起するのは〈断片・日記抄〉《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968)の「〔昭和二十三年〕三月三十日 知代ちゃんがきていた。昨夜、兄と一緒に妙義からきたのだ。私の書かれざる小説《或は桃の葉》の幼い少女もすっかり大きくなり、私より一寸も高い。女学校のバレーの選手」(同書、一一一ページ)という記述である。「桃の葉」としての幼女が《昼顔》の女主人公と交叉したとき、〈感傷〉の小説的世界が胚胎した、と思えてならない。さらに注目すべきは、吉岡がこの詩を書きおろしつつあったとき、実姉の米本政子が入院して、8月29日に他界している点である(吉岡はかつて姉の幸薄き生涯を予見したかのように「雨の夜をみしらぬ家にとつぎゆく/女のたもとのながきもあはれや」と詠った)。1958(昭和33)年のその間の日記を、作品の執筆に触れた部分とともに引く(同前、一一七〜一一九ページ)。

昭和三十三年〕六月十三日 姉が病気との連絡、ビワ三百円一箱もって見舞にゆく。三年ぶりか。姉が衰弱しているのに驚く。セキズイカリエスらしい。
六月十五日 ユリイカ七月号出来。長篇詩〈死児〉掲載。失敗作かも知れぬが、独自な問題作と自負する。みずからを祝す。
七月二十八日 姉、雑司ケ谷の東大分院に入院。
八月五日 東大分院へ姉を見舞う。家とは雲泥の差、きれいなベッドにねていた。夫いまだ現われぬとのこと。
八月七日 朝から濃縮ジュースをもって姉の見舞。廊下はたくさんの患者と付添人たち。一種異様な臭がある。
八月八日 〈感傷〉出来。これで詩集《僧侶》の十九篇完成。〔……〕

私は40歳の年に母を喪った。後半生は病とともにあった生涯だったが、入院して2週間ほどでの死は私にとっては「急逝」であり、日に日に衰弱していくさまを見るのは堪えがたかった。私は病室に母を見舞ってから帰宅すると、同人雑誌に準備中の文章をひたすら書きつづけた。そのときの自分の心理から推し量るのだが、吉岡実は〈感傷〉を書くことで姉の延命、さらにはその再起を祈念していたのではなかったか(吉岡は父母の死の知らせを戦地で受けとっている)。病床でひとり戦う者と密かに共闘するための秘儀としての執筆。いまのこの仕事をやりとげることができれば、病人は必ず復活する。そのとき、書く者の脳漿はふだんにも増して沸騰する。結果、その意識と無意識を総動員した他に類を見ない作品が出現する。それがこの、《僧侶》で最後に完成をみた詩篇の来歴である。書きおろしの詩篇〈感傷〉は6節99行から成り、詩集の最後から2番めに置かれた。作品の舞台設定は〈僧侶〉(C・8)や〈死児〉(C・19)に較べると世俗的である。そのため、「ぼく」は吉岡であると読もうとすれば、できなくはない。事実、独身時代の「奇妙な恋愛遊戯」(〈〔自筆〕年譜〉、《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984、二三一ページ)を材料にしているふしさえある。だが実際のところ、その内側はどうなのだろう(先に引いた1からもわかるように、吉岡は本篇では主語を省略するなどして、意図的に動作の主体を曖昧にしているため、人物関係がわかりにくい)。ここではそれを探るための方策として、本篇を散文にしてみる。吉岡実詩を要約するというのも奇妙なものだが、物語的な展開の追跡ということでお許しいただきたい。

2 睡蓮の咲く夏、少女は変化している。花冠から袋に黒い汁を移しはじめるとき、ぼくの鼻毛の茂みを鳥がとおりぬける。棚の罎は痒走感におののきだす。ぼくはいかなる変化、交換を待っているのか。
3 喪服にいつわられた美しい肢体の女がぼくの寛容な肉情の下に在る。その肩の裏の可憐なそばかすの星雲がぼくの頭を捉える。女は病弱な夫でなければ麻袋をかるがる担ぐ情夫を殺してきたらしい。人でなければ、さんしょううおを。
4 ぼくは被告を裏切る。被告はすべて罰せられるにふさわしい陳述をする。ぼくは法廷につれこまれ、被告として黒服の者たちにとりまかれ、犯罪人の両肩を見せ下獄する。ぼくの弁護人は妻子と両親のために家へ急ぐ。不運な者は針金で養われ、暗い所にいる。
5 女の夫の海港技師は、熔接工を連れて海へ行く。熔接工はかにの形に歩く。夫は岸べで焚火をたく。女は食物をはこんできて泳ぐ。熱い砂の床は人の心を巻貝に変化させ、冷えた魚を跳ねまわらせる。三人の食事は危険だ。海は死んだ男でふさがれる。

6 ぼくは睡蓮の花を再びのぞく/転換が行われず/世界の女を巻く紐のすべてが解かれていない/蛙も挟まれる/花の深所から金髪が吹きだされるのを夢みる/ぼくは自分と不幸な女を救済すべく/女の腿へ手をのべる/喪服は夜に紛れやすい形と色を持つ/あまつさえ時間がくると滑る/それから先のぼくはまじめな森番だ/くさむらのひなを育てようと決意する/水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く/法律や煤煙のとどかぬ小屋で/卑俗なあらゆる食物から死守され/ぼくだけが攻めている美しい歯の城/その他の美しい武器をうばう/落日は輝くもの/おえつするもの/女の髪の上に滝が懸けられて凍る/ぼくは冷静に法典の黄金文体をよむ/さてぼくは女には大変つくした/罪深い女は去らせよう/ガス管工夫に肖た子をつれて桃の少女が結婚を迫るのを/ぼくは久しく待つんだ

さすがに最後の6は要約不能で、追込で原文を引くほかない。「水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く」は注目の詩句だ。大作栄一郎《東京の野鳥》(東京新聞出版局、1981)には、鷭(ツル目クイナ科の水鳥)は東京地方では留鳥または夏鳥で、多摩川・隅田川・荒川沿いの湿地、休耕田ではまだかなりの数が見られるとある。1950年代末にも水辺の草叢でクルルと鳴く「鷭の笑い」が聞かれたはずだ(ひなは生まれてすぐに歩くことができるという)。ところで「ぼく」の職業はなんなのだろう。法律事務所に勤める弁護士見習いか。それが4で「被告」と入れかわる。「ぼく」の登場しない5では、犯罪の背景となった三角関係がほのめかされる。だが6の最初で、4と5のシーンが実際には起こっておらず、須叟のまどろみにおける出来事だったとわかるように書かれている。そのとき3の末尾の2行「人でなければ別のもの/頭の大きなさんしょううおを刺してきたのだ」は、前の詩集《静物》(1955)掉尾の〈過去〉(B・17)に登場する「赤えい」と「その男」の顛末を彷彿させながら、「女」の過去を寓する。昼顔ならぬ「睡蓮の花」――浄土を想起させる――を見ていた「ぼく」は、結局夫を失った(殺害した?)喪服の女との交情を断ち切って、桃の少女(のみならずガス管工夫との間にできたその子も)との結婚を待つのだ。〈感傷〉は《昼顔》のセヴリィヌの物語から遠く隔たった一人の男が、自身の新生を夢想する譚だった。

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(*) 《昼顔》邦訳書リストの「7.山崎剛太郎訳(三笠書房、1971年5月31日)」の重版の訳者〈あとがき〉には「私が今回、《昼顔》を新たに翻訳するにあたり、私の学生時代に読んだ、堀口先生の翻訳を、長い年月を経て、改めて参照させていただいたことをこの機会に厚くお礼を申し上げたい。〔……〕/なお、私はこの翻訳では、できるだけ現代の若い人たちに読みやすいものにしたいという配慮をして、あえて原語から離れて、現実に即した単語をえらんだりした所もある。/〔……〕/一九七三年一月二十四日 重版の機会に/訳者」(《昼顔》、三笠書房、1973年2月20日、二四八〜二四九・二五〇ページ)とある。最初の堀口大學訳からほぼ40年経った時点での山崎剛太郎訳を掲げて、「できるだけ現代の若い人たちに読みやすいものにしたいという」訳者の配慮を感得したい。堀口訳と同様、冒頭の〈プロローグ〉全文(同書、二二ページ)である。

 当時八歳だったセブリーヌは、自分の部屋から母の部屋に行くのに、長い廊下を通らなければならなかった。彼女はそれがいやで、いつも走って通った。ある朝のこと、セブリーヌは廊下の中ほどまで来て、思わず足をとめた。ちょうどその場所に、浴室に通ずるドアがあって、それが開いたところだった。一人の鉛管工が中から出て来た。からだは小さいが、がっしりとしていた。彼の視線が、こげ茶色のまばらな睫毛[まつげ]を通して、小娘の上に注がれた。ふだんは物怖[おじ]しないセブリーヌが、この時はこわくなって、あとずさりした。
 この動作が男を決心させた。彼はす早くあたりを見廻わし、それから、両手でセブリーヌを引き寄せた。彼女は身近に、ガスと男の精力的な匂いをかんじた。ひげ[、、]をよく当っていない唇が彼女の首すじを焼いた。彼女はもがいた。
 職人は黙って、肉感的に笑っていた。彼の両手は彼女の服の下で、そのやわらかい肉体を撫でまわしていた。急に、セブリーヌはあらがうのをやめた。彼女は硬直し、まっ蒼[さお]になった。男は彼女を床[ゆか]の上にねかせ、音も立てずに立ち去っていった。
 家政婦が、床[ゆか]に倒れているセブリーヌを見つけた。家の者たちは彼女がすべって転んだと思った。彼女もそう思った。

山崎剛太郎先生は、2021年3月11日に亡くなられた。103歳だった(〈山崎剛太郎氏が逝去〉)。


吉岡実歌集《魚藍》本文校異(2009年6月30日)

本 校異では、吉岡実の〈蜾蠃〔スガル〕鈔〉の短歌・旋頭歌(以下「初出」という)と歌 集《魚藍》の短歌・旋頭歌(以下「定稿」 という)を比較・校合した結果を簡 略に示す(T)。また〈蜾蠃〔スガル〕鈔〉には、5首を除いて先駆形(歌稿〈歔欷〉)が存在するので、Tの本文校異に続けてUとして先駆形の詞書・本文 を掲げた。ただしUはTとの異同が多いため、校異の形をとらずに併記とした。

凡例
  底本には、初出:詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)、定稿:歌集《魚藍》(私家版、1959年5月9日)、先駆形:稿本詩集《赤鴉》 (弧木洞、2002年5月31日)を用いた。《魚藍》は初刊ののちに、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968年9月1日)、《魚藍〔新装 版〕》(深夜叢書社、1973年8月28日)、《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日)と三つの本文があるが、本校異では割愛した。
 行頭のアラビア数字は、今回の校異に当たって小林が仮に付した作業用の作品番号である。
 00番の短歌は、定稿では歌集の〈序歌〉であるため、01番の直前(対向ページ)に置かれている。一方、初出 では詩集《昏睡季節》全体 の〈序歌〉になっており、00番と01番とは〈昏睡季節〉を構成する20の詩篇で隔てられている。
 初出の短歌(01番〜44番)の改行〔「/」で表記〕は定稿ではすべて追込に変更されたが、煩雑になるため本 校異では〔/→(追込)〕 の表示を省略した。00番および45番・46番の本文は、初出→定稿で改行に異同はない。
 「//」は、詞書のあとの改行を表わす。
 使用漢字は、初出:旧字、定稿:新字で、本校異では原則として新字に統一したが、定稿でも初出と同じ字体が使 用されている場合はそれを 採った(01番「鋪」、07番・41番「燈」、13番「灯」、16番「絲」、38番「繩」、45番「籔」など)。

T 歌集《魚藍》本文校異〔〈蜾蠃〔スガル〕鈔〉→《魚藍》〕/U 先駆形(歌稿〈歔欷〉)

00 序歌//あるかなくみ〔づ→つ〕を/な〔が→か〕るるうたかた/のか〔げ→け〕よりあはき/わかきひのゆめ
U 泡影抄//あるかなく水を流るる泡沫の影よりあはき若き日の夢 △

01 ゆきずりの女をしたうてさりかねし/白き鋪道に春もゆくめり
U 街角慕情//ゆきずりの女[ひと]を慕ふて去りかねし白き舗道に春はきにけり △

02 波とどろ岩根黝苔潮たれ/舟虫ひかり夏はきにけり
U 初夏//波とどろ岩根黝苔潮垂れば舟虫ひかり夏はきにけり

03 葉脈に四月の朝の風かをり/犬と女は丘をかけゆく
U 丘//葉脈に四月の朝の風かをり犬と女は丘をかけゆく

04 やぶれたる紙風船は草の中/夕焼小焼/子らかへりゆく
U 野みち//やぶれたる紙風船は草の中/夕焼小焼/子等かへりゆく

05 すみだ川//川上は水もはろけく春がすみ/いつしか鴎もみえずなりけり
U 川上は水もはろけく春がすみいつか鴎も見えずなりけり

06 さみしさは黄なる真昼に/眉をひく娼婦の乳房の/つかれたるいろ
U 敗日//さみしさは黄なる真昼に/眉をひく娼婦の乳房の/つかれたるいろ

07 夜の蛾のめぐる燈りのひとところ/めくりし札はスぺードの女王
U 骨牌占ひ//夜の蛾のめぐる燈りのひとところめくりし札はスペードの女王 △

08 白孔雀しづかにねむる砂の上/バナナの皮の乾きたる午後
U 〔(先駆形ナシ)〕

09 唐黍の毛に夕風のわたる頃/汽車は駅へとカーブしてゆく
U 休日//唐黍の毛に夕風のわたる頃汽車は駅へとカーブしてゆく

10 唇のかたくかわきし/たそがれの青きけむりよ/泣かまほしけれ
U 唇のかたくかわきしたそがれの青きけむりよ泣かまほしけれ

11 薊咲く道ひとすぢに晴れにけり/妙義の山の秋ふかみつつ
U 秋薊//薊咲く道ひとすぢに晴れにけり妙義の山の秋ふかみつつ

12 秋ひらく詩集の余白夜ふかみ/蟻のあしおとふとききにけり
U 秋のおと//秋ひらく詩集の余白夜ふかみ蟻のあしおとふとききにけり △

13 駒形橋暮吟//白鷺の一声啼きてよぎりゆく/薄暮の橋に灯のとぼりたる
U 駒形橋//白鷺の一声すててよぎりゆく薄暮の橋に灯のとぼりたる

14 窓硝子に干物影のあはくゆれ/母咳多く冬となるかも
U 窓硝子に干物影のあはくゆれ母咳多く冬となるかも

15 鳰鳥の夕葛飾の水ほとり/蘆の花ちり雁わた〔りゆく→る見ゆ〕
U 鳰鳥の夕葛飾の水ほとり蘆の花ちり雁わたる見ゆ

16 灰皿に莨のけむりゆらぎをり/金絲雀さへづる春のひととき
U 灰皿に莨のけむりゆらぎをり金糸雀さへづる春のひととき

17 蚕飼ふ家の白壁正午ちかし/矢車の花の影ゆれてゐて
U 春の影//蚕飼ふ家の白壁正午ちかし矢車の花の影ゆれてゐて

18 夕光る鏡の上の/チヨコレートのうすき歯のあと/夏はきたりぬ
U 初夏//夕ひかる鏡の上のチヨコレートのうすき歯のあと夏はきたりぬ △

19 手紙かく少女の睫毛ふるふ夜/壁に金魚の影しづかなり
U 手紙かく少女の睫毛ふるふ夜壁に金魚の影しづかなり △

20 ゆ〔(正常)→(右に90度転倒)〕く秋や古き水車のしづくちる/その草の辺を鶺鴒のとぶ
U ゆく秋や古き水車のちるしづくその草の辺を鶺鴒のとぶ

21 旅愁//夜の駅の時計の針のうごくのを/ふとみしあとのあはきかなしみ
U 旅愁//夜の駅の時計の針のうごくのをふとみしあとのあはきかなしみ

22 雪風や/女あんまの笛とほく/聞える夜半を炭つぎにけり
U あんま笛//雪風や女按摩の笛遠く聞える夜半の炭つぎにけり

23 厨川//霜柱ひきくだきつつ馬車きゆる/駅の裏道北斗かたむく
U 北国//霜柱ひきくだきつつ馬車きゆる駅の裏道に北斗かたむく

24 飾窓の朝の硝子に秋の蚊の/顫えさみしく雨ふりそめ〔な→ぬ〕
U 〔(先駆形ナシ)〕

25 〔(ナシ)→姉に//〕雨の夜をみしらぬ家にとつぎゆく/女のたもとのながきもあはれや
U 〔(先駆形ナシ)〕

26 軽井沢//夏野ゆく金髪少女の横顔を/かすめる影あり落ち葉なりけり
U 軽井沢//夏野ゆく金髪少女の横顔をかすめる影あり落ち葉なりけり △

27 秋たけて/〔(2字アキ)→(トルツメ)〕林檎の香り歯にしみる/〔(4字アキ)→(トルツメ)〕うすきいたみも/〔(1字アキ)→(トルツメ)〕恋知り そめて
U 初恋//秋闌けて/  りんごの香り歯にしみる/     薄きいたみも/ 恋知りそめて △

28 葦枯れし入江に/泊り襁褓干す船の夕餉の/煙しづけし
U 葛飾//葦枯れし入江に泊り襁褓干す舟の夕餉の煙しづけし

29 黒猫のかげひきよぎる宵の町/犯人は手錠はめられてゆく
U 夜のパントマイム//黒猫の影ひきよぎる宵の町犯人は手錠をはめられてゆく

30 窓に凭り指で硝子に字などかく/昼の春雨ひとの恋しき
U 春雨//窓に凭り/指で硝子に字などかく/昼の春雨/人の恋しき △

31 上野広小路//夜の街を素足の女がもとめゆく/おもかげ皿絵もなつかしき初夏
U 〔(先駆形ナシ)〕

32 六角の鉛筆の影夜ふけて/馬追虫めぐり秋となりぬる
U 初秋//六角の鉛筆の影夜ふけて馬追虫めぐり秋となりぬる △

33 土葱を抱へもどれる母親に/まつはる子らや夕枇杷の花
U 土葱を抱へもどれる母親にまつはる子らや夕枇杷の花

34 爪をかむうつろごころのひねもすを/障子あかるく蠅のとびゐし
U 春の雪//爪をかむうつろごころのひねもすを障子あかるく蠅のとびゐし

35 蝸牛の触角ぬめぬめと草にのび/裏山畑の雨は霽れたり
U 蝸牛の触角やはらかく草にのび裏山畑の雨は晴れたり

36 横禿の男が笊で売りあるく/青き蜜柑に日の暮れそめぬ
U 〔(先駆形ナシ)〕

37 人妻の乳首の紅のにごりゆく/夜のさみだれの寝ぐるしさかな
U さみだれ//人妻の乳首の紅のにごりゆく夜のさみだれの寝苦しさかな

38 繩とびす少女の腕あせばみて/青く血脈〔(ナシ)→の〕ふくるる朝なり
U 夏の庭//縄とびす少女の腕あせばみて青く血脈ふくるる朝なり

39 水辺愁吟//みつみれはなせか/うれひのひえひえ/とこころなかるる/あきのゆふくれ
U 秋のみづ(水愁口吟)//水みればなぜか愁ひの冷え冷えと心ながるる秋の夕ぐれ

40 朝曇り/川空ひく〔ゝ→く〕鳶啼き/広告気球は街に昇れる
U 都//朝曇り川空低く鳶啼きアドバルーンは街に昇れり

41 繊き雨けむる窓べに燈をともし/花ちかく女は手套をぬぐ
U 青い絹手袋//繊き雨けむる窓べに燈をともし花ちかく女は手套をぬぐ

42 青バスの女車掌の/ひらめけるスカートの影に/夏ちかき街
U 青バスの女車掌のひらめけるスカートの影に夏ちかき街

43 姪〔(全角アキ)→(トルツメ)〕葉子生れし日に//木々の芽の青みふくらむ公園の/砂場の砂に雨しづかなり
U 錦糸公園//樹々の芽の青みふくらむ公園の砂場の砂に雨しづかなり △

44 M夫人に//人妻の頬のほてりもかなしけれ/花はくづほれ夕雷とほし
U 春雷//人妻の頬のほてりもかなしけれ花はくづほれ夕雷とほし

45 〔妙義山 (旋頭歌二首)→旋頭歌二首/妙義山〕//籔ふかく里の子らは筍さがすらむ/花桐に暮るる深山の鶯のこゑ
U めうぎやま//藪ふかく里の子らは筍さがすらむ花桐に暮るる深山の鶯のこゑ

46 瀬のちかき籬に蝶のねむる春日や/ほのぼのと新茶いる香のたちそめにけり
U 緑金沙(貝鐘抄)――(旋頭歌)///瀬のちかき籬に蝶のねむる春日やほのぼのと新茶いる香のたちそめにけり

V 《うまやはし日記》掲載形

U 先駆形(歌稿〈歔欷〉)で△印を付けた11首(作品番号00・01・07・12・18・19・26・27・30・32・43)は、表記が微妙に異なる場合 もあるが、《うまやはし日記》(書肆山田、1990年4月15日)に登場する。以下に同書の本文を引き、△印に続けて掲載ノンブルを、( )内に日記の年 月日を略記する。先の初出・定稿および先駆形と《うまやはし日記》掲載形を比較検討すれば、日記と歌稿の間、歌稿と詩集と歌集の間にあって、作品がどのよ うに生成していったかをたどることができるだろう。

43 樹々の芽の青みふくらむ公園の砂場の砂に雨しづかなり(姪葉子生れし日に) △22(1939・3・25)

30 窓に凭り指で硝子に字などかく昼の春雨ひとの恋しき △29(1939・4・22)

18 夕光る鏡の上のチョコレートのうすき歯のあと夏はきたりぬ △40(1939・5・15)

01 ゆきずりの女をしたうてさりかねし白き舗道に春もゆくめり △62(1939・7・29)

32 六角の鉛筆のかげ夜ふけて馬追虫めぐり秋となりめる △71(1939・9・4)

00 あるかなく水を流るる泡沫の影よりあはき若き日の夢 △72(1939・9・4)

26 夏野ゆく金髪少女の横顔をかすめる影あり落ち葉なりけり(軽井沢) △72(1939・9・7)

27 秋闌けて/  林檎の香り歯にしみる/    薄きいたみも/ 恋知りそめて △73(1939・9・10)

12 秋ひらく詩集の余白夜ふかみ蟻のあしおとふとききにけり △77(1939・9・28)

19 手紙かく少女のまつ毛ふるふ夜壁に金魚の影しづかなり △92(1939・11・24)

07 夜の蛾のめぐる燈りのひとところめくりし札はスペードの女王 △96(1939・12・7)

〈吉岡実の短歌〉で 述べたように、1938年から40年の初めにかけて吉岡の作った和歌は、〈歔欷〉の標題のもと、短歌200首・旋頭歌9首の計209首を数える。そこから 序歌1・短歌44・旋頭歌2を採った作者の心延えを本校異を通して改めて感じた。なお、00番の〈序歌〉と39番の短歌の手入れに触れた〈《吉 岡実全詩集》巻頭作品〉(〈「恋する幽霊」――吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(12)――〈蜜はなぜ黄色なのか?〉〉の〈U 蜜と水〉)も、併せてご覧いただけるとありがたい。


詩篇〈銀幕〉と梅木英治の銅版画(2009年5月31日)

吉 岡実の詩には、出典・著者名の表示のない引用句が数多く含まれる。典拠を用いた作詩法の起源は、詩集《紡錘形》(1962)執筆期の〈首長族の病気〉 (D・11)や〈波よ永遠に止れ〉(未刊詩篇・10)まで遡ることができるが、今回は最後の詩集となった《ムーンドロップ》(1988)の〈銀幕〉(K・ 9)で吉岡が引用したスルスを挙げ、併せて詩篇の発表媒体である梅木英治銅版画集《日々の惑星》について考察しよう。まず〈銀幕〉の定稿を掲げる(詩句行 頭の数字はライナー)。

銀幕|吉岡実

01             場末の映画館の夏の終り
02 「スクリーンの隅のほうに
03             なにやら
04 鰐らしきものが見えたわ」
05             乳母ガブリエルが叫んだ
06 しかしぼくにはそれが
07           「西瓜を食う水兵」のように見えた
08 「すべての(光)を
09          吸収する(青)」
10                  そんなかわたれ時
11 上衣を脱ぎ
12      裸になる乳母ガブリエルの
13                  「人体のもっとも
14 不可視的な(器官)が紅潮する」
15                そこからぴんぴん
16      (翼)が生えたように
17 ぼくには見えた
18        「透明光線となってほとばしる」
19    (アウラ)
20        「暗い籠のなかに在る
21         マッシュルーム」
22 それを数え それを
23          (布地[テイシユ])ペーパーで包み
24 ぼくは成長してきた
25          葦の葉や浮木の漂う
26 (汚れた岸)から
27         ボートをこぎ出す
28                 ぼくは礼装の一人の男
29 真夜中のみずうみの上で
30            「届く言葉と
31             届かない言葉を」
32 ぼくは識別して
33        不眠の眼を光らせる
34                 (強度の表面)
35 「軽金属と合成樹脂で
36           組み合わされた」
37     (惑星)にも
38           「スクリーンのように
39            無数の傷が付いている」

〈銀幕〉の02〜05行の典拠は、四方田犬彦《映画はもうすぐ百歳になる〔水星文庫〕》(筑摩書房、1986年5月30日)の次の箇所 だろう(同 書、一九ページ)。

 ルノワールがはじめて映画に触れたのは、一八九七年、乳母ガブリエルに連れられてパリのデュフェイエル百貨店を訪れたときだっ た。
 「私たちが腰を降すとすぐ、辺りはもう真っ暗になった。怖るべき機械が、暗闇を凄まじくつんざいて流れる一条の光をほとばしらせた。スクリーンの上に は、私には何がなんだかさっぱりわからぬ映像が現われる。しかもそれがみんな、一方ではピアノの伴奏と、もう一方では悪魔の機械が発するドンドンという音 響を伴っていたのだ。私はお定[さだ]まりの悲鳴をキーッと上げた。(……)その映画は大きな河を写したもので、スクリーンの隅の方には、何やら鰐[わ に]らしいものが見えた、とガブリエルは言うのだった」 (西本晃二訳『ジャン・ルノワール自伝』・みすず書房)

四 方田氏が引いているのは、ジャン・ルノワール(1894-1979)の自伝(《MA VIE ET MES FILMS》、1974、邦訳は1977)の第2の章〈デュフェイエル百貨店〉の末尾で、そうなると02〜05行の典拠が四方田本ではなくルノワール本 だったことも考えられる。上掲引用文で四方田氏が省略した(……)部分を同書で補えば、以下のようになる。

こ うなってはもう私を連れ出すより他はなかった。当時このマルタ・クロスのキリッキリッと廻る音が、後になってみれば、この上なく快い音楽となって私の耳に 響くであろうなどとは、思ってもみなかった。当時の私には、カメラと映写機にとって必要不可欠なこの部品、これなしには映画そのものだってあり得ないこと になってしまうこの部品の重要性はサッパリわからなかったのである。
 というわけで、私の偶像[アイドル]「映画」と私自身との最初の出会いは、完全な失敗に終ったのであった。ガブリエルは、おしまいまでホールにいられな かったのを、しきりに口惜しがっていた。(西本晃二訳《ジャン・ルノワール自伝》、みすず書房、1977年7月5日、一九ページ)

両 書を比較するに、吉岡が拠ったのは「乳母ガブリエル」が見える四方田文ととるのが理に適っている。おそらくこういうことだろう。梅木英治銅版画集のために 40行の詩を依頼されていた吉岡は、四方田氏から映画をめぐる新刊を贈られ、その思考に身をゆだねて「場末の映画館の夏の終り」という第一行をもつ詩を書 いたのだ。史実に照らせば、「乳母ガブリエル」はジャンの生母の従妹ガブリエルで、父オーギュスト・ルノワール(1841-1919)の絵のモデルも務め た、幼少のジャンにとって「あらゆる善き物を秤[はか]る尺度だった」(同前、四二ページ)娘である。だが、〈銀幕〉に父ルノワール晩年の裸婦像を導入す ることは、「日々の惑星」でDCコミックの《デイリー・プラネット新聞》を想起する理由がない以上に、無用と言うべきだ。13〜14行で吉岡は、ルノワー ルを含めたあらゆる画家が描くことのできなかった部位を定着した。それは(絵画ではなく)場末の映画館で観られた映画だというのが本篇の基調であり、言う までもなくその支持体となったのが「銀幕=スクリーン」である。かつて吉岡は《薬玉》(1983)と《サフラン摘み》(1976)で

「雪は犬の伯母」という 江戸諺語がなつかしい
暑い街を 犬が走ることもない 現世の夏

  「夢みられるものの肉化」そのもの
  場末の映画館で
  父は老衰し
  妹は孕み
  「ガルボは鉄の戦車」だとわたしは讃え(〈竪の声〉J・2)

砂漠近くの映画館で
われらは観測する
地上の星・ガルボ!(〈舵手の書〉G・22)

と 書いた。吉岡実の全284篇の詩作品で、「映画」「映画館」が登場する7篇中2篇にグレタ・ガルボ(1905-90)が現われるのをどう考えればよいの か。ジャン・ルノワールは、D・W・グリフィス作品のクローズアップは驚異であり、リリアン・ギッシュ、メリー・ピックフォード、グレタ・ガルボのそれは 映像として生涯、脳裡に焼きつけられたと語っている(前掲書、五四ページ)。ジャンより25歳年下の吉岡にとって、事情は少しく異なる。クローズアップで はなく、裸体としてのガルボ。

 ジョセフ・フォン・スタンバーグの名作「嘆きの天使」で一躍花 形になったマレーネ・ディトリッヒは「モロッコ」「間諜X27」で、私たちを魅了し、それから四十五年後の現在までも、多くの人々に愛され、真にスクリー ンの女王でありつづけている。それにひきかえ、もう一人の神秘の女王グレタ・ガルボは、あまりよい作品に恵まれなかったのではないだろうか。初期の伝説的 映画「喜びなき街」とか「肉体〔の→と〕悪魔」は、どうしても私には見る機会がなかった。わずかに「彩られし女性」「グランド・ホテル」「アンナ・カレ ニーナ」「椿姫」「クリスチナ女王」ぐらいなもので、私のなかに深い印象をのこしているのは、女間諜を描いた「マタハリ」であった。ディトリッヒの「間諜 X27」と対になっているのも面白い。作品としては、「マタハリ」のほうが通俗的であるが、劇中劇の舞台で巨大な仏像の前でマタハリがエキゾチックな祈り の舞いをしながら、最後に一糸まとわぬ姿態になる。その暗転の一瞬の無音。神聖なるカルボの真白い裸体をかいま見たとまどいでハッと息をのんだものであ る。(〈懐しの映画――幻の二人の女優〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一七〜一八ページ)

オ リジナルの銅版画集《日々の惑星》(ギャラリープチフォルム、1986年12月3日)は誰でも観られるものではないので、梅木英治幻想画集《最後の楽園》 (国書刊行会、1992年9月20日)につけば、〈日々の惑星〉は6ページにわたって11作品が掲載されている。すなわち〈Armour in Space〉、〈時の舟〉、〈惑星〉、〈月光餐〉、〈Recital〉、〈望郷〉、〈旅路〉、〈酩酊〉、〈Fortune Teller〉、〈音楽〉、〈Magic〉である。作品の絵柄は同書で確認いただくとして、〈惑星〉(17.5×22.5 メゾチント 1986)が「「西瓜を食う水兵」」(07行)の、〈望郷〉(17.5×22.5 メゾチント 1986)が「(汚れた岸)から/ボートをこぎ出す/ぼくは礼装の一人の男」(26〜28行)のスルスであることは見やすい。吉岡の詩篇だけを《ムーンド ロップ》や《吉岡実全詩集》(1996)で読むときにはわからないが、初出の《日々の惑星》で読めば、これらの詩句が梅木版画への讃であることはまぎれも ない。版画と讃とが切りはなされて、讃が讃だけになったとき、吉岡の「典拠を用いた作詩法」は「引用詩」へと姿を変える。このとき、引用は引用符「 」の 有無と関係ないばかりか、引用符内の章句が吉岡自身の手になることも充分に考えられる。「吉岡 ぼくの中でも、補 足は自分で作って自分で括 弧にいれると、リアリティが出るなと思っちゃう。全部が人の言葉とは限ってないわけ。作り変えもあるし……。で、この行とこの行をつなぐには引用をいれな いと、という感じで、自分で作った引用をいれざるを得なくなってきているのね」(金井美恵子との対談〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉、 《現代詩手帖》1980年10月号、九六ページ)。
ときに、01行は吉岡実の詩でただ一篇、字下げを伴った冒頭行である。字下げを@・A・Bのように簡略化すると(〈大竹茂夫展と詩篇〈壁掛〉〉を 参照されたい)、02:@、03:A、04:@、05:Aで、01が、他の《薬玉》詩形の第1行がそうであるようには「天つき=字下げなし」では始まらず に、03:Aと並行しているのは、この行があとから挿入されたことをうかがわせる。吉岡は「「夢みられるものの肉化」そのもの」(〈竪の声〉)の鰐を走ら せるために、標題〈銀幕〉と「スクリーン」(02行)の間にこの12字下げを伴う「            場末の映画館の夏の終り」を置いて、印刷(文 字)、刷画(版画)、映写(映画)の各行為を支持体上の無数の傷と結びつけたのである。

〔追記〕
《最後の楽園》の一一ページには〈銀幕〉が再録されており、末尾に

[初出『日々の惑星/梅木英治銅版画集』一九八六年]

な る註記があるが、再録されたテキストは初出形ではなく《ムーンドロップ》所収の定稿形である。ちなみに、初出形と定稿形の間の異同は2箇所。変更は「そん なかわたれ[、、、、]時」(10行め)の傍点を取りさり、4字下がりだった「届かない言葉を」」(31行め)を30行めと同じ字下げに揃えた(下げた) だけで、語句への手入れはない。


大竹茂夫展と詩篇〈壁掛〉(2009年4月30日)

吉 岡実の詩篇〈壁掛〉(J・5)は、大竹茂夫の個展(青木画廊、1982年3月27日〜4月10日)のパンフレットに発表された。大竹氏の最初の著書《アリ ストピア》(文・天沼春樹、画・大竹茂夫、パロル舎、2000年5月25日)の〈著者紹介〉によれば、この個展はグループ展を除いた初の展覧会で、その 後、同画廊での個展は1986、90、91、95、98年、眼展は1984、86、87、90、93、94、95、96、98年と、毎年のように開かれて いる。大竹氏は青木画廊との出会いを問われて「芸大の先生の紹介です。私は京都市立芸大だったのですが〔大竹氏は1979年の卒業〕、その頃前田常作先生 が教授で来ておられたんです。その前田先生は青木画廊と以前からお付き合いが有ったので紹介して頂けたのですが、青木画廊は紹介を基本的には受けないらし いんですよね。それでも作品を見てもらったところ、気に入ってもらった様なんです。それからですね青木画廊との付き合いは」(〈アー トを身近に![ リブ・アーツ ]スペシャル・インタビュー〉) と答えている(ちなみに、吉岡の未刊詩篇〈スワンベルグの歌〉雑誌発表時のイラストは前田常作である)。吉岡が最初の個展以前に大竹氏の作品を知っていた か不明だが、青木画廊の執筆依頼を受けて大竹絵画を(改めて)観たことは間違いない。 残念ながら、大竹茂夫画集は本稿執筆の時点で存在しないので、前掲《アリストピア》、グリム兄弟(天沼春樹訳)《赤ずきん〔絵本グリムの森 6〕》(パロル舎、2005)、《TAROT[タロット]》(序文・寺山修司、画・大竹茂夫、ピエ・ブックス、2005)などの書籍や、大竹氏自身が作成 するウェブサイト《Secrets of Plant Worms House〔冬虫仮想館の秘密〕》で 渇を癒すほかない。そ れもあって、本稿では〈壁掛〉と大竹絵画の対応はあえて詮索せず、詩篇の初出形と定稿形を比較し、併せて標題の「壁掛」をどう読むかについて考えてみた い。まず初出形を引こう。

壁掛〔初出形〕|吉岡実

乙女たちは遊んでいる
  善き遊びから 悪しき遊びへ
     割れ竹で蛇を挟み
ときめきつつ叫ぶ
        この世は汚物で満ちよ
「オンパロス」へ供えられた
       かたつむり
            鱈の頭
               紅い糸ぐるま
ここは売買の市場から遠い
            聖なる胎内くぐり
内側には橙色の絹が張ってあり
          五段の石段だってある
  蓬髪の白い老人に抱かれ
         乙女は恥しい花鉢を濡らす
他の部屋へ廻れば
むらさき色に手を染め
二人の乙女も遊んでいるようだ
  琺瑯引きのバケツの中へ
             犬釘 小鳥 仮面 胞衣
             死者の金歯も投げ入れる
春のひととき
   まるで美しい壁掛[タピストリー]が織られてゆくように
建物の屋根から霞がかかって来る

字下げ(空白)を□、詩句を■で表わすと、初出形の冒頭3行はこうなる。

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□□■■■■■■□■■■■■■
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こ の詩が収められた《薬玉》(1983)の階段状の詩形、〈くすだま〉の言を藉りれば「ことばの塊りをいわば「楽譜」のように散りばめた、いってみれば「言 譜」のようなもの」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二九七ページ)に慣れた目には、初出形の字下げはなんとも奇妙、というか中途 半端に映る。吉岡は詩集では詩句のユニットを次のように統一しているからだ。

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便 宜的に最初の詩句を@、第二の詩句をA、第三の詩句をB、第四の詩句もB(これがない場合もある)、第五の詩句をCと表わせば、@は天ツキで始まり(第1 行)、Aは@の文字数分の空白後に始まり(第2行)、Bは@とAの文字数分の空白後に始まり(第3行・第4行)、Cは@とAとBの文字数分の空白後に始 まっている(第5行)。――以上のいずれも、詩句冒頭・末尾の括弧類は半角にカウント。この、いわゆる《薬玉》詩形が〈壁掛〔初出形〕〉では厳格に守られ ていないのだ。本稿では、初出形を定稿(詩集収録)形と校合するにあたって、字下げの異同を簡略化するため、次のように表わすことにする。双方の間で字下 げに変更のない場合は、詩句の丸中数字を[ ]で括る([@]、[A]等)。一方、変更のある(つまり手入れの結果、上記の《薬玉》詩形となった)場合 は、詩句の丸中数字を【 】で括る(【@】、【A】等)。こうすると、異同は以下のようになる(行頭の数字はライナー)。

壁掛〔初出形→定稿形〕

01 〔乙女→娘〕たちは遊んでいる[@]
02   善き遊びから 悪しき遊びへ【A】
03      割れ竹で蛇を挟み【@】
04 ときめきつつ叫ぶ【A】
05         この世は汚物で満ちよ【B】
06 「オンパロス」へ供えられた[@]
07       〔かたつむり→百合根〕【A】
08            鱈の頭【B】
09               〔紅い糸ぐるま→胞衣〕【C】
10 ここは売買の市場から遠い[@]
11             聖なる胎内くぐり〔(ナシ)→だ〕[A]
12 内側には橙色の絹が張ってあり[@]
13           〔五→十六〕段の石段だってある【A】
14   蓬髪の白い老人に抱かれ【@】
15          〔乙女→一人の娘〕は恥しい花鉢を濡らす【A】
16 他の部屋へ廻れば[@]
17 〔むらさき色→はなだいろ〕に手を染め【A】
18 二人の〔乙女→娘〕も遊んでいるようだ[@]
19   琺瑯引きのバケツの中へ〔(ナシ)→交互に〕【@】
20              犬釘〔(全角アキ)→や〕小鳥〔(全角アキ)→や〕仮面〔(全角アキ)胞衣→(トル)〕【A】
21              死〔者→人〕の〔金歯→櫛〕も投げ入れる【A】
22 春のひととき[@]
23    まるで美しい壁掛[タピストリー]が織られてゆくように【A】
24 〔(ナシ)→正面の〕建物の屋根から霞がかかって来る[@]

冒頭5行の字下げを見ると、初出形が@・A・B(前述のように、この3行はほぼ、であって完全、ではない)・@・Aなのに対して、定稿形が@・A・@・A・Bなのは、文意からいっても穏当な手入れである。語句の変更では、17行めの「〔むらさき色→はなだいろ〕に手を染め」が興味深い。この修正は〈秋思賦〉(J・8)4〜11行として初出時から組みこまれた〈断想〉(《CURIEUX――求龍》4号、1978年11月)の第1行「むらさき色に手を染めあげ」を優先するための措置だろう。吉岡は《薬玉》を編むとき、はじめてこの類似に気づいて変更したと考えられる。おそらく〈壁掛〔初出形〕〉に「むらさき色に手を染め/二人の乙女も遊んでいるようだ」と書きしるした時点では、〈断想〉の冒頭行を忘れていたのだろう。逆に言えば、「むらさき色に手を染め(あげ)」という詩句が先導する水死者のイメージは、吉岡にとりついて離れないオブセッションだったのである。次に、初出の印刷物に吉岡が手を入れた状態を再現して掲げるが、語句と字下げの変更指示が混在していて、新たに清書した方がいいほどの煩雑さであり、ここから仕上がりを想定することは難しい。詩集用の原稿作成の際は、常のごとく、吉岡の手入れを(執筆時と同様)陽子夫人が浄書したことだろう。

吉岡実の手入れ〔初出形→定稿形〕を小林一郎が赤字で再現した詩篇〈壁掛〉(〈大竹茂夫展〉パンフレット、青木画廊、1982年3月27日)
吉岡実の手入れ〔初出形→定稿形〕を小林一郎が赤字で再現した詩篇〈壁掛〉(〈大竹茂夫展〉 パンフレット、青木画廊、 1982年3月27日)

詩の標題の「壁掛」だが、詩篇本文(最後から2行め)では「タピストリー」とルビが振ってあるので、〈壁掛[タピストリー]〉と読みたくなる。しかしながら、《薬玉》を構成するほかの詩篇がすべて漢字表記で――例外は最初期の詩篇〈竪の声〉(J・2)のみ――、読みも和語か漢語であることを勘案すると、「かべかけ」と読むべきだと思われる。よって拙編《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第2版〕》(文藝空間、2000)でも「かべかけ」と読んでおいた。次の詩集《ムーンドロップ》(1988)での吉岡だったら、〈寿星(カノプス)〉〈青空(アジュール)〉〈銀鮫(キメラ・ファンタスマ)〉のごとく、〈壁掛(タピストリー)〉としたかもしれないが。

〔追記〕
青木画廊の展覧会のパンフレットに発表された吉岡実の詩は4篇。それぞれの「絵によせて」書かれ、奇しくも《サフラン摘み》(1976)から《ムーンドロップ》までの4詩集に1篇ずつ収められている。なお、セリエントの〈異邦〉と小沢純の〈グロヴナー公の兎〉は、《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実》(書肆山田、1996)の〈吉岡実の小さな部屋〉にカラーで図版が掲載されている。

  1. 〈自転車の上の猫〉(G・15、18行、〈松井喜三男展〉パンフレット、1974年4月13日)、初出詞書「マツイ・キミオの絵によせて」
  2. 〈異邦〉(H・5、31行、〈ヘルマン・セリエント展〉パンフレット、1977年5月31日)、初出詞書「セリエントの絵によせて」
  3. 〈壁掛〉(J・5、24行、〈大竹茂夫展〉パンフレット、1982年3月27日)
  4. 〈秋の領分〉(K・5、32行、〈小沢純展〉パンフレット、1985年9月17日)


吉岡実詩集《紡錘形》本文校異(2009年3月31日〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実の詩集《紡錘形》は1962年9月9日、妻の吉岡陽子を発行人として草蝉舎から刊行された。ただし版元の「草蝉舎」の表示はフランス装の表4と機械函の表1だけで(函の表4には装飾化された「SSS」、「SohSenSha」の略が見える)、扉まわりや奥付にはない。発売は思潮社。詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)でH氏賞を受賞後初の詩集として注目された《紡錘形》は、22篇を収め、〈老人頌〉(1959年1月)から〈修正と省略〉(1962年3月)に至る全篇が本詩集以前に雑誌や新聞に発表されている(〈吉岡実年譜〔作品篇〕(《紡錘形》制作期間)〉参照)。この校異では、 雑誌・新聞掲載用入稿原稿形、 初出雑誌・新聞掲載形、 詩集《紡錘形》掲載形、 《吉岡実詩集》(思潮社、1967)掲載形、 《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)掲載形のうち、からまでの詩句を校合した本文とその校異を掲げた。これにより、吉岡が詩集《紡錘形》各詩篇の初出形本文にその後どのように手を入れたか、たどることができる。本稿は印刷上の細かな差異(具体的には、漢字の字体の違い)を指摘することが主眼ではないので、シフトJISのテキストとして表示できる漢字はそれを優先した。このため、ユニコードによる「瀆」や「禱」の代わりに、不本意ながらシフトJISの「涜」や「祷」を使用している点を諒解いただきたい。最初に《紡錘形》各本文の記述・組方の概略を記す。

雑誌・新聞掲載用入稿原稿:〈裸婦〉の写真版を除いて、詩集掲載用入稿原稿とともに、2009年3月の時点で未見。

初出雑誌・新聞:各詩篇の本文前に記載した。

詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962年9月9日):本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ27字詰13行1段組。

《吉岡実詩集》(思潮社、1967年10月1日):本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ27字詰14行1段組。

《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ27字詰19行1段組。なお《吉岡実全詩集》の底本は 《吉岡実詩集》。

《紡錘形》の原稿は《僧侶》と同様、漢字は新字、かなは新かな(拗促音は小字すなわち捨て仮名)で書かれたと考えられる(後出〈裸婦〉原稿の写真版とその解説を参照されたい)。ひらがな・カタカナの拗促音は、最終形を収めた全詩集で小字に統一されたこともあり、初出形がこれと異なる場合も全詩集に合わせて小字表記とした。なお〈老人頌〉と〈果物の終り〉の2篇は《紡錘形》に収録されるまえ、篠田一士編集・解説《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959)に〈W未刊詩篇〉として収められている。同書における2篇の本文は、初出雑誌掲載形とも詩集《紡錘形》掲載形とも微妙に異なるので、《吉岡實詩集》掲載形をとして、の順で校合して異同を掲げた。底本の組方の概略は次のとおり。なお〈吉岡実詩集本文校異について〉を参照のこと。

《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959年8月10日):本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ27字詰18行1段組。

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《紡錘形》詩篇細目

  詩篇標題(詩集番号・掲載順、詩篇本文行数、初出《誌・紙名》〔発行所名〕掲載年月(号)〔(巻)号〕)

老人頌(D・1、46行、《季刊批評》〔現代社〕1959年1月〔春季・2号〕)
果物の終り(D・2、57行、《同時代》〔黒の会〕1959年6月〔9号〕)
下痢(D・3、24行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年8月〔1号〕)
紡錘形T(D・4、12行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年9月〔2号〕)
紡錘形U(D・5、13行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1960年3月〔7号〕)
陰画(D・6、35行、《文學界》〔文藝春秋新社〕1959年11月号〔13巻11号〕)
裸婦(D・7、19行分、《文學界》〔文藝春秋新社〕1959年11月号〔13巻11号〕)
編物する女(D・8、19行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年10月〔3号〕)
呪婚歌(D・9、70行、《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1959年10月号〔4巻10号(38号)〕)
田舎(D・10、25行、《同時代》〔黒の会〕1959年12月〔10号〕)
首長族の病気(D・11、22行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年11月〔4号〕)
冬の休暇(D・12、14行分、《日本読書新聞》〔日本出版協会〕1960年3月7日〔1043号〕)
水のもりあがり(D・13、22行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1960年5月〔8号〕)
巫女――あるいは省察(D・14、35行、《文學界》〔文藝春秋新社〕1960年11月号〔14巻11号〕)
鎮魂歌(D・15、25行、《風景》〔悠々会〕1961年2月号〔2巻2号〕)
衣鉢(D・16、39行、《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1961年1月号〔6巻1号(52号)〕)
受難(D・17、20行、《近代文学》〔近代文学社〕1961年1月号〔16巻1号〕)
狩られる女――ミロの絵から(D・18、26行、《詩学》〔詩学社〕1961年5月号〔16巻6号〕)
寄港(D・19、19行分、《秩序》〔文学グループ秩序〕1961年7月〔9号〕)
灯台にて(D・20、33行、《文學界》〔文藝春秋新社〕1961年10月号〔15巻10号〕)
沼・秋の絵(D・21、23行、《文藝》〔河出書房新社〕1962年3月号〔1巻1号〕)
修正と省略(D・22、26行分、《文藝》〔河出書房新社〕1962年3月号〔1巻1号〕)

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老人頌(D・1)

初出は《季刊批評》〔現代社〕1959年1月〔春季・2号〕一二七〜一三〇ページ、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は並字)使用、五号15行1段組、47行。

さびしい裸の幼児とペリカンを
老人が連れている
病人の王者として死ぬ時のため
肉の徳性と心の孤立化を確認する
森の木の全体を鋸で挽き
出来るだけゆっくり
幽霊船を組立てる
それが寝巻の下から見えた
積〔み→Y234(トル)〕込まれたのは欠けた歯ばかり
痔と肺患の故国より
老人は出てゆく
皮の下から続く深い波のうねりへ乗り
多毛の妻をうつぶせにする
黒い乳房の毒素で
人の心もさわがしくみだれ
くらげの体も曇っている
老人は腹蔵なく笑う
ばんざい
ばんざい
一度は死も新しい体験だから
蝶番のはずれた境界を越える夜〔(ナシ)→Y234は〕
裂〔1Y2(ナシ)→34か〕れぬ魚の腹はたえず発光し
たえず収縮し
そのうえ恐しく圧力を加えて
エロチックであり
礼儀正しい老人を眠らさぬ
ガーゼの月のなまめかしさで
老人は回想する
正確にいうならば創造するのだ
胃袋と膀胱の〔なか→Y234ため〕に
交代のない沙漠の夜を
はいえなや禿鷹の啼きごえを
星と沙の対等の市を
そして小舎の炎の中心に坐り
王者の心臓の器で
豪奢な血を沸騰させ〔(ナシ)→Y234ようとす〕る
果ては→Y234(トル)〕
むなしく伏せられた
笊のごとき存在
みごとな裸の踊子も現われぬ
不安な毛の世界で
床屋の主人が剃刀をひらめかせ
老人の大頭を剃り〔1Y上→234あ〕げる
石膏のつめたさ
美しい死者として
幼児とペリカンの守護神として
他人には邪魔にならぬ所へ移される

果物の終り(D・2)

初出は《同時代》〔黒の会〕1959年6月〔9号〕二三〜二六ページ、本文新字新かな使用、9ポ19行1段組、57行。

つねに死ぬ人のまわりにある羽毛の潮のながれ
けばだつ意識の外面ではじかれる
孔雀の血の粒
その真新しいくちばしの喚びの深層で
内的独白をくりかえす
死ぬ人の幼年期の肖像を見た
つまれた菓子の間を疾走し
母の情事のゆえに下痢する
独楽の廻るスピードで失われてゆく微熱の時間
羞恥のセックスで靴下を穿く
幼女のまるいくるぶしへの侮蔑とともに
紋切型の父の心理的倒産があり
黒と白の斑の犬の轢死が少年の視線を転化する
秘密写真へ
柔かい曲線のおびただしい泥沼へ
未熟な杏から
すわりよい梨のしりのくぼみに
都会うまれの少年期の遅い恋の始まり
ばらいろの繭を持つ従姉に教育され
るいれきのある肥った叔母の冷感で戦慄する
肉への廻り道
霧隠才蔵への入信と改宗
とかげの磔刑
また別の少女へのやさしい折檻
反抗と洪水はたえず少年の身の丈をせりあげる
後世の砂漠のなかに
父の無智と兄の無力な家の柱を回避する
オペラ館の極彩色の舞台の予言の歌手たち
仮象で生きる喜劇役者たち
ガルボの秘蹟の遠近感
アナ〔1Y・→234(トル)〕ベラの絹の唇の触媒
永遠の視点はジイドとリルケの書から俯瞰される
トンネルの闇で死滅した
家畜の臓物の臭いをかぎつけ
投影した少年の精神が氷の河を引き入れる
ついでに把握しがたい月の運行を
充分な死の恐怖の伝承と
繁る小麦の畑の生への集積の怒り
少年は孤独の肩をあらわにし
物の固い角を経験しはじめた
消えたランプの発端から終焉までを告発する
発生する癌の戦争
大砲の車輪のひと廻りする時
無意味に穴のふさがる時
多くの人類の死・猿にならねばならぬ無声の死
下等な両棲類の噛み合う快感の低い姿勢
横たわる死・だんじて横たわる死
古代の野外円形劇場の太陽の下の醜悪な消却作業
一人だけの少年は哭きわめく
粥状の物質の世界で
コップの嵐のなかで
まさに逆〔(ナシ)→Y234さ〕まだ
偶像は
いま死ぬ人の半生の透視図
肖像の少年は模倣するだろう
大人の習慣のぬれた羽毛をたらす死を
歩みよる曙光の拡がり

下痢(D・3)

初出は《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年8月〔1号〕八〜九ページ、本文新字新かな使用、9ポ25字詰1段組、26行分。

ぼくは下痢する のぞむところでなく 拒む術もなく 歴史の変遷と個人の仕事の二重うつしの夜にまぎれて ぼくは下痢する 紅いろの花と 薄明の空をそめる痰の吐かれる地下室の水 それはぼくだけの現象だろうか 今日もそれをする昨日もしたんだ 考えれば昔の記憶のなかの青い膚のとうがんの内房を覗きながら 下痢はぼくらの日常の習慣 洗いたての世界の便器が集められる ぼくの下痢はぼくの精神を飲みくだし 他人の多くの心へ伝達され 飢えの大衆の糧を腐らせてゆく そのときから寝そべる老若男女のむれ そのささやかな声 そのいじらしい手足の運動 それらの生きている証拠の排泄の愛 誰もが流木の位置 ぼくはどこかもう少し高いところから 直接灰をかぶる 被虐的な食事をするため 馬や犬の経験もしないであろう 滑稽な形而上の下痢をする 力なくむしろ生きることを認証する 痛みの導くところ 雷の格闘の終りの空間に聳える塔をみる ぼくの死すべき肉体の鳴りひびく殉教の血のながれの高まる時 ぼくは下痢する 耕される傾斜の土地に 汲まれる泉の絶えざる岩や石の下に 永久に心の内乱の契機の腸を断つ ぼくは忘れられる ぼくは人と物を忘れる 仮設のなかにめぐりあった交友だから 寒冷な下痢する近代の醜悪なかがまる催眠状態をぬけ 回復する驚異な暗が次元を替える 中心に自然の光の接触をくりかえす 二十世紀の庭に ぼくは〔12綜→34総〕合体として健康な男の一人になる ま〔じ→234ず〕梨から食いはじめる ここに新しい関係・対話がはじまる

紡錘形T(D・4)

初出は《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年9月〔2号〕四〜五ページ、本文新字新かな使用、9ポ25字詰1段組、13行分、標題は「紡錘形1」。

首のまがった母それはまだ女であり 見えない骨の走る小さな父それは男であり 窓の外の地に死ねない人々がめいめいの貧相な手で罎をつみ 蠅をむらがらせ 哄笑と泪声で 二人の男と女に寝床の時を与える 夜が鋭い角をもつならば 他の人は畳の下へ沈む 火事は血を浴び 母の子宮へ移りつつ燃える 父はもうつるつるの猿として自己の枝へつりさがり叫ぶ 水を水を 母は鍋の尻と箒で接がれた一つの化物に変り 襖の世界へ入ってゆく 父は朝早くから桶のなかへ鍬形の手を涵し 労働にたえる熱い鉄を打ちすえる 刻まれた鑪の目が万の錐の尖をとがら〔す→234し〕 それらすべてが陰気な畳を突き刺す それが生活であり 金銭であり 父はふいごの著しく長い腹をよこたえる 母は障子の内側で孕みつつある

紡錘形U(D・5)

初出は《鰐》〔書肆ユリイカ〕1960年3月〔7号〕二ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、五号25字詰1段組、14行分、標題は「紡錘形2」。吉岡は1960(昭和35)年3月9日の日記に「昨夜できた〈紡錘形2〉を朝みる。まずよし、陽子に浄書してもらって、〈鰐〉へ送る」と書いている。

わたしの生きている今 わたしは触っているのだ それはずいぶん過去の年月の愛と羊水の水圧に抑えられたまま 小さな袋での一囲いの卵として 水平にねむり 立った勢いでわたしは自分の足の爪を噛んだ わたしの信仰はそれから高まる 朝夕にくりかえされる食物の固形の時 わたしはそのたび聴いた母性の甘い嘔吐を もしかしたら立ちあがれるかも知れない ずいぶん狭い伽藍だと思いながら 裸の姿で いなむしろ裸以前のろうそくの形で 自分の投影を前後左右の壁に映しだす これがこれが犬でないもの 鳥けものの羽を与えられぬもの 呼称・父 呼称・母の夢みてる可憐な塑造の者 夜の香料薬科のなかの血のアーチをくぐり出る 召命されたエキス 木造の首都で一市民のつづらのふたひらく四月 真綿をかぶり老婆が沐浴している

陰画(D・6)

初出は《文學界》〔文藝春秋新社〕1959年11月号〔13巻11号〕〈「裸婦」他四篇〔〈陰画〉〈裸婦〉〈僧侶〉〈喪服〉〈単純〉〕〉一二〇〜一二一ページ、本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、9ポ1段組、35行、「カット・伊原通夫」。

光りへ抽きだされ
いままで沈んでいた卵の類
いっせいに動きだす
蠅にとび廻られ
甘美な恋人たちの死相の沼をわたり
偶然奏でられた木の葉の音楽に感応して
ばらいろに輝く
半面は磁気を発しながら
卵の類
まんべんなく転る
呪術の生活の逃避所から
英雄の暗殺された武器の市を通りぬけ
鏡の前へ
うつろいやすい女たちの腿を
一つ一つの卵は閉じこめてゆく
疑いもない眠りの支配だ
かぎりなく暗い水をながす
あでやかで精神の交合をうばわれた浴室
夜ごとに連繋をくりかえす死人らの眼と舌の羅列
この眺望に愛と死の共存がありえようか
いくつかの卵が他の卵をのりこえる
符合しない ひどい変容
死人のおびただしい口が明瞭に見えぬ
健康な男女の歯が開かれる時まで
陰をひく卵の類
観念の世界へ寝返りできないのだろうか
やわらかい海の藻の敷物のうえ
すさまじい通過を見せる
軸もない卵の類
策略のない彼岸を探す
光熱のない平面
だめならしばらく
冷血な肉の裡へ拘留される
毟→234むし〕られた卵の類
たちまち仮借ない天体を頂く

裸婦(D・7)

吉岡陽子夫人の手になる〈裸婦〉の雑誌掲載用入稿原稿
吉岡陽子夫人の手になる〈裸婦〉の雑誌掲載用入稿原稿(〈吉岡実の詩稿〈裸婦〉〉参照)
出典:青木正美(保昌正夫監修)《近代詩人・歌人自筆原稿集》(東京堂出版、2002年6月10日、二〇三ページ)

雑誌掲載用入稿原稿で注目すべきは、1行の字詰めである。32字×20行の原稿用紙を、行頭は4字アキで書きおこし行末は2字アキで折りかえす26字詰めで書かれており、すべての刊本の27字詰めとは、わずか1文字の違いだが、異なっている(散文詩型はこの26字のほかに、20字・22字・24字・25字・27字で組まれているが、原稿の字詰めが初出形の字詰めと等しいかは不明)。用字用語は、本稿の初めでも触れたように漢字は新字、かなは新かな(拗促音はひらがな・カタナカとも小字)で、結果的に本原稿の表記法は、「瀆」を含めて、の《吉岡実全詩集》掲載形と完全に一致している。
初出は《文學界》〔文藝春秋新社〕1959年11月号〔13巻11号〕〈「裸婦」他四篇〔〈陰画〉〈裸婦〉〈僧侶〉〈喪服〉〈単純〉〕〉一二二ページ、本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ26字詰1段組、20行分、「カット・伊原通夫」。

ぼくがあらゆる白痴の世界から奪い出そうとする 秘すべき現実 たくみに毛皮の内部へ吊るされた卵 ぼくはその時からぼくの創造の初夜を涜す そこにはゼラニュウムの花の色で幾度も照らされ 触れ方によってはゆるやかにうわむく美しい乳房 和解しよう 目的もなく水平線をたどり 砂へ君臨する肉の全身 そこに極度に熟する苺が置かれた ぼくは否定して離れる だが遠近のない岸をひとまきして吹きだされる 髪と藻の暗いみどりの輝き ぼくはあざやかにその寒色で染められる 水へ沈むように少しずつ解放されて そのときというより今 誰であれ〔視透→234透視〕することはできぬだろう ぼくの立っている吃水度から急に沈み 海の貝類の上で発光する腿や腰部 それからいっそう波はうねる 夏なお冷寒の氷山の特質をさとった ぼくの主張まで変える強力な組織体 遠くは反響せず 停止と同時に浮動し ぼくでは計量できないマッスとその過剰な陰 その歓待 たしかに侮蔑されよう ぼくは画家だから 実体を他に移す破服の施術者にすぎぬから ぼくは数ある血管を張りめぐらし 或は押出して 複数の眼と口をもつ女を創る 未来が予測できるならば ぼくの眠った大事業の後 女の白い像が大胆にものを食べる

〔2010年8月31日追記〕
青木書店(東京都葛飾区堀切)が〈裸婦〉の詩稿を《日本の古本屋》に出品していた。「吉岡実詩稿 画像あり/吉岡実、1/「裸婦」 ペン書640字詰完 裏打有 2枚/青木書店  105,000円」。リンク画像を引く(上掲写真とは別カット。色調補正されていないが、カラーなので掲げる)。

吉岡実詩稿〈裸婦〉(出典:青木書店)
吉岡実詩稿〈裸婦〉(出典:青木書店

編物する女(D・8)

初出は《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年10月〔3号〕六〜七ページ、本文新字新かな使用、9ポ27字詰1段組、19行分。

たっぷりと畝編みにしたプルオーバー 今夜の料理には玉葱を使おう 彼女はじぶんのからだから何を編みだすのかしれたものではない 大きな衿はタートルネックの変り型 彼女は砂の力で一人の男を愛そうとした ジャージーでピンクなら彼も大胆にさわれる 太陽の網目のなかの苺をつぶす愉悦の日々 男の住所をどこへ控えたか思いだそう 秋だからブルー グレーなどで模様を変え 袖口をゴム編みにして 男が独身者の血は冠の毛をぬらすと 二〔123ケ→ヶ〕月前にもらした重大な口説 裏うちは三十糎幅の同色の布をはって横になる しわにならぬから 男の部屋へは猫しか通わぬ秘密をかぎつける 裾は折返しを深く 男とこの夏は波の下へ すべったことが忘れられぬ 単純なメリヤス編みですっきりさせよう 男の肉〔身→234親〕・父・母・不具な姉を呪い ドレス・ヤーンでなければ上手に仕上らぬ 長い胴のシルエット 男は貧しいから好色な壁画を描く たくしあげて彼女が着るときココア色のスラックスが似合うと 老裁縫師にいわれた もう冬だからやぼになる 船の底の貝の冷たい光りがとどく 彼女の眼に入る男は彼女にとって象牙色の魚形のハンガーだ 本当に死ぬならばセーターを脱ぎたいと彼女は考える

呪婚歌(D・9)

初出は《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1959年10月号〔4巻10号(38号)〕二四〜二七ページ、本文新字新かな使用、9ポ21行1段組、70行、題辞は「われら今夜というこの時/この黄教の馬の放中せる陰茎を/中心にして/雨の地に拝跪した/〈ラマ僧の呪祷より〉」。

わたしたちの今夜というこの時
この日という雨と春
おごそかな寺院の偶像を骨ぬきにした後
卓子をゆくりなく円いものと感じて
その下に集る脚の空間に
なやましい川のながれを見た
ふれるならば刑罰されて死んだ犬猫
つかむならば炎える夥しい藁の束
わたしたちは斜の板へともに並んで寝て
にんじんを噛みながら流れる
大勢の人の微笑
またはまれなる憎悪と風
わたしたちの皮膚のつめたいことを
たがいの欺むかぬ証しとせよ
手と手 腸と腸から
つねにはみだすオレンジ
その果肉の濡れに導〔び→234(トル)〕かれて
測り知れぬ愛
観念から行為へ
暗転する太陽その次は薄明
わたしたちの氷る全身に浴せられた
花は死ぬものの嫉妬
しばらくは香気を放ちやがては窒息をねがう
黙示の寝床
われた蛇の卵 麦粒
紡がれた陰毛の糸車
かぶさる毛布類
つもる塵 のびる植物勢
むらがる蜂の針を女の肉へ打つ
否 否
加えるものは
わたしたちの小部屋を彩る
謀術はないのか
パンと牛乳のほかには
純粋な浪費の舞踏する幻のかまきりたち
如露の世界に閉じこめられた
わたしたちの後宮の庭
他人のさわがしい子供が集る
ちんば めっかち 象皮病
それらの眼の油はたぎり
大理石の柱のかげからのぞく
禁欲の衣を次々と沈める海溝
わたしたちに飛躍があるだろうか
華美なさかだち
慈悲ふかい骸骨の抱擁の果に
富を抛棄して貧を養う
それ以外のなにが与えられよう
ともに裸の秤
共犯とはかかる状況
かかる矜りのむなしい愛であり
つきすすむ水路の星座
その吸盤の邦で
甘い罪のながい涎を
わたしたちは飲みつづけた
近代装飾の洞穴のおくふかく
裂かれた兎を耳からつるす
この高揚の月の出
わたしたちも同時に
吟味され照らされる
わたしたちの立ちあがった場所
つねに灰いろの綿毛を舞い上らせて
わたしたちの心と肉の陰画
わたしたちの半面頭に
ねずみ泣きのねずみを二匹棲まわせて
予言される
一人の男として煉瓦をつみ上げ
一人の女として水をかき廻す
悪夢の絵具にくまどられて生きると
永遠がなければ次永遠に
蓋せられた音楽

田舎(D・10)

初出は《同時代》〔黒の会〕1959年12月〔10号〕六六〜六七ページ、本文新字新かな使用、9ポ1段組、26行。

納屋であくびをくりかえす
幽霊の見物人
にんじん畑のうっとうしい舞台裏
三つ廻れる爪先踊り
むらがる白鳥を扇形に分け
一つしか廻れぬ〔偏→234扁〕平足で
跳ね出る夜行性の馬
むらさきいろに照明されて
山へ心臓を食べにゆく
子供の泣き声
川底を漂う肌着のなやましい挑発
めかくしされた魚
屍体の白鳥には深いおじぎをさせ
男の食肉的ずうずうしさで
大股びらきの洗濯女を抱えた
覆面の馬
いななきながら
三つ廻れる爪先踊り
一度の倍の六つ廻りの爪先踊り
子供が鼻血をながす瞬間
なまぐさい蝶が柵へむらがる
拍手 口笛 ステッキを叩く音
発作的にとまり
古典美の権化として
にんじんを食う馬
自然に心の膿も見えた→234(トル)〕

首長族の病気(D・11)

初出は《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年11月〔4号〕六〜七ページ、本文新字新かな使用、五号25字詰1段組、24行分。吉岡実がクリアファイルに保存していた新聞の切り抜きに、本篇のスルスと思しい記事がある(〈〈首長族の病気〉のスルス〉参照)。

或る新聞記事で首長族のことを改めて知った いまでもビルマのカレンニ地方に二千人も住んでいるとのこと 写真も載っているのでつくづく見た すべての女が首輪をはめ いたいけな幼女も立っている ここでは罪人でなく美人の矜持を重い枷として ぼくは思いだした少年の頃 外国の地理風俗事典で見たことを 彼女たちは体の成長と同じに真鍮の輪をつぎつぎとふやし あごをつきあげるまで重ねる でも人間の首にも制限があるから それらの形態をふみ外さない枠で止める それ以上長くしたら危険だ 鹿・狐と同じ動物に変化する 或は死ぬだろう ぼくは想像力がとぼしいから 彼女たちの交合の夜の闇までみとおせない 真鍮の輪と輪のかちかちという軋み その無機質の冷たいささやきがたえず 首長族の男の肉性を刺戟し その満月の狩を唾や汚物でまつる 火のなかに彼女たちは沈む臼 ともあれぼくには別のことが気がかりだ たまたま彼女たちが病気になった場合だ 三つの部落に一人の首輪の技師がいるらしい 首長族の女は庭の大きな樹にしばられて泪をうかべる 一番上の輪から外していく それを木の枝にかける 最後の大きな輪をかけたときさしもの太い生木も裂けた〔という→234(トル)〕 技師はそのときはじめて 日に当ったこともなく湿り 白く長い軟体物が 自分の丈より高くぬうっと突き出た実感に思わず吐瀉し 手当料をとらず森へかけこんだ〔そうである→234(トル)〕

冬の休暇(D・12)

初出は《日本読書新聞》〔日本出版協会〕1960年3月7日〔1043号〕1面、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、新聞用活字一倍(正角)22字詰1段組、18行分。吉岡は1960(昭和35)年2月27日の日記に「詩篇〈冬の休暇〉出来」と書いている。

そこでは灰色の馬と灰色でない馬とがすれちがう 灰色の馬が牝らしく毛が長く垂れさがり 別の馬は暗緑の牡なのだろうはげしく躍動する たがいのたてがみも尾も回転する毛の立体にまで高まって 少女にはそれが見える 完全な円のふちから ときどきはみ出るものがオレンジ色に光り 中心はもう時間が経過したので黒い 或晩にお父さんとお母さんがのぞかせた一角獣のように恐ろしく 少女は自身の腿に熱を浴びる まだすれちがっている馬たち ピエロでない赤い帽子の男は 少女が気づいた時から人ではなく だれもが持っている共犯のはにかみの心 テントの底が深くなればなるほどゆっくり 馬の方へちかづく 命令するために非常に細長い棒をふりおろす 電光もひきあげる街の看板の方へ 今夜は充分泣けると少女は思う 灰色の牝馬のすんなりした腹に〔(全角アキ)→234(ベタ)〕異父弟が宿ったから このみじかい冬の休暇が終るとともに

水のもりあがり(D・13)

初出は《鰐》〔書肆ユリイカ〕1960年5月〔8号〕二〜三ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、五号20字詰1段組、29行分。

水のながれは止る その全面の硬い量の上をすべる 女と魚 たえずまくれるスカートのなかの鱗で飾られた脚 くらい鏡の割目からもりあがってくる水 ときどき血もまじえて 空気を吸いに魚が想像外に恐しく大きな顔を出す 嗤っているのでなければ 絹の肌の半身を出刃でくすぐられている不安定な口つき 女のもろい曲線の波を他の魚がとびこえる 夜から朝への細い出口 ばら色とむらさき色は女の好きな色 魚の背骨をいつまでも包みこんでいる休息の色 核と愛の危機 もうすこし経過したら腐る滞水時間 ちょうど魚の眼のなかに沈みながら女は眠り その女の髪〔と→234の〕毛の巣で 再び健康体になる魚 もりあがる水 もりあがる肉 溺れる蝉の悲鳴を聞く さかさまの樹木 さかさまに降る雨をしばらく 未建築地で眺めよう 水の下の陸地 水晶体に結晶されゆく 火事と黒いけむり さだかではなく女は藁でなでられ 魚は氷の角で押えられて 美しい離別 衝撃のつづく小宇宙 作曲家の望んでいるメロデイがうまれた 深い水をくぐりぬけ〔(全角アキ)→234(ベタ)〕再びもりあがってくる水 その中心の雨傘の宙がえり 心中する男女 しばしば魚が男の身替りをする 受身の風景へ船を置き 寝台を準備したあとで 水がもりあがる 単なる外形ではなく 酒〔12罎→34壜〕にさびしい砂地が閉じこめられる 死骸は実物大の女と魚 音の変質する彼方 どこまでも連続する水のもりあがり

巫女――あるいは省察(D・14)

初出は《文學界》〔文藝春秋新社〕1960年11月号〔14巻11号〕一〇一〜一〇三ページ、本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ23行1段組、35行。

北欧的な濃霧のうすれるころ
わたしはベンチに腰かけて洟をかむ
プラトニックな逢びきのため
箒のような白髪のおびただしい樹木と
そこには観念の孤独な公園のぶらんこのひと揺り
見たらだれでもが不覚にも笑う
おそろしく肥った女
それは肉体の輪郭ではなく
彼女の内在するプリズムが着物を下から脹ましている
彼女の腕や腿を肉眼でみては失礼だ
なでたりさわると退屈する
ふたたび自己省察をこころみ
わたしは高みから暗い滑り台をすべりつづける
いまにはじまったことではなく永遠に
彼女は歩きすぎるので
夜半はよく坐る
氷柱のなかに
建築物の上に
はじらいもなく
わたしの食べかけの西瓜の上にまたがる
もしかしたら今夜は出会えぬ
彼女はデリケートな儀式を行いにいったのだろう
死人の上の石をどける音楽
波がもちあげる処女性の夏
プールの跳板の空中で
肥った彼女の胴体が中心部でずれる
同時にあらゆる記念碑の土台の大理石が食違う
わたしは謙虚に新しい壁をぬり
わたしの機能力では明確に捉えられないが
標的のような円をならべて
彼女の肖像を描く
しばらくわたしは別れていよう
他の人にとっても彼女は必要だから
彼女は節度をもって導かれている
生命のドラマの→234真新しい〕解剖図の上へ

鎮魂歌(D・15)

初出は《風景》〔悠々会〕1961年2月号〔2巻2号〕一八〜一九ページ、本文新字新かな使用、8ポ(二分アキ)1段組、25行。

ぼくは知っている
夏の美しい雲への歩みを
夜をむかえる前のしばらく
いくつもの柱がつらなっている
どの一つもがひとかかえもあり
垂直に立って円みをもち
ぼくは恐れているのだ
人妻はすべて裸であったという
記憶を幼時から忘れてはいないのだから
大胆な四つの柱は今なお
砕かれずに上も下もなく
雨にぬれている
そこから馬は出発して行き
ぼくは他人の寝室の青空をかいまみる
折れた櫂の海もともに
高みへ次々と重く閉められて
王室のひきだしは音を立てる
細い首を挟まれて
死せる鴎
髪のたなびく春
ぼくはこんな大人になっても
柱という柱にふれる
ひきだしというひきだしを開く
冬がくるまでに
自己没入の過程を了るために

衣鉢(D・16)

初出は《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1961年1月号〔6巻1号(52号)〕五六〜五七ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、9ポ1段組、39行。

たたみの黄いろ
わたしたちの皮膚のハアモニイ
わたしたちの四角い腰が坐る
始祖から今にいたるまで
たたみの疥癬性
夫婦が這う
赤ん坊が這う
もう少し這えば海へ出る
ざるをかざせば
さるすべりの紅
赤ん坊は力つきそこから先は老人が這う
火事の構造する障子の世界
つなみの礎石する瓦の空
老人は這う
黒い胴巻
老人は耳をたらして呟く
家紋と太い柱は遠い
げんげの畠を去るつめたい水
飲食の国は魂の岩の中
老人は力つき骨が這う
スピードがおちる
やわらかな苔の上では
もう夕暮ちかく
ぴかぴかの鎌形の月
如露できれいに洗うしらみやうじ
骨の美しいカーヴをくっきりと
初冬の道のべで
顕彰するために
ここからまたつづく
泥と水をまぜ細い竹を編みこんだ
囚れの矢来のような壁
そこでわたしたちは見る
夜叉の女たちが茶釜を叩き
琴を鳴らす爪の受菜のときを
走る天井
停るたたみ
わたしたちは家に入る
一匹のむかでを殺すため
泣き笑いの能面の伝統のうちに

受難(D・17)

初出は《近代文学》〔近代文学社〕1961年1月号〔16巻1号〕一〇〇ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、9ポ1段組、20行。

雪の下にねむる釘
考えられる!
造船所の裏の〔堀→234掘〕割で
子供と昆虫が暗号だけの愛を
試みている半世紀も前の事
憎しみは鋏や石臼のひびき
人びとの死面の格子
ぼくの次にだれが吠える
リンネルの空の下で
みせかけの海の波へ
ぼくが溺死したあとだれが泳ぐ
なぜ月が出る
トマトの山を半分かくし
伝統→234現世〕の受難の野に
もう少し歩いて行けば
ぼくは死ぬより無関心になろう
拷問道具のうしろに
砂丘がおどろくほどぴんと張っている
信じられる!
髪の毛の下にうごく櫛

狩られる女――ミロの絵から(D・18)

初出は《詩学》〔詩学社〕1961年5月号〔16巻6号〕四六ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、9ポ2段組、26行。

偶然の配色の緑や黄のもやから
一人の女が生まれる
一本の紐を波うたせながら
ぼくの心に火の円を描く
その女の腰から左右に突きでる
棒の両端にとまる鳥
それはいつも子供のように哭く
すっかり肉付が了るまで
月に真横を見せ
挑戦する
闇の空に
野菜籠の下の海にもまた
容器が世〔異→234界〕を変える
その内容が腐りかかった茶色から
黒くなる
小さな半島
スペインの内乱
歴史の霜の中の血
夏みかんを狩る
その蜜の〔頭→234脳〕髄のながれ
もしかしたら
ぼくは見すごしているかも知れぬ
驚愕にみちた砲身の地より
方向転換して
飛ぶ美しい婦人帽を
ふたたび太陽が正面に輝くならば

寄港(D・19)

初出は《秩序》〔文学グループ秩序〕1961年7月〔9号〕六六〜六七ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、五号24字詰1段組、22行分、末尾に「1961・4・14」。

ぼくの肉体の延長がつづく うごき廻る火や女の尾冠の頂へ 旧世紀の溶ける雪の束の間 ぼくは主張できるだろうか ぼくの認識のために船が赤道へ進み 下着の内側で美しいくらげが熱のために干される つまりぼくの愛が鴎のくちばしを紅色に染めるまで すべての杏やりんごは熟さないだろう 綿が屋根を包み ぼくが目指す港の全景をしずかにかくす 唾液は念入りにたれる 帆柱からまっすぐに集り 薄明の湾の中心へ 音楽が命ぜられる ぼくの眠りを縛る幾条かの綱が太くなり ぼくの笑いは充分卑屈だ 亀の甲の下で もしやさしい女がいるとしたら 明るい旋風が港へ帰ったのだ 絞首台の上に皿や野菜が置かれて 末つぼまりの鉛管の家 ぼくには新しい航跡がない ぼくの心が変ったと他人がいったら ぼくは静脈のなかで変ったのだ それからゆっくりはじまる悪疫と浸水 ぼくの生理がなまなましく感じる 夜の波の下のおびただしい繃帯の魚 賠償をとどこ〔う→234お〕りなくするために ぼくは今日みつけだすだろう 陸地の雨と羊の頭を囲む柵を そして家具の山が燃え上り 鎖骨がゆっくり外れた市 狭いところに 首尾よくなにが残りなにが残らないのか? ギターの内臓をさらす港へ ぼくは近〔ず→234づ〕く

灯台にて(D・20)

初出は《文學界》〔文藝春秋新社〕1961年10月号〔15巻10号〕一二六〜一二七ページ、本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ1段組、33行。吉岡は本篇の〈作品ノート〉に「「灯台にて」は、詩に倦怠をおぼえはじめた時期の作品で、たいへん難儀をしながら書いた記憶がある。主題は、一言でいえば、戦争のために、青春期を失った一人の男の心の姿である」(《日本詩集1962》、国文社、1962年12月15日、二〇四ページ)と書いている。

  教授はいう〈異った生き方の苦しみ――〉

ゆっくり煙が止る
道化帽子の下で
分割された軍艦の心臓部まで
真赤なベッ〔ト→234ド〕の覆い布がたれる
鷹の中の迷える石の魚雷
ぼくには今それだけしか感じられず
コンクリートの泡の〔穴→234孔〕しか見えない
裸の巴旦杏をたべる少年時がなかったんだ
女の栄光の血と夜明けの水域も泳がずに
ぼくは灯台をさがす
ロマンチックな肋のいかだを組み
産婆のように冷笑して
一段一段高まる海を行く
両極から子宮を挟む
大きなレンズが南から北へ廻る
もう一度聞きたい陸からの咳を
さかさにかざされた懐中電灯
夏なお寒い便所の下の闇で鴎は汚される
ぼくの魂の粗相じゃない
それは生きて〔(ナシ)→234い〕るための誤解
中庭にコスモスが咲く桃色と白
投網が閉じられるまで
ぼくの能力が保障される
二重にも繃帯を捲かれた塔
その艶消しの内陣
中年の薄明ゆえ宗教もなく悟性もなく
ぼくの現在は何と合体することか
低い棚ではへちまがつらなる
そこから別の色彩
別の風景が装置されるとしたら
チーク材の船の底に花嫁が死んだように
美しく生きている
ポーズを変えることなく

沼・秋の絵(D・21)

初出は《文藝》〔河出書房新社〕1962年3月号〔1巻1号〕二四〇〜二四一ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、10ポ1段組、23行。吉岡は〈三つの想い出の詩〉に「「沼・秋の絵」は、美術雑誌で見た、シュルレアリスムの女流画家レオノール・フィニの絵を題材にしたものだ。いってみれば、言葉で模写したようなものである。霊気の立ちこめる薄明の沼で、水浴している「わがアフロディーテー」と、解して下さってもよい。「わたしはいつ愛撫できる?」と、思慕し、願望しているのだ」と書いている。

清岡卓行編《イヴへの頌》(詩学社、1971年4月12日)の函と表紙〔装丁:金子国義〕 清岡卓行編《イヴへの頌》(詩学社、1971年4月12日、七八〜七九ページ)掲載の吉岡実自筆〈沼・秋の絵〉
清岡卓行編《イヴへの頌》(詩学社、1971年4月12日)の函と表紙〔装丁:金子国義〕(左)と同書(七八〜七九ページ)掲載の吉岡実自筆〈沼・秋の絵〉(右)

女がそこにひとりいる
乳房の下半分を
太藺や灯心草と同じように
沼へ沈め
陸地の動物のあらゆる嘴や蹄から
女のやさしい病気をかくして
微小なえびのひげに触れている
野蛮な深みに立ち
罰せられた岩棚で
わたしはいつ愛撫できる?
鋸をもつ魚の口
蟻のひと廻りする一メートル半径の馬の頭蓋
それが侮辱されて骨へ代るとき
わたしは否でも愛を認識できる
いつでも曖昧な人間の死がくりかえされ
水はうごく岸べから岸べへと
わたしの尿や血が悪化するまで
もし幻覚でなければ臨床的に
女はぬれた髪の毛をしぼられ
いっそう美しく空へ持ちあげられる
なんの歪みもなく
そこに数多く
死んだ猛禽類の羽毛が辷りつづける

修正と省略(D・22)

初出は《文藝》〔河出書房新社〕1962年3月号〔1巻1号〕二四二〜二四三ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ26字詰1段組、27行分。

装飾模様に用いられたらしい わたしの統一体としての人間 いちじくは皿の中心でとがる といったずっと自然な内腔への愛 それはいつでも〔ぼく→234わたし〕の考えている 支那の幼児の食べる物を想像させる 氷山の家で菱の実が煮られる夜へ その生命の内なる青い骨が分ちがたく見える すさまじいお伽噺をきかせよ 岩肌へ開示される歴史や長い竜のひげが垂れる そこでは小さな文明と刃傷沙汰が終り ダイナミックな月の出まで 砂に噛まれたひらめをうごかす 五人の女の優雅な遊戯のうちに 波の力を感じる そのすみやかな帆の移動をさとる わたしは指摘できるか? 犯行者の持つ大きな模様 その鮮明な赤や黒の縞がとぐろまく地図の上を 向き合った人 向き合った動物 笑えば恐しく長い歯を現わす 外部から把えられた肺のなかの病気 やがて本質的に肉のない世界を見つけられる? 板のような静かな直線の深い竪溝の走り高まるまで ゆっくり死んだ女の完成された肩をベッドで見る それがわたしの希いであり 偉大な試みといえよう 新しい壁から食肉主義の細密画を外し すなわち主題の女の上へ乗る 四方の平面から豊饒な葡萄の漏水があるまで この情況証拠! このつつましいデザインをわたしは自己に許容する あきらめの冷たい響き 水彩でぬられた世界のうすめられた血の実景 サイズの零 多孔質の自己陶酔 秩序のない単細胞の存在がうたがわれる時 ひとつの器具の意志がより大きく自転する わたしは判断できる ありあまる野菜の山を噛みながら 見方によれば みごとな老人へと修正される喜びを 正当な理由でなく 堅固な俗世の障害物をとり〔のぞ→234除〕き 図案のように美しく省略される 増大するべく

――――――――――

吉岡実は1980年4月28日の日付を持つ《「死児」という絵》(思潮社、1980)の〈あとがき〉で「それにしても、《紡錘形》や《神秘的な時代の詩》、それから《サフラン摘み》などの詩集の生成の記録がないのは、今にして考えれば残念なことである」(同書、三四四〜三四五ページ)と書いた。その後《サフラン摘み》には触れなかったが(1979年発表の〈画家・片山健のこと〉がある)、次に引く〈三つの想い出の詩〉(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984)で《紡錘形》に言及した(なお同書の本文には《紡錘形》から〈紡錘形T〉〈紡錘形U〉〈田舎〉の3篇が、〈三つの想い出の詩〉には引用の形で〈沼・秋の絵〉全行が収録されている)。

 この「沼・秋の絵」は、昭和三十七年の『文芸』復刊第一号(三月号)へ発表したものだ。それまでの五年間、『文芸』は休刊状態であった。発行元の河出書房はもちろん、編集責任者の坂本一亀も、『文芸』復刊には並々ならない決意と熱情を以って事を進めていた。私が詩を依頼されたのは、前の年の十一月末ごろだったように思う。なにしろ、二十一年前のことである。私はその好遇に応えるに、ふさわしい作品を書かなければと、気負った。それがかえって災いし、締切日が過ぎても、詩はなかなか出来なかった。また勤務先の宣伝関係の仕事も、多忙をきわめ、私は身心ともに疲労していた。年の瀬の街は慌ただしく過ぎていった。営業畑から編集担当者になった青年は律義でたびたび、滝野川の団地のわが家に催促に現われた。
 私は正月の休日をすべて費やして、二篇の詩をどうにか書き上げた。本来なら一つの長い詩篇が望ましいのであろうが、気力が続かず、二篇の小品に分けてしまったのだった。ちなみにもう一つの詩は、「修正と省略」という散文形のものである。この年の秋に刊行した、詩集『紡錘形』の末尾にこの二篇を収めている。(同書、二〇一〜二〇二ページ)

《紡錘形》の22篇中、2作同時に発表というケースがふたつある。〈陰画〉〈裸婦〉と、〈沼・秋の絵〉〈修正と省略〉である。「本来なら一つの長い詩篇が望ましいのであろうが、気力が続かず、二篇の小品に分けてしまった」という言は、〈陰画〉と〈裸婦〉にも当てはまるか(〈陰画〉〈裸婦〉の後に続けて〈僧侶〉〈喪服〉〈単純〉が再録されているのは、書きおろし詩篇の行数が増減しても対応できるバッファーの意味もあったに違いない)。H氏賞受賞後の吉岡は、文芸ジャーナリズムばかりか、創刊間もない《鰐》の要請にも同人として応えなければならず、《紡錘形》の制作期間中、のちに拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》(書肆山田、1980)に収められる作品(6篇)だけでなく、生前未刊行に終わった詩篇(4篇)や次の詩集《静かな家》(思潮社、1968)に回された2篇も発表している(最新の〈劇のためのト書の試み〉は《紡錘形》の刊行と同時期)。結局、吉岡は《僧侶》制作期に割愛した詩(4篇)よりも多くの詩(12篇)を捨てて《紡錘形》を編んだ。想像を巡らすなら、吉岡実詩における最長詩篇〈波よ永遠に止れ〉が本書の巻末に収められていたら(ちょうど《僧侶》における〈死児〉のように)、詩集《紡錘形》は今とはよほど違った、ユニークな作品集になったことだろう。

〔付記〕
武満徹が1958年に作曲した〈黒い絵画――レオノール・フィニーによる(語り手と室内オーケストラのための)〉――3部構成の詩と音楽から成るNHKラジオ放送番組〈言葉と音楽のための3つの形象〉の第1部――の音源で、秋山邦晴作の詩〈黒い絵画〉の朗読が聴ける。全9節から成るこの秋山の詩の冒頭2節を、同曲がCDに収録されている《武満徹全集 第1巻 管弦楽曲》(小学館、2002年12月10日)の解説書から引く。

夜は 野獣の若々しさ
紡ぎ女が冷たい手つきで
夜を昼に変える 母親の涙が
赤い着物のなかに 夜を隠す
しかし撫でられた鬣[たてがみ]から
血に染った欲望がにおう
夜がにおう

  おまえのただひとつの愛のイマージュは
  おまえをつつむ神秘な黒い水
  石のなかに眠っている夜だ(同書、二四ページ)

同書にはフィニーの〈世界の果て〉のモノクロ写真が掲載されており、その説明に「下のフィニーの絵は、秋山がインスピレーションを受けたもの」(同前、二五ページ)とあるところを見ると、フィニ作の〈世界の果て〉(〈終末〉とも)は吉岡実の詩〈沼・秋の絵〉だけでなく、秋山邦晴の詩〈黒い絵画〉(と、それを受けた武満徹の曲〈黒い絵画――レオノール・フィニーによる〉)にも霊感を与えた絵画ということになる。

…………………………………………………………………………………………………………

吉岡実年譜〔作品篇〕(《紡錘形》制作期間)

  1959年から1962年末までに発表の詩篇のみを抜粋(〈吉岡実年譜〔作品篇〕〉の記述を一部改めた)

●1959(昭和34)年 39〜40歳
1月 老人頌(D・1、46行、《季刊批評》〔現代社〕1959年1月〔春季・2号〕)
3月 無罪・有罪(E・2、*印で4節に分かつ48行、《現代詩》〔飯塚書店〕1959年3月号〔6巻3号〕)
6月 遅い恋(未刊詩篇・7、12行分、《現代詩手帖》〔世代社〕1959年6月号〔1号〕)、果物の終り(D・2、57行、《同時代》〔黒の会〕1959年6月〔9号〕)
7月 唱歌(I・4、17行、《朝日新聞》〔朝日新聞東京本社〕1959年7月26日〔26404号〕)
8月 下痢(D・3、24行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年8月〔1号〕)
9月 紡錘形T(D・4、12行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年9月〔2号〕)、夜会(I・5、11行分、《讀賣新聞〔夕刊〕》〔読売新聞社〕9月28日〔29776号〕)
10月 編物する女(D・8、19行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年10月〔3号〕)、呪婚歌(D・9、70行、《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1959年10月号〔4巻10号(38号)〕)、夜曲(未刊詩篇・8、14行分、《近代詩猟》1959年10月〔27号〕)
11月 陰画(D・6、35行、《文學界》〔文藝春秋新社〕1959年11月号〔13巻11号〕)、裸婦(D・7、19行分、《文學界》〔文藝春秋新社〕1959年11月号〔13巻11号〕)、首長族の病気(D・11、22行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年11月〔4号〕)
12月 田舎(D・10、25行、《同時代》〔黒の会〕1959年12月〔10号〕)

●1960(昭和35)年 40〜41歳
1月 斑猫(I・6、30行、《詩学》〔詩学社〕1960年1月号〔15巻1号〕)
2月 哀歌(未刊詩篇・9、35行、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1960年2月〔6号〕)
3月 紡錘形U(D・5、13行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1960年3月〔7号〕)、7日 冬の休暇(D・12、14行分、《日本読書新聞》〔日本出版協会〕1960年3月7日〔1043号〕)
5月 水のもりあがり(D・13、22行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1960年5月〔8号〕)
6月 波よ永遠に止れ(未刊詩篇・10、11節257行、《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1960年6月号〔5巻6号〕)
11月 巫女――あるいは省察(D・14、35行、《文學界》〔文藝春秋新社〕1960年11月号〔14巻11号〕)

●1961(昭和36)年 41〜42歳
1月 衣鉢(D・16、39行、《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1961年1月号〔6巻1号(52号)〕)、受難(D・17、20行、《近代文学》〔近代文学社〕1961年1月号〔16巻1号〕)
2月 鎮魂歌(D・15、25行、《風景》〔悠々会〕1961年2月号〔2巻2号〕)
5月 狩られる女――ミロの絵から(D・18、26行、《詩学》〔詩学社〕1961年5月号〔16巻6号〕)
7月 寄港(D・19、19行分、《秩序》〔文学グループ秩序〕1961年7月〔9号〕)
10月 灯台にて(D・20、33行、《文學界》〔文藝春秋新社〕1961年10月号〔15巻10号〕)、霧(I・7、13行、《讀賣新聞〔夕刊〕》〔読売新聞社〕1961年10月5日〔30512号〕)

●1962(昭和37)年 42〜43歳
3月 沼・秋の絵(D・21、23行、《文藝》〔河出書房新社〕1962年3月号〔1巻1号〕)、修正と省略(D・22、26行分、《文藝》〔河出書房新社〕1962年3月号〔1巻1号〕)
6月 晩春(I・8、4行、《いけ花龍生》〔龍生華道会〕1962年6月号〔26号〕)、塩と藻の岸べで(I・9、22行、《花椿》〔資生堂出版部〕1962年6月〔7月号・13巻6号〕)
9月 劇のためのト書の試み(E・1、39行、《鰐》〔鰐の会〕1962年9月〔10号〕)

〔2019年4月15日追記〕
吉岡実の生誕100周年(2019年4月15日)を記念して、〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉(小林一郎 編)〔A4判縦位置で印刷すると、約[293]ページ〕を新規ページとしてアップした。ただし、本サイトでは《〈吉岡実〉を語る》の一項目という位置づけのため、トップページの〈目次〉には掲出しない。


吉岡実と片山健(2009年2月28日)

吉岡実の詩集《サフラン摘み》(青土社、1976)は、片山健の装画によって詩篇の魅力を最大限に発揮した――が言いすぎなら、吉岡の 自装になる単 行詩集に親しんだ者にとって、片山の絵と切りはなして《サフラン摘み》を想いうかべることは難しい。「アングラ芸術」に耽溺していた1960年代末、吉岡 は画集《美しい日々》(幻燈社、1969年12月10日)で片山健と出会った。

 古びた木造の小学校の便所や校庭を背景にして、少年少女の夢と現実を、甘美に、また残酷に描いた、片山健の画集 《美しい日々》を見て、私は衝撃をうけたものだった。半ズボンの裾から回虫を垂らして、校庭を歩く男の子や新聞紙をからだに巻きつけて、放尿する女の子の 姿態を見ていると、〈男生徒女生徒〉と呼ぶのがふさわしい時代の雰囲気がそれは色濃く《美しい日々》のなかに漂っていた。(《「死児」という絵〔増補 版〕》、筑摩書房、1988、一六三ページ)

この〈画家・片山健のこと〉の初出は《文學界》1979年9月号だが、吉岡は同年9月10日から銀座の画廊・かんらん舎で始まった片山 健個展の二つ 折りリーフレットの案内状に5行の詩(初出時に標題なし、題名の〈生徒〉は詩集《ポール・クレーの食卓》収録時に付けられた)を寄せている。

木造の古い小学校の便所の暗がりで/女生徒は飛びあがりつつ小水をするんだ/もし覗く者がいるなら それは虎の假面をかぶった神/ 男生徒は夏の校庭を影を曳きながら 歩きまわる/半ズボンの間から 回虫を垂らしつつ 永遠に

片山健個展案内状(かんらん舎、〔1979年9月〕)の外面 片山健個展案内状(かんらん舎、〔1979年9月〕)の中面
片山健個展案内状(かんらん舎、〔1979年9月〕)の外面(左)と同・中面(右)

原口黎子は「『美しい日々』に充満する猥褻さは、くっきり描破された少年や少女たちの性器、おびただしい排泄行為のその姿態にもまし て、硬直しきっ た様々な後ろ姿の中にこそ、ぎっしり隠し込まれ抑え込まれている」と幻燈社の〈出版案内〉に書いた(刊記はないが、1978年ころか)。私はこの文から松 浦寿輝の〈後ろ姿を見る――『サフラン摘み』の位置〉(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991)を想起せずにはいられないのだが、《サフラン摘み》のジャケットの絵(〈「無題」1973〉。詩集刊行当時吉岡の所蔵で、 《現代詩読本》の口絵写真に吉岡とともに写っている)の少女は二人とも尻を見せているものの、少年は全員(函の絵の少年も含めて)尻を見せていない。

吉岡実は《ポール・クレーの食卓》(書肆山田、1980)が最後の詩集になるのではないかと惧れた(同書あとがきの「〈猿〉、〈ツグ ミ〉の二篇は、 現在の詩境の作品である。ここしばらく詩を書くことも、まして詩集一巻を世に問うこともないので、あえて繰り入れ、末尾を飾ることにした」という発言は、 そのように読まれるべきだ)。退路を断つために刊行した拾遺詩集の表紙と函に《美しい日々》の巻頭作品(別丁本扉の次の罫囲みだから、同画集の口絵か)を 使っていることには、《サフラン摘み》の装丁に対する自負以上に、片山健の絵への愛着を見たい。吉岡実は片山健の鉛筆画を寿衣のように詩集に纏わせること で、《サフラン摘み》に代表される自身の中期までを締めくくったのである。

片山健画集《美しい日々》(幻燈社、1978年2月30〔ママ〕日)の函と巻末の絵〔装丁:山村梗子〕
片山健画集《美しい日々》(幻燈社、1978年2月30〔ママ〕日)の函と巻末の絵〔装丁: 山村梗子〕

〔付記〕
吉岡実の随想には日記の記述を素にしたものが見られるが、ここに好個の例がある。初めが〈画家・片山健のこと〉の最終段落、次が「一九七九年六月十七日」 の〈日記〉だ。〈日記〉に後年の手が入っていないという保証はないが、吉岡実の文章作法の要諦を見るには充分だろう。

  今年の六月の一夕、私と妻は早稲田の銅羅魔館へ行った。暗黒舞踏界の妖精堀内博子の独舞〈リジィア〉を見るためであった。陶酔の二時間のあと、二階の喫茶 室で、私たちは、大野一雄や中村文昭と舞台の感想を話し合った。化粧をおとした清楚な堀内博子を拍手で迎えた。しばらくして、見知らぬ若い女性に声をかけ られた。それが片山夫人であり、堀内博子と共に、笠井叡門下であるのも、奇縁というものである。夫人と帰り路いろいろ話をしたが、片山健は秋ごろ開く個展 のために、息子中蔵の肖像ばかり油で描いているそうだ。私はそれでは色気がないと思ったので、奥さんの肖像とか若い女の顔なんか、描いていませんかと聞い たら、幾つか女をモチーフにした絵を描いていますが、それが妊婦ばかりでと言って、ほほえんだ。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、 一六五〜一六六ページ)

  夕方、陽子と早稲田の銅羅魔館へ行く。狭い小屋で、堀内博子の独舞〈リジィア〉を観る。冷房装置もなく、二つの扇風機が廻っているだけで、汗がふき出る。 彼女は色彩のちがうローブを幾重にもまとう。その裾はずたずたに裂けて、まるで襤褸のように見えた。うずくまる姿態がかんまんに起き上り、気だるく踊るだ けだ。この世の人でなく、美しい妖精のごとく。陶酔の二時間であった。二階の喫茶室で、大野一雄、中村文昭とくつろいで雑談。化粧をおとした清楚な堀内博 子を拍手で迎える。
 帰りみち、突然、若い女性に声をかけられる。なんと、それが片山健夫人であり、堀内博子とともに笠井叡門下であるのも、奇縁というものであった。舞踏は あきらめ、詩を書いているとのこと。片山健は秋ごろ開く個展のために、幼い息子中蔵の肖像ばかり油で描いているそうだ。私はそれでは色気がないと思ったの で、奥さんの肖像とか若い女の顔なんか、描いていませんかと聞いたら、幾つか女をモチーフにした絵を描いていますが、それが妊婦ばかりでと言って、ほほえ んだ。(《土方巽頌》、筑摩書房、1987、一一四〜一一五ページ)

吉岡陽子編《年譜》の〈一九七九年(昭和五十四年)六十歳〉の六月には、「堀内博子エンゲルタンツ公演〈リジィア〉を観る」(《吉岡実 全詩集》、筑摩書房、1996、八〇二ページ)とある。


吉岡実とリルケ(2009年1月31日)

1959年6月、四〇歳の吉岡実は自らの幼少年期に材を採った詩篇〈果物の終り〉(D・2)に「永遠の視点はジイドとリルケの書から俯瞰される」と書いて、生涯を通じてただ一度、自身の詩句に詩人の名を刻んだ。その直後、吉岡は初めてリルケの《ロダン》に言及した(〈救済を願う時――《魚藍》のことなど〉、初出は《短歌研究》1959年8月号)。

 昭和十六年の夏、私は出征することになった。リルケの《ロダン》と万葉集と《花樫》がとぼしい私の持物だ。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、六八ページ)

さらに初出時に「軍隊時代とリルケ」と見出しが付けられていた〈読書遍歴〉(《週刊読書人》1968年4月8日号)では茅野蕭々訳《リルケ詩集》も挙げている。

〔……〕堀辰雄の文章から、たぶんリルケをわたしなりに発見したのではなかったか。浅草仲見世の清水屋書店に行き、茅野蕭々訳の『リルケ詩集』を求めたときの感激を、今も忘れられない。リルケの詩とジイドの小説などがその頃の枕頭の書といえようか。
 昭和十六年八月から満洲へ出征し、朝鮮済州島で終戦を迎えるまでの、四年六ヵ月、わたしは果してどんな本を読んだか、その多くを記憶していない。軍隊の悲惨な日々の中で、ひそかに日記と詩を書きながら、折にふれて、岩波文庫のリルケの『ロダン』を読んでいた。内務検査の時、わたしはいつも厩舎の寝藁の中へ、七、八冊の翻訳書を匿したものだ。ゲーテの『親和力』もその数少い私物品の一つだった。
 リルケの『ロダン』の手仕事の精神が、戦後のわたしの詩作へ大きく影響しているといえる。朔太郎の詩、茂吉の短歌も戦後はじめて、むさぼるように読んだものだ。遅い出会いゆえ、その愛着は今でも深い。(同前、五七ページ)

吉岡は〈うまやはし日記〉(初出は《現代詩手帖》1980年10月号)に「〔昭和十四年〕六月十八日 浅草仲見世の清水屋書店で、渇望の茅野蕭々訳『リルケ詩集』を買う」(同前、二五九ページ)と新刊入手の感慨を書いているものの、リルケの本格的な影響は戦後10年を経た詩集《静物》(私家版、1955)に至ってようやく現われた。その間の事情を知るには、吉岡の〈リルケ『ロダン』――私の一冊〉(初出は《東京新聞〔夕刊〕》1982年4月19日)を読むに如くはない。

 私は長いこと、新しい詩の方向を模索していた。既成観念では、陳腐な作品しか生まれないからだ。私は再び、岩波文庫のリルケ『ロダン』(高安国世訳)を手に入れ、読みはじめた。そしてある啓示を受けた。「再び」とは、以下の経緯があったからである。それは昭和十六年の夏、私は満洲へ出征した。携帯を許された、わずかな私物のなかに、数冊の書物を持って行った。翻訳書は、ゲーテ『親和力』とリルケ『ロダン』の二冊であったが、軍隊の内務検査のとき見つかり、この二冊は没収されてしまった。
 リルケの詩や『マルテの手記』を愛読していたが、深遠すぎて、詩作のうえでは、影響を受けなかった。まだ私は本気で、詩を書くことを、考えてはいなかったようだ。遊戯するように、超現実風の詩を、少しばかりつくったにすぎない。それらの詩を収めた、私の処女詩集『液体』が知己の手で、出版されたのは、大東亜戦争の始まった年の冬であった。
 さて、リルケの『ロダン』であるが、巨匠ロダンへの詩人の純粋な魂が、いかに傾倒していったかの、告白の書である。しかし、私にとっては、ロダンの偉大さは、どうでもよかった。透明な空間へ鋳こまれたような、リルケの言葉――肉体の鎖、螺条、蔓。罪の甘露が痛苦の根からのぼって行く、重くみのった葡萄のように房なす形象――というような陰影深い詩的文体に、私は魅せられた。

この石にさす光はその意志を失う。光はこの石の上をすどおりして他の物へ行くことができない。光はこの石に身を寄せ、ためらい、とどまり、この石の中に住むのである。

  ロダンの大理石の群像を、叙述した文のほんの一節だが、事物をみごとに捉えた、まさに一篇の詩である。『ロダン』一巻は、リルケがロダンの精神と彫刻を讃美しながら、自己の「詩論」を展開しているように、私には思われた。だが真の啓示を受けたと、いえるのは次の章句である。

何物かが一つの生命となり得るか否かは、けっして偉大な理念によるのではなく、ひとがそういう理念から一つの手仕事を、日常的な或るものを、ひとのところに最後までとどまる或るものを作るか否かにかかっているのです。

  この言葉はおそらく、ロダンの言葉であると同時に、またリルケの理念といってもよいのだろう。私は一つの方向を指示された思いだった。それからは、詩を書くときはつとめて、職人が器物をつくるように、「霊感に頼ることなく」、手仕事を続けてきたのである。それらの詩篇が、詩集『静物』へと生成していったのであった。(同前、二八七〜二八八ページ)

吉岡はこのあと、〈静物〉(B・2)を全行引いて同文を締めくくっている。「夜の器の硬い面の内で」と始まる〈静物〉(B・1)でないことに驚く向きがあるかもしれない。だが、書きおろしの《静物》の印刷用原稿作成の時点でこの「夜はいっそう遠巻きにする」が巻頭詩篇であったことを顧みるなら(〈吉岡実詩集《静物》稿本〉参照)、本作こそリルケの《ロダン》に学んだ吉岡が「新しい詩の方向を模索し」た結果の、おそらくは最初の一篇だった。ここで書誌的なことを述べれば、リルケの《ロダン》は吉岡の出征直前の昭和16(1941)年6月10日初版発行で、1960年9月発行の9刷で改版(改訳)されている。上掲文を読むかぎり、出征前に新刊本を、復員後に同じ訳文の一本を購入した模様だ。しかるに〈リルケ『ロダン』――私の一冊〉に引用されている訳文は改版(改訳)後のそれであり、吉岡は本文引用のために新たに同書を入手したものと思しい。ついでだから、吉岡が満洲の地で密かにひもといた初版の訳文から、漢字を新字に改めて引く。( )内は掲載ノンブル。

肉体の鎖、螺条、蔓。罪の甘露が痛苦の根から登り行く、重く実つた葡萄のやうに房なす形象。(42)

此の石に射す光はその意志を失ふ。光は此の石の上を素通りして他の物へ行くことが出来ない。光は此の石に縋りつき、躇らひ、止まり、この石の中に住まふのである。(73)

何物かが一つの生命となり得るか否かは決して偉大な想念によるのではなく、人がさういふ物から一つの手仕事を、日常的な或る物を、人のところに最後まで止まる或る物を作るか否かにかかつてゐるのであります。(87)

ここからだけでも《静物》に至る吉岡の足取りを推測することは可能だが、リルケの《ロダン》には興味深い章句が満ちている。改版(改訳)本から引用する。

 物(Dinge)
 この言葉を私が言ううちに(お聴きでしょうか)、或る静寂が起こります。物のまわりにある静寂。すべての運動がしずまり、輪郭となり、そして過去と未来の時から一つの永続するのものがその円を閉じる、それが空間です、無へ追いつめられた物(Dinge)の偉大な鎮静であります。(79)

戦時下の中国大陸で、そして戦後間もない東京で自身の詩を模索していた吉岡を、リルケの《ロダン》は霊感に頼らない「手仕事の精神」で鼓舞した。若き日に彫刻家を夢みていた吉岡が本書を手にしたのは、あるいはロダンへの関心が主だったかもしれない。しかし結果として、ロダンの「彫刻」よりも、さらにはリルケの「詩」よりもはるかに大きなものをもたらしたこの評伝は、吉岡の詩的出発を促す糧となったのである。

リルケ(高安国世訳)《ロダン〔岩波文庫〕》(岩波書店)の初版(1941年6月10日)と同・改版(1974年10月20日の22刷)
リルケ(高安国世訳)《ロダン〔岩波文庫〕》(岩波書店)の初版(1941年6月10日)と同・改版(1974年10月20日の22刷)

それでは、リルケの「詩」はどうだったのだろうか。吉岡実は〈手と掌〉(初出は《イメージの冒険3 文字》、河出書房新社、1978年8月)で次のように書いている。

 私が二十歳ごろ愛読したものに、茅野蕭々訳の《リルケ詩集》がある。このなかの、高名な〈秋〉という詩が好きだった。手元にこの本がないので、高安国世訳を借りる。

  木の葉が散る、遠いところからのように散る、
  どこか空の遥かな園が冬枯れてゆくように。
  木の葉は否むような身振りで散ってくる。

  そして夜々、重い大地は
  星々の間から寂寥の中へ落ちてゆく。

  私たちはみな落ちる。ここにあるこの手も落ちる、
  そうして他の人々を見るがいい。落下はすべてにある。

  だがこの落下を限りなくおだやかに
  その手に受け止めてる一人のひとがある。

  詩を書きはじめた者に、最初に思いつく魅力的なモチーフは〈手〉であると思う。しかし私は、リルケのこの詩を読んだ時、〈手〉の詩を書くことを断念したように思う。それとともに、世に〈手〉や〈掌〉をうたった詩歌が多すぎるように感じていたからでもある。〈手〉や〈掌〉の内在する象徴性にもたれかかって、安易に成立った作品を見ると、私はやりきれない気持になる。(同前、八五〜八六ページ)

高安国世の訳はおそらく《リルケ詩集〔講談社文庫〕》(講談社、1977)あるいは同じ訳文の《リルケ詩集〔世界文学ライブラリー〕》(講談社、1972)だが、吉岡はなぜ《日本の詩歌28 訳詩集》(中央公論社、1969)の茅野蕭々訳〈リルケ詩抄〉を引かなかったのだろう(《日本の詩歌27 現代詩集》には吉岡の詩4篇が収録されている)。同集の生野幸吉の〈鑑賞〉にこうある。「蕭々の訳は、やや硬くてぎごちないが、真率な語調をもち、奇を弄するところがないだけに、かえって原詩の真新しい断面を見せるところが多い。それはことに、つぎの「秋」においてそうである。//「秋」(Herbst)は一九〇二年の初秋にパリで書かれたもの。同じころ書かれた「秋の日」とともに『形象詩集』のなかでもっともすぐれた詩に属するとともに、もっともポピュラーな詩である」(同書、二七九〜二八〇ページ)。茅野蕭々訳《リルケ詩集》(第一書房、1939年6月10日)から〈秋〉を掲げる。

葉が落ちる、遠くからのやうに落ちる、
大空の遠い園が枯れるやうに、
物を否定する身振で落ちる。

さうして重い地は夜々に
あらゆる星の中から寂寥へ落ちる。

我々はすべて落ちる。この手も落ちる。
他のものを御覧。総べてに落下がある。

しかし一人ゐる、この落下を
限なくやさしく両手で支へる者が。

蕭々訳は《リルケ詩抄》が2008年4月、岩波文庫に入って読みやすくなったが、吉岡が執筆した30年前は入手しにくかっただろう。《ロダン》の訳者・高安国世のこなれた訳が気に入ったのかもしれない。どちらにしても、〈手と掌〉の根底にあるのは蕭々訳のリルケ詩に対する敬愛であり、吉岡がリルケから学んだのは、現実の「物」と対峙する詩精神のありかただった。戦争を挟んで初読から十数年を経て、《リルケ詩集》もまた《ロダン》とともに吉岡実の詩的出発を準備したといえよう。

茅野蕭々訳《リルケ詩集》(第一書房、1939年6月10日)と同《リルケ詩抄〔岩波文庫〕》(岩波書店、2008年4月16日)
茅野蕭々訳《リルケ詩集》(第一書房、1939年6月10日)と同《リルケ詩抄〔岩波文庫〕》(岩波書店、2008年4月16日)

吉岡が戦前に読んだ《マルテ》は、堀辰雄訳によるその断章か大山定一訳の《マルテの手記》(白水社、1939)だろうが、おそらく戦災で焼失し、次に引く戦後の日記に出てくる《マルテ》は、1946年1月20日初版発行の望月市恵訳の岩波文庫版ではないだろうか。

〔一九四六年〕一月十五日 朝、リルケ《マルテの手記》を少し読む。(〈日記 一九四六年〉、《るしおる》5号、1990、三三ページ)

昭和二十四年〕十一月十七日 〔……〕リルケ《マルテの手記》(〈断片・日記抄〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一一六ページ)

前者は新刊を購入直後、後者は何度めかに読みかえしたときか。手許の《マルテの手記〔岩波文庫〕》の三版本(1974年3月30日:25刷)から、 吉岡の琴線に触れたであろう箇所を引く。

 今では知るべのいない故郷の家を思うにつけて、僕は以前は死がまだこんなではなかったにちがいないと考える。そのころはだれもが、果実の種を秘めているように、自分の内部に死を秘めているのを意識して(または、感じて)いたにちがいない。(14)

 僕は恐怖に対して手段を講じた。朝まで寝ずに書くことにした。(20)

 見る目ができかけている今、僕は仕事を始めなくてはと考える。僕は二十八歳になるが、まだほとんど仕事らしい仕事をしてはいない。(22)

忘れていた恐怖が残らずよみがえっていた。〔……〕寝衣の小さなボタンが僕の頭よりも大きくはないか、大きくて重くはないかという不安、(66)

 この静けさのなかに音楽が聞こえずにいたろうか。今までにもかすかにいつも聞こえてはいなかったろうか。(131)

彼〔聖ジャン・ド・ディユ〕も断末魔の苦悶の孤独のなかで、庭で縊死したばかりの男のことを不思議にも聞き知り、臨終の床から跳ね起きて、その男の首からあやうく綱を切ったのであった。(169)

かれらの部屋には宿のない猫が夜ごとに訪れ、かれらをひそかに引っかき、かれらの上で眠るのである。(212)

  灯の下にひとりすわっている彼は、そういうことを瞑想し認識しながら窓前のベンチの上に果物を盛った皿を認める。彼は無意識にその皿からりんごを一つ取り、それを前のテーブルへ置く。彼の生活はその完成した果物をどのようにとりまいているのだろう、と彼は空想する。完成したもののまわりには、実現されなかった世界が常に上昇し高まるのである。(237)

リルケ(望月市恵訳)《マルテの手記〔岩波文庫〕》(岩波書店、1974年3月30日:25刷)とリルケ(手塚富雄訳)《ドゥイノの悲歌〔同〕》(同、1974年2月20日:17刷)
リルケ(望月市恵訳)《マルテの手記〔岩波文庫〕》(岩波書店、1974年3月30日:25刷)とリルケ(手塚富雄訳)《ドゥイノの悲歌〔同〕》(同、1974年2月20日:17刷)

吉岡実が最後に言及したリルケの作品は《ドゥイノの悲歌》だった(茅野蕭々訳《リルケ詩集》には、《リルケ詩抄》に追加する形で、〈ドゥイノ悲歌〉の第一・第四・第八悲歌が訳載されている)。

金井 吉岡さんはさっき、ずっと詩人でいなくてもいいとおっしゃっていたでしょ。この間会った時は、やっぱり詩を書くことがあるかも知れないっておっしゃっていて、あの時わりと感動しちゃったんですけど。
吉岡  高揚していましたね。だからあの時美恵子に言ったのは、これはすごく僭越なことなんだけど、リルケの『ドゥイノの悲歌』を模倣したものがぼくにできたらいいな、という願望があったわけ。ただ、ぼくなんか宗教的に悩みも何もないでしょ、無宗教で。だけどリルケのああいう中にはそうとう深くはいっているんじゃないかと思ってね。とてもそういう厚みのあるものはできないけど、将来長い詩が書けたら『ドゥイノの悲歌』の模倣的なものでもやってみたいなと考えているけれど……。〔……〕相当休んで、将来もし考えがまとまれば、そういう長い詩をやってみたいという気持ちが全然消えているわけではない――。(金井美恵子との対談〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉、《現代詩手帖》1980年10月号、一〇五ページ)

はリルケの思想的圧縮点を示す《ドゥイノの悲歌》に対抗すべく、一度は20世紀後半における「現世をテーマの長篇詩」を奏でようとしたのだった。


〈わたしの作詩法?〉校異(2008年12月31日)

〈吉岡実の装丁作品(62)〉で吉岡実装丁の《詩の本 U 詩の技法》(筑摩書房、1967)を紹介して、同書に収載された吉岡の詩論〈わたしの作詩法?〉に触れた。そこでは冒頭部分の否定辞を中心に吉岡の作詩法に対する基本姿勢を述べたが、今回は〈わたしの作詩法?〉の四つの掲載形の間の異同を調べた。結果を要するに、:《詩の本》(初出)の本文はほぼそのまま《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968)に収録され、定稿化すべく手の入った《「死児」という絵》(思潮社、1980)の本文は、生前最後の版となった《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)に原則保持されている。本校異ではの本文を最終形と見做して、間で異同のあるセンテンスのみ挙げた(歿後刊行の《吉岡実散文抄〔詩の森文庫〕》(思潮社、2006)の本文はと同形)。なお、の校正紙は未見。最初に〈わたしの作詩法?〉各本文の記述・組方の概略を記す。

:《詩の本 U 詩の技法》の印刷用原稿は、2008年12月現在未見。

:《詩の本 U 詩の技法》(筑摩書房、1967年11月20日、二五七〜二六五ページ)掲載形は、本文9ポ44字詰17行1段組、129行(空白行は行数に算入しない)。以下も、本文表記は基本的に漢字は新字体、かなは現代かなづかいで拗促音は捨て仮名。

:《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968年9月1日、一〇〇〜一〇五ページ)掲載形は、本文8ポ25字詰18行2段組、205行。

:《「死児」という絵》(思潮社、1980年7月1日、一三〇〜一四〇ページ)掲載形は、本文10ポ39字詰15行1段組、148行。

:《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988年9月25日、八七〜九四ペー ジ)掲載形は、本文13級44字詰19行1段組、136行。

:《吉岡実散文抄――詩神が住まう場所〔詩の森文庫〕》(思潮社、2006年3月1日、七九〜八八ページ)掲載形は、本文13.5級41字詰15行1段組、141行。

《詩の本》(筑摩書房、1967)、《吉岡実詩集》(思潮社、1968)、《「死児」という絵》(同、1980)、《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)、《吉岡実散文抄》(思潮社、2006)
《詩の本》(筑摩書房、1967)、《吉岡実詩集》(思潮社、1968)、《「死児」という絵》(同、1980)、《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)、《吉岡実散文抄》(思潮社、2006)

〈わたしの作詩法?〉は400字詰約12枚で、各掲載形とも真中に詩篇〈苦力〉(C・13)全篇、そのまえに8段落の文章、そのあとに同じく8段落の文章という構成になっている。これを踏まえて、詩篇を除く文章の各段落に(01)から(16)までの番号を振り、本文の異同箇所を示すためのアドレスとする。漢字の字体やルビの体裁の相違など、細かなものを除いた主な異同は次の10箇所である。

1. (03)或る絵画が見える〔12、→34。〕女体が想像される〔12、→34。〕亀の甲の固い物質にふれる。
2. (05)推敲〔12[すいこう]→34(トル)〕は一見、作品を磨くという行為であるが、又反対に、常識的に、平板なものに改悪する危険がある。
3. (06)だれにでも詩のなかで使うことばで、好きなのと嫌〔12(ナシ)→34い〕なのがある。
4. (08)それは、見〔12え→34(トル)〕るもの、手にふれられるもの、重量があり、空間を占めるもの、実在――を意図してきたからである。
5. (〈苦力〉)黄色い砂の〔12龍→34竜〕巻を一瞥し
6. (〈苦力〉)徒労と肉〔12慾→34欲〕の衝動をまっちさせ
7. (09)〔(1字下ゲ)→23(天ツキ)→(1 字下ゲ)〕ここに、「苦力」という一篇がある。
8. (09)つぎの日は、〔123かえ→帰〕った。
9. (11)「瓜のかたちの小さな頭」とは、彼らの頭が小さいわけで〔12(ナシ)→34は〕ないが、裾の長い藍衣を着ているので、そう見える。
10. (12)これは誤りであるが、わたしにとって、餌食する≠ヘジショクする≠ナなければならない〔が、→234。〕今〔(ナシ)→234で〕 は別に餌食[エジキ]する≠ナよいと思っている。

以上の異同の内実と背景について考えてみよう。

1.読点2箇所を句点に変更したのは、動詞を現在形で止めて短文を連ねた方が(03)の「意識のながれ〔……〕を停止すること」の実態に沿うている、と判断したためだろう。
2.「すいこう」という読み仮名を吉岡が付けたとは考えにくい。掲載時に《詩の本》の編集部が付したものか。おそらく(03)の「泛[うか]」も同様だろう。
3. 「嫌」を「いや」と読まれるのを避けた手入れか。
4.「実在」=「手にふれられるもの」=「重量があり、空間を占めるもの」という同格だから、最終形の「見るもの」ではなく、初出と〔現代詩文庫〕の「見えるもの」を採りたい。「見るもの」だと、「見る物」としての対象なのか、「見る者」としての主体なのか、意味と映像の両面で濁りが生じる。これが吉岡の手入れか、組版上の手違いか迷うところだ。ちなみにの〈日記抄――一九六七〉の小見出し「六月二十日」(二四ページ)がでは脱落しており(一三ページ)、の校正作業が鉄壁ではなかったことをうかがわせる。
5と6. 〈苦力〉の漢字2箇所の変更は、残っていた旧字を新字に統一した措置(なお〈吉岡実詩集《僧侶》本文校異〉の〈苦力〉を参照のこと)。
7. で天ツキとなったのは、おそらく組版上の手違いであり(の当該箇所がちょうどページの最終行で、1字下ゲであることがわかりにくい)、で旧に復していることからも、吉岡による手入れではないと思われる。――とで校閲機能が働いているのを目の当たりにすると、先ほどの言に反するが、4.の「見〔12え→34(トル)〕るもの」が吉岡の手入れのようにも思えてきて、本文決定上、悩ましいところである。
8. 「返」ではなく「帰」であることを明確にした手入れ。(12)に「その帰り豪雨にあい、」とある。
9. 意味からいっても、語調からいっても、妥当な手入れ。
10. 「……が、……が、……。」と接続助詞の「が」が重なることを避けた手入れだろう。

ここでもう一度振りかえると、吉岡による手入れ(もしくは組版上の改変)のなかった段落は、前半が(01)〜(02)、(04)、(07)で、後半が(10)、(13)〜(16)である。ところで、(01)〜(16)の本文全体から重要な段落をひとつ選ぶとすれば、多くの人が(08)を挙げるに違いない。大岡信は吉岡との対話〈卵形の世界から〉で(08)を朗読しているので、その発言を引く。

大岡 きみが書いてる文章でね、吉岡実の詩的宣言みたいなものとして、すごい完璧な文章があるんだよ。筑摩書房の『詩の本』に載ってる『わたしの作詩法?』。これのなかで、「或る人は、わたしの詩を絵画性がある、又は彫刻的であるという。それでわたしはよいと思う」というところから始まる一節ね、ここはもう、詩についてどう思うかっていわれたとき、きみは安んじてここだけ切り抜いて渡せばいい部分だね。たとえばそのあとつづいて、「もともとわたしは彫刻家への夢があったから、造形への願望はつよいのである。詩は感情の吐露、自然への同化に向って、水が低きにつくように、ながれてはならないのである。それは、見えるもの、手にふれられるもの、重量があり、空間を占めるもの、実在――を意図してきたからである。だから形態は単純に見えても、多岐な時間の回路を持つ内部構成が必然的に要求される」。このあたりは実に見事な散文だね、それから「能動的に連繋させながら、予知できぬ断絶をくりかえす複雑さが表面張力をつくる」という、ここも素晴しいんだけどね。「だからわたしたちはピカソの女の顔のように、あらゆるものを同時に見る複眼をもつことが必要だ。中心とはまさに一点だけれど、いくつもの支点をつくり複数の中心を移動され〔「せ」の誤植〕て、詩の増殖と回転を計るのだ。暗示・暗示、ぼやけた光源から美しい影が投射されて、小宇宙が拡がる」。まさに吉岡の最高の散文詩ですよ。詩論として、わずか一枚半ぐらいの文章だけどさ。(《ユリイカ》1973年9月号、一五六ページ)

対談の原稿や校正を出席者がチェックするのは当然だから(編集部や校正者は朗読された「 」内の原文をもしくはで確認しただろう)、吉岡は大岡の発言の「それは、見えるもの、手にふれられるもの、重量があり、空間を占めるもの、実在――を意図してきたからである」を目にしていたはずだ。つまり、この時点で「見えるもの」はスルーだった。もっとも、いくら自分が書いた文章でも、対談相手の朗読内容に手を入れることはしないだろうから、これをもって吉岡が「見えるもの」を容認したと断定することはできない。いずれにしてもここは、著者を含めた誰にとっても1973年の夏までは「見えるもの」だったのだ。それが1980年の吉岡初の随想集で「見るもの」となったのは、いかなる理由によるのか。謎というほかない。

〈わたしの作詩法?〉は吉岡の詩論としては唯一の文章だが、同様の主旨はこれ以前、入沢康夫との対談〈模糊とした世界へ〉(《現代詩手帖》1967年10月号)で公にされている。同対談での吉岡の発言(と略記する)とそれに対応するの 本文(段落を番号表示する)を以下に掲げる。

D ぼくは詩についての方法とか何とかについて語れないし、語りたくないというか、ぼくは詩について論理的に語れない。〔……〕だから自分の詩なんか、はっきり語れないんですよ。
(01) わたしに作詩法といえるものが果してあるだろうか、甚だ疑問だと思っている。いかなる意図と方法をもって詩作を試みたらよいのか、いまだよくわからない。

D 詩というものは一回平面に書いてみて、それから斜[はす]に見た点で書いて、横から書いて、それらを組み入れていって果してできるかどうかやったけど、結局できなかった。意識的にはできない。
(08) だからわたしたちはピカソの女の顔のように、あらゆるものを同時に見る複眼をもつことが必要だ。

D 〔……〕ぼくのなかに形態のあるようなものは確かにあるんですよ。表面張力を絶えずもっているものをやはりつくっているわけだ。それがやはりぼくが求めているものなんだね。
(08) 能動的に連繋させながら、予知できぬ断絶をくりかえす複雑さが表面張力をつくる。

 ぼくが子供の頃、漠然と夢見たのは彫刻家ですね。いろんな事情で彫刻家が駄目になり、 絵かきも駄目で、それで詩を書いてしまった。書く場合にも、手にとれるものが欲しい。
(08) 或る人は、わたしの詩を絵画性がある、又は彫刻的であるという。それでわたしはよいと思う。もともとわたしは彫刻家への夢があったから、造形へ の願望はつよいのである。

 誰にも言葉の意味ということがあるでしょう。ぼくの詩には、稀れにはあるかもしれない けれど、「彼」とか「きみ」とか「おまえ」とか、そういう観点が出てこないんだ。
(07) それから、「きみ」とか「あなた」とか呼びかける二人称を使って詩の構造を複雑にする方法をとっていない。「きみ」「あなた」とは、神であり、 社会であり、そして肉親、恋人、そして未知の人である、一種のあいまいさが、わたしにはどうしても納得できなかったからである。

 それから、ぼくが詩に使っていない言葉は「言葉」とか「文字」とか「活字」とか「紙」 とか、本につながるものは意識的に使わないですね。使うことに耐えられない。それはどういうことかわからないけど。
(06) だれにでも詩のなかで使うことばで、好きなのと嫌いなのがある。わたしの場合、使わぬ文字がいくつかある。例えば「活字」「紙」「頁」「言葉」 「文字」。これで一つの性格が読みとれると思う。それらは、本、新聞、雑誌類に関係した言葉である。精神的に嫌悪しているのだ。詩は「文字」・「言葉」で あるゆえに、直接にわたしは自己の詩の中に持ちこまないのである。

 ぼくは手帳はいっさい持たないんですよ。それから思いついて書くとか、いわゆるインス ピレーションは信じないんです。やはり、詩は書くべきだという姿勢から始める。
(03) だからわたしは手帖を持ち歩かない。喫茶店で、街角で、ふいに素晴しいと思える詩句なり意図が泛[うか]んでもわたしは書き留めたりしない。そ れは忘れるにまかせることにしている。わたしにとって本当に必要であったら、それは再び現われるに違いないと信じている。

  勿論推敲はないとは言えないけど、例え未熟であっても、リズムのなかから出てきた言葉がさめてはいけないし、そのまま生かしたほうが生き生きとしたものに なるんじゃないかという感じがありますね。歌でも俳句でも詩でも、よく推敲を重ねる人はあるけど、ぼくとしてはそういう方法はとらない。詩は冷静じゃなく て、ある狂気の状態のなかでできるわけで、それを冷静に判断して切っちゃったらつまらないですよ。まして後年手を入れたら全然駄目だと思います。
(05) わたしは自己のなかで一応出来た詩篇はできるだけ手を入れないことにしている。推敲は一見、作品を磨くという行為であるが、又反対に、常識的 に、平板なものに改悪する危険がある。或る混沌から生まれた内的なリズムとエネルギーを冷却させる悪作用をおよぼすからだ。過去の作品にたえず手を入れる 作家たちを良心的な態度と見る弊習が世にある。わたしの知るかぎり改悪の例が多いと思う。推敲は本来、いくらやってもしすぎるということはないといえる。 しかしそれは習作のうちに、未完成なうちにやるべきであり、まだ公表すべきものではないのである。発表したら作者は引き下って読者にいさぎよく作品をゆだ ねるがわたしはすくなくともよいと思っている。

 だから、ぼくの場合は「死児」はテーマがあったけれども、あとはあまりテーマなしで白 紙の状態で始める。
(02) わたしは詩を書く場合、テーマやその構成・構造をあらかじめ考えない。白紙状態がわたしにとって、最も詩を書くによい場なのだ。

対談での吉岡の発言(土方巽の「舞踊」や日本の古典文学への言及もある)がすべて〈わたしの作詩法?〉で展開されているかといえば、否 である。

吉岡 だから、シュールとか夢とか言われることがあるけど、ぼくはリアルだと思うし、リア 〔リ〕 ティがなければ駄目だと思っている。一行一行で見れば、リアルなことしか書けない。「コップが人を飲む」なんてことは書かない。現実主義でやってきたと、 ぼくは思っています。成り立ちというか方法からああいう詩になっていても、夢でなくて、現実を描いているつもりです。だから、一行一行分析してみれば、そ んなに唐突なことは書いていないですよ。意識的にやった妙なものもなかにはあるけれども、リアリティのあるものの積み重ねを努めてやっているわけです。ぼ くは夢を見る人間ではないと自分で思っています。自分で振りかえってみて、やはり一つの日録というか日記に近いものにぼくのなかではなっていますよ。西脇 先生のこの頃の詩が或る日記であると同じように、ぼくも振りかえってみて、その時代その時代の日録に近いものになっていますね、他人から見たらわからない と思うけど。(《現代詩手帖》1967年10月号、六〇ページ)

「意識的にやった妙なもの」は(12)の「餌食[ジショク]する」や(14)の「万朶の雲が産む暁」の自解を想わせるが、自分の詩が 「その時代その時代の日録に近いもの」だという所信は、吉岡実にとっての「リアリティ」の至上性とともに、傾聴に値する。

〔付記〕
佐藤紘彰訳の英訳詩抄《Lilac Garden: Poems of Minoru Yoshioka》(Chicago Review Press、1976)所収のJ. Thomas Rimer〈Introduction〉も件の「それは、見えるもの、手にふれられるもの、重量があり、空間を占めるもの、実在――を意図してきたからで ある」を引用している。

Poetry is planned to be something visible, something you can touch, that has weight, that occupies space -- that has actuality.(同書、xiiiページ)

註に「“What Is the Way That I Write Poetry?”(watashi no sakushiho?), Yoshioka Minoru shishu, No. 14 in the series Gendaishi bunko published by Shichosha, Tokyo」とあるとおり、底本は:《吉岡実詩集〔現代詩文 庫14〕》(思潮社、1968)で、「something visible=見えるもの」となっている。


吉岡実詩集《僧侶》本文校異(2008年11月30日〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実の詩集《僧侶》はちょうど50年前の1958年の11月20日、伊達得夫の書肆ユリイカから刊行された。20世紀後半・昭和後期の日本を代表する詩集といっていいだろう。《僧侶》は全19篇から成る。うち5篇が書きおろしで、本書以前に雑誌に発表された詩篇は〈告白〉(1956年4月)から〈聖家族〉(1958年7月)に至る14篇を数える。本校異では、雑誌掲載用入稿原稿形、初出雑誌掲載形、詩集《僧侶》掲載形、《吉岡実詩集》(思潮社、1967)掲載形、《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)掲載形のうち、雑誌掲載の14篇はからまでの、書きおろしの5篇はからまでの詩句を校合した本文とその校異を掲げた。これにより、吉岡が詩集《僧侶》各詩篇の初出形本文にその後どのように手を入れたかたどることができる(印刷物の校正紙が見られないのは残念だが)。本稿は、からまでの印刷上の細かな差異(具体的には漢字の字体の違い)を指摘することが主眼ではないので、シフトJISのテキストとして表示できる漢字はそれを優先した。このため、ユニコードによる「瀆」や「蠟」や「禱」の代わりに、不本意ながらシフトJISの「涜」や「蝋」や「祷」を使用している点をご諒解いただきたい。最初に《僧侶》各本文の記述・組方の概略を記す。

雑誌掲載用入稿原稿:詩集掲載用入稿原稿とともに、2008年11月の時点で未見。入沢康夫〈国語改革と私〉には「吉岡さんの場合は、自分から進んで、『僧侶』以降は「現代かなづかい」に切り替へた」(丸谷才一編《国語改革を批判する〔日本語の世界16〕》、中央公論社、1983、二二八ページ)とある。

初出雑誌:詩集に初出の書きおろしも含めて、各詩篇の本文前に記載した。

詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日):本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、五号27字詰13行1段組。

《吉岡実詩集》(思潮社、1967年10月1日):本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ27字詰14行1段組。

《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ27字詰19行1段組。なお《吉岡実全詩集》の底本は《吉岡実詩集》。

肝心の《僧侶》の原稿だが、漢字はおそらく新字、かなは新かな(拗促音は小字すなわち捨て仮名)で書かれたと考えられる(この表記スタイルは、吉岡の晩年に至るまで変わらない)。ひらがな・カタカナの拗促音は最終形を収めた全詩集で小字に統一されたこともあり、初出形がこれと異なる場合も全詩集に合わせて小字表記とした。初出雑誌掲載形のひらがな・カタカナの表示は、各詩篇の本文前に記載した組方の概略に基づいて、再現[リヴァース]することができる。なお〈吉岡実詩集本文校異について〉を参照のこと。

吉岡実の手入れを小林一郎が赤字で再現した詩集《僧侶》のファイル〔全初出詩篇のモノクロコピー〕
吉岡実の手入れを小林一郎が赤字で再現した詩集《僧侶》のファイル〔全初出詩篇のモノクロコピー〕

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《僧侶》詩篇細目

  詩篇標題(詩集番号・掲載順、詩篇本文行数、初出《誌名》〔発行所名〕掲載年月(号)〔(巻)号〕)

喜劇(C・1、21行分、《詩学》〔詩学社〕1956年5月号〔11巻6号〕)
告白(C・2、16行分、《新詩集》〔蜂の会〕1956年4月〔3号〕)
(C・3、13行分、《新詩集》〔蜂の会〕1956年11月〔4号〕)
仕事(C・4、20行、《今日》〔書肆ユリイカ〕1956年12月〔6号〕)
伝説(C・5、11行分、詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日〔執筆は1956年〕)
冬の絵(C・6、21行分、詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日〔執筆は1956年〕)
牧歌(C・7、27行、《今日》〔書肆ユリイカ〕1957年3月〔7号〕)
僧侶(C・8、9節84行、《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1957年4月号〔2巻4号〕)
単純(C・9、22行分、《今日》〔書肆ユリイカ〕1957年6月〔8号〕)
(C・10、32行、《季節》〔二元社〕1957年10月〔11月号・7号〕)
固形(C・11、24行分、《現代詩》〔書肆パトリア〕1957年10月号〔4巻10号〕)
回復(C・12、20行分、《詩学》〔詩学社〕1958年5月号〔13巻6号〕)
苦力(C・13、39行、《現代詩》〔書肆パトリア〕1958年6月号〔5巻6号〕)
聖家族(C・14、21行、《季節》〔二元社〕1958年7月号〔11号〕)
喪服(C・15、29行、《今日》〔書肆ユリイカ〕1958年7月〔9号〕)
美しい旅(C・16、19行分、詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日〔執筆は1958年〕)
人質(C・17、28行、詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日〔執筆は1958年〕)
感傷(C・18、6節99行、詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日〔執筆は1958年〕)
死児(C・19、[節189行、《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1958年7月号〔3巻7号(22号)〕)

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喜劇(C・1)

初出は《詩学》〔詩学社〕1956年5月号〔11巻6号〕五三ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、9ポ23字詰15行2段組、25行分。

台所の隅で 背中を裂かれた卵が泛び上る 長い夜の岸に近く 眠っていた一人の男が立ちあがった 肩に一匹の帽子をかぶった猫をのせて 男は死んでゆく妻のために穴をほる 食物と金をつんだ手押車が反対に出てゆく その道筋をふさぐ寝台の脚と什器類 男が哭きながらな〔12ぜ→34で〕るため 猫の咽喉から葡萄状にねずみの姿は溶け 正面の月を消す 遠くから向きをかえる森の樹 やがて雪をかぶり 小さな部屋へ男と斜視の眼の猫を呼び戻す だが歩くことはない 元から煖炉の前で男はグラスに酒を注ぎ 猫は屋根裏を走っていたのだから 寒がりの男は脱毛する猫をねらう 完全な裸の猫のまぶしさに男は眼をふせる その夜の窓をのぞく鳥はどれも 死んだ妻の髪のかたちをするので射ち落す 男はおもむろに猫の四肢を解く その波の手の没するのは黄色を増したバターの壺 危険な培養に魅了され〔る→234(全角アキ)〕医者の髯をつけ男は汗をながす 思わず猫はグラスを砕く その時たしかに男は救われたのだろう 噴霧器のなかの指はアミーバの昂進を止め 人間の手に退化したのだから そのうえ破片の間から輝く血をながした 重い物を支えたくなったのだろう 男はあたりを見まわし 鋏や固い家具にとりまかれていたのに驚く それからは傷つかぬ部分 足や顔や性器を急に大切に取扱う 丈夫な皮の袋から 男は二度と現われぬ

告白(C・2)

初出は《新詩集》〔蜂の会〕1956年4月〔3号〕三一ページ、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は並字)使用、8ポ24字詰16行2段組、18行分。

わたしは知らないことは 他の人に告げぬ また他の人の声が造る石膏のまわりを歩かぬ わたしはただ全体の力のあつまる 短い斧でふれようとあせる 立っている物なら たおれるまで石の上で押す 横たわる物ならとびのる 回転する物なら手で捲く わたしの黒い肉に喰い込んでくるまで そして淋しく出てゆく蛾や血管の列に通路を譲る それが女なら眼のなかに突き戻す 十全なしなやかさと冷たい湖を湛えるまでわたしはしんぼうづよく待つのだ 食べ物なら吐く 壜や容器の沈んでいった〔デ→234テ〕ーブルの下の暗のうちに 次々と魚と鳥の首を切りおとしながら 役立つ物と不要の物を分類する だが間違いはあり得るのだ その時は羽毛とうろこの泡を拭き 窓のガラスの外の出来事を見ようとする 子供の縄とびを ひとつの夜を生む煙突のマッスを 果ては木理の層にねむる樹の叫びで わたしは走り出す 一人の裸の形をして 習練と忍耐を具現した黒い像として 雨にぬれてゆく ここでのこの事実は他の人に告げられる

(C・3)

初出は《新詩集》〔蜂の会〕1956年11月〔4号〕四九ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、8ポ24字詰16行2段組、14行分。

(全角アキ)→234(天ツキ)〕島へ上り 男は岩角でみつける 獣や魚の大きな弓なりの骨片の類 自転しながら太陽が晒した くろい蛸のあたまの収縮図 徐々に水平になってゆく男の眼の岸は 鋭角的な月の出だ 忘れよう 今ひじょうな鮮明度で 海鳥の卵が迫る こんな時どうして音楽が聴かれないのだろう それが不眠性の弧を形づくるとき 男のなげだした遠い手足がわずかにうごく そのたび下の端から 島の面積が狭〔ば→234(トル)〕まりだす ここはたしかに明日の落日の巣だ 飛び立たぬ幻の鳥たちのために 男のかたわらに拡大される はげしく光に曝された卵の全面 どこを探しても冒険ずきの人間の爪の痕ひとつ見あたらぬ 選びはしない このアトラス 男はやせた胎内から 少しの声と血をしぼりだす 絶縁体に沿うて向う側を冬の波がすべり続ける

仕事(C・4)

初出は《今日》〔書肆ユリイカ〕1956年12月〔6号〕八ページ、本文新字新かな(カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ13行2段組、20行。

荷揚地は雨だ
玉葱と真昼のなかで
その男はいつも重い袋の下にいた
仲間は盲目の者ばかり
船からおろす荷の類
すべて形が女にちかいので
愉快にかついでゆく
ありあまる植物の力
はげしい空腹と渇き
やみから抽き出された
一つの長い管を通りぬけ
坐りこんだ臓物
その男は完全に馴致された
だが習性の眼は観察をあやまたぬ
見えていた百本の煙突が陸地から姿を消す
その男はいそぎ足で家路へ向う
独りの食事を摂り
卑猥な天体を寝床に持ちこむため
臭いシャツの背中を星が裂く
その男は川に平行された

一九五六・九・一五→234(トル)〕

伝説(C・5)

初出は詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日)一六〜一七ページ、本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、五号27字詰13行1段組、11行分。執筆は1956年。

椅子の上から 跳びおりてゆく 猫の毛のなかの跣足 刹那のことだが 大写しになり 花の深いひだに 吸いこまれた 誰でもが初めてのことだと驚く 木製の四つの脚 床をしばらく跛行し 部屋の隅で急に停止し 椅子は伝説化された 事件を知らぬ男 かぶった毛布から現われ 椅子にこしかける 流通する熱と臭気をぬきながら 肛門につながる管をけんめいにたぐり出す 抑えきれぬゴムの状態で かさばりはじめ 部屋中を占めてのたうちまわる ものの鼓動 快楽の伸縮 夜のため その男は久しい前から 猫と顔をならべ 管にかこまれたまま 暗くなってゆき 息をころしてゆき 消える間際で 火事だと叫んだ

冬の絵(C・6)

初出は詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日)一八〜一九ページ、本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、五号27字詰13行1段組、21行分。執筆は1956年。

他人には見えないものが いくつかぼくの部屋にある たとえばベッドの脚と壁との間に 一週間前からぼくがぬいだ長靴が置かれている ひとつはたおれて折れ 片方は立っているにすぎない ぼくの記憶のあいびきの雨のなかでのみ濡れ ぼくの悪癖のベッドの下でのみ乾き ひびわれる 下宿の女主人はただ一つの理由でしか ぼくの部屋をおとずれぬ 猫が子を産みにくる時だ 毛の太い束の尾が床をこする 夜から朝へ女主人は黒い箒をうごかす ぼくは病気になりきり 毛布の下でえびの真似をしている 女主人は陸に棲む人 スリッパをはき 藻のゆらめき 岩かげの海の湿ったひとでの開閉の兆しもさとらず ボール函に六匹の生れた猫をつめて出てゆく ぼくは夜へ向く出窓を少しあける それが一番大事な日課だ 女主人は脱衣し 川へ沈んだ六匹の猫の子の体温と弾力をよみがえらせ 浴槽から湯水を溢れ〔出→34さ〕す ぼくには危険だ 上も下もある階段の途中は ぼくは見つける 壁に立てかけた 自殺した画家のカンバスを ぼくの持物のうちで それだけが光に耐えよう 女主人の臀部のばら色の地震から その絵がぼくをまもってくれる唯一のものかもしれぬ 貧しい画家であった男が存分に描いた 怒りの構図 とおくに或はちかくに 落ちこんだ深みから やたらにのりだそうとする 困憊した石のトルソたち

牧歌(C・7)

初出は《今日》〔書肆ユリイカ〕1957年3月〔7号〕九ページ、本文新字新かな使用、9ポ15行2段組、27行。

村にきて
わたしたち恋をするため裸になる
停る川のとなりで
眠らぬ馬をつれだす
飼槽の水と凍る星の角に
かさばる女の胴体と同じ重さの
こわれる物を搬ぶ
桶の底をはいつくす
なめくじやむかでの踊り
わたしたちすばやく狩りたてる
羽毛のない鳥やゴムの魚
朝啼いて夜だまる可憐な獲物を
枯れた藁と茜いろの雲のあいだで
しきりに移動したえず噛むもの
小屋にとじこめ
窓から月を押しだし
火をおこす
食物にならぬ四つの腿の肉をやき
飲料にならぬレモンをしぼる
小屋の主人は行方不明
マダムは心中未遂
子供は街の学校の便所のなか
にぎやかな運命
わたしたちここに停るもの
わたしたち裸のまま
火事と同時に消えるもの
多勢の街の人々が煙を見にくる

僧侶(C・8)

初出は《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1957年4月号〔2巻4号〕三七〜四一ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ22行1段組、9節84行。なお、節表示のアラビア数字やローマ数字の位置は、が二字下がり、が天ツキ、が三字下がりだが、本稿では天ツキに統一し、数字の表示内容に異同がないため、を含めて校異の対象としなかった(以下同)。

四人の僧侶
庭園をそぞろ歩き
ときに黒い布を巻きあげる
棒の形
憎しみもなしに
若い女を叩く
か→234こ〕うもりが叫〔け→234(トル)〕ぶまで
一人は食事をつくる
一人は罪人を探しにゆく
一人は自涜
一人は女に殺される

四人の僧侶
めいめいの務めにはげむ
聖人形をおろし
磔に牝牛を掲げ
一人が一人の頭髪を剃り
死んだ一人が祈祷し
他の一人が棺をつくるとき
深夜の人里から押〔(ナシ)→234し〕よせる分娩の洪水
四人がいっせいに立ちあがる
不具の四つのアンブレラ
美しい壁と天井張り
そこに穴があらわれ
雨がふりだす

四人の僧侶
夕べの食卓につく
手のながい一人がフォークを配る
いぼのある一人の手が酒を注ぐ
他の二人は手を見せず
今日の猫と
未来の女にさわりながら
同時に両方のボデーを具えた
深毛→234毛深〕い像を二人の手が造り上げる
肉は骨を緊めるもの
肉は血に晒されるもの
二人は飽食のため肥り
二人は創造のためやせほそり

四人の僧侶
朝の苦行に出かける
一人は森へ鳥の姿でかりうどを迎えにゆく
一人は川へ魚の姿で女中の股をのぞきにゆく
一人は街から馬の姿で殺〔りく→234戮〕の器具を積んでくる
一人は死んでいるので鐘をうつ
四人一緒にかつて哄笑しない

四人の僧侶
畑で種子を播く
中の一人が誤って
子供の臀に蕪を供える
驚愕した陶器の顔の母親の口が
赭い泥の太陽を沈めた
非常に高いブランコに乗り
三人が合唱している
死んだ一人は
巣のからすの深い咽喉の中で声を出す

四人の僧侶
井戸のまわりにかがむ
洗濯物は山羊の陰〔のう→234嚢〕
洗いきれぬ月経帯
三人がかりでしぼりだす
気球の大きさのシーツ
死んだ一人がかついで干しにゆく
雨のなかの塔の上に

四人の僧侶
一人は寺院の由来と四人の来歴を書く
一人は世界の花の女王達の生活を書く
一人は猿と斧と戦車の歴史を書く
一人は死んでいるので
他の者にかくれて
三人の記録をつぎつぎに焚く

四人の僧侶
一人は枯木の地に千人のかくし児を産んだ
一人は塩と月のない海に千人のかくし児を死なせた
一人は蛇とぶどうの絡まる秤の上で
死せる者千人の足〔(全角アキ)→234(ベタ)〕生ける者千人の眼の衡量の等しいのに驚く
一人は死んでいてなお病気
石塀の向うで咳をする

四人の僧侶
固い胸当のとりでを出る
生涯収穫がないので
世界より一段高い所で
首をつり共に嗤う
されば
四人の骨は冬の木の太さのまま
縄のきれる時代まで死んでいる

単純(C・9)

初出は《今日》〔書肆ユリイカ〕1957年6月〔8号〕三〇ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、9ポ25字詰15行2段組、24行分。

警戒もされずにその男は死んだ 尾〔底→234骶〕骨のいちじるしく突起した男に 妻は憎しみしかもたず 眼のわりに舌がつめたくかがやくので 乳房のゆたかな女である妻にはたえられぬ 食事するとき以外は うごきが非常にかんまんだ むしろないといえる ことに就寝するとき 植物の花をつけぬ部分を感じさせ その男はくもの巣のいとにひっぱられて 地に伏してゆく陰惨な形態をとる しかし死んだ妻にはそれはどうでもよい ただ毎日たえず波うつ手で 壁の向うに飼っている犬に餌を与える その偽証が心から妻を死なせないのだ じぶんの美質をうけつぐ猫が屋根で雪をかぶり 生きていることがはがゆい もしじぶんの蛇腹が暗の裡から充分のび 男の歩きまわる部屋へ突き戻せたら 勝目はある 石膏の胎児を孕めるから 犬は男の身のまわりのせわをやき 困らせたり笑わせる それからさきの甘美な操作はできぬ 男は生きるためには 死んだ妻の猫を塵ばかりふる屋根から呼び戻して 芸を仕込まねばならぬと考える 世俗的な事柄でなく 美しい女に仕立てあげ 最初の夜は寝台であたためて 溺死者の好む月をのぼらす 裸の女の姿勢と葉の下に息づく桃の半熟の羞恥を えとくさせるべく大声をだした 夏がきた稲妻の紐をたらして 男は人間である証拠のゆえに死ぬのか 頭は犬の血をさわがせ 下半身は猫の毛に蔽われたまま 汗の強国から 肌寒い一寒村へと葬られた

(C・10)

初出は《季節》〔二元社〕1957年10月〔11月号・7号〕六二〜六三ページ、本文新字新かな(カタカナの拗促音は並字)使用、9ポ19行1段組、32行。

(Y・W に)→234Y・Wに〕

蝋びきの食物の類をみて歩く
女たちの腋毛は甘い先験の夏を輝かせ
肥満家族は跳ねまわる
ぼくは恥ずべき小さな西瓜をもつ男
タイヤ型の夕方の海岸にきて
赤と灰色の縞をつけたテントの入口を探す
ぼくと同じ不具性の女を求め
一廻り二廻り
紡錘形の骨格のうえにタオルを巻き
みじめなシステムの砂に穴をあける
ぼくは吃るばかりだ
次の水死者を慰める不揃いの藻の毛を撫〔12ぜ→34で〕
ぼくの精神の塩を波が引いてゆく
毎年ぼくを冒涜する夏
夜の砂の情事
間近〔か→234(トル)〕にみる果実のフォルム
夥しい未成年の魚の裸体
そのうえ外観から収縮してゆく氷
ぼくの凌辱本能がぼくの眼から
全ての生物へ伝染し
実用の陸地を見失わせる
ぼくは女を触覚し
子供用の浮袋を首へ徐々にはめこむ
いまこそぼくは笑う
心の帆の傾むく支柱へ向き
ぼくのプライドを砕き
ぼくの肉声と大脳を晒しつづける
内省の夏の海
暁の板の海
違い段の沖へ
ぼくは生臭い風を受け
自己の血を狩りに出る

固形(C・11)

初出は《現代詩》〔書肆パトリア〕1957年10月号〔4巻10号〕三四〜三五ページ、本文新字新かな使用、9ポ25字詰18行1段組、26行分。

ぼくの偏見は多くの人をこまらす ときに植物の茎という茎へ剃〔刀→刃→34刀〕を当てる 切口から展開される 悲劇的なばら色の育たぬ家族を見つける 水ものまず 光も咥えることのできぬ 薄い膜の男女 かすかな交接のひびき 花粉は壁や寝具を汚す さわると固いざらざらの粒に近い それゆえ子供は玩具の車の世界を走らぬ 遊び場は母の子宮 日蔭のへちまの棚の下 そこで滑る ぼくはすたすた田園を出る ぼくの信条は 物は固形ですわりよくあらねばならぬと考える 立てかけられた斧へ同時に迫るぼくと一匹のとんぼの複眼 ぼくは余す所なく ランニング姿の全身を写し 段違いの虹や山嶽の氷の錐を背負う あらゆるやわらかい蛙がきらいだ 固い羽 固い雨なら両手で愛撫する 試みに一つの〔12罎→34壜〕を蹴る 人が信ぜられぬほど ぼくは恍惚として街に入る 攻撃された寺院の外側の石塀を叩く これこそ上等の遊戯だ 病院へゆく若い姙婦のあとをつける だんだん坂をのぼり石の縞目が中心へ向き 細い線を描いてゆき がまんできないすべすべの頂点で 白い腹を見せる 医者の笑う時だ 鐘が乱打される火事の夕刻 鉗子やうごく鋏が皮膚をのばし 袋の中身の頭をむか〔い→234え〕にゆく ぬるい種子のたんぽぽの周囲は 痛みをつけてむしられる 脂肪が清潔なランニングをふきつける ぼくは真の固形をみて〔あ→焦→34あ〕せる もろい下の躰の管をすすむ血の粗い無責任な軍隊を見すごす そこでぼくは街を出る 風がぼくを氷る人・滑る物に替える だからぼくはつねに笑わず さようならもしない

回復(C・12)

初出は《詩学》〔詩学社〕1958年5月号〔13巻6号〕五三ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、9ポ20字詰16行2段組、26行分。

らっきようを噛る それがぼくの好みの時だ 病棟の毛布の深いひだに挟まれ ぼくは忍耐づよく待つ 治癒でなく死でなく 物の消耗の輝きを いまは四月 蜂の腰がうごく うず高く花粉の積まれてゆく皮膚や野に 色情の末路の月が近づく ぼくの砕けた大腿骨は永い閑暇のゆえに 血の音楽を聴き 燐質化〔(ベタ)→234し(全角アキ)〕或は精分を放電しては 黒い杖として さびれた田園風景の一齣を見せる 一つの藁の山へ挿し込まれたまま 交媾のさけびもあげず 二羽のからすを飛び立たせる たびたび姉は見舞いにきて 隣の患者の悪性の患部を讃美し ぼくの下向きの頭を叩いては 一時的にもざくろの実の爆発を誘致するのだ つねに凍る庭園を歩む 多くの鶴や看護婦のむれより ぼくは醜い女を接近させ 不粋な辞書と肉感の夢を持つ母胎を攪拌し 次にはげしい薬品の臭いを嗅ぐ たちまち再生の香油をぬられ 〔慚→234漸〕次の死がぼくを襲う 既製の衣服の観念はうばわれて 不快な動物だと 女が幼時から信じてきたらくだの形で ぼくは膝をつく 面倒はどの世界でも起る 搬び出される担架の上で 糊づけの肉と骨の摩擦がはじまる払暁だ 渇きは眼を媒介して 解けだす氷の沼から漲って来る 胎生の魚なみに尾までぬらし ぼくは水を一気に飲み干す

苦力(C・13)

初出は《現代詩》〔書肆パトリア〕1958年6月号〔5巻6号〕九二〜九三ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、9ポ20行1段組、39行。本篇執筆の状況は、吉岡の詩論〈わたしの作詩法?〉に詳しい。

支那の男は走る馬の〔腹の→234(トル)〕下で眠る
瓜のかたちの小さな頭を
馬の陰茎にぴったり沿わせて
ときにはそれに吊りさがり
冬の刈られた槍ぶすまの高〔梁→234粱〕の地形を
排泄しながらのり越える
支那の男は毒の輝く涎をたらし
縄の手足で肥えた馬の胴体を結び上げ
満月にねじあやめの咲きみだれた
丘陵を去ってゆく
より大きな命運を求めて
朝がくれば川をとび越える
馬の耳の間で
支那の男は巧みに餌食する
粟の熱い粥をゆっくり匙で口へはこびこむ
世人には信じられぬ芸当だ
利害や見世物の営みでなく
それは天性の魂がもっぱら行う密儀といえる
走る馬の後肢の檻から〔(ナシ)→234たえず〕
たえず→234(トル)〕吹きだされる尾の束で
支那の男は人馬一体の汗をふく
はげしく見開かれた馬の眼の膜を通じ
赤目の小児・崩れた土の家・楊柳の緑で包まれた柩
黄色い砂の竜巻を一瞥し
支那の男は病患の歴史を憎む
馬は住みついて離れぬ主人のため走りつづけ
死にかかって跳躍を試みる
まさに飛翔する時
最後の放屁のこだま
浮ぶ馬の臀を裂く
支那の男は間髪を入れず
徒労と肉〔12慾→34欲〕の衝動をまっちさせ
背の方から妻をめとり
種族の繁栄を成就した
零細な事物と偉大な予感を
万朶の雲が産む暁
支那の男はおのれを侮蔑しつづける
禁制の首都・敵へ
陰惨な刑罰を加えに向う

聖家族(C・14)

初出は《季節》〔二元社〕1958年7月号〔11号〕二二〜二三ページ、本文新字新かな使用、9ポ16行1段組、21行。

美しい氷を刻み
八月のある夕べがえらばれる
由緒ある樅の木と蛇の家系を断つべく
微笑する母娘
母親の典雅な肌と寝間着の幕間で
一人の老いた男を絞めころす
かみ合う黄色い歯の馬の放尿の終り
母娘の心をひき裂く稲妻の下で
むらがるぼうふらの水府より
よみがえる老いた男
うしろむきの夫
大食の父親
初潮の娘はすさまじい狼の足を見せ
庭のくろいひまわりの実の粒のなかに
肉体の処女の痛みを注ぐ
すべての家財と太陽が一つの夜をうらぎる日
母親は海のそこで姦通し
若い男のたこの頭を挟みにゆく
しきりと股間に汗をながし
父親は聖なる金冠歯の口をあけ
砕けた氷山の突端をかじる

喪服(C・15)

初出は《今日》〔書肆ユリイカ〕1958年7月〔9号〕八〜九ページ、本文新字新かな使用、9ポ17行1段組、29行。

ぼくが今つくりたいのは矩形の家
そこで育てあげねばならぬ円筒の死児
勝算なき戦いに遭遇すべく
仮眠の妻を起してはさいなむ
粘土の肉体を間断なく変化させるために
勃起とエーテルの退潮
湿性の粗い布の下で夜昼の別なくこねる
ぼくは石炭の凍る床にはいつくばい
死児の哺乳をつづける
浪費と愛をうけつけず発育しないもの
ぼくの腕力の〔123埓→埒〕外に在り
正体も見せず固くかさばる死児
それは光栄に匹敵する悲劇
ぼくの魂の沈む城の全景を占め
美しいメモリアルとして立ちつくす
他人の経営する空間を徐々に埋め
せり上る死児の円筒
そのすべすべのまわりを歩く
ぼくは父親の声も出さず
母親は食事ものぞまず横臥する
やがて円筒の死児は哭く
一家の族長として
塵とくもの巣を頭から傘のごとくかぶる時
ぼくの家系は秩序をうしなうだろうか
老いたねずみの形骸を発光させ
ぼくら両親はストーブのなかの闇に
住みつくかも知れぬ
或は
円筒の死児が喪服に覆われる時まで

美しい旅(C・16)

初出は詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日)五八〜五九ページ、本文旧字新かな使用、五号27字詰13行1段組、19行分。執筆は1958年。

老給仕は食器をかたづけて去る ドアの外に出たというよりむしろ夕映えの球体へ吸いとられる おしきせのズボンの青い染色をのこす 船室のぴかぴかした床の隅に 寝台の男女はさなだむしのようだ おびただしいナプキンの波 動揺のはげしさで老給仕は死ぬだろう 美しい鉱物の異邦へ旅立つべく 鍍金のはげたスプーンにまたがる 腐りだす肉や野菜の類 経木のしなやかな動作で 老給仕はぎざぎざ刻まれた空へとび移る さようなら 棍棒の群衆 袋の日常 函の海 上から見るとよく理解できる 火事のメロドラマ 雷雨の孤独な儀式の終り 老給仕は錬達した手つきで温い食事を摂る その後の昼寝が長すぎると誰がなじれよう 死んだ者たちの習慣を誰が熟知するか 老給仕が起きるはずみで金釦がちぎれ 転がる面積を探す 心ならずも復讐したのだ 海のなかで大きな音をたてる 老給仕は生涯はじめての粗相をした 藻のかげの死んだ大勢の客たちにむき うやうやしく陳謝する これからの長い夢を見るためには 違和も羞恥も忍ぶんだ 成功者として老給仕は肥え太り密石亭に入る しばらく金毛の美女をまぶしく感じる 酒樽の下に廻り込む月 ここは行儀の悪い墓場かも知れぬ

人質(C・17)

初出は詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日)六〇〜六二ページ、本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、五号27字詰13行1段組、28行。執筆は1958年。

建物は人の半身と共に沙の首府へ沈み
次々におどり上って斃れる
黄色い馬のたてがみの奥でだき合う半分ずつの月と太陽
それをかいま見る
世界の陸地の人の半分の怒りの眼と
余儀なく眠るあと半分の人の心
すべての女性の子宮を叩く
兵士の半分はやわらかく半分は病気で固まる
反応も示さず
耳鼻もない鳩は死ぬ
燃える秣の山と伽藍の頂で
海へとじこめられた女子供は泣きながら仰ぐ
同時に棘とばらのつるで縛られた
軍艦の下腹を見る
遂に増殖する牡〔蠣→蛎→蠣〕の重みでかたむく
波の底を這い廻る
一個の牡〔蠣→蛎→蠣〕の浮力しか持たぬ
骨の人質たち
長い年月を毎日かかさず
死者の生きのこりの兵士をはげまし大砲を打つ
氷山に少しずつひびを入れながら
夕映えのプランクトンのむれに染められた歴史と
肉体を記憶するため
世界の残りの半分の人の骨が島へ上り
焚火で暖をとる
今日それをかいま見る
世界の陸地の人の半分の怒りの眼と
余儀なく眠るあと半分の人の心

感傷(C・18)

初出は詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日)六四〜七三ページ、本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、五号27字詰13行1段組、6節99行。吉岡は同年8月8日の日記に「〈感傷〉出来。これで詩集《僧侶》の十九篇完成」(〈断片・日記抄〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一一九ページ)と書いている。

鎧戸をおろす
ぼくには常人の習慣がない
精神まで鉄の板が囲いにくる
街を通るガス管工夫が偶然みて記憶する
箱のなかに匿れた一人の男
便器にまたがるぼくをあざわらう
桃をたべる少女はうしろむき
帽子をまぶかくかぶるガス管工夫の槌の一撃を憎む
少女の桃を水道で洗わせず
狭い蜜のみなもとを涸していったから
幼い袋の時代
大人の女の汗の夏を知らぬ
少女もいつかは駈けこむだろう
ぼくの箱の家
正面の法律事務所の畸型の入口の柱を抱くだろう
それまで休業だ
屋根から寝台まで縞馬を走らせ
ペンキを塗り廻る
すでに伽藍の暗さ

金魚鉢の水の上で睡蓮が咲く
悪い季候のはじまり
薄い皮の下で少女は変化している
花の植物の冠から
えびの姿態の不透明な袋に黒い汁を移しはじめる
ぼくの鼻毛の茂みを雨でぬれた鳥がとおりぬけるのはそんなとき
棚のあらゆる口の細い罎
液体を溜める闇のなかで
痒走感におののきだす
ぼくはいかなる変化
いかなる交換を待っているのか

ぼくの眠りの截面がめのうのように滑らかになる
そこに居合せたただ一人の女
喪服にいつわられた美しい肢体の女が昨日からいる
今は組みあげられた脚線として
ぼくの寛容な肉情の下に在る
朝から使役された上半身
殊に肩の裏の可憐なそばかすの星雲
恐しくぼくの頭を捉える
或る瞬間は照らす
察するところ女は人を殺してきたらしい
もし病弱な夫でなければ
じゃがいもの麻袋をかるがる担ぐ情夫
人でなければ別のもの
頭の大きなさんしょううおを刺してきたのだ

永年の経験からぼくは被告を裏切る
被告はつねに救えぬ性格をもつから
彼らはすべて罰せられるにふさわしい陳述をする
例えばぼくが家具化した法廷につれこまれ
被告として黒服の者たちにとりまかれる
 〈わたしの妻は蟻の世界へ売渡される
 溶けるもの かがやく裸形の砂糖の袋〉と口走る
人々の心証を害し
それでぼくも犯罪人の両肩を見せ下獄する
ぼくの弁護人は妻子と両親のため家へ急ぐ
尻の袋にぎっしり殻粒をつめ脂がのった鶏の首をさげて雨の中へ入る
不運な者は針金で養われ暗い所にいる

女の夫は老練な海港技師
熔接工を連れて毎日海へ行く
長い年月を海の下ではたらくので
真昼の光線に当るとき
熔接工はたちまちかにの形に歩き
総身の毛を輝かせ
充分な粘力と苦味のある泡を吹きこぼす
ところきらわずに
夫は岸べで焚火をたくばかり
破船と網の破れ目から
女が現われる
すなわち技師の妻が食物をはこんできて泳ぐ
熱い砂の床は人の心を複雑な巻貝に変化させ
同時に冷えた魚を跳ねまわす
その後での三人の食事は危険だ
皿やフォークが陰気にうごく
肉類や卵は食いつくされ
野菜類はつつましくのこる
海は死んだ男でふさがれる

ぼくは睡蓮の花を再びのぞく
転換が行われず
世界の女を巻く紐のすべてが解かれていない
蛙も挟まれる
花の深所から金髪が吹きだされるのを夢みる
ぼくは自分と不幸な女を救済すべく
女の腿へ手をのべる
喪服は夜に紛れやすい形と色を持つ
あまつさえ時間がくると滑る
それから先のぼくはまじめな森番だ
くさむらのひなを育てようと決意する
水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く
法律や煤煙のとどかぬ小屋で
卑俗なあらゆる食物から死守され
ぼくだけが攻めている美しい歯の城
その他の美しい武器をうばう
落日は輝くもの
おえつするもの
女の髪の上に滝が懸けられて凍る
ぼくは冷静に法典の黄金文体をよむ
さてぼくは女には大変つくした
罪深い女は去らせよう
ガス管工夫に肖た子をつれて桃の少女が結婚を迫るのを
ぼくは久しく待つんだ

死児(C・19)

初出は《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1958年7月号〔3巻7号(22号)〕二八〜三八ページ、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ22行1段組、[節189行。なお、本篇執筆の状況に関しては〈詩篇〈死児〉の制作日〉を参照されたい。

T

大きなよだれかけの上に死児はいる
だれの敵でもなく
味方でもなく
死児は不老の家系をうけつぐ幽霊
もし人類が在ったとしたら人類ののろわれた記憶の荊冠
永遠の心と肉の悪臭
一度は母親の鏡と子宮に印された
美しい魂の汗の果物
だれにも奪われずに
父親と共に働き藁でつつまれる
地球の円の中の新しい歯
誠実な重みのなかの堅固な臀
しかし今日から
死児は父親の義眼のものでなく
母親の愛撫の虎でなく
死児は幼児の兄弟でなく
ぶどう菌の寺院に
この凍る世紀が鐘で召集した
新しい人格
純粋な恐怖の貢物
裁く者・裁かれる者・見る者
みごとな同一性のフィルムが回転する
死児は棺の炎の中でなく
埋葬の泥の星の下でなく
生けるわれわれを見る側にいる

U

枯木ばかりの異国で
母親は死児のからだを洗う
中世の残忍な王の命令だ
全部の骨で王宮を組上げる
ほのおの使役の終り
母親の涙の育てた土地を
馬のひずめにとじこめられて
死児のむれは去る
真昼は家来の悦ぶごうもんの時
一つの枯木に一人の母親を与える
枯木が殖えればその分だけ母親が木に吊られる
百万の枯木はよろめき百万の母を裂く
八月の空に子宮の懸崖
世界の母親のはげしい眼は見る
          山火事を
 
         同時に聞く
  それを消しに来る大洪水を〔(前行とシリゾロエ)→234(さらに全角下ゲ)〕

V

死児は偶然見つける
世界中の寝台が
行儀よく老人を一人ずつ乗せて軋むのを
ゆるんだ数々の蛇口から
回虫が老人と死にみきりをつけ
はいだしてゆく方向に
野菜と肉の積まれた
働く胃袋が透視される
ときどき鉄砲の筒先が向けられて
悲鳴も聞えた
老人の浄福を祈り
ゆっくり〔と→234(トル)〕山へ血を持ちはこび
頂から浴せる
因襲の恋人・夫婦たちの寝台に
ただ一つの理由で死児は哭く
セックスを所有しないので
回虫のごとく恥じる
いうなれば交情の暁
やわらかな絹の寝台
麦の畑の〔涼→23凉→涼〕しい蔭の場所に住めぬ
死児は老いた母親の喪服のやみで
くりかえすひとりの乱行を
あらあらしい石の発芽を
禁制の増殖 断種の光栄
できれば消滅の知識をまなぶ
いま〔(ナシ)→234は〕緑の繻子の靴に踏まれる森の季候
去勢の噴水はきらめく
かぼちゃの花ざかり
死児は世界中の死せる老人と同衾する

W

死児の発育と病気について
すべての医者は沈黙した
蜜と海綿のみなもとを〔凅→234涸〕らす獣の跳梁
母親の乳房はどこの地平〔12(ナシ)→34線〕にも見あたらぬ
不順な風土と暴力の下着にかくされて
無理にのぞけば
硫黄の苦い結晶体
それ故この時世は呪術の岩の下をさまよう
秋の果物を〔山→234河〕へ搬びすぎた
商人の老獪な算術が病気をつくる
死児の爪は外部へのびず
夢を孕む内部へうずまく
死児の病気の経過は
食物と父の怯懦の関係で
悪化の一途をたどり
最後は霧の硝煙で消える
死児は医者の記録にのこるのでなく
歴史家の墓地の菫で物語られる

X

蝋びきの世界の首府を
母親は死児を背負って巡礼する
 
 砕かれたもぐらの将軍
 首のない馬の腸のとぐろまく夜の陣地
 姦淫された少女のほそい股が見せる焼かれた屋根
 朝の沼での兵士と死んだ魚の婚礼
 軍艦は砲塔からくもの巣をかぶり
 火夫の歯や爪が刻む海へ傾く
 
死児の悦ぶ風景だ
しかし母親の愛はすばやい
死児の手にする惨劇の玩具をとりあげる
死児には正しきしつけを
もしいやがるものは罰せよ
白昼の紳士淑女の食卓へ恥部を曝せ
夜戦のすきなあらゆる国の紋章を引裂いた高みから
死児の髪を垂らし
或はつるつるの頭を露出する
辱しめよ
死んだ父・殺された同胞の肉体の辱しめと
魂の憂〔123欝→鬱〕なばらを照らしめよ
死児が苦痛のあまり汚物をながすまで
箒の黄いろい死児
大理石の死児
鉄線の黒い死児
金髪の森の死児あまたの砂の死児
そのとき
賢い母親は夏の蝉の樹木の地に
異なるエネルギーで
異なる泣き声で
同一の怒りの歴史をつくる

Y

死児の好きな遊び
むらがって
瑚珊→234珊瑚〕の海へ網を入れる
大砲と共に沈んで行った男〔達→234たち〕の重い〔こうがん→234睾丸〕をひびかせる
女たちの砂と闇を吸ってる肛門も色彩でかざる
死んだ者のためなら安心して仕事ができる
塩と金具の類の枷をはずし
丈夫な膠でボデーをくるみあげ
枯木の陸地で二度目の奉公をかなえさせてやるんだ
ざくざく採れる金銀の鱗
さめの歯のかみあう恍惚の日々
水の夜伽は退屈だと静かな骨はつぶやく
死児にはそれが聴える
もう一度月から網を可能なかぎり拡げよう
死んだものならなんでも収穫
母親はいやな顔を見せて手伝わず
死んだものは交換できないと
破船の家でどなりだす
死児は声が小さく主張できない
母親の目の届かぬ所に来て
凍→234氷〕ったまま横臥する
かたわらに
伝説の軌跡の海

Z

母親のねむった後
死児が床を這い廻る
果ては
(ナシ)→234春の〕嵐の海を埋めつくす
死者のうわむきの顔の上で立ち上り
次から次へと
跳ね歩く死児
凌辱された姉を求めて
ただ一人の姉でなく多くの姉の
波の魂に呼ばれて
陰気な蓮華をかざして行く
腿の柱をきよめに
混血の海へ
姉が孕み
姉が産む夥しい死児の夜の祝祭
輝く王道をきりひらき
古代の未開地で
死児は見るだろう
未来の分娩図を
引き裂かれた母の稲妻
その夥しい血の闇から
次々に白髪の死児が生まれ出る

[

死児をだいて集る母親たち
或る廃都・或る半球から
おしきせの喪服のすそをひきずって
まれには償いの犬までつれ
定員になるまで沙漠へ入ってゆく
他のおしゃべりの母親たちは
沈黙を求められて村落から海面へ移動する
次から次へ黒い帯の宗教的なながれ
隈なくこの現世を司どるために
死児が生きかえらぬようにあやす
子守唄と悪夢のくりかえしで
骨肉でどうしてこの文明の腐敗の歌を合唱できよう
とどろく雷のように
豊かな腰をよじり
最後に半数のやもめの母親たちが氷河に並ぶ
必ず一人の死児をだいてる証拠に
めいめい死児の裸の臀を叩く
そのはげしさで哭いた時
この永い報復の難儀な旅の夜も明けよう
しきつめられた喪服の世界に
ピラミッドの頂点がわずかに見える
これほど集ってはじめて
全部の母親のさかまく髪のなかに
あたらしい空が起り
実数の星座が染められる

――――――――――

詩集《僧侶》の最終形を収めた《吉岡実全詩集》は歿後刊行だが、著者の生前には前掲書のほかに、篠田一士編集・解説《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959)、《現代日本名詩集大成11》(東京創元社、1960)、《現代詩集〔現代日本文學大系93〕》(筑摩書房、1973)に全篇が収録されている。後二者の本文の異同は〈現代日本名詩集大成版《僧侶》本文のこと〉〈吉岡実の装丁作品(60)〉で確認いただけるので、ここでは《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》所収の本文について触れよう。刊行時期からいって、本書の底本が 詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)であることは間違いない。そこで本書をとして、冒頭の校異と同じ手順でとの校合を行ない、問題のある詩篇のみ当該箇所を掲げてコメントを付した。なお( )内の数字は、行分けの詩は何行めかを、散文詩型の詩はいくつめの詩句かを表わす。底本の概略は次のとおり。

詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日):本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、五号27字詰13行1段組。

《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959年8月10日):本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ27字詰18行1段組。

(C・10)
  Y・Wに→・Wに(献辞)
    原版刷りで「Y」が脱落した単純誤植か。

固形(C・11)
  ときに植物の茎という茎へ剃〔刃→刀〕を当てる(2)
    誤植を正したもの。

苦力(C・13)
  黄色い砂の龍巻を一瞥し(24)
    「竜巻」とあるべきところ。

感傷(C・18)
  溶けるもの かがやく裸形の砂糖の袋〉と口走る→溶けるものかがやく裸形の砂糖の袋〉と口走る(51)
    全角アキであるべきところ。

死児(C・19)
  母親の乳房はどこの地平〔(ナシ)→線〕にも見あたらぬ(75)
    以降の本文に引きつがれることになる、本書における唯一の手入れ。
  最後に半数のやもめの母親たちが氷河に竝ぶ(179)
    「並ぶ」とあるべきところ。

私の手許には本書の初版と思われる古書と、後刷りと思われる古書とが1冊ずつある。両者の外見はまったく同じで(ただし後者にが付いていた可能性もある)、奥付も同一だが、前者の奥付が裏白なのに対して、後者の奥付の裏は〔今日の詩人双書〕4冊と〔海外の詩人双書〕5冊の広告になっている。これがいちばんの違いである。本文も、よく見ると前者の誤植が後者で訂正されている(事情はむしろ逆で、誤植のある方を「初版」、訂正されている方を「後刷り」と呼んでいるのだが)。【2011年7月31日追記:この「初版」と「後刷り」をめぐる推測は誤りであった。詳しくは〈吉岡実詩集《静物》本文校異〉の〔追記〕を参照されたい。】実例を《僧侶》のページで示すと、「陰惨な」の「陰」(九八ページ)と「死児は」の「死」(一一六ページ)が横に転倒していて、おそらく活字のウキのため「た」がスペース(一〇四ページ)になっている。それだけではない。九〇ページの本文組版全体(詩篇〈夏〉の前半)が約1文字分、上に上がっている(ノンブルの位置から換算して、製本上のずれではない)。それも後者では修正されている。せっかく〈夏〉を修正したのだから前掲の献辞も直せばいいようなものの、こちらはそのままである(奥付ページに「納本」の印のある国立国会図書館所蔵本〔911.56-Y929y-S〕は、誤植の状態から見て「初版」の一本だが、〈夏〉の献辞は「Y・Wに」と問題ない。ただし九〇ページの組版は1文字分強、上に上がっている)。では「初版」はどうしようもないものかというと、これがそうでもない。本文用紙は「後刷り」よりもややバルキーで、活字が適度に食いこんでいる印刷はそれなりに美しいし、ノドの開きもよい。本書が「初版」の資材で「後刷り」の本文だったらよかったのに。

《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959年8月10日)の「初版」の見開き(九〇〜九一ページ) 《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959年8月10日)の「後刷り」の見開き(九〇〜九一ページ)
《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959年8月10日)の「初版」(左)と同「後刷り」(右)の同じ見開き(九〇〜九一ページ)

本集巻末には吉岡の〈詩集・ノオト〉が収められているので、《僧侶》に触れた段を引くが、著者による解説としてこれに優るものを知らない。
「詩集『僧侶』は、一九五八年の十一月、ユリイカから四百部刊行。一九五六年から五八年までの詩十九篇を収録。統一上ポール・クレーの食卓=k(I・1)〕ライラック・ガーデン=k(I・3)〕を割愛した。ぼくにとつて記念すべき長詩僧侶=k(C・8)〕はバー・エスカルゴで飯島耕一と飲んでいる時着想し一気に書いた。死児=k(C・19)〕はぼくなりに社会に参加しようと試みた最初の作品といえる。伊達得夫のすすめがなかつたら、まだ創られなかつたろう。清岡卓行がいつか、ぼくのことを独身∞毒身∞涜神≠ニしるした。大岡信、岩田宏は雷同した。一九五九年、四十歳で結婚した」(本書、一四八ページ)。
吉岡がこのあとがき(初出は《詩学》1959年4月号〔原題《液体・静物・僧侶》〕)に詩集の解説と《鰐》の仲間たちへの挨拶を書いた当時、最新詩集が《僧侶》だったことに感慨を覚える。

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吉岡実年譜〔作品篇〕(《僧侶》制作期間)

  1956〜58年発表の詩篇のみを抜粋(〈吉岡実年譜〔作品篇〕〉の記述を一部改めた)

《吉岡實詩集》の〈未刊詩篇〉には、前掲〈詩集・ノオト〉の割愛作品のリストに追加しなければならない〈サーカス〉(I・2)を含む詩篇が3篇とも収載されている――拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》(書肆山田、1980)にも収録。初版《僧侶》に表示された制作期間「1956〜1958」の詩篇は、〈陰謀〉(未刊詩篇・6)を除いてすべて本集で読むことができる。

●1956(昭和31)年 36〜37歳
4月 告白(C・2、16行分、《新詩集》〔蜂の会〕1956年4月〔3号〕)
5月 喜劇(C・1、21行分、《詩学》〔詩学社〕1956年5月号〔11巻6号〕)

7月 陰謀(未刊詩篇・6、19行分、《現代詩》〔緑書房〕1956年7月号〔3巻6号〕)
11月 (C・3、13行分、《新詩集》〔蜂の会〕1956年11月〔4号〕)
12月 仕事(C・4、20行、《今日》〔書肆ユリイカ〕1956年12月〔6号〕)
この年〔執筆月不明〕 伝説(C・5、11行分、詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日)、冬の絵(C・6、21行分、詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日)

●1957(昭和32)年 37〜38歳
3月 牧歌(C・7、27行、《今日》〔書肆ユリイカ〕1957年3月〔7号〕)

4月 僧侶(C・8、9節84行、《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1957年4月号〔2巻4号〕)
5月 ポール・クレーの食卓(I・1、37行、《現代詩》〔緑書房〕1957年5月号〔4巻4号〕)
6月 単純(C・9、22行分、《今日》〔書肆ユリイカ〕1957年6月〔8号〕)
10月 固形(C・11、24行分、《現代詩》〔書肆パトリア〕1957年10月号〔4巻10号〕)、(C・10、32行、《季節》〔二元社〕1957年10月〔11月号・7号〕)

●1958(昭和33)年 38〜39歳
5月 回復(C・12、20行分、《詩学》〔詩学社〕1958年5月号〔13巻6号〕)

6月 苦力(C・13、39行、《現代詩》〔書肆パトリア〕1958年6月号〔5巻6号〕)
7月 死児(C・19、[節189行、《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1958年7月号〔3巻7号(22号)〕)、喪服(C・15、29行、《今日》〔書肆ユリイカ〕1958年7月〔9号〕)、聖家族(C・14、21行、《季節》〔二元社〕1958年7月号〔11号〕)
9月 サーカス(I・2、45行、《實存主義》〔理想社〕1958年9月〔15号〕
11月 美しい旅(C・16、19行分、詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日)、人質(C・17、28行、詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日)、感傷(C・18、6節99行、詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日)
12月 ライラック・ガーデン(I・3、40行、《今日》〔書肆ユリイカ〕1958年12月〔10号〕)

〔2019年4月15日追記〕
吉岡実の生誕100周年(2019年4月15日)を記念して、〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉(小林一郎 編)〔A4判縦位置で印刷すると、約[293]ページ〕を新規ページとしてアップした。ただし、本サイトでは《〈吉岡実〉を語る》の一項目という位置づけのため、トップページの〈目次〉には掲出しない。


青山政吉のこと(2008年10月31日〔2009年3月31日追記〕〔2018年12月31日追記〕)

水彩画家の青山政吉(1920-1994)は初めての随筆集《毎日が遠足です》(青山政吉、1991年10月1日)でただ一箇所、吉岡実に触れている。

 満州の野戦病院で私は吉岡実というやさしい人に会った。彼は私が絵を描いていたというと、自分は詩人であったといい、それ以来とても意気投合してよく話し合った。
 やがて私は後送されて名古屋に戻り、ある時たまたま朝日ビルの書店に立ち寄り、ふと彼に本を贈ろうと思った。そこで二、三冊を買い、店員に満州の病院へ送ってほしいと言うと、戦時中でその手続きがとても面倒だと言う。するともう一人の女店員がとても好意的な態度ですぐ引き受けてくれたが、さぞ手数なことであったろう。
 それ以来、私は画集などをよく買いにその店に立ち寄ったが、そのうち彼女にデートを申し込むようになった。
 それもまた素直にハイ≠ニ返事をしてくれ、その後もあまり拒否されたことがなく、会った日にはいつも髪の乱れがなく薄化粧をしていたので、とうとう彼女と結婚をし、こんにちまでありがたく連れ添っている。
 男でも女でも相手の申し出を拒否する時は、しぜんとその縁までが消えてゆくやも知れず、そう思うとノオ≠ニいう言葉は縁切れになる言葉なのかもと思ったりする。(〈ハイ≠ニいった女〉、同書、一一五〜一一六ページ)

一方、吉岡は青山政吉について、日記でこう書いている(時系列で番号を振る)。

D 〔昭和三十四年〕十月十三日 西宮から青山政吉上京する。梅林でとんかつ。家につれてきて陽子紹介。一部屋なので駿台荘に宿をとり泊める。(《吉岡実詩集〔現代詩文庫〕》、思潮社、1968、一二一ページ)

E 〔昭和三十五年〕六月五日 龍安寺石庭、大徳寺大仙院の庭を見、広隆寺へ廻り弥勒菩薩と対峙する。苔寺、天龍寺、嵐山を歩いて疲れる。夜、西宮の青山政吉の家へ泊る。
〔同〕六月七日 桂離宮を観る。白い大きな障子と砂雪隠が印象的だ。大阪へ出、法善寺横丁のぬれた石仏と香煙。西宮へ戻り雅子ちゃん大作ちゃんとさようなら。夜行列車にのる。(同前、一二四ページ)

青山は幼名・雅美から政吉に改名しているから、日記の「青山雅美」に注目すると、

@ 〔一九四六年〕三月三十一日(日曜) 午後、日高君と上野の日本美術展を観に行く。日本画の奇麗すぎるのに驚く。音信不通の青山雅美の絵を見つける。事務所で住所を聞いた。(〈日記 一九四六年〉、《るしおる》6号、1990、三三ページ)

C  〔昭和二十四年〕十月十一日 中川紀元氏をたずねて上野へゆく。偶然、二紀会入選の中に青山雅美の絵を発見し、事務所で住所を聞く。満洲の軍事病院で仲よく暮した一カ月の生活が思い出される。柳絮とぶ春を。(《吉岡実詩集〔現代詩文庫〕》、思潮社、1968、一一六ページ)

青山の随筆と同じことが書かれているが、二人が軍事病院にいた理由は出てこない。さらに《土方巽頌》(筑摩書房、1987)の「京都へ「バルチュス展」を、土方巽と観に行った頃から、大規模な「鉄斎展」が催されると、西宮在住の旧い友人から聞いていた」(同書、一九四ページ)の旧友は青山に違いない。このとき吉岡は、講演旅行から帰ったばかりの土方を誘わずに「私はひとりでも京都へ行くことにきめる」(同前、一九五ページ)と記しているだけで、青山といっしょに富岡鉄斎展を観たかどうかはわからない。私が青山政吉(雅美)に注目するのは、吉岡が《静物》をまとめるに至る時期にその存在が大きかったのではないかと考えるからである。一体吉岡はその詩の形成にあたって多くの絵画(もしくは造型)作品から啓示を受けているが、他方で画家の存在も無視できない。のち《静物》を書きおろした時期に吉田健男と同居していたことは吉岡も触れているが、青山の存在を作品の生成と関連させて書いたことはない。日記Cのすぐ前には次の記載がある。

A 〔昭和二十四年〕八月一日 或る場所にある卵ほどさびしいものはないような気がする。これから出来るかぎり〈卵〉を主題にした詩篇を書いてみたいと思う。(《吉岡実詩集〔現代詩文庫〕》、思潮社、1968、一一六ページ)

B 〔同〕八月十二日 Mからポール・クレーの絵のある〈みづゑ〉を借りる。原始の素朴な夢と淋しさの底から滲みでる抒情。冷めたい知性を包む幻想の交響曲。仕事のあいま、またねどこの中でポール・クレーの絵をみたり、評伝をよむ。クレーのような詩も書きたいと思った。(同前)

こうした関心を抱いていた当時、仕事の関係でだろうか、吉岡は「中川紀元氏をたずねて上野へゆく」。二紀会は中川が熊谷守一たちと結成した団体だから、たまたまその展覧会で「青山雅美の絵を発見し」たのだろう。戦争が終わって4年。吉岡はすでに、東洋堂で幸田成友の訳書や柳田國男《分類農村語彙》、谷内六郎の長篇漫画の編集を担当していた。生活はそれなりに安定して、詩作再開の意欲が昂まっていた時期である。同年春、椿作二郎・田尻春夢・池田行宇らとともにした梅の瑞泉寺への吟行を最後に、親しい俳句仲間とも訣れ(このころ佐藤春陵はどうしていたのだろう?)、今後は詩を書いていきたいと決意している。誰一人詩を語らう友もない状態で詩作を試みた作品の題名は、古風にも〈寒燈〉。吉岡はできたばかりの詩篇の写しを京都(もしくは西宮)の青山雅美に送っている。戦時下の満洲で互いに画家と詩人と名乗りあって以来の旧友に。

〈寒燈〉(未発表詩篇):11行(手入れにより10行)。末尾に「〈二四、九、二十〉」、丸中数字で「28」(別に薄く丸中数字で「45」)、さらに「(雅美へ二四、十、二十送る)」、丸中数字で「十五」とあり、1949年9月20日脱稿と見られる。詩句「黄なびた蛙のあしはたれさがり」が〈風景〉(B・10)に流用されている。詩篇全体に大きく「×」が付されている。
〈ぽーる・くれーの歌〈又は雪のカンバス〉〉(未発表詩篇):20行。末尾に「〈二四、九、二三〉」、丸中数字で「29」(別に薄く丸中数字で「46」)、さらに丸中数字で「十六」とある。1949年9月23日脱稿と見られる。

――おそらく昭和24(1949)年の春に吉岡が気持も新たに詩を書きはじめてから半年、@、A、…と丸中数字で番号を付けた29篇が誕生していた。その後のある時点(《静物》編集の前段階か)で取捨選択が行なわれた結果、上の2篇を含む十六篇が採られ、13篇が捨てられた。〈寒燈〉は採られた十六篇のひとつだが、その後(おそらく最晩年に)、作品としては抹消する意志が示された。にもかかわらず、詩稿そのものは遺された! あたかも《静物》に始まる戦後吉岡実詩の開闢を記念するかのように。あるいは「(雅美へ二四、十、二十送る)」とあるメモゆえに。――と私は想像する。
青山の随筆集《毎日が遠足です》の仕様は、一九三×一四八ミリメートル・二九二ページ(口絵に原画一葉貼込)・上製継表紙(平・背とも布)・機械函。限定500部。写真を見ればわかるとおり、本書が吉岡の《薬玉》(書肆山田、1983)を踏まえていることは――とりわけ函の貼題簽と継表紙において――明らかである。《薬玉》を贈られたに違いない青山の、戦友・吉岡に対する追悼の意であろうか。

青山政吉《毎日が遠足です》(青山政吉、1991年10月1日)の函と表紙 吉岡実詩集《薬玉》(書肆山田、1983年10月20日)の函と表紙 吉岡実が青山政吉に宛てた《薬玉》の署名用カード
青山政吉《毎日が遠足です》(青山政吉、1991年10月1日)の函と表紙(左)と吉岡実《薬玉》(書肆山田、1983年10月20日)の函と表紙(中)、吉岡が青山に宛てた《薬玉》の署名用カード(右)

〔2009年3月31日追記〕
本稿をお読みいただいた青山政吉のご子息大作氏から、昭和24(1949)年当時の政吉の居住地についてメールをちょうだいした。現在、最も詳細な〈青山政吉年譜〉には「1948年(昭和23年)28歳 京都市立絵画専門学校を卒業/1950年(昭和25年)30歳 兵庫県鳴尾村立(現西宮市立)鳴尾北小学校美術教員となる」(青山政吉作品集《万葉百景》、青山大作、〔2000〕、一〇八ページ)とあって、昭和24年の秋どこに住んでいたか手掛かりになる記載はない。大作氏は、当時政吉はすでに結婚していて、長女雅子も誕生しており、京都東山にあった生家の天ぷら料亭「梅月」近くの泉湧寺に下宿していたのではないか、と推測している。吉岡実は〈好きなもの数かず〉に「京都から飛んでくる雲龍、墨染の里のあたりの夕まぐれ」(筑摩書房労組機関紙《わたしたちのしんぶん》90号、1968年7月31日)と記したように、その中世文化を好んでいたから、京都にあった画家青山雅美に新作の詩稿を送ることはささやかな喜びだっただろう。

〔2018年12月31日追記〕
吉岡実が青山政吉に贈った詩集《薬玉》に添付されていただろう署名用カード(天地一六一×左右一一一ミリメートル)をオークションで落札したので、写真を掲げる。なおカードの裏面は、吉岡の執筆になる詩集刊行の案内。2008年10月31日の本文の末尾に、青山が吉岡から「《薬玉》を贈られたに違いない」と書いたが、署名用カードの出現でそれが裏付けられた。


吉岡実の書(2008年9月30日)

《現 代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)の目次は別丁観音折りの中面だが、その外面は吉岡実の肖像と筆跡の写真で構成されている。筆跡には毛筆による〈吉岡実の書〉 が3点含まれていて、同書にはそれらのほか口絵に1点、本文中に1点の計5点、吉岡の書の写真が掲載されている。それらに番号を付して文字に起こしてみる (改行は/で表示した)。

  1. 水中の泡のなかで/桃がゆっくり回転する/そのうしろを走る/マラソン選手/吉岡実
  2. 石上栽花後/生涯自是春/実
  3. 神 も不在の時/いきているものの影もなく/死の臭いものぼらぬ/深い虚脱の夏の正午/密集した圏内から/雲のごときものを引き裂き/粘質のものを氾濫させ/ 森閑とした場所に/うまれたものがある/ひとつの生を暗示したものがある/塵と光りにみがかれた/一個の卵が大地を占めている/吉岡実
  4. 或る時/わたしは帰ってくるだろう/やせて雨にぬれた/犬をつれて/他の人にもしその/犬の烈しい存在/深い精神が/見えなかっ たら/その犬 の口をのぞけ/狂気の歯と/凍る涎の輝く/吉岡実
  5. 大雨の薬の水の鯰かな/耕衣句  実

こ のうち吉岡実の詩篇は、1が〈桃――或はヴィクトリー〉(E・8)の冒頭、3が〈卵〉(B・7)の全文、4が〈犬の肖像〉(B・16)第1節の全文で、こ れらは改行箇所こそ定稿よりも多いものの(行の途中で折り返すことを避けたためか)、詩句に異同はなく、自作の詩を毛筆で浄書した恰好だ。2と5は自作で ないが、2については後述する。5に関しては、永田耕衣が〈吉岡さんの書――追悼にかえて〉(初出は《琴座》1990年7月号)で次のように書いている。

  掲上の一句《大雨の薬の水の鯰かな》は、昭和六十二年四月に沖積舎から発行の句集、『葱室』に収めている、私の《鯰》の句句のなかでも、超ユーモラスな或 る品格を神妙に具えた一句である。同年六月十日に、兵庫県民会館で催うされた《米寿永田耕衣の日》は、大野一雄翁の舞踏《睡蓮》を賜わって、参会者一同を 幽玄の境に落涙的沈黙を誘った稀有の印象は忘れ難い。そうした《有時》に、私は掲上の吉岡実さんの揮毫を賜わったのである。一枚漉き手漉和紙全紙31セン チ×43センチ大の耳附の風光に、この詩人の根源的な親切心を噛みしめながら、私はこの祝意に涙したのであった。〔……〕
 ところで掲上の吉岡さんの書だが、巧拙を超越した、ひたすら厳粛素朴な、何という清浄無垢さであろう。只一言で、吉岡さんの《人柄》を機していうなら ば、《律義》の二字しか、他に適切な言葉は見つからないのだ。私はこの一葉を慌[あわ]てて取り出して、今まで時どき眺めてきた額縁に、真紅の民芸紙を マットに納め、書斎の私の稿業用の机の真向の壁に掲げた。(前掲書、二五七ページ)

《現 代詩読本》の二五八ページには5が天地70×左右50ミリメートルの写真で掲げられているから、これを上記寸法に拡大して耕衣がした ように額装すれば、吉 岡実の書の雰囲気を味わうことはできるだろう。しかし、私がここで重視したいのは耕衣による〈追記〉のCの一節である。
「このさいこの日記の処々で出会う注目すべき部分がある。それはこの詩人が、この時代に、先ず《書塾》に入り助手的な仕事に就いていたことである。塾生は 元より少年少女で、彼らの習字を見て佳作にマルを附けてやったりして、彼らに親しまれて行ったことなど。而うして詩人自身も手習や臨書などを修しながら、 月刊書道誌「手習」に書字を投じて《まだ二級で、仲々一級に昇格しない》と記している処が面白く読めた。その前に《習字に没頭す》という短章が見あたった りする」(同前、二五九ページ)。
耕衣が吉岡の書に触れる以上、《うまやはし日記》(書肆山田、1990)に言及するのは必然だが、耕衣の指摘どおり、吉岡の書の骨法はこの書塾での助手時 代に培われたものと思しい(本稿末尾に《うまやはし日記》における 書に関する記述を摘 して、若干の註を付けた)。
さて、2の「石上栽花後/生涯自是春」である。これは「石の上に花を栽えて後、生涯自ずからこれ春」という禅語で、司馬遼太郎(1923-96)も好んで 揮毫した(《週刊朝日》1999年12月15日増刊号、《司馬遼太郎からの手紙――『街道をゆく』の友人たちへ》、朝日新聞社、〈巻頭グラビア〉〔一三 ページ〕参照)。司馬の書をインターネットで検索してみると、おあつらえむきに〈七夕大古書入札会2008 明治古典会〉に「司馬遼太郎書額/石上栽花後…/一面/入札最低価格: 15」として次の画像が掲載されていた。せっかくだから、吉岡実の書と並べてみよう。

司馬遼太郎書額〔出典:〈七夕大古書入札会2008 明治古典会〉〕 吉岡実書〔出典:《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991〕
司馬遼太郎書額〔出典:〈七夕大古書入札会2008 明治古典会〉〕(左)と吉岡実書〔出典:《現 代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991〕(右)

双 方ともいつ書かれたのかわからないが、あたかもどちらかがどちらかを見て書いたかのように似ている(とりわけ「栽」の字)。それとも、同じ手本を臨書した 結果だろうか。吉岡の書きぶりは、3・4・5とそれほど違っていないのに対して、司馬の方は、石川九楊《現代作家100人の字〔新潮文庫〕》(新潮社、 1998)五一ページに収載のユーモラスな「君子有酒」とはずいぶん違って見える。その「酒」とこの「涯」のさんずいはほとんど同じだが、「石」の第一画 は「ペン書きに馴染みきっている」(同書、五〇ページ)手つきが懸命に書の姿を仮構したがために、ふだんの揮毫から離れてしまったようだ。一見すると司馬 の「陽性の書」(同書、四九ページ)に見えないのは、文言が禅語とあって、普段よりも襟を正して筆を執ったことによるのか。ところで、「石上栽花後…」を 含む上掲の吉岡の書にはどれも印が捺されていない。吉岡自身は篆刻を試みなかったかもしれないが、雅印を所有していなかったはずはないのに。《昏睡季節》 や《液体》の奥付に捺された「吉岡實」の白文印(検印というよりも落款だ)が戦火で失われたとしても、森田誠吾は吉岡に自刻の印を贈ったと〈敦の周辺〉 (《中島敦〔文春文庫〕》、文藝春秋、1995、一八〇ページ参照)に書いているし、吉岡に雅印を献じた詩人も多いはずだ。吉岡は《「死児」という絵〔増 補版〕》(筑摩書房、1988)でも篆刻はもちろん、書についてほとんど語っていない。強いて挙げれば、以下の9篇が書への言及の見られる文章と言えよう か。

そこで、《吉岡実未刊行散文集》から 当該箇所を引いて、書に対する吉岡の考えを概観してみ よう(引用を最小限にするため、前後の文章を割愛したものがあるが、引用文中で省略した場合のみ〔……〕と中略であることを表示した)。

(1)銀椀鈔――永田耕衣宛書簡 《琴座》163号(1963年5月1日)
やっと春らしくなりました。お元気で書作の仕事に精進されていることと察します。いつもいつも耕衣の書が欲しいと思っていましたがお願いするのもあつかま しいと思ってがまんしていました。書の展覧会を催すことは「琴座」で知っていましたが、頒けていただけないだろうとあきらめていたところ昨日後援会員にな れば書作品が手に入るとのこと早速申込みました。本当なら書作展に参り心ゆくまでに墨蹟をじかに見たいのですが仕事のため行けません。すばらしい会であり ますように。

(2)銀椀鈔――永田耕衣宛書簡 《琴座》166号(1963年8月1日)
 雨もひとやすみ、ここ二、三日夏らしくなりました。先週の日曜日、寝床のなかで、貴重な書作品拝受しました。すばらしい墨蹟、近づいて見、遠ざかって見 てたのしんでおります。適当な大きさなのも、狭い部屋なのでとても具合がよいのです。只今、風塵にさらしたくないので、飾棚の中に蔵しています。耕衣さん の本意にそむく行為とは知りながら。返事がおくれたことをおわびします。
六月十七日夜
 追伸。
 会、さぞかし御盛会だったのでしょう。参れなかったのを残念に思います。さて最近、楠本憲吉さんから、排衣さんの
 百姓に今夜も桃の花ざかり
の短冊いただきました。まだお礼を申上げてないので、今夜にも手紙を書きます。

(3)好きなもの数かず 筑摩書房労組機関紙《わたしたちのしんぶん》90号(1968年7月 31日)〈私の好きなもの〉
 ラッキョウ、ブリジット・バルドー、湯とうふ、映画、黄色、せんべい、土方巽の舞踏、たらこ、書物、のり、唐十郎のテント芝居、詩仙洞、広隆寺のみろ く、煙草、渋谷宮益坂はトップのコーヒー。〔……〕墨跡をみるのがたのしい。耕衣の書。〔……〕つもる雪。

(4)日記抄――耕衣展に関する七章 《琴座》235号(1969年11月1日)
六月十三日 紀伊国屋サロンで、渡米前のいそがしい草野心平氏と会う。耕衣展のためのすいせん者になって頂くべく。資料として句集、書の写真をみせる。 〈金剛〉の二字をみて、これは本物だ、いいものを見せてくれた――承諾を得る。ほっとして白十字でコーヒーをのむ。夕五時。
七月十八日 第一ホテルで耕衣さんと会う。新橋でつきそいのお孫さんと別れ、北浦和の海上宅へゆく。白隠、蒼海、文三橋の書など見せていただく。そうめん と鶏肉のひるめし。耕衣さんは朝鮮の素朴な花の絵に声をあげる。奥さんのお点前の茶を喫して一刻、伝説的な黄山谷の一幅を拝見。その前にひざをつき耕衣、 小生ともに呆然、恍惚となる。蘇峰遺愛の神品という。心清韻。雅臣氏の自動車で神田へ戻る。八木一夫の湯呑をみやげに。

(5)青葉台書簡――永田耕衣宛 《琴座》300号(1975年11月10日)
さて、小生の勝手な「手紙と句抄」喜んで頂けて光栄です。先日、また渡辺一考君が現われ、「不生」の額を持ってきてくれました。杉の黒塗の美しいその額 に、早速耕衣書を入れ、玄関に懸けましたら、いままで飾ってあった、アバティの色彩銅版画と趣きが一変して、厳しい雰囲気になりました。

(6)愛語鈔――永田耕衣宛書簡 《琴座》351号(1980年7月1日)
 傘寿の会に参加できてよかったと思います[。]心のこもった素晴しい一夕でした。それに、書画展も感銘しました。神戸という土地にも親しみを覚え、また 参りたくなりました。出来たら、この秋にでも、耕衣さんのお宅に参り、鴉か鯰の絵を手にしたいものです。

(7)兜子追悼 《渦》1981年6・7月号(1981年6月28日)
 兜子と二度目に会ったのは、句集『歳華集』の出版記念会の時であった。〔……〕わずかなひととき、彼の「書」がところどころに飾られた、ロビーのような 処で、書に就て語り合ったくらいだった。
 昨年の春、永田耕衣傘寿の会が神戸の六甲荘で催された。二次会は、三宮のどん底という店で、百鬼夜行的な夜だった。私がかつて田荷軒で観た「金剛」の大 字が懸っているという、バーらんぶるへ、五、六人の酔漢と夜の街をさまよいつつ行った。そこに、したたか酔った兜子がいた。これが三度目の出合いであり、 最後であった。「金剛」の二字は、私の垂涎するものではなかった。
 〔……〕
 二、三年前に、手紙と半紙より少し大き目の和紙に、染筆したものを貰った。「大雷雨鬱王と会ふあさの夢」の一句であった。

(8)アンケート「そして、8月1日の……」 《麒麟》4号(1983年10月20日)〈同日 異録B〉
永田耕衣の「白桃図」を、居間の壁に掛ける。それまでは、この七月に急逝した、わが友高柳重信を悼み「弟よ/相模は/海と/著莪の花」の染筆を掲げてあっ た。恵幻子よ、山川蝉夫よ、やすらかに成仏せよ。

(9)年譜 《現代の詩人1 吉岡実》(1984年1月20日、中央公論社刊)
 昭和七年 一九三二年 十三歳 
本所高等小学校に入学。東駒形の二軒長屋から厩橋の四軒長屋へ移る。二階に先住の佐藤樹光(書家油桃子)の影響で、文学に親しむ。
 昭和十四年 一九三九年 二十歳 
仕事に疑問をもち、南山堂を退社。夢香洲書塾(佐藤宅)へ仮寓し、子供たちに習字を教える。本所区役所で徴兵検査を受ける。
 昭和五十五年 一九八〇年 六十一歳 
夏、〔……〕三越本店で、良寛展を観る。天上大風。
 昭和五十八年 一九八三年 六十四歳 
初夏、東京国立博物館で「弘法大師と密教美術展」を観る。八大童子立像(金剛峯寺)の六躯に魅せられる。

(10)青葉台つうしん――永田耕衣宛書簡 《琴座》397号(1984年9月1日)
この度の田荷軒訪問からだいぶ日が立ち、いまごろお礼を申し上げるのも、気がひけます。どうかお許し下さい。土方巽さんも念願を果して、喜んでおりまし た。〔……〕本当は、耕衣さんとゆっくりお話がしたかったのですが、土方さんが若い友人数人を、宿に待たせていたものですから。いつもながらあの書斎はく つろぎます。玄関の「花紅」の二字は、素晴しいと思いました。

(11)永田耕衣書画集《錯》愛語集 《琴座》417号(1986年7月1日)原題〈永田耕衣 書画集・錯 愛語集〈続〉〉
このたび、美事な『永田耕衣書画集・錯』が出来ましたことを、お祝い申上げます。先ずなによりも驚いたことは、小生所蔵の「不生」が最初に掲載されていた からです。光栄といっては妙ですが、喜んでいます。「金剛」の名品二点がいまだ耕衣様の手元にあるのを知り、安心いたしました。作品と所蔵者を結びつける たのしみ、それと選ばれた耕衣様のご苦心を感じたりしております。当然ながら、所蔵者不明で、数々の秀作がもれているのではないでしょうか。昔、田荷軒に 懸っていた、巨大な赤牛、あれがないのは残念です。小生が一番に心惹かれたのは、「羽痛女神像」です。大きさがわかりませんが、天地いっぱいに存在してい るように見えます。中村苑子さん秘蔵というのも、めでたいことです。本当にくり返し見てたのしんでおります。

(12)青葉台つうしん――永田耕衣宛書簡 《琴座》422号(1987年1月1日)
このたびはお手紙と耕衣短冊を拝受して感激いたしました。亡き奥様の忌も明けられたとのこと、またなんと美しいご戒名を贈られたことでしょうか。最高のご 供養だと思いました。さて、頂いた短冊には、不滅の名句「コーヒ店永遠に在り秋の雨」が染筆されており、喫茶店好きの小生には何よりのものです。かつての 傘寿の会の折に頂いた短冊の筆勢が、一休的であるならば、これには白隠の風韻を感じます。早速に、李朝石仏の脇に置いて、日々眺めております。本当にあり がとう存じます。

(13)ダガバジジンギヂさん、さようなら 《ユリイカ》1987年7月号(1987年7月1 日)〈追悼=高橋新吉〉
 昭和四十七年の冬、おそらく初めてのことだと思われる高橋新吉書画展が日本橋の柳画廊で催されています。請われて、会田綱雄と一緒に、私の拙い色紙も讃 助出品いたしました。その折り水墨画の「秋刀魚」を頒けて貰ったのですが、それは奥様の愛着ふかい作品だと後で知りました。

(14)青葉台つうしん――永田耕衣宛書簡 《琴座》428号(1987年7月1日)
お手紙によると、小生の稚拙な筆になる「葱室十一句」を、喜んで頂きうれしく思います。そのうえ、立派な額に入れられ、田荷軒の一隅に、飾られたとのこ と、面映ゆいばかりです。拝受いたしました、古代黄土顔料で彩られた可憐な仏さま。小生にはなぜか、唐子のように見えます。むかし人様から贈られた、古代 裂を入れた額にぴったり収って、李朝石仏のわきに鎮座しております。本当にありがとうございます。早いもので、「永田耕衣の日」から、丁度一ケ月になりま すね。もうお疲れもとれたことと思います。当夜、耕衣独演と大野一雄独舞が、白眉でした。

吉 岡実の未刊の散文に永田耕衣宛ての書簡が多いためばかりではなかろうが、耕衣(1900-97)や高柳重信(1923-83)、赤尾兜子(1925- 81)といった同時代の俳人の書への言及が大半なのに驚かされる。ほかには空海〔弘法大師〕(774-835)、黄庭堅〔黄山谷〕(1045- 1105)、一休(1394-1481)、文彭〔文三橋〕(1497-1573)、白隠(1685-1768)、良寛(1758-1831)、副島種臣 〔副島蒼海〕(1828-1905)、高橋新吉(1901-87)、会田綱雄(1914-90)が登場する。また、上掲(14)と耕衣の〈吉岡さんの書〉 を対比させてみると興味深い。(14)と同じ号には吉岡の選句〈耕衣*葱室 十一句〉が活字で掲載されていて、第四句が「大雨の薬の水の鯰かな」であり、第八句が「狼有一また出て来うぞ桐の花」だからだ。戦後前衛書家の井上有一 (1916-85)を悼んだ耕衣の句を、吉岡はどんな手で書いたのか。いま私の手許には金子晉編による永田耕衣書画作品集《泥》(永田耕衣の会、 1999)がある。「〔……〕今回、耕衣生誕百年を記念する意味で、前書画集「錯」のほとんどの作品を再録し、それ以後の作品と初期習作時代の作品も加 え、耕衣書画歴をほぼ網羅できる形で編集した」(同書、二四八ページ)と編者が〈後記〉に書くように、《泥》は永田耕衣全書画集の趣をもっている(ちなみ に、耕衣のほとんどの書画には「田荷軒」の朱文印が捺されている)。《私のうしろを犬が歩いていた》(書肆山田、1996)に〈白桃図〉が載っているよう に、吉岡実所蔵の作品も本書に含まれているのだろうが、ここは心静かにページを繰るにしくはない。
吉岡実は書の個展を開いたこともなく、その書が広く知られているともいいがたい(インターネットで検索しても、自作句の色紙「冬 の日の凝れば/無為なる蛇の貌」が森井書店から出品されている程度だ)。だが、私がいちばん吉岡の「書」を感じるのは、その装丁においてである。石川九楊 は「〔書の〕主体は、書いた文字(墨跡[すみあと])の側にではなく、墨跡[すみあと]によって姿を変えられた紙、つまりは余白の側にあり、その墨跡と余 白との境界である「際[きわ]」が、文字通り「際立つ」からである。〔……〕書物が環境にさらされる「際」が、表紙でありカバーであり造本である。その意 味では装幀もまた書物における一種の「書」であると言えるのである」(《書を学ぶ――技法と実践〔ちくま新書〕》、筑摩書房、1997年4月20日、一五 六ページ)と喝破したが、この「際」と書物の関係は、とりわけ吉岡装丁において当てはまるように思われる。「際立ち」の有無が、吉岡実装丁を凡百の吉岡風 装丁から分かっているのだ。吉岡の装丁と書籍の新聞広告「三八」の関連を指摘した臼田捷治は、吉岡の書について次のように書いている。
「吉岡が揮毫した筆跡を見ると、まさに少年が書いたような律儀な楷書で書かれている(ついでながら、吉岡は十九歳のころ、ある塾の手伝いで子どもたちに習 字を教えていた)。書道史的にみれば、楷書の完成期である、初唐の王朝趣味たっぷりのけれん味あるそれではなく、それ以前の書体としての成長期にあたる時 代の健康的なかたちを彷彿させるものである。筆跡ほど書き手の人となりを正直に映し出すのものはない。その筆跡と同様に、吉岡の装幀は折り目正しい「楷書 の作法」に貫かれているのだ」(《装幀時代》、晶文社、1999年10月5日、七五ページ)。
臼田さんは書を通じて吉岡実の「装幀術」(同前)を語っているわけだが、私はこれに加えて「書と俳句」の存在を強調したいと思う。王羲之(307?- 365?)ふうの楷書の筆跡を超えて、「書くこと=創ること」という視点を吉岡が獲得したであろうことを。吉岡は今日でいう中学生のころ、のちの「書家」 佐藤春陵によって文学に開眼し、奉公先の南山堂を退店してからは、1年4ヵ月ほど佐藤の夢香洲書塾(むこうじましょじゅく、と読むのだろう)を手伝い、田 尻春夢や佐藤らとともに句作に励んだ。一方、短歌はまったくの独学である。ことほどさように、吉岡の「書」は「俳句」とともにあった。吉岡実の表現行為を 「書=俳句」と「詩(短歌)」と「装丁」の三位一体としてとらえなおすことによって、今までの「詩」と「装丁」の二項対立からは見えなかったものが見えて こないだろうか。

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《うまやはし日記》における書に関する記述(抄)

■昭和13年(1938)

9月5日【月】 〔【 】内の曜日は評者による補記〕
今日から佐藤樹光さんの家に身を寄せる。〔……〕気ままに勉 強しながら、書塾を手伝うことになった。

11月14日【月】
塾に来る女の子に、初めのころは「お兄さん」と言われた。男の子にはうさんくさそうに思われた。やがて習字に朱筆を入れ、甘く朱丸をつけてやると、「先 生」と呼ぶようになった。午後から夕方までに、二百人位来るようだ。

■昭和14年(1939)

4月18日(火曜)
一日中、課題の半紙六字の清書を書く。

5月2日【火】
虞世南を臨書。

5月10日【水】
夕方、春陵さん(樹光)は相沢春洋先生のところへ。〔……〕 夜、褚遂良を臨書。

5月18日【木】
欧陽詢を臨書。

5月31日【水】
夜、習字に没頭。

6月22日【木】
夕方まで子供たちの習字をみる。〔……〕夜、「九成宮醴泉銘」を 臨書する。

7月14日【金】
朝、亀の湯から戻り、臨書にはげむ。

8月7日【月】
「東邦書策」に、わが作品が掲出されている。雅号「白苔」と なっていた。

8月25日【金】
夜遅く、蚊帳に入って寝ながら、春陵さんと話し合う。いずれも偏屈同士ゆえ、この家を出たほうがよいだろう。一種の居候なのだから。友情を大切にしようと 思う。

11月1日【水】
夜、生徒の月謝袋に受領印を押すが、すぐ疲れた。

11月2日【木】
夕刻、月刊書道誌「手習」届く。まだ二級で、仲々一級に昇格 しない。

12月19日(火曜)
今夜は第二回白鵶〔ア〕句会。先生と習字教場の板の間を掃除し、夕食をすませ、出かける。

12月27日【水】
〔依田〕栄子さんから、本格的に書道にはげみ、お習字の先生になったらと、言われた。

12月31日【日】
今日かぎりで、夢香洲書塾を出ることに決めた。突然のことで、父はめずらしく怒り、母まで同調した。兄は何も言わなかった。春陵さんに対して、わが家のみ んなが悪感情をいだいてはつらい。ゆえに一切、ふたりの間の精神的なゆきちがいを、話してはいないのだ。子供の頃からの永い交流である。身辺を整理してい る頃、春陵先生は新年を迎える準備に余念がなかった。

■昭和15年(1940)

1月18日【木】
午後二時ごろ、二階でノートに短歌を書いていると、母が春陵さんの言伝。餅菓子の伊勢屋の子供が死んだので、手伝いに行く。今日一日、生徒の習字の添削を して欲しいとのこと。夕五時過ぎまでに終る。少し休み、盛岡へ帰る徳松さんを送って、上野駅まで行く。

1月21日(日曜)
早稲田の全線座で「少年の町」を見る。近くの依田昌矩・栄子夫妻をたずねた。書道、俳句の仲間なので、話題はつきない。

1月24日【水】
夜、春陵先生と昭和女子商業学校へ行く。第三回「白鵶〔ア〕句会」のつどい。

2月3日【土】
十一時ごろ久しぶりで、夢香洲書塾をたずね、春陵さんと火鉢にあたり楽しく、俳句、短歌の話。午後から神田の事務所へ行く。西村さんと挨拶状の封筒の宛名書きに没頭する。

2月6日【火】
西村、小林両氏も出ず、一日中、封筒の宛名書き。

《うまやはし日記》における書に関する記述(抄) 註

佐 藤樹光〔春陵〕(さとう じゅこう〔しゅんりょう〕) 吉岡は大岡信との対話〈卵形の世界から〉(《ユリイカ》1973年9月号)で次のように語っている。佐藤氏は吉岡より一回り 年長のようだが、生年等は未詳。

吉岡  〔……〕ぼくは、佐藤春陵という書家の影響で文学をはじめたわけだ。彼は盛岡の貧しい農家の人で、どっちかっていうと左翼思想の持主だったように思う。う ちの二階でほそぼそと筆耕をやってたわけ、書道を勉強しながらね。これはまた不思議な縁でね。長い間うちは東駒形の二軒長屋に住んでたんだが、差配がその 二軒をつぶして大きな家をつくりたい、うちと入れ替ってくれといってきたわけだよ。ただ、二階に佐藤という人を下宿させているが、できたらお宅でもそのま ま置いてやってくれという条件があったわけ。それで、当時うちは親子三人だから階下二間あれば、まあ大体住めるんで、承知したんだ。その家が厩橋の三軒長 屋で、ぼくはそこから出征し、父母はそこで死んだ。懐しい家だ。その佐藤春陵という人の部屋へ、ぼくは少年時代しょっちゅう出入りしていた。彼は文学青年 だから、よく本を読んでくれた。それがゴーリキーの『どん底』や『母』なんかで、いまでも印象に残っている。
大岡 十三歳ぐらいのときね。彼は何歳ぐらいかな。
吉岡 いま六十五、六の人だと思う。
大岡 じゃ、もう三十近かったわけだ。
吉岡 その人の影響で文学に目醒めて、それから南山堂へいって、たまたまそういう出版社にいたために本をやみ くもに読んだ。だから、ぼ くには誰も師匠ってのはないわけだ。(一四六〜一四七ページ)

虞 世南(ぐ せいなん、558-638) 初唐の書家。書〈孔子廟堂碑〉。

相 沢春洋(あ いざわ しゅんよう、明治29〔1896〕-昭和38〔1963〕) 神奈川県横須賀生。名は茂、別号に二水・天心・酔硯がある。大正2〔1913〕年、中村春堂 に師事。同5〔1916〕年、早稲田大学卒業。書道研究二水会を主宰し、雑誌《手習》を発行した。泰東書道院理事審査員。戦後、日本書道美術院の創立に参 画し理事審査員として同院の発展に寄与した。日展に書道が参加するとともに審査員も数回務めた。「明治以後の古典復帰を唱える書壇の中で春洋はわが国上代 から近世に至る広範な領域にわたる学書に及び、書のほか、大和絵や絵巻、さらに文房四宝など博識をもって聞こえ、漢字かなの各体を巧みにこなす和様能書家 として、銘記すべき存在である」(古谷稔)。5月10日の様子は、春洋が《手習》に発表した雑記に記されているので引用する。ここには「例の人々」とある だけで佐藤春陵の名は見えないが、同5月3日に登場する。

○十日 五時半着。一時間程寝て稽古に取かかる、世話になつた人々に 礼状を書く、楽石斎から硯が沢山届く、夜 は例の人々集まり関戸古今や古筆の話に実物の有難さを語り十一時を過ぐ。(相沢春洋《春洋雑記〔第2巻〕》、相沢春洋先生遺業顕彰会、〔1985〕、一四 五ページ)
○三日 春陵君秀衡文箱を呉れる、盛岡地方の古いのを頼んだのだが至難な話、有れば国宝級の存在である、美しく新らしい箱が金色に脇床に光る、〔……〕 (同前、一四三ページ)

《春 洋雑記〔全4巻〕》は昭和60〔1985〕年が春洋の二十三回忌に当たることから、相沢春洋先生遺業顕彰会が合冊・刊行したもの。原本のフォトコピーを袋 綴じ製本しただけあって判読に苦労するが、本書から佐藤春陵の事績を明らかにするための手掛かりが得られるかもしれない。

褚 遂良(ちょ すいりょう、596-658) 初唐の書家。作〈雁塔聖教序〉。

欧 陽詢(おう ようじゅん、557-641) 初唐の書家。書〈九成宮醴泉銘〉。

九 成宮醴泉銘(きゅ うせいきゅうれいせんめい) 楷書。唐の貞観6〔632〕年の建碑。太宗の勅旨によって魏徴が撰文し、欧陽詢が書いた。「楷法の極則」を伝える傑作。24 行・各行50字。陝西省麟游県に現存する。日本では昭和から小中学校の教科書の手本に取り入れられ、後世に多大な影響を与えた。

東 邦書策(と うほうしょさく) 書家・篆刻家の佐藤研石(明治39〔1906〕年-平成4〔1992〕年)が編集し、自身が主宰する筆華會(仙台市東五番丁一一番地) が発行した月刊書道雑誌。遺されているのは昭和11〔1936〕年の第3巻から昭和15〔1940〕年の第7巻までで、最初の部分が欠けている。研石は福 島県岩城郡赤井村生まれ。本名は林兵衛、号は鵞照・研石・中虚庵。東北大学に書記として勤務した。大正14〔1925〕年、仙台へ転居、師の高橋天華(明 治4〔1871〕年-昭和8〔1933〕年)が亡くなった翌年、筆華會を主宰し、主幹として《東邦書策》を編集・発行した。
《東邦書策》昭和14〔1939〕年7月号(第6巻第7号)には、〈第五拾六回競書成績〉の「規定」四級に(地名なしで)白苔の名前がある。筆華會同人・ 及川華谷による同号「随意」四級の審査評に「○白苔 散漫」(二〇ページ)とあり、作品は掲出されていない。翌8月号(第6巻第8号)には、〈規定入選〉 に「禅房花木深〔常建の五言律詩〈破山寺後禅院〉の第四句〕/四 白苔生」(九ページ、下の写真参照)が掲出されており、吉岡が日記に書いたのはこのこと に違いない(それはそうと「白苔」は誰が付けた雅号なのだろう)。同号〈第五拾七回競書成績〉の「規定」および「随意」四級にそれぞれ(地名なしで)白苔 とあり、「規定」四級の及川華谷の審査評に「○白苔 大変良くなって来た」(一八ページ)と見え、吉岡の精進がうかがえる。なお、同号「規定」推薦・特 選・一級の審査評は相沢春洋(筆華會同人には名を連ねていない)が書いており、吉岡は佐藤春陵とその師・相沢春洋のつながりで研石の《東邦書策》の清書添 削を受けたものか。だとすれば、吉岡に白苔と名付けたのは春洋だとは考えられないだろうか。

《東邦書策》(筆華會、昭和14〔1939〕年8月号)の表紙〔モノクロコピー〕 《東邦書策》(筆華會、昭和14〔1939〕年8月号)の吉岡実の書のページ〔モノクロコピー〕 《東邦書策》(筆華會、昭和14〔1939〕年8月号)の吉岡実の書のアップ〔モノクロコピー〕
《東邦書策》(筆華會、昭和14〔1939〕年8月号)の表紙(左)と同誌掲載の吉岡実の書 〔最下列の右から二つめ〕の ページ(中)とそのアップ(右)〔いずれもモノクロコピー〕

手 習(て ならい) 相沢春洋の書道研究雑誌。月刊。大正14〔1925〕年に創刊した個人雑誌《春洋》(東京、二水会)を昭和5〔1930〕年に《手習》と改題。 昭和18〔1943〕年に戦時統制を受け、その後一時休刊したが、昭和38〔1963〕年に歿するまで疎開先の栃木県鹿沼市で発行を続けた。
〔2010 年4月30日追記〕吉岡実・佐佐木幸綱・金子兜太・高柳重信・藤田湘子〔座談会〕〈現代俳句=その断面〉(《鷹》1972年10月号〔9巻10号通巻 100号〕)で、吉岡は次のように語っている。「おれが十八、九のときにつくったんだけど、やっぱり傑作だと思うんだよ。「石垣の苔のはがれし暑さか な」っていうのね。これはいまでもいや味にならない、いい句だと思う。これは「手習」という雑誌に投稿したから、それに載ったんですけど、それで自信を得 たわけだ。それがいちばん早いんじゃないかな、残ってるので……。」(同誌、一九ページ)。掲載誌は未見だが、書ではなく俳句を投稿したことからは、《手習》そのものへの親炙がうかがえる。い ずれにしても、書と俳句をめぐる吉岡の人脈には重なるところが多く、吉 岡に「白苔」の号を付けたのは相沢 春洋に思えてくる。

挨 拶状の封筒の宛名書き  西村書店(社長は戦後、吉岡が勤務した香柏書房を興すことになる西村知章)創業の挨拶状であるからには、当然墨書だろう。――評者の両親はともに昭和初年 の生まれだが、改まった書状は毛筆で書いた。勤め先(父は鉄道省のち国鉄、母は新潟・佐渡の村役場)でも字が書けるということで重宝された。


現代日本名詩集大成版《僧侶》本文のこと(2008年8月31日)

吉 岡実詩集《僧侶》は1958年11月20日に書肆ユリイカから限定400部の単行本として出版されたあと、1年を経ずして篠田一士編集・解説《吉岡實詩集 〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959)に全篇が収録されることで広く読まれた(種村季弘はたしか本書で《静物》を諳じるまで読んだ)。《僧 侶》はその翌1960年、東京創元社による「明治・大正・昭和戦後詩集」の叢書《現代日本名詩集大成》の第11巻に全篇収録されて、金井美恵子のような年 若い読者も獲得したことは〈吉岡実の〈小伝〉〉に 書いた。同文ではあえて触れなかったが、 現代日本名詩集大成版《僧侶》の本文には少なからぬ問題があるので、ここではそれを指摘しよう。詩篇最終ページの〈死児〉本文のあとに、一行アキで底本に 関する次の記述がある。

 *『僧侶』は一九五八年十一月二十日、書肆ユリイカ発行に拠った。(同書、三三二ページ)

初版《僧侶》と現代日本名詩集大成版の本文を校合した結果を以下に――初版の「もしじぶんの蛇腹が暗の裡から充分のび」(〈単純〉C・ 9)が同書の 三一八ページ上段で「もしじぶんの腹が暗の裡から充分のび」となっている状態を次のように略記して――掲げる。

  1. もしじぶんの〔蛇←ナシ〕腹が暗の裡から充分のび(〈単純〉C・9、三一八・上)
  2. 冬の刈られた槍ぶすまの高〔粱←梁〕の地形を(〈苦力〉C・13、三二〇・下)
  3. 老いたねずみの形骸を発〔光←作〕させ(〈喪服〉C・15、三二三・上)
  4. 建物は〔人の←ナシ〕半身と共に沙の首府へ沈み(〈人質〉C・17、三二三・下)
  5. 軍〔艦←鑑〕の下腹を見る(同前、三二四・上)
  6. 世界の陸地の〔人の←ナシ〕半分の怒りの眼と(同前、三二四・下)
  7. 少女の桃を水道で洗わ〔せず←す〕(〈感傷〉C・18、同前)
  8. いかなる交換を待つている〔の←ナシ〕か(同前、三二五・下)
  9. ときどき鉄〔砲←鉋〕の筒先が向けられて(〈死児〉C・19、三二九・上)
  10. 軍〔艦←鑑〕は砲塔からくもの巣をかぶり(同前、三三〇・上)
  11. 或る廃都〔・←全角アキ〕或る半球から(同前、三三二・上)

こ れらのほかにも、散文詩型の〈美しい旅〉(C・16)の全角アキがベタになっているところが一箇所、〈死児〉の字下ゲが二字不足しているところが二箇所あ るが、上掲の11を含めて不問に付すとしても、1・3・4・6・7・8は通読してただちに誤植とはわからないだけに、吉岡実による手入れとも思われかね ず、問題である。いったいなぜこのようなことが起きたのか。本集の原稿がどのようなものであったか不明だが、《僧侶》の単行本そのものでなかったことは確 かだろう。《僧侶》の原物でなかったのなら原稿はどのような形態だったのか、あれこれ想像するのだがよくわからない。1980年代の初め、私が小さな出版 社で編集の見習いを始めたころ、事務所ではまだ青焼き――青焼き用紙に原紙を密着させて機械のローラー部に通すと感光して線や画が青く浮きでるあの「青写 真」――で原稿の複写をとっていた。むろん費用が安かったからだが、使用する薬品の臭いに閉口したものである。青焼きは今日のフォトコピー(当時は「ゼ ロックス」と呼ぶ御仁もいた)のような反射光ではなく透過光を使うから、本などの冊子は複写できない。それはともかく、原稿が初版を書き写した文書だった と仮定しよう(初版は旧漢字で組まれているが、本書では新漢字になっており、漢字を新字で統一した手書きの原稿が作成された可能性は否定できない)。
活版印刷では文選担当者が活字を一文字一文字拾うため、形のよく似た別の漢字を誤って選んでしまうことがある。それが一文字誤植の主な原因だ。本書奥付に は「印刷所 金羊社」とあり、現在はオフセット印刷中心の同社も、当時の書籍印刷の大半がそうだったように活版が常態で、組版作業も平準化されていたはず だ。出版社の校正担当者が原稿と照らし合わせて校正紙に赤字を記入するわけだが、1・3・4・6・7・8のような誤りは、入稿原稿が初版の原物かその複写 であるかぎり、通常の校正をしていれば起こりえない。吉岡実の詩の場合、その特異なシンタックスゆえ、原稿の段階で写しまちがえると(誤植が詩集の後半、 いな末尾の数篇にかたまっているのは、書写や校正をした人間の集中力が落ちてきた結果ではないか)、その誤記が素読み段階での疑問出しで検討・解決される ことはまずないだろう。そうしたことを考えあわせると、吉岡は現代日本名詩集大成版の著者校正を(書きおろしの〈小伝〉を除いて)おそらくしていなかった のではあるまいか。叢書への初版《僧侶》の全篇収録という画期的な企てが、上記のような瑕疵を伴なう結果に終わったことは、まことに残念だと言わざるをえ ない。
《現代日本名詩集大成11》は1960年9月10日に東京創元社から初版が発行されたあと、東京創元新社から重版が出ている(東京創元社のサイトに掲載さ れている〈東京創 元社|年譜〉に は「1961年(昭和36年)9月、東京創元社倒産」、「1962年(昭和37年)1月18日、東京創元新社として再スタート」とある)。手許の東京創元 新社版の一本は、初版の貼函が機械函に変わっている1965年4月30日発行の「4版」だが(初版から通算した「4刷本」だろう)、上で指摘した問題の箇 所はすべて初版と同一で、テキストは不備なままである。未見の2刷本・3刷本の版元が東京創元社/東京創元新社のいずれであっても、《僧侶》の本文が初版 と同一であろうことは想像に難くない。


吉岡実と本郷・湯島――〈吉岡実〉を歩く(2008年7月31日)

吉 岡実はしばしば曾遊の地を実際に歩いたあと、それを随想に書いている。今回は〈本郷龍岡町界隈〉と〈湯島切通坂〉をテキストに、本郷と湯島を探訪してみよ う。いずれも《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)に収められた本文を引き、主要な事項にはリンクを張って註や写真を付す。まず〈本郷龍 岡町界隈〉。初出は《旅》1978年12月号〈特集・東京――その魅力を再発見する〉の〈私だけの東京 MY TOKYO STORY〉中の一篇。

本郷龍岡町界隈|吉岡実

 秋のある日の午後、私は地下鉄の湯島で降り、切通坂をのぼっ た。シンスケという飲屋が今も同じ処にあって、なつかしい。昔――といっ ても、私が高 等小学校を卒業して、本郷龍岡町にあった医学書の南山堂に奉公に 行った、昭和九年ごろには、まだ坂の下に一人二人の立ちん坊がいて、荷車のあとを押していたものだ。白 堊のマンションが 建っている辺りは、岩崎邸の石塀が続いていた。風情のないホテルの角を 曲って、私は湯 島天神をお参りした。梅の花の咲く頃は、人でにぎやかだが、ふだんは淋しい。やがて南山堂の前に来ていた。旧友の二、三人はたしかに いるはずだ が、尋ねることはやめて、隣の麟祥院の境内に入った。主人や上役に叱られ た悲しい時など、私はよく大きなクスノキの樹の下に立ったものだった。
 臨済宗天沢[てんたく]山麟祥院は、春日の局の墓所として世に知られている。私は四十年ぶりで、人気のない墓地を歩き、局の墓を探したが一寸見つからな かった。木立の奥のほうで仕事をしている石屋さんに、教わってやっとわかった。住み込みで四年間も近くにいながら、私は一度もお参りをしてないことを知っ た。
 春日の局の墓は立派というよりも、私には異様に思われた。一種の五重塔 をかたどったものだろうか、大きな基石の 上に八角の台があって、つぎの蓮台に球体がのり、またその上の蓮台に男根のような石が立っているのだった。暮れ初めた空の下で、それをしばらく眺めて門を 出た。通りをへだてた明日香という店に入ってコーヒーを飲んだ。店内は李 朝の焼物の皿や壺がびっしりと積まれ、墨 つぼ、机、箪笥などの木工品が置かれていた。倉庫のなかにいるような奇妙な雰囲気があった。他に客も少ししかいないので、私は奉公時代のことを、とりとめ もなく想い出したりした。

 南山堂の出版物のなかでも、呉健・坂本恒雄共著の《内科書》全三巻本は、 とりわけ名著とされていた。 それだけに新学説をとり入れ、絶えず改訂していた。私は使い走りとして、しばしば校正ゲラを持って、帝大医学部の呉 内科へ 行ったものだ。それを受取ったり、赤字のゲラを返してくれる、無口で粗野にさえ見える助教授クラスの男がいた。よくいえばなりふりかまわぬ学究タイプとい うのだろうか。或る時、その人が試験管やフラスコなどの器がいっぱい置かれた、洗場へ悠然と小便するのを見て、私は驚いた。だがまた人間味あふれる姿に心 打たれた。その人が後年の冲中重雄博士である。

 若い男ばかり三十人ほどが、一種の寄宿 生活をしている店では、監視役として、退役少佐の伴さんという老人をやとっていた。毎日夕暮れに出勤してくるので、私たちは晩[、]さんと陰口を叩いた。 首も腰も曲った生気のない人で、いつも着物をきていた。夜、仕事が終れば一応自由な時間を持てたが、外出簿に行き先と帰店時間を記入しなければ、遊びにも 出られなかった。伴さんがそれを管理していた。
 私はよく不忍の池のほとりや上 野広小路へ行った。そぞろ歩きの人たち で、賑やかな夜店をのぞき歩くのは楽しい。帰りには黒門町近くの芭蕉館と いう喫茶で、お茶をのみながら備えつけの俳句雑誌を読んだりした。
 暗い切通坂を上りきると、すきやきの江知勝がある。ここでは毎晩のよう に、帝大、一高の先生や学生たちが放歌高 吟していた。奉公人たちには縁のない世界だった。私は店に戻り、帰店時間を書き入れて、寝たものである。
 本郷龍岡町という地名は、今はない。(同書、三八〜四〇ページ)

続いて、上掲文の4年後に湯島を描いた〈湯島切通坂〉。初出は《美しい日本 22 文学の背景》(世界文化社、1982年〔月日記載なし〕)の〈〈北海道・東北・関東・中部〉漂泊のたましい〉中の一篇。

湯島切通坂|吉岡実

 私は晩春の夕方ちかく、湯島天神をたずねた。い つもは、切通坂を 上るのだが、その日は男坂をのぼった。たしかこの辺りに、晩年の久保田万太郎が 住んでいたと、聞く。坂とはいっても、三十八段の石段である。二、三人の子供が遊んでいた。

  梅咲くや湯島の社頭春浅し 虚子

「男坂」の由来を書いた標示板の末尾に、この一句が掲げてあった。梅の花の頃は、見物の人で賑やかであるが、今は境内に人影もな かった。社前の 金網の囲いに、もろもろの祈願をこめた、夥しい絵馬が懸っていた。

 〽〔歌記号〕湯島通れば 思い出す
  お蔦主税の 心意気
  知るや白梅 玉垣に
  残る二人の 影法師

 有名な「湯島の白梅」の第一節である。この歌謡 曲は、泉鏡花の『婦系 図』が映画化された時の主題歌であった。私はとくに鏡花の熱心な読者ではないので、『高野聖』とか『白鷺』ぐらいしか読んでいない。 だから、『婦 系図』といえば、芝居や映画で見た「湯島の境内」の一場面しか、心にうか ばない。しかし、「湯島」という場所は、 私にとって、印象の深い土地なのだった。歌の文句ではないが「湯島通れば思い出す」ことがある。

 昭和九年の春、私は高等小学校を卒業するとす ぐ、本郷龍岡町に 在った、医学書肆N堂へ奉公に行った。店で働く者は、お仕着せの着物に前 掛け姿なのでいささか私は驚いた。「小僧 さん」という言葉が、まだ生きている時代だった。私は毎日のように、自転車で、お使いや本の配達のため、切 通坂を のぼり降りした。またあるときは夜も遅く、数人の朋輩と荷車に発送物を積んで、急勾配の坂を下って、上野駅へ行った。帰りは空になった荷台に交代に寝て、 冬空にまたたく星を仰ぎつつ、暗い切通坂をのぼった。そんなとき、私は里ごころを、覚えたものである。
 もう一つ淡い想い出がある。三、四年の単調な店員生活に倦んだころ、一人の少女と 出会った。当時の人気小説 だった、石坂洋次郎『若い人』の江波恵子のように、「小悪魔」の妖しさと あどけなさをひめている。他に思いを寄せ る者もいるようだったが、少女は私にも好意を示した。
 それは、湯島神社の 春の祭礼の夜だった。境内から参道まで、屋台が並び、参詣客が溢れていた。しんこ細工、綿飴、山吹鉄砲、鯛焼、おでん、どんどん焼(お好み焼)、金魚すく い、それらはいずれも、縁日にかかせないものだ。白い琺瑯の洗面器に、樟脳をつけた舟がしずかに走りまわっている、淋しい一隅もあった。人混みのなかに 立って、お神楽の舞台を観ている、少女とつれの青年の姿を、私は見てしまった。着物を着た少女は大人びて、とくに美しかった。

 私は境内を出て、暮れなずむ切通坂を降りた。参集殿の石垣の下に、石 碑が新しく建っているのに気づい た。

  二晩おきに、
  夜の一時頃に切通の坂を上りしも――
  勤めなればかな。

 石川啄木『悲しき玩具』の一首である。説明文によると――当時、啄木は本郷弓町の喜之床(現・新井理髪店)の二階に間借してい た。そして一家 五人を養うために、朝日新聞に校正係として勤務し、二晩おきに夜勤もした。――二年前に建てたとある。すでに、「女 坂」の のぼり口の門は閉ざされていた。私は上野広小路まで歩き、池之端蓮玉庵へ 寄った。森鴎外の『雁』のなかに、しばしば出てくる蕎麦屋である。江 戸末期頃からの店であるらしい。すぐ近くに、蓮の多い不忍池がある。(前 掲書、二六八〜二七一ページ)

本 稿を書くにあたって二度、本郷・湯島を歩いた。最初は湯島駅で下車して、春日通りの南側を本郷三丁目駅(大江戸線)へと切通坂を登った。二度目は本郷三丁 目駅(丸ノ内線)で下車して、春日通りの北側を歩いて切通坂を下り、向きを変えて無縁坂を下り、吉岡実の足跡をたどった。
上掲の註で引いた司馬遼太郎《本郷界隈――街道をゆく 37〔朝日文庫〕》(朝日新聞社、1996年7月1日)は、本郷や湯島を散策するのに必携の一冊である。文京区の地図があればなお可だ。

小野桂編《湯島一丁目と附近の今昔誌》(湯島一丁目町会、1935)に投げ込まれていた〈文京区略図〉の本郷・湯島周辺
小野桂編《湯島一丁目と附近の今昔誌》(〔東京市本郷区〕湯島一丁目町会、1935)に投げ 込まれていた〈文京区略図〉 の本郷・湯島周辺〔刊記はないが、練馬区という記載があるから1947年以降の作成か〕

今 日、吉岡実と本郷を結びつけているのは、地下鉄の都営大江戸線・本郷三丁目駅の壁面に展示された「詩の壁」である(アンソロジーのタイトルは “CROSSING HEARTS”)。2000年12月の大江戸線開通時の新聞記事によれば、地下1階改札口コンコース正面に設置されているレリーフは、縦約2メートル ×横 約10メートル。現代詩人48人の詩をエッチングした幅約9センチメート ルの細長いアルミ板を16枚張ってある。 アンソロジーは小林康夫・東京大学教授の発案により建築家の大野秀敏らがデザインしたもので、詩の選考委員は小林康夫と新井豊美・佐藤一郎・野沢啓・野村 喜和夫・守中高明の6人。吉岡は上から4枚めに、「◎らっきようを噛る それがぼくの好みの時だ 病棟の毛布の深いひだに挟まれ ぼくは忍耐づよく待つ  治癒でなく死でなく 物の消耗の輝きを いまは四月 蜂の腰がうごく/吉岡実「回復」('58)」と、詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)から〈回 復〉(C・12)冒頭の8詩句が掲げられている。そもそも現代詩に石造りの詩碑など不似合いだが、今のところ「詩の壁」が吉岡実詩唯一のモニュメントであ る。

都営大江戸線・本郷三丁目駅の壁面に展示された現代詩48作品 都営大江戸線・本郷三丁目駅の壁面に展示された吉岡実詩篇〈回復〉の一部
都営大江戸線・本郷三丁目駅の壁面に展示された現代詩48作品(左)とその吉岡実詩篇〈回 復〉の一部(右)


吉岡実とつげ義春(2008年6月30日)

吉岡実は随想〈画家・片山健のこと〉(初出は《文學界》1979年9月号)を次のように始めている。「十年ほど前、私はアングラ芸術の世界に溺れていた。いわゆる暗黒舞踏の始祖土方巽や両性具有の笠井叡の独自な創造の舞台に心うばわれていたし、また河原乞食を自称する紅テントの独裁者唐十郎の芝居の極彩色の哄笑の世界をかいま見ていた。また異才つげ義春の〈ねじ式〉などの漫画や、林静一の抒情画に注目していたものだ。そのような時、私は一人の画家の作品を知ったのである。幻燈社刊の画集《美しい日々》の片山健であった」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一六二ページ)。
吉岡は《土方巽頌》(筑摩書房、1987)では日記を録する形でつげ義春との出会いを書いている。「〈日記〉 一九七〇年九月三十日/ノアノアで金井美恵子の夕べ。はじめは笠井叡とかけあいの朗読。四谷シモンの泣かせる唄。市松人形のような可憐な美恵子の踊りは、黒塗りの下駄を口にくわえたラストが印象的だ。太宗寺わきのユニコーンで祝杯。天澤退二郎、笠井夫妻、嵐山光三郎そして、「ねじ式」の漫画家つげ義春と初めて会う。やきそば、妙め豆腐でジンフィーズ一杯。十時半散会」(〈25 黒塗りの下駄〉、四三ページ)。
のちに《神秘的な時代の詩》としてまとめられる詩を書きついでいた1960年代末、吉岡はつげの漫画、とりわけ〈ねじ式〉から鮮烈な印象を受けたと思しい。唐十郎や天澤退二郎にはつげ義春論があるから、〈ねじ式〉の評判はこうした友人たちからも伝わっただろうが(吉岡は面談の折、「どんな本を読んでるの?」と訊くのを常とした)、白土三平の《カムイ伝》を白石かずこの娘に贈っていたというから、〈ねじ式〉を初出の《ガロ》増刊号〈つげ義春特集〉(1968年6月)で読んでいてもおかしくない。また、そのころ筑摩書房では鶴見俊輔・佐藤忠男・北杜夫編〈現代漫画〔第1期〕〉のシリーズが刊行されていて、第12巻《つげ義春集》(1970年2月25日)も身近にあったはずだから、われわれは《神秘的な時代の詩》と当時のつげ漫画を同時代の作品として受容していいだろう。
〈つげ義春ビブリオグラフィー〉に依って〈ねじ式〉のあらすじを記せば、「海辺に泳ぎに来てメメクラゲに腕を噛まれた異常な顔付きの少年は、医者をさがして、夢魔の世界を彷徨う。そこは、茅葺きが並ぶ漁村の中であり、工場わきであり、線路上である。その間、スパナをもつ中年男、蒸気機関車を運転するキツネ面の少年、金太郎飴をもつ老婆らに会い不条理に満ちた会話を交す。ようやく婦人科の女医にめぐり会い、フトンの中で○×方式を応用したシリツが行われる。手術に成功した少年の左腕には、血管をつなぐネジがつけられたままである」(つげ義春・権藤晋《つげ義春漫画術〔上〕》、ワイズ出版、1993年9月9日、二八九ページ)となる。
ここから直ちに想い起こされるのは〈崑崙〉(F・8)や〈神秘的な時代の詩〉(F・11)の詩行である。私はこれらの詩の評釈をしたが、その一番の魅力は(謎と言っても同じことだが)、評釈ではうまく掬いとることのできない行から行への「わたり」とでも言うべきある種の呼吸であり、《神秘的な時代の詩》のそれは、吉岡自身のほかのどの時代の作品よりも〈ねじ式〉との類縁を感じさせる。松岡正剛はつげを「画面ごとのトビがうまい」と評したが(〈松岡正剛の千夜千冊『ねじ式・紅い花』つげ義春〉)、1960年代末の吉岡は詩句ごとのトビが冴えわたっている、と言いたい。

《ガロ》増刊号〈つげ義春特集〉(1968年6月)の表紙〔出典:ブログ〈COMとガロから〉〕
《ガロ》増刊号〈つげ義春特集〉(1968年6月)の表紙〔出典:ブログ〈COMとガロから〉


吉岡実と土方巽(2008年5月31日〔2008年7月31日追記〕)

稲田奈緒美《土方巽 絶後の身体》(日本放送出版協会、2008年2月25日)が出た。600ページになんなんとする、現時点で最も精細な土方巽の評伝である。雄篇と呼ぶにふさわしい渾身の作だ。吉岡実は「〔一九六七年〕二月、加藤郁乎の詩集『形而情學』が室生犀星賞を受賞し、祝う会が開かれた。その席には多くの詩人と共に土方も招かれ、土方と詩人の吉岡実は出会い、その後、接近してゆく」(本書、二三三ページ)で初めて本文に登場する。以下、おもに《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987)からの引用の形で、本書には吉岡の証言が多数登場する。本文の記述はほとんど間然するところのない《土方巽 絶後の身体》だが、惜しむらくはこの種の書籍に必要不可欠な人名索引を欠く。そこで「吉岡実」の項だけだが、自作したので以下に掲げる(本来は人名索引として拾わないが、《土方巽頌》の出典表示があるページは、「吉岡」の名がなくても「《土方巽頌》からの引用」と記した)。

吉岡実
5, 233, 235-236, 238-239, 258, 271-272, 295-296, 308, (309-310:《土方巽頌》からの引用), 315, 343, (344:《土方巽頌》からの引用), 353, 356, 388, 401, 405, 415, 419, 423-426, 438, 471, 473, 482-483, 512-514, 516-518, 522-523, 531-532, 535-536, 548-549, (550:《土方巽頌》からの引用), 555-557, 566, 569, (570:《土方巽頌》からの引用), 571, (572-573:《土方巽頌》からの引用), 574-576

巻末には6ページにわたって〈土方巽略年譜〉が掲載されている。本書読了後に《土方巽頌》を読みかえしたので、吉岡が観た土方作品を同年譜から引きうつして、〔 〕内に《土方巽頌》記載の年月日を付した(曜日は評者による)。

  1. 《アルトー館第二回公演》〈ゲスラー・テル群論〉に出演〔1967年4月2日(日)〕
  2. ガルメラ商会謹製《高井富子舞踏公演》〈形而情學〉を演出・出演〔1967年7月3日(月)〕
  3. ガルメラ商会謹製《石井満隆DANCE EXPERIENCEの会》〈舞踏ジュネ〉を演出・振付・出演〔1967年8月28日(月)〕
  4. 《高井富子舞踏公演》〈まんだら屋敷〉を演出・振付・出演〔1968年9月28日(土)〕
  5. 《土方巽舞踏公演》〈土方巽と日本人――肉体の叛乱〉を演出・振付・出演〔1968年10月10日(木)〕
  6. 《燔犧大踏鑑第二次暗黒舞踏派結束記念公演・四季のための二十七晩》〈疱瘡譚〉〈すさめ玉〉〔1972年10月31日(火)〕〈碍子考〉〔11月7日(火)〕〈なだれ飴〉〔11月13日(月)〕〈ギバサン〉〔11月16日(木)〕を作・演出・振付・出演(出演は〈なだれ飴〉を除く)
  7. 《燔犧大踏鑑公演〔踊り子フーピーと西武劇場のための十五日間〕》〈静かな家前編〔1973年9月2日(日)〕・後編〔9月15日(土)〕〉を作・演出・振付・出演
  8. 《大駱駝艦・天賦典式》で麿赤兒作・演出〈陽物神譚〉に特別出演。舞台出演の最後となる〔1973年10月3日(水)〕
  9. 《アスベスト館続館びらき・白桃房舞踏公演》〈サイレン鮭〉を作・演出・振付〔1974年11月28日(木)〕
  10. 《アスベスト館続々館びらき・土方巽燔犧大踏鑑・白桃房舞踏公演》〈ラプソディー・イン「二品屋」〉を作・演出・振付〔1975年2月1日(土)〕
  11. 《アスベスト館公演・燔犧大踏鑑》作品7〜11〈バッケ先生の恋人[3/23-30]〉〈彼女らを起すなかれ[5/24-31]〉〈小日傘[7/25-31]〉〈嘘つく盲目の少女[9/24-30]〉〈暗黒版かぐや姫[12/10-17]〉を作・演出・振付〔1975年3月〜12月なれど、いずれも月日の記載なし〕
  12. 《暗黒舞踏派結成二〇周年記念連続公演・燔犧大踏鑑》作品14〜15〈ひとがた[6/10-23]〉〔1976年6月なれど、日付の記載なし〕〈正面の衣裳――少年と少女のための闇の手本〉を作・演出・振付
  13. 《暗黒舞踏派結成二〇周年記念連続公演・アスベスト館封印記念公演・燔犧大踏鑑》作品16〈鯨線上の奥 方〉を作・演出・振付〔1976年12月15日(水)〕
  14. 《大野一雄舞踏公演》〈ラ・アルヘンチーナ頌〉を演出〔1977年11月1日(火)〕
  15. 《大野一雄舞踏公演》〈わたしのお母さん〉を演出〔1981年1月23日(金)〕
  16. 《土方巽暗黒舞踏》「映像構成と談話による」を構成〔1983年1月27日(木)〕
  17. 《フック・オフ88――景色へ1瓲の髪型》を構成。〈スペインに桜〉〔1983年4月22日(金)〕〈planB 寺模写〉〈非常に急速な吸気性ブロマイド〉〔4月27日(水)〕の三部作を作・演出・振付
  18. 《スタジオ200舞踏講座》〈東北歌舞伎計画一〉を作・演出・振付〔1985年3月31日(日)〕
  19. 《アスベスト館開封記念公演》'85作品1〈親しみへの奥の手〉を作・演出・振付〔1985年5月26日(日)〕
  20. 《アスベスト館売却成立記念公演》土方巽作品88〈油面のダリヤ〉を作・演出・振付〔1985年9月22日(日)〕
  21. 《スタジオ200舞踏講座》〈東北歌舞伎計画三〉を作・演出・振付〔1985年9月30日(月)〕
  22. 《スタジオ200舞踏講座》〈東北歌舞伎計画四〉を作・演出・振付。遺作となる〔1985年12月22日(日)〕

本文には公演期間が記されているので、吉岡の観覧が初日なのか楽日なのかなどと見ていくと、興趣は尽きない。本書にはこれら土方作品の講評が記されており、吉岡の《土方巽頌》と対照して読むと意味深い。一例を挙げよう。上記7の《燔犧大踏鑑公演〔踊り子フーピーと西武劇場のための十五日間〕》〈静かな家〉について、稲田氏と吉岡はそれぞれこう書く。

〈静かな家〉は、その内容が《四季のための二十七晩》から多くのシーンを借りて再構成したような作品であったことから、これまであまり評価されてこなかった。しかし、〈疱瘡譚〉と同様に土方のからだの動きそのものに注目することで、土方が《四季のための二十七晩》以来続けている新たな身体への試みを理解することができるだろう。(本書、四一二ページ)

〔……〕「静かな家」後篇を観る。三時間近く、緊張をしいられる舞台だった。――あらゆる芸術家にはかつての自己の作品を、引用し、変形し、増殖してゆくという、営為がある。この作品にもそれがあるように思われた。(《土方巽頌》、七一〜七二ページ)

1962年生まれの稲田氏は、土方巽の舞台を観ていない。次善の策として、当たり得るあらゆる映像資料を渉猟して土方巽の身体に迫ろうとする稲田氏の批評の根底には、踊る者の自恃がある。「かつて六〇年代の土方は、澁澤龍彦らからフランスの異端文学や思想を吸収し、瀧口修造らからシュルレアリスムの方法を参照し、あるいは同時代の空気からマルクス主義的思想も通り抜け、日本の西欧近代化へのアンチテーゼを力強く、暴力的に体現した」(本書、五五三ページ)から「身体を思考し、語ることと、踊り、上演することの間には、深い断絶がある」(本書、五五四ページ)までのふたつの段落、700字弱こそ本書の白眉であり、土方の身体の到達点を指摘するとともにその限界を剔抉している。だがこの一節は、不世出の舞踏家の評伝に仕組まれた怖ろしい時限装置ではないか。はたして、土方の身体は空前だったのか、それとも絶後だったのか。自らも踊る舞踊研究者による本書は、吉岡実の頌が同時代の文学者による、土方の舞台の客席からの記録、土方の身体を外側から観た評伝であるのと、まことにもって鮮やかな対照をなしている。

《土方巽 絶後の身体》には、巻末の〈主要参考文献〉に挙げられていない資料からもふんだんに引用がちりばめられていて、吉岡実詩のスルスと想われる土方巽のことば――澁澤龍彦によるインタヴュー〈肉体の闇をむしる……〉(《展望》1968年7月号)――も登場する。ちなみに、本書には吉岡実詩への言及はあっても、詩句の引用はない。

●真綿でフクフクくるまれた姉の足をたどって(〈聖あんま語彙篇〉G・8)……要するに真綿でくるんだような、ふくふくした舞踏というのが日本舞踊ですからね。(本書、二六七ページ。前掲誌、一〇四ページ)

以下は吉岡実と土方巽の著述についてである。いくつかはすでに記したことがあるが、ここでまとめて《土方巽頌》の誤記・誤植を校閲・校訂しておこう。表示は、誤→正(ページ数・行数)。

  1. インディアン・ペーパー→インディア・ペーパー(七・1)
  2. 『イェスタデイ』→『イエスタデイ』(一〇・2)
  3. 「由井正雪」→「由比正雪」(一七・2)
  4. 瑳珴美智子→瑳峨三智子(四四・3)
  5. 小林瑳珴→小林嵯峨(五三・1、五五・9、五九・10、一一〇・4)
  6. 「美人の病気」→「美人と病気」(八二・9)
  7. ことはできない→ことができない(一一一・13)
  8. 港が見える丘公園→港の見える丘公園(一一二・1、6)
  9. 日本舞踏家→日本舞踊家(一三〇・5)
  10. サービスの女性たちを気を配ってくれて→サービスの女性たちが気を配ってくれて(一五七・5)〔文意から〕
  11. 益田勝美→益田勝実(一六六・7)
  12. 「ユリイカ」〔……〕一九八五年三月号→一九八六年三月号(二四三・17)

吉岡実が《土方巽頌》で引用した諸家(50音順に、芦川羊子、天澤退二郎、飯島耕一、池田龍雄、池田満寿夫、市川雅、巖谷國士、宇野邦一、大内田圭弥、大岡信、大野一雄、大野慶人、笠井叡、加藤郁乎、唐十郎、國吉和子、郡司正勝、合田成男、木幡和枝、澁澤龍彦、清水晃、白石かずこ、鈴木一民、鈴木志郎康、高橋睦郎、瀧口修造、田中一光、田中泯、谷川晃一、種村季弘、鶴岡善久、出口裕弘、長尾一雄、永田耕衣、中西夏之、中村宏、中村文昭、ニーチェ、羽永光利、埴谷雄高、土方巽、古沢俊美、細江英公、松山俊太郎、麿赤児、三島由紀夫、水谷勇夫、三好豊一郎、元藤Y子、矢川澄子、八木忠栄、吉増剛造、吉村益信、ほか)の文章は題名や出典が書かれていないため、上記の2と9以外、原典に当たって校合できていない。他日を期したい。
なお〈49「黄泉比良坂」〉に笠井叡舞踏団の〈黄泉比良坂〉公演チラシから引用されている「作者不詳」の歌は、山口王仁三郎、大正6年の作〈大本神歌〉だろう。
今回、《土方巽頌》に引かれた土方の文章の出典を調べているうちに、面白いことに気がついた。吉岡が題辞に掲げ、同書の帯文にも採られて有名になった「舞踏とは命がけで突っ立った死体である――土方巽」(同書、〔二ページ〕)と同一の章句が土方の文章中に見当たらないのである。近似したものなら、ふたつある。

いのちがけで突っ立っている死体は私達のもので、彼方なるものは肉体の中にある。(〈肉体に眺められた肉体学〉、土方巽《美貌の青空》、筑摩書房、1987年1月21日、六八ページ。初出は1969年)

踊りとは命掛けで突っ立った死体であると定義してもよいものである。(〈人を泣かせるようなからだの入れ換えが、私達の先祖から伝わっている。〉、同前、八七ページ。初出は〈風化考〉(廣末保編《伝統と創造〔伝統と現代12〕》、學藝書林、1971)、のち1975年に〈人を泣かせるようなからだの入れ換えが、私達の先祖から伝わっている。〉と改題して再掲〔《美貌の青空》の〈初出および若干の註〉では後者を初出としている〕)

市川雅は土方巽を論じた〈燔犠大踏鑑〉で「土方がかつて「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」といったことを思い出さずにはいられない」(《舞踏のコスモロジー》、勁草書房、1983年7月5日、一七三ページ。初出は1973年)と書いている。洋書の構成を踏襲した《土方巽頌》の執筆中、題辞に掲げるための土方の舞踏に関する決定的な文言を探していた吉岡が、これを市川文に見出して孫引きしたのではないか、というのが私の推測である。

〔追記〕
吉岡実が土方巽の〈病める舞姫〉の雑誌連載を切り抜いて、二穴で綴じて簡素な冊子にしていたことは以前にも書いた(おそらく吉岡に手製本の趣味はなかったろう)。私は〈病める舞姫〉の初出はコピーしか手許にないため、閲覧に不便だった。いい機会なので、坂井えり《デジタル技術と手製本》(印刷学会出版部、2007)を参考にしながら、そのコピーを折本に仕立ててみた。

土方巽〈病める舞姫〉の雑誌連載(《新劇》1977年4月号〜1978年3月号〔1977年11月号と1978年2月号は休載〕)のコピーを小林一郎が折本に仕立てたもの 土方巽《病める舞姫》(白水社、1983)の献呈入り署名本
土方巽〈病める舞姫〉の雑誌連載(《新劇》1977年4月号〜1978年3月号〔1977年11月号と1978年2月号は休載〕)のコピーを小林一郎が折本に仕立てたもの(左)と土方巽《病める舞姫》(白水社、1983)の献呈入り著者署名本〔Yahoo!オークションの画像〕(右)

〔2008年7月31日追記〕
〈吉岡実と土方巽〉をお読みいただいた真島大栄さんからメールをちょうだいした。真島さんは土方巽が亡くなる2年前ころからアスベスト館の舞踏講習会に参加していた、土方最後の弟子である。

「東北歌舞伎計画の4」のラストシーンは薬玉を割って終了しました。(2日あった公演の一日目は和栗〔由紀夫〕さんが、紐を引いても薬玉が割れず、げんこで叩いて薬玉は割れました)/土方さんが亡くなったあと、吉岡さんが「薬玉」という詩集を発表していたことを知り、あれは、「静かな家」と題名はつかなかったけれども。題名が冠されていたら「薬玉」という名になった舞台だったんだ、いつか、読んでみたいと思っていました。

さきごろ真島さんが高井富子氏から貰った蔵書のなかの一冊《季刊地下演劇》創刊号〈特集・反劇場〉(グロオバル社、1969年5月)に〈殺人を演出する〉という土方巽の談話(質問者・前田律子)が掲載されていて、その土方発言にある「〔……〕私の舞踏の基本形の中には「舞踏は命がけでつっ立っている死体だ」っていう宣言がありますから」(同誌、六四ページ)という一節が「舞踏とは命がけで突っ立った死体である――土方巽」のスルスではないかとのご指摘をいただいた。さっそく真島さんから送られたコピーを読んでみると、土方のこの宣言が上掲市川文(初出は1973年8月15日、アスベスト館発行の新聞《燔犠大踏鑑》だそうだ)に引かれて定着し、それ(ら)が吉岡実の目にとまったことは疑いないように思われる。土方はこの舞踏のテーゼを、執筆こそしなかったものの、自身の口から発していたのである。ところで、興味深いのはこれだけではなかった。この談話のおしまいで、自分を何者だと思うかと問われて、土方は答えている。

土方 やっぱり情ない男、淋しくて。だから私、欲しい物は必ず手に入れますから。必ず手に入れているし、誤った事がなかった。ですから私、非常にオリジナルな仕事、その内容よりもその人がどういう環境でそれを書いたかっていうことを見ますよ。
 私の親しい尊敬している詩人に吉岡実という男がいてあなたはどういう時に詩書くのって聞いたら、女房が買物に行った留守に書くっていうんですよ。奥さんが帰ってきて「できた」って入ってくるとね「できたよ」。そういう風にスッと顔を合わせる。そのスペース、環境。ですから音楽なら音楽を入れる器、芝居なら芝居を入れる器、全部その肉体のような気がするんですね。〔……〕(同誌、六八ページ)

詩作について、かつて吉岡実は土方巽にこのように語っていたのだ。


吉岡実編集の谷内六郎漫画(2008年4月30日)

吉岡実は戦後間もなく谷内六郎(1921-81)の漫画を編集して出版しているが、今日までその詳細がわからなかった。両者の証言をも とに、谷内漫 画刊行の経緯をたどってみよう。

まず、吉岡が谷内のことを〈断片・日記抄〉に書いた。――
昭和二十二年〕九月十二日 漫画家の谷内六郎君と急に親しくなる。彼に、私の詩集《液体》を貸してやったら、今 日返しにきて、とても感動 したという。(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一〇九ページ)

それを読んだ大岡信に問われて、吉岡は答えている。――
大岡 谷内六郎さんの名も日記にぽこっと出てくるね。
吉岡  谷内六郎との出合いはこういうこと。隆文堂〔東洋堂(吉岡が1946年10月から1951年に筑摩書房に入社するまで勤務した)の別名の出版社で、牛窪忠 装丁の吉屋信子《女の階級》(三版:1948年7月30日)などを出版〕は小説をやってたけど漫画もやろうじゃないかということになったんだ。それで漫画 家を探したわけだ。で、たまたま共同通信かどっかで出した谷内六郎の『シンジツイチロウ』という漫画を見たらとても素晴しいんだな。この漫画家を探そうっ てんで、谷内六郎を下馬かどっかの家へ訪ねていった。彼はその頃喘息病みでゼイゼイしてたように思う。無名の六郎さんと出合ったのはその時だよ。
大岡 谷内さんが週刊新潮の表紙を描く、ああいうふうになるずっと前でしょ。
吉岡  ずっと前。ほとんど一部にしか知られない漫画家だったんじゃないか。ただ、すごくナイーブないい漫画を描いてたから、それを見当つけて、で六郎さんのとこ に会いにいって頼んで、おそらく二冊つくったように記憶してる。それで六郎さんとはその後も親しかったんだけど、結局、隆文堂もつぶれかかって、辞めて筑 摩へいくことになって、それで六郎さんとの縁が切れてっちゃうわけね。(《ユリイカ》1973年9月号、一五〇〜一五一ページ)

《ユリイカ》の同じ号(吉岡実特集)に寄せた谷内六郎の〈吉岡さんの眼〉にはこうある。――
 大きい眼、ずんと底知れない思いを沈めたとでもいうような眼、〔……〕しかしわざわざぼくの描いたマンガをていねいに見てくれた。/〔……〕/たわいも ないマンガだったかもしれないがそれをわざわざ紹介して本にしてくれるまでにめんどうをみてくれた吉岡さんです。/〔……〕ぼくは発作の病床でくりかえし 吉岡さんのくれた詩集を読みかえしました。/それはたいへん高い、感性にひびく心の詩でありました。/〔……〕/吉岡さんが銀座で「まあ、おあがりなさ い」言葉少なく御馳走してくれたレストランとあの吉岡さんの大きな眼、何を見つめるのか解からない、ぼくには解らない眼は、やさしい[、、、、]と同時に いつもおそれ[、、、]がぼくの心にありました。/でも此頃になってその吉岡さんの何か深い水圧のようなものに耐えて思考し続け、「言葉を磨く」西洋の昔 の錬金術師にも似ている生き方と、その大きな眼の秀才的な解らない光が、何んとなく解って来たように思いますが、これはぼくの独断的な吉岡さんの像です。 〔……〕(同誌、八六ページ)

谷内はさらに翌翌年、〈わたしの絵の世界〉でこう書いている。――
戦後一番先に単行本を出しました。昭和二十一年頃に何冊か子供向けの本を出版してくれる人がいまして出しましたが、それらの本を出版してくれた人は今は偉 い人です。/いずれも終戦の焼あとで、浮浪の児などが愛読してくれましたので本望であります。(谷内六郎画集《遠い日の絵本》、新潮社、1975年5月 15日、一一六〜一一七ページ)

吉 岡発言の『シンジツイチロウ』は、谷内と大竹貞雄の共著、表紙の書名が《英語入ローマ字漫画 SHINJITSU ICHIRO KUN[シンジツイチロークン]》(民報社、1947年7月5日)を指すのだろう。同書は今や稀覯本で、谷内自身が〈週刊新潮掲示板〉で「戦後の焼けあと で、浮浪の児[こ]たちも読んだ、ぼくのかげのベストセラー『シンジツイチロークン』英文入りローマ字マンガ単行本と、『笛吹き小次郎』の単行本をお持ち の方、お譲り下さい。いずれも昭和二十一年ごろ、発行したものです。戦後の焼けあとにできてきたバラック建ての店で留守番をして、電気パン焼器でパンなど 焼きながら書いたマンガです。もちろんそのころは、マンガの原稿料では食べられませんでしたから、バラックの商店のチラシ――お菓子とか、アンミツとか、 氷などの広告――の仕事をしながらかいたものでした」(《週刊新潮》1975年10月2日号、一二四ページ)と依頼しているくらいだ。《シンジツイチロー クン》の書影は《谷内六郎 昭和の想い出〔とんぼの本〕》(新潮社、2006)に見える。同書の〈略年譜〉には「昭和21年(24- 25)/ 激しかった喘息が快方へ。「民報」紙に4コマ漫画「真実一郎君」を連載」、「昭和23年(26-27)/漫画本 『笛吹き小次郎』『魔の地中 城』をマンガの友社より刊行」(同書、一二五ページ)とあるが、戦後間もなく隆文堂から出た(?)吉岡実編集の肝心の2冊は、その書名さえわからない。そ れとも、《マンガ 笛吹き小次郎》と《大 冒険マンガ 魔の地中城》が それなのか。谷内の年譜や書誌をいくら眺めていても埒が明かないので、原物を見るに如くはないとNDL-OPACで検索すると、《魔の地中城》が上野の国 際子ども図書館に所蔵されていた。なお、上掲文では2冊とも発行所が「マンガの友社」とされているが、図録《占領下の子ども文化〈1945〜1949〉》 (ニチマイ、2001)によれば、《笛吹き小次郎》の発行所は「漫画の友社」とある。

谷内六郎《マンガ 笛吹き小次郎》(漫画の友社、1948年1月10日)の表紙 谷内六郎《マンガ 笛吹き小次郎》(漫画の友社、1948年1月10日)の中面 谷内六郎《大冒険マンガ 魔の地中城》(マンガの友社、1948年10月10日)の奥付
谷 内六郎《マンガ 笛吹き小次郎》(漫画の友社、1948年1月10日)の表紙(左)と同・中面(中)〔画像の出典はいずれも早稲田大学「占領下の子ども文化 〈1945〜1949〉展」実施委員会編《占領下の子ども文化〈1945〜1949〉――メリーランド大学所蔵・プランゲ文庫「村上コレクション」に探 る》(ニチマイ、2001年5月12日)、一三四ページ〕と谷内六郎《大冒険マンガ 魔の地中城》(マンガの友社、1948年10月10日)の奥付〔モノクロコピー〕(右)

《笛吹き小次郎》で特徴的な のが、コマ番号の書きぶりである。谷内には1941年(吉岡の詩集《液体》と同時期!)制作の〈ハマベノコ〉というカラー14ページ、55コマの漫画が あって(《谷内六郎展覧会 別巻 夢〔新潮文庫〕》、新潮社、1982、所収)、このコマ番号がほとんど同じなのである(《魔の地中城》にはない)。自身の手製本と思しい〈ハマベノコ〉の 表紙には「ハマベノコ/昭和十六年作」と記入され、「日米戦争のはじまる/ハワイ会戦の頃/の習作絵本」と後年の追記(?)がある。商業出版の《笛吹き小 次郎》と《魔の地中城》が「マンガ」であるのに対して、〈ハマベノコ〉が「絵本」を主張しているのは、谷内が制作の内発性を重視したためだろう。
国際子ども図書館には漫画の友社の刊行物が1冊所蔵されている。立塚茂夫《ぼおけんまんが キロちゃんの冒険》(1948年8月20日)がそれで、内容・表現とも谷内漫画の足元にも及ばない。次に、そしておそらく最後に、谷内六郎の《大冒険マン ガ 魔の地中城》(マンガの友社、1948年10月10日)がくる。同書は全96ページ、2色刷を効果的に使用した少年向けのストーリーの一方で、宿痾からく る鬱屈を地中城城主「ドルセリン博士」の悪行に託した、谷内漫画の傑作である(前掲《昭和の想い出》には、タイトルを《ドルセリン》と変えて谷内が手製の ジャケットをかけた一本が掲載されている)。編集者・吉岡実も、谷内六郎の《魔の地中城》を得て本望だったに違いない。
上(右)の画像ではわかりにくいが、左端に「発行所 マンガの友社/東京都中央区木挽町/中央工業ビル隆文堂内」とあって、同年8月から10月の間に隆文 堂(住所は吉岡が勤めていた東洋堂と同じ)の別会社が「漫画の友社」から「マンガの友社」に表示を変更したと思しい。《キロちゃんの冒険》と《魔の地中 城》の奥付には、ともに「納本」「23.11.20」とスタンプが捺してある(前者は発行後3ヵ月、後者は1ヵ月強、経過している)。この印がどの機関の ものか判断する材料が今の私にはないが、吉岡の〈断片・日記抄〉の1948年12月10日「GHQの納本係に呼びつけられる。発行後かなりたって納本した ので、まずかった。その本を明朝までに全部数揃えぬと、相当の処分にするとおどかされる」(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一一二 ページ)という記述と照らし合わせると、興味深いものがある。


吉田健男の装丁作品(2008年3月31日〔2010年8月31日追記〕)

〈吉岡実と吉田健男〉で吉田健 男の挿絵や装丁を紹介したが、その後に知りえた作品を 含む一覧を刊行順に掲げる。(末尾の*印は口絵や挿絵を、無印はカットを含む装丁作品を表わす)

  1. 羽田書店編集部編《ふしぎなごてん――世界のお話〔こども絵文庫 23〕》(羽田書店、1950年12月20 日)*
  2. 高藤武馬《ことばの学校〔小学生全集16〕》(筑 摩書房、1951年12月25日)*
  3. 丸山薫《新しい詩の本〔小学生全集17〕》(筑摩書房、1952年 1月31日)*
  4. アンナ・ルイズ・ストロング、山本譲二訳《中国人は中国を征服す る》(筑摩書房、1952年12月10日)
  5. 萬澤遼《パ−ル街の少年たち〔中学生全集93〕》(筑摩書房、 1953年3月25日)*
  6. 小山清《落 穂拾ひ》(筑摩書房、1953年 6月10日)
  7. 武田泰淳《愛と誓ひ》(筑摩書房、1953年7月5日)
  8. 椎名麟三《愛と死の谷間》(筑摩書房、1953年9月30日)
  9. きだ・みのる《霧の部落》(筑摩書房、1953年9月30日)
  10. 大原武夫《花の魔術師〔小学生全集46〕》(筑摩書房、1954年 1月5日) *
  11. 田宮虎彦《卯の花くたし》(筑摩書房、1954年2月15日)
  12. 椎名麟三《自由の彼方で》(大日本雄弁会講談社、1954年3月 10日)
  13. 井上靖《昨日と明日の間》(朝日新聞社、1954年4月10日)
  14. 小山清《小さな町》(筑摩書房、 1954年4月15日)
  15. 武田繁太郎《風潮》(筑摩書房、1954年 6月30日)
  16. 中野重治《むらぎも》(大日本雄弁会講談社、1954年8月30 日)
  17. 丸岡明《家 なき子〔小学生全集54〕》(筑 摩書房、1954年8月31日)*

吉 岡実の文章にあるように、吉田健男は1954年の夏もしくは秋に年上の女性と心中したから、同年の作品の多さには痛ましいものを感じる。吉田はこれらの書 籍の装丁や挿絵を制作しながら、遠からぬ日の自身の死を想っていたのではなかろうかと。一方、上掲一覧と同じ1950年(装丁に限れば1952年)から 1954年 にかけての吉岡の装丁作品は、わずかに次の2点である。

  1. グレアム・グリーン、丸谷才一訳《不 良少年》(筑摩書房、1952年5月20日)
  2. 塩田良平・和田芳恵編《一 葉全集〔全7巻〕》(筑摩書房、1953年8月10日〜1956年6月20日)

もっ とも吉岡は筑摩書房の社員だったから、自社の出版物にはクレジットされていない(上記2点にも装丁者として名前は挙がっていない)。したがって、上記以外 にもこの時期の装丁が存在する可能性は捨てきれないが、吉田健男の装丁に匹敵する点数はないと思われる。むしろそうした案件が発生したときはなるべく吉田 に依頼して、おそらくフリーランスだった吉田健男の名前をできるだけクレジットしたのではないか。その後、吉田は講談社や朝日新聞社といった、筑摩書房以 外の版元の出版物も手がけていったわけで、吉岡も「装丁家・吉田健男」の誕生を喜んだに違いない。では吉岡実は当時なにをしていたのか。後の《静物》(私 家版、1955)の詩稿を書きつづっていたのである。吉岡の〈和田芳恵追想〉(初出は《新潮》1978年7月号)はこう始まっている。
「私は昭和二十六年に、筑摩書房に入って、新企画の《小学生全集》を、先輩の一人と担当した。準備期間であり、時間に余裕があったため、図書目録をつくる ことを命ぜられた。たまたまその出来あがりがよかったので、初の個人全集《一葉全集》の内容見本をつくるように言われた。/私はその時、はじめて和田芳恵 なる人と出会ったのだ。いきが合ったせいか、内容見本も当時としては立派なものが出来た。装幀造本まで、私は手がけるようになってしまった。いくたびかお 茶をのみ、雑談したりして、親しくなって、一葉研究の他に、《作家たち》と《十和田湖》《離愁記》などの小説を書いていることを知った。/和田芳恵は早く から、私のなかに、夢想する魂と職人気質が共存する、奇妙な男と思っていたらしい。そのころ、私は麻布豊岡町の下宿で、ひそかに詩を書いていた。私のデ ビュー作ともいうべき、詩集《静物》はそこで生まれた」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一七五〜一七六ページ)。
当時の吉岡は《小学生全集》の挿絵を吉田健男たちに依頼し、和田芳恵と《一葉全集》の内容見本を作成し、同全集の装丁造本を担当しつつ、吉田と同居中の下 宿でひとり詩を書いていた。唐突なようだが、私は吉岡実が吉田健男の装丁を見ることから装丁を始めたのではないかと想像する。吉岡の戦前の2冊、詩歌集 《昏睡季節》(草蝉舎、1940)と詩集《液体》(同、1941)は、著者が自作の詩のノートの表紙に筆で書名を清書したような、書道の延長といった感が ぬぐえない。それは書名が書き文字であることとは無関係である。各要素の綜合的な布置をいっているのだ。

武田泰淳《愛と誓ひ》(筑摩書房、1953年7月5日)の本扉とジャケット〔装丁:吉田健男〕 井上靖《昨日と明日の間》(朝日新聞社、1954年4月10日)の本扉とジャケット〔装丁:吉田健男、題字:高橋錦吉〕
武田泰淳《愛と誓ひ》(筑摩書房、1953年7月5日)の本扉とジャケット〔装丁:吉田健 男〕(左)と井上靖《昨日と明 日の間》(朝日新聞社、1954年4月10日)の本扉とジャケット〔装丁:吉田健男、題字:高橋錦吉〕(右)

武田泰淳《愛と誓ひ》と井上靖《昨日と明日の間》の表紙〔装丁:吉田健男〕
武田泰淳《愛と誓ひ》と井上靖《昨日と明日の間》の表紙〔装丁:吉田健男〕

ここに吉田健男装丁の2冊がある。武田泰淳の短篇小説集《愛と誓ひ》と井上靖の長篇小説《昨日と明日の間》である。両者の仕様を簡単な 表にまとめ る。

書名 判型 製本 ページ数 ジャケット 表紙 本扉 定価
愛と誓ひ 四六判 上製・紙装・丸背 三一四ページ 4/0色 1色 2/0色 290円
昨日と明日の間 四六判 上製・紙装・丸背 四一四ページ 4/0色 2色 2/0色 320円

今日の文芸書とほとんど変わらない体裁である。私は〈吉 岡実と吉田健男〉で 「印刷物の仕事に携わって四、五年。吉田健男は自身の装丁スタイルの完成を見るまえに逝ったものと思しい」と書いたが、その記述を改めなければならない。 少なくともこの2冊は、絵を良くする装丁家による見事な仕事である。吉岡は画家の優れた装丁を見て、技癢を感じなかっただろうか。白地に文字とカットを配 した吉田の表紙は、吉岡実装丁の骨法とあまりによく似ている。吉田の自死を最後の踏切り板のようにして《静物》の詩篇を書きあげた吉岡は、真鍋博の細密な 卵の絵を得て、詩集をひとつのまったき造型作品につくりあげた(吉岡実は《静物》を吉田健男の絵で飾りたかったのではあるまいか)。詩人としての、そして 装丁家としての吉岡実の淵源に、吉田健男の存在とその作品が触れている。絵を描かず、描き文字を使用せず、気心の知れた描き手のカットと明朝活字だけで函 やジャケット・表紙・本扉を構成する吉岡実装丁が、おそらくこの時期に胚胎したものと思われる。

〔2010年8月31日追 記〕
先日、林哲夫さんから小山清《小さな町》(筑摩書房、1954年4月15日)の書影(ジャケット・表紙・本扉)のカラーコピーをちょうだいした。7月21 日の 林さんのブログdaily-sumusに〈小 さな町〉と いう記事がアップされていたので、「《小さな町》のジャケット(ですよね)写真が拝見できたのはありがたかったです。表紙しか見たことがなかったもので。 〈吉田健男の装丁作品〉で吉岡実と健男のことを書いたことがあるので、御一読いただければ幸いです。つげの悪夢、いかにもと思いました」とコメントしたと ころ、林さんから「吉田健男という人はそういう画家だったんですね。表紙は文字だけ、扉に小さなてんとう虫の線画があり、吉岡好みのレイアウトだと思われ ます」とご返事いただいたうえ、過日の書影恵投となったのである。

小山清《小さな町》(筑摩書房、1954年4月15日)のジャケット(表1・背・表4)〔画像提供林哲夫氏〕
小山清《小さな町》(筑摩書房、1954年4月15日)のジャケット(表1・背・表4)〔画 像提供林哲夫氏〕

小山清《小さな町》(筑摩書房、1954年4月15日)の本扉〔画像提供林哲夫氏〕 小山清《小さな町》(筑摩書房、1954年4月15日)の表紙〔画像提供林哲夫氏〕
同・本扉(左)と同・表紙(右)〔いずれの画像も林哲夫氏提供〕

双柱罫で囲われた奥付(同書、〔二九七ページ〕)を起こしておこう(漢字は新字に改めた)。
「小さな町
定価 二百八十円/地方定価 二百九十円
昭和二十九年四月十五日 発行
[「清」の検印]
著者 小山清/発行者 古田晁/印刷者 草刈親雄/発行所 株式会社筑摩書房/東京都文京区台町九/電話小石川(92)五一・二〇五七/振替東京一六五七 六八/中央製本印刷株式会社印刷製本」

印刷者・印刷製本所は吉岡実の《静物》(私家版、1955)のそれと同じで、印刷所に関しては、入沢康夫〈国語改革と私〉が伝える吉岡実の言に「『静物』 は、自分の勤めてゐた出版社に出入りしてゐた中どころの印刷所に、頼んで引受けてもらつた」(丸谷才一編《日本語の世界 16 国語改革を 批判する》、中央公論社、1983、二二八ページ)とある。


吉岡実とエズラ・パウンド(2008年2月29日)

吉岡実は〈曙〉(H・8、初出は1976年11月)の末尾に「注 引用句は主に、エズラ・パウンド(新倉俊一訳)、飯島耕一の章句を借用した」と書いている。同詩篇の引用句を以下に掲げる(行頭の数字はライナー)。

01 「火の消えたような
02           褐色の肉類」

07 「下手な韻文はくりかえし
08 てはいけない」

11 「ピアノ教師のように
12             女生徒のうしろへ廻る」

14 「遠すぎて聞えてこない夜鶯の声」

19 「一枚の紙をいまも深くのぞきこむ
20 習性を失っていない」

22 「ジャスパー・ジョーンズの作品にはいつも
23 ある殺人 ある殺戮の
24 翌朝の感じがある」

30 「現在の肉食哺乳動物とはかなり異る」

35 「大きな蚕を一匹
36          漆喰の壁から抽き出す」

43 「ことばは美徳を鼓吹する
44 と同時に悪徳も鼓吹する」

46 「雨乞いをする人々の
47             消炭のような顔」

56 「素材は木と金属」

64 「池の水面は
65        錫箔でなければならない」

注の「パウンド」は新倉俊一訳《エズラ・パウンド詩集》(角川書店、1976年9月30日)だろうから、上掲の引用句を同書に探ってみる。

淡い雲のヴェールを顔にまとって
    流れに漂う木の葉のように恐るべきキュテーラ
火の消えたような蒼白な瞳

ボッティチェリやセライオたちが知っていて
      ヴェラスケスも決して疑わなかったものが
悉くレンブラントの褐色の肉や
      ルーベンスとヨルダンスのなまの肉に失われてしまった(同書、三〇〇ページ)

冒頭に対応するこれは、パウンドの代表作《詩篇[キャントーズ]》〔第八十篇抄〕の二詩節で、吉岡は〈曙〉全66行をドライブするにあたって、見事な抄出をしている。

 抽象をおそれること。よい散文ですでにやられていることを下手な韻文でくりかえしてはいけない。(同書、三四九ページ)

これは詩論〈イマジズム〉中の〈言語〉の一節。字句を修正して、リフレイン(吉岡自身、ほとんど用いなかった)を禁じる内容に変えてある。また11の「ピアノ教師のように」は、同じ三四九ページの「または、普通のピアノの教師が音楽の技巧についやすのと少なくとも同じ程度の努力を詩の技巧に払わないでも、専門家の気に入ることがあなたがたにできると思わないこと」に拠るか。

音。遠すぎてきこえないナイチンゲールの声みたいに。(同書、一四六ページ)

吉岡が《詩篇〔第二十篇〕》のnightingale(小夜啼鳥[サヨナキドリ]、学名:Luscinia megarhynchos) を「夜鶯」と変更したのは、人名ととられるのを避けた措置だろう。ここまでは順調だったが、私の調べ方が悪いのか19以降の出典がわからない。それらのすべてが飯島耕一の章句だとは思えないのだが。むしろ意外だったのは、別の詩篇〈この世の夏〉(H・24、初出は1979年8月)に「パウンド(新倉俊一訳)の章句」が借用されていることだ。こちらの詩には注が付されていないのだ。

01 「孔子は歩いて杉林に入り」……孔子は歩いて/宗廟のわきを抜け/杉林に入り/川下をつたわってそとに出た(《詩篇〔第十三篇〕》、同書、一二〇ページ)

04 「美人が月に向っている」

07 「あんずの花は
08 東から西へと咲きほころぶ」……「杏の花は/東から西へと咲きほころぶ/わたしはそれが散らないようにつとめた」(《詩篇〔第十三篇〕》、同書、一二五ページ)

13 「わびしい屋根に猫がうずくまる」……わびしい屋根に猫がうずくまり(《詩篇〔第三十九篇〕》、同書、一六四ページ)

15 「この夏もある海岸で
16 黄色い海水着をきる
17 娘」

19 「暗がりのなかで
20 金色は光りをあつめる」……「暗がりのなかで金色は/光りをあつめる」……(《詩篇〔第十七篇〕》、同書、一四一ページ)

吉岡はパウンドの《詩篇》から都合6行を拉し来って、全20行の詩篇を生みだしたのである。〈この世の夏〉は吉岡実による、引用の巨匠エズラ・パウンドへの頌歌とみるべきだろう。
吉岡 ぼくの中でも、補足は自分で作って自分で括弧にいれると、リアリティが出るなと思っちゃう。全部が人の言葉とは限ってないわけ。作り変えもあるし……。で、この行とこの行をつなぐには引用をいれないと、という感じで、自分で作った引用をいれざるを得なくなってきているのね。〔……〕自分で敢て自分の詩句を括弧にいれるとリアリティを感じられるという錯覚を作っているわけだ」(金井美恵子との対談〈一回性の言葉〉、《現代詩手帖》1980年10月号、九六ページ)。
吉岡実詩においては引用符のある詩句でも他者の章句の借用とは限らず、吉岡が自身の文言を引用符で括ってリアリティを追求している場合があるから、出典探しも一筋縄ではいかない。


吉岡実と三好豊一郎(2008年1月31日)

三好豊一郎(1920-92)は〈吉岡実の詩〉(《葡萄》18号の随筆〈私の好きな詩〉、1960年6月)で、冒頭に〈苦力〉(C・13)を引いてこう書いている。

  彼の詩が私にショックを与えたのは、彼の詩的本能の強靭な根強さが、私の詩的本能に強く訴えたからで、その強靭な詩的本能によって捉えられた言語が、実存の様相の、ゆるぎない表現となって開示しているからである。ここには知的遊戯の空虚な審美性は毫もない。彼の言語がゆるぎない表現となって迫るのは、彼のモティフの把握の強固さによるので、それはモダニズムの知的衣装の審美性によるものではない。彼の知性は、横溢する言語を詩的言語に錬成させ、定着させ、一篇の詩として規整する働きにおいてある。(同誌、二〇ページ)。

これは三好が《僧侶》を読んで(おそらく著者から贈られて)、吉岡と一度ゆっくり話をしたあとで書いたものだが、もしかすると吉岡の〈わたしの作詩法?〉(1967年発表)は三好のこの文章を踏まえて書かれたのかもしれない。上掲引用は結論の部分だが、その前に次の一節があるからだ。

  吉岡の詩が、モダニストの影響から出発しながら、無内容な知的遊戯におちいらなかったのは、ポエジイを詩的本能の深いところで捉えていたからで、彼が詩を説明したり、詩について語るのをためらうのは、彼の詩的本能が、詩を語るには詩作品以外にないということ、詩の発想衝動が知性の光のとどかないところに根ざすことを知っており、言いかえれば、理論よりメチエを信頼せざるを得ないことを悟っているからである。/彼が「半具象」と言ったり、「同時に複数の視線を所有する」と言うのも、これは彼の詩学理論というより、彼がみずからのメチエに対する自覚から発した彼独自の方法論なのである。(同前)

「半具象」はその後も三好が吉岡実詩を論じる際のキーワードとなるが、三好が吉岡の話をこのように要約したことで、逆に吉岡は自身の発言を再確認して、のちに〈わたしの作詩法?〉を執筆したのではないか。ちなみに、この〈吉岡実の詩〉は吉岡家のスクラップブックに貼ってあった資料で、これを読んだ吉岡が自ら保存したことの意味は大きい。
吉岡には《三好豊一郎詩集 1946〜1971》(サンリオ、1975年2月15日)の栞〈人と作品〉に寄せた〈奇妙な日のこと――三好豊一郎〉という随想がある。話の都合上、本文(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一九九〜二〇二ページ)の段落に番号を振って説明するが、これはどう見ても吉岡と三島由紀夫のニアミスを書いた文章で(D〜E)、三好豊一郎についてのもの(B、H)とは思えない(三人の背後に黒マントの怪人のように立ちはだかるのが、土方巽である)。こんな我儘が通用するのも吉岡が三好と親しかったからで、それは最後の段落を読めばわかる。一方、吉岡が三好の詩に触れた〈感想〉(《現代詩手帖》1979年2月号〈第九回高見順賞発表〉)には、「鮎川信夫〔《宿恋行》〕、安西均〔《金閣》〕とはまた別種の、成熟した詩境へ到達した、三好豊一郎《林中感懐》も、忘れてはならない詩集だと、私は思っている」(同誌、一六〇ページ)とある。

(小遣いをはたいてスウェン・ヘディンを買った)
ロプ・ノール
はるかに聴く流沙の鼓動
幻の水の生命[いのち]……

〈水の追憶〉から

《林中感懐》(小沢書店、1978年5月30日)の〈水の追憶〉の一節は、吉岡の長篇詩〈波よ永遠に止れ〉を思わせる。

犀|三好豊一郎

博物館のつめたいガラスのむこうで
あの小さな青銅の犀は
二千年の沈黙を消化して
いかにも充実してみえたが しょせん
なま身の肉体のあずかり知りえぬ尺度なら
三千年でも五万年でも同じじゃないか――

妖しい夢の胎内から辛うじて這いだして
ほっとして 聴くともなく私は聴く
夜ふけのビルの屋上で吠えている犬の声を
コンクリートの断崖の
あちらの端へゆき
こちらの端へきて
身をのりだして闇の縫目を噛み裂くように
吠えているのだろう
(「生」とはひっきょうにそれ以上の何であるのか)
いつまでもいつまでも狂ったように吠えている
この生きて痩せた犬は……

〈犀〉のあとに三好の第一詩集《囚人》(岩谷書店、1949)の巻頭詩篇〈囚人〉や吉岡の〈犬の肖像〉(B・16)を引く必要はあるまい。北村太郎は「ただ、〔《僧侶》の〕言葉の使いかたやリズムということになると、〔……〕とくに三好の詩をそうとう詳しく読んでるんじゃないかなという気がしましたね」(《現代詩手帖》1978年10月号、一〇四ページ)と、吉岡詩と三好詩の類縁を指摘しているが、三好豊一郎の存在が吉岡実詩と関わってくるのは、吉岡が土方巽の三好論〈内臓の人〉(《三好豊一郎詩集〔現代詩文庫〕》、思潮社、1970)の章句を引用して、〈聖あんま語彙篇〉(G・8)を執筆したときに始まる(題辞の〈馬を鋸で挽きたくなる〉は、土方巽の原文では「私は三好さんを見る度に、馬を鋸で引きたくなる」である)。土方は三好を「文章道の師」(《土方巽頌》、筑摩書房、1987、一五四ページ)と仰ぎ、その後も長篇の散文〈病める舞姫〉(《新劇》連載、1977-78)を書いたから、吉岡の「引用詩」に三好の章句が直接見えなくても、その存在は無視しえない。それだけに、吉岡が三好豊一郎の文業について多くを語らなかったのは残念である。吉岡と三好の交遊は吉岡の死まで続き、ときに西脇順三郎や土方巽を交えたそれは、《土方巽頌》に詳しい(前掲〈奇妙な日のこと――三好豊一郎〉は、同書では〈20 スペースカプセルの夕べ――奇妙な日のこと〉と改題されている)。


吉岡実と映画(1)(2007年12月31日)

吉岡実は談話〈純粋と混沌〉(《映画芸術》1969年3月号の〈今月の作家論〉欄)で、「大和屋竺と新しい作家たち」(談話の副題)について縦横に語っている。吉岡の映画論としても珍しい内容だが、ところどころに自身の詩作についての言及があり、私にとってはむしろそれが貴重である。そうした観点から談話の抜き書きをしてみよう(本文の誤植は訂正した)。

 もともと、ぼくという人間は批評という鋭い分析でものを見ません。楽しみで見ちゃうとか、漠とした自分にもたらすものがあるかという気持ちで見ちゃう。

解らないからいいということはないんだけれど、解らないものを作るという人は好きなんです。人間の考え方の中で解らないのを作る人というのは凄いことで、ぼくも誰にも解らない詩を、記号でなくて、平凡な言語で作りたい。でも解ってしまうわけね、また解られてしまうわけね。映画だと、ある点解らないものを作れるんじゃないかという気がする。

 ぼくは、今の新しい映画作家というのは知らないけれど、たとえば詩を作る場合、ぼくの場合は先が解らない。創りつつ書きつつまた創りつつ、どこで完結するのかな、ああ、ここで≠ニなるわけですが、映画の場合はシナリオという言語で一応の構図というか、進行指示がある。その上で創りつつ新しい発想なり、イメージを増殖させうるのではないかな。

自分では新しがりをいっていても、映画ではあまり古臭いのは嫌だが、もう少し時間をうまく流して欲しいと思う。感興をバサバサ切られて複雑な思考を織り込まれると困ってしまうことがある。止めて鑑賞できない世界だから。

とにかくわれわれのような小市民的人間は、ある程度女性のああゆうエロチックなものを撮ろうとしている人間に共感を受ける。まじめな考え方と不道徳な考えが一緒に入っている。若松作品でいえば、評判になった「犯された白衣」より「性の放浪」の方が好きだ。山谷初男のすばらしかったこと! てらわない場面の作り方。ありうることなんですよ。芸術づいた設定をしていないんだな。していなくて、しかも深みがある。

発表されたというものは、詩に関していうと、自分でも解らないものがあるんですが、誰かぼくを補足してよくみてくれる人がいるのではないかとよく思う。映画だってそうだと思う。自分にだって解らないところがある、それを大事にしていくんでしょう。そういうふうにして作者は自信をもっていき、芸術作品はすべて救済されて、よくなっていく。(《映画芸術》1969年3月号、九二〜九三ページ)

最後からふたつめを読めばわかるように、吉岡はこの談話で随想〈ロマン・ポルノ映画雑感〉(初出は《季刊リュミエール》1号、1985年9月)の〈1「胎児が密猟する時」〉に相当する内容を中心に語っている。ときに、この随想で言及されている映画は全部で20本。これらの秀作を掬いあげるために、吉岡はいったい何本のロマン・ポルノ映画を観たのだろうか。(*印は談話でも言及した作品)

1 「胎児が密猟する時」

  1. 若松孝二「胎児が密猟する時」*
  2. 大和屋竺「裏切りの季節」*
  3. 沢田幸弘「セックス・ハンター 濡れた標的」
  4. 小林悟「肉体の市場」*
  5. 大和屋竺「荒野のダッチワイフ」*
  6. 若松孝二「犯された白衣」*

2 「性盗ねずみ小僧」・「色情姉妹」

  1. 曾根中生「性盗ねずみ小僧」(小川節子)
  2. 藤井克彦「白い女郎花」(片桐夕子)
  3. 西村昭五郎「団地妻 昼下りの情事」(白川和子)
  4. 小沼勝「花と蛇」(谷ナオミ)
  5. 白鳥信一「赤線本牧チャブヤの女」(ひろみ麻耶)
  6. 根岸吉太郎「キャバレー日記」
  7. 曾根中生「色情姉妹」(二條朱美・続圭子)

3 「一条さゆり・濡れた欲情」

  1. 神代辰巳「一条さゆり 濡れた欲情」(一条さゆり・伊佐山ひろ子)
  2. 村川透「白い指の戯れ」(伊佐山ひろ子)
  3. 神代辰巳「四畳半襖の裏張り」(宮下順子・江角英明)

4 「人妻集団暴行致死事件」

  1. 田中登「人妻集団暴行致死事件」(室田日出男・黒沢のり子)
  2. 田中登「牝猫たちの夜」(原英美)
  3. 田中登「夜汽車の女」(田中真理)
  4. 田中登「㊙女郎責め地獄」(中川梨絵)

吉岡が談話で言及している作品のうち、随想から作成した上記リストにない6作を次に掲げる。

  • 大和屋竺《毛の生えた拳銃》(若松プロダクション、1968)
  • 武智鉄二《白日夢》(第三プロダクション、1964)
  • 若松孝二《性の放浪》(若松プロダクション、1967)
  • 若松孝二《金瓶梅》(ユニコン・フィルム、1968)
  • 武智鉄二《浮世絵残酷物語》(武智プロ、1968)
  • 鈴木清順《殺しの烙印》(日活、1967)

以上の26作品のなかで私が観たのは、わずかに若松孝二の《胎児が密猟する時》(若松プロダクション、1966年7月)だけだ(しかも1990年に大陸書房から出た〈成人映画傑作全集〉というビデオテープで)。もっともこれらの映画の公開当時はまだ小中学生で、映画館で観られるはずもなかったが。吉岡は〈1「胎児が密猟する時」〉で次のように書いている。

ただその頃、「ピンク映画」の範疇に入らない、二つの作品を、私は場末のピンク映画館で観ている。それは、若松孝二の「胎児が密猟する時」であり、大和屋竺の「裏切りの季節」である。とくに、「胎児」には衝撃を受けたものだった。山谷初男の扮する「男」が「女」を裸にして、ベッドだったか、床へじかに縛りつける。そして、ひたすら「女」の肉体を、鞭(ベルト?)で叩きつづけるのだ。この非日常的な行為がきわめて、緩慢であるため、時間は止り、女の悲鳴が狭い空間を歪曲化する。射精もなければ、受胎も拒まれた、影の映像の世界。「胎児が密猟する時」は、一寸、類をみない作品である。「男」が山谷和男だと、あとで判ったが、「女」に扮したのはいかなる女優か、いまだ知らない。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三五一ページ)

前掲ビデオのパッケージでは、この女「ユカ」は志摩みはる。《日本映画データベース》に拠れば、大和屋竺の《裏切りの季節》(若松プロダクション、1966年12月)にも出演している。

若松孝二監督作品《胎児が密猟する時》(若松プロダクション、1966)における志摩みはる
若松孝二監督作品《胎児が密猟する時》(若松プロダクション、1966)における志摩みはる


吉岡実と西脇順三郎(2007年11月30日)

西脇順三郎の詩と散文の選集《西脇順三郎コレクション〔全6巻〕》(慶應義塾大学出版会)が2007年 の6月から11月にかけて刊行された(最終巻の随筆集には「回想の西脇順三郎」として吉岡実の〈西脇順三郎アラベスク〔(追悼)〕〉が収録されている)。 かつての選集《西脇順三郎 詩と詩論〔全6巻〕》(筑摩書房、1975)が詩集(たとえば《禮 記》《壤歌》) とほぼ同時期の詩論(たとえば《詩學》) をひとつの巻にまとめていたのに対し、新倉俊一編になる今回のそれは詩集(2巻)・翻訳詩集・評論集(2巻)・随筆集と、ジャンル別に西脇の文業を精選し た内容となっている。
吉岡が西脇をどう見ていたかは〈西脇順三郎アラベスク〉――《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)や《吉岡実散文抄〔詩の森文庫〕》(思 潮社、2006)で全篇を読める――が雄弁に語っており、ここで喋喋する必要はなかろう。念のために付言すれば、〈弟子〉(《神秘的な時代の詩》)、〈夏 の宴〉(《夏の宴》)、〈哀歌〉(《薬玉》)、〈永遠の昼寝〉(未刊詩篇)の4詩篇が西脇に捧げられている(吉岡詩の引用章句に登場する西脇文の出典探索 は今後の課題としたい)。
一方、西脇が吉岡をどう見ていたかはわかりにくい。少なくとも詩人・吉岡実に触れた単独の文章はないようだ(西脇の詩篇に《鹿門》所収の〈ヨシキリ〉があ るが、《吉岡実参考文献目録》には西脇が吉岡について 書いた文献として記載していない)。そこで二次資料を用いざるをえないのだが、以下に《定本 西脇順三郎全集〔第12巻〕》(筑摩書房、1994年11月20日)の鍵谷幸信〈西脇順三郎年譜〉(「昭和五十八年(一九八三)」以降は新倉俊一〈年譜補 遺〉)から、吉岡が登場する項を煩を厭わず引いてみる(なお吉岡と同格扱いの他の人名は割愛した)。
ちなみに西脇の年譜に関して、吉岡は自筆年譜「昭和五十七年 一九八二年 六十三歳」の項に「晩秋、神田のラドリオで、会田綱雄、鍵谷幸信、新倉俊一、江森国友らと集まり、「西脇順三郎年譜」の確認をする」(《吉岡実〔現代の詩 人1〕》、中央公論社、1984、二三六ページ)と書いており、西脇歿後も《西脇順三郎全集》と関わりが深かったことをうかがわせる。

昭和四十二年(一九六七) 七十四歳
 十二月七日、瀧口修造を囲む会に出席(原宿檻の中)。この会の帰路、吉岡実〔……〕を自宅に招き、痛飲快談する。

昭和四十三年(一九六八) 七十五歳
 三月十四日、〔……〕この頃毎週一回筑摩書房を訪ね、〔……〕吉岡実〔……〕と神保町界隈を飲み歩く。

昭和四十四年(一九六九) 七十六歳
 三月二十六日、筑摩書房『西脇順三郎全集』の刊行決定し、銀座「大隈」にて〔……〕吉岡実〔……〕と編集打合せの会をもつ。

昭和四十五年(一九七〇) 七十七歳
 三月十八日、神田「鳥初」にて全集打合せの会を開く。〔……〕吉岡実〔……〕出席。
 三月二十八日、赤坂「銀閣」にて、全集打合せの会を開く。〔……〕吉岡実〔……〕出席。

昭和四十六年(一九七一) 七十八歳
 三月三日、『西脇順三郎全集』第一巻完成、神田亀半にて祝賀会、〔……〕吉岡実〔……〕出席。
 四月八日、〔……〕吉岡実〔……〕と百草園に遊ぶ。
 五月二十六日、〔……〕吉岡実〔……〕と鎌倉に遊び、高見順夫人と懇談。

昭和四十七年(一九七二) 七十九歳
 八月、「無限」二十九号、西脇順三郎特集号を刊行(作品「桂樹切断」を寄稿。〈献詩〉〔……〕吉岡実〔詩は〈弟子〉(F・15)〕〔……〕)。

昭和四十八年(一九七三) 八十歳
 二月二十日、全集完結祝賀会を原宿福禄寿にて行う。〔……〕吉岡実〔……〕出席。

昭和四十九年(一九七四) 八十一歳
 四月十一日、浅草伝法院にて順三郎作、龍虎の墨絵二幅を展覧し、遊ぶ。〔……〕吉岡実〔……〕参加。

昭和五十年(一九七五) 八十二歳
 六月十七日、右『詩と詩論』〔筑摩書房版『西脇順三郎 詩と詩論』全六巻〕刊行の会が銀座第二浜作で開かれる。〔……〕吉岡実〔……〕出席。
 『同〔西脇順三郎詩と詩論〕Y』十月三十一日 四五五頁 詩『鹿門』『未刊詩篇』、詩論『未刊エッセイ』抄、『剃刀と林檎』抄。年譜鍵谷幸信。付録吉岡 実「西脇順三郎アラベスク」

昭和五十二年(一九七七) 八十四歳
 十二月二十七日、渋谷「駒形どぜう」で〔……〕吉岡実〔……〕と忘年会。

昭和五十四年(一九七九) 八十六歳
 六月、詩集『人類』を刊行。順三郎は吉岡実に向って「これがぼくの最後の詩集です」と語った。
 六月十九日、詩集『人類』の見本出来、吉岡実〔……〕と代々木八幡橘寿司で慰労会を開く。
 六月二十九日、渋谷「駒形どぜう」で『人類』の出版祝い。〔……〕吉岡実〔……〕出席。
 十月、吉岡実『夏の宴』の装画を描く。〔詩〈夏の宴〉(H・20)を収載〕
 『人類』刊 六月二十日 筑摩書房 二一・五cm×一四・五cm 二九七頁 箱入 限定千二百部 定価四五〇〇円 付録パンフレッ ト 〔……〕吉岡実「《人類》出現」〔……〕
 『宝石の眠り』刊 十一月三十日 花曜社 一九・三cm×一二・八cm 箱入 著者挿画一葉 一〇二頁 装幀吉岡実 定価二七〇〇 円
 「現代詩読本9 西脇順三郎」(思潮社)を刊行(〔……〕吉岡実「西脇順三郎アラベスク」〔……〕)。

昭和五十六年(一九八一) 八十八歳
 一月二十日、『定本西脇順三郎全詩集』刊行。自宅で誕生祝いの会を開く。〔……〕吉岡実〔……〕出席。
 十一月九日から三十日まで赤坂の草月美術館で「西脇順三郎の絵画」と題して展覧会開かれる。〔……〕九日夜、〔……〕吉岡実夫妻〔……〕順一、緑夫妻の 招きで西脇家に行き、遅くまで談笑。順一が「父は下へ降りてきて皆さんにご挨拶すべきだ」といい、二階から順三郎が降りてくるも、体に震えがきて直ちに横 臥。

昭和五十七年(一九八二) 八十九歳
 没後雑誌追悼特集及び関係記事は左記の通りである。
 「現代詩手帖」七月号(〔……〕座談会「比類ない詩的存在」吉岡実〔……〕)
 「ユリイカ」七月号(〔……〕吉岡実「哀歌」〔(J・13)〕〔……〕)
 ほかに追悼文の掲載されたもの以下のとおり。
 〔……〕吉岡実「西脇順三郎アラベスク〔(追悼)〕」(「新潮」八月号)

昭和六十三年(一九八八)
 六月十日、赤坂の草月会館にて「西脇順三郎を偲ぶ会」を六時より開催。発起人は〔……〕吉岡実。

平成元年(一九八九)
 三月三十一日、西脇展〔後出〕オープニングには〔……〕吉岡実その他多数が出席した。
 四月一日から五月十四日まで、新潟市美術館で「永遠の旅人西脇順三郎 詩・絵画・その周辺」展を開催。入場者一〇四一〇人。展覧会カタログ発行。内容 は、〔……〕(献詩・献辞)〔……〕吉岡実〔詩は〈永遠の昼寝〉(未刊詩篇)〕〔……〕

平成二年(一九九〇)
 五月三十一日、吉岡実死去。

西脇順三郎年譜では、吉岡が筑摩の社員として装丁を手がけた西脇全集や《人類》関連の記載が多いことに気がつく。吉岡が随想に記した事 柄も数多い (事情はむしろ逆で、年譜編纂者が吉岡文から採録した可能性が高い)。なお吉岡には〈西脇順三郎アラベスク〉以外に、《「死児」という絵〔増補版〕》所収 の〈日記抄〉、〈読書遍歴〉、〈『プロヷンス随筆』のこと〉、〈出会い〉、〈奇妙な日のこと〉、〈孤独の歌〉、〈二つの詩集のはざまで〉、 〈遥かなる歌〉、〈高柳重信断想〉、〈白秋をめぐる断章〉、〈くすだま〉(以上、発表順)に西脇または西脇詩への言及がある。
一方、詩人としては西脇順三郎特集号や追悼号への寄稿が目につく。最初の問に戻り、西脇順三郎にとっての吉岡実を考えるに、「詩を解する」筑摩書房の編集 者・装丁家、というのがいちばん近かったのではあるまいか。函と表紙に西脇の装画をあしらった《ムーンドロップ》を出したあとの吉岡に尊敬する詩人につい て訊く機会があったが、予想に反して誰の名前も出てこなかった。西脇順三郎は? と水を向けると、西脇に限らずどんな詩人の影響(とたぶん言ったはずだ) も振りすてて進んでいく、という気概を顕わにされた。そのとき吉岡の脳裡には《失われた時》とも《壤歌》とも異なる、自身の「長篇詩」――それは土方巽の 死を悼んだ〈聖あんま断腸詩篇〉(K・12)の手法を大大的に展開したものになったはずだ――の予感が渦巻いていなかっただろうか。


随想〈学舎喪失〉のこと(2007年10月31日)

吉 岡実の随想〈学舎喪失〉は《文學界》1985年9月号の〈私の風景〉という連続企画コラムに発表された(吉岡の回は18字×23行 ×3段、すなわち 1242字の本文スペース)。のちに《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988、二七一〜二七二ページ)に収められる際、ほぼ三分の二の800 字強に縮められた。吉岡の随想では珍しいケースと言える。定稿末尾の自作短歌「白鷺の一声啼きてよぎりゆく薄暮の橋に灯のとぼりたる」のまえにあった二文 「小学四年生の頃、ドッジボールのやりすぎから、私は肋膜炎になった。駒形どぜうの近くの実費診療所へ通うために、この橋をしばしば往復したものだっ た。」が削られたのは、短歌を引きたてるための措置と思われる。驚くべきは、続く3段めの文章全体が削除されたことだ。

 この一首は、二十歳ごろ詠んだもので、「駒形橋暮吟」と詞書がある。
 私は久しぶりで、駒形堂にお参りして、浅草へ行った。祭礼とか物日だと賑やかだが、普段は淋しい。雷門の入口の右角に、アオノという玩具店がある。幼い 頃、両親につれられての観音様参りの帰りに、きまってこの店の前で、おもちゃをせがんで、泣いたものだ。浅草は家から歩いて二十分たらずの距離なので、少 年時代はよく独りで、遊びに来たものだった。映画街の雑踏をよそに、藤棚のある瓢箪池には、鯉、緋鯉が泳いでいた。
 昭和六年に、松屋デパートが開店すると、下町の悪童たちはこぞって、集まったものだった。スポーツランドが出来、ローラースケート場さえ備えていた。
 客もなく、ひっそりした書籍売場のガラスケースの中に、外国の写真集が飾られ、開かれた頁に、若い女の裸体が眺められ、私はしばらく釘付けになってし まった。(《文學界》1985年9月号、二九六ページ)

こ こをカットしたことで文意が通りにくくなったのだろう、「小学四年生の頃、〔……〕」のひとつまえの文は「〔いつもなら、→(トル)〕まっすぐ浅草へ行 〔くの だが→かず〕、脇道をして、駒形橋をわた〔った→り、駒形堂にお参りをした〕。」と手が入れられた。興味深いのは、子供のころの記述が《うまやはし日記》 (書肆山田、1990)の昭和13(1938)年9月2日にほとんど同じ形で見えることだ(初出は《現代詩手帖》1980年10月号だが、初出および初収 録の〔増補版〕では9月1日のことになっている)。〔増補版〕では〈うまやはし日記〉を優先して、初出〈学舎喪失〉の記述を嫌ったか。

  浅草を歩く。てんぷらの三定の隣りの玩具屋には、おもちゃが溢れている。子供のころこの店の前で、ゼンマイ仕掛の昆虫や刀を欲しがって、父母を困らせたも のだ。ひょうたん池の樹の下で、鯉や緋鯉の遊泳を見た。(《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988、二五一ページ)

吉 岡実は1919年、東京市本所区中之郷業平町(現在の東京都墨田区業平2丁目か)に生まれ、4歳のとき、この地で関東大震災に遭遇した。震災後に転居した 本所区東駒形の二軒長屋から、明徳尋常小学校(明治8(1875)年開校)卒業後、本所区厩橋2-13(同・墨田区本所2-18あるいは2-19、詩歌集 《昏睡季節》や詩集《液体》の発行所・草蝉舎の所在地)の四軒長屋へ移り、22歳のときにこの家から出征した。
「少年時代を過した二軒長屋の辺りは、家並が変ってはっきりしない。Y新聞販売店になっている処のように思われた。」のY新聞が読売新聞なら、執筆当時の 業平販売所、本所販売所(いずれも墨田区業平3-10-12)に思えるが、前述の東駒形ではなく、場所を特定できない。吉岡実の少年時代を随想〈私の生ま れた土地〉や〈あさくさの祭り〉で偲んだあとは、厩橋を 散策するに如くはない。


吉岡実の愛唱歌(2007年9月30日)

太 田大八のエッセイ〈カメレオンの眼〉の一節に「怪談話に目を見開いて真剣に聞き感心するのも吉岡だった。芸者ワルツは傑作であると激賞したり、一つ覚えの 八百屋お七を悲鳴に近い声で歌ったりしていた」(《ユリイカ》1973年9月号、八七ページ)とある。2005年の11月、太田大八さん・十四子さん夫妻 にお目にかかったときに、〈芸者ワルツ〉と〈八百屋お七〉について訊いてみた。なにせ私の生まれた昭和30年前後のことなので、かいもく見当がつかないの だ。
まず〈芸者ワルツ〉は、西條八十作詞・古賀政男作曲の〈ゲイシャ・ワルツ〉(1952年5月31日録音・8月1日発売)だと判明した。神楽坂はん子 (1931-95)をスターダムにのしあげた歌、お座敷歌謡の白眉だと、同曲を収めた最近のCDのライナーノーツにはある。

あなたのリードで 島田もゆれる/チークダンスの なやましさ/みだれる裾[すそ]も はずかしうれし/芸者ワルツは 思い出ワル ツ

空には三日月 お座敷帰り/恋に重たい 舞扇[まいおうぎ]/逢わなきゃよかった 今夜のあなた/これが苦労の はじめでしょうか

あなたのお顔を 見たうれしさに/呑んだら酔ったわ 踊ったわ/今夜はせめて 介抱してね/どうせ一緒にゃ くらせぬ身体[から だ]

気強くあきらめ 帰した夜は/更けて涙の 通り雨/遠く泣いてる 新内流[しんないなが]し/恋の辛さが 身にしみるのよ

(《西條八十全集〔第9巻〕》、国書刊行会、1996年4月30日、三二八〜三二九ページ)

同じ1952年に大ヒットしていた江利チエミ(1937-82)の〈テネシー・ワルツ〉に対抗して作られた曲だというが、企画物である ことを感じさ せないなかなかの佳曲である。


神楽坂はん子〈ゲイシャ・ワルツ〉(コロンビア、1952)
出典:http://page13.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/r39585774

一 方〈八百屋お七〉は、太田さんから教えていただいた「元から先まで毛が生えた/玉蜀黍を売る八百屋」という歌詞を手掛かりに、インターネットで検索してみ た。口承の唄らしく、定稿はないようだ。なぎら健壱のLP《春歌》(カレードスコープ、1974)所収の〈八百屋お七〉からの転載を引く。

と ころは駒込吉祥寺 離れ書院の奥座敷 ころは元禄徳川の井原西鶴その人の 十人女のその中で 淫乱狂女と唄われし 八百屋お七の物語 お七の好きな長なす び 元から先まで毛のはえた とうもろこしを売る八百屋 いっそ八百屋が焼けたなら いとしこいしの吉さんと おへそ合わせもできように それが女の浅は かさ 一把のワラに火をつけて パッと燃え出す火事の元 人知るまいと思うたに 天知る地知る人の知る 隣のとなりのそのとなり となりのババァーに見つ かって 告訴せられて捕縛さる 一段上には御奉行様 一段下がってお七殿 もみじのような手をついて 申し上げます御奉行様 私の生まれたその年は ひの えひのとしひのえうま 七月七日の七夕で それでお七と申します 十四といえば助かるを十五と言ったばかりに 百日百夜は牢の中 百日百夜があけたなら  裸の馬に乗せられて 泣く泣く渡るは日本橋 吉原女郎衆の言うことにゃ あれが八百屋の色女 目もとぱっちり色白で 腰もとすんなり柳腰 女の私がほれる さえ 吉さんほれるは無理もない 人里離れた坊主さえ もくぎょのワレメで思い出す 南洋の土人の娘さえ バナナの皮むきゃ気分出す まして我々凡人はセ ンズリかくのも無理はない てなてな恋の物語 昭和の御代まで名を残す 八百屋お七の物語

太田大八の(ということは吉岡実の)口ずさんだ節も、なぎら健壱の曲も聴いていないのでなんとも言えないが、ふたつは同じではあるまい か(なぎらさ んの著書の印象から、そう思う)。
吉岡の結婚披露宴で、筑摩書房の編集者が吉岡に〈八百屋お七〉を歌うよう囃したが、太田さんとともに吉岡の親代わりを務めた十四子さんは「結婚式で歌う唄 じゃないから」と止めたそうだ。〈八百屋お七〉は、同僚も認める吉岡の十八番だったのである。

〔付記〕
江戸川乱歩の短篇〈押絵と旅する男〉に、浅草の十二階を背景にして「覗きからくり」が登場する。このからくり屋の夫婦が嗄れ声を合わせて、鞭で拍子を取り ながら歌っている〈八百屋お七〉が「からくり節」だ。往時のからくり節を知る人によれば、古風な哀愁を帯びた口調で、会社の宴会などで余興に披露する者も いたという。落語〈くしゃみ講釈〉には、男が「胡椒=小姓」を想いだすために覗きからくりを真似る場面がでてくるが、そこでからくり節(?)を聴くことが できる。


吉岡実と《アラビアンナイト》(2007年8月31日〔2013年6月30日追記〕)

吉岡実は《アラビアンナイト》、《千夜一夜物語》について二度書いている。まずは詩的散文〈突堤にて〉(初出は《現代詩》1962年1月号)の一節。

 Dは食事を待っていてくれた。甘鯛の煮付に、又あわびとさざえで、がっかりした。Dの仕事は順調にいっているらしく、ビールを二、三本のんだ。机がわりの膳の上に五、六枚仕上った挿絵が置かれていた。その物語はアラビアンナイトだが、子供用の雑誌にしては、大変エロチックな挿絵だった。これで大丈夫、とおるのかなと思った。Dにいわせれば、今までに幾回か手がけたので、少し冒険したかったらしい。私は絵であれ、写真であれ女の裸体を見ると刺激されるのだ。友人の描いた子供のための挿絵でもう胸があつくなり、寝ぐるしくさえなっていた。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、四九〜五〇ページ)

そして、随想〈読書遍歴〉(初出は《週刊読書人》1968年4月8日)における小学校時代の想い出。

 まとまって長いものを読んだのは、中央公論社版の『千夜一夜物語』位だろう。×××があって、恐しくエロチックな描写に大変興奮したように思う。(同前、五六ページ)

《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》でも書いたように、この中央公論社版の書名は《千夜一夜物語》ではなく《千夜一夜》で、吉岡は記憶に頼って随想を執筆したのであろう。訳者による〈序〉(訳者代表は大宅壮一だが、執筆者名はない)にこうある。
「日本でも、明治八年に永峰秀樹といふ人の訳で、「開巻驚奇、暴夜物語」と題して紹介されて以来、十指にあまる訳本が刊行されてゐるが、すべて前記の不完全な抄訳本〔レイン版など〕を更に抄訳したものである。最近出たものゝ中では、「世界童話大系」中の日夏耿之介氏訳及び国民文庫刊行会発行の森田草平氏訳が、質量共に断然すぐれてはゐるが、いづれも前記レイン版によつたものであり、従つてレイン版の短所の大部分を踏襲してゐるのは己〔ママ〕むを得ない」(《千夜一夜〔第1巻〕》、中央公論社、1929年12月25日、〔前付〕三ページ)。
当の日夏耿之介は《千夜一夜》月報の第1号(同前)に寄せた〈全世界一大奇書〉で

 今頃アラビヤンナイトでもあるまいといふ猪尾助子もあるだらうが、「新しく」て「進歩し」た「実証」世界にも、夢の論理と幻境倫理とが必ずあつて、服飾だけ代りあひまして同じマヂツクワンドを白日のもとに振るのである。むしろ畏怖に耐へたるこの夢幻境の殿堂生活の名残りの怡び去りやらず、年を経て予〔わたくし〕も自らバアトン完訳を志したが、その方は世累にわづらはされて果さず仕舞ひ、恰もその時さる本屋の求めに応じてレイン本を全訳して僅かに欲求の一部を慰めた事もある。

と書いて、中央公論社版《千夜一夜》が底本としたバートン版に敬意を表している。
国民文庫刊行会版の森田草平訳《千一夜物語〔全4巻〕》は未見だが、1927年にアルスから刊行された同じ訳者による書きおろし《アラビヤ夜話〔日本児童文庫〕》(1982年に名著普及会から復刻版が出ている)の〈例言〉に曰く、本書は国民文庫刊行会版から子供向けの8篇を選んで(第9篇〈アリ・ババ〉はバートン版による)、なるべくわかりやすい文体に書きなおしたもので、子供にふさわしくない、いかがわしいところは改作してある。類書とは異なり、日本人の私が選択して、日本の児童のために書きなおしたものである、云云。本書に収めるのは、以下の9篇である。〈ユーナン王と学者ヅーバンの話〉〈ハサンと馬丁の話〉〈若い獅子と大工の話〉〈アラ・エ・ディーンの話〉〈ひょうきん者ハサンの話〉〈賢婦ヅムルッドの話〉〈馬どろぼう〉〈エス・シンヂバードの航海譚〉〈アリ・ババと四十人の盗賊〉。この森田草平《アラビヤ夜話》を現代かなづかいに改めて、改題した《アラビアンナイト〔小学生全集63〕》(筑摩書房、1955)の表紙絵・口絵・挿絵を担当しているのが、前掲〈突堤にて〉の「D」こと太田大八である(《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》参照)。

森田草平《アラビアンナイト〔小学生全集63〕》(筑摩書房、1955年2月5日)の表紙〔装丁:庫田x〕 森田草平《アラビアンナイト〔小学生全集63〕》(筑摩書房、1955年2月5日)の口絵:太田大八 森田草平《アラビアンナイト〔小学生全集63〕》(筑摩書房、1955年2月5日)の挿絵:太田大八
森田草平《アラビアンナイト〔小学生全集63〕》(筑摩書房、1955年2月5日)の表紙(左)〔装丁:庫田叕〕、口絵(中)と挿絵(右)〔絵はいずれも太田大八〕

冒頭に引いた文章を読みかえすまでもなく、吉岡が《アラビアンナイト》にエロチックなものを結びつけていることは見やすい。せっかくだから、中央公論社版巻頭の〈シャーリアール王兄弟の話〉の一節を引いてみよう(原文の総ルビは煩瑣につき省いた)。

 そんなわけで、翌朝兄王の狩猟に出かけるのを見送つたシャー・ザマーンは居間を出て、遊園を眼下に瞰下す格子窓の前へ坐つた。そして、人知れず妻の裏切を悲しみ歎きながら悩む胸から火のやうな吐息を吐いてゐた。おゝその時! 外濠に通ずる秘密の地下道の扉がパツと開かれ中から現れて来たのは、二十人の奴隷に侍かれた凄いほど美しい兄王の妃であつた。美と優婉と均整と難のない愛らしさの化身ともいふべき王妃は、冷いやりとした空気を慕ひ求めながら、羚羊のやうな蓮歩を運んで来た。そこでシャー・ザマーンは窓から身を退き、向ふから見えないうやうに用心しながら、一行の様子を覗き見してゐた。一同は覗いてゐるものがゐやうなどゝは夢にも思はず、その格子窓のすぐ下を通つて、庭の大きい池の真中に設へられた噴水の側までいくと、みんな一斉に着物を脱いだ。おゝ、そのうちの十人は後宮の婦人たちで、他の十人は男の白人奴隷ではないか。それから男と女が銘々一人づゝ組になつて分れた。たゞ一人取残された王妃は、「わたしのとこへおいで、サイード様!」と大声で叫んだ。すると、一人の穢らしいが身体の逞しい黒人が、白眼をむき出した眼をギロギロさせながら、樹立の中から飛出して来た。なんといふ無気味な光景だらう。そして黒人は傍若無人に王妃の方に近づき×××××××××××両手を投げかけたが、××××××××××××××××。と見るうちに、黒人は×××××××××××、ボタン孔がボタンに纏ひつくやうに、からみ合つて地面の上に倒れた。十人の奴隷もみなそれに倣つて××××××××、×××××、××××××、×××××××、××××××いつ果つべしとも見えなかつた。日が暮れかゝる頃になつて、男の奴隷はやうやく女たちから離れた。例の黒人も王妃の側から退いた。奴隷達はもとの女装に還り、女たちもみな着物を着た。たゞ黒人だけはそのまゝ樹立の奥深く姿を消してしまつた。それから一同は宮殿の中にはいり、地下道の扉は元のやうに閉された。(《千夜一夜〔第1巻〕》、中央公論社、1929年12月25日、五〜六ページ)

伏字に関して、訳者は前掲〈序〉で「所々に出て来る男女間の露骨な描写は、〔……〕現行検閲制度を考慮して、幾らか遠慮したり、表現をやはらげたりしたところもあるといふことを諒承して頂きたい」(〔前付〕五ページ)とエクスキューズをしている。上掲引用文の伏字と同じ箇所を、後年の大場正史訳《バートン版 千夜一夜物語〔第1巻〕》(筑摩書房・ちくま文庫、2003年10月8日)から引くが、私に言わせれば「ボタン」の喩の方がよほどハイテンションだ。

くだんの黒人は大胆不敵にも妃に近づいて、腕をその首にまきつけた。妃も同じように男をひしとばかりかきいだいた。つぎに、男は荒々しく接吻[くちづけ]し、まるでボタン孔[あな]がボタンをしめるように、自分の脚を相手の脚にからみつけ、地上におし倒して、女を楽しんだ。/ほかの奴隷たちも女どもを相手に同じまねをし、だれも彼も淫欲を満たした。接吻し、抱擁し、交会[とぼ]し、ふざけあいなどして、いつはてるともみえなかったが〔……〕(同書、四八ページ)

吉岡実の詩に《アラビアンナイト》ふうと言うか中近東ふうな場面が顕著なのは、なんといっても長篇詩〈波よ永遠に止れ〉(初出は《ユリイカ》1960年6月号)だが、忘れられないのが〈老人頌〉(初出は《批評》1959年5月〔春季・2号〕)である。詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962)の冒頭を飾った〈老人頌〉の終わり三分の一ほどを引こう。――省略した部分には「裂かれぬ魚の腹はたえず発光し/たえず収縮し/そのうえ恐しく圧力を加えて/エロチックであり」という詩句も見える。

〔……〕
老人は回想する
正確にいうならば創造するのだ
胃袋と膀胱のために
交代のない沙漠の夜を
はいえなや禿鷹の啼きごえを
星と沙の対等の市を
そして小舎の炎の中心に坐り
王者の心臓の器で
豪奢な血を沸騰させようとする
むなしく伏せられた
笊のごとき存在
みごとな裸の踊子も現われぬ
不安な毛の世界で
床屋の主人が剃刀をひらめかせ
老人の大頭を剃りあげる
石膏のつめたさ
美しい死者として
幼児とペリカンの守護神として
他人には邪魔にならぬ所へ移される

吉岡実詩に特徴的なエロチックな側面は、《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)以降とりわけ顕著になってくる。〈ポルノ小説雑感〉に見える昭和20年代後半の「ポルノ小説」「に類する外国文学」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三五五ページ)の受容とともに、若年からの《アラビアンナイト》、《千夜一夜物語》の影響も無視できないように思える。

〔2013年6月30日追記〕
杉田英明《アラビアン・ナイトと日本人》(岩波書店、2012年9月27日)で知りえたことを追記する。森田草平が訳した《千一夜物語》の書誌は次のとおり(杉田氏は原典の表記を尊重して旧漢字を使用しているが――自身の文は新漢字・新仮名遣い――、新漢字に改めて引いた。觀、國、會はいいが、平のソがハの旧漢字は表示できず、新旧混在よりはむしろいずれかの体系を優先する方を採ったためである)。末尾の( )内の数字は同書の掲載ノンブル。

・森田草平訳『千一夜物語』世界名作大観第二部、各国篇七―十、全四冊、国民文庫刊行会、一九二五年九月―一九二八年四月。(155)
〈第三章 児童文学〉の「4 〈日本児童文庫〉と〈小学生全集〉」に森田草平の《アラビヤ夜話》の解題がある。註は割愛した。
〔……〕一九二七(昭和二)年にはアルスの〈日本児童文庫〉と、興文社・文藝春秋社の〈小学生全集〉という二大叢書が誕生する。一般に、高雅な〈文庫〉は知識人家庭に、庶民的な〈全集〉は一般家庭に普及したと言われている。この二叢書にも、それぞれ森田草平の『アラビヤ夜話』(一九二七年九月)と菊池寛(一八八八―一九四八年)の『アラビヤ夜話集』(一九二八年四月)が収められた。
 なかでも森田草平は、先にも触れた通り、レイン版全訳(一九二五―二八年)の仕事に数年間に亘って従事していたので、『アラビヤ夜話』はその余滴の一つという格好であったろう。ここではレイン版から、「ユーナン王と学者ヅーバンの話」「ハサンと馬丁の話」「若い獅子と大工の話」「アラ・エ・ディーンの話」「ひようきん者ハサンの話」「賢婦ヅムルッドの話」「馬どろぼう」「エス・シンヂバードの航海譚[こうかいだん]」の合計八話を選び出して再話し、さらにレイン版にはない「アリ・ババと四十人[しじゆうにん]の盗賊」をバートン版(「バートン・クラブ版」)から補っている。このうち、「ひようきん者ハサンの話」と「馬どろぼう」は、先に触れた『赤い鳥』掲載の「のんき者と王様」および「馬どろぼう」をほぼそのまま利用している。これらを選んだのは、訳者の見立てによれば、〔原文は改行して引用〕『アラビヤ夜話[やわ]』なるものは、元来児童のために作られたものではないので、いろいろな点で児童の読み物に適しないのが多い。で、あれだけ数ある話の中でも、本当に児童に読ませて差し支へないと思はれるのは、まづこの書に収録した九つの話ぐらゐなもの(後略) (「例言」一―二頁)〔原文、引用終了〕だからだという。そして、従来の訳書の多くが「西洋人が選択して、西洋人が西洋の児童のために書き直したものをそのまま翻訳もしくは抄訳」しているのに対し、本書は「最初から私[わたくし]が選んで、私が書き直したといふ一事」に特徴があると付け加える。たしかに本文は、原文の桎梏から自由になった訳者が、原話の内容を自らの言葉によって語り直したという観がある。また、「若い獅子と大工の話」「アラ・エ・ディーンの話」など、ほとんど一般には知られていない地味な玄人好みの話を選択できたのも、レイン版全訳という経験の裏打ちがあったからこそであろう。一方で彼は、「子供には見せられない、大人の「千一夜物語[アラビアンナイツ]」」を『千一夜物語(恋愛篇)』(世界大衆文学全集58、改造社、一九三一年一月)にまとめ、両極端のあいだで均衡を取っている。
 なお、『アラビヤ夜話』には、バートン版(「バートン・クラブ版」)所収のバッテン John D. Batten(一八六〇―一九三二年)原画に基づく深沢省三(一八九九―一九九二年)のカラー口絵「ユーナン王と学者ヅーバンの話」〔……〕が一点、レイン版のハーヴェイの原画に依拠した単色挿絵が九点〔……〕、画家が独自に描いたと思しき単色挿絵が一点収録されている。(151-152)

この記述だけ読んでも、森田の訳書や著書を観ていない人間にそれを想起させる精緻な研究書である(上掲文中、〔……〕で略した終わりの二箇所は、対応する図版番号)。縦組みの巻末に置かれた〈後記〉は何度も熟読翫味した。全文を引用したい誘惑にかられるが、二箇所だけ引く。

二〇〇三年以降、ほぼ毎年一つずつ、時代や主題を決めて資料の蒐集と調査を行ない、その結果を紀要にまとめる作業を続けたものの、なすべき事柄が続出し、新たな主題が次々と浮上してきたため、現代まで一通りを調べ終えるのに十年弱の年月がかかってしまった。そもそも説話集自体が長大なので、全訳の一つを通読し、翻訳の質を評価するだけで一夏を潰した年もあったほどである。全体として見れば、当初は思いもかけなかった長丁場になった格好である。(782)

 一方、中国明清小説の専門家である大阪経済大学の樽本照雄教授が、中国における『アラビアン・ナイト』について研究成果を発表しておられることを偶然知ったのも、私にとっては大きな刺戟になった。誰も関心を抱かないであろうと思っていた分野に、優れた先達を発見するのは何よりの励みとなるものである。樽本氏はすべての文献について、現物に当たらない限り何も結論を下さないという厳格な実証主義を実践しておられ、その姿勢は私にとっても、及ばずながら見習いたい――古めかしい言葉を使えば、拳拳服膺したい――ものに思われた。(783)

中央公論社版《千夜一夜〔全12巻〕》と《吉岡実全詩集》を一夏かけて読むべきときが来た。


リュシアン・クートーと二篇の吉岡実詩(2007年7月31日〔2011年6月30日追記〕〔2016年10月31日追記〕)

フランスの画家リュシアン・クートー(1904〜77)の絵が吉岡実の詩2篇と関わっていることについて書く。以前〈吉岡実詩集《静物》稿本〉で 触れたが、書きおろしの詩集《静物》(私家版、1955)に収められた詩篇〈風景〉(B・10)は、印刷用原稿=稿本の段階では目次・本文とも〈クートー の風景〉という題名だった。〈クートーの風景〉が校正のある時点で〈風景〉に変わったわけだが、吉岡はいつ、いかなる理由で改題したのだろうか。なにはと もあれ〈風景〉を読んでみよう。

風景|吉岡実

緑の樹は
すみずみまで
けものの歯の中から
船や海岸や館の庭まで繁りつくす
ついには棘ばかりのバラの蔓は
石の出窓をのりこえ
女の奥ふかくの卵型の殻のふちまで
とりかこみそっと支える
それは泛かんでしまった
発端のない世界の変りはてたすがた
注ぐ雨にかたむく世界
稲妻の光にひととき映されて
台所をこのんで歩く鶏たち
パン職人の旺盛なる欲情の手にいっぱい
黄なびた蛙の脚はたれさがり
それへ近づく
非常に静かになった空
緑の弱々しく洩れてくる
落日の地方
ブリキ製の亀の手足や
首のひとゆれが見える町の家の灯
母親が現われる
器の中に食物が捧げられ
いちじくの葉に
美しくわれだす露が示される
黄色に枯れてゆく
事物や風景の下で
家族は団欒する

萩原朔太郎詩を彷彿させる一節もあるが、〈風景〉という題で充分通用する。これが〈クートーの風景〉だと、先行するなにか(それがなん であるかを問 わない)を詩のなかの「風景」がなぞったように映る。いずれも行頭に置かれた「緑の」「黄なびた」「緑の」「黄色に」といった限定が具体的な典拠を想像さ せるだけでなく、〈クートーの風景〉の樹、けもの、バラの蔓、鶏たち、蛙、亀、いちじくなどの動植物が、それこそ絵に描いたように収まってしまって、吉岡 実詩ならではのドライブ感に欠ける憾みが残る。後年、吉岡が金井美恵子に「だから、意識的に卵の詩を書く場合は卵が何回か出るけど、多くの詩の場合は、 「薔薇」なら「薔薇」でもいいや、それが一度出たらもう出てこないはず」(《現代詩手帖》1980年10月号、九八ページ)と語ったことが思い出される。 このように、〈風景〉が〈クートーの風景〉だと詩の印象が微妙に変わってくるが、それは、21世紀の現在の読者よりもこの詩が発表された半世紀前の読者の ほうが強かったのではあるまいか。今日、ほとんど忘れられた感のある画家クートーだが、手近な美術辞典ではこう紹介されている。

クートー ルシアン Lucien Coutaud(1904〜)〔仏・画〕ガール県メーヌに家具職人の子として生る。ニームの美術学校に学んだ後、パリに出て二、三の研究所に通う。一九二 八年頃より作品を発表し出したが、その後イタリアに遊び、初期ルネッサンス、特にピエロ・デラ・フランチェスカに感動したと伝えられる。帰仏後はシュール レアリスムの作品を発表しているが、四二年来は主としてサロン・ドオトンヌ及びテュイルリーに出品、四五年にはサロン・ド・メエの設立に参加した。その独 特の、針と刺を想わせるような線と形の組合わせによる人体からは、一種の悲哀の情と夢幻が不思議な現実感となって、われわれに迫ってくる。最近の彼はタピ ストリーの下絵、建築装飾、バレエの装置など、装飾美術の方面にも、その多才ぶりを発揮している。現在、フランスの中堅作家中、最も注目される一人であ る。(嘉門〔安雄〕)(今泉篤男・山田智三郎編《西洋美術辞典》、東京堂、1954年11月30日、一九八〜一九九ページ)

クートー、 リュシアン Lucien Coutaud 1904.12.13―  フランスの画家。ガール県メーヌに生れた。初期にはシュルレアリスム風の作品を描いているが、運動には参加し なかった。1943年のサロン・ド・メーの設立者の一人。とげの生えたような四肢をもつ切れ切れの人体が現代の荒野を歩む主題を多く描く。特異な装飾性を おびた幻想的画風でデザイン、插絵、建築装飾、舞台美術でも活躍。代表作に『緑のスカート』(1945、パリ、国立近代美術館)がある。(《新潮世界美術 辞典》、新潮社、1985年2月20日、四二八ページ)

クートー Lucien COUTAUD
1904〜77. フランス
南仏メーヌに家具職人の子として生まれる。ニーム美術学校、次いでパリ美術工芸学校に学ぶ '28この頃より作品を発表。その後イタリアに遊学、初期ル ネッサンスに感銘したといわれる。帰仏後シュールレアリスムの異色作家として知られる '42〜主として、サロン・ドートンヌとサロン・デ・チュイルリー に出品 '45サロン・ド・メの設立に参画。以来常任委員 '64〜パリ美術学校版画科主任教授を務めた。油彩画の他、版画はもちろん、壁画、タピスト リー、建築装飾、オペラの舞台デザインなど装飾美術にも多才ぶりを発揮 '67パリ市絵画大賞他受賞多数/カラーエッチング、ビュラン、ドライポイント、 アクアチントなどを駆使し約一〇〇種の銅版画を制作。(室伏哲郎《版画事典》、東京書籍、1985年9月18日、八三八ページ)

吉岡実が《静物》を構成する詩篇を書きついでいた1950年代前半、リュシアン・クートーはわが国美術界で注目されていた、おそらく現 在では想像できないくらいに。
クートーの作品がわが国に本格的に紹介されたのは、《みづゑ》558号(1952年2月)の6点の図版とふたつの文章が最初のようだ(〈画家クートと詩〈模写〉の初出〉に 図版のコピーを掲げてあるのでご覧いただきたい)。同誌掲載の和田定夫〈リュシアン・クートオ〉と荻須高徳による画家のアトリエ訪問記はともに単行本《フ ランスの若き画家達》に収録、二人の共著として同年6月に刊行されている(口絵にカラー1点とモノクロ2点のクートー作品を掲載)。和田は本文で「リュシ アン・クートオの芸術も亦私には中世紀、わけてもゴシックの芸術と近似しているように思われてならない」(《フランスの若き画家達》、美術出版社、 1952年6月20日、四一ページ)――「近代のスフィンクスは形而上の野の中を散歩する」(同前、四三ページ)と書いている。
翌1953年1月には初の個展が神奈川県立近代美術館で開かれ、4ページのリーフレットながら目録も刊行された(吉岡が同展を観た記録はないが、観ていな ければおかしい)。この個展を受けて、《みづゑ》570号(1953年2月)には29点の図版とともに(うち2点はカラー)、土方定一の〈リュシアン・ クートーについて〉が掲載された(同文は《ヨーロッパの現代美術》、毎日新聞社、1953年7月20日に収録)。「リュシアン・クートーのあの vacuum〔真空〕の画面はどうであろうか。この門をひとたびくぐって、月光のように透明で幽暗な照明を浴びたすべてのものは、音という音を奪われ、白 日夢のように、クートーの世界の形と象徴とに変形されてしまう」(同書、一六〇ページ)。
同年同月の《美術手帖》はクートーの図版を17点掲げ(うち2点はカラー)、瀧口修造が〈クトオ偶感〉で「おそらくクトオはフロイドの世紀の古風で優雅な 寓意画家ということになるのではなかろうか」(同誌、1953年2月号、一〇ページ)と書き、末松正樹が〈地平線の神秘――リュシアン・クトー展の印象〉 で「幻想の世界をあれほどリアルに表現するためには、こうしたリアリズムの基盤と優れた造型力がなければならないので、彼の鋭いデッサン、線やフォルムの きびしさ、構成の密度は高く評価されねばなりません」(同前、一五ページ)と書いた。
さらに翌翌1954年には、美術全集に絵画作品が掲載された。《世界美術全集 27〔西洋二十世紀U〕》(平凡社、1954年6月30日)の1点(図版解説は吉川逸治)と、座右宝刊行会編《現代世界美術全集〔第9巻〕》(河出書房、 1954年8月25日)の8点がそれである。吉岡が〈〔クートーの〕風景〉を書くにあたって参照したのは、この大判(B4の天地切り)の《現代世界美集 〔第9巻〕》だったと思われる。その理由は追って述べるが、まずは本書の紹介を簡単にしておこう。《現代世界美術全集》は梅原龍三郎・志賀直哉・福島繁太 郎・武者小路実篤・安井曾太郎といった重鎮が監修者に名を連ねているが、本巻を実際にまとめたのは、以下に収録画家とともに掲げる( )内の解説執筆者た ちだろう。
グロメール(大久保泰)/タンギー(田近憲三)/クートー(徳大寺公英)/ピニョン(富永惣一)/マルシャン(嘉門安雄)/ロルジュ(和田定夫)/マネシ エ(植村鷹千代)/ミノー(益田義信)/ビュッフェ(福島繁太郎)/クラーヴェ(宮田重雄)
10人集のなかにあって、その作風をひとことでいえば「神経質なダリ」とでも呼ぶべきクートーは、異色の画家という印象が強い。収録されたクートー作品の 図版は以下のとおりである(ローマ数字の番号は引用者が付けたもの)。
原色版(カラー)
 T〈トリアノンの娘たち―Les desmoiselles Trianon〉1951
 U〈若いロアルアルブル―Jeunes loirarbres〉1952
グラヴィア(モノクロ)
 V〈ラインの想い出―Souvenir rhenan〉1930
 W〈緑の広場と青い雲―Trois nuages bleus sur la place verte〉1944
 X〈夜のパン運び―Porteuse du pain dans la nuit〉1945
 Y〈想い出―Souvenir〉1949
 Z〈右手に灰色の男が現われる―A droite, l'homme gris fonce parait〉1952
 [〈海岸のエロティコマジー―Plage de l'Eroticomagie〉1954
この図版は、前掲《みづゑ》や《美術手帖》、掲載文を収録した単行本に添えられたどのクートーの図版よりも、吉岡の〈〔クートーの〕風景〉の詩句と連動し ているようにみえる(資料として〈主要媒体に掲載されたクートー作 品の図版一覧〉を末尾に掲げた)。
まずカラーの2点のうちUは「緑の樹は/すみずみまで/けものの歯の中から/船や海岸や館の庭まで繁りつくす」、Tは「ついには棘ばかりのバラの蔓は/石 の出窓をのりこえ/女の奥ふかくの卵型の殻のふちまで/とりかこみそっと支える/それは泛かんでしまった/発端のない世界の変りはてたすがた」という、詩 篇の冒頭部分に対応する。

リュシアン・クートー〈トリアノンの娘たち―Les desmoiselles Trianon〉1951 リュシアン・クートー〈若いロアルアルブル―Jeunes loirarbres〉1952
T〈トリアノンの娘たち―Les desmoiselles Trianon〉1951(左)とU〈若いロアルアルブル―Jeunes loirarbres〉1952(右)
出典:座右宝刊行会編《現代世界美術全集〔第9巻〕》(河出書房、1954年8月25日、図版5〜6)

一方、モノクロ6点のうち、Wは「非常に静かになった空/緑の弱々しく洩れてくる/落日の地方」に、Xは「稲妻の光にひととき映されて /台所をこの んで歩く鶏たち/パン職人の旺盛なる欲情の手にいっぱい/黄なびた蛙の脚はたれさがり」に、Zは「母親が現われる」に、[は「事物や風景の下で/家族は団 欒する」に対応するように見えなくもない。――などと遠回しに言うのも、モノクロ図版のクートー作品になにが描かれているか判別しにくいのに加えて、吉岡 の詩句が常にも増して意味をたどりにくいからである。
XおよびZは、画題と吉岡の詩句が呼応している点に注目したい。これは、のちのスタンチッチの画題と〈死児〉(C・19)の関係を先取りしていよう。これ らの図版と詩行が完全にマッチしなくても、クートー作品と吉岡詩を詩画集のように観て、読む自由は今日のわれわれに残されている。

リュシアン・クートー〈緑の広場と青い雲―Trois nuages bleus sur la place verte〉1944 リュシアン・クートー〈夜のパン運び―Porteuse du pain dans la nuit〉1945
W〈緑の広場と青い雲―Trois nuages bleus sur la place verte〉1944(左)とX〈夜のパン運び―Porteuse du pain dans la nuit〉1945(右)
出典:座右宝刊行会編《現代世界美術全集〔第9巻〕》(河出書房、1954年8月25日、図版15〜16)

――本全集の装丁は原弘。特筆に価する造本設計・レイアウトも原(のディレクション)だろう。〈解説〉以下の本文はスミと紫の2色刷り で、同じスミと紫(ノンブルのみ)による印刷の《静かな家》(思潮社、1967)のスルスのひとつか。――

リュシアン・クートー〈右手に灰色の男が現われる―A droite, l'homme gris fonce parait〉1952 リュシアン・クートー〈海岸のエロティコマジー―Plage de l'Eroticomagie〉
Z〈右手に灰色の男が現われる―A droite, l'homme gris fonce parait〉1952(左)と[〈海岸のエロティコマジー―Plage de l'Eroticomagie〉1954(右)
出典:座右宝刊行会編《現代世界美術全集〔第9巻〕》(河出書房、1954年8月25日、図版18〜19)

資料が乏しいため、詩集の標題を《静物》と決めた時点をどこまで遡れるか定めがたいが、入稿原稿の取りまとめは遅くとも1955年の春 と思われる (印刷されなかった稿本の扉原稿に「吉岡實詩集/静物/1955.5.5」と三行で横書きされている)。吉岡は浄書稿を各詩篇単位で編入・削除することに より差し替えたり、詩篇の順番を入れ替えたりして、詩集の構成を模索している。そうしたなかで、詩集が《静物》と名づけられるやただちに「静物画」を想起 させるため、集められた各詩篇は一様に絵画的な光のもとで眺められる(吉岡がそれを実感したのは、自らの筆跡を離れた初校ゲラで全篇を見わたしたときだろ う)。これが、吉岡が本篇を〈クートーの風景〉のままとしなかった遠因である。夢想する魂を手堅い技倆で裏打ちする吉岡の「画風」も、クートーのそれと同 じ方向性にあった。吉岡は、戦後の出発時に「典拠と引用」の方法にきわめて近い地点に立ちながら、クートーの図版をもひとつの現実として見る、いうならば 「裸眼の詩想」を奉じる形で4篇の〈静物〉を作画した。そのとき〈風景〉はだれのものでもない、吉岡自身のものと作者は認識した。ために〈風景〉(つまり 〈〔クートーの=吉岡の〕風景〉)と改題したのだ。「『静物』は一九五五年、二百部自費出版した。無名画家が個展をひらくような期待と不安の裡で」 (《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、七三ページ)。この「無名画家」には、いかなる画家の固有名詞もよけいだった。

「死児」及び「サフラン摘み」の二篇は、つまるところ絵画によって引き出された詩、絵画に憑依された詩、さてはそ の境地を語り込んだ詩と言いうるものであって、この一点に拠って、同じく絵画を凝視することから成った「狩られる女――ミロの絵から」、これも《美術雑誌 で見た、シュルレアリスムの女流画家レオール・フィニの絵を題材にした》と明かされたことが有る「沼・秋の絵」や「模写――或はクートの絵から」といった 類の、絵画を描写した詩、敷衍した詩、解釈した詩とは、どうやらジャンルを異にしているらしいのである。(秋元幸人〈吉岡実と『死児』という絵〉、《吉岡 実アラベスク》、書肆山田、2002、二八七ページ)

吉岡実は次に引く詩篇〈模写――或はクートの絵 から〉(E・4)を、詩集《紡錘 形》(草蝉舎、1962)――秋元文に見える〈狩られる女――ミロの絵から〉(D・18)と〈沼・秋の絵〉(D・21)が収録されている――刊行後の 1963年もしくは64年に書いたと思しいが、〈模写〉の発表媒体(初出掲載紙誌)はまだわかっていない。ちなみに〈沼・秋の絵〉の典拠、フィニの〈世界 の終末〉(1948)は、クートーの〈右手から灰色の男があらわれる〉(1952)とともに、前出《世界美術全集 27〔西洋二十世紀U〕》にフィニの作品としてはただ一作、グラビア版として掲載されている。

模写――或はクートの絵から|吉岡実

沼の魚はすいすい泳ぐ 1
骨をからだ全体に張り出して 2
犬藻や中世の戦死者の髪の毛を 3
暗がりから 暗がりまでなびかせて 4
頭の上の尖った骨で光るのは? 5
もちろんくびられた女王の金髪だ 6
今晩だって砂浜へ大砲をすえたまま 7
中年の男が一人で戦争をはじめるだろう 8
日が出るまでに 9
その男はふとった幽霊になるだろう 10
首尾よく行けば 11
歴史的な楽園が見える? 12
干された蛸 干された蟹 13
網目と裂け目 14
雪のある陸地から 15
この軍艦の幾艘もつながれた島へくる 16
着飾った男と女のよりよい神秘の愛 17
わたしは祝祭してやりたいと思う 18
画家ならば美しい着物を 19
手足から胴まで棒のように 20
まきつけて 21
生命力が失われるまで立たせておく 22
昼より暗い空 或は蛙のとびまわる水草のなかへ 23
いま一歩の歩みが大切だ 24
死んだ少女の股までの百合の丈 25
赤粘土層のゆるやかな丘への駈け足 26
見ること 見えている中心は 27
不完全な燃焼の 28
ミルク・ゼリーと冷たい鉢 29
画家の高熱期も終り 30
わたしは現在をさびしい時代だと思う 31
秋から冬へかけて注意深く 32
軍艦は全部円を廻る 33
ときには円を割る 34
野菜園のある段畑へすすみ衝突して 35
くだかれたニンジン・キャベツ 36
わたしは走る・跳ねる見物人として 37
死んだ少年のむれ そのいたいたしい 38
美しいアスパラガス 39
画家は彼らのために涙をながすと思う 40
石に描かれた若い蛇の苦悩の肉体はいま 41
膿でなくなり拡がる平面 42
ときおりの雨にぬらされるだろう 43
まだ描かれない絵が 絵が所有する細い細い紐 44
テーブルの向うに山嶽 氷る甲虫の卵 45
わたしにそれらが見えない 46
真紅な色の持続をのぞんでいる 47

1963年3月20日から29日まで〈リュシアン・クートオ新作展〉東京展が日動画廊で開かれた。クートーとは30年来の友人・今日出 海が、新作展 の10年前に小林秀雄といっしょにフランスのクートーの家に行った、と〈友遠方より来る――リュシアン・クートオのこと〉に書いている。「彼の画布の上に 小林の表現を借りるとトゲトゲの人物が現われたのをこの時始めて見た。明るくむしろロマンチックな画だったのが、現在の彼の画布にトゲトゲの騎士のような 男や長いスカートをはいたトゲトゲの貴婦人が登場し始めたのを、戦争の10年間の所産というか成長というか、どう見ようと勝手だが、私はむしろ苦労の結実 と見たい。/〔……〕/小林秀雄君は彼のアトリエへ招かれ、ともに食事をよばれた時「あれは本ものだね」と私に語ったのを忘れない。彼の画風は好むものも あろうし、また反対の意を表する人もあるだろう。が、人間は本ものだし、腕も本ものだと私は信じている」(《みづゑ》通号699、1963年5月、七八 ページ)。
秋元幸人の指摘のように〈模写――或はクートの絵から〉が「絵画を描写した詩、敷衍した詩、解釈した詩」なら、吉岡はいったいどの「クートの絵」から本篇 を構想したのであろうか。展覧会に合わせて刊行された図録《クートオ新作展》(〔日動画廊・毎日新聞社〕、c1963年3月)を主たる資料として ――1990年、フランスで開かれたクートー展のカタログ《Atelier Lucien Coutaud(1904-1977)》(Etude Gros Delettrez、1990)を補助的に使用して――考察してみよう。
〈模写――或はクートの絵から〉と《クートオ新作展》には、先の〈風景〉とクートー諸作品ほど濃密な関係はみられない。絵柄と詩句には関連を裏付けるもの がほとんどなく、唯一〈11. 赤布のひだの中に太陽を包む若い異教徒の闘牛士〉と「画家ならば美しい着物を/手足から胴まで棒のように/まきつけて/生命力が失われるまで立たせてお く」(19〜22行)が似ている程度だ。新作展全作の図版が図録に掲載されているわけではないが(55点中36点掲載)、図版化して映える作品から詩句が 紡ぎだされたのでないことは確かだ。火のない処に煙を立てるような、この副題を付ける行為の意味するところはなにか。
末尾資料〈主要媒体に掲載されたクートー作品の図版一覧〉に 煩瑣なまでにクートー作品のタイトルを挙げたのは、吉岡が展覧会や印刷物(図版)で接した可能性のある作品を残るくまなく示すことが目的だが、吉岡が観な かったであろう作品と吉岡の詩句に偶然とは思えない類似が存在する。すなわち「死んだ少年のむれ そのいたいたしい/美しいアスパラガス/画家は彼らのた めに涙をながすと思う」(38〜40行)と〈LA LETTRE, OU AUTOPORTRAIT〔手紙、或は自画像〕〉(1942)だ。クートーの作品は《Atelier Lucien Coutaud(1904-1977)》(Etude Gros Delettrez、1990)の表紙に なっていて、表紙は原画の左側三分の二程度を残してトリミングされているが、画面の右方にはアスパラガスに変身した少年(?)が見えるではないか。私の見 おとしでなければ、〈手紙、或は自画像〉はかつて日本で開かれた展覧会や出版された印刷物(図版)になく、吉岡がどこかで観たのだとしたら、その典拠は不 明と言うしかない。というわけで、残念ながら「或はクートの絵から」の出所の探索は打ちきらざるをえない。〈模写――或はクートの絵から〉初出の調査とと もに、今後の課題としておこう。
吉岡実は〈模写――或はクートの絵から〉を《吉岡実〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968)の《静かな家》抄録詩篇のひとつに選んでおり、同詩集のなか でも自信作だったに違いない。この詩篇の標題「模写」はなにを意味するのか。国語辞典に拠れば、「模写」は

まねてうつすこと。また、そのうつしとったもの。「名画を模写する」

とあり、例文はまさに吉岡の題名と同じ用法だ。一方、英和辞典には

a copy; a reproduction; a facsimile
模写する copy; reproduce

とある。だが、吉岡実とリュシアン・クートーとの関係を見てきたわれわれは、これを「コピー」ではなく「パスティシュ」(プルーストが それを「賞賛 的批判」と呼んだように)と読みかえなければならない。では〈クートーの風景〉をしりぞけて〈風景〉とした吉岡が、このたびはなぜ〈模写――或はクートの 絵から〉と副題に画家の名を記したのか。遠回りのようだが、《静物》と《僧侶》の詩篇に立ちかえる必要がある。クートー的詩篇が〈風景〉と〈模写――或は クートの絵から〉にとどまらないころに、吉岡実の詩法の秘密があると思われるからだ。1956年11月に雑誌に発表され、詩集《僧侶》に収められた〈島〉 (C・3)といえば、初期の吉岡が多用した散文詩型の一篇だが、これを行分けの詩にしてみると〈風景〉との類似が際立ってくる。

島へ上り
男は岩角でみつける
獣や魚の大きな弓なりの骨片の類
自転しながら太陽が晒した
くろい蛸のあたまの収縮図
徐々に水平になってゆく男の眼の岸は
鋭角的な月の出だ
忘れよう
今ひじょうな鮮明度で
海鳥の卵が迫る
こんな時どうして音楽が聴かれないのだろう
それが不眠性の弧を形づくるとき
男のなげだした遠い手足がわずかにうごく
そのたび下の端から
島の面積が狭まりだす
ここはたしかに明日の落日の巣だ
飛び立たぬ幻の鳥たちのために
男のかたわらに拡大される
はげしく光に曝された卵の全面
どこを探しても冒険ずきの人間の爪の痕ひとつ見あたらぬ
選びはしない
このアトラス
男はやせた胎内から
少しの声と血をしぼりだす
絶縁体に沿うて向う側を冬の波がすべり続ける

これを読んでも、詩集《僧侶》における吉岡がリュシアン・クートーに多くを学んでいることが理解されよう。逆に言えば、クートーから遠 く離れたこの 時期だからこそ、はじめて「クートの絵から」と書きつけることが可能になったのであって――「画家の高熱期も終り/わたしは現在をさびしい時代だと思う」 (30〜31行)――、詩句が画面と似ようが似まいが本篇の鍵とはなんの関係もなく、〈風景〉や〈島〉を遥かなエコーとして副題にその画家の名を(おそら くは感謝の気持をこめて)記したのだ。

最後に疑問が残る。Lucien Coutaudのカタカナ表記である。資料〈主要媒体 に掲載されたクートー作品の図版一覧〉を見れ ばわかるように、「クートー」(全般的に見られる)と「クートオ」(とりわけ初期に多い)の双方があるものの、吉岡が書くような「クート」が見えないのは どうしたわけだろう。今もって最大の謎である。

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【資料】 主要媒体に掲載されたクートー作品の図版一覧

図版印刷方式の「原色版」はカラー、「グラビヤ版」はモノクロ、特記なき 図版(多くは凸版)はモノクロである。 クートー作品と関連文献の載録に当たり、漢字は一部の人名を除いて新字に統一し、かなづかいは原文のママとした。なお、一覧化にあたって表記上の体裁を整 えるため、適宜補綴した。

《みづゑ》(通号512、1948年6 月)

  • グラビヤ版
    1. クートー 春 1936

《みづゑ》(通号558、1952年2 月)〈クートオの作品〉

  • 和田定夫〈リュシアン・クートオ〉
  • 荻須高徳〈クートオのアトリエ訪問〉
  • グラビヤ版
    1. クートオ 自転車 1929
    2. クートオ 農作機 1938 〔本号の表紙画も〕
    3. クートオ 夜のパンの運搬者 61× 46cm 1945
    4. クートオ 緑の広場の三つの雲 81× 54cm 1944
    5. クートオ 海の研屋 1950
    6. クートオ トリアノンの姫達 1951

和田定夫・荻須高徳《フランスの若き画家 達》(美術出版社、1952年6月20日)

  • 口絵
    1. クートオ 花 1936 〔カラー〕
    2. クートオ 寝台の夢 1945 〔モノクロ〕
    3. クートオ 想い出 1949 〔モノクロ〕
  • 和田定夫〈リュシアン・クートオ〉
  • 荻須高徳〈クートオのアトリエ訪問〉

《みづゑ》(通号563、1952年7 月)〈日本国際美術展特集〉

  • 原色版
    1. クートオ 反響のないハープ 73× 60cm 〔仏文表記あり〕

《美術手帖》(1952年7月号)

  • 植村鷹千代〈フランスとアメリカの作品――合理主義と行動性〉
  • 原色版
    1. クートー デ・ロワラブル 73× 50cm 〔図版解説:末松正樹〕

《クートー個展目録》(神奈川県立近代美 術館、c1953年1月)〔会 期:1月1日〜2月22日〕

  • 表紙カラー図版
    1. 遠方の風景〔題名の表示なし〕
  • 神奈川県立近代美術館運営委員会〈クートー個展について〉
  • クートー個展作品目録
    • 油絵〔全29点〕
    • デッサン・水彩〔全26点〕
    • グワーシュ〔全14点〕
    • タピスリー(綴織の壁布)〔全1点〕
    • オー・フォール(腐蝕銅版画)〔全30点〕

《美術手帖》(1953年2月号)〔作 品写真はすべてクートー個展よ り取材したもの〕

  • 目次
    1. クートー 天使娘(デッサン) 1945
  • 滝口修造〈クトオ偶感〉
    1. クートー 果実娘 35×24cm  1949 〔原色版〕
  • 末松正樹〈地平線の神秘――リュシアン・クトー展の印象〉
    1. クートー 塔の附近の風景 60.5× 73.5cm 1947
    2. クートー パンの運搬人の戸棚 100× 81cm 1947
    3. クートー 八月の日 41×33cm  1950
    4. クートー 十一に仕切った人物(エッチング) 1947
    5. クートー いなかの紋章 66×50cm  1946
    6. クートー 若いロアルアルブル 46× 38cm 1952
    7. クートー フェードルの椅子(エッチング) 1945  11×16cm
    8. クートー 坐っている大きな女 31.5& times;46cm 1945
    9. クートー 夜(グワッシュ) 1947
    10. クートー 眠っている裸婦のエチュード 1947  61×50cm
  • グラビヤ版
    1. クートー 遅れてしまった水浴者(グワッシュ)  21×14cm 1949
    2. クートー 黒い月(エッチング) 17× 27cm 1951
    3. クートー 黒い月(エッチング) 17× 27cm 1951
    4. クートー 遠方の風景(グワッシュ) 37& times;30cm 1951
    5. クートー 句読点のある岩(グワッシュ) 25.5& amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; times;34.7cm 1948 〔原色版〕

《芸術新潮》(1953年2月号)〈クー トー個展 オフセット〉

  • 土方定一〈リュシアン・クートーの心理風景〉
    1. 右手から灰色の男が現れる 1952
    2. 魔法の手(タピスリ) 2.8×3.4m  1944
    3. 黒い月(オー・フォール)
    4. カフカの「幼年」(オー・フォール)
    5. ――(オー・フォール)
    6. 影(水彩画) 1946
    7. 若い天使(水彩画) 1945
    8. 鼠がかった人間(水彩画) 1945
  • 〈クートーの作品〉〔カラーオフセット〕
    1. ヤマネ樹(油) 1952
    2. 夏の浜辺(グワッシュ) 1952
    3. 夏の日(グワッシュ) 1950
    4. おくれてしまった水浴者(グワッシュ) 1949

《みづゑ》(通号570、1953年2 月)〔作品はすべてクートー個 展に出品したもの〕

  • 土方定一〈リュシアン・クートーについて〉
    1. クートー フールの娘(油) 35× 24cm 1945
    2. クートー ロワルアルブル夫人(油) 35& times;24cm 1951
    3. クートー 幻想の寝台(油) 38× 46cm 1945
    4. クートー 塔の近くの風景(油) 60× 73cm 1947
    5. クートー 白い脚の樹(油) 38× 46cm 1947
    6. クートー 緑色の部屋 50×73cm  1947 〔仏文表記あり〕 〔原色版〕
    7. クートー 遅れてしまった水浴者 21× 14cm 1949 〔仏文表記あり〕
    8. クートー 馬を見ている眼(水彩) 27& times;35cm 1946
    9. クートー 晴着をきた人(グワッシュ) 27& amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; times;35cm 1952
    10. クートー プールの若い婦人(デッサン) 43& amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; times;29cm 1945
    11. クートー パリ郊外(デッサン) 46× 31.5cm 1945
    12. クートー 休んでいる人(デッサン) 46& times;31.5cm 1945
    13. クートー 天使娘(デッサン) 46× 31.5cm 1945
    14. クートー 若い天使(デッサン) 46× 31.5cm 1945
    15. クートー 坐っている大きな女(デッサン) 46& amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; times;31.5cm 1945
    16. クートー ランプを頭にのせたパンの運搬人(デッサン)  44×31.5cm 1946
    17. クートー 27番目の婦人(デッサン) 43& amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; times;29cm 1945
    18. クートー 親切な若い娘(デッサン) 31.5& amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; times;46cm 1945
    19. クートー 印刷紙の修正(デッサン) 49& times;64cm 1946
    20. クートー 黒い点のある水浴者(油) 38& times;46cm 1950
    21. クートー パン運搬人の戸棚(油) 81& times;100cm 1947
    22. クートー 果実娘(油) 33×24cm  1949
    23. クートー 若いロアルアルブル(油) 46& times;38cm 1952
    24. クートー ラコストの眺め 60× 73cm 1949 〔仏文表記あり〕
    25. クートー 遠方の風景(グワッシュ) 30& times;37cm 1951 〔仏文表記あり〕 〔原色版〕
    26. クートー 黒い月(オー・フォール) 27& times;17cm 1951
    27. クートー 黒い月(オー・フォール) 27& times;17cm 1951
    28. クートー 遊び(オー・フォール) 18& times;13.5cm 1951
    29. クートー 夜(グワッシュ) 15× 23.5cm 1947
  • 〈神奈川県立近代美術館 リュシアン・クートー個展作品目録  1953年1月1日〜2月22日〉
    • 油絵〔全29点〕
    • デッサン・水彩〔全26点〕
    • グワッシュ〔全14点〕
    • タピスリー(綴織の壁布)〔全1点〕
    • オー・フォール(腐蝕銅版画)〔全30点〕

土方定一《ヨーロッパの現代美術》(毎日 新聞社、1953年7月20日)

  • 土方定一〈リュシアン・クートーについて〉
    1. クートー トリアノンの娘たち 1950 1951年度サロ ン・ド・メエ出品
    2. クートー 塔の近くの風景 1947
    3. クートー 緑の広場の三つの雲 1944
    4. クートー 灰色の男が右手から現われる 1951
    5. クートー 「地獄の季節」のための挿絵 オー・フォールト  1952
    6. クートー 「地獄の季節」のための挿絵 オー・フォールト  1952
    7. 表紙装画 リュシアン・クートー

《世界美術全集27〔西洋二十世紀U〕》 (平凡社、1954年6月30日)

  • 吉川逸治〈戦後のフランス〉
    1. クートー 緑のスカート
  • グラビヤ版
    1. クートー 右手から灰色の男があらわれる 1952
  • 吉川逸治〈図版解説〉

梅原龍三郎・志賀直哉・福島繁太郎・武者 小路実篤・安井曾太郎監修、座右宝刊行会編《現代 世界美術全集〔第9巻〕》(河出書房、1954年8月25日)

  • 原色版
    1. クートー トリアノンの娘たち Les desmoiselles Trianon 1951 114×146cm
    2. クートー 若いロアルアルブル Jeunes loirarbres 1952 46×36cm
  • グラヴィア
    1. クートー ラインの想い出 Souvenir rhenan 1930 162×130cm
    2. クートー 緑の広場と青い雲 Trois nuages bleus sur la place verte 1944 54×81cm
    3. クートー 夜のパン運び Porteuse du pain dans la nuit 1945 61×46cm
    4. クートー 想い出 Souvenir 1949
    5. クートー 右手に灰色の男が現われる A droite, l'homme gris fonce parait 1952
    6. クートー 海岸のエロティコマジー Plage de l'Eroticomagie 1954 162×130cm
  • 徳大寺公英〈原色版解説〉〈グラヴィア解説〉〈リュシアン・クー トー〉

《クートー新作展》(〔日動画廊・毎日新 聞社〕、c1963年3月)〔東 京展会期:3月20日〜29日、大阪展会期:4月9日〜14日〕

  • ジョルジュ・シャルボニエ(黒江光彦訳)〈〔人間の蒸発とでもいえ ることを……〕〉
  • 図版
    1. 8. 風の淑女たち
    2. 30. 避暑客たち
    3. 15. 十月の海
    4. 38. 1960年6月6日の想い出に 〔カラー〕
    5. 33. 波を刈る若者
    6. 9. 灯台の女たち
    7. 2. 荒城への行列
    8. 26. 灯台の女
    9. 34. 薄明に波を刈る人びと
    10. 21. 波を刈る人びと
    11. 24. 大きな樹
    12. 12. 海辺の板張の断片
    13. 31. ある日曜日
    14. 13. 海の帽子
    15. 27. ロクヴェールから彼らはここに来た
    16. 35. 花をつけた鳥 〔カラー〕
    17. 5. 彼らは決して飛び立たない
    18. 32. 海浜の断片
    19. 17. 砂の貴婦人たち
    20. 11. 赤布のひだの中に太陽を包む若い異教徒の闘牛士
    21. 19. クリビュス
    22. 16. 砂の貴婦人
    23. 22. サーカスは夜ふけに来た
    24. 10. バラ色どきの樹
    25. 3. 干潮どきのオリエント人
    26. 1. 黒いアイリスをつけた波を刈る若い女
    27. 20. 股鍬の城
    28. 25. 九月の終り
    29. 23. ドーヴィルの海浜
    30. 29. 七月のはじめ
    31. 6. 彼らは溺れない
    32. 18. 八月の漁夫
    33. 28. 彼は西洋杉のねかたで遊んだ
    34. 7. 花をつけた鳥
    35. 14. 一対の帽子
    36. 4. 西洋杉の姉妹
  • 〈出品目録〉
    • 油絵〔1〜34、全34点〕
    • グァッシュ〔35〜42、全8点〕
    • デッサン〔43〜55、全13点〕
  • 〈ルシアン・クートー略歴〉

《三彩》(通号161、1963年4月)

  • 和田定夫〈ルシァン・クートー――雑記〉
  • 原色版
    1. クートー 十月の海 1962 40× 73cm
  • 図版
    1. クートー 海辺の板張の断片 1961 60& amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; amp; times;73cm
    2. クートー 荒城への行列 1957 81& times;100cm
    3. クートー 花をつけた鳥

《三彩》(通号162、1963年5月)

  • 和田定夫〈リュシアン・クートー――雑記(続) 京都 奈良を彼と共に歩く〉 

《みづゑ》(通号699、1963年5 月)

  • 今日出海〈友遠方より来る――リュシアン・クートオのこと〉
  • 原色版
    1. クートオ 荒城への行列 81× 100cm 1957 (日動画廊個展出品) 〔仏文表記あり〕
  • 図版
    1. クートオ 黒いアイリスをつけた波を刈る若い女 1962

■《Atelier Lucien Coutaud(1904-1977)》(Etude Gros Delettrez、1990)

  • Boris Vian 〈Lucien Coutaud〉
  • 〈Preface〉
  • 図版 〔作品のフランス語タイトルは割愛した。タイトルによって は、図版が複数あるものや図版がないものもあるため、図版番号=( )内の数字、と図版点数は必ずしも一致しない。〕
    • gravures(1〜17)=掲載図版なし
    • dessins(18〜31)=モノクロ図版19点、カラー図 版2点
    • gouaches(32〜120)=カラー図版85点、モノク ロ図版4点
    • sculptures ceramiques, objets d'art(121〜126)=カラー図版4点、モノクロ図版2点
    • tableaux(127〜177)=カラー図版50点

《Atelier Lucien Coutaud(1904-1977)》(Etude Gros Delettrez、1990)の表紙 〔原画は〈LA LETTRE, OU AUTOPORTRAIT〉(1942)〕
《Atelier Lucien Coutaud(1904-1977)》(Etude Gros Delettrez、1990)の表紙
〔原画は〈LA LETTRE, OU AUTOPORTRAIT〉(1942)〕

〔2011年6月30日追記〕
クートーと面識のあった日本人はわりあいいたようだ。多くは芸術関係者だろうが、毛色の変わったところで、永くパリで原子物理学の研究を続けた湯浅年子 (1909-80)がいる。その随筆に《パリ随想――ら・みぜーる・ど・りゅっくす》(みすず書房、1973年6月21日)があり、〈7 一七世紀の月旅行〉が収められている。題名からはわからないが、〈リュシアン・クートーからの招待状――一七世紀の月旅行〉とでも名付けたい内容だ。シラ ノ・ド・ベルジュラックの著書の挿絵を担当したクートーから招かれた出版記念パーティーにまつわる出来事を、闊達な筆で書いた文章だ(満洲にいた吉岡実が 軍旗祭で演じたのが、《シラノ・ド・ベルジュラック》のパロディだった)。クートーが「シラノ・ド・ベルジュラック Cyrano de Bergerac の書いた“Voyage dans la lune”(『月の世界旅行』)の挿画としてオリジナルの版画をつく」(同書、八六ページ)ったその豪華版は、湯浅が随想〈一七世紀の月旅行〉を《みす ず》1971年7月号に掲載(末尾に「一九七一年五月二十三日記」とある)した同じ年に、Club du livre Philippe Lebaud から限定325部で刊行されている。同随想に吉岡実詩との関連を窺わせる記述はないので、《パリ随想》の〈6 フランスの論理と日本の論理〉の一節を引こう。

〔……〕日本の学会に行ったフランス人たちは、けっして日本にいるフランス人を頼りにすることはなくて、苦心しなが らも日本での 生活の自らの探検を楽しんでいるのであった。〔……〕日本でも展覧会を数回ひらいたフランス人の画家のクートー氏など、道をまちがえないために街の角々で めぼしい建物をすばやくスケッチして、それを頼りに東京を物したと言っていた。ちなみに、同氏は、東京の浅草の裏町で、傘屋が傘をたくさん干している光景 の美しさとか、わらじを作る老爺の手さばきの型のみごとさとか、おみくじの字の美術性とかいうものに鋭い観察をして帰って来たが、いずれもそれは自分の発 見で、けっして日本にいるフランス人の手を借りたものではなかった。(同書、七五〜七六ページ)
後年、湯浅年子は歿して間もないクートーを追悼して、《続・パリ随想――る・れいよん・ゔぇーる》(みすず書房、1977年9月5日)の口絵にクートーの グワッシュ〈たそがれ Crepscule 1975〉をカラーで、巻頭に〈序に代えて――リュシアン・クートー Lucien Coutaud 氏を悼む〉を掲げている。

Cyrano de Bergerac《Voyage dans la lune》(Club du livre Philippe Lebaud、1971)のリュシアン・クートーによる挿画〔全20点のエッチングのうちの1点〕
Cyrano de Bergerac《Voyage dans la lune》(Club du livre Philippe Lebaud、1971)のリュシアン・クートーによる挿画〔全20点のエッチングのうちの1点〕

〔2016年10月31日追記〕
吉岡実の詩篇〈模写――或はクートの絵から〉(E・4)の初出誌が判明した。1963年8月発行、金子兜太編集の俳句同人誌《海程》〔発行所の記載なし、 発行者は出沢三太〕9号〔2巻9号〕がそれだ。ちなみに、初出形と定稿形(詩集《静かな家》収録)の間には、ひらがなの促音(「っ」/「つ」)の表記を除 いて、詩句に異同はない。


《「死児」という絵〔増補版〕》の本文校訂(2007年6月30日)

《「死 児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)は吉岡実の散文の集大成である。私がふだん吉岡の文章を読むのもこの本であり、大いに重宝している。吉岡 は本書が筑摩叢書に入るとあって、散文集の決定版にするつもりだったであろう。それだけに、誤植や校訂もれなどの瑕疵が惜しまれる。私の書きこみ用の同書 から、本文を校訂すべき箇所を引きうつしてみよう。なお引用文のふりがなはここでは取りあげない。( )内の数字はノンブル・行数で、行アキはカウントし ていない。

  1. 大鷲神社→鷲神社(7・17)
  2. 〔ヌケ〕→六月二十日(13・5)
  3. 昭和二十二年八月二十二日→昭和二十二年八月二十日(14・6)
  4. 擬すのだという→擬するのだという(15・11)
  5. 。ユニークな随想集といえるだろう、→、ユニークな随想集といえるだろう。(15・17)
  6. 呉健→呉建(39・ 10)
  7. あたま専ら→あたまも専ら(68・2)
  8. 自転車競争選手→自転車競走選手(80・8)
  9. 見るもの→見えるもの(89・16)
  10. 夕→夕べ(97・8)
  11. 石油鑵自然に一つ跳ね瀕死の猫→石油鑵自然に一つ跳ね 瀕死の猫(103・6)
  12. 三ヶ山孝子→三ケ山 孝子(136・4)
  13. 金を欲る汗ぼふぼふとひとの前→金を慾る汗ぼふぼふとひとの前(141・5)
  14. 甘く苦い旨い→甘く苦く旨い(147・6)
  15. 落着→落着き(157・15)
  16. 《卵のふる町》→《卵 のふる街》(192・14、 15)
  17. 〈今日の詩人叢書〉→〈今 日の詩人双書〉(211・ 7)
  18. 《現代詩講座》→《講 座現代詩》(213・15)
  19. 昭和三十五年→昭和三十三年(219・11)
  20. 二晩おきに、→二晩おきに(270・16)
  21. 見てとれる→見てとられる(332・8)
  22. ゆう風に→ゆふ風に(340・5)
  23. イメージ→イメジ(361・8)

書名や著者名は《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題 付〕》も参照されたい。初出一覧は、 実見した際の現物の情報を《吉岡実未刊行散文集 初出一覧》の◎ 印と●印に記載してあるので、そちらをご覧いただけるとありがたい。私の書きこみ用の《「死児」という絵〔増補版〕》は、緑やオレンジの蛍光マーカー、赤 のボールペン、黒鉛筆の記入でいっぱいだ。せめて外装だけでも綺麗に、と封筒用の丈夫な厚紙で手製のブックカバーを作った(題簽は筑摩叢書の新刊案内を切 りぬいて貼ったもの)。それも20年近い月日の経過とともに擦れて、いまでは写真のようなありさまだ。

書きこみ用の《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)の中面と手製のブックカバー
書きこみ用の《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)の中面と手製のブックカ バー


吉岡実と澁澤龍彦(2007年5月31日〔2019年12月31日追記〕〔2020年7月31日追記〕)

吉岡実にとって澁澤龍彦とは誰だったのか。吉岡実が澁澤龍彦と出会ったのは、1960年4月6日(吉岡のこの日の日記に澁澤が登場する)以前で、吉岡の言によれば澁澤が筑摩書房に本を買いにきたのが初対面らしい(日付は不明だが、1950年代末か)。吉岡は出会いと前後して《僧侶》(1958)を贈っていて、澁澤の詩人吉岡実に対する評価はこの詩集に終始すると言っても過言ではない。澁澤の解説〈現代日本文学における「性の追求」〉――初出は1968年2月の《全集・現代文学の発見9》(學藝書林)――における仮借ない結語、

吉岡実の詩は、人間のあらゆる連帯とコミュニケーションを嘲笑しながら、孤独の、不倫の、ネクロフィリアの、しかしながら詩人にとって最も本質的な、自己と世界との関係の快楽[、、、、、、、、、、、、]にひたすら執着しているように見える。(《澁澤龍彦全集〔第9巻〕》、河出書房新社、1994年2月12日、一七四ページ)

を乗りこえることで、吉岡はその豊穣な「中期」を形成した。その意味で《サフラン摘み》に「澁澤龍彦のミクロコスモス」と詞書のある〈示影針(グノーモン)〉(G・27)が収録されているのは偶然ではない。金井美恵子の〈吉岡実とあう――人・語・物〉によれば「澁澤龍彦夫妻と何年か前四谷シモンの人形展で一緒になった時、本気で真面目に今のところ、おれは澁澤氏を一番気に入っているからね、と言い、澁澤龍彦が、今のところ[、、、、、]、かあ、と大笑いした」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月20日、二二四ページ)そうだが、吉岡実年譜に照らすとそれは1973年10月のことで、澁澤の《胡桃の中の世界》(1974)と《サフラン摘み》(1976)の関係を裏書きしている。

吉岡実と澁澤龍彦(《四谷シモン 人形愛》の出版記念会にて。青山・ブルック、1985年5月31日)
吉岡実と澁澤龍彦(《四谷シモン 人形愛》の出版記念会にて。青山・ブルック、1985年5月31日)
出典:《新文芸読本 澁澤龍彦》(河出書房新社、1993年4月25日、口絵〈澁澤龍彦アルバム〉〔七ページ〕)

吉岡実が澁澤龍彦(1928〜87)の墓碑に刻んだであろう詩句は、最後の詩集《ムーンドロップ》(1988)に収めた〈銀鮫(キメラ・ファンタスマ)――澁澤龍彦鎮魂詩篇〉(K・17)の「3」である。

月の光を吸いこんで
         深海の底へ下降した
     〔銀鮫〕
         すなわち(キメラ・ファンタスマ)
「その生身から
       肉状の突起が全部で四本
                  まるで四足獣
のように生えている」
          有用性の〔苦役〕をまぬがれ
解放された〔存在〕の
          〔神話の怪獣〕
                 さながらの
(キメラ・ファンタスマ)

出口裕弘《澁澤龍彦の手紙》(朝日新聞社、1997年6月1日)には、1963年ころの澁澤の交友関係を叙した一節がある。後半に吉岡が登場する。

  土方巽は舞踏家、加藤郁乎は俳人兼詩人、池田満寿夫は画家、富岡多恵子は詩人、堂本正樹は演出家、松山俊太郎はインド学者、加納光於は画家、野中ユリも画家、白石かずこは詩人。そしてこの曲者ぞろいの客たちを、静かに歓待する[、、、、、、、]という絶妙な役をこなした奥さんの矢川澄子は、秀才のドイツ文学者だった。総称するのに、さしあたってアーチストしか思いつかない。
 この人たちに、やがてドイツ文学の種村季弘、フランス文学の巖谷國士、人形作家四谷シモン、画家金子國義、詩人高橋睦郎、同じく詩人吉岡実、俳優兼演出家唐十郎らが加わる。交際は長いが、やや別格なのが現代思潮社の石井恭二、アートディレクターの堀内誠一だ。(同書、一一七ページ)

引きうつしつつ、細江英公撮影の記念写真の顔触れを想起した。それは《アサヒカメラ》1972年2月号の〈〔連載(顔)―A〕加藤郁乎 詩人〉の一点で、〈加藤郁乎出版記念会 昭和46年11月27日 新宿花園神社〉という題の見開き写真だ(会の対象となった本は現代詩文庫版《加藤郁乎詩集》か《ニルヴァギナ》か)。そのキャプションとも言える「出席者氏名(順不同)」を引く。

水野進子 藤井澄子 入沢康夫 四谷シモン 大輪盛登 内藤三津子 澁澤龍子 関口篤 高井富子 巌谷国士 松山俊太郎 大野一雄 野田茂徳 瀧口修造 牛久保公典 曽根元吉 吉岡実 川仁宏 李礼仙 加藤郁乎 松田修 藤井宗哲 亀山巌 松崎豊 前田希代志 澁澤龍彦 志摩聡 塩原風史 土方巽 稲垣達弥 吉本忠之 中村富貴 矢川澄子 池田満寿夫 窪田般彌 白石かずこ 吉岡康弘 篠原佳尾 唐十郎 鍵谷幸信 嶋岡晨 中井英夫 川合昭三 野田哲也 中島玉江 大西和男 康芳夫 竹内恵美 高橋康也 奥平晃一 伊藤睦郎 安原顕 北嶋広敏 出口裕弘 河谷竜彦 野中ユリ 大島暎子 谷川晃一 森口陽 嵐山光三郎 林立人 北沢幸夫 中西夏之 宮園洋 澁澤孝輔 中島典夫 種村季弘 八木忠栄 水野隆 芝山幹郎 山本美智代 斎藤慎爾 野田弘志 常住郷太郎 戸田弘子 木村英二 大輪秀紀 三角忠 宮沢壮佳 松林尚志 矢谷憲一 松田幸雄 須永朝彦 長野千秋 細江英公 失名氏(同誌、一一二〜一一三ページ)

細江さんは自作解説に「出席者全員の協力でできた記念写真である。交友も「オレひとりとのつきあいと思っていたのに」と苦情がでるほど広い。緊張から解かれた一瞬を撮った写真で、私の肖像写真論からすれば邪道ということになるが、戦後とくにさかんになったスナップ・フォトグラフィーの、記念写真への応用である。」(同誌、一一〇ページ)と書いている。吉岡の向かって左隣は主役の加藤郁乎、右隣は瀧口修造。黒眼鏡の澁澤は土方巽と隣り合わせで、屈託なく笑んでいる。安原顯さんによれば、この写真には(上掲「出席者氏名(順不同)」にはない)加納光於、南伸坊、吉増剛造の諸氏も写っているということだから、まさに綺羅星のごとき顔触れである。なおこの写真は、巖谷國士(監修・文)《澁澤龍彦 幻想美術館》(平凡社、2007)やそれを再録した巖谷國士《澁澤龍彦論コレクションV――澁澤龍彦 幻想美術館/澁澤龍彦と「旅」の仲間》(勉誠出版、2018)でも見ることができる。

澁澤龍彦にとって吉岡実は誰だったのか。澁澤龍子夫人の「澁澤は吉岡さんの詩を高く評価していて、吉岡さんのほうが年齢は上だったのですが、その関係は親しい気心の知れた友人という感じでした。」(《澁澤龍彦との日々》、白水社、2005年4月30日、一三一ページ)以上の評を知らない。

〔2019年12月31日追記〕
高柳重信、澁澤龍彦、土方巽ら多彩な才能との交遊の日々を克明に記した加藤郁乎の日記〈自治領誌 W以降――1960(昭和35年)〜1974(昭和49年)〉(《加藤郁乎作品撰集V――続初期日記・エッセイ・交遊録》、書肆アルス、2016年7月16日)に上掲の出版記念会の様子が録されているので、引用する。なお、日記本文は漢字に正字を使用しているが、インターネット上ではすべてを再現できるわけではないので、「吉岡實→吉岡実」のように新字に改めた。ただし、本人の用法を尊重して人名・書名は原文のとおりとした。仮名遣いは、捨て仮名の使用を含めて、原文のママ。

〔1971(昭和46年)〕十一月二十七日
 「荒れるや」「遊牧空間」「牧歌メロン」「ニルヴァギナ」「球體感覺」「加藤郁乎詩集」の出版記念会。新宿花園神社に「かに谷」が出張。午後二時頃、司会役を引き受けてくれた鍵谷幸信が洗足に来てくれて打合せ。五時頃、花園神社着。名古屋から亀山巖、志摩聰、群馬から塩原風史の顔が見える。瀧口修造氏が乾杯の音頭をとってくれる。百人位だといふ話、忽ち酩酊。
 二次会は「ユニコン」。白石かずことテーブルの上で踊ってゐて転落。西脇順三郎氏が他の会を済ませてから来てくれる。「ナジャ」に行った頃はかなり酩酊。朝六時頃、伊藤陸郎君に送られて洗足に帰る。(二十八日記)(同書、二九五ページ)

出版記念会の対象となった加藤郁乎の著書は、《加藤郁乎詩集》《ニルヴァギナ》を含む、1969年から1971年にかけて刊行された以下の6冊である。
  《荒れるや》(思潮社、1969年12月30日)は第二詩集。
  《牧歌メロン》(仮面社、1970年10月15日)は第四句集。
  《遊牧空間》(三一書房、1970年11月15日)は第二評論集。
  《球體感覺〔限定版〕》(冥草舎、1971年8月16日)は1959年刊の第一句集の限定版。
  《ニルヴァギナ》(薔薇十字社、1971年8月20日)は第三詩集。
  《加藤郁乎詩集〔現代詩文庫45〕》(思潮社、1971年10月20日)はこの時点での総合句集にして総合詩集。《加藤郁乎作品撰集V》の〔協力/今泉康弘〕〈著書解題〉には「アヴァンギャルド期郁乎の精粋と言える一冊」(同書、五二五ページ)とある。なお吉岡は、本書に随想〈出会い〉を執筆している。

〔2020年7月31日追記〕
加藤郁乎交遊録《後方見聞録〔学研M文庫〕》(学習研究社、2001年10月19日)の〈点鬼簿追懐〉の扉裏(対向ページは件の集合写真)に〈照影芳名一覧(五十音順)〉が掲載されている。惜しむらくは、人名がソートされているため写真の人物との照合が難しい。ただしこの〈照影芳名一覧(五十音順)〉、加藤郁乎本人(あるいは、元版と文庫版の編集担当=ですぺら主人・渡邉一考――渡邉は文庫版巻末の解説〈黄金の日々〉では「吉岡實」と書いていて〈照影芳名一覧(五十音順)〉の表記と一致するが、加藤郁乎も「吉岡實」と書くから、執筆者特定のための判断材料にはならない――か、それとも、学習研究社の編集長=増田秀光か)が書きおこしたものと思われるので、上記の人名との重複を懼れず、写真とともに掲げる。

嵐山光三郎 池田満寿夫 伊藤睦郎 稲垣達弥 入沢康夫 巖谷国士 牛久保公典 大島瑛子 大西和男 大野一雄 大輪秀紀 大輪盛登 奥平晃一 鍵谷幸信 加藤郁乎 亀山巖 川合昭三 河谷竜彦 川仁宏 唐十郎 北沢幸夫 北嶋広敏 木村英二 窪田般彌 康芳夫 斎藤慎爾 塩原風史 篠原佳尾 芝山幹郎 澁澤孝輔 澁澤龍彦 澁澤龍子 嶋岡晨 志摩〔總→聰〕 白石かずこ 須永朝彦 関口篤 曽根元吉 高井富子 高橋康也 瀧口修造 竹内恵美 谷川晃一 種村季弘 常住郷太郎 出口裕弘 戸田弘子 内藤三津子 中井英夫 中島玉江 中島典夫 中西夏之 長野千秋 中村富貴 野田茂徳 野田哲也 野田弘志 野中ユリ 林立人 土方巽 藤井澄子 藤井宗哲 細江英公 前田希代志 松崎豊 松田修 松田幸雄 松林尚志 松山俊太郎 水野進子 水野隆 三角忠 宮沢壮佳 宮園洋 森口陽 矢川澄子 八木忠栄 安原顯 矢谷憲一 山本美智代 吉岡實 吉岡康弘 吉本忠之 四谷シモン 李礼仙 失名氏一人(同書、二一六ページ)

「昭和46年11月、新宿花園神社での出版記念会。(撮影・細江英公)」
「昭和46年11月、新宿花園神社での出版記念会。(撮影・細江英公)」 出典:加藤郁乎交遊録《後方見聞録〔学研M文庫〕》(学習研究社、2001年10月19日、〔二一七ページ〕)。吉岡実は前から2列めの右から8人め(左隣が加藤郁乎)。なお、出典の異なるこの集合写真を〈吉岡実と加藤郁乎――ふたりの日記を中心に〉のおしまいにも掲載した。


吉岡実と吉田健男(2007年4月30日)

吉岡実は画家吉田健男(生年未詳)について、〈西脇順三郎アラベスク 3 化粧地蔵の周辺〉(初出は《西脇順三郎 詩と詩論〔第6巻付 録〕》、筑摩書房、1975年10月31日)でこう書いている。

 私は二十数年前のことを想い出していた。この地蔵さまの下の岩瀬という家に、若い画家吉田健男と下宿していたの だ。家主は四十 五、六の後家さんで、いつも赤いただれた瞼と眼をしていた。冬の深夜に、親子三人の寝顔を見ながら、私は便所へかよったものだ。私たちは台所を出入り口に していた。ちょうどそこには鶏小屋があって、真夏は糞[ふん]の臭いに閉口した。神経質な健男はことにいやがった。彼は子供のころ咽喉の病気をしたとか で、いつもかすれた声をして、不精者の私を叱るのだった。庭というか空地の向うに、まだ貧乏な三遊亭円生が住んでいたが、不思議なことに落語を喋っている のを聞いたことはなかった。
 近くに徂徠の墓処があったので「鶏糞[ふん]の香や隣りは三遊亭円生師」と二人は笑った。もちろんそれは其角の「梅が香や隣りは荻生惣右衛門」のパロ ディーである。友人たちは、私と吉田健男との共同生活は一年も持たないだろうと言ったが、昭和二十九年の夏、彼が軽井沢で年上の婦人と心中するまで続い た。
 この細長い部屋から私の詩集《静物》は生れた。
 夜遅く化粧地蔵の前を通るのを、いつも恐がっていたわが友吉田健男を、いま私は懐かしく想い出していた。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、 1988、二二九〜二三〇ページ)

そのあたりのことは吉岡自筆の年譜に「昭和二十九年 一九五四年 三十五歳/秋、軽井沢で、同居の画家吉田健男が年上の女と心中。大八と健男の弟とともに、遺骨を迎えに行く。風呂敷で骨壺を包み、床の間へ安置し、湯の宿 に一泊する。健男の死を契機に、現れた女性T・Iと奇妙な恋愛遊戯」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984、二三一ページ)とある。彼らの 中心にいた太田大八さんも「この頃〔昭和二〇年代末〕私の家にはいろんな居候がいた。私の後輩の絵描き吉田健男、彼も吉岡とは共通の友人となったのだが、 この男も純粋にして正直な故に心中という現代にしては美しすぎる形をとって私達の前から去っていった。吉岡と私それに健男の弟と三人で軽井沢の警察へ骨を 引取りに行ったこともあった」(〈カメレオンの眼〉、《ユリイカ》1973年9月号、八七ページ)と書いている(吉岡は太田さんが書くまで吉田のことを詳 しく書かなかった)。いま「画家」吉田健男の足跡をたどるだけの用意がないので、「挿絵画家・装丁家」吉田健男について述べたい。OPACなどの書誌で調 べると、吉田は以下の図書の挿絵や装丁を担当していることがわかる(★印の4タイトルは1962〜63年、外装を改め〔新版小学生全集〕として出版され た)。

  1. 羽田書店編集部編《ふしぎなごてん――世界のお話〔こども絵文庫23〕》(羽田書店、1950)
  2. 高藤武馬《ことばの学校〔小学生全集16〕》(筑摩書房、1951年12月25日)★
  3. 丸山薫《新しい詩の本〔小学生全集17〕》(筑摩書房、1952年1月31日)★
  4. 中川善之助《『女大学』批判》(河出書房、1952年12月25日)
  5. 小山清《落穂拾ひ》(筑摩書房、1953年6月10日)
  6. きだ・みのる《霧の部落》(筑摩書房、1953年9月30日)
  7. 大原武夫《花の魔術師〔小学生全集46〕》(筑摩書房、1954年1月5日)★
  8. 田宮虎彦《卯の花くたし》(筑摩書房、1954年2月15日)
  9. 椎名麟三《自由の彼方で》(大日本雄弁会講談社、1954年3月10日)
  10. 井上靖《異域の人》(大日本雄弁会講談社、1954年3月30日)
  11. 井上靖《昨日と明日の間》(朝日新聞社、1954年4月10日)
  12. 小山清《小さな町》(筑摩書房、1954年4月15日)
  13. 野口赫宙《無窮花》(大日本雄弁会講談社、1954年6月10日)
  14. 武田繁太郎《風潮》(筑摩書房、1954年6月30日)
  15. 丸岡明《家なき子〔小学生全集54〕》(筑摩書房、1954年8月31日)★
  16. 中野重治《むらぎも》(大日本雄弁会講談社、1954年9月25日)
  17. 神西清《少年》(大日本雄弁会講談社、1955年3月25日)

羽田書店の〔こども絵文庫〕には太田さんが先に絵を描いているから、後輩の吉田を紹介したものだろう。筑摩書房の〔小学生全集〕の担当編 集者は吉岡である(随想〈和田芳恵追想〉の冒頭参照)。〔小学生全集〕のカラーの口絵やモノクロの挿絵は確かな技量で描かれているものの、これがほんとう に吉田が描きたかった世界か、となれば疑問だ。

高藤武馬《ことばの学校〔小学生全集16〕》筑摩書房、1955年11月30日再版)〔口絵:吉田健男〕 丸岡明《家なき子〔小学生全集54〕》(筑摩書房、1954年8月31日)表紙〔装丁:庫田x〕 、丸岡明《家なき子〔小学生全集54〕》(筑摩書房、1954年8月31日)中面〔挿絵:吉田健男〕
高藤武馬《ことばの学校〔小学生全集16〕》(筑摩書房、1955年11月30日再版)〔口 絵:吉田健男〕(左)と丸岡明《家なき子〔小学生全集54〕》(筑摩書房、1954年8月31日)表紙〔装丁:庫田叕〕(中)と同、中面〔挿絵:吉田健 男〕(右)

一方、装丁作品としては小山清の第一創作集《落穂拾ひ》(筑摩書房、1953)や続く《小さな町》(同、1954)、きだ・みのる《霧 の部落》 (同、1953)、田宮虎彦《卯の花くたし》(同、1954)、武田繁太郎《風潮》(同)などがあるが、吉岡は編集担当ではないと思われる。写真で見る 《落穂拾ひ》は絵描きの装丁で、これといった特徴はない(本扉にミレーの絵柄の線画を配している)。《風潮》のジャケットは三角形・菱形をモチーフにした 幾何学模様だが、これとて描いた画面の空いたところにレタリングの文字を置いてみたという感は拭えない。印刷物の仕事に携わって四、五年。吉田健男は自身 の装丁スタイルの完成を見るまえに逝ったものと思しい。

小山清《落穂拾ひ》(筑摩書房、1953年6月10日)ジャケット〔装丁:吉田健男〕 武田繁太郎《風潮》(筑摩書房、1954年6月30日)本扉とジャケット〔装丁:吉田健男〕
小山清《落穂拾ひ》(筑摩書房、1953年6月10日)ジャケット〔浪速書林の掲載画像〕 (左)と武田繁太郎《風潮》(同、1954年6月30日)本扉とジャケット(右)〔ともに装丁:吉田健男〕

吉岡実にとって吉田健男とは誰だったのか。その死まで足掛け4年間続いた共同生活は、吉岡に画家のなんたるかを教えたに違いない(吉田 の絵画作品が 観られないものだろうか)。吉岡の詩集《静物》(私家版、1955)には「画家の心象の岸べの馬」(〈静物〉B・4)という詩句があり、さらに《僧侶》 (書肆ユリイカ、1958)には次のような決定的な詩句がある。

〔……〕 ぼくは見つける 壁に立てかけた 自殺した画家のカンバスを ぼくの持物のうちで それだけが光に耐えよ う 女主人の 臀部のばら色の地震から その絵がぼくをまもってくれる唯一のものかもしれぬ 貧しい画家であった男が存分に描いた 怒りの構図 とおくに或はちかくに  落ちこんだ深みから やたらにのりだそうとする 困憊した石のトルソたち(〈冬の絵〉C・6)

私には〈冬の絵〉の「自殺した画家のカンバス」が、吉岡実が吉田健男の追悼のために詩で描いた絵に見えてしかたがない。吉田のたどった 跡を追うようにして、自身も苦しい恋の道に踏みまよったあげく帰還した吉岡が、そこから携えきたったのが《僧侶》だった。


詩篇〈斑猫〉の手入れ稿(2007年3月31日)

詩篇〈斑猫〉(I・6)の切り抜きは、吉岡実の手が入った状態でスクラップブックに貼付されている。これはたいそう珍しい。〈斑猫〉以外の詩篇は、SCRAP BOOK(品番:コレクト S-101)MEIKANDO TOKYO製のSCRAP BOOK(品番:KING NO.140)の双方とも、(後に詩集収録の際に手が入っている場合も)スクラップブック上ではまったく書きこみがないからだ。さらに、下に掲げた写真(〈資料番号11・12・13の切り抜きを貼付した見開きページ〉の資料番号13を広げたところ)を見ればわかるように、他の詩篇がスクラップブックの用紙にじかに貼付されているのに対して、〈斑猫〉の切り抜きは直接貼られていない。そこからは次のような経緯が想定される。
吉岡は、@草蝉舎の名入りの原稿用紙(32字×20行詰)に、二段組の初出誌を二つに切って本文が連続するように貼り、Aその切り抜きにペンで修正を書きいれ、B原稿用紙の余分なところを鋏で切り、Cその原稿用紙を縦に二つ折りして、KING NO.140の台紙にセロハンテープで貼りつけた(変色してコピーでは黒く見える)。吉岡は〈斑猫〉を《詩学》(1960年1月号)に発表後のある時点で――おそらくは詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962)に収録するための前作業として――Aまでを行ないながら、なんらかの理由でそれを詩集用草稿にしなかった(吉岡は詩篇〈斑猫〉が詩集《紡錘形》にはふさわしくないと判断したため、収録を見合わせたのに相違ない)。さらに紛失を防ぐべく、それをKING NO.140の資料12の上方に貼り、20年近い歳月を経て拾遺詩集を編む際、「斑猫」と書いた付箋を貼りつけた。おおよそ以上のようなことが推測される。

詩篇〈斑猫〉初出形への吉岡実の手入れ〔吉岡家蔵スクラップブックのモノクロコピー〕
詩篇〈斑猫〉初出形への吉岡実の手入れ〔吉岡家蔵スクラップブックのモノクロコピー〕

詩篇〈斑猫〉初出形への吉岡の手入れ(上掲写真)を読み解いて、活字で再現してみる。

斑猫〔→田園→斑猫〕

〔吉岡実→(トル)〕

わたしの記憶の
ほしいままな〔る網目→(トル)〕
その〔想像の→(トル)〕石組みの柱の向う
噛みくだかれた花々の〔修羅の極み→茎の下に〕
ひとりの少女がいるらしく
死んだとは信じられぬ拡りをもつ髪
立つているのでなく
坐せるでもなく
ゆるやかに持ちあげられた
水のなかの腕
そのときから円いへそのなかに棲む〔斑猫→ハンメヨウ〕
また豊かに二つに分けられる乳房
圧せられて眠りにおちている
耳たてた虎
硬いひげにおびえる男たち
わたしもいまそのひとりなのか
真紅のひとでに染められて微笑する
藪のおくの唇
少女の着ているものはレースでなく
深海の波でなく
休止符にうずまる音楽
覗かせぬ下半身
少年と見まごう小さなあくび
大きな眼のなかをたえず
狩猟蜂がとびまわる
わたしが近づくため
腋毛から異体の血がながれ
男の枯れた茎の髄へたまる
歩みよる冬
燃える案山子〔を見た→を立てよ!→を見た〕

次に、詩集《ポール・クレーの食卓》(書肆山田、1980)収録形、すなわち定稿を掲げる(行頭のライナーは引用者)。

斑猫

01 わたしの記憶の
02 ほしいままな
03 その石組みの柱の向う
04 噛みくだかれた花々の茎の下に
05 ひとりの少女がいるらしく
06 死んだとは信じられぬ拡りをもつ髪
07 立っているのでなく
08 坐せるでもなく
09 ゆるやかに持ちあげられた
10 水のなかの腕
11 そのときから円いへそのなかに棲むハンミョウ
12 また豊かに二つに分けられる乳房
13 圧せられて眠りにおちている
14 耳たてた虎
15 硬いひげにおびえる男たち
16 わたしもいまそのひとりなのか
17 真紅のひとでに染められて微笑する
18 薮のおくの唇
19 少女の着ているものはレースでなく
20 深海の波でなく
21 休止符にうずまる音楽
22 覗かせぬ下半身
23 少年と見まごう小さなあくび
24 大きな眼のなかをたえず
25 狩猟蜂がとびまわる
26 わたしが近づくため
27 腋毛から異体の血がながれ
28 男の枯れた茎の髄へたまる
29 歩みよる冬
30 燃える案山子を見た

手入れ形と定稿を比較すると、七行め「立〔つ→っ〕ているのでなく」、一一行め「そのときから円いへそのなかに棲む〔ハンメヨウ→ハンミョウ〕」、一八行め「〔藪→薮〕のおくの唇」が異同箇所だが、いずれも字句の修正というよりも、詩集編纂における表記上の統一(新字・新かな)とみなされる。手許にある控えは原物のモノクロコピーのため、書きこみのインクの色が判別できないのが残念だが、現有の資料から手入れにおける時間的な推移を考察してみよう。
まず、題名である。〈斑猫〉を〈田園〉に変えたのは、おそらく本文の手入れと同じ時だろう。吉岡実詩の題名が必ずしも置き換えできないものでないことは《詩集《神秘的な時代の詩》評釈》でも述べたが、この詩を〈田園〉と題するのはいささか無理筋のように思われる(それかあらぬか、〈田園〉は1973年9月発表の12節134行の詩の題名として、決定的かつ最終的に登場する)。一方で、本篇の題名が〈田園〉なら問題にならなかった一一行め「そのときから円いへそのなかに棲む〔斑猫→ハンメヨウ/ハンミョウ〕」は、一度は抹消した〈斑猫〉をイキにして初案の題名に戻したため、カタカナと漢字二様の表記が並び立ち、定稿もそれをそのまま引きずっている。ところで「斑猫」は、いうまでもなく鞘翅目斑猫科に属する昆虫の総称だが、漢字の表記からは斑模様の猫の姿も顕ちあらわれるから不思議だ。
本文への手入れでいちばん注目されるのは、三〇行め「燃える案山子〔を見た→を立てよ!〕」である。この手の感嘆符の用法は早くも《紡錘形》(1962)に見えており、同詩集への収録を予定した手入れ、という私の推測は的外れではない。しかし初出形の抹消の仕方が、他は塗りつぶしなのに対して、ここだけ一本線の見せ消ちなのはなぜか。手入れが後日のものであったためのようでもあるし、修正内容に自信が持てなかったためのようでもある(後で「イキ」と書いて初出形に戻していることを重視すれば、後者となろう)。そのあたりのことを勘案すると、三〇行めの手入れ(修正およびその直し〔戻し〕)のどれが詩集《紡錘形》当時のものか、拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》(1980)収録寸前のものか、軽軽に判断できない。これ以上〈斑猫〉の本文について語ることは、陽子夫人の手になるだろう詩集入稿用原稿でも見ないかぎり難しい。


吉岡実のスクラップブック(2)(2007年3月31日)

作家の佐藤賢一氏が〈掲載紙〉と題してコラムを書いている。「小説であれ、エッセイであれ、文章を書けば、必ず掲載紙(誌)が送られてくる。それを私は丁寧に切り抜いて、スクラップにまとめている。/〔……〕実際のところ、他の作家さんはどうやっているのだろうか。同業者を覗[のぞ]き見できるとするならば、正直そこが一番の興味である」(《日本経済新聞〔夕刊〕》、2007年2月28日、19面、〈プロムナード〉欄)。確かに創作家がスクラップについて体験的に語った文章は少ないようだ。吉岡実研究家の私はといえば、資料を切り抜いてスクラップするのは新聞記事だけで、雑誌は原物を保存するか、B4判のコピーにとって二穴ファイルに綴じる。佐藤氏の〈掲載紙〉なら、まず新聞紙面(5・6面と19・20面の1枚)を引きぬいて一時放置する。再読してなお保存する資料だけをカッターで切り抜き、「テーマ:      」、「日本経済新聞2007年(平成19年) 月 日( ) 面」などとプリントしたA4の反故に糊づけして、テーマと出典を手書きする。こうしてできたスクラップシート(ばらばらなのでブックにならない)は、もっぱら引用文の典拠として使用する。
さて、〈吉岡実のスクラップブック(1)〉に続いて、吉岡実のスクラップブックである。前回の背表紙を写した写真のいちばん左、MEIKANDO TOKYO製の〈SCRAP BOOK〉(品番:KING NO.140)の内容を紹介しよう。以下に資料番号、貼付印刷物の作者名(吉岡実の場合は省略し、ジャンルを補記)と標題――陽子夫人の手になる出典メモ――備考がある場合は備考、の順に記す。

  1. 詩篇〈牧歌〉――〈朝日〉34・7・26
  2. 詩篇〈夜会〉――〈読売 夕刊〉34・9・28――〈詩とデッサン〉欄
  3. 篠田一士〈長詩の野心作〉――〈読書〉33・6・30
  4. 村野四郎〈H賞をうけた吉岡実の「僧侶」〉――〈東京 夕刊〉34・5・19――〈詩壇時評〉欄
  5. 無署名〈詩集『僧侶』/吉岡実著〉――〈法政大学〉33・12・15
  6. 山本太郎〈新しい一個の弾道――吉岡実詩集『僧侶』〉――〈読書人〉34・1・1
  7. 詩篇〈冬の休暇〉――〈読書〉35・3・7
  8. 無署名〈現代詩人会H賞の吉岡實氏〉――〈読書人〉34・4・20――〈この人〉コラム
  9. 篠田一士〈吉岡実論――すばらしい言語の資質/まぶしいイメージの輝き・巧妙な変化・音楽〉――〈早稲田大学〉34・9・15――末尾に【よしおか・みのる略歴】
  10. 飯島耕一〈生きた′セ葉の守護神たち――戦後詩壇の三つの果実〉――〈早稲田大学〉34・4・21
  11. 安東次男〈現代文学の可能性と詩人たち――小手先の技術さけよう/マス・コミに流されず〉――〈朝日〉34・7・13
  12. 無署名〈下半期の歌集・句集・詩集から――詩集/のびる新人の仕事〉――〈朝日〉33・12・13
  13. 詩篇〈斑猫〉――詩学 35.1〔吉岡実の手になるか〕――吉岡が「斑猫」と書いた付箋付き
  14. 中村稔〈書評――「吉岡實詩集」〉――〈聲〉6号 33・11
  15. 〔写真〕〈現代詩人会・5月の詩祭――H賞の吉岡実氏〉――〈詩学〉7月号 1959
  16. 篠田一士〈〔吉岡実氏の詩集『僧侶』〕……〉――〈ユリイカ〉1月号 1959
  17. 中村匡行〈吉岡実詩集「僧侶」について〉――〈洪水〉5号 34・4
  18. 中川敏〈〔「ユリイカ」一月号で……〕〉――〈現代詩〉3月号 1959――詩篇〈老人頌〉を再録
  19. 〔中島可一郎〕〈鰐・1〉――〈詩学〉10月号 1959――〈Magazine〉欄
  20. 飯島耕一〈作品月評――回復〉――〈詩学〉6月号 1958
  21. 書評〈不逞純潔な詩人/ぜいたくな人生の浪費の輝き――金子光晴全集 全四巻〉――〈読書人〉35・9・12――末尾に全四巻の概要紹介
  22. 高見順〈物体としての詩――日常性とは無縁のもの〉――〈朝日〉35・10・2――連載〈前衛を探る〉第6回
  23. 山口誓子〈前衛俳句への疑い〉――〈朝日〉36・6・12
  24. 篠田一士〈吉岡實――ランニング・シャツ/忙しい人物の中の沈々たる世界〉――〈読書〉36・7・31――〈人物スケッチ〉コラム
  25. 詩篇〈霧〉――〈読売〉夕刊 36・10・5――吉岡が「霧」と書いた付箋付き
  26. 明賀ク〈意欲的な若手たち――女性軍も活発〉――〔掲載紙名不明〕36・9・27――〈各界新地図 詩壇B〉
  27. 篠田一士〈日本語の力強さと輝き/比類ない粘着性と流動性にみちる――吉岡実詩集 紡錘形〉――〈読書人〉37・10・15
  28. 入沢康夫〈新しい局面/完結した抒情性への復帰――吉岡実詩集 紡錘形〉――〈読書〉37・11・12
  29. 書評〈富沢赤黄男句集『黙示』〉――〈俳句〉1月号・1962
  30. 詩篇〈晩春〉――〈龍生〉6月号 1962――末尾に無署名〈理解のいとぐち〉。次の〈塩と藻の岸べで〉と併せて吉岡が「塩と藻の岸べで 晩春」と書いた付箋付き
  31. 詩篇〈塩と藻の岸べで〉――〈花椿〉7月号 1962
  32. 篠田一士〈現代詩における伝統と前衛(下)――吉岡実氏の言葉の構築〉――〈東京〉夕刊 38・7・21
  33. 詩篇〈珈琲〉――〈美術手帖〉2月号 1963――〈手帖通信〉欄
  34. 随想〈ある風景〉――〈東タイ〉夕刊 38・〔月日、読みとり不能〕――〈千字隨想〉コラム。抹消作品
  35. 篠田一士〈性と文学(上)――作家が意図するものは?〉――〈読売〉夕刊 38・5・14――〈文化〉欄
  36. 詩篇〈聖母頌〉――〈郵政〉7月号 39・7・1
  37. 詩篇〈九月〉――〈北海道〉39・9・7 夕刊――〈窓〉欄。吉岡が「九月」と書いた付箋付き
  38. 詩篇〈家族〉――〈文芸春秋〉3月号 41・3――次の〈春の絵〉、次の次の〈花・変形〉と併せて吉岡が「花、家族、春の絵」と書いた付箋付き
  39. 詩篇〈春の絵〉――〈読売〉42・2・5
  40. 詩篇〈花・変形〉――〈草月〉〔年月等の記載なし〕
  41. フェリックス〈進境めざましい詩人吉岡実〉――〈東京〉夕刊 42・10・10――〈大波小波〉コラム
  42. 無署名〈よみうり抄〉――〈読売〉夕刊 42・10・31
  43. 塚本邦雄〈修羅と悪徳との凶変の証/読者を無間地獄に誘い苛む――吉岡実詩集〉――〈読書〉42・11・6
  44. 安藤一郎〈思考のムーブマンと言語の構築〉――〈図書〉42・11・11
  45. 無署名〈現代詩に光彩を放つ――「吉岡実詩集」 奔放、深渕の世界〉――〈伊勢〉42・11・3
  46. 篠田一士〈〔文芸時評(下)〕――注目すべき二詩集〉――〈東京〉夕刊 42・10・31
  47. 随想〈私の生れた土地〉――〈詩と批評〉5月号 1967
  48. 随想〈日記〉――〈詩と批評〉9月号 1967
  49. 随想〈好きな場所〉――〈風景〉3月号 1968
  50. 篠田一士〈文芸時評(下)――注目される『吉岡実詩集』〉――〈西日本〉42・10・31
  51. 観客席〈まか不思議な詩人の手品〉――〈東京〉夕刊 42・12・8――〈大波小波〉コラム
  52. 随想〈わたしの大切なもの――軍隊のアルバム〉――〈筑摩組合新聞〉82号 1967・5・20――吉岡が「わたしの大切なもの「軍隊のアルバム」」と書いた付箋付き
  53. 山本捨三〈ダダを知らなかった日本のシュルと現代詩――「日本超現実主義詩論」鶴岡善久著〉――〈熊日〉41・8・12
  54. 村野四郎〈新しい足跡≠喜ぶ――最近の詩集 吉岡・田村・石原ら〉――〈日経〉41・12・18
  55. 安東次男〈価値ある詩――「吉岡実詩集」に寄せて〉――〈読売〉47・11・18――〈詩壇〉欄
  56. 詩篇〈マクロコスモス〉――〈三田新聞〉1967・11・22――末尾に略歴
  57. 吉増剛造〈現代詩の可能性求めて/二人の詩人にふれて――「瞬間」の言語とは〉――〈三田新聞〉1968・1・24
  58. 中桐雅夫〈言葉が創った新世界=\―『吉岡実詩集』〉――〈朝日ジャーナル〉1968・2・18号
  59. 書評〈白石かずこ詩集(思潮社)〉――〈現代詩手帖〉4月号・1968
  60. 無署名〈現代詩を読むために――理解と選択のための本〉――〈読売〉43・2・25
  61. 随想〈好きなもの数かず〉――〈筑摩組合新聞〉90号 1968・7・31――〈私の好きなもの〉欄
  62. 長田弘〈問われるのは私達=\―詩で描くクリスマス・キャロル 吉岡実〉――〈読書人〉43・1・15――〈現代詩時評〉欄
  63. 随想〈軍隊時代とリルケ――乱雑な読書遍歴から比類ない個性との出会いへ〉――〈読書人〉43・4・8――末尾に略歴。〈読書遍歴〉欄
  64. 飯島耕一〈現代詩の方向――鈴木志郎康ら新人にみる陽気なかいぎゃく〉――〈読売〉43・4・7――〈文芸ウイークリー〉欄
  65. 詩篇〈色彩の内部〉――〔10, the high school life, 1968・8・15, No.15〕――〈えるまふろじっとのうた〉欄
  66. 随想〈変宮の人・笠井叡〉――〈ANDROGYNY DANCE〉43・8・1 第1号
  67. 詩篇〈スイカ・視覚的な夏〉――〈読売〉夕刊 43・8・19――〈八月のうた〉欄。吉岡が「スイカ・視覚的な夏」と書いた付箋付き
  68. 詩篇〈スワンベルグの歌〉――〈婦人公論〉44・2月号――〈MY POESY/まい・ぽえじい・2〉欄。吉岡が「スワンベルグの歌」と書いた付箋付き
  69. 随想〈村松嘉津著『プロヷ〔ワに濁点〕ンス隨筆』〉――〈文芸〉44・5月号――〈名著発掘〉欄
  70. 詩篇〈蜜はなぜ黄色なのか?〉――〈郵政〉44・4月号
  71. 詩篇〈聖少女〉――〈小説新潮〉44・11月号

資料番号11・12・13の切り抜きを貼付した見開きページ〔吉岡家蔵スクラップブックのモノクロコピー〕
資料番号11・12・13の切り抜きを貼付した見開きページ〔吉岡家蔵スクラップブックのモノクロコピー〕

これらのなかで最も興味深いのは、資料番号13の詩篇〈斑猫〉(I・6)だ。この切り抜きこそ、今回(および前回)のスクラップブックで唯一、吉岡実の手が入っている詩なのである。――と書いたところで、〈斑猫〉本文の内容については稿を改めて詳述したい。


吉岡実のスクラップブック(1)(2007年2月28日)

《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)の〈吉岡実資料〉を執筆するに当たって、私が最も重視したのは陽子夫人からお借りした吉岡実のスクラップブックだった。下の写真はそれらの背表紙を写したものだが、今回は左から2番めの〈SCRAP BOOK〉(品番:コレクト S-101)の内容を紹介しよう。どのページも新聞や雑誌の切り抜きを1、2点貼付したごくふつうの状態で、資料への書き込みは一切ない。

吉岡実のスクラップブックとクリアファイルブック(吉岡家蔵)
吉岡実のスクラップブックとクリアファイルブック(吉岡家蔵)

以下に資料番号、貼付印刷物の作者名(吉岡実の場合は省略し、ジャンルを補記)と標題――陽子夫人の手になる出典メモ――備考がある場合は備考、の順に記す。

  1. 詩篇〈ヘアー〉――〈文学界〉44・12月号――吉岡が「ヘアー」と書いた付箋付き
  2. 詩篇〈低音〉――〈風景〉45・3月号
  3. 入沢康夫〈〔戦後詩のイメージ〕グループから離れて――源流に峻立する吉岡実〉――〈東京〉45・5・4――末尾に〈吉岡実の作品へのてびき〉(無署名)を付す
  4. 金井美恵子〈「この詩人、鳥だな」――猫は粘稠質の液体包み〉――〈読書〉45・7・13――〈人物スケッチ〉というコラムの文章
  5. 滝本明〈陸封された語――吉岡実「突堤にて」〉――〈読書〉46・1・1
  6. 渋沢孝輔〈なぜ沈黙する戦後詩の旗手――竹内芳郎「言語・その解体と創造」 哲学者の側からの探求〉――〈東京〉夕刊46・7・1――〈詩壇時評〉というコラムの文章
  7. 随想〈小鳥を飼って〉――〈ユリイカ〉1971 4月号――〈われ発見せり〉というコラムの文章
  8. 滝本明〈夢を殺した血の系譜――非語の極みに老いてゆく〈私〉〉――〈読書〉46・7・5――連載〈表出への原基〉第2回
  9. 随想〈風信〉――〈東京中日 夕刊〉47・8・1――吉岡が「風信  東京中日 47・8・1」と書いた付箋付き
  10. 天 澤退二郎〈沈黙批判は核心を誤るな――時代や社会状況を重視しすぎて〉――〈東京〉夕刊46・11・4――〈詩壇時評〉というコラムの文章
  11. 清水康雄〈汎神論的エロティシズム――生物の運命によせる愛憐〉――〈図書〉48・2・17――連載〈詩人図鑑〉第9回
  12. 随想〈「死児」という絵〉――〈ユリイカ〉1971 12月号
  13. 随想〈飼鳥ダル〉――〈朝日〉夕刊〔昭和48年(1973年)6月2日 土曜日〕――吉岡が「飼鳥ダル」と書いた付箋付き
  14. 岡田隆彦〈装幀家・吉岡実〉――〈出版ニュース〉6月上旬号 1973――〈ブック・ストリート 装幀〉というコラムの文章

資料番号9・10・11の切り抜きを貼付した見開きページ〔吉岡家蔵スクラップブックのモノクロコピー〕
資料番号9・10・11の切り抜きを貼付した見開きページ〔吉岡家蔵スクラップブックのモノクロコピー〕

ス クラップブックは左開きで、全部で15ページにわたって印刷物が貼付されてある。自作の詩篇が2篇、同じく随想が4篇、他者による言及(吉岡実論)が8篇、という内訳になっている。1969年12月から1973年6月までの3年半の作品や文章を読んでいくと、あの1970年代初めの吉岡実の「沈黙」の謎が解けるかもしれない――そんな予感さえ抱かせる資料である。
想い着くまま、興味深い点を挙げる。金井文の後に、鳥をめぐる随想2篇が書かれていること。滝本文がこの時期に集中していること(滝本明《余白の起源》は2006年に白地社から刊行された)。《ユリイカ》(青土社)に2回執筆していること(それが1973年の〈吉岡実特集〉号に繋がり、さらには1976年の《サフラン摘み》に結実したか)。常連ともいえる《現代詩手帖》(思潮社)への寄稿がないこと。付箋の付いた3作のうち〈ヘアー〉(〈鄙歌〉と改題)は《ポール・クレーの食卓》(1980)に、〈飼鳥ダル〉は《「死児」という絵》(1980)に収録された一方、〈風信〉が後者やその増補版には収められなかったこと。吉岡の装丁を初めて本格的に論じた岡田文が登場したこと。
なお、資料番号11の清水康雄の肩書きは掲載紙では(詩人)となっているが、《ユリイカ》の発行所・青土社の社長その人であり、後に《サフラン摘み》の発行者となる人物である。


《柾它希家の人々》のこと(2007年1月31日〔2014年9月30日追記〕)

根本茂男《柾它希家の人々》(冥草舎、1975年7月30日)の保護用サックと表紙
根本茂男《柾它希家の人々》(冥草舎、1975年7月30日)の保護用サックと表紙

根本茂男の長篇小説《柾它希[まさたけ]家の人々》(冥草舎、1975年7月30日)を読んだ。初版1000部。表紙こそ緑色(マーブ ル紙に濃緑の 革の「継ぎ」)だが、布の貼函、見返し、本扉、三方の小口染め、と黒で統一した意匠は埴谷雄高の著書を思わせる。ただし、埴谷のそれが常に角背だったのに 対して、本書は丸背である。貼函を天地で巻いた段ボールの保護用サックには著者の〈あとがき〉が題簽貼りされているが、若干文言が異なるので本文の〈あと がき〉から一文を引く。

 この作品は、いまから、約二十年も前のものであり、最初に掲載されたのが、「近代文学」であったが、そのときか ら、連載なかば で中絶する運命にあり、それから十二年の後、「南北」に五回にわたって、再度掲載されたことによって、活字のうえで、ようやく完成をみるにいたるが、「近 代文学」から「南北」に掲載される十二年間のあいだにも、「南北」での掲載がおわって、今日にいたるまで、何度か本にされる機会にめぐりあいながら、陽の 目をみる直前で、闇のなかに消えていった作品であることに、なにかしら、忌わしい運命的なものを感じていただけに、このたび、吉岡実氏、冥草舎の西岡武良 氏のご尽力によって、本にされることにきまったこともさることながら、この作品の作者として、この作品にまとわりつかれた運命的な関係を、ここで、ようや く断ち切ることができることになる。(本書、〔二九五ページ〕)

《柾它希家の人々》は根本の処女作で、《近代文学》1955年4月号・6月号・7月号に一部掲載で中絶。《南北》1967年3月号から 7月号にかけ て連載、完結した。吉岡実は根本茂男に言及していないので、「ご尽力」が具体的にどんなものなのかわからない。ただ、吉岡は《南北》1968年10月号に 長詩〈崑崙〉(F・8)を発表しており、1973年6月には冥草舎刊の永田耕衣全句集《非佛》に随想〈〈鯰佛〉と〈白桃女神像〉〉(単行本未収録)を寄せ ているから、かつての《南北》編集者・西岡武良さんに《柾它希家の人々》を推奨したことは大いにありうる(ここで想起するのは、1967年、吉岡が《瀧口 修造の詩的実験 1927〜1937》内容見本に寄せた無題の文章である)。私が《柾它希家の人々》の存在を知ったのは、安原顯《まだ死ねずにいる文学のために》(筑摩書 房、1986年6月25日)によってだった。安原さんはこう書いている。
「〔……〕物語は一九五五年の真冬に、友人の手紙で紹介されて、四人の男の子の家庭教師になるべく、作者であるわたしが、二千坪の庭を持ちながら荒れ放題 の柾它希家を訪ねるところからはじま」り、「冒頭のところで垢だらけのボロを甲羅のように身体に巻きつけた三歳ぐらいの男の子に「わたし」がいきなり指を 噛みつかれるところとか、四人兄弟が徹底的に犬をいじめるくだり、それから下男上がりの主人公が妻の杞紗子の従兄で、外国にいる曾根正示に手紙をやったと いうかたちで語られる、キリストを侮辱したことによって永遠の劫罰を受けたエヘエジュルス(もちろん根本氏の創作)の挿話、そして最後の子供たち四人によ る仮面劇の場面などは、いまでも鮮烈に覚えている」(同書、一四一ページ)。小説の本文から、根本の文体に特徴的な箇所を引こう。

 わたしは、そのカーテンの下から現われた、陰気な暗い隅の壁にかけられた絵を黙って見詰めた。
 暗いなかにも妖しく光る、いきいきとした眼はまるでその女[ひと]の眼をくり抜いてつけたのではないかと思うほど、なんともいえぬ鮮やかな、情熱が悩ま しいまでに激しく炎えた、真黒な眸をしていた。しかし、主人の話による太陽の熱のような、無気味な光りは何処にも感じられなかった。ただ、なんとなくその 絵から身の毛がよだつものを覚えたのは、赤子のように滑々した口もとも、広い蒼白な額にたれる真黒な、それでいて絹のように柔らかな髪の艶も、そこにただ よう雰囲気も、犬に肉をくれていた、あの洋介という子供にそっくりだったことである。そして、それが、逆に、わたしを吸い込むように、次第、次第に魅せら れていく魅惑にどうにも抗する術もなかった。(本書、一一一ページ)

先に引いた〈あとがき〉ほどではないが、長めのセンテンスを連ねた粘っこい筆致は、吉岡実の散文と対極にある。フラン・オブライエンの 《第三の警 官》(筑摩書房、1973)もそうだったが、吉岡の好む小説はいっぷう変わった味わいのものが多く、《柾它希家の人々》もその例に漏れない。私は塩辛い水 域を泳ぎきったときのような脱力感とともに、本書を読みおえたのだった。

〔2014年9月30日追記〕
扉野良人氏が〈事実は小説よりも奇なり〉(《全著快読 梅崎春生を読む(26)》) で根本茂男に触れている。1956年、梅崎が《東京新聞》に連載した小説《つむじ風》(角川書店、1957)の登場人物・陣内陣太郎は《柾它希家の人々》 の著者がモデルだという。扉野氏によれば、陣内は「松平姓を名乗って徳川慶喜の曾孫をほのめかす青年として登場する」。また、拙文に触れて「『M〔ママ〕 家の人々』を詳しく紹介したウェブページがあった。書影もあり、表紙にマーブル紙を用い、濃緑に染められた革を背に継いだ瀟洒な本である。初版千部。凝っ た造本は刊行者の名を見ればなるほどな、と思った。そして興味深いのは、その出版に詩人の吉岡実が尽力したという事実が記されている。吉岡実とS・N〔マ マ〕とどのような交流があったのだろう。ともかくS・Nはその後も挫折せず、小説を書いて完成し、立派な本まで出していたというのには驚いた。『M家の人 々』を手に入れて読んでみたいと思う」とも書いている。《つむじ風》は新潮社版梅崎春生全集第五巻(1973)に収録されている(8ポ2段組で310ペー ジの長篇)。冒頭を覗いただけだが、根本茂男の《柾它希家の人々》とは似ても似つかない筆致で「小説よりも奇なる」人物を描いている。


高見順賞受賞挨拶(2006年12月31日)

今を去る30年前、吉岡実は詩集《サフラン摘み》(青土社、1976)で第7回高見順賞を受賞した。そのときの〈挨拶〉を以下に引く(単行本未収録)。

 作家の中村真一郎氏とは、面識がある程度であるが、他の選考委員はみんな、親しい友人であり、また個性ゆたかな詩人である。そのような人たちに、《サフラン摘み》が認められたことが、私にはなによりもうれしい。
 二年前の飯島耕一君の《ゴヤのファースト・ネームは》の授賞式の日、友人の一人として私は挨拶をさせられた。その時、いずれ私もこの賞を頂きたいものだと、冗談めかして言ったものである。それが現実のことになったのも、不思議な因縁だと思った。
 〈高見順賞〉歴代の受賞者は、いずれも前途のひらけた若い詩人たちであったが、私のような年配の者が貰ったのは初めてである。これでこの賞の対象の幅がひろがったのは、よいことだと思う。
 正直のところ、この四年間、詩を書きつづけてきたので、小憩したい気持である。(《現代詩手帖》1977年2月号〈第七回高見順賞発表〉、一九一ページ)

その末尾に記されている「十二月二十四日」という日付は、1976年のクリスマスイヴということになる(ちなみにこのときの選考委員は、中村真一郎を筆頭に田村隆一、山本太郎、大岡信、入沢康夫)。翌年1月28日、赤坂プリンスホテルで行なわれた高見順賞贈呈式の様子を、吉岡は〈受賞式の夜〉(《東京新聞〔夕刊〕》1977年2月8日)に書いている。式での挨拶についての段を引くと、

「私は挨拶のなかで、ひとつ訂正させて貰った。それは式次第の刷り物にある田村隆一の選評についてだ。その冒頭に、

 吉岡実は、ぼくが畏敬する詩人である。畏敬というよりも、畏怖に近い。太平洋戦争のはじまる前から、彼は帝国陸軍の鬼軍曹で、馬の訓育にかけてはベテランだったという……

  これを読んで、唖然とした。彼一流のユーモアのつもりなのかも知れないが、私はその頃、一等兵であった。鬼軍曹というイメージは映画〈地上より永遠に〉のアーネスト・ボーグナインであろう。私は柔弱な召集兵であり、重い馬糧は担げず、輓馬もうまく扱えない兵隊であった。しょせんそのような兵隊には、他部隊への転属につぐ転属の運命が待っていた。私は済州島で敗戦を知ったのだ。世にいうポツダム伍長である――そのようなよけいなことを喋ったので当然私の挨拶はうまくなかった」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、四三ページ)。

口頭でうまくいかなかった挨拶をわざわざ文章にして残すとは、いかなる心境であろうか。吉岡は田村を語るときたくまざるユーモアを発揮するが(〈田村隆一・断章〉を見られたい)、これは単なるユーモアではない。田村は選評〈畏怖をいだく詩人〉で「詩とエロスの内なる関係を、彼ほど肉感的[、、、]に近代日本語で創造した詩人を、ぼくはほかに知らない」(前出誌、一九二ページ)と結論づけていて、吉岡が「唖然とした」箇所は前振りに過ぎない。引用した〈受賞式の夜〉後半の必要以上とも思える謙遜は、吉岡の大日本帝国陸軍への過剰な反応ではなかろうか。といっても、むろん軍隊での階級が一等兵か、伍長か、軍曹か、正確を期したいというのとは違う。吉岡実詩の背景に太平洋戦争がある点を(言外に)主張したのが、贈呈式のスピーチであり、それを録した〈受賞式の夜〉だった。吉岡は《サフラン摘み》がテーマ的に読まれることを要請したのだ。
〈受賞式の夜〉の7年後に発表の〈「受賞前後」の想い出〉(《樹木》2号、1984)には〈吉岡実のレイアウト(3)〉で触れた。同文における式での挨拶は、高見順と岳父和田芳恵の話題に終始しており、発表媒体(《樹木――高見順文学振興会会報》)への配慮も窺える。〈受賞式の夜〉に書かれた挨拶は、戦争の傷跡が吉岡から生涯消えることがなかったことを物語っているように思われる。


吉岡実の書簡(4)――《吉岡実詩集》のこと(2006年11月30日)

吉 岡実は1967年10月1日、思潮社から《吉岡実詩集》を刊行した。未刊詩集《静かな家》までを収めた、当時における全詩集である。吉岡は単行詩集に関し てはしばしば生成の記録を書きとどめているが、本書への言及はその〈あとがき〉以外、見られない。だが幸いなことに、永田耕衣に宛てた書簡に《吉岡実詩 集》に触れた箇所があるので、それを追ってみよう。最初は1967年3月1日のはがきである。なお、漢字の字体は可能なかぎり原文の再現を心がけた。

春、三月一日になりました。耕衣様にはいかがお暮しですか。小生の風邪びきもこれからはなおるでしょう。過日の郁乎 の会では、澁 沢竜彦とか、飯島耕一、白 石かずこ、富岡多惠子(はじめての出会)と会い、小生には珍しくたのしい一夕でした。全詩集も校了となり、四月には刊行されると思います。たのしみに待っ ていて下さい。会社の仕事も、広告部より、編集部に移りました、有意義なる書物を出して行きたいと思っています。 さようなら    実。

《吉岡実詩集》が「四月には刊行されると思います」とあり、本文校了後、ふた月もあれば出版できると考えるのはごく自然である。ただ し、それが自装 もしくは「ふつうの装丁」であるならば、だが。次は前信の1週間後、3月8日の封書である。

永田耕衣宛吉岡実書簡(1967年3月8日) 姫路文学館(永田耕衣文庫)所蔵
永田耕衣宛吉岡実書簡(1967年3月8日)
姫路文学館(永田耕衣文庫)所蔵

拝復。たまもの、そんな気がします。すばらしい書と絵を二点もいただけるなんて、思ってもいませんでした。前にいた だいたハガキ の作品も、汚れないよう に、そしていつも見られるように、飾棚のガラスの中に秘藏しています。こんどの作品は、眞の独立したものなので、本当に愛着をおぼえます。朱の地藏(?) さんのすがたも愛らしく、句も耕衣作品の傑作なので、いうところがありません。もう一つの老梅も藍の色の美しく、別種の境地に遊ぶ思いです。小生の今の日 常の生活にない世界へ進まれている、耕衣様のことを、妻とともにうらやましがっています。
《琴座》二月号の後記にある、――妻同伴で京都に密行し某所で白隠の墨蹟を入手した。――の一行――本当のところしゃくにさわる、です。小生もいつの日 か、そんな名品を自分のものにしたい願望があります。個展用の近作をわざわざ寫眞にして同封、眞の心くばりに打れました。
「法悦」の二字は、すでに傑作誕生の予告がされていますね。小生にはよくわかりませんが、人間ばなれした恐るべき筆跡に思えます。古き禅僧の墨蹟へ肉迫せ んとしているのでしょう。
この本物を見るべく、五月の個展には是非とも参上するつもりです。

  春海や最も丸餅の寄り合いたる

耕衣様の慈顔をかんじます。    敬具

三月八日夜    実

耕衣様

耕 衣から書と絵を二点贈られたのは、広告から編集への異動祝い、全詩集刊行の予祝、あるいはその両方を兼ねてのことだろうか。耕衣や白隠の書への没入を語っ て注目すべき本状のあと、4月8日付の書簡(《琴座》207号に抜粋が掲載されている)、この年と思しい5月30日付の封書、6月28日消印のはがきが存 在するが、いずれも《吉岡実詩集》には触れていないため、進行状態を窺いしることはできない。次は8月2日消印のはがきである。

酷暑の日々、いかがお暮しですか。豪雨の折、すぐにでもお見舞い申上げるべきでしたが、ご無事のことと信じ、失礼い たしました。 「耕衣句集」たのしく読ん でおります。さて、「琴座」七月号の個展特集の記事とても面白く、ことにわが「白桃図」にふれた文章が多く、愉快になります。全詩集どうやら八月には出版 されることと思います。いましばらくお待ちを。実

「耕 衣句集」は、6月28日に耕衣から贈られた自選句集《永田耕衣句集〔戦後俳句作家シリーズ1〕》(「海程」戦後俳句の会、1967年3月20日)のこと。 8月初めの時点で「八月には出版されることと思います」とあり、《吉岡実詩集》が思惑どおり進行しなかったことがうかがえる。最後は刊行後の10月23日 消印のはがきだが、そのまえに耕衣の〈吉岡さんの字〉(《ユリイカ》1973年9月号)から引く。「吉岡さんから頂いた「吉岡実詩集」(思潮社)の淡紺色 の扉には、「死せる鴎/髪のたなびく春」の二行が、ペンで揮毫され、1967,10,14と日附まで、明記されている。もちろん署名と、私の宛名も、すべ て律儀な楷書で、素直に確と書かれている」(同誌、一二八ページ)。

秋晴。小生の詩集、よろこんでいただけて本当にうれしく思います。戦前から数えて二十年、とにかく自分ながら、よく やってきたと 思います。耕衣さんの作句 年月に比べるわけには、いきませんが。来月上京されるとのこと、その上、貴重な「加古」をいただけるとは光榮です。再会の日を今からたのしみにしていま す。小生選の耕衣百句は、是非やらねばと心にきめていますが、今すこし時間を下さい。又、大字を揮毫されたとのこと、見たいものですね。もし、寫眞を撮っ たら、寫眞一葉送って下さい。    実

「戦 前から数えて二十年」は「二十五年」の書きあやまりか、さもなければ軍隊にいた期間を除いたものか。「加古」は耕衣の第一句集《加古》(鶏頭陣社、 1934年11月11日)のこと。この稀書を贈られるとあって、「小生選の耕衣百句は、是非やらねばと心にきめています」と決意も新たにしているのが目を 引く。「耕衣百句」が吉岡実編《耕衣百句》(コーベブックス、1976年6月21日)として結実するまでに、この後十年近くを要する。出版とは、永続する 意志の別名でもあった。


初期吉岡実詩と北園克衛・左川ちか(2006年10月31日〔2010年11月30日追記〕)

  吉岡実は最初に公刊した著作『昏睡季節』以前に、詩集『赤鴉』を手稿本として遺している。この『赤鴉』について、吉岡は大岡信との対話「卵形の世界から」で歌集であるかのごとくに言及した程度で、詳細な内容を明らかにしなかったが、歿後十二年を経た二〇〇二年に『詩集 赤鴉』として吉岡陽子夫人の手で小部数が出版された。次に引くのは私がウェブサイト『吉岡実の詩の世界』の吉岡実書誌に書いた『赤鴉』解題である。

 詩集『赤鴉』は、詩集『昏睡季節』(草蝉舎、1940)以前の吉岡実の最初期の和歌(短歌と旋頭歌)と俳句を収めているが、詩篇は収載されていない。吉岡陽子はその間の事情を『赤鴉』の「覚書」で次のように記す。「〔『赤鴉』の〕元になったものは、若い吉岡実が、B5版〔判〕の原稿用紙にペンで清書をしたもので、赤いクロスの厚表紙で製本し、背に横書きで「詩集 赤鴉 吉岡實」と黒く箔押ししてありました。作品に付された日付から、昭和十三年から十五年初めにかけて書かれたものと思われます。破り棄てられたページが二十枚ほどありましたが、残されている部分には鉛筆で修正の試みもなされていて、故人も愛着があったのではないかと思われました。第二歌集も作るつもりだったようで、初めの二首で中断されています」(1)
 自筆詩集『赤鴉』を見た宗田安正は、句集『奴草』(書肆山田、2003)の「解題」にこう書いている。「『赤鴉』は、吉岡の奉公先だった南山堂名入りのB5判原稿用紙(12字×19行)に作品を丹念にペン書きし、赤い布表紙で製本、背には横書きで「詩集 赤鴉 吉岡實」と黒の箔押しがある。巻頭の何枚かが切り取られてあり、そのあとに自筆の歌集稿「歔欷」と句集稿「奴草」が続く」。「あの巻頭の破られた何ページかには何が記されていたのであろうか。はっきりと「詩集 赤鴉」と刻印してあることを思えば、そこには詩作品が書かれていたと考えることが自然である。そして遺された短歌や俳句からその制作年次を考えれば、恐らくこの詩群は、最初の詩集『昏睡季節』になったと見てよいのではないだろうか」(2)
 現物を見ていないのでなんとも言えないが、ふたつの証言から判断するかぎり、自筆詩集『赤鴉』には「赤鴉」の標題のもとに(後の「昏睡季節」を構成する)詩篇のいくつかが、「歔欷」の標題のもとに(後の「蜾蠃鈔」を構成する)和歌が、「奴草」の標題のもとに(後年の句集『奴草』を構成する)俳句が収録されていたと思われる。これらの詩歌句を収めた『詩集 赤鴉』はそのままの形では刊行されず、詩歌を収めて吉岡最初の著作となった『詩集 昏睡季節』は永いこと著者からは処女詩集と見なされず、吉岡は『赤鴉』後に書かれたであろう詩篇だけを収めた『詩集 液体』を事実上の処女詩集としてきた。すなわち、詩歌句の三位一体から句、歌をひとつひとつ振るいおとしていった最後に「詩」にたどりついたのが、吉岡実と初期の『詩集』との関係だったのである。

  吉岡が最初に手を染めたジャンルは短歌だったが、短歌をやめて俳句へ、俳句を廃して詩へと段階的に進んでいったわけではない。十九歳から二十歳にかけての日記のそこここには自作の俳句や短歌がちりばめられており、詩作への言及も散見される。その一九三九(昭和十四)年五月三十一日には「詩集を兵隊にゆく前に出したいと思う」、九月十二日には「歌集『蜾蠃抄』を出したいと思う」、十一月十一日には「句作にはげむ。いつか句集『奴草』を編みたいと思う」(3)とあり、徴兵を前にした吉岡は、生の証しを遺すことに想いを馳せている。全二〇九首を収めた「歔欷」を見よう。巻頭の一首は、三行書きのうえ文体も石川啄木ふうで、吉岡らしさは窺うべくもない。ところで「歔欷」にはのちの歌集『魚藍』にほとんどない詞書(標題に近い)が、原則としてある。次に引くのは一三六首めの「失眠」である。

夜になりきれぬなやみがあつた
窓掛けに朝月がのつてゐる(4)

  これは「歔欷」では例外的な歌風で、私には『昏睡季節』の詩句を予告しているように思える。それまでの短歌の堅固な文体に亀裂が走ったように見えるのである。当時、吉岡がどのように短歌から詩へ移行していったかは、「救済を願う時――《魚藍》のことなど」(一九五九年発表)に詳しい。

 私は十五歳から十九歳まで、《桐の花》の世界にいた。〔引用五首は省略〕の官能と雰囲気を愛した。それにつづいて《雲母集》の〔引用四首は省略〕の野性と生命感とに驚嘆した。やがて《雀の卵》のうちの〈葛飾閑吟集〉の〔引用三首は省略〕のいわゆる枯淡な障子の世界に入ってきたので、私はここで停った。私の求めるものは乾燥した事物でないだろうかと考えた。新しい刺戟を欲した。いうならば、コンクリートの壁に冷酷にも触れたバラの花の痛ましさを。私は前川佐美雄や石原純の新短歌をみつけて、ためらいもなく真似た。だが中途半端な気がしてやめた。その頃、斎藤清氏の四谷のアパートで、ピカソの詩を発見し、興奮した。それは「みづゑ」かなにかだろう。〔……〕/短歌をつくるより、未知の感覚とイマージュを呼び入れるに絶好の詩型を発見したのだ。それが超現実派の詩であることがやっとわかった。なぜなら、私は唯一人の友もなく、まったく手さぐりでものを書きつづけてきたのだから。そしてわが国の作品を探した。《左川ちか詩集》、北園克衛詩集《白のアルバム》の二冊がそれから以後しばらくは愛読の書となった。(5)

  吉岡実の詩的転回を語って余すところがない。北原白秋の短歌を選歌集『花樫』で愛読した吉岡は、表現者として新短歌に興味を示すものの、その「詩」は短詩型文学に収まるものではなくなりつつあった。そのとき触媒のように機能したのがピカソの詩(瀧口修造が「詩を書くピカソ」で訳出したもの)であり、この著名な画家の「香りは鶸が井戸の中で打つ影たちの通るのを聴き珈琲のしゞまの中で翼の白さを消す」や「トレロで霧が発明したもつとも美しい針で彼の電球の衣裳を縫ふ闘牛」(6)などの詩句に触れて、独力で北園克衛と左川ちかを発見した。吉岡は北園の『円錐詩集』のまったく新しい表現に魅せられ、『白のアルバム』を探し求めて読んでいる。吉岡自身は「北園詩を模倣しはじめたのである」と書いているが、次にそれを検証してみよう。

  VIN|北園克衛

食虫植物を指にささへて、長い硝子管で月を吸つてゐると、やがて脳髄が青白くなり、真珠色になり、巻尺で計ると背中の方から破れてしまつた。(7)

  白昼消息|吉岡実

自転車競走選手が衝突する
夏蜜柑の内房の廊へ粘液がふき出す

頸の青い子供が燻銀色の硝子杯で電流をのみこぼした

傾斜地帯から円錐型帽子へながれこむ
一枚の風と約束と花蕊と

女の客が曲り角の化粧品店にはいつた(8)

  詩の発想において吉岡が北園から学んだものは確かに多く、『円錐詩集』と『白のアルバム』が詩型や語彙の宝庫として最初期の吉岡実詩の起爆剤の役目を果たしたことも疑いない。だが、「白昼消息」の視点の切り換え、言い換えれば詩句間の断絶には、そのころ吉岡が親しんだ新興俳句の呼吸に近いものがうかがえる。詩篇と和歌を一冊に収めた『昏睡季節』は、詩「春」「夏」「秋」「冬」や「断章」などからも明らかなように、スタイルの見本帖であり、吉岡は「わが処女詩集《液体》」(一九七八年発表)に「この一篇〔「昏睡季節2」〕を見ても、幼稚・生硬で、詩的な美しさに欠けている。そのうえ二十篇の文体に統一なく、まさに雑多である。わずか一年あとの作品ではあるが、《液体》には、均整の美とそれなりのスタイルがあると考えているので、私の処女詩集は、《液体》ということになる」(9)と慊焉たる想いを記している。

  吉岡実詩における『左川ちか詩集』の影響はどうだろうか。私はあの「コンクリートの壁に冷酷にも触れたバラの花の痛ましさ」に、生前に一巻の詩集さえもつことなく逝った閨秀を感じる(『昏睡季節』の「病室」という一篇など、八歳年長の詩人への追悼詩にさえ思える)。異色作「面紗せる会話」には、北園の詩「上層記号建築」と同時に、左川の詩「会話」のレミニッサンスがある。だがそれは外見的な類似にすぎない。冷酷非情な外界に否応なく直面させられた者への共感には、徴兵を控えた自らの姿が重ねあわされていよう。左川の詩篇「前奏曲」に著しい、見えないものを見ようとする意志は、吉岡に「目の強度」とでも言うべきものを植えつけた。それは『昏睡季節』や『液体』では顕在化せず、満洲で馬を曳いて過ごした戦時中を経て、戦後十年を閲して成った詩集『静物』で花開いた。左川の次の詩は吉岡の詩「過去」を想起させるが、それ以上に詩集『静物』に始まる真の吉岡実詩を先取りしている。吉岡もまた「死者の目」を内在化したといえよう。

  死の髯|左川ちか

料理人が青空を握る。四本の指跡がついて、
――次第に鶏が血をながす。ここでも太陽はつぶれてゐる。
たづねてくる青服の空の看守。
日光が駆け脚でゆくのを聞く。
彼らは生命よりながい夢を牢獄の中で守つてゐる。
刺繍の裏のやうな外の世界に触れるために一匹の蛾となつて窓に突きあたる。
死の長い巻鬚が一日だけしめつけるのをやめるならば私らは奇蹟の上で跳びあがる。

死は私の殻を脱ぐ。(10)

  一方、吉岡が親しんだころの北園克衛の詩にそうしたものは見あたらない。北園の詩を左川の詩と分かつものこそ、死者の視点の有無である。処女詩集『白のアルバム』は吉岡の『昏睡季節』と同様、さまざまなスタイルで充ち満ちている(POESIE DE THEATREの一篇「人形とピストルと風船」が吉岡晩年の『薬玉』の階段状の詩型をしているのには瞠目させられる)。『液体』は『円錐詩集』に範を仰いで、詩集としての統一体を志向している。生涯、詩集に対して抱きつづけたこの姿勢こそ、吉岡が北園の実験的な初期詩集から学んだ最大のものだろう。

引用文献
(1) 吉岡実詩集『赤鴉』、弧木洞、2002
(2) 吉岡実句集『奴草』、書肆山田、2003
(3) 吉岡実『うまやはし日記』、書肆山田、1990
(4) (1)に同じ
(5) 吉岡実『「死児」という絵〔増補版〕』、筑摩書房、1988
(6) 瀧口修造「詩を書くピカソ」、『みづゑ』1937年3月(通巻385号)
(7) 北園克衛『円錐詩集』、ボン書店、1933
(8) 吉岡実詩集『昏睡季節』、草蝉舎、1940
(9) (5)に同じ
(10) 『左川ちか詩集』、昭森社、1936

〔付記〕
上掲は2006年夏、中保佐和子さんの編集する英文誌《[Five] Factorial》(Factorial Press刊)に発表した吉岡実論〈Minoru Yoshioka's Early Poems, in Light of Katue Kitasono and Chika Sagawa〉(Yu Nakai・Sawako Nakayasu両氏による英訳)の原文〈初期吉岡実詩と北園克衛・左川ちか〉である。叙述の必要上、詩集《赤鴉》解題を《吉岡実の詩の世界》から引いていることをお許しいただきたい。私が本サイトに執筆する場合、吉岡実の文章との兼ねあいで《 》や〈 〉を使用しているが、本稿では一般的な『 』と「 」を使っており、段落冒頭の一字下げを含めて、草稿のままとした。原文の掲載にあたっては、執筆の機会を与えられた中保さんの諒解を得た。記して深く感謝する。

〔2010年11月30日追記〕
金澤一志《北園克衛の詩》(思潮社、2010年8月1日)に次の記述がある。「北園克衛は詩集にテーマの完結をもとめる傾向があり、第二詩集以降は設定したテーマのもとに書かれた詩だけを詩集にまとめることで目的の修了とした。『白のアルバム』は、三年分という期間の限定があるとはいえ多くのスタイルを詰めこんだアンソロジーで、また叢書〔厚生閣書店の〈現代の芸術と批評叢書〉〕という性質上フォーマットやボリュームが最初から決められていたことなどが「全面的」ではないという不満につながり、またその不満は後年の自編自装への拘泥に直結していったようにもみえる」(〈「図形説」を読む〉、同書、六三ページ)。吉岡の《昏睡季節》は、餞別に貰った用紙などの限定要因はあったものの「自編自装」には違いなく、さまざまなスタイルの同居の原因はほかに求めなければならない。《白のアルバム》は「すくなくとも僕の文学の全面的なものではなかつた」という北園の38年後の処女詩集回顧に対する「全面的に反映していないという不満は、欠如の不満ではなく飽和の不満ではなかったか」(同前)、という金澤氏の指摘は鋭い。吉岡も自分の処女詩集に「飽和の不満」を覚えた結果、《液体》が生まれたように思われる。


吉岡実とサミュエル・ベケット(2006年9月30日)

1977年5月、吉岡実は詩篇〈螺旋形〉(H・10)を《海》に、随想〈「想像力は死んだ 想像せよ」〉を《現代詩手帖》の〈一語の魔・魔の一語〉欄に発表した。両者に登場するのが、サミュエル・ベケットの「想像力は死んだ 想像せよ」(高橋康也訳)という章句である。随想の冒頭はこうだ。

 ある早春の朝、私は所用があって、近くの高橋康也さんの家を訪問した。〔……〕話題は当然ルイス・キャロルとサミュエル・ベケットのことになった。私は〈アリス詩篇〉を数篇書いているので、ルイス・キャロルは身近な存在であったが、サミュエル・ベケットは、奇妙な表現になるが「近くて遠い存在」の作家である。もっとも関心を持っていて、数冊のベケットの小説を手元に置きながら、いまだに通読していない。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、八三ページ)

「数冊のベケットの小説」は、安堂信也訳《モロイ》(白水社、1969)、高橋康也訳《マロウンは死ぬ》(同)、安藤元雄訳《名づけえぬもの》(白水社、1970)、川口喬一訳《マーフィ》(白水社、1971)、高橋康也訳《ワット》(同)、安堂信也訳《初恋/メルシエとカミエ》(同)、川口喬一訳《蹴り損の棘もうけ》(白水社、1972)、片山昇・安堂信也・高橋康也訳《短編集》(同)、片山昇訳《事の次第》(同)のどれかだろうか。また「所用」が仕事がらみなら、それは吉岡が当時編集長を務めていた《ちくま》の原稿受けとりだったかもしれない。同誌第95号(1977年3月)に、高橋康也の〈アリスとドン・キホーテ〉(「虚構あるいは夢の入れ子細工[チヤイニーズ・ボツクス]的構造をめぐる発想」という刺戟的な一節も見える)が掲載されているからだ。〈「想像力は死んだ 想像せよ」〉の後半から引く。

 高橋康也の《S・ベケット》が最良の入門書だとの世評である。私は街でそれを探したが見つからないからと、康也さんに無心した。帰る時ふと庭を眺めると柵のはるか彼方の青空に、白い富士が輝いていた。/「想像力は死んだ 想像せよ」/《S・ベケット》を読んでいて、この言葉を見つけた。まこと怖しい一言であると思う。〔……〕高橋康也が、「恐ろしい作家」というベケットの諸作を、私はこれから読んでいこうと思っている。(同前、八四ページ)

《S・ベケット》(背文字の表記)は正式には《サミュエル・ベケット〔今日のイギリス・アメリカ文学3〕》(研究社出版、1971年2月25日)で、「想像力は死んだ 想像せよ」の章句は同書九〇ページと一四四ページに見える。高橋さんが後者で列記している「「想像力は死んだ 想像せよ」‘Imagination morte imaginez’、「ビーン」‘Bing’、「円筒の中で」‘Dans le cylindre’」のうち、「円筒の中で」は吉岡の詩篇〈円筒の内側〉(H・28)とも関係がありそうだし、四九ページに出てくる「無理数の行列式[マトリツクス]〔あるいは母胎[マトリツクス]〕」は《ムーンドロップ》巻頭の〈産霊(むすび)〉(K・1)の一詩句を用意したかもしれない。吉岡がその後、「ベケットの諸作」を読んだかは随想に書かれなかったが、高橋康也の著書《S・ベケット》が吉岡実詩と深い関わりをもつことは、まぎれもない。


吉岡実詩の鳥の名前(2006年8月31日)

〈鳥の名前〉を書いたからには、吉岡実詩に登場する鳥の名前を挙げないわけにはいかない。せっかく全詩集をひもとくのだから、「鳥」や「小鳥」といった特定の種でないものも含めることにする。

  1. 鶏―〈夏〉@・2
  2. 鴉―〈冬〉@・4
  3. 鴎、白孔雀、白鷺、鳰鳥、雁、金糸雀、鶺鴒、鳶、鶯―以上〈蜾蠃〔スガル〕鈔〉
  4. 鳥―〈朝餐〉A・3
  5. 〔風見鳥〕―〈溶ける花〉A・4
  6. 鸚鵡―〈蒸発〉A・5
  7. 鳥―〈相聞歌〉A・11
  8. 鳩―〈微風〉A・14
  9. 鵞鳥―〈静物〉A・15
  10. 孔雀―〈忘れた吹笛の抒情〉A・16
  11. 鳥―〈花遅き日の歌〉A・21
  12. 山鳩―〈失われた夜の一楽章〉A・24
  13. 小鳥―〈花の肖像〉A・29
  14. 鳥―〈夏の絵〉B・9
  15. 鶏―〈風景〉B・10
  16. 鳥―〈ジャングル〉B・13
  17. 〔鶏小屋〕、牝鶏―以上〈雪〉B・14
  18. 小鳥―〈寓話〉B・15
  19. 鳥―〈喜劇〉C・1
  20. 鳥―〈告白〉C・2
  21. 海鳥、鳥―以上〈島〉C・3
  22. 鳥―〈牧歌〉C・7
  23. 鳥、からす―以上〈僧侶〉C・8
  24. からす、鶴―以上〈回復〉C・12
  25. 鳩―〈人質〉C・17
  26. 鳥、鶏、鷭―以上〈感傷〉C・18
  27. ペリカン、禿鷹―以上〈老人頌〉D・1
  28. 孔雀―〈果物の終り〉D・2
  29. 鳥―〈紡錘形U〉D・5
  30. 白鳥―〈田舎〉D・10
  31. 鴎―〈鎮魂歌〉D・15
  32. 鳥―〈狩られる女〉D・18
  33. 鴎―〈寄港〉D・19
  34. 鷹、鴎―以上〈灯台にて〉D・20
  35. 猛禽類―〈沼・秋の絵〉D・21
  36. ツバメ―〈劇のためのト書の試み〉E・1
  37. カモメ、鳥―以上〈やさしい放火魔〉E・9
  38. 孔雀―〈春のオーロラ〉E・10
  39. ニワトリ―〈内的な恋唄〉E・12
  40. 鳥―〈孤独なオートバイ〉E・14
  41. 鳥―〈静かな家〉E・16
  42. ブルーカナリヤ、スワン―以上〈マクロコスモス〉F・1
  43. 鳥―〈立体〉F・3
  44. フクロウ、孔雀―以上〈色彩の内部〉F・4
  45. 孔雀―〈少女〉F・5
  46. 雄鶏、ヒバリ―以上〈フォークソング〉F・7
  47. 鳥―〈崑崙〉F・8
  48. 鳩―〈雨〉F・9
  49. 孔雀―〈神秘的な時代の詩〉F・11
  50. ウグイス―〈蜜はなぜ黄色なのか?〉F・12
  51. カモ―〈弟子〉F・15
  52. 鶏―〈わが馬ニコルスの思い出〉F・16
  53. 海鳥、牝鶏―以上〈コレラ〉F・18
  54. 火食鳥―〈葉〉G・4
  55. カササギ―〈悪趣味な冬の旅〉G・6
  56. 〔鶏冠〕、夜鷹―以上〈ピクニック〉G・7
  57. ツグミ―〈わが家の記念写真〉G・9
  58. 鳩―〈ルイス・キャロルを探す方法―わがアリスへの接近〉G・11
  59. 鳥、七面鳥、ウグイス―以上〈ルイス・キャロルを探す方法―少女伝説〉G・11
  60. 鵞鳥、鳥、キンパラ鳥―以上〈『アリス』狩り〉G・12
  61. 鳩、キジ、燕―以上〈田園〉G・14
  62. 鳥、ふくろう、母喰鳥、火食鳥―以上〈フォーサイド家の猫〉G・17
  63. 鳥、鳩―以上〈異霊祭〉G・19
  64. 鵞鳥―〈メデアム・夢見る家族〉G・21
  65. 鳶、鳥―以上〈舵手の書〉G・22
  66. うずら、鳥―以上〈ゾンネンシュターンの船〉G・24
  67. 不死鳥[フェニックス]、フップ鳥、母鳥―以上〈示影針(グノーモン)〉G・27
  68. 鳥―〈カカシ〉G・28
  69. うずら、千鳥―以上〈少年〉G・29
  70. 鷹、鴿[ハト]―以上〈悪趣味な内面の秋の旅〉G・31
  71. 鳥―〈楽園〉H・1
  72. 鳩、鳥、鵲―以上〈子供の儀礼〉H・4
  73. にわとり、鳥―以上〈異邦〉H・5
  74. カナリヤ―〈晩夏〉H・7
  75. 夜鶯、雉、鴨、紅鶴、〔鳥影〕―以上〈曙〉H・8
  76. 朝鮮鴉、〔鳥型〕―以上〈草の迷宮〉H・9
  77. 白鳥―〈螺旋形〉H・10
  78. 小鳥―〈形は不安の鋭角を持ち……〉H・11
  79. 千鳥―〈雷雨の姿を見よ〉H・14
  80. 鳥―〈織物の三つの端布〉H・16
  81. 小鳥―〈金柑譚〉H・17
  82. 鴉、白鳥―以上〈悪趣味な春の旅〉H・19
  83. 鶏、鶯―以上〈夏の宴〉H・20
  84. 鴨―〈詠歌〉H・23
  85. 鷲―〈裸子植物〉H・25
  86. 鳥、夜鶯―以上〈ライラック・ガーデン〉I・3
  87. 燕、鴎―以上〈九月〉I・10
  88. スワン―〈春の絵〉I・12
  89. ペリカン、ツグミ―以上〈ツグミ〉I・21
  90. 長鳴鳥、にわとり、おんどり、めんどり―以上〈雞〉J・1
  91. 鵲―〈竪の声〉J・2
  92. ツグミ、セキレイ、ハト、スズメ―以上〈青枝篇〉J・4
  93. 小鳥―〈壁掛〉J・5
  94. 郭公―〈郭公〉J・6
  95. 雁、〔鳥獣〕、尸鳩[よぶこどり]、きぎす、ほととぎす―以上〈巡礼〉J・7
  96. 千鳥―〈秋思賦〉J・8
  97. 水雞[くいな]―〈天竺〉J・9
  98. 鶏、海鴉、白鳥、鳥―以上〈薬玉〉J・10
  99. 鶴―〈春思賦〉J・11
  100. ミソサザイ、にわっとり―以上〈哀歌〉J・13
  101. うずら、カケス、〔鷺足〕―以上〈甘露〉J・14
  102. 雀―〈東風〉J・15
  103. 鳥―〈求肥〉J・16
  104. 落雁―〈落雁〉J・17
  105. 雉子、鷹、鶴―以上〈蓬莱〉J・18
  106. 朽鶏[くだかけ]―〈青海波〉J・19
  107. 鳥―〈わだつみ〉K・3
  108. ツバメ、小鳥―以上〈聖童子譚〉K・4
  109. 鳥―〈秋の領分〉K・5
  110. 鳶、鶯―以上〈寿星(カノプス)〉K・8
  111. 鶯、オシドリ―以上〈ムーンドロップ〉K・10
  112. 鳥―〈叙景〉K・11
  113. 軍鶏、小鳥、鳩、にわとり、鳥、鳶、七面鳥、雀、春鳥[はるとり]、鵠[くぐひ]、慈悲心鳥―以上〈聖あんま断腸詩篇〉K・12
  114. 神鳥―〈睡蓮〉K・13
  115. 斑鳩[じゅずかけ]―〈苧環(おだまき)〉K・14
  116. 鶴、鳥―以上〈銀鮫(キメラ・ファンタスマ)〉K・17
  117. かささぎ―〈鵲〉K・18
  118. 鳥―〈遅い恋〉未刊詩篇・7
  119. 〔鳥籠〕、鳥―以上〈夜曲〉未刊詩篇・8
  120. 鶏―〈哀歌〉未刊詩篇・9
  121. からす、鶏、鷹、雁、鶺鴒、鴨―以上〈波よ永遠に止れ〉未刊詩篇・10
  122. フクロウ―〈冬の森〉未刊詩篇・11
  123. 鳥―〈スワンベルグの歌〉未刊詩篇・12
  124. 〔鳥獣〕、海鳥―以上〈雲井〉未刊詩篇・20

今回、対象にした作品数は二七八(詩篇二七七、和歌一)だから、上記の一二四件は四五パーセント近い。同一の詩篇では二回以上登場する場合も一回だけ登場する場合も同じに扱ったので、どの種類が数多く現われたか単純に言えないが、三篇以上に登場する種類を挙げておく(表記はいちばん多い形を採った)。「鶯、うずら、海鳥、鵲、鵞鳥、カナリヤ、鴨、鴎、からす、雁、孔雀、(小鳥)、雀、鶺鴒、鷹、千鳥、ツグミ、燕、鶴、鳶、(鳥)、鶏、白鳥、鳩、フクロウ、牝鶏」。
以上から見えてくるのは、(1)鶏(13回)、鳩(10回)、鴉(5回)など身近な種類が多いこと(2)孔雀、鴎、七面鳥、鵲などに特別な想いが込められているらしいこと(3)《僧侶》の「からす」を除けば、かなによる表記は《静かな家》に始まること(4)《薬玉》ではほとんどの詩篇(全19篇中17篇)に鳥が登場すること(5)後期の詩篇に古語による鳥の名が見られること(6)〈波よ永遠に止れ〉、〈巡礼〉、〈聖あんま断腸詩篇〉といった長詩に多くの種類の鳥が動員されていること、などである。
吉岡が散文であれだけ熱心に書いたダルマインコが詩篇に登場しないのは興味深い。――「詩には個人的な事情は持ちこみたくないのです」(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一四五ページ)。〈鳥の名前〉では吉岡実詩の標題として〈ツグミ〉(I・21)、〈雞〔ニワトリ〕〉(J・1)、〈郭公〉(J・6)を挙げたから、それらに〈落雁〉(J・17)と〈鵲〉(K・18)を加えておこう。鳥の名前を標題にもつ詩篇が後期吉岡実詩に集中している事実は、件の中西悟堂文と関係があるのかもしれないが、はっきりしたことはわからない。


鳥の名前(2006年7月31日)

吉岡実が使っていた切り抜き用クリアファイルに、自筆で「(鳥名)」とメモ書きした、雑誌をそのまま切りとった2葉(4ページ)の記事が入っている。切り抜きは冒頭の紙葉を欠いており、標題・執筆者名はわからない。もっとも文中の小見出し「或る揮毫」の一節に「次の定本野鳥記の校正」云云とあることから、中西悟堂(1895-1984)が晩年に書いた文章と知れる。揮毫の経緯を引く。

 揮毫の中で風変りなものが一つあった。それは鎌倉の服部誠さんという人が先頭に立って続けてきた或るアマチュアの探鳥団体が、過去十五年間の日曜ごとに行なった探鳥散策で見た鳥が通算百九十一種となった。ついてはそれを三尺平方の正方形のへりに、全部旧漢字で書き並べてほしいとのこと。/〔……〕こんな揮毫も始めてのことなので、御参考までにごらんに供する。現在の学会が使っているウェトモア式の分類順であるが、科名はつけずに並べておく。(掲載誌不明、一四〜一五ページ)

続いて一九一種の鳥の名前が並んでいるわけだが(私にはふりがながないと読めないものも多い)、吉岡が手許に置いておきたかったのはこの旧漢字の鳥の名前に違いあるまい。以下に、シフトJISのテキストとして表示できない文字はユニコード文字を挿入して、追込で掲載してみる(シフトJISにある旧漢字は使用した)。なお「鸊」は原文では辟冠に「鳥」、またブラウザによっては「桑鳸千鳥」と「桑鳸」で表示できない二文字めは戸垂に「鳥」を書く。〓(ゲタ)は「鴇」の偏がヤマに「干」で、手許の漢和辞典やユニコード漢字辞典には載っていない。文中最後の三種「紅雀/文鳥/金蘭鳥」には、}で括って「籠ぬけ鳥が野生化したもの」と記してある。

阿比/大波武/鸊鷉/羽白鸊鷉/耳鸊鷉/赤襟鸊鷉/冠鸊鷉/大水薙鳥/河鵜/海鵜/姫鵜/五位鷺/笹五位/尼鷺/大鷺/中鷺/小鷺/蒼鷺/黒鷺/緑頭鴨(真鴨)/軽鴨/小鴨/葭鴨/緋鳥鴨/尾長鴨/嘴廣鴨/金黒羽白/鈴鴨/黒鴨/頬白鴨/神子秋沙/海秋沙/川秋沙/鶚/八角鷹/鳶/蒼鷹/鷂/鵟/鵊鳩(差羽)/隼/長元坊/鶉/小綬鶏/雉/鷭/玉鷸/都鳥(蠣鷸)/小千鳥/桑鳸千鳥/白千鳥/目大千鳥/大目大千鳥/胸黒/大膳/計里/田計里/京女鷸/當年/雲雀鷸/尾白當年/姫鶉鷸/鶉鷸/濱鷸/猿濱鷸/小尾羽鷸/尾羽鷸/三趾鷸/箆鷸/襟巻鷸/錐合/鶴鷸/青足鷸/草鷸/鷹斑鷸/黄足鷸/磯鷸/反嘴鷸/大反嘴鷸/大杓鷸/焙烙鷸/中杓鷸/田鷸/大地鷸/赤襟鰭足鷸/百合鴎/背黒鴎/大背黒鴎/鷲鴎/白鴎/鴎/海猫/三趾鴎/嘴黒腹鯵刺/鯵刺/小鯵刺/雉鳩/緑鳩/十一(慈悲心鳥)/郭公/筒鳥/杜鵑/小耳木兎/大木葉木兎(鵂鶹)/緑葉木兎/梟/怪鴟(蚊母鳥)/姫雨燕/山翡翠/赤翡翠/翡翠/佛法僧/緑啄木鳥/赤啄木鳥/大赤啄木鳥/小啄木鳥/雲雀/小洞燕/燕/腰赤燕/岩燕/黄鶺鴒/白鶺鴒/背黒鶺鴒/便追/田鷚/山椒喰/鵯/鵙/赤鵙/河烏/鷦鷯/駒鳥/野駒/小瑠璃(青駒)/瑠璃鶲/尉鶲(常鶲)/磯鵯鳥/眉白/虎鶫/黒鶫/赤腹/白腹/鶫(鳥馬)/藪雨/鶯/大葭切/目細蟲喰/蝦夷蟲喰/仙臺蟲喰/菊戴/雪加(雪下)/黄鶲/大瑠璃/鮫鶲/蝦夷鶲/小鮫鶲/三光鳥/柄長/小雀/日雀/山雀/四十雀/五十雀/繍眼児/頬白/小壽林/頬赤/小頬赤/頭高/青鵐(蒿雀)/黒鵐/大壽林/河原鶸/真鶸(金翅雀)/交啄/鷽/桑鳸/〓/入内雀/雀/小椋鳥/椋鳥/橿鳥(掛子)/大和鵲(尾長)/嘴細鴉(さとがらす)/嘴太鴉(なみがらす)
 他四種
鴿(ドバト)/紅雀/文鳥/金蘭鳥

これら約二〇〇種のうち、吉岡実が詩に書いた鳥は何種類いるだろうか(標題では〈ツグミ〉と〈郭公〉が想いうかぶ)。吉岡は《薬玉》(書肆山田、1983)の詩篇を書いていた1980年代の初め、これらの鳥の名前を前にして、〈雞〔ニワトリ〕〉に続く新たな詩篇を構想していたのかもしれない。

吉岡実の自筆で「(鳥名)」とメモ書きされた雑誌の切り抜き(吉岡家蔵のモノクロコピー)
吉岡実の自筆で「(鳥名)」とメモ書きされた雑誌の切り抜き(吉岡家蔵のモノクロコピー)


吉岡実の短歌(2006年6月30日)

吉岡実は十代から短歌を読み、また詠むことで詩的出発を遂げた。ここでは吉岡と短歌の関係を概観しよう。初めに、吉岡実自筆〈年譜〉 (《吉岡実〔現 代の詩人1〕》、中央公論社、1984)から、短歌関連の事項を抄出する。

@1934(昭和9)年 15歳/白秋の『桐の花』を模倣した短歌を作りはじめる。
A1940(昭和15)年 21歳/秋、詩歌集『昏睡季節』私家版百部刊行。
B1941(昭和16)年 22歳/満洲へ出征。岩波文庫の『万葉集』、〔……〕改造文庫の白秋『花樫』〔……〕を奉公袋に収め携える。
C1946(昭和21)年 27歳/『朝の螢』一巻しか知らなかった、斎藤茂吉のその他の歌集『赤光』『あらたま』に触れ、感銘する。
D1959(昭和34)年 40歳/五月九日、和田陽子と結婚。記念に、小歌集『魚藍』をつくり、披露宴の出席者へ配る。
E1973(昭和48)年 54歳/師走、『魚藍』復刻版を深夜叢書より刊行。

@のあと、1938年から40年の初めにかけて書かれた和歌は、〈歔欷〉の題のもと、稿本の詩集《赤鴉》(出版は2002年、弧木洞) にまとめられ た。歌数は短歌200首・旋頭歌9首の合わせて209首。
Aの《昏睡季節》に収録された和歌の題は〈蜾蠃〔スガル〕鈔〉。短歌44首(うち「白孔雀しづかにねむる砂の上/バナナの皮の乾きたる午後」「飾窓の朝の 硝子に秋の蚊の/顫えさみしく雨ふりそめな」「雨の夜をみしらぬ家にとつぎゆく/女のたもとのながきもあはれや」「夜の街を素足の女がもとめゆく/おもか げ皿絵もなつかしき初夏」「横禿の男が笊で売りあるく/青き蜜柑に日の暮れそめぬ」の5首は〈歔欷〉に掲載されておらず、近作と思われる)および旋頭歌2 首から成る。
Bに関しては、吉岡の随想〈《花樫》頌〉に詳しい。
Cの斎藤茂吉には、吉岡は北原白秋ほど言及していない。
Dの《魚藍》は《昏睡季節》の〈序歌〉と〈蜾蠃〔スガル〕鈔〉全篇および書きおろしの〈あとがき〉を収める。2〜4行で表記されていた〈蜾蠃〔スガル〕 鈔〉の短歌は、収録に際してすべて1行にまとめられた。字句の異同を以下に掲げる。

鳰鳥の夕葛飾の水ほとり〔改行→追込〕蘆の花ちり雁わた〔りゆく→る見ゆ〕
飾窓の朝の硝子に秋の蚊の〔改行→追込〕顫えさみしく雨ふりそめ〔な→ぬ〕
「雨の夜をみしらぬ家にとつぎゆく〔改行→追込〕女のたもとのながきもあはれや」に詞書「姉に」を追加

以 後、《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)収載の《魚藍》まで、かなや漢字の表記上の訂正を除いて、基本的に字句の変更はない(ただし後出1968年版 と1973年版では「黒猫のかげひきよぎる宵の町犯人は手錠〔を〕はめられてゆく」と「を」が入っている)。同歌集の背景については、随想〈救済を願う時 ――《魚藍》のことなど〉に詳しい。
Eの「新装版」(1973年8月28日刊)以前に、《魚藍》は《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968)に〈あとがき〉を含めて全篇再録され ている。
     *
ここで、吉岡実短歌の出発とも言うべき〈歔欷〉巻頭の一首を見てみよう。

  冬の蠅
凍る夜
一匹の蠅われにきて
掌のぬくもり盗む哀れさ

いかにも石川啄木ふうで、吉岡実らしさはうかがうべくもない。〈歔欷〉には《魚藍》にはほとんどない詞書が、掲載歌のように原則として 付く。次に 引くのは11首めと136首めの同じ「失眠」、そして137首めの「夜長」である。

眠られぬ夜の長さよ哀しさよ鏡をとりて鏡とかたるや(11)

夜になりきれぬなやみがあつた
窓掛けに朝月がのつてゐる(136)

睡られぬ夜の長さよ哀しさよ電車通りに鳴く虫のこゑ(137)

11首めと137首めの上の句が同形なのは 意図的であろうが、136首めは〈歔欷〉では例外的な文体で、私にはこれが《昏睡季節》の詩句を予告しているように 思える。それまでの短歌の堅固な文体に亀裂が走ったように見えるのだ。この一首は、まさに吉岡が短歌から詩へ移行せんとした際のドキュメントだろう。それ ゆえ〈蜾蠃〔スガル〕鈔〉は吉岡実の白鳥の歌であり、処女出版であるにもかかわらず《昏睡季節》の短歌は、詩篇に較べておそろしいまでの完成度を示してい る。それを踏まえれば、吉岡実の短歌に「この先」はもはや無いに等しかった。
     *
歌集《魚藍》からの4首が《昭和萬葉集 巻四――昭和十二年〜十四年》(講談社、1979年8月28日)の〈くさぐさの歌〉中の〈街角で〉に選入されている。いずれも昭和14年の作で、再録では あるが、吉岡実が生前最後に発表した短歌だろう。

朝曇り川空ひくく鳶啼き広告気球は街に昇れる
木々の芽の青みふくらむ公園の砂場の砂に雨しづかなり
みづみればなぜかうれひのひえびえとこころながるるあきのゆふぐれ
秋ひらく詩集の余白夜[よる]ふかみ蟻のあしおとふとききにけり

次に引くこれら4首の初出形(〈歔欷〉掲載)を見ると、吉岡が若書きの歌にどのように手を入れたか(あるいは入れなかったか)がうかが える。

  都
朝曇り川空低く鳶啼きアドバルーンは街に昇れり
  錦糸公園
樹々の芽の青みふくらむ公園の砂場の砂に雨しづかなり
  秋のみづ(水愁口吟)
水みればなぜか愁ひの冷え冷えと心ながるる秋の夕ぐれ
  秋のおと
秋ひらく詩集の余白夜ふかみ蟻のあしおとふとききにけり

〈歔欷〉と《昭和萬葉集》の間には、40年もの歳月が流れている。吉岡実の短歌は、その俳句とは異なり、本格的な詩作の開始とともに封 印された。そ れは、吉岡実詩の劇的な変貌の埒外にあって、静謐な姿を今にとどめる。


吉岡実と左川ちか(2006年5月31日)

吉岡実にとって左川ちか(1911〜1936)は、北園克衛(1902〜1978)とともに重要な詩人である。だが、自筆の〈年譜〉に「昭和十二年 一九三七年  十八歳/知人斎藤清(版画家)宅で見たピカソの詩(おそらく瀧口修造訳で『みず〔づ〕ゑ』に掲載された「詩を書くピカソ」)に啓示を受ける。以後、北園克衞詩集『白のアルバム』と『左川ちか詩集』などを読む」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984、二三〇ページ)と書いているものの、北園に較べるとほとんど言及しておらず、次の二箇所しか見あたらない(人はほんとうに大切なものについて公言するとは限らないが)。
「短歌をつくるより、未知の感覚とイマージュを呼び入れるに絶好の詩型を発見したのだ。それが超現実派の詩であることがやっとわかった。なぜなら、私は唯一人の友もなく、まったく手さぐりでものを書きつづけてきたのだから。そしてわが国の作品を探した。《左川ちか詩集》、北園克衛詩集《白のアルバム》の二冊がそれから以後しばらくは愛読の書となった」(〈救済を願う時――《魚藍》のことなど〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、六七ページ)。
「〔昭和十四年七月二十七日 次男だと思っていたら、本当は三男らしい。区役所で調べて貰ったら「三男」だった。『左川ちか詩集』届く」(〈うまやはし日記〉、同前、二六二ページ)。
前者は〈年譜〉の記述の元になっている文章。では、後者の吉岡のもとに届いた《左川ちか詩集》とはどんな書物だったのか。

左川ちか詩集
昭和十一年十一月二十日 昭森社発行(発行者 森谷均) 普及版・特製版・書痴版併せ三百五十部限定
普及版 三百部限定(記番無) 四六判折込表紙仮綴装 函入 本文上質紙十二ポイント活字組 ノンブル総ページ一六九 目次八ページ 本文一五九ページ 「詩集のあとへ」(百田宗治)六ページ 「左川ちか詩集覚え書」(刊行者)二ページ 「小伝」一ページ 別丁挿画(四葉)・装画 三岸節子 定価二円
特製版 四十五部限定(記番入) 判型・本文組版・挿画・装画共に普及版に同じ 角背継表紙上製 厚口ボール函入 本文特漉鳥ノ子紙 定価三円
書痴版(未見) 五部限定(記番入) 体裁・本文用紙共に特製版に同じ 三岸節子肉筆デッサン挿画一葉入 定価十円
(〈書誌〉、《左川ちか全詩集》、森開社、1983年11月27日、二五一ページ)

吉岡実が入手したのは普及版か特製版のどちらかだろう。いずれにしても、次に引く左川の散文〈魚の眼であつたならば〉(初出は《カイエ》7号、1934年5月)は収録されていない。
「画家の仕事と詩人のそれとは非常に似てゐると思ふ。その証拠に絵を見るとくたびれる。色彩の、或はモチイフにおける構図、陰影のもち来らす雰囲気、線が空間との接触点をきめる構図、こんな注意をして、効果を考へて構成された詩がいくつあるだらうか。たいていはその場の一寸した思ひ付きで詩を書いてゐるにすぎないのではないかしら。それでよい場合もある。併しそんな詩は既に滅びてゐる。平盤な生命の短いものであつた」(《左川ちか全詩集》、一六八ページ)。
吉岡が初出誌で〈魚の眼であつたならば〉に触れたかは定かでないが、私はこの一節に詩集《静物》(私家版、1955)の詩法と共通するものを感じる。その印象を増幅するかのように、左川ちかには〈死の髯〉(初出は《左川ちか詩集》)という、吉岡実の〈過去〉を思わせる詩篇がある。

死の髯|左川ちか

料理人が青空を握る。四本の指跡がついて、
――次第に鶏が血をながす。ここでも太陽はつぶれてゐる。
たづねてくる青服の空の看守。
日光が駆け脚でゆくのを聞く。
彼らは生命よりながい夢を牢獄の中で守つてゐる。
刺繍の裏のやうな外の世界に触れるために一匹の蛾となつて窓に突きあたる。
死の長い巻鬚が一日だけしめつけるのをやめるならば私らは奇蹟の上で跳びあがる。

死は私の殻を脱ぐ。

結句は戦慄的である。〈死の髯〉を改稿した〈幻の家〉にはこの「死は私の殻を脱ぐ」という詩句が見えず、〈幻の家〉を左川の代表作として推す向きには賛成しかねる。
ところで、左川ちかの詩業をどうとらえたらいいのだろうか。新井豊美は〈屈託のなさと不思議な自由感――初期モダニズムの女性詩人たちと北園克衛〉で「他のモダニズム詩の女性たち〔江間章子、中村千尾、山中富美子ら〕のイメージが表層的であるのに比べて、左川の詩はより隠喩的であり、幻想には風土的なリアリティがある。彼女の言葉は終始彼女自身の言葉であり、それ以外の誰のものでもなかった」(《現代詩手帖》2002年11月号、六六ページ)と書いている。左川の全作品からは、その短い生涯を知らぬ者でさえ、死の予見がすべての詩篇をベールのように覆っているのを感じるだろう。
最初に引いた吉岡の日記の戸籍調べは、翌八月の初めに控えた徴兵検査を前にしてのことのようだ。そのような日日に、二十歳の吉岡が読みふけったのが《左川ちか詩集》であり、茅野蕭々訳の《リルケ詩集》だった。


吉岡実と富澤赤黄男(2006年4月30日)

《吉岡実散文抄》(思潮社、2006)を読んでいたら〈富澤赤黄男句集《黙示》のこと〉が載っていたので、編者の城戸朱理さんもこの書 評(初出は 《俳句》1962年1月号の書評欄)を大事にしていることがわかって嬉しかった。本文は簡単に読めるのだから、ここでは吉岡実と富澤赤黄男(もしくは新興 俳句)について考えてみたい。吉岡は〈富澤赤黄男句集《黙示》のこと〉を「赤黄男との出会いを語りたい」(同書、一一三ページ)と始めているが、未刊行の 散文〈赤黄男句私抄〉(《富澤赤黄男全句集》の栞に掲載)でも「赤黄男との出会い」から書きおこしている。冒頭の段落はこうだ。

 私は出征する時、兄に二つの事を頼んだ。それは書きためた詩篇の出版と、数冊の本を買って置くことであった。今は それらの本の 題名を忘れてしまったが、執着したなかの一冊が富澤赤黄男の《天の狼》であった。文学・芸術に関心のなかった兄にとっては、特種な限定本を求めるすべを知 らず、《天の狼》は遂に私の手元には届かなかった。しかし、兄は私の友人たちと苦労して、詩集《液体》を造ってくれたのであった。(同、書肆林檎屋、 1976年12月10日、三ページ)

念のために註すれば、《天の狼》(旗艦発行所、1941年8月1日)は富澤赤黄男(1902〜62)の第一句集で、1951年には増補 改訂版が天の 狼刊行会から池上浩山人の造本で、限定200部再刊されている。吉岡は〈赤黄男句私抄〉の第2段落で、《液体》も処女詩集《昏睡季節》と同様、赤黄男に献 本しているはずだ、と書いてから第3段落にこう書く。

 超現実風な詩を書いていた私は、新風をめざす俳句雑誌〈旗艦〉に心惹かれ、ときどき購って読んでいたものである。 たわむれに投 句して、二句入選しているのも、なつかしい思い出である。日野草城や片山桃史の句よりも、私は心から「椿散るあゝなまぬるき昼の火事」「花粉の日 鳥は乳 房をもたざりき」などの赤黄男の句を愛していたように思う。

ここで想起されるのが、吉岡が詩篇〈乾いた婚姻図〉(A・13)の英訳者・佐藤紘彰氏に宛てた書簡(1974年10月10日付)の一節 「〔〈乾いた 婚姻図〉の〕「高階」これは小生の造語ではありませんが、辞書にはありませんね。戦前のモダニズム俳句あたりに使われたように思います。「コウカイ」と読 みます。いってみれば、日本の当時のホテル的な五、六階位の感じです。戦前の日本には、今みたいに十階、二十階はなかったからです。しかし、アメリカでは 五、六階では妙でしょうね。おまかせします」(《Lilac Garden》、Chicago Review Press、1976、ivページ)である。吉岡は新興俳句の語彙で詩集《液体》を書いたのだ。さて、〈赤黄男句私抄〉の本文は次のように「書評」に触れ たあと、赤黄男の全句から《天の狼》16句、《蛇の笛》10句、《黙示》6句、〈拾遺〉9句を引いた〈赤黄男句私抄〉(文章全体の標題と同じ)で終わって いる。この私抄には、前掲文中の2句も見える。

 昭和三十五年ごろ、高柳重信と出合い、複〔復〕刻本《天の狼》と《蛇の笛》を貰って、はじめて赤黄男の全貌を俯瞰 することが出 来たのであった。それから間もなく、句集《黙示》の書評を書くはめになってしまった。これは、《天の狼》を愛誦する私にとっては、つらいことであった。
 晩年の赤黄男は詩への志向がつよく、俳句というより、一行詩とでも称すべきものばかりだ。私にはどうしても、作品の観念的図法が透けて見えて、愛惜の情 をこめた文章を書いていない。おそらく病床の赤黄男を失望させたと思うと、心苦しいかぎりである。《黙示》はそのまま、赤黄男の遺稿句集になってしまっ た。

吉岡実は、1965年に刊行された《定本・富澤赤黄男句集》(定本・富澤赤黄男句集刊行会)では、句集出版の発起人(高柳重信ら他全 30名)の一人となっている。


吉岡実の「講演」と俳句選評(2006年3月31日)

以前、〈吉岡実の話し方〉の冒頭に「吉岡実は、朗読会や講演などの公開の席に出ることがなかったから、その話ぶりを知る人は限られていよう」と書いた。次に引く〈審査の感想(俳句)――創刊十周年記念全国大会録音盤〉は、聴衆を前にした吉岡の話しぶりまで伝える貴重な記録であり、講演に準じるものと受けとってよかろう。原文は雑誌4ページ分のため、ごく一部を紹介する。

 寺田澄史さんは、もう大変に才能のある人で、これでもう全体が、大変すぐれた詩なんで、私はこれを一番に推したんですけど、加藤郁乎とか、そういう派に近くなって、もう俳句といわなくても、一行詩というか、詩でもいいんじゃないか。これは、ちょっと詩の方へ引っぱってみたいような人なんですけど、まあ俳句においといて異色ある作家と――。まあ加藤郁乎などもありますが、これも異色ある作家でしょう。
 〔……〕
 しかし、ここにいらっしゃる皆さん、新しい作家というのは、そうじゃなくて〔枕頭に手帖を置いて夢から覚めたら句を書いたり、吟行をしたりするのではなくて〕、相当に意欲的に、たとえば、あの見てきた「欲望」という映画と、あれとを結びつけようとか、そういう考えで、やっていらっしゃると思うんで――、僕は、俳句は俳句から学ばず、他のものから学んでほしいと――、詩は詩から学ばず、違ったものから学んでほしいと、そういうふうに思いますので、皆さんも、これから、よい作品を書いて下さるように、お願いします。(《俳句評論》78号、1968年3月、二三〜二四ページ)

《俳句評論》は編集人・高柳重信、発行人・中村苑子の年8回刊ペースの雑誌。高柳は〈あとがき〉に「昨秋の全国大会における、高屋窓秋・大岡信・吉岡実らの諸氏の談話を掲載した。出来るだけ、当日の生まの感じを残したいと思い、録音したままを、ほとんど手を入れずに発表した」(同誌、〔四二ページ〕)と書いている。審査は「講演」前に済んでいた。こうなると、吉岡の選後評が読みたくなるのは人情というもので、次に同誌72号(1967年9月)の〈感想――俳句評論賞決定まで・経過報告と選後評〉を掲げる(〔 〕内は作品名。また引用文中の句を、同誌本文の句に照らして校訂した)。

 寺田 澄史 3点 〔〈がれうた航海記〉〕
 応募作品の中では、最も個性的で、全句の粒がそろい、一つの世界がある。一寸、加藤郁乎の中期の詩境を感じる。ひとことで、いえば、まさに、うんすんかるたの感触。
  おにくぎからむかふ水夫部屋がふたつ
  かいぐりかいぐり 蜃〔[おおはまぐり]〕がはく
  あなや〔 →、〕山椒ひとふくろのおひかぜ
  おかまこほろぎに時化がくるあふむけ
  からすたつ宇牟須牟加留多のてくらがり
  火がめぐるあまくちねずみふなぐるみ
などは秀作と思う。
 河原枇杷男 1点 〔〈虚空研究〉〕
 古典派の風格がある。
  海の場所に春の海在り妻抱くや
  黒髪や水〔の→を〕塒の秋の水
  闇老いてうきうきと滝抱きにけり
 佐藤 輝明 1点〔〈誄歌〉〕
 怪奇趣味が横溢している。
  水桶や ゆく水を汲み ながれゆき
  蕗煮るや 刺客をさそふなが微笑
  昼より昏れむ 睡魔にならぶ葱坊主
 奥山甲子男 1点 〔〈古代(メソポタミア)〉〕
 観念的で、詩語・死語の羅列が気になる。もっと現実感を注ぐこと。
  金冠の兵士花抱く砂の首都
  パンを山盛り泡沫となる軍馬
  象牙ちみつに猿を担いだ男ゆく
三つの佳吟あるによって推す。
 ほかに、小野永津子が次につづくと思う。
  あとからあとから月夜の手紙泳ぐかな 〔〈長き髪〉〕
  目の配りただならぬものかたつむり
 以下、松岡貞子の
  歯型のうらも歯型くるみの心電図
 関憲二の
  純粋はひとつの病気百合匂う
 福島国雄の
  炎天にゼブラ画かれて母が寝て
 津田美之の
  母今も暗がりを抜け卵掴む
 浜本不石の
  敷島の絹の血いずこかなかな啼く
  夏闇の吊り橋わたる犬は焦げつつ
 三橋孝子の
  いくたびも森に現わるる〔いな→稲〕びかり 〔〈青い卵〉〕
 大岡頌司の
  少し動く
  春の甍の
  動きかな 〔〈抱艫長女〉〕
などの素直な作品に心惹かれた。(同誌、三〇〜三一ページ)

吉岡実が寺田澄史作品集《がれうた航海記――The Verses of the St. Scarabeus》(俳句評論社、1969)に〈序詩〉を寄せているのも、この選後評が機縁だと思われる。以降、吉岡は句集の感想こそ永田耕衣の《琴座》など親しい句誌に書いているものの、俳句の選評は残していない。


吉岡実の〈小伝〉(2006年2月28日)

《現 代日本名詩集大成11》(東京創元社、1960年9月10日)には吉岡実の詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)が全篇収録されている。ほかに谷川俊太 郎《二十億光年の孤独》(創元社、1952)、山本太郎《歩行者の祈りの唄》(書肆ユリイカ、1954)、長谷川龍生《パウロウの鶴》(書肆ユリイカ、 1957)、谷川雁《谷川雁詩集》(国文社、1960)、関根弘《絵の宿題》(建民社、1953)、黒田喜夫《不安と遊撃》(飯塚書店、1959)、飯島 耕一《他人の空》(書肆ユリイカ、1953)、岩田宏《独裁》(書肆ユリイカ、1956)といった1950年代の名だたる詩集が収録されており、金井美恵 子も本集で《僧侶》に触れたとどこかに書いていた。私が最初に《僧侶》を読んだのは《吉岡実詩集〔普及版〕》(思潮社、1970)でだったが、8ポ2段組 22ページを占める《現代日本名詩集大成11》で《僧侶》に触れていたら、また別の印象を持ったかもしれない。本集の半扉裏には、各詩人による450字以 内の〈小伝〉が書きおろされている。吉岡の〈小伝〉は後年の〈年譜〉(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984)に連なる自筆年譜の先蹤だが、 単行本には収録されていない。

一九一九年東京本所の職人の家に生れる。父紋太郎、母いと晩年の子。姉・兄の三人兄弟。明徳尋常小学校に入学。この ころからよく 浅草六区を徘徊。チャンバ ラ遊びの一方の旗頭。家に一冊の本もなく、友だちの本を読みあさる。本所高等小学校卒業後、医書出版南山堂に奉公。産婦人科図書をみてショックをうける。 夜は商業学校へ通う。彫刻家を夢みて果さず。書家佐藤春陵の影響で俳句短歌を試みる。一九四一年夏出征。詩集『液体』自費出版。Y・Nとの恋愛感情も消 滅。満州部隊の軍旗祭で、シラノ・ド・ベルジュラックを喜劇化して上演、師団長の逆鱗にふれ転属。済州島で終戦。父母すでに亡し。独り詩をつくる。一九五 一年筑摩書房に入社広告を担当。一九五五年詩集『静物』自費出版。T・Iとの四年間の恋愛に終止符。飯島耕一を知り、『今日』に入る。はじめて詩人たちと つきあう。一九五八年詩集『僧侶』刊行。一九五九年五月、和田陽子と結婚。第九回H賞受賞。「鰐」同人。『吉岡実詩集』ユリイカより刊行。(《現代日本名 詩集大成11》、〔三一〇ページ〕)

本 集で18行の短文ながら、のちにいろいろな随想で書かれることになる事項が、律儀にも改行なしに記されている(読者はよろしく《「死児」という絵〔増補 版〕》の文章に当たってみられたい)。ことほどさように、本集はその後の〈吉岡実〉を内包しているのだが、それに劣らず興味深いのが吉岡実詩(とりわけ 《僧侶》における)の評価である。鮎川信夫が巻末の〈解説〉を書いているので、吉岡に触れた部分を引く。
「吉岡実の『僧侶』は、昭和三十三年に刊行され、三十四年度の賞を授与された詩集である。難解さという点では、谷川雁と比較される吉岡が、このような賞を 受けたことは、昨年度の詩壇にとって一つの異変であったと言ってよい。/しかし、怪奇で猥褻で醜悪で、二十世紀のスキャンダルのすべてを含むといわれるそ のユニークなイメージは、読者の想像力への一種の挑戦として、強い好奇の眼で迎えられた。方法としては、風土化されたシュールレアリスムの趣きを持ってい る。やはり、「死児」と「僧侶」が代表作である。木原孝一は「彼の詩のおもしろさは時空の平面交叉ではなく、立体構築の詩を確立したところにある。だから 一本のリベットの持つ力学的(暗号的)意味が解けると容易に詩の全体を見透すことができるのである。そこには暗号の美学、高度な知的ゲイムに接する愉しみ がある」と言い、嶋岡晨は「その体質的な言語の粘着性が一種独特のかつて見られなかった〈嫌悪の美学〉をなしている」と評している」(同前、三三九ペー ジ)。
吉岡の〈小伝〉は《現代詩大系3》(思潮社、1967年3月1日)の〈略歴〉として、次のように形を改めて掲載されている。

一九一九年、東京本所に生まれる。父紋太郎・母いと。少年時より浅草六区を徘徊する。同居の盛岡の人佐藤春陵氏の影 響をうけて短 歌・俳句をつくる。白秋、 春夫、直哉を愛読。高等小学校を出て、医書出版南山堂に奉公。中村葉子と出会う。一九四一年八月満州へ出征。十二月八日太平洋戦争勃発。十日。詩集《液 体》刊行。一九四五年八月十五日終戦。朝鮮済州島より帰る。父母すでに死去。はじめて、朔太郎、茂吉、誓子を読む。太田大八夫妻を知る。同居の画家T・Y の自殺を契機に、T・Iと出会う。一九五五年《静物》刊行。これより「鰐」グループ及ユリイカ周辺の詩人たちを知る。一九五八年《僧侶》刊行。H賞を受 く。一九五九年春、和田陽子と結婚。一九六二年《紡錘形》刊行。筑摩書房勤務。(同書、一二四ページ)

この〈略歴〉は、同年秋刊行の全詩集《吉岡実詩集》(思潮社、1967)にほぼそのままの形で流用されることになる。これら一連の文章 は、中期まで の吉岡実の伝記的資料として、第一に参照すべき重要文献である。

真鍋博装丁になる《現代日本名詩集大成11》(東京創元社、1960年9月10日)の本体と函
真鍋博装丁になる《現代日本名詩集大成11》(東京創元社、1960年9月10日)の本体と 函


吉岡実散文の骨法(2006年1月31日)

随想集《「死児」という絵》(思潮社、1980)の第V部の前半は、吉岡実が親しんだ短歌俳句についての文章で占められている。題名に 対象作家名を付記して掲げよう。

  • 《花樫》頌=北原白秋
  • 永田耕衣との出会い=永田耕衣
  • 耕衣秀句抄=永田耕衣
  • 富澤赤黄男句集《黙示》のこと=富澤赤黄男
  • 誓子断想=山口誓子
  • 高柳重信・散らし書き=高柳重信
  • 枇杷男の美学=河原枇杷男
  • 回想の俳句=富田木歩と三ヶ山孝子、吉岡実、石田波郷、田尻春夢と椿作二郎
  • 兜子の一句=赤尾兜子
  • 私の好きな岡井隆の歌=岡井隆
  • 遙かなる歌――啄木断想=石川啄木
  • 孤独の歌――私の愛誦する四人の歌人=古泉千樫、木下利玄、前川佐美雄、斎藤史

同様にして、《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)の増補部分から、短歌俳句についての文章を挙げる。

  • 白秋をめぐる断章=北原白秋
  • 『鹿鳴集』断想=会津八一
  • 耕衣粗描=永田耕衣
  • 高柳重信断想=高柳重信
  • 月の雁=高柳重信
  • 重信と弟子=高柳重信、安井浩司、折笠美秋、夏石番矢
  • 郁乎断章=加藤郁乎
  • 赤尾兜子秀吟抄=赤尾兜子
  • 三橋敏雄愛吟抄=三橋敏雄
  • 幼児期を憶う一句=飯田龍太
  • 二人の歌人――塚本邦雄と岡井隆=塚本邦雄と岡井隆

一読、俳句・俳人への言及が多いことに驚かされる。つぶさに見れば、それは初刊59篇中8篇、増補版86篇中15篇を数える。吉岡実に とって俳句の 鑑賞文は、ことほどさように大切な分野だったのである。1976年7月、吉岡は《朝日新聞》に連載した〈回想の俳句〉の第3回〈波郷の三句〉の一節にこう 書いた。

 私は六年前に、ある俳句雑誌から「波郷の一句」というテーマの小文を求められて、次の句をあげている。

  女来と帯纏き出づる百日紅

  そのときの文章を要約すると――「昭和十四、五年ごろ、私は淡路町の内神田ビルの一室にある、小さな出版社に勤めていた。そこの階段や便所の前ですれちが う、着ながしで下駄ばきの大きな青年の姿に心惹かれた。共同湯沸場でよく一緒になる、清純な娘さんの口から、その大足の人が石田波郷であることを知った。 波郷はすでに、俳壇の輝ける新星であった。私はのちに詩集《液体》となった超現実風な詩篇を書いていた時なので、波郷へは近づかなかった。ただ生身の波郷 をかいま見た、私の実感としてこの一句が忘れられない。私もまた春の街を久留米絣を着て歩いていた。」――とある。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑 摩書房、1988、一三九〜一四〇ページ)

吉岡はその「波郷の一句」というテーマの小文〈鑑賞・石田波郷の一句〉を次のように書いていた。ちなみに「女来と」の句は波郷の句集 《風切》(一條書房、1943)に収められている。

 女来と帶纒き出づる百日紅

 昭和十四、五年ごろ、私は淡路町の内神田ビルの一室にある、小さな出版社に勤めて いた。そこの階段や便所の前ですれちがう、着ながしの和服姿の大きな青年の姿に心惹かれた。共同湯沸場でよく一緒になる、馬酔木発行所の娘さんから、それ が石田波郷だと聞いた。清純な娘さんは、たしか滝春一氏の妹さんだつたと思う。すでに波郷は俳壇の輝ける星であつた。私は波郷へ近づくことをしなかつた。 愛しながら俳句を捨て、私はひそかに超現実風な詩作を試みつつあつたから。
 それらはあとで、詩集『液体』になるはずであつた。私が波郷の句を愛惜するようになつたのは、戦後である。
 全詩業をみわたすとき『惜命』一巻が絶唱だと思う。しかし、二十七・八歳の波郷の生身の姿を、かい間見た私にはなによりも、一番実感のある形相として、 この一句が忘れられない。二十一歳の私もまた折りには着物を着て、春の街を歩いていた。(《俳句》1970年11月号〈石田波郷特集(全集発刊記念)〉、 六一ページ)

〈鑑賞・石田波郷の一句〉の完成度が決して低いわけではない。しかし吉岡は、俳句を語る散文としては抒情的に過ぎると判断したのではあ るまいか。そ のため、ほかの部分は細かく刈り込んでいるにもかかわらず、「下駄ばき」や「その大足の人」や「久留米絣」といった俳味を醸す文言を加えたと考えられる (《風切》には「椎若葉わが大足をかなしむ日」なる句がある)。吉岡実が散文にどれほど心血を注いだか、うかがうことのできる好例と言えよう。

吉岡実〈鑑賞・石田波郷の一句〉(《俳句》1970年11月号)の誌面
吉岡実〈鑑賞・石田波郷の一句〉(《俳句》1970年11月号)の誌面
〔赤字は小林一郎が〈鑑賞・石田波郷の一句〉に手を入れて〈波郷の三句〉としてみたもの〕


吉岡実と音楽(2005年12月31日〔2006年3月31日追記〕)

吉岡実はほとんど音楽を聴かなかったようだ(事実、吉岡の随想には音楽の話題がきわめて少ない)。陽子夫人によれば、誰かがウォークマ ンを聴かせよ うとしたところ、すぐにイヤフォンを外してしまったそうだ。曲を聴くのがいやだったのか、耳の穴に異物を入れるのがいやだったのかは定かでないが。それで も、吉岡の詩篇には次のような詩句がある。

音楽はユーモレスク(〈劇のためのト書の試み〉E・1)

公害地帯の音楽は《マヘリアの祈り》(〈春のオーロラ〉E・10)
《柳よ泣いて》を歌いながら(同前)

ナット・キングコールの唄(〈内的な恋唄〉E・12)

          ニーナ・シモンの唄が好き(〈薄荷〉K・6)

    (庭の千草も虫の音も……)(〈叙景〉K・11)

〈ユー モレスク(Humoresque)〉はドヴォルザークのピアノ曲。《マヘリアの祈り》はマヘリア・ジャクソン歌うところの〈主の祈り(The Lord's Prayer)〉か。ビリー・ホリデイも歌っている〈柳よ泣いておくれ(Willow Weep for Me)〉は女流作詞作曲家アン・ロネルがガーシュインに捧げた曲。ナット“キング”コールの唄は〈アンフォゲッタブル(Unforgettable)〉あ たりか。ニーナ・シモンの唄はガーシュイン作曲の〈アイ・ラヴ・ユー・ポーギー(I Love You, Porgy)〉か。唱歌〈庭の千草〉は里見義の歌詞で知られるアイルランド民謡。これらの楽曲に吉岡実はいつ、どこで触れたのだろうか。
〈庭の千草〉には小学校唱歌で親しんだだろう(〈ユーモレスク〉もおそらくそれに準じる)。「ニーナ・シモンの唄」は四谷シモンに捧げた詩篇に出てくるの だから、背景は推測できる。では、《マヘリアの祈り》と《柳よ泣いて》はどうか。マヘリア自伝の訳者・中澤幸夫氏は「日本のファンがマヘリアを知るきっか けとなったのが、「真夏の夜のジャズ」という映画(現在はビデオ化されている)である。この映画は一九五八年に行われたニュー・ポート・ジャズ・フェス ティヴァルの記録映画で、この中でマヘリアは最後に出演し、その力強い歌で聴衆を深く魅了している」(マヘリア・ジャクソン、E・M・ワイリー《マヘリ ア・ジャクソン自伝――ゴスペルの女王》、彩流社、1994、二五〇ページ)と書いており、吉岡も1960年日本公開のこの映画を観たのではないか。吉岡 がゴスペルのLPを聴いたり、ジャズ喫茶に出入りする図は想像しにくいのだ。――ちなみに、同書には「マヘリアと同じようにベッシー・スミスの影響を色濃 く受けたジャズ・シンガーのビリー・ホリディー」(二三八ページ)という記述も見える。
吉岡実とジャズ! 今まで吉岡実を論じた文章でジャズの文字を見た記憶がないが、もしかしたらそれはひとつのモノグラフを要求する新たな視点なのかもしれ ない。本稿の腹案をお知らせした小笠原鳥類さんからのメールに「『静かな家』や『神秘的な時代の詩』を読んでいると、ふとコルトレーンを思い出すことがあ ります。晩年のコルトレーンが、自分の好きなものたち(マイ・フェイヴァリット・シングス)を崩したり歪めたりして長時間吹き続けている情景と、同じ頃の 吉岡の詩がちょっと似ているのではないかと思ったりします」とあるのは、それを予感させる。ときに、前掲のシンガーたちはみな黒人である。吉岡の詩篇から 「黒人」の登場する詩句を引いてみる。

考えられない黒人たち(〈恋する絵〉E・15)

タライのなかの黒人(〈マクロコスモス〉F・1)

黒人と恐竜(〈神秘的な時代の詩〉F・11)

浮袋の黒人の唄が聞え(〈葉〉G・4)

黒人の青年よ(〈夢のアステリスク――金子國義の絵によせて〉H・22)
肉を沈める黒人の青年(同前)

黒人の歯のなかへ(〈春の絵〉I・12)

〈葉〉の「作品自体は血の気の乏しい夢をはらむ/それだから人類をシンカンさせる/浮袋の黒人の唄が聞え/思考は移る」は具体的な歌手 が想定されて いるようだが、探索の手立てがない。
ここから先は余談である。“ジャズ・ドラム界のシェイクスピア”、アート・ブレイキーは吉岡実と生歿年がまったく同じなのだ(ブレイキーは1919年10 月11日生、1990年10月16日歿)。彼方のアルバムを此方の詩集と併せて受容するのも、ジャズ・ミュージックとの絡みで、一興ではあろう。

〔2006年3月31日追記〕
ビデオで《真夏の夜のジャズ(Jazz on a Summer's Day)》を観た。村上春樹が「〔「スウィート・ジョージア・ブラウン」を歌う有名な〕そのシーンだけで、アニタ〔・オデイ〕はジャズのひとつの伝説に なってしまった」(和田誠・村上春樹《ポートレイト・イン・ジャズ〔新潮文庫〕》、新潮社、2004、一八四ページ)と書いた映画である。マヘリア・ジャ クソンは、そのアニタやルイ・アームストロングをおさえて(と言うのも変だが)、とりをとっている。彼女の歌声は、これはもう聴く以外にない。吉岡の詩句 「公害地帯の音楽は《マヘリアの祈り》」は、「新しい作家というのは、〔……〕たとえば、あの見てきた「欲望」という映画と、あれとを結びつけようとか、 そういう考えで、やっていらっしゃると思うんで――」(〈吉岡実の「講 演」と俳句選評〉参 照)と語った詩人の方法の実践そのものではないか。


吉岡実の書簡(3)(2005年11月30日)

吉 岡実は〈永田耕衣との出会い〉(1971年発表)で耕衣との手紙のやりとりについて書いている。「永田耕衣さんから突然、手紙がきた。それには、『與奪 鈔』の注文に恐縮したこと、かつ揮毫をことわって、失望させたのではないかと。それに詩集『僧侶』の作者の名はすでに知っていたと。このときから私と耕衣 さんの文通がはじまる。爾来十年、私は永田耕衣だけに手紙を書いてきたように思う。私にとって手紙を書くことは、死ぬほどつらい作業といえるのだから。な んということだろうか、私は今日に至るまで、わが妻にすら一葉のはがきも書いていない」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一〇二 ページ)。
吉岡と耕衣との文通は、第五句集《與奪鈔》(琴座俳句会、1960)の注文を機に始まった。「私はなんとしても『吹毛集』以前の耕衣俳句を読みたいものだ と思ったが、仲々その機会がなかった。それから五年後、これも偶然に神戸新聞の小さな紹介記事で、永田耕衣還暦句集『與奪鈔』が出たのを知り、早速二百円 同封して注文した」(同前、一〇一ページ)。
永田耕衣は俳句誌《琴座》(琴座俳句会、1949-1997)を主宰し、諸家が耕衣に宛てた書簡は随時同誌に掲載された。吉岡実の書簡が最初に載ったのは 1963年2月、160号の〈銀椀鈔〉だと思われる。以来、1989年4月の447号〈愛語鈔〉まで、約20通の耕衣宛書簡が《琴座》に掲載されている。 その白眉が次に掲げる1987年1月、422号の〈青葉台つうしん〉の手紙である。

 拝復 このたびはお手紙と耕衣短冊を拝受して感激いたしました。亡き奥様の忌も明けられたとのこと、またなんと美 しいご戒名を 贈られたことでしょうか。 最高のご供養だと思いました。さて、頂いた短冊には、不滅の名句「コーヒ店永遠に在り秋の雨」が染筆されており、喫茶店好きの小生には何よりのものです。 かつての傘寿の会の折に頂いた短冊の筆勢が、一休的であるならば、これには白隠の風韻を感じます。早速に、李朝石仏の脇に置いて、日々眺めております。本 当にありがとう存じます。今夜は久しぶりで、雨が降っています、秋の雨が。冬の訪れが早いとのこと。くれぐれもお身大切に。

敬 具 

 十二月十六日

た だしこの「十二月十六日」は手紙の文面からも察せられるように、「十月二十六日」の誤植。同書簡は、阪神大震災で倒壊した田荷軒から掘り出され、姫路文学 館に寄贈された永田耕衣文庫の所蔵品である。封筒の宛名面には耕衣の字で「青葉台/つうしん/新年号へ」「61.10.30.」「供養/短冊のこと」「大 保存」という鉛筆によるメモ書きが見える。

永田耕衣宛吉岡実書簡(1986年10月26日)
永田耕衣宛吉岡実書簡(1986年10月26日)
姫路文学館(永田耕衣文庫)所蔵


吉岡実の書簡(2)(2005年10月31日〔2020年12月31日追記〕)

吉岡実が楠本憲吉に宛てた葉書が、玉英堂稀覯本書目275号《日本の筆跡――藤原定家から村上春樹まで》(玉英堂書店、2004年5月25日)の一八七ページに写真版で掲載されている。判読した文面を以下に起こしてみよう。

拝啓、お元気でお仕事のことと思います。早速に、耕衣短冊おとどけいただきながら、お礼を申すのが、たいへんおくれて申訳ございません。お電話でもと思ったのですが、それも失礼と存じ、手紙をさしあげようとしているうちに、妙に無気力状態になり、今日に至りました。おゆるし下さい。貴重なもの、本当にありがとう存じました。今度の書作展の一点を頒けていただいたので、いっぺんに二点も藏することができてうれしいところです。敬具

楠本憲吉宛吉岡実書簡(昭和38年6月18日)
楠本憲吉宛吉岡実書簡(昭和38年6月18日)
出典:玉英堂稀覯本書目275号《日本の筆跡――藤原定家から村上春樹まで》(玉英堂書店、2004年5月25日、一八七ページ)

玉英堂稀覯本書目には「1014 吉岡実葉書 一枚 二五、〇〇〇円/楠本憲吉宛 昭和38年6月18日 ペン10行」とあり、おそらく1963年6月18日消印のものと思われる。文中の耕衣短冊がなにか気になるところだが、吉岡の耕衣宛書簡にそれが書かれている。

 雨もひとやすみ、ここ二、三日夏らしくなりました。先週の日曜日、寝床のなかで、貴重な書作品拝受しました。すばらしい墨蹟、近づいて見、遠ざかって見てたのしんでおります。適当な大きさなのも、狭い部屋なのでとても具合がよいのです。只今、風塵にさらしたくないので、飾棚の中に蔵しています。耕衣さんの本意にそむく行為とは知りながら。返事がおくれたことをおわびします。
六月十七日夜
 追伸。
 会、さぞかし御盛会だったのでしょう。参れなかったのを残念に思います。さて最近、楠本憲吉さんから、耕衣さんの
 百姓に今夜も桃の花ざかり
の短冊いただきました。まだお礼を申上げてないので、今夜にも手紙を書きます。小生、半年の間なにもしていません。耕衣さんのお仕事ぶりに恥入るばかり。

耕衣宛書簡は《琴座》166号(1963年8月)の〈銀椀鈔〉欄に載ったもの。「先週の日曜日」はおそらく6月9日だろう(「六月十七日」が月曜である)。楠本憲吉が吉岡に耕衣短冊を届けた経緯は不明だが、前年の1962年9月10日に赤坂の梓で開かれた第二回俳句評論賞選考座談会(他の出席者は金子兜太・神田秀夫・高柳重信・中村苑子)の席ででも、耕衣の墨蹟をめぐる歓談があったのだろう。掲載葉書は、吉岡と楠本憲吉との交流を物語る貴重な証言である。

〔2020年12月31日追記〕
梅里書房の〔昭和俳句文学アルバム〕は昭和俳句を調べるには恰好のシリーズで、私は中村苑子編著の《高柳重信の世界》(1991)を愛読したものだ。そのMは、的野雄編著《楠本憲吉の世界》(1991年5月15日)。編者による〈楠本憲吉略年譜〉から、興味深い年を摘する(同書、一〇五〜一〇七ページ)。

大正11年(一九二二)
12月19日、父栄三郎、母濱の長男として、大阪市東区北浜、料亭「灘萬」に生まる。

昭和19年(一九四四)22歳
12月、見習士官となり関東軍へ転属、ソ満国境へ配備さる。

昭和20年(一九四五)23歳
福岡市にて終戦を迎う。復員。伊丹三樹彦を訪う。10月、日野草城を中心に三樹彦、桂信子らと「まるめろ」結成。高柳重信の「群」に参加。

昭和21年(一九四六)24歳
4月、草城主宰「太陽系」創刊、加盟。6月、大島民郎、清崎敏郎らと「慶大俳句」創刊。11月、「まるめろ」創刊、同人となる。

昭和23年(一九四八)26歳
4月、灘高等学校の国語教師となる。9月、慶応義塾大学文学部仏文科に学士入学。「群」解散後の「弔旗」に拠り、多行型式を試みる。

昭和24年(一九四九)27歳
1月、「火山系」同人。富沢赤黄男門。4月、青山学院講師となる。

昭和26年(一九五一)29歳
1月、上京。「灘萬」東京店代表。6月、処女句集『隠花植物』(隠花植物刊行会)刊。

昭和28年(一九五三)31歳
3月、現代俳句協会会員となる。俳書出版「琅玕洞」創設。

昭和31年(一九五六)34歳
1月、日野草城逝去。12月、青玄作品賞受賞。灘萬代表取締役となる。

昭和33年(一九五八)36歳
3月、「俳句評論」創刊、同人となる。

昭和36年(一九六一)39歳
現代俳句協会分裂。幹事の責任を感じ脱会。俳文学会委員となる。

昭和37年(一九六二)40歳
1月、「読売新聞」全国版俳壇選者となる。3月、国学院大学大学院修士課程修了。10月、『石田波郷』(桜楓社)刊。

昭和38年(一九六三)41歳
6月、日本文芸家協会会員となる。一茶まつり小中学生俳句選者となる。

〈楠本憲吉略年譜〉では、永田耕衣との接点が見えないが、高柳重信、日野草城、富沢赤黄男、石田波郷といった吉岡実が読み、親しんだ俳人たちの名が挙がっている。吉岡にとって楠本憲吉(1922〜1988)は、《隠花植物》の俳人であると同時に、料亭「灘萬」の主だったのではないか。なぜなら吉岡はそこで加藤郁乎と出会い、土方巽と運命的に出会ったのだから。


吉岡実〈突堤にて〉校異(2005年9月30日〔2006年4月30日追記〕)

城 戸朱理編の吉岡実散文選集《突堤にて》が思潮社の〈詩の森文庫〉の一冊として刊行されるのを記念して、標題作〈突堤にて〉(約2400字)の校異を記す。 これは評釈の前段作業であるが、本篇の評釈は稿を改めて行ないたい。なお、吉岡実自筆原稿(雑誌入稿原稿)は未見である。

◎初出: 〈突堤にて〉初出は、飯塚書店発行の雑誌《現代詩》1962年1月号(第9巻第1号)の〈詩人の散歩〉欄に掲載された(8ポ25字詰& times;21行二段組・罫囲 み、四八〜五〇ページ)。目次には横組で「48 吉岡実 =詩人の散歩・突堤にて」とあり、〈編集ノート〉に「さて旅行のつぎは、新年号からの企画につい て、ちよつとふれておこう。一つは、殊〔珠〕玉のような散文作品を一篇づつ掲載していくことにした。そのトップバッターは吉岡実である」(同誌、一〇二 ページ)と見える。

@初刊:《吉岡実詩集》(思潮社・現代詩文庫14、1968年9月1日)の〈未刊詩篇から〉 の最後に掲載された(8ポ25字詰×18行二段組、八一〜八三ページ)。目次では一行空きのうえ「*突堤にて」とアステリスクが冠さ れ、その前に置かれた 行分けの詩群(のちに詩集《神秘的な時代の詩》(湯川書房、1974)に収録)と区別され、本文は改頁起こしとなっている(前の詩群は追込み)。
 【校異】◎から@での手入れ
初出誌がひらがなの小字を使用していなかったため「もつてきた」や「じやないだろうか」だったところが、初刊では「もってきた」「じゃないだろうか」と小 字に統一された。吉岡による表記や字句上の手入れは、「ニガテ」を「にがて」に、「百匹」を「百尾」に、の二箇所。最も大きな変更は、刊本では末尾の「私 に真の決断があれば、その魚を吊りさげて、その曖昧な面貌をみるのだが、私は自分の心を汽車の時間へかりたてた。」の後に、一行空けて「固く上下から噛合 さつたその魚の両頬へひげ〔の〕ように幾条かの髪の毛がたれている。」と初出時にあった段落を削除した点である。

A再刊: 吉岡実随想集《「死児」という絵》(思潮社、1980年7月1日)の、生い立ちの記などを集めた〈T〉(目次では〈軍隊のアルバム〉のあと「*」で区切ら れて〈突堤にて〉が一篇だけある)の最後に収録された(10ポ39字詰×15行組、七七〜八一ページ)。初刊では未刊ながら詩作品と して位置づけられてい た本篇は、これ以降「随想=散文」の扱いとなる。
 【校異】@からAでの手入れ
・新鮮な魚〔は→を〕食べさせて貰えず、私たちはさざえばかり食わされて憂欝になっていた。
・〔一人の→たしかに〕中年の男が独りいた。
・そのうえ住んでいる場所、水のなかなんて測り知れない冷めたさ〔で→と〕暗さじゃないだろうか。
・私はその男のうしろに置かれた〔(ナシ)→大きな〕バケツをのぞいた。
・長い時を放置された〔(ナシ)→ために、〕釣り上げられた小さな雑魚が百尾身を寄せ合せたのではないかと私は疑った。
・Dの仕事は順調にいっているらしく、ビールを二〔(ナシ)→、〕三本のんだ。
・机がわりの膳の上に五〔(ナシ)→、〕六枚〔、→トル〕仕上った挿絵が置かれていた。
・その物語はアラビ〔ヤ→ア〕ンナイトだが、子供用の雑誌にしては、大変エロチックな挿絵だった。
・Dはまだ二〔(ナシ)→、〕三日滞在するらしいが、私は明日は帰らねばならないのだ。
・見おぼえの〔(ナシ)→ある〕バケツが置かれているからだ。

B三刊:吉岡実《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房・筑摩叢書328、1988年9月 25日)では再刊と同様、〈T〉の末尾に 掲載されている(13級44字詰×19行組、四八〜五一ページ)。吉岡実が生前に刊行した最後の版である。
 【校異】AからBでの手入れ
・私〔に→(トル)〕は〔、→(トル)〕絵であれ、写真であれ女の裸体を見ると刺〔戟→激〕されるのだ。

●初刊の再録: 平出隆監修《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991年4月15日)に再録されているのは初刊のテクストだが、この採択には問題がある。歴史的意義を重んじるなら初出形だし、「定 稿」をめざすなら本書制作時に入手しうる最終テクストである三刊を底本にすべきだった。なお、本書には滝本明〈陸封された語――「突堤にて」について〉 (初出の《日本読書新聞》1971年1月1日号掲載稿に手が入っている)も収録されており、それは「〔……〕幻想の魚の面貌を見ようとした〈私〉の孤独 が、心を汽車の時間にかりたてたと打ち切られる時、表現者・吉岡氏の決断は〈陸封〉された語のイメジからひとつの形態美を創り出すと同時に、表現世界か ら、引き潮のようにひき上げてゆく(生活圏に帰っていく)表現者のその限界をも孕ませてしまったとも思われる」(同書、一六三ページ)と結論づけている。

滝本明〈陸封された語――吉岡実「突堤にて」〉初出の切り抜き〔吉岡家蔵スクラップブックのコピー〕
滝本明〈陸封された語――吉岡実「突堤にて」〉初出の切り抜き〔吉岡家蔵スクラップブックのコピー〕

本 篇は、Burton Watson編・佐藤紘彰訳による英訳詩抄《Lilac Garden: Poems of Minoru Yoshioka〔the third volume in the Floating World Modern Poets Series〕》(Chicago Review Press、1976)に〈On the Jetty〉として英訳されている(同書、一〇三〜一〇五ページ)。刊行時期から推して、底本は初刊だと思われる。冒頭文「狭島というさびれた漁村に私は Dときていた。」が“I was with D in a desolate fishing village called Sajima.”と訳されていることから、狭島はサジマだとわかる(訳者は疑問の箇所をしばしば著者に問いあわせており、ここにも著者の意向が反映してい よう)。ところで、この狭島が具体的にどこなのかわからない。大部の地名事典にも該当する地名はなく、三浦半島西部(横須賀市)の佐島[サジマ]かとも思 われるが、現状では決め手を欠く。

〔2006年4月30日追記〕
冒頭で触れた城戸朱理編の吉岡実散文選集は、書名が《突堤にて》から《吉岡実散文抄》に変わって、この3月に刊行された。本書にも〈突堤にて〉が収録され たから、校異を追記しておく。

C四刊:吉岡実《吉岡実散文抄――詩神が住まう場所》(思潮社・詩の森文庫E06、2006年 3月1日)では再刊・三刊と同様、 〈T〉の末尾に掲載されている(13.5級41字詰×15行組、二五〜二九ページ)。言うまでもなく、吉岡歿後初めての版である。
 【校異】BからCでの手入れ
なし
《吉岡実散文抄》でBの《「死児」という絵〔増補版〕》と異同のある箇所は、吉岡実生前の書き入れ本によっているはずだから(以前、発行者の小田久郎さん とお話ししたおり、底本についてうかがった)、手入れがないことは、BとCの本文が本篇の最終形であるということを意味している。


吉岡実の書簡(1)(2005年8月31日)

以前、《河原枇杷男全句集》 (序曲社、2003)について書 いたが、同書に先立つ全句業として《河原枇杷男句集》(序曲社、1997)がある。佐佐木幸綱さんの書評(日本経済新聞)で本書の刊行を知ったが、身近な 書店になく、序曲社に注文して入手した。本書には〈河原枇杷男/資料〉という八ページの挟みこみが付けられており、吉岡実の〈枇杷男の美学〉も挙げられて いる。だが、私が注目したのは「吉岡実・永田耕衣「『蝶座』の十句」〔……〕(序曲1987第15・16合併号『蝶座』特集*序曲社)」という記述だっ た。当該号を俳句文学館ほかで探したが所蔵されておらず、河原さんをお煩わせして《序曲》誌のコピーをちょうだいした。吉岡は《蝶座》から次の十句を選ん でいる(《序曲》15・16号、1987年11月1日、五ページ)。

誰かまた銀河に溺るる一悲鳴
何故か數へる墓原の蝶重信逝き
冬菫この世四五日離れたきに
澤庵忌白湯飲みて又書きはじむ
てふてふや天を羂索[けんじやく]よぎりつつ
齡かな摘みて眺むる韮の花
蜆蝶どの枝先も夢なりき
鶯や画餅をくれし父の恩
おほむらさき太虚[おほぞら]も又年經たる
稻の花みな生き過ぎし寂しさに

河原さんは同誌の〈蝶卍日録〉に次のように書いている。

×月×日
 吉岡実氏より「蝶座の十句」稿届く。十句のなかに「羂索」の句抄出あるをみる。その書信に「残暑きびしい日々、貴兄にはおかわりありませんか。「耕衣の 日」には、挨拶だけで、お話し出来ず、残念でした。さて「蝶座十句」ここに同封いたします。一読して、三十六句を抽出し、ほぼ一か月後に、再読してこの十 句を選びました。いずれも秀吟だと思います。捨てがたい句を若干掲げます。
 眞向ひにゐる死や鶯餅買うて來[こ]
 蝶の晝阿修羅の一指も匂ふらむ
 墓の冥さに兜子馴れしや更衣
 故郷や今も泣きじやくる枯桑や
 春深しふと柱嗅ぐ寂しさも
 落穂拾ふ天に一句を隠匿し
 小生は書下し『土方巽頌』を、この二十一日に校了にこぎつけ、ただ今ほっとしているところです」とある。(同誌、二三ページ)

「十句のなかに「羂索」の句抄出あるをみる」は、河原さんが《序曲》連衆と一泊二日の湖北の旅の帰途、車中で「談たまたま「羂索」の話 に及ぶ。『蝶 座』の句「てふてふや天を羂索よぎりつつ」は、出来てゐると思ふのだが誰も褒めないねと、ひとり自讃して帰る」(同前)と、その前の日録にあるのを受けた もの。吉岡が《土方巽頌》(筑摩書房、1987)を「この二十一日に校了にこぎつけ」たのは八月だろうか(ちなみに《土方巽頌》の刊行は九月三〇日)。こ のようにメインの記事はもちろんだが、創作の舞台裏を垣間見ることのできるのが、公開された吉岡実書簡の醍醐味である。

《河原枇杷男句集》(序曲社、1997年9月15日) 函と本体上の挟みこみ
《河原枇杷男句集》(序曲社、1997年9月15日) 函と本体上の挟みこみ


吉岡実とジェイムズ・ジョイス(2005年7月31日)

かつて吉岡実の詩句「いまとびあがる少女の薄布の/支離滅裂の/尻を大写しで見よ」(〈低音〉F・14)と、ジェイムズ・ジョイス《ユ リシーズ》の 〈〔13 ナウシカア〕〉の一節を比較したことがあるが(〈「ブ ランコ のりのナウシカア」〉)、 そこで引用した底本は丸谷才一・永川玲二・高松雄一訳《ユリシーズ U〔世界文学全集 U-14〕》河出書房新社、1964)だった。吉岡がこの訳書で《ユリシーズ》に(改めて)触れた可能性は極めて高い。そして吉岡が〈〔13 ナウシカア〕〉に期待しただろうことも想像に難くない――というのがその主旨だった。ときに吉岡は、ジョイスに関して具体的になにも書きのこしていない。 唯一の例外が《うまやはし日記》(書肆山田、1990)の1939年5月23日「『新心理主義文学』を取り出して読む。なんとか『ユリシイズ』を読まんと したが、若干で止める」(同書、四二ページ)という記載である。この《ユリシイズ》は《新心理主義文学》の著者である伊藤整ほか訳の《ユリシイズ. 前,後編》(第一書房、1931・1934)だろう(もっとも《ユリシイズ》はその後の日記には登場しないから、吉岡が通読したかどうか不明だ)。《ユリ シーズ》の邦訳書に関しては、川口喬一の新著《昭和初年の『ユリシーズ』》(みすず書房、2005年6月16日)を読むに如くはない。私はそこで堀口大學 の〈内心独白〉(1925年発表)――《ユリシーズ》の内的独白の手法を日本に紹介した最初の文献――に初めて触れて一驚した。川口は〈内心独白〉を引き ながらこう書く。

 この形式〔内的独白のこと〕によれば、「われ等の心中最も奥深い所に束の間起伏する思念を――即ちわれ等の意識下 に生れて消え るその場限りの思念――の ムウヴマンをありのままに、然し手取り早く表現することの出来る可能性が多量に文学に与えられる」。それは、それによって作家が、「人心の奥秘にまで下り て行つて、其所に湧き出るあらゆる思念を、意識の感化を受けぬ以前にそのありのままの姿に捕へることを可能ならしめるやうな形式」である。(同書、六八 ページ)

吉 岡は唯一の詩論〈わたしの作詩法?〉(1967年発表)に「しかし意識のながれは誰の中にでも豊かに流れる。それを停止することが困難だ、すなわち文字の 一行一行に定着させることが。発生したイメージをそのままいけどることが大切である」(《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、1988、八八ページ) と書いている。吉岡が戦前に堀口大學を愛読していたことは《うまやはし日記》をひもとけば明らかであり、詩篇〈果物の終り〉(D・2)の「内的独白をくり かえす」や〈三重奏〉(F・17)の「この夜のムーヴマン」や〈哀歌――追悼・西脇順三郎先生〉(J・13)の「脳髄の意識の流れを渉り」などの詩句を想 起すると、吉岡は、とりわけ《神秘的な時代の詩》(湯川書房、1974)の吉岡は、堀口の〈内心独白〉に倣って「意識のながれ」を自己の詩法の重要な要素 としているように思えたのである。このとき詩法は、詩の技法であるよりは詩人の世界観である。
《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》に収録する ため《うまやはし日記》に登場する書名や 作品名を精査して間もないが、《昭和初年の『ユリシーズ』》に登場する書物と吉岡の「昭和初年の」読書傾向はかなり重なっている。

  • 堀口大學の訳詩集《月下の一群》
  • 堀口大學訳、ポール・モーラン《夜ひらく》《夜閉ざす》
  • ジョージ・ムア《ある若者の告白》(吉岡実が読んだのは岩波文庫版《一青年の告白》)
  • 堀口大學・青柳瑞穂訳、ヴァレリー・ラルボー《仇ごころ》
  • 横光利一〈機械〉
  • 堀辰雄《聖家族》
  • 伊藤整〈新心理主義文学〉

これらが《ユリシイズ》以外で双方に登場する主な書名である。これに関して今は、あらためて項目を設けて詳述したい〈吉岡実とモダニズ ム〉を、詩以 外の面から考えるうえでまことに興味深い、とだけ言っておこう。


詩篇〈死児〉の制作日(2005年6月30日)

1958年、39歳の吉岡実は〈回復〉(C・12)、〈苦力〉(C・13)のあと、長篇詩〈死児〉(C・19、[節189行、《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1958年7月号)を発表した。詩篇〈死児〉の制作過程をめぐって、吉岡は散文〈「死児」という絵〉(《ユリイカ》〔青土社〕1971年12月号)を書いているが、それ以前にも〈死児〉を再録した際に付した文章で振りかえっている。その〈作品ノート〉の全文を引く。

 「死児」には制作の苦悩と、ひとりの女への愛を深めた思い出がある。それは一九五八年八月二十三日の夜だ。画家Oの家に「死児」の下書きを持って、彼女と共に泊った。ぼくだけ板敷の小部屋で「死児」の完成をめざした。彼女はOの家族とアトリエで遊んでいた。むしろ待機しているのだ。詩の一聯が出来ると彼女を呼び浄書をたのんだ。鉛筆がきの原稿で他人には判読できぬようなものを、彼女は要領よくまとめた。翌日の夜までに最終の一聯をのこすのみになった。彼女の小さい字劃によって、自分の詩をみることに一種の清凉感と冷静さが保てた。それから一週間ほど苦しみ、九月六日の暁に最終の聯ができた。一睡もしなかったがいまさら眠れない。かつてない感動と昂奮のうちに鶏の鳴くのを聞いた。浄書をしてくれる彼女が側にいないのが歯がゆかった。彼女が片っぱしから浄書してくれなかったら、「死児」はもっとぼくの手入が加えられ、別のものになっていたろう。(日本文芸家協会編《日本詩集》、書肆ユリイカ、1960年1月10日、二二九ページ)

〈「死児」という絵〉と併せてこれを読めば、吉岡がどのような状況で〈死児〉を書いたか間然する所はないが、どうにも奇妙に思われる点がある。「一九五八年八月二十三日」と「九月六日」という日付である。これらは吉岡の記憶違いか、誤記あるいは誤植ではなかろうか。次に摘する1958(昭和33)年の〈断片・日記抄〉(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968)の記述と〈作品ノート〉の日付が矛盾するのだ(以下、【 】内の曜日は小林の補記)。

  • 六月十五日【日曜】 ユリイカ七月号出来。長篇詩〈死児〉掲載。失敗作かも知れぬが、独自な問題作と自負する。みずからを祝す。
  • 七月九日 水曜 大ちゃんの家にゆくと、とん子「Tちゃんがきているよ」。アトリエで挨拶。何カ月ぶりかでT・Iと会う。案外冷静。
  • 七月二十五日【金曜】 Y・Wと池袋で「パリの休日」を見、ミネルヴァでお茶。太田家に泊る。
  • 八月八日【金曜】 〈感傷〉出来。これで詩集《僧侶》の十九篇完成。大ちゃん、とん子、Y・W、U子、泊込みでトランプのロンドンブリッヂ。

詩篇〈死児〉初出(《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1958年7月号)冒頭見開き
詩篇〈死児〉初出(《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1958年7月号)冒頭見開き

日記の記述や《ユリイカ》の〈死児〉掲載号の発行日を勘案すれば、「一九五八年八月二十三日」は1958年5月23日(金曜日)、「九月六日」は6月6日(金曜日)あたりではないか。
ではこの日付はなにか。私は詩集《僧侶》の浄書稿作成の日日だったと推測する(陽子夫人〔引用文中の「Y・W」である〕のペンになる印刷入稿用の《僧侶》浄書稿が一冊に製本されている)。その推測を裏書きするかのように、「八月四日【月曜】 《静物》革装本五冊できる。黒二冊、赤三冊。Y・Wに黒。大八、耕一に赤を贈る」(同前、一一八ページ)とある。すでに〈苦力〉や〈僧侶〉(C・8)、〈死児〉など《僧侶》の主たる詩篇を雑誌に発表していた吉岡は、〈美しい旅〉(C・16)、〈人質〉(C・17)、〈感傷〉(C・18)の書きおろし詩篇をまとめるべく、詩集《静物》特装本を製作し、《僧侶》制作の励みにしたということは大いにありえる。
一方「九月六日」はといえば、翌1959年「九月六日 日曜 朝から詩作快調、午後二時〈呪婚歌〉完成。明日ユリイカへ渡すこと」(同前、一二〇ページ)とあり、〈呪婚歌〉(D・9)は〈死児〉の翌年、同じ《ユリイカ》の10月号に掲載されているから、このあたりの記録が入りみだれて〈作品ノート〉の日付になったのではないだろうか。


吉岡実との談話(2)(2005年5月31日)

吉岡さんと一対一で最後にお話ししたのは、1989年12月20日である。喫茶店トップ・渋谷駅前店の入口すぐ右手の席で、13時から 14時20分 まで面談した。その折のメモがあるので、〈吉岡実との談話(1)〉と 同じように再録してお こう。

――15時から自宅近くの歯医者に行く予定で、耳は中目黒の病院で治療しており、だいぶ痩せた(2キロ?)とのこ と。黒革のコートに太い畦のセーターとい う服装。

―― 誤ったまま引用しないように、と2刷(奥付は初版)の訂正本《夏の宴》をいただく。見返し裏(この、扉対向ページに書くのがお好きとか)には陽子夫人への 献辞を消した跡。50部のうち2部を引っぱり出してきて、そのまま私宛の献辞を記入してしまった由。訂正本は鶴山氏や城戸氏にも。青土社の担当氏が〈金柑 譚〉の行アキを間違えたのだが、引きあわせは担当氏と陽子夫人が。吉岡さんは素読み校正。「ゲラは初校再校と読んだけど、気づかなかった」。この次は書を あげよう、とおっしゃる。当方は篆刻(「字が笑ってるね」)とスカラベ(フンコロガシの形をした石の彫物で、呪術的なエジプトの民芸品)をさしあげる。吉 岡実論も2部(鶴山氏と城戸氏に渡したいと)。

《サフラン摘み》は6刷で9000部。《夏の宴》は初刷が1000部、上記の〈金柑譚〉を訂正したのが2刷。《静かな家》の初出記 録は切り抜き を調べればわかるはず。記載がないのは、全詩集を先に出したから。初出誌紙はぼくしか分からない。

詩 集を編むとき、詩の順番は勘や感じみたいなもので決める。《ムーンドロップ》の〈産霊(むすび)〉は高貝氏が好きだ好きだと言っていたので、もっと後に あった〔下の目次原稿参照〕のをトップにもってきた(最後に置く詩篇は決まっていた)。詩句「〔聖なる蜘蛛〕」はマラルメ(出典は《ユリイカ》特集号の誰 かの文章)から。

詩集《ムーンドロップ》目次原稿のモノクロコピー(元原稿のイレカエの指示・行数は赤字)
詩集《ムーンドロップ》目次原稿のモノクロコピー(元原稿のイレカエの指示・行数は赤 字)

豊崎光一氏は若いのに惜しかった。ぼくの詩については書いていないだろう。

書 肆山田から2月か3月に《うまやはし日記》を刊行する予定。最初、雑誌用に原稿を求められたが、分量からいって本にしようということに。シリーズの第1回 配本。《潭》も終わって身軽になった鈴木さんと大泉さんには、「周りの言うことを聞かずに、やりたいことをやれ」と。瀧口さん命名の《草子》叢書も続けば よかったけど。

《リュミエール》の〈ポルノ〉のコラムみたいな文章は、のびのびとしていて面白かったかもしれない。「A君」とは淡谷淳一氏なり。

一篇一篇の詩はもう書けないんじゃないか。これからは長篇詩か散文だ。とくべつ何の準備もしてないが。1989年の詩作は〈雲井〉 と〈沙庭〉 (と〈永遠の昼寝〉?)。

装丁の近作は森銑三、種村季弘のもの。小沢書店のはぼくじゃない。《うまやはし日記》はシリーズ本なので、装丁はしない。巖 谷國士著《澁澤龍彦考》の装丁が進行中。《澁澤龍彦全集》は400〜500ページで二十数巻になるだろう。文庫版でだいたい出ている から、あまり 売れないか。〈白 紙状態〉の澁澤氏との出会いの記述は事実と違う。もっと古い(高橋氏の勘違いだろう、と返答)。筑摩に本を買いに来たのが最初かな。

〔小生の吉岡実論は〕どのようなものになるのかわからない。書かれたものを参照しているうちに「迷宮」ができあがるのではないか。 ともかく、こ ういう読み自体は面白い。

《薬 玉》スタイルはマラルメを読む前から。パウンドとかアメリカの詩人もやってるし。世界的にみても詩集全体でやってるのは珍しいのではないか。エリック・セ ランド氏の英訳《Kusudama》が1990年には刊行か。カナダの友人と出版社を? セランド氏が語意をつぎつぎ質問してくるのには参った。今の日本 語でなんて言うのか全部調べたうえで使っているわけじゃないし、あれこれ深く考えないでぱっとやっちゃうから。

松浦寿輝氏の吉岡実論、《現代詩手帖》でも《ユリイカ》でも連載できなかった由。対象が西脇順三郎あたりなら違ったかもしれない が。

瀧口修造全集、ついにみすず書房から出ることに。美術出版社も筑摩も、瀧口全集の版元としてはよくない。みすずがいちばん。大岡・ 東野・武満氏 あたりの弟子が編集委員で(西脇さんが生きていれば名誉職なんだろうが)。

塚本邦雄の歌集は《感幻楽》がベスト。知りあいが《水銀伝説》から本を持ってきた(どうやら塚本氏は吉岡に献本していないよう だ)。番号入りの 歌集(《寵歌》ならむ)は買いそびれた。(――小生の本で読みますか?)古本で探すからいいよ。

安 西冬衛は読んだ。戦前かな。《軍艦茉莉》や《渇ける神》。彼はシュルレアリストではない。北園克衛とは生前ついに会わなかった。ある時期、北園と左川ちか があればそれでよかった。ほかに近藤東、春山行夫、岩本修蔵なども読んだけれど。戦後はかれらや木下夕爾も切って。朔太郎や順三郎やリルケを読んでから、 すぐに《静物》のような詩を書きはじめたわけではないが。尊敬しているだけじゃ駄目だ。自分自身の独創的なものがなければ。今や西脇も切って。こちらもど んどん変わるし。

《静物》は会社で60部ほど売れた。まったく無名な者の詩集だったから、現存しているのは100部くらいか。田村書店で《静物》を 買ったのは正 解。《僧侶》は大事にされたから、もっと綺麗なのがあったらまた買えばいいし、今日は署名だけにしときましょう。

――《僧侶》(極美でないため署名だけ)と《紡錘形》、《神秘的な時代の詩〔普及版〕》に献呈署名していただく。「人の本だから、 失敗すると困 るね」とパーカーの黒で。

北の丸〔近代美術館〕のデルヴォー展は観たが、「夜の画家」だとわかってしまって。前は好きだったけれど。いま好きなのは、バル チュスとクロソ ウスキとベーコンだ。〈沼・秋の絵〉はあの〔私が吉岡論で引用した〕フィニの絵。《みづゑ》で観たのかな。

談話メモをリライトしながら、吉岡さんの厳しくも懐かしい人柄が甦ってくるのを禁じえない。


吉岡実との談話(1)(2005年4月30日)

私は生前の吉岡実と数えるほどしか会ったことがない。残念なことに、吉岡さんと一対一でお話ししたのはわずか2回である。そのうち、 1989年5月 4日の14時から16時過ぎまで、渋谷・道玄坂の喫茶店トップで話をうかがった折のメモがあるので、再録しておこう。

――ハガキをいただき、5月3日13時に電話して翌日会う約束をする。陽子夫人の声が若若しいのに驚く(わが母より 若いのだ)。

――署名してもらうべく、単行詩集を中心に6冊、持参する。@吉岡実詩集(思潮社版)A神秘的な時代の詩(湯川書房版)B夏の宴C ムーンドロッ プD「死児」という絵(思潮社版)E土方巽頌。

70歳とはいえ、誕生日なんて大大的に言うもんじゃないから。もろだけんじ句集《樹霊半束》を きょう読んだけど(こんな言葉があるの かって)、なかなか良いから、200部くらい刷って送ったら。《麒麟》《洗濯船》の諸氏や夏石番矢氏、安井浩司氏あたりに。

書も篆刻も おやりなさい、若いんだから。書では西脇順三郎のものが良い。きみも買っといたら。草野心平や永田耕衣となるともうプロだから。川端康成なんか、いやらし いくらいのもあるけど。あとは志賀直哉。西脇さんの色紙は2枚持っていて、見える処に飾ってある。筑摩書房の何度めかの文学全集の口絵のための手蹟を、編 集担当の人から譲りうけた。あと、前橋の煥乎堂のためのいちばん良いやつを。

(新潟市での西脇展〔後出〕の話のあと)西脇さん以外ではなにを読むの?――朔太郎です。
朔太郎、西脇、ぼくと来てるんだ、やっぱり。――小説だと福永武彦。
たくさん書いているんだろ。――最近は大江健三郎。
あの人は考え方がしっかりしているから。

絵は、本のためのカットも描かないんだ。永田力の絵画教室で那珂太郎なんかと習ったけど、すぐにやめてしまった。装丁の依頼は「カ ヴァーは紙 で」とか指定があって。カラーものは苦手なんだ。

《ムー ンドロップ》の装画は、西脇さんから10年くらい前に貰ったカットを子息・順一氏に使わせてもらおうと。函の黄色の貼り外題は、同じ書肆山田からの白石か ずこ詩集の帯紙。総くるみの表紙の布はいちばん高い材料だった。1500部でいくと言ったので、1000部でも1200部でもやれるだけで良いよ、と。山 田と相談して本文12ポ組で、〈断腸詩篇〉だけ10ポで。《薬玉》は2000部で、サイズが大きかったから菊変形で採れるだけ大きくしようとした。表紙布 は背にしか使えなかったけど。《薬玉》の表紙の紫色の紙はイタリア製。見本で観て、山田に確保しておいてくれと先に頼んだ。

小説は読まないんだ。

い ま書きたいのは、@主題が「第三の兵士」としての戦わざる兵士。フィクションのある散文=小説? A長いもの、短いものを含んだ長篇詩、のどちらか。子供 のころの話はすでにいろいろ書いたから、もういい。澁澤龍彦氏とも「私生活は(ブランショやピンチョンみたいに)隠したほうが良い」「そうだ、そうだ」。 氏は子供のころのことを書いたから晩年の小説が書けた、と言う友人もいるけれど。

《ペントハウス》誌が急になくなったみたい。――出版元の講談社の社長が社の方針に勝ったとのこと。

東洋古美術の甍堂で金蚕を見つけたのが、近ごろ嬉しかった。黒くてリアルなんだ。店の主人は鉄製と言ったけど、手に金粉が付いてき たから金蚕だ ろう。金蚕は、石田英一郎《桃太郎の母》で読んだだけ。小澤實氏と入った店で、高橋睦郎氏が別のを。

――16時過ぎ、109の前まで道玄坂を降りてきて別れる。緊張のあまり、異常に疲れる。全身にわたる疲労感なり。

細 かな解説は加えないが、最初の「ハガキをいただき」は、同年4月25日に観にいった《永遠の旅人 西脇順三郎 詩・絵画・その周辺》展(新潟市美術館)の感想を書いた絵葉書に対する返信。同展入場券には、西脇が吉岡の《夏の宴》(青土社、1979)のために描いた 装画が使われている。

《永遠の旅人 西脇順三郎 詩・絵画・その周辺》展(新潟市美術館、1989年4月1日〜5月14日) 入場券 《永遠の旅人 西脇順三郎 詩・絵画・その周辺》展(新潟市美術館、1989年4月1日〜5月14日) 図録の表紙
《永遠の旅人 西脇順三郎 詩・絵画・その周辺》展(新潟市美術館、1989年4月1日〜5月14日) 入場券と図録の表紙


吉岡実とオクタビオ・パス(2005年3月31日)

吉岡実の随想集《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)は巻末の章に増補分をまとめて収載しており、その最後に〈「官能的詩篇」雑感〉(初出は1986年9月の《季刊リュミエール》5号)を置いている。すなわち随想集掉尾の文がこれである。ここでは〈「官能的詩篇」雑感〉の〈2 愛の詩〉を手がかりに、吉岡実とオクタビオ・パスについて考えてみたい。

 私はしばらく前から、メキシコの詩人オクタビオ・パスの作品を読んでいる。散文の『弓と竪琴』の詩論的なエセーもよいが、詩もイメージが鮮明ですばらしい。さて「愛の詩」といえばなぜかポール・エリュアールのエロチックな詩篇を想い浮べる。だが今資料がないので、パスの詩から選んだ。この「二つのからだ」は短いものだが、一つの典型だと思う。
 〔……〕
 二年前の秋、オクタビオ・パス夫妻が来日した。私は数人の詩人と共に招かれて、一夕歓談したことがあった。残念ながら、パスの詩はまだ四十余篇しか訳出されていない。しかし、いずれも佳品、秀作で、流麗な訳文に依って、パスの詩業の片鱗がうかがえた。私はそのことを伝え、とくに長詩「白」に感動したと言った。パス氏は微笑しながら、大変苦心した作品で、「両界曼荼羅」とマラルメの『骰子一擲』に触発されたものであると、応えた。そういえば「回転する記号」のなかで、パスは『骰子一擲』を精密に論じている。(《「死児」という絵〔増補版〕》、三六五〜三六七ページ)

「官能的詩篇」で鈴木志郎康や白石かずこ、ねじめ正一や伊藤比呂美の詩に言及した吉岡は、「愛の詩」について考察しはじめたところで、なぜかエリュアールではなくパスの詩を挙げている。しかし《エリュアール詩集》が手許にないというのは口実に過ぎまい。パス夫妻と歓談した吉岡にとって、「愛の詩」はパスの詩でなければならなかったのだ。先の〈2 愛の詩〉の引用で中略した部分は、パスの詩篇〈二つのからだ〉全文とその「(桑名一博訳)」というクレジットである。
吉岡とパスの関係を伝える文章に、飯島耕一の〈パス再考〉がある。「亡友吉岡実の詩集『薬玉』(パスの来日した八四年の刊行)は、その活字の階段状の組み方からしてもパスの『白』を連想させるが、事実として吉岡は、パスの『白』への関心をわたしに語ったことがあった。「『白』ね。パスの『白』があるね」。吉岡は決して詩を分析的に語らない。これだけで充分すぎる賛辞なのだ」(《現代詩が若かったころ》みすず書房、1994、二五五ページ。ただし詩集《薬玉》は1983年10月の刊)。これを読むと、吉岡はパスの〈白〉に触発されて《薬玉》の詩形を採択したように取れるが、事はもう少し複雑かつ微妙だろう。吉岡が「私はしばらく前から、メキシコの詩人オクタビオ・パスの作品を読んでいる」と書く「しばらく前」がいつなのか正確にはわからないし、吉岡が《薬玉》の詩形を「ことばの塊りをいわば「楽譜」のように散りばめた、いってみれば「言譜」のようなもの」(《「死児」という絵〔増補版〕》、二九七ページ)と定義するとき、〈白〉はその先蹤のひとつではあろうが、発想の源のすべてではないように思われる。

オクタビオ・パス〈白〉〔鼓直訳〕(篠田一士編《世界の文学. 37〔現代詩集〕》、集英社、1979年2月20日)冒頭の部分
オクタビオ・パス〈白〉〔鼓直訳〕(篠田一士編《世界の文学37〔現代詩集〕》、集英社、1979年2月20日)冒頭の部分

牛島信明訳《弓と竪琴〔ラテンアメリカ文学叢書12〕》(国書刊行会)は1980年1月に出ているが(同書所収〈回転する記号〉初出は《海》1978年3月号)、吉岡がこれをいつ読んだのかも判然としない。はっきりしているのは、オクタビオ・パス、大岡信、渋沢孝輔、吉増剛造、そして吉岡が出席した座談会の1984年10月30日という日付である(国際交流基金の招きで来日したパスとの懇談会。通訳は野谷文昭)。吉岡はこれ以前からパスの作品に親しんでいたにしろ、改めてその文業に触れなおしたことであろう。座談会〈言語と始源〉で、吉岡はパスと次のようなやりとりをしている。

吉岡 ところがパスさんの詩は非常に残念ながら、日本には五十篇ぐらいしか訳されていないんです。で、僕は短かい詩に、好きなのはたくさんあるんですけれども、だけど、何といっても「白」というあの過激な美しい詩はどこから出てきたんだろうかと。とにかく、翻訳で読んでもものすごくすばらしいです。
パス (感慨深げに)大変でした。あれは難しかった。ま、実際のところ、詩なんて決してすらすら書けるものじゃありませんが。たぶんあの形は非常に複雑ですけれども、やはり音楽の影響があります。そしてとりわけ曼陀羅の影響が強い。後で分かったんですが、曼陀羅を言葉で作ろうとしてたんです。四つのパートにわかれていて……。空間的な詩を試みたのです。
吉岡 日本では『太陽の石』は訳されていないもんですからね、僕なんかは読めないんですけど、まあこれから本当にパスさんの詩が日本で出るようになると思うんですよ。それで、散文はもうたくさんいいものが出版されてるし、パスさんは幸せな方だと思います。訳が皆いいんです。とにかく、『弓と竪琴』、それから『大いなる文法学者の猿』も大変よい訳だと思ってね、わたしはすっかり、リズムに乗せられて読みました。(《現代詩手帖》1985年1月号、四八〜四九ページ)

このあと、清水憲男訳《大いなる文法学者の猿》(新潮社、1977)をめぐって、版元から同書の翻訳の依頼があったが、時間的な理由で断わった渋沢孝輔が訳文に否定的な見解を披露する一幕があったあと、パスの長詩〈白〉について問うている。

渋沢 パスさんの「ブランコ」という作品には、マラルメの影響はございませんか。
パス もちろんあります。マラルメのエピグラフも使ってます。私がマラルメを発見したのはそれを書いたころです。常に読んではいたんですけど深くは分かっていなかった。で、そのころやっと分かってきて、ある意味ではマラルメが私を「ブランコ」へと導いた。(同前、四九ページ)

吉岡が「残念ながら、パスの詩はまだ四十余篇しか訳出されていない。しかし、いずれも佳品、秀作で、流麗な訳文に依って、パスの詩業の片鱗がうかがえた。私はそのことを伝え、とくに長詩「白」に感動したと言った。パス氏は微笑しながら、大変苦心した作品で、「両界曼荼羅」とマラルメの『骰子一擲』に触発されたものであると、応えた」と書いたのは、座談会の引用部分を踏まえてのことだろう。私には吉岡がパスの詩をほんとうに「深く分かった」のは、1983年の《薬玉》刊行のあと、1984年のパスの来日前のような気がしてならない。そういった点も含めて、《薬玉》詩形の成立に関しては稿を改めて述べたい。ただ漠然と、吉岡が「官能的詩篇」の〈3 『骰子一擲』〉で触れているマラルメ、(多種多様な引用符については)江森國友の同時期の詩篇、そしてなによりも吉岡自身の〈雞〔ニワトリ〕〉初出形と詩集収録形を比較検討する必要がある、と今は感じている。

〔付記〕吉岡実が読んだオクタビオ・パスの訳詩

吉岡が読んだ「四十余篇」ないし「五十篇ぐらい」のパスの訳詩はどれだろうか。まず〈二つのからだ〉と〈白〉を含む篠田一士編《世界の文学37〔現代詩集〕》(集英社、1979年2月20日)の6篇が挙げられる。吉岡の存命中にパスの邦訳詩集は出ていないから、雑誌目録で当時の訳詩を検索すると、@小島俊明訳〈オクタビオ・パス詩抄〉(《詩学》1966年1月号)の12篇、A鼓直訳〈代表詩集より三十一篇〉(《海》1978年3月号)の31篇、B鼓直訳〈オクタビオ・パス詩抄〉(《現代詩手帖》1980年9月号)の27篇、などがあった。これらを勘案すると、@とB、それに〔現代詩集〕の合計45篇のようだ(吉岡が《海》1978年3月号のオクタビオ・パス特集を読んでいないとは考えにくいが)。


吉岡実の詩稿〈裸婦〉(2005年2月28日〔2005年5月31日追記〕)

まず、保昌正夫監修、青木正美収集・解説の《近代詩人・歌人自筆原稿集》(東京堂出版、2002年6月10日)から、吉 岡実の詩稿〈裸婦〉の解説を全文引用する(同書、二〇三ページ)。

 吉岡 実(一九一九〜一九九〇)

 この詩稿は、昭和三十四年十一月号に載せられた吉岡の「裸婦・他四篇」の中の「裸婦」である。平成二年、『文学界』に取り上げら れた時の目次見出しは、
 ――――――――――――――――――――――――

 裸婦  単純  僧侶

 陰画  喪服

 ☆異色新鋭詩人の問題作              吉岡実

 ――――――――――――――――――――――――
 であった。そして十頁に亘って五詩が印刷されているが、末尾には、「僧侶」「喪服」「単純」は詩集『僧侶』により≠ニある。
 ただその後この詩人が大成しての事典では、詩歴は古く、戦前東京下町の本所高等小学校卒業後、白秋、啄木、春夫、朔太郎らの詩に感銘を受ける。
 短歌から始め、昭和十六年召集令状を受け、遺書のつもりで詩集『液体』をまとめる。戦争は輜重兵として満州を移動、済州島で敗戦を迎えた。
 戦後は筑摩書房に入社、三十一年『静物』を刊行。三十三年に出したのが、先程末尾≠ノ記されていると書いた『僧侶』(昭33)だった。特に詩集中の 「僧侶」は傑作と言われ、この年のH氏賞に輝く。
 この『文学界』の掲載に、「裸婦」は書き下ろされたものだったのである。

青木氏の解説には、いくつもの誤りがある。とりわけ「平成二年、『文学界』に取り上げられた時の目次見出しは、」の行には脱落があっ て、おそらく 「平成二年、」のあとに原稿入手の経緯が綴られていたのではあるまいか。その一文こそ本解説の眼目をなしたであろうに(むろん《文學界》掲載年は、その前 行にあるとおり昭和34年である)。さらに「「僧侶」「喪服」「単純」は詩集『僧侶』により」の原文は「により」ではなく「より」(同誌、一二九ページ。 漢字は旧字体)である。吉岡が感銘を受けたのは白秋、啄木の詩ではなく短歌だし、朔太郎の詩を読んだのは戦前ではなく戦後である。詩集《静物》を刊行した のは昭和31年ではなく30年であり、詩集《僧侶》がH氏賞を受賞したのは昭和33年ではなく翌34年の第9回である。しかし細かな事実誤認や年代の相違 など、ほんとうはどうでもよいのだ(しかるべき文献に当たれば判明する事柄である)。
肝心なのは、掲載したのが吉岡実の自筆原稿であることだ。詳細は以下で述べるが、残念なことに本書の写真版の〈裸婦〉は吉岡実の自筆ではなく、吉岡陽子夫 人の手になるものだ。それというのも吉岡は《僧侶》以降、一貫して詩稿の浄書を陽子夫人に任せていたから、原則的に吉岡実詩篇の自筆の入稿用原稿は存在し ないのだ(随想などの散文の原稿は、この限りでない)。
詩篇における吉岡実の筆跡を見るのにいちばん手近な文献は、平出隆監修《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)である。ただこの口絵には〈裸婦〉執筆の1959年ころの詩稿がなく、比較することができない。また清岡卓行編《イヴへの頌 〔肉筆による詞華集〕》(詩学社、1971)には、詩篇〈沼・秋の絵〉(発表は《文藝》1962年3月号)の自筆原稿が掲載されているが、これも《文藝》 用の入稿原稿ではない。《イヴへの頌》の企画のために専用の用紙に新たに(出版前年の1970年にでも)書きおこされたもので、いわば「書」であり、これ また検討の対象にならない。

八木書店の《近代詩人筆跡展》(同書店古書部三階展示場、1999年11月26日〜12月25日)図録に掲載された吉岡実自筆原稿
八木書店の《近代詩人筆跡展》(同書店古書部三階展示場、1999年11月26日〜12月 25日)図録に掲載された吉岡実自筆原稿

私は前掲《現代詩読本》の〈吉岡実資料〉を執筆するにあたって、陽子夫人から多くの貴重な資料を借覧したが、そのとき吉岡実の自筆詩稿がほとんど存在しな いことに気づいた。念のために借覧資料のコピーを調べなおしてみたが、吉岡実自筆の入稿原稿は一点も含まれていなかった。以下に、いま手許にある詩稿関連 の資料の概要を誌す。

〈沙庭〉(《文學界》1990年1月号掲載)の入稿用原稿〔第1葉のコピー〕(吉岡陽子夫人の筆跡) 〈金柑譚〉(《海》1979年5月号掲載)の入稿用原稿〔第1葉の写真版=《石神井書林古書目録》59号(2003年2月)から〕(吉岡陽子夫人の筆跡)
〈沙庭〉(《文學界》1990年1月号掲載)の入稿用原稿〔第1葉のコピー〕(左)と〈金柑 譚〉(《海》1979年5月号掲載)の入稿用原稿〔第1葉の写真版=《石神井書林古書目録》59号(2003年2月)から〕(右)(いずれも吉岡陽子夫人 の筆跡)

  • 〈寒燈〉……ノートのようなものが裂かれて、この紙葉だけになっていたと記憶する。吉岡実自筆。署名なし。末尾に「〈二四、九、 二十〉」、丸中数字で「28」、さらに「(雅美へ二四、十、二十送る)」、丸中数字で「十五」とあり、1949年9月20日脱稿と見られる。ただし、詩篇 全体に大きく×が付されている。未発表詩篇。
  • 〈ぽーる・くれーの歌〈又は雪のカンバス〉〉……用紙は〈寒燈〉に同じ。吉岡実自筆。晩年の筆跡で「吉岡実」と署名あり。末尾に 「〈二四、九、二三〉」、丸中数字で「29」、さらに丸中数字で「十六」とある。1949年9月23日脱稿と見られる。未発表詩篇。
  • 〈雲 井〉……32字×20行詰の原稿用紙3葉。標題・署名・詩篇本文ともすべて陽子夫人の筆跡。末尾、欄外と思しい箇所に横書きで 「(1989, 8, 3)」と吉岡のメモがあり、1989年8月3日脱稿と見られる。《鷹》304号(1989年10月)掲載の詩篇〈雲井〉の入稿用原稿の控えか。
  • 〈沙 庭〉……32字×20行詰の「草蝉舎」の原稿用紙2葉。標題・署名・詩篇本文ともすべて陽子夫人の筆跡(前掲写真参照)。末尾に横書 きで 「1989. 12月(文学界)新年号」と吉岡のメモがある。《文學界》1990年1月号掲載の詩篇〈沙庭〉の入稿用原稿の控えか。

これらの詩稿の筆跡をつぶさに検討した結果、〈裸婦〉の入稿原稿は陽子夫人の浄書稿と判断できる。ではこの詩稿に価値がないかという と、とんでもな い、大いにあるのだ。いま「浄書稿」と書いたが、興味深い訂正が一箇所ある。《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)だと一五三ページのうしろから4行め にある「施術者」が、最初「労働者」と書かれてから訂正されているのだ(訂正の筆跡も陽子夫人)。またこの写真版のおかげで、初出「視透する」は誤植では なく、原稿どおりだということもわかる(詩集では「透視する」)。ほかにも、浄書稿は新字・新かなで書かれているが、初出誌は旧字を使用し拗促音に小字の かなを使っていない、などのことが読みとれる。数少ない吉岡実の入稿原稿の公開には、大きな意義が認められる。ただ、書名が《近代詩人・歌人自筆原稿集》 である以上、本書の場合は吉岡実の自筆でないという一点が問題なのである(なお、吉岡の詩稿については〈〈波 よ永遠に止れ〉本文のこと〉〈吉岡実詩集《静 物》稿本〉も参照されたい)。

〔2005年5月31日追記〕
内堀弘氏の《石神井書林古書目録》59号(2003年2月)に吉岡実の詩稿〈金柑譚〉(H・17、5節84行、《海》〔中央公論社〕1979年5月号 〔11巻5号〕)第1葉が写真版で紹介されているので、〈沙庭〉と並べて上に掲載してみる。同目録の本文ページには「1678 吉岡實 肉筆詩稿  「金柑譚」 640字詰用紙5枚完結。ペン書。 写真6頁参照 120,000」とあり、吉岡実の自筆とは謳って いない。


《土方巽頌》と荷風の〈杏花余香〉(2005年1月31日)

《荷風全集〔第29巻〕》(岩波書店、1995)の〈参考篇〉に永井荷風〈杏花余香〉が収められている。副題に〈亡友市川左団次君追憶記〉とあるように、「『断腸亭日乗』原本からの抄出であるが、市川左団次との交友を日記から浮かび上がらせるという一つの独自の試み」(中島国彦〈後記〉、同書、四三二ページ)である。初出は昭和16(1941)年4月と5月の《中央公論》で、のち岩波書店版第一次《荷風全集〔第29巻〕》(1974)に収録された。大正6(1917)年12月9日から昭和15(1940)年4月10日までの日記の抄録から成る〈杏花余香〉のはしがきは、味読に値する。

市川左団次君初松莚と号せしが晩年改めて杏花となしぬ。杏花子逝きてより早くも一年の月日は過ぎたり。頃日中央公論社の編輯記者来りて杏花子紀念のために余が日記の中より子に関する記事の抄録を需む。杏花子の知友には藝壇の名家もとより尠しとせず。然れども余も亦多年の交遊あるを以て僭越の罪を顧ず請はるゝがままに余が日乗を抄写することゝはなしぬ。昭和辛巳歳二月荷風老人識。(《荷風全集〔第29巻〕》、岩波書店、1995、二七八ページ)

吉岡実のあとがきから、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987)出版の経緯に関する箇所を引く。

 その土方巽の遺文集『美貌の青空』の刊行準備に参画し、出版社も筑摩書房に決まり、肩の荷もおりた。昨年の春のことである。それから間もなく、在社時代の後輩の淡谷淳一が遊びに来て、私が今までに土方巽へ捧げた詩篇と、散文、それに若干の書下しの文章を加えて、小さな本をつくりましょう、と言うのだった。辞退をにおわせ、曖昧な返事をしたのがいけなかった。会社の正式な企画にのせてしまったのである。
 「土方巽とは何者?」誰もがそう思っているにちがいない。この人物と二十年の交流があるものの、私にはこの「一個の天才」を、十全に捉えることは出来ないだろう。そこで私は自分の「日記」を中心に据え、土方巽の周辺の友人、知己の証言を藉り、そして舞踏家の箴言的な言葉を、適宜挿入する、構成を試みた。(同書、二四〇〜二四一ページ)

ある文人が、一時代を画した舞台人とともに過ごした日日の記録を抄して追善することが、そうたびたびあるとは思えない。しかしこのあとがきを読むかぎり、吉岡が《土方巽頌》の構成を考えるにあたって荷風の〈杏花余香〉を想起した形跡はない。吉岡は昭和16年の春まだ徴兵されておらず、初出誌を読む機会はあった。しかし、それが半世紀近く後の《土方巽頌》に結びついたか判断する材料はない。ここはやはり、詩集《夏の宴》(青土社、1979)以降いよいよ先鋭になった「引用」に依る芸術家の肖像の究極の姿を見るべきだろう。であるなら、〈杏花余香〉と《土方巽頌》の類縁をめでつつ、それぞれに読めば充分なのかもしれない。


厩橋を歩く(1)(2004年12月31日)

先 日、熊本城の近くを歩いていたら、たまたま厩橋[うまやばし]を見つけた。橋のたもとに設置された熊本市による案内板には「旧藩時代には今の市役所の位置 に御厩があったところから御厩橋と名づけられたが、明治以降は単に厩橋と改められた。/昭和に入ってからも再々改修が行われ、現在の橋は昭和五十八年に架 替えられた」と見える。
東京で厩橋といえば、隅田川に架かる橋として知られる。かつての厩橋1丁目(現・墨田区本所1丁目)と浅草蔵前3丁目(現・台東区蔵前3丁目)とに位置 し、長さ152メートル。有効幅員は車道が16.6メートル、歩道が3.7メートル、計22メートル。鉄桁部面積が3,344平方メートル。橋台は捨矢板 を用い、橋桁は鋼鈑繁拱橋で、鉄部の重量は2,016.334トンである。
厩橋が明治維新後最初の橋として架設されたのは、明治7(1874)年10月のことで(橋が架けられる以前は「御厩[おんまい]の渡し」であった)、明治 20年代の架けかえのあと、路面電車を走らせるため、明治34(1901)年9月に修繕して鉄造になった。その後、大正12(1923)年の関東大震災で 橋床が焼失したため、大正15(1926)年7月、復興に着手して昭和4(1929)年9月に現在の橋が完成した。耐震耐火構造を第一とし、都市の美観面 も考慮して、3連のアーチ形の橋にしたという。以上は主に《墨田区史》(東京都墨田区役所編集発行、1959年3月15日)に拠ったが、ここからわかるよ うに、《昏睡季節》や《液体》を書いたころ吉岡実が渡った厩橋は、現在も架かる橋である。

蔵前から見た夕景の厩橋 本所から見た夜景の厩橋
蔵前から見た夕景の厩橋(左)と本所から見た夜景の厩橋(右)

高 井有一に〈厩橋〉という短篇小説がある。昭和20年代後半、学生芝居で共演した女性を東光会病院に見舞う話で、こういう一節がある。吉岡実が《静物》の詩 篇を書きついでいたころの情景だ。「人影のない厩橋の下を、鉄繩で繋ぎ合つた達磨船が三艘、曳船に曳かれて上つて行つた。濡れた船体が黒ぐろと巨大に見え たのは、足早に増した暗さのせゐだらうか。川波は先日よりも更に激しく、船の横腹に白く砕け散つた」(高井有一《青梅》、集英社、1980、七七ペー ジ)。
ところで、吉岡の《うまやはし日記》の厩橋は、戦前の地名・東京市本所区厩橋に由来する。《墨田区の地名》というウェブページには「本所」の説明に「昭和 5年には付近の町々を合併し厩橋となったが、昭和41年に、「厩」が当用漢字になく住居表示の規格から漏れてしまい、昔の名前〔本所〕を引っ張り出すこと にした」とあり、吉岡が住んでいた厩橋2丁目は、現在の本所2丁目の一部のようだ(隣接する北側の東駒形町、南側の石原町は現在も東駒形と石原で、町名に 変わりはない)。
年末のある日、厩橋を撮影に行ったついでに、本所2丁目を歩いてみた。本所は先の戦災で焼きつくされているから、吉岡が暮らしたころの街並はうかがうべく もないが、なにやら懐かしい昔日の東京がそこにはあった。「東京市本所区厩橋」については、いずれ稿を改めて書きたい。


小森俊明氏作曲の吉岡実の歌曲(2004年11月30日)

作曲家の小森俊明氏から、吉岡実詩による歌曲の音源や楽譜などの資料をお送りいただいたので、紹介しよう。2004年9月25日、すみだトリフォニーホール小ホールで〈第11回作曲家二人展〉(主催・国際芸術連盟)が開かれ、服部和彦氏と小森氏の作品が演奏された。歌曲〈草上の晩餐〉はその中の一曲である。〈作曲家二人展〉の印刷物から引用する。〈プログラム〉にはこうある。
「小森俊明/草上の晩餐(「サフラン摘み」より)(2002) 詩:吉岡実
Le diner sur l'Herbe(De 《Cueillir des Safrans》)
pour Chant et Piano -Poem par YOSHIOKA Minoru
〈ソプラノ〉砂崎香子 〈ピアノ〉西津啓子」
肝心の歌曲だが、おそらく当日のオーディエンス録音で、演奏時間は約6分50秒。ふだん歌曲を聴く習慣のない私には、たいへん新鮮かつ衝撃的に響いた。プログラムには「歌詞」として吉岡実の〈草上の晩餐〉(G・13)全文が引かれているが、ほとんどの聴衆には初めて目にする詩篇であっただろう。小森さんは〈作曲家からのメッセージ〉にこう書いている。
「●草上の晩餐(「サフラン摘み」より)(2002) 詩:吉岡実
 この作品は吉岡実の幻想的な詩に作曲した、私にとって4作目の歌曲である。吉岡実の詩には過去の詩の引用が多く散見されるが、この詩は作品自体がマネの絵画「草上の昼食」を契機としており、全体を通じて浸透する象徴主義風のメランコリーが印象的な作品である。歌曲の作曲には、詩に音楽を寄添わせる仕方と、音楽に詩を付き従わせる仕方とがあろう。私は、ヴェルレーヌが「先ず音楽を」と言ったのに倣って、「先ず言葉(パロール)を」と言わずにおれない。この歌曲もまた、最初にパロールがある。「草上の晩餐」の豊穣な言葉を前に作曲するに当って私は途方に暮れたものの、やがて詩のイマージュに「導かれて」音楽が姿を現していった。」
〈草上の晩餐〉の初演は2002年5月28日、第8回21世紀日本歌曲の潮流、ソプラノ・遠山裕美、ピアノ・柳井和泉である。なお今年10月8日、第16回グループ昂日本歌曲演奏会で二度めの再演が行なわれた(メゾソプラノ・大堀裕美、ピアノ・藤掛美智子)。
当日の音楽会場でこの歌曲を聴くことのかなわなかった私は、カセットテープの音源に深く身をゆだねることで、吉岡実詩のもうひとつのありようを体験したのだった。

小森俊明作曲の楽譜の冒頭(歌曲〈草上の晩餐〉と〈立体〉)
小森俊明作曲の楽譜の冒頭(歌曲〈草上の晩餐〉と〈立体〉)

小森さんからは吉岡実の〈立体〉、朝吹亮二の3つの詩(詩集《終焉と王国》より)に作曲した音源と楽譜もいただいた。歌曲〈立体〉は1994年の作曲(初演は同年10月8日、東京藝術大学演奏審査、ソプラノ・大原一姫、ピアノ・石塚佳絵)。朝吹さんの方は1999年の作曲(初演は同年10月3日、第11回グループ昂日本歌曲演奏会、バリトン・中島陽一、ピアノ・安藤友侯)である。
歌曲〈立体〉は演奏時間は約5分35秒。小森さんはメールで「学生時代の曲でもあり、今はこう書かないだろう・・と云う稚拙さがあちこちに見られるのです」と謙遜しているが、歌唱と朗誦との対比がスリリングな〈立体〉を〈草上の晩餐〉と較べて「稚拙」というのは当らないだろう。〈立体〉には〈立体〉の独自性が存在する。いずれにしても、私のように〈立体〉を収めた詩集《神秘的な時代の詩》の評釈を書きつづけている者には、かけがえのない贈り物である。


吉岡実詩の中国語訳(2004年10月31日)

日 本で唯一の押韻定型詩誌《調べ》に拠る詩人の木村哲也さんから、吉岡実詩の中国語訳を掲載した孫鈿訳《日本当代詩選》(湖南人民出版社・詩苑訳林、 1987年7月〔簡体字は日本語の漢字に改めた〕)を借覧できたので、同書をさらに日本語訳した木村さんの訳書を参照しながら、吉岡実詩の中国語訳を紹介 しよう。

孫鈿訳《日本当代詩選》(湖南人民出版社、1987)と木村哲也訳《中国版 現代日本詩選》(私家版、1997)
孫鈿訳《日本当代詩選》(湖南人民出版社、1987)と木村哲也訳《中国版 現代日本詩選》(私家版、1997)

木 村さんが《中国版 現代日本詩選》(私家版、1997年3月1日)の〈訳者あとがき〉で書いているように、本書は《日本の詩歌 27 現代詩集》(中央公論社、1970年3月15日)を底本とした一種の海賊版らしく、吉岡生前の刊行ではあるが作者が眼にしたか疑問である。《吉岡実書誌》に 記載したとおり、底本からは〈風景〉(詩集《液体》)、〈静物〉(詩集《静物》巻頭詩篇)、〈牧歌〉(詩集《僧侶》)の三篇が訳載されているものの、四篇 めの〈裸婦〉(詩集《紡錘形》)は女の裸というエロティシズムゆえか、本書には見えない。私は簡体字に不案内なのだが、試みに〈静物〉の中国語訳(《日本 当代詩選》、二七八ページ)を現代日本語の漢字に「翻字」して、次に掲げてみる。

静物|孫鈿訳〔簡体字は日本語の漢字に改めた〕

夜裏的器皿表層
更顕出光亮
秋天的水果
那些苹果梨子葡萄
各自
以不同的姿態堆聚一起
沿着沈睡
沿着一種和諧
沿着雄偉的音楽
各自抵達最深層
水果周囲
有着充分腐爛的時間
水果的核逐漸在露現
面向那死人的牙歯
我象石頭似地毫無生気
那些水果
在深沈的器皿中
在夜的幻景中
居然増添了一種光彩
可是
全都在趨向枯萎

漢字の字面からだけでも、吉岡実詩の静謐な音楽が 漂いでてくる興味深い訳である。
ときに《〈吉岡実〉人と作品》に 転載した著者略歴の日本語訳はこうだ([ ]内は木村さんによる補記)。「吉岡実(一九一九〜[一九九〇])/一九一九年東京生まれ。かつて商業学校に学 び、中退後、いくつかの出版社で仕事をした。現在筑摩書房で職にある[一九七八年退職]。『今日』『鱒[鰐]』などの詩誌の同人である。詩集に『液体』 (一九四一)[草蝉舎、吉岡方]、『静物』(一九五五)[私家版]、『僧侶』(一九五八、H氏賞獲得)[書肆ユリイカ]、『静かな家』(一九六八)[思潮 社]、および歌集『魚藍』[一九五九、私家版]などがある」(木村哲也訳、前掲書、一四五ページ)。
木村さんにはもう一冊、羅興典編訳に依る《中国語版 日本戦後名詩百家集》(私家版、1997)という、原民喜から小川英晴までを収めた同種の訳書があるが、吉岡実の詩は掲載されていない。


吉岡実とナボコフ(2004年9月30日〔2017年9月30日追記〕〔2021年5月31日追記〕)

吉岡実は詩篇〈ピクニック〉(G・7)の本文と詩篇〈ムーンドロップ〉(K・10)の註記で、二度にわたってウラジーミル・ナボコフ(1899-1977)に言及している。すなわち次の二箇所、

夕焼の林のなかで
ウラジーミル・ナボコフは記述する
水浴せる少女の手から脚へ さらに届かないところへ

*題名と若干の章句をナボコフ『青白い炎』(富士川義之訳)から借用。

である。〈ピクニック〉は吉岡実詩の中期を代表する《サフラン摘み》(青土社、1976)に、〈ムーンドロップ〉はタイトルポエムとして晩年の《ムーンドロップ》(書肆山田、1988)に、それぞれ収められている。吉岡の中期から後期にかけてを、ナボコフという補助線を引いて考えてみることも有効だろう。ここでは素描のための材料を揃えることにする。
金井美恵子は〈吉岡実とあう――人・語・物〉に書いている。「吉岡さんとの雑談のなかでは、いつでも「何か最近おもしろい本はない? 教えてよ」という質問を受けることになっているのだが、その時もそう聞かれ、『ロリータ』はもちろんお読みでしょうが、ナボコフを最近まとめて読んだ、と姉が答え、入沢〔康夫〕さんは『セバスチャン・ナイトの生涯』は実に面白い小説だったと言い、私たちはそれにうなずき、あれは一種目まいのするような陰惨で滑稽な小説である、と誰かが言うのだが、吉岡さんの反応は違う。/ナボコフ? ああ、『ロリータ』ね。前に一度読みかけたけれど、あれは訳文がとんでもない悪文だろ?」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984、二一六〜二一七ページ)。さて、国立国会図書館には、次の六つのナボコフ《ロリータ》が所蔵されている。
@《ロリータ〔上・下〕》、河出書房新社、1959年4月20日
A《ロリータ》、河出書房新社・河出ペーパーバックス、1962年7月15日
B《人間の文学 第28》、河出書房、1967年7月25日
C《ロリータ〔改訳決定版〕》、河出書房新社・エトランジェの文学、1974年9月30日
D《ロリータ》、河出書房新社・河出海外小説選15〔Cの新装版〕、1977年12月15日
E《ロリータ》、新潮社・新潮文庫、1980年4月25日
吉岡がどの版で《ロリータ》を「読みかけた」か、確たる証拠はない。ただ、種村季弘のルイス・キャロル論(〈どもりの少女誘拐者〉、《ナンセンス詩人の肖像》、竹内書店、1969)にある《ロリータ》への言及を読んだことは確実だから、B《人間の文学 第28》あたりがナボコフとの出会いかもしれない。もちろんそれ以前に吉岡が《ロリータ》を読みかけたことはありえる。などともってまわった言い方をするよりも、@1959年の最初の大久保康雄訳を覗いて見なかった、と考えるほうが不自然だと言ったほうがいい。ところで、《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)の口絵に、自宅と思しい書架を背にした吉岡の写真が掲載されている。その、外国文学の文庫本を収めた棚に《O嬢の物語》や《わが愛しの妖精フランク》などとともに、《響きと怒り》の隣りにE《ロリータ》(大久保康雄訳)が見えるのだ。吉岡ははたしてこの文庫本を通読しただろうか。

〈「ムーンドロップ」〉初出誌(《白い国の詩》1989年4月号)の誌面〔モノクロコピー〕
〈「ムーンドロップ」〉初出誌(《白い国の詩》1989年4月号)の誌面〔モノクロコピー〕

詩集《ムーンドロップ》を出した後の吉岡に〈「ムーンドロップ」〉という題の、単行本未収録の随筆がある(東北電力が発行するPR誌《白い国の詩》に、巻頭随筆〈言葉の泉〉として掲載されたものだが、幸いにも平出隆さんの選で前掲《現代詩読本》に収められている)。書きだしはこうだ。

 『ロリータ』の作者ウラジーミル・ナボコフの代表作に、「比類なき言語宇宙の構築」と謂われる長篇小説『青白い炎』がある。一詩人の九百九十九行の詩篇の謎を、その友人が「解明」と「注釈」を試みるという構成である。(《白い国の詩》1989年4月号、三ページ)

吉岡にとって〈ピクニック〉が《ロリータ》のナボコフだったなら、〈ムーンドロップ〉は言うまでもなく《青白い炎》のナボコフである。随筆〈「ムーンドロップ」〉はこう続いている。

 私はたまたまその詩篇を読んで、「ムーンドロップ」という言葉に、心惹かれた。ここでは「月明り」と訳出されている。〔……〕私はこの言葉に触発されて、八十余行の詩を書いた。(同前)

現在、文庫版が入手しやすい《青白い炎》だが(富士川義之訳、筑摩書房・ちくま文庫、2003)、吉岡が依ったのはその元になった《筑摩世界文學大系 81 ボルヘス ナボコフ》(筑摩書房、1984年7月5日)所収の《青白い炎》である。吉岡を「触発」した「一詩人の九百九十九行の詩篇」の本文(九六一〜九六二行)を、原文とともに富士川義之訳から引く。

(しかしこの[、、]あけすけな名なしの詩篇には何か
月明り的[ムーンドロップ]な題名が必要だ。助けてくれ、ウイル! 『青白い炎』だ)
(But this transparent thingum does require
Some moondrop title. Help me, Will ! Pale Fire.)
(同書、二三八ページ)

「ウイル」とは「ウィリアム・シェイクスピアのこと」(訳註)だ。吉岡の生前最後の詩集のタイトルポエムが、ナボコフの小説《青白い炎》中のジョン・フランシス・シェイドの書いた詩〈青白い炎〉の詩句から誕生したのだ。「詩論を一篇しか残さなかった吉岡は「詩は詩から創らない」と語っていた」(小林一郎〈〈吉岡実〉を探す方法――年譜・資料を作成しながら〉、《現代詩読本――特装版 吉岡実》、三二七ページ)のだから、「題名」を(ナボコフの創作した架空の詩人の詩篇からとはいえ)「借用」したという事実は、あだやおろそかにできない。おそらくここに、いわゆる「後期吉岡実詩」の問題が集約されている。いい機会だから、詩篇〈ムーンドロップ〉の詩句として引用された「若干の章句」も次に掲げよう。

〔……〕蛾が一匹パタパタ音を立てて飛んでいた〔……〕(同前、二六六ページ)

幽霊との出会いは延期された[、、、、、、、、、、、、、]。(同前、三〇〇ページ)

星一つない夜の青白い蛾を誘い込む。(同前、三〇一ページ)

富士川義之は〈解説〉でこう書いている。「ここに訳出した『青白い炎』(一九六二年)は『ロリータ』〔一九五五年、一九五八年〕につづいて刊行された小説である。前作とはさまざまの局面で明白な差異が認められるにもせよ、文学への情熱を支柱とする点で、これは明らかに『ロリータ』と性質を同じくする作品である」(同前、三九二ページ)。まさしく、吉岡実詩の中期から後期を要約したような評言ではなかろうか。シェイドの詩〈青白い炎〉の註釈者をして「〔……〕エッセイ集や詩集――あるいは、ああ、長編詩――の表題に、過去の多少とも名高い詩作品からそのままとった詩句を据えるという、当世風のやり方を批難していただきたい」(同前、三二三ページ)とまで言わしめたウラジーミル・ナボコフに、吉岡実の英訳詩集と詩篇〈ムーンドロップ〉を読ませたかった。

〔2017年9月30日追記〕
三宅勇介の「詩歌横断的現代詩評」の〈引用をめぐる問題のアクチュアリティーについて―後期吉岡実論(その2)〉に、上で触れていない吉岡実詩〈ムーンドロップ〉(K・10)の詩句のスルスが掲載されている。三宅の論考は

               「残飯桶と箒を持つ
腰の曲った雑役婦」

という詩句が「〔……〕このシェイドの瞑想詩〔〈青白い炎〉〕の313行目にある、「残飯桶と箒を持つ腰の曲った雜役婦」という言葉を吉岡は引用している」という事実の指摘に始まり、吉岡の作詩法を想像し、鉤括弧(「 」)をめぐって考察し、「引用」する行為の意味を問うていて、傾聴に値する。三宅のこの論考が印刷物として公刊されることを期待する。

〔2021年5月31日追記〕
《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》の〔2021年5月31日付記〕の《ロリータ〔新潮文庫〕》(新潮社、1980年4月25日)で触れた訳者・大久保康雄(1905〜1987)が執筆した〈解説〉は「『ロリータ』の作者ウラジーミル・ナボコフは、この書の巻末にみずから書いている。」(同書、四七八ページ)と始まる。5ページと短いながら、この改訳版に付された〈解説〉は、力のこもった好いものだ。ところで同文の冒頭「『ロリータ』の作者ウラジーミル・ナボコフ」は、吉岡の随想〈「ムーンドロップ」〉の書きだしとまったく同じなのである。新潮文庫版の小説本文は知らず、吉岡が本書の訳者〈解説〉を読んだことは疑いを容れない。


吉岡実の視聴覚資料(1)(2004年8月31日〔2007年4月30日追記〕)

《現代詩手帖》編集部によるインタビュー記事〈吉岡実氏にテレビをめぐる15の質問〉の「13」で、吉岡実は次のようなやりとりをしている。

 では、一時間の〔テレビ〕番組の製作を依頼されたら、どういったものを作りますか。
 何にもしない。
 (何にもしない≠ニいうふうな番組を作るわけですか。)
 いや、ぼくにおける好奇心は、作るならやはり文章の世界でね。映像を作るとかの製作はいっさいしたくない。それは、西脇〔順三郎〕さんに「詩は他人が作れ」っていう名言があるんだそうだけど、オレはやっぱり映像とかなんとかは他人が作れ≠チていう感じね。そういうこと問われても、ぼくは何にもないのよ、まさにそうなんだ。オレの中にはやってみたいことってのは、ふつうの日常の中でなんにもないのよ。世間には、観るものは、絵画の展覧会から、歌舞伎、ストリップ、宝塚、暗黒舞踏と、あらゆるものがあるでしょ。それは全部、観たい時は自分でそっちに観にいくわけね。群集の中の一人として観る眼で、静かに存在していたいのね。だから、こっちから語りかけるものを作るのは、文章の世界だけだな。(《現代詩手帖》1978年3月号、一一八ページ)

生涯、人前で自作を朗読することさえしなかった吉岡にしてみれば、当然とも言うべき反応である。パフォーマンスに重きを置かない人間にとって、テレビ番組の制作になにほどの価値があろう。それかあらぬか、吉岡実の映像資料は皆無に近い。私の知る唯一のそれは、一九九四年五月一五日放映のNHK教育テレビ《日曜美術館》の〈幻想の王国――澁澤龍彦の宇宙〉だ。澁澤が土方巽の告別式で挨拶するまえ(澁澤は葬儀委員長を務めた)、棺の中の土方に別れを告げるシーンに吉岡も登場するのである(アスベスト館の関係者が撮った記録用ビデオとおぼしく、プロショットではない)。そこで吉岡は土方の死顔に向かって掌をかざして、バイバイというふうに小手を振ってから一礼している。
吉岡実本人が登場しない視聴覚資料はいくつかある。今回はテレビ番組をピックアップする(以下の三点ともビデオ録画してあるが、著作権の観点から映像・音声のアップロードはしない)。

@一九九四年三月一六日、NHKテレビ《ナイトジャーナル》の〈詩集館〉のコーナーでイッセー尾形の朗読、橋本一子の音楽(ピアノ)による〈サフラン摘み〉(G・1)が約二分四七秒にわたって放映され、番組キャスターの宗教学者・島田裕巳が「セックスのプロセスを順番にたどっていって、最後に果てるところを死のイメージで語っているのだと思う。愛と死はいつも両方せめぎあっているから、なにか心惹かれるのではないか」(要約)とコメントした。

A一九九六年一二月二二日、NHK教育テレビ《日曜美術館》が〈書物のユートピア――美しい本を求めて〉を放映し、吉岡の著書を紹介した(〈吉岡実の特装本〉参照)。ときに、吉岡は前掲〈吉岡実氏にテレビをめぐる15の質問〉でお好きな番組は? と問われて「「日曜美術館」はわりと視てるようにしてる」(同前、一一六ページ)と答えていた。

B二〇〇一年五月二一日、ねじめ正一のNHK人間講座《言葉の力・詩の力》(NHK教育テレビ)の第八回〈宙に浮くコトバ、宙から取り出すコトバ――藤井貞和と吉岡実〉でねじめが吉岡実詩を解説し、奈良岡朋子が〈静物〉(B・1)と〈僧侶〉(C・8、「牝牛」を「牡牛」と誤記・誤読しているのが惜しまれる)を朗読した。吉岡の肉声も、一九七四年のNHKラジオ《文芸劇場》から引かれた。

「書くときはいい意味で狂気になってるわけよ。出てきた言葉を最も大事にして、保存していきたいと。もう一回書き直ししちゃうと出て来ないわけね。」(テロップから)

吉岡実の作詩法の精髄といっていい発言内容である。

〔2007年4月30日追記〕
NHK教育テレビの番組《日曜美術館》の〈幻想の王国――澁澤龍彦の宇宙〉は録画して手許にあるが、先日、土方巽の映像をインターネットで検索していたら〈YouTube - Broadcast Yourself.〉サイトに〈YouTube- /\/\/\/\/My fav澁澤龍彦●土方巽●tatsuhiko shibusawa/tatsumi hijikata〉というタイトルで、放映された土方巽の葬儀のビデオ他がアップされていた(大内田圭弥撮影による土方巽1972年の舞踏〈疱瘡譚〉の記録映像も、後述する美術作品のひとつとして観られる)。

棺の中の土方巽に別れを告げる澁澤龍彦と吉岡実
棺の中の土方巽に別れを告げる澁澤龍彦(左)と吉岡実(右)
出典:YouTube - /\/\/\/\/My fav澁澤龍彦●土方巽●tatsuhiko shibusawa/tatsumi hijikata

〈幻想の王国――澁澤龍彦の宇宙〉(45分)の概略を記しておく。案内を四谷シモン(人形作家)、ナレーションを佐野史郎(俳優)、司会を斎藤季夫(アナウンサー)と真野響子(女優)、写真を相田昭(写真家)が担当。番組は、放映時にロフト・フォーラム(西武百貨店池袋)で開催されていた《澁澤龍彦展》と連動しており、メインは澁澤が好んだ美術作品の紹介と、澁澤と親しかった人人のインタビューで構成されている。登場するのはスワンベルク*、デルヴォー*、クラナッハ*、アルチンボルド*、ゾンネンシュターン、エルンスト*、ボッス、ベルメール*、横尾忠則、金子國義、土方巽、シモーネ・マルティーニ*、ピエロ・ディ・コシモ*、酒井抱一*、四谷シモンという一四名の作家の美術作品で、*印の九人はコンテンポラリーアートを意図的に除いた巖谷國士編《澁澤龍彦空想美術館》(平凡社、1993)に採られており、吉岡が好んだ作家も多く含まれる。インタビュイーは巖谷國士(フランス文学者)、金子國義(画家)、池田満寿夫(画家・版画家)、澁澤龍子(夫人)、池内紀(ドイツ文学者)の各氏で、池田さんは亡友・土方巽との想い出も語っている。
〈幻想の王国――澁澤龍彦の宇宙〉の37分過ぎあたりが土方巽の葬儀のビデオで、澁澤とともに吉岡がわずかながら登場する(全長3分26秒の〈YouTube〉版では、2分24秒過ぎからの数秒間)。「テレビ嫌いだった澁澤さんの貴重な映像です」とナレーションがかぶさるが、そのビデオはまた、一度もテレビに出演しなかった吉岡実をとらえたおそらくは唯一の映像である。


ポルノ小説《アリスの人生学校》(2004年7月31日)

澁 澤龍彦は〈ポルノグラフィーをめぐる断章〉にこう書いている。「私の好きなポルノグラフィーの小傑作。すなわちオーブリ・ビアズレーの『ウェヌスとタンホ イザーの物語』、〔……〕それから吉岡実さんに教わって読んだサディ・ブラッケイズ(じつはピエール・マッコルラン)の『アリスの人生学校』等々。いずれ もよく書けたポルノグラフィーであるために、芸術作品すれすれに近づいたものと言うことができるだろう。」(《澁澤龍彦全集17》、河出書房新社、 1994、九九ページ)
これを一九七八年の初出で読んで以来、なんとかして《アリスの人生学校》を読んでみたいと思ったものの、いっこうに機会がなかった。大きな図書館にも所蔵 されていなかったからである。ある日、淡谷淳一さんとの雑談のおり、《アリスの人生学校》を読みたいのだが見つからなくて……とこぼしたところ、筑摩書房 で澁澤の担当編集者でもあった淡谷さんは、澁澤夫人に尋ねてみたら、とこともなげに言われた。畏れ多くてとてもそんなことはできなかったが、ようやく三年 まえ、安寿書房で《アリスの人生学校》を入手した。単行本ではなく、《奇譚クラブ》の臨時増刊号だった。

《奇譚クラブ〔臨時増刊号〕》 サディ・ブラッケイズ《アリスの人生学校》(吾妻新訳、曙書房、1953年12月20日)表紙
《奇譚クラブ〔臨時増刊号〕》 サディ・ブラッケイズ《アリスの人生学校》(吾妻新訳、曙書房、1953年12月20日)表紙

一 方、吉岡実は〈ポルノ小説雑感〉にこう書いている。「戦後の昭和二十六年頃、それら〔ポルノ小説〕に類する外国文学が花開くごとく、一斉に刊行され始めた のである。『ガミアニ』、『南北戦争』、『蚤の浮かれ噺』、『ジュリアンの青春』、『トルー・ラブ』そして『バルカン戦争』などであった。私は一通りそれ らを購って、読んでいる。ほとんどが発売と同時に、禁止処分を受けたようだ。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三五五ページ)
吉岡は《アリスの人生学校》もこれらと同じようにして購読したのだろうか。吉岡実とポルノ小説の関係は興味深いものがあるが、それはともかく、一九七三年 発表の詩篇〈『アリス』狩り〉(G・12)に次の詩句が見えることこそ肝心な点である。

わしの知っとる
「もう一人のアリスは十八歳になっても 継母の伯母に尻を
鞭打たれ あるときはズックの袋に詰められて 天井に吊る
される 美しき受難のアリス・ミューレイ……」

サディ・ブラッケイズのポルノ小説の主人公の名は「アリス・ミューレイ」。《アリスの人生学校》は、二〇〇二年に学習研究社からピエー ル・マッコル ラン著として、高遠弘美の解説を付して翻刻されているから、興味のある向きはそちらにつかれたい。


吉岡実の未刊行詩三篇を発見(2004年6月30日〔2004年9月30日追記〕)

詩集《静物》(私家版、1955)以前に吉岡実が発表した詩二篇と皚寧吉の筆名で発表した詩一篇が、連合国軍総司令部(GHQ)が収集 した雑誌から 発見された。ウェブサイト《占 領期雑誌記事情報 データベース》は、 国立国会図書館憲政資料室で閲覧・複製が可能な《日本占領期検閲雑誌(メリーランド大学図書館ゴードン・W・プランゲ文庫所蔵)1945年〜1949年 (昭和20年〜昭和24年)――マイクロフィッシュ版》検索のための画期的なツールだが、執筆者=「吉岡実」で検索すると三件、ヒットする。その結果に私 は驚いた。吉岡実の未知の詩二篇が含まれていたからである。検索結果の記事タイトルに番号を付けて引く。

@(本文)詩二編:(目次)敗北:即興詩
A断章
B詩:海の章

@ の詩二篇〈敗北〉と〈即興詩〉は《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)にも収録されており、戦後最初の吉岡実詩として知られている(単行詩集に未収録な がら、吉岡は公刊日記で言及しているから、二篇は後世に残すつもりだっただろう)。しかしAとBは《吉岡実全詩集》に未収録であるばかりか、今日までその 存在すら知られていなかった詩篇である(拙編《吉岡実全詩篇標題索引》にも未掲載)。五月末に国立国会図書館で閲覧できたので、概略を述べよう。
詩篇の掲載号を略記すると、@は《新思潮〔第14次〕》1947 年9月の第2号、Aは《水産》1948年8月号、Bは《漁[すなどり]》1947年9月号。@Aとも、国会図書館には雑誌の原本も所蔵されている。マイク ロ化された資料はブラウズするには不便きわまりないから、両誌とも雑誌課別室で合本のページを慎重にめくっていった。すると《水産》1948年7月号に皚 寧吉の詩〈汀にて〉が掲載されているではないか。〈吉岡実の俳号〉で 「皚寧吉」につい て考察したとき、出征後この名が使われた形跡はないという展開になったが、戦後、しかも詩篇にこの筆名が用いられていたとは予想の外だ。これら五篇を掲載 号の刊記に従って年代順に並べなおすと、次のようになる。以下、引用文のかなづかいはママ、漢字は新字に統一した。ただし旧字と新字で人名に有意の差があ る場合、旧字も使用する(〈「吉岡實」から「吉岡実」へ〉参 照)。

(1)1947年9月号《漁》の吉岡實〈海の章〉
(2)1947年9月、《新思潮》2号の吉岡實〈敗北〉〈即興詩〉
(3)1948年7月号《水産》の皚寧吉〈汀にて〉
(4)1948年8月号《水産》の吉岡實〈断章〉

《漁》 は1946年8月創刊の農林水産関係の専門雑誌で、1948年7月からは《水産》と改題、巻号を継承して1949年10月まで発行された、と国会図書館の 雑誌目録にはある。いずれも、株式会社東洋堂(東京都中央区木挽町三ノ四 中央工業ビル)から出ている。残念ながら本サイトのコンセプト上、吉岡実の未刊行詩は全篇を引用できないので、各詩篇について簡単に説明しよう。(1)の 〈海の章〉は抒情詩で、《静物》以後の吉岡を思わせるものは皆無と言ってよい。強いて類例を探せば、若年の短歌「やぶれたる紙風船は草の中夕焼小焼子らか へりゆく」(《吉岡実全詩集》、七五九ページ)のトーンに近い。(2)の本文は《吉岡実全詩集》でお読みいただきたい。私はこれを、吉岡が戦前の詩集《液 体》(草蝉舎、1941)の作風を意図的に反復して、同時に戦後の詩作の「助走」として成した作品だと考える。(3)の〈汀にて〉がひらがなだけで記され ているのは、會津八一の歌集《鹿鳴集》(創元社、1940)からの影響だろうが、詩想は萩原朔太郎の〈群集の中を求めて歩く〉あたりに近い。(4)の〈断 章〉の詠歎調には、やはり朔太郎の詩集《氷島》(第一書房、1934)を想わせるものがある(このとき、吉岡はまだ西脇順三郎詩と出会っていない)。《水 産》掲載の二篇に関しては、和文脈の(3)を作句時の号で、漢文脈の(4)を本名で発表している点が興味深い。
吉岡がこれらの詩を書いた当時の様子は〈断片・日記抄〉に詳しいが、1948年12月10日の吉岡の日記に「GHQの納本係に呼びつけられる。発行後かな りたって納本したので、まずかった。その本を明朝までに全部数揃えぬと、相当の処分にするとおどかされる。〔……〕」(《吉岡実詩集》、思潮社・現代詩文 庫14、1968、一一二ページ)とあり、当時の出版社とGHQのやりとりを知ることができる。次に、吉岡の勤務先に関する記述を吉岡陽子編〈年譜〉から 抜粋する(《吉岡実全詩集》、七九二〜七九三ページ)。

一九四五年(昭和二十年) 二十六歳
十二月、西村書店の社長が協力者を得て創った香柏書房に入社。

一九四六年(昭和二十一年) 二十七歳
編集の仕事で村岡花子、坪田譲治、恩地孝四郎、中尾彰らに原稿や装丁を依頼。同僚の日高真也に誘われて「新思潮」に入る。南山堂時代の先輩百瀬勝登と邂 逅。八月、香柏書房を退社。十月、先に辞めた日高真也の尽力で東洋堂へ入社。

一九四七年(昭和二十二年) 二十八歳
「新思潮」二号に二篇の詩が掲載され、初めての原稿料五〇円を貰う。

一九五一年(昭和二十六年) 三十二歳
東洋堂を辞め四月、編集部に勤める百瀬勝登の口添えで筑摩書房に入社。

(1) の《漁》1947年9月号の〈編集後記〉で、編集長の日高真也と思しいS・Hが次のように書いて吉岡を優れた詩人として顕彰した。「一つお尋ねしたい。本 誌の文芸欄はその性質上、何るたけ、海と水産にちなんだものを載せて来たが、かえつてそれに関係の無いものが喜ばれるのではなかろうか、と云う気もする。 この問題に就て、読者の思う所を聞かせて欲しい。特殊な雑誌だけに文芸欄は特に楽しいものにしたい。一流誌が新人を求めて、その成果をあげていない時に、 本誌は先に「砂糖船」の吉波康、「緑野の人々」の丸山竹秋を送つた。本号巻頭の「海の章」吉岡實、何れも次の世代を約束される人々である。この点文芸誌と 比肩して恥ぢない」(同誌、五六ページ)。「日高真也」は、のちの脚本家・日高真也氏であろう。また「吉波康」は立風書房社長・下野博〔かばた・ひろむ〕 の筆名だ、と吉岡は大岡信との対話で語っている。
吉岡はそこで「〔……〕東洋堂というのは学術的な本を出していたわけだ。だから幸田成友のカロンの『日本大王国志』とか、内容はわかんなくても編集担当と して幸田さんのとこへ行ってたわけ。それから柳田〔國男〕さんの『分類農村語彙』というのをやった」(《ユリイカ》、1973年9月号、一五〇ページ)と 振りかえっているが、東洋堂が発行していた専門雑誌の名や、そこに詩を発表したことなどおくびにも出していない。(吉岡はこの対話で「〔日高真也は〕いま はサンケイの芸能記者として一流の人だと思うけど、当時、立教出の海軍服を着た文学青年だった」(同前、一四九ページ)と語っている。後年、日高は吉岡に ついて書きしるしていないようだが、吉岡実評を訊きたかったと思うのは、ひとり私だけではないだろう。)
吉岡実の未刊行詩〈海の章〉〈汀にて〉〈断章〉三篇はいずれも海を描いているが、それが《漁》《水産》という「特殊な雑誌」の性格からきていることは、多 言を要さない。両誌の発行元の東洋堂は、前掲年譜から解るように吉岡の勤務先である。今回私が調べたかぎり、これらの詩の作者として以外、吉岡実(および 皚寧吉)の名は見えず、両誌との関わりは不明だ。ただ、村岡花子や坪田譲治、吉屋信子といった文筆家が〈さかな随筆〉を寄せているところから、一編集者と してこれらの著者を担当した可能性は大きい。また両誌とも、近現代の短歌俳句から海や水産に関連する作品を抜粋し、コラムに掲載している。これなど、短詩 型文学に詳しい者の存在があってはじめて作成できるものだ。さらに、吉岡が愛読していた田中冬二詩集《山鴫》(第一書房、1935)から〈冬日薄暮〉と 〈山女魚〉が《水産》に再掲載されているのは、吉岡の選に間違いあるまい。いずれにしてもこの時期、すなわち詩集《静物》にいたるまでの戦後の吉岡実の文 学的軌跡は、ほとんどわかっていない。今回発見された未刊行詩三篇はそれを解明するための最も重要な手掛かりであり、他の未刊行詩篇と併せて《吉岡実全 集》の〈未刊行詩篇〉といった形での公刊が希まれる。
以上が吉岡実(および皚寧吉)の未刊行詩篇についてである。しかしながら、新資料はじっくり調べてみるもので、《水産》1949年2月号には吉岡実の変名 と思しい「春海鯨太」と「丘麥吉」の名で、俳句三句・短歌二首が掲載されている。題名・作者名の記載が目次にあるものの、掲載ページやレイアウトから見 て、おそらく埋草原稿であろう。それゆえ、どこから見ても変名とわかる署名にしたものと思われる。「丘麥吉」は「吉岡實」の漢字のアナグラムか(〈吉岡実の俳号〉参照)。次にその二作を初出誌面ととも に掲げる。

丘麥吉〈早春〉の初出誌面(《水産》1949年2月号) 春海鯨太〈瑞泉寺探梅抄〉の初出誌面(《水産》1949年2月号)
丘麥吉〈早春〉(左)と春海鯨太〈瑞泉寺探梅抄〉(右)の初出誌面(いずれも《水産》 1949年2月号)

瑞泉寺探梅抄|春海鯨太

白梅や
焦眉煩悩の意なし

紅梅や
つぼみにこもる花の息

黄梅や
ふるきいらかの照るしづか

早春|丘麥吉

きさらぎのみづにしづめる
魚族のあをきくちびる
かなしかりけり

春浅みなぎさゆ
ひける波みれば
はるけきものの
こひしとおもふ

吉岡実の他の文章を引くことで、この二作が吉岡の筆になることの傍証とする。まず〈断片・日記抄〉、続いて詩集《液体》と歌集《魚藍》 収録の韻文作 品である。
「〔昭和二十四年〕一月三十日 日曜 梅の瑞泉寺へ吟行。作二郎、春夢、行宇らたち。白梅、紅梅、黄梅が美しい。
   黄梅やふるきいらかの波うてる」(《吉岡実詩集》、一一三ページ)
「横顔を 魚族よぎれば 胸廓の
花くずおれぬ 君よいずこに」(〈相聞歌〉A・11)
「水辺愁吟
みつみれはなせか
うれひのひえひえ
とこころなかるる
あきのゆふくれ」(《昏睡季節》、草蝉舎、1940、六五ページ)
さてこれで吉岡実が生前に発表した詩は、計二八四篇になった。二八一篇を掲載した《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第2版〕》(文藝空間、2000)と同じ体 裁にして前掲詩篇を発表順に記録することで、この紹介文を終えよう(ただし詩篇番号34bの「b」は34の次に挿入するための仮のもので、次回改訂時には 正規の番号に付けかえたい。《吉岡実全詩集》掲載ノンブルは記さず「――」で表記)。これらの 番号を付けかえて《吉岡実全詩篇標題索引》を増補改訂する機会は《吉岡実全集》が出るまでないだろうから、同索引をお持ちの方はこの部分をプリントして活 用いただけるとありがたい(〈敗北〉と〈即興詩〉は再録である)。

34b 海の章(うみのしょう)[――]
貧しくて さびしくなつたら
16行▽《漁》(東洋堂)1947年9月号(2巻9号)▼未刊詩篇・1

200 敗北(はいぼく)[717]
神の掌がひらかれたが
6行▽《新思潮〔第14次〕》(玄文社)1947年9月(1巻2号)▼未刊詩篇・2

161 即興詩(そっきょうし)[717-718]
  私ノ時計ニ
7行▽《新思潮〔第14次〕》(玄文社)1947年9月(1巻2号)▼未刊詩篇・3

186b 汀にて(なぎさにて)[――]
ひぐれのなぎさをわたしはあるいてゐた
12行▽《水産》(東洋堂)1948年7月号(3巻7号)▼未刊詩篇・4
◆署名は「皚寧吉」。

170b 断章(だんしょう)[――]
永劫に舟の去りゆく
9行▽《水産》(東洋堂)1948年8月号(3巻8号)▼未刊詩篇・5

〔付記〕《新思潮〔第14 次〕》編集長・中井英夫

上の本文では触れなかったが、《新思潮〔第14次〕》の編集長は東大在学中の中井英夫である。中井は《新思潮》の頃について〈中井英夫 特別インタ ビュー――『黒鳥館戦後日記』から『黒衣の短歌史』の時代へ〉(聞き手・山内由紀人)で、こう述べている。

中井  「世代」という雑誌がありましてね。それは主義主張を持って集まったんですが、「新思潮」の場合はそんなことと関係なくて……。高等学校の親友に、金野宗 次という、のちに毎日新聞の政治部長になった男がいて、俺の窮乏をみかねて、何とか助けてやろうと親父さんに話してくれたんですね。これはあとで聞いた話 だけど、当時で家が二軒建つくらいの金をその親父さんが出してくれてね、「新思潮」をはじめたわけです。
山内 この時の同人が吉行淳之介、椿實、下野博、嶋中鵬二ですね。創刊号では、中井さんは水原杏介というペン ネームを使われています が……。(中井英夫《定本 黒衣の短歌史》、ワイズ出版、1993、二五八ページ)

中井は《新思潮》の創刊号で太宰治から小説を、五号で三島由紀夫から詩をもらった話はしているが、吉岡には言及していない。私は中井英 夫の熱心な読 者ではないので、吉岡実について書いた文章が歌集《魚藍〔新装版〕》帯文の ほかにあるのか、詳らかにし ない。

〔2004年9月30日追記〕
その後、《椿實全作品》(立風書房、1982)巻末の〈解説――狂気の冠〉で中井英夫が《新思潮》の成立に触れているのをみつけた。そこには「この「新思 潮」はひどく変則的なもので、〔……〕詩作品の中村稔、吉岡実、三島由紀夫氏らもすべて同人ではなかった。その代り寄稿家には相応の原稿料を支払ったの で、吉岡氏も詩作品で金をもらったのはこのときが初めてだと回顧している」(同書、三四二ページ)とある。


吉岡実愛蔵の稀覯書(2004年5月31日)

吉 岡実は書物を愛した。蔵書目録が公開されれば事態ははっきりしようが、吉岡の随筆を読むだけでも充分うかがえる。未刊の随筆〈「山羊の歌」署名本など〉の 書きだしはこうだ。「愛蔵の稀覯書について書けとのことだが、別にたいしたものはない。ただ中原中也の処女詩集「山羊の歌」には一寸した挿話めいたものが ある。」(筑摩書房労組機関紙《わたしたちのしんぶん》32号、1958年4月30日、六ページ〔署名は「Y・M」〕)

〈「山羊の歌」署名本など〉(筑摩書房労組機関紙《わたしたちのしんぶん》32号、1958年4月30日)の初出紙面
〈「山羊の歌」署名本など〉(筑摩書房労組機関紙《わたしたちのしんぶん》32号、1958 年4月30日)の初出紙面

一 九五六年ころ、ギャバジンのズボンを買うつもりだったボーナスで《山羊の歌》の署名入極美本を購入した経緯を、肩の凝らぬ筆致で描いた短文である(そうい えば《「死児」という絵》のどこかにも、戦後のある時期、著名な処女詩集・歌集・句集ばかりを集めていた、とあった)。初出紙には〈随筆「本のはなし」〉 とあるから、筑摩の社員たちが本について書いていたのだろう。さて、この〈「山羊の歌」署名本など〉の末尾に次の稀覯本が挙げられている。

 その他、めぼしいものは、堀辰雄署名入「聖家族」江川版。斉藤茂吉「あらたま」初版本。萩原朔太郎「青猫」初版 本。日夏耿之介 「黒衣聖母」初版本。堀辰 雄「風立ちぬ」野田版。吉田一穂「故園の書」。「川端茅舎句集」玉藻社版。山口誓子「凍港」「黄旗」。「中村草田男句集」沙羅書房版。などである。(同 前)

歌集に対する句集の優勢など、いろいろなことが思いうかぶ。堀辰雄・斎藤茂吉・萩原朔太郎・吉田一穂・川端茅舎・山口誓子・中村草田男 は、吉岡のほ かの随筆にも登場するが、日夏耿之介の名が見えるのは珍しい。だが、なによりも中原中也と吉岡実の取りあわせが面白い。

昭和二十二年〕九月十一日 石田仁、M君来る。《中原中也詩集》が出た と見せる。早速買って京浜線の中でよ む。ピンと来ないのはどうしたことか。精読のこと。(《吉岡実詩集》、思潮社・現代詩文庫14、1968、一〇九ページ)

〈日 記抄〉の《中原中也詩集》はこの年八月刊の創元選書版だが、吉岡は九年後、その処女詩集に二七〇〇円を投じるほどには「ピンと来ない」中原を評価している のである(現代詩文庫の飯島耕一の作品論〈吉岡実の詩〉以外、両者の詩を比較している例を思いつかない)。これら吉岡実愛蔵の稀覯書から、なにかしら新し いものが見えてくる気がする。


「吉岡實」から「吉岡実」へ(2004年4月30日〔2008年1月31日追記〕)

吉岡実は自身の姓名を、初期には「吉岡實」、その後は一貫して「吉岡実」と書きしるした(本サイトでは「吉岡実」と表記)。そのあたりの経緯を自著の著者名から調べてみよう。

@昏睡季節(1940年10月、草蝉舎) 吉岡實
A液体(1941年12月、草蝉舎) 吉岡實
B静物(1955年8月、私家版) 吉岡實
C僧侶(1958年11月、書肆ユリイカ) 吉岡實
G魚藍(1959年5月、私家版) 吉岡実
(1)吉岡實詩集(1959年8月、書肆ユリイカ) 吉岡實
D紡錘形(1962年9月、草蝉舎) 吉岡實
(2)吉岡実詩集(1967年10月、思潮社) 吉岡実
E静かな家(1968年7月、思潮社) 吉岡実

G《魚藍》にはあとで触れるとして、単行詩集で言えばD《紡錘形》までが「吉岡實」、E《静かな家》以降はすべてが「吉岡実」である。これは、かなりの確度で理由を推定できる。詩集《静かな家》は(2)《吉岡実詩集》の本文を流用しており、この《吉岡実詩集》が新字新かなで組まれているのだ。それと合わせるために、著者名も新字の「吉岡実」としたのだろう。それはいいとして、(1)《吉岡實詩集》の本文も新字新かなでありながら、著者名が「吉岡實」なのはどうしたわけだろう。憶測だが、《吉岡實詩集》(Aを抄録、BとCを全篇収録)の姓名の表記には伊達得夫の意向が働いたのではないか。一方、歌集《魚藍》(制作は伊達得夫)は吉岡実の意向だったのではあるまいか。ちなみに《魚藍》の奥付には丸に「実」の字の検印が捺されている(これは《うまやはし日記〔弧木洞版〕》の印と同じ)。著書で見るかぎり一九五〇年代末から「吉岡実」が登場し、一九六七年の、当時としては全詩集である《吉岡実詩集》以降、完全に「吉岡実」となったのである。
署名はどうか。これはやや遅れて同様に変化したと思われる。左下の写真は菅原孝雄氏に献呈された《吉岡実詩集》の署名だが、「吉岡實」とある(「1967.9.28」という日付は奥付の刊行日の前であり、著者への見本渡しの日から遠くないだろう)。写真で注目したいのが「様」の旧字だ。わが身を振りかえっても、献呈先の姓名は手紙の宛名に較べて丁寧に書く。その気持ちがこの「様」の旧字に表われている。同じ心理作用が「吉岡實」にも働いたのではないか。私が一九八〇年代に署名していただいた本には、ペン書き毛筆書きを問わず、すべて「吉岡実」とある。吉岡実の署名本は可能なかぎり手に取るようにしているが、署名がいつごろ「吉岡實」から「吉岡実」へ変わったのか、確かなことはまだわからない。いずれこの欄で報告できれば、と思っている。

《吉岡実詩集》(思潮社、1967年10月1日)の見返しへの署名 《夏の宴》(青土社、1979)の署名箋〔ハガキ大〕
《吉岡実詩集》(思潮社、1967年10月1日)の見返しへの署名(左)と《夏の宴》(青土社、1979)の署名箋〔ハガキ大〕(右)

〔2008年1月31日追記〕
渡辺一考さんが《despera掲示板》の〈一考 言葉の翳〉(2006年11月11日)に「流行と思しい旧字旧仮名の氾濫に、反吐する気持ちにさせられたのを覚えている。一方で吉岡実さんのように、嫌な時代は思い出したくないとばかりに旧字旧仮名を抛りだしたひともいらした。吉岡さんの編著書「耕衣百句」を上梓した折は、実の字もこれからは略字にしてくれと頼まれた。ひとはさまざまな人生を送る、それをとやかく言う権利は私にはない、望まれるがままの書冊を造るのが編集者の務めである」と書いている。《耕衣百句》(編纂者名の表示は「吉岡実」)は1976年の刊行で、上記の私の説と矛盾しない。


吉岡実の俳号(2004年4月30日〔2005年2月28日追記〕〔2017年12月31日追記〕)

吉岡実は詩を書くまえから短歌を、次いで俳句を作っていた。満年齢でいえば、十代後半から二一歳ころにあたる。当時の短歌は〈蜾蠃〔スガル〕鈔〉(詩集《昏睡季節》所収、のちの歌集《魚藍》)、俳句は〈奴草〉(詩集《赤鴉》所収、のち句集《奴草》)としてまとめられている。作者の名前は、短歌では本名の吉岡實が、俳句ではふたつの雅号が用いられた。後者に関連する箇所を《うまやはし日記》から引く(――以下は小林のコメント)。

〔昭和十四年(一九三九)〕五月七日
「旗艦」にたわむれに出した句が掲げられてあり、驚く。〔……〕(三五ページ)
 ――作者名は皚寧吉。

七月三日
〔……〕「旗艦」七月号に一句出る。〔……〕(五五ページ)
 ――同じく、皚寧吉名義。

十一月二十三日
  夜になって雨。春陵さんと雷門前の珈琲店ブラジルへ行く。ここが句会の席だ。七時半ごろ「白鵶〔ア〕句会」のめんめん、油桃、龍灯城、千鶴、春夢、昌臣、行宇、四季男(小生)と集う。コーヒー、サンドイッチをとりながら、互選となる。結果、びりになりがっくり。〔……〕(九一ページ)

十二月二日
〔……〕「旗艦」届く。三句のっている。(九五ページ)
 ――《旗艦》一二月号には皚寧吉名義で、三句ではなく二句が掲載されている。

十二月十九日(火曜)
 今夜は第二回白鵶〔ア〕句会。〔……〕互選の結果、最高十七点で、四季男次席の十二点。〔……〕(一〇二ページ)

〔昭和十五年(一九四〇)〕一月十三日
 朝、松井田の書割りめいた古い屋並のはるか上に、白雲皚々たる浅間山が見える。〔……〕(一一六〜一一七ページ)

一月二十四日
 夜、春陵先生と昭和女子商業学校へ行く。第三回「白鵶〔ア〕句会」のつどい。〔……〕互選の結果、二十四点で四季男が最高点をとる。十一時散会。(一二二ページ)

二月二十一日
〔……〕夜、句会の会場へ向う。コーヒー王で、カレーライスとコーヒー。油桃、春夢、行宇、昌矩たち。互選の結果、四位とふるわなかった。十一時散会。(一三六ページ)
 ――名前の記載なくも、四季男を用いたであろう。

次に、宗田安正さんが《奴草》の巻末に付した〈解題〉から、この間の事情に関連する箇所を引く。

 吉岡は、昭和十四年三月号から十五年二月号にかけ、新興俳句弾圧直前の新興俳句系誌「旗艦」に皚寧吉のペンネームでほぼ毎月(14年4、6、11月号には吉岡作品の掲載なし)句を投じていた。(一〇四ページ)

  まもなく、吉岡実こと皚寧吉の句は、昭和十五年二月号「珊瑚礁」入選の〈秋雨の定職もなく歯をやめり〉(「拾遺」に後出)を最後に「旗艦」からいったん消える。十五年二月十四日には特高による新興俳句人の逮捕(京大俳句事件)が始まる。吉岡自身も十五年初夏に臨時召集のため目黒大橋の輜重隊に入隊、そのとき遺書として友人たちに託していったのが、『赤鴉』収所の短歌を含む習作詩集稿『昏睡季節』(のち限定百部刊)であった。教育を終えて一ヶ月余で召集解除になり、十六年五月号の「旗艦」に本名で一句登場するが、「旗艦」も同号で終刊。十六年八月に出征、以後、俳句は全く見られなくなる。(一一三〜一一四ページ)

  〈少年と〔春の狐の懶惰なる〕〉は「旗艦」昭和十六年五月号(終刊号)の「旗艦作品」入選。十六年になると新興俳句リーダー格の日野草城は指導的立場から自粛引退、この号の「旗艦作品」は安住敦、片山桃史、水谷砕壼、富澤赤黄男の共選だった。今回の投句は本名吉岡実。誌上では下五〈懶懶なる〉とあるが誤植と見て訂正。前回の入選作〈秋雨の〉との間に一年余の空白がある。この後「旗艦」は雑誌統合令で他誌と併合「琥珀」となるが、吉岡作品は見られない。(一一六ページ)

吉岡実が昭和一四年から一六年にかけて、孤り句作に励んで《旗艦》に句を投じたときの作者名は皚寧吉(「がい・ねいきち」もしくは「がい・ねいきつ」と読んでおく)であり、油桃こと佐藤春陵たちとの句会で用いた号は四季男だ(一五年刊の詩集《昏睡季節》と翌年の《液体》の作者名はもちろん吉岡實)。四季男は春夏秋冬四つの季節のほかに、正岡子規に対する敬意が込められているか(もっとも、吉岡は〈子規における俳句と短歌〉以前に子規を熱心に読んだ形跡はないが)。さらに「し・き・お」が「よ・し・お・か」と似た音で構成されているのには、偶然以上のものを感じる。一方、皚寧吉がどのような経緯で吉岡実の俳句の号となったかはもちろん、本人は後年その名すら書きしるしていない。以下、皚寧吉に関して考察する。
文藝空間の元同人で詩人の木村哲也さんのご教示に依れば、皚寧吉の中国語の発音は「アイニンチー、上がって下がって上がる」。中国語では姓に使える字が決まっており、この場合は寧と吉だけ。皚は「白い。霜雪の色」で悪くはないが、姓には使えない。寧は「いづくんぞ。いかんぞ。なんぞ」と反意を表わす助辞だから、「どうして幸せになれようか」では名前としてふさわしくない。五年前の中国旅行のおり、北京のガイド氏に皚寧吉について尋ねると「名前には良くない」との答だったが、今にして思えばこれを指していたのだろう。
ではなぜ吉岡が、俳号に中国人のような姓名を採用するに至ったのか。上の説と反するようだが、諸橋轍次《大漢和辞典》に依れば「寧吉(ネイキツ)」には、おだやかでよい、の意がある。吉岡は「どうして幸せになれようか」ではなく「おだやかでよい」寧吉を選んだはずだ。ならば皚寧吉は純然たる「雅号」と考えるべきではないか。中国人の姓名と考えたのがおかしいのだ。さらに付けくわえれば、皚寧吉は吉岡實という漢字のアナグラム(「吉=吉」「岡→皚」「實→寧」)で構成されていると推測することさえ可能だ、と私は考えている。
若年の詩と和歌には書物という舞台を用意しながら、俳句にはついに生前、著書の形を与えることのなかった吉岡実。太平洋戦争の始まる直前、二度まで遺書としての詩集を刊行し、自身の生の痕跡をのこそうとした吉岡実。吉岡はあたかも現実とは別の生を生きようとして、皚寧吉の句、四季男の句を産みだしたように思える。

〔付記〕
《現代詩読本――特装版 吉岡実》巻頭の〈吉岡実アルバム〉に「1939年頃、俳句仲間たちと。」(一一ページ)とキャプションの付いた集合写真が掲載されている。着物姿の吉岡は最前列で膝を抱えて腰を下しており、やはり最前列の男が札状のものを手にしている。眼を凝らすと、どうにか「蘆刈俳句會」という文字が読める。とすれば、吉岡は《うまやはし日記》にある白鵶〔ア〕句会と別の句会にも係わっていたことになるが、蘆刈俳句會についてはまだなにもわからない。

〔2005年2月28日追記〕
春夢田尻彦二郎の遺句集《走馬燈》(〔発行者・執行新吾〕、1952年9月21日)の〈編輯後記〉の一節に、編者である松江川三郎(俳人の椿作二郎)がこう書いている。「足跡を探す様に一句一句ひろい集めた句が約一千句程あり、此れを旧芦刈會員の協力の末此の集を編した」(同書、三一ページ〔原文は「旧」が旧字〕)。「芦刈會」が前掲「蘆刈俳句會」を指していることは間違いあるまい。一方、椿作二郎の第一句集《冬鏡〔鶴叢書〕》(東京美術、1974年9月15日)の著者〈あとがき〉の一節にはこうある。「昭和十五年田尻春夢大人に手ほどき受けて馬酔木に入会、水原秋櫻子先生に学ぶ」(同書、二二一ページ)。蘆刈俳句會が水原秋櫻子句集《蘆刈》(河出書房、1939)による命名であることも、また動かない。椿作二郎句集《冬鏡》の〈走馬燈 昭和十六年〜昭和二十七年〉から、田尻春夢と蘆刈俳句會に関連する句を引こう。

  田尻春夢夫人死す 三句
 撓む竹深雪をはねて通夜明けぬ
 膝頭深雪に没す野辺送り
 春雪に芯まで凍てゝ骨拾ふ
 〔……〕
  愛妻を亡へる田尻春夢へ
 夏布団手軽に敷いて侘び住むや
 走馬燈ひとり夕餉のそのあとは
  芦刈俳句会解散
 走馬燈ともらぬ夜々となりにけり
  田尻春夢失踪死を予想さる 四句
 血を喀きたりとしづかに言ひき露光る
 鰯雲高くひろごり遺書もなし
 秋雲の下のいづくか生きてあれよ
 露光り信じがたき「死」伝ひ来し
 〔……〕
  春夢一週〔ママ〕忌
 春夢忌や豆腐の白さ箸にのせ
 〔……〕
  春夢三回忌
 菊流す無縁万霊に君が霊に

本句集の編年体の編集に照らせば、蘆刈俳句會解散は春夢失踪の昭和26年9月21日直前と推定される。「田尻春夢が、亡き妻のあとを追うように、入水自殺」(《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、1988、一四一ページ)するまえ、自ら主宰(?)する蘆刈俳句會を解散したのではあるまいか(当時の俳句雑誌を調べれば、蘆刈俳句會に関する詳しいことがわかるかもしれない)。1949(昭和24)年の《吉岡実年譜》には「梅の瑞泉寺へ椿作二郎、田尻春夢、池田行宇らと吟行」と、蘆刈俳句會や前掲白鵶〔ア〕句会のメンバーとのつながりを伺わせる記述がある。

〔2017年12月31日追記〕
過日、椿作二郎《冬鏡》をインターネットで検索して、宇野隆保宛の献呈署名が入った句集を購入した。宇野隆保は日本語関係の著書を持つ歌人だが、著者との関係は不詳。いい機会だから、以下に本書目次に見える項目・筆者名を抄する。

序句………………………石田波郷
〔著者肖像写真〕
序…………………………石塚友二
神田川
  走馬燈
  冬 苺
  青 簾
  巣立鳥
鏡曼荼羅
  彩 鏡
  清 鏡
  爽 鏡
  冬 鏡
跋…………………………石川桂郎
あとがき…………………椿作二郎

椿作二郎(明治43年〔1910年〕生)は〈あとがき〉に「此の小集で自ら一つの折目となった。今後何うなるかは分らない。成るがまゝの自然にまかせる事にする」(本書、二二二ページ)と書いているが、著書はこの一冊だけのようだ。吉岡は〈回想の俳句――4 春夢とその友〉で「作二郎は今でも、市井のとこやさん[、、、、、]である。私が本郷の医書出版社の住み込み店員であった頃、淋しくなるとよく上野広小路の夜店を歩いた。そして家業を了えたあとまで、内職の手相見をしていた作二郎をたずねる。彼はにっこり笑って、天眼鏡を台に置き、私を近くの芭蕉館へコーヒーを飲みに誘ってくれた。/〔……〕/句歴三十余年、椿作二郎の処女句集《冬鏡》が世に出た。「冬鏡髪刈り捨てし月日かな」と「雪見つゝ生涯鳴らす髪鋏」に象徴されるように、半分近く理容生活を詠んでいる」(初出は《朝日新聞》1976年7月25日、《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、1988、一四一〜一四二ページ)と書いて、さらに4句を引いている。

椿作二郎句集《冬鏡〔鶴叢書〕》(東京美術、1974年9月15日)に付された自筆句・署名・献呈入りの挟み込み
椿作二郎句集《冬鏡〔鶴叢書〕》(東京美術、1974年9月15日)に付された自筆句・署名・献呈入りの挟み込み


吉岡実と村野四郎(2004年3月31日)

吉岡実と村野四郎のことを書いた文章を寡聞にして知らない。インターネットで「吉岡実×村野四郎」で検索してみても、それらしいものは見あたらない。最近、村野の詩を読みなおして、思いのほか吉岡の《静物》や《僧侶》に近いものを感じた(書かれた順序からいけば話は逆なのだが)。吉岡が村野の詩に触れた文章はないようだが、村野は吉岡についていくつかの文章を残している。〈H賞をうけた吉岡実の「僧侶」〉(東京新聞夕刊、1959年5月19日)にこんな一節がある。
「この『僧侶』という詩集は、現代が体裁よくかくしているあらゆる醜聞の要素を、その主題としたものだが、そこにあばき出された汚辱と残酷のイメージの衝撃力は、すばらしいものであった。だが方法としては、超現実主義の詩法を採用しているから、一般の読者にとっては、ひどく扱いにくいものであるにちがいない。いわば現代詩の可能性と危険性の極限を一度にもったような実験的作品だが、元来H氏賞そのものが、上手にまとまった小さな機能主義の作品に与えられるより、こういう未来性のある新しいエネルギーに与えられる方が、ずっといいことになっている。」(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991、一二七ページ)
村野がここで自ら選考委員を務めるH氏賞の選考に対して揶揄的な言辞を用いているのは、いわゆる「H氏賞事件」を踏まえているためだが、それを差しひいて読むと、この評からは村野の立場が吉岡に近いことが感じられる。しかし、吉岡と村野を決定的に分かつのはその「詩法」であって、村野から見れば吉岡の詩法は超現実主義のそれということになる。
村野は〈新しい足跡≠喜ぶ〉(日本経済新聞、1967年12月18日)でも次のように書いている。
「吉岡実詩集(思潮社・一、八〇〇円)は、旧詩集に新しい作品「静かな家」を加えている。彼の詩の主題は、汚辱と罪にまみれた現代のスキャンダルだが、その詩的造型を超現実派的な手法にゆだねている。かつて詩集「僧侶」をよんだとき、その異様な詩的様相におどろいたが、一方で、はたしてこの特異な詩的空間が、どこまで持ちこたえられうるかという、ある種の危惧(きぐ)をいだかされたものである。しかしその後詩集「紡錘形」をへてこの「静かな家」にいたる想像力の新鮮度には、いささかの衰えも見えない。それは、その前衛性が深く存在の認識力に由来しているからであろう。吉岡にブルトン=超現実派の頑強(がんきょう)なる旗手=を思いだすことは、決して思いつきではない。」
村野にしてみれば「吉岡にブルトンを思いだす」のは自然かもしれないが、村野と吉岡を同じ平面に置いて等距離から見るならば、やはり奇異と言わねばならない。それは村野の詩風を新即物主義や実存主義という言葉で覆いつくせないのと同じで、両者はその「酷薄な視線」(それはおそらく、自分が見られることに対する先制攻撃の意味をもつ)を共有することによって、存外近い地点に立っている。次の詩を吉岡の〈寓話〉(詩集《静物》所収)と読みくらべていただきたい。

肉屋のオルフェ|村野四郎

往来に面した
あの部厚い肉のたれ幕のまえを通るとき
ぼくの魂は妙になごんでくる

顔をなくした胴体が
ふしぎな慇懃さでならんでいる
おたがいに
もうこれより傷つきようもない傷だらけの
傷そのものになってしまった親密さで
いちめんに茫と
痺れただんだら模様をひろげているのだ

亡びの幻影とか
永遠の眩暈とかいうようなものではなく
たしかにもっと緊密な
実存の夕映えというようなもの
その紅褐色のたなびきの中から
血の気のうせた小さな蹄の
まだ依怙地に宙を蹴っているのが
またとないあわれさで
街頭にさらされている

吉岡実が《ポール・クレーの食卓》をまとめて休筆中の一九八〇年八月、《定本 村野四郎全詩集》が筑摩書房から刊行された(吉岡の装丁なのだろうか)。吉岡はこれを読んだとどこにも書いていないが、熟読したのではあるまいか。その後の吉岡は、自身の初期や村野の詩から遠く離れて、のちの《薬玉》の世界へと沈潜していくのである。

《定本 村野四郎全詩集》(筑摩書房、1980年8月25日) 段ボール函・貼函と表紙
《定本 村野四郎全詩集》(筑摩書房、1980年8月25日) 段ボール函・貼函と表紙


吉岡実宛書簡〔1989年11月5日付〕(2004年2月29日)

前回アップしたもろだけんじ句集《樹霊半束》関連の資料を探していたら、吉岡さんに宛てた書簡の控えが出てきた。これもなにかの縁かも しれないか ら、以下に再録しよう。

 お葉書をありがとうございました。そのあとさっそく大久保の俳句文学館でお作〈雲井〉を拝読し、(樹木の霊や/鳥 獣の魂)だけ でなく、ボードレールの散 文詩の詩句を発見し、驚きました。私の深読みでなければ、フレイザーの最も甘美な部分が反映されていると思いましたが、(虹もまた炭化する)の見事さの前 では、さして重要なことではありますまい。

 拙著〔もろだけんじ句集《樹霊半束》〕に対して何人かからご返事をいただきました。三橋敏雄氏、江國滋氏、元藤Y子氏、坂戸淳夫 氏、中野嘉一 氏、赤尾恵以氏、稲葉真弓氏など。友人や知人はなかなか難解がっているようです。

 さて、先にお約束しました評釈〔「白 紙状態」――吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(3)――〈立体〉〕 をお届けします。一年も考えていると長長しいものになってしまいますが、調べながら細部を味わう楽しみからはなかなか抜けられません。見当違いの点あるよ うでしたら、お許しねがいたく存じます。《神秘的な時代の詩》全篇を異なったスタイルで論じてみたい、というのが当面の目標です。

 またお目にかかれる機会があればと楽しみにしております。そのときまでにはなんとか印刻を仕上げたく思っております。寒くなりま す。お体を大 切になさってください。いつもながらすばらしい作品を待っています。

 一九八九・十一・五

小林一郎

 吉岡実様

「《神秘的な時代の詩》全篇を異なったスタイルで論じてみたい」というあたり、今から見るとご愛敬だが、吉岡さんの想い出のためにあえ てそのまま掲 載することにした。三橋さん(吉岡実を偲ぶ会でいつもお目にかかった)も、江國氏も、中野氏もすでに鬼籍に入られている。


もろだけんじ句集《樹霊半束》のこと(2004年1月31日)

もろだけんじ句集《樹霊半束》 ジャケット(文藝空間、1989年9月15日)
もろだけんじ句集《樹霊半束》 ジャケット(文藝空間、1989年9月15日)

最 初にお断りしておくと、もろだけんじは私の短詩型文学執筆時の筆名で、句集《樹霊半束》(文藝空間、1989)は吉岡実に捧げられている。もっとも、いき なり献辞入りの単行本にするのはためらわれた。WP出力をコピーした初刊本は、原善や宇佐見森吉、たなかあきみつたち文藝空間同人へと同時に、吉岡さんに 恐る恐るお送りしたものだ(その辺の経緯は、本書のあとがきにも書いた)。どうにかお眼鏡に適ったらし く、「コピー本じゃなくて、小部数 でいいからちゃんと印刷した本にすれば」とお勧めいただいた。献辞の許可をちょうだいしたも同然である。勇躍、句集を公刊したことは言うまでもない。
この《吉岡実の詩の世界》でも「もろだけんじ句集《樹霊半束》」が何度か登場するので、思いきって全文を掲載することにした。もとより作品として世に問う わけではなく、サイト作成者の多年に亘って変わらぬ関心の在り処を示すに過ぎない。したがって、登場箇所にはリンクを張って別ページが開くようにしたが、 トップページの〈目次〉には記載しなかった。

>> 樹霊半束(もろだけんじ句集)


村松嘉津《プロヷンス隨筆》(2003年12月31日〔2004年7月31日追記〕)

村松嘉津《新版 プロヴァンス隨筆》(大東出版社、1970年3月15日)の函〔装丁:村松嘉津〕と同《プロヷンス隨筆》(東京出版、1947年8月20日)の表紙〔絵:木下杢太郎〕
村松嘉津《新版 プロヴァンス隨筆》(大東出版社、1970年3月15日)の函〔装丁:村松嘉津〕と同《プロヷンス隨筆》(東京出版、1947年8月20日)の表紙〔絵:木下杢太郎〕

吉岡実は〈『プロヷンス随筆』のこと〉(初出は《文藝》一九六九年五月号、原題〈名著発掘村松嘉津著『プロヷンス隨筆』〉)をこう始めている。

 村松嘉津『プロヷンス随筆』が出版されたのは、昭和二十二年八月二十二日〔ママ〕である。当時無名に近かった著者のこの本を、どういう動機で手に入れ、そして私は読んだのだろうか。いま記憶をたどってみると、昭和二十三年も終り近いころだと思う。私は所用で東京出版株式会社に関係ある知人をたずねた。そのかえりに、どれでも読みたいものがあったら二、三冊もって行けといわれた。荒縄でしばられ、うず高く積まれた返品物らしい本の中から、三冊のうすい本を選んだ。一冊は、『プロヷンス随筆』であり、他の二冊は、西脇順三郎詩集『あむばるわりあ』と『旅人かへらず』であった。私は偶然このとき西脇詩と出合った。そして、視点のきまらない私の詩精神はこの二冊の記念碑的作品に鮮烈な衝撃をうけたといえる。しかし別の一冊、村松嘉津の『プロヷンス随筆』は、私の肉体の飢えをあたたかく鎮めてくれたのである。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一四〜一五ページ)

自身の当時の日記の一節と本書の引用を含む簡単な紹介のあと、吉岡はこうまとめている。

 著者のことばによれば、食べ物のことばかりに終始したとのことだが、ここには衣や住や風俗も、そして地中海文化圏の流転、歴史まであざやかに泛んでくる、ユニークな随想集といえるだろう。私は美しい造本の再刊を待っている。(同前、一五ページ。誤植は引用者が正した)

吉岡の文章が発表された翌一九七〇年の三月、《新版 プロヴァンス隨筆》が大東出版社から刊行された。著者の村松嘉津は〈序〉(原文は正字旧仮名。誤植は引用者が正した)にこう書いている。(同書、一〜三ページ)

 『プロヷンス隨筆』と題した小著をはじめて世に出したのは、戦争直後の昭和二十二年八月、今は存在せぬ東京出版株式会社からであつた。同社で、野田宇太郎氏が編輯してをられた『藝林閒歩』と、現在出版界に雄飛される後藤茂樹氏の先君真太郎氏の『座右寳』とに載せて来たプロヴァンス関係の小文を集めたものである。紙の制限厳しい配給制時代のこととて、粗悪な紙にB六判二百二十二頁の小冊だが、表紙はわが欽慕の的であつた木下杢太郎(太田正雄)先生の筆に成る、青味がかつた淡彩の鉛筆画を以て飾られてゐた。
 著者は同書が出てほゞ半歳の後、一身上の都合により、進駐軍の特許を得て離国した。従つて同書に関する世の批評についてほとんど知る所がなかつたが、最近に到り、東大仏文教授井上究一郎氏が雑誌『文藝』(昭和四十三年八月号)の「名著発掘」欄に同書を「発掘」して下され、更に昨年四月二十八日の朝日新聞学芸欄「旧刊紹介」に、作家菊池重三郎氏が同書を挙げてをられる旨を他から知らされ、いづれにも意外な喜びを覚えた。
 〔……〕
 最後に、現代国字制度への反抗のこの書を刊行される大東出版社の上に、本著が負担としてのみに終らぬことを衷心念じて歇まない。

  昭和四十五年一月

村松嘉津 

なんと、吉岡実が《文藝》昭和四四年五月号の〈名著発掘〉に《プロヷンス隨筆》のことを書いた前年の八月に同じ雑誌の同じ欄に同じ本が井上究一郎によって取りあげられ、同じ昭和四四年の四月二八日(といえば、吉岡文が雑誌に掲載されたのとほぼ同時)の新聞に同じ本(しかも二〇年以上も前に出版された旧刊)が取りあげられるという、恐ろしいまでの偶然。同書の再刊はこのように各方面から待望されていたわけだが、惜しむらくは吉岡の期待する「美しい造本」となりえなかったようだ。著者のスケッチ画には眼をつぶるにしても、見返しは横紙で、ノドでうねっているし、百歩譲ったところで、装丁は著者がすべきではなかった(吉岡に装丁させたかった!)。その点、杢太郎の草花が表紙を飾っている元版は、清楚な美しさを湛えている。古書店で見つけた二冊めの元版は、西脇順三郎詩集と並べてもらえるよう、城戸朱理さんに贈った。

〔2004年7月31日追記〕
その後、村松嘉津の《巴里文学散歩》(白水社、1956年9月25日)と《巴里文学アルバム》(朝日新聞社、1969年1月20日)を見た。《巴里文学アルバム》の本文写真は著者の撮影であって、村松の絵心はここに活かされた。アルバムを「アングルのヴィオロン」(〈序〉)以上のものにしているのは、パリの文学/文学のパリに対する愛情ゆえであろう。ときに《巴里文学散歩》の本文は正字旧仮名だが、一三年後の《巴里文学アルバム》は〈跋〉こそ「旧仮名遣ひ、正常漢字」で組版されているものの、本文は「歇むなく新制度に従ふことゝした。遺憾の極みである。」(〈跋〉)と、新字新かな組みであることの不本意をかこっている。村松が上に引用した〈序〉で《新版 プロヴァンス隨筆》(言うまでもなく、本文も正字旧仮名組み)を「現代国字制度への反抗の」書と呼んだ背景には、こうした事情があった。


北原白秋自選歌集《花樫》(2003年11月30日)

吉岡実の棺に北原白秋自選歌集《花樫》が納められたことは象徴的である。文学的出発を語る際、短歌への愛着とともに必ず引きあいに出し ていた本が、 その最期を見送ったからだ。吉岡は何度も散文で白秋の短歌に触れており、引用した歌も数多い(延べ三七首、実数二六首)。ここでは角度を変えて、《花樫》 が吉岡実詩の語彙に与えた影響を見てみたい(パーレン内の数字は《花樫》のノンブル)。

《桐の花》(5)
〈放埓〉(26)
照りかへる薄[すすき]苅萱[かるかや]さみどりのひろびろし野に今は出でつも(77)
しんしんと夕さりくれば城ケ島の魚籠[いけす]押し流し汐満ちきたる(104)
〈巡礼〉(110)
〈童子抄〉(117)
見桃寺の鶏[とり]長鳴けりはろばろとそれにこたふるはいづこの鶏[とり]ぞ(120)
発電機[ダイナモ]の音聴けばこもごも忘られぬそのかの声もこもらひにけり(145)
霜かぶる蕪[かぶら]がそばに目つむるは深むらさきの首長[くびなが]の鴨(156)
そよかぜに子供が遊んでゐる玉蜀黍[たうもろこし]はそばに真紅[まつか]な毛を揺りてゐる(214)

歌集中の標題は、吉岡実の詩篇〈桐の花〉〈放埓〉〈巡礼〉〈聖童子譚〉と同じか、近いものだ。吉岡の詩句は個個に指摘しないが、歌集 《魚藍》以外に も語彙や発想の点で白秋短歌からの影響は大きかったようだ。《花樫》は広く読まれており、昭和三(一九二八)年一〇月三〇日改造社刊の初版のあと、二年後 の昭和五(一九三〇)年九月二八日には早くも文庫本になっている(改造文庫・第二部第六一篇)。

北原白秋自選歌集《花樫》第26刷(改造社・改造文庫、1933年7月12日)と第29刷(同、1936年5月27日)の表紙
北原白秋自選歌集《花樫》第26刷(改造社・改造文庫、1933年7月12日)と第29刷 (同、1936年5月27日)の表紙

私のもっている《花樫》の一冊は布装で昭和八年七月刊の「二十六版」、もう一冊は紙装で昭和一一年五月刊の「廿九版」。吉岡実が所持し ていたのはた ぶん布装だろう。吉岡はこの呪物としての本について、〈《花樫》頌〉(初出は《コスモス》1972年11月号)にこう書いている。

 私は済州島から復員した。米五升と若干の私物を持って、廃墟の東京へ戻った。五年前に出るとき持っていった物のう ち二つを持ち かえった。母が厄除けにと渡してくれた白南天の一本の箸と白秋の《花樫》一冊であった。S氏から贈られたのが、一九三八年九月二十九日であるから、実に三 十四年の歳月を経ている。わが家にある書物のうち一番古いものであろう。すでに、本でなく物象というべきかもしれない。(《「死児」という絵〔増補 版〕》、筑摩書房、1988、九九ページ)


《ちくま》編集者・吉岡実(2003年10月31日)

吉岡実編集の《ちくま》105号(筑摩書房、1978年1月)表紙 吉岡実編集の《ちくま》105号(筑摩書房、1978年1月)高橋新吉〈碧巌の禅僧達〉
吉岡実編集の《ちくま》105号(筑摩書房、1978年1月)の表紙(左)と同・高橋新吉〈碧巌の禅僧達〉冒頭ページ(右)

年譜によると、吉岡実は一九七一年一月、《ちくま》(一九六九年五月創刊の筑摩書房のPR誌)の編集主任となり、一九七八年(吉岡はこの年一一月に筑摩を退社)七月の一一一号まで同誌を担当し、先輩や知己にも多くの原稿を依頼している。今回は九〇冊あまりのそのなかから、一冊を見てみたい。ところで、吉岡の高橋新吉への弔辞〈ダガバジジンギヂさん、さようなら〉(単行本未収録)の一節にこうある。

 私が編集に携わったPR誌「ちくま」に、高橋新吉さんの「碧巌の禅僧達」を掲載させて頂きました。禅機の妙を伝える文章はいつも新鮮で、私にもよき勉強となりました。お宅に毎月のようにうかがい、茶菓のもてなしを受け、雑談に時間も忘れ、長居したこともしばしばありました。(《ユリイカ》、1987年7月号、四三ページ)

高橋新吉〈碧巌の禅僧達〉の連載が始まった一〇五号(一九七八年一月)のラインナップがすごい。目次を引きうつしてみよう。

  • 西脇順三郎〈家持と芭蕉〉
  • 澁澤龍彦〈ラウラの幻影〉
  • 柴田南雄〈ヨハン・セバスティアン・バッハ讃〉
  • 色川大吉〈明治人の魅力 《明治大正人国記》事始メ
  • 生島遼一〈春夏秋冬(20)――渡り鳥日記〉
  • 高橋新吉〈潙〔イ〕山霊祐禅師 碧巌の禅僧達(一)
  • 岡田隆彦〈キャロルとテニエル 美術散歩44
  • 一海知義〈河上肇と中国の詩人たち(九)〉
  • 山本美智代〈ポーランド〈麦と矢車草〉〉
  • 沢崎順之助〈仮面としての歴史――イン・メモリアム・R・L〉
  • 勝本冨士雄〈カット(本文)〉

残念ながら当時の《ちくま》には編集後記がなく、編集者・吉岡実の生の声を聞くことはできない。しかし、この目次がすべてを語っていよう(ひとつ註記すれば、吉岡の詩篇〈影の鏡〉(I・17)は一九七六年、山本美智代のオフセット版画集《銀鏡》に寄せられた作品である)。クレジットはないものの、吉岡自身が割付を担当した可能性もある。いつの日か、吉岡実編集の《ちくま》全冊を読破したいものだ。


インターネット上の「吉岡実」(2003年9月30日〔2003年10月31日追記〕)

インターネットで「吉岡実」を検索していると、ときどきこちらが予想もしていなかったページに出会うことがある。たとえば二〇〇二年一 一月の《Logged tree under 1610》の次の記事。

「あれは拉致じゃない」 久米さん事件関与の男性

朝 鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による久米裕さん=失跡当時(52)=拉致に関与したとされる東京都内在住の在日朝鮮人男性が四日までに、共同通信の取材 に「あれは拉致じゃない」「今は話せる時期じゃない。いつかははっきりする」などと話した。〔……〕石川県警の調べなどでは、この男性は一九七六―七七年 ごろ、「吉岡実」と名乗る人物から電話で呼び出され「自分は北朝鮮工作員のキムだ。協力しないと(北朝鮮に帰国した)妹さんのためにならない」と脅され た。〔……〕

「北朝鮮工作員のキム」が「吉岡実」を騙った一九七六、七七年というと、詩人・吉岡実は《サフラン摘み》で高見順賞を受賞し、その関係 で新聞や一般 誌に取りあげられる機会も多かった(〈吉 岡実参考文献目録〉参 照)。日本人の名前として、リアリティがあったということか。次に挙げるのは、黒沢清の映画に登場する「吉岡実」である。そのページは《黒沢清フィルモグラフィ》

■ 『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(〔19〕85)

「と うとう来ました、吉岡さん」という極めつけの名台詞とともに、黒沢映画のディーバ、洞口依子が初めて登場する。「吉岡実」(加藤賢崇)率いるバンドの珍妙 な演奏が流れるカセットプレーヤーを握りしめて「田舎」から出てきた秋子(洞口)は、大学という未知の世界を探検するうちに「愛」をどこかに置き忘れ、心 理学教授の平山(伊丹十三)が追求する「極限的恥ずかし変異」の実験に、その無垢に輝く身体を提供することになる。〔……〕

一 九八四年、吉岡実は前年に刊行した詩集《薬玉》で藤村記念歴程賞を受賞している。加藤賢崇の「吉岡実」はおよそ《薬玉》の詩人と似たところはないが、黒沢 清の詩人・吉岡実へのオマージュだったのかもしれない。吉岡さんに《ドレミファ娘の血は騒ぐ》について訊いておけばよかった。

〔2003年10月31日追記〕
その後、黒沢清監督作品の《地獄の警備員》(1992)に諏訪太朗演ずるところの「吉岡実」が登場することを知った。まだ作品は観ていないが、黒沢監督は 確信犯≠ナある。


吉岡実と《金枝篇》(2003年8月31日)

「メイポールの周りで踊る娘たち」〔雑誌の切り抜きのため、出典不詳〕
「メイポールの周りで踊る娘たち」〔雑誌の切り抜きのため、出典不詳〕

一九八〇年代の吉岡実を震撼したであろう書物のひとつに、フレイザー《金枝篇》(永橋卓介訳、岩波文庫、改版は1966〜67年刊)がある。吉岡の詩篇〈青枝篇〉や〈甘露〉を詳細に論じるには別稿を要するので、ここでは詩集《薬玉》や《ムーンドロップ》の詩句のスルスと思しい訳文を抄する(漢数字は巻数、アラビア数字はページ数)。

・バイエルンのライン地方、あるいはまたヘッセンの農民は、豚や羊が脚を折った場合に、椅子の脚に副木をあて繃帯をするそうである。(一・114)
・蛙をこっそりつねったり叩いたりしてギャーと鳴かせる。(一・277)
・「五月の樹」か「五月の棒」(一・279)
・次にこの屋根に穴をあけ、呪医が羽毛の房でもってそこから霊魂をはたきこむと、骨かそれに類するものの断片のような形をした霊魂が筵で受けとめられる。(二・85)
・青いカケスに肺病を負わせて放した。(四・126)

吉岡の詩句は個個に指摘しないが、《金枝篇》のそこここに「後期吉岡実」の世界と通じるものを認めずにはいられない。たとえば? (樹木の霊や/鳥獣の魂)!

五月の樹五月の棒に転じやすき(もろだけんじ句集《樹霊半束》、文藝空間、1989、一六ページ)


吉岡実詩集《静物》稿本(2003年7月31日〔2010年6月30日追記〕〔2011年7月31日追記〕)

吉岡実が鮎川信夫に献じた詩集《静物》初刊 見返しと函
吉岡実が鮎川信夫に献じた詩集《静物》初刊 見返しと函

この七月、東京・目黒の日本近代文学館で、吉岡実の詩集《静物》の稿本(詩集印刷用原稿)を閲覧する機会に恵まれた。ここでは異文の詳細に触れないが(稿本は浄書稿だが、刊行された詩集《静物》と異なる字句も見られる)、全篇が書きおろしゆえの特徴もあるので、概略を記すことにする。私が稿本の存在を知ったのは、一九八〇年、吉岡の随想〈軍隊のアルバム〉に依ってだった。

 わたしの大切なもの――というテーマで書くことを承諾してしまったが、いざ考えてみるとむずかしいので困った。〔……〕別な方では、詩集《静物》の原稿(これは書下し故に、唯一の原稿の残っているもの)。それに二十歳前後の日記。詩ノート。(《「死児」という絵》、思潮社、1980、七四ページ。初出は筑摩書房労組機関紙《わたしたちのしんぶん》82号、1967年5月20日)

稿本の実物を見たのは《現代詩読本――特装版 吉岡実》で年譜・書誌を担当することが決まり、監修の平出隆さん、編集の大日方公男さんと吉岡陽子さんをお宅に訪ねた一九九〇年だったと思う。すぐさまたいへんな資料だと気づいたものの、あまりの重要さにとうてい借りだす勇気はなかった。このときはそれがそこにあると知っただけで、ページを開いてもいない(たしか《僧侶》の稿本もあるはずだが、陽子さんが既発表形を浄書したものかもしれない)。以来、《静物》のことを考えるたびにちらりと稿本を想いださないではなかったが、昨年、にわかにその存在がクローズアップされた。稿本が《日本近代文学館》で紹介されたのである。「創立四〇周年記念特集」の座談会〈文学館の今後の課題〉(出席は中村稔・黒井千次・十川伸介)で、館理事長にして詩人の中村稔がこう発言している。

中村  現状は、文芸図書の出版社から定期的に頂戴したり、著者や主宰者のご意思で寄贈してくださる新刊の図書雑誌を除いて、古いものについては、寄贈、あるいは寄託してくださるのを待つだけという姿勢ですね。そこで、詩人の原稿がもっとほしい、戦後の詩人たちにはお願いすれば頂戴できるのではないかと思い付いて、心当たりの方々に声をかけたら、喜んで書いてくださったのです。/たとえば、吉岡実の「静物」という詩集の原稿の全編を製本したものを吉岡夫人から頂きましたし、谷川俊太郎、飯島耕一その他の方々からも頂戴しました。(《日本近代文学館》第189号、2002年9月15日、二ページ)

「吉岡実の「静物」という詩集の原稿の全編を製本したもの」は、さらにその中面の一ページが写真版で掲げられている。キャプションには「今年四月、夫人からご寄贈いただいた吉岡実「静物」原稿」とある。稿本の存在を知って二三年後の二〇〇三年七月一一日、ようやく対面することが叶ったのである。

吉岡実詩集《静物》稿本〔《日本近代文学館》第189号から〕
吉岡実詩集《静物》稿本〔《日本近代文学館》第189号から〕

稿本の概要に移ろう。外装は象牙色のクロス装で、角背の諸製本(天地二六五×左右一八四ミリメートル)。標題等は記されていない。見返しは表紙と同系色で、表紙側の糊入れ部分に変色が見える。本文の前後を濃い黄色の別丁(文字等の記載はない)で挟んでいるのは、装飾もしくは保護のためか。寄贈時に陽子夫人が中村稔に宛てた書簡(二〇〇二年四月一八日付)にもあるように、稿本は印刷用の入稿原稿を袋綴じにして、背を糸でかがってある(入稿時は見開き状態で、右端を二穴で綴じた痕跡がある)。
本文は全部で三九丁。そのうちペラ(左下欄外に「【筑摩書房・原稿用紙】」とある二〇字詰め・一〇行、刷色はグレー)の貼込が二丁あり、これは後から扉原稿(「吉岡實詩集」と「U 讃歌」)を挿入したため。〈冬の歌〉に、ナンバリング(印刷所が原稿受領後、すぐに打ったもの)第一四丁と第一五丁を入れ違えて綴じるという乱丁がある。袋綴じ分の原稿用紙のサイズは天地二六〇×左右一七七ミリメートル、二〇字詰め・二〇行(中央上部に魚尾、下部に「筑摩書房」の名入り)で、刷色はグレー。ペラ、四〇〇字詰め原稿用紙とも、当時の勤務先のものだろう。
筆記用具は@ブルーブラックインク・ペン〔(1)ふつうの濃さと(2)濃いもの〕、A赤インク・ペン、B鉛筆〔(1)細いものと(2)太いもの〕、C赤鉛筆、の4種類。@の(1)ブルーブラックインクは本文に用いられ、(2)濃いブルーブラックインクは、原稿用紙の各ページ下中央に記されたノンブル、目次原稿、一部の本文執筆や字句の修正に用いられている。Aの赤インク・ペンは組版用指定に使われており、以上の@とAは吉岡実の手になる。Bはどちらもノンブル用で、(1)の細い鉛筆書きは原稿用紙の追い丁、(2)の太い鉛筆書きは前掲ペン書きノンブルの修正用(原稿用紙と刊本のノンブルの関係は後述する)。Cの赤鉛筆書きは、Aとは別の組版指定用。
筆記の状態を上の写真で説明しよう。まず一行アキで二行めの六マスめから題名の「静物」、一行あけて四行めの三マスめから本文が始まるスタイルは全詩篇とも共通で、上記@の(1)。題名に「12p〔ポイント〕」と活字の大きさを、「4行」ドリと題名の行ドリを指定したのがA。それとは別に題名の字下げを「3字下ゲ」、題名の行ドリを「3行目中央」、この組体裁を「以下同じ」、とCで記入したのは印刷所だろう(ただし刊本では吉岡の指定どおり、題名は四行ドリ中央になっている)。
写真版の稿本は次の二点でまことに興味深い。まず、第一行が「非在〔もしくは「非存」、二文字めは「土」「子」どちらかを先に書いて上書きしている〕の鏡」とあったのを赤線で消している点。これだけでも衝撃的だが、このナンバリング第四丁が印刷所に渡った時点でナンバリング第三丁の中扉「T 静物」のすぐあとに置かれていた事実に、われわれは驚倒する(ペン書き、鉛筆書きのノンブルともナンバリングと同じ順序を示す)。すなわち〈静物〔夜はいっそう遠巻きにする〕〉こそ、《静物》の巻頭詩篇だったのだ。題名の組体裁で「以下同じ」とあるのがこのナンバリング第四丁だけなのも、印刷入稿時の巻頭作品が本篇だったことを裏付ける。もちろん詩集《静物》(私家版、1955)の冒頭は初刊以来、一貫して〈静物〔夜の器の硬い面の内で〕〉であり、稿本でも最初の作品として製本してある(ナンバリング第三丁のあと、五・六・四・七……と続いている)。吉岡は詩集の校正段階のある時点で、〈静物〔夜の器の硬い面の内で〕〉こそ巻頭詩篇にふさわしいという断を下したのだ(第一行は「夜の器の硬い面の内側で」とあったのを、鉛筆で「側」一文字を抹消してある)。ただし、校正紙関連は現在まで公表されていないので、それ以上のことはわからない。
いずれにしても、詩集印刷用原稿を製本したのは一九五五年に詩集が刊行されたあとのことだろう(《静物》の革装本を制作したころや、アイボリーのクロスを使った装丁作品の見られるころが手がかりとなろう)。松浦寿輝は〈始まりとその消滅――吉岡実『静物』〉でこう書いている。

もちろん、ここで始まりというのは、ほとんど偶発事のように出来した仮初の起源の模像であるにすぎず、その一行〔「夜の器の硬い面の内で」のこと〕を書きつけるところから爾余のすべてが流れ出したというような真正の時間的起点をかたちづくっているわけではない。作者が実際にその一行でもって彼の処女詩集を書き出したのかどうかは正確にはわからない。多分そうではないのだろうし、今われわれが詩集の第一行として読む言葉の連なりにしたところで、まず筆が書きつけた初発の言葉がそのままのかたちで残されているのでもなく、後になっての然るべき加筆・訂正・削除を経たうえで最終的に書物の冒頭を飾ることになったのだろう。(《エピステーメーU》1号、1985年8月、四五二ページ)

稿本を見ずに書いたであろう松浦の恐るべき慧眼である。次に、《静物》刊本のノンブルと内容の対応表を掲げよう(日本近代文学館には吉岡が高見順に献じた一本が所蔵されている)。本文は、一六ページ一折の四折分と八ページ一折分の計五折、七二ページから成っている。

ノンブル 内容 標題等 「ノンブル」欄の( )で囲った数字は刊本では隠しノンブル
別丁・表 〔本扉〕 吉岡實詩集 静物
別丁・裏 〔白〕
(1) 〔半扉〕 吉岡實詩集
2〜3 〔目次〕 詩集 静物 目次
(4) 〔白〕
(5) 〔中扉〕 T 静物
6〜8 〈静物〔夜の器の硬い面の内で〕〉
(9) 〔白〕
10〜11 〈静物〔夜はいっそう遠巻きにする〕〉
12〜13 〈静物〔酒のない瓶の内の〕〉
14〜16 〈静物〔台所の汚れた塩〕〉
(17) 〔白〕
18〜19 〈或る世界〉
20〜21 〈樹〉
22〜23 〈卵〉
24〜28 〈冬の歌〉
(29) 〔白〕
30〜32 〈夏の絵〉
(33) 〔白〕
34〜36 〈風景〉
(37) 〔中扉〕 U 讃歌
38〜41 〈讃歌〉
42〜46 〈挽歌〉
(47) 〔白〕
48〜50 〈ジャングル〉
(51) 〔白〕
52〜55 〈雪〉
56〜59 〈寓話〉
60〜65 〈犬の肖像〉
66〜69 〈過去〉
(70) 〔本文最終ページ〕 詩集 畢
(71) 〔奥付〕
(72) 〔白〕

ノンブルについて大要を書く。稿本に記されたノンブルには二つの側面がある。第一は、〈静物〔夜はいっそう遠巻きにする〕〉の「2」に始まり〈過去〉の「67」に終わる(ただし〈或る世界〉には記されていない)原稿用紙そのものの丁付けで、Bの(1)細い鉛筆で書かれている。第二は刊本の何ページめに相当するかというもので、前述の巻頭詩篇関連を除いて本文最終ページ「詩集 畢」の「72」まで、刊本のノンブル(本丁)になるべき数字が@の(2)濃いブルーブラックインク・ペンで第一のノンブル上に重ねて書かれている(当然、ペン書きのほうが目立つ)。ところが〈寓話〉最後のナンバリング第三一丁は、原稿が追い込まれたために対応する本丁がなくなり、両ページのノンブルとも鉛筆で「×」して、ウラにはさらに「ナクナル」と鉛筆書きしてある。これ以降(〈犬の肖像〉から奥付まで)は、Bの(2)太い鉛筆で前記のノンブル(細い鉛筆+ペン)を抹消して新たに記した数字が本丁となる。以上のことから推定されるのは、おそらく詩ノート(「わたしの大切なもの」!)に書いた下書きを一篇ごとに原稿用紙に清書した段階では詩篇の順番は決まっておらず、詩集の構成が決定してから鉛筆で通しノンブルを記入した(この時点では「14」「15」と記した〈音楽〉という詩篇が存在したものと思われる)。造本設計にあたって、総ページを算出するためにもそれぞれの詩篇の原稿分量とノンブルを決め込んでいった(散文詩型の字詰めを指定したのもこのときだろう)。そのまま積算すると全体で七四ページになってしまい、印刷(製版)や製本の都合上、好ましくない。二ページをどこかで削減するために、組体裁を勘案することで当初は五ページ分(見開き起こしだから、実際は六ページ分)あった〈寓話〉を四ページに収めた。そんなところではないだろうか。なお、後述する「目次」原稿にはノンブルに相当する数字が記載されていない。
こんな調子で書いていくと際限がないから、詩篇の題名をめぐる話題と造本に関するメモに触れて終わりにする。最初に目次原稿(ナンバリング第二丁)を再録するが、目次は本文の詩篇がすべて成って、入稿間際に起稿したと考えられる(字下げや新字・旧字の区別は無視し、印刷用の指定も割愛した)。

詩集静物目次
T 静物〔通常の行に記す〕
静物
静物
静物
静物
〔或る←音楽〕世界


冬の歌
夏の絵
クートーの風景
U 讃歌〔後から行間に記す〕
讃歌
岩〔ペンで抹消して、鉛筆で頭に「×」印〕
挽歌
ジャングル

寓話
犬の肖像
過去〔原稿用紙の欄外、すなわち二一行めに記す〕

U部構成は目次成稿後のプランと思しいが(本文には最初、三七ページを〔白〕にする指定があったのが消されてあり、後から挿入したペラ「U 讃歌」には本文中、唯一ナンバリングが打たれていない)、〈或る世界〉が〈音楽〉に替わる原稿であること(前述のように〈或る世界〉に鉛筆書きノンブルのないことが傍証)、〈風景〉が〈クートーの風景〉だったこと(本文の標題も〈クートーの風景〉。「クートー」については〈画家クートと詩〈模写〉の初出〉参照)、さらに本文原稿のどこにもない〈岩〉という詩篇が存在したらしいこと、の三点に注目したい。題名関連でもうひとつ。雄篇〈犬の肖像〉は、本文原稿では最初の題名が〈雨ざらしの犬〉であり、同時に、あるいは後日〈犬の肖像〉と副題が付けられ、最終的に〈犬の肖像〉となった。「雨ざらしの犬」は本文に見える詩句だが、〈犬の肖像〉には遠く及ばない。〈雨ざらしの犬――犬の肖像〉にしたところで同断である。
造本に関するメモは、稿本の最初の丁(ナンバリングがないところをみると、印刷所に渡らなかった原稿)のウラ(後述する「扉原稿」の次の面)に太めの鉛筆で縦に書かれているが、いかに走り書きとはいえ、吉岡実の字に見えない。内容からいって、吉岡以外の人間が書いたとは思えないのだが。以下にそのメモを録するが、数字の修正と、「ノンブル」への「9ポイタリック」という追記、ページ上のノンブル位置の図示が、後から赤鉛筆で書かれている(ここで註記すれば、刊本は「天アンカット」ではない。ほかは記載のとおり仕上がっているから、造本メモは印刷製本〔中央製本印刷株式会社〕の担当者が記入したと考えられなくもない)。

B6判天アンカット
本文五号字間ベタ
行間全角アキ
一頁〔十行→十一行ヅメ〕
正字及旧かな使
各詩篇は必ず見開きで初まる。
全頁〔七四→七二頁〕
ノンブル頁中央下イタリック

最後に詩集の執筆・刊行時期について。《静物》は吉岡実が〈詩集・ノオト〉で「詩集『静物』は、一九四九年から七年間の作品十七篇を収めている。ぼくには一人の詩を解する友もなく、発表する機関さえなかった。逆にいえば、友をつくらず、発表の場も求めず、自分で納得できる詩をつくることのみ考えていた。『静物』は一九五五年、二百部自費出版した。無名画家が個展をひらくような期待と不安の裡で。未知の先輩、知己に配った。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、七三ページ)と書いたように、一九四九年から五五年までの足掛け七年間の詩篇から成る(〈寓話〉の末尾には「一九五五・三・五.」と稿本中唯一、脱稿日らしき記述がある)。稿本の最初の丁(ナンバリングなし)オモテは、「吉岡實詩集/静物/1955.5.5」と三行に横書きして四角く罫囲みした扉原稿だが、赤で大きく「×」印がつけられている(刊本の本扉は別丁で、シンプルに「吉岡實詩集 静物」と縦組)。一方、奥付の原稿には「昭和三十年七月三十一日発行」とある(刊本の奥付は「昭和三十年八月二十日刊」)。これらを総合して、個個の詩篇がいつ、どのような順番で書かれたかを含めた《静物》稿本の調査・研究は、今回は触れなかった本文の異同の詳細とも併せて、来るべき《吉岡実全集》に期待したい。

〔2011年8月31日追記〕
参考までに、奥付の自筆原稿形と詩集《静物》掲載形を、校異を介して掲げる(〈吉岡実詩集《静物》本文校異〉参照)。

自筆原稿形:縦書。新字で原稿を復元した(15字×5行+6字=81字)。

吉岡実詩集静物・私家限定二百部
・昭和三十年七月三十一日発行・
頒価二百円・印刷者草刈親雄・印
刷製本中央製本印刷株式会社・発
行者太田大八・東京都練馬区南町
四の六二七九

校異:文字の加筆・修正のみ挙げ、改行箇所の変更は割愛した。

吉岡実詩集静物・私家限定〔(ナシ)→版〕二百部
・→(トル)〕昭和三十年〔七→八〕月〔三十一→二十〕日〔発行→刊〕・
(一文字不明)→頒〕価二百円・印刷者草刈親雄・印
刷製本中央製本印刷株式会社・発
行者太田大八・東京都練馬区南町
四の六二七九〔(ナシ)→・〕

詩集《静物》掲載形:縦組。旧字使用(12ポベタ、16字×5行=80字、箱組)。

吉岡實詩集靜物・私家限定版二百部
昭和三十年八月二十日刊・頒價二百
圓・印刷者草刈親雄・印刷製本中央
製本印刷株式會社・發行者太田大八
・東京都練馬區南町四の六二七九・

吉岡実が高見順に献じた詩集《静物》に挿まれていたメモ(124×約80mm)
吉岡実が高見順に献じた詩集《静物》に挿まれていたメモ(124×約80mm)

稿本の表記でとりわけ目につくのが「歴史的仮名づかひ」と「現代かなづかい」の異同である。その間の事情を伝える吉岡実の証言があるので、以下に引く。入沢康夫は〈国語改革と私〉という文で、処女詩集《倖せ それとも不倖せ》(書肆ユリイカ、1955)がなぜ「現代かなづかい」となってしまったかをめぐる一節にこう書いている。

 次に、やはり詩人の吉岡実に〔ユリイカから詩集を上梓するにあたって、伊達得夫から仮名づかいに関して何か言われなかったか、〕問ひ合はせた。吉岡さんは、私と同じ年に、私家版で詩集『静物』(歴史的仮名づかひ)を出し、次の詩集『僧侶』(現代かなづかい)は、ユリイカから一九五八年に出た。そのまた次の年には、同じユリイカから『吉岡実詩集』が出るが、ここには、『静物』のみならず、戦前の詩集の『液体』までもが、表記を「現代かなづかい」に変へて収録されてゐる。吉岡さんの答は――、
 「『静物』は、自分の勤めてゐた出版社に出入りしてゐた中どころの印刷所に、頼んで引受けてもらつた。自分は当時広告部にゐて、すつかり新仮名になじんでしまつてゐたので、校正は社内の校閲部のヴェテランの友人に特に見てもらつて、誤りが出るのを防いだ。しかし、自分だけでは誤りが正せなかつたらう。それで、次にユリイカから詩集を出した時には、原稿の段階から新仮名で書いた。」
 つまり、吉岡さんの場合は、自分から進んで、『僧侶』以降は「現代かなづかい」に切り替へたわけであるから、当面の問題の傍証には必ずしもならない。(丸谷才一編《日本語の世界 16 国語改革を批判する》、中央公論社、1983、二二八ページ)

〔2010年6月30日追記〕
本文で触れた《日本近代文学館》の次の号(第190号、2002年11月)に吉岡陽子〈詩集『静物』のこと――稿本の寄贈にあたって〉が掲載されている。そこには「『静物』の発行者になっている童画家〔太田大八氏〕は昭和二十六年、吉岡が『小学生全集』の絵を依頼したのが縁で親しくなった友人で、挿絵を書くためにとった海辺の定宿に同宿して『静物』の原稿を整理し割付けもしたことを後に知った」(同誌、七ページ)という興味深い記述がある。吉岡が〈突堤にて〉に書いたような状況下で《静物》が詩集として生まれたと考えると、〈突堤にて〉はいっそう重要な一篇ということになる。もしかすると「それ〔〈突堤にて〉〕は、昔の「現代詩」の「詩人の散歩」という欄で、幻想的なものを求めていたので――」(金井美恵子との対談〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉の吉岡発言、《現代詩手帖》1980年10月号、九二ページ)という依頼を口実に、吉岡は自身の詩的出発の背景をこの幻想的な散文作品に書き込んでいたのかもしれない。そのとき〈突堤にて〉冒頭の「私は別にやらねばならぬ仕事もないので、〔……〕」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、四八ページ)という設定は、「業務上の仕事」と読みかえなければならないだろう。《静物》の制作こそ、戦後の吉岡が避けて通ることのできない「仕事」だったからである。

〔2011年7月31日追記〕
詩集《静物》(私家版)について略記しよう。NACSIS Webcatで《静物》を検索すると、所蔵しているのは日本近代文学館だけである。同館の所蔵検索で表示される《静物》は下のとおりだが、「出版年月日」は「昭和30.8.20」が正しい。

表題 静物 : 吉岡實詩集 / 吉岡實著
出版者 太田大八
出版地 東京
出版年 1955
出版年月日 昭和30.7.20
数量・大きさ 69p ; 19cm
注記 私家限定版200部
著者標目 吉岡, 実(1919-)
参照ID BA91424557

所蔵一覧
別置記号 請求記号 所蔵ID 所蔵館
T ||ヨシ53||1 BS047429 本館

「日本近代文学館では原装の保存を心がけていて、函やジャケットなどの外装を廃棄はせず、請求記号のラベルも資料に直に貼らないで、本にグラシンやセロファンをかけ、その上に貼っているものが多い」(田中栞《書肆ユリイカの本》、青土社、2009年9月15日、一三〇ページ)が、針金が錆びたのか《静物》の機械函は取りのぞかれ、経年変化で劣化したのかフランス装表紙の元パラ(グラシン紙)は剥がされており、2色刷りで印刷された表紙紙だけになっているところに件のセロファンカバーがかけられている。資料の保存状態はきわめて良く、60年近く前に刊行された本とは思えない。前見返しの遊びに「高見順様〔旁は「早v〕/吉岡實」と献呈署名がブルーブラックインクでペン書き、奥付ページの上部に「T〔高見順文庫を表わす〕/ヨシ53/1」と別置記号・請求記号が鉛筆書き、下部に「高見順氏寄贈〔ゴム印〕」とあり、表紙3の下部に「日本近代文学館〔ゴム印〕/56964〔ナンバリングマシンで印字〕/41.12.28〔ゴム印〕」と記されている。最後の日付は昭和41年「1966年12月28日」で、資料の受入日であろう。


2003年版〈吉岡実〉を探す方法(2003年6月30日)

わ たしはかつて「二〇世紀後半、昭和後期の吉岡実の詩の意義はなにか。今日の詩人としては珍しくほとんど日本語によってのみ文学的な素養を積み、戦地に駆り だされ、再び平凡な勤め人として東京に生活する間に書かれた詩の意義はなにか。わたしにはその作品の数数が個人の神話と現代の神話とを関係づけようとする 果敢な試み、渾身の力業に思える。吉岡が短歌から出発し俳句に手を染めたのち詩に向かったのは、現代日本の文章で「詩」が可能だと証明するための必然で あったような気さえする」(平出隆 監修《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991、三二七ページ)と書きました。

こ の「二〇世紀後半、昭和後期を代表する詩人」というのは、大正期の萩原朔太郎、昭和前期の西脇順三郎を念頭に置いてのことです。朔太郎の詩風を西脇と三好 達治が受けついだように、西脇の詩風を受けついだのが吉岡と田村隆一でした。私見では、亡くなった吉岡・田村に存命の谷川俊太郎を加えた三名に「昭和後期 の詩人」を代表させることが可能だと考えます。吉岡の最も古い詩友である飯島耕一は吉岡を「戦後最大の詩人」とまで言っています。

わたしが詩に魅せられて以来、吉岡実の詩はつねに最高峰に位するものでした。晩年の数年間、それら(この「日本語による驚異」!)を生 みだした詩人 と何度かお話しする機会の持てたことを、今はありがたく思いおこします。

吉岡実に関する最も浩瀚な書物《吉岡実ア ラベスク》を 著した秋元幸人さんは、吉岡を文化的ヒーローになぞらえました。わたしもほぼ同感です(ただし、音楽は吉岡実の守備範囲外でした)。吉岡さんとわたしは ちょうど三まわり違う未年です。親子の年齢差を後進にまったく感じさせることのない文章とは、やはり凄いものです。七年前に死んだわたしの母は吉岡実の詩 を読んで「気色が悪い」と言いましたが、ある意味でそれは正しいと思います。人間存在の、その薄気味悪さまで活写した稀有の詩人が吉岡実だと考えます。


〈詩人の白き肖像〉(2003年5月31日)

吉岡実の詩的出発を語る際に忘れてならない詩人に、北園克衛がいる。以下に、吉岡が《北園克衛全詩集》の栞に寄せた〈断章三つと一篇の詩〉から詩篇〈詩人の白き肖像〉を、原文である北園克衛詩集《固い卵》(文芸汎論社、1941)と校合しながら引きうつして、二人の先達を偲ぼう(数字の後に引用詩篇の題名を補記した)。なお〈詩人の白き肖像〉は全篇《固い卵》の引用から成る。吉岡は「詩集《固い卵》に収められた二十五篇中の十六篇の詩から、一行から四行ほどの章句を、抽出して綴り合せたものである。いってみれば、わたしの内なる(北園克衛像)である」(《北園克衛全詩集 栞》、沖積舎、1983、九ページ)と書いている。

詩人の白き肖像

1 〔〈インクの蛇〉〕
雲雀の鳴いてゐる川のそばに
少年達は笛を吹き
やがて怠けて水の中に頭を漬ける

2 〔〈白いドクトリン〉〕
僕の影が葡萄の樹のやうにくねり

3 〔〈一直線の頭〉〕
南瓜畑の道をいそいでくる
町に出て
水を撒いた石疊の上をあるき

4 〔〈休暇のバガテル〉〕
ねぢれた椅子にもたれ
パインアッ〔ツ〕プルを食〔喰〕ひ

5 〔〈鉛筆の生命〉〕
あ ここには
最早なにもない

6 〔〈午前の肖像〉〕
古典に近い
釦のよ〔や〕うな人よ
水滴の
思ひとともに

7 〔〈透明なオブヂエ〉〕
ペンキの横の
ラケッ〔ツ〕ト
あるひはトランク

8 〔〈ヒヤシンスの季節〉〕
涼〔凉〕しい眼鏡をかけ
朝のミルクを飲み

9 〔〈悪い球根〉〕
枯れた柳の下の錆びた自転〔動〕車にもたれた

10 〔〈半透明のカスケツト〉〕
眉の細い友よ

11 〔〈明るいドリアン〉〕
胡桃の皮を剥ぐ娘らの頬と
豌豆を浸すとき

12 〔〈生きたキヤンドル〉〕
風化する貝の上を

13 〔〈鉛のラケツト〉〕
肥えた思考は進まず

14 〔〈泥のブロオチ〉〕
思考の表面がキャ〔ヤ〕ベツのやうに縮れる

15 〔〈透明なグロテスク〉〕
それは充分に退屈である

16 〔〈白いドクトリン〉〕
いきなり電球に墨を塗る

17 〔〈アコイテスの歌〉〕
この詩は亀のやうに心を暗くした
僕は亀の足の形をした匙で砂糖の重さを量り
同時に神の重さをも量っ〔つ〕てゐた

興味深いのは「9」で、「自動車」(北園)が「自転車」(吉岡)へ変化している。これを単なる書きうつし間違いと見るか、意図的な改変と見るか難しいところだが、この「自転車」はいかにも吉岡にふさわしい。〈詩人の白き肖像〉を吉岡実作の詩篇と見るよりは、当時、数多くなされた(永田耕衣を筆頭とする)句集からの摘録と同列に扱うべきだ、というのが私の考えである。吉岡実の詩作と呼ばれるためには、次のように書いてもらいたいところだ。

詩人の白き肖像――北園克衛《固い卵》の章句を藉りて

雲雀の鳴いている川のそばに
少年達は笛を吹き
やがて怠けて水の中に頭を漬ける
僕の影が葡萄の樹のようにくねり
南瓜畑の道をいそいでくる
町に出て
水を撒いた石疊の上をあるき
ねじれた椅子にもたれ
パインアップルを食い
あ ここには
最早なにもない
古典に近い
釦のような人よ
水滴の
思いとともに
ペンキの横の
ラケット
あるいはトランク
涼しい眼鏡をかけ
朝のミルクを飲み
枯れた柳の下の錆びた自転車にもたれた
眉の細い友よ
胡桃の皮を剥ぐ娘らの頬と
豌豆を浸すとき
風化する貝の上を
肥えた思考は進まず
思考の表面がキャベツのように縮れる
それは充分に退屈である
いきなり電球に墨を塗る
この詩は亀のように心を暗くした
僕は亀の足の形をした匙で砂糖の重さを量り
同時に神の重さをも量っていた

北園克衛のような、吉岡実のような、(さらに言えば西脇順三郎のような)不思議な詩行ではなかろうか。


H氏賞選考委員・吉岡実(2003年5月31日)

1963年、吉岡実は日本現代詩人会H氏賞の選考委員を務めている。その様子を《詩学》の〈H氏賞特集〉で見てみよう。〈第13回日本現代詩人会H氏賞選考委員座談会〉は、安藤一郎委員の次の発言で始まっている(かなづかいはママ。読点を適宜、補った)。
「〔……〕選考は三月二十一日にひとまず理事会と、H氏賞選考委員の両方の会をもつて、会員全部の百三のアンケートを整理しまして、そのなかから会則によつて八人の方の詩集を選びましたが、H氏賞選考委員だけの会を、第一回は三月二十八日に開きました。会則によつて、さらに委員の選んだ二冊の詩集をそれに加え十冊になりました。第一回に出席した委員は、草野〔心平〕委員長他、吉野〔弘〕、秋谷〔豊〕、小海〔永二〕、安藤、村野〔四郎〕、吉岡〔実〕。欠席したのは、三好豊一郎、安西均、中桐雅夫、嶋岡晨でしたが、中桐、嶋岡の二人からはそれぞれ文書によつて連絡がありました。そのときに結局第一次審査というような形をとつて、最後に四つの詩集、片瀬博子『おまえの破れは海のように』、高良留美子の『場所』、入沢康夫の『ランゲルハンス〔氏〕の島』、山本道子の『飾る』の四冊を、最後のこんどの審査にあげることになりました。/その日はそれだけで終つて、もう一ぺん全委員がその作品をよく読んでおくことになりまして、四月八日午後六時からトミーグリルで最終審査にはいりました。その間各自がいろいろ意見をならべて討議しましたが、なかなか四詩集とも主張があつて、決しがたかつたのですが、最後に高良留美子の『場所』に決定しました。それでは、他の詩集もふくめて各委員に感想を聞いてみることにしましよう。」(《詩学》1963年7月号、四六ページ)

以下、中桐、吉野、小海、秋谷、安西各委員のあとに吉岡が発言し、村野、安藤両委員、草野委員長が続く。その吉岡発言を録する。

吉岡  ぼくは、四冊の詩集を読んでみましたが、最初、山本道子さんの『飾る』を高く評価して読んだわけですけれども、もう一回読みかえしてみますと、非常に乱暴で映像を結ばないうちにことばがくずれていくような破れかぶれのところがあります。ぼくも、天性の詩人は非常に大切ですし、育てたいという気持もあるのですが、むら気な人で、極端にいえば詩をやめることもあり得るし、そういう意味で山本さんを除外しまして、結論的には入沢君の詩集とおもいました。この詩集は、最初のころ私、コントだと、そういう考えでみておりましたが、よく読んでみますとまぎれもない詩なのです。詩でなければ書けないきびしい皮肉というか、軽妙なユーモアがただよつています。ほんとうの意味のユーモアがあるのは入沢君の詩が一番です。苦いユーモアであるかもわかりませんけれども終始たのしく書いている。入沢君の以前に書いた詩は苦しんでかいていましたが、この詩集はたのしみながら書いています。詩は、苦しんで書くのもいいんですけれども、楽しんで書き、できたものの完成度が高いというものもあります。そういう詩を入沢君は書いているのだとおもいます。入沢君がどういう世界を描いているのかはつきりわからないけれども、こんどの候補になつた詩集のなかではずばぬけているとおもつて入沢君を推しました。そのつぎには、片瀬さんの詩集より高良さんの方が実験的なことをしているんでいいとおもいました。けれども、この詩集もよく読むと無理が多くて、いい作品と悪い作品が交互に入つているくらいの詩集で、統一感に欠けています。しかし、私の好みにあう物質感が出て、詩になろうとしているので、やはり大勢からいつて推してきました。否定することもないので、私は高良さんで結構だとおもいます。片瀬さんの詩は、私の考えからいいますとよく分らない方なのです。なにかあるんでしようけれども、わりとふつうの女性の詩としかとれません。ことばの選びかたも、安西さんがおつしやつたように観念から先に出ちやつておもしろさが全然ないようにおもいます。前半の方が高度なんですけれども、後半の調子は落ちているような感じでした。(同前、四九〜五〇ページ)

吉岡実は《僧侶》がH氏賞を受賞することで世に出たわけで、この選考委員の仕事も大切にしていたと思われる。「ユーモアがある詩」「楽しんで書く詩」「詩集の統一感」「物質感のある詩」あたりに、当時の吉岡の詩観がうかがえる興味深い選評である。


〈父の戦友、吉岡実〉(平井英一さん、2003年4月22日)

四月二〇日、平井英一さんから〈父の戦友、吉岡実〉というメールをいただいた。平井さんのご了解を得て、以下に私とのやりとりを録する。

吉岡実を検索していて、小林様のHPを見つけました。
父が吉岡実さんと戦友だった関係で、家には吉岡実さんの詩集がたくさんあります。その父も昨年八月に亡くなり、父の蔵書はそのまま残されていますが、私には吉岡実さんの詩は難解でほとんど読んだことはありません。父の親友だった吉岡実さんの本は、父の思い出と共にこれからも大切に保存してゆきます。
父がもう少し長生きしてくれたら、吉岡実に関する詳細なデータを記した小林様のHPを見て、さぞかし喜んだことだろうと思うと残念でなりません。
先日、吉岡実句集《奴草》を奥様の陽子さんから亡き父に贈呈され、早速、父の仏前に供えました。(吉岡実を検索した理由です)私も後日、ゆっくり読んでみようと思います。

メールをありがとうございました。《吉岡実の詩の世界》をご覧いただき、恐縮いたします。平井さまのお父上(お名前はなんとおっしゃるのでしょう) と吉岡実さんが戦友でしたか。吉岡さんは戦時中のことをほとんど書きのこしていません。私は陽子夫人から吉岡さんの軍隊手牒の存在をおききしましたが、もちろんその内容は知るよしもありません。ですので、お父上の戦歴など、お教えいただけるとありがたく存じます。

父の書棚をあらためて調べてみました。吉岡さんから頂いた署名入りの詩集が何冊かありました。新しい詩集が出るたびに頂いていたようで、吉岡さんは生前、「お前には俺の詩はわからないだろうが、俺が死んだら値打ちが出るぞ」と軽口を言っていたと、父は笑っていました。
父は、平井才一と申します。大正8年6月、東京は本所の生まれです。父と吉岡さんとのお付き合いがどのように始まったのか、私は聞いていませんが、生まれた年と場所が近かったので、軍隊で意気が投合したのでしょうか。吉岡さんが亡くなるまで、父とは親友としてお付き合い頂いたようです。父は書き物を残していないので、今となっては何も調べようがありません。
確か、吉岡さんが復員した昭和二十年代初めの日記に、父との交流がちょっと載っていたような記憶があるのですが、今、その本が見つかりません。戦後すぐの日記があったと思うのですが、如何でしょうか。
吉岡実さんの祥月命日が近づいてきましたが、一周忌に父と巣鴨の真性寺に墓参りに行ったのを懐かしく思い出します。

吉岡実の昭和二四年の日記。「五月一日 博道と四ツ木の才一の家へ行く。彼の父はがんこな人だった。臨終の床で、才一に枕もとにいないで仕事をしてろと云ったという。何か心うたれる。彼は新しい恋人が出来、悩んでいる。三人で浅草へ出る。軍隊時代を思い出す。新京へ外出の時、よく三人で遊んだり、満人料理を食ったり。たまには甘いもの屋の三吉野で食い逃げしたものだ。アンジ〔ママ〕ェラスでコーヒー。」(《吉岡実詩集》、思潮社・現代詩文庫14、1968、一一四ページ)――この「才一」さんがお父上ではないでしょうか。「博道」さんがどなたかわかりませんが、やはり軍隊時代の親友でしょうか。吉岡さんは、日記に親しい者の姓を省いて名だけ記す癖がありました。よって、私も「才一」さんの姓が今までわかりませんでした。おかげさまで、貴重な証言が得られました。

私の祖父は昭和24年4月17日に亡くなりました。当時、父は四ツ木でセルロイドの仕事をしていました。日記はその時、博道さんと一緒に父を慰めに来られた時のことが書かれているのでしょう。
博道さんは、山中博道さんの事です。父の戦友の一人だと思いますが、昭和14年11月13日の「うまやばし日記」に山中博道さんと記されているので、吉岡さんとは古くからの友人だったかも知れません。
私の父と山中さんは、吉岡さんが亡くなられるまで親しくお付き合いしていました。浅草が好きだったようで、よく三人集まってアンヂェラスへ行ったり、食事をしたりして楽しんでいました。吉岡さんが亡くなった後、残された父と山中さんがだいぶ気落ちしていたのを思い出します。その山中さんも亡くなられました。

平井英一さんから見た吉岡実は「セルロイド玩具一筋に生きた、亡き父〔平井才一〕の無二の親友」ということになる。

>>平井さんのホームページ 〈セルロイド・ドリーム〉


〈首長族の病気〉のスルス(2003年4月15日〔2012年3月31日追記〕)

詩篇〈首長族の病気〉のスルスと思しい切り抜き(《朝日新聞〔朝刊〕》1959年11月3日付〔第26503号〕3面)〔吉岡家蔵のファイルからのコピー〕
詩篇〈首長族の病気〉のスルスと思しい切り抜き(《朝日新聞〔朝刊〕》1959年11月3日 付〔第26503号〕3面)〔吉岡家蔵のファイルからのコピー〕

吉岡実がクリアファイルに保存していた切り抜きに、詩篇〈首 長族の病気〉(D・11、初出:《鰐》4号、1959年11月)のスルスと思しいこの一葉がある。記事全 体を起こしてみよう。

だんだん首輪ふやす――ビルマの「クビナガ族」

 ロイコー(ビルマのカレンニ地方の町)の西側一帯には、世界の奇族首長族*二千人が住んでいる。正式にはパダン族といい、カ レン族の一 種。
 女は、五、六歳ごろからシンチュウの輪を首にはめ、大きくなるにつれて、首輪の数をふやしてゆく。ついにはアゴをつきあげるまで首輪を重ねる。
 首輪の中はカラでなく、一本の長いシンチュウの棒である。これを首いっぱいにまきつけ、足に巻き、さらに両手首には銀の輪をはめる。大変な重さである。
 さすがに起居は不自由らしく、足もとになにが落ちても拾えない。体もひ弱く、小さい。歩くところはペンギン鳥みたいで、むしろ、いたましい感じがする。
 首が長いほど美人とされるからだとか、女を従属させるためだとか、理由はいろいろいわれるが、なぜ首輪をつけるか、村長も『大昔からやっているの で……』というだけで何も知らなかった。
 政府はこの悪習を止めさせようとしているが、なかなかきき目はないらしい。それでも一人、二人、首輪をつけない女もいた。そういう女はカソリックに多 く、首に十字をつっている。不思議に精霊信仰のこの山奥にカソリックがよく入っていた。
 首輪をはめたり、輪をふやすには特別の技術がいる。このため二つか、三つの部落に一人の技師≠ェおり、部落を巡回して首輪の調節をやっている。たまた ま調節のため首輪を外したところを見た者の話によると、日に焼けない、白い、長い首がヌーっとつき出し、実に不気味だったという。=写 真はロイコー 西方セスク部落で丸山支局長撮影

(ラングーン=丸山バンコック支局長)

KING 製の「CLEAR FILE」〔No.122/B5-S型〕に入っていたこの切り抜きは、天地167×左右85mm。〈テレタイプ〉というロゴからする と、新聞のコラムか。 出典の記載はなかった。このファイルにあるほかの記事は一九八〇年代のものだったから、前は別のところに保管されていたのだろう。のちの詩篇〈サフラン摘 み〉(G・1)も、こんな具合に発想されたのかもしれない。

〔2012年3月31日追記〕
このほど発見して《吉岡実書誌》の〈V 主要作品収録書目録〉に掲げたように、日本文芸家協会編《日本詩集 1961-1》(国 文社、1961年7月5日)に〈首長族の病気〉が再録された際、作者による〈作品ノート〉が新たに付された。私にとって長いこと未詳だった〈首長族の病 気〉のスルス(出典)が、吉岡自身によってそこで明かされている(詳しく書くなら《朝日新聞〔朝刊〕》1959年11月3日付〔第26503号〕3面であ る)。見つけてしまえばあっけないものだが――国立国会図書館で同書を閲覧して《朝日新聞》縮刷版のコピーをとるのに要したのは三〇分ほど――出典の探索 には、本稿をご覧いただければわかるように、9年近くかかった。吉岡実〈作品ノート〔首長族の病気〕〉の全文を録する。

 昭和三十四年十一月三日の朝日新聞のかこみ記事『ビルマの〔「〕クビナガ族〔」〕』から取材した。今なおかかる奇 習の人たちが いることに悲痛をおぼえる。半分は記事を忠実に写し、あと半分はぼくの虚構である。或る種の材料をもとに一篇の詩を書いたことは、ぼくの詩生涯において初 めてのことである。(《日本詩集 1961-1》、二〇八ページ)

〈波よ永遠に止れ〉本文のこと(2003年3月31日)

T 放送詩集〈波よ永遠に止れ〉

一九九二年に書いた文の一節を再録する。

〔長篇詩〈波よ永遠に止れ〉の〕初出には本文後に註記として「(本稿より八十行を削除して〔一〕九六〇年五月一一日 NHKより放 送)」(《ユリイカ》、 1960年6月号、五三ページ)とあったが、刊本では省かれている。二六〇行から八〇行を減じると一八〇行となり、例えば〈崑崙〉ともそれほど差がなくな るが、残念ながら削除版の形態は調べられなかった。三つ以上の節での合計が八〇行の組みあわせも考えられなくはないが、わたしにはどうも全体に影響が出な いように、各所で抓んだように思われる。逆に言えば、これは要約可能な作品だったのだ。いったい〈波よ永遠に止れ〉を除いて、吉岡詩に簡略版(作者自身の 手によるものであっても)の存在を許す詩がありえるだろうか。この長詩の最後の、そして最大の特徴は、全長版と削除版の二種の本文が存在した(はずだ)と いう点にある。(文藝空間会報21〈「矢印を走らせて」――吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(7) 詩篇〈崑崙〉〉、1992、一三ページ)

「簡略版」の存在を措定して勝手に結論づけているのがご愛敬だが、「一八〇行」の〈波よ永遠に止れ〉は、この文を書いたあとも気がかり だった。そこ へ入沢康夫さんの〈「波よ永遠に止れ」の思い出〉が現われた。その〈付記〉全文を引く。

放送の録音と「ユリイカ」誌のテクストとを比べてみると、厳密には1〜11の章番号と詩句六十一行が削られ、また四 カ所に小さな 語句の改変がある。吉岡氏 は、この本番録音に立ち会って居られるのだから、これらの削除や改変は、作者の承認の上でなされたと判断してよいだろう。ただし、思潮社版『吉岡実詩集』 での形では、右の削除や改変は採られていなくて、それとは別に五カ所の異文がある。(《吉岡実全詩集 付録》、筑摩書房、1996、六ページ)

「詩 句六十一行」とあり、これに「章番号」の一一行分を足しても、七二行にしかならない。七二行は八〇行ではない。さあ、ますますもってわからなくなった。こ れは音源を文字化して検証する以外にないと、《吉岡実全詩集》の編者でもある入沢さんにご無理を言って、放送の録音をカセットテープにダビングしていただ いた。校合の結果、ようやく「八〇行」の謎がとけたのである。

ここで〈波よ永遠に止れ〉各稿を略記しておこう。

  • =放送詩集用の原稿〔吉 岡実の日記(*1)によれば、1960年4月 15日に脱稿〕
  • =放送詩集収録時の改訂原稿〔遅くとも5月10日の本番録音(*2)ま でに完成〕
  • =《ユリイカ》掲載稿〔1960年6月号〕
  • =思潮社版《吉岡実詩集》所収稿〔1967年10月1日刊〕
  • =筑摩書房版《吉岡実全詩集》所収稿〔1996年3月25日刊〕

私はを見ていないが、の 入稿用原稿でもあろうから、以下の論旨に影響はない。吉岡実か編集者の 伊達得夫が註記として「(本稿より八十行を削除して一九六〇年五月一一日NHKより放送)」と原稿に書いたと き、まだ《ユリイカ》には 〈波よ永遠に止れ〉が掲載されていないから、「本稿より八十行を削除して」は、の誌面ではなく入稿用原稿用紙上 の状態を指すだろう(ちな みに《ユリイカ》では一行三〇字詰めで組まれており、折りかえしで二行に亘る詩句三箇所を含んで、総二六〇行、詩句の数二五七)。行数を確認するために は、(つまり)が一行何字詰めで書かれていたかが知りたい。または、 陽子夫人がをもと に新たに書きおこしたものかもしれない。吉岡家に保存されているかもしれないこれらの原稿を見ることはかなわないから、吉岡の原稿の書き方を検証すること から迫ってみよう。なお、の底本である。

小林一郎作の篆刻「吉岡實」 〔もろだけんじ句集《樹霊半束》、文藝空間、1989、七ページに押印〕
小林一郎作の篆刻「吉岡實」 〔もろだけんじ句集《樹霊半束》、 文藝空間、1989、七ページに押印〕

――このページ先頭の詩篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿は、 篆刻のお返しに吉岡さんからちょうだいしたものだ。新潟市美術館の《永遠の旅人 西脇順三郎 詩・絵画・その周辺》展に出品したのと同じものをわざわざ書いてくださった(もはや「草稿」ではなくペン書きの「書」である)。この原稿用紙は辻井喬さん からいただいたと伺った。――

残念ながら私は、吉岡実自筆の詩稿をほとんど見たことがない。そこで写真版で草稿を調べてみる と、三二字×二〇行という「草蝉舎」の名入りの特注原稿用紙に、上下にアキを取って書いていることが多いと判る(《現代詩読本――特 装版 吉岡実》口絵などを参照)。しかし、〈波よ永遠に止れ〉はこの特注用紙にではなく、市販の二〇字詰めの原稿用紙に書かれたのではないか。放送詩集は一五分 間という時間の制約上、「四〇〇字詰め原稿用紙で何枚」という執筆依頼だったと想像されるからである。〈波よ永遠に止れ〉が二〇字詰めの原稿用紙(吉岡は 随筆をコクヨ製のペラ〔20字×10行〕に書いたりしている)に書きおろされたと仮定してみる。節を三行ドリにすると、四〇〇字詰め で二〇枚になる。(こ の場合、の替わり)と(の替わりのラジオ放送録音の文字化)を付きあ わせるとどうだろう、みごとに「八〇行」ちょうど削 除されているではないか(ただし、詩句の始まりは一字下げで、厳密には一九字詰め。二行に亘った場合、その行は天ツキか)。以下に、か らを 作るに際して削除された行だけを掲げる。

  1. ロバの背にのせられたまま
  2. 女のような泣き声をあげたのを救けた
  3. 女中はサルト人にさそわれると
  4. 白楊の木の茂みへ
  5. ときには聖なる墓地をよごしに行く
  6. 祈祷師の太鼓のなりやむ暁まで
  7. 悪霊のおどりをおどるのだ
  8. わたしも宣教師も
  9. 女中もひとりねの眠りにおちるだろう
  10. 毛皮の男はいつ戻るか
  11. 舟の竜骨のようなたくましいその男を
  12. わたしは信頼して待つ
  13. 明日という朝 あさってという朝
  14. わたしはここ数日
  15. 輻射熱と大気のなかにある塵の量と
  16. 温度の密接な関係を調査して暮す
  17. 宣教師は
  18. すさまじい砂嵐の吹かぬかぎり
  19. 印度の金融商人の夜のみだらな酒宴によば
  20. れる
  21. 踊る女のへそにはめた虎眼石が輝く
  22. 深くて戻るすべのない闇
  23. わたしはいまだかつて宣教師が祈りをあげ
  24. ているのも
  25. 土民の病人の看護する姿もみとめない
  26. 彼も一度は心をこめて祈る時がくる
  27. みずからが突然の死にくびられる時
  28. 滴れない桃のしずく
  29. 滴れない梨のしずく
  30. 土民のかきならすジイザーという楽器を
  31. 女中が天幕の入口で奏でている
  32. 刑罰をうけた人間の魂がもつメランコリイ
  33. 水槽のなかの水が少しずつ泡だつような夜
  34. 毛皮の男が戻ってきた 八頭のらくだをつ
  35. れて
  36. それぞれのらくだの背につまれた乾草の匂
  37. いは甘く
  38. わたしは緑地地帯の涼しい水が快く回想さ
  39. れる
  40. パンを焼くマラル・バシイの村の景物とと
  41. もに
  42. 毛皮の男は白楊樹の太い幹へ
  43. 斧を一撃うちこむとその下へ寝る 生きづ
  44. いている毛皮
  45. 大小さまざまならくだを円形につなぐ
  46. 蘆を気ままに食べるのをみながら
  47. わたしは一箇の絵を鑑賞しているやすらぎ
  48. をおぼえる
  49. 女中は恋人にふたたび会えたような〔ママ〕はしゃ
  50. 毛皮の男のために食事の準備をする
  51. 卵を割り マカロニを炒め
  52. 一羽の鶏の首を斧で断つ
  53. わたしにはこれらのこともまた牧歌的な絵
  54. 天幕の入口からただちに砂漠へつづいてい
  55. る行程
  56. これから幾日かわが愛すべき砂
  57. わが憎むべき砂
  58. 未知の森 未知の空
  59. 未知の河 未知の水平線
  60. 未知の世界を進むためには
  61. たがいに頼らなければならないわたしたち
  62. いきものたち
  63. 門出を祝福する数十枚の支那の青銅銭が空
  64. へまかれた
  65. 毛皮の男も女中も知らない まぼろしの湖
  66. 翌日の真昼 天幕を取り外したら 敷物の
  67. 下から
  68. 一吋半のさそりがとびでたのに驚く
  69. この人間の棲まぬ果で一人の男に出会う
  70. 塩を求め山中へ入って行く孤独な 塩採取
  71. 人が地上での最後の人間
  72. 新鮮な水を得ることのできる最後の土地
  73. 千度も千歩を行く
  74. わたしは故国への帰路につく
  75. ゆれる船 かたむく帆柱 さらば陸地よ 
  76. さらば砂漠よ

番 号がどの「節」に属するかを記す。1〜7番=「2」、8〜13番=「2」、14〜34番=「4」〔すなわち「4」全体を削除〕、35〜56番=「5」、 57〜65番=「5」、66〜67番=「6」、68〜69番=「8」、70〜72番=「8」、73〜76番=「9」、77番=「9」、78〜80番= 「11」。

(つまり)からへ の手入れで目立つのは、入沢さんも指摘してい る、節の数字の削除だ(放送では、砂嵐や水音、風音の効果音などで区切れを表わしていた)。二箇所の「われわれ→わたしたち」は全体の統一のためと思われ る。入沢さんの「また四カ所に小さな語句の改変がある」というのは、次の点か。

  1. あとかたもなくなってしま〔う→った〕(「3」)
  2. 水槽を積んだ〔背高→(トル)〕らくだがころんだ(「7」)
  3. 再び砂丘が十呎の高さで〔疲れた→(トル)〕キャラバンをとりかこむ(「7」)
  4. そのまわりを犬と鶏が〔深い→(トル)〕関心をよせて見守る(「7」)

入沢さんの「詩句六十一行が削られ」は、先の1〜80番をの 《ユリイカ》掲載稿で数えなおすと、二〇字詰めの原稿が三〇字詰めの誌面になることによって六二の詩句となるので、同じ状態を別様に言っていると思われ る。最初に私が想像した「一八〇行」の〈波よ永遠に止れ〉は存在しなかったのだ。「それとは別に五カ所の異文がある」は特定しにくい。表記の問題とも絡む ので、興味ある読者はの間の異同を調べるのがよろしいかと思う。

私は一九九二年に「吉岡が 本作を単行詩集に入れなかったのは、決してヘディン=岩村〔の《中央アジヤ探検記》〕に依拠したからではなく、作品の構造が他の吉岡詩全作と対立する「削 除のきく本文」で成立していたからではあるまいか」(冒頭の引用に同じ)と書いた。今もこの言を訂正する必要はないと考えるが、私はこの長篇詩が、活字版 も朗読版も好きだ(現に、パソコンのデスクトップでサウンドファイルを再生しながら、これを書いている)。

*1  「〔昭和三十五年〕四月十五日 四十一歳 の誕生日。〈波よ永遠に止れ〉夜十二時に完成。陽子に浄書してもらう。」(《吉岡実詩集》、思潮社・現代詩文庫14、1968、一二三ページ)

*2  「〔昭和三十五年〕五月十日 夜八時、雨 の中をNHKまで歩く。放送詩集〈波よ永遠に止れ〉の本番録音。演出遠藤利男、声優若山弦蔵。」(同前、一二四ページ)

U ヘディン〈中央アジア探検記〉より

ヘディン《中央アジヤ探検記》(岩村忍訳、創元文庫、1953年9月30日)表紙 〔吉岡実が依拠した刊本か〕
ヘディン《中央アジヤ探検記》(岩村忍訳、創元文庫、1953年9月30日)表紙 〔吉岡実が依拠した刊本か〕

吉 岡実が〈波よ永遠に止れ〉を執筆するにあたって依拠したと思われる刊本は岩村忍訳によるヘディン著《中央アジヤ探検記》(創元社・創元文庫 D78、1953年9月30日)である(詳細は、前掲〈「矢印を走らせて」〉、九ページ以降を参照されたい)。以下に、吉岡詩と呼応する本文を引く。末尾 の( )内の数字は引用文の掲載ノンブルである。

この日イスラム・ベイはヤルカンドか ら帰り二箇のチェレック(鉄製水槽)・胡麻油・駱駝の食料の籾殻・石油・パン・タルカン(炒麦粉)・蜂蜜・ガウマン(マカロニ)・麻袋・鋤・鞭・駱駝用器 具・鉢・湯呑、其他多くの必要品を買求めて来た。〔……〕最近数日間私は輻射熱と大気中に存在する塵の量との間の密接な関係を調査する好機会を捉えた。 (18)

この日夕刻私は守備隊長等から羊を贈られ、又印度人の金融商人は馬鈴薯にチーズを持参した、この夜は彼等と宴会を催 した後セタール(ジイザー――一種の絃楽器)とグアーリン(小型の竪琴)の演奏に打ち興じた、この土民の楽器はゆるやかな調子で奏され快い響を発した、少 しくメランコリーを籠めた音楽ではあったが。〔……〕最近の市場日のことであったが断食中に或男が日出前に食物を口にした、忽ち捕縛されて鞭打たれた後、 両手を背中で縛りつけられ市場の中を引かれて歩いた、(21)

祈祷師は病人の横たわる部屋に入り石油ランプの燃え上る焔にじっと見入る、そして彼等はこの婦人には悪霊が憑いていると宣言する。 太鼓が鳴り始 め病人の友人等は部屋の内外に集る、(24)

か くて沙漠横断の準備のためにマラル・バシイに滞在中私はタクラ・マカン沙漠に埋れた廃墟に就いての話を聞き出すことができた。/それはもう八十になる老人 が話して呉れたのであった。我々がタクラ・マカンの流沙を横断する計画を持っていると聞いてこの老人はわざわざ私の宿に尋ねて来た。この老人がまだ若い頃 のことであったそうであるが、コータンからアク・スウに旅をした男を知っていた、彼は流沙中に道を迷い図らずも古代の都市の廃墟に行着いたがそこで多数の 支那沓が散乱しているのを見出した、それは手を触れるや否や忽ちにして塵の如く崩れ落ちて跡かたなくなってしまったとのことである。また或男はアクサク・ マラルを出発して流沙中に入り偶然に都市跡に行き当り、廃墟の中に多くの金銀貨の散在しているのを見出し、できるだけ懐中に捻ぢ込んだ上ちょうど持ち合せ ていた袋にも一ぱい填め込んで、いざ帰ろうとするとどこからともなく山猫の大群が現れて躍りかかって来たので、恐怖のあまり折角の獲物を投げ捨てて逃げ 帰った。後に勇気を鼓して再び廃墟を尋ねてみたが遂に再びその場所を見出すことができず、この神秘の都市跡は流沙の中に永遠に姿を消してしまっていた。 (28)

此等の口碑は決して軽蔑し一笑に附し去るべきものでもなければまた等閑にすべきものでもない。〔……〕水平線の彼方 に起伏する砂丘のなだらかな形も亦こよなく気高く映じ、見ても見倦きぬものになった。砂丘を越えて彼処には墓場の如き沈黙の中に最も古い文書にも、記録に も、かって記載されなかった未知の憧憬の地、そして今や自分が最初の足跡を印すべき地が横たわっているのであった。(30)

イスラムとヤクブは〔……〕カルガリックで一頭六ポンド十ペンスの割合で八頭の立派な駱駝を手に入れることに成功した。(31)

アク・ツヤは大きな美しい駱駝で重い鉄の舌を持つ鈴の綱をつけていたものだから、沙漠を横断し終って間もなく極度の疲労から斃れて しまった。 〔……〕これらの全部には各各乾草と藁とを詰めた鞍がつけられた。(32)

一八九五年四月十日はメルケットの年代記に記載されるに足る日であったかも知れない。庭という庭、あらゆる家の屋根と云う屋根は群 集で埋り、我 々一行の出発を見送った。(37)

群集の口々にする縁起の悪い予言の中に唯一つ私の門出を祝福して呉れたのは、私が駱駝に進行を命じた時、印度人の金融商人が数十枚 の銅銭(真中 に四角い孔の空いた支那の青銅銭)を私の頭の上で撒いて、「御無事に」と云ったことであった。(37-38)

宣教師ヨハネスはすでにライリックで私と共にタクラ・マカン横断を試みるつもりはないと申出ていた。(38)

アジヤの美しい春がかくて我等の周囲に訪れて来たのだ、〔……〕この瞬間を回想する時私は常に葬列の行進を思い出さずにはいられな いのである。 (39)

半 時間後我々は全部の荷物を駱駝から下し、駱駝を円形に繋ぎ、膝を折ることによって起る脚の麻痺を防ぐようにした。こうして二時間ばかり立たせておいた後に 蘆を自由に喰ませるために綱を解き放った。多くの荷物と動物を擁する我々のキャンプは宛然一箇の絵画であった、そしてこの光景はこれら総べてが私のものだ と云うことを考える時、私にこよなき満足感を与えるのであった。〔……〕こうして我々のキャンプの光景は全く一枚の牧歌的な絵であった。(42)

強い北東風がキャンプを吹き鳴らし大気は塵を一ぱいに含み、テントの極く附近以外の視界は灰色に朦朧と霞んでいた。(43-44)

こ れらの丘梁の二、三で水槽を運んでいる駱駝が転んだが幸いなことには共に前脚をついたのみで事は済んだ。それでもなお我々は転んだ駱駝の背から荷物をおろ してやり又再び積む手数をかけなければならなかった。駱駝は後脚を制動機として使用してきわめて巧みに砂の傾斜面を降りた。ちょうど正午に我々は高い砂丘 に閉じ籠められ、已むなくこの砂丘の間を脱するために北方に一時進路を変えた。〔……〕北東風は終日吹きつづいた。空は灰色に曇り、変に冷たかった。 (44)

その近くには枯れた白楊樹が数本立ち並び我々はその枝で火を燃した、また駱駝には蘆の葉を飼料に与えた。〔……〕二 つの丘陵の間に湿った砂地を発見したのでそこに井戸を掘り二呎半にして水に達した、〔……〕塵は羊毛の如く柔かく、そして二、三の場所では駱駝の膝を没す る程深いところもあった。時々駱駝の蹄の下で音を立てて崩れる薄い結晶塩の殻が砂地の平坦な部分に拡がっている場所もあった。〔……〕第三キャンプにおい ても例の如く二人の男は井戸を掘ったが、六呎以上掘り下げることができず水はなお出てこなかった。(45)

犬と鶏は常に頗る 関心を寄せて井戸を掘るのを見守っていた。〔……〕ヨルチはその方向にはエシル・コール(緑の湖)と称されている大きな湖があると云った。然し彼自身も、 また彼の知っている何人もその湖を見たことはなく、ただ彼はその存在を耳にしていただけのことであったので、この説はただその程度の確実性を有するものに すぎなかった。(46)

約十一哩半ばかり進んだ後に偶然水溜りにぶつかった、私はカシムにその水を味わって見るように命じたところが、一口飲んで彼は「蜜 のように甘 い」と叫んだ。49)

羊の最初の一頭をここで屠殺し、血と屑肉は犬に与えた。(50)

我々は次第に未知の大沙漠にさしかかりつつあった。(51)

ここで先端が南及び南西に向っている孤立した砂丘の上に今宵のキャンプを張ることにした。(54)

テントを取り外した時絨毯の下に一吋半ばかりの長さの蠍がいるのを見つけたが、この毒虫は棲家を荒らされたのでその恐るべき尾で螫 そうと暴れま わった。〔……〕この日の行路は草原であったが、この草原にはきわめて多くの谿谷と沼沢とが存在していた。(55)

湖沼と山との間を縫って我々は先ず東を目ざして進んだ後、この山の支脈を迂回するために北東方に進路を変えた。(55-56)

鷹が鶏の上をしきりに旋回していたが、旋条銃の射撃に驚いて飛び去った。(56)

耳に聞える唯一の音は蚊と蚋の低い唸りと沼沢中の一匹、二匹の蛙の鳴き声と遥か彼方の空を翔る雁の叫びとそして時々蘆の中から響く 駱駝の鈴の音 のみであった。〔……〕以後二週間私の心はしばしばこの地上の楽園の思い出に飛ぶのを制し得なかった。(57)

この男はこの地方に塩の採取に来ていたので山中には多量の塩があるとのことであった。(58)

この辺を最後として我々はもはや新鮮な水を得ることができなくなるであろう、(59)

一同はこの砂丘をヤーマン・クム(憎むべき砂)とかチョン・クム(大きい砂)とかまたイグイズ・クム(高い砂)とか呼び、その頂の ことをベレス (狭い路)と称した。(61)

「進め、進め」と沙漠の風が囁いた、「進め、進め」と駱駝の鈴が響いていた。目的地に達するためには千度も千歩を行く、しかし後退 は一歩でも呪 いあれ。〔……〕ただ水槽を積んだ二頭の中の一頭が転んだのみであった、(63)

二、三の迷った蛾がテントの中の燈をめぐって飛びまわっていた、(65)

カラヴァンは蝸牛の如くのろのろと進むのみであった。我々は砂丘の頂に登るごとに四方を見渡すのであったが、いずれの方向を見ても ただ同様の単 調な悲観すべき眺め――相互に入り交じる砂丘――岸辺なき大波の大洋・微細な黄砂でおおわれた山脈――のみであった。(68)

可哀そうな犬のヨルダッシュと羊は渇きのために死にかかっていたので水を与えた。ヨルダッシュは水の音を聞いた瞬間は全くの狂気の ようになっ た。(69)

一般にこの粘土の地表は二檣帆船の甲板の程度の面積を越えることはなく、絶えることなく連続的に積層運動を続けている砂丘は粘土の 地表に砂を灌 ぎ、それを覆う傾向にある。(70)

この朝以後駱駝には一滴の水も与えられなくなった。(71)

砂丘を越えて我々は進まなければならなかった、かくて墓地への葬列の如く駱駝の鈴の悲しげな音と共に進むのであった。(76)

そして彼方の氷に閉された父なる山の氷雪を溶かせ、而してその鋼の如き青い氷河から流れ出でその山腹に泡を立てて流れ下る冷たい水 晶の如き水の 一杯を我に与えよ。(77)

この水は黄金と同様に看視されなければならない。(83)

彼等は蹌踉として歩み、その脚は震え、下脣は力なく垂れ下り、小鼻は開いていた。(91-92)

かくて第三の駱駝を失った、この獣もまた他の二頭と同様に沙漠中の苦痛に満たされた死の罠の中に取り残されたのであった。(92)

一羽の小さな鶺鴒がカラヴァンの周囲を旋回して飛び去った、そして再び我々の希望を醒めさせたのであった。(96)

ところが、夕方になってカラヴァンを率いていたカシムとモハメット・シャーとが一滴も残らず盗んで呑んでしまったことを発見した。 (97- 98)

私 の住んだ家の向う側は甘い香を放つ満開の薔薇と紫丁香花とに充たされ、庭内の小径には大理石片が埋められており、そして庭の中央には水晶のような水を湛え た白大理石の水盤があって、その中心からは噴水が繊細な水柱と水煙とを澄み切った空気中に送っていた。(104-105)

イスラムと他の者達は駱駝の尿を手鍋に一杯溜めてそれに酢酣と砂糖を加えてコップに注ぎ、鼻をつまんでこの奇怪な混合物を飲み込ん だ。〔……〕 しばらくすると他の三人は恐ろしい苦痛を伴う嘔吐を催し、ことごとく地に倒れ伏した。(108)

彼の身体は全く枯れ切って木伊乃の如く細り、彼の銅色の顔のみが彼の中で幾分でも生気を保っている部分であった。(111- 112)

たとえ砂中を這いずる昆虫の如く匍匐しても私はこの難関を切り抜ける、と決心を固めたのであった。(115)

また遥か東方を望んでコータン河の森の方向を示す牧羊人の篝火でも見えはしまいかと熱心に捜し求めた。(116)

私は今や私の良心と頭上に輝く星以外には何等の伴侶も持たぬのだ、ただ良心と星のみが私の見得るもの、そして知り得る唯一のもので ある、同時に 良心と星とは私が今歩んでいる途が死の影の谷ではないと云う想念を私に吹き込んだ。(124)

私は鋤の柄を携え、それを杖として又必要な場合には武器にするつもりであった。(129)

睡 りに落ちないためには意志の力を鋼鉄の如くにする必要があった。〔……〕東の方向は冷たい夜霧に全く閉されている。〔……〕灌木と葦の叢。〔……〕河岸の 数碼近くまで行き着いた時、私の跫音に驚かされて飛び立った鴨が矢の如く飛び去った。水音を耳にし、そして次の瞬間に私は新鮮な冷たい水――美しい水―― に充たされた小さい水溜りの際に立っていた。(130)

水を飲む前に私は脈を計った、この時、脈拍四十九。〔……〕葡萄から搾り出した最善最美の酒――あのギリシャの神々の美酒――とい えどもこの水 の半ばも味もなかったに違いない。(131)

未来は茫漠として彼方に微笑み、人生の悲痛、惨苦など云うものは私にとってこの時は全く嗤うにも値しない空事のように思われた。 (132)

ス エーデンの私の靴は完全な防水靴で一滴の水も通さない。私は靴に一ぱい水を充たし、カシムを求めて道を引き返した。恐らくアジヤ大陸を横断した上、一人の 生命を完全に救った靴を製造したのは、この私の靴を作った靴屋が始めてのことであったに違いない。/月は未だその柔かい光を河床の上に投影していたので、 砂地に刻された足跡を辿るのは別段困難ではなかった。(133-134)

――

そ こでは、人間の意志も水流の巨大な力も、同様にその狂暴さを征服し得ない。恐るべきタクラ・マカン沙漠が地上の森羅万象を支配する神の名において「この地 まで来れ、されど此地より進む勿れ、此地において汝等誇らしげなる波よ、永遠に止れ」と宣言しているのである。(250)

●引用文の繰りかえし記号はそのまま再現できないため、漢字やひらがなに 開いた。また、ふりがなも省いた。
●引用文中の〔……〕は中略を、/は改行を表わす。
●同書の〈前編 タクラ・マカンの横断(第一章――第十五章)〉の目次を掲げる。

  • 第一章 カシュガールからマラル・バシイへ(8-16)
  • 第二章 沙漠の入口(17-27)
  • 第三章 流沙中の「死の都」に関する口碑(28-30)
  • 第四章 メルケットより沙漠へ(31-40)
  • 第五章 沙漠の外辺(41-52)
  • 第六章 地上の楽園(53-60)
  • 第七章 沙漠の呪詛(61-69)
  • 第八章 駱駝遂に倒る(70-83)
  • 第九章 水遂に尽く(84-98)
  • 第十章 死の宿営(99-110)
  • 第十一章 危機到る(111-118)
  • 第十二章 最後の行進(119-130)
  • 第十三章 人間の足跡(131-137)
  • 第十四章 コータン河の羊飼(138-148)
  • 第十五章 森林中の憩い(149-157)

●おしまいの引用文は、最終章(〈後編 ロプ・ノールへ(第十六章――第 二十五章)〉の〈第二十五章 移動するロ プ・ノール〉)の最後の一文である。


吉岡実の話し方(2003年2月28日)

吉岡実は、朗読会や講演などの公開の席に出ることがなかったから、その話ぶりを知る人は限られていよう。ここに明治大学詩人会の忘年会(1984年12月9日、東京・下北沢)でのスピーチの録音があるので、所蔵のテープから起こしてみよう。
司会者の「今日は明大詩人会のためわざわざおいでくださいまして、ありがとうございました。それでご来客の言ということで、入沢〔康夫〕先生と吉岡実さんにひとことずつお願いします」の口上のあと、拍手で迎えられた吉岡は一分三〇秒ほどスピーチをしている。

「明大詩人会なんてぜんぜん関係ないですけれど(笑)。たまたま縁があって、明大詩人会のなかの《洗濯船》がぼくの特集をやってくれて、あれはたいへんに、いや想像以上にすごい良いのができている。このあいだ朝吹〔亮二〕さんに会って言ったら、『あれはとても良いものができている』と。ぼく自身も思っているんだけど、やっぱり周りの、ことに若い詩人やなんかおそらくそう思っていると思いますけど、なかなか宣伝も効かないんで、あんまり売れてないんじゃないかと思うけど。
まあ、明大詩人会がどうの、発展しようとしまいとかまわないんですけど、《洗濯船》は所期の目的を達成して、十号、良い特集でやっていただきたいと。
みなさんだいたい、社会人になると、結局ある夢が破れていっちゃうということのほうが多いと思います。だからよっぽど心を決めないと、ものを書いていくことはできないんで、みなさん夢としては物を書くことを、ここにいる人は思っていると思うんですけど、まあそこはよっぽど腹をくくって、がんばって。せっかくものを書こうとして一回でも思った以上は、初志を貫いてほしいと。それが心構えです。」

同会に所属していなかった私がこの席に連なったのも奇縁と言うしかないが(明大にはモグリで飯島耕一さんの〈アポリネール〉を聴講しに行った)、吉岡のスピーチの後段は肝に銘じたものだ。
私にとって、なんとも懐かしい吉岡実の話し方である。〔MP3ファイルで約880KB〕


吉岡実の拳玉(2003年2月28日〔2006年9月30日追記〕)

一九六八年の〈吉岡実年譜〉に、私は一二月に続けて「月不明」のつもりで次の各項を記載した。

《不思議の国のアリス》やハンス・ベルメール《人形写真集》に魅せられる。富岡多恵子や白石かずこの詩を愛読。代々木上原の高柳 重信宅を初めて訪問。曾根中生〈性盗ねずみ小僧〉〈色情姉妹〉、神代辰巳の〈一条さゆり・濡れた欲情〉、田中登〈人妻集団暴行致死事件〉などの日活ロマン ポルノ映画を観る。澁澤龍彦に拳玉を贈る。拳玉は子供のころから「達人」を自称する腕前だった。(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991、二九六ページ)

「拳玉を贈る」の項は、この年の一月に加藤郁乎と澁澤邸を訪問したときのことだと後にわかったが、拳玉になみなみならぬ自信をもっていた澁澤が吉岡 の技に、「百発百中、まさに神技と呼ぶにふさわしいもの」(〈吉岡実の断章〉、同前、一六五ページ)と脱帽したように、興至れば披露に及んだ。一九八〇 年、〈現代詩オブジェ展〉に「蓋のない赤い木箱に入った白塗りの拳玉を出品」(〈吉岡実年譜〉、同前、三〇〇ページ)した吉岡作品を観たが、オブジェは非 売品だったし、図録もない小さな展覧会だった。このオブジェは、吉岡の拳玉に寄せる想いなくして生まれなかっただろうが、私にはこれが「作品」という名の 孤絶の男根のように思えてならない。〈雨〉(F・9)の「老嬢ルイズ・ニーヴェルスン」やジョゼフ・コーネルのレミニサンス(無意識的記憶)が働いている ようだ。

〔2006年9月30日追記〕
〈現代詩オブジェ展〉(1980年7月10日(木)〜15日(火)/AM10:00―PM6:00/新宿・紀伊國屋画廊〔……〕/思潮社〔……〕)の案内 ハガキに吉岡実の拳玉作品をメモしたもの(のモノクロコピー)が出てきたので、スキャン画像を掲げる。図ではわかりにくいが、木箱の小口(幅数mmの細い 四角い断面)には細かいギザギザの山型が刻まれていて、吉岡が加工したのか既成の木箱がそうだったのかは不明だ。メモの文字がコピーで読みづらいので、以 下に起こしておく。

出品作品(非売)
〔縦〕約25cm 〔横〕約12cm 〔高さ〕約5cm 〔引出線、上から〕ひも/白く塗ったけんだま/玉の真上から出た白くぬられたひもがからまっている。/赤く塗った木箱

〈現代詩オブジェ展〉(新宿・紀伊國屋画廊、1980年7月)の案内ハガキに吉岡実作品をメモしたもの(モノクロコピー)
〈現代詩オブジェ展〉(新宿・紀伊國屋画廊、1980年7月)の案内ハガキに吉岡実作品をメモしたもの(モノクロコピー)


吉岡実本の帯文の変遷(2003年1月31日 〔2004年9月30日追記・2014年7月31日修正〕)

吉岡実の初期の詩集(すなわち《昏睡季節》から《静かな家》まで)や歌集《魚藍》、詩《異霊祭》に帯はない。ここでは、書誌情報以外の 惹句ふうの帯文を録して、その変遷をたどってみよう。

元版の刊行順でいくと、歌集《魚藍〔新装版〕》か らになる。「中井英夫氏評 ひんやりと冷たい陶磁器の感触で磨きぬかれた吉岡実氏の詩とその言葉に、うっすらと淡い指紋が残されているなら、それが短歌と よばれるなら、私は素人探偵のように拡大鏡を手にし、しばらくその指紋を眺めていたい。」(表1)。わたしはこの評を読むたびに、なぜか萩原朔太郎の短歌 と詩を連想してしまう。

次が書 肆ユリイカ版 《吉岡實詩集》だ が、あいにく手許に帯の現物がない。吉岡家蔵本には帯があったし、書影でもその存在を確認してはいるが、今日まで帯付きの古書に出会ったことがない。発行 者の伊達得夫が〈吉岡実異聞〉で「詩集『僧侶』は一冊残らず売切れた。ぼくはすでに前詩集『液体』『静物』を加えた『吉岡実詩集』を発行していたが、それ もたちまち版を重ねた……。」(《詩人たち――ユリイカ抄》、日本エディタースクール出版部、1971、一三四ページ)と書いた二刷(以降)に付いていた のだろうか(ただし、奥付に二刷等の表示はない)。
〔2004年9月30日追記・2014年7月31日修正(帯文実見)〕
なかなか現物を拝むことができないので、やむをえぬ措置として書影(写真版)から帯文を起こしてみる。
「詩壇に最大の波紋を投げた問題の詩集
僧[旧字]侶 全篇収録
内容 第1詩集 液体 第2詩集 静物 第3詩集 僧侶 未刊詩篇集
ユリイカ版」(表1・全文)
「H賞「僧侶」全篇収録」(背・全文)
「300円」(表4・全文)

「No. 42492 吉岡実詩集 今日の詩人双書5」の表1と背
「No. 42492 吉岡実詩集 今日の詩人双書5」の表1と背(出典:玉英堂書店
吉岡実 1冊 価格: 22,000円/初版 扉シミ 三方少シミ 折込カバー・帯背少ヤケ/書肆ユリイカ 昭34

思潮社の《吉岡実詩集〔普 及版〕》の第四刷は一九七八年四 月二〇日の発行で、初版にはおそらくなかった帯が付いている(一九七七年一月二〇日発行の第三刷にも付いていたかもしれない)。「高見順賞受賞詩人」 (背)、「吉岡実(高見順賞受賞詩人)の五冊の詩集を網羅」というタイトルで「独自な感受性の尾を垂らし、粘液質の絢爛無残な幻想を増殖しながら、抜群の 美学に彩られた無間地獄を展開する著者の処女詩集『液体』及び『静物』『僧侶』『紡錘形』『静かな家』全篇。」が表1の文章だ。表4の「彼の詩は、非常に とおくから、あるいは極端に近くから、物や人間を見ている視点から出てくる。彼は見る人であり。触れる人である。……彼の詩は、難解で特殊に見えても、普 遍性を極端に求める。」(飯島耕一)は、現代詩文庫版《吉岡実詩集》の作品論として書かれた文章から。
塚本邦雄が《日本読書新聞》一九六七年一一月六日号に寄せた《吉岡実詩集》(《吉岡実詩集〔普及版〕》の元版)書評から引く。「巻中諸作に時代的な背景や 作者個人の私的な動機があろうとあるまいと、もとより私に興味は無い。すべて抜群の美学を兇器として、読者を無間地獄に誘い、かつは苛む魔であり、その抵 抗を許さぬ存在感こそ、吉岡実を他とわかつものだ。これらの詩篇は、恐らく作者自身さえ予測、関知しなかった、もはや救済不能の世界を視、そこに半身を浸 して、粘液質の絢爛無残な幻想を自己増殖しつつあるのだ。」(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991、一一二ページ)。まだ《僧侶》の印象の濃い一九六〇年代末ならともかく、すでに《サフラン摘み》も出ている一九七八年にこの 帯文だと、読者は違和感を覚えたのではあるまいか。

湯川書房の《神秘的な時 代の詩〔限定版〕》の帯には書 誌情報しかないが、《神秘的な時代の詩〔普及 版〕》には「吉岡 実/1967〜72年詩集/「マクロコスモス」「三重奏」「コレラ」等収録/書肆山田」(表1)とあり、当時の雑 誌の広告にも、〈三重奏〉からの詩句が使用されていた。

吉岡本に帯付きが常態となるのは、詩集《サフラン摘み》を もって嚆矢とする。「吉岡実/青土社」(背)、そして「肉声のひびく形而上的地平」というタイトルで「猥褻にして高貴、滑稽にして厳粛な暗黒の祝祭を凝視 し、死とエロスの混沌たる風景を通して、現代詩に新しい位相を拓いた著者が、詩的爛熟の頂点で放つ問題の新詩集」が表1の文章だ。表4には同社の新詩集シ リーズの書目一〇冊が挙げられている。
吉岡実の〈日記抄――一九六七〉の七月三日にこうある。「〔……〕ネロ・ヒジカタの奇怪にして典雅、ワイセツにして高貴、コッケイにして厳粛なる暗黒の祝 祭。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一三〜一四ページ)。こうして、吉岡が土方巽の暗黒舞踏《形而情学》を評した言葉は、はし なくも吉岡自身の詩世界の形容として人口に膾炙していくことになる。
《サフラン摘み》は高見順賞受賞後の「三版」(1977年1月15日発行)では、背の著者名の脇に「高見順賞受賞」と入り、表4は次の四氏の評に差し替 わっている。

●丸谷才一氏評(朝日新聞「菊なます」)
今年いちばん楽しんだ詩集は吉岡実の『サフラン摘み』だった。『静物』や『僧侶』のころの魅惑がもっと味の濃いものになって差出されていて、妙な酔い心地 になるのだ。
●大岡信氏評(朝日新聞「文芸時評」)
詩の全体は、きびきびとうねりながら、不思議な想像世界の海や陸地、猫や少女たちのいる景色を通り抜け、はては凝然と虚無の世界に身をさらすところまで 行っているようにみえる。
●入沢康夫氏評(読売新聞)
吉岡氏の作品史の上でもまた戦後詩史においても、特筆されなければならない重要な詩集と言えよう。
●安藤元雄氏評(東京新聞)
この詩人を読むと、読者は、それがどれほど幻想的な作品であっても、ことさらの凝視を強制されることはない。「むこうから掃除人が来る」という最後の一行 のように、イマージュは向うから見えて来るのだ。

《夏の宴》は 「《サフラン摘み》以後の/最新詩篇」(背)、そして「聖なる猥褻や厳粛なる人間喜劇の彼方に、死とエロスの混淆する暗黒の祝祭空間を凝視め、自他の声を 溶暗する新しい言語関係を創出して、現代詩に未踏の新領土を拓いた問題の新詩集。」が表1の文章だ。《夏の宴》は《サフラン摘み》と兄弟のようによく似た 詩集だが、帯文にもそれは言える。この詩集における「引用」を、「自他の声を溶暗する新しい言語関係」と規定している点が目につく。

《ポール・クレーの食 卓》の表1には「詩女 神の翼から詩人の掌に落とされた抒情の小さな星星」とある。出版元の書肆山田のサイトでは、それに「二十数年に亘り詩人の篋底に秘められていた献呈詩他二 十一の珠玉の詩篇による拾遺詩集」と続く。

随想集《「死児」という 絵》は背に「全随想 集」、表1は「待望久しい全エッセイ集!!」 というタイトルで「特異な詩的世界を構築しつづけて注目される著者が、1955年から現在まで折々に書いたエッセイのすべてを収録した画期的刊行。詩・短 歌・俳句の人と作品論から自作・身辺・旅などに関して、鋭く事実を見つめ、飾らない率直な文体で綴り、人柄が浮彫りされる大冊。」とあり、表4には標題文 の末尾の一節が引かれた。
《「死児」という絵 〔増補版〕》は 背に「全散文集増補32篇」、表1に「東京本所での生い立ちの記、出征を前に処女詩集を編むこと、詩作をめぐるさまざま、白秋など愛読した短歌俳句につい て、西脇順三郎はじめ詩人との交流記等々、極度に凝縮された文体による、『サフラン摘み』の詩人ただ1冊の散文集。80年版に今回新たに第5部として32 篇を追加した増補版。」とある。
随想集、エッセイ集、散文集……。吉岡自身はこれらを「散文」と呼ぶことを好んだ。

《薬玉》の背は 「新詩集」。表1には「吉岡実――底深くより揺らぎたちのぼる詩魂が天空を裂く霹靂となって駆け下り、虚空に遍在する幻視の地母神を打ち叩き、渾沌たる原 場をあからさまにする――新詩集」とある。もはや、《薬玉》を読みこんだ独自の評と言うべきだろう。

《土方巽頌――〈日記〉と 〈引用〉に依る》の 帯はトレーシングペーパーのような材質で、背は「書下し追悼篇」。表1は「舞踏とは命がけで突っ立った死体である――土方巽」のあとに「前衛詩人と暗黒舞 踏家の二十年にわたる稀有な交流が生んだ書下し追悼篇」とある。次に筑摩書房の《新刊案内》(1987年10月)から引く。「「舞踏とは命がけで突っ立っ た死体である――土方巽」その出会いから訣れまで二十年、前衛詩人と暗黒舞踏家の交流が生み出した詩、詩人の日記、数多くの友人・関係者の証言をコラー ジュし、「聖あんま語彙篇」を中仕切りに、傑作「聖あんま断腸詩篇」に収斂していく一大追悼篇。著者自装。」

《ムーンドロップ》の 背にも「新詩集」とあるが、表1は少しく複雑で、濃いグレーに吉岡の詩〈叙景〉から、やや大きめの文字で「初秋の街路を/(黄金の果物)を抱えた/(少 年)が通り/(模造板)にのせられた/(死者)が通って行く」が半調で引かれ(詩集では四行めが「のせられて」)、惹句は白ヌキで「バルテュス、クロソウ スキー、ベーコンらの作品に穿孔する詩語――絵画の内側で踠〔モガ〕くものたちをひき伴れ、画面の底に身を潜めるものたちを揺さぶり、画布の背後にもうひ とつの宇宙をゆらぎ立たせる詩篇群」とある。吉岡本人のよくなしえなかった製版指定といえる。

《うまやはし日記》は 表1に「昏い空の下を 蒼い光芒となって彷徨う詩人/吉岡実/若き日の記録」、表4に「1938―40年、日常の狭窄の中に敢然とニルアドミラリの視線を放射し、詩句歌の創出と 読書に情念の鼓動を仮託した精神の記録」とある。

《現代詩読本――特装版 吉岡実》の背は「追悼 吉岡実」、表1は「自己侵犯と変貌を繰り返し、ジャンルを超え、時代を超えて、鮮やかな光芒を放った戦後最大 の詩人、吉岡実。その逝去を機に、残された苛烈なテクストに新たな解読を試み、その身体性も含めて、トータルな詩人の姿を浮きぼりにする。」とある。

《吉岡実全詩集》の 背「ヨシキリの/ヨシオカのような/*」は西脇順三郎の詩〈ヨシキリ〉(詩集《鹿門》所収)の一節で、表1は「吉岡実 1919-1990/全詩280篇」とシンプルだ。「280篇」というのはわたしの《吉岡実全詩篇標題索引》を参照してのことだろうが、全詩集に収録され た詩の数を足していくと「280」に足りない(最初に単独で発表されて、のちに別の詩篇に繰りこまれた作品が三篇あることによる)。帯文の篇数は、おおよ そこのくらい、といったところだろうか。

《奴草》の帯文は〈句集《奴草》 が刊行される(2003年4月18日脱稿)〉に引いてある。

《吉岡実散文抄――詩神が住まう場所》の 背には「新刊 詩の森文庫  E06」とシリーズ名が強調されている。表1は白地にジャケットと同じ特色で「詩の森文庫新刊!」、特色ベタに白ヌキで「超現実的なリアリズム/著者は短 いエッセイを書くのさえ呻吟したと言われるが、その文章は名品と評されていた。出来事が現実を超え、反自然的な相貌を帯びてくる。自伝から作詩法にまつわ るもの、西脇らの人物論までを収録。解説=城戸朱理」、そしてシリーズ名、定価、ジャンル(エッセー)。表4には「(本文より)」として〈わたしの作詩 法?〉の一節が引かれている。


画家クートと詩〈模写〉の初出(2002年12月31日〔2016年10月31日追記〕)

いままでにも何度か印刷物に書いたが、吉岡実の詩篇〈模 写――或はクートの絵から〉(E・4)の初出がわからない。
吉岡は既発表の詩篇は初出記録を詩集巻末に掲載しているが、この〈模写――或はクートの絵から〉を収録した詩集《静かな家》(1968)は、単独の詩集以 前、当時の全詩集とも言うべき思潮社版《吉岡実詩集》(1967) に先に収められたこともあって、〈初出一覧〉が載っていない。晩年の吉岡さんに「詩集《静かな家》の初出がわからなくて……」とこぼしたところ、記憶をた どって調べていただいたらしい。歿後に詩集の間からメモが出てきたが、〈模写――或はクートの絵から〉のデータは書かれていなかった、と陽子夫人からうか がった。また、陽子さんからは「初出紙誌がわからない理由は、わたしが白い表紙を付けて綴じてあったのを、そのまま詩集作りに使ったからだと思います〔詩 集のための入稿原稿は、切りぬきなどではなく、陽子夫人か吉岡本人が浄書するのを常とした、と書肆山田の大泉史さ んからおききした〕。昭和43年は3月にマンションを決め、その前、半年は、私1人で探し廻っていた時期で、詩集のための浄書をした記憶がないのです」と お便りをいただいた。
クートはフランスの画家 Lucien Coutaud (1904〜77)で、クートー/クートオとも書く。1963(昭和38)年に来日し、東京と大阪で個展を開いているから、〈模写――或はクートの絵か ら〉はそのあと執筆・発表されたのだと思うが、掲載紙誌さえわからない。このサイトをご覧のかたで、初出(あるいは詩集以前の年鑑等への再録)をご存じな ら、ぜひお知らせください。現在、吉岡実の詩二八一篇中、ただひとつ、初出〔形〕のわからないのがこの〈模写――或はクートの絵から〉なのである。

クートの絵 〔左〕海の研屋(1950)と〔右上〕トリアノンの姫達(1951)〔出典:《みづゑ》558号(1952年2月)のモノクロコピー〕
クートの絵 〔左〕海の研屋(1950)と〔右上〕トリアノンの姫達(1951)〔出典:《みづゑ》558号(1952年2月)のモノクロコピー〕

〔2016年10月31日追記〕
吉岡実の詩篇〈模写――或はクートの絵から〉(E・4)の初出誌が判明した。1963年8月発行、金子兜太編集の俳句同人誌《海程》〔発行所の記載なし、 発行者は出沢三太〕9号〔2巻9号〕がそれだ。ちなみに、初出形と定稿形(詩集《静かな家》収録)の間には、ひらがなの促音(「っ」/「つ」)の表記を除 いて、詩句に異同はない。


吉岡実の年譜(2002年11月12日〔2012年8月31日追記〕〔2021年5月31日追記〕)

吉岡実の年譜について、簡単な解題を記す。吉岡実の年譜は、過去に次の(1)から(5)の五つが印刷されている。

(1) 〔――〕〈吉岡実詳細年譜〉(《ユリイカ》一九七三年九月号・特集=吉岡実)
(2) 吉岡実〈年譜〉(《吉岡実》、中央公論社・現代の詩人1、一九八四年一月)
(3) 〔――〕〈吉岡実略年譜〉(《現代詩手帖》一九九〇年七月号・追悼特集=お別れ 吉岡実)
(4) 小林一郎〈吉岡実年譜〉(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、一九九一年四月)
(5) 吉岡陽子〈年譜〉(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、一九九六年三月)

これらは標題に「年譜」を謳った文章で、略年譜的なものはこれ以前にも吉岡実自身によって書かれているが(1960年の〈小伝〉ほか)、「自伝的なものをまだ書く時期でもない。また、年譜的なものをつくる煩雑さにも耐えられない」(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一二五ページ)とあるように、年譜と称することのできるのは(1)をもって嚆矢とする。

(1)には編者名が見えないが、特集号の編集人・三浦雅士氏(および編集部)によるものと思われる。当時、未刊行の吉岡実の文章(おそらく吉岡からの提供)の引用を含み、それ以降の吉岡実年譜の傾向を規定した労作。分量は四百字詰原稿用紙換算で約13枚。

(2)は唯一、吉岡実自筆の年譜。(1)を基本にしつつ、加えられた鑑賞記録が充実している。約22枚。一九八四年一月三一日付《東京新聞〔夕刊〕》の〈大波小波〉は「難解詩人はけっこう凡人でもあって、よろしい。この年譜、歯医者に通うことまで書いてあって、それが詩とどんな関係がある? といいたくなるが、やっぱりシュールな関係があるのであろう。/現代詩がひところの人気を取り戻すために、吉岡実なんかが歯医者通いまで含めた自伝小説を書くことを希望しておこう。」(薬玉〈シュールな関係〉)と評した。「歯医者通いまで含めた自伝小説」は書かれなかったが、のちの《土方巽頌》はこの評を意識しているか。

(3)は一九九〇年五月の詩人逝去後、早早に編まれた。掲載誌の編集・発行人の小田久郎氏および編集部によるものと思われる。約6枚。

(4)は〈吉岡実書誌〉〈参考文献目録〉とともに〈吉岡実資料〉を形成する。吉岡の未刊の散文を含む諸資料から編まれた最も精細な内容。伝記的事項と作品初出とから成る。約83枚。本〈吉岡実資料〉の続篇として〈吉岡実資料――「現代詩読本」版・補遺〉(《現代詩手帖》一九九五年二月号・特集=吉岡実再読)がある。

(5)はそれまでの年譜の成果を取捨選択し、身近にあった者ならではの事項を加えた貴重な内容。約42枚。なお、本サイトの〈吉岡実年譜〉にはこの(5)の稿を掲載している。

本サイトの作成者として、吉岡陽子さんをはじめとする上記の各年譜の編纂者、発表媒体の編集者に謝意を表する。

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小林一郎編纂〈吉岡実年譜〉(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991)の改訂第2版〔2012年8月31日追記〕

吉岡実の伝記的事項の年譜として、本サイトには〈吉岡実年譜〉という題で吉岡陽子さん編になる〈年譜〉(《吉岡実全詩集》所収)を転載している。(4)の拙編〈吉岡実年譜〉は吉岡が歿した翌1991年の時点で最大限の努力を傾けて作成したものだが、今日の目からすれば(遺漏はともかく)看過しがたい誤りが散見される。そのために、だれよりも私自身が参照するのに不便を感じている。今後、印刷物として改訂する機会はまずないだろうから、講談社文芸文庫の〈年譜〉に見られる体裁を借りて新たに組んだ改訂版を、PDFファイルで公開することにした。読者はよろしく閲覧するなり、ダウンロードするなり、プリントアウトするなりして、本年譜を活用されんことを。
ここでお詫びしなければならないことがある。〈吉岡実年譜〉の発表後、本サイトを開設した2002年ころまでの約10年間は、修正すべき箇所が判明するたびに原本に赤字を記入して改訂作業に備えてきたが、カノンとして吉岡陽子編〈吉岡実年譜〉を本サイトに公開して以降は、継続的なフォローを怠っている。そのため、私が本サイトに書いた記事のほとんどは改訂版年譜に反映されていない(記事を書くのに専心した、というよりはそれで手一杯だったのだ)。今回はあえて「増補版」とはせずに、手持ちの材料をまとめることで、とりあえず〈吉岡実年譜〉の〔改訂第2版〕とした。
なお、元版〈吉岡実年譜〉の作品初出の項目は、本サイトの拙編〈吉岡実年譜〔作品篇〕〉に最新情報を掲げてあるので、そちらをご覧いただきたい。本〈吉岡実年譜〔改訂第2版〕〉は、A6判(文庫本サイズ)で本文42ページ、原稿分量は四百字詰原稿用紙換算で約80枚である。元版(約83枚)よりも減っているのは、作品初出の項目を割愛したことによる。伝記的事項に限れば、元版に上記の〈吉岡実資料――「現代詩読本」版・補遺〉等を加えているので、分量はかなり増えている。

 小林一郎編纂〈吉岡実年譜〔改訂第2版〕〉(2012年8月31日、PDFファイル〔約700KB〕公開)

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〔2021年5月31日追記〕
このページ(〈吉岡実〉を語る)は、本サイト《吉岡実の詩の世界》のindexたるトップページを除けば、最初のページ(すなわち本文[ほんもん])であり、編者が本サイトで最も力点を置くページでもある。2002年11月のサイト開設以来、一度も休載していないことからも、それはおわかりいただけよう。もっともそのために、ひとつのファイルとしては尋常でない分量となって、閲覧に不便を来すようになったのは遺憾である。〈吉岡実全詩篇〔初出形〕(2019年4月30日)〉は当初からA4判縦位置印刷で300ページ近くになることが想定されたので(400字詰め原稿用紙なら900枚見当か)、作成時から別ページに仕立てたが、今回、それに続く《〈吉岡実〉を語る》掲載の記事を《〈吉岡実〉を語る〔承前〕》として切り分けることにした。タイトルは「〈吉岡実〉を語る_02」。詳細は〔承前〕ページの冒頭に記したとおりである。
さて、ここからは余談。私は本サイトのために調査・執筆、運営・管理を一人で行っている。誰もがそうだろうが、サイトを作るに当たって資料の整理・活用にはつねひごろ頭を痛めている。辞書・事典類は別にしても、吉岡実の著作(一次資料)、吉岡実に関する文献(二次資料)、その他、身の周りに置いておきたい本や雑誌などの印刷物、コピーは(その骨格部分は変わらないにしても)調査・執筆中のテーマによってさまざまに変化する。基本的にこうしたフローの資料は近くの図書館から借りて、作業が終われば手許に残らないようにしている。経済的な要因ももちろんあるが、なによりも空間的な制約が大きい。早稲田で言語学を教えていた川本茂雄(1913〜1983)は、講義の合間に世間噺ふうに言った。論文や翻訳のタスクをすませて、作業で使いおわり机上に山と成った文献を書架に戻せるのが至福のときだ、と。先生のこの感慨は身に染みる。私も、吉岡実に関する文献(の一部)を常備する書棚の写真を掲げることで、2021年5月という時点でひとつの区切りがついた記念としよう。

2021年5月17日の吉岡実関連資料の書棚
2021年5月17日の吉岡実関連資料の書棚(ほとんどの資料に手製のタイトルを貼った書皮が掛けられている) 〔左から概略を記せば、吉岡実全詩集、コピーやプリントアウトのファイル、吉岡実詩集〔現代詩文庫〕、吉岡実〔現代の詩人〕、土方巽頌、吉岡実詩集〔現代詩文庫〕と新選吉岡実詩集〔現代詩文庫〕、吉岡実未刊行散文集(未刊)、うまやはし日記、吉岡実の肖像、吉岡実アラベスク、筑摩書房 それからの四十年、「死児」という絵〔増補版〕、ユリイカ(1973年9月号)、現代詩手帖(1990年7月号)、現代詩読本 吉岡実、私のうしろを犬が歩いていた、Lilac Garden(コピーのファイル)〕


〈吉岡実〉を語る 了

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