〈吉岡実〉を語る(小林一郎 編)

最終更新日2020年8月31日

吉岡実の手蹟 〔詩篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿〕 吉岡実の手蹟〔詩篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿〕を入口に掲げた改築前の編者の書斎
吉岡実の手蹟〔詩篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿〕(左)と同手蹟を入口に掲げた改築前の編者の書斎(右)


目次

吉岡実と稗田菫平(2020年8月31日)

PR誌月刊《ちくま》のこと(2020年7月31日)

吉岡実と加藤郁乎――ふたりの日記を中心に(2020年6月30日)

詩集《僧侶》小感(2020年6月30日)

あとがきに見る淡谷淳一さん(2020年5月31日〔2020年6月30日〜2020年8月31日追記〕)

大和屋竺の作品――吉岡実と映画(3)(2020年4月30日)

吉岡実と時代小説(2020年3月31日)

《うまやはし日記》に登場する映画――吉岡実と映画(2)(2020年2月29日)

吉岡実と江戸川乱歩(2020年1月31日)

吉岡実と吉野弘(2019年12月31日)

吉岡実と《カムイ伝》(2019年11月30日)

吉岡実とクリムトあるいは「胚種としての無」(2019年10月31日)

吉岡実と森家の人人(2019年9月30日)

吉岡実と浅草(1)――喫茶店アンヂェラス(2019年8月31日)

東博歌集《蟠花》のこと(2019年7月31日)

挨拶文のない署名用の栞〔高橋康也宛〕(2019年6月30日)

〈詩の未来へ――現代詩手帖の60年〉展のこと(2019年6月30日)

吉岡実と入沢康夫(2019年5月31日〔2019年6月30日追記〕)

吉岡実全詩篇〔初出形〕(2019年4月30日)

京浜詩の会〈吉岡実氏を囲んで〉のこと(2019年3月31日)

《薬玉》署名用カードあるいは土井一正のこと(2019年2月28日)

吉岡実と田中冬二もしくは第一書房の詩集(2019年1月31日)

吉田健男の肖像(2018年12月31日)

佃学の吉岡実論(2018年11月30日)

吉岡実と文学賞(2018年10月31日〔2019年2月28日追記〕)

吉岡実と鳥居昌三(2018年9月30日)

〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引〉の試み(2018年8月31日)

〈示影針(グノーモン)〉と《胡桃の中の世界》(2018年7月31日)

吉岡実の飼鳥(2018年6月30日)

書下ろしによる叢書〈草子〉のこと(2018年5月31日)

吉岡実と和田芳恵あるいは澁澤龍彦の散文(2018年4月30日)

吉岡実とヘルマン・セリエント(2018年3月31日)

吉岡実と四谷シモン(2018年2月28日)

宇野亜喜良と寺田澄史の詩画集あるいは《薬玉》をめぐる一考察(2018年1月31日)

〈青枝篇〉と《金枝篇》あるいは《黄金の枝》(2017年12月31日)

吉岡実未刊詩篇本文校異(2017年11月30日)

吉岡実と病気あるいは吉岡実の病気(2017年10月31日)

吉岡実と金子光晴(2017年9月30日)

〈冬の休暇〉と毛利武彦の馬の絵(2017年8月31日)

吉岡実と三島由紀夫(2017年7月31日)

《現代詩手帖》創刊号のこと(2017年6月30日〔2019年3月31日追記〕)

吉岡実と済州島(2017年5月31日)

吉岡実とピカソ(2017年4月30日)

吉岡実とケン玉(2017年3月31日)

《現代詩大事典》の人名索引〈吉岡実〉の項のこと(2017年2月28日)

吉岡実の引用詩(3)――土方巽語録(2017年1月31日)

《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第4版〕》を作成した(2017年1月31日)

吉岡実の引用詩(2)――大岡信《岡倉天心》(2016年12月31日)

吉岡実の引用詩(1)――高橋睦郎〈鑑賞〉(2016年11月30日)

太田大八さんを偲ぶ(2016年10月31日〔2019年8月31日追記〕)

詩篇〈模写――或はクートの絵から〉初出発見記(2016年10月31日)

秋元幸人〈森茉莉と吉岡実〉の余白に(2016年9月30日)

《土方巽頌》の〈40 「静かな家」〉の構成について(2016年8月31日)

吉岡実にとっての富澤赤黄男(2016年7月31日)

吉岡実と西東三鬼(2016年6月30日)

吉岡実と石田波郷(2016年5月31日)

俳人の作歌(2016年4月30日)

《指揮官夫人と其娘達》あるいは《バルカン・クリーゲ》のこと(2016年3月31日)

吉岡実日記の手入れについて(2016年2月29日)

永田耕衣の書画と吉岡実(2016年1月31日)

《うまやはし日記》のために(2015年12月31日)

吉岡実の〈アリス詩篇〉あるいは《アリス詩集》(2015年11月30日)

吉岡実のフランス装(2015年10月31日)

「無尽蔵事件」について(2015年9月30日)

「ねはり」と「受菜」あるいは〈衣鉢〉評釈(2015年8月31日)

吉岡実と恩地孝四郎(2015年7月31日)

臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》のこと(2015年6月30日〔2016年10月31日追記〕〔2018年4月30日追記〕)

吉岡実とマグリット(2015年5月31日)

吉岡実と木下夕爾(2015年4月30日)

フラン・オブライエン(大澤正佳訳)《第三の警官》のこと(2015年3月31日)

吉岡実と福永武彦(2015年2月28日〔2017年3月31日追記〕)

《アイデアidea》367号〈特集・日本オルタナ文学誌1945-1969 戦後・活字・韻律〉と《アイデア idea》368号〈特集・日本オルタナ精神譜 1970-1994 否定形のブックデザイン〉のこと(2015年1月31日)

詩篇〈模写――或はクートの絵から〉評釈(2014年12月31日〔2016年10月31日追記〕)

吉岡実と鷲巣繁男(2014年11月30日)

吉岡実と珈琲(2014年10月31日〔2015年3月31日追記〕〔2020年4月30日追記〕)

吉岡実と写真(2014年9月30日)

吉岡実詩における絵画(2014年8月31日)

吉岡実と落合茂(2014年7月31日〔2014年8月3日追記〕)

吉岡実と真鍋博(2014年6月30日)

岡崎武志・山本善行=責任監修《気まぐれ日本文學全集 57 吉岡実》目次案(2014年5月31日)

《魚藍》と魚籃坂(2014年4月30日〔2014年8月31日追記〕)

吉岡実と飯島耕一(2014年3月31日)

吉岡実と加藤郁乎(2014年2月28日〔2020年5月31日追記〕)

〈吉岡実の装丁作品〉の現在(2014年1月31日)

〈父の面影〉と出征の記念写真(2013年12月31日)

吉岡実と佐藤春夫(2013年11月30日)

吉岡実と赤尾兜子(2013年10月31日)

吉岡実と岡井隆あるいは政田岑生の装丁(2013年9月30日)

《詩人としての吉岡実》の〈はしがき〉(2013年8月31日)

《新詩集》あるいは大森忠行のこと(2013年7月31日)

吉岡実の帯文(2013年6月30日〔2013年8月31日追記〕)

吉岡実と田村隆一(2013年5月31日)

吉岡実とジイド(2013年4月30日)

〈首長族の病気〉と〈タコ〉(2013年3月31日)

三橋敏雄句集《疊の上》十二句撰のこと(2013年2月28日)

吉岡実と堀辰雄(2013年1月31日)

《永田耕衣頌――〈手紙〉と〈撰句〉に依る》を編んで(2012年12月31日)

《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第3版〕》を作成した(2012年11月30日〔2017年1月31日追記〕)

吉岡実詩の変遷あるいは詩語からの脱却(2012年10月31日)

杢太郎と福永のサフランのスケッチ(2012年9月30日〔2015年12月31日追記・2016年12月31日修正〕〕)

吉岡実と篠田一士あるいは詩的言語とはなにか(2012年8月31日)

吉岡実と骨董書画(2012年7月31日)

宮柊二歌集《山西省》と長谷川素逝句集《砲車》のこと(2012年6月30日)

吉岡実と横光利一(2012年5月31日)

1919年生まれの吉岡実(2012年4月30日)

吉岡実の近代俳句選(2012年3月31日)

《筑摩書房 図書目録 1951年6月》あるいは百瀬勝登のこと(2012年2月29日)

「H氏賞事件」と北川多喜子詩集《愛》のこと(2012年1月31日〔2019年12月31日追記〕)

吉岡実詩集本文校異について(2011年12月31日〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実詩歌集《昏睡季節》本文校異(2011年11月30日〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実詩集《液体》本文校異(2011年10月31日〔2019年4月15日追記〕)

城戸幡太郎《民生教育の立場から》のこと(2011年9月30日〔2014年1月31日追記〕)

〈吉岡実文学館〉を考える(2011年8月31日〔2013年5月31日追記〕〔2016年10月31日追記〕)

吉岡実詩集《静物》本文校異(2011年7月31日〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実詩に登場する植物(2011年6月30日)

野平一郎作曲〈Dashu no sho, for voice and alto saxophone(2003)〉のこと(2011年5月31日)

吉岡実詩集《ムーンドロップ》本文校異(2011年4月30日〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実と吉屋信子(2011年3月31日)

吉岡実詩集《薬玉》本文校異(2011年2月28日〔2019年1月31日追記〕〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実の未刊詩篇〈絵のなかの女〉を発見(2011年1月31日)

吉岡実詩集《ポール・クレーの食卓》本文校異(2010年12月31日〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実〈うまやはし日記〉本文校異(2010年11月30日)

マラルメ《骰子一擲》のこと(2010年10月31日)

吉岡実とフランシス・ベーコン(2010年9月30日)

《北海道の口碑伝説》のこと(2010年8月31日)

吉岡実と彫刻家(2010年7月31日)

吉岡実詩集《夏の宴》本文校異(2010年6月30日〔2019年4月15日追記〕)

発言本文を除く《吉岡実トーキング》(2010年5月31日)

吉岡実と瀧口修造(3)(2010年4月30日)

吉岡実と瀧口修造(2)(2010年3月31日)

吉岡実と瀧口修造(1)(2010年2月28日)

吉岡実詩集《サフラン摘み》本文校異(2010年1月31日〔2019年1月31日追記〕〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実の未刊行詩篇を発見(2009年12月31日)

吉岡実詩集《静かな家》本文校異(2009年11月30日〔2016年10月31日修正〕〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実と《現代詩手帖》(2009年10月31日)

吉岡実〈〔自筆〕年譜〉のこと(2009年9月30日〔2009年10月31日追記〕)

下田八郎の〈吉岡実論〉と〈模写〉の初出(2009年8月31日〔2016年10月31日追記〕)

ケッセルの《昼顔》と詩篇〈感傷〉(2009年7月31日)

吉岡実歌集《魚藍》本文校異(2009年6月30日)

詩篇〈銀幕〉と梅木英治の銅版画(2009年5月31日)

大竹茂夫展と詩篇〈壁掛〉(2009年4月30日)

吉岡実詩集《紡錘形》本文校異(2009年3月31日〔2019年4月15日追記〕)

吉岡実と片山健(2009年2月28日)

吉岡実とリルケ(2009年1月31日)

〈わたしの作詩法?〉校異(2008年12月31日)

吉岡実詩集《僧侶》本文校異(2008年11月30日〔2019年4月15日追記〕)

青山政吉のこと(2008年10月31日〔2009年3月31日追記〕〔2018年12月31日追記〕)

吉岡実の書(2008年9月30日)

現代日本名詩集大成版《僧侶》本文のこと(2008年8月31日)

吉岡実と本郷・湯島――〈吉岡実〉を歩く(2008年7月31日)

吉岡実とつげ義春(2008年6月30日)

吉岡実と土方巽(2008年5月31日〔2008年7月31日追記〕)

吉岡実編集の谷内六郎漫画(2008年4月30日)

吉田健男の装丁作品(2008年3月31日〔2010年8月31日追記〕)

吉岡実とエズラ・パウンド(2008年2月29日)

吉岡実と三好豊一郎(2008年1月31日)

吉岡実と映画(1)(2007年12月31日)

吉岡実と西脇順三郎(2007年11月30日)

随想〈学舎喪失〉のこと(2007年10月31日)

吉岡実の愛唱歌(2007年9月30日)

吉岡実と《アラビアンナイト》(2007年8月31日〔2013年6月30日追記〕)

リュシアン・クートーと二篇の吉岡実詩(2007年7月31日〔2011年6月30日追記〕〔2016年10月31日追記〕)

《「死児」という絵〔増補版〕》の本文校訂(2007年6月30日)

吉岡実と澁澤龍彦(2007年5月31日〔2019年12月31日追記〕〔2020年7月31日追記〕)

吉岡実と吉田健男(2007年4月30日)

詩篇〈斑猫〉の手入れ稿(2007年3月31日)

吉岡実のスクラップブック(2)(2007年3月31日)

吉岡実のスクラップブック(1)(2007年2月28日)

《柾它希家の人々》のこと(2007年1月31日〔2014年9月30日追記〕)

高見順賞受賞挨拶(2006年12月31日)

吉岡実の書簡(4)――《吉岡実詩集》のこと(2006年11月30日)

初期吉岡実詩と北園克衛・左川ちか(2006年10月31日〔2010年11月30日追記〕)

吉岡実とサミュエル・ベケット(2006年9月30日)

吉岡実詩の鳥の名前(2006年8月31日)

鳥の名前(2006年7月31日)

吉岡実の短歌(2006年6月30日)

吉岡実と左川ちか(2006年5月31日)

吉岡実と富澤赤黄男(2006年4月30日)

吉岡実の「講演」と俳句選評(2006年3月31日)

吉岡実の〈小伝〉(2006年2月28日)

吉岡実散文の骨法(2006年1月31日)

吉岡実と音楽(2005年12月31日〔2006年3月31日追記〕)

吉岡実の書簡(3)(2005年11月30日)

吉岡実の書簡(2)(2005年10月31日)

吉岡実〈突堤にて〉校異(2005年9月30日〔2006年4月30日追記〕)

吉岡実の書簡(1)(2005年8月31日)

吉岡実とジェイムズ・ジョイス(2005年7月31日)

詩篇〈死児〉の制作日(2005年6月30日)

吉岡実との談話(2)(2005年5月31日)

吉岡実との談話(1)(2005年4月30日)

吉岡実とオクタビオ・パス(2005年3月31日)

吉岡実の詩稿〈裸婦〉(2005年2月28日〔2005年5月31日追記〕)

《土方巽頌》と荷風の〈杏花余香〉(2005年1月31日)

厩橋を歩く(1)(2004年12月31日)

小森俊明氏作曲の吉岡実の歌曲(2004年11月30日)

吉岡実詩の中国語訳(2004年10月31日)

吉岡実とナボコフ(2004年9月30日〔2017年9月30日追記〕)

吉岡実の視聴覚資料(1)(2004年8月31日〔2007年4月30日追記〕)

ポルノ小説《アリスの人生学校》(2004年7月31日)

吉岡実の未刊行詩三篇を発見(2004年6月30日〔2004年9月30日追記〕)

吉岡実愛蔵の稀覯書(2004年5月31日)

「吉岡實」から「吉岡実」へ(2004年4月30日〔2008年1月31日追記〕)

吉岡実の俳号(2004年4月30日〔2005年2月28日追記〕〔2017年12月31日追記〕)

吉岡実と村野四郎(2004年3月31日)

吉岡実宛書簡〔1989年11月5日付〕(2004年2月29日)

もろだけんじ句集《樹霊半束》のこと(2004年1月31日)

村松嘉津《プロヷンス隨筆》(2003年12月31日〔2004年7月31日追記〕)

北原白秋自選歌集《花樫》(2003年11月30日)

《ちくま》編集者・吉岡実(2003年10月31日)

インターネット上の「吉岡実」(2003年9月30日〔2003年10月31日追記〕)

吉岡実と《金枝篇》(2003年8月31日)

吉岡実詩集《静物》稿本(2003年7月31日〔2010年6月30日追記〕〔2011年7月31日追記〕)

2003年版〈吉岡実〉を探す方法(2003年6月30日)

〈詩人の白き肖像〉(2003年5月31日)

H氏賞選考委員・吉岡実(2003年5月31日)

〈父の戦友、吉岡実〉(平井英一さん、2003年4月22日)

〈首長族の病気〉のスルス(2003年4月15日〔2012年3月31日追記〕)

〈波よ永遠に止れ〉本文のこと(2003年3月31日)

吉岡実の話し方(2003年2月28日)

吉岡実の拳玉(2003年2月28日〔2006年9月30日追記〕)

吉岡実本の帯文の変遷(2003年1月31日〔2004年9月30日追記〕)

画家クートと詩〈模写〉の初出(2002年12月31日〔2016年10月31日追記〕)

吉岡実の年譜(2002年11月12日〔2012年8月31日追記〕)


吉岡実と稗田菫平(2020年8月31日)

2020年1月、ヤフオク!に富山の詩人、稗田菫平に宛てた吉岡実の年賀状が出品された(残念ながら、落札できなかった)。〔昭和〕40年1月3日王子局消印の年賀ハガキで(もっとも日付ははっきりとは読み取れない)、表面の住所や宛名はブルーブラックのペン書き、裏の文面はすべて印刷で、「1965」という年号に、赤で干支のヘビのカットが絡みつき、「あけましておめでとうございます」、東京都北区滝野川の住所、「吉岡実・陽子」。以上はいずれも横組みである。不明にして稗田菫平の詩業を知らなかったので、《稗田菫平詩集〔昭和詩大系〕》(宝文館出版、1977年5月1日)を入手した。第八詩集《氷河の爪》(思潮社、1963)の一篇を引こう。

水仙[ナルキツソス]の少年|稗田菫平

鹿が駈けて行く
クロッカスの花の上を
羊が歩いて来る
早咲きの鳶尾[いちはつ]の花の傍を

牡山羊と少女たちも
連れだって来る
スミレやヒヤシンスの野を
――ところで馬も駈けて来るのだ

水仙の花の上を
少年の手綱に
はじかれながら

(ギリシャのニンフの娘
 のようにナルキッソス
 の萼[うてな]をかきみだしながら)

稗田の詩を「不思議なタペストリー」と呼んだのは谷川俊太郎である(《百花》4号、1954年3月)。たしかにこの綴れ織りにも、清潔なエロティシズムが漂っている。だがそこには、吉岡実の詩篇〈サフラン摘み〉にあるデモーニッシュなものは見られない。それが稗田菫平詩の持ち味なのだろうが。《稗田菫平全集〔第1巻〕》(宝文館出版、1978年12月20日)は、巻頭に第一詩集《花》(野薔薇社、1948)を、巻末に第七詩集《葦の女》(琅玕社、1957)を、それぞれ全篇収めている。前者から冒頭の、後者から掉尾の詩篇を掲げよう。

藤の花|稗田菫平

紫の花びらが揺れるとき
紫の藤の花が揺れるとき

その中から子供の笑ひが
小さくそれは小さく聞える

花びらが白くふりかゝると
少女の髪がはらはらするやうに
少年の歯がきらきらのぞく様に

子供の笑ひが小さく
それは小さく聞えてくる


草の噴水|稗田菫平

盛り皿のなかの
果実のように甘く香ばしく
おお 女は熟れていた

レモン汁やリンゴの色が
日本海の砂に〔撤→撒〕かれ男の心は
おお 噴水となり高鳴つていた

彼等の腕が二本
草に臥して十字に重なり
昆虫の青い髭のように

エジプトの琴のように
葦の世界に沈みながら
おお 夜の脹らみを待つていた

1948(昭和23)年の吉岡は、のちに書きおろしの詩集《静物》(私家版、1955)としてまとまる詩を書きはじめる前年にいる。1957(昭和32)年には、《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)を形成する詩篇を諸雑誌に陸続と発表している。それにしても、稗田がこの9年の間に7冊の詩集を出しているのには驚かされる。上掲の2篇には、《静物》と《僧侶》の間にある以上の大きな隔たりがある。

稗田菫平宛の吉岡実と荒木二三の年賀状(2枚セット)の自筆による宛名面 稗田菫平宛の吉岡実と荒木二三の年賀状(2枚セット)の印刷による文面
稗田菫平宛の吉岡実と荒木二三の年賀状(2枚セット)の自筆による宛名面(左)と同・印刷による文面(右) 〔出典:ヤフオク!〕

ちなみにヤフオク!には稗田菫平に宛てた、以下の人人の書簡が出品されている(2020年1月時点)。荒木二三・城小碓、福田泰彦、鮎川信夫中桐雅夫、小野蓮司、巽聖歌、鳥巣郁美、石森延男諏訪優神保光太郎相馬大岡部文夫真壁仁北川幸比古天野忠、大野新、寺門仁、滑川道夫おのちゅうこう加藤郁乎高橋新吉村野四郎神保光太郎白鳥省吾和田徹三河邨文一郎、他。日本児童文学者協会、富山県児童文学協会、日本詩人クラブ、富山現代詩人会、富山近代文学研究会に所属し、富山県児童文学会会長も務めた稗田だけに、これらの詩人や児童文学者との交流には密なるものがあったようだ。

林哲夫さんのブログ《daily-sumus2》の〈骨と骨〉(2015年11月17日)には「金沢文圃閣の古書目録『年ふりた……』19号が留守中に届いていた。これまでも何度か紹介しているが、いつも興味深い内容。今回は稗田菫平という詩人の旧蔵書がちょっとしたものだ。稗田氏が発行者から直接もらっている雑誌や詩集類は簡単に手に入らないものが多そうで、研究している人たちにとっては垂涎ではないか。こちらはタイトルと短い説明を読み取ってどんな雑誌なんだろうなあと想像するだけ。それでも面白い。京都関係もいろいろ出ている。『RAVINE』不揃い三十三冊とか『コルボウ詩話会テキスト』三冊合本とか『詩人通信』揃い三冊とか『骨』不揃い四冊とか。君本昌久編集の『蜘蛛』二冊と『ONLY ONE』三冊もある。」と見える。

年賀状の昭和40(1965)年当時、吉岡実と稗田菫平にどのような付きあいがあったか、詳らかにしない。稗田の〈著作年表〉には

昭和三七年(一九六二)三六歳。四月、『つのぶえ童話選集』(みかも書房)に童話五篇を発表。八月、『年刊歌集』に短歌一五首発表。九月、第二歌集『山瑞木抄』を出版。一一月、『富山ペンクラブ随想集I』に「白鷺の歌、俳人浪化の生涯」を発表した。
昭和三八年(一九六三)三七歳。五月、第三歌集『真少女抄』を白と黒社より出版。九月、第八詩集『氷河の爪』を東京思潮社より出版、その年の代表詩集に選ばれた。一〇月、『富山詩人』(63)に「言葉について」を発表、この頃から富山現代詩人会の活動がさかんになった。一一月、新村出編『少年少女文学風土記京都』に俳句が収録された。一二月。ニッポン深夜放送で『氷河の爪』より詩六篇が放送された。
昭和三九年(一九六四)三八歳。三月、『中部日本詩人』一四号に「言葉を岩に」を発表。八月、『月刊時事』に「葦の歌」九月、『富山詩人』(64)に「岩の時」、碓井正秀編『女と野郎のうた』に「夏二章」を発表。一二月『年刊歌集』に「草花抄」十首が収録された。(《稗田菫平全集〔第1巻〕》、一六八ページ)

とあるから、稗田から詩集《氷河の爪》を贈られた吉岡が、詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962)を贈り、年賀状のやり取りが生じたものか(《紡錘形》の「発行」は草蝉舎〔吉岡の自宅〕だが、「発売」は思潮社で、稗田の《氷河の爪》と同じ版元である)。吉岡には稗田菫平に触れた文章がなく、稗田の側から吉岡実に言及したものでも見ないかぎり、両者の関係ははっきりとわからない。最後に《詩歌人名事典 新訂第2版》(日外アソシエーツ、2002年7月25日)の記載を引こう。インターネットの情報に依ると、稗田菫平は2014年に亡くなっている。

稗田菫平 ひえだ・きんぺい  詩人 「牧人文学」主宰 〔生年月日〕大正15年4月8日 〔出生(出身)地〕富山県小矢部市 本名=稗田金治 〔学歴〕氷見中卒 〔経歴〕教員を経て、詩人となる。富山県児童文学会会長も務めた。詩集に「花」「白鳥」「氷河の爪」「ホトトギスの翔ぶ抒情空間」、童謡集「さるすべりの花と人魚」、民話集「立山のてんぐ」、童話集「山の神さまのおだんご」など。 〔所属団体名〕日本児童文学者協会、富山県児童文学協会、日本詩人クラブ、富山現代詩人会、富山近代文学研究会(同書、五七〇〜五七一ページ)

《稗田菫平全集〔第1巻〕》(宝文館出版、1978年12月20日)の函と表紙
《稗田菫平全集〔第1巻〕》(宝文館出版、1978年12月20日)の函と表紙

〔追記〕
牧人文学・泉の会編《稗田菫平全集完結記念誌〔牧人文学別冊(通冊68集)〕》(稗田菫平全集刊行会、1983年10月1日)は、A5判並製38ページの小冊子(巻頭に口絵写真1点)。富山県立図書館所蔵の同誌の〈目次〉にはこうある。

 杜鵑頌………………廣瀬誠…………………2
 人間と芸術…………木村玄外………………6
 花筐…………………野田宇太郎 ほか……7
 祝賀記…………………………………………17
      後記………………………………30


(署名はないが)稗田菫平による〈後記〉の前半に「私は昨年の夏、永年の念願であった拙著作集『稗田董平全集』を一応八巻にまとめることができました。また今年の春には、この作集に対して富山新聞文化賞をいただきました。その上、先輩や同志の皆さま方による盛大な励ましの集いを二個所において催して戴きました。私にはともに過分のことでありました。その折にたまわりました祝詞のかずかずと、過去の作品に対していただいた礼状などの一端をも勝手ながら含めさせてもらって、ささやかな記念誌を編みました。」(同誌、三〇ページ)とあるように、稗田の詩集『花』(昭和二十三年刊)に寄せた野田宇太郎に始まる〈花筐〉こそ、本誌の柱である。対象となった書籍と筆者名を掲げる。

詩集『花』(昭23) 野田宇太郎
詩集『白鳥』(昭25) 高島高
詩集『雪と炉』(昭26) 丸山薫
詩集『胡桃の琴』(昭27) 岩佐東一郎
詩集『薔薇の豹』(昭28) 谷川俊太郎
詩集『泉の嵐』(昭31) 中江俊夫
童謡集『さるすべりの花と人魚』(昭33) 木下夕爾
童謡集『野をかけるスイセンの橇』(昭35) 平塚武二
歌集『赤蜻蛉抄』(昭35) 大木実
詩集『葦の女』(昭36) 田中冬二
歌集『山端木抄』(昭37) 諏訪優
詩集『氷河の爪』(昭38) 木原孝一
歌集『真少女抄』(昭38) 中勘助
詩集『岩の女神』(昭41) 上村萍
歌集『草の宴』と詩集『聾のあざみ』(昭43) 米田憲三
少年詩集『飛ぶカモシカの春』(昭43) 石森延男
詩集『獅子の歌』(昭43) 永田東一郎
歌集『利賀山抄』(昭43) 和田徳一
詩集『ホトトギスの翔ぶ抒情空間』(昭44) 松永伍一
詩集『夕顔のひらく夕べの連歌』(昭45) 相馬大
昭和詩大系『稗田菫平詩集』(昭52) 生沢あゆむ
詩集『逍遙記』(昭51) 宮崎健三
詩とエッセイ集『月明記』(昭53) 廣瀬誠
『富山現代詩宝典』(昭56) 久泉廸雄
歌集『詩韻竜胆頌』と多胡羊歯童謡選『くらら咲くころ』(昭58) 大島文雄
『稗田菫平全集』(昭57完結) 野田宇太郎

前掲来信の書き手の何人かを含む稗田菫平の幅広い交友関係をうかがわせるばかりか、稗田作品との取りあわせ――童謡集『さるすべりの花と人魚』と木下夕爾、詩集『葦の女』と田中冬二――がなんとも興味深い。なお、この《稗田菫平全集完結記念誌》に吉岡実の名前は見えない(ちなみに吉岡は、本誌発行と同じ10月に詩集《薬玉》を出している)。

牧人文学・泉の会編《稗田菫平全集完結記念誌〔牧人文学別冊(通冊68集)〕》(稗田菫平全集刊行会、1983年10月1日)の表紙〔カラーコピー〕
牧人文学・泉の会編《稗田菫平全集完結記念誌〔牧人文学別冊(通冊68集)〕》(稗田菫平全集刊行会、1983年10月1日)の表紙〔カラーコピー〕


PR誌月刊《ちくま》のこと(2020年7月31日)

昨2019年12月、筑摩書房のPR誌月刊《ちくま》1969年4月の創刊号から2017年8月の557号までの揃いを、内堀弘さんの石神井書林から購入した。創刊の1969年当時、私は中学2年生で、筑摩書房の出版物をおそらく一冊も読んでいない(クラブは軟式テニス部で、ブラスバンドでは打楽器を担当していた)。読了した本の記録をつけはじめたのは、大学受験に失敗して、勉強そっちのけで日本の現代小説を読み漁っていた浪人のころからで、中学生時代にどんな本を読んだかまったく記憶にない。なにをしていたのか。暇さえあればロックのレコードを聴いて、それに合わせてガットギターを掻き鳴らしていた(エレキは不良が持つものだった)。愛読していたのは《明星》の集英社が出していた音楽誌《Guts[ガッツ]》(表現技術出版株式会社:編)だ。何号か出ていたの知らずに、最新号を最寄りの本屋で見かけ(表紙が石川晶の号)、慌てて創刊号からのバックナンバーを取り寄せた。「ロックが弾けなきゃ、おまえはイモだ」というあおり文句や、ウッドストックフェスティヴァルの詳報、《アビイ・ロード》の楽譜に驚愕したものだ。さらに、ようやく登場しはじめたバンドスコアには狂喜した。雑誌《ちくま》の話だった。臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年5月3日)の〈付録:筑摩書房出版関連資料図版〉には、創刊号を筆頭に《ちくま》が休刊中の1979年と1980年を除く1970年から2014年までの各年の1月号(表紙絵や編集者が替わるのはだいたい1月号から)などの書影が52点掲載されていて、壮観だ。創刊号(「1969年5月号 編集者=土井一正」)の表紙写真の脇には次の書誌がある。

PR誌 月刊『ちくま』

第1次
1969.4.20-1978.7.1
表紙=中島かほる
A5判 本文記事32頁+広告

第2次
1980.7.1-継続中
表紙デザイン=吉田篤弘+吉田浩美(1998.1-)
A5判 本文記事32〜80頁+広告

PR誌月刊《ちくま》の書影 出典:臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年5月3日、一七九ページ)
PR誌月刊《ちくま》の書影 出典:臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年5月3日、一七九ページ) 〔2段めの右・中が林哲夫さんによる表紙絵〕

著者の臼田捷治は、《書影の森》の〈あとがき〉で「〔……〕巻末の《付録》において、図書目録や新刊ニュース等のフライヤー(紙もの)、内容見本、各種の栞[しおり]などの関連資料、さらにまた、PR誌『ちくま』の創刊以来の新年号全号を紹介できたのも林さんの提供および差配のおかげ。」(同書、二〇八ページ)と書いている。その直前には「林哲夫さんからは、筑摩書房創業期などの貴重きわまりない刊本の提供をいただいた。とくに青山二郎、鍋井克之、渡辺一夫、吉岡実が装幀した逸書稀書により、まさしく千鈞の重みが加わった」(同前)とあり、装丁家である林さんが創業期の稀書を所蔵しているのは納得できても、「図書目録や〔……〕各種の栞」まで収集しているのには感歎せざるを得ない。ここで《ちくま》に戻れば、〔第1次〕の1号から20号までは初代の土井一正編集、21号(1971年1月)から111号(1978年7月)までが吉岡実編集で、そのあたりのことは10年前に〈吉岡実編集《ちくま》全91冊目次一覧〉に記した。古い証文のようで恐縮だが、そのときの〈編集後記 88〉に次のように書いている。自分の文章を引くのは、労を惜しんでのことではない。この件に関するかぎり、その後、調査は進展していないのだ。自戒の意味も込めつつ、適宜、改行して掲げる。

●〈吉岡実編集《ちくま》全91冊目次一覧〉を書いた。本文中でも触れている〈《ちくま》編集者・吉岡実〉を掲載したのが2003年10月だったから、もう6年以上前になる。同文の末尾に「いつの日か、吉岡実編集の《ちくま》全冊を読破したいものだ」と書きながら、いまだに果たせないのは残念だが、今回、標題を照合しながら本文を拾い読みできたのは収穫だった。もっとも、これらの目次リストからだけでもいろいろなことがわかる。

・登場回数が最も多いのは?――布川角左衛門の70回。その連載は吉岡実装丁で《本の周辺》(日本エディタースクール出版部、1979)として一本になった。

・「難波淳郎」それとも「灘波淳郎」?――NDL-OPACでは「難波淳郎」となっている。

・(磯)あるいは(磯目)とはだれ?――磯目健二であろう。

・《鰐》同人で執筆していないのは?――岩田宏。

・連載が長かったのは?――吉岡実編集以前からのものも含めて10回以上の連載には、布川角左衛門の〈本の周辺〉(90回)、寿岳文章の〈ほん・その目でみる歴史〉(60回)、岡田隆彦の〈美術散歩〉(50回)、寺田透の〈毎月雑談〉(44回)、吉川幸次郎の〈読書の学〉(39回)、生島遼一の〈春夏秋冬〉(26回)、富士川英郎の〈鴟鵂庵閑話〉(25回)、渡辺一夫の〈世間噺・もう一人のナヴァール公妃〉(24回)、下村寅太郎の〈読書漫録〉(18回)、福島鋳郎の〈「戦後雑誌」発掘〉(12回)、一海知義の〈河上肇と中国の詩人たち〉(12回)がある、といった具合に興味は尽きない。

これでおわかりのように、当時、私は吉岡実編集の《ちくま》を端本でしか入手しておらず、永田町の国立国会図書館や駒場の日本近代文学館で閲覧して(目次はコピーを取って)、記事を執筆したのだった。編集者/装丁家=吉岡実に対する関心が中心となるだろう《ちくま》精査の開始にあたって、今回は、40年を超える〔第2次〕の《ちくま》のなかから1冊を選んで、見てみたい。それは2009年7月の460号で、同号の表紙絵を描き、表紙2(表紙裏)の連載〈ふるほんのほこり〉第7回の〈死児〉を書いたのは、画家で装丁家の林哲夫さんである。同文の後半を引く。

 〔……〕
 去る四月十五日、ふと、無性に古本屋へ行きたくなった。足は勝手にわが家から一番近い古本屋へ向って動き出した。電車に乗って十分余り。ところがそんな日にかぎって目当ての店は棚がすっかり寂しくなっていた。間近だった野外での即売会のために荷造りしてしまったのだろう。期待の風船玉がシュルシュルシュルッと萎む。どうしても手ぶらでは去り難く、みょうに視界がよくなった店内をいじましく点検していると、これまで記憶にない一冊がひっそりと差されてあった。そっと抜き出す。吉岡実の随想集『「死児」という絵』(思潮社、一九八〇)。表題作は書肆ユリイカの伊達得夫についての回想である。残念ながら百円や二百円ではなかったが、割安だったことは事実。あちらこちら拾い読みをしつつかなり迷ったあげく何ものかに押されるように帳場に差し出した。
 その夜、この話をブログで披露した。すると吉岡実の詳細な書誌をネット上で公開しておられる小林一郎氏より次のような驚きのご指摘をいただいた。
 「2009年4月15日は、吉岡の生誕90周年(!)当日です。私は『薬玉』の詩を読んで、ひとり祝杯をあげました。」
 背中を押してくれたのは吉岡の霊……まさか。とにかく嬉しい偶然だった。言うまでもなく吉岡実は本誌の編集長だったこともある。(〈ふるほんのほこり7――死児〉、同誌460号、2009年7月、〔表紙2(表紙裏)〕)

* 後出、林哲夫《ふるほんのほこり》(書肆よろず屋、2019)では、本文の罫下に欄外註のような形で「『「死児」という絵』を見つけた古本屋は阪急京都線・長岡天神駅にほど近いヨドニカ文庫。」(同書、一九ページ)という追記がある。

林さんが《ちくま》を担当したのは、2009年と2010年の2年間で、同誌の編集者は青木真次氏。〈ふるほんのほこり〉は長らく雑誌掲載のままだったが、2019年7月26日、書肆よろず屋から《ふるほんのほこり》(限定500部)が刊行された。ブックデザインは、いうまでもなく林さん自身である。同書には連載原稿に加えて、まえがきに相当する新稿〈ほこりを払う〉、あとがきに代わる〈ふるほんは宝物だ〉(初出は2009年1月の《coto》17号)の2篇と、各本文記事の対向に写真(件の〈死児〉だと「『吉岡實詩集』(書肆ユリイカ、1959)口絵写真より吉岡実」)と、〈掲載誌『ちくま』表紙一覧〉という、全24冊の書影が付された。ちなみに所蔵の50番本には、表紙2に林さんの直筆で「栗花落空乱筆いよいよ手が附かず」という句が、署名・落款とともに認められている。

林哲夫《ふるほんのほこり》(書肆よろず屋、2019年7月26日)の表紙 《ちくま》2009年7月の460号の表紙 《ちくま》2009年7月の460号の表紙2(表紙裏)
林哲夫《ふるほんのほこり》(書肆よろず屋、2019年7月26日)の表紙〔絵は《ちくま》2009年1月の454号の表紙と同じ〕(左)と《ちくま》2009年7月の460号の表紙〔表紙絵:林哲夫〕(中)と同・表紙2(表紙裏)(右)

《ちくま》2009年7月の460号の〈目次〉(同誌、〔一ページ〕)を再現してみよう。掲載ノンブルもそのまま起こしてみる。

ちくま 第460号◎2009年7月◎目次

表紙裏
[ふるほんのほこり]7・死児|林哲夫
――――――――――――――――――――――――――――――――――
巻頭随筆
[人間、とりあえず主義]130・北朝鮮と昔の日本が重なる|なだいなだ…………2
[テレビ幻魔館]12・冤罪と裁判員|佐野眞一………………………4
――――――――――――――――――――――――――――――――――
つげ義春の毒に酔う|中条省平………………………6
遠くて近い江戸の村|渡辺尚志………………………8
二つの「世界中心」|八束はじめ………………………10
人殺しの実像|河合幹雄………………………12
野生のエチカ|安藤礼二………………………14
書籍予約の心迷い|柴田翔………………………16
――――――――――――――――――――――――――――――――――
新連載
[わたしの、東京物語]1・東京駅から始まる|小林信彦………………………20
――――――――――――――――――――――――――――――――――
連載
[いにしへ東京歳事記]24・乳房と鏡|鈴木理生………………………22
[「むふふ」の人]10・デクノボーと「ご神木」|玄侑宗久………………………24
[それなりに生きている]23・じっとり系でもしようがない|群ようこ…………28
[平成コメディアン史]23・「喜劇座」結成まで|澤田隆治………………………32
[旅情酒場をゆく]11・一三〇〇年の歴史を呑む奈良の夜|井上理津子…………36
[絶叫委員会]40・そんな筈ない/ある|穂村弘………………………40
[大島渚と日本]18・見つめる女たち|四方田犬彦………………………42
[農村青年社事件]12・刑事事件と大逆事件の深層|保阪正康……………………48
[ネにもつタイプ]89・変化|岸本佐知子………………………54
[長屋の富]4|立川談四楼………………………56
[グッド・ラック]20|太田治子………………………62
[ピスタチオ]15|梨木香歩………………………68
[青春の光芒――異才・高橋貞樹の生涯]26
      第七章『特殊部落一千年史』をめぐって(その一)|沖浦和光……74
――――――――――――――――――――――――――――――――――
コラム
[右翼の本棚]3・失地回復の闘い|鈴木邦男………………………79
――――――――――――――――――――――――――――――――――
第二十六回太宰治賞 作品募集………………………18
編集室から………………………80

表紙作品 林哲夫
表紙・本文デザイン・カット 吉田篤弘・吉田浩美

吉岡実が編集していた〔第1次〕の《ちくま》に較べて原稿の本数が格段に増え、ページ数も約3倍に増えている(本文が80ページ、巻末の〈新刊案内〉が16ページ、表紙まわりが4ページの合計100ページ)。一冊まるごと《文藝春秋》を読破した椎名誠の向こうを張るわけではないが、私はいつものように仕事をしながらこの460号を通読するのに、ほぼ3日間を要した。機会を見て〔第2次〕《ちくま》の目次をデータベース化したいものだ。だが、それこそいつになるものやら。ちなみに、NDL-OPACでは(ログインすれば)創刊号の詳細書誌を閲覧できる。近年の号も、ものによっては〈この号の記事〉を見ることができる。試みに、460号のそれを掲げてみよう(なぜか、林さんの随想は採録されていない)。本誌から起こした前掲〈目次〉と比較するのも一興だろう。

国立国会図書館オンライン | National Diet Library Onlineで検索した〈ちくま(通号 460)2009.7〉を出力したもの
国立国会図書館オンライン | National Diet Library Onlineで検索した〈ちくま(通号 460)2009.7〉を出力したもの

出版社のPR誌についてもっとも情熱的に語ったのは、坪内祐三(1958〜2020)である。その《私の体を通り過ぎていった雑誌たち》(初出は《小説新潮》2002年2月号〜2004年11月号)の〈出版社のPR誌のことも忘れてはいけない〉から、《ちくま》への言及のある段落だけを抜きだして、説明の都合上、番号を振って掲げる。〔 〕内は小林による補記。

@筑摩書房の『ちくま』も質が高い。むしろ〔坪内の大学時代(一九七八年〜一九八三年)〕当時よりも充実しているかもしれない。けれどちょっと連載頁[ページ]が多過ぎる感じがする。連載頁が多いとスタティックになってしまう。それに、連載物ばかりだと単行本のための畑や温室に見えてしまう。

A〔坪内が神保町の近くの予備校に通っていた浪人生(一九七七年)のころ〕以来私は、出版社のPR誌を愛読している。『図書』、『ちくま』、『波』、『本』、『青春と読書』、この五誌が当時のメジャー誌[、、、、、]だったが、これらの雑誌はすべて月末(*1)に書店に並ぶ(その発行日は今も変らない)。すべて[、、、]月末と書いたが、実は、出る順番は微妙に異なる。たしか『本』『青春と読書』『波』『ちくま』『図書』の順だったと思う(いや、『本』と『青春と読書』の順番は逆かもしれない)。私はそれらの雑誌を書店で(特に神保町の岩波ブックセンターで)、いただいてくるのが好きだった。書店に置かれた直後に見つけないと、取りそこねてしまうこともある。特に『ちくま』の発行部数は、当時、たぶん他誌よりもずっと少なく、私はよく取りそこねた(大学に入学したら、毎日のように顔を出す早大文学部生協の書店で手に入るようになりその心配はなくなった――と書いている内に思い出したのだが、筑摩書房は私が大学に入学した頃倒産騒ぎがあり『ちくま』もしばらく休刊していたはずだ)。

Bけれど、例えば『ちくま』は、私の家に送られて来る日が実際の発行日よりも数日遅いので、つい、岩波ブックセンターや渋谷の旭屋で、見つけたその日にいただいてしまう。〔……〕

C『ちくま』は二十数冊残した。
 一九八一年九月号には付箋[ふせん]が張ってある。
 開いてみると蓮實重彦のエッセイ「映画に生き残った白さについて」で、こんな箇所に赤線が引いてある(傍点は原文)。
 そもそも映画の白さ[、、]とは、白いものを白く撮っただけのものではないのだ。伝え聞くところによると、あの『奇跡』のまばゆいまでの室内の白壁を白さ[、、]としてフィルムに定着させるために、カール・ドライヤーは壁という壁を不気味なピンク色に塗らせておいたという。
 やがて来るニューアカ的なものに、出版社のPR誌の中で、一番連動していたのが『ちくま』だった。一九八三年一月号には山口昌男と前田愛の対談「都市文学論の新地平」が載っている。山口昌男と前田愛は雑誌『國文學』の森鴎外特集号でも同様の対談を行なっており、それは人文書院から出た山口昌男の対談集に収録されたが、この対談は初出誌のまま、以後二人の著作には未収録だから貴重だ。

D『波』も『ちくま』と同じぐらいの冊数が残った。『ちくま』に比べると『波』はオーソドックスな編集だったが、私はそのオーソドックスが嫌いではなかった。(《私の体を通り過ぎていった雑誌たち》、新潮社、2005年2月20日、二二四〜二二九ページ)

吉岡実が1969年5月創刊の《ちくま》の編集主任(すなわち編集長)を務めていたのは、前にも述べたように1971年1月の第21号から1978年7月(同月、筑摩書房は事実上、倒産している)の第111号までの全91冊だった。Aの「筑摩書房は私が大学に入学した頃倒産騒ぎがあり『ちくま』もしばらく休刊していたはずだ」は、まさにそのことを指す。また、坪内がCで挙げている1981年9月号、1983年1月号とも、編集主任はのちに筑摩書房代表取締役を務めた柏原成光(1939〜 )である。しかし、そうしたクロノロジーは少し詳しく調べれば誰にでもわかることであり、坪内の達見は@の「連載頁が多いとスタティックになってしまう。それに、連載物ばかりだと単行本のための畑や温室に見えてしまう。」であり、Aの「特に『ちくま』の発行部数は、当時、たぶん他誌よりもずっと少なく、」であり、Bの「『ちくま』は、私の家に送られて来る日が実際の発行日よりも数日遅い」であり、Cの「やがて来るニューアカ的なものに、出版社のPR誌の中で、一番連動していたのが『ちくま』だった」であり、Dの「『ちくま』に比べると『波』はオーソドックスな編集だった」である。
坪内が「読書が好きになっていった高校生ぐらいの時からその種のPR雑誌を漫然と手にしていた」(同前、二二五ページ)ちょうどそのころ、私は大学生で、新潮社の《波》を愛読していた。私がいままでに買った新刊の文庫本で最も多いのはおそらく新潮文庫だ。つまり、単行本は高いが、読んで手許に置いておきたいような作品――たとえば福永武彦の小説やエッセイ――は文庫で揃えたものだ(新潮社から出た福永生前の〈全小説〉、歿後の〈全集〉とも全巻を入手し、全集未収録の作品も各社の単行本で揃えたが、未だにまっとうな福永論を書いていない)。もうひとつ、新潮社は著名な文筆家の講演会を新宿・紀伊國屋ホールで毎月一回開催していて、その告知が《波》に掲載された。無料だが、はがきで応募して、抽選があったのではないか(《作家や学者の貴重な講演音源が聴けるサービス開始! | News Headlines | 新潮社》には「かつて新潮社は1966(昭和41)年〜96(平成8)年、東京・新宿の紀伊國屋ホールで毎月「新潮社の文化講演会」を主催しておりました。また1980(昭和55)年〜91(平成3)年には、東京池袋のスタジオ200で「新潮文化講演会」を催し、現在、両方合わせて約800本の講演音源を保有しています。」とある)。私が吉岡実の詩に触れたのは、大岡信(1931〜2017)によってであり、大岡の著作に親しむようになったのは、新潮社の連続講演(たしか半年間続いた)のおかげである。私が最も感嘆したのは五木寛之(1932〜 )の弁舌だった。あるとき登壇した第一声「コールドパーマをかけました」は、いまでもその声の調子とともに憶えている。洗髪が面倒で、コールドパーマだとそれがいくぶん緩和されるというような、本題とは関係のない話題なのだが、とにかくその「つかみ」は抜群だった。その点からすると、文筆の一方、大学で教鞭をとっていた大岡にしても辻邦生(1925〜1999)にしても、もっと着実なエッセイふうで(芭蕉やリルケを論じた辻の連続講演には草稿があって、たしか書籍化する予定だと聞いたが、その後どうなったのだろうか(*2)、五木の話が新潮社の《波》なら、大岡や辻のそれは筑摩書房の《ちくま》といった感じだった。
坪内による出版社のPR誌論の胆は次の箇所だ。――たとえ新刊紹介であっても、もう少しロングショットでとらえて、五年後十年後の再読に耐えるものを載せてもらいたいのだ。これは筆者側の責任である以上に(と自分を棚に上げて言う)、依頼する側の編集者の責任であると思う。/それぐらい、出版社のPR誌とは、目立たないけれど(目立たないからこそ)、プロとしての力量が必要な雑誌なのである。いわば、編集者として腕の見せ所のある雑誌だ。――(《私の体を通り過ぎていった雑誌たち》、二二五ページ)。この見解には、7年半にわたって《ちくま》の編集を手掛けた吉岡実も首肯するに違いない。
私はUPUにいたころ、持ち回りで自社の媒体(客先を主な読者とする、一種のPR誌)の編集を担当したことがある。取材して原稿を執筆するのはともかく、企画をどう立てるか、とても苦労した憶えがある(その号はようやく注目されはじめたインターネットの特集だった)。出版社のPR誌なら、なおさら難しいだろう。

〔追記〕
〈ほん・その目でみる歴史〉を60回にわたって《ちくま》に連載した寿岳文章(1900〜1992)がそれを一本にまとめた《図説 本の歴史〔エディター叢書〕》(日本エディタースクール出版部、1982年2月10日)の〈あとがき〉に「同書房では一切他店の出版物の広告をのせない同書房だけの出版活動の月刊PR誌「ちくま」を出すことになった。」(同書、一八三ページ)と書いたように、休刊前の〔第1次〕《ちくま》(1969.4.20-1978.7.1)は「本文記事32頁+広告」で、他社の出版広告を掲載しなかった。111号(1978年7月)は吉岡が編集を手掛けた最後の号だが、丸谷才一や高橋康也の師だった平井正穂(1911〜2005)の〈ミルトンとの出会い〉の本文末尾に、自社の近刊としてミルトン(平井正穂訳)《失楽園》の罫囲みの3行広告(本文2段組の下段分)があるだけで、本文組み込みの広告は一切ない。一方、〔第2次〕《ちくま》(1980.7.1-継続中)の460号(2009年7月)には、178×38ミリメートル(すなわち天地は段抜き、左右は本文10行分)の他社の出版物の書籍広告が複数本、載っている。版元名を挙げておく。岩波書店、法藏館、法政大学出版局、田村書店(古書店)、東京堂出版、春秋社、群像社、平凡社、青土社、白日社、日本古書通信社、筑摩書房。巻末には16ページの別刷り自社広告(《筑摩書房 新刊案内》と同じ内容)が来て、表紙3には文藝春秋、みすず書房、吉川弘文館、NTT出版のモノクロ出版広告(85×50ミリメートルの罫囲み)が入る。表紙4(裏表紙)には、PILOTの高級油性ボールペンのカラー広告が入って、背に近い部分と罫下には奥付に相当する記載がある。

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(*1) 晩年の吉岡と渋谷の珈琲店トップ(「トップス」と書く人がいるが、「トップ」である)の道玄坂店だったか駅前店だったかで歓談のおり、講談社の《月刊PENTHOUSE》(1983〜1988)が休刊になった経緯を訊かれたことがある(白人女性のヌード写真――競合誌である集英社の《月刊プレイボーイ(PLAYBOY日本版)》のそれに較べて煽情的だったが、《月プレ》も2008年11月に休刊した――を愉しみにしていたようだ)。当時、月刊誌《エスクァイア日本版》の製作進行を担当していたこともあって、私が編集部で小耳に挟んだ情報をお伝えしたものだ。雑誌全体が低迷を続けている今日でもそうだと思うが、市販の月刊雑誌の発売日は「月末」、とりわけ25日に集中する。これは大方の俸給者の給料日を当てこんでの方策で、《エスクァイア日本版》の発売日は、取次店との交渉の結果、毎月24日となった。ちなみに雑誌業界では「○月号」とは呼ばない。流通や広告の面からは、発売日(奥付にある発行日、ではない)が最も重要で、「〔2020年〕7月24日売[うり]」や「7/24売」などと表示する。余談だが、製作面では4月号(3/24売)がいちばんたいへんだった。2月は28日か29日しかないからだ。この、2日ないし3日の差は大きい。本サイト《吉岡実の詩の世界》の更新日が毎月末日なのは、吉岡実の命日が「31日」なのと、私がかつて《エスクァイア日本版》を担当していたことの名残りかもしれない。

(*2) 1994年3月から翌95年2月まで《ちくま》(当時の編集長は柏原成光)に毎回4ページ掲載された12回の連載〈薔薇の沈黙――リルケ論の試み〉が基本となった辻邦生の《薔薇の沈黙――リルケ論の試み》(筑摩書房、2000年1月20日)は、著者歿後刊の遺著。連載最終回の末尾に本文よりも小さい活字で「――〔……〕なお『薔薇の沈黙』は大幅加筆のうえ、一九九五年秋に筑摩書房より上梓の予定。」(《ちくま》287号、三九ページ)と予告されたが、妻の辻佐保子は同書の〈夢のなかのもう一つの部屋――あとがきにかえて〉で次のように書いている。「〔本書は〕連載終了の直後さらに一回分を書きおろし、しばらく後に、細かい文字で書かれた紙片を貼りつけてほぼ全面的に加筆し、引用もかなり増やした上で、現在の形になったものである。」「最終章を執筆できなかったという点では、この書物は未完成かもしれない。〔『ドゥイノの悲歌』〕第十歌冒頭のあまりにも厳粛な一句に導かれて、「認識の果てに立つ」ことは、おそらく肉体をそなえたままでは不可能だったのではなかろうか。あとには「沈黙」しか残らないという意味では、『薔薇の沈黙』は七月二九日〔辻邦生は一九九九年のこの日、急逝〕の午前に完成し、成就したのだと思いたい。」(同書、一八〇ページ、一八七ページ)。さらに、「〔一九〕七七年には、「作家における存在と無(詩の生まれる場所)」という六回の連続講演を行い、そのうちの第三回をリルケにあてている(「パリを越えるもの。リルケの場合」)。詳しい年譜に基づいて『マルテ』から『オルフォイス』に至る詩作の変遷を辿っており、日常的な価値観を越えて深い精神の「実在」に至るという趣旨は、本書の基本的な姿勢とも共通している(草稿メモと講演テープの書き起こしが残る)。」(同書、一八三ページ)。この講演の主催が新潮社(《辻邦生全集》――〔第15巻〕(2005年8月25日)に《薔薇の沈黙》を収める――の版元でもある)で、17年後のリルケ論の雑誌連載が《ちくま》、その単行本の版元が筑摩書房、というのは私の「出版社のPR誌」の印象とまさしく合致する。なお、辻佐保子の前掲文に依れば、同書の担当編集者は辰巳四郎、装丁は中島かほる(同書、一八八ページ)である。


吉岡実と加藤郁乎――ふたりの日記を中心に(2020年6月30日)

江戸川乱歩や西脇順三郎のように日記を書かなかった者もいれば――乱歩の貼雑年譜、西脇の詩そのものが日記の役目を果たした――、吉岡実や加藤郁乎のように日記を遺した者もいる。本稿(以前にも〈吉岡実と加藤郁乎〉を書いているので、〈吉岡実と加藤郁乎(2)〉に相当する)に先立って、加藤郁乎の日記〈自治領誌 W以降――1960(昭和35年)〜1974(昭和49年)〉(《加藤郁乎作品撰集V――続初期日記・エッセイ・交遊録》、書肆アルス、2016年7月15日)を読んで、私は吉岡実の登場する日の記載をテキストデータ化して、PCに取りこんだ(本稿に引いた「吉岡実」「吉岡」は赤字で表示。なお、吉岡が日記や随想で触れている事項に関しても、加藤郁乎日記の記載を拾った)。吉岡実が最も親しく交わったのは、詩人の西脇順三郎(1894〜1982)、俳人の永田耕衣(1900〜1997)、舞踏家の土方巽(1928〜1986)だが、吉岡に劣らず俳人の加藤郁乎もまた、この三人と濃密に交わった。そこで、吉岡と加藤の日記や随想にこれらの人人が登場する日を中心に、吉岡の記述を小字で掲げ、「加藤郁乎」「郁乎」は青字で表示してみた(*印以下は、小林によるコメント)。加藤郁乎は日記本文の漢字に正字を使用しているが、インターネット上ではすべてを再現できるわけではないので、「吉岡實→吉岡実」のように新字に改めた。ただし、「澁澤」や「巖谷」は本人の用法を尊重して原文のとおりとした。仮名遣いは、捨て仮名の使用も含めて、原文のママ。ときに、かつて私が〈吉岡実年譜〉(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991)を作成する際に行ったのは、吉岡自身の文章、すなわち既刊・未刊の随想、既刊の日記、未公開のものを含む書簡などの諸資料を該当する年ごとに配置して、それを睨みながら文章化することだった。礒崎純一《龍彦親王航海記――澁澤龍彦伝》(白水社、2019年11月15日)巻末の〈主要参考文献〉には、「全集・年譜・文章集成等・特集雑誌、ムック等・文献」そして書簡が挙げられている。その伝でいけば、吉岡実伝における「年譜」は、鍵谷幸信・新倉俊一編〈西脇順三郎年譜〉(《定本 西脇順三郎全集〔第12巻〕》、筑摩書房、1994年11月20日)や巖谷國士編〈澁澤龍彦年譜〉(《澁澤龍彦全集〔別巻2〕》、河出書房新社、1995年6月26日)になるわけだが(耕衣と土方にはそのレベルの年譜がまだない)、礒崎も「文献」として挙げている「加藤郁乎『加藤郁乎作品撰集V』書肆アルス、二〇一六年」は、私が件の吉岡実年譜を書いたときにはまだ刊行されていなかった。同年譜に反映されていない新規の情報に関しては、加藤日記の本文のあとに、――(二倍ダーシ)に太字で吉岡実年譜の文体に揃えてリライトしてみた。いつの日か吉岡実年譜を増補改訂する機会があれば、その記載を反映させたいと思う。なお■印は、原文では全角アキだが、加藤日記からの引用であることがわかりやすいようにと、あえて付した(■印だけの行は一行アキを表す)。見出しの〔年〕月日の次の【 】内の曜日は、原文にないために小林が補ったもの。

加藤郁乎〈自治領誌 W以降――1960(昭和35年)〜1974(昭和49年)〉

〔1962(昭和37年)〕十月十二日 金曜
■〔……〕

吉岡実氏より詩集『紡錘形』を送られる。(加藤日記、四六ページ)

* 吉岡の第五詩集《紡錘形》(草蝉舎)は1962年9月9日の刊行。郁乎は日記の日までに処女句集《球體感覺》(1959)と第二句集《えくとぷらすま》(1962)を出しているが、吉岡には献本していない。

――1962(昭和37年)10月 加藤郁乎に詩集《紡錘形》を送る。

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〔1966(昭和41年)〕二月一日【火曜】
■昨夕、西脇順三郎氏の誕生日の会によばれてゆく。灘万。七十四歳とは思へぬつやと笑ひに溢れてゐるといつたところ。吉岡実と初めて逢ひ句や歌のことなどを喋る。楠本憲吉に誘はれて裏口から二人して抜け出し銀座のローザンヌといふ店に連れてゆかれる。大岡信と南画廊の清水氏に会ふ。今夜の会のことを云ふと大岡信が苦笑しながら西脇さんもちよつとロマンテイツクすぎると批判する。楠憲とマダムとKといふ女の子と四人して渋谷の加茂川にゆく。鍵谷、白石たちがわいわいやつてる傍で水たきをつつきながら一時ごろまで飲む。鍵谷、関口篤、諏訪優が喜久井町に来て飲む。現代詩の悪口を例によつて始めて五時頃にみな帰る。
■ブリジット・フローフィ「雪の舞踏会」。(加藤日記、一三三ページ)
 加藤郁乎と私がはじめて出会ったのは、いつだったろうか。それは大切なことなので、今、記憶をたどっているのだが、はっきりとは云えない。たしかそれは、灘万での西脇順三郎先生の誕生日のお祝いの夜だったと思う。その日、先生は自祝の意味をこめられてか、新作の詩を披露されたのだった。車座になって、酔っていた連中がその生原稿を廻し読みしたものだ。それは〈梵〉という詩であった。

  記憶はヤマデラボウズの栄光しか残らない
  〔……〕
  「ボンショウ」の音だ

 これはそのなかほどにある一節であるが、先生は独特な抑揚のある声で、「ヤマデラボウズ」は、山寺の坊主でなく、植物の一種であり、この詩の主題は、/でも地球の最大な人間の記憶は/「ボンショウ」の音だ/という二行にこめられているんだと力説されたのが印象に残っている。〈梵〉は、「無限」の昭和四十一年春季号に発表されている。この車座の中に加藤郁乎はいたのだ。誰に紹介されたのでもなく、一瞬の出会いだった。それからは宴が終るまで、恐らく二時間近く郁乎と語りつづけた。《球体感覺》も《えくとぷらすま》もすでに買求めて、読んでいるとの私の言葉に、郁乎は礼儀正しく恐縮した。

  昼顔の見えるひるすぎぽるとがる
  〔……〕
  天文や大食[タージ]の天の鷹を馴らし

 これら異端の名句の作者と一夕にして、私は知己になったのである。(〈出会い――加藤郁乎〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一九七〜一九九ページ)
* 「ブリジット・フローフィ「雪の舞踏会」」は、ブリジッド・ブローフィ(丸谷才一訳)《雪の舞踏会〔人間の文学22〕》(河出書房新社、1966)だろう。

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〔1967(昭和42年)〕二月十日【金曜】
■昨夜、「形而情学」の出版記念会をやつて貰ふ。灘万。西脇さん、澁澤龍彦、池田満寿夫などが喋つてくれる。楠本憲吉の好意で五十人位のうちから三十人位が引つづき二次会の座敷で雑談。司会を鍵谷幸信がやつてくれる。渋谷の加茂川に出かけて飲む。喜久井町に澁澤夫妻、野中、池田、土方、飯島耕一、松山俊太郎、前田、吉本たちが来て朝まで飲む。
■珍らしい雪が降つてゐて、ひる頃起きて雪見酒。なんとなくごろごろしながら雑談。みんなを夜の雪の町に送る。(加藤日記、一六六〜一六七ページ)
 笠井叡が私の前に姿を現わす前には、当然ながら土方巽の恐るべき光彩がたちこめている。いつのことか忘れたが、銀座の灘万で加藤郁乎の《形而情学》の犀星賞を祝う会があった。二次会は小さな部屋で、気の合った同士が酒と雑談に酔っていたが、親しい人のすくない私はひとり離れてぼんやりしていた。私の丁度向いに着物をきた人物が静かに酒をのんでいる。一寸ばかり気になる存在だった。そのうち突然、あとからきた飯島耕一が大声をあげて、私の卓の前へ坐って、酒をのみはじめた。向いあった人物と私が少しも言葉をかわさないので耕一は「なんだ、土方を知らないのか」。私は名前はなんとなく知っていたが、土方巽もその舞踏も知らなかった。彼は《僧侶》を既に読んでいるといった。それからうちとけて親密さを加え、彼の芸術を知らねばならぬと思った。(〈変宮の人・笠井叡〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一六〇ページ)

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〔1967(昭和42年)〕四月十八日【火曜】
■昨夜、加納光於の個展のオープニングにゆく。南画廊。色彩のエロティックな氾濫と寓意の狂ほしい再生だ。きれいだなァと云つたら、彼から富士山のやうなことを云ふと笑はれた。瀧口修造、吉岡実、大岡信、野中ユリと喋る。名古屋から馬場駿吉君たちが来てゐて飲みながら俳句のはなし。テレビ局に戻つて「11PM」に出演する、土方巽のリファーサルに立ち合ふ。「姉[アネ]さんの踊り」といふ幻灯機を使った暗黒舞踊。終つてから、土方、大野一雄、大野慶人、笠井叡、石井の諸氏を喜久井町に誘つて飲む。土方と大野氏との不思議な対照を見てゐると、これはもう非具象画のやうなダンスだ。三時頃みな帰る。(加藤日記、一七三ページ)
 四月十七日 月曜
 合田佐和子のオブジェ展へゆく。白い妖怪の美学。人魚と蛇ばかりの人形の夥しい群。指の先ほどの女体、蛇体のびん詰。初対面の彼女は髪の長いカレンな人。作品四点求める。郁乎からの電話で南画廊へ廻る。加納光於の「半島状〔の〕!」展。大岡信、瀧口修造氏と会う。奇妙で美しい色彩の世界。加納光於に紹介される。(〈日記抄――一九六七〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一〇ページ)

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〔1967(昭和42年)〕五月十二日【金曜】
■昨夕、「今日の舞踏家」フェスティバルにゆく。都市センター・ホール。吉岡実、三好豊一郎、土方巽、野中ユリ、高橋久子、白石かずこたちと逢ふ。笠井叡君の「O嬢の秘密」をうつとりと見る。馬鹿な観客たちのために、彼の華麗なニヒリズムが、意味もなく笑はれることを怖れる。みんなで渋谷の加茂川に行つて飲む。土方のスタヂオにゆく。詩と詩人のはなし。みんな帰つたあと、嘔いて寝込んだ土方巽のそばに寝る。
■ひる頃、起き出して酒盛り。彼の戦後間もない頃の荒涼たる魂と肉体の物語を聞く。五時頃、別れて神保町の昭森社にたどりつく。森谷均から千円借りて飯田橋で待ち合わせした高橋久子に逢ふ。十二時頃彼女を家の近くまで送つて別れる。(加藤日記、一七六ページ)

――1967(昭和42年)5月11日 〈今日の舞踏家〉フェスティバル(都市センター・ホール)で笠井叡《O嬢の秘密》を観る。

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〔1967(昭和42年)〕七月四日【火曜】
■昨夜、「形而情学」舞踏化公演、六時半、紀伊國屋ホール。開幕早々、写楽の似顔をなかに挟むでわが横顔がスライドで映されて、愉快で変な気持。高井富子をたすけて土方巽、大野一雄、笠井叡の踊りがスキャンダラースな螺旋境を恍惚とつくり出してゆく。終演後、目黒の土方巽のスタジオに行つて飲む。澁澤龍彦、瀧口修造、森谷均、横部得三郎、矢川澄子、野中ユリ、富岡多恵子、三好豊一郎など。スタッフの面々四十人位が踊つたり歌つたりして朝まで喋る。富岡多恵子を送つて帰る。
■母の具合、葡萄糖液の続行、輸血用の血を集めなくてはならない。
■大橋嶺夫から句集「聖喜劇」を贈られる。(加藤日記、一八二ページ)
 七月三日 月曜
 夕方、三好豊一郎来る。ラーメンを食って紀伊国屋ホールへ向う。那珂太郎、澁澤龍彦と出会う。七時開演、土方、笠井君たちの舞踏詩「形而情学」始る。クレオパトラ・タカイ、アレクサンドロス・オオノ、ヘリオガバルス・カサイ、ネロ・ヒジカタの奇怪にして典雅、ワイセツにして高貴、コッケイにして厳粛なる暗黒の祝祭。幻の舞踏者大野一雄の芸に接しえたのは幸運。ハサミを持って踊り狂う老人の姿これはなんだろう、地獄の使者か、人間至福の正体か。恍惚の二時間半。土方巽の傑作に拍手。那珂太郎、白石かずこと近くの喫茶店で一時間ほど雑談。十時半ごろ別れる。藤富保男詩集『魔法の家』をよみながらねる。(〈日記抄――一九六七〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一三〜一四ページ)

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〔1967(昭和42年)〕七月二十九日【土曜】
■上京中の札幌の鷲巣繁男氏から、昨日電話があり、今朝、朝日新聞の本社玄関で逢ふ。マフィアの親分とあだ名をつけたのだが、やはり適切だつたやうだ。肥つてゐるが、マラリアからきた心臓病に悩まされてゐるとのこと。近くの喫茶店でプロティノスのことなど喋つてゐたら、急に顔が蒼ざめてきたので驚く。冷房がいけないといふので、すぐに出て、昭森社に車をやる。ラドリオで森谷氏や高橋睦郎君を交えてビール。そのうちに吉岡実、中野嘉一氏がやつてくる。雷鳴と豪雨。七時頃、鷲巣氏を送る。黒田三郎、安西均、木山捷平氏と少し飲んでから、笠井叡、高橋久子の両人と新宿に出て、ノア・ノアで飲む。
■澁澤龍彦から「ホモ・エロティクス」、多田智満子から「サン・ジョン・ペルス詩集」を贈られる。(加藤日記、一八四ページ)

――1967(昭和42年)7月29日 札幌から上京した鷲巣繁男に森谷均や加藤郁乎たちとともに会う。

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〔1967(昭和42年)〕八月二十九日【火曜】
■昨夜、石井満隆氏の舞踊公演「舞踏ジュネ」を見にゆく。第一生命ホール。少し遅れていつたので、石井氏の頭を剃つた土方巽が、勢いあまつてすつぱりと切つて血を溢れしめたといふ場面を見なかつたのが残念。犬を抱いて踊つたところは土俗のなかの薫香ともいふべき美しさ。終つてから土方スタヂオにいつて飲む。大野一雄、澁澤龍彦、唐十郎、野中ユリたちと喋る。近所の連中がうるさいので電話したらしく、警官が四人ばかり来て、静かにしろと云つたらしい。十人ばかりが残つて四時頃まで飲む。
■ヴァルター・シュミーレの「ヘンリー・ミラー」を読む。(加藤日記、一八六ページ)
 〈日記〉 一九六七年八月二十八日
 夜六時半、日比谷の第一生命ホールへ行く。土方巽の弟子石井満隆のリサイタル「舞踏ジュネ」を観る。開幕――舞台の左手の前で、照明が当ると、満隆の虎刈りの頭を、軽便カミソリで土方巽が荒々しく、剃りはじめる。過失か演出か、血がながれ出す。暗転――客席の方まで拡がる巨大な白い布をかぶった満隆が現われ、それを取ると、白塗り全裸で陰茎はバラ色に染められており、しばし狂気の踊り。またひと抱えもあるビクターの犬を、舞台の中央に置き、その廻りを巡るシーンは、美しい叙景詩。息もたえだえに舞手満隆は消えて行くのだ。その後のうす暗い背景に置かれた理髪店の看板が星条旗を付けて、ゆるやかに廻っていた……。終って外に出ると、澁澤龍彦夫妻、加藤郁乎、野中ユリの顔が見えた。笠井叡と高橋久子を誘って有楽町で食事し、倫敦屋でお茶を飲んだ。(〈3 「舞踏ジュネ」〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、一〇〜一一ページ)

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〔1967(昭和42年)〕十月三十日【月曜】
■夜、笠井叡の舞踏公演を見にゆく。第一生命ホール。和服の高橋久子が可憐で美しい。嵯峨信之氏と一緒に並んで見る。読書新聞の高阪君から舞踏論を頼まれる。二時間近く、華麗で若々しい傲慢の組曲に、久方ぶりに踊りらしい踊りの薫香のやうなものに酔つた。終つてから瀧口修造、澁澤、土方、野中、富岡、巖谷たちの面々と、なんとなく飲んで喋る。新宿のノア・ノアに行つて、瀧口さんとブルトンの話をしたりして帰る。(加藤日記、一九一ページ)
 「舞踏ジュネ」の会から二カ月後に、笠井叡独舞公演「舞踏への招宴」が第一生命ホールで催された。私は初めて妻をつれて行った。招待席には常連のほか、瀧口修造と皮ジャンパー姿の三島由紀夫が見えた。これは彼の初期から現在までの成果である、「磔刑聖母」、「O嬢への譚舞」、「牧神の午後への前奏曲」、「変宮抄」、「菜の花の男装に」などであった。どれもすばらしく、まさに夢幻の一夕である。とくに「O嬢への譚舞」は美と滑稽が混淆し、昇華したエロチシズムを漂わせていた。たえず扮装や衣装を替え、じつに二時間も踊りつづけた、笠井叡の精神力に圧倒されたのは、私たちだけではなかっただろう。息も絶えだえのラストで、舞台に横たわったまま、捧げられた花束を床に叩きつけながら、花びらを散らしていた姿は、もしかしたら幽鬼か、或は「変宮の人」ではないだろうか。(〈4 「変宮の人」〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、一一〜一二ページ)

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〔1968(昭和43年)〕一月十九日【金曜】
■筑摩書房に吉岡実を訪ねて、近くの喫茶店で詩や俳句の話をする。「吉岡実詩集」を貰ふ。
■夕方、ニューヨークにゆく瀧口修造氏を送るささやかな集まり。新宿「ととや」。野中ユリ、川仁宏、巖谷國士と瀧口さんの五人で、瀧口さんの若き日の話や、ダリの家でデュシャンに逢った話や、ブルトンの居間の模様などを聞く。「瀧口修造の詩的実験」を貰ふ。風紋、ユニコンと歩いて三時頃に別れる。瀧口さんをシュルレアリストと呼ぶのは簡単だけれども、平面的すぎる。プラスチックの哲人の影がちらちらしてゐる。あなたは苦学を知つてゐますか、と聞かれた意味のなかには、詩に対する詩的でない空気がこめられてゐたにちがひない。(加藤日記、一九七ページ)

* 「「吉岡実詩集」を貰ふ」は、当時の全詩集《吉岡実詩集》(思潮社、1967年10月1日)だろう。

――1968(昭和43年)1月19日 来社した加藤郁乎に《吉岡実詩集》を贈り、近くの喫茶店で詩や俳句の話をする。

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〔1968(昭和43年)〕一月二十九日【月曜】
■昨日、正午に東京駅の横須賀線フォームで吉岡実と待ち合せて、澁澤龍彦の家にゆく。吉岡実がベーゴマに詳しいのに驚く。画家の山田君が、広島のカキを持つて現れ、そのうちに高橋たか子さんが見える。生田耕作氏が見ていつたといふ春画集を開いたり、「唄入り神化論」を唄つたりしてゐるうちに酩酊。今朝、十二時近くに家からの電話で起されて、現代思潮社の川仁、荒川君とタルホ著作集のリスト・アップの件を思ひ出し、急いで帰宅。萩原幸子さんが大久保から初めて見えて、川仁君と一緒に「作家」などの資料を取りに行つてくれる。夕方、皆帰る。
■裕子が北海道から土産にしてきた蟹を食ひ過ぎて、寝ながら、ミッシェル・フーコーの「世界の散文」を読む。(加藤日記、一九八ページ)

* 澁澤龍彦の随想〈吉岡実の断章〉(初出は《ユリイカ》1973年9月号〔特集=吉岡実〕)に見える三鬼句をめぐるやりとりはこのときのもの。加藤郁乎〈一字の師、大度の友〉(《ユリイカ》1975年9月号〔特集=澁澤龍彦 ユートピアの精神〕)の一節に「俳句の話といえば、それ〔昭和四十一年〕から二年後の正月の終る時分、吉岡実を誘って遊びに行ったところ、主人は断乎として三鬼居士の「水枕」の句を認めようとしない。ガバリ≠ェいかんと頑張り通し。やたらと腐った三鬼ファンの吉岡実と私だったけれど、『僧侶』の詩人が拳玉の名人芸を披露するに及んで、それまでは東京山の手方面の代表みたい振舞っていた拳玉のチャンピオンは、みるみるうちに自信喪失のてい。「大塚」方式の田村隆一流〔ナシ→のでん〕で比較検討を試みれば、これは、本所で育って鍛えに鍛えた吉岡実少年の「下町」型と、澁澤龍彦や私どもが意気がっていた「山の手」型との文化の差というものだろう。」(同誌、一六一ページ)とある。

――1968(昭和43年)1月28日 加藤郁乎に誘われて北鎌倉の澁澤龍彦を訪問。ベーゴマを語り、ケン玉を披露する。西東三鬼の「水枕」の句を論い、深夜の酒宴で澁澤が郁乎の〈唄入り神化論〉を歌う。

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〔1968(昭和43年)〕二月十八日【日曜】
■昨夜、安井浩司君の句集の出版記念会、出版クラブ。吉岡実、高柳重信たちと喋る。吉岡、吉本忠之を誘つてノア・ノアで飲む。吉本君を喜久井町に泊める。
■ひる前に、盲腸で入院中の前田希代志君を新宿病院に見舞ふ。

■バタイユの「有罪者」を読む。
■昨日、福田陸太郎氏が「ホイットマン詩集」(三笠版)をとどけて下さる。(加藤日記、二〇一ページ)

* 安井浩司の句集は《赤内樂》(琴座俳句會、1967年5月30日)か。

――1968(昭和43年)2月17日 安井浩司の句集《赤内樂》の出版記念会(出版クラブにて)に出席。

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〔1968(昭和43年)〕三月三日【日曜】
■笠井叡君と高橋久子君の結婚式にゆく。赤坂プリンス・ホテル、正午。土方巽、吉岡実、澁澤夫妻、森谷均、常住郷太郎と逢ふ。なんとなくマイクの前で喋らされる。久子君に、昨夜は眠れたかいと聞いたらあのはれぼつたい眼をうるませたり輝かせたりした。仲人の大野一雄さんと、魔女のはなしを夢中でする。ボマルツオの写真展を二コン・サロンに見にゆく。三愛ビルに登つたり、ライオンでビールを飲んだり、青山一丁目のグリルで飲んだりする。目黒駅前の飲屋についた頃は十二時頃、土方、澁澤夫妻、森谷均、野中ユリ、高井富子だけ。澁澤氏に鎌倉に誘はれて、タクシーに乗つて、サーツと出かける。途中どつかでビールとコーラを買つて飲んだ。北鎌倉は雪。女を肴に飲む。秘案を喋ることのできるのは、澁澤龍彦と矢川澄子だけだ。(六日記)(加藤日記、二〇二ページ)
 〈日記〉 一九六八年三月三日
 桃の節句。笠井叡・高橋久子の結婚抜露宴が行われる、赤坂プリンスホテルへ行く。媒妁は大野一雄夫妻だった。麗かな昼下り、ゴールデンルームで祝宴はじまる。乾杯の音頭を指名されて、いささか慌てた。闊達な久子さんが花束を、笠井未亡人に渡すとき、泪を見せたのが印象的だった。銀座へ出てライオンで二次会。夕刻から大雅で三次会となる。森谷均、土方巽、澁澤龍彦、加藤郁乎、高井富子たちとフグを食べ酒をのむ。叡・久子の新しい内裏びなを肴にしながら。(〈5 雛まつり〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、一二〜一三ページ)

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〔1968(昭和43年)〕三月二十日【水曜〔春分の日〕】
■昨日の午後、銀座をぶらぶらしてから、ピカデリーで「パリのめぐり逢ひ」を見る。キャンディス・バーゲンといふ女優が大変きれい、通俗に流れ放しのおもしろさに、久方ぶりに酔つた。知つてる女に見せたい欲望しきり。夕方からの土方巽と細江英公の写真展とオープニングのため、ニコン・サロンにゆく。驚くべき土と人間の出逢ひの写真展だ。細江、土方と打合せ、司会を三木淳氏と私とでと頼まれる。五時半に開会、写真家の方は三木さんに頼んで、こちらは澁澤龍彦、大野一雄、瀧口修造、合田成男の諸氏に喋つてもらふ。終つてスキヤ橋の河豚料理「大雅」で飲む。笠井君がハネ・ムーンで痔を起したさうで、同病相あわれむわけでもないが、肛門や女の穴などのはなし。新宿に出て、なんとか寿司で飲む。澁澤、土方、中西夏之と目黒に出てスナックで喋る。ここで澁澤龍彦からはじめて澄子さんとの離婚のはなしを聞く。五時近くまで喋つたが、いい知恵も浮かばず、帰る。

■今日から立方を引き取ることとなり、四時頃、洗足の父母がつれてきてくれる。騒いでゐたと思つたら、眠つてしまつてゐる。土方巽から電話で澁澤龍彦の件を云つてくるが、もう少し時間が経つてからの方がいいんぢやないだらうかと返辞する。
■大島渚のシナリオ集「絞死刑」を妹さんがとどけてくれる。(加藤日記、二〇三〜二〇四ページ)
 〈日記〉 一九六八年三月十九日
 夕暮。銀座のニコンサロンへ行く。細江英公が三年ほどかけて、撮った土方巽の映像展である。すっかり「顔」まで変容させる舞踏家の肉体表現術に感嘆す。地下にある八千代という店で祝宴。細江英公と初めて会う。瀧口修造、澁澤夫妻、三好豊一郎、高橋睦郎、松山俊太郎諸氏と会う。そして二次会は数寄屋橋の大雅で、ふぐちり、ひれ酒でしばし歓談。種村季弘と初めて会う。十時閉店で千円の割かん。矢川澄子ら女性たちは帰った。三次会は新宿のむらさき寿司へと河岸をかえる。三階の座敷でやっとくつろぐ。中西夏之や池田龍雄と土方巽は絵画論をはじめる。その痛烈な批判に対し、池田龍雄は沈黙したが中西夏之は反発し、だいぶ怒ったようだった。疲れたので、十二時過ぎ笠井夫妻と帰った。
                      ★展覧会のタイトルは「とてつもなく悲劇的な喜劇」。(〈6 「鎌鼬」写真展〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、一三〜一四ページ)

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〔1968(昭和43年)〕五月二十四日【金曜】
■朝からソーメンばかり食べてゐる。
■骨が痛いと頭がしびれるといふ感じを知つたりする。
■三田新聞の「タルホートピア」(十枚)を書く。

■「ユニコーン」の創刊号を読む。予想以上の出来映えに満足、エッセーに較べて作品があまり冴えてゐない。
■立方が保育所で左の頬をひつ掻かれてくる。裕子が父子して斬られの与三だと笑ふ。
吉岡実氏と電話、ユニコンの乱を話したら、イクヤ的でいいネと喜んでくれる。苦笑。(加藤日記、二一二〜二一三ページ)

――1968(昭和43年)5月24日 電話で加藤郁乎から〈ユニコンの乱〉の顛末を聞き、イクヤ的でいいネと喜ぶ。5月22日の〈ユニコンの乱〉は、種村季弘《怪物のユートピア》出版記念会の二次会会場、新宿のユニコンで唐十郎と足立正生が演じた1960年代の伝説的な立ち回り。間に入った郁乎は肋骨を折っている。

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〔1968(昭和43年)〕九月二日【月曜】
■三十一日の夜、笠井叡の舞踏公演「稚児之草子」にゆく。厚生年金小ホール。楽屋に行つたら全裸で、からだ中におしろいを塗つてゐるところ、陰茎も真白にして、いい顔をしてゐる。すばらしく綺麗な眼をして踊つてゐたが、なかでも、オルガンの上で全裸になつて自分の肉体と戦ひ、愛撫し、崩れてゆく踊りは、肉の彫刻の悦楽。終つてから矢川澄子と久方ぶりに雨のなかを、二次会場まで喋りながら歩く。澁澤龍彦を、いま、初めて魂で物を云ふごとくに愛してゐるのだと云ふ。なんとか寿司の二階で、京都から帰つたばかりといふ澁澤龍彦と喋る。生田耕作と稲垣足穂を訪ねたら、タルホさんが私のことを色魔だと云つてたと笑ふ。土方、加納夫妻、池田夫妻たちとユニコンにゆき、種村季弘や瀧口修造氏と喋る。名古屋からきた馬場駿吉君や、いつの間にか現れた松山俊太郎と飲む。松山と二人だけになつて、土方巽に誘はれて目黒にゆき、ナポレオンをがぶがぶ飲む。
■気がついたら昼頃で、芦川嬢がつくつてくれたオカヅで飲む。そのうちに夕方。なんとなく池田満寿夫に逢ひたくなつて電話をしたらO・K。土方、松山、芦川の面々を誘つて代々木の村田マンションに出かける。途中まで迎へにきてくれた池田に連れられて二階の部屋にゆき、二人の客たちと一緒にリーランの料理で飲む。ビエンナーレに出品するといふ版画や便所や風呂を見て廻る。さよならしたのが十時頃、それからノア・ノアに行つて飲んだり踊つたり。松山を踊りに誘つたら、そんな羞かしき行為をするくらゐなら死んだ方がましだ、ときた。暁の新宿を土方に車で送つてもらつて帰る。
■ひる過ぎに起きて、土方巽の舞踏記念の本のための詩を考へる。舞踏と詩は、酒と女の関係だ。のめり込んで自分をとことん駄目にしなければ掴めない。猫撫での美意識なんか、思つただけでヘドが出る。お茶や紅茶の補給で卍的な世界を考へる。(加藤日記、二二〇〜二二一ページ)
 〈日記〉 一九六八年八月三十一日
 笠井叡の舞踏の夕べ。「稚児之草子」を観に陽子と新宿の厚生年金ホールへ行く。甘美な予兆。舞台から突き出された処から、横たわっていた笠井叡が起きあがり歩み出す。天井から吊られた巨大な虎の絵、それは四つか五つに分れている。その下で、美しい着物と朱の長襦袢をまとっていた稚児がひと踊りして、ぱっと脱ぎすて、白塗りの全裸となり、黒く輝くピアノの上に乗る。人間とは思えない妖しい官能性! まさしく稚児の未完の肉体の清らけく……。
 八時近く終り、いつものむらさき寿司の三階の座敷で小宴となる。澁澤龍彦、加藤郁乎、高橋睦郎、矢川澄子、池田満寿夫・リラン。めずらしく、富岡多恵子も見えた。その席に思潮社から、詩集『静かな家』の見本が届く。十一時すぎ、飯島耕一と帰った。(〈10 虎の絵の下で〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、二一ページ)

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〔1968(昭和43年)〕十月二日【火曜】
■〔……〕
■夕方、家に帰つて二時間ほど眠つてから、吉岡実から貰つた「静かな家」を読む。
■澁澤龍彦がビアズリーの「美神の館」を送つてくれる。(加藤日記、二二四ページ)

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〔1968(昭和43年)〕十月十一日【金曜】〔10月10日は体育の日〕
■昨夜、土方巽の舞踏公演会にゆく。日本青年館。久しぶりに彼の華麗なる踊りを満喫した。図抜けて魅惑的なテクニシャンだ。ダンスといふ名は彼の肉体の総称であり、暗黒といふ名は、それを明るくして見せる別名であるやうな二時間。
■池田満寿夫と二階正面で見てゐたが、終つてからやられたネと同時に笑つた。渋谷の大松といふ寿司屋で飲む。彫刻家の飯田善國氏と喋る。ベルリンで役者をしてゐた話や、ゾンネンシュタインの様子などを聞く。野田弘志氏に亀山巖氏から頼まれてゐるバイロスの画集を頼む。新宿のパニックに行つて、矢川澄子、野中ユリ、高井富子たちと踊る。歌舞伎町のジャズ・バーにゆき飲む。土方巽たちと別れ、牛窪、馬場駿吉たちと二、三軒歩いて帰る。ビアスの「幽霊」の書評を書いて寝る。(加藤日記、二二四ページ)
 〈日記〉 一九六八年十月十日
 〈季刊芸術〉七号届く。「神秘的な時代の詩」掲載。夕方、陽子と神宮外苑の日本青年館へ「土方巽と日本人――肉体の叛乱」を観に行く。入り口の脇には夥しく花が飾られている。その前に繋がれた白い馬が霧雨のなかに立っていた。受付で土方夫人を呼び出し、入場料を払う。これが初対面だ。グリルで、陽子のいとこ田村紀男・朋子兄妹と、お茶をのみながら開場を待つ。そこで加藤郁乎と会った。何が始まるのだろうか、この空間では……。全裸の土方巽が金色の擬似男根を勃起させて、吊り下げられた数枚の大きな真鍮板の間を、踊り狂う。血のアクシデントを予感し、観客は興奮するばかりだ。そしてラストは、手足をロープで吊り上げられ、さながら息も絶えだえに、キリストの如く昇天する……。終演後、関係の人々と、大松寿司で祝宴となる。十一時過ぎ、飯島耕一と抜け出して帰った。(〈12 「肉体の叛乱」〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、二四ページ)

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〔1968(昭和43年)〕十一月五日【火曜】
■昨夕、南画廊にゆき、瀧口修造氏と逢つて、デュシャンの画集展の説明を聞く。デュシャンが瀧口氏に贈つたといふ「ローズ・セラヴィ」の看板や、彼の死を伝へる夫人の電報などを見て廻る。東野芳明と逢つてウィスキーを飲む。瀧口さんとバスで松屋前までゆき、文春画廊の西脇順三郎展のオープニングを見る。西脇さんの絵は驚くほど上手だ、画家を志望しただけのことはあると池田満寿夫と喋る。色の使ひ方が鮮明で不調和の調和を作つてゐたりして、とに角楽しい。
■西脇さんに「画家になられたらよかつたですね」と云つたら「本当にさうですね」と笑はれる。土方巽、池田夫妻、吉岡実、飯島耕一、大岡信たちとスキヤ橋のフグ屋大雅≠ノ行つて飲む。新宿のユニコン、パニックと歩き、途中のどこかで逢つた矢牧一宏と朝まで飲み歩く。(加藤日記、二二六ページ)
 〈日記〉 一九六八年十一月四日
 サントリーロイヤル一本を持って、文藝春秋画廊の西脇順三郎画展に行く。油彩、水彩、墨絵、エッチング、色紙を展示。なかでも油絵は美しい。先生は客にかこまれて、ごきげんがよろしい。おつきあいが広く、多種多様な顔ぶれで、会場はいっぱいだった。久しぶりで高橋新吉、村野四郎、安東次男諸氏と会う。遅れて現われた土方巽を、大岡信とひきあわせる。例のごとく大雅で酒となった。土方巽は朱の麻の葉模様のチャンチャンコ姿をしている。飯島耕一も大岡信も舞踏家と大いに飲んだり、喋ったり。(〈13 詩人の絵画展〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、二六ページ)

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〔1968(昭和43年)〕十一月二十三日【土曜〔勤労感謝の日〕】
■夕方、土方巽のホールにゆく。彼の舞踏記念の詩画集「あんま」の署名をするため、画家六名、詩人六名が集まる。澁澤、吉岡、飯島、唐十郎たちと飲む。そのうちに池田満寿夫とリラン、矢牧一宏、松山俊太郎たちがやってきて、軍歌が出始める。リランとアメリカやスペインの詩を、危い英語と日本語で喋る。男と女なんて、何とか通じるものだ。警官が来たといふのは全く知らなかつたが、午前四時近くに、隣りの住人といふ女が、うるさくて眠れないと抗議に来たので、なだめて返した。瀧口修造氏が帰つたが、他の連中は一向に帰らうとしない。(二十五日記)(加藤日記、二二七〜二二八ページ)

〔1968(昭和43年)〕十一月二十四日【日曜】
■眠る連中のなかで、矢牧一宏とふたりだけが寝ずに飲んで喋つてゐたことになる。
■朝だ。女の子が味噌汁を作ってくれたので机を並べて酒と一緒につづける。顔ぶれをざつと見廻すと、土方、澁澤、吉岡、種村季弘、矢牧、松山、高井富子の面々。
■そのうちに夕方になり、飯島耕一が現れ、内藤三津子、篠原佳尾、石井満隆が来てゐる。澁澤龍彦の音頭で「唄入り神化論」を合唱し、女たちと踊ったまでは覚えてゐるが、あとはわからず。(二十五日記)(加藤日記、二二八ページ)
 〈日記〉 一九六八年十一月二十三日・二十四日
 午後遅く、目黒駅で待てど、ついに飯島耕一は来ない。地図を頼りに油面のアスベスト館をたずねる。すでに、瀧口修造、澁澤龍彦、加藤郁乎、三好豊一郎のめんめんは、署名に没頭しているようだ。また画家たちのうち、中西夏之、加納光於、池田満寿夫、野中ユリ、田中一光、三木富雄、中村宏などは、制作に余念がないように見うけられた。頃合いで休憩し、酒となる。弟子たちばかりか、土方巽や夫人も手伝って、料理をはこんだりしている。そこには唐十郎のほか、李礼仙、リラン、矢川澄子と女性群が花をそえるのだった。卓子の上には、まぐろの刺身、さざえ、かに、寿司から寄せ鍋といった馳走の山だ。ビール、ウイスキー、酒と各自好きなものを飲むので、その賑やかなこと。夜になっての、作業再開がまた大変だった。分散してある作品を、元の位置に戻したり。詩人と画家の間を弟子たちがゆきかい、次々と仕上る絵と署名を汚さぬように、整理して行く。深夜になっても終らず、みんな疲労し、不機嫌になったり。いつの間にか、飯島耕一、種村季弘、松山俊太郎、矢牧一宏の顔が見える。二時も過ぎさすがに疲れたので板の間に寝た。だれかが布団をかけてくれたようだ。近所の人たちが怒鳴り込んで来たので、眼をさます、暁の四時だった。どうやら『あんま』はすべて完成した。半数ぐらいの人は帰って行った。そして残った者はくつろぎ、十八番[おはこ]の小学唱歌、軍歌、放言、飲食が続いた。正午近く、大きく重い『あんま』一冊を抱えて帰る。(〈15 詩画集『あんま』〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、二八〜二九ページ)

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〔1969(昭和44年)〕五月二十六日【月曜】
■こんどの旗の台の家から目蒲線の洗足駅まで約五分、洗足駅から市ヶ谷駅まで三十五分位だつた。
■市ヶ谷田町の思潮社を訪ねる。川西氏とこんど出す詩集についての打合せ、八木氏と現代詩の夕べについての話など。ビールを飲みながら小田久郎氏とセリ・ポエテイックの話など。七時ちよつと前に信濃町の料亭「光亭」にゆく。七月に三越で開かれる永田耕衣氏の書画展の相談で、壹番館画廊の海上氏によばれる。吉岡実、高柳重信、岡田宗叡氏が一緒でシャブシャブを食べながら発起人の話などする。吉岡、高柳氏を誘つて新宿に出て、ユニコン、カプリコン、ナジャと歩き、代々木上原の高柳宅で一杯やつて洗足の家に帰る。(加藤日記、二四四ページ)
五月二十六日 夜、信濃町の光亭で、郁乎、重信、それと初対面の海上雅臣、岡田宗叡氏と会う。七月に三越で展かれる永田耕衣展の打合せ。すいせん文、すいせん者の依頼の分担、案内状の発送などについて。九時一応了る。料亭の部屋を飾る、志功の屏風、掛軸の肉筆がすばらしい。郁乎、重信と新宿のユニコン。それからカプリコンで酒とピザパイ。ローソクの灯の中で。最後はナジャへゆく。オネエ言葉のバーテンたち。一時半、タクシーで郁乎、重信を代々木〔上〕原でおろし、松見坂へ戻る。(〈日記抄――耕衣展に関する七章〉、《琴座》235号(1969年11月)、五ページ)

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〔1969(昭和44年)〕八月四日【月曜】
■台風が接近してゐるとかで、にわか雨がしきり。
■代々木シャトーといふところに、都市出版社の開業祝ひのオープニングにゆく。このあたりはマンションだらけで夜では見当がつけにくく、汗をかいて歩き探した。田村隆一、矢牧一宏、吉岡実、松山俊太郎たちと飲む。高田博厚氏が君たちはこれからが大変だ、佐藤春夫までは詩は楽だつた、といふのが妙にこたへる。
■フランソワ・フォスカの「文学者と美術批評」を読むが、専門的すぎて、実につまらん本。(加藤日記、二五〇ページ)

――1969(昭和44年)8月4日 矢牧一宏が設立した都市出版社のオープニングパーティー(代々木シャトーにて)に出席。

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〔1969(昭和44年)〕九月二十五日【木曜】
■昨夕、雨の赤坂で松山俊太郎と待合せて、土方巽のショーを見にスペース・カプセルにゆく。せまいフロアーで窮屈さうに女三人、男二人の踊り手が踊つてゐたが、芦川洋子ともう一人の女によるレスビアン・ラヴの場面はせまい空間を効果的に使つてゐた。澁澤龍彦と龍子さん、吉岡実、種村季弘、三好豊一郎、内藤三津子と喋る。三島由紀夫氏がやつてきたが、見れば見るほどこのひとは野卑で体裁屋であることがわかる。健康すぎることもこの美文調で煩雑好みの作家をつまらなくしてゐるやうだが、ストイックな文学趣味を拡散しようとしてわざとらしく卑俗的に振舞つてゐるのは気の毒なくらゐの努力ぶりだ。土方巽に誘はれて目黒の彼の家にゆき、待つてゐた池田満寿夫とリランと飲む。朝方、洗足の家に澁澤、龍子さん、松山、種村、内藤、土井典子さんを誘つて白鷹をあけて飲む。みんなが帰つたのを知らず夕方起きて風来山人の「風流志道軒伝」を読む。(加藤日記、二五三ページ)
 一九六九年の九月二十四日は、私にとって忘れられない日になるかも知れない。雨の夕方だった。西脇順三郎、鍵谷幸信そして会田綱雄の三氏と須田町近くの牡丹へ行った。久しぶりで食べたシャモ料理だったが、私にはうまいとは思えなかった。おそらくからだの不調のせいだったろうか。寒い日で、赤々とした熾火の色と古風な座敷の雰囲気に、私はいくぶんか心がやすらいだ。かえりの薄暗い玄関に立つと、シャモの羽毛が幽かに漂っている。そして並べられた靴や雨傘にも羽毛が付着していた。私たちは雨の激しくなった外へ出た。
 淡路町の地下鉄入口前で三人と別れ、私は赤坂のスペースカプセルへ向った。土方巽と弟子たちの舞踏が見られるはずだ。まだ七時という時刻なのにこの界隈は真暗い小路と坂。一度だけ白石かずこの朗読を聞きにきたきりなので迷った。狭い地下へ入ると、天井全体が金属製の球体で蔽われ室内は冷たい光のなかにあった。二組ほどの男女の客と加藤郁乎が一人片隅で酒を飲んでいた。
 わたしたちの外に誰が呼ばれているのか、二人にもよくわからないので、妙に落着かないひとときだった。ショーが始まる少し前ごろから、客も来はじめる。三好豊一郎、松山俊太郎、種村季弘たちがきた。そして澁澤龍彦と恋人らしい女性が現われた。
 ろうそくの炎や鞭らしきものの影。芦川羊子を中心に女三人、男三人の黒ミサ風な奇異な踊りだ。しかしそれは、土方巽が少数の人間に顕示する暗黒的秘儀にくらべれば、ショー的でエロチックなダンスだ。畳ぐらいの大きさの真鍮板を自在に使って、激しい律動と音響のリズムにのって女の裸像を囲みこんだりするシーンはおもしろかった。柔かい肌と巨大な刃とも云える真鍮板の交錯は、観ている者を絶えずはらはらさせる。ああ肉体の硬さかな! 酒席の客はいささか興奮させられたことだろう。
 やがて終ると、土方巽がわたしたちの席へきた。さすがに疲れたので、私は早目に帰ろうとした時、一種のどよめきに似た雰囲気がつくられたようだ。三島由紀夫が一人の青年をつれて入ってきた。彼は旧知の澁澤龍彦や土方巽の席へ着いた。
 かねてから、三島由紀夫が私の詩をひそかに読んでいるということを、高橋睦郎から聞いていたので、いつの日か彼と会いたいものだと思っていた。この偶然は逃すべきでないと、私は帰ることをやめ自分の席へ戻り、三島由紀夫と初めて挨拶をかわした。酒と音楽のなかで、残念ながら親しく話合う情況ではなく、坐った位置も少しく遠かった。私は彼の闊達な表情を見ていた。二回日のショーが終ったのは十一時だろうか。三島由紀夫は礼をのべて去った。これがおたがいの最初で最後の出会いであった。
 その夜、目黒八雲町の移転したばかりの土方巽の家へ若い連中と私は来てしまった。また酒宴がはじまる。あとから中西夏之や池田満寿夫も加わったように思う。土方夫人とガラちゃんは寝にゆき、若い女性が料理や酒をはこんできた。土方巽が不在なのに皆が気付いた時、彼は映画の仕事で京都へ向っていたらしい。私は急に疲れを覚え、主人の書斎へ入って寝てしまった。
 暁の五時ごろ、若い連中の囁き交す声が聞えたと思うと突然、引潮のように去ってしまった。彼らの習性なのだろうか、その消え方の見事さに私は驚いた。同時に独りとりのこされて狼狽し、他人の家に寝ている悲哀を、明るい窓の光に悟った。この家はもとツレコミ旅館であったらしく部屋が入りくんでいて、夫人や手伝いの人の部屋を探してもわからないのだ。私は二階へ戻った。
 書斎の次の部屋をのぞくと、あたかも芝居の書割のように一段高い所に、奇妙な座敷があるのだ。そこには、ぴかぴかの禿頭的な人頭の男が眠っていた。それはわが《囚人》の三好豊一郎ではないか。私はやっと救われた思いになる。そこで余裕の出た私はまじまじと或は遠のいて見るのだ。まるでルネ・マグリットの絵の中の人物のように、愛すべき男がしっかりと固定されているようだ。(〈20 スペースカプセルの夕べ――奇妙な日のこと〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、三四〜三七ページ)

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〔1971(昭和46年)〕六月二十四日【木曜】
■昨日、山村昌明の個展を見にゆく。新橋の番町画廊。山村君と少し喋る。
■イスラエル大使館に野田哲也君とドリット嬢の結婚式にゆく。池田満寿夫、リラン、野田弘志、東野芳明と飲む。新郎の野田君をプールに落としてから、池田、東野と投げ込まれる。フンドシ一丁になつてこちらから飛び込んでやる。こじらせた風邪で鼻がつまつてゐて泳げない。
■神保町で皆が待つてゐるといふ電話が内藤三津子さんからかかり、出かけてゆく。種村、松山、中田耕治氏と飲む。内藤さんたちとナジャにゆき堀内誠一氏とこんどの詩集「ニルヴァギナ」の装幀の相談。池田満寿夫、リランと逢ひ、誘はれて蛇崩の家にゆく。画家の川島猛氏と一緒。リランとロックを踊つて飲んで泊る。
■朝、十時頃起きてビール。なんとなく、昼でモリソバをごちさうになる。台湾の陳さんといふ人が来たり、吉岡実が来たりする。リランと踊る。夜になる。十時頃、吉岡実と一緒にサヨナラ。彼を誘つて新宿にゆき、「おかだ」で飲む。水野進子君たち女性三人に逢つて、どこだか知らないスナツクに連れて行かれる。吉岡はもうゐない。進子君を誘つて、「柚の木」にゆく。「ナジャ」にゆき、誰や彼やと飲む。朝方、矢牧一宏と喧嘩の直し酒を飲んで別れる。(加藤日記、二八九〜二九〇ページ)

* 加藤郁乎交遊録《後方見聞録〔学研M文庫〕》(学習研究社、2001年10月19日)の〈池田満寿夫の巻〉に「蛇崩の池田満寿夫のアトリエで、リラン、吉岡實らと。(昭和46年6月)」というキャプションのついた写真が掲載されている(同書、六五ページ)。

――1971(昭和46年)6月24日 目黒区上目黒・蛇崩の池田満寿夫・リランの家に行く。加藤郁乎と辞して新宿の「おかだ」で飲む。

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〔1971(昭和46年)〕八月十七日【火曜】
■昨夜、井上有一書画展にゆく。銀座一番館画廊。西脇先生、吉岡実、鍵谷幸信と逢ふ。井上氏に海上雅臣から紹介され、「花」だけの一字にしぼつた理由などを聞く。海上雅臣に招かれて、近くのバーにゆく。昨日の午後、出来立ての「球體感覺」を西岡君が持ってきてくれたのを披露。吉岡実が、戦後初めての見事な和綴本とほめてくれる。海上氏に招かれて青山の「バッタ」にゆき、飲む、西脇先生をお送りし、鍵谷幸信と下北沢の芝山幹郎の家にゆく。ジンを飲み四時頃、鍵谷が帰ったのを見届けて、ひっくり返る。昼頃、起きてけい子夫人に酒を買ってきて貰ふ。西岡君を呼ぶ。ビールと共に現れたので「球體感覺」の祝ひ酒。思潮社に芝山、西岡君を伴ひ、三万円借りる。新宿の「おかだ」で思潮社の北沢氏と思潮社の在り方について喋る。芝山、西岡君に抱きかゝへられて洗足の里に帰還。(加藤日記、二九一ページ)

――1971(昭和46年)8月16日 銀座壹番館画廊の井上有一書画展に行く。できたばかりの加藤郁乎句集《球體感覺〔限定版〕》(冥草舎)を「戦後初めての見事な和綴本」とほめる。

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〔1971(昭和46年)〕十一月二十七日【土曜】
■「荒れるや」「遊牧空間」「牧歌メロン」「ニルヴァギナ」「球體感覺」「加藤郁乎詩集」の出版記念会。新宿花園神社に「かに谷」が出張。午後二時頃、司会役を引き受けてくれた鍵谷幸信が洗足に来てくれて打合せ。五時頃、花園神社着。名古屋から亀山巖、志摩聰、群馬から塩原風史の顔が見える。瀧口修造氏が乾杯の音頭をとってくれる。百人位だといふ話、忽ち酩酊。
■二次会は「ユニコン」。白石かずことテーブルの上で踊ってゐて転落。西脇順三郎氏が他の会を済ませてから来てくれる。「ナジャ」に行った頃はかなり酩酊。朝六時頃、伊藤陸郎君に送られて洗足に帰る。(二十八日記)(加藤日記、二九五ページ)
吉岡実と澁澤龍彦(2007年5月31日)の〔2019年12月31日追記〕および本稿末尾に掲載の集合写真を参照のこと】

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〔1973(昭和48年)〕九月十五日【土曜〔敬老の日〕】
■「詩篇」の詩を書いてゐるうちに、硝子窓の外が明るくなった。時計を見ると、五時ちよつと過ぎ、ベッドに横たはるが、ユーラシアのステップや雲の行列などが、頭のなかにちらついて、しばらく眠れず。
■十二時少し前に起きる。裕子とカレーの昼食。五時近くまで、詩を練る。
■ハイボールを飲んで、渋谷のパルコに出かける。
■九階の西武劇場で土方巽の「燔犠大踏鑑」を見る。楽屋で白塗りの土方巽と久しぶりに逢ふ。三時間からの大作、舞台のひろがり、そんなものを煮つめて気化してしまった風な、この舞踏家の力に改めて舌を巻く。となりに坐った林立人氏に誘はれて、新宿の「モッさん」に飲みにゆく。旗の台まで送ってくれた林氏を、家に誘って三時半頃まで喋る。「えくとぷらすま」と「終末領」が出てきたので、差し上げる。(加藤日記、三三二ページ)
 〈日記〉 一九七三年九月二日
 〔……〕/同月十五日・午後一時ごろ、パルコのウエアハウスで陽子とコーヒーをのみ、〔西武パルコ〕劇場へ行き、「静かな家」後篇を観る。三時間近く、緊張をしいられる舞台だった。――あらゆる芸術家にはかつての自己の作品を、引用し、変形し、増殖してゆくという、営為がある。この作品にもそれがあるように思われた。めずらしく、誰とも会わず、受付の土方夫人に挨拶して帰る。(〈40 「静かな家」〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、七一〜七二ページ)

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〔1973(昭和48年)〕十月二十七日【土曜】
■四谷シモン人形展に夕方、出かける。銀座青木画廊。画廊の近くで、歩いて来た松山俊太郎と久方ぶりに出逢ふ。十二点の人形のすべてが、一つの子宮から出て来たみたいで楽しくなる。向かいの店でパーティー。岐阜から出て来た志摩聰が訪ねて来る。瀧口修造氏と喋る。瀧口氏、四谷シモン、金井姉妹たちと隣りの寿司屋で飲み、地下鉄で新宿に出て、朝鮮料理屋で腹ごしらへ。「ナジャ」で澁澤龍彦と久方ぶりに飲む。
■夜明けの雨に濡れて帰る。(加藤日記、三三五ページ)

* この日は四谷シモン人形展〈未来と過去のイヴ〉のオープニング。吉岡が「本気で真面目に今のところ、おれは澁澤氏を一番気に入っているからね」と言い、それを聞いた澁澤が「今のところ、かあ」と大笑いしたという金井美恵子が伝えるエピソード(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984、二二四ページ)は、このときのことか。

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〔1974(昭和49年)〕一月二十七日【日曜】
■朝七時三十分発の新幹線で西明石駅に向ふ。永田耕衣全句集「非佛」の出版記念会。西明石駅で偶然にも広島からの高山雍子さんに出会ふ。一緒に舞子駅に出て、車で「舞子ビラ」まで行く。耕衣老と逢ひ、「耕衣ノート」への御礼を無理に受け取らされる。二時頃開会、頼まれた吉岡実と鷲巣繁男の紹介司会をする。永田耕衣の禅機的な世界を祝ふにふさはしく、窓の向ふの海のうねりが、たまらなく面白く眺められた。
■久方ぶりに島津亮と一階のバーで喋る。二次会に出て、鈴木六林男、多田智満子たちと喋る。四階の部屋で若いひとたちと飲む。若いひとたちと神戸に車を飛ばして、何とかいふ店で河豚を食べる。四時頃、舞子ビラに帰つて寝る。(二十九日記)(加藤日記、三三九ページ)

* 吉岡は永田耕衣全句集《非佛》(冥草舎、1973年6月15日)の〈田荷軒周囲〉という栞に随想〈〈鯰佛〉と〈白桃女神像〉〉を寄せている。

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〔1974(昭和49年)〕一月二十八日【月曜】
■朝十時頃、冥草舎の西岡君に起こされる。沸かしてくれた風呂にはゐつて、ぼんやり昨夜のことを思ひ出す。ロビーで高柳重信、金子晋に別れを告げて、西岡君と須磨の耕衣氏を訪ねる。先客に吉岡実、昔の俳句などを喋り、ウヰスキーや、山かけウドンを御馳走になる。これが滅法にうまかつた。雪のちらつく、ひるすぎ、山陽線の須磨駅で待合せた板倉夫妻と逢ひ、桃山の稲垣足穂を訪ねる。一本下げて行つたが、夫人の話によれば、一昨日から飲みはじめ、例によつて重態[、、]。だが、寝床から呼ぶ声がして、隣りの部屋に行くと、片眼を酒で膨らした足穂入道がにゆーつと手を出す。葉巻をすすめてくれながら、謡曲のひとさはりを歌つてくれたりする。乗物の時間だと知らされ、五時ちよつと前にさよなら。板倉夫妻に、またまた京都駅まで送つて貰ひ、新幹線に乗る。帰宅してから、食べた味噌汁のうまさ、裕子に無言の感謝、彼女の腰を抱いて寝る。(二十九日記)(加藤日記、三三九〜三四〇ページ)

――1974(昭和49年)〕1月28日 須磨に永田耕衣を訪ねる。あとから加藤郁乎、冥草舎の西岡武良も来る。

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〔1974(昭和49年)〕四月十一日【木曜】
■交通ゼネストでタクシーも拾へまいと思ったが出かける。浅草の伝法院。西脇順三郎先生が描かれたといふ「龍虎」と「富士山」の絵の開眼の小会。幸ひにも中原街道に出た途端に親切な車がみつかる。
■墨汁で描かれたと笑はれる西脇先生にコツプ酒で祝杯を上げる。隣りの海上雅臣と、猫みたいな虎だね、などと苦笑。がらんとした浅草の町に出て、「スエヒロ」でスキ焼を食べながら、金田弘、諏訪優、吉増剛造君たちと喋る。なんとかいふ通りの店で飲む。海上、鍵谷を誘つて赤坂に行き、「ジョイ」を探し当てたものの、ストで休み。別れて帰る。(加藤日記、三四五ページ)
 昨年の春四月のことだった。その日は私たちが待ちに待っていた日だ。西脇先生の描いた「龍の図」と「虎の図」とが、まさに天台宗金龍山浅草寺の総本坊伝法院の書院の間で対面し、私たち親しい者に披露されることになっていた。「龍の図」はすでに三年前に完成していた。私と会田綱雄は先生のお宅で、妖気あふれる馬みたいな、龍の姿を拝見して、なんといったらよいのやら内心当惑したものだった。もう一つの富嶽図は、凡百の富士の絵を睥睨する玲瓏たる名作だ。この方がずっとよいわねと奥様は微笑された。
 しかし残念なことに、当日はゼネストでとても浅草まで行けないだろうと、私はあきらめていた。そして気晴しに、妻と駒場公園へ桜の花を見に行った。帰りみち環六(山手通り)に出ると、個人タクシーが走っているのを見つけて、富ヶ谷で妻と別れ、私は浅草へ向った。
 伝法院には、遠く岐阜の金田弘〔当時、金田は播磨に居住〕ら四、五人の先生のファンがきていた。先生は会田綱雄と共に諏訪優のくるまで無事着いている。加藤郁乎、海上雅臣、鍵谷幸信、山田耕一それに若い吉増剛造も来ていた。当然所有者の皆光茂もいたが、病気で酒ものまず静かにしていた。
 美しい庭に向って、「龍」「虎」二幅は天井から懸っていた。私は初めて「虎の図」を見上げた。「虎」はまるで、兎と猫のあいのこみたいに思われた。諧謔とはこのことだろう。集った者は酒を飲み、喋っていればよかったのだ。そのうえ恐るべきことに、「龍」と「虎」は、同じ方向へ顔をむけている。正しく対峙することは、永遠にないのだ。なんと超俗的であり、滑稽であり「西脇詩」の精神を象徴しているようで、一同大いに笑ったものである。
 先生は益々ごきげんうるわしく、和紙に筆を染めて、動物や文字を書かれた。めいめい気ままにそれを頂く。しかし、疲れの出た先生は、「古池や蛙とびこむ音がする」ばかりを書きはじめた。私はそれではものたらないので、龍の絵を所望したのはいいが、まるで鉛筆みたいな龍が出来上ってしまった。しかし考えようによれば、稀有なる龍といえるだろう。私のには珍しく年月が入っていた。これは大変貴重なことである。先生は当年八十歳になられていた。
 夕陽が庭を染めている。ここが浅草六区の歓楽街に囲まれた処とは思えないほど静寂だ。ひともとの可憐なしだれ桜の花の下で、先生を中心に記念写真を撮り、庭を隅から隅まで歩いた。私たちは伝法院から染付のある猪口を記念に一個ずつ頂き、岐阜の連中から貰ったそうめんと先生の作品を抱え、夜の灯に輝く街へ出た。困難な交通関係にもめげず集った者たちは、いよいよ別れがたく、二次会の場所を探し求めたのだった。(〈西脇順三郎アラベスク――5 伝法院の「龍虎図」〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二三二〜二三三ページ)

加藤郁乎交遊録《後方見聞録〔特装版〕》(南柯書局、1976年4月30日)の〈眼中のアルバム〉に掲載の写真「昭和49年4月、西脇順三郎氏の絵「富士山」「龍虎」開眼の集い、浅草伝法院」
加藤郁乎交遊録《後方見聞録〔特装版〕》(南柯書局、1976年4月30日)の〈眼中のアルバム〉に掲載の写真「昭和49年4月、西脇順三郎氏の絵「富士山」「龍虎」開眼の集い、浅草伝法院」(同書、〔一六二ページ〕)〔右から二人め吉岡実、三人おいて西脇順三郎、二人おいて加藤郁乎〕

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〔1974(昭和49年)〕九月二十六日【木曜】
■ひるすぎ、洗足駅前からバスで渋谷に出て、車を拾ってNHK放送センターにゆく。土方巽とラヂオで吉岡実の話の録音。ウヰスキーを飲みながら二時間くらゐ。詩を朗読させられる。
■近くのレストランで土方巽と芦川洋子と三人でビールを飲む。別れてから夕方、近くの代々木上原の高柳重信を訪ねて喋る。新宿に出て、「詩歌句」その他四、五軒ハシゴして朝方帰る。(加藤日記、三五八ページ)
 昭和四十九年 一九七四年 五十五歳
〔……〕晩秋、NHKラジオで「吉岡実の世界」が放送され、加藤郁乎、天沢退二郎、大岡信らが朗読してくれる。土方巽の教育勅語的発声が印象的。(〈〔吉岡実自筆〕年譜〉、《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984、二三四ページ)

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〔1974(昭和49年)〕十月十二日【土曜】
■九時頃起きると雨が降つてゐる。
■裕子と赤坂のホテル・ニュー・オータニに出かける。ロンドン製のネクタイ、紺のシャツ、有田焼の酒器などを買ひ、渋谷に地下鉄で出る。東横デパートで替ズボンと、丹前、茶羽織を買ふ。近頃は外出することが少いので、和服の方に眼がゆく。
■渋谷パンテオンといふ映画館で「スティング」を見る。滅法面白い。三十年代の衣裳を着たロバート・レツドフォードといふ役者がいゝ。勿論、ポール・ニューマンも粋に振舞ってゐた。東急会館の中華料理店で二時すぎに昼食。バスで帰宅。
■夜、NHKラヂオの第一放送で吉岡実の詩を読むだときのプログラムを聞く。自分が、こんな声なのか、といった疑問はいつもと同じ。他人の詩を読むのは初めてだが、二、三回、舌がもつれてゐた。(加藤日記、三六一ページ)
 〈日記〉 一九七四年十月十二日
 曇。夕刻、陽子と芳来で食事、ナポレオンでコーヒー。雨となる。夜九時、NHKラジオで「吉岡実の世界」を聴く。加藤郁乎、大岡信、天沢退二郎の朗読と金井美恵子のおしゃべり。なかでは、土方巽の教育勅語的な発声の「僧侶」朗読が傑作だと、陽子と笑ってしまう。自分は出演しないのに、友情出演してくれたみんなに、感謝!(〈45 教育勅語的朗読〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、七八ページ)
* 1974年10月12日(土)、午後9時5分から55分間、NHKラジオ第一放送《文芸劇場》の〈詩と詩人〉シリーズ第2回として〈吉岡実の世界〉が放送された。ゲストは土方巽・加藤郁乎(対談)ほか。対談中の写真が《後方見聞録〔学研M文庫〕》の〈土方巽の巻〉に「NHKラジオ第一での土方との対談。(昭和49年9月)」というキャプションとともに掲載されている(同書、三九ページ)。

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こうして加藤郁乎の日記に登場する吉岡実を見ると、1970年代初めの休筆の期間を挟んで、それ以前の土方巽が牽引した疾風怒濤の時代と、それ以降のおもに高柳重信や永田耕衣などの俳人との会で郁乎と顔を合わせる穏やかな時代に大別されるようだ。そのあたりの機微は、本稿冒頭でも触れた礒崎純一《龍彦親王航海記――澁澤龍彦伝》が次のようにまとめている。

 同月〔=一九七一年十一月〕二十七日、新宿にある花園神社会館で加藤郁乎の出版記念会が大々的に開かれ、澁澤は龍子とともに出席している。
 細江英公が撮影した、八十名にのぼる参加者が一堂に介した有名な写真が残っている。そこには、澁澤の一九六〇年代の交友関係の核だったメンバーの顔がほとんどみんな、いっしょに写し出されている。加藤、土方、松山、種村、池田、唐、シモン、出口、巖谷、矢川、野中がおり、それに、瀧口修造、吉岡実、中井英夫や、内藤三津子の顔も見える。だれもがまるで同窓会の写真のようににこやかな笑顔だ。だが、この写真がうつす穏やかな顔は次のような事実を逆説的に示してはいないだろうかと、稲田奈緒美は指摘している。すなわち、六〇年代のような彼らの濃密な交友関係、あるいは共犯関係は、すでに過去のものになったという事実である(『土方巽 絶後の肉体』)。(《龍彦親王航海記》、三〇九〜三一〇ページ)

吉岡実と加藤郁乎、両者の日記でその交友をたどった小文を締めくくるには、やはり加藤郁乎出版記念会の集合写真が最上だろう。巖谷國士(監修・文)《澁澤龍彦 幻想美術館》(平凡社、2007年4月12日、五八〜五九ページ)の見開き写真は大きくて見やすいが、ノドにかかっている。ここでは、同書を再録した巖谷の《澁澤龍彦論コレクション》から引こう。巖谷はその《澁澤龍彦論コレクションV――澁澤龍彦 幻想美術館/澁澤龍彦と「旅」の仲間》(勉誠出版、2018年1月15日)所収の同書〈第二室 一九六〇年代の活動〉の「さまざまな交友」の本文で、「一九七一年秋、新宿の花園神社会館で催された加藤郁乎の出版記念会の折に、細江英公の撮った有名な記念写真がある(47ページ)。居ならぶ八十余名の多くが加藤・澁澤・土方の共通の友人であり、六〇年代の交友関係の大きな部分がここに写しこまれている。」(同書、四九ページ)と書いた。巖谷はまた同書で、被写体である参加者数人をピックアップして紹介しているが、私は細江が撮った写真の初出(《アサヒカメラ》1972年2月号の〈〔連載(顔)―A〕加藤郁乎 詩人〉)に言及した〈吉岡実と澁澤龍彦(2007年5月31日)〉でさらに詳しく紹介した。加藤郁乎亡きいま、往時を知るどなたかがこれらすべての人人を特定してくれると嬉しいのだが。(下の画像は、ウェブページを400%に拡大表示しても堪えられる解像度にしておいた)

細江英公 加藤郁乎の出版記念会に集まった人々(「知人の肖像」より)1971年
細江英公 加藤郁乎の出版記念会に集まった人々(「知人の肖像」より)1971年〔出典:巖谷國士《澁澤龍彦論コレクションV――澁澤龍彦 幻想美術館/澁澤龍彦と「旅」の仲間》(勉誠出版、2018年1月15日、四七ページ)〕

新宿花園神社で開かれたこの出版記念会の対象となった一冊、《加藤郁乎詩集〔現代詩文庫45〕》(思潮社、1971年10月20日)は当時の加藤の句業・詩業のほとんどを収めた大全だったが、同書巻末の〈作品論・詩人論〉も郁乎の恩師や知友を糾合した瞠目すべき内容だった。掲載順に挙げれば、種村季弘西脇順三郎吉田一穂稲垣足穂吉岡実土方巽鷲巣繁男澁澤龍彦・志摩聰・窪田般彌鍵谷幸信松山俊太郎中井英夫池田満寿夫白石かずこ嵐山光三郎芝山幹郎の17人(裏表紙のコメントは大島渚)。私は本稿を書くために同書を求めて部屋中を探したが出てこないので、渋谷の中村書店で「謹呈 著者」の栞が挟まった初版を入手した。これは著者が高橋康也に送ったものではないか(確証はないが)。というのも、中村書店で先に購入した、吉岡実が高橋に贈った現代詩文庫版詩集の最終ページに「メ8Z/署名入/5400」と鉛筆書きのメモがあり、加藤郁乎詩集には「メ9Z/300」とあるばかりか、小口にあるシミまでが似かよっている。ちなみに高橋康也(1932〜2002)の姿は、出版記念会の集合写真にも見える。一方、加藤郁乎が書いた交遊録は《後方見聞録》(コーベブックス、1976)として一書にまとめられた。収めるところ15名。稲垣足穂(1900〜1977)*、吉田一穂(1898〜1973)*、西脇順三郎(1894〜1982)*、澁澤龍彦(1928〜1987)*、土方巽(1928〜1986)*、池田満寿夫(1934〜1997)、白石かずこ(1931〜 )、窪田般彌(1926〜2003)、松山俊太郎(1930〜2014)、森谷均(1897〜1969)、亀山巖(1907〜1989)、田村隆一(1923〜1998)、笠井叡(1943〜 )、高柳重信(1923〜1983)*、吉岡康弘(1934〜2002)。同書の増補版たる《後方見聞録〔学研M文庫〕》(学習研究社、2001)では、飯島耕一(1930〜2013)と矢川澄子(1930〜2002)*の巻が加わった(《加藤郁乎作品撰集V》に〈後方見聞録 抄〉として再録された巻には*印を付けた)。残念なことに〈吉岡実の巻〉は書かれなかったが、吉岡は〈西脇順三郎の巻〉増補分に登場する。《加藤郁乎作品撰集V》の〈著書解題〉に依れば、《後方見聞録》の通常版は「昭和51・4・30発行。コーベブックス。初刷一五〇〇部。菊判変型・布装・函入(帯付)。一八二頁、うち別丁写真二四頁。著者「後記」。定価二五〇〇円。」で、〔特装版〕は「発行日同じ。南柯書局。限定五〇部。布装・天金・函入。」(同書、五二八ページ)である。

加藤郁乎交遊録《後方見聞録〔特装版〕》(南柯書局、1976年4月30日)の函・表紙の平 加藤郁乎交遊録《後方見聞録〔特装版〕》(南柯書局、1976年4月30日)の函・表紙の背
加藤郁乎交遊録《後方見聞録〔特装版〕》(南柯書局、1976年4月30日)の函・表紙の平(左)と同・背(右)〔限定50部記番、本文和紙刷麻表紙天金装・毛筆署名入〕

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20世紀末時点での加藤郁乎の全句集ともいうべき《加藤郁乎俳句集成》は、2000年に沖積舎から500部限定で刊行された(10句集全2938句収録)。版元の沖積舎は、2冊の加藤郁乎論を出したことでも注目される。仁平勝の《加藤郁乎論》と伊藤勲の《加藤郁乎新論》がそれである。仁平勝は《加藤郁乎論》(沖積舎、2003年10月15日)の〈第四章 『牧歌メロン』〉で「郁乎が熱く読まれていたあの時代」について、次のように書いている。ちなみに1960年代後半とは、吉岡が詩集《静かな家》(1968)をまとめ(郁乎は吉岡からもらった《静かな家》を同年10月2日に読んでいる)、のちに《神秘的な時代の詩》(1974)としてまとめられる詩篇を営営として書いていた時代である。

 あの時代とは、すなわち六〇年代の後半である。芸術的なるものをめぐる当時の時代的な状況は、ひとことでいえば、既成の価値観が根底から覆されつつあった。そういうと難しく聞こえるかもしれないが、良識ある文化人からみれば、ようするにハチャメチャなものが次々に芸術として名乗り出てきたのである。当時それらは、しばしば難解と評されたが、ほんとうは難解でもなんでもない。いま振り返って思うには、早い話が「通俗」(いまひとつ適当な言葉がないので、カッコつきでこの語を使う)だったのである。当時の一般的な価値観からは、どうみても「通俗」としか思えなかった。にもかかわらず、それらが芸術を名乗ることが難解だったのだ。
 代表的な例を挙げれば、横尾忠則や金子國義の絵画。状況劇場、天井桟敷、早稲田小劇場などの演劇(ナント郁乎は金子國義といっしょに状況劇場の芝居に出ていたのだ)。土方巽、大野一雄、笠井叡らの舞踏。四谷シモンの人形。現在ではもう、人はごく自然にこれらを「芸術」として受け入れているが、彼らの芸術が意図したのは、じつは「通俗」の復権であった。いわく反リアリズムであり、見せ物的であり、エロチックであり、土俗的であり、つまり権威的な芸術観が「通俗」視していたものの総体が、まさに彼らの新しい芸術表現であった。
 いま挙げた例はどれも、現在ではすでに「芸術」として市民権を得ているから、ハチャメチャなものというイメージは伝わりにくいかもしれない。あの時代の芸術的状況を正確に語るためにもうすこし範囲を広げて、映画を引き合いに出してみる。鈴木清順の『東京流れ者』、若松孝二の『犯された白衣』、大和屋竺の『荒野のダッチワイフ』など、これらは既成の価値観からすれば、たんに活劇やポルノとして片付けられる内容であり、まさに「通俗」と紙一重の傑作であった。また石井輝男は、良識人からエログロと非難されながら、『徳川いれずみ師・責め地獄』などの異形の傑作を撮っていた。それらの作品が、文部省推薦的な「名作」の概念では通用しない、まったく新しい芸術の意味を主張したのである。
 小説の分野でも、江戸川乱歩、小栗虫太郎、夢野久作といった「通俗」の作家たちが復活し、また、世間ではエロ本と呼ばれる「奇譚クラブ」(わたしなどは顔を赤らめて買ったものだ)に連載されていた沼正三の『家畜人ヤプー』が、三島由紀夫の炯眼によって白日のもとに掘り出された。そして、あの時代を象徴する雑誌ともいうべき澁澤龍彦編集の「血と薔薇」が、「エロティシズムと残酷の綜合研究誌」と銘打って発刊された(郁乎はそこに小説「膣内〔薬→楽〕」を連載している)。そういう時代の潮流のなかで、『牧歌メロン』の作品もまた書かれたのである。
 ある人は『牧歌メロン』を評して「悪ふざけ」だという。わたしはそれをことさら否定しようとは思わない。けれども、「悪ふざけ」だから価値がないのではない。そもそも郁乎は最初から「悪ふざけ」の書を企んでいるのだ。まさに「悪ふざけ」の文学として、『牧歌メロン』は画期的なのである。そしてさらにつけ加えれば、「悪ふざけ」とは郁乎にとって、すなわち俳諧のことであった。だから『牧歌メロン』とは、俳諧を「悪ふざけ」と呼ぶようになってしまった時代にたいする、郁乎の痛烈な皮肉なのだといってもいい。(同書、一二〇〜一二二ページ)

「あの時代」の要約としてほぼ過不足のないもので(音楽シーンに触れていないが、いうまでもなくジャズに替わるビートルズに代表されるロックの抬頭が挙げられようし、これだってジャズに較べれば「通俗」だ)、それはそのまま詩人・吉岡実をとりまく文化的状況でもあった。ここから導きだされるのは、加藤郁乎句集《牧歌メロン》(仮面社、1970)と吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》(湯川書房、1974)との比較検討だが、それは本稿のテーマを超える。


詩集《僧侶》小感(2020年6月30日)

古書山たかし《怪書探訪》(東洋経済新報社、2016年11月3日)に次のような一節がある。

 〔著者の通っていた大学のすぐ側にあった、Y書店という小さな古本屋は〕買い取った本の管理方法も独特だった。客から本を買い取ると、店主はA5判のノートにひたすら時系列に手書きで著者名と書名を書き連ねていくのだ。そして、その本が売れると横にチェックマークをつける。ただそれだけである。先ほど回転が命とはいったが、逆に売れ筋以外はそうそう簡単に売れず、書棚で「寝る」ことも多い性質の商品である古本で、このような管理をしていたら、普通はたちまちパンクしてしまう。それができてしまうのはとりもなおさず、普通であればそれなりに長期間寝るはずの「売れ筋以外」の堅めの本が、この店に限っては飛ぶように売れていくということにほかならない。暑い寒いの気候で差はあるものの、大体一月で一冊くらいのペースでノートはいっぱいになっていたように思う。そうすると年一二冊、半世紀で六〇〇冊以上のノートが存在しているはずだ。
 大学を卒業してからはY書店に顔を出せる頻度は多少落ち、また地元に戻ってからは年に数回がせいぜいになってしまったが、それでも顔を出すたびに、ご店主は満面の笑みを浮かべ、いつもの「どうもー!」という明るい大声で挨拶も早々に、机の下から直近のノートを取り出し、「いや〜ホントにね。もうワケわかんないですよ」と言いながらノートを広げ、最近入った本を全部見せてくれる、これがルーティンであった。「ほんっとにね、今日は入んないな〜なんて考えてるとネ、これっ見てください。こんな面白いもんが入ってきたりすんですよね。いや〜ホントにね。もうワケわかんないですよ」という解説付きで拝見すると、目もくらむような良書がずらりと書き連ねてあり、個人的には悲しいことに、それらほとんど全てにチェックマークがついてしまっているのである。ごくたまに、例えば吉岡実『僧侶』だとか、森開社版『テオフィル・ゴーチエ小説選集』(全三巻)など、ちょうどその日入ったばかりのようなものがあると、相場の五分の一から一〇分の一の値段で惜しげもなく譲っていただけたのだった。いや、『僧侶』なんて、タダでくれたんじゃなかったかしら。(〈ある古本屋の思い出――店主と客をつなぐノート〉、同書、一三三〜一三四ページ)

そして本文の下段には「吉岡実『僧侶』(ユリイカ)」というキャプションとともに、タダでもらった(?)《僧侶》の書影が掲げられている。写真で見るかぎり、函の背が焼けているものの、本文に難ありとも思えない。著者名の「古書山たかし(こしょやま・たかし)」はペンネームで、生年も非公開だが、本文から推定される40歳代だとすれば、Y書店店主が譲ってくれたのはここ20年間ほどの(つまり2000年以降の)出来事だろう。その間の《僧侶》の古書価格の変動を追うほどの材料を持ちあわせていないので、2020年5月下旬時点での《日本の古本屋》の出品状況を見てみる(順不同)。

@は93,500円。「初版(限定400部) 函ややヤケ・ややキズ うら表紙少汚れ 見返しに少紙剥がし跡 署名入(宛名の上に紙貼付) A5判 函写真・奈良原一高 H氏賞」(西日暮里の書肆田)
Aは71,500円。「限定400部 函写真・奈良原一高 第9回H氏賞 扉に旧蔵者管理番号印有 函少シミ背少ヤケ」(神保町の玉英堂書店)
Bは73,000円。「函日焼け強め、少スレ有。筑摩書房広告部勤務時の吉岡実名刺付。本体表見返しに献呈署名入。他、本体経年並。限定400部。定価300円。」(青梅市の古書ワルツ)
Cは38,500円。「限定400部 写真・奈良原一高 H氏賞/函少ヤケ・イタミ 題箋少イタミ/本冊状態良」(武蔵野市のりんてん舎)

4冊の合計は276,500円、相加平均で69,125円。仮に7万円とすると、Y書店の「ご奉仕価格」は7,000円〜14,000円。ううむ。通常、この価格で入手できないことは火を見るよりも明らかだ。ところで、@〜Cの中から購入するとしたら、私はBを狙う。「筑摩書房広告部勤務時の吉岡実名刺」が付いているからだ。だが、《僧侶》はすでに2冊持っているし(1冊は献呈署名入り、もう1冊は晩年の吉岡さんに署名していただいたもの)、名刺1枚に73,000円は投じられない。

吉岡実の詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日)は刊行後、半年も経たない翌1959年4月6日に第9回のH氏賞受賞が決まったため、初版の400部(記番はない)はその時点でそうとう売れたはずだ。少なくとも、《文學界》1959年11月号が特集を組んで吉岡実ブームが起きるや版元在庫がなくなった、と伊達得夫は〈吉岡実異聞〉(初出:伊達得夫《ユリイカ抄》伊達得夫遺稿集刊行会、1962年1月16日)で回想している。――吉岡は「私と伊達得夫の交友は、きわめて短いものだった。晩年の五、六年にすぎない。それなのに、私の一断面が、「吉岡実異聞」という文章で永遠に残されたのは幸運なことだ。たぶんこれは、〈新潮〉に依頼されて書いたものだが、何かの理由で没になった原稿だったと思う。私は遺稿集の校正中はじめて見て、伊達得夫の観察の鋭いのに驚いた記憶がある。」(《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、1988、六九ページ)と書いている。――伊達はさらに、《僧侶》を全篇収めた《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959年8月10日)もすぐに増刷になった、とも書く。それ以後の60年間、太平洋戦争以前に較べて、戦災も大きな自然災害もそれほどなかったため、400部のうちかなりの部数は現存しているのではないか(三百数十部?)。むろんH氏賞受賞も功を奏していて、吉岡自身「《僧侶》は読者に大事にされた本だから」と私に語ったことがある(少しくたびれた古書を持参したところ、吉岡さんは「小林一郎様」と記すのは綺麗な本にしたいからまた今度、と私が持っていたパーカーのブラックで――吉岡さんはふだんブルーブラックを使用――署名してくださったのだが、それきりになってしまった)。数十部が国立国会図書館や各地の文学館、大学図書館などに収蔵されているとすれば、個人蔵は300部くらいだろうか。いま売りに出ているのがそのうちの4部というのは、はたして多いのか少ないのか。また、1冊7万円とすると、2100万円ははたして安いのか高いのか。ちなみに《僧侶》に特装本は存在しない。が、市販本の表紙を改装したルリユールがあるようだ(未見)。吉岡が永田耕衣に宛てた書簡(1986年10月8日付)には「さて、白い革装のルリュール『物質』を、掌で撫ぜながら、流石に湯川本だと感心しているところです。小生にも只一冊本のルリュールの『僧侶』があります。しかし、五十冊限定を製作したのは驚きです。耕衣特装本の異色ですね。大切にいたします。」(《琴座》421号〔1986年11月〕、一八ページ)とある。当時、吉岡の身近でルリユールを手掛ける人材がいたとすれば、筑摩書房で後輩だった栃折久美子さんを措いてほかにない。万一、ルリユールの《僧侶》が市場に現れようなものなら、それは事件である。文字どおり、天下の孤本なのだから。なお、栃折久美子によるルリユールに関しては、〈ルリユール〉の〔さらに2020年6月30日追記〕も参照されたい。

古書山たかし《怪書探訪》(東洋経済新報社、2016年11月3日)のジャケット 栃折久美子による《神秘的な時代の詩〔特装版〕》のルリユール〔《DTPWORLD》2001年1月号掲載〕
古書山たかし《怪書探訪》(東洋経済新報社、2016年11月3日)のジャケット(左)と栃折久美子による《神秘的な時代の詩〔特装版〕》のルリユール〔出典:モリトー・良子と栃折久美子の展覧会図録《RELIURES》(発行所の記載なし、c1994年3月31日、〔三四ページ〕)〕(右)


あとがきに見る淡谷淳一さん(2020年5月31日〔2020年6月30日〜2020年8月31日追記〕)

このうえもなく月並みな言葉も、然るべき場所に置かれるとき、突如として輝かしく煌めく。君の映像が輝くのもこの煌めきによってでなければならぬ。――ロベール・ブレッソン(松浦寿輝訳)《シネマトグラフ覚書――映画監督のノート》(筑摩書房、1987年11月15日、一五五ページ)

礒崎純一《龍彦親王航海記――澁澤龍彦伝》(白水社、2019年11月15日)は初の本格的な澁澤龍彦伝だが、巻末に14ページにわたって付せられた〈索引〉が、この本の格を一段と高からしめている。主たる対象は古今和洋の人名で、そこに文庫名を含む出版社名を織りこむあたり、国書刊行会編集部編《書物の宇宙誌――澁澤龍彦蔵書目録 COSMOGRAPHIA LIBRARIA》(国書刊行会、2006年10月20日)の編纂者だけのことはある(この驚異の目録の書名は、澁澤の《夢の宇宙誌――コスモグラフィア ファンタスティカ》にあやかっている)。〈索引〉に登場する回数を見るだけでも、その人物と澁澤の関係が想像されて、興味は尽きない。ちなみに、吉岡実が登場するのは17箇所で、吉行淳之介とほぼ同数である(当然のことながら、サド侯爵や土方巽、三島由紀夫、そして澁澤龍彦全集の編者たちが上位を占める)。この〈索引〉に登場する人物のなかに澁澤を担当した各出版社の編集者が含まれるのは、国書刊行会で澁澤の担当者だった著者ならでは、といえよう。吉岡実は筑摩書房の編集者でもあったわけだが、本書ではその側面は薄く、書き手仲間という位置づけがほとんどである。かくして、筑摩での澁澤担当は淡谷淳一ということになる。淡谷が〈索引〉に登場する2箇所を見よう。どちらも〈第[章 記憶の遠近法〉の「2|昭和五十二年/『思考の紋章学』/フランス・スペイン旅行/世界文学集成」の項にある。

 〔一九七七年〕七月二十八日、筑摩書房の〈世界文学集成〉の最初の試案を、同社の編集者淡谷淳一に渡している。
 澁澤龍彦一人の好みにより編まれた世界文学全集というこのプランは、もともとは筑摩書房サイドから提案された話だった。企画はこの年の初めより動きだし、最初は全三十六巻の規模で構想され、のちには二十数巻になった。
 〈集成〉に関する澁澤の試案は、この七月に作成された三十六巻案をはじめ、四つほど残され、それらは澁澤の死の翌年(一九八八年)になって「別冊幻想文学4 澁澤龍彦スペシャルT」に、淡谷のインタビューとともに公表された。ひとまずの最終案とおぼしい「二十四巻試案」は文庫本(『西欧文芸批評集成』)にも収められているから、一九七七年(昭和五十二)十一月二十一日の日付を持つ「全二十七巻(第二案)」の方をここでは挙げておこう。(同書、三五八ページ)

 十月四日、吉岡実が筑摩書房の同僚の淡谷淳一とともに来訪。澁澤は吉岡が好きなポルノをいろいろ見せて、そのあと鎌倉駅前の天ぷら屋ひろみで食事をした。(*1)(同書、三六四ページ)

さらに、淡谷の名前は出てこないが、「この〔一九七七年〕三月、筑摩書房の〈筑摩世界文学大系〉に、澁澤訳のサド「美徳の不運」他が収録される。世界文学全集にサドが入ったのはこれが初めてだったが、五月には、講談社が刊行していた〈世界文学全集〉にも、やはりサドの『食人国旅行記』が収められている。」(同書、三五三ページ)の〈筑摩世界文学大系〉の澁澤=サドを担当したのが淡谷だった。《別冊幻想文学》の淡谷のインタビュー記事は、編集者としてほとんど文章を残さなかった淡谷淳一の数少ない証言で、インタビューをまとめたのは同誌編集人の東雅夫だろう。その文章、〈幻のシブサワ版世界文学全集〉の冒頭はこうである(署名は「淡谷淳一(筑摩書房編集者)」とある)。

 澁澤龍彦個人編集による世界文学全集の企画がいつごろ持ち上がったのか、古いことですので正確には分からないのですが、いま手元にある『世界文学集成』全三十六巻試案に一九七七年七月二八日という日付が入っていますから、おそらくこの年の始めごろではなかったかと思います。
 私が澁澤さんと仕事をさせていただいたのは、七七年三月刊行の『筑摩世界文学大系23 サド レチフ』に、サドの小説論の新訳原稿をいただいたのが最初です。個人的にはそれ以前から、たぶん『神聖受胎』あたりが最初かと思いますけれども、私淑というほどではないですが、澁澤さんのお書きになるものは好きでよく拝見していたんです。それと、詩人の吉岡実さんがこの会社におられた時分に、私はあの方からの影響をずいぶん受けまして、ご存じのように澁澤さんと吉岡さんはかなり親しい友人関係にありましたから、そういうところに連なって澁澤邸にうかがったといいますか。余談ですが『サド レチフ』をやっていたときに『悪徳の栄え』全訳の話が出たんです。まだ訳していない部分には、出すと危ない部分と、冗長退屈な部分とあるけれども、両方含めて全訳して、三巻本くらいの真っ黒な装丁の本にして出したいと、予約出版の形にすれば猥褻物販売にもひっかからないんじゃないか、なんて(笑)夢物語みたいな話もずいぶんしたものです。(《澁澤龍彦スペシャルTシブサワ・クロニクル〔別冊幻想文学C〕》、1988年11月1日、二〇四ページ)

《悪徳の栄え》の全訳の処など、淡谷さんの、真面目な顔をして冗談を言うときのいたずらっぽい目つきが思いうかんで、懐かしい。私は1990年7月、吉岡実の四十九日法要のとき、初めて淡谷さんにお目にかかり、〈吉岡実資料〉(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991年4月15日)を編む際には、神田小川町から蔵前に移転していた筑摩書房に淡谷さんを訪ねて、いろいろと便宜を図っていただいたものだ(そこでは、橋本靖雄さんからも話をうかがった)。さて、3ページにわたるインタビュー記事のおしまいはこうである。

 そういうわけで一時は出る寸前みたいな雰囲気にまでなったんです。事前に営業部を通じて、こういうものの好きな書店さんに意見を聞いたりしたときも、早速十部注文したいとか、かなり好い反応が返ってきていましたし。それで社内的にも評判は高かったんですが、一方で、やや危険というか、澁澤さんの本が現在のように文庫でたくさん出るという時代じゃありませんから、非常に特殊な層に向けて出す全集というイメージがどうしてもありまして、そういう層に対してこういう全集みたいなものが合うのかどうかと。それに二十四巻なりでスタートする以上どうしても最後まで出さないといけませんし、これは当時の小社にとって、かなりの冒険でした。ご存じかと思いますが、翌七八年の七月に小社は倒産するわけです。そんな状態のときに、なかなかそういう賭けは出来ないということで、否決にはならなかったんですけれども、しばらく刊行をみあわそうということになったんです。会社更生法で社業再開後もずっとお蔵になったまま、私としてもせっかく熱心に進めていただいた企画を実現出来ず、澁澤さんには非常に申しわけないことをしたという思いがありましたので、だんだん澁澤邸からも足が遠ざかって……。
 実は、このたび澁澤さんが亡くなられて、とうとうお約束を果たせなかったという申しわけない気持と、こうした企画を澁澤さんにお願いすることは二度と出来なくなったのだというもったいない気持とが一緒になりまして、何らかの形でこれを出せないかということを、いま考えてるところなんです。当節の澁澤ブームともいえるような情況をみると、むしろ現在のほうが実現しやすいようにも思いますしね。
 ところが十年経過したために、当時は本邦初訳であっても、すでに翻訳が出てしまったものとか、多少評価が変わったものとかがありますし、それにたとえ二十四巻案を採るとしても、当節ではかなり多いという感じがありますので、出来れば巻数も半分の十二巻から十五巻くらいに絞りたい。そうした問題がありますので、この案をそのまま実現するには、やはり少々無理があるんですね。そこで澁澤さんとお親しく、良き理解者でもいらした出口裕弘さんと種村季弘さん、それに少しお若いところで巖谷國士さんに編集協力者という形で加わっていただいて、いわば改訂版のような形で刊行することを考えているんです。いちおう御三方からの意見聴取みたいなことは、すでに始めておりまして、もしいま澁澤さんがご存命であれば、こうしたであろうということを想定しつつ、ある程度の取捨――まあ取≠謔閧ヘ捨≠ノなりますけれども――をおこなうことで、刊行準備がほんの少々始まったところなんです。まだ、実際にどういうものになるかは分かりませんけれども。私としても、何とかそれで罪滅ぼしの何十分の一かは出来るだろうかなあと思ったりしているんですが。
             (S63・4・25 於神田小川町、筑摩書房)(同前、二〇六ページ)

吉岡は1978年7月の筑摩書房倒産のあと、11月に依願退職しているから、業務として淡谷の企画を援護射撃することは叶わなかっただろう。ここで、澁澤龍彦が筑摩書房から刊行した書物を一覧しておこう。《〔創業50周年〕筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)掲載分をアレンジして示す。

・(これは翻訳だが)ジルベール・レリー著《サド侯爵――その生涯と作品の研究〔筑摩叢書172〕》(1970年9月30日)
・(目録の索引には、澁澤龍彦でもサドでも載っていないが)《筑摩世界文學大系 23――サド レチフ》(1977年3月30日)でサドの作品〈司祭と臨終の男との対話〉〈美徳の不運〉〈閨房哲学〉〈悲惨物語〉〈小説論〉、ジャン・ポーランによる〈サド侯爵とその共犯者あるいは羞恥心の報い〉を翻訳し、解説〈サド――城と牢獄〉を執筆して、〈サド年譜〉を編んでいる。
・《サド侯爵の手紙》(元版:1980年12月10日、〔ちくま文庫〕:1988年1月26日)
・編集協力 出口裕弘・種村季弘・巖谷國士《澁澤龍彦文学館》(図書総目録刊行当時、全12巻を刊行中。《第4巻 ユートピアの箱》1990年5月21日、《第5巻 綺譚の箱》1990年5月21日)

改めて《澁澤龍彦文学館》全12巻を巻数順に掲げておく。人名はその巻の編解説担当者。

@ ルネサンスの箱(1993年3月) 河島英昭
A バロックの箱(1991年6月) 桑名一博
B 脱線の箱(1991年3月) 富士川義之
C ユートピアの箱(1990年5月) 巖谷國士
D 綺譚の箱(1990年5月) 種村季弘
E ダンディの箱(1990年9月) 出口裕弘
F 諧謔の箱(1991年8月) 高橋康也
G 世紀末の箱(1990年6月) 出口裕弘
H 独身者の箱(1990年7月) 岡谷公二
I 迷宮の箱(1990年9月) 池内紀
J シュルレアリスムの箱(1991年2月) 巖谷國士
K 最後の箱(1991年10月) 松山俊太郎

澁澤が新たに訳したサドの〈小説論〉を収めた《筑摩世界文學大系 23》付録(要は月報である)の〈編集後記〉には次のようにある。署名はないが、淡谷淳一の筆になるものと思われる。

 お待たせしておりました第八十回配本第二十三巻『サド/レチフ集』をお届けします。この二人の十八世紀の作家が本巻のような形で紹介されるのは初めてのことかと思われますが、特にレチフ・ド・ラ・ブルトンヌについては、その主要作品もほとんどが翻訳されておらず、日本語文献も特殊なものに限られるため、今回の月報では「参考文献」を割愛し、月報本文で多角的なレチフの像を浮び上らせることに努めました。なお参考までに、現代思潮社版『パリの夜』(植田祐次訳、一九六九年)の巻末にはレチフの主要著作・研究書目のリストと長文の解説が付されており、生田耕作著『るさんちまん』(人文書院、一九七五年)に、「レチフと靴フェティシズム」の文章が収録されていることを記しておきます。今回三年間据置になっていました定価を改訂させて頂きました。諸般の事情を御推察の上、何卒御諒承下さい。度々の刊行遅延をお詫するとともに、読者の皆様にはいっそうの御支援・御愛読をお願い申し上げます。(同付録、一〇ページ)

澁澤龍彦著訳の《サド侯爵の手紙》(1980年12月10日)の〈あとがき〉には次のようにある。なお同書の装丁は、のちに刊行の《澁澤龍彦文学館》と同様、中島かほるである。

 この手紙の翻訳は、当初から筑摩書房で単行本にするという予定で、雑誌「現代思想」の昭和五十年十月号から五十二年七月号までに、十三回にわたって飛び飛びに連載したものである。快く誌面を提供してくれた青土社の「現代思想」編集長三浦雅士さんに、心よりお礼を申し述べたい。単行本にするに当っては、どういう叙述形式にしたらよかろうかと、担当の淡谷淳一さんとともにずいぶん頭を悩ませたものであるが、結局、一つ一つの手紙の末尾に註をつけるという、いちばん当り前な形式に落着いた。私の遅筆のため、この註をつけるという作業にも意外に手間どって、とうとう最初に翻訳の筆を起した日から、五年近くもの歳月が流れ去ってしまった。その間、悠揚迫らざる温容で待っていてくれた淡谷さんに感謝する。この仕事が私にとって楽しいものであっただけに、感謝の思いは深いのである。

   昭和五十五年十月
                               澁澤龍彦(同書、二三三ページ)

刊行の時期としては、上記澁澤関連の2冊のあいだに挟まるかっこうになるが、蓮實重彦《映像の詩学》(1979年2月15日)の〈あとがき〉には次のようにある(同書、二九五〜二九六ページ)。

 〔……〕当節、五十枚を超えるハワード・ホークス論やフリッツ・ラング論を顔色一つ変えずに受けとってくれる編集者に恵まれたというのは、ほとんど奇蹟に等しいことだと思う。また、前著『反=日本語論』に続いて書物にまとめるさいの煩雑な仕事を担当された筑摩書房の淡谷淳一、同じく表紙からページのすみずみにまで繊細な心くばりを示して戴いた装幀の中島かほるの両氏は、この奇蹟に確かな輪郭を与えて下さった。勝手気儘なふるまいによって好意に甘えつづけたあげく、いまさら感謝の気持を捧げるなどと書くのも気がひけるので、その気持はそっと胸のうちにしまいこんでおく。
 〔……〕
                                 一九七八年六月 蓮實重彦

 しばらく中断されていた筑摩書房の出版活動が再開され、校正刷の段階で眠っていた『映像の詩学』が幻の書物になりそびれたことを、率直に喜びたいと思う。やはり、これは幸福な書物なのだ。〔……〕
                                        一九七九年一月

ふたつの日付のあいだに、淡谷が談話で触れていた筑摩書房の倒産(1978年7月)があった。ここで蓮實重彦の前著《反=日本語論》の〈あとがき〉を見よう。初刊の単行本は1977年5月19日の刊行だが、最新版の〔ちくま学芸文庫〕(2009年7月10日)から引く。なお、末尾には脱稿日と思しい「一九七七年三月七日」の日付がある。

 ここに『反=日本語論』として読まれた書物は、その筆者の書こうとする意志とはほとんど無縁の場で書きあげられてしまったかのような言葉たちからなりたっている。こうしたことがらを一冊の著作にまとめようとする気持はなかったし、いまなおその気持はきわめて希薄である。「序章」にあたる「パスカルにさからって」は、筑摩書房刊行の月刊誌『言語生活』のために、編集部の淡谷淳一氏のおすすめに従って、一回限りのつもりで執筆したものである。それが直接の契機となり、同誌に以後三回ほど、また青土社の月刊誌『現代思想』に「ことばとことば」として十二回ほど、そのつど今度こそこれで終りだと口にしながら書き続けてしまった。編集を担当された筑摩書房の久保田光、持田鋼一郎の両氏、ならびに青土社の三浦雅士氏には、いまこうして書物のかたちをとろうとしている言葉たちの生誕を感謝すべきなのか、それともうらみがましい気持を捧げるべきか知らない。こうした方々とお逢いしているうちに、何か自分の言葉がかすめとられてしまったというのが実感なのである。その意味で、この『反=日本語論』は、奇妙なやり方でいまも筆者の意識を刺激しつづけている。自分ながら、何か夢のようにできあがってしまった書物なのである。その夢のような体験をともかくもこうしてくぐりぬけたとき、その夢をはじめから終りまで見まもって下さった淡谷淳一氏には、医師に捧げるべき患者の謝意を受けとっていただければと思う。久保田氏、持田氏、三浦氏に捧げうるのも、やはり夢から醒めた患者の謝意である。
 こうした方々の立ち合いのもとに、書くまい書くまいとして書いてしまった言葉は、これまで筆者が書こう、書こうとして書いたものより、遥かに好意的な反響を読者の方々のうちに惹起することができた。雑誌掲載中から、あるいは直接的に、あるいは間接的に批判をお寄せ下さった方々には、こうして一冊にまとめたことでそのお気持に応ええたかどうか。しかし、これに類する文章はもはや二度と書くまいという意志だけは、夢から醒めたいまも消えずに残っている。この意志が、今後、どのような夢と遭遇するのであろうか。なお、「終章」の「わが生涯の輝ける日」は、覚醒の後に夢を摸倣しつつ書きあげられたものである。(同書、三三三〜三三四ページ)

これが全文である。また、〔ちくま学芸文庫〕での刊行に際しても、同じくらいの分量のあとがきが新たに付された。末尾に「二〇〇九年五月三十一日/著者」とある〈ちくま学芸文庫版あとがき〉の最終段落を引こう。

 最後になってしまったが、「ちくま文庫」版収録の「あとがき」に記した四人の方々に改めて三十二年後の御礼の心をおくりたいが、今回編集を担当された筑摩書房編集局の天野裕子さんにも、それに劣らぬ感謝の思いをおくらせていただく。(同書、三三六ページ)

ここで《筑摩書房図書総目録》掲載の蓮實関連の書籍をみておこう。

  1. (アラン・ロブ=グリエ著、天沢退二郎と共訳)去年マリエンバートで 不滅の女――シネ=ロマン(1969年2月。蓮實は巻末に〈『不滅の女』または、ある厳密な曖昧さの回復〉という文章を書いているが、これは解説であり、訳書のいわゆるあとがきはない)
  2. 反=日本語論(1977年5月)
  3. 映像の詩学(1979年2月)
  4. 表層批評宣言(1979年11月)
  5. 監督 小津安二郎(1983年3月)
  6. 表層批評宣言〔ちくま文庫〕(1985年12月)
  7. 反=日本語論〔ちくま文庫〕(1986年3月)
  8. (厚田雄春と共著)小津安二郎物語〔リュミエール叢書〕(1989年6月)

ここで年代は飛ぶ。蓮實重彦の主著《『ボヴァリー夫人』論》(2014年6月25日)巻末の〈もろもろの謝辞――あとがきにかえて――〉には淡谷淳一のことが縷縷記されている。長くなるが、同書刊行の経緯を知るうえでも引用しておきたい。

 『「ボヴァリー夫人」論』執筆のために分類されていた嵩のある何冊もの資料の中に、著者自身の筆跡ではない文字の書きこまれた一枚の紙片がファイルされている。一行目に「蓮實重彦『ボヴァリー夫人』論」という題名らしきものの記されたその横罫のレポート用紙には、著者が『ボヴァリー夫人』をめぐってそれまでに発表した九篇のテクスト――必ずしも、すべてではない――の題名が、発表媒体、発表年月、四百字詰め原稿用紙に換算された枚数などとともにごく律儀に二行おきに列挙されており、その時点での原稿枚数は合計で「739」枚、紙片の右下には「89.10.9」という年月日らしきものがちらりと読める。
 見覚えのあるその筆跡が誰のものかは、すぐさま見当がつく。それが『反=日本語論』(1977)いらい著者の書物を担当してこられた筑摩書房編集部の淡谷淳一氏のものであることに、疑いの余地はないからである。ただ、一九八九年十月九日という日付を持つこの紙片が何を目的として書かれたものかは、まったくもって不明というほかはない。一九八九年といえば、一月七日まではまぎれもなく昭和という年号で日々が数えられていた年にあたっているが、何らかの意味で象徴的ともいえるその年の秋に、『「ボヴァリー夫人」論』の企画が、筑摩書房の会議で議論されたのだろうか。どうもそうとは思えない。わたくしが紀要論文などで『ボヴァリー夫人』を論じ始めたのは、七〇年代のはじめのことだからである。ことによると、とうの昔に会議で了承されていたこの企画の実現を改めて強くうながす目的で淡谷さんが著者に提示されたものだったのかもしれない。とはいえ、それが、いつ、どこで、いかなる状況のもと、どんな言葉でもたらされたのかという詳細は、いまその書物の著者となりおおせたばかりの男の記憶から、きれいさっぱり遠ざけられている。
 筑摩書房に入社後の間もない時期に、大胆にも『フローベール全集』(1965-1970)を企画し、これをみごとに実現された淡谷さんにしてみれば、その後、『ボヴァリー夫人の手紙』(工藤庸子編訳 1986)やM・バルガス=リョサMario Vargas Llosaの『果てしなき饗宴――フロベールと「ボヴァリー夫人」』(工藤庸子訳 1988)などの編集にかかわられたように、日本人による『「ボヴァリー夫人」論』執筆を期待しておられたのかもしれない。その未来の著者の一人として、その前年に『凡庸な芸術家の肖像――マクシム・デュ・カン論』(青土社 1988、ちくま学芸文庫 1995)を長い連載ののちに上梓していたわたくしも、そろそろフローベールの作品をまともに論ずべきときが来ていると感じ始めていたのだと思うが、そのあたりの前後関係を厳密にたどり直すことは、いまの著者にはほぼ不可能というに近い。
 工藤庸子さんによる『恋愛小説のレトリック――「ボヴァリー夫人」を読む』(東京大学出版会)は一九九八年に、松澤和宏氏による『「ボヴァリー夫人」を読む――恋愛・金銭・デモクラシー』(岩波書店)も二〇〇四年に刊行されているので、日本における『「ボヴァリー夫人」論』は、ある時期に確かな成果を挙げつつあったといってよい。にもかかわらず、わたくし自身による『「ボヴァリー夫人」論』の完成には、起源も定かではない企画の成立から三十年余の歳月が費やされてしまった。四半世紀にはとてもおさまりのつかぬこの時間は決して短いものとはいえまいが、そうならざるをえなかった事情を、ここでこと細かに述べることはせずにおく。ただ、その間に淡谷氏は筑摩書房を定年退職され〔石井信平〈筑摩書房――最後の仕事〉(《AERA[アエラ]》1996年5月6日・13日合併号)によれば、1996年3月29日(金曜)が最後の出勤日だった(*2)〕、淡谷氏とともに『監督 小津安二郎』(1983)の編集にあたられた間宮幹彦氏に企画が受けつがれたことは書いておかねばなるまい。
 同じ職場でながらく一緒に仕事をされた淡谷さんと間宮さんとは十歳近い年齢の差があったと思うし、大学時代の専攻はいうまでもなく、個性や人柄もまったく異なるいかにも独特な編集者だといってよい。それでいながら、このお二人には、ある否定しがたい共通点がそなわっていた。待つことをいささかもいとわぬ、いかにも落ち着きはらった方だったのである。淡谷さんがそうだったように、間宮さんも忘れかけていたころ不意に電話をかけて下さり、これといってせき立てる風情もなく、そろそろいかがでしょうかと静かにつぶやかれる。はかばかしい答えには出会えなかったにもかかわらず、そのつぶやきをいくどとなくくり返された淡谷さんと間宮さんに、まず、心からの感謝の念を捧げたい。(同書、七九三〜七九五ページ)

以上が冒頭の2ページ強で、末尾に「二〇一四年四月なかばのこと/著者」とある同文は、全部で12ページもある。蓮實の〈もろもろの謝辞――あとがきにかえて――〉をこれほど長く引いたのはほかでもない、今は亡き淡谷淳一(私は淡谷さんの死を巖谷國士さんの《澁澤龍彦論コレクション》(*3)で読むまで知らずにいた)の事績を語ってこれほどふさわしい文章はほかにないだろうからである。たとえば、上掲文に見える《監督 小津安二郎》(1983年3月30日)の〈あとがき〉――末尾に「一九八三年二月/著者」とある――の最後の段落は、次のようにさらりと書かれている。

 全篇は新たな構成のもとに全面的に書き改められたものだとはいえ、この論文の軸となる幾つかの文章が発表された雑誌(〔……〕)の編集にたずさわった方々に感謝したい。写真や資料等にも、フィルムセンターや堀切保郎氏をはじめ、多くの方々の無言の暖い協力を得た。編集を担当された筑摩書房の淡谷淳一、間宮幹彦の両氏ならびに装幀の中島かほる氏の助力には、いつものことながら、心からの感謝の気持を捧げたいと思う。いま、こうして最後の言葉をしたためながら、二十年前の冬の公園の鉄製ベンチの冷たさが、改めて腰の下からよみがえってくる。小津安二郎は、わたくしにとって、決して死んではいない。(同書、二八〇〜二八一ページ)

「二十年前の冬の公園の鉄製ベンチの冷たさ」というのは、1963年の12月、異国の地にあって小津の死を報じる新聞を公園の「陽の差すこともなく終ろうとする一日の寒さで冷えきった鉄製のベンチ」(〈序章 遊戯の規則〉、同書、九ページ)で読んだことを指す。この冷たさと、著者が対象に寄せる想いの熱さの対比は圧倒的だ。そしてそれを書物の形にすべく支えたのが、筑摩書房の淡谷・間宮・中島の3人だった。同書は20年後に《監督 小津安二郎〔増補決定版〕》(2003年10月10日)として再刊された。末尾に「二〇〇三年八月一日」の日付のある〈増補決定版あとがき〉はこう始まっている。

 すべては原著の「あとがき」にいいつくされており、〈増補決定版〉の刊行にあたって新たに書き加えるべきことはごくわずかなことがらにつきている。その間、厚田雄春さんを失った悲しみについては「二十年後に、ふたたび」にも触れたが、それに劣らぬ喪失として、『監督 小津安二郎』の執筆を陰で支えてくれた淡谷淳一氏がすでに筑摩書房を退職しておられるということがある。前回同様、この〈増補決定版〉の編集も間宮幹彦氏の手をわずらわせ、装幀に同じ中島かほる氏のお力を拝借することができたのは幸運だった。ここに御礼申し上げる次第だが、その思いが淡谷氏にもとどけばと念じている。(同書、三四四ページ)

〈もろもろの謝辞――あとがきにかえて――〉に登場する工藤庸子編訳《ボヴァリー夫人の手紙》(1986年7月20日)の〈あとがき〉には次のようにある(*4)

 この本では、下段に大きく余白をとり、そこに必要な知識を補うためのメモ、訳文の調子[トーン]を定めるためのさまざまの手掛りなどを書きこんだ。また同じスペースに、上段の手紙文に関する読解や注釈を記し、その手紙文と他のテクストをつき合わせた場合に生じるであろう解釈の可能性も示唆するようにした。〔……〕
 〔……〕
 フロベールの手紙については、筑摩書房フロベール全集の翻訳と訳注から多くのことを教えられた。〔……〕
 〔……〕
 私の勝手な希望に辛抱強く耳を傾け、助言をいろいろと与えて下さった筑摩書房の淡谷淳一さん、装幀を担当して下さった中島かほるさんに心から感謝いたします。(同書、三三二〜三三三ページ)

下段スペースに大きな比重をかけたこのユニークな版面(上段9ポ28字詰・下段8ポ22字詰)は、編集担当の淡谷と造本担当の中島によるみごとな設計だと思う。もう一冊、M・バルガス=リョサ(工藤庸子訳)《果てしなき饗宴――フロベールと『ボヴァリー夫人』〔筑摩叢書〕》(1988年3月25日)の〈訳者あとがき〉は最後をこう締めくくっている。「この評論の翻訳をすすめて下さった篠田一士先生、筑摩書房の淡谷淳一さん、そして編集を担当して下さった郷雅之さんに、心からお礼申し上げます。」(同書、二九八〜二九九ページ)。ちなみに、篠田一士は《フローベール全集〔別巻〕フローベール研究》(1968年6月15日)の〈解説〉を書いていた。《果てしなき饗宴》は《フローベール研究》の20年後、ペルーの小説家の筆になる文芸評論として、淡谷淳一が自ら推進した最後のフローベール関係の書物となった。丸谷才一が最晩年に編んだ《快楽としての読書[海外篇]〔ちくま文庫〕》(2012年5月10日)には、《ボヴァリー夫人の手紙》と《果てしなき饗宴》(と、これは小説だが、ジュリアン・バーンズ《フロベールの鸚鵡》)の書評が収録されている。ジェイムズ・ジョイスを奉ずる丸谷ゆえ、ジョイスの師匠への関心も並並ならぬものがあった、と言うべきだろう。

松浦寿輝《映画n-1》(1987年5月15日)の巻頭に置かれた〈液体論――映画的交合とその異化〉(初出は《ユリイカ》1983年5月号〔特集=ゴダール 映画の未来〕)の冒頭――小見出し「a 赤えいの膜あるいは映画を切り裂くこと」とある段――は「いかにして膜を切り裂くか。」(同書、五ページ)という一文で始まり、すぐさま吉岡実詩集《静物》の詩篇〈過去〉に触れてゆく。さて、その末尾に「一九八七年三月/松浦寿輝」とある〈後記〉には次のような箇所がある。

 〔……〕つまるところ、映画は「距離」と「模像」の体験として筆者の二十代と切り結んできたのだと言える。そのことの意味は、まだ筆者自身にとっても解明しつくされないままでいる。
 いま、ヒッチコックと吉岡実さえ端から端まで克明に読みきれればそれでおのずから世界のすべてが読み解けるはずだと、昼も夜も思いつめていた十八歳の少年を思い出してみる。まことに、モノマニアックな貧しい青春をおくっていたのである。〔……〕世の中にどうしてこんな凄いこと[、、]が起こるのかと呆然としながら、ただもう『北北西に進路を取れ』や『僧侶』でなければ夜も日も明けないといった日々をおくっていたのである。〔……〕
 〔……〕
 決してしらじらしくはない感謝の思いが捧げられるべきは、まず、冬樹社にいらした頃に本書の祖型を提案してくださった荻原富雄氏に対してである。本書の種子は、氏の熱意ある慫慂によって播かれたものだ。そしてほとんど発芽しかけていたその種子は、荻原氏のUPUへの移籍の後を享けて、筑摩書房編集部の淡谷淳一、郷雅之両氏の手で丹念に育成され、生長し、ここにようやく実を結ぶことになった。この果実がいくぶんか見苦しくないものとなりえているとすれば、それは両氏の繊細かつ精力的なエディターシップと、中島かほる氏が本書に与えてくださった視覚的・触覚的な洗練の賜物である。とりわけ郷氏には、索引作成など煩雑な実務面でずいぶん御迷惑をおかけした。また、写真構成にあたって梅本洋一、武田潔、久保田雄二といった友人たちが提供してくれた無償の助力を忘れるわけにはいかない。本書の成立がその存在に多かれ少なかれ何らかのものを負っているn-1人の人々すべての名前を挙げることは不可能なので、とりあえず以上の方々に、代表して筆者の感謝の念を受け取っておいていただきたいと思う。
 あとはただ、この書物がn-1人の読者との間に幸福な出会いを体験することを願うだけだ。(同書、二五六〜二五七ページ)

松浦のこの映画論集成は、吉岡の《静物》に始まって《僧侶》に終わる、と言えないこともない。

松室三郎訳《マラルメ 詩と散文〔筑摩叢書〕》(1987年7月31日)の訳者による〈あとがき〉は、次のように始まっている。

 「コンパクトな一冊本という形で、マラルメを日本の読者に紹介する書物ができるとよろしいのですが……」
 眼鏡の奥でひたむきな目が私をじっと見ながら、静かな口調で、この言葉が述べられたのが、今こうして本書が生まれ出ることになったそもそもの事のはじまりなのだが、これはたしか邦訳『ヴァレリー全集』の刊行が完了も間近となっていた頃のことであるから、ひと昔以上、今からかれこれ十五、六年ほども前のことであろう。そのときは、ヴァレリーの訳稿のどれかを直接お渡しするために、同全集の編集担当者である筑摩書房の淡谷淳一氏と、私の勤務先にほど近い喫茶店に落ち合って、話題がたまたまマラルメのこととなり、私が何か「マラルメ手帖」といった、この詩人の略地図めいた内容の書物を作製する夢をあれこれ語ったところ、淡谷氏は大ぶりの黒革の手帖をとり出されて、私のとりとめもない話の要点を書きとめられ、その揚句、冒頭に記したようなことを言われたのだった。〔……〕(同書、二二三ページ)

7ページに及ぶこの〈あとがき〉は、次のように結ばれている(末尾には「一九八七年三月/松室三郎」とある)。

 「あとがき」の初めに記した通り、本書の発案以来、実に長い歳月が過ぎ去ったが、その間訳者の度重なる我儘を快く受け容れて下さった、と今更言うのがおかしいほど、終始辛抱強く穏やかに(ごく稀には厳しく)見守って下さった淡谷淳一氏には改めてお礼を申し上げたいと思う。最近二宮正之氏の名訳による『ジッド=ヴァレリー往復書簡』(むしろ名著と称ぶにふさわしい学問的労作)を最後に、ヴァレリーという巨大な存在を日本語に移植するという大仕事を遂に完成まで支え続けられたこの名編集者の、熱っぽく未来の書物を語り合った当時とは異なって頭髪に白いものの増えた温容に接するにつけ、私は歳月の足の早さと己れの牛歩の遅々たることとに呆れ果てているが、今はここに送り出す本書がせめて、マラルメに関心を持たれる世の読者の方々に聊かなりとも広く迎え入れられることをひたすら祈るばかりである。(同書、二二八〜二二九ページ)

刊行の時期は前後するが、二宮正之訳《ジッド=ヴァレリー往復書簡 2 1897-1942》(1986年10月25日)の〈訳者あとがき〉はこう結ばれている(末尾には「一九八六年八月、パリ西北郊コロンブで/二宮正之」とある)。

 本書を翻訳する機会を与えて下さった菅野昭正氏が、ジッドとヴァレリーの存在を大きな歴史の流れのなかにすえ、現在のフランスとも結びつける文章を寄せて下さった。ロベール・マレの序文に欠けていた二面がこうして補われたことを、心からありがたく思っている。
 また、ヴァレリーの書簡の翻訳と註解に関し、清水徹氏が、最先端を行くヴァレリー研究家としての学識をおしみなく分かち与えて下さった。氏の援助がなかったら、この書簡集は、とんだ傷物として世にでるところであった。深く感謝している。
 フランスでは、「日本語版が世界で一番完璧な版になりますね」と言って励ましてくれたカトリーヌ・ジッド夫人、ヌイイ市の自宅で何回となく、訳者の質問に答え、思い出を語ってくれたアガト・ヴァレリー=ルアール夫人、この二方と共に、未刊書簡の閲覧を認めてくれたジッドの手紙の所有者ランサッド氏、ドゥーセ文庫での仕事の便をはかってくれたフランソワ・シャポン館長、さらに、十数年来、毎週のように訳者の数限り無い疑問に光をあててくれたマガリ・ビリョン夫人にお礼を申し上げる。
 最後の最後になってしまったが、ノルマンディーの乳牛のよだれのように、際限もなくだらだらと続く訳者の仕事を、いやな顔も見せずに(これは、国際電話のお蔭で、見えなかったということかもしれない)、しかも、締めるところは締めて、形作って下さった淡谷淳一氏には、お礼の言葉もない。(同書、五一五ページ)

だが私にとって淡谷さんは、あくまでも吉岡実の筑摩書房での後輩であり、吉岡が1978年11月に同社を退いたあとは、詩人・吉岡実の担当編集者だった。あとがきに見る淡谷淳一像の極め付きは、いうまでもなく吉岡の2冊の散文集である。

     18
 「私たちのまわりには、もう土方巽のような破天荒な人間を見つけ出すことはできないでしょう。戦後の疾風怒涛時代が生んだ、彼もまた一個の天才でした。」(澁澤龍彦)
 その土方巽の遺文集『美貌の青空』の刊行準備に参画し、出版社も筑摩書房に決まり、肩の荷もおりた。昨年の春のことである。それから間もなく、在社時代の後輩の淡谷淳一が遊びに来て、私が今までに土方巽へ捧げた詩篇と、散文、それに若干の書下しの文章を加えて、小さな本をつくりましょう、と言うのだった。辞退をにおわせ、曖昧な返事をしたのがいけなかった。会社の正式な企画にのせてしまったのである。
 〔……〕
 私は無断できわめて断片的に、多くの方々の文章を「引用」させて頂いた。何卒、ご寛容のほどを。皆様に深く感謝いたします。また広く資料に眼を通していないゆえ、見落した貴重な「証言」も、数多くあると思われるが、それも許して頂きたい。おそらく、淡谷淳一の慫慂がなければ、この小さな書物は作られなかったかも知れないと思う。
 〔……〕
     1987年7月28日        吉岡実(〈補足的で断章的な後書〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、1987年9月30日、二四〇〜二四一ページ)

 今度、淡谷淳一の尽力で、「筑摩叢書」の一冊として、再刊されることになった。ついては、意にみたない五篇を省いた。「叢書」に入ったことに依って、この書物も、いくらかは、広く読まれることになるであろう。
 〔……〕
 この八年間に書いた文章は、わずかに百五十枚足らずである。いずれも「日常反映の記録」にすぎないものばかりだ。増補して、最終章に収めている。
 一九八八年八月二十五日                        吉岡実(〈あとがき〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、1988年9月25日、三七〇ページ)

吉岡にはこの2冊のあとに《うまやはし日記》(書肆山田、1990)がある。だが、淡谷淳一が吉岡に《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》を書きおろさせた功績は、いくら強調しても足りない(*5)。さらに著者歿後の刊行だから、もちろんあとがきはないのだが、淡谷淳一は筑摩書房を定年退職するまえに出したいと《吉岡実全詩集》(1996年3月25日)を吉岡実の七回忌を目前に刊行した(全詩集を出すなら筑摩から、が吉岡の遺言だったという)。巻末には〈吉岡実詩集覚書〉があり、「生前刊行の詩集を各詩集ごと年代順に掲げる。刊行順に合せて、その中に選詩集を含めた。また本全詩集の底本には*印を付した。」(同書、七七三ページ)と始まり、詩集の書誌や吉岡実執筆のあとがき類を掲げ、表罫でいったん区切ってから最後に「編集部 編」と文責の表示がある(*6)。そして、追記のような形で次の文章が付されているが、これらはすべて淡谷淳一の筆になるものだろう。

 小林一郎氏による「吉岡実書誌」(『現代詩読本――特装版 吉岡実』思潮社 一九九一年四月)、『吉岡実全詩篇標題索引』(文藝空間 一九九五年五月)等を参照させていただきました。同氏に感謝の意を表します。(同書、七八八ページ)

《吉岡実全詩集》初刷における印刷上のトラブルについてはかつて書いたので(*7)、ここで繰りかえしたくない。いずれにしても、淡谷さんの筑摩書房における最後の仕事のひとつが本書の刊行だったことは明記しておきたい。想えば、私のサイト《吉岡実の詩の世界――詩人・装丁家吉岡実の作品と人物の研究》の記載の大半は《吉岡実全詩集》への長大なコメントだったような気さえする。編集者・淡谷淳一の業績を仰ぎみるゆえんである。

樽本周馬は〈中島かほる〉で「その端正さとグラマラスさをもって吉岡実と石岡瑛子のハイブリッドともいうべき両性具有性を体現する中島かほるの装幀」(《アイデア idea》368号〔特集・日本オルタナ精神譜 1970-1994 否定形のブックデザイン〕、2014年12月10日、一〇五ページ)と評したが、同文のその前段には「〔19〕85年からは蓮實重彦責任編集の季刊映画雑誌『リュミエール』のADを担当、終刊後に始まった《リュミエール叢書》ではスチールを最大限に尊重した映画本の基本形をつくる。蓮實との仕事は『反=日本語論』(1977)から最新作の『『ボヴァリー夫人』論』(2014)まで続いている。筑摩では淡谷淳一、間宮幹彦、岩川哲司、郷雅之といった凄腕編集者との強力なタッグによって数多くの傑作が生まれた。」(同誌、一〇四〜一〇五ページ)とある。淡谷淳一に始まる筑摩書房=中島かほる装丁の系譜を評して、至言であろう。

先に、淡谷淳一が編集者として想い出を書いたことはない、と記した。だが国立国会図書館の所蔵を検索すると、次の文章がヒットする。淡谷が他社の媒体に書いた、いまのところ唯一確認された業務用の文章である(末尾に「(筆者は筑摩書房編集部 淡谷淳一)」とあり、さらに罫でくくった《ヴァレリー全集〔全12巻〕》の9行にわたる告知広告が掲載されている)。全文を掲げる。

ヴァレリーのプロフィール|淡谷淳一

 「ヴァレリーは私にとって、単に詩人でも、美学者でも、文芸批評家でも、科学者でも、哲学者でさえもなくて、それらの専門的な知的領域の全体に対して、一人の人間がとり得る態度を決定する一箇の原理にほかならなかった。その原理との出会いは、私にはあまりに貴重に思われたので、それを文学とよぶかよばないかは、もはや私にとってどうでもよいことであった。」加藤周一氏は連載小説『羊の歌』のなかで、その大学時代の読書体験をこのように語ります。太平洋戦争たけなわのころの氏にとって、ヴァレリーは「聖書」であり、一つの「啓示」でした。
 大正の末ごろから翻訳紹介されはじめ日本の知職人に広く愛読されてきたヴァレリーですが、こんど新たに全集が刊行されるのを機会に、簡単にその生涯をたどってみたいと思います。
 ポール・ヴァレリーは一八七一年(明治四年)南フランスの港町セットに生れました。この地中海という風土は彼の精神形成に深い影響を与えたと思われます。のちに「私は自分の生れたいと思う場所の一つに生れた」と語っていますが『海辺の墓地』や『若きパルク』のなかで地中海の光と水が美しく詠われます。またこの前後には、二十世紀フランス文学の巨匠たち、クローデル、ジッド、プルーストが生れています。
 ヴァレリーは幼少時代から詩をつくりはじめ建築や絵画にも関心を示します。やがて青年期に達した彼は、モンペリエの法科大学に入学します。そしてこのころ偶然の機会から詩人ピエール・ルイスと知り合ったことが、彼の生涯をなかば決定づけます。つづいてアンドレ・ジッドとも交友関係をもつようになり、モンペリエ出身の田舎青年は中央文壇から強い刺激を受けました。彼の詩はやがて象徴派文学の師マラルメに認められ、将来を大いに期待されることになります。しかし二十歳のヴァレリーの精神の内面では、ある革命が起りつつありました。
 それは「ジェノヴァの一夜」として伝説化されすぎたきらいはありますが、精神の一大転機であったことは確かです。一八九二年秋の激しい嵐の一夜、ある「知的クーデター」が遂行され、以後約二十年にわたって詩人としてのヴァレリーは沈黙するのです。「知性の偶像」以外の一切の偶像を拒否し、知性を純粋にみがきあげることに専念します。この間パリに定住し、その抽象的な思索は『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説』および『テスト氏との一夜』という二つの重要な散文作品として結晶します。一方は万能の天才レオナ〔ト→ル〕ドを通して芸術的方法論を展開し、他方の架空の人物テスト氏にたくして思考の極限を追求していますが、ともにヴァレリーが自らの理想像を語ったものと言えましょう。このころ書かれた『方法的制覇』は、のちの全体主義国家の出現を予告したことで有名であり、数多い文明批評の最初の結実です。
 一八九八年マラルメの死に遭い、文壇とはますます縁遠くなっていきます。マラルメには終生深く傾倒し、またマラルメの方でもヴァレリーのなかに精神的な後継者を認め、特別な愛情を注いできたのでした。一九○○年結婚、そして通信社の老社長の秘書となり、完全な沈黙に入ります。
 このような「沈黙期」からヴァレリーを呼び戻したのは親友ジッドでした。一九一二年、ジッドから旧作を一冊にまとめることをすすめられたのがきっかけで四年半にわたる苦心のすえ、二十世紀抒抒情詩の傑作『若きパルク』が生れました。恋に傷ついた一人の女性の一夜の意識の変化をうたったこの作品は、世紀の詩人の誕生を告げるものでした。以後つぎつぎと詩作をつづけ、詩集『魅惑』としてまとめられます。
 そのころ社長秘書の職を失ったヴァレリーは、以後文人として、かつ国際連盟知的協力委員会等での公人としての生活をおくります。求めに応じて人間のあらゆる精神領域の問題について発言し、フランスを代表する知識人としての名声を獲得します。その発言は『ヴァリエテ』全五巻その他に収められ、二十世紀における批評の精髄と言われています。
 第二次大戦にあたっては、精神の自由を守りぬくことこそが人間の尊厳を保証すると信じて、文明と秩序を維持する意志を表明しつづけました。このころには晩年の澄みきった叡智を示す戯曲『我がファウスト』が書かれますが、未完に終りました。
 一九四五年七月、ヴァレリーは解放後のパリで死去し、ド・ゴール臨時政府は国葬をもっておくりました。遺骸は故郷セッ卜の「海辺の墓地」に眠っています。
 ヴァレリーが死んで二十年あまり、二十世紀最大の知性の人の盛名は輝きを増し、その作品世界の研究は各国ですすめられています。文学が反省と沈潜の時期にあり、そして文明と精神が依然として危機にある現在において、ポール・ヴァレリーの遺した精神の軌跡は、永遠に語りかけてやまないのです。(《新刊展望》1967年5月1日号、一〇〜一一ページ)

筑摩書房における編集者・淡谷淳一の仕事を概観するに(*8)、フランス文学(とりわけ訳者・著者としての蓮實重彦=フローベールと澁澤龍彦=サド)を基盤とする外国文学、そして現代日本文学(とりわけ装丁者・著者としての吉岡実)の書物群が眼前に聳え立つ。筑摩を退いた淡谷さんからお話をうかがう機会のなかったことが、今更のように悔やまれる。吉岡実のことをもっともっと教えていただきたかった。最後に淡谷淳一による吉岡実追悼文を掲げて、本稿を終えよう(文章の末尾に「(筑摩書房 編集部)」とある)。

吉岡さんのこと|淡谷淳一

 吉岡さんにお会いできたのは二十七年間におよぶ。はじめは入社した会社の宣伝部の一人であるに過ぎなかったのだが、まもなくこのやせてするどい目をした人が、あの『僧侶』の詩人であるとわかって、実にびっくりしてしまった。作品の書き手に想像される人格と、現に目の前で、たばこをふかしながら笑顔で快活に、いかにも下町の江戸っ子風に(と勝手に思っただけだったが)話される人物とがあまりに違いすぎたのである。その懸隔の大きさの印象は、ついに最後までほとんど変わらなかったと言っていい。実生活と作品世界はまったく別であって、どこかに境界線を引くために、例えば原稿はすべて陽子夫人が清書しておられたようだし、その筆跡すらも明かすことを潔しとしなかったように思われる。
 吉岡さんが編集部に移られてから、ある時期には直接の上司であった。そして当時はほとんど毎日のようにコーヒーをごちそうになった。その後退社されてから渋谷でお会いするときは常に道玄坂のトップであったように、吉岡さんの行きつけの店はほぼ決まっていた。そしていつも「ホット」であり、サービスコーヒーのある店ではその「サービス」であった。こんなにコーヒー好きであっても、お宅でコーヒーを入れることはなかったらしい。ちょっとふしぎな気がするのだが、コーヒーを味わう雰囲気全体が、吉岡さんにとってのコーヒーだったのだろうと思う。
 編集部時代の忘れられない思い出の一つはネルヴァル全集の刊行であった。フランスでの再評価気運をうけて、入沢康夫氏らに相談しつつ翻訳全集の企画を出したのだが、二度も否決になり、吉岡さん時代にようやく決定になった。吉岡さんがネルヴァルをそんなに読んでおられたとも思えないのだが、君がそれほど言うなら、ともかく出してみようと言われて全三巻の出版が決まったのである。詩人としてのカンももちろん大きかったろうが、若造の強い希望をまずかなえてやって、その後のヤル気を起こさせたことは実にうれしかった。
 吉岡さんに感謝すべき大きなもう一つは、いわゆる暗黒芸術への指南役であろう。土方巽の日本青年館公演をはじめ、笠井叡、芦川洋子、中嶋夏らの舞踏は、文字通りこれまでの舞踊という概念をまったくくつがえすものであった。あの日の衝撃がなかったらその後接することはなかったであろう世界の数々に、願ってもない師でありつづけて下さった。土方巽については、のちに『土方巽頌』として結晶した、吉岡実の交響詩的作品の誕生に立ちあうことができたことを誇りをもって書き添えたいと思う。
 装丁者としての吉岡さんの名人芸についても数々の想い出がある。特筆すべきは著者とその作品にあった資材の選びかたの妙だったと思う。極端に言うと、表紙クロスの選択と文字の配置、色がある一瞬に決まってしまうというか、とぎすまされた感覚の一時の集中作用であった。色や資材の見本として、あるときは身近にある例えばたばこの箱だったりすることもあったのだが、混沌から一瞬にして最上の秩序が生れるのだったし、時を経ることによって、その装丁のよさが更に生きてくるのだった。
 病床を見舞ったときのことを一つだけ記しておきたいと思う。出来あがったばかりの新刊本をお届けしたときのこと、カバーをとりはずして表紙を見、その手ざわりをたしかめながら、「中島さん(装丁者)もなかなかがんばっているネ」と、かすれた声で(そのころは声がかつてのようには出なくなっていた)言われたあと、「このクロスはとてもいいけど、僕は嫌いだから使わない」とはっきり言われた。他人の仕事への価値判断と自分の仕事のやり方の間にはっきりとした一線を引かれたこと、どんなに体調が悪くとも言うべきことは言うという、詩、装丁を問わず表現者のかわらぬ決意をみる思いだった。(隔月刊《四次元通信》50号〔追悼・吉岡実〕、1990年7月25日、四〜五ページ)

淡谷淳一が吉岡の病気見舞いに持参した新刊本は、1990年5月21日が奥付発行日の、中島かほる装丁の《澁澤龍彦文学館》の初回配本(第4巻と第5巻)に違いない。写真ではわかりにくいが、表紙のクロスにはゴッホ描くところの糸杉のような渦巻模様がエンボス加工されている。第4巻は巖谷國士の編解説になる〈サド(澁澤訳)/フーリエ(巖谷訳)〉。帯の表4には、礒崎純一が《龍彦親王航海記》で引用した荒俣宏(その帯文である〈シブサワヌスの世界に通ず〉には「左に澁澤龍彦全集があるだけでは全く足りない。右に澁澤龍彦愛読文学選を揃えて、はじめてシブサワヌスの世界に通じ得る。」と見え、この言も礒崎の《書物の宇宙誌》を後押ししたことだろう)と漫画家の大島弓子の推薦文。表1の帯文「幻のシブサワ版世界文学集成」という、淡谷のインタビュー記事のタイトルの「全集」を「集成」に変えただけの惹句には、感慨なきを得ない。

巖谷國士(編解説)《澁澤龍彦文学館〔第4巻〕ユートピアの箱》(1990年5月21日)の表紙とジャケット〔装丁:中島かほる〕 巖谷國士(編解説)《澁澤龍彦文学館〔第4巻〕ユートピアの箱》(1990年5月21日)の本扉〔装丁:中島かほる〕
巖谷國士(編解説)《澁澤龍彦文学館〔第4巻〕ユートピアの箱》(1990年5月21日)の表紙とジャケット(左)と同・本扉〔装丁:中島かほる〕

おしまいに、淡谷淳一が手掛けた巖谷國士の著書を見たい。巖谷の《ヨーロッパの不思議な町〔ちくま文庫〕》(1996年4月24日)は、淡谷が同年3月末に筑摩書房を退職した翌月に刊行されている。親本の発行は、吉岡が歿して3箇月後の1990年8月である。「一九九〇年六月五日」の日付のある〈あとがき〉の末尾を引く。

 末筆になったが、予想以上に手間どってしまったこの不思議な本の出版のために心やさしくご尽力をつづけてくださった筑摩書房編集部の淡谷淳一氏、大山悦子氏のお二人に、あらためて深謝の意を表する。(〔ちくま文庫〕、二九三ページ)

一方、「一九九六年三月十五日」の日付のある〈文庫版あとがき〉の末尾はこうだ。

 そんな再構成をこころみる機会が生まれたので、この文庫版の仕事は思いがけず愉しいものになった。あらたに編集を担当してくださった筑摩書房出版部の羽田雅美さんと、今回も相談にのってくださった原本の担当者・大山悦子さんに、厚く御礼を申しあげておきたい。(同書、二九六ページ)

《ヨーロッパの……》の姉妹篇《アジアの不思議な町》(1992年11月10日)の〈あとがき〉(「一九九二年八月三十日」の日付がある)の末尾には、「末筆になったが、前回とおなじく本書の企画者であった筑摩書房編集部の淡谷淳一氏と、終始ゆきとどいたお世話をしてくださった担当の大山悦子氏に、あつく御礼を申しあげたい。」(《アジアの不思議な町〔ちくま文庫〕》、2000年5月10日、三一四ページ)とある。なお、文庫版での担当は編集部・平賀孝男。
こうしてみると、淡谷が担当した著者の系列に、たしかに吉岡実―澁澤龍彦―巖谷國士というラインが存在したと思われる。その三者(澁澤はすでに亡く、吉岡もほどなく死を迎えるわけだが)は、淡谷淳一と中島かほるの設えた舞台――《澁澤龍彦文学館》の初回配本で出会った。それにしても、と私は思う。淡谷淳一がほんとうに出したかったのは《吉岡実全集》だったのではないか、と。《土方巽頌》と《「死児」という絵〔増補版〕》そして《吉岡実全詩集》という、晩年と歿後の吉岡実が古巣の筑摩書房から出した3冊の本すべてが淡谷淳一の尽力によるものであることに、あらためて深い感謝を捧げつつも――。

〔後記〕
本稿は、吉岡実歿後30年を期して2019年の秋から準備を始め、翌2020年4月、集中的に手入れをした。その間、署名が淡谷淳一とある文章を博捜した結果、以下の2篇を発見した。

  《ふらんす手帖(Cahiers des etudes francaises)》第5号(1976年11月)の〔追悼 渡辺一夫〕に執筆した〈著作集編集部担当者として〉(*9)
  《ブックガイド・マガジン》創刊号(1990年8月)〔特集 澁澤龍彦をめぐるブック・コスモス〕のインタビュー記事〈箱にして箱にあらざる文学館〉(*10)

さらに、これは淡谷の執筆ではないが、〔筑摩叢書〕のジャン・グルニエ(井上究一郎訳)《孤島〔改訳新版〕》(1991年2月25日)の〈改訳新版(筑摩書房版一九九一年刊)についての訳者のノート〉(末尾には「一九九〇年九月十四日/井上究一郎」とある)には「一九七一年十二月刊の第七刷以来絶版のままになっていた竹内書店版の本書を、今回筑摩書房編集部淡谷淳一氏の懇望と尽力とによって同書房から改訳新版を出すことができるようになった。」(同書、一八四ページ)と見える。《孤島》はのちに、三刊の〔ちくま学芸文庫〕(2019年4月10日)が出た。緊急事態宣言のもと、国立国会図書館をはじめとする各館所蔵の資料が閲覧できず、これ以上手広く調べられないことを遺憾とする(とくに、渡辺一夫著作集、井上究一郎=プルースト関連)。後日を期したい。

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初めに本稿以前に本サイトで言及した、淡谷淳一が(編集に限らず)出版に関わった筑摩書房刊行の書籍をリスト化して掲げる。
  ジュリアン・グラック(小佐井伸二訳)《陰欝な美青年》(1970年7月25日)=書下ろしによる叢書〈草子〉のこと
  土井虎賀壽《時間と永遠》(1974年5月10日)=吉岡実の手掛けた本(1)
  ガストン・バシュラール(渋沢孝輔訳)《夢みる権利》(1977年2月20日)=吉岡実の装丁作品(98)
  保苅瑞穂《プルースト・印象と隠喩》(1982年8月30日)=吉岡実の装丁作品(37)
  河島英昭訳《ウンガレッティ全詩集》(1988年1月1日)=吉岡実の装丁作品(85)
  河島英昭訳《クァジーモド全詩集》(1996年3月31日)=吉岡実の装丁作品(85)

(*1) 礒崎純一がこの項を執筆するにあたって参照したのは、澁澤龍彦の随筆〈天ぷら〉――初出は《朝日ジャーナル》1978年5月5日号、初収は《玩物草紙》(朝日新聞社、1979年2月25日)、《玩物草紙》は《澁澤龍彦全集〔第16巻〕》(河出書房新社、1994年9月12日)に収録――で、淡谷淳一は「C書房のAさん」として登場する。私はこの件を読むたびに、文士の群像を撮った写真のキャプションでしばしば見かける「左から小説家・某、詩人・某、ひとりおいて評論家・某」の「ひとりおいて」を想い出す。その多くは、当時の読者や後世の出版人にはほとんど無名の担当編集者たちである。澁澤の記述は、図らずも〈天ぷら〉がエッセイではなく、随筆であることを明かしている。一方、吉岡実は同じ日のことを〈月下美人――和田芳恵臨終記〉(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988)――初出は《群像》1977年12月号〔和田芳恵追悼〕――に記している。そのあたりのことは〈吉岡実と和田芳恵あるいは澁澤龍彦の散文〉の【註2】に書いているので、参照されたい。そこでは引用しなかったが、この日、淡谷と吉岡が北鎌倉の澁澤邸を訪れたのは、吉岡が編集していたPR誌《ちくま》の原稿を依頼するためだった(掲載された文章を読むと、主題はとくに提示されず、何を書いてもよかったようだ)。澁澤は同誌の第105号(1978年1月)に〈ラウラの幻影〉を寄せている。同文は澁澤龍彦《城と牢獄》(青土社、1980年6月30日)に収められた。

吉岡実編集の筑摩書房のPR誌《ちくま》第105号(1978年1月)の表紙 吉岡実編集の筑摩書房のPR誌《ちくま》第105号(1978年1月)に掲載された澁澤龍彦〈ラウラの幻影〉の冒頭(同誌、二ページ)〔本文カット:勝本冨士雄〕
吉岡実編集の筑摩書房のPR誌《ちくま》第105号(1978年1月)の表紙(左)と同号に掲載された澁澤龍彦〈ラウラの幻影〉の冒頭(同誌、二ページ)〔本文カット:勝本冨士雄〕(右)

(*2) ジャーナリスト・石井信平による550字ほどのこの記事は、短いながら退職時の淡谷淳一をみごとに捉えている。全文を引くに如くはない。

筑摩書房――最後の仕事|石井信平

 その日、三月二十九日(金)は、ほとんどの会社の年度末に当たる。筑摩書房の編集者、淡谷淳一[あわやじゅんいち]氏(六〇)にとって最後の出勤日である。
 東大仏文科を出て、三十四年間の編集者生活で、彼が手掛けたのはヴァレリー、フロベール、ボードレール、プルーストの各全集や「世界批評大系」など、幾重にも連なる山脈の偉容と言ってよい。最後の仕事が五日前に店頭に出た『吉岡実[よしおかみのる]全詩集』だった。
 平穏に暮れて送別会となるはずの、社員としての最終日、淡谷氏は『全詩集』の回収と断裁の手配に追われた。冒頭に掲げるべき詩「春」が収録されていない事が、寄贈先からの連絡で、前日にわかった。
 詩集『昏睡[こんすい]季節』は吉岡氏が一九四〇年、出征前に限定百部を自費出版した幻の処女詩集。淡谷氏は原典のコピーを入手して原稿にした。しかし、冒頭詩「春」のページがコピー原稿から抜け落ちていた。もともと目次がない。原本に当たらなければ、淡谷氏ならずとも知るよしもない。
 定価一万二千円、千三百部製作、二百三十九部配本、未回収百部。「春」なき『全詩集』は古書店でいくらになるか?
 作り直し費用二百数十万円の弁償を申し出たが会社は今のところ受けていない。山なす彼の業績と、神の気まぐれのような事故を勘案してのことである。(《AERA[アエラ]》1996年5月6日・13日合併号、六八ページ)

(*3) 巖谷國士《澁澤龍彦論コレクションW トーク篇1――澁澤龍彦を語る/澁澤龍彦と書物の世界》(勉誠出版、2017年12月8日)の〈後記〉には次のような一節がある。刊行直後にそれを読んだ私は、「筑摩書房編集部の故・淡谷淳一氏」という件に衝撃を受けた。

 澁澤龍彦はかなり早い時期から、アンドレ・ブルトンの影響下に、既成の正統的な文学史ではない「私の」文学史(『悪魔のいる文学史』という著書もその一端だろう)を構想し、それにもとづく「世界文学集成」のようなシリーズの刊行を夢想してもいた。のちにはホルヘ・ルイス・ボルヘスの前例も参考にしていただろう。
 やがて筑摩書房編集部の故・淡谷淳一氏がその夢想を実現したいと申しでてからは、各巻の収録作品リストをつくり、幾度も書きなおしたりしていた。それらの試案メモは『全集』の別巻1にすべて収めてあるので、必要ならば解題とともに参照していただくことができる。(同書、三六一〜三六二ページ)。

(*4) 羽鳥書店のウェブサイトに置かれた工藤康子《人文学の遠めがね》の〈9 「性愛」と「おっぱい」〉に次のような箇所がある。掲載年月日(2018年5月28日)は淡谷の歿後であり、工藤康子による淡谷淳一追悼文の趣がある。

 というわけで「性愛」のお話です。今から30年ほどまえ、わたしが初めて出した本〔『ボヴァリー夫人の手紙』工藤庸子編訳、筑摩書房、1986年〕の帯に「性愛とエクリチュール」という言葉が大きく印刷されており、恩師の山田𣝣先生に「貴女のようにきちんとしたご婦人が、このような言葉を使ってはいけない」とたしなめられたという話。そのこと自体は、懐かしい思い出として、どこかに書いたことはありますが〔工藤庸子編《論集 蓮實重彦》(羽鳥書店、2016年6月30日)の〈『伯爵夫人』とその著者を論じるための権力論素描――編者あとがき〉に「昔、あるところで思いきって「性愛」という言葉を使ったときに、心から敬愛する人に、きちんとしたご婦人が使う言葉ではないと優しくたしなめられたことを懐かしく思いだす。」とある〕、じつはわたし自身も、この言葉はすんなりとは通るまいと予感していた。言語論的に重要なのは、この「予感」の方なのです。
 こんな経緯がありました。担当してくださったのは、筑摩書房の淡谷淳一さん。『ボヴァリー夫人』を執筆していた当時のフロベールの書簡を抜粋して、同じページの下段に遠慮なく注をつける、そのことで作品が生成するプロセスを立体的に浮上させるという構想で、ワープロもない時代でしたから、鉛筆書きの原稿を淡谷さんに何度も見ていただいて、そのたびに、カフェで話し合い、示唆というより明確な批判をいただきました。ちょうど大学紛争の時代に学生だったわたしたちの世代は、論文指導らしきものを受けたことがない。一方で淡谷さんは、今、反芻してみると、ある種のリスクを引き受けながら書くことの手ほどきをしてくださった。明らかに「性愛とエクリチュール」という方向に、わたしの思考を導こうと意図しておられたと思うのです。
 神様のような編集者と呼んでいる人たちも身の回りにはいたりして、教養の豊かさには定評がありました。しかも度胸が据わって、途方もなく慇懃な方。「この注は、遠慮して書いておられるでしょう」という指摘を受けて、「本文と注の長さがあまりにバランスが悪くなりそうで」と言い訳すると、「ページの組み方などは、わたしども編集者が苦労すればよいことでございます」と恭しくお答えになる。帯の文言について「『性愛』という言葉は危険だと思う、妙な『挑発』と見られそう」とわたしが及び腰の発言をすると、「ご存じのように帯の文言は著者ではなく編集者が決めるものでございますから」と断固たるひと言。

「帯の文言は著者ではなく編集者が決める」のが常道なら、淡谷が編集者として手掛けた吉岡の著書――《土方巽頌》《「死児」という絵〔増補版〕》《吉岡実全詩集》――の帯の文言も淡谷が決めたものに違いない。

(*5) 淡谷自身、吉岡の《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》に登場している。すなわち「晩秋の夜遅く、新宿の喫茶店ピットインで、中嶋夏の舞踏「麗子」を観る。若い客ばかりだったが、天沢退二郎夫妻や淡谷淳一夫妻と会ってほっとした。」(〈14 舞踏「麗子」〉、同書、二六ページ)という、1968年11月の公演における出会いである。編集している本の、〈あとがき〉にではなく本文に、自分自身が出てくるとはいったいどんな感じなのだろう。私には想像がつかない。なお、吉岡陽子さんによれば、淡谷夫人は淡谷さんよりも先に亡くなったという。

(*6) 《吉岡実全詩集》の編集委員は飯島耕一・大岡信・入沢康夫・高橋睦郎の四人(並びは生年の順だが、吉岡実が知った順番でもある)。高橋睦郎は〈謎の人〉で「〔……〕吉岡さん生前の希望で筑摩書房から出た『吉岡実全詩集』扉裏には「編集」として「飯島耕一/大岡信/入沢康夫/高橋睦郎」の四人の名が並んでいるが、事実は入沢さんが筑摩の担当者淡谷さんを相手に、ほとんど独りで当たったことを、特記しておこう。」(《現代詩手帖》2019年2月号〔追悼特集・入沢康夫〕、六六ページ)と書いている。

(*7) 《吉岡実全詩集》の刊行を受けて書いたのが〈《吉岡実全詩集》解題〉で、私はそこで「吉岡実の全詩集が一九九六年の三月末に発行されるや、冒頭の詩篇〈春〉が抜けていることが判明し、版元の筑摩書房は店頭から本を回収する一方、正しい本文の「初版」を制作した。」と始めて、「本は作りなおします、という筑摩の英断には打たれた。吉岡さんにとっても吉岡実の詩にとっても最善の措置だっただろう。」と結んでいる。事の経緯を綴った資料として、併せてお読みいただけるとありがたい。

(*8) 永江朗《筑摩書房 それからの四十年 1970-2010〔筑摩選書〕》(筑摩書房、2011年3月15日)の〈静かに進んでいた大企画――『失われた時を求めて』〉に次の記述がある(人名のあとのパーレンで括られた生歿年の表示は、原文では二行の割註方式)。

 〔「新修宮沢賢治全集」と〕同じころ、同じように、深いところで静かに進行していた企画があった。「筑摩世界文学大系」(全八九巻、一九七一―八九年)所収の第57―59巻『プルーストT』『プルーストU』『プルーストV』である。この三巻に、二〇世紀最大の小説家、プルースト(一八七一―一九二二年)の代表作『失われた時を求めて』を井上究一郎(一九〇九―九九年)の個人全訳で入れてしまおう、という大胆な試みだった。
 第57巻『プルーストT』は、一九七三(昭和四八)年に刊行されていた。企画を推進したのは、筑摩書房のフランス文学関係を一手に引き受けていた淡谷淳一(一九三六年―)だった。
 思い返せば、筑摩書房は会社草創後間もない一九四二(昭和一七)年に、すでに「ポオル・ヴァレリイ全集」(全一七巻)の刊行を開始している。無謀とも大胆ともいえる挑戦だったが、結局九巻で中絶。その後、一九五〇(昭和二五)年に、全二五巻と規模を拡大して再挑戦するも、七巻でこれまた中絶のやむなきに至った。ようやく「悲願」が成ったのは、一九六七(昭和四二)年から刊行を始めた「ヴァレリー全集」(全一二巻、補巻一)である。完結は、一九七一(昭和四六)年のことである。
 という具合に、筑摩書房とフランス文学とは切っても切れない因縁があった。
 井上は、会社更生法申請を挟んでも黙々と翻訳作業を続けた。第58巻も第59巻も大冊となって、A・Bの二冊に分割された。続巻は、「倒産」直後の一九七八年一二月から再刊されて、全五冊の『失われた時を求めて』が完結するのは一九八八(昭和五三)年のことである。記念すべき、大著の個人全訳の完成だった。
 『失われた時を求めて』は、その後全一〇巻で「ちくま文庫」(一九八五年―)に入った(一九九二―九三年)。それは、「ちくま文庫」のもっとも優良な仕事のひとつとして、ずっと読者に記憶されるはずである。
 プルーストの作品は、のちに「プルースト全集」(全一八巻・別巻一、一九八四―九九年)として集大成される。立案は淡谷、担当は辰巳四郎(一九四一年―)だった。
 もうひとつ、ほぼ同時期に進行していた企画に「ボードレール全集」(全六巻、一九八三―九三年)がある。同じく淡谷の編集になるものだが、阿部良雄(一九三二―二〇〇七年)による正確・達意の訳文と、とりわけ克明な注釈が大きな評価をかちえた。
 ちなみに、このジャンルは、その後新しい編集者に託された。岩川哲司(一九五〇年―)は淡谷の仕事をさらに展開し、フランス文学のみならず、「ミシェル・フーコー思考集成」(全一〇巻、一九九八―二○○二年)などフランス思想の企画をも盤石なものにした。
 極めつきは、「マラルメ全集」(全五巻)であろう。一九八九(昭和五三)年に始まった一九世紀最高の詩人、二〇世紀に多大な影響力をもった詩人の作品集成は、二〇年をこえた後、二〇一〇年(平成二二)に新しい衝撃をともなって完結した。最後の配本となった第T巻『詩・イジチュール』は、翻訳不能なマラルメの言語宇宙を日本語に定着した、翻訳史に残る力業だった。
 「マラルメ全集」の美しい造本・装幀は、本が一個の作品であることを示している。「書物という宇宙」の具現化であろう。社内装幀者だった中島かほる(一九四四年―)のメモが残されている。「略フランス 箱入り」「素材がとてつもないもの」。ひとつの時代を切り取る、象徴的な言葉であろうか。(同書、一八二〜一八四ページ)

筑摩書房におけるフランス文学書刊行の歴史、さらにそれらと淡谷淳一の関係を叙した刮目すべき一節である。淡谷は《マラルメ全集》(松室三郎・菅野昭正・清水徹・阿部良雄・渡辺守章編)の訳者たちが付した文章には登場しないようだが、ヴァレリーの師であるマラルメの邦訳全集企画の立ちあげに関与したことは疑いを容れない。

(*9) 淡谷が執筆した〈著作集編集部担当者として〉を掲げる。なお掲載誌の《ふらんす手帖(Cahiers des etudes francaises)》は、年1回発行、編集兼発行者がCEF編集部(代表者・二宮フサ)の、左開き全篇横組のフランス文学研究専門誌(《NDL ONLINE》には「1972-1989」とある)。第5号は限定1000部。

 渡辺一夫著作集の筑摩書房における編集部担当者として,またその後の単行本『世間噺・戦国の公妃』および遺著となった『世間噺・後宮異聞』の係として,先生のお宅へお伺いした間に頂戴したなかに,手づくりの楯型紋章がある.著作集の刊行も終りに近づいた1970年5月に,索引作製担当の蘆野徳子さんとともにいただき,以来わがアパー卜の狭い入口にかけてある.
 縦30センチ横25センチ位の木製で,全体に透明なプラスチックのケースがかぶせてあり,中央に置かれた大きな帆立貝を囲んで,上部には木彫のハート型が三つ並んでいる.左右の二個は金色と銀色に,まんなかのは鮮かな赤に彩色されている.下部には紋章の曲線に沿って,突端の襞模様に書かれたJCというイニシャルを挾んで,A Vaillans Cuers Riens Impossibleと美しい銘が記されている.裏には掲示用の止め金とともに袋が貼リつけてあり,その中に和紙便箋に認められた口上書が添えられていた.
 JCはジャーク・クール(1395?−1456)であり,シャルル七世に仕え,王を財政的に援助し,百年戦争後の国家再建につくしたこと.海外貿易で巨万の富を築いたこと.王の信任にも拘らず,側近の陰謀により公金横領の罪に問われ,全財産を没収されたこと.のちイタリヤヘ逃れて教皇に用いられ,艦隊を指揮し,出征先にて病歿したこと.死後その名誉は恢復されたこと.そして「新興階級より出で,絶対王制確立のために利用されたる犠牲者の一人なるべし」とある.
 紋章の帆立貝はCoquille Saint-Jacques,ハート型はCoeur,従ってJacques Coeurを表象しているとの解説があり,元来はハート型が一個または二個のところを,三個にしたのは先生の創案であった.
中央の「赤き心」は「誠」を,左右の金・銀の「心」は,それぞれ「豊か・温情」及び「沈着・冷静」を表す.
 記銘A vaillans cuers Riens impossible(=Aux vaillants coeurs Rien d'impossible)は,ジャーク・クールの座右銘とも伝へられ,その意は,「根性あれば不可能事なし」なるべし.vallain(t)には,「勇敢な・立派な・価値ある」等の多義あれば,解釈は,この座右銘を用ひる人によつて異ることあらむ.
 先生の著作集は1970年6月から刊行をはじめ,翌71年の6月に全12巻の刊行を終えている.毎月1冊刊行ゆえ,本来ならば5月に終えて然るべきところを,途中で1ヵ月お休みしたのである.少しずつの遅れが積重なって翌月にずれこんだとも思えるのだが,一つの原因は「索引」にあった.
 この著作集にはエッセーを収めた3冊を除いた各巻巻末にすべて索引がついている(ただし『ラブレー雑考』上下巻だけは2冊分をまとめて下巻に).69年はじめごろから準備を進めてきた著作集だけに余裕は十分あったのだが,索引だけは組上ってからページ数を採る他なく,より正確な本文を元にということで再校を使用していたのである.
 索引のカードづくり,原稿作製は,経験豊かな蘆野さんの担当であった.主にフランス文学の,中世から現代にわたる欧文を主体にした索引には大変な労力が要るはずなのに,毎回予定通りに見事に清書された原稿が出来上り,先生の目を経て編集部に入るという手順であった.
 再校で採っていたために刊行が遅れたのなら,初校で採ることにしましょう,と先生は事もなげにおっしゃった.一段階前の工程で採る以上,誤植はある,ページ数は動く,と危険は増すはずだが,索引自体の原稿および校正・照合で誤りは消し去ることができるはずだ,毎月1冊刊行を約束した以上出来得るところまでやってみなければならない,との御意志が読みとれた.
 著者の決意が暗黙のうちに周囲を動かしていた.ともすれば単調になりがちな索引と本文との照合の仕事をはじめ,何か大きなものに突き動かされるようにして,定期刊行を続けることができたのだった.
 著作集の原稿は,1970年の時点でのいわば定本をつくるということであり,それぞれの論文・エッセーにわたって一番新しい版が選ばれ,複写をつくってさしあげていた.行間・欄外には朱筆,のみならず複雑な加筆を区別するために青筆,緑筆が加えられ,各篇ごとに新たに「附記」が添えられた.また,本文に附属した目次,端書,年表,後記,図版の原稿までを一度に全部揃えて下さるのを常とした.原稿仕上げの締切,校正を終える日付を一度も延ばされたことはなかったと言っていい.一夜でたくさん註のついた校正刷を100ページも済ませて下さったことさえある.常に前へ前へと担当者を引張って行かれた.
 「また日進月歩しました」と笑顔でおっしゃる.不明の点,疑問の残るところは徹底的に調べられた.
 まことに先生こそはvaillantに値する人,紋章の意味するその人だった.著作集の仕事のためとは言え,毎回一時間近く,先生の貴重な時間を文字通りなんとお邪魔してしまったことだろう.牛舌のみそづけの作りかたやテレヴィのプロレスの話から,執筆中の歴史上の人物の新しいエピソードまで,聞き手には実に豊かなひとときだった.人は自分の身丈に合せた大きさをしか受取ることができない以上,あの先生の巨きさがいまだに一つの全体としては実感できないのは当然かも知れない.しかしながら,著作を読みかえし,日常の表面の端々に現れたいわば氷山の一角をかいま見ただけでも,その途方もない巨きさだけは想像できたのである.
 真のvaillantたる先生は,最後に病魔を相手に果敢な戦いを挑まれたのだと思う.自らの怠慢のために遅れていた『後宮異聞』の担当者として,病床にお訪ねできたことに何と言うべきか知らない.想像を越えた苦しみの中で,読み得なかった参考書名を後記に記すべきことなどを,とぎれとぎれに言われたことに,真理を追い求める人の崇高さを見たように思った.
 著作集刊行を無理にお願いし,固辞する先生に,「出したいのだから承知して下さい」と言ってお許しを得た,筑摩書房の創立者古田晁の追悼文集にいただいた一節を引用したい.先生逝去の前年7月の日付である.
 古田さんは確かに他界されたわけだが,今でも,ひよつこり訪ねてこられるやうな気がしてならない.私の余生も長くはない筈だが,その間,ふと古田さんが訪ねてこられるやうな気になることが度々あるだらう.このやうな感じを与へる故人が何人かゐる.さういふ方々は,私にとつて,まだ生きて居られることにもなる.古田さんも,その一人である.
(《ふらんす手帖(Cahiers des etudes francaises)》第5号、1976年11月1日、七二〜七四ページ)

淡谷淳一が最後に引いた渡辺一夫の文章は《回想の古田晁》(筑摩書房、1974年10月30日)に収められた〈あの面影〉の最終段落で、末尾には「(julliet 1974)」とある。なお同書の装丁は、クレジットはないが、吉岡実。井村〔実名子〕――レーモン・ジャン《ネルヴァル――生涯と作品〔筑摩叢書〕》(筑摩書房、1975)を入沢康夫と共訳している――は《ふらんす手帖》第5号の〈編集後記〉を「最近刊行を開始した『渡辺一夫著作集増補版』第一回配本は,本誌にその初版制作当時の思い出を書いてくださった淡谷氏のアレンジによる見事な《友情の麦穂の束[スピキレギウム・アミキテイエ]》を附録としている.6年前のお元気な渡辺先生は,こんなにも多くのすぐれた崇拝者を持っていらしたのだ,と私は改めて感嘆してこれを再読した.」(同誌、一五八ページ)と始めている。ちなみに渡辺一夫門下の大江健三郎は1935年生。井村実名子も1935年生、淡谷淳一は1936年生。

(*10) 《ブックガイド・マガジン》は、《澁澤龍彦スペシャルTシブサワ・クロニクル〔別冊幻想文学C〕》(略称は「シブサワ・クロニクル」)の版元・幻想文学出版局が発行する書評雑誌。創刊号は、巖谷國士のインタビュー記事、種村季弘の談話とともに、淡谷淳一のインタビュー記事〈箱にして箱にあらざる文学館〉を中心に、「澁澤龍彦をめぐるブック・コスモス」を概観して、刊行されたばかりの《澁澤龍彦文学館》を盛りたてていこうとする特集だった。淡谷文の冒頭と末尾を掲げる(署名は「淡谷淳一(筑摩書房編集部)」である)。

 『澁澤龍彦文学館』刊行決定までのいきさつは、『シブサワ・クロニクル』のときに御説明したので、今回は具体的な編集作業に入ってからのことをお話ししたいと思います。
 この企画を澁澤さんに御相談したのは〔一九〕七七年のことですから、今回いろいろ改訂を加えなければなりませんでした。ひとつは分量の問題で、澁澤さんの原案ではいちばん少ない巻立てでも二十四巻ある。二十巻を越えるシリーズというのは、現在の出版状況ではかなりむずかしいので、思い切って半分の十二巻にしたわけです。それでも作家の名前はなるべく減らしたくない。そうなると、原案では長篇が主体でしたが、おのずと中・短篇を中心に集める形に変わっていきました。
 もうひとつは、シリーズ名の問題です。原案の段階では〈世界文学集成〉とか〈黒い文学館〉などの名前が出ましたが〈文学の箱〉は出ていなかった。このネーミングはもちろん当社の〈文学の森〉シリーズを踏まえているわけですが、今回編集協力をお願いした出口裕弘・種村季弘・巖谷國士の三氏は、その点アイディア豊富というか、いろんな案が出まして、直接の命名者は種村さんだったと思いますが、あっちが森≠ネら、こちらは庭≠セと。ただ庭≠ナはやや弱いので、次に箱≠ェ出てきた。箱は、澁澤的なミクロコスモスの具象化でもありますから、これに決定したわけです。当初は〈澁澤龍彦・文学の箱〉としたんですが、あまり〈文学の森〉の真似をするのも寂しいので、こちらはシリーズ・タイトルを〈澁澤龍彦文学館〉として、各巻に〜の箱≠ニ名前をつけました。
 次に、これから出る巻について予告編ふうにお話ししていきましょう。
 〔……〕
 装幀に関しては、函入り本にするかどうかでずいぶん迷いました。〈文学の森〉に比べれば、こちらは高級・少数者志向ですから差別化をはかったほうがいいんですが、しかしいまや函に入れた本は若者が手にとらない。それでカバー装に決まったのですが、箱という言葉にはこだわって箱にして箱にあらざる造本という難題を、当社の装幀者の中島かほるに課したわけです。まずカバー上部の黒っぽい影、これは本の外に位置する箱の投影なんです。二冊ならべると分かりますが、影の位置が違うでしょう。一巻ごとに移動して、最終巻では影が消失するかも知れません。それから本体の表紙は、実は箱の展開図なんですよ、ちょっと気がつかないかと思いますが。帯にもフランス語でイタズラをして〔帯の表紙2には「C'est une boite.」、表紙3には「Ce n'est pas une boite.」と見える〕、それらをひっくるめて箱にして箱にあらざる≠アとを打ち出したつもりです。A5縦長という判型は、当社で唯一の澁澤さんの著書である『サド侯爵の手紙』にちなんだものです。
 本を届けにうかがったとき、奥さんがいつもこうするんですよ≠ニ、澁澤さんの机の上に二冊をならべてくださったので、そこで最敬礼をして、心の中でお詫びを呟いたんです。別にこれで罪滅ぼしできたわけではありませんけれど、まがりなりにも出せてよかったなということは非常に思いましたね。(同誌、一八〜一九ページ)

引用文で中略した「これから出る巻について予告編」は、全12巻のうち10巻に及び、本記事の眼目である(淡谷の前のページには、〈『澁澤龍彦文学館』内容一覧〉を掲載)。初回配本の《ユートピアの箱》と《綺譚の箱》の2巻は、既刊のため触れなかったものと思しい。《ブックガイド・マガジン》創刊号の表紙裏(表紙2)には、BBとMMによる対談形式の〈装幀漫談〉が載っている。対象の書籍は、初回配本の2巻、巖谷國士《澁澤龍彦考》(河出書房新社、1990年2月20日)など、全部で6冊。吉岡実装丁になる《澁澤龍彦考》は、「BB 〔……〕Bもシブいねえ。/MM カバー、表紙、見返し、扉の色調と素材が微妙に響きあって、すっと本文に入っていける――シンプル・イズ・ベストのお手本のような本です。」とある。署名はないが、同誌編集人の東雅夫によるものか。吉岡実はこの年、1990年5月31日、71歳で病歿している。

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〔2020年6月30日〜2020年8月31日追記〕

永江朗《筑摩書房 それからの四十年 1970-2010〔筑摩選書〕》(筑摩書房、2011年3月15日)の巻末には、〈年譜(1970-2010)〉が横組・左開きで16ページにわたって掲載されている。一覧表の項目は「年」「出版物(単行本等)」「出版物(シリーズ)」「出版物(個人全集)」で、最後の見開きページの表の欄外に次の注記がある(同書、三六三〜三六二ページ)。

(注1) 単行本等は、その年の刊行物のなかから選択して掲げた。ただし、同一著者の作品がなるべく重複しないよう意を用いた。この一覧表は、筑摩書房の刊行物のバラエティを示すためにつくられている。ベストセラー・リストでもなければ、かならずしもベスト・セレクションという性格のものでもないので、その点をご賢察のうえご了承をいただきたい。
(注2) 単行本等は、単行本を中心にしているが、その他シリーズのなかから選択したものもある。翻訳書は、いくつかの例外はあるものの、ほとんど収録しなかった。また、文庫もいっさい含まれていない。シリーズ・個人全集は、小さい巻構成のものを除いてほぼすべて掲げた。作品名の冒頭の数字は、刊行の月を表す。また、作品名の末尾の数字は、完結の年・月を表す。

ここからも明らかなように、同リストは「筑摩書房の刊行物のバラエティを示すため」のもので、《〔創業50周年〕筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)のような網羅性は希むべくもない(ちなみに創業70周年に当たる2010年には〈図書総目録〉の出版計画がなく――というか、印刷物での刊行が難しくなり、というふうに当時《ちくま》編集長の青木真次さんは林哲夫さんとの茶話会で私の質問に答えた――筑摩の社内には企画や編集のためのデータベースが完備されているのだろうが、一般読者が利用できる図書総目録/データベースは公開されていない)。が逆に、そこに記載された書目に目を凝らせば、淡谷淳一が同社で編集した本(1970〜1996)、吉岡実が装丁した本(1970〜1978は社員として、1979〜1990はフリーランスとして)を見いだすことは必ずしも不可能ではない。ただし、リストの1970〜1996には「出版物(単行本等)」が242点、「出版物(シリーズ)」が110点、「出版物(個人全集)」が121点、計473点掲げられていて、それらをくまなく実見するにはしかるべき時間を要する。よって、以下では〈あとがきに見る淡谷淳一さん〉(2020年5月31日)以降、確認できたものを随時、追記していく。

筑摩で編集を担当した主戦場がフランス文学だった関係上、淡谷が手掛けた書籍はいきおい翻訳物が中心となり、それがために〈年譜(1970-2010)〉にも登場しにくい結果となった。また、翻訳書の訳者によるあとがきは、創作物の著者によるあとがきよりも担当編集者に触れる比率が少ないような気がする。そこで、著訳者あとがきに淡谷淳一が登場する場合は「1.」のように数字を伴った表示にして掲げるが、総合的な見地からは淡谷淳一企画編集本と思われるものの(筑摩書房は担当編集者をクレジットしない)、あとがき等に言及が見られない存疑の書目≠ヘ、救済措置として冒頭に「・」を付けて、別枠で掲げることにする。〈年譜(1970-2010)〉に採録されている書目は、(★)印を表示した。

  1. 村松剛《評伝ポール・ヴァレリー》(1968年6月25日)の〈あとがき〉のなかほどに次の記載がある。「〔……〕昭和三一年だったと思いますが、評伝を書くつもりで、その最初の部分を雑誌『近代文学』にのせてもらったことがあります。しかしあとが容易にでき上らず、これは結局一回だけでおわりました。/季刊の雑誌『批評』に、昭和三三年の創刊号から六回にわたって、ポール・ヴァレリー研究と題する評伝を連載しました。だがこれも本書でいえば第二部「『テスト氏』の時代」の半分くらいのところで、中絶したままになりました。ヴァレリー論を書きあげることは、ぼくにとっては一つの大きな宿題でした。/本書の刊行について、筑摩書房とのあいだではなしがきまったのは、三年以上まえのことです。「待たされてもせいぜい二年くらいだと思っていた」と、担当の淡谷淳一氏は、歎息とともに述懐されました。まことに申しわけない次第で、淡谷氏の忍耐と督励がなかったら、ぼくはいまでもこの人生の宿題を果すことができなかったでしょう。氏に心からの感謝をささげます。」(四八〇ページ)。〈あとがき〉の末尾は「昭和四三年五月/著者」。また奥付の最後に、「著者 村松剛」と同じ大きさの活字で「装幀者 栃折久美子」とあるが、栃折は1967年に筑摩書房を退社し、装丁家として独立している。
  2. ジョージ・D・ペインター(岩崎力訳)《マルセル・プルースト――伝記〔下巻〕》(〔初版:1972年7月10日〕新装版:1978年6月30日)の〈訳者後記〉は「昨一九七一年はマルセル・プルーストの生誕百年にあたり、フランスでは多彩な記念行事がくりひろげられた。」(三七七ページ)と始まっており、本訳書はそれを踏まえた刊行だったことをうかがわせる。同文の最後の段落は「最後に、この本を翻訳する機会を作って下さった井上究一郎先生、写真資料に関してお世話になった渡辺一民氏、稲生永氏に厚く御礼申上げる。また、ふりかえってみれば五年の長きにわたって本書刊行の実務を担当され、訳者にたいしてつねに熱心な配慮と激励とを惜しまれなかった淡谷淳一氏にも心から御礼申上げる。」(三八四ページ)であり、末尾に「一九七二年五月/訳者」とある。なお訳書名は、奥付では単に「マルセル・プルースト」――原題も“Marcel Proust”――で、「伝記」は表紙・別丁本扉・本文扉に表示されている。
  3. レーモン・ジャン(入沢康夫・井村実名子訳)《ネルヴァル――生涯と作品〔筑摩叢書214〕》(1975年3月20日)の〈訳者あとがき〉には「本訳書は、ほぼ時を同じくして、筑摩書房から刊行されることになった『ネルヴァル全集』全三巻に対する、一つの読解の手引きともなることを期待しつつ訳出したもので、」(一八九ページ)と刊行意図が述べられている。三巻本全集の編集に当たっていた入沢康夫、稲生永、井村実名子たちと淡谷淳一が、全集を側面から支えるべく、本訳書を企画したと考えられる。なお、同文の最後の段落は「終りに、本訳書が刊行されるについて、一方ならぬお世話になった編集担当者淡谷淳一氏に、感謝の意を表したい。」(同前)で、末尾に「一九七四年十一月二十五日/訳者」とある。
  4. 井上究一郎《ガリマールの家――ある物語風のクロニクル》(1980年9月25日)の〈あとがき〉は、プルーストの訳者らしく、一文で成り立っている。すなわち「単行本を出すにあたってつぎの方々のご厚意を忘れることができない、――近藤信行氏、故塙嘉彦氏をはじめ、初稿掲載当時の《海》編集部の各位、〔…400字強を中略…〕早くから単行本にするようにとおすすめくださった清水徹氏、それの実現に積極的にとりくまれた筑摩書房の淡谷淳一氏、そして最後に、本書の装丁を快くひきうけていただいた栃折久美子氏、以上の方々にはこの場所で改めて心からの感謝をささげる。」(一六二ページ)で、末尾に「一九八〇年五月八日/井上究一郎」とある(★)。同書は蓮實重彦の〈濡れた男の陶酔――井上究一郎『ガリマールの家』解説〉を伴って〔ちくま文庫〕(2003年6月10日)として刊行される際、「本書は、一九八〇年九月に筑摩書房より刊行された『ガリマールの家』に、『ネルヴァル全集』(同社刊、全六巻)月報に四回にわたり連載された「モルトフォンテーヌ」(一九九七年十一月―二○○一年三月)を併せ収めた。」(〔二五五ページ〕)と見えるように、増補された。
  5. ジャン=リュック・ゴダール(奥村昭夫訳)《ゴダール/映画史 U》(1982年10月30日)の〈訳者あとがき〉の最後の段落は「また筑摩書房の淡谷淳一氏には、訳出の機会を与えていただいただけでなく、訳文の文体、訳注のつけ方、索引のつくり方など、すべての点であたたかいご指導をいただいた。心からお礼申し上げる次第である。」(五〇〇ページ)で、末尾に「訳者/一九八二年六月」とある。同書は先に出た《ゴダール/映画史 T》(1982年7月30日)と合わせて《ゴダール 映画史(全)》(2012年2月10日)として〔ちくま学芸文庫〕に収められた。その際、〈訳者あとがき〉も単行本刊行時のまま掲載された。
  6. ピエール・ガスカール(入沢康夫・橋本綱訳)《ネルヴァルとその時代》(1984年10月20日)の〈訳者あとがき〉の最後の段落は「また、本訳書の刊行に当って、終始お世話になった編集担当者淡谷淳一氏にも、ここで感謝を述べさせていただくことにする。」(三二四ページ)で、末尾に「一九八四年八月三日/入沢康夫/橋本綱」とある。
  7. 高橋康也《エクスタシーの系譜〔筑摩叢書299〕》(1986年3月30日)は、1966年にあぽろん社から刊行された高橋康也の処女作《エクスタシーの系譜》の新版。〈新版あとがき〉の最初と最後の段落はこうだ。「「死ぬのはいつも他人」(デュシャン、寺山修司)をもじって、「年をとるのはいつも他人」と言いたいところだが、そうは問屋がおろさないらしい。生きながらえて二十年前の古証文をつきつけられようとは、思い及ばなかった。もちろん、それをつきつけているのは、新版を出せといってくださった筑摩書房の淡谷淳一氏である以上に、それを書いたかつての自分自身である。」「旧版の(シェイクスピア『ソネット集』の献辞を借りれば)「唯一の生みの親[ジー・オンリー・ベゲツター]」御輿員三氏、および旧版のすてきな装幀者和泉融[、、、]氏(実は小池_氏)には、ここで再び御礼を申し上げたい。筑摩叢書という新しい場を提供してくださった淡谷淳一氏、快く版権を譲ってくださったあぽろん社の伊藤武夫氏、旧版の愛読者として進んで新版を担当された筑摩書房の菊地史彦氏に、心からの感謝を捧げる。出淵博氏が「解説」の筆をとることを承諾されたという。身に余る光栄である。」(二九六、二九七ページ)。末尾には「一九八六年一月/高橋康也」とある。
  8. モーリス・ブランショ(粟津則雄訳)《踏みはずし》(1987年8月31日)の〈訳者あとがき〉の最後に「本書の翻訳にとりかかったのは十数年前のことだ。さまざまな事情ですっかり完成がおくれたが、何はともかく仕上げることが出来てほっとしているところだ。長いあいた辛抱強く待ってくれた筑摩書房の淡谷淳一氏に感謝する。/装幀は菊地信義氏の手をわずらわせた。記して御礼申しあげる。」(四二九ページ)とある(末尾に「一九八七年七月/粟津則雄」)。
  9. 宮澤清六による兄・賢治をめぐる《兄のトランク》(1987年9月20日)の〈あとがき〉の最後の段落は「終りに、この本を出版することを熱心にすすめて下さった淡谷淳一さん、作品を集めるための並々ならぬ労を賜りました山本克俊さん、校正その他いろいろお世話をいただいた筑摩書房の皆様と、写真家の北條光陽さんに心からのお礼を申し上げます。」(二四一ページ)で、末尾には「昭和六十二年七月二十八日/宮澤清六」とある(★)。同書は〔ちくま文庫〕(1991年12月4日)に収められる際、新たに2篇を加えて決定版とし、〈あとがき〉は単行本刊行時のものを掲載している。
  10. 出口裕弘《私設・東京オペラ》(1988年4月10日)巻末の〈付記〉は「この本の成立ちについて書いておきたい。/巻頭の「炎の遠景」は、現在、月刊「ちくま」に連載している「私設・東京オペラ」の第一回である。単行本のタイトルも、そこから来ている。」」(二一五ページ)と始まり、終わりは「写真家の渡辺兼人さんには、〔……〕取材旅行を共にしてもらった上、今度の本にも優れた作品を寄せていただいた。/そしてこういう形で一冊の書物が出来上ったのは、筑摩書房編集部の淡谷淳一さんのおかげである。「ちくま」連載中のものを含めて、「私設・東京オペラ」については、すべて淡谷さんに面倒を見ていただいた。/装幀は、中島かほるさんにお願いした。/みなさんに深く感謝したい。」(二一五〜二一六ページ)で、末尾に「昭和六十三年二月/出口裕弘」とある。なお、渡辺兼人は選詩集《吉岡実〔現代の詩人1〕》(中央公論社、1984年1月20日)の口絵写真に5点のモノクロ作品を寄せている。
  11. モーリス・ブランショ(粟津則雄訳)《来るべき書物》(1989年5月25日)は、1968年に現代思潮社から出た同書の改訳新版。〈改訳新版のためのあとがき〉の最後に「改訳新版に当って版元を移すことを快く諒承してくれた現代思潮社の石井恭二氏に感謝する。/『踏みはずし』に続いて、装幀は菊地信義氏の手をわずらわした。上梓に当っては淡谷淳一氏に万端にわたってお世話をかけた。記して御礼申しあげる。」(三九六ページ)とある(末尾に「一九八九年四月/粟津則雄」)。〔ちくま学芸文庫〕(2013年1月10日)のカバーデザインも菊地信義。
  12. 渡辺一夫《渡辺一夫ラブレー抄〔筑摩叢書339〕》(1989年11月25日)の編者・二宮敬による〈編者あとがき〉のなかほどに次の記載がある。「従って私としては第三の『ラブレー雑考』上下二巻約千ページの大冊と、先生没後に増補された著作集第十四巻『補遺・下巻』(一九七八)に収められたラブレー関係の文章の中から、二〇〇ページ弱を選び出さねばならなかった。この企画を熱心に進められた筑摩書房編集部の淡谷淳一氏と色々首をひねった末、変な小手先細工はやめにして、まず執筆年代順に配列すること、そして純然たる論文よりもくつろいだエッセー風のもの、あるいは「略註」の一部を思いのままに敷衍したとでもいえるものに力点を置くことにした。」(二四七ページ)。
  13. 出口裕弘《ペンギンが喧嘩した日》(1990年2月28日)巻末の〈付記〉は「タイトルのいわれはあとまわしにして、まず本としての成立ちをいえば、この本、幹も枝も、おおかたは月刊誌「ちくま」の連載エッセーである。昭和六十二年から六十三年にかけて、私は前後十六回、「私設・東京オペラ」と題する文章を「ちくま」に書いた。そしてその第一回分を序文がわりにし、書名もそこから取って、単行本『私設・東京オペラ』を筑摩書房から刊行した。/今度の本は、その連載の、第二回以降最終回まで十五本のエッセーを中心に置き、」(二〇九ページ)と始まり、本書執筆の経緯を述べている。〈付記〉の最後の段落は「今回も、淡谷淳一さんに、終始、お世話になった。装幀も、ひきつづき中島かほるさんにお願いした。厚くお礼を申しあげます。」(二〇九〜二一〇ページ)で、末尾に「平成元年十二月/出口裕弘」とある。
  14. 吉田城訳の《プルースト=ラスキン『胡麻と百合』》(1990年8月10日)の訳者による〈あとがき〉は「本書は、プルーストがフランス語に翻訳したジョン・ラスキンの『胡麻と百合』の全体、すなわちラスキンの原文、プルーストの序文と脚注を、日本語に翻訳したものである。したがって、やや複雑な構成にならざるを得なかったことをお断りしたい。編集方針、底本、参考にした主な文献について、以下に簡単に述べておくことにする。/本書では原則として各〔見開き〕ページの右側にラスキンの日本語訳を、左側にプルーストの注とラスキンの原注を、向かい合わせる形で置いた。ラスキンの翻訳は、あくまでもプルーストがフランス語に訳したもの(『胡麻と百合』メルキュール・ド・フランス社、一九〇六年――以下、「メルキュール版」と略す)を底本として用いた(パリの国立図書館で複写した資料を利用した)。プルーストが誤訳したと思われる個所、独創的な訳語を案出した個所、脱落、遺漏、その他とにかく英語の原文との距離が感じられるところには、各節の終わりにアルファベット符号を付けて注記した。」(同書、二五三ページ)と始まり、「本書は全体としていろいろな注が錯綜し、読みにくいものになってしまったのではないかと筆者はおそれている。けれどもイギリスを代表する思想家の一人ラスキンと、フランスを代表する作家の一人プルーストが直接出会った、貴重な記録としてお読みいただければ幸せである。/この本をまとめるにあたって、筑摩書房の淡谷淳一氏、校閲を担当してくださった本多雄二氏には終始お世話になった。心からお礼を申し上げたい。また、博覧強記のラスキンとプルーストに対して、蛮勇をふるって注を付けてみたが、至らないところも多々あるに違いない。大方のご叱正を賜りたい。」(二五五ページ)と終わっている。造本・装丁のクレジットはないが、洗練された本文組版やシャープなジャケット・本扉のデザインは、中島かほるによるものか。
  15. 井上究一郎《かくも長い時にわたって――PROUST, POT-POURRI》(1991年5月20日)には、著者の井上究一郎(1909〜1999)によるあとがきがない。かわりに淡谷自身が〈刊行者のノート〉という標題で筆を執っているので、全文を掲げる。なお、同文の末尾には「(一九九一年一月 筑摩書房編集部 淡谷淳一記)」とある。
     マルセル・プルースト『失われた時を求めて』の個人全訳を完成された井上究一郎氏の、一九四〇年代後半、当時の総合雑誌等に発表された先駆的な論文を含むプルースト論集成の出版は、長いあいだの私の夢でした。ここに著者の自選によって既刊単行本未収録のプルーストに関する論文とエッセーを四部にまとめた『かくも長い時にわたって』をPROUST, POT-POURRIという頬笑ましい副題のもとに刊行できますことを大変うれしく思います。
     各作品の初出と加筆とについては著者自身の手になる巻末の年代表をごらんになって下さい。今回各作品を一巻にまとめるにあたっては、各篇に共通の固有名詞、作品名、引用語句のあいだに著者によって表記法の統一がなされました。『失われた時を求めて』からの本文引用は、旧プレヤード文庫版によるプルースト全集十巻の訳者としての著者の訳文からであり、『ジャン・サントゥイユ』と『サント=ブーブに反論する』からの引用は、ガリマール出版社のベルナール・ド・ファロワ版による著者自身の訳文です。その他のプルーストの作品からの引用もことわりのないものは著者の訳文によるものです。そのことは、本書におさめられた諸篇が書かれた当時の事情を物語っていて、各篇の統一も加筆もその枠を越えうるものではないことを、著者は特に私に強調されました。なお「マルセル・プルーストの方法」の一篇と引用の一部は、雑誌発表時のように、用字法が初出のままで再録されていることは、初出一覧に断り書きがある通りです。
     井上究一郎氏のプルースト関係の著作には、学位論文『マルセル・プルーストの作品の構造』(河出書房新社、一九六二年)の他、『忘れられたページ』(筑摩書房、一九七一年)、『ガリマールの家』(筑摩書房、一九八〇年)、『幾夜寝覚』(新潮社、一九九〇年)がありますことを申し添えます。
     単行本に収められていなかったプルーストに関する文章だけを集めて一冊にしたはじめての本、恐らく著者の五十年以上にわたるであろうプルースト研究の収穫がここにとりまとめられたことを心からよろこびたいと思います。(三七七〜三七八ページ)

9.の宮澤清六《兄のトランク》刊行の10日後に、吉岡実《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》が同じ淡谷淳一の編集によって刊行された(1987年9月30日)。私は、吉岡の書きおろしの評伝と宮澤の初のエッセイ集がほとんど同時進行だったことに衝撃を覚える。しかも、宮澤の〈あとがき〉の末尾は「昭和六十二年七月二十八日」、吉岡のあとがき 〈補足的で断章的な後書〉の末尾も「1987年7月28日」と、同年同月同日なのだ。淡谷のなかで企画が胚胎したのは、どちらが先だったのだろうか。ちなみに、淡谷が吉岡を訪ねて「今までに土方巽へ捧げた詩篇と、散文、それに若干の書下しの文章を加えて、小さな本をつくりましょう」と提案したのは、吉岡が土方巽(1928.3.9.〜1986.1.21.)の遺文集《美貌の青空》(筑摩書房、1987年1月21日)の刊行準備に参画し(編集担当は松田哲夫、書名の発案者・吉岡は装丁も担当した)、肩の荷もおりた1986年の春から間もなくのことだった(前掲〈補足的で断章的な後書〉)。このときの淡谷の胸中を忖度するに、宮澤賢治の実弟の文章を一本に編むことができたのなら、土方巽の心友である前衛詩人から「一大追悼篇」(《筑摩書房 新刊案内》の文言だが、淡谷自身の手になるか)をもぎとることも、あるいは可能ではないか、と。

12.の《渡辺一夫ラブレー抄〔筑摩叢書339〕》刊行前年の1988年9月、淡谷淳一は吉岡実の随想集《「死児」という絵〔増補版〕》を〔筑摩叢書328〕として刊行している。吉岡は同書の〈あとがき〉の最後の段落で「この八年間に書いた文章は、わずかに百五十枚足らずである。いずれも「日常反映の記録」にすぎないものばかりだ。増補して、最終章に収めている。」(三七〇ページ)と書いており、新規原稿を元版(思潮社、1980)の部立ての各章に組みこまず、「増補して、最終章に収め」たのは、著者である吉岡と編集者である淡谷とが「色々首をひねった末、変な小手先細工はやめにし」た結果ではないだろうか。

《プルースト全集〔第1巻〕》の〈月報――1〉後半の〈編集室〉の文体は、本文に引いた《筑摩世界文學大系 23》付録〈編集後記〉(推定、淡谷淳一執筆)を彷彿させる。もっともこれ自体ある種の業務文章だから、淡谷と辰巳のどちらが書いたか、文体の特徴からだけでは決め手に欠ける。筑摩版プルースト全集は、淡谷の退社後、〔岩崎力・鈴木道彦・保苅瑞穂・吉川一義・吉田城他訳〕《プルースト全集〔別巻〕プルースト研究/年譜》(1999年4月25日)で完結した。〈月報――19〉の〈訳者紹介〉に続けて末尾にこうある(無署名だが、辰巳四郎の筆になるか)。「最終回配本『プルースト全集』別巻をお届けいたします。第一回配本『スワン家のほう』(『失われた時を求めて』第一編、全集第一巻)の刊行が一九八四年九月でしたから、完結までに十四年七カ月を要したことになります。読者の皆様にはたいへんなご迷惑をおかけ致しました。心よりお詫び申しあげます。また、それにも拘らず最後までご購読いただきありがとうございました。/本年一月二十三日、本全集において『失われた時を求めて』個人訳を完成されました井上究一郎先生が逝去されました。ご冥福をお祈り申しあげます。」(八ページ)。


大和屋竺の作品――吉岡実と映画(3)(2020年4月30日)

映画は生命を与えられた絵画でなければならない。  †ヘルマン・ヴァルム(四方田犬彦《映画史への招待》(岩波書店、1998年4月9日)の〈引用 1895-1998〉より「1919」の項)

《映画芸術》1969年3月号の表紙 《映画芸術》1969年3月号・九二ページ 〔吉岡実の談話記事の冒頭〕
《映画芸術》1969年3月号の表紙(左)と同誌・九二ページ 〔吉岡実の談話記事の冒頭〕(右)

2007年12月の〈吉岡実と映画(1)〉でも触れた吉岡実の談話〈純粋と混沌――大和屋竺と新しい作家たち〉の初出は、映画芸術社発行の雑誌《映画芸術》1969年3月号〔17巻3号通259号〕九二〜九三ページ。〈今月の作家論〉のコーナーに、鈴木志郎康執筆の〈性の封じ込め――足立正生「避姙革命」「堕胎」〉とともに掲載された(末尾に「(よしおか・みのる=詩人)」とある)。吉岡が一人の映画監督について、その映画作品について言及したことは、この談話以外に存在しないと思われる。以下にその全文を校訂して掲げるが、これが掲載されるにいたった経緯は不詳である(なお、同号には高橋鐵・土方巽・泉大八・山本晋也の座談会〈セックスと芸術――日本SEX映画批判〉も掲載されている)。談話本文中の重要な人名や作品名には、末尾の註(主にインターネット上の記載を引いた)にリンクを張っておいた。

 もともと、ぼくという人間は批評という鋭い分析でものを見ません。楽しみで見ちゃうとか、漠とした自分にもたらすものがあるかという気持ちで見ちゃう。ピンク映画はある時期見ていたのですけれど、やはり、底の浅い倫理に貫ぬかれていて、勧善懲悪に近い倫理観で逃げちゃうから、あほらしくなってきた。大和屋さんの「裏切りの季節」は、そうでないという噂を友人から聞いていたので、是非と思って見た。例の有名なベトナムの刃物で腹を刺されている写真と女をいじめることとの対比というか、全体にセリフが聞きとりにくいので、ベトナム帰りの兵隊なのか、どういう怒りがでているのか、意味はよくわからなかったが、それが繰り返されて行く間に相当の感銘をうけました。細かい場面はおぼえていないのだが、カウンターの場面で女をいじめるところなんかよかった。非常にまじめに考えてやっていましたね。「荒野のダッチワイフ」「毛の〔は→生〕えた拳銃」と較べ、三本の中では「裏切りの季節」が一番迫力あるんじゃないですか、純粋さということにおいても、ベトナムというものへの意図という意味においても。「荒野のダッチワイフ」も、ぼくはエロテックなものを期待して行ったのだけれど、そんなものは最後の最後にダッチワイフらしきものが寝ているという非常に突っ放した描き方で、しゃくにさわるほど見事だったと思った。西部劇のパロディなども入れているでしょ。総体としては解るんだけれども大分難解な作品だね。原っぱの一本の木を象徴させてね。
 映画ってものは、ぼくにとっては記憶しようという気もないし、よかった≠ニいうだけで済んでしまう。だからどこがどうということはいえないけれど、既成の作家にはない新しさはかなりあると思う。
 「毛の〔は→生〕えた拳銃」は、新宿のアート・シアターで、飯島耕一と大岡信と三人と観たんですが、やはり解らなかったんだな、どこがどういいのか。解らないからいいということはないんだけれど、解らないものを作るという人は好きなんです。人間の考え方の中で解らないのを作る人というのは凄いことで、ぼくも誰にも解らない詩を、記号でなくて、平凡な言語で作りたい。でも解ってしまうわけね、また解られてしまうわけね。映画だと、ある点解らないものを作れるんじゃないかという気がする。
 ぼくは、今の新しい映画作家というのは知らないけれど、たとえば詩を作る場合、ぼくの場合は先が解らない。創りつつ書きつつまた創りつつ、どこで完結するのかな、ああ、ここで≠ニなるわけですが、映画の場合はシナリオという言語で一応の構図というか、進行指示がある。その上で創りつつ新しい発想なり、イメージを増殖させうるのではないかな。大和屋さんのような若い作家には、作りつつ、撮りつつ……というようなところがあるんじゃないかという気がする。撮るだけでなくて編集もあるし、まあ映画というのはリズムというか流れをぼくたち平凡だけれども求める。それを今の若い作家はポッポッポッと切ってさすがにこちらを解らなくしていくことがある。さっきもいったように、ぼくは映画を楽しんじゃう方だから、作家の持っている問題をどうしようとかいうことはしない。むずかしいといわれる映画のあるものは楽しめなくなることもある。自分では新しがりをいっていても、映画ではあまり古臭いのは嫌だが、もう少し時間をうまく流して欲しいと思う。感興をバサバサ切られて複雑な思考を織り込まれると困ってしまうことがある。止めて鑑賞できない世界だから。大和屋さんはだんだん難しくなるようだが、それはまた羨しくもある。誰でも難しいのはいいとはいえないけれど、人間というのはやはり焦点を絞って、この人のはもう少し読んでみたいとかあるでしょ。大和屋映画も、もっともっと観たいと思う。かつて「〔国際肉体市場→肉体の市場〕」というすばらしい作品をもつ小林悟のが好きだった。トイレの場面がすごくよくて、こんな映画を作る人がいたのかと思った。トイレットペーパーを女の口につっこんでいく行為と、紙がさあーと音をたててどんどんと巻かれていくのを見ると、ぼくは視覚的人間ですから、そういう人間の〔(ナシ)→本能〕というか恐怖というのがよく解っ〔本能→(トル)〕た。ドライな索漠たるものがあったと思う。ぼくは理屈よりも肉感的になっちゃう方だから。
 大和屋さんはもっと、純粋な人間だと思うんで期待はしているが、総体でどうといわれてもひと通りのことでは解らない作家だ。若松孝二の「胎児が密猟する〔とき→時〕」を最近観たんだけれど、ちょっと凄い。あのしつこさ、「O嬢」の影響なんかもあるかもしれないけれど、あれだけのものを作っちゃったというのは尊敬に価する。やはり若松の方がくどさというか執拗さにおいて兄貴分のところがあるんじゃないかな。大和屋さんの場合は、あまりしつこさみたいなのもないし、相当純化して作っていると思うんだ。「ダッチワイフ」なんていうのは逆にはぐら〔(ナシ)→か〕されたような気がして、ラストの女郎屋のダッチワイフをちょっと見せて、バサリと切っちゃったなんていうのは、期待していたのにシャクにさわるんだけれど、同時に見事だなと思いますね。
 ぼくは、武智さんの「白日夢」をとても傑作だと思っている。しかし、映画の技法的なことはよく解らないけれどもっときれいに撮れると思う。それを平凡な光で、意識的に汚なく撮っているようだが、それがまた面白いかなあと思ったり、「裏切りの季節」はもっと暗い光で深度があった。とにかくわれわれのような小市民的人間は、ある程度女性のああゆうエロティクなものを撮ろうとしている人間に共感を受ける。まじめな考え方と不道徳な考えが一緒に入っている。若松作品でいえば、評判になった「犯された白衣」より「性の放浪」の方が好きだ。山谷初男のすばらしかったこと てらわない場面の作り方。ありうることなんですよ。芸術〔ず→づ〕いた設定をしていないんだな。していなくて、しかも深みがある。「金瓶梅」はもとの本も読んでなかったから、全然つまらなかった。大和屋さんの脚本も悪いんじゃないかと思う。観ながらイライラした。ごてごてしたのがいいなら武智の「浮世絵残酷物語」の方がいい。ごてごて趣味もあそこまでいけば少しも〔殊→残〕酷でなくなるけれど、……こう考えると映画というのは難しい。発表されたというものは、詩に関していうと、自分でも解らないものがあるんですが、誰かぼくを補足してよくみてくれる人がいるのではないかとよく思う。映画だってそうだと思う。自分にだって解らないところがある、それを大事にしていくんでしょう。そういうふうにして作者は自信をもっていき、芸術作品はすべて救済されて、よくなっていく。その意味で、「裏切りの季節」時代と今の彼を較べると、あのころは、ベトナムに対するもの凄い関心が底に流れていて、ああゆう堪えられない神経の人間が女をいじめて、ある快楽を求めるかもしれないけれど、ぼくらはそうとなりながらも、非常に混然としたエロチックな感じを受け取った。大和屋さんの中では、一番純化している作品と思っている。鈴木清順の「殺しの烙印」を観たが、「荒野のダッチワイフ」と似たトーンの作品だね。大和屋竺は支持したい作家です。(談)

1966年の公開当時11歳だった私は、《裏切りの季節》を映画館で観ていない。そこで今回、本作のDVD(DIG、2017)を入手して、自宅のPCのモニターとヘッドフォンで視聴した(なるべくなら、観客が映画館で観るようにしてDVDを鑑賞したいのだが)。吉岡実はVTRやDVDで映画を観なかっただろうが、テレビで放映される映画は家庭で観ていた(*1)。その顰に倣うわけではないが、私は詩や小説(や音楽)のようには、分析的に映画を享受する意欲が湧かない。

《裏切りの季節》のDVD(DIG、2017)の「場面再生」の画面
《裏切りの季節》のDVD(DIG、2017)の「場面再生」の画面

上に掲げた《裏切りの季節》のDVDの「場面再生」の画面は6つあって、「帰還した男」「組織」「長谷川の影」「歌」「眉子の企み」「結末」である。高橋洋・塩田明彦・井川耕一郎編《大和屋竺ダイナマイト傑作選 荒野のダッチワイフ》(フィルムアート社、1994年6月19日)には《裏切りの季節》の撮影台本が収録されている。本作のロケが行われたのが公開された1966年だとすれば、53年以上前の東京(撮影台本から拾えば、羽田空港・渋谷・新宿、ほか)が収められていることになる。しかもフィルムは白黒だから、さすがに異国の、とまでは思わないが、こんにち初めて観る私には異時間の物語のように感じられる。だが、1960年代後半に観た吉岡はそうではなかったはずだ。1975年に終結するベトナム戦争はまだ続いていたし(すなわち映画のなかの時間は「現在形」である)、吉岡が大日本帝国陸軍の兵士として(朝鮮の済州島を経て)満洲から帰還したのは、たかだか20年前の1945年だった。つまりこの作品が、それまでの吉岡実の人生における最も過酷な体験を喚び起こす契機となった、と考えることは許されるだろう。
私は《裏切りの季節》を観たあと、1週間ほどあいだを開けて《大和屋竺ダイナマイト傑作選 荒野のダッチワイフ》の撮影台本を手にしながら、その音だけを聴いてみた。するとどうだろう。科白が撮影台本とほぼ等しいのはもちろんだが、音だけ聴くと、佐藤允彦が手掛けた音楽はマリンバやブラシによるドラミングなどを用いたモダンジャズ系のそれで、電子音によるサウンドエフェクトも登場する。これなど、映像を視ているときにはなかなか気づかない処だ。だがいちばん耳に残るのは、ガットギターを手にした「黒い混血の若者(ケン)」(同書、三〇ページ)が唄う「単調なブルース」(同前、三一ページ〔以下「(31)」と表記〕)である。歌詞を引こう。

「単調なブルース」

〽俺はめざめる 冷たい朝/馬よ啼くな 哀しい声で/あんたの食べたアバラ骨/返しておくれ/あれは俺のだ、と……
〽馬よ アバラのとれた馬/戦ケ原を通る時は/ゆっくりうなだれて行っておくれ/ひずめの下で 死人が叫ぶ
〽あたごん山になりぬれば/馬あいななく風や吹く(31)

〽あたごん山になりぬれば/馬あいななく風や吹く(35)

〽光れ光れ 腰のだんびら/切るる切れんな/鍛冶屋ぐ知っちよる/光れ光れ 光れ光れ
〽綱あ、腰いせえちよった、うーけんだんびろうどだびきにいじ、むちゃらくちゃれえ振りくりまええち、鬼ん腕う、手のなりくびかる、ハッシとばかりい切り落としや……(37)

〽お前は見るだろう冷たい朝/ミカンの箱のふたをとり/鏡の前で ダーリン/お前にやった 鬼のうぜ
〽あたごん山になりなれば/馬あいななく風や吹く(48)

「立てかけられた看板。/そのベトナムの虐殺のショット〔……〕」(33)、とその「写真パネルに突き立って震えるナイフ。」(40)、さらに中谷のいう「モイ族の蛮刀」(46)は、ト書きや科白のなかで目にとびこんでくる章句である。だがその極め付きは、中谷がケンにいう「豊後浄瑠璃」(47)だろう。そこでは中谷が渡辺綱[わたなべのつな]に見立てられていて、ギターを引きつれた「単調なブルース」には三味線を伴う「豊後浄瑠璃〔の羅生門〕」が乗りうつっている。この、聴覚における「閾下知覚[サブリミナル]効果」とでもいうべき演出を主導したのが、監督・脚本の大和屋竺なのか、製作・企画の若松孝二なのか、それとも助監督・脚本の田中陽造なのか詳らかにしないが、じつにおそるべきものがある。

恋する絵(E・15)

  初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1967年2月号〔10巻2号〕。

造る生活
造られる花のスミレ
ばらまかれたあるものをはさむ
洗濯バサミ・洗濯バサミ
それは夜の続きで
水中の泡の上昇するのを観察する
恋する丈高い魚
白いタイルの上では
考えられない黒人たち
その歯のなかの蜂
雨ふる麻
ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている
肥えると同時にやせる蝶
ひろがると同時につぼまる網
ごぞんじですか?
ぼくの想像姙娠美
海へすすんで行く屍体
造られた塩と罪の清潔感!
幼時から風呂がきらいだ
自然な状態で
ぼくの絵を見ませんか?
病気の子供の首から下のない
汎性愛的な夜のなかの
日の出を
ブルーの空がつつむ
コルクの木のながい林の道を
雨傘さしたシナの母娘
美しい脚を四つたらして行く
下からまる見え
そこで停る
東洋のさざなみ
これこそうすももいろの絵
うすももいろのビンやウニ
うすももいろの耳
すすめ竜騎兵!
うすももいろの
矢印の右往左往する
火薬庫から浴室まである
恋する絵


色彩の内部(F・4)

  初出は《the high school life》〔MAC〕1968年8月〔15号〕の〔コラム〈えるまふろじっとのうた〉〕。

涼しい鈴懸の下の
橋をわたる
わたしは包装荷札をもつ人
方向指示の青色の
矢印のとどかぬ世界で
鳴く夏のフクロウ
まぶしい眼の歩み
暗く網のようにひろがる円
その中心へ近づく
少年の便器
花より恥ずかしく
看護婦の白衣のなかに
つつまれる
傷ついた馬の腹を
巻くみじかい包帯
笑ってはいけない まして泣いては
たちまち肉屋が来る時代だから
注射器の針が
刺しているわたしたちの
あらゆるところ
あらゆる孔のある皮
精神もともに
かがやく鏡に映る
表現愛の
にくにくしい肉体
解剖図のある暗い部屋から
グリーンを走る
手足のない水着類の干してある
クスノキの下まで
生きているとはどんなこと?
恋にこだわり
はねる水
吐く闇
あえぐ葦と人
だからあらゆる絵画は
ナイフで裂かれた次元を持つ
ここですべての事物を想い出せ!
そして今わたしは
孔雀の尾のうしろへ廻って
喚起する
なまなましい藍いろの
父母の像

吉岡は、その唯一の詩論〈わたしの作詩法?〉(初出は《詩の本〔第2巻〕詩の技法》筑摩書房、1967年11月20日)で《僧侶》の詩篇〈苦力〉(C・13、初出は《現代詩》1958年6月号)が生まれるきっかけを次のように書いている。「ここに、「苦力」という一篇がある。なぜこれをとりだしたかというと、わたしの中で異色ある作品であると同時に、旅先の一夜で出来た唯一のものである。〔……〕独身時代の昭和三十三年ごろ、週末に、気が向くとよく谷川温泉へひとりで遊びにいったものである。或る時、早春かと思うが、前夜は合客にアベックが一組いた。つぎの日は、帰った。日中は、谷川の渓流をさかのぼり、巨大な流れの中に浮んでいる平らな岩にねて英気を養った。旅館はうす暗く、帳場は遠く、夜がふけるにつれ、水の音だけが聞えるうちに、耐えがたい孤独感というより、無気味さに眠られぬ状態になった。目の前の崖上に廃屋の窓が見える。わたしは朝が来るまで、詩を書こうと試み、そして「苦力」が暁近く完成した。これは兵隊で四年間すごした満洲の体験である。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、九二〜九三ページ)。日常に亀裂が生じて戦時の記憶が噴出するわけだが、〈恋する絵〉においては詩(〈苦力〉)と詩論(〈わたしの作詩法?〉)を包括した複眼的な視点を先取りしているのが清新だ。〈恋する絵〉は「自然な状態で/ぼくの絵を見ませんか?/〔……〕/これこそうすももいろの絵/〔……〕/うすももいろの/矢印の右往左往する/火薬庫から浴室まである/恋する絵」だった絵が、〈色彩の内部〉では「だからあらゆる絵画は/ナイフで裂かれた次元を持つ/ここですべての事物を想い出せ!」となる。わたしは後者からルーチョ・フォンタナの切り裂かれたキャンバスを想起するが、《裏切りの季節》を観たあとでは大和屋竺を想わないわけにはいかない。ベトナムから帰還した中谷が、かの地で友人の報道写真家・長谷川の右腕(それは撮影中のカメラを握って手放さない)を斬りおとした、あのナイフを。ナイフはまた、キャンバスに描かれた絵ではなく、巨大なパネルに貼られた写真を突きさすのだ。興味深いことに吉岡は、冒頭に掲げた談話を発表する半年前に刊行した《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968年9月1日)の高橋睦郎〈吉岡実氏に76の質問〉で、次のように答えている。

◆殺人について
問=ベトナムについて。
答=悲惨ですね。一言で言うと「ベトナムはベトナム人に委せろ」と思います。政治的発言はどうも得意ではないし、ベトナム人に委せたらそれですむものかどうかわからないが。
〔……〕

◆ついでにお聞きします
〔……〕
問=感動した映画は?
答=大島渚の「日本春歌考」。インテリの中に日本の底辺を代表させるような混然たる作品だと思いました。(同書、一四一・一四六ページ)

後者は〈吉岡実氏に76の質問〉の最後の問答である。ここで大島の作品(1967年2月公開)に言及して、大和屋竺の《裏切りの季節》を語らなかった吉岡は、《映画芸術》に唯一の映画監督評を語ることで、大和屋の映画にオマージュを捧げた。

〔付記〕
大和屋竺は、1976年6月、《文芸座文芸地下劇場第二回フィルムフェスティバル・パンフ》に短文〈『裏切りの季節』について〉を寄せている。後半を引こう。

 さて『裏切りの季節』の初稿は田中陽造が書き、僕が直して十日ちょっとの予定を余りオーバーもせず撮り上げた。谷口朱里嬢は、初めて会った時ポリネシア美人を思わせるプロポーションで、胸の隆起など相当なものだったが、脱衣シーンの現場で、「私オペシャなの」とブラジャーの二重アンパンを取外したのには少なからずショックを受けた。しかし彼女はよくやった。
 僕の処女作は、青臭く、下手糞で生まなセリフに満ちみちていたので、OPチェーンの興行主たちは二の足を踏んだ。「絶対ヒットする」などとホラを吹き、仕上がったあげくが買手つかずでは総括ものだろう。若松孝二はそこをぐっと我慢し、僕には何ひとつきつい事を云わず彼の問題作『壁の中の秘事』と抱合わせで自主上映にふみ切ったのだ。
 製作者の彼じしんが宣伝ビラを撒き、馬鹿でかい写真パネルを僕や加藤衛などが担ぎ、可愛い女優さんがおっぱいをチラチラさせて、新宿の町を行進した。チンチンドンドンこそなかったが、これがその頃の若松プロの宣伝方法だったのだ。(大和屋竺映画論集《悪魔に委ねよ》、ワイズ出版、1994年1月16日、二三一ページ)

太田大八(1918〜2016)は、「戦後、〔……〕デザインの仕事をするために東京に帰って「スタヂオ・トーキョー」を設立した」(Wikipedia)が、その事務所設立の告知のための宣伝をやはり裸に近い女性にさせて警察沙汰になった話を自伝《私のイラストレーション史――紙とエンピツ》(BL出版、2009)に書いていた。吉岡が太田大八と知るのはそのあと、太田さんが絵本を手掛けるようになってからだが、この挿話は聞かされていたかもしれない。吉岡自身、勤務先の筑摩書房では宣伝広告畑を歩んでいたから、大和屋の伝える若松プロダクションの宣伝方法を知ったなら、どんなにか喜んだことだろう。それにしても「馬鹿でかい写真パネルを僕や加藤衛などが担ぎ」とは、《裏切りの季節》の冒頭シーンそのままではないか(*2)

《裏切りの季節》のDVD(DIG、2017)のジャケット 映画《裏切りの季節》のポスター
《裏切りの季節》のDVD(DIG、2017)のジャケット(左)と映画《裏切りの季節》のポスター(右)〔出典:kmrt

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大和屋竺〔やまとや・あつし〕1937〜1993。脚本家、映画監督、俳優。

小林悟〔こばやし・さとる〕1930〜2001。映画監督。

若松孝二〔わかまつ・こうじ〕1936〜2012。映画監督、映画プロデューサー、脚本家。

武智鉄二〔たけち・てつじ〕1912〜1988。演劇評論家、演出家、映画監督。

山谷初男〔やまや・はつお〕1933〜2019。俳優。

鈴木清順〔すずき・せいじゅん〕1923〜2017。映画監督、俳優。

裏切りの季節 1966年 若松プロ
ベトナムから帰国した報道写真家の中谷。友人の長谷川は戦場で亡くなってしまった。中谷は長谷川の恋人だった眉子のもとへ向かうが、長谷川の遺したフィルムを手に入れようとする組織が中谷の後を追ってくる。ベトナム帰りの報道カメラマンに下された“復讐劇”。その裏側にあるもの、そして待ち受ける戦慄のラストとは…。大和屋が若松プロで撮った監督第1作。
製:若松孝二 監脚:大和屋竺 出:立川雄三/谷口朱里/寺島幹夫/曽根成夫/一の瀬弓子
▽80分 BW

なお、高橋洋・塩田明彦・井川耕一郎編《大和屋竺ダイナマイト傑作選 荒野のダッチワイフ》(フィルムアート社、1994年6月19日)の《裏切りの季節》の扉ページ(同書、〔一九ページ〕)には次のように記されている。

裏切りの季節
一九六六年 若松プロ
モノクロ・シネスコ 上映時間=八〇分 公開=一二月
製作=若松孝二 監督=大和屋竺 脚本=大谷義明(大和屋竺、田中陽造)
撮影=伊東英男 照明=磯貝一、佐藤允 助監督=田中陽造
出演=谷川朱里、立川雄三、寺島幹夫、山谷初男、佐藤重臣、足立正生
ビデオ=ハミングバード

荒野のダッチワイフ 1967年 大和屋プロ・国映画
町のボスに雇われた冴えない殺し屋。ターゲットは彼の女を殺した男だった…。死に向かう殺し屋のシュールな妄想的彷徨を描いた大和屋監督の第2作。
監脚:大和屋竺 音:山下洋輔 出:辰巳典子/港雄一/麿赤児/大久保鷹/山本昌平
▽75分 BW

毛の生えた拳銃 1968年 若松プロ
司郎は、自らの恋人を襲った組織に復讐するために、ボスを刺し、その手下を撃った。組織は、高と商という殺し屋2人組を雇い、司郎を始末するよう命じる。しかし、高と商は、追跡を続けるうち、司郎に親しみをおぼえはじめる。
監:大和屋竺 脚:大山村人 出:吉沢健/麿赤兒/大久保鷹
▽70分 パート・カラー シネマスコープ

肉体の市場 1962年 協立映画
「〔女優・香取環が〕日活を飛び出し独立プロ作品で主演。「六本木族」の姿を描き評判を呼ぶが、公開直後に摘発された」(〈香取 環の部屋〉)。
監:小林悟 脚:米谷純一 浅間虹児 出:香取環/浅見比呂志/扇町京子/久木登紀子
▽49分 白黒 シネマスコープ

胎児が密猟する時 1966年 若松プロ
密室における一組の男女の究極の性と愛(サドとマゾ、母性への憧れと憎悪…)を描いた足立脚本、若松監督の代表作の1本。
監:若松孝二 脚:足立正生 出:山谷初男/志摩みはる
▽75分 BW

白日夢 1964年 第三プロ
若い画家と流行歌手が歯医者で治療を受けていて、画家が医者に犯されている歌手を妄想するという筋立てで、その性描写が話題となった武智鉄二監督作。81年に同監督で再映画化。
監脚:武智鉄二 原:谷崎潤一郎 出:路加奈子/石浜朗/花川蝶十郎/松井康子/小林十九二
▽94分 BW(C)

犯された白衣 1967年 若松プロ
看護婦寮に紛れ込んだ美少年が彼女らを凌辱し殺害、その死体の中にうずくまるさまを、長回しのカメラを駆使しながら描いた若松監督の代表的1本。無名に近かった唐十郎主演。
監:若松孝二 出:唐十郎/小柳怜子/林美樹/木戸脇菖子
▽56分 BW(C)

性の放浪 1967年 若松プロ
恐妻家のサラリーマンが、呑みすぎて帰宅しそびれたことから放浪の旅に出る。
監:若松孝二 脚:出口出(足立正生 沖島勲) 出:山谷初男/新久美子/小水一男
▽78分  B&W/C

金瓶梅 1968年 ユニコン・フィルム
中国古典艶笑譚を水滸伝の武勇のドラマにミックス。若松作品を松竹ルートで配給。
監:若松孝二 脚:大和屋竺 出:伊丹十三/真山知子
▽90分 C

浮世絵残酷物語 1968年 武智プロ
浮世絵師が自分の娘を描いた枕絵で名を上げようとするが…。
監脚:武智鉄二 出:刈名珠理/小山源喜
▽84分 C

殺しの烙印 1967年 日活
海外から組織の不手際を調査にきた男を殺し損なった殺し屋が、組織の殺し屋たちと対決するハードボイルド・アクション。アドバルーンを使った殺しのテクニックや、殺し屋同士の対決をスタイリッシュな映像とブラックな笑いで見せる。話の筋よりは映像や笑いが先といった、フィルムメーカーの自信が横溢。鈴木が日活を解雇されるきっかけになった作品でもある。
監:鈴木清順 脚:具流八郎 撮:永塚一栄 美:川原資三 出:宍戸錠/南原宏治/真理アンヌ/小川万里子/玉川伊佐男/長弘/宮原徳平/南廣
▽91分 BW

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(*1) 吉岡実は掲載誌の編集部によるインタビュー記事〈吉岡実氏にテレビをめぐる15の質問〉で、テレビで観る映画について次のように語っている。

5 ここ二、三日にご覧になった番組は?
 つい最近だけど、感激したのは「愛の嵐」ってイタリア映画ね、ナチものの。ぼくは映画館で観てたんだけど、家内は観てなくてね。そうとうカットされてたんでしょうけど、感動したね。

6 番組にも、たとえばニュース、ドラマ、歌謡番組、スポーツ中継、視聴者参加番組などさまざまなものがありますが、どういうものがお好きですか。その理由は? 具体的に番組名もあげてください。
 ぼくはちゃんと新聞見て、番組選んで見るのね。スイッチを入れて、映ったのをそのまま視ちゃうことはないね。ぼくは歌謡的なのは好かないから、うちのやつには気の毒なんだな。歌謡番組ってのは女にとって案外大事なものらしいんだ。やっぱり映画とかテレビ連続映画とか、安全率からいくと、「銭形平次」とか、「水戸黄門」とか、たあいないと思うのよ。思うけど、たあいないとこにこっちがいるわけね。報道なんかのすごいのでショック受けることもあるけれど、テレビの効用ってのは、こっちが安心して視れるという状態が必要なんでね。だから、「銭形平次」も時には視る、「水戸黄門」も時には視るのね。映画は、以前に観てなかったら、視るわけ。
 あと好きなのは、「新日本紀行」とか、「新歴史探訪」とかね。いま視ているのでは、「舞いの家」っていうやつ、立原正秋の。メロドラマなんだけど、きれいなんだな、着物がきれいなんだ、和服の世界で。
 やっぱりシリアスなものはなるたけ避けちゃう。一番安全なのは、チョン髷が出てきてね……、荒唐無稽であれ、実録物であれ、それでいいわけ。テレビを視る時は、特殊な人間であっても、いい意味で庶民に帰っているんじゃない。庶民を軽蔑してるんじゃなくって、オレも庶民なんだから。ふつうの日常だったら自分でいい絵を観にいくとか、歌舞伎座へ行くとかするんだけど、テレビには五万とあるから、その中から自分で選ぶ時には真面目とか、深刻なものは視ないよね。
 日曜日はヤクザ映画とかを捜して視てるね。このあいだは、東映の「侠客列伝」とか、勝新太郎の「悪名」とかね。あとは、「日曜美術館」はわりと観てるようにしてる。早ければ11時からそれを視て、次はニュースで、あとバレーボールとかあるでしょ。いま野球がないからね。

 (同じ映画をテレビと映画館で見た場合の差はありますか。)
 テレビには数々の制約があると思いますよ。だけど、テレビにそれほどの完璧性は求めないからね。忘れたディテールを追体験できるわけでしょ。このあいだの「愛の嵐」も、映画館で観たんだろうけど、家内と二人で視て、よかったよね。そういう効用はあるんじゃない。
 だけど、もっと視てるんだよね。なんかいいのがあったと思うんだけど、日々忘れてっちゃうからね。……そういえば、ある時の「刑事コロンボ」、それから「マクロード警部」があるでしょ。それとか、坊主頭の刑事……「刑事コジャック」、あれなんかよく視ましたよ。テリー・サバラスはむかし悪役だったよね。それが強い善人になってさ、一種のスーパーマンだよ。やっぱり見せますよ。(《現代詩手帖》1978年3月号〔特集=テレビをどう見るか〕、一一五〜一一六ページ)

念のため映画のタイトルを記せば、イタリア映画《愛の嵐》――題辞に引いた《映画史への招待》の〈4 ファシズムの魅惑〉で四方田犬彦は「悲劇は戦争の終結によって終ったわけではない。〔……〕リリアナ・カヴァーニの『愛の嵐』(一九七三)も強制収容所で少女時代に性的な心理的外傷を負った女性が、その後長い年月ののちにもう一度似たような監禁状態に遭遇し、限界状況のなかでマゾヒスティックな恍惚に到達するという作品だった。」(同書、一〇七ページ)と書いた。吉岡が観たであろう《愛の嵐》は、1978年2月1日に《水曜ロードショー》(日本テレビ)で放映されている(Wikipedia)――、東映の《侠客列伝》、勝新太郎の《悪名》で、テレビで映画を視聴する際の基準は「映画は、以前に観てなかったら、視るわけ」「日曜日はヤクザ映画とかを捜して視てるね」ということになる。そして「忘れたディテールを追体験できるわけでしょ。〔……〕そういう効用はあるんじゃない。/だけど、もっと視てるんだよね。なんかいいのがあったと思うんだけど、日々忘れてっちゃうからね」とある。縮刷版でインタビュー当時(1978年2月初めか)の新聞のテレビ欄を精査して、吉岡の視聴していた映画専門枠の番組が特定できれば、その近辺で放送された映画のリストを作ることも可能だろう(民放各局では、日本テレビの《水曜ロードショー》、TBSの《月曜ロードショー》、フジテレビの《ゴールデン洋画劇場》、テレビ朝日の《日曜洋画劇場》、テレビ東京の《木曜洋画劇場》があった)。もっとも、吉岡がそれを視聴したかどうかを確かめるすべはないのだが。なお、TBSのテレビドラマ《舞いの家》は1978年1月12日から3月30日まで全12回、放送された。

(*2) みぞぐちカツさんのツイッターに次の記載がある。〔 〕内は引用者(小林)による補記。

〔19〕66年9月20日から〔29日まで〕新宿京王名画座で独占ロードショーされた大和屋竺「裏切りの季節」。プロデューサーの若松孝二が自らベトナム戦争の米兵姿で、ベトコン服を着た女優の志摩みはると新宿街頭で宣伝ビラ配り。ロードショーというと聞こえはいいいが要は難解を理由にOPチェーンで配給を断られたため/〔画像〕/やむなく自主上映した映画をロードショーと言い換えるあたりはさすが若松孝二だが、「裏切りの季節」は雑誌“映画評論”が絶賛した特集記事の効果もあってか大入りだったらしく、三ヶ月後の同年12月〔13日〕には晴れてOPチェーンで公開〔併映は六邦映画の新藤孝衛監督作品《痴情の診断書》〕。しかし若松監督作品として公開されたのは、“言い換え”ではなく“詐称”/〔画像〕/これは配給する側の判断で勝手にしたことだと思うが、無名の新人である大和屋竺の名前だけでは客が呼べないと踏んだのだろう。当時は「黒い雪事件」がまだ係争中で、改正された厳しい映倫基準の影響で単にピンク映画というだけでは集客できない時期だった

吉岡が《裏切りの季節》を観たのは、9月20日からの「ロードショー」(実態は自主上映)だったのか、12月13日からのOPチェーンでの公開時だったのか、詳しいことはわからない。だが私には冒頭の吉岡の談話に出てくる「友人」が9月に観て、その評判を聞いた吉岡が12月に観た、と思えてならない。――当時の新聞広告に依れば、上映館は池袋文芸地下・上野パーク・新宿座・目黒ライオン・カジバシ座・都立富士館・立石金竜・市川日活・大宮オークラ・横浜東亜、など。吉岡は随想〈ロマン・ポルノ映画雑感〉(初出は《季刊リュミエール》1号、1985年9月)の〈1「胎児が密猟する時」〉で《裏切りの季節》を「私は場末のピンク映画館で観ている」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三五一ページ)と書いている。――その衝撃から生まれた詩が〈恋する絵〉(E・15)だったというのはできすぎだろうか。吉岡実の詩はこのころを境に、ある種、平穏な日常(=「静かな家」)に戦争の記憶を走らせる不穏な詩句(=「神秘的な時代の詩」)を発することが多くなる。ときに、雑誌《映画評論》は「佐藤重臣編集長時代の1960年代後半以降は、社会全体の反体制的な雰囲気を雑誌も取り込み、若松プロを支持するなどアングラ路線を展開。当時もっとも先鋭的な雑誌のひとつとなった。」(Wikipedia)とあるが、吉岡が同誌を愛読していたかどうかはわからない。一方、吉岡の談話を掲載した雑誌《映画芸術》は「従来の映画雑誌が取り上げなかったアングラ映画やポルノ映画も積極的に取り上げて評論するようになる。1960年代末から1970年代にかけての小川〔徹〕編集長時代の『映画芸術』は、佐藤重臣の『映画評論』や松田政男の『映画批評』と並ぶ存在だったが、「政治的に過ぎる」ともみなされる。」(同)とある。同誌について吉岡は、「私の映画見物の行動範囲は拡りつつあった。自由ヶ丘から蒲田まで、足をのばす。また近くの三軒茶屋や明大前の映画館にも、しばしば行く。情報元の「映画芸術」も廃刊になり、私は「ぴあ」を毎号買ったものだ。あの極細微の活字を、睨めながら、赤いボールペンで印をつける。観たいものが多いと、選択に困ってしまう。まるで競馬の予想屋に化したようで、われながら笑ってしまう。」(〈ロマン・ポルノ映画雑感〉の〈4「人妻集団暴行致死事件」〉、同前、三五四ページ)と書いていて、吉岡と小川徹との人間関係が焦点になるが、このあたりのこともよくわからない。後考に俟つ。
なお、みぞぐちカツさんのツイッターに見える「雑誌“映画評論”が絶賛した特集記事」は、1966年6月号の〔特集・上半期日本映画最高の収穫・裏切りの季節分析〕(長部日出雄〈「裏切りの季節」――この汚辱にまみれた旗〉を含む)、さらには同誌同年10月号の西江孝之〈拷問について――大和屋竺の「裏切りの季節」〉を指すと思われるが、国立国会図書館が2020年4月11日から来館サービス休止中のため、確認することができなかった。


吉岡実と時代小説(2020年3月31日)

〈吉岡実と江戸川乱歩〉でも引いたが、吉岡実は随想〈読書遍歴〉で「毎年、夏休みになると、どぶ臭い本所東駒形の路地を離れて、市川真間の叔母の家に行き、樹にかこまれた原、尾長鳥の歩いている池のほとりや、昆虫のとんでいる草むらで、ささやかな田園風物をたのしんだ。その家の豊富な蔵書類からわたしはいつも『講談全集』をぬきだして、読み耽ける。英雄豪傑から刀匠、忠僕までおもしろい話はつきない。一冊六百頁もある濃緑の布装の本で、二、三十巻位あったと思う。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、五五ページ)と少年時代の読書を振りかえっている。この《講談全集》について、私はかつて《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》で次のように書いた。

《講談全集》は全12巻。1928〜29年、大日本雄弁会講談社刊。〔……〕第1巻は1928年10月1日発行、〈水戸黄門〉〈梁川庄八〉のほか3つの短篇を収録、全1214ページ、濃緑の布装本。他巻は★未見。

《講談全集〔第1巻〕》は何年もまえ、この書誌・解題を書くために国立国会図書館で手にしただけで、残念ながら中身を読む時間的な余裕はなかった。そこで今回、《日本の古本屋》で《講談全集〔第11巻〕》(大日本雄弁会講談社、1929年8月25日)を購入した。収録作品は、長篇が神田山陽〈塚原卜傳〉、神田伯龍〈新門辰五カ〉、大島小伯鶴〈勤王藝者〉、太田貞水〈由井正雪〉の4篇、短篇が昇龍齋貞丈〈天下の糸平〉、田邊南龍〈谷a貞〉、寳井馬秀〈名優中村仲藏〉、神田松鯉〈澁川伴五カ〉、神田伯治〈北齋と文晁〉の5篇である。仕様は四六判・上製布装・全1240ページ・機械函。本体の束は約55mmで、ほとんど中型の辞書の感触である。長篇は敬遠して、寳井馬秀の〈名優中村仲藏〉を読んでみた。これがじつに面白い。小見出しを拾ってみよう(漢字は新字に改めた)。「謡を謳う浪人父子」「認められる苦心」「定九郎の新型」「報恩の義」「沢村淀五郎の判官」「仲蔵の親切」「待兼ねた由良助」。さらに、文体の特徴を見るために、冒頭と末尾の一段を掲げる。

 向両国の尾上町に中山小一郎といふ、江戸三座の振付の師匠がございました。〔……〕(一〇九二ページ)

 ポンと一本釘を差したのは名人、ちやんと知つて居ります。名人は名人を知るといふのは此の事でせうか。この淀五郎の判官が大層な評判で、江戸八百八町の好劇家の血を沸かしたといふ、成功の裏には斯の如き一場の苦心があつたといふ、中村仲蔵の一席談、是にて読切でございます。(一一二七ページ)

原文は正字・旧仮名で、数字を除く総ルビ――[むかふ][りやうごく]の[をのへ][ちやう]に[なかやま][こ]一[らう]という、[えど]三[ざ]の[ふりつけ]の[ししやう]がございました。――。したがって、ひらがなが読めるなら、漢字の数字さえ読めれば本文を音読できる。本書が口述の速記を起こしたものかはわからないが、末尾の一文など、講談のライヴでも聞くような名調子である(先日、六代目神田伯山を襲名した神田松之丞が、テレビ朝日のトーク番組《太田松之丞》で落語の〈中村仲蔵〉は本来、講談の演目だと語っていた。これは落語だが、とりあえず〈6代目三遊亭圓生『中村仲蔵』-rakugo-〉にリンクを張っておこう[*1])。寳井馬秀〈名優中村仲藏〉の本文は36ページ、名取春仙の画を3点収める。《仮名手本忠臣蔵》で不人気だった定九郎に新機軸を出すべく思案にくれた仲蔵は、柳島の妙見様に日参。時ならぬ雨に見舞われ、雨宿りした蕎麦屋でのことがこう語られる(「定九郎の新型」、ルビは割愛した)。

 食ひたくもない蕎麦、飲みたくもない酒を誂へてゐると、ピカリッ、ガラガラガラガラガラといふ雷、途端に『許せツ』ズバツと入つて来たのは年頃三十三四、丈のスラリツとした月代は生えて百日鬘といふほどでもないが、五十日ぐらゐの所、黒羽二重の色の腿せた紋服、白博多の帯を骨牌に結んで、朱鞘の大小、裾をグイと端折つて、空ツ脛に跣足、半分ほど破れてゐる蛇の目の傘を半開きにして入つて来たが、内へ入ると、それをつぼめてサツと水を切つてグイと此方を向いてニヤリと笑つた。其の様子がゾツとするやうに凄い、それをジツと見てゐた中村仲蔵『ウーム』と思はず唸つた。此の浪人こそ其の当時本所の錦糸堀に居りまして四百四十石を取つて居りました本所五人男といはれた悪旗本此村大吉といふ男。(一一〇五ページ)

ここまで読んでページを捲ると出てくるのが、下に写真を掲げた挿絵(名取春仙)と本文の見開きである。少年時代の吉岡を魅了した文章は今日の時代小説、いやむしろ時代物の漫画を彷彿させる。本文に添えられた画(原則、本書は各作品にそれぞれ別の画家を立てているが、群衆の描き方に優れる石井滴水とスミベタに特異な筆使いを示す小田富弥が長篇・短篇各一作、伊藤幾久造が短篇二作を受けもっている)も江戸の風俗を活写している。ほかに井川洗近藤紫雲が健筆を揮っている。いずれも古風な味があって、見入ってしまう[*2]

《講談全集〔第11巻〕》(大日本雄弁会講談社、1929年8月25日)の函と表紙の平" 《講談全集〔第11巻〕》(大日本雄弁会講談社、1929年8月25日)の函と表紙の背" 《講談全集〔第11巻〕》(大日本雄弁会講談社、1929年8月25日、一一〇六〜一一〇七ページ)の寳井馬秀〈名優中村仲藏〉の「定九郎の新型」本文と名取春仙の画の見開き
《講談全集〔第11巻〕》(大日本雄弁会講談社、1929年8月25日)の函と表紙の平(左)と同・その背(中)と同書(一一〇六〜一一〇七ページ)の寳井馬秀〈名優中村仲藏〉の「定九郎の新型」本文と名取春仙の画の見開き(右)

●佐高信・選
藤沢周平◇《蝉しぐれ》
山本周五郎◇《栄花物語》
池波正太郎◇《剣客商売》
司馬遼太郎《梟の城》
隆慶一郎《吉原御免状》◆
山田風太郎◇《魔群の通遇》
吉村昭《天狗争乱》
結城昌治《斬に処す》◆
長谷川伸◇《相楽総三とその同志》
中里介山《大菩薩峠》◆
江馬修《山の民》◆
島崎藤村《夜明け前》
西野辰吉《秩父困民党》
堀田善衛《海鳴りの底から》
田宮虎彦《落城》
松本清張《無宿人別帳》◆
船戸与一《蝦夷地別件》
佐藤治助《ワッパ一揆》
城山三郎《大義の末》
五味川純平《戦争と人間》

●高橋敏夫・選
中里介山《大菩薩峠》◆
岡本綺堂《半七捕物帳》
国枝史郎《神州纐纈城》
子母沢寛《紋三郎の秀》
郡司次郎正《侍ニッポン》
江馬修《山の民》◆
長谷川伸◇《股旅新八景》
松本清張《無宿人別帳》◆
柴田練三郎《眠狂四郎無頼控》
村上元三《ひとり狼》
山本周五郎◇《深川安楽亭》
山田風太郎◇《伊賀忍法帖》
結城昌治《斬に処す》◆
笹沢佐保《見かえり峠の落日》
池波正太郎◇《仕掛人・藤枝梅安》
井上ひさし《不忠臣蔵》
藤沢周平◇《又蔵の火》
隆慶一郎《吉原御免状》◆
塩見鮮一郎《浅草弾左衛門》
京極夏彦《嗤う伊右衛門》

佐高信と高橋敏夫の対談《藤沢周平と山本周五郎――時代小説大論議》(毎日新聞社、2004年11月30日)巻末付録の〈時代小説二〇選〉に掲げられた書目である(◆・◇印は小林が付したもの。原文にある各作品へのコメントは省略した)。タイトルからもうかがえるように、二人は藤沢周平と山本周五郎の作品を是として、司馬遼太郎の作品(というより、むしろその読まれ方)に疑問を呈し、吉川英治の作品は歯牙にもかけないという痛快な判定なのだが、周五郎と周平の作品は《栄花物語》と《深川安楽亭》、《蝉しぐれ》と《又蔵の火》というふうに割れている。逆に中里介山の《大菩薩峠》、江馬修の《山の民》――1947(昭和22)年には改作《山の民》の第一部〈雪崩する国〉が、吉岡が勤務していた東洋堂の兄弟会社・隆文堂から出ているという――、松本清張の《無宿人別帳》、結城昌治の《斬に処す》、隆慶一郎の《吉原御免状》の5作品は双方の選に入っている。じつに興味深いリストである。ときに、私は時代小説・歴史小説にはめっぽう暗く、ここに挙がっているうちで読んだことのあるのは岡本綺堂《半七捕物帳》、山田風太郎《伊賀忍法帖》、井上ひさし《不忠臣蔵》の3作に過ぎない(その後、周五郎の短篇〈深川安楽亭〉を読んだ)。もっとも周五郎の《樅ノ木は残った》には多大な感銘を受けたし、池波正太郎の《鬼平犯科帳》は当時出ていた文春文庫を全巻読んだ。だが、いかんせん、持続的な興味・関心がないまま、今日に至っている。世の中にはこの手の作品の読者があまたいて、身近な処では先年亡くなった義母がそうだった(昭和5年生まれで、旗本の末裔を自負しており、とりわけ子母沢寛を愛読した)。読んだことがないので名を秘すが、ある現役の時代小説家の作品など、公共図書館の文庫本書架の棚二段以上を占有しているから、何をか言わんやである。
あだしごとはさておき、吉岡実と時代小説に戻ろう。吉岡は時代小説(大衆文学)について、断片的なことしか語っていない。「そのほかは、わが家の近くの図書館へ行き、佐々木味津三、国枝史郎、林不忘、本田美禅、前田曙山などの大衆文学ばかり読んでいた。そして一番好きだったのは、岡本綺堂の『半七捕物帳』だった。本所割下水、今戸、入谷という地名もわたしの生活の中にあり、隅田公園になる前は、水戸様であり、牛島神社は牛の御前であった。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、五五〜五六ページ)は、前掲〈読書遍歴〉で江戸川乱歩に触れた箇所に続くものだ。綺堂の《半七捕物帳》はいいとして、吉岡はこれらの小説家のどの作品を読んだのだろうか。私には「わが家の近くの図書館」の岡本綺堂、「佐々木味津三、国枝史郎、林不忘、本田美禅、前田曙山などの大衆文学」は、「昭和二年(一九二七) 〔……〕五月、『現代大衆文学全集』全六十巻(平凡社)刊行開始。千頁一円の大企画で、白井喬一が全面的に協力し、当時の大衆作家を総動員、この全集の成功により、新講談→読物文芸→大衆文芸と変遷した名称が大衆文学として定着する。」(縄田一男〈年譜〉、世田谷文学館編《時代小説のヒーローたち展》世田谷文学館、1997年10月18日、一七九ページ)とある《現代大衆文学全集〔全60巻〕》(平凡社、1927〜32)[*3]だった気がしてならない。ウェブサイト《平凡社版「現代大衆文学全集」全60巻 リスト》のデータに依りながら、6人の収録作品を挙げよう。巻名は、正編40巻=T-1〜T-40、続編20巻=U-1〜U-20のように略記した。

・岡本綺堂(1872〜1939) 〔T-11〕 半七捕物帳/玉藻前/最後の舞台/勇士伝/蜘蛛の夢//著者小伝
・佐々木味津三(1896〜1934) 〔U-2〕 右門捕物帳/直参八人組/人斬り甚兵衛//著者略伝
・国枝史郎(1887〜1943) 〔T-6〕 蔦葛木曽桟/三甚内/赤格子九郎右衛門/鵞湖仙人/高島異誌/郷介法師/卍の秘密/日置流系図/六十年の謎/志摩様の屋敷、〔T-33〕 染吉の朱盆/大鵬のゆくへ/北斎と幽霊/加利福尼亜の宝島/天明巷説銅銭会事変/天主閣の音/八ヶ岳の魔神/鼬つかひ、〔U-13〕 剣侠受難/名人地獄/神秘昆虫館/天一坊外伝//著者自伝
・林不忘(1900〜1935) 〔U-1〕 新版大岡政談/つゞれ烏羽玉
・本田美禅(1868〜1946) 〔T-23〕 御洒落狂女//著者自伝、〔T-24〕 八百屋の娘/三人姉妹、〔U-16〕 都一番風流男/燃ゆる血潮/剣法吉岡染/口縄中納言/緋縮緬卯月の紅葉/御贔屓吉弥結び/続 お酒落狂女//著者自伝
・前田曙山(1872〜1941) 〔T-5〕 落花の舞/不知火/情熱の火/深川育、〔T-30〕 燃ゆる渦巻/神文、〔U-12〕 勤王女仙伝/江戸の誇

引きうつしてみたものの、ほとんど見当がつかない。それというのも、林不忘(《丹下左膳》は読んでいない)の別名・牧逸馬の《浴槽の花嫁》(初刊は1930年、中央公論社)こそ「浴室で裸になって/今宵から花嫁たらんとする」(〈少女〉F・5)を論じる際に参照したものの、綺堂の《半七捕物帳》以外、どれも未読だからである。こんなことでは本稿が書けない、と発奮して別のアプローチを試みるべく、細谷正充の監修になる《面白いほどよくわかる時代小説名作100》(日本文芸社、2010年6月30日)を手にした。〔学校で教えない教科書〕シリーズの一冊だが、表紙や扉には「江戸の人情、戦国の傑物、閃く剣! 昭和期から平成の名作を紹介」とあって、教科書というよりは参考書だろう。〈第1章 昭和の国民的作家と時代小説の旗手〉の小説家は(私は基本的に「小説家」と書いて、「作家」と書かない)池波正太郎・山本周五郎・司馬遼太郎・藤沢周平・村上元三・川口松太郎・山田風太郎・柴田錬三郎・隆慶一郎・津本陽・平岩弓枝・永井路子・宮尾登美子・五味康祐・杉本苑子・辻邦生・早乙女貢・吉村昭・童門冬二・白石一郎・松本清張・笹沢佐保・瀬戸内寂聴・有吉佐和子といった、いずれも個人全集をもつような大御所たち。吉岡も当然これらの時代小説家の作品を読んでいようが、具体的に作品名には言及していない。年代からすれば、むしろ〈第2章 温故知新!古典的時代小説の誕生〉に登場する作品に触れた可能性が高い。具体的には以下のとおり。

吉川英治=鳴門秘帖・宮本武蔵
岡本綺堂=半七捕物帳
野村胡堂=銭形平次捕物控
中里介山=大菩薩峠
白井喬二=富士に立つ影
海音寺潮五郎=西郷隆盛
山岡荘八=徳川家康
大佛次郎=鞍馬天狗
子母澤寛=勝海舟
長谷川伸=荒木又右衛門
山手樹一郎=桃太郎侍
角田喜久雄=妖棋伝
国枝史郎=神州纐纈城

まさに時代小説の巨匠たちの代表作である。一方、《面白いほどよくわかる時代小説名作100》の〈第3章 平成の時代小説ブームを牽引する実力者たち〉は山本一力から高田郁までの25人で、それ自体は興味深いものの、昭和が終わった翌年の平成2年5月に歿した吉岡実がこれらの小説家たちを愛読したとは思えない(ここで私が読んだことのある時代小説家は、宮部みゆき・京極夏彦くらいで、本質的にこのジャンルに愛着がないことを露呈している)。ときあたかも、熱烈な讃美者である宮部みゆきの編んだ岡本綺堂《半七捕物帳――江戸探偵怪異譚〔新潮文庫〕》(新潮社、2019年12月1日)が出た。綺堂の《半七捕物帳》は講談社の〔大衆文学館〕という文庫本で読んだが、20年以上も前のことなのですっかり忘れている。さっそく通読してみると、これがじつに面白い。吉岡が生まれる2年前の1917年から連載が始まっただけあって、旧幕時代の語彙など、こんにち見かけない語も登場するが、前後関係から類推できるし、まずなによりも作品の設定、文体の清新さが嬉しい。都筑道夫や北村薫が絶賛しているのもうなずける。吉岡実が大衆文学で「一番好きだった」という《半七捕物帳》[*4]には、今戸、入谷、水戸様のほかにも、吉岡の生まれた中の郷、業平や育った廐橋が登場する。今内孜の編著になる《半七捕物帳事典》(国書刊行会、2010年1月25日)はそうした事項を調べる際の最強の工具書[ツール]だ。ちなみに同書の編集に携わったのは礒崎純一さんである。

中の郷 なかのごう 本所絵図を見ると、吾妻橋東方源森川の南側に「中ノ郷○○」という町名が多く見える。古くは中の郷村であったが、正徳三年[一七一三]に元町、竹町、八軒町、瓦町、原庭町、横川町、五之橋町、同代地町などに分かれた。一帯は武家地と寺院と町家が入り混じっている。「海坊主」に出る中の郷は、そこに瓦屋があるということなので、本所絵図に見る「中ノ郷瓦町」をいうのではないかと思われる。ここは絵図に「中ノ郷瓦焼場」とあるように、瓦職人がこの地に住んでいたのでその名がついた。「蝶合戦」に出る普在寺は見当たらず創作であろう。いまの墨田区吾妻橋から同東駒形にかけての地になる。▼〔道具屋の隠居十右衛門から町内の自身番へとどけて出た。昨夜中の郷の川ばたを通行の折柄に、何者にか追いかけられて、所持の財布を奪い取られたうえに、面部に数ケ所の疵をうけたと云うのである。(河獺)〕。〔その頃の小梅や中の郷のあたりは、為永春水の「梅暦」に描かれた世界と多く変らなかった。柾木の生垣を取りまわした人家が疎らにつづいて、そこらの田や池では雨をよぶような蛙の声がそうぞうしくきこえた。日和下駄の歯を吸い込まれるような泥濘を一足ぬきに辿りながら、半七は清次に教えられた瓦屋のまえまで行きついた。(海坊主)〕。〔お国の菩提寺は中の郷の普在寺であると聞いたのを頼りに尋ねてゆくと、その寺はすぐに知れた。(蝶合戦)〕。〔半七は早々に家を出た。吾妻橋を渡って中の郷へさしかかると、其当時のここらは田舎である。町家というのは名ばかりで百姓家が多い。(新カチ)〕。(同書、六一四〜六一五ページ)

業平 なりひら 本所絵図を見ると右の中ほどに「業平橋」があり、さらに「南蔵院」がある。絵図には記されてないがこの境内に業平天神社があり、業平塚があった。ここから橋名が生まれ、この辺を俗に業平と呼ぶようになったようだ。いまの墨田区吾妻橋三丁目の東部になる。大岡政談の縛られ地蔵で知られた南蔵院は昭和元年[一九二六]葛飾区東水元二丁目に移転し、このとき業平天神社は廃社となった。▼〔「わたくしが業平の方までまいりまして、その帰りに水戸様前から既[も]うすこし此方へまいりますと、堤の上は薄暗くなって居りました」(お照父)〕。(同書、六二三ページ)

廏橋の渡 うまやばしのわたし いまの廏橋の近くには御廏河岸の渡ししかなく、これをいったのであろう。廏橋は明治七年[一八七四]に架けられた。→御廏河岸の渡 おんまやがしのわたし ▼〔陰るかと思った空は又うす明るくなって、廏橋の渡を越えるころには濁った大川の水も光って来た。(海坊主)〕。(同書、八八ページ)

御廐河岸の渡 おんまやがしのわたし 浅草絵図の「浅草御蔵」北側に「御廏カシ渡シ場」とある。発着所の「三好町」に御廏があったことに因る名で、御蔵の北から本所石原への船渡しであった。いまの台東区蔵前二丁目と墨田区本所一丁目を結び、現在の廏橋から百メートルほど下流にあったが、明治七年(一八七四)の架橋により廃止された。▼〔半七はその間に二三軒用達をして来ようと思って、早々に源次の家を出た。それから駈足で二三軒まわって途中で午餐[ひるめし]を食って、御廏河岸の渡に来たのは八つ(午後二時)少し前であった。(化師匠)〕。〔「その娘を乗せて蔵前の方へいそいで行くと、御廏河岸の渡場の方から……」(槍突き)〕。(同書、一九二〜一九三ページ)

〈槍突き〉は前掲《半七捕物帳――江戸探偵怪異譚》に収録されている。今内孜の興趣に満ちた大著には〈《魚藍》と魚籃坂〉で触れた三田の魚籃が次のように記されている。

三田の魚籃 みたのぎょらん 高輪絵図の左中央、細川越中守の中屋敷東側に「魚籃観音」があり、その前の坂を魚籃坂、ここの町家を魚籃前と呼んでいたので、この辺りを三田の魚籃といったのであろう。いまの港区高輪一丁目と同三田四丁目が接するところになる。『武江年表』寛永七年[一六三〇]十二月の項に、「魚籃観世音、三田の地に安置す(開山法誉上人、豊前[ぶぜん]の国より携へ来る所といふ)」とある。魚籃観世音は長崎伝来の唐仏で、右手に魚の入った籃(籠)を持つ。これを本尊とする魚籃寺はいまも三田四丁目に残る。▼〔「三田の魚籃の近所に知り人があるので、丁度そこに居あわせた松吉という子分をつれて、すぐにまた芝の方面へ急いで行くと、ここに一つの事件が出来したんです」(熊死骸)〕。(同書、八〇八ページ)

岡本綺堂の《半七捕物帳》は、時代小説に探偵小説の風味を加えた捕物帳というジャンルの嚆矢とされる。今内孜はその作風をこう要約する。「江戸の情景や生活、風俗がリアルに描かれ、その時代の史実や実在の人物が捕物話にうまく融合している。親分の江戸弁も読者を江戸の世界ヘタイムスリップさせてくれます。科白が生き生きとしているのは、劇作家ゆえの所産でしょうね。親分の話し言葉も、相手が武家や町人、あるいは容疑者と、人によって使い分けている。情緒があって抑制した簡略な文章は俳句の香りがします。場面の転換が鮮やかなのは芝居と共通していますし、芝居にかかわる譬えや比喩が多いのも特徴のひとつで、この辺は綺堂氏ならではの世界といえます。『半七捕物帳』はまさに江戸を知る格好の読物といえます」(〈架空対談 半七親分に訊く――「あとがき」に代えて〉、《半七捕物帳事典》、九七五ページ)。吉岡実が生まれた1919年の50年前は1869年、明治2年である。東京は1923年の関東大震災で市街地の大改造を余儀なくされて、江戸の風情は地を掃ったが、それでもいやそれゆえに半世紀前に明治となる以前の時代を懐かしむ心情は、この下町に生まれた少年にも息づいていたことだろう。それが綺堂の捕物帳という、望みうる最高の作品であったことは幸いだった。われわれもまた時代を超えて、この懐旧の情とモダニズムの香りの融合した作品に親しむことができる。

〔追記〕
時代小説の近接ジャンルに時代劇(映画・テレビ)がある。吉岡はそれについてはほとんど言及していないが、次の金井美恵子の文(文章、ではない。一文すなわちワンセンテンスである)が示唆に富んでいる。

〔……〕また別のおり、これは吉岡さんの家のコタツの中で夫人の陽子さんと私の姉も一緒で、食事をした後、さあ、楽にしたほうがいいよ、かあさん、マクラ出して、といい、自分たちのはコタツでゴロ寝をする時の専用のマクラがむろんあるけれど、二人の分もあるからね、と心配することはないんだよとでも言った調子で説明し、陽子さんは、ピンクと白、赤と白の格子柄のマクラを押入れから取り出し、どっちが美恵子で、どっちが久美子にする? 何かちょっとした身のまわりの可愛かったりきれいだったりする小物を選ぶ時、女の人が浮べる軽いしかも真剣な楽し気な戸惑いを浮べ、吉岡さんは、どっちでもいいよ、どっちでもいいよ、とせっかちに、小さな選択について戸惑っている女子供に言い、そしてマクラが全員にいき渡ったそういう場で、そう、「そんなに高くはないけれど、それでも少しは高い値段」の丹念に選ばれた、いかにも吉岡家的な簡素で単純で形の美しい――吉岡実は少年の頃彫刻家志望でもあったのだし、物の形体と手触りに、いつでもとても鋭敏だし、そうした自らの鋭敏さに対して鋭敏だ――家具や食器に囲まれた部屋で、雑談をし、NHKの大河ドラマ『草燃える』の総集編を見ながら、主人公の北条政子について、「権力は持っても家庭的には恵まれない人だねえ」といい、手がきの桃と兎の形の可愛いらしい、そんなに高くはないけど気に入ったのを見つけるのに苦労したと言う湯のみ茶碗で小まめにお茶の葉を入れかえながら何杯もお茶を飲み、さっき食べた鍋料理(わざわざ陽子さんが電車で買いに出かけた鯛の鍋)の時は、おとうふは浮き上って来たら、ほら、ほら、早くすくわなきゃ駄目だ、ほら、ここ、ほらこっちも浮き上ったよ、と騒ぎ、そんなにあわてなくったって大丈夫よ、うるさがられるわよ、ミイちゃん、と陽子さんにたしなめられつつ、いろいろと気をつかってくださったいかにも東京の下町育ちらしい種類も量も多い食事の後でのそうした雑談のなかで、ふいに、しみじみといった口調で、『僧侶』は人間不信[、、、、]の詩だからねえ、暗い詩だよ、など言ったりするのだ。(〈吉岡実とあう――人・語・物〉、《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月20日、二一七〜二一九ページ)

Wikipediaによれば、『草燃える』の総集編は第1話「頼朝起つ」(1979年12月24日放送)、第2話「平家滅亡」(同25日)、第3話「征夷大将軍」(同26日)、第4話「頼家無惨」(同27日)、第5話「尼将軍・政子」(同28日)である。吉岡の口振りからすれば、金井美恵子たちと見ていたのは、1979年12月28日放送の第5話「尼将軍・政子」だろうか。このNHKの大河ドラマについては、時代劇・映画史研究家の春日太一の文章を借りよう。

『草燃える』(NHK大河ドラマ)
放送年:1979年/放送局:NHK/演出:大原誠ほか/脚本:中島丈博/原作:永井路子/出演:石坂浩二、岩下志麻、国広富之、金子信雄、尾上松緑ほか

解説》本作は源頼朝(石坂)・北条政子(岩下)夫妻が鎌倉幕府の支配体制を確立していく過程が描かれている。だが、本作の脚本を担当した中島丈博は、別の二人の人間をドラマの核に据[す]えた。一人は政子の弟・北条義時、もう一人は中島が創作した架空の人物・伊東祐之[すけゆき]だ。中島はこの二人の人生を巧みに交差させながら、鎌倉の光と影を照射していく。
 〔……〕
 そして、最後は琵琶法師となった祐之が「盛者必衰[じようしやひつすい]」「諸行無常[しよぎようむじよう]」と『平家物語』を吟じるシーンで幕を閉じる。それを聞くのは、権力闘争の果てに全てを失い、ただ呆然[ぼうぜん]とするしかないヒロイン・北条政子だった。物語としてのあまりの完成度に震えた。(《時代劇ベスト100〔光文社新書〕》、光文社、2014年10月20日、六八〜六九ページ)

吉岡実は、このドラマが放送された前年、1978年の11月に永年勤めた筑摩書房を依願退職している。さらに、この年の秋には「中期」の掉尾を飾る詩集《夏の宴》(青土社)を出している。金井美恵子が描いたのは、そんな悠悠自適の年末の一齣である。昭和の夜には、大河ドラマ=時代劇がふさわしい。

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[*1] 18枚組のCD《六代目三遊亭圓生の世界》(東芝EMI、2002)DISC6の〈中村仲蔵〉は〈第166回東横落語会三遊亭圓生独演会〉(東横ホール、1974年10月30日)での収録。付属の〈口述筆記〉に次のようにある。

 はいって来たのをひょいッ……(と、見ると)齢[とし]ごろ三十二、三にもなりましょうか、色の白いやせぎすな、背ェの高い、月代[さかいき]が森のようにはえております。
 装[なり]はというと、黒羽二重[はぶたい]の引き解きという……袷[あわせ]の裏をとったやつ、これへ茶献上の帯、茶の燻[くす]べ(燻べ革。松葉の煙で地を燻べ、模様を白く残したもの)の鼻緒の雪駄[せツた]を腰ィはさんで、尻を高く端折[はしょ]りまして、蝋色[ろいろ]艶消[つやけ]しの大小を落としざしにして、破れた蛇の目傘ァそこィぽォんとほうり出して、かァッと月代を押さいるてえと、だらだらだらだらだらァッと、しずくが垂れます。袂[たもと]から裾と、びしょびしょになった着物をこう……しきりに、しぼっている。
「……これだ……いィい扮装だなァ……なるほど、斧九太夫[くだゆう]の伜定九郎。祇園あたりでさんざん遊[あす]んで金に困るので山崎街道で追いはぎをするんだから、どてらで出るわけァねえ……こりゃァいいィなァ。どうもあの、ぽたぽたぽたぽた水が垂れて、黒い着物がこう……からだィまといついてるとこなんぞァどうも……たまらないなァどうも……いいッ、いいッ、いいッ、いいッ……」(別冊解説書、二〇一〜二〇二ページ)

この部分、寳井馬秀の講談〈名優中村仲藏〉は、小説でいえば地の文でぐいぐい話を推しすすめるので、落語に較べて圧縮されている。ライヴで講釈を聴いたことがないが、はたして耳で聞いて充分に理解できるか。ちなみに吉岡は、昭和20年代後半の想い出を「私は二十数年前のことを想い出していた。この地蔵さまの下の岩瀬という家に、若い画家吉田健男と下宿していたのだ。家主は四十五、六の後家さんで、いつも赤いただれた瞼と眼をしていた。冬の深夜に、親子三人の寝顔を見ながら、私は便所へかよったものだ。私たちは台所を出入り口にしていた。ちょうどそこには鶏小屋があって、真夏は糞[ふん]の臭いに閉口した。神経質な健男はことにいやがった。彼は子供のころ咽喉の病気をしたとかで、いつもかすれた声をして、不精者の私を叱るのだった。庭というか空地の向うに、まだ貧乏な三遊亭円生が住んでいたが、不思議なことに落語を喋っているのを聞いたことはなかった。/近くに徂徠の墓処があったので「鶏糞[ふん]の香や隣りは三遊亭円生師」と二人は笑った。もちろんそれは其角の「梅が香や隣りは荻生惣右衛門」のパロディーである。」(〈西脇順三郎アラベスク〉の「3 化粧地蔵の周辺」、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二二九〜二三〇ページ。初出は1975年10月31日、筑摩書房刊の《西脇順三郎 詩と詩論〔第6巻〕》付録)と書いている。吉岡が三遊亭圓生の高座に接したかは、残念ながらわからない。

[*2] 挿絵は時代小説に欠かせないものであるにもかかわらず、そのあたりのことを当事者が詳しく語った文章をほとんど見ない。小松左京(1931〜2011)が少年時代に親しんだ8人の挿絵画家にインタビューしたテープが発見された、というのは幸いだった(その8人とは、蕗谷虹児、野口昂明、田代光、和田邦坊小田富弥、富永謙太郎、志村立美、藤原せいけん)。このうち志村立美は〈吉岡実の装丁作品(136)〉の註において、長谷川伸の短篇小説集《長襦袢供養》(隆文堂、1948)の表紙画を担当した画家として言及したことがある。小松によるインタビューの総題は「小松左京が聞く」という角書きふうの文言が付いた〈大正・昭和の日本大衆文芸を支えた挿絵画家たち〉である。本文の〈3 志村立美[しむらたつみ](一九〇七―一九八〇)〉は、19ページにわたって当時の挿絵画家との交流や時代小説家、時代小説の出版社の裏話を披露した貴重なもの。作画のときに参考にするのは映画やテレビ(の時代物)ではなく、歌舞伎だ(同書、一九一ページ)というあたりは、なるほどと思わせる。インタビューの最後が、ちょんまげをはやらせたい、で終わるのもしゃれている。志村立美の記事の末尾には「〈一九七五年二月二四日 世田谷の志村立美邸にて〉」(《小松左京全集完全版〔第26巻〕》城西国際大学出版会、2017年4月30日、一九六ページ)とある。乙部順子による全体のまえがきに相当する文章では「志村立美さんは、「続・丹下左膳」の挿絵や山本周五郎「児次郎吹雪」、静岡新聞の花登筺「細腕繁盛記」の挿絵など、山川秀峰の弟子らしく美人画で有名な作家です。」(同書、一三三ページ)と紹介されている。

[*3] 吉岡より3歳年長の小説家・石沢英太郎(1916〜88)は、光文社文庫版《半七捕物帳〔第4巻〕》(光文社、1986年8月20日)の〈解説〉に「私、岡本綺堂さんの『半七捕物帳』に親しんで、すでに、久しい。/古くは平凡社の紺表紙の現代大衆文学全集の一冊(これはもうボロボロになっている)、さらに早川書房版、青蛙房[せいあぼう]版。出張のさいは文庫版を好伴侶として利用している。」(同書、三六九ページ)と書いている。早川書房版は《定本 半七捕物帳〔全3巻〕》(1955〜56)、青蛙房版は〔青蛙選書〕の《半七捕物帳〔全5巻〕》(1966〜67)で、文庫版は昭和初年の春陽堂書店、早川書房の《定本》よりやや後に出た角川書店(全7冊)、1977年の旺文社(全7冊)のどれだろうか。〈読書遍歴〉(初出は《週刊読書人》1968年4月8日号)を書いた当時、吉岡が入手しやすかった版は青蛙房の〔青蛙選書〕か角川書店の文庫本のはずだが、(文体からは、神保町あたりの新刊書店で立ち読みくらいしたように思えるものの)執筆時に再読したかどうかも含めて、詳しいことはわからない。

[*4] 岡本綺堂《半七捕物帳〔全6巻〕》(筑摩書房、1998年6月25日〜11月25日)は、半七捕物帳の全話を収めている。ここで注目すべきは、先に大衆文学研究賞に輝いた《半七は実在した――「半七捕物帳」江戸めぐり》(河出書房新社、1989)を著した今井金吾が全巻に註・註解・地図と巻末資料を執筆していることである。全巻の装画・挿画は三谷一馬。今井による註解を、本文で引いた今内孜のそれと比べても面白い。ところで、宮部みゆき編の《半七捕物帳――江戸探偵怪異譚》の底本は最新の版である光文社時代小説文庫の新装版で、筑摩書房と光文社、両社の半七捕物帳全集がそろっているのは心強い。――光文社時代小説文庫の《半七捕物帳〔全6巻〕》(解説:都筑道夫・森村誠一・戸板康二・石沢英太郎・武蔵野次郎・岡本経一)は、初刊(1986〜87)と新装版(2001)がある(「新装版」は本文・解説とも初刊に同じ内容だが、文字サイズ・字詰・行数ともに異なる「新組」のため、ページも増えて大きな活字で読みやすい。私は全68篇を〔第6巻〕巻末の岡本経一〈半七捕物帳 作品年表〉の順――寛延元年の〈小女郎狐〉に始まり慶応三年の〈筆屋の娘〉に至る――に従って、初刊で読んだ)。また半七捕物帳とは別に、〈岡本綺堂読物集〔中公文庫〕〉が中央公論新社から7冊まで出ている。それにもまして岩波文庫に《明治劇談 ランプの下にて》(1993)と《岡本綺堂随筆集》(2007)が収録されているのは頼もしい。若いころ新聞記者だった歌舞伎作者の書いた一世紀前の時代小説が、次世代の読者に引きつがれてゆく。そのさまは、歴史小説を自分の本分と考えていた、あのイギリスの医者が書いた探偵小説の長きにわたる隆盛を想わせる。


《うまやはし日記》に登場する映画――吉岡実と映画(2)(2020年2月29日)

四方田犬彦の書きおろし《無明 内田吐夢》(河出書房新社、2019年5月30日)を読んだ。このところ、吉岡実と時代小説に代表される大衆文学の関係を考えているせいか、内田吐夢監督作品《大菩薩峠》(第一部:1957、第二部:1958、完結篇:1959)を論じた章(『大菩薩峠』)がとりわけ興味深かった。ほかにも《恋や恋なすな恋》(1962)の「白狐」(同書、一六八ページ)について――吉岡実詩に〈白狐〉(未刊詩篇・16)がある――や、《飢餓海峡》(1964)の章の「巫女の見開かれた両眼は白濁している。彼女は何かに憑かれたように賽の河原やさまざまな地獄の話を語り、数珠を弄[まさぐ]りながら、しだいに恍惚とした表情を顔に浮かべるようになる。さながら土方巽の『暗黒舞踏』のような光景である。」(同書、二三六ページ)という記述があり、いろいろなことを考えさせられた。それを一言でいえば、近年、映画とはすっかりご無沙汰の私も、この20世紀最大の娯楽=芸術装置の偉大さに改めて敬服している、となろうか。ところで、生来のモダニストである吉岡実は、戦前、浅草にほど近い本所区厩橋に父母と暮らしていたこともあり、movie-goerにはなるべくしてなったともいえる。私はいずれ〈吉岡実と映画〉について書きたいと念じているが、今回はその基礎資料として戦前、二十歳前後の吉岡の日記に登場する映画のリストを作成してみる。項目は、《うまやはし日記》(書肆山田、1990)の日付(【 】内に曜日を追記した)を見出しにして、日記本文に登場する映画および映画にまつわる記載をそのまま引き、*印のあとに簡単な説明を掲げた。なお、映画作品と監督や出演者にリンクを張った箇所がある(主なリンク先はMovieWalkerやWikipediaである)。

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昭和十三年(1938)

9月4日【日】――午後、東宝撮影所まで行く。そこは想像していた「夢のような世界」ではない。男優女優の姿さえわびしく見えた。
*吉岡は前日の9月3日から、母親の「いと」と祖師ヶ谷大蔵の村田家を訪ねている。


昭和十四年(1939)

3月31日【金】――夕刻、このごろ気まずくなった佐藤さんと、蔵前橋通りの八千代館へ映画を見に行く。客は近所のおかみさん、子供、小僧、職工それにふんどしかつぎといったところで雰囲気が好き。
*「佐藤さん」は吉岡が手伝った夢香洲〔むこうじま〕書塾の主、佐藤樹光〔春陵〕。吉岡は書塾に住みこみ、ときには佐藤たちと句会を催した。

4月3日【月】――雨。朝から本郷座へ行く。「望郷」ジャン・ギャバンは素晴しい。となりの女学生も泣いていた。外は寒くふるえた。南山堂へは寄らず、赤門まで散歩。
*吉岡が感銘を受けた《ペペ・ル・モコ(望郷)》に登場するケン玉については、〈吉岡実とケン玉〉で詳述した。「南山堂」は、学業を終えて最初に勤めた医書出版社。

4月26日【木】――夜、富士館で「土」を見る。すばらしい田園詩。
内田吐夢監督作品。「こうして一九三九年三月、撮影日数三七四日、セット数六五杯という、日活未曾有の規模の撮影が終了した。フィルムは文部省の推薦を受け、四月一三日に封切られた。これがたちまち大ヒットし、三週間のロングランとなった。いや、そればかりか、その年の『キネマ旬報』ベストテンでも第一位に選出された。観客のなかでは高学歴層の占める割合が、他のヒット作と比べて大きかった。『土』は現在では、一九三〇年代日本映画を代表する輝かしい古典として認知されている。」(四方田犬彦〈『土』と農村回帰〉、《無明 内田吐夢》、三一七〜三一八ページ)

5月13日【土】――雨の中を、神田の南明座まで行く。「パンドラの筐〔ママ〕」のルイズ・ブルックスに魅了される。悩ましいルル。
*吉岡は〈懐しの映画――幻の二人の女優〉(初出は《ユリイカ》1976年6月号)に「それからもう一人、幻の女優をあげるならば、「パンドラの箱」のルイズ・ブルックスしかいない。少年じみたおかっぱ髪の彼女の美しさ妖しさもいまだ忘れられない。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一九ページ)と書いている。

5月14日【日】――午後、浅草へ行く。国際キネマで「ステージ・ドア」を見る。
*主演はキャサリン・ヘプバーン、ジンジャー・ロジャース、アドルフ・マンジュー。

6月11日【日】――日曜、久しぶりで早稲田の全線座へ行く。ベティ・デヴィスの「痴人の愛」もよかったし、レビュー探偵映画「絢爛たる殺人」もよかった。
*吉岡はこのあと、高田南町の依田昌矩(書道、俳句仲間)・栄子夫妻の家を訪ねている。

6月25日【日】――雨の上野広小路で市電を乗換え、シネマパレスへ。「第七天国」のジャネット・ゲーナは可憐だった。
*吉岡はこのあと、友人と玉木座で万才を見ている。

7月15日【土】――地獄の釜のふたのあく日。夕方、神田へ行く。南明座に入り、九時過ぎ出て、夜店の古本を探して歩く。
*映画はタイトルを記すまでもないほどの内容だったのか。

7月25日【火】――夜、厩橋から市電に乗る。三筋町、竹町、上野広小路を通る。本郷座で「〔きら→燦〕めく星座」の豪華なる氷上レヴュー映画。もう一つは「早春」で、思春期の少女の物語。Y、Eのことを思う。
*「Y、E」は南山堂の女子社員、中村葉子と英子(姓未詳)。

8月20日【日】――目黒キネマで「暴君ネロ」
*吉岡が映画を見る曜日がたいてい日曜日なのは、手伝っていた書塾が休みだったためだろう。

8月28日【月】――銀座全線座で、「真夏の夜の夢」。
*早稲田にも全線座があるところを見ると、銀座全線座は同系列の映画館か。

10月17日【火】――雨。午後遅く、春陵さんと三輪へ行く。キネマハウスで、ダニエル・ダリュウ「暁に〔かへ→帰〕る」を見る。男と女の席はすでに分けられている。淋しい町三輪。
*吉岡は「三輪」と書いているが、東京都台東区の「三ノ輪」であろう。

10月29日【日】――南明座へ「たそがれの維納」を見に出かける。
*吉岡は続けて「帰りの電車の中で〔空襲〕警報を聞く。」と書いている。

11月7日【火】――日本館で「ブルグ劇場」を見た。しばしの陶酔。十時近く帰る。
*吉岡は映画を観にいくまえ、財布を落としており、「気分なおしに浅草へ向う。」と書いている。

12月5日(火曜)【火】――夜、国際キネマで「女優ナナ」を見た。原作を歪めている。アンナ・ステンの白痴美に魅せられた。
*吉岡はゾラ(宇高伸一訳)の新潮文庫版《ナナ〔上・下〕》(新潮社、1933)を半年ほどまえの5月18日【木】に買いもとめており、翌日の5月19日も「夜遅くまで、『ナナ』を読みふける。」(《うまやはし日記》、四一ページ)とある。

12月23日【土】――朝、亀の湯で柚湯に浸る。昨夜見た「ハバネラ」〔「南の誘惑」〕のツァラーレンダ〔ツァラー・レアンダー〕の美しさを思う。
*冬至の日のため、銭湯が柚子湯を用意したのである。


昭和十五年(1940)

1月21日(日曜)【日】――早稲田の全線座で「少年の町」を見る。
*吉岡は前年6月11日に同じ早稲田の全線座で《痴人の愛》《絢爛たる殺人》を観ている。

1月23日【火】――久しぶりでまあ坊が誘いにくる。遠いが三〔ノ〕輪のキネマハウスへバスで行く。映画はつまらなくがっかり。黒いオーバーのパーマネントの若い娘が隣に座る。客席はすいているのにと、思った。二本目の映画「男の世界」は見ていたので、出ようとした時、その娘が肘でつく。あたしよ、中村葉子よ。奇遇に驚いてしまう。あの黒髪のおかっぱの少女はどこへいってしまったのか。いつも思慕していた、初恋のひと。さようなら、一つの夢。
*「中村葉子」は「Y」として前出。

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吉岡実の《うまやはし日記〔りぶるどるしおる1〕》(書肆山田、1990年4月15日)は、昭和十三年(1938)8月31日から昭和十五年(1940)3月6日までの、実質1年半ほどの記録である。この足掛け3年を吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996)でたどれば、次のようになる(同書、七九〇〜七九一ページ)。

一九三八年(昭和十三年) 十九歳
八月、南山堂を退社し厩橋の実家に帰る。郵便貯金八〇円と退職手当三〇円貰う。九月、夢香洲書塾(佐藤春陵宅)に身を寄せ書塾を手伝う。男二人の生活。子供たちに習字を教え、炊事、掃除、買い出しをする。春陵から改造文庫の白秋『花樫』を贈られ以後、五十余年愛蔵。この頃春陵や友人たちと俳句や短歌を作る。

一九三九年(昭和十四年) 二十歳
近所の写真館で記念写真を撮る。その足で理髪店に寄り坊主頭に。一握りの髪を母に渡す。本所区役所で徴兵検査。第二乙種合格。新ぐろりあ叢書の斎藤史『魚歌』を愛読。大晦日、夢香洲書塾を出て実家へもどる。

一九四〇年(昭和十五年) 二十一歳
二月、西村書店へ入社。木下夕爾詩集『田舎の食卓』を読み、一読者として手紙を出す。それから二年間の文通。詩集『生れた家』を贈られる。初夏、臨時召集のため目黒大橋の輜重隊に入り、教育を終え一カ月半で召集解除となる。十月、詩歌集『昏睡季節』一〇〇部、草蝉舎より刊行。

戦場に赴く前夜、自作の詩歌を「遺書」としてまとめた吉岡実は、兄事する青年の書塾を手伝い、俳句仲間と句会を催し、読書に明けくれる一方、近隣や遠方の映画館に足繁く通い、洋画を中心に多くの映画を観ている。

 過去にどれほどの映画とスターを見できただろうか。ここでは洋画に限ってみるのだが、私は記憶を呼び起すために、猪俣勝人の『世界映画名作全史――戦前〔篇→編〕』を求めて、調べてみたら、そのほとんどを見ているのに、われながら驚いた。青年期の私は見逃した名画・話題作を探して、はるばると目黒キネマ、神田南明座、昌平橋のシネマパレスへと見て歩いたものである。(〈懐しの映画――幻の二人の女優〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、一七ページ)

今回の〈《うまやはし日記》に登場する映画――吉岡実と映画(2)〉における映画の次の段階は、上掲の随想〈懐しの映画〉と、スチル写真を多数掲載した猪俣勝人(1911〜79)の映画史《世界映画名作全史 戦前編〔現代教養文庫〕》(社会思想社、1974)を底本にして、吉岡実が観た(だろう)映画の総覧を作成することである(なお、《世界映画名作全史》には「戦前編」の翌月1974年12月30日発行の「戦後編」があって、吉岡はこれに言及していないが、こちらも視野に収めるべきであろう)。このプロジェクトは、最終的に《吉岡実言及映画索引〔解題付〕》として結実するはずだ。そのためには、今後、素材に相当する記事を〈吉岡実と映画〉シリーズとして、本ページに分載していく必要がある。

猪俣勝人《世界映画名作全史 戦前編〔現代教養文庫〕》(社会思想社、1974年11月30日〔第34刷:1992年4月30日〕)のジャケット 猪俣勝人《世界映画名作全史 戦前篇》(社会思想社、1983年11月30日)のジャケット
猪俣勝人《世界映画名作全史 戦前編〔現代教養文庫〕》(社会思想社、1974年11月30日〔第34刷:1992年4月30日〕)のジャケット(左)と「教養文庫版をそのまま拡大し、装幀を新たにして愛蔵版とした」(編集部)A5判・ハードカヴァー、猪俣勝人《世界映画名作全史 戦前篇》(社会思想社、1983年11月30日)のジャケット〔装丁・イラスト:米田共〕(右) 〔吉岡が随想〈懐しの映画――幻の二人の女優〉執筆時に参照したのは現代教養文庫版〕

〔追記〕
資料として猪俣勝人《世界映画名作全史 戦前編〔現代教養文庫〕》(社会思想社、1974年11月30日)の〈目次〉を掲げる(ノンブルは省略)。本文の組体裁は、〈第一部〉が7.5ポ43字18行(774字)で、各項はおおむね3ページから5ページ、〈第二部〉が6.5ポ24字21行2段(1008字)で、各項はおおむね1ページ。〈第三部〉は1910(明治四十三)年から1944(昭和十九)年までの600篇の年ごとのデータ集で、1938(昭和十三)年から1940(昭和十五)年までの3年間にかぎって作品名のみ掲出した。作品名のあとの●印は、吉岡実が日記や随想で言及していることを示す。

 はじめに
〈第一部〉
 イントレランス
 散りゆく花
 オーバー・ゼ・ヒル
 カリガリ博士
 連続大活劇「名金」「鉄の爪」「虎の足跡」
 乗合馬車
 血と砂
 巴里の女性
 救ひを求める人々
 嘆きのピエロ
 ジーク・フリード
 バグダッドの盗賊
 キイン
 戦艦ポチョムキン
 ロイドの人気者
 キッド
 鉄路の白薔薇
 ステラ・ダラス
 母
 黄金狂時代
 ヴァリエテ
 ボー・ジェスト
 ビッグ・パレード
 第七天国●
 ラブ・パレイド
 西部戦線異状なし
 アジアの嵐
 嘆きの天使●
 モロッコ●
 巴里の屋根の下
 間諜X27●
 アメリカの悲劇
 自由を我等に
 三文オペラ
 雨
 私の殺した男
 人生案内
 サンライズ
 暗黒街の顔役
 貝殻と僧侶
 グランド・ホテル●
 巴里祭
 キング・コング
 一日だけの淑女
 或る夜の出来事
 商船テナシチー●
 にんじん
 街の灯
 会議は踊る
 未完成交響楽
 別れの曲
 情熱なき犯罪
 外人部隊
 春の調べ●
 アンナ・カレニナ●
 白き処女地
 マズルカ
 オペラ・ハット
 ミモザ館
 明日は来らず
 大地
 モダン・タイムス
 オーケストラの少女
 スタア誕生
 舞踏会の手帖
 美しき青春
 望郷●
 民族の祭典
 最後の一兵まで
 スミス都へ行く
〈第二部〉
 プラーグの大学生
 国民の創生
 東への道
 さらば青春
 黙示録の四騎士
 朝から夜中まで
 ドクトル・マブゼ
 幌馬車
 結婚哲学
 椿姫●
 ジキル博士とハイド氏
 十誡
 蜂雀
 ピーター・パン
 冬来りなば
 ダーク・エンジェル
 熱砂の舞
 生けるパスカル
 面影
 最後の人
 海の野獣
 肉体の道
 暗黒街
 紐育の波止場
 アッシャー家の末裔
 アスファルト●
 帰郷
 テレーズ・ラカン
 トウルクシブ
 市街●
 陽気な中尉さん
 大地
 ル・ミリオン
 掻払いの一夜
 チャンプ
 炭坑
 マタ・ハリ●
 白銀の乱舞
 制服の処女
 夢見る唇
 上海特急
 戦場よさらば●
 春の驟雨
 カヴァルケード
 狂乱のモンテカルロ
 呼応計画
 ターザンの復讐
 ロスチャイルド
 男の敵
 俺は善人だ
 乙女の湖
 アラン
 影なき男
 黒鯨亭
 たそがれの維納●
 沐浴
 科学者の道
 幽霊西へ行く
 隊長ブーリバ
 地の果てを行く
 罪と罰
 激怒
 歴史は夜作られる
 シュバリエの放浪児
 女だけの都●〔飯島耕一との対話〈詩的青春の光芒〉で言及〕
 描かれた人生
 禁男の家
 戦艦バウンティ号の叛乱
 ハリケーン
 我が家の楽園
 ブルグ劇場●
 デッド・エンド
 格子なき牢獄
 暁に帰る●
 少年の町●
 コンドル
 美の祭典
 有頂天時代
 チャップリンの独裁者
 駅馬車
〈第三部〉
 明治四十三年
 明治四十四年
 明治四十五年・大正元年
 大正二年
 大正三年
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 大正十三年
 犬正十四年
 大正十五年・昭和元年
 昭和二年
 昭和三年
 昭和四年
 昭和五年
 昭和六年
 昭和七年
 昭和八年
 昭和九年
 昭和十年
 昭和十一年
 昭和十二年
 昭和十三年
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  ひめごと
  赤ちゃん
  ジェニイの家
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  ステラ・ダラス
  テスト・パイロット
 昭和十四年
  とらんぷ譚[ものがたり]
  マルコ・ポーロの冒険
  青髯八人目の妻
  早春
  地中海
  不思議なヴィクトル氏
  ラ・ボエーム
  ターザンの猛襲
  背信
 昭和十五年
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  太平洋の翼
  牧童と貴婦人
  ヴァリエテの乙女
  翼の人々
  カッスル夫妻
  三人の仲間
  旅する人々
  ゴールデン・ボーイ
  美しき争ひ
  オクラホマ・キッド
  フランケンシュタインの復活
  スタンレー探険記
  踊るニュウ・ヨーク
  海洋児
  幻の馬車
  祖国に告ぐ
  大平原
  珊瑚礁
  第三の影
 昭和十六年
 昭和十七年
 昭和十八年
 昭和十九年
 あとがき
 索引


吉岡実と江戸川乱歩(2020年1月31日)

読者は、例えば精巧なパノラマ館内に手を引かれたかのように、ただただ変転する様々な幻想の虜となって、同じく《死児》の身分を共有させられることになるわけである。(秋元幸人〈吉岡実と『死児』という絵〉、《吉岡実アラベスク》、書肆山田、2002年5月31日、二六二ページ)

2019年11月の《編集後記》に丸尾末広《トミノの地獄〔全4巻〕》(KADOKAWA、2014〜19)のことを書いたが、続けて、未読だった《芋虫》(エンターブレイン、2009年11月6日〔5刷:KADOKAWA、2015年3月13日〕)を入手した。ジャケットや表紙に「原作 江戸川乱歩」、「脚色・作画 丸尾末広」とあるように、丸尾が乱歩の短篇〈芋虫〉をまるまる1冊の単行本に仕上げたものだ(初出誌は《月刊コミックビーム》2009年6月号〜9月号とあるが、私はこの雑誌を知らなかった)。〈芋虫〉は岩波文庫(A6判)の浜田雄介編《江戸川乱歩作品集 V〔パノラマ島奇談・偉大なる夢 他〕》(岩波書店、2018年3月16日)ではわずかに本文28ページだが、丸尾の《芋虫》はA5判で140ページの偉容を誇っている。〈芋虫〉は、Wikipediaには「乱歩が本作を妻に見せたところ、「いやらしい」と言われたという。また、本作を読んだ芸妓のうち何人もが「ごはんがいただけない」とこぼしたともいう。」と記されている。この妻や芸妓が丸尾の本を見たら(読んだら)いったいなんと言うだろうか。想像するだに怖ろしい。私がよく利用する区立図書館には、《芋虫》と同じコンビによる《パノラマ島綺譚》(エンターブレイン、2008)が所蔵されているものの、《芋虫》はない。ちなみに、隣接する他区の図書館にもなかった。岩波文庫版はそれらのひとつを除いて所蔵しているから、もっぱら丸尾の画の衝撃性ゆえに、《芋虫》は所蔵を見送られたと思しい。というよりも、第13回手塚治虫文化賞新生賞受賞の《パノラマ島綺譚》が異例だったというべきか(*1)。さて、吉岡実は江戸川乱歩については、〈読書遍歴〉(初出は《週刊読書人》1968年4月8日号、原題は〈軍隊時代とリルケ〉)で次のように記しているだけだ(*2)

 毎年、夏休みになると、どぶ臭い本所東駒形の路地を離れて、市川真間の叔母の家に行き、樹にかこまれた原、尾長鳥の歩いている池のほとりや、昆虫のとんでいる草むらで、ささやかな田園風物をたのしんだ。その家の豊富な蔵書類からわたしはいつも『講談全集』をぬきだして、読み耽ける。英雄豪傑から刀匠、忠僕までおもしろい話はつきない。一冊六百頁もある濃緑の布装の本で、二、三十巻位あったと思う。また年上の従兄弟たちのもっていた、江戸川乱歩の『孤島の鬼』『黄金仮面』『一寸法師』そして『陰獣』という恐るべき作品まで、家人にかくれて読んだものである。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、五五ページ)

江戸川乱歩(1894〜1965)の略年譜には、昭和六(1931)年の項に「平凡社より初の全集を刊行。全十三巻が完結した翌年、二度目の休筆に入る。(三十七歳)」(《江戸川乱歩全集 第30巻 わが夢と真実〔光文社文庫〕》、光文社、2005年6月20日、七九六ページ)とあり、私は吉岡が随想で挙げた乱歩作品は平凡社版全集で読んだものと考えて、かつて《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》にこう記した(平凡社版全集は未見)。

《孤島の鬼〔江戸川乱歩全集. 第5巻〕》(平凡社、1931年7月10日)
 江戸川乱歩の長篇小説。初刊は1930年5月、改造社。
《黄金仮面〔江戸川乱歩全集. 第10巻〕》(平凡社、1931年9月10日)
 江戸川乱歩の長篇小説。初刊は本全集。
《一寸法師〔江戸川乱歩全集. 第2巻〕》(平凡社、1931年10月10日)
 江戸川乱歩の長篇小説。初刊は1927年3月、春陽堂。
《パノラマ島奇譚〔江戸川乱歩全集. 第1巻〕》(平凡社、1931年6月10日)
 〈陰獣〉は江戸川乱歩の中篇小説で初刊は1928年11月、博文館。

資料を博捜したところ、平凡社版乱歩全集の書影があったので、以下に掲げる。出典は後出書影のキャプションに記したが、原本の写真のキャプションを引けば、次のとおりである。

『江戸川乱歩全集』第1巻 1931(昭和6)年6月、第4巻1931(昭和6)年8月、第8巻 1931(昭和6)年5月、第13巻 1932(昭和7)年5月 平凡社 立教大学蔵
乱歩邸自著箱に保管されている遺蔵書。第1巻は『パノラマ島綺譚』収載。乱歩と朔太郎が出会った年の刊行。第4巻は朔太郎と乱歩が愛したフランス製連続活劇の登場人物、ジゴマ、ファントマ、プロテアの名が出てくる「空気男」収載。第8巻は、朔太郎がノートに記した「禁断された言葉」と同じ着想を持つ小説「芋虫」収載。第13巻は「探偵小説十年」が収載。「木馬は廻る」の項で乱歩が朔太郎と浅草で木馬に乗ったことを回想している。

出典:萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち前橋文学館編《〔萩原朔太郎生誕130年記念・前橋文学館特別企画展〕パノラマ・ジオラマ・グロテスク――江戸川乱歩と萩原朔太郎》(萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち前橋文学館、2016年10月1日、〔五ページ〕) 《パノラマ・ジオラマ・グロテスク――江戸川乱歩と萩原朔太郎〔萩原朔太郎生誕130年記念〕》(萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち前橋文学館、2016年10月1日〜12月18日)の丸尾末広による《パノラマ島綺譚》漫画展(同、2016年12月1日〜2017年1月9日)のポスター
出典:萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち前橋文学館編《〔萩原朔太郎生誕130年記念・前橋文学館特別企画展〕パノラマ・ジオラマ・グロテスク――江戸川乱歩と萩原朔太郎》(萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち前橋文学館、2016年10月1日、〔五ページ〕)(左)と同展(同館、2016年10月1日〜12月18日)の丸尾末広による《パノラマ島綺譚》漫画展(同、2016年12月1日〜2017年1月9日)のポスター(右) 〔残念ながら私は双方とも観ていない〕

吉岡は上掲の随想では触れていないが、乱歩全集で《パノラマ島奇譚》を読まなかったとはとうてい信じられない(念のため、乱歩の小説の標題は今日では〈パノラマ島奇談〉である)。乱歩は本作を振りかえって、「連載中は余り好評ではなかった。初めの方の人間入れかわりの個所は面白いにしても、この小説の大部分を占めるパノラマ島の描写が退屈がられたようである。ポーの「アルンハイムの領地」や「ランダーの屋敷」が私の念頭にあったのだが、出来上がったのは、意あって力足らぬ平凡な風景描写でしかなかった。しかし、発表後、年がたつにつれて、チラホラ好評を聞くようになった。中にも萩原朔太郎さんが、私の家の土蔵で酒を酌[く]み交しながら、この小説をほめてくれたことを忘れない。それ以来、この作品に少しばかり対外的自信を持つようになった。」(〈『パノラマ島奇談』――わが小説〉、《江戸川乱歩全集 第2巻 パノラマ島綺譚〔光文社文庫〕》、光文社、2004年8月20日、四九三ページ。初出は《朝日新聞》1962年4月27日)と記しており、朔太郎の評を徳としたことがうかがえる。《猫町》(1935)の詩人が本作を称讃することに、なんの不思議もない。今日では、澁澤龍彦を筆頭に本作の評価はきわめて高い。乱歩の〈パノラマ島奇談〉は前掲岩波文庫では本文146ページの中篇だが、丸尾末広はこれを272ページの《パノラマ島綺譚》に仕立てている。丸尾がさまざまな文献や映画から引用した図像(パスティシュやパロディ)を自作にちりばめることはつとに知られているが――「中期吉岡実」!――、これはまだだれも指摘していないはずだが、とりわけ豊満な美女(たち)とフリークス(たち)の絵にはクロヴィス・トルイユが意識的に採りいれられているのではないだろうか。そしてこの打ち上げ花火を大団円にもってきた映画こそ、土方巽が出演した江戸川乱歩原作・石井輝男監督作品《江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間》(東映、1969)だった(*3)

クロヴィス・トルイユの〈Sous le culte des Sorcieres en flirt(媚を売る巫女の祭祀の蔭に)〉(1943) 原作 江戸川乱歩、脚色・作画 丸尾末広《パノラマ島綺譚》(エンターブレイン、2008年3月7日〔10刷:KADOKAWA、2016年10月7日〕)〈第五章〉の扉絵原作 江戸川乱歩、脚色・作画 丸尾末広《パノラマ島綺譚》(エンターブレイン、2008年3月7日〔10刷:KADOKAWA、2016年10月7日〕)〈第七章〉の扉絵 原作 江戸川乱歩、脚色・作画 丸尾末広《パノラマ島綺譚》(エンターブレイン、2008年3月7日〔10刷:KADOKAWA、2016年10月7日〕)二二八ページ
クロヴィス・トルイユの〈Sous le culte des Sorcieres en flirt(媚を売る巫女の祭祀の蔭に)〉(1943)(左)と原作 江戸川乱歩、脚色・作画 丸尾末広《パノラマ島綺譚》(エンターブレイン、2008年3月7日〔10刷:KADOKAWA、2016年10月7日〕)〈第五章〉の扉絵と同・〈第七章〉の扉絵(中)と同・〈第七章〉の二二八ページ(右)

丸尾の描画力には怖ろしいまでのものがあって、《パノラマ島綺譚》の後半の幻視に充ちたシーンなど、おそらくかつて誰もなしえなかった高みにある。丸尾はそこで、昆虫を含めた動植物(見目麗しい女やおぞましい容姿の男!)や、自然や都市の景観、あたりを行き交う群衆を描く際にも、いっさいの妥協を排して縦横無尽のメチエを渾う。それはとりわけ、1ページ大のコマや各章の扉絵において著しい。それらのページにさしかかるたびに、私は飽かずに見入るのをつねとする。たとえば〈第七章〉で、菰田源三郎になりすましたことが露見したと悟った主人公・人見廣介は、夜の水に泛かんだゴンドラで妻の菰田千代子を絞殺する。その刹那、空に巨大な花火が炸裂する。パノラマ島の住人(?)の美少年が「あっ!? 流星」と言うと、美少女が「あれは花火です」と否む(丸尾がここで下敷きにしたのは、ポウとジョイスか)。その次が、上に引いた本書で最も戦慄的なページで、「源三郎」は蓮の蕾にとまる蛍に気づいて、水に浮かべた千代子に向かって「世界一美しい死体だ」と呼びかける。すると、その髪や頬にも蛍がとまっている。これが《パノラマ島綺譚》で(回想シーンを除いて)千代子が登場する最後のコマである。吉岡実が丸尾末広の《パノラマ島綺譚》を目にすることができなかったのを、私がどれだけ残念に思っているか、おわかりいただけるだろう(*4)。ときに、創作においてあれだけ奇怪な幻視力を恣にする乱歩と吉岡が、幼少時の遊びを語るとき、あたかもその反動ででもあるかのようにくつろいだ調子になるのはまことに興味深い。乱歩に〈ビイ玉〉(初出は《トップ》1936年11月号)と題する随想があるので、その中ほどを読んでみよう。

 少年時代を振り返ってビイ玉に類するものを思い出せば、僕の住んでいた名古屋市では、その頃椿[つばき]の種と銀杏[ぎんなん]の種をもてあそぶことが流行していて、僕にはその二つのものに可愛らしい郷愁がある。
 椿の実の皮をむくと、中に幾[いく]つかのセピヤ色の硬い種がはいっている。その種の一つ一つはちょうど蜜柑[みかん]の袋のような形をしていて、板の上に投げ出すと、多くは横に倒れるが、中にはその丸い底の部分で不倒翁[おきあがりこぼし]のように立っているものもある。
 そこで、子供たちは銘々[めいめい]の椿の種を一つずつ出し合い、一人が両手で振って板の上に投げ出して、丸い底の方で立っていたものを勝ちとして勝負を争う、いわば椿の種の角力[すもう]である。
 椿の種の中にはごく稀[ま]れに、底の丸い部分が非常に広くて、いくら振っても必ず立ち上がる不死身[ふじみ]のものがあった。そういうものを持っている子供は大得意で、赤や青の漆[うるし]でもって表面を彩色して、その頃の横綱、常陸山だとか梅ケ谷[うめがたに]だとかの名を書き入れ、椿角力の大選手として、何の宝にも換えがたく愛蔵したものである。
 僕も椿角力では夢中であった。八百屋から、幾つも幾つも椿の実を買って来て、もしや不死身の種が出て来やしないかと、それを割って見るのが、どんなに楽しみだったろう。そして、もし底の広い、まるでお椀[わん]みたいな形の、さも強そうな種を発見すると、丁寧に漆でお化粧してやるのが又一つの楽しみであった。それを大切がったことは、おそらくフランスの子供たちの、赤道のような縞[しま]のある瑪瑙のビイ玉にも劣らなかったであろう。(《江戸川乱歩全集 第30巻 わが夢と真実〔光文社文庫〕》、六五〜六六ページ)

吉岡の随想を読んだことがあるほどの者なら、誰もが〈ベイゴマ私考――少年時代のひとつの想い出〉(初出は《鷹》1983年7月号)を想起するに違いない。

 私は気に入ったベイゴマが手に入ると、渦巻状のみぞへ蝋やクレヨンを溶かし込み、美しく装うたりした。或る時、妖しい色彩のベイに見惚れた。持主の子にたずねると、石鹸を練ってつめたと、秘法を聞かしてくれた。しかし、このようなベイゴマは、愛玩品であり、ホンコには使うものではない。
 ベイ遊びの極致は、七、八人でやるホンコ勝負につきる。ガチガチぶつかり合う、にぶい鉄(鋳物)の音。強いベイなら、一つも残らずに弾き出してしまう。勝ったベイが自己のものなら、トコから掴み上げればよい。全部戴きだ! ここでは、識別能力が大切なのである。取ったり、取られたり、時々刻々、ベイゴマは替っているのだった。たった今、勝ち取ったベイを、紐を巻きつつ、視覚的触覚的に確認しなければならない。トコの中を動き廻っている七、八個のベイゴマ。どれが自己のベイかみんなわかっているのだ。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二六七ページ)

子供のころの遊びをそれを知らない者に伝えようとすると、いきおい似たりよったりになるというのが大方の真実だとしても、両者の筆の運びにはそれ以上のものがある。つまり、自身の作品(乱歩にとっての小説、吉岡にとっての詩篇)とはまるきり異なる開闊な散文の文体のことをいいたいのだ。私はひそかに想う。吉岡が随想(原稿枚数のみ指定があって、内容は不問だったか)の執筆を依頼されたとき、乱歩の〈ビイ玉〉を読みかえしたのではないか、と。

以下では、吉岡の随想に出てくる乱歩の小説について触れるが、必ずしも吉岡との関係にとどまらない。なお、初刊等はすでに記したので、初出情報を付記する。
(前掲文で吉岡が乱歩を読んだという「市川真間の叔母の家」とは鈴鹿家で、その子たち、すなわち吉岡にとってイトコたちは「順ちゃん武ちゃん千代子ちゃん利恵ちゃん」(《うまやはし日記》、書肆山田、1990、五一〜五二ページ)だから、乱歩本を持っていた「年上の従兄弟たち」は「順ちゃん」(別の個所では「順一さん」とあるのを見ると、鈴鹿順一か)「武ちゃん」ということになろう。《講談全集〔全12巻〕》(大日本雄弁会講談社、1928〜29)は叔母かその夫の所有だろうが、鈴鹿家は子供たちにも乱歩全集を買いあたえるような家柄だった。)

《孤島の鬼》(1929年1月から1930年2月まで博文館の月刊誌《朝日》に連載)――しばしば構成力の弱さが指摘される乱歩の長篇小説にあって、本作はその数珠つながりともいえる展開が読者の予測を超えて、一種異様な迫力を生むに至っている傑作。もっとも、冒頭で語り手の現状(自身の若すぎる白髪と妻の腰にある傷跡)が示されるので、この二人だけは無事に生還するのだと保証されているのだが、読者を手玉に取る乱歩の筆は、初期の長篇中、随一である。さて、乱歩には密閉願望ともいうべき性向がある。私は閉所恐怖症とは異なるが、光ひとつ射さない洞窟で水が満ちてくるような場面は想像するだけで耐えがたく、本作後半の冒険譚(とりわけ〈八幡の藪知らず〉以降)では、何度もページを閉じて気を紛らわしてからでないと続きが読めなかったことを告白する。それだけに〈大団円〉の、病死した道雄(語り手を慕いつづけた)を看取った父親からの手紙は、わずか二行ながら、その高揚の爆発ともいうべき結語である(いったいに乱歩は、末尾の一文で大向こうを唸らせる。たとえば短篇〈踊る一寸法師〉(*5)の「水の様な月光が、変化踊[へんげおどり]の影法師を、真黒に浮き上らせていた。男の手にある丸い物から、そして彼自身の脣から、濃厚な、黒い液体が、ボトリボトリと垂れているのさえ、はっきりと見分けられた。」を見よ)。私は《草の花》(1954)を書いた福永武彦(1918〜1979)が《孤島の鬼》をどう読んだのか(むろん読んだに決まっている)、無性に知りたいと思ったものだ。

《黄金仮面》(1930年9月から1931年10月まで大日本雄弁会講談社の月刊誌《キング》に連載)――本作は、私の最も早い時期の江戸川乱歩の作品のイメージそのものである。すなわち、年少者を含むあらゆる年齢層の読者を魅了する乱歩節の連打。明智小五郎とアルセーヌ・ルパン(黄金仮面)の一騎打ちと来れば、手に汗を握るシーンの連続になるのは必定だ。ルパン物への言及が多いのも、ルブランの愛読者にはこたえられない作者のサービスである。乱歩の文章の読みやすさの要因のひとつに、平然と繰りだす紋切り型が挙げられる。

 間もなく問題の白き巨人がカフェの外へ姿を現わした。如何にも白い。頭から足の先まで白粉[おしろい]で塗りつぶした様に真白だ。服を脱がせたら、皮膚も白子みたいに真白かも知れない。少くとも顔丈けは、白人にも珍らしい白さだ。
 身体も巨人の名に恥じぬ偉大なものであった。六尺以上の身長で、しかも角力[すもう]取みたいに肥太[こえふと]っているのだ。
 彼はカフェを出ると、車も拾わず、ブラブラと銀座通りへ歩いて行く。
 珍妙不可思議な尾行行列が始まった。先頭に立つのは白粉のお化け然たる肥大漢、それから十五六間あいだを置いて、アルパカ黒眼鏡の怪老人、赤い長靴の運転手、つづいて兵隊上りの番頭さんといった恰好の刑事君。(〈白い巨人〉、《江戸川乱歩全集 第7巻 黄金仮面〔光文社文庫〕》、光文社、2003年9月20日、三二八ページ)

「肥大漢」とは今日ではほとんど見かけない言い回しで――その情け容赦ない感じを嫌ってか、「ポッチャリ」などと称するが、まるきり別物である――、吉岡実は《神秘的な時代の詩》巻頭の〈マクロコスモス〉(F・1)で

 〔……〕
 肥大漢のぼくらの姉妹
 双生児を生みに行く
 長いボール紙の筒があるかね?
 それを廻って
 ぼくらの肥大の子供は遊ぶんだ
 ダンダン畑から採る
 輪切りのパイナップル
 食べる桃色の人食人種
 考える口が見える時まで
 だんだんにふとるぼくら肥大漢の兄弟
 〔……〕

と、こちらもまた平然と「肥大漢」を登場させている。吉岡が《僧侶》の堅固な詩語の気圏から脱出する際に、乱歩的な語彙の活用を図ったことはまことにもって興味深い。

《一寸法師》(1926年12月8日から1927年2月20日まで《東京朝日新聞》に、1926年12月8日から1927年2月21日まで《大阪朝日新聞》に掲載)――小説の本文と光文社文庫版江戸川乱歩全集に付された註釈を引く。

【本文】@
 彼〔小林紋三[もんぞう]〕は交番を横目に見て、少し得意にさえなりながら、なおも尾行を続けた。一寸法師は大通りから中の郷のこまごました裏道へ入って行った。その辺は貧民窟[くつ]などがあって、東京にもこんな所があったかと思われる程、複雑な迷路をなしていた。相手はそこを幾度となく折れ曲るので、ますます尾行が困難になるばかりだ。紋三は交番から三町も歩かぬ内にもう後悔し始めていた。(〈死人の腕〉、《江戸川乱歩全集 第2巻 パノラマ島綺譚〔光文社文庫〕》、五〇八ページ)
【註釈】@
*90 中[なか]の郷[ごう] 同名の地名が深川区と本所区にあったが、一寸法師が吾妻橋を渡ってやってきたことと、「本所[ほんじよ]」とのちに明記されていることから本所区の中之郷と考えられる。これは江戸期から昭和五年の町名で、昭和五年に吾妻橋一〜三丁目となった。乱歩は本所区中之郷竹町[たけちよう](現行の墨田区)に大正六年六月ごろ住んでいた。(同前、七四〇ページ)

【本文】A
僕はあの翌日一杯かかって、出来るだけ調べたのですが、吾妻橋の東詰[ひがしづめ]までは、色々な人の記憶を引出して、どうにかこうにか跡をつけることが出来ましたけれど、それから先は、橋を渡ったのか、河岸[かし]を厩橋の方へ行ったのか、それとも左に折れて業平橋[なりひらばし]の方に向ったのか、どう手を尽しても分らないのです。(〈お梅[うめ]人形〉、同前、五五一ページ)
【註釈】A
*97 厩橋[うまやばし] 隅田川に架かる橋の一つで、吾妻橋より駒形橋をはさんで下流にある。台東区蔵前二丁目と駒形二丁目のあいだ春日通りを墨田区本所一丁目へと明治七年に創架された。明治二十六年に鉄橋に、昭和四年に鉄筋コンクリート橋に架け替えられた。後述の業平橋[なりひらばし]は、現在のものは昭和五年に墨田区業平一丁目より吾妻橋三丁目へ大横川に架された橋。創架は寛文[かんぶん]二年(一六六二)にさかのぼり、付近にあった業平天神の名を取って名付けられた。(同前、七四三ページ)

吉岡陽子編《〔吉岡実〕年譜》の冒頭は「一九一九年(大正八年)/四月十五日、東京市本所区中ノ郷業平町に生まれる。吉岡紋太郎、いとの三男。父は明徳尋常小学校の小使。姉政子、兄長夫、次兄清(早世)。」(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996、七八九ページ)である。吉岡はこの小説に浅草や厩橋が出てくるところ以上に、【本文】@の「一寸法師は大通りから中の郷のこまごました裏道へ入って行った。」という箇所に打たれたのではあるまいか。自分の生まれた土地や、現在住んでいる場所が小説に登場すれば、作者がそこにどのような記号的な意味を付与しているか、だれもが気になるだろう。とりわけその作者に心酔している場合は。

《陰獣》(博文館の月刊誌《新青年》に1928年8月増刊・9月・10月と3回連載)――乱歩は本篇で、作中の「私」と小説家「大江春泥」に分裂して、後者を戯画化してみせる。次の「大江春泥の不気味な小説「屋根裏の遊戯」」が乱歩自身の〈屋根裏の散歩者〉(1925)をほのめかしていることは、誰にでもわかる。

 私は静子の話を聞いている内に、大江春泥の不気味な小説「屋根裏の遊戯」を思出さないではいられなかった。若し静子の聞いた時計の音が錯覚でなく、そこに春泥がひそんでいたとすれば、彼はあの小説の思附きを、そのまま実行に移したものであり、誠に春泥らしいやり方と肯[うなず]くことが出来た。私は「屋根裏の遊戯」を読んでいた丈けに、この静子の一見突飛[とつぴ]な話を、一笑に附し去ることが出来なかったばかりでなく、私自身激しい恐怖を感じないではいられなかった。私は屋根裏の暗闇の中で、真赤なとんがり帽と、道化服をつけた太っちょうの大江春泥が、ニヤニヤと笑っている幻覚をさえ感じた。(《江戸川乱歩全集 第3巻 陰獣〔光文社文庫〕》、光文社、2005年11月20日、五九二ページ)

一般に視覚型とされる乱歩だが、この音の使い方など堂に入ったものだ。とにかく五感の刺激の仕方が半端ではない。もうひとつ、いかにも乱歩らしい一節を引こう。

 小さな蔵の窓から、鼠色の空が見えていた。電車の響きであろうか、遠くの方から雷鳴の様なものが、私自身の耳鳴りに混って、オドロオドロと聞えて来た。それは丁度、空から、魔物の軍勢が押しよせて来る、陣太鼓の様に、気味悪く思われた。恐らくあの天候と、土蔵の中の異様な空気が、私達二人を気違いにしたのではなかったか。静子も私も、あとになって考えて見ると、正気の沙汰[さた]ではなかったのだ。私はそこに横わってもがいている彼女の汗ばんだ青白い全身を眺めながら、執拗[しつよう]にも私の推理を続けて行った。(同前、六五五〜六五六ページ)

吉岡が冒頭の随想で「『陰獣』という恐るべき作品」と書いているのは、閨房での鞭打ち行為や「私」と「静子」の交情などの、一〇代の読者には刺激的な内容によるためだろう。「ある時は、静子と私とは、幼い子供に返って、古ぼけた化物屋敷の様に広い家の中を、猟犬の様に舌を出して、ハッハッと肩で息をしながら、もつれ合って駈け廻った。私が掴もうとすると、彼女はいるか[、、、]みたいに身をくねらせて、巧みに私の手の中をすり抜けては走った。グッタリと死んだ様に折重なって倒れてしまうまで、私達は息を限りに走り廻った。ある時は、薄暗い土蔵の中にとじ籠って一時間も二時間も静まり返っていた。若し人あって、その土蔵の入口に耳をすましていたならば、中からさも悲しげな女のすすり泣きに混って、二重唱の様に、太い男の手離しの泣き声が、長い間続いているのを聞いたであろう。」(同前、六三九ページ)

《パノラマ島綺譚》(1926年10月から1927年4月まで博文館の月刊誌《新青年》に連載)――この際だから、吉岡の随想には登場しない《パノラマ島綺譚》にも触れておこう(以下、底本は《江戸川乱歩全集 第2巻 パノラマ島綺譚〔光文社文庫〕》)。主人公の妻を描く乱歩の筆は、その紋切り型も含めて、見事だ。

 廣介は、源三郎としての彼女〔千代子〕との初対面の光景を、其後長い間忘れることが出来ませんでした。〔……〕
 そして、彼の身体が、玄関に担[かつ]ぎ卸[おろ]されるのを待兼ねて、その上にすがりつき、長い間、親戚の人達が見兼ねて、彼女を彼の身体から引離したまで、身動きもせずに泣いていました。その間、彼はぼんやりした表情を装って、睫毛[まつげ]を一本一本算[かぞ]えることが出来る程も、目の前に迫った彼女の顔を、その睫毛が涙にふくらみ、熟し切らぬ桃の様に青ざめた、白い生毛[うぶげ]の光る頬の上を、涙の川が乱れて、そして、薄桃色の滑[なめら]かな脣が、笑う様に歪[ゆが]むのを、じっと見ていなければなりませんでした。そればかりではありません。彼女のあらわな二の腕が、彼の肩にかかり、脈打つ胸の丘陵[きゆうりよう]が、彼の胸を暖め、個性的なほのかなる香気までも、彼の鼻をくすぐるのでした。その時の、世にも異様な心持を、彼は永久に忘れることが出来ません。(同書、四〇三〜四〇四ページ)

丸尾の《パノラマ島綺譚》でも千代子ははなはだ魅力的に描かれている(ただし原作にある「二十二歳」よりも年上に見える)。乱歩がほとんど描写していない服装に関しても、洋装をはじめ(初登場時を含め、外出時は洋服が多い)、和服の柄も描きわけていて、それを観るだけでも本書を手にする価値はある。その極め付きこそ、ラファエル前派も三舎を避ける、あのネグリジェふうの死装束だった。視覚的な驚きと喜びがほしいときは、本書を開くに限る(*6)

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(*1) 乱歩・丸尾の《パノラマ島綺譚》(エンターブレイン)の図書館所蔵本の奥付には「2011年10月7日初版6刷発行」とあり、2009年の第13回手塚治虫文化賞新生賞受賞後の刷りだった。なお、本書の発行所がエンターブレインからKADOKAWAに変わったのがどの時点だったのか、調べがつかなかった。

(*2) 乱歩自身も同種の随想〈私の読書遍歴〉(《日本読書新聞》1952年5月7日)で少年時代を振りかえって、次のように書いている。

 私の読書は少年時代から今にいたるまで散歩的であり、放浪旅行的である。気が向いた時に気が向いたものを読む。ちょっとの散歩で帰ることもあり、思わぬ長旅、長逗留[とうりゆう]になることもある。
 少年時代には小波山人の「世界お伽噺」(日本お伽噺ではない。王子や魔法使の出る方のお伽噺)、押川春浪の冒険小説、黒岩涙香の翻訳小説の三つに心酔した。立川文庫も読んだけれど、多くの人々が云うほどには耽読しなかった。私は生来「水滸伝[すいこでん]」風の面白さを解しない性格で、立川文庫にはそれと近似した味があったからであろう。したがって私は八犬伝も通読していない。(《江戸川乱歩全集 第30巻 わが夢と真実〔光文社文庫〕》、光文社、2005年6月20日、三〇七ページ)

夏目漱石、谷崎潤一郎、芥川龍之介、佐藤春夫、スタンダール、ブールジェ、ジード、松尾芭蕉、などは吉岡の読書をめぐる随想にも登場する共通の作家だが、乱歩のそれには芭蕉以外の詩歌人が登場しない。乱歩は萩原朔太郎と交友があり、北原白秋あたりに言及していてもよかりそうなものの、同書の〈人名索引〉には登場しない。当然のような気もするが、白秋が吉岡にとっての(短歌の)守護神であっただけに、なんとなく残念である。

(*3) 吉岡実は《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987)の〈21 映画「恐怖奇形人間」〉でこう書いている。なお1969年11月7日は金曜日。

 〈日記〉 一九六九年十一月七日
 夜、渋谷の東映で「恐怖奇形人間」を観る。あんぱん、品川巻を食べながら。客席はがらがら。物語の後半になって、土方巽と若い男女の弟子たちの大活躍にふたりで大笑い。トップでコーヒーをのみ、いなり寿司を買って、十時近く帰宅。(同書、三七ページ)

《江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間》をDVD化した《HORRORS OF MALFORMED MEN》(Synapse Films、2007)のジャケット
《江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間》をDVD化した《HORRORS OF MALFORMED MEN》(Synapse Films、2007)のジャケット 〔土方巽のカットが多用されている〕

石井輝男監督作品《江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間》は1969年10月31日封切り。製作:東映京都撮影所、色・サイズ:カラー・2.35:1、上映時間:99分。脚本:石井輝男・掛札昌裕。出演:吉田輝雄、由美てる子、土方巽、葵三津子、小畑通子、賀川雪絵、小池朝雄、近藤正臣、大木実、ほか。Wikipediaには「完成試写での営業サイドの反応が悪く、捨て週間での公開で、出来の良くないポルノアニメ〔《㊙劇画 浮世絵千一夜》〕との併映となり、客席はガラガラ、ラストシーンも静まり返った。興行成績が全く振るわず10日間で公開打ち切り。」とある。石井輝男は〈土方巽を呼んで、遊んでしまった――『恐怖奇形人間』『殺し屋人別帳』『監獄人別帳』『怪談昇り竜』〉で、「〔企画は〕「パノラマ島奇談」と「孤島の鬼」が主体だった」「能登ですごい波が立つところがあるんですね。十メートルぐらいバーッと立つんですよ。土方さん、あそこから登場してくれるととてもいいけどなあ、だけどあそこまで行くのは危ないしなんて言ってるうちにね、やりましょうってね。」「土方さんとか小池朝雄はさんざんお遊びで楽しんじゃってますね。」などと語っている(石井輝男・福間健二《石井輝男映画魂》、ワイズ出版、1992年1月1日、二〇六〜二一〇ページ)。その「土方巽」の註に「映画は石井作品以外には〔19〕69年の西江孝之監督『〔へそ閣下→臍閣下〕』、70年の中島貞夫監督の『温泉こんにゃく芸者』と黒木和雄監督『日本の悪霊』などに出演。圧倒的な個性でスクリーンを緊迫させた。」(同書、二〇七ページ)とあるが、吉岡の日記や随想にこれらへの言及はない。

(*4) 丸尾自身は《ユリイカ》2015年8月号の〔特集*江戸川乱歩――没後五〇年〕の〈極大と卑小の大パノラマ――乱歩という源泉〉で「ただ、あと一〇年早くやっておけばよかったという悔いはあります。たとえば実相寺昭雄が死んでしまった、久世光彦も種村季弘も、マンガ評論家の米沢嘉博も亡くなりましたね。この四人かいなくなってしまったというのは僕にとってはけっこう大きい。このひとたちに見せてみたかったなというのがあったものですから。」(同誌、一四五ページ)と語っている。

(*5) 《パノラマ島綺譚》、《芋虫》に続く乱歩原作・丸尾脚色・作画の第三弾は〈踊る一寸法師〉(丸尾末広画集《乱歩パノラマ》、エンターブレイン、2010、所収。初出誌は《月刊コミックビーム》2010年4月号)である。同作は26ページの短篇ながら、A4判という大きな紙面にスミとアカの二色刷りで、そのエロチックでグロテスクな風味は無類だ。吉岡実の詩では「小さな街には小さな火事があり/樽と風を入れる場所がある/そこでガリ氏はぬけめなく/サーカスを開催する」と始まる〈サーカス〉(I・2)が乱歩・丸尾の描く見世物小屋の雰囲気に最も近い。

(*6) 四方田犬彦は《漫画のすごい思想》(潮出版社、2017年6月20日)の〈多元倒錯の悦び――宮西計三〉を「〔一九〕八〇年代には丸尾末広[まるおすえひろ]と宮西計三という、二人の異端漫画家が本格的に活動を開始した。「異端」と記したのは、その物語の筋立てに囚われず、もっぱら精妙に描かれた一枚絵の内側の美しさとグロテスクに主眼を置いた漫画作りに作品の基礎を置いていたからである。おりしも漫画が劇画と呼ばれ、出版社があてがう原作物語の単なる図解化へと堕していった時代が到来していた。彼らの出現と過激な活躍は、他の追随を許さぬたぐいのものだった」(同書、二五八ページ)と初めている。「丸尾末広は戦後の闇市とサーカス小屋の喧騒を好んで描いた。古今東西の映像資料をコラージュして、硬質的な描線のもと、戦後日本社会がつとに隠蔽してきた被抑圧的な現象を好んで主題とした。〔……〕丸尾の作品の根底にあるのは冷ややかにして強烈なアイロニーである。/丸尾と宮西〔……〕は世代的に、『COM』の新人漫画家発掘の時期に遅れ、七〇年代に青年コミック誌を拠点として活躍を開始したという点で、世代的に共通するものをもっている。八〇年代に彼らを支えたのは青年エロ劇画誌であり、『ガロ』であった。とはいうものの彼らの作品が醸し出す独自のエロティシズムとキッチュ趣味、頽廃的な世界認識のあり方は、実のところ漫画という表象システムの枠を大きくはみ出していると見なすべきだろう」(同書、二五八〜二五九ページ)。宮西計三の代表作《バルザムとエーテル――無信仰》(河出書房新社、2000年4月20日)の標題がドイツ・ロマン主義詩人ノヴァーリスの〈夜の讃歌〉に負っていたように、丸尾末広の近年の作品は江戸川乱歩や夢野久作の小説に負う処が大きい。今日までに映画化、テレビドラマ化された乱歩作品はかずかずあれど(試みにYouTubeで「江戸川乱歩」を検索すると、朗読作品・ラジオドラマ・テレビドラマ・映画――《江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間》の予告編もある――など、膨大なプログラムを視聴できる)、漫画化された乱歩作品となれば丸尾の上記3作、《パノラマ島綺譚》《芋虫》〈踊る一寸法師〉にとどめをさす。

丸尾末広の〈月よりの使者〉が掲載された《ガロ》(1983年2・3月合併号)裏表紙の青林堂の自社出版広告〔上段がひさうちみちおの、下段が丸尾の書籍〕
丸尾末広の〈月よりの使者〉が掲載された《ガロ》(1983年2・3月合併号)裏表紙の青林堂の自社出版広告〔上段がひさうちみちおの、下段が丸尾の書籍〕


吉岡実と吉野弘(2019年12月31日)

吉岡実と吉野弘については、かつて〈吉岡実の装丁作品(109)〉で書いたことがある。だが、そこで詩に関して本格的に論じたわけではなかった。2019年2月に岩波文庫版《吉野弘詩集》が出たこともあり、ここで改めて吉岡実と吉野弘の詩を考えてみたい。ときに、吉野はその〈山本周五郎小論〉をこう始めている。

 山本周五郎の文章は、溜息が出るほど巧みである。文章のうまいという点では、志賀直哉と並ぶ作家だと、私は思っている。しかし山本氏の巧みな文章がつくりあげている物語の世界は、私を警戒させる何ものかを含んでいる。以下の拙文は、山本周五郎論というほどのものではなく、放談程度のものにすぎないが、山本氏に対する敬愛と共に、不服めいた気持も述べようとして書いた。
 一、二年前、ちょっとしたことがきっかけで、山本氏の小説を読んだ。非常に面白かったので、ある期間、手当り次第に読み漁り、人にも、山本氏の小説を吹聴するほどになったが、実を言うと、心の一隅で、自分がもし小説を書けば、山本周五郎的な小説を書くだろうと思ったりした。そのくせ、山本氏の小説に、言いがたいほどのいらだたしさを覚えたことも事実で、自分は山本周五郎になりたくない、などと思ったりもした。(山本氏の弟子筋の人から、なぐられるかも知れない!)
 勿論、私には、山本氏の構想力も洞察力もまた、あの魅力的な筆力もない。しかし、山本氏の、小説を書いている位置に、私が非常に近いということを、何といおうか、本能的に感じるのである。だから、この類縁性は、先ず間違いなしに、私を、山本氏の亜流ぐらいにはすると、私は思ったのである。
 私は、人に会ってみたいと余り思わぬ人間だが、山本氏にだけは、一度、お会いしたかった、と今でも思っている。新聞で、氏の訃報を見て、淋しかったことを思い出す。(《吉野弘詩集〔現代詩文庫12〕》、思潮社、1968年8月1日、九五ページ)

私は「吉野弘の詩は、溜息が出るほど巧みである。〔……〕勿論、私には、吉野氏の構想力も洞察力もまた、あの魅力的な筆力もない。しかし、吉野氏の、詩を書いている位置に、私が非常に近いということを、何といおうか、本能的に感じるのである。だから、この類縁性は、先ず間違いなしに、私を、吉野氏の亜流ぐらいにはすると、私は思ったのである。」と読みかえてみたい誘惑に駆られる。そしてそれは、ひとり私だけでなく、現代詩文庫版や岩波文庫版の吉野弘詩集を読んだほどの人なら、その多くが感じるのではないだろうか。具体例を挙げよう。私はかつて、吉野弘が見たものと同じ光景を見ている(〈おとこ教室〉の初出は1999年2月、《櫂》33号)。

おとこ教室|吉野弘

かなり以前のこと
「おとこ教室」という看板を見て
私は動転した。

西武鉄道の或る乗替駅に降り立ったとき
ホームの両側に並立している多くの看板の一つに
横書きで書かれていた文字――それが
「おとこ教室」だった。
驚いた私は
男を、どのように教える教室か? と困惑
一瞬
「おこと教室」を読み違えていたことに気付き
声をこらえて噴き出した。

しかしそれ以来
私はこの看板に出会うたびに
お琴を奏でる技そのままに
男の琴線を巧みに奏でる女の技が
きっと、女の腕の中に秘められている、と
私は思うようになった。

「おこと」と「お琴」とは書かず
「おこと」と平仮名にした教室の魂胆は判らないが
漢字に簡単には座を譲ろうとしない平仮名の
ひそかな誇[ほこり]のようなものが

もっとも私の記憶では、看板があったのは西武新宿線・沼袋駅の高田馬場駅寄りの北側で、いまその看板はない。話を吉野詩に戻せば、吉野と同様、みごとに看板を読み間違えた私が大略最後の第4節のような感慨を抱いたことは確かだが、その前の節の「お琴を奏でる技そのままに/男の琴線を巧みに奏でる女の技が/きっと、女の腕の中に秘められている、と/私は思うようになった。」と感じたわけではない。その看板を見た当時の私は、小学校低学年だったから。

次の詩(詩集《北入曽》所収)も、若いころにはなかなか味わいつくせなかっただろう。なお吉野は、1972年から埼玉県狭山市北入曽に在住した。私は、さしたる根拠もなくこの詩から大岡昇平の小説を想起する。「小説の読みすぎ」かもしれない。

秋の傷|吉野弘

奥さまがお有りのあの方と、私は歩いた
川岸にひろがる丈高い葦の茂みを
われ乍[なが]ら軽薄と思う冗談をふりまいて

「気をつけないと傷つきますよ」
あの方が、そうおっしゃった
それは葦の葉の鋭い切っ先のことでしたが
私は、こんなふうに聞きたかった
「僕を信用しすぎてはいけません」
――言うならば、何事かへの歯止め……
私は首をすくめた「小説の読みすぎだわ!」

葦の茂みをぬけると
あの方は笑って手の甲の傷を私に見せた
「君に注意したくせに僕が切られている」

あの方をお誘いしたのは私だったのに
私は傷を負わなかった
あの日、私は傷がほしかった
あの方と葦の茂みを歩いた確かな証拠に

この「傷」が、肉体だけでなく精神のそれである処が、なんともエロティックだ(それにしても「葦の茂み」!)。大岡昇平の師であるスタンダールはたしか、恋愛とは魂の触れあいに始まり、肉体の接触に終わる、と喝破した。するとこれは、吉野弘による《恋愛論》だったのか。「あの方」が吉野で、「私」が有夫の女性だとまでは言わないが、吉野の詩にはこうしたドキリとさせる部分のあることを人があまり明言しないのは不思議である。

この吉野の詩に相当する吉岡実詩は容易に見あたらない。吉岡は恋愛詩をほとんど書いていないのだ。たしかに随想〈女へ捧げた三つの詩〉(初出は《現代の眼》1961年11月号)には中村葉子に献じた〈溶ける花〉(A・4)、池田友子に与えた〈冬の歌〉(B・8)、Y・W――のちの妻である和田陽子――へ捧げた〈夏〉(C・10)が引用されている。だが、これらとて一般的な恋愛詩とはずいぶん様相が異なる。しかるにここに〈感傷〉(C・18)一篇がある。これこそは恋愛の形而上学を展開した、吉岡唯一の恋愛詩といえよう。この詩には「女」と「少女」、そして「ぼく」が登場する。これらを現実の人間関係に引き戻す愚は避けなければならないが、主人公=「ぼく」、人妻=「女」、結婚相手=「少女」をいう格子を当てはめることは許されよう。さらに、詩篇の世界を離れさえすれば、金井美恵子が〈吉岡実とあう――人・語・物〉で「〔……〕恋愛と手ひどい失恋によって書かれた『僧侶』の頃、筑摩書房で一緒に働いていた陽子さんが、吉岡さんのところへ女性から一方的にかかって来る電話を取りつぎ、陽子さんがその時のことを思い出して、本気でその女性の女性的気ままさ[、、、、、、、]を怒って、ミーちゃんたら本当にかわいそうだったんだから、いやな女でさ、わかんない? いるでしょう? そういう神秘的みたいなタイプ、と私たちに向って言いながら、吉岡さんにまるで少女のようにイーッという顔をし、吉岡さんが照れて、いや、まあさ、と口ごもったりしたことを、語るべきだろうか。」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月30日、二二四ページ)と書いているように、〈冬の歌〉の池田友子と〈夏〉のY・Wを同一画面に描いた大作こそ〈感傷〉だった、と見ることができる。ちなみに吉岡は、1958年8月8日の日記に「〈感傷〉出来。これで詩集《僧侶》の十九篇完成」(〈断片・日記抄〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一一九ページ)と書いている。本篇の初出は詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日)で、すでに〈僧侶〉(C・8)や〈死児〉(C・19)を書きおえていた吉岡が、どうしてもこの詩集に入れたい詩篇だった。全6節99行から、冒頭と末尾の節を引こう。

感傷|吉岡実



鎧戸をおろす
ぼくには常人の習慣がない
精神まで鉄の板が囲いにくる
街を通るガス管工夫が偶然みて記憶する
箱のなかに匿れた一人の男
便器にまたがるぼくをあざわらう
桃をたべる少女はうしろむき
帽子をまぶかくかぶるガス管工夫の槌の一撃を憎む
少女の桃を水道で洗わせず
狭い蜜のみなもとを涸していったから
幼い袋の時代
大人のの汗の夏を知らぬ
少女もいつかは駈けこむだろう
ぼくの箱の家
正面の法律事務所の畸型の入口の柱を抱くだろう
それまで休業だ
屋根から寝台まで縞馬を走らせ
ペンキを塗り廻る
すでに伽藍の暗さ

〔……〕



ぼくは睡蓮の花を再びのぞく
転換が行われず
世界のを巻く紐のすべてが解かれていない
蛙も挟まれる
花の深所から金髪が吹きだされるのを夢みる
ぼくは自分と不幸なを救済すべく
の腿へ手をのべる
喪服は夜に紛れやすい形と色を持つ
あまつさえ時間がくると滑る
それから先のぼくはまじめな森番だ
くさむらのひなを育てようと決意する
水べを渉る鷭の声に変化したの声を聴く
法律や煤煙のとどかぬ小屋で
卑俗なあらゆる食物から死守され
ぼくだけが攻めている美しい歯の城
その他の美しい武器をうばう
落日は輝くもの
おえつするもの
の髪の上に滝が懸けられて凍る
ぼくは冷静に法典の黄金文体をよむ
さてぼくはには大変つくした
罪深いは去らせよう
ガス管工夫に肖た子をつれて桃の少女が結婚を迫るのを
ぼくは久しく待つんだ

吉岡はこの詩に、魂と肉体の痕跡を永遠にとどめた。《僧侶》を「少女」と「女」に着目して読みなおすこと、それが吉岡実の作品史において特異なこの詩集の核に触れることになるのではないか。後年、大岡信との対話〈卵形の世界から〉(《ユリイカ》1973年9月号〔特集=吉岡実〕)で「だから、『静物』か『僧侶』に戻っていってああいう詩を書きなさいといわれるけど、あれはあれ、しかたないわけよね、もう。われわれの道は戻る道なのか、戻らない行きっ放しの道なのかもわからないけど、行きっ放しでいいんではないか。」(同誌、一五八ページ)と語っているのは、もはやああした恋愛詩を書くことはできない、と言っているように私には聞こえる。

《吉野弘詩集〔現代詩文庫12〕》(思潮社、第1刷:1968年8月1日〔第15刷:1980年10月1日〕)の表紙と小池昌代編《吉野弘詩集〔岩波文庫〕》(岩波書店、2019年2月15日)のジャケット
吉野弘の選詩集でこれまでいちばん多く読まれただろう《吉野弘詩集〔現代詩文庫12〕》(思潮社、第1刷:1968年8月1日〔第15刷:1980年10月1日〕)の表紙とこれからいちばん永く読まれるだろう小池昌代編《吉野弘詩集〔岩波文庫〕》(岩波書店、2019年2月15日)のジャケット ちなみに国東照幸装丁の《吉野弘詩集〔現代詩文庫12〕》表紙のウニのようなカットは《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(1968年9月1日)と同じ絵柄で、吉岡は同書に収めた〈断片・日記抄〉の昭和三十六年に「七月十二日 吉野弘から《消息》再版をもらう。」(一二五ページ)と記している。

佐々木幹郎は〈どこから誕生をとらえるか――吉野弘追悼〉(《ユリイカ》2014年6月臨時増刊〔総特集=吉野弘の世界〕)で〈I was born〉と〈タコ〉を引いて、吉野弘と吉岡実の詩を対比・検討している。前半はむろん吉野の〈I was born〉についてで、末尾にいたって吉岡が登場する。

 〔……〕吉野弘の詩と対比させて、生物の誕生を描いたまったく別の角度からの詩をここに置いてみよう。
 吉岡実に「タコ」(『サフラン摘み』所収、一九七六)という作品がある。この詩では、タコの母もまた、「I was born」の蜉蝣の母と同じように、「一度の排卵」で死ぬ存在としてある。詩では、タコの雄と雌の生殖が描かれる。誕生は官能性を帯びるとともに、呪われたものとしてある。

  【佐々木がここに引用した〈タコ〉は、〔第一節〕の全行、散文詩型の〔第二節〕の約5行分を中略して、〔第三節〕の終わり5行を後略した形――小林註】

 おそらく吉岡実の「タコ」は、タコの生殖行為と子育ての図(あるいは映像)を見て、そこから詩のアイディアが生まれたのだろうと思われる。タコの雄はここでは射精するだけの存在だ。そして詩のなかでは、たちまちのうちに姿を消している。
 「塩と水からタコは出現したのだ」という、驚くべき比喩で、誕生を「出現」と見なす考えは、「父」なるもの、「母」なるものを、偽悪的なイメージで殺すことによってしか生まれない。
 それは子どもの両親を越えて、生命の起源へ遡ることを要請する。そこでは、妊婦のイメージは作品の冒頭にやってこない。吉岡実の「タコ」は、末尾に次の二行が置かれて、鮮烈なエロチシズムをかもしだす。

  それは過去のことかも知れない
  夏の沖から泳ぐ女がくる

 「I was born」の冒頭では、女は「こちらへやって」きて、やがて「ゆきすぎた」。しかし「タコ」では、最終行で「女がくる」のだ。その姿を見守っている長い時間がある。
 人類の種としての継続は無限である。その無限循環を、有限の身体である個人が受け止めようとするとき、無限をどこかで見ることが必要だ。吉野弘の詩はその無限を受動態=「善意」でとらえようとし、一方、吉岡実はその無限を能動態=「悪意」でとらえようとした。どちらも神秘的であり、魅力的で、この二つの対比を通して、わたしはわたし自身の「生」の輪郭を見たいと思う。高校生のときに初めて吉野弘の詩に出会って以来、ほんとうに作者が亡くなってから、その詩がわたしに近づいてきたのである。(同誌、二五〜二七ページ)

佐々木幹郎の論考に間然する処はなく、付けくわえるべきものはない。あるとすれば、「おそらく吉岡実の「タコ」は、タコの生殖行為と子育ての図(あるいは映像)を見て、そこから詩のアイディアが生まれたのだろうと思われる」という指摘のとおり、吉岡自身が「〈タコ〉という詩は、私の長い詩作体験のなかでも珍しいものである。なぜならこの詩の発想――というより主題の発見は、テレビの自然科学映画から得たからである。偶然観たタコの生態に興味をおぼえ、大急ぎで、ありあわせの紙にメモをとろうとしたが、瞬時に過ぎ去る映像とナレーションなので、最小限の事項を得ただけである。ものの本でタコのことを調べることもなく、あとは私の想像力(創造力)で一気に書き上げた。だからこの詩は、科学的には正確ではない。しかし私にとっては、リアリティのある作品になったという自負もあったが一抹の不安もあった。」(〈自註〉、《無限》41号〔現代百人一詩自選自註〕、1977年12月、一六〇〜一六一ページ)と書いていることくらいだ。佐々木の論の眼目は「吉野弘の詩はその無限を受動態=「善意」でとらえようとし、一方、吉岡実はその無限を能動態=「悪意」でとらえようとした。」である。一見、なんの接点もないかのごとき吉野弘詩と吉岡実詩は、ともに畏怖すべき「無限」のまえで背中合わせに佇立している。この、生と死に対する怖れと憧れのない詩に、私はどうも惹かれないようである。

よしだたくろうのアルバム《元気です。》のレコードジャケット(Odyssey/CBS Sony、1972)
よしだたくろうのアルバム《元気です。》(Odyssey/CBS Sony、1972)のレコードジャケット

吉田拓郎(当時は「よしだたくろう」)のアルバム《元気です。》(Odyssey/CBS Sony、1972)は彼の最高傑作だと思う。作曲はすべて拓郎自身だが、全15曲の作詞は、岡本おさみ6曲、吉田拓郎5曲、田口叔子・古屋信子・加川良・及川恒平それぞれ1曲、と分けあっている。岡本が手掛けた曲に〈祭りのあと〉(4分20秒、とアルバムでは長尺)がある。いまCDのライナーノーツ(歌詞カード)から注とともに引けば、次のようになる。

祭りのあと|岡本おさみ

祭りのあとの寂しさが
いやでもやってくるのなら
〔……〕

人を怨むも恥しく
人をほめるも恥しく
〔……〕

日々を慰安が吹き荒れて
帰ってゆける場所がない
日々を慰安が吹きぬけて
死んでしまうに早すぎる
〔……〕

祭りのあとの淋しさは
死んだ女にくれてやろ
〔……〕

もう怨むまい、もう怨むのはよそう
今宵の酒に酔いしれて

 注:三連目“日々を慰安が吹き荒れる”は吉野弘氏の詩の一行を借りました。

吉野弘の詩〈日々を慰安が〉の詩句は、正確には後注にあるとおり「日々を慰安が/吹き荒れる」だが、私が吉野弘の名を知ったのは、高校時代、放送部員で拓郎ファンだった白石さんから借りて聴いたLPに収められた〈祭りのあと〉によってだった。久しぶりに音源に接して(手許にないので、図書館から借りた)、その音楽的熱量に圧倒された。一方で、〈祭りのあと〉の詞/詩に、むかし聴いたときには感じなかった妙に冷めた感触を覚えて、いぶかしく思った。岡本おさみ(1942〜2015)/吉田拓郎(1946〜 )のこの作品のわきに村上春樹(1949〜 )の長篇小説《ノルウェイの森》(1987)を置いてみると、「祭り」のなんたるかを考えざるをえない。それは単に政治的熱狂の季節を意味するだけではないだろう。「祭り」とは、1970年代初めまではたしかに存在した、音楽的熱狂(歌詞とサウンドの渾然一体化した、自作自演のアマルガム)の別名だったのではないか。その代表的存在、ビートルズの〈ノーウェジアン・ウッド(ノルウェーの森)〉を収めたアルバム《ラバー・ソウル》は、1965年の暮に発表されている。ちなみに、村上の《ノルウェイの森》のエピグラフは「多くの祭り[フエト]のために」だった。

〔追記〕
いわゆる現代詩にフォーク系のソングライターが曲を付けることは、それほど珍しくはない。たとえば黒田三郎の短詩〈紙風船〉――詩集《もっと高く》(思潮社、1964)所収――は、赤い鳥の後藤悦治郎が作曲したことで多くの人の知る処となったが、Wikipediaの〈黒田三郎〉のページには「詩作品は、しばしば楽曲化されることが多く、クラシックやフォーク系の作曲家によって、曲がつけられ、CD化もされている(後藤悦治郎「紙風船」、高田渡「夕暮れ」、小室等「苦業」)。」とある。この〈紙風船〉が後藤にとって大切な曲であることは、「フォークグループ赤い鳥のメンバーであった平山泰代と後藤悦治郎は、同グループ解散直前に結婚し、解散後に夫婦デュオ「紙ふうせん」として活動を始めた。」(Wikipediaの〈紙ふうせん〉のページ)とグループ名にまでしていることからもうかがえる。ときに、吉岡実の詩が歌になったものとしては、〈小森俊明氏作曲の吉岡実の歌曲〉で紹介した〈立体〉(F・3)と〈草上の晩餐〉(G・13)があるきりではないか。フォーク系の作曲家・小室等は45年以上前、《ユリイカ》(1973年3月号)で次のように書いているが、私の知るかぎり、その曲は今日まで公表されていない。

 ところで、僕が、辛うじていくつかの現代詩に曲をつけることができたのは、それらの詩が、声に出して詠まれることを前提としては作られていなかったからだと思う。そこには、目で読むことでのメロディーやリズムはあるかもしれないが、それを声に出してみた場合のメロディーやリズムは希薄なのではないか、というとお叱りを受けるかも知れないが、やはりそう思うのだ。それゆえに比較的自由に曲想することができたのではないかと思う。
 そのことをもって、詩作品の優劣を語ろうとしているわけではもちろんない。
 僕は、かなり以前から、吉岡実さん(一面識もないので、さんづけするいわれはないのだが、他にいいようがない)の僧侶≠ニいう詩を歌にしたくて仕方ないのだが、今だにどうしてもできない。四人の僧侶、庭園をそぞろ歩き=B曲をつけるまえから、すでに歌なのである。それは、西洋音楽の範疇を、はるかに越えてしまっているのである。西洋音楽の場合、リズムというのは常に持続しているわけだが、この場合、リズムがふっと失くなる部分を感じるのだ。失くなるというのは、止まるということではない。決っして止まってはいないのだ。西洋リズムと比較したとき、失くなるという表現しかできないのだが、この失くなるリズムの中に、日本語の歌のヒントがあるように思う。このことがはっきり認識できた時初めて、少々オーバーないい方をすれば、明治以後の日本語の歌が、せっかくそれ自体に生命のあった五七・七五調を、西洋音楽によってふみにじってきた泥沼から、這い出ることができるのではないかとも思う。(〈現代詩を作曲すること〉、小室等対談集《ポップス談議》、ヤマハ音楽振興会、1975年9月10日、二三九〜二四〇ページ)

小室が曲を書けなかったのか、吉岡が歌曲〈僧侶〉の公表を肯んじなかったのか詳らかにしないが、「失くなるリズムの中に、日本語の歌のヒントがある」というのが小室の作曲術の要諦なら、「いくつかの現代詩に曲をつけることができた」その具体的な曲(小室は《ポップス談議》で、谷川俊太郎・茨木のり子・別役実・唐十郎・富岡多恵子の詩に曲を付けたと語っており、同書には富岡との対談も収録されている)や、上で触れた黒田三郎の〈苦業〉を本腰で聴き、まだ見ぬ歌曲〈僧侶〉を想いえがかねばならない。――と、書いてきて、小室等のファーストアルバム《私は月には行かないだろう》(ベルウッド、1971)の再発CDを入手した。ここから先は、本稿の範囲を超える。友川かずきの中原中也作品集(1978)などと絡めて、他日を期したい。

1980年初めに亡くなった黒田三郎(吉岡実と同じ1919年生まれ)を悼んだ吉野弘の詩〈過ぎ去ってしまってからでないと――故黒田三郎氏に〉(詩集《陽を浴びて》所収)は、「中期吉岡実詩」とは異なるアプローチだが、まぎれもない引用詩篇である。あえて〈 〉内の引用部分(黒田の詩句)を割愛して掲げる。私は吉野弘の声を聴いたことがない(家族と団欒する吉野の姿は、八木忠栄の撮った映像で見たが、無声だった)。だが、この詩=弔辞からは吉野の声が聞こえる。「さよなら/吉野さん」。

過ぎ去ってしまってからでないと|吉野弘
 ――故黒田三郎氏に

詩集『渇いた心』の
「ただ過ぎ去るために」という詩の中に
こういう言葉がありますね

 〈〔……〕〉

詩集『悲歌』の
「風邪をひいて」という詩は
こう書いてありますね

 〈〔……〕〉

退院後は
何度か
「小選挙区制に反対する詩人の会」で
顔を合わせましたね
帰りは、息切れのするあなたと一緒でした
途中まで、電車も一緒でした

その後、咽喉を病んで入院されました
一度退院の後
再入院され
不帰の人になられました

過ぎ去ってしまいましたね
過ぎ去ってしまいましたのに
それが何であるかわからぬまま
失われてしまった何か
何か

さよなら
黒田さん

吉岡実と《カムイ伝》(2019年11月30日)

白石かずこ〈吉岡実とカムイ伝〉(《現代詩手帖》1980年10月号〔特集・吉岡実〕)はこう始まる。

 一九七〇年になるちょっと前であったと思う。わたしのうちヘ一冊ずつ白土三平の「カムイ伝」が贈られてきた。
 贈り主は吉岡実さんで受取人は、その頃マンガ狂だったうちの娘である。
 彼女は小学校にいっていて、わたしは銀座の早川良雄のデザイン事務所に毎日、コピーライターとして通っていた。
 鍵っ子の彼女のところへ、吉岡さんは本が出るたびに、一冊ずつ贈って下さって全巻そろえて下さった。
 この時以来、わたしもまた白土三平のファンになって、最も今年で感動した本は? と人に聴かれるとカムイ伝と答えた。
 だが吉岡さんの存在こそ、わたしと娘にとって、忍者カムイではなかっただろうか。(同誌、八四ページ)

白石にとって、吉岡から白土三平の長篇漫画を贈られたことはよほど強烈な想い出だったらしく、吉岡を追悼した〈肉親のようなやさしさ〉でも「この頃、わたしは西荻のアパートにいて小学校に行ってる娘と二人暮らし。やせ細って鍵っ子だった彼女のところにカムイ伝が毎月とどいた。赤い縫いぐるみ赤ずきんちゃんも現れた。これらの足長小父さんみたいにやさしいプレゼントは吉岡実からだった。」(《現代詩手帖》1990年7月号〔追悼特集・お別れ 吉岡実〕、五八ページ)と書いている。むろん吉岡は、(白石かずこも読んだように)自身が読んでからこれを贈ったのだろう。私は白石かずこの娘さんよりもいくつか年上だが、当時、白土三平の《カムイ伝》は読んでいない。私がそのころ目を奪われていたのは《巨人の星》(原作・梶原一騎、画・川崎のぼる)であり、《8[エイト]マン》(原作・平井和正、画・桑田次郎)――さきごろ、《〔少年のころの「思い出漫画劇場」〕桑田次郎の世界――まぼろし探偵・月光仮面・8マン》(講談社、2009年8月24日)収載の〈火の玉作戦〉と〈怪力ロボット007〉を読み、渇を癒やした――だった。どちらも《週刊少年マガジン》の連載を、友人から雑誌を借りて回し読みしたくちで、《巨人の星》をコミックで読みなおしたのは成人してからだ。だが、《週刊少年サンデー》にとびとびに掲載された《カムイ外伝》は読んだ記憶があるから、私にとっての白土三平は、長いこと《カムイ外伝》と《サスケ》の作者だった。それが根本的に改まったのは、四方田犬彦《白土三平論》(作品社、2004)を読み、小学館のビッグコミックススペシャル《決定版 カムイ伝全集[第一部]》(2005〜06)を通読してからだ(《忍者武芸帳――影丸伝》は小学館文庫版で読んでいた)。この四六判全15巻本は圧倒的だ(白石たちの読んだ1967年から71年にかけて刊行された21巻本のゴールデン・コミックス《カムイ伝》は新書サイズだから、もう少し軽快だったろう)。各巻400ページ弱で15冊、6000ページ近い。――四方田犬彦《白土三平論〔ちくま文庫〕》(筑摩書房、2013年9月10日)の第Y章はまるまる《カムイ伝》を論じているが、その冒頭「『カムイ伝』は月刊誌『ガロ』に一九六四年十二月号から連載され、いくたびかの休載を挟みながら、七一年七月号で完結した。扉絵や人物紹介を含めるならば、雑誌掲載時において五七九七頁に及び、文字通り白土三平の作品のなかで最大の規模をもった長編である。」(同書、二七六ページ)とある。久しく漫画を読んでいなかった私は、これを何日も何日もかけて読んだものだ。仮に私がこれを小学生のころ読んだとしても、途方に暮れるだけだったのではないか。ひとつには白土の作品の系譜(とりわけ《忍者武芸帳》)に親しんでいないこと、そして江戸期の日本の歴史を詳しく知らないこと。民俗学的な思考法に慣れていないこと。さらに(これが最も肝心だが)四方田の《白土三平論》がなかったこと。子供の感性や読解力を見くびっているわけではないが、私にはそう思えてならない(*)。ところで、吉岡本人は《カムイ伝》についても、白土三平についても一言も触れていない。かろうじて次の詩句が、白土も描いている真田幸村配下の忍者と関わる(〈果物の終り〉D・2)。

〔……〕
ばらいろの繭を持つ従姉に教育され
るいれきのある肥った叔母の冷感で戦慄する
肉への廻り道
霧隠才蔵への入信と改宗
とかげの磔刑
また別の少女へのやさしい折檻
反抗と洪水はたえず少年の身の丈をせりあげる
〔……〕

四方田によれば「幸村は大坂城に殉じたことから、日本人独特の判官贔屓も加わり、民間において評判が高かった。その人気を決定的なものとしたのは、大正時代に刊行された『立川文庫』である。そこでは幸村の配下である猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海といった忍者が、摩訶不思議な忍術を用いて悪者を退治するといった物語が語られ、その波瀾万丈な魅力から大衆的な支持を受けた。」(《白土三平論〔ちくま文庫〕》、一七一〜一七二ページ)とある。〈果物の終り〉の初出は《同時代》9号(1959年6月)だから、白土の「真田忍群サーガ」(四方田)よりも早く、直接の影響ではないが、大正末年から昭和初年にかけて、少年時代の吉岡が親しんだのは《立川文庫》の霧隠才蔵であり、長ずるに及んでそこから離れたというのが「霧隠才蔵への入信と改宗」の意味する処だと思われる。当時、白土漫画があれば熱中したに相違ない。《カムイ伝》と関わりのある吉岡実の作品として〈蜾蠃鈔[すがるしょう]〉と〈竪の声〉(J・2)を挙げることができる。もっとも白土の作品は《カムイ伝》本体ではなく、1982年から87年にかけて連載された《カムイ外伝[第二部]》に相当する連作のうちの一篇〈スガルの島〉(1982)である。四方田も書いているように、スガルはジガバチ(似我蜂)の古称で、白土作品では女抜け忍である。一方、吉岡は前掲の二篇にスガルを腰細乙女の比喩として登場させている。〈竪の声〉(初出は《現代詩手帖》1981年9月号)の詩句を引こう。

この賢者の言葉も
蒸溜器か暗箱の比喩みたいだと思う
わたしは注文があれば 三脚を担いで
断崖の上に立つ
そして「すがる乙女」を撮った

《決定版 カムイ伝全集[カムイ外伝(全11巻)]・第3巻 スガルの島の巻〔ビッグコミックススペシャル〕》(小学館、2007)を見ると、第1話の〈女左ヱ門〉は「1982年1月8日」とあるから、吉岡が〈スガルの島〉を読んでから〈竪の声〉を書いたということは、クロノロジーからいって、ありえない。また、白土が吉岡実詩を読んでから〈スガルの島〉を書いたということも、なおのことありえないだろう。吉岡実が《カムイ伝》以降の白土三平をフォローしつづけたかは、定かではない。ただこうした民俗学的な関心が、1980年代の初めに二人の巨匠に同時に興ったということは、記憶しておかなければならない。
ところで、吉岡が贈った《カムイ伝》はその[第一部]で、最晩年の吉岡が[第二部](《ビッグコミック》1988年5月10日号〜2000年4月10日号、全168回連載)を誌上で読んでいたかどうかはわからない。[第二部]が末尾の書きおろしを含めて完結したのは《決定版 カムイ伝全集[第二部]・第12巻〔ビッグコミックススペシャル〕》(小学館、2006年12月1日)においてだから、むろん[第二部]全体も目にしていない(全三部から成る《カムイ伝》の[第三部]は本稿執筆時点で未発表)。だが、ここに《カムイ伝》を詳細に論じた四方田犬彦の評を借りて、吉岡実の世界との類縁を観ることは不都合ではない。四方田は[第二部]の特徴をこう記している。「『第二部』では、これまでの白土漫画になかったほどに、男色と念者の世界からレスビアン、さらにスカトロジーまで、さまざまな性現象が登場し、エロティシズムとグロテスク・リアリズムの結合からなる、異様な世界を映し出していくことになる。」(《白土三平論〔ちくま文庫〕》、四五二ページ)。「エロティシズムとグロテスク・リアリズムの結合からなる、異様な世界」を詩で描いた人間の一人が吉岡実であることに異存はないだろう。

最後に四方田犬彦――この「『カムイ伝』解体神話と蘇生伝説の本気のウォッチャー」(松岡正剛)――の美しいモノグラフ《白土三平論〔ちくま文庫〕》で新たに付された〈文庫版のために――白土三平先生との一夜〉の一節を引いて、本稿を終えたい。元版の本文に若干の改訂を施した〔ちくま文庫〕には、元版にあった〈謝辞〉のかわりに、この〈文庫版のために〉が置かれている。

 先生はおおよそこのような話をし、それからいささかお酔いになったのだろう、わたしに話を向けた。いったいこの続きを、どう描いていけばいいのかねえ。カムイとか、竜之進とかは、これからどうなっていくのだろうねえ。わたしは、竜之進はやがて長崎でオランダ医学を修めて、中国でいう「裸足の医者」のような存在になるのではありませんかと答えた。カムイは生き返った赤目と最終的に壮絶な対決をし、正助の息子が大きく活躍することになる。いかがでしょう? わたしがこう見通しを立てると先生は曖昧に頷き、代わりに筋を書いてくれよと冗談半分にいわれた。(同書、五〇六〜五〇七ページ)

さて、永い時間をかけて白土三平の画業50周年記念出版《決定版 カムイ伝全集(全38巻)〔ビッグコミックススペシャル〕》――《カムイ伝[第一部](全15巻)》、《カムイ伝[第二部](全12巻)》、《カムイ外伝(全11巻)》――を読んだ私は、これから尾崎秀樹(《白土三平研究》小学館、1970)や中尾健次(《新・カムイ伝のすゝめ》解放出版社、2009)、田中優子(《カムイ伝講義〔ちくま文庫〕》筑摩書房、2014)の書物を読もうと思う。しかし、白土三平や《カムイ伝》を論じた本は、どうしてこうもみな赤い色を多用するのだろう。《カムイ伝》そのものは緑色だというのに。

白土三平《カムイ伝・第1巻(全21巻)〔ゴールデン・コミックス〕》(小学館、1967)のジャケット 白土三平《決定版 カムイ伝全集[第一部(全15巻)]・第1巻〔ビッグコミックススペシャル〕》(小学館、2005)のジャケット
白土三平《カムイ伝・第1巻(全21巻)〔ゴールデン・コミックス〕》(小学館、1967)のジャケット(左)と同《決定版 カムイ伝全集[第一部(全15巻)]・第1巻〔ビッグコミックススペシャル〕》(同、2005)のジャケット(右) 両手を挙げて立ちはだかるのは山丈([やまたけ]と訓むようだ)で、「物語が高揚を迎えるたびにいくたびか突然に出現し、「カムイ!」とだけ叫ぶ。それは神聖なるものに向けられた、彼の歓喜の表現であり、そこに居合わせた者たちを祝福する役割を担っている」(四方田犬彦《白土三平論〔ちくま文庫〕》、二八六ページ)。

〔追記〕
かつて私は《詩人としての吉岡実》(文藝空間、2013年9月28日)の〈「前期吉岡実」――《静物》と《僧侶》〉の〈U 《静物》巻末の詩篇――〈過去〉(B・17)〉を次のように始めた。本サイトの《詩人としての吉岡実》中の文章だが、PDF文書をいちいち開いて読むのも面倒なので、リンクは張らず以下に引用する(同書、八二〜八三ページ)。

 詩集《静物》巻末の詩篇は〈過去〉(B・17)である。ここで描かれているのは、赤えいの解体だ。私は鱗のある魚や烏賊をさばいたことはあるが、赤えいはない。経験者によると、赤えいの解体は大略、次のようになる。
 ――エイの仲間で食用になるのはアカエイだけで、味は好い。通常、こうしてさばく。用意する調理器具は出刃包丁、大きな俎板(尻尾を含めて、全長は最大で二メートルにもなる)、笊、バット、タオルなど。最初に包丁で鰭のぬめりを取る。表皮(鱗はない)が滑るようなら、目のあたりの窪みを掴んで固定し、鰭の外側に向かって包丁の刃でしごく。裏(こちら側の総排出腔は女性性器に似ている。そのため、「傾城魚」の別名がある)も同様にしてぬめりを取り、水で洗い流す。次に鰓の外側を沿うようにして鰭を切り離す。エイは軟骨魚類だが、鰓のまわりの骨は分厚くて切りづらい。最後に肝臓(煮付けにするとうまい)を摘出する。肝臓は鰓からやや尻尾に寄ったあたりにあるので、鰭を取り除いた両側から取り出す。肝臓には胆嚢が埋まっているが、食べると苦いので取り除く。血や汚れを洗って、下拵えは完了。――

末尾には註番号が付してあって、その後註も掲げておいたほうが解りやすいだろう。

 エイの調理法に関しては、作・雁屋哲、画・花咲アキラのコミック《美味しんぼ〔17〕エイと鮫》(小学館、一九八八年十二月一日)に詳しい。そこでは、鮫とともに北海道産のガンギエイと九州のアカエイのヒレの調理法が紹介されていて、貴重だ(ただし、エイのさばき方は登場しない)。〈エイと鮫〉には、食材としてのエイについて、次のような説明がある。
 エイは見た目に醜悪で(裏側から見ると、エイの腹が人の顔みたいで気持ちが悪い)、処理の仕方によって臭みが出るが、調理法によっては姿から想像できないほどうまいものになる。フランス料理の技法と相性がよく、中華風に清蒸にすると上品過ぎる。終戦直後の食料難時代に、配給のエイの切り身を醤油で煮つけたものを食べさせられた年代の人間は、アンモニア臭くてまずい魚という印象が強いようだが、獲れたてのエイを上手に調理すれば臭いということはない。むしろ、肉質の素晴らしさを充分に引きだせば、最上級の魚料理のひとつとなり得る。
 要するに、鮮度のよいエイを、手をかけて料理すればおいしいものになるが、戦後の食料事情の悪いころは、ただ空腹を満たすためだけの下魚とされていた。ちなみに私の亡母は、昭和初年に佐渡の前浜(新潟に面した側)に生まれ、戦後上京したが、わが家でエイを調理したことは一度もなかった。もっとも、醜いものの譬えに「アカエイ〔の〕裏返し」(佐渡地方の俚諺か)というふうに言ったから、アカエイのなんたるかは知っていたはずだ。

本題はここからである。上の文章を書いた2013年当時にはまだ読んでいなかったのだが、著者自身が撮影した写真を多数掲載した《白土三平フィールド・ノート@土の味》(小学館、1987年11月20日)にアカエイの調理法が載っている。〈タレ〉という項目の、大きな写真と3枚の連続写真の説明にこうある。

アカエイのタレ。エイや鮫は身が多くとれ、タレには最適である。切り身を塩水に漬ける時間は、寒い季節は長めにする。風があれば2日ほどで、良いタレが仕上る。それを暗所において、ビニールなどに包んでおくと白いカビが生え、さらに陰干しにして固く仕上げると、長期保存に適し、味も良くなる。(同書、九六ページ)

@アカエイの解体。大型の魚は大きくて重みのある刃物を使用するとやりやすいものである。まず体の表面のヌルとヨゴレをていねいにこき落す。中心に沿って左右に切り難し、背骨と内臓をとる。(アカエイの尾には毒針があるので切断して料理にかかる)
A続いて適当な大きさに切断し、骨に沿って包丁を入れ、3枚におろしてゆく。
B次に皮をむいて、大きなものは好みの大きさにそぎ身にする。エイの骨は軟骨なので、捨てずに一緒に処理をする。人によっては、この軟骨の方を好む人もある。(同書、九七ページ)

そして、末尾に「一九八六年三月」(これは脱稿の時期か、それとも雑誌掲載月か)とある本文に、こう見える。
 「タレというのは一種の保存食で、魚や獣の肉の切り身を塩水に漬け、天日に干したものである。
 小型のアジやイワシなどで作られる丸干[マルボ]しやヒラキと違って、タレはもっぱら各種の鮫[サメ]やエイ、鯨[クジラ]のような大型の物の切り身で作られたものをいうようである。
〔……〕
 釣りの外道[ゲドウ]として鮫やエイがかかる時がしばしばある。そんな時には、見てくれや思い込みで捨ててしまわずに、こまめに解体し、切り身にして海水に、(海水の塩かげんがちょうどよい)一時間も漬けて、笹のクシにでも刺してぶらさけげておけば、帰り際(一昼夜干して翌日)には見事なタレを持ち帰ることができる。
 これを暗所に取り込み、ビニールなどに包んでおくと、干柿のような白いカビが生えてくる。それを陰干しにしたものは、長期保存に耐え、しかも味もすぐれたものとなる。
 これを軽くあぶって酒の肴や茶づけの身にすれば最高である。
〔……〕
 釣りは技術だけでなく、釣った獲物を無駄なく有効に利用し得る術[すべ]を身につけることも、釣り師の資格のうちにある。」(同書、九八〜九九ページ)
私が後註で触れた「エイの調理法」との、なんという違いだろう。フランス料理や中華風の調理を蹴散らす白土の野趣あふれるそれは、まさに「釣り師の保存食」で、吉岡のアカエイもこのように捌かれれば本望かもしれない、と思わせるものがある。ここで再び四方田犬彦の《白土三平論》を引きあいに出せば、その実質的な最終章〈\ 白土三平の食卓〉には「タレ」への言及はあるが、それがアカエイであるとまでは書かれておらず、私が詩篇〈過去〉について書くときに参照できなかったのは残念だった。本稿で〔追記〕の形を採って補った所以である。

………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

(*) 毛利甚八はその篤実な評伝《白土三平伝――カムイ伝の真実》(小学館、2011年7月6日)で次のように述べている。

 今、あらためて『カムイ伝』の全体像を眺めてみると、その複雑な物語構造に対して畏怖に近い思いを抱くのは筆者一人ではないと思う。
 この『カムイ伝』の世界を、白土三平を知らなかった若い世代に読み継いでほしいと筆者は願うが、そのあまりの長さと複雑さにどう読んでいいのか迷う読者もいることだろう。
 そこで、批判を浴びるのを覚悟して、筆者はある読み方を若い読者に推薦しようと思う。
 頭から通読するのをやめるのだ。そして、白土三平が追求したテーマに時代区分を設定し、『カムイ伝』以外の作品も含めて、バラバラに読んでいくのである。
 暴論かもしれないが、ひとつの提案として御紹介してみよう。行頭の数字は読む順番を示している。(〈『カムイ伝』を若者が読むために〉、同書、一七七ページ)

すなわち(1)《カムイ伝〔第二部〕》1〜12巻のサルの物語だけを読む、に始まり、(10)《サバンナ》全1巻、に至るのがその処方箋である。私自身、そのすべてを読んだわけではないが、はからずもかつての《忍者武芸帳――影丸伝》を助走に、《カムイ伝〔第一部〕》、《カムイ外伝》、《カムイ伝〔第二部〕》と、ほぼ発表順に後追いで通読した格好になる。そしてこの長い長い作品を振り返ると、眩暈にも似た感覚が沸きあがるのを抑えることができない。


吉岡実とクリムトあるいは「胚種としての無」(2019年10月31日)

東京・上野で《クリムト展――ウィーンと日本 1900》(東京都美術館、2019年4月23日〜7月10日)を会期末の平日に観た。当日チケットを買って、入場までに約30分。老若の女性客が八割かそれ以上を占める、たいした盛況だった。私がグスタフ・クリムトの原画を観るのは、《ウィーンの愛と夢――クリムト展》(伊勢丹美術館、1981年1月29日〜2月24日)以来だろうか。そのときの展覧会図録《クリムト展》(東京新聞、c1981)には〈アッター湖畔ヴァイセンバッハの森番の家〉(1912)があって、いま観ると深い感銘を受けるが、38年前はそうではなかった。25歳の男にとって、クリムトはあくまでも〈接吻〉(1907)や〈ダナエー〉(1907〜08)の画家だった。

グスタフ・クリムトの油彩〈アッター湖畔ヴァイセンバッハの森番の家〉(1912) グスタフ・クリムトの油彩〈ヘレーネ・クリムトの肖像〉(1898)
グスタフ・クリムトの油彩〈アッター湖畔ヴァイセンバッハの森番の家〉(1912)(左)と同〈ヘレーネ・クリムトの肖像〉(1898)(右)

今回の呼び物は、ポスターにもなった〈ユディトT〉(1901)や〈人生の三時期〉(1905)だが、クリムトの作品では、グスタフの早逝した弟エルンストの遺児、ヘレーネ(6歳)の清楚な姿を描いた〈ヘレーネ・クリムトの肖像〉(1898)に打たれた。さらに、上にも述べたように〈アッター湖[ゼー]のカンマー城〉に代表される風景画が収穫だった。晩年の丸谷才一は、クリムトが好んだ正方形のキャンバスの謎を解くべく、原寸大の複製の風景画を自室に飾っていたというが、ついにそれは解きあかされなかった。丸谷の〈クリムト論〉は「たくさん在る真四角の風景画がおもしろいし、どうして真四角なのかと気になって仕方がなく、ついあれこれと考へてみる。/(未完)」(《別れの挨拶〔集英社文庫〕》、集英社、2017年3月25日、六一〜六二ページ)で途切れている。晩年の丸谷には、それを完成させるだけの時間が残されていなかったのだ(*)。ただ、今回の展示のなかにはほぼ正方形の冊子(LPレコードのジャケットよりやや小ぶりな、分離派[ゼツェッション]の機関誌《VER SACRUM(聖なる春)》)があって、表紙しか観られなかったが、その特異な判型の印刷物をクリムトが手にしていたと考えると、感無量である(本展覧会の図録、東京都美術館・豊田市美術館・朝日新聞社編の《クリムト展――ウィーンと日本 1900》(朝日新聞社、c2019)に依れば、正確なサイズは「29.3〔縦〕×28.3〔横〕cm」で、12インチレコードのジャケットが約31.5×31.5cmだから、冊子としてはかなり大判である)。ところで、会期末ともなると、2500円の公式図録〔通常版〕は好評のため品切れで、入手できなかった。したがって、上に挙げた作品名は《クリムト〔新潮美術文庫〕》(新潮社、1975年12月25日)に依っているのだが、同書収録の作品解説と巻末のエッセイ〈死と性の匂い――クリムトの人と作品〉を書いているのは、彫刻家であり詩人でもあった飯田善国である。上野への往き還りの車中、久しぶりに読みかえしてみて、巻末エッセイに次のような一節があるのを発見した。

 クリムトが女を愛したのは、彼が自然を愛するのと同じ意味においてであった。彼は男よりも女のうちに大いなる自然を視たのであり、その自然としての女が、女の本質をもっとも純粋に表現する瞬間を性的恍惚のうちに見たのだといえよう。そして女の本質は、自然のそれと同じく無であり、無であるがゆえにいっさいと成りうるところの、胚種としての無である。女自身は、自己が何者であるかをけっして認識することはない。だが、女は男によって恍惚に達するとき、一つの輝き[、、]の状態に到達する。それは無を内に含みながら、無を超えた状態である。死を内に含みながら、死を超えた状態として現われるのが恍惚[エクスタシー]の特徴である。エクスタシーは一つの普遍的な状態である。(同書、七六ページ)

文中の「胚種としての無」という章句は、たしか吉岡実関係の文で目にした憶えがある。帰宅してさっそく《現代詩手帖》1980年10月号〔特集・吉岡実〕を調べてみたが、飯田善國の〈〈謎[エニグマ]〉に向かって――『夏の宴』を中心に〉にはなかった。同じ号で、千石英世は〈「胚種としての無」――吉岡実のファルスの世界〉を書いている(標題は、千石が飯田の〈死と性の匂い〉から引いたものか、定かではない)。すなわち、

 胚種とは、始まりを孕んだ終りであり、終りを孕んだ始まりである。あるいは、生を孕んだ死、死を孕んだ生、意味を孕んだ無意味、無意味を孕んだ意味である。だが、胚種とは、それ自体では生でも死でも、意味でも無意味でも、始まりでも終りでもない。それは、実はこれら二つのものを結合する零[、]、転轍器であるにすぎない。胚種とは、「実は」に似て、aなるものをbなるものへとドンデン返しする無としての転轍器であるにすぎないのである。だが、生と死、意味と無意味、始まりと終り、これら二つを一身に吸い込んで存在する立体、すなわち「胚種としての無」を媒介として成立する世界そのものは、大いなるドンデン返し、大いなる形容矛盾、大いなる同語反復、ファルスの世界である。「胚種としての無」とは、吉岡実の詩そのものである。(同誌、一三〇ページ)

が千石の吉岡実論の肝である。そうか、これだったのかと思いつつ、どうも腑に落ちない。それがなぜなのか、ようやく判明した。灯台下暗しとはこのことで、「胚種としての無」という章句は、吉岡実の詩篇〈水鏡〉(H・6)に登場していたのだ(**)。その「2」と「4」を引く。



「古代の神官のまとう
寛衣の紫」
のような内湾を浮遊する〈ムーン・ジェリー〉
すなわちミズクラゲのむれ
それらの子エフィラ
また無性生殖をいとなむ
ポリプ
夕日の波間で
「白っ子の内臓のような柔かな
丸い起伏の世界」
愛や
観念を孕み
わたしは岬をめざして泳ぐ
「胚種としての無」
漂いゆく〈ムーン・ジェリー〉
透明なるもの
さらば
水神エア



わたしはぬるい湯舟につかり
恥骨が白骨化してゆくのを
感じながら
「流れる水の面の底の
石のように
その存在をきわだたせる」
エゴン・シーレの
生涯と章句を想い出す

「人は夏の盛りに
秋の樹木を感得する」

まるでこの家は
水底のようだ
夢からさめればいつも
藻草や
言葉や
みじんこが舞っている
つけくわえれば
立葵の花のはるか下で
わたしは眼球に点滴されている

吉岡は、金井美恵子との対談〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉(《現代詩手帖》1980年10月号〔特集・吉岡実〕)で「最近見た絵では、エゴン・シーレの展覧会にはやっぱり衝撃を受けた。実際見たのはこの間が初めてなんだけど、美恵子の「水鏡」にはエゴン・シーレの言葉を挿入してある。」(同誌、一一〇ページ)と、シーレとの出会いを語っている(***)。だが、吉岡がシーレの師・クリムトに言及したことはたえてなかった。もっとも飯田の「胚種としての無」を《クリムト〔新潮美術文庫〕》(新潮社、1975)で読んだのなら、当然その作品の図版を観ているはずだから、吉岡実によるグスタフ・クリムト評がないのは、まことにもって残念である。

 クリムトは女性の肉体の魅惑に深くのめり込んだ果てに、彼女らの内奥にうごめく秘密の欲望の深さを無意識に抽出したのだった。そして、彼が捉えた欲望の形のうしろには、人間の運命がかくれていたのだ。クリムトは女性の美しさを讃嘆しつつ、それらをイコンに鋳造することで、彼自身のかかえていたおそろしいほどの孤独と時代の虚無をたくみに陰蔽して見せたのだ。それは彼の処生術というより、むしろ、彼のダンディズムであった。
 シーレにはクリムトのような男らしいゆとりは無かったし時間もなかった。シーレの裸の神経は深い亀裂に向って正面から突き刺さるほかなかった。持続の現存の奇蹟はそこに生まれた。(《ユリイカ》1987年7月号〔特集=ウィーンの光と影〕、八七ページ)

飯田善國の〈ポルノグラフィーそれとも――クリムトとシーレ〉の結語を引いた。飯田のシーレ論の核は「シーレは、存在も世界も、自分自身もゆっくりと死に向って下降してゆく運動であることを理解していた。死を内部に孕んでいるからこそ、「今」から「今」への瞬間の連鎖としての「生」は、暗さの中の輝きを、頽廃の底に高貴さを、曖昧さの奥に不動の確実さを、脆さの内部に爆発するほどの力を、寂しさのきわみに底知らぬ喜悦を、かすかなそよぎの真にふしぎな永遠のしずけさを、哀しみの裡に打ち砕かれぬ本質を、秘めていることをはっきりと感じとっていた。シーレの感性の内側では、死と生、生と死は、コインの表と真のように分離しがたく結び付いていたのであり、したがって、彼の感性の論理にしたがえば、美しいものは、必然的に、醜いものを同伴していなければならなかった。光が闇を、生が死を、リズムが静止を同伴しているように……。」(同前、八五ページ。ただし、傍点を省いた)にある。はたして吉岡は飯田のこのシーレ論の末尾に震撼しなかっただろうか(吉岡はクリムトに慰藉されこそすれ、戦慄したことはないだろう)。ちなみに吉岡は同号に、1987年6月8日の高橋新吉の告別式で述べた弔辞(〈ダガバジジンギヂさん、さようなら〉)を寄せている。

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(*) 丸谷才一はこの〈クリムト論〉とは別のところで「〔……〕最近わたしは、クレーおよびクリムトといふ二十世紀ドイツの画家に、正方形の画面に描いた絵が多いことに気がついて興味を持つてゐます。これはルネサンス・イタリアにも、オランダの画家たちにも、フランス印象派にも見られない現象であります。なぜこんな傾向が生じたのか。/いろいろ探つてゐるうちに、野田由美意さんの『パウル・クレーの文字絵』といふ本のなかに、クレーがハイマンの訳した『中国の叙情詩』といふ本を愛読したことが出てゐました。そのなかに唐の韓愈[かんゆ]が何度も役職を失ひ、左遷されて不遇であつたことが出てくる。これはドイツがナチスの支配下にあつて、クレーがデュッセルドルフ美術学校の教授職を失つたことと照応するでせうが、問題なのは韓愈の詩の組み方で、一句が五字、それが十二句のいはゆる五言排律の詩を二句づつ六行並べ、正方形に近い形に組んでゐる。クレーやクリムトはこの詩の訳詩を愛誦するあまり、漢字による正方形の美しさに魅惑されたのではないでせうか。/かういふことを考へたとき、わたしはつくづく、瀬戸川ならこの思ひつきをおもしろがつてくれたらうな、と懐しんだのであります。」(〈新しい問題に挑む知的な人間〉、《別れの挨拶〔集英社文庫〕》、三四四〜三四五ページ)と語っている。これは、2011年3月12日(東日本大震災発生の翌日!)、帝国ホテルで行われた瀬戸川猛資さんを偲ぶ会十三回忌での挨拶。湯川豊は〈クリムト論〉の解題、〈完成しなかったクリムト論〉で「私などが考え違いしていたことがある。丸谷さんのクリムト論の構想は、初めに思ったように一篇のエッセイで済むというのではなかった。予測していたよりずっと規模が大きく、本格的な論考になるものだった。亡くなった後、ご長男の根村亮氏が机の周辺に見出[みいだ]した「構想メモ」をみせていただくと、そのことを読みとることができる。」(同書、五二ページ)と書くだけで触れていないが、私は丸谷の構想が東日本大震災の発生で変更を余儀なくされたのではないかと忖度する。すなわち、震災で亡くなったり被害に遭ったりした人人への鎮魂の想いである。《忠臣藏とは何か》(1984)の作者が、そこに言及しないでいることは考えられない。むろんそれは、本格的な論考である《クリムト論》――クリムトの風景画はなぜ真四角なのか――においてではなかったかもしれないが。

(**) 〈水鏡〉の初出は《文藝》1977年11月号。吉岡は金井美恵子との対談で、引用詩について「美恵子を描いた「水鏡」も、君の言葉だけでは、うまくいかないので、実は飯田善国のエッセイから若干だが借用している。ただ、ぼくが言っておきたいのは、いずれの詩篇も詩句からはとってないんだよ。あれはみんな対象になった人のエッセイからとって括弧にいれて、それを詩にもってきているんだ。」(〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉、《現代詩手帖》1980年10月号〔特集・吉岡実〕、九六ページ)と語っている。すなわち、「胚種としての無」は、飯田善国のクリムト論〈死と性の匂い〉(1975)→吉岡実の詩篇〈水鏡〉(1977)→千石英世の吉岡論〈「胚種としての無」〉(1980)と、転生を遂げたわけだ。吉岡は、〈水鏡〉では飯田善国の名前も挙げず、それがクリムトについての文章であることも触れずに章句を引用した。一方、飯田の章句を題辞に掲げた詩篇〈形は不安の鋭角を持ち……〉(H・11、初出は《現代詩手帖》1978年4月号)では、その詩句「そしてわたしはアンリ・ローランスの/言葉を思い出す/〈人はいつか無意識を表現しなければならない〉」から、フランコ・ルッソーリ監修《ローランス〔ファブリ世界彫刻集 13〕》(平凡社、1972)に飯田善国が寄せた解説〈アンリ・ローランス〉の結語「彼〔ローランス〕は「人はいつか無意識を表現しなければならない。それは芸術の偉大な秘密なのです」と言ったが,彼は沈黙の領域に属するものの表現が永続性をもつことをよく知っていたのである。」に容易にたどりつける。すなわち「飯田×ローランス」で検索すれば、簡単に当該冊子に逢着する。吉岡の詩句はそれだけの暗示に充ちている。

(***) 《エゴン・シーレ展》(西武美術館、1979年4月27日〜6月6日)の図録である《エゴン・シーレ展》(東京新聞・西武美術館、1979)の扉裏には「Egon Schiele――1890-1918」の文言が墓碑銘のようにあり、その下方にシーレの肖像写真、そしてそのキャプションのように「内面的に、本質と心とで、人は夏の盛りに、秋の樹木を感得する。この憂愁を自分は描きたい。――シーレ」が掲げられている。吉岡が〈水鏡〉で「エゴン・シーレの/生涯と章句を想い出す」として引用した生涯と章句の典拠はこれに違いない、一件落着。と言いたいところだが、1977年11月発表の詩句の典拠が1979年発行の図録であるはずがない。改めて文献を探索すると、飯田善國のエッセイ〈予感的存在者としてのエゴン・シーレ〉(《みづゑ》1969年9月号〔〈特集〉エゴン・シーレ:ふるえる魂の独白〕)の結語近くに

 彼の想い出はつづく…….〔……〕
 〔……〕
 「内面的に,本質と心とで,人は夏の盛りに,秋の樹木を感得する.この憂愁を自分は描きたい!」(同誌、二九ページ)
とあった。吉岡がこの飯田文に依ったことは疑いない。ちなみに同図録の末尾には、前述の扉裏と同様のレイアウトでグスタフ・クリムト(シーレはこのウィーン美術の先達を終生、師と仰いだ)の肖像写真と略歴が掲げられており、モノクロ図版としてデッサンを中心に13点のクリムト作品が掲載されている。吉岡はシーレ展の会場(今はなき東京・池袋の西武美術館!)で当然これらを目にしたはずだ。残念なことに、私はこのシーレ展を見のがしている。

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本文および註で吉岡実詩の典拠として挙げた飯田善國のエッセイの初出、すなわち〈死と性の匂い――クリムトの人と作品〉〈アンリ・ローランス〉〈予感的存在者としてのエゴン・シーレ〉は、いずれもその後、飯田の著書《見えない彫刻》(小沢書店、1977年3月20日)に収められた。吉岡が詩篇〈水鏡〉執筆の際に典拠としたのはこれら初出形ではなく、おそらく飯田から贈られただろう単行本の方だったに相違ない。だが、制作にまつわる確たる証言もないので、本稿ではあえて初出形を掲げた。


吉岡実と森家の人人(2019年9月30日)

本稿では、吉岡実と鴎外森林太郎(1862〜1922)の一族とのかかわりを概観したい。60歳で歿した鴎外は、当時3歳だった吉岡にとって祖父の世代であり、吉岡の生まれた1919年には帝室博物館総長に就任している。可能性として、両者が上野や浅草の街角でですれちがうことがなかったとはいえない。その鴎外の妻子だが、先妻の登志子(1871〜1900)とのあいだに長男の於菟(1890年9月13日〜1967年12月21日)が、後妻の志げ(1880〜1936)とのあいだに長女の茉莉(1903年1月7日〜87年6月6日)、次女の小堀杏奴(1909年5月27日〜98年4月2日)、夭折した次男の不律、三男の類(1911〜91)がいて、弟妹に篤次郎(1867〜1908、筆名:三木竹二)、小金井喜美子(1871〜1956)がいる。吉岡は、鴎外には歴史上の文筆家としてその作品に接しただけだが(随想や日記で《雁》や《澁江抽齋》に触れている)、森家の人人のなかで最も知られている森茉莉とは筑摩書房の編集者・装丁者として親交を結んでいた。随想〈遠い『記憶の絵』――森茉莉の想い出〉(初出は《鷹》1988年2月号)ではその死を悼んでいる。また、森於菟の《父親としての森鴎外〔ちくま文庫〕》 (筑摩書房、1993年9月22日)の元版である《父親としての森鴎外〔筑摩叢書159〕》 (同、1969)が世に出るにあたっては、吉岡実の尽力があった。それはどんな本か。〔ちくま文庫〕のジャケットの裏表紙にこうある。「森於菟は鴎外の長男であり、母は鴎外と離別した先妻である。於菟は、祖母によって育てられ、のち日本の解剖学の権威となる。その於菟が綴った鴎外一家の歴史と真実。一家の柱としての鴎外と父としての鴎外と人間としての鴎外を活写して余すところがない本書は、第一級の資料であると同時に、深く感動をよぶ一個の人間記録である」。同書〔筑摩叢書159〕の巻末には、刊行の前前年に亡くなった著者の於菟に代わって、妻の富貴が〈あとがき〉を書いている。その末尾を引く。

 於菟は表面柔和な性格のように見えても、どこか蕊に一本筋金が通っていたのでしょう、ここから先は一歩も譲らぬという頑固さがありました。子供達にも大きな声で叱ったことはなかったようでしたが、父親に対してはどの子供も決して我儘を言うことなど出来なかったようです。もちろん私の我儘など許してくれそうにもありませんでした。
 そんな主人のことを思い浮べながらぼんやりした頭の中もどうやら落つき、書いたもの等少しずつ整理しはじめた私は急に一冊の本に纏めてみたいと、出来ることなら三回忌の頃までにと思いついたのです。何といっても本に関係の深い茉莉を頼りに筑摩書房で吉岡氏にお目にかかったのは初夏の頃でした。思いがけなくこの願いが叶えられて鴎外関係のものを叢書の一冊として出版して下さることになったのはこの上もない喜びでございます。
 終りにこの度短時日の中に出版にお骨折り下さった吉岡、高城、村上三氏並びに筑摩書房のご厚意を深く感謝申上げます。(森於菟《父親としての森鴎外〔筑摩叢書159〕》、筑摩書房、1969年12月20日、三五〇〜三五一ページ)

文中の吉岡は吉岡実だとして、高城は高城[たかぎ]修、村上は村上清だろうか。森於菟の文章では、鴎外と女人との関係を叙した処が注目されるが、ここでは次の一節を引いておこう。

 父はこの散歩で冗な物を買わずに街の景物を観察して楽しむ事を私に教えた。古本屋に必ず立寄る。どこの店の主人とも馴染になっていて店先に腰かけて話しこむ。そして古い汚い本を山のように持出して見せるのを一々選り分ける。私は退屈でたまらぬからその間、近所の金魚屋や絵草紙屋の店で遊んでは時々父の方を見て立上るのを待つ。それが夜店であると父は往来端にしゃがんで本をさがす。こうして何冊か探し出した本を持って帰ると一々半紙に包んでおいて丁寧に手を洗う。そして日光の強い日を選んで古本を日光消毒した後、綴目のゆるんだのはとじ直し、破れかけた所は紙で補って書棚に納めるのである。(〈父の映像〉、同前、八六〜八七ページ)

吉岡家蔵のクリアファイルの一冊に、小堀杏奴が新聞に寄せた〈誰も知らない!〉という随想の切り抜きが収められている。吉岡のファイルにしては珍しく掲載紙名や日付のメモがなくて、出典を特定できない。クリアファイルの前後の資料から推定すると、1980年代末のものか。書かれている内容からは、6歳年上の姉・森茉莉を追悼したものだとわかる。「姉は理想の美少女」「夫婦の子のように」「やさしかった兄」「遠い思い出の中に」という4本の見出しが立っているが、「やさしかった兄」の段落を見よう。小堀がここでいう「兄」は、異母兄の森於菟ではなく、茉莉の夫の山田珠樹(1893〜1943)である。

 当時としては稀(まれ)に見る三田台町の、魚籃坂?に沿い、くすんだ海老茶(えびちゃ)の磨き煉瓦(れんが)、高低のある塀をめぐらし、豪奢(ごうしゃ)で、広大な応接間、二階には、兄の書斎や、寝室のある洋館建てと、一流料亭といった感じの、これも広大な日本建築に分かたれ、鬱蒼(うっそう)たる大樹の植え込みを背景に、芝生の築山[つきやま]や、水の涸(か)れた池に、陶器?の鶴の遊ぶこれも広大な庭園が眺められた。夜は日本館の二階に、兄や、姉と寝かされるのだが、小学生の私は、夜中に眼がさめ、手洗いに行く時、怖ろしくて一人では行けない。姉は呼んでも眼をさましてくれないのに、兄は眼敏(めざと)く起きて、階下の暗く、長い廊下を手洗いに連れて行き、また、連れ戻ってくれるのであった。

「稀(まれ)」のように読みがなをパーレンで括る方式は、新聞独得の表記だから目をつぶるにせよ(それにしては「築山[つきやま]」が行間ルビなのが解せない)、むやみに読点の多い、不必要に長いセンテンスはある時期以降の森茉莉のそれのようで、称賛できない(冒頭の「当時としては稀(まれ)に見る」はいったいどこに係るのだろう)。それとも小堀杏奴はここで、亡き姉を偲んでパスティシュを試みているのだろうか。吉岡が小堀文を切り抜いて保存したのはなぜだろう。理由のひとつは森茉莉の追悼文であるため、そしてもうひとつは上掲文に見える「魚籃坂」ゆえだったのではないか(〈《魚藍》と魚籃坂〉を参照されたい)。掲載されたのがいつかわからないので、はっきりしたことは言えないが、〈誰も知らない!〉は茉莉の歿した1987年6月6日からさほど隔たっていない時期に発表されたと思しい。そして、《鷹》1988年2月号の〈遠い『記憶の絵』――森茉莉の想い出〉は、追悼文を依頼されたのではなく、随想を頼まれた吉岡が進んで筆を執ったものに思えてならない。そのとき吉岡は、小堀杏奴の文章を「自分しか知らない」森茉莉の想い出を書くための踏切版[スプリングボード]にしたのではないか。

 父の頭蓋顔面の計測をして置かなかったのは今解剖学者たる私の特に遺憾とするところである。しかし正面と側面との写真はあるから頭蓋の長幅率、長高率、側面角等はある程度の確然性をもつ数字を挙げ得るはずであるが現在手許にないから他の機会にゆずる。それにしても父の死の際私が居合せなかったために解剖に付せず、その脳髄をいたずらに灰にしてしまったのはすこぶる残念である。(森於菟〈父の映像〉、同前、九五ページ)

吉岡実の散文は、森家の人人のなかでは、そこはかとないユーモアを漂わせる森於菟のそれに近く、森茉莉・小堀杏奴姉妹の系統ではない。

吉岡家蔵のクリアファイルに保存されていた、掲載紙等不明の小堀杏奴の随想〈誰も知らない!〉の切り抜き〔モノクロコピー〕
吉岡家蔵のクリアファイルに保存されていた、掲載紙等不明の小堀杏奴の随想〈誰も知らない!〉の切り抜き〔モノクロコピー〕

〔追記〕
小堀杏奴の小説・随筆集(と本扉にはある)《春》(東京出版、1947年4月20日)は、例によって江古田は日大藝術学部前の根元書房で入手した。本扉の裏に「表紙絵・カット 木下杢太郎」とあり、対向の本文ページの初めには「この書を故太田正雄先生に捧ぐ」と献辞がある。鴎外の文業を「テエベス百門の大都」と称えた杢太郎=太田自身、絵に優れていたことは、〈杢太郎と福永のサフランのスケッチ〉をみてもらえればわかると思う。

小堀杏奴の小説・随筆集《春》(東京出版、1947年4月20日)と村松嘉津《プロヷンス隨筆》(同、1947年8月20日)の表紙 小堀杏奴の小説・随筆集《春》(東京出版、1947年4月20日)と村松嘉津《プロヷンス隨筆》(同、1947年8月20日)の本扉
小堀杏奴の小説・随筆集《春》(東京出版、1947年4月20日)と村松嘉津《プロヷンス隨筆》(同、1947年8月20日)の表紙〔どちらも表紙絵は木下杢太郎の手になる〕(左)と《春》と《プロヷンス隨筆》の本扉(右)

東京出版は小堀杏奴や村松嘉津の本のほかに、吉岡実詩にとってきわめて重要な二冊の詩集、すなわち西脇順三郎の《あむばるわりあ》(1947年8月20日)と《旅人かへらず》(同)を出している。吉岡は当時をこうふりかえる。「村松嘉津『プロヷンス随筆』が出版されたのは、昭和二十二年八月二十二〔ママ〕日である。当時無名に近かった著者のこの本を、どういう動機で手に入れ、そして私は読んだのだろうか。いま記憶をたどってみると、昭和二十三年も終り近いころだと思う。私は所用で東京出版株式会社に関係ある知人をたずねた。そのかえりに、どれでも読みたいものがあったら二、三冊もって行けといわれた。荒縄でしばられ、うず高く積まれた返品物らしい本の中から、三冊のうすい本を選んだ。一冊は、『プロヷンス随筆』であり、他の二冊は、西脇順三郎詩集『あむばるわりあ』と『旅人かへらず』であった。私は偶然このとき西脇詩と出合った。そして、視点のきまらない私の詩精神はこの二冊の記念碑的作品に鮮烈な衝撃をうけたといえる。しかし別の一冊、村松嘉津の『プロヷンス随筆』は、私の肉体の飢えをあたたかく鎮めてくれたのである。」(〈『プロヷンス随筆』のこと〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一四〜一五ページ)。これを読むと、吉岡はこのときすでに出ていた小堀の《春》を手にしていないようだ。さて、《春》の小堀杏奴(当時、39歳)の文章は、森茉莉ふうの晩年の前掲文からは遠く、むしろ村松嘉津に近いと感じられる。〈巴里の話〉にこういう一節がある(なお、漢字は新字に改めた)。

 今日はふとした事から、巴里で食べた野菜サラダの事を思ひ出した。
 大きな瀬戸物の鉢に、サラダ油1、酢3ぐらゐの割合に入れ、塩、胡椒、又は辛子等で味付けする。
 さうして、別によく洗つて、水を切つた、青々したサラダの葉を入れて、木製の大きな匙とフォークで、充分に和へて食べるのである。
 この中にうで卵の輪切りを入れる事もあつた。
 菜葉は出来るだけ水気を切つた方が好いので、手で提げるやうになつてゐる針金で出来た小さい蓋物にサラダを入れ、長い間左右にこの籠を振りながら充分に水気をとる。
 恰度巴里の労働者街にゐたので、夕方になると方々の窓からムツシユウが首を突き出して、盛んにそれをやつてゐた。
 男の人が台所を手伝ふ場合、誰にでも出来る簡単な事なので、一番それをやらされるらしい。
 或る時フオーリ・ベルジエールヘ行つたら、レヴユーの合間にやる寸劇の中で、アパートの場面をやつた事があつた。
 セツトで出来たアパートの窓から、すつかり大人の扮装をした子供が半身乗出して、玩具のやうに小さいサラダの籠を盛んに振る。
 とても感じが出てゐて、見物人は皆喜んで手をたたいてゐた。(小堀杏奴《春》、一一〜一二ページ)

そうはいうものの、小堀にはかわいそうだが、村松の文章は並外れている。《プロヷンス隨筆》冒頭の一篇、〈にんにく〉のハイライトを引こう(漢字は新字に、々(同の字点)は漢字に改め、一の字点やくの字点はかなやカナに変えた)。

 にんにくを用ゐた最も有名なプロヷンス料理はアイオリーだ。それはこの地方の豊かなオリーヴ油を得て世にも結構な御馳走となる。ある夏の日、料理部屋からコトコトといふ音がしきりに続くので、何のお料理かと這入つて見ると老婢が乳鉢様のものの中に乳棒様のものを以て懸命に敲いてゐる。今日はアイオリーをしようといふのである。わたくしにもさせで頂戴、と代つて乳棒を握らうとする手を押へて、「少くとも貴女は今御病気ではないでせうね」といふ。穢れた者が触るとアイオリーは崩れてしまつて出来なくなる、といふのである。「これは昔の馬鹿気たことだとお仰るでせうけれど、何しろさういふ言ひ伝へですからね……本当に昔者は馬鹿なんですよ」と微笑しながらも真剣だ。さうしてアイオリーの作り方を教へて呉れる。先づ鉢の中に一人当り一鱗片の割でにんにくを入れる。それにこの地方で専ら用ゐられる粒状の塩塊を、大中小と三粒入れる。大きいのは父[ペール]、中位のは子[フイス]、小さいのは聖霊[サンテスプリ]と呼んで三位一体に擬するのだといふ。それをコトコト砕いて大体砕けたら卵の黄味を入れ、それから徐々に滴々とオリーヴ油を加へながら絶えずかきまはしてだんだんにコッテリと練り上げて行く。下手をすればそれが固らずに落ちてしまふ。早い話がにんにく入りのマイヨネーズなのだが、ただ酢を入れずに油だけで展ばして行くので、しまひには棒が動かなくなる程固くなつて、山のやうに盛り上る。信仰深いこの国の古い愛すべき風俗は、マイヨネーズの失敗にも何か神秘的なものを絡めて不浄を避け、三位一体に呼びかけるところが可憐ではないか。これさへ出来れば後はじやがいも、人参、葱、白味の魚、卵等等、ゆでたものを沢山大皿に盛つて供する。人人は好みのものにアイオリーをつけて食べるのだ。にんにくの臭味は勿論猛烈だが、食べ始めれば全く感じなくなつて、ただこれ、美味の極致である。プロヷンスの人人はこれを腹いつぱい食べてから、口臭を消すとて濃いコーヒーを呑み、冷やしたメロンを割る。それから樹蔭の長椅子に強い陽を避けて少時の昼寝[シエスト]に入る。南仏の怠惰な和やかな夏の情趣は屡屡アイオリーに繋がれる。(村松嘉津《プロヷンス隨筆》、六〜八ページ)

村松の〈にんにく〉をながながと引いたのは、ほかでもない。吉岡が前掲の随想〈『プロヷンス随筆』のこと〉で引用し要約した村松の原文が、あまりにも素晴らしいからである(*)。吉岡の簡にして要を得た文章も、それに劣らず見事だ。読者は、吉岡の随想と村松の原文を併せて味読されんことを。なお、著者が斧鉞を加えた《新版 プロヴァンス隨筆》(大東出版社、1970年3月15日)の本文は、残念なことに、初刊の簡潔ながら滋味あふれる境地からは一歩後退したものと見做さざるを得ない。上掲文と同じ箇所を、段落の切れ目まで引く(初刊でひとつだった段落は、新版では――文言に加筆があるものの――四つに分けられている)。

 にんにくを用ゐた最も有名なプロヴァンス料理はアイオリーで、それはこの地方の豊かなオリーヴ油を以て、世にも結構な御馳走となる。ある夏の日、台所からコトコ卜といふ音がしきりに続くので行つて見ると、老婢が深鉢のやうな器[うつわ]の中を、細く短い棒、つまり小さなすりこ木[、、、、]のやうなものでしきりに敲いてゐる。何のお料理かと訊くと、今日はアイオリーを作るのだといふ。わたくしにもさせて頂戴、と代つてそのすりこ木[、、、、]を握らうとする手をあわてて押へ、「奥さんは今御病気ではないでせうね」と訊く。身の穢れた女が触るとアイオリーは「落ちて」しまつて出来なくなる、といふのである。「昔の馬鹿げた考へだとお仰るでせうけれど、何しろさういふ言ひ伝へですからね……本当に昔者は馬鹿なんですよ」と微笑しながらも真剣らしい。それからアイオリーの作り方を教へて呉れた。(同書、六〜七ページ)

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(*) 村松嘉津《プロヷンス隨筆》の目次を掲げることで、同書の内容紹介に代える。


にんにく
野兎
つみ草
かたつむり(エスカルゴーとリマソン)
精進料理〔サフランについて詳しく述べた一節がある〕
アマンド
ピスタッシュ
愛の林檎
菩提樹[テイヨール]
薬草
野菜料理
ノエル
甘味
オリーヴ
臓物料理
日本の料理
プロヷンス文学と地中海文化
プロヷンス地方主義[レジオナリズム]

村松は〈跋〉を「更に自分の一番の喜びは、この小著が故太田正雄先生の御筆に成る草花の図を以て飾られたことである。長く欽慕をつづけながら、つひに親炙する日の短かかつた身の不幸は、これに依つて半ば救はれた心地である。/自分にこの喜びを許された御遺族の御親切に厚く御礼申上げる。」(同書、二二二ページ)と結んでいる。鴎外―杢太郎―嘉津と連なる系譜として、村松とその著書を本稿に登場させることに不都合はないはずだ。
なお、《プロヷンス隨筆》は初刊以降、《新版 プロヴァンス隨筆》(大東出版社、1970年3月15日)、《新装版 プロヴァンス隨筆》(同、2004年6月30日)と版を変え装丁を変えて刊行されているが、戦後間もない資材の乏しい時期に出た初刊が最も味わい深い一冊だとするのは、私の贔屓目だろうか。こういう本こそ、講談社の学術文庫にでも入って、永く広く読みつがれたらいいのに。解説には、四方田犬彦の書きおろしを、ジャケットには初刊の木下杢太郎の表紙絵を使って、付録には(半世紀前の資料として)再刊の契機ともなった井上究一郎と吉岡実の〈名著発掘〉の文章の再録を、ぜひ。

《新版 プロヴァンス隨筆》の34年後に刊行された《新装版 プロヴァンス隨筆》だが、〔新装版〕は〔新版〕の装いを新たにしただけの版ではない、というのが出版社の触れ込みだ。すなわち、本文最終ページの対向ページに追記された〈諞〔ママ〕集後記〉(同書、〔二六七ページ〕)に

本書は、昭和四十五年三月に弊社より刊行したものです。このたび新装版を刊行するにあたり、本文中の誤植を訂正し、また初版見返の著者によるスケッチ画「ガラバン背負へるオーバーニュの町」、「ガラバン遠景」は割愛しました。
なお、本書の現在の著作権者の連絡先が不明なため、事前に著作権者に報告ができませんでした。著作権者の方、またはお心当りのある方は弊社まで御一報ください。

とある。だが私の見たかぎり、誤植は訂正されていない。ゆえに、〔新装版〕が善本だと推奨することはできない。一例を挙げよう。冒頭の〈序〉の中ほどに出てくる「歴史的仮名遺ひ」(漢字は新字に改めた)は「歴史的仮名遣ひ」に訂されていない。「諞集後記」(「諞」はゴチかつ旧字!)も痛いが、こちらは痛いどころの話ではない。いっそのこと、〔新装版〕は〔新版〕の外装を変えただけで――実際に機械函をジャケット装に改め、著者が装丁した表紙・見返し・本扉の装いを新たにしている――、著者が故人であることに鑑みて、本文は〔新版〕の活版印刷による版面をそのまま平版印刷で再現[リプリント]した、とでもしたほうがよかったのではないか。以上は本書を愛するがゆえの苦言だが、文句ばかり言っていてもしかたがない。〔新版〕の帯文(原文は横組み)は、昔ふうだが味読に値するので、引用して顕彰しよう。ここでも、漢字は新字に改めた。

【表1側】
料理を以つて人間最高の芸術の一としたブリア=サヴァランの格言を著者は引いて言く、
「禽獣は腹を満たす。人間は食う。ひとりエスプリある人のみが味覚を知る」
「新しい料理の発見は星座の発見よりも人類の幸福に資する所が大きい」
エスプリある著者の味覚哲学は美味求真の徒に多大の共感を与え世界の食通も知らぬプロヴァンス料理に魅惑される事であろう。

【表4側】
陽光さんらんたる南仏プロヴァンス地方は灰色の北方巴里とは自ら異る独特の文化を形成している。
滞仏廿年、プロヴァンス文学に精通せる著者が、戦前・戦後の変貌しゆくプロヴァンスの種々相を語り、文学を紹介し、味覚を説くこの随筆は読んでまことに愉しい。しかも古今東西に互る学識と純正な格調の高い文章は、読書子を魅了し充感を与えずにはおかない。

村松嘉津《新版 プロヴァンス隨筆》(大東出版社、1970年3月15日)の函 村松嘉津《新装版 プロヴァンス隨筆》(大東出版社、2004年6月30日)のジャケット
村松嘉津《新版 プロヴァンス隨筆》(大東出版社、1970年3月15日)の函(左)と同《新装版 プロヴァンス隨筆》(同、2004年6月30日)のジャケット(右) 〔新装版〕では、印刷所が〔新版〕の明善印刷から亜細亜印刷に、印刷が同じく活版から平版に変わっている。なお、函とジャケットに見える紋章はプロヴァンス伯家のそれである。


吉岡実と浅草(1)――喫茶店アンヂェラス(2019年8月31日)

林哲夫さんのブログ《daily-sumus2》は日日愛読しているが、「浅草の喫茶店アンヂェラスが三月十七日をもって閉店するというニュースがあちこちに出ていて驚く。ホームページで発表したとのことで、確かめてみると、なるほどそう掲示されている」と始まる〈アンヂェラス 閉店のお知らせ〉(2019年2月19日掲載)は私を驚かせた。吉岡実の日記に登場するこの喫茶店を訪ねることは、私にとって宿願だったからである。浅草に行くのは、母がまだ外出できた25年ほど前、二人で浅草寺に初詣に行って以来だと思う(母は1996年に68歳で亡くなった)。浅草というと、そのことを想い出して足が向きにくい場所だったが、アンヂェラスが店じまいするとなれば行かねばなるまい。かくて、亡母の祥月命日の3月8日――林さんが《ARE》第6号(1996年)の特集〔洲之内徹という男〕のためにアンヂェラスの外観を撮影したのが、奇しくもこの年の3月8日だったという――、カメラを担いでアンヂェラス探訪とはなった。まず最初に、吉岡実の〈断片・日記抄〉を見ておこう。

〔昭和二十四年〕五月一日 博道@と四ツ木Aの才一Bの家へ行く。彼の父はがんこな人だった。臨終の床で、才一に枕もとにいないで仕事をしてろと云ったという。何か心うたれる。彼は新しい恋人が出来、悩んでいる。三人で浅草へ出る。軍隊時代を思い出す。新京へ外出の時、よく三人で遊んだり、満人料理を食ったり。たまには甘いもの屋の三吉野で食い逃げしたものだ。アンジ〔ママ〕ェラスでコーヒー。(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一一四ページ)

註を加える。@の博道は山中博道。「〔昭和十四年〕十一月十三日 午後、本所区役所へ兵役の件で行く。山中博道の家に寄った。二時から第一補充兵証書の授与式がはじまる。三時に了った。帰りはまあ坊、福太郎と一緒になり、石原町の「南や」に入って、コーヒーとパンを食べた。近くまあ坊はさぶちゃんと伊豆へ遊びに行くと言う。甲種合格のさぶちゃんは来月一日に入営するそうだ」(《うまやはし日記》、書肆山田、1990、八八〜八九ページ)。Aの四つ木[よつぎ]は東京・葛飾の地名。四ツ木駅は京成電鉄押上線の駅(葛飾区四つ木一丁目1番1号)。Bの才一は平井才一。令息の平井英一さんによれば、「大正8年6月、東京は本所の生まれです。父と吉岡さんとのお付き合いがどのように始まったのか、私は聞いていませんが、生まれた年と場所が近かったので、軍隊で意気が投合したのでしょうか。吉岡さんが亡くなるまで、父とは親友としてお付き合い頂いたようです。父は書き物を残していないので、今となっては何も調べようがありません」。「私の祖父〔吉岡文に見える才一の父〕は昭和24年4月17日に亡くなりました。当時、父は四ツ木でセルロイドの仕事をしていました。日記はその時、博道さんと一緒に父を慰めに来られた時のことが書かれているのでしょう。博道さんは、山中博道さんの事です。父の戦友の一人だと思いますが、昭和14年11月13日の「うまやばし日記」に山中博道さんと記されているので、吉岡さんとは古くからの友人だったかも知れません。私の父と山中さんは、吉岡さんが亡くなられるまで親しくお付き合いしていました。浅草が好きだったようで、よく三人集まってアンヂェラスへ行ったり、食事をしたりして楽しんでいました。吉岡さんが亡くなった後、残された父と山中さんがだいぶ気落ちしていたのを思い出します。その山中さんも亡くなられました」(〈父の戦友、吉岡実〉による)。

私はアンヂェラスの見納めという名目で、四半世紀ぶりに浅草を訪れた(2004年に厩橋を歩いたときも、浅草には足を向けなかった)。そして「聖域としての浅草」という感慨を持った。帰宅してさっそくその出典を調べると、高橋睦郎〈吉岡実葬送私記〉の末尾にまぎれもなくそれは載っていた。もっとも「聖域」は浅草ではなく、吾妻橋を渡った吉岡の生地である本所だったが。

 陽子夫人によると、吉岡さんは三十年の結婚生活中、浅草まで来ても陽子夫人を伴って橋のこっちに来たことは一度もない、という。それほど大切にした幼年時代の聖域への思いは遺著『うまやはし日記』に凝縮している。誰か『うまやはし日記』を映画にしてみようという、意欲ある監督はいないか。「童年往事」「悲情城市」の台湾の侯孝賢監督では駄目かしらん、などと思い思いしている。(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991、二五六ページ)

喫茶店アンヂェラス・全景 喫茶店アンヂェラス・入口 喫茶店アンヂェラス・看板 喫茶店アンヂェラス・一階 喫茶店アンヂェラス・飲物 喫茶店アンヂェラス・伝票
(左から)喫茶店アンヂェラス・全景 同・入口 同・看板 同・一階 同・飲物 同・伝票

私がアンヂェラスを訪ねたのは、2019年3月8日(金曜日)の15時ころ。店前の歩道には席が空くのを待つ人が数人並んでいる。ドアの貼り紙に「フルーツポンチ 梅ダッチコーヒー 梅アイスティ 終了しました」とある(行ったときはケーキ類も品切れだったので、定番の洋菓子・アンヂェラスにはありつけなかったが、焼菓子の「元祖ブッシェ」を土産に買うことができた)。その左の貼り紙は閉店のお知らせ。店の前の小路を人力車が行き交う。テーブルには、1981年2月3日に来店した漫画家・手塚治虫のサイン入り色紙(コピー)。この日、頼んだのは、手前のダッチコーヒー(620円)――泉麻人〈銀座にもザラにない味とスタイル――純喫茶 アンヂェラス [東京・浅草]〉に「暑い日だったのでアイスコーヒーをオーダーすると、ココはきちんと蝶ネクタイを締めた老ウェーターが、氷の入ったグラスにその場で珈琲を注いでくれる。苦味がシャキッと効いた、実に旨いアイスコーヒーだ。そして、茶受けに頼んだのは定番の洋菓子・アンヂェラス。バタークリームの風味漂う小型のロールケーキで、これを味わうたびに、ふと子供の頃のクリスマスの光景が思い浮かんでくる。〔……〕僕が注文したアイスコーヒーもサントスを水出しした製法のもので、これは俗にダッチコーヒーと呼ばれている(メニューには「梅ダッチコーヒー」という、この店独特のものもある)」(《東京ふつうの喫茶店》、平凡社、2010年5月17日、一二九〜一三〇ページ)とある――と奥のミルクティ(550円)、そしてチョコレートパフェ(770円)。コーヒー好きの吉岡実は、ここで梅ダッチコーヒーかダッチコーヒーでも飲んだのではないか。さらば、浅草・アンヂェラス! 73年間、ご苦労さまでした。そして、ごちそうさま。

林哲夫さんが前掲ブログで引用している洲之内徹の〈絵を洗う〉は、洲之内徹・関川夏央・丹尾安典・大倉宏ほか《洲之内徹 絵のある一生〔とんぼの本〕》(新潮社、2007年10月28日)の〈懐かしの「気まぐれ美術館」名作選〉にも登場する名篇。アンヂェラスの協力を得て新潮社(《芸術新潮》編集部?)が撮りおろしたに違いない写真は、同店の内部を写した最も精細な一枚となった(同書、〔九三ページ〕)。キャプションには「浅草オレンジ通りの喫茶店「アンヂェラス」――浅草びいきの洲之内徹がしばしば訪れた店内には、森芳雄、鳥海青児らの作品が。壁面の2点は森芳雄の作品。左が〈テラスの女〉 1953 油彩、カンヴァス 44.8×37.2cm」(同前)とある。


東博歌集《蟠花》のこと(2019年7月31日)

永いこと吉岡実関連の資料を探索していると、未刊詩篇や単行本未収録の文章を新たに発見するのがそう簡単なことではない、と悟る(歿後30年ともなると、むしろ書簡類に動きが見られる)。それでも、日頃の情報収集は欠かせない。オークションに出品されるとメールが届くようになっているが、古書店の出品は冊子体やインターネット上のデータをブラウジングする必要がある。先日、検索ワード:「吉岡実」で《日本の古本屋》を調べたところ、奈良・生駒のキトラ文庫が、著者:「前川佐美雄・田中克己・斎藤正二・吉岡実他」で、《日本歌人》(第11巻1〜3・6・9月号)を出品していた。私の知るかぎり、吉岡が前川佐美雄の主宰する《日本歌人》に書いたことはないはずだ。これは新発見の資料である可能性が高い。雑誌は「昭35、5冊/少ヤケ *並」で、価格は\1,750。すぐに注文しても好かったのだが(のちに注文した)、一刻も早く見たいと逸り、5月下旬、永田町の国立国会図書館・新館でバックナンバー(原本ではなく、35ミリのマイクロフィルム)を閲覧した。デジタルのビュワーを使って見るのは初めてだったので、操作に手間どる。案内係に教わりながら、1960(昭和35)年9月号に載っていた吉岡実の文章のコピーをとった。同号は、表紙も含めて全68ページ。その4割以上の28ページを「蟠花批評集」(目次の記載)に当てている。一方、本文ページでのそのタイトルは〈歌集「蟠花」評〉。目次の記載は当初、すなわち企画段階のタイトルで、依頼した原稿が実際に集まった時点で新たに付け(なおし)たタイトルが、〈歌集「蟠花」評〉だったのではないか。今回の吉岡の文章は、そのなかの一篇である。計15本の評の執筆者名と標題を挙げよう。亀井勝一郎〈蟠花断想〉、保田与重郎〈蟠花読後感〉、斎藤磯雄〈忍辱の歌――東博歌集『蟠花』〉、結城信一〈孤独の心象風景――東博歌集「蟠花」〉、石川信夫〈朗々たるペシミズム〉、堀内民一〈歌集「蟠花」のこと〉、中塩清臣〈〈蟠花〉頌〉、山上伊豆母〈東博歌集蟠花≠ノ寄す〉、大伴道子〈詩人の慟哭〉、山中智恵子〈歌集「蟠花」に〉、吉岡実〈東さんの歌集「蟠花」のこと〉、石塚友二〈歌集「蟠花」〉〔(俳句誌「鶴」五月号より転載)〕、久保田正文〈ひとりの宴〉〔(「図書新聞」より転載)〕、田中克己〈悲しいかな蟠花〉、斉藤正二〈純乎とした現実享受の態度〉。そして、無署名の紹介記事〈歌集「蟠花」〉〔(「南日本新聞」より転載)〕である。なにはともあれ、吉岡実の未刊行散文を読んでみよう。

《日本歌人》1960年9月号の表紙〔画は棟方志功〕  《日本歌人》(1960年9月号)掲載の東博歌集《蟠花》出版広告
《日本歌人》1960年9月号の表紙〔画は棟方志功〕(左)と同号掲載の東博歌集《蟠花》出版広告(右)

東さんの歌集「蟠花」のこと|吉岡実

 今から五年前、ぼくの詩集「静物」について、東さんが心のこもつた感想を書いてくれた。こんどは、ぼくが「蟠花」の感想を書くことになつた。批評がましいことはとてもできないので、思いつくままをのべよう。東さんの二十年の精神の歴史でもあるこの処女歌集「蟠花」は哀傷詩集というのがふさわしい。型は短歌であるが、一首一首をぬきだしてみるよりも全巻四六五首を均斉のとれた美しい一大挽歌として読むべきではないだろうか。
彩[あや]なして流るるものにそびら向けわが若年の日は傾[かたぶ]くよ

愛憎の果ての心の断つべくも踏みしだかれし紫雲英[げんげ]のみだれ

ふるさとに火を噴く山をおきて来つ火を噴くゆゑにかなしその山

追ひつめてわが生きの世を歎かへば心に触るる花ひとつなし
 ちよつとぬきだしでみても、アララギ派の実相観入的な歌風から遠い。別のことばで云えばたいへん観念的な歌に思える。しかし妙に空々しくないのは心の影が純粋に流れているからだろう。ぼくも少年時に幾つか歌をつくつたが、単純な叙景歌しかよめなかつた。それで幻想的な世界を求めて詩へ移つたのだが、東さんはむしろ幻想を求めず、日常の世俗な身辺のリアリティを心理的に捉えて、みみつちくなく、格調たかい、結晶した歌をつくり上げている。
 ぼくたちの知つている、すべてにきびしい東さんの心の奥に、煩悩の人、哀傷の詩人の一面が窺われてうれしい。
 好きな歌を少し抄してみる。
女との逢ひを早々に切り上げてジューヴェ見に来しむかし浅草

みちのくのいはでしのぶの忍ぶ恋石に刻めりみちのくびとは

夏に向く照り盛んなる青若葉生きの喚[おら]びの時過ぎにけり

もろもろの女人のいのち眼交[まなかひ]に燃えていますがに濃きくれなゐや(百済観音)

きのふけふ冬もすゑなる物思ひ悔しきことをまた一つせし

老杉[らうさん]の上透[す]く冬日乏しけれあまつさへわれの額[ぬか]に届かず
 巻末に戦争歌集を収めた東さんの自信、良識におどろく。どの歌を見ても胸をうたれる。東さんが自己の精神を偽らず、体験を大切にする天性の詩人であることを証している。(同誌、五八ページ)

冒頭の「今から五年前、ぼくの詩集「静物」について、東さんが心のこもった感想を書いてくれた」のが、どこに発表された何という文章なのかわからない。吉岡が前川佐美雄に初めて本格的に言及したのは〈孤独の歌――私の愛誦する四人の歌人〉(《短歌の本〔第一巻〕短歌の鑑賞》、筑摩書房、1979年10月20日)だから、本稿の筆を執ったのは、同誌の編輯人でもあった佐美雄の線よりも、よりいっそう東博歌集《蟠花》の版元・書肆ユリイカ社主の伊達得夫の線だったのではあるまいか。さらに想像をたくましくすれば、著者から吉岡に歌集が贈られ、吉岡がそれに礼を言い、著者から「蟠花批評集」に執筆の依頼があった、という流れかもしれない。

東博歌集《蟠花〔日本歌人叢書〕》(書肆ユリイカ、1959年12月20日)の函と表紙 
東博歌集《蟠花〔日本歌人叢書〕》(書肆ユリイカ、1959年12月20日)の函と表紙(左)と同・中扉〔挿画:駒井哲郎〕(右) なお本書の前見返しには、ペン書きで「外村繁樣/哂存/東博」と献呈・識語・署名がある。

東博歌集《蟠花〔日本歌人叢書〕》(書肆ユリイカ、1959年12月20日)の仕様は、一八〇×一二八ミリメートル・二一二ページ・上製角背継表紙(背は赤、平は群青のクロス)・機械函。別丁本扉。装丁者のクレジットはない。〈目次〉裏に「自昭和十五年/至昭和三十二年/四六五首」とある。〈跋――歌集「蟠花」のこと〉は安東次男、〈挿画〉6点(本扉を含む)は駒井哲郎。あの詩画集《からんどりえ》(書肆ユリイカ、1960)のコンビである。吉岡は〈〔自筆〕年譜〉の「昭和三十五年 一九六〇年 四十一歳」の項に「秋、安東次男・駒井哲郎の詩画集『CALENDRIER』を買う。」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984、二三二ページ)と書いており、書肆ユリイカの出版活動には支援を惜しまなかった。その書肆ユリイカの本について知りたいなら、田中栞《書肆ユリイカの本》(青土社、2009年9月15日)につくのがいちばんである。

 〔継ぎ表紙の〕背が黒でひらが赤という作品もある。東博『蟠花』(昭和三四年、図62〔三二頁〕)、そしてミショオ『プリュームという男』(昭和三四年、二三頁)。(〈繊細な詩集群の誕生〉、同書、二九ページ)
〔吉岡実の装丁になる《プリュームという男》は、たしかに「背が黒でひらが赤という作品」だが、なんとしたことだろう、《蟠花》は上掲写真のごとく「背が赤[、]でひらは群青[、、]」ではないか。同書に掲げられた2点の書影は本文中(しかも離れたページ)のモノクロ図版だったため、こうした取りちがいが生じたのだろうか。〕
                  …………………………
 平成一六年一一月、アトリエ箱庭(大阪)で「書肆ユリイカの本」展を開催したが、その展示本のリストを作成する段になって、私は神保町の老舗古書店、田村書店を訪れていた。ガラスケースの中の吉岡実『僧侶』(昭和三三年)を見せてもらうと、東博宛の献呈署名入本が九六〇〇〇円である。署名なしの別本も見せてくれたが、どうせなら署名入本が欲しい。東博の名はユリイカの歌集『蟠花』(昭和三四年)の著者として記憶していたのでそう言うと、ご主人の奥平晃一さんが「筑摩書房で吉岡と同僚だった人ですよ」と教えてくれる。クレジットカードで支払うつもりでいたところ、手数料を取られるので現金支払いのほうか得になるという。さすがにこの金額を持ち歩くほど不用心ではない。御茶ノ水駅そばの銀行まで行って引き出してから再度来店したところ、付け値から二〇〇〇円値引きしてくれた。この本で、ユリイカ本の一冊当たり購入額の最高値を更新してしまった。
 ちなみに東博の『蟠花』は、平成一五年二月二一日に社会教育会館で催された和洋会で購入している。駒井哲郎の挿画が入り、元グラシンつきの献呈署名入本だが、古書価は二〇〇円であった。出品店は波多野巌松堂書店(神保町)である。(〈コレクション展をきっかけに〉、同書、二一三〜二一四ページ)

なるほど、《筑摩書房の三十年》(筑摩書房、1970年12月25日)巻末の〈社員一覧表(四十五〔1970〕年六月十八日現在)〉には「日本文学編集室長 東 博」(同書、二二三ページ)とある。ついでながら、《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)からは省かれた吉岡の随想〈会田綱雄『鹹湖』出版記念会記〉で

この会をやるについて、会田さんに相談したとき、云ったものだ「会なんてどうでもいいんだ、酒がのみてえんだ」会田さんの希望で、各自が好きな詩を読むことになった。だれもが詩の朗読なんかはじめてだったと思う。しかしその人が選んだ詩とその読みかたが、稚拙なうちにも不思議と一種の味があった。ことに印象的なのは、岡山〔猛〕さんの「鴨」の朗読だ。まさに岡山さんには鴨の風格があるから。一応ここに記録をのこそう。山田〔丈児〕「上海のための習作二つ」。東〔博〕「一路平安」。吉田澄「鹹湖」。和田〔陽子〕「伝説」。原田〔奈翁雄〕「ん」。高橋〔和夫〕「鴎」。野原〔一夫〕「醜聞」。吉岡〔実〕「アンリの扉」等であった。(《「死児」という絵》、思潮社、1980、二五七〜二五八ページ)

と〈一路平安〉を朗読した「東」さんが、東博その人だろう。同文の初出は筑摩書房の労組機関紙《わたしたちのしんぶん》(1957年5月17日)だったから、社内の人間には姓だけで通じたのだろうが、私は〈社員一覧表〉で名前を補いながら、上掲のように読んだ。いま思いついたのだが、東博が《静物》について書いた文章は《わたしたちのしんぶん》に載ったのではないか。なによりも、吉岡が〈会田綱雄『鹹湖』出版記念会記〉に「〔一九五七年〕三月二十八日の夜、会田さんの詩集の出版会を催した。それは二年前に、僕の『静物』のささやかな出版記念会をやった、北沢の同じ部屋だ。」(《「死児」という絵》、二五七ページ)と書いているのが、こうした憶測を許す。筑摩書房の(文学好きの)社員が集った吉岡実詩集《静物》(私家版、1955)の出版記念会に東博が出席した可能性は、きわめて高い(このときの出席者の記録がないのは残念だ)。(*)
ところで、東博は寡作の歌人で、家集は後出《水蓼残花集》を含むわずか2冊、共著での歌集も《高踏集――日本歌人新選十二人集〔日本歌人叢書〕》(國際文化協會出版部、1950年12月20日)収録の〈孤宴〉(**)、合同歌集《風媒花〔八人選集〕》(暁書房、1951年10月3日)収録の47首を数えるのみだ(***)。その略歴は各種の文学事典にも記載されていないので、《蟠花》巻末の安東次男の〈跋〉に見える記述を借りよう(《風媒花》巻末には〈作者略歴〉があるから、続けて掲げる)。

 おわりに、この日本的羞恥の表現の最後の残照をぼく同様に愛されるであろう少数の読者のためにつけ加えておけば、作者は大正七年十二月生れである。筆者より七カ月の年長である。短歌に興味を覚えたのは中学の二年頃より、啄木が機縁であつた。ついで白秋、勇、牧水、利玄、茂吉等を遍歴するが、これらの歌人からとくに一人を取り出して決定的影響を受けたということはないように見受けられる。あえていえば、作者が昭和十六、七年頃より師事した前川佐美雄の影響が見られる(作者はこれよりさき、歌集『くれなゐ』を読んで傾倒、この頃前川主宰の『日本歌人』に参加、併せて同時期の坪野哲久の『百花』、筏井嘉一の『荒栲』に感銘したと語つている)。ということはこの作者の『アララギ』的短歌への反撥の一つのしるしであつて、彼の作品からおのずと色濃く窺われる末期万葉―新古今的措辞はそういうことに関係していよう。当然この作者は当時の保田与重郎の諸作にも深く傾倒した。この辺りに昭和十年代の文学青年の、一つの典型が鮮やかに浮彫りされてくるのである。昭和三十一年には第一回『日本歌人賞』を受けている。旧著に合同歌集『高踏集』(昭和二十五年)、同じく『風媒花』(昭和二十六年)がある。(《蟠花》、二〇七〜二〇八ページ)
                  …………………………
東博――大正七年一二月一日、鹿児島に生る。東京商科大学卒。現住所、東京都杉並区高円寺〔……〕、花菱荘。「日本歌人」同人。(《風媒花》、九九ページ)

安東次男が書くように、昭和31(1956)年には第1回日本歌人賞を、山中智恵子とともに受賞している。東博は受賞者が発表された1月号に〈心いまもアルカディアに〉(35首)とともに〈作者の言葉〉を寄せている。その一節には「歌は見知らぬ人への便りだ。見も知らぬ人へ綿々と書き綴る便りだ。その中のただの一首でも、一人の人間の心に喰入つたら、短歌作者たる者以て瞑すべきであろう。」(同誌、二五ページ)と見える。やや多いが、吉岡に倣って東博歌集《蟠花》から私の好きな歌を抄してみる。なお、漢字は新字に改めた。

〈春の章〉
「花」
咲きつぎていくか保たぬ花なればゆふかたまけてまたも見むとす
「明日」
若年の日を傾けて歌ひしも冬に色濃き花にし如[し]かず
「海山のおもひ」
春浅き朝明[あさけ]のねむりにおぼろめき顕[た]つは誰[た]が子ぞ面影びとよ
遠方[をちかた]の空の茜[あけね]に湧くごとき海山のおもひ人に告げばや
「石くれの如き」
朝々を髪の抜毛[ぬけげ]の散りぼひて一日[ひとひ]の幸もはかりがたなし
「春の吹雪」
吹き乱る外[と]の面[も]の雪にこの日頃飢ゑまさりゆく心を任す
夜に入りて外[と]の面[も]は春の雪しまき心にともすひとつ灯[ひ]のいろ
「近代恋慕調[いまやうなげきぶし]――Fraulein Mignon gewidmet」
わが為[な]せしわが為さざりしもろもろの悔[くや]しく痛き春秋の歌
「境涯の歌」
木洩日[こもれび]を掻きあつめつつ境涯の歌なすや茫々三十三年の夢
「風のあと」
たわたわと心[しん]の破れに膝つける姿祈りに似たりと言ふか
みちのくのいはでしのぶの忍ぶ恋石に刻めりみちのくびとは

〈夏の章〉
「堕され人」
君ゆゑの堕[おと]され人[びと]となりてよりわが世の果のあやめむらさき
「太宰治に捧ぐる挽歌」
きみが死[しに]の跡処[あとどころ]いづこと覓[と]めゆきて渦なす水に視入るしばしば
「遠潮騒」
わが胸の遠潮騒[とほしほざゐ]を聴く如く思ひゆるがす曲はあゝリムスキー・コルサコフ
「ルイ・ジューヴェ」
ギャバンよしジャン・ルイ・バロウそれもよしジューヴェに如[し]かず心通ふもの
「永日」
雅歌一篇記憶にとどめそのままに覚むるなき眠り欲[ほ]りする幾夜
「旅立ち」
人ひとり去らしめしばかりの悲しみかなべての別離[わかれ]をわれはして来し
「ジンタの街」
のびちぢみ裄丈[ゆきたけ]あはぬ心をばもてあつかひかねし一日[ひとひ]のおろか
「昏き七月」
うちらより胸突き上げて一せいになだれゆく先の夏深みどり
「回想の旅」
 伊豆
伊豆の西戸田[へだ]の港をいでてより旅寝重ねし幾夜のなげき
 奈良
もろもろの女人のいのち眼交[まなかひ]に燃えていますがに濃きくれなゐや(百済観音)

〈秋の章〉
「喪失」
想はねどまたかへりくるおもかげのわが目に沁みて遠白き日や
「燈下吟」
ものみなの孤独[こどく]にひそむ真夜[まよ]を起きて何業[なにわざ]か励むひとりのしぐさ
「武蔵狭山丘陵」
ひと色の黄に朽ちはてし病葉[わくらば]に陽もとどかねばうらじめりする
「こぞの雪」
陽の下に何新しきものありや君と僕とのあゝ過ちも
「薬師寺」
水煙の笛吹童女羨[とも]しきろかく吹きならすその節や何
「微塵」
空し手を垂れてけふ見る夕茜むごき季節の日ゆき月ゆき
「街の谷」
夜をこめてかなしみどもを引きずりて人と行く道ふた岐[わか]れなす

〈冬の章〉
「白い夢」
わが夢に入りくる花の寒々とある夜に見たる崑崙[こんろん]の谷
「跼蹐」
秋水の湧きくるごとくはかなごともとなかかりて真夜[まよ]いねがたき
「修羅」
身のまはりひと色の風吹き流れ音[ね]に立つものは知らぬ人声
「師よ茂吉よ――哭斎藤茂吉二十首」
年久[としひさ]のかの係恋に似たりしよ一目欲[ほ]りせり会ひたかりけり
「心いまもアルカディアに」
細く鋭く祈れるごとく天を指す裸木[はだかぎ]の枝が視野の限りに
「背信」
挽歌四方[よも]に満ちて樹液下るかかる夜に愛は死にしならずや

〔追記〕
東博には《蟠花》の20年後に刊行された第二歌集がある(最後の家集か)。《水蓼残花集[すゐれうざんくわしふ]》(卯辰山文庫、1979年3月20日)がそれだ。卯辰山文庫は、安東次男や森澄夫の句集で知られる版元だが、歌集は東博のそれを含めて数点しかないようだ。同書の仕様は、一九〇×一三〇ミリメートル・二〇六ページ・上製角背布表紙・貼函(表1に活字による書名の貼題簽)。別丁本扉(書名の「題簽」=筆書きは会田綱雄)。装丁者のクレジットなし。本文直前の半扉に「自昭和三十四年/至昭和五十三年/三百一首」とある。一ページに二首組(字詰めは21字)。今回も、安東次男が東博の歌に寄せる〈風狂ノ残〉を巻末に書いている。状況から考えれば、《水蓼残花集》は吉岡が読んでいておかしくないが、同書への言及は見あたらない。《蟠花》と同様、好きな歌を掲げよう。なお、安東が賞讃する〈俗謡――藤田啾漣を言問ふ〉には感嘆するが、私がここで挙げる必要はないだろう。また、昭和五十二年「次男、七歳、骨を病む。ペルテス氏病。」の詞書を持つ〈冬木は直〉は、悲痛に過ぎて、引くに忍びない。

水蓼残花集》(卯辰山文庫、1979年3月20日)の函と表紙" 《水蓼残花集》(卯辰山文庫、1979年3月20日)の本体と函の背" 東博歌集《水蓼残花集》(卯辰山文庫、1979年3月20日)の本扉〔「題簽」:会田綱雄〕
東博歌集《水蓼残花集》(卯辰山文庫、1979年3月20日)の函と表紙(左)と同・本体と函の背(中)と同・本扉〔「題簽」:会田綱雄〕(右) 国立国会図書館所蔵の同書は東博からの寄贈本で、「54.4.28」の受入印が捺されている。

昭和三十四年
〈海鳴り〉
美しかれ[ソワ・ベル]悲しかれ[ソワ・トリスト]たまさかは憚るほどの恋語りせよ

昭和三十六年
〈乏しき冬〉
霜解の練馬朝道どろはねて泥[なづ]みては人ならぬものも憎めり

昭和四十六年
〈点滴〉
庭隅に一つ見出でし終[しま]ひ薔薇[ばら]いのち傾[かたぶ]くまでに秋闌けにけり
〈大和行〉
貪りて生き来しならねしかすがに秋の飛鳥の陽に眩みをり

昭和四十七年
〈雪の夜語り〉
妻も子も昼寝[ひるい]せる雪のしげき日をニコラ・プーサンの画集はかたへ
〈「戦後」〉
二月[きさらぎ]に雪見ぬことのさびしさよもの狂はする春の雪来よ

昭和四十八年
〈少年遣欧使〉
稚くて花たちばなの香にむせしうるし闇夜の少年の恋
少年渡海の天正の代は想へどもアドリアの海も見ずして吾は晩年
〈一九七三・夏・高野〉
命の全[また]けむ人は聴くことあらむ夜をこめて慈悲心鳥はわれに来鳴かず
 戯寄前登志夫
うすく乏しき髪ふり乱し粗玉[あらたま]の登志夫は高野の夜に雄叫[をたけ]ぶ

昭和四十九年
〈身後〉
おもかげもその名をさへや消えなむか逢はですぐせし時のながきに

昭和五十年
〈哀悼村上一郎〉
過ぐる甲寅の歳よりことし乙卯の春にかけて、身辺訃報相継ぐ。弥生も末の九日、春いまだ定まらざるに、村上一郎俄かに事を決し、一閃し去る。壮心なほ中有にとどまるが如きを、春日なんぞ煦々たる。/学窓を同じくせしは三十有余年の昔。君はいま烟霞のかなた、白玉楼中の人となる。竊かにおもふ、断ちがたきは、係恋にあらず、恩愛にあらず、心のうちなる修羅のみ。即ち
身に飼ひし修羅放ちやりたくぶすま白き柩にいまはやすらふ
〈事に触れて〉
ナントに雨が降ると唄ふバルバラ夜をこめて卯の花腐[くた]しわれもそぼちつ

昭和五十一年
〈秋風裡〉
確乎たるは死者のみにしてわが在り処[ど]日は日を追ひて身のおぼろなる

東博、前登志夫、塚本邦雄――《水蓼残花集》の昭和四十八年〈唱和抄(二)〉には、塚本の「聖母哀傷[スタバト・マーテル]の底にふと黙[もだ]せりわれの首枷のふち鋭き襟布[カラー]」に唱和した一首がある――といった《日本歌人》の俊秀たち(****)は、吉岡実にも親しい、ほぼ同世代の歌人たちだった。吉岡は彼らの師・前川佐美雄について「佐美雄の短歌にはいくらでも、近代人の憂愁――いってみれば、孤独な魂の呻吟を見出すことが出来る。しいて先蹤的作品を求めれば、萩原朔太郎の《月に吠える》の詩篇ということになろうか。」(〈孤独の歌――私の愛誦する四人の歌人〉の「3 前川佐美雄」、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一五六ページ)と書いている。まさに、吉岡を(そこから先は詩に転ずるしかない)短歌の極みまで導いたのが佐美雄であり、彼の弟子たちはそれでもなお短歌に踏みとどまって、おのおのが孤独で、しかも豊かな戦いを戦ったのだった。

………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

(*) 《日本歌人》1960年2月号の〈彙報〉欄に「蟠花出版記念会」と題する次の告知が載っている。

 東博歌集「蟠花」の出版記念会は次の通り開催する。著者を囲んでその労をねぎらひその功を祝つて今後の発展を祈りたい。東京の会員は繰り合はせ出席されるやう希望する。
 一、日時 三月二十七日(日)午後一時
 一、会場 豊島園ホテル(地下鉄又は西武電車にて豊島園下車、豊島園入口より入る)
 一、会費 三百円
 一、出欠 前々日までに東京日本歌人発行所まで御連絡のこと。
 当日は前川主宰上京出席の予定。(同誌、四八ページ)

さらに同号〈編輯後記〉には、前川佐美雄が「▽別掲彙報の通り三月、四月は行事が多い。いづれの会にも賑やかに出席して欲しいと思ふ。私は三月下旬に上京する。しばらくぶりで東京の会員諸氏におめにかかれるとたのしみにしてゐる。」と、またこの号の編輯実務を担当したと思しい宮崎智恵が「▽別頂[ママ]のとほり三月二十六[ママ]日(第四日曜)を東博氏の歌集「蟠花」出版記念会にします。久々に先生御上京のことではあり、全員参加して著者を祝福したいものです。なほ会場へは新橋、目白、新宿駅西口、高円寺よりそれぞれバスが出てをります。」と書いている(同誌、五一ページ)。伊達得夫はこの出版記念会に出ただろうが(肝硬変で急逝するのは、翌1961年の1月)、吉岡実が出席したかどうかはわからない。

(**) 冒頭に「戦後の溷濁は僕の五体の隅々にも滲みこんで離れない。日々脅かされる生活の不安もさることながら、精神的荒廃に疲労困憊してゐるのだ。〔……〕大学の制服で前川さんの門を叩いてから十年。早いものだ。そしてまた僕の歩みの何とのろいことだ。」(漢字は新字に改めた)という約450字の散文を掲げた東博の〈孤宴〉は、〈春の章〉(18首)、〈夏の章〉(23首)、〈秋の章〉(14首)、〈冬の章〉(23首)の全78首からなり、幾多の作品(たとえば「わが胸の遠潮騒[とほしほざゐ]を聴くごとく思ひゆるがす曲はあゝリムスキー・コルサコフ」)が、処女歌集《蟠花》に収められることになる。なお、合同歌集《高踏集》収録の作者と作品名は、つぎのとおり。

東博〈孤宴〉
船津碇次郎〈雅歌〉
平光善久〈花の重量〉
玉井照子〈会話〉
平井恵美〈青芝〉
塚本邦雄〈クリスタロイド〉
池田道夫〈悲天〉
山口実〈遠流〉
赤松千都子〈牡丹雪〉
井上周〈海の方へ〉
大和克子〈風の歌〉
山内敬一〈周辺〉
前川佐美雄〈後記〉

日本近代文学館所蔵の《高踏集》の前見返しには、ペン書きで「東博/瀬沼茂樹様/恵存」と署名・献呈・識語が記されている。ちなみに、同書の奥付には「著作者 代表 東博」とある。

(***) 合同歌集《風媒花〔八人選集〕》収録の作者と作品名は、つぎのとおり(漢字は新字に改めた)。

中山昭彦〈春のうた〉
東博〈春の吹雪〉
武田葛〈白鷺城〉
山口智子〈花舗〉
内田実〈街をゆく〉
梅田真男〈回転〉
三上芳郎〈アンナプルナ〉
萩原実〈はなます〉
〔無署名〕〈あとがき〉

東博のパートは13ページから始まっている。そのページは扉で、ミロのヴィーナスのバストアップの角版写真の下に「東博」とあって、標題はない。14ページは白。15ページの最初の行にはタイトルの「春の吹雪」(四号活字)があって、以下17ページまでに12首。17ページには「武蔵狭山丘陵」(12ポ)とタイトルがあって、以下19ページまでに10首。19ページには「近代恋慕調[いまやうなげきぶし]――Fraulein Mignon gewidmet」(12ポ)とタイトルがあって、以下おしまいの24ページまでに25首。本書〈もくじ〉でも東博の作品名は〈春の吹雪〉とあり、冒頭の連作の題名も「春の吹雪」――ここからは9首が《蟠花》〈春の章〉の「春の吹雪」(全11首)に採られた――とすべきだろう。「武蔵……」10首は《蟠花》〈秋の章〉の同題の下に全10首が(1首めと2首めの順番を入れ替えて)収録され、「近代恋慕調……」25首は《蟠花》〈春の章〉の同題の下に、1首を省いた24首が収録されている。《風媒花〔八人選集〕》の著者の顔ぶれは、《日本歌人》の同人が揃いぶみした《高踏集》とは違って、「ここに籠つた私達八人は所属結社を二・三異にしてゐるが、偶然のことながら大かたが科学にたづさはる者たちである。」(〈あとがき〉、本書、九七ページ)とある。著者は《短歌風光》の同人が5人を占め、《日本歌人》の同人は東博ひとりである。このときからほぼ5年後の吉岡実は、《新詩集》や《今日》といった同人詩誌に陸続と詩篇を発表しており、それらの作品は詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)としてまとめられた。

合同歌集《風媒花〔八人選集〕》(暁書房、1951年10月3日)の表紙"
合同歌集《風媒花〔八人選集〕》(暁書房、1951年10月3日)の表紙 この東京都立図書館所蔵本――日比谷図書館「昭28.1.31」の受入印あり――は板紙の表紙だが、紐で綴じなおしてあり、背が改装されている。

(****) 日本近代文学館・小田切進編《日本近代文学大事典〔第五巻〕》(講談社、1977年11月18日)の《日本歌人》の項は阿部正路の執筆で、末尾を「現在、〔……〕おもな同人は、石川信雄、宮崎智恵、前川緑、平光善久、山中智恵子、東博、前登志夫、古川政記ら。主要同人の一人、斎藤史は独立して「原型」を創刊、一派をなした。」(同書、三〇八ページ)と結んでいる。このうち石川信雄、山中智恵子は前掲〈歌集「蟠花」評〉に文章を寄せているが、前登志夫や斎藤史は東の歌について、どこかに書いているのだろうか。一方、戦後間もない1947年、《日本歌人》に入会した塚本邦雄は、短歌の鑑賞文つきの詞花集《現代百歌園――明日にひらく詞華》(花曜社、1990年7月20日)に、東の《水蓼残花集》から「二月[きさらぎ]に雪見ぬことのさびしさよ……」を択んでいて、同文の後半で《蟠花》に言及している。

 ・わが胸の遠潮騒を聴くごとく思ひ揺るがす曲ああリムスキー・コルサコフ
 ・彩[あや]なして流るるものにそびら向けわが若年[じやくねん]の日は傾[かたぶ]くよ
 ・旅の終り遠峰[とほね]にうかぶきらら雲われには辛きひと恋しもよ
 作者は戦後間もなく、その第一歌集『蟠花』で、タイトルにも匂う李長吉の心ばえをこめて、このように歌った。その後も、風雅、風狂のこころは一段とすさまじく、あるいはやさしく、三十一音韻は一弦琴さながらに澄んだ響きを人に伝えた。(同書、一二七ページ〔新字・新かな表記は原文のママ〕)

ここで気になるのは「戦後間もなく、その第一歌集『蟠花』で」の「戦後間もなく」で、《蟠花》刊行の1959年12月はそれに該当しないのではないか。引用歌の「聴くごとく」は、塚本も参加した1950年12月刊の合同歌集《高踏集》での表記で、《蟠花》でのそれは「聴く如く」であることが疑いを深める。すなわち、《高踏集》の刊行こそ「戦後間もなく」だったという認識が、そのとき塚本に働いていなかったか。気になることはまだある。最後の「三十一音韻は一弦琴さながらに澄んだ響きを人に伝えた。」は、このときすでに東博(生年は吉岡実よりも1年早い1918年)が歿しているようにさえ読めるのだが……。ちなみに《日本歌人》の1991年7月号は〔前川佐美雄追悼特集〕だった(佐美雄は前年1990年7月15日、88歳で病歿)。当然いておかしくない東博は、この号に執筆していない。


挨拶文のない署名用の栞〔高橋康也宛〕(2019年6月30日)

2019年2月の〈《薬玉》署名用カードあるいは土井一正のこと〉に吉岡実が高橋康也・廸に宛てたハガキのことを書いたが、そのころは吉岡が高橋康也に贈った著書もオークションでよく見かけた。インターネットのオークションではないが、今年の初め、渋谷の中村書店で吉岡が高橋に宛てた《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、「一九七二年九月十五日第六刷」)を見つけたので、こちらは購入した(書影を〈高橋康也宛吉岡実書簡(1976年4月13日付封書)のこと〉に掲げた)。献呈署名に用いられた筆記用具は珍しくボールペンで、吉岡の筆圧は非常に高く、力を込めて書いたことがわかる。それから半年ほど経った現在、関連するブツの出品も一段落したようなので、「吉岡実 署名」で検索したインターネット上の画像を整理してみた。
ところで、自著を人に贈るとき最も簡素なのは、本そのものに何も手を加えずそのまま渡すなり、送るなりすることだろう。次が、署名すること。その次が、献ずる相手の名前に署名(さらには識語)を添えること、となろう。あるいは、これよりも簡単なのが「謹呈 著者」といった類の栞状の印刷物を前見返しあたりに挟んで贈ることか(*)。さらに手が込んでくると、独自の案内状を拵えるということになって、件の吉岡の《薬玉》署名用カードはこれに相当する。郵送や宅配の場合、書状がないと恰好がつかないものだ。自筆がいちばん希ましいけれど、ハガキ状の刊行案内めいた刷り物でも礼を失することにはなるまい(吉岡は《薬玉》のそれで、カットを刷ったオモテ面に献呈署名を記している)。版元は、そうした印刷物をつくることにかけてはプロである。
自分を例に出すのは気が引けるが、拙編〈吉岡実資料〉がその巻末を占める《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)は、当時勤務していたユー・ピー・ユーの上司や同僚に購読を勧めるために(著者割引と同じ値段で買ってもらった)、〈現代詩読本吉岡実(一九九一年四月思潮社刊・定価二、二八〇円)刊行のご案内〉なるタイトルの文章を、ワードプロセッサーの出力を版下にして、私製ハガキに刷った。同じものを吉岡実と交流のあった、面識のない方方にも郵送して、何人かからはかたじけなくも返事をいただいた。こんな機会でなければ人目に触れることもないだろうから、文面を掲げておく。

 みなさまにはお変わりなくお過ごしのことと推察いたします。
 さて、このたび《現代詩読本吉岡実》が刊行されました。これは、昨年の五月に吉岡実さんが亡くなられて、最初の本格的な本です。私は縁あって巻末の〈吉岡実年譜〉〈吉岡実書誌〉〈参考文献目録〉を執筆しましたが、二〇世紀後半、昭和後期を代表するこの詩人の業績を顧みるべく、半年あまり専心いたしました。
 私が詩に魅せられて以来、吉岡さんの詩はつねに最高峰に位するものでした。晩年の数年間、それらを生みだした詩人と何度かお話しする機会の持てたことを、今はありがたく思いおこします(ユー・ピー・ユーの《ダブル・ノーテーション》土方巽特集号が吉岡さんの《土方巽頌》に関わっているのも懐かしい思い出です)。
 これを機に、吉岡実さんの詩をご存じの方はもちろん、そうでない方も、この「日本語による驚異」に触れていただければ幸いです。そのとき私の《吉岡実頌》がみなさまの手引になれば、これに優る喜びはございません。

 一九九一年四月一五日
                〔住所は省略〕  小林一郎

吉岡実がいつから自著に案内状を添えるようになったのか、詳しいことはわからない。白地に「謹呈 著者」と印刷された既製の栞は見たことがないから、ハガキ大の特製の印刷物(文面はない)に献呈署名を記したのが、《サフラン摘み》(1976)から始まっているようだ。私がのちに《夏の宴》(1979)をいただいたときは、文面のないハガキ大の印刷物に筆で私の名前と署名があったから(写真を〈「吉岡實」から「吉岡実」へ〉に掲げた)、署名用カードが手許にあれば、本に直接記すのではなく、それを使ったものと思しい(とりわけ刊行時に多くの先輩知己に版元から送る場合、カードに書くほうが作業的にも楽だろう)。
さて、ここでようやく吉岡が高橋康也に贈った本に添えられた署名用栞の話になる。ヤフオク!に出品されたときの写真を見よう。おしまいの写真は、私が《ムーンドロップ》にしてもらった献呈署名とは別にいただいた同書の栞。最近、吉岡最後の詩集《ムーンドロップ》を読み返す機会があって、年齢のせいばかりではないだろうが、同書の詩篇が以前よりはるかに身に染みた。そう、《旅人かへらず》のように。かつまた、これはとんでもない傑作だと再認識した。《神秘的な時代の詩》と同様の(同じではない)形式で、全19篇の評釈を書きたいものだ。

197410A 197410B 197609 198005 198007 198310 198401 198811 199004 199004
(写真、左から9点めまでは吉岡実が高橋康也に宛てた本と栞やカード)FA 《神秘的な時代の詩〔限定版〕》、FB 同前、G 《サフラン摘み》、I 《ポール・クレーの食卓》、S 《「死児」という絵》、J 《薬玉》、(5) 《吉岡実〔現代の詩人1〕》、K 《ムーンドロップ》、U 《うまやはし日記》、K 《ムーンドロップ》

FA 詩集《神秘的な時代の詩〔限定版〕》(湯川書房、1974年10月20日)=見返しに献呈、「1975.2.5」の識語、署名
FB 同前=詩篇〈マクロコスモス〉(F・1)に高橋康也によるものと思しい鉛筆薄書きによる「敗戦」「apocalypse」の書き込み
G 詩集《サフラン摘み》(青土社、1976年9月30日)=署名用カード(サフランのカット)に献呈署名〔別カットの写真では見返しにも献呈署名〕
I 拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》(書肆山田、1980年5月9日)=署名箋(表紙の片山健の絵を流用)に献呈署名
S 随想集《「死児」という絵》(思潮社、1980年7月1日)=署名箋(函のスタンチッチの絵を流用)に献呈署名
J 詩集《薬玉》(書肆山田、1983年10月20日)=署名用カード(函・題箋貼の鳥のカットを流用)に献呈署名〔署名用カードの文面は吉岡の執筆になる詩集刊行の案内参照〕
(5) 選詩集《吉岡実〔現代の詩人1〕》(中央公論社、1984年1月20日)=見返しに筆で献呈署名〔写真の右は、出品者の説明によれば「高橋康也の、吉岡実に関する英文エッセイのゲラもしくは原稿?2枚と、英国出版社St. James Editorial Ltd.の原稿督促状らしきもの1枚」〕
K 詩集《ムーンドロップ》(書肆山田、1988年11月25日)=署名箋(180×48mm。函・題箋貼の西脇順三郎のカットを流用)に筆で献呈署名
U 日記《うまやはし日記》(書肆山田、1990年4月15日)=署名箋(170×44mm。新作と思しいカット脇に「うまやはし日記/1990.4」と活字で印刷)にマーカーで署名〔写真の左は吉岡実会葬礼状〕

FAの《神秘的な時代の詩〔限定版〕》だが、「1975.2.5」という日付が気になるといえば気になる。刊行直後に献本した分には、日付がなかったかもしれない(吉岡実が篠田一士に献じた詩集《神秘的な時代の詩〔限定版〕》参照)。

FBの同詩集巻頭の〈マクロコスモス〉(F・1)の鉛筆薄書きによる「敗戦」「apocalypse」の書き込みは、高橋康也が《神秘的な時代の詩》の書評として〈肉のようなものが甲羅のなかへ〉(《ユリイカ》1975年10月号の〈詩書批評〉欄)を執筆するにあたって、詩集を精読したときのものか。高橋の書評に「敗戦」は登場しないが、「apocalypse」は「黙示録」として次のように登場する。あわせて書評のポイントと結語も引いておこう。

 詩人の幻視が白熱したとき、「現代」は改めて「神秘的な時代」、つまり黙示録的な終末の時代となる。〔……〕そして、いみじくも黙示録を思わせつつ、馬が空を行く――「白地に赤く死のまる染めて/みにくい未来へ/わが馬ニコルスはギャロップ!」
 〔……〕結局のところ、詩人の視線が収斂してゆく極点は、このような時代の中で詩を書いている自分自身であると言わなければならない。そもそも詩集の表題が『神秘的な時代』ではなく、『神秘的な時代の詩[、、]』なのだ。この書物は、その最も深い次元においては、「書くこと」(詩人の片仮名好みを真似て「エクリチュール」と言おうか)についての反省にほかならない。
 〔……〕詩人のこのいささか自嘲的な自画像に到達するころには、ぼくたち読者は、彼がこの「言語幻滅の治世」において実はどんなに畏怖すべき言語の錬金術師であるかを、十分に知りつくしている。(同誌、二二〇〜二二一ページ)
Gの《サフラン摘み》のカードのカットは、詩集の函や本体では使われておらず、誰が描いたかわからないが(片山健の手になるものではないようだ)、この案内状のための新作か。

上掲写真にはないが、先に紹介した《夏の宴》のハガキ大の刷り物の絵柄は西脇順三郎のカットだったから、吉岡が詩集本体から流用を始めたのはこのときからかもしれない。――と書いてほどなくして、古書店のサイトでこの署名用カードを見つけた。すなわち、墨田区向島の鳩の街通り商店街にある古書肆右左見堂[うさみどう]に、吉岡が土井一正に宛てた詩集《夏の宴》が署名用カード(ペン書き、献呈署名入り)付きで出ていたのだ。価格は10,000円。商品の説明に「スリップ挟まったまま使用感薄い」とあり、刊行時に献本したものと思しい。吉岡は随想〈遥かなる歌――啄木断想〉にこう書いている。「私は神田神保町にある青土社へ行った。新詩集《夏の宴》の寄贈名簿を届けることと、署名するためだった。作業が終るころ、すでに街は暮れていた。発行人の清水康雄と近くの飲み屋で、ささやかに祝杯をあげるつもりだったのに生憎、彼はK氏の追悼会へ行って不在だった。私は装幀に使った西脇順三郎先生の絵と、新詩集五冊を受け取り、古本屋街を歩いた。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一四七ページ)

吉岡実が土井一正に宛てた詩集《夏の宴》(青土社、1979年10月30日)の署名用カード(ペン書き、献呈署名入り)〔出典:古書肆右左見堂[うさみどう]〕
吉岡実が土井一正に宛てた詩集《夏の宴》(青土社、1979年10月30日)の署名用カード(ペン書き、献呈署名入り)〔出典:古書肆右左見堂[うさみどう]

Sの《「死児」という絵》の栞はこのなかで唯一写真版を用いたもので、絵柄が横位置だったものだから、用紙を横長で使っている。これがなかなか洒落ていて、どちらかと言えば武骨な出来の本体(とりわけ布装の表紙)とは不釣り合いな感じさえする。

Jの《薬玉》で初めて文章を配した案内状が登場したと思しい。文体を変えれば、〈あとがき〉として詩集本体に収めてもおかしくないくらいの内容で(ただし吉岡は新作詩集にはついに自筆のあとがきを付けなかったが)、それだけこの詩集に賭けるものが大きかったということか。

(5)の《吉岡実〔現代の詩人1〕》が好い例だが、吉岡実は本に署名するとき、扉対向の見返しページに記入することを好んだ(そこは、絵柄やエンボスがなく、基本的に「白」である)。私が持参した著書に署名するとき――この見返しに書くのが好きなんだ、人の〔つまり小林所有の〕本だから失敗できないな――などと言われた(私の持って行ったパーカーの、ただしブルーブラックではなく黒インクの万年筆を――こいつは書きやすい――とも)。かくして、1984年12月9日の明治大学詩人会の忘年会での《サフラン摘み》を皮切りに、無慮十数冊、主要な詩集には「小林一郎様/〔年月日〕/吉岡実」の献呈〔識語〕署名がある(**)

Kの《ムーンドロップ》には、栞状の署名箋とは別に《薬玉》と同様の署名用カードがあるとの説もあり、もし存在するのなら、その文面はなんとかして読みたいものだ。
前掲写真最後の《ムーンドロップ》の署名箋は、たしか吉岡さんと最後に会った1989年暮、(詩集にしてもらった署名とは別に)いただいたもの。

Uの《うまやはし日記》署名箋の仕様が詳しいのは、ほかの処でも書いたことだが、100部限定の《うまやはし日記〔弧木洞版〕》(書肆山田、1990年4月15日)だけが吉岡さんから恵投いただいた本で、そこにこの署名箋が挟んであったためである。

いずれにしても、ここに掲げた8冊が、吉岡実が高橋康也に贈った著書のすべてでないことは確かだろう(現に現代詩文庫版の詩集があった)。吉岡が高橋と出会ったのが1968年3月だから、この年7月に刊行された詩集《静かな家》以降、すべての著書を献じたと考えていいかもしれない。思うに高橋康也は、篠田一士と並んで吉岡がもっとも恃んだ外国文学者・研究者・批評家だったのではあるまいか。そうしたことを感じさせるのが、これらの献呈署名本である。

〔追記〕
この間に高橋康也が吉岡実に贈った本もむろんあるわけで、2019年4月、ヤフオク!出品のハガキがそのあたりの事情を物語っている。画像を掲げ、文面を起こしてみよう。

吉岡実が高橋康也・廸に宛てたハガキの文面(1985年10月24日〔12-18〕目黒局消印)〔出典:ヤフオク!(タイトルは〈吉岡実 ◆自筆肉筆 真筆 葉書◆高橋康也 迪宛◆ルイス キャロル 『不思議の国のアリス』◆『薬玉』 歴程賞受賞◆『僧侶』H氏賞受賞詩人〉)〕
吉岡実が高橋康也・廸に宛てたハガキの文面(1985年10月24日〔12-18〕目黒局消印)〔出典:ヤフオク!(タイトルは〈吉岡実 ◆自筆肉筆 真筆 葉書◆高橋康也 迪宛◆ルイス キャロル 『不思議の国のアリス』◆『薬玉』 歴程賞受賞◆『僧侶』H氏賞受賞詩人〉)〕

すでに初冬になってしまいました。『アリス』
いただきながら、お礼を申上げるのが遅れて、申
訳ありません。今年は、短い文章の注文がつづ
き、さすがに疲れました。仕事が一段落いた
しましたら、おふたりの訳で『アリス』再読
いたします。気候の変化はげしいおり、
おからだをおいとい下さい。家内も、
よろしくと申しております。      実
            十月二十三日

高橋康也・高橋迪訳によるルイス・キャロル(アーサー・ラッカム絵)《不思議の国のアリス》(新書館、1985年10月5日〔装丁:宇野亜喜良〕)のジャケット
高橋康也・高橋迪訳によるルイス・キャロル(アーサー・ラッカム絵)《不思議の国のアリス》(新書館、1985年10月5日〔装丁:宇野亜喜良〕)のジャケット(テニエル描くアリス〔幼女〕に較べて、ラッカムのそれ〔少女〕は妙になまめかしい)

この『アリス』は、高橋康也・高橋迪訳によるルイス・キャロル(アーサー・ラッカム絵)《不思議の国のアリス》(新書館、1985年10月5日)で、「一九八五年八月下旬」の日付を持つ高橋康也の〈あとがき〉に次のように見える。少し長いが、高橋の《アリス》観が顕著な処なので、引いておきたい(振り仮名は省略した)。

 「不思議の国のアリス」は、ウサギ穴にドスンと落ちたアリスがつぎからつぎへと妙ちきりんな人間や動物や事件に出会うお話です。アリスは、ちょうど自我がめざめかかったというか、現実の世界やものごとの理屈がわかりかけてきたというか、そういう年頃の女の子です。幼年期はもう過ぎているけれど、まだ思春期にはなっていません。いわゆる「常識」(コモン・センス)が身につきはじめたけれど、まだそれで固まってはいません。
 そういうアリスが、夢の国で、「常識」に反する(ナンセンスな)人物やできごとに出くわして、めんくらったり、おもしろがったり、憤慨したり、反論したり、また(自分の「常識」がくずれそうになって)ちょっぴり不安を感じたり――さまざまな「冒険」をするのがこの物語です。
 作者に即していえば、どうでしょうか。キャロルはいろんな動物や人間に姿をかえて、愛する少女を、楽しませたり、からかったり、ほんの少しこわがらせたりしているのかもしれませんね。それとも少女をダシにして、自分のなかの空想を思いきり発散させたのでしょうか。
 それはともかく、私たち読者としては、どんな読みかたをしても自由です。アリスと同じくらいの年頃の読者なら、アリスといっしょになって笑ったり、泣いたり、怒ったりすればいい。もっと年上の読者なら(アリスのお姉さんもその一人ですが)、人物たちの奇妙な言動に笑いころげながら、同時にアリスの反応を観察することができるし、さらに「常識」と「ナンセンス」の関係についていろいろ考えをめぐらせる楽しみもある、といったぐあいです。
 確かなことは、こうです。どんな年齢の読者も、この物語を読むと、頭やからだがとても生き生きとしてきます。童話にありがちな「教訓」や「感傷」の臭いが、ここにはありません。かわりに、「常識」の枠組がゆさぶられ、はずされるときの、とほうもない解放感と(それと裏腹な)不安感があります。もちろん、これを味わったあとで、私たちはアリスと同じようにふたたび「常識」の世界にもどってこないわけにはいかないのですが、そのとき、私たちの心には、あの「冒険」の記憶がまちがいなく残っているはずです。(同書、一八七〜一八八ページ)。

私が赤字に変えた箇所は、ほかでもない、高橋が〈吉岡実がアリス狩りに出発するとき〉(《ユリイカ》1973年9月号〔特集=吉岡実〕)で吉岡の言として「ただ、アリスという少女そのものは、『アリスの絵本』の方の詩〔〈『アリス』狩り〉〕に書いたけど、ぼくにとって「非像」なんですね、「実像」というよりは。キャロルにとっても、そうじゃないかな、物語のアリスを肉付けしたり、丸味や厚味のあるものにしていないものね。写真の方はすごく実在感があるけど。ぼくなんか、美少女と接する機会はないんだけど、キャロルがやったように、こっちも少女をダシにしてやれっていう気持ですね。」(同誌、一〇二ページ)と書いている処にものの見事に呼応していて、高橋の吉岡への目配せが見えるような気がする。この際だから、ハガキにある「今年は、短い文章の注文がつづき」の方のリストも挙げておこう(末尾の★印は、吉岡の著書に未収録のもの)。12月までに発表した、この年1985年、執筆分の散文である。

  1. 耕衣粗描
  2. 消えた部屋
  3. バルチュスの絵を観にゆく、夏――(日記)84年より
  4. 「謎」めいた一句――『一個』の一句★
  5. 月の雁
  6. 学舎喪失
  7. 白秋をめぐる断章
  8. ロマン・ポルノ映画雑感
  9. 二人の歌人――塚本邦雄と岡井隆
  10. 重信と弟子(4回連載)
  11. くすだま
  12. 〔無題〕(《江森國友詩集》裏表紙の文章)★
  13. 『個室』の俳人への期待★

1の永田耕衣、4の藤田湘子、5の高柳重信、10(実質的に、〈多行俳句〉の高柳重信・〈諧謔と妖気〉の安井浩司・〈美秋玲瓏〉の折笠美秋・〈喪服の祝宴〉の夏石番矢、の4篇)、13の宗田安正と、4割近くが俳句関係の文章なのが興味深い。これを図式的に言うなら、吉岡実の関心の一方の極には《不思議の国のアリス》に代表される洋風の、ある種モダンな文物があり、もう一方の極にはわが俳句(といっても伝統的なそれではなく、前衛ふうの)があって、両者が互いに引きあった結果、筋肉のいちばん膨らんだ処に自身の詩作品が存在するということになる。職人ふうのリアリズムに裏打ちされたモダニズム、とでも言えばいいのだろうか。その絡みあい、衝突のぐあいが高度に発揮されたときの吉岡実詩は、天下無双といってよい。具体例を挙げる方が早いだろう。たとえば、あの名篇〈ルイス・キャロルを探す方法――〔わがアリスへの接近〕〔少女伝説〕〉(G・11)のような(***)。あるいは〈あまがつ頌〉(G・30)のような。あるいは……。

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(*) かつて、東京・杉並の荻窪駅南口前の古書店、岩森書店で求めた入沢康夫詩集《唄――遠い冬の》(書肆山田、1997年7月10日)には、「謹呈 著者」と印刷された栞が挟んであった(私は亞令の装丁になる、フランス装のこの小さな詩集を酷愛している)。

入沢康夫詩集《唄――遠い冬の》(書肆山田、1997年7月10日)に挟まれていた栞
入沢康夫詩集《唄――遠い冬の》(書肆山田、1997年7月10日)に挟まれていた栞。190×40mmは詩集本体(190×124mm)の天地と同寸で、既製の印刷物ではなく、本書のためにあつらえたものであることをうかがわせる。

(**) 複本がある著書は、ふだん読むのはむろん署名のないほうだが、いちばんの稀覯本は吉岡が太田大八さんに宛てた詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)で、さすがにこれは複本がないから、どうしても原本でなければならないとき以外は、コピーして綴じたほうを読む。78年前に刊行されたこの本の背は、細い綴じ糸が切れて崩壊寸前だから(単に本文を読むだけなら、もっぱら《吉岡実全詩集》だ)。2005年11月30日、太田さんを訪ねたおり、じきじきにいただいたこの《液體》には、扉対向ページのノド寄り下部に「太田大八に/一九五五・一・六/吉岡實」とペン書きの献呈・識語・署名がある(このときもう一冊、「池田友子に」宛てた初版《液體》を見ている。別れた池田に渡してもらうように、吉岡が太田さんに預けたものか)。私の蔵書のなかで、最も大切な一冊である。

(***) 郡淳一郎は《現代詩手帖》(2019年6月号〔特集=詩の未来へ――現代詩手帖の60年展〕)のアンケート〈私と「現代詩手帖」〉の、同誌との出会い、印象に残っている時代や特集は? という問いに対して、

 中学の下校途中に入りびたっていた、ちくさ正文館書店で手に取った「別冊現代詩手帖 第二号 ルイス・キャロル」(一九七二年六月)の重版で、八〇年頃だったと思います。紙と活字とインキでできたフランスキャラメルのような、この世ならぬ素敵なものと思えました。いま思えば、それはアングラとサブカルの間隙にいっとき存在して、その後、地上から失われてしまった可能性のかたまりでした。
 この別冊に掲載されている新作詩篇は吉岡実の「ルイス・キャロルを探す方法」と加藤郁乎の「アリス元年」だけですが、詩人自身の手書きの題字とレイアウトによって、黄色のアート紙に凸版の図版構成八ページとして印刷された前者の強い印象とともに、わたしにはこの本全体をひとつの詩として受取ってしまったと思います。一九七〇、七一年に「現代詩手帖」編集長を務めた桑原茂夫の、現代詩への否定として。編集者にとってテクストは素材でしかない、本が詩になればそれでいい、というメッセージとして。(同誌、一三〇ページ)
と答えて、ひとつの冊子に結集した高橋康也・桑原茂夫・吉岡実、三者による空前のコラボレーションを総括した。

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高橋康也によるルイス・キャロル/アリス物の著書・編書・訳書(実見しえたもののみ)

高橋康也・種村季弘編《ルイス・キャロル――アリスの不思議な国あるいはノンセンスの迷宮〔別冊現代詩手帖(第1巻第2号)〕》(思潮社、1972年6月1日)〔吉岡は〈ルイス・キャロルを探す方法――〔わがアリスへの接近〕〔少女伝説〕〉(G・11)を発表〕
高橋康也編《アリスの絵本――アリスの不思議な世界》(牧神社、1973年5月1日)〔吉岡は前掲〈『アリス』狩り〉(G・12)を発表〕
高橋康也編《アリス幻想》(すばる書房、1976年11月10日)〔《月刊絵本》(1976年7月号〔特集=アリスの国へ〕)からの再録を含む〕
高橋康也《キャロル イン ワンダーランド》(新書館、第4刷:1980年8月5日〔初版:1977年1月15日〕)
高橋康也・沢崎順之助訳《ルイス・キャロル詩集――不思議の国の言葉たち》(筑摩書房、1977年12月20日)
ルイス・キャロル(高橋康也・高橋迪訳)《少女への手紙》(新書館、1978年11月15日)
高橋康也対談集《アリスの国の言葉たち》(新書館、1981年7月10日)
ルイス・キャロル/アーサー・ラッカム絵(高橋康也・高橋迪訳)《不思議の国のアリス》(新書館、第2刷:1987年2月25日〔初版:1985年10月5日〕)
ルイス・キャロル/ジョン・テニエル絵(高橋康也・高橋迪訳)《子供部屋のアリス》(新書館、改訂版:1987年5月15日〔初版:1977年〕)
ルイス・キャロル/〔ジョン・テニエル絵〕(高橋康也・高橋迪訳)《不思議の国のアリス〔河出文庫〕》(河出書房新社、1988年10月4日)
高橋康也《ヴィクトリア朝のアリスたち――ルイス・キャロル写真集》(新書館、1988年11月25日)
高橋康也・沢崎順之助訳《原典対照 ルイス・キャロル詩集〔ちくま文庫〕》(筑摩書房、1989年4月25日)
モートン・N・コーエン(高橋康也監訳、安達まみ・佐藤容子・三村明訳)《ルイス・キャロル伝〔上・下〕》(河出書房新社、1999年5月25日)
ルイス・キャロル/ヘンリー・ホリデイ絵(高橋康也訳・河合祥一郎編)《スナーク狩り》(新書館、2007年8月5日)

頓挫した筑摩書房版《ルイス・キャロル全集》――「もしこれを吉岡実が装丁していたら」と想像することは、尽きせぬ興味の源泉たりうる――のあとを請けて新書館が実質的なキャロルの創作全集の各冊を出しつづけていることは、これら高橋康也の著・編・訳以外の同社刊のキャロル関連の書目をも見わたせば、歴然としている。


〈詩の未来へ――現代詩手帖の60年〉展のこと(2019年6月30日)

6月中旬の暑い日、萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち前橋文学館(群馬・前橋)で〈詩の未来へ――現代詩手帖の60年〉(2019年4月27日〜6月30日)を観た。なんといっても、創刊号以来の《現代詩手帖》(臨増や別冊を含む)全冊の展示が圧巻だ。面出し表示の表紙を見るだけで、60年の歴史がフラッシュバックするようで、眩暈を覚えるほどだ。展覧会独自の図録はなくて、《現代詩手帖》(2019年6月号〔特集=詩の未来へ――現代詩手帖の60年展〕)がそれに替わる。展示パネル1950年代の《僧侶》の解説文は、同誌の野村喜和夫〈1950-1959〉の記載と同じ。高橋康也・種村季弘編《ルイス・キャロル〔別冊現代詩手帖〕》(1972年6月)の吉岡作〈ルイス・キャロルを探す方法――わがアリスへの接近〉のパネルの解説文は「吉岡がスランプを脱し、引用の詩学を押し進めるきっかけとなった。」で、こちらは(同じく野村の〈1970-1979〉に依りつつも)本展が初出か。ほかに、詩集《僧侶》(群馬県立土屋文明記念文学館所蔵)と《サフラン摘み》が展示されていた(朔太郎展示室には、吉岡が装丁した筑摩版朔太郎全集もあったが、そこで最も感銘を受けたのは、赤字の入った《月に吠える》の校正刷りだった)。
「前橋文学館へようこそ」というノートブックがあったので、次のように記帳した――「東京から来ました。吉岡実のことを調べている小林一郎です。八木忠栄さんの撮った8ミリ、楽しく拝見しました。動く吉岡さんをおさめた貴重な資料と存じます。(TVでは、土方巽を送る澁澤さんと吉岡の映像が流れたことがありますが)/前回は入沢さんか安藤さんの朔太郎賞受賞の企画展ですから、ずいぶん久しぶりです。広瀬川のはやい流れだけが変わっていません。〈現代詩手帖の60年〉、ありがとうございました」。そう、《現代詩手帖》創刊号が手許にある今日、私が同館へ足を運んだのは、ひとえにこの映像を観るためだった。八木さんの新詩集《やあ、詩人たち》を紹介する《現代詩手帖》(2019年6月号)の〈スクランブルスクエア〉に「詩のテキストからの読みこみと、直接の出会いからの感触が織りこまれている氏ならではの一冊だ。開催中の「現代詩手帖の60年」展では、氏が撮影した8ミリの映像が流されていて、この詩集で捧げられている多くの詩人をみることができる。「動いている」鮎川信夫や吉岡実らの、氏に向けられたやわらかな表情からも、この詩集の根底にあるものがうかがえるはずだ。」(同誌、一九九ページ)とあるのに惹かれて観に行ったようなものだ。この映像は《詩人たち/1981.8〜》と題されたカラーフィルム(を動画ファイルにおとしたもの)で、神保町か渋谷あたりの珈琲専門店(バックに「コーヒー豆〔の挽き売り致しております〕」の表示が見える)の片隅で紙巻きたばこを吹かしている吉岡が約19秒間、収録されている(文字スーパーは「吉岡実(1919〜1990)/『静物』『僧侶』『サフラン摘み』など」)。同時録音の音声はない。ちなみに、《吉岡実全詩集》の編集委員、飯島耕一・大岡信・入沢康夫・高橋睦郎は登場するが、〈鰐〉の岩田宏は書影だけの登場、清岡卓行にいたっては登場しない。登場人物の詳細は、《現代詩手帖》(同前)の〈展示目録〉に依るべきだ。

 映像
八木忠栄撮影「詩人たち」(約11分)
「現代詩手帖」の編集長だった八木忠栄が、一九八一年八月から、仕事で会った詩人たちを8ミリ映写機で撮影したもの(文字スーパー、BGMは前橋文学館作成)
登場する詩人たち
伊藤比呂美、高橋睦郎、渡辺武信、稲川方人、入沢康夫、荒川洋治、阿部岩夫、宗左近、飯島耕一、正津勉、清水哲男、清水昶、渋沢孝輔、鈴木志郎康、谷川俊太郎、辻征夫、淵上熊太郎、白石かずこ、佐藤文夫、中上哲夫、四方田犬彦、鮎川信夫、井坂洋子、北村太郎、大岡信、岩田宏(書影のみ)、菊地信義(装幀家)、黒田喜夫、吉岡実、財部鳥子、粟津則雄(評論家)、山口眞理子、諏訪優、吉原幸子(同誌、一七八ページ)

前橋文学館一階のミュージアムショップでは《現代詩手帖》のバックナンバーや単行本(こちらは1,000円均一)の販売があったので、《瀧口修造の詩的実験 1927〜1937》(〔縮刷版 第4刷:1991年〕)――手許にある一本は製本が緩んできて、読みにくいこと甚だしい――と何冊めかの《現代詩読本――特装版 吉岡実》(1991)を購入。そのあとグッズを見ていると、朔太郎が組織したゴンドラ洋楽会のマークをあしらったプラスチック製の栞があったので、記念に求めた。そういえば、吉岡さんがまだお元気だったころ、新宿・紀伊國屋書店で見つけたスカラベ(古代エジプト人が神聖視した甲虫をかたどったエジプトの宝石彫刻)――むろんオリジナルではなくレプリカ――をさしあげたところ、とても歓んでいただいた(これと別に、篆刻を進呈したこともある)。骨董にうるさい吉岡さんがあんな子供だましみたいなスカラベを本気にしたとは思えないが、おおかた私のような気の利かない男の精一杯の好意を良しとされたのだろう。吉岡さんからは自筆の浄書詩稿をいただいてしまったから、貰いすぎのようなものである。

広瀬川の朔太郎橋のたもとにたたずむ萩原朔太郎の像と〈詩の未来へ――現代詩手帖の60年〉展会場の前橋文学館 〈詩の未来へ――現代詩手帖の60年〉展会場にあった「前橋文学館へようこそ」というノートブック 
広瀬川の朔太郎橋のたもとにたたずむ萩原朔太郎の像と〈詩の未来へ――現代詩手帖の60年〉展会場の前橋文学館(左)と同展会場にあった「前橋文学館へようこそ」というノートブック(右)


吉岡実と入沢康夫(2019年5月31日〔2019年6月30日追記〕)

2018年12月の《最近の〈吉岡実〉》に書いたように、入沢康夫さんを追悼すべく、本稿を捧げる。最初に、入沢康夫が吉岡実に触れた文献の一覧を掲げる。

  1. 一九六〇年 〔昭和三五年〕.入沢康夫〈吉岡実氏の作品の難解性〉(詩学、九月)
  2. 一九六二年 〔昭和三七年〕.入沢康夫〈新しい局面〉(日本読書新聞、一一月一二日)
  3. 一九七〇年 〔昭和四五年〕.入沢康夫〈グループから離れて――源流に峻立する吉岡実〉(東京新聞、五月四日)
  4. 一九七一年 〔昭和四六年〕.入沢康夫〈解散した三つの詩のグループのこと〉(ユリイカ、一二月)▽入沢康夫《詩にかかわる》(思潮社、二〇〇二)
  5. 一九七二年 〔昭和四七年〕.粟津則雄・天澤退二郎・入沢康夫・渋沢孝輔〔共同討議〕〈変貌する現代の詩論〉(ユリイカ、一二月)
  6. 一九七三年 〔昭和四八年〕.入沢康夫〔詩〕〈《やわらかい恐怖》〉(ユリイカ〔特集・吉岡実〕、九月)▼入沢康夫詩集《「月」そのほかの詩》(思潮社、一九七七)
  7. 一九七六年 〔昭和五一年〕.入沢康夫〈新しい境地に踏みこむ〉(読売新聞〔夕刊〕、一〇月七日)
  8. 一九七七年 〔昭和五二年〕.入沢康夫〈追随を許さぬ肉感性〉(現代詩手帖、二月)
  9. 一九七七年 〔昭和五二年〕.那珂太郎・入沢康夫〈「わが出雲」と「はかた」――相互改作の試み〉(現代詩手帖、三月)▽那珂太郎・入沢康夫《重奏形式による詩の試み――相互改作/「わが出雲」「はかた」》(書肆山田、一九七九)
  10. 一九七七年 〔昭和五二年〕.入沢康夫〈詩'76〉(《文芸年鑑1977》新潮社、六月)
  11. 一九七八年 〔昭和五三年〕.入沢康夫〈吉岡実の転生〉(《新選吉岡実詩集》思潮社、六月)
  12. 一九七九年 〔昭和五四年〕.入沢康夫〈言葉の重層性といふこと〉(國文學、九月)▽入沢康夫《詩にかかわる》(思潮社、二〇〇二)
  13. 一九八三年 〔昭和五八年〕.入沢康夫〈国語改革と私〉(《国語改革を批判する》中央公論社、五月)
  14. 一九八三年 〔昭和五八年〕.入沢康夫〈詩壇一九八三年〉(朝日新聞〔夕刊〕、一二月二六日)
  15. 一九八四年 〔昭和五九年〕.入沢康夫〈到達点なき不屈の〈方法的探索〉〉(日本読書新聞、一月二・九日)
  16. 一九九〇年 〔平成二年〕.入沢康夫〈内に秘められた力〉(共同通信系、六月)
  17. 一九九〇年 〔平成二年〕.入沢康夫〈見事な詩の力――吉岡実氏を悼む〉(京都新聞、六月一二日)
  18. 一九九〇年 〔平成二年〕.入沢康夫〈弔辞〉(現代詩手帖〔追悼特集・お別れ 吉岡実〕、七月)
  19. 一九九〇年 〔平成二年〕.入沢康夫〈吉岡さんの死〉(ユリイカ、七月)
  20. 一九九〇年 〔平成二年〕.入沢康夫〈詩への誠実さ〉(海燕、八月)
  21. 一九九〇年 〔平成二年〕.入沢康夫〈吉岡さんがなくなられた!〉(るしおる7、八月)▽入沢康夫《詩にかかわる》(思潮社、二〇〇二)
  22. 一九九〇年 〔平成二年〕.入沢康夫〔詩〕〈わがライラック・ガーデン〉(ユリイカ、一二月)▼入沢康夫詩集《唄――遠い冬の》(書肆山田、一九九七)
  23. 一九九一年 〔平成三年〕.大岡信・入沢康夫・天沢退二郎・平出隆〔討議〕〈自己侵犯と変容を重ねた芸術家魂――『昏睡季節』から『ムーンドロップ』まで〉(《現代詩読本――特装版 吉岡実》思潮社 四月)
  24. 一九九二年 〔平成四年〕.入沢康夫〈座右に置いて何度も読み返し、その都度、感動する詩集〉(季刊リテレール2、九月)
  25. 一九九六年 〔平成八年〕.入沢康夫〈「波よ永遠に止れ」の思い出〉(《吉岡実全詩集 付録》筑摩書房、三月)
  26. 一九九六年 〔平成八年〕.入沢康夫〔詩〕〈梅雨の晴れ間――吉岡実七回忌から二旬〉(群像、八月)▼入沢康夫詩集《唄――遠い冬の》(書肆山田、一九九七)
  27. 一九九六年 〔平成八年〕.入沢康夫〔詩〕〈往古 鳥髪山 序〉(《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実》書肆山田 一一月)
  28. 二〇〇二年 〔平成一四年〕.入沢康夫〈マグマに触れる詩を書きたい――『遐い宴楽』〉(日本経済新聞、八月一一日)

この28篇は《吉岡実参考文献目録》から引いたが、ほかにも管見に入らなかった文献があるに違いない(入沢が未刊の〈往古 鳥髪山 序〉を含む詩4篇を吉岡に献じているのは、あたかも吉岡が西脇順三郎に機会あるごとに詩を捧げたことを想い起こさせる)。それにしてもこの数は決して少なくない(*1)。おそらく吉岡が入沢に言及したのは、この半数にも満たないだろう。入沢の文章のなかでは、「中期吉岡実」までを総括した11.〈吉岡実の転生〉と23.〈自己侵犯と変容を重ねた芸術家魂〉(これは吉岡歿後の発言だから「後期吉岡実」までを射程に収める)が重要さにおいて一頭地を抜いている。このふたつには今までに何度か触れたことがあるので、ここでは違った角度から――すなわち吉岡実と入沢康夫の詩人としての関係を、両者の単行詩集の比較を通じて、考えてみたい。さて、吉岡実は1919(大正8)年、東京生まれ。1931(昭和6)年、松江に生まれた入沢康夫よりも12歳年長である(ちなみに私は吉岡よりも三回り、入沢より二回り下の、いずれも未歳生まれ)。1955(昭和30)年、吉岡は8月に36歳で戦後最初の詩集《静物》(私家版)を、入沢は6月に23歳で処女詩集《倖せ それとも不倖せ》(書肆ユリイカ)を上梓している。すなわち、12歳の年齢差にもかかわらず、その詩的出発はほぼ同時だったわけである。両者が刊行した著作を、詩集中心に総覧する。

吉岡実・入沢康夫対照年表(丸中数字は月を、入沢康夫著作の赤字は吉岡実装丁を表す)
共通 吉岡実 入沢康夫共通
西暦 和暦 年齢 経歴 著作 年齢 経歴 著作西暦
1919 大正8 【0】 C15日、東京に誕生 1919
1931 昭和6 【12】 【0】 J3日、松江に誕生 1931
1940 昭和15 【21】 A西村書店に入社 I詩歌集《昏睡季節》 【9】 1940
1941 昭和16 【22】 F出征/G母、死去 K詩集《液體》 【10】 1941
1955 昭和30 【36】 G詩集《静物》 【24】 E詩集《倖せ それとも不倖せ》 1955
1958 昭和33 【39】 G姉米本政子、死去 J詩集《僧侶》 【27】 A詩集《夏至の火》 1958
1959 昭和34 【40】 G同人詩誌《鰐》創刊 D歌集《魚藍》/G選詩集《吉岡實〔今日の詩人双書〕》 【28】 C筑摩書房に入社(翌年退社) 1959
1961 昭和36 【42】 【30】 I詩集《古い土地》 1961
1962 昭和37 【43】 J詩集《紡錘形》 【31】 I詩画集《ランゲルハンス氏の島》 1962
1965 昭和40 【46】 【34】 I詩集《季節についての試論》 1965
1967 昭和42 【48】 I選詩集《吉岡実詩集》 【36】 1967
1968 昭和43 【49】 F詩集《静かな家》/選詩集《吉岡実詩集〔現代詩文庫〕》 【37】 A詩の構造についての覚え書――ぼくの〈詩作品入門〉/C詩集《わが出雲・わが鎮魂》 1968
1970 昭和45 【51】 A選詩集《吉岡実詩集〔普及版〕》 【39】 B詩集《入沢康夫詩集〔現代詩文庫〕》 1970
1971 昭和46 【52】 【40】 E詩集《声なき木鼠の唄》/F詩集《倖せ それとも不倖せ 続》 1971
1973 昭和48 【54】 【42】 B全詩集《入澤康夫〈詩〉集成 1951〜1970》/D《詩の逆説》 1973
1974 昭和49 【55】 C詩《異霊祭》/I詩集《神秘的な時代の詩》 【43】 1974
1976 昭和51 【57】 春か 英訳詩抄《Lilac Garden》/H詩集《サフラン摘み》 【45】 1976
1977 昭和52 【58】 【46】 C詩集《「月」そのほかの詩》 1977
1978 昭和53 【59】 J筑摩書房を依願退社 E選詩集《新選吉岡実詩集〔新選現代詩文庫〕》 【47】 B《新選入沢康夫詩集〔新選現代詩文庫〕》/E詩集《かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩》 1978
1979 昭和54 【60】 I詩集《夏の宴》 【48】 D全詩集《入澤康夫〈詩〉集成 1951〜1978》/E詩集《牛の首のある三十の情景》/K《詩的関係についての覚え書》 1979
1980 昭和55 【61】 D詩集《ポール・クレーの食卓》/F随想集《「死児」という絵》 【49】 1980
1981 昭和56 【62】 【50】 E詩集《駱駝譜》 1981
1982 昭和57 【63】 【51】 E詩集《春の散歩》/I詩集《死者たちの群がる風景》 1982
1983 昭和58 【64】 I詩集《薬玉》 【52】 1983
1984 昭和59 【65】 @選詩集《吉岡実〔現代の詩人〕》 【53】 I《ネルヴァル覚書》 1984
1985 昭和60 【66】 @か 英訳詩抄《Celebration In Darkness――Selected Poems of YOSHIOKA MINORU》 【54】 1985
1987 昭和62 【68】 H評伝《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》 【56】 1987
1988 昭和63 【69】 H随想集《「死児」という絵〔増補版〕〔筑摩叢書〕》/J詩集《ムーンドロップ》 【57】 G詩集《水辺逆旅歌》/K詩集《歌――耐へる夜の》 1988
1989 昭和64/平成1 【70】 @兄吉岡長夫、死去 【58】 J詩集《夢の佐比》 1989
1990 平成2 【71】 D31日、東京で死去 C日記《うまやはし日記〔りぶるどるしおる〕》 【59】 1990
1991 平成3 歿後1 ◎英訳詩集《Kusudama》 【59】 B《宮沢賢治――プリオシン海岸からの報告》 1991
1994 平成6 歿後4 【63】 @〔財部鳥子編〕短詩集《楽園の思い出》/E詩集《漂ふ舟――わが地獄くだり》 1994
1995 平成7 歿後5 E選詩集《続・吉岡実詩集〔現代詩文庫〕》 【64】 1995
1996 平成8 歿後6 B全詩集《吉岡実全詩集》 【65】 K全詩集《入澤康夫〈詩〉集成 1951〜1994》 1996
1997 平成9 歿後7 【65】 F詩集《唄――遠い冬の》 1997
2002 平成12 歿後12 D詩集《赤鴉》 【71】 E《詩にかかわる》/詩集《遐い宴楽〔とほいうたげ〕》 2002
2003 平成13 歿後13 C句集《奴草》 【72】 2003
2005 平成17 歿後15 【74】 G詩集《アルボラーダ》 2005
2006 平成18 歿後16 B散文選集《吉岡実散文抄――詩神が住まう場所〔詩の森文庫〕》 【75】 2006
2007 平成19 歿後17 【76】 J詩集《かりのそらね》 2007
2018 平成30 歿後28 [86] I15日、神奈川で死去 2018

まず気が付くのは、吉岡の詩集の数に対して入沢のそれが多いことである(単行詩集に限れば、12冊対22冊)。もうひとつ、入沢は《入澤康夫〈詩〉集成》という形で存命中に自らの手で3度(1973、1979、1996年)、全詩集を編んでいることである(吉岡は1967年に思潮社から生前唯一の全詩集――ただし、実態は戦後の作品を重視した選詩集――として《吉岡実詩集》を出している)。吉岡の詩篇は入沢が編集委員の中心となって編んだ《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)で、入沢の詩篇は《入澤康夫〈詩〉集成 1951〜1994〔上巻・下巻〕》(青土社、1996)と、それ以降の《唄――遠い冬の》(書肆山田、1997)、《遐い宴楽〔とほいうたげ〕》(同、2002)、《アルボラーダ》(同、2005)、《かりのそらね》(思潮社、2007)をそろえれば、すべての詩集収録作品をカヴァーできる。
最初に見るべきは、《倖せ それとも不倖せ》と《静物》である。田野倉康一編〈入沢康夫年譜〉(《現代詩手帖》2019年2月号)には「一九五一年(昭和二十六年) 二十歳/〔……〕十二月 東京へ帰る。その五日後、後に『倖せ それとも不倖せ』の中核となる一連の詩ができる。」(同誌、八八〜八九ページ)とあり、《静物》の制作期間は1949〜55年だから、二人は1950年代前半、東京のどこかで処女詩集を構成する作品を書きついでいたことになる。むろん、詩集を出すまで相手の存在を知らなかったはずだ。あの「ジャジャンカ ワイワイ」の〈失題詩篇〉で始まる入沢の《倖せ それとも不倖せ》には〈挽歌〉という吉岡の《液體》に収められた〈挽歌〉(A・1)と同題の詩があり、《夏至の火》にも〈樹〉という吉岡の〈樹〉(B・6)と同題の詩がある。それらの対比も興味深いのだが、ここでは〈夜〉と〈仕事〉(C・4)を見ておきたい。〈仕事〉は、まさに吉岡実版〈夜〉(これはこれで、入沢が稲垣足穂を変奏したとしか思えないのだが)ではないか。

夜|入沢康夫

彼女の住所は四十番の一だった
所で僕は四十番の二へ出かけていったのだ
四十番の二には 片輪の猿がすんでいた
チューブから押し出された絵具 そのままに
まっ黒に光る七つの河にそって
僕は歩いた 星が降って
星が降って 足許で はじけた

所で僕がかかえていたのは
新聞紙につつんだ干物のにしん[、、、]だった
干物のにしん[、、、]だった にしん[、、、]だった

仕事|吉岡実

荷揚地は雨だ
玉葱と真昼のなかで
その男はいつも重い袋の下にいた
仲間は盲目の者ばかり
船からおろす荷の類
すべて形が女にちかいので
愉快にかついでゆく
ありあまる植物の力
はげしい空腹と渇き
やみから抽き出された
一つの長い管を通りぬけ
坐りこんだ臓物
その男は完全に馴致された
だが習性の眼は観察をあやまたぬ
見えていた百本の煙突が陸地から姿を消す
その男はいそぎ足で家路へ向う
独りの食事を摂り
卑猥な天体を寝床に持ちこむため
臭いシャツの背中を星が裂く
その男は川に平行された

「チューブから押し出された絵具 そのままに/まっ黒に光る七つの河にそって」と「その男は完全に馴致された」「その男は川に平行された」という詩句がそれぞれの作品の肝だが、〈夜〉を読むたびに〈仕事〉が、〈仕事〉を読むたびに〈夜〉が想い出されるのは、そこに独身者の瞋りがもうもうと立ちこめているせいだろうか。――といった調子で各詩篇を見ていったのでは、きりがない。ここからは入沢の長篇詩《わが出雲・わが鎮魂》に絞って、吉岡実詩との関連を考えてみたい。入沢にとって吉岡の〈波よ永遠に止れ〉(未刊詩篇・10)が特別な作品だったように(入沢康夫〈「波よ永遠に止れ」の思い出〉、《吉岡実全詩集》付録、筑摩書房、1996)、吉岡にとって《わが出雲・わが鎮魂》は特別な作品だった。吉岡は飯島耕一・岡田隆彦・佐々木幹郎との座談会〈思想なき時代の詩人〉の「一篇の長篇詩への夢」、そして入沢康夫との対談〈模糊とした世界へ〉で、次のように発言している。

吉岡 やっぱりぼくは眼の方[、、、]の人間でしょ。だから、全貌がいっぺんに、絵みたいに捉えられないと困るんだ。とはいっても、詩は詩であるからたいがい捉えられますよ。日本に長篇詩で、成功した作品は、きわめて少ないな。そのなかでは、入沢康夫の『わが出雲・わが鎮魂』が完成度が高いと思う。エリオットの『荒地』は五百行足らずだけど、これはやはりたいへんな長篇詩だと思う。(*2)(《現代詩手帖》1975年5月号〔特集=鈴木志郎康VS吉増剛造〕、一二八ページ)
                  …………………………
吉岡 ぼくは音痴なんですよ。音楽も意識的にあまり聴かない。区分されているとか、しっかりまとまったものでないと信用できないんです、自分の詩としては。だから、どうしても固いものになっちゃう。
入沢 ところが、片方に流れているような、移っていって変っていくようなものがあるということで、常識的な仮説をたてるとすれば、吉岡さんはわりとショー的なものがお好きでしょう、土方巽のものとか、ああいう舞台芸術がお好きだと思うんです。それらは音楽じゃないけれども、はこびがある。かたちが動いていって、造型的なものがリズミカルに展開するところは、案外今の吉岡さんの詩をつくっている二つの要素だと言えるんじゃないかな。つまり、彫刻的なもの、かたちへの関心と同時に、劇的なものでなくてショー的なもの――筋がこわれてしまって、内的な律動性みたいなものに導かれて動くもの――にとても惹かれておられる面がある。
吉岡 土方さんのものはまだ二つしか見ていないけど、あの舞踊は本当にびっくりした。ああいう世界はやはり詩でも絵でもないし、単なる芝居でもない、全然違ったものですよ。そういう詩はできるかどうかわからないけど、今後そういう何か新しいことがやれたらやってみたい。ところで、入沢君の「わが出雲」は非常に実験的な作品だね。
入沢 個人的な意味では大事な作品なんです。突き放して考えて、自分の作品のなかでいいものかどうかはよくわからないにしても。(*3
吉岡 あの志向する世界はぼくもわかるんですよ。土方さんへの詩で「青い柱はどこにあるか?」という作品があるんですが、相当日本的なものの要素が強いんですよ。ぼくも及ばずながら、相当日本的なもの、それはもともともっていたんだし、勉強してきた世界だし、万葉とか古今の世界とぼくたちの現在の世界との混合ができたら、そういう世界をつくりたいという感じなんですよ。少しずつそういう日本の古典をとりこんでいきたいと考えている。(《現代詩手帖》1967年10月号〔特集=吉岡実の世界〕、五六〜五七ページ)

前者の座談会は《サフラン摘み》の、後者の対談は《神秘的な時代の詩》の諸作を書きついでいた当時のもので、吉岡には自分なりの「長篇詩」への野心があったから(*4)、《わが出雲・わが鎮魂》は永いことそれをかきたてていた作品だったといえよう。さらに、吉岡が入沢の作品にこれほど執着した理由は「長篇詩」の面だけではなかった。それは「引用」の問題であり、「典拠」の方法だったと考えられる。「引用」と「典拠」の方はのちほど述べるとして、《わが出雲・わが鎮魂》は吉岡が入沢との対談で言及した土方巽に最後に捧げた追悼詩〈聖あんま断腸詩篇〉(K・12)の主題と構成に大きな影響を与えたと考えられる。同詩篇は《新潮》(1986年6月号)に「長篇詩――土方巽追悼」(標題の前にある)として、〔T 物質の悲鳴〕〔U メソッド〕〔V テキスト〕〔W 故園追憶〕〔X (衰弱体の採集)〕〔Y 挽歌〕〔Z 像と石文〕〔[ 慈悲心鳥〕の全196行が掲載された。《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》の〈補足的で断章的な後書〉には、本作が1986年4月15日(吉岡の67歳の誕生日である)に完成したとある(同書、筑摩書房、1987、二三九ページ参照)。196行は吉岡実詩において長篇詩〈波よ永遠に止れ――ヘディン〈中央アジア探検記〉より〉(この詩もまた、吉岡の41歳の誕生日に完成した)の11節257行に次ぐ長さであり、長篇詩の名に恥じない大作である。〈波よ永遠に止れ〉がその詞書にある訳書を典拠にして全体を構成しているのに対して、〈聖あんま断腸詩篇〉は末尾に「*この作品は、おもに土方巽の言葉の引用で構成されている。また彼の友人たちの言葉も若干、補助的に使わせて貰っている。」と註記があるように、書物に記されたものばかりではない、生の「土方巽の言葉」を取りこんでいる。いわゆる現代語で記された節以外を見ると、〔V テキスト〕(「葛[かづら]を被[かづき]て松の実を食み/〔……〕/地獄に堕ちむ」)は暗黒舞踏のフェスティバル「舞踏懺悔録集成」での講演のためのテキストをつくるときに、土方が参考にした《日本霊異記》――この日本の仏教説話集の始祖の底本は遠藤嘉基・春日和男校注《日本霊異記〔日本古典文学大系70〕》(岩波書店、初刷:1967年3月20日)であろうか(*5)――に拠る。〔Y 挽歌〕(箸向ふ/弟[おと]のごとき/君は旅立つ/〔……〕/噫乎[ああ]/闇夜なす/闇夜なす/闇……)は〈反歌〉(ひさかたの/天[あめ]の奥処[おくか]ゆ/日の照れば/さはに/利鎌[とかま]にさ渡る鵠[くぐひ])を伴い、双方ともに万葉写しである。これらの古語による節は「土方巽(自身)の言葉」でこそないが、〔V テキスト〕は、ほかならぬ土方が《日本霊異記》から引いた箇所である。そして、古式に則った弔歌の声調を示す吉岡の自作と思しい〈反歌〉の末尾「鵠[くぐひ]」は、白鳥の古名である。先走っていえば、「古代においては、鳥は霊魂を死者の国へ運ぶものと考えられていた」と〈わが鎮魂(自注)〉に書いた入沢は、生前最後の全詩集《入澤康夫〈詩〉集成 1951〜1994》の〔上巻〕巻頭に〈三保の鴎――序詩に代へて〉を置いて、〔下巻〕末尾の〈後記〉に置いた《漂ふ舟――わが地獄くだり》への「付言」とともに、死者に手向ける痛切なことばとした。私には、吉岡実が入沢康夫の《わが出雲・わが鎮魂》のレミニサンスのもとに――なぜなら詩篇を執筆するまえに読み返すまでもなく、吉岡の脳裡にはその主題と方法が刻まれていたに違いないから――土方巽を追悼する長篇詩を成したと思えてならない。そして、入沢康夫は〈聖あんま断腸詩篇〉にもある「霊魂を死者の国へ運ぶ鳥」と、そこにはない「舟」によって自身の全詩行を括り、残余の詩集はついに《入澤康夫〈詩〉集成》にまとめることはなかったのである。

 
入沢康夫《わが出雲・わが鎮魂〔普及復刻版〕》(思潮社、1969年2月15日、装画・装幀:梶山俊夫)の函と表紙〔初版(限定700部)は同、1968年4月1日〕(左)と同・本文一一ページ(右)

《わが出雲・わが鎮魂》初版(限定700部)は1968年4月1日、思潮社刊。その後、入沢の個人詩集(全詩集や選詩集)に何度も収録されたのは当然のことながら、《現代詩集〔現代日本文學大系93〕》(筑摩書房、1973年4月5日)には、初版を飾った梶山俊夫の装画を除いた入沢の執筆分が、〈「あとがき」〉まで完全収録された(ちなみに同書収録の吉岡実作品は、詩集《僧侶》全篇)。入沢が生前最後に目を通した版は、池澤夏樹個人編集になる《日本文学全集〔第29巻〕近現代詩歌》(河出書房新社、2016年9月30日)で、〈わが出雲〉と〈わが鎮魂(自注)〉は全篇が収められたが、〈「あとがき」〉は入っていない(付言すれば、1967年4月に〈わが出雲・わが鎮魂〉が発表された雑誌《文藝》は、ほかならぬ河出書房新社から出ている)。《近現代詩歌》は詩と短歌と俳句から選ばれた作品で構成されていて、詩の選者は池澤夏樹その人である。巻末の池澤の〈解説〉から引く。

 この巻の近現代詩の部分、ぼくのセレクションについては、これまでに読んで親しんできた詩を選んだと言うしかない。いわば一人の凡庸な詩の読者の記憶にある詩篇であり、多くは広く知られたアンソロジー・ピースである。(*6
 〔……〕
 その時々に書かれた詩を蓄えて一定の数になった時に一冊の詩集にするというのが通例だが、はじめからぜんたいの構想のもとに長詩を書くこともできる。長い詩は一個の世界を現出する。そういう大きな構想の成果として三つの詩集を収めた。すなわち――

  入沢康夫  『わが出雲[いづも]・わが鎮魂』
  谷川俊太郎 『タラマイカ偽書残闕[ざんけつ]』
  高橋睦郎[むつお]  『姉の島』

 入沢と高橋の作はどちらも『古事記』や『風土記[ふどき]』など日本の古典に多くを負っていて、伝統を継承する姿勢が顕著と言える。そういう土台の上に、入沢は亡くなった友人の魂を求める旅を出雲への帰還に重ね、高橋は女たちを軸にした一族の系譜を再現する。谷川は文化人類学を横目で見ながら偽のエスノグラフィー(民族誌)を構築する。
 この三作にはどれにも自注が付いている。二十世紀の詩でいちばんの傑作とされるT・S・エリオットの『荒地』で始められた方式で、本文をぎりぎりまで引き締めた上で溢[あふ]れるものをどう読者に手渡すか、その工夫の一つと言える。ぼくがこの全集の第一巻『古事記』で訳文に脚注を加えたのも同じ思いからだったかと今にして思う。詩を散文で補うという意味では歌物語の工夫に繋[つな]がっているのかもしれない。エリオッ卜と『古事記』の間に回路が通じる。文学の普遍性はそこまで広がっている。(同書、四六五〜四六八ページ)

というわけで、本稿では《わが出雲・わが鎮魂》の底本に《日本文学全集〔第29巻〕近現代詩歌》を択んだ。さて、〈わが出雲〉は13のパート(以下では章と呼ぶことにする)から成る。全篇をとりあげることはかなわないので、全体を代表する章として「U」を引く。せっかくウェブサイトに引用するのだから、〈わが出雲〉本文の該当箇所にリンクを張って、〈わが鎮魂(自注)〉に飛ぶようにしてみよう。なお、入沢の凡例的な文章にあるように、〈わが鎮魂(自注)〉中の「記」は「古事記」を、「紀」は「日本書紀」を指す(それらの底本は岩波書店の〔日本古典文学大系〕で、レンガ色の表紙のこの叢書は吉岡実の書斎にもあった)。

   〔〈わが出雲〉〕U

すでにして、大蛇の睛[め]のような、出雲の呪いの中にぼくはある。 米[よな]子[ご]空港 の滑走路は、ほおずきの幻でいつぱいだ。異国の男がずかずかと歩いている。あの男も天から来た。緑のひげを生やしたいかめしい男。背広の右の袖口から突き出ている氷の棒。左の袖にかくされた金属の棒。だが、いまは、そんな男に、かかずらつてはおれないのだ。外交問題はこの次にしよう。

屋代[やしろ]

安来[やすき]

舎人[とね]

大草[さくさ]

   出雲郷[あだかや]


すでにして、          土砂降りの国
 ぼく  は出        道に、真赤な
  雲の  呪い      草の実の幻
   の中  を西    なおも舞狂い、
    に走つている。 更に雨を呼び、
     フロント・グラスがばしや
      ばしや濡[ぬ]れる。まるで
       天鳥舟[あめのとりふね]。いや、む
        しろ、うつぼ
       だね、と思う間
      に、その雨があがつて
     夕陽がまともに照りつける。
   (気違い天気だ) 意宇[おう]平野の北
   一匹  の犬    のはずれ、
  が死  人の      宇の川血み
 腕を  銜[くわ]え        どろの入[い]り海
て走つている。         に注ぐあたり、

                      ただ
                      
                      
                      むきに――

                      その犬はや


何をしに出雲に来たのか友のあくがれ出た魂をとりとめに来たのだ。わが友、うり二つの友時間の、闇の中で、鳰鳥[におどり]のようにほの白く笑う、若くして年老いた神。みずから放つた矢に当つて、喪山[もやま]の藪かげにとり落され、見失われたという、その魂を。


すべてがすべてと入り混り、侵し合う、この風土を怖[おそ]れていては、望みを果たすことなど到底できない。ぼくを乗せたセドリックは、ついに松江の街に入る。ああ、見よ。わがふるさと、十余年ぶりの。だが、ここにも、直として数多[あまた]の道路の新開し、家々は軒を高くしあざとい夢のかけらで、その軒々を飾り立てている。思惟[しい]を返すどころのいとまもなく、月並みの感傷にふけるゆとりもなく、親友の魂[たま]まぎに乗り出さねばならない。


    闇の海の
    鳰鳥
    ほの白い笑い
    若くして年老いて
    とり落されて
    見失われて
    うり
    なすび


車は大きく傾斜し、第四のどぶ川を渡つて、

この贋[にせ]のふるさとの奥の院へと突入する。

………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

   〔〈わが鎮魂(自注)〉〕U

大蛇の睛[め]……ほおずきの幻 「記」上に、
 「是[ここ]に高志[こし]の八俣遠呂智[やまたのをろち]なも、年毎に来て喫[く]ふなる。今其[そ]れ来ぬ可[べ]き時なるが故[ゆゑ]に泣くと答白言[まを]す。其の形は如何[いかさま]にかと問ひたまへば、彼[それ]が目は赤加賀智[あかかがち]如[な]して、身一つに八頭[やつかしら]八尾[やつを]有り。」
 なお、日本本州の形を一匹の爬虫類[はちゆうるい]にみたてれば、出雲地方はその眼の部分に、そして特に中海[なかうみ]宍道湖[しんじこ]の部分は瞳にあたる。
 眼力による呪縛については、東西古今にわたって伝承は多いが、この部分を書くとき、私が想い浮かべたものの一つに、キプリングの『幽霊屋敷』があった。

米子[よなご]空港 中海と日本海をへだてている細長い弓ヶ浜半島にあるこの空港は、自衛隊美保基地の一部であり、このため地方空港としては屈指の設備の良さを誇っている。弓ケ浜半島は「風土記」の時代には、その根元で本土から離れた砂洲[さす]であり、「夜見の島」と呼ばれていた。国引きの神話においては、八束水臣大神[やつかみずかみおほかみ]の用いた綱の一本とされている。現在は半島の先端から、フェリーボートで島根半島東端にある美保関に連絡されている。

異国の男……緑のひげ 「緑のひげ」には岑参[しんしん]の「胡笳[こか]歌 送顔真卿使赴朧西」のレミニッサンスが働いていた。ただし、そこでは「君不聞胡笳声最悲/紫鬚緑眼[、、、、]胡人吹」であるが。

氷の棒……金属の棒……外交問題 「神代記」国ゆずりの段からの借用。
 「……建御[たけみ]名方神[なかたのかみ]、千引石[ちびきのいは]を手末[たなすゑ]にフ[ささ]げて来て、誰そ我が国に来て、忍び忍びに如此[かく]物言ふ。然[しか]らば力競[ちからくらべ]為[せ]む。故[かれ]我先[ま]づ其[そ]の御手[みて]を取らむという。故[かれ](建御雷神[たけみたづちのかみ]が)其御手を取らしむれば、即[すなは]ち立氷[、、]と取り成し、亦[また]、劔刃[、、]に取り成しつ。……」
 これもまた出雲族の天孫族に対する敗退の物語である。米子空港に関してこの挿話が想起されるのは、場所が空港であることのほか、前記の如[ごと]くフェリーボートで連絡している美保関と言代主神[ことしろぬしのかみ]との関連。天から国ゆずりをすすめる使いの神が降[くだ]った際、言代主は美保関(三穂埼)へ魚釣り(鳥の遊びともいわれる)に行っていたが、しらせをうけていち早く恭順の意を表し、建御名方は争って、屈服させられる。しかし、この言代主も建御名方も、実は出雲本来の神ではなく、「記」「紀」成立の頃に出雲に附会されたのであるともいわれる。

屋代[やしろ]/安来[やすき]/舎人[とね]/大草[さくさ]/出雲郷[あだかや] 屋代から大草までは「出雲国風土記」意宇郡の部の地名を採用。これらは、いずれも米子・松江間の中海の南側の古い郷名だが、必ずしも米子から松江へのコースに一致はしない。安来は現在は安来[やすぎ]市。出雲郷[あだかや]は、松江市東方の一村名だったが(現在は東出雲町出雲郷[あだかえ])、その読み方の奇妙さ故に、強い印象があるので、ここに併せて用いた。

すでにして/ぼくは…… この一節の文字によって作られたバッテン形は、神社の屋根にある千木[ちぎ]をかたどったもの。ちなみに、千木は、上端が縦にそいであるものは男神の社を、水平にそいであるものは女神の社を、それぞれ表わしている。既[すで]は素手と音通。

真赤な草の実の幻 「草の実」という以上、やはり、前出の「ほおずき」であるはずだが、ここで私の意識に上っていたのは、むしろ次の一首だった。
  「風の夜は暗くおぎろなし降るがごとき赤き棗[なつめ]を幻覚すわれは」 (北原白秋)
 かつて愛読した『白南風[しがはえ]』の中でも、この歌の印象はなぜか強烈で、「夜はなつめの実が雨のように降つた」(「火曜日」)、「赤いなつめの実の亡霊がひとしきり降りそそぐとき」(「われらの旅」)等、私の作品の中に何度か影を落している。

天鳥舟[あめのとりふね] 前出の、大国主神の国ゆずりの際、天から降った使者は、「記」によれば建御雷神と天鳥舟神[あめのとりふねのかみ](「紀」では建御雷神と経津主神[ふつぬしのかみ])であった。鳥のように早い舟の神格化されたものであろう。「紀」では、美保関へ言代主神をむかえに行く舟が天鳥舟(熊野の諸手[もろた]船、亦[また]の名を天鴿[あめのはと]船)である。
 なお、古代においては、鳥は霊魂を死者の国へ運ぶものと考えられていたことについては、岩波大系本『紀』上、補注2―六、参照。

うつぼ舟 柳田国男「うつぼ舟の話」「うつぼ舟の王女」や、折口信夫[おりくちしのぶ]「石に出で入るもの」参照。この最後のものには、うつぼ舟と「さみなしにあはれ」との関係も説かれている。うつぼ舟的発想は、すでにエジプトのオシリスとイシスの神話にも見られる。

一匹の犬が死人の腕を…… 「紀」斉明帝五年の条に、
 「是歳[このとし]、出雲国造[いづものくにのみやつこ]〔名を闕[もら]せり〕に命[おほ]せて、神の宮を修厳[つくりよそ]はしむ。狐、於友郡[おうこのこほり]の役丁[えよほろ]の執[と]れる葛[かづら]の末を噛[く]ひ断ちて去[い]ぬ。又、狗[いぬ]、死人[まかれるひと]の手臂[ただむき]を言屋社[いふやのやしろ]に噛[く]ひ置けり。〔言屋、此[これ]をば伊浮〓【「王」偏に「耶」】[いふや]といふ。天子の崩[かむあが]りまさむ兆[きざし]なり。〕」
とある。ここで、「神の宮」は出雲の熊野大社(後出)のこと。「言屋」は、「記」伊邪那岐命[いざなぎのみこと]のコトドワタシの段に「……謂[い]はゆる黄泉比良坂[よもつひらさか]は、今、出雲の国の伊賦夜[いふや]坂と謂ふ。」とある、その伊賦夜と同じで、現在、国鉄(現JR)山陰本線の揖屋[いや]駅(松江より米子へ向って二つ目)附近とされる。
 また、この「犬の銜[くわ]えた死人の腕」には、エリオットの『荒地』I「死人の埋葬」の最後の部分の想起がからまっている。
  「昨年君の畑に君が植えた
  あの死骸から芽が出はじめたかい?
  今年は花が咲くかな?
  それとも苗床が不時の霜[しも]にやられたか。
  オー、人間の親友だが、犬を其処[そこ]へよせつけないこ
  とだ、また爪で掘りかえしてしまうよ!」 (西脇順三郎氏訳)

意宇[おう]の川  松江の東方で中海に入る川で、現在はイウガワまたはアダカイガワと言う。「万葉集」には、この川およびその注ぐ入海を歌った門部王[かどべのおおきみ]の歌が二首ある。
  「飫宇[おう]の海の河原の千鳥汝[な]が鳴けば吾[わ]が佐保川の念[おも]ほゆらくに」 (三・三七一)
  「飫宇[おう]の海の潮干の潟の片念[かたも]ひに思ひや行かむ道の長手を」 (四・五三六)
 意宇川流域は、もと出雲国造家のあった地として、古代出雲の政治的中心地であり、国分寺や国府もここに置かれた。

血みどろの入[い]り海[うみ] 前注の如く、「入り海」は中海である。もっとも、「出雲国風土記」では、中海、宍道湖ともに「入海」と呼ばれている。「血みどろの」は夕陽の海だが、同時に、既出のヤマタノヲロチの眼、および次の如き描写の想起がある。(いずれも「神代記」)
 「其[そ]の腹を見れば、悉[ことごと]に常[いつ]も血あえ爛[ただ]れたり。」
 「其の蛇[をろち]を切り散[はふ]りたまひしかば、肥河[ひのかは]血に変[な]りて流れき。」
 あえて、『マクベス』二―二の有名なせりふを持ち出すまでもあるまい。

ただ/ひ/た/むきに―― 本来の語意のほかに、「腕→ただむき」の連想が働いている。

その犬はや  「……はや」から最初に思い浮かぶのはヤマトタケルの「あづまはや」であるが、「出雲国風土記」秋鹿[あいか]郡伊農郷の条には、
 「天〓【「瓦」偏に「長」】津日女命[あめのみかつひめのみこと]、国巡り行[い]でましし時、此処[ここ]に至りまして、詔[の]りたまひしく、『伊農[いぬ]はや』と詔りたまひき。故[かれ]、伊努[いぬ]といふ。」
とある。この「伊農はや」は岩波大系本『風土記』注によると「伊農の神さまよと男神に呼びかけた詞」という。また加藤義成氏『〔出雲国風土記〕参究』によれば。「伊農はやの伊農は出雲郡伊努郷のこと。(……)夫神のおられる出雲郡の伊努郷を望んで懐慕の情を発せられたというのである」と。

何をしに出雲に…… 既出、「神代記」大国主神の国ゆずりの段における建御名方神の問いのかすかな反影。

友のあくがれ出た魂をとりとめに…… 《魂[たま]まぎ》のテーマは、本篇の縦糸の一つだが、このテーマに関してはなおアリオストの『狂えるオルランド』なども参照。

うり二つの友 《相似者[ソジー]》あるいは《分身[ドウブル]》のテーマは、古来各国文学に実に多いがここでは特に「記」「紀」の天若日子[あめのわかひこ]の葬儀の段、およびウェルギリウス『アエネーイス』(六・一一九〜一二四)、中世説話の『アミとアミレ』、ネルヴァル「カリフ・ハケムの物語」(『東方旅行記』所収)、ポオ『ウィリアム・ウィルソン』等を意識していた。

時間の、闇 ここでは必ずしも直接の関係はないが、フランス語のla nuit des tempsは「大古」「有史以前の暗黒時代」の意で用いられる。

鳰鳥[におどり] ニオ科カイツブリ。
  「鳰鳥[にほどり]の潜[かづ]く池水こころあらば君に吾が恋ふ情[こころ]示さね」 (「万葉集」四・七二五)
  「……鳰鳥のなづさひ行けば 家島[いへしま]は 雲居に見えぬ 吾が思へる 心和[な]ぐやと 早く来て 見むと思ひて……」 (同右、一五・三六二七)
 なお、「鳰鳥の」は「かづく」「かづ」「なづさふ」等のほか、「並び居」にもかかる枕詞[まくらことば]。また「鳰の浮巣[うきす]」は不安定なもののたとえ。ここで「鳰」はまた「匂ふ」との音通により、「ほの白く」へとつらなる。
 私が幼時しばしば遊びに行った松江城の堀には、いつもカイツブリがいて、もぐったり浮んだりしていた。今ではその堀もかなり埋立てられ、残った部分には、今度行って見ると白鳥が泳いでいた。

若くして年老いた神…… 以下二行、天若日子伝説よりの借用。
 天若日子は、出雲に使いに降りながら八年も復命しない。そこで様子を見に来た雉[きじ]の嗚女[なきめ]をも、彼は射殺してしまう。矢は天にまでとどき、逆に投げ返されて、天若日子はその矢で死ぬ。天若日子の葬儀に親友の阿遅志貴高日子根神[あぢしきたかひこねのかみ]が弔問するが、この二柱の神は姿が実によく似ていたので、遺族から死人が生き返ったとかんちがいされる。阿遅志貴高日子根はそれに腹を立て、「御佩[はか]せる十掬劒[とつかつるぎ]を抜きて其の喪屋[もや]を切り伏せ、足以[も]ちて蹶[く]え離ち遣[や]りき。此[こ]は美濃国の藍見河の河上の喪山[もやま]ぞ。」(神代記)
 また、自分の放った矢が天から投げ返されて、自分が死ぬ話は。前出バベルの塔のニムロデに関するヘブライ古伝説にもある。
 折口信夫『死者の書』にも、天若日子伝説は挿入されている。
 ボードレール「憂欝」の次の詩句も参照。
  「僕はあたかも雨ふる国の王にも似ている。
  富みながらしかも力なく、年若くしかも既に老いて、」 (福永武彦氏訳)

セドリック 国産乗用車の一の商品名だが、また、バーネットの『リトル・ロード・フォントルロイ』の主人公として、前出「うつぼ舟」にまつわる《貴子遊行・貴人流浪》のテーマと、かすかに照応する。

ああ、見よ…… 以下、萩原朔太郎[はぎわらさくたろう]の「小出新道[こいでしんどう]」のパロディ。

闇の海の…… 以下六行は、前々節のイメージの復帰だが、ここでは芭蕉の句のあいまいなレミニッサンスによって再構成されている。すなわち、
  「海くれて 鴨の声 ほのかに白し」
  「此秋[このあき]は 何で年よる 雲に鳥」
  「秋さびし 手毎[てごと]にむけや 瓜茄子[うりなすび]」
 若くして、年老いて、――とり落されて、――見失われて、→手毎[てごと]にむけや。「うり」はまた「うり二つ」の「うり」でもある。この部分、「文藝」に発表の時は、芭蕉の句を「手毎[たごと]」と覚えていたので、「年老いた――落された――見失われた」となっていたか、「手毎[てごと]」が普通らしいので、こう改めた。しかしなお「……た」にも未練なしとしない。
 なお八重垣[やえがき]神社(後出)には芭蕉の句碑があり、その句は、
  「和歌の跡 とふや出雲の 八重霞[やへがすみ]」

第四のどぶ川 国道をはずれて、堀の多い松江市内を北の端まで行く際には、大ざっぱに言っても、天神川、大橋川、京橋川、北堀川などの川や堀を越えねばならない。しかし、ここでは必ずしもこれらの川や堀を指すわけではない。次注参照。

U章の本文と自注を掲げたが、その構想の大なるに圧倒されない者がはたしているだろうか。なんといってもこの章で鬼面人を驚かすのは、自注に「この一節の文字によって作られたバッテン形は、神社の屋根にある千木[ちぎ]をかたどったもの」とある千木(神社の聖性を象徴する)の文字による再現である。入沢はいったいこれをどのように発想して、執筆したのだろうか。ある詩想を得て、それが千木の形をとらなければならないと考える。あるいは千木の形が浮かぶと同時にある詩想がわく。それは瞬時に入沢を襲ったのではあるまいか。この節が熟考を重ねてなったとは、どうしても思えないのだ。では、それをどう定着するか。私ならまず、原稿用紙の文字になるべきマスを黒く塗ってみる。

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完成した本文には句読点(。、)だのパーレン(( ))だのが含まれていて、6文字を1単位とするこのユニットの文字数そのままではないが、これは

すでにして、ぼくは出雲の呪いの中を西に走つている。
土砂降りの国道に、真赤な草の実の幻がなおも舞狂い、更に雨を呼び、
フロント・グラスがばしやばしや濡れる。まるで天鳥舟。いや、むしろ、うつぼ舟だね、と思う間に、その雨があがつて夕陽がまともに照りつける。
(気違い天気だ)一匹の犬が死人の腕を銜えて走つている。
意宇平野の北のはずれ、意宇の川が血みどろの入り海に注ぐあたり、

という字面からはけっして伝わってこない、ある種、呪術的な節である。――話をややこしくするようだが、上掲の文字列はひとつの読み方にすぎない。寺田透が「中心部の七行が右から左下に読み下すときも、右から左上に読み上るときも、右から左へ読み上る途中で左へ読み下るときも、四度とも有意味に読まれる「バッテン形」をゑがくし、」(入沢康夫《わが出雲・わが鎮魂〔復刻新版〕》帙、思潮社、2004年7月10日、〔二ページ〕。初出は《現代詩手帖》1968年7月号の同書の書評)と書いた
  @右から左下に読み下すとき
  A右から左上に読み上るとき
  B右から左へ読み上る途中で左へ読み下るとき
のBがわからない。詩句は右から左に並んだものとして、自分なりに読むならば、

すでにして、ぼくは出雲の呪いの中を西に走つている。
フロント・グラスがばしやばしや濡れる。まるで天鳥舟。いや、むしろ、うつぼ舟だね、と思う間に、その雨があがつて夕陽がまともに照りつける。
意宇平野の北のはずれ、意宇の川が血みどろの入り海に注ぐあたり、
土砂降りの国道に、真赤な草の実の幻がなおも舞狂い、更に雨を呼び、
〔フロント・グラスがばしやばしや濡れる。まるで天鳥舟。いや、むしろ、うつぼ舟だね、と思う間に、その雨があがつて夕陽がまともに照りつける。〕
(気違い天気だ)一匹の犬が死人の腕を銜えて走つている。

すでにして、ぼくは出雲の呪いの中を西に走つている。
フロント・グラスがばしやばしや濡れる。まるで天鳥舟。いや、むしろ、うつぼ舟だね、と思う間に、その雨があがつて夕陽がまともに照りつける。
(気違い天気だ)一匹の犬が死人の腕を銜えて走つている。
土砂降りの国道に、真赤な草の実の幻がなおも舞狂い、更に雨を呼び、
〔フロント・グラスがばしやばしや濡れる。まるで天鳥舟。いや、むしろ、うつぼ舟だね、と思う間に、その雨があがつて夕陽がまともに照りつける。〕
意宇平野の北のはずれ、意宇の川が血みどろの入り海に注ぐあたり、

そして、最後(にして四通りめ)はやや無理筋なのだが、

すでにして、ぼくは出雲の呪いの中を西に走つている。
(気違い天気だ)一匹の犬が死人の腕を銜えて走つている。
フロント・グラスがばしやばしや濡れる。まるで天鳥舟。いや、むしろ、うつぼ舟だね、と思う間に、その雨があがつて夕陽がまともに照りつける。
土砂降りの国道に、真赤な草の実の幻がなおも舞狂い、更に雨を呼び、
意宇平野の北のはずれ、意宇の川が血みどろの入り海に注ぐあたり、

となろうか。さらに入沢は、XII章の終わりでは6文字を1単位とするユニットを次のように展開して、コーダを鳴り響かせる。本文と自注を引く。

   小さな光 そ
  れがぼくの求めて
 いたもの わが親友の
魂で ぼくはそれを 血も
 凍るおもいで 両のて
  のひらに そつと
   すくい上げた

小さな光…… 以下の七行で作られた六角形は、出雲を知る人なら、出雲大社の神紋(六角形の中に大[、]の字)を想起されるかもしれないが、神紋というなら、私はむしろ神魂神社のそれ(六角形の中に有[、]の字)をあげたい。(なお、この神紋について、神魂神社の案内文では、「有」の字は神在月の十月[、、]の二字から合成されたものと説明している。)

入沢が〈わが鎮魂(自注)〉で言及した主な文献は以下のとおりである(初出分のみ掲げ、読みがなは省略し、底本の表示は割愛した。U章は上に全文を引いたので、省略に従う)。

「出雲国風土記」
「古事記」
「日本書紀」

T
鳥越憲三郎『出雲神話の成立』
「景行記」
「崇神紀」
「旧約〔聖書〕」
「神代記」
「常陸国風土記」
「出雲国造神賀詞」
加藤義成『出雲国風土記参究』
「神楽歌」
能「葵上」
源氏物語「夕顔」
「伊勢物語」
ダンテ『神曲』
旧約聖書「創世記」

V
『アエネーイス』
高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』
『オデュッセイア』
〔萩原〕朔太郎「地面の底の病気の顔」
芭蕉
新村出『辞苑』

W
「催馬楽」
折口信夫『死者の書』
山部赤人
大林太良『日本神話の起源』
新約「ヨハネ伝」
ビュトール「詩と小説」
「尾張国風土記・逸文」
蒲原有明「佐太大神」

X
小泉八雲『知られざる日本の面影』
石川淳「小林如泥」

Y
『ハムレット』
柳田国男「一目小僧」
テオフィル・ゴーチエ『死霊の恋』
オウィディウス『転身物語』
宮沢賢治「北守将軍と三人兄弟の医者」
ネルヴァル『オーレリア』
宮沢賢治「よく利く薬とえらい薬」
野尻抱影『新星座巡礼』
折口信夫「文学と饗宴と」
三品彰英「帰化人の神話」
「万葉集」

[
安西均「古代の笑劇」

\
謡曲「隅田川」
ゲーテ『ファウスト』
アポリネール「腐って行く魔術師」
「グリム童話集」
ベヤリング・グウルド『民俗学の話』

]
ポオ「アル・アーラーフ」「フェアリー・ランド」

XII
ボードレール「虚無の味」
「仁徳紀」
ジイド『テゼー』
「伯耆国風土記・逸文」

XIII
三好達治「春の岬」
西脇順三郎「旅人かへらず」
「播磨国風土記」

拾いもれもあるだろうが、入沢が挙げた作品名・書名、自注中で引用した文章の出典名はこうしたものだった。興味深いことに、入沢は〈わが出雲〉本文の詩句には引用であることを明示する鉤括弧(「 」)は一箇所もなく、ギュメ(《 》)が会話を表したり、強調であることを表したり、引用であることを表したりしている。入沢のこの注の付けかたは、〈わが鎮魂(自注)〉のU章にも登場する、西脇順三郎訳のエリオット『荒地』の原注(すなわち西脇訳)と訳注(すなわち西脇執筆)を合わせたもののように見える。これに対して、吉岡実詩における引用とその出典の表示は、鉤括弧(「 」)やもろもろの括弧類で括って引用であることを明示し、個個の詩篇のあとに

*作者名(訳者名)《書名》を引用している。

というスタイルを基本形としていて、どちらかといえばエリオット《荒地》の原注方式である。この点においては、入沢のほうが過激であり、吉岡のほうが簡潔である。言い換えるなら、吉岡実詩――たとえば土方巽を追悼した〈聖あんま断腸詩篇〉(K・12)――に入沢方式の註を付けるのは、作者の吉岡ではなく、読者の役目だということになる。だが詩句の引用のレベルまではともかく、先行する作品のレミニサンスの指摘は、往往にして憶測の域を出ないことになる。そして、用意周到に付された入沢の自注も、読者には「そこから先」を読むことが求められているわけで、一筋縄でいかないことに関しては、どちらがどちらとも言えない。

吉岡が入沢の詩について語ったそれほど多くない発言の中に、《わが出雲・わが鎮魂》の次の詩集《声なき木鼠の唄》に収録された詩篇〈『マルピギー氏の館』のための素描〉に触れた文章、すなわち〈飯島耕一「見えるもの」・他〉(《現代詩手帖》1967年12月号)がある。全文を省略せずに掲げよう。

 今年の問題作は何かと問われても、簡単に答えられない。なぜなら、多く読んでないし、前半期の作品で失念したものがあるだろうから。記憶にあるままあげると、連祷千行の長篇詩―高橋睦郎《讃歌》(改題して「頌」)。白石かずこ《My Tokyo》。吉増剛造《波のり神統記》。鈴木志郎康の〈プアプア詩〉の終末篇《番外私小説的プキアプキア家庭的大惨事》。入沢康夫《『マルピギー氏の館』のための素描》。しかし一番印象にのこるのは、飯島耕一の連作詩《見えるもの》。それにつづく、近作《私有制にかんするエスキス》であろう。詩集《何処へ》の体験的世界から一転して、シュールレアリスムへの回帰というより、新しい面からの果敢な挑戦を試みている、二つの連作詩――実験的不安定さと奇妙に均整を保ちつつ大きく育成される詩的現実を注視している。(同誌、六四ページ)

《現代詩手帖》1967年2月号に「長篇詩」として発表された入沢の〈『マルピギー氏の館』のための素描〉を吉岡がどう読んだか記されていないのは残念だ(ちなみに吉岡は、同じ号に詩篇〈恋する絵〉を寄せている)。「1 蚕」から「29 反響」までの各パートのうちで、いかにも入沢康夫詩らしいパートは、次の「17 定義」だと思われる。

 たとえば、この館を《さかさまにされたノアの方舟》と定義するのはいかにも気のきいたことのようだが、これは定義にも何もなっていない。いや、いかなる定義をもはねのけ、マルピギー氏の館は断固として実在する。その《在ること》によって、無数の矛盾や撞着(と、ひとの目には見えること、見えないこと、見えないと見えること)を蹂躙しながら。

この、一見きわめてニュートラルな散文と見紛う文体が曲者だ。吉岡が〈『マルピギー氏の館』のための素描〉と同系列の先行作品《ランゲルハンス氏の島》を「コント」ではなく「詩」と評したのは卓見だった。安藤一郎・中桐雅夫・吉野弘・小海永二・秋谷豊・安西均・村野四郎・草野心平との座談会〈第13回日本現代詩人会H氏賞選考委員座談会〉(《詩学》1963年7月号〔H氏賞特集〕)の「選考経過」で、吉岡はこう述べている。

 吉岡 ぼくは、四冊の詩集を読んでみましたが、〔……〕結論的には入沢君の詩集〔『ランゲルハンス氏の島』〕とおもいました。この詩集は、最初のころ私、コントだと、そういう考えでみておりましたが、よく読んでみますとまぎれもない詩なのです。詩でなければ書けないきびしい皮肉というか、軽妙なユーモアがただよつています。ほんとうの意味のユーモアがあるのは入沢君の詩が一番です。苦いユーモアであるかもわかりませんけれども終始たのしく書いている。入沢君の以前にかいた詩は苦しんでかいていましたが、この詩集はたのしみながら書いています。詩は、苦しんで書くのもいいんですけれども、楽しんで書き、できたものの完成度が高いというものもあります。そういう詩を入沢君は書いているのだとおもいます。入沢君がどういう世界を描いているのかはつきりわからないけれども、こんどの候補になつた詩集のなかではずばぬけているとおもつて入沢君を推しました。〔……〕(同誌、四九ページ)

入沢康夫・落合茂《ランゲルハンス氏の島》(私家版、1962年7月1日)の表紙とジャケット 入沢康夫・落合茂《ランゲルハンス氏の島》(私家版、1962年7月1日)の「7」の絵
入沢康夫・落合茂《ランゲルハンス氏の島》(私家版、1962年7月1日)の表紙とジャケット(左)と同「7」の絵(右)

吉岡はここで、「楽しんで詩を書く」というおよそ《僧侶》のころの作風からは信じられないような姿勢の転換を語っている。この発言は《紡錘形》(1962)刊行の翌年、のちに《静かな家》(1968)にまとまる作品を書きはじめたころになされたものであり、《僧侶》(1958)が人妻との失恋(彼女は吉岡の親友・吉田健男の初恋の人として、健男が年上の女性と心中したあと、吉岡のまえに運命的に現れたが、太田大八夫人・十四子さんに依れば、その夫はイトコだっため子供をつくらなかったという)のはてに生みおとされたのに対して、陽子夫人との、40歳という晩い結婚を経て家庭的にも落ち着いた環境から生みだされた、という違いは大きい。独身時代は、寝床に腹這いになって周りに本の山を築いて詩作した、と吉岡はどこかで語っていた。一方、家庭をもってからは、食卓のうえに原稿用紙を拡げて詩を書いたとも語っている。この姿勢の違いは大きい。ちなみに私は、原稿の執筆にはパソコンを用いる。四囲に書籍や雑誌、コピーを綴じこんだファイルを収めた棚を張りめぐらした、肘掛けのある事務椅子に坐るためには、F1レーサーがコックピットに潜りこむようにして、定位置にたどりつく必要がある。資料の内容を盛りこんだ草稿は、A4の用紙に2面付けでプリントしたゲラをクリップボードに挟んだ状態にして、ベッドに横たわりながら(ということは、だいたいが就寝の前)、赤と緑の水性ボールペンを使って、手を入れていく。私がいちばん充実を覚えるのは、この初校への赤入れのときだ。第一稿の産みの苦しみは、ここで報われる。言いわすれたが、引用文や出典表示は、縦書き出力したプリントアウトを執筆のときと同じ姿勢で、照合する。原則、書くときは垂直で、読むときは水平で。これらの作業の流れは、吉岡実が陽子夫人とふたりで行ったものと(パソコンと手書きの差はあるものの)、大きく隔たったものではない。決定的な違いは、私が音楽をあたかも酸素かなにかのように必要としていることだ。書くときのBGMは、CDかMDをスピーカーで鳴らし、読むときのBGMは、MD(CDのコピー以外に、自分でつくったコンピレーションもある)をヘッドフォンで。なお、外出時を含めて、スマホで音楽は視聴しない。私が本格的に読書を始めたのが高校時代、なにか書きはじめたのが大学受験前のころだったのに対して、ロックやポップスに目覚めて、ギターをいじりはじめたのが中学時代。BGMにおいても、音楽とは正対しなければならない。おそらく吉岡にとっての視覚芸術に相当するのが、私の場合、音楽なのだ。あだやおそろかにできない。

ここで余談を少し。ほぼ同時期に詩的出発を遂げた吉岡実と入沢康夫は、文学賞の選考委員を務めた際に、吉岡は入沢の、入沢は吉岡の詩集を推して、賞の受賞に至ったり至らなかったりしている(詳細は〈吉岡実と文学賞〉を参照)。

  先述のように、吉岡は1963年、第13回日本現代詩人会H氏賞の選考で入沢の詩画集《ランゲルハンス氏の島》を推すも授賞にいたらず。
  入沢は1976年12月、第7回高見順賞の選考で吉岡の《サフラン摘み》を推して授賞。
  吉岡は1983年1月、第13回高見順賞の選考で入沢の《死者たちの群がる風景》を推して授賞。
  入沢は1984年3月、第4回詩歌文学館賞の選考で吉岡の《ムーンドロップ》を推すも吉岡が受賞を辞退。

《死者たちの群がる風景》全Y章のふたつめは〈U 潜戸へ・潜戸から――二人の死者のための四章〉。詩篇本文のあとには、小字で

(本章は全体が大岡信『潜戸へ・潜戸から――二人の死者のための四章』の引用である。)

と註記のある、その衝撃。大岡の書いた文章を自身の作品に繰りこむ入沢も入沢だが、それを承知した大岡も大岡である。ちなみにこの二人は同年の生まれ。

その詩から見た吉岡実と入沢康夫の関係の大要は、上のとおりである。これ以降、私の〈吉岡実〉と入沢康夫の関係に触れても、謗られることはないだろう。私が入沢の著作で最も影響を受けたのは、その詩集からではない。私は詩作を廃した人間である。このサイトをご覧のかたにはすでにおわかりのことだろうが、それは《宮沢賢治――プリオシン海岸からの報告》(筑摩書房、1991年7月25日)である。同書の白眉〈詩集『春と修羅』の成立〉を読まなければ、それに鼓舞されなければ、私は〈吉岡実詩集《静物》稿本〉をあのような形でまとめようという気は起こらなかっただろう。ここには詩人・詩論家としての入沢康夫はもちろん、1年半という短い期間ではあったが、筑摩書房で吉岡実と机を並べた出版人としての経験が丸ごと投影されている。入沢の最良の部分が表れた文章として、同文を第一に挙げる所以だ。巻末の入沢康夫の〈覚え書〉(同書、四八五〜四九〇ページ)は次のようなものである。私が本サイトに執筆した文章が基本的に《雑感》であり、そのときどきの《報告文》である点、〈覚え書〉の「補注」――重要なもののみ引いた――がしばしば(頻繁に?)試みる私の〔追記〕の先例である点など、数えあげればきりがない。ことほどさように、同書の構造・構成はウェブサイトと親和性が高いのである。

 ここには、私がこれまで宮沢賢治について多少とも公の場で書いた散文のほとんどすべてが集められている。(「ほとんど」といったのは、あまりにも言及が断片的なものや、内容にいちじるしく重複のあるもの、さらに全集や選集の解説として書かれていて本文がなければ意味を持たないものなど、そうした何点かが省いてあるためである。)
 これらの文章は、一賢治作品愛読者の折にふれての《雑感》か、さもなければ(このほうが量的には遥かに多いのだが)、一九七〇年代以降何度かの賢治全集の編集に参加した者としての《報告文》であって、研究論文とか評論とか呼ばれるには価しないものばかりである。それを、今回一巻にまとめるのは、したがって、「私の賢治論」を世に問おうという意味合いからでは毛頭ない。上記のような内容からいって、これが、ひょっとしたら、過去から今日までの《賢治受容の歴史》の一側面に対して、限られた角度からではあれ、ある程度の照明を当てられる、そういった意味での《資料》にはどうやら成り得るのではなかろうかと、ふと思ったからにほかならない。
 この観点で編まれた本書は、序に代えて巻頭に置いた一文と、巻末にまとめた短い時評・書評群とを除いて、完全に書かれた順序にしたがって配列されている。TからVの章分けは、Tは、私が『校本宮沢賢治全集』の仕事に携わるよりも以前に(つまり、賢治の原稿の実態について、ほとんど知るところなしに)書いたもの、Uは、上記全集に関わる編集校訂作業と、それと直接につながる後始末の時期、そしてVは、それ以後今日までのもの、といったつもりでなされてある。
 このうち、Uに属するものには、それらがさまざまに異なった場所に書かれた《報告文》であるという性格上、同一事項の繰り返しや、重複がそこここに見られるが、あまりにも甚だしい箇所一二を除いて、そのままにしてある。これも《資料》としての「現場感」を生かしたかったためである。また、連載物の一部であるため、それだけ読むと書き出しが唐突な感じがするといったものも、あえて補訂していない。体裁上や混乱を避けるための、やむを得ない手入れは最小限ほどこしたが、記述の内容に関しては、現在の目で見て訂正を要すると思う箇所も手を加えず、以下で若干の補注をこころみるだけにする。繰り返すが、それぞれの文を、過去に行なわれた発掘調査の報告資料のごときものとして(文末に記した発表時期も考慮に入れつつ)お読み頂ければ幸いである。
・「四次元世界の修羅」  本来はUのパートに属すべきもの。この文に関しては、金子務氏著『アインシュタイン・ショック』Uの一五四ページ以下を参照されたい。
〔……〕
・「『銀河鉄道の夜』の発想について」  注*8の中で「イギリス海岸」草稿のインクの色に触れているが、その後の調査によれば、じつはこれは既に清書稿なので、ここで言っていることは意味を失う。なお、大正十一年頃の賢治に意中の女性があったかどうかは、その後さまざまに論じられるようになったが、結論は出ていないようだ。
〔……〕
・「妙な記数法のはなし」  この謎は、現在もまだ解けていない。お心当たりの方があれば、ご教示を仰ぎたい。
〔……〕
・「詩集『春と修羅』の成立」  成立過程の推理に関しては、さらに後出の「訂正二件」(一二〇ページ)、「『春と修羅』成立過程に関する……」(三三六ページ)や、「『失われた部分』のこと」(三八七ページ)を参照されたい。
〔……〕
・「『銀河鉄道の夜』の本文の変遷についての対話」  この文の終りちかくで述べられている「流布本」は、その後、新修版、ちくま文庫版の二全集その他で実現した。原稿の詳細解説付き全葉複製は、まだ試みられていない。(*7
〔……〕
・「雪の朝花巻に着いて」  私の賢治草稿との関わりにおけるひとつの節目をしるしているという点で、一種の愛着のある文章。
・「詩の本文のことなど」  この文を発表してからでも、もう十何年かが経ったのに、一九九一年春現在、岩波文庫の『宮沢賢治詩集』は、あいかわらず古い誤りの多い形のままである。
〔……〕
 なお、賢治について書いたあるいは一部言及した文章のうち、内容重複その他の理由により本書に収録しなかったものは以下の通りである。

  〔……〕
        *
 終りになってしまったが、ここで、本書の日の目を見るについて、さまざまにお世話になった方々に心からの御礼を申し述べたい。特に、直接編集に当たり、構成その他、面倒なことをいちいち片付け、巻末の索引まで作って下さった、編集部山本克俊氏には、御礼の申し上げようもない。

   一九九一年七月一日                           著者

入沢たち編集委員が心血を注いだ《校本 宮澤賢治全集》が――そもそも「校本」とは諸種の異本を校合し、その本文の異同を示した本のことだった――、その校異が、どのような姿勢で書かれたかについてここで触れずにすますことは、私にはできない。

 〔……〕「直接に原資料に当り難い研究者が、信頼して拠り所とすることができるもの」を提供しようと志した校本全集の校異担当者の、執筆に当っての一致した心がまえ(というか自戒というか)は、㋑何よりもまず、確実で具体的な(現存する)事実を、可能なかぎり網羅的に、かつ正確に提示すること、㋺確実で具体的な(現存する)証拠に専ら基いてなされる厳密な推理によって必然的に得られる結果以外は、一切の臆説をきびしくつつしむこと、㋩それ以外で何らかの必要(あるいは扱う事柄の性質)によって、推論を記さざるを得ない場合には、その推論の論拠を明示し、しかも記述中で「確実な事実」と「推論によって得られた結果」との区別を常にはっきりさせておくこと、㋥現存の資料からは判定不可能な点(あるいは現存しない資料に関する事柄)については安易な新説を立てず、もしもそれについて従来何らかの通説があり、しかもその通説が誤っているという確実な証拠がない場合には、一応通説を(そのむねことわって、断定を避けつつ)記述すること、という四点に要約できよう。〔……〕(〈『春と修羅』成立過程に関する佐藤勝治氏の新説について〉、同書、三三七〜三三八ページ)

私の〈吉岡実〉の、〔初出形〕と〔定稿形〕を併記した12冊の詩集の本文校異や全詩篇の〔初出形〕の翻刻が、入沢たちの校本全集校異に学んでいることは紛れもない。その成果のほどを云云するのは他の人に任せるとして、〈吉岡実〉の本文校異や翻刻がまがりなりにも使用に耐えるものだとすれば、それは、入沢たちの校本全集校異の基本方針が一人宮沢賢治だけでなく、その運用を過たなければ別の詩人にも適用できる普遍性をもっていることの証しだろう。私が入沢康夫の《宮沢賢治――プリオシン海岸からの報告》から学んだのは、そうした姿勢だった。

〔追記〕追悼・入沢康夫
高橋睦郎の〈謎の人〉(《現代詩手帖》2019年2月号〔追悼特集・入沢康夫〕)は、「人間関係において尋常の域を超えて不器用だ」った入沢康夫を語って、衝撃を与えた。

 吉岡さんとの付き合いでは私より入沢さんのほうが古い。そもそも私が吉岡さんと出会ったのは入沢さんの詩集『季節についての試論』のH氏賞受賞を祝う会においてで、たぶん一九六六年。入沢さんに会ったのもその時が最初だった、と思う。入沢さんはそれ以前から宮沢賢治全集などの編集の関わりで、筑摩書房勤務の吉岡さんとは親しかったはずだ。その入沢さんを外して付き合いとしては新しい、未熟な私をなぜ選んだか。
 この疑問は当然入沢さんにもあったはずで、葬儀当日、遺族側に立って誰よりも慇懃に会葬者を迎え送ったのは、入沢さんだった。そのことを訝しく思った会葬者もあったようで、無気味だったとまで書いた文章を記憶する入も少なくなかろう。この入沢さんの態度は私には、自分が葬儀執行者から外されたことへの無言の抗議のように見えた。ついでに言えば、吉岡さん生前の希望で筑摩書房から出た『吉岡実全詩集』扉裏には「編集」として「飯島耕一/大岡信/入沢康夫/高橋睦郎」の四入の名が並んでいるが、事実は入沢さんが筑摩の担当者淡谷〔淳一〕さんを相手に、ほとんど独りで当たったことを、特記しておこう。(同誌、六六ページ)

私も1990年6月3日の葬儀に参列した一人だが、高橋さんの「葬儀当日、遺族側に立って誰よりも慇懃に会葬者を迎え送ったのは、入沢さんだった。そのことを訝しく思った会葬者もあったようで、無気味だったとまで書いた文章を記憶する入も少なくなかろう。この入沢さんの態度は私には、自分が葬儀執行者から外されたことへの無言の抗議のように見えた」ことはまったく記憶になく(なによりも、吉岡実を喪った哀しみで目がくもっていたのが大きかろうが)、自分はいったいなにを見ていたのだという想いに苛まれる。付言すれば、入沢が吉岡を識ったのは、入沢が筑摩書房勤に入社した1959年4月の2年前(ということは1957年か)、詩の仲間の川口澄子が同社に入り、《静物》を出した詩人として吉岡実の存在を吹聴したことがきっかけだった(入沢の追悼文〈吉岡さんの死〉に依る)。本稿冒頭の、入沢康夫が吉岡実に触れた文献の一覧に1990年の追悼関連が7本もあるのは(とりわけ、8月の《るしおる》7号の〈吉岡さんがなくなられた!〉)、各処から執筆の依頼があったのはもちろんだが、吉岡の死にあたってなにもできなかった、なにもしなかったことに対する慚愧の念がなにほどか働いていたためではなかろうか。入沢康夫が編集委員として孤軍奮闘(?)した《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)の巻末の詩篇は、「強烈で深刻な印象が、忘れ難く残っている」(前出〈「波よ永遠に止れ」の思い出〉)長篇詩〈波よ永遠に止れ――ヘディン〈中央アジア探検記〉より〉だった。全詩集の付録を読んだ私は、入沢さんに〈波よ永遠に止れ〉の放送詩集の録音を無心した。さっそく送っていただいたカセットテープにダビングした音源には手紙が添えてあったのだが、大事にしまいすぎたのか見あたらない。いまここに引用することができないのは、残念至極である。入沢さんの〈宮沢賢治〉を仰ぎ見ながら、私もしばらくはこの〈吉岡実〉を続けることにします。〈詩〉を、〈吉岡実〉を通じて示されたご厚誼に感謝いたします。ほんとうに、ありがとうございました。

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まず、吉岡実が装丁した入沢康夫の著書にリンクを張って、《〈吉岡実〉の「本」》の各記事に飛ぶようにしておく。
  《古い土地》(1961)
  《入澤康夫〈詩〉集成 1951〜1970》(1973)と《入澤康夫〈詩〉集成 1951〜1978》(1979)
  《「月」そのほかの詩》(1977)
  《死者たちの群がる風景》(1982/1983)
  《ネルヴァル覚書》(1984)
編集委員入沢康夫の業績として逸することのできない《校本 宮澤賢治全集〔全十四巻(十五冊)〕》が吉岡の装丁になることは、改めて言うまでもない。装丁家吉岡実は、ハードカヴァー・全集ものにおける代表作《校本 宮澤賢治全集》によって後世に記憶されることになるかもしれない。

*1 拙編《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》の1991年(平成3年)10月の条に「浅草・木馬亭で〈吉岡実を偲ぶ会〉が開かれる(発起人飯島耕一、大岡信、入沢康夫、種村季弘、高橋睦郎)。第一部は司会高橋睦郎で知友たちの思い出話(安藤元雄、飯島耕一、入沢康夫、江森國友、大野一雄、小田久郎、落合茂、金子國義、佐々木幹郎、高梨豊、多田智満子、種村季弘、那珂太郎、中西夏之、夏石番矢、矢川澄子の十六人と吉岡陽子)、〔……〕」とあるが、このとき入沢は、挨拶のあと吉岡の詩篇〈カカシ〉(G・28)を全篇(といっても15行だが)、朗読した。追悼文に亡き人の詩を引用するようなものである。テキストは選詩集《吉岡実〔現代の詩人1〕》(中央公論社)だったと思う。同書には〈僧侶〉(C・8)も〈サフラン摘み〉(G・1)も収録されているのに、入沢がこの詩を択んだことに、私は衝撃を受けた。

*2 「これはやはりたいへんな長篇詩だと思う。」の「これ」が『わが出雲・わが鎮魂』なのか、エリオットの『荒地』なのかわかりづらい。もっとも、〈わが出雲〉の詩句は378行だから、行数から推して本文433行の《荒地》の方だと見当はつくが。

*3 入沢は吉岡との対談の翌年(1968年)刊行の《わが出雲・わが鎮魂》の〈「あとがき」〉にこう書いている。

 本文と註とから成るこの『わが出雲・わが鎮魂』の制作は、私にとって、たしかに一つのオペレーションであった。しかし、この全体を、詩作品と呼んでよいかどうかは、私には判らない――というよりも、次に述べる理由で、これはおそらく詩作品ではあり得ないだろう。
 私の父祖の地は、中国四県の県境にほど近い伯耆国西南都の山の中で、出雲国側の肥川(斐伊川)と水源をほぼ同じくする日野川の上流にあたっているのだが、私自身は、さる事情があって、出雲国の松江市で生れ、半ば他処者、半ば土地っ子として十七歳までここで育った。この「作品もどき」における私の意図は、そのような因縁のある土地への私的な愛憎を都合のよい口実に、《根の国・底の国》《反逆》《騙し討》《被征服》《鎮魂=呪力の鎮圧》といったテーマを導きの糸としながら、パロディのパロディを本文(もどき)と註(もどき)とで組み立て、こうすることによって詩の「反現場性」「自己侵蝕性」の問題を、無二無三に追いつめてみることだった。つまり、私の力点は、「作品を成立させること」にでなく、「作品の成立とは何かを問うこと」にかかっていた。
 その意図がどこまでつらぬかれているかは知らず、いずれにもせよ問題は、作者も読者も結局はたどりつくであろう「何とまあ、馬鹿なまねを……」という憫笑、顰蹙、あるいは歎息の向うに、はたして何かが見えてくるかどうか、であろう。ところで、今、私自身としては、このオペレーションにほぼ全力を投入し得たという、解放感に似た感じもあるにはあるが、それにしても、現実の出雲が私の意識にとって一種の大切な「地獄」であるように、この『わが出雲・わが鎮魂』は、これまた一種の「地獄下り」の体験として、忘れたくても忘れられぬ苦い思い出となるのではないかと思っている。
 なお、本文については、次の如き発表経過をたどって、本書(昭和四三年刊初版本)において最終的に決定した。「わが出雲(エスキス)」(「詩と批評」昭和四一年八月号)→「わが出雲(第一のエスキス)」(「あもるふ」29号)→「わが出雲・わが鎮魂」(「文芸」昭和四二年四月号)→本書。(《入澤康夫〈詩〉集成 1951〜1994〔上巻〕》、青土社、1996年12月30日、三六七〜三六八ページ)

*4 城戸朱理は吉岡実を追悼する〈盛夏の人〉(《現代詩手帖》1990年7月号〔追悼特集・お別れ 吉岡実〕)にこう書いている。「〔……〕吉岡さんと初めてお会いしたのは、ちょうど『薬玉』が上梓された後のことで、そのときから、彼は、いずれ長編の詩を書きたいと語っていた。お会いするたびに、やがて書かれるべき長編のことが話題になったが、それは詩や散文詩のみならず、日記を始め夥しい引用など様々なものが混在するものになるはずだった。吉岡さんがいちばん気にされていたのは、いったい何行くらい書けば長編詩と言えるだろうかということで、私はその質問をされるたびにT・S・エリオットの『荒地』を引き合いに出して、五百行もあればという答え方をした。すると、吉岡さんは、そうか、五百行で充分かと嬉しそうな顔をするのだった。その長編がついに書かれなかったことを、私は惜む。」(同誌、四八〜四九ページ)
吉岡自身は《薬玉》刊行の翌年、〔最近関心のあるテーマ〕を問われて「現世をテーマの長篇詩」と回答している(《現代日本執筆者大事典77/82 第四巻(ひ〜わ)》、日外アソシエーツ、1984年8月25日、六七二ページ)。もって、晩年の吉岡がいかに「長篇詩」に深い関心を寄せていたか、うかがい知れよう。

*5 まず〔V テキスト〕12行の行頭にライナーとダーシ(――)を付けて掲げ、遠藤嘉基・春日和男校注《日本霊異記〔日本古典文学大系70〕》(岩波書店、第7刷:1972年10月20日〔初刷:1967年3月20日〕)の該当すると思しい箇所を赤で表示して引く。なお、旧字は新字に改めた。また、引用文中のゲタ(〓)はPCで表示できないため、続く【 】内でパーツに分けて説明した。

01――「葛[かづら]を被[かづき]て松の実を食み
02――           鳥の(卵[かひご])を煮て食[くら]ひて
03――桑摘女は児を撫で
04――        (𨳯[まら])を吸ふ
05――              なれば(房[ちぶさ])は張り
06――(開[くぼ]の口)より
07――       (神識[たましひ])を昇らせる
08――                (奇異[あや])しき事かな
09――嗚呼やがては
10――      (銅荒炭[あかがねあらすみ])の上に
11――              (鉄丸[てちぐわん])を置きて呑み
12――地獄に堕ちむ」
・01行――所以[このゆゑ]に晩[ク]レニシ年四十余歳を以て、更に巌窟[イハヤ]に居り、葛[かづら]を被[き]、松を餌[の]み、清水の泉を沐[あ]み、欲界[よくかい]の垢を濯[スス]キ、孔雀の咒法を修習し、奇異の験術を証し得たり。(《日本霊異記》上巻〈孔雀王[くじやくわう]の咒法[じゆほふ]を修持[しゆぢ]し、異[け]しき験力を得て、現に仙と作[な]りて天に飛ぶ縁 第二十八〉、同書、一三五ページ)
・02行――天年[ひととなり]邪見にして、因果を信[う]け不[ず]、常に鳥の卵を求めて、煮て食ふを業[わざ]とす。(《日本霊異記》中巻〈常に鳥の卵を煮て食ひて、現に悪死の報を得る縁 第十〉、同書、二〇七ページ)
・03行――河内の国更荒[さらら]の郡馬甘[うまかひ]の里に、富める家有[あ]り。家に女子[をみな]有[あ]り。大炊[おほひ]の天皇のみ世に、天平宝字三年己亥[つちのとゐ]の夏四月、其[そ]の女子[をみな]、桑に登りて葉を揃[こ]く。(《日本霊異記》中巻〈女人、大蛇[をろち]に婚[くなか]はれ、薬の力に頼りて、命を全くすること得る縁 第四十一〉、同書、二九三ページ)/母三年を経て、儵[たち]〔倐[まち]〕に病を得、命終はる時に臨み、子を撫で𨳯[まら]唼[す]ひて、斯く言ひき。(同前、二九五ページ)
・04行――仏、阿難に告ぐらく「是[こ]の女、先世に一[ひとり]の男子を産む。深く愛心を結び、口に〔其[そ]〕の子の𨳯[まら]を〓【「口」偏に「集」】[す]ふ。(同前)
・05行――両[ふた]つの乳脹[ハ]レタルコ卜大きにして、竃戸[かまど]の如く垂れ、乳より膿[うみしる]流る。(《日本霊異記》下巻〈女人[によにん]、濫[ミダリガハ]シク嫁[とつ]ぎて、子を乳[ち]に飢ゑしむるが故に、現報を得る縁 第十六〉、同書、三六一ページ)
・06行――〔……〕開[つひ]の口に汁を入る。(《日本霊異記》中巻〈女人、大蛇に婚はれ、薬の力に頼りて、命を全くすること得る縁 第四十一〉、同書、二九三ページ)
・07行――其[そ]の神[たま]〔識[しひ]〕は、業[ごふ]の因縁に従ひて、或[あ]るは蛇馬牛犬鳥等に生まれ、先の悪契に由りて、蛇と為りて愛婚[くなかひ]し、或るは怪畜生と為[な]る。(《日本霊異記》中巻〈女人、大蛇に婚はれ、薬の力に頼りて、命を全くすること得る縁 第四十一〉、同書、二九五ページ)
・08行――爾[そ]の時並びに住む行基大徳[ぎやうぎだいとこ]は、文殊師利菩薩の反化[へんげ]なり。是れ奇異[めづら]しき事なり。(《日本霊異記》上巻〈三宝を信敬[しんぎやう]し、現報を得る縁 第五〉、同書、八七ページ)
・10〜12行――法花経に云はく「賢僧と愚僧と同じ位に居ること得不[じ]。又[また]長髪の比丘[びく]は、白衣[びやくえ]の髪鬢[はつびん]を剃ら不[ず]して賢なると、位を同じくし器を同じくして用ゐること得不[じ]。若し強ひて位する者は、銅[あかかね]炭[アラズミ]の上に鉄丸を居[お]きて呑み、地獄に堕ちむ」といふは、其[そ]れ斯[こ]れを謂ふなり。(《日本霊異記》中巻〈法花経を読む僧を呰[あざけ]りて、現[うつつ]に口喎斜[ゆが]みて、悪死の報を得る縁 第十八〉、同書、二三三ページ)

*6 全集全体の編者でもある池澤夏樹が《日本文学全集〔第29巻〕近現代詩歌》(河出書房新社、2016年9月30日)で選んだ吉岡実詩は、(ここでもまた)〈僧侶〉(C・8)だったから、世評では吉岡は《僧侶》/〈僧侶〉の詩人ということになるのだろう。そうした意味では、入沢もまた《わが出雲・わが鎮魂》の詩人ということになる。激動の1968年刊行の5年後、《現代詩集〔現代日本文學大系93〕》(筑摩書房)に選ばれたばかりか、約半世紀後(!)にも、平成末を代表する久久の日本文学全集に谷川俊太郎や高橋睦郎の長詩とともに採られたのだから。

*7 本書刊行後に出た入沢康夫監修・解説の《宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて》(宮沢賢治記念館、1997年3月〔日にちの記載なし〕)は、横長のA4判の本文に「全原稿」「創作メモ原稿」「原稿裏面」をカラー写真で掲載している。入沢はこれ先立つこと20年以上まえ、〈「銀河鉄道の夜」の本文の変遷についての対話〉(初出:《宮沢賢治童話の世界〔日本児童文学別冊〕》、すばる書房、1976年2月)の末尾を「〔……〕/また、流布本とは別に、研究者のための刊本として、全八十三枚の原稿とそれにまつわるメモ類のすべてを写真版にしそれに読み解きを添えた本が出されることも、これだけの内容と多くの問題点をはらんでいるこの作品の場合きわめて望ましいことです。/――それらが揃ったとき、「銀河鉄道の夜」は、完全に万人のものとなるのですね。/――まったくその通りです。」(《宮沢賢治――プリオシン海岸からの報告》、一七七ページ)と締めくくって、その出現を待望していた。私は、詩集《静物》の吉岡実自筆の稿本――吉岡は「わたしの大切なもの」として「詩集《静物》の原稿(これは書下し故に、唯一の原稿の残っているもの)。」(〈軍隊のアルバム〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、四五ページ)と書いている――が写真版(や原本の装丁や紙質まで再現した復刻)の形で世に出たら、どんなに素晴らしいだろうと歎息を禁じえなかった。

〔2019年6月30日追記〕
本稿の翌月、6月に執筆した高橋康也の関連資料のなかに、高橋と入沢康夫の対談〈言葉遊びとしての詩〉(初出は《話の特集》1980年11月号)があった。二人はそこで、例の「文字によって作られたバッテン形」の読み方をめぐって、意見を交わしている(対談の本文は、言うまでもなく縦組だから、本サイトの横書き表示を縦書きに変換してお読みいただきたい)。

 高橋 そうすると、この×[バツ]字形のところは、普通の行替えで読むと、どういう順序ですか。
 入沢 まず、右上から下に五行いき、次に右下から上の奥「夕陽がまともに照りつける」までいき、さらに左上までいって、最後は左下にくる。
 こんなふうに並べ替える時に、字数の問題としてはそう手間取らずできたんです。しかも、うまい具合に、上の両脇に二字ずつ穴が開いていますが、これは神社の屋根の上にある千木[ちぎ]の形のつもりなんですよ。
 高橋 ああ、そうすると、この×字形は出雲大社の物理的構造をモデルにしているんですね。
 入沢 そう、出雲大社の千木は、ちょうどこのように穴が開いているんです(笑)。
 高橋 形の面白さのほかに、×字形にしてしまうと幾通りかに読めることの面白さがあります。どこから読み始めてどっちへ進むか、読者が決めればいい。
 入沢 こういう形になってしまえば、全て自由です。読者参加といいますが、これはぼくが以前から言っている持論でもあるんです。要するに日本ではあまりにも、詩というものが、作者自身の思ったことそのものを伝える道具だと思われすぎていると思うんです。そうではなくて、詩を鏡にして読者が自身を見るものではないか……そういう思いもあるわけで。(高橋康也対談集《アリスの国の言葉たち》、新書館、1981年7月10日、一八三〜一八四ページ)

それにしても、この対談が詩や英文学の専門雑誌ではなく、編集長・矢崎泰久の《話の特集》に載ったということは、1970年代のジャーナリズムの底力を示しているようで、怖ろしいほどである。


吉岡実全詩篇〔初出形〕(2019年4月30日)

(別ページ掲載の当該記事にとぶ)


京浜詩の会〈吉岡実氏を囲んで〉のこと(2019年3月31日)

2018年12月31日、ヤフオク!に〈吉岡実 葉書2通 各ペン7行 京浜詩の会宛 昭和38年4月〉が出品された。商品説明には「京浜詩の会への座談会出席承諾の件・保存状態良好です。」とあった。入札の開始が年末だったせいや、やはり同じころ出品された吉岡実の高橋康也宛書簡の入札にかまけていたせいもあって、落札することができなかった。いま考えると、もっと執拗にフォローすべきであったと悔やまれる。ところで、なにに限らずコレクション熱が嵩じてくると、市販のブツのコンプリート、限定のそれのコンプリート(これがなかなかに難しい)、最後が一点ものの蒐集、と深入りしていくわけだが、書物の場合は市販本、限定本、1点製本のルリユール、著者の生原稿や色紙・短冊、書簡や日記というぐあいに、ハードルはどんどん高くなっていく。私はいまだに詩歌集《昏睡季節》(草蝉舎、1940)を手に入れていない貧弱なコレクターに過ぎないが、ブツにフェティッシュにこだわるよりは、未知の情報に接したいという気持ちの方が強いことを告白しなければならない。万が一、《昏睡季節》と吉岡実の日記が同じ値段で手に入るという事態に立ちいたったならば、迷わず日記を選ぶ(《昏睡季節》は、幸運にも吉岡家蔵の手択本――といっても書きこみなどは一切ない――をしばらく手許に置くことができたという事情もあるが)。ひるがえって〈吉岡実 葉書2通 各ペン7行 京浜詩の会宛 昭和38年4月〉の情報的価値を言うなら、これは第一級のものだった。遅まきながら、同資料をじっくりと検討してみたい。はじめにヤフオク!に掲げられた商品写真を見よう。

〈吉岡実 葉書2通 各ペン7行 京浜詩の会宛 昭和38年4月〉
〈吉岡実 葉書2通 各ペン7行 京浜詩の会宛 昭和38年4月〉〔出典:ヤフオク!〕

光量が足りないうえ、手振れのため画像がぼやけていて、文面の判読は困難を極める。科学捜査研究所の手を借りて、画像解析したいくらいだ。自力で読みえたかぎり、次のようになる。

〔……〕
ただきたいと思います。
五月十一日の六時ころまでに参ればい
いですね。拝眉の折まで。
              敬具

………………………………………………

〔……〕
小生を囲む会にしていただいて、ありがと
う存じます。小生は理論的に筋道の
立つ話ができないからです。勝手を云っ
て申訳ありません。五月十一日に皆様
とお会するのをたのしみにしております。
               敬具

ハガキの表[オモテ]面(ヤフオク!掲載の写真は掲げないが)に見える宛名は京浜詩の会代表の竹内多三郎で、発信人は住所や社名が印刷された筑摩書房の社用ハガキに「吉岡実」と手書きされている。まさに「京浜詩の会への座談会に出席を承諾した」内容なのだが、京浜詩の会のことはこのハガキで初めて知った。先日、国立国会図書館の所蔵する月刊詩誌《京浜詩》(京浜詩の会)の当時のバックナンバーを閲覧した。残念ながら、吉岡実の寄稿も吉岡が出席した座談会の記事も載っていなかった。かわりに、京浜詩の会が主催した〈講師を招いての研究例会〉の案内があって、例会の様子がわかった。

《京浜詩》第25号(京浜詩の会、1963年8月10日)の〈講師を招いての研究例会〉の案内と奥付のページ 《京浜詩》第26号(同、1963年9月14日)の研究例会の案内
《京浜詩》第25号(京浜詩の会、1963年8月10日)の〈講師を招いての研究例会〉の案内と奥付のページ(左)と同・第26号(同、1963年9月14日)の研究例会の案内(右)〔いずれもモノクロコピー〕

国会図書館所蔵の《京浜詩》は1〜107号(1959年11月〜1971年8月)で、3号と11号が欠号。第25号の研究例会の案内に「G〔=ゴチ〕」や「9ポ」と書きこんだのは、同誌の編集兼発行人の竹内多三郎その人ではないだろうか(ほかにも、いたるところに書きこみや切りぬきがあり、雑誌の制作に使ったものと思しい)。より詳しい情報の第26号の文言を起こしてみよう。なお、9と10は第25号から補った。

京浜詩の会

講師を招いての研究例会
(どなたもお気軽にお出下さい)

毎月第二土曜日午后5時半より   会場 川崎市歯科医師会館

9 近代詩と現代詩 木原孝一
10 三六年詩壇の問題点 黒田三郎
11 詩と映画 清岡卓行
12 詩の中の眼 村野四郎
13 詩の朗読について 近〔東→藤〕東
14 タゴールの愛国詩と抵抗詩 大江満雄
15 山村暮鳥について 藤原定
16 現代詩随言 風山瑕生
17 女流詩人を囲んで 新川和江 内山登美子
18 詩人講演会 金子光晴 岩佐東一郎
19 宮沢賢治について 山本太郎
20 高村光太郎のこと 草野心平
21 三人の詩星 神保光太郎
22 現代詩の未来 長谷川竜生
23 アメリカの現代詩とリトルマガジンについて 諏訪優
24 吉岡実氏を囲んで 吉岡実
25 岩田宏氏を囲んで 岩田宏
26 戦後詩の一視点 堀川正美
27 (九月) 伊藤信吉
28 (十月) 西脇順三郎 小野十三郎 田村隆一(予定)
                (略敬称)

〈講師を招いての研究例会〉の講師と演題は判明したわけだが、かんじんの内容はほとんど誌面に残されていない。吉岡実の会以前では、第21号(1963年4月13日)の長谷川竜生〈現代詩の未来〉(同誌、二〜一三ページ)が例外だ()。本稿は「(未完)」で、末尾には「本文は三月九日川崎市歯科医師会館における録音から先生の許可を得て掲載いたしました。」とある。第24回の〈吉岡実氏を囲んで〉は、思うに、長谷川の講演を掲載した第21号を見本として添えて吉岡に講師役を依頼したところ、自分は「理論的に筋道の立つ話ができない」と逃げを打たれたため、それならフリートークあるいは質疑を交えた放談で、ということに落ち着いたのではないか。それとも、往年のTV番組《笑っていいとも!》のトークコーナー〈テレフォンショッキング〉のように、講師が順に次の講師を指名もしくは推薦していったのだろうか。諏訪優と吉岡実の接点は「猫」くらいしか思いつかないが、吉岡実と岩田宏は、のちに仲たがいするものの、前年1962年に吉岡が岩田の詩集《頭脳の戦争》(思潮社)を装丁しているくらいだから、当時は《鰐》の旧同人として往き来があったはずだ。また、長谷川竜生までの《歴程》つながりの講師陣も無視できない。ちなみに、研究例会の会場となった川崎市歯科医師会館の2019年現在の所在地は、神奈川県川崎市川崎区砂子2-10-10で、川崎駅東口から徒歩約5分の処だという。
ところで、京浜詩の会の講師を務めた1963年とは、吉岡にとってどんな年だったのか。吉岡はこの年4月で44歳。1月に〈馬・春の絵〉(E・5)、2月に〈珈琲〉(E・3)を書いたあと、作品は半年後の8月に〈模写――或はクートの絵から〉(E・4)があるだけだ。一方、天澤退二郎との〈新春対談〉(1月)や高柳重信たちとの〈第二回俳句評論賞選考座談会〉(2月)、草野心平たちとの〈第13回日本現代詩人会H氏賞選考委員座談会〉(7月)に出席しており、ギャラリーがいるとはいえ、京浜詩の会の研究例会で喋ることは億劫ではなかったと思しい。それにしても、演題[テーマ]を指定されて話すというのは吉岡の本領とはいえず、結局〈吉岡実氏を囲んで〉という、ほとんど〈題未定〉のようなことに立ちいたった。このときに、理路整然と自身の詩論を語れなかったことが負い目となったのだろう(京浜詩の会の研究例会では〈どのようにして詩を書くか〉という演題が示されたに違いない――というよりも、この時期、吉岡実に尋ねたいことがあるとすれば、これに尽きる)。それが、4年後に《詩の本》(筑摩書房、1967)の企画で〈詩の技法〉を乞われた際に、〈わたしの作詩法?〉を書きあげる原動力となった、と見るのはうがちすぎか。
さて、この一件を吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉の「一九六三年(昭和三十八年) 四十四歳」に付け加えるとすれば、

『西脇順三郎全詩集』を筑摩書房から刊行した縁で西脇順三郎の知遇を得る。
五月十一日夕刻、川崎市歯科医師会館での「京浜詩の会」(代表・竹内多三郎)の月例の研究例会で講師を務める。演題は「吉岡実氏を囲んで」。

とでもなろうか。その後、《現代詩手帖》や《ユリイカ》などの詩の雑誌が〔吉岡実特集〕を組むたびに、人と作品について吉岡実と吉岡に近しい詩人との対談を企画した淵源には、この公開座談会があったと見るべきだろう。吉岡実がこうした公開の場で自身の詩を語ったのは(語ったに違いないと考えるが)、私の知るかぎりこのときだけだ。自作詩の朗読さえ公開の場でしたことはなかったのだから、その後の吉岡が講演に類するあらゆる依頼を拒み続けたのも無理からぬものがある。

 文化講演とか詩の朗読の会などは、どうも好きではない。だから私は壇上で話をしたことも、詩の朗読をしたこともない。それは私のきわめて個人的な考えにすぎない。このような会合が多くの人達に有効にはたらくこともあるだろうと思う。明治大学には、私の親しい友人たちが人生の教師として、日々教壇に立っている。彼らも協力して「明治大学詩人会」の学生の有志で、一つの会を催そうとしている。失敗するより成功することが、望ましい。(〈詩祭に寄せて〉、《明治大学詩人会主催第1回詩祭》〈詩と朗読の夕べ〉、1984年6月24日、五ページ)

* 吉岡が講師の5月11日の第24回例会以降では、堀川正美〈戦後詩の一視点〉が《京浜詩》第25号(京浜詩の会、1963年8月10日、一〇〜一四ページ)に掲載されている。長谷川竜生(3月9日の第22回)と堀川(7月13日の第26回)のふたつが例外的に掲載にいたった経緯は、当時の《京浜詩》の誌面からは読みとれない。


《薬玉》署名用カードあるいは土井一正のこと(2019年2月28日)

吉岡実は随想〈くすだま〉(初出は《新潮》1985年11月号)を次のように始めている。

薬玉――いろいろの香料・薬草を入れた袋に、菖蒲や艾の造花を飾り、五色の糸をたらす、一種の魔除け。それが本来の薬玉のすがたらしいのですが、現在では、進水式や開店祝いなどに使われています。「香気」と「俗気」をとじ込めた、相異なる「玉」を合体させた「球形の世界」が、詩集『薬玉』なのです。
 このような文章を、私は署名用のカードに印刷して、出来たばかりの詩集に添え、親しい人たちに贈った。一昨年の晩秋のことである。
 ――ことだま、すだま、あらたま、いずれも玄妙な古語のひびきが、私は好きだ。それらに類似して、かつまた「球体」のイメージを持つ「くすだま」を主題に、一篇の詩を書いた。その時すでに、新しい詩集の題名は決ったも同然であった。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二九五ページ)

その「署名用のカード」が2018年11月24日、〈詩人吉岡実自筆サイン〉のタイトルでヤフオク!に出品された。出品者は西宮の「daichan412」、状態は「やや傷や汚れあり」、入札開始時の価格は200円、商品説明に「生前親交のあった表はため書き入り吉岡実さんのサイン。裏面は新刊本の案内でしょうか?/はがきより少し大きなサイズです。/経年のためやけはあります。かなり茶色に焼けています。/ノークレーム、ノーリターンでお願いします。」とある。入札の結果は、というと、ヤフオク!ではこのところ負けてばかりいたのだが、競り半ばで開始価格の10倍の値を付けて、無事に落札することができた。

《薬玉》署名用カード(表面)の〔献呈〕署名 《薬玉》署名用カード(裏面)の文章
《薬玉》署名用カード(表面)の〔献呈〕署名(左)と同(裏面)の文章(右)〔出典:ヤフオク!〕

《薬玉》署名用カード(裏面)の吉岡による詩集刊行の案内文を起こしてみよう。第二段落は、上掲の随想〈くすだま〉では少しく変更されている。

 秋も深まって来ました。前詩集『夏の宴』を出してから、早いもので四年の歳月が流れました。その間、若干の散文と詩を書いたにすぎません。一寸さびしい気がします。さて、ほぼ三年間の仕事の十九篇を収めた、新詩集『薬玉』を上梓いたしました。
 ――いろいろの香料・薬草を入れた袋に、菖蒲や艾の造花を飾り、五色の糸をたらす、一種の魔除け――。それが本来の「薬玉」のすがたらしいのですが、現在では、進水式や開店祝いなどに使われています。「香気」と「俗気」をとじ込めた、相異なる「玉」を合体させた「球形の世界」が、詩集『薬玉』なのです。
 鈴木一民・大泉史世ふたりが労をおしまずに、思いどおりのものを造ってくれました。

ヤフオク!の写真では細かい処まで読みとれないが、原物を見ると、古染/象牙/うす茶系の(「経年のためやけはあります。かなり茶色に焼けています。」ではない)、ハガキよりややラフな手触りの用紙(天地161×左右111mm)に茶色のインクで刷った活版印刷物で、表面の宛名の上を翔ぶ鳥のカットはいうまでもなく詩集《薬玉》のそれである(カットの寸法は、組立函の貼題簽のそれと同じ)。吉岡の文体は完全に書簡文で、私がこれまでに読んだもののなかでは、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987年9月30日)の献本時に同封した〈ごあいさつ〉という題の書簡(印刷物)が近い。

 私たちの敬愛した土方巽が逝ってから、早や一年半余が経ってしまいました。皆様には、それぞれの想いで、故人を追慕されていることでしょう。さて、昨年の夏、出版社のすすめで、土方巽に就ての「本」を書くことになりました。しかし、この「一個の天才」を十全に捉えることは、困難なことです。そこで、私は自分の「日記」を中心に据え、周辺の友人、知己各位の証言をもって、『土方巽頌』をまとめました。
 この本には、皆様の文章を、無断でかつきわめて断片的に「引用」させて頂いております。本来ならば、諒解を頂くのが礼儀とは存じます。しかし、時間的なこと、また叙述方法からも、このようなことに成ってしまいました。何卒、ご寛容のほどをお願い申し上げます。これは土方巽と私との二十年の交流から生まれた、ささやかな「本」です。ここに一冊送らせて頂きます。有難うございました。

  一九八七年九月二十八日
                                    吉岡 実  

「一九八七年九月二十八日」というのは、献本先に送る見本のできあがった、まさにその日の日付であろう。吉岡実と並ぶ《土方巽頌》の著者(たち)ともいえる人人には、一刻も早く本を届けなければならないのだから。
私が吉岡さんから刊行時にいただいた著書は《うまやはし日記》(書肆山田、1990)だけである。そのときは、短冊状の署名箋に太いマーカーで「呈   吉岡実」とあった。本の成り立ちなどは同書の〈あとがき〉に尽くされているから、挨拶文が不要だったこともある。だが、吉岡はすでに病床にあって、新たに執筆できなかったのではあるまいか。《サフラン摘み》(青土社、1976)や《夏の宴》(同、1979)には印刷した挨拶文はないようだし、あと考えられるのは《ムーンドロップ》(書肆山田、1988)くらいだが、はたしてあるものやらないものやら、見当がつかない。――と、第一稿を書いてきて《日本の古本屋》で検索すると、専用箋に署名のある《ムーンドロップ》が出品されているではないか。話の展開からすれば、これを入手しないわけにはいかない。さっそく購入の申し込みをして返信を待っていると、なんと手違いで売り切れの消し込みができておらず、在庫切れにつき、「注文キャンセル」となってしまった。ちなみに売価は\16,200だった。残念。

吉岡実が土井一正に宛てた《薬玉》署名用カードと同書に挟まれていた新聞の切り抜き
吉岡実が土井一正に宛てた《薬玉》署名用カードと同書に挟まれていた新聞の切り抜き

ところで、ヤフオク!の出品者、西宮の「daichan412」が誰かは吉岡実のことを何年も調べていれば見当がつくわけで(献呈先も)、この出品とは別に《日本の古本屋》で検索した署名用カード付きの《薬玉》を東京・青木書店から購入したところ、これが土井一正宛の一本だった。土井は吉岡の先輩格の筑摩書房の編集者で(《日本の古本屋》には志賀直哉や丹羽文雄から土井に宛てた肉筆書簡が出品されているから、存命ではないかもしれない)、本サイトでの土井一正への言及をまとめれば、

1950年代半ば、百瀬勝登の下で《現代日本文學全集》(装丁は恩地孝四郎)の編集を担当、のちに編集部長となった。
《一葉全集〔全7巻〕》(1953〜56)や和田芳恵《一葉の日記》(1956)を担当(装丁は2点とも吉岡)。
《ちくま》(1969年5月創刊)の初代編集者で、1年8ヵ月間刊行のあと、編集を吉岡にバトンタッチした。

となる。筑摩書房に限らず、編集者は現役を退くと担当者時代の文筆家との交流を回想したりするものだが、土井にはそうした著作がなく、創作にも手を染めていないようだ。よって、吉岡実に関する文章も残していない。だが、私が青木書店から購入した一本には、吉岡が《薬玉》で藤村記念歴程賞を受賞したと報じる新聞の切り抜きが挟まっていた。この切り抜きが土井一正の手になるという確証はないものの、私はそうだと思う。土井はこれを詩集に挟んで、かつての同僚の活躍を喜び、記念としたのだろう。いい機会だから、新聞の切り抜きの文面を起こしておこう(紙面の欄外に「'84・10・30」と鉛筆で手書きされた、15行のベタ記事である)。1984年10月の、朝日・毎日・読売・日本経済の各紙の縮刷版を調べてみたが、当該記事は見当たらず、掲載紙は未詳。ちなみに、10月30日の京都新聞には同様の記事があったが、北海道と中日の両紙にはなかった。

 第二十二回「藤村記念歴程賞」(歴程社主催)は、吉岡実氏の詩集『薬玉』(書肆山田刊)と、装丁独自の世界を純粋なかたちで展開している菊地信義氏の「装丁の業績」に決まった。副賞各二十五万円。
 授賞式は十一月十九日午後六時から、東京・新宿の朝日生命ホールで開かれる「歴程フェスティヴァル〈未来を祭れ〉」の席上で。なお、近代詩の父%崎藤村に敬愛を表して、今回から賞の名称に「藤村記念」を冠したという。

吉岡実は、《サフラン摘み》の高見順賞授賞式のことは随想に詳しく書いているが、《薬玉》の藤村記念歴程賞授賞式は

 一昨年の秋、第二十二回「藤村記念歴程賞」を、私は詩集『薬玉』で、菊地信義は「装幀の業績」で一緒に受賞した。装幀家としては初めてのことである。その「授賞理由」のことばが的確に、菊地信義の装幀理念を捉えている。――作者と読者のあいだに位置しながら、透明で濃密な一種の鏡として、作品の解説でもなく外的な装幀でもない装幀独自の世界をきわめて純粋なかたちで厳密執拗に展開している――と。
 新宿の朝日生命ホールでの授賞式の当夜、私は菊地信義に言った。「きみは弁舌が立つと聞いている。私は挨拶だけで逃げるから、そのぶん長く喋ってくれよ」。彼は自信にみちて、引き受けてくれた。菊地信義は壇上で、訥々と語りはじめる。それは人生論的で、満員の聴衆を充分に魅了できそうだった。しかし話はたえず、横道にそれて、うまくまとめられないようだった。隣の席ではらはらしながら、好漢菊地信義の顔を、私は眺めていたのだ。(〈菊地信義のこと〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三四七ページ)
と書いただけで、どのような人人が式に列席したのかはわからない。

 「歴程賞」の授与式の二次会の席で、いささか酔った心平さんが歩み寄り、私の手をしっかりと握って、「賞を貰ってくれてありがとう」と言った。これで『薬玉』も祝福されたのだ。それから五年の歳月が流れている。(〈心平断章――「H氏賞事件」ほか〉、《現代詩読本 草野心平るるる葬送》、思潮社、1989年3月1日、九一ページ)

 五年前のこと、詩集『薬玉』の歴程賞授与式の日、あなたは祝いの言葉を述べに、かけつけてくれましたね。後で聞けば、入院加療中の病院を抜け出して、来られたとのこと。(〈「善人」だったあなたへ〉、《現代詩手帖》1989年3月号〈〔鍵谷幸信〕弔辞〉、一四〇ページ)

土方巽や澁澤龍彦をはじめ幾多の知友に追悼詩や追悼文、弔辞を捧げて1990年5月に歿した吉岡実にとって、《薬玉》の藤村記念歴程賞受賞は最後の晴れの舞台を用意した形になった。《薬玉》を贈られた土井一正も、1984年11月19日の授与式には出席したのだろうか。

――ここまで書いてきて、2019年1月初め、ヤフオク!に吉岡が高橋康也に宛てたハガキが出品されていることを知った(出品時のタイトルは「吉岡実 ◆自筆肉筆 真筆 葉書◆高橋康也 宛◆ワーグナー『ニーベルンゲンの指環』完訳◆『薬玉』 歴程賞受賞◆『僧侶』H氏賞受賞詩人」。ハガキの説明に「ルイス・キャロル、サミュエル・ベケット、シェイクスピアなどの研究で知られ、英国よりCBE勲章を受章した、高橋康也の旧蔵品より―/現代詩のひとつの到達点とされる『僧侶』などの作品で、戦後最高の詩人の一人に数えられる、吉岡実。/今回のお品は、吉岡実の、自筆葉書です。/高橋康也へ宛てられたもので、高橋の『ニーベルンゲンの指環』の完訳のお祝いと、自著の『薬玉』が歴程賞を受賞したことを告げたもの」とある)。無事に落札できたのが次のハガキ。

吉岡実が高橋康也・廸に宛てたハガキ(1984年9月25日付、1984年9月26日〔18‐24〕目黒局消印)
吉岡実が高橋康也・廸に宛てたハガキ(1984年9月25日付、1984年9月26日〔18‐24〕目黒局消印)

吉岡実が高橋康也・廸に宛てたハガキ(1984年9月25日付、1984年9月26日〔18‐24〕目黒局消印)の文面を起こしておこう。

やっと秋晴れの日がつづくようになりました。
ワーグナーの『ニーベルンゲンの指環』の完訳を、
お祝い申上げます。高橋ご一家の美わ
しい共同作業の美わしい結晶!
妻と感銘をふかくしているところです。
さて、ささやかなる報告を。わが『薬玉』
が歴程賞を受けました。発表は、十月中
旬ごろになると思います。
          九月二十五日  実

書誌的事項を記しておく。《ニーベルンゲンの指環》は作:リヒャルト・ワーグナー、絵:アーサー・ラッカムの全4巻本が新書館から出ている。訳者は、第1巻〈ラインの黄金〉(1983年4月10日)が寺山修司だったが、同年5月に寺山が急逝したため、後続の3巻を高橋康也・高橋廸夫妻が共訳している。すなわち、
 第2巻〈ワルキューレ〉(1984年1月20日)
 第3巻〈ジークフリート〉(1984年4月20日)
 第4巻〈神々の黄昏〉(1984年9月10日)
吉岡の礼状の直前に高橋が贈ったのが、第4巻〈神々の黄昏〉だけだったのか、(第1巻を含む)全巻だったのか、はっきりわからない。初版の第1巻から第3巻までは、ジャケットの袖に〈★権力と愛の行方をひめた運命の指環をめぐる荘厳にして官能的な英雄物語――寺山修司〉が、そして第4巻のジャケットの袖に、〈★呪われた指環をめぐる崇高な英雄の悲劇――その円環の構造について――高橋康也〉が掲げられた(ウロボロス!)。吉岡歿後には《ラインの黄金――ニーベルングの指環》(1999年4月25日)が高橋康也・高橋宣也(第4巻の高橋康也による解説には「父母をはるかに凌駕するワグネリアンである息子・宣也」と書かれていた)の共訳で、同じ新書館から出ている。同書は〔The Originals of Great Operas and Ballets〕シリーズの一冊で、同シリーズには康也・廸訳〈ワルキューレ〉、康也・宣也訳〈ジークフリート〉、同じく〈神々の黄昏〉が含まれる。これでようやく「高橋ご一家の美わしい共同作業の美わしい結晶」が完結したわけだ。なお高橋康也は、表題の《ニーベルンゲンの指環》は寺山訳を受け継いだまでで、正しくは《ニーベルングの指環》だと第4巻で指摘している。

〔追記〕
《歴程》のスポークスマンともいうべき粟津則雄の〈詩人たちのフェスティヴァル〉(日本経済新聞、1984年11月25日)が《薬玉》の歴程賞授賞式に触れているので、関連する箇所を引く。

 〔……〕現に今年も、吉岡実氏の詩集「薬玉」とともに、菊地信義氏の装丁の業績が受賞している。〔……〕
 受賞したお二人については、鍵谷幸信氏と古井由吉氏に話をしてもらった。鍵谷氏は、いかにもこの人らしいスナップ・ショットをつらねたような語りくちを通して、吉岡氏の人と作品をあざやかに浮かびあがらせていたし、古井氏は、古井氏の作品も数多く装丁している菊地氏とのかかわりを語りながら、作家と装丁家との謎と不安をはらんだ内的な関係を、古井氏の小説世界を思わせるような暗いまなざしで描き出してくれた。そのあとの受賞者の挨拶も、こういうときにありがちな通りいっぺんのものではなく、それぞれの個性がむき出しのかたちで現われていて、私は、授賞式などという散文的なものではなく、ふしぎな対話劇に立ちあっているような思いをした。(同紙、二四面)

粟津の伝える、鍵谷による吉岡の「人と作品」はなんとしても聴きたかった(入場料を払えばだれでも参加できたというから、悔しいではないか)。そこで国会図書館所蔵の当時のバックナンバーを繰ってみると、《歴程》第315号(1985年1月号)に粟津の〈詩人たちのフェスティヴァル〉が掲載紙の許可を得て転載されているものの、《薬玉》の歴程賞受賞に関する記事は、鍵谷のものも含めて、見あたらなかった。鍵谷幸信はほかの処でも吉岡の《薬玉》について書いていないようで、残念至極。代わりに、第313号(1984年11月号)の表4に〈第十七回歴程フェスティバル『未来を祭れ』〉の告知広告が出ている。このプログラムが面白いので、抜粋して紹介しよう。

とき=昭和59年11月19日(月)午後5時30分開場・6時開演 ■ところ=新宿西口・朝日生命ホール ■入場料=1500円
第T部
 A 歴程大太鼓………………橋本千代吉
 B 第22回藤村記念歴程賞贈呈式
    選考経過………………粟津則雄
    賞贈呈…………………草野心平
    吉岡実について………鍵谷幸信
    菊地信義について……古井由吉
    受賞者挨拶……………吉岡実
              菊地信義
    花束贈呈

 C 恒例・2分間スピーチ 〔……〕(あいうえお順)
  ―――――休憩 10分―――――
第U部
 A 自作詩朗読〈旅五章〉 司会=山本太郎
    犬塚堯・宇佐見英治・渋沢孝輔・宗左近・三好豊一郎
 B 歴程劇『源内どこへ行く』 作=長谷川竜生
    〔……〕
 C フィナーレ
    歴程歌大合唱
    紅白「未来餅」進上………福島県郡山市・柏屋商店提供

第V部〉 懇親会(午後9時より)
    中国飯店「龍門」(新宿西口地下道・スバルビル名店街B2・朝日生命ビル地下隣・会費四千円・どなたもお気軽にどうぞ)

  司会……朝倉勇・赤坂長義・岡本喬・宗左近・花田英三
  進行……宮津博・八坂安守
  制作……粟津則雄・新藤凉子・財部鳥子・辻井喬・山本太郎

プログラムを見るだけで、同人たちがイベントに熟達していることがよく分かる。省略した人名も含めると、吉岡・菊地を除いた《歴程》同人や関係者は50余名にのぼる。壮観というもおろかである(中上健次や埴谷雄高も参加したというフェスティバル当日の様子は、前掲粟津文に詳しい)。ところで、《吉岡実年譜》の冒頭に〈吉岡実のスクラップブックとクリアファイルブック(吉岡家蔵)〉の背表紙の写真を掲げてある。5冊あるその真ん中の緑色のクリアファイルブックに〈第二十二回「藤村記念 歴程賞」のお知らせ〉と題する印刷物が保存されていた。吉岡実の自筆で「(1984.10.19)」「19日着」とメモがある処を見ると、郵送されたものと思しい。そこには、吉岡実詩集《薬玉》の「授賞理由」が次のように述べられている。

 畏怖と嫌悪の稲妻で現実を奥深く解体し、通時態(歴史)と共時態(非歴史)を激突させながら、華麗に枯死している精神の原世界の戦慄のスペクトルを放射する《薬玉》。これは、過去の芸術の前衛の技法の葬礼と再生誕を同時に行う奇蹟的な記念碑。二十世紀末日本からしか生れない世界に類を見ない独自に見事な詩業である。

菊地信義の「装丁の業績」の授賞理由は「作者と読者のあいだに位置しながら、透明で濃密な一種の鏡として、作品の解説でもなく外的な装飾でもない装丁独自の世界をきわめて純粋なかたちで厳密執拗に展開している。その持続的な努力と新鮮な結実は推賞するに足りる。」であり、吉岡は前掲〈菊地信義のこと〉では原文の「装丁」を「装幀」と(変えて)記している。なお、同賞のこのときの選考委員は安東次男、入沢康夫、草野心平、渋沢孝輔、宗左近、那珂太郎、粒来哲蔵、長谷川龍生、山本太郎、三好豊一郎、粟津則雄で、授賞理由を書いたのは委員長の粟津則雄に違いない。


吉岡実と田中冬二もしくは第一書房の詩集(2019年1月31日)

吉岡実は戦前の読書体験についてはかなり詳しく随想に書きのこしているが、愛読誌(とりわけ詩関係)についてはほとんど記していない。これは詩人としての企業秘密といった類ではなく、単行詩集ほど、あるいは俳句の雑誌ほど、熱心に読んでいなかったというだけのことかもしれない。それでも《文藝汎論》(1931〜44、全150冊)には二点の自著の出版広告――《昏睡季節》(1940)と《液體》(1941)――をそれぞれ載せているから、詩の雑誌として評価していたことは確かだ。ちなみにWikipediaには〈文藝汎論〉の項目がなく、「既存の項目から"文藝汎論"を検索する」にして探すと、
 岩佐東一郎
 逸見猶吉
 矢野目源一
 高祖保
 山中散生
といった人の名が挙がる。吉岡はこれらの詩人について書いたことはなく、北園克衛の新作が読みたくてチェックしていた、といったところではないだろうか(今回のテーマである田中冬二も《文藝汎論》には詩を発表しているが)。

 沼は雨になつた/野鴨が下りた/私は鉱泉宿の座敷に病んでゐた――。第一書房の小雑誌「セルパン」の広告欄で、詩集『山鴫』の引用されていた、この三行の詩句に、都会育ちの少年は、すっかり魅せられた。やがて『山鴫』を手に入れ、私は初めて田中冬二を知ったのだった。きわめて日本情緒の濃い、田舎の生活や山野の風景を、点綴しながら、不思議と、即物的で透明度がつよい、詩風だと思った。それから、私は次の詩集『花冷え』も手に入れ、珠玉の短章を愛誦した。――雨に暗い町/仏像等ならんだ骨董屋の店/花活には女郎花[をみなへし]と油点草[ほととぎす]がさしてあつた――。
 すでに耽読していた、佐藤春夫や北原白秋のかずかずの詩篇とくらべて、冬二の詩には、俳諧的な野趣と、モダンな感覚とが融合していた。それゆえ抵抗感がなく、疲れた心を、しばしば慰められたものだ。それからじつに、半世紀近く経てしまった。だから、私にとっては、未知の詩人と言ってもよい。この全集刊行を契機にして、その全容を知りたいと思う。ささやかな想い出のためにも。

吉岡が《田中冬二全集》の内容見本(筑摩書房、1984年11月)に寄せた〈想い出の詩人〉と題する推薦文である。ここで余談を少し。Wikipediaに「第一書房(だいいちしょぼう、1923年 創業 - 1944年3月31日 廃業)は、かつて存在した日本の出版社である。大正末年から戦前の昭和期に長谷川巳之吉が創業し、書物の美にフェティッシュにこだわり、絢爛とした造本の豪華本を刊行、「第一書房文化」と讃えられたことで知られる」とあるように、同社は戦前の詩集の読者には格別の存在で、その内容もさることながら造本・装丁に贅を尽くした本づくりで一時代を画した。茅野蕭々訳《リルケ詩集》(1939)は20代前半の吉岡の詩嚢を肥やした、そしてこちらは読んだ時期が不明だが、ケッセル(堀口大學訳)《昼顔》(1932)は〈感傷〉(C・18)に影響を与えたと思しい、同社刊行の翻訳書である。同じく雑誌のビブリオグラフィには「『セルパン』、編集・発行長谷川巳之吉(のち春山行夫が編集長)、1931年5月1日 創刊」と見える。小田光雄が《古雑誌探求》(論創社、2009)で引いているように、高見順の《昭和文学盛衰史》(講談社、1965年9月25日〔初刊は文藝春秋新社、1958〕)には「〔……〕当時の出版界の智慧者長谷川巳之吉(第一書房)が『セルパン』という雑誌を創刊した。その斬新な編集、しゃれた形式は、十銭という破格の定価と相俟って、この「詩・小説・思想・美術・音楽・批評」(と、表紙にあった。)の雑誌の出現をセンセイショナルなものにした。「パン屋のパンはとらずとも此のセルパンは召し上れ」という宣伝文も人を食ったものだった。この『セルパン』の編集にあたったのが、『新科学的』同人の福田清人であった」(〈第十一章 芸術派の群〉、同書、一六八ページ)とある(春山行夫は編集者にして詩人・随筆家、福田清人はのちに児童文学作家・文芸評論家)。後年、すでに筑摩書房の社員だった吉岡実が伊達得夫の《ユリイカ》を舞台にして詩壇に登場した背景には、《セルパン》(1931〜41)に親しんだことがあったかもしれない。さてこのあたりで、田中冬二の詩に戻ろう。吉岡が推薦文で引いた《山鴫》(第一書房、1935)と《花冷え》(昭森社、1936)の詩は、《田中冬二全集〔第1巻〕》(筑摩書房、1984年12月15日)では以下のとおり。



沼は雨になつた
野鴨が下りた
私は鉱泉宿の座敷に病んでゐた
あのW・Wグリーナの二聯銃[にれんじゆう]を棄てたまま
私はわづかに牛乳とカルルス煎餅[せんべい]と 少量のグレープ・ジュウスをゆるされてゐた
私は睡眠を貪[むさぼ]つた
ゆふぐれ 微睡[まどろみ]の中[うち] 私はアルカリ性炭酸の 鉱泉の水を汲みあげる音をきいた

朽葉[くちは]の匂ひをさせて雨が板屋根をうちはじめた

吉岡が推薦文に引いたのはこの詩の冒頭3行だったが、次の詩は全篇である。

油点草

雨に暗い町
仏像等ならんだ骨董屋の店
花活には女郎花[をみなへし]と油点草[ほととぎす]がさしてあつた

私には〈沼〉を引いた吉岡の心情がわかる気がする。というのは、ほかでもない書肆山田版の吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》(1976)の出版広告に、〈三重奏〉(F・17)の「女友だちは明日は帰ってゆくだろう/彼女の行手に立ちはだかる/わたしの絵のなかの森の道へ」という3行が引かれていたからだ(《神秘的な時代の詩》の広告は、たしか《ユリイカ》に載ったはずだ)。

長谷川郁夫《美酒と革嚢――第一書房・長谷川巳之吉》(河出書房新社、2006年8月30日)には、田中冬二の第二詩集《海の見える石段》(1930)が〔今日の詩人叢書〕の一冊として刊行されたことが書かれている。同叢書には吉岡が親しんだ(と思われる)書目も多い。三好達治《測量船》、青柳瑞穂《睡眠》、竹中郁《象牙海岸》などである。

 〔昭和五年〕七月九日の会〔第一書房「今日の詩人叢書」刊行の「打合せ夕食会」〕には、堀口さんと巳之吉、そして田中冬二、岩佐東一郎、城左門、青柳瑞穂、菱山修三、中山省三郎、三浦逸雄が集まった。三好達治、竹中郁の二人は都合で来られなかった、という(田中冬二「さびしき銀座」)。
 「今日の詩人叢書」の当初の計画は十冊。収録詩人・作品の選定には堀口さんがあたった。
 〔……〕
 堀口さん〔ヴァレリー「文学論」(堀口大學訳)〕を除いて、いずれも新進による第一もしくは第二詩集(例外は「航空術」、これは岩佐東一郎の第三詩集)。最年長は冬二の三十六歳。瑞穂、三十一歳、達治はもうじき三十歳。以下二十代半ばが四人、最年少の菱山修三は二十一歳。清新なイメージの企画だった。「PANTHEON」「オルフェオン」あるいは「文學」の寄稿者たちである。
 四六判、上製(背革の継表紙)、貼凾入り。限定千部、定価は一円。本文は百二十頁までとする。こうした方針も七月九日までには、各著訳者に伝えられていたものと思える。(同書、二〇〇ページ)

 田中冬二は、七月九日の帝国ホテルでの夕食会に招かれて、堀口さん以下出席者全員にはじめて会ったという。「以来これが御縁で先生の謦咳に接するに至った。私として生涯の幸せと思っている」(「堀口大學先生のプロフィル」)と記している。〔……〕冬二の第三詩集は「山鴫」、十年七月に第一書房から出版された。「花冷え」(十一年七月、昭森社)、「故園の歌」(十五年七月、アオイ書房)と詩集はつづく。(同書、二〇二ページ)

長谷川郁夫が指摘するように、この〔今日の詩人叢書〕(詩集は予告された全7冊、三好達治詩集《測量船》、岩佐東一郎詩集《航空術》、城左門詩集《近世無頼》、田中冬二詩集《海の見える石段》、青柳瑞穂詩集《睡眠》、竹中郁詩集《象牙海岸》、菱山修三詩集《懸崖》が刊行された)のラインナップを企画したのは堀口大學であり、吉岡実の昭和10年代の詩書の受容は、長谷川巳之吉=第一書房=堀口大學が先導した詩人たち(《山鴫》の田中冬二を筆頭とする)が大きな柱をなしていた。ちなみに、昭和30年代、伊達得夫の書肆ユリイカが刊行した現代詩人の個人選集(吉岡実も含まれる)のシリーズ名は、第一書房のそれとはわずか一文字違いの〔今日の詩人双書〕だった。これはもはや確信犯である。興味深いことに、吉岡は〈断片・日記抄〉(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968)や〈〔自筆〕年譜〉(《現代の詩人1 吉岡実》、中央公論社、1984)では、《吉岡實詩集》(書肆ユリイカ、1959)のシリーズ名を第一書房版と同じ「今日の詩人叢書」に誤記・誤植している。
さて、吉岡実は田中冬二について、全集の推薦文という形で文章を遺したが、田中冬二(吉岡より25歳年長)は吉岡実の作品には言及していないようだ。また、吉岡実と文学賞に書いたように、二人は1961年春の第11回H氏賞(吉岡が《僧侶》で受賞した翌翌年)の選考委員会で席を同じうしているが、田中は選考委員長として「審議に当つては各委員が各の意見を充分に吐露すると共に、相容れるべきは容れ、其の本領をつくし極めてスムーズに選考を了し得たことを附記する」(《詩学》1961年5月号、五一ページ)と書いただけで、他の選考委員(木下常太郎・西脇順三郎・村野四郎・安藤一郎・黒田三郎・清岡卓行・三好豊一郎・吉岡・山本太郎)の意見に触れていない。後年になるが、田中冬二は詩人とその作品全般について、次のように書いている(《奈良田のほととぎす》、ギャラリー吾八、1973年7月)。

詩人のサブスタンス

 詩人の作品は、その詩人のサブスタンスであることは、今更言うまでもないことだ。ところで、その詩人の性行や日常生活の状態を知ることは、作品とは別の趣があるばかりでなく、それは畢竟サブスタンスの源泉に直接触れることにもなる。たとえば日記書簡手記ノート等、そこにはその人の虚飾なき純粋のものが見られる。いくらなんでも日記のフィクションはないだろう。そうしたものの中から、作品以上のエトワスを見出したりする。これはたいへんたのしいことである。
 先頃私はある人の慫慂で、手記の一部をある雑誌に発表することにした。これは私の懐[ふところ]――台所を、そのままお目にかけるようなものだ。テーマは「サングラスの蕪村」と洒落てみたが、たいしたものではない。内容は思念をはじめ感想、あたらしいセンスとニュアンスのようなもの、浪曼的の夢、私だけのハイマート、其他日常見聞したこと、それからひとさまへの手紙の一節、ひとさまからの手紙の一節、その中には女性からの甘い言葉もある(これだけは公表出来ない)。兎も角この手記は私自身いつ見てもたのしい。それでこれからも書きつづけてゆくつもりだ。そして時機を見て一冊の書物にまとめたく思っている。別段ひとさまを傷つけたり、社会の安寧秩序を乱すものでないから、何も臆することはないと思う。

田中冬二の詩は一点一画をおろそかにしない厳しさに貫かれている。最後の詩集となった《八十八夜》(しなの豆本の会、1979年3月1日)の末尾にひっそりと置かれた次の詩でさえ、例外ではない。疑う者は、「バランタイン」「靴下」、「思い」「実現」の用法を見よ。

忘れえぬひと

美貌で爛熟した肉体
セクシーで微笑を湛えての
ウィンクに魅了される
そのひとと幾度かデートした
その帰りしなにそのひとは私に
或るときはウイスキーのバランタインをまた或るときは靴下をプレゼントとしてくれた
その靴下の色が私の好みにぴつたりで
そのひとのセンスがよく窺[うかが]われてゆかしかつた
デートを幾度も重ねていて思いがありながら実現に至らなかつた
それが反つて長い付き合いとなつたと言えよう
反面私はそのひとの揶揄[やゆ]に翻弄[ほんろう]されていたのかも知れない
それにしても私はそのひとを諦[あきら]めることは出来ない

いっぽう、その散文(例えば上掲〈詩人のサブスタンス〉)は浴衣がけとでもいえばいいのか、肩の力が抜けた洒脱なものだ。筑摩書房版全集の第1巻〔詩T〕と第2巻〔詩U〕がよそ行きのかしこまった姿だとすれば、第3巻の〔俳句・随想〕の随想は自室で寛ぐ姿であり、当方も寝転がって読めそうな気がする(俳句は少しく姿勢を正す必要があるが)。おしまいに、最初の句集《行人》(ちまた書房、1946)の冒頭句と、〈俳句拾遺〉の末尾句(絶筆である)を掲げる。ともに、食べ物をおりこんでいるのが嬉しい。

焚火して春の七草売つて居り
軽井沢に東京の香や下谷鰻重(《俳句公論》昭和55年〔1980年〕6月)

〔付記〕
吉岡実は《月下の一群》(これは戦後の日記に登場する)や《近代劇全集》、豪華版の全詩集などの第一書房の出版物を読んでいるはずだが、それらについて書き記したものは残っていない。そこで、〈日記 一九四六年〉に登場する青柳瑞穂詩集《睡眠〔今日の詩人叢書〕》(第一書房、1931年1月20日)をとりあげよう。当時、香柏書房に勤務していた吉岡はその日記で、

 一月十六日 朝、大森の村岡花子氏のところへ寄る。「あなたは詩を書かれるのですってね」と言われ、思わず顔をあからめる。人をそらさん人である。午後、坪田譲治氏をたずねる。火鉢をかこんで雑談。奥さんがふかし芋とお茶を出してくださる。心たのしい一刻。途中の本屋で青柳瑞穂詩集《睡眠》を買う。三時に神田の事務所へ戻る。遅い昼飯。十電舎の女子事務員がお茶をいれてくれる。やさしい娘さんだ。(《るしおる》5号、1990年1月31日、三四ページ)

と書いている(このころ坪田は西池袋に住んでいた)。青柳瑞穂は堀口大學門下の詩人だが、長谷川郁夫が「「睡眠」はながい間、青柳瑞穂のたった一冊の詩集だった。(昭和三十五年に「睡眠前後」が大雅洞でまとめられた。)〔……〕「仏蘭西新作家集」、〔……〕ラクルテル「反逆児」を第一書房から翻訳出版している。ただ、私には「オルフェオン」第三―七号に連載されたロートレアモン「マルドロオルの歌」が、部分訳であったにせよ、出版されなかったことを第一書房にとって残念なことだったと思われる」(《美酒と革嚢》、二〇二ページ)と書くように、今日では翻訳家として記憶されている。ロートレアモンの《マルドロオルの歌》は1994年に講談社の文芸文庫に入ったから、よけいにそう感じるのかもしれない。青柳の詩集《睡眠》は、吉岡の日記の時点で、刊行から15年が経っている。刊行時には入手できなかった眷恋の書だったかもしれない。《睡眠》の仕様は、一八八×一三〇ミリメートル・一三六ページ・上製丸背継表紙(背は革、平は紙)・天金・貼函(ただし、手許の一本はこれを欠く)。本書に装丁者のクレジットはないものの、長谷川巳之吉の意向が働いていることはまぎれもない。ところで、上製丸背継表紙は晩年の吉岡が愛用した造本・装丁の様式でもあるが、〔今日の詩人叢書〕のそれとの関連性は薄いようだ。吉岡は継表紙をA5判や菊判の本に採用しているが、それより小さい四六判の〔今日の詩人叢書〕は、華美というよりむしろ鈍重な印象を与える。本文用紙(扉は本文共紙)や印刷が見事なだけに、天金も含めて、外周りはオーバースペックではなかったか。保存の状態にもよろうが、所蔵の一本の背革(突きつけで、構造上の問題はないようだ)は、表1側のミゾの処で罅割れて、無残なまでに劣化している。吉岡は瑞穂《睡眠》に収められた、朔太郎《青猫》の口移しのような標題詩をどう読んだのだろう(Shift JISのテキストとして表示できる旧字は表示した)。

睡眠|青柳瑞穂

薄暗[うすぐら]い部屋[へや]のすみに
ひとり眠[ねむ]つてゐるは病氣[びやうき]のひとです
薄暮[はくぼ]のほのかなるあたりに
さくらの花[はな]の滿開[まんかい]はすこしく色[いろ]あせ
漂[ただよ]ふ晩春[ばんしゆん]のかすかな日[ひ]かげ
そこにながいまへから呼吸[こきふ]するのは
おほきな蝶[てふ]のはばたくやうだ
うす蒼[あを]い粉[こな]のある肌[はだへ]のうへに
さびしく艶[なま]めくおしろいのにほひ
目[め]をつむり深[ふか]いねむりにおちる
いまはいつもいつも眠[ねむ]る時間[じかん]です

やさしく しぜんに息[いき]づき
とほく幽明[いうめい]をさすらふ
ひとよ
あまりに暗[くら]く 暗[くら]く
いづこにか さくらの花[はな]のやうに
かよわくいためる肉體[からだ]は匂[にほ]ふ

青柳瑞穂詩集《睡眠〔今日の詩人叢書〕》(第一書房、1931年1月20日)の函 青柳瑞穂詩集《睡眠〔今日の詩人叢書〕》(第一書房、1931年1月20日)の表紙 第一書房刊行の〔今日の詩人叢書〕のうちの詩集6冊〔出典:《田中冬二展――青い夜道の詩人》(山梨県立文学館、1995年9月30日、一六ページ)〕
青柳瑞穂詩集《睡眠〔今日の詩人叢書〕》(第一書房、1931年1月20日)の函(左)と同・表紙(中)と第一書房刊行の〔今日の詩人叢書〕のうちの詩集6冊〔出典:《田中冬二展――青い夜道の詩人》(山梨県立文学館、1995年9月30日、一六ページ)〕(右)

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西池袋 水藤春夫作成〈坪田譲治年譜〉の「大正五年(一九一六) 二十六歳」の項には、「〔東京〕府下北豊島郡高田町大字小石川(狐塚)八六六番地(のち、豊島区雑司ヶ谷六丁目一一八五番地、現・豊島区西池袋二―三二―二○番地)に移転。以後ここに定住する」(《坪田譲治全集〔第12巻〕》、新潮社、1978年5月20日、三七六ページ)とある。吉岡が寄った「途中の本屋」が池袋なのか、どこかほかの処なのかわからないが、この日、坪田を訪ねたのは、香柏書房(東京都神田區錦町一ノ六)がこの年の7月15日に刊行する童話集《異人屋敷》(装丁:中尾彰)の打ち合わせのためだったかもしれない。10月30日には同じく中尾彰の装丁で童話集《魔法の庭》が香柏書房から出ているが、吉岡はそれを待たず、8月に同社を退いている。


吉田健男の肖像(2018年12月31日)

吉岡実が詩集《静物》(私家版〔発行人は太田大八〕、1955)にまとまる詩を書いていたころ、最も親しかった友人が、太田大八の多摩帝国美術学校図案科時代の後輩、吉田健男である。吉岡は1952年ころから、魚籃坂に近い化粧地蔵下の岩瀬家の二間続きの部屋に吉田健男と住んでいたが、この若い絵描きは1954年、年上の女性と心中してしまった。吉田健男は、絵本作家として大成した太田大八(1918〜2016)や昭和後期を代表する詩人となった吉岡実(1919〜90)のような、自身の仕事をなすまえに自ら命を絶った(ここで私事をさしはさむなら、私の昔の会社で同僚だったHは、その後、経営がうまくいかなくなって自死したが、やはり同僚だったMは「女が原因で死ぬならともかく、仕事のために死ぬなんて」と歎じた。口惜しい死だった)。私は吉田健男の事績を検証/顕彰するために、これまで〈吉岡実と吉田健男〉(2007年4月)と〈吉田健男の装丁作品〉(2008年3月)を書いたが、さきごろ〈〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引〉の試み〉(2018年8月)を書く段になって、その生年さえわからないことに愕然とした。次に掲げるのは、〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引 解題〉の吉田健男の項(未定稿)である。

吉田健男(よしだ・たけお、192?-1954)
生年は未詳。太田大八(1918-2016)の多摩帝国美術学校図案科時代の後輩の画家で、吉岡実の年少の友人。吉田健男のオジ(?)は翻訳家・英文学者・児童文学者の吉田甲子太郎(1894-1957)だという(太田大八談)。
  ――吉岡は〈西脇順三郎アラベスク〉の「3 化粧地蔵の周辺」で、健男と同居していたころのことを回想している。また〈〔自筆〕年譜〉に「健男の死を契機に、現れた女性T・Iと奇妙な恋愛遊戯」と書いている。
  ――吉岡実と吉田健男
  ――吉田健男の装丁作品

吉岡実と太田大八亡きあと、吉田健男を語れるのは大八の妻、太田十四子さんを措いてほかにない。2018年の9月下旬、1951年から居を構える東京・練馬のお宅に、十四子さんと、長男でイラストレーター・絵本作家の太田大輔さんを訪ねた(大輔さんは1953年の生まれで、1960年3月27日の吉岡の日記には「日曜 晴 とん子、エリカ、大輔、猫を見に来る」とある。吉岡はクリスマスにはプレゼントの玩具をくれる、おじさんのような存在だったという)。残念ながら、吉田健男の生年は判明しなかった。考えてみれば、半世紀以上前に亡くなった友人の経歴を詳細に記憶していることのほうが珍しかろう。かわりに観ることのできたのが、太田家所蔵のアルバムに収められた吉田健男の肖像写真である。吉岡が未完の随想〈蜜月みちのく行〉(初出は筑摩書房労組機関紙《わたしたちのしんぶん》1959年6月10日――すなわち陽子夫人との東北旅行のまさにひと月後の発行)で新婚旅行の出発にあたって、「カメラが欲しくなったので、太田大八に電話して持って来て貰うことにした。〔五月十日〕十二時半、神田淡路町のイエローカップで落ち合う。十五分ほど操作をきく」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二〇ページ)と書いた、そのカメラで太田大八が撮影したものだろうか。十四子さんのお許しを得て、吉田健男の肖像を掲げる。いずれも撮影の年代や場所は不明だが、横位置の2枚は服装からすると同じときのものだろう。室内での2点は、壁に映る影まで演出されているようで、撮影者のなみなみならぬ技量を感じさせる。4点とも椅子に腰かけているのは、ポートレートを撮るという(太田大八の)撮影意図が働いていたためか。なお、ここには掲げなかったが、吉田健男は1950年の夏、太田大八たちと神奈川・逗子の海岸に遊んでいる。

吉田健男の挿絵画家としてのデビュー作と思しい羽田書店編集部編《ふしぎなごてん――世界のお話〔こども絵文庫23〕》(羽田書店、1950年12月20日)は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる(紙の本としては閲覧できない)。2018年11月22日、練馬区立光が丘図書館内で閲覧(卒読)したので、概要を記す。〈もくじ〉の次にあるクレジットに「ひょうし くちえ  太田大八」「さしえ  吉田健男/太田大八/横田昭次」とあるように、外周りの主導権を握ったのは太田大八で、中面のヴィジュアルを吉田と太田と横田が分けあったのは、年末の慌しい日程のなかで、急いで絵を仕上げなければならない状況だったのか(書名に採られた一篇が〈もくじ〉では〈ふしぎな ごてん〉、本文ページでは〈はしらのうえのごてん〉と題されていて、内容からすれば確かに後者のほうがふさわしいのだが、書名優先だったのだろう)。誰がどの話に挿絵を描いたのか、絵柄からだけでは断定できない。Webcat Plusの目録も参照しつつ、〈もくじ〉を記す。

おいしいぱんは だれのもの アメリカのおはなし / 5
らくだの ねがい 中國のおはなし / 12
わらでつくった 牛 ロシヤのおはなし / 18
はんぶんの ひよこ スペインのおはなし / 31
ふしぎな ごてん インドのおはなし / 40
もりの はなよめ フィンランドのおはなし / 57

奥付には「昭和廿五年十二月十五日印刷/昭和廿五年十二月二十日発行/定価一五〇円/発行所 東京都千代田区神田駿河台三ノ四 株式会社羽田[はた]書店」(漢字は常用漢字に改めた)などと見える。カラー印刷の裏表紙には〔こども絵文庫〕既刊分の全22冊が紹介されている。第1冊は太田大八が初めて挿絵を手掛けた「うさぎときつねのちえくらべ(アメリカ童話)八波直則」で、第22冊は「アフリカの偉人……(社会科)丹野節子」――未見だが、NDL-OPACによれば絵は太田大八――。その後に、赤い文字で「以下続刊/羽田書店」と謳っている。羽田書店の〔こども絵文庫〕は、太田大八と吉田健男という二人の挿絵画家を生んだわけである。

吉田健男〔写真提供:太田大八家〕 吉田健男〔写真提供:太田大八家〕 吉田健男〔写真提供:太田大八家〕 吉田健男〔写真提供:太田大八家〕"
吉田健男(4点とも)〔写真提供:太田大八家〕

手許に《言語生活》第37号(1954年10月1日)がある。国立国語研究所が監修し、筑摩書房が発行した雑誌の本号の特集は〔作家の用字用語〕。〈目次〉の最後に「表紙…………吉田 健男」「カット…………太田 大八」とある。健男が心中したのがこの1954年の夏もしくは秋だから、最後の仕事のひとつだろう(吉岡は、この雑誌の編集や製作には関わっていないようだ)。表紙と太田大八のカットのページを掲げる。吉田健男の表紙は、学術的な雑誌によくみられるような目次=内容を織りこんだ機能的なものだが、バックの幾何学的な模様はいかにも力弱く見えてしまう。いっぽう太田大八のカットは、スピーディかつ安定したタッチ(クレヨンのような筆致)による手慣れた仕事で、扉には小舟が描かれている。十四子さんによれば長崎の海辺で育った大八は静岡・伊豆の海が好きで、よく出かけたという。「私」〔=吉岡〕が「D」=〔大八〕と行った「狭島というさびれた漁村」(当初は詩的散文、のちに随想の扱いになった〈突堤にて〉の冒頭)も関東近県のようだから、おおかた伊豆の海ででもあろうか。その地で編集されたと推察される詩集《静物》が出るのは、翌1955年の夏である(〈吉岡実詩集《静物》稿本〉の〔2010年6月30日追記〕を参照のこと)。

《言語生活》第37号(監修:国立国語研究所・発行:筑摩書房、1954年10月1日)の表紙〔吉田健男〕 《言語生活》第37号(監修:国立国語研究所・発行:筑摩書房、1954年10月1日)のカット〔太田大八〕 《言語生活》第37号(監修:国立国語研究所・発行:筑摩書房、1954年10月1日)のカット〔太田大八〕
《言語生活》第37号(監修:国立国語研究所・発行:筑摩書房、1954年10月1日)の表紙〔吉田健男〕(左)と同・扉のカット〔太田大八〕(中)と同・本文ページのカット〔太田大八〕(右)

〔付記〕
太田大八は、その自伝ともいうべき著書《私のイラストレーション史――紙とエンピツ》(BL出版、2009年7月1日〔初出は絵本ジャーナル《PeeBoo》1990〜94〕)で、吉田健男のことを次のように書いている。

 その頃〔1950年頃〕よく私と仕事を分けあっていた多摩美の後輩で吉田健男という男と一緒に、学校図書へ話を聞きに行くことにしました。
 私は戦時中からずっと着たまんまの、中学時代のオーバーを改造して作ったジャンパーにブラシをかけ、一緒に行く健男に言いました。
 「ものほしそうな顔をするな。胸を張って堂々と行こう」
 学校図書に行くと、名前は覚えていませんが丸刈りの社長さん自らが会ってくれました。
 それはとてつもない仕事の量だったのです。
 帰り道、健男と二人で喫茶店に入り、狸の皮算用を始めました。二人でこれをやり遂げれば、当時の私たちの生活では思いもよらぬ金額になる筈でした。しかし仕事の量と期限の関係で、他に応援を頼まなければなりません。
 羽田書店の仕事のおかげで、他社の仕事も僅かながら描けるし、この際「鶏口となるも牛後となるなかれ」とたいそう大時代なスローガンを唱えて独立を決意し、GHQを退職しました。(同書、五六ページ)。

「仕事を分けあっていた」というのは言葉の綾で、仕事を取ってきたのはもっぱら太田大八だったのではないか。1944年、太田大八と吉田健男は雑誌《多摩美術》学徒出陣号の編集委員を務めているが、ここでも太田が編集作業の助力を吉田に依頼したように思えてならない。だが、いきなりそこに行くまえに、興味深い資料を見ておきたい。多摩美術大学に学び、2012年まで同大学に奉職した高橋士郎(1943年生)の〈多摩美術大学の歴史(高橋士郎講義ノート)〉には〈参考文献〉が付されていて、その〈第3章 『多摩帝国美術学校』  徴兵猶予から学徒出陣へ 上野毛前期 (11年間)〉の1944年の項に「名簿」がgif画像で掲げてある。そこには「昭和十八年九月第九回」卒業までが記載されており、当時作成された資料と思われる。太田大八の名はその〈男子部卒業生名簿〉にはなく〈男子部學生名簿〉の方に、吉田健男などとともにある。すなわち、1943年当時、太田大八は在学中だったことになる。はたしてこれは信頼できるか。下図から、太田と吉田の記載を起こして掲げる。

〈男子部學生名簿〉(部分)。最下段に「圖案科」があり、二人目が太田で左端が吉田。
〈男子部學生名簿〉(部分)。最下段に「圖案科」があり、二人目が太田で左端が吉田。〔出典

太田大八 東京都神田區小川町二ノ一
吉田健男 〔東京都〕麻布區笄町七五

太田大八の住所は前掲の自伝(《私のイラストレーション史》)における――1928年(昭和3年)、10歳のころ、一家は長崎から東京に移り、神田小川町の交差点の角に洋品店を開いた。神田での生活は、1945年(昭和20年)2月25日の空襲で焼失するまでの約20年間続いた(同書、二九ページ参照)――という内容とも合う。問題は次に掲げる〈多摩帝国美術学校 学生一覧〉いう資料から生じる。太田大八は「第10回卒業生(昭和19年)1944年9/23 1940年入学」という見出しのもとに、図案科の卒業生として

太田大八  1918 長崎県/1944「多摩美術」学徒出陣号編集

と記されている。この資料には凡例がないが、記載は生年・出身地・多摩帝国美術学校おける関連事項、であろう。これらを太田の自伝と照らし合わせると、矛盾が生じるのだ。自伝の記載をまとめるとこうなる。「1918年(大正7年)12月28日、太田良三郎とふくの長男として大阪に生まれる。1938年、多摩帝国美術学校に入学する。大倉組(のちの大成建設)の経営するスマトラの農場監督(軍属)の仕事に就くために、校長・教頭に通常より一年早く卒業証書を書いてもらい、1941年、多摩帝国美術学校図案科を卒業する」。生後まもなく長崎県に移ったから、大阪/長崎の件は問題にしない。だが、名簿の「1944年(昭和19年)9月23日(第10回卒業生)」と自伝の「1941年卒業」の違いをどう考えるべきか。太田大八の自伝には戦後、「多摩美の同級生で復員していた永田久光等と「綜合デザイン社、スタヂオ・トーキョー」略称S・Tの看板を上げることになった」(同書、五〇ページ)とあり、名簿ではこの永田久光が太田と同じ1944年卒業となっている。ここからは、「1944年卒業」が有力のように思えてくる。いっぽう、吉田健男は「第12回卒業生(昭和21年)1946年3/23 1942年入学」という見出しのもとに、図案科の卒業生として

吉田健男  1944 勤労動員2学年/「多摩美術」学徒出陣号編集

と記されている。この「勤労動員2学年」もわかりにくい。勤労動員すなわち徴用で、1943年には徴用制度の整理と効率化が図られ、1944年3月までに288万人余りが徴用され、一般労働者全体の2割を占めるまでになった(Wikipedia)というから、1943年から44年にかけて新規徴用されたということか。いずれにしても、1942年に入学して1946年に卒業したことになっている。もう一度整理しよう。吉田健男(生年未詳)の在学期間は「1942年〜46年」の4年間、太田大八(1918年生)の在学期間は、自伝では「1938年〜41年」の3年間、名簿では「1940年〜44年」の4年間。自伝の記述を採ると、太田と吉田の在学期間が重ならなくなる。しかしながら、自伝に見える校長と教頭に付け届けまでして繰り上げ卒業を画策したという挿話(実際にはスマトラに行かず、半年ほどで退社して別の建築系の職「日本世界文化復興会」に就いたのだが)が虚構だとはとうてい思えない。ここに1944年の《多摩美術》〔学徒出陣号〕編集という別の事情が絡んでくる。

《多摩美術》〔学徒出陣記念特輯〕(1944)〔表紙:吉村芳松、編集委員:鈴木高・中森謙三・太田大八・堀友三郎・吉田健男〕
《多摩美術》〔学徒出陣記念特輯〕(1944)〔出典、表紙:吉村芳松、編集委員:鈴木高・中森謙三・太田大八・堀友三郎・吉田健男〕

原本未見なので、高橋士郎による記述以上の詳しいことはわからない。ただ名簿では、編集委員の中森謙三(西洋画)・鈴木高(彫刻科)の二人とも太田と同じ1944年卒業、堀友三郎(染色)が翌1945年卒業となっている(吉田は1946年卒業)。《多摩美術》〔学徒出陣記念特輯〕には〈名簿〉や〈編輯後記〉が載っているとあるから、そこから判明することも多いと期待される(吉田健男の生年がわかると、なおのことありがたいのだが)。太田大八の作品を概観するのに最適な《太田大八作品集》(童話館出版、2001年4月20日)の〈太田大八 年譜〉では、自伝と同じ「1938年入学、41年卒業」となっている。もっとも、《私のイラストレーション史――紙とエンピツ》(BL出版、2009)の〈太田大八 年譜〉は当然《太田大八作品集》のそれを参照しているはずだから、同じ内容でも傍証とはなりえない。その大学在籍期間については、今後の調査・探求に俟ちたい。


佃学の吉岡実論(2018年11月30日)

インターネットで文献探索していると、ときどき「これは」という資料に出くわす。ずいぶん前から佃学《詩と献身》(レアリテの会、1982)に〈吉岡実・覚書〉が収録されていることは知っていた。だが、この一篇だけのために古書価4,000円を投じるのはためらわれた。図書館で読めないかと画策したものの、国会図書館にないため、相互貸借による近隣の公立図書館での閲覧もかなわない(ところで、国会図書館内で1冊の単行本を1日で読むことは、不可能ではないにしろ、非効率である)。頼みの綱の日本近代文学館も所蔵しておらず、思案投げ首が続いた(神奈川近代文学館にあったはずだが、この本を読むために横浜まで出かけるのは億劫だ)。ある日〈日本の古本屋〉を見ると、半額2,000円のものが出ていたので購入に踏みきった。それを機にインターネットで佃学を検索してみると、この6月に田畑書店から《佃学全作品〔全3巻〕》が出ているではないか。〈吉岡実・覚書〉は全作品の第1巻に収録されているから、元本の稀少価値が薄れて安く出まわるようになったのか。詩論集《詩と献身》の内容(*)はこうだ。

佃学《詩と献身〔レアリテ叢書2〕》(レアリテの会、1982年3月1日)の表紙 《佃学全作品〔全3巻〕》内容見本(田畑書店、2018)の表紙
佃学《詩と献身〔レアリテ叢書2〕》(レアリテの会、1982年3月1日)の表紙(左)と《佃学全作品〔全3巻〕》内容見本(田畑書店、2018)の表紙(右)

T

幻日幻想――作品Xにいたる覚書〔書き下ろし〕
森川義信・覚書――重たい心〔「唄」5号(一九七四・十二)〕
衣更着信・覚書――精神の枝〔「apocr.」4号(一九七六・五)〕
吉岡実・覚書――くずれてゆく時間の袋〔「apocr.」3号(一九七六・二)〕
無垢への遡行、あるいはわがオブセッション〔「apocr.」6号(一九七七・四)〕

U

斎場の孤独――千々和久幸詩集『水の遍歴』をめぐって〔「邯鄲」5号(一九八一・一)〕
江森国友試論――その難解さの一面〔未発表〕
暮鳥断想――昼の月〔「Who's」20号(一九七八・三)〕
雑感として〔「詩研究」74〜77号(一九七三・九〜一九七四・七)〕
屋根裏の片隅から〔「詩と思想」(一九七三年十二月号)〕

V
寒蝉鳴尽〔未発表メモの抜粋〕

 おぼえがき

目次には副題が記されていないので、――のあとに掲げ、さらに〈おぼえがき〉にある初出の記録を〔 〕内に補った。Wikipediaの〈佃学〉に依れば、吉岡実論の初出誌《apocr.〔アポクチファ〕》誌は「1975年〔……〕7月、「apocr」を千々和久幸と創刊」とある。《吉岡実文献目録》にも掲載したいので、この初出誌を探すのだが、残念なことに所蔵している図書館は見当たらない。さて、《佃学全作品》内容見本の〈略年譜〉によれば、佃は1938年9月26日、香川県高松市にて出生。1994年9月23日、55歳で病没している。《詩と献身》の〈T〉で最も多く言及されている詩人は、佃と同郷の森川義信(1918〜42)であり、次いで森川とも親交のあった、これまた同郷の衣更着信(1920〜2004)であって、吉岡実(1919〜90)ではない。

 戦後出発した詩人たちにとって、戦争はある点では近代的経験のもっとも熾烈な試練だったということができるかもしれない。ぼくじしんはどちらかといえば、彼ら戦後的に出発した詩人たちよりも、一世代ないし二世代遅れてやってきた詩人たち、つまり旧「ユリイカ」による詩人の詩を好んできた。「荒地」を中心にした詩人たちの詩にはどうしてもナイーヴには入っていけなかったものだ(たとえばわれらが先達の一人衣更着信氏の詩集(思潮社版)をみても、率直にいってその抒情は冷たく、どこか感覚的な明晰さとは異質のものだ。冒頭にでてくる「左の肩ごしに新月をみた」という作品も、題名の奇妙さともども容易には受け入れがたい違和感がある。けれども最近何となくわかったのだが、この奇妙な題名の詩こそは、衣更着信という一人の詩人の戦後的決意の一端を表明した作品にほかならないのだということである。香川県の田舎から、戦後的混乱の渦中でまだ新月にすぎないが、やがてこうこうと満月になって輝きだすであろう東京の仲間たち、「荒地」グループの詩人たちへ送った一篇のメッセージこそこの作品の意味なのだということetc……)。(〈雑感として〉、本書、一二〇ページ)

「一世代ないし二世代」ではなく十年二十年だろうが、それはともかく、佃が親近感を表明している「旧「ユリイカ」による詩人の詩」に本書で触れているのが吉岡の詩だけだというのは注目に値する。そして森川や衣更着は「同郷の先達」としてではなく、「「荒地」を中心にした詩人たちの詩」の書き手として登場していることを考えあわせれば、佃がこの詩論集で試みているのは、己が理解しがたいものへの接近に他ならない。標題に「覚書」が頻出するのもそれゆえであろう。〈吉岡実・覚書――くずれてゆく時間の袋〉は

 吉岡実の詩について思いをめぐらすとはどういうことなのか? よくわからないが永年の読者の一人として気づいたことを断片的に書きとめてみたい。
 現代詩文庫『吉岡実詩集』(思潮社)をめくっていて最初に気づいたことは「挽歌」という二つの作品の径庭である。一つは最初の詩集『液体』の冒頭を飾る「挽歌」であり、もう一つは詩集『静物』にある「挽歌」という作品である。(本書、六〇ページ)

と始まる。続けて佃が引くのは、〈挽歌〉(A・1)の全行である。そのあとにこうある。

 これは『液体』の「挽歌」である。詩集『液体』は入隊後上梓されたということであるから、この作品は詩人の入隊前夜の作品といっていいであろう。同じ頃、断片的に詩を書き、わずかな作品を残して南方で憤死した森川義信の詩と比べると、けっして上手な作品とはいえないだろう。森川義信の詩の透明な論理性は最初から吉岡実にはなかったように思われる。悪くいえばこれは同時代のモダニズムの悪例の一つといっても過言ではないかもしれない。森川義信が余りの透明な明晰さゆえに憤死したとすれば、吉岡実はその不透明な屈折を生きのびたのだといえるかもしれない。しかしこれは吉岡実の劣性ではなくて吉岡実というきわめて戦後的な詩人の資質でもあったのだ。吉岡実の詩にいわれる通俗的な意味での難解さは、この詩人の基底にある言語感覚の非論理性に負うところが少なくないと思われる。(本書、六一〜六二ページ)

佃はこのあと吉岡実詩の特質のよってきたる処を追尋するのだが、吉岡実論の骨格はこの冒頭部分に尽きる。すなわち、「〔『液体』の「挽歌」は〕同時代のモダニズムの悪例の一つ」であり、「〔森川義信の余りの透明な明晰さに対し〕その不透明な屈折を生きのびた」「吉岡実の詩にいわれる通俗的な意味での難解さは、この詩人の基底にある言語感覚の非論理性に負うところが少なくない」――が佃の吉岡論の肝である。以下、いくつかの部分を挙げて、佃がそれをどのように展開したか検討してみよう。

 卵のイメージ。内閉的なもの[、、]のイメージは詩集『液体』にも全然みられないものではないが、大岡信との対談でも指摘されているとおり、それは詩集『静物』によって突如明確な輪郭を獲得したものである。確かにそれは造型的なもの[、、]の手ざわりを好む詩人の気質的な嗜好の産物には相違ないのだが、「神も不在の時」「密集した圏内から/雲のごときものを引き裂き」ながら「一個の卵が大地」に「うまれた」と歌ったとき、恐らく詩人は「塵と光りにみがかれた/一個の卵」のなかに己れの体験の構造、「くずれてゆく時間の袋」を密封したのだ。「密集した圏内」とは詩人自身が立ち会った戦争という異様な時代の別称でもあっただろう。(同書、六八〜六九ページ)

卵(のイメージ)のなかに「くずれてゆく時間の袋」(〈挽歌〉B・12、3行め)を密封した――これこそ佃の吉岡実論の核心であり(副題に選ばれたのもそれゆえである)、「くずれてゆく時間の袋」とは「不透明な屈折」と等価の、戦後を生きのびなければならなかった詩人の負荷のまたの名である。

 「膜のような空間をひき裂いてゆく」のは「手応えがない」「殺戮」を強制された詩人の憤怒である。こうして詩人は、「暗い深度」から「水死人」となって蘇り、詩集『静物』の「永い沈みの時」を経て詩集『僧侶』の「充分な時の重さと円みをもった血」の世界へと展開していくのである。
 作品「僧侶」はこのような詩人の異界体験の極限的な突出であった。そして作品「死児」はほかならぬ「水死人」の正嫡だったということができるだろう。
 「四人の僧侶」とは恐らく詩人の分身としての「四人の輜重兵」であり、その戦後的な《生》の構造である。この「四人の僧侶」の世界との奇妙な確執こそ、元輜重兵詩人吉岡実の確執でもあっただろう。(同書、七四ページ)

〈僧侶〉は異界体験の極限的な突出であった――「四人の僧侶」は詩人の分身としての「四人の輜重兵」であり、その戦後的な《生》の構造である――すなわち「異界」とは吉岡にとっての「戦争」であり、「僧侶」は「輜重兵」の分身[、、]である――という佃の指摘は鮮烈である。高橋新吉が、仏教徒として「僧侶」にお坊さんを読み取った(《詩学》1959年5月号〈詮衡委員感想〉)のとは真っ向から対立する考えだが、私には「この詩人の基底にある言語感覚の非論理性に負う」難解さ[、、、]が顔をのぞかせた結果としか思えない。

 つまり「恥部」とは吉岡実が強制された戦時体験であると同時に、詩人が生きついだ言語体験でもあったというべきだろう。詩人が「一個の卵」のなかに密封したものは、日本語(日本人)という経験の構造の「くずれてゆく時間の袋」だったのだ。それはどこかこの国の伝統的な風土のなかで特異な位置を占めつづけてきた名匠・名工たちの閉鎖的な名人芸の世界に通じる資質的な頑固さの証明でもあった。そして「地上から届けられた荷」「すっかり中味をぬきとられた袋」とは、このような時代の不運(?)を担ってこのとき詩人が直面した言語空間の異称だったといっていいだろう。つまり詩人は近代詩を蚕食した感傷的抒情、多くの場合浅薄な教養主義と土着的情緒との和合折衷にすぎなかった近代的知性を徹底的に否定・拒絶する(詩人の用語をかりれば「下痢する」)ことによって逆にモダニズムで暴発したこの国の不幸な感性の隘路を直系したのである(注2)。(同書、七六ページ)

「恥部」とは戦時体験であり、言語体験(言語空間)だった――感傷的抒情と近代的知性を「下痢する」ことで、感性の隘路を直系した――の前者、すなわち戦時体験と感傷的抒情は多くの吉岡論でしばしば指摘されてきたが、後者、すなわち言語体験(言語空間)と近代的知性は佃学独自の着眼といってよい。「この国の伝統的な風土のなかで特異な位置を占めつづけてきた名匠・名工たち」が具体的に誰を指すのか佃は明示していないが、私は詩人たちよりも泉鏡花や志賀直哉などの散文作家を想起してしまった。そして段落最後の(注2)は、この吉岡実論の末尾に置かれた後註である。

(注2)詩集『僧侶』には「感傷」という作品がある。「鎧戸をおろす/ぼくには常人の習慣がない/精神まで鉄の板が囲いにくる」とうたうとき、「鉄の板」で囲ったのか囲われたのか。それは「常人」の判断をこえて吉岡実の頑固な感受性のありかを明示しているというべきだろう。(同書、八一ページ)

佃が本論で用いたテクストは、現代詩文庫版《吉岡実詩集》(思潮社、1968)と《ユリイカ》(1973年9月号〔吉岡実特集〕)の二点だけのようだ。畏るべきことに、たったふたつの文献からでも吉岡実論は可能なのだ。いっぽう、詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)が刊行されたとき佃は二十歳だった。限定400部の初刊《僧侶》を手にすることができたのか、詳細は不明である。

〔追記〕
《佃学全作品〔全3巻〕》(田畑書店、2018年6月5日)は、近年ではその刊行が珍しい「現代詩人の全集」である。佃学夫人信子さんに依れば、この全集の本文は著者が生前用意していた自著の訂正本を底本としている(**)が、本稿では吉岡実が目にしたであろう初刊を引いた(だがしかし、佃学ははたして吉岡実に《詩と献身〔レアリテ叢書2〕》を献じただろうか)。つぶさに校合したわけではないが、全集では細かな言い回しが洗練されて、読みやすくなってはいるものの、論旨に影響するような訂正は施されていない。当然だろう。ところで、〔第3巻〕には佃学の作品のほか、〈附録〉として知友による追悼文が再録されている。山本哲也は、佃の一周忌に当たる1995年9月に発行された《邯鄲》19号〔佃学追悼特集〕で、〈佃学のいた場所〉を次のように始めている。「たとえば佃学が衣更着信について書く、山村暮鳥について書く。吉岡実について、森川義信について……それは佃学にとって対象への偏愛でもなければ、まして批判でもない。それは、自分がどこにいるかという佃自身のための自己確認にほかならなかった」(《佃学全作品〔第3巻〕》、三〇六ページ)。《詩と献身》の諸文章を「詩人の散文」だと言ったところで、礼を失したことにはならないだろう。私としてはそこに、詩人にしか書けない、詩をめぐる文章というほどの意味をこめたつもりだ。どこかで、一巻本の簡便な《佃学詩集》を出してくれないだろうか。

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(*)佃学の詩〈古き良き時代〉(《詩学》1989年3月号)に「やがてかれ〔幼い頃の息子〕は虫に熱中し/見るからにゾッとするようなカマキリの巨大なやつを/平然と掌にのせてためつすがめつ/日がなスケッチしてあきなかった/(ぼくの雑文集『詩と献身』の内扉のカットは、この頃の息子のものだ)」(同誌、二三〜二四ページ)という詩句がある。詩篇〈古き良き時代〉が収められた佃の第七詩集《艾》(邯鄲舎工房、1992年6月)は見ることができなかったが、《佃学全作品》における本文はこれと少し違っていて、当然のことながら、初出に手が入ったものが詩集に収められたに違いない。
(**)「〔佃学の「遺言状」に書かれた五つのうちの〕最後の一つに、
 一、全詩集刊行時の際は、訂正本を底本とすること。
 とありました。私は胸を突かれる思いで、すぐに書斎にある五つの本棚の一つ一つを探しました。そして、トビラのある年代物の本箱の最下段の中に、ひっそりとそれが一列に並べられているのを見つけました。」(佃信子〈いま、思うこと――混沌と瞑想と〉、《佃学全作品〔第3巻〕》田畑書店、2018年6月5日、三一〇ページ。初出は《邯鄲》19号〔佃学追悼特集〕、1995年9月)


吉岡実と文学賞(2018年10月31日〔2019年2月28日追記〕)

ウェブサイト《文学賞の世界》(管理人:pelebo@nifty.com)が興味深い。平成26年(2014年)11月1日の同サイト開設の際、次のような緒言が掲げられた(原文の改行箇所を追い込み、段落を/で示した)。

平成12年/2000年に(ひっそりと)始めた「直木賞のすべて」、そこから派生して平成19年/2007年に開設した「芥川賞のすべて・のようなもの」、ときまして、さらにこのたび「文学賞の世界」をオープンすることにしました。/「小説」に関するものが主となりますが、日本でこれまで行われてきた文学賞(やそれに類する企画)の数々を扱います。/といいますのも、ワタクシ自身、文学賞に関する資料はどうも不十分な文献が多い、ということを、いつも実感しているからです。/(たいてい主催者や受賞者・受賞作だけが紹介されていて、選考委員メンバーや選考日、候補者・候補作、公募のものであれば応募総数などなど、文学賞を知るうえで重要な要素が省略されているものが多い、という意味です)/せっかく直木賞と芥川賞のサイトをつくったので、そういった基礎資料もきちんとまとめておきたい、と思って始めることにしました。/まだまだ調べ切れていない賞も数多くあるのですが(……などと、wikipediaみたいな言い訳して、すみません)少しずつでも充実させていければと思います。(〈サブサイト開設に当たって。〉)

「選考委員メンバーや選考日、候補者・候補作、公募のものであれば応募総数などなど、文学賞を知るうえで重要な要素が省略されているものが多い」という指摘は鋭い。さっそく「吉岡実」を調べたところ、全部で7件の記載があった(丸中数字は小林が便宜的に付したもの)。

@1959年04月 第9回 H氏賞 『僧侶』 受賞
A1968年02月 第19回 読売文学賞 『吉岡実詩集』 候補
B1969年01月 第20回 読売文学賞 『静かな家』 候補
C1977年01月 第7回 高見順賞 『サフラン摘み』 受賞
D1984年03月 第2回 現代詩人賞 『薬玉』 候補
E1989年03月 第7回 現代詩人賞 『ムーンドロップ』 候補辞退
F1989年03月 第4回 詩歌文学館賞 『ムーンドロップ』 受賞辞退

吉岡が受賞した@とCおよび受賞を辞退したFは本サイトでもたびたび触れているが、AとBとDの候補およびEの候補辞退は初耳である。ことほどさように《文学賞の世界》の博捜ぶりには頭が下がる。もっとも《サフラン摘み》の無限賞の受賞辞退はともかく、《薬玉》の藤村記念歴程賞受賞が漏れているのは解せない。そう思って、同サイトが詩の文学賞として掲載している対象を確認したところ、以下の11の賞、すなわち

H氏賞/小熊秀雄賞/高見順賞/現代詩女流賞/現代詩人賞/現代詩花椿賞/萩原朔太郎賞/中原中也賞/小野十三郎賞/三好達治賞/鮎川信夫賞

がそれで、藤村記念歴程賞(2017年から「歴程賞」に改称)は含まれていなかった。とんだないものねだりだったので、恥じ入る。さて、同サイトで感心したのは「「文学賞の世界」内 選考委員名検索」というページへのリンクで、吉岡の場合、受賞したふたつ、H氏賞と高見順賞がこれに該当する。だが、まず受賞の方からいこう。@の第9回H氏賞は次のように記載されている(原文は罫を多用した見やすいレイアウトだが、引用にあたってはスペースの関係で改行箇所を追い込んで/で示したため、対象書籍の叢書名を〔 〕で括った)。

昭和34年/1959年度
=[ 決定 ] 昭和34年/1959年4月6日
=[ 媒体 ] 『詩学』昭和34年/1959年6月号、『現代詩手帖』昭和34年/1959年7月号選考経過掲載
受賞 吉岡 実 『僧侶』 昭和33年/1958年11月・書肆ユリイカ刊
候補 浜田知章 『浜田知章第二詩集』 昭和33年/1958年7月・山河出版社刊/水尾比呂志 『汎神論』 昭和33年/1958年3月・書肆ユリイカ刊/片瀬博子 『この眠りの果実を』 昭和32年/1957年10月・コルボオ詩話会刊/吉本隆明 『吉本隆明詩集』 昭和33年/1958年1月・書肆ユリイカ〔今日の詩人双書3〕/山田今次 『行く手』 昭和33年/1958年2月・コスモス社刊/天野 忠 『単純な生涯』 昭和33年/1958年9月・コルボオ詩話会刊/内山登美子 『ひとりの夏』 昭和33年/1958年1月・国文社〔ピポー叢書43〕/倉地宏光 『きみの国』 昭和33年/1958年2月・日本未来派発行所刊/北川多喜子 『愛』 昭和33年/1958年12月・時間社刊/茨木のり子 『見えない配達夫』 昭和33年/1958年11月・飯塚書店〔現代詩集3〕/安水稔和 『鳥』 昭和33年/1958年11月・くろおぺす社刊/磯村英樹 『生きものの歌』 昭和33年/1958年6月・書肆ユリイカ刊
会員投票の上位13詩集
会員投票による推薦候補22詩集
賞金3万円
選考委員 安西均(病気欠席)/安藤一郎/伊藤信吉/緒方昇/上林猷夫/木原孝一/草野心平/高橋新吉/土橋治重/長島三芳/西脇順三郎/三好豊一郎/村野四郎/山本太郎
全会員によるアンケート投票(総数55通)
第1回選考委員会昭和34年/1959年4月2日夜 [会場]東京「トミ・グリル」
第2回選考委員会4月6日夜 [会場]東京「トミ・グリル」
授賞式5月27日18:00〜「五月の詩祭」内 [会場]東京・赤坂「草月会館ホール」

《詩学》(1959年6月号)の誌面を詳しく見よう(以下、引用文の旧字は常用漢字に改め、かなはママとした)。まず〈詩壇の動き〉の「団体」の最初の項に「現代詩人会・H賞決定。現代詩人会では、さる4月6日午後6時より、東京・トミーグリルにおいて幹事会を開き、第9回H賞の詮衡にあたつたが、投票の結果、吉岡実詩集「僧侶」に授賞と決定した。なお、次点は北川多喜子集「愛」。」とあり、次に〔時の詩人〕という人物紹介のページに、無署名(編集部の木原孝一のペンになるか)の記事〈H賞をもらつた吉岡実〉が肖像写真付きで掲載されている。メインの〈第9回現代詩人会H賞詮衡〉は3ページにわたる詳報。冒頭に「現代詩人会H賞については、従来その詮衡経過が公表されたことはなかつたが、既に九人の受賞詩人を数える詩壇唯一の詩人賞としての意義を考え、本誌は特に乞うて事務当局の詮衡経過と、詮衡委員の感想をここに掲げることとした。」という前振りがあるが、詮衡経過を公表するにいたったのは、世にいう「H氏賞事件」が起きたためである。吉岡実(の《僧侶》)に言及した詮衡委員の感想は以下のとおり。
「僕は吉岡実氏の『僧侶』における硬質の美しさ、現実の鋭い截断と大胆な、対照に諷刺やユーモアを弾き出す面白味に引きつけられた。第一詩集『静物』の好ましさも記憶にあり、更にもつと困難な実験に進んでいる敢然とした態度は、若い詩人に最もふさわしいと思う。この次はどうなるか、大きな楽しみである。」(安藤一郎〔無題〕全文)
「〔……〕/私の中に最後に残されたのは、吉岡実の「僧侶」と、北川多喜子の「愛」であつた。吉岡実の作品は、雑誌で「僧侶」しか読んでいなかつたので、こん度はじめて詩集を読んだわけであるが、全体が漢語の多いガツチリとした硬い構造に包まれ、中世紀風の古いリズムには何か原型があるように感じられた。そして、この詩人の持つ偽悪的で、思考遮断のスタイルには、特有の自己閉塞が感じられ、素直な理解が拒まれるものがあつた。/〔……〕」(上林猷夫〈感想〉)
「ぼくは、アンケートの際は、殆ど詩集を読んでいないので比較が出来ず、白紙を出した。第一回の選衡会に、アンケートの集計をもとにして十三冊の詩集が選衡対象となるに及んで、第二回の選衡会までの四日間に全部読んだ。このなかで、ぼくが予選として考えたのは安水稔和、茨木のり子、内山登美子、高良留美子、吉岡実、それに北川多喜子の五[ママ]詩集である。ところで、安水のは、優れたのがはじめの三篇だけであとはその水増しの繰返し。内山、高良はともに感覚的で弱々しい。吉岡は力作僧侶一篇だけで、そのトボケた味は相当面白いけれど表現が散漫で採れない。結局、普辺[ママ]的な内容をもち、その内容と表現とが円満であり、粒の揃つているのは、茨木のり子と北川多喜子の二詩集である。決定単記投票には、ぼくは冷静に考えて、北川多喜子に投票した。茨木のり子の世界はあまりにも単純で割り切つているのにくらべて、北川多喜子の世界は複雑で深刻切実であると考えたからである。/〔……〕」(北川冬彦〈ぼくの意見〉)〔北川冬彦は《文学賞の世界》でも、この《詩学》の〈第9回現代詩人会H賞詮衡〉でも記載から漏れているが、れっきとした選考委員の一人である。付言するなら、北川多喜子の夫君でもある。〕
「詩集「僧侶」を読んで僧侶と題する詩は面白かつたが、その他の作品は、あまりよいと思わなかつた。僧侶という詩も、構成された形態の面白さで、技法の新しさを買うけれど、仏教徒の私は、如何にもバカにされ過ぎている気がして、一票を投ずることはしなかつた。」(高橋新吉〔無題〕全文)
「私は最後の詮衡委員会に於て、「愛」を推したが、「僧侶」に決まつたので、それでもよいと思つた。「愛」は現代詩という枠のなかでもがいているほか、稚拙なところもある。その枠からはみでた(或いは少し違つたところで)独自な仕事をして見せた点を買つておいた。「僧侶」は現代詩の枠のなかではあるが充実した仕事を見せ、表現はアンバランスなところもあるが技術的には確かだ。私はどちらにすべきか悩んだ。〔……〕」(土橋治重〔無題〕)
「毎年のようにH賞の選考に当つてきたが、賞のことをいうと、これまでの受賞詩集のうちには、あんまり気乗りしないのに、投票の結果、受賞にきまつてしまつたようなことが何度もあつた。なんとなく点をかせいだというようなのは、詩集の場合では、どうもおもしろいことではないようだ。/だが、今年の吉岡君の「僧侶」の受賞は、ぼくにとつては、じつにすつきりした気持だつた。ぼくは、この詩集が出るやすぐ新聞に書評をかつて出た程、気に入つた詩集だつたからである。/一つの作品集が、常識によつて点をかせいた[ママ]のではなくて、オリジナリテイの強さによつて受賞したということは、選考に当つた一人としても、実に後味のいいものであつた。/この詩集は一見難解で、一般の読者の耳には負えないかもしれないが、常識的な詩にあきた人々や十分にシュルレアリズムを消化した人々にとつては、非常に興味深い詩集である。詩法の原理としては、ブルトンたちと同系だけれども、もう少し意識的で、批評的だ。そしてすべての作品の主題が、汚辱と悪意にみちた廿世紀の醜聞に発している。/そのイメージの審美的衝撃力も又すばらしいものであつた。そしてこのような衝撃力は一つの作品が、文学として一番危険な状態におかれてはじめて獲得されるところのものであることを思わせた。/この「僧侶」のほかにも、注目されていい詩集が一二あつたことも確かだが、この「僧侶」にくらべると、やはりそれらの詩集はどこか、小規模な詩の機能主義から脱出しきれている[ママ]ところがあつた。いろいろな意味で、この詩集が受賞したことは、やつぱり当然なことでありながら、ほつとした気もちである。」(村野四郎〈詩集「僧侶」の受賞について〉全文)
「〔……〕/その結果、最終日の選衡委員会で、全委員一致した公正な方法によつて、私は私のもてる一票を行使したわけであるが、ここで第九回H賞が吉岡 実詩集「僧侶」にきまつた一瞬。私はいままで頭の中にあつた何日ぶりかの重たい緊張が、すつと空気のように解放されるのをおぼえた。そして同時に私は委員としての重労から解放されたことになるわけだが、今はひとりの詩人として受営[ママ]者吉岡 実に心よりおめでとうと伝へたいと思つている。」(長島三芳〔無題〕)

同じく、Cの第7回高見順賞は次のように記載されている。

昭和52年/1977年度
└[ 対象期間 ]─昭和50年/1975年12月1日〜昭和51年/1976年11月30日
=[ 決定 ] 昭和51年/1976年12月20日
=[ 発表 ] 昭和52年/1977年
=[ 媒体 ] 『現代詩手帖』昭和52年/1977年2月号選評掲載【吉岡実の〈挨拶〉は〈高見順賞受賞挨拶〉参照】
受賞 吉岡 実 『サフラン摘み』 昭和51年/1976年9月・青土社刊
候補 中村 稔 『羽虫の飛ぶ風景』 昭和51年/1976年6月・青土社刊/川崎 洋 『象』 昭和51年/1976年8月・思潮社刊/天沢退二郎 『les invisibles 目に見えぬものたち』 昭和51年/1976年10月・思潮社刊/北村太郎 『眠りの祈り』 昭和51年/1976年4月・思潮社刊/衣更着 信 『庚申その他の詩』 昭和51年/1976年7月・書肆季節社刊/嵯峨信之 『時刻表』 昭和50年/1975年12月・詩学社刊
選考会で話題にのぼったもの
選考対象24冊
正賞+副賞30万円+記念品
選考委員 入沢康夫/大岡信/田村隆一/中村真一郎/山本太郎
選考会昭和51年/1976年12月20日17:00〜 [会場]東京・市ヶ谷「萩の宮」
贈呈式昭和52年/1977年1月28日18:00〜 [会場]東京「赤坂プリンスホテル」

間然する処がないとは、こういうことを言うのだろう。となれば、引きつづきAの1968年02月 第19回 読売文学賞 『吉岡実詩集』 候補、Bの1969年01月 第20回 読売文学賞 『静かな家』 候補、Dの1984年03月 第2回 現代詩人賞 『薬玉』 候補、を調べないわけにはいかない。以下では、吉岡実に関する記載を赤字で表示しよう。

Aの第19回読売文学賞は次のように記載されている(詩歌俳句賞以外の、散文による各賞の詳細は省略した)。

昭和42年/1967年度
=[ 媒体 ] 『読売新聞』昭和43年/1968年2月2日発表、同日夕刊選評掲載
小説賞〔……〕
戯曲賞〔……〕
随筆・紀行賞〔……〕
評論・伝記賞〔……〕
詩歌俳句賞
受賞 土屋文明 歌集『青南集』[正](続) 昭和42年/1967年11月・白玉書房刊
候補 山本太郎 詩集『糺問者の惑いの唄』 昭和42年/1967年-月・思潮社刊/宗 左近 長篇詩『炎える母』 昭和42年/1967年10月・弥生書房刊 /吉岡 実 詩集『吉岡実詩集』 昭和42年/1967年10月・思潮社刊/木俣 修 歌集『去年今年』 昭和42年/1967年9月・短歌研究社刊/中村草田男 句集『美田』 昭和42年/1967年11月・みすず書房刊/加藤楸邨 句集『まぼろしの鹿』 昭和42年/1967年12月・思潮社刊/山口誓子 句集『定本山口誓子全句集』 昭和42年/1967年11月・集英社刊
研究・翻訳賞〔……〕
正賞記念品+副賞20万円
選考委員 岩田豊雄〔戯曲賞選評担当〕/大佛次郎/河盛好蔵/草野心平/小林秀雄/里見ク/永井龍男〔小説賞選評担当〕/中村光夫〔研究・翻訳賞選評担当〕/丹羽文雄/林房雄/福原麟太郎〔評論・伝記賞選評担当〕/堀口大學/水原秋桜子/宮柊二〔詩歌俳句賞選評担当〕/山本健吉〔随筆・紀行賞選評担当〕
贈呈式昭和43年/1968年2月10日11:30〜 [会場]東京・有楽町「読売会館貴賓室」

《讀賣新聞〔夕刊〕》(1968年2月2日、五面)に選評〈第19回 読売文学賞に輝く六作品〉があり、その末尾に〈候補作品〉として【詩歌・俳句部門】「〔……〕「吉岡実詩集」〔……〕」とある。このときは詩の受賞作品がなかった。

同じく、Bの第20回読売文学賞は次のように記載されている。

昭和43年/1968年度
=[ 決定 ] 昭和44年/1969年1月23日
=[ 媒体 ] 『読売新聞』昭和44年/1969年2月1日発表、同日夕刊選評掲載
小説賞〔……〕
戯曲賞〔……〕
随筆・紀行賞〔……〕
評論・伝記賞〔……〕
詩歌俳句賞
受賞 入沢康夫 詩集『わが出雲・わが鎮魂』 昭和43年/1968年4月・思潮社刊
受賞 飯田龍太 句集『忘音』 昭和43年/1968年11月・牧羊社〔現代俳句15人集〕
候補 大岡 信 詩集『大岡信詩集』 昭和43年/1968年2月・思潮社刊/吉岡 実 詩集『静かな家』 昭和43年/1968年7月・思潮社刊/福田栄一 歌集『きさらぎやよひ』 昭和43年/1968年5月・短歌新聞社〔古今歌集〕/近藤芳美 歌集『黒豹』 昭和43年/1968年10月・短歌研究社刊/鈴木貫介 歌集『南畝集』 昭和43年/1968年8月・新星書房刊/原 石鼎 句集『定本石鼎句集』 昭和43年/1968年10月・求竜堂刊/富安風生 句集『傘寿以後』 昭和43年/1968年4月・東京美術刊
研究・翻訳賞〔……〕
正賞硯+副賞20万円
選考委員 岩田豊雄/大佛次郎/河盛好蔵〔随筆・紀行賞選評担当〕/草野心平〔詩歌俳句賞『わが出雲・わが鎮魂』選評担当〕/小林秀雄/里見ク/永井龍男/中村光夫/丹羽文雄〔小説賞『不意の声』選評担当〕/林房雄/福原麟太郎〔評論・伝記賞選評担当〕/堀口大學/水原秋桜子〔詩歌俳句賞『忘音』選評担当〕/宮柊二/山本健吉〔小説賞『野趣』選評担当〕
最終選考委員会昭和44年/1969年1月23日
贈呈式3月3日16:00〜 [会場]東京・丸の内「東京会館」

《讀賣新聞〔夕刊〕》(1969年2月1日、七面)に選評〈第20回 読売文学賞に輝く六作品〉があり、その末尾に〈候補作品〉として【詩歌・俳句部門】「=詩=〔……〕「静かな家」吉岡実〔……〕」とある。受賞した入沢作品については、草野心平が〈戦後詩のせん鋭な冒険――数学的な操作〉を寄せている。読売文学賞に関してコメントすれば、Aの《吉岡実詩集》(刊行当時における全詩集に相当する)はともかく、Bで詩集《静かな家》がノミネートされているのには驚く。というのも、同書は単行詩集こそ1968年の刊行だが、詩集の本文は前年、1967年の《吉岡実詩集》(昭和42年/1967年度候補作品!)に収められているものと寸分違わないからである。ここはどう贔屓目に見ても、入沢康夫の《わが出雲・わが鎮魂》に分がある。

Dの第2回現代詩人賞は次のように記載されている。

昭和59年/1984年度
└[ 対象期間 ]─昭和58年/1983年1月1日〜12月31日
=[ 決定 ] 昭和59年/1984年3月3日
=[ 媒体 ] 『詩学』昭和59年/1984年6月号選評掲載
受賞 犬塚 堯 『河畔の書』 昭和58年/1983年8月・思潮社刊
候補 小柳玲子 『月夜の仕事』 昭和58年/1983年8月・花神社刊/宗 左近 『風文』 昭和58年/1983年11月・思潮社刊/西岡光秋 『菊のわかれ』 昭和58年/1983年6月・国文社刊/相澤 等 『築地魚河岸』 昭和58年/1983年11月・三州出版刊/足立巻一 『雑歌』 昭和58年/1983年8月・理論社刊/安西 均 『暗喩の夏』 昭和58年/1983年5月・牧羊社刊/鈴木 漠 『抽象』 昭和58年/1983年5月・書肆季節社刊
候補辞退 藤富保男 『文字文字する詩』 昭和58年/1983年8月・点点洞刊
会員投票の上位9詩集(犬塚堯を含む)
候補 有田忠郎 『セヴラックの夏』 昭和58年/1983年5月・書肆山田刊/岸本マチ子 『コザ 中の町ブルース』 昭和58年/1983年11月・花神社刊/北川 透 『魔女的機械』 昭和58年/1983年5月・弓立社刊/鈴木志郎康 『融点ノ探求』 昭和58年/1983年7月・書肆山田刊/吉岡 実 『薬玉』 昭和58年/1983年10月・書肆山田刊
候補辞退 渋沢孝輔 『薔薇・悲歌』 昭和58年/1983年8月・思潮社刊
選考委員会による追加6詩集
正賞30万円+記念品
選考委員 秋谷豊/小海永二/清水哲男/杉山平一/土橋治重[委員長]/那珂太郎/藤富保男
選考委員7名に委嘱9月12日
全会員による投票昭和58年/1983年1月31日締切(総数246票・うち白票および無効46票)
開票2月4日15:00〜 [会場]東京・神田「トミーグリル」
第1次選考委員会同日18:00〜 [会場]同
第2次選考委員会同日 [会場]同
第3次選考委員会3月3日13:00〜 [会場]東京・青山「朝日新聞社・青山寮」

《詩学》(1984年6月号)の〈第二回〈現代詩人賞〉選考のことば〉で選考委員が吉岡実(の《薬玉》)に触れている箇所を引く。
「〔……〕/賞は一冊というのが建前だから順次にしぼって行かなければならない。相談の上全委員の投票で半分にしぼることにした。/その結果、犬塚堯、鈴木漠、有田忠郎、吉岡実、岸本マチ子の五氏が残った。〔……〕/つづいて第二段では吉岡実氏と岸本マチ子氏が落ちた。吉岡氏の古代をあつかった独自の世界、岸本氏の現代詩としての自在なブルースを十分に認めたうえのことであった。」(土橋治重(選考委員長)〈選考経過と私見〉)
「〔……〕/私は犬塚堯氏の『河畔の書』を第一の候補として意中に置き、選考の席上、岸本マチ子さんの『コザ中の町ブルース』を委員推薦詩集として追加させていただいた。しかし、この二詩集にあくまでも固執するというわけではなく、他の吉岡実氏『薬玉』、宗左近氏『風文』、鈴木志郎康氏『融点ノ探求』、鈴木漠氏『抽象』など、いずれも私の注目する詩集であったから(ともに私にはない詩的世界があり、より想像力を刺激し、高揚してくれた)、そのどれかが有力候補として残れば、それを支持してもよいと考えていた。/〔……〕」(秋谷豊〈文明を直視する目、「河畔の書」〉)
「〔……〕私はむしろ、吉岡氏の「薬玉」の、私などの書く詩を一行に濃縮した、対句・語呂合せ、ユーモアを駆使して、箴言風の謎めく詩句を展開する面白さに舌を捲いて、自分を恥かしくさえ思ったが、在来の詩業より後退したなどの疑問が多く出された。/〔……〕」(杉山平一〈選考感想〉)
「〔……〕/同じく選考の過程で外された吉岡実『薬玉』は、読者の想像力を挑撥する書法の独自性が抜群であり、すぐれた詩集であるが、「現代詩人賞」の対象としては特異すぎると感じられた。/〔……〕」(那珂太郎〈感想〉)
「〔……〕/吉岡実『薬玉』。吉岡実独特の潜在意識的イメージ、苦悶、欲望の誘起、幻影の中の沈黙とノスタルジア。こういう抽象語では説明しきれないにしても、吉岡のこの三年間の仕事はやはり着実に――いや異様に動いていた。歪曲した事物と人物が何かを拒否して動き、あるいは点滅している吉岡詩学は、矢張り〈健全に〉発達性高気圧であることを証明していた。/〔……〕」(藤富保男〈雪窓閑話〉)

さてここで、候補を辞退したEの第7回現代詩人賞(Dの5年後)も見ておこう。同賞はこう記載されている。

平成1年/1989年度
└[ 対象期間 ]─昭和63年/1988年1月1日〜12月31日
=[ 決定 ] 平成1年/1989年3月4日
=[ 媒体 ] 『詩学』平成1年/1989年6月号選評掲載
受賞 安西 均 『チェーホフの猟銃』 昭和63年/1988年10月・花神社刊
候補 安水稔和 『記憶めくり』 昭和63年/1988年12月・編集工房ノア刊/難波律郎 『昭和の子ども』 昭和63年/1988年11月・私家版/宗 左近 『おお季節』 昭和63年/1988年10月・思潮社刊/北村太郎 『港の人』 昭和63年/1988年10月・思潮社刊/片岡文雄 『漂う岸』 昭和63年/1988年6月・土佐出版社刊/黒田達也 『ホモ・サピエンスの嗤い』 昭和63年/1988年8月・Almeeの会刊
候補除外 新井豊美 『半島を吹く風の歌』 昭和63年/1988年10月・花神社刊(H氏賞の候補として残す)
会員投票の上位8詩集(安西均を含む)
候補 和泉克雄 『彩色記』 昭和63年/1988年5月・鱗片社刊/生野幸吉 『杜絶』 昭和63年/1988年10月・詩学社刊
候補辞退 阿部岩夫 『ベーゲェット氏』 昭和63年/1988年10月・思潮社刊
候補辞退 吉岡 実 『ムーンドロップ』 昭和63年/1988年11月・書肆山田刊
選考委員会による追加4詩集
正賞高級置時計+副賞50万円
選考委員 秋谷豊/新川和江/辻井喬/中村稔(欠席/書面回答)/浜田知章/原子朗[委員長]/藤富保男
選考委員7名に委嘱昭和63年/1988年9月14日
全会員による記名投票平成1年/1989年1月31日締切(総数323票・うち無効3票・白票47票・有効273票)
開票2月4日14:30〜 [会場]東京・新橋「蔵前工業会館」
第1次選考委員会同日18:30〜 [会場]同
第2次選考委員会3月4日13:30〜 [会場]東京・新橋「蔵前工業会館」

《詩学》(1989年6月号)の日本現代詩人会の会長・上林猷夫による〈第七回現代詩人賞選考経過〉のうち、吉岡の辞退に関わる〈第一次選考委員会〉末尾と、それに続く〈第二次選考委員会〉の冒頭の記述を引く。
「現代詩人賞選考委員会では、理事会から申送られた候補詩集に追加すべき詩集があるかどうかを協議し、次の四詩集の追加が決定され、合計一一詩集を第七回現代詩人賞の候補詩集と決定した。
 阿部 岩夫「ベーゲェッ卜氏」
 和泉 克雄「彩色記」
 生野 幸吉「杜絶」
 吉岡  実「ムーンドロップ」」(〈第一次選考委員会〉)
「三月四日午後一時半から蔵前工業会館で第二次選考委員会が開かれた。
 まず、斎藤理事長から、阿部岩夫、吉岡実の両氏が辞退された旨報告があり、欠席の中村稔委員から送付されて来た候補詩集についての「所感」を原選考委員長にあずけて選考が開始された。」(〈第二次選考委員会〉)
5年前の第2回現代詩人賞で(今日的観点からすれば「後期吉岡実詩」を代表する)《薬玉》が受賞しなかった以上、自己にも他者にも批評眼の厳しい吉岡が、このたびの第7回現代詩人賞で《ムーンドロップ》の受賞を諾わなかったところで、なんの不思議もない。

Eで候補を辞退した十日ほどのち、吉岡が受賞を辞退したFの第4回詩歌文学館賞は次のように記載されている。

平成1年/1989年度
=[ 決定 ] 平成1年/1989年
=[ 媒体 ] 『すばる』平成1年/1989年6月号選評掲載
詩 受賞作なし
受賞辞退 吉岡 実 『ムーンドロップ』 昭和63年/1988年11月・書肆山田刊
最終選考対象5冊
短歌 受賞 馬場あき子 『月華の節』 昭和63年/1988年12月・立風書房刊
俳句 受賞 村越化石 『筒鳥』 昭和63年/1988年5月・浜発行所〔浜叢書〕
正賞鬼剣舞手彫り面+副賞各50万円
選考委員 井上靖[委員長]
詩 安西均/入沢康夫/三木卓[選評担当]
短歌 岡野弘彦/塚本邦雄[選評担当]/安永蕗子
俳句 金子兜太/野澤節子[選評担当]/三橋敏雄
最終選考平成1年/1989年3月14日
贈賞式5月20日 [会場]北上市

吉岡のこの受賞辞退は最終選考ののち、次のように新聞報道された。

詩歌文学館賞吉岡氏は辞退
 第四回詩歌文学館賞(日本現代詩歌文学館振興会、一ツ橋総合財団共催)の選考会が十五日開かれ、短歌部門は馬場あき子氏の「月華の節」、俳句郎門は村越化石氏の「筒鳥」に決まった。現代詩部門は吉岡実氏「ムーンドロップ」に決まったが、吉岡氏は本人の意思で辞退した。授賞式は五月二十日、岩手県北上市で行われる。(《毎日新聞》1989年3月16日、二六面)

また《すばる》(1989年6月号)の〈第四回詩歌文学館賞発表〉の「現代詩」の項には、「選考委員会において、吉岡実「ムーンドロップ」(書肆山田)が選ばれましたが、 吉岡実氏が受賞を辞退しました。」と見える。受賞辞退の件について、選考委員代表の三木卓は〈さらなる空間を示す〉と題する現代詩部門の選評(900字余り)で「候補詩集は五冊あったが、三人の選考者の意見が一致して吉岡実さんの「ムーンドロップ」(書肆山田)を推すことになるまで、時間はかからなかった。/〔……〕/以上のようなわけで、わたしは「ムーンドロップ」における吉岡さんの言葉の世界の一層の深まりと充実に感銘を受けると共に、これを詩歌文学館賞に相応しいものとして推した。吉岡さんに受けていただけなかったのは、返す返すも残念である。」(同誌、二五一ページ)と書いている。一方、吉岡は同賞辞退に触れた文章を公にしていない。

時期は前後するが、ここで同じく受賞を辞退した第4回無限賞を見ておこう。同賞は日外アソシエーツ編《最新 文学賞事典》(日外アソシエーツ、1989年10月25日)では次のように記されている(無限賞が《文学賞の世界》に掲載されていないための措置である)。

無限賞
竃ウ限によって昭和48年に創設された賞,単行本として発表されたすぐれた詩集に与える。
主催者 竃ウ限
選考委員 (第1回)西脇順三郎,村野四郎,草野心平,編集部
選考方法 単行本として発表された詩集が対象。
締切・発表 結果は「無限」誌上に発表。
賞・賞金 記念レリーフと賞金20万円
受賞者
第1回(昭48) 安藤一郎「磨滅」
第2回(昭49) 天野忠「天野忠詩集」
第3回(昭50) 三好豊一郎「三好豊一郎詩集」サンリオ出版
第4回(昭51) 北村太郎「眠りの祈り」思潮社
〔……〕(《最新 文学賞事典》、一七八ページ)

季刊詩誌《無限》第40号(1977年1月5日)の〈第四回無限賞受賞作品発表〉には、選考委員(西脇順三郎・草野心平・中桐雅夫・田村隆一・山本太郎)を代表して中桐が〈感想〉と題して受賞作品の北村太郎詩集《眠りの祈り》を称揚しているが、吉岡の《サフラン摘み》への言及は、当然ながら、ない。なお吉岡は、未刊の随想〈心平断章――「H氏賞事件」ほか〉(《現代詩読本――特装版 草野心平るるる葬送》、思潮社、1989年3月1日)にこの件のことを記している。ちなみにこのとき選考委員だった草野心平は、かつて吉岡が《僧侶》で受賞した第9回H氏賞と、のちに《薬玉》で受賞することになる第22回藤村記念歴程賞(次に掲げる)の選考委員でもあった。

受賞以外のこれらの文学賞を吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉(《吉岡実全詩集》筑摩書房、1996)に追加するとすれば、次のようになろうか。

一九六八年(昭和四十三年) 四十九歳
二月、『吉岡実詩集』が第十九回読売文学賞詩歌・俳句部門の候補作品となるも、受賞を逸する。

一九六九年(昭和四十四年) 五十歳
一月、詩集『静かな家』が第二十回読売文学賞詩歌・俳句部門の候補作品となるも、受賞を逸する。

一九七七年(昭和五十二年) 五十八歳
十一月、詩集『サフラン摘み』の第四回無限賞の受賞を辞退する。

一九八四年(昭和五十九年) 六十五歳
三月、詩集『薬玉』が第二回現代詩人賞の候補となるも、受賞を逸する。

一九八九年(昭和六十四年・平成元年) 七十歳
三月、詩集『ムーンドロップ』が第七回現代詩人賞の候補となるも、辞退する。また、同詩集の第四回詩歌文学館賞の受賞を辞退する。

この際せっかくだから、《文学賞の世界》に掲載されていない藤村記念歴程賞も録しておこう。ただし、受賞者の項目は中略した。

藤村記念歴程賞
詩壇に刺激を与えるため,「歴程」に寄せられた寄付金をもとにして,「歴程賞」が昭和38年創設された。昭和59年に「藤村記念歴程賞」と改称される。
主催者 歴程同人
選考委員 粟津則雄,朝倉勇,伊藤信吉,入沢康夫,草野心平,渋沢栄市,宗左近,那珂太郎,花田英三,山本太郎ほか。
選考方法 その年間の活字となった詩や詩論ばかりでなく,広い意味での詩的精神に貫かれた仕事に対しておくられる。
締切・発表 「歴程」誌上に発表。
賞・賞金 50万円
連絡先 〔住所・電話番号は略〕
受賞者
第1回(昭38) 伊達得夫「ユリイカ抄」と生前の出版活動に対して
〔……〕
第22回(昭59) 吉岡実「薬玉」書肆山田 菊地信義(装幀の業績に対して)(《最新 文学賞事典》、一七〇ページ)

《薬玉》は選考委員から「二十世紀末日本からしか生れない世界に類を見ない独自に見事な詩業」と評価された。吉岡は新宿・朝日生命ホールで行われた授賞式のようすを、随想〈菊地信義のこと〉(初出は《装幀=菊地信義》フィルムアート社、1986年12月1日)に書いている。

拙編《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》で吉岡が選考委員を務めた文学賞を調べてみると、H氏賞と高見順賞のふたつである。《文学賞の世界》に依れば、前者は「主催:日本現代詩人会(第9回までの名称:現代詩人会)、対象期間:1月1日〜12月31日に発行(奥付の発行年月日基準)、対象:刊行された新人によるすぐれた詩集、創設:平澤貞二郎の寄付により昭和25年/1950年創設」とあり、後者は「主催:高見順文学振興会→財団法人(公益財団法人)高見順文学振興会、対象期間:毎年12月1日〜翌年11月30日に刊行されたもの、対象:各年度の優秀詩集、創設:昭和45年/1970年1月24日、高見順の遺志により、高間秋子夫人から『高見順全集』の印税を有能な詩人の顕彰にあてたい、との申し出が思潮社の小田久郎社長のもとにあり、同社が運営事務を担うかたちで創設。なお思潮社は、昭和56年/1981年に運営事務を辞退することとなり、以後、高見順文学振興会の事務局で同事務を行うことになる」とある。前述したように、どちらも受賞の実績があるのは偶然ではないだろう。これらも《文学賞の世界》で調べてみるに如くはない。まず、H氏賞では第11回(昭和36年/1961年度)・第12回(昭和37年/1962年度)・第13回(昭和38年/1963年度)、とんで第18回(昭和43年/1968年度)と4回務めている。

第11回 H氏賞
昭和36年/1961年度
=[ 決定 ] 昭和36年/1961年4月1日
=[ 媒体 ] 『詩学』昭和36年/1961年6月号、『現代詩手帖』昭和36年/1961年5月号選考経過掲載
受賞 石川逸子 『狼・私たち』 昭和35年/1960年3月・飯塚書店〔現代詩集7〕
候補 牟礼慶子 『来歴』 昭和35年/1960年6月・世代社刊/粒来哲蔵 『舌のある風景』 昭和35年/1960年9月・歴程社刊/白石かずこ 『虎の遊戯』 昭和35年/1960年9月・世代社刊/山本太郎 『ゴリラ』 昭和35年/1960年11月・書肆ユリイカ刊/渡辺修三 『谷間の人』 昭和35年/1960年12月・東峰書院刊/嶋岡 晨 『偶像』 昭和35年/1960年8月・書肆ユリイカ刊/多田智満子 『闘技場』 昭和35年/1960年7月・書肆ユリイカ刊
会員投票の上位8詩集(石川逸子を含む)
候補 城 侑 『不名誉な生涯』 昭和35年/1960年8月・国文社刊
選考委員会による追加1詩集
賞金5万円+外国製万年筆
選考委員 木下常太郎/西脇順三郎/村野四郎/田中冬二/安藤一郎/黒田三郎/清岡卓行/三好豊一郎/吉岡実/山本太郎
全会員による投票
開票昭和36年/1961年2月13日
第1回選考委員会2月17日
第2回選考委員会3月27日
決定発表4月1日
授賞式5月27日18:00〜「五月の詩祭」内 [会場]東京・日比谷「第一生命ホール」

《詩学》(1961年5月号)の選考委員長・田中冬二のペンになる〈選考経過〉によれば、吉岡実は「理事会の委嘱の委員」のうちの一人で、第一回選考委員会(2月27日)、第二回選考委員会(3月27日)の双方に出席している。同文は「審議に当つては各委員が各の意見を充分に吐露すると共に、相容れるべきは容れ、其の本領をつくし極めてスムーズに選考を了し得たことを附記する。」と結ばれているが、吉岡を含む各委員の感想等は掲載されていない。また《現代詩手帖》(1961年5月号)には〈詩壇は女性詩人ブーム――H氏賞と武内俊子賞〉(目次の表記)という無署名の記事があって、H氏賞の選考経過にも触れている。記事には、田中委員長のコメントと木下常太郎・田中冬二(委員として)・三好豊一郎・黒田三郎の各選考委員の感想はあるが、吉岡実のそれは掲げられていない。

第12回 H氏賞
昭和37年/1962年度
=[ 決定 ] 昭和37年/1962年4月28日
受賞 風山瑕生 『大地の一隅』 昭和36年/1961年7月・地球社刊
候補 荒川法勝 『生物祭』 昭和36年/1961年6月・自然社刊/藤富保男 『正確な曖昧』 昭和36年/1961年6月・時間社刊/高野喜久雄 『存在』 昭和36年/1961年5月・思潮社/〔現代詩人双書第1冊〕/関口 篤 『われわれのにがい義務』 昭和36年/1961年8月・思潮社/〔現代詩人叢書3 〕/伊藤桂一 『竹の思想』 昭和36年/1961年12月・私家版/鷲巣繁男 『神人序説』 昭和36年/1961年8月・湾の会刊/天野 忠 『クラスト氏のいんきな唄』 昭和36年/1961年10月・文童社刊
会員投票の上位8詩集(風山瑕生を含む)
候補 入沢康夫 『古い土地』 昭和36年/1961年10月・梁山泊刊/わたなべかね -
選考委員会による追加詩集
賞金5万円+外国製万年筆
選考委員 安藤一郎/秋谷豊/安西均/草野心平/小海永二/嶋岡晨/中桐雅夫/三好豊一郎/村野四郎/吉岡実/吉野弘
全会員による投票
開票昭和37年/1962年3月5日
選考委員会4月28日 [会場]東京新橋「蔵前会館」
授賞式5月26日18:00〜「五月の詩祭」内 [会場]東京・日比谷「第一生命ホール」

《詩学》(1962年5・6月号)の〈詩壇の動き〉の「団体」の最初の項に「日本現代詩人会・H氏賞決定。さる4月24日の詮衡委員会において、風山瑕生詩集 『大地の一隅』に授賞決定した。次点は入沢康夫詩集 『古い土地』。」とある。これと別に風山瑕生による〈H氏賞受賞の感想〉が掲げられているが、同号は選考経過も選考委員の感想も報じていない。3年前の「H氏賞事件」の記憶が薄れ、授賞報道に熱がこもらなくなっているのではないか、という推測は当方の僻目か。付言すれば、入沢の《古い土地》の「装本」はカットが落合茂、構成が吉岡実である。

第13回 H氏賞
昭和38年/1963年度
=[ 決定 ] 昭和38年/1963年4月8日
=[ 媒体 ] 『詩学』昭和38年/1963年7月号選考座談会掲載【〈H氏賞選考委員・吉岡実〉参照】
受賞 高良留美子 『場所』 昭和37年/1962年12月・思潮社刊
候補 西垣 脩 『一角獣』 昭和37年/1962年8月・糸屋鎌吉〔青衣叢書4〕/菊地貞三 『奇妙な果実』 昭和37年/1962年11月・昭森社刊/堀場清子 『空』 昭和37年/1962年6月・冬至書房刊/片瀬博子 『おまえの破れは海のように』 昭和37年/1962年9月・思潮社刊/山本道子 『飾る』 昭和37年/1962年11月・思潮社刊/長田 晃 『遠い海 果しない列車』 昭和37年/1962年9月・現代詩研究所刊/斎藤広志 『荒野』 昭和37年/1962年-月・私家版
会員投票の上位8詩集(高良留美子を含む)
候補 入沢康夫 『ランゲルハンス氏の島』 昭和37年/1962年7月・私家版
選考委員会による追加詩集
賞金5万円+外国製万年筆
選考委員 草野心平/秋谷豊/安藤一郎/小海永二/村野四郎/吉岡実/吉野弘/安西均/中桐雅夫
全会員による投票
開票昭和38年/1963年3月21日
第1回選考委員会3月28日
選考委員会4月8日18:00〜 [会場]「トミーグリル」
授賞式5月25日18:00〜「五月の詩祭」内 [会場]東京・日比谷「第一生命ホール」

第12回の《古い土地》、そしてこの第13回の《ランゲルハンス氏の島》とたびたび候補に挙げられていた入沢康夫だが、《季節についての試論》(錬金社、1965年10月20日、200部限定)でH氏賞を受賞したのは1966年の第16回である。

第18回 H氏賞
昭和43年/1968年度
=[ 決定 ] 昭和43年/1968年
受賞 村上昭夫 『動物哀歌』 昭和42年/1967年9月・Laの会刊
受賞 鈴木志郎康 『罐製同棲又は陥穽への逃走』 昭和42年/1967年3月・季節社刊
賞金5万円+外国製万年筆
選考委員 安藤一郎/大岡信/草野心平/黒田三郎/山本太郎/入沢康夫/川崎洋/中島可一郎/西垣脩/三好豊一郎/吉岡実
授賞式5月10日18:00〜「五月の詩祭」内 [会場]東京・新宿「紀伊國屋ホール」

永年、H氏賞関連の記事を掲載している《詩学》だが、第18回の選考では関連記事が見あたらない。同誌1968年5月号の、黒田三郎による〈詩壇時評〉の冒頭にこうあるのが目にとまった。「五月十日(金)の夕方、五時半から、東京新宿の紀伊国屋ホールで五月の詩祭が開催され、村上昭夫、鈴本志郎康の両氏に日本現代詩人会H氏賞がおくられた。/この種の会合にここ数年僕は参加したことがなかったが、今年は選考委員でもあり、また理事でもあるので、心を励まして出席してみた。満員とまではいかなかったが、しかし、なかなか感じのいい会であった。療養中の村上昭夫氏に代り、弟さんがあいさつされたが、土井晩翠賞受賞のさいの村上氏の新聞の原稿をよみあげ、その心境には心うたれるものを覚えた。さらに鈴木志郎康氏は、不安について語り、今後受賞により、これまで職場では知られていなかった詩作がオープンになる、ということにふれてあいさつした。しかし、最後には、公開の席上では朗読に不適だと思われるプアプア詩を、自ら朗読してその面目を示した。/いずれも単なる儀礼に終らなかったのがよかった。村野四郎、入沢康夫の両氏による。「動物哀歌」「罐製同棲、又は陥罠[ママ]への逃走」についての話もよかった。/これらを通して、僕には両氏の詩がもっと親しくわかるようになったような感じさえした。鈴木氏が自分で「売春処女プアアプ[ママ]が家庭的アイウエオを行う」を朗読したことにより、僕には新たな理解を開かれた印象があった。」(同誌、一四ページ)。 これは選考会で鈴木の詩集を推した黒田の〈感想〉に替わる文章だが、吉岡を含む他の選考委員が〈感想〉を記していないのはさびしい。
吉岡は鈴木の受賞詩集に関して、後年、「〔……〕ぼくが思う鈴木志郎康というのは、『罐製同棲……』にあって、これは情報過多時代の傑作だろうと思うんですね。なんでこんなものができたのかを考えてみると、やはり同時代の、天沢退二郎とか吉増剛造とか、まあ、われわれ以後の人達には、日本語を毀しつつ自分の言葉をつくるという自在なものが風潮としてあった。そのとき、鈴木志郎康は、幸か不幸か広島に流されて、友達と離れた。逆に言うと、広島という土地で、非常に勝手気儘に書いていったということが、プアプア詩篇がでてきたことにつながっているんじゃないかと思うわけ。〔……〕初期の詩篇で言えば、「木目・波・壁」、「言葉」、「対話」、「結着」、どれもおもしろいな。『新生都市』になると、もちろんいくつかおもしろいのはあるけど、やはり『罐製同棲……』への準備ということがあると思う。それで、プアプア詩篇と『家庭教訓劇……』の詩篇を読むと、鈴木志郎康はどうなるんだろうと思っていたら、『やわらかい闇の夢』で、鮮やかな転換をしたわけね。ぼくなんかは、同じことを深めていく人よりも、変わっていく人に興味があるから、鈴木志郎康の転換は素晴しいと思った。」(吉岡実・飯島耕一・岡田隆彦・佐々木幹郎〔座談会〕〈思想なき時代の詩人〉、《現代詩手帖》1975年5月号〈特集=鈴木志郎康VS吉増剛造〉、一一八ページ)と評している。

次に高見順賞では、第9回(昭和54年/1979年度)から第13回(昭和58年/1983年度)まで、5回連続で選考委員を務めている(そのうち、第12回と第13回の2回は座長を兼任)。吉岡は選考に関する文章を、第9回は《現代詩手帖》1979年2月号に、第10回は《現代詩手帖》1980年2月号に、第11回は《現代詩手帖》1981年2月号に、第12回は《高見順文学振興会会報》1巻(1982年1月)に、第13回は《樹木》1号(1983年3月)に発表しているが、いずれも著書には未収録である。

第9回 高見順賞
昭和54年/1979年度
└[ 対象期間 ]─昭和52年/1977年12月1日〜昭和53年/1978年11月30日
=[ 決定 ] 昭和53年/1978年12月21日
=[ 発表 ] 昭和54年/1979年
=[ 媒体 ] 『現代詩手帖』昭和54年/1979年2月号選評掲載【〈吉岡実と三好豊一郎〉参照】
受賞 長谷川龍生 『詩的生活』 昭和53年/1978年4月・思潮社刊
候補 鮎川信夫 『宿恋行』 昭和53年/1978年11月・思潮社刊/安西 均 『金閣』 昭和53年/1978年5月・牧羊社刊/三好豊一郎 『林中感懐』 昭和53年/1978年5月・小沢書店刊/宗 左近 『縄文』 昭和53年/1978年11月・思潮社刊/佐々木幹郎 『百年戦争』 昭和53年/1978年6月・河出書房新社〔叢書・同時代の詩8〕/青木はるみ 『ダイバーズクラブ』 昭和53年/1978年9月・思潮社刊/墨岡 孝 『頌歌考』 昭和53年/1978年11月・詩学社刊
候補作8冊
選考対象としての参考資料34冊
正賞+副賞30万円+記念品
選考委員 飯島耕一/入沢康夫/中村真一郎/山本太郎/吉岡実
選考会昭和53年/1978年12月21日18:00〜 [会場]東京・市ヶ谷「萩の宮」
贈呈式昭和54年/1979年1月30日18:00〜 [会場]東京「赤坂プリンスホテル」
 私が市谷の旅館萩の宮に着いたのは、寒い夜の六時五分だった。それなのに、席には全員の方がそろっており、新参者の私は恐縮してしまった。わずか、五分の遅刻であったけれども。
 その席で事務局から、大岡信詩集《春 少女に》の発行日が、十二月五日になっているので、除外するとの報告を聞いた。今年は、五十代の人の詩集に、すぐれたものがいくつかあったが、私はひそかに、《春 少女に》を推す考えできたので、とまどってしまった。
 候補作を選ぶため、私の手元に届いていない、未読の詩集を若干だが、読まねばならなかった。時がたちいよいよ選考に入った。私は鮎川信夫《宿恋行》と安西均《金閣》の二冊を挙げた。久しぶりでまとめて読んだ鮎川の詩篇は、私にとって新鮮で、共感を覚えるものであった。(あえて蛇足を加えれば、渋谷東急プラザの、若い男女のひしめく紀伊国屋書店で、私は立読みした。街は歳末風景だった)。それから安西均の《金閣》だが、その巧緻な表現と構成によって、私は魅了された。こたつに入って、読むにふさわしい大人の詩である。三冊目を挙げるように言われたが、私はあえてしなかった。他の人の推せんする詩集を、時には肯定し、また否定した。
 夜も更けた。私は一冊に絞る段になって、長谷川龍生《詩的生活》を推した。なぜならここ三、四年精力的に《泉[フアンタン]という駅》、それから《直感の抱擁》を出し、いままた力作詩集を成就させた、長谷川の果敢な詩的生活[、、、、]に敬意を表したくなったからである。
 鮎川信夫、安西均とはまた別種の、成熟した詩境へ到達した、三好豊一郎《林中感懐》も、忘れてはならない詩集だと、私は思っている。(〈感想〉、《現代詩手帖》1979年2月号〈第九回高見順賞発表〉)
第10回 高見順賞
昭和55年/1980年度
└[ 対象期間 ]─昭和53年/1978年12月1日〜昭和54年/1979年11月30日
=[ 決定 ] 昭和54年/1979年12月12日
=[ 発表 ] 昭和55年/1980年1月10日
=[ 媒体 ] 『現代詩手帖』昭和55年/1980年2月号選評掲載
受賞 渋沢孝輔 『廻廊』 昭和54年/1979年10月・思潮社刊
候補 黒田喜夫 『不帰郷』 昭和54年/1979年4月・思潮社刊/中桐雅夫 『会社の人事』 昭和54年/1979年10月・晶文社刊/正津 勉 『青空』 昭和54年/1979年6月・思潮社刊/窪田般彌 『圓環話法』 昭和54年/1979年1月・思潮社刊/鈴木志郎康 『家の中の殺意』 昭和54年/1979年5月・思潮社刊/石垣りん 『略歴』 昭和54年/1979年5月・花神社刊/吉野 弘 『叙景』 昭和54年/1979年11月・青土社刊
候補作8冊
選考対象としての参考資料24冊
正賞+副賞30万円+記念品
選考委員 飯島耕一/入沢康夫/中村真一郎/中村稔/吉岡実
選考会昭和54年/1979年12月12日18:00〜 [会場]東京・市ヶ谷「萩の宮」
発表昭和55年/1980年1月10日
贈呈式1月31日18:00〜 [会場]東京「赤坂プリンスホテル」
 今年の選考はあまりにも、すんなり決ってしまった。候補詩集を、それぞれの選考委員が、美点をあげ推賞する情景もなく、ものたらない位だった。私は最初に、渋沢孝輔《廻廊》、鈴木志郎康《家の中の殺意》、正津勉《青空》を推した。《廻廊》は硬質の抒情を秘め、きわめて完成度が高い。《家の中の殺意》は、新しい境地が定着しはじめている。
 そして《青空》は、このごろとみに多い、日常詩や甘美な抒情詩のなかにあって、まれなる攻撃的詩である。いずれの詩集に決っても良いと思った。私が興味ぶかく思ったのは、入沢康夫氏が中桐雅夫《会社の人事》と黒田喜夫《不帰郷》をあげたことだった。昨年は、若い詩人を唯一人で推しつづけたからだ。たしかに近年、受賞者が老齢化していると思う。さて、《会社の人事》だが、たしかに成熟した良い詩集だが、あきたらないところもある。《不帰郷》は自己の文体を死守した労作だ。私も一票を投じたかった位であった。
 渋沢孝輔の《廻廊》は、最初から満票であり、これが受賞したことは当然であり、納得できる。私にとって、渋沢詩は難解な部分が多く、完全に読み切ることはできない。その謎の部分がまた魅力の一つでもある。
 新しく中村稔氏が委員に加わった。「世に稀れなる詩の読み手」と自称しているそうだから、心強いことである。(〈感想〉、《現代詩手帖》1980年2月号〈第十回高見順賞発表〉)
第11回 高見順賞
昭和56年/1981年度
└[ 対象期間 ]─昭和54年/1979年12月1日〜昭和55年/1980年11月30日
=[ 決定 ] 昭和55年/1980年12月19日
=[ 発表 ] 昭和56年/1981年
=[ 媒体 ] 『現代詩手帖』昭和56年/1981年2月号選評掲載【〈吉岡実の装丁作品(64)〉参照】
受賞 安藤元雄 『水の中の歳月』 昭和55年/1980年10月・思潮社刊
候補 多田智満子 『蓮喰いびと』 昭和55年/1980年10月・書肆林檎屋刊/鈴木志郎康 『わたくしの幽霊』 昭和55年/1980年6月・書肆山田刊/清岡卓行 『駱駝のうえの音楽』 昭和55年/1980年10月・青土社刊
候補作4冊
選考対象としての参考資料24冊
正賞+副賞30万円+記念品
選考委員 飯島耕一/篠田一士/中村稔/吉岡実/吉増剛造
選考会昭和55年/1980年12月19日18:30〜 [会場]東京・市ヶ谷「萩の宮」
贈呈式昭和56年/1981年1月30日18:00〜 [会場]東京「赤坂プリンスホテル」
 中村真一郎、入沢康夫両選考委員がやめられ、新しく篠田一士、吉増剛造両氏が加わっての選考会であった。この二人が初対面というのも意外であった。だから新鮮であると同時に、一種の緊張した雰囲気も感じられた。それぞれが未読の詩集を読みはじめる頃には、座もだいぶくつろいできた。
 私が推したいと思った詩集は、天沢退二郎《乙姫様》、多田智満子《蓮喰いびと》、鈴木志郎康《わたくしの幽霊》そして、安藤元雄《水の中の歳月》の四冊であった。しかし、予選は三冊ということなので、《乙姫様》を外さざるを得なかった。近来天沢君は自己の鉱脈を発見し、すぐれた散文形の詩を書いていると思う。だが《乙姫様》の中には常套化された作品もある。《死者の砦》の〈氷川様まで〉〈昇天峠〉のような詩が二、三篇あればと思った。多田智満子さんの《蓮喰いびと》は、女流には珍しく理知的に構成された良い詩集だと思った。ただ第三部の童謡風な作品を除外したら、詩集の統一がとれて強かったと思った(他の委員も同意見)。鈴木志郎康君の《わたくしの幽霊》は、新境地をひらいた詩集だと思った。その中心に据えられた〈数度の凌辱〉は近来の秀作だ。そこまでの前半にくらべ、後半の作品群に、死への思い入れが多く、疑問を覚えてしまった。
 私はいろいろと考え、安藤元雄君の《水の中の歳月》を推すことに決めた。寡作な詩人に依る手づくりの詩集だと思った。九カ年という長い制作期間につくられた、多少ニュアンスの違う詩篇を巧緻に配列し、みごとに統一した詩集である。一篇一篇の詩はそれほど強いと思えないのに、全体として見ると、意志(意識)の強さを感じる。妙な言い方かも知れないが、そこには内観の美がある。(〈感想〉、《現代詩手帖》1981年2月号〈第十一回高見順賞発表〉)
第12回 高見順賞
昭和57年/1982年度
└[ 対象期間 ]─昭和55年/1980年12月1日〜昭和56年/1981年11月30日
=[ 決定 ] 昭和56年/1981年12月17日
=[ 発表 ] 昭和57年/1982年
=[ 媒体 ] 『第十二回高見順賞のしおり 高見順文学振興会会報』[昭和57年/1982年1月]選評掲載【〈「恋する幽霊」――吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(12)――〈蜜はなぜ黄色なのか?〉〉の「蜜/鷲巣漢詩と〈落雁〉」参照】
受賞 鷲巣繁男 『行為の歌』 昭和56年/1981年4月・小沢書店刊
候補 知念栄喜 『加那よ』 昭和56年/1981年4月・沖積舎刊/北村太郎 『悪の花』 昭和56年/1981年10月・思潮社刊/大岡 信 『水府 みえないまち』 昭和56年/1981年7月・思潮社刊/藤井貞和 『ラブホテルの大家族』 昭和56年/1981年5月・書肆山田刊/鈴木志郎康 『水分の移動』 昭和56年/1981年10月・思潮社刊/『生誕の波動 歳序詩稿』 昭和56年/1981年10月・書肆山田刊/青木はるみ 『鯨のアタマが立っていた』 昭和56年/1981年11月・思潮社刊/北川 透 『情死以後』 昭和56年/1981年10月・アトリエ出版企画刊
候補作9詩集
正賞+副賞50万円+記念品
選考委員 飯島耕一/篠田一士/中村稔/吉岡実[座長]/吉増剛造
アンケート(200人)からの回答+事務局によって作成された一覧表+選考委員による推薦詩集18冊
選考会昭和56年/1981年12月17日18:00〜 [会場]東京・駿河台「山の上ホテル」
贈呈式昭和57年/1982年2月1日18:00〜 [会場]東京「赤坂プリンスホテル」
 先ずは、十二年の長きに亘り、高見順文学振興会の委嘱をうけ、高見順賞の運営にたずさわってきた、思潮社とその各位に、ご苦労さまとお礼を申上げる。
 今回の選考委員会では、私が年長の故に、座長をつとめることになった。不馴れのため、いささか進行が停滞した。
 多くの詩集の中から、私は四冊を推した。大岡信『水府』、藤井貞和『ラブホテルの大家族』、知念栄喜『加那よ』そして北川透『情死以後』である。ほかの委員もそれぞれ、四冊ないし三冊を選んだ。
 長い時間をかけ、討議したところ、『水府』と鷲巣繁男『行為の歌』の二冊にしぼられた。『水府』は多彩な言語表現を駆使して、現代の詩へ一つの富を加えていると思った。それから、『行為の歌』は、たしかに深遠で、荘重な世界がある。しかし、私には充分に解読できないところがある、信仰の問題だけではないだろうが、一種のもどかしさが残る。
 談笑のあとの長い沈黙――そして時間が経つ。しばらく休息して、全員で『行為の歌』を、受賞作に決めた。ほっとした空気がながれる。矮小化して行く、現代の詩のなかで、孤絶した『行為の歌』が選ばれたのも、意義があると、私は思った。(〈感想〉、《高見順文学振興会会報》1巻(1982年1月30日)〈第十二回高見順賞のしおり〉)
第13回 高見順賞
昭和58年/1983年度
└[ 対象期間 ]─昭和56年/1981年12月1日〜昭和57年/1982年11月30日
=[ 決定 ] 昭和58年/1983年1月18日
=[ 媒体 ] 『樹木』1号[昭和58年/1983年3月]選評掲載【〈吉岡実の装丁作品(44)〉〈吉岡実のレイアウト(3)〉参照】
受賞 入沢康夫 『死者たちの群がる風景』 昭和57年/1982年10月・河出書房新社刊
候補 藤井貞和 『日本の詩はどこにあるか』 昭和57年/1982年7月・砂子屋書房刊/白石かずこ 『砂族』 昭和57年/1982年7月・書肆山田刊/川崎 洋 『目覚める寸前』 昭和57年/1982年9月・書肆山田刊/会田綱雄 『糸瓜よ糸瓜』 昭和57年/1982年10月・矢立出版刊/藤村 壮 『窓の現象』 昭和57年/1982年3月・書肆季節社刊/清水 昶 『ワグナーの孤独』 昭和56年/1981年12月・思潮社刊/最匠展子 『そこから先へ』 昭和57年/1982年10月・青土社刊
候補作8詩集
正賞+副賞50万円+記念品
選考委員 篠田一士/中村稔/長谷川龍生/吉岡実[座長]/吉増剛造
アンケート(200人)からの回答+事務局によって作成された一覧表+選考委員による推薦詩集13冊
選考会昭和58年/1983年1月18日17:00〜 [会場]東京・駿河台「山の上ホテル」
贈呈式3月11日18:00〜 [会場]東京「赤坂プリンスホテル」
 朝からその日は大雨であった。風邪をこじらせていた私には、夕刻からの外出はつらい。お茶の水駅近くの茶豆館で、熱いコーヒーを啜り、気分をひきたて、駿河台の山の上ホテルへ赴いた。今宵の席は和室で、すでに新しく委員をつとめる、長谷川龍生氏が来ていた。しばらく、雑談し、あとは数冊の未見の候補作品を読んだ。
 今年は、すぐれた詩集が多い。そのなかで、白石かずこ『砂族』、藤井貞和『日本の詩はどこにあるか』、荒川洋治『遣唐』があり、若い世代では、平出隆『胡桃の戦意のために』などに、私は心惹れた。
 選考会がはじまると、私は『砂族』と『日本の詩はどこにあるか』そして入沢康夫『死者たちの群がる風景』の三冊を推した。白石かずこは、「砂漠と人間」という壮大な主題を、緊密なる文体で語り、感動させる。藤井貞和は、前作の『ラブホテルの大家族』で、現代最尖端の風俗を捉えて、哄笑を誘った。今度は一転して、古典的な風雅の世界を、破壊志向をひそめながら、歌い上げている。この二つのいずれかが、受賞作品に選ばれても、私は納得しただろう。
 入沢康夫『死者たちの群がる風景』への受賞が決定した。誰れもが予感していたことかも知れない。かつての名作『わが出雲・わが鎮魂』を遠いこだまと化すほど、この長篇連作詩は、死者と生者の交感を、複雑多岐に叙述して見事であった。(〈詩へ希望が持てた………〉、《樹木》1号(1983年3月10日)〈第十三回高見順賞〉〈選評〉)

これらも吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉に追加するとすれば、次のようになろうか。

一九六一年(昭和三十六年) 四十二歳
四月、第十一回H氏賞選考委員を務める。

一九六二年(昭和三十七年) 四十三歳
四月、第十二回H氏賞選考委員を務める。

一九六三年(昭和三十八年) 四十四歳
四月、第十三回H氏賞選考委員を務める。

一九六八年(昭和四十三年) 四十九歳
四月、第十八回H氏賞選考委員を務める。

一九七八年(昭和五十三年) 五十九歳
十二月、第九回高見順賞選考委員を務める。

一九七九年(昭和五十四年) 六十歳
十二月、第十回高見順賞選考委員を務める。

一九八〇年(昭和五十五年) 六十一歳
十二月、第十一回高見順賞選考委員を務める。

一九八一年(昭和五十六年) 六十二歳
十二月、第十二回高見順賞選考委員を務める(座長を兼任)。

一九八三年(昭和五十八年) 六十四歳
一月、第十三回高見順賞選考委員を務め(座長を兼任)、今回を最後に同賞選考委員を退く。

吉岡がこれらふたつの詩の賞の選考委員を務めたのは、推測するに、かつて自分自身が受けた賞という義理があって、断るに断れなかったためかもしれない。そして、筑摩書房という文芸書も手掛ける出版社の社員という立場が、これら以外の文学賞の選考委員に就くことを阻んだのかもしれない(社の業務としては、太宰治賞の下読みで〈愛の生活〉の金井美恵子を発見した経緯が随想〈少女・金井美恵子〉に書かれている)。だがそれ以上に、こうした賞の選考に関わること自体、負担を感じていたというのが実際のところではないだろうか。吉岡が次のように書いているからだ。「彼女としばしば会ったのは、銀座のサヱグサであった。いつも大きな袋から二、三十枚の原稿を取りだして、読めというので、私は当惑したものである。誰のであれナマの原稿を読まされるほど嫌なことはなく、今までも出来るだけ拒否してきたからだ。喫茶店で原稿を読む人物をみるのさえ私は好きでない」(〈白石かずこの詩〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一八九ページ)。さいわいなことに、吉岡が選考に関わった詩の賞は生原稿(むろん当時は手書きである)を読む形式ではなかったようだ。

〔追記〕
詩の賞の選考以外では、吉岡実は高柳重信に乞われて〈俳句評論賞〉の選考に関わっている。――金子兜太・神田秀夫・楠本憲吉・高柳重信・吉岡実・中村苑子〔座談会〕〈第二回俳句評論賞選考座談会〉(《俳句評論》25号、1963年2月)や、〈吉岡実の「講演」と俳句選評〉に引いた〈感想――俳句評論賞決定まで・経過報告と選後評〉(《俳句評論》72号、1967年9月)がその選評である。新人の詩作品では、《ユリイカ》の読者投稿欄の選評にゲストとして参加したことがある。そのときの談話は〔松浦寿輝・朝吹亮二・吉岡実(ゲスト)の対話批評〕〈奇ッ怪な歪みの魅力〉(《ユリイカ》1987年11月号)で読むことができる。新人の詩について書いた選評がないだけに、吉岡の詩観がうかがえる貴重な内容である。

〔2019年2月28日追記〕
日本現代詩歌文学館振興会・一ツ橋綜合財団編《詩歌文学館賞三〇年[詩・短歌・俳句]》(日本現代詩歌文学館振興会・一ツ橋綜合財団、2016年3月5日)という700ページを超える大冊がある。日本現代詩歌文学館館長で歌人の篠弘が同書に〈詩歌文学館賞の三〇年――井上靖氏の創意から〉を書いている(末尾に「二〇一五年一二月」とある)。序文に相当する文章である。その「4 本賞のエピソード」に、吉岡実の受賞辞退に関する瞠目すべき証言が記されている。吉岡本人はもちろん、第四回の詩の選考委員(安西均・入沢康夫・三木卓)もおそらく公表していないだろう事実が、初めて明らかになった。

 ここで、井上〔靖〕選考委員長時代の出来事として、第四回の詩部門における「受賞辞退」に触れておかなければなりません。吉岡実氏の詩集『ムーンドロップ』('88・11)が選考委員に推挙されます。〔井上〕先生は、同氏が筑摩書房の編集者であった時から面識もあり、かつ人間の存在を精力的に問うこの重鎮の詩作への授賞に賛同されておりました。
 選考会のあった〔一九〕八九年三月一四日の夜、選考委員の一人の安西均[あんざいひとし]氏と私が、目黒区青葉台のお宅を訪れ、約一時間にわたって同意をもとめましたが、不発に終わります。この折の吉岡氏の見解は、第一期の三回までの詩の受賞作からは「詩歌文学館賞の性格がわからず、新人賞めいたものに連なることはできない」と言うものでした。確かに詩の部門は、短歌・俳句の部門と異なって、当初において選考委員よりも年齢の若い、いわば後発の新鋭の詩人が受賞されておりました。第二期に入ったこの機会に、吉岡氏が受賞してくださることによって、「前年中に刊行された最も優れた作品集」という原則に立ち戻りたい、その先陣を切って欲しい旨を強調しましたが、受け容れられなかったのです。
 しかし、この吉岡氏のきびしい拒否に遭って、本賞の詩における評価の尺度が修正されてまいります。その端緒となった「受賞辞退」であり、むしろ吉岡氏の処決と評言に感謝しなければなりません。(同書、一六ページ)

〈吉岡実資料〉を編んだ1991年ころ、未見資料の調査のために小田久郎さんを思潮社に訪ねたことがある。そのおり、いろいろ秘話をうかがった。件の詩歌文学館賞辞退に関しては、吉岡からその経緯を聞いていたものの私には語るべきではないとされたのだろう、明言を避けられた。吉岡本人が書いていない以上、当事者ではない小田さんが私に伝えなければならない理由はない。だが、現・日本現代詩歌文学館館長の篠弘は、当時まさに賞を運営する立場の当事者だったわけで、この証言は重要である(「第一期の三回までの詩の受賞作」が何か、そしてそのときの選考委員が誰かは、《詩歌文学館賞三〇年[詩・短歌・俳句]》の本文に詳しい)。結局、本書には吉岡の《ムーンドロップ》が「第四回(平成元年)詩部門選出作」として記されているものの、〈受賞のことば〉のかわりに「選考委員会において、吉岡実『ムーンドロップ』(一九八八年十一月、書肆山田)が選ばれましたが、 吉岡実氏は受賞を辞退されました。」(同書、二六九ページ)とあるだけで、作品の選出も肖像写真・略歴の掲載もなく(これらはみな、他の受賞作にはある)、選考委員代表の三木卓の選評〈さらなる空間を示す〉(再録)も吉岡の受賞辞退の理由には触れていない。吉岡実の自作に対する矜持と、文学賞の選考に対する見識を思いしらされた一件だった。


吉岡実と鳥居昌三(2018年9月30日)

2018年7月28日、ヤフオク!に「【特選】吉岡実書簡 鳥居昌三宛 昭28(ペン書便箋2枚 封筒)」が出品された。開始価格は15,000 円。不甲斐ないことに、例によって落札しそこなったが、書簡の文面を手掛かりに吉岡実と鳥居昌三の関係を探ってみたい。まず、書簡の年代の「昭28」だが、これを西暦にすれば1953年で、次の写真にもある「〔昭和〕53〔年〕」のどこをどう読み間違ったのか、1953年=昭和28年とした誤りで、言うまでもなく昭和53年=1978年が正しい。よって「昭28」ではなく、「昭53」。そもそも、吉岡の署名が昭和28年当時のものではない。

鳥居昌三宛吉岡実書簡(昭和53年4月28日付速達)  鳥居昌三宛吉岡実書簡(昭和53年4月28日付速達)部分
鳥居昌三宛吉岡実書簡(昭和53年4月28日付速達)(左)と同・部分(右)〔出典:ヤフオク!〕

念のために、鳥居昌三宛吉岡実書簡(昭和53年4月28日付速達〔封筒の表に4月28日「小川町」の消印・4月29日「伊東」の消印〕)の文面を起こすと、次のようになる。

〔筑摩書房の便箋に〕
拝復、おはがき頂きながら、返事がおくれまし
たことを、おわび致します。
なにかと、雑用に追われていましたものですから。
小生の初期からの愛読者であるとのこと、
本当にうれしく思います。
英文詩集は、小生にも二十冊位しか届かず、少数の
友人に贈っただけです。
とにかく、出版社へ注文されたらと思います。
普[ママ]装と特装があることはたしかです。
ゼロックスで、参考資料をとりました。
          四月二十八日
               吉岡実
  鳥居昌三様

〔筑摩書房の封筒の裏面に〕
〔昭和〕53〔年〕4〔月〕28〔日〕
〔……筑摩書房……〕
吉岡実

鳥居昌三が吉岡実に送ったハガキの内容は、1976年[春か]にChicago Review Pressから佐藤紘彰訳で刊行された英訳詩抄《Lilac Garden: Poems of Minoru Yoshioka》の入手方法についてであろう。私が同書の存在を知ったのは《読売新聞〔夕刊〕》(1979年10月20日)の〈手帳〉欄の紹介記事〈吉岡実氏の英訳詩集好評――アメリカで刊行〉(無署名)だったから、鳥居はこれ以前に本書を知ったことになる。とすれば、新倉俊一が《英語青年》1977年12月号に寄せた書評〈吉岡実の英訳詩集〉を読んだか、それを読んだ詩誌《VOU》の仲間あたりから聞かされたか。情報ソースの詮索はともかく、鳥居は著者の手持ちの一冊を頒けてもらえまいかと依頼したのであろう。それに対する吉岡の回答は文面のとおりで、ゼロックス(今日いうところのフォトコピー〔電子写真複写〕)で奥付ページを取って同封したと思しい。著者に直接問いあわせるあたり、なかなか情熱的な読者だが(吉岡の「初期からの愛読者である」!)、蒐集にあたっては好印象を与えなかったと、さる老舗の古書店主が私に語ったことがある。なにがあったのか具体的には聞けなかったが。ところで、鳥居昌三についてインターネットで検索しても、重要なことはなにも出てこない(画像検索すると、詩集の書影が多数ヒットするのが特徴といえようか)。日外アソシエーツ編の書誌、《日本の詩歌 全情報 27/90》(日外アソシエーツ、1992年3月19日、八二三ページ)には、鳥居の著書に関して次のようにある。

鳥居 昌三 とりい・しょうぞう
◇アルファベットの罠―鳥居昌三詩集 鳥居昌三
 著 伊東 海人舎 1984.6 1冊 21cm
  〈『Trap』別冊 限定版〉
◇黒い形而上学 鳥居昌三著 東京 Press[ママ]
 bibliomane 1961 67p 21cm
◇詩集 火の装置 鳥居昌三著 東京 Presse
 bibliomane 1959 45p 17cm 〈限定版〉

本稿執筆のために、これらの稀少詩集を集めるのも骨が折れるので、《鳥居昌三詩集》(指月社、2013年11月15日)で代用させてもらうことにする(ちなみに同書は、石神井書林から購入した)。これは鳥居昌三歿後刊行の全詩集には違いないのだが、著者の生年・歿年さえ記されていない、はなはだぶっきらぼうな編集といわねばならない。もっとも、書かれたものがすべてで、それを鍾愛すべき書物の形にまとめることができたなら、詩人=愛書家がいつ生まれていつ死んだかなど、どうでもいいことなのかもしれないが。《鳥居昌三詩集》の〈目次〉を抄する。

未刊詩篇 VOU No. 56-60, 1957-1958
火の装置
黒い形而上学
未刊詩篇 VOU No. 80-95, 1961-1964
背中の砂漠
アルファベットの罠
化石の海
風の記号

白石かずこ〈VOUクラブの鳥居昌三の詩と造本への愛の旅〉
鳥居房子〈海人舎のひと〉

詩集《黒い形而上学》冒頭の詩篇〈黒い風〉は3節から成り、その「」にギヨーム・アポリネールが登場する。ちなみに《鳥居昌三詩集》の詩篇本文は、すべて横組みである。

 

真昼の黄いろい砂でおおわれた街角に巨大な鍵を持った黒い天使が並び空を見あげている

9メエトルほどの上空をしわだらけの球体が旋回している

突然の風とともに砂が舞いあがる

黄いろい空間

6人の同じ顔をした裸の人間が3本の穴のあいたパラソルをさし急いで陸橋を渡っていく

向う側の広告塔の上でギョオム=アルベエル=ウラジミイル=アレクサンドル=アポリネエル・コストロヴィッキイという名の詩人に似た賭博師があくびをしながら三角のトランプを切っている

広告塔の中から黒メガネの剥製の女が現われタパコ・パウチの中から贋造紙幣をひきだしゆっくりと食べはじめる

レプラに罹っている太陽

非常に遠いところで一発ピストルが鳴る

黒い風

何かが腐敗しているにおい

そして

すべてが崩れはじめる

詩句と詩句の間には1行アキがある。師である北園克衛にこの形式の作品があるのか詳らかにしないが、12番めの詩句「そして」は大胆な用法で、みごとに決まっている(「」には「そして/また」「そして/しかし」という詩句も見える〔/は改行〕)。かつてVOUに在籍し、鳥居とは北園の歿後、だいぶ経ってから会ったという白石かずこは、本書巻末の解説で

彼は「若いバッカス」を死ぬまでつづけた。そして常に「祝災日」を己自身で発火したにもかかわらず、その日のくるまでは沈黙の世にも美しい造本のために、そこに詩を投げこむために生命をけずる作業を、彼の片腕である女神にまでも強いたときく。それ故に彼はこの世を、はやめに去ったあとも己の繊細にして鋭い破調をもつアイロニカル・ビューティと詠嘆の詩作品のみならず、美食の果てなき悦楽にも似た美しさに、まぶたが濡れ、光るような本をいくつもつくり、世に残した。その影には大いなる夫人の、バベルの塔をきづくが如きご苦労とフランス式造本にかけては日本で唯一、随一と思われる大家利夫がいたことを、ここに明記しないわけにはいかない。わたしすらもその恩恵をこうむり、まさにピンクとオレンジと青と緑のふしぎなる詩集「四つの窓」や落ちついたシルバーがかったグレイの「羊たちの午后」の特製本をつくって書物の永遠の座に残る光栄に欲[ママ]したのである。(同書、一九四ページ)

と書いている。「彼の片腕である女神」は鳥居房子を指すのだろう。そして、「大家利夫」は本書の発行者である。四六判並製本の《鳥居昌三詩集》は、これらの人人(と北園克衛)の手によって「そこに詩を投げこむため」の一冊となった。

《鳥居昌三詩集》(指月社、2013年11月15日)の表紙
《鳥居昌三詩集》(指月社、2013年11月15日)の表紙〔カットは北園克衛か〕

最後に、《鳥居昌三詩集》で最も印象深かった一篇を掲げる。前掲書誌に依れば、詩集《アルファベットの罠〔『Trap』別冊〕》(海人舎、1984年6月)の〈〓 占愛術〉〔〓には〇で囲んだ小文字のxが入る〕である。

マンドラゴラの薮にはいまも
太陽のミイラが眠ってい
眠れない縞蛇はエロチックに
エクス閣下夫人の頭蓋骨をくすぐっている

巨大な棺桶の中では
忠実な執事たちが「KLORAN」を朗読

ああ
世界は裂け目だらけで
黄金の指は無花果に溺れ
盲目のプロンプタァは
曲線のチョコレェトをしらない

肉食獣になりたいエクス閣下
にとっては非常に悲しいことだ


〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引〉の試み(2018年8月31日)

吉岡実言及造形作家名・作品名索引 小引

さきごろ吉岡実年譜の記載を確認しながら、@読んだ本、A観た舞台・映画、B訪れた土地、とともにC観た美術展、がその作品と人物を論じる際の重要なテーマだと感じた。吉岡の随想や日記、自筆年譜を読んでいると、じつにさまざまな展覧会に足を運んでいることがわかる。公表された記録に残っていない美術展がどれほどあるのか想像もつかないが、吉岡が文章に残したものにはそれなりの意味がある、という線を基本にした。その記録から漏れた美術展のうち、たとえば〈ポール・デルボー展〉は私との面談のおりに吉岡が言及したため、また〈ボナ・ド・マンディアルグ展〉は私が銀座・青木画廊の芳名帳に吉岡の名を確認したため、記載することができた。吉岡実が観た絵や彫刻(および仏像)、書や写真をつくった造形作家をめぐる本格的な論考のまえに、その準備作業として吉岡の詩篇や随想、私の《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》――吉岡の未刊行の散文や私との面談で触れられた内容を含む――に登場する画家や彫刻家を中心に、リスト化しておきたい。記述のしかたは《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》に準じるが、今回はその前半分として、造形作家名・作品名・展覧会名の索引を掲げる。すなわち本稿〈〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引〉の試み〉である。後半分を成す、それら造形作家と作品・展覧会の解題は後日を期したい。全篇が完成したあかつきには、独立したページ《吉岡実言及造形作家名・作品名索引〔解題付〕》として、本サイトに掲載する予定である。(編者・小林一郎)

吉岡実言及造形作家名・作品名索引 凡例

総則

  1. 〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引〉には、吉岡実が執筆した詩篇や散文で言及した造形作家名、その作品名および展覧会名を、後述する底本における吉岡の記載を項目見出しとして五十音順に並べ、底本の略記号と掲載ノンブルを掲げた。ただし、詩篇に登場する場合、その重要性に鑑みて、底本《吉岡実全詩集》の略記号・掲載ノンブルではなく、詩篇の標題(および副題)詩篇番号を掲げた(これにより、《吉岡実全詩集》未収録の未刊詩篇も対象とすることができた)。後者の方が底本の掲載ノンブルよりも把握しやすいためである。読者はこの索引をたどることで、吉岡実の原文に遡ることができる。
  2. 〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引〉の「言及造形作家名」と「言及作品名」「言及展覧会名」にリンクを張って該当名を編者が解題したのが、後半の〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引 解題〉である。本体の〈索引〉と区別するために、小字で表示した。編者の責任で対象を特定した「言及造形作家名」と「言及作品名」「言及展覧会名」を太字で表示した。未詳・未見・存疑などの理由で特定できなかった場合は、その旨を註記した。解題の執筆に際し、Wikipediaや《新潮世界美術辞典》(新潮社、1985)、《広辞苑〔第四版〕》(岩波書店、1991)ほかを参照した。読者はこの解題によって、吉岡実が実際に目にした(であろう)造形作家やその作品・展覧会を追尾できる(項目見出しのあとに「*」印のある展覧会は、吉岡の歿後に開催されたことを表す)。展覧会図録の刊行が確認できた場合は言及した。ただし「総則2」の具体的な内容は、本稿執筆の2018年8月時点で未完成のため、サンプルを数件、掲載するにとどめた。

細則

  1. 対象:〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引〉は、吉岡実が執筆した全詩篇と散文著書(未公刊の小林一郎編《吉岡実未刊行散文集》を含む)および小林一郎編《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》で言及されている造形作家名、その作品名・展覧会名を対象とした。また、吉岡が引用した他者執筆の文中に現れるそれらも同列に扱った。なお、西脇順三郎(詩人・英文学者)のような場合、造形作品(の創作)に関連する項目のみを対象とした。作品名・展覧会名だけが項目見出しになる場合(アングル〈泉〉、〈アングル展〉、など)は、作者名を〔 〕に入れて空見出しを立てた(〔アングル〕)。鑑真和上像などにも、実在の人物名である鑑真和上を〔 〕に入れて空見出しを立てた。
  2. 底本:各詩篇・散文の底本を次に掲げる。出典の表示の仕方は、まず資料名をアルファベットで略記し、掲載ノンブルをアラビア数字でそれに続けた。すなわち「飯田善国/飯田善國[いいだ・よしくに]……形は不安の鋭角を持ち……(H・11), H165, Se246, YS161, N342, 350-351」は「飯田善国」または「飯田善國」が詩篇〈形は不安の鋭角を持ち……〉(H・11)と《土方巽頌》の一六五ページ、《「死児」という絵〔増補版〕》の二四六ページ、《吉岡実散文抄》の一六一ページ、《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》の三四二ページ、三五〇ページ、三五一ページに登場することを表す。なお、数字・アルファベットによる略記号や底本の詳細な書誌は、本サイトの《吉岡実書誌》を参照されたい。
    1. 吉岡実詩篇の底本
      (8)《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日)〔《吉岡実全詩集》未収録の未刊詩篇は〈吉岡実未刊詩篇本文校異〉掲載の本文に依った〕
    2. 吉岡実散文著書等の底本
      S 《「死児」という絵》(思潮社、1980年7月1日)
      H 《土方巽頌》(筑摩書房、1987年9月30日)
      Se 《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988年9月25日)
      U 《うまやはし日記》(書肆山田、1990年4月15日)
      W 《私のうしろを犬が歩いていた》(書肆山田、1996年11月30日)の掲載図版
      YS 《吉岡実散文抄》(思潮社、2006年3月1日)
    3. 上記2の吉岡実散文著書以外で本索引の対象とした文章の底本
      小林一郎編《吉岡実未刊行散文集》(文藝空間、1999年5月31日)掲載のもの〔略記号はM
      小林一郎編《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》(2012年8月31日)掲載のもの〔略記号はN
  3. 表記:底本が2. 1、2. 2の項目見出しには、吉岡実の記述のまま(引用符も含めて)採ったが、校訂しなかった。ただし、明らかな誤記・誤植と考えられる箇所は訂正し、〔誤→正〕を記した。例:〔エッチング→メゾチント〕。なお底本が2. 3の項目見出しでは、吉岡の用法を尊重して、括弧はおおむね〈 〉を用いた。
  4. 作者名:〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引 解題〉には、索引の対象となった作品・展覧会の作者名を見出しに立てて、解題を記した(単独の作者名が立てられないときは、作品名や展覧会名を見出しに立てた)。作者名は一般的と思われる表記で掲げ、併せてその読み(カタカナ表記の人名は欧文綴り)と生歿年を付記した。編者が本サイト《吉岡実の詩の世界》に執筆した関連記事がある場合、――(二倍ダーシ)に続けて記事名を掲げ、リンクを張った。参照していただけるとありがたい。
  5. 冠称:作品の冠称はジャンルを中心に、吉岡実執筆の本文から採択した。
  6. 図録書名:吉岡実が手にした展覧会図録は、底本の記述からだけでは特定しにくいものがほとんどである。探索に努めたが、刊本を実見できなかった場合は、国立国会図書館(NDL)の書誌情報NDL-OPACをはじめ、各種の出版目録・所蔵目録・関連書誌・美術事典等に依って記載した(ただし、煩瑣を避けるため個個の典拠は表示しない)。また、吉岡の眼に触れたと思しい作品の図版を掲載している書籍や雑誌にも適宜、言及した。

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吉岡実言及造形作家名・作品名索引

あ行    か行    さ行    た行    な行    は行    ま行    や行    ら行    わ行

あ行

会田綱雄[あいだ・つなお]……M182
  ――詩と書の個展……M182, N334
青山雅美[あおやま・まさみ]/青山政吉[あおやま・まさきち]……M45, 51, 56, 223
赤瀬川原平[あかせがわ・げんぺい]……H76, 129, 159, 205
――阿修羅像……S42, Se26, YS19
アバティ/アヴァティ[Mario Avati]……N342, M79
  ――〈かたつむりの散歩〉……W〔20〕
――阿弥陀如来(浄瑠璃寺)……Se308
アルチンボルド[Giuseppe Arcimboldo]……サフラン摘み(G・1)
アルプ[Jean Arp / Hans Arp]……スープはさめる(E・11)
〔アングル[Jean-Auguste-Dominique Ingres]〕
  ――アングル〈泉〉……M164, N348
  ――〈アングル展〉……M164, N348

飯田善国/飯田善國[いいだ・よしくに]……形は不安の鋭角を持ち……(H・11), H165, Se246, YS161, N342, 350-351
池田龍雄[いけだ・たつお]……H14, 87, 134, 138, 159, 166, 205, 211, YS170
池田満寿夫[いけだ・ますお]……夏から秋まで――池田満寿夫の版画の題名を藉りて(F・2), 草の迷宮(H・9), S284, H20, 21, 28, 36, 131, 152, 154, 155, Se201, 246, 330, YS161, 168, N334, 344, 337, 350
石岡瑛子[いしおか・えいこ]……H59
一休宗純[いっきゅうそうじゅん]……M177
伊藤若冲[いとう・じゃくちゅう]
  ――〈伊藤若冲展〉……M160, N339
井上武吉[いのうえ・ぶきち]……H130
伊原通夫[いはら・みちお]……S302, Se215, YS128
  ――詩画集《ミクロコスモス》……S302. Se215, YS128-129

ヴォルス[Wols]……S291, Se206
梅木英治[うめき・えいじ]……銀幕(K・9)
  ――梅木英治銅版画展……N355
梅原龍三郎[うめはら・りゅうざぶろう]……S330, H207, 209, Se231, YS142, M43, 156, N327
  ――ガッシュの絵……S330. Se231, YS142

榎本了壱[えのもと・りょういち]……H181
マックス・エルンスト[Max Ernst]……郭公――マックス・エルンスト石版画展に寄せて(J・6)

欧陽詢[おうよう・じゅん]……Se258, U40
  ――「九成宮醴泉銘」……U51
大岡亜紀[おおおか・あき]……S287, H182
太田大八[おおた・だいはち]……S34, 107, Se20, 71, M21, 48, 54, 157, N328-330, 347
大竹茂夫[おおたけ・しげお]……壁掛(J・5)
岡崎和郎[おかざき・かずお]……Se330
小山内龍[おさない・りゅう]……S28, Se16
小沢純[おざわ・じゅん]……秋の領分(K・5), H192, N358
  ――〈グロヴナー公の兎〉……W〔29〕
落合茂[おちあい・しげる]……N330, 359

か行

風倉匠[かざくら・しょう]……H129-130
片山健[かたやま・けん]……生徒(I・18), S230-234, H114, 205, Se162-166, N340, 345, 360
  ――画集《美しい日々》……S230, Se162, N338
  ――個展……S233, Se165
  ――個展……S234, Se166
  ――片山健個展……N340, 335
  ――片山健展……H205
  ――第二画集《エンゼル・アワー》……S231, Se163
  ――第三画集《迷子の独楽》……S233, Se165
  ――デッサン展……S231, Se163
  ――〈とんぼと少女〉……W〔23〕
〔葛飾北斎[かつしか・ほくさい]〕
  ――富嶽三十六景……S21, Se11
  ――北斎展……S21, Se11, N334
勝本富士雄[かつもと・ふじお]……M45, 56
金井久美子[かない・くみこ]……H38, 55, 139, 165, 182, N356
金子国義/金子國義[かねこ・くによし]……夢のアステリスク――金子國義の絵によせて(H・22), H140, N359
金子光晴[かねこ・みつはる]
  ――〈金子光晴展〉……M160, N336
加納光於[かのう・みつお]……S20, H28, 132, 135, 138, 158, 175, Se10, YS168, N334
  ――「半島状〔ナシ→の〕!」展……S20, Se10, N334
椛島勝一[かばしま・かついち]……M112
加山又造[かやま・またぞう]……H94, 215
〔河井寛次郎[かわい・かんじろう]〕
  ――河井寛次郎遺作展……S22, Se12, M159, N335
河原温[かわら・おん]……M51
  ――〈浴室〉……W〔22〕
顔輝[がんき]……N341
  ――伝顔輝筆〈寒山拾得図〉……M162, N341
  ――顔真蹟〈蝦蟇鉄拐図〉……M162, N341
――〈韓国古代文化展〉……M166, N351
〔鑑真和上[がんじんわじょう]〕
  ――〈鑑真和上像〉……Se309, M164, N348

菊地信義[きくち・のぶよし]……Se346-347
  ――『平台/「菊地信義の本」展』……Se346
岸田劉生[きしだ・りゅうせい]……H27
  ――〈岸田劉生展〉……M163, N346
  ――「麗子像」……H27
徽宗皇帝[きそうこうてい]……Se343
  ――「山水図」……Se344
  ――「桃鳩図」……Se343-344
  ――伝徽宗皇帝筆「猫図」……Se344, M165, N350
北大路魯山人[きたおおじ・ろさんじん]……S250, 252, Se177-178, N344
  ――四角な灰皿……S250, 252, Se177-178
――吉祥天女像(浄瑠璃寺)……Se308
木葉井悦子[きばい・えつこ]……H205
――〈黄不動〉(三井寺〔園城寺〕)……M161, N340
キリコ[Giorgio de Chirico]……マクロコスモス(F・1)
  ――〈デ・キリコ展〉……M161, N340

虞世南[ぐ・せいなん]……Se256, U34
〔草野心平[くさの・しんぺい]〕
  ――〈草野心平展〉……N353
クート[Lucien Coutaud]……模写――或はクートの絵から(E・4)
国吉康雄[くによし・やすお]……S263, Se186
ポール・クレー[Paul Klee]……ポール・クレーの食卓(I・1), ぽーる・くれーの歌〈又は雪のカンバス〉(未発表詩篇・2), Se73, 245, YS53, 152, M45, 119, 163, N327

――〈現代詩オブジェ展〉……N347
――〈元代道釈人物画特別展観〉……N341

黄山谷[こう・さんこく]……M60, N337
合田佐和子[ごうだ・さわこ]……S20, H19, 38, Se10, M208, N334
  ――オブジェ展……S20, Se10, N334
〔弘法大師[こうぼうだいし]〕
  ――〈弘法大師と密教美術〉展……M165, N351
アーシル・ゴーキー[Arshile Gorky]……S291, Se206
フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ[Vincent Willem van Gogh]……M227
小林古径[こばやし・こけい]……Se343
駒井哲郎[こまい・てつろう]……N332
  ――安東次男と駒井哲郎の詩画集《からんどりえ》……M158, N332
ゴヤ[Francisco Jose de Goya y Lucientes]……あまがつ頌――北方舞踏派《塩首》の印象詩篇(G・30), H89〔=〈あまがつ頌〉の引用〕

さ行

斎藤清[さいとう・きよし]……S102, Se67, 257, U35, 71, 85, M154, 226, N322
斎藤真一[さいとう・しんいち]
  ――〈しげ子 母の片身〉……W〔25〕
〔坂本繁二郎[さかもと・はんじろう]〕
  ――〈坂本繁二郎追悼展〉……M160, N338
佐熊桂一郎[さくま・けいいちろう]
  ――〈婦人像〉……W〔24〕

ジョージ・シーガル[George Segal]……H109
〔清水將文[しみず・まさふみ]〕
  ――清水將文個展〈火と呪術〉……N355
下村観山[しもむら・かんざん]……S40, Se24, YS15
  ――虹の図……S40, Se24, YS15
シャガール[Marc Chagall]……H137
  ――〈シャガール展〉……N357
シュヴァル[Joseph Ferdinand Cheval]……雷雨の姿を見よ(H・14)
  ――〈理想の宮殿〉……雷雨の姿を見よ(H・14)
――〈正倉院拝観展〉……M163, N348
――〈初期伊万里展〉……N357
〔書肆山田〕
  ――〈テクストにそって―画家と装幀家と―書肆山田の〈本〉展〉*……N359
ジャスパー・ジョーンズ[Jasper Johns]……曙(H・8)
――〈十二神将立像〉とりわけ〈伐折羅大将像〉(新薬師寺金堂)……Se307, N328
エゴン・シーレ[Egon Schiele]……水鏡(H・6)
  ――〈エゴン・シーレ展〉……N346

菅木志雄[すが・きしお]……H173
スタンチッチ[Miljenko Stancic]……S107, 奥付, Se口絵, 70, YS50
  ――死児……S107, 奥付, 〔貼函〕, Se口絵, 70, YS50
スーチン[Haim Sutin / Chaim Sutin]……M227
スワンベルグ[Max Walter Svanberg]……スワンベルグの歌(未刊詩篇・12), N340

ヘルマン・セリエント[Hermann Serient]……異邦――へルマン・セリエントの絵によせて(H・5), H205
  ――〈異邦〉……W〔21〕
  ――〈ヘルマン・セリエント展〉……N354

――宋元山水画……Se24, YS16
副島蒼海[そえじま・そうかい]……M60
曽我蕭白[そが・しょうはく]……M160, N339
  ――〈近世異端の芸術展〉……N339
ゾンネンシュターン[Friedrich Schroder-Sonnenstern]……ゾンネンシュターンの船(G・24), N333
  ――(題なし。梱包用紙に鉛筆で)……W〔30〕

た行

――〈大威徳明王像〉……M165, N350
〔高島野十郎[たかしま・やじゅうろう]〕
  ――〈高島野十郎展〉……M208, N356
〔高橋新吉[たかはし・しんきち]〕
  ――〈高橋新吉書画展〉……M182, N339
高村光太郎[たかむら・こうたろう]……S238, Se167-168
高山泰造[たかやま・たいぞう]……M60
瀧口修造[たきぐち・しゅうぞう]……舵手の書――瀧口修造氏に(G・22), H11, 13-14, 16-17, 19, 28, 38, 41, 55-56, 58-59, 71, 102, 115-117, 138, 153, 157, 165, Se210, M154, N322, N340, 341, 346
  ――瀧口修造とジョアン・ミロの詩画集《ミロの星と共に》展示会……S316, Se210, N345
田鶴浜洋一郎[たづはま・よういちろう]……H167, 174, 187, 193
田中一光[たなか・いっこう]……H28, 133, YS168
田中岑[たなか・たかし]……H77
谷内六郎[たにうち・ろくろう]……M35, N326
谷川晃一[たにがわ・こういち]……H25, 52
俵屋宗達[たわらや・そうたつ]……Se342
  ――「仔犬図」/「犬図」……Se342-343
  ――「風神雷神図」……Se342
  ――「舞楽図」……Se342
  ――「蓮池水禽図」……Se342

――〈中国の絵画展〉……M165, N349
――〈中国名陶百選〉……M54, 158, N331
――〈中山王国文物展〉……M164, N348
褚遂良[ちょ・すいりょう]……Se257, U37

つげ義春[つげ・よしはる]……S230, H43, Se162, N338
  ――〈ねじ式〉……S230, Se162

〔ポール・デイヴィス[Paul Davis]〕
  ――ポール・デイヴィスのアクリル画〈猫とリンゴ〉……W〔19〕, N344, 355, 358
  ――〈ポール・デービスの世界展〉……N355
〔ポール・デルヴォー[Paul Delvaux]〕
  ――〈ポール・デルボー展〉……N341
――奠雁……Se282-283

富岡鉄斎[とみおか・てっさい]……S21, H194, 197, Se11
  ――〈鉄斎展〉……M161, N341
  ――〈富岡鉄斎展〉……N354
〔富本憲吉[とみもと・けんきち]〕
  ――〈富本憲吉遺作展〉……M160, N338
富本貞雄[とみもと・さだお]
  ――〔西脇順三郎の〕大きなカラーの肖像写真……Se241, YS155
アンドレ・ドラン[Andre Derain]……H168

な行

中尾彰[なかお・しょう]……M222
中川紀元[なかがわ・きげん]……M45
長沢蘆雪[ながさわ・ろせつ]……M160, N339
  ――〈近世異端の芸術展〉……N339
永田耕衣[ながた・こうい]……S21, 151, Se11, H18, 82, 167, 172, 192, 214, M20, 21, 30, N332-333, 338, 353
  ――〈羽痛女神像〉……M175
  ――「おしどり図」……S22, Se11, N334
  ――〈花紅〉……M168
  ――〈牛臥揚蝶図〉……M60
  ――〈近海地蔵〉……M60, 61
  ――「金剛」……S21, Se11, M59, 125-126, 174
  ――〈秋怨不動図〉……M60
  ――書画展……M121
  ――〈書と絵による永田耕衣展〉…… M59, 71,N337
  ――永田耕衣展……N339
  ――永田耕衣の書画集《錯》……M174, N354
  ――〈鯰佛〉……M60, 70, 71, N338
  ――「白桃図」……S21, Se11, W〔27〕, M159, N334
  ――〈白桃女神像〉……M60, 61, 71, N337
  ――〈不生〉……M79, 174
  ――〈老鴉夕焼図〉……M61
永田力[ながた・りき]……M52, N331
――〈那智瀧図〉……N353
中西夏之[なかにし・なつゆき]……S284, H14, 18, 20, 25, 28, 33, 36, 41, 53, 56, 83, 85, 87, 104-105, 131, 137, 147, 159, 206, 211, 奥付, Se201, 344, 346, YS167-168, 170, N336, 359
  ――卵のオブジェ……H〔ジャケット〕, 〔本扉〕, N336
  ――個展『むらさき』……Se346, N350
  ――〈中西夏之展〉……N357
中村宏[なかむら・ひろし]……H28, 62, 236, YS168
難波田龍起[なんばた・たつおき]……S236-238, Se166-168, M204, N328
  ――〈北国の家〉……S237, Se167
  ――奇妙な一枚の油絵……S236, Se166

ルイズ・ニーヴェルスン[Louise Berliawsky Nevelson]……雨(F・9)
西脇順三郎[にしわき・じゅんざぶろう]……S23, 26, 88, 209, 213, 330-331, 342, H26, 34, 45, 85, Se222-247, 285-286, 298, 300, 304, 314-315, N342, 344-349, 353, 360
  ――〈永遠の旅人 西脇順三郎 詩・絵画・その周辺〉展……M199, 202, N356
  ――個展……Se246
  ――〔詩集《夏の宴》の〕装幀に使った西脇順三郎先生の絵……S209, 342, Se153, 239-240
  ――(題なし。スケッチ帳から)……W〔28〕
  ――大理石の蛇……Se245, YS159
  ――小さな油絵……S335, Se234, YS146
  ――西脇順三郎絵画展……M132
  ――〈西脇順三郎画展〉……N336
  ――「西脇順三郎の絵画」展……Se246, M164, N348, YS161
  ――富嶽図……S331, Se232
  ――〈馥郁タル火夫ヨ――生誕百年西脇順三郎その詩と絵画〉展*……N360
  ――龍の絵……S332, Se233, YS144
  ――「龍の図」「虎の図」……S331-332, Se232, YS143, N341
――〈日本の詩歌展――詩・短歌・俳句の一〇〇年〉*……N359
――日本美術展覧会……M222, N326

野中ユリ[のなか・ゆり]……H11, 28, 59, 79, 126, 135, YS168

は行

〔ルドルフ・ハウズナー[Rudolf Husner]〕
  ――〈ルドルフ・ハウズナー展〉……M164, N349
白隠[はくいん]……Se11, H154, M60, 177, N337
長谷川等伯[はせがわ・とうはく]……H191
――〈八大童子立像〉(金剛峯寺)……M165, N351
羽永光利[はなが・みつとし]……H210, 238, YS177
浜口陽三[はまぐち・ようぞう]……S74, Se45, YS11, N331
  ――〔エッチング→メゾチント〕の佳作「白菜」……S74, Se45, YS11
林静一[はやし・せいいち]……S230, Se162, N338
――〈ぱるこ・ぽえとりい展〉……N339
バルテュス[Balthus]……H168-169, 194, 196, Se361
  ――「美しい日々」…… Se362
  ――「ギターのレッスン」…… Se361, 362
  ――「金魚」…… Se361
  ――「子供たち」…… Se361
  ――風景画「コメルス・サンタンドレ小路」…… Se361, 362
  ――バルテュス展……Se362, M168, N352
  ――「部屋」…… Se361
  ――肖像画「ホアン・ミロとその娘ドロレス」…… Se362
  ――「街」…… Se361
  ――「夢」…… Se361

ビアズレー[Aubrey Vincent Beardsley]……H94
ピカソ[Pablo Picasso]……S87, 102, 133, 161, H94, Se57, 67, 89, 110, 335, YS82, M101, 138, 154-155, N322, 350
  ――〈ピカソ秘蔵のピカソ展〉……M164, N348
樋口一葉[ひぐち・いちよう]……S250, Se176
  ――短冊……S250-251, Se176-177
土方巽[ひじかた・たつみ]
  ――詩画集《土方巽舞踏展 あんま》……N336, YS169
  ――「土方巽舞踏写真展」……YS179, N355

レオノール・フィニ[Leonor Fini]……ツグミ(I・21), M146
藤田嗣治[ふじた・つぐはる]……U129
  ――版画「麗人」……U129
藤村英雄[ふじむら・ひでお]……H150
ローラン・ブリジオ[Roland Bourigeaud]……フォーサイド家の猫(G・17)
文三橋[ぶん・さんきょう]……M60
――文展……U84

――〈平家納経〉……M161, N339
フランシス・ベーコン[Francis Bacon]……N355
ハンス・ベルメール[Hans Bellmer]……青い柱はどこにあるか?――土方巽の秘儀によせて(F・6), 聖少女(F・10), H54, Se359, M30, 151
  ――着色写真集[、、、、、]……Se359
  ――ハンス・ベルメール《人形写真集》……N337

――〈ボストン美術館所蔵日本絵画名品展〉……M165, N350
細江英公[ほそえ・えいこう]……H13-15, 131, 236, N336
  ――「とてつもなく悲劇的な喜劇」……H14, N336
堀内位智子[ほりうち・いちこ]……M51

ま行

ルネ・マグリット[Rene Francois Ghislain Magritte]……雷雨の姿を見よ(H・14), S285, H37, Se202
松井喜三男[まつい・きみお]……自転車の上の猫(G・15)
真鍋博[まなべ・ひろし]……M53, N331
〔ボナ・ド・マンディアルグ[Bona de Mandiargue]〕
  ――〈ボナ・ド・マンディアルグ展〉……N346

三木富雄[みき・とみお]……H28, 76, YS168
ミケランジェロ[Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni]……H138, M38
水谷勇夫[みずたに・いさお]……H194, 240, YS179
宮迫千鶴[みやさこ・ちづる]……H53
三好豊一郎[みよし・とよいちろう]
  ――(題なし)……W〔26〕
ホアン・ミロ[Joan Miro i Ferra]……狩られる女――ミロの絵から(D・18), S316, H115, 168, Se210, 220, 362
  ――瀧口修造とジョアン・ミロの詩画集《ミロの星と共に》展示会……Se210, N345
――弥勒菩薩半跏思惟像……S41, Se25, YS16

へンリー・ムア[Henry Spencer Moore]……舵手の書――瀧口修造氏に(G・22)
  ――〈ヘンリー・ムーア展〉……M160, N336
棟方志功[むなかた・しこう]……M59
ムンク[Edvard Munch]……白夜(G・23)
  ――〈ムンク展〉……M164, N348

――迷企羅像……Se308

黙庵[もくあん]……M162
  ――「四睡図」……M162

や行

八木一夫[やぎ・かずお]……M60
――薬師如来……Se307
安井曾太郎[やすい・そうたろう]……M43, 156, N327

横尾忠則[よこお・ただのり]……H14, 16
吉江庄蔵[よしえ・しょうぞう]……H94
吉田健男[よしだ・たけお]……S328-329, Se229-230, M157, N328
吉村益信[よしむら・ますのぶ]……H128-129
四谷シモン[よつや・しもん]……薄荷(K・6), H17, 19, 38-39, 41, 43, 76, 79, 112-113, 139, 179, 197, 208, 211, Se360, N338, 345, 353
  ――少女人形……Se360
  ――「ドイツの少年」……Se360
  ――第一回個展「未来と過去のイヴ」……Se360, N340
  ――四谷シモン人形展〈ラムール・ラムール〉……N349

ら行

――「両界曼荼羅」……Se367
〔良寛[りょうかん]〕
  ――〈良寛展〉……M163, N347
リラン[Li-lan]……S284, H20-21, 28, Se201, YS169

ルドン[Odilon Redon]……異霊祭(G・19)

ロダン[Francois-Auguste-Rene Rodin]……S88, 103, 143, Se57, 68, 97, 287-288, YS35, 37-39, 48, 90, M155, N327
アンリ・ローランス[Henry Laurens]……形は不安の鋭角を持ち……(H・11)

わ行

アンドリュー・ワイエス[Andrew Wyeth]……謎の絵(H・ 26)
和田芳恵[わだ・よしえ]……S244, Se173
  ――自筆の「寂」……S244, Se173
〔渡辺兼人[わたなべ・かねんど]〕
  ――渡辺兼人写真展〈逆倒都市〉……H139, M164, N349


吉岡実言及造形作家名・作品名索引 解題(2018年8月時点で未完成)

                                                                                                       

太田大八(おおた・だいはち、1918-2016)
「昭和・平成期の絵本画家,イラストレーター.長崎県出身.多摩帝国美術学校図案科卒.主な受賞歴は,日本童画会賞(昭和30年),小学館絵画賞(昭和33年),アンデルセン賞国内賞(昭和34年),サンケイ児童出版文化大賞(昭和40年),国際アンデルセン賞2席(昭和45年)《馬ぬすびと》,ドイツ民主共和国ライプチヒ国際図書芸衛展奨励賞(昭和50年),厚生省児童福祉文化賞(昭和51年),IBA国際図書芸術展金賞(昭和52年),講談社出版文化賞(絵本賞)(昭和56年),児童文化功労者(第29回)(平成1年),赤い鳥さし絵賞(第4回)(平成2年)《見えない絵本》,日本の絵本賞絵本にっぽん賞(第15回)(平成4年)《だいちゃんとうみ》,サンケイ児童出版文化賞(美術賞,第45回)(平成10年)《絵本西遊記》,モービル児童文化賞(第34回)(平成11年),産経児童出版文化賞(第49回)(平成14年)《えんの松原》.太田は昭和24年から児童図書や絵本などのイラストレーターとして活躍.児童出版美術連盟の設立に参加,長年にわたって理事長をつとめ,絵の著作権確立に尽力した.代表作に《馬ぬすびと》《かさ》《ながさきくんち》《近世のこども歳時記》《だいちゃんとうみ》《絵本西遊記》やSF小説《スパンキー》など.」(日外アソシエーツ編《20世紀日本人名事典 あ〜せ》、日外アソシエーツ、2004年7月26日、四八七ページの記述を元にアレンジした)
1951年、筑摩書房に入社した吉岡は、担当した〔小学生全集〕の挿絵を新進の挿絵画家・太田大八に依頼した。「童画家太田大八・十四子夫妻を知る。以後、一種の実家として、独身時代の憩いの場所となる」(〈〔自筆〕年譜〉1952年の項)。やがて太田の周辺にいた友人たちとも親しくなり、吉田健男とは1954年に健男が心中するまで同居した。吉岡が真の詩的出発を遂げた詩集《静物》(私家版、1955)の発行人は太田である。1959年、吉岡が和田芳恵の長女・陽子と結婚するに際しては、仲人を務めた。太田は、最晩年まで吉岡の詩に触発された絵を描く構想を抱いていたが、実現されなかった。太田が吉岡を語った文章に〈カメレオンの眼〉がある。
  ――太田大八さんを偲ぶ

リュシアン・クートー(Lucien Coutaud、1904-77)
「〔仏・画〕ガール県メーヌに家具職人の子として生る。ニームの美術学校に学んだ後、パリに出て二、三の研究所に通う。一九二八年頃より作品を発表し出したが、その後イタリアに遊び、初期ルネッサンス、特にピエロ・デラ・フランチェスカに感動したと伝えられる。帰仏後はシュールレアリスムの作品を発表しているが、四二年来は主としてサロン・ドオトンヌ及びテュイルリーに出品、四五年にはサロン・ド・メエの設立に参加した。その独特の、針と刺を想わせるような線と形の組合わせによる人体からは、一種の悲哀の情と夢幻が不思議な現実感となって、われわれに迫ってくる。最近の彼はタピストリーの下絵、建築装飾、バレエの装置など、装飾美術の方面にも、その多才ぶりを発揮している。現在、フランスの中堅作家中、最も注目される一人である。(嘉門〔安雄〕)」(今泉篤男・山田智三郎編《西洋美術辞典》、東京堂、1954年11月30日、一九八〜一九九ページ)
吉岡は詩篇〈模写――或はクートの絵から〉(E・4)を書いているほか、《静物》(1955)所収の〈風景〉(B・10)は稿本の段階では目次・本文とも〈クートーの風景〉という題名だった。

  ――1953年1月にわが国で初の個展が神奈川県立近代美術館で開かれ、4ページのリーフレットながら目録も刊行された(吉岡が同展を観た記録はないが、観ていなければおかしい)。1963年には来日して、東京と大阪で個展を開いている。
  ――詩篇〈模写――或はクートの絵から〉初出発見記

吉田健男(よしだ・たけお、192?-1954)
生年は未詳。太田大八(1918-2016)の多摩帝国美術学校図案科時代の後輩の画家で、吉岡実の年少の友人。吉田健男のオジ(?)は翻訳家・英文学者・児童文学者の吉田甲子太郎(1894-1957)だという(太田大八談)。
  ――吉岡は〈西脇順三郎アラベスク〉の「3 化粧地蔵の周辺」で、健男と同居していたころのことを回想している。また〈〔自筆〕年譜〉に「健男の死を契機に、現れた女性T・Iと奇妙な恋愛遊戯」と書いている。
  ――吉岡実と吉田健男
  ――吉田健男の装丁作品

四谷シモン(よつや・しもん、1944- )
「東京に生まれる。本名は小林兼光。1959年中学校を卒業し、日本デザイン・スクールに入学するが、間もなく中退する。幼少期から人形の制作に熱中し、1963年ハンス・ベルメールの人形を知ったことから、シュルレアリスムに深く傾倒するとともに、自らも関節の動く等身大人形の制作をはじめる。1967年芝居に使う人形を作ったのがきっかけで唐十郎と知りあい、71年に退団するまで状況劇場に役者として出演する。この間デパートのディスプレー用の人形制作や、大阪万国博覧会せんい館の仕事などを手がける。1973年青木画廊(銀座)で初めての個展を開催、女性の等身大人形12体を展示して大きな反響を呼ぶ。1974年第11回日本国際美術展に、82年富山県立近代美術館の「瀧口修造と戦後美術」展に招待出品。1978年エコール・ド・シモンを開校し、人形制作の指導にあたる。現在も特異なエロティシズムを漂わせる人形の制作にあたるとともに、役者としても活躍している。」(埼玉県立近代美術館編《なぜか気になる人間像――ピカソ、ダリ、ホックニーなど 徳島県立近代美術館所蔵名品展》埼玉県立近代美術館、1992年〔8月12日〕、八一ページ)
吉岡は詩篇〈薄荷〉(K・6)を《四谷シモン 人形愛》(美術出版社、1985年6月10日)に寄せている。

  ――吉岡が四谷の人形に最初に触れた雑誌《太陽》1970年2月号〔世界の人形〕の「人形と暮らす3 四谷シモン――犯された玩具」には、三体の人形(ベルメールの人形写真を参照して模造したもの、初の等身大の本格的なもの、マグリットへの愛をこめてつくったもの〔とともに立つ作者本人〕)が5ページに亘って紹介されている(写真撮影は石元泰博)。
  ――吉岡実と四谷シモン

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冒頭の小引の草稿を書いたのは、今をさかのぼること数年前――おそらく2014年に〈吉岡実詩における絵画〉を書いた前後――だっただろう。通常の記事と違って、こうした資料物の場合、企画してから脱稿するまで長い年月を要するのが常である(吉岡実を引きあいに出すのなら、編著《耕衣百句》がそれである。永田耕衣の全句業から百句を撰して若干の解説を書くというのが、その簡にして明なる企画だったに違いない)。ところで、人名索引や事項索引は個人全集の肝であると同時に、最大の難所でもある。《澁澤龍彦全集〔全22巻・別巻2〕》(河出書房新社、1993〜95)にCD-ROMの索引を付けるプランがあったと聞くが(全巻購読者への特典?)、立ち消えになったようだ。前回、《胡桃の中の世界》を全集本で再読したとき、人名索引(たとえば、アルチンボルド)や事項索引(たとえば、示影針)がないのをどれほど残念に思ったことか。著者の澁澤ほどの知の蓄積があれば索引は不要だろうが、常人がその世界に分け入るのに必要かつ不可欠な工具書が、これらの索引である。だれか《澁澤龍彦全集》の索引をつくるほどの猛者はいないか。(2018年8月)


〈示影針(グノーモン)〉と《胡桃の中の世界》(2018年7月31日)

「だが、吉岡が澁澤の方法を自家薬籠中のものとしたのは「澁澤龍彦のミクロコスモス」を詞書にもつ詩篇〈示影針(グノーモン)〉(G・27)をもって嚆矢とする。詩篇と澁澤龍彦《胡桃の中の世界》(青土社、1974)の関係については、他日を期したい」とは、〈吉岡実と和田芳恵あるいは澁澤龍彦の散文〉の結びの文だった。今回はその約束を果たすべく、〈示影針(グノーモン)〉と《胡桃の中の世界》(青土社、1974年10月1日)を読みくらべてみよう。

《ユリイカ》1975年9月号〈特集=澁澤龍彦 ユートピアの精神〉表紙 吉岡実〈示影針(グノーモン)〉の冒頭見開き(《ユリイカ》1975年9月号〈特集=澁澤龍彦 ユートピアの精神〉、一〇四〜一〇五ページ)
《ユリイカ》1975年9月号〈特集=澁澤龍彦 ユートピアの精神〉表紙(左)と吉岡実〈示影針(グノーモン)〉の冒頭見開き(同誌、一〇四〜一〇五ページ)(右)

まず詩篇の標題である「示影針(グノーモン)」は澁澤の著書に、次のように登場する。

 この建造物は一六三三年、英国王チャールズ一世の命により、宮廷付きの石工の長であったジョン・ミルンという者が、同じく石工のジョン・バトゥーンと協同で製作した。石材を正二十面体に切った幾何学的な日時計で、その各面は半球状に凹まされ、凹んだ半球内に示影針[グノーモン]や、いろいろな装飾的彫刻が彫りこまれている。(同書、三八ページ)

古来の日時計には多くの種類が数えられるが、澁澤は「〔一九三二年に死んだと推定される、今世紀の最も博学なフランスの錬金術研究家〕フルカネルリの断言するところによれば、このエディンバラの二十面体の日時計は、それらのどの形式とも一致しない。原型と思われるものは一つもないのである。しかしギリシアにおける日時計の古称である「グノモーン」は、語源的にグノーシス(知識)やグノーム(地中の精)と同じで、隠された知識や秘伝を意味するから、この古義に即して考えてみるならば、エディンバラの日時計が何の象徴であるかは、おのずから明らかになるにちがいない。すなわち、日時計の二十面体は、実際的な時計の効用を有するとともに、またグノーシス的な錬金術の奥義に近づくための、秘密の鍵をあらわしてもいるのである」(同前、三九ページ)と続けて、それを詳らかにしていく。すなわち全13篇を収めた《胡桃の中の世界》の、冒頭〈石の夢〉に次ぐ第二篇〈プラトン立体〉の一節だが、ここで提示された時計のモチーフは終わりから三つめに置かれた、本書の白眉〈ユートピアとしての時計〉で全面的に展開される。ときに、丸谷才一は《胡桃の中の世界》刊行当月(1974年10月)の《朝日新聞》の〈文芸時評〉で逸早く本書を取りあげた。「批評家がみんなせつせと『伊勢』『源氏』を論ずる今日このごろ、流行を横目で見て、平然と洋学にいそしむひねくれ者の代表を澁澤龍彦とする」(《雁のたより〔朝日文庫〕》朝日新聞社、1986年8月20日、二三二ページ)と始まる丸谷の時評は、紙幅のほとんどを〈ユートピアとしての時計〉に費やしている。ちなみに、当時の業務上の必要からいっても、また詩人としての関心からいっても、吉岡が各紙の文芸時評に目を通していたことは確実である。

 澁澤は、普通、中世の発明としてはグーテンベルクの印刷術があげられるだけで、それよりももつと大きな影響をもつと深いところで与へた歯車装置の時計の発明が無視されてゐると、言はれてみればまことにもつともなことを指摘する。そして、時計の発明者と伝へられる人物をいちいち検討してはしりぞけたあげく、十一世紀のベネディクト修道僧ヒルサウのギョームがそれだといふ「フランスの或る論者」の説を紹介するのだが、この「初耳」(もちろんわたしも初耳)の説は彼をずいぶん喜ばせたやうだ。機械時計とユートピアのアナロジーが、修道院を媒介にしてきれいに成立するからである。「機械時計から飛び出してくるのは、もはや自然の時間ではなく(中略)抽象的かつ論理的な時間でしかない」。ところが修道院といふのは「閉された、まさにユートピア的環境」で、しかも「ユートピアとは元来、歴史の無秩序な流れとは対立したものであり、論理的であって、完成を志向するものである。ユートピアの構造を支える諸部分は、歯車のように互いに噛み合って、固く結ばれ合っている。ユートピアとは、一本の軸を中心に回転する機械の世界なのである。機械時計の抽象的な時間は、そのままユートピア世界の時間でもあろう」と話は進むのだが、われわれはここで、さう言へば『ユートピア』の著者トマス・モアは、一時は修道院にはいらうとした、とか、馬の毛で織つた修道僧のシャツを着てゐた、とか思ひ浮べ、そのやうに禁欲的な人間が修道院の規律を俗世に及ぼさうとして、あの新月のやうな形の島の共産制を夢想したといふのは理屈に合つてゐる、と納得がゆくことだらう。(同書、二三三〜二三四ページ)

本題に戻ろう。吉岡詩の標題〈示影針(グノーモン)〉がいつ決定されたかは不明だが、詞書の「澁澤龍彦のミクロコスモス」は吉岡が詩篇の執筆を始めた当初から決定していたと思しい。吉岡が澁澤に捧げる詩を《胡桃の中の世界》からの引用を中心にまとめると決めたのは、同書の〈あとがき〉の次の一節に共感したからに違いない。すなわちそこには「『胡桃の中の世界』は、その内容から見て、私のリヴレスクな博物誌と名づけてもよかったろうし、あるいはまた、形象思考とか結晶愛好とかいった観点から、題名をつけてもよかったろうと思われるような種類の本だ。雑誌「ユリイカ」に連載(昭和四十八年一月より四十九年一月まで)のあいだは、暫定的に「ミクロコスモス譜」と題していた。私の神はミクロコスモスに宿らねばならぬと信じていたし、それに何よりも、かつて中国人や江戸期の随筆家の好んで用いたところの、譜という言葉を一度ぜひ使ってみたかったのである」(《胡桃の中の世界》、二五六ページ)とある。次に〈示影針(グノーモン)〉の本文を《サフラン摘み》(青土社、1976)収録形で掲げよう。初出との異同は、まず体裁上の面では「 」(鉤括弧)を伴う引用文が(一下〔一字下げ〕)だったのを(天ツキ〔下げず〕)に変えたほかは、引用文中の改行箇所を改めたくらいで、文言上の面では「2」の「抱いている」を「抱えている」に変えたのと、「4」で

「フップ鳥」
〔わたしたちの対象となり得ないもの→ウプパ ククファ フドフドと鳴きながら〕
〔動物から天使までのあらゆる存在に→砂漠のなかで〕
〔変身する可能性をもつ→地中の水や宝を見つける〕
「フップ鳥」

としたほかは、字句の変更はない。本稿では、吉岡実が澁澤龍彦の章句をどのように拉し来ったか示すべく、調べがついたかぎりの詩句の典拠を掲げる。すなわち、同詩(行末の数字は論者の付したライナー)を引いて吉岡の詩句にリンクを張り、リンク先に澁澤の原典を並べた(さしでがましいようだが、該当する章句をで表示した)。照合は《胡桃の中の世界》初版(青土社、1974年10月1日)に限った。原典である澁澤の文章は、吉岡の詩句の順番ではなく、《胡桃の中の世界》に登場する順番とした。なお、同詩における〔初出→定稿〕の異同の詳細は〈吉岡実詩集《サフラン摘み》本文校異〉を見られたい。

示影針(グノーモン)(G・27)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1975年9月号〔7巻8号〕一〇四〜一〇八ページ、本文9ポ22行1段組、5節79行。吉岡は1975年8月31日付の永田耕衣宛書簡で「猛暑の夏も今日で終る―この八月の最後の夜、やっとご返事が出来るようになりました。新句集《冷位》を一早く、渡辺一考君を通じて頂きながら、お礼を申上げずにいたことを深くおわび致します。丁度そのころ、ユリイカ九月号〈渋沢龍彦―ユートピアの精神〉という特集号の献詩を書いていました。そして恐しく心身を消耗していたからです」と書いている。

    澁澤龍彦のミクロコスモス 00

   1

「少女は消え失せ 01
はしなかったけれども 02
もう二度と姿を現わしはしなかった 03
現われて出てくる 04
やいなや 05
少女はすぐさま形態を 06
なくした」 07
それはとりわけ雷雨のはげしい夜 08
わたしは観念と実在と 09
つねに一致する 10
客体としての少女を求めているんだ 11
その内部にはしばしば綿がつめられている 12
「デルタの泥土のなかで 13
花を咲かせるという 14
大いなる原初の白蓮[ロータス]」 15
少女は言葉を分泌することがない 16

   2

「わたしは幼年時代 メリー・ミルクというミルクの 17
罐のレッテルに 女の子がメリー・ミルクの罐を抱え 18
ている姿の描かれている」 19
その罐を抱えている屋敷の女の子を眺めながら 20
わたしは水疱瘡に罹っていた 21
どんぐりやさやえんどう豆のなる 22
田舎の日々 23
体操する少女のはるかなる視点で 24
わたしは矮小し 25
「動物と植物の中間に位置する 26
貝殻や骨や珊瑚虫」 27
それら石灰質の世界へ 28
通過儀式を試みる 29

   3

漁師がやってくる 30
神話からもっとも遠い処まで 31
捕えたものは 32
一匹の鰈 33
「ロンボスの霊」 34
わたしの調査では 35
「ロンボスなるものの実体が まるで雲をつかむ 36
ようにあいまいもことして つくづく驚かされる」 37
わたしの好きな無へ奉仕する道具 38
螺旋志向! 39
「アパッチ族のシャーマンは ロンボスを回転させて 40
不死身になったり 未来を予見する」 41
そもそも 42
ここには受胎も生産もなく 43
「ロンボスとは子供の玩具以外の何物でもない」 44
素朴な唸り声を発している 45
「青銅の独楽」 46
かも知れない 47

   4

わたしの夢みる動物類とは 48
「不死鳥[フエニツクス] 一角獣[ウニコルニス] 火蜥蜴[サラマンドラ]」 49
とくに珍重するものは 50
「フップ鳥」 51
ウプパ ククファ フドフドと鳴きながら 52
砂漠のなかで 53
地中の水や宝を見つける 54
「フップ鳥」 55
「女を一個の物体の側へと近づける」 56
媒介をして 57
亀甲型の入れ子を多数うませる 58
「フップ鳥」 59
一度語ったことについては二度語ることはない 60
一度行なったことについては二度行なうことはない 61
「フップ鳥は母鳥が死ぬと 62
その屍体を頭の上にのせて 63
埋葬の場所を探し求める」 64
火のなかを 65
水のなかを 66
或は土のなかを―― 67

   5

「人間の想像力は 或る物体が一定の大きさのまま 68
留まっていることに 満足しないもののようである」 69
それと同時に 70
織物の目を拡大し 71
生命を縮小させる 72
わたしたち人類というものは 73
「最初の時計から 74
最初のセコンドが飛び出して以来 75
それまで神聖不可侵と考えられていた 76
自然の時間 77
神の時間が死に絶え 78
もはや二度と復活することがなかったのである」 79

                   *示影針=日時計のこと
●13-15行め 「デルタの泥土のなかで/花を咲かせるという/大いなる原初の白蓮[ロータス]」
 エジプトのヘルモポリス系の神話では、宇宙卵のテーマは、きわめて多くのヴァリアントを示しているという。その一つによれば、人類の守護者である女神クエレヘトは、そのまま原初の卵という意味なのである。デルタの泥土のなかで夜明けに花を咲かせるという、大いなる原初の白蓮[ロータス]も、別の伝説のなかでは、卵と同じ役割を演じているそうだ。(〈宇宙卵について〉117)

●49行め 「不死鳥[フエニツクス] 一角獣[ウニコルニス] 火蜥蜴[サラマンドラ]」
 見られる通り、古代の最も曖昧な科学と、聖書の最も疑わしい解釈とが、中世の動物誌のなかで見事に結びついたのである。こうした異教的な要素は、さらにまた、聖書には書かれていない鷲獅子[グリフイン]だとか、不死鳥[フエニクツス]〔不死鳥のルビは[フエニツクス]が正しい〕だとか、一角獣[ウニコルニス]だとか、火蜥蜴[サラマンドラ]だとかいった、空想上の怪獣に関するおびただしい記述によっても際立たせられた。しかも動物誌作者は、クテシアスやプリニウスと同様、これらの怪獣を空想上のものだとは少しも考えていなかったのであり、これらの怪獣を記述するに当っても、そこに必ず道徳的解釈をつけ加えることを忘れなかったのである。動物の客観的な性質を記述することが目的ではなくて、その裏に透けて見えるアレゴリーを探し出すことのみが目的だったのである。(〈動物誌への愛〉138-139)

●50-59行め とくに珍重するものは/「フップ鳥」/ウプパ ククファ フドフドと鳴きながら/砂漠のなかで/地中の水や宝を見つける/「フップ鳥」/「女を一個の物体の側へと近づける」/媒介をして/亀甲型の入れ子を多数うませる/「フップ鳥」
 どういうわけか、私はフップ鳥という鳥(日本語ではヤツガシラと称する。くわしく知りたければ百科事典をお調べいただきたい)が大へん好きなのであるが、その理由はおそらく、私が書物のなかで、この鳥に初めてお目にかかった時が、ジェラール・ド・ネルヴァルの美しい幻想譚『バルキス、暁の女王と精霊の王ソロモンの物語』を読んだ時だったからかもしれない。フップ鳥はバルキス、つまりシバの女王のアットリビュートで、いつも女王の身辺につきまとっている神秘的な鳥なのである。イスラム教の聖典『コーラン』(第二十七章、蟻)でも、フップ鳥はシバの国から情報をもって、鳥類の言葉を解するというソロモン王の宮廷へやってきた、名誉ある使いの鳥として描かれている。(〈動物誌への愛〉139-140)

●62-64行め 「フップ鳥は母鳥が死ぬと/その屍体を頭の上にのせて/埋葬の場所を探し求める」
 さらにまた、フップ鳥の特徴として挙げておかねばならないのは、この鳥が不潔で、しかも悪臭を発すると考えられたということだろう。それは一つには、アリストテレスやアイリアノスなどが詳細に記述した、この鳥の巣のつくり方に由来している。つまり、フップ鳥は人糞で巣をつくると信じられたのである。むろん、この説は科学的には正しくない。事実は、ただ巣のなかに雛鳥の糞が積って、グアノを形成するだけである。もう一つは伝説で、フップ鳥は母鳥が死ぬと、その屍体を頭の上にのせて、埋葬の場所を探し求めるというのだ。この鳥が中世の動物誌で、もっぱら親孝行のシンボルとされたのは、おそらく、ここに起源を有するはずである。(〈動物誌への愛〉141)

●52-54行め 〔わたしたちの対象となり得ないもの→ウプパ ククファ フドフドと鳴きながら〕/〔動物から天使までのあらゆる存在に→砂漠のなかで〕/〔変身する可能性をもつ→地中の水や宝を見つける〕
 フップ鳥は、ラテン語ではウプパ、古代エジプト語ではククファ、ヘブライ語ではドキパテ、シリア語ではキクパ、そしてアラビア語ではフドフドというが、いずれも、その鳴き声にちなんで名づけられたものと思われる。アラビア語の「フット、フット」は「そこだ、そこだ」の意味で、地中の水や宝を見つけ出すという、この鳥の不思議な能力にも関係があるだろう。(〈動物誌への愛〉142)
     *
那珂太郎は入沢康夫との共著《重奏形式による詩の試み――相互改作/「わが出雲」「はかた」》(書肆山田、1979年11月25日)で入沢の〈わが出雲〉のZの一部を次のように改作している。すなわち「一羽の首のないあをさぎが叫んでいつた/「教へて下さい わたしはどこへ/行くのでせう 一体どこへ/どこへ どこへ どこへ どこへ/ウプパ ククフア フドフド」」(同書、二七ページ)。那珂は最後の詩句に註して「魂まぎのモチイフを隠し、詩作行為自体が詩を求めることを暗示する。「ウプパ ククファ フドフド」は吉岡実の作品からの引用。彼への挨拶」(同書、四五ページ)と書いている。さらに同書の那珂・入沢対談〈試論「わが出雲」〉にはこうある(相互改作の初出は《現代詩手帖》1977年3月号で、吉岡の高見順賞受賞はその前年の12月)。
那珂 Zのパアトは、ちやうど吉岡さんの『サフラン摘み』が高見順賞になつたといふやうな時事的なことがあつて、入沢さんは特に吉岡さんと親しいし、吉岡さんのこんどの詩集から拝借して〈ウプパ ククファ フドフド〉と入れてみたんです。
入沢 これはなかなかいいんぢやないでせうか。元の形よりだいぶよくなつたと思ひます。しかも鳥ですから、〈フドフド〉が出てくるのは、ネルヴァルとの関はり(ネルヴァルの「暁の女王と精霊の物語」に、超自然的な力をもつたフドフドといふ鳥が出て来る)をいまひとつ強める意味でも、いいんぢやないでせうか。(同書、一〇六ページ)
●34行め 「ロンボスの霊」
 一方、ケレーニイの『テーバイ近郊のカベイロイ聖地』によれば、このロンボスは、「私たちが民族学から知る限りにおいて最も素朴な秘儀用器具」なのであって、ヘロドトスの伝えている古いプリュギアのカベイロイ密儀において崇拝されていた、勃起した男根を具えた小人[こびと]の神々が、このロンボスの霊と見なされていたという。男根的なものは、ケレーニイによれば、プリュギアにおいてのみならず先史時代のギリシア人にとっても、すでに霊魂のあるものだったのである。(〈ギリシアの独楽〉178)

●30-47行め 漁師がやってくる/神話からもっとも遠い処まで/捕えたものは/一匹の鰈/「ロンボスの霊」/わたしの調査では/「ロンボスなるものの実体が まるで雲をつかむ/ようにあいまいもことして つくづく驚かされる」/わたしの好きな無へ奉仕する道具/螺旋志向!/「アパッチ族のシャーマンは ロンボスを回転させて/不死身になったり 未来を予見する」/そもそも/ここには受胎も生産もなく/「ロンボスとは子供の玩具以外の何物でもない」/素朴な唸り声を発している/「青銅の独楽」/かも知れない
……しかし私たちがあれこれ推察するよりも、作者たるノディエ自身が、わざわざ小説『スマラ』の末尾に「ロンボスについての註」という文章をつけ加えて、学のあるところを見せているのだから、まず、その文章を検討するに如くはなかろう。
 「この言葉は、辞典編纂者や註釈者によって非常に不手際に解説され、そのために多くの珍妙な誤解を招いてきたので、私が将来の翻訳者のために、それに関する何らかの情報を残しておくのも無駄ではあるまいと思う」とノディエは書きはじめる、「その健全な考証学的知識に抜かりのないノエル氏でさえ、これを《魔術の実行において用いられる一種の車輪》としか見ていない。しかしながら、その彼とは同名異人の、かの尊敬すべき『漁業史』の著者が、形の一致に基づいた名前の一致に目をくらまされて、ロンボスを一種の魚と見なし、シチリアやテッサリアで用いられるこの不思議な道具を、事もあろうに[かれい]だと勘違いしているのとくらべれば、車輪の方がまだましであろう。ルキアーノスは青銅のロンボスについて語っているけれども、とにかく問題なのは魚ではないことを十分に証言している。ペロ・ダブランクールは《青銅の鏡》と翻訳したが、それは実際、ロンボスの形に作られた鏡があったからであり、ともすると形というものは、目に見えるがままの実体だと受け取られることになり勝ちだからである。」
 右に引用したノディエの文章のなかに、ロンボスを「魔術の実行において用いられる一種の車輪」と解釈している学者がいるのは、明らかにイユンクスと混同しているためであろう。ロンボスには一般に菱形という意味があり、またカレイやヒラメのような、菱形をした魚を指すこともあるらしい。ノディエの文中の「形の一散に基づいた名前の一致」とは、このことを指しているにちがいない。それにしても、ノディエの文章を読むと、近年にいたるまで、学者のあいだでも、ロンボスなるものの実体が、まるで雲をつかむように曖昧模糊としていたらしいことがよく分って、つくづく驚かされる。この文章のあと、ノディエは数名のギリシア・ラテンの詩人の詩句を引いて、ロンボスが魚や鏡とは何の関係もないこと、糸と一緒に回転するものであること、ローマの子供の遊ぶ独楽のようなものであることを、順々に証明して行くのである。そうして最後に、次のような結論を下す。
 「おそらく、この註を一読する労を惜しまなかった人は、ロンボスとは何かを私に質問するであろう。いずれにしても、はっきり言い得ることは、ロンボスとは、あの子供の玩臭以外の何物でもないということであって、その打ち上げと音とに何か恐ろしい、魔術的な効果があるらしいのであり、奇妙に類似した印象によって、今日では、ディアボロ(悪魔)という名のもとに復活しているところのものなのである。」
 こうしてみると、シャルル・ノディエの言う通り、古代ギリシアのロンボスが、少なくとも唸りを発する独楽の一種であったことは間違いないような気がしてくる。いったい、どうしてこれがイユンクスなどと混同されるようになったのか、その方がむしろ不思議なくらいであろう。また独楽であるとすれば、青銅の独楽というのは考えられないから、ルキアーノスの証言もあやしくなってくるだろう。(〈ギリシアの独楽〉179-181)
 おそらく、イニシエーションの過程で用いられる一種の楽器としてのロンボスの役割りは、古代ギリシアにおいても、あるいは現代のオセアニアやアフリカにおいても、それほど変ってはいないはずだと思われる。それは要するに、恐怖を惹起する神の声なのである。アパッチ族のシャーマンは、ロンボスを回転させて不死身になったり、未来を予見したりするともいう。また、ロンボスをぐるぐる回転させるのは、生き生きした螺旋の表現だとも考えられ、ここから螺旋のシンボリズムをみちびき出そうとする論者もあるらしい。(〈ギリシアの独楽〉182)
 イユンクスは車輪の形をしているし、ロンボスは、もしそれがディアボロとそっくりだとすれば、腰鼓状、つまり、頂点で接した二つの円錐形の形をしているのである。そういう幾何学的な形態のものが古代人によって考案され、彼らの生活のなかで、何らかの役割りを果していたということ自体が、私にとっては、一種の驚きの感情を呼びさますものなのだ。しかも、ここで大事なことは、そのような幾何学的な形態のものが、どこから眺めても、生産のための道具ではないということだろう。(〈ギリシアの独楽〉183)
     *
かつて吉岡実の装丁になる草野心平詩集《凹凸》(筑摩書房、1974年10月10日)を紹介したことがある。私はそこで「本書の表紙と本扉にある家紋の輪鼓[りゅうご]のようなカットはなんだろう(輪鼓は中間がくびれた形をした平安時代の玩具のひとつで、現代ならさしずめディアボロか)。これが《凹凸》(オウトツと読むのか、ボコデコとでも読むのか)とどう関係するのか、しないのか、よくわからない。「凹凸」が幾何学的な字面なだけに、あまり図案のようなカットでないほうがよかったのではないか。少なくとも本扉に「輪鼓紋」は不要だったと思う」と書いた。時間的にいって、単行本は無理だとしても、吉岡が〈ギリシアの独楽〉を初出誌(《ユリイカ》1973年10月号)で目にしていた可能性はあるだろう。

●26-27行め 「動物と植物の中間に位置する/貝殻や骨や珊瑚虫」
 「石と土との中間には、粘土および洞窟がある。土と金属との中間には、白鉄鉱その他の金属がある。石と植物との中間には、根や枝や果実を生ずる石化植物、すなわち珊瑚の種類がある。植物と動物との中間には、感覚と運動を有し、石に付着した根から生気を得る、海綿類もしくは植物獣がある。陸棲動物と水棲動物との中間には、海狸、川獺[かわうそ]、亀、淡水産の蟹などといった、水陸両棲の動物がある。水棲魚と鳥との中間には、飛魚がある。獣と人間との中間には、猿や尾長猿がある。そして全野生動物と叡知的な自然(天使や悪魔のような)との中間に、神は人間という、その一部が肉体として滅び、他の一部が叡知として不滅な存在を位置せしめたのである。」(〈怪物について〉197)

●74-79行め 「最初の時計から/最初のセコンドが飛び出して以来/それまで神聖不可侵と考えられていた/自然の時間/神の時間が死に絶え/もはや二度と復活することがなかったのである」
 無名にとどまっている時計の発明者に対して、グーテンベルクの名前が不当に喧伝されているような気がしてならないのは、私だけだろうか。なるほど、印刷術は偉大な発明でもあったであろうが、それは私たちの読書の仕方を変えたわけでもなく、エクリチュールを変えたわけでもなく、読む者と本文との関係を変えたわけでもないのである。私たちの精神の深部には何も影響をあたえず、ただ人間の思考の表現を空間的に拡大し、普及したというだけのことにすぎない。これに反して、機械時計の発明は、全く誰の目にもつかず、後世の学者の目さえ晦ませているほど暗々裡に遂行されたにもかかわらず、ひそかに私たちの精神を腐蝕する作用を永く及ぼしたのである。最初の時計から最初のセコンドが飛び出して以来、それまで神聖不可侵と考えられていた自然の時間、神の時間が死に絶えて、もはや二度と復活することがなかったのである。(〈ユートピアとしての時計〉206-207)
     *
〈ユートピアとしての時計〉のこの段落の直前には、次に掲げる段落が置かれている。「実際、時計は中世の民衆のあいだに、ある日、ひっそりと現われた。この奇妙な機械がいつ、どこで最初に製作されたかについては、諸説紛々としており、ある者は十一世紀と言い、他の者は十三世紀と言う。いまだに定説がないのである。ともかく時計は、べつに何も生産するわけではなく、何も破壊するわけではなく、ただひっそりと控え目に存在しているだけで、ひとびとの意識を根本的に変えたのである。もちろん、古代においても水時計、砂時計、日時計、蝋燭時計、あるいはまた月時計、星時計といったような時計の種類があることはあった。雄鶏の声で朝を知るという方法も、一種の自然の時計と言えば言えるかもしれない。ボードレールの散文詩に、「支那人は猫の目で時間を読む」という句があるのを御存知の方もあろう。しかし機械時計の歯車装置は、自然の時間、神の時間を加工するという意味で、いわば反自然の工房、悪魔の工房といった様相を帯びるのである」(〈ユートピアとしての時計〉206)。この「ボードレールの散文詩」はいうまでもなく《パリの憂鬱》の〈時計〉であって、吉岡の〈雲井〉(未刊詩篇・20、初出は《鷹》1989年10月号)の「2」に「(支那人は猫の眼で/時間を読む)/狂える隠者の詩句を/わたしはくちずさむ/〔……〕」とあるのは、澁澤の文(〈ユートピアとしての時計〉かどうかはわからないが)に依ったのに違いない。

●詩篇本文のあと *示影針=日時計のこと
 前にも述べたように、機械時計が誕生するまでの時計は、すべて自然の時計と言っても差支えないようなものばかりだった。日時計や月時計は、要するに天体の運行をそのまま反映したものである。水時計や砂時計は、これにくらべればやや複雑かつ巧緻であるが、それでもやはり、これらの時計が記録するのは自然の時間より以外のものではない。容器の細孔から流れ落ちる物質が、水であれ砂であれ等質の流動体であって、つねに一定のリズムに従っているところは、太陽や月の運行と異るところがないと言ってもよいほどであろう。そういう点から眺めれば、日時計のグノモーン[ママ]と全く同様、砂時計も水時計も、まさに自然のなかに埋没しているのである。(〈ユートピアとしての時計〉208-209)

●17-19行め 「わたしは幼年時代 メリー・ミルクというミルクの/罐のレッテルに 女の子がメリー・ミルクの罐を抱え/ている姿の描かれている」
 「ぼくが無限の観念と初めてぴったり触れ合ったのは、オランダの商標のついた、ぼくの朝食の原料であるココアの箱のおかげだ。この箱の一面に、レースの帽子をかぶった田舎娘の絵が描いてあったのだが、その娘は、左手に同じ絵の描かれた同じ箱をもち、薔薇色の若々しい顔に微笑を浮かべて、その箱を指さしていたのである。同じオランダ娘を数限りなく再現する、この同じ絵の無限の連続を想像しては、ぼくはいつまでも一種の眩暈[めまい]に襲われていた。理論的に言えばだんだん小さくなるばかりで、決して消滅することのない彼女は、からかうような表情でぼくを眺め、彼女自身の描かれた箱と同じココアの箱の上に描かれた、自分自身の肖像をぼくに見せるのだった。」
 ミシェル・レリスの告白の書『成熟の年齢』に出てくる、「無限」と題された、この作者の幼児体験と同じような体験を味わったことのある者は、おそらく私ばかりではあるまい。私は幼年時代、メリー・ミルクというミルクの罐のレッテルに、女の子がメリー・ミルクの罐を抱いている姿の描かれているのを眺めて、そのたびに、レリスの味わったのとそっくり同じ、一種の眩暈に似た感じを味わったおぼえがある。キンダー・ブックという絵本の表紙には、子供が小さなキンダー・ブックを見ている絵が描いてあって、その小さなキンダー・ブックには、やはり同じ子供が同じキンダー・ブックを眺めている。これも私には、得も言われぬ不思議な感じをあたえる絵であった。(〈胡桃の中の世界〉238-239)
     *
武井武雄の童画で知られる《キンダーブック》は、フレーベル館の月刊保育絵本。1927(昭和2)年創刊だというから、翌年生まれの澁澤の幼少時を彩った雑誌である。ちなみに私も幼稚園時代、親が買ってくれた《キンダーブック》を飽かずに眺めたものだ。武井武雄の絵は、子供心に単にモダンというにはほんの少しばかり不気味で、しかもそれが不快でないため、いわば癖になる作風だった。かっきりとした線で描かれた具象画という澁澤の絵画の好みは武井に代表される童画によって培われたという説がある。なるほど、と実感される。一方、吉岡が小さいころどんな絵を好んだのか、詳しいことはよくわからない。だが、こうした作風を好意をもって受け容れたのではあるまいか。ちなみに吉岡より一歳年長の太田大八(1918〜2016)は、自身と童謡について語った〈これからの子どもたちのためにできること〉で「僕が子どもの頃夢中になった、岡本帰一や初山滋、武井武雄の絵はすごくうまいし、今見てもすてきな絵だと思いますから」(武鹿悦子編《ひらひらはなびら――キンダーブック昭和の童謡童画集》フレーベル館、2007年12月25日、一三一ページ)と証言している。吉岡は太田の画風に惹かれて、担当する〈小学生全集〉(筑摩書房)の挿絵に起用しているだけに、このあたりの関係性は興味深い。

武井武雄の童画
武井武雄の童画

●68-69行め 「人間の想像力は 或る物体が一定の大きさのまま/留まっていることに 満足しないもののようである」
 どうやら人間の想像力は、或る物体が一定の大きさのままに留まっていることに、いっかな満足しないもののようである。想像力はつねに、対象の急激な拡大と収縮を可能ならしめるところの、不思議の国のアリスが飲んだ水薬のようなものを求めているかのごとくである。(〈胡桃の中の世界〉254)
     *
吉岡が《鏡の国のアリス》からの引用を含む〈ルイス・キャロルを探す方法〉(G・11)を発表したのは、〈示影針(グノーモン)〉に先立つこと3年前の1972年6月だった。吉岡はアリス詩篇に関して、「妻のからだに寄りかかり、午睡しながら、まだ四月なのにいろいろなことがあったなあと思った。暗中模索のため、二年間中止していた詩作を試み、〈葉〉という百三十行の連祷詩の一篇が出来たこと、それに続いて、〈ルイス・キャロルを探す方法〉すなわち、アリス詩二篇が出来たことだった。これは私の詩業のなかでも、独自性と新領域をきり拓いたものだった。私はこのときから、詩行為がつづけられるという兆を感じはじめていた」(〈高遠の桜のころ〉、《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、1988、二七ページ)と回顧している。ちなみに《サフラン摘み》収録詩篇で初出において初めて「 」(鉤括弧)が登場するのは、〈葉〉(G・4)の第92行の

「問題」は在るか?

で、これは引用ではなく、強調である。初出において次に「 」が登場する〈わがアリスへの接近〉(〈ルイス・キャロルを探す方法〉を構成する一篇)の第11・12行の

「ただ この子の花弁がもうちょっと
まくれ上がっていたら いうところはないんだがね[*]」

は引用の濫觴であり、吉岡は律儀にも詩篇末尾に「*ルイス・キャロル〈鏡の国のアリス〉岡田忠軒訳より」と出典を註記している。その後は〈悪趣味な冬の旅〉(G・6)や、これは《サフラン摘み》の前の詩集《神秘的な時代の詩》(1974)の収められることになるのだが――〈弟子〉(F・15)の「「便所はどうして神秘的に/高い処にあるのだ」」などを経て、〈マダム・レインの子供〉(G・5)の

「しばしば
肉体は死の器で
受け留められる!」

を露払いのようにして、土方巽語録を満載した〈聖あんま語彙篇〉(G・8)が登場する。ここまで来ればあとは一瀉千里で、「 」だけでなく〈 〉(山括弧)も登場して、引用もあれば強調もある《薬玉》と《ムーンドロップ》の「後期吉岡実詩」まではもう地続きである。だが、ここでどうしても触れておかなければならないのは、「瀧口修造氏に」の献辞をもつ〈舵手の書〉(G・22)の存在だ。

「人間の死の充満せる/花籠は/どうしてこれほど/軽い容器なのか?」
「光をすこしずつ閉じこめ/たり逆に闇を閉じこめたりする」
「五月のスフィンクス」
「鳥は完全なるものをくわえて飛ぶ」
「彼女は未知の怪奇なけむり/を吐く最新の結晶体」
「朝食のときからはじまる」
「曖昧な危倶と憶測との/霧が立ち罩めようとしている」
「黙って/歩いていってしまった」
「憑きものの水晶抜け」

以上は、詩句(詩行)単位ではなく「 」で括られた部分のみを引いたものだが(行頭の太字の数字は合い番号、/は原文改行を表す)、〈示影針(グノーモン)〉とは別の意味で、苦渋に充ちた引用=詩句だといわなければならない。なぜなら吉岡はここで、かつて自ら禁じたところの他者の詩篇からの引用、詩から詩をつくることを敢えてしているからである。出典の判明しているもの(作者はいずれも瀧口修造)を挙げれば

は詩篇〈花籠に充満せる人間の死〉の標題から
は《余白に書く》の散文〈宿命的な透視術――加納光於に〉の文言
は詩篇〈五月のスフィンクス〉の標題
は詩篇〈TEXTE EVANGELIQUE〉の詩句から
は詩篇〈実験室における太陽氏への公開状〉の詩句から
は《余白に書く》の散文〈朝食のときから始まる〉の標題
は出典未詳
は出典未詳
は出典未詳

他者の作品の標題を自身の詩篇の詩句として引くという点では、末尾に「*ゾンネンシュターンは「幻視者」といわれる異端の老人画家。引用句は、同展覧会目録より借用した。」と註した〈ゾンネンシュターンの船〉(G・24)――初出は〈舵手の書〉に続き、〈示影針(グノーモン)〉に先立つ詩篇――も同じだが、こちらは絵画作品(の邦訳題)だから、詩から詩をつくるという中毒を免れている分だけ引用の完成度も高く、苦渋の痕もとどめていない。

今回、《胡桃の中の世界》を再読してみて思うことは、その引用につぐ引用、列挙につぐ列挙がフレイザーの《金枝篇》を範としているのではないか、ということだ(もっとも澁澤は〈ギリシアの独楽〉の冒頭で「アドニス祭」に関連してフレイザーに言及しているものの、「アドニスの園」を農耕儀礼の一種と見なすそのイデオロギーには疑問を呈している)。本稿の冒頭に「吉岡が澁澤の方法を自家薬籠中のものとしたのは「澁澤龍彦のミクロコスモス」を詞書にもつ詩篇〈示影針(グノーモン)〉(G・27)をもって嚆矢とする」と掲げたのはこのことで、手法的には引用と典拠のそれが澁澤由来のものである一方、主題的には吉岡実という「わたし」の記憶や経験にとどまらない、集合的な「わたし」の、あえて言うなら民俗的なそれへと舵を切るきっかけとなったのが、澁澤龍彦が開示したこれらのミクロコスモスだったのではないか。吉岡が永田耕衣に宛てた書簡で「ユリイカ九月号〈渋沢龍彦―ユートピアの精神〉という特集号の献詩を書いて」「恐しく心身を消耗していた」と記したのは、吉岡実詩の歴史におけるコペルニクス的転回に対する率直な感懐だったように思える。では、吉岡実の詩篇〈示影針(グノーモン)〉と澁澤龍彦の著書《胡桃の中の世界》はどのような関係にあるのか。巖谷國士は本書の〈解題〉で次のように書いている。

 もうひとつ、本書の〈リヴレスクな〉側面についても付言しておこう。澁澤龍彦の多くの博物誌ふうの書物のなかでも、おそらくこれほど博引旁証の目立つものは少ないにちがいない。あまつさえ、ときには特定の書物の記述をそのまま借用して、自説のごとく展開してゆくといった場面も見られる。しばしば指摘されているように、原書の翻訳・引用が地の文に溶けこんでしまうのである。〔……〕澁澤龍彦の文章にしばしば見られた他の書物の流用あるいはパラフレーズの傾向は、この〈私のリヴレスクな博物誌〉でも大いに幅をきかせているのである。
 とはいえ、もちろんそれのみをもって非とするにはあたらないだろう。なぜなら他者の所説との融合こそは、澁澤龍彦の多かれ少なかれ自覚的な方法のひとつであり、しかも、彼の作家人格(=〈私〉)の構造にかかわる必然でもあったと考えられるからだ。彼はしばしば他者のうちに自己を見る。自己のうちに他者を見る。彼の〈私〉自体が特異な〈入れ子〉にも似て、ほかならぬ〈胡桃の中の世界〉のごときものを現出する。他面、だからこそまた、私たち読者にとっても、この書物は、いわば他者のものとは思えないような不思議な親密さをおびる結果となったのではなかろうか。
 ともあれ魅力的な著作ではある。『新編ビブリオテカ』版の巻末におさめられた中野美代子による「解説」にも、つぎのような指摘があったことを想起しておこう。
 〈〔……〕読者たる私たちは、ミシェル・レリスの文の中に著者の文が嵌めこまれ、さらにその著者の文中に私たちの幼児体験も嵌めこまれているという眩暈に襲われながら、読み進み、ついには本書全体の多様なモチーフも、この一文に入れ子のように嵌めこまれているのに気づくであろう。石も宇宙卵も幾何学も動物誌も、そして怪物も庭園も時計も。〉(《澁澤龍彦全集〔第13巻〕》、河出書房新社、1994年6月15日、六一〇〜六一一ページ)

この吉岡実詩のスルスで本書以外からとられた主なものが「少女」関連だったのは、ルイス・キャロスの《アリス》ものの霊験があらたかだったことの証左だろう。吉岡は難儀しつつも本書の「博引旁証」になじんだおかげで、フレイザー《金枝篇》の世界にさほどの抵抗なく入っていくことができた。その延長上に《薬玉》の世界が展開したことはいうまでもない。ところで中野美代子は後年、本書の〈東西庭園譚〉(吉岡は詩に引用していない)に登場するイエズス会の伝道師でありイタリア人の画家である人物を主人公にして、長篇小説《カスティリオーネの庭》(文藝春秋、1997)を書いた。ジャケット・表紙・見返し・本扉に銅版画《長春園西洋楼図》のうち〈海晏堂〉の東西南北の四面を配した、菊地信義の装丁になる美しい一本である。

吉岡実詩集《サフラン摘み》(青土社、1976年9月30日)のジャケット〔著者自装〕と澁澤龍彦《胡桃の中の世界》(青土社、1974年10月1日)のジャケット〔著者自装〕 吉岡実詩集《サフラン摘み》(青土社、1976年9月30日)の奥付と澁澤龍彦《胡桃の中の世界》(青土社、1974年10月1日)の奥付
吉岡実詩集《サフラン摘み》(青土社、1976年9月30日)のジャケット〔著者自装〕と澁澤龍彦《胡桃の中の世界》(青土社、1974年10月1日)のジャケット〔著者自装〕(左)と《サフラン摘み》と《胡桃の中の世界》の奥付(右)

好い機会だから、〈示影針(グノーモン)〉を収録した《サフラン摘み》と同詩の典拠となった《胡桃の中の世界》の仕様について触れることで、本稿の結びとしよう。《吉岡実書誌》に掲げた《サフラン摘み》初刊の記載に合わせて《胡桃の中の世界》のそれを書けば、こうなる。

詩集《サフラン摘み》初刊 一九七六年九月三〇日 青土社(東京都千代田区神田神保町一の二九 発行者清水康雄)刊 定価一八〇〇円 二二〇×一四二 総二一四頁 上製丸背布装 ジャケット(片山健画「無題」1973. 著者蔵) 組立函 帯 装画片山健 本文新字新かな 10ポ一四行組活版 印刷東徳 製本美成社

《胡桃の中の世界》初刊 一九七四年一〇月一日 青土社(東京都千代田区西神田一の三の一三 発行者清水康雄)刊 定価一四〇〇円 二一〇×一四九 総二六二頁 上製丸背クロス装 ジャケット〔装画クレジットなし〕 帯 ビニールカバー 本文新字新かな 9ポ四三字詰め一八行組活版 印刷東徳 製本美成社

同じ出版社の(おそらく)同じ担当者(《胡桃の中の世界》の〈あとがき〉には出版部の三輪利治――1999年3月5日、脳内出血で死去、55歳。高橋順子に詩篇〈さよなら連帯長――三輪利治さんを悼む〉(初出:《詩学》1999年5月号、再録:《現代詩手帖》1999年12月号)がある――と高橋順子への謝辞が見える)が手掛けた本だから似ているのは当然かもしれないが、吉岡が初めて青土社から詩集を出そうとしたとき、その先例に《胡桃の中の世界》があったことは(しかも最有力のそれであったことは)、ほとんど疑いないように思われる。《胡桃の中の世界》のA5判(正寸)・上製丸背クロス装・ジャケット・帯・ビニールカバーに対するに、《サフラン摘み》のA5判変型・上製丸背布装・ジャケット・組立函・帯。仕様が近接しているのもさることながら、両書とも印刷所が東徳、製本所が美成社であるのは、偶然というにはできすぎていないだろうか。本文用紙(クリーム系の書籍用紙)の銘柄はわからない。澁澤本の方が、吉岡詩集よりも1割増まではいかないが束があって、紙面もややラフである。ために、両書に共通する「不死鳥[フエニツクス]」「一角獣[ウニコルニス]」「火蜥蜴[サラマンドラ]」のルビを比較すると(活字のサイズは4.5ポと5ポで、微妙に異なるものの)、澁澤本の方がかすれ気味である。吉岡が詩集の本文でルビを使いはじめたのは《サフラン摘み》からで、そこまで想定して本文用紙を択んだのかはわからないが、なかなか見事な仕上がりになっている。比較的大きな(本文と同じくらいのサイズの)活字でゆったりと組んだ奥付は青土社の伝統だが、澁澤本に見える「著 者――澁澤龍彦」などの二倍ダーシは吉岡の回避するところで、「著 者 吉岡 実」となっている。

〔追記〕
美術評論家で世田谷美術館館長である酒井忠康の講演を録した〈澁澤龍彦の想像の画廊〉の冒頭「澁澤さんの仲間たち」に、次のような一節がある。

 澁澤龍彦さんの周囲にはもちろん文学者もたくさんおられて、その文学者の中には大いに啓発された三島由紀夫や、あるいは戦後文学を語る上では決して外すわけにいかない優れたお仕事をした文学者たちがたくさんおられます。私は改めて自分の書架から澁澤さんの『偏愛的作家論』を数日前に取り出して、澁澤さんの関心のある作家を確かめてみました。これは、二十人くらいの作家の作品論ないし人物論、あるいは自分との関わりについて書いた本です。石川淳(一八九九―一九八七)、〔……〕それから中井英夫(一九二二―九三)や詩人の吉岡実(一九一九―九〇)さんも入っている。
 余談ですが、私は、吉岡実さんとは生前に妙なところでときどきお会いすることがありました。とても優しい人なんですけど、蚊の鳴くような声でひそひそ喋ったり、ユーモアのセンスのある人でしたね。あるとき私の師匠の土方定一(一九〇四―八〇)が、この人の「僧侶」という詩を非常に高く評価して、刊行されてすぐにその詩集を買ってこいと言うので、買った帰りの電車の中で読んで衝撃を受けた思い出があります。筑摩書房にお勤めしていて、共通の友人に彫刻家の飯田善國(一九二三―二〇〇六)さんがいました。(菅野昭正編《澁澤龍彦の記憶》河出書房新社、2018年4月30日、一一三〜一一五ページ)

私は晩年の吉岡実と何度か面談する機会に恵まれたが、「ユーモアのセンスのある人」だと感じることはあっても、吉岡が「蚊の鳴くような声でひそひそ喋った」という記憶がない。少なくとも吉岡の人となりを酒井忠康にように語った人物はかつてなかった。ひそひそ声で語る詩人、美術関係者といえば、私などただちに瀧口修造に指を屈するのだが(残念なことに、瀧口の謦咳に接することはできなかった)、いまは疑問を提出するにとどめよう。


吉岡実の飼鳥(2018年6月30日)

吉岡実は《ユリイカ》1971年4月号の〈われ発見せり〉の欄(〈編集後記〉・奥付の上部に設置された、筆者が毎月替わる常設記事)に〈小鳥を飼って〉を発表した。当時、吉岡は51歳。前年の1970年には2月に《吉岡実詩集〔普及版〕》(思潮社)を刊行したものの、3月に詩篇〈低音〉(F・14)を発表したほかは、《俳句》11月号に〈鑑賞・石田波郷の一句〉を寄せたきりだったし、1971年には9月に〈叢書溶ける魚No.2〉として詩集《液体》(湯川書房、限定300部)を刊行したものの、《琴座》3月号に〈〔河原枇杷男句集〕《密》反鏡鈔〉を、4月にこの〈小鳥を飼って〉を、9月の《銀花》(秋の号)に〈永田耕衣との出会い――耕衣句抄〉を、10月に出版された《加藤郁乎詩集〔現代詩文庫〕》(思潮社)に〈出会い〉を書いたほか、めぼしいものといえば《ユリイカ》12月号の〈「死児」という絵〉ぐらいだった。詩作の筆を折って、旧作を刊行し、義理ある雑誌に俳句関係の文章をぽつぽつ書いていた、詩作に関するかぎり低調な時期だったといってよかろう。

小鳥を飼って|吉岡実

 ――ミソー(私の呼称)、鳥が飼いたいなあ
 突然妻が云いだした。妻は生来、蛾・蝶・鳥がきらいなので、私は驚く。
 ――ミソー、どんな鳥がよいか、云ってみなよ!
 ――大きいのがいいぞ、猫ぐらいのが。キボーシインコか、キバタンオウムはどうだろう?
 ――ミソー、それらオウムは、鳥の本をみると、七、八十年生きるんだよ、われら二人の死後も生きつづけるんだよ、後に託すべき子孫もないし
 ――気味がわるい 哀れでもあるな
 ――ミソー、むかし数寄屋橋の阪急のウインドにいたキレイナ鳥がほしい
 十年ぐらい前、阪急百貨店のウインドいっぱいに、いろんな小鳥を放っていたのを想い出す。美しい少女がエプロン姿で、肩や髪に青や黄色の小鳥をとまらせ、しなやかな手から餌を与えているのが夢の絵のように見えた。
 ――ミソー、猫の一周忌も過ぎたし、今日買いにゆこうよ
 それから小鳥屋、デパートを巡礼よろしく探し廻って、二人の中の青い鳥――キエリクロボタンという可憐な一番を買った。セキセイインコより大型で、頭は濃茶で、胸毛がオレンジ的黄色、全体がうすい緑で、黒い目を白い輪がとりまいて、玩具のような小鳥。カリフォルニアでこの春うまれたらしい。
 ――ミソー、水入、ボレーコ入、餌入、餌、どれも小さくておもしろい
 ――ミソー、キエリクロボタンはカワイイな、カワイイな、カワイイな、カワイイな
 秋近く、気温の変化か、病気か、妻の万遍ものカワイイなの呪文で、一羽が落鳥。妻は泪ぐむ。
 ――落鳥とはいい言葉だ
 小鳥屋もペット医者も異口同音に、一番の一羽が死ぬと、残った一羽もかならず後を追うという。それから一ヵ月目に生ける一羽も落鳥。最後までいずれが牡牝か不明だった。考えてもみなかったロマンチックな生物の世界。私も妻も、ささやかではあるが、「何かを発見」したかも知れない。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三〇〜三一ページ)

〈われ発見せり〉は、誌名《ユリイカ》――アルキメデスの言葉とされる“Eureka(エウレカ)”――にちなむ。あらかじめテーマが与えられていた随想なわけで、決められた字数(約800字)のなかでどう展開するかは文筆家の腕の見せどころである。文中の猫の一周忌というのは、1968年末、夫妻が北区滝野川の公団住宅から目黒区青葉台のマンションに転居する際、飼っていたシャム猫のデッカ(牡)がどさくさに紛れて失踪し、エリ(牝)もまもなく死んだことを指す。最後の段落は、キエリクロボタンの番の話以前にシャム猫の雌雄の最期を想定すると、夫妻の嘆きがひときわ身に染む。私は鳥を飼ったことがなく、その生態に詳しいわけでもない。だが動物園で珍しい鳥を観ると、それらを愛玩してみたくなる気持ちはわかる。その風貌からしばしば鳥になぞらえられた吉岡実にしてみれば、犬や猫とはまた違った意味で、最も親しみを感じた生き物がこれらの小鳥だったのではあるまいか。

【キボーシインコはインコ科ボウシインコ属】 【キバタンオウム】 【キエリクロボタンはインコ科ボタンインコ属】
左から 「キボウシインコ(黄帽子鸚哥)」はインコ科ボウシインコ属、「キバタンオウム(黄芭旦鸚鵡)」はオウム科キバタン属、「キエリクロボタンインコ(黄襟黒牡丹子鸚哥)」はインコ科ボタンインコ属

キエリクロボタンインコは「タンザニアを原産地とする小型インコです。日本にも輸入され、ごく一般的な品種として知られています。首の鮮やかな黄色に対して喉から上は覆面をかぶったかのように黒く、クチバシはオレンジ色です。翼には濃い緑に黄色が、お腹には淡い緑に黄色が混ざっています。多い時で8個と、一度に多くの卵を産みます。同じく「ラブバード」の一種であるルリコシボタンインコが生息する地域では、自然交配も多く見られます」(磯崎哲也監修・開発社著《世界のインコ――100種のかわいい鳥たち》ラトルズ、2016年10月31日、三一ページ)。吉岡はその後、〈飼鳥ダル〉(初出は《朝日新聞(夕刊)》1973年6月2日)と〈わが鳥ダル〉(初出は《群像》1975年2月号)でダルマインコのダルのことを随想に書いている。《世界のインコ》はたくさんのインコのカラー写真を収めた美しい本だが、ダルマインコは「目と目の間など、顔にある黒い模様がだるまのように見えることが、日本名の由来に。英語名では「口ひげインコ〔Moustache Parakeet〕」という意味が付けられています。好奇心旺盛で人なつこく、社交的な性格の持ち主。賢いので、人の言葉をすぐに覚え、上手におしゃべりしてくれます。寒さには強く、丈夫で、飼育しやすいインコです。ただし、ときに大きな声を発することがあるので、近隣に迷惑がかからないよう飼育場所を選ぶ必要があります」(同書、六九ページ)とある。〈小鳥を飼って〉に始まるこれら3篇の随想によれば、吉岡が飼った小鳥には、ダルマインコ以前にキエリクロボタン、十姉妹、錦華鳥がある。随想(しかも題にまで)にその名前が記されているのは、ダルマインコのダルだけである。下の写真で吉岡の肩に載っているのがダルだろう。

【ダルマインコはインコ科ホンセイインコ属】 金井塚一男〔写真〕〈グラビア 吉岡実の眼〉(《ユリイカ》1973年9月号、一一〇ページ)
インコ科ホンセイインコ属の「ダルマインコ(達磨鸚哥)」(左)と金井塚一男〔写真〕〈グラビア 吉岡実の眼〉(《ユリイカ》1973年9月号、一一〇ページ)(右)

かつて〈吉岡実詩の鳥の名前〉で指摘したことだが、吉岡の執筆した詩篇にダルマインコは登場しない。それどころかインコやオウムの類は〈蒸発〉(A・5)に鸚鵡が登場するだけだ(「温室で鸚鵡の金属性の嘴の」)。小鳥の随想に関するかぎり、「いずれの小品も、事実の経由を綴った、日常反映の記録にすぎない」(〈あとがき〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三六九ページ)は、額面どおり受けとってよいようだ。


書下ろしによる叢書〈草子〉のこと(2018年5月31日)

吉岡実は生前、12冊の単行詩集を刊行した。すなわち、

@詩歌集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)
A詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)
B詩集《静物》(私家版、1955年8月20日)
C詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日)
D詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962年9月9日)
E詩集《静かな家》(思潮社、1968年7月22日)
F詩集《神秘的な時代の詩》(湯川書房、1974年10月20日)
G詩集《サフラン摘み》(青土社、1976年9月30日)
H詩集《夏の宴》(青土社、1979年10月30日)
I拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》(書肆山田、1980年5月9日)
J詩集《薬玉》(書肆山田、1983年10月20日)
K詩集《ムーンドロップ》(書肆山田、1988年11月25日)

である。このうち草蝉舎は吉岡の自宅だから、Bを含めて計4冊が私家版ということになる。したがって出版社から刊行したのは、残りの8冊――書肆ユリイカが1冊、思潮社も1冊、湯川書房も1冊、青土社が2冊、書肆山田が3冊――となる。書肆ユリイカは伊達得夫が起こした版元で、思潮社は伊達から薫陶を受けた小田久郎が起こした詩書専門の、湯川書房は湯川成一が起こした限定本中心の、青土社は伊達のもとで詩誌《ユリイカ》の編集を補佐した清水康雄が起こした出版社である。そして今回とりあげる書下ろしによる叢書〈草子〉を1973年から78年にかけて刊行したのが、山田耕一の起こした書肆山田だ(現在の代表者は鈴木一民)。上の一覧からわかるように、1970年代までの吉岡は、詩壇への登場を後押しした伊達得夫とその周辺の出版人たちとの濃密な関係のもとに、詩集を刊行していた(《紡錘形》の発行は草蝉舎だが、発売は思潮社)。《神秘的な時代の詩》の湯川書房は、それ以前、〈叢書溶ける魚No.2〉として《液体》(1971年9月1日)を300部限定で再刊している(叢書の編集は鶴岡善久と政田岑生)。吉岡にしてみればお手並み拝見といった処だったかもしれないが、大岡信や瀧口修造、土方巽、飯島耕一といった〈叢書溶ける魚〉の著者たちのラインナップにも心を動かされたかもしれない。それとよく似た経緯が、書肆山田との場合、拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》とそれ以前に出た詩《異霊祭》(1974年4月25日)において見られる。だがそのまえに、〈草子〉全体のラインナップを確認しておこう。余談だが、上記GからJまでの4詩集は、渡辺一考の書肆蕃紅花舎や南柯書局(永田耕衣の限定本などを手掛けた)から特装本が発行/発売されている。

書肆山田発行の書下ろしによる叢書〈草子〉の1:瀧口修造《星と砂と――日録抄》(1973年2月25日〔第二刷:1979年11月10日〕)、2:天沢退二郎《「評伝オルフェ」の試み》(1973年10月10日)、3:吉岡実《異霊祭》(1974年4月25日)、4:飯島耕一《ゴヤを見るまで》(1974年8月25日)、5:三好豊一郎《老練な医師》(1974年11月25日)、6:岩成達哉+風倉匠《レッスン・プログラム》(1978年7月10日)、7:高橋睦郎《巨人伝説》(1978年7月10日)、8:谷川俊太郎《質問集》(1978年9月20日)の、いずれも包紙
書肆山田発行の書下ろしによる叢書〈草子〉の1:瀧口修造《星と砂と――日録抄》(1973年2月25日〔第二刷:1979年11月10日〕)、2:天沢退二郎《「評伝オルフェ」の試み》(1973年10月10日)、3:吉岡実《異霊祭》(1974年4月25日)、4:飯島耕一《ゴヤを見るまで》(1974年8月25日)、5:三好豊一郎《老練な医師》(1974年11月25日)、6:岩成達哉+風倉匠《レッスン・プログラム》(1978年7月10日)、7:高橋睦郎《巨人伝説》(1978年7月10日)、8:谷川俊太郎《質問集》(1978年9月20日)の、いずれも包紙

・〈草子1〉瀧口修造《星と砂と――日録抄》(1973年2月25日、のち《コレクション瀧口修造3――マルセル・デュシャン/詩と美術の周囲/骰子の7の目/寸秒夢》、みすず書房、1996に収録)、別に特装版がある。
・〈草子2〉天沢退二郎《「評伝オルフェ」の試み》(1973年10月10日、のち《続・天沢退二郎詩集〔現代詩文庫112〕》、思潮社、1993に収録)、別に吉岡実装丁の特装版がある。
・〈草子3〉吉岡実《異霊祭》(1974年4月25日、のち詩集《サフラン摘み》、青土社、1976に収録)、別に吉岡実装丁の特装版がある。
・〈草子4〉飯島耕一《ゴヤを見るまで》(1974年8月25日)
・〈草子5〉三好豊一郎《老練な医師》(1974年11月25日)
・〈草子6〉岩成達哉+風倉匠《レッスン・プログラム》(1978年7月10日)
・〈草子7〉高橋睦郎《巨人伝説》(1978年7月10日)
・〈草子8〉谷川俊太郎《質問集》(1978年9月20日)

以前にも書いたことがあるが、2009年11月28日のアトリエ空中線10周年記念展〈インディペンデント・プレスの展開〉(渋谷のポスターハウスギャラリー長谷川)における山田耕一・間奈美子・郡淳一郎の三氏によるギャラリートーク〈瀧口修造の本と書肆山田の最初の10年〉の会場で特別展示された《星と砂と》の原稿(土渕信彦さん所蔵)は実に興味深いものだった。ペラの原稿用紙「LIFE C 155 20×20」17枚にわたる瀧口自筆の印刷入稿用原稿で、1枚め冒頭に「この組み方、草子の全体の構成により再考」とか、節表示のアラビア数字に対して「以下コノ数字ハ比較的大キナイタリックデ 位置ハ本文ト頭ヲ揃エルカ?」といった組版に関するメモが記されていて、瀧口が〈草子〉の装丁と本文組に心を砕いた様子がまざまざと伝わってくる。同原稿の冒頭には、鉛筆書きで(「草子」ではなく)「草紙1」とある。なお、吉岡は瀧口修造に捧げた詩篇〈舵手の書〉(G・22)の詩句に、同書の書名「星と砂と」を引用している。
さて〈草子〉の刊行日を見ていると面白いことに気が付く。〈草子1〉は叢書の発案者であり、装丁者でもある瀧口が先陣を切っていて、〈草子2〉の天沢(と〈草子3〉の吉岡、〈草子4〉の飯島、〈草子5〉の三好)はそれを見本に創作したに違いない。新聞や雑誌に詩を書くのとは異なり、冊子がどのような体裁なのかは、この書きおろしシリーズの最重要項目だったはずだ。本書の本体は折丁だけの冊子だが(四釜裕子の〈製本かい摘みましては(56)〉には「瀧口修造がアンドレ・ブルドンからおくられた二つ折りの「詩集」がそのかたちのアイディアのもとで、「草子」の名は浅草生まれ(浅草っ子)の山田〔耕一〕さんにあやかってという説もある、と、笑いながら山田さんがお話しになった」とある)、その小口帯状の包紙の裏面には〈草子刊行案内〉という広告が載っている。茶色の包紙の〈草子1〉から〈草子5〉までと、青い包紙の〈草子6〉から〈草子8〉までとではその表示のスタイルが変わっている(両者の間には4年近い歳月が存在している)。それを仮に前期スタイルと後期スタイルと呼ぼう。包紙(機能的には表紙もしくはジャケットと奥付裏広告に相当する)に刷数の表示はないが、手許の〈草子1〉は第二刷(1979年11月10日)の際に後期スタイルをとったものらしく、初刊時の状態が確認できない。以下、2号から8号までの〈草子刊行案内〉を摘する。なお、/印は改行箇所を表す。

・〈草子2〉天沢退二郎:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/*以下刊行予定 吉岡実号 大岡信号 入沢康夫号 清水昶号 吉増剛造号
・〈草子3〉吉岡実:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/3 吉岡実 異霊祭 360円
・〈草子4〉飯島耕一:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/3 吉岡実 異霊祭 360円/4 飯島耕一 ゴヤを見るまで 360円
・〈草子5〉三好豊一郎:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/3 吉岡実 異霊祭 360円/4 飯島耕一 ゴヤを見るまで 360円/5 三好豊一郎 老練な医師 360円
・〈草子6〉岩成達哉+風倉匠:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/3 吉岡実 異霊祭 360円/4 飯島耕一 ゴヤを見るまで 360円/5 三好豊一郎 老練な医師 360円/6 岩成達哉+風倉匠 レッスン・プログラム 450円/7 高橋睦郎 巨人伝説 450円/8 佐々木幹郎 近刊/9 吉増剛造/10 澁澤孝輔/11 大岡信
・〈草子7〉高橋睦郎:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/3 吉岡実 異霊祭 360円/4 飯島耕一 ゴヤを見るまで 360円/5 三好豊一郎 老練な医師 360円/6 岩成達哉+風倉匠 レッスン・プログラム 450円/7 高橋睦郎 巨人伝説 450円/8 佐々木幹郎 近刊/9 吉増剛造/10 澁澤孝輔/11 大岡信
・〈草子8〉谷川俊太郎:1 瀧口修造 星と砂と 日録抄 300円/2 天沢退二郎 「評伝オルフェ」の試み 300円/3 吉岡実 異霊祭 360円/4 飯島耕一 ゴヤを見るまで 360円/5 三好豊一郎 老練な医師 360円/6 岩成達哉+風倉匠 レッスン・プログラム 450円/7 高橋睦郎 巨人伝説 450円/8 谷川俊太郎 質問集 450円/佐々木幹郎 近刊/吉増剛造/澁澤孝輔/大岡信

煩瑣なまでに引用したのは、〈草子刊行案内〉の移りかわりを見るにつけ、シリーズものの刊行がいかにままならないか身につまされるからで、〈草子2〉にあった刊行予定の「吉岡実号 大岡信号 入沢康夫号 清水昶号 吉増剛造号」のうち、実際に出たのは吉岡の号だけである。同時刊行の〈草子6〉と〈草子7〉で「近刊」とされていた佐々木幹郎の号は結局、刊行されず、2か月後にはその佐々木を追いこして、それまでラインナップのどこにも名前のなかった谷川俊太郎の号が刊行されている。かくして、〈草子刊行案内〉で予告されていて日の目を見なかったのは、大岡信・入沢康夫・清水昶・吉増剛造・佐々木幹郎・澁澤孝輔の各号ということになる。吉岡は《異霊祭》発表の1974年当時、のちに詩集《サフラン摘み》(青土社、1976)としてまとまることになる諸作を書きついでいて、詩作はまさに絶好調だった。それにしても、全8節161行という長尺を書きおろすのは決して簡単ではなかっただろう。詩1篇とはいえ、れっきとした書籍である。今はただ、〈草子〉の吉岡実号の企画が実現されたことを喜ぶだけだ。
〈草子〉シリーズが長続きしなかったのには、いくつか原因が考えられる。定期刊行物ではないため、締切や制作の日程管理がうまくいかなかった。薄い冊子のため、販路や書店の棚が確保しづらかった。低価格の普及版と高価格の特装限定版の位置づけがはっきりしなかった。等。すなわち、進行・販売・原価管理上の諸問題。 しかしなによりも、器の新規性を活かす作品に恵まれなかったことが挙げられるだろう。それは、詩篇や散文作品として魅力が乏しかったことを意味しない。だが〈異霊祭〉は、《サフラン摘み》で読むほうが〈草子〉の一篇として読むよりじっくり味読できることもまた確かなのである。器としての稀少性を出すには、詩画集という方向もありえたが、瀧口修造の構想にその選択肢はなかったのだろう。〈草子〉の身軽さと美術作品は両立しそうにない。ただし、三好豊一郎《老練な医師》には城所祥の木版画が、岩成達哉+風倉匠《レッスン・プログラム》には風倉のデカルコマニーが、高橋睦郎《巨人伝説》の口絵には著者(?)によるカットが、それぞれ添えられている。ほかにも包紙の色の変更や、それへの文字の刷色の変更(1・2号はスミ、3〜5号は紫、6〜8号は青)などと併せて、叢書刊行中に細部の修正が加えられていったものと思しい。
吉岡が〈異霊祭〉執筆当時を振りかえった文章は見当たらない。だが、初出末尾にある「1974・2・14」が詩篇の脱稿日だとすれば、その10日後の1974年2月24日(日曜日)の日記に「夕方から雨。月桂冠一本抱え、井の頭線の浜田山へ出る。寒いので駅の近くの店でコーヒーをのみ、地図をたよりに歩く。状況劇場の稽古場開きである。唐十郎、李礼仙に迎えられる。まだ客は少く、若松孝二、足立正生に紹介された。久しぶりの土方巽と大いに語る。宴たけなわ、澁澤龍彦、種村季弘、松山俊太郎、四谷シモン、赤瀬川原平、三木富雄、中嶋夏ら現われる。いよいよ佳境に入り、余興になる。一番手は小林薫で、「そして神戸」の美声に聴きほれる。唐十郎の自作朗読そして李礼仙の唄の終ったところで、抜け出すと、外は雪になっていた。やがて修羅場と化すだろうとの予感。深夜の静かな豊多摩高校の庭を帰る。向うを一匹の犬が歩いていた」(《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、七六ページ)とある。《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》(書肆山田、1996)の書名は、吉岡の1948年7月12日(月曜日)の日記「日照りの乾いたみち/手をたらして歩く/進駐兵のたばこのからが落ちていた/駱駝の絵があった/私のうしろを犬が歩いていた」(同書、一五ページ)から採られた。その、四半世紀のちのもう一匹の「犬の肖像」との照応に戦慄する。詩《異霊祭》は、こうした感覚の持ち主によって生みだされた。詩篇〈異霊祭〉(G・19)から「1」を引く。

朝は砂袋に見える

夏の波の寄せる処で
母親を呼ぶように
紅い布を裂き
趣味のよい書物をひもとく
アラン
きみが叙述した矮小種族の好む虹色の二字
〈肉体〉
オパールの滝のなかの美貌の妹
沈む壜に入っている

死を近づける
また破裂をもたらす
新鮮な魚の目のように
何を待つ
アラン
悲劇とは仮死のなかの仮生

〈吉岡実資料〉(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991)を編むために、吉岡実の初出文献の件で蔵前の筑摩書房に淡谷淳一さんを訪ねた折りだった。なにかの拍子に、吉岡実詩の話になった。淡谷さんは即座に「朝は砂袋に見える/岬」という〈異霊祭〉の出だしは素晴らしい、と言われた。懐かしくも、忘れがたい想い出である。

〔追記〕
インターネットで〈異霊祭〉を検索していたら、品切れ本を中心とした書評ページ《失われた本を求めて 陰鬱な美青年 グラック》で、「最後に、この『陰鬱な美青年』が、ひとりの日本の詩人にインスピレーションを与えたのではないかと思われる例を挙げておく。吉岡実が1974年に描きあげた「異霊祭」という詩だ。確証はないが、語の選び方から察するに、わたしにはそんな気がしてならない。それに吉岡氏は当時、筑摩書房に勤務していたのだから、本書を手に取ったことも充分にありえるだろう。では、この「異霊祭」から第1節を引用してみよう(この詩は吉岡氏の代表作『サフラン摘み』に収録されている)」とあるのを見つけた。書評者のtakahata氏(同文の末尾には「by takahata: 2004.11.30」とある)が誰かわからないが、この貴重な指摘をやり過ごすわけにはいかない。しかしながら、ジュリアン・グラック(小佐井伸二訳)《陰欝な美青年》(筑摩書房、1970年7月25日)は絶版で、古書値もばかにならない。そこで、文遊社から2015年5月1日に刊行された再刊を入手したところ、訳者による〈あとがき〉に淡谷さんの名前を見出した。

 訳者もまた、少年の日から久しくこの作家に対して、とくになぜかこの小説に対してひそかな偏愛を抱いてきたが(少年の、水平線の向う側へのあこがれを、このようなかたちで、つまり「暗喩的な仕方とはまったく別な」かたちで、満たしてくれる作家が現代他にいるだろうか?)、もし訳者が『文学界』誌上にこの小説の最初の部分の窪田啓作氏による美しい翻訳を読むという偶然に恵まれなかったなら、またもし筑摩書房編集部の淡谷淳一氏からの遠い[、、]しかし絶えざるはげましがなかったなら、この[、、]訳書は生れていなかっただろう。願わくば、水平線の向う側へ帰ることなく旅立つ瞬間のあのめまい[、、、]がいささかでも訳文に移されているように!(ジュリアン・グラック(小佐井伸二訳)《陰欝な美青年》文遊社、2015年5月1日、三一三ページ)

吉岡実が淡谷淳一(吉岡に書き下ろしの評伝《土方巽頌》を書かせた後輩の編集者で、筑摩書房のフランス文学系の全集や大著を数多く手掛けた)を介して、小佐井伸二訳のジュリアン・グラック《陰欝な美青年》に触れた可能性はきわめて高い。

ジュリアン・グラック(小佐井伸二訳)《陰欝な美青年》(筑摩書房、1970年7月25日)の表紙と同書の再刊(文遊社、2015年5月1日)のジャケット
ジュリアン・グラック(小佐井伸二訳)《陰欝な美青年》(筑摩書房、1970年7月25日)の表紙と同書の再刊(文遊社、2015年5月1日)のジャケット

前掲takahata氏の書評にもあったように、吉岡実詩にグラック小説の直接の[、、、]反映が見られるわけではない。しかしながら、たしかに全体の醸しだす雰囲気には共通したものが感じられる。試みに初刊と再刊の帯文を掲げて《陰欝な美青年》の、アラン・パトリック・ミュルシソンの片鱗に触れてみよう。

[初刊帯文]
死は他人の奥にまだ眠っている死をゆさぶり、目覚めさせる、ちょうど女の腹のなかの子供のように………………
アランとは誰か?
あるいは何か?(表1)
ブルターニュ海岸ホテルの避暑客たち、ランボーを研究するジェラール、知的俗物ジャック、新婚早々のイレーヌとアンリ、青年グレゴリー、そして若く美しい誇りやかな娘クリステル、無為と倦怠が支配するヴァカンスに登場する「陰欝な美青年」アランをめぐる愛と死――この神秘的な小説は、同時に劇であり「神話」である。(表4)
[再刊帯文]
この眩暈を止めなければ、この無意味な死を――
ヴァカンスの倦怠を、不安に一変させる美青年、アランとは誰なのか?(表1)
「キリスト教は、……この地球上でかたちをなさなかったでしょう、もしキリストが降臨しなかったら。キリスト教が存在するためには、キリストが存在しなければならなかった、この村に、この日に生れ、神を信じない人間に釘付けにされたこの手を見せ、そして隠喩的な仕方とはまったく別の仕方で墓から消え去らねばならなかったのです。このような真似のできぬ現存なくしてどうして彼がひとびとを説得できたでしょう?」(表4)

再刊帯文の表4はアランがジェラールに語った言葉。それを含む「七月十九日」のジェラールの日記は「昨日、遂に、アランと知り合いになることができた」(同書、八二ページ)と始まる。私がアランの言葉で最も惹かれたのは、このキリスト教/キリストの一節ではない。そのほんの数ページまえの別の箇所である。ここは、吉岡が読んだかもしれない初刊から引くことにする。

〔……〕おそらく、作品の完成[、、]は、ポーの『楕円形の肖像』におけるように、あるいは人間の死をもたらすかもしれません。書かれた言葉のすでにきわめて危険な明暗をとおして詩人を知らずに導いてゆくあの透かしになったテクスト、あの磁化された目に見えないテクストが、いかなる魔力を包蔵しているか、誰にわかりましょう。すべての作品はいったん書いた字を消してその上にまた字を記した羊皮紙なのです――だから、作品が成功している場合は、消されたテクストは常に魔法のテクストです。(同書、七三ページ)

とりわけ「すべての作品はいったん書いた字を消してその上にまた字を記した羊皮紙なのです」からは、吉岡実が松浦寿輝詩集《ウサギのダンス》(七月堂、1982年11月15日)の栞に寄せた未刊の散文〈文字の上に文字でないものを℃u向する詩〉を想起しないわけにはいかない。


吉岡実と和田芳恵あるいは澁澤龍彦の散文(2018年4月30日)

小説家の和田芳恵は吉岡実の岳父だが、ここでは随筆〈文壇の片隅から〉(初出は《海》1974年8月号)の書きだしを読んでみたい。

 札幌の花月堂という和菓子屋に頼まれて、「杙刺[くいざ]し」という短い文章を書いた。北海道の四月にふさわしい言葉を書けということだった。東京から見れば、ほぼ、ひと月ほど遅れて桜の花が咲く。私は、こんな文章を書いた。
 私たちは「くい刺し」と言ったが、別な呼びかたもあるらしい。相手が地面に刺したくいを自分の刺し込むくいで、はじきとばす子供の遊び。うまく、はじけば、自分のものになった。
 雪が消えて、黒い土が顔を出すころ、私たち悪童連は山へはいり、せっせと、くいを作った。長さ二尺ぐらいで、先きが鋭く尖っていた。
 「くい刺し、やるべ」と誘いあい、放課後の小学校の広っぱで、夢中に闘いあった。
 私の生まれた長万部町国縫は、北海道では暖いほうだが、くい刺しは四月が頂点で、それからメンコ遊びになった。
 どうして、四月がくい刺しに向くかといえば、雪水を充分に吸い込んだ土の、しめり加減が、やわらか過ぎず、固くもなく、ねっとりとした頃合のせいである。和菓子の「ねりきり」の触感に似ていた。
 勝つ日もあれば、敗ける日もあった。
 一本もなく、くいをまきあげられて、すごすごと帰るときの、みじめったらしい気持。
 その日は付いていて、当るを幸い、相手をなぎたおし、縄で作ったくいを、背負って戻るときの、晴れがましさ。
 くいについた泥で、きものの背中をよごしてしまったと気づくのは、いつも、家へ近づいたころだった。
 母に叱られながら、私は炉ばたで、脱いだ着物の泥を、かわかしたものだった。
 月一回で変る、この「散らし」は、私のところで二百五十六回になっている。二十三年前から、始めたということなのだろう。
 〔……〕(《順番が来るまで》北洋社、1978年1月20日、九一〜九二ページ)

 ≠ナ括った五百三十字弱が自身の旧作になるわけだが、〈杙刺し〉は和田のほかの文集には収められていないようだ。では、この極めて短い随想は何年の「四月」に発表されたのだろうか。引用文からそれを導きだすことができる。〈文壇の片隅から〉の初出時(1974年8月)や「月一回で変る、この「散らし」は、私のところで二百五十六回になっている。二十三年前から、始めたということなのだろう」という記載を考えあわせると、チラシが毎月きちんと発行されているとするなら、創刊は1951年1月(すなわち1974年の「二十三年前」)、そこから起算すると〈杙刺し〉が発表されたのは1972年4月となる。〈文壇の片隅から〉を《海》に発表した1974年の2年前の1972年の、遅くとも早春には脱稿した文章だったということになろう。こうしたことを跡づけることのできる、和田の散文のおそるべき圧縮度である。内容のことをいえば、春先の土を和菓子「ねりきり」の触感に通じるとするあたりに、和田ならではの官能性を見ることができる。だが私がここで話題にしたいのは、和田の文章が吉岡の散文になにがしかの影響を与えたのではないかという点である。いったい人は初めてなにかする場合、まるきり無手勝流で臨むこともないとは限らないが、しかるべき準備期間があるならば、手近な先例から学ぶのが筋だと思われるからである。吉岡が乞われて散文を発表しはじめたのは、詩集《静物》(私家版、1955)を刊行して以後、それが多くの人の目に触れるようになったのは、続く《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)を刊行して詩人としての地歩を築いて以降ということになろう。当時の吉岡の読書生活の詳細はわからない。だが、1953年には勤務先の業務で塩田良平・和田芳恵編の《一葉全集〔全7巻〕》(筑摩書房、1953〜56)の装丁を担当していて、吉岡は当初、和田芳恵を一葉の研究者として知った。さらに、1956年に和田の書きおろし《一葉の日記》(筑摩書房)の装丁も手掛けるころには、小説家にして元小説雑誌の編集者というその経歴にも通じていた。つまり、吉岡が発表を想定した散文を書きはじめた時期、最も身近にいた文筆家の一人が和田芳恵だったわけである(なお吉岡は1959年、和田の長女・陽子と結婚している)。

吉岡実と和田芳恵〔出典:古河文学館編《和田芳惠展――作家・研究者・編集者として》古河文学館、1999年10月23日、五一ページ〕
吉岡実と和田芳恵〔出典:古河文学館編《和田芳惠展――作家・研究者・編集者として》古河文学館、1999年10月23日、五一ページ〕

ここで冒頭に引いた〈文壇の片隅から〉に嵌めこまれた〈杙刺し〉に戻ろう。吉岡の散文は和田の随想におけるそれほど改行や読点が多くはないが、比較的短い文を積みかさねて先へ先へと歩を進める呼吸には、互いに近いものが感じられる。若年のころの想い出を主題とする随想を締めくくる際の手法も、和田の「母に叱られながら、私は炉ばたで、脱いだ着物の泥を、かわかしたものだった」あたりに学んでいるようだ。なお、私が和田の小説ではなく随想を引いたのは、もちろん対比すべき吉岡に小説作品がないということが第一にあるが、和田の小説と吉岡の詩を比較するにはその間に設定すべき媒介が複雑すぎて手に余る、という事情による。和田の小説の文体に関しては、時代を画した丸谷才一の評「そして和田の二篇の情痴小説〔〈厄落し〉と〈接木の台〉〕は、いづれも、徳田秋聲から川端康成に至る奇妙に錯綜した時間の構造と言ひ(和田がこの技法に習熟してゐることは恐しいほどである)、頻繁な改行と言ひ、会話の多用と言ひ、まさしく当時〔昭和十年代〕の小説との近接を示してゐる。彼はひよつとすると、最も遅れて来た昭和十年代作家なのかもしれない。これはもちろん、それにふさはしいだけの成熟が備はつてゐるといふ意味で言ふのだけれども」(《雁のたより〔朝日文庫〕》朝日新聞社、1986年8月20日、一八一ページ)に尽きている。

アレキサンドリア局留便《O氏の肖像――大野一雄を肖像した長野千秋展》(アパッシュ館、1969年〔奥付に月日の記載なくも、9月以降に刊行か〕)に収録された吉岡実の〈内密な意識の個人的な秘儀〉と同書のポートフォリオ
アレキサンドリア局留便《O氏の肖像――大野一雄を肖像した長野千秋展》(アパッシュ館、1969年〔奥付に月日の記載なくも、9月以降に刊行か〕)に収録された吉岡実の〈内密な意識の個人的な秘儀〉と同書のポートフォリオ

吉岡実に〈内密な意識の個人的な秘儀〉と題する三百五十字ほどの短文がある。初出は《O氏の肖像》(アパッシュ館、1969)だが、同書のクレジットの表示が少しく曖昧なので、印刷物のありさまを再現しておく。私が古書落穂舎から数年まえに求めた一本は、天地300×左右415ミリメートルほどのポートフォリオ――洋風の帙で、表の「PORTFOLIO」というロゴの上に銀の地を引いて大きく「O氏の肖像」(書名であろう)、その下方のポートフォリオの生地にやや小さく「アレキサンドリア局留便」(これが副題なのか、著者もしくは編者を示すプロジェクト名なのか、はっきりしない)と、いずれもスミで文字(横組み)が刷られている――に、天地290×左右410ミリメートルほどの紙葉が13枚収められている【註1】。これらを踏まえて、便宜的に本書をアレキサンドリア局留便《O氏の肖像――大野一雄を肖像した長野千秋展》(アパッシュ館、1969年〔奥付に月日の記載なくも、9月以降に刊行か〕)としておく。吉岡の〈内密な意識の個人的な秘儀〉は《土方巽頌》(筑摩書房、1987)の〈18 「O氏の肖像」〉に、符号を二箇所(《 》と―)改めただけで、字句はそのままに吸収された。

 土方巽と笠井叡という恐るべき二人の舞踏家の師といわれる、大野一雄は久しい間、私にとっては幻の舞踏家であった。このつつましくも寡黙な表現者は、なかなか私たちの前にその全容を現わしてくれない。その人が今度『O氏の肖像』というユニークな映画を長野千秋の協力で創った。自己顕示欲の尠いと思われる大野一雄が、突然、映画を創ったのには一瞬奇異なものを、私は感じたが――。一時間十分凝視しているうちに、妙なことだが、これは他者に観せる演技ではなく、まして舞踏でもなく、肉体でもないと思われてくる。これはもしかしたら、大野一雄のきわめて内密な意識の個人的な秘儀なのかも知れないと。うす暗い他界の内陣で、生死もさだかでない血まみれの魚体を、トイレットペーパーで偏執的に包みこんでゆく姿に、私はある戦慄をおぼえた。(同書、三二〜三三ページ)

吉岡は〈18 「O氏の肖像」〉で、まず土方の章句を引いてから、自身の1969年8月24日の日記を掲げている。すなわち「夕暮、渋谷のフランセに行く。すでに飯島耕一、鈴木志郎康夫妻そして、大野一雄と長野千秋が待っていた。遅れて、土方巽、三好豊一郎が来たので、小さな映画事務所へ。そして長野千秋撮影、大野一雄出演の「O氏の肖像」を観る。終って加茂川で酒をのむ。土方巽の吐いた言葉が心に残った。若者たちをぬらす水は胸のあたり。しかし老婆、日本の老婆は静かにかがんでゆき、指先からすーっと水のなかへ入ってゆく、と――」(同書、三二ページ)。そして一行空けてから「『O氏の肖像』の記念冊子を作るというので、私は一文を寄せている。」(同前)と来て、上掲引用文になる(なお、標題の〈内密な意識の個人的な秘儀〉は吉岡がつけたものではないかもしれない)。私にはこの流儀が、本稿の初めに掲げた和田の骨法に通じるものに思えてしかたがないのだ。

澁澤龍彦【註2】のような、執筆した文章を精力的に書物にまとめていく文筆家と較べたとき、吉岡は〈内密な意識の個人的な秘儀〉を、たとえば「推薦文」というようなカテゴリーをつくって自著に収録するとは考えにくい。和田は吉岡と比較すればはるかに多くの著作を有して、歿後には全集【註3】もあるが、それでも北海道の和菓子屋のチラシに書いた〈杙刺し〉を単体で書籍に組みこむような編集はしなかっただろう。だが、自身の旧作を新作に嵌めこんで文章を展開する手法は、誰もが採るものではないように思う。これは編集的な著述の方法ではなかろうか(奇しくも、和田芳恵、吉岡実、澁澤龍彦の三人とも、編集者だった時期がある)。澁澤の1960年代の主著に《夢の宇宙誌――コスモグラフィア ファンタスティカ〔美術選書〕》(美術出版社、1964)がある。巖谷國士がその《澁澤龍彦論コレクション〔全5巻〕》(勉誠出版、2017〜18)で指摘しているように、本書は雑誌掲載稿をきわめて編集的に再構成した書物だった。ところで国書刊行会編集部編《書物の宇宙誌――澁澤龍彦蔵書目録》(国書刊行会、2006)は「澁澤龍彦が遺した蔵書1万余冊の全データと多数の写真が織りなす、夢と驚異の蔵書目録」だが、吉岡が澁澤と著書のやりとりを通じて、刊行当時、《夢の宇宙誌》を贈られたかどうかはわからない。だが、その時期はともかく、吉岡が《夢の宇宙誌》を読んだことは疑いようもない。同書冒頭の〈玩具について〉だけ見ても、そこには日時計(修道僧ジェルベエル――のちのローマ法王シルヴェステル二世――が造ったとされる)、ダイダロスとクレタ島、宮廷肖像画家ジュゼッペ・アルキ[ママ]ンボルド、「鉄の処女」、アスタルテといった、のちの吉岡実詩に現れるさまざまなアイテムが登場する。むろん、すべてのスルスが澁澤の著作だとは断言できないが、澁澤経由でこれらに親しんだことは明らかだろう。現にアルチンボルドが「野菜と果実と花ばかりを組み合わせて、ユーモラスな〔ルドルフ〕皇帝の顔を描いた」(《澁澤龍彦全集〔第4巻〕》河出書房新社、1993年9月13日、一九九ページ)ところの〈庭師〉が図版で掲載されている。これが〈サフラン摘み〉(G・1)の「春の果実と魚で構成された/アルチンボルドの肖像画のように」の淵源のひとつであることは動かないだろう。と、ここまで書いてきたが、私はこれ以上、具体的に澁澤龍彦の文章と吉岡実のそれを並べて比較することは避けたいと思う。散文に関するかぎり、職業的な書き手である澁澤と吉岡実という詩人の書く散文を突きあわせてみても大した発見は得られないだろう、という予感があるのだ。むしろ、澁澤のエッセイ(随想ではない)の断章形式と、吉岡の人物評における断章・断想という形式がもつ本質的な類似こそが興味深い。それは表現方法の次元に留まらず、世界を認識する姿勢における共通性を示していよう。吉岡が1950年代に和田の文章から学んだように、1970年代以降、澁澤の著作から多くを学んだことは、金井美恵子が肖像〈吉岡実とあう――人・語・物〉で「澁澤龍彦夫妻と何年か前四谷シモンの人形展で一緒になった時、本気で真面目に今のところ、おれは澁澤氏を一番気に入っているからね、と言い、澁澤龍彦が、今のところ[、、、、、]、かあ、と大笑いした」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984、二二四ページ)と書いていることが傍証となる。だが、吉岡が澁澤の方法を自家薬籠中のものとしたのは、「澁澤龍彦のミクロコスモス」と詞書にある詩篇〈示影針(グノーモン)〉(G・27)をもって嚆矢とする。この詩篇と澁澤龍彦《胡桃の中の世界》(青土社、1974)の関係については、他日を期したい。

私には、和田芳恵(1906〜77)と澁澤龍彦(1928〜87)という、およそ対蹠的な立場の文学者から散文の富を継承した詩人が吉岡実だったように思えてならない。

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【註1】 《O氏の肖像》は、土方巽公演〈土方巽と日本人――肉体の叛乱〉の一カ月半後に刊行された限定50部のオリジナル豪華詩画集《土方巽舞踏展 あんま》(アスベスト館、1968年12月1日、編集:アスベスト館)ほど知られていないようなので、やや詳しく記しておきたい。13枚の紙葉(ノンブルなし)に、仮に丸中数字で番号を振って内容を概説する。なお、本文はすべて縦組みである。
@厚手のトレーシングペーパーに、使用済みのチェコスロバキアの切手(躍動する馬の絵柄)を貼り、スミで人物(O氏?)の半身像を、銀色で「アレキサンドリア局留便」(横組み)と、おそらくシルクスクリーンで刷ってある。本書の扉に相当する。
A以下、用紙はすべて濃いクリーム色に淡いピンクのマーブル模様を漉きこんだファンシーペーパー。Aは〈目録〉すなわち目次である。追い込みで再録する。「大野一雄を肖像した長野千秋展/目録/土方巽 シビレット夫人/加藤郁乎 ある日のキリスト氏/三好豊一郎 オナンの如く/飯島耕一 O氏の運動/合田成男 O氏の肖像へ/鈴木志郎康 いとしいとしの眞空充肉充血皮袋ちゃん!/中西夏之 顔を吊るす双曲線/谷川晃一 OHONO-FARMAN TYPE-PIPE BIPLANE/吉岡実 内密な意識の個人的な秘儀/澁澤龍彦 泳ぐ悲劇役者」
B土方巽〔書簡文〕(標題なし)
C加藤郁乎〔散文〕〈ある日のキリスト氏〉
D三好豊一郎〔詩〕〈オナンの如く〉
E飯島耕一〔散文〕〈O氏の運動〉
F合田成男〔散文〕〈O氏の肖像へ〉
G鈴木志郎康〔散文〕〈いとしいとしの眞空充肉充血皮袋ちゃん!〉
H中西夏之〔図と散文〕〈顔を吊るす双曲線〉
I谷川晃一〔版画〕〈OHONO-FARMAN TYPE-PIPE BIPLANE〉……所蔵の四番本は別のオリジナル(74/100)をカラーコピーで複製したもの
J吉岡実〔散文〕〈内密な意識の個人的な秘儀〉……本文は18級20字詰め18行。標題が1行、署名が1行(どちらも赤系の刷色)なので、400字詰め原稿用紙1枚、もしくはペラ2枚の原稿だったと考えられる。
K澁澤龍彦〔散文〕〈泳ぐ悲劇役者〉……同文の〈解題〉(巖谷國士)には「一九六九年、アパッシュ館から刊行された『O氏の肖像――アレキサンドリア局留便』に発表。これは「大野一雄を肖像した長野千秋展」のリーフレット形式の「目録」でもあった。土方巽、加藤郁乎以下、多くの舞踊家、詩人、批評家、画家たちが大野一雄へのオマージュを書いている」(《澁澤龍彦全集〔第9巻〕》河出書房新社、1994年2月12日、五三二ページ)とある。
L刊記。追い込みで再録する。「壹阡九百六拾九年/アレキサンドリア局/大雅工芸社/クラフト・フォト・タイプ/蛇口刷インキ/刊行 アパッシュ館/〔やや小さく〕東京都世田谷区大原2―21―3/限定百部〔筆書き〕番」

【註2】 澁澤龍彦が和田芳恵を愛読していたかは定かでないが、エッセー集(というよりも随筆集と呼びたい)《玩物草紙》(朝日新聞社、1979年2月25日)の〈天ぷら〉(初出は《朝日ジャーナル》1978年5月5日号)に触れないわけにはいかない。

 その日、吉岡さんが奥さんを連れてこなかったのは、一つには奥さんの父君の和田芳恵さんの病態が思わしくなかったためもありますが、もう一つには、ポルノを見るつもりだったからかもしれないな、と私はひそかに思いました。もっとも、これは吉岡さんに確かめたわけではありませんから、私の勝手な想像です。
 父君の容態が明日をも知れぬという時に、ポルノを眺めるなどとは不謹慎だ、という意見があるかもしれませんが、私はそうは思いません。七十年の壮烈な生き方をした一作家の臨終に、数日来、親しく立ち会っていたればこそ、吉岡さんはその日、むらむらとポルノを見たくなったのではないでしょうか。いや、何もそんな理窟をつけるには及びますまい。私が勝手に吉岡さんの心中を忖度する権利も、むろん、ありません。ただ私は、和田さんの生涯にはポルノはむしろふさわしいので、これを眺めるのが必ずしも不謹慎なことだとは思わないだけです。
 〔……〕
 〔天ぷら屋で〕食事を終え、喫茶店でコーヒーを飲むと、吉岡さんはAさん〔筑摩書房の編集者、淡谷淳一氏〕と一緒に、あたふたと横須賀線で東京へ帰って行きました。
 その日の夜おそく、和田芳恵さんは亡くなられました。
 私は和田さんには一度もお目にかかったことがなく、その作品も、身を入れて読んだことが一度もないような人間ですが、この日のエピソードは、和田さんの死とからめて、おそらく死ぬまで忘れることがあるまいと思います。そういうことがあるものです。それは去年の十月四日でした。(同書、一二四〜一二九ページ)。

この悠揚として迫らぬ調子は(です・ますの文体とも相俟って)、著者の名を明かさなければ、澁澤龍彦だとわからないのではあるまいか。もっとも「私は、和田さんの生涯にはポルノはむしろふさわしいので、これを眺めるのが必ずしも不謹慎なことだとは思わない」というあたり、まぎれもなく澁澤の文章である。和田の死は吉岡にとって痛切な出来事だった。《群像》1977年12月号〔和田芳恵追悼〕の〈月下美人――和田芳恵臨終記〉は、竹西寛子も讃嘆したように吉岡実の散文のひとつの極致を示しているものだが、次のような箇所がある。

 十月四日は朝から大雨であった。そういえば入院の九月十九日も十一号の雨台風の日だった。川崎のO病院を退院して、おやじさんは長原の家に戻った。植木の緑にかこまれたわが家に入る時、病人の顔はいままで見せたことのない清々しい微笑さえ浮べだそうである。次に移る病院が遠すぎるので、途中下車よろしく、家でしばし治療と栄養を摂るためだと、静子夫人と主治医の言であった。しかし、私は前夜吐血し、輸血や点滴をしていた病人の状態を思うと、不吉なことを考えないわけにはゆかない。
 その日は生憎、私は仕事のため同僚と北鎌倉の澁澤龍彦宅に行っていた。打合せも終り、龍子夫人の運転するくるまで鎌倉へ出た。小町通りのひろみで天ぷらを食べ、たのしい一夕を過した。しかしその間も、長原の家のことを考え、心がおちつかなかった。九時過ぎに長原に行った。あらかじめ今日のことに備え、本も本棚もその他の器物も搬び出してしまったので、部屋は一変していた。新しいセミダブルのベッドの上に病人は寝ていた。おやじさんの顔を見て、もうだめだと思った。黄疸になっていて、唇も恐ろしく乾いている。なによりも、苦しむ力さえ失われつつあった。静子夫人も妻もあっちゃん〔和田芳恵の長男すなわち吉岡陽子の兄、昭〕も、ただあたふたとしていた。
 私はクッションの替りに、おやじさんの背に沿って寝た。そして肩や腰を撫でさするより仕方なかった。十二時近く、一度帰った自宅から呼び戻されて新津の先生が駈けつけた。すでに吐血と下血がはじまり、死は近かった。先生は一番大切で、むずかしい点滴をするから、しっかり病人の軀や手を押えて下さいといった。失敗はゆるされないという緊張が私たち全員にあった。紫色にはれ上った手を持った妻は、真剣な表情を見せていた。まさに注射するその瞬間、ぐらぐらと家が揺れ出した。それは大きな地震だった。それから三十分たっただろうか、私たちはおやじさんのつぶっていた眼が急に開き、白くなるのを見た。静子夫人は病人の頬に平手打をして、なにか叫んだ。
 肉親だけに看とられて十月五日午前一時三十二分、病人は死んだ。作家和田芳恵は死んだ。
 吉田のおばさんと姪の方がすぐ手伝いにきてくれた。涙とは妙なものだ。一人の者の涙に誘われ、だれもが涙を流していた。
 みんなで、おやじさん愛用の紺の浴衣を着せた。私は遺骸を持ち上げながら、博多帯をきゅっきゅっと巻いた。背中はまだぬるい温みがあった。爪先はつんと天を向いていた。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一七三〜一七四ページ)

澁澤龍彦は吉岡実の〈月下美人――和田芳恵臨終記〉を雑誌で読んで、随筆〈天ぷら〉を書いているのではないだろうか(「あたふたと」という、肝になる言いまわしが双方に出てくる)。澁澤なりの〈和田芳恵追悼〉として。

某氏が澁澤龍彦の《玩物草紙》(《朝日ジャーナル》連載)の切り抜きを手製本した冊子の〈天ぷら〉の誌面の1ページ 澁澤龍彦が吉岡実に贈った《玩物草紙》(朝日新聞社、1979年2月25日)標題紙裏のペン書き献呈署名
某氏が澁澤龍彦の《玩物草紙》(《朝日ジャーナル》連載)の切り抜きを手製本した冊子の〈天ぷら〉の誌面の1ページ(左)と澁澤が吉岡実に贈った《玩物草紙》(朝日新聞社、1979年2月25日)標題紙裏のペン書き献呈署名(右)

【註3】 和田芳恵の全集(ただし内容は〈道祖神幕〉や〈厄落し〉などの短篇小説群、〈塵の中〉と〈暗い流れ〉の二長篇小説、〈樋口一葉〉と〈一葉の日記〉の一葉研究、〈ひとつの文壇史〉や〈自伝抄〉などの代表的な随筆を収録したもので、正確には「選集」というべき構成)は、河出書房新社から五巻本で出ている(1978〜79)。澁澤龍彦の全集は公刊された全作品を網羅した《澁澤龍彦全集〔全22巻・別巻2〕》(1993〜95)と《澁澤龍彦翻訳全集〔全15巻・別巻1〕》(1996〜98)が、同じ河出書房新社から出ている。付言すれば、吉岡実の全集には、公刊されたすべての詩集ほかを収めた《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)があるが、俳句をはじめ散文や日記まで収めた「全集」はまだ刊行されていない。


吉岡実とヘルマン・セリエント(2018年3月31日)

インターネットの画像検索などという便利なツールがなかった時代、情報源としての専門雑誌の価値は今よりはるかに高かった。吉岡実の詩篇〈異邦〉(H・5、初出は〈ヘルマン・セリエント展〉パンフレット、青木画廊、1977年5月31日)の詞書「へルマン・セリエントの絵によせて」を読んでセリエントの絵が観たくても、おいそれと観ることはかなわなかったのである。私がセリエントの絵の図版に初めて接したのは、ペヨトル工房の《夜想》第19号〔特集★幻想の扉〕(1986年10月17日)だったと思う。〈異邦〉が再録された《夜想》の72〜73ページには、セリエントの〈集会〉と〈ペテン師〉(1976)が掲げられていた。なお、詩篇が「1974年個展パンフレットより」と註記にあるのは(前述のように、77年だから)誤り。次の見開き(74〜75ページ)には〈居酒屋〉(1977)、〈夜の旅〉、〈作品〉、〈スナックバー〉の4点の図版が、前の見開きと同様、モノクロで掲載されていて、当時はこれらが貴重な資料だった。吉岡は〈ヘルマン・セリエント展〉のパンフレットはいうまでもなく、《夜想》も観ているはずだが、その歿後に小沢正の文、へルマン・セリエントの画による《フェイク》(パロル舎、2001年11月26日)という書籍が刊行された。現在までのところ、日本ではこれがへルマン・セリエントの絵画を収めた最も重要な印刷物ということになろう。

小沢正の文、へルマン・セリエントの画による《フェイク》(パロル舎、2001年11月26日)のジャケット〔表紙絵は〈信号ラッパ吹きの名人〉〕 吉岡実の詩篇〈異邦〉(H・5)の初出〔出典:〈ヘルマン・セリエント展〉パンフレット(青木画廊、1977年5月31日)〕のコピーに小林一郎が詩集収録形との異同を朱書したもの
小沢正の文、へルマン・セリエントの画による《フェイク》(パロル舎、2001年11月26日)のジャケット〔表紙絵は〈信号ラッパ吹きの名人〉〕(左)と吉岡実の詩篇〈異邦〉(H・5)の初出〔出典:〈ヘルマン・セリエント展〉パンフレット(青木画廊、1977年5月31日)〕のコピーに小林一郎が詩集収録形との異同を朱書したもの(右)

ヘルマン・セリエントを紹介した青木画廊のウェブサイトに、セリエントのページがある。そこには作風を説明する画像(連作銅版画 “Masken und Maskierte”(仮面と仮装)より)や略歴とともに、本書の案内がある(なお、本文のサイズは一七四×一九〇ミリメートル)。

[画集]ヘルマン・セリエント/文・小沢正/「fake」
Serientの新・旧油彩作品約36点収録(オールカラー)。画集としても見応えがあります。(オリジナルイラスト/サイン入り)
2001年11月26日パロル舎発行
AB〔ママ〕判上製36頁◆\1,400+税

画家の立場からすれば「画集」だろうが、わたしたちはふつうこれを「絵本」と呼んでいる。小沢正のストーリーに合わせて、ヘルマン・セリエントが作品を描いたとは考えにくい。とすれば、吉岡が〈ヘルマン・セリエント展〉の資料の写真を観ながら〈異邦〉を執筆したであろうのと同様、小沢(児童向けの創作や訳書を多数もつ)もこの書籍のための資料写真を観て物語を紡いだことは充分に考えられる。本書の内容紹介には、「ぼくの生まれ育った土地では、素顔をさらしたり、自分の本性をむき出しにしたりするのが、忌むべきことと考えられていました…。「居住車」「青い家」などセリエントの絵36点と、小沢正のストーリーによる絵本」とある。あえて乱暴な括り方をするなら、本書におけるセリエントの作風は「ゾンネンシュターンの手法でアンソールの主題を描いたもの」とでもなろうか。もっともゾンネンシュターンは色鉛筆、セリエントは油彩、と表現方法の異なることはいうまでもないが。書名の“fake”は、でっち上げとか偽造・模造という意味の名詞である。一方、ジャズミュージックの世界では「即興演奏すること」を意味する(即興演奏は、アドリブ、インプロヴィゼーションとも)。略歴によれば、セリエントは二十歳前に金細工学校に在学しながらジャズに熱中してバンドを結成したそうだから、小沢はそれを踏まえてセリエントと「即興演奏」した、といわんとしているのだろう。それというのも、ふつうに考えれば「仮面」を織りこんだ題名のほうが内容――絵にしても、話の中身にしても――に似つかわしいからだ。

青木画廊編《一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961-2016》(風濤社、2017年5月31日)は、同書の惹句を借りるならば、「〔……〕ウィーン幻想派の紹介、金子國義、四谷シモンの展覧会デビューで、1960年代〜70年代はアヴァンギャルドの牙城となり、瀧口修造、澁澤龍彦もオブザーバー的にかかわった孤高の画廊。その画廊精神は現在にも引き継がれ、澁澤龍彦曰く「密室の画家」たちが発表の場を求めている。青木画廊で個展を開いた70数作家、寄稿文7本、座談会5本、展覧会パンフレットのテクスト90本で辿る55年間の軌跡、青木画廊大全!」である。吉岡は生前、青木画廊で開かれた展覧会に足繁く通いつつ、乞われて画廊発行のパンフレットに4篇の詩を寄せている。

自転車の上の猫(G・15)
異邦(H・5)
壁掛(J・5)
秋の領分(K・5)

これらの詩篇はその初出形が《一角獣の変身》に収められているが、〈異邦〉は同書の巻頭〈エルンスト・フックス〉(書名にも引かれた瀧口修造の〈一角獣の変身――エルンスト・フックスの作品を迎えて〉を収録)の項に続いて、二番めのへルマン・セリエントの項に、その油彩作品〈スナックバー〉(1968)、〈火の番人〉(1970)とともに掲げられている。ちなみに、《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》(書肆山田、1996年11月30日)のカラー図版〈吉岡実の小さな部屋〉には、セリエントの〈異邦〉が掲載されている。それを観るかぎり、吉岡の詩篇〈異邦〉も《フェイク》の「仮面」よりは、“fake”に近い標題だといえる。あるいは、詩はここまで絵画から離れてしまってもかまわない、という確信が《フェイク》の作者である小川に引き継がれたと見るべきか。

美術評論家の正木基は〈幻想レアリスムと青木画廊〉でセリエントをこう評している。「「密室」が外部的世俗の遮断、立籠とすれば、「隠遁」はそこからの遁走で、共に、現実否定に発する類縁的な処方と言えなくもない。絵と音楽へ熱中した後に4年間のヨーロッパ「漂泊」という履歴に注視するならば、ヘルマン・セリエントにとって市民社会、いや世界は、外部から見る対象なのだろう。彼は、祭りの仮装や人形劇の人形や道化芝居の道化役者のごとく派手に装い、しゃべり、笑い、歌い、踊りのさんざめく人群れを描く。が、そこに、内面の仮面が貼りつき、凍てついた彼らの表情の裏を幻視してしまうセリエントは、作品の単純化、デフォルメ、鮮烈な色彩というウィーン幻想レアリスムからの成果を以て、人間世界への風刺的批評を自ずから酷薄に描出してしまう」(《一角獣の変身》、一八三ページ)。

異邦(H・5)

初出は〈ヘルマン・セリエント展〉パンフレット(青木画廊、1977年5月31日)、〔三ページ〕、本文15級16行2段組、31行。【初出形→詩集収録形】で異同を示す。

    【(ナシ)→へルマン・】セリエントの絵によせて

聖堂の番人が箒をかついで帰ってくる
         人も消え
         にわとりも消え
わずかに藁塚のなかに存在する
火と【精→地】霊
〈死は働く者に近づく〉
行商人は旅を了えて居酒屋に入る
緑の壁の亀裂は深い
外の空のように
一人の老人の手のなかで
思考のぬけがら
の蛇
朱の酒杯をかたむけ
そのとなりの女は美しい
乳房と腕をしている
テーブルの下は暗い草むら
【鳥の→(トル)】仮面をかぶった
まま女は目くばせする
欲しいよ 水と蜜
【それ→女】はすでに鳥の貌そのもの
岩塩の一粒を咥え
〈食蓮人〉の邦へ飛び立つ
いまは遙かになった花咲く土地
血!
枯枝には魚の骨が引懸ってい【る→た】
月光のなかで
      中世の子守唄が聞える
  「鍛冶屋の前で
     托鉢僧が二人になった
         二人になった
   二つの頭から煙がのぼった」

へルマン・セリエント〈仮面を売る男〉〔出典:小沢正(文)・へルマン・セリエント(画)《フェイク》(パロル舎、2001年11月26日)、奥付の前のページに掲載〕● へルマン・セリエント〈異邦〉〔出典:《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》(書肆山田、1996年11月30日、〔二一ページ〕)〕
へルマン・セリエント〈仮面を売る男〉〔出典:小沢正(文)・へルマン・セリエント(画)《フェイク》(パロル舎、2001年11月26日)、奥付の前のページに掲載〕(左)と同〈異邦〉〔出典:《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》(書肆山田、1996年11月30日、〔二一ページ〕)〕(右)

吉岡の1986年1月10日の〈日記〉に「晴。午後遅く、銀座へ出、青木画廊で、ヘルマン・セリエント展を観る。三点ほどに赤丸が付いていた」(《土方巽頌》、筑摩書房、1987、二〇五ページ)とある。この展覧会は10日から23日まで開かれた〈仮面の行商人たち〉で、青木画廊でのセリエント展は初回が1968年、以降、1977年、1980年、そしてこの1986年に開かれている(吉岡歿後では、1991、95、97、2000、15年に開催)。日記の「赤丸」は売約済のことだから、吉岡がこのときセリエントの作品の売れ行きを気にかけていたことは間違いない。吉岡がセリエント作品の〈異邦〉をいつ入手したのか、詳しい経緯はわからない。だが奇妙なことに、吉岡が詩篇〈異邦〉を執筆するに際して参照したセリエント作品は、この〈異邦〉ではなく、《フェイク》の奥付の前のページに掲載されている〈仮面を売る男〉である。吉岡の歿後に刊行された本に載っていても証文にはならないが、この〈仮面を売る男〉、吉岡の詩篇〈異邦〉の初出媒体である前掲〈ヘルマン・セリエント展〉パンフレット(青木画廊、1977年5月31日)に掲げられたセリエント作品だったのである(パンフレット表紙の作品は〈カーニバル〉)。吉岡は、なんらかの事情で〈仮面を売る男〉を手に入れることができず、(代わりに、あるいは後年、〈異邦〉を入手したものの)手許に置くことのできなかった絵画を自分のことばに置き換えるという操作をして、詩篇を執筆したのだろうか。これをどう考えたらよいのか。吉岡が〈仮面を売る男〉と〈異邦〉にいつ接したのか。それは写真資料だったのか、原画だったのか。制作年さえはっきりしない〈異邦〉をいつ入手したのか(〈仮面を売る男〉はほんとうに入手できなかったのか。単に〈吉岡実の小さな部屋〉に載っていないだけではないのか)。そして、詩篇〈異邦〉は絵画〈異邦〉とどういう関係にあるのか。等等、究明したい点は数多いが、現時点では詳しいことがわからない。

絵画〈異邦〉が夕暮れの帰還だとすれば、〈仮面を売る男〉は早朝の出立といった感じで、私にはこれが吉岡の長篇詩〈波よ永遠に止れ〉(未刊詩篇・10)のタクラマカン砂漠への出立を想起させると指摘して、いまは前世のように懐かしいこれらヘルマン・セリエントの絵画群をめでることにしよう。


吉岡実と四谷シモン(2018年2月28日)

吉岡実が先輩知友に献じた詩は、二種に大別できる。すなわち献詩と追悼詩である(どちらの場合も対象となる人物の章句を題辞に引いたり、誰に献じたかを詞書に記したりして、それを明らかにしている)。吉岡の生前最後の詩集《ムーンドロップ》(1988)を例にとれば、四谷シモンに捧げた〈薄荷〉(K・6)が献詩、土方巽を追悼した〈聖あんま断腸詩篇〉(K・12)と澁澤龍彦の鎮魂のための〈銀鮫(キメラ・ファンタスマ)〉(K・17)が追悼詩である。《ムーンドロップ》の前の詩集《薬玉》(1983)には、西脇順三郎を追悼した〈哀歌〉(J・13)、同じく鷲巣繁男を追悼した〈落雁〉(J・17)はあるが、《夏の宴》(1979)に数多く見られた現存する人物へ献じた詩はない(註1)。すなわち〈薄荷〉は「後期吉岡実詩」で唯一の献詩であり、誰よりも四谷シモンその人に読まれることを前提にして書かれた作品と位置づけることができる。だが、いきなり〈薄荷〉(初出は《四谷シモン 人形愛》美術出版社、1985年6月10日)にいくまえに、〈官能的な造形作家たち〉(初出は1986年6月の《季刊リュミエール》4号)の1と2、すなわち吉岡が瀧口修造に依りつつハンス・ベルメールと四谷シモンについて書いた文章を見よう。

 1 ハンス・ベルメール

 瀧口修造には「ハンス・ベルメール断章」という、造形作家を讚えた、美しい断章がある。適宜引用させて貰う。――ベルメールの人形における球体はanagramme(語句の解体と組み替え)のためのメカニズムであり、一種の自在関節。/それはまた一箇の完全な真珠であり、/忍び寄る夕闇のなかのアナグラムによって、/一箇の完璧な疣であり、涙一滴の孤独な結石である。――。私もある一時期、ハンス・ベルメールに魅せられ、古本屋で着色写真集[、、、、、]を購ったものだ。ドイツ語の限定本である。読めないが充分たのしむことができた。そして「聖少女」と題する一篇の詩を書いた。その終章「その球体の少女の腹部と/関節に関係をつけ/ねじるねじる/茂るススキ・かるかや/天気がよくなるにしたがって/サソリ座が出る」
「断章」の一節を引用する。――人形作者としてベルメールは、孤独な原型人間のひとりとして出発することを宿命づけられていた。けれどなんと多くのそんな人たちが地上に彷徨していることだろう。不幸にも互いに知らず、視えぬ人形作者として……。――。やがて一人の青年が、澁澤龍彦の紹介文に依って、ハンス・ベルメールとその人形を知り、深い啓示を受ける。数多い潜在的なファンのなかから、視える[、、、]人形作者がうまれたのだ。

 2 四谷シモン

 私が初めて四谷シモンの名を知ったのは、雑誌「太陽」の人形特集の写真に依ってだった。その少女人形は、ベルメールの球体と関節をみごとに再現し、すべすべの股間には、聖痕さえ刻まれている。――何よりも少女はすでに「死」のからだじゅうを知りつくしていて、なんと優雅に振舞うことだろう。――。私はシモンの実物の人形を見たこともないが、親近感をおぼえた。
 土方巽の暗黒舞踏派の会か唐十郎の状況劇場・赤テントの下で、私は四谷シモンと出会ったように思う。その頃、彼は人形つくりを中止し、アングラ芝居の女形として活躍していた。新宿の花園神社の境内で催された、唐十郎作「由比正雪」に客演した四谷シモンの女形の凄艶な演技に、賛嘆したものだ。それから四、五年ほど役者稼業をして、また人形つくりに没頭しはじめる。その再生作品が「ドイツの少年」であった。まさしくベルメールの桎梏から脱した記念すべき人形体。金髪の等身大の裸形は、包茎を勃起させて、なんら恥入ることなく、爽かである。
 四谷シモンの第一回個展「未来と過去のイヴ」が、銀座の青木画廊で催された。等身大の女体十二体が陳列される。ガードルを付け、ハイヒールをはいた、金髪のアメリカ女のように見える。陰毛と秘所を婉然とさらしていた。――もっとも刺々しいもの、ハイヒールの踵も、尖った爪も、三角定規でさえも、みやびた(あれはどこから来たものか)腰のひとひねりのうちに抱きすくめられるだろう。――。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三五九〜三六一ページ)

ここで註すれば、《太陽》の人形特集は1970年2月号〈世界の人形〉の「人形と暮らす3 四谷シモン――犯された玩具」で、三体の人形(ベルメールの人形写真を参照して模造したもの、初の等身大の本格的なもの、マグリットへの愛をこめてつくったもの〔とともに立つ作者本人〕)が5ページに亘って紹介されている(写真撮影は石元泰博)。吉岡はそれより早く1968年6月、唐十郎率いる状況劇場の《由比正雪》で四谷シモンの女形を観ているから、役者として知ったのが先である。〈聖少女〉(F・10)の初出は《小説新潮》1969年11月号だから、吉岡はベルメールを介してシモンの人形と出会うべくして出会ったといえよう。では、吉岡とシモンはいつ出会ったのか。〈四谷シモン年譜〉に拠れば、1969(昭和44)年、25歳、「この頃、合田佐和子、瀧口修造、吉岡実〔……〕らを知る」(《SIMONDOLL》求龍堂、2014年5月31日、一五二〜一五三ページ)とある(なお後出《四谷シモン前編》の〈四谷シモン・プロフィール〉には、同様の主旨が前年の1968年の項に書かれている)。吉岡が随想に書いているように、互いに刺を通じたのがいつどこでだったのかははっきりしないが、シモンの〈日記・一九六九年夏〉に興味深い記載がある(吉岡実の日記に登場する四谷シモンに関しては、註2を参照)。

日記●一九六九年七月二十七日

 新宿紀伊国屋書店にて吉岡実の詩集を買う(320yen)。何んと詩を読む前に詩論と自伝を先に読んでしまった(毎度の事で私は本というものを必ず後書きから読むくせがある)。その自伝を読みつつ何回となくむねをつまらせた事であろう。地下鉄の渋谷で下りてかいだんを下りながら下の広場で私と吉岡氏が、だきあっている所が目にうつる。
 その夜、吉岡氏に電話をして今日のかんげきを話した。吉岡氏もよろこんでいる様子、私は毎日日記を書く事を薦められる。ついでに全詩集を分けてもらう事にした。何んとやさしい血の通った人間であろう。又一人人間を知りえた。私の吉岡氏に対する気持がかくじつになった。今日の日記が、これで終るという事だが、何んと大いなる始まりであろう。
〔……〕〔ちなみに、〈日記・一九六九年夏〉はこの日の記載から始まる。著者は吉岡の忠告を拳拳服膺したものと思しい。〕

 七月三十一日
 田園調布に家を見にゆく
 銀座で〔合田〕佐和子と吉岡氏に会う
 吉岡氏より全詩集を送られる
 夜 阿佐ヶ谷に行く
 唐〔十郎〕たち帰京(《機械仕掛の神》イザラ書房、1978年10月30日、二一〜二二ページ)

吉岡の〈2 四谷シモン〉で注目したいのは「その少女人形は、ベルメールの球体と関節をみごとに再現し、すべすべの股間には、聖痕さえ刻まれている」と「陰毛と秘所を婉然とさらしていた」という箇所である。シモンが〈長い長いお人形のお話〉で次のように書いているからだ。
「ぼくは初めから他の人形作家の作り方なんてものを聞いたり、読んだりなんてことは全然なかったわけなんです。自分勝手に色々やってきて、ベルメールにはっとしたということなんですが、ベルメールの性器のつけ方てのはすごいと思いましたね。ただ裂けているというんじゃなくて、パックリという感じで、形がとってもよかったですね。それとあと陰毛の部分ですね。人形に毛がついているというのはいいですね。ツルンとしている肌に毛が一本一本、いかにも生えているなっていうように、サワサワサワていう感じになっているのが一番いいですね。フワーとしているっていうのかな、そういう陰毛てのは人形にとっても似合うんですよ。ベターと陰毛がはりついているというのは全然だめですね。毛というのはむずかしいですよ。直毛じゃおかしいし、ある程度の長さがあって、綿みたいな感じになっていないとだめですからね」(《シモンのシモン》イザラ書房、1977年8月25日、六四〜六五ページ)。
ケネス・クラークいうところの“nude(裸体像)”に対する“naked(はだか)”の方を良しとするシモンの陰毛の好みと吉岡のそれが同じなのは興味深い。澁澤龍彦の〈天ぷら〉(初出は《朝日ジャーナル》1978年5月5日号。単行本では初出に一部、加筆あり)にこうある。

某氏が澁澤龍彦のエッセー《玩物草紙》(《朝日ジャーナル》連載)の切り抜きを手製本した冊子の表紙
某氏が澁澤龍彦のエッセー《玩物草紙》(《朝日ジャーナル》連載)の切り抜きを手製本した冊子の表紙

「吉岡さんは私の家へくるなり、/「今日はポルノを見せてもらいにきたんだ。きみのところには、たくさんあるだろうと思ってね」と言い出しました。/それも〔鎌倉の天ぷら屋に行くのと同様〕前からの約束だったので、私は書庫から、古いのや新しいのや、芸術的なのや通俗的なのや、アメリカのやフランスのや、写真のや絵のや、いろいろ取り揃えてきてテーブルの上に積み重ねました。/〔……〕/吉岡さんは懐中から取り出した眼鏡をかけて、アメリカやフランスの雑誌をぱらぱらめくりながら、ひとりごとのように、/「あんまり毛深いのや、割れ目がはっきり見えるようなのは好きじゃない。何というか、ふわふわと生えてるのが好きなんだな」と言いました」(《玩物草紙》朝日新聞社、1979年2月25日、一二四〜一二五ページ)。
吉岡がシモンの人形を所蔵した形跡はないが、澁澤はシモン人形を愛蔵していた。澁澤邸の書斎は、公開された写真からもわかるように、かなり広い。ちなみに、吉岡夫妻は都心のマンション住まいだったためか、蒐集した立体物は奠雁や石仏など、わりあい小振りな骨董が多い。

《太陽》1991年4月号〈特集・澁澤龍彦の世界――Encyclopedia Draconia〉掲載の〈シブサワ・コレクション 四谷シモンの少女人形〉(写真・細江英公)と四谷シモン〈人形〉の見開きページ 展覧会〈SIMONDOLL 四谷シモン〉(そごう美術館、2014年5月31日〜7月6日)会場に飾られた澁澤龍彦の肖像写真や「編み上げの黒い靴」の入ったガラスケース
《太陽》1991年4月号〈特集・澁澤龍彦の世界――Encyclopedia Draconia〉掲載の〈シブサワ・コレクション 四谷シモンの少女人形〉(写真・細江英公)と四谷シモン〈人形〉の見開きページ(左)と展覧会〈SIMONDOLL 四谷シモン〉(そごう美術館、2014年5月31日〜7月6日)会場に飾られた澁澤龍彦の肖像写真や「編み上げの黒い靴」の入ったガラスケース(右)

〈薄荷〉について、かつて私は〈「紅血の少女」――吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(15)――〈聖少女〉〉に書いたことがある(註3)。本稿では、吉岡実が四谷シモンの章句をどのように拉し来ったか示すべく、調べがついたかぎりの詩句の典拠を掲げる。すなわち、同詩の初出形(行末の数字は論者の付したライナー)を引いて吉岡の詩句にリンクを張り、リンク先にシモンの原典を並べた。出典は主として四谷シモンの著書、《シモンのシモン》(イザラ書房、1975年1月31日〔第二刷:1977年8月25日〕)と《機械仕掛の神》(イザラ書房、1978年10月30日)である。なお、初出→定稿の異同の詳細は〈吉岡実詩集《ムーンドロップ》本文校異〉を見られたい。

薄荷(K・6)〔初出形〕

     (人形は爆発する)四谷シモン 00

1

夏が過ぎ 01
    秋が過ぎ 02
        「造花の桜に 03
雪が降り 04
    灯影がボーとにじんでいる」 05
                 池の端の(大禍時[おおまがとき]) 06
振袖乙女の幾重もの裾の闇から 07
              わたしは生まれた 08
(半月[はにわり])の美しい子孫か 09
           「神は急に出てくるんだよ」 10
(非・器官的な生命)を超え 11
             (這子[はうこ]) ひとがた 12
人形は人に抱かれる 13
         (衣更忌[きさらぎ])の夜を 14

2

母親の印象は 15
      裸電球の下で 16
            白塗りの女戦士のようだ 17
赤い乳房が造り物に見える 18
            「カミソリでサーとなでると 19
中からまた肌色の乳房が 20
           殻をやぶって生まれてくる」 21
それに噛みつくから 22
         わたしは消化不良の子供 23
(唐子[からこ])の三つ折れ人形を 24
            背負って 25
                鈴虫の音色に聴きほれる 26
父親は冷酒をあおっては 27
           (毒婦高橋お伝)をたたえ 28
ヴァイオリンを彈く 29
         キー・キー・ギー 30
         「天国がどんどん遠くなる」 31

3

窓まで届かない月の光 32
          ニーナ・シモンの唄が好き 33
          縫いぐるみの(稲羽[いなば]の素兎[しろうさぎ])が好き 34
「固い真鍮のベッドで 35
          わたしは紗のような 36
          薄い布を身にまとって寝る」 37
花のように 38
     「ゆるやかな酸素に囲まれる」 39
     少女の輝く腹部を回転させよ 40
                  アー・アー・アァー 41
(官能的な生命) 42
        「人形にだって 43
               衣食住が必要である」 44
揚げ物を食べた後は淋しい 45
     この部屋の外は 46
            「巨大な蓮池の静寂を思わせる」 47

4

「編み上げの黒い靴 48
         それには犯しがたい 49
         (聖的)な影が存在する」 50
(土星)が近づく 51
        何のおしらせもなく…… 52


●00行め (人形は爆発する)四谷シモン
私はその人と芸術とか人形やらの話をしていて、酒の勢いも手伝ってその時「人形が爆発する」といったような自分でも考えたこともない奇妙なイメージを発見した。――〈僕の君の名は日記〉《シモンのシモン》四一ページ

●01-02行め 夏が過ぎ/秋が過ぎ
私の背中に二つの腫れ物がある日でき、最初は何か痒いのでそこに手をまわしてそこに触わるが、そのうちに痛みが出始め、七転八倒の苦しさを味わい、腫れ物は膿を孕んだ瘤のようになってしまい、私は何日も、いや何か月も俯せで暮らさなくてはならなくなり、高熱が来る日も来る日も続き、食べ物は喉を通らず、冷たい水のみの生活が続き、冬が過ぎ春が過ぎ、そろそろ初夏にさしかかる頃、膿が背中をとめどなく垂れ始め、腫れ物の中の生き物が蠢く。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》九〇ページ

●03-05行め 「造花の桜に/雪が降り/灯影がボーとにじんでいる」
雪の三月で夜。柳が揺れていて造花の桜に雪が降っていて、灯影がボーとにじんでる。――〈みにくい女の考察〉《シモンのシモン》一四二ページ

●07行め 振袖乙女の幾重もの裾の闇から
 私が居た一座は、赤いテントを地べたに立てて路上で芝居するのが常でしたから、舞台には石が転がり、雨の日はぬかるみ、真夏のアスファルトの時もあり、そこへ私は振袖姿で出て行くのです。外が暗くならないと芝居をやれませんでしたので、ビルのあちこちにネオンが灯もる頃の開演でした。――〈上るということ〉《機械仕掛の神》三三ページ

●10行め 「神は急に出てくるんだよ」
神は急に出て来るのだ。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》八二ページ

●16行め 裸電球の下で
 高い天井からは、薄暗い電球が、ぶら下がっているだけで、壁は固いコンクリート、床には剥き出しの便器がひとつ置いてあります。――〈主人のお仕置き〉《機械仕掛の神》四一ページ

●17行め 白塗りの女戦士のようだ
ぼくは戦う女、女戦士が好きです。――〈みにくい女の考察〉《シモンのシモン》一四九ページ
処刑される私は白塗りの女戦士だったし、どよめく人々は、目の前に所狭しと坐っていた客だったのだから。――〈人形は美しく死につづける〉《機械仕掛の神》九ページ

●18-21行め 赤い乳房が造り物に見える/「カミソリでサーとなでると/中からまた肌色の乳房が/殻をやぶって生まれてくる」
このバラの戦士はどこかあの少年に似て、それは赤い乳房が作り物に見えるからである。赤いカミソリでサーとなでると中からまた、肌色の乳房が殼を破ったように生まれてくる。――〈青いパリジェンヌ・・・フェリックス・ラビッス〉《シモンのシモン》七四ページ

●24行め (唐子[からこ])の三つ折れ人形を
日本の人形で好きなのは江戸時代の役者童子てのがありますね。三つ折れ人形になっていて、自在人形なんていわれている人形なんです。――〈長い長いお人形のお話〉《シモンのシモン》七一ページ

●26行め 鈴虫の音色に聴きほれる
その音はあまりにも大きすぎて、私の耳には聞こえない。しかし虫はその音を聞いているのかもしれない。鈴虫の音色は神の音。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》八〇ページ

●27行め、29行め 父親は冷酒をあおっては、ヴァイオリンを彈く
彼女〔僕の母親〕の夫、つまり僕の父親は大酒飲みのヴァイオリンひき、彼女は僕が小学校四年生のとき、家をとび出した。――〈人形とぼくとの共同生活〉《シモンのシモン》五〇ページ

●28行め (毒婦高橋お伝)をたたえ
彼女〔母〕が好むのは強い女、バンプ型の女。その極致として「毒婦」高橋お伝には尊敬に近い興味を示してきました。――〈人形とぼくとの共同生活〉《シモンのシモン》五一ページ

●30行め キー・キー・ギー
東野 〔君のお父さんは〕いつ頃いなくなっちゃったの。
シモン 10歳のころだからね、いつもヴァイオリンをキーキーやってたね。それだけ憶えてる。しんどかったね。楽師さんよ、タンゴをやってたね。〔……〕/こんなこと、はじめて話したな。つい話しちゃったという感じ。――東野芳明〈〔アート'74談義―1〕四谷シモン=人形師が後ろめたいとき〉《みづゑ》第827号(1974年2月)五二ページ

●31行め 「天国がどんどん遠くなる」
天国とはそんな所なのだろうか。そんなにいい所なのか。しかし私は必ず帰って来たい。たとえあの世にそんないい所があっても、私は帰りたい。何としてでも帰って来たい。天国などあるはずがない。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》七九ページ

●33行め ニーナ・シモンの唄が好き
私にとっての青春はまた新宿のキーヨの時代で、よくニーナ・シモンのレコードが懸っていた。私は彼女の哀愁のある歌い方が大好きで悪さをして金を稼いじゃレコード集めにやっきになっていた。――〈僕の君の名は日記〉《シモンのシモン》四一ページ

●34行め 縫いぐるみの(稲羽[いなば]の素兎[しろうさぎ])が好き
 それからずーっと人形ばかり創り出して、まあーその頃は縫いぐるみ人形が主なものだったんですが、自分でミシンを踏んで、綿を入れ、顔の目鼻だちをととのえて、一日中そんなことばかりして全然あきなかったんですね。――〈長い長いお人形のお話〉《シモンのシモン》五八〜五九ページ

●35-37行め 「固い真鍮のベッドで/わたしは紗のような/薄い布を身にまとって寝る」
固い真鍮のベッドで、アールのついた鉱物のベッドで、私は紗のような薄い布を身に纏って静かに寝たい。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》九二ページ

●39行め 「ゆるやかな酸素に囲まれる」
私は、ゆるやかな酸素に身体を囲まれている。――〈聖なる方へ〉《機械仕掛の神》七九ページ

●40行め 少女の輝く腹部を回転させよ
 天才であるが故に傷ましい人形のみ生涯の己子として末法の世に棲息し早くも二十年、いとおしい手作りの己子の肌、その滑らか透明な彼方、枯れた海辺の乾いた毛髪、抜け落ちる少女の金髪、琺瑯[エナメル]質の歯をほんの少し見せ恥らいながらも瘤起した桃色の陰部とインジゴブルーを上目使いに見せつける少女、手作りの美少女、そのせつない腹、やさしく盛り上り止まることをしらぬ苦しげな少女の腹部、転回する灰まみれの目、さすらいの死後をパノラマ化する自在人形のロマン力学、輪郭を神に曝らしころがる水気のない胴、体を切断する万力によるワイセツな殺戮、棒状の夕日射し込む美青年の部屋、点在するふくらはぎ、そっと唇押し当てる球体のひかがみ、体内からの苦痛を道連れにするゆるやかな骨折への旅。――〈思考の麻痺の導入部〉《シモンのシモン》一〇八〜一〇九ページ

●43-44行め 「人形にだって/衣食住が必要である」
やはり人形は衣食住があるんです。――〈人形とぼくとの共同生活〉《シモンのシモン》四九ページ

●45行め 揚げ物を食べた後は淋しい
〓[=「マ」に濁点]タム[オクサマ] バター[アブラ] フライ[アゲモノ]――〈ねつれつポエムとオムレツぽえじい〉《シモンのシモン》八ページ

●46行め この部屋の外は
私はと言えば
その部屋の外にいて
カーテンのかけられた窓をじっと守っているのです。――〈水の寸法〉《機械仕掛の神》八八〜八九ページ

●47行め 「巨大な蓮池の静寂を思わせる」
蓮の花が咲いていて、そこで休息がとれるのだろうか。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》七九ページ
 私はどこまで届くのだろうか。私は虫のように小さい。永遠は敵だ。私には敵がある。私は永遠が好きだ。永遠とは距離か。形ある距離か。神には距離があるのか。私にはわからない。上も下もない世界、無音の世界、静かな世界が。しかしこの世は静かではないかもしれない。もしかすると物凄い音がしているのではないだろうか。物凄い音が。神の音が。――〈シモンスキーの手記〉《シモンのシモン》八〇ページ
 あの頃、昭和二十五年頃は、まだ昔がのこっていた。東京も、もっともっといい所だった。道幅は狭く、瓦屋根の店がまだのこっていたし、小さな小売店がギッシリと軒をつらねていた。あの頃の不忍池が懐かしい。/初夏の柳の緑がなんときれいで、蓮の花のなんと大きかった事か。/八重垣町から七軒町を通って広小路の映画館に、親の金をくすねちゃ通[かよ]っていたあの、夏の不忍池。――〈曇り日〉《機械仕掛の神》六八ページ

●48-50行め 「編み上げの黒い靴/それには犯しがたい/(聖的)な影が存在する」
さらさらとした金髪、それにガラスの青い眼、それに人形が身体につけるもので一番大事なのが編み上げの黒い靴です。何かそこに犯し難い聖的なものがあるみたいですね。――〈長い長いお人形のお話〉《シモンのシモン》六九ページ

●51-52行め (土星)が近づく/何のおしらせもなく……
〔……〕地球のすぐそこにあのわっかのあるでっかい土星が何のおしらせもなく近づき空いっぱいに見えたとしたら〔……〕――〈海峡〉《シモンのシモン》六ページ

06-08行めには典拠が見あたらない。前掲〈四谷シモン年譜〉に東京・五反田の生まれ(同書、一五二ページ参照)とあるから、四谷シモン=「わたくし」(定稿では「わたし」を「わたくし」と改めた)を「池之端の(大禍時[おおまがとき])/振袖乙女の幾重もの裾の闇から/わたくしは生まれた」としたのは、吉岡の詩的虚構だろう(ただし《シモンのシモン》の〈僕の君の名は日記〉に「お互い東京育ちの二人は(唐[十郎]は上野で私は池の端七軒町で生まれた)よく子供の頃の情話[はなし]をしては、〔……〕」(同書、四四ページ)とあるから、吉岡はそれに拠ったのかもしれない)。「五反田という土地は、今まで縁のないところだった。ところが会社が倒産したために失職し、昨年〔1979年〕、私はしばらくの間だが月一回、五反田公共職業安定所へ通うはめになった。失業保険金を貰うためだった。その帰りみち、池田山の小公園で桜の花を見たこともあった」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二八四〜二八五ページ)とあるように、吉岡は五反田には馴染みがなかった。また1979年暮れ、五反田(おそらくは南部古書会館)の古書展に出品されていた自身の著書《昏睡季節》(1939)をひと目見たいと思って、同所へ行っている。そうした不案内な土地を献詩の対象たる人物の誕生の地とすることを躊躇したあげくの措置だろう。一方、吉岡の随想〈湯島切通坂〉――初出は《美しい日本 22 文学の背景》(世界文化社、1982年〔月日記載なし〕)の〈〈北海道・東北・関東・中部〉漂泊のたましい〉中の一篇――は「私は上野広小路まで歩き、池之端の蓮玉庵へ寄った。森鴎外の『雁』のなかに、しばしば出てくる蕎麦屋である。江戸末期頃からの店であるらしい。すぐ近くに、蓮の多い不忍池がある」という文章で閉じられている。吉岡にとって、南山堂に奉公していた十代後半、毎日のように往き来していた湯島〜池之端〜上野広小路あたりなら、掌を指すようなものだ。これが06-08行めに池之端が登場する背景だと思われる。

11行めの「(非・器官的な生命)」はドゥルーズ=ガタリの「器官なき身体」を思わせる。四谷シモンの著作に登場してもおかしくないが、「非・器官的な生命」にしろ「器官なき身体」にしろ、シモンの人形に対する他者の評が典拠かもしれない。

12行めの「(這子[はうこ]) ひとがた」の這子は「子供のお守りの一。布を縫い合わせ、中に綿を入れ赤ん坊のはう姿にかたどったもの。あまがつ。はいはい人形。はうこ」だという。ひとがたは人形・人像で、「人の形。人の形に似せて作ったもの」。這子が「はいはいする赤ん坊」でもある点、ひとがたが人でもあり人形でもあることは興味深い。09行めの「(半月[はにわり])」が「半陰陽。ふたなり」だったように、「わたくし」は両者の境界上に存在する者である。

14行めの陰暦二月「きさらぎ」は、漢字ではふつう「如月」「更衣」「衣更着」と書く。「衣更忌」というのは吉岡の造語の可能性がある。ちなみに二月の季語から忌日を拾えば、鳴雪忌(内藤鳴雪)、義仲忌、実朝忌などがあるが、吉岡がこれらをほのめかしているとは思えない。

45行めの「揚げ物を食べた後は淋しい」からは、まったくもって奇妙な連想だと笑われそうだが、06-08行めでも触れた池之端の蕎麦屋・蓮玉庵のかき揚げそばが想起される。同店は1860年(安政6年)の創業。明治の文豪や斎藤茂吉・久保田万太郎・池波正太郎たちが愛した店だが、かつては知らず、味と値段に関しては言わぬが花というものだろう。

ときに「3」の後半からは、初稿にだいぶ手が入っているので、以下に定稿を掲げる。なお下線部は定稿で追加された字句であることを表す。

薄荷の花のように
        「ゆるやかな酸素に囲まれる」
        少女の輝く腹部を回転させよ
                     アー・アー・アァー
(官能的な生命)
        「人形にだって
               衣食住が必要である」

4

揚げ物を食べた後は淋しい
     この部屋の外は
            「巨大な蓮池の静寂を思わせる」
水音 羽音
     何のおしらせもなく
               (土星)が近づく

詩節[ストロフ]の切り方が変わったのもさることながら、初稿の

「編み上げの黒い靴 48
         それには犯しがたい 49
         (聖的)な影が存在する」 50

が抹消されたことが最大の相違である。この3行が削除された理由について考えてみたい。私はシモン人形をすべて見たわけではないが、少女の人形が履いている靴はスナップボタン留めの女の子用のフォーマルシューズで、「編み上げの黒い靴」を着用しているのは少年の人形だということは指摘できる。ところで、吉岡実の詩篇を掲載した初出の印刷物で最も高価だったのは、《ムーンドロップ》の〈銀幕〉(K・9)の発表媒体である梅木英治のオリジナル銅版画集《日々の惑星》(ギャラリープチフォルム、1986年12月3日)である。私はこれを購入した縁で、当時まだ健在だった梅木さんの新作展を渋谷のアートスペース美雷樹で観た。幸運にもそこで、来賓の四谷シモンから〈薄荷〉初出対向ページ掲載の銅版画(大きな帽子を被って、フリルの付いたドレスを纏い、短めのハイソックスにスナップボタン留めのフォーマルシューズを履いている少女、それとも少女の人形?)はたまたま詩と見開きになったのにすぎず、吉岡が絵を観て詩を書いたわけではない旨、訊くことができた。吉岡は初出の対向ページのこの作品を観て、「輝く腹部を」した「少女」に「編み上げの黒い靴」はふさわしくない、と一瞬にして悟ったのではあるまいか。それが「金髪の等身大の裸形は、包茎を勃起させて、なんら恥入ることなく、爽かである」ところの「ドイツの少年」(〈2 四谷シモン〉)についた書いた詩篇であればなんの問題もなかったはずだ。この3行を削除することで「4」は末尾の2行になってしまう。それを避けて、かつ「3」とのバランスをとるために詩節[ストロフ]の切り方を変え、「水音 羽音」を付け加えたのが定稿作成時の吉岡の手入れだった。「花のように」を「薄荷の花のように」としたのは、標題が〈薄荷〉とある以上、不思議でもなんでもないようなものの、なぜ「薄荷」なのかはいまひとつピンとこない。四谷シモンの2冊の著書に薄荷は登場しない(そこで最も目を引くのは柳である)。それはよいとしても、詩篇の内部から薄荷にたどりつけないのがなんとももどかしい。「人形が爆発する」から、発火/ハッカ/薄荷だとも思えない。標題をめぐる考察は今後の課題としたい。

吉岡実は随想〈本郷龍岡町界隈〉(初出は《旅》1978年12月号の〈私だけの東京 MY TOKYO STORY〉)を「秋のある日の午後、私は地下鉄の湯島で降り、切通坂をのぼった。シンスケという飲屋が今も同じ処にあって、なつかしい」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三八ページ)と始めている。シモンの文章を集成した《四谷シモン前編》に初めて収められた〈夏の湯島で〉(初出は《週刊朝日》1990年8月17日号〈気の合う仲間と味な店133――シンスケ〉)には次のようにある。

 湯島のシンスケにはまだ数えるほどしかきていない僕だけど、最初に入った時の雰囲気がどんぴしゃだったのが運のつき。店の作りがさっぱりしていて涼しげなのだ。今の世の中で本当に東京の粋を探すのは容易じゃない。臭くなく五月蠅[うるさ]くなく、目障りじゃない、そういうものって本当になくなっている。
 それで最初は京都の帰りに香純[かすみ](江波杏子)を絶対に連れて行きたくて、着いたその足で訪ねた。その夜は友だちと好きな店にいけたのが嬉しくて大分出来上がってしまった。後日香純に電話を入れたら、当たり前がきちんとしていて、今の世の中にはないものがあるといっていた。それで今度はどうしても松山(俊太郎)さんとも一緒に飲みたくて先日鎌倉の帰りに寄った。
 松山さんはインド哲学をやっていて、蓮の研究が一生の仕事のようで僕にはとてつもなく難しい人だけど、会うといつも自分は犬だといっているやさしい変人だ。それで松山さんにも聞いてみたら江戸と秋田の律儀さが同居している店といっていた。僕はシンスケに一目惚れしちゃったんだから一生懸命通わなくっちゃ。(《四谷シモン前編――Yotsuya Simon 創作・随想・発言集成》学習研究社、2006年12月20日、二五〇〜二五一ページ)

著者の意向が奈辺にあるかは措いて、私はこれを1990年5月末に歿した吉岡実を追悼する文章だと読んだ。

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註1 《夏の宴》収録詩篇の詞書や註記を摘して、標題のすぐ後にある文言には――を、詩篇本文の後にある註記には==を付けて掲げた。これらの詩篇中、題辞に登場する人物のうち、詩篇発表当時の物故者は宮川淳と瀧口修造のふたりである。

異邦(H・5)――へルマン・セリエントの絵によせて
水鏡(H・6)――〈肉体の孕む夢はじつに多様をきわめている〉 金井美恵子
曙(H・8)==* 引用句は主に、エズラ・パウンド(新倉俊一訳)、飯島耕一の章句を借用した。
草の迷宮(H・9)――〈目は時と共に静止する〉 池田満寿夫
螺旋形(H・10)==*ベケット(高橋康也訳)、土方巽などの章句を引用した。
形は不安の鋭角を持ち……(H・11)――〈複眼の所有者は憂愁と虚無に心を蝕ばまれる〉 飯田善國
雷雨の姿を見よ(H・14)――「ぼくはウニとかナマコとかヒトデといった/動物をとらえたいのだ/現実はそれら棘皮動物に似ている」/飯島耕一
織物の三つの端布(H・16)――「イマージュはたえず事物へ/しかしまた同時に/意味へ向おうとする」/宮川淳
使者(H・18)――笠井叡のための素描の詩
夏の宴(H・20)――西脇順三郎先生に
夢のアステリスク(H・22)――金子國義の絵によせて
裸子植物(H・25)――大野一雄の舞踏〈ラ・アルへンチーナ頌〉に寄せて
「青と発音する」(H・27)――「青ずんだ鏡のなかに飛びこむのは今だ」  瀧口修造
円筒の内側(H・28)――「言語というものは固体/粒であると同じに波動である」 大岡 信==(一九七九・一○・九)

註2 吉岡実の《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987)には「四谷シモン」が14回登場する。I以外は要約して掲げる。

@1968年6月22日、唐十郎率いる状況劇場の《由比正雪》(花園神社)を妻と観る。「四谷シモンの女形の妖しい美しさよ」。(〈7 唐十郎一家と赤テント〉、一七ページ)

A1968年7月3日、芦川羊子の処女公演《常に遠のいてゆく風景》(草月会館)を妻と観る。客の四谷シモンの顔を見る。(〈9 アスベスト館の妖精〉、一九ページ)

B1969年11月15日、大野慶人舞踏リサイタル《花と鳥》(厚生年金小ホール)を観たあと、阿佐ヶ谷の唐十郎の家へ行く。四谷シモンたちを交え、酒盛りが始まっていた。(〈22 「花と鳥」の夕べの後で〉、三八ページ)

C1970年6月13日夜、あやめの花を一抱えも持って、四谷シモンが来宅。人形や友人たちのことを喋る。(〈23 あやめの花〉、三九ページ)

D1970年8月28日、西武百貨店・ファウンテンホールでコレクション展示即売〈土方巽燔犧大踏鑑〉(ガルメラ商会主催)を妻と観る。二次会で四谷シモンたちと酒盛り。(〈24 「燔犠大踏鑑」〉、四一ページ)

E1970年9月30日、金井美恵子の夕べ(ノアノア)へ行く。「四谷シモンの泣かせる唄」。(25 黒塗りの下駄〉、四三ページ)

F1974年2月24日、状況劇場の稽古場開きに行く。宴たけなわ、四谷シモンたちが現れる。(〈43 雪の夜の宴〉、七六ページ)

G1974年11月28日、シアターアスベスト館落成記念の白桃房舞踏公演《サイレン鮭》を妻と観る。終了後、二階で四谷シモンたちと酒宴。(〈46 「サイレン鮭」〉、七八〜七九ページ)

H1978年7月9日、松山俊太郎夫妻、土方巽夫妻と大佛次郎記念館へ向かう。大野慶人夫妻の尽力で澁澤龍彦夫妻、種村季弘夫妻、唐十郎・李礼仙夫妻、四谷シモンと旧懐の一夕。茶房霧笛で「コーヒーをのみながら、四谷シモンの唄に聴きほれ、しばし別れを借しむ」。(〈58 港【が→の】見える丘公園で〉、一一二〜一一三ページ)

I〈日記〉 一九八二年二月二十二日
 夕方、銀座の青木画廊へ行く。四谷シモン人形展〔〈ラムール・ラムール〉〕を観る。金髪少女の裸形の三体には、精神性すら感じられた。近くの喫茶店に席がしつらえられ、高橋睦郎、渡辺兼人、金井久美子たちとおしゃべり。遅れて澁澤龍彦夫妻と金子国義が現われたので、小さな宴も華やぐ。(〈67 シモン人形〉、一三九〜一四〇ページ)

J1985年2月19日、四谷シモンのために書いた詩篇〈薄荷〉を推敲する。(〈92 「昼の月」〉、一七九〜一八〇ページ)

K1985年12月10日、転居が決まった経堂の高橋睦郎宅を妻と訪問。相客は澁澤龍彦夫妻(「澁澤龍彦とは、シモン『人形愛』出版記念会以来だ」)、四谷シモン。(〈103 十二月は残酷な月〉、一九七〜一九八ページ)

L1986年1月18日、妻と東京女子医大付属病院に土方巽を見舞う。土方の「右手を握って別れを告げる。喫煙所の椅子では四谷シモンと古沢俊美が待っている」。(〈104 暗い新春〉、二〇八〜二〇九ページ)

M1986年1月21日、土方巽容態悪化の報で入院先に駆けつける。「三階の待合兼喫煙所のあたりには、大野一雄・慶人、李礼仙、中西夏之、四谷シモンはじめ大勢の人がつめかけていた」。同夜、肝硬変肝臓癌併発で土方巽死去、五十七歳。(〈104 暗い新春〉、二一〇〜二一二ページ)

註3 私はその〈聖少女〉評釈の「V 〈薄荷〉」で、吉岡実詩における「人形」の変遷を概観し、〈あまがつ頌――北方舞踏派《塩首》の印象詩篇〉(G・30)の次の詩句を引いた。

・精神的な女は人形をつくる/「木毛 ハリコ 桐粉 鉛などで/形づくりをして/蝋絹 ときにはメリヤスを張る」/現在もっとも必要とする/うつろな頭をすげかえ 手足をとりかえ/血肉の壊滅は行われた

そして「鍵括弧内は製作にふれた人形作者(四谷シモン?)の文からの引用であろうか(少なくともベルメールの文章ではなさそうだ)」と書いたが、これに相当する章句は今回、四谷シモンの主要著書を再読したかぎり見あたらなかった。やはりこの引用句は天児・天倪[あまがつ]の制作方法であって、シモンドールのそれではないのだろう。四谷シモンは「私の制作方法」を次のように語っている(初出:《現代の眼――東京国立近代美術館ニュース》538号、2003年2月)。

  私の制作方法は、まず粘土で原型をつくり、石膏で型を取ったものに和紙を何層にも張り込んで乾燥させる。それを前後で割って繋ぎ合わせたものに作業をしていきます。指の爪や顔の表情など細かい仕事には桐塑[とうそ]、眼はガラスで、木のボールをそれぞれの関節につけます。身体全体にも桐塑を施し、きれいに磨きをかけた後は胡粉[ごふん]を用います。上塗り胡粉で肌色を表わしましたら細部の彩色、まずは眉、それから頬に化粧品の頬紅を刷り込み、睫毛を一本一本埋め込む。頬紅を刷り込むと、血の気がパッと走って、ああ、と思います。(〈私の人形史〉、《四谷シモン前編――Yotsuya Simon創作・随想・発言集成》学習研究社、2006年12月20日、二六四〜二六五ページ)


宇野亜喜良と寺田澄史の詩画集あるいは《薬玉》をめぐる一考察(2018年1月31日)

塚本邦雄は《吉岡実詩集》(思潮社、1967)をめぐって「豪華本、杉浦康平デザインは目次までが秀抜、あとは意匠枯淡にすぎてさびしい。もつとも宇野亜喜良の陰惨なカットなどつけたら相殺されて却つて無意味にもなるだらうが」(《麒麟騎手――寺山修司論・書簡集》、新書館、1974年7月10日、二四一ページ)と書いた。吉岡実の詩(塚本は終生、〈僧侶〉を高く買っていた)と同類のものとして宇野亜喜良のカットを見ていたわけだが、その発想をうながしたものはなんだったのか、かねてから気になっていた。1967年当時、宇野と吉岡との間に連繋があったようには見えないからだ。最近、宇野亜喜良のイラストレーションを伴った寺田澄史の〈新・浦嶼子伝〉を知るに及んで、これが塚本の発想の源だったのではないか、と想い到った。まず最初に、〈新・浦嶼子伝〉に触れた宇野亜喜良の文章を引こう(「左亭」はサウスポーである宇野の俳号)。

泣く男記憶の砂のくずれゆく 左亭

 俳句という日本の定型詩に感動したのは、三十代の終わりでした。
 寺田澄史さんという俳人と、『浦島太郎』という絵本を作ったときです。正確にいうと、田中一光・横尾忠則・永井一正・灘本唯人といった人たちと作った『日本民話グラフィック』という絵本の一つのパートでした。
 寺田さんの句は、固有の情景を重ねて、最後には大叙事詩的な『新・浦嶼[うらしま]子伝』になっていました。
 たとえば、「革舟に孤[ひと]り兒[こ]を曳[ひ]く耳のくらしま」という句。革舟はあまり日本的ではありません、北のほうの、それも古代的なイメージです。その舟が、耳の穴のような、バロック的な形態の洞窟を抜けていく句から始まって、「反魂の水オルガンよ朦朧と面輪から熄[き]え」という句で終焉を迎えます。当然のことですが、言語が文学的で、暗喩はオブジェ的でもある気がしました。
 そのあと寺山修司の句を読んだりすると、どうも俳句は一応の定型はあるけれど、結構自由なものらしいという気分になってきました。
 このコラムで俳句らしきものをリードコピーのように使っているのは、絵と文章と句のようなものと、三つがそれぞれ、たとえば別のことをいっていても、読者の方の頭の中でそれぞれの感覚で融合されて、それぞれ違った読み方が生まれたら楽しいと思っているからです。
 句は、浦島太郎の末路です。(《奥の横道――Aquirax Labyrinth 2007-2008》、幻戯書房、2009年5月8日、五八ページ。寺田句の引用は《日本民話グラフィック》に照らして校訂した)

文中の『日本民話グラフィック』は、灘本唯人・永井一正・宇野亜喜良・田中一光・横尾忠則の絵にそれぞれ滝来敏行・梶祐輔・寺田澄史・坂上弘・高橋睦郎の文を組みあわせた一種の詩画集(のオムニバス版)である(《日本民話グラフィック》、美術出版社、1964年12月30日〔装丁・扉構成:灘本唯人〕)。宇野=寺田の〈新・浦嶼子伝〉の典拠は浦島太郎。同様に、灘本=滝来の〈おどろおどろしき一寸法師を嫌悪する人に捧ぐ〉は一寸法師、永井=梶の〈ある神と文明の記録〉は桃太郎、田中=坂上の〈ドロボウと警官〉は花咲爺、横尾=高橋の〈堅々山夫婦庭訓〉はかちかち山を典拠に仰ぎ、制作している。また同書の巻末には、瀧口修造と亀倉雄策が文章を寄せていて、イラストレーターたちの船出を祝福する恰好になっている。この寺田澄史の俳句と宇野亜喜良の絵のパートを単行本にしたのが、限定400部の《新・浦嶼子伝》(トムズボックス、2002)のようだ(未見)。《日本民話グラフィック》の仕様は、二五〇×二六六ミリメートル・一三二ページ(本文横組み、丁付けなし)・上製角背継表紙(背・クロス、平・紙)。インターネットで画像検索すると、段ボールに貼題簽の輸送用函が付いていたらしいが、所蔵の古書はこれを欠く。本文用紙は色刷りの発色を良くするためだろう、微塗工紙と思しく、シミなどの経年変化が目立つのは函なしのためか。4色(フルカラー)のイラストレーションが多いなかにあって、宇野=寺田の〈新・浦嶼子伝〉の24ページは、絵(線画)がスミ、文(俳句)が茶系の刷色(宇野によれば「ローアンバー」)という禁欲的な版面になっており、同書のなかで異彩を放っている。

宇野亜喜良(絵)・寺田澄史(文)〈〈新・浦嶼子伝〉浦島太郎〉の「革舟に 孤り兒を曳く/耳の くらしま」掲載の見開きページ 宇野亜喜良(絵)・寺田澄史(文)〈〈新・浦嶼子伝〉浦島太郎〉の「反魂の 水オルガンよ/朦朧と 面輪から熄[き]え」掲載の見開きページ
宇野亜喜良(絵)・寺田澄史(文)〈〈新・浦嶼子伝〉浦島太郎〉の「革舟に 孤り兒を曳く/耳の くらしま」掲載の見開きページ(左)と同「反魂の 水オルガンよ/朦朧と 面輪から熄[き]え」掲載の見開きページ(右)〔出典はどちらも《日本民話グラフィック》(美術出版社、1964年12月30日)〕

吉岡実は1960年代の後半、高柳重信が率いた《俳句評論》周辺の俳人たち(寺田澄史もその有力な一人である)の作風に親近感を抱いていたようだ。

>寺田澄史作品集《副葬船》(俳句評論社、1964年3月7日)の夫婦函〔限定150部のうち特製本10部の「第参番」〕 >寺田澄史作品集《がれうた航海記――The Verses of the St. Scarabeus》(俳句評論社、1969年5月15日)のジャケット〔装丁・板画:坂井廣〕
寺田澄史作品集《副葬船》(俳句評論社、1964年3月7日)の夫婦函〔限定150部のうち特製本10部の「第参番」〕(左)と同《がれうた航海記――The Verses of the St. Scarabeus》(同、1969年5月15日)のジャケット〔装丁・板画:坂井廣〕(右)

寺田澄史の最初の作品集《副葬船》は1964年3月7日、俳句評論社から刊行された。吉岡は第二作品集《がれうた航海記――The Verses of the St. Scarabeus》(俳句評論社、1969年5月15日)に〈序詩〉を寄せている。そればかりではない。吉岡が珍しく聴衆をまえにして喋った〈審査の感想(俳句)――創刊十周年記念全国大会 録音盤〉の一節にこうある。

 寺田澄史さんは、もう大変に才能のある人で、これでもう全体が、大変すぐれた詩なんで、私はこれを一番に推したんですけど、加藤郁乎とか、そういう派に近くなって、もう俳句といわなくても、一行詩というか、詩でもいいんじゃないか。これは、ちょっと詩の方へ引っぱってみたいような人なんですけど、まあ俳句においといて異色ある作家と――。まあ加藤郁乎などもありますが、これも異色ある作家でしょう。(《俳句評論》78号、1968年3月、二三ページ)

この発言は自身の俳句評論賞の選後評を受けたもので、半年前の選後評〈感想――俳句評論賞決定まで・経過報告と選後評〉には、次のようにある(前記〈序詩〉はこの選後評を敷衍したものと見なせる)。

 寺田 澄史 3点〔〈がれうた航海記〉〕
 応募作品の中では、最も個性的で、全句の粒がそろい、一つの世界がある。一寸、加藤郁乎の中期の詩境を感じる。ひとことで、いえば、まさに、うんすんかるたの感触。
  おにくぎからむかふ水夫部屋がふたつ
  かいぐりかいぐり 蜃〔[おおはまぐり]〕がはく
  あなや〔 →、〕山椒ひとふくろのおひかぜ
  おかまこほろぎに時化がくるあふむけ
  からすたつ宇牟須牟加留多のてくらがり
  火がめぐるあまくちねずみふなぐるみ
などは秀作と思う。(《俳句評論》72号、1967年9月、三〇ページ。同誌の寺田句に照らして校訂した)

寺田は寡作の作家で、1964年の作品集《副葬船》、同年の詩画集〈新・浦嶼子伝〉、1969年の作品集《がれうた航海記》以降、著書としては1994年の作品集《席帆境》(夢幻航海社、限定30部。未見)、2002年の一種の再刊、《新・浦嶼子伝》しかない(*)。その第一句集《副葬船》には宇野亜喜良のイラストレーション2葉が掲げられていた。詩画集〈新・浦嶼子伝〉とどちらが先の企画かわからないが、制作は相前後して進行しただろう。1964年の3月と12月に刊行された《副葬船》と《日本民話グラフィック》が塚本邦雄と吉岡実の眼に触れた可能性はきわめて高い。それが塚本には《吉岡実詩集》のヴィジュアルをめぐる感想となったのだろうし、吉岡には〈がれうた航海記〉や《がれうた航海記》に寄せる共感の布石となったのだろう。しかし、吉岡実詩にその影響がすぐさま現れたわけではない。1980年以降のいわゆる休筆の期間中、吉岡は《古事記》を筆頭とする日本の古典文学に親しんだ。宇野と寺田の〈新・浦嶼子伝〉の最後のページには、あたかも同作の典拠を明示するかのように、〈風土記逸文・丹後国〉の次の一節が引かれていた。

ここに、嶼[しま]子、前[さき]の日[ひ]の期[ちぎり]を忘[わす]れ、
忽[たちまち]に玉匣[たまくしげ]を開[ひら]きければ、
即[すなは]ち瞻[めにみ]ざる間[あひだ]に、芳蘭[かぐは]しき體[すがた]、
風雲[かぜくも]に率[したが]ひて蒼天[あめ]に翩飛[とびか]けりき。

浦島太郎が乙姫との約束を忘れて玉手箱を開けると、瞬時にしてそのかぐわしい体は風と雲に乗って青空に飛び去ってしまった、というのだ。私の知っている〈浦島太郎〉は、玉手箱を開くや煙が立ちのぼって白髪の老人になってしまうという、《御伽草子》に始まり小学唱歌(乙骨三郎作詞)に流れこんだ説話だが、その結末は吉岡実詩を知る者にとって衝撃である。「浦島は鶴になり、蓬莱の山にあひをなす。亀は甲に三せきのいわゐをそなへ、万代を経しと也。扨こそめでたき様にも、鶴亀をこそ申し候へ。只人には情あれ、情の有る人は行末めで度由申し伝たり。其後浦島太郎は、丹後国に浦島の明神と顕れ、衆生済度し給へり。亀も同じ所に神とあらはれ夫婦の明神となり給ふ。めでたかりけるためしなり」(《御伽草子〔日本古典文学大系 38〕》、岩波書店、1958年7月5日、三四五ページ。ルビを省くなど、表記を改めた)。そう、吉岡が《薬玉》で描いた〈蓬莱〉、「蓬莱山」である。その観点から詩画集〈新・浦嶼子伝〉を読みなおすと、次のような句がある(常用漢字にある漢字はそれを用いた)。

黄蝋ともりたり
大亀の背の 秋

夕凪の 天蚕糸[てぐす]にとまり
振袖も をさな天児[あまがつ]

つかのまの 死を酔へば
かささぎ渡し 仄燃えに

朝な朝なの 水甕に
せめての父似が 酌まれけり

移り香も 魚族[いろくづ]の
島闇に 臥処あらたし

水母流しの くらがりや
ただひと秉[たば]の 髪を妊り

顔も露はに 海鴉
喚べば あへなや

高山れおなの〈野水・荷風・左亭〉には詩画集〈新・浦嶼子伝〉を「ひとり寺田の句集として『副葬船』や『がれうた航海記』よりすぐれているばかりでなく、一九六〇年代の前衛系の句集として屈指のものではないかと評者は信じている」とあるが、これらの寺田の句こそ吉岡実晩年の詩境を先取りした世界ではあるまいか。詩句が階段状に連なる《薬玉》の詩型が高柳重信の句の多行形式に触発されたものではないか、という指摘はかねてからなされていた。だが、重信を筆頭とする《俳句評論》の俳人たち――とりわけ寺田澄史――の作品が《薬玉》を誘因する詩境のひとつだった、というのが私の感懐である。「大岡信が〈飛騨〉を推し、わたしが〈坂東〉を讃えたので、重信は自信をもって新しい作風を確立した。それが《山海集》である。これらの新擬古典風な作品群を、わたしは愛誦する」(〈高柳重信・散らし書き〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一二四ページ。初出は《現代俳句全集〔第3巻〕》、立風書房、1977年11月5日)。「私は遅まきながら、『古事記』や柳田国男『遠野物語』や石田英一郎『桃太郎の母』などの「神話」や「民間伝承」に、心惹かれるようになった。私のもっとも新しい詩集『薬玉』は、それらとフレイザー『金枝篇』の結合に依って、成立しているのだ」(〈白秋をめぐる断章〉、同前、三〇五ページ。初出は《白秋全集〔第17巻〕》月報10、岩波書店、1985年9月5日)。現代俳句の「新擬古典風な作品群」、「神話」や「民間伝承」が後期吉岡実詩に与えた影響は計りしれない。

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(*)寺田澄史単独の著書ではないが、高柳重信が編んだ《昭和俳句選集》(永田書房、1977年9月10日)には、昭和34年から51年までの寺田の句、34収められている。そこには次の句(各年の冒頭句)が見える。

  昭和34年
  くわらくわらと 藁人形は 煮られけり

  昭和35年
  乾草や 牡山羊の胎に 海を縫ひ込む

  昭和38年
   *
  あるじは 野に
  牡牛は屋根に 焦げにけり

  昭和39年
   *       *
  父に似て 父にはあらず
  舟を舁いで ひとあし遅く

  昭和41年
  あなや 山椒ひとふくろのおひかぜ

  昭和42年
  からすたつ宇牟須牟加留多のてくらがり

  昭和43年
  粘土屋のうしろあるきの岬かな

  昭和44年
  沫雪してのちももんぐわあ剥かれけり

  昭和45年
  船たたむなどして南無あるく蝶あり

  昭和46年
  鳥雲にせうべんがくてき気球船

  昭和47年
  ふと箪笥を澪れくる水夫なるべし

  昭和48年
  火夫入用まごたらうむしは歩くなれ

  昭和49年
  春分とや藁屋根こそは屋根ならむ

  昭和50年
  熊笹から紙飛行機をひろひけり

  昭和51年
  ものの忌やひたひに置きし轡虫

高柳重信は巻末の〈あとがき〉で「この合同句集は、はじめ「俳句評論」の創刊二十周年を記念して計画されたが、それをいつそう意義あらしめるために、まず「俳句評論」に在籍中に故人となつた人たちを加え、また更に、それと同じ志操を貫いて来たと思われる近縁の数名の俳人の業績をも、これに包摂することにした。昭和全期を通じて格別な意義を持つ一つのエコールの歴史的な流れは、これによりいつそう明確になつたと思われる」(同書、三六三ページ)と書いている(現存作家の句は自選のようだ)。高柳は《昭和俳句選集》刊行の1977年に、《現代俳句全集〔全6巻〕》(立風書房)の編集委員を吉岡実・飯田龍太・大岡信と務めており、吉岡はもちろん、他の編集委員も本書を目にしたに違いない。本書に解説のようにして収められた川名大の〈昭和俳句史〉は、《現代俳句全集》と同じ顔ぶれで編んだ《鑑賞現代俳句全集〔全12巻〕》(立風書房、1980〜1981)月報に連載した編集委員たちの座談会 〈現代俳句を語る〉の基本文献のひとつとしての役割を果たしたように思える。


〈青枝篇〉と《金枝篇》あるいは《黄金の枝》(2017年12月31日)

かつて〈吉岡実と《金枝篇》〉と題して、フレイザー(永橋卓介訳)《金枝篇〔岩波文庫・全5冊〕》(岩波書店、改訳:1966〜67)を引いて、詩集《薬玉》(1983)や《ムーンドロップ》(1988)の詩句のスルスだと指摘した。そのときは、吉岡実詩は「個個に指摘しないが、《金枝篇》のそこここに「後期吉岡実」の世界と通じるものを認めずにはいられない」と書いて、具体的に挙げなかった。今回はその先を論じたい。初めに《金枝篇》の訳文(〈章名〉、巻数〔漢数字〕・ページ数〔アラビア数字〕)→〈詩篇名〉(詩集番号・その詩集での順番)/吉岡実の詩句を、5箇所掲げる。

・バイエルンのライン地方、あるいはまたヘッセンの農民は、豚や羊が脚を折った場合に、椅子の脚に副木をあて繃帯をするそうである。(〈第三章 共感呪術〉、一・114)

↓〈わだつみ〉(K・3)

「包帯を巻かれた
        牛の脚が見え
        椅子の折れた脚が見え」

・村の内儀たち娘たちが四阿でこきおろされている間に、蛙をこっそりつねったり叩いたりしてギャーと鳴かせる。(〈第十章 近代ヨーロッパにおける樹木崇拝の名残り〉、一・277)

↓〈甘露〉(J・14)

              (蛙をこっそりつねったり
               叩いたりしてギャーと鳴かせる)

・この競争には色々な形があるが、目標あるいは決勝点は大てい「五月の樹」か「五月の棒」となっている。(〈第十章 近代ヨーロッパにおける樹木崇拝の名残り〉、一・279)

↓〈甘露〉(J・14)

いましも荒れた地へ(五月の棒)をつき立てる
       短いもの 長いもの
                細いもの 太いもの
やがて(五月の樹)は繁茂するだろう

・次にこの屋根に穴をあけ、呪医が羽毛の房でもってそこから霊魂をはたきこむと、骨かそれに類するものの断片のような形をした霊魂が筵[むしろ]で受けとめられる。(〈第十八章 霊魂の危機〉、二・85)

↓〈甘露〉(J・14)

(屋根からおちる霊魂を
           莚で受けとめる)

・これと同じようにヴェーダ時代のヒンドゥーは、青いカケスに肺病を負わせて放した。(〈第十五章 災厄の転移〉、四・126)

↓〈甘露〉(J・14)

(青いカケスに肺病を負わせる)

こうして見ると、〈甘露〉(J・14)の詩句に転用されているのが圧倒的だとわかる。後で触れるように、〈甘露〉の初出や定稿の末尾には引用が《金枝篇》に依拠する旨の註があって、本篇が同書によりかかった作品であることが作者によって明示されている。一方、〈わだつみ〉(K・3、初出は《毎日新聞〔夕刊〕》1985年1月5日)にはそうした註記はなく、上掲の三行は《金枝篇》の訳文を基に吉岡が新たに描いた絵の趣きがあって、引用符=鉤括弧はあたかもこの絵をきりりと締める額縁のようである。比喩を続けるなら、〈甘露〉の引用符=パーレンは薬玉のようだ。だが、吉岡実詩と《金枝篇》との類縁と差異を考えるときまず挙げるべきは、《金枝篇》の章句を取りこんだこれらの詩篇ではなく、次に掲げる〈青枝篇〉(J・4)だと思われる。ここには、〈甘露〉や〈わだつみ〉に見られる逐字的な、あるいは改変的な章句の借用こそないものの、「後期吉岡実詩」に特徴的な発想が顕著だからである。

青枝篇|吉岡実

   T 地の霊

雨乞いの儀式とはなに
アネモネの緋色の朝
         ひとりの娘が丸裸になる
そしてシキミの枝で
         「砂 灰 粘土のうえに
                    男女の像」を描く
六根 清浄
六道 媾合
     ことほぐ ことばが聞こえ
ツグミやセキレイも交尾する
             遠方より
黒雲やトカゲが姿を見せる
            干割れた大地は
            荒むしろで覆われ
                    雨に打たれる
傘の形のような小屋のまわり
ははそ葉のそよぐ
        母のおとずれる今宵
娘は双生児をうんだようだ
            油煙の立ちこめる
                    聖域を出れば
天水桶に跳ねる
       大きな鯉
他者は滅びよ
      みどりの芽吹くところ
金棒をかざして
       幼児が現われる

   U 水の夢

天気のよい日には
聖なるカシワの木の間を
           見えかくれする(母)
女猟師の姿がある
鹿やイタチを追っているのか
             ガマの穂のゆれる沼辺に
             ホウネンエビが跳ねている
そこは近いようで遠い
鬼火と藁火との境界だ
          「言霊が成長し
                 石も成長する」
母恋うる夕べ
わたしは数珠玉を刈り
巫女の膝の門をくぐりぬける
             青蛙を踏んだ
すでに里は暮れつつ
ひとびとは納屋のなかで
           「男神の形のパンをつくり
                       かぼちゃの葉で包む」
土器に盛り 唱和せよ
          五穀豊穣
          五体満足
ラッパスイセンの咲く野の夜明け
つねに狩る者
      狩られる物の関係は哀しい
      枯葉とともにイノシシが穴へ落ち込む
わたしは水の面に想い描く
けがれた狩衣をことごとく脱ぐ
              女身を――

   V 火の狼

乙女がふたり
      料理をつくっている
魚の腹から出てきた
         銀砂子を撒くと
         大地に涼しい風が起る
カーテンのゆれる向う側は
            黄泉のくにか 薄荷の香がする
この世は蜜と灰で
        ざらざらしている
粟や芋を煮て
笹葉のみどりを添える
          神饌[みけ]で死者も蘇生するんだ
乙女がふたり
      声をあげ たがいのからだを
                   葦や藁で叩き合い
美しい身体をからっぽにする
             通過儀礼の終り
ひとは善い夢もみれば
          悪い夢もみる
荒畑をめぐり 墓地をめぐり
             行者は呪詞を唱えているようだ
「よろずのこと みな えそらごと」
                 野苺や童話の世界より
                           永久追放された
野生の「幻像」がよみがえる
             山河図のなかに
おお 大口真神
       生木は燃えて
             すすけた夕日の森を
                      わが狼は駈けて来る

   W 風の華

父が死んだら喜べ
        金槌でとんとん顎を砕き
        犬歯を口から取り外すんだ
のざらしの野を行き
フクロネズミの巣へ
         その歯を投げ入れよ マツカサの実とともに
やがて春の嵐がくる
         白い幣や注連縄もゆれ
         金屏風は倒れる 生れ出ずる 悲しみ
男児ならば鉄の歯を生やしている
               水をはこぶ母 野兎を屠る兄
浄火を起すべく 妹は裸になる
ここはウイキョウの薫りさえする
               「聖家族図」のようだ
されど時は逝き 人も逝く
            此岸の仕組はまさに混沌未分
花咲く地から
はるばる旅してきた少年がいる
              牝牛の形の帽子をかぶり
              「冥府下降」を試みつつ
石枕をして眠っている
          姉を探しているようだ
雨にぬれた竹筒を覗けば
           筒ぬけである
青空にはハトやスズメが飛び交い
               「馬頭女神像」は畑の中に立つ
去勢山羊のむれに囲まれ
           少年の裸身は汚れ 傷つく
                       麗しいまひるま
「死んだ番犬は何事も気づかない」

この〈青枝篇〉(初出は《日本経済新聞》1982年3月7日・14日・21日・28日連載の〈三月の詩T〜W〉。なお初出時の標題は「地の霊(春の伝説1)」・「水の夢(春の伝説2)」・「火の狼(春の伝説3)」・「空[くう]の華(春の伝説4)」である)の新聞連載時の総題〈春の伝説〉は、詩集《薬玉》において〈青枝篇〉に改題された。私の調べに漏れがなければ、本篇の詩句にフレイザー(永橋卓介訳)《金枝篇》からの引用はない(*)。試みに「 」で括られた(引用と思しき)詩句を以下に抜き出し、後註エリック・セランドに依る英訳(**)を併記する。

  「砂 灰 粘土のうえに/男女の像」
  “Sand ashes atop of the clay / The image of a man and woman”

  「言霊が成長し/石も成長する」
  “The spirit of the word grows / And the rocks grow also”

  「男神の形のパンをつくり/かぼちゃの葉で包む」
  “Make bread the shape of a male god / And wrap it in pumpkin leaves”

  「よろずのこと みな えそらごと」
  “All things are illusion”

  「幻像」
  “A dream”

  「聖家族図」
  “a picture of the holy family”

  「冥府下降」
  “the descent to Hades”

  「馬頭女神像」
  “A goddess with a horse's head”

  「死んだ番犬は何事も気づかない」
  “The dead watchdog unconcerned”

先に引いた詩篇〈甘露〉(初出は《すばる》1983年1月号)の末尾に「(引用句はおもにフレイザー《金枝篇》永橋卓介訳を借用した)」と註した時点で遅くとも吉岡は本書に触れているわけだから、〈春の伝説〉は《金枝篇》を踏まえつつ〈青枝篇〉に改題されたことになる。私はフレイザーの《The Golden Bough》の邦題が《金枝篇》となった経緯を知らない(ちなみに「金枝」とはヤドリギ〔宿り木・宿木・寄生木〕のことである)。ときに、丸谷才一や富士川義之はこの邦題を嫌って《黄金の枝》としている。フレイザー論を収めた富士川(ナボコフの《青白い炎》の訳者である)の《英国の世紀末》は吉岡歿後の1999年刊だから措くとしても、丸谷が《金枝篇》を退けて《黄金の枝》と書いていたのを当時の吉岡が目にしていた可能性はある。その吉岡が随想で「《金枝篇》」と書くのは、岩波文庫版の訳書を指すからである。では、《薬玉》における〈青枝篇〉の特徴をやや詳しく見ていこう。
吉岡はこの詩を「雨乞いの儀式とはなに」と始めている。その詩作品からだけではわかりにくいが、吉岡は「水」へのなみなみならぬ関心を持っていた。永田耕衣宛葉書(1980年6月25日消印)には「このところ、晴天つづきで、空梅雨になりそうです。小生人一倍、「水」のことを考えているので、夏の水不足が心配です。〔……〕」とあるし、私がもらった葉書も、春の雨が降っています、といった文言で始まっていた。戦前の東京下町に育った吉岡にとって、降雨は農作業に従事する者にとってのそれほど深刻な関心事ではなかったかもしれない。だが、馬を曳き、満洲の山野を行軍した戦時中の吉岡にとって、天候は季節の移りゆきとともに、敵との戦闘に次ぐ最大の関心事だったに違いない。天候が食糧に直結するという意味では、フレイザーの描いた未開の農民の心性から遠いものではなかっただろう。そこから四大元素(火・空気〔もしくは風〕・水・土)という四大の主題が浮上してくるのは、半ば必然である。

ここで、自分自身のために重要な語句に註しておく。主として《日本大百科全書〔全26巻〕》(小学館、第2版:1994)を用いた(原文は縦組。漢数字はアラビア数字に改めた)。それ以外の資料によった場合は、書名等を表示する。

アネモネ
湯浅浩史によればアネモネは「第2回十字軍遠征(1147)のころ、イタリアのピサ大聖堂のウンベルト僧正が運ばせた聖地からの土の中にアネモネの球根が混じっており、その土を使った十字軍殉教者の墓地から見慣れない血のような赤い花が咲いたという」(第4巻、433ページ)。

シキミ
シキミ科の常緑高木。井之口章次によれば樒は「枝葉を切ると一種の香気が漂うのでコウノキ、コウノハナ、あるいは墓に供えられることが多いのでハカバナともいう」(第10巻、649ページ)。

六根清浄
藤井教公によれば「「根[こん]」はサンスクリット語のインドリヤindriyaの漢訳語で、感覚器官とその器官の有する能力という意味。六根とは、眼[げん]根(視覚器官と視覚能力)、耳[に]根(聴覚器官と聴覚能力)、鼻[び]根(嗅覚[きゅうかく]器官と嗅覚能力)、舌[ぜつ]根(味覚器官と味覚能力)、身[しん]根(触覚器官と触覚能力)、意[い]根(思惟[しゆい]器官と思惟能力)の6種をいい、この六根が清浄になることを六根清浄という」(第24巻、600ページ)。

天水桶
宮本瑞夫によれば天水桶[てんすいおけ]は「単に天水ともよばれ、江戸時代、雨水[あまみず](天水)を雨樋[あまどい]などから引き、防火用にためておいた桶。〔……〕明治以後、消防設備の近代化により、しだいに廃されたが、第二次世界大戦中には、防火用水が家々の軒先に置かれた」(第16巻、366ページ)。

カシワ
ブナ科の落葉高木。萩原信介によればカシワは「厚い葉と厚い樹皮があるため風衝地や火山周辺地域、山火事跡地に低木状の純林をよくつくる。〔……〕台湾、朝鮮、モンゴルまで分布する。樹皮はタンニンの含有率がブナ科でもっとも高く、染色や革なめしとして用いられた。カシワは炊[かしい]葉の意味で柏餅[かしわもち]に、また神事に用いられ柏手となり残っている」(第5巻、227ページ)。

ホウネンエビ
武田正倫によれば豊年蝦は「節足動物門甲殻綱無甲目ホウネンエビ科に属する淡水動物。甲殻類の原型を思わせる原始的な形態をもつ。体長2センチほどの細長い円筒形で、甲をもたない。〔……〕大発生する年は豊年であるという言い伝えがあり、名はそれに由来する」(第21巻、394ページ)。

数珠玉
湯浅浩史によれば数珠玉は「有史以前から利用され、柳田国男[やなぎたくにお]は『人とズズダマ』(1952)で、その語源と由来を論じた。柳田は、ジュズダマの名は仏教の数珠[ジュズ]に基づくのではなく、珠[たま]や粒と関連する古語のツスやツシタマから、現代も方言に残るズズダマを経て、ジュズダマになったと推察した」(第11巻、649〜650ページ)。

青蛙
倉本満によればアオガエルは「両生綱無尾目アオガエル科に属するカエルのうち、体表が一様に緑色をしている種の総称。〔……〕一般に山間部や山沿いの湿地、水田の周辺に生息する。〔……〕産卵時に抱接した雌雄が後肢でゼリー状の卵塊をかき回すため、白い泡状となる。水辺の地上や土塊の間に産卵するが、モリアオガエルのように樹上に産卵する種もある」(第1巻、96〜97ページ)。

ラッパスイセン
喇叭水仙は「ヒガンバナ科の秋植え球根草。黄色または白色花を開き、副花冠はらっぱ状。切り花、花壇に用いる」(第23巻、754ページ)。

神饌
沼部春友によれば神饌は「神に召し上がり物として供える飲食物。ミケともいう。ミケは御食の義で、神酒はミキという。神饌は米、酒、塩、水が基本で、これに野菜、果物、魚貝類などもいっしょに供える。〔……〕現行の神社祭祀[さいし]における神饌の品目は、これを供する順に記すと、和稲[にぎしね](籾殻[もみがら]をとった米)、荒稲[あらしね](籾殻のついた米)、酒、餅[もち]、海魚、川魚、野鳥、水鳥、海藻、野菜、果物、菓子、塩、水と定められている」(第12巻、593ページ)。

通過儀礼
綾部恒雄によれば通過儀礼の過程は「通過儀礼ということばを初めて用いたのは、オランダの民族学者でフランスで活躍したファン・ヘネップである。通過儀礼にも比較的単純なものから複雑なものまでいろいろあるが、一般には儀礼の過程がいくつかの段階に分けられていることが多い。ファン・ヘネップは、もっともよくみられる通過儀礼の区分は、分離の儀礼rites de séparation、過渡の儀礼rites de marge、および統合の儀礼rites d'agrégationの3区分であると述べている。第一段階の分離の儀礼は、個人がそれまであった状態からの分離を象徴する形で行われる。〔……〕第二段階の過渡の儀礼は、個人がすでにこれまでの状態にはなく、また新たな状態にもなっていない過渡的無限定な状態にあることを示している。〔……〕また、過渡儀礼においては、男の女装、女の男装という中性化、司祭による聖なる王の罵倒[ばとう]という価値の転換、胎児化を象徴する始原回帰的行動など、過渡的不安定を示す行動が観察される。〔……〕第三段階の統合の儀礼は、分離儀礼と過渡儀礼を終えた個人が新しい状態となって社会へ迎え入れられる儀礼であり、一般に大規模な祝祭が行われる」(第15巻、777ページ)。

真神
真神[まかみ]は、日本に生息していた狼が神格化したもの。大口真神[おおくちのまがみ・おおぐちまかみ]、御神犬とも呼ばれる。薗田稔によれば三峯神社は「埼玉県秩父[ちちぶ]市大滝[おおたき]地区三峰に鎮座。〔……〕古来山中に生息した狼[おおかみ]を当社の眷属神[けんぞくしん]「大口真神[おおぐちまがみ]」とし、火盗除[よ]けの信仰が厚い」(第22巻、372ページ)。

犬歯
内堀雅行によれば犬歯は「哺乳[ほにゅう]類の歯の一種で、門歯の次に位置し、円錐[えんすい]形または鉤[かぎ]形で、普通は上下両顎[がく]の左右に各1対ずつ計4本ある。〔……〕ヒトの犬歯は糸切り歯ともいわれ、先がとがっているが、切歯(門歯)や臼歯[きゅうし]に比べて突出しない。ヒトの歯は全体として退化傾向にあり、とくに犬歯ではその傾向が強い」(第8巻、327ページ)。

フクロネズミ
オポッサムは「別名コモリネズミ,フクロネズミ。長い尾をもつネズミに似た姿のオポッサム科Didelphidaeに属する有袋類の総称。〔……〕北アメリカにすむ唯一の有袋類である。/大きさはネズミ大からネコ大の種まである。長い尾は多くの種で根もと近く以外は毛がなく,木の枝などに巻きつき,樹上での動きを助ける。四肢は短く,5指を有し,後足の親指にはつめがなく対向性で,枝を握るのに適する」(《世界大百科事典〔改訂新版〕》、平凡社、2007、第4巻、354ページ)。

ウイキョウ
星川清親によれば茴香[ういきょう]は「セリ科の多年草。全草に特有の香気がある。〔……〕古代エジプトで栽培され、古代ローマでは若い茎が食用とされた。中世ヨーロッパで、特異な香りと薬効のため魔法の草として知られ、しだいにフランス、イタリア、ロシア料理に不可欠なスパイスとなった」(第2巻、872ページ)。

聖家族図
名取四郎によれば聖家族は「キリスト教美術の図像の一つ。幼児イエスと母マリア、および養父ヨセフの慈愛に満ちた家族図。ヨセフのかわりにマリアの母アンナを加えた表現も聖家族図であるが、この場合は家系図の要素が強い。いずれにせよ、幼児イエスを中心に3人物像によって構成され、地上の聖三位[さんみ]一体を象徴する。この表現形式は14世紀に登場するが、とくに15、16世紀にイタリアをはじめ、ドイツ、スペインなどで流行した。聖アンナのいる聖家族図では、レオナルド・ダ・ビンチの『聖アンナと聖母子』(ルーブル美術館)がもっとも有名である」(第13巻、273〜274ページ)。

冥府
冥府は「死後におもむく他界の一つ。冥界,黄泉[よみ]などともいい,英語のhellがこれに相当する。〔……〕古代中国では,死者の霊魂の帰する所は〈黄泉〉〈九泉〉〈幽都〉などと呼ばれ,本来地下にあると考えられたが,後には北方幽暗の地にあるとする説も生じた」(《世界大百科事典〔改訂新版〕》、平凡社、2007、第28巻、36ページ)。

石枕
甘粕健によれば石枕は「古墳に用いられた石製の枕。滑石[かっせき]や蛇紋岩[じゃもんがん]、凝灰岩を加工、被葬者の頭を受ける馬蹄[ばてい]形またはΩ形の彫り込みがあるのが普通である。縁に二ないし三重に段を造り出し、そこに孔[あな]を巡らし、立花とよばれる勾玉[まがたま]を背中合わせに二つあわせたような飾りを差し込んだものが千葉県北部、茨城県南部を中心として東日本に分布している。西日本には馬蹄形の彫り込みだけの単純なものが多い」(第2巻、246ページ)。

番犬
犬は「世界の神話に現れる犬の中でも,とくに際だっているのはギリシア神話の冥府の番犬ケルベロスである。冥王ハデスとその妃ペルセフォネがすむ館の入口にいて,そこを通る死者たちを威嚇し生者の通過は許さぬと信じられたこの猛犬は,怪物の王テュフォンが,上半身は人間の女で下半身は蛇の形をした女怪エキドナに生ませた,どれも恐ろしい怪物の子の一つで,三つの犬の頭をもち,尾は生きた蛇で,背中からもたくさんの蛇の頭が生え出ており,頭の数は全部で50とも100ともいわれている」(《世界大百科事典〔改訂新版〕》、平凡社、2007、第2巻、490ページ)。

〈春の伝説〉を〈青枝篇〉としたについては、いくつかの理由が考えられる。まず本篇が《金枝篇》にインスパイアされた作品であることの表明である。これが外的な要因だとすれば、詩篇の標題という内的な要因がある。〈春の伝説〉というのは、漢語でかためた《薬玉》詩篇の標題としては間延びしている(吉岡が那珂太郎から詩集の題名を《波の音楽》でどうだろうと問われて、即座に《音楽》でいくようにと答えた挿話が想い起こされる)。だが《僧侶》に〈伝説〉(C・5)がある以上、この方面は却下される。そこで、本篇の直接的典拠でこそないが発想の基となった《金枝篇》方面を延長して、〈□枝篇〉という案が浮上する。この「□」には「金」ならぬ別の色が召喚される。〈春の伝説〉は「伝説」を避けた替わりに「春」を温存し、陰陽五行からの連想による「青=春」で「□」に「青」を代入して〈青枝篇〉を得た。――私にはそのような経緯が想像される。

今は亡き秋元幸人は〈吉岡実アラベスク〉の〈3《亀甲体》〉で〈青海波〉(J・19)の一節を引いて、
  ((生れ 生れ 生れ
            生れて(生[しよう])の始めに暗く))
の詩句について「〔……〕弘法大師空海著わすところの『秘藏寶鑰』などという、極めて古くまた特殊な仏教書からの引用」(《吉岡実アラベスク》書肆山田、2002年5月31日、三五ページ)だと指摘している。吉岡は空海のこの章句とどこで出会ったのだろう。詩篇の初出は《海》1983年6月号だから、それ以前に刊行された書物ということになるが、まったく手掛かりがないわけではない。というのも、以前の勤務先である筑摩書房から出ていた
  (1)渡辺照宏編《最澄・空海集〔日本の思想 1〕》(1969年9月20日)
  (2)宮坂宥勝《密教世界の構造――空海『秘蔵宝鑰』〔筑摩叢書〕》(1982年2月25日〔第6刷:1984年4月10日〕)
の2冊が存在するからで、とりわけ(2)の《密教世界の構造》(元版は《人間の種々相 秘蔵宝鑰『空海』〔日本の仏教 第4巻〕》筑摩書房、1967)が注目される。筑摩叢書版の〈四 人間の自覚〉の〈永遠の嘆き〉にはこうある。

 『秘蔵宝鑰』の書き出しは、次のような永遠を凝視する美しい詩ではじまる。

  悠悠[いういう]たり悠悠たり、はなはだ悠悠たり。
  内外[ないげ](仏教と仏教以外)の縑緗[けんじやう](書物)、千万の軸[ぢく]あり。
  杳杳[えうえう]たり 杳杳たり、はなはだ杳杳たり。
  道といひ、道といふに、百種の道あり。
  書[しよ](書写)死[た]え諷[ふう](読書)死[た]えなましかば、もと何[いか]んがせん。
  知らじ知らじ、吾[われ]も知らじ。……(以下七言一句欠文カ)
  思ひ思ひ思ひ思ふとも聖[しやう](聖者)も心[し]ることなけん。
  牛頭(中国古代の神農)、草を甞[な]めて病者を悲しみ、
  断菑[たんし](周旦公)、車を機[あやつ]つて迷方[めいはう]を愍[あは]れむ。
  三界(この世)の狂人[きやうじん]は狂[きやう]せることを知らず。
  四生(生きとし生けるもの)の盲者[まうじや]は盲[まう]なることを識[さと]らず。
  生[うま]れ生れ生れ生れて生[しやう]の始めに暗[くら]く、
  死[し]に死に死に死んで死の終りに冥[くら]し。

 この詩は、生あるものの永遠の嘆きを代弁している。〔……〕
 ある意味では、空海の無常観は、中世人のそれの先駆とみるよりも、むしろ中世人と同じような深い陰影を宿しながらも、人間生命の讃歌に転ずるための、明るい健康な生命力に裏づけられているようなところがある。右の『秘蔵宝鑰』序の詩と同じような生死の嘆きを、『教王経開題』で次のように述べている。

それ、生はわが願ひにあらざれども、無明[むみやう]の父、我を生ず。死は我が欲するにあらざれども、因業[いんごふ]の鬼、我を殺す。生はこれ楽にあらず、衆苦のあつまるところ。死もまた喜びにあらず、もろもろの憂へ、たちまちにせまる。生は昨日のごとくなれども、霜鬢[さうびん]たちまちに催す。強壮は今朝、病死は明夕なり。いたづらに秋葉の風を待つ命をたのんで、空[むな]しく朝露の日に催すかたちを養ふ。この身の脆[もろ]きこと、泡沫[はうまつ]のごとく、わが命の仮なること、夢幻[むげん]のごとし。

 そして、これに対し、翻[ひるが]えして次のようにいう。

悲しいかな、悲しいかな、三界[さんがい]の子。苦しいかな、苦しいかな、六道の客。善知識の善誘[ぜんいう]の力、大導師の大悲の功にあらずよりは、何ぞよく、流転[るてん]の業輪[ごふりん]を破つて、常住の仏果[ぶつくわ]に登らん。

 生死の無常観を契機として、人間の自覚へと誘[いざ]なってゆくのである。(同書、五五〜五七ページ)

一体に吉岡は詩篇においても、散文においても、永田耕衣や高橋新吉のようには宗教的な文言を多用することはなかった。だが、必要とあらば地の詩句であれ、引用による詩句であれ、要文をちりばめることを躊躇しなかった。《薬玉》の掉尾を飾る詩篇〈青海波〉の「((生れ 生れ 生れ/生れて(生[しよう])の始めに暗く))」がそれであり、〈青枝篇〉の「「よろずのこと みな えそらごと」」がそれである。後者、「「よろずのこと……」」は親鸞の語録《歎異抄》に見える章句の引用で(ごく一部、改変がある)、手近なテクストでは

  〔……〕よろづのこと、みなもてえそらごと、〔……〕(金子大栄校注《歎異抄〔岩波文庫〕》岩波書店、1981年7月16日改版〔1991年3月15日:第76刷〕、八八ページ)

と見える。長篇小説《親鸞》を著した五木寛之の〈私訳 歎異抄〉に依れば、「〔……〕すべては空虚な、偽りにみちた、評価のさだまらないむなしい世界である」(《歎異抄の謎――親鸞をめぐって・「私訳歎異抄」・原文・対談・関連書一覧〔祥伝社新書〕》祥伝社、2009年12月25日、一二七ページ)。《歎異抄》からのこの引用は、《秘蔵宝鑰》からの引用に較べて目立たない。それかあらぬか、秋元幸人もこの詩句を引いていないし、当然のことながら典拠も提示していない。それほど「すべてのことはみな絵空事だ」という感懐は折りに触れてふと想いうかべる、今日のわれわれにも親しいものだといえる。だがそれは、親鸞の悲歎が空海のそれに較べて浅く軽いことを意味しない。吉岡とて、同じような切迫の度合いで引用したに違いない。

最後に、答が出るかどうかわからない問を発してみる。吉岡実にとって《金枝篇》とはなんだったのか、という疑問である。《金枝篇》と詩との関連でわれわれがすぐに想起するのは、T・S・エリオットの長詩《荒地》(1922)だろう。深瀬基寛はその《エリオット〔鑑賞世界名詩選〕》(筑摩書房、1954年10月25日)で

 シンフォニー『荒地』の意図するものについては種々の解釈が許されるであらうが、全曲を流れてゐるモチーフとして使用されてゐるのは、エリオッ卜自らこの詩に附した註にも明らかなやうに、ミス・ウェストン(Miss Jessie L. Weston)の聖杯伝説に関する研究『祭祀よりロマンスヘ』From Ritual To Romanceであつた。同時にエリオッ卜はフレイザー(Frazer)の『金の枝』Golden Boughなどイギリスで熾な原始文化研究からもヒントを受け、植物祭(Vegetation ceremonies)などの原始民族の祭祀伝説を借りてこの詩の骨組をくみたてたのであつた。(同書、一九五ページ。漢字は新字に改めた)

と自説を展開している(ちなみに《エリオット〔鑑賞世界名詩選〕》の「再版」は吉岡実の装丁になると考えられる)。深瀬は冒頭の〈緒言にかへて〉では、E・M・フォースターの「わたしは問題の中核へひと思ひに飛び込んで、いつたいあの『荒地』といふ詩は何のことを詠つてゐる詩なのか端的に打ち明けよう。あれは、来るべくしてもはや手おくれとなつてどうしようもない春の水を、慈愛の雨を詠つてゐるのだ。あれは戦慄恐怖の詩なのだ。母なる大地は枯れ、海原は塩の大塊となり、大地を培ふべき雷雨は鳴動はしたが、実はもうあとの祭りだ。さうしてその戦慄恐怖があまりにも激烈なために、詩人は舌がしびれてしまつて、そのことを公然と口にすることが全く不可能になるのである……」(同書、一一ページ)という評言に賛意を表している。この詩の理解には「聖杯伝説」――漁夫王が性的能力を失った結果、国土は荒廃する。そこへ一人の騎士が登場して「危険の聖堂」に近づき、古代に男と女の象徴だった槍と聖杯を奪還することで呪いは解かれ、荒地に慈雨と豊饒が復帰する――が欠かせないと深瀬は指摘する。併せてJ・L・ウェストン(丸小哲雄訳)《祭祀からロマンスへ〔叢書・ウニベルシタス〕》(法政大学出版局、1981年11月2日)の〈第一章 序論〉には「数年前、J・G・フレイザー卿の画期的な著書『金枝篇』をはじめて研究した際、わたしは聖杯物語のいくつかの特徴とそこに叙述されている自然崇拝の特異な細部との間にみられる類似性に強い印象をうけた。物語を綿密に分析すればするほど、ますますその類似性は際立って来て、ついにわたしは、この不可思議な伝承――その性格、その突然の出現、それに帰せられている明白な重要性、そして続いて起る唐突で完全な消滅といった点においても等しく不可思議な伝承――の中に、かつては民間に流布していたが、のちには厳しい秘密の条件の下に生きのびることになったひとつの祭祀の曖昧な記録が残されていたかも知れないと考えることは果して可能かどうか自分に問うてみたのである」(同書、四ページ)とあることを考えれば、《金枝篇》から《荒地》が引きついだ「聖杯伝説」を踏まえて、吉岡が〈青枝篇〉を構想したことは充分あるように思える。なによりも、初出標題〈春の伝説〉に「聖杯伝説」が影響していないだろうか。

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(*) たしかに〈青枝篇〉には鉤括弧(「 」)で括られた詩句の逐語的引用こそ見られないものの、「雨乞い」や「狼/犬」「山羊」などには《金枝篇》の遠い残響が聴かれよう(ちなみに秋元幸人が〈雞〉(J・1)との関連で《吉岡実アラベスク》の〈吉岡実晩年の詩境〉で言及したのは、《金枝篇》の〈第四十八章 動物としての穀物霊〉の〈三 雄鶏としての穀物霊〉だった)。該当する箇所を、本文に引いたのと同様の形式で掲げる。

・プロスカの村では、旱魃を終らせて雨を降らせるため村の女たち娘たちが夜分に裸体となって村境まで行き、そこで地面に水をそそいだ。(〈第五章 天候の呪術的調節〉、一・153)

・一八九三年四月の末水飢饉のためシシリー島に大きな困窮の襲来したことがある。旱魃は半歳にも及んだ。太陽は毎日毎日、雲の片影だにない青空に昇っては沈んだ。うるわしい緑の帯のようにパレルモを取り巻いたコンカ・ドゥオロの園は、そのために枯れかかっていた。食糧は断絶に瀕していた。住民は大きな恐怖におののいた。およそ知られている限りの雨乞いの方法は試みられたが、いずれも更に効果はなかった。行列は街にも畑にも、引きもきらず続いた。男も女も子供たちですらも、数珠をつまぐりながら、幾夜か尊い御像の前に拝伏した。(〈第五章 天候の呪術的調節〉、一・173)

・〔……〕東プロシアのファイレンホーフの近傍では、狼が畑を走って行くのが見えると、農夫たちは尾を立ているか垂らしているかに注意するのであった。もし狼が尾を地に垂らしていたなら、それをつけて行って福を持って来てくれたと言って感謝し、その前に御馳走を置いてやることすらあった。ところが、もし尾を立てていたなら、そいつを狙って殺そうとした。つまりこの狼は、豊作の力をその尾にもった穀物霊なのである。(〈第四十八章 動物としての穀物霊〉、三・242)

・ギエンヌでは、最後の穀物が刈り取られると、一匹の去勢羊を畑じゅう引きまわす。それは「畑の狼」と呼ばれている。その角は花環や穀物の穂で飾られ、頭や躯も花束や色紐で飾られる。刈り手は残らずこの羊の後について、歌いながら行進して行く。最後に羊は畑で屠殺される。フランスのこの地方では、最後の刈り束のことを方言で coujoulage という。つまり去勢羊という意味である。それで去勢羊を屠殺することは、最後の刈り束に宿っていると信じられている穀物霊の死を表わすのである。しかしここでは、穀物霊の二つの異なった形――狼と去勢羊――が混同されている。(〈第四十八章 動物としての穀物霊〉、三・246)

・〔……〕上バイエルンのマルクトゥル近傍では、刈り束を「藁山羊」または単に「山羊」と呼んでいる。刈り束は広庭に山と積まれ、お互いに向かい合って立つ二列の男たちがこれをこなすのであるが、彼らはせっせと連枷を打ちおろしながら、束の中に「藁山羊」が見えるというような事を歌うのである。最後の山羊、つまり最後の刈り束は、スミレその他の草花の花環や、糸に通した菓子などで飾る。そして束の山の真中ほどに安置する。打穀者の一人が矢庭にとびついて、そのうまいところをかっさらおうとする。他の者たちは、時として脳天がたたき割られることもあるくらい、遠慮容赦なく連枷をうちおろすのである。〔……〕/〔……〕上バイエルンのトゥラウンシュタインでは、燕麦の最後の刈り束には「燕麦山羊」がいると信じられている。それは立てた古耙で表わされ、古鍋で頭をこしらえる。子供たちはこの「燕麦山羊」を殺すことを言いつかるのである。(〈第四十八章 動物としての穀物霊〉、三・257、258〜259)

(**) 詩篇〈青枝篇〉には、エリック・セランドが詩集《薬玉》全篇を英訳した《Kusudama》(FACT International、1991年〔月日不明〕)所収の〈Collection of Green Branches〉がある。《吉岡実書誌》の〈英訳詩集《Kusudama》解題〉でも触れているとおり、《Kusudama》から同詩を含む3篇がduration pressのサイトに掲げられているので、以下に〈青枝篇〉の〈T 地の霊〉〈U 水の夢〉〈V 火の狼〉〈W 風の華〉の英訳の各ページにリンクを張っておく。 〈1 Earth Spirit〉 〈2 Dream of Water〉 〈3 Fire Wolf〉 〈4 Wind Flower〉

エリック・セランドによる英訳詩集《Kusudama》(FACT International、1991年〔月日不明〕)の表紙
エリック・セランドによる英訳詩集《Kusudama》(FACT International、1991年〔月日不明〕)の表紙


吉岡実未刊詩篇本文校異(2017年11月30日)

初めに、私が2011年6月18日にAmazon.co.jpに投じた《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日)のカスタマーレビューを再掲する(標題等の表示を本サイトのそれに改めた)。未刊詩篇のタイトルに張ったリンクは、本稿掲載にあたって設定したもので、初稿のレビューにはない。

本書刊行(1996年)までに確認された吉岡実の全詩篇を集大成した、文字どおりの吉岡実全詩集(詩歌集《昏睡季節》所収の和歌を含む)。冒頭の詩篇〈春〉を欠いた初刷も出回ったが、版元の適切な処置により最小限の瑕疵で食いとめられた。〈本書の編集について〉の方針に基づく本文校訂もほとんど問題ないが、〈即興詩〉で詞書/献辞のように組まれている「私ノ時計ニ」は、初出誌を見ればわかるように、本文の一行め(ただし二字下げ)だろう。〈未刊詩篇 1947-90〉は《昏睡季節》から《ムーンドロップ》までの詩集に入っていない15篇から成り、本書刊行後に新たに6篇が発見されている。全詩集未収録詩篇に◆印を付して、目次の体裁で掲げる。

未刊詩篇 1947-90

海の章(未刊詩篇・1)
敗北(未刊詩篇・2)  717
即興詩(未刊詩篇・3)  717
汀にて(未刊詩篇・4)
断章(未刊詩篇・5)
陰謀(未刊詩篇・6)  718
遅い恋(未刊詩篇・7)  719
夜曲(未刊詩篇・8)  720
哀歌(未刊詩篇・9) 721
冬の森(未刊詩篇・11) 724
スワンベルグの歌(未刊詩篇・12)  725
序詩(未刊詩篇・13)
序詩(未刊詩篇・14)
絵のなかの女(未刊詩篇・15)
白狐(未刊詩篇・16)  727
亜麻(未刊詩篇・17)  730
休息(未刊詩篇・18)  731
永遠の昼寝(未刊詩篇・19)  733
雲井(未刊詩篇・20)  735
沙庭(未刊詩篇・21)  738

波よ永遠に止れ(未刊詩篇・10)  740

以上を加味した増補改訂版《吉岡実全詩集》もしくは《吉岡実全集〔第1巻〕詩集》の刊行が切望される。

《吉岡実全詩集》のカスタマーレビューは2017年11月現在、上掲の私の〈増補改訂版『吉岡実全詩集』もしくは『吉岡実全集〔第1巻〕詩集』の刊行が切望される〉を含めて、2007年5月25日掲載のゾーイ〈詩語の野生に達している〉、2015年8月31日掲載の案山子〈詩としての静謐な暗黒舞踏〉の3件がアップされている(いずれも★5つの満点)。もっともこれらを読んだ人が《吉岡実全詩集》を購入しようとするかは疑問で、レビュアーが言うのも妙な話だが、同書を読みたいと思うほどの者はレビューになんとあろうが入手するに違いない。ちなみに「Amazon」での中古の価格は、24,890円から320,000円までで(「日本の古本屋」では37,800円から200,000円まで)、2万円台なら、発売時の価格12,000円からいって、悪くない。見ればわかるとおり、私のカスタマーレビューは《吉岡実全詩集》初版の購入を促すことからはほど遠く、その完全版(に近い)刊行を望むものだった。残念なことに、2017年11月現在、それが実現する気配はない。以下に、吉岡実の既刊の各単行詩集の本文校異と同じ形式で未刊詩篇の本文校異を掲げ、来るべき増補改訂版《吉岡実全詩集》もしくは《吉岡実全集〔第1巻〕詩集》の刊行を待ちたい。なお、◇印の未刊詩篇15篇の本文〔 〕内の校異は〔初出形→《吉岡実全詩集》収録形〕を表す。

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海の章(未刊詩篇・1)

初出は《漁》(東洋堂発行)1947年9月号(2巻9号)一ページ、本文10ポ四分アキ20行1段組、16行。

貧しくて さびしくなつたら
海へ行こう
晴れた日の海へ行こう
でつかい魚たちが跳ね上り
どこにも金の波があふれている
午後の風をはらんだ白帆は
お母さんの乳房のようにやさしい
はるか遠くで 入道雲も微笑している
けつしてひとりぼつちを
さびしがるな そこらの岩かげに
蟹が泡を吹いて居眠りしているし
まかれた花びらみたいに鴎もとんでいる
そして夕焼の浜べで
ぬれたばらいろの貝がらをひろい
童謡を唄つてかえろう
灯のともつた 家にかえろう


敗北(未刊詩篇・2)

初出は《新思潮〔第14次〕》(玄文社発行)1947年9月(1巻2号)の〈詩二篇〉二四ページ、本文五号二分アキ11行1段組、6行。

神の掌がひらかれたが
影になる方向には
灰色の波が重り
歪んだ帽子へ消えると
蛇や百足虫が這ひ出し
私の骨が残つた


即興詩(未刊詩篇・3)

初出は《新思潮〔第14次〕》(玄文社発行)1947年9月(1巻2号)の〈詩二篇〉二五ページ、本文五号二分アキ11行1段組、7行。《吉岡実全詩集》で第一行が詞書/献辞のように組まれているのは誤り。

  私ノ時計ニ
蝶ガトビコンダ
スルト銀ノぜんまいヤ花ヤ
牛酪ヤ私ノ夢ガ
溢レダシ
イツペンニ
夏ノ窓ハ明ケテシマツタ


汀にて(未刊詩篇・4)

初出は《水産》〔本号より《漁》を改題〕(東洋堂発行)1948年7月号(3巻7号)二六〜二七ページ、本文9ポ15行1段組(コラム)、12行。作者名は「皚寧吉」。

ひぐれのなぎさをわたしはあるいてゐた
なにかをもとめてあるいてゐた
わたしのゆくさきにだれかのあしあとがのこつてゐた
てんてんとわたしのかなしみよりはるかにふかくすなにしづんでゐた
いくらわたしがついきゆうしてもあしあとはつづいてゐた
だれがこんなさびしいものをのこしていつたのか
すなはかすかにかわいてつめたかつた
かいそうのまつわつたいわのあたりにもまだつづいてゐた
とほくないだうみのうへをかもめがひとつとんでゐた
にさんどなきながらさつてしまつた
わたしはわたしのまへをゆくひとをもとめてあるきつづけた
つきがのぼるとばかにそのひとがこひしくてならなかつた


断章(未刊詩篇・5)

初出は《水産》(東洋堂発行)1948年8月号(3巻8号)一ページ、本文五号二分アキ11行1段組、9行。目次に記載なし。漁船と蟹の挿絵(クレジットなし)が詩篇を囲む。

永劫に舟の去りゆく
落日の海に魂のふるさとを求め
われ浮腫混沌の方角より
憔悴せる手をさしのばす
ああわが懊悩の手
清楚無限の波に洗はれ
ふたたび無垢の血よみがへり
はるかなる回帰線を越え
白鳥のいのちをつかまんとす


陰謀(未刊詩篇・6)

初出は《現代詩》(緑書房発行)1956年7月号(3巻6号)四八〜四九ページ、本文8ポ26字詰19行1段組(コラム)、19行分。

百匹の猫には百匹の敵がいる ある一匹の心やさしい猫がベンチの片隅で新聞をよんでいると見なれぬ手の折れた猫が並んで新聞をよみはじめる 帽子をかぶった心やさしい猫はスポーツの記事がよみたいと思っているのだが 隣の猫が戦争の悲惨なニュースをよむように指図する 心やさしい猫は美しい妻に贈物がしたいのだ 化粧品の広告がみたいと思う 折れた手で隣の猫がにやにや笑いながら 軍艦の沈没してゆく場面の写真を示すので 香水罎の類を彼方に眺め 自分も溺死する水兵の服をきて海中に沈んでしまう もちろん隣の猫は別の軍艦の甲板で折れた手を振っている 心やさしい猫は公園を出てレストランに向う 手の折れた猫がおくれたわびをいいながら 同じ食卓の前に腰かける 心やさしい猫は明日の仕事のため栄養分のあるものを注文する 手の折れた猫はもう自分が注文しといたからだいじょうぶだという 陰謀は食事に関係が多い 湯気の立つスープのかわりに 落下傘の包が食卓の上に置かれる 心やさしい猫は空腹のままそれを身につけてとびおりる たちまち十字砲火を浴び戦死する 折れた手で猫は雨でぬれた半旗を垂らし戸口から入ってしまう
                                           一九五六・五・二十一

遅い恋(未刊詩篇・7)

初出は《現代詩手帖》(世代社発行)1959年6月号(1号)六六〜六七ページ、本文9ポ27字詰14行1段組、12行分。初出時、約400字の散文〈詩人のノオト〉を付す。

ガリ氏の上半身は裸だ むしろ枯木の存在にちかく がらす板のむこうで 女医先生が手を器用にうごかしてのぞきこむ ガリ氏の尖〔つ→っ〕た内部を いささかガリ氏は羞しいのだ 少しばかり女医先生がすきなので 自分が人間の器官をうしな〔つ→っ〕て 深い根に支えられてない 黄昏の物体であり 鳥の巣ほどの夢もかかえず みずみずしい四月の葉に飾られてないことが い〔つ→っ〕そう内部をはたらきのないものにする だが光のなかで人間は真実の恋ができようか 女医先生はたしかに職業の恋をしはじめる つめたい手と眼で ガリ氏の患部を愛撫しながら そしてふたりだけの 暗い場所を甘い髪の匂いでみたす 盲目の世界で記録されたカルテは永遠に判読されぬだろう 世のすべての恋人たちの手紙のように


夜曲(未刊詩篇・8)

初出は《近代詩猟》(発行所の記載なし)1959年10月(27冊)六ページ、本文14ポ24字詰18行1段組、14行分。初出末尾「一九五八・八・四」は、吉岡陽子さんに依れば「一九五九・八・四」が正しい。

夜それも初夏の夜 ぼくは召使としてつつましく坐る それであらゆる型態の蛾をとらえる ほそい朝鮮服の妻のためにだ ぼくが喜色満面でかざす 蛾のかたじしの胴体は尻へつぼまり 豹の緊張した野性を誇示する 妻の眼のなかでそれに応えて おののく植物の生臭いひとなぜの風 いうまでもない 妻の心はいやおうもなく 蛾の鋭い歯で肉食される 花粉と汗をながす妻の全身を白磁のシーツで陰蔽した 下品な召使のしたごころから 蛾の翅の蝋のにぶい光から 鳥籠には粘土の鳥 まわりには全部まぶたをとざした家具類 ぼくと瀕死の妻は同一の管で 同時に水を吸いあげる 囁く泡のながれ その夢みる装飾帯 暁ちかく二人の間に赤ん坊が泣きながら割りこむ そんな幻覚を映して氷山が滑り込んでくる
                一九五八・八・四


哀歌(未刊詩篇・9)

初出は《鰐》(書肆ユリイカ発行)1960年2月(6号)八〜九ページ、本文五号21行1段組、35行。

それは或は風説だろう
ぼくと向きあった妻が魚の腸を
のりこえ
ぼくを不浄な庖丁で刺す
キャベツ・ジャガイモに看視され
ぼくは瀕死の客
スープの湯気の束の間の命
テーブルの上に
レモンの美しい膚があらわれ
正面から血を浴びる
妻よこころせよ
それがぼくの自尊心
ぼくの空腹が他人の便秘に
通ずる油ぎった岸べ
そこから他国へながれる川
料理された鶏の首と
ぼくの頭が藁で結ばれて
月下の水面を滑る
前世を
ぼくは耐え忍ぶ
〔爼→俎〕と胎児を
錐と姙婦をすり替える
ぼくの無償の詐術
髣髴と浮び上る
岩の頂で番のあざらしを凍らす
愛の復讐の記念像
陸の難破者をして仰がせる
ぼくの不倫・ぼくの殉教精神
麦畑へ火事を導びく
ついでにけしの畑
灯る人家を望み
ぼくと密通した人妻の
幼女のマヌカンを
ぼくは抱くだろう
糸杉の狂える夜ごと夜ごとを


波よ永遠に止れ(未刊詩篇・10)

初出は《ユリイカ》(書肆ユリイカ発行)1960年6月号(5巻6号)四八〜五三ページ、本文8ポ30字詰25行2段組、11節257行。初出目次の標題は「波よ永遠に止まれ」。初出「カット真鍋博」。《吉岡実詩集》(思潮社、1967年10月1日)に改稿再録(三一四〜三三五ページ、本文9ポ27字詰14行1段組)。

    ヘディン〈中央アジア探検記〔〉より→より〉〕

1

わたしは 二人の従者と一人の宣教師とともに
四頭馬車で砂漠の入口に着いた
ここからわたしの夢がはじまる
わたしにだけ見えて
ほかの三人の男には見ることのできない夢
幾世紀もの間 砂にうずもれた
伝説の王 眠りの女王の生活の歴史
もしかしたらわたしだけの幻覚だろうか
死んだ都のステンドグラスの寺院の窓から
ながれ出る河のながれ ともにながれる時のながれ
朝は凍りつき 夜あらゆるいきものの
骨を沈めているヤルカンド河のつめたいながれ

2

翌朝 わたしは従者の一人を呼んだ
わたしはその男を毛皮の男と名づける
けものの皮をはぐのがその男の神聖な職業だったから
毛皮の男はヤルカンドへ八頭のらくだと斧を求めに行った
もう一人の従者は近くの支那人の市場から水と麦粉蜂蜜麻袋などの必要品を買って戻る
その男をわたしは女中と呼ぶ
彼は回教徒のタブーを冒し 日の出前に物を食ったため
刑罰をうけ不具にされ
もう男ではないのだから
ロバの背にのせられたまま
女のような泣き声をあげたのを救けた
女中はサルト人にさそわれると
白楊の木の茂みへ
ときには聖なる墓地をよごしに行く
祈祷師の太鼓のなりやむ暁まで
悪霊のおどりをおどるのだ
宣教師には仕事はない 彼は昼は汗をかき
夕方はたらふく羊の肉を食い
夜は祈祷師の残り酒をのんでは吐く
わたしは気象の観測と
ゴブラン織のような地図をひろげる
その地図から
黄塵が湧きあがり われわれの貧しいキャラバンをつつむ
その地図の別の方角 緑色に塗られた印のところから
羚羊が現われ 泉がわきあふれ 甲虫がとびまわる
その地図の褐色にいろどられた丘や草原から
太陽が野兎や われわれの耳を照らす
双眼鏡の視界のかぎり 涯ない砂の原
あの雪のように汚れてないふくらみを見よ
そこにわたし以外の者の足跡があってはならない
生きる人間・死せる人間のものであれ
最初の遠征者・わたしの躯の重みを支える
わたしの足跡でなければならない
点々とつづき点々と消えまたつづく
わたしの生命の証しでなければならない
狼が吠えている
狼があらゆる闖入者を拒んでいる
わたしの願望のために
砂と星の領域を守って立っているのが見える
かたむく月 かたむく月
わたしも宣教師も
女中もひとりねの眠りにおちるだろう
毛皮の男はいつ戻るか
舟の竜骨のようなたくましいその男を
わたしは信頼して待つ
明日という朝 あさってという朝

3

タクラ・マカン砂漠を横断するキャラバンがあるときいて
わたしの宿を一人の老人がおとずれた
このからすのようなだみ声の老人
彼はわたしの目的を探りにきたのかも知れぬ
突然 流沙の中に永遠に姿を消した
死の都の財宝を
わたしたちが発見にきたのだと思っているのだろうか
老人は語るのである
若い頃の恐ろしい体験を
悪霊がいまなお廃墟の周囲にとどまり
黄金探求者たちを死にみちびく
みずみずしい果物一つ盛られてない皿
あざやかな満月の皿
そのまえで渇きながら黄金探求者は死んで〔ゆ→行〕く
半身は砂にうずもれ
あとの半身はつめたい金銀の器具におおわれて
山猫のむれが鳴く
じゃこうねずみのむれが鳴く
はじめは山猫がその人形のような餌食をみつける
次にじゃこうねずみのするどい歯が噛む
骨のなかの肉を
肉のなかの骨を
砂のなかの髪の毛を
暗のなかの食事はしずかに行われる
砂のうえの食事はしずかに終る
それから幾百年後に
別の黄金探求者たちは財宝のかわりに
別のものをみつけ出すだろう
奇妙な色と形をしたたくさんの支那ぐつが散乱しているのを
手にとろうとするとき
支那ぐつはたちまち塵のごとくくずれ
あとかたもなくなってしまう
……………………
老人が語りおわるころ珍しく雨がきた
わたしはこの口碑・伝説を一笑に〔附→付〕すことはできない
だがわたしの危険な旅行は中止されぬだろう
わたしには水平線の彼方に
美しく起伏する砂丘の鼓動が魂にひびいてくる
わたしのロマンチックな仮説が〔ベタ→全角アキ〕未知の世界
未知の空間へ記録されるかもしれない
もし不幸な運命がわたしの立っている砂の上
この砂の下へしのびよらなければ

4

わたしはここ数日
輻射熱と大気のなかにある塵の量と
温度の密接な関係を調査して暮す
宣教師は
すさまじい砂嵐の吹かぬかぎり
印度の金融商人の夜のみだらな酒宴によばれる
踊る女のへそにはめた虎眼石が輝く
深くて戻るすべのない闇
わたしはいまだかつて宣教師が祈りをあげているのも
土民の病人の看護する姿もみとめない
彼も一度は心をこめて祈る時がくる
みずからが突然の死にくびられる時
滴れない桃のしずく
滴れない梨のしずく
土民のかきならすジイザーという楽器を
女中が天幕の入口で奏でている
刑罰をうけた人間の魂がもつメランコリイ
水槽のなかの水が少しずつ泡だつような夜だ

5

毛皮の男が戻ってきた 八頭のらくだをつれて
それぞれのらくだの背につまれた乾草の匂いは甘く
わたしは緑地地帯の涼しい水が快く回想される
パンを焼くマラル・バシイの村の景物とともに
毛皮の男は白楊樹の太い幹へ
斧を一撃うちこむとその下へ寝る 〔生→い〕きづいている毛皮
大小さまざまならくだを円形につなぐ
蘆を気ままに食べるのをみながら
わたしは一箇の絵を観賞しているやすらぎをおぼえる
女中は恋人にふたたび会えたようにはしゃぎ
毛皮の男のために食事の準備をする
卵を割り マカロニを妙め
一羽の鶏の首を斧で断つ
わたしにはこれらのこともまた牧歌的な絵だ
何も始ってはいない 〔燈→灯〕をめぐる幾つかの大きな蛾
どうどうめぐりをくりかえす迷える蛾
それすらわたしたちの運命の暗示とは考えられぬ
わたしは生きて目的を果すであろう
天幕の入口からただちに砂漠へつづいている行程
これから幾日かわが愛すべき砂
わが憎むべき砂
未知の森 未知の空
未知の河 未知の水平線
未知の世界を進むためには
たがいに頼らなければならないわたしたちいきものたち

6

砂漠の年代記に記載されるべき日
わたしたちは出発する
門出を祝福する数十枚の支那の青銅銭が空へまかれた
わたしはらくだの背に乗りながら
コンパスを未知の方向へ確信のうちにのばす
宣教師は病気だといつわって去った
彼は今 屋根に集る群集の一人として見送るだろうか
遠ざかる屋根 遠ざかる人
遠ざかる泉
アジ〔ヤ→ア〕の美しい春だ
荒涼とした砂漠へ向う
わたしたち悲劇のキャラバンの鈴がひびく
八頭のらくだのつけている鉄の舌をもつ鈴
みちびきの鈴よ 弔いの鈴よ
不吉であれ 幸運であれ わたしたちはどこまでも
ともに旅するであろう
アジ〔ヤ→ア〕の美しい春を

7

北東風は終日吹きつづけ
空には星のかわりに砂がながれる
すべての植物類が影をひそめるころ
わたしたちは巨大な砂丘の迷宮にとじこめられた
滑る砂 らくだの足を沈める砂
水槽を積んだ背高らくだがころんだ
十五呎もある斜面で荷をおろしてらくだを休ませ
飼料の蘆の葉を与える
わたしたちは少量の水でのどをうるおしニッキを噛む
黒い綿毛のような雲の彼方に旧い河床を発見した
毛皮の男が先頭のらくだの上で叫んだ
北方に一時進路を変えよ
わたしのらくだが続く 女中のらくだが続く
荷物を積んだ五頭のらくだが続く しんがりを犬がおりる
再び砂丘が十呎の高さで疲れたキャラバンをとりかこむ
落日の波形の影がすべての砂丘の頂きを走る
やっと平坦な塵の上に出る 羊毛のようなやわらかい塵
ときたまらくだの蹄にふみくだかれる塩の結晶の不気味な音
わたしたちが野営地につく前に夜がきた
毛皮の男と女中が井戸を掘り
そのまわりを犬と鶏が深い関心をよせて見守る
井戸をほること そしていのちの水を得ること
これがわたしたちの金科玉条
生きること 三人の人間 八頭のらくだ 一匹の犬 これら生きものがいきること
今夜は水が得られるであろうか 蜜のように甘い水が
明日は復活祭だ

8

わたしたちは未踏の大砂漠にさしかかりつつある
こころよい西の微風 青空の反射にかがやくあざみの花
エシル・コールとよばれる「緑の湖」はどこにあるのか
毛皮の男も女中も知らない まぼろしの湖よ
ここで羊の最後の一頭を屠殺し 祝福された食事をする
血と屑肉は犬に与えた
翌日の真昼 天幕を取り外したら 敷物の下から
一吋半のさそりがとびでたのに驚く
今日は美しい渓谷と沼沢地を踏破し北東方へ進路を変えた
鷹が舞っている ライフルで撃つ 鷹は孤立した山へ去った
午後の沼の岸べは蛙の鳴き声 雁の叫び
わたしにとって長くない地上の楽園となろう
毛皮の男と女中は水浴びから戻らない
わたしは妻と子のための手紙を書く
妻と子のすきなタマリスクの花の匂いをこめて
とどかないかも知れない故に深い愛のことばを告げる

9

この人間の棲まぬ果で一人の男に出会う
塩を求め山中へ入って行く孤独な〔全角アキ→トル〕塩採取人が地上での最後の人間
新鮮な水を得ることのできる最後の土地
魅惑の渓谷を発って十数日を経た
砂丘は粘土の地表へ砂を灌ぎ灌ぎ はるか南西へ拡っている
黒い蝸牛にも似たキャラバン
わたしたちはすすむ すすむ 目的地を指し
千度も千歩を行く
岸べなき砂の大洋〔[おおうみ]→トル〕 黄色い大波 熱い水脈
犬〔と羊→トル〕が狂気のごとく水槽に近寄る
女中も狂気のごとく渇きをうったえて哭く
千の針に刺された朝の太陽 盲いて行くわたしたちの心臓
なめる黄金の水 水のなかの黄金の舌
この夕刻以後らくだには一滴の水も与えてやれぬだろう
見あげる砂の頂きにはわたしたちの荘厳なる墓地
雲のなかに消える
死んだ二頭のらくだのため
いまわしくも生きのこるわたしたちのため
蹌踉として永遠の砂丘をよじのぼるらくだたちよ
葬列の鈴を美しく鳴らせ
彼方の氷にとざされたる父なる山よ
そのゆたかな氷と雪を〔溶→とか〕せ
女中は最後の一滴の水まで盗み行方をくらます

10

それから幾日後 一羽の鶺鴒がとんできて希望をめざめさせる
毛皮の男はらくだの尿を酢と砂糖をまぜてのんだゆえ
恐しい嘔吐のため瀕死の状態にいた
わたしは〔水槽を持って→水を求めて〕死のキャラバンを離れる
目印のカンテラが砂の表面をしずかにしずかに照す
まどろみと幻想のうちに水晶の水とライラックの匂いをかぐ
たえずはいずり歩く わたしはミイラの末裔
コータン河の森の方向に
羊飼のかがりびでも見えぬであろうか
いまこの沈黙の夜がキャラバンの最後の場面なのか
否否わたしにはみちづれがある
頭上の星 鋼鉄の精神 鋤の柄の杖
東南の方角が霧に巻かれているのが見えた
次に灌木と葦のくさむら
ついに河岸にたどりついた時
わたしの跫音に鴨がとび立ち しばらくして水音が聴える
新鮮でつめたい美しい水
鴨がこの水の上に憩うていたのすら非常な冒涜に思われた
わたしは脈搏を計りそれからのんだギリシャの神々の美酒を
未来は茫漠として微笑む人生の悲惨な行事が空白になる一瞬
わたしは裸も同然で何一つ水を入れるものがない
混乱のなかの天の啓示
わたしは防水靴にいっぱい水を充たし
月光の林のなかを死につつあるキャラバンの方へ戻って行く
聖なる靴 一人の生命を救った この創造主 靴屋に幸いあれ

11

わたしは故国への帰路につく
ゆれる船 かたむく帆柱 さらば陸地よ さらば砂漠よ
  「そこでは〔、→全角アキ〕人間の意志も水流の巨大な力も〔、→全角アキ〕同様にそ〔ベタ→改行して二字下げ〕の狂暴〔改行→次行をベタで追込〕
  さを征服し得ない〔。→全角アキ〕恐るべきタクラ・マカン砂漠〔ベタ→改行して二字下げ〕が地上の森羅〔改行→次行をベタで追込〕
  万象を支配する神の名において宣言する〔。→全角アキ〕〔ベタ→改行して二字下げ〕《この地まで来れ〔、→全角アキ〕〔改行→次行をベタで追込〕
  されどこの地より進むなかれ この〔ベタ→改行して二字下げ〕地において汝らほこらしげ〔改行→次行をベタで追込〕
  なる波よ 永遠に止れ》」

                〔(本稿より八十行を削除して九六〇年五月一一日NHKより放送)→トル〕 


冬の森(未刊詩篇・11)

初出は《朝日新聞〔夕刊〕》(朝日新聞東京本社発行)1965年1月5日(28377号)五面、本文新聞活字一倍扁平17行1段組(コラム)、14行。初出・絵「待つ・海老原喜之助」。

そのところに月は満ち
マスクした枯木の梢が楕円形に
ひとりの幼児を囲んでいる

火花の記憶のなかに
ささげられた食物の世界
この青みがかった幼児の内海で
肉をかぶっていく骨が見える

フクロウの金環の爪でさかれた
母の口は暗く
それは名づけようもない過去

未来とは羊歯のかたち?
鉤のウサギの血を吸う雪?
幼児は問いつづけ
ついに大声になる


スワンベルグの歌(未刊詩篇・12)

初出は《婦人公論》(中央公論社発行)1969年2月号(54巻2号)の〈MY POESY まい・ぽえじい・2〉〔PETIT PETIT(プチプチ)のコーナー、二二○〜二二一ページ〕、本文8ポ20行1段組、34行。初出「イラスト・前田常作」(スミ・アカの2色刷)。初出註記「*スワンベルグ〔以下なし〕」。《ユリイカ》(青土社発行)1973年9月号(5巻10号)の〈吉岡実新詩集 神秘的な時代の詩・抄〉に改稿再録(一六八〜一六九ページ、本文8ポ26行2段組)、末尾「注記/詩集『神秘的な時代の詩』は、ここに掲載された作品のほかに、すでに思潮社版『現代詩文庫14・吉岡実詩集』に収められている「マクロコスモス」「フォーク・ソング」「夏から秋まで」「立体」および、現代詩手帖に発表された「わが馬ニコルスの思い出」などを含み、湯川書房より刊行される予定である。」

ものの成熟について
ひとは考えるべきだ!
桃が籠のなかで
甘いビラン状になるとき
老人司祭の死の舌が必要か?
ひとりの男と女の恋〔ナシ→は〕〔改行→追込〕
暁の熱い舟をつくり
そこでももいろの花火をかぶる
それらはきっと
すすまず浮かばず
聖なる母の毛のかたまり〔をすべる→の間をさまよう〕
星も輝かない
ももいろの氷の世界〔ナシ→にとじこめられる〕
ももいろの中年〔ナシ→の鳥〕
ゆがんだ弓なりの
やがて美しい五月が来るだろう
緑の布の上に
両側から吊〔ナシ→る〕される
なよなよとした双曲線の乳房
〔青空の孔から→夕日のなかの〕
〔ああなやましく→なやましい頭韻〕
〔想起せよ→トル〕
〔ナシ→その〕花模様の〔一角獣→花に〕
水をたらす
ビニールの漏斗で
〔ナシ→ひとは老衰すべきだ!〕
〔ナシ→錫の皿を廻し〕
〔ナシ→もろもろの〕ももいろの電話機の声
それから深夜
それから〔レモン→擬似果実〕
それから涙
暗い靴下をはいて
さびしい少年が来るんだ!
遠景の円柱を廻って
包帯のなかの処女性を
求めて〔・・・・・→……〕

〔※スワンベルグ→トル〕


序詩(未刊詩篇・13)

初出は寺田澄史作品集《がれうた航海記――The Verses of the St. Scarabeus》(俳句評論社刊)1969年5月15日、八〜九ページ、本文9ポ1段組1行アキ、3行。

うんすんかるたを想起させる

和洋折衷の精神と色彩をもつ

微小にして壮大な浪漫の世界


序詩(未刊詩篇・14)

初出は志摩聰句帖《白鳥幻想》(俳句評論社刊)1969年6月1日、八ページ、本文9ポ四分アキ1段組、2行。初出は対向の九ページにイラスト。「飾画:大沢一佐志」。

白地へ白く白鳥類は帰る

ありあけの美しき紫肉祭


絵のなかの女(未刊詩篇・15)

初出は《別冊一枚の繪》(一枚の繪発行)1981年10月(4号)〈花鳥風月の世界――新作/洋画・日本画選〉の〈第四章 月〉一八六ページ、本文12級1段組、18行。初出註記「本誌のための書き下ろし/●よしおか みのる(一九一九― )東京 詩人 H氏賞 高見順賞 戦後詩の芸術至上主義的な詩の不気味な魅力をたたえる。シュールレアリスムの絵画の美しさに近い面白さのある一篇。」(無署名)、初出は詩篇の上部に「弦田英太郎 青い首飾り 6号 油絵」がカラーで掲載されている。

《別冊一枚の繪》第4号〈花鳥風月の世界――新作/洋画・日本画選〉(一枚の繪、1981年10月1日)掲載の吉岡実の未刊詩篇〈絵のなかの女〉のページ
《別冊一枚の繪》第4号〈花鳥風月の世界――新作/洋画・日本画選〉(一枚の繪、1981年10月1日)掲載の吉岡実の未刊詩篇〈絵のなかの女〉のページ

「かげろうは消え
黄蜂はかえって行く」
野の丈なす草むら
そこでひとりの女が腰をひねった

地母神
イナンナの妹のかくしどころの闇から
蒼白なる魚のように
「賢者」や「愚者」がうみおとされた
「間接的(空間)世界」
にがり[、、、]や泡で形成されつつある

夏もたけて
「鳥が絵のなかの鳥」でありえても
「女が絵のなかの女」であるとはかぎらない
テーブルの端にローソクを燃やし
ドリアンを食べる女を抱く
荒らぶる魂の男は淋しい
庭の石床の上をはいまわりつつ
「ねずみ花火は消え……」


白狐(未刊詩篇・16)

初出は《現代詩手帖》(思潮社発行)1984年6月号(27巻6号)の〈特集・詩の未来へ〉三〇〜三二ページ、本文9ポ23行1段組、42行。

いなりの屋根を降りる
          われらは無を漂ってはいない
          血のかわりに言葉を発する
金屑がとぶ
     バンソウコウをすべての
抽象物に貼る
      何の目的で人は生きるか
      バラ色の水にうかぶネズミの死骸へ問え
喩の〔敍→叙〕述を替える
        ザクロの外側では
        老人から子供までの笑い声
蚊帳を吊った川の洲へ
          われらは渡る
穀物を刈るために
        もしくは
領巾ふす蛇の魂をしずめに
            燈火をかかげた
頭上へ絵画の枠をつくる
           鋸に挽かれる十本の杉
           死ぬ時に書く十行の詩
足をそろえて冷たい母
          白狐
          それは呼ばれた
          ムシロのざらざらした世界へ
思った思おうとした
         あまさかさまの日々
将棋盤の上で
      美しい相のやまとは昏れよ
のどかに
蜂をリンネルで
包む学者を見たことがある
            われら人生派は今も
自然を過して
      意味をつくる
商人は好きな葛湯をすすり
            夏の午後は入浴す
見えるさわれる
開かれる事物はどこへ
          こんかい
          コン・クワイ
                われらの奏でる嬉遊曲
姉妹を水門の上に立たせる

*「現代詩手帖」二十五周年記念号に是非とも作品を寄せよ、との小田久郎氏の要請をこばみがたく、十余年前の自動記述的な草稿に、若干の手を加え、『薬玉』の詩篇と同じ形態をととのえ、ここに発表する。     五月九日


亜麻(未刊詩篇・17)

初出は《文藝春秋》(文藝春秋発行)1986年5月号(64巻5号)八九ページ、本文8ポ13行1段組(コラム)、10行。

「赤と緑の線で出来た
          溝の中に放りこまれている」
男と女
   「メリーはジョンを愛している
    ジョンはメリーを愛している」
                  けれど内側は覗けない
絵画や音楽のように
         男と女は宗教的な祭儀を行う
「一つの丘みたいなもの」
            亜麻は風になびくほど成長する


休息(未刊詩篇・18)

初出は《現代詩手帖》(思潮社発行)1987年9月号(30巻9号)の〈澁澤龍彦追悼〉一四〜一五ページ、本文9ポ23行1段組、38行。

隣家の主婦がいそいそと
           〔思考の腐蝕する穴〕
円天井のアトリエに
         食べ物を届けに訪れる
「ゴムの浮袋のような
          寝台のうえで
パオロ氏は眠っている」
           この画家の視線はいずこへ
描きかけの画布を覗く
          「意味のとぎれる
       境界線」
硝煙のなかで
      「同じ側の脚を二本
       いっぺんに持ちあげている」
負傷した馬が見えた
         〔透視図法〕
燃える樹木
     傾く塔
ここでは遠近法を無視せよ
            死んだ兵士の靴の底の
            星形の鋲が迫って来る
「死体は仮の消滅で
         風景に似ている」
草はぼうぼう繁茂し
         水はこんこんと湧き出る
                    日々の運行
寝食を忘れるパオロ氏の
           「あの眼は
                どんなものの上にも
                止まることは許されない」
        〔イデアの世界〕
「女を夢みる者は
        馬を夢みることはないだろう」
少女のすべすべした
         「からだの表面は
                 未完の竹籠」
秋の過剰なる
      光線を宿している

              *澁澤龍彦と土方巽の言葉を引用している〔ナシ→。〕


永遠の昼寝(未刊詩篇・19)

初出は《永遠の旅人 西脇順三郎 詩・絵画・その周辺》(新潟市美術館刊)1989年4月1日、〈西脇順三郎賛歌〉一三一ページ、本文10ポ2段組、25行。自筆詩稿が《永遠の旅人 西脇順三郎 詩・絵画・その周辺》展(新潟市美術館、1989年4月1日〜5月14日)に展示された。

コオロギが鳴いて
        (宇宙の淋しさを
  告げ始める)
        秋の日の野原を行く
わたしは旅人
      (茶室的な岩から出る
 泉を飲む)
      心の淋しい時は
意識の流れに沿って
         漂泊するんだ
(非常な美人の医師が来る)
             赤と白の
ホウセンカの咲く
        ここは故里かも知れない
聖賢の書を読み
       わたしは思索にふける
(いかにして
      死を諦める
           ことができるか)
旅籠屋のつめたい畳で
          昼寝をしたようだ
(誰かがわたしの
        頭のうえを
             杏の実をもって
        たたいた)


雲井(未刊詩篇・20)

初出は《鷹》(鷹俳句会発行)1989年10月号(26巻10号)四六〜四九ページ、本文五号14行1段組、3節47行。カット:内田克巳。

1

(とろとろと眠りこむ
          〔牧神〕ではなく)
森の沼のほとりで
        (捕虫網をかざしてゆく
長い髪の寛衣の少女)
          を見かけたような気がする
わたしは灌木の間を
         〔雨後の茸[くさびら]〕を探しまわった
(明暗の境いを越え)
          さまよいつづける
(樹木の霊や
      鳥獣の魂)
           どんなものの上にも
止まることは許されない
           〔イデアの世界〕
わたしはなぜか思う
         (書かれた
    〔言葉〕は
         〔骨〕のように残るだろうか?)
手の届かぬ高みに
        〔月輪〕のように
                〔かたつむり〕がいる

2

(支那人は猫の眼で
         時間を読む)
狂える隠者の詩句を
         わたしはくちずさむ
波に洗われる
      海鳥の足跡
           死者の〔泥履[どろぐつ]〕
       紅い糸屑
今の世の〔空〕の
        〔透視図法〕を視よ
〔雲井〕に懸かる
        (虹もまた炭化する)

3

(しずこころなく散る)
           〔黄葉〕や〔籾殻〕
    そして〔記号〕
           ここは〔沙庭[さにわ]〕かもしれない
(燃えたり 凍ったり)
           する〔星辰〕の下で
〔煮果物[コンポート]〕を食べながら
           (蓮のつぼみ
     壺のすぼみ)
           を呪文のように唱えている
(その〔少女〕はまだ
          完全に〔地上〕に
降り立っていない)

             *瀧口修造そのほかの章句を引用している。


沙庭(未刊詩篇・21)

初出は《文學界》(文藝春秋発行)1990年1月号(44巻1号)九ページ、本文9ポ22行1段組(コラム〈扉の詩〉)、20行。

灯明のともる
      〔白地[あからさま]〕の座敷で
巫女のように
      〔紙衣[かみぎぬ]〕を着て姉はつぶやく
(火ねずみの
      かわごろもがほしい)
祖父母は
    染物用の大樽の向う側へ
〔地蔵[かくれたもの]〕
    として祀られた
離れ家で父は〔屯食[おにぎり]〕をほおばり
    母は〔毛糸玉〕に歯を立てる
(いつだって
      人間の形を所有したこと
のない家系?)
       ぼくと妹は掃除を了えて炬燵にいる
藁火のにおい
物の倒れる音
      (淡雪を頭にのせ〔神様〕が
家のなかに入って来る)


付録:吉岡実未発表詩篇本文校異

吉岡実は1990年5月31日、入院先の病院で亡くなった。歿後、最晩年に浄書したとみられる〈日歴(一九四八年・夏暦)〉が《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》(書肆山田、1996年11月30日)に発表されたが、それ以前も、それ以降も未発表の詩篇が活字化されることはなかった。私は《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)巻末の〈吉岡実資料〉作成のために思潮社の依頼を受け、吉岡実夫人陽子さんから借覧した関連資料を調査するなかで、吉岡実自筆の草稿から2篇の未発表詩を発見した。〈寒燈〉と〈ぽーる・くれーの歌〈又は雪のカンバス〉〉がそれである。以下に、〈吉岡実未刊詩篇本文校異〉と同じ体裁に整えて2篇を掲げる。さらに、吉岡実の創作とは見なさなかったため番外的な扱いになるが、北園克衛詩集《固い卵》の詩句の引用だけから成る〈詩人の白き肖像〉を補遺詩篇として掲げ、3篇を本稿の付録とする。吉岡の生前に刊行された単行詩集収録の詩篇262篇、未刊詩篇21篇、未発表詩篇2篇――以上が今日までに知られる吉岡実の「全詩篇」である。総数285篇。吉岡実詩の金字塔である《吉岡実全詩集》は、そのうち単行詩集収録詩篇のすべてと未刊詩篇15篇の計277篇を収録している。未発表詩篇(および補遺詩篇)に■印を付して、目次の体裁で掲げる。

未発表詩篇 1949(および補遺詩篇)

寒燈(未発表詩篇・1)
ぽーる・くれーの歌〈又は雪のカンバス〉(未発表詩篇・2)
詩人の白き肖像(補遺詩篇・1)


なお、未発表詩篇の本文〔 〕内は原稿上の手入れをそのまま起こした結果、衍字がある。

………………………………………………………………………………

寒燈(未発表詩篇・1)

B5判ほどのノートのようなものが裂かれて、この紙葉だけになっていたと記憶する。吉岡実自筆。署名なし。11行(手入れにより10行)。1949年9月20日脱稿と見られる。第八詩句「黄なびた蛙のあしはたれさがり」が〈風景〉(B・10)に流用された。詩篇全体に大きく「×」が付されている。誰ひとり詩を語らう友もない状態で詩作を試みた吉岡は、〈寒燈〉の写しを京都の青山雅美に送っている。戦時下の満洲で互いに詩人と画家と名乗りあって以来の旧友に。

吉岡実自筆の詩稿〈寒燈〉(1949年9月20日脱稿か)〔モノクロコピー〕
吉岡実自筆の詩稿〈寒燈〉(1949年9月20日脱稿か)〔モノクロコピー〕

古風な灯の下で
魚の鱗をたんねんにめくり
密封された女の心臓をさぐ〔つてゐ→る〕る
〔金銀の粉のただよふ夕べ→トル〕 〔終演の刻→トル〕
わたしはむちゆうで
なまめかしい傷ぐちへふかく沈む
月をつかんでしまふ
黄なびた蛙のあしはたれさがり
女の心臓の一帯には
もはや冬枯の草がしげり
折れかさな〔つてゐる→つてゐた〕

 〈二四、九、二十〉
 丸中数字で「28」 〔薄く〕丸中数字で「45」
 (雅美へ二四、十、二十送る)
 丸中数字で「十五」


ぽーる・くれーの歌〈又は雪のカンバス〉(未発表詩篇・2)

用紙は〈寒燈〉に同じ。吉岡実自筆。1949年9月23日脱稿と見られる。20行。冒頭に晩年の筆跡で「吉岡実」と署名がある。

吉岡実自筆の詩稿〈ぽーる・くれーの歌〈又は雪のカンバス〉〉(1949年9月23日脱稿か)〔モノクロコピー〕
吉岡実自筆の詩稿〈ぽーる・くれーの歌〈又は雪のカンバス〉〉(1949年9月23日脱稿か)〔モノクロコピー〕

この眠りの雪の地方にも
きんぽうげの春がきたやうな気配
春といふより猫の毛のしつとりした秋だ
澄んだ空から何もおちてこないひとところ
ひよろひよろのびる蔓があり
朝顔のやうな鳥が卵の萼をつけたまんま
こつそり咲いてしまつた
花のやうに〔わびし→明る〕い鳥
鳥のやうに鳴かない花
どつちがどつちでもかぎりなくさびしい
風があるのかないのか
光があるのかないのか
どこにもよけいないきものがゐないので
さつぱりわからない
だけどポール・クレーの瞳だけが
すつぽりとこのしづかなものうい風景を
収めてとじてゐる
雪のしずくのしきりにたれてゐる
その外側はまだ薄あをい
ゆふぐれだ

 〈二四、九、二三〉
 〔薄く〕丸中数字で「46」 丸中数字で「29」
 丸中数字で「十六」



詩人の白き肖像(補遺詩篇・1)

初出は吉岡が《北園克衛全詩集》(沖積舎、1983年4月3日)の栞に寄せた〈断章三つと一篇の詩〉から。本文11級31字詰24行2段組、33行。〈詩人の白き肖像〉は全篇が北園克衛詩集《固い卵》(文芸汎論社、1941年4月10日)の引用から成る。吉岡は「詩集《固い卵》に収められた二十五篇中の十六篇の詩から、一行から四行ほどの章句を、抽出して綴り合せたものである。いってみれば、わたしの内なる(北園克衞像)である」(前掲栞、九ページ)と書いている。原文である《固い卵》(正字旧かな使用)の詩句と校合し(〔吉岡詩←北園詩〕)、数字の後に引用元の北園詩篇の標題を補記した。参考までに、《固い卵》収録詩篇の標題を掲載順に追込で掲げる。なお〈 〉で括った詩篇は吉岡が〈詩人の白き肖像〉に引いた作品を表す。
〈悪い球根〉、〈アコイテスの歌〉、〈透明なグロテスク〉、緑のアクシヨン、Uボオトの線、硝子のコイル、〈インクの蛇〉、アスピリンの鳩、明るいシヤボン、〈白いドクトリン〉、〈一直線の頭〉、朝のピナクル、〈午前の肖像〉、固いパルク、〈ヒヤシンスの季節〉、新しい土地、〈半透明のカスケツト〉、溶ける貝殻、〈明るいドリアン〉、〈鉛のラケツト〉、〈泥のブロオチ〉、〈生きたキヤンドル〉、〈鉛筆の生命〉、〈休暇のバガテル〉、〈透明なオブヂエ〉


1 〔〈インクの蛇〉〕
雲雀の鳴いてゐる川のそばに
少年達は笛を吹き
やがて怠けて水の中に頭を漬ける

2 〔〈白いドクトリン〉〕
僕の影が葡萄の樹のやうにくねり

3 〔〈一直線の頭〉〕
南瓜畑の道をいそいでくる
町に出て
水を撒いた石疊の上をあるき

4 〔〈休暇のバガテル〉〕
ねぢれた椅子にもたれ
パインア〔ッ←ツ〕プルを〔食←喰〕ひ

5 〔〈鉛筆の生命〉〕
あ ここには
最早なにもない

6 〔〈午前の肖像〉〕
古典に近い
釦の〔よ←や〕うな人よ
水滴の
思ひとともに

7 〔〈透明なオブヂエ〉〕
ペンキの横の
ラケ〔ッ←ツ〕ト
あるひはトランク

8 〔〈ヒヤシンスの季節〉〕
〔涼←凉〕しい眼鏡をかけ
朝のミルクを飲み

9 〔〈悪い球根〉〕
枯れた柳の下の錆びた自〔転←動〕車にもたれた

10 〔〈半透明のカスケツト〉〕
眉の細い友よ

11 〔〈明るいドリアン〉〕
胡桃の皮を剥ぐ娘らの頬と
豌豆を浸すとき

12 〔〈生きたキヤンドル〉〕
風化する貝の上を

13 〔〈鉛のラケツト〉〕
肥えた思考は進まず

14 〔〈泥のブロオチ〉〕
思考の表面がキ〔ャ←ヤ〕ベツのやうに縮れる

15 〔〈透明なグロテスク〉〕
それは充分に退屈である

16 〔〈白いドクトリン〉〕
いきなり電球に墨を塗る

17 〔〈アコイテスの歌〉〕
この詩は亀のやうに心を暗くした
僕は亀の足の形をした匙で砂糖の重さを量り
同時に神の重さをも量〔っ←つ〕てゐた


吉岡実と病気あるいは吉岡実の病気(2017年10月31日)

吉岡実と病気あるいは吉岡実の病気について考察してみたい。まず、「病気」ならびにその周辺が吉岡実詩にどう描かれているか、全詩集に登場する順で見ていこう。いずれも各詩篇から該当する詩句を抜いたものである。

患者は白い窓掛に指紋を忘れ
朝の水銀にいのちを計られる(〈病室〉@・18)

第一詩集《昏睡季節》(1940)では、吉岡固有の声というよりは、左川ちかの声色で歌っている、というふうにきこえる。

白い橋で 病める女の あしうらに
かくされた 一枚の骨牌を やぶき
羊をつれて 私は秋の鏡を
さまよい 霧の隙間に 木曜日の
靴下を吊れば かなしみは
とおく 林檎のなかに忘れた(〈相聞歌〉A・11)

第二詩集《液体》(1941)では、秋の冷気を漂わせる息の長い調子を展開していて、《昏睡季節》とは別人の感がある。

ぼくは病気になりきり 毛布の下でえびの真似をしている(〈冬の絵〉C・6)

四人の僧侶
一人は枯木の地に千人のかくし児を産んだ
一人は塩と月のない海に千人のかくし児を死なせた
一人は蛇とぶどうの絡まる秤の上で
死せる者千人の足生ける者千人の眼の衡量の等しいのに驚く
一人は死んでいてなお病気(〈僧侶〉C・8)

らっきょうを噛る それがぼくの好みの時だ 病棟の毛布の深いひだに挟まれ ぼくは忍耐づよく待つ 治癒でなく死でなく 物の消耗の輝きを(〈回復〉C・12)

はげしく見開かれた馬の眼の膜を通じ
赤目の小児・崩れた土の家・楊柳の緑で包まれた柩
黄色い砂の竜巻を一瞥し
支那の男は病患の歴史を憎む(〈苦力〉C・13)

すべての女性の子宮を叩く
兵士の半分はやわらかく半分は病気で固まる(〈人質〉C・17)

察するところ女は人を殺してきたらしい
もし病弱な夫でなければ
じゃがいもの麻袋をかるがる担ぐ情夫(〈感傷〉C・18)

死児の発育と病気について
すべての医者は沈黙した(〈死児〉C・19)

商人の老獪な算術が病気をつくる(同前)

死児の病気の経過は
食物と父の怯懦の関係で
悪化の一途をたどり
最後は霧の硝煙で消える(同前)

第四詩集《僧侶》(1958)では、「ぼく」の「病気」はほとんど「孤独」と同義語である。一方で、僧侶や死児にとっては、死の底にあるさらに深い、さてなんと言えばよいのだろう、災厄のごとき状態を呈している。

さびしい裸の幼児とペリカンを
老人が連れている
病人の王者として死ぬ時のため
肉の徳性と心の孤立化を確認する(〈老人頌〉D・1)

ともあれぼくには別のことが気がかりだ たまたま彼女たちが病気になった場合だ(〈首長族の病気〉D・11)

女がそこにひとりいる
乳房の下半分を
太藺や灯心草と同じように
沼へ沈め
陸地の動物のあらゆる嘴や蹄から
女のやさしい病気をかくして
微小なえびのひげに触れている(〈沼・秋の絵〉D・21)

犯行者の持つ大きな模様 その鮮明な赤や黒の縞がとぐろまく地図の上を 向き合った人 向き合った動物 笑えば恐しく長い歯を現わす 外部から把えられた肺のなかの病気(〈修正と省略〉D・22)

第五詩集《紡錘形》(1962)では、「病気」はとりわけ女たちに抱え込まれた「実存」の別名ではなかろうか。

半病人の少女の支那服のすそから
がやき現われる血の石(〈珈琲〉E・3)

わたしがいま描く画面とはなに?
生き方とは関係なく
運転手のくびを絞める
ひとりの少年の金メッキの脱腸帯へ
接近する
それは病気のなかでそだつ
野生の桃(〈春のオーロラ〉E・10)

凍る都会の学校で
孔雀の母をころして
ひとりの少女が歩いてくる
《柳よ泣いて》を歌いながら
見える美しい止血器
病熱そのもの(同前)

自然な状態で
ぼくの絵を見ませんか?
病気の子供の首から下のない
汎性愛的な夜のなかの
日の出を
ブルーの空がつつむ(〈恋する絵〉E・15)

第六詩集《静かな家》(1968)では、「病気」は画布を充たす「大気」のごとき存在である。

それはたくさんの病人の夢を研究しなけりゃならん
〈退却してゆく臓器や血の出る肛門〉
わしも医者だから抒情詩の一篇や二篇は暗誦できる
今宵 生き損じの一人の老婆も無事に死んだし

かれこれテニス試合の時刻がくる
カメラと持てるだけの物を持って森まで行く
まっ白い弾むボールを追究する 悪寒するわしが見えるか
むきあった男女の間に生える カリフラワー 粉

この世に痛むものがはたしてあるか
わしが診察するのは鏡の中の患者の患部だけ
手も汚れず 悪臭もなく
でも疲れるんだ 鏡の表面にとどまるオレンジのように

〔……〕

血豆と乳房「それはただちに切開する」
それが終ったら力のかぎりあらゆる岩地を掘りかえせよ
何かが出る 何かに成るものが出る
そのときは看護婦を呼んで包帯をぐるぐる巻かせる

〔……〕

しかるべく手術をせん
しかるべく病巣なきときは
しかるべく印をつけ
しかるべく肉体を罰せん(〈『アリス』狩り〉G・12)

わたしは病気がち(〈田園〉G・14)

たしかムンクの絵の主題に
〈病める少女〉
というのがある(〈白夜〉G・23)

「罪深い魚は泳ぐ方角をまちがえている」
これは病人のうわごとだ(〈ゾンネンシュターンの船〉G・24)

第八詩集《サフラン摘み》(1976)では、「病気」は(偽の)自伝の一部に組みこまれている。

ぼくが半病人のひとりの少女を救うとき
洪水をながれる花と動物の頭
よろよろのぼる稲妻を見る(〈塩と藻の岸べで〉I・9)

第一〇詩集《ポール・クレーの食卓》(1980)で、「ぼく」は再び半病人の少女とまみえる。おそらくは、暗いオンドルのかげで老いた父に粟粥をつくっていた黒衣の少女と。

   祖父は眼をやみ
          祖母は膣をやむ(〈甘露〉J・14)

(青いカケスに肺病を負わせる)(同前)

第一一詩集《薬玉》(1983)で、祖父が陰茎ではなく眼を病んでいるのは象徴的だ。また「青いカケスに肺病を負わせる」は、《薬玉》の通奏低音ともいえるフレイザー(永橋卓介訳)《金枝篇》からの引用である。

人体の冬/燠炭のような病気の男が/足もとの柄杓で水をかけている(〈聖あんま断腸詩篇〉K・12)

第一二詩集《ムーンドロップ》(1988)では、「病気」は永遠の相の下、あたり一帯に蔓延しているようだ。

わたしはいまだかつて宣教師が祈りをあげているのも
土民の病人の看護する姿もみとめない
彼も一度は心をこめて祈る時がくる
みずからが突然の死にくびられる時(〈波よ永遠に止れ〉未刊詩篇・10)

砂漠の年代記に記載されるべき日
わたしたちは出発する
門出を祝福する数十枚の支那の青銅銭が空へまかれた
わたしはらくだの背に乗りながら
コンパスを未知の方向へ確信のうちにのばす
宣教師は病気だといつわって去った(同前)

この吉岡実詩最長の未刊詩篇では、結末における「わたし」の瀕死の渇きを宣教師が先取りしていると見える。出発前に宣教師が逃亡したことで「わたし」が生き延びたとも、そのせいで死に瀕したともいえよう。

ここで視点を変えて、吉岡実〈〔自筆〕年譜〉(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984)に現れた病気の記載を拾ってみよう。なお、末尾の( )内に出典を書いたものは吉岡の随想からの引用で、〈〔自筆〕年譜〉の記載ではない。

 大正十二年 一九二三年 四歳
九月一日、関東大震災に遭遇する。紅蓮の空を父に背負われて見る。避難先で肺炎にかかり、九死に一生を得る。

[大正十三年 一九二四年 五歳]
それは関東大震災の翌年の秋のこと、五歳の私は麻疹にかかり、バラック建の小屋に独り寝ていた。外国からの救済物資の赤ゲットをかぶり、共働きの両親の帰りを待っていた。心細く上気した幼児にとって、眼の前の空地に茂る、コスモスの花がなによりの慰めであった。(《「死児」という絵〔増補版〕》の〈幼児期を憶う一句〉)

 大正十五(昭和元)年 一九二六年 七歳
本所明徳尋常小学校に入学。二、三年生頃まで着物を着ている。四年生の時肋膜炎を病み、一学期休学する。

[昭和四十二年 一九六七年 四十八歳]
四月二十日 午後、澄さんと椿山荘へ。全出版人大会で永年勤続者として表彰される。〔……〕筑摩書房に入社してから、明日で満十六年。病気もせずよくやってきたと思う。(《「死児」という絵〔増補版〕》の〈日記抄――一九六七〉)

 昭和四十五年 一九七〇年 五十一歳
新春、肩に激痛、九段坂病院へ通院はじまる。

[昭和五十年 一九七五年 五十六歳]
〔……〕さて、昨年〔一九七五年〕の春ごろ、私は胃腸を病んだ。うつうつとしているその時、ふと「腸の先づ古び行く揚雲雀」が心のなかに浮んだ。これは実感的名句だと改めて思った。(《耕衣百句》の〈覚書〉)

 昭和五十二年 一九七七年 五十八歳
夏は天候不順で雨降りつづく。岳父和田芳恵発病、自宅治療の末、川崎駅前の太田病院へ入院する。

 昭和五十四年 一九七九年 六十歳
〔……〕秋、歯治療のため雪下歯科へ通院はじまる。

 昭和五十五年 一九八〇年 六十一歳
〔……〕大雨の日、虎の門病院で診察を受ける。悪質の病気ではなく安堵する。

上には吉岡実の病の記載を抜き書きしたが、一点だけ、岳父和田芳恵の病の記載をまぜておいた。というのは、ほかでもない、他者の病状について吉岡が最も詳細に書いたのが〈月下美人――和田芳恵臨終記〉(初出は《群像》1977年12月号)だからである。和田臨終の前日の10月4日、吉岡は仕事で鎌倉の澁澤龍彦宅を訪れていた(同夜のことは澁澤の随筆〈天ぷら〉に詳しい)。夜9時過ぎ、吉岡は長原の和田芳恵宅に行った。「私はクッションの替りに、おやじさんの背に沿って寝た。そして肩や腰を撫でさするより仕方なかった」(《「死児」という絵〔増補版〕》、一七三〜一七四ページ)。そして「肉親だけに看とられて十月五日午前一時三十二分、病人は死んだ。作家和田芳恵は死んだ。〔……〕みんなで、おやじさん愛用の紺の浴衣を着せた。私は遺骸を持ち上げながら、博多帯をきゅっきゅっと巻いた。背中はまだぬるい温みがあった。爪先はつんと天を向いていた」(同、一七四ページ)。

1990年6月1日付の夕刊各紙の報道によれば、吉岡実は1990年5月31日午後9時4分、急性腎不全のため東京都目黒区の東京共済病院で死去した。71歳だった。急性腎不全は腎不全のひとつで、急性腎障害とも呼ばれる。「具体的には、尿素などの窒素生成物が血液中に蓄積する高尿素窒素血症を生じる病態で、急激な腎機能低下の結果、体液の水分と電解質バランスの恒常性維持ができなくなった状態である。症状は食欲不振、悪心、嘔吐。治療を行わない場合は痙攣、昏睡へと進行する」(Wikipedia)という。人は、自身がどのような最期を迎えるのか、正確なことは誰にもわからない。吉岡は折りにふれて日記をつけていたが、死につながった最晩年の闘病期には書きのこしていないようだ。高橋睦郎の〈吉岡実葬送私記〉には、吉岡の病状をめぐってほかのどの文章よりも詳しい内容が記されている。以下にその経過を摘して、行頭に○印を付け、行末( )内に日付を補記する。さらに、吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉の「一九九〇年(平成二年)七十一歳」の項から、行頭に◎印を付けて該当個所に配する。

○咽喉の不調をいっていたようだが、食欲も普通にあり、さほど気にも止めなかった。(おそらく1989年10月21日)

○十二月になって電話すると、咽喉の不調が耳に移ったとかで訪問は延期になった。(1989年12月)

○年が変わって電話で新年の挨拶がてら体調を問うと、あいかわらず食欲がないという返事だった。(1990年1月)

◎一月、国立劇場で正月公演の歌舞伎を観る。「文学界」一月号に詩「沙庭」を発表(最後の詩篇となる)。

○電話口に出た陽子夫人の話で、経過はあまりいいとはいえないようだった。通院している共済病院の正月休み中に耳の自覚症状が再発し、そのうち食物が嚥下できなくなり、見る見る痩せた。夜もよく眠れないふうで、しょっちゅう起き上がっている。自分からバスに乗って共済病院まで行くほか、近所の病院にも、鍼の施療所にも通っているが、病因はわからない、最近は起居のたびに深い咳が出る、という。(1990年2月上旬か)

○〔書肆山田の〕鈴木〔一民〕さんから電話があったのは十五日過ぎだったろうか。心臓、腹部CT、胸部レントゲン、胃カメラを診てもらったがすべて異常なし、なお、咳の原因を知るため、医師の紹介で肺の専門家のいる東邦大学医学部付属大橋病院にレントゲン写真を持参して診てもらったところ、肺尖症の初期と診断された、という。(1990年2月15日過ぎか)

○二月二十日頃には声がかすれ、共済病院で声帯麻痺と診断された。(1990年2月20日頃)

◎二月、会田綱雄死去。声帯麻痺のため声が嗄れ嚥下力も落ち食欲が細る。

◎〔二月〕二十八日、道玄坂百軒店の道頓堀劇場へ行く(長年親しんだストリップ・ショーの見納め)。

○二月末には体重がついに四〇キロを割った。原因を知るための検査を繰り返すが結果はシロで、このことがかえっていらだちを強め、眠れない夜が続いた。(1990年2月末)

◎三月、共済病院で内科の精密検査を受け結果は正常。折笠美秋死去。

◎四月十五日、自宅で誕生日を祝う。りぶるどるしおるの一冊として『うまやはし日記』書肆山田より刊行。鈴木一民、大泉史世、宇野邦一が来宅。差入れの料理とワインで祝杯。近所に住む吉増剛造から復活祭のチョコレートの玉子と誕生日おめでとう≠フメッセージが届く。足腰弱り体重三七・五キロの痛々しい七十一歳。一週間で体重二キロ増えるが不調。足の甲が亀のように浮腫む。

◎〔四月〕二十二日、雨の中渋谷駅前で見舞いの飯島耕一夫人と妻が会い入院を勧められる。

◎〔四月〕二十三日、共済病院で検査の結果、翌日入院。腎不全のため週三回の人工透析を受ける。二四時間体制で中心静脈の栄養点滴。『うまやはし日記』弧木洞版限定一〇〇部、書肆山田より刊行。

○〔……〕二十四日深夜だったか鈴木さんより電話あり、体重が急に一キロ増え足にむくみが出たので、陽子夫人と共済病院に行って入院を要請、いったん帰されたあと、血液検査の結果、逆に病院側から電話があって緊急入院させたとのこと。腎臓透析を続けつつ原因究明、ということらしい。鈴木さんと連絡をとりつつ、確率五〇パーセントという恢復を祈るほかない。(1990年4月24日か)

○月末の電話で、何が起こってもの覚悟を決める。(1990年4月末)

◎五月九日、結婚記念日。初めての輸血。大泉史世から贈られた銀のスプーンでゼリーひと口食べる。

○吉岡さんから対面をいい出したのは、その日、陽子夫人が医師に尋ねた結果を、腎臓は今後よくなることはなく、透析には生涯通わなければならない、と伝えた結果らしい。(1990年5月11日)

○たしかに痩せたが、目にも光があり血色もよく、その感想を率直に口にしたが、気休めに聞こえたかもしれない。一日置きの透析の翌日は比較的元気なのだ、と後で聞いた。(1990年5月12日)

◎〔五月〕二十五日、白血球六〇〇から二〇〇に減少し個室に移され面会謝絶。

○二十五日深夜だったか、鈴木さんからの電話で、白血球が突如激減し、無菌治療室に入るところを心理的影響を慮って個室に移した由。(1990年5月25日か)

○二十八日にも電話で最終的段階に来たことを確認する。(1990年5月28日)

◎〔五月〕三十日、妻の夜の付き添いが許される。重態。

○逝去の三十一日は、〔……〕八時半頃、自宅待機中の大泉さんを電話で捕まえたが、今晩じゅうは持ちそうだというので安心して、〔……〕吉岡さんの臨終は九時四分というから、〔……〕(1990年5月31日)

◎〔五月〕三十一日、午後九時四分、急性腎不全のため永眠。臨終には妻の他、居合わせた鈴木一民、妻の親友辻綾子、従妹太田朋子が立ち会った。

◎六月一日、自宅で仮通夜。

◎〔六月〕二日、巣鴨の医王山真性寺で本通夜。

◎〔六月〕三日、葬儀。町屋火葬場で茶毘に付された。(以上、《現代詩読本――特装版 吉岡実》思潮社、1991、二五一〜二五四ページ、《吉岡実全詩集》筑摩書房、1996、八一〇ページ)

多くの読者と同じように、私は新聞紙上で逝去が報じられるまで、吉岡の病気のことはまったく知らなかった。ただ、1989年12月20日、つまり亡くなる半年ほどまえ、喫茶店トップ・渋谷駅前店の入口すぐ右手の席で13時から14時20分まで一対一で面談したおり(それが吉岡さんと話した最後になってしまった)、体調が優れないにもかかわらず会ってくださったのに、恐縮したことを憶えている。あのとき、吉岡さんはなにかを予期していたのだろうか。――15時から自宅近くの歯医者〔雪下歯科?〕に行く予定で、耳は中目黒の〔東京共済〕病院で治療しており、だいぶ痩せた(2キロ?)とのこと。黒革のコートに太い畦のセーターという服装(〈吉岡実との談話(2)〉)――。もともと小柄だった吉岡さんは、さほど痩せたようには見えなかったが、鼻をぐずつかせていて、風邪っぽいようだった。それでも快活で、半年後に亡くなるとはまったく予想できなかった。逝去の報に、天が墜ちたように感じたものだ。その日から27年半(といえば、吉岡さんが筑摩書房に勤務した期間に相当する)が経とうとしている。

吉岡実(40代前半か)〔出典:NHK人間講座 ねじめ正一《言葉の力・詩の力》日本放送出版協会、2001年4月1日、一三五ページ〕
吉岡実(40代前半か)〔出典:NHK人間講座 ねじめ正一《言葉の力・詩の力》日本放送出版協会、2001年4月1日、一三五ページ〕


吉岡実と金子光晴(2017年9月30日)

吉岡実は初の随想集《「死児」という絵》(思潮社、1980)を増補して〔筑摩叢書〕に収める際、「X」に32篇を追加する一方で、元版の「W」までに収録した〈ひるめし〉〈兜子の一句〉〈会田綱雄『鹹湖』出版記念会記〉〈不逞純潔な詩人――金子光晴〉〈吉田一穂の詩〉の5篇を除いた。曰く「ついては、意にみたない五篇を省いた」(〈あとがき〉、《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、1988、三七〇ページ)。吉岡はまた「この書物は、〔菊→A5〕判十ポ〔三四二→三五〇〕頁・布装上製凾入なので、当然ながら、部数も少く、当時としては価額も高かったものである」(同前、三六九ページ)とも書いている。元版の担当編集者だった八木忠栄の話だと、当初から増刷は想定せず、初版の製作部数を1200〜1300部に設定したという。それもあってか、吉岡実の散文大全として刊行時点でのあらゆる文章を収録せんとしたものと思しい(実際には、未収録の文章も散見されるが)。上記の5篇は総じて短文で(〔筑摩叢書〕の組体裁だと〈兜子の一句〉が1ページで、長い〈吉田一穂の詩〉でも3ページ、他の3篇は2ページ)、元版のゆったりとした組体裁(10ポ39字詰15行組)ならともかく、〔増補版〕の詰んだ組体裁(13級44字詰19行組)だと、ことさら短く見えたのかもしれない。ちなみに元版本文の組指定は吉岡ではなく、八木さんの手になる。〈ひるめし〉は興味深い食べ物随想だが(何軒かの店は、UPUが神田小川町にあったころ、よく通ったものだ)、この手の文章は〔増補版〕になく、吉岡はこうした傾向を封印したかったのかもしれない。兜子に関しては、後に執筆した〈赤尾兜子秀吟抄〉が〔増補版〕に収録されたが、会田綱雄・金子光晴・吉田一穂の三詩人に関しては、他に替わるものがなく、単に省かれた形になった。今回はその〈不逞純潔な詩人〉を手掛かりにして、吉岡実と金子光晴について考えたい。

初出〈不逞純潔な詩人〉(《週刊読書人》1960年9月12日号)の切り抜き(吉岡家蔵のスクラップブックのコピー)
初出〈不逞純潔な詩人〉(《週刊読書人》1960年9月12日号)の切り抜き(吉岡家蔵のスクラップブックのコピー)

不逞純潔な詩人――金子光晴|吉岡実

 戦後刊行された詩集《蛾》によって、はじめて金子光晴を知ったぼくにとって、どうしてこの恐るべき詩人をうまく語れるだろうか。ぼくにも理解でき、共感をさそわれるのは、臆面もない女への執着だ。《蛾》は、女の嬌慢と不倫、その肉性の美と醜の追求に終始して、永らくぼくを魅蠱した。
 それから《非情》・《人間の悲劇》・《水勢》という戦後の作品を読みあさり、《鮫》は比較的最近よんだ。高村光太郎、萩原朔太郎にない西欧と東洋の交感をぼくなりに感じた。笑われるかも知れないが、金子光晴の詩をよむとき、浪費のすさまじさをおぼえる。女への浪費、金の浪費、時間の、物の――。かくもぜいたくな人生の浪費の輝きにぼくはめくるめく。
   *
 金子光晴をもっとも愛し、深い理解を示す三人の詩人の編集になるこの全集は、この罪科深い偉大な詩人の全貌を一つの絶景から見せてくれる。
 すなわち、年代順にゆけば、処女詩集《赤土の家》から第一巻がはじまるところを、あえて初期の最もすぐれた詩集《こがね蟲》を据えていることだ。ぼくもこの書ではじめて通読したのだが、まさしく《こがね蟲》のごとく、角度によって色彩が変る美しさにみちた詩集だ。ほかに《大腐爛頌》・《水の流浪》・《鱶沈む》・《路傍の愛人》・《老薔薇園》という貴重な詩集が完全なかたちで収められている。清岡卓行の解説(第一巻)は、その使命を越えて、みごとな詩人論といえよう。
   *
 金子光晴は近ごろ、折にふれ小説への憧憬をもらしているが、《老薔薇園》などをみると、わかる気がする。人間的には謎と伝説にみち、詩人としては不逞純潔な金子光晴の全集が遅まきながら刊行されたのである。(《「死児」という絵》、三〇四〜三〇五ページ)

同文の初出は《週刊読書人》1960年9月12日号の書評〈金子光晴全集 全四巻〉。ここで第1巻刊行時の同全集の概要を見ておこう。というのも、同書刊行半年後の1961年1月、版元である書肆ユリイカの伊達得夫が亡くなったため、第2巻以降は伊達の盟友、森谷均の昭森社から刊行され、当初企画の4巻本の「詩全集」に、第5巻の散文集を加えた5巻本全集となったためだ(初刷は第1巻から第4巻までが800部、第5巻が1000部)。初出の吉岡の書評のあとには、〈金子光晴詩集〔ママ〕・全四巻〉として、次のようにある。 「編集―秋山清・安東次男・清岡卓行◇第一巻=「こがね虫」ほか(既刊)◇第二巻=「女たちへのエレジイ〔ママ〕」「落下傘」「鮫」「蛾」「鬼の児の唄」「非情」「水勢」「人間の悲劇」◇第三巻=「赤土の家」初期詩篇(未刊詩集)、初期評論集◇第四巻=後期評論集/各B6・平均四三〇頁・九〇〇円・書肆ユリイカ」。 《金子光晴全集〔全5巻〕》(書肆ユリイカ・昭森社、1960〜1971)の概要を同全集函の記載から引く。

・《金子光晴全集〔第1巻〕》(書肆ユリイカ、1960年7月15日)=こがね虫/大腐爛頌/水の流浪/鱶沈む/路傍の愛人/老薔薇園
・《同〔第2巻〕》(昭森社、1962年11月30日)=鮫/女たちへのエレジー/落下傘/鬼の児の唄
・《同〔第3巻〕》(同、1963年10月25日)=蛾/人間の悲劇/非情/水勢
・《同〔第4巻〕》(同、1964年10月20日)=屁のやうな唄/新詩集/落ちこぼれた詩をひろひあつめたもの/赤土の家/初期作品/日記一束
・《同〔第5巻〕》(同、1971年8月1日)=マレー蘭印紀行/芸術について/佐藤惣之助論/ある序曲/詩人/新憲法二十年を祝って/日本人の悲劇

《金子光晴全集〔全5巻〕》(第1巻:書肆ユリイカ・第2〜5巻:昭森社、1960年7月15日〜1971年8月1日)の函  《金子光晴全集第1巻》(書肆ユリイカ、1960年7月15日)の函と表紙
《金子光晴全集〔全5巻〕》(第1巻:書肆ユリイカ・第2〜5巻:昭森社、1960年7月15日〜1971年8月1日)の函(左)と同・第1巻の函と表紙(右)

吉岡がこの書評を執筆した背景には、「〔飯島耕一と伊原通夫の詩画集《ミクロコスモス》は〕書肆ユリイカにとっては、画期的出版であり、当時の出版界にも稀れな美しい本であった。部数は百部で、頒価千円という高価なもの故、その売れ行きを伊達得夫も飯島耕一も心配していた。二人は知己、友人にそれとなく買ってくれるように、すすめて歩いたらしい」(〈飯島耕一と出会う〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、二一五ページ)と同様の、義侠心のようなものがあったのではないか。それは、吉岡の書評よりも先に発表された田村隆一による第1巻の書評(《図書新聞》1960年8月27日号、原題〈金子光晴という詩人――カルメンを熱演したときのこと〉)と較べてみれば明らかだ。田村はそこで金子光晴との出会い(金子のカルメン、田村のドン・ホセ、金子の妻子が出演する8ミリ映画《カルメン》を撮影後、十日ほどして自身が肺病で入院した逸話)を悠悠と語って、「光晴というと、「実直」という言葉がわたしの頭にうかんでくる」(〈金子光晴という詩人〉、《詩と批評A》思潮社、1969年12月25日、二〇二ページ)と結論づけている。末尾はこうだ。「造本は近来の出色。実直に、真面目に生きようとするものは、すべて購うべし!」(同前)。これを読んでいるはずの吉岡は、田村文とかぶらないように、自身と金子詩集との関係、金子詩の印象を中心に手堅くまとめている。全集の内容に関しては、田村がほぼ第1巻目次の引きうつしなのに対して、吉岡の書評には、《蛾》(1948)、《非情》(1955)、《人間の悲劇》(1952)、《水勢》(1956)、《鮫》(1937)、さらには《赤土の家》(1919)、《こがね蟲》(1923)、《大腐爛頌》(1960)、《水の流浪》(1926)、《鱶沈む》(1927)、《路傍の愛人》(1960)、《老薔薇園》(1960)と、実に12冊も登場する。田村の書評も極端だったが、吉岡のそれもいささか総花的だったようだ。だが、「女の嬌慢と不倫、その肉性の美と醜の追求に終始して、永らくぼくを魅蠱した」詩集として《蛾》を読みなおすことは、《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)への新たなアプローチともなるだろう。

蛾 [|金子光晴

今宵かぎりの舞台といふので蛾は、その死顔を妖しく彩つた。
刑具のやうな重たい腕環、首かざりなど、はれの装ひをことごとく身にあつめて。

立ちあがらうとしてよろめく身の衰へ。のこつてゐる人気。ありあけ月。
おもひだすのは、扈従の日の憂きつとめと、密通の夜の人目をしのぶ辛労と。

蛾はきりきりと廻る。底のない闇の、冥府の鏡のなかにくるめくその姿。
悔と、嬌慢と、不倫の愛の、一時に花さく稀有なうつくしさ。

それこそ鬼どもが、死人の肉でかりにつくりあげた一瞬の蠱[まどはし]。
真空の美。フォースタ博士があの世からよびよせてみせたヘレーヌ姫のあで姿。

吉岡が金子について書いた文章はこの〈不逞純潔な詩人――金子光晴〉だけだが、その後、対談で二度、金子について語っている。以下に掲げよう。

金子光晴と西脇順三郎

吉岡 まあ金子光晴の晩年の詩は読んでないんでね。どうなんだろう。
飯島 いや、『六道』っていうのの断片だけどね、いいですよ。それに西脇さん。こないだ西脇さんのシリーズの第六巻で、新作が出てるでしょう、あれおもしろかったね。むさぼるように読んだもの。えらいもんだね、やっぱり。すぐに読みたくさせる力をもってる。それもそんなに力入れた詩じゃないでしょう、ただもう折々に書いた詩だけどね。このあいだ、那珂さんの『はかた』も貰ってすぐむさぼるように読んだけど、それと違った意味で西脇さんの近作ね……。
吉岡 近作って未発表作でしょ。雑誌に発表したもんより、あれがやっぱりいいね。そういう感じがしたな。
飯島 だれに頼まれたわけでもなくても、すぐ読む気になってね、読めるんだから、えらいもんだと思ったな。
吉岡 だけど、われわれはね、老人になって詩を書けるかどうか……どうだろうね。ぼくは書けないだろうと考える。ひとのことは分んないんだけど、まあ老年になって西脇さんとか金子さん、それから草野さんみたいに、タフで書いていくということは、ちょっとぼくなんかはできないんじゃないかという、ある諦観があるわけだ。というのは、もっとひねって言うと、まあ何十年書いちゃうとやっぱり自己模倣の域を出ないんではないかという怖れがぼくにはあるんだけど……。
飯島 それは西脇さんだって、いま書いてる詩は、ぜんぜん新しい詩じゃなくて、前に書いた詩と同じですよね、テーマから方法から。それでもいいっていうふうになるんでね。それは人によって違うんで、絶えず変貌していくタイプもある。まあ西脇さんは一回大変貌したけど、それ以後はそんな大変貌してないけど、おんなしことを書いてもいいっていう人もいるわけですよ。
吉岡 だから短歌と近くなるのかな。
飯島 それは散文だってそうよね。正宗白鳥の晩年の散文なんてのはおんなしことばっかり書いている、それでも毎回おもしろいわけ。
吉岡 そういう利点を備えられたら幸せね。
飯島 だから要するに歌なんだよな、白鳥の。月給の話を書いても、それから街でこのごろスカートが短くなったり長くなったりする話を書いても、それを何度も何度も、「中央公論」に書き、「読売新聞」に書きというふうにしてね、おんなじことを、それでも毎回読んで愉しいわけよ。そうなると散文じゃなくて歌だけどね。もっとも白鳥というのは、歌から遠く散文を書いた人だけど、晩年のものはあのそっけない散文が歌になってんだな。そうなると、そんなもう自己模倣なんていうのはさかしらな近代の考えであってね。
吉岡 あ、ほんと。(笑)じゃもう、そこでちょっと頭さげておこうかな。
飯島 自己模倣といっちゃっちゃいかんのですね。ピカソなんておんなじ絵ばっかり描いてる。十年も二十年もおんなじ女の顔描いてさ、全部がおもしろいってのはさ。
吉岡 わかったよ、それは。結局書くべき人は書いて、それで読者にゆだねるということだよ。
〔……〕(飯島耕一との対話〈詩的青春の光芒〉、《ユリイカ》1975年12月臨時増刊号〈作品総特集 現代詩の実験 1975〉、二一二〜二一四ページ)


物質的な言葉

〔……〕
吉岡 最近、散文で読んで感銘したのは金子光晴の自伝三部作。『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』ね。だけどそこでぼくが疑問を持ったのは、あれは非常に素晴しい自伝なんだけど、一回読めばわかるから、読み返しができないわけ。若いころから、金子光晴は小説を書きたがっていたらしいが、最後にはああいう自伝小説を書いた。残念だけれど、謎がない。
金井 そう言っちゃ何だけど、単純なんですよね、本当の意味で単純なわけ。
吉岡 所謂波瀾万丈の人生を鮮烈に描いた大した作品だとは思うけど、繰り返し読むかと言ったらぼくは読まないかも知れない。だからもっとね、金子光晴が想像力とフィクションをないまぜにした作品を書いてくれたら、何回も読んだんじゃないかということね。そこから、自分をひっくるめて言うと、ぼくなんかあんなに波瀾万丈じゃないし、単純な体験しかないので、自伝的なものを書いても繰り返し読んでもらえるような作品は出来ない。それならフィクションと現実をないまぜにして、変なものを書きたいと、そういうことも考えてるわけ。
金井 金子光晴の自伝というのも、波瀾万丈さに対する興味で読み続けていっちゃうものだし、こういうことをやったのかという物語的な部分に対する驚きというものですものね。だから極端に言っちゃえば、テレビとか新聞の記事を読むのと同じね。
吉岡 詩人は自伝を書いてはいけないんじゃないかと思ったりしている?
金井 でもそれは吉岡さんが書いたりする場合とまったく次元が違いますもの。
吉岡 だから西脇順三郎は自伝的なものを全然書いてない。自分は自伝を書くほど波瀾万丈ではない、非常に平凡であると言ってとうとう書かなかった。家族のことなんて皆無でしょ、あの人の文章には。だからわれわれの想像力を駆り立てる謎が、ひょっとしたらあるんだ。
 金子光晴だって、われわれが読み切っちゃったと思うのが僭越であって、読みとれない部分があると思うのね。ただ、作品化していく過程で相当フィクションをいれたほうが謎が出るんじゃないかと思う。
金井 それにちょっと鈍重な気がしませんか、金子光晴の自伝って。ありのままでさ。
吉岡 うん、素晴らしかったんだけど、なおかつそういうね……自分が散文を書く場合どうなんだということから引き比べてそういうこと思っちゃったのね。自分がどんなもの書けるかは皆目わからないことだけれど……。(金井美恵子との対談〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉、《現代詩手帖》1980年10月号〈特集=吉岡実〉、一〇二〜一〇三ページ)

飯島との対話は金子光晴が亡くなって半年後のもの。このとき吉岡は、金子の遺著《鳥は巣に 未完詩篇 六道》(角川書店、1975年9月30日)を読んでいない。飯島の金子詩への傾倒ぶりとは径庭があると言わねばならない。金井との対談は、吉岡が詩人の書く散文について思案していた時期だったようだ(吉岡自身、フィクションを交えた散文、すなわち小説への願望を語っていたことがある)。金子の自伝三部作(《どくろ杯》《ねむれ巴里》《西ひがし》)は《金子光晴全集〔第7巻〕》(中央公論社、1975年11月20日)のあと、1976年から77年にかけて中公文庫に入っているから、吉岡はこれで読んだのだろうか。私も《どくろ杯》《ねむれ巴里》は読んでいたので、二十数年ぶりに読みかえした(《西ひがし》は初めて読んだ)。金子の自伝には、言及されていない重要な事項も多いようだが、文章は総じて率直で、波瀾万丈の人生を叙すためにはこうした文体の功徳も大きかった。吉岡の指摘するとおり、繰りかえし繙読にたえるものかということになれば微妙で、私がもう一度読むとすればやはり二十数年後、内容をすっかり忘れたころに、ということになるだろうか。

〔付記〕
吉岡実は金子光晴との個人的な付き合いについて、なにも書きのこしていない。だが、西脇順三郎・金子光晴監修《詩の本〔全3巻〕》(筑摩書房、1967)の装丁を手がけているくらいだから、面識はあったに違いない(金子は〈T 詩の原理〉の巻頭に〈詩とは何か〉を執筆している)。また、証言はないが《定本 金子光晴全詩集》(筑摩書房、1967年6月30日)の装丁も吉岡だったかもしれない。原満三寿編〈〔金子光晴〕年譜〉の「昭和42年(1967)」には「11月20日、『若葉のうた』『定本金子光晴全詩集』の出版記念会(四谷〈主婦会館〉)開催。安東次男、松本亮、壺井繁治、秋山清、井沢淳、吉岡実、他、「あいなめ」同人などが出席」(原満三寿編《金子光晴〔人物書誌大系15〕》日外アソシエーツ、1986年10月9日、二四ページ)とあるし、同じ1967年には、12月15日付で献呈署名入りの《吉岡実詩集》(思潮社、1967)を金子に贈っている。これは、《詩の本》の最終回配本〈V 詩の鑑賞〉が12月15日の発行だから、出版社の社員として見本を監修者に渡すついでに、詩人として《吉岡実詩集》を献呈したと思しい。奇しくもこの年、金子光晴と吉岡実の全詩集が出揃ったわけだ。吉岡は、金子光晴逝去(1975年6月30日)の際には、自身が編集する《ちくま》77号(1975年9月)に会田綱雄の〈金子光晴先生(哀悼)〉を載せている。なお、金子光晴が吉岡実に言及した文章を私は知らない。

金子光晴に宛てた献呈署名入り《吉岡実詩集》(思潮社、1967)
金子光晴に宛てた献呈署名入り《吉岡実詩集》(思潮社、1967)〔出典:ほうろう青空バザール 2016年1月9日(土)& 10日(日)


〈冬の休暇〉と毛利武彦の馬の絵(2017年8月31日)

秋元幸人の〈吉岡実の《馬》の詩群〉は、〈吉岡実が《卵》を置く場所〉と並んで、屈指のモノグラフ《吉岡実アラベスク》(書肆山田、2002年5月31日)のなかでも出色の論考だが、私はそこで初めて毛利武彦(1920〜2010)の存在と毛利の馬の絵のことを知った。

〔……〕彼〔=吉岡実〕と《馬》との具体的な関係は、極めてスカトロジックなそれを基調としている。これは或いは新兵としての労役がもっぱらその方面に限られていたことに拠るからかも知れなくて、吉岡より一年後の一九四二年に近衛騎兵隊重機関銃部隊に入隊した過去を持ちながら、好んで馬を描きつづける画家毛利武彦もまた「馬の世話が大変で、馬の肛門まで手を入れて洗ってた」と述べたことが有る〔註=毛利武彦「タブローとしての日本画」一九八五年〕。戦後数十年を経てなお鮮やかなその経験は、毛利に在ってはいつかほろ苦い思い出と変じたものらしく、〔……〕(《吉岡実アラベスク》、二〇四ページ)

秋元は、引用末尾の省略部分で《毛利武彦画集》(求龍堂、1991年3月31日)の〈作品にふれて――作者覚書〉から作品〈30-馬と人〉〔1969年/224.0×151.8/麻紙,膠彩/第33回新制作協会展/箱根・芦ノ湖成川美術館蔵〕の覚書を引いてから、「軍馬の世話を任された兵士たちが後々までも忘れかねることの一つは、どうやら《糞尿まみれの藁》ということに集約されるようなのである」(同前)と続けている。博捜を極めた秋元の文献探索はここでも核心を突いており、私もまた上掲省略部分で秋元が引いた毛利による覚書を掲げないわけにはいかない。

騎兵隊のつらかった厩作業の寝藁の臭いが,不思議な懐かしさに変じていて,馬事公苑に写生に通いながら,ひそかに自分の戦争体験を反芻していた。(〈30-馬と人〉覚書、《毛利武彦画集》、二〇〇ページ)

秋元幸人が毛利武彦に言及したのは、《吉岡実アラベスク》で数えればこの八行だけだった。その本文と二つの註記に促されて毛利の画集で〈馬と人 1969年 150変〉を観て、私はすぐさま吉岡の詩篇〈冬の休暇〉(D・12、初出は《日本読書新聞》1960年3月7日号)を想起した。前後関係からいって、吉岡が毛利武彦の絵を観てから詩篇を書いたということはありえないし、毛利が吉岡実の詩を読んでいたということも、おそらくないだろう。だが、私はここに両者を並べて較べてみたいという誘惑に逆らうことができない。吉岡実の詩と毛利武彦の絵には、ともに馬のフォルム、馬の生命力に対する惜しみない讃嘆があるように思う。

毛利武彦の絵画〈馬と人 1969年 150変〉〔出典:《毛利武彦画集》求龍堂、1991年3月31日、五〇ページ〕
毛利武彦の絵画〈馬と人 1969年 150変〉〔出典:《毛利武彦画集》求龍堂、1991年3月31日、五〇ページ〕

毛利武彦の〈馬と人〉は不思議な画面構成をとっている。手前左方に、ほぼ横向きの黒い馬とその首に手をかけた同じく黒い人のシルエット。上段右方に、首を曲げた褐色の馬に跨る人とその右側に立つ人。やや見えにくいが、上段左角の黒いスペースには、右に頭を向けた青い馬の背に手を当てた人が左側に立っている。これら三組の馬と人が、それぞれ独立した画面ででもあるかのように、みながみな(馬も人も)裸身でたたずんでいる。三組を統括する単独の視点が画面の手前に設定できないのも、この絵を謎めいたものにしている。毛利の意図は、馬の三態を通じてすべての馬の姿を描くことにあったと言えようか。

秋元の論考〈吉岡実の《馬》の詩群〉で私がとりわけ注目するのは次の二箇所である。
「《馬》は、従って当然にも、吉岡実にとっては戦いを顕示する禍々しい生き物でもあった。このため、彼の詩に在っては、輓馬や荷馬或いはそれを操る者はしばしば強い死臭を帯び、それらの運搬するところのものは殺傷力を備えた物体、これを総じて静謐な日常を掻き乱す存在となることが多かった」(前掲書、二〇八ページ)。
「この一方で、吉岡は《馬》が本来備えている形態美に古来付与されてきた強靭で雄渾な生命力といったものにも注意を払うことを忘れていない。それは多く官能的な方向に敷衍され、時としてそれは、彼が必ずや愛誦していた筈の西東三鬼の名句「白馬を少女涜れて下りにけむ」の無意識の影響も遠く与ってか、女体の美そのものとも同一視されることがあった」(同前、二一一ページ)。
この、後者の言の後に秋元が引く吉岡実詩こそ〈冬の休暇〉である。原文は詩句を一字空けで追い込んでいく散文詩型だが、ここでは一字空けの処で詩句を改行して読んでみよう。原文にはあって失われたもの、それは詩句の混沌であり、次に掲げる改変型=行分け表記にあるのは時間の進行に伴う直截さである。

 そこでは灰色の馬と灰色でない馬とがすれちがう
 灰色の馬が牝らしく毛が長く垂れさがり
 別の馬は暗緑の牡なのだろうはげしく躍動する
 たがいのたてがみも尾も回転する毛の立体にまで高まって
 少女にはそれが見える
 完全な円のふちから
 ときどきはみ出るものがオレンジ色に光り
 中心はもう時間が経過したので黒い
 或晩にお父さんとお母さんがのぞかせた一角獣のように恐ろしく
 少女は自身の腿に熱を浴びる
 まだすれちがっている馬たち
 ピエロでない赤い帽子の男は
 少女が気づいた時から人ではなく
 だれもが持っている共犯のはにかみの心
 テントの底が深くなればなるほどゆっくり
 馬の方へちかづく
 命令するために非常に細長い棒をふりおろす
 電光もひきあげる街の看板の方へ
 今夜は充分泣けると少女は思う
 灰色の牝馬のすんなりした腹に異父弟が宿ったから
 このみじかい冬の休暇が終るとともに

「ピエロでない赤い帽子の男は 少女が気づいた時から人ではなく」というのは「灰色でない馬」=「暗緑の牡」を指すのだろうか。いずれにしても、終わりから二行めの「灰色の牝馬のすんなりした腹に異父弟が宿ったから」という詩句が曲者である。ここにいたって、吉岡の描いた人馬一体の交感図は完成をみる。「或晩にお父さんとお母さんがのぞかせた一角獣のように恐ろしく」は、遠く〈聖少女〉(F・10)の「紅顔の少女は大きな西瓜をまたぎ/あらゆる肉のなかにある/永遠の一角獣をさがすんだ!」を用意していよう。それが牽強付会でないことは、同詩の結末「言葉の次に/他人殺しの弟が生まれるよ!」で明らかだといえる。それにしても〈冬の休暇〉の骨格はみごとである。ここに、散文詩型において最高度の形をとっているそれに優るとも劣らない強力な傍証がある。Burton Watson編の英訳詩抄《Lilac Garden: Poems of Minoru Yoshioka》(Chicago Review Press、1976)のHiroaki Sato訳〈Winter Vacation〉(同書、六五ページ)である。

Winter Vacation | Minoru Yoshioka

There a horse which is gray and a horse which is not gray pass each other. The gray horse, which looks like a female, has long dangling hair, and the other horse, a dark green male perhaps, violently leaps and jumps. Both the manes and tails of the two horses become heightened to a rotating solid of hair, and the girl can see it. That which is occasionally forced out of the rim of the perfect circle gleams orange, and its center, because there has already been a lapse of time, is dark. It is as terrifying as the unicorn that one night father and mother gave a glimpse of, and the girl gets a splash of heat on her thighs. The horses are still passing each other. The man in a red cap, who is not Pierrot, is not a human being from the moment the girl noticed him, and the bashful heart of conspiracy that everyone has. The deeper the bottom of the tent becomes, the more slowly he goes near the horses. He swings down an extremely slender stick to give an order. Toward the town billboard to which even electric light withdraws. Tonight I can cry my heart out, the girl thinks. For a younger half brother has lodged in the svelte belly of the gray female horse. As this short winter vacation comes to an end.

これを読むと、吉岡がいかにこの詩を対位法的に展開しているかがわかる。《Lilac Garden》は、おもに《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968)掲載の詩篇を踏襲した選択だったが、同書に収められていない〈冬の休暇〉を佐藤紘彰(とバートン・ワトソン)が選んで訳載したことが納得できる佳篇である。毛利武彦もこの詩篇を歓んだのではあるまいか。


吉岡実と三島由紀夫(2017年7月31日)

澁澤龍彦は1970年11月25日の三島由紀夫自決直後に草した〈三島由紀夫氏を悼む〉(初出は《ユリイカ》1971年1月号、《偏愛的作家論》青土社、1972年6月10日、所収)でこう書いている。
「三島由紀夫氏は、何よりも戦後の日本の象徴的人物であったが、私にとっては、かけがえのない尊敬すべき先輩であり、友人であった。お付き合いをはじめたのは約十五年以前にさかのぼるが、私は自分の同世代者のなかに、このように優れた文学者を持ち得た幸福を一瞬も忘れたことはなかった。その作品を処女作から絶筆にいたるまで、すべて発表の時点で[、、、、、、]読んでいるという作家は、私にとって、三島氏を措いて他にいない。こういうことは、たまたま世代を同じくしなければあり得ないことである。私のささやかな魂の発展は、氏のそれと完全にパラレルであったと言える」(《澁澤龍彦全集〔第11巻〕》河出書房新社、1994年4月12日、一一九ページ)。
「すべて発表の時点で」の傍点は澁澤自身によるものだが、おそらくは吉岡実もその「処女作」と「絶筆」を読んでいるのではないか。吉岡は三島の処女短篇集《花ざかりの森》(七丈書院、1944年10月15日)刊行当時、一兵士として中国大陸にあったから「発表の時点で読んで」いないが、1945年11月に復員した三か月後には早くも同書を購っているのだ。「二月十五日(金曜日) 早春のような暖かさ。三島由紀夫《花ざかりの森》と短歌文学集《釋迢空編》を買う」(〈日記 一九四六年〉、《るしおる》6号、1990年5月31日、三〇ページ)。一方、自筆年譜の「昭和四十五年 一九七〇年 五十一歳」には「初冬、三島由紀夫の割腹死に衝撃を受ける」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984、二三三ページ)とあり、日記の「一九七〇年十一月二十五日」には「西脇順三郎先生と会田綱雄とラドリオで歓談の数刻。午後一時近く、駿河台下角の三茶書房のガラス戸の「三島由紀夫切腹、死亡!」との貼紙が眼を惹く。なんとなく胸苦しく、会社に戻ると、それは事実であり、愕然とする。夕刊で状況がわかった。楯の会の青年たちと、市ヶ谷の自衛隊へ乗り込み、刃傷したあと、三島由紀夫は切腹したという。しかも介錯を受け、首が斬り落されたとのこと故、いっそう衝撃を受けた。瞬時に「伝説の人」となってしまったから、もう会う機会は失われた。この夜は寝苦しく、明け方まで眠れなかった」(〈27 三島由紀夫の死〉、《土方巽頌》筑摩書房、1987、四五ページ)とその衝撃を記している。自決前年の九月、吉岡実はただ一度、三島由紀夫と対面しているのだ。《土方巽頌》の〈20 スペースカプセルの夕べ――奇妙な日のこと〉(初出〈奇妙な日のこと〉は《三好豊一郎詩集1946〜1971》栞、サンリオ、1975年2月15日)の前半はこうだ。

 一九六九年の九月二十四日は、私にとって忘れられない日になるかも知れない。雨の夕方だった。西脇順三郎、鍵谷幸信そして会田綱雄の三氏と須田町近くの牡丹へ行った。久しぶりで食べたシャモ料理だったが、私にはうまいとは思えなかった。おそらくからだの不調のせいだったろうか。寒い日で、赤々とした熾火の色と古風な座敷の雰囲気に、私はいくぶんか心がやすらいだ。かえりの薄暗い玄関に立つと、シャモの羽毛が幽かに漂っている。そして並べられた靴や雨傘にも羽毛が付着していた。私たちは雨の激しくなった外へ出た。
 淡路町の地下鉄入口前で三人と別れ、私は赤坂のスペースカプセルへ向った。土方巽と弟子たちの舞踏が見られるはずだ。まだ七時という時刻なのにこの界隈は真暗い小路と坂。一度だけ白石かずこの朗読を聞きにきたきりなので迷った。狭い地下へ入ると、天井全体が金属製の球体で蔽われ室内は冷たい光のなかにあった。二組ほどの男女の客と加藤郁乎が一人片隅で酒を飲んでいた。
 わたしたちの外に誰が呼ばれているのか、二人にもよくわからないので、妙に落着かないひとときだった。ショーが始まる少し前ごろから、客も来はじめる。三好豊一郎、松山俊太郎、種村季弘たちがきた。そして澁澤龍彦と恋人らしい女性が現われた。
 ろうそくの炎や鞭らしきものの影。芦川羊子を中心に女三人、男三人の黒ミサ風な奇異な踊りだ。しかしそれは、土方巽が少数の人間に顕示する暗黒的秘儀にくらべれば、ショー的でエロチックなダンスだ。畳ぐらいの大きさの真鍮板を自在に使って、激しい律動と音響のリズムにのって女の裸像を囲みこんだりするシーンはおもしろかった。柔かい肌と巨大な刃とも云える真鍮板の交錯は、観ている者を絶えずはらはらさせる。ああ肉体の硬さかな! 酒席の客はいささか興奮させられたことだろう。
 やがて終ると、土方巽がわたしたちの席へきた。さすがに疲れたので、私は早目に帰ろうとした時、一種のどよめきに似た雰囲気がつくられたようだ。三島由紀夫が一人の青年をつれて入ってきた。彼は旧知の澁澤龍彦や土方巽の席へ着いた。
 かねてから、三島由紀夫が私の詩をひそかに読んでいるということを、高橋睦郎から聞いていたので、いつの日か彼と会いたいものだと思っていた。この偶然は逃すべきでないと、私は帰ることをやめ自分の席へ戻り、三島由紀夫と初めて挨拶をかわした。酒と音楽のなかで、残念ながら親しく話合う情況ではなく、坐った位置も少しく遠かった。私は彼の闊達な表情を見ていた。二回日のショーが終ったのは十一時だろうか。三島由紀夫は礼をのべて去った。これがおたがいの最初で最後の出会いであった。(同前、三四〜三六ページ)

土方巽は三島由紀夫の長篇小説の題名を藉りた舞台作品〈禁色〉(1959)で実質的にデビューしているくらいだから、三島と親しかった。この夜の出会いも、土方巽が吉岡実を三島由紀夫に引きあわせたようなものだったと言えなくはない。かくして、吉岡の《土方巽頌》には三島由紀夫がたびたび登場する。

「舞踏ジュネ」の会〔一九六七年八月二八日〕から二カ月後に、笠井叡独舞公演「舞踏への招宴」が第一生命ホールで催された。私は初めて妻をつれて行った。招待席には常連のほか、瀧口修造と皮ジャンパー姿の三島由紀夫が見えた。(〈4 「変宮の人」〉、一一ページ)

 〈日記〉 一九七一年一月九日
 〔……〕土方巽と近くの喫茶店蘭で、舞踏、詩そして三島由紀夫のことなど、二時間も喋り合う。(〈29 アートヴィレッジにて〉、五一ページ)

 〈日記〉 一九七一年十月五日
 夕方、代々木八幡の青年劇場へ行く。笠井叡と「天使館」の舞踏の会。久しぶりで観る彼の踊りは素晴しかった。とくに帝国軍人の姿で日本刀をふりかざす一瞬、三島由紀夫を想起した。(〈31 秋水のように〉、五三ページ)

     3 「禁色」

「鶏が身悶えし、少年の手から羽を抜こうとする。白の海水パンツを着けた美少年の両脚は突っぱり、肘は強く胸側に緊められ、美貌は歪み、眼差は宙をさ迷っていた。緊張した背骨から流れ出る力が、突如、鳥を抱くあの心許なさ、やさしい愛を越え、手に狂暴な感情を走らせた。少年は後ろに退いた腰の股間に鶏をはさみ、身を沈めたのである。この行為の意味を決定的にしたのは、いつの間にか、少年の斜め後ろに現われた人物、ぴったり身に着いたグレイのズボン、半裸の男、そして、一部始終を見ていたその視線である。少年は見られたのだ。少年のなかで行為は禁忌となったのである。少年はぐったりとした鶏を置いて逃げようとした。舞台は突然、闇となり、少年の叫びと逃げる足音、無言のまま迫り追う男の息と足音が闇を揺すり、遠ざかった。」 (合田成男)(〈64 暗黒舞踏派宣言前後〉、一二二ページ)

     4 共演の少年

「褐色のドーランとオリーブ油を体に塗って、頭を剃り上げ、腰と足にぴたっとフィットした裾広の黒いジャージイのパンタロンで、『禁色』に土方さんは登場しました。そのパンタロンは当時のジャズを踊るときのコスチュームでもありました。音楽は土方さんご自身が横浜の私の家で、深夜に周りが静かになるのを見計って、性行為のクライマックスをうめき声や激しい呼吸音で録音したものでしたが、愛の言葉は『ジュテーム』とフランス語だったのです。私はとても不思議な思いで聞いておりました。ハーモニカのエンディングは静かなブルース調のメロディー(作曲、演奏安田収吾)で、後にフランス映画でも『墓に唾をかけろ』のハーモニカや『死刑台のエレベーター』のマイルス・ディヴィス、『運河』のモダン・ジャズ・クァルテットなどアメリカのジャズと結びついて流行りましたが、反抗、怖れ、ミステリー、そしてジャズ、『禁色』にはこれ等も全て含まれてあったように感じられるのです。」 (大野慶人)(同前、一二三ページ)

〈27 三島由紀夫の死〉で澁澤の三島由紀夫追悼文を引用(本稿の冒頭とは別の箇所)しているように、吉岡にとって三島由紀夫の自決がどれほどの衝撃だったか多言を要しない。事件当時、私は中学三年生だったが、なぜか新聞報道よりも当時のFM東京のラジオニュースが印象に残っている(ラジオではグランド・ファンク・レイルロードのライヴアルバムがかかっていたが、時代のBGMともなれば、同年4月にリリースされたマイルス・デイヴィス《ビッチェズ・ブリュー》だろう)。三島はEXPO'70で浮かれていた日本に、おのれの肉と血糊をもってその呪詛をたたきつけた。では、吉岡は三島由紀夫の文学をどう思っていたのか。飯島耕一を筆頭とする詩人たちとの座談会に就くに如くはない。

□ 三島由紀夫・戦後が鴎外にぶつかった

飯島 それから、一つ聞きたいんだけれども、最近ぼくは三島由紀夫というのがえらく気になるんですよ。いまごろになってね。きょうは西脇順三郎から始まって、最後に三島由紀夫のことをみんなに聞きたいなと思って来たんですけれども。ぼくが、三島由紀夫気になるなあと言ったら、ぼくの友人たちは変だ、変だと言うんですよ。まさか飯島がと、不思議がられる。なんか三島由紀夫という存在がいま欠けているんだなあということをよく考えるんですよ。吉岡さんなんかは……。
吉岡 三島由紀夫をあんまり読んでいないんだ。読んだのは、『仮面の告白』とか『愛の渇き』ぐらいで、あんまり読んでいない。有名な『金閣寺』も読んでいないし。だけど、『仮面の告白』はやっぱし天才の書いたものだとぼくは思うんだよ、はっきり言って。だから、これから読むようになると思うんだけど、ただ、三島に一回会えたということは、一つの出合いだと思うのよ。これは土方巽さんの弟子の舞踏をスペースカプセル〔を→で〕やったとき、バタバタッと来た客の中に三島がいたわけよ。
飯島 小さい人だったね。
吉岡 そうそう。ぼくのことも三島さん、知っているらしくて、そこではじめて挨拶をかわしたんだ。たった一回。ああいうスペースカプセルみたいな、ワーワーとしていたでしょ。だから、ほんとうに二言三言ことばをかわしただけ。生きている三島由紀夫を見た唯一の日だった。これはやはりよかったという感じがあってね。ぼくも、読むとしたらこれから読むんじゃないかという気がする。
那珂 三島由紀夫が死んで二、三日後に吉岡さんに逢ったとき、ひどくショック受けてたのをおぼえています。ぼくもそうだったから。時代の犠牲者ですよ、やっぱり……。
飯島 三島由紀夫はよくニセの宝石だとか、ニセモノだと言われているんだけど、このニセモノというのがぼくにはいまとってもおもしろいんだね。魅力的に感じられるんでね。生きているときの三島はむしろ嫌いだったんだけれど。ところが五年ぐらい経つと、生きているときの感じがなくなって、すごく気になるんだね。
吉岡 郁乎さんなんか親しいんじゃなかったかしら……。
加藤 吉岡実が羨ましいな。いやぁ、ぼくはまだ引っかかるところがあるんですよ。そんなに読んでいませんけどね。いま吉岡さんが『金閣寺』を挙げたけど、イメージとして覚えているのは、『金閣寺』の中に日本刀の刃をなめると甘いと言うのがあるでしょう。ああいうところはどうしようもないくらい、好きですよ。〔……〕
飯島 とにかく、ニセモノだとか言われたけれども、いまもフォニーだとか、フォニー論争なんて言うけれども、三島由紀夫のほうが立派なフォニーで、立派なニセモノだという気がするんだけどね。三島由紀夫のフォニーぶりは颯爽として、戦後の闇市臭い、インチキ金融ブローカーみたいなものに似ているだろう。ああいうキンキラ金の、死んだときもニセモノの軍服を着て切腹だけはホンモノだった。三島由紀夫が死んだときに戦後は終ったんだなあということを、すごく感じるんですよ。夕方のバスに乗っていたりするとね。
加藤 ああいうスキャンダラスなものをモデル小説で終らせないで、他にいい方法がないのかね。〔……〕
飯島 でも結局三島は敗北したんですね。誰に敗北したかというと、手近かなところでは鴎外に敗北したと思うんですよ。鴎外というのは、軍服もなにも全部本もので、三島はやること、なすこと、全部鴎外をねらったのが、裏目に出ているんですね。だから、鴎外に目標を定めて、戦後が鴎外にぶつかったようなもので、全部傷つき、最後はせめてニセモノの軍服を着て、アンチテーゼを出そうと思ったんだけれども、それすらもなにかわびしいようなね。
吉岡 飯島の三島論、大へんいいものが出たね、聞いているうち。
飯島 夕方のバスなんかに乗っていると、三島のことを考えるんだな。そうすると、ああ……というような感じがしてね。
加藤 あんた、惚れてるんだな。
飯島 ああ、意外にね。
加藤 惚れてるんだよ。惚れるっていうのはいいことだね。三島由紀夫に親しい土方巽の話によると、どの作品か知らないけれども、三島の作品の中に、猫を刀で切り殺する〔ママ〕という話があるんですってね。で、実際に庭で切ってみたそうですね、その感じを知るために。……剛造さんは読んでいるんじゃない?
吉増 ぼくも、いま飯島さんがほとんど説明なさったから、あとで言うのは恥しいんですけどね、吉岡さんと同じように、『仮面の告白』にとっても感心したんです、それ以後はどうもあんまり感心しないんですけどね。〔……〕
吉岡 唐突なたとえだけれども、横光利一と三島と似ているんじゃないかしら。そういう感じがするんだよ。横光利一はぼくの好きな作家なんだけど、いま不当に評価が低いわけよ。だけど、人物を人形のごとく動かす……やはり横光というのは大へんな作家だと思うのよ。ふたたび唐突なことだけれども、横光と三島というのは似ているんじゃないかというのを、いま思うのね。
飯島 だから、そういう意味で、横光が無視されているように、三島もおそらくだんだん無視されてくるんじゃないか。やはり横光より川端でしょ、日本は。だから、三島より誰かというのはわからんけれども。
吉岡 やっぱりリアリティを小説のほうに持って来たほうが強いんで、いわゆる虚構的にいこうという、新しい小説をつくろうという場合は、横光の悲劇があって、三島の悲劇があるんじゃないかという気がするのね。
吉増 それを飯島さんの言葉で言うと、涙線を刺激するほうと、そうじゃないほうということでしょうね。
加藤 それから三島という人は、歌が好きでしたね。
吉岡 春日井〔健→建〕を発見した人でしょう。
那珂 しかし、彼の小説には短歌的な要素はないでしょう。不思議に、ない。
加藤 王朝文学と言っちゃおかしいんですけれども、亀井勝一郎や中村真一郎の考えとは違ったアレで、昔の和歌の世界にひたっていても少しもおかしくなかったところがあるんじゃないんですか。〔……〕
(吉岡実・加藤郁乎・那珂太郎・飯島耕一・吉増剛造〔座談会〕〈悪しき時を生きる現代の詩――座談形式による特集〈今日の歌・現代の詩〉〉、《短歌》1975年2月号、八四〜八六ページ)

私は吉岡がこの座談会で三島の長篇小説《禁色》(新潮社、第一部《禁色》:1951、第二部《秘楽》:1953)に言及していないのを残念に思う。吉岡は同作を読んだのか、読まなかったのか。それというのも、宇野邦一が〈三島由紀夫という同時代人〉(《土方巽――衰弱体の思想》みすず書房、2017年2月10日)で「奇妙に例外的で印象に残る」(同書、一五四ページ)と指摘した、主人公である同性愛者の美青年(南悠一)が若い妻(康子)の出産に立ち会う場面が、吉岡実の詩篇〈マダム・レインの子供〉(G・5、初出は《ユリイカ》1973年1月号)を想起させるからである。宇野はそこで《禁色》から数行を引いて、「長々と続く倒錯的な狂言回しのあとに描かれたまったく例外的な場面である。青年はこのとき家族の絆に目覚めたわけではなく、生まれてくる生命の尊さを自覚したわけでもない。むしろこれは視線の転換という出来事なのである。そして視線の転換には、出産という「肉」の出来事、生命の劇に立ち会う場面が必要であり、三島文学の理知も作為も倒錯もこの出来事を何か絶対的な脅威として迎えている」(同書、一五五ページ)と評した。「視線の転換」とは、私に言わせれば「見られることに対する防御から、見ることによる攻撃への転身」である。三島の《禁色》の〈第二十五章 転身〉にはこうある。

 『見なければならぬ。とにかく、見なければならぬ』と彼は嘔吐[おうと]を催おしながら、心に呟[つぶや]いた。『あの光っている無数の紅い濡れた宝石のような組織、皮膚の下のあの血に浸[ひた]された柔かいもの、くねくねしたもの、……外科医はこんなものにはすぐ馴れる筈だし、僕だって外科医になれない筈はないんだ。妻の肉体が僕の欲望にとって陶器以上のものではないのに、その同じ肉体の内側も、それ以上のものである筈はないんだ』
 こんな強がりを、彼の感覚の正直さはすぐ裏切った。妻の肉体の裏返しにされた怖ろしい部分は、事実、陶器以上のものだったのである。彼の人間的関心は、妻の苦痛に対して感じていた共感よりもさらに深く、無言の真紅の肉に向けられ、その濡れた断面を見ることは、まるでそこに彼自身を不断に見ることを強いられているかのようであった。苦痛は肉体の範囲を出ない。それは孤独だ、と青年は考えた。しかしこの露[あら]わな真紅の肉は孤独ではなかった。それは悠一の内部にも確実に存在する真紅の肉につながり、これをただ見る者の意識の裡[うち]にも、たちまち伝播[でんぱ]せずにはいなかったからである。
 悠一はさらに清潔にかがやいた銀いろの残忍な器具が、博士の手にうけとられるのを見た。それは支点の外れるようになっている大きな鋏形の器具である。鋏の刃にあたる部分は、彎曲[わんきよく]した一双の大きな匙形[さじがた]で、その一方がまず深く康子の内部に挿し込まれ、もう一方が交叉させて挿し込まれたのち、はじめて支点が留められた。鉗子[かんし]である。
 〔……〕
 鉗子は肉の泥濘[ぬかるみ]になかに、柔かい嬰児[えいじ]の頭をさぐりあてた。それを挟[はさ]んだ。二人の看護婦が、左右から康子の蒼白[そうはく]な腹を押した。
 悠一は自分の無辜をひたすら信じた。むしろ念じたと謂[い]ったほうが適当である。
 しかしこのとき、苦しみの絶頂にいる妻の顔と、かつて悠一の嫌悪の源であったあの部分が真紅にもえ上っているのとを、見比べていた悠一の心は、変貌した。あらゆる男女の嘆賞にゆだねられ、ただ見られるためだけに存在しているかと思われた悠一の美貌は、はじめてその機能をとりもどし、今やただ見るために存在していた。ナルシスは自分の顔を忘れた。彼の目は鏡のほかの対象にむかっていた。かくも苛烈[かれつ]な醜さを見つめることが、彼自身を見ることとおなじになった。
 今までの悠一の存在の意識は、隈[くま]なく「見られて」いた。彼が自分が存在していると感じることは、畢竟[ひつきよう]、彼が見られていると感じることなのであった。見られることなしに確実に存在しているという、この新たな存在の意識は若者を酔わせた。つまり彼自身が見ていた[、、、、]のである。
 〔……〕
 ……羊水がしたたりおちた。目をつぶった嬰児の頭はすでに出ていた。康子の下半身のまわりで行われている作業は、嵐に抗する船の船員の作業のような、力をあわせた肉体労働に類していた。それはただの力であって、人力が生命を引き出そうとしていたのである。悠一は婦人科部長の白衣の皺[しわ]にも、働いている筋肉のうごきを見た。
 嬰児は桎梏[しつこく]から放たれて滑り出た。それは白いほのかな紫色をした半ば死んだ肉塊であった。何か呟[つぶや]いている音が湧[わ]いた。やがてその肉塊は泣き叫び、泣き叫ぶにつれて、すこしずつ紅潮した。(《禁色〔新潮文庫〕》新潮社、1969年1月30日、三六八〜三七〇ページ)

三島由紀夫は《禁色》執筆・刊行当時は20代後半で、まだ結婚しておらず(1958年、33歳のとき21歳の杉山瑤子と結婚)、このような出産の現場に立ち会うことができたのか、私には判断する材料がない。もっとも、自決の予行演習のようにして〈憂国〉の切腹シーンを書いているくらいだから、「人物を人形のごとく動かす」「虚構的にいこうという、新しい小説をつくろうという」執筆態度は三島の真骨頂で、驚くにはあたらない。若いころ医書出版社に勤めていた吉岡実にしたところで、現実に「出産という「肉」の出来事」に立ち会う経験があったとは思われない。ちなみに吉岡夫妻に子供はない。

マダム・レインの子供|吉岡実

マダム・レインの子供を
他人は見ない
恐しい子供の体操するところを
見たら
そのたびぼくらは死にたくなる
だからマダム・レインはいつも一人で
買物に来る
歯ブラシやネズミ捕りを
たまには卵やバンソウコウを手にとる
今日は朝から晴れているため
マダム・レインは子供に体操の練習をさせる
裸のマダム・レインは美しい
でもとても見られない細部を持っている
夏ならいいのだが
雪のふる夜をマダム・レインは分娩していたんだ
うしろからうしろからそれは出てくる
形而上的に表現すれば
「しばしば
肉体は死の器で
受け留められる!」
球形の集結でなりたち
成長する部分がそのまま全体といえばいえる
縦に血の線がつらなって
その末端が泛んでいるように見えるんだ
比喩として
或る魚には毛がはえていないが
或る人には毛がはえている
それは明瞭な生物の特性ゆえに
かつ死滅しやすい欠点がある
しかしマダム・レインの所有せんとする
むしろ創造しようと希っている被生命とは
ムーヴマンのない
子供と頭脳が理想美なのだ
花粉のなかを蜂のうずまく春たけなわ
縛られた一個の箱が
ぼくらの流している水の上を去って行く
マダム・レインはそれを見送る
その内情を他人は問わないでほしい
それは過ぎた「父親」かも知れないし
体操のできない未来の「子供」かも知れない
マダム・レインは秋が好きだから
紅葉をくぐりぬける

引用した《禁色》の直前には「マーキュロでもって真紅に塗られた裂け目にあてがわれたその帆布は、はげしい流出には音さえ立てた。局所麻酔の注射にはじまり、メスや鋏[はさみ]が、裂け目をさらにひろげて裂き、その血が帆布にほとばしって流れたとき、康子の真紅の錯綜[さくそう]した内部が、すこしも残忍なところのない若い良人の目にあらわに映った。悠一はあれほど陶器のように無縁のものと思っていた妻の肉体が、こうして皮膚を剥[は]がされてその内部をあらわにするのを見ては、もはやそれを物質のように見ることができない自分におどろいた」(前掲書、三六七〜三六八ページ)とある。吉岡が引用符で括った「しばしば/肉体は死の器で/受け留められる!」の出典がなにかわからないが、陶器のような肉体の裂け目の奥に見える真紅の錯綜した内部という、「絶対的な脅威」をまえにしたときの若い夫の驚異と同種のものであることは疑いない。

 ・マダム・レインの子供を/他人は「見ない」/恐しい子供の体操するところを/「見たら」
 ・裸のマダム・レインは美しい/でもとても「見られない」細部を持っている
 ・縦に血の線がつらなって/その末端が泛んでいるように「見えるんだ」
 ・縛られた一個の箱が/ぼくらの流している水の上を去って行く/マダム・レインはそれを「見送る」

三島の小説の主人公が(上掲引用の場面では)見ることに憑かれた人物であったように、〈マダム・レインの子供〉の話者もさながら見ることに憑かれた人物である。だが「他人」はそれを見ることができない。話者が「見た」というものを、ひたすら読むことができるだけだ。
ところで、「三島由紀夫が私の詩をひそかに読んでいる」という、その吉岡実詩とはなんだったのか。それは、大方の読者がそうであったように、《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)だと考えてよいのではないか。また「ひそかに」とは、三島が吉岡実詩について書いたことがなく、吉岡が三島に詩集を献じていないので、三島自ら入手したか周りの人間が調達したかして読んだ、というふうにとれる。その場合は部数の少ない単行詩集ではなく、《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959)だったかもしれない。晩年の三島がジェフリー・ボーナスとともに編んだ《New Writing in Japan》(Penguin Books、1972)には、自身の短篇〈憂国〉などの小説や秋山駿の評論とともに、吉岡の詩〈Still Life〔静物(B・2)〕〉と〈Past〔過去〕〉(ボーナス訳)が掲載されているが、二篇とも《吉岡實詩集》に収められているのだ。〈僧侶〉ではなく、《静物》からの二篇という処に編者ならではの着眼を見たい。三島による〈Introduction〉(ボーナス訳)には、詩人・吉岡実についての次の言及がある。

  Yoshioka Minoru, Anzai Hitoshi and Tamura Ryuichi are all the cold, rather monastic Apollo type. They enjoy a certain respect as leaders by virtue of thier accomplished poetic skills. For these three, the blood still flows from the wound as before.(同書、二三ページ)
 吉岡実や安西均、田村隆一はすべからく〔ママ〕冷たい、むしろ禁欲的なアポロン型の詩人である。彼らはその成果である詩的熟練の美によってリーダーとしてある尊敬を得ている。三人には、まだ以前のように血はその傷口から流れている。〔邦訳は小埜裕二訳〈翻訳・三島由紀夫英文新資料――序文(『New Writing in Japan』)〉(《新潮》1993年12月号、二五六〜二五七ページ)を借りた。〕

Yukio Mishima, Geoffrey Bownas編《New Writing in Japan》(Penguin Books、1972)の表紙
Yukio Mishima, Geoffrey Bownas編《New Writing in Japan》(Penguin Books、1972)の表紙

安西均の詩は〈Rain〔雨〕〉〈Nightingale〔鶯〕〉〈Hitomaro〔人麿〕〉、田村隆一の詩は〈Far-off Land〔遠い国〕〉〈Four Thousand Days And Nights〔四千の日と夜〕〉。以下、詩歌句の作者名だけ挙げれば、辻井喬、谷川俊太郎、白石かずこ、高橋睦郎(以上、詩)、塚本邦雄(短歌)、水嶋波津(俳句)。このなかでは、水嶋波津――句集に《遠樹集》(八幡船社、1969)のほか、《扉音〔瓶の叢書俳句篇〕》(茜書房、1969)があるとのことだが、後者は未見――の二四句が異彩を放っている。おそらく紙数の制約によるためだろう、本書には人選といい作品の選択といい、編者の強靭な志向が刻まれている。三島の選んだ〈Still Life〔静物(B・2)〕〉は、書きおろしの詩集《静物》(私家版、1955)入稿段階の稿本では、〈静物〔夜の器の硬い面の内で〕〉(B・1)のまえに位置する巻頭詩篇だった(註)。一方、〈過去〉は《静物》巻末に置かれた、集中で最も雄渾な作品だ。いずれも見事な選択である。その選択に較べると、前掲〈Introduction〉のレトリカルな評言はいささかもの足りない。三島歿後の二十年を生きた吉岡実の詩の総体を考えたとき、無署名の〈Biographical Notes on Authors〉の“YOSHIOKA MINORU: born in 1919 in Tokyo, he is one of the leading surrealist poets of the post-war years.[...].”(同書、二四九ページ)の「戦後の代表的なシュルレアリスム詩人の一人」が想いのほか的を射ていたと言えよう。刊行の時期からいって、三島がこの〈著者に関する経歴〉に目を通していたとは思えないのだが。

〔付記〕
大岡昇平・埴谷雄高〔対談〕《大岡昇平 埴谷雄高 二つの同時代史》(岩波書店、1984年7月23日)の〈三島事件の頃〉で、埴谷は《New Writing in Japan》に触れて「〔……〕かつて三島由紀夫がペンギン・ブックスで「ニュー・ライティング・イン・ジャパン」というアンソロジーを編集したことがあるんだ。稲垣足穂とか俺の『闇のなかの黒い馬』の『宇宙の鏡』というのも入っているし、吉行淳之介と安岡章太郎、大江健三郎と安部公房、それから評論は秋山駿、あと詩人で田村隆一とか吉岡実とか歌人の塚本邦雄まで入っている不思議なほどに広い範囲にわたった三島好みの編集で、ジェフリー・ボーナスという人が協力して訳している」(同書、三九六ページ)と大岡に語っている。最後に、《New Writing in Japan》の散文作品(解説文を含む)の目次を掲げる。

  Geoffrey Bownas     Translator's Preface  11
  Mishima Yukio     Introduction  15
  Inagaki Taruho     Icarus  27
  Haniya Yutaka     Cosmic Mirror  32
  Abe Kobo     Stick and Red Cocoon  41
  Oe Kenzaburo     The Catch  51
  Yoshiyuki Junnosuke     Sudden Shower  99
  Yasuoka Shotaro     The Pawnbroker's Wife  123
  Ishihara Shintaro     Ambush  133
  Mishima Yukio     Patriotism  152
  Akiyama Shun     The Simple Life  182
  〔……〕
  Biographical Notes on Authors  247

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(註) 〈静物〉連作の四篇中で各種のアンソロジーにいちばん多く採られているのは、冒頭の〈静物〔夜の器の硬い面の内で〕〉(B・1)だ。一方、この〈静物〔夜はいっそう遠巻きにする〕〉(B・2)は、鮎川信夫・関根弘・木原孝一・山本太郎・清岡卓行・大岡信編《現代詩全集〔第3集〕》(書肆ユリイカ、1959)に《静物》《僧侶》からの16篇の抄録として登場したのが最初で、次が《New Writing in Japan》のジェフリー・ボーナスによる英訳である。同詩はその後、《Ten Japanese Poets》(Granite Publications、1973)、《Contemporary Japanese Literature; An Anthology of Fiction, Film and Other Writing Since 1945》(Alfred A. Knopf、1977)、《Sei Budda di pietra――Antologia di poesia giapponese contemporanea》(Empiria、2000)、《PO&SIE numero 100――Poesie Japonaise》(Editions Belin、2002)、《[Four] Factorial――Speed Round & Translation》(Factorial Press、2005)といった多くのアンソロジーに欧文訳が掲載されている。その先陣を切ったボーナス訳を見よう(《New Writing in Japan》〔二〇三ページ〕)。

  STILL LIFE|Yoshioka Minoru

  Night crowds in
  Bones
  Pleced for a moment
  Among the fish
  Steal from the star-lit sea
  And decompose quietly
  On the plate

  The light
  Moves to another plate
  In whose hollow
  Lurks only living famine
  Begetting first the shadow
  And then the seed

最後の行の“the seed”は「種・種子」だろうから、「卵」の訳語としては違和感を覚える。次に佐藤紘彰の英訳を掲げる(《Lilac Garden: Poems of Minoru Yoshioka》Chicago Review Press、1976、一八ページ)。

  Still Life|Minoru Yoshioka

  The night recedes the further to encircle them
  The bones pleced
  Temporarily in the fish
  Extricate themselves
  From the sea where stars are
  And secretly dissolve
  On the plate
  The light
  Moves to another plate
  Where life's hunger is inherited
  In the hollow of the plate
  First the shadows
  Then the eggs are called in

私は初読のときから「卵」を“egg”と読んできたので――魚卵ではなく鶏卵――、佐藤紘彰の英訳に軍配を挙げたいと思う。ジェフリー・ボーナスが7行と6行に分けて1行空きにしているのも解せない。原詩に空きはない。


《現代詩手帖》創刊号のこと(2017年6月30日〔2019年3月31日追記〕)

永いこと探していた《現代詩手帖》の創刊号を《日本の古本屋》で見つけたので、〈吉岡実と《現代詩手帖》〉で触れていないことを書きたい。1959(昭和34)年6月1日発行の《現代詩手帖》創刊号(奥付には編集人・発行人は野々山登志夫とあるが、後出《戦後詩壇私史》で明らかなように小田久郎の編集になる)の巻号表示が「第1巻第1号」ではなく「第2巻第6号」なのは、継続前誌の《世代》を引きついだためで、国立国会図書館のNDL-OPACに依れば「編者および出版者:4巻2号(昭和36年2月)まで世代社」とある(その後は現在に至るまで思潮社)。その「所蔵情報」に「2巻7号(1959年7月)〜(欠:2巻10号,4巻11号,8巻5,8,10号)」とあるとおり、創刊号は同館に所蔵されていない。私が《吉岡実全詩篇標題索引》(文藝空間、1995)を編むために全詩篇の初出を探索していたころ、八方手を尽くして創刊号を探したが見ることあたわず、最後には思潮社の小田久郎さんを煩わせた。20年以上前のことだ。そのとき入手したのは吉岡実詩〈遅い恋〉(未刊詩篇・7)の見開きページと目次・奥付の3箇所のコピーだけだったが、のちになにかの書誌で吉岡がアンケート(?)に答えているのを知った。しかし改めて小田さんに頼むのも気が引けて、今日に至った。今回、念のために創刊号の全ページに目を通したところ、件の資料が判明しただけでなく、吉岡実や《僧侶》、H賞(当時は「H氏賞」ではなかった)や「H賞事件」への言及を拾うことができた。だが、まずは〈今月読んだ本〉の吉岡の項を見よう。ちなみに〈今月読んだ本〉は目次では「どうすればよい詩が書けるか」という大きな括りのなかで
 読書ノオト
 読むべき本 安東次男 他 六四
 今月読んだ本 大岡信 他 九四
とあって、吉岡実の名前は見えない。本文は「吉岡実」の署名のあとに、こうある(《現代詩手帖》創刊号、1959年6月、九四ページ)。

 ナボコフ「ロリータ」「トレント最後の事件」清岡卓行詩集「氷つた焔

これらは、ナボコフ(大久保康雄訳)《ロリータ〔上・下〕》(河出書房新社、1959年4月20日)、ベントリー(延原謙訳)《トレント最後の事件〔新潮文庫〕》(新潮社、1958年11月29日)()、清岡卓行詩集《氷った焔》(書肆ユリイカ、1959年2月1日)とみられる。ときに、〈今月読んだ本〉の執筆者は掲載順に「安東次男 飯島耕一 大岡信(**) 黒田喜夫 小海永二 中桐雅夫 鶴岡冬一 瀬木慎一 吉岡実 秋吉豊」の10人だが、割り付けが変則的で、タイトルのあと安東次男から中桐雅夫の項の途中までが九五ページ(見開きの左側)に、中桐の項の途中から秋吉豊の項までが九四ページ(見開きの右側)に、コラムのように、埋め草的に組まれている。想うに、これは見開きの右ページと左ページを組み違えたものではないか。ちなみに、本文は村野四郎選〈研究会作品〉なる10ページにわたる〈今月の新人〉(目次での表記)を紹介する記事である。

〈今月読んだ本〉が掲載されている見開き 吉岡実の詩〈遅い恋〉と散文〈詩人のノオト〉が掲載されている見開き(《現代詩手帖》創刊号、1959年6月、六六〜六七ページ)
〈今月読んだ本〉が掲載されている見開き(《現代詩手帖》創刊号、1959年6月、九四〜九五ページ)(左)と吉岡実の詩〈遅い恋〉と散文〈詩人のノオト〉が掲載されている見開き(同、六六〜六七ページ)(右)

〈今月読んだ本〉の九五ページの中桐までは執筆者の50音順だ。当初の入稿時には前記の6人までの原稿しかなくて、鶴岡冬一・瀬木慎一・吉岡実・秋吉豊の項はその後に、原稿が集まった順に組まれたのではないか。そんな慌しい状況を想定すると、《トレント最後の事件》の著者名が抜けているのも、吉岡がそう書いたのか、組版時に脱字したのか、即断できなくなる。

 ナボコフ「ロリータ」ベントリー「トレント最後の事件」清岡卓行詩集「氷つた焔

があるべき記載となろう。かつて〈吉岡実とナボコフ〉に書いた「《人間の文学 第28》あたりがナボコフとの出会いかもしれない。もちろんそれ以前に吉岡が《ロリータ》を読みかけたことはありえる。などともってまわった言い方をするよりも、1959年の最初の大久保康雄訳を覗いて見なかった、と考えるほうが不自然だと言ったほうがいい」という私の推定は〈今月読んだ本〉によって裏付けられたわけだが、執筆当時、《現代詩手帖》創刊号を実見できてさえいれば、と思わないでもない。こうして吉岡は《現代詩手帖》創刊号に、詩〈遅い恋〉(5篇掲載された〈作品〉の冒頭におかれた)とそれに付した散文〈詩人のノオト〉、読書ノオト〈今月読んだ本〉を寄せたわけだが、吉岡実に関する言及はどうかというと、次のようになる。なお太字は執筆者名や標題などを、( )内の〈 〉は引用文の小見出しを、数字は同誌の掲載ページを表す。

――〈だれが詩壇を動かしているか――詩壇地図をつくる人たち〉
〔《ユリイカ》が〕仲間うちの雑誌といわれるゆえんだが「今日」系統の平林敏彦、大岡信、飯島耕一、吉岡実、岩田宏、安東次男〔この後に脱字があるか〕系の栗田勇、江原順、小海永二、中原〔祐→佑〕介、東野芳明、「秩序」系の篠田一士、丸谷才一〔、〕中山公男、旧世代系の中村稔、橋本一明〔、〕「現代批評」系の清岡卓行、鮎川信夫、吉本隆明といった執筆ブレーンはかなり強力なものだ。(〈後つづくを信ずれど「ユリイカ」〉、11)

――〈どうやって詩壇に出るか――その人はこうして詩人になつた〉
たとえば多くの情実をしりぞけて、詩壇づきあいのほとんどなかつた吉岡実が「H賞」をもらい、その作品が正当に評価されるようになつたではないか。(〈詩そのものの力がその人を詩人にする〉、20)

村野四郎・鮎川信夫〔対談〕〈これからの詩はどうなるか〉
 編集部〔小田〕 いまの詩壇に眼を移して、可能性のある詩人とか傾向をとりあげるとすると…
 村野 いろいろあるだろうね。谷川俊太郎君にも、今度の吉岡実君の詩にも、あたらしい可能性をみとめることができますね。
 鮎川 ちよつと象徴的な云いかただけれどたしかにそう言えますね。全然ちがうけれども極端と云つてもいいと思うけれども。
 村野 どうですか、吉岡実君は。
 鮎川 ぼくはいいと思います。「静物」という詩集を出したときから。
 村野 非常に素質のある人ですね。直観的に鋭い。ぼくはほかにも書いたけれども、方法としてはあれはブルトンですね。ブルトンというよりも、もつと意志的な独創があるでしよう。作品の中にそういう秩序の縞目がみえるね。
 鮎川 それから、単に内面的な流動のイマジネーションじやなくて、わりあいにあのひと言語感覚そのものに対するイマジネーションがあるね。そういうところ、ちよつとただのシュールの亜流とちがうと思つたんですがね。
 村野 そうそう、そういうイマジネーションがあるということ、やはりこれはその詩人の認識の問題になつてくると思う。おもしろいのはテーマのあつかいかた。つまりあれは、二十世紀のスキャンダルをことごとくそのテーマにしている。それをイメージとして描き出す感覚的なやり方が非常におもしろくてあたらしいですね。
 鮎川 ある意味で云つたら欠点みたいなところもね。
 村野 だから可能性と危険性の極限にある詩だな。あれからちよつと出たらあぶなくなつてくる。だが詩というものはそういう場所でないとつくれないんだ。
 編集部 谷川さんの可能性というのは。
 村野 つまりああいうのはぼくこう思うんだよ。大げさな批評になるけれども、ああいう姿勢から、成熟してくると新しいリルケ的なものが出てくるんじやないかという期待がかけられているわけです。
 鮎川 ただ吉岡実をみんながいいと云い出すと疑問がおこつてくる。前からぼくはいいと思つていたけど、あの詩は根本的には……ちよつとうまく云えないけれども、根本的には混迷期の無方向性とから生まれてくるんじやないかと思うんです。自分の考えを直接に表現した詩とは反対な詩で、形而上学的なところがあるけれども、極度に内面化された詩と思うんですが、そういう極度に内面化された詩をそんなにみんながよくわかるというのは……おかしい(笑)なんだかへんだという気がする。満場一致であれがいいということがきまつたりすると。どうも狐につままれたみたい……。
 村野 いや、満場一致じやないね。満場一致じやなくても、あれが過半数できまつたということは、現代詩人会の幹事をみなおしたという感じさ。少なくともそのなかには、半分以上はああいうのがわかる詩人がいたということだな。――おこられるかな。(〈現代詩を分ける二つの可能性〉、52〜53)

――〈これが現代詩だ――今月の詩壇〉
とにかく、受賞を拒絶するだろうといわれていた吉岡実が受けとつたから落ちついたようなものの、あまり後味のよい選考経過でなかつたことだけは確かなようだ。吉岡の受賞は、一応だれにでも、受賞すべき人が受賞したという感じをあたえたであろう。〔……〕前に嵯〔蛾→峨〕信之が現代詩人会に入るのは嫌だといつてH賞を蹴つたことがあつたが、ここらでもう一人、吉岡実がH賞を拒絶すれば、この詩人勲章の見方もはつきりするようになつたのではないかと思うのである。吉岡に受賞拒否の気があつたということを聞いていただけに、ちよつと残念な気持もする。(〈H賞をめぐる怪事件〉、79)

SAN〈これが現代詩だ――今月の詩集〉
 昨年の暮から現在にかけて、注目される詩集が二つ出ている。一つは吉岡実の「僧侶」であり、もう一つは最近刊行された清岡卓行の処女詩集「氷つた焔」である。吉岡はこの詩集によつてH賞を与えられたわけだが、それはある意味では当然のことだつたといえよう。というのも、最近すつかり停滞がちだつた詩壇にとつて、「僧侶」が投げかけた波紋は、意外に大きなものだつたからである。もちろん、たかだか五百部か千部しか刷れないのが、現在の詩書の出版事情なのだから、大きな波紋とはいつても、その影響範囲はごく限られたものにちがいない。それでも、例えば高見順のような人までが〈「僧侶」という詩集が出ているんだつてね。ぼくもぜひ読みたいと思つているんだ〉と言つているのをわたしは聞いたことがあるほどだから、少なくとも、詩壇にとつてはやはりちよつとしたセンセーショナルな事件であつたにちがいない。吉岡の、現実の一点をみつめる執拗なまでに冷たい眼は綺麗事の作品を器用にまとめあげることを競いあつていた詩人たちにとつて、少なからず驚異であつたにちがいない。特に、この詩集の題名になつている作品〈僧侶〉は、だいぶ以前に発表されたものだが極めてショッキングな作品であつた。その意味で、この詩集のなかでも、もつとも魅力的な作品の一つである。詩集「僧侶」は、その意味で詩人たちに刺戟を与えることには成功したのだが、しかし、この詩集を正当に評価するためにはもう少し時間をかけてみる必要があるであろう。H賞を受けた詩集は、例えば、去年の富岡多惠子の「返礼」の場合をみてもうなずけるように、単なる〈時の詩集〉でしかない場合が多いからである。吉岡の作品がただの目新しさによつてではなく、ほんとうの意味で、すぐれた作品として評価されるためには、なにはともあれ〈解る作品〉になることが必要である。難解な作品というのは、たいていの場合、モチーフを十分に燃焼させきらずに書くことから生まれる。モチーフを十分に燃焼させるということは、ある程度までは、問題を整理する能力ということと重なるものである。わたしの読むかぎりでは、吉岡にはまだその意味での厳しさや深さはみられない。「僧侶」はかなり評判のよかつた詩集だが、この評判は多分に詩壇の附和雷同性にもとづいているものとわたしには思われる。ろくに読みもしないで、誰かがいいと言つたその言葉をそのまま受け売りして歩く無責任な奴が多いのではないだろうか。その証拠に、この詩集が出てから、わたしは多くの詩人たちがこの詩集に就て語るのを聞いたが、ちよつとつつこんで問い返すと、二三の人を除いては、まともには答えられないのがつねであつた。しかも、その二、三の人たちは〈実際のところ、わたしはちつとも面白いとはおもわないのだがね〉と言つていた。一例をあげると、次に引用する作品〈喪服〉も、われわれの目にはかなり以前からふれていた吉岡の吉岡らしい作品で、ここにも彼の長所と短所がよくあらわれている。
 ぼくが今つくりたいのは矩形の家
 そこで育てあげればならぬ円筒の死児
 勝算なき戦いに遭遇すべく
 仮眠の妻を起してはさいなむ
 粘土の肉体を間断なく変化させるために
 勃起とエーテルの退潮
 濕性の粗い布の下で夜昼の別なくこねる
 ぼくは石炭の凍る床にはいつくばい
 死児の哺乳をつづける
これは冒頭の数行だが、たしかにわれわれはこのなかに、言葉に対する彼の特異な感覚、異常な執拗さ、といつたものを認めることができる。だがこれは、ちよつと視点を移してみればわかるのだが、二、三十年前の日本のシュールの画家たちが、キャンバスに塗りたくつていたあの無意味に混乱していた絵を、そのまま文字で写してみたにすぎないのである。逆説的に言えば、このアナクロニズムこそが特筆すべき彼の作品の魅力なのであり、現代詩の盲点をたくみについたことにもなるのであろう。(〈専門家だけがダマされた「僧侶」〉、82〜83)

これらのなかで興味深いのは、なんといっても対談〈これからの詩はどうなるか〉での鮎川信夫の発言だ。村野四郎はすでに《東京新聞〔夕刊〕》(5月19日)に〈H賞をうけた吉岡実の「僧侶」〉を書いていたが、鮎川はこの時点では吉岡や《僧侶》について言及していなかったからである。「混迷期の無方向性」「極度に内面化された詩」という指摘は、鮎川ならではのものだろう。ところで、匿名時評で詩集を担当した「SAN」が誰かは、小田久郎《戦後詩壇私史》(新潮社、1995年2月25日)に就くに如くはない。「〔《ユリイカ》で匿名時評を書いていた〕この清水〔康雄〕の鋭い鉾先は、やがて創刊された「現代詩手帖」の匿名時評欄でも、物議をかもすような立ち廻りを演じることになる。たとえば創刊号では早くも、「注目される二冊の詩集」という評価を前提にしながらも、吉岡実の『僧侶』と清岡卓行の『氷った焔』をかなりあしざまにこきおろしている。書くほうも書かせるほうも、けっこう恐いもの知らずで向うみずな若者だったのである」(同書、一三三〜一三四ページ)。吉岡の〈詩人のノオト〉の末尾には「(よしおか・みのる氏は大正八年、東京生。詩集「僧侶」で本年度現代詩人会H賞を受賞。この五月には長い独身生活から足を洗うとのこと。現、筑摩書房広告部次長。)」(《現代詩手帖》創刊号、1959年6月、六七ページ)とある。これを書いたであろう小田久郎は当時28歳、のちに青土社を興して《ユリイカ》を復刊することになる清水康雄は27歳だった。

《現代詩手帖》創刊号(1959年6月)の奥付  《現代詩手帖》創刊号(1959年6月)の目次 《現代詩手帖》創刊号(1959年6月)の表紙
《現代詩手帖》創刊号(1959年6月)の奥付(左)と同・目次(中)と同・表紙(右)

* エドマンド・クレリヒュー・ベントリーの《トレント最後の事件》は、吉岡実の読書傾向のなかでは異色の書目である。既刊・未刊を問わず吉岡の遺した随想に翻訳物のミステリが登場したことは、フリイマン・クロフツの《クロイドン発十二時三十分》と《樽》(これとて森茉莉〈後記――原稿紛失の記〉を引用した文中に出てくるもの)のほかにはなかったからだ。集英社文庫版《トレント最後の事件》(1999年2月25日)の新保博久〈解説――黄金時代の開幕を告げた傑作〉に依れば、本作の初訳題は〈生ける死美人〉で、横溝正史が編集長をしていた雑誌《探偵小説》に掲載された。これに魅了された江戸川乱歩は中篇〈石榴〉をものしたという。同作は「温泉旅行に出かけた私は、投宿した旅館で『トレント最後の事件』を読んでいる猪俣という男と出会う。〔……〕」(Wikipedia)という筋だそうだから、吉岡が乱歩経由で《トレント最後の事件》に興味を抱いたという線もまったく考えられないわけではない。だが、吉岡が乱歩を愛読していたのは少年時代で、はたして〈石榴〉(初出は《中央公論》1934年9月号)まで読んでいたかどうか。NDL-OPACで調べると、1958年までに刊行された《トレント最後の事件》は次の6点である(その後、大久保康雄訳、宇野利泰訳、大西央士訳などがある)。
 @延原謙訳、黒白書房版、1935
 A延原謙訳、雄鶏社版〈おんどりみすてりい〉、1950
 B延原謙訳、新潮社版〈探偵小説文庫〉、1956
 C高橋豊訳、早川書房版〈世界探偵小説全集〉、1956
 D田島博訳、東京創元社版〈世界推理小説全集8〉、1956
 E延原謙訳、新潮社版〈新潮文庫〉、1958
吉岡が手にした訳書がCかDということもありえないわけではないが、〈今月読んだ本〉という企画内容からいっても、手軽な版であり、直近の刊行でもあるEの可能性がいちばん高いだろう。

ベントリー(延原謙訳)《トレント最後の事件〔新潮文庫〕》(新潮社、1958年11月29日)の表紙
ベントリー(延原謙訳)《トレント最後の事件〔新潮文庫〕》(新潮社、1958年11月29日)の表紙

ところで本書には、扉の裏に〈登場人物〉の記載があって、その次のページに「ギルバート・キース・チェスタトン へ」という献辞に続けて「ギルバート君、僕はこの小説を君に捧げる、その理由は、〔……〕/E・C・ベントリー」とある。ここで私がはしなくも思い出すのは、「ギルバートきみは善良すぎる/時計の竜頭を巻きながら/吊り棚から一丁の鋏をとり出して/旅へ出る」と始まる吉岡の詩篇〈悪趣味な夏の旅〉(G・26、初出は《新劇》1975年7月号)である。もっとも吉岡本人は金井美恵子との対談で
 金井 エッセイで、君と呼びかけた詩はいままで書いたことはないけれども、これからもしかしたら書くことがあるかも知れないとお書きになっていた文章があったでしょ(笑)、あれを読んで、あ、なるほどなと思ったんですけどね。
 吉岡 できないんだよね。
 金井 『サフラン摘み』の中に二つありますよね。
 吉岡 言葉はね。
 金井 固有名詞で出ていて、「異霊祭」のアラン、「悪趣味な夏の旅」のギルバートね。
 吉岡 ギルバートってのはね、昔そういう美男俳優がいたの、大根だけど。
 金井 ふーん。無声映画時代の?
 吉岡 だと思うのね。それがふと名前として出てきたのね。(〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉、《現代詩手帖》1980年10月号、一〇六ページ)
と語っているから、チェスタトンのことではないのだろう。だが、ここでレミニサンス(無意識的記憶)がまったく働いていないともいえない気がする。

** 大岡信は、ジョルジュ・ユニェ(江原順訳)《ダダの冒険 1916-1922》(美術出版社、1959)、風巻景次郎《中世の文学伝統――和歌文学論〔ラヂオ新書〕》(日本放送出版協会、1940)、ベーコンの随筆の3点を挙げて、ていねいにコメントしている。詳細を極めた《大岡信・全軌跡 年譜》(大岡信ことば館、2013年8月1日)にも見えない文章なので、註しておく。そういえば、今はなきオンライン書店bk1のウェブサイトの案件で〈今月読んだ本〉と同様の企画を晩年の大岡さんに依頼したところ、新刊は読んでいる時間がないので買わない旨の返信をもらったことがある。

〔2019年3月31日追記〕
ベントリーとチェスタトンといえば、中尾真理の書きおろし《ホームズと推理小説の時代〔ちくま学芸文庫〕》(筑摩書房、2018年3月10日)の〈第二部 推理小説の黄金時代(イギリスの場合)〉の第二章が、この二人のために割かれている。「〔……〕『トレント最後の事件』は複雑なトリックの解明と、副題にある「黒衣の女」とのロマンスが絡みあう長編小説となっている。コナン・ドイルの「ホームズ」ものはほとんどが短編であったし、チェスタトンの「ブラウン神父」ものも短編だった。ベントリーはトリックと人間ドラマ的な要素を分け、長編にしてその両者をじっくりと描いたのである」(〈E・C・ベントリー――大富豪と推理小説〉、同書、一六五ページ)。吉岡実がホームズ以降のこの手の小説に熱中した形跡は見えにくいが、少年のころには岡本綺堂の捕物帖を愛読したという(〈読書遍歴〉)。モダニストとミステリーは相性が好いようだ。吉岡に近しい人でいえば、西脇順三郎(アガサ・クリスティ《三幕の悲劇》を訳している)、丸谷才一(著書に《快楽としてのミステリー》がある)、田村隆一(クリスティを多く訳しているばかりか、自作の詩でも言及している)がその代表である。中尾の本にも、T・S・エリオットとホームズものの関係(六七ページ)、ジェイムズ・ジョイスとフランソワ・ウージェーヌ・ヴィドック(パリ警視庁創立当時の密偵)の《回想録》の関係(一〇七ページ〜)など、いろいろなことを考えさせる手掛かりが充ちていて、興味は尽きない。たまたま入沢康夫の評論集を読みかえしていたら、〈細部の神〉で詩と推理小説の関係を述べているのが目にとまった。
「〔……〕奇術や推理小説では、とかく人の見逃しがちの、とるに足りない(かのごとき)細部[ディテール]に、最も重要な鍵がひそんでいるケースが多いわけだが、詩の「真の魅力」についても、同じことが言える。何でもない助詞一つ、あるいは音韻のかすかな共鳴などが、一篇の詩の与える愉悦のほとんどを支えているといった事態は、一般に気付かれているよりもはるかに多いのではあるまいか。このような「細部にひそむ神」を発見するのが、推理小説の場合には名探偵、詩の場合には良き読者ということになるのだろう。/ところで、そのような名探偵の登場する作品、何度でも読み返したくなる推理小説とは、お前にとっては何なのか、ときかれれば、私としてはチェスタートンの「ブラウン神父」シリーズを挙げることになる。〔……〕およそ二十年、毎年最低五回は読み返して来ている。自分でも、どうしてこんなことになったのか、いささか不審なくらいだが、事実そうなのだから仕方がない。理屈をつければ、先に述べた意味での「細部の神」の顕現をブラウン神父に、そして作者G・K・チェスタートンに感じつづけているということなのだろう」(《詩にかかわる》、思潮社、2002年6月20日、一二七〜一二八ページ)。
一度、吉岡さんに捕物帖や推理小説についてうかがっておきたかった。さぞかしユニークな見解が聴けたのではないだろうか。たとえば「最近じゃ、小説そのものをあんまし読まないんだ」とか、「推理小説と探偵小説ってのはどう違うんだい? 乱歩あたりはなんて言ってるんだろう」とか。


吉岡実と済州島(2017年5月31日)

私は司馬遼太郎のよい読者ではないが、折にふれて読みかえす本のひとつに《街道をゆく 28 耽羅紀行〔朝日文庫〕》(朝日新聞社、1990年8月20日)がある。この「耽羅[タン/タム/トム/たむら]」とはなにか。現在の「済州島は、古代、耽羅という独立国だったのである」(同書、一四ページ)と街道をゆく人は語る。では済州島とはなにか。大日本帝国陸軍の兵士だった吉岡実(当時26歳)が、それまで転戦していた満洲から渡った運命的な土地である。私は《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》の1945(昭和20)年の項に「四月、満洲から朝鮮済州島へ渡る。上陸以来毎日輓馬で物資を搬び山奥へ移動。新星岳で野営し倒れた馬を食べて生きのびる。八月十五日、敗戦を迎える」と記したが、これは吉岡の随想〈済州島〉(初出は筑摩書房労組機関紙《わたしたちのしんぶん》1955年8月20日)に依る。〈済州島〉の全文を引く。

 朝鮮の一孤島済州島で終戦をむかえた。いつわりのないところ、私はほっとした気持だった。多くの兵隊もそれにちかい心情であったろう。ねじあやめ咲く春の満洲を出てから四ヶ月目であった。済州島は日本帝国の最後の橋頭堡であったらしい。恐らくあと一ヶ月戦いがつづいたら、済州島の山の中が、私の立っていた最後の地上になったであろう。それが反対に、死から私を庇護し、なつかしい再生の土地となった。済州島へ上陸以来、毎日輓馬で弾薬や食料を山の奥へ奥へと搬んでいた。そして野営をした処が新星岳だった。そのうち馬は倒れた。食料のとぼしい時なので、倒れた馬は殺して喰べた。ろくな飼料を与えられていない馬たちの肉は、脂がなく味気なかった。暇ができると、野苺をつみながら山の中腹で憩うのだ。われわれの島をかこむ夕映の海が見え、その輝く波の中に青々とした飛揚島が泛んでいた。ふりむけば、峯々が重なり、その奥深くに、名峯漢拏山がそびえていた。あっちこっちに石をつんだ垣がつらなっていた。そのかげのところどころに、馬の墓が簡単な石で象どられて、野草が供えられていた。われわれ人間のあいだには、異郷でさびしく死んだ人……などという哀悼の言葉がある。しかし異郷で死んだ馬にはそれがない。石の下で、今では完全な白骨となっていることだろう。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、四四〜四五ページ)

飛揚島 出典:徳山謙二朗《済州島・四季彩――FROM CHEJU》(海風社、1991年10月22日、五二ペーージ)
飛揚島 出典:徳山謙二朗《済州島・四季彩――FROM CHEJU》(海風社、1991年10月22日、五二ペーージ)

吉岡がこの文章を発表した1955年8月はまさに戦後10年、時あたかも詩集《静物》(私家版)を刊行した月で、当時は戦争の記憶も生生しかった済州島の概況を述べるまでもなかった。だが今日のわれわれは、必ずしもそれに通じていない。高野史男《韓国済州島――日韓をむすぶ東シナ海の要石〔中公新書〕》(中央公論新社、1996年10月25日)には〈第二次大戦下の状況〉として、次のようにある。
「第二次世界大戦中、済州島南西部と北部に日本海軍航空隊の基地が設けられ、中国大陸への航空作戦(南京渡洋爆撃など)の拠点とされたことがある。また済州島が東シナ海の要をなしているという戦略的位置の重要性から、大戦末期にはアメリカ軍の済州島への上陸作戦が予想されたため、日本軍大部隊(約七万といわれる)が駐屯し、全島要塞化の工事がなされた。海岸の崖には特攻隊の人間魚雷用の洞窟が掘られ、漢拏山北西部の御乗生[オスンセン]岳(一一六九メートル)には司令部用のトンネル式トーチカが築かれた。これらの労働には島民が強制的に使役された。/幸いにして島は戦場化することなく終戦となったが、日本軍は武装解除後、引き揚げるに際して若干の小火器、弾薬を漢拏山の火山地形を利用した洞穴陣地などに隠匿したとされ、これがのちに「四・三事件」の際に使用されることになる」(同書、三八ページ)。
吉岡の野営した新星岳がどこで、軍事的にどのような役割を担っていたのかわからない(飛揚島を見下ろす地点なら、翰林面だろうか)。「全島要塞化」が必至だとすれば、アメリカ軍が日本軍部隊を駆逐するのも時間の問題だっただろう。吉岡は九死に一生を得た想いだったに違いない。そのとき、苦楽を共にしてきた軍馬を屠って生きのびることはどんなだったか(吉岡実が数数の詩篇に馬の姿を描きこんだのは、鎮魂の意も含まれていよう)。吉岡の記述からは、この軍馬がどういう種類だったのか不明である。あの秋元幸人の画期的な〈吉岡実の《馬》の詩群〉(《吉岡実アラベスク》書肆山田、2002年5月31日、所収)も馬の品種については触れていない。世界戦争史の研究者、武市銀治郎の《富国強馬――ウマからみた近代日本〔講談社新書メチエ〕》(講談社、1999年2月10日)にはこうある。
「昭和十二年から二十年までの間に徴発された軍馬数は、敗戦で軍が解体されてしまったために正確な数値は失われてしまったが、おおよそ六十万ないし七十万頭に及んだものと推測される。また、満洲ではかなりの数の現地農民の馬を購買したが、戦争末期には現地の産業を維持することに注意が払われ、主として蒙古遊牧馬を購買した。/ちなみに事変勃発から終戦までに軍馬をもっとも多く用いたのは「支那方面」であり、その総出動馬数は二十四万三百十九