〈吉岡実〉の「本」(小林一郎 執筆)

最終更新日2016年11月30日

詩集《昏睡季節》の表紙、詩集《液体》の函、歌集《魚藍》の表紙(いずれも吉岡家蔵の初刊)
詩集《昏睡季節》の表紙、詩集《液体》の函、歌集《魚藍》の表紙(いずれも吉岡家蔵の初刊)


目次

吉岡実の装丁作品(132)(2016年9月30日)

吉岡実撰《河原枇杷男句集》(2016年7月31日)

吉岡実編《北原白秋詩歌集》(2016年6月30日)

吉岡実編《西脇順三郎詩集》(2016年5月31日)

田村義也装丁作品目録と装丁作品サイトのこと(2016年3月31日)

《朝日新聞》の〈装丁でも才能発揮する詩人の吉岡氏〉(2016年2月29日)

栃折久美子の〈吉岡さんの装幀〉(2016年1月31日)

吉岡実の装丁(作品)を最初に論じた文章(2015年12月31日)

吉岡実の装丁作品(131)(2015年6月30日)

吉岡実の装丁作品(130)(2015年4月30日)

吉岡実の装丁作品(129)(2015年3月31日)

吉岡実の装丁作品(128)(2015年2月28日)

吉岡実の装丁作品(127)(2015年1月31日)

吉岡実の装丁作品(126)(2014年12月31日)

吉岡実の装丁作品(125)(2014年11月30日)

吉岡実の装丁作品(124)(2014年10月31日)

吉岡実の装丁作品(123)(2014年5月31日)

吉岡実の装丁作品(122)(2014年3月31日)

吉岡実の装丁作品(121)(2014年2月28日)

吉岡実の装丁作品(120)(2014年1月31日〔2014年3月31日追記〕)

吉岡実の装丁作品(119)(2013年12月31日)

吉岡実の装丁作品(118)(2013年11月30日)

吉岡実の装丁作品(117)(2013年10月31日)

吉岡実の装丁作品(116)(2013年9月30日)

吉岡実の装丁作品(115)(2013年8月31日)

吉岡実の装丁作品(114)(2013年7月31日)

吉岡実の装丁作品(113)(2013年6月30日)

吉岡実の装丁作品(112)(2013年5月31日)

吉岡実の装丁作品(111)(2013年4月30日)

吉岡実の装丁作品(110)(2013年3月31日)

吉岡実の装丁作品(109)(2013年2月28日)

詩集《液體》の組版(2013年1月31日)

詩集《昏睡季節》の組版(2012年12月31日)

吉岡実装丁と〈書肆山田の〈本〉展〉のこと(2012年11月30日)

吉岡実の装丁作品(108)(2012年10月31日)

吉岡実の装丁作品(107)(2012年9月30日)

吉岡実の装丁作品(106)(2012年8月31日)

吉岡実の装丁作品(105)(2012年7月31日)

吉岡実の装丁作品(104)(2012年6月30日)

吉岡実の装丁作品(103)(2012年5月31日)

吉岡実の装丁作品(102)(2012年4月30日)

吉岡実の装丁作品(101)(2012年3月31日)

吉岡実の装丁作品(100)(2012年2月29日)

吉岡実の装丁作品(99)(2012年1月31日)

吉岡実の装丁作品(98)(2011年12月31日)

吉岡実の装丁作品(97)(2011年11月30日)

吉岡実の装丁作品(96)(2011年10月31日)

吉岡実の装丁作品(95)(2011年9月30日)

吉岡実の装丁作品(94)(2011年8月31日)

吉岡実の装丁作品(93)(2011年7月31日)

吉岡実の装丁作品(92)(2011年6月30日)

吉岡実の装丁作品(91)(2011年5月31日)

吉岡実の装丁作品(90)(2011年4月30日)

吉岡実の装丁作品(89)(2011年3月31日)

吉岡実の装丁作品(88)(2011年2月28日)

吉岡実の装丁作品(87)(2011年1月31日)

吉岡実の装丁作品(86)(2010年12月31日)

吉岡実の装丁作品(85)(2010年11月30日)

吉岡実の装丁作品(84)(2010年10月31日)

吉岡実の装丁作品(83)(2010年9月30日)

吉岡実の装丁作品(82)(2010年8月31日)

吉岡実の装丁作品(81)(2010年7月31日)

吉岡実の装丁作品(80)(2010年6月30日)

吉岡実の装丁作品(79)(2010年5月31日)

吉岡実の装丁作品(78)(2010年4月30日)

吉岡実の装丁作品(77)(2010年3月31日)

吉岡実編集《ちくま》全91冊目次一覧(2010年2月28日)

吉岡実の装丁作品(76)(2010年1月31日)

吉岡実の装丁作品(75)(2009年12月31日)

吉岡実の装丁作品(74)(2009年11月30日)

吉岡実の装丁作品(73)(2009年10月31日)

吉岡実の装丁作品(72)(2009年9月30日)

吉岡実の装丁作品(71)(2009年8月31日)

吉岡実の装丁作品(70)(2009年7月31日〔2009年9月30日追記〕)

吉岡実の装丁作品(69)(2009年6月30日)

吉岡実の装丁作品(68)(2009年5月31日)

吉岡実の装丁作品(67)(2009年4月30日)

吉岡実の装丁作品(66)(2009年3月31日)

吉岡実の装丁作品(65)(2009年2月28日)

吉岡実の装丁作品(64)(2009年1月31日)

吉岡実の装丁作品(63)(2008年12月31日)

吉岡実の装丁作品(62)(2008年11月30日)

吉岡実の装丁作品(61)(2008年10月31日〔2014年9月30日追記〕)

吉岡実の装丁作品(60)(2008年9月30日)

吉岡実の装丁作品(59)(2008年8月31日〔2013年9月30日追記〕)

吉岡実の装丁作品(58)(2008年7月31日)

吉岡実の装丁作品(57)(2008年6月30日)

吉岡実の装丁作品(56)(2008年5月31日)

吉岡実の装丁作品(55)(2008年4月30日)

吉岡実の装丁作品(54)(2008年3月31日〔2015年3月31日追記〕)

吉岡実の装丁作品(53)(2008年2月29日〔2014年9月30日追記〕)

吉岡実の装丁作品(52)(2008年1月31日)

吉岡実の装丁作品(51)(2007年12月31日〔2013年8月31日追記〕)

吉岡実の装丁作品(50)(2007年11月30日)

吉岡実の装丁作品(49)(2007年10月31日〔2008年12月31日追 記〕)

吉岡実の装丁作品(48)(2007年9月30日)

吉岡実の出版広告(1)(2007年8月31日〔2013年4月30日追記〕)

吉岡実の装丁作品(47)(2007年7月31日)

吉岡実の装丁作品(46)(2007年6月30日)

吉岡実の装丁作品(45)(2007年5月31日)

吉岡実のレイアウト(4)(2007年4月30日)

吉岡実の装丁作品(44)(2007年3月31日)

吉岡実の装丁作品(43)(2007年2月28日)

吉岡実の装丁作品(42)(2007年1月31日)

吉岡実の装丁作品(41)(2006年12月31日)

吉岡実の装丁作品(40)(2006年11月30日)

吉岡実の装丁作品(39)(2006年10月31日)

吉岡実の装丁作品(38)(2006年9月30日)

吉岡実の装丁作品(37)(2006年8月31日)

吉岡実の装丁作品(36)(2006年7月31日)

吉岡実の装丁作品(35)(2006年6月30日)

吉岡実の装丁作品(34)(2006年5月31日〔2006年6月30日追記〕)

吉岡実の装丁作品(33)(2006年4月30日)

吉岡実の装丁作品(32)(2006年3月31日)

吉岡実のレイアウト(3)(2006年2月28日)

吉岡実の装丁作品(31)(2006年1月31日)

吉岡実の装丁作品(30)(2005年12月31日〔2011年3月31日追記〕)

吉岡実の装丁作品(29)(2005年11月30日〔2009年3月31日追記〕)

吉岡実の装丁作品(28)(2005年10月31日)

吉岡実の装丁作品(27)(2005年9月30日)

吉岡実の装丁作品(26)(2005年8月31日〔2005年9月30日追記〕)

吉岡実の装丁作品(25)(2005年7月31日)

吉岡実の装丁作品(24)(2005年6月30日〔2013年12月31日追記〕)

吉岡実の装丁作品(23)(2005年5月31日)

吉岡実の装丁作品(22)(2005年4月30日)

吉岡実の装丁作品(21)(2005年3月31日)

吉岡実の装丁作品(20)(2005年2月28日)

吉岡実の装丁作品(19)(2005年1月31日〔2006年8月31日追記〕〔2011年10月31日追記〕)

吉岡実の装丁作品(18)(2004年12月31日)

吉岡実の装丁作品(17)(2004年11月30日〔2006年1月31日追記〕〔2014年9月30日追記〕)

吉岡実の装丁作品(16)(2004年10月31日)

吉岡実の装丁作品(15)(2004年9月30日)

吉岡実の装丁作品(14)(2004年8月31日)

吉岡実の装丁作品(13)(2004年7月31日)

吉岡実の装丁作品(12)(2004年6月30日)

吉岡実の装丁作品(11)(2004年5月31日〔2006年6月30日追記〕〔2016年5月31日追記〕)

吉岡実の手掛けた本(1)(2004年4月30日)

吉岡実の対談・座談会集(2004年3月31日〔2010年5月31日追記〕)

吉岡実の装丁作品(10)(2004年2月29日)

吉岡実詩集の基本版面(2004年1月31日)

吉岡実の装丁作品(9)(2003年12月31日)

吉岡実の装丁作品(8)(2003年11月30日)

吉岡実の装丁作品(7)(2003年10月31日)

吉岡実の装丁作品(6)(2003年9月30日)

吉岡実のレイアウト(2)(2003年8月31日〔2004年2月29日追記〕)

吉岡実の装丁作品(5)(2003年7月31日)

吉岡実の装丁作品(4)(2003年5月31日〔2009年4月30日追記〕)

吉岡実の装丁作品(3)(2003年4月30日〔2014年9月30日追記〕)

吉岡実のレイアウト(1)(2003年3月31日)

吉岡実の装丁作品(2)(2003年2月28日〔2011年4月30日追記〕)

吉岡実の装丁作品(1)(2003年1月31日〔2013年9月30日追記〕)

吉岡実の特装本(2002年8月31日〔2002年12月18日追記〕)


吉岡実の装丁作品(132)(2016年9月30日)

〈『エリオット』深瀬基寛 | mixiユーザー(id:8175386)の日記〉に、標題の深瀬基寛《エリオット》(筑摩書房、〔刊行日等は後述する〕)が取りあげられている。大江健三郎《さようなら、私の本よ!》(講談社、2005年9月29日)の「エリオットの詩集として生まれて初めて買った、原詩に翻訳と解説を合わせた深瀬基寛の本」(同書、四九ページ)として、写真付きで紹介されているのだ。日記には「『エリオット』深瀬基寛(昭和三十二年四月十五日再版筑摩書房)、初版が昭和二十九年十月二十五日、〔『さようなら、私の本よ!』の主人公〕古義人=大江健三郎とすれば、大江は1935年生れで昭和二十九年には十九歳。ただし、「淡い緑色」の「布の表紙」ではないし、カバーではなく函付です。同じ「鑑賞世界名詩選」の一冊として昭和二十九年に刊行された『リルケ』高安國世のカバー付が日本の古本屋に出ているから、再版時に外装も含めて変更されたのでしょうか。/残念ながら〔1940年から2014年までの筑摩書房の装幀を多数収めた臼田捷治編著の〕『書影の森』に収録されていませんが、装幀は吉岡実ではなかろうかと勝手に想像しています」と書誌的事項が述べられている。そのうえ、「小林一郎さんのリストにも出ていない本です。たしかに吉岡実のテイストですね」「吉岡実の装幀らしい本を見つけるのも楽しみの一つです」というコメントまであるではないか。このほど深瀬基寛《エリオット〔鑑賞世界名詩選〕》の再版本を実見したので、同書および〔鑑賞世界名詩選〕シリーズについて書く。ときに、上掲文中の「小林一郎さんのリスト」とは当サイトの《吉岡実書誌》の〈W 装丁作品目録〉のことだが、その初め、1941年(昭和16年)から1957年(昭和32年)までを再掲する(◆印は未確認情報を表す)。

1941年 〔昭和16年〕
 吉岡実詩集
《液体》(草蝉舎、1941年12月10日)

1952年 〔昭和27年〕
 ◆グレアム・グリーン(丸谷才一訳)
《不良少年》(筑摩書房、1952年5月20日)

1953年 〔昭和28年〕
 塩田良平・和田芳恵編
《一葉全集〔全7巻〕》(筑摩書房、1953年8月10日〜1956年6月20日)

1955年 〔昭和30年〕
 吉岡実詩集
《静物》(私家版、1955年8月20日)
 〔第1次〕
《太宰治全集〔全12巻別巻1〕》(筑摩書房、1955年10月15日〜1956年9月20日)

1956年 〔昭和31年〕
 和田芳恵
《一葉の日記》(筑摩書房、1956年6月30日)

1957年 〔昭和32年〕
 森茉莉
《父の帽子》(筑摩書房、1957年2月15日)
 和田芳恵
《一葉の日記〔普及版〕》(筑摩書房、1957年4月5日)
 壺井繁治詩集
《風船》(筑摩書房、1957年6月20日)
 ◆〔第2次〕
《太宰治全集〔全12巻別巻1〕》(筑摩書房、1957年10月25日〜1958年9月20日)

見てのとおり、深瀬基寛《エリオット》は挙げられていない。ここで《筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)の〔鑑賞世界名詩選〕シリーズの記載を引く(末尾の3桁の数字は筑摩書房社内の整理のための「原本番号」)。

鑑賞世界名詩選 1954年7月-56年10月/上製
リルケ 高安国世著/1954年7月10日 B6判 292頁 280円 542
万葉集 土屋文明著/1954年9月20日 B6判 234頁 250円 558
エリオット 深瀬基寛著/1954年10月25日 B6判 344頁 450円 562
李白 田中克己著/1955年3月10日 B6判 264頁 300円 595
ぎりしあの詩人たち 呉茂一著/1956年9月30日 四六判 330頁 420円 835
ボードレール 佐藤正彰著/1956年10月26[ママ]
 四六判 212頁 320円 847

同目録は「装幀」者名を採録しているが、ここにはそのクレジットがなく、筑摩の社内装だったことをうかがわせる。そうなると吉岡実装丁の可能性がでてくるわけで、〔鑑賞世界名詩選〕シリーズを検分するに如くはない。

高安国世《リルケ〔鑑賞世界名詩選〕》(筑摩書房、1954年7月10日)のジャケットと表紙 土屋文明《万葉集〔鑑賞世界名詩選〕》(筑摩書房、1954年9月20日)のジャケットと表紙 深瀬基寛《エリオット〔鑑賞世界名詩選〕》(筑摩書房、1954年10月25日)のジャケット 深瀬基寛《エリオット〔鑑賞世界名詩選〕》(筑摩書房、再版:1957年4月15日)の函と表紙
高安国世《リルケ〔鑑賞世界名詩選〕》(筑摩書房、1954年7月10日)のジャケットと表紙(左)と土屋文明《万葉集〔同〕》(同、1954年9月20日)のジャケットと表紙(中)と深瀬基寛《エリオット〔同〕》(同、1954年10月25日)のジャケットと同書の再版(同、1957年4月15日)の函と表紙(右の2点)

田中克己《李白〔鑑賞世界名詩選〕》(筑摩書房、1955年3月10日)のジャケットと表紙 田中克己《李白〔鑑賞世界名詩選〕》(筑摩書房、再版:1957年4月10日)の函と表紙 呉茂一《ぎりしあの詩人たち〔鑑賞世界名詩選〕》(筑摩書房、1956年9月30日)の函と表紙 佐藤正彰《ボードレール〔鑑賞世界名詩選〕》(筑摩書房、1956年10月25日)の函と表紙
田中克己《李白〔鑑賞世界名詩選〕》(筑摩書房、1955年3月10日)のジャケットと表紙と同書の再版(同、1957年4月10日)の函と表紙(左の2点)と呉茂一《ぎりしあの詩人たち〔同〕》(同、1956年9月30日)の函と表紙(中)と佐藤正彰《ボードレール〔同〕》(同、1956年10月25日)の函と表紙(右)

1956年以降に刊行された呉茂一《ぎりしあの詩人たち》と佐藤正彰《ボードレール》(いずれも初版)、田中克己《李白》と深瀬基寛《エリオット》(いずれも再版)の仕様はみな同じで、段ボールの機械函に貼題簽、本体は背がクロスで平のほぼ全面が紙の継ぎ表紙という体裁である(寸法はそれぞれ前掲目録の「B6判」が一八一×一二五、「四六判」が一八二×一二七ミリメートル)。一方、1954年から55年にかけて刊行された先の4冊、すわなち高安国世《リルケ》、土屋文明《万葉集》、深瀬基寛《エリオット》――同書について大江健三郎は「本にはダストカヴァーも掛かっていたが、古義人はそれを外して、当時めずらしかった布の表紙をしげしげと見た。淡い緑色だったものが色褪せて、上のへり[、、]から茶色のしみ[、、]が降りて来ている……」(前掲書、四九ページ)と50年にわたる経年変化を記している――および田中克己《李白》は、上製・布装にジャケットという体裁になる。日記の記載のようにたどっていけば、《筑摩書房図書総目録》の先の4冊(B6判)は再版時に後の2冊(四六判)と同じ体裁に改められたと考えられる(もっとも、高安国世《リルケ》と土屋文明《万葉集》の2タイトルは、再版本が実見できていないばかりか、書誌的事項も書影(画像)も公表されておらず、初版のままで再版されなかったのかもしれない)。そのようなことがシリーズ完結後ならともかく、刊行の途中で起きるものだろうか。(あくまでも仮定だが)「売れゆきが悪いのは装丁のせいだから、外装を一新しよう」といった類の方針転換が筑摩書房の内部でなぜ起きたのか、大いなる疑問だ。だが、われわれにとって最大の問題は、装丁者のクレジットのないこれら2種の装丁が吉岡実の手になるかどうか、という点に尽きる。ところで、第一回発売の高安国世《リルケ》の奥付裏に「鑑賞世界名詩選全10巻」と題する広告があるので、以下に録する(内容紹介を省き、漢字は新字に改めた。行頭に付した◎印は刊行された書目を、×印は刊行されなかった書目を表す。【 】内は小林の補記)。

◎ 深瀬基寛 エリオット 第二回発売 予価三五〇円/〔……〕
◎ 土屋文明 万葉集 第三回発売 予価二五〇円/〔……〕【土屋には別に著書《万葉集私注〔全20巻〕》(筑摩書房、1949年5月〜1956年6月)がある】
  ―――――――――――――――――――
× 大山定一 ゲーテ【大山にはのちに訳書《ゲーテ詩集〔世界詩人全集 1〕》(新潮社、1967年10月20日)がある】
× 吉川幸次郎 杜甫【吉川にはのちに著書《杜甫詩注〔全5冊〕》(筑摩書房、1977年8月〜1983年6月)がある】
× 臼井吉見 芭蕉【臼井にはのちに編著《古典案内〔現代教養全集 26〕》(筑摩書房、1960年12月5日)に収めた〈芭蕉覚え書〉がある】
◎ 佐藤正彰 ボードレール【佐藤にはのちに著書《ボードレール雑話》(筑摩書房、1974年2月20日)がある】
◎ 呉茂一 ギリシア名詩選【呉にはのちに訳書《花冠――呉茂一訳詩集》(紀伊國屋書店、1973年4月15日)がある】
◎ 田中克己 李白【田中にはのちに訳書《天遊の詩人 李白〔中国の名詩 4〕》(平凡社、1982年9月30日)がある】
× 神西清 プーシキン レールモントフ【神西にはのちに中村融との訳書《プーシキン レールモントフ〔世界文学全集(第3期)5〕》(河出書房新社、1958年4月15日)がある】

深瀬の《エリオット》は、〔鑑賞世界名詩選〕のなかでただ一冊、〔筑摩叢書〕に入った(1968年1月26日刊。1966年に深瀬が歿したため、初刊で深瀬や大浦幸男とともに執筆を担当した安田章一郎が〈「後記[あとがき]」のあとがき〉を書いている)。この〔筑摩叢書〕だが、Wikipediaの〈選書〉の説明にあるように、四六判・並製の統一された体裁・装丁で、「単行本を選書化していたシリーズには、名著の廉価再刊を主とした筑摩叢書があった」(同)。文庫本シリーズをもてなかった時代の筑摩書房は、自社の出版物を他社の文庫本の草刈り場にされまいと、紙型の再利用を図ることで低廉な版を〔筑摩叢書〕の名の下に再刊したタイトルが多い(《〈吉岡実〉の「本」》で言えば、西脇順三郎《詩學》ガストン・バシュラール(渋沢孝輔訳)《夢みる権利》など)。〔筑摩叢書〕には他社出版物を拉し来った企画――種村季弘の元版《ナンセンス詩人の肖像》(竹内書店、1969)が《増補 ナンセンス詩人の肖像〔筑摩叢書〕》(筑摩書房、1977)を経て《ナンセンス詩人の肖像〔ちくま学芸文庫〕》(同、1992)となったのは、収まるものが収まるべき処に落ち着いた感さえある――がある一方、自社単行本の場合も初刊のまま(デッドコピーを)起こすのではなく、索引を付加するなどして価値を高めようとしている。もっとも《エリオット》の場合、〔鑑賞世界名詩選〕にあった原詩が割愛されているため、〔筑摩叢書〕は全面新組みとなった。深瀬の《エリオット》は著者自身によれば「本書は「鑑賞世界名詩選」の一冊として、エリオッ卜の処女詩集の巻頭にある『J・アルフレド・プルーフロックの恋歌』から、長篇『荒地』をもふくめて『うつろなる人々』にいたるまでの十三篇の詩を、四巻、全二十六篇のなかから選んで、それに適度の解釈と鑑賞を施し、エリオッ卜の詩にはじめて接する読者をも眼中において、あんまり愉快ではないかも知れないが、ともかくも一冊の読みものを作りあげようとするつもりで書かれたものである。少くともエリオッ卜の詩歴の前半期の詩作の代表的なものは殆んど取り入れたつもりである。冒険はもとより覚悟のまへである」(同書再版本、六ページ。漢字は新字に改めた)。大江が前掲書で引用している〈ゲロンチョン〉本文の訳、冒頭の7行はこうだ。

まかりいでましたこちらは雨なき月の老いの身、
童[わらべ]にもの讀ませつゝ、雨の降るのを待つてます。
われひとたびも激しき戰ひの城門に立ちしことなく
はた降りしきる雨を浴び
鹽澤に膝ひたし、だんびら刀振りかぶり
ぶと[、、]に嚙まれて戰ひしことさらにない。
わたしの家は、ぼろ屋です、(《エリオット》再版本、一二一ページ)

前掲「鑑賞世界名詩選 全10巻」広告では「エリオッ卜研究については第一人者たる著者が、とくに詩人前期の代表的名詩を網羅し、詳細精密な釈解を付した。これは、単なる訳詩、訳解の域に止らず、難解をもつて知られる詩人の思想の深淵に光をあて、はじめてこの二十世紀英国詩壇の最高峰に接する人にもその詩想の根源を伝える」と謳われている。幸いなことにこの企図は迎えられ、1954年度の第6回読売文学賞(文学研究賞)を受賞した(再版本の刊行時期を見るかぎり、同賞受賞が増刷の直接の契機となったわけではないようだ)。
さて本題に戻って、《エリオット》の再版本は吉岡実装丁か否か。郡淳一郎による中島かほるのインタヴュー記事〈吉岡実と「社内装幀」の時代〉(《ユリイカ》2003年9月号)は、吉岡が手がけた全集・叢書類の装丁の公理とも呼ぶべき内容だが、改めてここで振りかえると次のようになる。

 (1)タイトル・巻数・出版社名という必要最小限の文字とワンポイントのカットで構成している。平のタイトルはほとんど横組みの明朝体で、ゴチック体はほとんど使わなかった。
 (2)タイトルの基本になるのが初号あるいは一号活字で、特に初号活字の肉厚の文字のバランスが好きだったのではないか。
 (3)函にファンシーペーパーを貼ると、糊の水分で紙が少し伸びる。函の平に横組みのセンター揃えでタイトルを入れる場合、左右中央に揃えてレイアウトすると、背を起点に紙を貼るから、平の文字が少しずれてしまう。そのズレ加減を計算に入れて文字の位置を決める。「文字が背のほうに寄っているのはいい。小口寄りはいけない」というのが吉岡のアドバイスだった。
 (4)見返しには、淡色白孔雀など薄いクリーム色を好んで使った。ナチュラルな、うるさくない紙。表紙を開いたらそこからすでに本文が始まっている、という意識があったと思う。

これら4項目を〔鑑賞世界名詩選〕の先の4点(上製・布装にジャケット)と再版の2タイトルを含む後の4点(段ボールの機械函に貼題簽、本体は背がクロスで平が紙の継ぎ表紙)に照らしてみると、とりわけ(3)の問題を回避するために貼題簽を採用した後の4点が吉岡実装丁のように見えてならない。本扉にある(1)ワンポイントのカットが先の4点にないこともさることながら、先の4点のジャケットや本扉の幾何学模様はふだん吉岡が用いない手法である。――細かいことだが後の4点の本扉はスミと特色の2色刷りで、その特色は函の貼題簽の色と一致している。すなわち《ぎりしあの詩人たち》が淡い朱色、《ボードレール》が青色、《李白》がオレンジ色、《エリオット》が濃い灰色である。未刊に終わった4タイトル(《ゲーテ》《杜甫》《芭蕉》《プーシキン レールモントフ》)にも固有の特色を割りあてる色彩計画があったはずだが、今となっては知る由もない。さらに面白いことがある。背のクロスが最初の《ぎりしあの詩人たち》だけ青色で、以下の《ボードレール》《李白》《エリオット》の3冊とも同じ赤色なのだ。赤と青を対比させるのは吉岡生来のアプローチで、ほかの処で指摘したことがあるが(〈吉岡実の装丁作品(121)〉参照)、このことに関して私はこう推測する。《ぎりしあの詩人たち》の特色に淡い朱色を選んだ時点で、クロスはその逆をいって青色にした。次の《ボードレール》の特色には青色を選んだので、今度は反対にクロスを赤色にした。ここまではいい。ところがその次の《李白》の特色にオレンジ色を選んだ時点で、資材調達かなにかで差し障りがあって(それとも単に《ボードレール》の赤色を踏襲しただけ?)続けて赤色のクロスを使用したのではないか。たまたま手許に集まった本から軽軽に結論を出すことは危険だが、〔鑑賞世界名詩選〕の本扉や函・表紙の背からだけでもさまざまに経緯が考えられて、興味は尽きない。――

筑摩書房が刊行した〔鑑賞世界名詩選〕の呉茂一《ぎりしあの詩人たち》(1956年9月30日)、佐藤正彰《ボードレール》(1956年10月25日)、田中克己《李白》(再版:1957年4月10日)、深瀬基寛《エリオット》(再版:1957年4月15日)の本扉 筑摩書房が刊行した〔鑑賞世界名詩選〕の呉茂一《ぎりしあの詩人たち》(1956年9月30日)、佐藤正彰《ボードレール》(1956年10月25日)、田中克己《李白》(再版:1957年4月10日)、深瀬基寛《エリオット》(再版:1957年4月15日)の函と表紙の背
筑摩書房が刊行した〔鑑賞世界名詩選〕の呉茂一《ぎりしあの詩人たち》(1956年9月30日)、佐藤正彰《ボードレール》(1956年10月25日)、田中克己《李白》(再版:1957年4月10日)、深瀬基寛《エリオット》(再版:1957年4月15日)――すなわち、本文にいう「後の4点」――の本扉(左)と同・函と表紙の背(右)

さらに後の4点の書名に(1)ゴチック体を使っているのは、先の4点のそれを踏襲したためであって、吉岡がなんの制約もなく書体を選択したなら、あるいは用いることがなかったかもしれない。現に函の書名こそゴチック体だが(平のゴチック体は、色ベタの地に白ヌキ文字を施しているため、意味のある用法である)、表紙の背や本扉の書名に明朝体を使うことでこれに対抗している。(4)の見返しだが、先の4点はクリーム色の本文用紙系。後の4点はごく淡い緑色のファンシーペーパー系で、おそらく表紙の白と同銘柄。これらの諸点を踏まえると、先の4点は吉岡実以外の、後の4点は吉岡実による、いずれも筑摩書房の社内装丁だったと考えられる。よって、冒頭に掲げた〈W 装丁作品目録〉を次のように書き換えたい。

1956年 〔昭和31年〕
 和田芳恵《一葉の日記》(筑摩書房、1956年6月30日)
 ◆呉茂一《ぎりしあの詩人たち〔鑑賞世界名詩選〕》(筑摩書房、1956年9月30日)
 ◆佐藤正彰《ボードレール〔鑑賞世界名詩選〕》(筑摩書房、1956年10月25日)

1957年 〔昭和32年〕
 森茉莉《父の帽子》(筑摩書房、1957年2月15日)
 和田芳恵《一葉の日記〔普及版〕》(筑摩書房、1957年4月5日)
 ◆田中克己《李白〔鑑賞世界名詩選〕》(筑摩書房、再版:1957年4月10日〔初版:1955年3月10日はおそらく吉岡実装丁ではない〕)
 ◆深瀬基寛《エリオット〔鑑賞世界名詩選〕》(筑摩書房、再版:1957年4月15日〔初版:1954年10月25日はおそらく吉岡実装丁ではない〕)
 壺井繁治詩集《風船》(筑摩書房、1957年6月20日)
 ◆〔第2次〕《太宰治全集〔全12巻別巻1〕》(筑摩書房、1957年10月25日〜1958年9月20日)

今回の継ぎ表紙(背:クロス、平:紙)の上製本は、1980年代の吉岡実装丁では登場する回数の多い、ある種スタンダードともいえる仕様体裁だが、現在判明しているかぎり〔鑑賞世界名詩選〕が濫觴である。さらにまた、同じ1980年代に多用した組立函の表表紙・背・裏表紙に題簽を貼り廻らせるスタイルもこれが初登場だ。ところで、伊達得夫の刊行した詩書は田中栞が《書肆ユリイカの本》(青土社、2009)で明らかにしたように、その斬新な装丁で今日の私たちをも魅了するが、吉岡が手掛けた一葉や太宰の全集といった、いかにも筑摩書房らしい貼函入りの上製本に対して、同書房における詩書の装丁に新生面を拓く要因となったのではないか(例えば《詩の本〔全3巻〕》)。今回見てきた書物には、まぎれもなく書肆ユリイカ本から学んだエッセンスが凝縮されている。それを導入した人物は、やはり吉岡実を措いて外にあるまい。吉岡は〔鑑賞世界名詩選〕で得た手応えをもとに、その詩書装丁のラインを自著の詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)の函やアンリ・ミショオ(小海永二訳)《プリュームという男》(同、1959)の表紙などで大胆に伸長してゆくことになる。


吉岡実撰《河原枇杷男句集》(2016年7月31日)

吉岡実が河原枇杷男の句について書いた最もまとまった文章は〈河原枇杷男集〉の解説〈枇杷男の美学〉(初出は《現代俳句全集〔第5巻〕》立風書房、1978年1月5日。なお本稿執筆者宛の1999年4月15日付河原枇杷男書簡に「「枇杷男の美学」は『現代俳句全集』より『「死児」という絵』(1988年・筑摩叢書)の「枇杷男の美学」の方が、抄出句の表記がより正確です」と見える)である。吉岡は枇杷男の作品の特異性を説明するのに、まず枇杷男の師である永田耕衣の「その呪術的な表現にも、操作の跡方が優秀無類な頭脳のはたらきの跡方らしく歴然としすぎるかたむきがある」という評を含む、第一句集《烏宙論[うちゆうろん]》(俳句評論社、1968)の序文の一節の引用から始めている。吉岡は「《烏宙論》二百句のなかでも、この六句は秀作であり、枇杷男の全作品のなかの代表作といってもよいだろう」として、次の句を掲げる。(◇以下は参照のために便宜的に振った番号。続けて、後出《河原枇杷男句集》掲載形と同じ場合は◎印、句形や表記が異なる場合は○印のあとに同書掲載形を掲げ、同書に収録されていない場合は×印を付けた。パーレン内の数字は同書掲載ページ)

  外套やこころの鳥は撃たれしまま◇1◎(10)
  心身の大部分は水碧揚羽◇2×
  母の忌の蛍や籠の中を飛ぶ◇3○母の忌の螢や籠の中を飛ぶ(16)
  空蝉の両眼濡れて在りしかな◇4○空蝉の兩眼濡れて在りしかな(10)
  死の襞をはらへばひとつ籾落ちぬ◇5◎(12)
  野菊まで行くに四五人斃れけり◇6◎(17)

これには元となる未刊行の文章がある。仮に〈河原枇杷男句集《烏宙論》愛語抄〉と名付けた書簡文である(初出は《琴座》226号〔1969年2月〕、原題〈続烏宙論愛語抄〉)。同文を引く。

 句集「烏宙論」通読して独自な世界をつくられているのに感銘、一言でいえば、空【胴→洞】の美学と思います。好きな句を抄します。
 骨ごときものを蔵して梨静か
 外套やこころの鳥は撃たれしまま◇1
 心身の大部分は水碧揚羽◇2
 めし時暖く断崖に母尾を垂らす
 母の忌の蛍や籠の中を飛ぶ◇3
 野菊まで行くに四五人斃れけり◇6(同誌、一二ページ)

〈枇杷男の美学〉に見える「当時私は一本を贈られて、感想を求められた。その文章が今見つからないので、いかなることを書いたかは忘れたが、ただ一つ「空洞の美学」であるといったことが記憶に残っている。なぜ私は「空洞の美学」と断定したのだろうか――。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一三〇ページ)の「感想」がこれだ。吉岡は《烏宙論》からさらに10句を掲げている。

  鏡をはみ出る顔の部分霙れけり◇7×
  滝は其の内部で火の粉消しながら◇8×
  冬暗き渚は鈴を秘蔵せり◇9○冬暗き渚は鈴をひとつ秘む(10)
  身の中のまつ暗がりの蛍狩り◇10○身のなかのまつ暗がりの螢狩り(9)
  身を出でて杉菜に跼む暗きもの◇11◎(13)
  萍の一つは頭蓋のなかに浮く◇12○萍の一つは頭蓋のなかに泛く(17)

  幼時父は何を夢みしとろろ飯◇13×
  淵に来てしばらく水の涼むなり◇14○淵に來てしばらく水の涼むなり(14)
  夢の世や梨は東に火は西に◇15×
  死の影を三尺さがつて穂絮かな◇16×

ときに、吉岡実が河原枇杷男の句と出会ったのは1967年、高柳重信が編集する《俳句評論》の第三回俳句評論賞・俳句部門の審査員(他に高屋窓秋・高柳重信・塚本邦雄・永田耕衣・三橋鷹女)としてであろう(吉岡が高柳に請われて俳句評論賞の選考委員となったのが1962年8月)。第三回応募作品から吉岡が選んだのは寺田澄史〈がれうた航海記〉(3点)で、次いで推した河原枇杷男〈虚空研究〉(1点)を「古典派の風格がある」と評して、
  海の場所に春の海在り妻抱くや
  黒髪や水を塒の秋の水
  闇老いてうきうきと滝抱きにけり
を引いている。なお吉岡は、この《俳句評論》72号(1967年9月)の〈俳句評論賞決定まで・経過報告と選後評〉で、

 佐藤輝明=句集に《倭》(不識書院、1994)、《霊異記》(同、1996)
 奥山甲子男=句集に《飯》(海程社、1986)、《水》(海程新社、1991)、《野後》(現代俳句協会、1995)
 小野永津子
 松岡貞子=句集に《桃源》(端渓社、1986)
 関憲二
 福島国雄
 津田美之
 浜本不石
 三橋孝子
 大岡頌司=句集に《大岡頌司全句集》(浦島工作舎、2002)

の句に触れているが、この選評後も言及したのは寺田澄史と河原枇杷男だけだろう。さて、〈枇杷男の美学〉で第二句集《密[みつ]》(白桃窟、1970)から引いたのは次の11句。

  蛇いちご魂二三個色づきぬ◇17◎(24)
  或る闇は蟲の形をして哭けり◇18◎(28)
  抱けば君のなかに菜の花灯りけり◇19◎(22)
  元人間かやつり草に跳びつきぬ◇20◎(26)
  金亀子死はかがやきて居りしかな◇21○金龜子死はかがやきて居りしかな(23)
  頭在る寂しさかささぎの居る淋しさ◇22◎(30)

  ほととぎす死へ七曲り七峠◇23◎(26)
  少年を打てば薊の香を発す◇24○少年を打てば薊の香を發す(25)
  誰も背に暗きもの負ふ蓬摘み◇25◎(23)
  鶯や死なねば君の老いゆくも◇26◎(24)
  我みだれ夕焼乱れて居りしかな◇27○我みだれ夕燒亂れて居りしかな(26)

未刊行散文〈河原枇杷男句集《密》反鏡鈔〉(《琴座》249号〔1971年3月〕、原題〈〈密〉反鏡鈔〉)には上掲「ほととぎす」◇23、「元人間」◇20、「抱けば君の」◇19、「金亀子」◇21、「頭在る」◇22のほか

  氷面鏡水より孵りきし母に◇28×
  猫窃かに煙を分娩して居りぬ◇29○猫ひそかに煙を分娩して居りぬ(29)
  姉【稀→秘】かに蝮に復る日を待てり◇30○姉ひそかに蝮に復る日を待てり(27)
  秋風に孵りて紐の動くかな◇31○秋風に孵りて紐のうごくかな(28)

が引いてあり、「いずれも妖気に満ちた佳品と思いますが、ことに最後に置かれた「かささぎ」の句は、絶唱だと思います。人間の頭とかささぎの頭が双頭の影をみせて、切なく美しい相をつくっているから」(同誌、二五ページ)とある。第三句集《閻浮提考[えんぶだいかう]》(序曲社、1971)からは次の5句。

  ここ過ぎて火の巷あり鬼薊◇32◎(33)
  西方を紐来つつあり巻貝在り◇33×
  死ぬや虻死のよろこびは仰向きに◇34○死ぬや虻死のよろこびは仰向けに(42)
  紐つひにおのれに絡む月夜かな◇35×
  秋風やみな十一面の草の原◇36◎(42)

吉岡は未刊行散文〈河原枇杷男句集《閻浮提考》口碑〉(《琴座》257号〔1972年1月〕、原題〈「閻浮提考」口碑〉)で「西方を紐来つつあり巻貝在り◇33」一句を取りあげて、次のように書いている。

 河原枇杷男句集「閻浮提考」には、死と紐の句が多い。この作家の志向する美学に、私は同感するが、しかし「死」を詠みすぎるのは一考を要する。紐のイメージは、私も好きなので紐八句のなかからこの一句を採る。
 この濁世のわれら人間世界をはるばる通過して、このひとつの紐は夢の座へ現われたように思われる。そして実用性を超絶し、肉体の手の届かぬところで、自立と転身を試みているようだ。この紐は果して地上を這ってきたのだろうか。或は空間を飛行してきたのだろうか。損傷や風化もなく、白く発光さえしているように見える。しかも計るべき長さ[・・]はすでに失われている。(同誌、一二ページ)

ひとり枇杷男に限らず、吉岡がある具体的な一句について論じた最も詳細な文章のひとつがこれだ。〈枇杷男の美学〉に組みこまれなかった確たる理由はわからないが、枇杷男句の評として逸するには惜しい章句である。第四句集《流灌頂[ながれくわんぢやう]》(俳句評論社、1975)からは次の6句。

  鳥帰る一羽は天の裏門より◇37○鳥歸る一羽は天の裏門より(46)
  東寺暗し一匹の蝶天にゐて◇38◎(49)
  穂絮一つ夢窓国師を逐ひゆけり◇39○穗絮一つ夢窓國師を追ひゆけり(55)
  洪水や梁にはえゐるひそかな毛◇40◎(55)
  空海忌箒は腐爛しつつ在り◇41◎(57)
  てふてふや水に浮きたる語彙一つ◇42◎(50)

〈枇杷男の美学〉はここで終わるが、河原枇杷男にはこのあと第五句集《訶梨陀夜[かりだや]》(ぬ書房、1980)、第六句集《蝶座[てふざ]》(序曲社、1987)、〈大和志[やまとし]〉(未刊、1989〜1995)、〈喫茶去[きつさこ]〉(未刊、1987〜1996)がある。これらを収めた総合句集《河原枇杷男句集》(序曲社、1997年9月15日)は吉岡実歿後の刊であり、最後に読んだ句集は《蝶座》となる。吉岡が《序曲》15・16号(1987年11月)に寄せた〈『蝶座』の十句〉に次の句が見える。

  誰かまた銀河に溺るる一悲鳴◇43◎(77)
  何故か數へる墓原の蝶重信逝き◇44○何故かかぞへる墓原の蝶重信逝き(81)
  冬菫この世四五日離れたきに◇45◎(91)
  澤庵忌白湯飲みて又書きはじむ◇46◎(88)
  てふてふや天を羂索[けんじやく]よぎりつつ◇47○てふてふや天を羂索よぎりつつ(91)
  齡かな摘みて眺むる韮の花◇48◎(82)
  蜆蝶どの枝先も夢なりき◇49◎(102)
  鶯や画餅をくれし父の恩◇50◎(95)
  おほむらさき太虛[おほぞら]も又年經たる◇51◎(104)
  稻の花みな生き過ぎし寂しさに◇52◎(104)

河原は同号の〈蝶卍日録〉で吉岡の書簡を引いている。そこには「〔……〕さて「蝶座十句」ここに同封いたします。一読して、三十六句を抽出し、ほぼ一か月後に、再読してこの十句を選びました。いずれも秀吟だと思います。捨てがたい句を若干掲げます」(同誌、二三ページ)として

  眞向ひにゐる死や鶯餅買うて來[こ]◇53◎(85)
  蝶の晝阿修羅の一指も匂ふらむ◇54◎(77)
  墓の冥さに兜子馴れしや更衣◇55◎(89)
  故郷や今も泣きじやくる枯桑や◇56◎(96)
  春深しふと柱嗅ぐ寂しさも◇57◎(90)
  落穂拾ふ天に一句を隠匿し◇58○落穗拾ふ天に一句を隱匿し(96)

6句が見える。なお河原には《河原枇杷男句集》の〈喫茶去〉を句集《蝶座》のあとに繰りさげて、〈阿吽[あうん]〉(未刊)を「『喫茶去』以降の句を蒐めて、終の一集とするもの」(〈覺書〉、《河原枇杷男全句集》序曲社、2003年9月23日、一七四ページ)とした「墓碑」(八句集七三〇句を収めた全句集を著者はこう呼ぶ)がある。最後に、自身の忌日を詠みこんだ句と吉岡実追悼句を同書から引こう。

  枇杷男忌や色[しき]もて余しゐる桃も〔《蝶座》〕
  実忌や手帖に貘の住所など〔〈阿吽〉〕

〔付記〕
本稿に引いた「〔《蝶座》を〕一読して、三十六句を抽出し、ほぼ一か月後に、再読してこの十句を選びました」に見えるように、吉岡は句集を読んで、まず好きな句を多めに抽出し、そこからさらに指定の数になるよう精選したようだ(「再読」の対象が《蝶座》全巻なのか、抽出した三十六句なのかは微妙だが)。ところで私は文庫版などの流布本の場合、気になった箇所のあるページの上部の角を(ノンブルが見えるように)折って目印としている。ウィキペディアに「本や雑誌などのすみを折り曲げることによって、しおり代わりに活用すること。角折れとも言う」とある「ドッグイア(Dog ears、Dog-ear)」がそれだが、詩書や限定版など稀少な本の場合、付箋を貼って、転記やコピーなどの作業が終わったら、すぐに剥がす。つまり、基本的に書きこまない。詩書を中心とする吉岡実旧蔵の本を何冊か見たかぎり、いわゆる手沢本はなかった。もっとも、気に入った句に○印やレ印のチェックをほどこすのは読書人のよくすることだから、吉岡がこうした方法をとらなかったとは断言できない(散文を引用する場合、吉岡が典拠にどんな印を付けたかにも多大な興味を覚える)。さて〈枇杷男の美学〉には「〔〈河原枇杷男句集《烏宙論》愛語抄〉が〕今見つからないので、いかなることを書いたかは忘れたが、ただ一つ「空洞の美学」であるといったことが記憶に残っている」とある。これは吉岡の韜晦ではないだろうか。つまり《烏宙論》の本質を「空洞の美学」に代表させて、初読のときの撰句をなかったことにするための。〈枇杷男の美学〉で最多の十六句を引いた《烏宙論》からの句に「骨ごときものを蔵して梨静か」「めし時暖く断崖に母尾を垂らす」がないのは、この二句はやめておこう、という意思の現れにほかならない(二句とも枇杷男自選の《河原枇杷男句集》《河原枇杷男全句集》に見えないのは、偶然ではないだろう)。ひとたび選んだものを消しさることはできない。だが、私は如上のように考えて、例外的に上掲二句に番号を振ることをしなかった。この二句を算入すれば、吉岡が撰した枇杷男句は合計六十句ということになる。


吉岡実編《北原白秋詩歌集》(2016年6月30日)

架空の書物、吉岡実編《北原白秋詩歌集》について考えてみよう。吉岡が白秋の短歌に関して最初に発表した文章は〈救済を願う時――《魚藍》のことなど〉(初出は《短歌研究》1959年8月号)である。それはこう始まる。

 私はこの春五月、四十歳で結婚した。世間の人は晩婚だというが、私には晩いとも早いとも思えない。たぶん丁度よい時期だと信じている。とにかくまわりの幾人かが祝ってくれた。その人たちにささやかでも心のこもったものをくばりたいと思った。私たちにとっても、他の人たちにとっても生涯記念になるものを。私の未刊の詩を小冊子にしようかとも考えたが、いささか特異にすぎてふさわしく思えなかった。そこで二十代前後期につくった短歌で現存している四十七首を文庫判の小冊子にした。貧しくも父と母と暮していた幸せな日々にうまれた、この幼稚な短歌に《魚藍》と名付けた。それは私家版七十部限定(非売)で、結婚披露の日を発行日とし、妻になるべき人を刊行者とした。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、六四ページ)

続けて短歌十二首と旋頭歌二首を引いてから「一読して誰の影響をうけたかは、すくなくとも短歌の好きな人にはわかるであろう。このなかのほとんどが、北原白秋の《花樫》(桐の花・雲母集・雀の卵・葛飾閑吟集などから抄したもの)、やや違うがその頃、愛読した《佐藤春夫詩鈔》の抒情が色濃く現われているから。〔……〕極端に美意識のつよい私は、誰よりも《桐の花》の歌人白秋へ傾倒した。むしろ淫したといえようか。ただことわっておきたい、《邪宗門》や《思ひ出》、それに《水墨集》の詩人白秋ではないことを。いってみれば私は白秋の詩には耽れなかった。ひたすら《桐の花》と《雲母集》のみへ帰依していた」(同書、六五〜六六ページ)と書く。吉岡がここで掲げる白秋の短歌は次の十二首である。(◇以下は参照のために便宜的に振った番号)

  《桐の花》から
  いやはてに欝金ざくらのかなしみのちりそめぬれば五月[さつき]はきたる◇1
  まだ明る釣鐘草の夢ならむ夕とどろきの遠くきこゆる◇2
  いそいそと広告塔も廻るなり春のみやこのあひびきの時◇3
  長廊下いろ薄黄なる水薬の瓶ひとつ持ち秋は来にけり◇4
  どくだみの花のにほひを思ふとき青みて迫る君がまなざし◇5
  《雲母集》から
  鱶[ふかざめ]は大地の上は歩かねばそこにごろりところがりにけり◇6
  大きなる手があらはれて昼ふかし上から卵をつかみけるかも◇7
  畑打てば閻魔大王光るなり枯木二三本に鴉ちらばり◇8
  相模のや三浦三崎は屁の神を赤き旗立て祭れるところ◇9
  《雀の卵》のうちの〈葛飾閑吟集〉から
  鳰鳥の葛飾小野の夕霞ねもごろあかし春もいぬらむ◇10
  月明き浅夜の野良の家いくつ洋燈つけたり馬鈴薯の花◇11
  いよいよ寒く時雨れ来る田の片明り後なる雁がまだわたる見ゆ◇12

吉岡がとりわけ愛したのは白秋初期の短歌だった。〈救済を願う時〉はこう終わっている。

 昭和十六年の夏、私は出征することになった。リルケの《ロダン》と万葉集と《花樫》がとぼしい私の持物だ。満洲へやられた。遺書のつもりで、それまでに書いた詩篇【三十三→三十二】を《液体》一巻に編んだ。幸い遺書にならず、戦後、《静物》、《僧侶》を刊行できる幸運にめぐまれた。
 私が今日まで読んできた幾千の短歌、幾千の俳句、幾千の詩章、そのなかの幾つかは暗誦できるかも知れないが――。

  ああ五月[さつき]蛍匍ひいでヂキタリス小[ち]さき鈴ふる和魂[にぎたま]の泣く◇13

 奇妙なことだが白秋のこの一首が呪文のように、口をついて出る。いつどこということはなく。きっと私はその時、ゆえ知らぬものに救済を願っているにちがいない。(同書、六八ページ)

この随想を踏まえてのことだろう、宮柊二主宰の《コスモス》1972年11月号〈特集・北原白秋――没後三十周年記念〉は、吉岡の〈《花樫》頌〉を載せている(同特集の筆者は、河盛好蔵・村野四郎・寺田透・吉岡・山本太郎・北原隆太郎・林安一・片山貞美・田谷鋭・宮柊二ほか)。この随想は《「死児」という絵》に収録された佳品だが、初出誌における白秋の短歌は以下のとおり。

  春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外[と]の面[も]の草に日の入る夕べ◇14
  銀笛のごとも哀[かな]しく単調[ひとふし]に過ぎもゆきにし夢なりしかな◇15
  いやはてに鬱金[うこん]ざくらのかなしみのちりそめぬれば五月[さつき]はきたる◇16
  かくまでも黒くかなしき色やあるわが思ふひとの春のまなざし◇17
  あなかそか父と母とのふたはしら早や寝ねましぬ宵の寒きに◇18
  父母の寂しき閨の御目ざめは茶をたぎらせて待つべかりけり◇19
  雉子ぐるま雉子は啼かねど日もすがら父母恋し雉子の尾ぐるま◇20
  月明き浅夜の野良の家いくつ洋燈つけたり馬鈴薯[じやがいも]の花◇21
 +ああ五月[さつき]螢匍ひいでヂキタリス小さき鈴ふる和魂[にぎたま]の泣く◇22
  螢飛び蟾蜍[かへろ]鳴くなりおづおづと忍び逢ふ夜の薄霧の中◇23
 +長廊下いろ薄黄[うすき]なる水薬の瓶ひとつ持ち秋は来にけり◇24
  いつしかに春の名残となりにけり昆布干場のたんぽぽの花◇25
  あかしやの花咲く見れば水の上[へ]にはかなき夏の夢もやどりぬ◇26
 +鱶[ふかざめ]は大地の上は歩かねばただにごろりところがされにけり◇27
 +大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも◇28
 +畑打てば閻魔大王光るなり枯木二三本に鴉ちらばり◇29
 +相模のや三浦三崎は屁の神を赤き旗立て祭れるところ◇30
  雨ふれば青き御[み]空ぞなつかしきその青空も寂しと思へど◇31
  鳰鳥[にほどり]の葛飾小野の夕霞ねもごろあかし春もいぬらむ◇32
  昼ながら幽かに光る螢一つ孟宗の藪を出でて消えたり◇33
  霧雨のこまかにかかる猫柳つくづく見れば春たけにけり◇34

+印を付けた六首は《「死児」という絵》では省かれている。いずれも先の〈救済を願う時――《魚藍》のことなど〉に引かれているゆえに、重複を避けたのだろう。逆に言えば、これらこそ吉岡鍾愛の白秋短歌だった。とりわけ「ああ五月[さつき]蛍匍ひいでヂキタリス小[ち]さき鈴ふる和魂[にぎたま]の泣く」(《桐の花》では「ああ五月[さつき]蛍匍ひいでヂキタリス小[ち]さき鈴ふるたましひの泣く」)は吉岡の脳裡に深く刻まれた一首だった。――ここで余談を少し。《桐の花》は短歌四四九首と「小歌論」「詩文」六篇を収める。吉岡実の珈琲好きは若年からのものだが、《桐の花》の文章〈昼の思〉に影響された節がなくもない。ちなみに〈昼の思〉は「ああ五月」のヴァリエーションともいえる「魔法つかひ鈴振花[すずふりばな]の内部[なか]に泣く心地こそすれ春の日はゆく」のすぐあとに置かれている。同文を適宜、抄する。

 六月が来た、なつかしい紫のヂキタリスと苦い珈琲の時節、赤い土耳古帽の蛍が萎え、憂鬱な心の蟾蜍[かへろ]がかやつり草の陰影[かげ]から啼き出す季節――而してやや蒸し暑くなつたセルのきものの肌触りさへまだ何となく棄て難い今日此頃の気惰[けだ]るい快さに、ふつくらと軽いソフアに身を投げかけて、物憂げに煙草をくゆらし、女を思ひ、温かい吐息と、真昼マグネシヤの幻光の中に幽かな黄昏の思想を慕ひ恍惚の薄明[ツワイライト]を待つわかい男の心ほど悩ましいものはあるまい。
 〔……〕
 珈琲の煙はとりもなほさず心の言葉である。匂である。色であり音楽である。而して渋くて苦い珈琲末は心の心、霊魂の生地[きじ]。匙は感覚。凡て溶かして掻き廻す観相の余裕[ゆとり]から初めてとりあつめた哀楽のかげひなたが軟かな思の吐息となつてたちのぼる。もの思はしい中に限りもない色と香の諸相をひき包んで六月の光線に美しい媚のあや糸を縺[もつ]らす苦い珈琲の風味は決して自己[われ]を忘れたロマンチツクな空の幻でも単純な甘いセンチメントの歎きでもない。真実、珈琲から珈琲の煙が立つやうに内心の深みから素直に心の吐息を掻き立たせてその融合渾沌のさかひに怪しい芸術の矜持と魔力とを物静かに薫らし得る純一な詩人の歓会はまた何にもかへがたい真言秘密の妙諦である。世に天才の名を恣にする人達の間にも真にわが霊の匂を知り、言葉のかげひなた、ものの媚、色あひ、幽かな色触香響の末の末まで嗅ぎわけて常に怪しい悲念にかき暮れ得る高貴な心の所有者[もちぬし]は極めて少い。況して世のつねのかいなでびとが心をや。芸苑の中にしてなほ荒削りの珈琲末を悦び、但しは心と言葉の距離徒に遠くしてそのみなもとの苦き香気を忘れたつやもない思想家と偽りものの工人の世には多さよ。
 珈琲、珈琲、珈琲の煙はまだ冷[さ]めもやらずにたちのぼる。紫いろの息づかひ、ロダンの線画……
 〔……〕
 私は思ふ、男をんなの夏の中夜の秘戯[たはむれ]をかういふ昼の悩ましさにかろく描きつづけてゐた歌麿の気持、まだ暮れもやらぬ昼の舞台に黄色いラムプを点[とも]す若い女形[おやま]の心持、白芥子の花に纏[まつは]る昼の幽霊、投げやりな昼間の三味線、湯上りの肌に匂ふあかい石竹、而して白日の光にうち揚ぐる夜の花火の紅緑・翡翠・土耳古玉・銀光の紫……目に見えぬ星と宝玉の一悲劇、眩耀と消滅の夢。
 而してまた公園の昼のアーク燈を、白昼のシネマトグラフの瞬き、或は薄い面紗のかげに仄かに霞む人妻の愁はしい春の素顔を。
 〔……〕

引用文末尾の「薄い面紗のかげに仄かに霞む人妻の愁はしい春の素顔」は、そのまま吉岡の詩篇〈面紗せる会話〉(@・12)を想わせる。本題に戻ろう。――晩年の吉岡が白秋の詩歌に触れた〈白秋をめぐる断章〉(初出は《白秋全集〔第17巻〕》月報、1985年9月)は「1 西脇順三郎詩の中の白秋」「2 『桐の花』と『魚藍』」「3 詩歌懇話会の夕べ」「4 詩「蘆雁[ろがん]」と「水上[みなかみ]」」から成るが、その「2」には次の三首か引かれている。

  春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外[と]の面[も]の草に日の入る夕◇35
  いやはてに鬱金[うこん]ざくらのかなしみのちりそめぬれば五月[さつき]はきたる◇36
  ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはじめて心顫ひそめし日◇37

「ヒヤシンス」は〈《花樫》頌〉に見えなかったが、前の二首同様《桐の花》から。「3」では、1940年(昭和15年)3月、丸の内で三好達治の詩歌懇話会賞授賞式を兼ねた講演会(講師は島崎藤村と萩原朔太郎、予定の北原白秋は急病で欠席)を聴いたが、白秋とは生涯まみえなかったことが語られる。だが、なんといっても〈白秋をめぐる断章〉で注目すべきは、かつて「いってみれば私は白秋の詩には耽れなかった」と書いた吉岡が初めて白秋詩への傾倒を表明した「4」である。その全文を掲げる。

4 詩「蘆雁[ろがん]」と「水上[みなかみ]」

  洲[す]のはなの吹きさらしに影して、
  かれらは四五羽の蘆雁[ろがん]であつた。
  かれらは𩛰[あさ]つてゐた、たまさかの陽[ひ]の明[あか]りを、
  つくづく眺めてゐた、遥かな雲ぎれの青みを、
  時雨[しぐれ]がうしろにほそく残つてゐた。
  かれらはそれにも心をひかれてゐた。
  かれらは四五羽の蘆雁であつた、
  大きな、けれども白い月の出を待つ
  寒い四五羽の蘆雁であつた、
  満汐[みちしほ]どきの、時をり啼[な]きかはす蘆雁であつた。

 「蘆雁」は、『水墨集』のなかの小品である。西脇順三郎編『北原白秋詩集』にも、山本太郎編『北原白秋詩歌集』にも収録されていない。だから、代表作とは言えないのだろう。しかし、吉田一穂編『白秋詩抄』(岩波文庫)には、入っている。それは、『白秋抒情詩抄』が別に編まれている故、前二著よりはるかに多数の作品が採られているから、当然かもしれない。香気と静寂をひめて、私のもっとも好きな詩篇である。

  水上[みなかみ]は思[おも]ふべきかな。
   苔清水[しみづ]湧[わ]きしたたり、
   日の光透[す]きしたたり、
   橿[かし]、馬酔木[あしび]、枝さし蔽[おほ]ひ、
   鏡葉[かがみは]の湯津真椿[ゆづまつばき]の真洞[まほら]なす
  水上[みなかみ]は思ふべきかな。

 「水上」は、詩集『海豹と雲』の冒頭を飾る佳篇である。六行の詩句が五つ連なり、全体で三十行しかこれはない。しかし、『古事記』や『万葉集』の蒼古たる世界に通じているようだ。上掲の第一節に続いて、もっとも幽玄なる第三節を抽出する。

  水上[みなかみ]は思ふべきかな。
   雲、狭霧[さぎり]、立ちはばかり、
   丹[に]の雉子[きぎし]立ちはばかり、
   白き猪[ゐ]の横伏[よこふ]し喘[あへ]ぎ、
   毛の荒物[あらもの]のことごとに道塞[ふた]ぎ寝[ぬ]る
  水上[みなかみ]は思ふべきかな。

 私は遅まきながら、『古事記』や柳田国男『遠野物語』や石田英一郎『桃太郎の母』などの「神話」や「民間伝承」に、心惹かれるようになった。私のもっとも新しい詩集『薬玉』は、それらとフレイザー『金枝篇』の結合に依って、成立しているのだ。(《「死児」という絵〔増補版〕》、三〇三〜三〇五ページ)

公刊された文章で吉岡が言及したのはこれらの白秋の詩歌集だが、日記や談話では《白秋小唄集》(アルス、1919)と《篁》(梓書房、1929)、《白南風》(アルス、1934)、《橡》(靖文社、1943)に触れる一方で、《桐の花》や《雲母集》を単行本や白秋全集で(つまり《花樫》以外で)読んだという形跡はない。ないけれど当然、読んだことだろう。――〈救済を願う時〉に引いてある「鱶[ふかざめ]は大地の上は歩かねばそこにごろりところがりにけり◇6」は不思議なことに、《花樫》ではなく、歌集《雲母集》収録形(ただし、歌集では「大地[だいち]」「歩[ある]」とルビが多い)である。一方〈《花樫》頌〉初出における同歌は、当然のことながら《花樫》収録の「鱶[ふかざめ]は大地の上は歩かねばただにごろりところがされにけり◇27」である。なぜこのようなことが起きたのか不明だが、この一事をもってしても、吉岡が《花樫》以外の刊本で《雲母集》を読んでいたことは確実である。――だがそれにもかかわらず、満洲で兵役についていた4年間、繰りかえし読んだ《花樫》の本文こそ吉岡にとっての白秋短歌だった。吉岡の所持し愛読した《花樫》がどの版だったのか、残念ながら改造文庫(初版は1930年9月28日)だったことしかわからない。吉岡が引いた白秋短歌の典拠として、《白秋全集〔第8巻〕》(岩波書店、1985年7月5日)所収の白秋自選歌集《花樫》(改造社、1928年10月3日)の本文を掲載順に挙げ、吉岡の随想中の表記と異なる歌は赤字で表示した(振り仮名の有無と漢字の字体の相違は校合の対象としなかった)。

  春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外[と]の面[も]の草に日の入る夕ベ◇14・35
  銀笛のごとも哀[かな]しく単調[ひとふし]に過ぎもゆきにし夢なりしかな◇15  
  いやはてに欝金[うこん]ざくらのかなしみのちりそめぬれば五月[さつき]はきたる◇1・16・36
  ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはじめて心顫ひそめし日◇37
  かくまでも黒くかなしき色やあるわが思ふひとの春のまなざし◇17
  まだ明[あか]る釣鐘草の夢ならむ夕とどろきの遠くきこゆる◇2
  ああ五月[さつき]蛍匍ひいでヂキタリス小[ち]さき鈴ふる和魂[にぎたま]の泣く◇13・22
  いつしかに春の名残となりにけり昆布[こんぶ]干場[ほしば]のたんぽぽの花◇25
  あかしやの花咲く見れば水の上[へ]にはかなき夏の夢もやどりぬ◇26
  蛍飛び蟾蜍[かへろ]鳴くなりおづおづと忍び逢ふ夜の薄霧の中◇23
  いそいそと広告燈も廻るなり春のみやこのあひびきの時◇3
  長廊下いろ薄黄[うすき]なる水薬[すゐやく]の瓶ひとつ持ち秋は来にけり◇4・24
  どくだみの花のにほひを思ふとき青みて迫る君がまなざし◇5
  鱶[ふかざめ]は大地の上は歩かねばただにごろりところがされにけり◇6・27
  大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも◇7・28
  畑打てば閻魔大王光るなり枯木二三本に鴉ちらばり◇8・29
  相模のや三浦三崎は屁の神を赤き旗立て祭れるところ◇9・30
  雨ふれば青き御空[みそら]ぞなつかしきその青空も寂しと思へど◇31
  あなかそか父と母とのふたはしら早や寝[い]ねましぬ宵の寒きに◇18
  父母の寂しき閏の御目ざめは茶をたぎらせて待つべかりけり◇19
  雉子ぐるま雉子は啼かねど日もすがら父母恋し雉子の尾ぐるま◇20
  鳰鳥[にほどり]の葛飾[かつしか]小野[をの]の夕霞ねもごろあかし春もいぬらむ◇10・32
  月明き浅夜の野良の家いくつ洋燈[ランプ]つけたり馬鈴薯[じやがいも]の花◇11・21
  昼ながら幽かに光る蛍一つ孟宗の藪を出でて消えたり◇33
  いよよ寒く時雨[しぐ]れ来る田の片明り後[あと]なる雁がまだわたる見ゆ◇12
  霧雨[きりあめ]のこまかにかかる猫柳つくづく見れば春たけにけり◇34

北原白秋自選歌集《花樫〔改造文庫〕》(改造社、1933年7月12日〔第26刷〕)と同(同、1936年5月27日〔第29刷〕)の表紙
北原白秋自選歌集《花樫〔改造文庫〕》(改造社、1933年7月12日〔第26刷〕)と同(同、1936年5月27日〔第29刷〕)の表紙

吉岡実は北原白秋の第一歌集《桐の花》(東雲堂書店、1913)や第二歌集《雲母集》(阿蘭陀書房、1915)などを抄した《花樫〔改造文庫〕》の短歌で文学に目覚めた。そして最後の高峰《薬玉》の背景に白秋の詩集《水墨集》(アルス、1923)や《海豹と雲》(アルス、1929)が存在することを明らかにした。《白秋全集〔全39巻・別巻1巻〕》(岩波書店、1984年12月〜1988年8月)は吉岡が「休筆」して来るべき世界を模索していた1980年代初めにはまだ出ていなかったから、おそらく西脇順三郎編《北原白秋詩集〔青春の詩集/日本篇M〕》(白凰社、1965)で白秋の詩に触れなおしたことが大きかっただろう(同書は《邪宗門》から25篇、《思ひ出》から30篇、《東京景物詩 及其他》から9篇、《畑の祭》から2篇、《真珠抄》から6篇、《白金ノ独楽》から10篇、《水墨集》から24篇、《海豹と雲》から20篇、《新頌》から5篇、以上131篇を収める)。吉岡が初期白秋の二詩集《邪宗門》(易風社、1909)と《思ひ出》(東雲堂書店、1911)に言及していないのが惜しまれるが、西脇順三郎がそうしたように北原白秋の詩、(そして西脇はこれを編んでいないが)短歌を一巻に編んだなら、初期の歌集、後期の詩集が大半を占めたのではあるまいか。奇しくもそれは、吉岡自身の詩歌集《昏睡季節》(草蝉舎、1940)から詩集《薬玉》(書肆山田、1983)に至る軌跡の相似形となっているようだ。1990年6月、荼毘に付された吉岡実の棺に収められたのは、北原白秋自選歌集《花樫》一巻だった。

〔付記〕
それにしても白秋の多産には驚く。試みに吉岡の生まれた1919(大正8)年4月の〈著作年表〉(《白秋全集〔別巻〕》岩波書店、1988年8月30日、三八二ページ)を見ると、童謡〈あわて床屋〉〈動物園〉を《赤い鳥》に、〈朝鮮の木挽〔一首〕〉を《白光》に、散文〈創作童謡、地方童謡選評〉を《赤い鳥》に、〈雀の生活(五)〉と〈不思議な李太白〉を《大観》に、〔高津弌宛書簡〕を《白光》に、〈〔長詩〕評・選後に〉を《文章世界》に発表している。ちなみに〈あわて床屋〉は山田耕筰作曲の童謡が1923年に発表、1961年にはNHKテレビの《みんなのうた》番組開始の4月と5月に放送されたという(歌:ボニージャックス、編曲:冨田勲、影絵:かかし座)。


吉岡実編《西脇順三郎詩集》(2016年5月31日)

吉岡実はのちに〈西脇順三郎アラベスク1〉となる〈断片四章〉(初出は《西脇順三郎全集〔第7巻・月報〕》筑摩書房、1972年4月28日)をこう始めている。

 それはたしか昭和十四、五年のことで、私が二十歳ごろだった。神田神保町の古本屋のウィンドーの中に置かれた一冊の書物があった。大判の真紅の函の美しい書物で、《西脇順三郎詩集》とあった。その店は現在でいえば、和本、錦絵の大屋書房のあたりである。当時、私には西脇順三郎は未知の人であり、その詩篇一つすら読んでいない。にもかかわらず、その書物がまるで絵画のごとく鮮明に、記憶に残った。もしかしたら、その時代に読んだ北園克衞の本のなかに、西脇順三郎という名が記されていたからだろうか。勿論その書物は、モニュメント《Ambarvalia》である。(《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、1988、二二二ページ)

日本語による西脇の最初の詩集《Ambarvalia》は1933年(昭和8年)9月20日、椎の木社刊。限定300部だった。吉岡は刊行当時14歳で、拙編《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》に1933年の項目はない。では、詩集を見た1939〜40年ころはどうだったか。同年譜から引く。

一九三九年(昭和十四年) 二十歳
〔……〕この年、沈復《浮生六記》、三好達治詩集《春の岬》を読む。富田木歩の句を愛誦。伊藤佐喜雄《花の宴》、津村信夫《戸隠の絵本》、前川佐美雄《くれなゐ》、斎藤史《魚歌》などの〈新ぐろりあ叢書〉を愛読。

一九四〇年(昭和十五年) 二十一歳
〔……〕この年、会津八一歌集《鹿鳴集》に惹かれる。殿岡辰雄の詩集を読み手紙を交換、《黒い帽子》を貰う。木下夕爾詩集《田舎の食卓》を読み、以後二年間の文通。《生れた家》を贈られる。

年譜に西脇が登場するのは「一九四七年(昭和二十二年) 二十八歳」が最初で、「十一月、村松嘉津《プロヷンス隨筆》、西脇順三郎詩集《あむばるわりあ》《旅人かへらず》を読み西脇には晩年に至るまで傾倒する」とある。ここで〈西脇順三郎アラベスク〉よりも前に吉岡が西脇詩集に言及した文章を振りかえっておこう。

@昭和二十二年
十一月二十六日 借りた西脇順三郎詩集《あむばるわりあ》と《旅人かへらず》の二冊をよんだ。ことに《旅人かへらず》がよかった。(〈断片・日記抄〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》思潮社、1968年9月1日、一一〇ページ)

A〔一九四八年〕六月二十日
 〔……〕
 〈夕〉
 雨もやんだ/窓をあける/どこにひそんでいたのか/白い蝶が垣根のあたりをとんでいる/一日部屋の中にいたので/ぬれた土の色が爽やかに見える/野菜はみなみちたりた姿をしている/

 一本の篠竹を這う豆の蔓のびあまりたれば風にゆれおり

 また雨になり/夕ぐれてきた/窓をしめ灯をともす/私の世界がしずかに円をとじる/西脇順三郎の《旅人かへらず》を読み/鉛筆を削る……(わがこころを削る)/安全剃刀の刃がそぎ落す切片の新鮮さ/何か書けそうな気がする。(吉岡実遺稿〈日歴(一九四八年・夏暦)〉、《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》書肆山田、1996年11月30日、九〜一〇ページ)

B村松嘉津『プロヷンス随筆』が出版されたのは、昭和二十二年八月【二十二日→二十日】である。当時無名に近かった著者のこの本を、どういう動機で手に入れ、そして私は読んだのだろうか。いま記憶をたどってみると、昭和二十三年も終り近いころだと思う。私は所用で東京出版株式会社に関係ある知人をたずねた。そのかえりに、どれでも読みたいものがあったら二、三冊もって行けといわれた。荒縄でしばられ、うず高く積まれた返品物らしい本の中から、三冊のうすい本を選んだ。一冊は、『プロヷンス随筆』であり、他の二冊は、西脇順三郎詩集『あむばるわりあ』と『旅人かへらず』であった。私は偶然このとき西脇詩と出合った。そして、視点のきまらない私の詩精神はこの二冊の記念碑的作品に鮮烈な衝撃をうけたといえる。しかし別の一冊、村松嘉津の『プロヷンス随筆』は、私の肉体の飢えをあたたかく鎮めてくれたのである。(〈『プロヷンス随筆』のこと〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、一四〜一五ページ。初出は《文藝》1969年5月号)

C昭和二十三、四年ごろだと思う。西脇順三郎の『旅人かへらず』と『あむ ばるわりあ』(東京出版刊)の二冊をゾッキ本を貰って、真に魔力ある詩に驚いたものだ。以来、七十三歳にして『禮記』を書くこの偉大な詩人へ傾倒している。(〈読書遍歴〉、同前、五七ページ。初出は《週刊読書人》1968年4月8日号)

西脇順三郎詩集との出会いを語って、@は1947年11月、Aは1948年6月(再読か)、Bは1948年の終わり近いころ、Cは1948〜49年ごろとまちまちである。《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》では日記を重んじて@を採ったが、冒頭に引いた〈断片四章〉のふたつめの断片はこうだ。

 東京出版社から刊行された《あむばるわりあ》と《旅人かへらず》を、私が人から貰って読んだのは、発売一年後の昭和二十三年のことであり、それが西脇詩との最初の出会いである。しかしこの異質な二つの詩集に同時にふれたことは、純一に自己の詩境を求めていた私にとって、はたして幸せであったか不幸であったかはわからないことである。詩的陶酔のなかで、とまどいを覚えたものである。だから《旅人かへらず》のほうが、私には楽しく思えた。それから、斎藤茂吉、高浜虚子、萩原朔太郎などの未知の世界へ入っていったのである。《あむばるわりあ》の真の衝撃と美的価値を知ったのは、ずっと後、《西脇順三郎全詩集》に収められた〈Ambarvalia〉を読んでからである。(前掲書、二二二〜二二三ページ)

@の日記の公表よりも4年後の執筆であるにもかかわらず、吉岡がここで「《あむばるわりあ》と《旅人かへらず》を、私が人から貰って読んだのは、発売一年後の昭和二十三年」と断言するのはなぜか、以前から気になっていた。再び年譜を引く。

一九四八年(昭和二十三年) 二十九歳
〔……〕十二月、椿作二郎の秋扇句会に出席、「冬の日の凝れば無為なる蛇の貌」。初めて《宮澤賢治詩集》を読む。

一九四九年(昭和二十四年) 三十歳
一月、椿作二郎、田尻春夢、池田行宇らと瑞泉寺へ吟行、「黄梅やふるきいらかの波うてる」。四月、東洋堂の社長三井八智郎家に寄寓する。このころ詩を書こうと決め親しい俳句仲間とも訣別しようとする。〔……〕六月、詩が一篇できる。八月、「或る場所にある卵ほどさびしいものはない」、卵を主題にした詩を考える。《みづゑ》でクレーの絵と評伝に触れる。九月、詩〈ぽーる・くれーの歌 又は雪のカンバス〉脱稿(未発表)。リルケ《ロダン》から詩作という手仕事への啓示を受ける。《高橋新吉の詩集》を読む。

1948年末、句会で新興俳句ふうの一句を得て、翌年初め、鎌倉に遊んだ際の俳諧ふうの句を最後に「詩を書こうと決め親しい俳句仲間とも訣別しようとする」。卵の主題、クレーの絵、手仕事への啓示――といった、のちの詩集《静物》(1955)にいたる詩作の道をたどる直接の契機が、二冊の西脇順三郎詩集との出会いにあった。それゆえ、吉岡は西脇詩との出会いをこの1948〜49年であると語った。私にはそのように思えてならない。


西脇順三郎の詩集《あむばるわりあ》(《Ambarvalia》改訂再刊本)と《旅人かへらず》はともに1947年8月20日、東京出版の刊行。当時、吉岡が好んだのは《旅人かへらず》である。

吉岡 いや、そんなに早くないな。〔1963年に〕筑摩書房で全詩集をやったでしょう。あのとき知り会ったんで。西脇順三郎の詩はもちろん読んだよ。有名な「あむばるわりあ」や「旅人かへらず」を東京出版の……。そこではじめてだな。〔全詩集を〕出すについて会田綱雄さんが編集者になったわけよ。それで西脇さん、しょっちゅう仕事にことよせて、遊びにくる……。で、もう会田さんがいなきゃぼくということになって、それからのお付き合いですよ。だから、加藤〔郁乎〕さんのほうが早いんじゃないの。(吉岡実・加藤郁乎・那珂太郎・飯島耕一・吉増剛造〔座談会〕〈悪しき時を生きる現代の詩――座談形式による特集〈今日の歌・現代の詩〉〉、《短歌》1975年2月号、六〇〜六一ページ)

吉岡 ぼくなんか東京出版の本で『旅人かへらず』と『あむばるわりあ』を同時に読んだ。二つの違いの大きさをそのまま面白く読んだ覚えがあるね。『あむばるわりあ』の鮮烈な新しさと『旅人かへらず』の日本的な面とを素直に同時に受け容れた。この二つは忘れられない詩集だな。それから『旅人かへらず』にすぐ続くんだけれども『近代の寓話』には名品が詰まっていますよ。『第三の神話』は読売文学賞は受けてるけど、もう落ちちゃってるっていう印象を持ってるね。やっぱり純粋な詩としては『失われた時』がいいかな。〔……〕『旅人かへらず』は西脇さんが五十四歳の時だね。それをわれわれがわかるような年齢になったとも言えるんだ(笑)。(吉岡実・大岡信・那珂太郎・入沢康夫・鍵谷幸信〔座談会〕〈比類ない詩的存在――西脇順三郎追悼座談会〉、《現代詩手帖》1982年7月号、三八〜四〇ページ)

西脇順三郎をめぐるふたつの座談会から引いた。前者に出席した詩人はみな西脇に親炙していて、座談会の〈日本一の詩人・西脇順三郎さん〉の節には尽きない興味を覚えるが、引用は控えよう。吉岡は改訂再刊本《あむばるわりあ》よりも初版《Ambarvalia》を買っているようだが、一概にどちらが重要だとも言えない。初めて読んだ西脇順三郎詩集である《あむばるわりあ》が、戦後の吉岡の詩法に思いのほか大きな影響を与えているのだ。吉岡が最後に西脇に捧げた未刊の詩篇〈永遠の昼寝〉(初出は《永遠の旅人 西脇順三郎 詩・絵画・その周辺》新潟市美術館、1989年4月1日)は25行の短い作品だが、末尾の4行はこうだ。

(誰かがわたしの
        頭のうえを
             杏の実をもって
        たたいた)

この典拠は、散文詩型の〈馥郁タル火夫〉(《Ambarvalia》)では

やがて又我が頭部を杏子をもつてたゝくものあり、花瓶の表面にうつるものがある。

だが、行分けの詩篇〈馥郁たる火夫(生命の破裂)〉(《あむばるわりあ》)の「23」(全行)では

やがてまた
我が頭を
杏子をもつてたたくものあり

となった。ところで《Ambarvalia》は〈LE MONDE ANCIEN〉と〈LE MONDE MODERNE〉の2部構成だが、〈LE MONDE ANCIEN〉の冒頭は11篇から成る〈ギリシア的抒情詩〉。その最初の〈天気〉(全行)は

(覆[くつがへ]された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとさゝやく
それは神の誕生の日。

《あむばるわりあ》も〈LE MONDE ANCIEN〉と〈LE MONDE MODERNE〉の2部構成で、〈LE MONDE ANCIEN〉の冒頭は11篇から成る〈毒李〉。その最初は同じく〈天気〉で

(覆[くつがへ]された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の誕生の日

だった。変更は「さゝやく→ささやく」と末尾の句点削除の二箇所。戦前刊行の二詩集(《昏睡季節》《液體》)においてもそうだったが、吉岡が一貫して詩に句読点を用いないのは、《あむばるわりあ》と《旅人かへらず》の詩学を服膺したためだと考えられる(西脇が《Ambarvalia》の〈LE MONDE ANCIEN〉にあった句読点を《あむばるわりあ》のそれでことごとく取りのぞいたのは、《旅人かへらず》の書法に合わせたためだろう)。そればかりではない。西脇が第一詩集巻頭の第一行に、キーツの長詩《エンディミオン》から“like an upturn'd gem”を拉し来った詩句を( )で括った書法を、吉岡は〈永遠の昼寝〉後の最晩年の二詩篇〈雲井〉〈沙庭〉で踏襲したのである。もっとも、吉岡の引用詩を〈天気〉に結びつけたのは私の創見ではない。1990年7月、吉岡実の四十九日の法要のあと、神田のやぶそばで松山俊太郎さんがキーツの詩句を引いて〈天気〉に触れた。松山さんは吉岡の引用詩との関連を述べたわけではないが、あの席で西脇詩に触れるということ自体、吉岡実詩を論じたことにほかならない。


〈西脇順三郎アラベスク〉は随想、日記の抜粋、人物論や回想といった多くの側面をもつ作品だが、ここでは吉岡実による西脇順三郎詩のアンソロジーとして読んでみたい。吉岡がそこで引いた西脇詩は以下の八篇。

なお〈西脇順三郎アラベスク〉以外の随想では〈出会い――加藤郁乎〉(初出は《加藤郁乎詩集〔現代詩文庫45〕》思潮社、1971年10月20日)に〈梵〉(《禮記》)から9行が引かれている。また〈白秋をめぐる断章〉(初出は《白秋全集〔第17巻・月報10〕》岩波書店、1985年9月5日)には〈最終講義〉(《豊饒の女神》)から5行と、〈野原の夢〉(《禮記》)から6行が引かれている。その〈白秋をめぐる断章〉だが、四つの断章の〈1 西脇順三郎詩の中の白秋〉はこう始まっている。「私はうかつにも、西脇順三郎編の『北原白秋詩集』があることを知らなかった。順三郎の晩年まで、その近くにいたが、ついぞ白秋に就て語るのを、聞いたことがない。この二人の詩人は、おそらく交流がなかった筈である。敬意からこの一巻を編んだものであろう。私は一本を購って、通読した。惜しいことにそこには、順三郎の白秋の詩への言及がないのだ」(《「死児」という絵〔増補版〕》、三〇〇ページ)。私は最初にこれを読んだとき、そうか、西脇は白秋詩を編んだだけで解説を付さなかったのかと思うだけで、吉岡の随想の含意に気づかなかった。これは自分(吉岡)には西脇順三郎詩集を編む用意がある、と読むべきだった(ちなみに角川文庫〔1957〕は三浦孝之助、新潮文庫〔1965〕は村野四郎、青春の詩集〔1967〕は鍵谷幸信、銀河選書〔1967〕は小海永二、世界の詩〔1967〕は鮎川信夫、現代教養文庫〔1970〕は鍵谷幸信、旺文社文庫〔1976〕は繁尾久、現代詩文庫〔1979〕は新倉俊一、岩波文庫〔1991〕は那珂太郎の編で、《Ambarvalia》と《旅人かへらず》を全篇収めた講談社文芸文庫〔1995〕の実質的な編者は新倉俊一)。吉岡は先の西脇追悼座談会でこう述べている。

吉岡 今日のためにぼくは改めて『壌歌』(昭和四十四年)を読んだんだよ。刊行当時はあまり感心しなかったんだけど今度読んでみて『壌歌』ももっと間引いたらよかったんじゃないかと思ってるんだ。
大岡 『吉岡実選・新版壌歌』を作るか(笑)。
吉岡 何しろ天文学的で集中的に出て来るから、天文学が地に墜ちちゃって意味をなさなくなっちゃってるんだよ。ぼくがもっと刈り込むともう少しきちっとまとまったものになるんじゃないか、なんて思っちゃうんだ。でも『壌歌』は見直したな。飯島が病いの時は西脇さんの詩を読んだっていうけど、しみじみとしたところはありますね。案外日本的なんですよ。
鍵谷 ぼくは『壌歌』は苦手なんですよ。本当に疲れちゃうんです。
吉岡 西脇さんの緩やかな流れに乗らないと読めないんだよ。波に乗れば一緒に漂えるよ。ただ刈り込みたくなる欲望は消えないけどね。(前掲誌、三二〜三三ページ)

那珂太郎は詩集の〈解説〉で「編者の私見によれば、『Ambarvalia』『旅人かへらず』『近代の寓話』及び『失われた時』を、西脇順三郎の詩業を代表する四つの高峰とすることができる」(《西脇順三郎詩集〔岩波文庫〕》岩波書店、1991年11月18日、四六九ページ)と断じ、《壤歌》にいたっては「長大な作で部分抽出が困難なため、割愛せざるをえなかつた」(同書、四七〇ページ)としているが、同じく長大な《失われた時》(1960)からはTとWを採っている。もって那珂太郎の《壤歌》に対する評価を見るべきである。吉岡実編《西脇順三郎詩集》は、吉岡が初めて装丁した西脇の詩集《禮記》(1967)以降の晩年の《壤歌》(1969)、《鹿門》(1970)、《人類》(1979)から佳什を撰する一方、その最大の眼目を《壤歌》の詩句を摘果した《新版 壤歌》とする。旺文社文庫版詩集に《壤歌》からVと〈あとがき〉を採った繁尾久によれば《壤歌》は2004行だというから(5部は各400行だが、第3部だけが404行)、全体の6割の1200行くらいでどうだろう(吉岡には、257行あった元版の〈波よ永遠に止れ〉をラジオ放送用に195行に刈りこんだ前歴がある)。ちなみに吉岡の詩集《神秘的な時代の詩》(1974)が総1178行で、その書法は西脇晩年の詩集に多くを学んでいる。《神秘的な時代の詩》の一篇〈弟子〉(初出は1972年8月の《無限》29号)は吉岡が西脇に捧げた最初の詩篇である。初出形を14行めまで掲げる。

それは違った意味に使われる
言葉
笊のように
晩夏へ向うよ
淡黄色
見えなくなったら
ハツラツとして
眼薬をさす男
砂かぶりの丘をゆき
職業を意識する
この世に歌があるだろうか
たとうれば
草上の露命
〈永遠とは今の現在のこと〉

対する西脇の《壤歌》は、Uから26行。

ホウセンカにはもう秋がきていた
茎もふしくれだつて古木のように
その実は黄色いハシバミのように
ふくれあがりはちきれそうだ
旅人のためいきにも破裂する
気の弱い子供はおどろく
あのプンという音は
植物のいかりのようにきこえて
植物もヘビのように生きていることを
はじめて知つてこわいと思つた
記憶が幾万年もへだたつた
遠いところからかすかな戦慄の
宝石の光りとしてもどつてくる
人間は本質的に人間でないものに
あこがれるのだろうか
人間は永遠でないことを生物として
よく知つているからだ
人間は遠いものをあこがれる
永遠は空間的にも時間的にも遠い
人間は近すぎる
こんな村落的意識は
キタベタの人たちが食うドゼウの
みそしるにすぎないが
こんな天体的な宇宙的な意識は
生物の細胞の中に初めから先天的に
含まれた永遠の意識だ

私には、作家・作品のアルージョンや哲学的な箴言の頻出しない詩句のほうが、落ち着いて読めて好ましい。引用した《壤歌》も、キタベタ(千葉県印旛郡栄町の北辺田か)のドジョウが出てこないと、後半はちょっとつらい。《近代の寓話》を少しく枯淡にしたような調子で2000行を維持することは困難だったと思える。《失われた時》は充実期の西脇にのみ可能な奇蹟的と言っていい長詩だった。この詩人の本領は〈ギリシア的抒情詩〉や〈あざみの衣〉(《豊饒の女神》)のような短詩でこそ最高度に発揮された。

あざみの衣

路傍に旅人の心を
悲します枯れた
あざみのうすむらさきの夢の
ようなものが言葉につづられる
あざみの花の色を
どこかの国の夕陽の空に
たとえたのはキイツという人の
思い出であつた
この本の中へは
夏はもどらない
この貧者の食卓には
秋の女のためいきばかりが
きこえてくる
昔の夏にジュースをのんだ空きびん
にガマズミの実とさとうを入れて
きりぎりすの霊をまつる
この本の中の考えは
テーブルをくもらす
雲の通過であろう
かれたあざみの茎と葉で
織つた衣の袖にかくす
はらみ女の笑いの海への
祈りとなろう


田村義也装丁作品目録と装丁作品サイトのこと(2016年3月31日)

「編集装丁者」田村義也(1923〜2003)の著書《ゆの字ものがたり》を刊行した新宿書房の代表・村山恒夫は、田村の歿後、〈「田村義也・本の学校」の生徒として〉で次のように書いている(初出は《図書新聞》2003年3月15日号)。

 まもなく、『田村義也装丁作品目録』が出来、回想集の企画も立てられるかもしれない。わたしの夢は、それらの仕事の延長として、インターネット上に「田村義也装丁作品」のサイトを立ち上げることである。そのサイトでは、書名、著者名での検索のほか、各本の資材データ、印刷方法、印刷所、製本所、編集者などのデータもわかる。そして、それぞれの書影の画像が公開されている。なかなか知られてないのが、本表紙の図柄や本扉の図柄。カバーより傑作な本表紙がたくさんある(田村さん、ごめんなさい!)。もちろん、田村さんのコラムも読める。そんなサイトの実現を夢見ている。(田村義也《ゆの字ものがたり》別冊付録、新宿書房、2007年3月10日、一五ページ)

「田村義也装丁作品」のサイトを要するに、こうである(――以下は小林の補記)。

@書名著者名で検索できる――これはキーワードによる検索なら本の刊行順でかまわないが、目視で探すにはそれぞれを50音順に並べるか、著者の50音順の下に書名を50音順に並べるのが重宝だろう。
A各作品の(1)資材データ、(2)印刷方法、(3)印刷所、(4)製本所、(5)編集者がわかる――(3)(4)は奥付を見ればよいが、(1)(2)は指定紙とともに原物を検証する必要がある。(5)はあとがき等に記載がなければ取材しなければならない。
B書影ジャケットだけでなく、本表紙の図柄や本扉の図柄も)――を付けた状態で撮影するか、外して撮影するか。田村義也《のの字ものがたり》(朝日新聞社、1996)掲載の書影は、帯を外して撮影している。しかも本文中の書影は、中間調を飛ばしたモノクロコピーである。目次本文の組版も手掛けている本は、その版面の書影と本文の組版データも載せたい。
Cその作品にまつわる装丁家の文章――装丁家が物故していればおのずと限られてくるが、これこそサイトの編集者の腕の見せ処である。

村山の構想は的確な着眼に基づいているが、私はこれに加えて装丁原稿=指定紙も掲載してもらいたいと思う(1979年12月〜1980年1月、渋谷の喫茶店ピーコックで開かれた田村義也装丁展には、装丁原稿が出品されていただろうか)。編集者による装丁作品は、ブックデザイナーのようにきっちりと作りこんだものではないだろうが、著書を最もよく知る者の作品として貴重だ。ちなみに臼田捷治《装幀時代》(晶文社、1999)の田村義也の項には、社内装を手掛けた編集者として花森安治(暮しの手帖社)、栃折久美子(筑摩書房)、そして藤田三男=榛地和(河出書房新社)、田村義也(岩波書店)、高梨茂(中央公論社)、山高登(新潮社)、川島勝(講談社)、松森務(平凡社)、さらに宮脇俊三(中央公論社)、車谷弘(文藝春秋)、萬玉邦夫(同)といった人人とともに、吉岡実(筑摩書房)の名も挙がっている。
なお、村山は〈自著を語る『田村義也 編集現場115人の回想』〉(《東京新聞〔夕刊〕》2004年2月12日)で「いま編者たちの間には二つの夢がある。一つには「田村義也装丁博物館」というHPを開設し、装丁作品リストをより完全にし、カバーだけでなく、本表紙、化粧扉などの画像も公開すること。もう一つは、田村装丁本を保存公開してくれる大学図書館か博物館を探すこと。どこか、この宝物を引き受けてくれるところはないものだろうか?」と書いたが、2008年8月〜9月、武蔵野美術大学美術資料図書館で展覧会〈背文字が呼んでいる――編集装丁家田村義也の仕事〉が開かれ、背表紙をカラー写真で掲載した図録も出版された。田村家から寄贈された約1500冊の田村義也装丁本とともに、装丁のためのエスキース、刷り出し原稿(約200点)が展示されたという。ひとりの装丁家の展覧としては画期的な催しであり、壮観だったろう(残念ながら私は観ていない)。


《朝日新聞》の〈装丁でも才能発揮する詩人の吉岡氏〉(2016年2月29日)

吉岡実が装丁家でもあることを広く知らしめたのは《朝日新聞〔夕刊〕》1976年4月27日付のコラム〈メモらんだむ〉の記事である(この日は奇しくも東京地裁が「四畳半」裁判の有罪判決を言いわたした当日で、同紙の1面と10・11面に関連記事が載っている)。以下にその〈装丁でも才能発揮する詩人の吉岡氏〉を起こしてみるが、執筆した記者の名は記されていない。

 「光と風と夢」「李陵」などの作家・中島敦の新全集が筑摩書房から刊行中だが、これの装丁が詩人・吉岡実氏=写真=の手になると聞いて驚く人は少なくあるまい。ところが吉岡氏は、実は勤務先の筑摩書房ですでに百点余の装丁を担当し、親友の詩人・大岡信氏など「もう立派な装丁家です」というほど。
 少年のころ彫刻家を志したというだけに、美術と無縁ではないわけだが、本格的に装丁を手がけたのは昭和三十年の『太宰治全集』から。以来、西脇順三郎、宮沢賢治、萩原朔太郎などの個人全集を次々と担当、深い紺色[ママ]の綿つむぎを使った『中島敦全集』もそうだが、氏の装丁には全体に地味な渋い感じのものが多い。
 「要するにね、ぼくの中にはあきのこない本∞いやみのない装丁≠ニいう気持ちが基本としてあるんだよ」
 「うん、朔太郎全集なんかちょっと自慢なんだな」――アート・カンバスの落ち着いた黄色が目にしみるような装丁だが、「『青猫』など朔太郎の初期の本には黄色が多いので、多分黄が好きだったのではと考えて……。黄ってのは間違うと赤っぽくなったり白っぽくなったりして、むつかしいんだよ」
 装丁論は尽きないのだが、本業の詩の方は、ここ四、五年の作品を集めた詩集『サフラン摘み』が七月に青土社から出るそうだ。(《朝日新聞〔夕刊〕》1976年4月27日、7面〈文化〉)

なんといっても興味深いのは、筑摩で「百点余の装丁を担当し」、太宰治西脇順三郎宮澤賢治萩原朔太郎中島敦の全集を手掛けていることである(ちなみに拙編〈W 装丁作品目録〉で《中島敦全集》までの筑摩書房刊の吉岡実装丁作品をカウントしたところ、47タイトルだった)。筑摩は社員による装丁の場合クレジットしないから、この指摘は貴重である。それと、吉岡の口調を写した「装丁論」。吉岡はこの種の文章を書きのこさなかったので、結果的にこの談話が最も重要なもののひとつとなった。末尾の新詩集《サフラン摘み》が7月刊行予定だというのも見のがせない。この記事の取材時(おそらく1976年4月)には本文を校了して、まさに装丁に取りかかろうとしていた処ではあるまいか。実際に刊行されたのは9月(奥付の記載は9月30日)で、ふた月の遅延は造本・装丁で手間どったためか。いずれにしてもこの時点で著者自装の装丁プランが訊きたかった、というのは望蜀の嘆だろう(《サフラン摘み》の装画をめぐるいきさつは、吉岡の随想〈画家・片山健のこと〉に詳しい)。

〔執筆者未詳〕〈装丁でも才能発揮する詩人の吉岡氏〉 出典:《朝日新聞〔夕刊〕》1976年4月27日、7面〈文化〉のコラム〈メモらんだむ〉〔モノクロコピー〕
〔執筆者未詳〕〈装丁でも才能発揮する詩人の吉岡氏〉 出典:《朝日新聞〔夕刊〕》1976年4月27日、7面〈文化〉のコラム〈メモらんだむ〉〔モノクロコピー〕


栃折久美子の〈吉岡さんの装幀〉(2016年1月31日)

吉岡実の装丁(作品)を最初に論じた岡田隆彦の〈装幀家・吉岡実〉と同じ1973年、栃折久美子の〈吉岡さんの装幀〉が《ユリイカ》9月号〈特集=吉岡実〉に発表された(なお、この特集号で吉岡実の装丁に言及したのは栃折久美子だけである)。同文は、吉行淳之介と〈直観人間〉吉岡実はともに「驚ぐべき早さで視てしまう人」「感性に対する忠実さが肉体的とでも言いたくなるほどだという点で、よく似ている」と始まる。栃折は吉岡の装丁をこう論じる。

 私は吉岡さんの仕事を見ることから、装幀者としての道を歩きはじめた。筑摩書房の社員であった時代に約二百点の仕事をしたが、吉岡さんに見てもらわなかった本、意見をきかなかった本は数えるほどしかない。誰よりも吉岡さんにほめられると安心したし、吉岡さんの目という関門を通らないと、どうにも落ちつきが悪かった。
 吉岡さんの装幀についてはすでに定評がある。その良さの特徴を言うのに、アマチュアという言葉を使っても失礼にはならないと思う。むろん素人という意味ではない。
 視る[、、]ためのレンズを最良の状態に保つことは、私にとって非常に努力のいることで、しかも、要するにそこからしかはじまらないのだということに、たどたどしい長い歩みの果にやっと気がついた私の尊敬と感嘆、そしていくらか羨望のこもった感想なのである。
 視えてしまう[、、、、、、]そしてだから出来てしまう[、、、、、、]という形での仕事は、私の場合たくさんはない。計算し、時には消去法的に詰めて行き、能力の及ぶかぎり厳密な下図をつくり、それが生きてくるのを待つ。そういう仕事のやり方では結び切れないある種の完全性が、アマチュアのすぐれた仕事にはある。
 吉岡装幀を愛し、世の中に一冊でも多く美しい書物があることを喜こぶものとしては、吉岡さんが職業装幀家にはならないことをひそかに願っているが、ひょっとしてそうなったとしても、吉岡さんは同じように装幀をするかもしれず、それが〈直観人間〉のおそろしいところである。(同誌、一三四ページ)

視るためのレンズを最良の状態に保つことで視えてしまうから出来てしまう♀ョ全性が、アマチュアの仕事にはある――というのが栃折の吉岡論の骨子だ。これは装丁に携わる者ならではの観点で、自ら装丁しなかっただろう岡田の吉岡論にはない独創である。ところで栃折久美子の装丁を論じて最も精細なのは、臼田捷治〈吉岡実・栃折久美子――出版社のカラーを引きだす力〉(《装幀時代》晶文社、1999年10月5日)の「栃折久美子」である。同文で吉岡実と栃折久美子の装丁に関する箇所を見よう。

 筑摩書房において吉岡の装幀を引き継いだのが栃折久美子である(栃折が〔一九〕六七年に退社後は、吉岡は再び、機会あるごとに同社の装幀を手がけた)。
 〔……〕
 栃折は編集部に配属されたが、無理がたたって数年後に病気になり加療生活を送る。装幀の才能を見込まれて復職した後、吉岡を引き継ぐかたちですべてを任されるようになる。栃折が直接手がけるもの以外に、著名な画家に装画を依頼するような場合も栃折がその交渉の窓口となった。デザイン面では、実兄が平凡社の編集者ということもあって、平凡社とつながりの深かった原弘に折に触れて教えを受けることができたことがよい勉強になった。装幀が仕上がると、必ず吉岡に見せて意見を聞くことが栃折の習いだったという。一度は吉岡に見せないと気持が落ち着かなかったからだ。「うん、いいよ」が吉岡のいつもの答えで、「これはだめだよ」というようないわれ方はなかったという。(同書、七六〜七七ージ)

臼田は水上勉エッセイ集《片しぐれの記》(講談社、1978)に関連して「栃折の持論は、色分解よりも、版画と同じ原理にたつ「三色刷色指定でこなせるデザインルールの確立」であった。その持論を地でいった本書は、印刷技術からいってもきわめて理詰めな処理となっている」「栃折の装幀の魅力は、余計な無駄がなく、本としてのかたちの確かさと広がりを併せもつところにあると思う。いいかえると、基本となる骨格がしっかりしていることであるが、これも栃折が筑摩書房で育ったことを無視しては語れないであろう」(同書、七八〜七九ページ)と評している。この「三色刷色指定でこなせるデザインルールの確立」は吉岡実装丁にも共通しており、その根底には活版印刷の骨法があると考えられる。臼田の結語は「現在、栃折は装幀の第一線から退いてしまっている。オフセット印刷への移行にともない、かつての活版印刷がもっていた陰影が本文組から失われてしまったからだ。消耗品としてのノッペリとした「ねぼけた文字面」に堕した現状では、いまや命をすり減らすほどの意欲を装幀に見出すことができないからという。残念なことではあるが、潔癖なまでの身の処し方というべきだろう」(同書、八四ページ)だ。吉岡も同様の感慨を抱いたに違いない。というのも(これは装丁ではないが)、ある叢書の出版企画に〈吉岡実詩集〉を依頼された際、「本文がオフセット印刷だったから、収録を断った」と私に漏らしたことがあるからだ。吉岡実の著書の本文は、基本的に活版印刷である。

栃折久美子は〈タイトル・ページについて〉(《装丁ノート》創和出版、1987年1月23日。初出は1979年4月)で、わが国の洋本に特異な別丁本扉について考察している。栃折は、布川角左衛門の和本の「扉」から来ているという説をうべないながら、吉田健一の文章を手掛かりに、洋式製本術黎明期の明治時代、仮綴じ本の一枚表紙を背で二分してルリユールの扉としたものを手本にしたためではないか、というブックデザインとルリユール双方に通じた者ならではの説を出している。ルリユールの場合、このペラ紙葉は足を付けて綴じこまれるから問題ないが、現代日本の機械製本では、別丁本扉はわずかな糊代で見返しと本文のノドに貼られているだけだという理由から、寿岳文章の提唱する別丁本扉廃止に賛同する。ただし栃折は、「共紙扉」の場合、本扉単独ではなく前扉+本扉とすべきだと主張している。合理的な造本思想であり、説得力ある見解だ。ところで栃折が引用した布川文の出典は、吉岡実装丁になる《本の周辺》(日本エディタースクール出版部、1979年1月10日)である。栃折は当然、吉岡装丁だと知っているはずで、〈タイトル・ページについて〉では明言していないが、同書の別丁本扉も否定的に見ているわけだから、上製本の装丁では別丁本扉を採用しつづけた吉岡と立場を異にする。それはそのとおりなのだが、栃折が引用した吉田の〈マルドリュス譯「千夜一夜」〉を収めた単行本の《書架記》(中央公論社、1973年8月30日)は栃折の「装釘」で、この本扉が見返しと同じ銘柄の用紙で別丁なのだ(四六判上製・継ぎ表紙のコーネル装。本文は正字旧仮名で印刷所は精興社)。私はこの「再版」本(1974年9月10日)を近くの公立図書館から借りた。本扉は見返しと本文に堅固につながっており、綴じや貼り込みに栃折ならではの工夫がこらされているのかもしれないが、残念ながら、詳しいことはわからなかった。
ときに私は、フランス装に別丁本扉は不釣り合いだと感じていた。栃折や吉田(「併し繰り返して読んだ本の体裁は忘れ難くてこれは仮綴ぢでも上質の紙を使ひ、それよりももう少し厚い表紙が製本屋にやつて皮その他で装釘し直した時にそのまま扉になるやうになつてゐた。」――吉田前掲書、一三三ページ。漢字は新字に改めた)のようにフランス装を「未製本」の仮綴じ本だと看做すなら、一枚表紙の外装があってさらに「別丁本扉=表紙」があるわけで、その重複感が違和の原因だったと想い到る。栃折は《装丁ノート》の〈フランス装〉で

 日本の「フランス装」で気になってたまらないのは、ほとんどのものに別丁トビラと見返しがはり込まれていること。なかにはごていねいにも、本文共紙でこれをしたものさえある。いずれにしろ本文のいちばん外側にくることになった紙を、表紙の小口側の折り返しにはさまないでおくのも、表紙裏が丸見えになるのでみっともない。(同書、一二六ページ)

と写真版を添えて指摘している。私には「フランス装」ふうの自装本があるが、共紙扉にした。本文と同じ刷色だと淋しいので、本扉のページだけスミと赤の二色刷にしてある。表紙は欧文表示を特色刷して、「未製本」の仮綴じ本にあやかった(用紙は本文扉共バルキー書籍オフセット菊判48.5kg、見返しがレオバルキー四六の90kg、表紙が同じく110kg)。

*〈吉岡さんの装幀〉は〈吉岡実さんの装幀〉と改題(および軽微の手入れ)のうえ、栃折の著書《製本工房から》(冬樹社、1978)、《製本工房から――装丁ノート〔集英社文庫〕》(集英社、1991)、《美しい本〔大人の本棚〕》(みすず書房、2011)に収録されている。


吉岡実の装丁(作品)を最初に論じた文章(2015年12月31日)

吉岡実の装丁(作品)を最初に論じた文章は、詩人・美術評論家の岡田隆彦(1939〜97)の〈装幀家・吉岡実〉だろう。歴史的な意義に鑑みて、その全文を掲げる。

 装幀家・吉岡実といっても、ピンとこない人のほうが多いことだろう。無理もない。吉岡氏は詩人であって、職能的に装幀を手がけているわけではないからである。とはいえ、本づくりを熟知した上での、細かい神経を払った仕事ぶりは、ほかでもなく装幀家のいとなみに属する。――氏は、詩集『静物』、『僧侶』など、言葉の自律的な機能に身をゆだね、シュルレアリスティックなイメジを展開する作品で知られる。ちなみに、氏は筑摩書房の監査役でもあって現在は、雑誌『ちくま』の編集を担当しておられる。
 最近の装幀では、『入澤康夫〈詩〉集成・1951〜1970』(青土社・二千九百円)がある。これは、約二十年のあいだの、『夏至の火』から『わが出雲・わが鎮魂』に至る八つの詩集を収め、末尾に『詩の構造についての覚え書―ぼくの詩作品入門』を加えたもので、A5判・七三一頁という部厚いものになっている。厚さは約五十五ミリ、重さは貼函もふくめて千二百四十グラムで、これがなかなかいい感じなのだ。函は淡い水色で、本体は丸背のクロース、しっとりした藍色に金の箔押し。函と表紙に、キツネだかイタチだか、おそらく幻想的な動物のパターンがあるほかはこれといって装飾はなく、すベてはむしろオーソドキシーを守っている。その堂々たる押し出しは、磯崎新氏の建築論集『空間へ』〔(美術出版社、1971年2月28日)、臼田捷治によれば美術出版社の編集者による社内装丁〕と好一対をなす。
 たぶん吉岡氏のばあいは、自分の作品を一本にまとめて、いわば一種のオブジェとしてつきはなすことの楽しみから出発して、自著の装幀を手がけることとなったのであろう。たとえば、『紡錘形』とか『静かな家』をとりだしてみると、そこには吉岡好みの、フランス装を独自に解釈した瀟洒な装幀があって、そのことだけでも思わず手にとって頁を繰ることである。他人のものでは、『飯島耕一詩集T他人の空』天沢退二郎批評論集『紙の鏡』(いずれもサンリオ出版)など、前者のように堅牢なものと後者のように軽快なものとがあるが一貫している特徴は正統を守りながら斬新に仕上げている点である。シンボリックなパターンを一つ使うほかは活字の選択や配置の工夫でまとめる、いうならば古典的な表面処理を好まれるようだが、同時に言葉(活字)を生きもののように大切に扱う態度は、目次から本文まで貫かれていて、これを装幀家の良心なり腕の良さということができる。(《出版ニュース》1973年6月上旬号、一三ページ、〈ブック・ストリート〉欄のコラム〈装幀〉)

「吉岡好みの、フランス装を独自に解釈した瀟洒な装幀」=自身の詩集、「堅牢な」上製本=飯島詩集、「軽快な」並製本=天沢批評論集、「堂々たる押し出し」の全(詩)集=入澤〈詩〉集成。この四つのラインこそ、吉岡実装丁の本道である。後の吉岡実装丁作品に対する評は、この〈装幀家・吉岡実〉にほぼ出そろっている。いわく「一貫している特徴は正統を守りながら斬新に仕上げている点」「シンボリックなパターンを一つ使うほかは活字の選択や配置の工夫でまとめる、いうならば古典的な表面処理」「言葉(活字)を生きもののように大切に扱う態度」。卓見である。だが私は、これらを「装幀家の良心なり腕の良さ」に結びつけるよりも、装丁にとりかかるまえにその本のたたずまいを見てしまう吉岡の眼に驚嘆する者だ。なお〈装幀家・吉岡実〉は、吉岡および陽子夫人が手ずから拵えた(おそらくは1冊めの)スクラップブックの最終ページに切り抜きが貼られている。吉岡も岡田のこの評を多としたことだろう。


吉岡実の装丁作品(131)(2015年6月30日)

臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年5月3日)は刊行前に予約していたので、奥付発行日の5月3日に届いた。その日は祭日で休みとあって、さっそくにひもといたことはいうまでもない。ページを繰っていてあっと思ったのは「018」の吉田精一《現代日本文学史》を見たときだった。同書は吉岡実装丁本を紹介する見開き(他の3点は〔第1次〕〔第3次〕〔第4次〕の太宰治全集)のなかの1点で、書影を見ただけでそれとわかる吉岡実装丁本だが、私の〈W 装丁作品目録〉に掲出されていない一冊だったからである。《書影の森》を装丁した林哲夫さんのブログ宛に刊行のお祝いと《現代日本文学史》が未知の吉岡実装丁本だったことを書きおくると、かたじけないことに同書を恵投いただいた。ありがたいことである。という次第で、今月は《〈吉岡実〉を語る》で《書影の森》を、《〈吉岡実〉の「本」》で吉田精一《現代日本文学史〔現代文学大系別冊〕》(筑摩書房、1963年9月10日、非売品)を取りあげる。ちなみに《現代日本文学史》函の植物の幾何学模様は《書影の森》の別丁本扉〔ヴァル 桜 1120×790mm Y目 薄口〕に刷色DIC199で、「ワンポイントの図案」(林哲夫〈色――吉岡実の装幀〉)として原寸大で再現されている。林さんの吉岡実装丁へのオマージュである。

吉田精一《現代日本文学史〔現代文学大系別冊〕》(筑摩書房、1963年9月10日、非売品)の函と表紙、同《現代日本文学史》(同、1980年11月10日の13刷〔初版:1965年10月10日〕、市販本)の本扉とジャケット
吉田精一《現代日本文学史〔現代文学大系別冊〕》(筑摩書房、1963年9月10日、非売品)の函と表紙、同《現代日本文学史》(同、1980年11月10日の13刷〔初版:1965年10月10日〕、市販本)の本扉とジャケット

本書の特徴の一つは、その時期区分にある。「作家をとってみても、十年間が作家としての平均寿命になっている。少なくとも、大正時代、昭和の初期まではそういった工合であった。十年もてば、近代作家としては、むしろ一流といっていい。/そういうふうに見ていくと、坪内逍遙の「小説神髄」、あるいは尾崎紅葉の硯友社などが結成された期ごろまで(一八六八―八六)を第一期として、それから、日清戦争をはさんで日露戦争前後まで、つまり自然主義文学がおこるまでの時代(一八八七―一九〇五)を第二期と考える。そして、明治三十九年の自然主義の文学運動以後、大正十三、四年までのプロレタリア文学や、新感覚派のおこってくる時期まで(一九〇六―二五)を第三期、大正十四、五年から終戦まで(一九二六―四五)を第四期、そして、終戦から以後、戦後の時代を第五期というふうに区分することが適当だろうと思います」(〈近代文学史の時期区分〉、本書、六ページ)。ちなみに、本書の各時期へのページ配分はこうだ。
 第一期:13ページ
 第二期:35ページ
 第三期:64ページ
 第四期:48ページ
 第五期:31ページ
ときに、本書の4年前に、同じ筑摩書房から《現代日本文學史〔現代日本文學全集 別巻1〕》(1959年4月30日)が出ている。こちらは中村光夫〈明治〉、臼井吉見〈大正〉、平野謙〈昭和〉という布陣で、「現日」の正史だけあって重厚きわまりない。吉田の本の【9ポ45字詰め18行1段組、1ページ当たり810字(400字2.025枚)、本文最終ノンブルは198、2.025×198=400.95枚】に対し、【9ポ28字詰め25行2段組、1ページ当たり1400字(400字3.5枚)、本文最終ノンブルは476、3.5×476=1666枚】と4倍のボリュームである。それにもかかわらず、平野の〈あとがき〉には「最初から詩・短歌・俳句などに言及することはあきらめていましたが、翻訳文学・演劇などについても結局言及できなかつたことを残念に思つています」(本書、四七六ページ)とあって、前年に《僧侶》を出したばかりの吉岡実はともかく、西脇順三郎の登場しない昭和の日本文学史になっているのは、いったいどうしたことだろう。その点、詩にも明るい吉田は周到である。

 小説の復興とともに、詩の復活もめざましいものがあります。戦後の詩壇は、詩の雑誌や詩集の発行がいちじるしくふえ、それには、荒廃した心情を詩によってうるおそうとする動きと、苦悩と批判を詩によって訴えようとする動きとが交錯しています。それらの傾向を大別すると、第一にプロレタリア詩人系統の復活、第二に、共産主義にも満足できず、現実に密着しながら、なにか心のよりどころを求めて彷徨する新しい傾向の抬頭、第三に、すでに一家を形成した詩人の詩業再興、となります。
 〔……〕
 しかし、第二の方向は、最も代表的に戦後の新しい詩壇の意義を示したものです。それは、荒廃した戦後の現実の中から叫ばれた、悲痛な人間的・精神的な声であり、新しい批評精神の復活をはかり、現代の破壊的要素の確認と未来の戦慄的な予感によって、現代詩にショッキングな精神的様相を加えたものでした。それは、鮎川信夫、北村太郎、木原孝一、黒田三郎、田村隆一、三好豊一郎らの集団「荒地」(昭和二十二年)によって代表されます。このほか、「日本未来派」「時間」「歴程」などに集まる若い詩人たちもこの仲間に含められます。
 戦前のシュールレアリスムの系譜は、戦時中の「VOU」(北園克衛)「GALA」(西脇・北園・村野四郎・安藤一郎)などによって命脈を保ちました。そして社会事情が落ちついてくると、しだいに形而上的追求の精神が戦後詩の主題となりはじめたことは否定できません。村野四郎のほかに、山本太郎、金井直、大岡信、中村稔、安東次男、岩田宏、吉岡実、谷川俊太郎、清岡卓行などにその例が見られます。(〈第五期 六 詩歌〉、本書、一九三〜一九四ページ)

本書の仕様は、一八五×一二八ミリメートル・二二四ページ・並製がんだれ装・機械函(扉は本文共紙)。清楚な雰囲気は吉岡の詩集《紡錘形》(1962)に似ている。本書は1965年に市販本(装丁は吉岡ではないだろう)が刊行されてロングセラーとなり、1982年には第2版が出た。また《現代日本文学史〔吉田精一著作集 第二十一巻〕》(桜楓社、1980年3月12日)には、筑摩版にあった〈あとがき〉と巻末の年表を除いた本文が収められた。著作集のためのあとがきにこうある。「「現代日本文学史」は、筑摩書房「現代文学大系」の附録として、大系別冊の非売品として書き下ろし、昭和三十八年九月十日に初めて発行したものである。書き下ろしといっても、二三の参考書及び年表を見つつ、奥湯ケ原の旅館などに何日か罐詰めになり、編集部長の加藤勝代氏の監視のもとで、速記者に「しゃべり下ろし」したのが最初である。後から若干の文章や座談会の記事などを補なったが、すべてで数日間で仕上げたと記憶している。のち大系の終了後は、独立した単行書として刊行された」(同書、三〇三ページ)。興味深い制作秘話である。なお加藤勝代(1919〜90)――〈馬のにほひ〉で1955年上期の芥川賞の候補となった――には、《わが心の出版人――角川源義・古田晁・臼井吉見》(河出書房新社、1988)がある。

〔現代文学大系〕は全69巻、1963年9月〜68年7月刊。装丁は真鍋博、四六判・上製・クロス装・貼函入・月報付、各巻480円。巻建ては、坪内逍遙・二葉亭四迷・北村透谷集/尾崎紅葉・泉鏡花集/幸田露伴・樋口一葉集/森鴎外集/徳冨蘆花・木下尚江・岩野泡鳴集/国木田独歩・石川啄木集/正岡子規・高浜虚子・長塚節集/島崎藤村集(一)/島崎藤村集(二)/田山花袋集/徳田秋声集/正宗白鳥集/夏目漱石集(一)/夏目漱石集(二)/北原白秋・高村光太郎・宮沢賢治集/斎藤茂吉・島木赤彦・若山牧水・釈迢空集/永井荷風集/谷崎潤一郎集(一)/谷崎潤一郎集(二)/武者小路実篤集/志賀直哉集/有島武郎集/里見ク・久保田万太郎集/長与善郎・野上弥生子集/芥川龍之介集/山本有三集/佐藤春夫集/菊池寛・広津和郎集/宇野浩二・葛西善蔵・牧野信一集/室生犀星・外村繁集/滝井孝作・尾崎一雄・上林暁集/横光利一集/川端康成集/萩原朔太郎・三好達治・西脇順三郎集/梶井基次郎・堀辰雄・中島敦集/中野重治集/葉山嘉樹・小林多喜二・徳永直集/宮本百合子・佐多稲子集/網野菊・壺井栄・幸田文集/平林たい子・円地文子集/岡本かの子・林芙美子・宇野千代集/小林秀雄集/井伏鱒二集/武田麟太郎・島木健作・織田作之助集/尾崎士郎・火野葦平集/丹羽文雄集/舟橋聖一集/石川達三集/伊藤整集/中山義秀・阿部知二集/永井龍男・田宮虎彦・梅崎春生集/石川淳集/坂口安吾・井上友一郎・檀一雄集/太宰治集/野間宏集/椎名麟三集/武田泰淳集/三島由紀夫集/大岡昇平集/井上靖集/堀田善衛・阿川弘之・遠藤周作・大江健三郎集/島尾敏雄・安岡章太郎・庄野潤三・吉行淳之介集/現代名作集(一)/現代名作集(二)/現代名作集(三)/現代名作集(四)/現代詩集/現代歌集/現代句集。荒俣宏は談話〈全集のお陰で作家になれた〉で「一九六三年から刊行開始した筑摩書房の『現代文学大系』(全六九巻)は、円本時代の全集作品をおさえながら、さらに年表や解説をつけた丁寧なつくりでした。このころから、戦後的な全集のかたちになっていったのでしょうね」(《kotoba》第20号、2015年夏、三四ページ)と本全集について語っている。ちなみに第32巻の横光利一集の年譜は保昌正夫編、解説は河上徹太郎。巻建ては言うに及ばず、年譜・解説も現代日本文学叢書の正典[キャノン]たるにふさわしい。

《現代詩集〔現代文学大系67〕》(筑摩書房、1967年12月10日)〔装丁:真鍋博〕の函と表紙、《同〔日本文学全集67〕》(同、1970年11月1日)の表紙、《同〔筑摩現代文学大系 別巻1〕》(同、1981年12月15日)の函
《現代詩集〔現代文学大系67〕》(筑摩書房、1967年12月10日)〔装丁:真鍋博〕の函と表紙、《同〔日本文学全集67〕》(同、1970年11月1日)の表紙、《同〔筑摩現代文学大系 別巻1〕》(同、1981年12月15日)の函

吉岡實の詩集《静物》(1955)を全篇収録した《現代詩集〔現代文学大系67〕》(筑摩書房、1967年12月10日)を筆頭とする3シリーズは同じ本文の異装版だが、それらの書影を掲げる。《現代詩集〔日本文学全集67〕》と《同〔筑摩現代文学大系 別巻1〕》には装丁者のクレジットがないものの、後者のかっちりとした造りは、四六判ながら、恩地孝四郎装丁の〔現代日本文學全集〕と吉岡実装丁の〔現代日本文學大系〕を踏まえたみごとな仕上がり(装丁は吉岡か)。〔現代文学大系〕の植物の幾何学模様(〔日本文学全集〕でも踏襲された)はおそらく装丁担当の真鍋博の作で、《現代日本文学史》でそれを4つ並べて360度に展開したのは吉岡の創意である。


吉岡実の装丁作品(130)(2015年4月30日)

丸谷才一の評論集《コロンブスの卵》(筑摩書房、1979年6月30日)の〈徴兵忌避者としての夏目漱石〉(初出は《展望》1969年6月号)に次のような箇所がある。

 さうかうしてゐるうちに、ぼくは先年ある全集の「夏目漱石集」についてゐる年譜で、漱石が明治二十五年に「徴兵の関係上」北海道に籍を移したといふことを知つた。打明けて言へば、このときぼくはいたつて平気でゐた。当時の人々が徴兵のがれのためあれこれと工夫したのは当然だらうし、江戸つ子の漱石が薩摩や長州の政府のため兵隊に取られることを厭がつた気持はよく判る、などと思つただけのやうな気がする。(《コロンブスの卵〔ちくま文庫〕》筑摩書房、1988年12月1日、二〇ページ)

この「ある全集の「夏目漱石集」についてゐる年譜」とはどれか。岩波の《漱石全集》や筑摩の《夏目漱石全集》ではないわけだから、

  1. 新潮日本文学. 3 (夏目漱石集)/新潮社/1969.
  2. 日本近代文学大系. 25/角川書店/1969.
  3. 現代日本文学大系. 第17巻 (夏目漱石集 第1)/筑摩書房/1968.
  4. 日本文学全集. 2-5/谷崎潤一郎 [ほか]監修/河出書房/1968.7.
  5. 日本文学全集. 第16 (夏目漱石集 第2)/集英社/1967.
  6. 日本文学全集. 第15 (夏目漱石集 第1)/集英社/1966.
  7. 日本文学全集. 第10 (夏目漱石集)/河出書房新社/1965.
  8. 現代文学大系. 第13 (夏目漱石集 第1)/筑摩書房/1964.
  9. 現代文学大系. 第14 (夏目漱石集 第2)/筑摩書房/1964.
  10. 日本現代文学全集. 第24 (夏目漱石集 第2)/伊藤整 等編/講談社/1964.
  11. 日本文学全集. 第10 (夏目漱石集 第2)/新潮社/1962.
  12. 日本文学全集. 第19 (夏目漱石集)/青野季吉 等編/河出書房新社/1962.
  13. 日本現代文学全集. 第23 (夏目漱石集 第1)/伊藤整 等編/講談社/1961.
  14. 少年少女日本文学名作全集. 1 (夏目漱石集)/東西五月社/昭和34.
  15. 新日本少年少女文学全集. 25/田中豊太郎 等編/ポプラ社/昭和34.
  16. 日本文学全集. 第9 (夏目漱石集 第1)/新潮社/1959.
  17. 現代国民文学全集. 第20巻 (夏目漱石集)/角川書店/1958.
  18. 現代日本文学全集. 第65 (夏目漱石集 第3)/筑摩書房/1958.
  19. 新日本少年少女文学全集. 2/田中豊太郎 等編/ポプラ社/昭和32.
  20. 現代日本文学全集. 第64 (夏目漱石集 第2)/筑摩書房/1956.
  21. 少年少女のための現代日本文学全集. 5 (夏目漱石集)/久松潜一 等編/東西文明社/昭和30.
  22. 中学生文学全集. 4/吉田精一 等編/新紀元社/昭和30.
  23. 現代随想全集. 第29巻 (幸田露伴,森鴎外,夏目漱石集)/創元社/1954.
  24. 現代日本文学全集. 第11 (夏目漱石集)/筑摩書房/1954.
  25. 昭和文学全集. 別冊[第1] (夏目漱石集)/角川書店/1953.
  26. 夏目漱石集/河出書房/1953/現代文豪名作全集 ; 第5
  27. 夏目漱石集/河出書房/1952/現代文豪名作全集
  28. 現代日本文学全集. 第1-63篇/改造社/1927-1931.
  29. 新選夏目漱石集/改造社/昭和4.
  30. 現代日本文学全集. 第19篇 (夏目漱石集)/改造社/昭和2.

のうちのどれかだろうか(上記のリストは、国会図書館NDL-OPACのデータを引きうつしただけだが、漏れがあるにしても、「ある全集の「夏目漱石集」」のあらましは把握できよう)。およそ日本(近代)文学全集といった類の叢書で、夏目漱石集のないものはないはずだ。話を〈徴兵忌避者としての夏目漱石〉に戻せば、《こゝろ》の不可解な結末は、徴兵を忌避した漱石がそのことを告白したくて堪らなかったが(むろん、許されるはずもなく)、乃木大将の自刃を小説内部の論理とは別の筋から導入した結果だということになる。丸谷の結論は「漱石は、歴史と歴史拒否とのあひだに立ちながらやむを得ず帝国主義の時代に生きる日本人の憂愁を描かなかつた。そのことをぼくは責めようとはしない。ただぼくが咎めるのは、その代償として夢見られ、構築された友情と裏切りの説話において、終り近く、とつぜん主人公の面影が黄昏[たそがれ]のなかに没してしまふことである。「明治の精神」と苦しまぎれに漱石は言ふ。しかし明治の、孤独な一知識人である「先生」の精神は、一職業軍人の(たとへそれがどれほど同情に価するものであらうと、ひつきよう)感傷にすぎないものによつて、ぼくたちの眼から大きくさへぎられてゐるのである」(同書、五一ページ)。この特異な《こゝろ》論にして漱石論は、「ある全集の「夏目漱石集」についてゐる年譜」の記載によって若年のころからの同作への違和感が明確に意識化されたことに端を発する。晩年の丸谷は、読書の心得の一つとして、いろいろな版で作品を読むことを挙げていた。〈徴兵忌避者としての夏目漱石〉はその実践の上に成ったと言えよう。
32篇の夏目漱石研究、年譜、参考文献目録を収めた《夏目漱石全集(筑摩全集類聚)〔別巻〕》(筑摩書房、1973年1月25日〔2刷:1973年8月20日〕)がある。井上百合子編〈年譜〉の「学生時代」、「明治二十五年(一八九二) 二十六歳」の条、「四月、分家届を出し、北海道後志[しりべし]国岩内郡吹上町十七番地浅岡二三郎方に移籍(東京へ復籍したのは大正三年六月)。北海道平民となる。これは明治二十二年改正徴兵令が公布され、国民皆兵主義が実現されて、戸主の徴集猶予を廃し、大学生の徴集猶予は二十六歳までと規定されたため、人口稀薄のため、徴兵令の施行区域からはずされていた北海道へ移籍したものと見られる。浅岡家の戸籍は、その後まもなく岩内郡岩内町大字鷹台町五十四番地に移った。浅岡二三郎は三井物産営業所の御用商人だったらしく、夏目家との関係は分明でないが、漱石は父の配慮だったと語っている。(当時一般には、大学生は兵役に関係ないものと思われていたらしく、この徴兵忌避を、今日的な意味での戦争忌避と結びつけるのは妥当ではない。)」は、とりわけ末尾の( )内の一文は、丸谷論文を受けたものである。年譜はこのようにして更新されていく。


筑摩書房は四六判で2度、夏目漱石の全集を出している。これは先行する芥川龍之介全集森鴎外全集が3度――(1)函入り上製本(2)がんだれ装の並製本(3)筑摩全集類聚という同一仕様の函入り上製本――同じ版を使って刊行したのに対して、奇妙な印象を与える。後年のちくま文庫を含めて、《筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)で《夏目漱石全集》の概要を見てみよう(Bは一部、補記した)。

 @夏目漱石全集 監修・語注・解説 吉田精一 全10巻 1965年11月―66年8月
 四六判・フランス装〔がんだれ装並製本が正しい〕・ビニールカバー付

 A夏目漱石全集 筑摩全集類聚 監修 吉田精一 前回の版に別巻を加える 全10巻別巻1 1971年4月―73年1月
 四六判・上製・機械函入

 B夏目漱石全集 ちくま文庫 解説:吉田精一 全10巻 1987年9月―88年7月
 1971年4月〜1972年1月刊「夏目漱石全集(筑摩全集類聚)」を底本とする
 A6判・並製・ジャケット。本文8ポ組。装丁:安野光雅 装画:川上澄生

@は芥川や鴎外の(2)に、Aは同じく(3)に相当する。(1)の函入り上製本に相当する版がない理由は、先の《現代日本文学全集》をはじめとする〈夏目漱石集〉の売れゆきが好かったためかもしれないし、全集〔別巻〕の内容(夏目漱石研究、年譜、参考文献目録)を短時日で用意できなかったためかもしれない。ただ、@が「新装版」を謳っていないのは、筑摩で最初の[、、、]夏目漱石全集だったからで、それが(2)と同様の軽装版であることは、当初、筑摩が芥川や鴎外ほどには漱石を重視していなかったことの傍証となる。いずれにしても、芥川と鴎外の全集に足並みを揃えるための仕様の選定であったことは間違いない。@の仕様は、一八八×一三〇ミリメートル・各巻平均約三五六ページ(ページ数は《筑摩書房図書総目録》より算出)・並製紙装。Aの仕様は、一八八×一三〇ミリメートル・各巻平均約三六〇ページ・上製クロス装・機械函に貼題簽(裏に内容一覧)。どちらも社内装丁の常で装丁者のクレジットはないが、Aは吉岡実によるものと思われる(@は存疑装丁作品)。
矢口進也《漱石全集物語》(青英舎、1985年9月25日)には、@の「編集上の特色としてあげられるのは、「漱石の全小説、全小品、全評論及び彼の自から筆をとって世に示した創作及びそれに準じるものはすべて収め、専門の研究者以外にはさして必要でないと思われる、漱石自身も発表を本意としなかったもののみを割愛する」(刊行のことば)としたことであろう。岩波版または岩波版を踏襲した全集以外のものにはさまざまな選択の仕方がみられたが、筑摩版の、著者自身が発表すべく書いたもののみにしぼった選択というのも一つの見識だろう。/このため、書簡、日記、蔵書の書き込みなどは当然はずされているが、専門研究に属する文学論、文学評論、英文学形式論、それに詩歌俳句なども除外されることになった。/本文は新かなづかい・当用漢字にしているが、角川版あるいは春陽堂版にくらべると、漢字は漱石の表記を残し、難読字にルビをつけている」(同書、一七〇〜一七二ページ)と簡潔・的確に記してある。

《夏目漱石全集〔第7巻〕》(筑摩書房、1966年5月25日)の表紙、《夏目漱石全集(筑摩全集類聚)〔別巻〕》(同、1973年1月25日〔2刷:1973年8月20日〕)の函と表紙、ちくま文庫版《夏目漱石全集〔第2巻〕》(同、1987年10月27日〔4刷: 1995年10月5日〕)のジャケット〔装丁:安野光雅、装画:川上澄生〕
《夏目漱石全集〔第7巻〕》(筑摩書房、1966年5月25日)の表紙、《夏目漱石全集(筑摩全集類聚)〔別巻〕》(同、1973年1月25日〔2刷:1973年8月20日〕)の函と表紙、ちくま文庫版《夏目漱石全集〔第2巻〕》(同、1987年10月27日〔4刷:1995年10月5日〕)のジャケット〔装丁:安野光雅、装画:川上澄生〕


ここで岩波書店版の《漱石全集》に触れておく。山下浩の《本文の生態学――漱石・鴎外・芥川》(日本エディタースクール出版部、1993年6月18日)は全集の本文についての画期的な論考だったが、平成の《漱石全集》も批判されている。ただし《心》への言及はない。

 岩波版の「決定版」(及びこれ以降の版)は、確かに、森田草平らによって漱石の死後ほどなく刊行された全集初版を多少とも改良してはいる。しかし基本的な校訂方針については大差がなく、現行の版も同様な問題点を抱えている。
 岩波版が、初出や初版に見られる「我輩」や「余」「余輩」を少数の見落し(?)を除きことごとく「吾輩」に統一したことはすでに述べたが、これは同版の性格を象徴しているといえよう。漱石を直接知っている校訂者達が、漱石のためを思い善意で行った「訂正」なのであろう。時代的にもそれが許されたわけで、筆者は十八世紀前半の英国で盛んに「インプルーブ」(improve)、つまり「改悪」されたシェイクスピアの本文を彷彿とする。すぐれた作品の本文はえてしてこうした運命にあるものだ。(同書、五九〜六〇ページ)

同全集は、漱石が岩波から最初に出した単行本《心》(1914)を模した外装で異彩を放つ。その《心》――吉田精一は夏目漱石全集〔第7巻〕の〈解説〉で、「漱石は装幀その他一切を自分で考え、支那古代の石摺から表紙の意匠をとった。これがのちに漱石全集の装幀として読者に印象づけたものとなった」(同書、三〇六ページ)と書いている――が漱石と祖父江慎の装丁により再刊された(岩波書店、2014年11月26日)。音楽の世界では過去の名作のリマスター覆刻盤が珍しくないが、音源(本文)を見なおすことはあっても、ジャケット(装丁)まで作りなおすことは稀である。それがこの《心》の再刊(実際は「二度め」ではなく、何度めかの刊行になるわけだが)は、本文も装丁も過去にない仕上がりになっている(帯文に見える「KOKORO naked!」はビートルズ、1970年の《Let It Be》に対する2003年の新編《Let It Be... Naked》を踏まえたもの)。それがいかに異色かは、同書巻末の註記が示すとおりだ。その項目だけでも記すに値する。だがその前に、祖父江と編集部による〈祖父江慎ブックデザイン 漱石『心』 本書の編集について〉を見よう。そこには「底本は、夏目漱石による自筆原稿とし、誤記か意図的な表記か判別しづらいものだけでなく、明らかな誤記もそのままとした。また、ふりがなについては手書き原稿に記載されたもののみを原稿どおりに記載した。ただし、かなと漢字の字体については読みやすさを優先し、一九九四年の岩波書店『漱石全集 第九巻』にしたがい、原則として通行の字体を使用した」(同書、〔四五二ページ〕)とある。そして〈表記・本文組について〉の項目――

さらに〈使用図版について〉の項目――

が続く。これは原物を見るしかない壮観である。前掲山下浩《本文の生態学》と、漱石の自筆原稿を写真版にした《直筆で読む「坊っちやん」〔集英社新書ヴィジュアル版〕》(集英社、2007)およびこの《心》再刊を読みくらべてみると、全集に限らず、作品の本文とはなにかを考える際に重要な点が浮きぼりになる。漱石の作品こそ、その作業の対象として最もふさわしいものであり、そのための材料に事欠かない絶好の実例の一つが《心》だった(《心》の漱石自筆原稿は岩波書店の所蔵)。漱石は《心》でやりつくしたのか、自装はその後、《硝子戸の中》(岩波書店、1915)しかないが、吉岡実はほとんどすべての自作の造本・装丁も手掛けたのだから、本文を含む書物を構成するあらゆる要素を検討することが不可欠である。
吉岡は随想〈読書遍歴〉に「〔……〕漱石の「心」、龍之介の短篇、とりわけ「藪の中」、荷風の「おかめ笹」、潤一郎の「春琴抄」、康成の「雪国」、利一の「機械」など特に好きな小説であった」(《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、1988、五六ページ)と書いている。吉岡の言及した唯一の漱石作品が《心》であることは、この小説の魅力と謎を物語っていよう。吉岡は、詩(あるいは広く文学ととらえるべきだろう)には謎がなければならない、とつねづね語っていた。

《漱石全集〔第3巻〕》(岩波書店、1994年2月9日)の函と表紙、漱石《心》(同、2014年11月26日)の函と表紙〔装丁は漱石と祖父江慎〕
《漱石全集〔第3巻〕》(岩波書店、1994年2月9日)の函と表紙、漱石《心》(同、2014年11月26日)の函と表紙〔装丁は漱石と祖父江慎〕


吉岡実の装丁作品(129)(2015年3月31日)

《森鴎外全集》は筑摩書房で3度、四六判で刊行され、のちにちくま文庫版が出た。《筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)で《森鴎外全集》の概要を見てみよう(Cは目録未掲載につき、小林が補った)。

 @森鴎外全集 監修・解説 吉田精一 全8巻別巻1 1959年3月―62年4月
 四六判・上製・布装・機械函入・月報付

 A森鴎外全集 前回の版による新装版 全8巻 1965年4月―11月
 四六判・フランス装・ビニールカバー付・月報付

 B森鴎外全集 筑摩全集類聚 前回と同じ版 全8巻別巻1 1971年4月―12月
 四六判・上製・クロス装・機械函入

 C森鴎外全集 ちくま文庫 解説:田中美代子 全14巻 1995年6月―96年8月
 A6判・並製・ジャケット。本文8ポ組。装丁:安野光雅

筑摩全集類聚からちくま文庫に全集が移行した小説家は、生年順に森鴎外・夏目漱石・芥川龍之介・太宰治の4人。漱石・芥川・太宰の3人は2015年現在、ちくま文庫の在庫があるが、鴎外は品切れである。調べたわけではないが、4人の中でいちばん部数が出ていないのも鴎外ではなかろうか。ときに《芥川龍之介全集(新装註解)〔第6巻〕》(筑摩書房、1965年1月20日〔再版:1965年5月30日〕)の〈森先生〉にこうある(文中の[ ]は芥川全集にだけある振り仮名、【 】は芥川全集と後出鴎外全集別巻の両方にある振り仮名)。

 或夏の夜[よ]、まだ文科大学の学生なりしが、友人山宮允[さんぐうまこと]君と、観潮楼[くわんてうろう]へ参りし事あり。森[もり]先生は白きシャツに白き兵士の袴[はかま]をつけられしと記憶す。膝[ひざ]の上に小さき令息をのせられつつ、仏蘭西【フランス】の小説、支那の戯曲の話などせられたり。話の中[うち]、西廂記【せいさうき】と琵琶記[びはき]とを間違へ居[を]られし為、先生も時には間違はるる事あるを知り、反【かへ】つて親しみを増せし事あり。部屋は根津[ねづ]界隈[かいわい]を見晴らす二階、永井荷風[ながゐかふう]氏の日和下駄[ひよりげた]に書かれたると同じ部屋にあらずやと思ふ。その頃の先生は面【おも】の色日に焼け、如何【いか】にも軍人らしき心地したれど、謹厳などと云ふ堅苦しさは覚えず。英雄崇拝の念に満ちたる我等には、快活なる先生とのみ思はれたり。
 又夏目[なつめ]先生の御葬式の時、青山[あをやま]斎場[さいぢやう]の門前の天幕【てんと】に、受附を勤めし事ありしが、霜降[しもふり]の外套に中折帽をかぶりし人、わが前へ名刺[めいし]をさし出したり。その人の顔の立派[りつぱ]なる事、神彩ありとも云ふべきか、滅多[めつた]に世の中にある顔ならず。名刺を見れば森林太郎[もりりんたらう]とあり。おや、先生だつたかと思ひし時は、もう斎場へ入[はひ]られし後なりき。その時先生を見誤りしは、当時先生の面[おも]の色黒からざりし為なるべし。当時先生は陸軍を退かれ、役所通ひも止められしかば、日に焼けらるる事もなかりしなり。    (大正十一年八月・未定稿)

本文が同じ〈森先生〉は《森鴎外全集(筑摩全集類聚)〔別巻〕》(筑摩書房、1971年11月5日〔11刷:1979年12月20日〕)にも収められていて、こちらの方が振り仮名が少ない。もっとも厳密にいうと本文は同じではなく、芥川全集は漢字が新字で、鴎外全集別巻は旧字である。つまり字面は鴎外全集がいかめしく、芥川全集がやさしい。だが、芥川が書いた原稿に近いのは鴎外全集別巻の方だろう……などと推測を重ねていても仕方がないので、岩波書店版芥川龍之介全集〔第5巻〕(1977年12月22日)の〈森先生〉を見ると、漢字は旧字で、振り仮名はひとつもなかった。同巻の〈後記〉に拠れば、初出は1922年8月の《新小説》臨時号〈文豪鴎外森林太郎〉、初刊は芥川の随筆集《梅・馬・鶯》(新潮社、1926)で、全集の底本は初刊。そもそも「未定稿」の文章に著者がこまめに振り仮名を書くとは考えにくい。芥川全集と鴎外全集別巻の本文に振り仮名を付けたのは、編者や監修者の意を汲んだ全集編集部ということになろう。振り仮名なしでいくにしろ、少なめに付けるにしろ、多めに付けるにしろ、〈森先生〉一篇だけの話ではすまない。小説には、翻訳には、随筆には、未発表の文章には……と、方針を立ててことに当たらなければならない。最も新しい《森鴎外全集(ちくま文庫)》の〈編集付記〉にはこうある。

一、本全集は、一九七一年四月から九月に刊行された筑摩全集類聚版森鴎外全集を底本としたが、第十一巻「ファウスト」第十二巻の「於母影」を除く翻訳諸短篇、及び第十三巻の「観潮楼日記」「小倉日記」「自紀材料」は岩波書店版森鴎外全集に拠った。
一、本文表記は、原則として文語体作品以外は新漢字・新仮名づかいを採用した。
一、本文は著者慣用の表記も含め、原文に従った。但し、読みやすさを考慮し、其(その、それ)、此(この、これ)、併し(しかし)等若干の指示代名詞、接続詞等の漢字をひらいた。(ちくま文庫版《森鴎外全集〔第1巻〕》筑摩書房、1995年6月22日、〔四四五ページ〕)

3度の四六判全集よりも広く収録し(とりわけ翻訳)、新字・新仮名を採用し、読みにくい漢字を仮名に置き換えたわけだ。その《森鴎外全集(ちくま文庫)》が品切れとはどういうことだろう。主要作品は他社の文庫で読めるにしても、これだけの規模で創作家・翻訳家・評論家、すなわち文学者森鴎外を提示したハンディな全集は他にないのである。

@《森鴎外全集〔第1・8巻〕》(筑摩書房、1959年3月 15日・9月30日)の函と表紙、A《森鴎外全集(新装版)〔第1巻〕》(同、1965年4月19日〔12刷:1970年7月10日〕)の表紙、B《森鴎外全集(筑摩全集類聚)〔第4巻〕》(同、1971年11月5日)の函と表紙
@《森鴎外全集〔第1・8巻〕》(筑摩書房、1959年3月15日・9月30日)の函と表紙、A《森鴎外全集(新装版)〔第1巻〕》(同、1965年4月19日〔12刷:1970年7月10日〕)の表紙、B《森鴎外全集(筑摩全集類聚)〔第4巻〕》(同、1971年11月5日)の函と表紙

@《森鴎外全集〔全8巻別巻1〕》(筑摩書房、1959年3月15日〜1962年4月30日)の仕様は、一八八×一三四ミリメートル・各巻平均約四二四ページ(ページ数は《筑摩書房図書総目録》より算出)・上製布装・機械函(おもてに赤字で内容一覧を掲載するが、函・表紙・見返しともまったく同一仕様の芥川龍之介全集のスミ文字による内容一覧の方が読みやすい)。手許の第1巻の吉田精一〈解説〉には「「蛇」については、これが芥川龍之介の短篇「疑惑」の紛本ではないまでも、いくらか共通しているものをもつていることのみを記しておこう」(同書、三七二ページ)とある。芥川の専門家ならではの洞察だろう。A《森鴎外全集(新装版)〔全8巻〕》(筑摩書房、1965年4月19日〜11月15日)の仕様は、一八八×一三〇ミリメートル・各巻平均約四二四ページ・並製紙装。《筑摩書房図書総目録》には「フランス装」とあるが、がんだれ装の並製本である。B《森鴎外全集(筑摩全集類聚)〔全8巻別巻1〕》(筑摩書房、1971年4月5日〜12月10日)の仕様は、一八八×一三〇ミリメートル・各巻平均約四二四ページ・上製クロス装・機械函に貼題簽(裏に内容一覧)。いずれも社内装丁の常で装丁者のクレジットはないが、@とBは吉岡実によるものと思われる(Aは存疑装丁作品)。
若年のころ《雁》に親しんだ吉岡は、戦後間もない日記に「伊藤佐喜雄《森鴎外》を読む」(1946年1月29日)、「床の中で鴎外の《澀江抽斎》をよむ。一見、系図や年代ばかりだが不思議と魅力ある小説だ」(1947年7月5日)と書いている。伊藤の本は1944年刊の大日本雄弁会講談社版。吉岡は伊藤の長篇小説《花の宴〔新ぐろりあ叢書〕》(ぐろりあ・そさえて、1939)を愛読しているから、この選書が伊藤への関心からか鴎外への関心からか、判断できない。《澀江抽斎》はどの版かわからないが、改造文庫か岩波文庫で、岩波の鴎外全集ではないような気がする。


吉岡実の装丁作品(128)(2015年2月28日)

〈吉岡実の装丁作品(89)(2011年3月31日)〉に掲げた〔第1次筑摩書房版〕から〔第11次筑摩書房版〕までの太宰治全集のリスト――第10次《太宰治全集〔別巻〕》(筑摩書房、1992年4月24日)掲載の山内祥史編〈書誌〉等によった――に《筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)の情報等を追加して一覧表にする。なお〔第1次筑摩書房版〕は@のように表示し、「〔第11次筑摩書房版〕太宰治全集 全13巻 1998年5月〜1999年5月」は吉岡実の歿後の刊行につき割愛した

@太宰治全集 全12巻・別巻1巻 1955年月10月〜1956年9月
四六判・上製・貼函入・月報付。本文9ポ組。装丁:クレジットなし。各巻420円 別巻480円

A太宰治全集(普及版) 前回と同じ版によるが、第12巻に増補 全12巻・別巻1巻 1957年10月〜1958年9月
四六判・上製・カバー装・月報付。本文9ポ組。装丁:クレジットなし。各巻290円 別巻320円

B太宰治全集(新装版) 全16巻 1959年12月〜1960年8月
解説 亀井勝一郎 小B6判・フランス装・機械函入。本文8ポ二段組。装丁:クレジットなし。各巻160円 第13・14巻200円

C定本 太宰治全集 第3次版を元に改編・増補したもの 全12巻・別巻1巻 1962年3月〜1963年3月
解説 奥野健男 小B6判・上製・布装・地巻表紙・機械函入・月報付。本文8ポ二段組。装丁:クレジットなし。各巻320円

D太宰治全集 第1次版を元に改訂・増補 書簡集のみ新版2段組 全12巻・別巻1巻 1967年4月〜1968年4月
四六判・上製・布表紙・カバー付・機械函入・月報付。本文9ポ組。装丁:クレジットなし。各巻580円

E太宰治全集(筑摩全集類聚) 第5次版と内容・頁数とも同じ 全12巻・別巻1巻 1971年3月〜1972年3月
四六判・上製・機械函入。本文9ポ組。装丁:クレジットなし。各巻850円

F太宰治全集(新訂版) 全12巻 1975年6月〜1977年11月
解題 関井光男 第12巻のみ相馬正一 校異付 
A5変型判・上製・函入・月報付。本文9ポ組。装丁:クレジットなし。定価3,700〜4,600円

G太宰治全集(新訂版)(筑摩全集類聚) 第7次版と内容・頁数とも同じ 第10・11巻に若干の増補あり 全12巻 1978年6月〜1979年5月
四六判・上製・機械函入。本文9ポ組。装丁:クレジットなし。各巻2,000円

H太宰治全集(ちくま文庫) 1975年6月〜1976年6月刊「太宰治全集(筑摩全集類聚)」を底本とする 全10巻 1988年8月〜1989年6月
解題 関井光男 カバー装画 藤井勉
A6判・並製・ジャケット。本文8ポ組。装丁:安野光雅。定価680〜800円

I初出 太宰治全集 全12巻・別巻1巻 1989年6月〜1992年4月
編纂・解題 山内祥史 校異付
A5変型判・上製・クロス装・貼函入・月報付。本文9ポ組。装丁:クレジットなし。

これらの筑摩書房版太宰治全集の本文の系統を整理すると、以下のようになる。なお、≒は軽微な増補、→は巻数の増減や大幅な増補もしくは改版、=は内容・ページ数が同じもの(外装のみの変更)を表し、末尾の( )内に判型を補記した。ここで註すれば、H太宰治全集(ちくま文庫)は奥付対向ページに「この文庫版全集は、一九七五年六月から一九七六年六月に刊行された筑摩全集類聚版太宰治全集を底本にした」とあるが、第一刷刊行年月期間からはF太宰治全集(新訂版)が、書名からはG太宰治全集(新訂版)(筑摩全集類聚)が底本と思われるものの、両者ともに合致する筑摩書房版太宰治全集は存在しない。その原因として、たとえばGの〔第9巻〕奥付に「昭和五十一年十一月十日 初版第一刷発行」「昭和五十四年二月二十日 類聚版第一刷発行」と、FとGの刊行日が二行並記してあるため、Gを採るべき処をFを採ったことによると考えられる。とはいうものの、どのみちF≒Gゆえ、この系統の本文を新たに組んだものと見なせる。同様に、B→CそしてD=Eも@≒Aの系統の本文だろう。

@≒A(四六判)
B→C(小B6判)
 @→D=E(四六判)
F≒G(A5変型判/四六判)→H(A6判)
I(A5変型判)

太宰の多くの単行本がそうであったように、文芸書の王道である四六判で始まった全集は、ひとたびは新書判(182×103あるいは173×105mm)を一回り大きくしたような小B6判の形をとりつつも、再び四六判に回帰し、《宮澤賢治全集》がそうであったように、本文校訂に力を入れるとともに判型をA5判系に拡大した。Hは文庫本つまり普及版であり、Iは初出形を集めた特異な全集ゆえ、本稿で言及するのはジャンル別・発表年月順の通常の(と仮に言っておく)編纂になる全集に限るが、奇数の@B(D)Fが新機軸を出して、偶数のA(C)EGがその前の回の廉価版(同一もしくは軽微な増補)であることは、一覧表の造本・装丁や価格面からもはっきりとうかがえる。私の見るところ、装丁者のクレジットのないもののうち、吉岡実装丁作品は@ACDEFGで、Bは疑わしい(Bの装丁は栃折久美子かもしれない)。

B《太宰治全集(新装版)〔第13巻〕》(筑摩書房、1960年7月10日)とC《定本 太宰治全集〔第4巻〕》(同、1962年6月5日)の函と表紙 B《太宰治全集(新装版)〔第13巻〕》(筑摩書房、1960年7月10日)とC《定本 太宰治全集〔第4巻〕》(同、1962年6月5日)の本扉
B《太宰治全集(新装版)〔第13巻〕》(筑摩書房、1960年7月10日)とC《定本 太宰治全集〔第4巻〕》(同、1962年6月5日)の函と表紙(左)と同じく本扉(右)

まず、B《太宰治全集(新装版)〔全16巻〕》(1959年12月15日〜1960年8月30日)とC《定本 太宰治全集〔全12巻・別巻1巻〕》(1962年3月5日〜1963年3月15日)の仕様を比較しよう。一体にこの小B6判という判型には8ポ2段組でかなりの原稿枚数が収録でき、用途としては「全集」より「選集」が多い。本文を通読するには便利だが、学術的には尊重されない版である。F所収の山内祥史作製〈書誌〉(《太宰治全集〔第12巻〕》、1977年11月30日、五八一ページ)からの引用(原文の正字は常用漢字に改めた)に続けて、仕様を掲げる。

〔B〕太宰治全集 全十六巻 筑摩書房版
昭和三十四年十二月十五日〜昭和三十五年八月三十日発行、筑摩書房(東京都千代田区神田小川町二ノ八、古田晁)。小B6判、函・帯付、口絵写真各巻一〜二葉。本文8ポ二段組。定価百六十円〜二百円。
〔註〕第三次筑摩書房版全集。第一巻〜第十四巻巻末に亀井勝一郎「解説」を収載。

〔C〕定本太宰治全集 全十二巻・別巻一巻 筑摩書房版
昭和三十七年三月五日〜昭和三十八年三月十五日発行、筑摩書房(東京都千代田区神田小川町二ノ八、古田晁)。小B6判、函・帯付、口絵写真各巻一葉。本文8ポ二段組。定価三百二十円。
〔註〕第四次筑摩書房版全集。別巻のみ、口絵写真無く、定価四百五十円。全十二巻、各巻末に奥野健男「解脱」を収載、各巻に月報「定本太宰治全集」を付す。

版次    天地×左右(ミリメートル)    各巻平均ページ数(ページ数は《筑摩書房図書総目録》より算出)    製本形態    函
B    一七二×一一一    二五〇ページ    フランス装*    機械函
C    一七六×一一二    三四四ページ    上製・布装    機械函

Bの「フランス装」について註する。これは、見返しのきき紙に表紙の袖が被さる通常のそれではなく、吉岡実歌集《魚藍》(1959)の製本様式(〈歌集《魚藍》解題〉の追記参照。ただし、表紙にグラシンは掛かっていない)と同じ「並製フランス装」なのだ(「並製フランス装」とは私の命名でBを詳述すれば、(1)通常の上製同様、本文の折丁を見返しで挟んで仕上げ裁ち(2)表紙の用紙の天地を40ミリほど折りこむ(3)小口はさらにそれを60ミリほど折りかえす(4)このとき折りかえした部分が天地にはみ出さないように角をややずらして斜め45度にカットしておく(5)この表紙を、本体の背と、本体を挟んだ見返しのきき紙の方の小口に糊付けする)。近年この製本様式が見られないのは、通常のフランス装の衰微とも関連するかもしれない。地巻表紙が上製と並製の中間的な様式であったように、この「並製フランス装」も並製と(柔らかい紙装で、チリのある)上製の中間的な様式のようで、味わい深いものだ。
思えば、@≒Aで太宰の文業を顕彰することに成功したあと、より広範な読者(Bの帯文に「若い世代の人々に贈る」とある)を得るために筑摩書房が刊行したのがB→Cだった。当時、筑摩は文庫を出しておらず、ラインナップの充実を図る新潮文庫(当時の刊行書籍は《晩年》《斜陽》《ヴィヨンの妻》《津軽》《人間失格》《走れメロス》)や老舗の岩波文庫(同じく《富嶽百景・走れメロス 他八篇》《ヴィヨンの妻・桜桃 他八篇》)に対抗する意味もあっただろう。Bに続くCからは、前回全集の完結後1年半で解説を新たにしたうえ、布装地巻表紙にして巻立てを改めるなど、太宰治の本家はこちらだといわんばかりの意気込みが伝わってくる。吉岡の装丁と見られるCは、Bに較べて、機械函の板紙も表紙の芯紙(Bに芯紙はないが)も厚く、
小B6判という小振りな判型ながら「定本」の名に恥じない堅牢さを出している。函の平のカットと背の巻数表示がワンポイントの赤色なのは、@の色遣いを踏まえたものか。


EFGを見るまえに、筑摩全集類聚について触れておく。全集類聚は、1986年にちくま文庫が創刊されるまで、筑摩が出していたビッグネームの小説家の全集の廉価版である。

 森鴎外全集〔全8巻別巻1〕
 夏目漱石全集〔全10巻別巻1〕
 芥川龍之介全集〔全8巻別巻1〕
 新訂版 太宰治全集〔全12巻〕

以上の4シリーズが当のG太宰治全集(新訂版)(
筑摩全集類聚)の奥付裏広告に記されているが、いずれも後にちくま文庫に収録されることで、その使命を終えた。これらのうち断簡零墨まで収めた個人全集は、太宰治を除いて、岩波書店から出ている(岩波版の各次全集の特徴を述べることは本稿の領域を超えるので、これらの小説家の全集と筑摩の個人全集との比較は行わないが、興味深い研究対象である)。筑摩での鴎外、漱石、芥川の四六判全集の概略を《筑摩書房図書総目録 1940-1990》でたどると次のようになる。

@森鴎外全集 監修・解説 吉田精一 全8巻別巻1 1959年1月―62年4月
四六判・上製・布装・機械函入・月報付

A森鴎外全集 前回の版による新装版 全8巻 1965年4月―11月
四六判・フランス装・ビニールカバー付・月報付

B森鴎外全集 筑摩全集類聚 前回と同じ版 全8巻別巻1 1971年4月―11月
四六判・上製・クロス装・機械函入
  ――
@夏目漱石全集 監修・語注・解説 吉田精一 全10巻 1965年11月―66年8月
四六判・フランス装・ビニールカバー付

A夏目漱石全集 筑摩全集類聚 監修 吉田精一 前回の版に別巻を加える 全10巻別巻1 1971年4月―73年1月
四六判・上製・機械函入
  ――
@芥川龍之介全集 語註・解説 吉田精一 全8巻別巻1 1958年2月―12月
四六判・上製・機械函入・月報付

A芥川龍之介全集(新装註解) 前回と内容・頁数とも同じ 全8巻 1964年8月―65年3月
四六判・フランス装・ビニールカバー付・月報付

B芥川龍之介全集 筑摩全集類聚 前回と内容・頁数とも同じ 全8巻別巻1 1971年3月―11月
四六判・上製・機械函入

森鴎外全集は、企画においても造本・装丁においても先行する芥川龍之介全集を踏襲したもの。夏目漱石全集は、【元版】に相当する版次を欠くものの(@Aではなく、ABとすれば対応関係がはっきりする)、森鴎外全集に雁行するものとみなせる。いずれも吉田精一に手になるのが最大の特徴である。明治・大正・昭和三代の文豪たちの全集は、1970年代において文学部の大学生の必携図書の感さえあった。太宰治全集を含め、類聚の装丁はほぼ統一されている。社内装丁の常として装丁者のクレジットはないが、その装丁は「店頭で派手な本も好きだけど、ぼくの作る本は、家に持ってきて落ち着いて読めるものにしたいんだ」、「要するにね、ぼくの中にはあきのこない本∞いやみのない装丁≠ニいう気持ちが基本としてあるんだよ」(松田哲夫《縁もたけなわ――ぼくが編集者人生で出会った愉快な人たち》小学館、2014年9月3日、八五ページ)という吉岡の意向に副ったものと言えよう。
ところで、E《太宰治全集(筑摩全集類聚)〔第3巻〕》(1971年5月5日)に挟みこまれた販促冊子〈筑摩書房 新刊ニュース〉に筑摩全集類聚が載っている。角印を模した「筑摩全集類聚」のロゴ(?)と芥川龍之介全集〔第1巻〕の函の写真をアイキャッチにして、見出しは大が「全集の筑摩が世に問う個人全集集成」、小が「4人の作家の全集を揃える絶好の機会」とある。第1巻と第2巻が「好評発売中」なのが芥川龍之介全集(全8巻・別巻1)と太宰治全集(全〔22→12〕巻・別巻1)。第1巻が「好評発売中」なのが夏目漱石全集(全10巻・別巻1)と森鴎外全集(全8巻・別巻1)。全体にかかる註記として「◆各全集とも別巻は定価未定 ◆毎月一冊 巻数順に発行 ◆四六判・上製クロス装・函入 ◆平均四〇〇頁」とあり、芥川・太宰・夏目・森(
販促冊子での並びは50音順か)の4シリーズをまとめて制作・販売していたことがわかる。
全集類聚もさることながら、1970年代の筑摩書房は、私には高等学校の現代国語の教科書の版元として懐かしい。西脇順三郎〈ギリシア的抒情詩〉、萩原朔太郎〈竹〉、森茉莉〈父の帽子〉などがたちどころに想いうかぶ。森鴎外は〈舞姫〉、夏目漱石は〈先生の遺書〉、太宰治は〈走れメロス〉だったか。芥川龍之介は〈魔術〉を教科書で読んだ覚えがあるが、それは中学校で、やはり〈羅生門〉だろう(「筑摩の小説家」でいえば、中島山月記
敦も定番だった)。こうした作品に筑摩の個人全集本で触れなおしていれば、それと知らずに吉岡実装丁作品と出会っていたわけだが、殊勝な生徒でなかった私は新潮文庫版《西脇順三郎詩集》や角川文庫版《月に吠える》を手にしただけだった。教科書の詩といえば、新刊の石原千秋監修・新潮文庫編集部編《新潮ことばの扉――教科書で出会った名詩一〇〇〔新潮文庫〕》(新潮社、2014年11月1日)に西脇や萩原とともに吉岡の〈静物〉が《吉岡実全詩集》から収録されているのは心強いかぎりだ。高校時代の私と異なり、ここから〈サフラン摘み〉や〈薬玉〉の豊饒な吉岡実詩の世界に分けいっていく読者も多いことだろう。それにしても、略歴の「装丁を行い、童話も書いた。」(同書、一八五ページ)の「童話」とは一体なにを指すのか、作品はもちろんその根拠もわからない。

EFGの仕様を見よう。E《太宰治全集(筑摩全集類聚)〔全12巻・別巻1巻〕》(1971年3月5日〜1972年3月10日)の仕様は、一八八×一三一ミリメートル・各巻平均約四〇六ページ(ページ数は《筑摩書房図書総目録》より算出)・上製クロス装・機械函に貼外題(裏に内容一覧を掲載)。F《太宰治全集(新訂版)〔全12巻〕》(1975年6月20日〜1977年11月30日)の仕様は、二〇〇×一四八ミリメートル・各巻平均約四八八ページ(同前)・上製クロス装・貼函(裏に内容一覧を掲載)。G《太宰治全集(新訂版)(筑摩全集類聚)〔全12巻〕》(1978年6月15日〜1979年5月20日)の仕様は、一八八×一三〇ミリメートル・各巻平均約四九〇ページ(同前)・上製クロス装・機械函に貼外題(裏に内容一覧を掲載)。

E《太宰治全集(筑摩全集類聚)〔第3巻〕》(1971年5月5日)の函と背表紙、F《太宰治全集(新訂版)〔第4巻〕》(1976年1月10日)の函と背表紙、《同〔第9巻〕》(1976年11月10日)の函の背と表紙、G《太宰治全集(新訂版)(筑摩全集類聚)〔第3巻〕》(1978年8月30日)の函の背、《同〔第5巻〕》(1978年10月20日〔第五刷:1983年4月30日〕)の函と背表紙
E《太宰治全集(筑摩全集類聚)〔第3巻〕》(1971年5月5日)の函と背表紙、F《太宰治全集(新訂版)〔第4巻〕》(1976年1月10日)の函と背表紙、《同〔第9巻〕》(1976年11月10日)の函の背と表紙〔以上、上段〕、G《太宰治全集(新訂版)(筑摩全集類聚)〔第3巻〕》(1978年8月30日)の函の背、《同〔第5巻〕》(1978年10月20日〔第五刷:1983年4月30日〕)の函と背表紙
〔以上、下段〕

Eは同じ四六判のD《太宰治全集〔全12巻・別巻1〕》(1967年4月5日〜1968年4月30日)の表紙と函を替えただけである(自社刊の四六判の単行本を筑摩叢書に収めるのと同工の手法)。前述したように、刊行は筑摩全集類聚の4シリーズ中、鴎外・漱石よりひと月早く、芥川と同じ月から始まっている。もって、筑摩がいかに太宰を重視していたかがうかがえる。
F≒Gは、判型がFのA5変型判からGの四六判に縮小されたのが最大の特徴で、これは全集類聚の規定値が四六判であることから来ている。Fの本文の基本版面は9ポ45字詰×18行組・行間7ポ(天地142×左右99ミリメートルに相当)で、これをA5変型判の中央に配置していたが、Gでも四六判の中央に配置している。当然、天地と小口・ノドのマージンは狭くなるものの、読みづらいというほどではない。Fの版面設計の時点で織りこみずみだったのだろう。@からEまでの太宰治全集の編集担当者は後に《太宰治 人と文学〔上・下〕》(リブロポート、1981年12月10日)を著す野原一夫。Fの編集担当者が誰かはわからないが、吉岡が本文の基本版面を設計した可能性もある。正字旧仮名の本文の印刷は精興社、製本は積信堂(同社は中島かほる装丁になる《マラルメ全集》も手掛けている)の見事な仕上がり。
GはEの7年後の全集類聚で、新訂版が出たのは太宰治だけである。もっともEは18年前に刊行された@の系統の本文だったから、Fで新機軸を出した以上、旧版を全集類聚として遇しつづけるわけにはいかない。3年という、単行本から文庫本にする際のスピードに匹敵する短期間のうちに、新訂版Fの類聚Gが登場した所以である。Hちくま文庫がこの新訂版の系統の本文であることはすでに述べた。

筑摩書房の個人全集における吉岡実装丁について考えてみたい。単行本・全集を問わず、現在でこそ書籍の造本・装丁をフリーランスのデザイナーが手掛けるようになったが、吉岡が筑摩で装丁を始めた1950年代、作業を担ったのは主に担当編集者かデザインの心得のある社員たちだった。吉岡が担当した今日知られる最も早い全集は《一葉全集〔全7巻〕》(1953〜56)で、書名に空海の書を用いている点がのちの吉岡実装丁と大きく異なる。次の〔第1次〕《太宰治全集〔全12巻・別巻1〕》(1955〜56)は吉岡実装丁の基本となった作品で、書名は明朝体の描き文字[レタリング]に改まった。一葉、太宰の全集とも、吉岡は編集担当ではなかった。吉岡は筑摩では宣伝広告畑を歩み、新聞の一面下に掲載する書籍の広告や、社のPR誌《ちくま》の編集で知られる。つまり一冊の本を著者とともに造りあげて、最後に造本・装丁を手掛けるのではなく、編集者の作った「世界」を造形的・視覚的に展開する役目をバトンタッチされる点において、社内・社外の違いこそあれ、今日のフリーランスのブックデザイナーと近い立場にあった。ただし、筑摩書房以外の刊行物の場合(その大半は詩書だったが)、著者と個人的に親しい間柄であることが多く、人格的な結びつきが強い処が職業的なブックデザイナーとの違いだった。平たく言えば、誰の詩集でも装丁したわけではないだろう。作品を観る吉岡の目には厳しいものがあった。詩集の単行本は総じて発行部数が少ない。吉岡が装丁した詩集にフランス装が多いのは、10ポや五号といった大きめの活字でゆったりと組んだA5(変型)判を軽やかに仕立てるためであり、造本に過大な費用を投入しないためでもあっただろう(部数限定の豪華版はこの限りではない)。吉岡実の装丁作品には、一方に詩人の自費出版に近い詩書があり、もう一方に出版社の商業出版の究極の姿である個人全集がある。その中間に、四六判の文芸物を中心とする 単行本があった。吉岡は生涯にわたって文庫本のブックデザインをしなかった。文庫のジャケットをデザインすることは自分の任ではないと想い定めていたと思しい。


吉岡実の装丁作品(127)(2015年1月31日)

いま入手できる筑摩書房刊の《芥川龍之介全集》は、全小説に評論・日記・随筆・紀行文等を収めた全8巻のちくま文庫版(当初〔1986〜87〕、全小説を6巻に収め、のち2巻を増補〔1989〕)。底本は後出「筑摩全集類聚」版全集である(同じ巻数だが、収録作品は対応していない)。芥川全集は文庫版より前に四六判で3度、異なる装いで出ている。《筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)の記載を借りて概要を示す。

@芥川龍之介全集
全8巻別巻1 1958年2月―12月
語註・解説 吉田精一
四六判・上製・機械函入・月報付
各巻350円 別巻360円

A芥川龍之介全集(新装註解)
前回と内容・頁数とも同じ
全8巻 1964年8月―65年3月
四六判・フランス装・ビニールカバー付・月報付
各巻380円

B芥川龍之介全集 筑摩全集類聚
前回と内容・頁数とも同じ
全8巻別巻1 1971年3月―11月
四六判・上製・機械函入
各巻800円

C芥川龍之介全集(ちくま文庫)
1971年3月〜11月刊「芥川龍之介全集(筑摩全集類聚)」を底本とする
全8巻 1986年9月―89年8月

カバー装画 米倉斉加年
〔各巻解説の筆者は、中村真一郎、磯田光一、稲垣達郎、饗庭孝男、中村光夫、臼井吉見、吉田精一、山本健吉。中村真一郎〈芥川文学の魅力〉は「筑摩全集類聚」別巻所収の文〕

《芥川龍之介全集〔第4巻〕》(筑摩書房、1958年6月10日)の函と《同(新装註解)〔第6巻〕》(同、1965年 1月20日〔再版:1965年5月30日〕)の表紙と《同筑摩全集類聚〔第2巻〕》(同、1971年4月5日〔13刷:1981年4月10日〕)の函とちくま文庫版《同〔第1巻〕》(同、1986年9月24日〔25刷:2014年7月30日〕)のジャケット〔装丁:安野光雅、装画:米倉斉加年〈芋粥の五位の面〉〕
《芥川龍之介全集〔第4巻〕》(筑摩書房、1958年6月10日)の函と《同(新装註解)〔第6巻〕》(同、1965年 1月20日〔再版:1965年5月30日〕)の表紙と《同 筑摩全集類聚〔第2巻〕》(同、1971年4月5日〔13刷:1981年4月10日〕)の函とちくま文庫版《同〔第1巻〕》(同、1986年9月24日〔25刷:2014年7月30日〕)のジャケット〔装丁:安野光雅、装画:米倉斉加年〈芋粥の五位の面〉〕

Bの「筑摩全集類聚」は、林哲夫〈色――吉岡実の装幀〉に拠りながら、吉岡実装丁の特徴を概観した回で紹介したので、今回は@の【元版】とAの【新装註解】を取りあげる。上の概要で明らかなように、@〜Bの芥川龍之介全集は@【元版】の本文をそのままに、外装だけを改めた恰好だ。中でA【新装註解】は少しく毛色が違って、「フランス装〔と目録にはあるが、実見したところふつうのがんだれ表紙だった〕で別巻なし」というあたりは《宮澤賢治全集》の【増補版】同様、【元版】の重厚さを軽快さにもっていこうとしたものだろう(そもそも、四六判400ページ規模でフランス装は無理がある)。@【元版】が本文8ポ23字詰2段組に加うるに、短い3段めに6ポ組の註を配した半ばアカデミックな組体裁だっただけに、@やBにはふさわしくても、Aにこの版面は重苦しい。それかあらぬか、軽装版のわりにはヴィジュアル要素(@【元版】の表紙と同じ河童のカット)に軽快さが欠ける憾みがある。大きな疑問符を付けつつ、《吉岡実書誌》の〈W 装丁作品目録〉に存疑作品として掲げておいたが、はたしてA【新装註解】は吉岡実装丁なのだろうか。結論を先に言えば、同時期の他の作品と較べても、吉岡による可能性は低いように思う(ただし、クレジットがないところからは、筑摩の社内装丁には違いない)。表紙や本扉に見える枠や囲みの罫線は、吉岡がふだん装丁には用いない要素だし、書名(「芥川龍之介全集」)の明朝体が細いのも気になる。同書が吉岡実装丁作品か、今後の究明に俟つ。

《芥川龍之介全集〔第1巻〕》(筑摩書房、1958年2月20日)の本文ページと《同〔第2巻〕》(同、1958年3月25日)の本扉と《同〔第8巻〕》(同、1958年12月25日)と《同〔第4巻〕》(同、1958年6月10日)の表紙の平と背
《芥川龍之介全集〔第1巻〕》(筑摩書房、1958年2月20日)の本文ページと《同〔第2巻〕》(同、1958年3月25日)の本扉と《同〔第8巻〕》(同、1958年12月25日)と《同〔第4巻〕》(同、1958年6月10日)の表紙の平と背

《芥川龍之介全集〔全8巻別巻1〕》(筑摩書房、1958年2月20日〜12月25日)の仕様は、一八八×一三四ミリメートル・各巻平均約四四〇ページ(ページ数は《筑摩書房図書総目録》より算出)・上製布装・機械函(おもてに内容一覧を掲載)。手許の第4巻の〈本所両国〉の〈乗り継ぎ「一銭蒸汽」〉の節に厩橋が登場する。「川蒸汽は蔵前橋の下をくぐり、厩橋へ真直ぐに進んで行つた。」とある本文に、「(3)厩橋 明治二十二年架設。同三十四年鉄橋となり、震災で壊滅。昭和五年復興。」と註が付く(同書、四〇八ページ、四一三ページ)。本文と註が泣きわかれになっており、その点、同じ脚註でも見開き内に収めるちくま文庫版方式の方が読みやすい。
《芥川龍之介全集(新装註解)〔全8巻〕》(筑摩書房、1964年8月28日〜1965年3月20日)の仕様は、一八八×一三〇ミリメートル・各巻平均約四四四ページ(ページ数は《筑摩書房図書総目録》より算出)・並製がんだれ装。手許の第6巻の評論〈萩原朔太郎君〉(自殺する半年ほど前に発表された文章)には「萩原君は今日の詩人たちよりも恐らくは明日の詩人たちに大きい影響を与へるであらう。その又影響は今日の詩人たちが既に萩原君から受けてゐるものとは遙かに趣を異にするであらう。」とある。こうした警句を吐いて、芥川を超える者はいない。そういえば、吉岡の詩句に見える箴言ふうの言い回しは、芥川の文章からの影響も大きいように思う。吉岡実は芥川龍之介の作品については、随想〈読書遍歴〉においてその他大勢の扱いで

 〔志賀〕直哉の「或る朝」が、この作家の二十六歳の処女作と知って、小説くみしやすしと不逞にも思ったものだ。〔……〕山本有三の作品のなかでは戯曲が好きで、〔……〕。そのほか、漱石の「心」、龍之介の短篇、とりわけ「藪の中」、荷風の「おかめ笹」、潤一郎の「春琴抄」、康成の「雪国」、利一の「機械」など特に好きな小説であった。鴎外の「雁」は、毎日のように無縁坂を歩いて不忍の池へ散歩にいったので、ことのほか愛着を感じていた。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、五六ページ)

と書いただけのようだ(自筆年譜には、15歳の項に登場する)。〈藪の中〉の愛好からなにかを引きだすことは控えて、芥川が1925(大正14)年3月、《明星》に発表した旋頭歌〈越びと〉から一首を、吉岡の句集《奴草》から一句(制作は1939年6月18日)を引いて、この稿を終えよう。

うつけたるこころをもちて街[まち]ながめをり。
日ざかりに馬糞[ばふん]にひかる蝶のしづけさ。

品川や馬糞はなるる白き蝶


吉岡実の装丁作品(126)(2014年12月31日)

精神科医の福島章といえば〈自我と世界の裂け目――吉岡実試論〉(《ユリイカ》1973年9月号)の筆者だが、最初の著書は《宮沢賢治――芸術と病理〔パトグラフィ双書〕》(金剛出版新社、1970年2月15日)だった。同書はのちに《宮沢賢治――こころの軌跡》(講談社、1985年2月10日)と副題を改めて講談社学術文庫に入った。その〈学術文庫版へのまえがき〉にこうある。

 賢治研究は『校本宮澤賢治全集』(一九七三〜七七年、筑摩書房)の刊行を境にして、大きく変わり、新しい時代を迎えたといわれる。この全集の完結を機に、近年、ふたたび賢治をめぐる研究や議論がさかんになったことは、昔から賢治に親しんでいた私には非常にうれしいことである。
 さて、パトグラフィ双書の一冊として一九七〇年に初めて公刊した『宮沢賢治――芸術と病理』を、このたび学術文庫の一冊に入れるにあたって、これまで旧全集(一九六七〜六八年、筑摩書房版)によっていた賢治のテキストを、校本全集によって校訂する必要があった。そして、この作業が本書の展開になんらかの訂正を必要とするのではないかとおそれながら、この照合・校訂を行なった。しかし、幸いなことに、ほとんど訂正の必要がなかった。(同書、三ページ)

初版の〈はじめに〉には「〔賢治の生涯を年代記風にたどりつつ、伝記的事実と作品に則して、賢治の創造の生涯を具体的に記述した〕第二部を書きながら、堀尾青史「年譜宮沢賢治伝」「宮沢賢治全集全十二巻」(筑摩書房版)のような、綿密で信頼のおける基礎的研究の集積を利用できる点、宮沢賢治のパトグラファーがきわめて恵まれていると痛感した」(同書、四〜五ページ)とある。つまり1960年代の末に宮澤賢治を論じようとしたなら、堀尾の年譜(補述を加え、訂正を施して1991年に中公文庫化)とともに依るべき本文は《宮澤賢治全集〔全12巻別巻1〕》(筑摩書房、1967年8月25日〜1969年8月15日)だったわけである。同全集は高村光太郎装丁・題字の《宮澤賢治全集〔全11巻別巻1〕》(筑摩書房、1956年4月25日〜1958年8月15日)の増補版で、当時としては最も整備された宮澤賢治全集だった。この増補版全集の装丁が、例によってクレジットはないものの、吉岡実による社内装丁だと考えられる。比較のために、同時期に刊行された(これも吉岡の手になると考えられる)〔第5次〕《太宰治全集〔全12巻別巻1〕》(筑摩書房、1967年4月5日〜1968年4月30日)とともに書影を掲げる。

西脇順三郎詩集《禮記》(筑摩書房、1967年2月15日)の函と表紙 《宮澤賢治全集〔第2巻〕》(筑摩書房、1967年8月25日)の函とジャケット
《太宰治全集〔第6巻〕》(筑摩書房、1967年9月2日)の函とジャケット(左)と《宮澤賢治全集〔第2巻〕》(同、1967年8月25日)の函とジャケット(右)

太宰治もそうだったが、吉岡実が宮澤賢治をどう読んだのか、実のところよくわからない(牛窪忠からもらった創元社版の《宮沢賢治詩集》を読んだことは確かだが)。平出隆の「吉岡さんは宮沢賢治について、どういうふうに思ってたんでしょうかね」という問いに対する入沢康夫の答えに注目して、大岡信・入沢康夫・天沢退二郎・平出隆〔討議〕〈自己侵犯と変容を重ねた芸術家魂――『昏睡季節』から『ムーンドロップ』まで〉を読まれたい。

天沢 さっき吉岡実の『僧侶』の「いかがわしさ」と言われましたが、これは萩原朔太郎と共通しているものだと思うんですね。〔……〕例えば宮沢賢治なんかあまりにもいかがわしさがないものだから、吉岡さんとつながるものがないような気がする。
入沢 でも宮沢賢治はそういういかがわしさを語彙としてではなくて、底の方へ埋めちゃったんじゃないかな。
平出 吉岡さんは宮沢賢治について、どういうふうに思ってたんでしょうかね。
入沢 これは一度も聞いたことがない(笑)。
大岡 読んだことないんじゃないかしらん。
入沢 でもね、筑摩書房の昭和三十一年〔判→版〕の上製本で出した全集をある時ぼくにくれた。いや、そうか。結局読まなかったということかもしれない(笑)。(《現代詩読本――特装版 吉岡実》思潮社、1991、三七ページ)

《筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)によれば、《宮澤賢治全集〔全11巻別巻1〕》(以下、【元版】と称する)と吉岡実装丁の増補版全集(以下、【増補版】と称する)のあいだに、巻数・内容・ページ数とも【元版】と同じ「普及版」(1958年7月25日〜1959年5月10日)がある(未見)。吉岡が入沢に贈った【元版】は装丁の作業上参照した、つまり業務で使用した揃いだったのではあるまいか。本文を読まなくても装丁はできる。まして11巻と12巻、それと別巻こそ異なるものの、両者の本文は同じ版なのだから。手許の【増補版】の〈内容見本〉から造本その他の記載を引く(同パンフレットは表紙と裏表紙がスミとオレンジの2色刷りのA5判12ページものだが、吉岡のレイアウトではないようだから、写真はここに掲げない)。

造本・体裁=四六判上製・表紙麻布装・函入・本文9ポ一段組平均四〇〇頁・口絵一丁・月報八頁付/定価各巻七六〇円配本=毎月一冊ずつ配本

【増補版】の仕様は、一八八×一二九ミリメートル・各巻平均約四〇四ページ(ページ数は《筑摩書房図書総目録》より算出)・上製布装・ジャケット・機械函。函まわりは貼外題(スミとオレンジ色の2色刷)を含めて、すべて凸版(活字)で印刷されている。ここで【増補版】を【元版】、「普及版」と較べてみよう。《筑摩書房図書総目録》の記載を借りて概要を示す。

【元版】宮澤賢治全集/全11巻別巻1 1956年4月―58年8月
装幀・題字 高村光太郎
四六判・上製・布装・貼函入・月報付
各巻420円 別巻550円

「普及版」宮澤賢治全集(普及版) 前回と内容・頁数とも同じ/全11巻別巻1 1958年7月―59年5月
四六判・上製・カバー装・月報付
各巻290円 別巻320円

【増補版】宮澤賢治全集 前回の版を元に増補/全12巻別巻1 1967年8月―69年8月
四六判・上製・地巻表紙・機械函入・月報付
各巻760円 別巻1,400円
「地巻[ちけん]表紙」は、松田哲夫によれば「製本方法としては上製と同じで、表紙にいれるボール紙を薄いものにする。上製のカッチリ感と並製のソフト感が程よくミックスし、読みやすくて風格もあるもの」(《縁もたけなわ――ぼくが編集者人生で出会った愉快な人たち》小学館、2014年9月3日、一七九〜一八〇ページ)。松田が手掛け、安野光雅が装丁した《ちくま文学の森》(1988〜89)に採用されている。吉岡と【増補版】の関係者が、この地巻表紙の特質を踏まえて造本・装丁をしたことは明らかだ。【増補版】の〈内容見本〉には高村光太郎の文章(無題)が「本全集の旧版(昭和31年)にたいし寄せられたもの」として再録されているが、残念ながら【元版】の造本・装丁には触れていない。むしろ、のちに吉岡が装丁することになる《校本 宮澤賢治全集〔全14巻(15冊)〕》(1973〜77)の出現を予見させる主旨の推薦文になっている。高村(と宮澤清六)の意を汲んで、【元版】=「普及版」、【増補版】、校本全集、(さらに、その後も)と宮澤の原稿を活字化しつづけた筑摩書房の執念には畏怖をおぼえる。高村文を全文、引用する。

 なにしろ、宮澤賢治の原稿というものは、まるで埋没している未分析の礦物のように、手帳やら紙片やらに呪文のように書き散らされていて、しかもそれが縦横むざ〔ママ〕んに消されたり、加筆されたりしていて、到底普通の人間には読むことも出来ず、まとまった一篇の作か否かさえ見当のつきにくいような、いわば反古のような形で筐底にのこっていたのである。
 これを判読して、賢治の書こうとした一篇の作に復元する洞察力と決断力とを持つのは、令弟宮澤清六さんの外になく、清六さんは暇さえあればそういう反古をひっくり返して、この年月、愛兄の為にこの困難な発掘をつづけて来られた。ゴッホの弟テオでもこれほどではあるまいと思われる兄おもいの清六さんの比類を絶した熱情は、ついに反古の発掘を究めつくし、賢治の業蹟集大成の事業を今度の全集編さんにまでこぎつけたのである。
 この全集出版の重責を買って出た筑摩書房はかねてからたっぷり時間をかけて用意にかかり、周到な注意を払って、本当のディフィニチフなものに仕上げようとする覚悟と見え、原稿書写の第一階梯からして専門の人が岩手県花巻に一年以上も滞在して、清六さんから直接の指示をうけているという有様で、よくある孫引や旧版の目くら写しというようなぞろっぺえなやり方はしていないようだ。今度こそ安心して、よりかかって読める全集が出来ることと信じて、今はただこの一事だけについて所感を述べた。

高村はこれだけの期待と自負を持っていたからこそ、自身の題字とカット(「賢[けん]さ」の文字を○で囲んだペン描き)で、生前ただ一度しか会うことのなかった宮澤の全集を飾った。一方、吉岡は(太宰治全集と轡を並べる、という別の要因が加わっているにしても)、個人の手の跡のない造本・装丁をしている。唯一のヴィジュアル要素である胡桃のカットも、作家性をあまり感じさせない(この、リアルなタッチのカットを吉岡が新たに依頼したのなら、その描き手は落合茂に違いないが、クレジットがなく未詳)。いずれにしても、書による題字に対するに明朝活字による文字組の書名、筆跡を充分に活かしたカットに対するにリアルなタッチの胡桃のカット、と吉岡が採った方針は高村のそれとは反対のものだった。率直に言えば、高村が四六判の【元版】に施した装丁はいささか大時代で、あの、大判の中原中也詩集《山羊の歌》(文圃堂、1934)ほどには成功していない。細かいことだが、函と表紙の背文字は「宮澤賢治全集」で、函の平と本扉は「宮沢賢治全集」となっている(活字での表記は、すべて「宮澤」)。この【増補版】が意図した「カジュアル化」(造本・装丁からはもちろん、刊行時期や定価設定からもそれは窺える)をもう一度大きく方向転換したのが《校本 宮澤賢治全集》だった。ページという2次元の堆積に原稿の時間をとりこむことに成功したそれは、ひとり宮澤賢治の全集にとどまらず、筑摩書房の(あるいはわが国の)個人全集の歴史上、一時代を画する出版物となった。造本・装丁の成功の秘訣は、判型をA5判に大きくして、【増補版】の主色であるオレンジ色を「深みのある納戸[なんど]色」(松田哲夫、前掲書、八三ページ)のクロスに切り替えたことにある(ただし、【増補版】の地巻表紙の麻布は、太宰の薄灰色に対し、淡い青色)。吉岡実は宮澤賢治をそのように読んだ。

  《宮澤賢治全集〔第三・四巻〕》(筑摩書房、1956年8月20日・9月20日)の函と表紙〔装丁・題字:高村光太郎〕 【増補版】〈内容見本〉に掲載された高村光太郎による【元版】のカット
《宮澤賢治全集〔第三・四巻》(筑摩書房、1956年8月20日・9月20日)の函と表紙〔装丁・題字:高村光太郎〕(左)と【増補版】〈内容見本〉に再録された高村光太郎による【元版】のカットと【元版】に寄せた文(右)


吉岡実の装丁作品(125)(2014年11月30日)

西脇順三郎詩集《禮記》(筑摩書房、1967年2月15日)巻末の詩篇〈生物の夏〉の末尾に近い部分を引く。:印以下のコメントは、新倉俊一(と西脇自身)の労作《西脇順三郎全詩引喩集成》(筑摩書房、1982年9月30日)掲載のもの。

〔……〕
「はや都につきてそうろう」:能によく使われる言葉。
われわれの面は思わず能面になつていた
旅の果てはすべて礼節と祭礼に終る:ジョン・ダンの詩「魂の旅」のもじり。ちなみに原詩は諷刺詩。
死人の霊を祭るツァラツストラの村の祭り:ニーチェの『ツァラトゥストラ』への言及。ここでは戦没者の慰霊塔をさす。
ピー
紙のみどりの蛇がのびる音だ
プッスー
ゴムの風船玉がしぼむ音だ
ポウー:前の「ピー」「プッスー」にあわせて、ポーの名をオノマトペーに用いたもの。
孔子やナポーレオンのメリケン粉の
人形やきの言葉だ
ブッスーンー
経水で呪文を書き杉林で【以下四行】民族〔ママ〕学によく出てくる慣習。ちなみに郡虎彦の劇『鉄輪[かなわ』(大正二年)などにもそのくだりがみられる。
藁人形に釘をうちこむ
女の執念の山彦の
かすかな記憶の残りだ
また子供のあせの匂い
杉や小便や醬油や娘や
シダやコケの匂いがする
音と匂いが混合するところだ:【以下三行】ボードレールの詩「万物照応〔コレスポンダンス〕」の詩行への言及。‘Les parfums, les couleurs et les sons se repondent.’このまえの三行もパロディを意図している。
ボードレールの亡霊をなぐさめるのに
ふさわしいエキゾティックの風景だ
われわれはサラソウジュの木を
自分の墓石のように恋人のようになでた
〔……〕

〈生物の夏〉はこの詩集が初出の(書きおろしの)詩篇で、新倉は「題名の「生物」は「存在」に近い意味で使われている。『荘子』知北遊篇第二十二の「生物之を哀しみ、人類之を悲しむ。」」(同書、二九六ページ)と註する。西脇詩はこれらの註なしでもそれなりに楽しめるが、引喩の知識を装備して再読するのも別の味が出て、好い。新倉が〈引喩と典拠――はしがき〉で述べているように、こうした典拠の研究はすでにエリオットやパウンドなどのモダニズムの詩人に見られるが、日本の近代詩では本書の西脇をもって嚆矢とする。私もいつの日か《吉岡実全詩引喩集成》を成したいものだ。さて《禮記》(ライキと読むのだろう)には〈天国の夏〉〈愛人の夏〉そしてこの〈生物の夏〉と、3篇の夏の詩が収められている。各詩の末尾を挙げれば、「この偉大なる過去はまだ/このふるさとにつづいている/永遠に眼をつぶつてみたまえ」、「もう夏の記憶は/秋だ」、そして上掲引用の14行後に「だがいつのまにか/また悲しみは胸にせまり/トホのように/思わず杯を置いた」と、どれも盛夏の過ぎた嘆きを歌っているようだ。《Ambarvalia》の永遠の夏が去って久しい。誰よりもそれを実感したのは、西脇順三郎その人だろう。本書の仕様は、二〇八×一六二ミリメートル・二四〇ページ・上製角背布装(おもて表紙と背表紙に革の貼題簽)・貼函。別丁本扉の前の薄紙に著者のペン書き署名。限定1200部、貼奥付に朱筆による記番(所蔵本は「717」番)と「順」の押印。表紙の布は、色といい手触りといい、のちの詩集《人類》(筑摩書房、1979)そっくりだ。私にはそれが、本書の造本・装丁を著者が好感した証しに思える。《禮記》の本文は四号で1ページに11行とゆったり組まれ、ひらがなは捨てがな(小字)を使用していない。吉岡も同時期(1968年刊行)の《静かな家》ではひらがなは捨てがなを使用しなかったが、次の詩集《神秘的な時代の詩》(1974)では捨てがな使用に方針を転換している。

西脇順三郎詩集《禮記》(筑摩書房、1967年2月15日)の函と表紙〔表〕 西脇順三郎詩集《禮記》(筑摩書房、1967年2月15日)の本扉と函〔裏〕
西脇順三郎詩集《禮記》(筑摩書房、1967年2月15日)の函〔表〕と表紙(左)と同書の本扉と函〔裏〕(右)


吉岡実の装丁作品(124)(2014年10月31日)

西脇順三郎が筑摩書房から出した著書(《現代日本文學全集》などの文学全集類を除く)には、次のタイトルがある。末尾の*印は吉岡実装丁であることを表す(推定を含む)。

以上は《筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)から摘記した。これより後、すなわち吉岡の歿後では、

があるが、同書は《西脇順三郎全集〔全10巻〕》を踏襲した装丁である。こうして見ると《礼記》以降、吉岡実は《詩と詩論》と《定本 西脇順三郎全詩集》を除いたすべてを担当している。今回は吉岡実装丁の西脇順三郎本の一冊として、長篇詩《壤歌》(筑摩書房、1969年12月20日)を取りあげる。随想集《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)に収められた〈西脇順三郎アラベスク〉は吉岡が折に触れて書いた西脇関係の文章の集大成だが、丸中数字を振って、《壤歌》に言及した箇所を引く。末尾の( )内の数字は随想集の掲載ページ。

@昭和44年9月1日
 西脇先生来社。会田綱雄と二〇〇〇行の詩の編集について語る。《壤歌》としたいがと言われたので、二人ともさんせいする。先生にきく、――ところで《壤歌》とは何ですか? それは土を叩いて唄うことだよ。土人の祭礼の夜のごとく。
     9月3日
 西脇先生来られる。二千行の詩、一行足りないことがわかり、書き加えにきたとのこと。(231)

Aその後も、西脇先生は健康と詩心に恵まれて、『礼記』、『壤歌』、『鹿門』そして最後の詩集『人類』までの夥しい作品群を、書き加えられたのであった。(242)

B12 大理石の蛇

  すべての生存の回転のように
  言語の回転も天体とともに
  はかりがたい回転をつづけな
  ければならないのだ
  くろがねの牧人のふく蘆笛も
  大理石のとぐろをまくおろちの
  わきで全くきこえない音を
  出しているがそれも
  果てしない永遠に向かつて
  あこがれているのだ
  ポポイ    (壤歌U)より

 長篇詩篇『壤歌』二千行は、西脇先生七十六歳の時の書き下ろし作品である。私もその成立過程のごく一部だけだが、垣間見たひとりだ。詩的活力には、感嘆したものであったが、同想異曲の反復が多く、讃辞を呈することができなかった。永い間、ただ冗長な作品という印象しか残っていなかったが、今度通読してみて、認識を改めた。独特の「無限旋律」に乗れば、「諦念」の愉悦に浸れるのだ。引用詩のなかの「大理石のとぐろをまくおろちの」の一行を見つけ、私は胸を衝かれた。そして、想い出したことがあった。
 二年前の夏の夕方、私は初めての随想集『「死児」という絵』と小詩集『ポール・クレーの食卓』を持って、西脇邸へ伺った。改築された部屋は、白かグレーだったかに統一され、美しい。それだけ先生が急に老けられたように、見える。久しぶりなので、話がはずんだ。ふと、飾棚に奇妙なオブジェが置かれているのに、私は気づいた。先生にたずねると、むかし、今は亡き冴子夫人が石屋に彫らせた、大理石の蛇とのことだった。どう見ても、とぐろ巻く蛇の曲線はなく、稚拙な造りで蛇というより、縄だ。先生は笑いながら言われた、「これが今までにずいぶんお金を呼んで呉れたよ」――。
 これまで不思議なことだが、先生から冴子夫人追慕の言葉を、聞いたことがない。私ばかりか他の親しい者も、そうだったと思う。夫人遺愛の大理石の蛇を、紅い敷物の上に飾られたのは、もしかしたら、先生の無言の思慕の表現であったのだろうか。(244〜245)

Aで挙がっている4冊は、すべて筑摩書房の刊行物(例によって在社時代のものにクレジットはないが、4冊とも吉岡実装丁本だと考えられる)。Bのような事情を知らない読者には、《壤歌》の本文しか依るべきものがないわけで、全集(私が所有するのは定本全集)や全詩集(同じく定本全詩集)ではなく、初刊の単行本で読んでみれば初見の印象が生じるかもしれない。西脇が亡くなってすぐ《壤歌》を読みなおした吉岡は、大岡信・那珂太郎・入沢康夫・鍵谷幸信との西脇順三郎追悼座談会〈比類ない詩的存在〉(《現代詩手帖》1982年7月号)でこう語っている。

吉岡 今日のためにぼくは改めて『壌歌』(昭和四十四年)を読んだんだよ。刊行当時はあまり感心しなかったんだけど今度読んでみて『壌歌』ももっと間引いたらよかったんじゃないかと思ってるんだ。
大岡 『吉岡実選・新版壌歌』を作るか(笑)。
吉岡 何しろ天文学的で集中的に出て来るから、天文学が地に墜ちちゃって意味をなさなくなっちゃってるんだよ。ぼくがもっと刈り込むともう少しきちっとまとまったものになるんじゃないか、なんて思っちゃうんだ。でも『壌歌』は見直したな。飯島〔耕一〕が病いの時は西脇さんの詩を読んだっていうけど、しみじみとしたところはありますね。案外日本的なんですよ。
鍵谷 ぼくは『壌歌』は苦手なんですよ。本当に疲れちゃうんです。
吉岡 西脇さんの緩やかな流れに乗らないと読めないんだよ。波に乗れば一緒に漂えるよ。ただ刈り込みたくなる欲望は消えないけどね。(〈詩集にあらわれる詩的世界の展開〉、同誌、三二〜三三ページ)

吉岡 『壌歌』よりは『失われた時』の方がずっと質は高いですね。『壌歌』は、西脇さんの内部ではその頃詩作への欲求が昂まっていたにせよ、筑摩書房の二千行ぐらいの書き下ろしっていう依頼を受けて書かれたものだから、少しは無理もあるんじゃないかな。最初は一九九九行だったんだよ。あとでちゃんと一行持ってらしたんだけどね(笑)。この律義さも大変なものだな。自分の今まで持っている思い出もイメージも動員して、押し込めて作っちゃったっていうことで不満な点もあるけどね。
入沢 作品の第I部で既に二回「二千」っていう数字が出てくるんでしょ。「二千本の釘」と「二千尺の絹布」(笑)。
吉岡 それはもう寝ても覚めても「二千行」。律義なんだね、本当に。まあ西脇さんの手法、文体じゃなきゃ二千行なんて書けないね。(〈底流としてのイメージと音感〉、同誌、三五ページ)

まず2000行(20字×20行の原稿用紙なら100枚)ありきの出版企画だったわけで、通常この原稿分量だと単行本一冊には足りない。だが、《壤歌》は長篇詩である。どんな体裁でも許されるとまでは言わないが、散文とは比較にならない自由が与えられている。本書の3週間前に刊行された西脇の随筆集《じゅんさいとすずき》(筑摩書房、1969年11月28日)のオーソドックスな体裁(10ポ・38字詰・15行組)に較べれば、それは明らかだ(12ポ・14行組)。本書の仕様は、二五八×一八四ミリメートル・一六〇ページ・上製角背クロス装・ジャケット・貼函に貼題簽。限定1200部、著者署名入り、貼奥付に検印(雅印)。四六倍判ないしB5判(ほぼ週刊誌大)の貼函と、帯文にある「巨匠の初の書下しによる2000行の大長篇詩」に期待が高まる。函から本を出せば、PP加工された塗工紙のジャケットに西脇の絵(水彩にペンを併用)がカラーで再現されている。白のバクラムの表紙には、著者によるカットと書名・著者名が金で箔押しされている。吉岡の自信作に違いない。見返しをめくると薄い和紙にペン書きで著者の署名が入り、本扉にも表紙と同じカットが使われている。ところで、大判の西脇詩集で思い出されるのは《Ambarvalia》(椎の木社、1933)であり、《失われた時》(政治公論社『無限』編集部、1960)である。城戸朱理は〈本〉でこう書いている。

〔……〕吉岡さんは西脇順三郎の主著のひとつと目される長篇詩『失われた時』を所持していないのだという。正確に言うならば、後に復刻された版の方を求められたとのこと。その理由が初版のカバーに用いられていた裏皮が粗悪で、すぐにボロボロになってしまうからというもので、吉岡さんによると復刻版の方が「キレイだし、貴重だ」ということになるのだが、むろん、これだけの独自で強烈な美意識が古書業界で通じるはずはなくて、初版には復刻の六倍から八倍の値がつけられている。私は二冊とも愛蔵しているが、吉岡さんの意見は肯[うべな]えるものだと思う。函入りで筆者の挿絵四葉を配するという凝った造りであるにもかかわらず、裏皮という素材は明らかに失敗しているし、本文も活字でなく写植のオフセット印刷のため紙の表面にインクがのっかっているような不安定さがある。しかも行間が空きすぎていて、全体に素人の手になったような印象が強い。西脇順三郎を代表する名篇であるだけに、残念なことだと思う。(《吉岡実の肖像》ジャプラン、2004年4月15日、五八ページ)
追悼座談会での《失われた時》への高い評価を鑑みると、吉岡は本書でありうべき《失われた時》の装丁を試みたとは考えられないだろうか。ちなみに《失われた時》はW部から成り、全集で96ページ。《壤歌》はX部、120ページである。《壤歌》の西脇による〈あとがき〉は「この本の出版については筑摩書房の井上達三君や吉岡実君や会田綱雄君に心から感謝したい」(同書、一五三ページ)と結ばれており、装丁が吉岡であることをうかがわせる。
なお、ウェブページ〈ひとでなしの猫  西脇順三郎 『壤歌』〉は豊富な書影とともに、グスタフ・マーラー《大地の歌》との対比を中心にして、本篇の魅力を余す処なく伝えている。

西脇順三郎《壤歌》(筑摩書房、1969年12月20日)の函と表紙 西脇順三郎《壤歌》(筑摩書房、1969年12月20日)の本扉とジャケット
西脇順三郎《壤歌》(筑摩書房、1969年12月20日)の函と表紙(左)と同書の本扉とジャケット(右)


吉岡実の装丁作品(123)(2014年5月31日)

吉岡実は初の随想集の書名に採った随想〈「死児」という絵〉(初出は《ユリイカ》1971年12月号)をこう始めている。

 大岡信の言葉によると、伊達得夫はすでに伝説的人物になったという。死者は誰でもがそのように神秘的になれるものではない。しかし、わが伊達得夫は死んでわずか十年にして、たしかに伝説的人物になったといってもよいだろうか。彼の遺稿集《ユリイカ抄》が、最近ある叢書の一冊として複〔ママ〕刻され、広く若い人たちに読まれているらしい。表題は《詩人たち―ユリイカ抄》となっている。恐らく出版社側の意向だろうが、私は原題のままにして欲しかったと思う。戦後の数々の作家や詩人たちとの奇妙な友情のなかに、その青春を費してきた伊達得夫の書いた、その作家・詩人論が尠ないのは残念なことだと思う。
 私と伊達得夫の交友は、きわめて短いものだった。晩年の五、六年にすぎない。それなのに、私の一断面が、「吉岡実異聞」という文章で永遠に残されたのは幸運なことだ。たぶんこれは、〈新潮〉に依頼されて書いたものだが、何かの理由で没になった原稿だったと思う。私は遺稿集の校正中はじめて見て、伊達得夫の観察の鋭いのに驚いた記憶がある。(《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、1988、六九ページ)

《ユリイカ抄》は伊達得夫遺稿集刊行会から「昭和37年1月16日発行」(奥付)、つまり伊達の一周忌を期して限定200部が非売品として刊行された。「発行所」の文字こそないものの、「東京都新宿区上落合2の540/ユリイカ/電話(369)2010」(/は原文改行箇所)と奥付に明記されているから、書肆ユリイカの最後の出版物と考えられる。手許の一本は埼玉・鴻巣の副羊羹書店から購入した古書だ。追悼本という性格上、著者と親しかった人の旧蔵書だろうが、伊達得夫と同年輩だとすれば九十何歳かになるわけで、物故した所蔵者の書物を遺族が手放したものか。前見返しにはB5判小二つ折の、タイプ印刷による案内状が挟んであったので、全文を引く。

 伊達得夫が亡くなりましてまる二年経過しました今日、やつと遺稿集ができ上りました。皆様に早々と御寄附をいただきながら、本つくりに不馴れなわたくしたちの非力から、このように遅延いたしましたこと、深くお詫び申し上げます。意にみたぬ造本ではありますが、御海容の上お読みいただければと思います。
 なお、御寄附をあおぎました際受領通知も差上げませず失礼しましたが、この本の発送をもつてそれに代えさせていただきたく、かさねてここにお詫び申し上げます。
 一九六三年二月

     東京都新宿区上落合二ノ五四○ ユリイカ内
       伊達得夫遺稿集刊行会

伊達得夫《ユリイカ抄》(伊達得夫遺稿集刊行会、1962年1月16日)挟み込みの案内状
伊達得夫《ユリイカ抄》(伊達得夫遺稿集刊行会、1962年1月16日)挟み込みの案内状

案内状の文面を信じるなら、奥付の「昭和37年1月16日」はあくまでも伊達の一周忌を前面に押しだした発行日であって、実際に本の形になったのは翌1963年2月のようだ。ちなみに奥付に印刷所・製本所の記載はない。「御寄附」を有効に活用するため、早くて上手い所は使えなかったということか。冒頭の〈「死児」という絵〉に戻ろう。吉岡文の「ある叢書」とは、日本エディタースクール出版部の〔エディター叢書〕で、《詩人たち――ユリイカ抄》はその最初の一冊、叢書内での同書のジャンルは「出版事情・出版史」である。初版は1971年7月20日、手許の4刷は1976年7月5日発行だから、好評のうちに版を重ねたわけだが、2014年現在品切(事実上の絶版か)。元版の吉岡実装丁に関しては、叢書版巻末の30ページにわたる大岡信の〈解説〉に詳しい。

 なお、本書刊行に当って、旧刊行会版とは若干変った部分があるので、以下に記す。
 一、装釘は、旧版では伊達得夫が作った切紙絵をもとにして、吉岡実が装釘をしたが、新版は「エディター叢書」の一冊として刊行されるので、装釘も叢書版としての新装をほどこされた。旧版箱装の原型として用いられた伊達得夫の切紙絵は今は失われている。伊達得夫は一九六〇年夏の発病後新宿区西大久保の中央病院に入院し、十一月に一たん退院、短期間自宅で療養したのち、経過よろしからず慈恵医大病院に再入院してまもなく逝ったが、中央病院入院中に、全快退院した時親しい人々にくばるつもりで、切紙絵を原画にして手拭いを染めさせていた。縦にすると、右肩に題字のように「ユリイカ」と白抜き横書きにした四角い紺地の部分があり、左上部には、「ゆううつの長い柄から/雨がしとしと滴をしてゐる/真黒の大きな洋傘! /朔太郎」と四行縦書きで紺に染めてある。この文字も紙を切抜いて作ったものがもとになっている。手拭いの下方には、カイゼルひげをはやし帽子をかぶった男の首から上の部分が、空を仰ぎ、片手に洋傘を開いている図があり、その右上に、十二時十五分前を示している時計のある時計台がちょこんとおかれている。退院の祝いのつもりで作ったものにさえ、「ゆううつの長い柄から」雨が垂れている詩句と図柄を選んだところが、いかにも伊達得夫的だが、それは結局、少数の人々に悲しみのうちに配られることになったのだった。これの原画となった切紙絵は、染物店で失われたので、遺稿集刊行の際装釘を引受けた吉岡実は、この手拭いをもとにデザインしたのである。(大岡信〈解説〉、伊達得夫《詩人たち――ユリイカ抄〔エディター叢書〕》日本エディタースクール出版部、1971年7月20日、二三八〜二三九ページ)

エディター叢書版が品切の現在、手に入りやすいのは平凡社ライブラリー版《詩人たち――ユリイカ抄》(平凡社、2005年11月10日)である。書名から判るように、底本はエディター叢書版で、@巻頭にカラーの書影を中心に8ページの口絵が新設され、A大岡信の〈平凡社ライブラリー版 解説〉が新たに付され、B〈書肆ユリイカ 出版総目録〉もさらに正確になった。口絵の構成はのちに《書肆ユリイカの本》(青土社、2009)を書くことになる田中栞。吉岡関係では《僧侶》、《吉岡實詩集》、吉岡装丁の《キャスリン・レイン詩集》の書影が掲げられている。これに吉岡装丁のアンリ・ミショオ(小海永二訳)《プリュームという男》が加われば、書肆ユリイカ関連の吉岡実(装丁)本のすべてだ。
エディター叢書の日本エディタースクール出版部も、平凡社ライブラリーの平凡社も本造りには定評のある出版社だが、両方の版とも索引を欠く(元版にもなかった)。研究書ではないからそんな手間のかかるものは付けない、という考え方もあろう。だが、この本にそれはあてはまらない。ならば、〈土方巽頌・人名索引〉のときのように自分で人名索引を作成するまでだ。元版本体の本文と〈後書〉は7ページから〔176〕ページまで(〈別冊〉本文は-1-ページから-22-ページまで)、エディター叢書版の本文は1ページから156ページまで(〈後書〉以下の後付は157ページから242ページまで)、平凡社ライブラリー版の本文は9ページから166ページまで(〈後書〉以下の後付は167ページから261ページまで)。その人名索引は、必ずや各版の読者の役に立つに違いない。――と計画を立てたまではよかったのだが、いかんせん作業する時間がない。今回は吉岡実の登場するページを人名索引として掲げるのが精一杯だ。その代わりに、吉岡の著書の書名=書名索引と、《ユリイカ》誌に執筆した作品名の索引=作品名索引を併せて掲げる。索引の採録範囲を〈ユリイカ総目次――ユリイカ抄別冊〉あるいは〈書肆ユリイカ 出版総目録〉、エディター叢書版と平凡社ライブラリー版の大岡信〈解説〉、前述した口絵(隠しノンブルなので〔 〕で括った)という具合に、本文だけだった当初のプランよりも拡げた(なお、〈別冊〉のノンブルは「-2-」のように表記することで、本体のそれと区別した)。

伊達得夫遺稿集刊行会版

吉岡実……148〜153, -2-, -6-, -10-, -12-, -14-, -16-, -21-

『液体』……152
『静物』……152
『僧侶』……148〜152, -21-
『吉岡実詩集』……152, -17-

衣鉢……-14-
長篇 死児……-6-
呪婚歌……-10-
僧侶……-2-
波よ永遠に止ま〔ママ〕れ……-12-
風俗……-12-

エディター叢書版

吉岡実……131〜135, 163, 168, 203, 209〜210, 234, 238〜239

『液体』……134
『静物』……134
『僧侶』……131〜134, 168
『吉岡実詩集』……134, 163


作品/衣鉢……203
詩作品/長篇・死児……203
詩作品/呪婚歌……203
作品/僧侶……203
作品/波よ永遠に止れ……203
眼・風俗……203

平凡社ライブラリー版

吉岡実……140〜144, 173, 178, 216, 223〜224, 249, 253〜254

『液体』……143
『静物』……143
『僧侶』……〔3〕, 140〜143, 178
『吉岡実詩集』……〔7〕, 143, 174


作品/衣鉢……216
詩作品/長篇・死児……216
詩作品/呪婚歌……216
作品/僧侶……216
作品/波よ永遠に止れ……216
眼・風俗……216

伊達得夫《ユリイカ抄》(伊達得夫遺稿集刊行会、1962年1月16日)の扉・口絵写真と函(表紙4)
伊達得夫《ユリイカ抄》(伊達得夫遺稿集刊行会、1962年1月16日)の扉・口絵写真と函〔表紙4〕

《ユリイカ抄》は「故伊達得夫が書きのこした文章の全部」(中村稔〈後書〉、本書〔一七六ページ〕)を収録した本体と「書肆ユリイカの出版目録と雑誌ユリイカの総目次」(同前)を掲載した〈ユリイカ総目次――ユリイカ抄別冊〉の2冊を機械函に収める。本体の仕様は、一七六×一二七ミリメートル・一八〇ページ・上製角背紙装。〈別冊〉の仕様は、一八三×一二九ミリメートル・二四ページ・並製(平綴じ)くるみ表紙クロス装(表紙1のカットは1956年10月の《ユリイカ》誌創刊号の、表紙4のカットは1962年2月の同誌最終号の表紙写真)。表紙は双方とも落ち着いた青系(緑系の〈別冊〉表紙もあるようだ)。制作の布陣はどうだったのか。元版の装丁については、本書のどこにも記載がない(エディター叢書版は「装本・藤森善貢」、平凡社ライブラリー版は「装幀……中垣信夫」)。伊達得夫が装丁できなかったのだから、吉岡実が担当するのが最善の方策だった。中村の〈後書〉には「〔伊達の〕生前刊行する企てがあった」(同前)と見えるが、版元に書肆ユリイカはありえないから、どこから出すつもりだったのだろう。「発起人の一人として」の中村稔の〈後書〉は、最後に「編集刊行の実際に当ってくれた清水康雄、那珂太郎、森谷均、「鰐」の同人諸氏に厚く感謝する」(同前)とある。いずれも伊達得夫と因縁浅からぬ人たちだが、実質的に編集作業を担ったのは清水康雄(1969年に青土社を起こして、雑誌《ユリイカ》を復刊させた)ではなかろうか。だとすると、前掲挟み込みの案内状(文責がない)は、清水康雄の執筆のようにも思えてくる。文中の「意にみたぬ造本」とは、本文用紙がノドのところで波打つ横目であることと、函の用紙が脆弱であることを指すだろう。「意にみたぬ装丁」ならぬ「意にみたぬ造本」は、本文や函の用紙を新たに調達せず、在庫品を使った可能性を示唆している。この推測が正しいなら、書肆ユリイカは手持ちの資材を使いきったことになる。
〈吉岡実異聞〉――「〈新潮〉に依頼されて書いたものだが、何かの理由で没になった」(前掲)のは、H賞事件との絡みゆえだろう――はわずか6ページの短文だが、伊達の《ユリイカ抄》、《詩人たち――ユリイカ抄》以外に、《新選吉岡実詩集》(思潮社、1978)、《現代詩読本――特装版 吉岡実》(同、1991)、《続・吉岡実詩集》(同、1995)といった関連書にも再録されている。よって引用は控えるが、吉岡実はもちろんのこと、草野心平や原口統三といった人人、清岡卓行をはじめとする《鰐》同人たちの見事な人物スケッチにもなっている。吉岡がそれに驚嘆したことは前掲文にあるとおりだ。その〈吉岡実異聞〉のタイトル下の伊達によるカットがニワトリ(ヨーヨーのように見えるパイプ?を咥えている)なのは、故意か偶然か。これもまた、伊達による吉岡の「一断面」だった。山藤章二も吉岡を鳥に見たてているが、伊達の方が先だった。

〔追記〕
吉岡自身は《ユリイカ抄》の装丁についてなにも語っていない。しかし〈断片・日記抄〉の1961年7月11日「火曜 夕方雷雨で涼しくなる。伊達得夫の遺稿集のことで中村稔と会う。鰐同人も伊達夫人も来ず淋しい」、同15日(土曜)「伊達夫人《ユリイカ抄》再校ゲラ持ってくる。はじめて〈吉岡実異聞〉をよんで、伊達得夫の観察の鋭いのに驚く」(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》思潮社、1968、一二五ページ)という証言が残されている。一方で〈断片・日記抄〉に伊達の死の前後の記載が見えないのは、その事実を認めたくない、という吉岡の気持ちの表れに想えてならない。7月11日に「中村稔と会」ったのは、装丁の依頼かその打ち合わせのためだろう。装丁を快諾して、神保町あたりで《ユリイカ抄》の再校ゲラを田鶴子夫人からあずかった。伊達の歿後半年でこの進捗状況なら、遺稿集の刊行が1962年1月の一周忌に間に合って良かりそうなものだ。それが翌1963年2月に遅延した理由が何なのかは、今のところわからない。

伊達得夫《ユリイカ抄》(伊達得夫遺稿集刊行会、1962年1月16日)の函と本体表紙、別冊〈ユリイカ総目次〉表紙
伊達得夫《ユリイカ抄》(伊達得夫遺稿集刊行会、1962年1月16日)の函と本体表紙、別冊〈ユリイカ総目次〉表紙


吉岡実の装丁作品(122)(2014年3月31日)

安藤元雄詩集《船と その歌》は初版700部が1972年3月1日、思潮社から刊行された。「船と その歌」は詩集の標題として、あるいは詩篇の題名として本書に何度も登場するが、一行で組んだ場合「船と」と「その歌」の間は基本的に半角アキとなっている。唯一、横組の奥付で「詩集 船と その歌」と全角アキとなっているが、本稿では《船と その歌》や〈船と その歌〉というふうに半角アキで表記する。巻末の〈詩集 船と その歌 目次〉の最後に「銅版口絵 駒井哲郎」「割付装本 入沢康夫」とあるように、吉岡実は本書初版の装丁にはタッチしていない。そして吉岡実装丁になる《船と その歌〔別製版〕》(思潮社、1973年〔月日未詳〕)は、2014年3月現在、未見である。したがって本稿は、実見を旨とする《〈吉岡実〉の「本」》執筆の原則からは外れることになるが、手許の初版詩集や後述する前橋文学館発行の安藤元雄展図録に依りながら進めることにする。なお、合本詩集《秋の鎮魂・船と その歌》(昭森社、1981年3月10日)の著者〈再刊後記〉によれば、「詩集『船と その歌』は、一九七二年三月、思潮社の刊行で、七〇〇部のほかに特製本一〇部、別製本一五部があった。」(同書、〔一一七ページ〕)とのことである。

安藤元雄詩集《船と その歌》(思潮社、1972年3月1日)の函と表紙〔銅版口絵:駒井哲郎、割付装本:入沢康夫〕
安藤元雄詩集《船と その歌》(思潮社、1972年3月1日)の函と表紙〔銅版口絵:駒井哲郎、割付装本:入沢康夫〕

本書初版の仕様は、二一一×一五〇ミリメートル・九八ページ(駒井哲郎のカラー銅版画を写真版で印刷した別丁口絵のまえにある薄紙は、ページ数にカウントしなかった)・並製がんだれ装紙表紙・機械函。見返し用紙はなく、最初第1折と最後第12折の折丁(本文用紙がやや厚いせいか、折丁は通常の16ページではなく、8ページから成る)に設けられた各2丁の〔白〕が見返しの代わりになっている。つまり、表紙と本体は背だけで糊付けされている。本文の刷り色はスミではなく、濃いグレーである。手許の古書はすでにペーパーナイフで天と前小口が開かれていたが、当初はアンオープンドだったはずだ。よって、天地左右の二一一×一五〇ミリメートルはA5判正寸(二一〇×一四八ミリメートル)と読みかえてかまわない。《船と その歌》は安藤の第二詩集で、その成り立ちは〈おぼえがき〉に詳しい。

 この詩集に収めた十四篇は、前詩集『秋の鎮魂』(一九五七)刊行後の、一九五八年から最近までの作品である。ほぼ書かれた順序に従つて、次のように雑誌に発表された。
 〔全詩篇の初出誌、「位置」「メタフイジツク詩」「アルビレオ」「素描」「秩序」「詩と批評」「現代詩手帖」の掲載号や発表年月の記載がある〕
 この詩集を編むにあたつての、作品の排列とレイアウトは、思潮社編集部の八木忠栄氏のご配慮により、入沢康夫氏が考えて下さつた。お二人と、口絵をいただいた駒井哲郎氏に、お礼を申しあげる。(本書、八六〜八七ページ)

本文のあとに〈おぼえがき〉と目次を置いて、最後に奥付がくる(〈おぼえがき〉の初出一覧を二回繰ると、詩集の並び順を再現した目次になる)。この展開は、とりもなおさず著者の安藤や編集担当の八木、編者の入沢による、詩集が単に詩篇を発表順に寄せ集めた編年体の偶成集ではなく、明確な意図に基づいた構築物であることの宣言である。私は初め本書を詩集の排列(目次)順に読み、本稿の執筆に際して発表順で詩篇を再読して、二度愉しんだ。

戸棚(初出は1958年7月の《アルビレオ》第30号)

 彼は毎夜戸をあけて部屋の中へ出て来る。そして僕の傍に坐るのだが、その臭さと言つたら我慢のできるどころではない。彼は咽喉を固く絞め上げているネクタイの結び目を指先で撫でながら(ネクタイの結び目に絶えず手をやつているのがあいつの癖だつた!)聞きとれない声で何やら不平らしく呟き始める。どうせ僕の耳にまで届く声ではないのだが、何を言つているのか僕にはわかる。
 「あのひとはおれを裏切つた」
 それだけだ。あとは繰り返しだ。
 やがて、夜毎の一くさりが済むと、彼はよろよろと立ち上つて戸棚の中へ帰つて行く。
 一体僕は何を語ろうとしているのだ? 戸棚の頑丈な板戸には大きな錠前がおろしてあつて、それの錆びつき具合を見れば、この戸棚がここ何年かの間開かれたことのないのは、誰にでもすぐ知れる話ではないか。しかし彼はその中にいる。なぜなら、僕が彼のネクタイを絞め上げて、その錠をおろしたのだから。
 それでも他人の習慣という奴は、われわれの手に負えないものらしい。彼は相変らず夜になると部屋の中へ出て来て僕の傍に坐る。その臭さと言つたら我慢のできるどころではない。だが、それが彼の習慣だとあれば、僕に何をなすすべがあろう?
 ところで、彼が口にする決り文句の「あのひと」とは、匿してみても始まらない、僕の妻だ。誰も知らないあのできごとがあつて以来、彼女はどうやら平衡を取り戻せなくなつたらしいので、僕は彼女を向日葵のある遠い実家へ帰してやつた。彼女の妹が忠実に世話を焼いているらしい。その几帳面な娘が、週に一度、決まつたように報告の手紙を書いてよこす。「お兄様、御心配は要りません。姉はこの数日、随分いいようです。でも戸棚はどれもこれもあけ放して置かなくてはいけないと言い張るので、食器棚に蟻が入るのを防ぐのに苦労します」

初出の1958年7月といえば、吉岡が〈死児〉(C・19)、〈喪服〉(C・15)、〈聖家族〉(C・14)を発表した月である。安藤の〈戸棚〉は純然たる散文表記だが(詩集には行分け表記の詩が11篇、散文表記が3篇収められている)、この詩のなんともいえないもどかしさは、《僧侶》の吉岡実詩に近く感じられる。この詩集の本文の基本組は五号30字詰め13行だが、実際のレイアウトが凝っている。通常は詩の題名を一定の位置(たとえば版面の第1行)に、本文よりやや大きめの同じ書体で示し、何行かアキを取って詩篇本文の開始、という体裁をとる。この場合のレイアウトは、標題が常に同じ位置に来ることにより、読み手に詩篇の開始を知らせる効果がある。一方で、詩篇の長さは1ページ13行の掣肘を受けて、たとえば1行めに詩篇の標題、4行空けて詩篇本文を始めると、見開き起こしの最初のページには本文が8行入る。2ページめには13行入るから、標題のある見開きには詩篇本文が21行入る。つまり、21行以下の作品なら1見開きでレイアウトでき、読み手も全貌を把握しやすい(詩のレイアウトに偶数ページ=見開き起こしが多いのは、この、一望できる版面を追求した結果と思われる)。詩が22行の場合はどうだろう。収まりきらなかった1行がふたつめの見開きにぽつんと1行だけ置かれることになる(欧文組版ではこれを「ウィドウ」と呼んで、禁則扱いする)。この状態を解決するには、「1行めに標題+4行アキ+本文8行(最初の偶数ページ)、本文13行(次の奇数ページ)、本文1行(さらに次の偶数ページ)、空白(さらにその次の奇数ページ)」という配置になるほかないレイアウトの基本方針を変更する以外ない。本書のレイアウトに戻って、「最初の偶数ページ」における両極の例を挙げれば、

 ・1行めに標題+4行アキ+本文8行、が〈森〉〈無言歌〉
 ・7行アキ+標題+4行アキ+本文1行、が〈雨が降る〉〈顔〉〈戸棚〉

に適用されている。行アキの本文がノドにかからないようにするなど、ほかの要因も働いているが、標題まえのアキを0行から7行まで自在に変化させて詩篇の行数に対応することで、他に類を見ない詩集の本文組版を実現した。標題を自在に配置するこのレイアウトの方式は、すでに第一詩集《秋の鎮魂》で実行されているから、本書はその踏襲であり、これを実質的に開発したのは安藤元雄その人だと思われる。《静物》以降の戦後の吉岡実の単行詩集は、本文の基本組を遵守して、標題の前後でアキを調節していないため、ウィドウがある(戦前の詩集については〈詩集《昏睡季節》の組版〉〈詩集《液體》の組版〉を参照のこと)。


安藤元雄は《めぐりの歌》(思潮社、1999)で第七回萩原朔太郎賞を受賞した。それを記念して開催されたのが前橋文学館特別企画展 第七回萩原朔太郎賞受賞者展覧会〈安藤元雄――『秋の鎮魂』から『めぐりの歌』まで〉で、開催に合わせて《〔前橋文学館特別企画展 第七回萩原朔太郎賞受賞者展覧会図録〕安藤元雄――『秋の鎮魂』から『めぐりの歌』まで》(萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち 前橋文学館、2000年3月4日)が刊行されている。このA4判48ページの図録こそ、詩集《船と その歌〔別製版〕》の手掛かりとなる最上の資料なので、詳しく見ていきたい。図録は大きく3部――〈生い立ち〉〈詩集から〉〈インタビュー・詩作について〉――から成る。まず引きたいのは、1999年12月15日に行なわれた安藤へのインタビューである(質問者は編集担当の同館学芸員、津島千絵)。

本作りの楽しみ

自分で印刷して自作の詩集を作ったということですが。
――それは詩集ではなくて短編集です。厳密に言うと掌編。うんと短い短編、それを三つくらいあわせて。大きさは文庫本くらい。二十部くらい作ったんじゃないかな。昔、印刷屋に名刺印刷機っていうのがありましたね。僕のうちの近所に印刷屋があって、面白い機械だなあって子ども心に思ってた。ちょうどぼくが休学したころに、友人の家にそれがあったのでそれを借りて。葉書くらいの大きさしか刷れませんから、文庫判一ページ分ずつ活字を組んで、刷り終わると活字をばらして次のページを組み直して、って。暇があれば子どもはいろいろなことを考えますからね。

そのころから造本とか装幀[そうてい]をはじめたのですね。
――だって、ペラペラの紙にしておいちゃあバラバラになるから綴じなけりゃならない。綴じれば表紙を付けなきゃならない。表紙を付ける以上はブックデザインのようなものを考えなけりゃあならない。そういうふうには思いましたよ。僕のブックデザインの師匠は、勝手に真似をしただけですが、北園克衛。とてもきれいなブックデザインの詩集を出している。それから、本づくりの理論としては、ウィリアム・モリスの『理想の書物』っていう本があるんです。これには、本を作るときには、ページ全体に対して回りのアキはどれくらいって詳しく書いてある。本は見開きで読むものだから、左右の版面はなるべく真ん中に寄せて、見開きでひとつの芸術作品になるように作りなさいと。それから、版面は上に寄せろと。天のアキを一番小さくして、次が小口、地のアキが一番大きくなるように作るというように書いてある。もちろんノドはうんと狭く。そんなことを模倣したものです。(図録、一〇ページ)

若くして詩集(多くは手書き)を自作した経験のある詩人は多いだろう。だが、自ら活字を拾って版まで組んで印刷するというのは、筋金入りといわねばならない(吉岡実も、自分で組版作業をしたことはないはずだ)。安藤はインタビューで書名を挙げていないが、この掌編集は〈鈴ふる人〉〈魔女〉〈風〉を収めたリリト同人(代表片岡宏介)印刷・刊行の《風》(限定60部、1952年9月10日)だろう。装丁者のクレジットこそないものの、堀辰雄の純粋造本に学んだ安藤自身に違いない。

安藤元雄掌編集《風》(リリト同人、1952年9月10日)の表紙〔国立国会図書館所蔵本のモノクロコピー〕
安藤元雄掌編集《風》(リリト同人、1952年9月10日)の表紙〔国立国会図書館所蔵本のモノクロコピー〕

次に引くのは、〈生い立ち〉の〈天下孤本の『花あしび』〉――終戦の翌年刊行の、製本の乱雑な堀辰雄《花あしび》を仕立てなおしたという随想――の一節である。

 そこで、まず、二冊の本を慎重に解体した。表紙をはがし、見返しを取り、綴じ糸を切って、どちらもばらばらにしてしまってから、紙質のそろった折りを選び出し、ページの順に重ねて、つまり二冊分の材料から一冊を組み上げたのである。たまたまどちらも同じ紙質でどちらを使ってもよい部分があるときは、刷りのよい方を選んだ。切り口がきちんとそろわなくても構わないから、どのページもノンブルの刷り位置だけは上下しないように気をつけて、一折りずつ、縫針と糸を使ってかがり直し、はがしておいた扉や見返しや表紙を(これもよい方を選んで)貼りつけて、辞書を重しにして乾かした。
 これだけの作業に一日はかかったろうか。当時の僕にはいくらでも時間があった。(図録、一一ページ)

掲載写真を見ると、たしかに天や前小口はでこぼこだが(化粧断ちしていないためである)、ノンブルを通すことを優先させるあたり、書物に対する並並ならぬ愛着と造詣を感じさせる。ここからルリユールに進む可能性もあったわけだ。次は、再びインタビューから、〈詩作の再開〉の一節。本書刊行の経緯と、吉岡実への言及が興味深い。

 『船と その歌』が思潮社から発行になりますが、思潮社のほうから話がきたのですか。
 ――ええ、あれは思潮社の企画本です。あなたの詩集を出すっていわれて、これは大変だと、まず入沢さんに相談して。じゃあ、僕が装幀をやろうかっていう話になって。

 この詩集の反響はだいぶありましたか。
 ――これはありました。それも書評やなんかではない形であったみたいです。例えば、『カドミウム・グリーン』っていう詩集がありますね、あの中に栞[しおり]が入っているでしょう。あの栞に建畠晢さんが書いてくれたんですが、だれかに安藤の詩を読んでみろって言われたとか、そういうレベルの。第一詩集の『秋の鎮魂』も、僕はまさかそこまでと思わなかったんですけど、吉岡実さんがね、自分で買って読んでてくれてた。僕は吉岡さんには当時あげなかったと思うんです。というのは吉岡さんていうのは随分遅くスタートした詩人ですし、堀辰雄とかそっちの系統でもなかったから。僕のあげるリストに入っていなかったんです。そしたら吉岡実さんは、なんと古本屋で見つけたら面白そうだからというので、買って読んでくれてた。詩集の反響というのは書評が出たからというんではなくて、見えないところでどう伝わるかで決まりますね。それで心と心がつながっていれば、それは十年か二十年かたったころにちゃんと芽を吹いてくる。そう思うしか詩なんて書いていられないでしょう。(図録、一五ページ)

吉岡は《安藤元雄詩集〔現代詩文庫79〕》(思潮社、1983)の裏表紙に「古本屋の雑多なる」と始まる無題の文章を寄せていて、《秋の鎮魂》云云の件はそこに見える。

図録の〈詩集から〉の部で《船と その歌》から引かれた一篇は〈煤〉である。なお、吉岡の装丁になる安藤元雄詩集《夜の音》(書肆山田、1988)は、同詩集に触れた著者の談話を図録から引いて、〈吉岡実の装丁作品(10)〉で紹介したので、参照いただきたい。そして、図録はいよいよ書誌的なページにさしかかる。三七ページにあるカラーによる詩集十二冊の書影の部分図を掲げる。

《船と その歌〔別製版〕》(思潮社、1973)、《船と その歌〔特製本〕》(思潮社、1973)、《船と その歌》(思潮社、1972)
《船と その歌〔別製版〕》(思潮社、1973)、《船と その歌〔特製本〕》(思潮社、1973)、《船と その歌》(思潮社、1972)
出典:《〔前橋文学館特別企画展 第七回萩原朔太郎賞受賞者展覧会図録〕安藤元雄――『秋の鎮魂』から『めぐりの歌』まで》(萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち 前橋文学館、2000年3月4日、三七ページ)

《船と その歌》の書影は、左から〔別製版〕の貼函、〔特製本〕の麻装のおそらくは夫婦函、初版の機械函である。私が実見したのは初版だけだから、それを基に推測するしかないわけだが、細かな計算式は省略して、〔別製版〕貼函は236×144ミリメートル(217×160ミリメートルの初版よりもかなり縦長)で、〔特製本〕夫婦函は本文が耳付きの手漉き紙を二つ折した折丁に二色刷り(扉は新組、本文も新組か)のため、初版より一回り大きそうだが、図録の写真や書誌的記載からは推測不能だった。図録には書影のキャプションに簡潔な書誌(書名・版名、発行年、発行所名、受賞歴)があるだけで、サイズや製本の様式などに関する詳細情報がないのは残念だ。かわりに安藤の〈自筆年譜〉が書誌的事項を広範におさえている。その「一九七二年(昭和47年 38歳)」に「第二詩集『船と その歌』を思潮社から刊行。装幀入沢康夫、口絵駒井哲郎。ほかに入沢康夫装幀による特製本、吉岡実装幀の別製本をつくる。」(図録、四二ページ)と見え、これが〔別製版〕(安藤年譜には「別製本」とあるが、図録の写真キャプションの表記に従う)に関するいちばん詳しい記述である。

〈無言歌〉原稿と《船と その歌》特製本・別製版(思潮社、1973)
〈無言歌〉原稿と《船と その歌》特製本・別製版(思潮社、1973)
出典:同前、〔三八ページ〕

図録に掲載の写真「〈無言歌〉原稿と《船と その歌》特製本・別製版(思潮社、1973)」には、幸運なことに初版と〔別製版〕〔特製本〕がスリーショットで写っている。これをためつすがめつしているうちに、おおよそ次のようなことがわかった。〔別製版〕の本体はグラシン越しに背文字が見えるだけだが、初版の背文字を踏襲しているようだ。〔別製版〕の貼函は水色の用紙にスミ一色刷り、子持ち罫で囲った矩形のなかに横組で三行「安藤元雄/船と その歌/思潮社」とある。これは〔特製本〕の函の題簽貼りのために組んだ版で直に印刷したように見える。その〔特製本〕の版画は、

 『船と その歌』(1972年 思潮社)刊行の際、口絵として、駒井哲郎氏に版画の制作を依頼したが、駒井氏は、「興がのったから」と、同版で彩色の異なる10枚の連作を制作した。そのうちの1枚を口絵として初版本を刊行した後、10冊の特製本を作って、1冊に1枚ずつ原画をはさみ込んだ。10点のうち、本人と駒井氏と装幀を手がけた入沢康夫氏、版元の思潮社が1冊ずつ持ち、残る6冊を販売した。(図録、〔三八ページ〕、原文横組)

とある。繰り返せば、吉岡は〔別製版〕で背文字を初版から、函の平を〔特製本〕から引用している(刊行月日がはっきりしないが、図録での掲載順からは、初版→〔特製本〕→〔別製版〕の順だったと思われる)。入沢康夫装丁の初版は、おもて表紙の「船」の文字を斜めに変形させた、デザイン主導のものだった。吉岡は〔別製版〕でこれを通常の明朝活字に変更したのではないだろうか。吉岡が変形文字を放置したとは思えない。――以上が、初版詩集と展覧会図録から推測しうるすべてであって、〔別製版〕の別製たる所以は依然として不明だ。実見の機会があれば(私はそれを切望している)、本稿で述べてきた推測の当否を含めて、改めて追記を書くつもりだ。
おしまいに、安藤元雄詩集《秋の鎮魂・船と その歌〔特製本〕》(昭森社、1981年3月10日)の書影を掲げよう。第一詩集と第二詩集の合本は限定500部、〔特製本〕はそのうちの100部で、記番・著者署名入り(書影の一本は72番本)。仕様は、二一〇×一四八ミリメートル・一二〇ページ・上製角背継ぎ表紙(平・紙、背・革)・段ボールの機械函に貼題簽。扉は本文共紙。装丁のクレジットはないが、昭森社主導で進められたものと思われる。なお詩篇標題の位置は、両詩集の初版と同じ方式が採られている。

安藤元雄詩集《秋の鎮魂・船と その歌〔特製本〕》(昭森社、1981年3月10日)の函と表紙
安藤元雄詩集《秋の鎮魂・船と その歌〔特製本〕》(昭森社、1981年3月10日)の函と表紙


吉岡実の装丁作品(121)(2014年2月28日)

野原一夫《太宰治 人と文学〔上・下〕》は1981年12月10日、リブロポートから上下巻同時に刊行された。〈あとがき〉に執筆・出版の経緯が記されているので引く。「今年の一月から三月まで、西武百貨店内の「池袋コミュニティ・カレッジ」において、「太宰治・生涯と文学」と題して九回ほどお喋りをしました。そのため、太宰治の全著作を読み返し、その生涯を調べ直したのですが、その講義≠ェこの本を書くきっかけになりました。といっても、限られた時間のなかでのお喋りだったのでなかなかに意を尽くせず、それに、喋る≠アとと書く≠アととは根本的に違う行為ですから、この本の上・下巻計七〇〇枚は、まったくの書下しと考えてもらっていいのです」(本書〔下〕、二三二ページ)。野原には太宰治関連の著作として、本書の前年刊行の《回想 太宰治》(新潮社、1980)があり、本書のあとに三冊、単行本がある。《回想 太宰治〔新装版〕》(新潮社、1998年5月25日)に新たに付されたあとがきによれば、「筑摩書房を退社したあと、この『回想 太宰治』を最初として、『太宰治 人と文学』『太宰治 結婚と恋愛』『生くることにも心せき 小説・太宰治』、そして本年、『太宰治と聖書』を私は上梓した。またほかに、「太宰治と井伏鱒二」など幾つかのエッセイを書いた」(〈太宰治歿後五十年に際し〉、同書、二二一ページ)のである。野原には檀一雄と坂口安吾の伝記/回想もそれぞれにあるが、これらの著作リストを見ただけでも、太宰は別格というしかない存在だった。

野原一夫《回想 太宰治》(新潮社、1980年5月10日)のジャケット〔画:太宰治、デザイン:田淵裕一〕、《同〔11刷改版〕》(同、1992年8月25日)の表紙〔デザイン:田淵裕一〕、《同〔新装版〕》(同、1998年5月25日)のジャケット〔装画:太宰治、装幀:新潮社装幀室〕、野原一夫《太宰治と聖書》(同、同)のジャケット〔撮影:大高隆、装幀:新潮社装幀室〕
野原一夫《回想 太宰治》(新潮社、1980年5月10日)のジャケット〔画:太宰治、デザイン:田淵裕一〕、《同〔11刷改版〕》(同、1992年8月25日)の表紙〔デザイン:田淵裕一〕、《同〔新装版〕》(同、1998年5月25日)のジャケット〔装画:太宰治、装幀:新潮社装幀室〕、野原一夫《太宰治と聖書》(同、同)のジャケット〔撮影:大高隆、装幀:新潮社装幀室〕

新潮社で編集担当者として太宰治と親交のあった著者は、筑摩では第一次から第六次まで太宰治全集を手掛けており、太宰の人と作品を語るに最適の人間のひとりだった。本書から、興味深い箇所を引く。

 昭和二十三年の四月二十日、すなわち死の二ヵ月前に、決定版≠ニ銘うった『太宰治全集』が八雲書店から刊行されました。自分の全業績をこの全集によって完結させようとした太宰の胸底には、すでに死への決意が固められつつあったのだと思いますが、その全集の白地の表紙には津島家の鶴の定紋が金で箔押ししてあります。自分の家の定紋で表紙を飾った個人全集など、ほかには例がないと思うのですが、これは太宰の強い希望によったものだそうです。また各巻の巻頭の口絵写真には、肉親、生家、津軽平野などの写真を使うべく準備が進められましたが、これにも太宰の希望が入っていました。(本書〔上〕、一七ページ)

 〔太宰の第一創作集『晩年』は砂子[まなご]屋書房から〕当初の予定では十一年三月頃に刊行される予定だったのですが、その年二月に二・二六事件が勃発し、そのため書房主の山崎が投資していた株が大暴落し、金繰りに追われて、刊行の時期が延び延びになってしまいました。〔……〕/六月二十五日付で『晩年』は刊行されました。菊判、アンカット、本文には薄手の木炭紙を、表紙には白の局紙を使った贅沢な本ですが、これは三笠書房〔後出ちくま文庫版では、武蔵野書院〕から出された淀野隆三他訳の限定版プルースト「失ひし時を求めて」〔同じく、『失いし時を索めて』〕の造本を太宰はいたく気にいっていて、その通りに造ってくれるよう強く希望したのです。初版の印刷部数は五百くらいだったようですが、新人の処女出版としても、当時でも制限された部数だったのではないでしょうか。(同前、一二二〜一二三ページ)

 『お伽草紙』は戦後の二十年十月二十五日に筑摩書房から刊行されましたが、東京は焼土と化し印刷所もなく、筑摩書房社長古田晁の郷里の信州の伊那で印刷されています。(本書〔下〕、一一一ページ)

 『お伽草紙』を完成してまもなくの七月六日深更から七日未明にかけて、甲府市はB29二百機による空襲を受け、市の七割が焼失し、石原家も全焼しました。東京、大阪、名古屋、神戸、横浜などの大都市はすでに焼土と化し、B29の攻撃目標は六月中旬から地方の中小都市に移りました。〔……〕そのような情勢のなかで太宰は、軽妙でユーモアに満ちた『お伽草紙』二百枚を書き継ぎ、虚構の世界に沈潜していたのです。/空襲下に持ち出した『お伽草紙』の原稿は、見舞いに駈けつけた小山清に託され、小山は筑摩書房にそれを届けました。この小説が信州の伊那で印刷されたことは前述したとおりです。(同前、一二七ページ)

 当時、その周辺にいた人のなかで、かすかにでも太宰治の死を予感していたのは、筑摩書房社長古田晁氏ひとりだったと思います。古田晁と太宰治とのことについては『回想 太宰治』で書きましたからここでは省きますが、井伏鱒二氏の表現をかりれば、古田さんと太宰さんは莫逆の友でした。/「人間失格」は、筑摩書房の雑誌『展望』に連載されました。〔……〕三月八日に筆を起し、五月十二日に完結したのですが、死への傾斜のなかで、太宰治は最後の力をふりしぼってこの作品にとり組み、最後のいのちをここで燃焼させたのです。莫逆の友古田晁への、最後の餞[はなむけ]として。(同前、一九一ページ)

吉岡実は本書の翌年、野原の《含羞の人――回想の古田晁》(文藝春秋、1982年10月25日)も装丁している(野原の《回想 太宰治》は古田晁に焦点を当てた章を〈含羞の人〉と題しており、古田を回想した《含羞の人》の書名はこれを踏襲している)。吉岡と野原はかつてともに筑摩書房に勤務していたが、残念ながら二人には相手について書いた文章がなく(少なくとも吉岡にはない)、同書の装丁に関する経緯もわからない。ただ、古田が創業した筑摩書房でもなく(当然か)、野原が《斜陽》を手掛けた新潮社でもない文藝春秋から同書を刊行するにあたり、少しでも筑摩色を出すために吉岡実装丁をもってした、と考えることは許されるだろう。それはそれでいいとして、本書《太宰治 人と文学〔上・下〕》が吉岡実装丁である理由ははっきりしない。第一次太宰治全集の装丁が吉岡実によるものだったというあたりがいちばん可能性があるものの、吉岡が太宰の文学に大いなる共感を抱いていたかは不明である。――本書〈略年譜〉の「昭和二十二年(一九四七) 三十九歳」に「七月十日、第十四次『新思潮』創刊号に「朝」を発表。」(〔下〕、二二九ページ)とある。吉岡は同じ第14次《新思潮》の第2号(同年9月)に〈敗北〉(未刊詩篇・2)と〈即興詩〉(未刊詩篇・3)を発表しているから、当然創刊号(の太宰の〈朝〉)は目にしていることだろう。太宰と吉岡の同時代性を感じさせる唯一の接点である――。そこでというわけではないが、以下では吉岡と版元のリブロポートの関係を中心に見たい。
吉岡は1983年5月、リブロポートが発行する《歴史と社会》(第2号)に詩篇〈蓬莱〉(J・18)を寄せている。その前年、1982年12月3日の日記に「午後遅く、リブロポートのHと会い、季刊「歴史と社会」に詩を頼まれる。どうも、堤清二の意をくんでのことらしい。」(《土方巽頌》、筑摩書房、1987、一四一ページ)という経緯で依頼された作品である(「H」は同誌の編集人だろうが、不詳)。版元の株式会社リブロポートは、ウィキペディアによれば「1980年4月から1998年5月まで活動したセゾングループの出版社」で、「堤清二による肩入れが大きく、堤による西武百貨店・パルコなどの経営が傾いたことで、セゾン美術館と併せ1998年8月〔ママ〕に出版事業も閉じた」とある。つまり、@《太宰治 人と文学〔上・下〕》の装丁、A《含羞の人――回想の古田晁》の装丁(リブロポートの案件ではないが)、B《歴史と社会》への執筆依頼、同誌へ〈蓬莱〉を掲載、という流れになる。本書の装丁の依頼が著者の野原、本書の編集者(〈あとがき〉には言及がない)、(版元リブロポートの雑誌の)編集人「H」(?)、セゾングループ代表の堤、の誰の発案かはわからない。

野原一夫《太宰治 人と文学〔上・下〕》(リブロポート、1981年12月10日)の本扉とジャケット、同書の改訂新版《太宰治 生涯と文学〔ちくま文庫〕》(筑摩書房、1998年5月21日)のジャケット〔デザイン:多田進〕
野原一夫《太宰治 人と文学〔上・下〕》(リブロポート、1981年12月10日)の本扉とジャケット、同書の改訂新版《太宰治 生涯と文学〔ちくま文庫〕》(筑摩書房、1998年5月21日)のジャケット〔デザイン:多田進〕

本書の仕様は一八八×一二八ミリメートル・〔上〕:二二六ページ、〔下〕:二三八ページ・並製紙装・口糊[くちのり](並製本で表紙と見返しの前小口側に幅十五ミリほど糊を塗って接着させる方法)・ジャケット。奥付に「装幀――吉岡 実」とクレジットがある。本書は吉岡が手掛けた書籍のなかで、おそらく唯一の上下巻本である。近年のブックデザイン(とりわけ文庫本のそれ)では、上下セットであることを強調して、二冊並べたときに表紙が一枚の絵になるようにデザインしたり、意図的に題名や著者名の配置を変えて(書体やサイズは同じまま)レイアウトしたりして、二冊の連続と差異を打ち出すことが多い。吉岡が本書で採用したのは、上巻では青、下巻では赤(いずれもかなり淡い、いわゆる「なま[、、]でない」特色)をスミ文字を補佐する色とする、というミニマム設計だった。
篠田一士《日本の現代小説》(集英社、1980)と《日本の近代小説》(同、1988)の紹介で「表紙布の赤と青の色は、吉岡の詩集《ポール・クレーの食卓》初刊・再版(書肆山田、1980)と同じ流れだ。」と書いたが(〈吉岡実の装丁作品(12)〉)、それを見てもわかるように吉岡は二冊を組みで装丁する場合、赤→青という展開が多かった。ただし、高橋睦郎の試論集三部作のクロスは、青→赤→黄であり、田村隆一の《詩と批評》シリーズの全冊、A〜Eのクロスは、青色→朱色→緑色→黄色→臙脂色だった。一方、勤務先の筑摩書房における三詩人の全集のクロスの色は、《西脇順三郎全集〔全10巻〕》(1971〜73)が赤、《校本 宮澤賢治全集〔全14巻(15冊)〕》(1973〜77)が青、《萩原朔太郎全集〔全15巻〕》(1975〜78)が黄、すなわち赤→青→黄で、高橋の三部作や田村のA〜Eのシリーズの五冊とは異なる。もっとも三詩人の全集のメインカラーは、それぞれの詩人の印象や作風のしからしむるところで(西脇の赤、宮澤の青、萩原の黄以外が想像できるだろうか)、刊行の順番による選択が働いたわけではなかろう。つまり三詩人の全集ではなく、二冊シリーズや初刊・再版の組み合わせ、三部作やA〜Eのシリーズの色彩計画が参照されなければならない。ここで上巻(第五章まで)・下巻(第六章から)の目次の項目を見てみよう(細かいことだが、上巻の〈目次〉ページ自体にはノンブルが打ってあり、下巻のそれにはない)。なお、節は( )に入れて番号を省略し、/で区切りつつ追い込んだ。

第一章 故郷と生家(衣錦還郷/家郷追放/津島家素描/「思ひ出」の世界/弘前高校の三年間/津軽人気質)
第二章 蹉跌と彷徨(分家除籍と心中未遂/非合法運動と自首/作家への出発/虚偽の地獄)
第三章 人間失格(パビナール中毒/『晩年』と『虚構の彷徨』/精神病院と聖書)
第四章 絶望と再生(水上心中と破婚/虚無と絶望の底で/転機)
第五章 安定と反俗(婚約/「火の鳥」と「富嶽百景」/甲府御崎町時代)
第六章 ロマンの世界(三鷹転居/「駈込み訴へ」と「走れメロス」/若い世代への愛/「女の決闘」と「風の便り」/旅について/「新ハムレット」)
第七章 文学への沈潜(苛烈な戦時下で/「正義と微笑」/「右大臣実朝」/『新釈諸国噺』/「津軽」/「惜別」/『お伽草紙』)
第八章 希望と絶望(『パンドラの匣』/保守派宣言/「冬の花火」と「春の枯葉」)
第九章 恋と革命(律儀な無頼派[リベルタン]/「斜陽」/炉辺の幸福)
第十章 死への傾斜(「人間失格」/「如是我聞」と「グッド・バイ」/その死)


内容を観るかぎり、上巻が青で下巻が赤であることの必然性は読みとれない。つまり、上下巻の色が逆であっても、さして問題ない。強いて理由を挙げれば、表紙の紙の色(上下巻とも青系の同じ紙である)との親和を上巻で優先した、といったところだろうか。それを推し進めて考えれば、下巻の表紙を赤系の紙にしても良かったはずだが、吉岡はそこまでしなかった。

〔追記〕
本書には、初刊に加筆訂正して改題した一巻本《太宰治 生涯と文学〔ちくま文庫〕》(筑摩書房、1998年5月21日)がある。ジャケットのデザインは多田進。新しい書名は当初の口頭発表時のタイトルに戻したものだ。各章扉には新たに写真が掲載され、本文は敬体が常体に変更された(口頭発表を離れた恰好である)。〈あとがき〉にあるように、元版刊行後に「太宰治の全作品を何度か読み返し、理解を深め、また、多くの参考文献に目を通したりして太宰治の実人生に就いての考察を重ねてきた〔……〕成果を十分に盛り込み、十七年前の著作を大幅に改変した」(同書、四六七ページ)ものである。なお〈あとがき〉を改頁した註記に「本書は一九八九年一二月、リブロポートより刊行されたものに加筆訂正したものです。/(原題『太宰治 人と文学』上・下)」(同前、〔四六九ページ〕)とあるが、本書第一刷の発行は1981年12月10日だから、刊行年の「一九八九年」は誤植である。


吉岡実の装丁作品(120)(2014年1月31日〔2014年3月31日追記〕)

瀬戸内晴美《人なつかしき》(筑摩書房、1983年10月25日)は吉岡実装丁では珍しい宋朝体(それも、縦に細長い長宋体)を表紙まわり、すなわちジャケットや表紙、さらに本扉に用いている。私の記憶するかぎり、唯一の使用例である。宋朝体は主に年賀状や名刺などの短文の印刷物に用いられ、長文の本文書体の主流が明朝体であることは改めて述べるまでもない。吉岡は書名・著者名・出版社名などにも、基本的に明朝体を選んでいる(函や表紙まわりでは特太明朝を愛用した)。本書の宋朝体は意図的なものと見なければならない。さて、本書の目次には
 春逝く人 田村俊子    3
のように、題名と対象となった人名、ページノンブルが記されているのに対して、本文の見出しは「春逝く人」だけになっている。以下、それを「春逝く人(田村俊子)」というふうに表記して、本書の内容紹介に代える。

春逝く人(田村俊子)、侘助の人(車谷弘)、孤離庵離婚騒動記(遠藤周作)、月明の径(里見ク)、白い柩(里見ク)、二世の縁(岡本太郎)、雪の判決(市川房枝)、愉しい本(横尾忠則)、詩人(金子光晴)、斜陽聖母子(太田静子・治子)、「日月ふたり」のひとり(橋本憲三)、ネクスト(荒畑寒村)、赤い柩(荒畑寒村)、こんにゃくダイエット(大宅壮一)、永遠の初心(円地文子)、孫弟子の弁(吉川幸次郎)、大根おろし(今東光)、情熱の人(神近市子)、闘いの終り(神近市子)、青鞜の人(小林哥津)、星からの贈り物(杉浦康平)、きゃしゃな背中(北畠八穂)、北京に想う人(土岐善麿)、千載の憂い(勅使河原蒼風)、トランクの中(菊田一夫)、辛い四川料理(巴金)、牡丹の人(小林勇)、けいらん巻(御簾納キン)、黒いソフト(東郷青児)、一生の服(三宅一生)、雨の買物寵(生田花世)、青い目の西洋乞食(モラエス)、茂子さんおめでとう(富士茂子)、茂子さん聞きましたか(富士茂子)、ある年譜(城夏子)、寂しい華麗(勅使河原霞)、千代観音(宇野千代)

ここからだとわかりにくいが、追悼文の占める割合がそうとう高い(本書奥付の対向ページには「*初出の記載のない文章は「ちくま」に連載(81・4〜83・4)したものである。」と註記があるが、連載時の原題は「忘れえぬ人・人」だった)。瀬戸内が描く34人の肖像を紗のようにうっすらと覆う悲哀、笑いのなかにあるしっとりとした感じは、たしかに特太明朝では表わしにくかろう。宋朝体たる所以だ。なお、著者は1973年に得度して瀬戸内寂聴となったが、本書の著者名は瀬戸内晴美である。

 「この頃はねえ、目をつむると、うつらうつら夢ばかり見てねえ、昔のことや今のことがごっちゃになって、夢だか現[うつつ]だかわからなくなってしまう。最近見た夢の中で、とても気にかかるものがありましてね。まるで小説のようで、これは単なる自分の夢か、あるいはいつか読んだ小説のことが夢に出てきたのかわからなくなりましてね。渡辺文太郎くんに、きみ、こんな小説読んだことあるか、もし、覚えがないなら、誰かの小説にこんなのがあったかどうかしらべてくれないかと頼んであるんですがね。渡辺くんもドイツまで問い合わせてくれたがわからないという。それはこうなんです」
 翁の話の合間に痰がつまり、言葉をのみこみ、ぜえぜえ苦しみ、痰をとってからまた話をつづけるという具合なので、その話はすらすらというわけにはいかない。それでも決して翁は話を止めようとはせず、痰の処理をする間、実に根気よく咳がとまるのを待ってから、またおもむろに話のつづきに戻るという具合であった。
 「どこだかわからないが、場所はヨーロッパのどこかの戦場です。アメリカではないんだな、ヨーロッパって風景なんです。戦いの合間で、慰安所があるんです。兵隊がその前に蜿蜒長蛇の列をなしているわけです。アンペラでおおった粗末な慰安所なんです。
 そこで、一人が用をすまして出てくると、その度に入口で『ネクスト』と叫ぶ。すると次の兵隊が入っていく。またしばらくして出てくると、『ネクスト』と叫ぶ。次のが入る。
 そういう順序なんですなあ。そして、いよいよ、本人の番になって入っていく。中で待っている女を見るなり、その男が気絶しちゃうんです」
 そこでまた、激しい咳込みがはじまり、翁はことばをとぎらせた。私は翁の呼吸を少しでも休めようと思っていった。
 「つまり、その兵隊は、慰安婦があんまり化物みたいにみっともなかったので、びっくりして気絶したんですか」
 「いやいや」
 翁は細い手を振った。
 「ちがうんです。つまりその女が、その兵隊の妹だったわけなんです。そういう伏線が前にあるんだな。それで兵隊が気絶するんです。話はそういうものなんですが、どうです、小説みたいでしょう」
 「ほんとに、モーパッサンか何かの短篇小説みたいですね」
 「あなた、いつかどこかで読んだことがありませんか。ない……するてえと、これはやっぱり、ぼくの夢の中で書いた創作かな……となると、大変な名短篇だ」
 そういって翁は本当に得意そうに笑われた。
(〈ネクスト〉、本書、七六〜七八ページ)

荒畑寒村は小説家だから、話がうまいのは当たり前だが、それを映す瀬戸内の筆もみごとだ(弔辞のほかにも、寒村には本書のいたるところで触れている)。本書の仕様は一八八×一三〇ミリメートル・二四六ページ・上製丸背紙装・ジャケット。ジャケットの図柄は花(上)と水紋(下)だが、作者のクレジットはない。また、本扉は薊のモチーフを版画のように処理して、くすんだ緑で刷っている。淡谷淳一さんによれば、特色のサンプルも色チップではなく、実際の印刷物の切れ端だったりしたというから、この緑色も吉岡がどこかで見つけて取っておいたお気に入りかもしれない。
《人なつかしき》には、丹羽文雄が主宰する同人誌《文学者》で同輩として山崎柳子と交わった(五四ページ参照)、とある。山崎は吉岡とも縁のあった編集者にして小説家。太田大八《私のイラストレーション史――紙とエンピツ》(BL出版、2009年7月1日)に見える「〔……〕まだ駒込に住んでいた頃の仕事で、少年活劇文庫の中の『母をたずねて三千里』の挿絵の依頼に来た、東京創元社の山崎柳子という女性編集者がいました。この人も極めてユニークな人柄で、当時よく私の家に泊まり込んでいた吉岡実と同様、たびたび家に遊びに来ていました。/彼女のおかげで、一九六一年、アラビアンナイト六巻の口絵挿絵を描かせてもらいました」(同書、六七ページ)は、吉岡が〈突堤にて〉で触れた「D」の挿絵の仕事、川端康成・野上彰訳《アラビアン・ナイト》(東京創元社、1960〜61)のようだ。
本書にはあとがきがなく、吉岡実への言及もないが、瀬戸内は吉岡が編集していた当時の《ちくま》(1972年4月、第36号)に〈私小説と自伝の間〉――《主婦の友》に連載していた自伝小説《いずこより》を《瀬戸内晴美作品集〔第8巻〕》(筑摩書房、1972年3月15日)に収録して初めて公刊するに際して書かれた――を寄稿しているから、面識はあったか。《いずこより》は、瀬戸内晴美作品集の版を流用して、筑摩書房から1974年1月5日に単行本として刊行されているが、装丁(長濱慶三の写真をグラフィック処理した赤と紫のジャケット装)のクレジットがなく、だれの手になるものか不明。いずれにしても、筑摩の社内装丁ではあっても、吉岡実の装丁ではない。

瀬戸内晴美《人なつかしき》(筑摩書房、1983年10月25日)の本扉とジャケット
瀬戸内晴美《人なつかしき》(筑摩書房、1983年10月25日)の本扉とジャケット

本書には文庫版がある。ちくま文庫が1985年12月4日、一挙20点で創刊した1点である。同書の「カバー装画」は佐伯和子。奥付に「装幀者 安野光雅」とあり、創刊当時はジャケットのデザインも安野が手掛けたようだ。吉岡実をブックデザイナーと呼びがたいのは、文庫本のジャケットをデザインしていない点からも言える。古巣の筑摩書房の文庫さえしていないのだから(ちくま文庫をすべて見たわけではないが、たぶんそうだろう)、吉岡が他社の文庫本のジャケットをデザインしたことはないに違いない。現に、吉岡実装丁の丸谷才一《みみづくの夢》の中公文庫版のジャケットデザインは和田誠である。吉岡実装丁の本領は、A5判フランス装の詩集、四六判ジャケット装の文芸書、A5判ないし菊判系函入りの個人全集、の三つに集約できよう。これらの表紙まわりのほとんどが明朝活字とエンブレムのようなカット(もしくは明朝活字だけ)で構成されており、それがスミと特色のいずれもベタで印刷されていることは特筆される。アミフセだの製版指定による掛け合わせだのを使わない、線による字と画の凸版印刷。これが吉岡実装丁の身上だ。言い換えれば、吉岡実の装丁作品は明朝活字による活版印刷そのものである。それが単純にすぎると懸念されたとき吉岡が採ったのが、機械函や組立函に函とは異なる用紙に書名・著者名やカットを刷った題簽を貼る「貼題簽」の手法だった。1980年代、ジャケットはもちろん、本文も写植組版・平版(オフセット)印刷が主流となった文庫本に吉岡がかかわろうとしなかったのも、こう考えれば当然のことだった。ちなみに、詩集を含む吉岡実の邦文による単行本の本文はすべて活版印刷である。《吉岡実全詩集》が活版印刷でなければならなかったのはこのためだ。

〔2014年3月31日追記〕
和田誠《装丁物語〔白水Uブックス〕》(白水社、2006年12月20日)の〈文庫のカヴァー〉の章にこうある。「文庫の仕事をする時はカヴァーだけを担当します。表紙は統一デザインだし、文庫本には見返しはありません。扉は本文用紙が使われて、デザインも共通のものです。ぼくは文庫本の仕事もたくさんやっていますが、文庫の場合は装丁をするとは言いにくくて、カヴァーを描くとかカヴァーをデザインするとか言ってます。〔……〕カヴァー、表紙、見返し、扉、という表紙まわりすべてを考えるのが装丁だとするなら、それからははずれるわけですから」(同書、一九七ページ)。文庫のジャケットデザインは装丁にあらず――代表的なイラストレーター=グラフィックデザイナーの見解だけに、説得力がある。そして、丸谷才一《みみづくの夢》を思わせる次の箇所。「単行本の装丁をほかの人がやっているのに、文庫の依頼がぼくの方にくることもあります。それは気を遣いますね。ぼくはなるべく単行本を担当したデザイナーに文庫もお願いするといいですよ、と言うようにしています。〔……〕イメージが統一されている方がいいだろうというのが理由その一です。理由その二は、そのデザイナーが面白くないんじゃないかということです。自分の仕事が気に入られなかったからほかの人に頼んだのかな、と思うかもしれないじゃないですか」(同書、二〇四ページ)。
装丁家吉岡実は、文庫本のジャケットデザインをわが領分にあらずと思っていたふしがある。《人なつかしき》や《みみづくの夢》がそうだし、これは吉岡歿後の文庫化だが四方田犬彦《貴種と転生》(ちくま学芸文庫では増補のうえ《貴種と転生・中上健次》と改題)などを見ると、「文庫のジャケットは別の人に」と決めていたのではないか。和田の指摘にあるように、装丁家として腕を振いようがないのに加えて、写植=オフセットというデザイン=印刷方式が性に合わなかったのだ。沖積舎から選詩集(〈現代詩人コレクション〉か)の企画の提案があったものの、本文が写植=オフセットだからねぇ、と収録を断った旨を最晩年の吉岡から聞いたことがある。

〈現代詩人コレクション〉は出版案内《学藝出版 沖積舎の本》(1990年秋)や各種書誌を参照すると、1989年から1992年にかけて全10巻が刊行された。著者名と書名を挙げる。田村隆一《唇頭の灰》、川崎洋《愛の定義》、真下章《赤い川まで》、さとう三千魚《マイルド・セブン その他》、長田弘《物語》、大岡信《誕生祭》、荒川洋治《笑うクンプルング》、松浦寿輝《詩篇20》、城戸朱理《モンスーン気候帯》、吉増剛造《八月の夕暮、一角獣よ》。


吉岡実の装丁作品(119)(2013年12月31日)

田村隆一《詩と批評E》(思潮社、1978年10月15日)は、〈詩〉8篇、〈雑T〉9篇、〈雑U〉10篇、〈雑V〉12篇、〈対談〉3篇、の5部から成る。なにを措いても、飯島耕一と田村の対談〈余技としての文学〉(初出は《ユリイカ》1973年5月号)の「現代詩人たち」という一節に見える吉岡実評を読まねばならない(田村が吉岡の人物に言及したほとんど唯一の文献か)。《荒地》グループの人物月旦に続いて、田村が飯島たちの《鰐》に話題を振る。

田村 あとは飯島のグループか。
飯島 まあ吉岡なんてのは、いい職人ですね。
田村 いい職人だね。あれはやはり軍曹だね。昔の軍曹ってのは大変なのよ。だからちゃんと重役になってるでしょう。あれは気骨のある人よ。
飯島 スピリットあるしね。
田村 頭いいしね。
飯島 ああいう人が頭がいいっていうんだ。学問はないけど。
田村 だっておまえさんたちの学問なんざ、官僚養育学問だからね。帝国大学を出てる以上は駄目なんだから。あなたは許しを乞うて、もう一回慶応大学へ入り直さなきゃならない。(笑)
飯島 吉岡さんてのは最高に頭切れる人じゃないかな。そりゃ思想論文は書けないけども。
田村 いや、恥ずかしくて、書かないだけさ。もう照れちゃうもの。それから鼻がいいですよ。鼻好し。
飯島 よし、そこで移ろう。信はどうですか。
田村 大岡か、あれはいいけどね、少し働きすぎる。(本書、二八四〜二八五ページ)

飯島自身はともかく、岩田宏や清岡卓行に触れていないのは、田村がこのあと泥酔状態に陥った(ことになっている)ためか。ときに、田村の「吉岡=軍曹説」は《サフラン摘み》の高見順賞の選評〈畏怖をいだく詩人〉にも出てくる。全文を引く。

 吉岡実は、ぼくが畏敬する詩人である。畏敬というよりも、畏怖に近い。太平洋戦争のはじまる前から、彼は帝国陸軍の鬼軍曹で、馬の訓育にかけてはベテランだったという。ぼくは馬が恐さに海軍に逃げこんだのだが、彼の詩的世界の原質には、馬が生きている。すなわち、彼の詩のパン種子は馬なのだ。ひとむかし前、神田小川町に「デミアン」という喫茶店があって、そこのマダムが馬に似ていて、その牝馬を、彼とともに賞味したことがあった。むろんコーヒーを飲みながら、十五分ばかり眺めただけなのだが、彼女のエロスにうっとりしたことがあった。馬といっても、馬づらのことではない。その肉体と精神の韻律的な動きが、馬のボディのようにエロチックなのだ。ドガが描く馬なのである。
 詩とエロスの内なる関係を、彼ほど肉感的[、、、]に近代日本語で創造した詩人を、ぼくはほかに知らない。ぼくが、彼の詩的世界に畏怖をいだくのは、そのためである。(《現代詩手帖》1977年2月号、一九二ページ)。

吉岡はよほど軍曹説が心外だったらしく、新聞に書いた随想(〈受賞式の夜〉)でめずらしく反論している。「これ〔上掲田村文の冒頭〜「馬の訓育にかけてはベテランだったという……」〕を読んで、啞然とした。彼一流のユーモアのつもりなのかも知れないが、私はその頃、一等兵であった。鬼軍曹というイメージは映画〈地上より永遠に〉のアーネスト・ボーグナインであろう。私は柔弱な召集兵であり、重い馬糧は担げず、輓馬もうまく扱えない兵隊であった。しょせんそのような兵隊には、他部隊への転属につぐ転属の運命が待っていた。私は済州島で敗戦を知ったのだ。世にいうポツダム伍長である――そのようなよけいなことを喋ったので当然私の挨拶はうまくなかった」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、四三ページ)。高橋睦郎から「嫌いなタイプ〔の人間〕は?」と問われて、「上に弱く、下に強い人。自分自身、小僧時代、軍隊時代をつうじて、そういう人種に反抗してきたつもりです」(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一三八ページ)と答えている吉岡にしてみれば、そうした人種に見られるのは御免蒙るといった心境だろう。「この人のまえで滅多なことはできない」という緊張を覚えることはあったが、それも話しはじめるまでのことで、興に乗ればまったく対等に遇してもらった(と当方に感じさせた)のだから、相手と対面していての居丈高な態度は、とるのもとられるのも吉岡の忌避するところだった。生き方の根幹に触れただけに、敏感に反応したというのが事の経緯だったようだ。

田村隆一《詩と批評E》(思潮社、1978年10月15日)の函と表紙 田村隆一《詩と批評E》(思潮社、1978年10月15日)の本扉 田村隆一《詩と批評》シリーズの全5冊、A〜E(思潮社、1969〜1978)の背表紙
田村隆一《詩と批評E》(思潮社、1978年10月15日)の函と表紙(左)と同・本扉(中)と《詩と批評》シリーズの全5冊、A〜Eの背表紙(右)

本書の仕様は、一八二×一二八ミリメートル・三四六ページ・上製丸背継表紙(背はクロス、平は紙)・機械函。〈目次〉の最後の行に「装幀――吉岡実」とクレジットがあるが、函・扉カットのニワトリが誰の手になるのかわからない。クロスと函の色文字は臙脂系。A〜Eが、青色・朱色・緑色・黄色・臙脂色ときており、AB(C)Dまでが高橋睦郎の試論集三部作の水色・赤色・黄色と近似の色彩計画なのは興味深い。函の色文字として明るすぎる特色は使えないから、F以降には茶色や紫色が登場する予定だったかもしれない


《詩と批評》全巻を見てきた。Dは《若い荒地》だったため近作の詩篇はなかったが、シリーズ名のとおり、田村隆一のその時点での〈詩〉と〈散文〉を一冊にまとめた味わい深い編集だった。田村は本シリーズ刊行途中の1970年代の前半から、散文の連載を数多く抱えるようになる。いきおい、本シリーズに収録すべき散文は減少し(たいてい連載誌の出版社が単行本にして出版するから)、なによりも詩集が矢継ぎ早に刊行された。そのスピードは本シリーズの刊行ペースを上回るほどだった。本巻Eも「Zまで出す」という当初の意思がなければ、日の目を見なかったかもしれない。田村の詩が、散文が、広く世に迎えられるようになったのである。
ところで《西脇順三郎 詩と詩論〔全6巻〕》(筑摩書房、1975年)という選集がある。〔T〕は、詩が《Ambarvalia》〈トリトンの噴水〉、詩論が《超現実主義詩論》《シユルレアリスム文学論》《輪のある世界(抄)》。田村が〈旅人の変化と推移について〉という文章を寄せている〔U〕は、詩が《旅人かへらず》《あむばるわりあ》、詩論が《純粋な鶯》《梨の女(抄)》、といったぐあいだ。これは同じ版元の《西脇順三郎全集〔全10巻〕》(1971〜1973)の成果を踏まえたものだが、田村の《詩と批評》シリーズの編集方針を参考にしたとも考えられる。むろん、先行全集と同じジャンル別の巻立て(詩集・訳詩集・詩論・文学論・随筆・未刊詩篇)では新味に欠ける、という判断も働いたに違いない。だが、ひとりの散文をよくする詩人の「変化と推移」を見るのに、これほど適した編集方法もないように思う。作者田村隆一と編集者八木忠栄の勝利である。それかあらぬか、長谷川郁夫編集の《田村隆一全集〔全6巻〕》(河出書房新社、2010〜2011)も[詩]と[散文]を同じ巻に収録する方針を踏襲して、田村の主要な文業を伝える。


吉岡実の装丁作品(118)(2013年11月30日)

田村隆一《詩と批評D》(思潮社、1973年5月1日〔三版:1977年6月1日〕)は、評論〈若い荒地〉、同人による〈座談会〉、鮎川信夫・中桐雅夫の〈解説〉とから成る。単行本の《若い荒地》は1968年10月、思潮社刊。近年の刊本に、本書を底本とした講談社文芸文庫版(2007年2月10日)がある。同書の佐々木幹郎の〈解説〉には、「『若い荒地』は最初、詩誌「ユリイカ」に連載された。田村隆一が三十七歳のときである。「ユリイカ」昭和三十五年(一九六〇)八月号から三十六年二月号まで七回連載されたが、「ユリイカ」社主であった伊達得夫の急逝によって中断した。〔……〕活動を終えた「荒地」グループを、戦後の匂いが次第に消えていくようになった一九六〇年に、どのように戦後詩のなかに位置づけるのか、戦後詩の優れたオルガナイザーだった伊達得夫は、田村隆一の眼に託して『若い荒地』の連載を企画したのだと思える。/伊達の急逝によって中断された連載は、昭和四十一年(一九六六)になって、「現代詩手帖」(思潮社)で再開された。連載は同年六月号から昭和四十二年七月号までで完結。この間、同誌の昭和四十二年四月号に、鮎川信夫、北村太郎、中桐雅夫、三好豊一郎らとの座談会「『若い荒地』を語る」が掲載されている。この座談会は、「ユリイカ」連載時からの田村のアイディアであった」(三四四〜三四六ページ)とある。本書では《詩と批評》の〈批評〉が全面展開されていて、田村の若年の〈詩〉は《荒地》のメンバーの一人として控えめに引用されているだけだ。《若い荒地》は数多い田村の散文の著書の最初の一冊であり、それが雑文集ではなく自分の所属した同人誌の盛衰を叙した長篇評論であったことは意味深い。なお本書は、長谷川郁夫編集の《田村隆一全集〔第1巻〕》(河出書房新社、2010年10月30日)の[散文]に全篇が収録されている。

 《ル・バル》24集(昭15・8月発行。A5版〔判〕・28頁)鮎川の《近代詩について(2)》をつづけて読んでみよう。当時のモダニストの主要な機関誌は、北園克衛の編集による《VOU》と、春山行夫、村野四郎、近藤東、上田保の共同編集による《新領土》で、前者は詩における技術主義の実験を、運動の目標にかかげ、後者は、サタイアとイロニイを主要武器とした近代主義を標榜していた。さしずめ《VOU》は、田舎の中学校の化学教室といったところで、戦後、薬品くさい実験室から、化学の頑固な教師に叱られて這い出してきたのが、黒田三郎と木原孝一であり、《新領土》は植民地にある英米系の小新聞社といった感じの、あまりパッとしないパーティだった。(〈ランプよりも巨大な思ひ出の下で〉、本書、一〇三ページ)

寄港地――Love Song|田村隆一

さまざまな形を抜けて 夜のやうに 河が流れた
「それは 昔からだらうか」
人々は そ〔ママ〕う信じたかつた
河を信じた人々は すでに形となつた
河は 同じやうに 人々の胸を抜けた

「こゝは 夜の広場
何も考へることはなし
石の上に座し
そのつめたさに触れよ」
人々の群れが 舞台のごとく 去来する
言葉もなく 衣裳の音すら たてずに
それとも 僕には 聴えぬのか
たゞ 石のつめたさだけが 信じられる
それから
河が涸れるやうに 人々の群れは消え去つて 雨が広場に 降りはじめた
これは ごく自然だつた
雫が 僕の額を濡らす
悲しい快楽だと思へば あやしく 肉体は震へてゐた
もしかしたら 石が動いたのかも知れぬ
「石は濡れてるのかしら」
ふと 僕の残り少い智慧が 呟いてみる
雨は はげしい!
広場は 恐らく 沈んでしまふだらう
だが どんなことになつても 僕が石の上に座〔ママ〕つてゐることは絶対だ!
「それは幻想だよ」
よせばいゝのに 僕の智慧は また呟く
あゝ 見知らぬいくつかの建物が 音を立てた!
そいつは聞える あれは言葉でないんだ
僕には もう言葉が聞えない
たゞ 音だけが 河の流れのやうに 僕の胸を抜けてゆく

広場からは 港がほのかに光つてゐるのを 望むことが出来る
人々は その夜景を好んだ
ときをり 異国の白い船が入港すると 港は 祭のやうに 賑はつた

本書の仕様は、一八二×一二八ミリメートル・二八〇ページ(手許の「三版」本は、「277」ページと「278」ページに相当する一丁――奥付が印刷されていたに違いない――が切り裂かれて、一〇二×七二ミリメートルの紙葉に印刷された奥付が本文最終の「276」ページ対向の本文紙に貼りこまれている)・上製丸背継表紙(背はクロス、平は紙)・機械函。〈目次〉の最後の行に「装幀――吉岡実 函・扉カット――落合茂」とクレジットがある。

田村隆一《詩と批評D》(思潮社、1973年5月1日〔三版:1977年6月1日〕)の函と表紙 田村隆一《詩と批評D》(思潮社、1973年5月1日〔三版:1977年6月1日〕)の本扉
田村隆一《詩と批評D》(思潮社、1973年5月1日〔三版:1977年6月1日〕)の函と表紙(左)と同・本扉(右)

本シリーズの背のクロスは、かなり幅が狭い。紙製の表紙よりも背を丈夫にするという本来の目的からすれば、クロスは背幅を超えて作業しやすいぎりぎりの狭さでいいわけだ。それがどんな幅であれ、おもて表紙(表紙1)とうら表紙(表紙4)の平として見ると、紙とクロスの資材の間で異質感が出る。本書のように表紙に空押しでカットを入れる場合(しかも今回の絵柄は横長)、クロスの幅が広いと、平の紙の左右中央と表紙1全体の左右中央がずれて、視覚的に安定を欠く。それも影響して、クロスの幅を狭めているのかもしれない。ちなみに上掲のバッタは、表紙の芯の板紙の幅(表紙の左端からクロスの溝まで)の左右中央に空押しされている。


吉岡実の装丁作品(117)(2013年10月31日)

田村隆一《詩と批評C》(思潮社、1972年12月1日〔三版:1976年9月1日〕)は〈詩〉13篇、〈アメリカからの手紙〉8篇(対談と往復書簡を含む)、〈雑T〉15篇、〈雑U〉17篇(開高健によるインタヴューを含む)、の4部から成る。和子夫人に宛てた〈アメリカからの手紙〉(一九六八年一月十九日付)に「ぼくは東京に帰るまでに千行の長い詩を書く。これは雑誌に発表しないで、そのまま単行本として出す。題して「北」。あらゆるいみでの「北」。この詩が出来ると、ぼくの中期の仕事が完成できるわけだ。いま資料をあつめている。「北」を連想させる言葉、たとえば、氷、雪、冬、凍る、などの言葉をいっさい排して「北」を書くつもりだ。かなり、意図だけは野心的なのだが、とにかくあたってクダケロだ!」(本書、九二ページ)とある。これは、のちに詩集《新年の手紙》(青土社、1973)に収められた詩篇〈「北」についてのノート〉(《詩と批評B》に収録ずみ)にその痕跡を残す、幻の長詩を指すだろう。

「北」についてのノート|田村隆一
絵画と音楽に国境なし、というのは、真赤な嘘なり。ぼくが、北米の田舎町で経験した「自由」、および「自由」の回路となりうるもの、ただ一つ、それは言語なり。
北米、アイオワ州にて。一九六八年一月
世界を、さらにもう一度、凍結せしめねばならぬ。「北」の詩には、雪、氷、凍、寒、囚人、その他、「北」を連想せしめる如き言葉(修辞)は厳禁。

氷河期――燃える言葉、エロティックなリズムで書くこと(小動物、森の動物が歩くリズムで)。深刻、悲愴、孤立、断絶、極北、極点、原点、の如き用語、フィーリング、使用すべからず。

口語体(東京語及びアクセント)をフルに活用。

直腸的経験。(こと詩に関しては、聞かれていること)

地理学的歴史学的資料の蒐集。(そして、哲学的意識の排除)

時差の研究――北から南へ――南から北へ。

KOperation――put into Operation. undergo an Operation. 

燃える言葉によって、寒冷を、寒冷そのものを、読者(すなわち「私」及び「我々」)に経験せしめれば、まずまずの成功なり。

人体解剖図――有田ドラッグ――蝋細工。

デカルトの、オランダからの帰途についての研究。

敗戦時におけるツキジデス像をこの[、、]眼で見ること。

熱がなければ、腐敗しないということ――腐敗性物質。

〈アメリカからの手紙〉を読むと、「KOperation」は夫人の受けた手術を指すようだ。「有田ドラッグ」はマツモトキヨシのような、かつてあったチェーン店。「敗戦時におけるツキジデス像」の含意は不明。とはいえ、そもそもがノートなのだから、文句をつけても始まらない。吉岡実の連祷詩《粘土説》(未完)は、その一部が詩篇〈葉〉(G・4)となり、主題は《サフラン摘み》に引きつがれた。田村の長詩が百行でも二百行でも残されていたなら、その「断片」はどれほど壮観だっただろう。連祷詩《粘土説》と並んで、長詩《北》の書かれなかったことが惜しまれる。
長谷川郁夫編集の《田村隆一全集〔第2巻〕》(河出書房新社、2011年2月28日)の[散文]には、〈アメリカからの手紙――詩と批評C より〉として、〈アメリカからの手紙 一九六七年十二月〜一九六八年四月〉、〈フィッツさんとシモンズさんの話〉、〈アメリカ詩の旅〉、〈犬のいるキャンパス〉、〈アイオワ村の鯉〉、〈ライトさん〉の6篇がセレクトされている。

田村隆一《詩と批評C》(思潮社、1972年12月1日〔三版:1976年9月1日〕)の函と表紙 田村隆一《詩と批評C》(思潮社、1972年12月1日〔三版:1976年9月1日〕)の本扉
田村隆一《詩と批評C》(思潮社、1972年12月1日〔三版:1976年9月1日〕)の函と表紙(左)と同・本扉(右)

本書の仕様は、一八二×一二八ミリメートル・三七二ページ(手許の「三版」本は、「373」ページと「374」ページに相当する一丁――奥付が印刷されていたに違いない――が切り裂かれて、一〇〇×七三ミリメートルの紙葉に印刷された奥付が本文最終の「372」ページ対向の見返しの遊び紙に貼りこまれている)・上製丸背継表紙(背はクロス、平は紙)・機械函。〈目次〉の最後の行に「装幀――吉岡実 函・扉カット――落合茂」とクレジットがある。このカットは《詩と批評A》《詩と批評B》とは異なり、落合らしいシャープな線画である。トウモロコシはこれまでと同様、表紙に空押しされている(やや太い線で)。今回の函標題の刷色とクロスの色は緑系(くすんだグリーン)だ。


吉岡実の装丁作品(116)(2013年9月30日)

田村隆一《詩と批評B》(思潮社、1970年9月30日〔四版:1977年5月25日〕)は〈詩〉6篇、〈訳詩〉3篇、〈雑T〉18篇、〈雑U〉16篇、〈対談〉5篇、の5部から成る。なにを措いても、大江健三郎と田村の対談〈原初の飛行機乗り〉(初出は《現代詩手帖》1965年7月号)の〈現代詩人に対する評価――原初の飛行機乗りとしての夢と技と〉に見える吉岡実評を読まねばならない。大江が吉岡に言及したほとんど唯一の文献である。
大江 〔……〕現代詩は僕は、ちょうど飛行機の発達の段階で、大きい翅かなんか作って持って飛んで落っこちたりする人がいたでしょう、あれは滑稽で悲惨だけれども、しかし人間の〈飛びたい〉という欲求の本当の原初のものを持って……
田村 そう、それをちゃんと具体物にしたんですものね。
大江 詩人はそういうタイプだと思うんです。
田村 そうですよ。
大江 われわれ散文家は、詩人が大きな翅をつけて飛ぼうとして落っこちた空を、飛行機にのって飛んでいるんだけれど、だからと言ってやはり、大きなジェット機の客席で水でわったスコッチ・ウイスキーを飲んでいる気分ではいけないと思うんです。
田村 そうです。
大江 やはり……
田村 自分でやらなければいけない。
大江 ええ、手を動かして操縦しつつ飛んでいかなきゃならない。そのためにつねに飛行機乗りの祖先というものを考えなきゃならない。そして、飛行機乗りの祖先というのはもう死んじゃっているけれども、詩人は現に同時代に生きているんだから、その詩人たちを僕らはそういうものとして敬意を以て考えなければならないと思います。そういうふうに考えると、また詩人に対する僕らの評価というものも、単なる良し悪しあるいは好みからのそれとは少し違ってきますね。たとえば吉岡実氏を僕はいい詩人だと思いますけれど、この詩人に対し て いまの観点からの僕の評価は低い。それは、吉岡実という詩人はいい詩人だし、僕の好きな詩人たちの一人ですけれど、しかし僕が散文作家として恐ろしいと思う詩人じゃない。小説家だってああいうイメージはつくれるだろうと思う。小説家の持っていないイメージ、小説家が持っていないリズム、そういうものをつくっている詩人かというと、そうじゃない詩人だという気がするんです。逆に恐ろしい詩人というとどういう詩人かというと、田村さんなんかそういう詩人だし、たとえば藤森安和という若い詩人の最初のものはそうでした。それがたとえば篠田一士さんというような、文芸批評家として詩を理解して、小説もまた理解する人が、いちばん評価するのが吉岡実というような詩人だとすると、それはちょっと詩人と小説家とのあいだの道を開く批評家としては不適任だという気がしますね。小説家が逆立ちしても及びもつかないようなリズムを持っている人を、もっともいい詩人だと見なさなきゃいけない。もちろんこれは、その詩と小説とをつなぐことの難易を言っているんで、その難しいものをこそ取れということで、これらの詩人の価値の高い低いを言うのではないのですが。
田村 それはよくわかります。
大江 小説家が詩に対したときに、小説家としては到底できないようなところへ深入りしていっている詩人、それを求める気持が僕にはあるわけです。(本書、二四〇〜二四三ページ)

《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)の打ちあわせで、監修の平出隆さん、編集担当の思潮社・大日方公男さんと青葉台のマンションに吉岡陽子さんを訪ねたとき、吉岡の書棚を見せてもらった。《現代詩読本》の口絵に写っていない本もいろいろあって(フランス書院文庫が何冊か――記憶にある著者は小菅薫、それから矢島輝夫の別名・矢切隆之――があったのはやはりとも想い、嬉しくもあった)、司修装丁の黄色い函の大江健三郎《同時代ゲーム》(新潮社、1979)があった。函の背を見ただけが、献呈された一本だったのだろうか。
長谷川郁夫編集の《田村隆一全集〔第1巻〕》(河出書房新社、2010年10月30日)の[散文]には、〈作家たち――詩と批評B より〉として〈雑T〉の〈ある演説から――W・H・オーデン〉から〈倉橋由美子〉までの15篇がセレクトされている。

田村隆一《詩と批評B》(思潮社、1970年9月30日〔四版:1977年5月25日〕)の函と表紙 田村隆一《詩と批評B》(思潮社、1970年9月30日〔四版:1977年5月25日〕)の本扉
田村隆一《詩と批評B》(思潮社、1970年9月30日〔四版:1977年5月25日〕)の函と表紙(左)と同・本扉(右)

本書の仕様は、一八二×一二八ミリメートル・三五二ページ(手許の「四版」本は、「353」ページと「354」ページに相当する一丁――奥付が印刷されていたに違いない――が切り裂かれて、一〇〇×七三ミリメートルの紙葉に印刷された奥付が本文最終の「352」ページ対向の見返しの遊び紙に貼りこまれている)・上製丸背継表紙(背はクロス、平は紙)・機械函。〈目次〉の最後の行に「装幀――吉岡実」とあるが、函・扉の魚(鮫?)のカットの作者のクレジットはない。魚は《詩と批評A》と同様、表紙にも空押しされている。田村がカットを描いたはずはないから、吉岡がどこかからもってきたのだろうか。函の標題の刷色とクロスの色は赤系(オレンジがかった朱色)である。


吉岡実の装丁作品(115)(2013年8月31日)

田村隆一《詩と批評A》(思潮社、1969年12月25日〔再版:1973年4月25日〕)は「田村隆一の全著作シリーズ」の第1冊として刊行された。再版の奥付裏広告には「『緑の思想』以後に書かれた詩「村の暗黒」など9篇をはじめ、鮎川信夫、高村光太郎、西脇順三郎、金子光晴、三好達治、草野心平、エリオットらに関する感受性するどい詩論を中心として、エッセイ、日録、インタヴュー、自伝などを収め、この唯一毅然たる詩人の位相の根拠をしめす」とある。〈掲載紙誌一覧〉によれば、詩は1967年から69年まで、批評は1955年から69年までのものが採られている。当初、単行本になっていない詩と、戦後に書かれた批評――というより広く詩以外の文章――を網羅して、巻数未定(最大AからZまでの26巻か)の《田村隆一全著作集》を目論んだと思しい。そのあたりのことを本書の担当編集者・八木忠栄は「田村さんの詩や散文や対談を収めた『詩と批評』という著作シリーズがある。スクラップブックに掲載原稿の切抜きがたまると「八木クーン、たまったよオ」と声がかかって、編集にとりかかる。当初AからZまで出そうと、二人で張りきっていたが、Eでストップしてしまった。田村さんはその後からだをこわして、アルコールのほうもお休みが多い」(《詩人漂流ノート》、書肆山田、1986年8月25日、八六ページ)と書いている。
本書の内容は〈詩について〉7篇、〈詩〉9篇、〈雑〉6篇、〈詩人〉8篇、〈私〉1篇。ふつうに言えば、詩論・詩篇・随想(雑文)・詩人論・自伝といったところだ。吉岡と同じ題材で書いた散文が興味深い。すなわち、牛島に藤を見に行く随想〈紫の花〉(初出は《草月》1965年8月)は吉岡の同じく〈藤と菖蒲〉と、書肆ユリイカ版《金子光晴全集〔第1巻〕》の書評として書かれた〈金子光晴という詩人〉(初出は〈金子光晴という詩人――カルメンを熱演したときのこと〉、《図書新聞》、1960年8月27日)は吉岡の書評〈不逞純潔な詩人〉と、併せて読みたい。〈偽エスケピストの生活と意見〉の「読書はすきだが、書棚もなければ、蔵書もない。彼が最低のパンを得るためにやったミステリーの翻訳ものから、彼自身の詩集にいたるまで、ほぼ八十冊にのぼる自分の書物さえ、彼は所有していない。だれかにやってしまったか、売ってしまったのである」(本書、一二九ページ)は、「田村隆一はそれ〔《四千の日と夜》〕をねらって、たびたび滝野川の私の部屋に現われた」とある吉岡の〈田村隆一・断章〉の記述を想わせる。吉岡は、田村の行状を見聞したか、この一節を踏まえるかして断章を書いたのだろう。
長谷川郁夫編集の《田村隆一全集〔第1巻〕》(河出書房新社、2010年10月30日)の[散文]には、〈詩人たち――詩と批評A より〉として本書から〈ぼくの苦しみは単純なものだ〉などの詩論と〈癌細胞――高村光太郎小論〉などの詩人論、合わせて14篇がセレクトされている。

田村隆一《詩と批評A》(思潮社、1969年12月25日〔再版:1973年4月25日〕)の函と表紙 田村隆一《詩と批評A》(思潮社、1969年12月25日〔再版:1973年4月25日〕)の本扉 田村隆一《詩と批評A》(思潮社、1969年12月25日〔再版:1973年4月25日〕)の背〔初版と再版〕
田村隆一《詩と批評A》(思潮社、1969年12月25日〔再版:1973年4月25日〕)の函と表紙(左)と同・本扉(中)と同・背〔初版と再版〕(右)

本書の仕様は、一八二×一二八ミリメートル・二六六ページ・上製丸背継表紙(背はクロス、平は紙)・機械函。函・本扉の鴇のようなカット(作者のクレジットはない)は表紙にも空押しされていて、《薬玉》のカットと雰囲気が似ている。当初から背のクロスの色を変えていく造本計画だったのだろうが、高橋睦郎の試論集三部作のように初めから冊数が決まっていたわけではないから、一冊ごとに著者や担当編集者と相談して色を選んでいったのかもしれない。Aは青系である。本書の背文字だが、公立図書館所蔵の初版と手許の再版を較べると、明らかに修正されていることがわかる。著者名・書名は初版がともに20ポイント、再版は著者名を小ぶりに書名を大ぶりにしてある。出版社名も小さくなっている。ABCDEと並んだとき、背文字の大きさがばらばらなのはまずい。シリーズの進展にともなって、背文字のフォーマットを微調整して、既刊分は増刷を機に修正したものと思われる。奥付によれば、本文の印刷・製本もそれぞれ、初版が日本能率紙材と鈴木製本、再版が若葉印刷と岩佐製本(《吉岡実詩集》や《静かな家》に同じ)、三版が秀峰美術と美成社と変わっている。その理由は、わからない。


吉岡実の装丁作品(114)(2013年7月31日)

《草野心平詩全景》(筑摩書房、1973年5月25日) について、吉岡実は未刊の随想〈心平断章〉(《現代詩読本――特装版 草野心平るるる葬送》、思潮社、1989年3月1日)にこう書いている。

  3
 昭和三十九年ごろのこと。芝大門辺りの料亭の一室で、私は初めて草野心平と会い、親しく言葉をかわした。筑摩書房の社長古田晁と会田綱雄、そし〔て〕島崎蓊助が同席していた。『草野心平詩全景』の出版決定の内祝いの会だったように思う。かねがね、古田晁は親友草野心平の「本」を出したいと考えていた。しかし編集企画会議は厳正で、たとえ社長の提案でも、それは通らない。私も会田綱雄も編集部に属していないから、直接に推進できないもどかしさがあった。紆余曲折があったものの出版は決ったのである。その夜、宿願を果した古田晁はいささか悪酔いしたようだ。
  5
 『草野心平詩全景』の造本・装幀は、私の手がけたものである。シンボルとしてのカットに、「おたまじゃくし」を、心平さんに描かせている。久しぶりでこの本を出して見て、その躍動感が、効果をあげていると思った。(同書、九一ページ)

本書の内容細目は以下のとおりである(頭の丸中数字は引用者が付したもの)。

 @侏羅紀の果ての昨今
 A太陽は東からあがる
 Bこわれたオルガン
 Cマンモスの牙
 D富士山
 E第四の蛙
 F天
 G定本 蛙
 H牡丹圏
 I日本沙漠
 J大白道
 K富士山
 L絶景
 M蛙
 N母岩
 O明日は天気だ
 P第百階級
 Q第百階級以前
 R四十八年ジッグザッグの――拾遺詩集
 ◎全景覚書
 ◎全景細目
 ◎書誌・年譜

巻末の長谷川渉編〈草野心平書誌・年譜〉の記載を簡略化して、草野の単行詩集を概観する(丸中数字は内容細目のものを借用)。《詩全景》が逆編年体で構成されていることがわかる。

 Q《廃園の喇叭》(タイヤン社、1923)
 Q《空と電柱T》(空と電柱社、1924)
 Q《空と電柱U》(空と電柱詩社、1924)
 Q《空と電柱V》(空と電柱詩社、1924)
 Q《月蝕と花火》(1924)
 Q《BATTA》(1924)
 Q《踏青》(1924)
 ―《919》(1925)
 P《第百階級》(銅鑼社、1928)
 O《明日は天気だ》(渓文社、1931)
 N《母岩》(歴程社、1935)
 N《母岩》(西東書林、1936)
 M《蛙》(三和書房、1938)
 L《絶景》(八雲書林、1940)
 ―《黄包車[わんぽつ]》(上海・太平書局、1942)
 K《富士山》(昭森社、1943)
 J《大白道》(甲鳥書林、1944)
 I《日本沙漠》(青磁社、1948)
 H《牡丹圏》(鎌倉書房、1948)
 G《定本 蛙》(大地書房、1948)
 F《天》(新潮社、1951)
 E《亜細亜幻想》(創元社、1953)〔新作は〈李太白と蛙〉一篇〕
    *
 E《第四の蛙》(政治公論社無限編集部、1964)
 C《マンモスの牙》(思潮社、1966)
 D《富士山》(岩崎美術社、1968)
 B《こわれたオルガン》(昭森社、1968)
 A《太陽は東からあがる》(弥生書房、1970)
 @《侏羅紀の果ての昨今》(八坂書房、1971)

随想にある「昭和三十九年」は1964年だから、出版決定から本書刊行までに9年かかったことになる。その間に草野は6冊の詩集を出している(*以降の分)。〈心平断章〉によれば、吉岡が草野の詩に最初に触れたのは《草野心平詩集〔創元選書〕》(創元社、1950)である。単行詩集を見るかぎり、そのころから全詩集刊行決定までの間、詩の発表のペースは落ちているようだ。そうした状況を打開するために、本書の企画が持ちあがったのかもしれない。すると今度は、著者が旺盛な執筆活動に入った。「紆余曲折」のひとつとはこのことだったか。しかるに、現存の詩人であれば、筆を折らないかぎり「全詩集」はありえない。「詩全景」という耳慣れない書名には、現役詩人としての気概が込められていよう。草野は〈全景覚書〉の〈U〉でそのことに触れている。また、1972年5月2日の日付を末尾にもつその〈T〉には、「そうして今日は吉岡実、晒名昇〔本書の編集担当者〕の両君と、装幀その他の打合せをするところまでたどりついた」(本書、七五八ページ)とある。

《草野心平詩全景》(筑摩書房、1973年5月25日)のボール函と貼函と表紙 《草野心平全集〔第1巻〕》(筑摩書房、1978年5月30日)の函
《草野心平詩全景》(筑摩書房、1973年5月25日)のボール函と貼函と表紙(左)と《草野心平全集〔第1巻〕》(筑摩書房、1978年5月30日)の函(右)

本書の仕様は、二四一×一七二ミリメートル・九八四ページ・上製丸背継表紙(背は黒の革、平は紺のクロス)・貼函・ボール函(貼題簽)。装丁者のクレジットはない。本扉まえの和紙(一丁)に毛筆による署名。本扉のあとのモノクロ口絵に著者肖像写真、原色版の口絵に著者による絵画作品。9ポ二段組七五〇ページを超える詩篇本文から、次の一篇を引きたい(《第百階級以前――空と電柱抄V》)。吉岡の《静物》(私家版、1955)の船の詩篇に見える寄るべない感じが、ここにもある。ただしこの詩は、前掲《草野心平詩集〔創元選書〕》には入っていない。

アンリ・ルツソウの風景画|草野心平

しやつぽでも昼寝してゐさうな しづかなあたたかい風景――
伏見丸の船体と第三突堤にはさまれた港の道を
ルツソウの人物・俥屋があるいてゐる
ひとつこひとり見てゐない
俥屋は白い煙草のけむりをぽつかりはきだし
又のろのろあるきだした
甲板[デツキ]には船客と見送人との
黄や赤や青や白やのテープが
いりみだれて九月の太陽にきらめき
人々ははかない紙きれに別れの心を流してゐる
同じやうな感情をふるはしあつてゐる
時々思ひだしたやうに大きな声で呼びかけてみたり
又銅鑼がなつた
人々はもつと強くテープをにぎる
送つてくれる人のない僕は
ひとりぼつち
デツキのてすりにもたれかかつてゐる

(ああ 船はうごきだした)

日本にかへりついたとき
ハンケチをふつて僕の名をよんでくれるもののなかつたとき
突堤の倉庫の屋根に書いてあつたひとつのローマ字 B
今日もハンケチや帽子やテープからはなれて
僕はひとり右の甲板にきて
アンリ・ルツソウの風景画を眺めるのだ

「マストのてつぺんから伝書鳩をとばすよ」
ふるさとのステーシヨンで別れるとき
ふとみんなをわらはせた言葉だつた
いま僕の心には伝書鳩のかはりに
ルツソウの風景画と

ああ さやうなら
日本の人々よ 山よ

《草野心平詩全景》に初出の拾遺詩集《四十八年ジッグザッグの》は、のちに《草野心平全集》に全篇が収録された。そこに《詩全景》の刊行年次・内容が記載されているので、全集第3巻の編者である中桐雅夫・山本太郎による〈解題〉を引く。

〔『草野心平詩全景』/〕昭和四十八年五月二十五日発行 筑摩書房刊 B5変型判(二四二×一七二m/m) 背皮クロス装貼函入 著者肖像写真一枚 著者・原色口絵一枚 目次三頁 本文七五五頁 全景覚書四頁 全景細目二二頁 草野心平書誌・年譜一八七頁 定価一〇〇〇〇円 限定一二〇〇部(《草野心平全集〔第3巻〕》、筑摩書房、1982年4月15日、四八二ページ)

ちなみに《草野心平全集〔全12巻〕》(1978年5月30日〜1984年5月25日)の函・表紙・本扉には、吉岡が《詩全景》で草野に描かせた「おたまじゃくし」が再びカットとして使われている。本全集には装丁者のクレジットがなく、第1回配本の1978年5月の時点で筑摩に在籍していた吉岡の装丁である可能性はきわめて高い。草野の単行詩集《凹凸》(1974)の装丁への評価が芳しかったためか。


吉岡実の装丁作品(113)(2013年6月30日)

小笠原賢二の〈「厳粛なる暗黒の祝祭」の世界――高見順賞受賞の吉岡実氏に聞く〉(《週刊読書人》1169号、1977年2月21日)は吉岡を取材した紹介記事で、生の発言を引いて異色である(一例を挙げるなら、「田村隆一さんが、高見順賞の選評でその頃のぼくを帝国陸軍の鬼軍曹≠ニ言ってますが、あれはちがいます。ぼくは小学校の頃からガキ大将にはなっても弱い者いじめはしなかったし、軍隊でも絶対に人をなぐったりしたことはありません。権力をカサに着るというのが一番嫌いでね」、同紙、1面)。書籍での地の文には、装丁家吉岡実に触れて

 戦後詩のエポック・メーキングである「僧侶」を生んだ詩人としてはあまりにも有名だが、同時にユニークな装幀家としても知られており、既に百点以上の本を手がけている。第一次の『一葉全集』『太宰治全集』をはじめとして『西脇順三郎全集』『内藤湖南全集』、新しいところでは、『宮沢賢治全集』『萩原朔太郎全集』など、筑摩書房から刊行されている多くの全集の装幀は吉岡さんの手になる。清岡卓行、飯島耕一、入沢康夫氏ら友人の詩集の装幀も枚挙にいとまがないほどしているし、何よりもこのたび第7回高見順賞を受賞した『サフラン摘み』の装幀もみずからの手になる。サフラン色の布装に片山健の少年を描いた絵を刷ったカバーがつき、さらにグレーの箱入りという手の込んだ豪華な詩集である。(〈吉岡実――「厳粛なる暗黒の祝祭」の世界〉、《黒衣の文学誌――27人の〈創作工房〉遍歴〔雁叢書〕》、雁書館、1982年8月15日、一六八ページ)

とある。神田喜一郎・内藤乾吉編《内藤湖南全集〔全14巻〕》(筑摩書房、1969年4月10日〜1976年7月30日)の装丁は社内装だったためだろう、装丁者のクレジットがない。だが心ある人が見れば、吉岡実装丁であることはすぐわかる。菊判・上製・貼函入り・月報付き、という個人全集王道の仕様である。函・表4の筑摩のマーク以外に図像がなく、明朝体による標題関連の文字だけが黒黒とある。あらゆる装飾を排して、表紙の布の存在を引きたてる(表紙の背文字もスミの色箔押し)。口絵に著者の肖像や集合写真を掲げ、既刊書標題の著者自筆の手蹟を扉に配する。本書(第2巻)の仕様は、二一九×一四九ミリメートル・七七八ページ・上製丸背布表紙・貼函入り。なお《筑摩書房図書総目録》での全14巻のページ数の合計は、八五三四ページである。

神田喜一郎・内藤乾吉編《内藤湖南全集〔第2巻〕》(筑摩書房、1971年3月25日)の本扉と函 神田喜一郎・内藤乾吉編《内藤湖南全集〔第2巻〕》(筑摩書房、1971年3月25日)の函と表紙
神田喜一郎・内藤乾吉編《内藤湖南全集〔第2巻〕》(筑摩書房、1971年3月25日)の本扉と函(左)と同・函と表紙(右)

湖南内藤虎次郎(1866-1934)は東洋史学者。羽後毛馬内[けまない](現秋田県鹿角[かづの]市)生まれ。《大阪朝日新聞》《台湾日報》《万朝報》などの記者を経て、京都帝国大学教授。支那学の発展に貢献した。主要な著作を収録した筑摩版全集は、1997年12月に全巻セットで復刊された。旧漢字を新漢字に改め、各巻の総目次を(一部補って)掲げる。

第1巻 近世文学史論 諸葛武侯 涙珠唾珠 雑纂
第2巻 燕山楚水 続涙珠唾珠 「台湾日報」「万朝報」「日本人」所載文 高橋健三君伝 追想雑録
第3巻 「大阪朝日新聞」所載論説(明治三十三年―明治三十六年)
第4巻 「大阪朝日新聞」所載論説(明治三十七年―明治三十九年) 「大阪朝日新聞」所載雑文 時事論
第5巻 時事論(続) 清朝衰亡論 支那論 新支那論
第6巻 雑纂(一) 雑纂(二) 序文 旅行記 韓国東北疆界攷略 満洲写真帖
第7巻 研幾小録 一名支那学叢考 読史叢録
第8巻 東洋文化史研究 清朝史通論
第9巻 日本文化史研究 先哲の学問
第10巻 支那上古史 支那中古の文化 支那近世史
第11巻 支那史学史
第12巻 目睹書譚 支那目録学 書目答問(史部)補正
第13巻 支那絵画史 絵画史雑纂
第14巻 宝左盦夫 玉石雑陳 湖南文存 湖南詩存 和歌 書簡 年譜 著作目録

湖南は漢文・文語文を自在に操る。《燕山楚水》の〈禹域鴻爪記〉の「其一 発程。芝罘。渤海の史論。」の冒頭はこうだ(ゝゞなどの繰り返し記号は、ひらがなに置き換えた)。

明治三十二年といふ歳は、いかなれば吾にはいとも匆忙を極めたる歳なりけん。三月十二日の宵といふには、思ひもかけぬ隣家より火出でて、吾が小石川の仮住居は、瞬くが間に烏有と為りつ。としごろ心にかけて儲へ蔵めける図書どもの一紙ものこらず灰燼となりしだにあるに、亡友呂泣が遺稿と、吾が幼きより何くれと鈔[うつ]しもし、自から物しもしたる稿本さへ、かかる折の撰り出でて救はん術[すべ]はなくて、同じく煙になしけるこそ、かへすかへす、遺憾なりしか。四月には始めて子といふもの儲けぬ、めでたしと人にも祝はれ、吾もいふは世のつねの習はしなめれど、其の忙しさは、災難にかはるべくもあらず。かくて三月[みつき]四月[よつき]が程はやや落居[おちゐ]つと思ふ間もなく、又八月の末より、支那三月の旅には出で立つこととぞなりける。こは原[もと]よりの吾が志にて、このたび時機始めて到来して、諸友の賛助をも受け、多年の望を遂ぐるに至りたるなるが、秋田なる平洲が手簡に、近世文学史論の呂泣が序にも見えたる期望も、ここにかなひて、泉下の亡友も定めて満足すらんと言ひおこせたる、坐[そぞ]ろに今昔の感に堪へざりける。(本書、一九ページ)

吉岡が湖南全集を熟読したかどうかはわからないが、〈支那絵画史〉〈絵画史雑纂〉やアート紙に別刷りの〈満洲写真帖〉などには興味を持っただろう。吉岡実装丁における学者の全集として、クロス装の唐木順三編《深瀬基寛集〔全2巻〕》(筑摩書房、1968年9月25日・10月30日)が洋物の代表なら、布装の《内藤湖南全集〔全14巻〕》は和物もしくは東洋物の代表である。刊行後40年を経て、これら篇帙はいよいよ輝く。


吉岡実の装丁作品(112)(2013年5月31日)

竹西寛子評論集《読書の歳月》(筑摩書房、1985年6月30日)は《現代の文章》(同、1976年6月10日)に続く現代文学に関する評論集である。本書の仕様は一八八×一三一ミリメートル・二六〇ページ・上製紙装・ジャケット。奥付に「装幀/吉岡 実」「カット/落合 茂」とクレジットがある。不安定だった《現代の文章》を脱して、なじみ深い吉岡実装丁が戻ってきた。細かなエンボスで質感を出してPP加工によって汚れを防ぐクリーム系のジャケットと、紫の帯紙のとり合わせもみごとだ。ジャケットの麦のカットは、のちの書肆山田〈りぶるどるしおる〉のマークを想わせるが、類似は偶然だろう。末尾に「昭和六十年五月」とある〈あとがき〉に吉岡への謝辞がある。全文を引く。

 九年ほど前に、主として現代文学について書いた文章だけを集めて、筑摩書房から「現代の文章」を出した。今度久々に同系列の新著「読書の歳月」を出すに当って、他のエッセー集に分散していたものの中からも、若干、寄せておきたい文章を選んで併収することにした。前著同様、吉岡実氏の装幀を得たのは歓びであり、編集の一切も又書房の村上彩子さんのお世話になった。この本の成立を助けて下さった多くの方々に併せて心からのお礼を申し上げる次第である。(本書、二四七ページ)

林浩平は、竹西の評論の論理が若々しく艶やかで、同世代の男性の文芸評論家よりもしなやかなロゴスを紡ぎ出す、と賛辞を呈している(〈『言葉を恃む』は竹西寛子の講演集+故如月小春と劇団綺畸〉)。では、かつて筑摩書房の編集者だった竹西は評論家たちの仕事をどう見ているのか。

 筑摩書房がどういう出版社であるかを端的に知るには、筑摩叢書を見るとよい。これは書房の象徴的な顔である。/私にとっては、小林秀雄の「文芸評論」や、中村光夫、臼井吉見、平野謙の三氏による、明治、大正、昭和の三冊の文学史、唐木順三の「中世の文学」を収める叢書であり、斎藤茂吉の「作歌四十年」、吉川幸次郎の「杜甫私記」、又、松田道雄氏の「日本の知識人の思想」を持つ叢書である。時流に媚びないというのは、時勢に無関心ということではないだろう。俗に根を下さぬ超俗に力の無いことは、この叢書がよく語っている。文明に踊って文化を眠らせるのは人間の不幸であるということも。(〈筑摩叢書(筑摩書房版)〉、本書、二四六ページ)
竹西が吉岡に触れた文章には〈和田芳恵さんのこと〉(《群像》1977年12月号)と〈吉岡実さん〉(《ちくま》1990年6月号)がある。いずれも心のこもった追悼文だ。《ユリイカ》2002年11月号の〈神田の人々〉にはこうある。「筑摩書房には、詩人の會田綱雄、吉岡実、入沢康夫氏がおられた。〔……〕吉岡氏は広告宣伝部なので階は違っていたが、他社から引き取られた外来に対して温かかった」(《虚空の妙音》、青土社、2003年7月5日、一九三ページ)。この「他社」は、河出書房である。

竹西寛子評論集《読書の歳月》(筑摩書房、1985年6月30日)の本扉とジャケット
竹西寛子評論集《読書の歳月》(筑摩書房、1985年6月30日)の本扉とジャケット


吉岡実の装丁作品(111)(2013年4月30日)

竹西寛子評論集《現代の文章》(筑摩書房、1976年6月10日)は、円地文子から角田文衛まで、現代文学に関する40篇の評論を収める。本書の目次には、〈文章読本〉とその開始ページ、というふうに略記してあるが、本文中の見出し(タイトル)は

  文章読本(谷崎潤一郎・川端康成・三島由紀夫・中村真一郎)

という具合に氏名を明記してある(この場合、共著ではなく各小説家の同題の単著)。見出しにある著者・訳者・編者を名寄せすると、最多登場は5回の円地文子で、3回の宇野千代がそれに続く。2回は安東次男・川端康成・河野多恵子・谷崎潤一郎・中里恒子・中村真一郎・林芙美子の7人である。このあたりがとりわけ竹西の愛読する書き手だろう。1回は、阿部昭・大野晋・尾崎一雄・唐木順三・佐竹昭広・芝木好子・清水好子・園部三郎・辻邦生・角田文衛・丹羽文雄・原民喜・樋口一葉・福永武彦・藤枝静男・前田金五郎・三島由紀夫・山川方夫・山口瞳・山田稔・山本健吉・吉田秀和の22人(なかには、丹羽文雄についての〈蛇と鳩・一路・厭がらせの年齢〉のような長い文もある)。巻末の〈索引〉は、50音順の作者の下に対象作品名が挙げてあり、丁寧な編集ぶりだ。それに較べて、本造りはお手軽である。本書の仕様は一八八×一三一ミリメートル・二四六ページ・上製紙装・機械函。奥付に「装幀/吉岡 実」とクレジットがある。仕様はともかく、素材の選択や色遣いにもうひと工夫あっても良かった。函・表紙・見返し・本扉を通して見ていくと、どこがどうというわけではないのだが、全体的に調子が外れている印象は否めない。残念ながら、吉岡らしからぬ仕事ぶりと認めなければならない。

竹西寛子評論集《現代の文章》(筑摩書房、1976年6月10日)の本扉と函
竹西寛子評論集《現代の文章》(筑摩書房、1976年6月10日)の本扉と函

 「マジメ人間」の著者の文章は、日本語はいい、と思わせる文章である。運用する人の運用のし方によって、姿かたちが、匂いひびきが、よくもわるくもなるのが言葉であり、日本語である。「国語を愛せよ」という人は少なくない。しかし自分の文章で、国語への浅くない愛情を証してみせるのは容易なことではない。それは、すでにあった、国語のある運用を、一方的に踏襲すればすむようなことではないからである。過去になく、同時代にない、国語の運用についての新しいよい秩序をつくり出さなければならないからである。これは、その人のものの感じ方、考えよう、生き方にかかわる。私に言わせれば、そういう容易でないことをすでに行ない、そして現に行ないつつある数少ない日本人の一人が、「マジメ人間」の著者なのである。(〈少年老い易く・マジメ人間(山口瞳)〉、本書、一二一ページ)

竹西寛子は吉岡実の日記と年譜に登場する。1960年3月7日「午後、竹西寛子と食事がわりのコーヒー。彼女はチーズが欲しいという。一時間ほど雑談。仕事が忙しいのか疲れていた」(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一二一ページ)、1967年3月23日「モナミ洋菓子店で白石かずこと会う。三十分の遅刻。妻へヒヤシンスの花をもらう。うすむらさきの花。さむい七時。竹西寛子からの電話、明日足摺岬へ行くとのこと」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一〇ページ)、そして自筆年譜の1978年の項「七月十二日、筑摩書房倒産。友人知己から見舞の電話殺到する。残務整理に没頭。在職二十八年、十一月十五日、退社。〔……〕竹西寛子から、冬至梅の鉢を貰う。十二月二十五日、給料なき給料日。淋しい師走」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984、二三五ページ)。
竹西寛子が自ら編んだ〈年譜〉には、1957年「四月、筑摩書房に入社、『現代日本文學全集』『古典日本文学全集』などの編集に従う」、1962年「十二月、筑摩書房を退社」(《竹西寛子著作集第五巻〔随想U〕》新潮社、1996年6月30日、五三〇ページ)とある。1962年まではともに筑摩書房の同僚として、吉岡実は広告畑の詩人、竹西寛子は編集畑の批評家(のちに小説家)という相似た境遇にあったわけだ。この《竹西寛子著作集》には本書の書誌が記載されているので、引いておこう(同書、五四四ページ)。なお、収録作品名は省略した。

 現代の文章  評論集
 昭和五十一年(一九七六)六月十日 筑摩書房刊
 四六判 二三八頁 厚表紙 函入 定価一二〇〇円   装幀・吉岡実
 ◇〔……〕/あとがき/索引


吉岡実の装丁作品(110)(2013年3月31日)

山本健吉の《詩の自覚の歴史――遠き世の詩人[うたびと]たち》(筑摩書房、1979年2月25日)は、筑摩書房が1978年6月に事実上倒産して8箇月後に刊行された。1979年6月に同社から刊行された西脇順三郎詩集《人類》の企画が、西脇の研究家でもある英文学者の新倉俊一と筑摩を退社して間もない吉岡実によって同年1月に始まったことを考えれば、本書の制作は倒産前後の状況下で、なにごともなかったかのように進められたものと推察される。《詩の自覚の歴史》はいかなる事情があろうとも刊行されなければならなかった。なぜなら、筑摩の古典詩人論の叢書〈日本詩人選〉の監修者を臼井吉見とともに務めた山本健吉の主著だからである。著者による〈あとがき〉(「昭和五十四年一月四日」の日付をもつ)は、版元の現況についていささかも筆を費やしていないが、その末に次の一段がある(なお《文芸展望》は筑摩書房発行の季刊文芸雑誌で、吉岡が編集を担当していたPR誌《ちくま》と同様、1978年7月で休刊した)。

 永年かかったこの書についての感想は、きわめて多岐で、このあとがきでそれを言い尽くすことは出来ない。ここでは、私が多大の恩恵を蒙った、先師折口信夫の外、多くの先学の方たちに、感謝の言葉を申し述べて置きたい。また、私が雑誌「自由」に最初の稿を書き出した時、すぐ眼をつけてその刊行を約束した筑摩書房の高城修氏、ことに長年にわたって多くのはげましをいただいた、同じく川口澄子さんにお礼申したい。また第十七章以後は、川口さんの慫慂で雑誌「文芸展望」に書いたものだが、その前に私に連載をすすめ、私の身勝手、気まぐれに対して甚だ寛大であった「自由」編集部諸君にも謝辞を申し述べたい。また、この書の刊行について一切を担当された祝部陸大君、装釘に手を借〔ママ〕された吉岡実氏にも、心から有難うの言葉を送りたい。(同書、四九〇〜四九一ページ)

本書は講談社版《山本健吉全集〔第3巻〕》に、原著にはなかった〈原 詩の自覚の歴史〉――《日本文化研究〔第9巻〕》(新潮社、1961)に発表、のちに《柿本人麻呂》(新潮社、1962)収録――を巻末に据えて、原著の〈あとがき〉と〈引用歌索引〉を含めた全篇が収められた。英断である。と言った側からケチをつけるようだが、編集部による〈解題〉に

 最後に『詩の自覚の歴史』の体裁等について述べる。これは〔昭和〕五十四年二月に筑摩書房から発行された。菊判、布表紙、箱入り、本文四九一頁、他に引用歌索引七頁がある。定価は四千六百円。見返しの「水上池」は平山郁夫である。装幀は明示してないが筑摩書房関係者と思われる。(《山本健吉全集〔第3巻〕》、講談社、1983年11月20日、三七〇ページ)

とある「装幀は明示してない」は、原著奥付の最後(コピーライト表示の前)に「装釘者 吉岡実」と掲げられているから、誤りである。全集版はせっかく単行本〈あとがき〉の「装釘に手を借された」を「装釘に手を貸された」(同前、三〇六ページ)と訂しているのだから、〈解題〉には「装幀は吉岡実」と明示してもらいたかった。この際だからもうひとつ、吉岡はこのとき「筑摩書房関係者」ではない。筑摩のOBではあるが、厳密に言えばフリーランスの装丁家である。ところで、山本の「装釘に手を貸された〔、、、、、、〕」は何を意味するのだろう。吉岡のほかにメインの装釘者がいて、補佐したということか。それとも単に、見返し絵を制作(あるいは提供)した平山郁夫に気を使っただけのことか。むろん、絵はどこまでいっても「装画」であって「装丁」ではない。
私は本書の一部を引くことに困難を覚える。どこかのパラグラフに本書を代表させるわけにはいかないからだ。代わりといってはなんだが、本書と同じ〈詩の自覚の歴史〉という標題の文章を巻頭に置いた山本の旧著《古典と現代文学》(講談社、1955年12月5日)の〈あとがき〉の一部を引用したい。「日本の詩の自覚の歴史をだどること――これが私の最初に立てた計画であつた。詩の自覚の歴史をたどるという方針のなかに、物語や詩劇の展開も抱摂され、最後に近代的な散文小説の確立において、ピリオッドが打たれるはずであつた。その計画は、大体のアウトラインを描き出すだけで終つたと自分でも思つているが、もしこの書物を、私の広い意味での詩論の書として読んで下さる読者があつたら、私はたいへん有難いと思う。さらにまた、現代における詩的意識の変革に、なんらかの意味で関連を持つところの現代の詩論の書として読んでいだだければ、さらに有難いと思う。古典を語り、文学の伝統を説きながら、私の関心はわれわれの今日の文学にあり、その意味での「古典と現代文学」であつたのだから――」(同書、二一一ページ)。
本書の仕様は、二一七×一四八ミリメートル・五〇四ページ・上製丸背布表紙・貼函。目のつんだ青い布地に金箔押しの文字がくっきりと映える見事な造本である。題扉裏のクレジットの「見返し絵 水上池 平山郁夫」と罫下のアキが9ミリしかないのは狭すぎだ。本文と罫下のアキは39ミリもあるのだから。この一事をもってしても、吉岡が担当したのは表紙まわり(貼函・表紙・見返し・本扉)だけで、本文用紙に刷られた中面の指定は「筑摩書房関係者」によるものと思われる。

山本健吉《詩の自覚の歴史――遠き世の詩人たち》(筑摩書房、1979年2月25日)の函と見返し絵〔平山郁夫〈水上池〉〕
山本健吉《詩の自覚の歴史――遠き世の詩人たち》(筑摩書房、1979年2月25日)の函と見返し絵〔平山郁夫〈水上池〉〕

筑摩書房がその刊行になみなみならぬ力を注いだ本書は、1979年、加賀乙彦の《宣告》とともに第11回日本文学大賞を受賞した(選考委員は大江健三郎、司馬遼太郎、丹羽文雄、丸谷才一)。
丸谷は〈【批評】学問とエッセイの重なるところ〉で、司馬遼太郎が本書を日本文学大賞に推薦した、と語っている。同文は、当代の批評家たち――山本健吉、中村光夫、小林秀雄――の一筆書きであると同時に、司馬遼太郎の小さな肖像にもなっている。 丸谷批評の真骨頂である。
学問という円がすごく小さかったり、遠くにあったりするんですね。重ならない。それはなぜかということを考えると、近代日本文学では学問が軽蔑されていた。そういう気風が根強くあって、たとえば明治三十年代の自然主義文学の隆盛期では、夏目漱石があれだけ軽蔑されたわけです。/僕がいちばん痛切にそれを体験したのは、日本文学大賞のときだったな。第一次候補作として司馬遼太郎さんが山本健吉さんの『詩の自覚の歴史』を挙げた。そうしたら丹羽文雄さんが、「こういうのは批評というものかいな。これは学問だな。批評というのは小林の書くようなものだ、これは批評じゃない」といったんだよ。それに対して司馬遼大郎は少しも騒がず、「丹羽さんのおっしゃるお気持はわかりますが、しかしどうでしょう、丹羽さんたちはそれをあまりいい過ぎましたね。そのせいでいい批評家が出なくなったじゃないですか」といった。/僕はそれを受けて、次のようなことをいった。小林秀雄の批評が批評の原型であるというお話でしたが、しかしそれ以後の批評家が小林秀雄にまさる面はあるんです。小林秀雄の文章は威勢がよくて歯切れがよくて、気持がいいけれど、しかし何をいっているのかがはっきりしない。中村光夫や山本健吉の文章は歯切れのよさという点では小林秀雄に劣るかもしれないが、少なくとも何をいっているのかはよくわかる。そういう意味で、小林秀雄の批評は明治憲法の文体に似ている。気持のいい文体という人もいるが、私には何のことをいっているのかよくわからない。そこへゆくと中村光夫や山本健吉の文章はそういう爽快さはないけれど、内容を伝達する能力は高い。その意味でこれは現行憲法みたいなものである。そういう話をして、まあそのときはむにゃむ にゃと結論が出ないまま散会し た。結局は『詩の自覚の歴史』は候補に残って受賞したんですが。/翌年だったか何かのパーティーで司馬さんに会ったら、「例の小林秀雄は明治憲法で中村光夫は現行憲法という話ね、あれを講演のときに使うと非常に受ける、どうもありがとう」というような挨拶があった」(丸谷才一〔聞き手・湯川豊〕《文学のレッスン》、新潮社、2010年5月10日、一五二〜一五三ページ)。


吉岡実の装丁作品(109)(2013年2月28日)

吉岡実の1961年7月12日(水)の日記に「吉野弘から《消息》再版をもらう。床を汚物でよごすので、はじめてエリをせっかん。哀しい気持」(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一二五ページ)とある(「エリ」は前年の春、辻井喬を介して人からわけてもらったメスのシャム猫)。吉岡の文章に吉野弘の名が出てくるのはここ一箇所だが、この〈断片・日記抄〉は摘録で、以前に面識があったかどうかわからない。吉野の処女詩集《消息》再版の刊行は1957年だから、そのときはまだ詩集を送る間柄ではなかったのだろう。吉野は〈処女詩集『消息』の思い出〉(初出は《現代詩手帖》1978年1月号)にこう書いている。

 第一詩集『消息』は謄写刷り・本文54頁のうすっぺらなもので、自家版として、昭和32年5月1日、一〇〇部を刊行、8月1日に、一五〇部を再版した。収録篇数は序詩を含めて24篇。
 寸法は、横172mm×縦240mmで、B5判よりちょっと小さめ。本文用紙が100kg程度の白上質紙。表紙は200kg程度の白上質紙。体裁は、「消息」という二文字を横に並べ、表紙の左上に置いただけ。薄い背中に「詩集 消息 吉野弘」と書いてある。装幀ともいえないような至極あっさりしたものだが、当時、なぜか余計な装飾を望まない気持が強く動いていた。
 見返しには、本文用紙よりやや薄目の黄色い上質紙を使い、二枚共、遊び紙にした。一枚目の左上隅に、チョコレート色のインクで、縦に「吉野弘」と刷りこんである。見返しの次ぎに半透明の薄紙を入れ、その次ぎの第1頁(左頁)に序詩を、本文の文字よりやや小さめの文字で収め、2頁目から本文が始まっている。目次なしの54頁。ところが24篇中の1篇「身も心も?」に2連の脱落があるのに気付き、正誤表を挾みこんだ。「36頁と37頁の中間に下記が入ります」と書き、2連を刷った小紙片が入っている。これを再版では改めたが、総頁は54頁で、初版のときと変っていない。
 裏表紙のほうの見返しの二葉中、初めの一葉に奥付けがある。奥付けの上部に「100部のうちのa\―」という文字があるが、この番号は書き入れなかった。もしこのbフ次ぎに番号が入っていたら、それは誰かが勝手に書きこんだもの。発行者は「酒田市新町一〇五 成田邦雄方谺詩の会」、印刷は酒田市内の中央謄写堂。今どうなっているか知らないが、ここのおやじさんが心をこめて書いてくれたもので文字が美しい。奥付に「発行部数 一〇〇部」とあり「非売品」とも書いてある。再版は、会員の一人である中村謄写堂の店主に書いてもらった。再版の奥付には「発行部数、初版一〇〇部 再版一五〇部」と書いてある。再版が出せたので得意だったらしい。なお、再版奥付にも「150部のうちa\―」を刷り込んだが、実際には番号を書き入れなかった。
 費用は初版一〇〇部に五千円を使った。一部当り実費50円。大部分は寄贈にあてたが、売却分は100円にしたので当時の郵送費20円程度を負担しても、一冊につき若干の黒字があった。昭和32年当時 の五千円はわが家の貧乏家計では、かなりの負担だったが、女房殿、どうひねり出したか、ポンと出してくれた。(《詩への通路》、思潮社、1980年12月1日、八三〜八四ページ)

詩集《消息》とくれば〈I was born〉だが、私には吉岡実の〈寓話〉(B・15)を想起させる〈記録〉が忘れがたい。〈寓話〉は〈記録〉の第5連だけで成り立っているような詩だともいえる。

 首切案の出た当日。事務所では いつに変らぬ談笑が声高に咲いていた。

 さりげない その無反応を僕はひそかに あやしんだが 実はその必要もなかったのだ。

 翌朝 出勤はぐんと早まり 僕は遅刻者のように捺印した。

 ストは挫折した。小の虫は首刎ねられ 残った者は見通しの確かさを口にした。

 野辺で 牛の密殺されるのを見た。尺余のメスが心臓を突き 鉄槌が脳天を割ると 牛は敢えなく膝を折った。素早く腹が裂かれ 鮮血がたっぷり 若草を浸たしたとき 牛の尻の穴から先を争って逃げ出す無数の寄生虫を目撃した。

生き残ったつもりでいた。

「尺余のメス」という、形容矛盾とも思えるイメージの衝突がもたらす詩句の切れ味、鮮血と若草の補色の対比、「先を争って逃げ出す」という置き換えのきかない描写――そもそも描写なのだろうか、むしろ事物の発生状態ではないのか――はみごとと言うしかない。

《吉野弘詩集》(青土社、1981年4月7日)の函と表紙と《吉野弘全詩集〔新装版〕》(同、2004年7月10日)の表紙〔装丁:中島かほる〕 《吉野弘詩集》(青土社、1981年4月7日)と《吉野弘全詩集〔新装版〕》(青土社、2004年7月10日)〔装丁:中島かほる〕の扉
《吉野弘詩集》(青土社、1981年4月7日)の函と表紙と《吉野弘全詩集〔新装版〕》(同、2004年7月10日)の表紙〔装丁:中島かほる〕(左)と《吉野弘詩集》と《吉野弘全詩集〔新装版〕》の扉(右)

《吉野弘詩集》(青土社、1981年4月7日)の仕様は、二〇九×一三九ミリメートル・五四六ページ・上製丸背布装・貼函。表紙は吉岡の随想集《「死児」という絵》(思潮社、1980)の同じような布装だが、本書のほうが目がつんでいて、手にしっくりくる感じだ(束も重量も違うから、単純に比較できないが)。《吉野弘詩集》は、図像の版画調の処理といい、素材の色味の展開といい、1年後の《八木忠栄詩集――1960〜1982》(書肆山田、1982年4月30日)を想わせるものがある。写真の《吉野弘全詩集〔新装版〕》(青土社、2004年7月10日)は、かつて吉岡のもとで筑摩書房の社内装丁を担当した中島かほるの装丁。全詩集=継ぎ表紙が、吉岡の筑摩での仕事を彷彿させる。


詩集《液體》の組版(2013年1月31日)

詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)の印刷所は大日本印刷株式会社(東京市牛込区市谷加賀町一の一二 印刷者小坂孟)で、《昏睡季節》を印刷した鳳林堂(東京市日本橋区茅場町二の三 印刷者本田鑑一郎)に較べてはるかに大きな会社である。戦前のこととはいえ、個人の自費出版を心安く引きうけるとは思えない。吉岡実が1940年2月の入社後すぐに制作した西村書店の出版物――城戸幡太郎《民生教育の立場から》(3月25日)や北海道庁編《北海道の口碑伝説》(日本教育出版社、3月30日)――で大日本印刷とつきあいが始まったため、可能になったのだろうか。真相は不明である。林哲夫さんは《昏睡季節》に触れつつ、鳳林堂について書いている。
「奥付の印刷所「鳳林堂」本田氏は現存する鳳林堂文具店(東京都中央区日本橋小網町13-12)と関係があるように思える。例えば、本田哲也氏(群馬大学大学院教育学研究科ゲスト講師)のHPによると、氏は1958年東京日本橋茅場町生まれ、《曾祖父は日本橋〜本郷・菊坂の筆職人「鳳林堂(ほうりんどう)」》だとか。または別のページには《大正6年の「営業者姓名録」を見ると小網町1丁目には[略]、2丁目には[略]、スワン万年筆の鳳林堂……》などとある。大阪心斎橋に「丸山鳳林堂」という書店・文具店もあるが、暖簾分け?かどうだか。」――「印刷ということでは、使用されている活字が何なのか気になるところだ。コピーの版面なので断定はできないが、活字はけっこう荒れている。下の歌には「の」が四個使われているなかに一つだけ別種の活字が混じっている。小さな印刷所では有り勝ちなこと。」――「書体は東京築地活版製造所の9ポイント明朝体(明治44年頃)とほぼ同一のようだ。ひらがなで言えば「ふ」の頭の点が右にぐっとエビ反ってSカーブがへしゃげた感じになっているのが特徴的。秀英舎〜精興社の「ふ」はおおよそタテのセンターよりわずか に左寄りでSがもっと背筋が伸びたふうになっている。細かいことだが、これは古い味のある書体ではないだろうか。吉岡の好みが反映されているのか、単なる偶然か。」(〈昏睡季節〉daily-sumus 2007-09-21)
林さんほど戦前の活字に詳しくないので、明朝活字の変遷をたどった専門書を参看してみると、《液體》は秀英舎体の活字を使用しているようだ。大日本印刷は、秀英舎(1876年創立)と日清印刷が1935年に合併してできた会社だから、秀英舎体でなんの不思議もないのだが。《液體》は《昏睡季節》と異なり通常の洋本仕様で、本文は旧字旧仮名、五号17行組活版印刷。造本の構成を概観するため、以下に全体構成=台割を略記する。[ ]で括ったノンブルは、ページナンバーを表示しない「隠しノンブル」である。


ページ
ノンブル 要素 項目 記載内容
1
1

見返し1 (効き紙) 〔フランス装表紙の芯紙〕
1
2

見返し2 (効き紙) 〔同上〕
1
3

見返し3 (遊び紙)
1
4

見返し4 (遊び紙) 〔太田大八氏旧蔵本はここにペン書きで献呈署名〕
1
5

扉1 本扉 詩集/液體/草蝉舎版
1
6
扉2 (ウラ白)
別丁
(1)
口絵1 肖像写真 著者近影
別丁 (2) 口絵2 (ウラ白)
1
7
扉3 題扉 吉岡實詩集
1
8
扉4 (ウラ白)
2
9
1
前付1 目次1 詩集 液體 目次/午前の部/〔……〕
2
10
2
前付2 目次2 〔……〕/午後の部/〔……〕
2
11
3
前付3 目次3 〔……〕
2
12
[4]
前付4 クレジット1
著者自装
2
13
[1]
扉5 中扉1 午前の部
2
14
[2] 扉6 (ウラ白)
2
15
3
本文1 詩篇1 挽歌/〔……〕
2
16
4
本文2 詩篇2 花冷えの夜に/〔……〕
3
17
5
本文3 詩篇3 朝餐/〔……〕
3
18
6
本文4 詩篇4 溶ける花/〔……〕
3
19
7
本文5 詩篇5 蒸発/〔……〕
3
20
8
本文6 詩篇6 秋の前奏曲/〔……〕
3
21
9
本文7 詩篇7 失題/〔……〕
3
22
10
本文8 詩篇8 絵本/〔……〕
3
23
11
本文9 詩篇9 孤独/〔……〕
3
24
12
本文10 詩篇10 牧歌/〔……〕
4
25
13
本文11 詩篇11 相聞歌/〔……〕
4
26
14
本文12 詩篇12 誕生/〔……〕
4
27
15
本文13 詩篇13 乾いた婚姻図/〔……〕
4
28
16
本文14 詩篇14 微風/〔……〕
4
29
17
本文15 詩篇15 静物/〔……〕
4
30
18
本文16 詩篇16 忘れた吹笛の抒情/〔……〕
4
31
[19]
扉7 中扉2 午後の部
4
32
[20] 扉8 (ウラ白)
5
33
21 本文17 詩篇17 透明な花束/〔……〕
5
34
22 本文18 詩篇18 微熱ある夕に/〔……〕
5
35
23 本文19 詩篇19 風景/〔……〕
5
36
24 本文20 詩篇20 ひやしんす/〔……〕
5
37
25 本文21 詩篇21 花遅き日の歌/〔……〕
5
38
26 本文22 詩篇22 みどりの朝に〈朝の序曲〉/〔……〕
5
39
27 本文23 詩篇23 或る葬曲の断想〈墓地にて〉/〔……〕
5
40
28 本文24 詩篇24 失はれた夜の一楽章/〔……〕
6
41
29 本文25 詩篇25 灰色の手套/〔……〕
6
42
30 本文26 詩篇26 液体T/〔……〕
6
43
31 本文27 詩篇27 液体U/〔……〕
6
44
32 本文28 詩篇28 午睡/〔……〕
6
45
33 本文29 詩篇29 花の肖像/〔……〕
6
46
34 本文30 詩篇30 灯る曲線/〔……〕
6
47
35 本文31 詩篇31 哀歌/〔……〕
6
48
36 本文32 詩篇32 夢の翻訳〈紛失した少年の日の唄〉/〔……〕
7
49
37
後付1 あとがき 〔筆者は小林梁・池田行之〕
7
50
[38]
後付2 クレジット2
詩集 液體 畢
7
51
[39] 後付3 奥付 〔書名、印刷日・発行日、著者名・発行所名、ほか
7
52
[40] 後付4 奥付裏広告 吉岡實作品集/〔……〕
7
53

見返し5 (遊び紙)
7
54

見返し6 (遊び紙)
7
55

見返し7 (効き紙) 〔フランス装表紙の芯紙〕
7
56

見返し8 (効き紙) 〔同上〕

表紙(並製フランス装)を除いた本体部分の仕様は、天地210mm×左右148mm(A5判正寸)、本文8ページ×6折と別丁2ページの総50ページ。目次さえなかった《昏睡季節》の自然発生的な作品の配列に比して、全32篇を午前と午後の部に大別して(各16篇)、構成の美を探る。《液體》を贈られたに違いない北園克衛が「我々は時折惚々と見とれる程の趣味高い詩集を手にする時その内容が若し未熟な場合に於ても淡い尊重の心を拒み得ないのである」(《文藝汎論》1942年6月号、一一ページ)と評したように、当時にあっては破格の美装本となっている。詩篇の行数に応じて行間を変えて本文の版幅をなるべく一定に近づける試みがなされている点は、《昏睡季節》と同じである。次に「本文行数」と「本文行間」、「本文左右(本文の版幅)」の関係を一覧表にした。

詩篇標題 本文行数 本文行間 本文行間(pt換算) 本文左右(本文の版幅=mm)
挽歌 14
二分
5.25
75.6
花冷えの夜に 6 全角四分 13.13 45.2
朝餐 11 二分四分 7.88 68.3
溶ける花 10 二分四分 7.88 61.8
蒸発 9 全角 10.50 62.7
秋の前奏曲 9 全角 10.50 62.7
失題 9 全角 10.50 62.7
絵本 12 二分 5.25 64.6
孤独 4 二倍 21.00 36.9
牧歌 11 二分四分 7.88 68.3
相聞歌 12 二分 5.25 73.0
誕生 4 二倍 21.00 36.9
乾いた婚姻図 13 二分 5.25 70.1
微風 6 全角四分 13.13 45.2
静物 4 二倍 21.00 36.9
忘れた吹笛の抒情 11 二分四分 7.88 68.3
透明な花束 5 二倍 21.00 48.0
微熱ある夕に 9 全角 10.50 62.7
風景 10 全角 10.50 70.1
ひやしんす 10 全角 10.50 70.1
花遅き日の歌 10 全角 10.50 70.1
みどりの朝に〈朝の序曲〉 13 二分 5.25 70.1
或る葬曲の断想〈墓地にて〉 12 二分 5.25 64.6
失はれた夜の一楽章 8 全角 10.50 55.3
灰色の手套 11 二分四分 7.88 68.3
液体T 11 二分四分 7.88 68.3
液体U 11 二分四分 7.88 68.3
午睡 10 全角 10.50 70.1
花の肖像 10 全角 10.50 70.1
灯る曲線 10 全角 10.50 70.1
哀歌 8 全角 10.50 55.3
夢の翻訳〈紛失した少年の日の唄〉 12 二分 5.25 64.

副題(〈……〉)のある詩篇は本文行数に副題の1行を足した行数が指定の対象となる。同様に〈相聞歌〉も「反歌」という見出しで1行増になる。これらを調整した行数に対応する行間(比率)をまとめると次のようになる。矢印(→)のあとの数字は、本文活字五号(10.5ポ相当)を1としたときの本文左右(本文の版幅)の倍数値である。仮に行間を全角アキに統一した場合、版幅は【14行】→27(最大)、【4行】→7(最小)と4倍近い開きになるところを、【14行】→20.5、【4行】→10と2倍強に抑える設計が奏功している。ちなみに《吉岡実全詩集》は本文10ポ、行間7ポで統一されている。

【14行】・【13行】・【12行】――二分(0.5)アキ 【14行】→20.5・【13行】→19・【12行】→17.5
【11行】――二分四分(0.75)アキ 【11行】→18.5
【10行】・【9行】・【8行】――全角(1.0)アキ 【10行】→19・【9行】→17・【8行】→15
【6行】――全角四分(1.25)アキ 【6行】→12.25
【5行】・【4行】――二倍(2.0)アキ 【5行】→13・【4行】→10

7行本文の詩篇は《液體》にないが、もしあれば6行本文と同じ「全角四分(1.25)アキ」となることがはっきりと読みとれるほど、整然とした体系をなしている。《昏睡季節》の調整方法が書道の延長上にあったのと比較して(とりわけ1行アキの処理のしかた)、《液體》のそれは完全に活版印刷の基盤の上にある。その主たる要因が@コンセプトメーカーである吉岡実、A指定作業に携わった小林梁と池田行之、B組版を担当した大日本印刷の作業者、のいずれにあるかはわからない。だが、三者が渾然と一体化してこの見事な版面を実現した。達成された版面の状態を踏まえて《液體》の出版広告を読むと、感慨もひとしおである。《文藝汎論》1942年3月号に掲載された出版広告の文字を起こすとこうなる(可能な範囲で旧漢字を使用し、原文のゴチック活字はボールド書体で表示した)。〈吉岡実の出版広告(1)〉ですでに紹介しているが、改めて図版とともに掲げよう。

《文藝汎論》1942年3月号・表紙2対向ページ掲載の《液體》出版広告のアップ〔モノクロコピー〕
《文藝汎論》1942年3月号・表紙2対向ページ掲載の《液體》出版広告のアップ〔モノクロコピー〕

吉岡實第二詩集
液  體
草蟬舍版
百部限定本

外凾 染 柾和紙
表紙 鳥ノ子オフセツト五色刷
本文 純白一五〇斤

曩〔[さき]〕に「昏睡季節」を上梓し、高雅C純なるエスプリを超現實風の自在奔放なる表現に托して識者を瞠目せしめた吉岡實君は今御召に應じて大陸に在る。吾等は著者の委囑により最近作三十二詩を撰び、現下に許される最大限の美裝本となして江湖に本書を捧ぐ。限定非賣本であるが、彼の詩を愛し頒布を希望される方は製作實費二圓五十錢送料十錢を左記へ送られよ。    (編者小林梁、池田行之誠〔ママ〕)
 東京市本所區厩橋二ノ三〔ママ〕 吉岡方
     草  蟬  舍

この広告制作に吉岡本人が関与した可能性は低い。おそらく二人の「編者」による執筆・指定だろう。詩集の〈あとがき〉も小林梁・池田行之の両氏による。広告の文面を信じれば、100部限定の《液體》の総製作実費は250円ということになる。同時期刊行の同じような体裁の詩集があれば比較に最適だが、《液體》より4箇月前に出た壺田花子の第二詩集《蹠の神》(砂子屋書房、1941年8月10日)の仕様を見ると、「定価1円80銭 四六判 五號活字 134頁 角背紙装上製本 貼凾」(砂子屋書房本 詩歌集)とある。限定部数は不明だが、100部ということはないだろう。
 ・《蹠の神》:四六判・五号活字・134ページ・角背紙装上製本・貼函で定価1円80銭
 ・《液體》:A5判・五号活字・50ページ・並製フランス装本・貼函で製作実費2円50銭送料10銭
吉岡実詩集の突出した仕様体裁は、著者と編者たち(しかし真の編者は吉岡ではないのか)が内容にふさわしいものを追求した結果だと考えられる。吉岡実の実質的な処女詩集《液體》は、その造本装丁の面からもさらに考察されなければならない。


詩集《昏睡季節》の組版(2012年12月31日)

《昏睡季節》(1940)から《ムーンドロップ》(1988)までの吉岡実の12冊の単行詩集の本文はすべて活版印刷で、号数活字もしくはポイント活字で組まれている(詳細は〈吉岡実詩集の基本版面〉を参照のこと)。その版面をAdobe InDesign CS6(以下、Idと略記)で再現することで、各冊の組版の設計方針を明らかにしたい。ちなみにIdは、級数サイズはもちろん、ポイントサイズの活字による文字組を詳細に指定するための各種機能を搭載していて、活字組版のシミュレーションに使える。吉岡実詩集の組版の考察では詩篇本文に特化して、目次などの前付や奥付などの後付の比較検討は後日、すべての詩集をまとめて行なうつもりだ。

《昏睡季節》(草蝉舎)は12冊の単行詩集中、唯一の袋綴じ製本(本文用紙の外表[そとおもて]に片面刷りする和装本の一様式)だが、Idは洋本(用紙の表裏に印刷)仕様のDTPソフトウェアなので、袋綴じの指定ができない。よってこれを洋本と見做して作業するが、文字の組体裁や版面の刷り位置に関して両者に特段の差はないから、検討する際、問題はない。表紙(フランス装をアレンジしたもの)を除いた本体部分は、天地172mm×左右121mm、総80ページ。以下に、オモテ表紙からウラ表紙までの全体構成=台割を略記する(1ページ1首組の短歌・旋頭歌〈蜾蠃鈔〉の記載は割愛した)。なお、[ ]で括ったノンブルはページナンバーを表示しない「隠しノンブル」を、下線つきの数字は版面に印字されているノンブルを表わす。

要素ノンブル 項目 記載内容
表紙[1] オモテ表紙〔書名〕 詩集/昏睡季節
表紙[2] 見返し(効き紙)
見返し[1] 見返し(遊び紙〔オモテ〕)
見返し[2] 見返し(遊び紙〔ウラ〕)
前付[1] 扉〔オモテ〕 書名 詩集 昏睡季節
前付[2] 扉〔ウラ〕 刊記 皇紀二六〇〇年/うまやはし版/吉岡實著
前付[3] 献辞 ちちははに
前付[4] 序歌/〔……〕
本文[1] 扉1 昏睡季節
本文[2] 〔白〕
本文3 詩篇1 春/〔……〕
本文4 詩篇2 夏/〔……〕
本文5 詩篇3 秋/〔……〕
本文6 詩篇4 冬/〔……〕
本文7 詩篇5 遊子の歌/〔……〕
本文8 詩篇6 朝の硝子/〔……〕
本文9 詩篇7 歳月/〔……〕
本文10 詩篇8 あるひとへ/〔……〕
本文11 詩篇9 七月/〔……〕
本文12 詩篇10 白昼消息/〔……〕
本文13 詩篇11 臙脂/〔……〕
本文14 詩篇12 面紗せる会話/〔……〕
本文15 詩篇12 (同上)〔……〕
本文16 詩篇13 放埒/〔……〕
本文17 詩篇14 断章/〔……〕
本文18 詩篇15 葛飾哀歌/〔……〕
本文19 詩篇16 桐の花/〔……〕
本文20 詩篇17 杏菓子/〔……〕
本文21 詩篇18 病室/〔……〕
本文22 詩篇19 昏睡季節1/〔……〕
本文23 詩篇20 昏睡季節2/〔……〕
本文[24]
〔白〕

本文[25] 扉2 蜾蠃鈔
本文[26] 〔白〕
本文2772
蜾蠃鈔 (〈蜾蠃鈔〉の短歌・旋頭歌は省略)
本文[73] 〔白〕
本文[74] 本文最終ページ
本文[75] 奥付 (印刷日・発行日、書名・著者名・発行所名、ほか)
本文[76] 〔白〕
見返し[3] 見返し(遊び紙〔オモテ〕)
見返し[4] 見返し(遊び紙〔ウラ〕)
表紙[3] 見返し(効き紙)
表紙[4] ウラ表紙〔マーク〕

各詩篇の天から版面のいちばん上までのアキ=「天から(mm)」、小口から版面のいちばん手前の端までのアキ=「小口から(mm)」を計測した。ここを測るのは、袋綴じで用紙の大きさが微妙に異なるため、版面の刷り位置が均一でないからである。本書の詩篇は、見開きの右ページ(偶数ページ)に必ず標題が置かれている。そのページの「天から(mm)」・「小口から(mm)」を平均すれば、設計上の天からのアキと小口からのアキの寸法が割りだせるはずだ。実測値の平均は、天からのアキが45mm、小口から標題(本文2行ドリ)までのアキが25mmだった。

〈面紗せる会話〉(@・12)初出の版面(《昏睡季節》、草蝉舎、1940年10月10日、一四〜一五ページ)のモノクロコピー 〈面紗せる会話〉(@・12)を評者がInDesignで再現した版面〔原本の袋綴じではなく洋本仕様のため、ノドのアキが異なる〕
〈面紗せる会話〉(@・12)初出の版面(《昏睡季節》、草蝉舎、1940年10月10日、一四〜一五ページ)のモノクロコピー(左)とそれを評者がInDesignで再現した版面〔原本の袋綴じではなく洋本仕様のため、ノドのアキが異なる〕(右)

T 本文:旧字旧仮名表記。標題12ポ明朝。本文9ポ明朝20字詰め・字間四分(2.25ポ)アキ、1ページ15行・行間二分(4.5ポ)アキが最小だが、行数が少ないときは行間を広く取ってある。

U ノンブルおよび柱:ノンブルは、地から27mm上がったところに下が揃い、小口から12mmもぐったところに横組で「-14-」のように斜体のアラビア数字をハイフン(本来用いるべき二分ダーシではないように見える)で挟む。柱はない。

V 前付:書名・刊記(刊行年次・版名・著者名)・献辞・〈序歌〉が各1ページ。目次はない。前付のノンブルは本文とは別勘定だが、ノンブルを記載しない隠しノンブル。

W 後付:奥付。後付にも目次はない。奥付を含め、全体を通して作品本文以外(扉など)のページにノンブルは記されていない。

本文の組体裁をTのように記したが、これはあくまで概要である。最小の行間二分(4.5ポ)アキで組まれているのは、〈秋〉(@・3)・〈白昼消息〉(@・10)・〈桐の花〉(@・16)の3篇。上掲写真の〈面紗せる会話〉(@・12)は行間5ポだ。基本版面に9ポの本文活字を敷きつめると「20字×15行=300字」のテキストボックスができる。理論上の最大文字数である。上記の4篇以外の16詩篇(すべて1ページに収まる短い作品)は行間を4.5ポや5ポよりも広めの7ポ〜11ポに設定する一方(行数・文字数とも減る)、収容行数が減った分の代わりといわんばかりに、1行アキは本来の本文1行分の幅(前の行間+本文活字幅+後の行間)よりも狭く組んである。以下に、各詩篇の行数(行アキも行数にカウント)と行間、行アキを一覧表にし、標題まわりが本文何行分に相当するかを「標題行ドリ」に記した。標題は本文2行中央(字下がりは9ポ本文3字分ないし2字分――両者の混在については後述――で、〈歳月〉などの2字標題は3倍ドリ、3字標題は4倍ドリ、4字標題は5倍ドリ、という字取)。通常はそのあと1行アキで本文開始だが、標題のまえにアキを取って詩篇を版面中央に寄せることもしている。すなわち「標題行ドリ」は、標題まえの行アキが増やされていっている。

 3行:0行アキ+標題2行ドリ+1行アキ
 4行:1行アキ+標題2行ドリ+1行アキ
 5行:2行アキ+標題2行ドリ+1行アキ
 6行:3行アキ+標題2行ドリ+1行アキ

詩篇番号
標題
本文行数
行間(pt)
行アキ箇所
行アキ(pt) 標題行ドリ
@・1

10 8

3
@・2
7 8

3
@・3
12 4.5 4 15 4
@・4
6 8

3
@・5 遊子の歌
5 11

4
@・6 朝の硝子
8 7 2 15 4
@・7 歳月
4 11

5
@・8 あるひとへ
5 8

5
@・9 七月
7 8 1 15 4
@・10 白昼消息
9 4.5 3 15 4
@・11 臙脂
7 8 1 15 4
@・12 面紗せる会話
12 5 1 18 3
@・12 〔面紗せる会話〕
9 5 1 18 0
@・13 放埒
6 7

4
@・14 断章
2 7

6
@・15 葛飾哀歌
8 7 2 15 4
@・16 桐の花
5 4.5 2 18 6
@・17 杏菓子
5 9

5
@・18 病室
8 7 2 15 4
@・19 昏睡季節1
7 8

4
@・20 昏睡季節2
9 8

3

煩雑な表だが、《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)収載の《昏睡季節》を原稿にして、この数値でページメークアップすれば《昏睡季節》原本の組体裁が再現できる、と考えればいい(上掲の図版〈面紗せる会話〉参照)。通常、本文は次のような設定で基本版面が決まる。コロン(:)以下は今回のIdの「レイアウトグリッド設定」における《昏睡季節》再現の試案で、「字間:2.25ポ 字送り:11.25ポ」は本文八分アキのことである。

 組み方向:縦組み
 フォント:小塚明朝Pro M〔ただし原本の書体ではない。林哲夫さんは〈昏睡季節〉で「書体は東京築地活版製造所の9ポイント明朝体(明治44年頃)とほぼ同一のようだ」としている。〕
 サイズ:9ポ
 (文字垂直比率):100%
 (文字水平比率):100%
 字間:2.25ポ 字送り:11.25ポ
 行間:4.5ポ 行送り:13.5ポ
 行文字数:20 行数:15
 段数:1
 天:45mm ノド:32.15mm
 地:48.419mm 小口:19mm
 サイズ:高さ78.581mm×幅69.85mm

一覧表の数値を見ればわかるように、行間は4.5ポ(本文活字9ポの二分だから、かなり狭い)・5ポ・7ポ・8ポ・9ポ・11ポ、と6パターンもある。ふつうなら考えられない。行アキも15ポ・18ポの2パターンがある。散文でこんな組みの本文があったら目がおかしくなりそうだが、《昏睡季節》の版面からはほとんど違和を感じない。私はさきほどから、この行数(行アキを含む)と行間の間に相関関係がありはしないかと数字を睨んでいるのだが、計算式が浮かんでこない。おそらくこういうことだろう。1ページ(袋綴じだから、正確には丁のオモテかウラの一方)に一つの詩篇をあたかも1枚の半紙に浄書するかのように自在に布置した結果、こうなったのだ。同じ大きさの半紙に2行書くときと12行書くときでは、字の大きさから行の詰まり具合まで同じというわけにはいかない。活字の場合、本文の大きさが一定なのは自明であって、書と近似の効果を出すためには行間や行アキ、刷り位置で調整するしかない。そうした版面を追求したあげく、一覧表にすればかくも複雑な、実際の見た目はごく穏当な本文が組みあがったのではあるまいか。はたして吉岡は、これをひとつひとつ指定したのか。それとも原稿をまとめただけで、誰か別人が組版指定したのか(本書にはあとがきがなく――吉岡は、あとがきを執筆すべき時期に臨時召集を受けて輜重兵として馬の扱いを学んでいた――どのような制作態勢だったかわからない)。さらに冒頭の4篇、〈春〉〈夏〉〈秋〉〈冬〉の標題の字下がりは9ポ本文3字分だが、あとの16篇はみな2字分、と異なるのはなぜか。この問に対して「冒頭4篇の執筆(浄書)の時期がほかと違うため統一されていない」という推測が成り立つ一方で、「冒頭4篇は吉岡の指定で以下は別人の指定だった」という事態も考えられる。後年、吉岡は《昏睡季節》の制作をふりかえりながら、詩集に挿入されていた〈手紙にかへて〉という文をまるまる引用しており、その文には「〔一九四〇年〕六月五日。晴天の彼方に富士が三角に輝いてゐました。友の手にノオトの詩集「昏睡季節」をのこして出征」(〈わが処女詩集《液体》〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、七五ページ)とある。おそらく戦災で焼失して現存していないだろう《昏睡季節》のノオ トは、罫線入りの(原稿用紙のようには桝目の切っていない)もので、標題が何字下げか判別しにくい状態だったのではないか。謎を解く手掛かりはあまりに少なく、いま評者の手許に本書の原本はない。《昏睡季節》は吉岡実の単行詩集中、随一の稀覯本なのだ。


吉岡実装丁と〈書肆山田の〈本〉展〉のこと(2012年11月30日)

吉岡実装丁の本だけを集めた展覧会は今までに開かれたことがない……と考えていたら、〈書肆山田の〈本〉展〉を忘れていた(ただしこれも、吉岡実単独の装丁展ではない)。同展をインターネットで検索してもヒットしないので、少し詳しく説明しておこう。幸いなことに、資料も手許にそろった。まず〈書肆山田の〈本〉展〉案内ハガキの文章を起こす(地図は省略)。

王子ペーパーギャラリー銀座 企画展
テクストにそって/画家と装幀家と/書肆山田の〈本〉展
1994年3月22日(火)〜4月1日(金)
10:00AM〜6:00PM〈会期中無休〉
王子ペーパーギャラリー銀座
〒104 東京都中央区銀座3-7-12 王子不動産ビル1F
TEL.03-3567-7790
★初日、PM5:00〜7:00まで、ささやかなパーティーがあります。おでかけください。

〈書肆山田の〈本〉展〉案内ハガキの宛名面(裏の文面の文言は「テクストにそって〔……〕TEL.03-3567-7790」)と同展覧会パンフレットの表紙
〈書肆山田の〈本〉展〉案内ハガキの宛名面(裏の文面の文言は「テクストにそって〔……〕TEL.03-3567-7790」)と同展覧会パンフレットの表紙

展覧会のパンフレットはB5判6ページの巻き三つ折りで、出品目録および次の6人の文章で構成されている。すなわち、@「一冊の本が世界と等価、」と始まる池澤夏樹〈世界の門〉、A「本の原型は巻き紙だと思う。」と始まる高橋順子〈禁欲的な夢〉――詩集などではいろいろな冒険ができるのだが、〔……〕読者に平静な読みのできる場を提供するのが第一条件である――という一節は、そのまま吉岡実造本の本質を射ぬいていよう、B「どこまでも本であり、」と始まる宇野邦一〈本〉、C「二十歳のときに書いた作品「沈黙」に、」と始まる辻征夫〈夢の本、幻のブルトン〉、D「人間が本を生むこと、」と始まる前田英樹〈本を生むこと〉、E「書肆山田の〈本〉といえば、」と始まる吉増剛造〈草子の手〉。おそらく意図的に、図版・写真は一点も掲載されていない(よって「図録」ではない)。目録は3ページにわたっており、「書名・著者・装幀・装画・発行年・摘要」のもとに、単行本81タイトル・「草子 1〜8」・「ライト・ヴァース 1〜9」・「譚 1〜9」・「るしおる 1〜」・「りぶるどるしおる 1〜」(13タイトル)・「ガートルード・スタインの本 1〜」(6タイトル)・「トリスタン・ツアラの作品 1〜」(6タイトル)・「翻訳詩集」(6タイトル)が掲げられている。次に、吉岡実に関わりのあるタイトルを単行本・「草子 1〜8」・「譚 1〜9」・「るしおる 1〜」・「りぶるどるしおる 1〜」の順で挙げよう(〔 〕内は小林の補記)。摘要欄の*印には「在庫切れで、お売りすることができません」との註記がある。本パンフレットは、創業15周年を翌年に控えた書肆山田の出版目録を兼ねていたのである。ちなみに、裏表紙のクレジットは、書肆山田と王子ペーパーギャラリー銀座の連名で、同時期発行の《本 書肆山田から――1994.3》という正真正銘の出版目録の裏表紙には「本誌は新王子製紙の新製品OKミューズしろもの(ホワイトN)を使用しています」と記されている。

書名 著者 装幀 装画 発行年 摘要
雷鳴の頸飾り――瀧口修造のために
書肆山田 ホアン・ミロ 1979 14 〔吉岡は追悼詩〈「青と発音する」〉(H・27)を寄せた〕
ポール・クレーの食卓 吉岡実 書肆山田 片山健 1980 *18 〔片山健による表紙の装画を展示〕
春 少女に(特装版) 大岡信 吉岡実
1981 25
花火 金井美恵子 吉岡実
1983 30
薬玉 吉岡実 吉岡実
1983 *31 〔扉の指定紙と束見本を展示〕
〈箱舟〉再生のためのノート 岩成達也 吉岡実
1986 *37
ムーンドロップ 吉岡実 吉岡実 西脇順三郎 1988 *47 〔表紙の装画(西脇順三郎のスケッチ帳)を展示〕
夜の音 安藤元雄 吉岡実 落合茂 1988 *48 〔扉の指定紙とスケッチ(束見本に替わる)を展示〕
「草子 1〜8」
瀧口修造



異霊祭
吉岡実

1974 *84
「譚 1〜9」
菊地信義
1984〜1987 99〜107 〔吉岡は2号に詩篇〈ムーンドロップ〉(K・10)を寄せた〕
「るしおる 1〜」
菊地信義
1989〜 108 〔吉岡は5号に〈日記 一九四六年〉を、6号に〈日記 一九四六年〔第二回〕〉を寄せた〕
「りぶるどるしおる 1〜」
亜令



うまやはし日記 吉岡実

1990 109

出品目録には記されていないが、吉岡実装丁になる天沢退二郎の「草子 2」《「評伝オルフェ」の試み〔限定101部の内〕》(1974年9月1日)も展示されていた。この展覧会開催の情報は《日本経済新聞》のコラム〈文化往来〉かなにかで知ったのだろう。当時の記録を見ると、最終日の4月1日に観に行っている。20年近く前のことだけあってデジタルカメラもなく、写真一枚撮っていないのが惜しまれる。代わりに、吉岡の指定紙のありさまを伝えるべくパンフレットにメモしてある。「スケッチブックに鉛筆でスケッチ(定規使用)、チップ(色見本、用紙見本)、写植やカットのコピーをテープでとめて、指定はブルーブラックのペンで、アキの寸法等は赤インクのペン(?)で」。1991年10月12日の〈吉岡実を偲ぶ会〉(浅草・木馬館)でも、書肆山田の刊行物(メモが残っておらず書名がわからないが、《薬玉》だったか)の装丁原稿が額装のうえ展示されていたから、書肆山田は吉岡実の装丁原稿を大切に保管していることだろう。来るべき《吉岡実全集》の口絵には、ぜひカラーで装丁原稿の写真を掲載してほしいものだ。もちろん、仕上がりの書影とともに。私は本文や見返しの用紙、表紙のクロスなどの資材の銘柄まで記した吉岡実装丁本の仕様の一覧表を夢見ている。

〔付記〕
《土方巽頌》の〈72 『病める舞姫』完成〉には、吉岡実装丁のプロセスに関する最も詳しい日記の記述がある(〈吉岡実の装丁作品(2)〉参照)。この日記の記載の有無にかかわらず、私は吉岡実装丁の代表作のひとつとして《病める舞姫》を挙げることに躊躇しない。では、書肆山田での吉岡実装丁の代表作はなにかと問われれば、素材の見事さでは《ムーンドロップ》だが――《吉岡実全集》の装丁を想像するに、《ムーンドロップ》および吉岡が装丁した《高柳重信全集》の発展形が考えられよう――、オリジナリティ創出の面から「《薬玉》が第一」と答えたい。《薬玉》はもっぱら後期吉岡実詩の業績として語られるが、吉岡実装丁の頂点としても記憶されるべきだ。


吉岡実の装丁作品(108)(2012年10月31日)

辻井喬の最初の詩集《不確かな朝》は1955年12月、伊達得夫の書肆ユリイカから発行された。吉岡実の《静物》(私家版)が同年8月の刊行だから、まさに同時期の詩的出発である。辻井の第二詩集《異邦人》(1961)も書肆ユリイカから発行されていて、おそらく同詩集のことと思われる記載が吉岡の日記に登場する。「夕方、ユリイカへ行くと、清岡卓行と出会う。ラドリオに辻井喬と伊達得夫が詩集の打合せ中。四人で弓月にゆく。岸田衿子も現われた。堤の知人のシャム猫をわけてもらうことになる。陽子の念願がかなった」(1960年3月17日)、「ラドリオで伊達得夫、堤清二と会う。猫の礼をのべる。詩集の題名をつけろと云われる」(5月26日)。シャム猫のことは何度か日記に登場するが、吉岡が辻井の詩集に題名をつけたかは不明。辻井は全詩集刊行時のインタビュー〈時代が突き付けるものと対峙して〉で、《不確かな朝》を出してすぐに同人詩誌〈今日〉に参加した当時の様子を問われて、「飯島耕一、大岡信、清岡卓行、それから平林敏彦……、みんな「今日」の会合で初めて会いました。それこそ私は小さくなってみなさん大詩人の言うことを聞いていたという感じです。吉岡実さんもいましたが、吉岡さんはちょっと別格みたいな感じでね……。「今日」はそんなに長くはつづかなかったけど、みんな生き生きしていましたよ」(《辻井喬全詩集》、栞、思潮社、2009年5月25日、二ページ)と答えている。辻井と吉岡はデビュー時を同じくする詩友とはいえ、そこには畏敬の念が働いているように見える。辻井の七作めの単行詩集《たとえて雪月花》(青土社、1985年3月30日)は、前の詩集《沈める城》(思潮社、1982)に続いて吉岡実の装丁となった。〈睡蓮〉を追い込みで引こう。なお、9行めの「花辨」は全詩集では「花瓣」に改められた。

眠りに/すべてを埋葬するはずだったのに/鮮やかな色に咲いてしまった/睡蓮の花が わずかに含羞に染るのは/おそらくそのためだ/くち惜しい気持と 恥しさと/まだ残っている望みのあいだを身軽に渡って/よるべき岸は測れない/流れる光が花辨に集ってくるのとは逆に/ためらいながら境界を走る思惟は/ひろがり 放心へと消えてゆく/梵鐘が鳴り/太陽は封印されて/沈める寺が水のなかにゆれ/かげろうにぼやけた幻の大厦が建ち上る/金色にかがやいて/過去のものとなった火のなかに/漣[さざなみ]は思い出をゆがめ/風は死んだ/蜻蛉がその上を飛ぶ/方向を変え翅音を立てて/熟してゆく午睡のひととき/茎は泥から色素を吸いあげ/いのちを空へ返そうと無言で励んでいる/まるで汚辱などなかったかのように/西脇さんなら/「深遠な存在とは眠たげなものであるか」/といって笑うだろう/含み言葉は花にならないから/紙の上に詩を残す/そのように生きたいと思うのは/睡蓮か/それとも宇宙の夢魔に魘[うな]された人であるか/分別のつかないまひる/雲だけがたくましく/南の空で端をかがやかせているのは/自然が秩序だちすぎているからかもしれない/魚が音もなく水のなかに消えるのは/まよいの淵へと泳ぎ入って/やがて空へ逃れるためかもしれない/沈める寺をおとずれる/閲歴のかずかずに時は燻ゆり/うろこの煌きは希望の反映/これも含羞の仕草なのか/いよいよ熾んに花はかおり/自虐もとまどって/今は動くものとてない
辻井喬詩集《たとえて雪月花》(青土社、1985年3月30日)の函と表紙
辻井喬詩集《たとえて雪月花》(青土社、1985年3月30日)の函と表紙

本書の仕様は、二一〇×一四七ミリメートル・一三二ページ・上製丸背継表紙(背はクロス、平は紙)・組立函に貼題簽(函の背文字は「辻井喬詩集」で、書名は平にだけ記されている)。奥付の最終行に「装 幀――吉岡 実」とある。壁紙に似た表紙の花柄模様からは、かつての天澤退二郎詩集《乙姫様》(青土社、1980)や大岡信詩集《水府 みえないまち》(思潮社、1981)が想起される。辻井は前掲インタビューで、《たとえて雪月花》と《鳥・虫・魚の目に泪》(書肆山田、1987)に触れて「詩の仲間からは、「あいつはどうしようもない」って感じと、「どこに行っちゃうのかね、まさか首吊るわけじゃないだろうか」とか、「いや、あいつが首吊るわけがないよ」みたいな、そんな関心の持たれかただったんじゃないかな。大岡信さんだとか渋沢孝輔さん、吉岡実さんなんかは、ぼくのことを変なやつだと思っていたんじゃないかな。自分でも変なやつだという意識があったから、このまま行くとほんとうに変になっちゃうかもしれないと思って、それでもう一度原点に戻る必要があると考えたんです」(同前、七ページ)と語っている。当時の吉岡が辻井(の詩)をどう思っていたかは不明だが、《沈める城》に較べてなだらかな詩風になったことはたしかだ。もっともそれは、単に「もう一度原点に戻」ったためか。後退しつつ別の進路へと舵を切ったのは《たとえて雪月花》の次作《鳥・虫・魚の目に泪》であって、辻井は《沈める城》と《たとえて雪月花》の鋭くV字に折れる路線を、吉岡実という詩友にして装丁家の作品のもつ連続性で覆ったように見える。それが意図したものだったのか、偶然だったかはにわかに決めがたいが。


吉岡実の装丁作品(107)(2012年9月30日)

辻井喬詩集《沈める城》(思潮社、1982年11月1日)の帯文には「[書下し]でなければ書けない主題がある」という惹句のもとに、「発見された古文書には「透明な水のなかに金色に輝く城が沈んているのを見た」と記されている。だが実存するものを見たのか、或は幻影だったのか。〔暗号解読〕という詩的パズルのスリルを十二分に堪能させる暗喩の詩人辻井喬の長篇書下し詩集。」とある。巻頭の〈時の足跡〉と巻末の〈錆のグラディエーション〉に挟まれる形で、〈遠い城〉〈塞がれた穴〉〈夜の神殿〉〈城が泯んだ日〉〈涸れた石井戸〉〈城のなかの青年〉〈弛緩〉〈閉じられた扉〉〈武装解除〉〈城の庭〉〈少年は廃墟で遊ぶ〉〈遠い町〉〈途絶えた道〉〈燃える暗澹〉〈静かな広場〉〈去ってゆく駕車〉〈狙われた男の夢〉〈晴れた日の碑〉の全20篇が収められていることを考えれば、棒のような一本の長詩というよりは、これら複数の詩篇からなる長篇詩だろう。〈塞がれた穴〉を引く。

壁の穴は塞がれた
城を覗くことはできない
歌は途切れ
残された通奏低音は呪詛を投げかける
合唱はいつか鎮魂曲に変り
詐術は見えない庭で演奏される
叙事詩が去った墩台[とんだい]の上に
満されぬ眼がなぞるのは破れた旗
飜った瞼の裏に
傷痕の杭が立ち並び
商人の栄える町で教義は死滅する
そこで輝きを増すのは信号機だ
主役のいない広場の敷石は冷え
城外に繋がれた馬は
野戦を慕って嘶き
閉門を布告する銅版が喪服をつけて
官僚の顔で屹立する

文法を忘れた年代記のように
中断された物語りがある
突然 予感された確かさで
日が翳り
曠野が反転する

緑の葉裏は絹漉しの黒
神殿はおそらくその奥にある
記憶の空に群れていた白い雲は消えた
泡立つ抒情は形にならない
隠密の声がたくらんでいるのは
地底から這い上ってくる赤い舌の解放
混声和音を裂いて遠雷が轟く
夢を混ぜて未来の演出がはじまったが
町は静かだ
人々は満足していて
どんな異変にも関心がない
新しく壁に穴を穿つ作業は組織されない
視線を断たれて
広場には砂の疲労だけが残り
その奥で時と共に錆びてゆくものがある

ここには城をめぐって、見ることと音楽が織りなした空間がある。しかし視線はつねに遮られ、楽曲は自己をまっとうすることなく、すぐさま別のものにとって代わられる。「緑の葉裏は絹漉しの黒」といった鮮やかな(鮮やかすぎる)イメージは、登場するやいなや「地底から這い上ってくる赤い舌の解放」という晦渋な詩句に飲みこまれる。「[書下し]でなければ書けない主題」とは、こうした書いては消し書いては消しの方策が作品の構造に浸潤した結果、もたらされた必然ではなかったか。書くことによってのみ「存在」する「不在」の城。

辻井喬詩集《沈める城》(思潮社、1982年11月1日)の本扉と函 辻井喬詩集《定本 沈める城》(牧羊社、1991年7月1日)の外装〔造本:川島羊三〕
辻井喬詩集《沈める城》(思潮社、1982年11月1日)の本扉と函(左)と同《定本 沈める城》(牧羊社、1991年7月1日)の外装〔造本:川島羊三〕(右)
定本の出典:けやき書店「限280アクリルケース函外函 筆ペン署名落款入 函外函少痛 装幀・中西夏之/価格:12,000円」


本書の仕様は、二一〇×一三五ミリメートル・一二二ページ・上製丸背布装・ジャケット・組立函(目次裏に「装幀――吉岡 実」とクレジットがある)。この函が、素材といい、書名・著者名の雰囲気といい、吉岡装丁の一時代を画した《サフラン摘み》(青土社、1976)と酷似している。吉岡はこの時期にそうした函をあまり手掛けていないから、著者からの要望だったかもしれない。函は《サフラン摘み》のような感じがいい、と。なお、吉 岡歿後の1991年に《定本 沈める城》が特装本で出ているが、未見。《沈める城》初刊と定本の書誌を記した《辻井喬全詩集》(思潮社、2009年5月25日)の〈解題〉を引く(同書、一四一〇ページ)。

『沈める城』
一九八二年十一月一日 発行者小田久郎 発行所思潮社 東京都新宿区市谷砂土原町三-一五 二二一ミリ×一四六ミリ 一二〇頁 上製クロス装 丸背 カバー 機械函入 装幀吉岡実 定価二四〇〇円
*特装本『定本 沈める城』
一九九一年七月一日 発行者川島壽美子 発行所牧羊社 東京都渋谷区渋谷二-一二-一二 二五四ミリ×一九七ミリ 一二〇頁 表紙オフセット七色刷紙装 見返し六色刷 アクリルケース 貼函 筒入(ダンボール) 貼題簽 造本川島羊三 装画中西夏之 限定二八〇部 定価二四二七二円

辻井には、詩集と同題の長篇小説《沈める城》(文藝春秋、1998)がある。両者の関係について、インタビュー〈時代が突き付けるものと対峙して〉で「同じ名前を使って小説も書いているので、小説のほうは詩集『沈める城』の散文版だという言いかたを自分でしたりしていますが、小説まではかなりの時間が経っていますから、同じテーマの散文版と言うのはちょっと無理があったかもしれない(笑)。テーマの共通性があるかと言えば、ないわけじゃないんですがね。理想郷みたいなものが消えてしまったという認識がここにもあって、その理想郷が水のなかに沈んでいる城に置き換えられた。〔……〕この詩集なんかはカフカの作品を読んだ影響がありますね」(《辻井喬全詩集》栞、六ページ)と答えている。


吉岡実の装丁作品(106)(2012年8月31日)

飯島耕一詩集《宮古》(青土社、1979年6月10日)は、吉岡実の詩集《夏の宴》の4箇月ほどまえに同じ版元から刊行された。ときに、吉岡のそれまでの詩集は《僧侶》(1958)を除いてみなソフトカヴァー(主にフランス装)で、ページ数もおおむね100ページ以下だった。それが214ページの《サフラン摘み》(青土社、1976)で二度目のハードカヴァー仕様となり、以降の単行詩集は拾遺集《ポール・クレーの食卓》(1980)を除いて、みな上製本の硬表紙となった。本文用紙の束にもよるが、100ページを境にしてそれ以下がフランス装のソフトカヴァー、それ以上が上製本のハードカヴァー、という棲み分けである。一般的に上製本の表装用資材には革・布・クロス・紙などがあるが、本書は全面布装である。大岡信が伝えるように、吉岡が自分の本に使いたい案、自分でやってみたいと思うほどのプランとして、この全面布装があったと見る。《宮古》と《サフラン摘み》は、デザイン(印刷された文字および図像)を別にすると、上製丸背布装、ジャケット、組立函、帯、とまったく同じ構成である。《サフラン摘み》の布はそのサフランの花色の色味を優先したせいか、素材の質感はいま一歩だった。生地の打ちこみが甘いというか、緩いというか。吉岡はそれが不満で捲土重来を期し、今回は色味は慮外のこととして素材を選択したのではないか(《サフラン摘み》にサフランの花色のこの素材を用いていたらどうだっただろう)。吉岡は本書の装丁でありうべかりし《サフラン摘み》のブックデザインに決着をつけた。そのうえで、表紙に西脇順三郎の画を印刷するという大胆かつ率直な試みを通じて、《夏の宴》が《サフラン摘み》の単なる延長ではないことを強調した。だれにでもできることではないが、著者装丁による自著への批評行為といえる。

飯島耕一詩集《宮古》(青土社、1979年6月10日)の函と表紙 飯島耕一詩集《宮古》(青土社、1979年6月10日)の本扉とジャケット
飯島耕一詩集《宮古》(青土社、1979年6月10日)の函と表紙(左)と同・本扉とジャケット(右)

本書の仕様は、二二〇×一四九ミリメートル・一六二ページ・上製丸背布装・ジャケット・組立函。目次の裏に「装幀 吉岡 実/写真 酒井 猛」とある。標題にとられた〈宮古〉や〈ふたたび宮古〉が代表作だが、ここでは〈Nのこと〉を引く。

また詩集が出来た日
Nのことを思い出す
わたしはお祝いにホテルのバーで
冷いビールを飲み
友だちと笑い興じている
しかし反面 Nのことを
思い出している
Nが暗い部屋にしゃがんでいる
病院か それともあの川のある山峡の町の
自宅の二階か
ともかくNが暗いところにいる
天秤の片方にわたしかいて
もう一方にNがいる
わたしが浮きあがると
何だかNのほうは沈んで行く
Nのほうをのぞきこむ
彼の声は聞えない
ただ気配がするだけだ

Nとは一九四七年
同じクラスの高校生で
詩というものがあることを教えてくれた人物だ
宇野港の丘の上の
旧陸軍の兵器庫だった
そこがわれらの教室だった
わたしが詩らしきものが書けるようになった頃
彼は精神の病いの徴候を示すようになった
無賃乗車をしたり
路上に幻影を見たり…………。

彼に附添って病院へ行き
即日入院の彼と 問診室の前で手を振って別れたっきり
一度も会っていない

わたしはことばで幻影をつくることに熟練して
詩人というものになった
本物の幻影など見たら
ふるえ戦くことだろう

本物の幻影を見たNは
部屋に閉じこめられた
同じ高校に入り
仲の良かったNのことを
わたしは年に一度か二度
怯えとともに思い出す。

詩を書くことの(ひいては生きることの)後ろめたさ、不気味さをこれほど率直に述べた詩をすぐに想い出すことは難しい。なお吉岡は、本書以降も飯島の著書を装丁しているが、詩集としては《宮古》が最後の作品となった。吉岡実装丁における飯島耕一詩集の究極の形といえようか。


吉岡実の装丁作品(105)(2012年7月31日)

《定本 那珂太郎詩集》(小澤書店、1978年7月30日)は《ETUDES 1941〜49》、《黒い水母 1950〜57》、《音楽 1957〜65》、《はかた 1965〜73》の四タイトルと〈詩篇細目〉を収める。便宜的に各タイトルにTからWの番号を振ると、Tの1949年からUの1955年までの吉岡実の詩集が《静物》(私家版、1955)、Uの56年からVの58年までが《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)、Vの59年から62年までが《紡錘形》(草蝉舎、1962)、Vの62年からWの66年までが《静かな家》(思潮社、1968)である。二人の共通点は、那珂の詩集《ETUDES》と吉岡の詩集《僧侶》という初期の重要な作品がともに書肆ユリイカから出ていることだけではない。思潮社から《音楽》と《紡錘形》(正確には思潮社発売)が同じ体裁で、吉岡による同工の装丁で出たことは、当時の二人の親密さをよく表わしていよう。《定本 那珂太郎詩集》の装丁を吉岡が担当したことも、そうした延長のように思われる。本書の仕様は、一九五×一四八ミリメートル・二七二ページ・上製丸背継ぎ表紙(平:クロス、背:革)・貼函(マーブル紙に題箋貼)・ボール紙のケース(平に書名ほかを記載した題箋貼)。限定980部(5番本)。本扉前の別丁和紙に著者毛筆署名入り。挟み込みの〈附録〉(漢字は正字を使用)に西脇順三郎・寺田透・清岡卓行・大岡信・粟津則雄の文章を収める。

《定本 那珂太郎詩集》(小澤書店、1978年7月30日)のボール紙のケースと表紙 《定本 那珂太郎詩集》(小澤書店、1978年7月30日)の本扉と貼函
《定本 那珂太郎詩集》(小澤書店、1978年7月30日)のボール紙のケースと表紙(左)、同・本扉と貼函(右)


あをあをあをあおおおわぁ おわぁ あを
ねこの麝香のねあんのねむりのねばねばの
ねばい粘液のねり色の練絹のしなふ姿態の
ぬめりのぬばたまの闇の舌のしびれの蛭の
祕樂[ひげう]の瞳のきらめきのくるめきのくれなゐ
の息づくいそぎんちやくの玉の緒の苧環[をだまき]の
怖れの奥津城の月あかりの尾花のうねりの
無明のゆらめきののうめきのなまめきの
あをあをおわぁ おわわわわあを おわぁ

《はかた》の巻頭作品を引いた。本篇からもわかるように、《定本 那珂太郎詩集》に顕著な特徴は本文の用字・用語で、奥付対向ページには次のような註記がある。

ETUDES    一九五〇年五月 書肆ユリイカ刊
Kい水母I  一九五四年九月 書肆ユリイカ刊「戰後詩人全集」第一巻所收
    U  一九五九年十月 書肆ユリイカ刊「現代詩全集」第四巻所收
音樂     一九六五年七月 思潮社刊
はかた    一九七五年十月 土社刊

本詩集は、右記の各詩集を底本とし、全て正字正假名遣に據つた。

詩篇〈青猫〉もそうだが、シフトJISで可能な限りの正字を使ってみた(註記では「全」「巻」「所」「音」「潮」「社」「遣」が表示できなかったので、新字を使用している)。ここで想い出されるのは、入沢康夫の〈国語改革と私〉の「処女詩集刊行時の経緯」の一節である。やや長いが、書肆ユリイカと印刷所の間の事情を伝える貴重な証言なので掲げる。

 『倖せ それとも不倖せ』は、〔……〕。本文の組み方や、カットの入れ方についても、難しい注文がいろいろあつた。さういふ面倒なこちらの頼みを、伊達〔得夫〕さんは、ボヤきながらも、結局は、ほぼ完全にきいてくれた――ただ一つのことだけを除いて。そのただ一つのことといふのが、仮名づかひの問題だつたのである。伊達さんの言ひ分の要旨は次のやうなことだつた。
 「永年文芸書を手がけてゐる大出版社とは違つて、自分のところのやうな詩書出版社では、文芸書に馴れた印刷所と定期的な取引をすることは不可能で、町の小さな印刷所、日頃は広告や社内報や挨拶状など刷つてゐる印刷所と、その都度かけ合つて、仕事の合ひ間に割り込んで、やつとやつてもらふことになる。したがつて、組んだ活字をそんなに長く置いておくことが出来ず、校正を時間をかけて何度もするといふことはとても望めない。しかもさうした印刷所では、日頃扱ふものの性質から言つて、すつかり新仮名になじんでしまつてゐて、旧仮名を組ませると誤植がやたらに多い。実際にそのやうな苦い経験もしてゐる。ここは何としても、仮名づかひは新仮名といふことにしてほしい。」
 『倖せ それとも不倖せ』の仮名づかひは、原稿の段階では、全文片仮名の作品三篇については「現代かなづかい」を使ふが、それ以外の漢字仮名混りの作品ではすべて歴史的仮名づかひにすることになつてゐたやうに思ふ。もちろん、それなりの考へあつて、さう決めてゐたことだから、私も、何とかならないかと、随分ねばつた。しかし、この一点は、伊達さんも大いにがんばり、結局私は、納得させられた形でその日は別れた。だが、その晩のうちに、私は、やはり納得できないといふ思ひがつのり、翌日、また出かけて行つて、費用がそのために多少はかさんでも良いからなんとかならないかと、かけ合つた。ユリイカのデスクのある建物の向ひの喫茶店で、コーヒーを前にして、伊達さんはじつと黙り込んでしまつた。しかし、首はつひにたてに振らなかつた。私も引きさがらざるを得なかつた。
 久しく忘れてゐたかうした経緯が、少しづつはつきりと心に浮かんで来た。しかし、今すこし、傍証がほしい気がする。そこで詩人の那珂太郎に電話をしてみた。那珂さんは、私よりたしか二、三年前に、ユリイカから、歴史的仮名づかひの詩集を上梓してゐる。その時に伊 達さんから何か言はれませんでしたか、トラブルのやうなことはありませんでしたか、といふ私の問に対する那珂さんの答は大略かうであつた。
 「たしかに、伊達から、新仮名にしてはどうかといふ話はあつた。しかし、自分は新仮名は絶対に認められないので、旧友のよしみもあつて、あへて歴史的仮名づかひで進めてもらつた。その結果は、かなり甚だしい誤植のある本が出来た。伊達も頭をかかへてゐた。」
 〔……〕
  以上のやうなことがらを綴り合はせて考へてみると、やはり、当時の詩書専門の出版社で本を出す場合に歴史的仮名づかひを用ゐようとすると、仲々引き受けてもらへず、無理押しするならば、よしんば著者に歴史的仮名づかひの力が十分にあつてさへも、かなりの誤植のリスクを覚悟しなければならなかつたといふ実状が浮かび上つてくる。
 私の場合に、伊達さんが、仮名づかひに関してはつひに折れてくれなかつたのも、ひよつとしたら、那珂さんの時の体験が心にあつたのかも知れない。してみれば、あれは、伊達さんの立場としては、むしろ精一杯の、私に対する親切であつたのだ。言ひなりに引き受けて、誤植だらけの本を作ることだつて、非良心的な出版者なら、やつたかもわからないのだから。(丸谷才一編著《国語改革を批判する〔中公文庫〕》、中央公論新社、1999年10月18日、二四八〜二五二ページ)

引用の後半で省略した箇所の話題は、ひとつはこれまでにも何度か引いた吉岡実の例(《静物》と《僧侶》《吉岡實詩集》の原稿の表記と刊本の表示)についてであり、もうひとつは当時入沢が所属していた同人雑誌のアンソロジー(書肆ユリイカ刊)の自作の詩篇が「現代かなづかい」になっていたことについてである。入沢文を踏まえると、《定本 那珂太郎詩集》の定本たる所以は「本詩集は、右記の各詩集を底本とし、全て正字正假名遣に據つた」という註記の表明に尽きるだろう。那珂太郎は塚本邦雄と並んで、漢字は正字、かなは正仮名遣ひを宗とする原理的な作者である(ちなみに《定本 那珂太郎詩集》の印刷所は、古典の復刻本や塚本の著書を数多く手掛けたことで知られる活版印刷の名門、精興社である)。同じ正仮名主義でも、上掲の入沢康夫や同書の編者である丸谷才一は、漢字については入沢が「自由に使ひたい字を使つて来た。字体については、おほむね世間の常識に従つて新字体のあるものは適当にそれを利用し、ないものについては正字(時としては俗字)を用ゐた。ただし、新字体があつても字面の感じで、どうしてもいやな場合には、ためらはず正字にしてもらつた(そのやうな字は、さして数多くはない)」(同前、二五三ページ)と書くように、ある意味で現実的な行きかたである。付言すれば、戦後の吉岡実は漢字は新字(を適当に利用し、ないものについてはいわゆる康煕字典体を用い――もしくは印刷時には許容し)、かなは現代かなづかい、という1960年代から70年代前半に初等・中等教育を受けた私のような人間には自明ともいえる表記法を採っていた。しかし、昭和の初年あるいは大戦前に教育を受けた吉岡や塚本、丸谷、入沢たちは違う。今となっては、吉岡さんと面談のおりに表記法について訊いておかなかったことが悔やまれる。「吉岡實」から「吉岡実」への転換についても尋ねておくべきだった。本書の目次裏には「裝幀 吉岡實」とある。


那珂太郎はたびたび吉岡実詩について書いているが(とりわけその初期)、吉岡は那珂の著書を装丁するばかりで、 その詩をほとんど評していない。吉岡実・加藤郁乎・那珂太郎・飯島耕一・吉増剛造〔座談会〕〈悪しき時を生きる現代の詩――座談形式による特集〈今日の歌・現代の詩〉〉から吉岡と那珂のやりとりを引く。
吉岡 那珂さん〔の『はかた』は〕、大へんな名作なんですけれども、入沢康夫君とぼくとでイチャモンをつけたのね。続編をぜひ書いてくれということで……いわゆる音楽的な詩のほうのところが出て来ちゃったところを言ったのかな。ぼくたちはなにを那珂さんに注文をつけたのかなぁ……。
那珂 たぶんVの部分の語りみたいな形が不満だったんだと思います。……あれをもう少し複雑にしたらということだったでしょう。
吉岡 博多というのはひらがながいいね。」(《短歌》1975年2月号、七二ページ)
入沢康夫と吉岡実は那珂太郎に直接「注文をつけた」ようで、詳細は不明だ。もっとも、入沢には副題が〈相互改作/「わが出雲」「はかた」〉という那珂との共著《重奏形式による詩の試み》(書肆山田、1979年11月25日)があるので、まったく手掛かりがないわけではない。だが、私がここで触れたいのは入沢の《はかた》ではなく、那珂の《わが出雲》である。那珂は同書(二七ページ)で入沢の〈わが出雲〉のZの一部を次のように改作している。

一羽の首のないあをさぎが叫んでいつた
  「教へて下さい わたしはどこへ
  行くのでせう 一体どこへ
  どこへ どこへ どこへ どこへ
  ウプパ ククフア フドフド[*14]」

那珂は注の14に「魂まぎのモチイフを隠し、詩作行為自体が詩を求めることを暗示する。「ウプパ ククファ フドフド」は吉岡実の作品からの引用。彼への挨拶」(同書、四五ページ)と書いている。さらに同書の那珂・入沢対談〈試論「わが出雲」〉にはこうある(相互改作の初出は《現代詩手帖》1977年3月号で、吉岡の高見順賞受賞はその前年の12月)。

那珂 Zのパアトは、ちやうど吉岡さんの『サフラン摘み』が高見順賞になつたといふやうな時事的なことがあつて、入沢さんは特に吉岡さんと親しいし、吉岡さんのこんどの詩集から拝借して〈ウプパ ククファ フドフド〉と入れてみたんです。
入沢 これはなかなかいいんぢやないでせうか。元の形よりだいぶよくなつたと思ひます。しかも鳥ですから、〈フドフド〉が出てくるのは、ネルヴァルとの関はり(ネルヴァルの「暁の女王と精霊の物語」に、超自然的な力をもつたフドフドといふ鳥が出て来る)をいまひとつ強める意味でも、いいんぢやないでせうか。(同書、一〇六ページ)

この「ウプパ ククファ フドフド」という詩句は「澁澤龍彦のミクロコスモス」という詞書のある〈示影針(グノーモン)〉(G・27)からの引用だが、そもそも吉岡はこれを澁澤のエッセイ〈動物誌への愛〉(《胡桃の中の世界》所収)から引用しており、澁澤は同文をギヨーム・ル・クレール《神聖動物誌》(1852)やリシャール・ド・フールニヴァル《愛の動物誌》(1860)といった稀書を渉猟して執筆しているから、「詩作行為自体が詩を求めることを暗示する」のにフップ鳥、この「神秘的な鳥」(澁澤)ほどふさわしい生物は二つとあるいまいと思われる。ところで、吉岡が「相互改作」するとしたら誰とどの作品にするかと考えると興味は尽きないが、西脇順三郎の《壤歌》(1969)を間引いた吉岡実選《新版 壤歌》は読んでみたかった。対する西脇は《神秘的な時代の詩》(1974)を膨らませた《新版 神秘的な時代の詩》でどうだろう。吉岡がその成立に立ちあった2000行の《壤歌》を凌駕する長詩になったに違いない。


澁澤龍彦は、〈動物誌への愛〉で、フップ鳥とネルヴァルについて次のように書いている。

 フップ鳥は、ラテン語ではウプパ、古代エジプト語ではククファ、ヘブライ語ではドキパテ、シリア語ではキクパ、そしてアラビア語ではフドフドというが、いずれも、その鳴き声にちなんで名づけられたものと思われる。アラビア語の「フット、フット」は「そこだ、そこだ」の意味で、地中の水や宝を見つけ出すという、この鳥の不思議な能力にも関係があるだろう。
 ネルヴァルの『バルキス』でも、フップ鳥はアラビアふうにフドフドと呼ばれる精霊の一族で、アドニラムとバルキスとの運命的な結びつきを予告する、一種の神託をもたらす役目を果す。ネルヴァル個人の愛の願望によって、この鳥にはきわめて重大な役割があたえられていたのである。(《胡桃の中の世界》、青土社、1974年10月1日、一四二ページ)


吉岡実の装丁作品(104)(2012年6月30日)

一般に詩集の発行部数は多くない。細かな数字を挙げることはできないが、その大半は初版数百部をつくってそれきり、ということではないか。むろん例外はある。初版・初刷部数が多い。増刷を繰り返す。新装版が出る。著名な詩人の受賞詩集といった話題作がこれに当たる。初版とは別に版を改めて再登場することもある。ある時代や流派[エコル]をまとめた叢書、詩人の個人名を冠した選詩集(文庫が多い)や全詩集。それらに全篇もしくは抄録が収められることはよく見られる。歴史的な詩集になればなるほど、われわれは初版ではなくこうした後版で読んでいる。私は萩原朔太郎の《月に吠える》の詩篇を、最初は高等学校の現代国語の教科書(筑摩書房発行のものだった)で読み、新潮文庫(河上徹太郎編)で読み、岩波文庫(三好達治編)で読み、角川文庫《月に吠える》で読み、萩原朔太郎全詩集でも読んだが、初版本では読んでいない。日本近代文学館の〈名著複刻全集〉の《月に吠える》を手にしただけである。《月に吠える》が特殊に過ぎるなら、西脇順三郎詩集《Ambarvalia》はどうか。同じく高校の教科書で〈天気〉などの〈ギリシア的抒情詩〉に触れるや、新潮文庫(村野四郎編)で読み(松浦寿輝さんはパリに持っていった数少ない日本語の本の一冊に本書を挙げていた)、現代教養文庫の鍵谷幸信編著の《西脇順三郎》を読み、元版西脇順三郎全集で読み、西脇順三郎全詩集で読み、講談社の文芸文庫で読み、まれに恒文社の復刻版で読むが、初版を手にしたのは数年前、《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》の同詩集の項目を書くために国立国会図書館の図書別室(劣化資料を閲覧することができた)で通読したときだけである。幸いなことに、私は吉岡実のすべての詩(歌)集を初版で読むことができたが、ふだん参照するのは吉岡実全詩集だ。テキストを問題にするかぎり、校訂がしっかりしていれば文庫版でいっこうに差し支えないと思う。今回の石垣りん詩集《略歴》は初版(初刊)のあと、単独の詩集として二度も刊行されている。これは珍しいことと言わねばならない。すなわち次の3冊である。

石垣りん詩集《略歴》(花神社、1979年5月9日、装丁:吉岡実)
《詩集 略歴〔石垣りん文庫3〕》(花神社、1987年11月20日、装丁:熊谷博人)
石垣りん詩集《略歴》(童話屋、2001年6月12日、装丁:島田光雄)

石垣りん詩集《略歴》(花神社、1979年5月9日)の本扉・ジャケットと《詩集 略歴〔石垣りん文庫3〕》(花神社、1987年11月20日〔装丁:熊谷博人〕)と石垣りん詩集《略歴》(童話屋、2001年6月12日〔装丁:島田光雄〕)のジャケット
石垣りん詩集《略歴》(花神社、1979年5月9日)の本扉・ジャケットと《詩集 略歴〔石垣りん文庫3〕》(花神社、1987年11月20日〔装丁:熊谷博人)と石垣りん詩集《略歴》(童話屋、2001年6月12日装丁:島田光雄)のジャケット
〔1987年版・2001年版は公立図書館の所蔵本で、ジャケットにフィルムが貼られている〕

本書の仕様は、二〇八×一四九ミリメートル・一三八ページ・上製丸背布装・ジャケット。ジャケットの表裏を包みこむようにグラシンが巻かれているが、照明で反射するので撮影時に外した。私がいまグラシンと書いたのはもちろんグラシン紙のことだが、ウィキペディアにはグラシン(glassine)は「長時間叩解した亜硫酸パルプを原料とし、スーパーカレンダーという高圧のローラーを使って加工する。この過程で、パルプの繊維は圧縮・平滑化され、隙間を失う」とある。同じページのパラフィン紙の説明には「パラフィン蝋を塗布・浸透させた紙である。元になる紙としてグラシンを使ったものが多いため、グラシンと混同されるが、別物である。グラシンから作ったパラフィン紙は、単なるグラシンより特性が優れている。単なるグラシンがパラフィン紙として売られていることもあるので、注意が必要である」と記されていて、「グラシンから作ったパラフィン紙の用途もほとんど同じ」とあるなかに「文庫本のカバー(最近ではあまり使わない)」と見える。要は、グラシン紙もパラフィン紙も書籍の汚れ防止に使用され、パラフィン加工されたグラシン素材の紙の方が上等だということだろう。ここで思い出されるのが、大岡信〈文学的断章〉が伝える吉岡実の「パラピン」だ。

 吉岡実に電話する。
「あの、ほら、文庫本なんかにかぶしてあるぺらぺらの半透明の紙ね、あれ、なんていうんだっけ?」
「なんだい、あのパラピンのこと?」
「あッ、そうだ、パラピンってんだっけね。そう、そう。パラピン、パラピン」

 〔……〕
 そんなことを思っているうち、私は自分があの紙の名前を忘れてしまっているのに気づいた。吉岡実の家に電話したのは、彼が本の専門家だからだが、彼が「パラフィン」といわず、「パラピン」といったのは、いかにも吉岡的に響いてうれしかった。あるいは、出版業界ではみなパラピンと発音しているのかもしれない。しかし、この際、「パラピン」はまったく吉岡的に響いた。彼はヒをシとしか発音できない、江戸の職人の末裔なのだ。(〈XVII〉、《彩耳記――文学的断章〔ユリイカ叢書〕》、青土社、1972年1月15日、二一五〜二一六ページ)

大岡文の中略後の「そんなこと」というのは「装幀家とか、装幀をする画家とかデザイナーとかがいる。そういう人々は、自分が作った表紙や箱が、あの半透明の紙でくるまれ、寝呆けた顔をさらしているのを見ても、何とも思わないのだろうか」(同前、二一六ページ)だが、「パラピン」を装丁の素材に指定することも多かった吉岡に対する苦言という筆致ではない。どうやら大岡が嫌っているのは、学術書などにみられるクロス装のハードカヴァーの表紙に直接「パラピン」をかけている状態をさすようだ。ところで、吉岡実の装丁作品を紹介するに際して、私が意図的に言及してこなかったことが二つある。一つは帯の有無、もう一つが「パラピン」など書籍の汚れ防止用の無地の素材の有無である。書誌学的見地からは、後者はともかく、帯(多くは推薦文や編集者による販売促進用の惹句、営業上必要な流通情報が記されている)に触れないのは邪道だろう。だが、吉岡実装丁本の紹介という見地からすると、吉岡が帯の制作にタッチしているか判断のつかない場合がほとんどである。それを、「函・帯」「ジャケット・帯」などと記すと、いかにも吉岡が制作したようにとられかねない。なおかつ新刊で購入したのでない場合、つまり古書で入手した場合(手許の吉岡実装丁本の大半は古書)、帯のないことが原著に帯が付いていなかったことを意味しない。それならいっそ言及しないことにしよう、というのがこれまでの私の姿勢だった。いつの日か《〈吉岡実〉の「本」》を印刷物に展開する際には、少なくとも帯〔の文面〕には触れることになるだろうが。閑話休題。おしまいに、石垣の〈神楽坂〉(のちの未刊詩篇〈松尾寺〉を想わせるものがある)を引く。

いつか出版クラブの帰りみち
飯田橋駅へ向かって
ひとりで坂を下りてゆくと。
先を歩いていた山之口貘さんが
立ち止まった。
貘さんは
背中で私を見ていたらしい。
不思議にやさしい
大きな目の人が立ちはだかり
あのアタリに、と小路の奥を指さした。
「ヘンミユウキチが住んでいました」
ひとこというとあとの記憶が立ち消えだ。
私は「このアタリに」と指さしてみる。
山之口貘さんが立っていた、と。


吉岡実の装丁作品(103)(2012年5月31日)

鍵谷幸信《詩人 西脇順三郎》(筑摩書房、1983年7月1日)の〈あとがき〉(末尾に「昭和五十八年六月五日、詩人の一周忌に」の日付をもつ)の最後の段落には「この本を出す動機は文芸誌「海」に書いた「西脇順三郎回想」である。同誌編集部の宮田毬栄、安原顯、坂下裕明の諸氏に、また編集にあたって下さった筑摩書房の風間元治氏、親切な忠告を戴いた橋本靖雄氏にともども感謝します。尊敬する詩人吉岡実氏が美しい装幀をして下さったことを有難く、嬉しく思う。吉岡氏と西脇順三郎との浅からぬ縁を思うと、これもミューズの配剤の賜ものかもしれない」(本書、二七二ページ)との謝辞がある(安原顯さんと橋本靖雄さんは私にとっても懐かしいかただが、二人とも亡くなられた)。ここに、吉岡実装丁に対する著者の反応を記した貴重な証言がある。城戸朱理《吉岡実の肖像》(ジャプラン、2004年4月15日)の一節である。

 まだ吉岡実氏の知遇を得る前のこと、たしか一九八三年のことだったと思うのだが、鍵谷幸信氏のお宅にお邪魔していろいろとお話をうかがっているときに、思わぬことから吉岡さんの名前が出てきたことがある。その前年、西脇順三郎が故郷、小千谷で大往生を遂げた。翌年、「海」三月号に鍵谷さんは百二十枚の「西脇順三郎回想」を二日ほどで一気に書き下ろしたのだが、その文章を中心に一冊の本が編まれることになったという。筑摩書房からの刊行が決まり、吉岡さんが装丁を引受けてくれたから、いい本になるだろうと、鍵谷さんはしごく御満悦であった。そのときの口調に籠められた絶大な信頼は、当時はまだ装幀家としての吉岡実をまったく知らなかった私に不思議な響き方をした。それが、私にとっては詩人、吉岡実が装幀も手がけることを知った最初の瞬間でもあった。その年の七月に『詩人 西脇順三郎』が刊行される。
 しかし、そのころの私には茶の落ち着いたカバーに濃緑の帯が巡らされたその本は、ひたすら地味に映ったような記憶がある。まだ造本や紙のことなど、ろくに何も知らなかったためだろう。だが、それから、装幀というもの、ひいては吉岡実の装幀というものを意識するようになったのは、間違いないことであるように思われる。(〈本〉、同書、五二〜五三ページ)

本書の仕様は、一八八×一三〇ミリメートル・二八四ページ・上製丸背布装・ジャケット。口絵一丁(写真二点)。題扉裏に「装幀 吉岡 実」とある。表紙の布は、西脇順三郎最後の詩集《人類》(筑摩書房、1979)のそれよりもくすんだ灰緑色で、吉岡は《西脇順三郎全集》(同、1971-73)では落ち着いた赤系統のクロスを装丁の資材に選んだが、それ以降は緑をメインカラーに据えた。全集の赤は《Ambarvalia》(椎の木社、1933)のワインレッドの残響だろうし、緑は赤の補色である。

鍵谷幸信《詩人 西脇順三郎》(筑摩書房、1983年7月1日)の本扉とジャケット
鍵谷幸信《詩人 西脇順三郎》(筑摩書房、1983年7月1日)の本扉とジャケット

吉岡は《詩人 西脇順三郎》が刊行された6年後、鍵谷幸信の弔辞〈「善人」だったあなたへ〉(《現代詩手帖》1989年3月号)を書いている。鍵谷が亡くなったのは1989年1月16日で、直前の、昭和天皇が崩御した1月7日には実兄の長夫が病歿している。吉岡には多事多端な年明けだった。

 「永遠の旅人西脇順三郎詩・絵画その周辺」展が、今年の春、新潟市美術館で、催されることになっていますね。鍵谷幸信[こうしん]さん、その「晴れの日」を見ることなく、あなたは逝ってしまわれました。私をはじめ、その下準備をしてきた友人たちは、ただただ口惜しい思いと、とまどいを覚えております。なぜなら、あなたがその中心的人物だったからです。
 昨年の初夏の曇った午後、芝大門の「楓林」という中華飯店で、最終的な打合せの会をもちましたね。あなたは相変らず、コカコーラかジュースを飲んでいました。元気がないように見受けられましたが、楽しく話し合いましたね。これが鍵谷幸信との最後の別れになるとは、私は思ってもいませんでした。
 五年前のこと、詩集『薬玉』の歴程賞授与式の日、あなたは祝いの言葉を述べに、かけつけてくれましたね。後で聞けば、入院加療中の病院を抜け出して、来られたとのこと。その友誼の厚いのに、私も妻も感激いたしました。おそらく、友人すべてに対しても、あなたはこのように接して来たことと思います。すでに、「古色蒼然」と成った言葉、「善人」。――鍵谷幸信、あなたは「善人」でした。
 昨年の暮、あなたから一通の手紙を、貰いました。贈った新詩集『ムーンドロップ』の返礼として。〔……〕
 その手紙の終りに、近日中に出版される二冊の書物のことが、さりげなく認[したた]められています。詩論『芭蕉・シェイクスピア・エリオット』と、『西脇詩論のエッセンス』です。だがあなたは、手にしないまま、この世を去ってしまわれました。さぞかし心残りのことでしょう。
 鍵谷幸信さん、私いや私たちは心静かに、あなたの「最後の贈物」を待っています。
平成元年一月十九日

吉岡は「近日中に出版される二冊の書物」と書いているが、前者、西脇順三郎(鍵谷幸信編)《芭蕉・シェイクスピア・エリオット》(恒文社、1989年5月20日)の〈編集後記〉の日付が「昭和六十三年十二月十五日」だから、後者は未刊に終わったのだろう。だが、まったく手掛かりがないわけではない。7ページにわたる充実した前者の〈編集後記〉の終わり近くに、次の記載があるからだ。

 そして「〔プロファヌス→PROFANUS〕」「超自然主義」「詩の消滅」「超自然詩の価値」(『超現実主義詩論』所収)、「一般超現実的思考」「Saturaの文学」「ナタ豆の〔理→現〕実」(『シ〔ュ→ユ〕ルレアリスム文学論』所収)、「牧人の笑〔い→ひ〕」「輪のある世界」「文学青年の世界」(『輪のある世界』所収)、「詩の感覚性」「詩の内容論」「オーベルジンの偶像」「詩人の顔色」(『純粋な鶯』所収)、「詩と眼の世界」「詩の幽玄」「詩の〔内→外〕面と〔外→内〕面」「文学教養主義」(『梨の女』所収)、「現代詩の意義」「私の詩作について」「永遠〔(ナシ)→へ〕の仮説」「考えをかくすもの」(『斜塔の迷信』所収)、『詩学』「ポイエテス」「脳髄の日記」「剃刀と林檎」(『西脇順三郎全集第五巻』所収)などを読めば、芭蕉の軽みに似たウィットと諧謔で詩情のトータルを塗りこめ、禅でいう大空三昧の境地を求め、また「無の栄華」「無の壮麗」こそ詩美の極致とするに至ったこの詩人の理念が奔流している。詩作は西脇順三郎の場合、掛値なしにその実在、存在をよく示しているが、詩論、詩人論は作品をいつも支援する大きな挺子の役を果たしていることで重要な意味を担っていたといえるのである。(同書、三九六〜三九七ページ。題名・書名を底本の西脇順三郎全集に合わせて校訂した)

自身の病の篤いことを悟った編者は、西脇による詩人論と詩論のうち、詩論は構想だけでも書きとめておきたいと各篇の標題を上掲〈編集後記〉に象嵌した。おそらくは遺書として。同書の〈初出一覧〉に「※ 本書は、一九八二年六月より刊行された筑摩書房版『西脇順三郎全集』(全十二巻)収録のものを原稿とした」(同書、三八九ページ)とあるから、各人はそれぞれの西脇順三郎全集から《西脇詩論のエッセンス》を紡ぎだせば好いのだ(《定本 西脇順三郎全集》でいえば、第5巻・第6巻の諸篇が《西脇詩論のエッセンス》の底本となる)。鍵谷幸信は、その模範解答を書いた。


吉岡実の装丁作品(102)(2012年4月30日)

丸谷才一《みみづくの夢》(中央公論社、1985年3月25日)は《梨のつぶて》(晶文社、1966)、《コロンブスの卵》(筑摩書房、1979)に続く丸谷の第三文芸評論集。丸谷は文学に限らず、ジャンルに対する感覚が人並み外れて鋭いが、それは自身の執筆活動や著作のまとめかたにも反映している。《コロンブスの卵》の〈あとがき〉にある、《後鳥羽院》(1973)と《文章読本》(1977)は長篇評論、《日本文学史早わかり》(1978)は短めの長篇評論にいくつか附録のついたもの、《日本語のために》(1974)は政策論的なパンフレット、《星めがね》(1975)は解説ばかり集めたもの、《雁のたより》(1975)は文藝時評、《遊び時間》(1976)は短い文章のスクラップブックみたいなもの、という自作の規定がいい例だ。のちに編まれる《丸谷才一批評集〔全6巻〕》(文藝春秋、1995〜96)の各巻タイトルは、@日本文学史の試み、A源氏そして新古今、B芝居は忠臣藏、C近代小説のために、D同時代の作家たち、E日本語で生きる、で、本書《みみづくの夢》収録の11篇のうちの6篇が批評集に収められている(標題の〔 〕内は小林の補記、丸中数字は収録批評集巻数)。

  日本文学史をみわたす――@
  男泣きについての文学論――@
  里見クの従兄弟たち――C
  扇よお前は魂なのだから〔堀口大学論〕――D
  口笛〔石川淳論〕――D
  司馬遼太郎論ノート――D

つまり、採られなかったのは

  あの少年のハーモニカ
  四畳半襖の下張裁判二審判決を批判する
  大岡昇平
  王朝和歌二首
   袖の香
   しのぶ草
  拍手喝采〔シェイクスピアの《あらし》論〕

の5篇。〈大岡昇平〉はDに該当するが、〈あの少年のハーモニカ〉という《寒村自伝》論など、批評集に受け皿がないだけで、引用文で終える結末の余韻は類をみない。本書巻末の〈拍手喝采〉は冒頭の〈男泣きについての文学論〉を受けて見事な効果を挙げている。その〈男泣きについての文学論〉(初出は《群像》1983年2月号)に、吉岡実詩集《赤鴉》(1938年から40年初めにかけて執筆された和歌と俳句の集で、歌集は〈歔欷〉、句集は〈奴草〉と題され、刊行は歿後の2002年)を考えるうえで重要な指摘がある。

 芝居だつてさうでした。明治維新以降の代表的な劇作家を一人あげるとすれば、真山青果といふことになると思ひますが、彼の芝居では何と男泣きが多いことか。たとへば『江戸城総攻』の幕切れでは、麹町半藏門を望む濠端で勝安房守が山岡鉄太郎の両手を握りしめ、「ボロボロと涙を流す」。鉄太郎も泣く。『将軍江戸を去る』の幕切れでは、徳川慶喜は「暗涙」を浮べる程度ですが、山岡鉄太郎は「大地に両手をついて大聲に泣く」。彼は「うゝううゝ……」と何度も泣き、やがて「人々みな泣き、みな歔欷して……」幕となります。〔……〕/煩を嫌つて真山青果ひとりに止めますが、かういふ泣き落しの手は劇作家たちの最も愛好するところであつた。そして、彼らが男の泪をこんなふうに濫用したのは、お客がそれを怪しまず、むしろ歓迎したからであり、その背景には、客である男たちが実生活においてよく泣いたといふ事情があつたと思はれます。(本書、八〜九ページ)

歌集〈歔欷〉は1940年、吉岡の最初の著書である詩歌集《昏睡季節》収録にあたって手が入ったうえ、〈蜾蠃〔スガル〕鈔〉と改題された。スガルとはジガバチの古称で、細腰の少女がスガルオトメに喩えられるように、テーマは少女だ。「すすり泣き」から「少女」へ。〈歔欷〉の題辞「あかねさす昼は物思ひ/ぬばたまの夜はすがらに/ねのみし泣かゆ 宅守」は標題の典拠だろう。塚本邦雄に依れば「晝・夜の對比による戀の表現は八代集にも數多見える。能宣[よしのぶ]の百人一首歌「夜は燃え晝は消えつつ」も、その一例であらうが、宅守の作は第二句までが晝、第三句以下が夜と單純に分けられ、ゆゑに一途[ず]の思ひが迸[ほとばし]る感あり。「逢はむ日をその日と知らず常闇[とこやみ]にいづれの日まで吾[あれ]戀ひ居[を]らむ」も聯作中のもの。暗鬱で悲愴な調べは迫るものがある」(《清唱千首〔冨山房百科文庫〕》、冨山房、1983年4月27日、三〇八ページ)から、歔欷というより慟哭に近い。この題辞、《昏睡季節》の吉岡自作の〈序歌〉「あるかなくみづを/ながるるうたかた/のかげよりあはき/わかきひのゆめ」と同じ役目を担っている。吉岡はなぜ題名を変更し、題辞ないし序歌を差し替えたのか。主体の行為から、テーマとしての客体 へ。

 ところが、柳田〔国男〕が『涕泣史談』といふ講演をしてから約二十年後、日本人はさらに一段と泣かなくなつたし、男が泣く回数は非常にへつた。その結果、たとへば真山青果作の、号泣と慟哭にみちた芝居を若い歌舞伎役者が演ずると、役者もやりづらさうだし、客のほうもシラけるやうになつた。なぜかういふ風俗の変化が生じたかと言へば、日本人の言語能力が飛躍的に高まつたからであります。たとへば〔……〕自費出版の本を出す。かういふ状況はたとへば昭和十年代の日本とくらべれば大違ひでありまして、国民全体の言語能力の増大は疑ふ余地がありません。つまり一方でははつきりと泣かなくなり、他方では明らかに言語能力が上昇したのですから、言葉で表現できないから泣くのだといふ柳田の説の正しさは、見事に裏書きされてゐるわけです。そして、なぜ日本人の言語能力が高まつたかといふと、これはさまざまの要因の複合としてとらへるしかないでせう。(〈男泣きについての文学論〉、本書、二二ページ)

《昏睡季節》刊行の1940年は昭和15年、太平洋戦争開戦の前年で、なるほど丸谷の指摘のとおり、自費出版の本を出すことは今日よりはるかに困難であり、だいいち一介の文学青年が同人雑誌ではなく、私家版の著書を世に問うこと自体、珍しかっただろう(吉岡は《うまやはし日記》1939年5月15日の条に土橋利彦〔のちの露伴研究家・塩谷賛〕の弟・土橋鉄彦の《愛日遺藁》という書名を挙げてその文才を惜しんでいるが、同書は利彦が中心となって作っただろう鉄彦の「遺稿集」である)。これはなにに促された結果なのか。ひとつには吉岡実が知友と群れつどうことなく、自分の著述を一冊の書物にすることを希ったからであり、ひとつにはそれまでの勤務先の南山堂(医学の専門書を発行する出版社だった)が自費出版を可能にする環境だったからであり、付随的には、出征に際して友人たちから印刷用紙を餞別に貰ったからである。しかし、いちばん重要なのは戦地に赴くまえ、すすり泣くかわりに詩歌をものしたこと、著述したことそれ自体である。このとき吉岡は自分を中臣宅守になぞらえた《赤鴉》(の〈歔欷〉)から、それを胸の底に沈めて詩と和歌の集《昏睡季節》(の〈蜾蠃鈔〉)に移行した。吉岡は自らの言語能力を恃み、詩人であることを選択したのである。

丸谷才一《みみづくの夢》(中央公論社、1985年3月25日)の本扉・ジャケットと同《同〔中公文庫〕》(同、1988年3月10日)のジャケット〔デザイン:和田誠〕
丸谷才一《みみづくの夢》(中央公論社、1985年3月25日)の本扉・ジャケットと同《〔中公文庫〕》(、1988年3月10日)のジャケット〔デザイン:和田誠〕

本書の仕様は、一九一×一三一ミリメートル・二九〇ページ・上製丸背紙装・ジャケット。目次の裏に「装幀 吉 岡 実」とある。本稿を執筆するにあたって、文庫版で十数年ぶりに全篇再読した。丸谷のこの種の本に必ずある初出一覧がないので訝しく思ったが、はたして元版にはちゃんと載っている。文庫本の奥付裏広告(本来、奥付のあとのページ数を台割に合わせるための調整要素)を削ってでも、初出一覧がほしかった。よほどのことがなければ探索してまで初出を読むことはないが、「作者がいつどんな媒体(どんな特集)に発表したか」には、当該作品が著書に収まっている状態からはわからない些細な、だが決定的ななにかが含まれている。



大野晋(1919-2008)が編んだ最後の辞書《古典基礎語辞典》(角川学芸出版、2011年10月25日)の〈すがる〉に、次のような説明がある(執筆は西郷喜久子)。
〔解説〕蜂の一種。ジガバチ科の似我蜂[じがばち]の古名。黒く、胸と腹との境が細く、「腰細蜂」とも呼ばれ、姿はすっきりしている。獲物(青虫など)を殺さず麻痺させて地中の穴に入れてから卵を産みつけ、その幼虫の餌にする。そのため、中国では、似我蜂は他の虫の幼虫をとってきて「我に似よ」と言って自分の子として養うといい、日本でも似我蜂は捕らえた虫を地中の巣にくわえ込み養う習性があるという伝承がある。
〔語釈〕@スガルのように容姿が端麗であるさま。▽「胸別[むなわけ]の ゆたけき吾妹[わぎも] 腰細の 蜾蠃〔須軽〕娘子[をとめ]の その姿[かほ]の 端正[きらきら]しきに 花の如」〈万葉 一七三八〉。「水縹[みはなだ]の 絹の帯を 引帯[ひきおび]なす 韓帯[からおび]に取らし 海神[わたつみ]の 殿の蓋[いらか]に 飛[と]び翔[かけ]る 蜾蠃〔為軽〕の如き 腰細に 取り飾らひ」〈万葉 三七九一〉
A人名。〔……〕
〔参考〕中世の歌学書『八雲御抄』には「鹿……すがる、異名也」とある。野生の日本鹿は足が細く、全体的に見ても端正であるという。『古今集』の「すがるなく秋の萩原朝立ちて旅行く人をいつとかまたむ」〈三六六〉のスガルは、情景などから鹿を指すと考えられる。(同書、六三五ページ)
〈竪の声〉(J・2)の「わたしは注文があれば 三脚を担いで/断崖の上に立つ/そして「すがる乙女」を撮った」の「すがる乙女」は、蜂のようにも、鹿のようにも思える。


吉岡実の装丁作品(101)(2012年3月31日)

野原一夫《含羞の人――回想の古田晁》(文藝春秋、1982年10月25日)は、筑摩書房の創業者にして初代社長の古田晁(1906-73)を実録ふうに回顧した書きおろし小説。すでに古田の一周忌を期してまとめられた、その名も《回想の古田晁》(筑摩書房、1974)――新版は臼井吉見編《そのひと――ある出版者の肖像》(径書房、1980)――があった。同書と、古田の莫逆の友である臼井が帯文に「しかし経営の責任者としての古田には批判的な気持をもっている僕は、それに触れない古田讃歌になぞ声を合わせる気になれないと野原君に言った」と寄せた本書を対にして読めば、古田晁の全貌はほぼつかめる。野原は戦後、新潮社(編集者として太宰治の《斜陽》を担当)、角川書店、月曜書房を経て、1953年、筑摩書房に入社(吉岡実の入社は1951年)。当初、《現代日本文学全集》を編集責任者の百瀬勝登のもとで担当した。のちに古田の命を受けて〔第1次〕《太宰治全集〔全12巻・別巻1〕》(1955年10月15日〜1956年9月20日)を編集している。小説の「私」(すなわち野原その人)は太宰治全集の準備にどれくらいかかるか古田から問われて、こう答える。
「いちばん大事な仕事は本文校訂だと思います。原稿の残っている作品は原稿にまず当らねばなりません。ないものは発表雑誌からはじめて、初版本、再版本、すベてに当って、その間の異同を調べ上げねばなりません。その上で底本[そこほん]を何にするかを決め、ほかを参照して本文を決定していかねばなりません。この作業にかなりの手数がかかると思います。原稿と初版本、再版本は奥さんのお手もとに揃っているようですけど、発表雑誌は東大の図書館ででも探し出さねばならないでしょう。本文校訂に、一巻あたり一ヵ月、一ヵ月半、いや、もっとかかるかな。しかしこれは、実際に作業をはじめてみないと……。それから、散佚している書簡や随筆類を集めるのも一仕事です」(本書、一〇〇ページ)。
〈《筑摩書房 図書目録 1951年6月》あるいは百瀬勝登のこと〉で指摘したように、臼井吉見が企画立案した《現代日本文学全集》は筑摩の個人全集の編集・制作の方向性も規定したから、編集者主導の出版社の基礎はここで固まったといえるだろう。第10代の社長を務めた菊池明郎は《営業と経営から見た筑摩書房〔出版人に聞く〕》(論創社、2011年11月30日)で「どうしても会社の内情よりも著者のほうに顔が向いてしまい、著者の言いなりになってしまうのです。これは創業者の古田さんの意識と方針からきているわけですよ。著者の言いなりというのは、著者をひたすら立てていい本を作ることで、金に糸目をつけないというある意味での悪しき伝統がずっと残っていました。実際にぜいたくでいい本を作るんだけれども、原価率が高すぎるのです。それで原価表を出したりしても、理解できないわけです」(同書、九二ページ)と語っている。これは「「いかに本を普及させるかが著者に対する出版社の責任である」という営業の論理」(同前)を優先するなら当然の反応で(菊池は営業出身者として筑摩で初の社長)、良書さえつくれればよしとする風潮に流されがちな編集担当者との対立は避けられない。製作担当者の立ち位置も問題になる。筑摩書房で長く製作畑を歩んだ小川正久の回想《僕は少年社員――すべての少年と永遠に少年の心を持つ人に贈る》(文芸社、2000年12月1日)にこうある。

 製品(本)の進行状況をチェックし管理するために、製作部では「進行帳」というノートをつけていた。たとえば、Aという本の初校を戻して一週間後に再校が出ることになっているときは、実際に出ているかどうかを一週間後にチェックしなければならない。その進行チェックの仕方についても吉田〔広〕さんが教えてくれた。
 先に「現代日本文学全集」の特色のところでも述べたとおり、家庭や図書館での長期にわたる保管に耐えうるよう、丈夫でしっかりした本造りをめざしていた筑摩書房は、「永く愛蔵に堪えることを眼目として、印刷・製本・用紙に現代最高の技術を応用する」という方針を貫いていた。したがって、造本には非常に神経をつかっていた。用紙にしても繊維が長くしなやかで目方の重い特漉[とくづ〔ママ〕き]の用紙を使用していた。
 本がきちんと造られているかどうかを調べる方法についてもいろいろ教えてくれたのである。たとえば、本の背をはがすと分かるが、寒冷紗や細い糸で綴じられているのが見える。これを「かがり糸」といい、たいていの本は三本または四本のかがりになっている。当然、三本より四本のほうが丈夫に決まっている。本の見本本[みほんぼん]を業者の方が持ってきたときは、必ず「かがり」のチェックも忘れないように言われていた。
 三本使用の出版社も多かったが、筑摩の本はすべて四本であった。このことは製本業者の間では暗黙の了解になっていた。
 あるとき見本本の点検をしていて、かがり糸が三本になっていることに気づいた。昔から出入りしている業者なら、とくに言わなくても分かっているので、こんな間違いはないはずである。「おかしいな」と思っていたら、途中から参入してきた業者が持ってきたものであることが分かった。かがり糸の事故は、このときが最初で最後だった。(〈筑摩書房は最上の本造りをめざしていた〉、同書、一一三〜一一五ページ)

この「四本のかがり」を誠実な仕事と見るか、過剰品質と見るかは出版社内でも分かれるところだろう。原価率ひとつとっても、増刷の頻度や最終的な刷り部数は経験や実績をもとにした予測値に依りながら設計するしかないから、結果として個別のケースの解はありえても、事前に一般的な解が用意されているわけではない。一冊で完結する単行本でさえ原価がらみのパラメーターは数多い。まして全集(あるいは叢書)ともなれば、初回配本と最終回配本では部数も大きく異なるのがふつうだ。部数が落ちたからといって、シリーズの刊行途中で仕様や資材を変更するわけにはいかない。製作が重要となる所以である(筑摩書房が個人全集や《現代日本文学全集》などの叢書で出版界に地歩を占めていたことは、改めて指摘するまでもなかろう)。部数とリンクした原価設計と絡むため、立ち入った評は難しいだろうが、これからは吉岡実装丁を意匠の面だけでなく、用紙やクロスなどの資材面を詳述する必要があるかもしれない。《含羞の人――回想の古田晁》の仕様は、一八八×一三一ミリメートル・二三六ページ・上製角背紙装・ジャケット。奥付の対向ページに「カバー・扉カット 落合茂」、奥付に「装幀者 吉岡実」とある。全体の印象としては、

尾崎雄二郎・島津忠夫・佐竹昭広《和語と漢語のあいだ――宗祇畳字百韻会読》(筑摩書房、1985年6月10日)
丸谷才一《鳥の歌》(福武書店、1987年8月15日)
谷田昌平《回想 戦後の文学》(筑摩書房、1988年4月25日)
種村季弘《日本漫遊記》(筑摩書房、1989年6月20日)

といった四六判・上製・ジャケット装の単行本に近い。とりわけ《回想 戦後の文学》のカラーコーディネートは、「回想〜セピア色〜茶色系の色彩計画」という本書と同じ思考回路から生まれたように思われる。ジャケットの○[まる]に鳥(私には鵲[かささぎ]に見える)のカットは、青空をはばたく鷹をデザインしたあの筑摩書房のマークとなにか関係があるのだろうか。ないように思える。いずれにしても、吉岡実装丁における文芸書の定番スタイルの一冊である。

〔追記〕
著者〈あとがき〉に「この本を書くに当っては、〔……〕古田晁の周辺にいた筑摩書房の多くの人たちから取材をさせていただいた。(筑摩書房の旧社員、現社員はすべて仮名にさせてもらった。)」(本書、二二九ページ)とある。「広告部の責任者の吉原稔」が、旧社員・吉岡実の仮名だろう。

野原一夫《含羞の人――回想の古田晁》(文藝春秋、1982年10月25日)の本扉とジャケット
野原一夫《含羞の人――回想の古田晁》(文藝春秋、1982年10月25日)の本扉とジャケット


吉岡実の装丁作品(100)(2012年2月29日)

小説家・和田芳恵(1906-77)は樋口一葉(1872-96)の研究家でもあり、壮年時には塩田良平と共編で《一葉全集〔全7巻〕》(筑摩書房、1953-56)、晩年には責任編集者として《樋口一葉全集〔全4巻全6冊〕》(筑摩書房、1974-94)、と二度にわたって一葉の全集を編んでいる(それ以前にも、新世社版樋口一葉全集に関わっている)。多くの一葉研究書を著している和田だが、主著《一葉の日記》(筑摩書房、1956年6月30日)は、《一葉全集〔全7巻〕》の一葉日記を踏まえて書きおろされた。〈あとがき〉がその来歴を語って余すところがないので、全文を録する(本書、三四七〜三四八ページ)。原文は旧字旧仮名表記だが、後年の文庫版に倣って新字新かなに改めた。

 私の「樋口一葉の日記」(昭和十八年九月二十日発行、今日の問題社刊。のち、統合の結果、紀元社となり、そこから再版された。)は、「一葉の日記」と改題、改訂して、昭和二十二年七月二十日、隅田書房から刊行した。「樋口一葉の日記」は、書きおろした。
 今度の筑摩書房版「一葉の日記」は、題名こそ隅田書房版と同じだが、まったく、新しく書きおろしたものである。
 昭和二十八年八月十日に発行された筑摩書房の「一葉全集」(塩田良平共編、全七巻)は、現在、最終回配本の校正中だ。この筑摩書房版「一葉全集」の編纂に、実際にかかったのは、昭和二十七年秋からだから、完成までに足掛け五年もたったことになる。
 私は編纂実務担当者として、親しく樋口悦家、田中幸男家資料の外、知る限りの多くの基礎資料を見ることができた。
 また、東京大学図書館、上野図書館、明治新聞雑誌文庫、塩田良平・勝本清一郎・吉田精一諸氏私蔵書の外、多くの貴重書を見る機会に恵まれた。
 この「一葉全集」のために、力を借〔ママ〕してくれた人達の名は、とても、数えきれないほどだ。
 この仕事は地味であったから、いつも、生活の危機にさらされたが、多くの人達の温い援助で救われてきた。私は、「一葉全集」関係の仕事を終えようとして、云いようのない深い感動と疲れを感じている。
 私は、筑摩書房の「一葉全集」に従いながら、新潮社の一時間文庫に収めた「樋口一葉」と、筑摩書房の日本文学アルバムの中の「樋口一葉」を刊行した。この外、昨年の春に、角川文庫の一葉日記抄の編輯をした。文庫本二冊の予定で、脚註には、これまで不明であった日記の人間関係を調査して略記した。私としては、この「一葉の日記」が刊行される前に、当然、出版されるものと考えていたが、この夏頃に刊行の予定だそうだ。そのため、あまり重要でない人間関係は、この場合、触れなかった。
 この「一葉の日記」も、また、「一葉全集」の副産物といってよい。
 一葉の日記を読んでいない人達には、不都合なこともあろうが、一葉の日記の引用は、私が最初に書いた「樋口一葉の日記」の場合よりは少ない。また、ここに引用した日記の原典は、すべて、筑摩書房版「一葉全集」第三巻、第四巻に収めた「日記」に拠った。これが機縁になって、一葉の日記を読んで見よう と思われる人が、ひとりでも殖えたら著者のしあわせだ。
 「一葉の日記」は、一葉の数え年で章をわけている。全部、読み通したら、少しは重複する箇所もあろうが、その年さえ読めば、ほかの年を調べなくてもすむようにしたためだ。
 この著書が刊行されるために厚意を示された筑摩書房の土井一正氏に心から感謝いたします。
   昭和三十一年二月二十九日。東京都港区麻布森元町三丁目十番地 和田芳恵

吉岡実が1951(昭和26)年に筑摩書房に入社して和田を知った経緯は、〈和田芳恵追想〉に詳しい。同文では《一葉全集〔全7巻〕》の装丁に触れているだけだが、のちに吉岡の妻となった和田の長女・陽子は〈詩集『静物』のこと――稿本の寄贈にあたって〉で「昭和二十九年一月、私は筑摩書房に入社した。〔……〕/初出勤の朝「新しい職場で戸惑うかも知れないが社員の吉岡実さんは、江戸っ子で職人気質の良い人だよ」と父が言った。『一葉全集』の編集で筑摩書房に出入りしていたので内容見本作りや装幀、造本を手がけた吉岡と親しかったのである。後に父の著書『一葉の日記』の装幀もしている」(《日本近代文学館》190号、2002年11月15日、七ページ)と書いている。本書の仕様は、一七八×一二六ミリメートル・三七八ページ(うち、索引二四ページ〔巻末から逆ノンブルで横組〕)・上製丸背布装(金箔押し)・貼函。自著以外の単行本の装丁としては、グレアム・グリーン(丸谷才一訳)《不良少年》(筑摩書房、1952年5月20日)に次ぐ、最も早い時期の吉岡実装丁本になる。《不良少年》は難波田龍起の画を表紙から裏表紙まで回した清新な装いだったが、《一葉の日記》はヴィジュアル要素がいっさいない。唯一、函の背に筑摩書房のマーク(昭和15年、創業を記念して青山二郎が青空をはばたく鷹をデザインしたもの)が書名と同じ朱色で刷られているのが目を惹く。函の表4は、右下に小さく「筑摩書房版」とあるのみ。表紙は、背表紙にマークがなく、裏表紙に空押ししてある。本扉の書体が表紙や函の明朝体に対して楷書体(しかもかなり古風な)なのは、吉岡実装丁の異色といっていい。和田は小説家・研究者であるまえに小説雑誌や書籍の編集者(中島敦の《南島譚》を手掛けたことで知られる)だったから、本づくりにも好みがあろう。本扉の書体は和田の趣味かもしれない。本書は日本芸術院賞を受賞後、改題して《樋口一葉伝――一葉の日記〔新潮文庫〕》(新潮社、1960)、旧に復して《一葉の日記〔文芸選書〕》(福武書店、1983)、野口碩の〈補注〉を掲載した《一葉の日記〔福武 文 庫〕》(福武書店、1986)、《一葉の日記〔講談社文芸文庫〕》(講談社、1995)、同新装版(2005)など、何度も版を変え、装いを新たにして刊行されている。山本健吉は本書の〈解説〉で「おそらく、ここに一葉についてわれわれが知りうることのすべてが、書かれている。文芸批評としての一葉論なら、外にもいくらもありうるだろう。一葉の伝記としては、今後これ以上のものが出るとしても、これを無視して出ることはできないだろう」(和田芳恵《樋口一葉伝――一葉の日記〔新潮文庫〕》、新潮社、1960年6月15日、三一九ページ)と予言したが、正鵠を射ていよう。この和田の一葉研究家としての代表作は、最初の著書である《樋口一葉》(十字屋書店、1941)とともに、《和田芳惠全集 第四巻〔一葉研究〕》(河出書房新社、1978)に収められた。巻末の保昌正夫〈作品解題〉が「和田芳恵の一葉歴程のあらまし」(同書、三六六ページ)を記して、委曲を尽くしている。

和田芳恵《一葉の日記》(筑摩書房、1956年6月30日)の函と表紙 和田芳恵《一葉の日記》(筑摩書房、1956年6月30日)の本扉 和田芳恵《一葉の日記》(筑摩書房、1956年6月30日)の奥付
和田芳恵《一葉の日記》(筑摩書房、1956年6月30日)の函と表紙(左)と同・本扉(中)と同・奥付(右)

和田芳恵《一葉の日記〔普及版〕》(筑摩書房、1957年4月5日)のジャケットと表紙 和田芳恵《一葉の日記〔普及版〕》(筑摩書房、1957年4月5日)の本扉 和田芳恵《一葉の日記〔普及版〕》(筑摩書房、1957年4月5日)の奥付
和田芳恵《一葉の日記〔普及版〕》(筑摩書房、1957年4月5日)のジャケットと表紙(左)と同・本扉(中)と同・奥付(右)

本書は、先に触れたように、一葉の日記に基づくその「伝記」である。では、和田は一葉の日記をどうとらえていたのか。和田のエッセイ集《愛の歪み》(中央大学出版部、1969年7月25日)所収の〈立志〉(初出時の標題は〈樋口一葉論〉)にこうある。

 一葉を考えるために、大へん重要な位置をしめる日記は、一葉が意識しないで、自分の姿を私たち研究者に示すことになっているが、この日記に出てくる人間が五百人にあまり、一葉と附合っていた人たちの多くは、隣り近所の無名な人達のことだから、その人を調べるだけでも容易なわざではない。
 また、この日記を表面的にだけ読んで、ははあ、そうかと才子ぶった、うなずき方をするだけなら簡単なことだが、深く調べてゆくと、長篇の私小説とも考えられるこの日記は、事実をわからせなくするために書かれたものではないかと疑ってみたくなるほどだ。
 こまったことには、この日記には、大へん重要なことが書かれていない。重要だから、書かないのだと思われる。(同書、七ページ)
こうした観点からすると、吉岡の《うまやはし日記》(1990)の読み方にもまだいろいろな可能性が残されていることがわかる。《うまやはし日記》を基にした伝記の試み。吉岡生前未刊の《赤鴉》(1938年から1940年初めにかけて執筆)から最初の著書《昏睡季節》(1940年の秋に刊行)へ至る、吉岡実前史を跡づけることがそのハイライトになるだろう。

〔追記〕
日本近代文学館所蔵《一葉の日記》2冊のうち1冊は、奥付が1956年8月30日発行の「再版」で、見返しに「和田芳惠/見秋子様〔旁の下は「次」〕/惠存」と署名・献辞がある高見順寄贈本。もう1冊は、1957年9月30日「四版」と奥付にある改装本(後出の総目録では「普及版」)。初刊との相違は、貼函→ジャケット(この銀色のベタ刷りには驚かされる)、表紙が布装→紙装(カットは梅)、見返しがクリーム色→淡紫色、本扉はまったく別のデザイン(改装本の方が吉岡本来の作風に近い)。同館所蔵の改装本(こちらは筑摩書房の寄贈になる)は、奥付を印刷した最後の一丁を切って取りのぞき、索引対向の見返しページに貼奥付。《一葉の日記》の書影はみな初刊本で、改装本の書影を挙げている書誌は見たことがない。《筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991)に、次のように記載されている。

一葉の日記 和田芳恵著
    B6判/上製・函入/376頁
    1956年6月30日 480円

一葉の日記(普及版) 和田芳恵著
    B6判/上製/376頁
    1957年4月5日 280円

これを踏まえると、(1刷)は1956年6月30日の初刊本〔初版〕、(2刷)は8月30日の初刊本「再版」、(3刷)は1957年4月5日の改装本〔初版〕、(4刷)は9月30日の改装本「四版」のように思える。理由は不明ながら、改装本「四版」は(3刷)の奥付を一丁切り裂きで改造した本の可能性が高い。


吉岡実の装丁作品(99)(2012年1月31日)

1976(昭和51)年は吉岡実の詩集《サフラン摘み》が刊行された年であると同時に、吉岡実装丁の存在が広く読書界に知られるようになった年でもある。4月27日付《朝日新聞〔夕刊〕》に〈装丁でも才能発揮する詩人の吉岡氏〉(無署名)が掲載されたのである。吉岡の装丁については、それまでにも岡田隆彦〈装幀家・吉岡実〉(《出版ニュース》1973年6月上旬号)と栃折久美子〈吉岡さんの装幀〉(《ユリイカ》同年9月号)があるが、筑摩書房の個人全集を読むほどの一般読者が装丁家・吉岡実を認知したのはこの記事が最初だと思われる。一体に編集者の名は著者のあとがきで感謝とともに記されることが多いが、筑摩に限らず自社の刊行物に装丁者として社員の名を掲げることは原則的にない(ただし、次の(3)《柿の花》の奥付には「装幀 吉岡實」と例外的に明記されている)。吉岡はこの年、知られるかぎり《サフラン摘み》を含む10点の装丁をしている。そのうちの筑摩の書籍4点を《筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)から摘するが、そこにも装丁者名は掲げられていない(カッコ付数字の太字の見出しは《吉岡実書誌》のもの)。

(1)《中島敦全集〔全3巻〕》(筑摩書房、一九七六年三月一五日〜九月三〇日)
中島敦全集 編集委員 中村光夫・氷上英広/編集・校訂・解題 郡司勝義/全3巻 1976年3月―9月/A5変型判・上製・布装・貼函入・月報付/第1巻〔略〕/第2巻〔略〕/第2巻 増補版〔略〕/第3巻〔略〕

(2)竹西寛子《現代の文章》(筑摩書房、一九七六年六月)
現代の文章 竹西寛子著/四六判/上製・函入/244頁/1976年6月10日 1,200円〔略〕

(3)三好達治句集《柿の花》(筑摩書房、一九七六年六月三〇日)
句集 柿の花 三好達治著/限定500部/A5変型判/上製・函入/178頁/1976年6月30日 6,500円〔略〕

(4)天澤退二郎《《宮澤賢治》論》(筑摩書房、一九七六年一一月三〇日)
《宮沢賢治》論 天沢退二郎著/四六判/上製・函入/344頁/1976年11月30日 1,800円〔略〕/ISBN4―480―82087―6

これら、全集本から単行本まで、通常のエディションから限定版まで、いってみればどのような文芸書の装丁も可能な、膂力にあふれた時代の吉岡実装丁の「A5変型判/上製・函入」の一冊が、飯島耕一詩集《バルセロナ》(思潮社、1976年10月1日)である。本書の仕様は、二二二×一四六ミリメートル・一六二ページ・上製丸背クロス装・機械函。目次裏に「彫刻・デッサン……若林 奮/装幀…………………吉岡 実」と並記されている。思潮社にとって吉岡は一貫して(著者であり)外部の装丁家だから、同社の吉岡実装丁本には基本的にクレジットがある(例外的に《岡崎清一郎詩集》にクレジットがなかった件については、吉岡が岡崎宛の書簡で書いている)。《バルセロナ》にはあとがきがないので、ヴィジュアルや装丁(者)への言及もない。版元の思潮社は青土社から出る吉岡の新詩集《サフラン摘み》の刊行予定を知っていたに違いないから、おそらく多忙を極めた吉岡実装丁の順番待ちに率先して並んだとも思えない。ここは著者側の指名だと考えたい。そして、これは吉岡実の装丁ではなく著者の自装だが、大岡信詩集《悲歌と祝祷》が同じ1976年の11月1日、青土社から刊行されている。《鰐》の同人だった吉岡・飯島・大岡の三詩人の新作詩集が9月・10月・11月と踵を接して出版されたことになる。《バルセロナ》から引く。
孤独

酔った三好達治は
全身で孤独をあらわしていた
そこに さびしさの塊りがあった
わたしは 三好達治に批判的立場にあったが、
その孤独に対して
話しかけずにはいられなかった
ただの二回だったが……。
「装幀 吉岡實」の三好達治句集《柿の花》の挟込付録には、大岡信に加え、もう一人の《鰐》の同人である清岡卓行も執筆している。《鰐》が活動を休止して約15年。詩を離れた岩田宏の姿は三好達治の周辺に見えないが、奇しき偶然といえようか。

飯島耕一詩集《バルセロナ》(思潮社、1976年10月1日)の本扉と函
飯島耕一詩集《バルセロナ》(思潮社、1976年10月1日)の本扉と函


吉岡実の装丁作品(98)(2011年12月31日)

ガストン・バシュラール(渋沢孝輔訳)《夢みる権利》(筑摩書房、1977年2月20日)には《筑摩書房 新刊案内 1977 2》(1977年2月号の意)というB6判の左右がやや短い16ページの販促用冊子が挟みこまれている。表紙をめくると、《明治文學全集〔全99巻〕》が見開きで、次のページからは《中野重治全集〔全28巻〕》や《渡辺一夫著作集〔増補全14巻〕》といった大型企画が並んでいる。《夢みる権利》は1ページの五分の一ほどの大きさだが、井伏鱒二の《スガレ追ひ》と並んで、著者の顔写真入りで次のように紹介されている(《筑摩書房 新刊案内 1977 2》、七ページ)。

「夢みる権利●本邦初訳/翻訳権取得
ガストン・バシュラール/渋沢孝輔訳
世界は複雑であるよりもまえに充実しているのだと言い、哲学はみずからの揺籃期の構想に戻るべきだと明言していた人、ガストン・バシュラールの死後にまとめられた美術と文学と夢想をめぐるエッセー集。モネ、シャガール、バルザック、エリュアール、貝殻、紐の結び目についてなど。最適の訳者による彫啄〔ママ〕を重ねた日本語が、夢想と反省的思考との交点へ導く。 2500円/21日刊


吉岡が筑摩でつくった《図書目録》(1951)は活版印刷で、その後主流となった写植・オフセット印刷の指定は不得手としていたようだ(プロセスカラーの掛け合わせで色指定するのは好きでない、とは本人から聞いた装丁談義)。いずれにしても、写植・オフセット印刷の新刊案内の制作は同じ宣伝担当の部署でも、吉岡よりも若い世代の仕事だったに違いない。当時の吉岡の業務の中心はPR誌《ちくま》の編集で、1972年1月の第33号には訳者・渋沢孝輔の〈バシュラールの場合〉が掲載されている。新刊のプロモーションにしては早すぎるが、すでに本訳書が進行していたのだろう。〈訳者あとがき〉には、1970年に本書の翻訳を約束したとある。《夢みる権利》の仕様は、一八七×一三〇ミリメートル・三〇八ページ・上製角背布装・貼函。奥付には著者・訳者の次に「装幀者 吉岡実」とある。別丁本扉は、全面にレオナルドの〈聖アンナと聖母子(バーリントン・ハウスのカルトン)〉の聖母マリアの頭部をトリミングして敷いたうえに、書名・著者名・訳者名・出版社名をスミで載せている。函の画像は、表裏ともクロード・モネの〈ルーアン大聖堂〉の部分で、本文図版は後の〔ちくま学芸文庫〕で初めて収載された。前述の新刊案内の11ページめにはブルーノ・ナルディーニ(富永昭訳)《レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯》(筑摩書房、1976年12月25日)が掲載されているが、肝心のレオナルドは《夢みる権利》で言及されていない。このことから考えられるのは、訳者なり編集者なり装丁者なりが本扉に図像の必要性を感じて、レオナルドのデッサンを(言わばイメージカットとして)使用した――あるいはその逆。本文とは無関係だが、レオナルドのデッサンをどうしても使いたくて本扉に敷いた。後者の線で押していくと、《レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯》の刊行はあまりに符節が合いすぎていはしまいか。編集者(淡谷淳一)か装丁者(吉岡実)が発案して、訳者もそれに同調した、というあたりがいちばん実情に近い気がする。

ガストン・バシュラール(渋沢孝輔訳)《夢みる権利》(筑摩書房、1977年2月20日)の本扉と函 レオナルドのデッサン〈聖アンナと聖母子(バーリントン・ハウスのカルトン)〉
ガストン・バシュラール(渋沢孝輔訳)《夢みる権利》(筑摩書房、1977年2月20日)の本扉と函(左)とレオナルドのデッサン〈聖アンナと聖母子(バーリントン・ハウスのカルトン)〉(右)

吉岡は随想〈「官能的詩篇」雑感〉(初出:《季刊リュミエール》5号、1986年9月20日)で「つい最近のこと、ある画廊で、澁澤孝輔と行き合った。私は『骰子一擲』には、「性的イメージ」が色濃く出ているように思うと言ったら、「それはそうですよ」とこともなげに答える。たしかに、「宇宙全体」を投影すると謂われる、この詩篇には当然のことかも知れないと、私なりに納得した」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三六七ページ)と書いている。〈水のもりあがり〉(D・13)の詩人は《夢みる権利》の次のような箇所に感応しなかっただろうか。
無限へと順応する眼のための静穏と、つねに嵐――すぐ近くの入江の、人間の尺度に合った、必要とあれば子供の手の尺度にさえ合った嵐。実はここ、すぐ足もとで息絶えるこの波のなかでこそ、運動が根源的現実なのだ。ここでこそ水の運動はあなた方の挑戦力を目覚めさせ、あなた方にあらゆる戦いを挑んでくるのだ。/そのとき、すぐ傍に迫った波はどうしてふくれあがらずにいられようか。どうして海は鏡の平板さを保っていられようか。かくていまや、脚が、乳房が、喉が、あなた方に向かってふくれあがり、あなた方のほうへと押し寄せてくる。(〈風景の力学序説〉、本書、九二ページ)
《夢みる権利〔筑摩叢書309〕》(筑摩書房、1987年3月20日)は初刊の紙型を流用した、一種の改装本である。同叢書のサイズが単行本で最も多い四六判に対応したものであるのは、経済効率の面から考えれば当然のことだ。〈訳者あとがき〉(同書、三〇〇ページ)にこうある(一九七六年の日付のものは、初刊あとがきの末尾)。
〔……〕また筑摩書房編集部の淡谷淳一氏には、絶えざる督励やら助力やら、終始お世話になった。ここに、心からの謝意を表しておきたいと思う。

   一九七六年十二月二十日
渋沢孝輔

 本訳書の初版刊行以来ちょうど十年。熱心な読者からの持続的な要望がありながら久しく品切れ状態になっていたが、この度編集部のありがたい配慮によって筑摩叢書の一冊に加えられることになった。この十年のあいだにも思潮の交替は相変らずめまぐるしく賑やかであるが、「人間性の最深部のこだま」を聴かせてくれ、「宇宙に触れる機会」をはっきりと与えてくれるような心のへの渇きはいよいよ強くなっているのではないだろうか。そのような渇きに応えるものとして、本書がさらに多くの読者に迎えられるならば幸いである。

   一九八七年二月十日
訳者
〔筑摩叢書〕に入ったことで《夢みる権利》も安住の地を得たかに見えた。だが、1992年に同叢書は終了した。その後、訳者が1998年に歿した翌年、〔ちくま学芸文庫〕に収められた(ちなみに、叢書版の1年半後の1988年9月にやはり淡谷淳一の手で〔筑摩叢書〕に入った吉岡実の《「死児」という絵〔増補版〕》は、〔ちくま学芸文庫〕にも、〔ちくま文庫〕にも入っていない)。《火の詩学》(せりか書房、1990)の訳者・本間邦雄は同文庫の〈解説〉を「本書は、バシュラールの思考や夢想がさまざまな領域において自在に発揮され、訳者の名訳ともあいまって、夢想をめぐるバシュラールの文字通りの好著となっていると言えるだろう。〔……〕そして冒頭にも触れたように、今回の版において本書の第一部に新たに多くの図版の組み入れが実現したことが、文庫版として読者の手にとりやすいかたちで刊行される点と合わせて、とりわけ意義深いことと思う次第である」(《夢みる権利〔ちくま学芸文庫〕》、筑摩書房、1999年8月10日、三四六ページ)と結んでいる。


吉岡実の装丁作品(97)(2011年11月30日)

岩田宏詩集《頭脳の戦争》(思潮社、1962年7月1日)は外装からは単行詩集のように見えるが、奥付にあるように「現代詩人双書/第五冊」である。奥付裏広告には〈現代日本詩集〉〈現代詩人双書〉〈現代詩論研究〉の三シリーズが掲げられており、〈現代詩人双書〉はこうなっている。
現代詩人双書
B6判上製
以下続刊

第一冊 高野喜久雄/存在 三六〇円〔1961年5月1日、装丁:鳥居良禅〕
第二冊 嶋岡晨/人間誕生 三二〇円〔1961年10月1日、表紙デッサン:草野心平、写真・装画:嶋岡晨〕
第三冊 関口篤/われわれのにがい義務 三二〇円〔1961年8月1日、装丁:梅村豊〕
第四冊 栗原まさ子/復活 三六〇円〔1962年5月1日〕
第五冊 岩田宏/頭脳の戦争 四〇〇円〔実際の定価は四八〇円〕

同シリーズは翌1963年までに全10冊が刊行されたようだ。第6冊が風山瑕生の《自伝のしたたり》(1962年11月1日)、第7冊が角田清文の《衣裳》(1963年10月1日)、第8冊が中江俊夫の《20の詩と鎮魂歌》(1963年12月1日)、第9冊が笹原常与の《井戸》(1963年12月25日)、第10冊が石原吉郎の《サンチョ・パンサの帰郷》(1963年12月25日)で、これらの詩集の装丁はシリーズ性が皆無である。下の写真を見てわかるとおり、岩田の《頭脳の戦争》と石原の《サンチョ・パンサの帰郷》が同じ叢書だとは思えず、単行詩集と見誤ってもやむをえない。「四六判・上製角背・ジャケット装」という仕様が共通するだけで、ジャケットのデザインを含めて、装丁はフリーハンドだったかもしれない(表紙と見返しに同系色の用紙を使う点も共通する)。

岩田宏詩集《頭脳の戦争》(思潮社、1962年7月1日)の本扉とジャケット 石原吉郎詩集《サンチョ・パンサの帰郷》(思潮社、1963年12月25日)のジャケット
岩田宏詩集《頭脳の戦争》(思潮社、1962年7月1日)の本扉とジャケット(左)と同じ〈現代詩人双書〉の石原吉郎詩集《サンチョ・パンサの帰郷》(同、1963年12月25日)のジャケット〔出典:弘南堂書店

《頭脳の戦争》の仕様は、一八六×一二八ミリメートル・一九二ページ・上製角背紙装・ジャケット。目次の最後に「イラストレーション/真鍋博」「デザイン/吉岡実」とクレジットされている。大岡信編《日本現代詩大系〔第13巻〕――戦後期(三)》(河出書房新社、1976年7月15日)には《頭脳の戦争》から〈永久革命〉〈感情的な唄〉〈ブルース・マーチ〉〈動物の受難〉の4篇が抄録されていて、末尾の書誌には「〔「頭脳の戦争」・岩田宏著。昭和三十七年七月一日、思潮社発行。体裁・185×126上製。装画・真鍋博。装幀・吉岡實〔ママ〕。目次三頁、本文一八〇頁。定価四百八十円〕」(同書、二五七ページ)とある。〈現代詩人双書〉への言及はなく、単行詩集と認識していたか(発行者の小田久郎自身、あとで引用する文章で「単行詩集」と書いている)。冒頭の詩篇〈永久革命〉を追い込みで引こう(初出は1959年8月の《鰐》1号)。
ある夕方 昔の喧嘩は/夕日があなやと一声叫ぶうちに/ほそくなり 長くなり するどくなり/ぼくの耳とあのひとのくちびるを必死にむすぶ/数万メートルの電線になる ほかの約束は/みんな燃えてる 銀行のカナリヤのように/革命ばんざい ぼくらふたりの!

誰も彼もが赦しあい ぼくらふたりは/甘いくらやみのなかで煎じ薬を飲んだ/女たちはいっせいにでんぐりがえり/ひよわい男は一ふさの蜂の巣にありつこうと/しきりにぼくらの股をこすった あのひとは/豚の視線で恋愛を語り こちらはむこうを/トンカツのように吟味する 爆竹を鳴らそう/革命ばんざい 万人のための!

そして憲法がいびきをかき 番人どもが/焚火の底から金歯やカンザシを拾うとき/ぼくはふたたび唐突にあのひとを棄てるだろう/親指を見せ 舌を出し 猛烈にわめくだろう/「すべての道は老婆に到る! さもあらばあれ/文体よりも軍隊にきをつけてくれ おさらばだ/革命ばんざい 永久革命ばんざい!」
〈永久革命〉で想いだされるのが1960年4月4日の吉岡の日記に出てくる〈鰐叢書〉だ。「六時から鰐の会。〈鰐叢書〉二十冊刊行決定。第一冊は岩田宏詩集《永久革命》次は吉岡実詩集《ライラック・ガーデン》。三冊目、大岡信の詩とエッセイ集《声のパノラマ》。次は飯島耕一詩集《睡眠》。五冊目は清岡卓行初期詩集。小B6判三十二頁の小冊子」(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一二三ページ)。鰐の会はここに登場する五人の同人から成り、〈鰐叢書〉には瀧口修造詩集の企画も挙がっていた。しかし《鰐》の発行元・書肆ユリイカの伊達得夫の急逝により、同叢書は一冊も世に出ることなく終わった。詩集発行のタイミングからいって、岩田の《永久革命》は本書に――岩田が《鰐》に発表した10篇のうち、〈永久革命〉や〈感情的な唄〉など7篇が《頭脳の戦争》に収録されている(毎号、創作詩を載せているのは岩田ただひとり)――、吉岡の《ライラック・ガーデン》は《紡錘形》(草蝉舎、1962、カット:真鍋博)に、発展的解消を遂げたものと考えられる。ただし、詩篇〈ライラック・ガーデン〉(I・3)は《紡錘形》には収録されず、1980年、書肆山田刊の拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》まで単行詩集には入らなかった。
 一方、この年〔1962年〕、単行詩集としては、岩田宏の『頭脳の戦争』を七月、吉岡実の『紡錘形』を九月に出版した。吉岡のは、私家版として吉岡が作ったものの発行、発売を引受けただけだったが〔奥付では、発行は草蝉舎で発売が思潮社〕、思潮社が受託していた部数をあっという間に完売してしまった。やさしければ売れる、むずかしいものは売れない、というのはまったくの俗説だ、ということを私はいまから三十二、三年前、詩書出版をはじめて間もないころに体験し、会得してしまったのである。(小田久郎《戦後詩壇私史》、新潮社、1995年2月25日、二四九ページ)
1961年1月16日の伊達得夫の死は、五人の同人が小田久郎の思潮社との関係を深めてゆくきっかけとなった。ちなみに《鰐》同人それぞれの詩業を集成した「全詩集」は、〈鰐叢書〉でトップバッターだった岩田宏の《岩田宏詩集》(思潮社、1966年4月15日)が最初である。

〔追記〕
結果的に最終号となった《鰐》10号(鰐の会、1962年9月)の〈編集後記〉の下部に、吉岡の《紡錘形》、岩田の《頭脳の戦争》、清岡卓行の《日常〔現代日本詩集4〕》(思潮社、1962)の三詩集の広告が掲載されている。前掲《日本現代詩大系〔第13巻〕》の書誌には「〔「紡錘形」・吉岡實著。一九六二年九月九日、草蝉舎発行。体裁・フールス判並製。カット・真鍋博。目次三頁、本文七八頁。定価四百円〕」(同書、二一一ページ)、「〔「日常」・清岡卓行著。一九六二年八月一日、思潮社発行。体裁・A5判並製。装幀・真鍋博。目次二頁、本文七三頁。解説(吉本隆明)七頁、年譜一頁。定価三百六十円〕」(同書、二二五ページ)とあり、《鰐》と真鍋博(1号から9号まで、表紙の鰐のイラストを担当)、《鰐》と思潮社の親密さをうかがわせる誌面となっている。


吉岡実の装丁作品(96)(2011年10月31日)

渡辺武信詩集《過ぎゆく日々》(矢立出版、1980年10月25日)は、伊良波盛男詩集《ロックンロール》(同、1981年2月20日)に先立って同社から刊行された詩集で、矢立出版の吉岡実装丁本はこの二冊だけである。本書の仕様は、二一〇×一二八ミリメートル・七八ページ・上製角背継ぎ表紙(平:紙、背:クロス)・機械函。挟みこみ往復はがきの出版案内には「「過ぎゆく日々」渡辺武信詩集/A5変型・七五頁・本文コットン紙、函入、装丁吉岡実、一八〇〇円。渡辺さんの七年ぶりの詩集です」とあり、本書の帯文は「〈記憶〉の闇の方へ/日を送り季節を送る時のよどみに身をひそめて、詩人は夢み、そして帰ってゆく。著者8年ぶりの新詩集。」と謳う。標題作〈過ぎゆく日々――葉子に〉を追込みで引こう(改行は/)。
一九三三年から踊り続けた/アステアとロジャースは/しなやかにもつれあいながら唄っていた/雨に降られて閉じこめられて/ここにいるのは素敵なことだ/ここにいるのは素敵なことだ と/
蜜月に許された/華麗な音韻を踏んで/あらゆるささやきが/唄のように鳴る時の円蓋の内側に/閉じこめられたぼくたちは/果てしなく続く映画のあいまに/少しばかりワインを飲んだ/ロジャースとアステアを思って/少しばかり踊った/
ぼくたちの抱擁をめぐって/ゆったりとよどんでいた時間は/不意に/輝く歯を遠くつらねて奈落を見せる/そんな夜々をわたっていくために/どんな遠くでぼくたちが出会ったか/知らずに微笑するきみの前で/記憶をギターのようにかき鳴らし/古い唄のパロディを聞かせよう/〈一晩中でも踊れたろうに〉/〈霞[かすみ]の彼方へ行かれたものを〉/
窓ガラスを洗う雨を見つめて/ワインを飲んだ日曜目の午後/それが 素敵であってもなくっても/ぼくたちは ここにいた/この世界に閉じこめられて/おとなしい病巣のように/ひっそりと座っていた
渡辺武信の近刊に《移動祝祭日――『凶区』へ、そして『凶区』から》(思潮社、2010年11月25日)がある(一一六ページには1968年8月20日、渋谷のネイヴィ・クラブで開かれた天沢退二郎のフランス留学歓送会での天沢・吉岡・大岡信のスナップ写真を掲載)。《凶区》は渡辺が創刊同人のひとりだった詩誌で、吉岡は同誌15号(1966年10月)に「ゲスト作品」として〈ヒラメ〉(E・13)を寄稿している。吉岡実詩の初出としてはおそらく最も簡易なタイプ印刷であるにもかかわらず、それを感じさせない誌面になっている。吉岡は《凶区》について1985年3月2日の日記に「小雨。夜、神楽坂の鳥茶屋へ行く。天沢退二郎の高見賞受賞の内祝いの会。「凶区」同人のほかは、大岡信、入沢康夫、渋沢孝輔、金井美恵子・久美子、山本道子そして、土方巽と芦川羊子という、小さな祝宴」(《土方巽頌》、一八二ページ)と書いているが、渡辺武信に触れた文章は見当たらない。

渡辺武信詩集《過ぎゆく日々》(矢立出版、1980年10月25日)の函と表紙
渡辺武信詩集《過ぎゆく日々》(矢立出版、1980年10月25日)の函と表紙


吉岡実の装丁作品(95)(2011年9月30日)

平林敏彦詩集《水辺の光 一九八七年冬》(火の鳥社、1988年6月1日)は、第一詩集《廃墟》(書肆ユリイカ、1951)に続く《種子と破片》(同、1954)以来34年ぶりとなった平林の第三詩集。このインターバルがどれほど長かったかというと、吉岡実の戦後最初の詩集《静物》(1955)から生前最後の詩集《ムーンドロップ》(1988)までの――つまり吉岡の戦後の全詩集にほぼ等しい――年月に匹敵する。本書は2部に分かれ、〈A〉は「1987〜1988」の最近作、〈B〉は「1955〜1958」の、第二詩集にそのままつながる時期の作品を収める。〈B〉の冒頭詩篇〈春〉の末尾3節を引く(後出現代詩文庫所収のテキストは、改行箇所や詩句の一部が《水辺の光 一九八七年冬》とは異なる)。

おれは書物をひらく 黒いうぶ毛の生えている頁
草の実が汗でべっとりはりついた頁
おれは爪をはがす ひらたくなめす 切れ味悪いペーパーナイフ
するとぞろぞろ 植字の海へ出入りする厄介な連中に行き会うのだ
頬のそげた 陰気な女をベッドヘ追いやる 隣にかみきり虫を投げる
青い汁が女の臀を汚すまで せめて静かな時間よ ここに置いてくれ
もうひとり 男前の音楽家はおれを見るなり鼻をつまんだ
あいつは単に おれの恋人が美しすぎるという理由で
このおれを買いかぶっているのだ
孤独だよ 偽善者だよ おまけに詩人だよおれは とでも言えば
あの男の自尊心はみたされるのだから

世界のいちばんはしっこを おれは歩く
おれの不幸は捨てにくい物ばかりを抱えこんでいることだ
なのに汚れ物の中にしか 見分けがたく明日も未来というやつもない
踏みはずしてみろ 誰のせいとも言わず踏みはずすのが革命さ
何もない皿の上で 批判がきいきい音をさせてナイフを使っている
おれは梯子にのぼって 町を見下ろす
どの家のドアにも封印がしてあって
厨房では女たちがかすかな燠を吹いている

しかし世界は 一日一日あたらしい
明日は美しかったものほどいぎたなく 慰めが欲しいと喚くだろう
そのときおれは 聞いてやる耳を持たない それからはたぶん
一人が一人でいられるだろう
おれたちはあたらしい一日の表紙の手ざわりを 空想する
そして真直に 明るい未知の森に入っていくのだ

本書の仕様は、二〇九×一四八ミリメートル・一二六ページ・上製丸背クロス装・ジャケット。特筆すべきは別丁本扉のレイアウトで、通常なら横組で「平林敏彦詩集/水辺の光 一九八七年冬/〔カット〕/火の鳥社」とでもしそうなところを、「詩集 水辺の光 一九八七年冬 平林敏彦 火の鳥社」とすべての要素を縦一行に組んだうえ、カットまで収めている点が吉岡実装丁にしては珍しい。本扉の刷り色は「詩集」とカットが茶色、ほかは灰色。小扉の裏に「装幀 吉岡実」「カット 落合茂」とある。同時期の安藤元雄詩集《夜の音》(書肆山田、1988年6月10日)と並んで、最後の落合茂カット=吉岡実装丁本だと思われる。巻末の〈覚書〉に「この詩集が出る契機を与えてくれたのは『わがデウカリオン』の詩人太田充広氏の友情であったが、加えて序文を寄せてくださった長田弘氏、装幀をわずらわせた吉岡実氏、制作について助言をいただいた小田久郎氏の一方ならぬご厚意に対して深く謝意を表したい」(本書、一一九ページ)とある。一方、現代詩文庫版詩集の〈エッセイ〉として書きおろされた文章には、次のようにある。

「水辺の光一九八七年冬」という新詩集のタイトルには一条の光を求めて起ち上がる自分の思いを込めた。装幀は吉岡実が手がけ、長田弘が一文を寄せた。旧知の中村真一郎や「今日」の仲間が出版記念会でそれぞれの感慨を述べてくれたが、その夜都合で出席できなかった田村隆一の「永い沈黙、詩人にとって必要なことは、その沈黙が詩の母胎になることでしょう。これからはその成熟を生かして、ぞくぞくと詩を書いてください。自分自身のために、自分の中の他人にむかって」というメッセージは、怠惰な歳月を引きずってきたぼくの胸にしみた。(〈Memorandum〉、《平林敏彦詩集〔現代詩文庫142〕》、思潮社、1996年9月1日、一三七ページ)
平林には《戦中戦後 詩的時代の証言――1935-1955》(思潮社、2009年1月10日)という労作がある。戦中戦後の吉岡実について「その後の吉岡はチチハル、ハルピンと各地の部隊を転々し、一九四五年四月、満洲から朝鮮半島の済州島へ渡った。すでに敗戦直前、空爆を逃れて山奥へ移動しながら飢えをしのぐために、斃れた軍馬の屍肉をむさぼることさえあったという。そしてむかえた八月十五日。吉岡実の詩の多くにいたましい死の影がまといついているのは、意識するか、しないかは別として、むざんな戦争の原体験によるものではないかという見方もあるだろう。/現地で米軍に武装解除された吉岡は、その年十一月に復員。廃墟になった東京へ帰ってきたが、彼が軍隊生活の大半を過ごした満洲に残された部隊の将兵多数は、侵攻したソ連軍の捕虜になって、シベリアヘ送られた」(同書、九二〜九三ページ)と、ゆきとどいた筆で書いている。

平林敏彦詩集《水辺の光 一九八七年冬》(火の鳥社、1988年6月1日)の本扉とジャケット
平林敏彦詩集《水辺の光 一九八七年冬》(火の鳥社、1988年6月1日)の本扉とジャケット


吉岡実の装丁作品(94)(2011年8月31日)

林哲夫さんのブログ《daily-sumus》(2008年10月12日) の〈宝篋と花讃〉に こうある。――江森国友詩集『宝篋と花讃』(母岩社、一九七一年)。吉岡実装幀。装画は日和崎尊夫。この小口木版画の作家については日和崎尊夫の木口木版画というサイトに詳しい。小生が武蔵美に入った七十年代の中頃にはちょうど売出中の版画家だったように思う。中央線のどこかの駅(国分寺だとばかり思い込ん でいたのだが、自信がなくなった)の南側だったか、画廊などありそうもないような場所の小さな画廊で個展を見た記憶がある。作者も会場にいた。みょうに はっきりとその場面を覚えている。小口木版という技法もその幻想的な作風もかなり目新しいものだった。――吉岡実は江森国友詩集《宝篋と花讃》(母岩社、1971年5月1日)にも触れながら、江森國友の詩業について次のように書いている(原文は句読点がコンマ・ピリオド方式の横組だが、テン・マル方式に改めた)。

古代の書の一章句――蓋し木の葉の類と人類は同じもの――という理念を、江森國友は信奉しているようだ。なぜならば、初期詩篇から一貫して、自然と人間との交感を謳いつづけているからだ。それも独自の書法で、詩的想像力と科学的知識を融合させ、作品の重層化を試みている。《宝篋と花讃》の〈抒情詩〉はその代表作といえようか。しかし観念的な要素も多く、難解な一面もたしかにあるのだ。東洋的情念を映発する《慰める者》や《花讃め》を経て、父性の愛とエロスを詠う《幼童詩篇》が、美しい休止符となる。そして、今までの作品営為の集大成ともいうべき、連作詩《山水》が書かれた。――幻視のうちに胎蔵された、風雅――。(《江森國友詩集〔現代詩文庫84〕》、思潮社、1985年12月1日、表紙4)
《宝篋と花讃》の〈抒情詩〉(初出は《無限》14号、1963年10月)から第5節(改行箇所は/で表示)と1行だけの最終節を引く。その伸びやかな筆づかいは、吉岡の詩集《神秘的な時代の詩》(1974)を想い起こさせる。なお、「《詩は〈存在〉の柱頭に花咲かすもの》」の山括弧(《 》と〈 〉)はフランス語のギュメすなわち屈曲型の引用符に倣った由緒正しい用法で、これらを吉岡実や私のように書名や作品名に用いるのは、日本語では一般的でない。
羊歯の巾5mmの前葉体の裏で/雄の力が500倍の距離を螺旋状の肉芯と繊毛につつまれて泳ぎつく/縄文の壺状の卵子と抱接して 太陽のかすかな光りをかりる/光りを必要とする植物の反応が生長点へ開花物質をうつす/内部では胚珠が わかい雄蕊の初生突起をゆすりあげる/蛟母草と留 紅草のあいだにといた髪を流して岸によせる/流れる中心でワイセツな柱頭を押し挙げる娘たち!/ランタナ ヒビスカスの赤い花弁/淡黄色のビニール製の耳 覆いのついた水泳帽子/肉体の三つの部分を黒いダイヤで繋ぐ水着[ジヤンピング・ルツク]/水を蹴るとかすかに中身をのぞかせて唇門をひらく/うすい顎 [おとがい]/鹿の園生 鹿の女の髪は瞳色の蓮花のように黒く 深桃色に割れる穹窿は匂いまで蓮花のように/丘の辺の肩甲骨が/球橋部に少年を引きこんで /ふっくらした叫びを青い流れに浮べる/オレンジの香ばこを網状体が最初に濡らすとき/乳頭の日暈に少年が犬歯をあてる/眩暈が拡がると彼の内腿は変色し  質問が/紫の夢に虹色の輪をかさねる/春の賦活が光りの直接の刺戟によるという智慧の書もかりてみる それはあらゆる感情の基礎だ

《詩は〈存在〉の柱頭に花咲かすもの》
《宝篋と花讃》の仕様は、二一四×一三四ミリメートル・一六二ページ・並製フランス装・機械函に貼題簽。目次の末尾に「木版画=日和崎尊夫」「装幀=吉岡 実」と二行にわたってクレジットされている。《宝篋と花讃〔限定版〕》の仕様は、二一三×一三二ミリメートル・一六六ページ・上製角背総革[バックスキン]装(オリジナル木版画をオフセット印刷した紙片を貼付)・貼函。限定54部(印刷奥付ページの余白に「限定54冊之内/第○番」と○の数字をナンバリングマシンで印字した紙片を貼付)。著者と版画家の署名入り別丁とオリジナル木版画の別丁、計二枚が本扉(通常版と同じもので、円いカットは函の絵の一部をトリミングして流用)の前に入っている。本文用紙は通常版とは別。表紙貼付の絵柄と同じオリジナル木版画が「しおり」として添付されている。
のちに母岩社から刊行された《高柳重信全句集》(1972年3月7日)も通常版と限定版の二種類があり、二種類とも吉岡実装丁である。ところで、通常版と限定版が本扉・見返し・表紙・ジャケットや函といった外装だけ異なるというのは、なにか騙されたような気がしないだろうか。これでは改装本と言わねばならない。本文の版が同じなのはいいとして、オリジナルの版画が口絵に入るような特装版の場合、本文用紙も通常版よりグレードの高い、それなりのものであってほしいと思うのは私だけではないだろう。その点、本書〔限定版〕は総革角背にもかかわらず、本文用紙が通常版よりもやわらかくて開きぐあいがよく、通常版と別にもつことの喜びが味わえる一冊になっている。本扉対向のオリジナル木版画が本書の世界を豊かなものにしていることは、改めて指摘するまでもない。惜しむらくは、奥付の限定記番を活字で色刷りするといった細かな配慮がほしかった。

江森国友詩集《宝篋と花讃》(母岩社、1971年5月1日)の函と表紙 江森国友詩集《宝篋と花讃〔限定版〕》(母岩社、1971年5月1日)の函と表紙 江森国友詩集《宝篋と花讃〔限定版〕》(母岩社、1971年5月1日)の本扉・口絵
江森国友詩集《宝篋と花讃》(母岩社、1971年5月1日)の函と表紙(左)と同〔限定版〕(同、同日)の函と表紙(中)と同書の本扉・口絵(右)

《宝篋と花讃》のフランス装の表紙画と《宝篋と花讃〔限定版〕》の貼函の画は同じもので、日和崎尊夫版画集《薔薇刑》(美術出版社版画友の会、1970)全12点の木口木版画(限定100部、A.P.10部、寸法:27.5×23.0cm)のうちの1点が転用されている。《宝篋と花讃》に日和崎尊夫の木版画が用いられたのは、同書の存在が与って大きかったものと思われる。


吉岡実の装丁作品(93)(2011年7月31日)

吉岡実は伊達得夫の書肆ユリイカから《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》を刊行した1959年8月、飯島耕一(1930- )・岩田宏(1932- )・大岡信(1931- )・清岡卓行(1922-2006)とともに同人詩誌《鰐》を創刊した(終刊は1962年9月の第10号)。《鰐》同人の詩業を集成した最初の「全詩集」 はそれぞれ《飯島耕一詩集1・2》(小沢書店、1978)、《岩田宏詩集》(思潮社、1966)、《大岡信詩集》(思潮社、1968)、《清岡卓行詩集》 (思潮社、1968)、《吉岡実詩集》(思潮社、1967)で、飯島だけ10年ほど後になっているが、1971年に2巻本「全詩集」の第1巻だけ出たこと がある。飯島耕一詩集1《他人の空》(山梨シルクセンター出版部、1971年10月20日)がそれで、月報〈飯島耕一・人と作品〉に編集部が「長らくお待 たせいたしました。飯島耕一全詩集(全二分冊)のうち飯島耕一詩集1『他人の空』をお送りいたします。なお来春には飯島耕一詩集2『見えるもの』として詩 集『夜あけ一時間前の五つの詩 他』『三つの超現実の夜』『私有制にかんするエスキス』『プロテ』『椅子の記憶 他』に未刊詩篇を加え、さらに大岡信氏に よる書き下ろしの本格的な飯島耕一論が収められて刊行の予定です、ご期待ください」(月報、一六ページ)と書いている。第2巻が出なかった理由は不 明だが、小沢書店版は本企画を拡充したものと考えられる(装丁は吉岡ではないが、表紙のカンバス系のクロス装といい、その色といい、未完に終わった企画を 成就させたように映る)。
本書の仕様は、一八六×一二八ミリメートル・二四二ページ・上製丸背クロス装・機械函。本体がカッチリしている割に、函は簡素に 過ぎよう(神田の古書店で求めた一本はかなり傷んでおり、貼函のほうがよかった)。函の表4には「San-Rio」とロゴが記されているが、発行所は 1973年までは山梨シルクセンター出版部の名で、74年以降はサンリオ出版の名で活動を続けている。
難波律郎は〈回想の飯島耕一〉で吉岡に触れ ている。「一九五四年、はるか遠い夏の日。詩誌『今日』を出したばかりの頃で、平林敏彦、山口洋子の夫婦をのぞけば皆独り者の、だがそろそろ生活を立てね ばならぬ端境期の休暇を、それぞれの仕方で楽しんでいたように思う。その頃飯島は筑摩書房でアルバイトをしていたが、「筑摩には吉岡さ んという、すごくいい詩を書く人がいるぞ」としきりに言っていた。彼が月の石を発見したように言っていたその吉岡さんが吉岡実であって、たしかにそれは発 見であった」(本書・月報、一〇ページ)。月報には金子光晴や谷川俊太郎(〈呼びかける声〉に「日本語のむこうにフランス語が透けて見えていた人間と、日 本語しかもち得なかった人間とのちがい――今でも私は時々飯島が日本語の能力に私などのもつことのできぬ幻想を、といってわるければ夢をもっているのでは ないかと思うことがある」と見える)も文章を寄せていて、装丁(題扉裏に「装幀*吉岡 実」とある)も含めて著者の意向が反映した人選だろう。飯島は〈あ とがき〉で、「これらの詩をぼくは一人で書いたなどとは言わない。いろいろなグループに加わってきたし、ぼくはやはり戦後詩人の仲間なしには書けなかっ た。ぼくと同じような病いを病んでいた何人もの人々だ。詩を書いて得をしたただ一つのことはそれらの詩人たちを知ったということかもしれない」(本書、 〔二四〇ページ〕)と、本書収録の詩集《他人の空》《わが母音》《何処へ》〈ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩〉を振りかえっている。

飯島耕一詩集1《他人の空》(山梨シルクセンター出版部、1971年10月20日)の函、表紙、月報の最終ページ
飯島耕一詩集1《他人の空》(山梨シルクセンター出版部、1971年10月20日)の函、表紙、月報の最終ページ


吉岡実の装丁作品(92)(2011年6月30日)

藤田省三(1927-2003)は自身の著作集のまえがき〈後ろ姿について〉を次のように書きおこしている。「前々から、私が死んだら、私の書いたものを上・下二巻の全集で出していただくことを、みすず書房と約束していた。聖書の文句ではないが、早目に「約束は成就され」、かくてここに至った。だが私が「全集」なるものを上・下二巻に限定したのは、私が若い頃から尊敬していた深瀬基寛氏の死後の全集の形に単純に倣っただけであった。深瀬氏の全集は、氏の地味な人柄と、それに対応した寡作とを物語るように、その博学にもかかわらずたった二巻で、吉岡実氏の品格ある装幀の下に筑摩書房から目立たぬ形で刊行されたのだった。私は(T・S・エリオットの解釈の一部を除いて)、生き方も何もかも氏にあやかりたいと思っていたのである」(《維新の精神〔藤田省三著作集4〕》挟み込み、みすず書房、1997年5月23日、一ページ)。文中の「深瀬氏の全集」は、正しくは唐木順三編《深瀬基寛集〔全2巻〕》(筑摩書房、1968年9月25日・10月30日)である。藤田文は吉岡実の「問=死後に残したいものは?/答=将来、もし幸いにも吉岡実全集でも出たら、詩集一冊のほかに、散文集が一冊欲しいという、たいへん世俗的な願いはあります」(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一四〇ページ)というやりとりを想起させる。この発言は同じ1968年の夏、高橋睦郎のインタヴューに応えたものだから、もしかすると吉岡は、上・下二巻の「吉岡実全集」とこの《深瀬基寛集〔全2巻〕》を重ねて考えていたのかもしれない。
本集の仕様は、二一七×一四八ミリメートル・第1巻四九二ページ、第2巻五四八ページ(別丁口絵写真各一葉)・上製クロス装(背文字は黒の色箔押し)・貼函。吉岡実装丁ではかなり硬派な仕上がりで、函の囲み罫を除いて、いっさいの装飾的要素がない。もっとも、本扉が文字だけで「深瀬基寛集 第一巻 唐木順三編/筑摩書房」と縦二行に組んであるのは、「〔……〕また私の嫌いな邦文の横書が縦に改められて、ともかく本書に編入することが出来たのは私の深い悦である」(〈現代英文学の課題〉序、本集・第1巻、六ページ)という著者の好みに配慮したからではなく、単に装飾的要素を入れるだけのスペースがなかったからだろう。

唐木順三編《深瀬基寛集〔第1巻〕》(筑摩書房、1968年9月25日)の本扉と函 唐木順三編《深瀬基寛集〔第1巻〕》(筑摩書房、1968年9月25日)と同〔第2巻〕(同、1968年10月30日)の表紙
唐木順三編《深瀬基寛集〔第1巻〕》(筑摩書房、1968年9月25日)の本扉と函(左)と同〔第1巻〕・〔第2巻〕(同、1968年10月30日)の表紙(右)

深瀬基寛は筑摩書房からドーソンの《政治の彼方に》(1941)、ルイスの《詩をよむ若き人々のために》(1955)、《オーデン詩集》(1955)、ドーソンの《革命の世界史》(1963)などの訳書のほか、林達夫《反語的精神》との共著となった《共通感覚〔現代日本評論選〕》(1954、装丁:岩崎鐸)、《エリオット〔鑑賞世界名詩選〕》(1954)、《日本の沙漠のなかに》(1957、装丁:難波淳郎)、《現代の詩心》(1958、装丁:庫田叕)、随筆集《乳のみ人形》(1960)といった著書を出している。最初の著書《現代英文学の課題〔教養文庫〕》(弘文堂書房、1939)に驚歎した唐木順三は、本集の〈編者後記〉に「近代の科学技術をうみだした合理主義と分析論理、またその結果としての悪しき進歩主義の跳梁する社会の中にあって、それらによって疎外されてしまった自己自身の魂と感情を、文学、詩の在りどころを、如何にして恢復しうるか。人間が機械の支配のもとにただ一単位として扱われ、人と人とがただ利害打算によって結び、また離れるという精神の砂漠の中にあって如何にして心の通う故郷[ふるさと]を、共通感覚を恢復しうるか。/深瀬さんは現代に生きる思想人として、その課題に立ち向った。そのときに傷つき、ときに怒り、ときに絶望しながら、夢を孕む詩人として維持した」(第2巻、五二七〜五二八ページ)と書いて、深瀬を顕彰した。唐木順三歿後刊行の深瀬基寛との共著《往復書簡》(筑摩書房、1983)は、本集に較べてはるかに文芸書らしい落ち着いた仕上がりで、限りなく吉岡実装丁を思わせる。しかし、同書は吉岡が筑摩退社後の刊行であり、装丁者のクレジットもないところを見ると、吉岡の作風を踏まえた社内装なのだろうか。
ときに、《日本の古本屋》で《深瀬基寛集》を検索すると9件がヒットする(2011年6月12日現在)。1件だけ第1巻のみだが、ほかはみな2巻揃いで値段は6,000円から17,000円。興味深いのは函の状態の記述だ。曰く、少函背ヤケ/函など汚れ/函背にヤケあり/函背に経年相応のヤケ 第1巻函に少み/箱には経過年数相応の日焼け/函/函ヤケ/函少汚背ヤケ有/函日焼け・イタミ・汚れ有。古書で入手した写真左の第1巻も、貼ってある紙が角や小口で切れて、傷んでいる。芯のボール紙に問題はなさそうだから、表面の紙が薄いか弱いかしたのかもしれない(素材そのものの強度以外に、製函における糊引き作業の巧拙も影響していよう)。貼函は針金綴じの機械函よりも経年変化が少ないが、それでも日焼けなどの傷みは避けられない。そこへいくと本体はじょうぶで、写真右の2巻(新宿区立中央図書館所蔵本)とも、さほど劣化を感じさせない。


吉岡実の装丁作品(91)(2011年5月31日)

布川角左衛門(1901-96)は私の師である。大学在学5年めの1979年4月から1年間、日本エディタースクールの編集者養成総合科で書籍づくりを学んだ。布川先生は授業を持っていなかったが、講演のような形で受講生に話をされた。布川角左衛門《本の周辺》(日本エディタースクール出版部、1979年1月10日)はその年の初めに吉岡実の装丁で出ているから、大学生協かスクールで購入したものだろう。吉岡の装丁原稿がもし出版部に残っていたのなら、見せてもらえば良かった、と今にして思う。スクール卒業後、活版の印刷物を実際に手がける機会はほとんどなかったから、私の吉岡実研究の書誌的アプローチ(いうまでもなく、吉岡の著書のほとんどすべてが本文活字組版による凸版印刷である)には、このときの研鑚が幾分なりとも役立っている。
本書の仕様は、一八八×一二九ミリメートル・三七八ページ・上製丸背クロス装・貼函(スミと青緑の二色刷り)。表紙は紺色のクロスに金箔押しで、吉岡実装丁における最も学術書的な装丁のひとつだろう。本扉は函の表1と同じデザインでカットの刷色を青緑から赤に変更、文字の大きさは函の背文字と同じだ。函と本体の背に表示されているのは書名と著者名、出版社のマークだが、出版社がマークなのは名称を文字で入れるには長すぎたためか。30数年ぶりに所蔵本を手にしてみて、函の背がやや焼けているものの本文用紙はまっさらで、造本はしっかりしており、いかにも筑摩=日本エディタースクールの本という感じがする(印刷は厚徳社、製本は松岳社)。
《本の周辺》は当初、1978年秋に筑摩書房から刊行が予定されていたが、その直前の7月12日、同社が会社更生法の適用を申請して事実上倒産、計画は頓挫した。状況の急変に伴い、「善後策として、筑摩書房との間で一種の肩代わりをする話が進められ、その結果、双方の円満な了解のもとに、同〔=日本エディタースクール〕出版部から発行されることになった」(〈あとがき〉、本書、三六六ページ)のである。このようなキメラ的な出自をもつ本書だが、吉岡実とのかかわりも数奇なものだった。「私の気ままな連載がこんなにも長く続いたのは、もちろん『ちくま』の編集者として土井〔一正〕さん、ついでは吉岡実さんの一方ならぬ配慮によるが、それと共に、そのような読者の支持があったからである」(同、三六四ページ)、「最後になったが、さきに名をあげた方々のお一人お一人に対し、私は重ねてお礼を申上げたい。特に、著名な詩人であり、すぐれた装丁家でもある吉岡実さんが、連載当時の親切な配慮に加えて、この装丁を担当してくださったことを、まことにありがたく思う」(同、三六七ページ)とある〈あとがき〉は、これ自身が「本の周辺」であり、本書の成立をめぐる貴重な証言となっている。最後に本文から引こう。吉岡が編集担当となった《ちくま》の最初の号(1971年1月の第21号)に掲載された〈本の周辺21 文字原稿の話〉の結語である。

 といっても、原稿なるものは雑誌なり書籍などの基礎的な素材にすぎない。それがどんな状態であろうとも、印刷物になってしまえ ば、姿は消え、一様に活字の文字に変ってしまう。しかし、これらの消息からもわかるように、それぞれの紙背には、筆者あるいは著者の生の文字原稿、また時 にはそれに手を触れた編集者、文選係、植字係、校正係などのひそかな心と汗がかくされている。読書に際して、その辺を想うことは、活字による文字、文章、 内容に一種の味を加えるものではないだろうか。(本書、六六ページ)

布川角左衛門《本の周辺》(日本エディタースクール出版部、1979年1月10日)の函と表紙
布川角左衛門《本の周辺》(日本エディタースクール出版部、1979年1月10日)の函と表紙

〔追記〕
布川角左衛門は林達夫・福田清人との編著《第一書房 長谷川巳之吉》(日本エディタースクール出版部、1984年9月14日)で、総論〈第一書房 長谷川巳之吉―生涯と事業―〉を関口安義と共同執筆している。〈吉岡実と第一書房〉はいずれ書いてみたいテーマだが(〈ケッセルの《昼顔》と詩篇〈感傷〉〉で少し触れた)、以下に大久保久雄編〈第一書房刊行図書目録〉の凡例(同書、二六九ページ)を録して、後日に備えたい。

第一書房刊行図書目録 大久保久雄編
 凡例
一、本図書目録は第一書房図書目録(一九三九年発行のものへ、その後の発行書を長谷川巳之吉氏が補記したもの)をもとに、池田圭氏所蔵本および国立国会図書館所蔵の第一書房本と照合し補訂した目録である。
一、構成は一般図書編、全集・叢書編、雑誌編の三部とし、一般図書編の配列は発行年月順とした。
一、図書の発行年月は原則として初版年月をとった。同一図書でも形態、頁数の違うものは収録または注記した。
一、掲載図書の記述は、原則として、著者、書名、巻数(上中下、叢書名)、副題、大きさ、装幀様式、頁数、定価、(注記)、図書請求番号および略記号の順とした。
一、使用した書誌用語はすべて第一書房発行図書目録(広告記事等)中に使用されている用語を用いた。
一、図書請求番号は、国立国会図書館所蔵の図書および雑誌の請求番号を〈 〉内へ付した。略記号は、現物未見のものに*印を、新たに補充収録したものは※記号を付した。
一、国立国会図書館の所蔵調査は、左記の目録によった。
  帝国図書館和漢図書書名目録 第四〜七編 一〇冊 昭十一〜四十一年刊、帝国図書館・国立図書館和漢図書分類目録一冊 昭三十九年刊、日本近代文学館所蔵主要雑誌目録 一九八一年刊
 本目録作成にさいし、池田圭・小黒庸光・関口安義・布川角左衛門氏にご教示、ご協力を得た。記して厚く御礼申しあげる。
(昭和五十九年五月四日)


吉岡実の装丁作品(90)(2011年4月30日)

《太宰治全集〔第12巻〕》(筑摩書房、1958年9月20日)は、〔第1次〕筑摩書房版太宰治全集(1955年10月15日〜1956年9月20日、全12巻・別巻1)の普及版=〔第2次〕筑摩書房版太宰治全集(1957年10月25日〜1958年9月20日)の最終回配本で、装丁者のクレジットはないが吉岡実装丁と思われる。本書の帯文に次のようにある

〔表1〕
太宰治全集
20世紀日本文学の旗手太宰治の全作品を収めた決定版 全12巻普及版/290円/筑摩書房
〔背〕
第十三回配本(全巻完結)
初期作品補遺・年譜
〔表4〕
全容
第一巻 晩年の一連他 3篇〔……〕第十二巻 初期作品・文献別巻 太宰治研究毎月一冊刊行/各価二九〇円
太宰治全集 豪華版/全12巻
各巻四二〇円
小山清編
太宰治研究四八〇円

元版=〔第1次〕筑摩書房版太宰治全集は「豪華版」と謳われ、普及版の定価290円に対して420円。小山清編《太宰治研究》(1956年6月30日)は価格が異なるためか単行本扱いだが(造本・装丁は元版に準じる)、普及版では別巻として《太宰治全集》に組みこまれている。本書の仕様は、一八八×一三二ミリメートル・四三二ページ・上製丸背紙装・ジャケット(収録作品全篇の標題を掲載)。ジャケットの書名と本扉の巻数の朱色表示は元版(函の収録作品名や背表紙の書名)のそれを踏襲したものか。普及版とは言いながらハードカバーであり、函こそないものの、長きにわたる架蔵を想定しているのは見識だ(ただし、本文用紙は元版に較べてかなり見劣りする)。

ねこ|太宰治

       ダマツテ居レバ名ヲ呼ブシ
         近寄ツテ行ケバ逃ゲ去ルノダ
                    ――かるめん


 空の蒼く晴れた日ならばねこはどこからかやつて來て庭の山茶花の下で居眠りしてゐる。洋畫をかいてゐる友人はペルシヤでないかと私にたづねた。私はすてねこだらうと言うて置いた。
 ねこは誰にもなつかなかつた。
 けさ私があさげの鰯を焼いてゐたら庭のねこがものうげに泣いた。私も縁側に出てにやあと答へた。
 ねこは起きあがつて私の方へあるいて來た。私は鰯を一匹なげてやつた。ねこは逃げ腰をつかひながらもたべたのだ。私の胸は浪うつた。わが戀は容れられたり。私は庭へおりた。
 せなかのしろい毛に觸れるやねこは私の小指の腹を骨までかりゝと噛み裂いた。(本書、三八二ページ)

〈補遺〉に収められた本書でいちばん短い作品である(原文は旧漢字使用)。「かるめん」とは、猫のまたの名だろうか。なお、普及版は元版の紙型を流用しつつ、早くもこの〈ねこ〉(1ページ分)、〈あさましきもの〉(4ページ分)、〈春〉(2ページ分)の計7ページの本文を増補しており、後継の《太宰治全集》のありかたを予感させる。最近の〔第10次〕筑摩書房版太宰治全集の山内祥史編〈書誌〉はこの普及版=〔第2次〕筑摩書房版太宰治全集を「太宰治全集 全十二巻・別巻一巻 筑摩書房版」の見出しのもとに、次のように記している。

昭和三十二年十月二十五日〜昭和三十三年九月二十日発行、筑摩書房(東京都千代田区神田小川町二ノ八、古田晁)。四六判、カバー・帯附、口絵写真各巻二葉。本文9ポ組。定価二百九十円。
〔註〕第二次筑摩書房版全集。別巻のみ、口絵写真一葉、本文8ポ二段組、定価三百二十円。全十二巻、各巻末に「後記」、「太宰治全集月報」附。(〔第10次〕《太宰治全集〔別巻〕》、筑摩書房、1992年4月24日、四二三ページ)

同全集の「十二巻」(すなわち本書)は「昭和三十三年九月二十日発行。目次五頁、本文四一九頁(年譜二五頁、後記五頁)」(同前、四二六ページ)とあり、さらに収録著作名全篇を省略することなく掲げているのは敬服に値する。私なら「元版全集第12巻の30篇のあとに、〈ねこ〉〈あさましきもの〉〈春〉の3篇を新収」としそうなところを、あえてそうしていないのである。ただし、同書の四二二ページで元版全集の「十二巻」を「本文四一九頁」としているのは、本書誌が最終ページの丁付けを掲げる方針を採っているのだから、「四一三頁」が正しい。

〔第2次〕《太宰治全集〔第12巻〕》(筑摩書房、1958年9月20日)の本扉とジャケット
〔第2次〕《太宰治全集〔第12巻〕》(筑摩書房、1958年9月20日)の本扉とジャケット

〔追記〕
書誌によっては、〔第1次〕と〔第2次〕で《太宰治研究》の扱いが異なる(たとえば、NDL-OPACは〔第1次〕の《太宰治研究》を単行本として扱う)。初刊《太宰治研究》の背文字は「太宰治研究」、本扉は「太宰治研究 小山清編 筑摩書房」で、そこに「太宰治全集〔別巻〕」の文字は見えない。これは〔第1次〕が初め全12巻で企画され、刊行途中に《太宰治研究》が追加されたことによるものと思われる。月報の〈編集後記〉(無署名だが、野原一夫の筆になるか)にこうある。
「本全集の後記が単なる客観的事実の記載のみで物足りないという御意見の方が多少おありのようですが、〔……〕作品の解説は読者個人々々においてなさるべきものではないでしょうか。ただ、太宰治論、或いは作品論、作家研究、その他それに類したものへの読者諸兄の要望がかなり強いので、現在までに書かれたその種の評論、エッセイを集大成し、本全集の別巻として、或いは他の体裁において、決定版『太宰治研究』を時機を選んで刊行するつもりでおります」(〔第1次〕《太宰治全集〔第3巻〕》、筑摩書房、1955年12月20日、〈月報3〉、八ページ)。
また同年10月15日の〔第1巻〕〈月報1〉には「企画決定、編集のスタートから一年半以上の月日を費やし、その間、諸先生方の御援助、御協力のもとに、編集に校訂に、資材・造本に、まずは万全の努力をはらったつもりであります」とあり、本全集に賭ける出版元の意気込みを示している。


吉岡実の装丁作品(89)(2011年3月31日)

《太宰治全集〔第12巻〕》(筑摩書房、1956年9月20日)は、最初〔第1次〕の筑摩書房版太宰治全集(1955年10月15日〜1956年9月20日、全12巻・別巻1)の第12回配本で、装丁者のクレジットはないが、吉岡実の装丁とされる。臼田捷治は〈吉岡実・栃折久美子――出版社のカラーを引きだす力〉で吉岡の装丁を詳述するに当たって、この社内装の太宰治全集から始めている。
 吉岡の手になる装幀をいくつか見てみよう。
 初期の仕事である『太宰治全集』(筑摩書房、〔一九〕五五年)は、じつに質実なつくりである。函にも表紙にもイラストのような装飾的な要素が一切なく、文字だけによる構成。函と表紙のタイトルはレタリングによる書き文字(専門家が書いたものであろう、味わいのある太い明朝体)であるが、あとは活字による構成である。唯一のアクセントとでもいえそうなのが、函に配した収録作品名が赤インクで刷られていることぐらいだ。
 五五年といえば、力道山の活躍で街頭テレビに人々が群がった年。明日の進歩を信じて、人々が働きづめに働いた時代、日本社会が共通の価値観を持ちえた時代である。そうした時代を背景に、この装幀は、上辺だけの飾りを排した、本質を見定めた仕上げとなっている。反面、派手さはないけれど、しかし、落ち着いた品格をもっており、筑摩書房の路線をしっかりと踏まえていることが強く感じとれる。(《装幀時代》、晶文社、1999年10月5日、六三〜六四ページ)
これに付け加えるべきことはない。強いて挙げれば、《太宰治全集》の内容見本の地が朱色なので、「収録作品名が赤インクで刷られている」のは、あるいは赤インク/朱色をメインカラーに設定したためか(内容見本は原物未見につき、吉岡の手になるものか不明)。本書の仕様は、一八九×一三四ミリメートル・四二八ページ(うち、別丁口絵写真が二葉裏白の四ページ)・上製クロス装(背文字は朱の色箔押し)・貼函。吉岡の筑摩における全集装丁の前作、塩田良平・和田芳恵編《一葉全集〔全7巻〕》(1953年8月10日〜1956年6月20日)に比べて、装丁作品として素材面でも意匠面でも急激に成熟したことがうかがえる見事な出来映えである。筑摩書房が一葉よりも太宰の全集に肩入れしたこともあろうが、戦後の出版状況の変化がこれを後押しした側面もあるだろう。

〔第1次〕《太宰治全集〔第12巻〕》(筑摩書房、1956年9月20日)の本扉と函 〔第1次〕《太宰治全集〔第12巻〕》(筑摩書房、1956年9月20日)の表紙と函 〔第1次〕《太宰治全集》(筑摩書房、1955-1956)内容見本の表紙
〔第1次〕
《太宰治全集〔第12巻〕》(筑摩書房、1956年9月20日)の本扉と函(左)と同・表紙と函(中)と同全集・内容見本の表紙〔出典:筑摩書房〕(右)

筑摩書房のサイトには「筑摩書房は、昭和30年(1955年)以来、11次にわたって『太宰治全集』を刊行しています(文庫版を含む)。11種類の全集の累計部数は、160万部を超えます」(〈生誕100周年 太宰治と筑摩書房〉)とある。
第10次筑摩書房版初出 太宰治全集までの概要を当の第10次《太宰治全集〔別巻〕》(筑摩書房、1992年4月24日)掲載の山内祥史編〈書誌〉と《筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)に拠って、以下に記す(第11次は小林が補った)。

〔第1次筑摩書房版〕太宰治全集 全12巻・別巻1巻
1955年月10月〜1956年9月。四六判、函。本文9ポ組。
装丁:クレジットなし。

〔第2次筑摩書房版〕太宰治全集(普及版) 全12巻・別巻1巻
1957年10月〜1958年9月。四六判、ジャケット・帯。本文9ポ組。
装丁:クレジットなし。

〔第3次筑摩書房版〕太宰治全集(新装版) 全16巻
1959年12月〜1960年8月。小B6判、函・帯。本文8ポ二段組。
装丁:クレジットなし

〔第4次筑摩書房版〕定本 太宰治全集 全12巻・別巻1巻
1962年3月〜1963年3月。小B6判、函、帯。本文8ポ二段組。
装丁:クレジットなし。

〔第5次筑摩書房版〕太宰治全集 全12巻・別巻1巻
1967年
4月〜1968年4月。四六判、ジャケット・函・帯。本文9ポ組。装丁:クレジットなし。

〔第6次筑摩書房版〕太宰治全集(筑摩全集類聚) 全12巻・別巻1巻
1971年3月〜1972年3月。四六判、函。本文9ポ組。
装丁:クレジットなし。

〔第7次筑摩書房版〕太宰治全集
(新訂版) 全12巻
1975年6月〜1977年11月。A5変型判、函、一部帯。本文9ポ組。
装丁:クレジットなし。

〔第8次筑摩書房版〕太宰治全集(新訂版)(筑摩全集類聚) 全12巻
1978年6月〜1979年5月。四六判、函・帯。本文9ポ組。
装丁:クレジットなし。

〔第9次筑摩書房版〕太宰治全集(ちくま文庫) 全10巻
1988年8月〜1989年6月。A6判、ジャケット(装画:藤井勉)、帯。本文8ポ組。
装丁:安野光雅。

〔第10次筑摩書房版〕初出 太宰治全集 全12巻・別巻1巻
1989年6月〜1992年4月。A5変型判、函、帯。本文9ポ組。
装丁:クレジットなし。

〔第11次筑摩書房版〕太宰治全集 全13巻
1998年5月〜1999年5月。A5変型判、函、帯。本文9ポ組。装丁:多田進。

《太宰治全集》の本文については、関井光男の〈太宰治とテクスト〉(〔第11次〕《太宰治全集〔第13巻〕》、筑摩書房、1999年5月25日、〈月報13〉)に簡潔な説明がある。それに拠れば、太宰の著作・座談・書簡・研究を網羅し初期作品を加えて集大成した画期的な〔第1次〕、本文校訂が行なわれ著作の本文を検討してテクストの変遷を示した決定版の〔第7次〕、執筆年代順に著作を編成して詳細な解題を付した研究者向けの初出版の〔第10次〕、太宰治歿後50年を記念して刊行した一般読者向けの〔第11次〕が特筆される。さらに関井はこう書く。
「この五十年間に『太宰治全集』のテクストあるいは書誌・文献は驚くほど整備され、宝庫としての条件は揃った。だが条件が揃うことは、テクストを読む行為を離れた些末主義を産む。それは過去の歴史が語っている。今日もっとも重要なのは、テクストは時代のなかで読み替えられ、リニューアルされてあらわれるという謙虚な認識である」(前掲月報、八ページ)。
私も吉岡実のテクスト・書誌・研究文献を整備し、全集という「宝庫」ならぬ「弾薬庫」の構築に向けた作業を進めていきたい。そのとき、同一の出版社が50年にわたって刊行してきた11次にわたる個人全集の編集・造本のあり方から学ぶべき点は数多い。


吉岡実の装丁作品(88)(2011年2月28日)

天澤退二郎《紙の鏡――言葉から作品へ 作品から言葉へ》(山梨シルクセンター出版部、1972年12月25日)は天澤の最初の批評論集《紙の鏡――言葉 から作品へ 作品から言葉へ》(洛神書房、1968年11月10日)の再刊である。洛神書房は1969年で新刊の発行が止まっているから、第三批評 論集《夢魔の構造――作品行為論の展開》(田畑書店、1972年10月25日)の刊行に合わせて、別の版元から再刊したものだろう。〈復刊のあとがき〉の末尾にこうある。

 当初の発行所、洛神書房は消滅し、絶版になっていた本書がここに再び刊行されるのは専ら山梨シルクセンター出版部の好意によるものである。終りに、かつ ての洛神書房の編集者への謝意を記しておく。(本書、三四四ページ)

本書の仕様は、一八五×一二八ミリメートル・三五八ページ・並製・紙装で、本文は前掲初刊の紙型を流用している。初刊の目次裏には「装本 平田自一」とある。初刊と再刊の違いを比較することで、吉岡実装丁の特徴が知 れよう(目次の裏に「装幀*吉岡 實」とクレジットがある)。初刊の仕様は、一九〇×一二五ミリメートル・三五〇ページ・上製角背・紙装。その造本が少し変わっているので、詳しく見よう。扉と題辞で本文用紙2丁、口絵写真が塗工紙二つ折りの2丁、二色刷の本扉と目次と扉までで本文用紙4丁分、その次のノンブ ル「13」から最初の文章〈詩と言葉 時評一九六七〉が始まる。巻頭はおそらく、本文用紙8ページ分(4丁)の折丁の谷折に口絵を貼りこんだ形になっ ている。一方、吉岡実装丁の再刊は無地の見返し(初刊は画家の装丁だけあって、絵柄が印刷されている)のあと、別丁本扉(二色刷だが、スミと濃紫なのでほ とんど差がない)、初刊と同じ口絵、以下本文用紙が続く。まったくもってシンプルなこと、このうえない。初刊が洋書ふうの展開だとすれば、再刊はオーソ ドックスな本邦の書籍の順序である。前付と後付の組版で顕著な違いは、初刊の目次が地揃え、著者略歴・奥付が版面の下半分に布置されているのに対して、再 刊の目次・著書目録(著者略歴を換えた)・奥付とも天揃え(前述の「装幀*吉岡 實」だけ地揃え)と、これまたオーソドックスの極みのような組版になって いる。再刊の前付・後付を指定したのが担当編集者か吉岡実か不明だが、奇を衒わない造りである。本書には、〈吉岡実論おぼえ書き〉以 外にも吉岡実詩への言及が見られる。筑摩書房の《詩の本》に発表された文章を引こう。

〔……〕たとえば吉岡実の詩集『僧侶』全篇を風景詩として成立たせているものの大部分は、きこえない音や語りのじつに硬質な現前 であるといえばよいのだろう。ついでに言えば、〈きこえないものを見る〉というのが吉岡実の根源的な詩法であり、吉岡の作品における音楽性の秘密はそこか らきている。そしてこれは吉岡個人の特性なのではなくて、この詩法によって彼の詩作品は、私たちの詩の表面へ打ちあげられているというべきであろう。 (〈詩のはじまり・詩の運命――倒叙詩論の試み〉、本書、二〇四〜二〇五ページ)

天澤退二郎《紙の鏡――言葉から作品へ 作品から言葉へ》(山梨シルクセンター出版部、1972年12月25日)の表紙
天澤退二郎《紙の鏡――言葉から作品へ 作品から言葉へ》(山梨シルクセンター出版部、1972年12月25日)の表紙


吉岡実の装丁作品(87)(2011年1月31日)

天澤退二郎《作品行為論を求めて》(田畑書店、1970年5月25日)は吉岡実が装丁した最初の天澤退二郎の著書。《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996) の編集委員を務めた飯島耕一・大岡信・入沢康夫・高橋睦郎の四詩人をも上回る、最も多くの吉岡実装丁の著書をもつ現代詩人が天澤で、本書を含めて8冊 ある。刊行順に掲げよう。

(1)《作品行為論を求めて》(田畑書店、1970年5月25日)
(2)《天澤退二郎詩集》(青土社、1972年2月5日)
(3)《夢魔の構造――作品行為論の展開》(田畑書店、1972年10月25日)
(4)《紙の鏡――言葉から作品へ 作品から言葉へ》(山梨シルクセンター出版部、1972年12月25日)
(5)《「評伝オルフェ」の試み〔特装版〕》(書肆山田、1974年9月1日)
(6)《《宮澤賢治》論》(筑摩書房、1976年11月30日)
(7)詩集《乙姫様》(青土社、1980年5月10日)
(8)《《宮澤賢治》鑑》(筑摩書房、1986年9月30日)

(3)は(1)の、(8)は(6)の続編的な書物で、(4)は《紙の鏡――言葉から作品へ 作品から言葉へ》(洛神書房、1968年11月10日) の再刊である(《作品行為論を求めて》の〈あとがき〉は「本書は最初の準備段階では『作品対言語』という総題 を仮定していたもので、原則として私が第一批評論集『紙の鏡』(一九六八)以後に書いたエッセイの大部分を、わが言語[、、]による作品[、、]への対決 という筋みちにそって集めてみた結果である」と始められている)。洛神書房は1969年で新 刊の発 行が止まっているから、(3)の刊行に合わせて新しい版元から再刊したものか。本書の仕様は、一八八×一二六ミリメートル・三四二ページ・並製(がんだれ)紙装。裏表紙に金井美恵子による200文字、無題の文章が掲載されている。 カット(表紙・本扉に同じ絵を色違いで展開)は中島 かほる、目次の最後と奥付の二箇所に「装幀者 吉岡實」とクレジットがある。

天澤退二郎《作品行為論を求めて》(田畑書店、1970年5月25日)の表紙
天澤退二郎《作品行為論を求めて》(田畑書店、1970年5月25日)の表紙

《作品行為論を求めて》の文章でぜひ引用したいのが〈映画における作品行為論――西部劇 と性愛映画を中心に〉(初出:《海》1970年4月号〈特集・批評体験としての映画〉)の一節である。

 ポー原作「恐怖の振子」などの恐怖映画の職人として知られるロジャ・コーマンの数少ない西部劇は、そのマゾヒスティックな執念 によってオリジナリ ティを確保している。「早射ち女拳銃」(原題 The Gunslinger)のヒロイン、ビヴァリー・ガーランドは殺された保安官の妻で、つめたい美貌の持主である。冒頭、夫の埋葬のシーン、弔問客の中にま ぎれこんでいた悪玉の手下数人を、目にもとまらぬ早射ちで倒した彼女は、新任の保安官が来るまでの間、仮の保安官に就任し、夫の復讐をとげようとする。し かし奇しくも彼女は悪玉の首領(ジョン・アイアランド)を恋してしまう。大詰め、相手を岩山に追いつめた彼女は、顔色も乱さずに愛を告白したあと、はげし い射ちあいの末、相手を射殺する。よく晴れた翌朝早く、彼女はひとり馬で町を出ようとして、新任の保安官とすれちがう。保安官は何も知らぬまま、《静かな 町ですね》と挨拶するのである。
 この映画のクライマックス、岩山での射ちあいは、明らかに一種の性交場面であり、女による男の射殺は、この作品の作品行為全体をつらぬくマゾヒスティッ クな執念のオルガスムである。この意味で「早射ち女拳銃」はポルノグラフィ的想像力の典型的な作品であり、ロジャ・コーマンがビヴァリー・ガーランドとい うヒロインにこめた表現の目ざしたところは、ブニュエルの言葉〔ピエール・ルイスの《女と人形》を映画化する企画についてレットル・フランセーズの記者に語った言葉〕そのまま、《灼きつくすような官能性》、《女の邪悪な面》の、単純直截な表出なのである。 (コーマンは他に「荒野の待伏せ」やとりわけ「女囚大脱走」において同じ執念を追求したが、「早射ち女拳銃」におけるような徹底性、単純直截なポエジーを 失って、とりかえしようもなく拡散した試みに終っている。)(本書、一〇八ページ)

ここを引いたのはほかでもない、天澤が《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実》(書肆山田、1996年11月30日)に寄せた詩篇が〈報告――あ るいは《早射ち女拳銃》〉だからである。同詩はその後、四箇所の訂正を施して詩集《悪魔祓いのために》(思潮社、1999年7月20日)に収録されたが、〈映画における作品行為論〉の天澤文は後年の天澤詩の読みになんら資するところのない、見事なものである。手入れを〔《私のうしろを犬が歩いていた》掲載形→《悪魔祓いのために》掲載形〕で表わし て、詩篇〈報告――あるいは《早射ち女拳銃》〉を引く。

 荒野で僕たちの馬車を襲った暴漢〔たち→のグループ〕は、〔たしか→(トル)〕七人でした。相手の力は圧倒的でしたが、僕たちも死物狂いで防戦し、激し い射ち合いのすえ〔(ナシ)→に〕七人とも斃しましたが、こちらも妻と姉と、幼い息子を殺され、兄夫婦も死んで、気がつくと生き残ったのは僕だけでした。
 荒野を砂まじりの風が吹き、しんとうずくまる馬車の向こうに何かが……とみるまにそれはくすぼけた町の通りで、一人二人、通行人も見えます。はっとして そっちへ歩きかけると、通りも人影もふっと消えて、四方はいちめん、さっきのままの荒野です。と、また馬車の方へ顔を向けると、その向こうに町並が……し かしそれも、近寄るまでもなくふっと消えます。何だ、蜃気楼か、こっちの気のせいだ……
〔(ベタ)→(一行アキ)〕
 しかし次にまた馬車の方を見ますと、こんどはそのすぐ向こうに赤いジャンパーが動くのは、あれは姉の娘だ、生きてたのか! 嬉しくて「おい!」と駈け寄 ろうとしながら一瞬、この旅に姪も一緒だったっけ? と思うまもあったかなかったか……
 さっとこっちへ目を向けた娘は目にもとまらぬすばやさでベルトからガンを引きぬきざま発射して、弾は男の心臓をつらぬきました。
 娘は用心深くあたりを見まわしながら近づいてきて、足元に倒れた男の身体をブーツで軽く蹴ってからこう言ったのでした――
「まだ一人、生き残ってたのね。危いとこだった。」
詩の前半と後半(〔(ベタ)→(一行アキ)〕の前後)で奇妙にねじれていて、読む者にもどかしい想いを させるのは、作者が《僧侶》のころの吉岡実詩を踏まえたものか。 〔(ベタ)→(一行アキ)〕の手入れは、その断裂をより強固ならしめるための措置だったように思える。


吉岡実の装丁作品(86)(2010年12月31日)

林浩平のブログ《饒舌三昧》2010年8月14日掲載の〈日本現代詩歌文学館ご案内+岩手県美の黒田清輝展、見応えあります〉に次の記載がある。
詩人としての井上靖ということで思い出すのが、詩人の吉岡実さんと渋谷道玄坂の珈琲店で何度かお会いした際のやりとりです。小生の最初の詩集『天使』を出した後でしたので、吉岡さん率直な話ぶりで感想を伝えてくださったのです。「入沢康夫君のパロディーも面白かったけど、一番気に入ったのは「カフカのうわさ」だね。」この評も意外でしたが、「キミの詩のスタイルは井上靖に似ているよ」と言われたときも驚きました。というか、こちらは井上靖というと中学校の読書感想文で読まされた『しろばんば』や『天平の甍』の作家ですから、詩人として意識もしていなかったのです。後から慌てて『北国』などに目を通しましたが、当時1988年ころの現代詩の言語観から行けば、難解派エクリチュールこそが王道でしたから、井上靖流のシンプルで散文同様の文体というのは、「古くさい」もの。ただ吉岡さん、ご自身は晩年あんな重厚かつ倒錯的な文字言語派だったのに、詩人としての井上靖を評価していて、本の装丁もいくつか手がけられたよしでした。吉岡さん、井上氏ともに鬼籍に入られて、彼らの仕事も相対化?できるようになりましたかな。それにしても傑出した「読み巧者」だった吉岡さんからの評、もう一度反芻しましょう。
林浩平詩集《天使》(書肆山田、1988年10月30日)の吉岡評も興味深いが(とりわけ〈フランツ・カフカのうわさ〉の件)、「詩人としての井上靖を評価していて、本の装丁もいくつか手がけられたよしでした」とあるのはどの本を指すのか。吉岡が筑摩書房を退社したあとの装丁にはクレジットがあるはずだから、未知の吉岡実装丁の井上靖本があるとすれば1951年から78年までの筑摩書房在籍中に同社から出た単行本だろうと見当をつけて検索すると、以下の7タイトル、8冊がヒットする。書名とともに刊行日を掲げ、コメントを付す。
 (1)暗い平原 1953年6月5日 装丁者:記載なし。カラーのジャケットの絵に「yoki」のようなサインが入っている。
 (2)青衣の人 1955年8月30日 新書版。カラーのジャケットは生澤朗。以下、新書版は吉岡以外による社内装丁か。
 (3)騎手 1955年10月25日 新書版。ジャケットは須田壽。印刷・製本は中央製本印刷株式会社(印刷者:草刈親雄)で、吉岡の《静物》(私家版、1955)の製作会社と同じ。
 (4)あした来る人 1956年5月10日 新書版。印刷・製本は中央製本印刷株式会社(印刷者:草刈親雄)。カラーのジャケットは三岸節子。
 (5)満月 1958年9月10日 カラージャケット。装丁は加山又造。
 (6)運河 1967年6月25日 装丁は風間完。
 (7)運河〔限定版〕 1967年6月25日 装丁者:記載なし。
 (8)後白河院 1972年6月15日 装丁は安東澄。
(1)は画:吉田健男、装丁:吉岡実の可能性も否定できないが、速断は避けたい(同書に続く井上靖の短篇集《異域の人》(大日本雄弁会講談社、1954年3月30日)は吉田健男の装丁)。詩集《運河》は、同時刊行の(6)普及版には奥付に「装幀者風間完」とクレジットがあるところから、クレジットのない(7)〔限定版〕は風間の装丁ではないということになろう。となれば、考えられるのは社内装丁で、吉岡がそれを担当した可能性はきわめて高い。本文組は両版とも同じで、別丁本扉と奥付が別の組版である。両版の主な違いは以下のとおり。普及版の表紙まわりは上製角背(暗緑のクロス装)、本扉は二色刷(風間完のイラストを特色刷)で横組、奥付は八五ページめに印刷。〔限定版〕の表紙まわりは上製丸背継ぎ表紙、本扉は青一色刷で縦組(イラストなし)、奥付は白の八五ページめに別紙(検印、朱墨による記番)を貼付、本扉の前に署名用の別丁がある。井上靖詩集《運河〔限定版〕》(筑摩書房、1967年6月25日)の仕様は、二一〇×一三四ミリメートル・九二ページ・上製丸背継ぎ表紙(背が暗緑の革、平が白の紙)・貼函に天地帯の外装紙。限定800部記番。《井上靖全集〔別巻〕》(新潮社、2000年4月25日)の曾根博義編〈井上靖書誌〉にはこうある。

詩集 運河
昭和42年6月25日、筑摩書房発行 A5変型判 函 帯(伊藤整「「運河」頌」) 84頁 装幀・風間完 定価650円
正漢字 新かな 収録詩篇数26
[内容]運河、川明り、滑り臺、雪、雷雨、ホタル、前生、かちどき、海鳴り、佐藤春夫先生の耳、海、旅から歸りて、沙漠の街、菊、黄河、褒姒の笑い、立入禁止地帯、碑林、春の日記から、陜西博物館にて、別離、ミシシッピ河、秋のはじめ、颯秣建國、モンゴル人、雪/あとがき(発表誌付記)
*限定版 同日、同社発行。800部記番署名入り、函、外装紙、1300円。(同書、八三三ページ)

井上靖詩集《運河〔限定版〕》(筑摩書房、1967年6月25日)の本扉と函の外装紙 井上靖詩集《運河》(筑摩書房、1967年6月25日)〔装丁:風間完〕の本扉 井上靖詩集《運河》(筑摩書房、1967年6月25日)の新聞掲載広告
井上靖詩集《運河〔限定版〕》(筑摩書房、1967年6月25日)の本扉と函の外装紙(左)と同書・普及版〔装丁:風間完〕の本扉(中)と同書の新聞掲載広告 出典:石原龍一・祐乗坊宣明選、森田誠吾編《三段八割秀作集》(精美堂、1972年7月7日)〔制作者は「筑摩書房宣伝課」だが、吉岡実の手になるものと思われる〕(右)

26篇のなかでは、追悼詩〈佐藤春夫先生の耳〉が忘れがたいが、ここでは別の詩篇〈陜西博物館にて〉(初出は《文藝》1964年4月号)を《井上靖全集〔第1巻〕》(新潮社、1995年4月20日)から引こう。ちなみに同じ1964年、吉岡は〈滞在〉(E・7)を《現代詩手帖》4月号に発表している。
陜西博物館にて|井上靖

陜西[せんせい]博物館でまだ半造りの石刻陳列室へ案内された。鍵の手型の明るい建物の中には何個処かに脚榻[きやたつ]が組まれ、労務者たちが天井の壁を塗っていた。その天井の下の広い床には、十何個かの石獣たちが思い思いの方角を向いて、ほぼ等間隔に配されてあった。吼えているもの、黙しているもの、奔っているもの、何ものかを窺っているもの、それらの持つ姿態も表情も区々であった。犀の肌には白い苔が蒸し、跼[かが]める獅子の面は風化し、馬の全身 は黄土に染まっていた。虎の眼には罅[ひび]がはいり、奔れる獅子の後脚は三つに折れ、前脚の一本も亦三つに挫けていた。
獅子の二つは唐、二つは東漢、犀と臥牛と虎はいずれも唐、立曾は西魏、走馬は西漢だ。大陸各地から最近ここに運ばれて来たものばかりである。
私は案内人の許を離れ、長い時間を生きて来た石獣たちの間を歩いた。歩き廻った。満天の星群の下を歩く時の、あの蹌踉とした足どりで歩いた。
坂入公一編著《井上靖ノート》(風書房、1978年3月26日)ほかを参照すると、筑摩書房発行の《井上靖集〔新選現代日本文学全集 21〕》(1959)は装丁:恩地孝四郎、岩村忍との共著《西域〔グリーンベルト・シリーズ 15〕》(1963)と同《西域〔筑摩教養選 8〕》(1971)の装丁者は不明、《井上靖集〔現代文学大系 60〕》(1963)は装丁:真鍋博、《佐藤春夫・芥川龍之介・井上靖〔日本短篇文学全集 25〕》(1967)は装丁:栃折久美子、《井上靖集〔昭和国民文学全集 26〕》(1973)の装丁者は不明である。《井上靖・永井龍男集〔現代日本文學大系 86〕》(筑摩書房、1969年4月5日)は吉岡実装丁だが(〈吉岡実の装丁作品(60)〉参照)、林浩平の「詩人としての井上靖を評価していて、本の装丁もいくつか手がけられたよしでした」という証言のニュアンスとは微妙に食いちがう。詩集《運河》刊行の21年後の1988年5月、《新潮》の創刊1000号記念号(85巻5号)に、吉岡実と井上は大岡信とともに詩篇を寄せている――吉岡作品は〈晩鐘〉 (K・15)、井上作品は〈天涯の村〉(《傍観者》、集英社、1988年6月10日)――。三人が当代を代表する詩人と目されたのである。


吉岡実の装丁作品(85)(2010年11月30日)

河島英昭訳《ウンガレッティ全詩集》(筑摩書房、1988年1月1日)は、ア ンリ・ミショオキャ スリン・レインなど、吉岡実が装丁した数少ない外国詩人 の訳詩集のひとつで、なかでも最も本格的な造本である。城戸朱理の《吉岡実の肖像》(ジャプラン、2004年4月15日)に次のようにある。

 『ウンガレッティ全 詩 集』は灰青色のクロース装が美しい本だが、署名をお願いすると、自著でないからと言って、後の見返しに小さくサインして下さった。後に編集を担当された筑 摩書房の淡谷淳一氏にその話をしたところ、吉岡さんは装幀者分の二冊を受け取って、そのうちの一冊を私に下さったことが分かり、驚いた。(同書、五九ペー ジ)

城戸氏のブログ、2005年9月13日の〈そ の詩人の名は〉にアップされた写真の筆跡は「城戸朱理様 1989.11.27 吉岡実」と読める(サインの日付は、吉岡が1990年5月に急逝する半年ほど前に当たる)。本書の仕様は、二〇八×一四七ミリメー トル・五二二 ページ・上 製角背クロス装・機械函。ほぼ同寸の西脇順三郎詩集《人 類》(筑摩書房、1979)もさる ことながら、灰色のボール紙の機械函といい、青系のカンバス地の角背表紙といい、宮川淳《引 用の織物》(同、1975)を髣髴させる仕上がりになっているのは、訳者から要望でもあったのだろうか。

山鳩|ウンガレッティ
               一九二五年
山鳩の鳴く声にぼくは別の大洪水の音を聞いている

訳者による〈解説〉には「このたび『ウンガレッティ全詩集』の出版を粘り強く実現してくださった、筑摩書房と編集担当の淡谷淳一氏に、またわざわざ 装幀の労を執ってくださった、尊敬する詩人吉岡実氏に、〔……〕末尾ながら、深甚の謝意を表させていただく」(本書、五〇七ページ)とある。さらに、これ は吉岡歿後の刊行になるが、本書の装丁を踏襲した河島英昭訳《クァジーモド全詩集》(筑摩書房、1996年3月31日、装丁者のクレジットなし) の訳者〈解説〉には「筑摩書房は、先に、編集部淡谷淳一氏のご尽力と、吉岡実氏の気品のある装丁によって、『ウンガレッティ全詩集』(八八)を、「ま さに詩だけが、人間を回復できるのだ」という読者への呈辞と共に、世に送り出して下さった。〔……〕以来八年、難解なクァジーモドに詩品を、このような 『全集』の体裁で世に送り出せるのは、一重に、詩を尊ぶ淡谷淳一氏のお力添えの賜物である。改めて記しつつ、長年の編集生活の最後の最後まで示して下さっ たご厚情にお礼申し上げる」(同書、四三一ページ)とある。《クァジーモド全詩集》は、奥付の日付からもわかるように、同年3月25日に刊行された 《吉岡実全詩集》と並んで、筑摩書房での淡谷氏最後の仕事といえるだろう。こちらも永年の懸案だった。

河島英昭訳《ウンガレッティ全詩集》(筑摩書房、1988年1月1日)の函〔表〕と表紙 河島英昭訳《ウンガレッティ全詩集》(筑摩書房、1988年1月1日)の本扉と函〔裏〕
河島英昭訳《ウンガレッティ全詩集》(筑摩書房、1988年1月1日)の函〔表〕と表紙(左)と同・本扉函〔裏〕(右)


吉岡実の装丁作品(84)(2010年10月31日)

2004年12月、石垣りんが亡くなったときに、私は次のように書いた。
「吉岡が装丁している石垣りんの散文集《焔に手をかざして》は一九八〇年三月五日に筑摩書房から刊行されており、この構成が吉岡の《「死児」とい う絵》(思潮社、1980年7月1日)の構成と驚くほどよく似ているのである。《焔に手をかざして》の目次を抜粋する。
  T 暮しの周辺(41篇)
  U 言葉・読むこと書くこと(12篇)
  V ゆかりの人・人(18篇)
  W この岸で(18篇)
  あとがき
《「死児」という絵》は各章とも標題がなく、ローマ数字による章番号だけなので、同書〔増補版〕(筑摩書房、1988年9月25日)の宣伝文を借りて 〔 〕内に記す。
  T 〔生い立ちの記〕(19篇)
  U 〔詩作をめぐるさまざま〕(10篇)
  V 〔愛読した短歌俳句について〕(17篇)
  W 〔西脇順三郎はじめ詩人との交流記〕(13篇)
  あとがき
ただし一九八〇年版《「死児」という絵》の編集は吉岡本人ではなく八木忠栄氏だから、影響云云は当たらないだろう。いずれにしても、詩人がさまざまな媒体 に発表した散文をまとめる際の典型的な編集方法が、これらの書には見られる」(《最近の〈吉岡実〉》の〈石 垣りん氏が逝去〉)。
《ユーモアの鎖国》(北洋社、1973)に続く石垣りんの散文集《焔に手をかざして》(筑摩書房、1980年3月5日)の構成に関して、上記に加えるべき 事柄はない。ここでは、本書の一篇〈田舎のアンデルセン――私の読書遍歴〉(初出は《週刊読書人》、1973年4月16日)について書く。発表紙を見てわ か るように、吉岡の〈読書遍歴〉(初出は1968年4月8日)と同じ枠である。石垣の文章に登場する書名・誌名・作者名――広辞苑、アンデル セ ン童話集、幼年倶楽部、少女倶楽部、佐々木邦、佐藤紅緑、少年少女教育講談全集、カアル・ブッセ、ハイネ、ロゼッテイ、佐藤春夫、中原中也、令女界、石川 啄木、ポールとヴィルジニイ、ウイリアム・ブレイク、ジイドの窄き門、西条八十詩集、生田春月「象徴の烏賊」、サトウハチロー「爪色の雨」、深尾須磨子 「呪詛」、三富朽葉詩集、詳解漢和大字典――は吉岡の読書遍歴とも近い。とりわけ「茅野蕭々訳、リルケ詩集。表紙裏に祖父の字で昭和十五年初 秋、赤坂新町五の四四、石垣りん蔵書と筆が枯れている。蔵書とは面映ゆい」(本書、一一七ページ)とある《リ ルケ詩集》の存在が決定的だ。
本書の仕様は、一八八×一三一ミリメートル・二四四ページ・上製丸背紙装・ジャケット。奥付の末尾に「カット/難波淳郎」「装幀/吉岡実」とある。「焔に 手をかざして」で、縄文の火焔土器と薪のカットではストレートに過ぎる気もするが、強弱を殺した難波の線画が見事に決まっている。

石垣りん《焔に手をかざして》(筑摩書房、1980年3月5日)の本扉とジャケット、同・ちくま文庫版(同、1994年9月24日)のジャケット〔デザイン:金田理恵〕、同・大活字本シリーズ(埼玉福祉会、1994年12月20日)の表紙〔装丁:早田二郎〕
石垣りん《焔に手をかざして》(筑摩書房、1980年3月5日)の本扉とジャケット、同・ちくま文庫版(同、1994年9月24日)のジャ ケット〔デザイン:金田理恵〕、同・大活字本シリーズ(埼玉福祉会、1994年12月20 日)の表紙〔装丁:早田二郎〕


吉岡実の装丁作品(83)(2010年9月30日)

辺見じゅんの歌集《水祭りの桟橋》(思潮社、1981年4月20日)は、第一歌集《雪の座〔新鋭歌人叢書〕》(角川書店、1976)上梓以降の4年 間の作 品 を収めた第二歌集。跋の〈 辺見じゅんの歌〉は、角川源義の長女である著者を少女時代から知る山本健吉による。「短歌にも俳句にも、いやあらゆる文学にも芸術にも、それぞれ時勢の装いがある。それが如何 に新し い時代、新しい思潮の装いであっても、装いにとどまるかぎり、私の心に訴えることはない。若い辺見さんにも、新しい時代の波濤をかぶることは避けがたかっ たが、今度の歌集を見ても、それにとどまらない、辺見さん自身の「いのち」のきらめきが、嫌応なく読む者の胸にひびく。そしてそのきっかけが、かつて彼女 が拒み、あらがい、抗しつづけた亡父源義への千々の思いであることは、ほぼ間違いあるまい。それほどこの歌集は、しばしば亡父への思いを繰り返し述べ、そ れはことに後半において高まっている」(本書、一六一ページ)。
著者は〈あとがき〉の末尾を「また、装幀の吉岡實氏、帯の岡井隆氏にも労を煩はした。思潮 社の八木忠栄氏には出版の一切のお世話を頂いた。ゆ きとどいた配慮をしてくださつたことに感謝の意を表したい」(同前、一六七ページ)と結んでいるから、装丁に吉岡を起用したのは八木の発案かもしれ ない (ちなみに氏は、本書の前年に刊行された吉岡の初の随想集《「死児」という絵》の担当編集者)。見開きの目次を改ページして、「装幀-吉岡実」の1行だけ が 組んである。岡井隆の帯文〈悲哀の螢火燃えかがよう……〉を引こう(コンマとマルの句読点は原文のママ)。

昼ぼたる水にうちこむ弩[いしゆみ]のむかし長安の大き落日。こういう大柄の歌を詠む 女人である。みひらけば空のわたつみ漕ぎきたる誰れの櫂かな,と櫂を嘉して置いて,朴の花咲く,と歌いおさめる。昔から聰明な女人は苦手だが,この人の聰 明さの裏側には悲哀の螢火の燃えかがよう妖しい湿原が拡がっていて,当方をどぎまぎさせるのだ。

巻末の一首は「飛騨は火田 水飲む鶏に陰[ほと]暗く雪降りしきり降りやまぬなり」で、吉岡の詩を知る者は〈雪〉(B・14)の「鶏」を想い出さず にはいられない。
本書の仕様は、二一〇×一三四ミリメートル・一七〇ページ・上製丸背布装・機械函。函の意匠は、吉岡の《神秘的な時代の詩〔普及版〕》(書肆山田、1976年8月15日)や飯島耕一の《ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩》(同、同年3月 15日)と同工だが、凸版印刷の二色刷(黒黒としたスミ文字の標題とくすんだ赤の花模様のオーナメント)が《サフラン摘み》の函によく似た用紙 と相まって、見事な効果を挙げている。いったいに青灰色の布装表紙というのは落ちつきのある研究書ふうで、短歌であっても創作集としては地味だが、ここで は表紙の平に水鳥を金で箔押しして軽やかに仕上げ てある。それが奠雁か「魔法のランプ」のように見えるのも面白い。

  水槽に飼ひならされし鱏[えひ]さへもものの視る目ふたつ昼ふかくをり(〈水草紅葉〉)

辺見じゅん歌集《水祭りの桟橋》(思潮社、1981年4月20日)の函と表紙
辺見じゅん歌集《水祭りの桟橋》(思潮社、1981年4月20日)の函と表紙


吉岡実の装丁作品(82)(2010年8月31日)

《見知らぬ町で》(思潮社、1983年11月1日)は飯田善國の第三詩集。飯田にはほかに《ナンシーの鎧》(書肆山田、1979)、《円盤の五月》(同、1982)、《ネミ湖にて》(不識書院、1998)、《Gahlwayの女たち》(思潮社、2001)と、全部で5冊の詩集がある。本書は初期の代表作で、〈見しらぬ町で〉など全31篇を収める(目次の最後の行に飯田の詩篇と同じ扱いで「装幀=吉岡實」とある)。6節83行の〈天と地――土方巽に〉を追い込みで引用しよう。( )の使い方と、北園克衛のそれにも似た一文字で改行していく書法(とりわけ最後の節に顕著)が目を引く。

(天)のなかには人間と底の抜けた箱がある/(地)のなかには糸屑と飛びきりの炎がある/すい直に/ひとつの/(柱  管)/祈りの肉の階段はつねに用意されている//
むかしの妄想は平面の滑稽であった/神の設計図にどんな妄念も及ばない/(歪曲されうる自由な空間)/という/(思想)を/とかく/わすれ/がちに/な/る/(歪曲)されうるという/(思想)になぜか敵意を/いだく//
きみも/じつに/ながい/あいだ/こ/の/(歪曲されうる空間)/という/(思想)に/反抗し/つづけ/たのだ/が//
いまは/それに/ある安堵を/感じている/の/だ//
(逼ってゆく虫の自由)/という/思想か/ら/(祈りの形としてのすい直の肉の建築)/までの/距離は/決して/とおく/な/い//
(厳密な設計図)/から/世界/が/創られなかったことを/きみ/は/きみ/を/認ることから認った/それから/そのとき/か/ら/(祈りの形としての肉)/と/(受容する空間)/の/し/な/や/か/な/(自由)/と/い/う/(発見)/へ/優しい/気持を/抱くに/いたっ/た

飯田にはほかに〈うじ虫の天――一九六九年? のバンキダイトウカンの土方巽に〉(《ネミ湖にて》の巻末詩篇)がある(「バンキダイトウカン」は「燔犠大踏鑑」か)。吉岡には先に〈青い柱はどこにあるか?〉(F・6)という土方巽の秘儀に寄せた詩篇があるし、《見知らぬ町で》の折込に文を寄せている飯島耕一には《虹の喜劇[コメディ]》(思潮社、1988年7月15日)所収の追悼文〈瀕死の白鳥――土方巽のこと〉がある(そもそも吉岡に土方を引きあわせたのが、飯島その人だった)。飯田と土方の交遊がどのようなものだったのか詳らかにしないが、二人が澁澤龍彦や池田満寿夫、飯島や吉岡を交えた文化圏[サークル]に属していたことは確かである。

飯田善國詩集《見知らぬ町で》(思潮社、1983年11月1日)の本扉と函 飯田善國詩集《見知らぬ町で〔特製版〕》(思潮社、1985年4月1日)
飯田善國詩集《見知らぬ町で》(思潮社、1983年11月1日)の本扉と函(左)と同書〔特製版〕(思潮社、1985年4月1日)〔限定200部、アンカット(アンオープンド)装・ペーパーナイフ付、彩色イニシャルカット入、ナンバー入別刷オリジナル銅版画1葉、夫婦函〕(右)

本書の仕様は、二六〇×一九五ミリメートル(罫下は地袋を化粧断ちしてある〔つまりアンオープンドではない〕が、天と前小口はアンカットで、ページを繰るのにわずかばかり抵抗感を与えるこの仕様ははたして吉岡の発案だろうか)・一六二ページ・並製・ジャケット・貼函。折込の執筆者は田渕安一・辻邦生・飯島耕一・渋沢孝輔・正津勉。奥付の刊行日では旬日ほど早い吉岡の《薬玉》(書肆山田、1983年10月20日)のサイズ(二四五×一七三ミリメートル)を一回り大きくしたような判型である。ただし本書の判型を決めたのが吉岡とするのは早計だろう。また《薬玉》の判型が確定した時期の方が早いはずだ。この両書と前年刊行の飯田の第二詩集《円盤の五月》(書肆山田、1982年7月10日)の本文用紙のサイズ関係は次のようになる(寸法はmm)。


縦/横
円盤の五月 226 173 1.31
薬玉 245 173 1.42
見知らぬ町で 260 195 1.33

後になるほどサイズは大きくなり、飯田の詩集は吉岡の詩集よりも「寸詰まり」だ。《円盤の五月》は飯田の自装であり、この詩集が次の詩集《見知らぬ町で》に影響しただろうことは、判型を決定したのが飯田であれ吉岡であれ(あるいは出版社サイドであれ)、大いにありえる。

〔追記〕
《見知らぬ町で》は刊行後まもなく、思潮社の肝いりで出版記念会が開かれたようだ。というのも、〈古書日月堂 | catalogue 第26回 銀座 古書の市〉

73 思潮社宛 出欠葉書75葉一括

飯田善国詩集『見知らぬ国で』の出版記念会用 1983年消印入 以下は署名部分直筆で主なもの・() 内はメッセージ行数 ;武満徹(5)、埴谷雄高(6)、大岡信(9)、東野芳明(2)、草野心平、吉岡実、辻井喬、寺田透、北村太郎(5)、鮎川信夫(2)、飯島耕一(3)、吉増剛造、入沢康夫、鍵谷幸雄〔ママ〕(2)、福田繁雄(3)、浜田知明(4)、清水九兵衛(4)、建畠覚造(5)、秋山祐徳太子、中村真一〔ママ〕、井上靖、小田切秀雄(4)、槇文彦 他

SOLD OUT

が出品されていたからだ。《日本の古本屋》で検索すると、飯田善國宛ての署名本(吉岡の著書では《夏の宴》や《ポール・クレーの食卓》市販本)が古書として出ており、この出欠葉書75葉も、窓口となった出版社が整理して飯田に渡したものがなんらかの事情で流出したものか。吉岡の葉書は写真上段の右から2番めだが、上の註記によれば署名しかないということなので、残念だ。吉岡が飯田詩に言及した文章がないだけに、《見知らぬ町で》の感想は読んでみたかった。


吉岡実の装丁作品(81)(2010年7月31日)

かつて石垣りん詩集《表札など》(思潮社、1968年12月25日)の装丁を紹介したときに、《やさしい言葉》(花神社、1984年4月21日)の〈あとがき〉を引いたが、今回はその《やさしい言葉》を見よう。吉岡実が登場する巻末の詩篇〈大橋というところ〉を追い込みで引く。

其 処は たぶん只今/吉岡実さんの住む高台の/下あたりかと思われる。//昭和初年/玉川電車が渋谷道玄坂を上って/少し行くと/右手に連隊などもあった/ 左手 目黒川の河原に 牧場あり/幼年時代 私は連れられて折々おとずれた。//向き合った牛の鼻面かすめた 通りぬけ/郊外電車の引き込み線をまたぎ/ 牧場主の娘/ルリ子ちゃんリサ子ちゃんと遊んだ。//あれはさくら咲くころ/大人たち ひとかたまりになって/まきばの向うの野っ原 突っ切り/丘の彼方  目指した。/私は後に従った/道の遠さ。//あれが私の行く手/未来への方角であったとは。/大人たちの目的だけは覚えている/お灸をすえに行ったので す/おかげで 私の人生熱かった。//いまはご存知/環状6号線が振り分けた 住宅の密集地帯/その軒先を/野原の向こうへ行った私が/とぼとぼ歩いてい るはずがない。//ここは 何処だ/大橋だ。

《やさしい言葉》は〈大橋というところ〉や〈酔余――中山王国文物展〉(吉岡も自筆年譜で同展に触れている)を含む全39篇を収める。なかで〈経 済〉の初出記録にこうあるのが注目される。

 経済 一九七九年一二月 地下鉄「神宮前駅」壁面に掲示/《八〇年代へ街頭詩の試み》

地下鉄「神宮前駅」は正しくは「明治神宮前駅」とあるべきだが、《八〇年代へ街頭詩の試み》という表記が気になる。〈経済〉を再録した詩のアンソロ ジー《地下鉄のオルフェ》(オーデスク、1981年4月〔日付記載なし〕)にも、同企画に参加した吉岡実の〈野〉(H・21)を収めた《夏の宴》(青土社、1979)の〈初出一覧〉にも、単に《街頭詩の試み》とあるからだ。詩篇が地下鉄「明治神宮前駅」壁面に掲示されてい る状態の写真の探索を含めて、いずれこのあたりのことも詳しく調べたい(吉岡は「第一期」、石垣は「第三期」で、同時に掲示されていたわけではない)。
本書の仕様は、二〇八×一四八ミリメートル・一二二ページ・上製継ぎ表紙(平・紙、背・布)・機械函。この時期、吉岡は「《薬玉》仕様」とでも呼ぶべき装 丁スタイルを確立して、本書や金井美恵子詩集《花火》(書 肆山田、1983年4月25日)に適用している。具体的には、生成りのボール紙を機械函に用いて(《やさしい言葉》は《薬玉》と同じく糊付け)、書名や著 者名・出版社名、カット、定価・ISBNコードをスミで刷った色紙を函に題簽貼りし、本体に継ぎ表紙(多くは平が紙で背が布、吉岡の詩集では《夏の宴》が 先駆)を採用した上製本という構成である。フランス装(本文が数十ページ規模)と並んで、「《薬玉》仕様」こそ吉岡実装丁が到達した詩書におけるスタン ダードといえよう。

石垣りん詩集《やさしい言葉》(花神社、1984年4月21日)の函と表紙
石垣りん詩集《やさしい言葉》(花神社、1984年4月21日)の函と表紙


吉岡実の装丁作品(80)(2010年6月30日)

金井美恵子詩集《花火》(書肆山田、1983年4月25日)は「*本書初版第一刷は四装各三百七十五部作られた」(奥付の末尾)とあるように、表紙に4種類の異なる色と柄の、千代紙ふうの紙を用いている。収録詩篇は〈花火〉〈水の城〉〈《人形の家》のためのノート〉〈密やかな愉しみ〉〈冬の日記〉〈猫のかたちの迷路の街で〉〈花火〉の7篇で、散文表記の作品がほとんどである。

〈動物たち〉のことを忘れてはならない。死すべきコイル状の迷宮と睡蓮に取りかこまれた液体動物の透きとおったねずみ色の影を、無傷の光が雨のようにさんさんと愛撫して滲みとおり吸い込まれる〈水の繊維の束〉が覆っている。死すべき動物たち赦された揺れる瞳と傾斜する首(たくましさをふくれあがる血管であらわそうと、首たちは必死だ)の〈申し分ない即死〉に〈栄光あれ!〉柔らかな毛と柔軟な(水泡を浮べて激しく泡立つ)筋肉の束。(〈水の城〉の「10 水の城の動物」)

〈《人形の家》のためのノート〉には、題辞として

永遠保存が可能ならば
まばゆく開け
散り行く量のなかに

という〈静かな家〉(E・16)の詩句が引かれている。吉岡の題辞と入沢康夫の帯文「いかにも《詩》らしくない詩である分だけ、私はこれらの詩篇が輝くのを見る。けだしこれらは、悪夢の密やかな愉悦に半ば以上身をゆだねつつ生きてゐる者たちに宛てて書かれた優しい優しい悪意の唄、すなはち成就されることのない恋の唄なのだから」を併せると、本書はさながら「歌の別れ」である。実際、金井は《マダム・ジュジュの家》(思潮社、1971)、《金井美恵子詩集〔現代詩文庫55〕》(同、1973)、《春の画の館》(同、1973)、そして本書のあとは、今日まで詩集を刊行していない。
本書の仕様は、二一八×一二九ミリメートル・九八ページ・上製継ぎ表紙(平・紙、背・布)・機械函。奥付には「装幀吉岡実」、そして「印刷蓬莱屋印刷製本山本製本所製函光陽紙器製作所」とある。これらの製作会社は吉岡自装の詩集《薬玉》(書肆山田、1983年10月20日)とまったく同じ布陣であり、機械函(《花火》と《薬玉》は同じ素材だが、前者はホチキス留めで、後者は糊付け)に貼り題簽、紙装の継ぎ表紙――とほとんど同一の装丁コンセプトながら、《花火》が《薬玉》のミニチュアか予行演習のように見えてしまうのはいかんともしがたい。写真は掲げないが、文字だけの本扉は、《薬玉》よりも小さな判型にもかかわらず、紙面をもてあましているようにさえ見える。

金井美恵子詩集《花火》(書肆山田、1983年4月25日)の函と表紙 金井美恵子詩集《花火》(書肆山田、1983年4月25日)の表紙 金井美恵子詩集《花火》(書肆山田、1983年4月25日)のオークションに出品された四装
金井美恵子詩集《花火》(書肆山田、1983年4月25日)の函と表紙(左)と同・表紙(中)と同・オークションに出品された四装(右)〔家蔵本は左上と右下の柄のもの。国立国会図書館所蔵本は左下の柄のもの〕


吉岡実の装丁作品(79)(2010年5月31日)

丸谷才一《鳥の歌》(福武書店、1987年8月15日)は、《みみづくの夢》(中央公論社、1985)に続いて二度めの吉岡実装丁の丸谷評論となっ た。吉岡は松浦寿輝・朝吹亮二との鼎談〈奇ッ怪な歪みの魅 力〉で、松浦から「装丁のお仕事のほうはいかがですか。四方田犬彦の中上健次論の装丁はとてもよかったですね」と訊ねられて、「あれはいいカットが選べたのね。そ れから丸谷才一さんの『鳥の歌』とか、今年はわりと装丁の仕事が続いてね。これからウンガレッティの全詩集もあるんですよ。『土方巽頌』だって、結局僕が 装丁することになっちゃうわけだし。だから、今年はどうやら小遣いには困らない(笑)。去年はそういう仕事がなくて、家内から小遣いをもらっていたんだけ どね(笑)」(《ユリイカ》1987年11月号、二六一ページ)と答えた。ここで註すれば、「四方田犬彦の中上健次論」は《貴種と転生》(新潮社、1987)、「ウンガレッティの全詩集」は河島英昭訳《ウンガレッ ティ全詩集》(筑摩書房、1988)のこと。「いいカットが選べた」というのは、吉岡が編集担当だった《ちくま》69号 (1975年1月)の 水上勉〈一休余話〉と円子修平〈ケレーニイの『古代小説』〉のカットを流用したことを指すが、《鳥の歌》のカットはクレジットがない。福武書店の刊行物で 吉岡が装丁を手掛けたのは本書だけで、おそらく著者から「装丁は吉岡実で」という要望があったのではあるまいか。〈あとがき〉に拠れば《鳥の歌》の編集担 当は去る3月に亡くなった寺田博である。吉岡とは《文藝》や《海燕》で接点がありそうなものだが、吉岡の随想に寺田は登場しない。本書の仕様は、一八八×一二五ミリメートル・二三〇ページ・上製紙装・ジャケット。吉岡実装丁の代表作に数えていい本書は、《忠臣藏とは何か》(講談社、1984)の3年後に刊 行され、三部からなる。
 T/楠木正成と近代史*
 U/お軽と勘平のために*/文学の研究とは何か*
 V/ある裁判小説の読後に/鴎外の狂詩のことなど/白い鳥(原題:鳥の歌)/茨の冠/荻生徂徠と徳川綱吉*
*印を付した4篇は《芝居は忠臣藏〔丸谷才一批評集 第3巻〕》(文藝春秋、1995)に収められた。同書巻末の瀬戸川猛資(1948-99)と丸谷の対談〈『芝居は忠臣蔵』をめぐって――批評の方法と小説 の方法〉は語りおろしである。この対談の人選は、丸谷が瀬戸川による《鳥の歌》と《忠臣藏とは何か》の評〈太古の祭り〉(《夢想の研究》、早川書房、1993)を多としたからに違いない。

  『日本文学史早わかり』にしても、『忠臣藏とは何か』にしても、考へそして書いてゐるあひだ、わたしは充実した日々を送ることができた。それが小説家兼批 評家の幸福で、わたしはその幸福に満足してゐる。わたしはこの種の評論をときどき書きながら、自分の作品が普通の読者の感受性に作用し、その回路によつて 文明の性格を改めることを夢みればそれでいいのである。ひよつとするとその読者たちになかには、やがて和歌や歌舞伎が専門の学者になる少年少女もゐるかも しれない。(〈文学の研究とは何か〉、本書、一一三ページ)

丸谷才一《鳥の歌》(福武書店、1987年8月15日)の本扉とジャケット
丸谷才一《鳥の歌》(福武書店、1987年8月15日)の本扉とジャケット


吉岡実の装丁作品(78)(2010年4月30日)

入 沢康夫は西脇順三郎について、自身の詩集《古い土地》(梁山泊、1961年10月15日)を挙げて、次のように語っている。「〔……〕ぼくが一所懸命読ん で、おそらく影響も受けているのは『失われた時』ですね。あれには随分お世話になったような気がします。ぼくの詩集で具体的にはっきり西脇さんの影響が出 ているのは『古い土地』で、意識的なパロディもあるんだけど、むしろ侵入されて掻き回されたっていう感じもあります。『失われた時』ではあんなエピソード もあったから、何となくタイになったような気だけしちゃったんです」(吉岡実・大岡信・那珂太郎・入沢康夫・鍵谷幸信〈比類ない詩的存在――西脇順三郎追 悼座談会〉、《現代詩手帖》1982年7月号、三八ページ)。
《失われた時》のエピソードを入沢の〈失われた時〉で補うと、1960年頃のある日、筑摩書房の社員として西脇邸を尋ねた初対面の入沢に上機嫌の西脇はい ろいろ話をした。「〔……〕話題はネルヴァルのオーレリアからエリオットの荒地やジョイスのフィネガンズ・ウエイクやエピファニアへ、さらにはダンテの地 獄やフランチェスコ・コロンナのヒュプネロトマキアへと発展した。特に水のテーマ、それも水死した女のテーマが、話のたて糸になってい」て、話は場所を移 したすし屋でも続いた。「私は自分の気持が少なからず昂揚しているのを感じながら帰途についた。みちみち、よし、この水のテーマ、それも水死のテーマで長 い詩が一つ書けそうだ。さっそく書きはじめて、二カ月ぐらいかけてやってみよう、などと考えていた。/けれども、その長詩はなかなかまとまるに至らず、断 片的なメモがいくつかできただけで、日々がすぎた。西脇邸を訪うて一カ月ばかりたったとき、たまたま、書店で詩の雑誌をめくっていて、あっと私は声を出し た。西脇先生の「水」という詩が載っていたのだ。〔……〕当然、私の長詩は流産に終り、かきかけの断片は、そののちに書いたいくつかの詩の中へ四散して 行った」(《定本 西脇順三郎全集〔第11巻〕》月報、筑摩書房、1994年10月20日〔初掲1973年1月〕、六〜七ページ)。巻末作品〈死んだ男〉の最初の節を追い込 みで引こう。

類 似は第二の類似を生む/彼女が捨てようとするのはひとにぎりの種子である/彼女の七つの影は作られた笑いと共にひろがり/そして 土埃と共に掃きよせられ る/彼女の肉体は夜空に けやきの木のようにはりつけにされ/帰つて来る昔の人々のための目標とされる/時間の地層から盗み出された男の下着が/彼女の夜 空を拭く雑巾となり/ささいな記憶が 彼女を古いカルタのように光らせる/樹木のこずえを小鳥のように飛び交つている/彼女の魂

本書の仕様は、二一〇×一四八ミリメートル・八二ページ・並製フランス装・機械函。限定300部。目次の最後尾に「装本」として「カット 落合茂/ 構成 吉岡実」と二行にわたってクレジットされている。《古い土地》は吉岡実装丁フランス装詩集の系列にあって、吉岡の《静 物》(私家版、1955)の正寸(四六判)を受けて正寸(A5判)となっている。のちの《紡錘 形》(草蝉舎、1962)と那珂太郎詩集《音楽》(思潮社、1965)が左右はほ ぼA5判正寸(一四八ミリメートル前後)、上下が二〇〇ミリメートル強のA5判天地切りの変型なのは、本詩集の正寸仕上がりを省察した結果だろうか。

入沢康夫詩集《古い土地》(梁山泊、1961年10月15日)の函と表紙
入沢康夫詩集《古い土地》(梁山泊、1961年10月15日)の函と表紙


吉岡実の装丁作品(77)(2010年3月31日)

伊良波盛男詩集《ロックンロール》(矢立出版、1981年2月20日)から佳篇〈中陰〉を引く。

月は無い。
薄暗い中有空間がどこまでもどこまでも茫々と広がり、地上は、冥土の入口のように幽かに視え、眼前に、底無し水溜りが在った。月は無い、と言うのに、不思 議も不思議。底無し水溜りに、晧々と輝く満月が映し出されて在った。

俺から抜け出たもう一人の俺が、母体の俺を睨みつけていた。
抜け出た俺が、母体の俺を睨みつけていると、人がたのその母体は、薄暗いあたりに汗水を流して、見る見るうちに溶解し、ほどなく死滅した。
抜け出た人がたの俺は、母体の俺の消滅を最期の最期まで見極めると、今度は、眼球だけの物体にヘンゲして、母体の俺のいない冥土の闇を、いつまでも、いつ までも睨みつけていた。

月 光が冴え冴えと沁みわたるような作品だが、一方で〈夢の影〉のごとく内的独白が熱風のように押しよせる散文詩もある。〈あとがき〉には矢立丈夫への謝辞は あるものの、吉岡実への言及はない。吉岡に装丁を依頼したのは発行人の発案かもしれない(偶数ページの奥付に「装幀吉岡実」と記されている)。本書の仕様 は、二一七×一三四ミリメートル・一〇八ページ・上製布装・機械函。表紙の布装は色といい感触といい、西脇順三郎詩集《人類》(筑摩書房、1979)を彷彿させる(両書とも角背、見返しも同じOKミューズコット ンで、意図的に似せたものか)。《サフラン摘み》と同工の函には、二輪の菫のカットが木版画のような重厚な風合いで凸版印刷されている。

伊良波盛男詩集《ロックンロール》(矢立出版、1981年2月20日)の本扉と函
伊良波盛男詩集《ロックンロール》(矢立出版、1981年2月20日)の本扉と函

〔付記〕
矢立出版といえば《投壜通信》だ。城戸朱理《吉岡実の肖像》(ジャプラン、2004)の〈あとがき〉に「「詩人の肖像 吉岡実」は、矢立出版社主、矢立文 〔ママ〕夫氏の誘いを受け、数回のつもりで書き始めた随筆だったが、思いがけない反響もあって、予想より長くつづくことになった」(同書、一五八〜一五九 ページ)とある。連載第1回の11号(1994年3月)には〈吉岡実〉の予告が出ている。
  城戸朱理総編集長/ムック・星座〈年刊〉
  吉増剛造  星座 section rural 1 新刊 \1500/吉増さんの書簡25頁は必読 〒\310
  吉岡 実  星座 section rural 2   冬刊行
ムックは1994年2月22日に〈吉増剛造〉が出たきりのようだ。上記と同様の予告が12月の19号にも出ているから、その後なんらかの事情で未刊に終 わったものか。《星座 section rural》は全篇書きおろしを謳っていただけに、城戸朱理総編集の〈吉岡実〉が幻の企画と化したのは惜しまれる。


吉岡実編集《ちくま》全91冊目次一覧(2010年2月28日)

吉 岡実は勤務先の筑摩書房(1951年入社、1978年退社)で主に広告畑を歩み、新聞に掲載する書籍広告「三八」の手練としてその世界で知らぬ者のない存 在だったが、書籍広告を除けば今日われわれが目にすることのできる吉岡の遺した仕事は、大きくふたつある。ひとつは書籍の造本・装丁であり、もうひとつは PR誌《ちくま》の編集である。装丁が入社早早の1952年から亡くなる前年1989年までの、退社後を含む37年に及ぶのに対して、《ちくま》を編集し た期間は1971年1月から1978年7月までの7年半、つまり装丁の約5分の1と決して長いとは言えないものの、在社期間27年半での比重はそれなりに 大きい。ちなみに《ちくま》は「清新な文章と小社の刊行案内を載せた読書家のための月刊誌」(同誌、第112号〔復刊第1号〕、1980年7月1日)で、吉岡は《「死児」という絵〔増補版〕》で2度、《ちくま》に言及している。〈大岡信・四つの断章〉の「3」(初出:《大岡信著作集》第14巻月報(青土 社、1978年3月31日)の〈大岡信・二つの断章〉)と〈西脇順三郎アラベスク〉の「11 遺言詩」(初出:《新潮》1982年8月号の〈西脇順三郎ア ラベスク(追悼)〉)である。後者は筑摩退社後の文章なので、前者を見よう。

  私がPR雑誌〈ちくま〉の編集に、たずさわって、七、八年になるだろうか。なにしろA5判三十二頁の小冊子であるから、とくに編集方針もなく、二、三人の 信頼できる若い編集者の助言をとり入れ、あとは私の独断で、一人で気ままにやっている。だから時々、友人や知己に執筆を依頼することもある。それなのに、なぜか一番親しい大岡信に、原稿を書いてくれとはなかなか言えなかった。彼と会って雑談をしているうちに、あまりにも多忙なことがわかってしまうからだっ た。
 ある日、原稿を書いてくれるように言ったら、彼はうれしそうに「うん書かせて貰うよ」との返事に、私はほっとした。
 昭和五十年五月号の〈ちくま〉の巻頭を飾った、大岡信のエッセイは「五浦行」だった。私は一読して、素晴しい文章に編集者として感動した。末尾にこのよ うな一節がある。

 〔……〕

 〔……〕
 大岡信は「五浦行」の原稿を渡しながら、私にこう言った。「まだまだ目を通さなければならない天心の英文論文が多いし、いまだ全体の構想は出来ていない んだ」と。またこのようなことを言ったように思う。「この「五浦行」を書いたことによって、とっかかりができ、ひとつの道が見えた」とも。
 〔……〕 (同書、筑摩書房、1988、二〇六〜二〇八ページ)

《ち くま》は1969年5月創刊、初代編集者・土井一正で1年8ヵ月間刊行のあと、編集を吉岡にバトンタッチした。第20号(1970年12月)の〈編集室よ り〉に「創刊号以来表紙は中島かほる、カットは高木昭が担当しています。編集者は一月から代ります。編集方針に変りはありませんが、担当者が代ると、小冊 子なりに、やはり微妙な変化があらわれてくると思います。御愛読とともに御忠告を頂けますようお願いいたします」(同誌、八ページ)とあり、それを受けて第21号(1971 年1月)には「前号でお知らせいたしましたように、新春号より編集担当が替りました。前任の土井一正氏の労を多とし、かつその編集意図を引継ぎながら、少 しずつ別趣ある小冊子にしたいと思います」(同誌、三二ページ)とある。どちらも署名はないが、筆を執ったのは前者が土井、後者が吉岡だろう。〈《ち くま》編集者・吉岡実〉に 書いたが、吉岡編集当時の本誌には通常、編集後記がない(土井一正時代には、読者の反響をまとめた〈読者から〉と編集後記〈編集室から〉がほぼ常設されて いた)。吉岡時代の《ちくま》の性格を明らかにする資料として、個個の記事(およびその標題を列記した目次)に優るものはないのだ。今回は吉岡実が編集主 任として担当した全91冊の《ちくま》(1971年1月の第21号から1978年7月の第111号まで)の目次を、誤記・誤植と思われるものも訂正せず(一例を挙げれば、第21号 の 〈東欧のユダヤ図書館〉は本文の標題〈東欧のユダヤ博物館〉を誤ったもの)、そのまま掲げる。ここで組版上の体裁を述べれば、目次は表紙4に横組、頭ゾロ エで「標題名」、アキはナリユキ、尻ゾロエで「執筆者名」(姓名の間に字アキのあるものも若干変則的にあるが、ベタにした)――「ノンブル」(省略した) が掲載されている。漢字は旧字も含めて可能なかぎり底本の形を活かしたが、連載回数を表わす二分の漢数字は全角に替えた。各行には自動で番号を付け、標題 名と執筆者名の間を底本にはないコンマで区切ったので、データを表計算ソフトに読み込んで並べかえれば別の面が見えてこよう。この目次一覧を素材として利 用し、いろいろお試しいただきたい。私としては、吉岡実編集の《ちくま》に登場した総勢436人に及ぶ執筆者が筑摩から出した書籍のリストを、《筑摩書房 図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991)やNDL-OPACと照合しながら作成したい。もちろんそれは、吉岡の社内装丁作品を探索するための調査用 ツールである。――共著を含む著書が国立国会図書館に所蔵されていない執筆者を挙げれば、秋山浩熏(静岡市するが染工房主人)・池田正一(円劇場・演出 家)・海老沢立志(財団法人博物館明治村学芸員)・黒田道宅(医師)・坪田新太郎などの諸氏がいる。なお( )内は執筆時の肩書き。

吉岡実編集《ちくま》全91冊目次へのリンク(数字は通号)

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1971年1月■第21号

  1. 芭蕉の句,瀧井孝作
  2. 原始の言葉(毎月雑談9),寺田透
  3. 現代の「神曲」 パウンドの長篇詩の構造,新倉俊一
  4. ほん・その目でみる歴史20,寿岳文章
  5. 一九三五年の小熊の詩一篇,中野重治
  6. 東欧のユダヤ図書館,徳永康元
  7. 英国出版人列伝5 チェインバーズ,佐藤喬
  8. 「森の中の木の葉梟」,森茉莉
  9. ミュンヘンの反体制運動,大野英二
  10. 「戦後雑誌」発掘1,福島鋳郎
  11. アンドレ・デュ・ブーシェをめぐって,安藤元雄
  12. 本の周辺21 文字原稿の話,布川角左衛門
  13. カット(本文),勝本富士雄

1971年2月■第22号

  1. ヴィヨンの幽愁,佐藤輝夫
  2. 東洋陶磁(毎月雑談10),寺田透
  3. 石の遺言―夢窓と沢菴―,柳田聖山
  4. 地球のエネルギーバランス,竹内均
  5. 「郷愁」のアダージョ,川村二郎
  6. ソヴィエト旅行管見,台弘
  7. 続・文字原稿の話 本の周辺22,布川角左衛門
  8. 泉靖一君のことなど,朱牟田夏雄
  9. 「戦後雑誌」発掘2,福島鋳郎
  10. ほん・その目でみる歴史21,寿岳文章
  11. 南仏にて,高田博厚
  12. カット(本文),勝本冨士雄

1971年3月■第23号

  1. 私の詩(蟹),耕治人
  2. 歳晩歳首(毎月雑談11),寺田透
  3. 正徹私抄,那珂太郎
  4. 先生の下宿,小川国夫
  5. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(一),渡辺一夫
  6. 自然史科学の再認識,小畠郁生
  7. 英国出版人列伝6 カッセル,佐藤喬
  8. ほん・その目でみる歴史22,寿岳文章
  9. ケプラーの月旅行物語,渡辺正雄
  10. 出版業の諸相(一) 本の周辺23,布川角左衛門
  11. 聖杯と聖杯物語群について,天沢退二郎
  12. 「戦後雑誌」発掘3,福島鋳郎
  13. カット(本文),勝本冨士雄

1971年4月■第24号

  1. 白秋の「雀」の歌,西川正身
  2. ことばの詮議(毎月雑談12),寺田透
  3. ユークリッドは実在したか,伊東俊太郎
  4. わたしの『悪霊』,後藤明生
  5. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(二),渡辺一夫
  6. 近角常観,大河内昭爾
  7. ほん・その目でみる歴史23,寿岳文章
  8. 出版業の諸相(二) 本の周辺24,布川角左衛門
  9. チチェローネ初体験記,村川堅太郎
  10. 「戦後雑誌」発掘4,福島鋳郎
  11. カット(本文),勝本冨士雄

1971年5月■第25号

  1. 私の好きな言葉,岩淵悦太郎
  2. 言葉の詮議つづき(毎月雑談13),寺田透
  3. 現代における死,古井由吉
  4. Les Lettres Nouvellesのこと,篠田一士
  5. かっぱと一本の筆,清水崑
  6. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(三),渡辺一夫
  7. 出版業の諸相(三) 本の周辺25,布川角左衛門
  8. 父親をなくして 本を手に入れた話,入沢康夫
  9. チャイルド・ホリッド顰め面紀行,大沢正佳
  10. ほん・その目でみる歴史24,寿岳文章
  11. 「戦後雑誌」発掘5,福島鋳郎
  12. カット(本文),勝本冨士雄

1971年6月■第26号

  1. 鮒鮓―蕪村に関しての小私見,田中冬二
  2. 連翹忌(毎月雑談14),寺田透
  3. 地中海文学の再生者ヴェルガ,河島英昭
  4. 生命の物理,川村肇
  5. ラグビー・版画・詩,窪田般弥
  6. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(四),渡辺一夫
  7. 海と魚の句年代記,宇田道隆
  8. ほん・その目でみる歴史25,寿岳文章
  9. 中野重治訪問記,黒田道宅
  10. 出版業の諸相(四) 本の周辺26,布川角左衛門
  11. 会田由さんの思い出,大橋健三郎
  12. 「戦後雑誌」発掘6,福島鋳郎
  13. カット(本文),勝本冨士雄

1971年7月■第27号

  1. 妙な記憶,竹内好
  2. 詩集を編む(毎月雑談15),寺田透
  3. 似ていること マグリットの二重のイメジ,岡田隆彦
  4. 責任者の無責任,武谷三男
  5. 森船長と二人の英国作家,佐藤喬
  6. ほん・その目でみる歴史26,寿岳文章
  7. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(五),渡辺一夫
  8. 研究者は表現する,保昌正夫
  9. 出版業の諸相(五) 本の周辺27,布川角左衛門
  10. 詩集『春と修羅』の成立,入沢康夫
  11. 「戦後雑誌」発掘7,福島鋳郎
  12. カット(本文),勝本冨士雄

1971年8月■第28号

  1. 私の好きな言葉,平井正穂
  2. 開港記念日(毎月雑談16),寺田透
  3. 正受老人,大森曹玄
  4. 言葉の続き,池田満寿夫
  5. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(六),渡辺一夫
  6. 中国妖怪譚,駒田信二
  7. 奥付のない本(本の周辺28),布川角左衛門
  8. 「肥沃な三日月地帯」の旅,矢島文夫
  9. 背中合せ装幀,寿岳文章
  10. 「戦後雑誌」発掘8,福島鋳郎
  11. カット(本文),勝本冨士雄

1971年9月■第29号

  1. 「デカルトの生」,野田又夫
  2. 囲みを終り(毎月雑談17),寺田透
  3. 読書の学(一)―古典の読み方―,吉川幸次郎
  4. 華岡青洲先生,藤森正雄
  5. ウィリアムズとビュトール,鍵谷幸信
  6. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(七),渡辺一夫
  7. ファンタジィと子供,辻邦生
  8. 定価の表示(本の周辺29),布川角左衛門
  9. 座談会=松田道雄氏を囲んで(青春・現実・読書),
  10. ほん・その目でみる歴史28,寿岳文章
  11. 「戦後雑誌」発掘9,福島鋳郎
  12. カット(本文),勝本冨士雄

1971年10月■第30号

  1. 名歌は成長する,高木市之助
  2. 地獄草紙(毎月雑談18),寺田透
  3. 『?東綺譚』覚え書,野口冨士男
  4. ほん・その目でみる歴史29,寿岳文章
  5. 読書の学(二)―古典の読み方―,吉川幸次郎
  6. 第三の態度,玉城康四郎
  7. クロアティアの復活祭,牛腸征司
  8. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(八),渡辺一夫
  9. 納本のゆくえ(本の周辺30),布川角左衛門
  10. 誠拙周樗,高橋新吉
  11. 「戦後雑誌」発掘10,福島鋳郎
  12. カット(本文),勝本冨士雄

1971年11月■第31号

  1. 杜甫の詩,武田泰淳
  2. メトロポリタン(毎月雑談19),寺田透
  3. 日夏先生追想,齋藤磯雄
  4. 読書の学(三)―古典の読み方―,吉川幸次郎
  5. 舞台写真に憑かれて,後藤勝一
  6. ほん・その目でみる歴史30,寿岳文章
  7. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(九),渡辺一夫
  8. 集書家の悲哀(一)(本の周辺31),布川角左衛門
  9. 法官の死,二宮敬
  10. 「風の又三郎」はどのようにできたか,天沢退二郎
  11. 「戦後雑誌」発掘11,福島鋳郎
  12. カット(本文),勝本冨士雄

1971年12月■第32号

  1. 「太陽は日々に新しい」,呉茂一
  2. 百なりぢぢい(毎月雑談20),寺田透
  3. 実朝論断想,吉本隆明
  4. 「マドレーヌの一きれと日本の水中花」,井上究一郎
  5. 読書の学(四)―古典の読み方―,吉川幸次郎
  6. 飜訳の影響の範囲,木村毅
  7. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(十),渡辺一夫
  8. 集書家の悲哀(二)(本の周辺32),布川角左衛門
  9. 一書の人,生島遼一
  10. ほん・その目でみる歴史31,寿岳文章
  11. 「戦後雑誌」発掘12,福島鋳郎
  12. カット(本文),勝本冨士雄

1972年1月■第33号

  1. ポエジイ,草野心平
  2. 感涙(毎月雑談21),寺田透
  3. 一喜一憂,今西錦司
  4. むべ山かるた,森田誠吾
  5. ほん・その目でみる歴史32,寿岳文章
  6. 読書の学(五),吉川幸次郎
  7. セイイチ・イズミ通り,寺田和夫
  8. ロシアの詩人の墓(1),長田弘
  9. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(十一),渡辺一夫
  10. 集書家の悲哀(三) 本の周辺33,布川角左衛門
  11. バシュラールの場合,渋沢孝輔
  12. '71年の出版界の展望,(磯)
  13. カット(本文),落合茂

1972年2月■第34号

  1. 夕陽無限好,神田喜一郎
  2. 仏教美術(毎月雑談22),寺田透
  3. かの子覚え書,金井美恵子
  4. 樋口悦さんのこと,塩田良平
  5. 読書の学(六),吉川幸次郎
  6. ロシアの詩人の墓(2),長田弘
  7. ほん・その目でみる歴史33,寿岳文章
  8. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(十二),渡辺一夫
  9. 集書家の悲哀を越えて 本の周辺34,布川角左衛門
  10. 文明の影―十九世紀からの証言―,井上輝夫
  11. カット(本文),落合茂

1972年3月■第35号

  1. 私の好きな言葉,松村達雄
  2. 中尊寺経(毎月雑談23),寺田透
  3. 死の道化の〈夢の歌〉,新倉俊一
  4. ヴァレリー展を読む,佐藤正彰
  5. 読書の学(七),吉川幸次郎
  6. 三つのBの話(1),篠田一士
  7. ほん・その目でみる歴史34,寿岳文章
  8. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(十三),渡辺一夫
  9. 宮沢賢治の二つの歌稿,小沢俊郎
  10. 学問と人間性,藤永保
  11. キューピーさん 本の周辺35,布川角左衛門
  12. カット(本文),落合茂

1972年4月■第36号

  1. 祇園女御の一節,島本久恵
  2. 薬師三尊(毎月雑談24),寺田透
  3. 高村光太郎と智恵子の思い出,難波田龍起
  4. 私小説と自伝の間,瀬戸内晴美
  5. 読書の学(八),吉川幸次郎
  6. 三つのBの話(2),篠田一士
  7. 梛の実を蒔く,山崎柳子
  8. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(十四),渡辺一夫
  9. 編集の要項〈P.POSTA〉の話 本の周辺36,布川角左衛門
  10. ルイス・キャロルの問題,高橋康也
  11. ほん・その目でみる歴史35,寿岳文章
  12. カット(本文),落合茂

1972年5月■第37号

  1. 本来無一物,山田無文
  2. 崋山・國芳(毎月雑談25),寺田透
  3. マリー・ローランサンの恋文,岩崎力
  4. ロビンソン物語,長谷川四郎
  5. 読書の学(九),吉川幸次郎
  6. 三つのBの話(3),篠田一士
  7. ほん・その目でみる歴史36,寿岳文章
  8. 見る世界・生きる世界,三神真彦
  9. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(十五),渡辺一夫
  10. 編集の要項〈P・POSTA〉の話 本の周辺37,布川角左衛門
  11. オーギュスト・コントの夢,村松嘉津
  12. '72年初頭の出版界の展望,(磯)
  13. カット(本文),落合茂

1972年6月■第38号

  1. 化石植物,中島健蔵
  2. 横浜市電(毎月雑談26),寺田透
  3. 妙好人・浅原才市,雲藤義道
  4. 海底の陵,山本健吉
  5. 読書の学(十),吉川幸次郎
  6. ゼンマイ的ゼンマイ,鳥見迅彦
  7. 三つのBの話(4),篠田一士
  8. ほん・その目でみる歴史37,寿岳文章
  9. イギリス海岸と胡桃,宮沢清六
  10. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(十六),渡辺一夫
  11. 編集の要項〈P・POSTA〉の話 本の周辺38,布川角左衛門
  12. 僕のタケル縁起,高橋睦郎
  13. カット(本文),落合茂

1972年7月■第39号

  1. 清忙,土岐善麿
  2. 講演要旨(毎月雑談27),寺田透
  3. フォン・ユクスキュルの生物学,藤井隆
  4. アフラ・ベーン(一) 英文学瑣談1,朱牟田夏雄
  5. ほん・その目でみる歴史38,寿岳文章
  6. 読書の学(十一),吉川幸次郎
  7. ランチとお子さまランチ,花田清輝
  8. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(十七),渡辺一夫
  9. 少女の旅の終り,津村節子
  10. 「浅草紅団」時代の浅草風景,後藤亮
  11. 編集の要項〈P.POSTA〉の話 本の周辺39,布川角左衛門
  12. バロック再生(対談),小倉朗・吉田雅夫
  13. カット(本文),落合茂

1972年8月■第40号

  1. 私の好きな言葉,杉捷夫
  2. 弔辞(毎月雑談28),寺田透
  3. エンツェンスベルガーと文学,中野孝次
  4. マドゥモアゼル,ルウルウ,森茉莉
  5. 読書の学(十二),吉川幸次郎
  6. 本作りの事,武井武雄
  7. アフラ・ベーン(二) 英文学瑣談2,朱牟田夏雄
  8. 三島由紀夫とラディゲに就いて,江口清
  9. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(十八),渡辺一夫
  10. 訪欧の旅から(一) 本の周辺40,布川角左衛門
  11. 見えない彫刻,飯田善国
  12. ほん・その目でみる歴史39,寿岳文章
  13. カット(本文),落合茂

1972年9月■第41号

  1. 内田巌の詩,平野謙
  2. 告別の後(毎月雑談29),寺田透
  3. 「レイルウェイ・マニア」考,小池滋
  4. 新しい女雑感,羽仁説子
  5. 読書の学(十三),吉川幸次郎
  6. アルチュール・ランボーの生涯,素九鬼子
  7. アフラ・ベーン(三) 英文学瑣談3,朱牟田夏雄
  8. ほん・その目でみる歴史40,寿岳文章
  9. どっちが大事,海上雅臣
  10. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(十九),渡辺一夫
  11. 訪欧の旅から(二) 本の周辺41,布川角左衛門
  12. 宮沢賢治の手帳・創作メモなど,奥田弘
  13. 今日の出版界を展望して,(磯)
  14. カット(本文),落合茂

1972年10月■第42号

  1. ニーチェの言葉,浅井真男
  2. 荒唐無稽(毎月雑談30),寺田透
  3. 曽我量深師随聞記,藤代聡麿
  4. 読書の学(十四),吉川幸次郎
  5. 書誌拾録,中島河太郎
  6. アフラ・ベーン(四) 英文学瑣談4,朱牟田夏雄
  7. ほん・その目でみる歴史41,寿岳文章
  8. 訪欧の旅から(三) 本の周辺42,布川角左衛門
  9. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(二十),渡辺一夫
  10. 光景は回帰する,財部鳥子
  11. カット(本文),落合茂

1972年11月■第43号

  1. 芭蕉の脇句,高藤武馬
  2. 金屏風(毎月雑談31),寺田透
  3. 小説「後白河院」の周囲,井上
  4. てのひら,秦恒平
  5. 読書の学(十五),吉川幸次郎
  6. モロッコ革の本,栃折久美子
  7. アフラ・ベーン(五),朱牟田夏雄
  8. ほん・その目でみる歴史42,寿岳文章
  9. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(二一),渡辺一夫
  10. 訪欧の旅から(四) 本の周辺43,布川角左衛門
  11. ドストエフスキーと運転手,小沼文彦
  12. カット(本文),落合茂

1972年12月■第44号

  1. 活字,原弘
  2. 残像(毎月雑談32),寺田透
  3. 「後庭花」雑話,稲垣足穂
  4. 中里介山拾遺,尾崎秀樹
  5. 読書の学(十六),吉川幸次郎
  6. 版画雑記,高田博厚
  7. 出版界展望―今年の出版界に思う―,(磯)
  8. アフラ・ベーン(六),朱牟田夏雄
  9. ほん・その目でみる歴史43,寿岳文章
  10. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(二二),渡辺一夫
  11. 訪欧の旅から(五) 本の周辺44,布川角左衛門
  12. 落合校長就任のころ,萩原延寿
  13. カット(本文),落合茂

1973年1月■第45号

  1. ――ドニ キ チスト ダウラト……,加藤楸邨
  2. 首の話(毎月雑談33),寺田透
  3. 鉱物学的楽園,種村季弘
  4. 「北守将軍」の驚き,飯沢匡
  5. 読書の学(十七),吉川幸次郎
  6. 完全な図書館(ボルヘス),土岐恒二訳
  7. アフラ・ベーン(七) 英文学瑣談7,朱牟田夏雄
  8. 掃苔記―わたしの墓所誌―,高野金太郎
  9. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(二三),渡辺一夫
  10. ムック(mook)とは 本の周辺45,布川角左衛門
  11. エズラ・パウンドを尋ねて,福田陸太郎
  12. ほん・その目でみる歴史44,寿岳文章
  13. カット(本文),落合茂

1973年2月■第46号

  1. それは虚像かも知れないが,わたしを慰める,土方定一
  2. プーシュキン(毎月雑談34),寺田透
  3. 谷崎潤一郎の触覚的文体,宇佐見英治
  4. 風景の変貌とモランデイの魅力,島崎蓊助
  5. 読書の学(十八),吉川幸次郎
  6. 布野の半日,森亮
  7. アフラ・ベーン(八) 英文学瑣談(完),朱牟田夏雄
  8. ほん・その目でみる歴史45,寿岳文章
  9. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(完),渡辺一夫
  10. 読みにくい本 本の周辺46,布川角左衛門
  11. 原初の闇の幻―ネルヴァルとプルースト―,稲生永
  12. カット(本文),落合茂

1973年3月■第47号

  1. ふと聞えた言葉,佐多稲子
  2. 角右衛門の正月(毎月雑談35),寺田透
  3. 三好達治私考,会田綱雄
  4. 斎藤茂吉と川村多実二,宮地伝三郎
  5. 読書の学(十九),吉川幸次郎
  6. ミラーとダレル,中川敏
  7. 唐代における詩の伝播について,黒川洋一
  8. 蛾と付き合う,春田俊郎
  9. 変動する社会と出版界 本の周辺47,布川角左衛門
  10. 林芙美子〓〔中黒の位置にある「,」だが、PCで表示不能〕出生の謎,和田芳惠
  11. ほん・その目でみる歴史46,寿岳文章
  12. カット(本文),落合茂

1973年4月■第48号

  1. 私の好きな言葉,増田四郎
  2. 反訳(毎月雑談36),寺田透
  3. 霧の国の古事記,安西均
  4. ニエダトロガ,加藤楸邨
  5. 読書の学(二十),吉川幸次郎
  6. 伝統と現代,入野義朗
  7. 植物的社会の夢,戸田盛和
  8. 西脇順三郎博士の“Linguistic Alchaeology”,斎藤正二
  9. 用字の混乱 本の周辺48,布川角左衛門
  10. 『心学五倫書』考,石毛忠
  11. ほん・その目でみる歴史47,寿岳文章
  12. カット(本文),落合茂

1973年5月■第49号

  1. 凡兆の一句,湯浅芳子
  2. 反訳―承前―(毎月雑談37),寺田透
  3. しかしジッドは生きている,若林真
  4. 夢の中の旅,田村隆一
  5. 読書の学(二十一),吉川幸次郎
  6. 修二会と能,吉越立雄
  7. もう一つの色彩―日本の春に―,武井邦彦
  8. あの頃と今と,津田季穂
  9. 続変動する社会と出版界 本の周辺49,布川角左衛門
  10. 武井武雄の児童文学,上笙一郎
  11. ほん・その目でみる歴史48,寿岳文章
  12. カット(本文),落合茂

1973年6月■第50号

  1. シュペルヴィエルの詩,丸山薫
  2. 能を見る(毎月雑談38),寺田透
  3. スタロバンスキーの余白に,宮川淳
  4. 植物的生活――或は踏みつけられた百合の芽,山室静
  5. 読書の学(二十二),吉川幸次郎
  6. サルノコシカケ,森荘已池
  7. 大衆大学雑感,小松伸六
  8. ほん・その目でみる歴史49,寿岳文章
  9. 草稿の森の中から,天澤退二郎
  10. 大手拓次という詩人,原子朗
  11. カット(本文),落合茂

1973年7月■第51号

  1. 好きな言葉はない,田中美知太郎
  2. 能(毎月雑談39),寺田透
  3. 詩語〈よそ〉の変貌,馬場あき子
  4. 読書の学(二十三),吉川幸次郎
  5. 『宮本百合子』取材旅行,中村智子
  6. 文章家レーピン,松下裕
  7. 『ローランの歌』の刊行者,江口清
  8. ほん・目でみる歴史50,寿岳文章
  9. 茂吉の手紙一つ,黒田道宅
  10. ストラヴィンスキーの晩年の肖像,鍵谷幸信
  11. カット(本文),落合茂

1973年8月■第52号

  1. 〓〔偏:田+旁:比(「毘」の異体字)だが、PCで表示不能〕婆尸仏の偈,高橋新吉
  2. モネの風景(毎月雑談40),寺田透
  3. ジョイスの《禍語》のもとに,柳瀬尚紀
  4. 革命烈士の墓―中国を旅行して―,福永光司
  5. 読書の学(二十四),吉川幸次郎
  6. 大佛先生の思い出,角田房子
  7. 人間連帯への苦しみ―ロレンスとエリオット,羽矢謙一
  8. ほん・その目でみる歴史51,寿岳文章
  9. 本居宣長の「経籍」と字訓,松島栄一
  10. 出版物の洪水 本の周辺50,布川角左衛門
  11. シチリア島記(抄),山本太郎
  12. カット(本文),落合茂

1973年9月■第53号

  1. 絹と木綿,宮地伝三郎
  2. 死に近く(毎月雑談41),寺田透
  3. キートンと萩原朔太郎,飯島耕一
  4. ほん・その目でみる歴史52,寿岳文章
  5. 読書の学(二十五),吉川幸次郎
  6. 横光利一試論,高橋英夫
  7. マックス・ピカート「夜と昼」1,福田宏年訳
  8. トルストイの『復活』とパステルナーク父子,工藤正広
  9. 誌名のはなし(一) 本の周辺51,布川角左衛門
  10. 皇帝から天皇へ,山口修
  11. カット(本文),落合茂

1973年10月■第54号

  1. 福澤諭吉の即興詩「初觀劇」,高橋誠一郎
  2. 死の前後(毎月雑談42),寺田透
  3. 透谷の「三日幻境」など,吉増剛造
  4. ほん・その目でみる歴史53,寿岳文章
  5. 読書の学(二十六),吉川幸次郎
  6. 巷にて,高井有一
  7. 酒への惑溺,入矢義高
  8. お知らせとお詫び(野間宏全集の刊行再開),野間宏
  9. 日本脱出,二階堂副包
  10. マックス・ピカート「夜と昼」2,福田宏年訳
  11. 誌名のはなし(二) 本の周辺52,布川角左衛門
  12. 岡本良知さんのこと,野田宇太郎
  13. カット(本文),落合茂

1973年11月■第55号

  1. 仁者は寿,中谷孝雄
  2. 蜂猫譚(毎月雑談43),寺田透
  3. プルーストの出発点,保苅瑞穂
  4. 読書の学(二十七),吉川幸次郎
  5. 一筋の思い出,小川国夫
  6. 心理学者の解説はなぜつまらないか,岸田秀
  7. ほん・その目でみる歴史54,寿岳文章
  8. マックス・ピカート「夜と昼」3,福田宏年訳
  9. 誌名のはなし(三) 本の周辺53,布川角左衛門
  10. 忘却の淵,鷲巣繁男
  11. カット(本文),落合茂

1973年12月■第56号

  1. 芭蕉の句,中村光夫
  2. 田舎言葉(毎月雑談44),寺田透
  3. 教皇ヨハネ二十三世,小坂井澄
  4. 読書の学(二十八),吉川幸次郎
  5. ペンキの塗り替え,萩原葉子
  6. 隠れた禅の高僧―釈宗活と西山禾山―,秋月龍a
  7. ほん・その目でみる歴史55,寿岳文章
  8. 誌名のはなし(四) 本の周辺54,布川角左衛門
  9. マックス・ピカート「夜と昼」 最終回,福田宏年訳
  10. クローデル再考,渡辺守章
  11. カット(本文),落合茂

1974年1月■第57号

  1. 道元のことば,西尾実
  2. 「亜」の全冊,清岡卓行
  3. ビュトールとデュシャン,清水徹
  4. 読書の学(二十九),吉川幸次郎
  5. 古田晁君,中野重治
  6. 昔ばなしの動物観,櫻井徳太郎
  7. ほん・その目でみる歴史56,寿岳文章
  8. 罰せられざる悪徳・読書(1) ラルボー,岩崎力訳
  9. 誌名のはなし(五) 本の周辺55,布川角左衛門
  10. ディキンソンの手紙,新倉俊一
  11. カット(本文),落合茂

1974年2月■第58号

  1. 私の好きな言葉,水上勉
  2. 徳富蘆花という人(上),中野好夫
  3. 阿弥陀如来下向す 雑記帳から(1),藤枝静男
  4. 読書の学(三十),吉川幸次郎
  5. 女々しい回帰「櫂」,宮尾登美子
  6. 夏の日の思い出―ソ連・ヨーロッパ・イスラエル,宮澤浩一
  7. ほん・その目でみる歴史57,寿岳文章
  8. 罰せられざる悪徳・読書(U) ラルボー,岩崎力訳
  9. 誌名のはなし(六) 本の周辺56,布川角左衛門
  10. 幻の京丸ぼたん,鳥居純子
  11. カット(本文),落合茂

1974年3月■第59号

  1. 好きなことば,桑原武夫
  2. 徳冨蘆花という人(下),中野好夫
  3. 洋服屋ほか 雑記帳から(2),藤枝静男
  4. アトリエ身辺記,高畠正明
  5. 謙抑の人 追悼 古田晁,中村光夫
  6. 葉山嘉樹,浦西和彦
  7. ほん・その目でみる歴史58,寿岳文章
  8. 罰せられざる悪徳・読書(V) ラルボー,岩崎力訳
  9. 誌名のはなし(七) 本の周辺57,布川角左衛門
  10. 萩原朔太郎と室生犀星,富士川英郎
  11. カット,落合茂

1974年4月■第60号

  1. 永嘉大師証道歌,堀米庸三
  2. 李白雑記,会田綱雄
  3. 二流品を好く理由など 雑記帳から(3),藤枝静男
  4. 読書の学(三十一),吉川幸次郎
  5. 気象史からみる天候異変,根本順吉
  6. 罰せられざる悪徳・読書(W) ラルボー,岩崎力訳
  7. 誌名のはなし(八) 本の周辺58,布川角左衛門
  8. 樋口一葉をめぐって,芝木好子・和田芳惠・野口碩
  9. ほん・その目でみる歴史59,寿岳文章
  10. カット,落合茂

1974年5月■第61号

  1. ブレークの箴言,埴谷雄高
  2. ささやかな交差――宮澤賢治と斎藤茂吉,岡井隆
  3. 志賀直哉の油絵 雑記帳から(4),藤枝静男
  4. 読書の学(三十二),吉川幸次郎
  5. 読むことと書くこと,吉田健一
  6. 罰せられざる悪徳・読書(X) ラルボー,岩崎力訳
  7. ほん・その目でみる歴史60,寿岳文章
  8. 誌名のはなし(九) 本の周辺59,布川角左衛門
  9. 批評の位置(座談会),篠田一士・川村二郎・菅野昭正・清水徹・丸谷才一
  10. カット(本文),落合茂

1974年6月■第62号

  1. 芭蕉の言葉,臼井吉見
  2. 鬼貫の薄,永田耕衣
  3. リンディスファーン行,堀米庸三
  4. 読書の学(三十三),吉川幸次郎
  5. 志賀直哉と築山殿のこと 雑記帳から(5),藤枝静男
  6. 鴟鵂庵閑話(一),富士川英郎
  7. レオナルドとダンテ 美術散歩1,岡田隆彦
  8. 世紀末からの手紙――ヨネ・ノグチ,渥美育子
  9. 誌名のはなし(十) 本の周辺60,布川角左衛門
  10. 現代音楽雑感 西洋音楽の終焉?,柴田南雄
  11. カット(本文),落合茂

1974年7月■第63号

  1. ベルグソンと孔子,川口篤
  2. 本と,変な本,萩原朔美
  3. バルセロナの織部,江口幹
  4. 薬師寺東院聖観音 雑記帳から(完),藤枝静男
  5. 読書の学(三十四),吉川幸次郎
  6. マネとマラルメ 美術散歩2,岡田隆彦
  7. 鴟鵂庵閑話(二),富士川英郎
  8. 四月と五月――私の詩人往来――,秋山清
  9. 誌名のはなし(十一) 本の周辺61,布川角左衛門
  10. 念と運,尾形仂
  11. カット(本文),落合茂

1974年8月■第64号

  1. 思いやりの心,岩本薫
  2. 『西国立志編』について,星新一
  3. 一管の尺八,山崎朋子
  4. 読書の学(三十五),吉川幸次郎
  5. 日本語の国際語化,西島梅治
  6. 鴟鵂庵閑話(三),富士川英郎
  7. モロオとユイスマンス 美術散歩3,岡田隆彦
  8. 作家の伝記について,大橋健三郎
  9. 誌名のはなし(十二) 本の周辺62,布川角左衛門
  10. 千樫雑感,上田三四二
  11. カット(本文),落合茂

1974年9月■第65号

  1. 中臣宅守の歌,松尾聰
  2. 金之助の手紙,里見ク
  3. 紫山恵温,高橋新吉
  4. 大山定一氏追悼,吉川幸次郎・谷友幸・眞継伸彦
  5. 鴟鵂庵閑話(四),富士川英郎
  6. ホガースとフィールディング 美術散歩4,岡田隆彦
  7. ジゥリオ・ロマーノの象,坂本満
  8. 誌名のはなし(十三) 本の周辺63,布川角左衛門
  9. 現実への窓――グリスの作品をめぐって,中山公男
  10. カット(本文),落合茂

1974年10月■第66号

  1. 私の好きな言葉,遠藤湘吉
  2. 箱と織物,豊崎光一
  3. 我ガ事成レリ,堀田善衞
  4. 読書の学(三十六),吉川幸次郎
  5. ニューギニアの奥地で,春田俊郎
  6. ビアズリーとワイルド 美術散歩5,岡田隆彦
  7. 鴟鵂庵閑話(五),富士川英郎
  8. 誌名のはなし(十四) 本の周辺64,布川角左衛門
  9. 「港のマリー」の町と,アポリネールに宿賃を踏みたおされた町,飯島耕一
  10. 今年の出版界展望,(磯)
  11. カット(本文),落合茂

1974年11月■第67号

  1. 心に残る言葉,大河内一男
  2. フラン・マイルズ・ブライアン,大澤正佳
  3. 古田君の事,小林秀雄
  4. 読書の学(三十七),吉川幸次郎
  5. おっちょこちょ医,おっちょこちょ医に会う,なだ いなだ
  6. モダン・ジャズ,油井正一
  7. 鴟鵂庵閑話(六),富士川英郎
  8. ミロとヘミングウェイ 美術散歩6,岡田隆彦
  9. 誌名のはなし(十五) 本の周辺65,布川角左衛門
  10. 江戸期の中国詩口語訳,都留春雄
  11. カット(本文),落合茂

1974年12月■第68号

  1. 與謝野晶子の歌,磯村哲
  2. 漱石の問題,相原信作
  3. 現代の青春を問う,真継伸彦
  4. 戒道のなかで,前田常作
  5. 青木繁と蒲原有明 美術散歩7,岡田隆彦
  6. 天から降ってきたホテルそしてシーソー・ウィリアムス,白石かずこ
  7. 鴟鵂庵閑話(七),富士川英郎
  8. 誌名のはなし(十六) 本の周辺66,布川角左衛門
  9. オルシヴァルの聖母寺,小佐井伸二
  10. カット(本文),落合茂

1975年1月■第69号

  1. 年賀状廃止,遠山啓
  2. 一休余話,水上勉
  3. 雨の花札,森田誠吾
  4. 読書の学(三十八),吉川幸次郎
  5. 私の子供の頃,田辺聖子
  6. 鴟鵂庵閑話(八),富士川英郎
  7. ホイッスラーと杢太郎 美術散歩8,岡田隆彦
  8. 「今ノ世」で「思フ事ヲイフ」こと,松本徹
  9. 誌名のはなし(十七) 本の周辺67,布川角左衛門
  10. ケレーニイの『古代小説』,円子修平
  11. カット(本文),難波淳郎

1975年2月■第70号

  1. 芭蕉の句,工藤好美
  2. 二老婦人の手記,河上徹太郎
  3. 凹凸記,会田綱雄
  4. ギリシア悲劇と現代,中村雄二郎
  5. シレジアの白鳥,池内紀
  6. ルソーとアポリネール 美術散歩9,岡田隆彦
  7. 鴟鵂庵閑話(九),富士川英郎
  8. 誌名のはなし(十八) 本の周辺68,布川角左衛門
  9. ネルヴァルと私,中村真一郎
  10. カット(本文),難波淳郎

1975年3月■第71号

  1. 舊枕,串田孫一
  2. 罐詰の話,平野謙
  3. 或る『文学全集』の影響,加賀乙彦
  4. 作品,または失語の理想境,蓮實重彦
  5. わが家の庭づくり,服部幸三
  6. 有加利樹,山崎柳子
  7. 戸張孤雁と片山潜 美術散歩10,岡田隆彦
  8. 鴟鵂庵閑話(十),富士川英郎
  9. 誌名のはなし(十九) 本の周辺69,布川角左衛門
  10. 八百比丘尼物語,鳥居純子
  11. カット(本文),難波淳郎

1975年4月■第72号

  1. 神の国,本多秋五
  2. 絵画が偉大であった時代,阿部良雄
  3. 忙しさについて,村田全
  4. 読書の学(三十九),吉川幸次郎
  5. 撮影日誌 擬景郷,粟津潔
  6. ロセッティとモリス 美術散歩11,岡田隆彦
  7. 鴟鵂庵閑話(十一),富士川英郎
  8. 誌名のはなし(二十) 本の周辺70,布川角左衛門
  9. ?と棋,琴棋書画,古代囲碁史の周辺,林裕
  10. 昨年の出版界に思う,(磯目)
  11. カット(本文),難波淳郎

1975年5月■第73号

  1. ものいいの柔かさ,中野重治
  2. 五浦行,大岡信
  3. 卒論,耕治人
  4. 中川一政邸訪問記,本多秋五
  5. 荻生徂徠の詩,日野龍夫
  6. シャガールと詩人たち 美術散歩12,岡田隆彦
  7. 鴟鵂庵閑話(十二),富士川英郎
  8. 誌名のはなし(二十一) 本の周辺71,布川角左衛門
  9. 私の戦中・戦後から(インタビュー),鶴見俊輔
  10. カット(本文),難波淳郎

1975年6月■第74号

  1. 三好達治の詩句,佐藤正彰
  2. 能の伝統と継承――能役者の立場から――,観世寿夫
  3. 面上の唾,新庄嘉章
  4. エリート派の文化とドロップアウト派の文化,鹿野政直
  5. リーチさんのこと(一),水尾比呂志
  6. 漱石の手紙(未発表),大河内昭爾
  7. ロダンとリルケ 美術散歩13,岡田隆彦
  8. 鴟鵂庵閑話(十三),富士川英郎
  9. 誌名のはなし(二十二) 本の周辺72,布川角左衛門
  10. 野田の限定本,堀尾青史
  11. カット(本文),難波淳郎

1975年7月■第75号

  1. ジイドの言葉,高田博厚
  2. プルーストと不在の弟,鈴木道彦
  3. 渡辺一夫さんのことども(追悼),中野好夫
  4. 朔太郎の「みなみ」,那珂太郎
  5. 俳人紅緑の本,加藤郁乎
  6. リーチさんのこと(二),水尾比呂志
  7. エプシュタインとヒューム 美術散歩14,岡田隆彦
  8. 鴟鵂庵閑話(十四),富士川英郎
  9. 出版年鑑の系譜(一) 本の周辺73,布川角左衛門
  10. 最初の現代作家――葉山嘉樹,小田切秀雄
  11. カット(本文),難波淳郎

1975年8月■第76号

  1. 言葉の狙矢・唇の供物,鷲巣繁男
  2. 雪のブリューゲル,中野孝次
  3. 法融禅師と慧忠国師,高橋新吉
  4. 当方見聞録,山田隆一
  5. リーチさんのこと(三),水尾比呂志
  6. 田中恭吉と萩原朔太郎 美術散歩15,岡田隆彦
  7. 鴟鵂庵閑話(十五),富士川英郎
  8. 出版年鑑の系譜(二) 本の周辺74,布川角左衛門
  9. ただの言葉,平川祐弘
  10. カット(本文),難波淳郎

1975年9月■第77号

  1. 雨洗風磨,橋本宇太郎
  2. 李商隠の詩について,荒井健
  3. 金子光晴先生(哀悼),会田綱雄
  4. 朔太郎とアリス,鶴岡善久
  5. リーチさんのこと(四),水尾比呂志
  6. セザンヌとゾラ 美術散歩16,岡田隆彦
  7. 鴟鵂庵閑話(十六),富士川英郎
  8. 出版年鑑の系譜(三) 本の周辺75,布川角左衛門
  9. セルバンテス通り界隈 マドリード古典劇散歩,長南実
  10. カット(本文),灘波淳郎

1975年10月■第78号

  1. 上手になるな,野村万蔵
  2. 〈鏡〉についての覚書,平井啓之
  3. 江戸文化の魅力―閉ざされながらひらかれた……,岡本太郎
  4. 荷風メモ,野口冨士男
  5. 革漉きの職人さんたち,栃折久美子
  6. リーチさんのこと(五),水尾比呂志
  7. タンギーとブルトン 美術散歩17,岡田隆彦
  8. 鴟鵂庵閑話(十七),富士川英郎
  9. 出版年鑑の系譜(四) 本の周辺76,布川角左衛門
  10. 私のスペイン行き,萩原葉子
  11. カット(本文),灘波淳郎

1975年11月■第79号

  1. 幽玄,峯村文人
  2. 歌切,竹西寛子
  3. 三好達治書簡三通,桑原武夫
  4. 賢治の「他者の目」,江原順
  5. 「歴史の暮方」,水田洋
  6. 京料理(一) 諸国名品誌1,村井康彦
  7. リーチさんのこと(六),水尾比呂志
  8. 冨田溪仙とクローデル 美術散歩18,岡田隆彦
  9. 鴟鵂庵閑話(十八),富士川英郎
  10. 出版年鑑の系譜(五) 本の周辺77,布川角左衛門
  11. 秦恒平における美の原質,笠原伸夫
  12. カット(本文),灘波淳郎

1975年12月■第80号

  1. 郷愁,北通文
  2. セイレム再訪,西川正身
  3. 「少年」こぼれ話,大岡昇平
  4. 今年の出版界展望,磯目健二
  5. ジョン・コリア訪問記,新倉俊一
  6. 京料理(二) 諸国名品誌2,村井康彦
  7. リーチさんのこと(完),水尾比呂志
  8. 岸田劉生と武者小路実篤 美術散歩19,岡田隆彦
  9. 鴟鵂庵閑話(十九),富士川英郎
  10. 出版年鑑の系譜(六) 本の周辺78,布川角左衛門
  11. リセーの「哲学教科書」,森有正
  12. カット(本文),灘波淳郎

1976年1月■第81号

  1. 「世之所楽,吾亦楽之」,小川環樹
  2. ドーミエとミシュレ,平岡昇
  3. 旅宿の皿,井上光晴
  4. 結びもつかず,富士正晴
  5. 佐藤氏を悼む,中村光夫
  6. ムヘレス島へ!,加納光於
  7. 虫の知らせ,寺井美奈子
  8. ミュシャとサラ・ベルナール 美術散歩20,岡田隆彦
  9. 鴟鵂庵閑話(二十),富士川英郎
  10. 出版年鑑の系譜(七) 本の周辺79,布川角左衛門
  11. 「東亜学」か「アジア学」か,小倉芳彦
  12. カット(本文),灘波淳郎

1976年2月■第82号

  1. 侍多千億佛,市原豊太
  2. 一枚の絵が……,平岡篤頼
  3. 身辺雑雑,草野心平
  4. 沙翁劇続俤,中野里皓史
  5. 弁当―事始め 諸国名品誌3,前川久太郎
  6. 「延安革命」と現代中国と世界,加々美光行
  7. 荻原守衛と相馬黒光 美術散歩21,岡田隆彦
  8. 鴟鵂庵閑話(二十一),富士川英郎
  9. 出版年鑑の系譜(八) 本の周辺80,布川角左衛門
  10. 『斗南先生』逸事―中島敦の伯父・中島竦,郡司勝義
  11. カット(本文),灘波淳郎

1976年3月■第83号

  1. ブレヒトの言葉,千田是也
  2. 大應国師,高橋新吉
  3. アメリカ・インディアンの詩(1),金関寿夫
  4. 南座の顔見世興行―歌舞伎放談,浅井眞男
  5. 中山道木曽奈良井宿の塗櫛 諸国名品誌4,生駒勘七
  6. 幻影城,二人目の城主,安間隆次
  7. 小出楢重と宇野浩二 美術散歩22,岡田隆彦
  8. 鴟鵂庵閑話(二十二),富士川英郎
  9. 出版年鑑の系譜(九) 本の周辺81,布川角左衛門
  10. 蒲原有明の出発(又は,詩人有明の散文),野田宇太郎
  11. カット(本文),灘波淳郎

1976年4月■第84号

  1. 樋口一葉のことば,和田芳惠
  2. ウォーレス・スティーヴンズ,人と作品,佐藤喬
  3. 倉石武四郎博士哀辞,吉川幸次郎
  4. 読書漫録(一),下村寅太郎
  5. 九州修験の雄,彦山 諸国名品誌5,和歌森太郎
  6. アメリカ・インディアンの詩(2),金関寿夫
  7. 古賀春江と川端康成 美術散歩23,岡田隆彦
  8. 鴟鵂庵閑話(二十三),富士川英郎
  9. 出版年鑑の系譜(十) 本の周辺82,布川角左衛門
  10. 暗号譚,出口裕弘
  11. カット(本文),灘波淳郎

1976年5月■第85号

  1. 大伴家持の歌,土屋文明
  2. 大きな動物の小型―わが博物記―,吉田健一
  3. 旅と感傷,矢崎光圀
  4. 読書漫録(二),下村寅太郎
  5. 祖谷山絵巻について 諸国名品誌6,河野太郎
  6. フラピエ先生のこと,天澤退二郎
  7. ダリとガラ 美術散歩24,岡田隆彦
  8. 鴟鵂庵閑話(二十四),富士川英郎
  9. 出版年鑑の系譜(十一) 本の周辺83,布川角左衛門
  10. 定本『中野重治詩集』のために,松下裕
  11. カット(本文),難波淳郎

1976年6月■第86号

  1. 永遠に女性なるもの,氷上英廣
  2. 李白の花,武部利男
  3. 春夏秋冬(1)―自分にとって文学とは?,生島遼一
  4. 読書漫録(三),下村寅太郎
  5. 昔の日光詣 諸国名品誌7,柴田豊久
  6. 「西洋」の衝撃と日本の近代,木々康子
  7. ドガとヴァレリー 美術散歩25,岡田隆彦
  8. 鴟鵂庵閑話(完),富士川英郎
  9. 出版年鑑の系譜(十二) 本の周辺84,布川角左衛門
  10. 昭和基地今昔,福谷博
  11. カット(本文),難波淳郎

1976年7月■第87号

  1. 誓子の一句,有倉遼吉
  2. ラニョーとアラン――リセの哲学者――,野田又夫
  3. 春夏秋冬(2)――私の本棚,生島遼一
  4. 土地の霊――現代イギリスの旅行記覚書,富士川義之
  5. 名古屋城二之丸庭園とその原図 諸国名品誌8,織茂三郎
  6. 読書漫録(四),下村寅太郎
  7. エルンストとミューズたち 美術散歩26,岡田隆彦
  8. 能舞台の精霊たち,長尾一雄
  9. 出版年鑑の系譜(十三) 本の周辺85,布川角左衛門
  10. イタリア文学遍歴の個人的体験,千種堅
  11. カット(本文),難波淳郎

1976年8月■第88号

  1. 「詩篇」第十九,木下順二
  2. イェイツ,ピランデルロ,菊池寛 ひとつの夢想,出淵博
  3. 春夏秋冬(3)――歴史とフィクション,生島遼一
  4. 短歌の青春 與謝野鐵幹の歌を繞つて,須永朝彦
  5. 長州藩の行程記 諸国名品誌9,田村哲夫
  6. 読書漫録(五),下村寅太郎
  7. オキーフとスティーグリッツ 美術散歩27,岡田隆彦
  8. 出版年鑑の系譜(十四) 本の周辺86,布川角左衛門
  9. 〈私〉時計と〈公〉時計の間,池田正一
  10. ネス湖の未知の大きな動物―わが博物記2―,吉田健一
  11. カット(本文),難波淳郎

1976年9月■第89号

  1. 竹聲桃花,上林曉
  2. 全体を見る眼と歴史家たち,二宮宏之
  3. 春夏秋冬(4)――顔について,生島遼一
  4. 二篇の戦争詩――朔太郎と静雄,中桐雅夫
  5. 鍬形寫ヨの江戸鳥瞰図 諸国名品誌10,西山松之助
  6. 読杜瑣記――「泛舟慙小婦,飄泊損紅顔」,黒川洋一
  7. ボッチョーニとマリネッティ 美術散歩28,岡田隆彦
  8. 読書漫録(六),下村寅太郎
  9. 出版年鑑の系譜(十五) 本の周辺87,布川角左衛門
  10. 私の露西亜文学事始,川端香男里
  11. カット(本文),難波淳郎

1976年10月■第90号

  1. 田能村竹田のことば,吉澤忠
  2. 『一塊の土』をめぐって―芥川龍之介に関する些細な考察,三好行雄
  3. 春夏秋冬(5)――上田秋成のこと,生島遼一
  4. 絶妻之誓,益田勝実
  5. 南蛮屏風 諸国名品誌11,坂本満
  6. 専門と博識――日米比較学者考,佐和隆光
  7. 読書漫録(七),下村寅太郎
  8. 前田寛治と福本和夫 美術散歩29,岡田隆彦
  9. オーウェルのビルマ,小泉允雄
  10. 渡辺一夫の思い出――半世紀前に追分で,風間道太郎
  11. カット(本文),難波淳郎

1976年11月■第91号

  1. 転がる石は苔がつかぬ,田辺貞之助
  2. なぜ七歩か,興膳宏
  3. ギボンの『ローマ帝国衰亡史』,中野好夫
  4. 春夏秋冬(6)――鉄兵さんの思い出,生島遼一
  5. 新訳『魯迅文集』について,竹内好
  6. 海の大百足――わが博物記3,吉田健一
  7. 洛外図屏風 諸国名品誌12,武田恒夫
  8. バルテュスとクロソウスキー 美術散歩30,岡田隆彦
  9. 読書漫録(八),下村寅太郎
  10. 編集に類するもの 本の周辺88,布川角左衛門
  11. シリアの公女たち――ヘリオガバルスをめぐって,多田智満子
  12. カット(本文),難波淳郎

1976年12月■第92号

  1. 最澄の語,出口勇藏
  2. 額縁について,杉本秀太郎
  3. ある日本語学者の死,阿部良雄
  4. 「天橋立図」のなぞ,むしゃこうじ・みのる
  5. 春夏秋冬(7)――横光利一の文学,生島遼一
  6. 百工比照 諸国名品誌13,嶋崎丞
  7. 読書漫録(九),下村寅太郎
  8. シケイロスとトロツキー 美術散歩31,岡田隆彦
  9. バリ島紀行――王様の葬式,鳥居純子
  10. 編集のABCDE… 本の周辺89,布川角左衛門
  11. ビザンチン美術研究雑感,辻成史
  12. カット(本文),難波淳郎

1977年1月■第93号

  1. 「則天去私」,秋山英夫
  2. 時間の音楽にのって―二つの大河小説,工藤昭雄
  3. 幻の「凍れる木[フローズン・ツリー]」,入沢康夫
  4. ある銀婚式,登張正実
  5. 春夏秋冬(8),生島遼一
  6. 生活簡素化のすすめ――留学雑感(1),中山研一
  7. 読書漫録(十),下村寅太郎
  8. 横山大観と岡倉天心 美術散歩32,岡田隆彦
  9. 三島宿風俗屏風 諸国名品誌14,戸羽山瀚
  10. 編集のABCDE……(続) 本の周辺90,布川角左衛門
  11. 中野重治氏の堀辰雄宛書簡,堀多恵子
  12. カット(本文),勝本冨士雄

1977年2月■第94号

  1. セナンクウルの言葉,尾崎一雄
  2. 知られざるギボン,西村貞二
  3. 春夏秋冬(9)――言葉の論義,生島遼一
  4. レーモン・クノーの死,滝田文彦
  5. 三代豊国『王子稲荷初午祭ノ図』 諸国名品誌15,宮田登
  6. 地方分権のすすめ 留学雑感(2),中山研一
  7. 琥珀――わが博物記4,吉田健一
  8. 浅井忠と正岡子規 美術散歩33,岡田隆彦
  9. 読書漫録(十一),下村寅太郎
  10. アナグラ夢とアクロスティッ句,柳瀬尚紀
  11. パリの森有正さん,朝吹登水子
  12. カット(本文),勝本冨士雄

1977年3月■第95号

  1. 戦友,青木雄造
  2. 武田泰淳との対話,会田綱雄
  3. 思い出すこと,林竹二
  4. アリスとドン・キホーテ,高橋康也
  5. 春夏秋冬(10)――鏡花のこと,生島遼一
  6. 八重山蔵元絵師の伝統と画稿 諸国名品誌16,鎌倉芳太郎
  7. するが染の記,秋山浩熏
  8. ピカソとスタイン 美術散歩34,岡田隆彦
  9. 官僚主義とその歯止め 留学雑感(3),中山研一
  10. 読書漫録(十二),下村寅太郎
  11. 梨の花の家,坪田新太郎
  12. カット(本文),勝本冨士雄

1977年4月■第96号

  1. 戯去戯来,飯沢匡
  2. 森鴎外と萩原朔太郎,富士川英郎
  3. 雪駄と風呂敷包,竹西寛子
  4. 変貌するドン・ファン像,高橋英郎
  5. 春夏秋冬(11)――「薄紅梅」,生島遼一
  6. 大和国屏風 諸国名品誌17,上田早苗
  7. ロダンとダンカン 美術散歩35,岡田隆彦
  8. 読書漫録(十三),下村寅太郎
  9. ポーランドの売春問題 留学雑感(完),中山研一
  10. 岩伍番外・鈴八の事,宮尾登美子
  11. カット(本文),勝本冨士雄

1977年5月■第97号

  1. 好きな言葉,富士正晴
  2. 感想 全集刊行に当って,小林秀雄・里見ク
  3. 春夏秋冬(12)――弟の玉子焼,生島遼一
  4. 国語の授業から,沢崎順之助
  5. 『熊本御城紙図』について 諸国名品誌18,内藤昌
  6. 河上肇と中国の詩人たち(一) 好奇心―陸放翁,一海知義
  7. シベリアの動物――わが博物記5,吉田健一
  8. アジェとマン・レイ 美術散歩36,岡田隆彦
  9. 読書漫録(十四),下村寅太郎
  10. 芸術の町ニューヨーク,西島梅治
  11. カット(本文),勝本冨士雄

1977年6月■第98号

  1. 百間先生亡友哀悼の辞,山田〓〔「爵」の旧字体(「嚼」の旁)の「爪」が「木」の字だが、PCで表示不能〕
  2. バルセロナの光と風,大岡信
  3. 堀辰雄さんの世界,中里恒子
  4. 鳥居耀蔵の漢詩,杉浦明平
  5. 春夏秋冬(13)――三人の女史,生島遼一
  6. 河上肇と中国の詩人たち(二) 陸放翁(上),一海知義
  7. フィッツジェラルドとジャズ時代 美術散歩37,岡田隆彦
  8. 富士講と御師 諸国名品誌19,飯田文弥
  9. 読書漫録(十五),下村寅太郎
  10. ニーチェ文献雑記,秋山英夫
  11. カット(本文),勝本冨士雄

1977年7月■第99号

  1. ボードレールの疊句[ルフラン],齋藤磯雄
  2. 不思議な「折口」,吉増剛造
  3. バー未来,長谷川四郎
  4. 緑の炎――アルコールの代謝作用について,田村隆一
  5. 春夏秋冬(14)――当麻幻想,生島遼一
  6. 河上肇と中国の詩人たち(三) 陸放翁(下),一海知義
  7. アメリカの芸術家とエマスン 美術散歩38,岡田隆彦
  8. 白潟天満宮祭礼図 諸国名品誌20,藤岡大拙
  9. 読書漫録(十六),下村寅太郎
  10. 中野駅界隈,瀬沼茂樹
  11. カット(本文),勝本冨士雄

1977年8月■第100号

  1. 「茶山詩三百首」を讀む,井伏鱒二
  2. 杜詩と史実,吉川幸次郎
  3. 三ノ岳追想,上林暁
  4. 重傷者の想い出,小川国夫
  5. 芥川回顧展など,柴田翔
  6. 法眼文益禅師,高橋新吉
  7. 春夏秋冬(15)――人と作品,生島遼一
  8. 河上肇と中国の詩人たち(四) 陶淵明,一海知義
  9. サリヴァンと現代アメリカ建築 美術散歩39,岡田隆彦
  10. 読書漫録(十七),下村寅太郎
  11. 陸奥国信夫伊達惣検地屏風 諸国名品誌21,誉田宏
  12. 事実と絵空ごとのこと,水上勉
  13. カット(本文),勝本冨士雄

1977年9月■第101号

  1. 石女夜生児,会田綱雄
  2. 『アムバルワリア』と英文詩集,新倉俊一
  3. 春夏秋冬(16)――書?子のこと,生島遼一
  4. 闘いの哀しみ――蜂ノ巣城主の妻の視線,松下竜一
  5. 『雪之図絵巻』 諸国名品誌22,内山喜助
  6. 聖なるアジアの美の巡礼(上),前田常作
  7. ヴォラールと画家たち 美術散歩40,岡田隆彦
  8. 河上肇と中国の詩人たち(五) 邂逅―高青邱,一海知義
  9. 読書漫録(完),下村寅太郎
  10. ドストエフスキー私観,根本茂男
  11. カット(本文),勝本冨士雄

1977年10月■第102号

  1. 句読点のある源氏物語写本,岩淵悦太郎
  2. 今年の追分,後藤明生
  3. 春夏秋冬(17)――秋あはれ山べに人のあと絶ゆる,生島遼一
  4. アンドレ・ジッドの姿勢,二宮正之
  5. ホテル・シュッツェン,斎藤茂太
  6. 『事故のてんまつ』をめぐっての報告と御挨拶,(筑摩書房)
  7. 河上肇と中国の詩人たち(六),一海知義
  8. ライトとホイットマン 美術散歩41,岡田隆彦
  9. 聖なるアジアの美の巡礼(下),前田常作
  10. 南紀巡覧図と木村蒹葭堂 諸国名品誌23,田中敬忠
  11. 四十四丁目の幽霊,常盤新平
  12. カット(本文),勝本冨士雄

1977年11月■第103号

  1. それでも地球は回っている,川口弘
  2. 挫せる戴冠詩人――崇徳院序説,須永朝彦
  3. チェーホフの故地へ――すぐり[・・・]と土間と青い海,佐藤清郎
  4. 女からの歌 源氏物語恋の贈答歌,武者小路辰子
  5. 春夏秋冬(18)――師弟のこと,生島遼一
  6. 河上肇と中国の詩人たち(七),一海知義
  7. ドゥースブルグとボンセット 美術散歩42,岡田隆彦
  8. 「菜の花物語」――丹羽文雄のある部分――,小泉譲
  9. 庄内竿 諸国名品誌24,佐藤七郎
  10. パロディーとしての博物館,種村季弘
  11. カット(本文),勝本冨士雄

1977年12月■第104号

  1. 私の好きな言葉,山本健吉
  2. 花の少年たち――あるいは美少年の神化について,多田智満子
  3. 歴史のデーモン,佐江衆一
  4. ミュリエル・スパークの現代,小野寺健
  5. 春夏秋冬(19),生島遼一
  6. 草稿の森を出て――『校本宮澤賢治全集』完結・雑無量感,天沢退二郎
  7. ボナールと文学者たち 美術散歩43,岡田隆彦
  8. 河上肇と中国の詩人たち(八),一海知義
  9. 江戸時代の国絵図 諸国名品誌(完),岩田豊樹
  10. 〈五月〉の作家たち,鈴木道彦
  11. カット(本文),勝本冨士雄

1978年1月■第105号

  1. 家持と芭蕉,西脇順三郎
  2. ラウラの幻影,澁澤龍彦
  3. ヨハン・セバスティアン・バッハ讃,柴田南雄
  4. 明治人の魅力 《明治大正人国記》事始メ,色川大吉
  5. 春夏秋冬(20)――渡り鳥日記,生島遼一
  6. ?山霊祐禅師 碧巌の禅僧達(一),高橋新吉
  7. キャロルとテニエル 美術散歩44,岡田隆彦
  8. 河上肇と中国の詩人たち(九),一海知義
  9. ポーランド〈麦と矢車草〉,山本美智代
  10. 仮面としての歴史――イン・メモリアム・R・L,沢崎順之助
  11. カット(本文),勝本冨士雄

1978年2月■第106号

  1. 霜柱,永井龍男
  2. 「白夜」のテープ,吉増剛造
  3. 春夏秋冬(21)――ふるき仲間も……,生島遼一
  4. リューベックの都市景観図,矢守一彦
  5. 二代目清水喜助 《明治大正人国記》1,小木新造
  6. 洞山悟本大師 碧巌の禅僧達(二),高橋新吉
  7. 高村光雲と光太郎 美術散歩45,岡田隆彦
  8. 河上肇と中国の詩人たち(十) 大輪の花―白楽天,一海知義
  9. 南海の野菊,北村謙次郎
  10. 吉田健一氏追慕,保苅瑞穂
  11. カット(本文),勝本冨士雄

1978年3月■第107号

  1. 私のすきなことば,水田洋
  2. バルトを読む快楽,菅野昭正
  3. 旅の中のバッハ,小川国夫
  4. 戯詩笑覧,加藤郁乎
  5. 春夏秋冬(22)――広重の画は無声の詩……,生島遼一
  6. 仰山慧寂禅師 碧巌の禅僧達(三),高橋新吉
  7. 棟方志功と柳宗悦 美術散歩46,岡田隆彦
  8. 河上肇と中国の詩人たち(十一) 蘇東坡,一海知義
  9. 明治初期の士族開拓移民団 《明治大正人国記》2,関秀志
  10. 呉茂一追悼 弔辞・呉先生の一面,中村光夫・高橋睦郎
  11. カット(本文),勝本冨士雄

1978年4月■第108号

  1. 鶯がなけばきくは,永田耕衣
  2. シェイクスピア・ゴーチエ・タカラヅカ,清水徹
  3. 春夏秋冬(23)――葱南先生のこと,生島遼一
  4. 「理想宮[パレ・イデアル]」訪問記T,渡辺一民
  5. 金子直吉 《明治大正人国記》3,有井基
  6. 曹山本寂禅師 碧巌の禅僧達(四),高橋新吉
  7. ルイスとパウンド 美術散歩47,岡田隆彦
  8. 河上肇と中国の詩人たち(完)――郭沫若,一海知義
  9. ことばの心意気(対談),沢村貞子・岩淵悦太郎
  10. 三好達治のハガキ四葉,桑原武夫
  11. カット(本文),勝本冨士雄

1978年5月■第109号

  1. 溝をばずんと跳べ,武部利男
  2. 仰視と反復――『未知との遭遇』との困難な遭遇に向けて,蓮實重彦
  3. 石めぐり,草野心平
  4. 将棋史ノート,山本亨介
  5. 春夏秋冬(24)――聴診器と万年筆,生島遼一
  6. 「理想宮[パレ・イデアル]」訪問記U,渡辺一民
  7. 熊本バンドの人びと 《明治大正人国記》4,飛鳥井雅道
  8. 百丈懐海禅師 碧巌の禅僧達(五),高橋新吉
  9. 橋口五葉と夏目漱石 美術散歩48,岡田隆彦
  10. 野の思想家たち――介山論の周辺,松本健一
  11. カット(本文),勝本冨士雄

1978年6月■第110号

  1. ウェーバーの言葉,世良晃志郎
  2. 『ローマ帝国衰亡史』翻訳余談,中野好夫
  3. コクトーの天使たち,佐藤朔
  4. 名探偵と殿様と遊民――「草野心平全集」を編集して,宗左近
  5. 春夏秋冬(25)――晩春雑事,生島遼一
  6. 「理想宮[パレ・イデアル]」訪問記V,渡辺一民
  7. エミール・ガレと高島北海 美術散歩49,岡田隆彦
  8. 慧能大鑑大師 碧巌の禅僧達(六),高橋新吉
  9. 村井吉兵衛 《明治大正人国記》5,宮垣克己
  10. 古く新しき詩語の情念,馬場あき子
  11. 音楽雑記帖,(高)
  12. カット(本文),勝本冨士雄

1978年7月■第111号

  1. 汝自身たれば,稲垣達郎
  2. 望遠鏡をもった作家たち――清輝と龍彦,巖谷國士
  3. 「理想宮[パレ・イデアル]」訪問記W,渡辺一民
  4. 雨やどり,宮本輝
  5. ミルトンとの出会い,平井正穂
  6. 春夏秋冬(26)――「母恋し……」,生島遼一
  7. ヴュイヤールとノアーユ伯爵夫人 美術散歩50,岡田隆彦
  8. 黄檗希運禅師 碧巌の禅僧達(七),高橋新吉
  9. 伊藤圭介 《明治大正人国記》6,海老沢立志
  10. 「〈島〉からの脱出」――A・ビオイ=カサレスのこと,鼓直
  11. カット(本文),勝本冨士雄

――――――――――


《ちくま》第36号(筑摩書房、1972年4月〔発行日:1972年3月20日〕)裏表紙掲載の〈目次〉(モノクロコ ピー)

《ちくま》目次の書体は基本的にゴチックで、連載回数など標題の一部に明朝が使用されている。上掲写真の第36号で それを示すと、次のようになる(明朝系の部分に下線を付した)。

  1. 祇園女御の一節
  2. 薬師三尊(毎月雑談24)
  3. 高村光太郎と智恵子の思い出
  4. 私小説と自伝の間
  5. 読書の学(八)
  6. 三つのBの話(2)
  7. 梛の実を蒔く
  8. 世間噺・もう一人のナヴァール公妃(十四)
  9. 編集の要項〈P.POSTA〉の話 本の周辺36
  10. ルイス・キャロルの問題
  11. ほん・その目でみる歴史35
  12. カット(本文)

天 の「昭和45年1月31日第3種郵便物認可 昭和44年5月23日国鉄関東支社特別扱承認雑誌第132号 昭和47年3月20日発行(毎月1回20日発 行・通巻36号)」は明朝体、目次本文上方の「ちくま■1972年4月■第36号――――――――――――――――■目次」はゴチック体、罫囲みの下部の 「雑誌コード6201」はゴチック体、その下方「©筑摩書房1972 編集者 吉岡 実 発行者 竹之内静雄 発行所 株式会社筑摩書房 東京都千代 田区 神田小川町2-8 郵便番号101-91 振替東京4123番 印刷所 星野印刷株式会社 暁印刷株式会社 毎月1回20日発行   定価20円」は明朝 体で組まれている。印刷は、表紙まわりが写植・オフセット、本文(中面)が活版である。ところで、先に「本誌には通常、編集後記がない」と書いたが、 通巻100号には例外的に後記が載っている。まぎれもなく吉岡実の筆になるものなので(前掲〈大岡信・四つの断章〉の 「3」を参照されたい)、《ちくま》第100号(筑摩書房、1977年8月1日、三二ページ)〔コラム〕 の全文を引く。

 編集室から

 小誌〈ちくま〉も本号をもって、百号となりました。ひとつの節、ひとつの履歴が出来たといえましょうか。ここに改めて、これまでの多くの執筆 者の方々と、ご購読下さった愛読者のみなさまに、心からお礼申上げます。
 記念号という特別のものではありませんが、小社と縁の深い著者各位から珠玉の随筆を頂き、それで飾りました。また自祝の意をこめて、表紙を金色で刷りま した。
 よい機会なので〈ちくま〉の歴史めいたものを申しますと、創刊は昭和四十四年の春ですから、やっと九年目に入っただけです。しかし、小社のPR活動はす でに十八年前に一度試みられています。それは昭和三十四年の春から、タブロイド判四頁の旬刊誌〈筑摩〉が刊行されています。内容は、作家訪問・漫画・海外 通信・自社出版案内など。第五号から〈筑摩しんぶん〉六頁と替え、第十一号から〈読書展望〉と改題、同年八月の二十二号をもって、終刊となっております。 一般読書界に馴染のないタブロイド判、それと旬刊という刊行方法のため、短期間で挫折いたしました。
 さて、〈ちくま〉という誌名自体がPR的な上に、A5判三二頁という小冊子ですから、内容は出来るだけ宣伝臭のない編集方針を、心がけています。なお創 刊以来、表紙のデザイン担当は、小社制作室の中島かほるです。

(M)

結果的に編集者として《ちくま》に書いた最後の文となった〈編集室から〉は、吉岡がこれほどまでに書誌的事項を記述したことは空前にして絶後だ、と いう点からも貴重な逸文である。その後《ちくま》は第100号発行の翌1978年、7月の第111号をもって休刊のやむなきにいたった。筑摩書房が事実上倒産したためである。のちに書物文化史の泰斗、寿岳文 章が《ちくま》の連載をまとめた自著の〈あとがき〉に次のように書いている。やや長いが、執筆者側の貴重な記録なので引用する。

  一旦危機に瀕した筑摩書房が勢いをとりもどし、再び創立本来の面目にたち帰ったのは、一九六九(昭和四十四)年であったと記憶するが、その勢いづけの一方 便として、同書房では一切他店の出版物の広告をのせない同書房だけの出版活動の月刊PR誌「ちくま」を出すことになった。同じジャンルのPR誌は、岩波書 店をはじめ、他の出版社からも出ていたが、出版の営為そのものと密着する記事を二種、毎号連載することに、他店のとは一味も二味も違うものにしようと企画 したところに特色があった。そして二つの連載もののうち、(A)一つは表紙うらを利用して図録とし、その説明を本文で興味深くくりひろげ、(B)もう一つ はひろく出版にまつわる言わば取っておきの、高度の知的情報を内容とする、との方針がきまり、執筆者として、(A)は私に、(B)はもともと筑摩書房とは 関係の深い岩波書店の長老格布川角左衛門兄にきまった。そして布川兄は、「本の周辺」と題して、創刊第一号から一度も欠かさず書き続け〔引用者註――正確 には第505190号の3号 は休載で、1977年1月の第93号ま での全90回連載〕、同誌の一時廃刊を機に一冊の本にまとめたが、私はそこまで呼吸が続かず、また一方『神曲』の翻訳に没頭せねばならない事情もあって、人間の還暦に相当する六十回(一九七四年五月号)で一往責任を解除してもらった。(《図説 本の歴史〔エディター叢書〕》日本エディタースクール出版部、1982年2月10日、一八三〜一八四ページ)

最 終的に日本エディタースクール出版部から藤森善貢の装本で出た本書が刊行されるまでの経緯も興味深い(東京で画廊を経営する出版者が、フランスに在った長 谷川潔から実物版画を入れる許可まで取りつけたが、画廊の資金難で頓挫したという)。寿岳の〈あとがき〉には「そして、編集のうちあわせのために、時折来 訪される編集主任の土井一正さん、そのあとをうけて主任となった吉岡実さんと、出版にまつわるよもやま話に花を咲かすのが楽しかった。吉岡さんは当代異色 の詩人でもあるので、もともと詩のすきな私は、同氏との語らいから、私にとってはそれまで知らなかった多くのものを得たのも、ありがたい副産物であった」 (同前、一八六ページ)と見える。《ちくま》の編集者・吉岡実の姿を伝える数少ない証言のひとつである。

〔付記〕
冒頭の西脇順三郎の「遺言詩」は〈冬のシャンソン〉で、復刊後の《ちくま》1981年3月号に発表された(編集者は柏原成光、発行者は筑摩書房の管財人兼 代表取締役となった布川角左衛門)。吉岡自身は同誌1987年2月号に、装丁も担当した土方巽の遺文集《美貌の青空》(1987年1月21日)のプロモー ションのために〈来宮の山荘の一夜〉を寄せている(のち《土方巽頌》に収録)。なお、西脇順三郎の担当者でもあった橋本靖雄編集の同誌1990年7月号の 〈編集室から〉は、《ちくま》の編集者・吉岡実を追悼する文となっている(翌8月号は渋沢孝輔と竹西寛子の追悼文を掲載)。


吉岡実の装丁作品(76)(2010年1月31日)

那珂太郎詩集《音楽》(思潮社、1965年7月10日)には〈吉岡実の装丁作品(6)〉で 触れたが、そのときにはほかの版があることを知らなかった。先日、1966年2月5日発行の同詩集「普及版」(奥付による)を知り、さっそく入手した。普 及版にもクレジットは見えないが、吉岡実装丁に間違いない。今回は1965年発行の初刊「限定400部」(同前)本と翌年発行の普及版を比較して、吉岡実 装丁のフランス装について(何度めかの)考察をしてみたい。普及版は、仕様(二〇一×一四八ミリメートル・九〇ページ・並製フランス装・機械函)・資材 (本文用紙:北越製紙、同納入:竹尾洋紙店)とも限定版と同一で、宝印刷・岩佐製本という制作会社も同じだ。ただしグラシンの有無・形状が異なる。


フランス装表紙のグラシン
機械函のグラシン
限定版
広げた表紙と同じ大きさで、重ねたまま折り返し
(取り外せない)
貼函のように天地を糊で貼りあわせ、開口部で折り返し
(版元製本時には無し?)
普及版
天地は表紙の仕上がりと同寸、小口で折り返し
(取り外せる)
無し
(当初から無し?)

限定版の機械函にグラシンをかけたのは購入先の古書店(神保町・田村書店)の可能性が高いので、検討対象から除外する。フランス装表紙のグラシンに ついては、以下で詳述する。

――――――――――

(厚紙を針金でとめた機械函)

  • 表紙1=「那珂太郎詩集」(16ポ)、「音楽」(28ポ)、「思潮社」(9ポ)、以上横組。2色刷りでハープのカットだけ茶色。
  • 背=「那珂太郎詩集音楽」(14ポ)、2色刷りで「詩集」だけ茶色。
  • 表紙4=「1965(「1966」とあるべきところ)〔改行〕思潮社」(8ポ)、以上横組。

表紙(フランス装によるくるみ表紙)

  • 表紙1=「那珂太郎詩集」(二号)、ウニのカット、「音楽」(初号)、以上横組。2色刷りでウニのカットだけ青色。
  • 背=「那珂太郎詩集音楽」(12ポ)、2色刷りで「詩集」だけ青色。
  • 表紙4=「1966〔改行〕思潮社」(8ポ)、以上横組。

那珂太郎詩集《音楽〔普及版〕》(思潮社、1966年2月5日)の本扉と函の表紙4 那珂太郎詩集《音楽〔限定版〕》(思潮社、1965年7月10日)と〔普及版〕の表紙の一部
那珂太郎詩集《音楽〔普及版〕》(思潮社、1966年2月5日)の本扉と函の表紙4(左)と上:同〔限定版〕(同、1965年7月10日)と下:〔普及版〕の表紙の一部(右)

限 定版の表紙(仕上がりは204×151ミリメートル)の用紙を広げれば天地313×左右416ミリメートルなのに対して、普及版の用紙は天地267×左右 390ミリメートルで、折り返しは限定版の54ミリメートルに対して41(小口)・32(天と地)ミリメートルと、かなり浅くなっている。用紙はふたつの 版とも同じ銘柄・連量に見えるが、本体との接着の度合い(面積)が異なる。限定版は折り返された表紙全面にグラシンが掛かっていて(前小口以外の周囲を糊 づけ)、接着部分は背幅よりはみでているため、表紙が折丁をしっかり保持している。一方、普及版のグラシンは接着部分に掛かっていないので、表紙裏のほぼ 背幅にだけ糊がさされているためだろうか、古書店(練馬・一信堂書店)で購入したとき、表紙が本体から完全に外れていた。ただし、接着部分が少ないことで ノドの開きは良いはずだ(国会図書館所蔵の普及版を手にしたところ、吉岡実詩集《紡錘形》の開き具合が両版の中間といった按配だったが、どれも両手で持た ないと閉じてしまう難がある)。
写真ではわかりにくいが、表紙は二箇所で修正されている。@表紙1の著者名の「郎」が正字から新字に。A表紙4の刊行年の「1965」が「1966」に。 限定版の表紙1以外、「郎」はすべて新字だったから穏当な措置だが、刊行年の修正とどちらの比重が大きかったかは軽軽に断言できない。

前見返し(4ページ。本文の第1折のノドに糊づけ。効き紙に相当するほうの見返しがフランス装の前小口の袖の下に潜る)

本文

  • 1-2ページめ(本丁〔隠しノンブル〕:ノーカウント。別丁のための支持体か)――白。
  • 別丁(ペラ、本文2ページめのノドに糊づけ)――本扉=「詩集」(8ポ)、「音楽」(二号)、ヒトデのカット、「那珂太郎」(二号)、「思潮 社」(8ポ)。2色刷りでカットだけ灰赤色。裏白。
  • 3-4ページめ(隠しノンブル:1-2扱い)――扉=「那珂太郎詩集」(16ポ、小口寄せ)。裏白。
  • 5ページめ(隠しノンブル:3扱い)――扉=「目次」(16ポ、小口寄せ)。
  • 6-7ページめ(隠しノンブル:4-5扱い)――以下の目次の本文(五号)は地ゾロエ。

秋の・・・8
作品A 12
作品B 14
作品C 16
繭 18
塔 22
ねむりの海 26
くゆるパイプのけむりの波の 32
フォオトリエの鳥 36
鎮魂歌 40
<毛>のモチイフによる或る展覧会のためのエスキス 48
透明な鳥籠 54
或る画に寄せて 58
死 あるひは詩 62
海 66
転生 70
小品 72
てのひらの風景 74
アメリイの雨 76
跋 80

カット・落合茂

  • 8ページめ(隠しノンブル:6扱い)――白。
  • 9ページめ(隠しノンブル:7扱い)――扉=「音楽」(16ポ、小口寄せ)。
  • 10ページめ(ノンブル:8)――詩篇本文(標題「秋の・・・」16ポ、6行ドリ、小口寄せ。本文「秋のあらしの〔……〕コリントの柱」五号 〔16字詰×13行組〕、行間五号全角)。
  • 11ページめ(ノンブル:9)――詩篇本文「りらりらぷるん〔……〕ふるへるへそか」。
  • 12ページめ(ノンブル:10)――詩篇本文「ら颯と鳥が〔……〕むなしく・・・」。
  • 13ページめ(隠しノンブル:11扱い)――白。
  • 〔……〕
  • 80ページめ(隠しノンブル:78扱い)――白。
  • 81ページめ(隠しノンブル:79扱い)――扉=「跋」(16ポ、小口寄せ)。
  • 82-83ページめ(ノンブル:80-81)――本文「無とはなにも〔……〕あらうとする。」(3行アキ。五号〔27字詰×13行組〕、行間 五号全角)。
  • 84ページめ(隠しノンブル:82扱い)―― 「発表年次・掲載誌」(標題9ポ、本文8ポ)、横組。
  • 85-86ページめ(隠しノンブル:83-84扱い)――著者略歴・奥付(使用活字のサイズは6ポから14ポまでの多岐にわたるので、省 略)、横組。裏白。
  • 87-88ページめ(隠しノンブル:85-86扱い)――白。

詩 篇を見開きで起こす手法は、戦後の吉岡実が自身の詩集で一貫して採ってきたもので(戦前の二詩集、《昏睡季節》と《液体》の巻頭詩篇はともに改丁〔奇数 ページ起こし〕)、《音楽》もその例に漏れない。《静物》に始まり《紡錘形》で頂点を極めた吉岡の本文組は、本書の装丁とともに、那珂の友人でもあった伊 達得夫(1950年の那珂の第一詩集《ETUDES》は書肆ユリイカの詩書出版を方向づけた)への恩返しとなったことだろう。なお〈跋〉は、字詰こそ箱組 の詩篇と異なるものの、本文とまったく同じ活字・組体裁で、そこに吉岡の明確な意志を感じる。

後見返し(4ページ。本文の最終第6折〔第5折は8ページ建て、第6折は16ページ建て〕のノドに糊づけ。効き紙に相当するほうの見 返しがフランス装の前小口の袖の下に潜る)

――――――――――

《日 本現代詩大系〔第13巻〕》(河出書房新社、1976年7月15日)は大岡信編の〈戦後期(三)〉で、《音楽》の全19篇から5篇(〈作品A〉、〈繭〉、〈鎮魂歌〉、〈〈毛〉のモチイフによる或る展覧会のためのエスキス〉、〈小品〉)を採っている。文末に次の書誌がある。

〔「音樂〔ママ〕・那珂太郎著。一九六五年七月十日、思潮社発行。体裁・199×149並製。カット・落合茂。目次三頁、本文七五頁。定価六百 円〕(同書、八六ページ)

〈凡 例〉(同、一三ページ)に従えば「199×149」は横一九九ミリ、縦一四九ミリということになってしまうから、ここは「149×199」だろう(私の採 寸した「天地二〇一×左右一四八ミリメートル」とは微妙に異なるが、いずれにしてもA5判天地切りの変型サイズである)。さて、本詩集で最も人口に膾炙し ているのは〈繭〉(初出は《詩学》1961年1月号)の次の詩句だろう。

もももももももももも/裳も藻も腿も桃も

大 岡信は前掲書の〈解説〉で、吉岡実と那珂太郎に触れて「そういう複合的な感覚が、〔……〕また吉岡實には、生命的な徴候の一切を消滅させた、「円筒の死 児」を育てるための「矩形の家」への夢を語らせる(「喪服」)のである。/那珂太郎の詩集『音樂〔ママ〕』は、いってみればそういう崩壊感覚のエッセンス をしぼりあげ、精製したような言葉の群で書かれていた」(同、五三七〜五三八ページ)と述べている。那珂太郎の〈繭〉は吉岡実の「そうしてうずまき模様の /ののののの/のたれ死を承認せよ」(〈崑崙〉F・8)の7年前に発表されている。

〔普及版の函に関する追記〕
詩集《音楽》は1965年12月に第5回室生犀星詩人賞を、翌66年2月に第17回読売文学賞(詩歌・俳句部門)を受賞しており、普及版の刊行はこれに合 わせたものだろう。ところで、前橋文学館特別企画展《那珂太郎――〈無〉の詩学》(萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち 前橋文学館、2008年10月11日)の詩集書影を見ると、限定版は函が、普及版(帯に「読売文学賞受賞/数年来の日本文学の最大の収獲」とある)は表紙 が掲げられている。普及版の定価は500円であり、表紙のグラシン掛けを簡略化し、函をやめてコストダウンを図った――ゆえに函は当初からなかった、とす べきだろう。冒頭で触れた普及版の函は、表紙が外れるのを防ぐために古書店が限定版から流用したものだと考えれば、年号の「1965」にも納得がいく。と はいうものの、函の調達先等の謎は残る。


吉岡実の装丁作品(75)(2009年12月31日)

西 脇順三郎随筆集《じゅんさいとすずき》(筑摩書房、1969年11月28日)には装丁者のクレジットがないが、社内装丁物として吉岡実が担当したと考えら れる。西脇は1969年10月10日の日付のある本書の〈あとがき〉を「この本を出版するのに筑摩書房の井上達三君を初め吉岡実君やまた編集校正など会田 綱雄君や鍵谷幸信君に非常な骨折りをかけてしまった。こゝで深く感謝の意を表したい」(本書、二二三ページ)と結んでいて、前年1968年刊行の《詩學》と 同じ井上達三の企画で、吉岡と会田が社内の実務を担当したと思しい。ほぼ書きおろしだった《詩學》に対して既発表の随筆を集めた本書だが、〈あとがき〉か ら察するに編集・制作はスムーズにはいかなかったか。もっとも仕上がりを見るかぎり、大人が読むにふさわしい落ち着いた本で(本文10ポ38字詰15行・行間全角、カラー口絵に西脇の油彩〈北海道の旅〉)、この出来には著者も満足したことだろう。
本書の仕様は、一九五×一四八ミリメートル・二三六ページ・上製クロス装・貼函。意匠として注目したいのが函で、ひらがなばかりの書名の「と」を赤にした り、西脇の手になるスケッチを作品的にあしらうなどして、吉岡実装丁のなかでは少しく冒険を試みた一冊となっている。

西脇順三郎随筆集《じゅんさいとすずき》(筑摩書房、1969年11月28日)の本扉と函
西脇順三郎随筆集《じゅんさいとすずき》(筑摩書房、1969年11月28日)の本扉と函

吉岡が西脇に関する随想を集成した〈西脇順三郎アラベスク〉の〈3 化粧地蔵の周辺〉には

〔……〕 今から五年前の秋の初めごろだった。西脇先生は出来たばかりの随筆集《じゅんさいとすずき》に署名するため、来社された。百二十冊にサインをすませるとさ すがに手首が痛くなったと、西脇先生は苦笑された。そして急に思いつかれたように、三田に気に入った飲み屋があるから行こうと会田綱雄と私をタクシーにの せた。田町駅近くで降りると、大通りに面して真黒い店構が見えた。それは文字通り黒塀という酒蔵であった。まだ四時ごろというのに、酒好きの客が適当に 入っているのも私たちをいっそう快い酔にさそった。日の傾くころ西脇先生は少し散歩しようと言われた。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二二九ページ)

とあり、同じく〈4 日記より〉には次のようにあって、《じゅんさいとすずき》から《壤歌》へと向かっていた、当時の西脇の筑摩書房でのありさまが 活写されている。

 昭和44年9月1日/西脇先生来社。会田綱雄と二〇〇〇行の詩の編集について語る。《壤歌》としたいがと言われたので、二人ともさんせいす る。先生にきく、――ところで《壤歌》とは何ですか? それは土を叩いて唄うことだよ。土人の祭礼の夜のごとく。
     9月3日/西脇先生来られる。二千行の詩、一行足りないことがわかり、書き加えにきたとのこと。グリルシンコーで昼食。それから会田綱雄がきた ので三人でバリーに行き、言語談義。漢語とギリシア語との共通点を求めて、実に五ヶ年に及ぶとか。先生ひとりで一時間も喋る。(同前、二三一ページ)


吉岡実の装丁作品(74)(2009年11月30日)

田 中栞の《書肆ユリイカの本》の巻末資料〈書肆ユリイカ出版総目録〉には、吉岡実の著書として《僧侶》(1958)と《吉岡實詩集〔今日の詩人双書〕》 (1959)、(吉岡の名前はないが)共著として《現代詩全集〔第3巻〕》(1959)と《日本詩集・1960》(1960)、装丁作品としてアンリ・ミ ショオ(小海永二訳)《プリュームという男》(1959)と片瀬博子訳《キャスリン・レイン詩集 〔海外の詩人双書〕》(1960) の計6点が掲載されている。同目録の《プリュームという男》の記載は「〔昭和〕34.9.20 プリュームという男 アンリ・ミショオ 小海永二訳 装 丁・吉岡実、挿画・著者、モーリス・アンリ」(《書肆ユリイカの本》、青土社、2009年9月15日、後付一〇ページ)で、同書の本文にはこうある。

ミ ショオ『プリュームという男』(昭和三四年、図42)は、表紙ひらに印刷してある文字が天と地それぞれのギリギリだ。こんな位置に指定されたら、印刷所や 製本所がさぞかしいやがることだろう。数ミリのズレが致命傷になるからだ。この位置が今の私たちの目に新鮮に映るのは、現代の印刷製本ではそうした現場の 事情から敬遠され、あまり行われないせいである。多少ずれても支障のないデザイン、手間がかからず速く安くできるつくり……そんなことを追求するから、書 店の店頭に並ぶ本はみな、どれも同じような顔になってしまう。(〈繊細な詩集群の誕生〉、同前、二二・二四ページ)

表 紙を広げたところの「図42」(同前、二三ページ)はモノクロ写真で、これに「背が黒でひらが赤という作品」(同前、二九ページ)という説明と上掲文を併 せれば、表紙の解説として付けくわえるべき点はない。あえて付言するなら、杉浦康平ブックデザインの《吉岡実詩集》(思潮社、1967)の本文の刷り位置 が天ギリギリの指定で、吉岡が(著者として/装丁家として)少しでも下げようとしたことくらいである。本書の仕様は、二〇九×一四八ミリメートル・一三六 ページ・上製継ぎ表紙(平・紙、背・クロス)・ジャケット。訳者の小海永二は〈あとがき〉で「〔口絵の〕原色版はミショオの詩画集『絵画とデッサン』より 採った。一九三九年作。扉のモーリス・アンリ筆のミショオの肖像画[ポルトレ]は、「おだやかな男」を読まれた読者には、極めて興味深く思われることであ ろう」(本書、一三一ページ)と書いており、これらのビジュアルの選定に訳者の意向が反映していたことがわかる。ジャケットの画のクレジットはないが、小 海永二《アンリ・ミショー評伝》(国文社、1998年7月30日)の口絵に掲載されている「『プリュームという男』の挿画(1930年)」(同書、〔八 ページ〕)が同じ画だから、ジャケットはミショーによるものだろう。

アンリ・ミショオ(小海永二訳)《プリュームという男》(書肆ユリイカ、1959年9月20日)の表紙 アンリ・ミショオ(小海永二訳)《プリュームという男》(書肆ユリイカ、1959年9月20日)の本扉とジャケット
アンリ・ミショオ(小海永二訳)《プリュームという男》(書肆ユリイカ、1959年9月20日)の表紙(左)と同・本扉 とジャケット(右)

《プリュームという男》に収められたのは〈プリュームという男〉〈「A」の肖像〉〈鎖(一幕)〉の3篇。小海は後年、別の訳詩集の〈解説〉にこう書 いている。
「ミショーの創造した架空の人物プリュームは、眠っている間に家を盗まれ、妻を列車に轢き殺されて、しかも犯人として死刑を宣告される。旅に出れば、寝台 を断わられ、木の根を喰えとおしつけられ、列車からは放り出される。だが、次々と加えられる攻撃にも、彼は気弱く従うばかりだ。適応不能者の見本、プ リュームは、人間を取囲む敵意ある諸力、悪しき宿命から逃れ得ぬわれわれ人間存在の戯画なのであり、それはそのまま現代における人間の条件を暗示する」 (小海永二訳《アンリ・ミショー詩集》、彌生書房、1977年6月30日、一五四ページ)。
次に〈プリュームという男〉の〈X ブルガリア人の夜〉の冒頭部分を引くのは、吉岡の〈少女〉(F・5)の「樹と外套でかこわれて/ブルガリヤ人の男根は立ち/孔雀の羽は散乱する/きわどい レールを/バクシンする蒸気機関車が正面から入ってくる」という詩句と併置したいがためである。

  《ごらんの通り、わたしたちは帰る途中で、うっかり汽車を間違えたんです。それで、こいつらブルガリア人どもと一緒の車輛になったんですが、奴らが何やら わからんことを、ぶつぶつつぶやいたり、始終ごそごそ身体を動かしたりするもんだから、一ぺんに決着[きまり]をつけたくなったんでさ。わたしたちはピス トルを抜いて奴らを射った。奴らは信用出来ん連中だから、いきなりやっちまったというわけですよ。何はともあれ、奴らに戦おうって気をなくさせることが、先ず第一というもんでしょうが。奴らは残らず度胆を抜かれたようでしたが、全くこいつらブルガリア人って奴は、信用してはならんのです。》(本書、二六 ページ)

吉岡実はアンリ・ミショーに言及していない が、未刊詩篇〈陰謀〉(《現代詩》〔緑書房〕1956年7月号)は《プリュームという男》のミショーの世界に近いものを感じさせる。〈陰謀〉はその寓意性 もさることながら、吉岡実詩にしては不気味なまでの反復(「百匹の」、「心やさしい猫」と「手の折れた猫」)が異色の散文詩だが、〈陰謀〉発表の1956 年は後の《僧侶》の諸篇が初めて登場した年でもある。この年、〈告白〉(4月)、〈喜劇〉(5月)、〈陰謀〉(7月)、〈島〉(11月)、〈仕事〉(12 月)が発表されているが、吉岡は寓意と反復の方向に作品の舵を切ることなく、本篇が詩集《僧侶》に収められることはなかった。しかしながら、《僧侶》に 19篇中9篇と散文詩型の詩篇が多いのは、小海訳のミショー詩篇が影響しているのかもしれない。小海永二は前掲《アンリ・ミショー評伝》で、日本における ミショーの詩の影響について次のように書いている。
「一時期確かに、ミショーの詩は、ほとんどわたしの訳詩を通して、日本の詩人たちにも共感を伴う広い影響を与えた。ミショーは主として散文詩を書いてお り、影響もほとんどが散文詩の領域に限られる。戦後日本の詩における散文詩流行の基盤には、ミショーの物語的散文詩からの刺戟があったと(少なくともその 主要な要因の一つになったと)わたしは考えている。ミショーの詩の魅力と感化力は、日本においてはそれほどに大きかった」(同書、三八七ページ)。
書肆ユリイカと吉岡実のつながりは、冒頭に記したとおり、遅い出会いにもかかわらず濃密なものがあった(同人詩誌《今日》や総合詩誌《ユリイカ》といった 書肆ユリイカ発行の雑誌は、吉岡がデビュー間もない時点で最も重要な発表媒体だった)。一方、ミショーの初期の邦訳詩書は、書肆ユリイカが発行する小海永 二訳で占められていた。すなわち次の3冊である。

  1. 《アンリ・ミショオ詩集》(1955年3月31日)〔〈素直な男〉など全42篇〕
  2. 《現代フランス詩人集〔第1巻〕》(1955年12月15日)〔〈プリュームの幻像〉など24篇収録〕
  3. 《アンリ・ミショオ詩集〔海外の詩人双書2〕》(1958年1月15日)〔〈おだやかな男〉など全49篇〕

《プ リュームという男》以前のこれらミショー詩集(のいずれか)に吉岡が触れたことは、「孤独な魂の宇宙を描いた書」たる《静物》から「人間への愛と不信に彩 られた書」たる《僧侶》への変貌から考えても、充分あったと想われる。小海永二による〈プリュームという男〉の訳文は、《プリュームという男》(国文社、1970)刊行時に訳者の手が入り、その本文が《アンリ・ミショー全集〔第1巻〕》(青土社、1987)と《小海永二翻訳撰集〔第1巻〕》(丸善、2008)に引き継がれている。


吉岡実の装丁作品(73)(2009年10月31日)

高橋睦郎《聖という場》(小沢書店、1978年10月10日)は《詩人の血》(同、1977)、《球体の息子》(同、1978)に続く第三の試論集で、三部作の完結篇。「ここにまとめた「聖という場」、副題を「旅をめぐって」とした。既刊の「詩人の血―詩をめぐって」、「球体の息子―肉をめぐって」と併せて、私がこれまで書いて来た主要なエセーはほぼ網羅した。私はこれからも幼い問いをつづけていくだろうが、その問いは ひきつづき、この詩と肉と旅との三角形に括ることができそうである」(〈跋〉、本書、二六六ページ)。本書の仕様は、一九〇×一二八ミリメートル・二七四 ページ・上製クロス装(クリームがかった黄色)・函。目次の裏に「装幀 吉 岡 実」。全14篇をW部に分かち、配する。
 T 聖という場/両開きの窗をめぐって/伊勢かがみ
 U 往きて帰らぬ/甘疆丘より/覇者の血の記憶/旅・夜・花・垣
 V 道のある風景から/市について/私のニューヨーク地図/旅の天使
 W 地中海のバルバロス/聖山アソスへの道/オーケアノスのほとり
〈地中海のバルバロス〉(初出:《海》1969年11月号)に、初めてクレタ入りしたときの様子が書かれている。「三時半、イラクリオン空港へ。アテネの ホテルで紹介されたアトランチスという、海沿いの瀟洒なホテルに投宿。海へ出る。突堤の先に十字軍の砦がある。湾の向こう、はるか西の山山の上にそびえる 三角形の山は、イダ山だろうか。突堤の内がわにもやった漁船たち。魚釣りの少年たちが珍しそうに私を見る。小声でヤポニス、ヤポニスとささやいている」 (〈六月二十七日 アテネ→クレタ〉、本書、一九七〜一九八ページ)。そして〈六月二十八日 クレタ〉には「クノッソス、ミノス王宮。午前九時の廃墟には 作業人夫たちのほかには誰もいない。階段を降りると、もう迷路のはじまりだ。アテナイから人身御供の若者たちを連れて来た使者がここを怪物の棲む迷宮と 思ったのも頷かれる」(同前、一九八ページ)とある。高橋は三部作をこうふりかえっている。

  ぼくの経堂の住まいに現われた長谷川さんは「エセー集を出したいのですが、一冊分相当の原稿はありませんか」と切り出した。そこから先はぼくもよく憶えて いる。ぼくは、「三冊分ならあります」と答えた。じつは〔一九〕六二年の上京以来それまでに書いたものを自分なりにまとめたところ、傾向の異なる三つのグ ループに分かれていたのだった。/〔……〕/一冊分ほしいので、三冊分はどうも、という答をぼくは予想していた。ところが長谷川さんの答は、では三冊出し ましょう、だった。そして〔……〕三冊が出た。それぞれ、青、赤、黄の布製〔ママ〕紙函入りは吉岡実さんの装幀だ。(〈長谷川郁夫の巻――厄年とアク メー〉、《友達の作り方――高橋睦郎のFriends Index》、マガジンハウス、1993年9月22日、三七二ページ)

著者と小沢書店の編集者にして発行者・長谷川郁夫とのやりとりである。同書店の吉岡実装丁本の著者は那珂太郎と高橋睦郎の二人だけで、本書の装丁は 著者の「ご指名」かもしれない。

高橋睦郎《聖という場》(小沢書店、1978年10月10日)の本扉と函 高橋睦郎の試論集三部作(小沢書店)の背表紙
高橋睦郎《聖という場》(小沢書店、1978年10月10日)の本扉と函(左)と同・試論集三部作の背表紙(右)


吉岡実の装丁作品(72)(2009年9月30日)

高橋睦郎《球体の息子》(小沢書店、1978年2月20日)は《詩人の血》(同、1977)に続く第二の試論集。〈球体の息子たち――ギリシア神話にみる夭折の原理〉など、肉=エロースについてのエッセイ24篇を収める。私は本書か ら、高橋も同人の一人だった《饗宴》の創刊号(1976年5月)に吉岡実が寄せた詩篇〈少年〉(G・29)を想い起こす。その「3」を追込みで引こう。

理由はいくらでもつく/少年のすきな闇のなかには/柱のようなもの/球形のようなもの/それらが存在する/「男根の切断面から生える巴旦杏」/ を採りにくる/農夫の娘を見つけ/わたしは熱い地の風を浴びた

本 書の仕様は、一九〇×一二九ミリメートル・二五八ページ・上製クロス装(赤)・函。目次裏に「装幀 吉 岡 実」とある。本扉の方眼上のカットは、高橋の詩集《王国の構造》(小沢書店、1982年2月20日)の〈いくつかの基本語彙〉の付記の一節が解説して いるようだ。「あたかも古代の都城遺跡の遺跡層が何層にも重なっているように、この国の言語層が重なっているせいだろうが、その中から死――夜――母の三 角形の重視を見いだすことは、それほど困難ではあるまい」(同書、一五八ページ)。黒の表紙・見返し、墨一色の本扉の装丁は保田春彦だが、その奥付裏広告 に白を基調にした吉岡実装丁の三部作が載っている。この3冊でひとつの世界を形成する構想が著者と出版者の間で了解されていたこと、それを視覚的に展開す るプランが装丁者に求められたこと、ともに想像に難くない。その意向は、函・本扉の図柄の選定に充分すぎるほど反映している。

高橋睦郎《球体の息子》(小沢書店、1978年2月20日)の本扉と函
高橋睦郎《球体の息子》(小沢書店、1978年2月20日)の本扉と函

本書巻末の〈受肉ということ〉には、《地球》の同人・片瀬博子(《キャスリン・レイン詩集》の 訳者)との出会いが書かれていて、それだけでも重要だが、同文の最後の一節が前作《詩人の血》の巻頭エッセイと対応しているさまは、スリリングでさえあ る。ここで私は、主題に回帰して了るビートルズやプログレッシヴロックグループの一連のコンセプトアルバムを連想しないわけにはいかない。

  私はヘブレオ人でも、ギリシア人でもない。しかし、私が自分の生きかたの中心に詩を選び、詩人であることを選んだとき、私は自分の生きかたの指針として 「言は肉体となって、私たちのうちに宿った」の聖句を選んだことになる。だから、「詩人の血――または修辞について」および「知られざる poesie をめぐって」は、〔「詩人」のギリシア語表記〕としての私の詩的信条の披瀝であるとともに、私の信仰告白でもある、と言うことができよう。(本書、二四八 〜二四九ページ)

高橋には「神話の森を逍遙しながら、球体幻想の始源へと遡行する 詩的エッセイ」の《球体の神話学》(河出書房新社、1991年6月10日)がある。同書は、パチンコ(この、球体遊戯!)を愛した「吉岡実に」献じられて いて、私たちはここで再び高橋―球体―吉岡の三角形にまみえる。


吉岡実の装丁作品(71)(2009年8月31日)

高 橋睦郎《詩人の血》(小沢書店、1977年8月20日)は著者初の詩論集。〈跋〉に「題名の「詩人の血」は、ジャン・コクトオの著名な映画との直接の関係 はない。詩作という行為はかならず詩人みずからの血を以ておこなう祭儀でなければならないとの、私の詩作観に拠ったまでだ」(本書、二五五ページ)とあ る。「自からの詩作観を通して、ギリシャ悲劇、『古事記』など古典古代詩に触れながら、詩の発生の源泉を探り、ポエジーの深淵に推論の錘を放つ待望の詩論 集」(帯文)からまず引くなら、断章形式の〈詩人の血――または修辞について〉である(のちの〈知られざる poesie をめぐって――アナロジーによる詩学序説〉の論旨がアフォリズムに凝結したひりつくまでの苛烈さは、いっそのこと心地好い)。その断章「聖言の肉化の過程 における詩人の血とは、修辞にほかならない」(本書、二七ページ)は、本篇の標題と同時に書名のスルスとなった。ところで、

〔……〕サントリーニの文明がひとり独立してあったのではないことは、クレーテー島〔初出:クレタ島〕クノーソスのいわゆるミー ノース王宮の壁画と比較すれば、明白である。先に挙げた石膏卓の海豚図はそれとまったく同じ主題をミーノース王宮王妃の間の壁画に見るし、群 猿図の猿も花泪夫藍[クロツカス]採集者[あつめ]として登場する。(〈彼方なるアトランティス〉、本書、二〇八ページ。下線は小林)

の初出は《藝術新潮》1973年4月号だから、同年7月発表の〈サフラン摘み〉(G・1)になんらかの影響を与えたとも考えられよう。本書は各部と も3篇から成るW部構成で、標題には詩観が窺える。
  T 知られざる poesie をめぐって/詩人の血/バルタザール
  U オイディプース/詩人王について/花・鳥・風・月
  V 死の絵/世阿弥妄想/貴種流離をめぐって
  W 彼方なるアトランティス/聖痕としての表現/裸像の思想
本書の仕様は、一八九×一二八ミリメートル・二六二ページ・上製クロス装・函。目次の裏に「装幀 吉 岡 実」とある。本扉の線画は古代遺跡の平面図のようで、日頃の吉岡実装丁のカットとは趣が違う。表紙はブルーグレーの布クロスに書名・著者名を銀色で箔 押ししてあり、その採りあわせは宮川淳《引用の織物》(1975)や《サフ ラン摘み》(1976)を想わせる。機械函の赤の絵柄はギリシア彫刻写しの版画をあしらった郵便物だろうか、消印らしきものがうっすらと見える。

高橋睦郎《詩人の血》(小沢書店、1977年8月20日)の本扉と函
高橋睦郎《詩人の血》(小沢書店、1977年8月20日)の本扉と函

冒 頭に引いた〈跋〉は「「詩人の血」、副題を「詩をめぐって」という。つづいて、「球体の息子たち〔ママ〕…肉をめぐって」、「聖という場…旅をめぐって」 を、同じく小沢書店から上梓の予定である。いずれもここ十数年の試論であり、とりまとめて、創作をのぞくほぼ私のすべてと言うことができる。通読いただけ れば、うれしい」(本書、二五五ページ)と結ばれている。われわれもこの順番で、すなわち本書《詩人の血――詩をめぐって》(1977)、《球体の息子 ――肉をめぐって》(1978)、《聖という場――旅をめぐって》(同)の順で、吉岡実装丁の三部作を見てゆきたいと思う。


吉岡実の装丁作品(70)(2009年7月31日〔2009年9月30日追記〕)

片 瀬博子訳《キャスリン・レイン詩集〔海外の詩人双書8〕》(書肆ユリイカ、1960年11月20日)の装丁については、田中栞の連載《書肆ユリイカの本》 の第15回が意を尽くしているので、引用する。「双書でありながら、共通するのは判型だけでジャケットデザインがすべて異なるのが「今日の詩人双書」と 「海外の詩人双書」である。/ジャケットをデザインした人の名が記されている場合と記されていない場合とがあるが、わかる範囲内で言うと、『安東次男詩 集』(1957年)は村上美彦デザイン、『吉本隆明詩集』(1958年)の写真は毛利ユリ撮影、『吉岡實詩集』(1959年)は浜田伊津子デザイン、『飯 島耕一詩集』(1960年)は伊達得夫によるコラージュ、『キャスリン・レイン詩集』(1960年)は吉岡實デザインである。/ここに掲げたものはすべて 同じ判型であり、ジャケットはいわゆるフランス装風になっている。/フランス装「風」と言ったのは、通常のフランス装であれば折り込んだ紙を表紙として書 物の本体の背の部分に糊付けしてしまうところを、この双書では糊付けせず、裁ち切りの表紙に被せてジャケットの形で装着してあるからである。こうしておけ ば、返品されて戻ってきた本に、ジャケットだけをつけ替えて再出荷することが可能だ」(〈全集と双書のデザイン〉、2005年11月5日)。

片瀬博子訳《キャスリン・レイン詩集〔海外の詩人双書8〕》(書肆ユリイカ、1960年11月20日)の表紙/ジャケット 片瀬博子訳《キャスリン・レイン詩集〔海外の詩人双書8〕》(書肆ユリイカ、1960年11月20日)の表紙/ジャケットの袖を開いたところ
片瀬博子訳《キャスリン・レイン詩集〔海外の詩人双書8〕》(書肆ユリイカ、1960年11月20日)の表紙/ジャケッ ト(左)と同・表紙/ジャケットの袖を開いたところ(右)

本 書の仕様は、一六六×一四七ミリメートル・一二〇ページ・並製フランス装(2000年7月、葦書房が制作した復刻版が福岡で刊行されているが、未見)。厳 密に言うと、《キャスリン・レイン詩集》の表紙/ジャケット(表2)の袖部に記されたクレジットは「表紙 吉岡 実」(縦書き)である。〔今日の詩人双書〕と〔海外の詩人双書〕の扉から奥付までの割付(デザインというよりも、古風に「割付」と呼びたい)は書肆ユリイ カの社主・伊達得夫の創意だろうから、クレジットにある「表紙」は「表紙構成」または田中氏の言うように「表紙デザイン」を意味するに違いない。ヴィジュ アルは、この上半身裸のポニーテールの後ろ姿の女性(著者レインの肖像ではないだろう)を吉岡がものしたとは思えない。それにしても、これは絵なのだろう か、写真なのだろうか――そして、それは誰の(モデルにしろ、作者にしろ)。タイポグラフィ面では、「KATHLEEN」の「A」と「T」の間をもう少し 詰めたいところだ。ときに、〔海外の詩人双書〕には書籍制作での重大なミスがあるので、説明の都合上、本書の奥付裏広告からラインナップを転記する(捨て 仮名使用、行末の〔 〕内は初版発行年月日)。

海外の詩人双書

1 プレヴェール詩集/小笠原豊樹訳〔書誌には1959年とあるが、未見〕
2 アンリ・ミショオ詩集/小海永二訳〔1958年1月15日〕
3 ルネ・シャール詩集/窪田般弥訳〔1958年8月10日〕
4 カミングズ詩集/藤富保男訳〔1958年8月10日〕
5 ゴットフリート・ベン詩集/深田甫訳〔1959年3月31日〕
6 ラングストン・ヒューズ詩集/木島始訳〔1959年11月30日〕
7 キャスリン・レイン詩集/片瀬博子訳〔1960年11月20日〕
8 ディラン・トマス詩集/松浦直〔己→巳〕訳〔1960年8月30日〕

訳 者名の誤植が放置されていることからわかるように、この広告はつくりっぱなしだったようだ。実際に刊行されたときの双書の番号は、ルネ・シャールが4、カ ミングズが3、と換えられていて、本書キャスリン・レインは8で(表紙/ジャケット、扉、奥付の3箇所ともすべて8)、7はなぜか欠番である。ここから想 像されるのは、刊行の順番に合わせて当初のラインナップのシリーズ番号を付けかえていく際、なんらかの手違いが生じたのではないかということである。ル ネ・シャールとカミングズのときは遺漏がなかったのに、キャスリン・レインとディラン・トマス(刊行が早いので、本来なら7)の今回こうしたミスが生じた のは、伊達得夫の健康に問題があったためだろうか(伊達は翌1961年1月16日に病歿している)。刊行の順番が前後しているにもかかわらず、《〔ジャッ ク・〕プレヴェール詩集》は1で不動だったことを考えれば――本双書に先立つ1956年2月10日、小笠原豊樹訳《ジャック・プレヴェール詩集》が同社か ら単行本で出ており、プレヴェールの訳詩集に対する刊行者の強い想いがうかがえる――《キャスリン・レイン詩集》も、当初の番号どおり、7のままでとくに 不都合はなかっただろうに。
著者のキャスリン・レイン(1908-2003)はイギリスの女流詩人。ウィリアム・ブレイクやW・B・イェイツの研究者としても知られる。本訳詩集所収 の詩集《巫女》から、タイトルポエムを引く。

巫女|キャスリン・レイン(片瀬博子訳)

―ジヨン・ヘイワードに―

私は かの蛇につきまとった洞穴
私の臍は男の宿命をつくり出す
あらゆる智恵は大地の穴から流れ出る
神々は私の闇の中で形をなし
また解体する。

私の盲いた子宮からすべての王国はあらわれ
私の墓から七人の眠るものが予言する。
まだ生れない嬰児はことごとく
目をさましては 私の夢となり
私の中についに埋葬されて
横たわらない愛人はない。

私はかの恐れられ 慕われた燃える場所
男と不死鳥が焼き尽くされる所、そして私の低い涜されたベッドから
新しい息子 新しい太陽
新しい空が誕生する。

吉 岡の詩篇で言えば、同題の〈巫女――あるいは省察〉(D・14)よりも〈死児〉(C・19)を髣髴させる作品である。むろん、レインの「巫女」は「死児」 ではなく、その「母」の方だが。「しきつめられた喪服の世界に/ピラミッドの頂点がわずかに見える/これほど集ってはじめて/全部の母親のさかまく髪のな かに/あたらしい空が起り/実数の星座が染められる」(〈死児〉[節の末尾)。

〔付記〕
本書の奥付裏広告の左半分は〔今日の詩人双書〕で、最終行は未刊に終わった「8 三好豊一郎詩集/解説 田村隆一」である。大岡信によれば「7 大岡信詩 集/解説 寺田透」(1960年12月20日刊)は、書肆ユリイカが出版した最後の書籍となった(伊達得夫《詩人たち――ユリイカ抄》の〈解説〉参照)。 もっとも、奥付に記載された発行日では、山本道子詩集《籠》(1961年〔月日の記載なし〕)の方が大岡信詩集よりもあとに刊行されたことになっている。

〔2009年9月30日追記〕
田中栞《書肆ユリイカの本》(青土社、2009年9月15日)の〈書肆ユリイカの本を調べる〉に〔海外の詩人双書〕の番号に関する見解が記されている。

  シリーズ開始当初予定していた『スペンダー詩集』は原稿が完成せず、4として進めていた『カミングズ詩集』を繰り上げて3とし、5として企画した『ブレヒ ト詩集』も結局刊行ならず、『ゴットフリート・ベン詩集』『ラングストン・ヒューズ詩集』を刊行した。その後、『キャスリン・レイン詩集』を7、『ディラ ン・トマス詩集』を8として同時進行で制作していたが、『ディラン・トマス詩集』の組版が完成したのに『キャスリン・レイン詩集』の原稿が遅延、しかたな く刊行順序を入れ替えたことがわかる。『ディラン・トマス詩集』が、最終的な広告だけでなく本扉と奥付にも「8」と記されているのはそのためである。かろ うじて後から作るジャケットだけは「7」と印刷して世に出した。/以上のような経緯を推察することができる。(同書、二〇三〜二〇四ページ)

田 中氏は膨大なユリイカ本を渉猟した挙句、私は《キャスリン・レイン詩集》の奥付裏広告と〔海外の詩人双書〕の各冊を手掛かりにして、ほぼ同様の結論に達し たのだった。なお《プレヴェール詩集〔海外の詩人双書1〕》の刊行日は、氏の〈書肆ユリイカ出版総目録〉に拠れば1958年1月10日である(同前、後付 八ページ参照)。


吉岡実の装丁作品(69)(2009年6月30日)

三好達治詩集《百たびののち》(筑摩書房、1975年7月30日)は、三好の十三回忌に合せた句集《柿の花》(同、1976年6月30日)の前年に、三好最後の単行詩集として刊行された。 もっとも詩集としての《百たびののち》の初出は《定本三好達治全詩集〔限定版〕》(同、1962年3月30日)だから、吉岡実にとって西脇順三郎詩集《宝石の眠り》(花曜社、1979)の装丁のときと同じ事態がここでも起きたわけだ。本書から 一篇を選ぶなら、〈牛島古藤歌〉である(「/」は改行箇所)。

葛飾の野の臥龍梅/龍うせて もも すもも/あんずも青き実となりぬ/何をうしじま千とせ藤/         はんなりはんなり

ゆく春のながき花ふさ/花のいろ揺れもうごかず/古利根[ふるとね]の水になく鳥/行々子啼きやまずけり

メートルまりの花の丈/匂ひかがよふ遅き日の/つもりて遠き昔さへ/何をうしじま千とせ藤/         はんなりはんなり

吉 岡実の随想〈藤と菖蒲〉(初出は《現代詩手帖》1981年5月号)にこうある。「十年ほど前から、私と妻は毎年のように、牛島の藤を見に行った。しかしこ こ数年、あのみごとな藤波の下に立ってはいない。年々歳々、藤房が短かくなるとのことだから、そろそろ見納めにこの五月には行きたいものだと思っている。 /出不精な私たちがはるばると、牛島まで藤を見に行くようになったのは、風流心からではない。たまたま妻の親しい友だちが、春日部市一の割という所に住ん でいたからだった。藤の見ごろは、ほんの数日で、早すぎれば花房が短かく、遅れれば黒い房しか見られないのだ。いつも季節が来ると、その友だちは、小学生 の娘を自転車で偵察にやる。閉ざされた庭園の塀越しに、藤の咲き具合を覗き見してくるのだ。なぜなら、庭園側は一切花の情報を示さず、高い料金をとり、夥 しく来る客を入れるだけだからだった。それも仕方ないかもしれない、なにしろ肥料や手入れなど管理が大変らしいからだ」(《「死児」という絵〔増補 版〕》、筑摩書房、1988、二九〇〜二九一ページ)。吉岡がこの随想で〈牛島古藤歌〉に言及しなかったのは、冒頭に永田耕衣の名吟「藤房の途中がピクと 動きたり」を引いたためだろう。
本書の仕様は、二〇八×一六〇ミリメートル・一九六ページ・上製継ぎ表紙(平:黄のクロスは直前に装丁した《萩原朔太郎全集》を 意識したものか。平のくぼみ部分と背:黒のクロス)・布貼函。限定六八〇部記番。刊行当時、吉岡は筑摩書房に在籍していたが、貼り奥付には「装幀 吉岡  實」とある。装丁で目を惹くのは、書名・著者名の教科書体の活字である。吉岡はタイトルまわりに好んで特太明朝を使用したから、本書の書体は肩の力の抜け たような、涼やかな感じがする。吉岡が晩年の三好の詩に観たのも、抒情詩における規範的ななにものかだったかもしれない。

三好達治詩集《百たびののち》(筑摩書房、1975年7月30日)の函と表紙
三好達治詩集《百たびののち》(筑摩書房、1975年7月30日)の函と表紙


吉岡実の装丁作品(68)(2009年5月31日)

石 川淳・丸谷才一・杉本秀太郎・大岡信《浅酌歌仙》(集英社、1988年7月10日)は〈歌仙〉と〈歌仙の世界〉の2部から成る。石川淳・丸谷才一・大岡信 〈初霞の巻〉、石川・丸谷・杉本秀太郎・大岡〈紅葉の巻〉、石川・丸谷・大岡〈夕紅葉の巻〉、丸谷・大岡〈日永の巻〉の四つの歌仙が前半の本文で、歌仙を テキストに連中が縦横に語ったのが後半の註釈である。歌仙の一部分を引いても連句の様子はわかりづらいので、〈歌仙の世界〉から引用する。
「〔……〕俳句というのは、虚子の俳句なんかそうだけれど、変にインヒューマンな感じがあるでしょう、一切を笑い飛ばして無関心で、人間としてたちの悪い ような感じ」(丸谷才一、本書、七七ページ)は、丸谷が〈菊なます〉で永田耕衣の句を「〔……〕歌仙の発句になるくらゐ堂々としてゐると言ひたいが、しか し実はさうではない。たしかに威風あたりを払ふ強い句だが、不吉な気配が濛々とたちこめてゐて、その点で発句には向かない」(《遊び時間2》、大和書房、1980、六四ページ)と評したのを思わせる。それはまた、大岡信の「〔……〕現代俳句をいろいろ考えてみて、そのうちある句を発句として連句を始めてみ ようと思う。そうすると、付けにくい句が多いような気がするんですね」(本書、一四九ページ)に通じる現代俳句観である。
歌仙の一部ではない、まとまった本文を見るのには次の箇所が最適だ。〈夕紅葉の巻〉を「石に坐すればてふてふの舞ふ」(夷齋)という祝言の挙句で終えたあ と、三人が酒を飲んでいるところへ初物の、ただし中国産の松茸が出た。丸谷が戯れに発句をつくると、大岡がそれに付け、最後に石川が付けて(詞書きも石川 の筆になる)、三つ物ができた。すなわち、

 座に唐山の松茸を献ずるものあり

松 茸 の 起 承 転 結 夜 光 杯
玩亭
 白 き ワ イ ン は こ と に 爽 か

天 高 く ひ と り 沙 場 に 酔 ひ 伏 し て
夷齋

一 八七ページのこれが、本書最後の総奏[トゥッティ]である。続く会は、1987年の11月に〈夕紅葉の巻〉と同じ三吟で歌仙を巻くはずだった。それが石川 淳の死去にともない、はからずも丸谷才一と大岡信の二人による夷齋供養脇起歌仙〈日永の巻〉(1988年3月)となったためだ。
本書の仕様は、一八八×一二八ミリメートル・二四二ページ・上製紙装・ジャケット。奥付に「装丁者 吉 岡 実」とある。対向ページに「表紙カバー〔ジャケットのこと〕/大岡信筆「紅葉の巻」歌仙控帳より」とあるとおり、歌仙の初表(6句)をジャケットの表 4つまり裏表紙に、同裏(12句)を同じく表1つまり表表紙から袖にかけて、計18句あしらっている。確かに、右から左へ流れる図像を右開き(縦組み)の 本のジャケットにどう配置するかは悩ましい問題だ。吉岡はジャケットを広げたときそのままつながるようにレイアウトし、これを切りぬけている(通常は、帯 でほぼ隠れている)。

石川淳・丸谷才一・杉本秀太郎・大岡信《浅酌歌仙》(集英社、1988年7月10日)の本扉とジャケット
石川淳・丸谷才一・杉本秀太郎・大岡信《浅酌歌仙》(集英社、1988年7月10日)の本扉とジャケット


吉岡実の装丁作品(67)(2009年4月30日)

秦恒平評論集《花と風》(筑摩書房、1972年9月25日)は標題作を巻頭に、全8篇の評論を収める。〔 〕内に初出記録を付して、本書の見出しを 掲げる。

花と風――日本の永遠について 〔《春秋》1970年10月号〜1971年10月号に12回連載〕
  *
谷崎潤一郎論 〔書きおろし〕
川端康成――廃器の美 〔《日本読書新聞》1972年5月1日号〕
西行・俊成・定家 〔責任編集・中田勇次郎《書道芸術 第16巻〔西行 藤原俊成 藤原定家〕》、中央公論社、1972年6月25日、〈月報19〉〕
  *
消えたかタケル 〔《芸術生活》1969年11月号〕
蘭亭を愛しむ 〔《同志社時報》1969年12月号〕
源氏物語のほほ笑み 〔《春秋》1970年5月号〕
怨念論 〔《婦人公論》1970年9月号〕
 跋

〈谷 崎潤一郎論〉の一節に「物狂いは呪術的な構造から解放されて或る特別な美的状態をすすんで選択するちから、その状態へ自ら嵌って行こうとする一種の美的能 力となって来た。一つの行為を、ことさら繰り返してみせる、それは生命というものの意味とかたちを露わにしてみせるたしかに一種の神憑りであり自己呪縛で あった。即ち物狂いとは早くから絵空事の佳さを構えて見せることなのであった」(本書、一五二ページ)とある。「物狂い」から説きおこして「絵空事の佳さ を構えて見せること」にいたる点に、この小説を書く唐木順三≠フ心髄を見る想いがする。
本書の仕様は、一八七×一三〇ミリメートル・二五〇ページ・上製布装・機械函(平のスミ文字と天地の萌黄、小口の柿の色帯の取りあわせは、定式幕を想わせ る)。装丁者のクレジットはないが、秦迪子作製〈単行本書誌〉(秦恒平《四度の瀧》、珠心書肆、1985年1月1日)にはこうある。
「(9)花と風  評論集 昭和四十七年九月二十五日 筑摩書房 四六判二百四十三頁 上製布装 紙函入 装幀・吉岡実 定価八百八十円  収録(〔……〕)」(同書、一八七〜一八八ページ)。
〈湖(うみ)の本〉のエッセイシリーズの第2巻はこの単行本とは別編集の《花と風・隠国(こもりく)・翳の庭》(1990年3月5日)で、ウェブサイト《作家 秦 恒平の文学と生活》の 〈湖の本の事〉に「花と風との二文字を縦横に読み込みながら、平安古代から中世への流れを文化の素質に即して批評的に解いて行く。文芸としての批評、作家 の批評を意識して磨いてきた著者の代表的な文章。雑誌「春秋」に二年連載。「隠国」は以後の民俗学的な創作の姿勢を先取りした初期の批評。「婦人公論」に 初出。「翳の庭」は毎日新聞社の豪華本『坪庭』を飾ったエッセイ」と紹介されている。

秦恒平評論集《花と風》(筑摩書房、1972年9月25日)の本扉と函
秦恒平評論集《花と風》(筑摩書房、1972年9月25日)の本扉と函


吉岡実の装丁作品(66)(2009年3月31日)

天 澤退二郎《夢魔の構造――作品行為論の展開》(田畑書店、1972年10月25日)は《紙の鏡》(洛神書房、1968)、《作品行為論を求めて》(田畑書 店、1970)に続く3冊めの論集。なおこれらに先立って《宮沢賢治の彼方に》(思潮社、1968)が刊行されている。《夢魔の構造》はV部から成り、T は一橋新聞編集部によるインタヴュー〈作品行為論とはなにか〉を冒頭に、〈母≠フ主題、あるいは文学のはじまり〉ほか11篇の論考、Uはジュリアン・グ ラック《森のバルコニー》ほか11篇の書評と若松孝二《犯された白衣》ほか4篇の映画評、Vは〈『聖杯の物語』における《質問》の問題〉を収める。Tの最 後は〈詩壇時評――'70〜'72〉だが、その〈71・11・4〉に吉岡実への言及がある。

  吉岡実の沈黙のおもてに、二すじの流れをいま私たちは目にしている。ひとつは、くりかえし刊行されくりかえし私たちが読みかえすことのできる彼の作品群で ある。こんどまた、彼が戦前、二十代のとき出した第一詩集『液体』が、湯川書房から叢書溶ける魚≠フ第二冊として復刻された。一九四一年十二月に百部だ け刷られたこの原本からは一九五九年のユリイカ版『吉岡実詩集』に十二編だけ収録され、それ以外は私たちの目から匿されてきたが、今度は初版本の通り、三 十二編全部が復元されている。現在の著者がかえりみて《稚拙》とよぶこれらの初期詩篇の、いかにもひそやかな、ひえびえとした、上も下も右も左も液状の意 識にひたされて魚のように呼吸している言葉のむれは、いずれさまざまな擬態や変身やを経て、『静物』から『僧侶』の世界へと泳ぎ出ていくのであるが、この じつに印象的なひそやかさ、うすら寒さは、ポエジーというものの何よりもプライベートな誕生そのものの感触である。(本書、二一一ページ)

ちなみにこの文の初出の新聞記事(《東京新聞〔夕刊〕》1971年11月4日)は、吉岡(あるいは陽子夫人)の手によって吉岡家蔵のSCRAP BOOK(品番:コレクト S-101)に 貼られている。当時、吉岡は詩作を休筆中で、天澤はこの引用の前で「吉岡実がちかごろ詩をほとんど書かないのは、何よりもまず、吉岡実のプライベートな理 由によるのであり、時代、社会状況、現実との格闘のいっさいは、このプライベートな水面に抜きさしならぬ関係の内実を浮上させた限りにおいて重要なのであ る」(同前、二一〇〜二一一ページ)と指摘している。吉岡は勤務先の筑摩書房で出版広告を担当していて、一般紙や文芸雑誌には日常的・業務的に接していた はずだから、この時評も半ば出版人として、半ば詩人として目にしたものだろう。その文を収めた天澤の著書が他社から出るにあたって吉岡が装丁を受けもつと いうめぐりあわせは、考えてみれば不思議なことである。
本書の仕様は、一八七×一二六ミリメートル・三三〇ページ・上製紙装・ジャケット。奥付に「装幀者 吉岡實」とある。ジャケット・本扉の巻貝のイラスト は、たとえば落合茂のタッチに比べると少しく素人じみていて、影の処理など当時の劇画の影響下にあるようだ(作者名の記載はない)。

天澤退二郎《夢魔の構造――作品行為論の展開》(田畑書店、1972年10月25日)の本扉とジャケット
天澤退二郎《夢魔の構造――作品行為論の展開》(田畑書店、1972年10月25日)の本扉とジャケット


吉岡実の装丁作品(65)(2009年2月28日)

高 橋睦郎詩集《舊詩篇 さすらひといふ名の地にて》(書肆山田、1979年9月25日)には「一九五八――一九六一」という、おそらくは詩篇の制作期間の年 号表示があって、吉岡実の詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962)の「1959-62」のそれとほぼ重なる。高橋は書名に関して、巻末の〈記〉で「書名ははじ め、作品中の一篇の名をとつて「ノドにて」としたかつたのだが、あるいは意味が伝はらないこともあるかと思ひ、最終的に「さすらひといふ名の地にて」とし た」(本書、八六〜八七ページ)と書いている。本詩集は〈CHRISTPHER〉〈詩人の愛〉〈小さな詩〉〈旅人〉〈夜〉〈朝〉〈憧れ〉〈少年に〉〈兄 弟〉〈カイン〉〈磔刑の季節〉〈凋落〉〈栄光〉〈イシス〉〈ノドにて〉〈椅子〉〈棺から〉〈棺から〉〈六〇年冬〉の19篇から成る。〈小さな詩〉を追い込 みで引く。なお、詩篇の表記は正字・旧仮名遣いである。

足を洗つてよごれた洗ひ桶//貧者のためにパンを裂く手//木のテーブルのうへの水を入れたコップ//あかり//窓の外の石梨の木//また 石 のやうに固い実のなる桃の木//道のうへ すでにおりてきた闇の中で//抱きあふ客と主人[あるじ]

各詩句はイメージのスナップショットではない。「存在」に奉仕するための名詞止めが、1行空きと相俟って見事だ。もっとも、作者自身によるこの詩集 の評価は必ずしも高くない。
「書けないという地獄なら書かなければ徹底している。しかし、私はその地獄の十五年間に『頌』『暦の王』『動詞T』『動詞U』の四詩集、ついでに習作時代 の拾遺詩集『さすらひといふ名の地にて』まで出している。そのことによって地獄のやりきれなさはかえって深まった。この五詩集を挟んで、その両側の『汚れ たる者はさらに汚れたることをなせ』と『王国の構造』まで、できれば自分の履歴から永久追放してしまいたい。けれども、それができないのが履歴というもの らしい。/この地獄の時代の僅かな慰めは吉岡実さんとの親密な付き合いだったろう。松見坂のお宅をしばしば襲ったし、勤め先の筑摩書房もしげしげ訪ねた」 (〈遠望の人〉、《続続・天沢退二郎詩集〔現代詩文庫〕》、思潮社、1993年10月10日、一五六ページ)。
この天沢退二郎論の一節は、《舊詩篇 さすらひといふ名の地にて》と吉岡実との関係を間接的に語っているものではなかろうか。
本書の仕様は、二二四×一七三ミリメートル・九〇ページ・並製フランス装。初版一刷800部。書肆山田からの拾遺詩集でフランス装・初刷800部、という のは《ポール・クレーの食卓》(1980)と同じ、また本書の左右一七三ミリメートルというサイズは《薬玉》(書肆山田、1983)と同じである(天地は 《薬玉》が長い)。これらはまったくの偶然のようにも、意図したもののようにも思える。
装画の小泉孝司は、吉岡実装丁作品では本書だけだろう。氏の公式サイト《小泉孝司架空 画廊》に は1979年の項に「個展「水や空」 東京 青山 ギャルリーワタリ」とあるから、本書の表紙画はその一点か。小泉氏は絵本《手のひらのねこ》(文・舟崎 靖子、偕成社、1983)でも、光と影の織りなす繊細玄妙な幻想世界をモノクロームで描きだしている。本書表紙の水面もそうだが、絵本での自然の風物、と りわけ夕映えの雲の姿は、色彩がないだけになおのこと美しい。

高橋睦郎詩集《舊詩篇 さすらひといふ名の地にて》(書肆山田、1979年9月25日)の表紙 高橋睦郎詩集《舊詩篇 さすらひといふ名の地にて》(書肆山田、1979年9月25日)の本扉
高橋睦郎詩集《舊詩篇 さすらひといふ名の地にて》(書肆山田、1979年9月25日)の表紙(左)と同・本扉(右)


吉岡実の装丁作品(64)(2009年1月31日)

天澤退二郎詩集《乙姫様》(青土社、1980年5月10日)は、吉岡実の《夏の 宴》(青土社、1979)や大岡信の《水府 みえないまち》(思 潮社、1981)と並んで、継ぎ表紙の詩集における吉岡実装丁の代表作のひとつ。本書の仕様は、二一〇×一四五ミリメートル・一三二ページ・上製継ぎ表紙 (平・紙、背・布)・機械函に貼題簽(グレーのクラフトボールに黄の色紙という取りあわせは、のちの《ムーンドロップ》と同じ)。見開きの目次裏、扉の対 向ページに「装幀 吉岡実」とクレジットがある。本書は表題作の〈乙姫様〉以下、〈マスクとジョッキ〉〈密航者〉〈堀川に沿って〉〈仮面劇の試み〉〈運河 に沿って〉〈〈桟橋〉にて〉〈雨の歌〉など、全22篇を収める。吉岡は第11回高見順賞の選考委員のひとりとして、〈感想〉の一節で《乙姫様》に触れてい る(受賞作は安藤元雄の《水の中の歳月》)。

 私が推したいと思った詩集は、天沢退二郎《乙姫 様》、多田智満子《蓮喰いびと》、鈴木志郎康《わたくしの幽霊》そして、安藤元雄《水の中の歳月》の四冊であった。しかし、予選は三冊ということなので、《乙姫様》を外さざるを得なかった。近来天沢君は自己の鉱脈を発見し、すぐれた散文形の詩を書いていると思う。だが《乙姫様》の中には常套化された作品も ある。《死者の砦》の〈氷川様まで〉〈昇天峠〉のような詩が二、三篇あればと思った。(《現代詩手帖》1981年2月号、一五三ページ)

《死 者の砦》(書肆山田、1977)は《乙姫様》の前の詩集。吉岡の挙げている〈氷川様まで〉が「そこは飯田橋駅の近くとおぼしく、石炭色の高架線も彼方に目 でたどることができた」と始まり、「先程の女はまったく女給らしからぬ濃艶な化粧とドレスに着かえてきてしばらく私の傍に逆光を浴びて化物じみたかたちで 座していたが、私の食事が進むにつれていよいよ黒々と羊羹のように闇に同化しながらその目と口とはいよいよらんらんと輝き出し、私の食事が終れば次は彼女 の食事に私自身が供されるらしいことはいよいよ確実に思われたが、なぜか私は逆にあわてず恐れず、指についたソースをなめながら、徐々に巨大な影となって 食堂を内側からおおっていくのだった」と終わるのに対して、《乙姫様》の〈不帰行〉は「Hとは飯田橋のすこし手前でわかれた」と始まり、「しかしうしろを 振りむく勇気もないままに、ああさっき戻る前に意味もなく車両を一台移ったのがいけなかったのだな、あんなことさえしなければ今ごろはたとえ洗濯物を入れ るのには遅すぎても、あの線路際からびっしりと次々に接しあい通じあう飲食店のどこかのうす暗がりで少くともこの空腹だけはどうにかできたのにと、しかし それも気遠い思いで考えつづけた」と終わっている。
吉岡の言う「常套化された作品」がどれを指すのかわからないが、確かに〈氷川様まで〉のあとに〈不帰行〉が登場するのでは苦しい。冒頭の〈乙姫様〉は、つ げ義春との類縁を感じさせる(天澤には〈つげ義春覚書〉があった)。吉岡は「乙姫様」から龍宮→ドラゴンの存在を抽出して表紙用紙の選定につなげたものだ ろうか、そこから切りだした図像を函の題簽と本扉に流用している。

天澤退二郎詩集《乙姫様》(青土社、1980年5月10日)の函と表紙 天澤退二郎詩集《乙姫様》(青土社、1980年5月10日)の本扉
天澤退二郎詩集《乙姫様》(青土社、1980年5月10日)の函と表紙(左)と同・本扉(右)


吉岡実の装丁作品(63)(2008年12月31日)

天 澤退二郎《《宮澤賢治》鑑》(筑摩書房、1986年9月30日)は、《《宮澤賢治》論》(同、1976)、《《宮沢賢治》注》(同、1997)とともに、《宮澤賢治》三部作を成す。《論》は、下の写真のように本扉(および背文字)の布置が《鑑》とまったく同じであり、クレジットはないものの吉岡実装丁と断 じたい。天澤は《校本 宮澤賢治全集》(筑摩書房、1973〜77)や《新修 宮沢賢治全集》(同、1979〜80)の編者として宮澤賢治の遺した本文の整備に尽くすかたわら、多くの賢治関係の文章を著しており、そのほとんどは《宮 澤賢治》三部作にまとめられている。それは、共に全集の編者を務めた入沢康夫の賢治関連の主著が《宮沢賢治――プリオシン海岸からの報告》(筑摩書房、1991)一冊なのと好対照をなす。天澤は本書冒頭の〈峠を登る者〉で「《宮澤賢治》」を次のように定義している。

  数多い〈作品〉の諸段階が築かれたかに見えてはまたきりもなく解体していく営みの背後に、あるいは源に、実在人物賢治でもなく作者賢治でもなく、しかも両 者と決して無関係でありえない存在――それはときに話者であり主人公であり、さらには実在人物のごとく[、、、、]であり作者のごとく[、、、、]でもあ りうる存在、個的存在のごとく[、、、、]でありながら遍在であり、非人称の声の乗物[、、]であるかのごとき存在、それでいてやはり名前[、、]をもつ ものと見なすにふさわしい存在――これをとりあえず私は《宮澤賢治》とよぶことにしたいのである。(本書、七ページ)

巻 末の〈おぼえがき〉には「前著『《宮澤賢治》論』を、これに先立つ『宮澤賢治の彼方へ』(思潮社、一九六八)以後私が書いた賢治関係の文章のほぼすべてを 網羅したものとして上梓してから、早くも十年を経過しようとしている。この間、私が諸々の新聞雑誌に発表、あるいは論集等に寄稿した賢治関係の文章のほぼ すべてを網羅したのが本書である」(本書、三八七ページ)と見える。本書の仕様は、一八八×一二九ミリメートル・四〇二ページ・上製布装・貼函。別丁本扉 の裏に「装幀 吉岡実」とある。表紙は紺の紬で昔日の随筆集を思わせる。対するに見返し用紙は、晩年の吉岡が好んだと中島かほる氏が証言するシマメで、両 両相俟ってシックなことこの上ない。
吉岡は《校本 宮澤賢治全集》を装丁し ているにもかかわらず、宮澤賢治についてなにも書きのこしていない。いやただ一篇、随想〈ひるめし〉があった。吉岡はそこで「入沢康夫、天沢退二郎両氏が 週二、三日社の〈宮沢賢治全集〉編集室に、仕事に来ている。たまに三人で食事する時は、小川町交叉点近くの今文にゆく。つめこみだが座敷に上って雑談でき るのがよい。日変り定食もあるが、ここではあおり定食だ。すき焼みたいなものである。美食家の天沢君の舌も及第点をつけている」(《「死児」という絵》、思潮社、1980、六三ページ)と書いているが、同文が意に満たないという理由から《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)には収めていな い。
吉岡が手掛けた天澤退二郎の評論集や詩集の何冊かは、著者による装丁者の「御指名」だったかもしれない。《《宮澤賢治》鑑》は、一連の天澤本最後の吉岡実 装丁となった。

天澤退二郎《《宮澤賢治》鑑》(筑摩書房、1986年9月30日)の函・本扉と同《《宮澤賢治》論》(同、1976年11月30日)の本扉
天澤退二郎《《宮澤賢治》鑑》(筑摩書房、1986年9月30日)の函・本扉と同《《宮澤賢治》論》(同、1976年 11月30日)の本扉

〔付記〕
天澤退二郎は吉岡実編集の《ちくま》104号(1977 年12月)に〈草稿の森を出て――『校本宮澤賢治全集』完結・雑無量感〉を寄せて、全集の完結を自祝している。その最後の段落が前掲〈ひるめし〉(初出は 吉岡の方が半年早い)に対応しているので、引く。「さてさて最後に、この七年間、私たちが校本全集の仕事の日に、筑摩の近くで昼食をとった店々は、うなぎ の川新にはじまって、洋食ひさご、天ぷら錦、今文(あをり定食美味)、牛丼の吉野家、ランチョン、稀にコックドール、ロシヤ料理サラファン、豚生姜焼元祖 のとん鼓等々。食後のコーヒーは、斎藤(最近焼けた)、珈琲ハウス、エスワイル、アマノ、北欧、サン・ミッシェル、等々であった」(同誌、一九ページ)。 1980年代半ば、私が《The INTER 技術論文集》(ユー・ピー・ユー)の編集に携わっていたころ、編集部があった神田小川町の立花書房ビルの向いに「洋食ひさご」があった。そこでよくプルプ ル(薄切り豚焼肉辛子醤油味)定食を食べたものだ。吉岡の随想にも登場する「ひさご」は、今はない。

「ひさご」の二つ折りカード型営業案内(おすすめ料理にプルプルがある)
「ひさご」の二つ折りカード型営業案内(おすすめ料理にプルプルがある)


吉岡実の装丁作品(62)(2008年11月30日)

西脇順三郎・金子光晴監修《詩の本》全3巻(筑摩書房)は、〈T 詩の原理〉(1967年10月20日)、〈U 詩の技法〉(11月20日)、〈V 詩の鑑賞〉(12月15日)から成る。総勢52人の執筆者を擁して毎月刊行するあたり、経験豊富な編集者の仕事だが、誰が担当なのかわからない。吉岡実は社員として本書を装丁し、詩人として第U巻に400字詰12枚ほどの〈わたしの作詩法?〉を寄せている。吉岡のキャリアで唯一詩論と呼べるものであり、吉岡実詩を読み、考えようとする者にとって逸すべからざる文献である。自身の作詩法を書くことの困難さは、第U巻の〈U わたしの作詩法〉の他の執筆者たち(草野心平・北園克衛・田村隆一・黒田三郎・長谷川龍生・黒田喜夫・関根弘・岩田宏・石垣りん・長田弘)の幾人も表明しているが、〈わたしの作詩法?〉はその否定辞の多さで際立っている。冒頭部の否定辞はこうだ(同文はこのあと詩を書くときの「姿勢」に移っていくのだが、三つめ段落の最初までで下に挙げなかったセンテンスはわずかに二つだ。なお数字と/は論者)。

1 わたしに作詩法といえるものが果してあるだろうか、甚だ疑問だと思っている。いかなる意図と方法をもって詩作を試みたらよいのか、いまだよくわからない。2 それに、わたしは今日に至るまで、自己の詩の発想からその形成に至る過程を、反省し深く検討したり、また自解的なものを書いたこともないのだ。わたしにすら詩篇の細部の変遷――思考、言葉の選択と湧出、いってみれば増殖運動の秘密は解明できない状態である。/3 わたしは詩を書く場合、テーマやその構成・構造をあらかじめ考えない。発端から結末がわかってしまうものをわたしは詩とも創造ともいえないと思っている。 /4 だからわたしは手帖を持ち歩かない。喫茶店で、街角で、ふいに素晴しいと思える詩句なり意図が泛んでもわたしは書き留めたりしない。(二五七〜二五八ページから抜粋)

仔細に見ると、/4の「だから」がしっくりこない。1 自分には確たる作詩法がない。2 作詩のプロセスや自作の解説をする気にもなれない。/3 最初から結末のわかるようなものは詩作とはいえない――これらは納得できる。しかし、それと「手帖を持ち歩かない」ことは直接関係ないはずだが、吉岡は作詩における「白紙状態[タブラ・ラサ]」を常に必要としている。詩を書くことは、「素晴しいと思える詩句なり意図」に頼ることなく、白熱した意識の持続に耐え、その苦行の果てに訪れるもうひとつ別の世界に到ろうとすることであるとき、「わたしはそれらの方向へ一つの矢印を走らせてその詩的作品の最後を飾るだろう」(同書、二五八ページ)という章句が迫ってくる。
全3巻の仕様は、一八五×一一三ミリメートル・二七四+三一八+三一六ページ・上製布装・ジャケット・機械函(表1・背・表4に跨る題簽)。題簽とジャケットにはそれぞれ葦笛を吹くパーンが描かれているが、作者のクレジットはない(古画かなにかをトレースしたものか)。機械函に題簽というのは、印刷だけの函よりも華やかで、貼函にはない洒落た味わいがあって、吉岡は自分の詩集では《ムーンドロップ》(書肆山田、1988)に採用している(厳密には、「機械函」の中でも天地の部分を針金で綴じつける方式ではなく、接着剤で綴じつける「組立函」)。《詩の本》全3巻は、表紙をがんだれの紙装に変えた函なしの「新装版」が1974年10月20日に出ているが、吉岡実装丁かはわからない。

西脇順三郎・金子光晴監修《詩の本 U 詩の技法》(筑摩書房、1967年11月20日)の函と本扉とジャケット
西脇順三郎・金子光晴監修《詩の本 U 詩の技法》(筑摩書房、1967年11月20日)の函と本扉とジャケット


吉岡実の装丁作品(61)(2008年10月31日〔2014年9月30日追記〕)

編集委員:中村光夫・氷上英廣、編集・校訂:郡司勝義《中島敦全集〔全3巻〕》(筑摩書房、1976)は中島敦(1909〜42)の第3次全集だ。第1次は同じ筑摩の《中島敦全集〔全3巻〕》(1948〜49)、第2次は唯一筑摩書房以外から出た《中島敦全集〔全4巻、補巻1〕》(文治堂書店、1959〜61)、そして刊行当時「決定版」と称したこの第3次全集がきて、第4次がちくま文庫版《中島敦全集〔全3巻〕》(1993)、第5次が《中島敦全集〔全3巻、別巻1〕》(2001〜02)である。これを見ても、中島敦が筑摩書房にとって樋口一葉や太宰治、宮澤賢治と並ぶ重要な書き手であったことがわかる。第1次全集について、和田芳恵は《筑摩書房の三十年》(筑摩書房、1970)で「昭和二十三年十月から翌年六月にかけて、「中島敦全集」全三巻を刊行した。これで第三回の毎日出版文化賞を受けた。筑摩書房から刊行されたものの中で、これが最初の受賞作品になった。〔……〕「中島敦全集」の造本に少しも手を抜かなかった筑摩書房の良心ぶりが、今も語り草に残っている」(同書、六〇〜六一ページ)と書いて、内容・造本ともに優れている点を強調した。
《中島敦全集〔第1巻〕》(1976年3月15日)の仕様は一九九×一四八ミリメートル・六八〇ページ・上製・布装・貼函。同書〈月報1〉に「本全集の函・扉に用いた鳥のカットは、第一創作集『光と風と夢』の表紙に描かれたもので、その装幀者は庫田叕氏です」(同、八ページ)とある。筑摩は中島の初の全集だけでなく、その処女出版も手掛けていたのだ。吉岡実装丁の個人全集において、本全集は鳥のカット(その色から、表紙の空押しの鳥が函に抜けでたという印象を与える)で萩原朔太郎全集と、青の表紙素材(色調や材質はかなり異なるが)で宮澤賢治全集と通じる。本扉は、初版の斤量では薄かったのか(口絵写真が透けて見える)、増刷本では厚くなり裏抜けしなくなった。なお、《中島敦研究》(筑摩書房、1978年12月25日)は本全集と同じ体裁。

《中島敦全集〔第1巻〕》(筑摩書房、1976年3月15日)の函〔表〕と表紙 《中島敦全集〔第1巻〕》(筑摩書房、1976年3月15日)の本扉と函〔裏〕
《中島敦全集〔第1巻〕》(筑摩書房、1976年3月15日)の函〔表〕と表紙(左)と同・本扉と函〔裏〕(右)

吉岡は中島に言及していないが、《僧侶》は〈かめれおん日記〉の身体感覚を彷彿させる。

  一月[ひとつき]程前、自分の体内の諸器関の一つ一つに就いて、(身体模型図や動物解剖の時のことなどを思ひ浮かべながら)その所在のあたりを押して見ては、其の大きさ、形、色、湿り工合、柔かさ、などを、目をつぶつて想像して見た。〔……〕此の時は、何といふか、直接に、私といふ個人を形成してゐる・私の胃、私の腸、私の肺(いはゞ、個性をもつた其等の器関)を、はつきりと其の色、潤ひ、触感を以て、その働いてゐる姿のまゝに考へて見た。(灰色のぶよぶよと弛んだ袋や、醜い管や、グロテスクなポンプなど。)それも今迄になく、かなり長い間――殆ど半日――続けた。すると、私といふ人間の肉体を組立ててゐる各部分に注意が行き亘るにつれ、次第に、私といふ人間の所在が判らなくなつて来た。俺は一体何処にある? 之は何も、私が大脳の生理に詳しくないから、又、自意識に就いての考察を知らないから、こんな幼稚な疑問が出て来た訳ではなからう。もつと遥かに肉体的な(全身的な)疑惑なのだ。(本書、八五〜八六ページ〔漢字は新字に改めた〕)

〔2014年9月30日追記〕
《中島敦研究》の書影と追記を掲げる。吉岡実は本書刊行の年、すなわち1978年11月15日に在職27年半の筑摩書房を依願退社しており、《中島敦研究》は社員として装丁した最後の一冊だろう。ただし、会社更生法申請後の残務整理に追われていた吉岡の代わりに、社に残った後輩がこの仕事を引きついだ可能性もなくはない。典型的な筑摩書房の社内装である。

中村光夫・氷上英廣・郡司勝義編《中島敦研究》(筑摩書房、1978年12月25日)の本体と函
中村光夫・氷上英廣・郡司勝義編《中島敦研究》(筑摩書房、1978年12月25日)の本体と函

本書は六部から成る。四部までの執筆者名を挙げる。

 T 中村光夫・武田泰淳・深田久彌・福永武彦・吉田健一・伊藤整・山本健吉・高橋英夫
 U 菅野昭正・山本健吉・中村光夫・河上徹太郎・岩田一男・山本健吉・吉田健一・高橋英夫・大野正博・篠田一士・山本七平・福永武彦・井上靖・川口久雄
 V 氷上英廣
 W 湯浅克衛・釘本久春・中村光夫・北畠八穂・山口比男・田辺秀穂・土方久功・上前淳一郎・深田久彌・草野心平・中島たか

中村光夫や氷上英廣、深田久彌、福永武彦、吉田健一、山本健吉、高橋英夫といった評論家や小説家がたびたび中島を論じている。Wには〈中島敦全集通信〉〈第十五回芥川賞選評〉〈第三回毎日出版文化賞審査員評〉のほか、第3次〈中島敦全集(決定版)推薦の辞〉が収められている。Tの〈中島敦、その世界の見取図〉を凝縮した福永武彦の推薦文〈中島敦頌〉を引く。

 若く死んだ小説家は誰しも、彼等が果すことの出来なかつた未来を思ふことで哀惜きはまりないが、中島敦の場合は特にその感が深い。彼は大学を出て女学校の教師となり、教師をやめて南洋のパラオヘ行き、帰国して文によつて立つ決意をしたところで、忽ち死んだ。しかしその作品は、自我に憑かれ物に憑かれ存在に憑かれた思想的な小説から、世界の悪意を物語の框のなかに捉へた客観的な小説まで、完結した作品はその完成度によつて、未完の作品は内部に含まれた可能性の量によつて、すべて今書かれたやうに新鮮で、しかも既に古典と呼ぶにふさはしい。その醒めた眼は、現代の文学的渾沌の夜空にかがやく、一つのしるべの星である。(本書、三一四ページ)

XとYに関しては、本書の編者郡司勝義が〈編集後記〉で次のように書いている。「これまでの前半は中島文学への案内書であるが、後半は少し趣きを変へて、いはゆる研究書としては類のないことであるが、別の方法をとつてみた。すなはち第V部として、中島敦の一族に関して出来るだけ具体的な資料を収めたことである。或は散逸するものもあらうかと思ひ、この機会になるべく多くの資料を翻刻しておきたいと考へた結果である。/〔……〕私はこの人〔玉振中島竦〕の中に中島家の家学が継承されてゐると思ふ。父撫山の「亀田三先生伝実私記」を増補した労作は、またこの人の篤実な人柄と学問とを示すに最もふさはしい例と思はれるので、第Y部として収めることとした」(本書、四五一〜四五二ページ)。本書の仕様は一九九×一四八ミリメートル・四七〇ページ(うちモノクロの口絵が四ページ)・上製・布装・貼函。天地切りのA5変型判、上製・布装・貼函入の三巻本全集(《中島敦全集》)に研究書が一巻(《中島敦研究》)。この巻立てに、ありうべき《吉岡実全集》の姿を見る想いがする。


吉岡実の装丁作品(60)(2008年9月30日)

《現代日本文學大系〔全97巻〕》(筑摩書房、1968〜73)の装丁について、装丁家の中島かほる氏はインタヴュー〈吉岡実と「社内装幀」の時代〉でこう証言している。

―― 中島さんと吉岡さんが〔社内の〕装幀で共同作業されたことはありますか。
中島 手となり、足となりでお手伝いさせていただきました。たとえば黄色いクロスを表紙に使った『現代日本文学大系』(全九七巻、一九六八―七三年)などがそうですね。このマークも、吉岡さんが「こんなのどう?」ってお描きになったのですよ。
―― 収録作家名は書き文字、その他の文字は写植ですね。
中島  そうですね。こういう巨大な全集のタイトルは書き文字でしたね。『世界文学全集』(全六九巻、一九六六―七〇年)や『筑摩世界文学大系』(全八九巻、一九七一―九八年)もそうです。百巻くらいの全集は書き文字にするのが、なんとなく決まり事のようになっていたのではないでしょうか。(《ユリイカ》2003年9月号、一四五ページ)

インタヴュー記事の掲載写真キャプションに「『現代日本文学大系』第41巻 筑摩書房、1972年、函」(同誌、一四二ページ)とあるように、ここで言及されているのは《千家元麿・山村暮鳥・福士幸次郎・佐藤惣之助・野口米次郎・堀口大學・吉田一穂・西脇順三郎集》であり、今回写真を載せた《現代詩集〔現代日本文學大系93〕》(筑摩書房、5刷:1977年5月30日〔初版:1973年4月5日〕)のタイトルの書き文字は「現代詩集」である。以下に本全集の各巻タイトルを掲げる。

政治小説・坪内逍遥・二葉亭四迷集/福沢諭吉・中江兆民・徳富蘇峰・三宅雪嶺・岡倉天心・内村鑑三集/尾崎紅葉・広津柳浪・内田魯庵・斎藤緑雨集/幸田露伴集/樋口一葉・明治女流文学・泉鏡花集/北村透谷・山路愛山集/森鴎外集(2巻)/徳冨蘆花・木下尚江集/正岡子規・伊藤左千夫・長塚節集/國木田独歩・田山花袋集/土井晩翠・薄田泣董・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨・河井醉茗・三木露風・日夏耿之介集/島崎藤村集(2巻)/徳田秋声集/正宗白鳥集/夏目漱石集(2巻)/高浜虚子・河東碧梧桐集/柳田國男集/岩野泡鳴・真山青果・上司小剣・近松秋江集/幸徳秋水・堺枯川・田岡嶺雲・大杉栄・荒畑寒村・河上肇集/永井荷風集(2巻)/与謝野寛・与謝野晶子・上田敏・木下杢太郎・吉井勇・小山内薫・長田秀雄・平出修集/北原白秋・石川啄木集/高村光太郎・宮沢賢治集/若山牧水・太田水穂・窪田空穂・前田夕暮・土岐善麿・川田順・飯田蛇笏・水原秋桜子・山口誓子・中村草田男・加藤楸邨・石田波郷集/鈴木三重吉・森田草平・寺田寅彦・内田百閨E中勘助集/谷崎潤一郎集(2巻)/秋田雨雀・小川未明・坪田譲治・田村俊子・武林無想庵集/武者小路実篤集/志賀直哉集/有島武郎集/長与善郎・野上弥生子集/里見ク・久保田万太郎集/斎藤茂吉集/島木赤彦・岡麓・中村憲吉・土屋文明・木下利玄・古泉千樫・會津八一集/魚住折蘆・安倍能成・阿部次郎・和辻哲郎・生田長江・倉田百三・長谷川如是閑・辻潤集/千家元麿・山村暮鳥・福士幸次郎・佐藤惣之助・野口米次郎・堀口大學・吉田一穂・西脇順三郎集/佐藤春夫集/芥川龍之介集/山本有三・菊池寛集/水上瀧太郎・豊島与志雄・久米正雄・小島政二郎・佐佐木茂索集/宇野浩二・広津和郎集/室生犀星・萩原朔太郎集/瀧井孝作・網野菊・藤枝静男集/葛西善蔵・相馬泰三・宮地嘉六・嘉村礒多・川崎長太郎・木山捷平集/尾崎士郎・石坂洋次郎・芹沢光治良集/横光利一・伊藤整集/川端康成集/大佛次郎・岸田國士・岩田豊雄集/片上伸・平林初之輔・青野季吉・宮本顕治・蔵原惟人集/宮本百合子・小林多喜二集/葉山嘉樹・黒島伝治・平林たい子集/中野重治・佐多稲子集/村山知義・久保栄・真船豊・三好十郎集/前田 河広一郎・徳永直・伊藤永之介・壺井栄集/小林秀雄集/林房雄・亀井勝一郎・保田與重郎・蓮田善明集/牧野信一・稲垣足穂・十一谷義三郎・犬養健・中河与一・今東光集/梶井基次郎・外村繁・中島敦集/堀辰雄・三好達治集/井伏鱒二・上林暁集/河上徹太郎・山本健吉・吉田健一・江藤淳集/金子光晴・小熊秀雄・北川冬彦・小野十三郎・高橋新吉・萩原恭次郎・山之口貘・伊東静雄・中原中也・立原道造・草野心平・村野四郎集/尾崎一雄・中山義秀集/林芙美子・宇野千代・幸田文集/武田麟太郎・島木健作・織田作之助・檀一雄集/高見順・円地文子集/丹羽文雄・岡本かの子集/阿部知二・丸岡明・田宮虎彦・長谷川四郎集/中島健蔵・河盛好蔵・中野好夫・桑原武夫集/石川達三・火野葦平集/石川淳・安部公房・大江健三郎集/太宰治・坂口安吾集/中村光夫・唐木順三・臼井吉見・竹内好集/本多秋五・平野謙・荒正人・埴谷雄高・小田切秀雄集/椎名麟三・梅崎春生集/野間宏・武田泰淳集/加藤周一・中村真一郎・福永武彦集/森本薫・木下順二・田中千禾夫・飯沢匡集/花田清輝・杉浦明平・開高健・小田実集/大岡昇平・三島由紀夫集/井上靖・永井龍男集/堀田善衛・遠藤周作・井上光晴集/阿川弘之・庄野潤三・曽野綾子・北杜夫集/深沢七郎・三浦朱門・有吉佐和子・水上勉集/島尾敏雄・小島信夫・安岡章太郎・吉行淳之介集/現代名作集(2巻)/現代詩集/現代歌集/現代句集/文芸評論集/現代評論集

《現代詩集》は富永太郎、安西冬衞、逸見猶吉、田中冬二、竹中郁、大手拓次、丸山薫、壺井繁治、北園克衞、谷川俊太郎、竹内勝太郎、飯島耕一、山本太郎、谷川雁、鮎川信夫、田村隆一、大岡信、會田綱雄、吉岡実、清岡卓行、岩田宏、安東次男、天澤退二郎、中村稔、入澤康夫、石垣りん、澁澤孝輔の詩集、篠田一士〈解説〉、千葉宣一編〈年譜〉を収める。篠田は3800字近くを費やして〈島〉(C・3)に触れているが、吉岡はこれを目にしてどんな感慨を持っただろうか。
本書の仕様は、二一八×一四八ミリメートル・四三六ページ・上製クロス装・貼函。中島氏は前掲インタヴューで「表紙を開けたところにある見返しについては、吉岡さんは淡クリーム白孔雀など、薄いクリーム色を好んで使われていました。あまりはっきりした色の見返しは好まれなかったんです。ナチュラルな、うるさくない紙。一般的には表紙の色とのバランスで、見返しにはっきりと色のついた紙を用いることも多いのですが、表紙を開いたら、そこからすでに本文が始まっているんだという意識が吉岡さんにはあったんだと思います。それと全集はたいてい厚くて重いので、やはり丈夫な紙でないといけないということもあったでしょうね。後年は、ファンシー・ペーパーではシマメ紙もお好きでしたね」(同誌、一四三ページ)、「先ほども申し上げたように、耐久性があり、しっかりとした重さがあるというのが大きいですね。「本ってものは重くなくちゃ」って、吉岡さん、よくおっしゃってました。だいたい書籍の束見本が出来上がると、まず重さを手で量るんですよ。「この重みがいい」って(笑)。そして「飽きがこない、くどくない、何年たっても書棚に置いてうるさくない本がいいんだ」と吉岡さんがおっしゃっていたのは覚えています」(同前、一四五ページ)と語っているが、確かに見返し用紙は薄いクリーム色で、本書の重量は900グラムもある。筑摩書房の文学全集における吉岡実装丁の代表作といえる本全集にもエン ブレム(自作のマーク!)が鏤められていて、「吉岡好み」を貫く姿勢は《西脇順三郎全集》などの個人全集を装丁する場合と変わらない。なお表紙の平と背のマークの丸は、実見することのできた初版(1973年4月5日刊)と5刷(1977年5月30日刊)は赤だが、11刷(1981年11月1日刊)は紺で、いかなる意図か不明だが、ある増刷の時点で変更したものと思しい。

《現代詩集〔現代日本文學大系93〕》(筑摩書房、5刷:1977年5月30日〔初版:1973年4月5日〕)の函と本体
《現代詩集〔現代日本文學大系93〕》(筑摩書房、5刷:1977年5月30日〔初版:1973年4月5日〕)の函と本体

吉岡実が旧字・新かなの《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)の若干の字句を訂正した《吉岡実詩集》(思潮社、1967)は新字・新かなを採用して、後の《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)の底本にもなったが、本全集にはこの思潮社版詩集を底本にした《僧侶》全篇が収められている。《現代詩集》での《僧侶》の本文は《現代日本名詩集大成11》(東京創元社、1960)でのそれと異なり、しかるべく校訂してある。ちなみに、底本の思潮社版詩集はひらがなの小字を使用していないが《現代詩集》版は使用している、底本は散文詩型の行頭にくる全角アキを許容しているが本全集版は許容していない、といった組方の基本方針の違いがある。細かいことだが、以下の漢字に異同がある(なお〔吉〕は《吉岡実詩集》、〔現〕は《現代詩集》、〔全〕は《吉岡実全詩集》を表わす)。
 1. 山嶽〔吉〕―山岳〔現〕―山嶽〔全〕(〈固形〉C・11)
 2. 姙婦〔吉〕―妊婦〔現〕―姙婦〔全〕(同前)
 3. 竜巻〔吉〕―龍巻〔現〕―竜巻〔全〕(〈苦力〉C・13)
 4. 埓外〔吉〕―埒外〔現〕―埒外〔全〕(〈喪服〉C・15)
 5. 牡蛎〔吉〕―牡蠣〔現〕―牡蠣〔全〕(〈人質〉C・17、二箇所とも)
 6. 凉しい〔吉〕―涼しい〔現〕―涼しい〔全〕(〈死児〉C・19)
《僧侶》各詩篇の原稿(陽子夫人浄書の入稿原稿)の本文、初出形・初版形・定稿形それぞれの印刷物(およびその校正紙)の本文を比較することは、詩集《僧侶》の生成を解きあかす一助となるに違いない。この《現代詩集》の本文は、定稿形の一変種として重要な文献である。


吉岡実の装丁作品(59)(2008年8月31日〔2013年9月30日追記〕)

十代の後半から、毎年夏になると西脇順三郎の詩が読みたくなる。1975年の盛夏に読んだ《西脇順三郎全集〔第1巻〕詩集T》(筑摩書房、1971年3月5日)は、初めて触れた現存詩人の全集だった。その《西脇順三郎全集》は1971年から73年にかけて全10巻で刊行された。内容を略記する。
 〔第1巻〕詩集T(1971年3月5日)
 〔第2巻〕詩集U(1971年5月6日)
 〔第3巻〕訳詩集(1971年7月6日)
 〔第4巻〕詩論T(1971年10月15日)
 〔第5巻〕詩論U(1971年12月20日)
 〔第6巻〕文学論T(1972年2月25日)
 〔第7巻〕文学論U(1972年4月28日) 月報に吉岡実〈断片四章〔のち〈西脇順三郎アラベスク1〉と改題〕〉を掲載
 〔第8巻〕文学論V(1972年6月30日)
 〔第9巻〕文学論W(横組)(1972年8月30日)
 〔第10巻〕文学論X・随筆・未刊詩篇(1973年1月20日)
この10巻本全集の第10巻を編みなおし、第11巻と別巻を増補したのが、1982年6月から翌年7月にかけて刊行された《増補 西脇順三郎全集》である。変更分・増補分の内容を略記する。
 〔第10巻〕文学論X・随筆(1983年3月19日)

 〔第11巻〕詩集・未刊詩篇・拾遺詩篇・雑篇・訳詩ほか(1983年4月25日)
 〔別巻〕西脇順三郎アルバム・主要欧文詩集訳詩・西脇順三郎研究(1983年7月20日)
吉岡実 〈西脇順三郎アラベスク〉を収録
1993 年末、生誕100年記念出版として《定本 西脇順三郎全集〔全12巻・別巻1〕》の刊行が始まった(私が全巻所有しているのはこの版)。内容見本には造本・体裁として「A5判・上製・クロス装・貼 函入・平均656頁・口絵一丁・月報8頁・定価各巻不同」と見え、〈本全集の特色〉にこうある。

 ・増補版では第1回『西脇順三郎全集』以後に集められたさまざまな種類の著作を便宜的に第11巻に収めたが、今 回1巻増巻することによって正しい作品別に配列し巻構成をただした。
 ・詩については増補版ではなく、完全校訂した『定本西脇順三郎全詩集』に基づいて収録した。
 ・第3巻に「詩稿ノート」(約80枚)を収め、今まで知られなかった西脇詩の推敲過程の一端を明らかにする。

元 版・増補版・定本の各全集には、当然ながら《西脇順三郎全詩集》(筑摩書房、1963)と《定本 西脇順三郎全詩集》(同、1980)の成果が反映されている。これらのなかで吉岡実が装丁を担当したのが元版全集である。その造本・体裁、「A5判上製貼 函入・表紙バクラム装・本文9ポ1段組・平均600頁・口絵1丁・月報8頁付」(内容見本)はそのまま定本全集に引きつがれている(本文組も、上で触れた もの以外は基本的に流用のようだ)。この元版全集の内容見本はB5判・中綴じ・12ページ・表紙のみ2色の立派なもので、推薦文――大岡信、村野四郎、瀧 口修造、福原麟太郎、鮎川信夫、池田満寿夫(大岡の〈西脇順三郎の世界〉と池田の〈宝石の重み〉だけが定本全集の内容見本に転載されている)――が3ペー ジを占め、以下、伊藤信吉の〈西脇順三郎の故郷〉、全巻内容・西脇順三郎略年譜と(その間に書影や肖像写真などが入る)、個人全集の小冊子型内容見本の典 型のような構成になっているが、この小冊子のレイアウトが吉岡実の手になるかは不明だ。ちなみに定本全集の内容見本の仕様は、B5判天地カット・観音折 り・8ページ・4色/2色である。

《西脇順三郎全集〔全10巻〕》(1971〜73)と《定本 西脇順三郎全集〔全12巻・別巻1〕》(1993〜94)の内容見本
《西脇順三郎全集〔全10巻〕》(1971〜73)と《定本 西脇順三郎全集〔全12巻・別巻1〕》(1993〜94)の内容見本

《西 脇順三郎全集〔第1巻〕詩集T》の仕様は二一〇×一四八ミリメートル・六一二ページ・上製・クロス装・貼函。表紙の赤は、はるかに西脇順三郎詩集 《Ambarvalia》(椎の木社、1933)の函・表紙のワインレッドを想起させる。余談ながら、75年前に刊行されたこの一代の名詩集は国立国会図 書館で手にすることができるが、束のある本文用紙が劣化していて、ページを繰るはしからほろほろと崩れおちそうだ。本全集のカットは、検印紙の花の絵を含 めて、すべて西脇によるものだろう。臼田捷治は〈吉岡実・栃折久美子――出版社のカラーを引きだす力〉で次のように書いている。

 もうひとつ吉岡の装幀を特徴づけるのは、カットやエンブレムの巧みな使い方である。
 明朝活字とカット類を効果的に響き合わせるセンスは、すでに触れたように吉岡が造形感覚にすぐれていたことと、絵画や彫刻に持続的な関心を寄せていたことが大きくあずかっている。
 白眉は『西脇順三郎全集』(全十巻、筑摩書房、七一年)だといってよいだろう。西脇とはいわゆる師弟関係にあったわけではないが、公私ともにつき合いは長く、ふたりは厚い信頼関係で結ばれていたようだ。西脇順三郎全集には西脇自身のペン画が函と表紙に効果的にアレンジされている。それはメダル状の円型のなかに、鳥や横向きの婦人像を描いたもので、本全体のなかでみごとに焦点を結んでいる。西脇と吉岡、それに担当編集者の共同作業の呼吸がぴったりと合った、洗練をきわめた仕上がりだ。この全集は、吉岡らしさと同時に、筑摩書房らしさが十全に発揮されているように思う。(《装幀時代》、晶文社、1999年10月5日、七二ページ)

臼田さんは、吉岡実装丁の特徴のひとつめとして「〔……〕私が吉岡の「三八〔三段八割の新聞広告〕」に注目するのは、装幀においても遺憾なくその名人芸ぶりが発揮されているからだ。ふたつの名人芸を根幹で支えているものは、ひと口でいえば「三八」の主要素材である金属活字、それも明朝体への偏愛である」(同前、六三ページ)と書いているが、同感だ。
ところで、吉岡が《サフラン摘み》(青土社、1976)や《薬玉》(書肆山田、1983)ではなく、それぞれその次の《夏の宴》(青土社、1979)や《ムーンドロップ》(書肆山田、1988)の装丁に西脇の装画を起用しているのは、西脇の絵で自身の詩集を賦活するためだったのではないか。これらは「カットやエンブレム」ではなく、詩集を「装」うための「画」だった。

〔2013年9月30日追記〕
国立国会図書館(東京館)所蔵の西脇順三郎詩集《Ambarvalia》(椎の木社、1933)は、その後デジタルデータ化され、それは今のところ館内でのみ閲覧が可能。本文で触れた原本は「利用不可」の扱いで、現在手にすることはできない(関西館・総合閲覧室の一本も同様)。

《西脇順三郎全集〔第1巻〕詩集T》(筑摩書房、1971年3月5日)の函・表紙 《西脇順三郎全集〔第1巻〕詩集T》(筑摩書房、1971年3月5日)の本扉・函
《西脇順三郎全集〔第1巻〕詩集T》(筑摩書房、1971年3月5日)の函・表紙(左)と本扉・函(右)


吉岡実の装丁作品(58)(2008年7月31日)

《「月」そのほかの詩》(思潮社、1977年4月15日)は《古い土地》(梁山泊、1961)以来、久しぶりに吉岡実が装丁した入沢康夫の単行詩集 だ(その間の1973年、青土社から全詩集《入澤康夫〈詩〉集成――1951〜1970》が 出ている)。本詩集には「吉岡実氏へ」と献辞のある一篇が収録されており、それを踏まえて吉岡実装丁となったものか。函と本扉にある巣の中の鳥の卵のカッ トは、詩画集《ランゲルハンス氏の島》(私家版、1962)の共著者・落合茂である。
吉岡に「ドアのノブのやわらかい恐怖」という詩句を含む〈滞在〉(E・7)があるが、歴史的仮名遣いを用いるようになった入沢にかかると「やはらかい恐 怖」となり、それが吉岡実詩からの引用であることを示すために《 》で括られている。私は吉岡に倣って詩篇の題名を〈 〉で括って表記するから、山括弧の連続になるのをお許しいただきたいが、〈《やはらかい恐怖》〉全文を引いて〔 〕内に典拠となった吉岡実詩を掲げる(本篇が《ユリイカ》 1973年9月号の吉岡実特集に発表されたときのタイトルは〈《やわらかい恐怖》〉で、献辞はなかった)。

《やはらかい恐怖》〔〈滞在〉E・7〕――吉岡実氏へ|入沢康夫

たとへば その一篇にしてからが なほ
《生き方とは関係なく》〔〈春のオーロラ〉E・10〕
しかも そこにあなたそのひとが
《骨をからだ全体に張り出して》〔〈模写〉E・4〕泳いでをり
ことあらためて言ふまでもなく それは
あたなにとつて《のぞむところでなく 拒む術もなく》〔〈下痢〉D・3〕
《永年の経験から》〔〈感傷〉C・18〕つねにあなたを的確に《裏切る》〔同前〕ばかりか
その一篇から 次の一篇へ そしてさらに次へと
《黒い帯の》〔〈死児〉C・19〕非《宗教的なながれ》〔同前〕が繰り出され
幾千の《スイカ》〔〈青い柱はどこにあるか?〉F・6〕がただよひ
その果に燐光を放つ海上都市の夢がわき起こる
これほど恐るべき主体の賭けが文字に則して可能であらうか
そこには いつでも《小さな火事があり
樽と風を入れる場所があ》〔〈サーカス〉I・2〕つて
そのかたちを 強ひて説明するならば
《両側へ紐をたらしつつある
神秘的な靴》〔〈夏から秋まで〉F・2〕
その靴の釘を《形而上的な肛門》〔〈青い柱はどこにあるか?〉F・6〕に打たれて
跳ね上れ! 百の牡馬どもよ

も う一度出典を見てみよう。C・18、C・19、D・3、E・4、E・7、E・10、F・2、F・6、I・2。Eの《静かな家》(思潮社、1967)は入沢 が本篇を執筆した時点での吉岡の最新詩集だが、そこからの引用が多いのが目立つ。Fの《神秘的な時代の詩》(湯川書房、1974)はまだ一本になっておら ず、F・2とF・6はおそらく《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968)の〈未刊詩篇から〉からの引用で、上記9篇はいずれも同書に収録され ている。EとFの5篇で、引用された詩篇の過半数を占めており、近作の吉岡実詩に対する入沢の親炙をみる想いがする。
《「月」そのほかの詩》の仕様は、二二四×一三九ミリメートル・九八ページ・上製継ぎ表紙(平・紙、背・クロス)・貼函で、発行日は偶然だろうが吉岡実 58歳の誕生日だ。暗鬱なグレーの用紙(レザック)と大胆かつ細心に選ばれた深紅のクロスが、さまざまな書法からなる19篇――本書の帯には〈詩法の知的 構造〉と題して「多様な屈折をもつ知的構造によって〈詩作品〉の深淵を掘りさげ、そのフィールドを周到に探り、独自な詩法の迷路と魅力を展開する著者の4 年間〔詩集の扉には「一九七三〜一九七六」とあり、吉岡の《サフラン摘み》の執筆期間(1972〜1976)にほぼ等しい〕にわたる新作19篇」とある ――を束ねて、印象的な造本である。クロスの深紅は、胃潰瘍による吐血を想わせないでもない。
作者によれば《「月」そのほかの詩》は「詩作再開後の最初の詩集。表題に《異海洋》という語を含む詩が数篇ありますが、これは当時患った胃潰瘍のもじりで す。収録作の制作は、一九七一年から始った宮沢賢治遺稿全面的再調査と新全集刊行の時期に重なっています」(《〔前橋文学館特別企画展 第10回萩原朔太郎賞受賞者展覧会 入沢康夫展図録〕入沢康夫――入沢康夫のバックグラウンド》、萩原朔太郎記念水と緑と詩のまち前橋文学館、2003年9月15日、三〇ページ)ということ になる。この図録には詩集がカラーのキリヌキ写真で掲載されているが、この書影だと函かジャケットか表紙かわからない。書誌に装丁者名の記載がないのも惜 しまれる。〈詩集〉の扉の白黒写真(かなり大きな角版)も、7冊(《季節についての試論》《漂ふ舟》《水辺逆旅歌》《死者たちの群がる風景》《唄》《遐い 宴楽》《わが出雲・わが鎮魂》)などといわず全20冊、それもプロポーションがわかるように背表紙を並べて揃えるといった工夫があってもよかっただろう。

入沢康夫詩集《「月」そのほかの詩》(思潮社、1977年4月15日)の函と表紙 入沢康夫詩集《「月」そのほかの詩》(思潮社、1977年4月15日)の本扉
入沢康夫詩集《「月」そのほかの詩》(思潮社、1977年4月15日)の函と表紙(左)と同・本扉(右)


吉岡実の装丁作品(57)(2008年6月30日)

《岩成達也詩集〔現代詩文庫58〕》(思潮社、1974年10月1日)に「自伝」として書かれた〈補足的な若干のメモ〉の〈5作品群〉に次のような一節がある(一部、表記を改めた)。

 私の作品群は、私の状況の確認の仕方に応じて、多分、次のように整理することができると思われる。

発端 @ベリト・シェリに関する一章(完結)、Aシュトオ村より(中断)
レオナルド期 Bレオナルドの船に関する断片補足(完結)
後レオナルド期 C燃焼に関する三つの断片(完了)、D徐々に外へほか(完了)、E擬場とその周辺(エッセイ集・完了)
現在 F筋肉等に関する諸断片群(未完)、G僕達にとってチーズとは何か、およびホリデイ・ピクニック(未完)

 このうち、C〈燃焼……〉とD〈徐々に外へ……〉とは作品〈第三の断片〉を軸として2冊で一つの作品群を構成する。(同書、一二九ページ)

岩成達也の上記の作品群を収めた書籍の初刊は以下のとおりである。

 @:《岩成達也詩集》
 A:同上
 B:《レオナルドの船に関する断片補足》(思潮社、1969年4月10日)〔《岩成達也詩集》に全篇収録〕
 C:《燃焼に関する三つの断片》(書肆山田、1971年3月15日)〔同上〕
 D:《徐々に外へ・ほか》(思潮社、1972年10月20日)〔《岩成達也詩集》に抄録〕
 E:《擬場とその周辺》(思潮社、1973年6月1日)
 F:《マイクロ・コズモグラフィのための13の小実験》(青土社、1977年11月10日)

吉岡実が装丁した《レオナルドの船に関する断片補足》の刊行に関しては、《あもるふ》同人の江原和巳が〈青春への回帰〉で触れている。「彼ほど詩集出版に優柔不断な姿勢をとり続け、周囲をやきもきさせた詩人もすくないのではないか。みずから恃む詩にあれほど自覚をもちながら詩集にまとめる気はないのだった。〔……〕しかし、それはぼくなどのおよばない作品構成の手順についての彼らしい数学的展開の区切りを索る時間だったのだと判ったのはずっと後だった」(同前、一四七〜一四八ページ)。
《レオナルドの船に関する断片補足》は〈半島にて〉から〈法華寺にて〉までの全13篇から成る。これらを題名からだけ分類すると、次のA〜Dの四つになる。
 A:……にて(3篇)
 B:……の想い出(4篇)
 C:……断片(5篇)
 D:……目次(1篇)
巻末の〈補遺〉(要は目次である)に掲げられた題名と年号に、このA〜Dを冠して表示すると

  1. A:〈半島にて〉(1959)
  2. B:〈海の想い出〉(1958, 1955, 1957)
  3. B:〈続海の想い出〉(1958, 1960)
  4. C:〈かわいた魚に関する断片〉(1960)
  5. B:〈樽切れの想い出〉(1961)
  6. C:〈しおれた果物に関する断片〉(1961)
  7. B:〈納屋の想い出〉(1961-62)
  8. D:〈船に関する断片目次〉(1961)
  9. C:〈続鳥に関する断片〉(1965)
  10. C:〈マリアの布に関する断片〉(1963-64)
  11. C:〈マリア・船粒・その他に関する手紙のための断片〉(1966)
  12. A:〈岩山にて〉(1968)
  13. A:〈法華寺にて〉(1967)

となる。単行詩集では横長の別丁を平行折りした〈船に関する断片目次〉(*)が折と折の間に貼り込まれている。《岩成達也詩集》では8と9とが入れ替わっているから(別丁をやめ、通常の本文組み)、8. C:〈続鳥に関する断片〉、9. D:〈船に関する断片目次〉という並び順が、製本の制約を免れた当初の構想ではあるまいか。〈法華寺にて〉のまえの見開きはノンブルもなにもない完全な白ページだから、13を別格として扱えば、1〜12の「数学的展開の区切り」が見えてくる。
本書は、1955年から68年にかけて執筆された(吉岡にとっては《静物》から《神秘的な時代の詩》の間に相当する)詩篇を収めて、ついに刊行された。江原氏は前掲文でこう書いている。「一九六九年四月、彼の第一詩集『レオナルドの船に関する断片補足』がやっと陽の目をみた。真白いフランス装の66頁の空間性に富んだ簡潔な本だった。入沢康夫、川口澄子、それに吉岡実氏等の尽力だった。五月の下旬、彼が上京し「あもるふ」の仲間はひさしぶりに顔を合せた。銀座のキリンビアホール≠ノ川口が刷り上ったばかりの詩集を包んだ風呂敷を提げて現われ、うすぐらい卓上にそれをひらいたときの一瞬まぶしかったことを忘れない」(同前、一四九ページ)。
本書の仕様は、二一一×一三二ミリメートル・七四ページ・並製フランス装・機械函。本文に貼込み一丁。限定250部(元版は活版印刷だが、平版印刷による復刻版250部があり、奥付対向ページに「一九六九年十一月一日 復刻版二五〇部発行 復刻版頒価八〇〇円 復刻印刷オリエンタル・コピープリント社」と追記されている)。表紙と函の表4に錨のカットが入っているだけで、表表紙や本扉にヴィジュアル要素は皆無、白地に明朝活字だけの「純粋装本」である(略標題紙裏のノド寄りにひっそりと「装幀 吉岡実」のクレジットがある)。本書の印刷・製本を担当した若葉印刷と岩佐製本は、吉岡の《静かな家》(思潮社、1968)と同じ印刷所・製本所だが、全体の印象としては吉岡の真の出発となった《静物》(私家版、1955)に近く、岩成の処女詩集への吉岡の想いが感じられる(吉岡は《現代詩手帖》1961年2月号の〈アンケート「六一年度に期待する新人」〉に、岩成達也と山本道子の二人を挙げていた)。
《徐々に外へ・ほか》は本書の3年半後に刊行された岩成の第三詩集だが、吉岡実装丁本でお馴染みの落合茂のカットを擁して、その仕様(二一〇×一三二ミリメートル・八〇ページ・並製フランス装・機械函)は本書に酷似する。ただし装丁者のクレジットはなく、吉岡実装丁の本書を踏まえた出版元によるものと思われる。

(*)のちに〈〈船に関する断片目次〉のためのメモ〉(《遊》8号、1975年4月)がFの《マイクロ・コズモグラフィのための13の小実験》の〈小実験11 あるいは/木製扉への中途半端な接近〉の註として同書に収められた結果、B(本書)とFは、冒頭で触れた〈5作品群〉の図にあるように、いっそう明確な関係を結んだ。

岩成達也詩集《レオナルドの船に関する断片補足》(思潮社、1969年4月10日)の函と表紙 岩成達也詩集《徐々に外へ・ほか》(思潮社、1972年10月20日)
岩成達也詩集《レオナルドの船に関する断片補足》(思潮社、1969年4月10日)の函と表紙(左)と同《徐々に外へ・ほか》(思潮社、1972年10月20日)の函と表紙(右)


吉岡実の装丁作品(56)(2008年5月31日)

塩田良平・和田芳恵編《一葉全集〔全7巻〕》(筑摩書房、1953-1956)は吉岡実が装丁した初の全集だと思われる。吉岡の〈和田芳恵追想〉 (初出は1978年)にこうある。

  私は昭和二十六年に、筑摩書房に入って、新企画の《小学生全集》を、先輩の一人と担当した。準備期間であり、時間に余裕があったため、図書目録をつくるこ とを命ぜられた。たまたまその出来あがりがよかったので、初の個人全集《一葉全集》の内容見本をつくるように言われた。/私はその時、はじめて和田芳恵な る人と出会ったのだ。いきが合ったせいか、内容見本も当時としては立派なものが出来た。装幀造本まで、私は手がけるようになってしまった。(《「死児」と いう絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一七五〜一七六ページ)

文中の「初の個人全集」は、おそらくは吉岡が手がけた初の全集の意であって、筑摩書房が一葉の全集で初めて個人全集の出版に乗りだしたわけではない(1948年から翌年にかけて刊行 された釘本久春ほか編《中島敦全集〔全3巻〕》がすでにある)。この《一葉全集》以前に刊行された一葉樋口夏子の主な全集には以下のものがある(《現代日 本文學大系 第5巻〔樋口一葉・明治女流文學・泉鏡花集〕》、筑摩書房、1972、所収の関良一作製〈著作目録〉による)。

  1. 《一葉全集》(小説20編・随筆1編を所収) 明30・1 博文館
  2. 《校訂 一葉全集》(小説22編・随筆2編を所収、斎藤緑雨校訂) 明30・6 博文館
  3. 《一葉全集》全2巻(前編に日記・文範=《通俗書簡文》、後編に未発表を含む小説25編・随筆6編を所収、馬場孤蝶校訂) 明45・5-6 博文館
  4. 《縮刷 一葉全集》(右の縮刷合冊本) 大11・6 博文館
  5. 《評釈 一葉小説全集》(右の25編を所収、長谷川時雨評釈)〔冨山房百科文庫〕 昭13・8 冨山房
  6. 《樋口一葉全集》全5巻(未発表の小説その他をも所収、久保田万太郎ほか編) 昭16・7-17・1 新世社
  7. 《一葉全集》全7巻(未発表の小説その他をも所収、塩田良平・和田芳恵編) 昭28・8-31・6 筑摩書房

本全集の補強改訂を目的として企画された《樋口一葉全集〔全4巻〕》(筑摩書房、1974-1994)の責任編集者として、和田芳恵は第1巻の〈後 記〉に次のように書いている。

筑 摩書房版「一葉全集」全七巻〔……〕は、年とともに版を重ね、紙型が摩滅したため絶版のやむなきにいたった。/〔……〕/この「一葉全集」〔《樋口一葉全 集》のこと〕は、先行する、どの「一葉全集」とくらべても、研究者向きと思われる。原稿資料は、可能な限り写真に撮り、これを元に原稿用紙へ書きうつし て、不分明な点は元原稿について解決した。これは全集の場合、当然な措置だが、これまでの「一葉全集」では部分的におこなわれたに過ぎなかった。(《樋口 一葉全集〔第1巻〕》、筑摩書房、1974年3月20日、五六七〜五六八ページ)

はからずも本 全集の限界を物語っているが、和田は新版全集の完結を見ずに1977年に逝った。吉岡は〈和田芳恵追想〉で、生き形見として岳父から贈られた一葉の短冊を 紹介している。その歌は《一葉全集〔第5巻〕》(1955年1月31日)の〈歌稿補遺〉では「無題 107 訪ばやとおもひしことは空しくてけふのなげき にあはんとやみし」(〈X 樋口家所蔵色紙短冊等の歌〉、同書、三八〇ページ)とシンプルだが、〈和歌V〉を収めた《樋口一葉全集〔第4巻(下)〕》 (1994年6月20日)では

    (無題)
33 訪 (ば) やとおもひしことは空しくてけふのな (げ) きにあはんとやミし              夏子
   〕故和田芳恵氏所蔵。時期未詳。後期。短冊。(〈短冊・栞〉、同書、五八九ペー ジ)

というぐあいに、本文が詳しくなっているだけでなく、注記が充実しているのが特徴だ。

塩田良平・和田芳恵編《一葉全集〔第1巻〕》(筑摩書房、1954年6月20日)の本扉と函 塩田良平・和田芳恵編《一葉全集〔全7巻〕》(筑摩書房、1953年8月10日〜1956年6月20日)の函
塩田良平・和田芳恵編《一葉全集〔第1巻〕》(筑摩書房、1954年6月20日)の本扉と函(左)と同《一葉全集〔全7 巻〕》(筑摩書房、1953年8月10日〜1956年6月20日)の函(右)

《一 葉全集〔全7巻〕》の仕様は一八〇×一二六ミリメートル・上製・クロス装・貼函。総2724ページ。書名の「一葉全集」は、函の平以外、函の背、表紙の 背、本扉とも筆による書き文字だ。書き文字のクレジットはないが、後出・関良一編〈一葉書誌〉に「背文字は空海の「請来目録」による」(〔第7巻〕、1956年6月20日、二六〇ページ)とあり、臙脂の表紙クロスに漆黒の背文字が鮮やかだ。全集の本文は第6巻までが一葉の著作で、第7巻は〈補遺〉(こ れも一葉の著作だが)と〈研究・資料〉から成る。個人全集最終巻でのこうした試みは、新世社版全集別巻の和田芳恵編《樋口一葉研究》(1947年4月15 日)と並んでその先駆と見られるので、以下に〈研究・資料〉の目次を録する。

一葉誕生 和田芳恵
桃水側から見た一葉 塩田良平
一葉小説の文章 藤井公明
一葉小説制作考 関良一
樋口夏子歌集成立考 藤井公明
一葉研究小史 関良一
一葉書誌 関良一編
一葉研究書誌 関良一編
『一葉に与へた手紙』抄 和田芳恵編
一葉年譜 関良一編
日記人件索引 塩田良平編

第7 巻巻末の二人の編者による〈一葉全集の末に〉には「最初は、編集長の土井一正氏が、直接、この全集の担当者になり、そののち岡山猛氏が引継いで完了した」 (同書、四一〇ページ)という一節があるが、装丁・造本についての記述は見えず、表紙まわりや奥付にもクレジットはない(逆に言えば、そこから社内装丁で あることが窺える)。
和田芳恵執筆、吉岡実装丁の《筑摩書房の三十年》(筑摩書房、1970年12月25日)を 見ると、

  和田は戦争中に出た新世社版「樋口一葉全集」にも関係したが、こんどの「一葉全集」は本文校訂に力を入れたため、予想外の日時がかかり、第一回の配本は翌 年の八月になった。最初の計画の六巻の外に「補遺、研究・資料」篇が一冊加わり全七巻になったが、完了するまでに足かけ五年かかった。/〔……〕/古田晁 は、その頃、唐木順三といっしょに酒を呑みながら、「終りを立派にしなければ」が口癖になっていた。筑摩書房は、もう、だめだと、古田は内心覚悟してい た。/あとになって、土井一正から、「一葉全集」も、古田の考えでは、筑摩書房の終りを飾るつもりの出版であったと和田は聞かされた。/〔……〕/「一葉 全集」は筑摩書房が手がけた、日本の作家で最初の本格的な個人全集であった。(同書、一八五〜一九〇ページ)

とあるから、吉岡がこれを踏まえて冒頭の随想を書いたことは充分に考えられる。


吉岡実の装丁作品(55)(2008年4月30日)

岩 成達也の《〈箱船再生〉のためのノート》(書肆山田、1986年3月15日)は「詩集」とは謳っていないものの、「箱船は再生し得るか。私たちが特定し得 た細部はたちまち融溶し、確定不能なものを構築する。箱船を透視しようとする視線は闇のなかを手だてもなく浮遊するだけなのか」(書肆山田のサイトから) という惹句からうかがえるように、詩集と見なすことができる。
本書は〈二つのノート〉というパートの〈〈箱船再生〉のための二つのノート〉と題された作品――同詩篇はさらに〈T 記述〉と〈U 解釈〉とから成り、前者には〈a 箱船の外形〉、〈b 箱船の内部〉、〈c 箱船の外部環境〉、〈d 箱船の外部環境についての補足〉、〈e 箱船以降についての若干の補足〔〈A 聖書の記述(創世記第九章)〉と〈B ルドフスキーの記述(前掲書170-171頁)〉という引用(そのものではないが)から成る〕〉が、後者には1から12までの番号を付された節が含まれる ――で始まる(〈……二つのノート〉に続く一篇は〈〈箱船再生〉のための補足的なノート〉)。〈e 箱船以降についての若干の補足〉のルドフスキーの書は〈a 箱船の外形〉の註に登場するバーナード・ルドフスキー(渡辺武信訳)《驚異の工匠たち――知られざる建築の博物誌》(鹿島出版会、1981)で、同書は巻 頭詩篇および〈〈箱船再生〉のための第四のノート〉の成立に与って大きいものがある。岩成達也は詩論〈覚書へ〉でこう書いている。「〔……〕私にとって は、あるテクニカル・タームの意味をそのテクニカルな関係の適正な内容範囲内にとどめておくことは、常にすこぶる困難なことだったのである」(《私の詩論 大全》、思潮社、1995年6月1日、二六ページ)。それに倣えば、岩成が行なったのはルドフスキーの箱船を「適正な内容範囲」の外に連れ出す行為にほか ならない。
本書の仕様は、二一八×一四五ミリメートル・一六八ページ・並製フランス装・函。初版第一刷750部。なお、《〈吉岡実〉の「本」》に掲載する吉岡実装丁 作品の写真は、原則として手許の原物を撮りおろしているが、本書は探求を続けているにもかからわず入手できないため、表紙は、区立図書館経由で借覧した都 立中央図書館所蔵本を撮影した。隣りの函(機械函か)の写真は、書肆山田のサイトに掲載されている画像である。本書は《清岡卓行詩集〔普及版〕》(思潮社、1970)と同様の製本様式だが、束は15ミリメートル と適正なため、同書のもっていた難点がさほど気にならない(チリが潰れがちなのは、いかんともしがたい)。表紙カット――入沢康夫詩集《死者たちの群がる風景》(河出書房新社、1982/1983)や井手文雄詩集《ガラスの魚》(勁草書房、1983)に通じる絵柄は水鳥だろうか――のクレジットはない(入手した本の書影を追加した〔2011年2月28日追記〕)。

岩成達也《〈箱船再生〉のためのノート》(書肆山田、1986年3月15日)の函〔書肆山田の画像〕 岩成達也《〈箱船再生〉のためのノート》(書肆山田、1986年3月15日)の表紙 入手した本の書影を追加した
岩成達也《〈箱船再生〉のためのノート》(書肆山田、1986年3月15日)の函〔書肆山田の画像〕(左)と同・表紙 (右)

岩成達也は〈吉岡実の言葉についての私的なメモ〉を「吉岡実さんについて、いま何かを書くのは、ひどく辛いことに思われる。というのも、吉岡さんは――旧い友人達を除けば――私が親しく面識を頂いた殆んど唯一の詩人であったし、それに何よりも、現在私が畏敬する殆んど唯一の詩人だったから」(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991、二一一ページ)と始めている。《〈箱船再生〉のためのノート》の装丁者は著者の希望で吉岡になったのかもしれないが、〈あとがきにかえて――後の旅よりのノート〉に制作関係の記述はなく、経緯は不明である。


吉岡実の装丁作品(54)(2008年3月31日〔2015年3月31日追記〕)

清岡卓行は《鰐》(全10号、書肆ユリイカ〔第10号のみ鰐の会〕、1959年8月〜1962年9月)の同人として、飯島耕一・岩田宏・大岡信・吉岡実と行をともにした。吉岡実装丁の《清岡卓行詩集》(思潮社、1969/1970)は、《鰐》に発表した詩をまとめた《日常〔現代日本詩集4〕》(思潮社、1962、装丁は真鍋博)を含む「個人綜合詩集」、すなわち1969年当時の全詩集である。《鰐》(第9号までの表紙の鰐のカットは真鍋博、第10号は落合茂)に掲載された吉岡実と清岡卓行の詩作品を掲げる。

・1959年〔昭和34年〕
 8月10日〔1号〕 〈下痢〉(D・3)――〈真夜中〉(《日常》所収)
 9月20日〔2号〕 〈紡錘形T〉(D・4)――ロベール・デスノス〈恋愛の花について また移住する馬たちについて〉〔訳詩〕
 10月20日〔3号〕 〈編物する女〉(D・8)――ロベール・デスノス短詩二篇〈イザベルとマリー〉〈ペリカン〉〔訳詩〕
 11月20日〔4号〕 〈首長族の病気〉(D・11)――〈嬰児と恋人〉〔改稿された前半が〈ありふれた奇蹟〉(《日常》所収)に〕
・1960年〔昭和35年〕
 1月10日〔5号〕 吉岡実詩は休載――清岡卓行作品は休載
 2月10日〔6号〕 〈哀歌〉(未刊詩篇・9)――清岡卓行作品は休載
 3月30日〔7号〕 〈紡錘形U〉(D・5)――〈プレヴェール風の酒場―パロディ〉〔改稿して〈そんなことは〉(《日常》所収)に〕
 5月30日〔8号〕 〈水のもりあがり〉(D・13)――清岡卓行作品は休載
 10月30日〔9号〕 吉岡実詩は休載――〈思い出してはいけない〉(《日常》所収)
・1962年〔昭和37年〕
 9月20日〔10号〕 〈劇のためのト書の試み〉(E・1)――〈マヌカンの行進―昨年の手帖の中のメモから〉(〈マヌカンの行進〉として《日常》所収)

本書は巻頭に「美しいものの運命をたどるかのように/若くしてこの世を去った/真知に/きみとの二十一年の生活に咲いた/これらの貧しい花花を」とあるように、1968年に41歳で亡くなった妻の真知に捧げられた。《鰐》前後から《清岡卓行詩集》までの吉岡と清岡の詩業を較べてみると、死の突出から日常への回帰、書肆ユリイカ(伊達得夫は1961年に歿している)から思潮社へのシフト、総括としての全詩集の刊行、といった点で興味深い対照をなしている。

 《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)――《氷った焔》(書肆ユリイカ、1959)
 《紡錘形》(草蝉舎、1962)――《日常》(思潮社、1962)
 《静かな家》(思潮社、1968)――《四季のスケッチ》(晶文社、1966)
 《吉岡実詩集》(思潮社、1967)――《清岡卓行詩集》(思潮社、1969)

清岡卓行は《鰐》について「この年〔一九五九年〕の八月、新しい同人詩誌「鰐」を吉岡実、飯島耕一、大岡信、岩田宏、そして私の五人で結成した。それぞれの立場や抱負は異るが、なんらかの形で関門としてのシュルレアリスムにかかわるグループであったろう。たびたび集まってしゃべり、飲み、協調と反撥をくりかえし、各住居で順ぐりに宴会をし、みなで小旅行をし、いってみれば仲がよすぎたために、三年ほどで自滅した」(〈私の履歴書〉、随想集《偶然のめぐみ》、日本経済新聞出版社、2007年6月15日、八〇ページ)と書いているが、1960年代こそ清岡卓行と吉岡実が最も接近した季節だった。その掉尾を飾るのが、清岡による〈吉岡実の詩(戦後詩への愛着7)〉(《文学》1968年1月号)であり、吉岡による本書の装丁である。《清岡卓行詩集》は、〔限定版1000部が1969年11月25日に、普及版1500部が翌1970年1月31日に、特装限定版55部が同1970年12月 1日に刊行されており、清岡は〈おぼえがき〉で「末筆ながら、詩人論の再録について吉本隆明氏に、本書のための新しい詩人論について若い俊英である宇佐美斉氏に、装幀について吉岡実氏に深く感謝する」(本書、五三七ページ)と書いている。

空|清岡卓行

わが罪は青 その翼空にかなしむ

本書巻頭の〈初期習作〉の一篇(のち詩集《円き広場》思潮社、1988、に収録)は、ただちに《昏睡季節》(草蝉舎、1940)の次の一篇を想い起こさせる。

断章|吉岡実

わがこころになやみはてず
あをぞらにくものわく

本書の〔普及版の仕様は、二〇九×一四八ミリメートル・五四六ページ・並製フランス装・機械函。素材としての用紙の選択は、いつもながら見事だ。やや濃い目のクリーム色の表紙に続いて、古染の見返しと(再び)クリーム色の本扉はおそらく同じ銘柄・斤量の色違いで、本扉は11ミリメートル四方の活字で組まれた書名を黒黒と保持している(上方のアステリスクはアクセントか)。吉岡実装丁のフランス装にはいくつかのパターンがあるが、これは広げた表紙の角を斜めに截ちおとして、天地とも折り込んだ状態で本体の背と糊づけし、表紙の小口側は角が数センチメートル重なって4枚になるように折ってある(したがって角はかなり丈夫だ)。上製本のきき紙にあたる方の見返しは、小口だけが表紙の袖の下にもぐる恰好だ。チリは約3ミリメートルあるから、900グラムの自重を支えるのに、芯紙の入っていない二重の表紙では弱すぎる。また「角背」だった原形が、繙読するにつれてページ中ほどの小口がせり出してくるのは、フランス装の構造的な難点だ。同時に罫下がたれさがってきて、薄手のボール紙の機械函を留めている針金と接触するのも芳しくない。A5判で500ページを超える本書の場合、定価3000円の限定版(平が紙、背が革の継ぎ表紙の丸背・上製本)に対して、定価1800円の普及版であってもここは上製本が望ましかった。

《清岡卓行詩集〔普及版〕》(思潮社、1970年1月31日)の本扉と函 《清岡卓行詩集〔特装限定版〕》(思潮社、1970年12月1日)の識語・署名と函
《清岡卓行詩集〔普及版〕》(思潮社、1970年1月31日)の本扉と函(左)と《清岡卓行詩集〔特装限定版〕》(思潮社、1970年12月1日)の識語・署名と函〔浪速書林の画像〕(右)
〔特装限定版〕の出典:http://www7a.biglobe.ne.jp/~naniwashorin/photo/430359.jpg?

本書の〔特装限定版は未見だが、浪速書林が18,900円で出品しているので以下に録する。

清岡卓行詩集 特製限定55部 画像あり/清岡卓行、思潮社、昭45、1冊/特製限定55部 識語・署名入 二重函付 極美 函セロハン巻き、函内部で貼込あり。 ペン書識語5行・署名入。装幀・吉岡実。総革装上製本。布装函入。A5判。

なお清岡卓行には、2007年2月14日に運営を開始した《清岡卓行・公式サイ ト》があり、本書《清岡卓行詩集》は〔特装限定版だけ、その〈書誌〉に詳細が記載されている。

〔2015年3月31日追記〕
《清岡卓行詩集〔限定版〕》(思潮社、1969年11月25日)を入手したので、書影を掲げた。本書の仕様は、二〇九×一四七ミリメートル・五四八ページ(本扉の前にペン書き署名用和紙一丁)・上製継表紙(平・紙、背・革)・貼函・輸送用外函に貼題簽。《清岡卓行詩集》(1969/1970)は、16年後に同じ思潮社から刊行された《清岡卓行全詩集》(1985年10月28日)の〈全詩集のためのあとがき〉において著者から「過去に五冊の『清岡卓行詩集』をもっているわけですが、そのうち、一九六九年に刊行(七〇年にも別の装幀造本で二通り刊行)の大型本が、全詩集版的な内容をもっていました」(同書、六三九〜六四〇ページ)と総括されている。《清岡卓行全詩集》には装丁者のクレジットがなく、思潮社の社内装丁と思われるが、表紙まわりもさることながら、資材も本文組も吉岡実装丁の《清岡卓行詩集》に及ばない。難点はいくつかあるが、《氷った焔》の岡鹿之助の絵を再度表紙に用いたのと、〈目次〉を2段で組んだのはなんとかならなかったものか。前者は、布装表紙に外題貼りした絵が傷みやすい。処女詩集を含む書影を、口絵か本文の扉裏に入れるのはどうだろう。口絵なら、すでにあるモノクロの著者近影を1ページめに、2〜3ページめは4色にして函や表紙などの外装の写真を、4ページめは再びスミ1色で、各詩集を書架に並べて函や表紙の背を撮る。後者は、ぜひ〔限定版〕のように1段で。どうしても2段にしてページを減らしたいなら、詩集名を段抜きにして、罫をあしらうなどしてはどうか。目次はフランスの本のように巻末に(小さめの活字で組んで)載せるという手もある。いずれにしても、吉岡の仕事に較べてぞんざいな印象は否めない。
本稿を書くために、久しぶりに〔普及版〕をひもといてみたところ、〔限定版〕の組版をそのまま用いたはずの〔普及版〕にも瑕疵がある。前回は触れなかったが、やはり指摘しておかなくてはなるまい(なお、これは手許の一本の状態であり、他本と照合したわけではない)。
 ・〈デパートの中の散歩〉(《日常》)の二一一ページ三行め「必ずしも信じないあるときの 群衆の中を」の「群衆の中を」が次の行間にずれている(〔限定版〕は問題なし)。
 ・〈ある個性〉(《四季のスケッチ》)の三七一ページ一行め「ぼくの心臓をつかみだして」の「ぼ」が空白になっている(〔限定版〕は問題なし)。
 ・宇佐美斉〈清岡卓行論〉の五〇三ページ三行め「最近の作品を読むとそうでもないが、」は〔限定版〕で「長近の作品……」と誤植されていたが、〔普及版〕でも直っていない。
こうした組版上の問題点は〔特装限定版〕では解消されたのだろうか。この追記執筆時点では未見なので、わからない。

《清岡卓行詩集〔限定版〕》(思潮社、1969年11月25日)の外函と函と表紙の平 《清岡卓行詩集〔限定版〕》(思潮社、1969年11月25日)の外函と函と表紙の背
《清岡卓行詩集〔限定版〕》(思潮社、1969年11月25日)の外函と函と表紙の平(左)と同・背(右)


吉岡実の装丁作品(53)(2008年2月29日〔2014年9月30日追記〕)

西脇順三郎最後の詩集《人類〔普及版〕》(筑摩書房、1979年11月15日)は、《人類〔限定版〕》(筑摩書房、1979年6月20日)の5ヵ月後に刊行された。限定版は本扉の裏に「装幀 吉岡実」と、普及版は奥付に「装幀者 吉岡実」とクレジットがある。《人類》は四部構成で、

T:1970年7月から1972年8月までに発表された23篇
U:《西脇順三郎全集〔第10巻〕》(筑摩書房、1973)のために書きおろされた25篇〔《人類》では〈ドゼウ〉が〈茄〉の後半から分離独立して26篇〕
V:1973年1月から1975年4月までに発表された12篇
W:1975年12月から1978年5月までに発表された5篇

以上の66篇から成っている。西脇の単行詩集としては最大の篇数であり、《定本 西脇順三郎全詩集》(筑摩書房、1981)収録詩集中最多の行数を擁する。《人類》の〈後記〉は簡潔だ。
「本詩集は、一九七〇年以降一九七八年までの作品を集めたものである。そのうち、TからVまでは、先に筑摩書房より刊行された『西脇順三郎全集』第十巻および『西脇順三郎 詩と詩論Y』の「未刊詩篇」に所収のものである。詩集にまとめるに際し、若干の訂正と削除を行なった。Wはそれ以降に発表されたものである」(全文、本書、二九七ページ)。
〈後記〉に署名はないから著者・西脇順三郎によると見るべきだが、挿み込み付録〈詩集人類に寄せて〉掲載の装丁担当者・吉岡実の〈《人類》出現〉と詩集編纂者・新倉俊一の〈初稿と定稿のあいだ〉を読むと、新倉によるようにも思える(新倉文には「さて、この度の詩集『人類』は、その大部分(T〜V)はすでに筑摩版『全集』および『詩と詩論』に「未刊詩篇」として発表されたものだが、詩集にまとめるに際して当然、若干の変更を加えた」とある)。したがって純然たる新規収録詩篇は「W:5篇」となり、それより後に発表された詩篇(すなわち《定本 西脇順三郎全集》所収の〈未刊詩篇〉)は、吉岡が編集していた《ちくま》掲載の〈冬のシャンソン〉など、6篇を数えるのみで、《人類》には西脇順三郎最晩年の詩境が余すところなく収められている。
詩集の成りたちとしては、同じ1979年の11月に刊行された《宝石の眠り》とよく似た経緯をたどっている。いや、実態は逆か。前掲文で吉岡が「西脇先生は〔……〕、《人類》は最後の詩集だよと言われた。私は肯定も否定もしなかった」と書いたのは、元版《西脇順三郎全詩集》(筑摩書房、1963)に収められただけの〈詩集 宝石の眠り〉を一巻の《宝石の眠り》とすることを予期していたためではないか。同詩集は《人類〔普及版〕》に遅れること半月、花曜社(新倉俊一《西脇順三郎 変容の伝統》を出した)から、同じく吉岡実装丁で刊行されており、単行詩集の刊行順でいえば、《宝石の眠り》が「西脇最後の詩集」となる。

スカンポ|西脇順三郎

一枚のスカンポの葉が青ざめている
あの夏の夜明けが
人間の種子を
おどかしている

《人類》で最も短い詩のひとつである。この詩句をよく見ると、同詩集の長篇詩〈キササゲ〉(初出は《ユリイカ》1972年4月号で、吉岡の連祷詩〈葉〉も同号に掲載)の4行「〔……〕/一枚のスカンポの葉が青ざめている/あの夏の化身が/人間の種を/おどかしている」に酷似していることがわかる。〈スカンポ〉の初出は全集〔第10巻〕(1973年1月20日)だが、〈キササゲ〉とどちらが先に執筆されたのか詳らかにしない。いずれにしても、西脇詩の生成を考えるうえで興味深い事例である。
一方、吉岡には8行から成る詩篇〈断想〉(初出は《CURIEUX――求龍》4号、1978年11月)

むらさき色に手を染めあげ
「水没して行く 水夫」
もしもそこが秋の霧の海であるならば
へだたった処に大地が在る
葱の香 書物 古靴 塩
記憶の娼婦の美服のなかでうごいている
「牙と爪をもたぬもの」
それら仮りの世の仮の像[かたち]は今も美しく……

を〈秋思賦〉(J・8、初出は《ユリイカ》1982年12月臨時増刊号)に変改吸収した例がある。
《人類〔普及版〕》の仕様は、二〇九×一四三ミリメートル・三〇八ページ・上製角背布装。表紙の魚のスケッチと背文字は金箔押し。限定版は同じく上製角背で、継ぎ表紙(背は《夏の宴》の背と同種の布、平は灰緑色のクロス)、本扉前の別丁にペン書き署名。見返し(帯紙と同銘柄で、表紙との組みあわせが絶妙である)・本扉・本文の用紙は両版ともに同じ。限定版奥付には印刷による「限定 1,200部の内」の下方にナンバリングマシンによる記番、さらに下方に「順」の雅印が捺されている。新倉前掲文には、本扉の図像について「この扉に使われた紋章は、「ヒルガホ」の末尾の詩行にちなんでいる(「ところであなたは紋章学を/やつたことがおありでしようが/あの赤坊をたべようとしている/蛇の紋は何といいましたかね」)。その正式な名は念のため〈Serpent vorant〉である」(〈詩集人類に寄せて〉、四ページ)とある。
吉岡実はその最晩年に「西脇順三郎の最後の詩集は『人間』という題名であったが、後に『人類』と改められて、刊行された。スケールの大きな、素晴しい題名だと思う。/上梓された新句集が、『人生』と名づけられているのを知って、私はふと思った。この詩人へ畏敬の念を持ちつづけた耕衣さんが、ひそかに呼応させているのだと――。『人類』が詩的といえるならば、『人生』はまさしく俳諧的である」(《琴座》445号、1989年2月、五ページ)と〈耕衣句集『人生』十七句撰〉で書いている。西脇順三郎詩集への吉岡最後の言及であろう。

西脇順三郎詩集《人類〔普及版〕》(筑摩書房、1979年11月15日)の本扉と函 西脇順三郎詩集《人類〔普及版〕》(筑摩書房、1979年11月15日)と同書〔限定版〕(筑摩書房、1979年6月20日)の表紙 西脇順三郎詩集《人類〔限定版〕》(筑摩書房、1979年6月20日)の奥付
西脇順三郎詩集《人類〔普及版〕》(筑摩書房、1979年11月15日)の本扉と函(左)と同書と同《人類〔限定版〕》(同、1979年6月20日)の表紙(中)と〔限定版〕奥付(右)〔出典:西脇順三郎詩集 人類 (1番本/西脇家旧蔵) 限定 署名 函 帯 - ヤフオク!

〔2014年9月30日追記〕
西脇順三郎詩集《人類〔限定版〕》を入手したので、書影を差し替えた。吉岡の前掲〈《人類》出現〉にあるとおり、本書は筑摩書房が1978年7月に事実上倒産したほぼ1年後に刊行された。当然ながら、出版企画は厳しく審査されただろう。そうしたなかで、装丁には予算の制約がある一方で、出版に投じた費用をなるべく早く回収したい、それに適う見場にしたいという要請が働く。だが〔限定版〕には売らんかなの姿勢は微塵も感じられない。常にも増して静謐で、豪奢なたたずまいを見せている。5ヵ月後の〔普及版〕の刊行は〔限定版〕の売れゆきが後押しした結果だろう。〔限定版〕は定価4500円×部数1200部=5400000円規模の、〔普及版〕は定価2400円×部数不明の規模の書籍となった。ちなみに〔限定版〕の1200部は《禮記》や《壤歌》、《鹿門》(いずれも筑摩書房刊)と同部数である。

「装丁の秘訣は」と聞いてみると、〔吉岡さんは〕「ぼくはデザイナーじゃないから、秘訣なんかないよ」と照れながら答えた。
 「使える範囲内で、一番いい資材を選ぶこと。あとは文字とシンボル(カット)のバランス、それだけだね」「店頭で派手な本も好きだけど、ぼくの作る本は、家に持ってきて落ち着いて読めるものにしたいんだ」(松田哲夫〈吉岡実さん〉、《縁もたけなわ――ぼくが編集者人生で出会った愉快な人たち》小学館、2014年9月3日、八四〜八五ページ)

吉岡は西脇順三郎詩集《人類〔限定版〕》で筑摩書房在籍時と変わらぬ、いやそれ以上にみごとな装丁をした。〔限定版〕と〔普及版〕の間に刊行された吉岡の詩集《夏の宴》(1979年10月)は西脇順三郎の装画で飾られている。タイトルポエムが捧げられたとはいえ、西脇が彩管を揮った背景には、《人類〔限定版〕》の装丁に対する返礼の意味が込められていたかもしれない。


吉岡実の装丁作品(52)(2008年1月31日)

新倉俊一《西脇順三郎 変容の伝統》(花曜社、1979年9月25日)の奥付裏広告には西脇順三郎《雑談の夜明け》、松永伍一《水に聴く》とともに、西脇順三郎未刊詩集《宝石の眠り》の予告が載っている。同詩集は11月30日には刊行されているから、《西脇順三 郎 変容の伝統》と並行して企画が進行したものと思われる。本書奥付裏広告からその文言を録する。

西脇順三郎/宝石の眠り/未刊詩集
昭和五十四年十月刊行予定/四六判変型・函入り
収録詩篇/コップの黄昏 イタリア イタリア紀行 ローマの休日 写真 くるみの木 椀 きこり 茄子 坂 まさかり 記憶のために すもも エピック  崖の午後 バーの瞑想 雲のふるさと 宝石の眠り

本 書に挟みこまれた巻三折りの〈花曜社 出版目録 1980年版〉には、同詩集の説明として「昭和三十八年、詩人七十歳の年に書き下ろした詩篇十七篇〔ママ〕。西脇詩に一貫して流れる諧謔と幽玄の極致を表 わす詩集として刊行が待たれた待望の一冊。巻頭には詩人の油彩画「サン・マルコの朝」を。詩人吉岡実装幀による貴重な詩集。 クロス装函入定価二七 〇〇円」とある。これらを見ると、本書刊行の時点で西脇詩集の装丁の仕様が「四六判変型・函入り」で決まっていたことがわかる。この1979年 は、6月に《鹿門》以 来9年ぶりの西脇の詩集《人類〔限定版〕》が再び吉岡実の装丁で古巣の筑摩書房から(《人類〔普及版〕》は11月刊)、10月には西脇が描きおろした絵を 函と表紙・裏表紙にあしらった吉岡の新詩集《夏の宴》(著者自装)が青土社から出ており、吉岡実と西脇順三郎の永きにわたる交流史のなかでも、ひときわ濃 密な年となっている。

新倉俊一《西脇順三郎 変容の伝統》(花曜社、1979年9月25日)と《西脇順三郎 変容の伝統〔増補新版〕》(東峰書房、1994年1月15日)のジャケット 新倉俊一《西脇順三郎 変容の伝統》(花曜社、1979年9月25日)と《西脇順三郎 変容の伝統〔増補新版〕》(東峰書房、1994年1月15日)の本扉
新倉俊一《西脇順三郎 変容の伝統》(花曜社、1979年9月25日)と《西脇順三郎 変容の伝統〔増補新版〕》(東峰書房、1994年1月15日)のジャケット(左)と同・本扉(右)

本書の標題《西脇順三郎 変容の伝統》は、〈『アムバルワリア』――パウンド流に〉の次の一節から来ていよう。

ま たエリオットの師匠でもあるエズラ・パウンド〔……〕自身も「実験の時代にダンテの『神曲』のような作品を書くのは困難である」と言っている。だが、この ような古典と実験との緊張関係、不断の引用と変容、つまり書き替え≠トいく努力こそ、文学の伝統という意味であり、創造ということである。//日本の現 代詩人のうちで、これを積極的に実践してきたのは、西脇順三郎であろう。(本書、一四四ページ)

本書の仕様は一八八×一二七ミリメートル・三二二ページ・上製紙装・ジャケット。クリーム色の地に青一色で絵柄を刷ったジャケットの袖には「ジョル ジョーネ「フェト・シャムペートル」」とクレジットがあり、それに関して著者は次のように記している。

本 書のカバーの絵は西脇先生の愛好のジョルジョーネ作「フェト・シャンペエトル」であって、詩の題にも使われている。このことについては末尾の「絵画の世 界」でふれた。このような美しい装幀を詩人の吉岡実さんにしていただけたことは、大変うれしい。(〈はじめに――ジョン・コリア訪問記〉、本書、xペー ジ)

〈絵画の世界――メモリとヴィジョン〉には「このジョルジョーネの 「田園の奏楽」は、エドゥアール・マネが「草上の昼食」(一八六三年)にそのモチーフを借用したことで有名で、〔……〕この絵についてはピカソもマネー 〔ママ〕のカリカチュアを描いたり、他にもパロディのパロディが作られるなど変容の歴史に満ちていて、西脇順三郎がこの絵をパロディの対象としたのは慧眼 といえよう」(本書、二八二ページ)とあるが、われわれは吉岡の〈草上の晩餐〉(G・13、初出は1974年4月)を想起しないわけにはいかない。
初刊から15年後、増補新版が東峰書房という別の版元から出ていて(編集担当者は同じ高橋衞氏)、巻末に新稿〈西脇詩の現在――記号と象徴の詩学〉が追加 された。増補新版の装丁は、初刊では本扉に掲載した西脇のスケッチ〈ヤヌス〉をジャケットにもってきたため、本扉が文字組みだけになった(横目の用紙のせ いで、ノドが波打っているのは感心しない)。なお、増補新版に装丁者のクレジットはない。


吉岡実の装丁作品(51)(2007年12月31日〔2013年8月31日追記〕)

学芸史家・森銑三(1895-1985)の《物いふ小箱》(筑摩書房、1988年11月20日)は、本邦の怪異談や《太平広記》などの支那種に材を得た40篇から成る小品集。本書を全篇収録した《森銑三著作集 続編》の〈編集後記〉にこうある。

 「物いふ小箱」は、昭和六十三年十一月、筑摩書房より出版された単行本に、雑誌『ももすもも』昭和三十年九月号に発表された「再会」の一篇を新たに附した。単行本はA五判変型(縦二〇五_×横一五五_)。目次四頁、本文二〇一頁、編集後記(小出昌洋)三頁、定価二六〇〇円。装訂吉岡実。なお「猫が物いふ話」〔17篇の題名〕「猫」の諸篇は、先行の単行本『月夜車』〔七丈書院、1943・彌生書房、1984〕に、「碁盤(その一)」〔7篇の題名〕「不思議な絵筆」の諸篇は同じく先行の単行本『随筆集 砧』〔六興出版、1986〕にそれぞれ収められた。(中村幸彦・朝倉治彦・小出昌洋編《森銑三著作集続編〔第15巻〕》、中央公論社、1995年2月20日、五九八ページ)

著作集を底本にして小出昌洋編《森銑三遺珠U》(研文社、1996)所収の5篇を増補したのが《新編 物いう小箱〔講談社文芸文庫〕》(講談社、2005)で、筑摩版や著作集とは若干排列が変わっている。流布本のための措置とはいえ、新かなづかいに改められたのは残念だ。森銑三は《古典日本文学全集35〔江戸随想集〕》(筑摩書房、1961)で室鳩巣〈駿台雑話〉ほかを訳出しているが、生前に筑摩書房刊行の著書はない。版元が本書の装丁を誰に依頼するかはフリーハンドに近かったろうから、「筑摩らしい本を」ということで、社内装丁経験の長いOBの吉岡に白羽の矢が立ったか。全体的に、後の種村季弘《日本漫遊記》(筑摩書房、1989)や巖谷國士《澁澤龍彦考》(河出書房新社、1990)と似た雰囲気で、本扉の蝸牛が点対称なのは、杉浦康平による《吉岡実詩集》(思潮社、1967)の手法を踏まえたものか。ジャケットや表紙に用いられた和風の洋紙の選択も見事だ。収録篇数が異なるが、各版の仕様の概要を表にまとめておく。

版名 刊行年 篇数 判型 本文ノンブル 本文活字 字詰め×行数(文字数@頁) 見出し・配置
筑摩版 1988 40 A5変 3-201 10ポ 41×16(656) 6行どり・改頁
著作集 1995 41 A5 389-520 9ポ 50×18(900) 3行どり・追込み
文芸文庫 2005 46 A6 11-207 12Q 40×17(680) 7行どり・追込み

森銑三《物いふ小箱》(筑摩書房、1988年11月17日)の本扉とジャケット 永田生慈監修解説《北斎の絵手本 五》(岩崎美術社、1986年10月12日)の本文
森銑三《物いふ小箱》(筑摩書房、1988年11月20日)の本扉とジャケット(左)と永田生慈監修解説《北斎の絵手本五》(岩崎美術社、1986年10月12日)の本文(右)

本書の仕様は、一九九×一四七ミリメートル(前掲〈編集後記〉と異なるのは、本文ページの天地・左右寸法のため)・二一二ページ・上製紙装・ジャケット。標題扉裏に「装幀・吉岡実/(画・北斎)」とクレジットがある。北斎は本文には登場しないから、図像の選択は装丁側によるものだろう。関連書にあたったところ、永田生慈監修解説《北斎の絵手本五》(岩崎美術社、1986年10月12日)に本扉とジャケットに用いられた画が掲載されていたので(一二四・二五二ページ)、吉岡実装丁と並べて掲げておく。なお、吉岡は〈日記抄――一九六七〉に「四月二十三日/高島屋で北斎展を見る。肉筆は、鉄斎の気品に劣ると思われるが、版画は天才の作かと思われる。ことに富嶽三十六景は絶品」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一一ページ)と書いている。

吉岡は〈日記 一九四六年〉(《るしおる》5号、1990年1月)に「一月二十五日 森銑三《渡辺崋山》。〔……〕」と書いているから、この日、《渡邊崋山〔創元選書〕》(創元社、1941)を買ったか読んだかしたのだろう。吉岡はここ以外で森銑三に言及したことはないが、《物いふ小箱》の「一」(本邦が舞台の話)に三番めに置かれた〈提燈小僧〉を喜んだに違いない。書きだしの段落はこうだ。

 昔本所に、提燈[ちやうちん]小僧といふ奇抜で愛嬌のある化物が出たさうだ。真暗な晩に、灯のともつた小田原提燈が一つ忽然と現れて、自分の前三四尺乃至一二間のところを行く。人影はなくて、提燈だけがぽつかりと明るく、ちやうど影絵に映し出されたもののやうに、暗闇の中をふらふら動いて行くのださうである。(本書、一二ページ)

吉岡は本所の生まれだから、こんな口碑を父母から聞かされていたかもしれない。〈提燈小僧〉には「このお化は、本所の内でも、石原辺から割下水の辺までの十余町四方のところに出たといはれている」(同前、一三ページ)とある。また「いかならん〔花→色(著作集以降、変更された)〕に咲くかと明くる夜を松のとぼその朝顔の花」(本書、五九ページ)という一首を本文中に配した〈朝顔〉は、森銑三が子供向けに書いた〈小泉八雲〉(《赤い鳥》1927年6月号)を思わせる佳篇だ。吉岡が〈葛飾北斎〉(同前4月号)を読んだかは、わからない。

〔2013年8月31日追記〕
イラストレーターで、装丁もよくするエッセイストの南伸坊が《朝日新聞》(2013年3月10日)の〈思い出す本 忘れない本〉という欄で、本書(元版と文庫版)に触れている。その〈小泉八雲に教えたい怪異譚――森銑三『新編 物いう小箱』〉で南は「私は江戸や中国の怪談が好きで、そんなものを若い頃から一冊、二冊とあつめるように買っていて、時々、引っ張り出してきて読んだりしてるんです。/書名をあげた『新編 物いう小箱』は文庫本です。はじめに購入したのは筑摩書房版の単行本で、詩人の吉岡実さんが北斎漫画の絵を配して装丁した、しゃれた本でした。「できれば品切れでない本を」という注文なんで、文庫のほうにしましたが、あるいはこっちも既に絶版かもしれません」(同紙、一四面)といっている。元版は、南伸坊の装丁であってもおかしくない作風だと思う。
一方、土方巽の遺文集を担当した松田哲夫は、南伸坊との対談で「30年以上編集者をやっているけど、僕がこの世界に入った頃って「書名と著者名が入っていればいい。余分なものはいらない」という編集者は多かったですよ。もちろん、優れた装幀とは何かを、身をもって示してくれる人もいました。例えば、筑摩書房にいた詩人でもある吉岡実さんの装幀は好きだった。『宮澤賢治全集』『萩原朔太郎全集』(筑摩書房)など、素晴らしい装幀ですよね」と語っている。


吉岡実の装丁作品(50)(2007年11月30日)

西脇順三郎は《詩學》(筑摩書房、1968年2月29日)の〈あとがき〉(末尾に「〔昭和四十三年〕二月三日」という日付がある)の一節に吉岡実の名をとどめている。

 この計画の実行はまる三年かかった。発案は筑摩の井上達三氏であった。〔……〕昨年の夏になって、筑摩の会田綱雄君や吉岡實君と神田でトコロテンをたべ甘酒をのみながら「詩学」を書いたのであった。(本書、三〇三ページ)

本書は初刊翌年の1969年3月31日には早くも《詩学〔筑摩叢書136〕》として再刊されていて、私が最初に読んだのもこちらだった。筑摩叢書版は〈目次〉から〈あとがき〉までの組版に元版の紙型を流用しているものの(前付・後付にごく一部追加あり)、巻末に新たに5ページにわたる〈人名索引〉が付されており、書物としての結構は筑摩叢書版の方が整っている。
元版の仕様は、一八八×一二九ミリメートル・三一四ページ・ジャケット(西脇順三郎の筆と思しい線画で飾られている)・上製クロス装・機械函に貼題簽。装丁者のクレジットはどこにもないが、筑摩に在籍中の吉岡実の装丁とみて間違いないだろう。本書と同様のグレーの機械函(ホチキス留め)は、宮川淳《引用の織物》(筑摩書房、1975)でも使われている。
帯文には「3年余の歳月をかけた書下し労作/豊かな学殖と深い経験をもつ世界的詩人が3年余の歳月をかけ、初めて世に問う独創的詩学。ポエジイとは何か。ポエジイの未来をどう考えるか。巨匠が詩の秘密をことごとくひらいてみせる名著/定価850円・筑摩書房」とある(ボディコピーだけがゴチック体だ)。新倉俊一の《評伝 西脇順三郎》(慶應義塾大学出版会、2004年11月10日)には「昭和三十九年四月から慶應義塾久保田万太郎記念講座「詩学」が始まり、その初年度は佐藤春夫が前期で、後期は西脇が予定されていた。〔……〕西脇は十月二日から十回にわたって講義を行った。この講義がきっかけとなって、昭和四十三年(一九六八年)に筑摩書房より『詩学』を刊行」(同書、二三七ページ)とあって、本書の成立過程を伝える。

西脇順三郎《詩學》(筑摩書房、1968年2月29日)の函と吉岡実に宛てた署名のある見返し(左) 西脇順三郎《詩學》(筑摩書房、1968年2月29日)の表紙と《詩学〔筑摩叢書136〕》(筑摩書房、1969年3月31日)の表紙〔装丁:原弘(NDC)〕
西脇順三郎《詩學》(筑摩書房、1968年2月29日)の函と吉岡実に宛てた署名のある見返し(左)と同・表紙と《詩学〔筑摩叢書136〕》(筑摩書房、1969年3月31日)の表紙〔装丁:原弘(NDC)〕(右)

吉岡は西脇順三郎追悼詩篇の〈哀歌〉(J・13)で「*第二章は西脇順三郎『詩学』より抄出した」と註しているので、詩篇の「2」の全文を引こう。

言語の世界は一つの立派な音の象徴の世界であるから、「ヒョータン」という音はいかにも実体の「葫蘆」[ころ]をよく象徴しているように思われる。しかしこれは日本人だけであって、日本語を知らない人にはこの音は何か「橋」のような印象を与えるかも知れない。反対にフランス語のグルド(gourde)=瓢箪=はフランス語を知らない人には、この音はむしろ「いもむし」をよく象徴すると思うかも知れない。

〈アポコペ〉

この「2」は、次に掲げる《詩學》の〈11――音の世界〉の一段落をほとんどそのまま引いたものだ。念のために吉岡の改変箇所を挙げれば、@「葫蘆」にふりがな[ころ]を付けた、Aグルド(gourde)に=瓢箪=を追記した、B最後に〈アポコペ〉を置いた、の3点である。

  言語の世界は一つの立派な音の象徴の世界であるから、「ヒョータン」という音はいかにも実体の「葫蘆」をよく象徴しているように思われる。しかしこれは日本人だけであって、日本語を知らない人にはこの音は何か「橋」のような印象を与えるかも知れない。反対にフランス語のグルド(gourde)はフランス語を知らない人には、この音はむしろ「いもむし」をよく象徴すると思うかも知れない。(本書、一〇三ページ)

《詩學》の感想を述べようとすると、一筋縄ではいかない。「詩的活力には、感嘆したものであったが、同想異曲の反復が多く、讃辞を呈することができなかった」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二四四ページ)とは吉岡の《壤歌》評だが、それをそっくり本書に進呈したいと思う。稀には「ヒョータン/葫蘆」に関連して「私の詩作にも当然音の世界がはいりこんでいる。それで音の問題がおこる。私はもはや一定の韻律による様式は用いない。ただいろいろの子韻と母韻の連続の組合せからくるいろいろの音のイマージを美的意識によって選択する。「ヒョータン・フクベノルイ」とか」(本書、一九九ページ)のような滋味掬すべき一節もあるが、たいていはページをめくってもめくっても論が前に進んでいかないもどかしさを覚える(西脇が《詩學》で展開している持論は、本書刊行の翌年発表の〈剃刀と林檎〉にコンパクトにまとめられている)。
《詩學》を通読したところ、「神秘的」という語が47ページにわたって登場する(これは本文6ページに1回の割合で、神秘・神秘主義・神秘主義者も頻出する)。もしかすると、吉岡の詩篇〈神秘的な時代の詩〉(F・11、1968年10月発表)のスルスのひとつか。また、マラルメは本書でボードレールに次いで言及の多い詩人だが、その「謎(エニグマ)」も登場しており(13・109・160ページ)、詩篇〈楽園〉(H・1、1976年発表)の末尾「謎[エニグマ]/沖は在る」を想起させずにおかない。
写真の吉岡実宛献呈毛筆署名入りの西脇順三郎《詩學》は梓書房で求めたものだが、1箇所も書きこみがなく、上掲引用文のページもまっさらである。1982年6月5日の西脇逝去後、吉岡は《現代詩手帖》1982年7月号の大岡信・那珂太郎・入沢康夫・鍵谷幸信との追悼座談会〈比類ない詩的存在〉に出席し、《新潮》8月号に追悼文〈西脇順三郎アラベスク(追悼)〉を執筆し、《ユリイカ》7月号に〈哀歌〉(初出時、末尾には「(一九八二・六・一〇 通夜の日)」とあったが、詩集では省かれている)を寄せていて、この追悼詩にそれほど多くの時間を割けたとは思えない(吉岡は詩を書くには1箇月が最適だとつねづね言っていた)。書きこみのない献呈本からは、切迫した時間内で追悼詩を執筆した吉岡の気合いのようなものが伝わってくる。


吉岡実の装丁作品(49)(2007年10月31日〔2008年12月31日追記〕)

吉岡実は宮川淳《引用の織物》(筑 摩書房、1975年3月20日)を装丁し、宮川淳追悼詩篇〈織物の三つの端布〉を《エピステーメー》(1978年11月号)に寄せ、阿部良雄・清水徹・種 村季弘・豊崎光一・中原佑介編《宮川淳著作集〔全3巻〕》(美術出版社、1980〜81)の装丁を担当した。本著作集の仕様は二〇八×一四八ミリメート ル・上製継表紙(背はクロス、平は布)・貼函。第1巻(1980年5月1日、六三四ページ)、第2巻(1980年10月25日、七六四ページ)、第3巻 (1981年9月15日、七〇八ページ)。別丁本扉の次の扉裏に「装幀 吉岡 実」とクレジットがある。本著作集の新装版(全巻1999年9月20日刊)の装丁は中垣信夫なので、新装版の同じページにある「装幀 吉岡 実」の表示は元版の装丁者ということか。それとも吉岡が本文組版にも関与していたのか。ちなみに元版の本文の印刷は活版だが、新装版は(元版の清刷から版 下を起こした?)オフセットである。――吉岡が装丁を手掛けた三巻本の全集といえば《高 柳重信全集》が想いうかぶが、本著作集も来るべき《吉岡実全集》はかくやと想像させる見事な出来映えである。
一方、宮川淳は吉岡実の詩に対して、1963年の〈季節はずれ・ビュッフェ展〉(《東京大学新聞》4月17日)で〈過去〉(B・17)に触れたのを筆頭 に、1968年の〈『吉岡実詩集』〉(《現代詩手帖》1月号)では〈静物〉(B・4)、〈雪〉(B・14)、〈水のもりあがり〉(D・13)、〈裸婦〉 (D・7)、〈単純〉(C・9)、〈春のオーロラ〉(E・10)、〈ジャングル〉(B・13)に言及し、〈芸術の消滅は可能か〉(《小原流挿花》6月号) では再び〈雪〉に触れ、7月の〈言語の光と闇〉(《季刊審美》8号)では〈裸婦〉、〈伝説〉(C・5)、〈卵〉(B・7)、〈雪〉、〈静物〉、〈挽歌〉 (B・12)、〈或る世界〉(B・5)、〈水のもりあがり〉、〈春のオーロラ〉に言及している(いずれも本著作集の第2巻に収録)。

《宮川淳著作集〔第1巻〕》(美術出版社、1980年5月1日)の函と本扉 《宮川淳著作集〔第1巻〕》(美術出版社、1980年5月1日)の表紙と《宮川淳著作集〔新装版・第1巻〕》(美術出版社、1999年9月20日)の表紙〔装丁:中垣信夫〕
《宮川淳著作集〔第1巻〕》(美術出版社、1980年5月1日)の函と本扉(左)と同・表紙と《宮川淳著作集〔新装版・第1巻〕》(美術出版社、1999年9月20日)の表紙〔装丁:中垣信夫〕(右)

〈織 物の三つの端布〉(H・16)に登場する「 」と〈 〉で括られた引用文を、宮川淳のテクストと照合してみる。吉岡実の詩句……宮川淳の文章、そして ( )内は《宮川淳著作集》所収の書名、標題、著作集の巻数〔ローマ数字〕・ページノンブル〔漢数字〕・行数〔アラビア数字〕の順。なお同詩篇で地の詩句 として記されているが、「宮川が頻用した言葉だった」(高橋睦郎〈鑑賞〉、《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月20日、一五四ペー ジ)ところの「表面[、、]/表面的[、、、]/表面化[、、、]する」を引用文と同列に扱った。

● 「イマージュはたえず事物へ/しかしまた同時に/意味へ向おうとする」/宮川淳……イマージュはたえず事物へ、しかしまた同時に、意味へ向おうとする。 (〔《美術史とその言説[ディスクール]》〕、〈美術史とその言説[ディスクール]をめぐる阿部良雄との往復書簡〉、V・六六一・12-13)

● 「(この積み藁が紫色である)のは/私にそう見えるからだ」……この積み藁が紫色であるのは私にそう見えるからだ――歓喜して自らの感覚を追ってゆくうち に、彼らはフォルムも色彩も恒常不変の与件ではなく、光線の変化のままに刻々とうつろいゆく相対的なものであることを発見する。(〔《美術史とその言説 [ディスクール]》〕、〈セザンヌとスーラ〉、V・六七・8-10)

●「重さから軽みへ/大地的なものから/大気的なものへ」……すなわち、重さから軽みへ、大地的なものから大気的なものへ、そしてマチエールに よる表現から線による表現へ。(《鏡・空間・イマージュ》、〈訪れについて――三岸好太郎と佐伯祐三〉、T・一一五・7-8)

●「空間のなかに/開かれる/もうひとつの空間」……空間のなかに開かれる、もうひとつの空間。(《鏡・空間・イマージュ》、〈鳥について―― ジョルジュ・ブラック〉、T・一〇一・11-12)

○「生きることを許された/(空間)である」……〔未詳〕

● 〈しばしば見かけるのは/空を飛んでいる/鳥だ〉……鳥においてなにを表現しようとしたのか、という問いに答えて、ブラックは「しばしば見かけるのは空を 飛んでいる鳥だ。それは空を描く画家にとって大きな誘惑である」と語っている。(《鏡・空間・イマージュ》、〈鳥について――ジョルジュ・ブラック〉、T・九三・8-10)

◎「ここは室内に似ている」……それは、この時代としてはむしろ例外的な作例である『黄色のテーブル・クロ ス』(一九三五年)とともに、もうほとんど室内といってよいほどなのだ。(《鏡・空間・イマージュ》、〈鳥について――ジョルジュ・ブラック〉、T・九 八・16-18)

●「見ることは透明に脱落して/見える/ものを浮び上らせる」……見ることは透明に脱落して、見えるものを浮かび上らせる。(《紙片と眼差との あいだに》、〈記号学の余白に〉、T・二五一・9)

● 表面[、、]/表面的[、、、]/表面化[、、、]する……《表面》について考えながら、たとえば表面とそのさまざまな派生的な表現について、表面 [、、]、表面的[、、、]、表面化[、、、]する……。(《紙片と眼差とのあいだに》、〈ルネ・マグリットの余白に〉、T・二一三・2-3)

○「ここがどこで/もないところであるからだ」……〔未詳〕

● 「逆に存在は遠ざかり/不在のきらめく」……プレザンスということば、もっと正確にいえば、イマージュのプレザンスという、存在論的にいえばおそらく矛盾 した使い方についていえば、ぼく自身としては、意識のあり方(自己現前)を指すのでないことはもちろん、存在がわれわれの前にあらわれるあり方を語るボヌ フォア的なことばでもなく、逆に存在の遠ざかり、不在のきらめき、イマージュの魅惑を語るブランショ的な用法だったのだけれども。(〔《美術史とその言説 [ディスクール]》〕、〈美術史とその言説[ディスクール]をめぐる阿部良雄との往復書簡〉、V・六七四・21-六七五・4)

◎「選ばれた脚」……いいかえれば、女の脚そのものがオプセッシヴなのではなく、イメージそのもののオプセッションのひとつのモチーフとして女 の脚がえらばれているのである。(《引用の織物》、〈鏡の街のアリス** すべる アレン・ジョーンズ〉、T・三一一・6-7)

●「この欲望のモーターは独身者の機械の/最後の(もっとも/突起した)部分である」……この欲望のモーターは独身者の機械の最後の部分であ る。(《紙片と眼差とのあいだに》、〈マルセル・デュシャンの余白に〉、T・二三三・14)

● 〈動物が卵(または袋)のなかに孕まれているように/混沌とした情念のなかに(記号・作品)が/孕まれている〉……それというのも、彼にとって「芸術作品 とは、動物が卵の中にはらまれているように、混沌とした情緒の中にはらまれている」からだが、しかし彼はさらに、その混沌とした情緒のなかに埋もれている 思想を明確にしようとする。(〔《美術史とその言説[ディスクール]》〕、〈象徴派〉、V・二五三・13-二五四・1)

●「花嫁という/新しいモーターが出現する」……つまり花嫁という新らしいモーターの出現を立証する必要。(《紙片と眼差とのあいだに》、〈マ ルセル・デュシャンの余白に〉、T・二三四・4)

● 〈重く つや消しの 力のこもった/音〉……〔……〕ゴーギャンがはじめてブルターニュにおもむき、その花崗岩の土地を踏む木靴の音に、彼が絵画の中に求 めていた〈重く、つや消しの、力のこもった音〉をきいた年、〔……〕(〔《美術史とその言説[ディスクール]》〕、〈象徴派〉、V・二六三・6-7)

●「近づくことのできない/この純粋な外面の/輝き」……この背後のない純粋な外面の輝き(《鏡・空間・イマージュ》、〈参考図版22〉、〔著 作集には図版・文とも収録されていない〕)

● 「善悪の対立をこえて/男女/の対立となっている」……これらのギリシャ神話の英雄たちは、いずれもいわば悪と闘う勇者たちだが、モローにあっては、これ らの主題はしばしば、善悪の対立をこえて、男女の対立となっている。(《鏡・空間・イマージュ》、〈神話について――ギュスターヴ・モロー〉、T・六七・7-8)

冒頭の引用(題辞である)と極めて近い「イメージもまたつねに事実と意味ないし象徴と の間の揺れ動きを本質とするのである。それはつねに意味へ向おうとするが、神話的なコードの体系なしには決して象徴にまでは達しえない」(T・四九四・15-16)という一節をもつ〈スタロバンスキーの余白に――モローをめぐる引用と注〉は、吉岡が編集担当の《ちくま》第 50号(1973 年6月)に掲載され、のちに〈ギュスタヴ・モロー――スタロバンスキーの余白に〉と改題のうえ、宮川の遺著《美術史とその言説[ディスクール]》(中央公 論社、1978年4月20日)に収められた。同書収録の諸篇は、《鏡・空間・イマージュ〔美術選書〕》(美術出版社、1967年3月)、《紙片と眼差との あいだに〔叢書エパーヴ1〕》(エディシオン・エパーヴ、1974年3月)、《引用の織物》(筑摩書房、1975年3月)の生前刊行の3冊とは異なり、《宮川淳著作集》では単行本として扱われていない。

〔追記〕
宮川淳のデビュー作〈アンフォルメル以後〉(1963)の一節が〈金柑譚〉(H・17、初出は《海》1979年5月号)冒頭の詩句(ただし「 」や〈 〉 で括られていない)のスルスと想われるので、次に掲げる。

●大股で駈けつつ/しかも不動の少年を見たことがある……つまり、われわれは〈大股に駈けて、しかも不動のアキレウス〉であり、今日の絵画はゼ ノンの矢なのだ。(〔《美術史とその言説[ディスクール]》〕、〈アンフォルメル以後〉、U・一九・16-17)

本稿では、宮川の文章は便宜的に《宮川淳著作集》で出典を表示したが、吉岡が〈織物の三つの端布〉や〈金柑譚〉を書く際に参照した本文は、言うまで もなく上掲の4冊の書籍である。

〔2008年12月31日追記〕
本著作集内容見本の最終ページに《宮川淳著作集》の仕様が記されているので、引く。

体裁―A5判 上製本 貼箱入り
扉―レンケルレイド、クリーム
見返し―グランデー、鼠
表紙―継表紙(ヒラ・麻布 背・アートカンバス)
外箱―キルモリー・リサイクル
各巻平均650頁

装幀―吉岡實

別丁本扉用紙の銘柄レンケルレイドの白は、のち限定28部本の《ポール・クレーの食卓〔特装 限定版〕》(書肆山田、1980年11月9日)の本文用紙に使用された。


吉岡実の装丁作品(48)(2007年9月30日)

高 橋睦郎は吉岡実の詩篇〈織物の三つの端布〉(H・16)の〈鑑賞〉で「作者と宮川の関わりは宮川の数少い著書の一冊である『引用の織物』の装釘を作者が担 当し、その出来上がりを宮川がことのほか喜んだ、という淡いものだ」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月20日、一五二ページ)と 書いている。筑摩書房在籍時のためクレジットはないものの、宮川淳《引用の織物》(筑摩書房、1975年3月20日)は吉岡実装丁の代表作のひとつであ る。
本書の仕様は、一八八×一三〇ミリメートル・二三二ページ(扉は本文共紙)・上製クロス装・機械函。写真でおわかりのように、函の素材は日焼けしやすく ――筑摩書房の書籍では、西脇順三郎《詩學》(1968)や井上究一郎《ガリマールの家》(1980)の函にもこの手の灰色のボール紙が使用されている ――、書棚に排架しておいただけでご覧のようなありさまだ。四六判・角背(本書に丸背は似つかわしくない)のごくふつうの体裁だが、カンバス(まさに織 物)のクロスのざらざらと粒立つ物質感がなんとも掌に快い一冊である。
本書の函〔表〕の文章は本文の〈引用について〉からの抜粋だが、清水徹・豊崎光一〈解題・校異〉によれば、函〔裏〕は本書の本文にない「著者の手になる」 (《宮川淳著作集〔第1巻〕》、美術出版社、1980年5月1日、六一四ページ)文章である。「本の存在理由はそこに閉じ込められた意味の亡霊にではな く、本の空間にあるべきではないだろうか。」と始まる箱組みの201文字は、吉岡の装丁ともあいまって、本書を強く印象づける(この文章を著者に書かせた のは誰なのだろうか)。

宮川淳《引用の織物》(筑摩書房、1975年3月20日)の函〔表〕と表紙 宮川淳《引用の織物》(筑摩書房、1975年3月20日)の扉と函〔裏〕
宮川淳《引用の織物》(筑摩書房、1975年3月20日)の函〔表〕と表紙(左)と同・扉と函〔裏〕(右)

本書の装丁について、臼田捷治は次のように書いている。

  宮川淳著『引用の織物』(筑摩書房、七五年)は、函の定価表示のゴシック数字だけを例外として、函、表紙、扉、目次のすべてにわたって、書名、著者名、出 版社名に使われているのは金属活字系の明朝だけ(!)である。そして、明朝活字による構成のなかで、唯一のアクセントとなっているのが、函と表紙の中央に 配されている一辺十ミリの白四角である。この白四角は約物とも解釈できるであろう。まさに活版印刷に固有の「矩型の秩序」に依拠したデザインである。 (《装幀時代》、晶文社、1999年10月5日、六四ページ)

「この白四角」は本文中にも出てきていて、通常なら「*〔アステリスク〕」(堀辰雄なら三つのアステリスクが「品」の字の形に並ぶ「アステリズ ム」)あたりが担いそうな、段落の区切れを強調する役目を果たしている。

吉岡は宮川淳への追悼詩〈織物の三つの端布〉(初出は《エピステーメー》1978年11月号)について、金井美恵子との対談〈一回性の言葉――フィ クションと現実の混淆へ〉でこう語っている。

金井 前に、引用にきまった言葉を引用できる人と、あんまりできない人とがいるという話をしてましたよね。
〔……〕
吉岡  〔池田満寿夫の文章は〕抽象的でもないけど、非常に明晰で作りにくかった。〔……〕ぼくにとって意外な言葉と言うか、生の言葉が必要なんだ。それだと作り いい。だから、あんまり文章が整いすぎちゃったエッセイからは、非常にとりにくい。宮川淳なんかはその最たるものね。宮川淳はとるところが非常にむずかし いわけよ。だから、他の、外国の画家〔ジョルジュ・ブラック〕の言葉とかそういうのを散りばめないと宮川淳像は成り立たなかった。
金井 宮川さんの文章そのものが引用から成り立っているわけですものね。
吉岡 宮川淳のための「織物の三つの端布」、これが一番むずかしかったなあ。またおそらくうまく成功してないんじゃないかと思うよ。作 品としてどうなのかちょっと疑問になる。
金井 宮川淳から引用できそうな言葉というのは、宮川淳が使っている言葉じゃないということがあるかもしれないですしね。
吉岡 そういうこともあるかもわかんないしね。あまりにも詩的な文体であるためにこっちの感興を呼ばなかった。(《現代詩手帖》 1980年10月号、九六〜九七ページ)

〈織物の三つの端布〉に登場する「 」と〈 〉で括られた引用文を、本書《引用の織物》のテクストと照合してみると、それらしいものはわずか一箇所 しかない。( )内は標題、本書のページノンブル〔漢数字〕・行数〔アラビア数字〕。

○「選ばれた脚」……いいかえれば、女の脚そのものがオプセッシヴなのではなく、イメージそのもののオプセッションのひとつのモチーフとして女 の脚がえらばれているのである。(〈鏡の街のアリス** すべる アレ ン・ジョーンズ〉、七四・9-11)

吉岡実は宮川淳の歿後に編まれた《宮川淳著作集〔全3巻〕》(美術出版社、1980〜81)の装丁も担当しているので、詩篇〈織物の三つの端布〉の引用文のスルスについては、同著作集の装丁を採りあげるときに改めて触れよう。


吉岡実の出版広告(1)(2007年8月31日〔2013年4月30日追記〕)

〈吉岡実のレイアウト(4)〉で 書いたように、吉岡実の処女作である詩歌集《昏睡季節》(草蝉舎、1940)の出版広告が《文藝汎論》1941年1月号に掲載されている。拙文の執筆に際 して、当該号を確認するために現代詩誌総覧編集委員会編《現代詩誌総覧E――都市モダニズムの光と影U》(日外アソシエーツ、1998)を繰ったところ、〈人名索引(広告)〉の「吉岡実」は《昏睡季節》の1件だけだった。が、よくよく見るとその1行上に「吉岡定」と掲載されているではないか。これは詭し い。人名索引が示す、その本文ページ「第12巻第3号 1942年3月1日発行」の「広告」の項には

〔……〕吉岡定『液体』(草蝉舎)の広告を掲載。〔……〕(同書、三九三ページ)

とあって、これぞ間違いなく吉岡実詩集《液体》(草蝉舎、1941年12月10日)の出版広告である。《文藝汎論》1942年3月号を閲覧したの で、概略を記す。

《文藝汎論》1942年3月号の表紙〔モノクロコピー〕 《文藝汎論》1943年3月号の表紙2〜表紙2対向ページ〔モノクロコピー〕 《文藝汎論》1943年3月号の吉岡実詩集《液体》広告のアップ〔モノクロコピー〕
《文藝汎論》1942年3月号の表紙(左)と同・表紙2〜表紙2対向ページ(中)と同・吉岡実詩集《液体》広告のアップ (右)〔いずれもモノクロコピー〕

戦 闘機を描いた表紙に「献納」と謳われている3月号は、〈全日本愛国詩集〉である(前年1941年の12月、すなわち《液体》刊行の月、日本は太平洋戦争に 突入した)。本号は、保田與重郎が巻頭言を書き、村野四郎の〈愛国詩〉以下、竹中郁・近藤東・岩本修藏・岩佐東一郎・中山省三郎・安藤一郎・長田恒雄・竹 内てるよ・中村千尾・江間章子・瀧口武士・町田壽衞男・高祖保・城左門の既存詩人と、公募による32名の詩作品が総特集〈全日本愛国詩集〉を形成してい る。編集・発行人の岩佐東一郎は〈編輯後記〉を「戦勝に輝く日本の春三月。」(同誌、八〇ページ)と始めており、あとは推して知るべしの文字が誌面に躍 る。そうしたなかにあって、吉岡の《液体》の出版広告は遺著のような静けさを保っている。文案の文字を起こしておこう。

吉岡實第二詩集
液  體
草蟬舍版
百部限定本

外凾 染 柾和紙
表紙 鳥ノ子オフセツト五色刷
本文 純白一五〇斤

曩〔[さき]〕に「昏睡季節」を上梓し、高雅C純なるエスプリを超現實風の自在奔放なる表現に托して識者を瞠目せしめた吉岡實君は今御召に應じて大陸に在る。吾等は著者の委囑により最近作三十二詩を撰び、現下に許される最大限の美裝本となして江湖に本書を捧ぐ。限定非賣本であるが、彼の詩を愛し頒布を希望される方は製作實費二圓五十錢送料十錢を左記へ送られよ。 (編者小林梁、池田行之誠〔ママ〕)
 東京市本所區厩橋二ノ三〔ママ〕 吉岡方
     草  蟬  舍

今 回の広告制作に吉岡本人が関与している可能性は低く、二人の「編者」による執筆・指定であろう(詩集の〈あとがき〉も小林梁・池田行之両氏)。ところで、この広告の刷色は朱色である。本誌の表紙1・4はスミと朱(特色)の2色刷りで、表紙2・3と、本文前の貼込み4ページ(広告1ページ、目次2ページ、告 知1ページ)も朱で、特色は毎号替わった。貼込み仕様の目次は、同年5月号以降、スミ刷りの本文ページに格下げされたが(1月号以降、本文ページ中の書 籍・雑誌の出版広告もなくなった)、戦時の影響は端的に総ページ数に現われる。《昏睡季節》広告掲載の1941年1月号が120ページだったのに対して、この1942年3月号は三分の二の80ページに減っている。
詩集《液体》の反響はどうだったのか(1941年満洲へ出征した吉岡は、反響について書いておらず、独自に探索するしかない)。今回閲覧した《文藝汎論》は日本 近代文学館の所蔵資料で、1942年は2月号と8月号が欠号のため見られなかったが、6月号(特集〈初夏版 現代日本詩集〉)の〈詩壇時評〉で北園克衞が「詩集」という見出しで次のように書いているのが目に留まった。

  最近自分は未知の詩人によつて上梓された幾つかの詩集を手にすることが出来た。そしてこれらの詩集のなかには著者の多くの負担に依つて作られたものもある であらうと言ふことを容易に想像することが出来るものも二三にとどまらなかつた。しかしそうした詩集のなかには明瞭に自らの負担に依つて上梓されたもので あるにも拘らず印刷、装幀は勿論、作品の配列等に充分の研究が行はれてゐないものもあつたやうである。そうした詩集に対して自分は暗然とならざるを得な い。作品の未完成、活字の精粗は地方的な理由、資金の条件も伴ふであらう。然し活字の大小、行間、字間の均衡、装幀等は如何なる悪条件のなかに於ても相当 の効果をあげることが出来るのである。このやうな意味に於て、唯単に本の形でありさへすればよい、作品は読むことが出来ればよい、といつた詩集に対して読 者は負担以上の労働でさへあることを知るべきだと考へる。
 〔……〕
 そもそも書物に興趣を持たない詩人を想像することが出来るであらうか。言ふも愚である。
 詩人はいやが上にも書物を読み、書物を愛し書物の知識を豊富にすると同時に造本上の理想を高めるべきである。それは詩人の文化的義務であり、同時に教養 でもあるであらう。また自らの作品に対する作者の最終の愛情なのである。我々は時折惚々と見とれる程の趣味高い詩集を手にする時その内容が若し未熟な場合 に於ても淡い尊重の心を拒み得ないのである。(《文藝汎論》1942年6月号、一一ページ)

戦 地に在る吉岡に代わって、小林・池田の両氏が北園宛に《液体》を送ったことは確実である(《液体》出版広告を掲載した《文藝汎論》1942年3月号を北園 が手にしていることは言うまでもない)。引用した最後の一文が詩集《液体》の評であっていささかもおかしくない、と考えるのはひとり私だけだろうか。

〔2013年4月30日追記〕
2013年3月の〈編集後記 125〉で触れたように、北園克衛による《液體》書評が《新詩論》60号(1942年5月)に掲載されているので、引用する(漢字は正字を新字に改めた)。

 詩集(終の栖)城左門著。〔……〕
 詩集(花粉)井上多喜三郎著〔……〕
 詩集(液体)吉岡実著。前半を午前の部とし、後半を午後の部として三十二篇の作品がおさめられてゐる。午前の部は幾分曖昧な点があり、技術も亦不充分であるが、午後の部に於ては著者の才能が充分に示されてゐる。特に午後の部の最初の数篇は完全な作品として推賞するに足りるものであらう。恐らく若き詩人として将来を注目すべきかも知れない。尚著者が応召したために小林・池田の両友人がこの詩集の刊行に当つたことが付記されてゐる。A列五番型・百部限定・非売・草蝉舎刊。(〈書評〉、同誌、八〜九ページ)

《液體》はやはり北園克衛(1902-78)に送られていた。「A列五番型」はA5判のことで、北園は間違いなく本書を手にしている。「午後の部の最初の数篇」とは、〈透明な花束〉(A・17)、〈微熱ある夕に〉(A・18)、〈風景〉(A・19)、〈ひやしんす〉(A・20)、〈花遅き日の歌〉(A・21)あたりか。《文藝汎論》1942年6月号の「惚々と見とれる程の趣味高い詩集」が《液體》を指すこともまた動かない。若き三橋敏雄(1920-2001)は、その戦争俳句で山口誓子(1901-94)から激賞を受けたが、そんなことも想起される。吉岡はこの書評を戦地にあった発表当時はもちろん、1978年に北園が歿したあとも(いや、ひょっとすると生涯にわたって)知らなかったのではあるまいか。もし知っていれば、《液體》や北園にまつわる随想のどこかで、悪びれることなくその事実を記していよう(戦中戦後の混乱期のこととて、二人の友人も北園の評を吉岡に伝えられなかったのかもしれない)。ちなみに北園の書評は、吉岡実の詩集に言及した最も早い時期の文章である。

〔付記〕
北園克衛は、上掲文に先立ち、《新詩論》57号(1947年2月)の〈書評〉末尾にこう書いた。
「次号からはこの欄を強化して特に権威あるものにしたいと思つてゐる。詩集並に詩に関する書物の著者はなる可く編集者〔村野四郎と北園〕の何れかに著書の寄贈または報告の労をとられたいものと思ふ。勿論書評担当者は厳正な態度を堅持して才能ある詩人の発見に努力する者であるが、書評の頁には限度があり、またあまりに水準の低い著書に就いては批評を行はない場合があることは予め含んで置いて頂き度いと思ふ。//最近書評のモラルの荒怠を思ひここに新詩論が書評維新を敢行することは現代の詩に多少の貢献することを冀ふからに他ならないのである」(同誌、九ページ)。
吉岡の留守を預かる小林・池田両氏がこの宣言に勇気づけられただろうことは、想像に難くない。


吉岡実の装丁作品(47)(2007年7月31日)

草 野心平詩集《凹凸》(筑摩書房、1974年10月10日)は、《草野心平詩全景》(1973年5月25日)以後の年次詩集の最初の一冊である(《草野心平 詩全景》の装丁も吉岡実)。1978年5月に刊行が始まった《草野心平全集〔全12巻〕》(筑摩書房、〜1984年5月)は、第1回配本の第1巻刊行直後 の1978年7月に版元が事実上倒産したため、第2巻以降の刊行は大幅に遅延した。詩集《凹凸》は全集第3巻に収録されているので、中桐雅夫・山本太郎の 〈解題〉を引く。

凹凸』/昭和四十九年十月十日発行 筑摩書房刊 A5変型判(二〇〇×一四八m/m)  クロス装貼函入 装幀・吉岡実 目次七頁 序詩二頁 本文二〇八頁 覚え書TU八頁 定価三八〇〇円 限定一〇〇〇部/収録作品数は六十七篇。本文は五 つのパートに分かれ、T十六篇、U九篇、V二十五篇、W十篇、X六篇となっている。/なお、本書は『詩全景』以降毎年刊行されることとなった年次詩集の最 初のもので、著者六十八歳から七十一歳までの作品が収録されている。(《草野心平全集〔第3巻〕》、筑摩書房、1982年4月15日、四八三ページ)

ち なみに全集第2巻の〈著者覚え書〉には「蛙と富士山の詩人などと、よく言はれたり書かれたりする。〔……〕どんな風に言はれてもさして痛痒は感じないが、七十八歳の今頃になつても「凹凸」の“Zigzag Road”がどうやら自分に相応しい象徴的詩集名のやうな気がする」(《草野心平全集〔第2巻〕》、筑摩書房、1981年9月20日、五二二ページ)と見 える。
本詩集巻頭の〈幻の孔雀〉は一読忘れがたい佳篇だが(入沢康夫編の岩波文庫版詩集にも採られている)、〈書に就いて〉や次に引く〈字を書くことに就いての 自戒〉(一九七三・九・二四)は、草野心平の書を想起しながら読むと格別の味わいがある(吉岡も心平の書に感服していた)。

端座して。
細い長い油絵用の筆の穂先にたつぷり墨をふくませ。
垂直に深く刺し流しゑぐる。
肩と手からは力をぬき。
穂先だけがぎしんと強く。
或る時は青く。
或る時は炎え。
原始からの人間。
その愛しい内部と communication を形にしたい。
イヤ。
昔の発明の象[かたち]をそのままに改めて自己を造型したい。

(いまの自分はそんな界隈をうろついてゐる。)

遥かな道だ。
yah ya doh。

本 書の仕様は、一九九×一四七ミリメートル・二三二ページ・上製クロス装(角背)・貼函。墨筆署名入。奥付にナンバリングマシンによる記番、検印。本文用紙 の寸法は手許の一書を採寸した結果で、一九九ミリというのはいかにも中途半端なため、〈解題〉の二〇〇ミリにしたいのはやまやまだが、一九八ミリ設計が一 九九ミリになったのかもしれず、あえてそのままとする。
本書の表紙と本扉にある家紋の輪鼓[りゅうご]のようなカットはなんだろう(輪鼓は中間がくびれた形をした平安時代の玩具のひとつで、現代ならさしずめ ディアボロか)。これが《凹凸》(オウトツと読むのか、ボコデコとでも読むのか)とどう関係するのか、しないのか、よくわからない。「凹凸」が幾何学的な 字面なだけに、あまり図案のようなカットでないほうがよかったのではないか。少なくとも本扉に「輪鼓紋」は不要だったと思う。黒のクロスに金箔押しという のは想像するよりも見た目に禍禍しく、角背の珍しさもあって、吉岡実装丁の異色作という感じである。

草野心平詩集《凹凸》(筑摩書房、1974年10月10日)の函と表紙 草野心平詩集《凹凸》(筑摩書房、1974年10月10日)の本扉と函
草野心平詩集《凹凸》(筑摩書房、1974年10月10日)の函と表紙(左)と同・本扉と函(右)

@ 《凹凸》に始まる全12冊の年次詩集――A《全天》1975、B《植物も動物》1976、C《原音》1977、D《乾坤》1979、E《雲気》1980、F《玄玄》1981、G《幻象》1982、H《未来》1983、I《玄天》1984、J《幻景》1985、K《自問他問》1986(いずれも筑摩書房刊) ――は吉岡実装丁の《凹凸》以外、すべて著者による自装である。これらはみな、目次のフォーマットやノンブルの書体、本文の基本組を《凹凸》に倣っている が、表紙のクロスの色や材質を替えたり、F以降は本体を紺色のインクで刷ったりしている。その中にあって、Aは灰紺のクロス装表紙にベタ丸を取りまく六重 の同心円を配し(「全天」をイメージする)、本扉のカットにベタ丸を置いて《凹凸》を踏襲している。Bは濃緑のクロス装表紙に小枝(心平の絵か)を配し、本扉のカットには柱時計のねじ巻きのような形の双葉を置いて、これまた《凹凸》を踏襲している。心平が吉岡実装丁を脱却して、オリジナリティを発揮するの はCからである。いずれにしても著者自装の年次詩集は、心平の書や絵画を表紙や口絵に配することで、渾然たる美の世界を造りだしている。

吉岡実は《僧侶》でH氏賞、《サフラン摘み》で無限賞(受賞辞退)、《薬玉》で藤村記念歴程賞をそれぞれ受賞しており、これらのすべてに草野心平が 関わっているのも奇遇である。

或 る日の夜、中桐雅夫から電話があった。『サフラン摘み』が「無限賞」に選ばれたと言う。丁重に辞退したいと応じたら、心外だという感じで受けとめたよう だ。「西脇順三郎、草野心平両氏も賛同しているから、快諾せよ」と、篤実な男はくどくど言って、ひきさがらなかった。/二十分ほどして、電話が鳴った。き わめて改まった声で、「私は『無限賞』の選考委員のニシワキジュンザブロウだが、この賞を受けてくれ給え……」と、言う。さすがに私は一瞬、言葉に窮し た。なぜなら、先輩の詩人としては、いちばん親交のある方だからだ。礼を失しないように、若干の理由を述べ、辞退したものである。かたわらにいた妻に「た いへんだったわねー」と、言われた。/その日から、しばらくの間は、感情的なしこりが残り、おたがいに会うことを避けていた。後日、なにかの折りに、心平 さんに会ったら、「あの時、オレは西脇さんが説得しても、だめだと思ったよ」と、笑っていた。(〈心平断章――「H氏賞事件」ほか〉、《現代詩読本――特装版 草野心平るるる葬送》、思潮社、1989年3月1日、九一ページ)

吉岡実は西脇順三郎 に較べて草野心平に言及することが少なかったが、本詩集《凹凸》の装丁は心平への親炙を物語ってあまりある。ところで、上掲文のサブタイトルは編集部がつ けたものではあるまいか。吉岡は断章形式の散文にかつてこの手の副題をつけなかったし、万一吉岡自身がつけたのなら、ある種の「サービス」だったように思 える。


吉岡実の装丁作品(46)(2007年6月30日)

著者が生存中に上梓した《高柳重信全句集》(母岩社、1972年3月7日)には、ここで取りあげる市販本のほかに、特装本と分冊版の計3種類がある。三橋敏雄の〈解題〉を引く。

  昭和四十七年(一九七二)三月七日、母岩社刊。発売元・俳句評論社(東京都渋谷区上原三丁目四番十三号)。菊判三百七十六頁。五百部限定版。うち六十部現〔ママ〕定版の特装本は頒価一万円。四百四十部限定版の市販本は頒価二千八百円。内容は、既刊句集『黒彌撒』所収の各句集、および決定稿による第五句集『蒙塵』〔……〕、同じく第六句集『遠耳父母』〔……〕を収録。〔……〕巻末の「覚書」は著者。装幀、吉岡実。装画、寺田澄史。別冊付録「高柳重信・覚書」に、「断鬣」塚本邦雄、「朝の終り」金子兜太、「方法的俳人」加藤郁乎、「高柳重信の近作〔その〕ほか」大岡信のそれぞれ一文が寄せられてある。(《高柳重信全集〔第一巻〕》、立風書房、1985、四〇〇〜四〇一ページ)

同解題に拠れば、本書には同日、俳句評論社刊の「白装五分冊版」(35部限定版)があるが、こちらは吉岡実の装丁ではないようだ(かつて神保町の古書店で、この白い和紙の装本を手にしたことがある)。本書について中村苑子はこう書いている。

高柳重信全句集』(第五句集)
 刊行月日等前出。「長い歳月を要した〈蒙塵〉の諸作は、あまりに構想が大にすぎたため、遅々として進まず、逐〔ママ〕に未完に終った」と巻末の覚書で著者は述懐している。
 *なお、本集に収録してある「蒙塵」「遠耳父母」は、『黒彌撒』における「罪囚植民地」と同じく、当初は刊行を考えていたが変更となり「例外的に企画された特別限定版の三五部(分冊の五部を一括して一ケースに収めたもの)を除くと、逐〔ママ〕に独立したかたちとしては存在しない」という著者の記述どおりに、単独句集としては存在しないことを明記しておく。(《高柳重信の世界〔昭和俳句文学アルバムQ〕》、梅里書房、1991、一〇三〜一〇四ページ)

吉岡には、まず《吉岡実詩集》(思潮社、1967)として発表した詩集 《静かな家》(思潮社、1968)があるが、高柳には単行本の形をとらない句集が複数ある、ということになる。吉岡は高柳の句集の編み方について「重信はなぜか、新しい句を注入し、句集を編み替え、増殖させ、一つの『作品集』を構築しているのだ。作者の必然的な営為として理解できるが、一読者としてどうも読みにくく感じる。私は反対に『詩集』は一巻で完結するように、試みているから、なおさらなのかも知れない」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三一七ページ)と書いている。
《高柳重信全句集〔市販本〕》の仕様は、二二一×一五三ミリメートル・三九〇ページ・上製継表紙(背は革、平はクロス)・貼函。墨筆署名入。背革の黒は、吉岡が最初に出会った高柳の句集《黒彌撒》(琅玕〔カン〕洞、1956)の赤い題簽を貼った黒い函(飯島耕一《他人の空》を汚した)から来ているのだろうか。装丁の吉岡や装画(函のほか本扉にも別の絵柄を掲載)の寺田澄史への言及はないものの、高柳は〈覚書〉の一節に「この『高柳重信全句集』も、さて手をつけてみると、結局、多くの友人や後輩たちの協力を随所に必要としたが、俳句形式とのかかわりの中で生まれ育つたさまざまな人間関係と、その恩について、改めて思いを深めることとなつた」(漢字は正字。本書、三七二ページ)と触れている。
浪速書林が《高柳重信全句集〔特装本〕》を出品しているので、書影を掲げさせてもらう。同書の説明には「特装限定60部 墨筆句・署名入 夫婦函付 極美。 大阪の俳人宛・著者自筆はがき二枚添付。「まなこ荒れたちまち朝の終りかな 重信」。装幀・吉岡実、装画・寺田澄史。天金。総黒革装上製本。冨澤赤黄男序・著者覚書。「高柳重信覚書」塚本邦雄他著添付。A5判」とあり、価格は42,000円。この特装本は未見だが、説明文と書影から察するに、夫婦函の意匠は貼函と同じで、表紙は市販本継表紙の背革を全面に用いたもののようだ。《高柳重信全句集》は、一ページに一作品(多くは四行表記)という組体裁とも相俟って、堅牢な俳句宇宙を内包している。
なお著者歿後の二〇〇二年には、《前略十年》〈前略十年・補遺〔金魚玉、蓬髪・抄〕〉《蕗子》《伯爵領》《罪囚植民地》《蒙塵》《遠耳父母》《山海集》〈合本句集覚書〉《日本海軍》〈日本海軍・補遺〉《山川蝉夫句集》〈山川蝉夫句集・補遺〉を収録した、文字どおりの《高柳重信全句集》が沖積舎から刊行されている。

《高柳重信全句集〔市販本〕》(母岩社、1972年3月7日)の函と表紙 《高柳重信全句集〔特装本〕》(母岩社、1972年3月7日)の特装本の夫婦函と墨筆句・署名
《高柳重信全句集〔市販本〕》(母岩社、1972年3月7日)の函と表紙(左)と同・特装本の夫婦函と墨筆句・署名(右)〔浪速書林の画像〕
特装本の出典:http://www7a.biglobe.ne.jp/~naniwashorin/photo/410473.jpg?

《高柳重信全句集〔特装本〕》(母岩社、1972年3月7日)の夫婦函と表紙 《高柳重信全句集〔特装本〕》(母岩社、1972年3月7日)の墨筆句・署名
《高柳重信全句集〔特装本〕》(母岩社、1972年3月7日)の夫婦函と表紙(左)と墨筆句・署名(右)

〔2014年10月31日追記〕
落ち穂拾いのようにして、吉岡実装丁本の、とりわけ特装本の蒐集を進めている。《高柳重信全句集〔特装本〕》(母岩社、1972年3月7日)を入手したので、書影を追加する。同書の仕様は、二二一×一五三ミリメートル・三九〇ページ・上製総革装・天金・夫婦函。墨筆句・署名入。貼奥付の記述を録する。改行を/で追い込んだが、元来は横組の左右中央合わせである。

昭和42年3月7日/發行/高柳重信全句集/ 500部限定本/1〜60特装本/61〜500市販本/拾伍【朱筆】/著作・高柳重信/發行・母岩社/印刷・~谷印刷/發賣元/俳句評論社/東京都澁谷區上原3-4-13/頒價 10000圓
Shift JISで表示可能な旧字は使ってみたが、奥付の表示内容(というか文体)が淡白にすぎて、せっかくの旧字表記とバランスがとれていない。「東京都澁谷區」ときたら「上原三丁目四番十三号」だろうし、「~谷印刷株式會社」という具合に正式社名でいきたい。本文は透かしの入った洒落た用紙(輸入紙か)に刷られていて、高柳の洋風好みを反映しているようだ。黒の総革装の特装本(吉岡自装の著書にはないが、《静物》の改装本が赤と黒の革装2種で、本書との関連をうかがわせる)は、吉岡の取って置きのプランだったに違いない。赤と黒は、赤と青と並んで、吉岡が好んだ表装材料における一対である。


吉岡実の装丁作品(45)(2007年5月31日)

那珂太郎《萩原朔太郎その他》(小澤書店、1975年4月20日)は、詩集《音楽》(思 潮社、1965)に続く吉岡実装丁で、那珂さんは吉岡実追悼文で「その〔吉岡装丁による筑摩書房版朔太郎全集の〕後も、小沢書店から出した評論集『萩原朔 太郎その他』も、『定本那珂太郎詩集』も、彼に装幀して貰つた。『萩原朔太郎その他』が四千五百部も出たのは、当時の朔太郎ブウムのせゐもあつたらうが、また彼の装幀の力に負ふところ大きかつたに違ひないと思ふ」(《現代詩手帖》1990年7月号、三三ページ)と書いている。
吉岡実は本書をどのように読んだのだろうか。次に引く〈朔太郎の詩の概観〉の一節は《青猫》から《氷島》への移りゆきを評しているが、吉岡の随想〈「想像 力は死んだ 想像せよ」〉(初出は1977年5月)を先取りしているようで、興味深い。――〈あとがき〉の末尾に「装幀を引受けてくれた吉岡實氏と、すす んで正字正假名遣によつてこの本をつくつてくれた小澤書店に感謝する」(三〇五ページ)とあるように、本書は漢字に正字(旧字)を用いているが、以下では 新字に改めて引く。

『月 に吠える』から「青猫以後」に至る朔太郎の口語自由詩のスタイルは、それ自体かなりの移り変りと展開をみせながらも、おほむね幻視幻想による内的リアリズ ムとでも一括称してよささうな、イメェジの造型に、その目ざましい特質があつた。しかしいまはその多彩な幻覚は払ひすてられ、きはめて即事的な、直叙慨嘆 詩風に転じたのである。これはやはり「青猫」末期において彼の生認識が観念的に固定化するにつれ、当然彼の抒情もまた停滞するほかなく、もはや内から溢れ でるやうなヴィジョンの創造力も涸渇し、従来のスタイルのままではおそらく詩を展開して行くことは不可能となつたため、ほとんどやむを得ぬなりゆき、もし くは窮余の一策として、現実的次元での自己劇化をはかり、反語的ポオズで、「宿命」への自己反噬を演じなければならなかつたものと思はれるのだ。(本書、二九ページ)

本書の仕様は、一九五×一四八ミリメートル・三一〇ページ・上製布装・貼函。表 紙・背文字の著者名「珂」の一文字がやや曲がっているのは、写植(箔押しは金版ではなく、写植を版下にしているようだ)を切り貼りしたときの不具合だろう か。エンブレムに似た表紙のカットは、本扉の図像の中心部分の流用である。表紙のカット、本扉の図像とも函から本体を出さなければ見えないから、朔太郎を 想起させるイメージである必要はない。一方、目次の後に「装幀 吉岡実/函装画 田中恭吉/『月に吠える』挿画より」とクレジットされているように、函に はのちの《「死 児」という絵》(思 潮社、1980)と同様、青系で田中恭吉の絵を印刷してある。本書が「「月に吠える」研究を中心に結晶させた朔太郎への卓抜な論考」(帯文)であることを 一瞥で感知せしめるために、《月に吠える》の挿画以上のものはないだろう。もっとも、函に恭吉を用いるアイディアは、《萩原朔太郎全集》の装丁原案がそうだったように、那珂さんによるものかもしれない。

那珂太郎《萩原朔太郎その他》(小澤書店、1975年4月20日)の函と表紙 那珂太郎《萩原朔太郎その他》(小澤書店、1975年4月20日)の本扉と見返し
那珂太郎《萩原朔太郎その他》(小澤書店、1975年4月20日)の函と表紙(左)と同・本扉と見返し(右)


吉岡実のレイアウト(4)(2007年4月30日)

平 林敏彦氏が〈第二次大戦下の若い詩人たち〉(《現代詩手帖》2007年3月号のリレー連載〈わたしの詞華集〉)で、吉岡実の処女作《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)の出版広告が雑誌《文藝汎論》1941年1月号に掲載されていると書かれている。原物に当たるまえに、現代詩誌総覧編集委員会編 の《現代詩誌総覧E――都市モダニズムの光と影U》(日外アソシエーツ、1998年7月27日)の人名索引を繰ってみると、「吉岡実『昏睡季節』(吉岡 実)の広告を掲載」(同書、三七一ページ)という記載がある。《文藝汎論》を閲覧したので、概略を記す。
同誌の1941年1月号は〈特集 現代詩人集〉である。詩作品を寄せている「現代詩人」は以下の29名。阪本越郎・堀口大學(訳詩も)・田中冬二・竹中郁・村野四郎・菱山修三・北園克衞・笹澤美明・近藤東・岡崎清一郎・安西冬衛・高祖保・西川満・丹野正・山本和夫・長田恒雄・眞田喜七・藏原伸二郎・山中散生・濱名與志春・安藤一郎・中村千 尾・乾直惠・爪田豹太郎・大島博光・村上菊一郎(訳詩)・岩佐東一郎・江間章子・城左門。佐藤春夫が巻頭の文章を、那須辰造・今官一・長崎謙二郎・森本忠 が小説を書いている。目次には笹澤美明〈詩壇時評〉のほか、読者の読後感〈各人各説〉、さらには〈編輯後記〉のページノンブルまで記載されている。ヴィ ジュアル面は「題字……恩地孝四郎」「表紙絵……寺田政明」「目次カツト……宮田彌太郎」と記されており、充実した布陣になっている。さて、吉岡実《昏睡 季節》の出版広告は次のようなものだ。

《文藝汎論》1941年1月号の表紙〔モノクロコピー〕 《文藝汎論》1941年1月号の64〜65ページ〔モノクロコピー〕 《文藝汎論》1941年1月号の吉岡実詩集《昏睡季節》広告のアップ〔モノクロコピー〕
《文藝汎論》1941年1月号の表紙(左)と同・64〜65ページ(中)と同・吉岡実詩集《昏睡季節》広告のアップ (右)〔いずれもモノクロコピー〕

吉 岡の下段にあるのは《風流陣》(文藝汎論社発行の俳句雑誌)の広告だが、書体(ゴチック)の選択や人名の倍取り、さらにスペースの処理が複合して、なんと も取りちらかった印象だ。それに対して、《昏睡季節》の広告は新聞の三八(書籍広告)を彷彿させる美しさである。誰がこれを指定(レイアウト)したのだろ うか。平林氏は冒頭で触れた文章でこう書いている。

〔……〕たまたまぼくが目にした「文芸汎論」昭和十六年一月号(発行日は前年末)に詩集『昏睡季節』の四分の一頁広告が掲載され ていた。版下はプロはだし のすっきりしたレイアウトで、発行所名はなく、下部に横書きで個人の住所と「吉岡實」の名がある。友人が勝手に出稿したとも推測できるが、その時点で吉岡 は召集解除になっており、まったく知らなかったとは思えない。じつは「ひそかに読まれることを期待していた」と想像するのが自然だろう。(《現代詩手帖》 2007年3月号、一四五〜一四六ページ)

《文 藝汎論》の〈編輯部より〉には「★誌上広告」として「本誌の広告面御利用の諸氏のために、本社は最少の実費で最大の効果ある誌面を提供してをりますから、是非共有効に御使用あらんことを切望いたします。広告料金表は郵券三銭封入の上お申し込み次第、進呈申上げます。振替用紙も同時に発送いたします」(同 誌、一一九ページ)とあり、吉岡側が《昏睡季節》の刊行早早、新刊告知として出稿した広告であることは間違いない。活字の指定を再現すれば、以下のように なろう(書名をほんの少し飛びださせた配置が秀逸である)。

   吉岡實詩集〔四号四分アキ〕
   昏睡季節〔二号二分四分アキ〕
   壹百冊限定出版/和紙袋綴八〇頁/新四六判價貳圓〔8ポベタ・箱組〕
   東京市本所區厩橋二ノ十三 吉岡實〔6ポベタ・横組〕

《文 藝汎論》の広告レイアウトがどのようなシステムだったかは不明だが、これだけ凝縮した文案の執筆、洗練された活字の指定が吉岡本人以外の手によってなされ たとはとうてい思えない。もっとも、この広告が奏功したかとなると話は別で、平林氏が前掲引用に続けて「私家版としては異例の広告まで出したこの詩集が、ぼくの知る限り当時まったく話題にならなかったのも不思議である」(同前、一四六ページ)と書いているとおり、《文藝汎論》での反響は次号の〈昭和十五年 度 受贈詩集書目〉に「○昏睡季節・吉岡實(自家版)二圓」(同誌、1941年2月号、九八ページ)とあるだけのようだ。自費出版であるこ とを宣言しているかのごとき出版広告(にもかかわらず、凡百の自費出版物でないことは広告自体が雄弁に語っている)は当時愛読していた詩人たちに向けた、詩を書く無名の若者からの自己紹介だったかもしれない。――吉岡が後年〈木下夕爾との別れ〉(初出は《朝日新聞〔夕刊〕》1979年5月18日)で次のよ うに書いたとおり。

 昭和十五年の秋、召集されたのを契機に、私は書き溜めた詩と歌を《昏睡季節》としてまとめた。幸い二ヵ月後に召集解除になった ので、自費出版して、友人 知己に配った。木下夕爾から礼状がきたが面白いことに、二十篇もある詩にはふれず、三首ほどの短歌をあげて讃めていた。(《「死児」という絵〔増補 版〕》、筑摩書房、1988、二一八ページ)

想えば吉岡自身その随想で、文藝汎論詩集賞を受賞した木下の《田舎の食卓》(詩文学研究会、1939年10月20日)への愛着という形で《文藝汎 論》への敬意と親炙を言明していた。


吉岡実の装丁作品(44)(2007年3月31日)

入 沢康夫詩集《死者たちの群がる風景〔限定版〕》(河出書房新社、1982年10月5日)は、Y章から成る長篇連作詩。帯(表1)には横組で「死者たちが、私の目を通して/湖の夕映えを眺めてゐる。/涙してゐる。/あの猿の尻のやうにまつ赤なまつ赤な雲を見て、/たまには笑へ、死者よ。」という本文の詩句と ともに、「署名入限定本/装幀―吉岡実/河出書房新社」とある(編集者が書いたものだろう)。装丁が誰の手になるか帯文に謳われているのは、かなり珍し い。本書に登場する「死者たち」は意図的に固有名詞が秘されており、私としては吉岡実装丁の《ネル ヴァル覚書》(花神社、1984)についての文を読んでもらえれば充分だ。
本書の仕様は、二二〇×一八二ミリメートル・一一二ページ・上製クロス装・貼函に貼題簽。限定700部。著者毛筆署名入り。角背のクロス装の手触りや活版 による本文組みは、入沢康夫の詩篇のひんやりとした熱気に通じるものがある。なお、限定版の翌1983年2月25日刊行の普及のための新装版(仕様は二一 九×一五〇ミリメートル・一一〇ページ・並製紙装、基本的に限定版と同内容だが、署名用の1丁をオミットして、本扉の写植を打ちかえている)の装丁も吉岡 である。大岡信の詩集《春 少女に》(書肆山田、1978)と吉岡実装丁の同《春 少女に〔特装限定版〕》(同、1981)に照らすと興味深いのだが(ちなみに、《死者たちの群がる風景》の〈U 潜戸へ・潜戸から〉は「全体が大岡信『潜戸へ・潜戸から――二人の死者のための四章』の引用である」!)、本書も限定版と新装版の判型が異なっている。新 装版も組版は同じだから、その判型は限定版の左右をトリミングした恰好で、造本上の勘所は刷り位置の指定である。私は最初、本書を新装版で読んだが(新刊 で出た当時、限定版が入手できなかった)、左右のアキをゆったりと取った限定版で読むと、12ポの本文組みが鮮やかで、吉岡のレイアウトの見事さを実感す る。

「今日記憶の旗が落ちて、大きな川のやうに、私は人と訣[わか]れよう。」
その一行が好きで好きで、そのくせ「記憶の旗」とは、それが「落ちる」とは
どういふことか、少しも判らずに……。
今だつて判つてやしないけれども。
(〈Y 《鳥籠に春が・春が鳥のゐない鳥籠に》〉33節中の1節)

詩 集《死者たちの群がる風景》は1983年、第13回高見順賞を受賞した。吉岡は選考委員の一人として「選考会がはじまると、私は〔白石かずこ〕『砂族』と 〔藤井貞和〕『日本の詩はどこにあるか』そして入沢康夫『死者たちの群がる風景』の三冊を推した。〔……〕/入沢康夫『死者たちの群がる風景』への受〔マ マ〕賞が決定した。誰れもが予感していたことかも知れない。かつての名作『わが出雲・わが鎮魂』を遠いこだまと化すほど、この長篇連作詩は、死者と生者の 交感を、複雑多岐に叙述して見事であった」(《樹木――高見順文学振興会会報》Vol.1、1983年3月10日、六ページ)と選評〈詩へ希望が持て た………〉に書いて、本詩集を讃えた。

入沢康夫詩集《死者たちの群がる風景〔限定版〕》(河出書房新社、1982年10月5日)の函と表紙 入沢康夫詩集《死者たちの群がる風景〔新装版〕》(河出書房新社、1983年2月25日)の表紙
入沢康夫詩集《死者たちの群がる風景〔限定版〕》(河出書房新社、1982年10月5日)の函と表紙(左)と《同〔新装 版〕》(同、1983年2月25日)の表紙(右)


吉岡実の装丁作品(43)(2007年2月28日)

書肆山田の〈特装限定版詩集の御案内〉という二つ折りのパンフレット(文面には「一九八〇年十月」付の但し書きが含まれる)については、〈吉岡実の 特装本〉の《ポール・クレーの食卓〔特装限定版〕》でも触れたが、そこに見えるのは次の三 冊である(惹句を割愛して仕様関係のみ録する)。

春の埋葬――森内俊雄詩集
〔……〕
オリジナル・エッチング一葉●赤坂三好
愛蔵版限定二十八部/B5判変型上製本表紙マーブル紙山羊皮背継コーネル付け布貼函入り/著者署名入り
十一月十五日刊/定価九、八〇〇円

ポール・クレーの食卓――吉岡実詩集
〔……〕
著者署名識語入り
特装版限定二十八部/菊判変型上製本表紙総革山羊皮使円〔用〕本文紙レンケルレイド布貼函入り
十一月三十日刊/三二、〇〇〇円

遠い百合――詩・小川国夫/画・司修
〔……〕
限定二十五部/小川国夫・司修署名入り
小川国夫によるオリジナル・エッチング一葉付
B5判変型二分冊/本冊「遠い百合」――本文アルシュ紙使用本書のための活版新組印刷司修オリジナル・リトグラフ十二葉入り表紙総革上製本山羊皮使用天金 /別冊「星と砂丘」――小川国夫書下しエセイに画四点を印刷復原添付/併せて布貼函(司修オリジナル・リトグラフ二葉貼)入り/装釘・司修
十二月十日刊/定価一五〇、〇〇〇円

す なわち1980年10月時点で、大岡信詩集《春 少女に〔特装限定版〕》(書肆山田、1981年12月30日)はラインナップに含まれていない。元版《春 少女に》(書肆山田、1978年12月5日)はすでに第7回無限賞を受賞しているから、上記の3冊とともに〈特装限定版詩集の御案内〉で予告されてもおか しくないのだが、まだ企画に上っていなかったか。

大岡信詩集《春 少女に〔特装限定版〕》(書肆山田、1981年12月30日)のケースと函と表紙 大岡信詩集《春 少女に》の元版〔上〕と特装限定版〔下〕の本文ページ
大岡信詩集《春 少女に〔特装限定版〕》(書肆山田、1981年12月30日)のケースと函と表紙(左)と大岡信詩集《春 少女に》の元版〔上〕と特装限定版〔下〕の本文ページ(右)

以下に〈吉岡実の特装本〉の体裁に倣って、本書の奥付ページの記述(箱組)を転載する。

「 〔「山田」の印の体裁の凸版〕
詩集 春 少女に―特装限定版*著者大岡信*一九八一年一二月三〇日発行*装幀吉岡実*発行人鈴木一民発行所書肆山田横浜市西区高島二―一一―二―八〇九 電話〇四五(四五三)三五九八/〇三(九八八)七四六七*印刷蓬莱屋印刷秀英社野崎勝一製本橋本保三*定価四八〇〇〇円*本冊は限定三十八部の 十 番」

本 書の仕様は、本文二色刷(本文組は元版の90%サイズに相当)・二〇九×一三一ミリメートル・一一二ページ・上製総革装・貼函・段ボールケース(背に書名 ほかを、平に記番ほかを記載した題箋貼)。限定38部。著者毛筆識語(「耳ヲ彩ルモノ/スナハチ言辞/彩ラレタル耳/スナハチ莞爾」)、毛筆署名入り、落 款。
吉岡の《ポール・クレーの食卓〔特装限定版〕》(装丁者のクレジットはない)とよく似たシンプルにして豪奢な装丁で、とりわけ革の赤色が美しい。ただ残念 なことに、本文のインキ(スミ・特色とも)の乗りが悪く、というよりページによってはかすれ気味のところさえあるのは、最高の資材に最高の印刷に最高の製 本、という特装限定版の原則から外れるものと言わざるを得ない(ただし、所蔵の「十番」本を見ただけなので、他の本がどうかはわからない)。それよりも注 目したいのが、本文版面の刷り位置である。元版のノド空きはそうではないのだが、特装本はノド寄りの行がページをまたいで他の行間と同じに見えるくらい狭 く配置されている(写真参照)。総革突きつけ表紙のノドは紙装丸背表紙のそれよりはるかに開きにくいから、この指定は過激である。通常ならノド寄りの1行 は削って、現行ノンブル(ノド寄りの2行めに揃えた「隠しノンブル」)の上に合わせて配置するところだ。本書の〈解題〉を引く。

『春 少女に』
一九七八年十二月五日発行 発行者山田耕一 神奈川県横浜市西区高島二―一九スカイビル二階 書肆山田 二三〇_×一七五_ 一〇六頁 並製フランス装  表紙絵中西夏之 定価一六〇〇円 本文新字旧かな また本書には次の特装限定本が作られた。
特装本『春 少女に』
一九八一年十二月三十日発行 発行者鈴木一民 神奈川県横浜市西区高島二―一一―二―八〇九 書肆山田 二一六_×一四〇_ 一〇六頁 上製皮装 丸背  ビニールカバー付 クロス函入 ダンボール保護カバー付 装幀吉岡実 限定三十八部 定価四八〇〇〇円 本文新字旧かな。
(《大岡信全詩集》、思潮社、2002年11月16日、一七三七ページ)

吉 岡実は第9回高見順賞の選評で「〔……〕事務局から、大岡信詩集《春 少女に》の発行日が、十二月五日になっているので、除外するとの報告を聞いた。今年 は、五十代の人の詩集に、すぐれたものがいくつかあったが、私はひそかに、《春 少女に》を推す考えできたので、とまどってしまった」(〈感想〉、《現代 詩手帖》1979年2月号、一六〇ページ)と元版に言及しており、高く評価していたことがうかがえる。吉岡は大岡のこの詩集に、無限賞ではなく高見順賞を 取ってもらいたかったに違いない。そうした想いも籠めて、詩集《水府 みえないまち》(思潮社、1981年7月1日)の装丁の余勢をかって本書の装丁に臨んだであろうことは、ほぼ確実である。集中では〈馬具をつけた美少女〉――なんと吉岡実 的な題名だろう!――という詩篇が好ましい。


吉岡実の装丁作品(42)(2007年1月31日)

飯 島耕一《詩人の笑い》(角川書店、1980年6月30日)は懐かしい本である。1970年代の末、私は早稲田大学のフランス文学科で村上菊一郎先生から卒 業論文の指導を受けていた(村上訳のボードレール《悪の華》が進路を決定したようなものだ)。といっても先生はおおらかで、好きなようにお書きなさいとい う調子だったから、私は研究室にあった濃緑の総革装アポリネール全集を横目で見ながら、明治大学の飯島耕一さんのアポリネールの演習にもぐりこんだ。プレ イヤード版のアポリネール集は詩集と散文集を参考程度に読んで、当時出たばかりの青土社版邦訳全集や、ピエール=マルセル・アデマのアポリネール伝、そし てもちろん飯島さんの《アポリネール》を手引きにして、詩集《アルコール》について卒論をまとめあげたのだった。
私が大学を出た年に刊行されたのが本書である。詩歌をめぐる一般書だけに、索引はついていない(もっとも、目次には「*「詩人の笑い」に登場する詩人たち を助けて順次登場する連衆」の名が小活字で掲げてあり、索引と似たような役割を果している)。初読時の私は自分用の索引を作っていて、ふたりの詩人の登場 するページを紙片にメモ書きしてある。詩人のひとりはギヨーム・アポリネールであり(「9〜18、34、36〜37、40、77、88、103、140、143、176、180」)、もうひとりは言うまでもなく吉岡実である(「215、234、238〜240」)。

 吉岡実は一九一九年生れ。黒田三郎、中桐雅夫らと同年である。東京に生れた。十代の終りから詩作をはじめ、北園克衛に影響され る。戦中は輜重兵の一兵士 として満洲各地を転々とした。戦後、彼はほとんど一人で詩を書いていて、詩集『静物』を出し、さしたる反響もなく、詩作の放棄も考えていたときに、偶然の ことにぼくは彼と出会った。以後彼は多くの詩集を刊行した。
 吉岡実の詩には終始異様な諧謔がつきまとう。エロチスムもつねにこれと同行している。ここでは「僧侶」のごくはじめの部分を引用しておこう。(本書、二 三八ページ)

飯 島さんは〈僧侶〉(C・8)から1と2を引いたあと、「黒田三郎の詩のユーモア、〔……〕吉岡実の詩の笑いの要素、みな種類が異る。しかし戦後の詩のすぐ れた部分がみな笑いの要素と直結していることがわかると思う。吉岡実の三年前の『サフラン摘み』は、戦後詩三十年の棹尾を飾るような詩集だったが、全篇、蒼白な、凍りつくユーモアにみちていたと言って過言ではない」(本書、二四〇ページ)と書いている。角川書店の《短歌》に、上掲引用を含む第九章(終わり からふたつめの章)を書いたころ、本書を吉岡実の装丁で、という飯島さんの意向が固まったのだろうか。
本書の仕様は一八八×一二六ミリメートル・二六六ページ・上製紙装・ジャケット。装画のクレジットはない。ところで、このジャケットの文字の色使いが面白 い。平は書名がスミ文字、著者名が色文字だが、背ではその逆の配色になっているのだ。本扉を見ると、文字はみな濃い灰色(スミではない)で、カット(鹿だ ろうか)は鮮やかなオレンジ色。ジャケットの平も、スミ文字・色文字・濃い灰色のカット・スミ文字と、本扉と同様の色使いを展開することで、心地好いリズ ムを醸している。

飯島耕一《詩人の笑い》(角川書店、1980年6月30日)の本扉とジャケット
飯島耕一《詩人の笑い》(角川書店、1980年6月30日)の本扉とジャケット


吉岡実の装丁作品(41)(2006年12月31日)

西脇順三郎の詩集《鹿門》(筑摩書房、1970年7月10日)は、2000行の長篇詩《壌歌》(筑摩書房、1969)に続く、日本語による一二番めの単行詩集。帯に「現在を洞察し現実を超越して永遠を啓示する独得の諧謔と深い哀愁の世界。巨匠最新の詩作三十一篇に書下し十篇を収めた豪華版詩集」とある。瀧口修造に与えた〈テンゲンジ物語〉、村野四郎に与えた〈多摩人〉、森谷均を追悼した〈絶壁〉と並んで、「ヨシキリのヨシオカのような」という詩句のある〈ヨシキリ〉を含む1967年から70年までの詩篇を収める。だがここで引きたいのは、それらのいずれでもなく〈元旦〉である。

元旦|西脇順三郎

ああなんと
春ランの香る
はてしなくめぐる
この野原にさすらう
人間のために
あかつきの土の杯に
霜の濁酒をそそいで
今朝の天空の光りを祝う
なんという栄華か
豆のかゆをすすつて
あつい生命のほとばしる
みなもとをひそかに祝う
ああ遠くつるのなく音に
旅人はふるえる
ふるさとへ永遠の回帰か

新年を寿ぐ詩の美しさは、比類がない。私はかつて「春蘭のかをる栄華や粥すすり鶴の音とほく野辺をさすらふ」(歌集《通奏低音》、文藝空間、1985)なる一首を、本篇から創出したものだ。
本書の仕様は二〇八×一四一ミリメートル・一八二ページ・上製角背継表紙装(背・革、平・クロス)・貼函。別丁本扉の前に、ペン書き署名用の薄紙一葉。限定1200部、奥付にナンバリングマシンによる記番、「順」の押印。本文は12ポで12行とゆったり組まれ、ひらがなは捨てがな(小字)を使用していないため、年ごとに眼の衰えを感じる者にとってはまことに心地よい組版である。筑摩書房在籍中の装丁だけに装丁者のクレジットはないが、吉岡実は〈西脇順三郎アラベスク 8 《人類》出現〉に「詩集《鹿門》が刊行されてから、約十年の歳月が経っている。今度もまた私が造本・装幀を任せられた」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二三九ページ)と書いている。

西脇順三郎詩集《鹿門》(筑摩書房、1970年7月10日)の函と表紙
西脇順三郎詩集《鹿門》(筑摩書房、1970年7月10日)の函と表紙


吉岡実の装丁作品(40)(2006年11月30日)

森 茉莉の《記憶の絵》(筑摩書房、1968年11月30日)の〈後記〉には「原稿紛失の記」なる副題がある。「このたび、この(記憶の絵)という本を出すに ついては、吉岡実氏のお協力をわずらわした。だが、協力をして載〔ママ〕いたのに、大変なお厄介をおかけする結果となった。私という人間に何ごとかでかか りあう人々は誰でも、大変な厄介なことを引きうけたことになるのである。今度の出版についてはどんな厄介ごとが起ったかというと、次の如くである。吉岡氏 が暑い最中を何度か、私の部屋の近くの邪宗門という喫茶店にお出でになる内に、本の造りのことも定り、頁数が少し足りないのを補うための書き足し十篇(三 十枚分)も出来上り、」(本書、二二三ページ)以下、吉岡実が〈遠い『記憶の絵』――森茉莉の想い出〉で引用しているように、森が完成した原稿(1966 年2月17日から6月15日まで《熊本日日新聞》に100回連載した〈日々の想い〉に新稿を加えたもの)が入稿直前に失せ、苦心のすえ原稿を再生、ひと月 遅れで入稿したのだった。吉岡が先に装丁を手がけた《父の帽子》(筑摩書房、1957)と《靴の音》(同、1958)には後記がないから、本書に〈後記〉が付されたのは初めの原稿がな くなったせいかもしれない。さて、本文から引くならやはり〈卵〉だ。

新鮮な卵の、ザラザラした真白な殻の色は、英吉利麺麭の表面の細かな、艶のある気泡や、透明な褐色の珈琲、白砂糖の結晶の輝き、なぞと同じように、楽しい 朝の食卓への誘いを潜めているが、西班牙の街の家のような、フラジィルな(ごく弱い、薄い)代赭、大理石にあるような、おぼろげな白い星(斑点)のある、薔薇色をおびた代赭、なぞのチャボ卵の殻の色も、私を惹きつける。たべるのには代赭色のが美味しく、薔薇色をおびて、白い星のあるのはことに美味しいが、楽しむために、真白のも買ってくる。朝の食卓で、今咽喉に流れ入った濃い、黄色の卵の、重みのある美味しさを追憶する時、皿の上の卵の殻が、障子を閉めた ほの明るい部屋のように透っているのを見るのは、朝の食卓の幸福である。(本書、四八〜四九ページ)

森茉莉は吉岡実が《ちくま》の編集長になった最初の第21号(1971年1月)に〈森の中の木の葉梟〉を寄 せている(翌1972年8月の第40号に も〈マドゥモアゼル、ルウルウ〉を寄稿)。小島千加子による本書〈後記〉解題の「著者と近づきになった人で、何らかの当惑乃至困惑を味わった人もいると思 うが、その頂点に立つのが吉岡実である。詩人の吉岡実が直面した津波のような災難の前には、他の人々は黙って脱帽するしかない。著者の珍らしく殊勝な感じ の文章が、それをよく伝えている」(《森茉莉全集〔3〕》、筑摩書房、1993年9月20日、六九四〜六九五ページ)を考えあわせると、これは吉岡の原稿 依頼に応える形で、森なりに返礼したものか。
本書の仕様は一八八×一二九ミリメートル・二三四ページ・上製紙装・貼函。装画・落合茂。森の本では《靴の音》以来一〇年ぶりの吉岡装丁だが、この間で書 籍の印刷技術は大きく変化した。本書は本文こそ活字(活版)印刷だが、函は写植・平版印刷へと替わった。表紙の平のカット(テントウムシ)と背文字は金で 箔押しが施してあり、資材面でも、単行本のある臨界を示している。

森茉莉《記憶の絵》(筑摩書房、1968年11月30日)の本扉と函
森茉莉《記憶の絵》(筑摩書房、1968年11月30日)の本扉と函


吉岡実の装丁作品(39)(2006年10月31日)

森茉莉の《靴の音》(筑摩書房、1958年10月20日)は、山田珠樹との離婚の経緯を小説ふうに書いた〈記憶の書物〉など、全10篇を収めた第二 著作集。吉岡実は前作《父の帽子》(筑摩書房、1957)に続いて、造本・装丁を担当している。

 私にとつて、「森鴎外」といふものについて書くことはひどく難しい。私は「森鴎外」といふ人を、よく識らないからで、ある。鴎 外について書くのには、私 はあまりに何も識らない。私の知つてゐるのは、その膝に乗つて体を揺り、歓びに満ちて胸に寄りかかつた父で、あつた。公園のベンチに腰をかけ、微笑した顔 を小刻みに肯かせて、私を側へ招ぶ父で、あつた。生温い親〔ママ〕衣の背中に私を寄りかからせた儘で、屈んで書物を読む父で、あつた。(本書、二七ペー ジ)

吉 岡が〈遠い『記憶の絵』――森茉莉の想い出〉で一部を引いている〈森鴎外――鴎外と獅子〉の冒頭の段落だ。一体に森茉莉には妙な処で読点を打つ癖があり、私はこの「で、あ」のような打ち方が好きでない。「私は「森鴎外」といふ人を、よく識らないからである。〔……〕私の知つてゐるのは、その膝に乗つて体を 揺り、歓びに満ちて胸に寄りかかつた父であつた。公園のベンチに腰をかけ、微笑した顔を小刻みに肯かせて、私を側へ招ぶ父であつた。生温い襯衣の背中に私 を寄りかからせた儘で、屈んで書物を読む父であつた」のほうが、よほどエレガントではなかろうか。
本書の仕様は一八〇×一二五ミリメートル・二一〇ページ・上製紙装・貼函。奥付は前作とは異なり、本文用紙に印刷されている。だがそれが、右ページで終 わった本文後にまるまる一丁(表裏のページ)の白があって、本文の最終二〇二ページの対向にではなく二〇五ページめに配されているのはどうしたことだろう (二〇三ページめなら改丁で、なんの問題もない)。
本書の装丁は《父の帽子》を 踏襲している。ところで、森茉莉は続く第三著作集の《濃灰色の魚》も筑摩書房から1959年12月15日に出している。毎年1冊刊行というハイペースだ。 《濃灰色の魚》の装丁は栃折久美子だが、本扉の文字処理は吉岡の《父の帽子》《靴の音》と同じで、三部作を意図しているに違いない。一方、表紙のカット (吉岡装丁の2冊は表紙に書名だけ)には栃折らしい工夫がこらされている。濃灰色の横長不定形の色面に魚の形にも見える輪郭を描きこみ、中に「こいはい  いろの/さかな」とひらがなで書いてあるのだ(線画・書き文字とも白ヌキ)。
《靴の音》の奥付裏には、吉岡がレイアウトしたものと思しい前作の広告が載っているので、掲げておく。吉岡は、この年11月20日に書肆ユリイカから《僧 侶》を出しており、著者も吉岡を筑摩書房の社員であると同時に、詩人として認めたことだろう。なお本書は、林哲夫《文字力[もじりき]100》(みずのわ 出版、2006)に、函・表紙の書影とともに掲載されている。

森茉莉《靴の音》(筑摩書房、1958年10月20日〔写真は同年11月30日発行の二刷〕)の本扉と函 森茉莉《靴の音》(筑摩書房、1958年10月20日〔写真は同年11月30日発行の二刷〕)の奥付裏広告
森茉莉《靴の音》(筑摩書房、1958年10月20日〔写真は同年11月30日発行の二刷〕)の本扉と函(左)と同・奥 付裏広告(右)


吉岡実の装丁作品(38)(2006年9月30日)

森 茉莉の《父の帽子》(筑摩書房、1957年2月15日)は、文壇デビューのきっかけとなった随想集。小島千加子の〈解題〉に「与謝野寛・晶子の主宰する短 歌雑誌「冬柏」に、著者は三十歳頃から随筆を寄せたり、鴎外選集の月報などに、鴎外にまつわる幼時の思い出を書いたりしていた。それらに未発表原稿を併せ てまとめた一冊である」(《森茉莉全集〔1〕》(筑摩書房、1993年7月20日、六三五ページ)とある。同社から刊行されることになったのは、集中の一 篇〈「半日」〉が《現代日本文学全集〔第7巻〕》(筑摩書房、1953)月報に発表されたことがきっかけだったのだろうか。――わたしが〈父の帽子〉を現 代国語の教科書で読んだとき、鴎外はむろん知っていたが茉莉は未知の書き手だった。以来、森茉莉の熱心な読者でないため、本書にまつわる著者の証言を詳ら かにしないのは残念である。
吉岡実は「私は縁あって、処女出版の『父の帽子』と、二冊目の『靴の音』の造本・装幀を、手がけている。昭和三十二年ごろのことだから、思えば旧くからの 知り合いということになる。常に親しくしていたわけではないが、身辺を飾らぬ人柄と創造精神には、心惹かれていた」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑 摩書房、1988、三四八ページ)と、追悼の意をこめて〈遠い『記憶の絵』――森茉莉の想い出〉に書いている。
《父の帽子》の仕様は一八〇×一二四ミリメートル・二〇八ページ(奥付は後見返しの本文対向ページに貼付)・上製紙装・貼函。本書の装丁上のポイントは 「・」(中黒[なかぐろ])の使い方にある。函の平には横書きで「父の帽子・森茉莉/〔果実のカット〕/筑摩書房・1957」、別丁本扉には縦書きで「森 茉莉・父の帽子〔赤で印刷〕・筑摩書房1957」とある(最後の「筑摩書房1957」は、発行所と出版年を二行に割ってあるのが珍しい)。森茉莉、父の帽 子、筑摩書房の三要素は欠かせないから(本体や函の背文字はそうなっている)、1957が入ってきたとき、これら四つを中黒で括ることで要素数を減らして レイアウトしたものか。

 下の部屋部屋はいつも、静かだつた。夏の真昼、蝉の声に囲まれた家の中を歩いて、東の端の部屋へいくと、父が本を読んでゐた。 白い縮の襯衣と、同じ洋袴 下を着た父は膝を揃へて坐り、畳に肱をついてゐる。開いた本の頁の端を象牙色の手が軽く、抑へてゐる。余り深く截らない真白な爪をつけた指が、本の頁を持 つてめくる。白い、ザラザラした紙の上には黒いかぶと蟲のやうな字が、蟲の喰つた跡のやうな模様を白く残してきつちりと、並んでゐる。薄緑や薔薇色に光る 貝殻の灰皿の上には、白い灰の積つた葉巻が、載つてゐる。襯衣の背中に顔をつけると、洗つたばかりのやうな清潔な皮膚の匂ひがした。(本書、二三ページ。 ルビは省略した)

この〈幼い日々〉に限らず、森茉莉の文章は旧字で読みたいところだが、新字に改めてもその香気が失せないのは見事というほかない(《森茉莉全集》に 倣って、「蟲」を「虫」としなかった)。

森茉莉《父の帽子》(筑摩書房、1957年2月15日〔写真は同年10月25日発行の四刷〕)の本扉と函
森茉莉《父の帽子》(筑摩書房、1957年2月15日〔写真は同年10月25日発行の四刷〕)の本扉と函


吉岡実の装丁作品(37)(2006年8月31日)

保 苅瑞穂《プルースト・印象と隠喩》(筑摩書房、1982年8月30日)は、マルセル・プルーストの美学の萌芽を初期の美術批評に求め、思想と文体の成長過 程をたどることで、大作《失われた時を求めて》誕生の秘密に迫る思索の書である。保苅氏は本書の続篇と言える《プルースト・夢の方法》(筑摩書房、1997年1月25日)の〈あとがき〉に「一九七三年に、はじめてわたしの小文が「ちくま」に掲載されたのも淡谷〔淳一〕さんからの依頼があったからで、当時編集長だった吉岡実氏がその小文について漏らされた感想をそっと教えてくれたことなども、いまだにはっきりと覚えている。昨日のことのようだといって も、嘘にはならない」(同書、二四九〜二五〇ページ)と書いている。その《ちくま》第55号(1973年11月) 掲載の文章は〈プルーストの出発点〉で、保苅氏は自身訳した《プルースト全集13〔ジャン・サントュイユV〕》(筑摩書房、1985年7月30日)の〈解 説――『ジャン・サントュイユ』のために〉で引用している。本書に結実する着想の、最も早い時点における表明だろう。

彼〔プルースト〕は尺度を以って存在を計量しない。無知の眼で外界や人間の心的現象を熟視して対象の無垢な生命を感得しようと決 意する。(中略)/デカル ト的と形容してもいいこの方法的決意は〔……〕対象との直接的接触にすべてを賭ける画家の仕事に惹きつけられてゆく必然をも明らかにしている。事実この方 法の自覚は十八世紀の画家シャルダンの絵の秘密を分析することではじめて彼に与えられるのであって、『シャルダン』(一八九五年九月)を書き上げると彼は 直ちに『ジャン・サントュイユ』に着手する。つまり方法の実践である。そしてこの小説の執筆の過程で叙述、構成、文体等の問題が具体的な形で現われてくる だろう。こうして彼の長い模索が始まる。プルースト二十四歳の秋である。(同書、三八六ページ)

天 沢退二郎は「一時期筑摩書房の「ちくま」という小雑誌の編集を吉岡さんがされてましたが、編集者としてそこに集ってくる文章に対してひじょうに厳しい批評 を持っていましたよね」(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991、四八ページ)と語っており、〈プルーストの出発点〉についての吉岡の感想は書き手を鼓舞する類のものだったに違いない(保苅 氏は1978年2月にも、吉岡編集の《ちくま》第106号に〈吉田健一氏追慕〉を寄せている)。かつての「小文」 からほぼ十年後、筑摩書房を退いていた吉岡に本書の装丁を依頼したのは、担当編集者の淡谷さんだろう。
《プルースト・印象と隠喩》の仕様は一八七×一二九ミリメートル・三〇六ページ・上製クロス装・ジャケット。濃い青緑のクロスにグレイの背文字が静謐なた たずまいを見せる表紙は、吉岡実装丁のなかでも特筆に価する。それに較べると、紙ジャケットはあまりに簡素にすぎよう(仮にそれが、表紙をこそ観てほしい という装丁者の読者への目配せであったにしても)。本扉の図像は、ラスキンによるスケッチ(ボッティチェリ描くところのエテロの娘)を繰りかえしコピーし たためか、諧調のない版画のような仕上がりになっている。なお、1997年10月刊のちくま学芸文庫版《プルースト・印象と隠喩》のジャケットには、シャ ルダンの油彩〈野いちごの籠〉が掲載されている。

保苅瑞穂《プルースト・印象と隠喩》(筑摩書房、1982年8月30日)のジャケットと表紙 保苅瑞穂《プルースト・印象と隠喩》(筑摩書房、1982年8月30日)の本扉
保苅瑞穂《プルースト・印象と隠喩》(筑摩書房、1982年8月30日)のジャケットと表紙(左)と同・本扉(右)


吉岡実の装丁作品(36)(2006年7月31日)

大 岡信詩集《水府 みえないまち》(思潮社、1981年7月1日)は吉岡実が装丁した初めての大岡信の著書である。そのあたりのことを本書の担当編集者・八 木忠栄が次のように書いている。「大岡さんがおよそ一年間、フランスとアメリカで過ごす予定で日本を発たれる三日前、吉岡実と私は深大寺のお宅を訪ねた。 出発までに『水府』の装幀プランを、どうしても大岡に見せておきたかった。この日の吉岡さんは装幀者として同行された。〔……〕装幀については、吉岡さん しかいないとひそかに決めていた。吉岡さんのかっちりとした装幀は定評がある。しかもお二人は古くからの親友だが、大岡さんの数ある著書のうち、まだ一冊 も吉岡さんは装幀していなかった。/ブルーの花模様の輸入紙を思いきって表紙に使い、白の背クロス、グレイのさらりとしたスマートな函。スケッチと見本紙 に見入り、大岡さんは真顔でうなずき、気に入ってくれた。/帰りに、吉岡さんとつつじヶ丘駅前の喫茶店に入った。「気に入ってくれて、ホッとしたよ。」眼 をギョロつかせながら、装幀家は安堵感を素直にあらわして、コーヒーをすすった。/大岡さん滞仏中に『水府』はできあがった。詩集のできあがりには、著者 も装幀家もともに満足してくださった」(《詩人漂流ノート》、書肆山田、1986年8月25日、一二〜一三ページ)。一方、大岡信は次のように記してい る。

 私はこうして五十になった。一種の中仕切りとしてこの詩集をまとめることに、結果としてなった。それで、畏友吉岡実に詩集の装 幀を依頼した。彼は筑摩書 房在勤中から装幀を手がけていて、退職後の今はその数もぐんとふえている。吉岡さんに装幀を、と願っている人々も少なくない。私は何かの意味で私にとって 記念すべき本の時に彼に頼むつもりでいた。『水府』という詩集はそれに近い。/吉岡実は快諾してくれた。蒼い花模様の輸入紙の現物持参で、わざわざ拙宅に 足を運んでくれ、装幀プランの図とともに、こうなるよという概略を示してくれた。いい本ができること疑いなしというプランだった。/「自分の本に使いたい 案なんだよ。自分でやってみたいと思うものでなくちゃあさ」/吉岡実はそう言った。同感、共感。/私は今までも、加納光於、宇佐美圭司、中西夏之など、敬 愛してやまぬ画家の友人たちに本を飾ってもらったことが多い。自装も何冊かしたことがある。吉岡実の装幀は、それらとはまた別の小宇宙だ。私は幸せを感じ た。(《人麻呂の灰――折々雑記》〈友達の装幀〉、花神社、1982年11月25日、五五〜五六ページ)
本書の仕様は二一四×一四二ミリメートル・一六二ページ・上製紙装(背クロスの継表紙)・機械函に貼外題。佳篇〈螢火府〉の詩句「マルタもハヤも野の中央 を縦横し」のマルタとハヤは、題辞に大岡信を引いた吉岡の〈円筒の内側〉(H・28)の本文にも登場する。

大岡信詩集《水府 みえないまち》(思潮社、1981年7月1日)の函と表紙
大岡信詩集《水府 みえないまち》(思潮社、1981年7月1日)の函と表紙


吉岡実の装丁作品(35)(2006年6月30日)

前 登志夫歌集《繩文紀》(白玉書房、1977年11月10日)を最近まで見ることができなかった。吉岡家蔵の装丁作品記録(《現代詩読本――特装版 吉岡実》で年譜を編む際に、吉岡陽子さんからお借りした資料のひとつ)に、年号と版元名だけで書名不明の1冊があった。該当する年代の白玉書房の刊行図書 を国会図書館で調べてみたものの、〈吉岡実書誌〉の〈装丁作品目録〉を編む時点ではつきとめられなかった。先日、インターネットの古書情報で本書の装丁が 吉岡実によるものだと知り、さっそく購入した。ちなみに本書は国会図書館のNDL-OPACには見えず、《繩文紀》で検索すると、収録書として《前登志夫 歌集》(小澤書店、1981)、《縄文紀〔短歌新聞社文庫〕》(短歌新聞社、1994)、《現代短歌全集〔第16巻〕》(筑摩書房、2002)の3冊が該 当する。
吉岡実は、筑摩書房での業務を除けば、親しい詩人や作家から依頼されて装丁することが多かったわけだが、本書のように著者もしくは出版者(編集者)からの 依頼でその一点だけ吉岡実装丁というケースも見うけられる。著者の〈あとがき〉は「この集に收めた歌五八八首は、昭和四十六年秋から、ことし春までの七年 にわたる間に出來たものである。『子午線の繭』、『靈異記』に續く第三集である」(同書、二三六ページ)と始まり、「この集のために、裝幀の勞を施してく ださつた詩人の吉岡實氏と、誠意をもつてこの本づくりに萬端の努力を惜しまれなかつた石川雄氏に、心から感謝申し上げる。/昭和五十二年九月盡日/吉野 山中の茅舍にて/前 登志夫」(同書、二四四〜二四五ページ)と終わる。旧字・旧かなによる本文表記は、前登志夫の端正であると同時に猛猛しい詩情を盛る のにふさわしいと思われる(以下、漢字は新字に改めて引く)。

一茎の菜の花たちて天も地もしろく曇りき童蒙の日は
雪嶺の麓を行きてつゆふくむ鬣[たてがみ]ありきながき眠りに
わが額[ぬか]に嵌むべき星かみんなみの森の異形は暁に見つ
谷蟆[たにぐく]のさ渡る極みかなしみは春の岩間に滴りやまず
草の上をとびとびにくる夕ひかり夜の梯子となりゆくひかり

本 書の仕様は二二一×一四二ミリメートル・二五八ページ・上製布装・貼函。短歌新聞社文庫版(1994年12月25日)の裏ジャケットに、函のモノクロ写真 とともに「昭和52年11月10日白玉書房発行。A5変型判上製箱入246頁定価3500円。1頁3首組588首収録。装釘・吉岡 實」とあるが、装画 (函・扉とも同じ絵柄)がだれによるものか、本書にも記されていない。太太とした明朝体の文字と拮抗する呪術的なカットは、落合茂さんの手になるものかも しれない。

前登志夫歌集《繩文紀》(白玉書房、1977年11月10日)の函と表紙
前登志夫歌集《繩文紀》(白玉書房、1977年11月10日)の函と表紙


吉岡実の装丁作品(34)(2006年5月31日〔2006年6月30日追記〕)

飯島耕一詩集《ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩》(書肆山田、1976年3月15日)は、同年8月刊行の吉岡実の詩集《神秘的な時代の詩〔普及 版〕》とほとんど同じ体裁で刊行された。飯島は前年に行なわれた吉岡との対話〈詩的青春の光芒〉で、こう口火を切っている。

 いつか、書肆山田でね、『ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩』という贅沢な詩集をつくったんだけれど、あれの、なんか普及版を つくりたいというんです よ。あれは百部つくったんだけど、ばか高い本だったから、ぼくもちょっとうれしい反面、がっかりしてね。立派な本でもあんまり高いとね、なんかケチョンと しちゃうんですよ。それに百部だったから、もう少したくさん適当な値段でというので、それはまあ賛成してね。ただ、おんなじ本をつくってもしかたがないか ら……思いついて、「ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩」っていう長い詩をいちばんラストにおいて、その前の詩をずーっと集めてみたらどうだろうかという んでね。ちょうど一九五六年から一九六六年までのほぼ十年間ね。その中心に「鰐」の時代があるんですけれど、そういう十年間の詩集というのにしたいんです よ。だから『何処へ』より前の詩から入るわけ。今まで詩集に入れてないのもあるんですよ。「鰐」の創刊号に出した詩とかね、そういうのを入れてぼくがちょ うど二十代の半ばで五六年っていうと吉岡さんと初めて会ったときなんですよ。(《ユリイカ》1975年12月臨時増刊号、一九二〜一九三ページ)

限 定版を見ていないので両者を比較できないのが残念だが、単に装丁を変えただけでなく内容も新しくなっているようだ。その間の事情を飯島は〈作品ノート〉に 書いている。「詩集『ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩』は、一九七一年十月、山田耕一が社主だった頃の書肆山田(東京都台東区浅草一丁目)から初版が刊 行された。最初、評論集『シュルレアリスムの彼方へ』に収めていた長詩「プロテ」は、改作ののち、さらにこの詩集に収め、それになおも手を入れてようやく 本巻の形に定着した。/この詩集は最初は八〇部の限定で、のち一九七六年に装幀吉岡実により、『何処へ』や未刊の詩「騒がしい鎮魂歌」などとともに、増補 版として目黒区自由が丘に移った書肆山田から再刊行となる。ここには「鰐」の頃の詩が多く入っている」(《飯島耕一・詩と散文2》、 みすず書房、2001年2月1日、三一八ページ)。本詩集には清岡卓行による《何処へ》の解説が再録され、巻末に大岡信と飯島の対話〈「鰐」とその 周辺〉が添えられ、吉岡実の装丁、とかつての《鰐》の同人が(岩田宏を除いて)紙上で顔を揃えた。
装丁に関しては、臼田捷治が「飯島耕一の『ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩』(書肆山田、七六年)も徹底して明朝体が使われている。吉岡の好んだフラン ス装であるが、ここでの装飾要素は、瀟洒な囲みの飾りケイである。函は植物模様のケイであり、表紙は刺繍文様風のケイという違いはあるが、じつに垢抜けし た、趣味のよい仕上がりとなっている」(《装幀時代》、晶文社、1999年10月5日、六四ページ)と書いている。本書が縦長の変型判なのは、もしかする と書名が《ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩》とかなり長めなのと関係があるかもしれない(本扉は小口に寄せた縦一行ベタ組で、色刷の書名がスミ文字の著 者名と出版社名にはさまれている)。仕様は二一九×一三〇ミリメートル・一七〇ページ・並製フランス装・機械函。《神秘的な時代の詩〔普及版〕》と比較す るため、両者の違いを摘する。

本 文ページの左右1mmの違いは製本上の誤差だろう。前者はノドの空きが10mmほどで、やや狭く感じる。それを改善したのだろうか、後者では約15mmと 広くなっている。外装だけでなく本文組版まで吉岡の手になるものか定かでないが(おそらくそうだと思うが)、この措置は奏効している。

〔付記〕
《アメリカ》(思潮社、2004)は飯島さんの最新詩集だが、その一篇〈荻生徂徠 走る〉の後に「鴎外の『北條霞亭』をもその後読んでいて、少し驚いたこ とがあるので記しておきます。巣鴨の真性寺と言えば吉岡実の墓所ですが、霞亭の墓も同じ真性寺にあり、墓碣銘[ぼけつめい]は頼山陽によるという」(同 書、一四三ページ)と見える。

飯島耕一詩集《ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩》(書肆山田、1976年3月15日)の函と表紙 吉岡実詩集《神秘的な時代の詩〔普及版〕》(書肆山田、1976年8月15日)の函と表紙
飯島耕一詩集《ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩》(書肆山田、1976年3月15日)の函と表紙(左)と吉岡実詩集 《神秘的な時代の詩〔普及版〕》(同、同年8月15日)の函と表紙(右)

〔2006年6月30日追記〕
《ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩》の限定版について、《飯島耕一〔現代の詩人10〕》(中央公論社、1983年10月20日)の〈鑑賞〉で平出隆が書 誌を記している。まだ本書を見ることができないので、該当箇所を引用させていただく。「詩集『ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩』は一九七一年十月、書肆 山田から限定八十部で刊行された。「椅子の記憶」「ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩」の二章から成り、前者には「椅子の記憶」「飛ぶものの記憶」「都市 歩行の意識」「この都市」「食器の予感」の五篇、後者には「ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩」「プロテ」の二篇が収められている」(同書、四七ペー ジ)。「一九七八年に刊行された、その時点での全詩集というべき小沢書店版『飯島耕一詩集』では、〔……〕七一年版『ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩』 に収められた、タイトル・ポエムを除く全六篇が独立して『プロテ・椅子の記憶』なる章が詩集としてあらたに立てられている」(同書、四八ページ)。


吉岡実の装丁作品(33)(2006年4月30日)

入沢康夫《ネルヴァル覚書》(花神社、1984年10月25日)には想い出がある。〈吉岡実の話し方〉に「ここに明治大学詩人会の忘年会(1984年12月9日、東京・下北沢)でのスピーチの録音があるので、所蔵のテープから起こしてみよう。/司会者の「今日は明大詩人会のためわざわざおいでくださいまして、ありがとうございました。それでご来客の言ということで、入沢〔康夫〕先生と吉岡実さんにひとことずつお願いします」の口上のあと、拍手で迎えられた吉岡は一分三〇秒ほどスピーチをしている」とあるまさにその日、初めてお目にかかる入沢さんに署名していただくべく持参したのが、本書だった。私は卒業論文こそアポリネールだったが、ネルヴァルにも大いに関心があったから、当時は研究書として読んだように思う。今回本書を再読して、「ネルヴァル研究三十年の果実」(帯文)であるのはまぎれもないものの、詩人・入沢康夫の作品という思いを深くした。詩篇〈銅の海辺で〉(詩集《死者たちの群がる風景》では「――いま一人の死者のために」だった題辞が「――Gerard de Nervalに」という献辞に改められた)が序詩として掲げられており、巻頭から研究書とは微妙に調子が異なっている。著者が「番外の章」と呼び、「ネルヴァルとラフカディオ・ハーンとの間の因縁話を書き綴っ」(本書、二〇九ページ)た〈16――愛神の島にて〉の章は、それまでの各章を中空に引きあげている鈎のようで、とりわけ心に沁みた。だが私は、本書の別の一節に慄いた。

また、J・セヌリエ作製の詳しい『ネルヴァル書誌』(一九五九)でも、この詩〔〈シャルル六世の夢想〉〕の初出を、〔……〕一八四七〔……〕としており、その後、約十年ごとに出た二冊の『補遺』においても、この点の訂正はなされていない。しかしながら、すでに本書の2章で指摘しておいたように、一八四七は誤りで、一八四二[、、]とするのが正しいことを、私たちは現物からのコピーで確認している。〔……〕ピショワの場合も、せっかく註で日付を問題にしかけたのだから、今一歩進めて国立図書館にある現物に当ってみればよかったのにと思う。(本書、二三〇〜二三一ページ)

本書の仕様は一八九×一三〇ミリメートル・三〇〇ページ・上製クロス装・ジャケット・貼函(貼題簽)。別丁本扉のあとに、ナダール撮影の写真から画に起こしたネルヴァルの肖像が口絵として配されていて、帯と同じ薄紫色でジャケットに刷られた女性の肖像(ネルヴァルによる鉛筆デッサン〈アシーヌ〉)と対をなしている。巻末には〈ネルヴァル略年譜〉〈ネルヴァル関係邦文文献抄〉〈主要人名原綴一覧〉まであって、研究書としても遺漏がない。
〈あとがき〉に吉岡実の名は見えないが、入沢さんも編者の一人である《ネルヴァル全集〔全3巻〕》(筑摩書房、1975〜76)の刊行を吉岡が後押ししたこともあって、本書の装丁を依頼したのではあるまいか(《ネルヴァル全集》の装丁は渡辺一夫)。《ネルヴァル覚書》は、カンバス系のクロス(その色合いは、入沢さんが関わった同じ筑摩の全集でも、ネルヴァルの臙脂ではなく、吉岡が装丁した校本宮澤賢治の紺青を引いている)のかっちりとした、まことに好ましい装丁である。

入沢康夫《ネルヴァル覚書》(花神社、1984年10月25日)の函とジャケットと表紙
入沢康夫《ネルヴァル覚書》(花神社、1984年10月25日)の函とジャケットと表紙


吉岡実の装丁作品(32)(2006年3月31日)

岡崎清一郎(1900〜1986)には今日、簡便な詩集が見あたらず、ある程度まとめて作品を読もうとすると、吉岡実が装丁した《岡崎清一郎詩集》 (思潮社、1970年7月1日)あたりに頼るしかないようだ。長詩で知られる岡崎だが、処女詩集《四月遊行》の短詩を引こう。

離別|岡崎清一郎

告別が掌[て]を揚げると
指の股で蝶が気絶する。

《岡崎清一郎詩集》の仕様は二二〇×一五〇ミリメートル・四六〇ページ・上製継表紙(背革・平紙)・貼函・段ボール函(貼題簽)、限定700部記番。表紙や函に見えるカットの絵柄は、詩集《白薔薇館》の〈大団円〉の一節「睡れるメジユウサでも見付てはと/私の恋人めは懼[おそ]るおそる去年の叢[くさむら]をのぞいてもゐますが はあてさてどんなものですかね。」(《岡崎清一郎詩集》、三六ページ)から採ったものかもしれない。本書に収録されているのは次の12詩集である。

  1. 白薔薇館(未刊) 鈔
  2. 四月遊行(?〔ガク〕房所、1929) 鈔
  3. 神様と鉄砲(ボン書店、1934) 鈔
  4. 男絵袖珍版(未刊) 鈔
  5. 紫野管見(未刊) 鈔
  6. 悲心藁本(未刊) 鈔
  7. 火宅(自家版、1934) 鈔
  8. 肉体輝燿(文芸汎論社、1940) 鈔
  9. 奥方(未刊) 鈔
  10. 夏館(湯川弘文社、1943) 鈔
  11. 韜晦乃書(岩谷書店、1951) 鈔
  12. 新世界交響楽(造型出版社、1959)

一 方、著者の〈後記、覚書〉に挙げられた詩集は上記の収録作品と同一ではなく、未刊詩集《天鵞絨服の紳士》に始まり最新詩集《古妖》(落合書店、1969) に至る30冊に及ぶ。すなわち《岡崎清一郎詩集》は戦前の未刊詩集を数多く含む、選詩集だったのである。1970年の時点で30タイトルとはなんとも多産 な詩人だが、歿後には全5巻・3000ページになんなんとする《岡崎清一郎全詩集》(沖積舎、1987〜1989)が出ているのだから、驚くにはあたらな い。吉岡実が岡崎清一郎の詩をどう読んだか知るすべがないのは残念だと思っていたら、同書の〈来簡集〉に貴重な証言があった。

 岡崎様の詩は戦前から愛読し、『四月遊行』からほとんどの詩集を持っております。この全詩集(『岡崎清一郎詩集』のこと・編集 部注)によって、岡崎様の 詩のよさが、広く若い人々にもわかるように願うものです。出版社の手落で、小生の名が装幀者としてないのが、残念です。よい記念なのに。(《岡崎清一郎全 詩集〔第5巻〕》、沖積舎、1989年7月1日、七八七ページ)

そう、《岡崎清一郎詩集》には装丁者のクレジットがないのである。ところで、ウェブページ〈玉英堂書店 僧侶〉に 吉岡が岡崎に宛てた署名入の詩集《僧侶》が掲載されている(価格は130,000円)。日付の記載はないが、見返しの筆跡を見るかぎり、刊行して間もない 献本と思しい。吉岡は私宛ての最後のハガキに「岡崎清一郎の詩誌「近代詩猟」の昭和三十四、五年に詩を発表しています」(1990年4月17日付)と書い ており、自作〈夜曲〉(未刊詩篇・8)の存在は記憶にあった(初出《近代詩猟》27号の末尾「一九五八・八・四」の年は、陽子夫人によれば「一九五九」の 誤り)。それらや本書の装丁のことを考えると、岡崎清一郎は吉岡実が敬愛する詩人の一人だったと思われる。

《岡崎清一郎詩集》(思潮社、1970年7月1日)の函と表紙
《岡崎清一郎詩集》(思潮社、1970年7月1日)の函と表紙


吉岡実のレイアウト(3)(2006年2月28日)

吉岡実は詩集《サフラン摘み》(青土社、1976)で第7回高見順賞を受賞した。そのためだけではないだろうが、高見秋子による《樹木》送付状に「このほど「高見順賞」が思潮社の手を離れてひとり歩きをすることになったのをしおに、高見順文学振興会の会報として、同封のような小冊子「樹木」を創刊いたしました」とある第13回の同賞授賞を告知する《樹木――高見順文学振興会会報》創刊号(高見順文学振興会、1983年3月10日)の表紙を担当している。

《樹木――高見順文学振興会会報》Vol.T(高見順文学振興会、1983年3月10日)の表紙 
《樹木――高見順文学振興会会報》Vol.T(高見順文学振興会、1983年3月10日)の表紙

創刊号の仕様はA5判・四〇ページ・平綴じ。表紙は全面写真で、文字白ヌキ。副題は背後が白くとんでいるため読みにくい。目次項目とクレジット(同誌、〔一ページ〕)を引く。

第13回「高見順賞」決定
受賞詩集『死者たちの群がる風景』より
入沢康夫 受賞の言葉
――選評――
 吉岡実 詩へ希望が持てた……/中村稔 豊饒な死の世界
 篠田一士 艶なる返し歌/吉増剛造 詩のあたらしい炉に
 長谷川龍生 鳥髪は新しい光である

大岡信 高見順/高見順賞

――高見賞の詩人たち――
吉増剛造 巨大な海壁に向けて歩いて行った
三木卓 腰は痛く心は軽く
粕谷栄市 奇妙な荷物
中江俊夫 左から右へ
吉原幸子 式と法事とお酉様

寺田透 告別――追悼・鷲巣繁男

中村真一郎 vs 高見秋子 対談・現代詩の未来を拓くために

中島和夫 三国「高見順書斎」の前で

 振興会ニュース
 編集後記

表紙装幀 吉岡実
写真―表紙・本文― 今泉治身
題字―高見賞の詩人たち― 中村真一郎

〈振興会ニュース〉に「第十三回の選考をもって任期五年を了えた吉岡実氏」(同誌、三五ページ)とあるように、吉岡はこの回を最後に1979年の第9回以降務めた選考委員を退いている。
翌年の第14回は、三好豊一郎詩集《夏の淵》が受賞した。《樹木》第2号(1984年3月5日)には写真・題字・カットのクレジットしかなくて、「表紙装幀」がだれかわからない(創刊号を基に、編集部が行なったのだろうか)。この号の〈高見賞の詩人たち〉は飯島耕一、吉岡実、粒来哲蔵の3人。吉岡執筆の〈「受賞前後」の想い出〉は《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)に収められた。吉岡の写真(下図参照)を含め、詩人の肖像は今泉治身による撮りおろしで、尾花珠樹の〈編集後記〉が撮影の様子を伝えている。

一方、吉岡実氏は「写真はいちばん厭。しばらく考えさせてよ」。それはほとんど撮影拒否に近い声。三ヵ月後、「あなたがたの熱意に負けた」と姿を現わしてくださった吉岡さん、こうなったらどこにでも立つし、どこでも歩くよ。ただし俺が自分からカメラの前に身をさらすのは、おそらくこれが最後だ」と。人混みを縫い坂をのぼり、終着は閑静な公園のベンチ。別れぎわ、詩人は「詩は謎」の言葉をのこし、〈時空と謎とに身をまかせ〉るかのように、ふたたび都市の雑踏のなかに……。(同誌、四〇ページ)

このとき撮影した写真が、《現代詩手帖》1990年7月号〈特集 追悼、吉岡実〉の〈吉岡実、渋谷を行く〉という6点の写真から成るページになったようだ。その最初の1点は《樹木》と同じカットで、「@道玄坂「トップ」横の小路」(同誌、〔一〇ページ〕)というキャプションが付いている。

《樹木――高見順文学振興会会報》Vol.U(高見順文学振興会、1984年3月5日)の表紙 《樹木――高見順文学振興会会報》Vol.U(高見順文学振興会、1984年3月5日)の中面
《樹木――高見順文学振興会会報》Vol.U(高見順文学振興会、1984年3月5日)の表紙(左)と同・中面(右)

ところで吉岡実は、詩集《静物》(私家版、1955)を高見順に献呈している(同書は現在、日本近代文学館所蔵)。高見順が吉岡について書いた文章で最も重要なものは〈詩に関するメモ〉(《文學界》1959年11月号)で、それはこう始まっている(漢字は新字に統一した)。

 「ユリイカ」の伊達得夫に会つて私が、何かめざましい詩集を読みたいが何かないかと問うたら、吉岡実の「僧侶」をすすめられたのは、今年のはじめのことであつた。私はそれを読んでみた。それはまことにめざましい詩集であつた。私にとつてこの詩集を知つたことは、めざましい体験であつた。(同誌、一一四ページ)
高見順の「めざましい」ありようが伝わってくる。吉岡も《サフラン摘み》で受賞して本望だったろう。「――もし選考会で『サフラン摘み』に高見順賞をあげようということになったら、よろこんでお受けするよ。だって私は高見さんを敬愛しているし、高見賞の選考委員も信頼してるから、拒むなんてとんでもない」(《樹木》Vol.21、2003、三三ページ)と小田久郎さんが吉岡の対応を書いている。


吉岡実の装丁作品(31)(2006年1月31日)

井 手文雄詩集《ガラスの魚》(勁草書房、1983年7月15日)は、実質的には最初の詩集である《井手文雄詩集》(思潮社、1975)以降の詩六八篇を収め る。「湯西川秘境の平家落人集落で酒を飲んだ/銚子代りの竹筒をいろりの灰につきさしてあたためた酒だ」と始まる随想風の〈平家落人集落〉のような詩も捨 てがたいが、必ずしも本詩集の特徴的な作風でないため、ここでは吉岡実との関連で次の二篇を引こう。

ノーベル賞作家|井手文雄

外人墓地の近くのレストランで
ひとりコーヒーを飲んだ
すこし離れたテーブルで
少女が三人食事をしていた
その一人の
この世ならぬ美しさに惹かれた
死ぬまで美少女を愛しつづけたノーベル賞作家をふと思った
人間の悲しみ
のようなものが心にふれた
それから丘をおりて
海に近い大通りを歩いた
立ちならぶ公孫樹の
ドイツ的な太い幹と深い茂みが
気分をおちつかせてくれる
白いホテルを通りすぎてから
港に沿った公園に入った
波止場に巨きな船がよこたわっていた
いまにも銅鑼が鳴るような気がした
「永劫の旅人は帰らず」
老詩人の詩句が口をついて出た
別に意味はない――
かるく頭をふって
紅煉瓦とガス灯の街の方へ向った

鎌倉即興――瑞泉寺|井手文雄

ああ 何という
しずかな人群れだろう
老夫婦がいる
恋人同士がいる
子供づれの一家だんらん組がいる
みんな だまって
梅林をそぞろ歩いている
アンリー・ルソーの絵のように
大人も子供も
夢みるような
あどけない顔をしている
遠い明治のように
しっとりと落ちついた光景であった

〈ノー ベル賞作家〉の「永劫の旅人は帰らず」は言うまでもなく西脇順三郎の詩句。「死ぬまで美少女を愛しつづけたノーベル賞作家」は川端康成以外、考えられな い。財政学者としても知られた井手氏は1991年に亡くなったが、本書奥付記載の現住所は横浜市磯子区…となっている。外人墓地や山下公園は氏のホームグ ラウンドだったろう。〈鎌倉即興〉の瑞泉寺もたびたび訪れたのだろうか。井手氏の筆にかかると、この地もまた川上澄夫ふうの異国情緒に満ちた場所となる。 ちなみに、吉岡実は1949年1月30日、梅 の瑞泉寺へ吟行している。
1983年5月の日付をもつ〈あとがき〉は「終りになったが、本集刊行に当り御厚配を戴いた中島可一郎氏および装幀の労を採られた吉岡実氏に対して、深く 感謝する次第である。」と結ばれている。本書の仕様は、二一〇×一四七ミリメートル・一六六ページ・上製クロス装・貼函。函・表紙の魚のカットは《八木忠栄詩集――1960〜1982》(書肆山田、1982)のカットを思わせる。
函の著者名が隠れるのを嫌ったためだろうが、帯の幅がやや狭いように感じる。帯文「孤高の学究生活者の厳しく深き内部に湧き出づる清冽の抒情。いま、勁く 光り輝く詩的空間が手を差しのべる。」の冒頭一字下げにも違和感を覚える。ここはどうしたって天ツキだろう。見返しの用紙は詩集《ムーンドロップ》(書肆 山田、1988)と同じ銘柄、シマメの古染(ただし斤量はワンランク下の四六〈100〉)。吉岡の同資材(現在は廃品)への愛着のほどを偲ばせる。

井手文雄詩集《ガラスの魚》(勁草書房、1983年7月15日)の函と表紙
井手文雄詩集《ガラスの魚》(勁草書房、1983年7月15日)の函と表紙


吉岡実の装丁作品(30)(2005年12月31日〔2011年3月31日追記〕)

年 末年始は温泉に行くこともままならず、こたつに入ってミカンでもむきながら、種村季弘《日本漫遊記》(筑摩書房、1989年6月20日)を開く。帯文に曰 く「江戸といま 自在に駆ける 博学者/旅ゆけば 到るところに 奇談あり/酒に酔い 湯の香に誘われ 迷う道」。目次を引こう。

一 箱根七湯早まわり
二 秋葉路気まぐれ旅
三 北陸こわいものみたさ
四 佐渡めぐり狸道中
五 石見銀山埋蔵金さがし
六 旅芸人東北色修業
七 東海道こじき道中記
八 エキゾティック瀬戸内海紀行
九 伊豆八島ちんたら漂流記
十 山陰道温泉八艘とび
十一 果報は寝て待て奥州温泉記
十二 薩摩入国見たい放題
十三 江戸の道ゆきあたりばったり
〈佐渡めぐり狸道中〉の終わり近くに「その夜は両津に一泊、翌日は新潟、長岡を経て、寺泊に向かった。川路聖謨はここの、いまは公園になっている聚感[し ゆうかん]園の宿で何日も何日も風まちをしたのだった。順徳天皇も日蓮も同じことをした。ここから佐渡の赤泊までの十一里半。その手に取るように見えるは ずの島は雪もよいでかすんでいた」(本書、七二ページ)とあるのが嬉しい(私はこの赤泊の産なのである)。本書を読みながら、刊行に先立つこの年の春、吉 岡実が念願の佐渡を訪れたことを思い出した。
〈あとがき〉にもあるように、本書は《温泉漫遊記》であってちっともおかしくないほど、各章に温泉が登場する(ちなみに佐渡では、両津の住吉温泉、椎崎 [しいざき]温泉、潟上[かたがみ]温泉、新穂[にいほ〔亡母は「にいぼ」と言っていたが〕]の仙道[せんどう]温泉、尖閣湾の先の平根先温泉が見え る)。その〈あとがき〉は「単行本編集に際しては、初代「書物漫遊記」以来の漫遊記編集者、松田哲夫氏の手を今回もわずらわした。挿絵装本、南伸坊氏と吉 岡実氏というのがまたたのしい。以上の方がたに記して感謝する次第である」(同書、二三六ページ)と結ばれている。
漫遊記シリーズは《書物漫遊記》(1979)に始まり、《食物漫遊記》(1981)、《贋物漫遊記》(1983)、《好物漫遊記》(1985)と続いた が、この《日本漫遊記》で終わっている。吉岡が「最近出た《書物漫遊記》が送られてきた。これはユニークな読書遍歴であり、自伝小説とも考えられる。私は かねがね、種村季弘に小説を書くことをすすめてきたが、その試みがはじまったように思えた」と推薦文〈逸楽的刺戟と恩恵と〉に書いているのは、種村が「お そらく吉岡さんは、今後小説も書かれることになるのではないか」(《壺中天奇聞》、青土社、1976、二四六ページ)とその卓抜な吉岡実論〈吉岡実のため の覚え書〉に書いているのと好一対をなす。
本書の仕様は、一八八×一二八ミリメートル・二四六ページ・上製紙装・ジャケット。「装画・挿画」は南伸坊。吉岡実最後の装丁作品となった巖谷國士《澁澤龍彦考》(河出書房新社、1990)の前年(1989年)唯一のこの装丁は、そ れと対照的な生成りの和風な仕上がりである。

〔2011年3月31日追記〕
種村季弘が吉岡実追悼文で本書の装丁に言及した箇所を引く。
「最後にお元気な姿にお目に掛かったのは、昨年夏の澁澤龍彦三回忌の席だったが、それよりすこし前に渋谷道玄坂のコーヒー店ヒル・トップ〔正しくは「トップ」〕の入口で、こちらが出しなに外階段を下りてこられたところを鉢合わせになったことがある。立ち話が長びいた。かねて近刊予定の拙著の装丁をお願いしていたので、その打ち合わせめいた話になってしまったのである。私ごとき末輩の本の装丁をお引受け願えただけでも有難いのに、吉岡さんはたのしげにいろいろとプランをだして興がって下さった。出来上がった本は、一時期からの吉岡さんの引用語をちりばめた詩のように、南伸坊さんの装画を快活に引用しちりばめて、しかも地の端正で静かなたたずまいがごく自然に語りかけてくるような、みごとな装丁に仕上がっていた。私はそれからしばらくの間幸福だった。」(〈朝湯のなかで雨を聴く人〉、《ユリイカ》1990年7月号、三一ページ)

種村季弘《日本漫遊記》(筑摩書房、1989年6月20日)の本扉とジャケット
種村季弘《日本漫遊記》(筑摩書房、1989年6月20日)の本扉とジャケット


吉岡実の装丁作品(29)(2005年11月30日〔2009年3月31日追記〕)

吉 岡実装丁の四方田犬彦《貴種と転生》(新潮社、1987年8月20日)は長篇の中上健次論であり、四方田氏の最初の文芸批評書である。刊行の9年後、増補 改訂版《貴種と転生・中上健次》(新潮社、1996年8月30日)が出ており、その間の事情を著者は〈増補改訂版への序〉でこう書く。「本書は、一九八七 年八月に新潮社より刊行された『貴種と転生』に、新たに第五章後半以下補遺までを加え、本文、註、索引の全体にわたって改訂を施し、題名をあらためたもの である。先行する書物と本書の間には、二つの出来事、すなわち作家中上健次の夭折とその個人全集の完結が横たわっている」(《貴種と転生・中上健次》、〔一ページ〕)。《貴種と転生・中上健次》は初刊の《貴種と転生》を大幅に増補しており、《貴種と転生・中上健次〔ちくま学芸文庫〕》(筑摩書房、2001)にいたっては、組体裁が異なるとはいえ、初刊のほぼ倍に近いページ数になっている。

中上健次は全体を構成しない。ただ、強度の噴きこぼれんばかりの過剰だけを信じている。だから、ダブリンに住まう陰鬱な市民たち を素描する短編に始まっ て、『ユリシーズ』へと不可逆的な変容をとげたジェイムズ・ジョイス。あるいは、陳腐なミュージカルの小曲『マイ・フェイヴァリット・シングス』を素材 に、演奏のたびごとに際限のない再解釈を加え、ついには原曲の数十倍の時間をもった即興行為を行なうにいたったジョン・コルトレーン。『夢の力』に収録さ れたエッセイのなかで、中上が両者を比べていることは興味深い。物語とは旋律[メロディ]に似ている。いくたびとなく反復し、解釈に解釈を重ねて、まった く別の作品を創造することが問題なのだ。(《貴種と転生》、一五〇〜一五一ページ)

断 言とそれに正確に対応する例証の数数。それが四方田批評の最大の魅力である。私は四方田氏の〈内部の貝と外部の袋――吉岡実の海洋生物学〉(《現代詩手 帖》1980年10月号〔特集・吉岡実〕)を読んだときの衝撃が忘れられない。吉岡実は四方田氏の〈吉田文憲への手紙――物語の南北について〉の「書く者 は衰退し、死者にかぎりなく近付くことで、いったい何を受けとるのだろうか」(四方田犬彦《哲学書簡》、哲学書房、1987年4月20日、六五ページ)と いう章句から得た

「書く者は衰弱し
 死者にかぎりなく近付く」

と いう詩句を〈聖あんま断腸詩篇〉(K・12)に書きとどめている。本書の仕様は一九二×一三二ミリメートル・二三〇ページ・上製紙装・ジャケット。難波淳 郎の装画は、表紙とジャケットの表1が鶴を、本扉とジャケットの表4が紅葉をモチーフにしたもの。増補改訂版(装丁は新潮社装幀室)と文庫版(ジャケット デザインは加藤光太郎)の図版は、タイの仏教寺院 Wat Khongkharam の壁画で、その採用は四方田氏が増補改訂版を別の新しい書物として世に送りだそうとしたことの証である。

四方田犬彦《貴種と転生》(新潮社、1987年8月20日)と《貴種と転生・中上健次》(同、1996年8月30日)、《同〔ちくま学芸文庫〕》(筑摩書房、2001年7月10日)のジャケット
四方田犬彦《貴種と転生》(新潮社、1987年8月20日)と《貴種と転生・中上健次》(同、1996年8月30日)、《同〔ちくま学芸文庫〕》(筑摩書房、2001年7月10日)のジャケット

〔2009年3月31日追記〕
四方田犬彦《濃縮四方田――The Greatest Hits of Yomota Inuhiko》(彩流社、2009年2月10日)の著者による書きおろしのコメントに「中上健次について一年に一章ずつ、毎回百枚の作家論を執筆する。 〔……〕そこで一九八三年から発表してきた中上論を纏めたのが、本書である。装丁を吉岡実さんにお願いしたところ、二つ返事で引き受けてくださった」 (〈[貴種と転生]〉、同書、九四〜九五ページ)、「表紙にはタイの寺院の壁画を用いた。バンコクの出版者に許可をとろうと連絡をしたところ、仏教関係の 書物なら使用料はいらないと、気前のいい返事が戻ってきた」(〈[貴種と転生・中上健次]〉、同前、二四九ページ)とある。《濃縮四方田》は、四方田氏が 100冊めの著書としてそれまでの99冊の名場面を自ら選びだした「ポータブル・ヨモタ」だが、同書に上掲「中上健次は全体を構成しない。〔……〕いくた びとなく反復し、解釈に解釈を重ねて、まったく別の作品を創造することが問題なのだ」を含む一節が収録されていたのには、わが意を得た想いだった。


吉岡実の装丁作品(28)(2005年10月31日)

尾 崎雄二郎・島津忠夫・佐竹昭広の《和語と漢語のあいだ――宗祇畳字百韻会読》(筑摩書房、1985年6月10日)は鼎談という形式ながら、宗祇(1421 -1502)の畳字(漢字二字の熟語)をめぐる専門書の趣がある。「宗祇が独吟した畳字(漢語)折込みの連歌百韻を、連歌の面白さを味わいながら読む。和 語を漢語に置きかえる翻訳者宗祇の像を時代の中に眺め、和語と漢語の関係を考える」(帯文)。本書の目次を引いておこう。

  1. 和語と漢語 はじめに
  2. 百韻を読む 初折表八句
  3. 畳字と賦物 初折裏十四句
  4. 俳諧と俳諧歌 二の折表十四句
  5. 俳諧師宗祇 二の折裏十四句
  6. 連歌の運び 三の折表十四句
  7. 須磨の月 三の折裏十四句
  8. 雪月花 名残の折表十四句
  9. 百韻を終る 名残の折裏八句
  10. 近代へ おわりに

「和 歌ではとくに漢語が忌避され、確立した連歌もやまとことばで詠むという和歌の伝統をうけついでいるものですから、そこで漢語を使うというようなことは、ま さに外道の沙汰ですけれども、その外道の沙汰をあえてやってみるというところに、遊びとしての連歌、俳諧としての連歌がある」(佐竹昭広の発言、同書、八 ページ)というあたり、詩作における吉岡実の漢語に対する姿勢と重なるものがある(〈苦力〉の詩句「餌食する」に触れた〈わたしの作詩法?〉を想起せ よ)。
佐竹氏の〈あとがき〉には「終始、会議に立ち合い、傾聴して下さった編集部の柏原成光氏、川口澄子氏、祝部陸大氏〔……〕」(同書、二七三ページ)と見 え、吉岡にはこれらの編集者から装丁の依頼があったのだろう(のちに筑摩書房の社長を務めることになる柏原氏は、PR誌《ちくま》の編集長時代、編集後記で《吉岡実全詩集》の回収に触れている)。
《和語と漢語のあいだ》の仕様は一八九×一二九ミリメートル・三〇〇ページ・上製布装・ジャケット。ジャケットと本扉のヴィジュアルが写真版なのは、吉岡 の装丁ではわりあい珍しい。表紙のくすんだ青の布地と銀の箔押しは、同じ筑摩書房のシリーズ〈日本詩人選〉によく似ている(もっとも〈日本詩人選〉が吉岡 の装丁である確証はない)。表紙を除く帯・ジャケット・見返し・本扉の流れは、のちの谷田昌平《回 想 戦後の文学》(筑摩書房、1988年4月25日)を思わせるものがある。同書の編集・製作の実務は《和語と漢語のあいだ》の祝部氏が担当して いる。

尾崎雄二郎・島津忠夫・佐竹昭広《和語と漢語のあいだ――宗祇畳字百韻会読》(筑摩書房、1985年6月10日)の本扉とジャケット
尾崎雄二郎・島津忠夫・佐竹昭広《和語と漢語のあいだ――宗祇畳字百韻会読》(筑摩書房、1985年6月10日)の本扉 とジャケット


吉岡実の装丁作品(27)(2005年9月30日)

吉 岡実は何点か全詩集の装丁をしている(《清岡卓行詩集》、《定本那珂太郎詩集》などが思いうかぶ)。《天澤退二郎詩集》(青土社、1972年2月5日)も その一冊で、〈初期詩篇 1950〜1956〉〈道道 1956〜1957〉〈道道補遺 1957〜1959〉〈朝の河 1959〜1961〉〈夜中から朝まで 1961〜1962〉〈時間錯誤 1962〜1965〉〈血と野菜 1966〜1969〉を収めた五一四ページのフランス装は壮観といっていい。前回紹介した〈日本風 景論〉シリーズの フランス装が、表紙用紙の背になる部分の天と地に切りこみを入れたうえグラシン掛けをしていないのに対して、本書は切りこみを入れずにグラシンを掛けてい る。折りかえした表紙の小口だけを見返しに被せてあるので、表紙と見返しのなじみはよい。本文と表紙の背での接着も、束が約二八ミリメートルあるため、ま ず問題はない。繰りかえし読むと背の直角が保たれないのは如何ともしがたいが。仕様は二一〇×一四一ミリメートルのA5変型判・機械函(生地のままの灰色 のボール紙が印象的だ)。
吉岡実は一九六七年、大岡信・長谷川龍生・清岡卓行・長田弘との合著詩集《現代 詩大系3》に 詩篇を抄録するに際して、作品の選定を天澤退二郎に委ねている。吉岡の〈自作を語る〉は「私は過去二十年間に四冊の詩集を刊行した。いずれも自己の選択に よるものである。こんど、私の信頼する若き友・天沢退二郎が心をこめて編んでくれた。詩篇〈僧侶〉と〈死児〉を入れることが唯一の注文である。果していか なる作品が採られ、いかなる配列を試みるのか、わからない。新鮮な不安とたのしみがある」(《現代詩大系3》、思潮社、1967年3月1日、一二四ペー ジ)というのが全文である。もしかすると《天澤退二郎詩集》の装丁は、このときの返礼かもしれない。
本書から「中嶋夏に」と献辞のある〈姫づくし〉(詩集《血と野菜 1965-1969》所収)を引こう。

まっしろけ姫の人面ゆるぎ
降りちる壁にカギばしごのかたちして
相手の言葉はとがりにとがる
ゆるすな姫御 指踊りにわが指をとがらせ
うひうひとあらゆる水を笑わせよ
私めはとび跳ねる青汁ながしの極意
私めは機動汁すすりに跳ねますぞ
流しには植物のしわ[、、]するどく
彫りものに映る塩辛は
鳴物入りのてんぐす印[じるし]

なにしろ姫つぶしは朝のひと走り
これくらい気のいく太陽いじめは
他にありゃせんて!
蜜も濡らせぬ白指ぢごく[、、、]
ツバメのなますを地平線に
べったりぬたくって風が吹く
われらが姫の紅い裏地には
青虫どもの泡をブツブツ弾かせ
風が吹く吹く青年現場監督の
ゆうれい蕩[たら]しめが! きっと
函つぶし出水もどきで運びますぞ
ゆるゆると血こごりをいぶす姫いぶし
ゆるすぎることのない独騎行なれば
ケム出し穴はいつも新鮮でやわらかだわい
いぶし姫の横から出る手はスゴイ!
わが青空はがしてもくるむ手はないのだ
くみしいてさて映る鏡は
肉厚の女ッ葉
姫ながら特任教師のつかみ取り
ケッ体ながら私めの言葉が
記録かたがた貼りつきますぞ
そこで泣け金時姫ごろし

弓ひいてはてこれは日曜でござったか
ひとけのない殺人の髪毛現場
歩いても歩いても小舟のように
揺れて私めは姫の中
かくなれば死臭着て寝るマリリン様や
ながし目タイツのゲバルト姫や
すべて食いたまえ姫かぶらも
私めは姫につくす身であれば
これからひとり姫やぐらのてっぺんで
さて最初の解放区放送をひとくさり

この〈姫づくし〉一篇、同じような時期の執筆(詩集《血と野菜》の〈おぼえがき〉では、1966年から69年にかけてとしかわからない)ということ もあって、天澤退二郎における〈青 い柱はどこにあるか?〉(F・6)のように思えるが、いかがだろうか。

《天澤退二郎詩集》(青土社、1972年2月5日)の函と表紙
《天澤退二郎詩集》(青土社、1972年2月5日)の函と表紙


吉岡実の装丁作品(26)(2005年8月31日〔2005年9月30日追記〕)

塚本邦雄が亡くなって、まず手にしたのが自選歌集《寵歌》(花曜社、1987)と吉岡実装丁の《半島――成り剰れるものの悲劇》(白水社、1981)だった。《半島》の装丁については、臼田捷治氏がつとに詳しく書いている。

 この飾りケイを使った装幀は、白水社から刊行されたフランス装の〈日本風景論〉シリーズでも効果的に試みられている。私の手元には、このなかの塚本邦雄著『半島』(八一年)があるが、外函は別紙に題簽(ここでもすべて明朝活字体)が刷られており、それを、表紙、背、裏表紙とくるんでラベル貼りしている。この題簽の四周を植物文様の優美な飾りケイがやさしく囲んでいる。ついで、表紙は、明朝活字の書名と著者名のあいだに、一センチほどの幅の子持ちケイが入り、そのなかを白抜きで三頭の獣頭と植物文様を組み合わせた西欧風の特異な絵柄が埋めている。この絵柄はたぶん画集から採られたものであろう。飾りケイは、さらに、扉においても別の植物をモチーフとしたものが書名の『半島』を包むように使われている。明朝活字と飾りケイによる三様の変奏がじつにエレガントだ。(《装幀時代》、晶文社、1999年10月5日、六四〜六六ページ)

これに《半島》を収録した《塚本邦雄全集 第十三巻 評論Y》(ゆまに書房、2001年2月15日)の北嶋廣敏・堀越洋一郎〈解題〉の「昭和五十六(一九八一)年十二月十日 白水社 四六判変型(フランス装) 貼函附(帯附) 百九十四頁 装幀・吉岡実 定価・千五百円 本文組・三十八字×十三行」という仕様関連の記述を補えば、私としてはこれに加えて書くことはほとんどない(サイズは一八八×一二〇ミリメートル)。
以下では白水社の〈日本風景論〉シリーズを総覧しよう。刊行順に挙げる。

@飯島耕一《港町――魂の皮膚の破れるところ》(1981年9月10日)
A中井英夫《墓地――終りなき死者の旅》(1981年10月8日)
B澁澤龍彦《城――夢想と現実のモニュメント》(1981年11月9日)
C塚本邦雄《半島――成り剰れるものの悲劇》(1981年12月10日)
D池内紀《温泉――湯の神の里をめぐる》(1982年10月25日)
E赤江瀑《海峡――この水の無明の真秀ろば》(1983年8月10日)
F岡谷公二《島――水平線に棲む幻たち》(1984年8月23日)
G皆川博子《壁――旅芝居殺人事件》(1984年9月25日)
H井出孫六《峠――はるかなる語り部》(1984年11月22日)

全9冊のラインナップが最初の《港町》刊行の時点で確定していたか不明だが、4冊めの《半島》までは第一期刊行として一連の装丁を依頼されたであろう。著者の飯島耕一・中井英夫・澁澤龍彦・塚本邦雄は、いずれも吉岡実にとって旧知の書き手、というよりも知友である。これら各冊の装丁の差異がいちばんはっきりわかるのが、臼田氏の言う表紙の「明朝活字の書名と著者名のあいだに」入る「一センチほどの幅の子持ちケイ」を埋める絵柄と扉の飾りケイの配色だ。

飯島耕一《港町》(1981) 表紙〔部分〕 飯島耕一《港町》(1981) 扉〔部分〕
飯島耕一《港町》(1981) 表紙と扉〔いずれも部分〕

中井英夫《墓地》(1981) 表紙〔部分〕 中井英夫《墓地》(1981) 扉〔部分〕
中井英夫《墓地》(1981) 表紙と扉〔いずれも部分〕

澁澤龍彦《城》(1981) 表紙〔部分〕 澁澤龍彦《城》(1981) 扉〔部分〕
澁澤龍彦《城》(1981) 表紙と扉〔いずれも部分〕

塚本邦雄《半島》(1981) 表紙〔部分〕 塚本邦雄《半島》(1981) 扉〔部分〕
塚本邦雄《半島》(1981) 表紙と扉〔いずれも部分〕

池内紀《温泉》(1982) 表紙〔部分〕 池内紀《温泉》(1982) 扉〔部分〕
池内紀《温泉》(1982) 表紙と扉〔いずれも部分〕

赤江瀑《海峡》(1983) 表紙〔部分〕 赤江瀑《海峡》(1983) 扉〔部分〕
赤江瀑《海峡》(1983) 表紙と扉〔いずれも部分〕

岡谷公二《島》(1984) 表紙〔部分〕 岡谷公二《島》(1984) 扉〔部分〕
岡谷公二《島》(1984) 表紙と扉〔いずれも部分〕

皆川博子《壁》(1984) 表紙〔部分〕 皆川博子《壁》(1984) 扉〔部分〕
皆川博子《壁》(1984) 表紙と扉〔いずれも部分〕

井出孫六《峠》(1984) 表紙〔部分〕 井出孫六《峠》(1984) 扉〔部分〕
井出孫六《峠》(1984) 表紙と扉〔いずれも部分〕

このフランス装だが、吉岡がなぜこれを多用したのか確たることはわからない。もっとも〈日本風景論〉シリーズ版元の白水社は人も知るフランス語・フランス文学の専門出版社だから、編集担当の和気元さんが吉岡に「装丁はフランス装で……」と依頼したことは大いにありうる。吉岡が業務で装丁した筑摩書房の出版物は全集や叢書が多く、上製・丸背のハードカヴァーが主流だった。ふつう上製本の指定には束見本を作製したり箔押しの素材を検討したりと、本文の指定とは別様の作業をする必要があるが、フランス装なら紙と鉛筆さえあればできる。本来、三次元の本を二次元として扱うことができ、実際に使用する表紙の紙が入手できれば、それを折ってダミーが作れるのだ。詩集など、比較的ページ数の少ない本に用いられるのもフランス装の特徴である。〈日本風景論〉シリーズ全9冊のページ数は平均184ページ(11.5台)で、フランス装としては束のある部類だが、それほど問題にはならない。難点を挙げれば、本文と表紙が背で糊づけされているものの、薄めの見返しに被せた厚めの表紙(本文側に折った表紙は天と地の背ぎりぎりに切りこみが入り、本を開閉するたびに見返しがスライドする)のなじみが悪く、表紙を開け閉めしすぎると元に戻らなくなることである。数物製本ではまずないが、薄い表紙と厚い見返しの組みあわせのほうが復元性に勝る(表紙のほうがスライドする)。いずれにしても耐久性に優れた様式でないため、繰りかえしひもとく書物には適さない。表紙全面にグラシンを被せてそのまま折りや周囲の糊づけなど下拵えをして本文の背に接着すると、グラシンを介している分だけ天や地の接合部分が弱くなるのも問題である。むろん〈日本風景論〉シリーズにグラシンは貼られていない。

〔2005年9月30日追記〕
《出版ダイジェスト》第1177号(出版梓会出版ダイジェスト社、1986年9月11日)の《白水社の本棚》の〈営業部だより〉に(S)という署名でこんな記事があった。「見慣れたはずの倉庫の中で妙に気にかかるというか、きっかいな吸引力を漂よわせている本が、ある。『日本風景論』シリーズなどはその最たるものだ。〔……〕じつに錚々たる執筆陣。『墓地』『島』といった愛想のないタイトル。おそ〔ろ〕しく地味な装丁。まだごらんになっていない方は、ここまでの説明だけで奇異な印象を持たれるだろう。もうひとつ変な特徴がある。サブタイトルがやたらに凝っているのだ。ひとつだけ紹介すると」(同紙、六ページ)と、例に挙げられているのが塚本邦雄の《半島》である。それにしても「きっかいな吸引力を漂よわせている本」という評は、吉岡実を大いに喜ばせたことだろう。

白水社の〈日本風景論〉シリーズ・全9冊の函。飯島耕一《港町――魂の皮膚の破れるところ》(1981年9月10日)、中井英夫《墓地――終りなき死者の旅》(1981年10月8日)、澁澤龍彦《城――夢想と現実のモニュメント》(1981年11月9日)、塚本邦雄《半島――成り剰れるものの悲劇》(1981年12月10日)、池内紀《温泉―― 湯の神の里をめぐる》(1982年10月25日)、赤江瀑《海峡――この水の無明の真秀ろば》(1983年8月10日)、岡谷公二《島――水平線に棲む幻たち》(1984年8月23日)、皆川博子《壁――旅芝居殺人事件》(1984年9月25日)、井出孫六《峠――はるかなる語り部》(1984年11月 22日)。
白水社の〈日本風景論〉シリーズ・全9冊の函。飯島耕一《港町――魂の皮膚の破れるところ》(1981年9月10日)、中井英夫《墓地――終りなき死者の旅》(1981年10月8日)、澁澤龍彦《城――夢想と現実のモニュメント》(1981年11月9日)、塚本邦雄《半島――成り剰れるものの悲劇》(1981年12月10日)、池内紀《温泉――湯の神の里をめぐる》(1982年10月25日)、赤江瀑《海峡――この水の無明の真秀ろば》(1983年8月10日)、岡谷公二《島――水平線に棲む幻たち》(1984年8月23日)、皆川博子《壁――旅芝居殺人事件》(1984年9月25日)、井出孫六《峠――はるかなる語り部》(1984年11月22日)。


吉岡実の装丁作品(25)(2005年7月31日)

岡 田史乃句集《浮いてこい〔琅玕叢書〕》は1983年8月25日、岡山市の手帖舎から刊行。岸田稚魚の〈序〉はこう始まっている。「先日、井本農一先生の古 稀のお祝の会に参じた。その席でたまたま大岡信さん、川崎展宏さんと顔を合せた。短い挨拶のうちに話が史乃さんの句集のことに及んだ。「私は腰巻を書かさ れるんですよ」と大岡さん。「私は跋」と川崎さん。そういってお二人ともうれしそうな顔されている。それに装幀は吉岡実さんという豪華メンバー。こんなめ ぐまれた作家はまず居らぬだろう」。本書は、昭和46年から昭和58年までの230句を収めた著者の第一句集である(その後、第二句集《彌勒》(牧羊社、1987)と第三句集《ぽつぺん》(角川書店、1998)がある)。

  暮るるほど暮れ残りたる花ミモザ
  紙を切る啓蟄の午後明るくて
  明易し一度は閉ぢて本開く
  夏燕もつとも低きとき光り
  霧よりも上で朝餉の菜を洗ふ
  積みあげて一色[ひといろ]にして林檎売る
  三万の鴨を見て来し眼鏡拭く
  降りに降る真晝の雪や皿小鉢
  去年今年詩人籠れる鍵の内

「単帯高く結びて酔ひにけり」も悪くないが、私は掲載句のような作が好きだ。ところで、吉岡が装丁した単行句集は想いのほか少なくて、《浮いてこ い》以外では三好達治句集《柿の花》(筑摩書房、1976) があるくらいだ。その 晩年、句集を開かない日はなかったという吉岡陽子夫人の証言からすると意外だが、装丁という作業で句集の制作に関わるよりも純然たる読者の立場に終始した かった、と考えるべきか。吉岡は永田耕衣の単行句集すら装丁していないのだ。
〈琅玕叢書〉は本阿弥書店や東門書屋などから、合せて40篇以上出ている。《浮いてこい》は何篇めか記載がないものの、刊行順からすると第6篇に当たるよ うだ。本書の仕様は、一八九×一一八ミリメートル・一六四ページ・上製布装・貼函。表紙の煉瓦色、函のクリーム色、帯の緑色の組み合わせからは《入澤康夫〈詩〉集成――1951〜1978》(青土社、1979)が想起される。
吉岡は本書刊行の1983年、《琅玕》5月号に〈五月の句――耕衣の句から〉と題して巻頭エッセイを寄せている。「五月の句」は連載タイトルだから、吉岡 が付けた標題は「耕衣の句から」だろう。吉岡自身の編んだ《耕衣百句》(コーベブックス、1976)、「この一冊から、私は「春の句」を抽出してみよう」 (同誌、二ページ)と、永田耕衣の句16を400字詰原稿用紙3枚強に鏤めた俳句=書物随想である。本篇は吉岡実の未刊行散文だが、つい 先頃まで未見だった逸文である。

岡田史乃句集《浮いてこい》(手帖舎、1983年8月25日)の本扉と函
岡田史乃句集《浮いてこい〔琅玕叢書〕》(手帖舎、1983年8月25日)の本扉と函


吉岡実の装丁作品(24)(2005年6月30日〔2013年12月31日追記〕)

伊藤信吉《ぎたる弾くひと――萩原朔太郎の音楽生活》(麥書房、1971年11月30日)は副題のとおり、萩原朔太郎のミュージックライフを通じてその詩の生成の秘密に迫る書きおろし評伝。A版とB版の2種の刊本があり、ともに吉岡実の装丁である。A版奥付対向ページには「限定350部//全冊本文デカンコットン紙使用//A版70部 印度産総バクスキン装/著者本(A〜F) 市販本(1〜64)/本冊はその 2 番本//B版280部 アートキャンバス装/著者本(A〜T) 市販本(1〜260)/本冊はその  番本」(/は改行、//は1行アキ)とある。本書には一葉の〈麥書房製作御案内〉が挟みこまれているので、仕様を中心に引用しよう(本書の本文用紙サイズは191×146ミリメートル)。

伊藤信吉著 書き下ろし評伝
ぎたる弾くひと――萩原朔太郎の音楽生活
装幀・吉岡実 A5判変型五号組164頁 本文デカンコットン紙 署名入
A版七〇部(市販1〜64)特染バクスキン総革装・丸背・天金・表紙純金箔押・夫婦函入・自筆俳句入(頒布明年一月) 6500円〒100
B版二八〇部(市販1〜260)濃赤色アートキャンバス装・表紙ドイツ金箔押・小豆色荒目紙貼箱入・口絵朔太郎楽譜一葉 3000円〒100
〔……〕本書は伊藤信吉氏の重厚、かつ円熟した筆による「音楽の中の詩人」師朔太郎への鎮魂第一作品で、詩人吉岡実氏の装幀になる軽く高雅な純粋造本です。〔……〕

那珂太郎(伊藤信吉とともに筑摩書房版萩原朔太郎全集を編んだ)は〈音楽の詩人・萩原朔太郎〉で「彼〔=朔太郎〕はのちのエッセイ「音楽について」(昭和十年三月)の中で、「僕の青年期のすべての歴史は、全く音楽のために空費したやうなものであつた。特殊の天分なくして音楽の稽古に熱中するほど、青年期における最大の時間的浪費はない、とニイチェは賢しくも言つてゐるが、僕の場合が丁度その通りの浪費であつた。」と書いたが、彼は“A WEAVING GIRL”(機織る少女)の作曲のほか、数多くの編曲やアレンジ曲を残してをり、その演奏も並の素人の域を脱してゐたといふ」(《日本の詩 第7巻 萩原朔太郎集》、集英社、1978年10月25日、二四八〜二四九ページ)と書いている。本書の口絵には朔太郎自筆の楽譜(A Weaving Girl)が写真版で掲載されており、吉岡は別丁本扉の地にもこれを敷いている(A版表紙のカットは朔太郎が組織したゴンドラ洋楽会のマーク)。
吉岡実は《北園克衛全詩集》栞に寄せた〈断章三つと一篇の詩〉(沖積舎、1983年4月3日)にこう書いている。「わたしが何故、《固い卵》をそのテキスト〔〈詩人の白き肖像〉〕に選んだかは、一つの思い出があったからだ。たぶん、四十五、六才の誕生日の時であったろうと思う。妻から贈られたのが、この《固い卵》であった。家にあった古書目録のなかで、この詩集に私が赤い印をつけておいたのを、妻は見つけて買い求めたのである。世田谷梅ヶ丘の古書肆〈麦書房〉は、仕舞屋風で若い主人が応待してくれたそうだ。その人は、後で書誌研究家として知られる、堀内達夫である」。吉岡は46歳の1965年に詩を3篇しか発表していない。このとき陽子夫人から贈られた北園克衛の詩集を扱ったのが、のちの本書の刊行者・堀内達夫氏だったわけである。

01 02
伊藤信吉《ぎたる弾くひと――萩原朔太郎の音楽生活〔A版〕》(麥書房、1971年11月30日)の夫婦函・表紙と同〔B版〕の表紙(左)と同〔B版〕の本扉と〈麥書房製作御案内〉(右)

〔2013年12月31日追記〕
伊藤信吉《ぎたる弾くひと――萩原朔太郎の音楽生活〔B版〕》(麥書房、1971年11月30日)の157番本を入手した(ちなみに「47.2.19」の押印のある国立国会図書館所蔵本はB版218番本で、本扉前の別丁には著者署名に添えて「星またたく夜」、同じく手許の157番本には「古き日の歌を」とあり、A版2番本の自筆俳句は「風果てぬ星座きらめき凍みつきぬ」である)。いい機会なので、B版で再読してみた。まず、朔太郎にとっての音楽は――

 昔からの古い慣習の濃い前橋に住む朔太郎にとつて、音楽はその都会的嗜好を充たし、情緒の渇きを癒し、一種の魔力でとらえて放さぬものだつた。さらにいえば、その惑溺をとおして音楽の音色に「西洋」を感じ、そういうものとしての「近代」を聴き取つたのである。伝統音楽と異なる音色に、新鮮にして甘美な藝術的陶酔を味わつたのである。当時の朔太郎の音楽的情熱の帰着するところは「西洋」であり「近代」であり、それによつて自分の周囲に一つの藝術的環境を設定することだつた。(本書、四二〜四三ページ)
ゴンドラのマーク(前出、A版表紙のカット)については――
 ゴンドラ洋楽会の名称の由来について、妹みねは「兄は称してそれをゴンドラ倶楽部と言つていた。ゴンドラ倶楽部とは、その狭い書斎(兄の書斎は庭の一隅にあつた物置小屋を改造した大変狭い室であつた)から、せせこましいゴンドラ内部を連想したためであろうし、」(「兄とマンドリン」)と言つている。もう一つ考えられることは、サルコリー〔イタリア人の音楽家、オペラのテナー歌手〕に習つたことから、イタリア系統だという意識があつたろう、ということである。どんな曲目か分からないが、大正四年に自宅で「伊太利派の音楽小集」を催したのも、その系統意識によることだろう。またゴンドラ洋楽会の入会案内書には、波に浮かぶゴンドラを図案化した倶楽部のマークが印刷してあり、その右上部に「G」の文字が配してある。(一〇一〜一〇二ページ)
そして、本書の結語は――
 これまで追つてきた音楽家萩原朔太郎は、その音楽生活ならびに詩とのかかわりをめぐる一通りのことに過ぎない。妹ユキの手許に遺つていた「音楽ノート」や、何人かの手に渡つたと思われる楽譜や、そのほかの資料を詳しくさぐれば、はるかに多くの音楽的話題を語ることができる。朔太郎にマンドリンやギターを習つた人たちにも、それぞれの思い出があるだろう。マンドリン合奏団の指揮者だつたことにも多くの話題があるだろう。はやい時期の地方文化運動という面にも話題があるだろう。私のこの文章は音楽家萩原朔太郎の全貌をつたえるものではない。
 私が見ようとしたのは、その音楽的情操が、その詩的生涯にどのようにかかわり合つたか、ということである。そして私は、その音楽的才能や音楽的技倆がどの程度だつたかにかかわりなく、朔太郎を稀な音楽の中の詩人だと思う。近代詩における詩と音楽の美学を、朔太郎はもつとも浪曼的に、そしておそらく最終的に体現した詩人だつたのである。(一四七ページ)
B版の仕様は、一九一・×一四六ミリメートル・一七二ページ・上製角背布装・貼函(見返しの用紙はA版から変更。口絵はA版・B版とも同じ)。前掲奥付対向ページのクレジット、奥付(伊藤の検印を貼付)に著者と発行人に挟まれて「装幀 吉岡 實」とあるのは、A版と同じ。表紙の「濃赤色アートキャンバス」の色と手触りが素晴らしい。吉岡はのちの那珂太郎《萩原朔太郎その他》(小澤書店、1975)の表紙にも赤い(ただしB版よりもかなり明るい)布装を採用している。本書の表紙まわりは見事だが、本文の各扉ページの見出しに平体がかかっているのは納得しがたい。そもそも、見た目に美しくない。吉岡は決してこのような指定をしなかった。


吉岡実の装丁作品(23)(2005年5月31日)

光 明寺(奈良・西吉野村)の前住職で詩人の村岡空氏が2005年3月16日、69歳で亡くなった。村岡氏は密教学者でもあり、仏教的観点からの詩人として活 躍した。NDL-OPACで調べると、著作のほとんどは密教や弘法大師、折口信夫に関する研究書で、詩集の数は多くない。吉岡実は村岡空詩集《あいうえ お》(世代社、1960年5月1日)を装丁している。詩集は8篇から成る〈T 命うります〉と〈U マリアの歌〔全40篇〕〉〈V コスモス〔全9篇〕〉の3部構成。巻頭の〈欲〉が優れている。

欲|村岡空


マニキュアした手が
食卓にならべられた
男は生唾をのみこみ
はげしくひきつったピストルをにぎりしめた
この顔は はてしなくうずく石
無口な初夜のサンプルだ とおもった
やがて ウインナソーセージににた
トルソの切口をみせつけられ
あ ピストルはむなしく
女の時間を立体化した

巻 末のあとがきには「詩集《あいうえお》とは〈愛にうえた男〉つまり、村岡空の意であります。/だから〈かきくけこ……〉と、つづくのだとは、わたくしのさ びしいわらいです。/〔……〕/いまとりあえず、この詩集のために、木原孝一、吉岡実、小田久郎、上野清次郎の各氏に、あつくお礼もうしあげるしだいであ ります」(〈NOTE〉、同書、九八〜九九ページ)とある(版元の世代社は、発行者の小田久郎氏が《世代》の継続後誌として《現代詩手帖》を創刊した出版 社でもある)。
本書の仕様は一六七×一四二ミリメートル・一〇二ページ・上製クロス装・機械函。注目すべきは、書名の「あいうえお」の左脇に同じ書体で「かきくけこ」と 黄色く地に刷ってある本扉だ。これなど、発案者が吉岡か小田氏か判断の難しいところだ。貼り外題の背文字「村岡空詩集・あいうえお」がゴチックなのも、吉 岡装丁では珍しい(貼り外題の表1では明朝を使用している)。

村岡空詩集《あいうえお》(世代社、1960年5月1日) の本体と函 村岡空詩集《あいうえお》(世代社、1960年5月1日) の本扉
村岡空詩集《あいうえお》(世代社、1960年5月1日) の本体と函(左)と同・本扉(右)


吉岡実の装丁作品(22)(2005年4月30日)

《澁澤龍彦考》(河出書房新社、1990年2月20日)は、巖谷國士が澁澤龍彦について書いた一四篇の文章を収めている。本書から吉岡実に言及して いる箇所を引く。

 その後、一九六〇年代を通じて、彼〔澁澤龍彦〕と出会う機会は多かった。たいていは舞踏や芝居のはねたあとの、酒宴の席であっ たように思う。松山俊太郎 さん、加藤郁乎さん、土方巽さん、吉岡実さん、種村季弘さん、唐十郎さん、その他もろもろの怪人、天才、モラリストの種族と、すこしずつ知りあうように なった。そんななかで、澁澤さんはなんとなく中心に居すわっているという感じもあって、それが、のちにいわゆる、六〇年代の一光景でもあったのだろう。 (同書、一七ページ)

  早すぎる本の感はあったが、これをまとめる作業はゆっくりと進んだ。その間に、私のもっとも敬愛する詩人・吉岡実氏の助言を得ることができたのは、思いの ほかの喜びであった。氏は装幀をもお引きうけになり、いくぶん私的な趣の書物にしたいというひそやかな希望を容れたうえで、むしろ古典的ともいえる澁澤龍 彦のイメージをまとわせてくださった。そのことについて、ここに感謝をささげておきたい。(〈あとがき〉、同前、二三九ページ)

本 書巻末には、八ページにわたる〈澁澤龍彦著作目録・索引〉が付されている。これは、後に巖谷國士も編集委員のひとりとなった《澁澤龍彦全集〔全22巻・別 巻2〕》(河出書房新社、1993〜1995)の編集担当者・内藤憲吾氏の作成になるもので、凡例にあたる文章はぜひ引いておきたい。

 ここには澁澤龍彦の著書・訳書・編著,およびその作品を一部にふくむ書物を五十音順にリストアップし,それら個々について言及 している本書中のページを すべて示した.なお見出し項目のつぎには初版単行本のジャンル,発行年,出版元などを記し,さらに,その後に刊行された同書のヴァリエーションを年代順に まとめてある./はある程度もとの内容とタイトルのままで再刊あるいは再録されている場合,//は一部あるいは全体が選集などに再録されている場合を意味 する.(同前、iページ)

吉岡は《澁澤龍彦考》のジャケットや表紙・見返し・本扉を薄茶系でまとめている。その色使いは谷 田昌平《回想 戦後の文学》(筑摩書房、1988)に 近いが、変形判(A5判の天地をカット)のため一般的な文芸書とは違った軽快な感じがする。仕様は一九五×一四八ミリメートル・二五四ページ・上製紙装・ジャケット。見返し用紙は吉岡の最後の詩集《ムーンドロップ》(書肆山田、1988)と同一である。吉岡実は本書刊行後三箇月あまりで亡くなっており、《澁澤龍彦考》はその最後の装丁作品であると同時に、吉岡装丁におけるジャケット装・ハードカヴァー本の到達点でもある。

巖谷國士《澁澤龍彦考》(河出書房新社、1990年2月20日)の本扉とジャケット
巖谷國士《澁澤龍彦考》(河出書房新社、1990年2月20日)の本扉とジャケット


吉岡実の装丁作品(21)(2005年3月31日)

《続・入沢康夫詩集〔現代詩文庫〕》(思潮社、2005年1月25日)が出た。〈わが出雲〉と〈わが鎮魂〉を同一ページに布置した、かつてない組方が新鮮だ。吉 岡実は入沢康夫のそのときどきの「全詩集」を二度、装丁している。《入澤康夫〈詩〉集成――1951〜1970》(青土社、1973年3月30日)とその 増補改訂版ともいえる《入澤康夫〈詩〉集成――1951〜1978》(青土社、1979年5月1日)だ。
《1951〜1970》は3部構成で、Tに《夏至の火》(書肆ユリイカ、1958)、《古い土地》(梁山泊、1961)*、《季節についての試論》(錬金 社、1965)、《声なき木鼠の唄》(青土社、1971)、Uに《倖せ それとも不倖せ》(書肆ユリイカ、1955)、《倖せ それとも不倖せ・続》(書肆山田、1971)、Vに《ランゲルハンス氏の島》(私家版、1962)、《わが出雲・わが鎮魂》(思潮社、1968)、《詩の 構造についての覚え書――ぼくの詩作品入門》(思潮社、1968)を収めるが、なんといっても《詩の構造についての覚え書》の存在が異彩を放つ。これさえ も〈詩〉とするのが入沢康夫の世界なのだ。《1951〜1978》も3部構成だが、Tには《「月」そのほかの詩》(思潮社、1977)*を加え、Vから 《詩の構造についての覚え書》を省き、かわりに《かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩》(青土社、1978)を加えている(以上のうち、*印の単 行詩集は吉岡実の装丁である)。吉岡はその後も、入沢の詩集《死者たちの群がる風景》(河出書房新社、限定版1982・新装版1983)や《ネルヴァル覚 書》(花神社、1984)などの単行本の装丁をしている。いずれも著者の依頼によるものであろう。
仕様は《1951〜1970》が二〇九×一四八ミリメートル・七三八ページ・上製布装(濃紺)・貼函(空色)。《1951〜1978》が二〇九×一四八ミ リメートル・七二二ページ・上製布装(茶色)・貼函(クリーム色)、限定1000部。両方とも函・表紙・本扉に、鼬のような動物のカットをエンブレムのご とく配している。本文用紙が異なることもあって、16ページというページ数の違い以上に《1951〜1970》が《1951〜1978》よりも束がある。 すなわち「増補改訂版」の方が束がないのだ。
経年変化のためにわかりにくいが、《1951〜1978》の表紙布は吉岡の《「死児」という絵》(思潮社、1980)と同じ銘柄に見える。入沢の本は束が45mm ほどあって表紙布の粗い織が気にならないが、《「死児」という絵》は約26mmしかなく、やや大味な感じがするのは否めない(私がふだん読む 《「死児」という絵》の箔押しの背文字が消えかかっているのも、表紙布が原因か)。これらと並べると、同じ茶系でも中村稔《詩・日常のさいはての領域》(創樹社、1976)の方が濃い茶色である。

《入沢康夫〈詩〉集成――1951〜1970》(青土社、1973年3月30日)と同じく《1951〜1978》(青土社、1979年5月1日) の函と本体 《入沢康夫〈詩〉集成――1951〜1978》、《「死児」という絵》、《詩・日常のさいはての領域》、《1951〜1970》の背
《入 沢康夫〈詩〉集成――1951〜1970》(青土社、1973年3月30日)と同じく《1951〜1978》(同、1979年5月1日)の函と本体(左) と《1951〜1978》、《「死児」という絵》、《詩・日常のさいはての領域》、《1951〜1970》の背(右)

入 沢康夫は《入澤康夫〈詩〉集成――1951〜1978》以降も多くの詩集を出しており、刊行年次順に当時のすべての詩集を収録した《入澤康夫〈詩〉集成 ――1951〜1994》(青土社、1996)上巻・下巻の二冊本が、高麗隆彦装丁で刊行されている(《1951〜1978》に増補されたのは《牛の首の ある三十の情景》(書肆山田、1979)、《駱駝譜》(花神社、1981)、《春の散歩》(青土社、1982)、《死者たちの群がる風景》(前出)、《水 辺逆旅歌》(書肆山田、1988)、《歌――耐へる夜の》(書肆山田、1988)、《夢の佐比》(書肆山田、1989)、《漂ふ舟》(思潮社、1994) の8詩集)。圧巻である。


吉岡実の装丁作品(20)(2005年2月28日)

現 在、中村稔の著作集(全6巻)が青土社から刊行中だが、吉岡実は中村が現代詩について論じた《詩・日常のさいはての領域》(創樹社、1976年8月30 日)を装丁している。本書には〈V 若干の詩人たちと若干の詩集〉の章のもとに《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959)の書評が収められている。ここで少し註すれば、中村の〈後記〉に「発表した誌名時期等は一々の文章の末尾に付記したとおりである」(《詩・日常のさいはての領域》、三〇四ページ)とあるように、初出が わかりやすい記載になっているのはいいのだが、なぜかこの〈『吉岡実詩集』〉はそれが漏れている。念のために掲げておけば、初出は季刊誌《聲》6号 (1960年1月)である。さて、私がこの書評でアンダーラインしたいのは次のような箇所だ。

「吉岡の二十二歳の処女詩集『液体』は、『僧侶』の詩人を考える時、恐ろしく貧しい出発ではなかったかと思われる。」
「〔〈苦力〉の〕こうした詩的体験は、読者にとっては探検家の記録をひもとくような昂奮を覚えさせる。しかし、あまりに冒険譚じみてはいないだろうか。 ひょっとすると、この詩人は、ある種の探検家がそうであるように、恐ろしく意識的に無思想、無秩序なのではないか。」
「『液体』から『静物』へ、『静物』の閉じこめられた世界から『僧侶』の運動する世界へ、この詩人は出口をみつけてきた。はたして今度どういう出口をみつ けるか、私は最大の関心をもって注目する。」(同書、一四三〜一五〇ページ)

吉 岡実の詩業を充分認めたうえでの、辛口の評価といっていいだろう。詩篇の引用(〈風景〉〈液体T〉〈静物〉〈或る世界〉は全篇、〈喜劇〉〈僧侶〉〈苦力〉 は部分)が的確なだけに、これらの発言には説得力がある。本書の装丁を中村の方から吉岡に依頼したのなら(前掲〈後記〉にそうした記述はないのだが)、こ の書評には自信があったのだろう。
本書の仕様は、一八八×一二八ミリメートル・三一〇ページ・上製布装・貼函。粗い織の表紙布は濃い焦茶色で、手触りといい、背文字の金箔押しといい、のち の吉岡自身の《「死児」という絵》(思潮社、1980)の装丁を彷彿させる。ところで、中村の処女詩集《無言歌》は1950年9月30日に書肆ユリイカか ら出ているが、この四六倍判並製本の冊子が吉岡装丁の《異霊祭》の特装版の綴じかたとまっ たく同じなのである(平らな紐は《無言歌》の方がやや薄い)。吉岡実が伊達得夫の手がけた《無言歌》の造本を研究したであろうことは、きわめて高い確度で 断言できる。

中村稔の評論集《詩・日常のさいはての領域》(創樹社、1976年8月30日)の本扉と函
中村稔の評論集《詩・日常のさいはての領域》(創樹社、1976年8月30日)の本扉と函


吉岡実の装丁作品(19)(2005年1月31日〔2006年8月31日追記〕〔2011年10月31日追記〕)

〈詩《異霊祭》解題〉でも触れたように、天沢退二郎の詩集《「評伝オルフェ」の試み〔書下ろしによる叢書 草子2〕》は、1973年10月10日の初刊のあと、吉岡実の装丁による特装版が吉岡の《異霊祭》特装版(1974年7月1日)と同様の仕様で1974年9月1日に刊行されている。通常版は《「評伝オルフェ」の試み》のほうが《異霊祭〔書下ろしによる叢書 草子3〕》よりも先に刊行されているから、特装版は吉岡の詩の企画で進行したものとみえる。ときに〈書下ろしによる叢書 草子1〉の瀧口修造《星と砂と――日録抄》には限定35部特装版(革表紙・和紙刷り・署名入り・袋入り)があるそうだが、吉岡の装丁ではないようだ(通常版の装丁者でもある瀧口自身の気がする)。
《「評伝オルフェ」の試み》と《異霊祭》の特装版は、袋の紙質こそ若干異なるものの、大きさ・ページ数とも同じ仕様で、双生児のようによく似ている。両者のいちばんの相違は表紙の絵柄で、クレジットはないが天沢の双頭獣、吉岡の鹿の幻獣ともに落合茂のサインがある。興味深いことに、《異霊祭》の「鹿」はこれより早く、吉岡が編集していた《ちくま》第50号(1973年6月)に掲載されている(宮川淳〈スタロバンスキーの余白に〉の本文カットとして)。吉岡は《ちくま》用に描いてもらった「鹿」が気に入ったので、自身の《異霊祭》特装版に転用したのかもしれない。
《「評伝オルフェ」の試み》の特装版は、表紙・本文とも青緑とスミの二色刷(奥付の限定番号のみ朱色で印刷)。耳付アンカットの本文(天地228×左右150mm)よりもかなり大振りの表紙は和帖仕立で(天地260×左右165mm)、原紙の天地を内側に折りこんでから小口も内側に折りこみ、ために軽快でありながら堅牢さを併せもつ。この装本の呼び名を知らないが、和風のフランス装、とでも言えばいいだろうか。本文を三穴で中綴じした茶色の平紐は、背の中央で固結びして外から見えるようにしてある。巻頭ページには「天沢退二郎」と細身のサインペンで署名してあり、表紙の双頭獣の緻密なタッチと合っている。本文用紙蔵王紙雪晒し遠藤忠雄、限定101部記番。
吉岡はどこかで(いま原文が見あたらず、正確な引用ができない)――晩年は悠悠自適、好きな作家の好きな作品を出す限定本屋をやりたい――と語っていたが、それが実現していたら、この草子特装版のようなオリジナルの本がいくつも生まれたことだろう。

〔2006年8月31日追記〕
吉岡実が編集長を務めていた《ちくま》を国会図書館で繰っていたら、《「評伝オルフェ」の試み〔特装版〕》の表紙と同じ絵柄を見つけた。《異霊祭〔特装版〕》の「鹿」と同年、1973年2月の第46号の本文カット・落合茂として掲載されているから(本文記事は宇佐見英治〈谷崎潤一郎の触覚的文体――『春琴抄』再読〉)、本書もまた《ちくま》用の画稿を転用したものと思しい。ちなみに執筆者の宇佐見氏は、わが文藝空間の同人・宇佐見森吉の父君である。

〔2011年10月31日追記〕
近代文学新蒐品を特集した《玉英堂稀覯本書目》306号(2011年10月)に瀧口修造《星と砂と――日録抄》(限定35部特装版)が掲載されている。表紙の書影を見るかぎり、やはり瀧口本人の装丁のようである。玉英堂のサイトの記載を録する。「No. 42493   星と砂と日録抄/瀧口修造 1冊 価格: 160,000円/限定35部 毛筆署名入 アンカット 総革装 見返しマーブル紙装 元袋/書肆山田 昭48」。

天沢退二郎詩集《「評伝オルフェ」の試み〔特装版〕》(書肆山田、1974年9月1日)の袋と表紙 瀧口修造《星と砂と――日録抄〔特装版〕》(書肆山田、1973年6月)の表紙と袋
天沢退二郎詩集《「評伝オルフェ」の試み〔特装版〕》(書肆山田、1974年9月1日)の袋と表紙(左)と瀧口修造《星と砂と――日録抄〔特装版〕》(書肆山田、1973年6月)の表紙と袋(右)〔出典:玉英堂書店


吉岡実の装丁作品(18)(2004年12月31日)

吉岡実が太宰治をどう読んだのか、実のところよくわからない。その文学についてなにも書きのこしていないからだ。ただ、太宰の遺体が発見された1948年6月19日の翌日の日記(〈日歴(一九四八年・夏暦)〉)に、次のようにあるのが注目される。
「〈昼〉/午後になっても雨がつづく/ふっている雨はすなおに美しい/だけど便所のそばに溜った水はうっとうしい/太宰治の情死体が見つかった(この記事のある朝刊もぬれている)/痛ましい魂よ/晴れた天へ昇らず/雨しぶく空へ昇る/合掌」(《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実》、書肆山田、1996、九ページ)。
この記述から、人物に対する哀悼の念以外のものを読みとることは難しい。ちなみに吉岡は、この日の夜、西脇順三郎の詩集《旅人かへらず》を読み、朝に続いて詩作を試みている。吉岡の頭には、ただ「詩」のことしかなかったのかもしれない。
《太宰治全集》は今日までにさまざまな版で出ている。手近な《新潮日本文学辞典〔増補改訂〕》に依れば、八雲書店版(1948〜1949、全18巻だが15巻で中絶)、創芸社版(1952〜1955、全16巻)、筑摩書房版(1955〜1957、全12巻・別巻1)、同(1959〜1960、全16巻)があり、《定本太宰治全集》として筑摩書房版(1962〜1963、全12巻・別巻1)がある。同じ筑摩の太宰治全集だけでも、上記のほかに筑摩全集類聚版やちくま文庫版やなにやかやがあって、門外漢にはそれぞれどんな特色があるのかよくわからない。同じ「筑摩書房版太宰治全集第何巻」であっても、数種類のシリーズが存在していて、刊行年などを併記しないと本文を特定できないのだ。
ここにとりあげる〔第5次〕《太宰治全集》は全12巻・別巻1で、1967年4月5日から1968年4月30日にかけて筑摩書房から刊行されたもの(前掲《新潮日本文学辞典》には記載されておらず、それ以前の太宰治全集の新装版といったところか)。社内装の常として装丁者名はクレジットされていないが、まず間違いなく吉岡の手になるものだろう。函の天にぴったり合わせて、背・裏へと回した貼外題の処理が新鮮だ(桜桃のカット――ジャケットにも同じ絵柄が見える――はストレートにすぎるきらいもあるが)。仕様は一九〇×一三〇ミリメートル・各巻約三九六ページ・上製布装・ジャケット・機械函。函まわりは貼外題(スミと水色の2色刷)を含めて、すべて凸版(活字)で印刷されている。
ちなみに、上に挙げた筑摩書房の太宰治全集(定本全集も)は、ちくま文庫版以外みな吉岡実の装丁のように思えるが、にわかに断言できない。

《太宰治全集〔第6巻〕》(筑摩書房、1967年9月2日)の函とジャケット
《太宰治全集〔第6巻〕》(筑摩書房、1967年9月2日)の函とジャケット


吉岡実の装丁作品(17)(2004年11月30日〔2006年1月31日追記〕〔2014年9月30日追記〕)

石垣りんの詩に〈松尾寺〉(《朝日新聞(夕刊)》1994年5月6日)がある。前半の節はこうだ。

東京・渋谷の駅ビル構内に
改札口と商店街を結ぶ殺風景な通路がある。
混み合うときは片側一車線のトンネルのように
人の群れは二つの流れとなって行き違う。
いつであったか、あの波立つ顔の中に
詩人の吉岡実さんを見かけた。
声をかける間もなかった
向こうが私を見かけたとも思えなかった。
ほどなく吉岡さんの訃報をきく。
以来おなじ通路で
ことに吉岡さんの歩いて来た方向をたどるとき
私はみょうな気持になる。

この場所が、わかりそうでわからない。具体的に特定しにくいように書いてあるとさえ見える。いずれにしても、詩人が現実の一シーンを切りとる手つきは鮮やかである――と思っていると、詩は1行空けて後半の節に入る。

京都・舞鶴市にある松尾寺では
五月八日の法要に長い石段をのぼってゆくと
すれ違う群れの中に故人によく似た顔があるという
山陰線の車中で耳にした話。
そのとき同行した若い女性と
いつか噂の寺に参りましょう、と約束した。
あれから何年たったろう
久しぶりで会った友は寺の話を覚えていて
こんど行ってみませんか、という。
そうね
あなたが石段を上って来るとき
私が反対側から下りて来たりして、というと
まだまだ若い彼女はキャッと小さく叫んだ。

石垣氏は寡作な詩人で、吉岡実と同年輩ながら、オリジナルの単行詩集は4冊と吉岡の3分の1に満たない。吉岡はそのうちの3冊、《表札など》(思潮社、1968)、《略歴》(花神社、1979)、《やさしい言葉》(花神社、1984)と散文集《焔に手をかざして》(筑摩書房、1980)を装丁している。

石垣りん詩集《表札など》(思潮社、1969年5月1日刊の再版〔初版は1968年12月25日刊〕)の本扉とジャケット
石垣りん詩集《表札など》(思潮社、1969年5月1日刊の再版〔初版は1968年12月25日刊〕)の本扉とジャケット

詩集の〈あとがき〉にはこうある。「『表札など』の装幀を引き受けて下さった吉岡さんは、ふだん往き来もない私の願いをこの度も聞き入れて下さいました」(《略歴》、一二九ページ)。「造本に際して吉岡実さんが「いい着物をきせましょう」と言って下さいましたが、暮らしの上で、身を包むことはしても飾ること乏しかった歳月を、思わず振り返りました」(《やさしい言葉》、一一五ページ)。詩集《表札など》は、ジャケットや見返しが茶褐色系のなかで、朱がひときわ鮮やかだ。仕様は二一〇×一四八ミリメートル・一三〇ページ・上製紙装・ジャケット。印刷・若葉印刷、製本・岩佐製本は、やはり一九六八年思潮社刊の吉岡の詩集《静かな家》と同じである。石垣氏は本詩集で詩壇の新人賞であるH氏賞を、吉岡が受賞した一〇年後に受賞している。

〔2006年1月31日追記〕
前掲〈松尾寺〉は、その後《現代詩手帖特集版 石垣りん》(思潮社、2005年5月20日)の〈詩集未収録詩篇――『やさしい言葉』以後〉に収録された。

〔2014年9月30日追記〕
林哲夫さんのブログ《daily-sumus2》に〈表札など〉が掲載されている。冒頭の一節を引く。

石垣りん詩集『表札など』(思潮社、一九六九年五月一日再版、装幀=吉岡実)。いつも珍しい本を探し出して送ってくださるUさんより頂戴した。この詩集、一体どこが珍しいのか? その解説はUさんのメモに任せる。

Uさんに依れば、同書は荻窪ささま書店の105円均一棚から得た再版(ジャケットの西暦表示も1968から1969に変更されている)で、正誤表付き。初版にはこれらの誤植はないとのことである(再版本には「旧蔵者?によって該当箇所がエンピツで訂正されています」)。私の手許にあるのも再版で、正誤表こそ付いていなかったが、前の所有者が記入したと思しい訂正が、同様に施されている。林さんにコメントを送るために〈吉岡実の装丁作品(17)〉を読みかえしてみると、《表札など》の内容にまったく触れていないではないか。今回、改めて詩集を読みなおした。〈シジミ〉や〈表札〉、〈崖〉といった著名な詩篇も多いが、〈童謡〉の口調に惹かれた。

童謡|石垣りん

お父さんが死んだら
顔に白い布をかけた。

出来あがった食事の支度に
白いふきんがかけられるように。

みんなが泣くから
はあん、お父さんの味はまずいんだな
涙がこぼれるほどたまらないのだな
と、わかった。

いまにお母さんも死んだら
白い布をかけてやろう
それは僕たちが食べなければならない
三度のごはんみたいなものだ。

そこで僕が死ぬ日には
僕はもっと上手に死ぬんだ
白い布の下の
上等な料理のように、さ。

魚や 鶏や 獣は
あんなにおいしいおいしい死にかたをする。

石垣の句読点(や字空き)はじつにみごとに働いているが、本篇でもそのことがよくわかる。


吉岡実の装丁作品(16)(2004年10月31日)

勅 使河原蒼風《花伝書》初版は、蒼風の歿後まもない一九七九年一一月一〇日、草月出版から刊行された。勅使河原宏による〈あとがき〉には「構成は二部にし、第一部には一九六六年刊の『私の花』(講談社インターナショナル)に収めた書き下しの「花伝書」を、第二部には、一九三三年発行の『瓶裏』以降、すべての 機関誌、単行本、指導講義から厳選したことばを、それぞれ収録している」(同書、一五三ページ)とあり、《犬の静脈に嫉妬することから》(湯川書房、1976)を巻頭に据えた土方巽の遺著《美貌の青空》(筑摩書房、1987)の構成が思いだされる。
「いけばなを見る人は腰掛けて見る、立って見る。さまざまな角度から自由に視線をあてるから、いけばなが見てもらいたいいちばん重要なポイントはひとつか も知れないが、もっとほかにもいろいろの視線を意識しなければならない。したがって、われわれがいけるとき、坐っていけず、立って体を自由に動かし、その 花に対していろいろの出発点を持った視線をあてねばならない」(《花伝書》、八四ページ)という蒼風のことばからは、吉岡実の〈わたしの作詩法?〉が想起 される。
吉岡実の装丁は、著者の作品〈寒山詩によせて〉や前掲《私の花》に見える「花伝書」という題字を函(吉岡にしては珍しくグラフィカルな処理が施されてい る)、表紙(金箔押しが効果的である)、本扉(著者名・書名・出版社名が、微妙にセンター合わせでないように見える)に配することで、蒼風の「手」を顕彰 している。

勅使河原蒼風《花伝書》(草月出版、1979年11月10日)の函と表紙 勅使河原蒼風《花伝書》(草月出版、1979年11月10日)の本扉
勅使河原蒼風《花伝書》(草月出版、1979年11月10日)の函と表紙(左)と同・本扉(右)

仕 様は二一〇×一三七ミリメートル・一五八ページ・上製紙装・機械函入(本書には一九八〇年二月二一日刊の五三五部限定版がある)。なお吉岡は、草月出版部 の《いけばな草月》に詩篇〈花・変形〉(I・14、1966年5月)と随想〈阿修羅像〉(1977年6月)の二篇を寄せている。

勅使河原蒼風《花伝書〔限定版〕》(草月出版、1980年2月21日)の函と表紙 
勅使河原蒼風《花伝書〔限定版〕》(草月出版、1980年2月21日)の函と表紙


吉岡実の装丁作品(15)(2004年9月30日)

《回 想 戦後の文学》(筑摩書房、1988年4月25日)の著者谷田昌平は、元新潮社出版部長・《新潮》編集長で、同社の〈純文学書下ろし特別作品〉の企画者にし て、堀辰雄の研究者でもある(編集者としては《流れる》《杏っ子》《氾濫》《森と湖のまつり》《梨の花》《砂の女》《沈黙》など、文学史に残る小説の単行 本を手掛けている)。一九二二年生まれというから、吉岡実と同世代と言っていい。〈あとがき〉の末尾に編集者らしい細やかな記載が見える。

 本書執筆の機会を与え、終止〔ママ〕励まして下さった石田健夫氏、『東京新聞』文化部の担当記者として毎回原稿を詳細にチェックした下さった棚橋弘氏、連載中に本書出版を確約して、時々読後感を伝えて下さった川口澄子さん、編集・製作の実務 に携って骨折って下さった祝部睦大氏と、装幀をしていただいた吉岡実氏に心からお礼申上げる。(同書、二二五ページ)

本 書付録の〈しおり〉には、遠藤周作・吉行淳之介・中村真一郎の小文が収められている。小説家が親しい編集者の著書に寄せる文章の見本である。著者の本意で はないかもしれないが(この手のものは、出版側が「編集者権限」で依頼することが多いと聞く)、読者にはありがたい計らいだ。その結果、帯文は本書の内容 紹介に専念できる。

人びとの息づかいがきこえる〈現場感覚〉ゆたなか文学史
堀 辰雄 福永武彦 武者小路実篤 野間宏 柴田錬三郎 石川淳 幸田文 丸山明 原民喜 伊藤整 室生犀星 武田泰淳 中野重治 大江健三郎 新田次郎 司 馬遼太郎 安部公房 有吉佐和子 遠藤周作 島村利正 堀田善衞 丹羽文雄 中村真一郎 吉行淳之介 佐多稲子 菊村到 小島信夫 円地文子 津村節子  吉村昭 結城信一 山本健吉……

谷田昌平《回想 戦後の文学》(筑摩書房、1988年4月25日)の本扉とジャケット
谷田昌平《回想 戦後の文学》(筑摩書房、1988年4月25日)の本扉とジャケット

《回 想 戦後の文学》は、文芸書としてオーソドックスな四六判上製ジャケット装。こういう定番的な本ほど、装丁で特徴を出すのは難しかろう。吉岡は茶色をメインカ ラーに、本書を手堅くまとめている。ジャケットと本扉のワンポイントのカットは鹿だが、作者の名は記されていない。城戸朱理《吉岡実の肖像》(ジャプラ ン、2004)に「素朴極まりないが、彼の手になる本は、実に本らしい面構えをしている。また、時折用いられる鳥や竜などの簡略化された模様のようなもの は、御自分で描いたのではなく、中国の古い図案から選ばれたものだと聞いた」(同書、五五〜五六ページ)とあるが、この鹿の場合は「簡略化された模様のよ うなもの」というよりもカットだろう。本書の仕様は一八八×一二八ミリメートル・上製・ジャケット装、二三六ページ。
なお吉岡は、谷田氏が編集長時代の《新潮》に、詩篇〈部屋〉(H・2)と追悼文〈和田芳恵追想〉の二篇を寄せている。


吉岡実の装丁作品(14)(2004年8月31日)

三 〇年ほどまえ、大学に入ってすぐに試みたことがふたつある。ひとつはプルーストの《失われた時を求めて》を邦訳で通読すること、もうひとつは《西脇順三郎 全集》で西脇詩集を読破すること、である。学部の図書室から借りだして、夏休み中もかわるがわる読んだ憶えがある。そんな読み方をしたせいだろうか、《近 代の寓話》以降の西脇の詩は奇妙に連続した印象を残した(どの詩篇がどの詩集のものかわからなくなり、長大な〈西脇詩〉と呼ぶしかないものになった、と 言っても同じことだ)。その後《定本 西脇順三郎全詩集》(筑摩書房、1981)を入手するに及んで(西脇詩はふだんもっぱらこれで読む)、西脇の単行詩集はいっこう書架に増えず、《あむばる わりあ》と《旅人かへらず》を除けば、吉岡が装丁した数冊以外ほとんど手許にないありさまだ。
吉岡実が装丁した西脇順三郎詩集のなかから、今回は《宝石の眠り》(花曜社、1979年11月30日)を取りあげる。一九六二(昭和三七)年、六八歳の西 脇は「六月十九日から七月四日まで、アリタリア航空の招きでイタリアに旅行、ロオマ、フィレンツェ、ヴェネツィアを周遊し、ウンガレッティらと会う」(那 珂太郎編〈年譜〉、《西脇順三郎詩集〔岩波文庫〕》、岩波書店、1991、四七七ページ)が、《宝石の眠り》はこのイタリア旅行の産物の面がある。
新倉俊一編〈書誌〉には「これらの作品〔『宝石の眠り』〕は昭和三十八年三月三十日刊行の筑摩書房版『西脇順三郎全詩集』の末尾に単行本詩集の扱いで収録 されているので、本全詩集でもその初出年代に従った」(《定本 西脇順三郎全詩集》、一二七四〜一二七五ページ)とある。吉岡を含む西脇詩の読者は、単行詩集《宝石の眠り》以前に《西脇順三郎全詩集》で〈詩集 宝石の眠り〉に触れることができたわけだ。《吉 岡実詩集》と《静かな家》の関係もそうだったが、こういう場合、はたして装丁しやすいのかしにくいのか、私にはよくわからない。

西脇順三郎詩集《宝石の眠り》(花曜社、1979年11月30日)の函と表紙 西脇順三郎詩集《宝石の眠り》(花曜社、1979年11月30日)の本扉と見返し
西脇順三郎詩集《宝石の眠り》(花曜社、1979年11月30日)の函と表紙(左)と同・本扉と見返し(右)

《宝石の眠り》の仕様は 一八八×一二八ミリメートル・一〇八ページ・上製布装・貼函入。吉岡は本詩集の色遣いを紫・藤色系で統一している。まず帯は淡紫の色紙にスミ文字。貼函は 紫の模様とスミ文字の二色刷り。表紙は絹のような光沢の濃紫の布に金箔押し。見返し用紙は水玉地模様の「玉敷」で、色は藤紫。別丁本扉は紫とスミの二色刷 りで、表紙と本扉の線画カットは(クレジットはないが)西脇の手になる。そして、著者描くところの口絵一葉(〈サン・マルコの朝〉)が続く。
ここで吉岡実における紫について考えてみたい。すぐに想いうかぶのが「サフランの花の淡い紫」(〈サフラン摘み〉G・1)という詩句である。この詩を収め た詩集が《サフ ラン摘み》と 題されて「淡い紫」の布で装丁されたのは、人も知るところだ。城戸朱理《吉岡実の肖像》(ジャプラン、2004)に装丁と紫色をめぐる記述がある。「しか し、吉岡さんが特上シュランクを自著の装幀に用いたのは『ムーンドロップ』が初めてではない。『薬玉』にも部分的に使われていて、イタリア製の深みのある 色合いの紫色の表紙と美しい対比を成す継背の白い布がそれである」(〈本〉、同書、五四ページ)。
西脇の〈サン・マルコの朝〉は、寺院らしい建物を煙るような筆致で描いた作品で、まさに色彩を駆使した水墨画である。口絵で右端のオレンジがかった茶の色 面に次いで眼を引くのが、淡い紫の色だ。吉岡が紫・藤色を《宝石の眠り》のメインカラーに選んだ最大の要因が、これだろう。ただ、上に述べたようなことを 考慮すると、「クレタの淡紫」とともに「イタリアの紫」といった想いが吉岡のなかにあったかもしれない。


吉岡実の装丁作品(13)(2004年7月31日)

三 好達治句集《柿の花》(筑摩書房、1976年6月30日)は、十三回忌を記念して編纂された三好達治全句集ともいうべき書。吉岡実における句集《奴草》 (書肆山田、2003)に相当する一巻である。本書刊行当時、吉岡は筑摩書房に在籍していたから、本来ならクレジットされないところだが、「装幀 吉岡 實」と奥付に明記されている。句集《柿の花》一七〇句から、好きな句を挙げる。

たそがれの鳥と化すべししろはちす
鶺鴒のひひななれども尾の上下
鸚鵡叫喚日まはりの花ゆるるほど
蚊帳といふ世界にはこぶ歌書俳書
ひるがへるのみとはいへど青はちす

た またま鳥と蓮の句が並んだが、三好の視覚と聴覚の冴えは怖ろしいほどである。この句集を含めて吉岡が三好の俳句に触れた文章はないけれども、詩集《春の 岬》(創元社、1939)を枕頭の書としていた吉岡は、一九四〇年三月二三日、三好の詩歌懇話会賞の授賞式を兼ねた講演会を聴いている。(《「死児」とい う絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三〇三ページ参照)

三好達治句集《柿の花》(筑摩書房、1976年6月30日)の函と表紙
三好達治句集《柿の花》(筑摩書房、1976年6月30日)の函と表紙

句 集《柿の花》は、函の題簽と表紙の箔押しに三好の書をあしらい、縦書きの落ちついた表紙まわりになっている。挟込付録には、草野心平を筆頭に和田芳恵・安 西均・大岡信・清岡卓行・石原八束が執筆。見返しは厚手の手漉き和紙で、扉が本文共紙なのもゆかしい。貼り奥付の印譜は大武正人。限定五〇〇部記番。印刷 は精興社、製本は鈴木製本。仕様は一九〇×一四七ミリメートル・上製布装・貼函入、一七八ページ。吉岡実装丁の「和風」の代表作と言っていいだろう。
吉岡は、三好達治の最後の詩集《百たびののち》(筑摩書房、1975)の装丁も担当してい る。


吉岡実の装丁作品(12)(2004年6月30日)

篠田一士の《日本の現代小説》(集英社、1980年5月10日)では、《楡家の人びと》や《死霊》、《青年の環》など、戦後日本の長篇小説が論じら れている。私は、篠田が《死の島》を取りあげた福永武彦の小説について、吉岡さんと話したことを想いだす。
あるとき、好きな小説家の話になり、私は福永の名を挙げた。吉岡さんの返事が振るっていた。小説、たくさん書いてるんだろ? 晩年は病弱で、正業は大学の 先生、作品はそれほど多くない、と私はしどろもどろの返答をした。小説の福永、詩の吉岡、短歌の塚本邦雄、俳句の高柳重信、と「大正生まれ」の創作者たち に心底魅せられていた私は、吉岡さんが福永小説の熱心な読者ではないのを残念に思ったことである。
《日本の現代小説》は評論にしては大判の本で、表紙の材質や色使いが《定本 西脇順三郎全詩集》(筑摩書房、1981年1月20日)に瓜二つである。ただ、《定本》には装丁クレジットがなく、誰の手になるのか判らない(吉岡実で ちっともおかしくないのだが)。青いクロスの元版《西脇順三郎全詩集》(筑摩書房、1963)の装丁は、鍵谷幸信に依れば、栃折久美子だという。
《日本の現代小説》には《日本の近代小説》(集英社、1988年2月10日)という姉妹篇がある。一九七三年の《日本の近代小説》と一九七五年の《続 日本の近代小説》を併せた一冊本で、ここでも吉岡が装丁を担当している。 表紙布の赤と青の色は、吉岡の詩集《ポー ル・クレーの食卓》初刊・再版(書肆山田、1980)と同じ流れだ。函のカットの刷り色にもご注目いただきたい。二冊とも、仕様は二一八×一四七 ミリメートル・上製布装(継表紙)・貼函入。《日本の現代小説》が五五四ページ、《日本の近代小説》が五二二ページである。

篠田一士《日本の現代小説》(集英社、1980年5月10日)と《日本の近代小説》(同、1988年2月10日)の函と本体
篠田一士《日本の現代小説》(集英社、1980年5月10日)と《日本の近代小説》(同、1988年2月10日)の函と本体


吉岡実の装丁作品(11)(2004年5月31日〔2006年6月30日追記〕〔2016年5月31日追記〕)

《筑摩書房の三十年》(筑摩書房、1970年12月25日)は「筑摩書房の最初の出版は、中野重治の『中野重治随筆抄』で、その奥付によれば、発行は昭和十五年六月十八日、発行所は泰明小学校の前にあたる東京市京橋区銀座西六丁目四番地で、発行名義人は古田晁であった」(同書、三ページ)と書きおこされている。執筆は吉岡実の岳父でもある小説家の和田芳恵だが、著者名の表示はない。そうしたこともあって装丁者のクレジットはないものの、中島かほるのインタビュー〈吉岡実と「社内装幀」の時代〉にあるように吉岡の装丁である。
「『筑摩書房の三十年』はいい本ですね。この表紙は本麻なんです。表紙用の布としては最高級品のひとつですよね。これだけの麻の生成りの質感が残っていて。……あ、この見返しは新局紙ですね。扉が新鳥の子。吉岡さんらしい。」(《ユリイカ》、2003年9月号、一四六ページ)
古田晁は一九七三年、心筋梗塞で急逝する。翌年の一周忌を期して《回想の古田晁》(筑摩書房、1974年10月30日)が刊行された。花布にいたるまで《筑摩書房の三十年》とほとんど同じ体裁の本書にも装丁者の表示はないが、吉岡実の手になると見て差しつかえあるまい。執筆者を列記すると、石川淳・井伏鱒二・臼井吉見・遠藤湘吉・大山定一・唐木順三・河上徹太郎・上林暁・草野心平・小林秀雄・佐藤正彰・渋川驍・島崎蓊助・高藤武馬・竹内好・武田泰淳・手塚富雄・中島健蔵・中野重治・中野好夫・中村光夫・速水敬二・丸山真男・湯浅芳子・吉田健一・渡辺一夫・和田芳恵など、総勢四八名。
和田の〈思い出すこと〉は「古田さんがなくなったと電話で知らせてくれたのは詩人の吉岡実だった。吉岡実は筑摩書房の社員で、私の娘婿である」(同書、二〇〇ページ)と始まる。小林秀雄の〈古田君の事〉は本書刊行の翌一一月、吉岡が編集する《ちくま》第67号に転載されている(さらに一二月の《文藝春秋》にも再録されている)。
二冊とも印刷は精興社、製本は矢嶋製本で、仕様は一八八×一三〇ミリメートル・上製布装・貼函入、非売品。《筑摩書房の三十年》が三二六ページ、《回想の古田晁》が三〇八ページである。

《筑摩書房の三十年》(筑摩書房、1970年12月25日)と《回想の古田晁》(同、1974年10月30日)の函と本体
《筑摩書房の三十年》(筑摩書房、1970年12月25日)と《回想の古田晁》(同、1974年10月30日)の函と本体

〔2006年6月30日追記〕
林哲夫《文字力[もじりき]100》(みずのわ出版、2006年6月4日)に《筑摩書房の三十年》が掲載されている。本稿からの引用もあるが、書影(林さん撮影のモノクロ写真)が素晴らしい。

〔2016年5月31日追記〕
《丸谷才一全集〔第12巻〕》(文藝春秋、2014年9月10日)の〈V 匿名時評〉には《東京新聞〔夕刊〕》の〈大波小波〉に書いた139本から18本が収められている。1971年1月22日〈大波小波〉の〈筑摩書房の三十年〉の筆者名は「ふくろう」。その最初と最後の段落を引く。「昨年、つまり昭和四十五年は、筑摩書房の創業三十周年に当たるそうで、和田芳恵執筆の社史「筑摩書房の三十年」が配られた。質朴典雅な造本もいかにもこの本屋にふさわしいが、和田の書いた社史そのものはもっと筑摩らしい。それはいわば、社史の模範とも言うべき見事な出来ばえを示している。/〔……〕/つまりこの本屋は、社史のときもよい本を出そうと、ただそれだけを願っているわけである。こういうマジメな出版社の、いっそうの進展を心から祈る」(同書、四一二〜四一三ページ)。「質朴典雅な造本」が吉岡実の手に成ることを丸谷が了解していたかは不明だが、後年のエッセイ〈出版社の社史〉(《月とメロン》文藝春秋、2008)は、和田の《筑摩書房の三十年》と百目鬼恭三郎の《新潮社八十年小史》を論じて間然する処がない。


吉岡実の手掛けた本(1)(2004年4月30日)

吉岡実は《土方巽頌》の〈44 本名〉でこう書いている。

 〈日記〉 一九七四年五月十六日
 午後、土井虎賀寿『時間と永遠』が出来たので、担当者として十冊を持って、生田の土井家に行く。杉野未亡人と娘の佐保嬢は喜び、一冊を霊前に供える。近 くに住む装幀者の田中岑も招いて、シャンパンで祝杯をあげる。画家は若い頃、土方巽と同じ屋根の下で生活をしたり、たいへん親しかったとのこと。その時、本名は「 米山九日生 よねやまく に お  」だと知らされる。しかし誰にも言うまい、彼は永遠に「土方巽」でなければならないのだから。(同書、七七ページ)

不 勉強を告白すれば、最近まで土井虎賀壽《時間と永遠》(筑摩書房、1974年5月10日)を手にしたことがなかった。その理由として、吉岡自身によって本 書の装丁者が田中岑だと記されていたことが挙げられる。吉岡が手掛けた本ではあっても装丁本でないために、読むのが後回しにされていたのだ。ところが、洲 之内徹《気まぐれ美術館〔新潮文庫〕》(新潮社、1996)の〈土井虎賀壽――素描と放浪と狂気と〉を読むに及んで、ようやく本書を入手するに至った。洲 之内は「先月私の画廊で土井氏の素描展を開いたとき、未亡人から戴いた」「土井虎賀壽氏の遺稿集」(同書、一一六ページ)の〈 非人称世界 エス・ヴエルト 象徴世界 ジンボル・ヴエルト 〉を通勤電車のなかで読みふけった、と述懐している。私もこの土井の絶筆から読みはじめた。

 一般に、ゲーテの詩句の美しさは言葉と言葉の流れによりも、むしろ詩句と詩句との間、行と行との間に、語られざる沈黙というあ り方で空白にのこされてい る虚数的な焦点に見出される。神々の言葉は、沈黙というあり方でしか語られない。(《時間と永遠》、一三四ページ)

土 井虎賀壽はこのように「詩句の美しさ」を語る思索者だった。〈非人称世界と象徴世界〉は《時間と永遠》の三分の一以上を占める長大な論文で、まだ読了して いない。しかし、吉岡実の手掛けた本が洲之内徹をして〈土井虎賀壽〉を書かせるきっかけになったことは、肝に銘じた。残念なことに、土井杉野の〈あとが き〉には「この書が公刊されるについては、筑摩書房の会長故古田晁氏をはじめ竹之内静雄氏、井上達三氏、粟津則雄氏、吉岡実氏、淡谷淳一氏、乗松恒明氏 〔……〕の御厚情と御支援があったことをここに書き記して永く記念したいと思う」(同書、三九〇ページ)とあるだけで、吉岡が具体的に本書とどう係わった かはわからない。著者に対しては出版社の窓口として、外部の装丁者や社内の編集担当者を統合して事に当たったのだろうか。

土井虎賀壽《時間と永遠》(筑摩書房、1974年5月10日)の函と表紙〔題字:天野貞祐、カット:著者、装幀:田中岑〕
土井虎賀壽《時間と永遠》(筑摩書房、1974年5月10日)の函と表紙〔題字:天野貞祐、カット:著者、装幀:田中 岑〕


吉岡実の対談・座談会集(2004年3月31日〔2010年5月31日追記〕)

吉岡実が行なった対談や座談会は、まだ一本にまとめられていない。生前に出版されなかったのは吉岡自身の意向によろうが(私が詩書の編集者だったらぜったいに企画した)、ぜひとも手軽な形で読みたいものだ。今回は、吉岡実が出席した対談・座談会等の簡単な掲載記録と記事の小見出しを摘することで(小字で記載)、架空の書物《吉岡実対談・座談会集》を概観しよう。なお、出席者が二名のものを「対談」、三名のものを「鼎談」、それより多いものを「座談会」と区分して、年代順に並べた。

●対談

一九六三(昭和三八)年一月 新春対談〔天沢退二郎との対談〕(現代詩)

〔小見出しなし〕

一九六七(昭和四二)年一〇月 模糊とした世界へ〔入沢康夫との対談〕(現代詩手帖)

詩を書くことと詩論を書くこと
作品の変化について
吉岡実の詩の出発
吉岡実の詩の言葉
作品と現実とのかかわり方
白紙の状態から書き始める

一九七三(昭和四八)年九月 卵形の世界から〔大岡信との対話〕(ユリイカ)

吉岡実前史を求めて
少年期の書物群
卵が登場する
俳句からの脱出
さまざまな出合い
傲慢であることが必要だ
ストリップの宇宙
言語彫刻の現場
散文の沃野へ
固有名詞の世界へ
かぎりなく脱皮する

一九七五(昭和五〇)年一二月 詩的青春の光芒〔飯島耕一との対話〕(ユリイカ・臨時増刊)

「鰐」の時代
伊達得夫の「ユリイカ」
「僧侶」の時代
「神秘的な時代の詩」
「ゴヤのファースト・ネームは」と「新年の手紙」
運慶とシュルレアリスム
「日本回帰」の問題
可能性としての茂吉
金子光晴と西脇順三郎
70年代の詩人たち
詩的フォルムへ
『岡倉天心』
『詩禮傳家』

一九八〇(昭和五五)年一〇月 一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〔金井美恵子との対談〕(現代詩手帖)

体験と想像力
俳句・短歌と現代詩
引用詩について
繰り返しを避ける
物質的な言葉
目の人
丸くて寸づまりのもの
一切新しいものはない
「具体」への志向

●鼎談

一九六一(昭和三六)年二月四日 読者と本の結びつき――出版広告はどうあるべきか〔祐乗坊宣明・小宮山量平との座談会〕(図書新聞)

両極に分解する――効果のある広告、ない広告
宿命的な配給機構――映画に似た投機的な性格
新聞は報道義務を――出版社 フェティシズム破れ
読書人口はふえる――販売調査を利用したい
五十万の書評紙を――中核的読者をつかむこと
新聞は見識を持て――公共的なPRで協力を

一九八七(昭和六二)年一一月 奇ッ怪な歪みの魅力〔松浦寿輝・朝吹亮二との対話批評〕(ユリイカ)

〔小見出しなし〕

●座談会

一九六三(昭和三八)年二月 第二回俳句評論賞選考座談会〔金子兜太・神田秀夫・楠本憲吉・高柳重信・中村苑子との座談会〕(俳句評論)

渡部杜茂子
西本弥生
寺田澄史
前川弘明
竹本健司
志摩聰
再び渡部杜茂子
佐藤輝明
渡部杜茂子と竹本健司
安井浩司
大岡頌司
とにかく絞ろう
それではどうする

一九六三(昭和三八)年七月 第13回日本現代詩人会H氏賞選考委員座談会〔安藤一郎・中桐雅夫・吉野弘・小海永二・秋谷豊・安西均・村野四郎・草野心平との座談会〕(詩学)

選考経過

一九七二(昭和四七)年一〇月 現代俳句=その断面〔佐佐木幸綱・金子兜太・高柳重信・藤田湘子との座談会〕(鷹)

俳句との出会い
短歌をつくるとお小遣いをくれる
『前略十年』のころ
魅力的な写真
あつかましい自然
見る自然≠ヘつまらない
ボキャブラリーの不足
踏みとどまって見る
俳壇はいつも二流時代
結社の主宰者
作品を書くための滑走路
《湘子後記》

一九七五(昭和五〇)年二月 悪しき時を生きる現代の詩――座談形式による特集〈今日の歌・現代の詩〉〔加藤郁乎・那珂太郎・飯島耕一・吉増剛造との座談会〕(短歌)

日本一の詩人・西脇順三郎さん
抱腹絶倒の歌
出生・過去・海やまを走る
現代の歌人とその周辺
三島由紀夫・戦後が鴎外にぶつかった

一九七五(昭和五〇)年五月 思想なき時代の詩人〔飯島耕一・岡田隆彦・佐々木幹郎との座談会〕(現代詩手帖〔特集・鈴木志郎康VS吉増剛造〕)

受け身の詩人鈴木志郎康
具体的事実を了解する
散文に対する鮮明な意識
こわい詩人、正直な詩人
自身を虚構化し踊らせる
詩における散文脈とは何か
一篇の長篇詩への夢

一九八〇(昭和五五)年五月〜一九八一(昭和五六)年四月 現代俳句を語る〔飯田龍太・大岡信・高柳重信との連載座談会〕(《鑑賞現代俳句全集・全一二巻》立風書房・月報)

正岡子規の場合
子規における芭蕉と蕪村
子規における俳句と短歌
勇敢な人の勇敢なふるまい
子規の初期の佳句など
子規の連句否定の意味
俳句だけでなかった子規
再び子規の佳句
子規を短詩型に専念させたもの
融通無碍だった子規
三人三様の字
碧梧桐と虚子
碧梧桐の佳句など
碧梧桐をかっていた子規
いわゆる見どころのある句とない句
虚子の方法
虚子の俳句復帰の原因
碧梧桐の無中心主義
碧梧桐の悲劇
頭でつくる俳句、身体でつくる俳句
蛇笏の俳句
普羅という人
石鼎の名句など
鬼城の月並み
江戸っ子俳人水巴
インテリ俳人四Sの登場
俳壇外も受け入れた四S
当時の俳壇・歌壇・詩壇
バランスをとった虚子
四人の図式、四人の共通点
決定的な新鮮さ
素十の方法
青畝の特色
弟子を育てない俳人
つかみにくい新興俳句の実体
新興俳句運動と戦争
時代の動きと短歌・俳句の関係
時代への反抗の代替物?
方法意識の導入
「白い夏野」の意味
定型を重んじた新興俳句
新興俳句と自由律俳句
放浪の詩人
放哉か、山頭火か
新興俳句と自由律俳句の共通性
草田男の魅力
波郷について
楸邨と「俳」
楸邨の一つの体質
楸邨と草田男の岐路
戦前の女流、戦後の女流
鷹女と赤黄男
鷹女と久女・多佳子
汀女・立子など
戦前の俳句・戦後の俳句
戦後俳人にも成果が……
俳句形式への情熱が……
自句自解をめぐって
龍太を俎上にすると……

一九八〇(昭和五五)年九月 シンポジュウム 永田耕衣の世界〔金子晋・高柳重信・三橋敏雄・高橋睦郎・永田耕衣・鈴木六林男・多田智満子・桂信子・鶴岡善久・津高和一・足立巻一・中村苑子・飯島晴子・加藤三七子・島津亮・鈴木漠・坂戸淳夫・小川双々子・赤尾兜子との座談会〕(俳句)

はじめに
「寝釈迦」の句について
凡聖不二の境
「近海に…」の句
存在即エロチシズム
「夢の世に」の句
季霊ということ
「髪脱け落つる」の句
重層的な読みかた
視点の自在さ
二重の自画像
活力としての無常

一九八二(昭和五七)年七月 比類ない詩的存在〔大岡信・那珂太郎・入沢康夫・鍵谷幸信との西脇順三郎追悼座談会〕(現代詩手帖)

人がらと生地
西脇順三郎との出会い
思考と表現の過程
詩集にあらわれる詩的世界の展開
底流としてのイメージと音感
詩における構築された舞台

一九八五(昭和六〇)年一月 言語と始源〔オクタビオ・パス・大岡信・渋沢孝輔・吉増剛造との特別座談会〕(現代詩手帖)

日本詩との出会い
伝統詩と現代詩
縦のアメリカ
翻訳と詩
ブニュエルと映画
アジアへの視点

以上のほかに私の見おとした記事があるかもしれない。こうして振りかえってみると、吉岡実が一書を捧げるにふさわしい西脇順三郎・永田耕衣・土方巽といった詩人・俳人・舞踏家との対談が残されていないのが、つくづく惜しまれる。しかし《土方巽頌》を挙げるまでもなく、吉岡の筆がこれらの対象をみごとに描きだしていることをもって瞑すべきであろう。その全著作からそれぞれが吉岡実著《西脇順三郎アラベスク》や吉岡実編《耕衣句抄》を読みとればよいのだから。

〔2010年5月31日追記〕
吉岡実と西脇順三郎の対談や座談会がほんとうにないか改めて調べたところ、飯島耕一の西脇順三郎追悼文〈晩年の西脇さん〉にこういう一節があった(ただし最後の「二日目には吉岡実も同席した」という一文は初出の《海》1982年8月号には見えない)。

わたしは昨〔1981年〕秋それでも四度も西脇さんには会うことができた。草月ホールで西脇さんの絵の大回顧展が開かれることになり、それにちなんで雑誌『草月』で(ここには西脇さんと親しい元読売の海藤日出男氏がいる)、西脇さんにインタヴューをしてくれないかと言われたのだ。老齢を気づかって、中一日あけて二日のインタヴューとなり、前後四時間もわたしは詩人の話を聞くことができた。二日目には吉岡実も同席した。(《飯島耕一・詩と散文2》、みすず書房、2001年2月1日、二二三ページ)

くだんの記事は〈わたしの古典[20]西脇順三郎――古代ギリシアの周辺〉(《草月》138号、1981年10月)で、クレジットに「インタヴュー・文 飯島耕一」とあるとおり、飯島の執筆である。手入れ後の〈晩年の西脇さん〉を読んだあとなら、《草月》掲載記事の地の文の「わたしたち」「われわれ」や西脇の発言の「きみたち」が飯島と吉岡(と《草月》編集・発行人の海藤)のことだと知れるが、インタヴュー記事を読んだだけでは誰を指すのかわからない。いずれにしても、飯島文に吉岡実は登場しないし、吉岡が発したであろう質問も知るすべがない。
この〔追記〕掲載に並行して、吉岡実が生前発表した口頭による全発言を《吉岡実トーキング》に編んだ。本文、すなわち吉岡をはじめとする話者たちの発言を除いて、編者の執筆になる前付・註・後付を〈発言本文を除く《吉岡実トーキング》〉に掲げたので、ご覧いただけるとありがたい。


吉岡実の装丁作品(10)(2004年2月29日)

吉岡実の装丁を語るとき、「ワンポイントの図案」(林哲夫)と並んで忘れてならないのが装画の存在である。装画は吉岡装丁にとってトレードマークの 感さえある。吉岡自身の詩集のカット・装画の描き手を見れば、《静 物》 《紡錘 形》が真鍋博、《静か な家》 《異 霊祭〔特装版〕》が落合茂、《サフ ラン摘み》 《ポー ル・クレーの食卓》が片山健、《夏の 宴》 《ムー ンドロップ》が西脇順三郎といった具合だ(ところで《液 体》の装画は誰の手になるのだろう)。これらの描き手のなかで、吉岡が他の著者の本を装丁するとき、いちばん多く起用したのが落合茂だと思われ る。今回は吉岡実装丁・落合茂装画本のなかから、安藤元雄詩集《夜の音》を取りあげる。

安藤元雄詩集《夜の音》(書肆山田、1988年6月10日)の函と表紙〔装画:落合茂〕
安藤元雄詩集《夜の音》(書肆山田、1988年6月10日)の函と表紙〔装画:落合茂〕

《夜の音》は限定八〇〇部、仕様は二五五×一六五ミリメートル・六六ページ・上製継表紙・機械函入。飯島耕一詩集《ゴヤのファースト・ネームは》 (青土社、1974)の装丁者でもある安藤元雄は、詩集《夜の音》について次のように語っている。

 『夜の音』を書いたのは、前の詩集と時期的にはほとんど重なります。出たのはこっちの方がちょっと遅かったですね。これは、吉 岡実さんの装幀だから、き れいでしょう? 吉岡実さんていうのは詩人で、筑摩書房にいた人ですが、装幀はうまかったですね。時計の絵がカットになってるんですよ。この時計を落合茂 さんって人が描いて、中のページにもところどころに描いて、全部針が違うの。つまり、時計は同じなんだけど、時刻はまわってるってことで、針が違うんで す。というおもしろい絵が入ってます。(《安藤元雄――『秋の鎮魂』から『めぐりの歌』まで》、前橋文学館、2000、二三ページ)

吉岡は《夜の音》のほかにも安藤元雄詩集《船と その歌〔別製版〕》(思潮社、1973) の装丁をしている。詩人としては、安藤の詩について次のように書いている。

古本屋の雑多なる堆積の闇から、私は一冊の薄い本を、光のなかへ抽き出し、慰撫する。まだ真新しい、それは安藤元雄の処女詩集 《秋の鎮魂》であった。福永 武彦の寄せた〈序〉の言葉が、この詩人の思念の本質を、的確に捉えているように思われる。〔……〕清澄で内省的なこの詩人は、永い時間をかけた、《舟と その歌》を、一過程としつつ、やがて成熟した、作品《水の中の歳月》を創り上げた。(《安藤元雄詩集〔現代詩文庫79〕》、思潮社、1983、表紙4〔句 読点を改めた〕)

吉岡実詩集の基本版面(2004年1月31日)

吉岡実が生前に刊行した一二冊の詩集の本文の基本版面を調べることで、詩集設計の特徴を探ってみたい。なお、Iの《ポール・クレーの食卓》は亞令に よる装丁だが、著者自装に準ずるものとして同列に扱う。最初に次の表をご覧いただきたい。

吉岡実詩集基本版面
書名 天地 活字 字詰 版丈 天下 地上 左右 行数 行間 版幅 小口 ノド
@ 昏睡季 節 172 9 20 63 46 63 121 14 5.25 68 20 33
A 液体 210 10.5 17 63 37 110 148 17 5.25 92 30 26
B 静物 188 10.5 30 111 49 28 131 11 10.5 77 34 20
C 僧侶 190 10.5 27 100 35 55 145 13 10 90 30 25
D 紡錘形 202 10 27 95 45 62 150 13 10 88 36 26
E 静かな 家 210 9 27 85 39 86 148 14 12 99 31 18
F 神秘的 な時代の詩 236 10.5 26 96 46 94 140 12 10.5 85 37 18
G サフラ ン摘み 220 10 34 119 33 68 142 14 8.5 88 37 17
H 夏の宴 220 10 27 95 42 83 142 14 9 90 33 19
I ポー ル・クレーの食卓 192 10.5 25 92 38 62 97 10 5 53 29 15
J 薬玉 245 12 33 139 37 69 173 15 9 108 43 22
K ムーン ドロップ 218 12 35 148 28 42 143 13 7 84 37 22

平均 209 10.4 27 100 40 69 140 13 8.5 85 33 22

備考
(1)天地=天地寸法(mm)
(2)活字=活字ポイント
(3)字詰=字詰め
(4)版丈=版面天地(mm)=[活字ポイント]×[字詰め]×0.3514
(5)天下=天のアキ(mm)
(6)地上=地のアキ(mm)=[天地寸法]−[天のアキ]−[版面天地]
(7)左右=左右寸法(mm)
(8)行数
(9)行間=行間ポイント
(10)版幅=版面左右(mm)=([活字ポイント]×[行数]+[行間ポイント]×[行数−1])×0.3514
(11)小口=小口寸法(mm)
(12)ノド=ノド寸法(mm)=[左右寸法]−[小口寸法]−[版面左右]

〈備考〉のうち計算式のない項目は、各詩集の初刊を実測した数量・数値である(ただしKは〈聖あんま断腸詩篇〉のみ五号〔10.5ポ〕一五行組)。 念のため付け加えれば、これらは組版の基本設計であって、言うならば「容器」である。全体を概括してみよう。
本文ページの(1)天地寸法はA5判(天地〔丈〕210×左右〔幅〕148mm)内外で、(7)左右寸法は 短めのA5判が多い。吉岡詩集の判型は規格寸法(正寸判)が少なくて、正寸よりも縦長の変型判が過半を占める。縦長の比率の高い順に詩集を並べれば、I、F、GとH(同比率)、K、B、@で七冊。正寸はA、E(ともにA5判)で二冊。逆に正寸よりも横長を順に並べれば、J、D、Cの三冊となる。
(2)活字ポイントは本文の使用活字のサイズで、基本的に10ポか五号だが、JとKが12ポなのが注目される。またEが9ポなのは先行する《吉岡 実詩集》(思潮社、1967)の組版を流用したためで、単行詩集のための新組なら10ポか五号が採用されたはずだ。
(3)字詰めで、@が一行20字なのは原稿用紙と同じに組んだためか。後年、吉岡は執筆に「草蝉舎」の名入りの特注原稿用紙(32字×20 行)を用いたが、たいてい上下を空けて書いている。
(4)版面天地はベタ組がほとんどのため計算式で出したが、厳密に言えばAは字間四分アキであり、実際の寸法は63mmの約1.25倍にな る(@も字間を割ってある)。
(5)天のアキ(6)地のアキを比較すればわかるように、版面は基本的にページの中央よりも上に配置されている中にあっ て、Bだけが意図的に下に置かれている。
(7)左右寸法ではJが例外的に大きいが、(8)行数を見ると他の詩集よりそれほど多いわけではない。また、左右が短いから 仮製本(フランス装)、長いから本製本(ハードカバー)というわけでもないようだ。
(9)行間ポイントはIを除いて本文の二分以上で、全角行間のものも多く(B、D、F)、総じてゆったりと組まれている。
(10)版面左右でもJが目立つ(Iの約二倍ある)。
(11)小口寸法(12)ノド寸法では、@を除いて小口の方が広く取ってある(@のノドが広いのは、袋綴じであることが影 響していよう)。

こ れらの詩集の平均値を基にして、実際に基本版面を設計してみよう。判型はA5変型判の天地209×左右140mm(天地ほぼ正寸で、左右をカットした縦長 本)。本文活字は五号、行間は8.5ポ。字詰めは27字、行数は13行(1ページに収容できる文字数は351)。刷り位置は天から40mm下(地から 69mm上)、小口のアキが34mm(ノドのアキが22mm)。ノド、小口、天、地の順に広くなる恰好だ。もちろん、吉岡実がこのような版面を設計したわ けではないが、単行詩集を刊行するにあたってイメージしたもののおおよそはつかめるだろう。下に見開きページのダミーを掲げる。

吉岡実の12冊の詩集の平均値を基に設計した基本版面(見開き状態)
吉岡実の12冊の詩集の平均値を基に設計した基本版面(見開き状態)

上記の表〈吉岡実詩集基本版面〉の数値からは、天地と版丈(行長)の比率、左右と版幅の比率、ページと版面の面積の比率などが算出できるし、〈吉岡実書誌〉〈吉 岡実年譜〔作品篇〕〉を 参考にすれば、これから詩集をまとめたいと考えている方には組版設計の目安となるだろう(詩集設計の要諦は、原稿分量すなわち総行数にあるのだが)。今回 は本文の基本版面(とその刷り位置)の分析に終始したが、いずれノンブルや標題まわりについても調査するつもりである。


吉岡実の装丁作品(9)(2003年12月31日)

林哲夫さんの〈色――吉岡実の装幀〉(《古本スケッチ帳》、青弓社、2002)は短文ながら、傑れた吉岡実装丁論である。

 吉岡本の特長はまずそのセンター合わせのレイアウトにある。書名・著者名(縦組み横組みにかかわらず)、ワンポイントの図案、版元名、これら必要最小限の要素を表紙およびカバーの縦の中央線を基準としてじつにバランスよく配置する。これは、フランスの仮とじ本の影響も少しはあるかもしれないが、誰しも思いつき、誰にでもできることであって、その意味ではまさにアマチュア的である。そして、誰にでもできることをみごとにやってのけるほどむずかしいことはい。吉岡はサッとやってのけ、しかもおのずからなるたたずまいを感じさせる。
 いまひとつの特長、天性のものとしか思われない感覚の発露は「色彩」である。箱・カバー・表紙・見返し・扉、そして本文紙。それらひとつひとつのマティエールと色合いが吉岡でなければけっして結集させることのできないような組み合わせになっている。(同書、一四三ページ)

付け加えることがあるとすれば、吉岡実のレイアウトの根幹には「書」があっただろうことくらいである(若き日に彫刻家を夢みて果たさなかった吉岡は、油桃子佐藤樹光の夢香洲書塾の手伝いをしている)。

《芥川龍之介全集 筑摩全集類聚〔第2巻〕》(筑摩書房、1971年4月5日)の函と表紙
《芥川龍之介全集 筑摩全集類聚〔第2巻〕》(筑摩書房、1971年4月5日)の函と表紙

ここに掲載した《芥川龍之介全集 筑摩全集類聚〔全8巻・別巻1〕》(筑摩書房、1971年3月5日〜11月5日)には装丁者のクレジットがない。林さんも前掲書の写真〈筑摩書房時代(1951-78年)に吉岡実が装幀したと思われる全集類の一部〉には本書を挙げていない(《芥川龍之介全集》はあるが)。私には、岩波書店の《日本古典文學大系》に似た煉瓦色のクロスや貼り題箋の採用などから、吉岡装丁のように思えてならない。それもあって、本書を《吉岡実書誌》の〈装丁作品目録〉に掲げた。仕様は一八八×一三〇ミリメートル・第2巻は四三六ページ・上製・機械函入。


吉岡実の装丁作品(8)(2003年11月30日)

吉岡実は《「死 児」という絵》の〈あとがき〉をこう結んで、担当編集者への謝辞としている。

 ここ四、五年の間、きわめて怠惰な私をたえず叱咤激励し、散逸した文章を丹念に集め、編集してくれた八木忠栄に感謝する。(同書、三四五ページ)

八木忠栄は思潮社の編集者として吉岡初の散文集を手掛けたばかりでなく、雑誌として初の「吉岡実特集」を組んでいた。すなわち、《現 代詩手帖》一九六七年一〇月号の〈特集・吉岡実の世界〉である。同誌の後記〈編集のおと〉から引く。

 吉岡実氏の全詩集が刊行されるのを機に、戦後詩人のなかでも、際立って特異な位置を占めているにもかかわらず、正面きってとり あげられることの少なかっ たこの詩人について特集した。とりわけ、このような場所で詩に関しての発言をされることが殆どなかった吉岡氏自身に、初めて登場してもらった対談は、興味 深くお読みいただけると思う。(同誌、一三二ページ)

八 木忠栄は詩人である。一九六二年の《きんにくの唄》以降の詩集と未刊詩篇をまとめたのが、《八木忠栄詩集――1960〜1982》(書肆山田、1982) だ。限定八〇〇部、仕様は二一〇×一二八ミリメートル・二九八ページ・上製・ジャケット・機械函入。鈴木志郎康とともに本書の編集を担当した高橋睦郎は 〈上梓まで〉で「装釘を吉岡実さんにというアイディアは書肆山田との打合せの中で出て来た。吉岡さんが二つ返事で引受けてくださったことは嬉しかった」 (同書、二九〇ページ)と振りかえっている。装丁では、古代の壺の模様のような、《風の谷のナウシカ》タイトルバックの綴織のようなカット(クレジットが ないが、誰の手になるのだろう)が眼を惹く。

《八木忠栄詩集――1960〜1982》(書肆山田、1982年4月30日)の函とジャケット 《八木忠栄詩集――1960〜1982》(書肆山田、1982年4月30日)の本扉と見返し
《八木忠栄詩集――1960〜1982》(書肆山田、1982年4月30日)の函とジャケット(左)と同・本扉と見返し (右)


吉岡実の装丁作品(7)(2003年10月31日)

中島かほる〈吉岡実と「社内装幀」の時代〉(《ユリイカ》、2003年9月号)は、創見に充ちた、教えられるところが実に多いインタビュー記事であ る。たとえば、吉岡の作業現場を知る装丁家ならではの次の発言。

 表紙を開けたところにある見返しについては、吉岡さんは淡クリーム白孔雀など、薄いクリーム色を好んで使われていました。あま りはっきりした色の見返し は好まれなかったんです。ナチュラルな、うるさくない紙。一般的には表紙の色とのバランスで、見返しにはっきりと色のついた紙を用いることも多いのです が、表紙を開いたら、そこからすでに本文が始まっているんだという意識が吉岡さんにはあったんだと思います。それと全集はたいてい厚くて重いので、やはり 丈夫な紙でないといけないということもあったでしょうね。後年は、ファンシー・ペーパーではシマメ紙もお好きでしたね。(同誌、一四三ページ)

どうしても函や表紙・本扉に目が行きがちだが、「表紙を開いたら、そこからすでに本文が始まっている」という見返し観には得心がいった。

《高橋新吉全集〔第1巻〕》(青土社、1982年7月15日)の函と本体 《高橋新吉全集〔第1巻〕》(青土社、1982年7月15日)の本扉と見返し
《高橋新吉全集〔第1巻〕》(青土社、1982年7月15日)の函と本体(左)と同・本扉と見返し(右)

今回は、〈〈吉 岡実〉を語る〉でも触れた高橋新吉の全集を見よう。吉岡は高橋全集の内容見本に推薦文〈わが新吉讃〉を寄せている(単行本未収録)。全文を引く。

 わたくしが高橋新吉さんの詩に、触れたのは『高橋新吉の詩集』が最初だった。だから、昭和二十四年頃のことである。そのなかに珠玉「るす」があった。そ れから『胴体』まで読み、名作「甲板」をめでつつ、新吉さんの詩と別れた。わたくしは誰とも別れる。
 この伝説的な詩人と出会い、人間的魔力に魅せられる。当然ながら、詩を再び読みはじめた。その詩的宇宙は広く、ダダイズム風詩篇から、禅機をはらむ数々 の作品群がある。肉と魂――あるいは毒と夢が混合し、分離し、沸騰している。いや沈潜しているのかもわからない。それでありながら、不思議と鮮明に、詩の 実態と、思想の核が、見えるのだ。(《高橋新吉全集》内容見本、1982年1月1日、青土社)

吉岡は《高橋新吉全集》(限定一〇〇〇部、仕様は二二一×一五一ミリメートル・上製・貼函入)にどのような素材を選定したか。表紙は茶の布クロスだ (《入沢康夫〈詩〉集成・1951〜1978》や吉岡の《「死 児」という絵》よりも明るい茶色)。吉岡にとって筑摩書房以外の版元からの全集では、《高 柳重信全集》が最も深い関わりで(編集委員・装丁担当・月報執筆)、内容見本執筆・装丁担当の《高橋新吉全集》はその次に位置する。寡聞にして吉 岡詩と高橋詩の関係を述べた文章を知らないが、《薬玉》以降の詩業と高橋の文業とに浅からぬ因縁を感じるのは私だけだろうか。


吉岡実の装丁作品(6)(2003年9月30日)

那珂太郎は追悼文〈吉岡實追想〉で吉岡実の人と作品を振りかえり、その装丁にも言及している。

 一九六五年、私が詩集『音楽』を出すとき、発行元の小田久郎と一緒に彼を訪ねて装幀を頼んだ。以前に出た彼の『紡錘形』と同型のフランス装である。題名 についても、さきに三島由紀夫の小説に『音楽』といふ題があり、いささか気になり『 波の[、、] 音楽』とか何とか付け足したら、とも迷つたが、彼は言下に、ずばり『音楽』で行くべきだと断定した。『波の』を加へたら、並の題名になつただらう。
 一九七三年から始つた朔太郎全集の編集事務の数年間は、筑摩書房で毎週のやうに彼と顔を合せたものだ。全集の装幀については、『定本青猫』表紙の黄色 と、『虚妄の正義』の鴉のデザインのアイディアを出して相談したら、彼は鴉を黒にせず、金箔で押して見事な装幀に仕上げてくれた。(《現代詩手帖》 1990年7月号、三三ページ。のち随想集《時の庭》(小澤書店、1992)に収録の際、正字に改められている)

那珂太郎詩集《音楽》(思潮社、1965年7月10日)の函と表紙 吉岡実詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962年9月9日)の函と表紙
那珂太郎詩集《音楽》(思潮社、1965年7月10日)の函と表紙(左)と吉岡実詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962年9 月9日)の函と表紙(右)

詩集《音楽》は限定四〇〇部。仕様は、二〇一×一四八ミリメートル・九〇ページ・並製フランス装・機械函(印刷所・製本所とも《紡錘 形》と は異なる)。カット落合茂。全体のテイストからいって間違いなく吉岡実装丁だが、装丁者のクレジットがない。残念なことに、函・表紙とも「那珂太郎詩集」 という横組の活字の並びがバランスを欠いている。書体の加減だろうが、縦組では気にならない「太」の字が大きすぎるのだ。次に那珂太郎装丁原案の《萩原朔 太郎全集》に登場してもらおう。

《萩原朔太郎全集〔第1巻〕》(筑摩書房、1975年5月25日)の函と表紙
《萩原朔太郎全集〔第1巻〕》(筑摩書房、1975年5月25日)の函と表紙

仕 様はA5判・上製・貼函。本書の装丁に関しては〈装丁でも才能発揮する詩人の吉岡氏〉に吉岡実のコメントがある。「うん、朔太郎全集なんかちょっと自慢な んだな」「黄ってのは間違うと赤っぽくなったり白っぽくなったりして、むつかしいんだ」(《朝日新聞〔夕刊〕》、1976年4月27日、七面)。表紙用ク ロス(アートカンバス)の色にしか触れていないが、函の「萩原朔太郎全集」という文字組は完璧だ。函と表紙で、《虚妄の正義》の鴉の位置を違えているのに も注目したい。


吉岡実のレイアウト(2)(2003年8月31日〔2004年2月29日追記〕)

〈ルイス・キャロルを探す方法〉(《別冊現代詩手帖》第2号、思潮社、1972年6月)の扉 〈ルイス・キャロルを探す方法〉(《別冊現代詩手帖》第2号、思潮社、1972年6月)の中面
〈ルイス・キャロルを探す方法〉(《別冊現代詩手帖》第2号、思潮社、1972年6月)の扉(左)と同・中面(右)

ク レジットには「本文レイアウト 田辺輝男」とあるが、《別冊現代詩手帖》(第1巻第2号、〈ルイス・キャロル――アリスの不思議な国あるいはノンセンスの迷宮〉、思潮社、1972)に掲 載された〈ルイス・キャロルを探す方法〉(同前、一五七〜一六四ページ)は、キャロルの写真を材に、吉岡が詩とモンタージュのみならずレイアウトまで手掛 けたものかもしれない。今回、写真撮影のために新たに一本購ったところ、前に求めたものよりもオレンジ色がかった紙に替わっていた(この別冊は何度も増刷 されている)。吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈の詩篇〈少女〉で、この〈ルイス・キャロルを探す方法〉に触れた箇所があるので、字句を正して引用する (《文藝空間 会報》第24号、1994、〈「少女の夢のはらみ方」〉より)。

 初出〈ルイス・キャロルを探す方法〉は、冊子ではそこだけほかの白の本文用紙とは別の黄味がかった紙に刷られ、次のような構成になっていた。
 ・一ページめ タイトル〈ルイス・キャロルを探す方法〉(描き文字はキャロルに敬意を表してのものか。子供っぽい字だが、吉岡の手になるかもしれな い)、執筆者名。そして
 Photo by Lewis Carroll
 Poem & Montage by Minoru Yoshioka
ときて(これは写真のキャプション、つまり説明文を意識したレイアウトに見えなくもない)、その左にキャロル撮影による乞食の少女に扮したアリス・リデル の全身像の「扉」。
 ・二〜三ページめ 〈わがアリスへの接近〉と合計七人の「アリスたち」の写真〔後出《Lewis Carroll―Photographer》の図版番号32、54、34、60、17=ノートリミング、42、29〕。
 ・四〜八ページめ 〈少女伝説〉と、合計二五点の写真に閉じこめられた「アリスたち」〔同じく15、53、5、49、37、59、4、16、51、39、43、30、13、44、40、28、36、14、10、3=ノートリミング、50、46、52、26、62=ほとんどトリミングしていない〕。
 写真の少女たちの表情は一様に暗い。塚本邦雄のアリス論に見える描写を借りれば「たとへばマリー・ミレーは独房さながらの部屋の隅に、追ひつめられた揚 句力尽きたかにくづほれ、華奢な脚を斜に投げ出してゐるが、その容貌はジャンヌ・モローそつくり。また、アリス・ジェーン・ド〔ママ〕キンは二階の出窓か ら脱出しようとして女忍者もどきに繊い縄梯子に脚をかけてゐるところ。エリザベス・ヒュッセーはたゆげに寝椅子に靠れかかつて、その媚を含んだ伏目はオダ リスクの風情である」(塚本邦雄《煉獄の秋》、人文書院、1974、八○ページ)で、この類の写真が都合三三点ある。
 吉岡実は高橋康也に〈少女伝説〉の作詩法をこう語っている。「『不思議の国のアリス』を読んでまず感動し、つぎに『鏡の国』を読んだ、これもいい、と 参った。実は、そこで止まっていたのを、たまたま桑原茂夫君に『別冊現代詩手帖キャロル特集号』のために書けってせっつかれたのね。そこで種村さんの『ナ ンセンス詩人の肖像』の中のキャロル論を読んだりしているうちに、少し開けてきた。とにかく、キャロルの撮った少女たちの写真を机の上に並べておいて、名 前を書き出してみた。そしてそのキャプションみたいなつもりで詩を書いてゆけばいいんだと思うと、一種の気楽さが湧いてきて、相当なスピードで「少女伝 説」が書き上がったんです。この名前というのが、かなり決定的な重要性をぼくに対してもつことになるのね」(高橋康也《ノンセンス大全》、晶文社、1977、三五八〜三五九ページ)。一九世紀イギリスの童話作家・写真家と二〇世紀日本の詩人・装丁家が出あった瞬間である。
 ときに「キャロルの撮った少女たちの写真」とは具体的になにか。種村季弘の《ナンセンス詩人の肖像》(竹内書店、1969)には「キャロルの写真(『ド ウ』誌より。右上はキャロル)」(同前、一五○〜一五一ページ)という具合に雑誌の複写が見開きで載っているが、少女のカットは全部で九点〔14、42、15、36、29、39、50、51、17〕と少ないから、吉岡が依ったのは矢川澄子が〈不滅の少女〉で触れている「ヘルムート・ゲルンシャイム著『写真 家ルイス・キャロル』。一九六九年ドーヴァーの新版で、原著は四九年にロンドンで刊行されている」(《別冊現代詩手帖――ルイス・キャロル》、一八一ペー ジ)か、そのコピーだろう。新版(Gernsheim, Helmut《Lewis Carroll―Photographer》, Dover Publication, 1969)はわりあい容易に入手できるから実物を観れば一目瞭然なのだが、私は百年以上前の男の、少女への眼の欲望に驚愕・讃歎を禁じえなかった。徹頭徹 尾、眼の人であった吉岡実がこれらの写真に感応しなかったと考えることは不可能である。
 詩篇執筆の順序は、おそらく〈少女伝説〉のTに続いてUが書かれ(このとき末尾の詩句から総題が生まれた可能性がある。本文よりも進行を急ぐ初出誌の別 刷目次が正式な題名〈ルイス・キャロルを探す方法〉と異なり、単に〈キャロルを探す方法〉となっているのは、総題がいちはやく初案のまま編集者に伝えられ た結果か)、さらに角川文庫版《鏡の国のアリス》を読みなおし、行