《吉岡実の詩の世界》編集後記(小林一郎 執筆)

最終更新日 2021年9月30日

吉岡実の著書や編纂書(所蔵本を中心に、一部吉岡家蔵本を含む)
吉岡実の著書や編纂書(所蔵本を中心に、一部吉岡家蔵本を含む)


目次

編集後記 227(2021年9月30日更新時)

編集後記 226(2021年8月31日更新時)

編集後記 225(2021年7月31日更新時)

編集後記 224(2021年6月30日更新時)

編集後記 223(2021年5月31日更新時)

編集後記 222(2021年4月30日更新時)

編集後記 221(2021年3月31日更新時〔2021年4月30日追記〕)

編集後記 220(2021年2月28日更新時〔2021年9月30日追記〕)

編集後記 219(2021年1月31日更新時)

編集後記 218(2020年12月31日更新時)

編集後記 217(2020年11月30日更新時)

編集後記 216(2020年10月31日更新時)

編集後記 215(2020年9月30日更新時)

編集後記 214(2020年8月31日更新時)

編集後記 213(2020年7月31日更新時)

編集後記 212(2020年6月30日更新時)

編集後記 211(2020年5月31日更新時)

編集後記 210(2020年4月30日更新時)

編集後記 209(2020年3月31日更新時)

編集後記 208(2020年2月29日更新時)

編集後記 207(2020年1月31日更新時)

編集後記 206(2019年12月31日更新時)

編集後記 205(2019年11月30日更新時〔2021年3月31日追記〕)

編集後記 204(2019年10月31日更新時〔2020年3月31日追記〕)

編集後記 203(2019年9月30日更新時)

編集後記 202(2019年8月31日更新時〔2020年7月31日追記〕)

編集後記 201(2019年7月31日更新時)

編集後記 200(2019年6月30日更新時)

編集後記 199(2019年5月31日更新時)

編集後記 198(2019年4月30日更新時)

編集後記 197(2019年3月31日更新時)

編集後記 196(2019年2月28日更新時)

編集後記 195(2019年1月31日更新時)

編集後記 194(2018年12月31日更新時)

編集後記 193(2018年11月30日更新時〔2018年12月31日追記〕)

編集後記 192(2018年10月31日更新時)

編集後記 191(2018年9月30日更新時)

編集後記 190(2018年8月31日更新時)

編集後記 189(2018年7月31日更新時〔2019年1月31日追記〕)

編集後記 188(2018年6月30日更新時)

編集後記 187(2018年5月31日更新時)

編集後記 186(2018年4月30日更新時)

編集後記 185(2018年3月31日更新時〔2019年3月31日追記〕)

編集後記 184(2018年2月28日更新時)

編集後記 183(2018年1月31日更新時)

編集後記 182(2017年12月31日更新時)

編集後記 181(2017年11月30日更新時)

編集後記 180(2017年10月31日更新時)

編集後記 179(2017年9月30日更新時)

編集後記 178(2017年8月31日更新時〔2017年9月30日追記〕)

編集後記 177(2017年7月31日更新時)

編集後記 176(2017年6月30日更新時)

編集後記 175(2017年5月31日更新時〔2018年1月31日追記〕)

編集後記 174(2017年4月30日更新時〔2017年5月31日追記〕)

編集後記 173(2017年3月31日更新時)

編集後記 172(2017年2月28日更新時)

編集後記 171(2017年1月31日更新時)

編集後記 170(2016年12月31日更新時)

編集後記 169(2016年11月30日更新時)

編集後記 168(2016年10月31日更新時)

編集後記 167(2016年9月30日更新時〔2017年3月31日追記〕)

編集後記 166(2016年8月31日更新時)

編集後記 165(2016年7月31日更新時)

編集後記 164(2016年6月30日更新時)

編集後記 163(2016年5月31日更新時)

編集後記 162(2016年4月30日更新時)

編集後記 161(2016年3月31日更新時)

編集後記 160(2016年2月29日更新時)

編集後記 159(2016年1月31日更新時)

編集後記 158(2015年12月31日更新時)

編集後記 157(2015年11月30日更新時)

編集後記 156(2015年10月31日更新時)

編集後記 155(2015年9月30日更新時)

編集後記 154(2015年8月31日更新時)

編集後記 153(2015年7月31日更新時)

編集後記 152(2015年6月30日更新時)

編集後記 151(2015年5月31日更新時)

編集後記 150(2015年4月30日更新時)

編集後記 149(2015年3月31日更新時)

編集後記 148(2015年2月28日更新時)

編集後記 147(2015年1月31日更新時)

編集後記 146(2014年12月31日更新時)

編集後記 145(2014年11月30日更新時)

編集後記 144(2014年10月31日更新時〔2019年5月31日追記〕)

編集後記 143(2014年9月30日更新時)

編集後記 142(2014年8月31日更新時)

編集後記 141(2014年7月31日更新時)

編集後記 140(2014年6月30日更新時)

編集後記 139(2014年5月31日更新時)

編集後記 138(2014年4月30日更新時)

編集後記 137(2014年3月31日更新時)

編集後記 136(2014年2月28日更新時)

編集後記 135(2014年1月31日更新時)

編集後記 134(2013年12月31日更新時)

編集後記 133(2013年11月30日更新時)

編集後記 132(2013年10月31日更新時〔2013年11月30日追記〕)

編集後記 131(2013年9月30日更新時)

編集後記 130(2013年8月31日更新時)

編集後記 129(2013年7月31日更新時)

編集後記 128(2013年6月30日更新時〔2019年2月28日追記〕)

編集後記 127(2013年5月31日更新時)

編集後記 126(2013年4月30日更新時)

編集後記 125(2013年3月31日更新時)

編集後記 124(2013年2月28日更新時)

編集後記 123(2013年1月31日更新時)

編集後記 122(2012年12月31日更新時)

編集後記 121(2012年11月30日更新時)

編集後記 120(2012年10月31日更新時)

編集後記 119(2012年9月30日更新時)

編集後記 118(2012年8月31日更新時)

編集後記 117(2012年7月31日更新時)

編集後記 116(2012年6月30日更新時)

編集後記 115(2012年5月31日更新時)

編集後記 114(2012年4月30日更新時)

編集後記 113(2012年3月31日更新時)

編集後記 112(2012年2月29日更新時)

編集後記 111(2012年1月31日更新時)

編集後記 110(2011年12月31日更新時)

編集後記 109(2011年11月30日更新時)

編集後記 108(2011年10月31日更新時)

編集後記 107(2011年9月30日更新時)

編集後記 106(2011年8月31日更新時)

編集後記 105(2011年7月31日更新時)

編集後記 104(2011年6月30日更新時)

編集後記 103(2011年5月31日更新時)

編集後記 102(2011年4月30日更新時)

編集後記 101(2011年3月31日更新時)

編集後記 100(2011年2月28日更新時)

編集後記 99(2011年1月31日更新時)

編集後記 98(2010年12月31日更新時)

編集後記 97(2010年11月30日更新時)

編集後記 96(2010年10月31日更新時)

編集後記 95(2010年9月30日更新時)

編集後記 94(2010年8月31日更新時)

編集後記 93(2010年7月31日更新時)

編集後記 92(2010年6月30日更新時)

編集後記 91(2010年5月31日更新時)

編集後記 90(2010年4月30日更新時)

編集後記 89(2010年3月31日更新時)

編集後記 88(2010年2月28日更新時)

編集後記 87(2010年1月31日更新時)

編集後記 86(2009年12月31日更新時)

編集後記 85(2009年11月30日更新時)

編集後記 84(2009年10月31日更新時)

編集後記 83(2009年9月30日更新時)

編集後記 82(2009年8月31日更新時)

編集後記 81(2009年7月31日更新時)

編集後記 80(2009年6月30日更新時)

編集後記 79(2009年5月31日更新時)

編集後記 78(2009年4月30日更新時〔2012年12月31日追記〕)

編集後記 77(2009年3月31日更新時)

編集後記 76(2009年2月28日更新時)

編集後記 75(2009年1月31日更新時)

編集後記 74(2008年12月31日更新時)

編集後記 73(2008年11月30日更新時)

編集後記 72(2008年10月31日更新時)

編集後記 71(2008年9月30日更新時)

編集後記 70(2008年8月31日更新時)

編集後記 69(2008年7月31日更新時)

編集後記 68(2008年6月30日更新時)

編集後記 67(2008年5月31日更新時)

編集後記 66(2008年4月30日更新時)

編集後記 65(2008年3月31日更新時)

編集後記 64(2008年2月29日更新時〔2021年6月30日追記〕)

編集後記 63(2008年1月31日更新時)

編集後記 62(2007年12月31日更新時)

編集後記 61(2007年11月30日更新時)

編集後記 60(2007年10月31日更新時)

編集後記 59(2007年9月30日更新時)

編集後記 58(2007年8月31日更新時)

編集後記 57(2007年7月31日更新時)

編集後記 56(2007年6月30日更新時)

編集後記 55(2007年5月31日更新時)

編集後記 54(2007年4月30日更新時)

編集後記 53(2007年3月31日更新時)

編集後記 52(2007年2月28日更新時)

編集後記 51(2007年1月31日更新時)

編集後記 50(2006年12月31日更新時)

編集後記 49(2006年11月30日更新時)

編集後記 48(2006年10月31日更新時〔2019年8月31日追記〕)

編集後記 47(2006年9月30日更新時)

編集後記 46(2006年8月31日更新時)

編集後記 45(2006年7月31日更新時)

編集後記 44(2006年6月30日更新時)

編集後記 43(2006年5月31日更新時)

編集後記 42(2006年4月30日更新時)

編集後記 41(2006年3月31日更新時)

編集後記 40(2006年2月28日更新時)

編集後記 39(2006年1月31日更新時)

編集後記 38(2005年12月31日更新時)

編集後記 37(2005年11月30日更新時)

編集後記 36(2005年10月31日更新時)

編集後記 35(2005年9月30日更新時)

編集後記 34(2005年8月31日更新時)

編集後記 33(2005年7月31日更新時)

編集後記 32(2005年6月30日更新時)

編集後記 31(2005年5月31日更新時)

編集後記 30(2005年4月30日更新時)

編集後記 29(2005年3月31日更新時)

編集後記 28(2005年2月28日更新時)

編集後記 27(2005年1月31日更新時)

編集後記 26(2004年12月31日更新時)

編集後記 25(2004年11月30日更新時〔2021年5月31日追記〕)

編集後記 24(2004年10月31日更新時)

編集後記 23(2004年9月30日更新時)

編集後記 22(2004年8月31日更新時)

編集後記 21(2004年7月31日更新時)

編集後記 20(2004年6月30日更新時)

編集後記 19(2004年5月31日更新時)

編集後記 18(2004年4月30日更新時)

編集後記 17(2004年3月31日更新時)

編集後記 16(2004年2月29日更新時)

編集後記 15(2004年1月31日更新時)

編集後記 14(2003年12月31日更新時)

編集後記 13(2003年11月30日更新時)

編集後記 12(2003年10月31日更新時)

編集後記 11(2003年9月30日更新時)

編集後記 10(2003年8月31日更新時)

編集後記 9(2003年7月31日更新時)

編集後記 8(2003年6月30日更新時)

編集後記 7(2003年5月31日更新時)

編集後記 6(2003年4月30日更新時)

編集後記 5(2003年3月31日更新時)

編集後記 4(2003年2月28日更新時)

編集後記 3(2003年1月31日更新時)

編集後記 2(2002年12月31日更新時)

編集後記 1(2002年11月30日開設時)


編集後記 227(2021年9月30日更新時)

〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会【#15】〜【#16】について書いた。良寛展の図録は、例によって《日本の古本屋》で検索して、神保町の誠心堂書店から購入したものだが、そこに《良寛遺墨展目録》(会場=奈良屋七階ホールロビー、会期=1971年1月27日〜2月2日)という、A5判8ページ(両観音折り)の印刷物が挟んであった。図録の所有者が、千葉市にあった百貨店で良寛の遺墨展を観たとき手に入れたものを後年の図録といっしょに保存していたと思しい。《良寛遺墨展目録》の〈趣旨〉(無署名)に、会場である百貨店ならではの記載があるので掲げる。「人間性の探求が最ものぞまれる現今の世相下に、幸い新潟県吉田町の所蔵家富所家をはじめ各地の所蔵家各位のご協力により奇しくも良寛命月であるこの一月に、新潟県の物産と観光展の一環としてその代表的名品をよりすぐった良寛遺墨展を開催出来ることはまことに悦ばしい。」
《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉【その5】――大野一雄さんの巻を書いた。大野さんの談話はきわめて聴き取りづらくて、シリーズのまえの巻のような調子でまとめることができなかった。テープの音源からすると、当日、会場で大野さんの話に接した人間にとっても聴き取りづらかったことは、ほとんど変わりがないのではあるまいか。〔付記〕に引用した大野さんの吉岡実追悼文(談話の1年4箇月ほどまえの執筆)でそのいわんとする処を汲み取っても、大野さんには失礼にならないだろう(追悼文は、海外公演を控えたあわただしい時期に書かれたようだ)。編者のわざくれに過ぎない窮余の一策だが、ひとことお断わりしておく。
吉岡実詩における発想法あるいは「ランダム刺激」としてのスタンチッチ〈死児〉を書いた。正確に言えば、吉岡が詩を執筆するにあたってどのような背景でそれを行ったかについて想いをめぐらせた。吉岡本人を含めて、その詩の発想そのものを解明することは不可能だろう。だが本人にもなしえないそれが、いかなる状況の下でなされたかを考察することは、作品のよってきたる処をいくぶんかは明らめることに通じるかもしれない。そんなことを期待しながら、本稿を書いた。示唆を与えてくれた読書猿の著作に感謝する。そして秋元幸人の〈死児〉論にも、また。
●没後20年《まるごと馬場のぼる展――描いた つくった 楽しんだ ニャゴ!》(会場=練馬区立美術館、会期=2021年7月25日〜9月12日)を観た。馬場のぼる(1927〜2001)は昭和2年、青森県三戸郡の生まれ。なんと私の亡父と誕生日が2日しか違わない。今回の個展でもなければ知ることのない情報だった。私は馬場の業績に明るいとはいいがたく、絵本《11ぴきのねこ》シリーズ(こぐま社、1967〜 )が代表作だということくらいしか認識していなかったが、その本質が漫画家であることを改めて知った。そのうえで言うのだが、印刷の版式への探究心や、動物への関心(動物園で獣たちの姿形をスケッチしたというあたり、やはり動物園で鳥獣の動きを観察をしたという暗黒舞踏の土方巽――秋田の生まれ――を想わせる)が馬場の絵本や漫画の制作に大きく与っているのを観るのは心愉しい。そういえば、むかし編集者養成の学校に通っていたころの写真の授業の課題が、たしか動物園(上野・多摩)か浅草だった。馬場のぼるの作風をひとことで喩えるなら、現代に生きた縄文人の絵画、となろうか。
●永江朗《平らな時代――おたくな日本のスーパーフラット》(原書房、2003年10月4日)は、内容紹介によれば「おたく世代以降、世界は変わったのか? 現在40歳前後の最前線のアーティスト・研究者に、21世紀日本文化のルーツとこれからをインタビュー。ジャンルは美術、音楽、建築、ファッション、漫画、小説、科学論など」。会田誠、柏木博、古屋兎丸を興味深く読んだ。しかし、最も感銘を受けたのは〈平らな時代――あとがき〉の最後の一節だ。「もうひとつやってみたかったのは、分量制限のないインタビューである。日ごろ、雑誌等の仕事でインタビューし、記事を書くことが多いけれども、常に文章量の制限がある。それはそれで意味のあることではあるけれども、いちど制限なしのインタビュー記事を書いてみたかった。またこの本では、脇道にそれた話を削ったり、発言順序を入れ替えたり、語調を整えたりという「加工」も最小限にとどめた。できるだけインタビューをそのまま文字にしてみたかった。/具体的な作業手順を書いておく。まず大西〔奈己〕さんと相談してインタビューに応じてくださる方をリストアップ。交渉は大西さんが担当した。インタビューおよびインタビューのテープ起こしと原稿作成は永江が担当。原稿は各インタビュイーに確認していただいた。また、註は大西さんが作成したものに少しだけ永江が手を加えた。デザインは『批評の事情』に引き続きHEADZの佐々木暁さんにお願いした。なお、インタビューに使用した機材はソニーのテープレコーダTCS‐100とオリンパスのICレコーダDS‐10、無印良品のノートと水性ボールペン。テープ起こしにソニーのトランスクライバーBI‐85、IBMのThinkPad1124、松風。原稿作成にはThinkPad800と一太郎を使った。」(同書、四一一〜四一二ページ)。とりわけ使用機材の記述は貴重だ。5年も経てば、どんな環境で作業していたのか、本人でさえ思い出せない。ミュージシャンの使用楽器がクレジットされるように、「本書はモンブランの万年筆マイスターシュティックで執筆した。インクは同社のパーマネントブラック」とか書いてあったら、書き手の横顔まで浮かんでくるではないか。福永武彦は長篇小説《海市》を万年筆とボールペンで書きおろした。まだ一般に万年筆が優勢だった昭和42年8月1日から9月10日にかけて後半の300枚を書いたのが、たしかボールペンだった(《福永武彦全集〔第8巻〕》の〈序〉参照)。私の最近の愛用は、三菱鉛筆のゲルインクボールペン(uni-ball Signo UM-153)の青かブルーブラック。太くて滑らか、書き心地は良好だ。校正には向かないが。
●まえにも、大人のロック!編・フロム・ビー責任編集《ザ・ビートルズ全曲バイブル――公式録音全213曲完全ガイド》(日経BP社)のことは書いた(〈編集後記 177〉(2017年7月31日更新時)ほか)。手許の一本は2010年9月17日発行の2刷本で、初版は2009年12月7日。その2009年にはビートルズのオリジナル作品のCDが全点リマスターされており、それを受けての刊行だった。内容は単なる便乗企画ではなく、リリースされたばかりの最新音源を本書のキモである楽曲(録音)の分析対象としていて、いま読んでも目覚ましい。ときに、私はこの本を、高校以来の友人である東山くんから借りて読んだ。お子さんからプレゼントされたと聞いたが、そんなに熱烈なビートルズファンでもないんだけど、と不思議がっていた。小林が好きそうだから、とそのころ毎月一回、五人の同窓生が集まって飲んでいたB.Y.G(渋谷・百軒店にある老舗のロック喫茶)まで、この重い本を持ってきてくれたものだ。それが初版だったか覚えていないが、東山くんに返したあとは、どうしても持っていたいので、Amazonで購入した。件の2刷本だ。本書にかぎらないが、期日までに急造した初版よりは、訂正を反映した後刷りの方が善本なのは、こうした工具書の宿命である(文芸書の初版がもつ意味はこれとは別)。今回は本書の内容ではなく、その構成について。《ザ・ビートルズ全曲バイブル》は大きく3部に分かれる。@PART 1:「RECORDING HISTORY――英米公式全作品の系譜」――APART 2:「ALL ABOUT 213 SONGS――公式録音全213曲徹底ガイド」――BPART 3:「HOW TO ANALYZE――録音技術の変化と楽曲解析方法」。@は総論、Aは本論にして各論、Bは補足、といったところ。Aはさらに、使用した録音機材やその用法の変化に従って6期に分かたれる。「001ラヴ・ミー・ドゥ」から「213アイ・ミー・マイン」の全曲が、レコーディングに着手した順にAの各時期に振りわけられる。すなわち、アルバムやシングルに収録された順でも、タイトルのアルファベット順でもなく(それらは簡単に調べられる)、作詞作曲された順でもなく、録音テープに収められ、完パケと認められた順である(それが手離れするのは、必ずしも着手順ではないが)。私が吉岡実の生誕100年に当たる2019年4月に公開した〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉は、本書の基本構成に多くを(方法的にはすべてを、と言ってもいい)負っている。ある音楽家、ある文筆家に進歩や発展という見方が当てはまるとはかぎらない。だがそうした集団や個人も、ただひとつの作品ではなく、複数の作品(曲であり詩である)、作品集(アルバムであり詩集である)を世に残したのなら、そこには必ず変化の痕をとどめた作品史が残る。ザ・ビートルズ(1960〜1970)は20世紀の創造者[クリエイター]として、彼らについて最も多くのインクが流された対象に違いない。同時代の画家ならば、パブロ・ピカソ(1881〜1973)だろう。文筆家なら、はたして誰か。日本でなら? 世界でなら? 私は吉岡実の作品史を祖述するに当たって、多くの西脇順三郎論、永田耕衣論、土方巽論、澁澤龍彦論、そして数少ない夏目漱石論、宮沢賢治論、太宰治論を参看してきた。だが、いま振りかえってみると、本書ほど大きな影響を受けたものはほかになかったような気がする。恐るべきはビートルズであり、そのリスナーであり、リスナーたちのなかで突出したこれらの研究者である。
●PCができる人というのは、すべての操作に精通している人のことではなくて、したいことをするにはどうしたらよいかわからなくても、そのつど(マニュアルであれ、ウェブであれ)自分で調べられる人を指すと聞いた。納得である。私は自分ではわりあい几帳面な方だと思うが、それは己のずぼらさ加減を熟知しているからだ。本サイトにサイト内の検索窓を作れば私自身にも便利だとは思うものの、どうすればいいかを調べてhtmlファイルを修正するくらいなら、1冊でも多くの文献に当たって、1本でも記事を書きたいと思って、今日まで手を拱いていた。しかるに「ウェブサイトに検索機能が用意されていなくても、検索対象のurlの前に「site:」と入力して検索したい文字列を指定すれば、どんなウェブサイトでも目的のウェブページを一瞬で見つけだせる」という技を知るにおよんで、ますますもってファイルを修正する意欲が失せた。たとえば、閲覧されるかたには「site:http://ikoba.d.dooo.jp/ 〔2021年9月30日追記〕」と指定して本サイト内を検索していただければ、この後記で言及するような新規記事ではないが、今月(2021年9月)、書き加えた箇所がわかるので、興味ある追記があればお読みいただける(もちろん各ページで「〔2021年9月30日追記〕」を検索すれば正確だが、すべてのページにその月の追記分があるわけではない)。私は新規記事同様、アップ時に記事タイトルと追記部分を出力して、ファイルしている。


編集後記 226(2021年8月31日更新時)

〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会【#17】〜【#22】について書いた。対象となったのは、1981年の計6回の美術展である。ときに、この年の《土方巽頌》記載の吉岡実日記は、1月23日、7月1日、11月12日と少ない。ことほどさように1981年は土方巽との交友が薄かった年だ。吉岡はこのブロックを、吉岡が知るまえの土方や暗黒舞踏の状況を叙した関係者や友人、支持者たちの証言で埋めている。暗黒舞踏の舞台に接することの少なかったこの年に、吉岡が多くの展覧会に足を運んでいることは意味深い。ところで、図録が定期刊行物でない以上、私のなかでは図書として扱うしかないわけだが(厳密には、gray literature〔灰色文献〕だろう)、書名を挙げるときはともかく、「本書」とするか「同書」とするか、いつも悩む処だ。これは通常の書籍の場合も同じで、統一されていなければいないで落ち着かないし、本書/同書、双方がまったく等しいというわけでもない。図像/画像の場合もしかり。つくづく、ことばは難しい。
《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉【その4】――江森國友さんの巻を書いた。江森さんは会田綱雄や吉岡実や川口澄子とともに永く筑摩書房に在籍した詩人で(飯島耕一や入沢康夫も同社で働いていたことがある)、吉岡の歿後も校正者として筑摩に勤めていた。小田久郎の《戦後詩壇私史》(新潮社、1995年2月25日)には「〔……〕書肆ユリイカの出版活動は、神保町に進出してから本格的になった。私もはじめて神保町に事務所をもってみて、出版をやってゆくのにここが極めて便利なところだということに気づいた。筑摩書房が神田小川町の社屋を売り払って蔵前に移ったとき、同社に勤めていた江森國友が、「神田という地の利を捨てるなんて、計り知れないマイナスですよ」と嘆いていたことを思い出す。」(同書、一〇八ページ)とある。蔵前は、今回の江森さんの話にもあるように、戦前、吉岡の実家があった厩橋に近いが、吉岡にしたところで神田を離れがたく感じたことは間違いないだろう。ちなみに筑摩は、吉岡退社後の1988年に本社を移転している。
●久しぶりに〈吉岡実の装丁作品〉を書いた。筑摩書房が出した壺井栄の全集についてである。吉岡実が手掛けた筑摩書房の装丁本は、在職中(1951〜1978)には原則としてクレジットがない。その間に筑摩が出した厖大な書籍のなかから吉岡実装丁本をどうやって探しだすか。原物を手に取って見るしかない。だがそのすべてに当たることは、筑摩の資料保管庫(なるものがあるとして)にでも入らないかぎり、無理である。そこで私の講じた手段は、目録をブラウズすることだ。それも、近くの公共図書館が所蔵する図書をOPACで調べるというお手軽なものだ。やり方は簡単。出版者に筑摩書房を指定して、在職中の適当な年限(1951〜1955、など)で区切って検索をかける。表示された資料で「これは」と思うものを予約して借りる。以上。この作業の勘所は、リストのなかから資料を選ぶ処だが、こればかりは具体的に説明できない。といって、秘密にするほどのことでもない。誰にでもできる。個人全集、文芸書の単行本、《ちくま》の執筆者(とくに連載物)の著書――といったあたりが目安になるが、それでも「外れ」は多い。現に、竹西寛子の源氏物語論は栃折久美子の装丁だった(二人はかつて筑摩で同僚)。筑摩本に限らず、今後も吉岡が手掛けた装丁本の探索に努め、その報告と内容の紹介を続けたい。
●今はどうなのか知らないが、私が高校生だった1970年代前半の都立高は芸術の科目が選択制で、美術・書道・音楽のうちから一つを選ぶようになっていた。小学校高学年のころは、洋画家の井上自助(1912〜86)が開いていた絵画教室で水彩画を習った。一方で七尾先生という、いつも和服を着ている年配の婦人から習字を教わった(書道ではない)。小学校の音楽の授業は、死ぬほど嫌いだった。歌が苦手だったのだ。「音痴」という言葉さえ汚らわしかった。もともと音楽を聴くのは好きだった。中学ころからギターを触りはじめると、すなわち歌から解放されて音楽に対する抵抗から脱却すると、今度は夜ごと、床に入ってもギターを抱えて寝るような仕儀とはなった。そこで高校の芸術の科目は、一も二もなく音楽を選んだ。だが、そこで後悔したのは、鍵盤楽器を習う機会を逸してきたことだ。少し理論的なことになると、ギターでは把握しづらい。だから今でも、楽理をのみこむのに非常に時間がかかる。もうひとつ、鍵盤楽器の演奏や奏者の巧拙の、肝心の処がよくわからないのだ。などと書いてからGenesisのキーボードプレーヤー、トニー・バンクスに触れると、トニーがたいしたことないみたいだが、私が言いたのはその逆で、いわゆるプログレッシヴロックのコンポーザー(作詞・作曲家)のなかでも傑出した存在なのではないか。そのあたりのことが知りたくて、上掲Wikipediaを読むと、トニーの「音楽的背景」として「クラシックの作曲家のショスタコーヴィチ、マーラーの影響を受けている。ジェネシスにおけるトニーのソロ・パートなどには顕著に表れている。」とある。そうなんだ。ショスタコーヴィチもマーラーも聴かないではないが、私にはこの評の当否を判定できない。また、「演奏スタイル」には「〔バンドのギタリストの〕スティーヴ・ハケットの勧めによりメロトロンを導入してからはこれを多用するようになる。ここぞという盛り上がりで分厚い和音を奏でるスタイルは多くの後進キーボーディストに影響を与えた。」とあって、それは〈Watcher of the Skies〉を聴けばよくわかる。だが、私が個人的にGenesisの楽曲としてベストだと認定するのは、トニー・バンクス作詞・作曲の〈Afterglow〉である。バンドスコア《ジェネシス》(リットーミュージック、1992年3月20日)には〈The Knife〉から〈Invisible Touch〉まで全8曲が収録されているが、〈Afterglow〉が入っているのは嬉しい。以前にもこの曲には触れたが、同書を参看しながら少し分析的に見てみよう。小菅道一によるアルバム紹介で、《Wind & Wuthering》(1976)は「シングルとしてカットされた「ユア・オウン・スペシャル・ウェイ」は、アメリカで同年4月に62位(英43位)を記録。アルバムにはその他、トニー自身が自らベスト・ワークと言い切る「ワン・フォー・ザ・ヴァイン」「アフターグロウ」が収録されている。しかしスティーヴ〔・ハケット〕自身は自分の音楽性が反映されないアルバム作りに不満をもっており、結局本作が彼の参加した最後のスタジオ・アルバムとなった。」(同書、五ページ)とある。なるほど、〈Afterglow〉のギターはアルペジオのバッキングのみだが、キーボードにしたところで白玉主体のコード弾きで、そもそもこの曲にソロパートはない(アウトロのベースギターがそれに近いが)。それにしても、このコード進行は死ぬほどかっこいい。メインのモチーフ(イントロにも流用)は【G / Gmaj7】【C / Cm】【G / Gmaj7】【C / F・D】で、イントロではGの単音が持続している。このペダルベース、いかにもGenesisサウンドの要で、ベーシストのマイク・ラザフォードがライヴで12弦ギターでのバッキングに回っているときなど、絶大な効果を発揮する。2番めのモチーフは【Eb】【F#m7(on Eb)】【Db(on Eb)】という3小節の繰り返しだが、そこへの繋ぎの進行が【E(on B) / A(on E)】【B(on E) / Em(on G)・B7(on A)】という、絶対に低音にはルートをもってこないという強固な意志にも驚くが、繋ぎの界面「B7(on A)→Eb」でわれわれは一度、死ぬ。3番めのモチーフは【C】【Dm7(on C)】【Bb(on C)】という3小節の繰り返しで、これは2番めのモチーフの短3度下の相似形。このあとのアウトロが【D / Dmaj7】【G / Gm】【D / Dmaj7】【G / C・A】と、イントロ=メインのモチーフの5度上の相似形。この3番めのモチーフ【C】【Dm7(on C)】【Bb(on C)】を4回繰り返したあとの【C】を【C / G(on C)】と変えてから、次に【A】という1小節を挟んで、あの天上的なアウトロ(終始、ギターはアルペジオで、キーボードは白玉。これが熱い)になだれ込む。この【A】の小節で、われわれは決定的な死を死ぬ。それかあらぬか、そのまえの【C / G(on C)】で“I miss you more”と歌いきったフィル・コリンズは「そうだ、俺はドラマーなんだ」と言わんばかりに、この【A】で2拍のフィル(おかず)を32分音符で埋め尽くす。お得意のタム回しで。あとは、マイクがベースギターのハイポジションを使って、ギターそこのけに歌って、スタジオ盤はフェイドアウトして終わる(ライヴでは、ずっとビートを刻んでいたチェスター・トンプソンにフィル・コリンズが絡んで、ちょっとしたドラムバトルを繰りひろげてからリタルダンドで終わる)。こうしてコードプログレッションを振りかえると、〈Afterglow〉においてトニー・バンクスは、それ自体シンプルな【T/Tmaj7】【W/Wm】と【T】【Um7(onT)】【bZ(onT)】という2小節および3小節のモチーフを転調と繋ぎの神技でみがきあげて、アルバム《Wind & Wuthering》の、いやGenesisの全ナンバーのなかでも傑出した楽曲としてまとめあげることに成功した。
〔追記〕譜面で【B(on E) / Em(on G)・B7(on A)】とある箇所だが、音源のハケットのギターはアルペジオでシンプルに【B / G・F7】と弾いている。
●最近重宝している文房具の筆頭は、100円ショップで手に入る10枚入りのフィルムホルダーだ。買いにいって在庫がないと、少しパニックになる。プラス株式会社製。「かさばらないので、ファイルの中でさらに仕分ける際のホルダーに。」という謳い文句に偽りはない。次のようにして使う。本サイト《吉岡実の詩の世界》のトップページをプリントアウトしていただければわかるのだが、トップページを0[ゼロ]とすると、@の〈吉岡実〉を語る、Hの吉岡実参考文献目録、Jの《吉岡実の詩の世界》編集後記、Kの《吉岡実の詩の世界》サイトマップ(全ページの概略目次)あたりはほとんど毎回、新規原稿や加筆・修正が入るページで、月ごとにフィルムホルダーを用意して、そこに作業中のハードコピー(自分でハンドリングできるhtmlファイル)、資料のプリントアウトやコピー類(先行する、自他による文章や画像を掲載した印刷物やインターネット上のそれ)を分けて収納する。それらをプラス製よりも厚手のクリアホルダー(8枚で100円。発売元は株式会社ハピラ)にまとめて入れることもある。これがひと月分。長期連載を抱えている今は、プラス製を包む透明のビニール袋(接着剤の塗ってあるベロは切り落とす)に、「2021年」や「2022年」としてまとめて収納しておく。掲載時期が近づくにつれて、フィルムホルダーはハードコピーや資料類で膨らむ一方だ。次月よりあとに掲載予定の原稿(「作業中」ファイル)も、この段階から何度も手直しを繰りかえす。その際、欠かせないのがかつて紹介したA4判の紙挟みだ。それと赤・緑・青・黒の水性ボールペン、蛍光色のラインマーカーが何本かあれば御の字だ。


編集後記 225(2021年7月31日更新時)

〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会【#23】〜【#25】について書いたが、渡辺兼人写真展《逆倒都市》(1982)の図録が未詳だ。渡辺が自身の出発時の作品を「封印」(タカザワケンジ)しているのは、吉岡がある時期まで最初の著書である《昏睡季節》(1940)に対してとった態度を想わせる。渡辺の1973年の初個展《暗黒の夢想》(ニコンサロン。これにも図録がないようだ)に次ぐ写真展《神秘の家あるいはエルベノンの狂気》も図録がないらしく、〈神秘の家あるいはエルベノンの狂気〉を掲載した季刊《写真批評》7号(1974年8月)を観ると、《既視の街》の表紙写真の別カットが掲載されているので、驚く。同写真展について、写真評論家の重森弘淹(1926〜1992)は第7回木村伊兵衛写真賞の選評〈超現実的なイメージ〉で「〔……〕、渡辺は、ほとんど無名に近い存在であり、また近作といっても一九七四年の雑誌「写真批評」七号に発表した「神秘の家あるいはエルベノンの狂気」という八nの作品があるだけである。これは荻窪のシミズ画廊での個展の一部で、水族館や博物館を生の時間を停止した動物たちの密室空間としてとらえたものだった。この頃の渡辺は、十九世紀末のデカダンス文化に思想的に感覚的に共鳴していたようで、この作品にもそうした発想の根が強かった。いずれにしても、文学的なイメージが作風に濃厚な珍しい写真家である。」(《アサヒカメラ》1982年3月号、七六ページ)と書いている。この会場の「シミズ画廊」は〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会【#00】〈目次〉(2021年5月31日)に「◆《金子光晴展》〔図録はナシ〕/会場=シミズ画廊(東京・荻窪)、会期=1973年5月10日【木】〜23日【水】◆」と書いたばかりなので、大いに気になる画廊である。そのときに調べたかぎりでは、2021年の今日、シミズ画廊は現存せず、跡地の場所しかわからない。吉岡は、渡辺兼人の第二回写真展の前年に同じ会場に足を運んでいたわけで、そのあたりのことは探索に値する。
《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉【その3】――入沢康夫さんの巻を書いた。必要があって、吉岡実が装丁した《入澤康夫〈詩〉集成――1951〜1978》(青土社、1979年5月1日)を開けてみたら、これがめっぽう面白い(吉岡実装丁作品の書架に排列してあるので、すぐに取りだせる)。詩集《「月」そのほかの詩》(思潮社、1977)の世評は、必ずしも高くないようだが、吉岡の《サフラン摘み》(青土社、1976)と同時期の詩集として、いろいろなことを感じさせるし、考えさせる大切な作品だ。あれだけ吉岡の傍にありながら、入沢が独自の世界を切り拓くことができたのは、宮沢賢治というもうひとつの「毒」を全身に浴びたからではなかったか。
●司書資格取得の勉強をしている人から、アルベルト・マンゲル(野中邦子訳)《図書館――愛書家の楽園〔新装版〕》(白水社、2018年6月25日〔初刊は2008年〕)を薦められた。原タイトルは“The Library at Night”。昼の図書館が万人のための公共の図書館だとすれば、夜の図書館はあなたやわたし、個人のそれだ。「夜になると、蔵書目録の定める秩序はもはや通用しない。影のなかでは、その威力も保たれないのだ。〔……〕ある本の一節から、記憶の片隅に押しやられていた一節が浮かびあがるが、その連想がどこから来るのか、昼の光のもとでは説明できない。朝の書斎が見通しのきくまっとうな世界秩序をあらわすとしたら、夜の書斎はこの世界の本質ともいうべき、喜ばしい混乱をことほいでいるように思える。」(本書、一七ページ)。若き日の著者(1948年生まれ)は、目の悪くなったボルヘス(1899〜1986)のために本の朗読をしたという。1968年に生まれた書店員が吉岡実の目の替わりになって、本を朗読することができるか(マンゲルは書店で働いていてボルヘスと知った)。書斎について――「仕事場となっている書斎には、魔除けのようなオブジェもある。これらは長年のあいだ、わが仕事机を清めてくれた。次に書くべき言葉を探して考えこむとき、私はいつのまにかこれらのお守りに手を触れている。ルネサンスの学者たちは、書斎にさまざまなオブジェを置くように勧めた。空間にリズムと調和を与える楽器や天文学の計器、奇妙な形の石やきれいな色の貝殻といった自然界の珍品、読書人の守護聖人である聖ヒエロニムスの肖像画などである。私は、その助言の一部をとりいれる。私の机の上には、コンゴーニャス・ド・カンポ〔……〕の石鹸石でできた馬の像、ブダペストから持ち帰った骨を彫った頭蓋骨、クマエの巫女シビュラの洞窟で拾った小石などが置いてある。私の書庫がわが人生の記録だとすれば、この書斎は私という人間そのものをあらわしている。」(本書、一六二ページ)。ここに愛書家としての読書人、思索家としての書き手がたしかにいる。
●歌集や句集の解題で「一首/一句重複につき、掲載総作品数は○○○首/句」などという記載に出くわすことがある。数百首/句を収める場合、全作品を書きおろすことはめったにないだろう。何年かかけて、しかるべき数の作品を書き(すなわちその段階では編年体)、それを主題や四季に分類して清書(ワードプロセッサやパソコンがなかったころは手書き)する際、誤って二度書きうつせば、ダブってしまう。もちろん続けて二度書けばすぐにわかるが、ふつうそんなことはしない。創作ノート上で決定稿ができたら、それをコピー(普通紙複写)して、カルタのように並べ替えれば、重複は避けられる。だが著書として作品集を編集するのに、それはあんまりだ、といわれればそれまでだし、作者による写字であれば、書きうつす際に字句を手直しすることは充分あり得る。清書とはいえ、一字一句違えずに書けばいいというわけでもない。私は短詩型の創作からはすっかり遠ざかってしまったが、散文の場合、修正や加筆を行うたびことに前の稿は破棄して(テキストデータもハードコピーも)、つねに一対一の最新の状態に保つようにしている。どちらかひとつあれば、他方がなくなってもなんとかなるし、手書きによる原稿や直しにしたところで、自分のすることは案外同じ思考回路をたどるから、消失を心配するには及ばない。それよりは、どれが正本かわからなくなって混乱することを避けたい。どっちみちあれもこれも得ることはできないのだから、仮に道を踏みまよったところで、それもまた人生である。なにかの偶然で過去の試行錯誤の痕を見ると、自分のしたことではないようで、それはそれで感慨深い。
●去る4月30日、立花隆氏が亡くなった。80歳だった。私は氏の全著作を読むほどの良い読者ではない。が、おりおりに接したその著書は、さまざまなことを考えさせる起爆剤のような感触を残した。何年かまえ、《武満徹・音楽創造への旅》(文藝春秋、2016年2月20日)が出たときも、書店の店頭で手にしながら(あの哀切な〈おわりに――長い長い中断の後に〉も読みながら)、本書を待望していた世の風潮とは裏腹に、まだ読むには早すぎる、と平台に戻したものだ。武満徹の全業績に通じていない点も大きかった。立花の新刊を読んでしまうと、その呪縛から逃れられないだろうという予感もあった。だが、氏が亡くなってまず読みたいと思ったのが、ほかならぬ本書だった。武満の音楽は音楽で、この本とは別物だ、と妙に納得したのだ。生前の武満本人はもちろん、存命の関係者たちにも抉るような問いかけを繰りかえす立花は、単に「知の巨人」ではない。なにか(この場合、武満の音楽)へのやむにやまれぬのもの――ひとことで言うならば、愛――に突きうごかされた人間の謂ではないか。音楽を語るなら立花のように語りたい、と思う人間は少なくないだろう。その音楽と等価でないまでも、作者と等身大に近いまで自身の筆致を究めること。最後に個人的な想い出を。私は立花隆氏の姿を見かけたことさえないが(武満徹は詩友・小畑雄二といっしょに聴いた音楽会で見かけたが、会場には山口昌男や大江健三郎の姿もあった)、書いた文章が目に触れたかもしれないことは誇っていいだろう。UPUで同僚だったノンフィクション作家・黒岩比佐子(1958〜2010)の著書をのちに手掛けた、フリーエディターの石田陽子(その前は《エスクァイア日本版》の編集者)が荒俣宏責任編集《知識人99人の死に方――もうひとつの戦後史》(角川書店、1994年12月3日)をまとめる際に、UPU関係や《文藝空間》関係の書き手を動員した。私も何本か受けもって、〈西脇順三郎〉の一節には「死の前年の1月20日、米寿を祝う会で西脇は詩「冬のシャンソン」を発表した。「ああ永遠の向こうから来る/コロキュンタンという/ひょうたんがぼちゃの類の/冬のシャンソンだ/それは平野に横たわる/陽気の死だ/ところが/自分自身の/死になると/ざまあみやがれ/その失態の責任を負うべきだ/でもそれは/ひたぶるに/うら悲しい/ただそれだけだ」。同席した、詩人で西脇詩集の装丁もした吉岡実によれば、祝宴の終わるころ「これは遺言詩だよ」と披露に及んだという。」(同書、四二ページ)と書いた。立花氏が《ぼくはこんな本を読んできた――立花式読書論、読書術、書斎論》(文藝春秋、1995年12月20日)の「私の読書日記」で取りあげてくれたのは嬉しかった。そこには「〔《知識人……》は〕なかなか面白い。知識人といっても作家がほとんどだが、みな生き方も死に方も個性的で面白い。九十九篇のうち十二篇は長篇で読みごたえあるが、残りは一人一ページにも満たない短篇でもの足りない。」(同書、二七九ページ)とある。
●去る6月18日、ギタリストの寺内タケシ氏が亡くなった(1939年、茨城・土浦生まれ)。82歳だった。多くの追悼コメントに接したが、《エド山口のOh!エド日記》の#127〈追悼!寺内タケシさん〉に感銘した。#119と#121の2回にわたって〈寺内タケシ伝〉がアップされているのは、体調の悪い寺内を励ます意味もあったか。1948年生まれのエド山口氏はGSの生き証人ともいうべき存在で、私は《Oh!エド日記》を深夜に視聴しては、哄笑する。トークがうまいのはもちろんだが、それを補足する字幕やジャケ写の提示など、細かな編集がなされていて、信頼のおける動画になっている(年代に詳しいことは驚くほどである)。寺内タケシその人とも親しかったが、ブルージーンズで2ndリードギターを弾いた加瀬邦彦(1941〜2015)とは、ベンチャーズが持ち込んだライトゲージの逸話を伝授される間柄だった。私が寺内のステージを観たのはいつだっただろう。新宿(それとも池袋?)の百貨店の屋上で開かれた無料の演奏会(コンサートというほどではない)は、中三か高一のころか。寺内のバンドはブルージーンズだったはずだが、覚えていない。〈運命〉と〈津軽じょんがら節〉をやったことは確かだ。十代半ばの私が観た日本のギタリストで、鳥肌が立つほど感動したのは寺内と澤田駿吾(1930〜2006)の二人だけだ。寺さん、すばらしいギタープレイをありがとう! あなたのトレモロピッキングはマンドリン由来なのですね。


編集後記 224(2021年6月30日更新時)

●前回の定期更新は、本サイトの見直しと重なったため、「〔2021年5月31日追記〕」と見出しを立てた文章が6本に及んだ(ほかに、同じ日付をもつ〔付記〕〔補訂〕が各1件)。本サイトを構成する柱となるページの数は、トップページからサイトマップまで全部で12あるが、前回は新規掲載を含む記事の修正ページこそ7で、それほど多くはなかった。だがこの〔追記〕の数は、かつてなく、おそらくは今後もないだろう(個個の記事はそれほど長くはなく、ものによっては相互参照の気味もあって、それらにはハイパーリンクを張ってある)。いや、もしあるとすれば、《吉岡実全集》が刊行されたときだろうが、はたしていつのことか。
〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会【#26】〜【#29】について書いた。先月の〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会【#00】〈目次〉で予告したように、個別の展覧会について、逆年順に見ていくことにしたためだ。また、公開できるのは本シリーズの連載の目処が立ってからになろうが、吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996年3月25日、七八九〜八一一ページ)の本文に対しても、同様のアプローチをしている処だ。ただ、加納光於展〈半島状の!〉の図録(?)など、とんでもない古書価が付いているので、本シリーズのような調子で書けるかどうか。
●もうひとつのシリーズ《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉【その2】――飯島耕一さんの巻を書いた。飯島さんは詩人であると同時に、ギヨーム・アポリネール(1880〜1918)の研究家でもあって、詩人の生誕百年を期した《アポリネール全集》(青土社、1979)で訳を担当した当時は、明治大学でアポリネールの詩を講じていた。詩友・小畑雄二に教えられて明大にもぐりこんだ私は、飯島先生の演習を聴いたものである。早稲田大学では卒論にアポリネールの詩集《アルコール》を選んで村上菊一郎先生に見ていただいたから、私はアポリネール関連の書誌にはかなり詳しいのだが、1980年以降はとんとご無沙汰しており、《Wikipedia》の〈参考資料〉の博捜ぶりには頭が下がる。飯島さんのアポリネール関連の著書や訳書はそこの文献紹介に詳しい。その飯島さんが(たまたま筑摩書房で働いていたとはいえ)、《静物》(私家版、1955)を出したばかりの吉岡実を見出した。私もいずれはアポリネールと吉岡の比較論をやりたいものだ(アポリネールとピカソ、吉岡実と土方巽、がキーになるか)。ちなみに飯島耕一は、現代詩文庫版の吉岡実詩集巻末の作品論〈吉岡実の詩〉(なんと正攻法のタイトルだろう!)では吉岡の詩篇〈喪服〉とアポリネールの戯曲〈ティレジアの乳房〉に言及している。
●最近聴いて面白かったのが、フランシス・プーランク作曲のオペラ〈Les Mamelles de Tiresias(ティレジアスの乳房)〉だ。初演は1947年。図書館資料のタイトルをそのまま引くと「ティレジアスの乳房:プロローグ付き2幕のオペラ・ブッファ;仮面舞踏会:世俗カンタータ」。原作は上記のアポリネールの戯曲。卒論では詩集《アルコール》(1913)――この年、わが国では北原白秋《桐の花》、斎藤茂吉《赤光》が出ている!――を論じたため、その小説や戯曲はあまり身を入れて読まなかった。プーランクのオペラも、当時は聴いていない。それどころか、初めてこの作曲家の名を見たときはフランソワ・クープラン(1668〜1733)の誤植かと思ったくらいだ。ミュージカルには詳しくないが、プーランクの音使いは戦後のミュージカルにも影響を与えているのではないか。ちなみに私が聴いた音盤は、小澤征爾が振ったサイトウ・キネン・オーケストラのもの(フィリップス盤、1996年録音)。
●2021年3月に平野甲賀さんが亡くなって、追悼文を草した(〈平野甲賀氏が逝去〉)。そこでは触れなかったが、平野さんが装丁した本で最初に買ったのは何だったか考えていたら、クリス・ウェルチ(菅野彰子訳)《ジミ・ヘンドリックスの伝説》(晶文社)だった気がしてきた。黄色が特徴的なジャケットの様子まで目に浮かぶ。例によって、わが家のどこかにあるに違いないのだが、どこにあるのかがわからない。しかたがないので、最寄りの公共図書館に予約して取りよせた。奥付を見ると「一九七五年一月二五日 初版/一九九〇年一二月一〇日七刷」とあり、目次の裏には「ブックデザイン 平野甲賀」とある。初版が出たころ、私は大学受験のため浪人していたから(つまり受験勉強する以外、暇を持て余していたから)、新刊の情報をどこからか仕入れると、高田馬場・芳林堂の音楽書売り場に向かったに違いない。とすれば、あの生成りの紙に緑の帯を印刷した書店の包装紙まで目に浮かぶ。最近はそうでもないが、以前は書店の包装紙を付けたまま保存することが多かった。今度、それを手掛かりに探してみよう。著者のクリス・ウェルチは、ジミのデビュー当時から音楽新聞《メロディー・メイカー》の記者として記事を書き続けてきた。もっとも本書の書きぶりは、欧米のこの種の本としては珍しく、スマートでない。はっきり言ってしまえば、不細工である。たとえば、The Jimi Hendrix Experienceの《Electric Ladyland》(1968)の〈Voodoo Chile〉について次のように書く。「『エレクトリック・レディランド』の音楽は、それまでのどの作品よりもルーズでゆったりとした雰囲気を作っていた。それにダブル・アルバムが許す演奏時間のおがげで、スタジオの気ままな演奏をたっぷり聴かせてくれた。「ヴードゥー・チャイル」は、ロック・ミュージシャンが先代のジャズ・プレイヤーにならって、かなりの長さのインプロヴィゼイションを試みはじめた、あの時代の最高のロック演奏であったのだ。/〔……〕/当時、この二枚組のアルバムにがっかりしてしまった人が多かった。このアルバムは、最初の二枚のアルバムの火のような激しさも、密度の濃い輝きもない、自己満足だけが目についたからだった。しかし、そこには、特に「ヴードゥー・チャイル」にはジミの素晴らしいギター・ワークがたっぷりと収められている。ミッチのドラムもかつてないほど、あでやかでスピードがあった。それに、スティーヴ・ウインウッドがゲストとして参加して、新鮮な感じを加えている。/アルバムはジミの愛したスタジオ効果音、エコーのかかったぶくぶくいう音で始まり、やさしく、そして情熱的なタイトル曲「エレクトリック・レディランド」へ入って行く。/〔……〕/「クロス・タウン・トラフィック」は朗読するようにジミが歌うすてきな曲だ。そしてこの曲が徐々に音を小さくすると、「ヴードゥー・チャイル」が空気みたいに押し寄せる。ジミは、そこでブルースの伝統を受け継いだギターにのせてユニゾンのリフを歌う。」(同書、四六・四八ページ)。ここで「ブルースの伝統」を言うからには、ジミが〈Catfish Blues〉――ロバート・ペットウェイやスキップ・ジェイムス、エルモア・ジェイムス、B・B・キング、マディ・ウォーターズといった、多くのブルースマンがカヴァーしている――を換骨脱胎したうえで♭Y7・♭Z7のサビを新規に導入して〈Voodoo Chile〉につくりかえ、伝統と革新を切り結んだことを指摘しないでどうする。と、著者に当たってもしかたがないので、同バンドの〈Voodoo Child (Slight Return)〉(同アルバムの最後を締めくくる名演)や〈Voodoo Chile Blues〉(〈Voodoo Chile〉のアウトテイク)、〈Catfish Blues〉(《BBC Sessions》収録のライヴ演奏)を聴いて留飲を下げよう。付言すれば、巻末の〈ディスコグラフィ〉が掲載する生前のオリジナルアルバムのうち、《Electric Ladyland》を除いた1stの《Are You Experienced》(1967)、2ndの《Axis: Bold as Love》(1967)、ライヴ盤《Band of Gypsys》(1970)のすべての邦盤LPが、訳注において「廃盤」と記されているのには驚く。本訳書初版の1975年当時、ヘンドリクスの我が国での評価はこの程度のものだったのだ。半世紀後のこんにちの評価と較べると、衝撃である。
●私は〈Voodoo Chile〉をヘンドリクスのスタジオ録音のなかで最高のパフォーマンスだと思うが、音楽評論家のチャールズ・シャーマレーによれば、同曲は「初期のデルタブルースから、マディ・ウォーターズのエレクトリックブルースまでの事実上、時系列のブルーススタイルのガイド付きツアー」だそうだ。洒落ているだけでなく、本質を突いている。そこで一念発起してマーティン・スコセッシによる《ブルース:ある音楽の旅》(2003)を聴いた。半世紀もまえから、ロック(とりわけハードロック)のルーツはブルースだとさんざん聞かされてきたが、なかなか本腰を入れて聴く機会がなかった。ロバート・ジョンソンの全集を聴いてもみんな同じようで(演奏スタイルからいって無理からぬものがあるのだが)、ぴんとこない。それは、ロックバンドの楽曲群の元ネタを集めたコンピレーションでも同じだ。聴けば「なるほど」とは思うものの、それは知識であって、音楽的な感動からはほど遠い。《ブルース:ある音楽の旅》は、グラミー賞の〈最優秀ヒストリカル・アルバム〉〈優秀ライナーノーツ〉の2部門を受賞した大作。「ブルース入門編としても最適でかつてないほど包括的にまとめられたコレクションです。5枚のCDには、様々なアーティスト、色々な音楽スタイル、そしてその時代がレーベルの枠を超えて組まれました。」と素人にも取りつきやすい。ちなみにヘンドリクスの収録曲は〈Red House〉(1967)だ。ライナーノーツから解説を引く(訳:三浦久)。「アルバート・キングやオーティス・ラッシュのように、ヘンドリックスは左利きで、ユニークなギタースタイルを身につけた。彼らとは違い、彼はギターとブルーズを、電気装置によって増幅し反響させ、凶暴ともいえる大音響で演奏した。/LSDブルーズ――シュールリアリスティックなブルーズ――いかなる名前で彼の音楽を呼ぼうとも、彼は大きな力と独創性をもったブルーズマンだった。すべての人が“革新”を目指していた時代にあって、彼は本当に革新的なギタリストだった。ロック・ミュージックの偉大な因習打破主義者の一人であった」。マーティン・スコセッシはこう呼びかける。「もし君が既にブルーズを知っているのなら、たぶんこの曲集は君にまたそこに戻る理由を与えるだろう。そして、君がブルーズを一度も聴いたことがなく、これから初めて出会おうとしているのなら、僕はこれを約束できる。君の人生は良い方に変ろうとしている。」(訳:五十嵐正)。これらの文章にあるように、‘blues’は「ブルーズ」と表記するのが近年の流儀だが、私は長年親しんだ「ブルース」でいきたいと思う。“Martin Scorsese Presents The Blues: A Musical Journey”の邦題も《ブルース:ある音楽の旅》と「ブルース」である。
●若山弦蔵氏が去る5月18日、88歳で亡くなった。氏は1960年5月、吉岡実の長篇詩〈波よ永遠に止れ〉をNHKラジオの《放送詩集》で朗読した。「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館には自身が使用した約1万冊の台本を寄贈」(《Wikipedia》)したという。吉岡詩もそこにあるのか。


編集後記 223(2021年5月31日更新時)

●2021年4月15日は吉岡実の102回めの誕生日だった。毎年なにか記念になることを、と心掛けているが、今年は上野の東京国立博物館・平成館で開催中の特別展《国宝 鳥獣戯画のすべて》(当初の[、、、]会期は2021年4月13日から5月30日まで)を観た。しかしそれから10日も経たない4月24日に【臨時休館のお知らせ】が発表された――「このたび政府の要請により、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、特別展「鳥獣戯画のすべて」は4月25日(日)より臨時休館致します。再開は未定です。なお、チケットの払い戻しについてはこちらをご確認ください。/本展覧会を楽しみにしてくださっていた皆様には誠に申し訳ございませんが、ご理解のほど、よろしくお願い申し上げます」。それを見こして会期の3日めを予約――本展は事前予約制(日時指定券)――したわけではない。そもそも東京五輪と同様、2020年に開催予定だったのが、コロナ禍のため延期されていたのだ。300×225mm・本文474ページの図録《特別展 国宝 鳥獣戯画のすべて》(NHK・NHKプロモーション・朝日新聞社、2021年4月13日)も稀少なものとなってしまうのだろうか。それにしても、【臨時休館のお知らせ】が発表されたのには「ああ、やっぱり」の感を深くした。なんとも奇妙な感覚である(発禁本を刊行後すぐに入手していたような)。
〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会【#00】〈目次〉を書いた。「中期吉岡実詩」の幕開きともなる詩集《神秘的な時代の詩》(湯川書房、1974)としてまとまる詩篇を書きついでいた1967年11月、吉岡は〈わたしの作詩法?〉を発表した。多くの評者がこの吉岡唯一の詩論を吉岡実詩の解読格子として引用・援用したが、私の知るかぎり、「中期吉岡実詩」すなわち、《神秘的な時代の詩》〜《サフラン摘み》〜《夏の宴》と絡めて論じたものを見ない。唯一にして無二の詩論であることをたてに、これをすべての吉岡実詩に適用することがはたして正しいのだろうか。私は疑問に思う(同文は、期間限定のものだったのではないか)。翻って、「後期吉岡実詩」すなわち《薬玉》〜《ムーンドロップ》では、〈わたしの作詩法?〉に相当する文章は書かれなかった。私は長いことそう思い込んでいた。だが、〈〔吉岡実自筆〕年譜〉があるではないか。たしかにそれは「年譜」であって、「詩論」ではない。しかし、吉岡実詩の創造にまつわる文章を「詩論」と呼ぶなら、〈〔吉岡実自筆〕年譜〉はにわかに相貌を改める。そこには詩作に関連する事項もあれば、いわゆる生活史もある。その一方で、文学に限らず広く芸術全般にわたって享受した事物が挙げられている。しかもそれは、のちに私が編んだ年譜のような網羅的なものではない。自身が重要だと判断したものが精選され、整然と並べられているのだ。すなわち、吉岡実と吉岡実詩を形づくったものの数数が。それらを、造形作品との接点をなした展覧会(およびその図録)を切り口にして総覧しようというのが、本企画である。予定では一年以上の連載になる。ご愛読を乞う。
●もうひとつ別の連載が、今月から始まる。「《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉」というシリーズで、十数名のかたがたの談話を順次ご紹介したいと思う。《吉岡実を偲ぶ会》は、今を溯ること30年前の1991年に開かれ、登壇したかたの半数以上が、すでに鬼籍に入られた。明2022年は吉岡実の三十三回忌に当たる。2021年からこれを始めることで、吉岡実を偲ぶよすがとしたい。今回は〈【その1】――安藤元雄さんの巻〉である。
●先日、本サイトを閲覧したかたから「小林さんのサイトの、「吉岡実を語る」の「詩集《僧侶》小感」2020年6月30日から、最新のページまでが、なぜか家のpcで開けられませんでした」とご指摘いただいた。私は毎月末の定期更新後、作業の記録も兼ねて、自分のPCで新しい記事を中心にハイパーリンクを確認してから、新規掲載記事やリストの修正部分をコピー用紙に印刷している。その際、ヘッダーに@タイトル(〈吉岡実〉を語る)、Aページノンブル(1/20ページ)、フッターにBファイル名(http://ikoba.d.dooo.jp/YMkataru.html)、C日付(2021/04/30)も出力するのだが、このうちのBが、公開された「http://ikoba.d.dooo.jp/YMkataru.html」ではなく、ローカルのパスとファイル名(file:///C:/Users/〔……〕.htm)になっていた(しかもテンポラリファイルなのだ)。今までにないことである。本文は問題ないし、同ページ冒頭の〈目次〉に掲げた記事タイトルのハイパーリンクもちゃんと動く。ところが私のiPhone(本サイトの作業環境とは切りはなされている)で拙サイトを開いて閲覧しようとすると、やはり〈目次〉から当該記事に飛ぶことができない処がある。長い長い〈目次〉をスクロールして記事にたどりつくと、記事そのものは表示されている。さらに厄介なことに、これとは別に拙サイトのどこのページを開いても「安全ではありません」と警告が出る。どうやらこれは「http」と「https」の問題らしいが、暗号化しないとまずい要素はないから、とりあえず目をつぶるとしても、目次のリンクが機能しないことには困る。断じて困る。この現象は《〈吉岡実〉を語る》のページだけのようなので、まずは長すぎる同ページを《〈吉岡実〉を語る》と《〈吉岡実〉を語る〔承前〕》というふたつのファイルに分割した。ハイパーリンクを指定した箇所も、気がついたかぎり修正したが、(私も含めて)閲覧する側に不都合がなければいいのだが。動作がローカルで問題なくても、安心はできない。実際に公開してはじめてちゃんと機能しているか、確認できるのだから(スマホでも閲覧してみなくては)。
ジョルジュ・サンドの田園小説《笛師のむれ》のことを書いた。それに伴って、《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》の「ジョルジュ・サンド(Sand, George、1804-1876)」の項の同書の記載を書きかえた。〔2021年5月31日付記〕に書いたように、ついでに他もできるかぎり修正した。これでしばらくは実用に耐えるだろう。ところで、人はある本を読もうと手にするとき、その直接のきっかけはいったいなんなのだろうか。私と本書の場合、(本文でも触れたように)吉岡実がその随想と日記で《笛師のむれ》のことを書いていたからだが、いくら私でも《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》というツールがなければ、かつてそれを作ったことがなければ、「吉岡実が若いころに読んだジョルジュ・サンドの田園小説《笛師のむれ》」ということまで記憶していたとは思えない(リストの存在と、それを作成したことの効用である)。吉岡が読んだ本ならひとつ読んでみようか、という程度の優先順位だから、その内容が「サンドの田園小説最後の大作である。田園の国ベリイと森林の国ブルボンネエの自然と住民を背景として,「自然を恋うる心」と「規律を愛する心」の対立を描くこの作は「ルソーの娘」であり,また「ノアンの奥様」であるサンドの両面を物語る,信念に満ちた告白とも見ることができよう。」(岩波文庫編集部編《岩波文庫解説総目録(中)〔岩波文庫〕》岩波書店、1997年2月6日、八〇四ページ、原文横組)と紹介される、現在「在庫:品切れ」で、しかも初版の組版を流用している〔岩波文庫〕を探し出してまで読もうという気にはなかなかなれない。しかし《笛師のむれ》は、あたかも読んでくれと言わんばかりに、私の目の前に現れた。本は、読まれるべきときに読まれるものであり、それ以外ではありえない。われわれは「時」の揮う采配に逆らうことはできないのだ。
●最近の若い人は洋楽を聴くのだろうか。ここでいう洋楽は、ロックに代表される欧米のポピュラー音楽を指す。仮にロックミュージックの誕生を1955年として、今日までの歴史を一筆書きすると、1955年:ロックの誕生、8月に吉岡実の詩集《静物》、1970年:4月にビートルズ解散、9月にジミ・ヘンドリクス死、1980年:9月にジョン・ボーナム死、12月にレッド・ツェッペリン解散、ジョン・レノン死、1990年:5月に吉岡実死、2020年:10月にエディ・ヴァン・ヘイレン死。この間にあって、1960年代末、日本の多くのバンドが洋楽のカヴァーに血道をあげていた。「グループ・サウンズがライヴやアルバムで演奏した洋楽のオリジナル・ヴァージョン100曲を4CDに収録」した《GSが教えてくれた洋楽100》(Oldays Records、2020)は、中村俊夫執筆のライナーノーツが出色。ディスクDの22曲め、ザ・ローリング・ストーンズの〈シーズ・ア・レインボー〉は「1967年12月にリリースされたローリング・ストーンズのアルバム『Their Satanic Majesties Request』収録曲だが、英国を除くヨーロッパや米国では先行シングル・カットされ、オランダとスイスでチャートのTOP3内に入るヒットとなった他、日本でもラジオを中心にヒットした。ニッキー・ホプキンスが奏でる印象的なピアノのフレーズから、のちにレッド・ツェッペリンを結成するジョン・ポール・ジョーンズ編曲のストリングスまで、全てを石間秀樹(現・秀機)のギターだけで見事に再現したビーバーズのヴァージョン(アルバム『ビバ!ビーバーズ!』収録)が聴きものだ。」といった調子で、全100曲を紹介している。各曲のタイトル脇には、オリジナルのジャケットとカヴァーのそれがカラー図版で掲げられている。丁寧な編集である。「メンバーによる自作自演を志向したGSグループに対し、プロの歌謡曲作家を起用させたいレコード会社が、なかにし礼や村井邦彦、筒美京平、鈴木邦彦らの作詞家、作曲家を雇ったため、洋楽ロックのカバーなどをやりたくてもやれなかったという状況」(Wikipedia)にあって、ザ・ビーバーズの「暴挙」は痛快ですらある。インターネットで同曲を検索することで、初めて聴くことができた。石間の多重録音(テレキャスターだという)には、ストーンズも驚倒するに違いない(ビーバーズ〈シーズ・ア・レインボー〉の音源はこちら)。ところで、《GSが教えてくれた洋楽100》に、アニマルズは(エリック・バードン&アニマルズも含めれば)じつに計8曲を送り込んでいる。2位は6曲のザ・ローリング・ストーンズ。3位は4曲のザ・ビー・ジーズ。ザ・タイガースのライヴ盤でしか聴いたことのない、いくつかのオリジナルの音源に触れられたのがありがたかった。ハーマンズ・ハーミッツなんて、初めてまともに聴いたんじゃないだろうか。ポール・ジョーンズ〈傷だらけのアイドル〉(1967)のライナーには「翌68年からタイガースがステージ・レパートリーとして取り上げ(現在ではCDでも聴ける)、鎖を手首に巻きつけたジュリーのパフォーマンスが話題を呼んだ。」とあるが、これはどうみても〈怒りの鐘を鳴らせ〉(〈都会〉のB面で、作詞:山上路夫、作・編曲:クニ河内)の元歌だろう。1970年3月、このシングルが出た当時、〈傷だらけのアイドル〉を知っていれば、「やってるな」とニヤリとする処だ。
●そして今日2021年5月31日は、吉岡実の31回めの祥月命日である。われわれはみな、おのれの成すべきことを成す以外に、この生を全うする意味はない。


編集後記 222(2021年4月30日更新時)

●今年も、吉岡実の生まれた4月がやってきた。本サイトは、2019年の生誕100年、2020年の歿後30年以降、大きな節目を見うしなったようだ。そう思いつつ、再考を約した課題は山のようにあって、しかも一朝一夕には片づきそうにない。解決する手立てはおそらくふたつある。ひとつは《吉岡実の詩の世界》にこれまで書いてきた文章を批判的に[、、、、]読んで、再構築を図ること。もうひとつは、まだ整理のゆきとどいていない(断片的な)資料を読みこんで、新たな構想を立てること。いずれにしても「すべての札は手許にある」と考えて、いたずらに新資料を追い求めるのではなく(むろん、探索は継続的に行うのだが)、地道に調査・研究、考察を続けるに如くはない。それにしても、中原中也や宮沢賢治に比して、吉岡実を扱ったモノグラフのなんと少ないことよ。詩人として、彼らにおさおさ劣るとは思わないが、その語りにくさはいったいどこから来るのか。私は考える。ひとつには、誰が見てもわかるように、吉岡が詩において繰りだす喩の特異さ、難解さ、である。絵画や文学作品への言及はともかく、土方巽(1928〜1986)の暗黒舞踏に代表される舞台作品は、仮に映像資料が残っている場合でさえ、全貌が掴みにくい。私はかろうじて大野一雄(1906〜2010)の晩年の舞台に間に合ったが、吉岡の観た大野作品(〈ラ・アルヘンチーナ頌〉〈わたしのお母さん〉〈蟲びらき――マルドロールの歌〉など)には接することができなかった。まして土方の舞踏は、映像記録でしか知らない。もうひとつ、世代の問題がある。吉岡が亡くなった1990年に20歳だった人も、今や50歳過ぎ。吉岡とともに一時代を築いた先人たちも、次次と世を去った。2020年に始まった未曽有の現象下の世界で、吉岡実の文業を確かなものとして後世に伝えることは、その作品に震撼した者の果たすべき責務である(2020年末の中村稔さんの吉岡実詩への本格的な言及は、じつに60年ぶりのことで、嬉しい驚きだった)。そのとき、近年の小笠原鳥類さんのように詩で〈吉岡実〉を論じることは(《『吉岡実全詩集』の動物を見る》)、もっと多くの詩人たちによってなされてほしい試みだ。なぜなら、詩を顕彰するのにもっともふさわしい形式は、詩にほかならないのだから。
吉岡実詩の詩型について書いた。最果タヒ(1986〜 )は、2018年2月27日のツイートで「美術手帖の「言葉の力。」特集号の付録・現代詩アンソロジーに、詩「凡庸の恋人」(詩集『死んでしまう系のぼくらに』収録作)が掲載されています。編者のいぬのせなか座さんによる評が一緒に載っているのですが、書く上で私が密かに執着してきたことがはっきり指摘されていて嬉しかった…/詳細は本誌読んでもらえたらと思うのですが、私はずっと散文詩における改行位置に異様に執着してきていまして、散文詩でも詩によって何文字詰めにするか全部変えるし、改行位置のためなら漢字をひらいたり、句読点変えたりしてでも、とにかく一行ずつ調整したくて。/散文詩の改行って本当にちょうどいい間が作れて大好きなんです……。行の一番下から一番上に視線が移動するあの感じ!最高!大事な一文の前にあるとピタッとはまるし、言葉の途中にあっても面白い響きを作ることがあって、少しずつ調整するの本当楽しい……。」と書いている。「詩によって何文字詰めにするか全部変える」「改行位置のためなら漢字をひらいたり、句読点変えたりしてでも、とにかく一行ずつ調整」するというあたり、手書き原稿では煩雑極まりないけれども、PC上でなら、いとも簡単にできる。じつは私もそうで、本サイトの文章は第一稿こそ書きなぐりだが(要するに、字詰めや強制改行箇所に関係なく、手書きでも、PC上でもひたすら書くだけである)、ひとたびhtmlファイルに整えてプリントアウトしたあとは、改行位置に来る文字や約物を調整するために、いろいろと弄っている。また、最終行が極端に短いのもいやなので、最低でも字詰めの半分くらいの文字分量はほしい。一文字で。(句点)などというのは体裁上、耐えられない。これは《エスクァイア日本版》の初代アートディレクター・木村裕治さんの流儀。
新旧校本宮澤賢治全集と〈銀河鉄道の夜〉のことを書いた。ところで私は、2020年10月末、持病の検査のため1週間、入院した。入院はいままで2泊3日が最長だったから、新記録である。おりからのコロナ対策の影響で、家族も簡単には見舞いに来られないとあって、いちばん頭を悩ませたのが、どの本を持っていくかだった。生体検査のために手術もすることだし、重たい本はいやだ。結局、読みかけの新書1冊、初めて読む小説と再読(いや三読)になる短歌の評釈の文庫2冊にした。谷口義明の宮沢賢治論と、佐藤亜紀の長篇と、塚本邦雄の茂吉百首。さいわいなことに入院中には読みおわらず、無聊を託つには至らなかった(病棟の休憩室にあったエロール・ル・カイン――この20世紀のビアズリー!――の絵本も堪能した)。退院後には、図書館から借りた《本の雑誌の坪内祐三》で、娑婆の空気に触れた。ちなみに、入院しているあいだは本サイトの草稿(2020年11月〜2021年4月分)に手を入れていたので、暇を持てあますことはなかった。ふだんスマホでウェブサイトを読むことはないのだが、草稿をチェックするため、自分の書いた本サイトの記事を参照することも多かった。どうしようもないミスをみつけたりして、たまにはスマホ(本文が明朝体で表示される)を覗いてみるものだ、と思った。さて、その谷口の宮沢賢治論だが、年始に入沢康夫《宮沢賢治――プリオシン海岸からの報告》(筑摩書房、1991)を再読する呼び水となって、今回の記事につながった。一体に私の関心は、遠心的に働きにくく(かといって、求心的とも言いがたく)、散漫たることを免れない。今後も、これまでに抱いてきた問題の系を継続的かつ散発的に追い求めていくほかないだろう。
●しばらく前に、インターネットで〈ジェネシスの20曲:輝かしき約50年の歴史〉という記事を見つけた。そこで「なんと素晴らしいバンドだろう。そして、なんという作品群だろう。20曲を厳選するのは難しく、この20曲のプレイリストに入れられなかった名曲は沢山ある。しかし、このプレイリストはジェネシスの自伝を伝えるものになっていると思う。そんなわけで、今度誰かになぜジェネシスはそんなに偉大なのかと聞かれたら、このプレイリストをかけて欲しい……大音量で。」と書くのはRichard Havers。以下にその20曲を掲げよう。( )内は註記、もしくは収録アルバム名。

@ The Silent Sun(First single)1968
A The Knife(Trespass)1970
B The Musical Box(Nursery Cryme)1971
C Watcher of the Skies(Foxtrot)1972
D I Know What I Like(In Your Wardrobe)(Selling England By The Pound)(1st UK hit single)1973
E Firth of Fifth(Selling England By The Pound)1973
F The Carpet Crawlers(The Lamb Lies Down On Broadway)1974
G Los Endos(A Trick of the Tail)1976
H Your Own Special Way(Wind & Wuthering)(1st US Hit single)1977
I Supper's Ready(Seconds Out)1977
J The Lady Lies(And Then There Were Three)1978
K Turn It On Again(Duke)1980
L Abacab(Abacab)1981
M Duchess(Three Sides Live)1982
N That's All(Genesis)(1st US top 10 single)1983
O Invisible Touch(Invisible touch)(Only US No.1 single)1986
P Throwing It All Away(Invisible Touch)1986
Q I Can't Dance(We Can't Dance)1991
R The Dividing Line(Calling All Stations)1997
S Mama(Live Over Europe)2007


このうち、Sの〈Mama〉を収めた《Live Over Europe》(2007)だけは聴いたことがなかった。こういうときにありがたいのがYouTubeだ。「Genesis Live Over Europe 2007 Mama」で検索すると、音源が聴ける。一方、同じ再結成ツアーの最終日の模様を収めたDVD《When in Rome 2007》でのフィル・コリンズは若干鼻声で、そのぶん丁寧に歌いあげている。改めてメンバー名を記せば、ヴォーカルとドラムスのフィル、キーボードのトニー・バンクス、ギターとベースのマイク・ラザフォードのGenesis3人組をサポートするのは、ドラムスのチェスター・トンプソンとギターとベースのダリル・ステューマーというおなじみ2人組。さて上記リストは、スタジオアルバムからは基本的に1作のセレクトだ。したがってIやM、Sをライヴアルバムから選んで、楽曲として救済しているあたり、芸が細かい。こうして年代順[クロノロジカル]に聴いていくと、初期の@〜Cの変貌ぶりがスリリングだ(とりわけ@→A)。ザ・ビージーズのソックリさんが突如プログレを始めたといえば、この驚きが伝わるだろうか。ゲイブリエルの声質も歌い回しも一変している。スタジオアルバムも素晴らしいのだが、プレイリストの順にヘッドフォンで聴いていると、Mあたりライヴであることを忘れさせるほど録音が良い。Iなど、私の持っているCDが古いせいか音圧[レヴェル]が低いものの、《聞々ハヤエもん》経由だとそこそこ聴ける。この20曲に〈Afterglow(Wind & Wuthering)1977〉が入っていないのは残念だが、ついでに補うなら、《Three Sides Live》(1982)ラストの〈It / Watcher of the Skies(イット〜ウォッチャー・オブ・ザ・スカイズ)〉を推奨したい。アルバムではこのトラックのみスティーヴ・ハケット在籍時の1976年のライブ音源で、ビル・ブルーフォードがサポートドラマーを務めているという。名作《Seconds Out(眩惑のスーパー・ライヴ)》(1977)のアウトテイク的な音源だが、インストナンバー〈Watcher of the Skies〉のエンディングでハケットのギターのチョークダウンとバンクスのメロトロンの奏でる和音が消え入りそうになると、聴衆のひとりの男が感極まって“Woooo!”と雄叫びを上げる(6分13秒以降)。これは「大音量で」かけて、いっしょに叫ぶしかない。〈ジェネシスの20曲〉――ザ・ビートルズのシングル集(20世紀ポピュラー音楽の至宝)と並んで、目下、私が愛聴するプレイリストだ。


編集後記 221(2021年3月31日更新時〔2021年4月30日追記〕)

〔南柯叢書―近代文学逍遙〕のことを書いた。本文の最後に《吉岡実全詩集》の修正版の書影を掲げた。むろん(と威張るほどのことはないが)修正されるまえの、正確な意味での「初版第一刷」も所有しているし、保存用に極美の修正版も蔵している。だが私にとっていちばん大切なのは写真の、小口が手指で擦れて辞書のようになった手沢本だ。この本はいろいろカスタマイズしてあって、各詩集(や歌集)の扉ページにはポストイットを貼って、タブの役目をさせている。一種の辞書化だが、これで各詩集のヴォリュームもわかる。もうひとつ、これは本体の方ではないが、この本のすべての文字をテキストデータにしてPCに取りこんである(行数表示などを追加)。このファイルは詩句を検索したり、自分が書いた文章に吉岡実詩を引用したりするとき、たいへん重宝する。丸谷才一は〈解説〉を書くとき、引用文は手書きで写すのではなく、文庫本を買ってきて該当テキストのページを破ってそのまま貼りつける、と言っていた。本を破く勇気のない私は、この吉岡実詩のテキストファイルを活用する。細かいことをいえば、詩句ごとに改行されている詩篇はいいが、一マス空きで区切ってある散文詩型の場合、字詰めで改行してしまうと検索に不便なので、改行なしの追い込みにしてある(形式的には、長大な一行詩)。これを作成するに至ったのは、以前、知り合いの女学生が白秋研究の先生の下で、来る日も来る日も岩波版全集をスキャンして全文の文書ファイルを作らされていると聞いたからだ(数十巻の全集にできて、一巻の全詩集にできないことがあろうか)。いま思えば、白秋の難漢字の表示をどうしたかが気になる。難漢字の表示だけなら、Word文書やhtmlファイルの方が適しているが、検索には向かない。その点、《吉岡実全詩集》が常用漢字を採択してくれたのはありがたいことだった(編集委員・入沢康夫さんの主導だったと聞く)。さすがは「全集の筑摩」の仕事ぶりで、本文にほとんど瑕疵がないことも称讃に値する。
虚構としての論文あるいは〈変宮の人・笠井叡〉校異を書いた。吉岡実が《土方巽頌》で引用しているのは、土方や、土方に言及した他者の証言だけではない。吉岡自身の日記や随想といった散文はもちろん、詩篇(土方巽に捧げたもののほか、〔暗黒〕舞踏の踊り手に捧げたもの)などがある。これらの「断章」形式をとった評伝の校異には、こちらも「断章」形式で対応するしか術はないのだ。《土方巽頌》の校異が散発的に続くことを、改めて陳謝する。
●小説家の書く作家論は、評論家が書くそれとは視点が違っていて、面白い。2020年に急逝した星野久美子の福永武彦論を興味深く読んだが、星野さんは(晩年はそうでもなかったが)小説にも筆を染めていて、それが福永論にも独自の精彩を与えているように思う。その福永の著した作家論に《意中の文士たち》(上・下)がある。初刊の人文書院版は桝形に近い瀟洒な造本だったが、こんにち繰りかえし読むのは講談社文芸文庫版《辰雄・朔太郎・犀星――意中の文士たち(下)》(1994)だ。福永による作家論の核心は堀辰雄を論じた〈堀辰雄の作品〉に紛れもないが、私は荷風全集月報に3回にわたって連載された〈堀辰雄の「荷風抄」〉を偏愛している。随筆のような、堀辰雄研究のような、書物随想のような、不思議な味わいの文章なのだ。もっとも、荷風と辰雄という東京・下町の人間に共通した時流への二種類の抵抗のしかたを指摘するあたり、キラリと光るものがある。連載の10年後、単行本に収めるにあたって不明だった2箇所の出典をつきとめた同文の「補遺」、私にとってこれが白眉だ。吉岡実に関する文献を扱う私の手つきに範があるとしたら、そのひとつは疑いなく福永による作家論〈堀辰雄の「荷風抄」〉だ。
●私は創作はしないので、辞書だけ持って遠方に出かけて執筆する、といった経験がない。自宅の書斎(といっても本やコピーなどの資料があって、PCがあって、オーディオ機器や楽器があるだけだ)で、眼と頭と手指と使って営営とファイルをつくるしかない。拙サイトの素材は、基本的に自分で用意する。引用する本文や画像は、極力、インターネット上のそれらを避けて、印刷物に依拠するようにしている。自分を顧みて言うのだが、インターネットからの孫引きは非常に危ういからだ。基底となる自分の文章にコピー&ペーストしてしまうと、(本来、自分にはその責任も権限もないはずの)他者の文章や画像を自分の文章や画像と同程度に信用していることになる。印刷物のように信用が置ける場合は、堂堂と引用すればいいのだが、そうでない場合は相手先のページのタイトル(たとえば小林一郎が作成するサイト《吉岡実の詩の世界》の〈編集後記〉のページ)を表記して、具体的な記事を特定できれば「編集後記 221(2021年3月31日更新時)」などと引用(!)して、それにリンクを貼る。自分の文章のなかで、それを参照してほしい旨、明記することはいうまでもない。一方、自分の文章に引用する場合は、しかるべき印刷物を入手し(新刊書店で買う、古書店で買う、図書館で借りる、など)、文章はなるべく手打ちは避けて、OCRなどを使って機械的に読み取り、きちんと校正する。画像は、デジタルカメラやスキャナーを使ってファイルにするが、掲載用に元のデータをトリミングするなどして整えた段階で、高い解像度のものとサイトにアップする低解像度のものをふたつ用意すれば、あとあと便利だ。なるべくオリジナルに近いデータを残しておくと、加工をやりなおしたりできるし、なによりも細部を確認したいときに、低解像度だと役に立たないことが多い。原物が自分の処にあればまだしも、借りた稀少資料だったりするとお手上げだ。本文のコピーは、別のところに保管しないで、例えば〈〔南柯叢書―近代文学逍遙〕のこと〉を記事に書いたら、公開した時点でそれを印刷して、一緒に保管する。束のある書籍や雑誌でさえどこかに紛れこんでしまうのだから、数枚のコピーなど「どこかにあるのだが、どこにあるのかわからない」状態にならないほうがおかしい。できるかぎりコピーは取らないようにして、取ったコピーはPDFにしたりしない。今までに何台もPCを乗り換えてきた経験から、そんなものはまったくあてにならないと肝に銘じているからだ。なるべく手間をかけずに、必要なもの(たとえば自分が書いている文章に要る資料)が、ほしいときにさっと取り出せるのがいちばんなのだが、言うは易く行うは難しである。ひとつヒントになるのは、バッファーや作業スペースとなる物理的な空間を用意して、進行中の案件(“Work in Progress”)を、できればすべて置くことだ。私はいま展覧会カタログについて調査・研究中だが、手頃な大きさの段ボール箱に、大まかな区分けとなる仕切り板を挟んで、小さな書庫にしている。図録は厚さや大きさがまちまちなので、古書店から送られてきたときの封筒や包みのまま放りこんである。郵送物のほうがまだしも規格化されているからだ。これらを駆使して、一年以上かかる連載企画を乗り切るつもりである。世に博学の士は多いので、これは公然の「秘儀」かもしれないが、PCのファイルとして先につくった仮想の構造(たとえば複数の展覧会カタログを発行順やタイトル順に並べた書目)を現実の書庫なり、書棚なり、段ボール箱なりに反映するのだ。図書館の所蔵本には必ず請求記号が付いていて(多くは背の下部に貼ったラベルに記載)、《吉岡実全詩集》なら「911.5ヨ」であったりする(ちなみにNDC10では「911.56」だが、ここではキュウイチイチテンゴまで表示して、最後の一文字を著者名に充てて分類しやすくしている)。個人の資料なら、日本十進分類法まで持ち出す必要もないが、2021年の最初の図録なら「2021-01」にしたり、ピカソなら「2021-ヒカ」にしたりするわけだ。それに合わせて、原物を排架すればいい。
●自作曲〈醒めた瞳で〉(作詞:若尾留美)のアレンジに苦労している。〈編集後記 148(2015年2月28日更新時)〉には「長いことアレンジしあぐねていて(MTRによる多重録音のデモテープは存在する)、本書〔渡辺具義《ギタリストのためのオープン・コード事典――いつものプレイにひと味加えるキレイな響きが900個!》〕を手掛かりにして完成させたいと思う。リードシートから平歌1番のコード進行を掲げる。」とあるが、ギターを手にするたびに、右せんか左せんかためらうばかりで、荏苒として今日に至った。しかも「イントロは平歌とは別のモチーフで、「Em Cmaj7 D G/D」。これを「Em9 Cmaj7 Dadd9 G6/Dadd9」と常にE音が鳴っているようにするところまでは決まった。」とあったパートは、間奏あと、二番の平歌前に移動して、イントロは別の進行にとりかえた。これはコードネームを書くよりダイヤグラムで示したい処だが、音源もできていないのに、こんなことに興味を持つ人間は私以外いない。よって割愛。一方、アウトロは二段構えにした。第一段は旧来のそれ、すなわち、次の6小節を4回繰り返す。
 【G / G(on F#)】【Em7 / A7sus4・A7】【D / D(on C)】【D(on B) / D(on Bb)】【D】【Dsus4】
(【G / G(on F#)】【Em7 / A7sus4・A7】【D / C】【G(on B) / Gm(on Bb)】【D】【Dsus4】は別解)
2小節め4拍めのA7以外、トップのD音がペダルで鳴りつづけるのがミソ。したがって頭のGは6弦から1弦にかけて(数字はフレット、×はミュート)3・×・0・0・3・×と押さえて、G・D・G・Dのドローンを響かせる。ポール・マッカートニーが〈Yesterday〉の頭で爪弾く、あれだ。以下、そこから2・×・0・0・3・×〜0・2・0・0・3・×〜×・0・2・0・3・×〜×・0・2・0・2・×、と展開する。Dからベース音が下っていく処は、誰が聴いてもLed ZeppelinかBostonだろう。ところが、この第一段のあとに第二段のパートが来る。これまた、どこかで聴いたことのある「×・0・m・0・n・0」というA7つまりm=2、n=2を振り出しにして、m=4、n=3〜m=5、n=5、とm=17、n=17まで上がっていく(5弦A、3弦G、1弦Eがペダル)。これを上昇モードと呼ぶなら、同時にリヴァースの下降モードを(こちらは少し小さく鳴らして)カウンターで響かせたい。上昇・下降のクロスするアイデアは、UNICORNの〈自転車泥棒〉のイントロからのいただき。ほんとうはこのあとに第三段(!)のアウトロも想いついたのだが、ライヴならともかく、スタジオの音源には盛りすぎだ、と断念。ただし、練習のときはつい弾いてしまう。入りのコードだけ示せば、3・×・0・0・2・×で、GとC#がトライトーンのA7sus4(on G)それともG(add-5)。アウトロ第一段の流れからすれば後者、第二段の流れからすれば前者だろうが、次のコードがEm7だから、後者か。自分で書きながらよくわからないものの、いかにもZeppelin的な響きだ。今のところその全体が、イントロ(Em)、メインパート(Em)、アウトロ#1(G)、アウトロ#2(A7)という構成になっている7分超の大曲(!)だ。
〔2021年4月30日追記〕〈醒めた瞳で〉にリンクを張って音源をアップしたむねを、高校時代の友人たちに知らせた際の文面。――このデモ版を録音したのは2021年1月23日の深夜、自宅の書斎で。使用した楽器はメーカー不明(Gibson?)の黒のレスポールモデル。弦はERNIE BALLのsuper slinky(09〜42)、ピックはHERCOのFLEX 75(ナイロン製)。アンプはBOSSのJS-10というホームユースの機種で、内蔵effectsの「stack lead」をかけている。要は、Marshallアンプふうの音色、ということだ。録音機はRolandのR-05、マイクは同機内臓のステレオマイク。アンプのヴォリュームはinputを12時、masterを15時くらいにして。深夜なもんで、極端なオンマイク(5cmくらい)。R-05のSDカードのファイルはWAVなので、PCに取り込んでから、mp3に変換(約92.5MB)。肝心の内容だが、繰り返しをかなり省略して、演奏時間は9分強。フリーテンポの処もあって(とくに冒頭はケーブルの接触が悪くて、ノイジー)、歌入りの原曲を知らないとちょっとつらいかも。〈編集後記 221〉の拙文〔この上の文章のこと〕も読んでもらえると嬉しい(そこにコード進行を書いてあるので)。ちなみに7分32秒過ぎからは、件の「おまけのアウトロ」。アドリブでブラッシングしている処は、いま聴くとKing Crimsonみたいだ。――
●西崎憲《全ロック史》(人文書院、2019年2月28日)は、ロックミュージック誕生の前夜から説きおこして、〈終章 ロックとは何か〉の「ロックミュージックとはエレクトリックギターとドラムを用い、ヴォーカリストがいて、リズムがアフタービートの音楽を指す」(本書、四四二ページ)という気高くも美しい定義で終わる一大絵巻だ。一人の著者による(米英を中心とする)通史ということに、改めて感動を覚える。私は百年かかってもこのような著作をものすることはできない。と脱帽したうえで、若干の疑問を提出したい。
「〔レッド・ツェッペリンは〕「オール・シュック・アップ」などブルースのカヴァーもやっているのだが、ギタースタイルもヴォーカルもアレンジもブルース的な印象は希薄である。それは中心である〔ジミー・〕ペイジをはじめとしたメンバーのオリジナリティーによるのだろう。ペイジはとにかくアイディアが豊富で実験的だった。エレクトリックギターをヴァイオリンの弓で弾き、テルミン(後述)を使った。ウィットがあり、多様なリフを生みだし、アコースティックのリックを作り、ギターの音色を追求した。すでに述べたがジョン・ボーナムもまたロックのドラマーとしては革新的なフレーズを叩き、スネアドラムのタイミングやフィルインなどに関して絶妙のタイム感覚の持ち主だった。/ジミー・ペイジはまたスタジオミュージシャンとしての長いキャリアやプロデューサーとしての経験があったので、レコーディングというものに精通していた、レッド・ツェッペリンは録音面もまた革新的だったのである。ロックのレコーディングはおそらくレッド・ツェッペリンの二枚目以前と以後に分けられるだろう。エンジニアはイギリスのロックの名エンジニアとして著名なアンディー・ジョンズである。」(本書、一一八ページ)
冒頭の「オール・シュック・アップ」は、「ユー・シュック・ミー」でなければおかしい。なぜなら〈All Shook Up(恋にしびれて)〉はエルヴィス・プレスリーが1957年に発表したシングル曲であり、ブルースではなく、ロックンロールナンバー。ジェフ・ベック・グループは《Beck-Ola(Cosa Nostra)(ベック・オラ)》(1969)で同曲をカヴァーしている。同グループの第一作《Truth〔トゥルース〕》(1968)のブルースのカヴァー〈You Shook Me(ユー・シュック・ミー)〉は《Led Zeppelin》(1969)にも収録されているから、それが混乱の要因か。一方、「アンディー・ジョンズ」はツェッペリンの四枚め――通称《Four Symbols》(1971)――のレコーディングエンジニアである。一枚めのエンジニアはアンディーの実兄、グリン・ジョンズ。二枚めが(ジミ・ヘンドリクスのレコーディングエンジニアとしても知られる)エディ・クレイマー。ここで著者のように《Led Zeppelin U》(1969)の録音を賞揚するのなら、「アンディー・ジョンズ」ではなく、「エディ・クレイマー」とあるべきだ。さて、西崎憲が触れているレッド・ツェッペリンのオリジナルナンバーが〈Stairway to Heaven(天国への階段)〉(1971)と〈Kashmir(カシミール)〉(1975)の2曲だけなのは見識というべきで、いっそ潔い。Wikipediaにいたっては、〈Kashmir〉をバンドの最も重要な曲と位置づけているけれども、私としては〈Whole Lotta Love(胸いっぱいの愛を)〉(1969)を忘れてもらっては困る、とひとこと差しはさみたい処だ。もっとも〈Whole Lotta Love〉が「オリジナルナンバー」かは微妙だが(なにせ元ネタについては、本が書けるくらいいろいろな要素が絡みあっている)、「オリジナルのリフ」であることは間違いない。ジミー・ペイジはこの16ビート一小節のリフだけでも、ロック史に特筆大書されなければならない(逆に、長い長いリフはジョン・ポール・ジョーンズの独壇場であり、代表作は〈Black Dog〉のあの変態リフ――というよりは、リック)。ロック界で最も偉大なリフは、リッチー・ブラックモアの〈Smoke on the Water〉(1972)ではなく、この〈Whole Lotta Love〉である。


編集後記 220(2021年2月28日更新時〔2021年9月30日追記〕)

郡司正勝の土方巽評を書いた。今回、いろいろな文献を渉猟し、さらにインターネットでも関連事項を検索していて、松岡正剛の《976夜『病める舞姫』土方巽|松岡正剛の千夜千冊》(2004年05月12日)に出会った。それは「昭和58年早春、『病める舞姫』が単行本になった。貪り読んだ。/田中泯が勇躍して土方さんに近づいたのはそのころである。昭和59年5月にビショップ山田に『鷹ざしき』を振り付けると(ぼくはそのときのパンフレットの編集構成をしていた)、土方さんは田中泯に「恋愛舞踏派」の定礎を約した。その11月5日の夜、アスベスト館に呼ばれてみると、オクタビオ・パスのお別れ会が開かれていた。/その13カ月後である。土方巽は57歳で静かに、静かに死んだ。駆けつけたら、唐十郎が涙を拭かずに哭いていた。ぼくは大西成明を呼んでデスマスクを撮った。父の死に顔に似ていた。」と終わる。唐十郎は、葬儀委員長の澁澤龍彦、三好豊一郎、吉岡実に続いて、土方巽(1928〜1986)に弔辞を捧げている。早いものだ。土方巽が逝って、35年が過ぎた。最晩年の土方巽の前にまかり出る機会をつくってくれた中原蒼二さんも、先年亡くなった。吉岡実本人はもちろんだが、西脇順三郎(その講演を聴いた)、永田耕衣(耕衣の会で謦咳に触れた)、そしてとりわけ土方巽を目の当たりにしたことは、私の生涯における僥倖だった。《土方巽頌》巻末の〈引用資料〉に「「ダブル・ノーテーション」NO2・特集〔極端な豪奢=土方巽リーディング〕(UPU・一九八五年刊)」とある、中原さんたちによるインタビュー記事の取材に同行した1985年6月22日(土曜日)のことである。
●エレクトリックギターの代名詞といえば、Fender社のStratocasterとGibson社のLes Paulだ。前者はジミ・ヘンドリクスの、後者はジミー・ペイジの愛機として知られる。もちろん、ヘンドリクスもレスポールを、ペイジもストラトを使っているが、どうも絵にならない。私はオリジナルではなく、Tokaiのストラトのレプリカ(SPRINGY SOUND)とGrecoのレスポールのレプリカ(これはバンド仲間の加峯くんから譲ってもらった)を持っている。そのほか何本かあるが、割愛。最近では、小屋裏に放置していたむかし古道具屋で5,000円で買った黒のレスポール(モデル)を引っぱり出して弾いている。これは前の所有者がいろいろと手を加えた代物で、いちばん大きな改造はペグを(ジミー・ペイジもやっていた)GROVER製に付け替えている点。もうひとつ、理由は定かでないが、ネックの裏つまり掌の当たる面とヘッド全体にヤスリをかけて(ただし塗料は残っている)、メーカーのロゴも外されていること。ために、これがGrecoなのかGibson(!)なのか、判然としない。ヴォリュームノブが割れていたり、ピックアップセレクタの先端が折れていたり、シールドとの接触が悪かったりと満身創痍だが、出音は悪くない。というか、長期間触れていなかったにしてはなかなかのものだ(楽器は弾いてやらないと駄目になる)。ふだん使っているストラトと較べて、ネックが薄い、指板がほぼ平ら(ストラトにはけっこうアールがあって、単音弾きには向いている)、当然シンクロナイズドトレモロもない(ピックアップ自体とその個数の違いは言うまでもない)、などに加えて、とにかく重い。立って弾くと肩が凝る。だか、嬉しい重さだ。中学生だった私が最初に手にした楽器は、ガット(クラシック)ギターだった。ボディシェイプからわかるように、レスポールはクラシックギターやヴァイオリンの要素を継承していて、初心者が持つエレクトリックギターとして最適だろう。弦の全長も、短い。ストラトは、これまたボディシェイプを見れば一目瞭然だが、これぞエレキという匂いを撒きちらしている。一列に並んだペグ、別素材のボディとネック、そしてなによりもシンクロナイズドトレモロの存在(ジェフ・ベックは、これゆえレスポールからストラトに乗り換えた)。エレクトリックギターの「らしさ」を追求すると、ストラトに軍配が上がる。あれはたしか1991年の秋、吉岡実を偲ぶ会のあとに《麒麟》の林浩平さんに連れていってもらった朝吹亮二さんのお宅にあったのもストラトだった(朝吹さんは会には出席されなかった)。私は酒に酔った勢いで、朝吹さん、林さん、さらには居合わせた小沼純一さんのまえでヘンドリクスの〈Little Wing〉をぺらぺらと弾いたものだ。奇蹟のようだが、いま想うと恥ずかしい。
●2020年11月に、エディ・ヴァン・ヘイレン(1955〜2020)の追悼文を草した。そこで書ききれなかったことを書こう(前項の続きでもある)。エディはギター奏法だけでなく、機材としてのエレクトリックギターを革新した。それは初期の愛器、「フランケンシュタイン」と呼ばれる改造ギターに如実に表れている。自作の外装からして奇抜。赤い地に白と黒のストライプが縦横に走る(音には直接関係ないが、映像的にインパクトあり)。インターネット上の情報をまとめると、この改造ストラトのボディとネックは200ドルで入手したもので、ギブソンES-335(エディのアイドル、エリック・クラプトンがCream時代にこの1963年モデルを愛用)のPAFを巻き直したピックアップを直接ボディにマウントし、特異なトレモロシステム、フロイド・ローズを搭載。これらで武装することによって、ハードロック指向のギターの定番を築きあげた。すなわち今日のストラトシェイプ(フェンダーの優れたプレイアビリティ)とハムバッカー(ギブソンの骨太なロックサウンド)を両立させたギターの土台を築いた。その意味では、ギブソンのギター、レスポールモデルの生みの親にして数多のレコーディング機材を開発したギタリストのレス・ポール(1915〜2009)に匹敵する存在で、そのギタースタイルこそまったく異なるものの、音楽界に革新をもたらした度合いは、まさに伯仲している。ロックギターの発展に寄与した人物を三人挙げるなら、このレス・ポール、ギターとともにアンプとエフェクターの鬼でもあったジミ・ヘンドリクス(1942〜1970)、そしてエディとなるだろう。同様にメーカーを三つ挙げるなら、ギターのフェンダーおよびギブソン、そしてアンプのマーシャルになる。繰りかえせば、エディは半世紀にわたるロックギターの歴史における最重要人物だった。後続世代のロックギタリストで、エディの影響を免れた者はほとんどいない。それはタピング奏法をしないギタリストにとっても同様で、エディはロックギターの語彙はおろか、文法まで変えてしまった。その業績を振りかえるには、《ヤング・ギター》2020年12月号の追悼特集〔エドワード・ヴァン・ヘイレン〜EVHよ、永遠なれ〜〕(シンコーミュージック・エンタテインメント)に就くのが好い。私も声低く唱えよう。Requiescat in pace. 〔なお、本稿は若干削除したうえで、〔エドワード・ヴァン・ヘイレン〜EVHよ、永遠なれ〜〕を購入したAmazonにレビューを掲載した。タイトルは〈エディはギター奏法だけでなく、機材としてのエレクトリックギターを革新した。〉〕
●元Uriah Heepのケン・ヘンズレーが2020年11月4日、亡くなった。75歳だった。〈編集後記 150(2015年4月30日更新時)〉にも書いたように、ヘンズレーはバンドでは主に鍵盤楽器を受けもったが、そのスライドギターが絶品だった。邦盤LPの《Demons and Wizards(悪魔と魔法使い)》(1972)でライナーノーツを書いた成毛滋(1947〜2007)は、Uriah Heepの創設者でありリードギタリストのミック・ボックスのワウプレイに多大な感銘を受けて、それまで毛嫌いしていたこのエフェクターを積極的に使いはじめた。もっともキーボード奏者としては(成毛のキーボードもすばらしい)、ヘンズレーからの影響はさほど感じられない(ソロプレイはキース・エマーソン直系)。スライドギターも弾いていない。むしろHeepの「ハードロックにおけるコーラスワーク」という新生面を引きついでいる。作曲家としてのヘンズレーの代表作は、《Demons and Wizards》の〈Easy Livin'(安息の日々)〉であり、前作《Look at Yourself(対自核)》(1971)のタイトルチューンと〈July Morning(七月の朝)〉(こちらはヴォーカルのデヴィッド・バイロンと共作)だろう。だが、私が最も好むのは同アルバムの〈Tears in My Eyes(瞳に光る涙)〉で――間奏のアコースティックギターとコーラスのアンサンブル!――、ヘンズレーはここでも必殺のスライドギターを聴かせる(1973年武道館のライヴ映像はこちら)。ケネス・ウィリアム・デヴィッド・ヘンズレー。あなたは1970年代、ブリテッシュロック黄金期における卓越したコンポーザーのひとりであり、プレイヤーとしては私の理想とする(おそらくレギュラーチューニングによる)スライドギター奏者でした。
●《ギター・マガジン》2021年2月号(リットーミュージック)がジミー・ペイジ特集を組んでいる。題して「ジミー・ペイジ、かく語りき」。コロナ禍の2020年をどう過ごしたかを語る最新インタビューが眼目だ。だがそれにも増して嬉しいのは、〈ジミー・ペイジのアコースティック・サイド〉のパートである。ロックのアコギ使いでは、文句なくペイジが一番だ。それは、譜例に挙がっている次の曲名を見れば瞭然である。〈Babe I'm Gonna Leave You〉、〈Your Time Is Gonna Come〉、〈Black Mountain Side〉、〈White Summer〉(The Yardbirds)、〈Thank You〉、〈Ramble On〉、〈Friends〉、〈Gallows Pole〉、〈Tangerine〉、〈That's the Way〉、〈Bron-Y-Aur Stomp〉、〈Bron-Yr-Aur〉、〈Stairway to Heaven〉、〈Going to California〉、〈Over the Hills and Far Away〉。《Houses of the Holly》収録の〈The Rain Song〉については、「ペイジが考案しためちゃ変則的な“Gsus4”チューニング〔……〕で演奏される壮大な楽曲の中には、ペイジ印のキャラ立ちした和音感がテンコ盛り状態! まさにペイジの面目躍如たる渾身の逸品だ」(同誌、一一九ページ)とある。同感だ。もっとも私は、最初に接したのがレギュラーチューニングによるバンドスコアだったから、この変則チューニングでは弾けないのだが。また〈ZEPアコースティック全曲リスト〉というコラムには、上記を含む全24曲が掲出されている。これをプレイリストにするなら、たちどころに《Acoustic Side of Jimmy Page》というLed Zeppelinのニューアルバムができあがる。ぜひ、ご試聴あれ。
〔2021年9月30日追記〕Rick Beatoは〈What Makes This Song Great? Ep.87 LED ZEPPELIN (#2)〉で《Led Zeppelin U》(1969)のベストトラックのひとつ〈Ramble On〉の詳細な楽曲分析をしてファンを喜ばせたが、今度は新シリーズ《音の再現》の栄えある第1回で〈Recreating the Sound: Ep.1 The "Ramble On" Acoustic〉と題して、とてつもない動画をアップしている。実際に視聴していただくのが一番だが、要はジミー・ペイジのアコースティックギターのサウンドをまんま再現しようというもの。私があれこれ言うよりも〈公開コメント〉を引用しよう。“Rick, you're a national treasure. The amount of time, effort, expense, and passion you put into videos like this is nothing short of heroic. This particular guitar part really struck a nostalgic nerve, but watching you bang away at duplicating the sound was my treat for the day. We're probably twin sons of different mothers, except I'm way older than you! One of my greatest pleasures in life has been the hours I spent crawling around the innards of a piece a piece of music and learning how the nuts and bolts work together to produce the magic that attracted me to it. Thank you for all you do! Stay well.”――そしてもう一人“This is like being a sonic archeologist. Finding the old recording gear, vintage components, soundboards, the rooms and their acoustic treatments, etc. You can fall deep into the rabbit hole with these things. Fascinating.”
《文藝空間》第13号〔星野久美子追悼号〕が出た。執筆した追悼文にスペースの関係で載せることのできなかった題辞は「ボーレンメントではその他にも多くの事柄が法を以て禁止されていた。〔……〕また、法によって禁じられてはいないが、好ましいとはされない事柄もあった。三人以上で会食の機会を持つこと、無闇に言葉を交すこと、公共の場で声を上げること等が注意深く避けられた。――佐藤亜紀〈第十章 ヨハネスとシュピーゲルグランツは神の都に入る〉(《鏡の影〔講談社文庫〕》、講談社、2009年9月15日、二〇九ページ)」。星野さんはコロナ禍を見ずに逝ったが、この一節はたしかに読んでいる。なにせ《現代女性作家研究事典》の〈佐藤亜紀〉の項を6ページにわたって書いているのだから。星野久美子(1958〜2020)の冥福を切に祈る。


編集後記 219(2021年1月31日更新時)

《土方巽頌》本文校異(抄)を書いた。(抄)と題したのは、本文で触れた既発表の吉岡の文章をすべて扱っているのではないことに加えて、吉岡が引用した文献の校合をしていないためである。ところで、本稿に引いた吉岡実が新刊《土方巽頌》執筆の背景を語った〔松浦寿輝・朝吹亮二・吉岡実(ゲスト)の対話批評〕〈奇ッ怪な歪みの魅力〉(《ユリイカ》1987年11月号)は、映画の公開に合わせてテレビのバラエティ番組にゲストとして出演した映画俳優が、作品の見処を語って新作をプロモートするさまを想わせて、ほほえましい。古巣の《ちくま》にでも頼めば否やはなかろうが、土方巽遺文集《美貌の青空》(筑摩書房、1987年1月21日)刊行に合わせて書いた〈来宮の山荘の一夜〉が同誌の191号(1987年2月)に出ている以上(そのうえ《土方巽頌》に収録されている)、そうたびたび登場するのは気が引けたのだろう。その点、気心の知れた《ユリイカ》や《現代詩手帖》なら、ゲストとして番組に出演して「告知」をしても、違和感がなかったものと思しい。この鼎談は、吉岡実にとってほとんど唯一の散文作品を語った重要な文献である(随想集は短文の集成だったし、日記はあくまでも日記だ)。とりわけ鼎談後半の(この時点ではまだ刊行されていない)詩集《ムーンドロップ》や近年、気になる画家としてフランシス・ベーコンについて語っている処は、ベーコンに言及した散文がないだけに貴重である。これまでに何度も書いたことだが、吉岡実の談話・インタビュー、対談、鼎談、座談会での発言をまとめた一書の刊行が希まれる所以だ(〈発言本文を除く《吉岡実トーキング》〉参照)。
〈小林一郎が選ぶ吉岡実の3冊〉を書いた。パロディとしてではなく、パスティシュとして。
●《〈吉岡実〉の「本」》に〈《秩序》掲載の出版広告〉を書いた。吉岡実は篠田一士を追悼する文章で、同誌を「無名の文学青年の同人誌「秩序」」と呼んでいるが、そこに詩篇を寄せているくらいだから、いくら篠田や丸谷才一から依頼されたにせよ、それなりに評価していたのだろう。本文で触れた2冊のバックナンバーを拾い読みしてみても、力のこもった文章が並んでいて、気持ちが好い。いったいに同人誌は妙に力んだ作品が並びがちだが、ここにはそうした力みがあまり見られず、30代半ばだった篠田や丸谷の落ち着いた熱気、とでもいったものが感じられる(丸谷の小山内薫論〈道に迷う〉は、どこかの本に収められたのだろうか)。すでに《僧侶》(1958)を出していた吉岡も、《秩序》のそんなところに惹かれたか。
●年末はともかく、年始になにを読むかはその年を占うようで、本選びも慎重にならざるをえない。今年は本サイトでかなり長期にわたる連載企画を予定していて、資料の収集もほぼ目途がついた。だが、全体の構想がいまひとつぴりっとしない。そういうときに再読するのが、入沢康夫《宮沢賢治――プリオシン海岸からの報告》(筑摩書房、1991年7月25日)である。とりわけ〈詩集『春と修羅』の成立〉には、いつもながら目を瞠らされる。その内容は承知しているから、展開や叙述の細部を味わいながら読んでいると、同文の追記ともいうべき〈訂正二件〉(初出は《賢治研究》13号・1973年4月)に「戦災に遭った宮沢家の倉の、焼け焦げた家財の下から発見された、「クリームパンの色に燻蒸された」原稿百五十一枚。それが、久しく失われたものと思われていた『春と修羅』印刷用原稿だったのだが、この原稿〔……〕に見られる数次にわたって付け直し付け直されたノンブルの在りようから、詩集の構成の変換をうかがう目的で、私は昨年八月と九月の「文学」に「詩集『春と修羅』の成立」を書いた。また、これより先、一昨年(一九七一年)の「ちくま」七月〔の27〕号にも、その要点のみを記しておいた。」(《宮沢賢治――プリオシン海岸からの報告》、一二五ページ)という記述が目にとまった。このころの《ちくま》のバックナンバーなら手許にあるから、さっそくひもとくと、〈詩集『春と修羅』の成立――賢治の原稿をめぐって・1〉が載っている。それは図入りの4ページの記事で、最後のページはまるまる図だから、本文の文章は2ページ強といったところ。そこにのちの〈詩集『春と修羅』の成立〉のエッセンスが詰まっている。《ちくま》の文章と《文学》の文章との比較が、私の長期連載の構想に資するだろうことは、すぐさま感得できた。ところで《ちくま》の文章の冒頭には「(この春以来、宮沢清六氏の依嘱を受けて、天沢退二郎と私とで、賢治の遺稿の調査を進めている。数年を要すると思われるこの調査の結果は、いずれしがるべき形で公になるはずだが、とりあえずその中間報告として、私たちは今後数回二三ヶ月おきにこの誌面を借りて、賢治の原稿に見出される興味ぶがい話題を少しずつ紹介してゆきたいと思う。)」(同誌、二六ページ)という予告がなされているが、入沢に続稿はなく、同誌には天沢退二郎が〈「風の又三郎」はどのようにできたか――賢治の原稿をめぐって・2〉(31号)、〈草稿の森の中から――賢治全集編纂に携わって〉(50号)、〈草稿の森を出て――『校本宮澤賢治全集』完結・雑無量感〉(104号)を書いている。これらの号の《ちくま》の編集人は、吉岡実だ。〈詩集『春と修羅』の成立――賢治の原稿をめぐって・1〉というせせらぎは、《校本 宮澤賢治全集〔全14巻(15冊)〕》(1973〜1977)という大海に流れこんだのである。
●《ザ・ボンゾ・ブック――徹底解析 ジョン・ボーナムの偉蹟》(シンコーミュージック・エンタテインメント、2021年1月7日)にこんな一節がある。「〔レッド・ツェッペリンの〕映画『永遠の詩(狂熱のライブ)』に収録された'73年USツアー以降のライヴ本数が142公演なのに対して、それ以前のライヴ数は427本である。全569本のライヴの75%がアンバー・ビスタライト・キット以前のナチュラル・メイプルやグリーンスパークル・キットで行われていたという事になる。/という事は、『永遠の詩(狂熱のライブ)』で浸透したヴィジュアル・イメージや音源だけでなく、75%ものライヴを実践していた初期のジョン・ボーナムを知らなければ、本当の姿を知る事にはならないという事に気付き、機材の資料や情報が少ない初期から、しっかり研究しようと思ったのがきっかけとなった。〔……〕」(本書、一一二ページ)と記してから、著者の太田エージが紹介するのが、ジョン・ボーナム(1948〜1980)が使用したLudwigのドラムやPAiSTeのシンバルと同年代の同じキット(4種)の見開き写真である。後景に銅鑼[どら]――わが子が小学生だったころ、武蔵野音楽大学で開かれた子供のための公開講座で同大学所蔵の銅鑼を実見して、感慨深いものがあった――まであるのには驚愕する。一方、文章で最も読ませるのは〈スリンガーランド徹底検証〉(本書、一八〇〜一八三ページ)で(スリンガーランドは、ボンゾの憧れだったジーン・クルーパの愛器)、デビューアルバム(1曲めが〈Good Times Bad Times〉!)で用いられていたのと同年代のキット入手の経緯と、そのバスドラムの口径が、従来説の22インチではなく、24インチだったと推論する箇所。これこそ、本書の白眉である。46ページにわたる巻末資料〈ジョン・ボーナム・コンサート・ファイル 1968〜1980〉も労作だ。〔なお、本稿は若干修正したうえで、《ザ・ボンゾ・ブック――徹底解析 ジョン・ボーナムの偉蹟》を購入したAmazonにレビューを掲載した。タイトルは〈ボンゾが使用したLudwigのドラムやPAiSTeのシンバルと同年代の同じキットに驚愕〉。
●2020年12月23日、レスリー・ウェストが亡くなった。75歳だった。レスリー・ウェストといえば、Mountainのギタリストであり、ヴォーカリストである。バンドの3枚めのアルバム《Flowers of Evil(悪の華)》(1971)は、スタジオ録音とフィルモアでのライヴを録音した、ベースのフェリクス・パパラルディ〔1983年歿〕がかつてプロデュースしたCreamのそれを思わせる構成になっている。アルバムでは、ライヴの〈Dream Sequence(幻想の世界)〉メドレーで、〈Roll Over Beethoven(ベートーヴェンをぶっ飛ばせ)〉を受けて8分55秒ころから始まる@「Dreams of Milk and Honey(ミルクとハチミツの夢)」、A「Variations(バリエイションズ〔変奏曲〕)」、B「Swan Theme(白鳥のテーマ)」が圧倒的にすばらしい。@は歌〜ギターソロで(キーはEm)、次のAに入るまえのウェストとパパラルディの掛け合い(G-G-Em-Em)は充分に練られたフレーズに聴こえるが、同曲のほかのライヴではいろいろとやっていて、決め打ちのアレンジではないようだ。これがアドリブなら、その構成力たるやエリック・クラプトン=ジャック・ブルースのCreamをも凌ぐ、空前のパフォーマンスである。Aからは倍のテンポになって、ドラムスのコーキー・レイング〔1948〜 〕も軽快に煽る。ウェストのギターは、お得意のピッキングハーモニクスを織りまぜながら、Aのドリアンで流麗な「歌」を奏でる。一方、オルガンのスティーヴ・ナイト〔2013年歿〕は、バッキングに徹している。Bは、パパラルディのベースがベンディングを使った粘っこいテーマを提示して始まる(キーはAm、ペンタトニックのお手本のような展開)。ウェストはテーマを蜿蜒と繰り返すが、起伏に富んでいてまったく飽きさせない。それどころか、エンディングに向かって血が沸きたつような盛りあがりを見せる。レイングがライドシンバルとスネアドラムの16分打ちを雷鳴のように轟かせるクロージング直前(24分24秒ころ)でのギターは、それまでひたすらペンタで禁欲的に抑えていたウェストが、ここぞとばかりドリアンの必殺フレーズを繰りだしてきて(左手の指使いが少しく複雑で、決め打ちに違いない)、バンド一丸となった圧巻のユニゾンである。Bravo!
●《Flowers of Evil(悪の華)》(1971)を最初に聴いたのがいつだったか、はっきりと想い出せない(1970年代前半であることは確かだが)。このアルバムを聴いたおかげで(せいで?)、フランス文学などに興味を持つようになったといえば、奇矯に響くだろうか。ライナーノーツかなにかで《悪の華》がシャルル・ボードレールの詩集であることを知って手にしたのが、村上菊一郎訳の《ボードレール詩集〔世界の詩集 2〕》(角川書店、1967年8月10日)という桝形本(の後刷)。「君は 秋の澄んだばら色の美しい空」と始まる〈雑談〉といった詩篇に痺れた。同書がいま書棚にない処を見ると、図書館で借りて読んだものだろうか。感銘が深かったのだろう、同じ村上訳の《全訳 悪の華〔角川文庫〕》(角川書店、1961)の後刷を最寄りの駅前の古書店で買い求めた(のちに大学を出るとき、卒業論文のアポリネール詩集《アルコール》論を見ていただいた先生に献呈署名を請うた)。半世紀前のアメリカのロックバンドのアルバムが、日本の洋楽好きの若者にフランス文学を、そして詩を学ばせることになった経緯[ゆくたて]である。


編集後記 218(2020年12月31日更新時)

吉岡実と大岡昇平――盗作あるいは引用をめぐってを書いた。大岡昇平の小説を最初に読んだのは、早稲田に入って、秋山駿先生の授業で「どれでもいいから、大岡の小説についてレポートを書け」というので購読した新潮文庫版の《愛について》だった。レポートに何を書いたか覚えていないくらいだから、たいして感心しなかったのだろう(生意気でない二十歳など、存在するに値しない)。感銘を受けたのは、角川文庫版の《中原中也》だった。一体に私は中也の詩に惹かれないたちなのだが、大岡の《中原中也》にはやられた。当時、《富永太郎》を読んだ記憶がないのは、廉価な刊本が出ていなかったためか(《ユリイカ》の特集号を手にしたのは最近である)。ところで、小幡亮介の〈永遠に一日〉を掲載した《群像》1978年6月号は〔平野謙追悼号〕でもある、と本稿で書いた。大岡昇平はそこに追悼文〈選考と論争〉を寄せている。「平野謙と親しくなったのは、昭和三十三年に、群像新人賞の選考委員になってからである。伊藤整、中村光夫と四人で、古賀珠子、畑山博、秋山駿、松原新一などを送り出したわけだが、どうも平野とはあまり意見が一致しなかったらしい。」(同誌、三一四ページ)と始めている大岡が、《群像》の「新人文学賞当選作」である〈永遠に一日〉を津津たる興味で読んだことは想像に難くない。
●《〈吉岡実〉の「本」》にひさびさの記事、装丁家・和田誠のことを書いた。本文で触れたように、和田誠が語りおろし/書きおろした《装丁物語》(白水社、1997)の編集担当は和気元。以前、出版社の編集者には(業務用の文書のほかに)署名入りの文章を書くタイプと書かないタイプがいると指摘した。和気さんは書かないタイプのようで、国立国会図書館の書誌を検索しても、次の1件しかヒットしない。日本編集者学会(編)《エディターシップ》vol.5〔特集=信州と出版文化〕(2018年3月31日)に寄せたコラム〈酒と煙草と志ん生と〉である。ちなみにこの号には、先頃亡くなった長谷川郁夫が〈出版人・古田晁と筑摩書房〉を執筆している(長谷川さんが「署名入りの文章を書くタイプ」であることは紛れもない)。では、吉岡実はどうかといえば、和気元とも長谷川郁夫とも違う。なぜなら、書く編集者/書かない編集者という次元を超えて、詩人=装丁家が出版社に勤務していたようなものだからである。不明なことに、《エディターシップ》という学会誌という存在を知らなかったので、勉強のつもりで同号を取り寄せた(学会事務局を兼ねる田畑書店が発売元)。巻末にあるバックナンバーの目次を見ると、和気元(日本編集者学会理事)は、vol.1を除いて毎回、執筆している。すなわち、創刊準備号(2010)に〈「者」のつく職業〉、vol.2(2013)の〔書物の宇宙、編集者という磁場〕に〈天狗とヒットラー〉、vol.3(2014)の〔時代の岐路に立つ〕に〈煙景のフィリップ・マーロウ〉、vol.4(2016)[この巻からタイトルが消えた]に〈劇場煙草往来〉、そして件のvol.5(2018)の〈酒と煙草と志ん生と〉。いずれにしても寡作である。
●四方田犬彦《ブルース・リー――李小龍の栄光と孤独〔ちくま文庫〕》(筑摩書房、2019年7月10日)を読んだ。2005年10月に晶文社から出た初刊の増補版である。四方田の文庫本はしばしば本文や後記が増補されているので、文庫とはいいながら、重要な新版だ。今回も処処のページの耳を折りながら堪能した。「〔……〕平岡正明によれば、『燃えよドラゴン』が日本で公開された直後に、いち早く讃辞を捧げたのは、大和屋竺や内藤誠といった、日活や東映でアクション映画を監督したり、その脚本を執筆していた映画人であった。彼らは何よりも、李小龍の肉体の圧倒的な現前に魅惑された。李小龍が体現している肉体と速度の美学こそが、当時の日本映画が見失っていたものであるという職業的な認識において、彼らは共通していた。〔……〕とりわけ李小龍に心酔していた大和屋は、その肉体を「伝説的な舞踏家ニジンスキーの再来」と讃えたという。」(本書、二三ページ)。 「〔歿後刊の『功夫の道』において〕身体の局所論的思考を廃し、心が身体を統御し操作するという二元論を否定すること。意図も、予測も、期待も、そうした意識操作のいっさいを捨てたとき、格闘に際してもっとも理想的な姿勢とは、「まるで死人のように、つっ立っているだけでいい」と説明される。この思考はわれわれに、パリの五月革命の直後に登場したドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』が主張した「器官なき身体」という考えを想起させる。この二人の哲学者と精神科医は、位階化され秩序化された身体が心に統御されているという状況を否定し、心身が二元論から解放されて、高揚した生の持続を体現することに理想を求めていた。李小龍が黐手を通して探究してきた連続せる「無心」状態とは、実のところ彼らが説く「高原[プラトー]」という概念にきわめて近いものがあるのではないかと、わたしは睨んでいる。」(本書、一六五ページ)。《ブルース・リー》こそ、四方田犬彦の《土方巽頌》である。疑う者は〈後記〉の結尾を見よ。「最後にわが座右の銘を掲げておきたい。李小龍の著作『截拳道』にある言葉である。//情熱だけが別の情熱を呼び覚ますことができる。」(四〇一ページ)。
●久しぶりにUNICORNを聴きかえして、改めて〈雪が降る町〉(1992)に感銘した。12月に奥田民生の「年末ソング」を聴くと、ひときわ身に染みる。さらに《ヒゲとボイン》(1991)の〈車も電話もないけれど〉つながりで、Electric Light Orchestraを少しまとめて聴いた。このころの奥田はELOに入れこんでいて、すでに誰かがどこかで指摘しているだろうが、楽曲づくりにThe Beatles直系のこのバンドを参照した節がある。晩期のBeatlesは、レコーディングではギター、キーボード(客演のプレストン)、ベース、ドラムスというミニマムの楽器編成の上に、オーヴァーダブを重ねたが、もともとはギターが2本(レノンとハリスン)、ベース(マッカートニー)、ドラムス(スター)だった。UNICORNは手島とともに奥田もギターを弾くから、ギター2本、キーボード、ベース、ドラムスが基本編成となる。キーボードが存在することで、ライヴでもELO的なサウンドを展開することが可能となった(たとえば〈ヒゲとボイン〉)。Beatlesにインスパイアされた曲を(あまり厚塗りすることなく)5人で演奏する方策を追求した結果が、そのアレンジではないか。ちなみに〈雪が降る町〉での堀内のシャッフルベースはマッカートニーを強く意識したもので、のちに同曲をカヴァーしたScott & Riversのルート弾きとは異なる。しかもイントロのメロディ(キーはD)、D-C#-B=Bの白玉の繰りかえしに対して、コードはそれぞれ【D】【Bm】【A】【D】が割あてられていて、歌(「だーかーらー」)が始まると、今度は【C#m7】【F#7】と来る。これなど〈Yesterday〉――【F】【Em7】【A7】……――を換骨脱胎したものとしか思えない(ともにT-Zm7-V7)。〈すばらしい日々〉(1993)と並ぶ、ソングライター奥田の面目躍如たる作品である。一方、ELOはそのベスト盤《All Over the World》(2005)を聴くかぎり、ジェフ・リンはなんとまあとんでもないメロディメイカーであることよと、言うしかない。ポップな曲調ばかりでなく、ばりばりのロックンロールさえメロディアスなのだ。以前から気になっていた《Xanadu》〔New Version〕のコード進行を分析すると、まずAメロの【A】【D / Dm】【A】【C#7 on G#】【F#m / on E】【D#dim / Cdim】【Bm】【E】のUm-Xまえのディミニッシュ(ベースを拾うとこうなる)が効いている。Bメロ【A】【C#m】【D】【Dm】のC#mとDmの対比は見事。サビは【A】【A】【B7】【B7】【Dm】【E】【D / A】【F7 / G】と、やりたい放題。もちろんここでのキモもDmだ。この【A】と【Dm】(すなわちT-Wm)という妙に哀愁漂う取りあわせは奥田のお気に入りで、〈ヒゲとボイン〉でも、〈すばらしい日々〉でも愛用している。あのPUFFYの〈アジアの純真〉(1996)――作詞担当の井上陽水が奥田に接近したきっかけが、〈雪が降る町〉の歌詞だったという――がELOへの、そして〈おかしな2人〉(1989)――最後の最後に出てくるサビが、死ぬほどキャッチィ――のイントロがLed Zeppelin(もちろん〈Black Dog〉だ)へのオマージュであるとか、いろいろ思いつくが、そんなことを凌駕してUNICORNの音[サウンド]は自立している。
●前項のリンは、奥田に先立ってこの(T-Wm)を活用した。だが、必ずしもそのオリジネーターというわけではない。というのも、師匠筋のポール・マッカートニーからこれを学んだと思しいからだ。野口義修の《ポール・マッカートニー作曲術》(ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス、2020年4月10日)にこうある。「〔……〕Wはメジャー・コードですね。このコードは、理論的にはサブドミナント(下属和音)と呼ばれています。これをマイナー・コードにしたものがサブドミナント・マイナー(Wm)です。メジャーの曲の途中にマイナー色の強いWmを響かせることで、曲想をガラッと変えることができるのです。/ポールはこの響きが大好きです。ニュアンスとしては、明るい曲想の中に、瞬間の寂しさや切なさ、儚さなどを挿入する感覚です。具体的には、ピーター&ゴードンに書いた「A World Without Love」、ソロ作品の「Junk(ジャンク)」などのミドル8(=Bメロ)の進行が挙げられます。」(本書、一〇七〜一〇八ページ)。《ポール・マッカートニー作曲術》は“PAUL McCARTNEY'S SONG WRITING”という英題のとおり、マッカートニーが書いた楽曲の分析が細部にまでわたっていて、すばらしい。私はThe Beatlesの公式アルバムはすべて持っているが、マッカートニーのソロやWings(1971〜1981)のアルバムは、MDに落としたものや、PCに取りこんだものが主だ。「また、紹介している楽曲はすべて動画サイト、ストリーミング・サービス(サブスクリプション)などで聴くことが可能です。」(本書、三ページ)とあって、曲のタイトルはすべて原綴りで表記してある(私もこの後記ではバンド名やアルバム名をそう表記しているが、さすがにThe Beatlesと書くときは気恥ずかしい)。著者は長年、音楽活動を繰りひろげてきた人だけあって、含蓄に富んだ指摘が多い。「作曲や編曲をする際、リスナーが「オッ!」と驚いたり、「なるほど!」と頷いたりする部分を最低1ヵ所は作るのが、名曲を生み出す秘訣です。」(一五四ページ)。楽譜が書けない(!)マッカートニーの曲を分析するのに、音符の棒や旗を略したのも、味があっていい。それと、マッカートニーが影響を受けたベーシストとして、モータウンの重鎮ジェイムズ・ジェマーソン(1936〜1983)、The Beach Boysのブライアン・ウィルソン(1942〜 )とともにキャロル・ケイ(1935〜 )が挙がっていた。ケイは、〈Good Vibrations〉でウィルソンに替わってベースを弾いているというが、詳しいことは知らなかった(なにせ、ウィルソンの熱狂的な信者ではないので)。そうした豆知識にも富んでいる。
●2020年12月5日〜20日、神戸・北野ハンター坂にあるギャラリー島田で《林哲夫書店開展》が催された。林さんのブロク《daily-sumus2》の〈林哲夫書店開展〉(12月3日)には「本日3日「林哲夫書店開展」搬入を済ませました。5日(土曜日)からの開催です。新作油彩画などはもちろん、タイトル通りに書店として、美術書を中心にあれこれ珍しいものも放出しております。どうぞご来場ください。」とあった。12月12日には摘星書林・戸田勝久さんとのスペシャル・トーク・イベント〈本くらべ、ハンター坂の晝さがり〉が設定されていて、本来なら参上したいところだったが、あいにくとその日は勤務日。個展の案内に「油彩画、コラージュ、ブックアート、美術書、文学書他、即売」とある、その油彩画の新作に、澁澤龍彦やボブ・ディランとともに、なんと吉岡実の肖像画があるではないか(2020年1月、渋谷のウィリアム モリスで開かれた林さんの作品展では、瀧口修造やフランツ・カフカの肖像画が出品されており、それを観た私は、作者に気安くも吉岡の肖像をリクエストしたものだ)。さっそく林さんに入手したい旨を連絡して、12月22日に無事、落掌した。ところで、今月の大岡昇平のことを調べている間に、ノンフィクション作家の春名徹が次のように書いているのを見つけた。「数年前に、大岡さんの御宅で、富永太郎の絵を見せていただいたことがある。/応接間の壁にかけられたその一点を、大岡さんは、/「太郎の全集をやり遂げるまでは、こうして懸けてあるのだ」/と説明された。/全集の完成にたいする心のはりつめ方と、富永太郎にたいする愛情が、つよく印象に残っている。」(〈富永太郎の上海〉、《大岡昇平集〔12〕》〈月報12〉、岩波書店、1983年7月25日、三ページ)。この絵は、同巻の〔富永太郎 小林秀雄〕の口絵にカラーで図版が掲載されている、例の自画像(1924年、油彩、41×27cm)である。私も大岡昇平の顰に倣って、「吉岡実の全集をやり遂げるまでは、こうして懸けてあるのだ」と、林さんの新作〈吉岡實〉(2020年、油彩、20×15cm)を書斎に掲げて、精進の糧としよう。


編集後記 217(2020年11月30日更新時)

加藤紫舟句集《光陰》のことを書いた。《現代俳句大事典》(三省堂、2005)で加藤紫舟の項目を執筆した川名大は、「代表句に、〈烏瓜[からすうり]の彼方古典のうたあらう〉(『光陰』)がある。」(同書、一四六ページ)と同句集を賞揚している。《20世紀日本人名事典》(日外アソシエーツ、2004年7月26日)によれば、加藤紫舟は「昭和期の俳人 〔生年月日〕明治37(1904)年8月29日 〔没年月日〕昭和25(1950)年11月5日 〔出身地〕福島県会津 本名=加藤中庸 別号=黎明居 〔学歴〕早稲田大学商学部卒 〔経歴〕早大在学中に俳諧史を学び、のちに早大講師をつとめる。長谷川零余子に師事し「枯野」同人として句作を発表し、昭和4年「黎明」を創刊。8年「森林」を刊行した他、「感情のけむり」「日本晴」「光陰」などの句集、「俳人芭蕉伝」「俳人蕪村全伝」などの著書がある。」(同書、七〇二ページ)。同じ《20世紀日本人名事典》で息子の加藤郁乎の項目は13行、対するに父の加藤紫舟は8行。ちなみに吉岡実は郁乎と同じ13行である。
●一等は中野区立図書館! 2020年の1月中旬、一斉に恩田陸の短篇小説集《祝祭と予感》(幻冬舎、2019年10月1日)を板橋・杉並・中野・練馬の区立図書館に予約した。待つこと8箇月あまり。9月下旬に中野区立図書館から順番が来たとの連絡をもらった。そのときの各区立図書館における予約順位は、板橋が9(所蔵数は14、予約数が151)、杉並が147(所蔵数は17、予約数が341)、中野が0(所蔵数は10、予約数が113)、練馬が174(所蔵数は20、予約数が356)。各区の図書館利用者数や所蔵冊数の違い、恩田陸人気の違い(?)などいろいろな要素が絡んでいるが、この件に関するかぎり、中野(0―11.3)・板橋(9―10.8)・杉並(147―20.7)・練馬(174―17.9)という順位になった。同じタイトルの本やCDでも、所蔵されていたりいなかったりするから、自分専用の図書館横断検索システムが組めればいいのだが、そんな才覚はないから、いきあたりばったりで資料検索を続けている。先日は、淡谷淳一編集本の〔新装版〕ではなく〔元版〕の方を見たかったのだが、手近な館には〔新装版〕しかないため、探索を諦めた。頼みの綱の国立国会図書館は、〈東京本館における抽選予約制による入館制限のお知らせ(申込みフォーム)(11/18更新)〉にある「新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、東京本館においては、抽選予約制により、1日あたりの入館者数を1000名程度に制限いたします。」という状態が続いているので、しばらくは様子見だ。かんじんの恩田本だが、《蜜蜂と遠雷》(2016)の挿話集の趣で、塵や亜夜、マサルなどの懐かしい人たちと再会した感を抱かせる。私のベストトラック、というよりもフェイヴァリットトラックは「楽器選びに悩むヴィオラ奏者・奏へ天啓を伝える〈鈴蘭と階段〉」だ。小振りの好著だが、圧倒的だった本篇(2度、読んだ)を読みかえしたくなるのが困る。
●辻邦生・北杜夫〔対談〕《完全版 若き日と文学と〔中公文庫〕》(中央公論新社、2019年7月25日)を読んだ。2019年は辻の歿後20年で、学習院大学史料館編《辻邦生 永遠のアルカディアへ》(中央公論新社、2019年6月10日)も、松浦寿輝の書きおろしを筆頭に充実した内容だった(私は松浦の文章に促されて辻の《銀杏散りやまず》を文庫で再読した)。高校のころの私は、北杜夫もかなり熱心に読んだ。なにを想ったのか、両親が《どくとるマンボウ航海記》のハードカヴァーを買ってくれたりした。放送部では植原くんが《船乗りクプクプの冒険》を脚色した放送劇で「北杜夫」をやったりしたし(風邪で鼻声のセリフを収めたオープンリールの音源が手許にある)、《楡家の人びと》も《木精――或る青年期と追想の物語》も単行本で読んだ。しかし、辻邦生に対するほど熱心ではなかった。辻の著作は、もっぱら文庫本で片端から読んだ(おそらく1980年ころまでの、随筆・評論を含む全著作に目を通している)。しかし、いつしかその熱意は薄れ、《若き日と文学と》以降の二人の対談も手にしていなかった。今回初めて〈『星の王子さま』とぼくたち〉(初出:《海》臨時増刊〔子どもの宇宙〕1982年12月、中公文庫編集部編《文芸誌「海」子どもの宇宙〔中公文庫〕》(中央公論新社、2006)に収録)を読んだが、辻の幻想文学論としても出色のものだ。辻はそこで子供のころに《アラビアン・ナイト》、アンデルセン、トルストイとともに少年小説に熱中した話をしている。挙げている書名は以下のごとし。――江戸川乱歩『少年探偵団』『怪人二十面相』、高垣眸『豹〈ジャガー〉の眼』『快傑黒頭巾』、山中峯太郎『亜細亜の曙』『大東の鉄人』、海野十三の『戦艦高千穂』(?)、佐藤紅緑の『ああ玉杯に花うけて』、河目悌二の挿絵の佐々木邦のユーモア小説、少女小説では吉屋信子『桜貝』――。私自身はこれらをほとんど読んでいないが、吉岡実(1919生)や澁澤龍彦(1928生)、出口裕弘(同)たちの随想に登場する類の書目群で(私の父は1927生だが、子供のころに読んだ本の話をしなかった)、要するに一世代前(辻と私は30歳差)の読んだ本がこれらだったわけだ。「 少年講談というのがその当時あってね。「立川文庫」を少年用に書き直したもので、『塙団右衛門』とか、『猿飛佐助』『霧隠才蔵』など、真田十勇士が次々と主人公で、『塙団右衛門』を読むと、塙団右衛門がいちばん強くって、霧隠才蔵や猿飛佐助はやられるし、『猿飛佐助』を読むと、猿飛佐助がいちばん強くて、ほかの人がやられるし、これは実に不思議なドラマツルギーだなと思って、子どもながらに感心した。もちろん、『のらくろ』は全巻読んでいるし、『冒険ダン吉』とか『長靴三銃士』式の漫画本は、手あたりしだいに読み耽った。」(同書、三四九〜三五〇ページ)というあたり、嬉しくなるではないか。ちなみに私の辻小説のベストは《夏の砦》(1966)で、手許には初刊の書きおろし以下、河出の作品集と新潮社の全集版はもちろん、〔新潮文庫〕(複数冊)、〔文春文庫〕まである。さすがに小学館の〔P+D BOOKS〕はないが。あれはいつのことだったか、UPUの仲望さんの肝煎りで新宿・ゴールデン街は青梅雨の二階の座敷で埴谷雄高さんを囲んで話を聴く会があった。辻が埴谷の推輓で小説を発表しはじめたのを踏まえたうえで、当時、同僚だった黒岩比佐子さんが辻邦生のことを訊いていたのが思い出される。黒岩さんは辻作品ではなにが好きだったのだろうか。やはり《背教者ユリアヌス》(1972)だろうか。伺ってみたかった。
●2020年10月6日、エディ・ヴァン・ヘイレンが癌で死んだ。悲しみに堪えない。ヴァン・ヘイレン(バンド)の代表曲として〈Jump〉を挙げる向きも多いが、私はサミー・ヘイガーがリードヴォーカルをとった〈Can't Stop Lovin' You〉(1995年の《Balance》に収録後、シングルカットされた)を推す。同曲は「プロデューサーのブルース・フェアバーンが、よりポップ志向の曲を求めた」(米版Wikipedia)結果、バンドメンバー全員によって書かれた。エディのソロは短いながら、そのコンパクトさゆえに、限りなくチャーミング。そしてそれ以上にすばらしいのが、バッキングとオブリガートだ(ギターの音色もこのうえない)。そこでは、ピックスクラッチ(巻弦の高音部から低音部にかけてピックで擦るギミック)さえ楽曲の一部になっている。エディは、ギターを弾くアレンジャーとしても超一流であり、どんな難所でも笑みを絶やさないそのライヴパフォーマンスは、演奏者のあるべき姿を体現していた。われわれはわれわれの世代の最も重要な人物(革新主義者であり、同時に伝統主義者)の一人を喪った。ジミ・ヘンドリクス以降、エレクトリックギターを操っては天下無双、唯一無二のロックギタリストを。Eddie Van Halen(1955〜2020)。
●前項のような話題のあとでは、どうしても具体的な音楽(たとえそれが、ヴァン・ヘイレンのものであっても)を聴くよりも、心穏やかに理論書を読みたい。そこで手にしたのが、秋山公良《よくわかる音楽理論の教科書》(ヤマハミュージックメディア、2014年8月10日)である。私の求めたのは2016年の4刷本。処処にコードネームの誤植があるのは痛いが(楽譜を見るとG→Cであるべき進行が、G→Gのまま残っている)、クラシック〜ジャズ〜ロックという流れのなかに音楽理論を解りやすく落としこんでいるのは、柄が大きくて好ましい。鍵盤楽器が苦手な私に対位法の項目は難解だったが、付属のCD音源がそれを補ってくれる。
●《ギター・マガジン・レイドバック》Vol. 4(リットーミュージック、2020年10月1日)の〔クラプトンはやっぱりクリームが最高!〕が面白い。現在のエリック・クラプトンには関心がないが、50年前のこととなれば話は別だ。私もまた「クラプトンはやっぱりクリームが最高(だった)」と考えている一人だからだ。Charのインタヴュー記事もなめるようにして読んだし、第二(?)特集の〈わが青春の『ヤング・ミュージック・ショー』〉も資料的価値が高く、堪能した。私自身、リアルタイムでクリームの解散コンサートをNHKテレビで視聴して、衝撃を受けたくちだ(と回顧すると、お年が知れようというものだが)。本誌は想定読者層を「レイドバック世代」と呼んでいる。この際、それでもよしとしよう。ついでだから、雑誌の謳い文句も録しておこう。「ゆる〜くギターを弾きたい大人ギタリストのための新ギター専門誌」。これはいただけない。半世紀近くギターを弾いている身に、「ゆる〜く弾く」ことなど、金輪際ありえない。日日精進を続けるのが(この世代に限らず)ギタリストの宿命である。手本は、クリームのクラプトンであり、アラン・ホールズワース(1946〜2017)であり、エディ・ヴァン・ヘイレンだ。1000年かかってもかれらに追いつくことはできないが、それくらいの気概で(ただし肩の力は抜いて)ギターを弾かないでどうする。
●谷口義明《天文学者が解説する 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』と宇宙の旅〔光文社新書〕》(光文社、2020年7月30日)がめっぽう面白い。紹介には「本書では〔……〕賢治の宇宙観に迫る。このユニークな童話はどのように構想されたのか。賢治は宇宙に何を見ていたのか。天文学者による、これまでにないアプローチ」とある。納得できる。とりわけ「天気輪」がなにかを追究するくだりは、本書の白眉だ。「星」と「三角標」の使い分けの指摘にも驚かされる。惜しむらくは、本全体の流れが斉合性に欠ける。本書の主な構成(〔前付〕〔本文〕〔後付〕)は「まえがき―目次―本文(第1章・第2章)―あとがき―謝辞―参考文献―注釈―奥付」だが、〔後付〕は「注釈―参考文献―あとがき(謝辞はここに含めるか)―奥付」でなければ落ち着きが悪い。「あとがき」は著者が最後に書く文章でなければおかしいし、置かれるのも当然、奥付の直前だ。例外的に横組の「索引」が縦組の「あとがき」のあとに来ることもあるが、これとて本来は「索引」―「あとがき」であるべきだ。もっとも、新書とはいえ、本書に当然あってしかるべき「索引」はないが。


編集後記 216(2020年10月31日更新時)

吉岡実と多田智満子を書いた。多田さんの姿を見、話を聞いたのは、本文でも触れた浅草・木馬亭での吉岡実を偲ぶ会でのことだった。そのときの司会は高橋睦郎さんだったが、裏方を務めていたのは筑摩書房で吉岡実の編集担当だった淡谷淳一さんで、勝手に録っては申し訳ないので、淡谷さんに断ったうえで、登壇した方の話をカセットテープに収めた(コンサート会場でのオーディエンス録音である)。今ならヴィデオやスマホで簡単に動画を記録できるが、30年もまえだと、そういうわけにはいかない。このテープ、大切にしまいこんだせいで、いっかな見つからない。多田さんの話を採録したかったのだが。いまは、とにかく資料の捜索を心掛けよう。
●この《編集後記》では、その月の記事に関するいわゆる「編集後記」のほか、私の音楽生活にまつわるあれこれ(時が経ってこれを読みかえすと、当時の心的風景が甦ってきて懐かしい)、そして原稿執筆やウェブサイト運営に関わる種種を書いている。最近では、しゃれていうなら「研究余滴」のような、硬くいうなら過去の文章の「補遺」のようなものが多くなった。そもそも本文の後に付ける〈付記〉/〈追記〉/〈****年**月**日追記〉は、福永武彦の(小説ではない)文章に範を仰いでいる。福永は雑誌などに発表した形をそのまま残して、単行本に収録する際に書き加えた部分[パート]をこう呼んだ。つまり、初出形を修正改変するのではなく、初出形に(それと対立する、それを包含する)別の視点を導入するときにこれを用いた。いかにも時間の問題に腐心した小説家の書く文章だ、と感じいったものである。さて、ここまでは前置き。印刷物と違って、ウェブサイトに発表した文章はその修正改変がとんでもなく容易である。これが原稿の執筆から校正、発表までを一人でこなさなければならない大方の人間にとってどれほどストレスの緩和になっているか、想像以上のものがある。人は経験を積むに従って、それまでの見解を改めることがある。それはそれで仕方がない。今まではこう考えていたが、今はこう考える。それで好い。だが、自分の文章を含めて、表記を過っていたり(私は、ふだんあまり使わない言い回しをしようとするとき、不安にかられる)、さらに酷いのは引用文を間違えて掲げることがあって、まさに冷や汗ものである。記事のアップまえには、ローカルの状態でハードコピーを取って引用元の印刷物と突き合わせるのだが、このチェックが年年甘くなっている。総合的な老化現象ゆえだろうが、読む側にとってそんなことは関係ない。「間違っている!」で終わりである。つい最近もこれをやらかしたのだが、旬日ほどで修正したファイルに差し替えることができた(具体的な記事名は挙げないでおこう)。このときの判断基準はこうだ。「私ではない誰か別の人間がこの手順でやっても、同じ結果になるか」である。さて、ここでまた別の(ほんとうに書きたかった)話題になる。先月、9月にアップした〈吉岡実作品の外国語訳〉を準備している間に、大岡信・Thomas Fitzsimmons共編の《A Play of Mirrors: Eight Major Poets of Modern Japan〔Asian poetry in translation. Japan; #7〕》(Oakland University KATYDID BOOKS、1987)を読み返した。吉岡実・田村隆一・飯島耕一・多田智満子・大岡信・谷川俊太郎・白石かずこ・吉増剛造(この並びは生年順か)の詩篇に、日本の詩人や評論家による〈introduction〉(書きおろしのようだ)をそれぞれの冒頭に据えた選集である。多田智満子のパートは〈吉岡実と多田智満子〉末尾の註で言及したほか、吉岡実のパートはかねてから〈V 主要作品収録書目録〉に概要を掲げてある。前回は後者に〈吉岡実作品の外国語訳〉の本文では触れられなかった情報を追加することができた。《A Play of Mirrors: Eight Major Poets of Modern Japan》の書影と「〔鶴岡はこの5ページにわたる〈Introduction〉」から文末までである。これによって、単体の吉岡実作品の外国語訳以外の、詩人や評論家による〈introduction〉における吉岡実作品の外国語訳を拾うことができた。それはそれで好いのだが、そこで課したのが引用文の英訳標題があるものだったため、今度は英訳標題のない引用文を二箇所、取りこぼす結果となった。具体的には、同書28ページの「“the first of its kind among my poems in which I tried, in my own fashion, to get involved with the outside world.”」と、31ページの「“a celebration in darkness which is at once weird and refined, scatological and lofty, comical and serious.”」である。いずれも「彼自身の言によれば」とあるだけで標題を欠くが、吉岡実の熱心な読者であれば、ああ、あれかと気づくような書き方になっている。私もここではそれに倣うことにしよう。ちなみに鶴岡のこのintroduction〈Yoshioka Minoru〉は、同文の初出である《Celebration In Darkness――Selected Poems of YOSHIOKA MINORU〔Asian Poetry in Translation: Japan #6〕》(Oakland University KATYDID BOOKS、1985)では〈Yoshioka Minoru―“Celebration In Darkness....”〉と題されていた。吉岡実英訳詩抄の標題が、吉岡自身による「暗黒の祝祭」から採られていることは明らかである。
●梶井基次郎(1901〜1932)のセザンヌ好きはよく知られている(私自身はセザンヌに惹かれないたちなのだが、西脇順三郎がセザンヌにはまるのはわかる気がする)。梶井の作品を最初に読んだのは、〔新潮文庫〕の《檸檬》を都立家政駅前の一貫堂書店で求めて、よくわからないながらも感心した高校生のときだ。しかしその後は梶井に深入りすることはなく、手許に〔ちくま文庫〕の《梶井基次郎全集》(1986)――「檸檬」「泥濘」「桜の樹の下には」「交尾」をはじめ、習作・遺稿を全て収録し、梶井文学の全貌を伝える。一巻に収めた初の文庫版全集――と、元版の《梶井基次郎全集〔第1巻〕》(筑摩書房、7刷:1970年6月15日〔1刷:1966年4月20日〕)――函・表紙の標題は明朝体活字だが、本扉の題字は川端康成筆の社内装丁は吉岡実ではないようだ――と、《檸檬〔精選 名著復刻全集 近代文学館〕》(日本近代文学館)の後刷り本――これは100円均一の棚から掘りだした――があるだけだ。〔名著復刻全集〕には、たしか藤森善貢先生(日本エディタースクールでの恩師)が携わったと聞く。《檸檬》の原本である武蔵野書院版は手にしたことがないが、堀辰雄の著書に通じる清楚な造本がまことに好ましい(さすがに本文活字は時代を感じさせる)。正字・旧仮名で本文を読むときは、《梶井基次郎全集〔第1巻〕》だ。ところで、習作〈瀬山の話(仮題)〉には挿話「檸檬」が登場する。完成版の短篇〈檸檬〉に先行する文章だろうが、梶井には〈秘やかな楽しみ〉と題するレモンを謳った詩篇も遺されている。おそらくそれらを比較検討した研究論文があるに違いない。だが私は、気楽に読みながらこの短命な文章家を偲ぶ方が性に合っている。ちなみに登場人物の「瀬山極」はPaul Cezanne(1839〜1906)のもじりだろうが、「極」は英語でもフランス語(アクサンが付く)でもpoleだから、「ポール」を「ポウル」と読みかえたものだろう。梶井がにやりと笑うのが目に見えるようだ。
●本をたくさん持っている人ならだれでもそうだろうが、そのとき読んでいる本が1冊ということはありえない。仕事で必要な本、贔屓の小説家の新刊、趣味関係の手引書、寝しなに手にする何度も読んだ句集、等等。私の場合、それらに吉岡実の作品と人物にまつわる諸諸の資料――所蔵のもの、図書館から借りたもの、どうしても必要なのでインターネットで検索して購入したもの――などが加わる。必要な資料は、たいして広くないパソコンのデスクには乗りきらずに、床に直に置かれる。それらは旧蔵のもののうえに降りつもり、だいたいが平積みされることになる。これが曲者だ。それは塔となり、倒れないかぎり、上へ上へと身長を伸ばしてゆく。こうなると下に埋もれたものを引きぬくのは一苦労である。そのために存在するのが本棚だ。しかし悲しいことに、資料の山をどけてつくったスペースに置いた本棚には「たったこれだけ?」というほどわずかしか入らない。背文字が見えて、すぐに引きだせるようになっただけでも好しとしよう。もちろん、いちばん上段は現在進行中の案件のものだ。《郡司正勝刪定集〔第3巻〕》、堀切実編注《蕉門名家句選(下)》、佐藤亜紀《バルタザールの遍歴》(これは矢川澄子の解説が読みたくて、今は入手できない〔新潮文庫〕を借りた)などの図書館の蔵書が出番を待って並んでいる。
●ジェームズ・ブラウン(1933〜2006)を少しまとめて聴いた。こうしたシンガーにありがちなことだが、日本ではベストアルバムがやたらと多くて、それに比してオリジナルアルバムは少ない。詩人と詩集の関係でいえば、単行詩集が少なくて、代表作を収めた選集が多いようなものだ。なにをもって代表作とするかは、それぞれのコンピレーションの企図する処で変わってくる。本人(詩人や歌手)が選んだものなら、その重要性は他の選者のものよりも高い。要するに、その来歴を知らないと編集版/編集盤の真価はつかめないということだ。その意味では、《Live at the Apollo》(1968)が楽しめた(ドラムス――John Starks/Clyde Stubblefield――の切れが凄まじい)。Wikipediaの〈ワウペダル〉の項には「代表的な使用方法として、リズミカルに開閉させるように踏む方法で、ジミ・ヘンドリックスに代表されるようなワウサウンドになる。また、ジェームス・ブラウン〔……〕らのファンク・サウンドでのワウワウ・ギターの使用は大変有名である。」とあって、JBはエフェクターの歴史でも特筆されている。だが、後世への影響を語った言として、次のもの以上はおそらくないだろう。「ジェームズ・ブラウンは私にとってインスピレーションの最大の源でした。私がやっと六歳になったばかりの頃から、ジェームズのパフォーマンスがテレビで放映されると、夜の何時であろうと、私がぐっすり眠っていようと、母は私を起こして見させてくれました。私は文字どおり魅了され、ジェームズの動きに見とれていました。私はジェームズ・ブラウンのような人をステージ上でほかに見たことがありません。彼のおかげで、私は自分自身が将来何をしたいと思っているのかを悟りました。ジェームズ、あなたを失った悲しみはいつまでも続くでしょう。あなたがしてくれたことすべてに感謝します」(ジェームズ・ブラウンの葬儀でのマイケル・ジャクソン)。Led Zeppelinを代表してヴォーカルのロバート・プラントがこう喋ったとしても、幼少時のテレビ視聴を除けば、まったく違和感がない。もっとも、Zeppelinはファンクをやろうがレゲエをやろうが、すべてロック(“To be a rock and not to roll”――われら巌[いわお]にして揺らぐことなし――のそれ)になってしまうのだが。スタジオ盤の〈The Crunge〉(《聖なる館》、1973)はともかく、ライヴでの同曲はロックの塊だ。


編集後記 215(2020年9月30日更新時)

吉岡実と藤富保男を書いた。藤富保男といえばモダニズム詩。そして、モダニズムの系譜の濫觴に位置する北園克衛と左川ちかの詩は、当初、短歌や俳句を書いていた吉岡を詩に転じさせるきっかけとなった。私はいままでに〈〈詩人の白き肖像〉〉(2003)、〈吉岡実と左川ちか〉(2006)、〈初期吉岡実詩と北園克衛・左川ちか〉(2006)、そして〈吉岡実と鳥居昌三〉(2018)を書いてきた。北園、左川、鳥居といった人人と、西脇順三郎、瀧口修造を視野に入れた吉岡実論は、藤富が吉岡に贈った《北園克衛〔近代詩人評伝〕》(有精堂、1983)を踏まえたものでなければならない。ちなみに藤富の《北園克衛》に吉岡実は登場しない。北園自身は《ユリイカ》1973年9月の〔特集・吉岡実〕(三浦雅士編集長によるモニュメント)に〈吉岡実の詩についての簡単な意見〉 を寄せているほか、1942年5月の《新詩論》60号に詩集《液體》(1941)の書評を書いているのが注目される。後者は、吉岡実詩を公的に評した最初の文章だと思われる。むろん北園に《液體》を送ったのは、当時すでに戦地(満洲)にあった吉岡の差配によるものに違いない。
吉岡実作品の外国語訳を書いた。これは、有働薫さんから吉岡実詩のフランス語訳の資料を頂戴したことを契機とする。有働さんは《みらいらん》6号(2020年7月)の〔特集 吉岡実〕の〈アンケート〉で、吉岡の〈僧侶〉に触れたのがフランス、ポワチエ市のポール・サンダ氏が主宰する「戦慄(プリ・ド・プール)」誌の第5号が1997年に組んだ「日本の現代詩特集」≠セったと書いている(私は、不明にして《Pris de Peur, le numero 5 [Poesie d'aujourd'hui au Japon]》を知らなかった)。インターネットで探索してもそれらしい書誌がヒットせず、有働さんを煩わせてコピーを送っていただいた。情報を《吉岡実書誌》の〈V 主要作品収録書目録〉に掲載したのが先月、8月のこと。作業をしながら、吉岡実詩の外国語訳が2012年を最後に途絶えていることに気づいた。なんとかこの状況を打開したいと思い、今回、各詩篇から収録資料にたどりつける一種の「索引」を用意した。詳しくは本文をご覧いただきたいが、作成の背景には、自分が必要とする工具書(索引はその代表)は自作するに如くはない、といういつものパターンがある。リンクを張るのが一手間だが、閲覧者にはこれが不可欠で、私など適切なリンクが張ってあるサイトはそれだけで評価してしまう。逆に言えば、文言の引用だけあってスルスの表示や引用元のリンクのないものなど、クズだということ。ついでにいえば、その文書がいつ発信されたかもたいへん重要だ。イヴェントの日時などで、ときおり西暦がなくて月日だけのものがある(元号表示は勘弁してほしい)。当座はいいが、何年も経過したあとだと、何時のことだったかわからなくなる。作成する側は、閲覧者がピンポイントで読んでいる(かもしれない)ことに留意すべきである。最後に宣伝めいたことを。中保佐和子さんがFactorial Pressから出した《[Five] Factorial》(2006)にはEric Sellandさんが英訳した《昏睡季節》からの4篇、《液體》からの5篇が掲載されているが、同誌にはそれを補完するように、私の〈Minoru Yoshioka's Early Poems, in Light of Katue Kitasono and Chika Sagawa〉(Yu Nakai・Sawako Nakayasu両氏による英訳)が載っている。その原文が前項の〈初期吉岡実詩と北園克衛・左川ちか〉(2006)である。併せてお読みいただけるとありがたい(久しぶりに再読したが、力のこもったエッセイで、悪くなかった)。
●前川整洋の《詩のモダニズム探究》(図書新聞、2020年4月15日)はロートレアモンの《マルドロールの歌》から説きおこしたモダニズム詩の通史で、欧米の詩(の訳)とともに、日本の詩にも言及している。著者は〈七―五 シュルレアリスムと超自然主義としての超現実主義〉において、〈静物〉(B・1)と〈僧侶〉の全行を引いて、解説している。その結論は「吉岡実のシュルレアリスムは、現実を知的にフィクション化して、不可能ではないが有りそうもない行為や事象をくりひろげていることから、むしろ西脇順三郎が唱えた超自然主義としての超現実主義である。ここ〔〈僧侶〉〕では人間の深層に潜む本性の卑猥さや怪奇志向を暴きだした、現実的なストーリーとなっている。現実の人間性はこれほど卑猥ではないが、深層にはこういう一面もあり、それが支配的な人間もいることを警鐘している。」(同書、二三六〜二三七ページ)である。詩的出発の一時期を除いて、吉岡がシュルレアリスムを標榜したことはないが、また略歴の記述の一部にも誤りが観られるが、それはともかく、「西脇順三郎が唱えた超自然主義としての超現実主義」というのは正鵠を射ていよう。
●戸田ツトム氏の講演の記録があるはずだ、と探した。その甲斐あって、コクヨ製「フ-11 B5S」というピンク色のフラットファイル(タイトルは「装丁」)に一葉のレポート用紙が綴じられていた。題して〈戸田ツトム氏の話〉、1984年9月5日のことである。以下、メモをそのまま起こす。「@明朝体は死滅しつつある 文字はmessageを限定する flatな文字空間(grey space)に移行」「Aタテ/ヨコ〔オモシロサ〕 北園克衛 必要情報の摂取/情報の階級化 書店の店頭」(Aには「定価2000円」が縦書きしてあって、これが先月の《編集後記》で触れた件だった)「B文字が小さい 明視距離30cmはウソだ! 苦痛→機関能力up」「C字詰 14〜49字 役割分担」――テーマは戸田氏が当時、考察していた組版上のセオリーで、その主旨はどこかに発表されているかもしれない。この時期に社員対象の講演会があったのは、1985年春創刊の《W-NOtation[ダブル・ノーテーション]》の「過激な」造本・装丁のよってきたる処をプレゼンテーションする意味があったか。そのあたりのことも、中原蒼二さん(UPU社内では本名?の高橋さんだったが)に訊いておきたかった。ところで、中原淳一の子息「中原蒼二」と高橋さんとは別人なのだろう。
●外山滋比古氏が、去る7月30日に亡くなられた。96歳だった。外山さんの著書で最初に読んだのは《エディターシップ》(みすず書房、1975)だった気がする。通っていた高校の図書室には〔創元推理文庫〕が並んでいて、当時もっぱらヴァン・ダインやエラリー・クイーンを読みちらかしていた。ある日、白いジャケットの瀟洒な《エディターシップ》を手にした。だが刊行の1975年といえば、私はとうに高校を卒業して、一年浪人後、大学に入った年ではないか。これはいったいどうしたことだろう。それ以前のみすずの本なら、《ホモ・メンティエンス》(1971)だが、これを読んだ記憶はない。不思議だ。さて、厖大な数の外山さんの著書のなかで、私にとっての主著となれば《異本論》(みすず書房、1978)である。とりわけその〈異本の復権〉の章は、いま読んでこそ身に染みる。「ごく簡単な表現についても、こまかく見るならば、読者の数だけの違った解釈が生れるのは、理解が翻訳であることを何よりも雄弁に物語っている。どんな名手が訳しても、同じ原文からできた二つの翻訳がまったく同じということは決してない。もし部分的にでも完全に同一の訳文があれば盗作を疑われるくらいである。」(〔ちくま文庫〕、一〇九ページ)。氏を偲んで、同書と《思考の整理学》の2冊の〔ちくま文庫〕を読みかえした(《思考の整理学》にも〈エディターシップ〉の項があって、懐かしい)。永江朗《筑摩書房 それからの四十年 1970-2010〔筑摩選書〕》(筑摩書房、2011)の第16章〈ふたつのミリオン――『金持ち父さん 貧乏父さん』と『思考の整理学』〉がこのベストセラー誕生の経緯を語っていて、興味深い。
●古書店が減って淋しい想いをしていることは、何度もこの欄に書いた。それでもリアルの古書店はがんばっている。ちかごろ私が贔屓にしているのは、中村橋書店向かいの古書クマゴロウ(2018年開業)。ここで安保亮の《Q&A形式 ギタリストのためのDAWお悩み相談室》(シンコーミュージック、2015)を500円で買った。本体価格は1,700円、Amazonで調べてみると「¥1,000 より 9 中古品 」とある。なじみの日大藝術学部前の根元書房で見つけた池上遼一《近代日本文学名作選〔ビッグコミックススペシャル〕》(小学館、1997)は圧倒的な画力で(こちらは300円)、余勢を駆って耽美コミック傑作選《肌の記憶〔ビッグコミックススペシャル〕》(小学館、1999)をAmazonで購入した(456円)。メガネをかけた女性を描かせたら、池上遼一は当代無双。ちなみにわが家は全員メガネをかけているが、コミックに登場するのはほとんどが裸眼――それともコンタクトレンズを使用?――の人物ばかりだ。巻頭のカラー口絵〈水中花〉の原画を画像検索して、データをWordに貼りつけて光沢紙に精彩プリントすれば、りっぱな「作品」となる。
●フランシス・ダナリー脱退後のIt Bitesは、「2006年、ジョン・ミッチェルをフロントマンに据えて再結成。アルバムのリリース、来日公演を含むツアーをやり、積極的に活動してきたが、2015年にジョン・ベックが事故で右手と右腕を骨折して以来、活動休止中」(Wikipedia)で、ベーシストのリー・ポメロイ(以前、記したARWのサポートメンバー)が2009年にバンドに加入している。とあれば、聴かねばならない。かくして新生It Bitesの第1作(通算第5作)の《The Tall Ships》(2008)を聴いた。ライナーノーツにはポメロイが“welcome aboard”とクレジットされているが、このスタジオアルバムではミッチェルとベックがベースを兼務している。ミッチェルの役どころはダナリーとまったく同じで、ギターを弾きながらリードヴォーカルをこなす。声質はピーター・ゲイブリエルよりジョン・ウェットンに近く、プログレにもポップにも振ることのできる逸材だ。ゲイブリエルが抜けてフィル・コリンズがフロントをはった後期Genesisを彷彿させるが、コリンズ=Genesisほどの人気・知名度はない。もっとも、当時のステージのオープニングナンバーでもある〈Ghosts〉など、ブレイクに3拍を挟みこんで「華麗に」決めるあたり、疾走感が半端でない。アルバムでは14分近い大作〈This Is England〉がベストトラックか。次のアルバム《Map of the Past》(2012)は、一転してコンセプトアルバムとなった。構想の大なるや好し(付属冊子のヴィジュアル=写真は出色であり、バンドの気合いがうかがえる)。Genesisはもちろん、YesやQueen、TotoやBostonといった先達の精華だけでなく、ワーグナーを思わせるストリングスも織りまぜた渾身の作を(しかもそれと悟らせることなく)さりげなく提示していて、見事だ。ジョン・ベックの復活を祈る。――と書いた処でバンドの近況を調べてみると、空中分解(実質的には活動中止=解散)の様相を呈しているではないか。キャッチーな楽曲満載の最新作《Map of the Past》が素晴らしかっただけに、惜しまれる。ダナリー、ベック、ミッチェル、ポメロイたち、It Bitesファミリーの未来に幸あれかし。


編集後記 214(2020年8月31日更新時)

吉岡実と稗田菫平を書いた。NDL-OPACで稗田菫平を調べると、《稗田菫平全集〔全8巻〕》(宝文館出版、1978〜1982)が刊行されている。詩篇・エッセイ・童謡篇・童話篇・短歌篇・民話篇・評論という編成は、あたかも宮澤賢治である。そればかりではない。1983年には、牧人文学・泉の会編《稗田菫平全集完結記念誌》(稗田菫平全集刊行会)も出ている。稗田を敬愛する人の多かったことの証である。ときに、全集版元の宝文館出版は、稗田のほかにも近藤東や安西冬衛の全集を出している。近藤と安西の名は、吉岡実との談話のおりに聴いたが、稗田菫平の名は出てこなかったように思う。しかしそのことをもって、吉岡が稗田を読まなかった断ずることはできない。吉岡実を取りまく詩人たちには、まだまだ調べなければならないことがたくさんある。たとえば、安西冬衛詩(澁澤龍彦が愛読した)と《僧侶》の関連がその一例である。
●去る7月21日、吉岡実《土方巽頌》〈引用資料〉中の《W-NOtation[ダブル・ノーテーション]》No.2〔極端な豪奢=土方巽リーディング〕(UPU、1985)の造本装丁を手掛けたグラフィックデザイナーの戸田ツトムさんが亡くなられた。69歳だった。同誌を企画編集した故・中原蒼二さんが招聘した戸田さんの講演を、UPU社内の一室(神田小川町の立花書房ビルにあった分室だったか)で聴いたものだ。縦組の定価表示で半角数字を組むと(つまり横組のときより90度、回転して)、読みづらくて書店員から嫌われるのだが、あえてそこを狙っているわけで……と語っていたのが印象的だった。中原さんは昨2019年6月20日に亡くなったという(中原蒼二さんが亡くなった。: ザ大衆食つまみぐい)。そこには中原さんの著書《わが日常茶飯――立ち飲み屋「ヒグラシ文庫」店主の馳走帳》(星羊社、2018年6月20日)が紹介されている。私もUPUの同僚たちと中原さんのご自宅(同書の38ページに「昔々、小田急線の東北沢と井の頭線の池ノ上の、ちょうど真ん中あたりに住んでいた。」とある)で手料理をふるまわれたことがある。そのときだっただろうか、吉岡実詩集《静かな家》(思潮社、1968)を見せられたのは。――《静かな家》は、中原さんの師である土方巽が出演した最後の自作の舞踏作品(1972)のタイトルでもある。
●千街晶之《読み出したら止まらない! 国内ミステリー マストリード100〔日経文芸文庫〕》(日本経済新聞出版社、2014年3月5日)が役に立つ。なによりもまず、江戸川乱歩〈パノラマ島綺譚〉から始まるのが嬉しい。その本文は「あらすじ」7行、「鑑賞術」21行、「著者について」8行。冒頭のタイトル周りは、上段(メイン)が「パノラマ島綺譚/江戸川乱歩/えどがわ・らんぽ(一八九四〜一九六五)/[一九二六〜二七年「新青年」]」で、下段(サブ)が「光文社文庫 二〇〇四年」と同書(=江戸川乱歩全集)の書影、「(角川ホラー文庫などでも入手可)」と至れり尽くせりの、計3ページ。「死んだ筈の男になりすまして露見しないかどうかというスリル、自分の正体に気づく危険性が高い源三郎の妻に対する殺意、名探偵の登場……といったミステリー的要素もいろいろ揃えられた小説だが、最も印象に残るのは、廣介の夢想が源三郎の財力と結びつくことでこの世に生まれた「パノラマ島」の艶麗な描写だろう。総合芸術的な楽園である点は谷崎の「金色の死」に近いが、より幻想的、かつエロティックな印象である。本格ものこそ探偵小説の王道と主張していた著者だけれども、作家としての資質は、こういった耽美趣味や怪奇趣味をメインとした作風(当時の言葉で言えば「変格探偵小説」)にこそあった。」(同書、一五ページ)という寸評で明らかなように、的を射た「鑑賞術」が鮮やかである。他のガイドブックの紹介や、マストリードの100冊に入らなかった作者・作品のパートもあって、興味は尽きない(三二二〜三二三ページの「高城高とともに日本のハードボイルドの嚆矢[こうし]と言えるのが〔……〕大藪春彦(一九三五〜一九九六)である。〔……〕大藪はアクション描写やフェティッシュな銃器へのこだわりに定評がある。後年は濫作に走った傾向があるとはいえ、デビュー作『野獣死すべし』(光文社文庫)や『蘇える金狼』(角川文庫)などは鬱屈した情念を爆発させた力作であり、一時期店頭であれだけ簡単に手に入った作品群が最近見かけないのは寂しい。」というのはまったく同感だ)。本書に登場する100人のうち、その全作品を読んだのは岡嶋二人だけだが、未読の者も含めて、読んでみたい小説家が目白押しなのは困る。備忘のために、過去に一作でも読んだことのある小説家の名前を掲げる。江戸川乱歩・小栗虫太郎・夢野久作・横溝正史・坂口安吾・松本清張・鮎川哲也・山田風太郎・西村京太郎・都筑道夫・山田正紀・中井英夫・笠井潔・高橋克彦・岡嶋二人・高村薫・真保裕一・京極夏彦・北村薫・貫井徳郎・桐野夏生・皆川博子・恩田陸・島田荘司・宮部みゆき・馳星周・辻村深月。ちなみに、本書の〈目次〉は「□ パノラマ島綺譚/江戸川乱歩………………………………………14」のように、□にチェックマークを入れられる体裁になっている。読者の行動パターンを読みきった、心憎い配慮である。
●去る7月2日、漫画家の桑田二郎(旧・桑田次郎)氏が亡くなった。85歳だった。〈吉岡実と《カムイ伝》(2019年11月30日)〉に《8[エイト]マン》のことを書いたときだったか、〈吉岡実と江戸川乱歩(2020年1月31日)〉に丸尾末広のことを書いたときだったか、いろいろ調べているうちに丸尾氏が桑田のファンだと知って、納得した。私は丸尾氏と同学年だが、桑田の清潔なくせにエロティックな線描に惹かれただろうことは容易に想像される。その桑田が《江戸川乱歩妖美劇画館》(少年画報社、2015年8月7日)で〈地獄風景〉を描いていると知った(同書で〈パノラマ島奇談〉を描いているのは上村一夫)。丸尾末広《パノラマ島綺譚》(エンターブレイン、2008)は、上村作画の〈パノラマ島奇談〉(1973)よりも、綿引勝美が「乱歩が自信作という『パノラマ島奇談』の幻想をさらに猟奇的にしたもの」(前掲書、一一〇ページ)という、桑田が作画した〈地獄風景〉(1970)にいっそう多くを負っているように思う。この異数の巨匠の冥福を祈る。
●私は音楽を聴くのも、演奏するのも好きだが、幼少時に鍵盤楽器を習いそこなって(わが家はさして裕福でもなかったが、年子の妹はヤマハのオルガン教室に通わせてもらった。後年、どうして自分は行かせてもらえなかったのかと詰ると、そんなちゃらちゃらしたことしはたくない、とニベもなかったと母親から逆ねじを喰った)、独学のギターを弾くだけである。15歳ころから始めたギターだが、1970年当時、日本ではGSがロックへ路線変更しようと悪戦苦闘し、フォーク系の歌手=作家[シンガーソングライター]が抬頭してのちのニューミュージックを用意し、英米ではビートルズ以後のバンドが群雄割拠するという、ポピュラー音楽史上、空前の光景が拡がっていた。私が入った都立富士高校はいわゆる進学校のひとつだったが、勉強もすれば遊びも盛ん、といった処があって、軽音楽同好会の先輩が同じ学年の映画好きの作った8ミリ映画(文化祭に出品?)にPink Floydばりのサウンドトラックを付けたりしているのを見て、これはかなわない、と早早に軽音を逃げだした。それでも、ロックギターが弾きたけりゃブルーノートを習得しろ、とマイナーペンタや3度のクォーターノートを教えてくれた(Creedence Clearwater Revivalのナンバーをレパートリーに勧められたが、もっとハードな、ブリティッシュ系のものがやりたかった)。天文台のある屋上で小さなギターアンプをフルヴォリュームで鳴らしていると、見回りの地学の教師が怪訝な顔つきで覗きに来たりした。大方、騒音にしか聞こえなかったのだろう。当時、放送部にも入っていたから、ソニー製のオープンリールのテレコ(モノラルだが、使い勝手がよかった)や、ステレオのテープデッキでソロやバンドの多重録音に挑戦した。放送室からとんでもなく離れた校舎の対角線上にある音楽室の廊下に、調律されないまま放置されたアプライトがあった。人気のないとき(夏休みだったか)、件のオープンリールのテレコにダイナミックマイクをつないでオリジナル曲のバッキングのコード弾きを録音した(いま聴くと、テンポがよれよれで、赤面する)。さて、当時も今も、私のアイドルはLed Zeppelinのジミー・ペイジである。ギタリスト(リフとキャッチーなソロにおける王者)であり、バンド(ビートルズに次ぐ成功を収めた)のリーダーである以上に、レコーディングプロデューサーとしてのその存在に敬意を表する。1970年代のペイジに匹敵するのは、60年代のジョージ・マーティンだけだと思う。
●そのジミー・ペイジだが、音楽シーンではビートルズよりもローリング・ストーンズと親しい。《ジミー・ペイジ、若かりし頃の彼とマリアンヌ・フェイスフルの写真を公開 | BARKS》には「ジミー・ペイジが、SNSに投稿中の“○○年のこの日……”を振り返るシリーズで、〔2020年〕2月6日、マリアンヌ・フェイスフルが1965年にリリースしたシングル「Come and Stay with Me」を取り上げ、若かりし頃の2人の写真を公開した。」という記事が出ている。元の記事はアーカイヴされていないので、当の《JimmyPage.com》を開いても、開いたその日の投稿が出てくるだけだが、《BARKS》にはツーショットが画像として掲げられており、フェイスフルはロリータ然とした美貌をふりまいている。彼女のコンピレーションアルバム《Come and Stay with Me――The UK 45s 1964-1969》(2018)を聴いた。1曲めは、ジャガー=オールダム=リチャーズの〈As Tears Go By(涙あふれて)〉(1964)。ストーンズのセルフカヴァーのキーはGだが、フェイスフルのデビュー曲のキーはC。そちらでいくと、C-D-F-G、C-D-F-G、F-G-C-Am、F-F-G-Gといったシンプルきわまりないコード進行なのだが、このふたつめ、ノンダイアトニックの「D」がまさしくキラーコードで(ダイアトニックコードなら「Dm」だが、それだと面白くもなんともない)、そんなこともわからずに初めて聴いたザ・タイガースのデビューアルバム《THE TIGERS ON STAGE》(1967)の「それでは続けてお送りしたいと思います。では今度は一曲、変わってまた静かな曲です。今度はベースギターのサリーが歌います。ローリング・ストーンズの〈As Tears Go By〉。」という沢田研二のMCに続けて披露される岸部おさみのヴォーカルには震えた。この人の歌は、ほんとうにライヴで映える。疑う者は同アルバムの〈ローリング・ストーンズ・メドレー〉におけるボ・ディドリー(をカヴァーしたストーンズ)のカヴァーナンバー〈I'm Alright〉を聴け。リードヴォーカルは沢田だが(これがまた、とんでもなくいかしている)、ハイライトはバリトンヴォイス、岸部の「シャウト」だ。
●《文藝空間》第12号(2020年7月25日)が出た。詳しくは《文藝空間》のブログをご覧ください。


編集後記 213(2020年7月31日更新時)

PR誌月刊《ちくま》のことを書いた。今回は特定の号に焦点を当てた恰好になったが、《ちくま》は吉岡実編集長時代の各冊を中心に、より深く読みこんで、細かく分析し、改めて全貌を見てみたい。あわよくば、吉岡が筑摩書房に在籍した期間に手掛けた装丁を新たに発見することにつながるといいのだが。同文を書くにあたって、本文でリンク先に指定した〈吉岡実編集《ちくま》全91冊目次一覧〉(2010年2月28日)を出力して素読みしていたら、〔 〕で註記してPCでは表示できない旨を釈明した箇所以外でも、「?」と文字化けしてところが複数あったのには愕然とした。同じ症状はこれまでにもあった。マシンを乗りかえる際にhtmlファイルを移植したせいだろうか、Adobe GoLiveで書いていたソースを手打ちに変えたせいだろうか。原因はよくわからないし、知りたくもない。ただ、textで書いたhtmlのソースがこうも脆弱だと「いい加減にしてくれ」と舌打ちしたくもなる。そうしたところで何も始まらないので、黙って修正する。たとえば、〔 〕で註記してPCでは表示できない旨を釈明した「百間先生亡友哀悼の辞,山田〓〔「爵」の旧字体(「嚼」の旁)の「爪」が「木」の字だが、PCで表示不能〕」は次のようにして手直しした(ちなみに「百間」は原文のママである)。まずインターネットで読みの「やまだじゃく」を検索すると、幸いなことに活字と同じ表記の字体が見つかる。だが、それをコピーしてそのままtextファイルにペーストしても、「?」と文字化けして正しく表示できない。そこで、件の文字を「数値文字参照の変換ツール」である《数値文字参照変換|コードをホームページに載せる時に便利 | すぐに使える便利なWEBツール | Tech-Unlimited》でしかるべく変換してからhtmlのソースに貼る。これで鷗外の孫、森茉莉の長男、蓮實重彥の師=「山田𣝣」のできあがりだ。インターネットで検索しても見つからない文字や記号の場合、「IMEパッド」で手書きしてヒットすれば、数値文字参照の変換ツールを使えばいい(Word文書に貼っておくと、のちのち使うときに便利)。ちなみに上記の「鷗」「彥」「𣝣」は数値文字参照変換による表示だが、「彥」は明朝体しかないようで、ふだんは「蓮實重彦」や「澁澤龍彦」で失礼している。同様に、「鷗外」も「鴎外」で勘弁ねがっている。
●その《ちくま》のバックナンバーだが、初期こそ背文字も入らないほど薄かった束[つか]が歳を追うごとに厚くなっていき、10年単位で平積みするとそうとうのヴォリュームになる(吉岡実編集の91冊だと約24センチメートルで、雑誌の束[たば]だとなんということもないが、これが書籍だと思えばとんでもない厚さだ)。各年ごとに「1971/(昭和46年)/1月■第21号(01)/〔……〕/12月■第32号(12)」のようにWordで作ったタブを挟んで、探しやすくした。ちなみに( )は吉岡実編集での通号。当時の筑摩書房の定年が60歳だったとすると、1978年11月に依願退職した吉岡が規程どおり1980年3月末まで在職したのなら、「1980/(昭和55年)/3月■第131号(111)」が最後の担当号になったかもしれない。現実の1980年3月は、再建なった筑摩のPR誌月刊《ちくま》はまだ雌伏中で、〔第2次〕として発行が再開するのはその年、1980年7月の第112号からである。以来40年間、同誌の発行が継続しているのは慶賀に堪えない。
●前回、淡谷淳一さんの情報をインターネットで探していたら、拙ページに改行がなくて読みづらい、という感想があった。たしかにこの記事をスマホで読む気にはなれない。とりわけ長文の記事の場合、私が執筆/校正時に作業しているA4に二面付で出力した状態で読むのがベストだ。先日、誤ってページ設定を「等倍」で出力して、あまりに字が大きくて、頭に入らないで困った。ただし、文字校には等倍がちょうどよい。二面付だとほぼ11級(8ポイント弱)で、ゴチックの本文はインクジェットのプリンタで出力するとつぶれてしまう。現に、4月の〈あとがきに見る淡谷淳一さん〉では、OCRで作成した引用文中に一文字誤植があって、翌5月に直すはめに陥った。引用文は縦組の明朝で出力して照合しているのだが、さすがにあれだけ多いと見のがしたか。同記事には、手打ちの自分の文章にも欠字があって、思わず天を仰いだものだ。
●池田康さんの洪水企画が発行する《みらいらん》第6号(2020年7月15日)の〔特集 吉岡実〕に〈〈田園〉断想〉を書いた。雑誌――もっとも《みらいらん》はISBN(書籍コード)が付く――が吉岡実を特集するのは久しぶりのことではないか(吉岡実生誕100年の2019年に、どの〔詩の〕雑誌も特集を組まなかったのにはあきれた)。監修の城戸朱理さんは、2020年4月9日の《毎日新聞〔夕刊〕》の四面〔文化〕に〈詩人・吉岡実没後30年 絢爛たる異世界を創造〉を寄せている。城戸さんはそこで、20世紀の前衛芸術(とりわけその絵画と詩)に革新をもたらした超現実主義[シュルレアリスム]を代表する詩人として西脇順三郎を顕彰してから、「そして、第二次世界大戦後の戦後詩において、神聖さと卑俗さが同居する、目覚ましいまでのシュルレアリスティックな作品を実現したのが、吉岡実(一九一九〜九〇年)だった。」と書いている。《みらいらん》の〔特集 吉岡実〕の目次は《吉岡実参考文献目録》をご覧いただきたい。対話やエッセイ、アンケートはまさに巻を措く能わざる内容で、実際に味読するほかないのだが、一箇所だけ挙げるなら――
城戸 あと余談ですが、朝吹さんが松浦寿輝さん、吉田文憲さん、松本邦吉さん、林浩平さんと出されていた同人誌「麒麟」、私は創刊準備号から全冊を、毎号、東京堂書店で求めて持っているのですが、第二号が入澤康夫特集「〈入澤康夫〉性とは何か」でした。吉岡さんは「次は俺だ」と「麒麟」で特集してもらうのを楽しみにしていたのですが、話がなかったのでがっかりしたそうです。/朝吹 それは申し訳なかったな。「麒麟」は入澤康夫特集がむしろ例外で、あまり詩の専門誌でやるような特集はしなかったんですよ。でも「洗濯船」が良い特集を組んだから喜ばれたでしょう。「洗濯船」は私も全巻そろって持っています。」(同誌、三四ページ)
〈吉岡実の話し方〉でも紹介したが、吉岡は「明大詩人会なんてぜんぜん関係ないですけれど(笑)。たまたま縁があって、明大詩人会のなかの《洗濯船》がぼくの特集をやってくれて、あれはたいへんに、いや想像以上にすごい良いのができている。このあいだ朝吹〔亮二〕さんに会って言ったら、『あれはとても良いものができている』と。ぼく自身も思っているんだけど、やっぱり周りの、ことに若い詩人やなんかおそらくそう思っていると思いますけど、なかなか宣伝も効かないんで、あんまり売れてないんじゃないかと思うけど。」とスピーチしたように、若い詩人からの注目を多としたと思しい。吉岡も今回の特集を喜んだに違いない。私の〈〈田園〉断想〉は文字どおり、見開きの小文で、詩篇〈田園〉(G・14)を3節も引用したものだから、尻切れトンボになってしまった。書ききれなかった末尾の草稿は「一九七〇年代後半、私は吉岡実の詩に、具象化した観念、あるいは観念が織りなす劇[ドラマ]を見た。」だった。これは、入らなくて好かった。吉岡実は、天沢退二郎との〈新春対談〉(《現代詩》1963年1月号)で「若い人はいいすぎて落ちを作るのが多い。あれは避けるべきだと思うね。最後の二行はけずるつもりでいた方がいい。」(同誌、四一ページ)と書いて、夫子自身もその詩学に従った。
●スティーヴ・ハケット(1950〜 )が自身(とGenesis)の往年の名作〈Supper's Ready〉をGenesis Revisited Band and Orchestraとともにステージで再現した〈Steve Hackett - Supper's Ready〉を視聴した。「Live at the Royal Festival Hall, London」とあって、いつの公演かはわからないが、どうやら2018年10月4日のようだ。Genesisのライヴだと、カメラはハイライトのメンバーを抜くので、スティーヴのバッキングやオブリが始終、映るわけではない。ここではバンドマスターだけに、スティーヴのギタープレイの詳細がうかがえて嬉しい。冒頭、12弦のアコースティックギターを奏でて、途中からはいつものようにエレキ(フロイドローズをマウントしたゴールドトップのレスポール)に持ち換えて、バッキング、オブリ、ソロと弾きまくる。爪弾きによるピッキング、指爪を使った「元祖タピング」、指の腹/掌によるスクラッチ! 少しだけ種明かしをすると、エンディングというかアウトロ(Genesisのライヴでは静かにフェイドアウトするパート)が異様に引きのばされて、ソロの聴かせ処となる。バックのオーケストラも、指揮者が踊りながら棒を振るほど、のっている。歌詞が字幕で表示されるのもありがたい。思わず、ラストを一緒に歌ってしまった。
●Genesis作品のスタジオライヴによるカヴァー〈The Ultimate Genesis Medley〉が素晴らしい。このMartin Miller Sesson Bandはヴォーカル、ギター(二人。一人はヴォーカルも執るリーダーのマーティン・ミラー)、キーボード、ベース、ドラムス(フィル・コリンズばりに手数の多いサウスポー!)にフルート奏者という、それ自体さして変わった処のない編成だが、おそらくは編集なしの一発撮りで、〈Watcher of the Skies〉〈Behind the Lines〉〈Turn it on Again〉〈Invisible Touch〉〈Firth of Fifth〉〈The Lamia〉〈Supper's Ready〉〈Los Endos〉の8曲をメドレーで演ってのける。英文コメントに「〈Invisible Touch〉と〈Turn it on Again〉はお気に入りじゃなかったけど、それを帳消しにして、オリジナルより断然いいよ」とあるが、同感。なんとこのユニット(の主要メンバー)は、GenesisのほかにもDeep PurplePoliceQueenTOTO等、《The Ultimate 〜 Medley》シリーズを演っている。私の見るところ、カヴァーバンド界におけるDream Theaterだ(マーティン・ミラーはジョン・ペトルーシの直系)。だが、きわめつきは〈The Dark Side of the Moon - Pink Floyd - (FULL COVER Live in Studio)〉で、この手の凄腕ミュージシャンが挑戦したくなるのはよくわかる。ただし全長41分と長尺だから、気合を入れて聴かねばならない。Genesis贔屓の欲目かもしれないが、楽曲が複雑な構成のものほど、バンドは力量を発揮するようだ。大音量で聴くに堪える録音もじつに見事。それはそうと、かれらがDream Theaterをカヴァーしたらどうなるのだろう。
●《川端康成の方法――二〇世紀モダニズムと「日本」言説の構成》(東北大学出版会、2011)の著者でもある仁平政人さんのご尽力で《文藝空間》のブログができた(「このブログでは、研究同人誌『文藝空間』についての情報発信を行います」)。投稿規定もあるので、ぜひご覧いただきたい(次号の締め切りは、2020年11月末日)。


編集後記 212(2020年6月30日更新時)

吉岡実と加藤郁乎――ふたりの日記を中心にを書いた。あれはいつのことだろう。もう大学を出たあとだから、1980年以降だったはずだが、早稲田大学の本部キャンパスで講演会かなにかが開かれたらしく、たまたま大隈重信の像のあたりをうろうろしていた私は取り巻きに囲まれて移動中の加藤郁乎を見た(私の記憶のなかで、郁乎はクリーム色のスーツ姿だった)。東洲斎写楽の描く人物を思わせる面貌は、遠くからでも光彩を放っていたが、あいにく散会したらしく、その謦咳に接することはできなかった。思えば、田村隆一も早稲田大学の近くで見かけたから(これも学生たちとの移動中)、当時のかれらの人気のほどがうかがえる。ところで、本文の最後で触れた仁平勝《加藤郁乎論》(沖積舎、2003年10月15日)の巻末には、36ページにわたる〈加藤郁乎インタビュー「イクヤはかく語りき」〉(聞き手:仁平勝・沖山隆久〔沖積舎社主〕)が収録されていて、これがめっぽう面白い。郁乎俳句は俳諧の書を無数に読んだ結果だ、という仁平の言を受けて、郁乎はこう語る。「確かに、俳諧の書物は江戸にかぎらず、地方出版の俳書もできるだけ探し出してはよく読みました。突然変異か何かわかりませんが三田村鳶魚を片手に、もう片方の手で柳田国男の本を読むというような雑読の日々でした。フランス文学の出口裕弘はこれを見てなんとかいう旨い表現をしていましたが忘れました。三度のめしより書見が好きというやつですよ。山口誓子論を書いたりしていますが、付き合いで書いただけで私は誓子も根源俳句も好きではありません。波郷もそんなに感心しなかったのだが、吉岡實があんまり感心するので読み直して好きになりました。いまの俳句雑誌をめくっていて不満なのは好き嫌いがはっきりしないつまらなさ、もどかしさですね。十人が十人、右へ習え式にほめてばかりいる。的はずれの過大評価などいまの俳句を衰弱させる最大の要因でしょう。現代俳句はあまり読まなかったです。浅草あたりの古書店でいわば旧派の岡野知十や増田龍雨や籾山梓月の句集をもとめたりしていました。」(同書、一六四ページ)。「吉岡實があんまり感心するので」というのは、これは加藤郁乎は出席していない場でのことだが、飯田龍太・大岡信・高柳重信・吉岡実の連載座談会〈現代俳句を語る〉(《鑑賞現代俳句全集〔全12巻〕》立風書房・月報 I〜XII、1980年5月1日〜1981年4月20日)で「〔……〕だけど、日本の詩の中で中原中也というのがいま抜群の人気でしょう。大岡はどうか知らんけど、ぼくなんか中也って全然好きじゃない人。だけど、世の中の移り変り……これは仕方のないことであって、中也がいま最高の人気ですよね。いかなる故にかわからないけれど、読み継がれていくんですね。だからそれに近く波郷はいくんではないかと……。」と吉岡が語っている処をみると、随想〈回想の俳句〉の「3 波郷の三句」であろうか。加藤を動かしたほど吉岡が波郷に感心しているようには読めないのだが。それとも郁乎との(活字化されていない)歓談のおり、吉岡が下した評価だろうか、詳細はわからない。
詩集《僧侶》小感を書いた。最近、長尺物が続いたので、小文をお目にかける。
〈あとがきに見る淡谷淳一さん〉〔2020年6月30日追記〕を書いた。今後も随時、補綴する。
●クリス・セイルヴィッチ(奥田祐士訳)《ジミー・ペイジの真実》(ハーパーコリンズ・ジャパン、2020年4月20日)を連休中に読んだ。本文12級2段組535ページの大冊である。ジミー・ペイジと黒魔術(とりわけアレイスター・クロウリー)との関わり、その薬漬け(ツアーマネージャーだったリチャード・コールは、バンドのメンバーが死んだと聞かされたとき、てっきりジミー・ペイジだと早合点したが、死んだのはドラマーのジョン・ボーナムだった)と数多の女の出入りをこれでもかと微細にわたって綴る一方で、そうだったのかと頷く記述にも事欠かない。ひとつ挙げよう。1968年8月、レッド・ツェッペリンのメンバー4人が揃って最初のリハーサルをしたすぐあとのこと。
――すでに決まっていた契約に従い、ニュー・ヤードバーズ≠ニしてツアーに出るより先に、4人のミュージシャンはスタジオに入った。これもやはり以前から決まっていた仕事だった。〔ジョン・ポール・〕ジョーンズはアメリカで生まれた英国ポップ・ミュージック界のアンファン・テリブル、P・J・プロビーのアルバムをまるごとアレンジする予定になっていた。プロビーは1965年のパッケージ・ツアー中に何度か自分のズボンを引き裂き、大いにマスコミを沸かせたシンガーだが、同時にエルヴィス・プレスリーの深いバリトンの声域を思わせる、パワフルでほとんどオペラ的と言っていい声の持ち主だった。現にプロビーは〔ロバート・〕プラントがずっとファンだったラル・ドナーと同様、ソングライターがエルヴィス用に書いた曲の仮歌シンガーを務めていた。/契約上、ジョーンズ――プロデューサー≠ニクレジットされていた――が抜けるわけにいかなかったこの仕事には、少なくとも金銭面での利点があった。「ぼくはアルバム全曲のアレンジを依頼されていた。当時のぼくらはまだリハーサルの話をしている段階だったから、ちょうどいい小遣い稼ぎになると思ったんだ。どっちにしてもバンドはブッキングしなきゃならなかったから、ぼくは知ってる連中をみんな使ってやろうと考えた」/〔ジミー・〕ペイジはすでにP・J・プロビーと仕事をした経験があった。1964年のシングル〈ホールド・ミー〉とファースト・アルバム《アイ・アム・P・J・プロビー(I Am P. J. Proby)》で、ビッグ・ジム・サリヴァンのリードに合わせて、リズム・ギターを弾いていたのだ。のちに《スリー・ウィーク・ヒーロー(Three Week Hero)》と呼ばれるアルバムの2日間にわたるセッションは、1968年8月25日にはじまり、ヴォーカリストの出る幕はなかったため、プラントはこのLPでハーモニカを吹いた。/仕上がりに感銘を受けたプロビーは、4人のミュージシャンたちに、アメリカ・ツアーでもバックを務めてくれないかと持ちかけた。セッション・プレイヤー時代の記憶がまだ薄れていなかったペイジは、引き受けてもいいと考えていたが、一方で彼らは独自に、全米ツアーの計画を立てているところだった。そこで彼は、返事をするのはそのツアーが終わってからでもかまわないだろうか? と訊き返した。/プロビーは答えた。「今夜のプレイっぷりからすると、おまえたちがオレのバッキング・バンドで収まるタマじゃないのははっきりしている。だからオレはたった今、さよならを言うつもりだ。それはこの先オレが、もう二度とおまえたちには会えないと思っているからだ。おまえたちの成功は、それぐらいスケールのデカいものになる。おまえたちはまさしく連中が求めているバンドだ――サイケデリックな曲でもなんでもやれるバンド。向こうに行ったらむちゃくちゃウケまくって、もう二度とこっちにはもどってこないだろう」――(同書、一五五〜一五七ページ)。
プロビーのこの予言が的中したことはいうまでもない。バンドがファーストアルバムのレコーディングに入ったのは、ニュー・ヤードバーズとしてスカンディナヴィア公演を終えた、この年9月25日のことだった。以来、半世紀以上のあいだ、《Led Zeppelin》(Atlantic Records、1969)はロックミュージックの極北に、導きの星として輝く。その後のバンドの可能性を萌芽として孕みつつ。
●続いてCLASSIC ROCK編(前むつみ訳)《レッド・ツェッペリン大全》(シンコーミュージック・エンタテインメント、2020年6月17日)。――〔……〕ロン・ネヴィソン〔『フィジカル・グラフィティ』のエンジニア〕はこう見ている。「僕にとってツェッペリンは本質的に、ギターを追うボーナムだ。彼はギター・リフを拾って自分のドラム・パートにしてしまうんだよ。〈シック・アゲイン〉や、『フィジカル・グラフィティ』の他の曲でも、ボーナムは単純な4ビートでベース・プレイヤーに合わせたりするんじゃなくて、ギター・プレイヤーと合体しているんだ」――(〈逆風の中で生まれた初の2枚組アルバム〉、同書、六二ページ)。Rick Beatoの〈胸いっぱいの愛を〉の分析がそれを解明する。
●外出を自粛して在宅していた期間、ヘヴィーローテーションで聴いたのが、Hellborg / Lane / Sipeのライヴアルバム《Personae》(2002)とAlan Parsonsのソロアルバム《The Secret》(2019)だった。書斎に置いてあるPanasonicのラジカセ(と呼んでおく)はアンテナを立てても入りが悪いラジオのほか、MD、CD、カセットテープがかけられる。このMDドライヴにはCD(あの印象的なジャケット!)から落とした《Personae》を、CDドライヴには輸入盤の《The Secret》を入れっぱなしにして、気が向くとどちらかを聴いていた。《Personae》は60分弱、《The Secret》は50分弱で、一仕事するにはちょうど好い長さなのも嬉しい。簡単にレヴューを書く。《Personae》は、早逝したショーン・レイン(1963〜2003)、ベーシストのジョナス・ヘルボーグ、ドラマーのジェフ・サイプのトリオが1996年と翌年にドイツでライブ録音したアルバム。目にも、ではなく、耳にもとまらぬ速弾きは、聴いた者だれもが感じるに違いない(ホールズワース直系のレガートも、ディ・メオラいやマクラフリンばりのフルピッキングも完璧にこなす)。だがそれにもまして、歌心あふれるフレージングが素晴しい。俗耳に入りやすい流麗な旋律に突然スケールアウトを放りこんでくるあたり、スリリングというもおろかである。近年のスティーヴ・ヴァイ、ジョー・サトリアーニ、ジョン・スコフィールドのソロアルバムも好かった。だが、《Personae》は一頭地を抜く内容である。《The Secret》はパーソンズが往年の手法を駆使して作りあげた上質のポップ/プログレ作品。アラン・パーソンズ・プロジェクトのメインコンポーザーは故エリック・ウルフスンだったが、ウルフスンのヴォーカルは決して達者ではなかったから、ここぞという処では名うてのヴォーカリストを引っぱって来て歌わせるのが常だった(たとえば〈Limelight〉のゲイリー・“青い影”・ブルッカー)。今回は元フォリナーのリードヴォーカル、ルー・グラムの客演が光る。5曲めの〈Sometimes〉である。パット・キャディックとパーソンズの書いたコード進行が素晴らしい(“Sometimes you win / Sometimes you lose”というサビの「lose」の処が、キーG#mでのBから「C#7」というセカンダリードミナント的な展開)。楽曲としては本アルバム中、随一か。もう1曲挙げるなら、4曲めの〈One Note Symphony〉はBを主音にした交響楽[オーケストレーション]だ。プログレふうアレンジといい、APPの大作を意識したつくりになっている。エンディングのサウンドエフェクト(突然カットする手法はビートルズの〈I Want You〉を思わせる)も凄まじい。元ネタ(というか、発想の源)はアントニオ・カルロス・ジョビン/ニュウトン・メンドンサ作曲の〈One Note Samba〉かもしれないが、まったくの別物に仕上げたあたりはさすがだ。


編集後記 211(2020年5月31日更新時)

あとがきに見る淡谷淳一さんを書いた。今日、2020年5月31日は吉岡実が1990年に亡くなってちょうど30年めの祥月命日である。吉岡が詩人として登場した1950年代後半、最も強力に後押しした編集者は書肆ユリイカの社主・伊達得夫(1920〜61)だった。そして、1978年に勤務先の筑摩書房を退いたあとの吉岡を詩人・装丁家として手厚く遇したのは、同社の後輩・淡谷淳一だった。10年ほどまえの〈編集後記 110〉にも書いたように、吉岡が装丁した本のリストや関連資料を見せていただくために、蔵前の筑摩書房に淡谷さんを訪ね、いろいろとお世話になったものだ(神田小川町にあった同社には足を踏みいれていない。残念なことをした)。私の知るかぎり、筑摩書房退社後の淡谷さんは、編集者としての想い出をなにひとつ書きのこしていない。自ら編集を手掛けた本にすべてを注ぎこんだものと思しい。書肆山田の鈴木一民・大泉史世両氏とともに、晩年の吉岡を最も強力に後押ししたこの編集者の足跡をたどることで、改めて吉岡実を振りかえってみたかった。言わでものことながら、拙文は評伝《淡谷淳一頌――編集した本の〈あとがき〉に見る》とも見なせるもので、淡谷さんが編集を担当した吉岡の《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》に多くを負っている。吉岡実の生誕100年を祝した2019年4月の〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉のように、本稿が吉岡実の歿後30年の素描になれば、と願う。
●半年ほどかけてMr.Childrenのすべてのオリジナルアルバムを聴いた。すなわち《Everything》(1992)、《KIND OF LOVE》(同)、《Versus》(1993)、《Atomic Heart》(1994)、《深海》(1996)、《BOLERO》(1997)、《DISCOVERY》(1999)、《1/42》(同)、《Q》(2000)、《IT'S A WONDERFUL WORLD》(2002)、《シフクノオト》(2004)、《I ♥[Love] U》(2005)、《HOME》(2007)、《B-SIDE》(同)、《SUPERMARKET FANTASY》(2008)、《SENSE》(2010)、《[(an imitation) blood orange]》(2012)、《REFLECTION》(2015)、《重力と呼吸》(2018)の19タイトルである。これらの作品を手にして改めて思うのは、アルバムタイトルに欧文や数字が多くて日本語がほとんどないこと、ふつうのCD用プラスチックケースのパッケージではない、厚紙製の特別仕様CDジャケットが多いということである。全部で243曲になるこれらの作品を漫然と聴いていても、Mr.Childrenの世界を直覚できない。そこで、ふたつの補助線を導入した。ひとつはバンドスコア、もうひとつはTVのMr.Children特集番組。前者は《〔バンド・スコア〕Mr.Children Song Collection》(シンコーミュージック・エンタテイメント、2015年7月19日)である(どこか別の処で書いているかもしれないが、澁澤龍彦が三島由紀夫――澁澤は三島の処女作から絶筆までを発表時に読んでいる――に抱いたシンパシーに似たものを感じるバンドは、私にとって1970年代にデビューした連中が下限だから、Mr.Childrenは完全に後追いで、こういう書き方にならざるをえない)。吉岡実詩の所収詩集・順番を踏襲して所収アルバム・順番を補記すると、 〈抱きしめたい〉(A・4)、〈CROSS ROAD〉(C・6)、〈innocent world〉(C・4)、〈Tomorrow never knows〉(E・12)、〈everybody goes〜秩序のない現代にドロップキック〜〉(E・10)、〈【es】〜Theme of es〜〉(E・5)、〈シーソーゲーム〜勇敢な恋の歌〜〉(E・6)、〈名もなき詩〉(D・7)、〈花-Memento‐mori-〉(D・13)、〈Everything(It's you)〉(E・2)、〈終わりなき旅〉(F・10)、〈光の射す方へ〉(F・2)、〈口笛〉(H・11)、〈NOT FOUND〉(H・3)、〈優しい歌〉(I・14)、〈youthful days〉(I・6)、〈君が好き〉(I・12)、〈Any〉(J・9)、〈HERO〉(J・12)、〈掌〉(J・3)、〈くるみ〉(J・4)、〈Sign〉(K・9)、〈and I love you〉(K・5)、〈箒星〉(L・4)、〈しるし〉(L・12)、〈旅立ちの唄〉(N・6)、〈GIFT〉(N・13)、〈HANABI〉(N・2)、〈365日〉(O・5)、〈祈り〜涙の軌道〉(P・11)、〈常套句〉(P・4)、〈足音〜Be Strong〉(Q・14)、〈未完〉(Q・1)、以上全33曲を収める。1曲も採られていないアルバムもあるが(《Versus》は措いて、《Everything》はデビュー作のミニアルバム、《1/42》は2枚組のライヴ盤、《B-SIDE》はシングルB面のコンピレーション)、まずは穏当な選曲だろう。スコアを見て思うのは、誰でもそう感じるだろうが、転調の巧みさだ(とりわけ、エンディング近いサビの部分での)。もうひとつ感じるのは、キーをCメジャーとすれば、C7・D7・E7・A7・B7といったセカンダリードミナントをコード進行におけるここぞという処で使うことだ。キーがGメジャーの〈名もなき詩〉(とんでもない名曲である)のサビでは、【G Bm7 Cadd9 B7sus4 / B7 Em7 A7 Cadd9 D】のB7とA7は、その代表例である。そして、G―Bm7というなんの変哲もない進行がこれほどの衝撃を与えるのは、「あるがままのこころで」の「ま」「ま」でオクターブ上の同音(G)にジャンプするからなのだが、それにしてもこれを、このサビを《1/42》の同曲でオーディエンスを煽って歌わせる桜井和寿は、聴衆を意のままに引きずりまわす天性の作家・歌手と言わねばならない。最後に、いくつかの曲名にビートルズ(この、作曲とアレンジの天才集団)へのオマージュがこめられていることは容易に察せられるが、バンド・スコアも指摘しているように、この曲では〈Ticket to Ride(涙の乗車券)〉でリンゴ・スターが決めているリズムパターンをそっくりそのまま頂戴して、なおかつなんの違和感も感じさせないのは見事と言うしかない。平成(1989〜2019)の日本のポップミュージック史は、Mr.Childrenを抜きに語ることはできないだろう。なおこの間、最も頻繁に聴いたのは《REFLECTION》と《重力と呼吸》――〈day by day(愛犬クルの物語)〉はイントロがベースの単音、間奏なし、エンディングは大サビの繰り返し(ただし歌詞なしのフェイクが素晴らしい)、というスリムきわまる構成だが、キーFで大サビの「day by day」からのコードが【F C#dim7 Dm Eb/C Bb C F F】のC#dim7(このパッシングディミニッシュ的な用法は、キーがEの〈innocent world〉の「このごろでは」という処でもCdim7として登場するが、同曲をカヴァーした奥田民生は「ディミニッシュ? しゃらくせえ」とばかりにG#7でコード弾きしているのが最高にクール)とEbという、D音を挟む半音進行が身もだえしそうなほどキャッチーだ――の近作2枚だが、ライヴはまだ観ていない。付言すれば、1992年のデビュー以来のベスト盤である《Mr.Children 1992-1995》《Mr.Children 1996-2000》(2001)、《Mr.Children 2001-2005〈micro〉》《Mr.Children 2005-2010〈macro〉》(2012)の2組は、それぞれほぼ5年×2=10年を区切りに集大成されている。当然、次は《2011-2015》《2016-2020》に相当するベスト盤が2021年ころにリリースされるはずだ(それまでに新作のスタジオアルバムは出るのだろうか)。忘れるところだった。ミスチル大好き芸人の登場するTV番組の概要は、インターネットでも紹介されているから、そちらに「任せた!」――。
●ずいぶん前になるが、大江健三郎が小説を書くとき、画板のようなバインダーに原稿用紙を挟んで、書斎だろうが居間だろうがどこへでも持ちはこんで執筆する(できる)という記事か写真を目にした記憶がある。いまインターネットで画像を検索しても出てこないが、要は、机がなくても万年筆さえあれば、小説が書けるということだろう(大江は《広辞苑》を引きまくるそうだが)。私のように資料が手放せない執筆とは違う、創作の執筆にはさまざまなスタイルがあるが、大別すれば手書きか電子機器のキーボードを叩くかになろう(スマートフォンで長文をものする猛者もいるが)。私はデスクトップのPCを使っているから、机を離れられない(ノートPCは性に合わない)。だが、第一稿をテキストエディタで書いたら、それをhtmlファイルに落として、画面ではざっと手直しするだけで、基本はA4判のコピー用紙に二面付で出力した「ゲラ」を、UPUにいたころから使っているコクヨ製の事務用バインダー(インターネットで調べると、〈コクヨ 用箋挟B 総クロス貼り A4タテ ヨハ-28〉が後継のようにも思えるが、もとより実物を比較したわけではない)に挟んで、それこそ大江健三郎が一通り小説を書いたあと、徹底的に手直しするように、居間だろうが、ダイニングだろうが、寝室だろうが、どこへでも持っていって、赤や緑の水性ボールペンで修正を加える。私は、この第一稿=初校ゲラに手を入れるときがいちばん高揚する。ところが最近、この「用箋挟」の角(もともとあった保護用の金属片はとうに取れている)の紙が磨滅して、出力したゲラを支えきれないほど小さくなってしまった。何度か残骸の紙を木工用ボンドで固めて茶封筒を被せて補強してみた。当座はいいのだが、長持ちしない。あるとき、古書を送ってくる薄手のボール紙製の封筒を目にして、この角を二等辺三角形に切りおとして、用箋挟の角に被せて糊付けすることを思いついた。革製本のコーネル装擬きである。薄いとはいえ、ボール紙だから段差は生じるが、ゲラの端ギリギリまで書きこむことはほとんどないし、なにより見た目が好くなった。コーネル装の用箋挟! 「器用仕事」とも訳される「ブリコラージュ(bricolage)」は、「寄せ集めて自分で作る」「ものを自分で修繕する」ことだが、そもそも私の執筆自体がブリコラージュによるものであり、それを支える用箋挟を自分で繕うことができたのだから、愉快だ。
●しばらく前に練馬・江古田の根元書房の店頭で、反射的に巖谷國士・高橋睦郎・種村季弘(構成)《澁澤龍彦事典――Encyclopedia Draconia〔コロナ・ブックスH〕》(平凡社、第6刷:2006年11月11日〔初版:1996年4月17日〕)を300円で購入した。というのも、わが家のどこかに刊行直後に買った同書があるに決まっているのだが、久しく見ていないし、目次を見てむらむらと《吉岡実事典――Encyclopedia Lilas》ともいうべき書物を夢想してしまったのだ。澁澤事典の35のキーワードと筆者名は――迷宮(鶴岡真弓)・鏡(多田智満子)・天使(加藤郁乎)・火山(中村真一郎)・鉱物(玉石虫男)・貝殻(三宅理一)・船(日影丈吉)・南海(中野美代子)・驚異(池内紀)・天体(横尾忠則)・時計(種村季弘)・玩具(谷川渥)・毒薬(中田耕治)・刑具(堂本正樹)・怪物(荒俣宏)・饗宴(塚本邦雄)・十八世紀(富士川義之)・ナチュール・モルト(小池寿子)・書物(入沢康夫)・庭園(海野弘)・旅(井上究一郎)・城(高輪次郎)・花(高橋睦郎)・虫(奥本大三郎)・鳥(唐十郎)・裸婦(金子國義)・球体(有田忠郎)・両性具有(高山宏)・人形(四谷シモン)・少女(川本三郎)・ばさら(草森紳一)・軍歌(松山俊太郎)・暗黒(平出隆)・相撲(巖谷國士)・ドラコニア(出口裕弘)で、吉岡事典のキーワードや筆者を想わせるものも少なくない(もっとも四半世紀近い歳月とは怖ろしいもので、かなりの数の書き手が亡くなっている)。だがなによりも、《薬玉》(1983)に代表される晩年の吉岡実の詩について、澁澤自身に書いておいてもらいたかった。


編集後記 210(2020年4月30日更新時)

大和屋竺の作品――吉岡実と映画(3)を書いた。蓮實重彦は《監督 小津安二郎〔増補決定版〕》(筑摩書房、2003年10月10日)の〈増補決定版あとがき〉で「『監督 小津安二郎』とその〈増補決定版〉とを大きくへだてるものがあるとするなら、それは、映画を消費する状況の変化である。一九八〇年代にくらべて、現在、小津安二郎の作品は、ヴィデオやDVDで、当時より遥かに見やすくなっているのである。ことによると、原著〔1983年刊〕は、ヴィデオを使わずに書かれた映画作家論の、世界的に見ても最後の試みだったかもしれない。〈増補決定版〉の執筆にあたっては、ヴィデオによる細部の確認をもちろん行いはしたが、新たに書き加えられた三つの章の発想は、いずれもスクリーンで小津に接したときの刺激からきている。何度でもくり返して見られるヴィデオやDVDに注がれる安全な視線は、映画館の暗がりでのサスペンス豊かな体験と明らかに異なっているからだ。」(同書、三四四〜三四五ページ)と書いている。映画に限らず、初めて作品に接したときの感覚を忘れると、往往にして無味乾燥な言辞を弄することになりかねない。20年近く本サイトを続けていて、吉岡実の詩に対する私の関心にぶれはないだろうか。
●1970年代後半に名画座で観て以来、40数年ぶりに寺山修司監督作品《田園に死す》(人力飛行機舎+ATG、1974)をDVDで観かえした。パッケージや映画に登場するイラストを描いていたのが花輪和一(1947〜 )だと改めて知った。美術を担当した粟津潔(1929〜2009)は、寺山の歌集《田園に死す》(白玉書房、1965)の装画・装丁を手掛けただけでなく、詩人の役で本作にも登場している。佐々木敦が本篇の〈解説・ストーリー〉で「少年が戻ってこないので、私は自分で母親を殺そうと決心する。包丁を持って家に行くが、母親に何事もないかのように迎えられる。私と母親は向かい合って食事を始める。私には、どうしても母親を殺すことができないのだ。「どこからでもやり直しはきくだろう。母だけでなく私でさえ、私自身が作り出した一片の物語の主人公にすぎないのだから。そしてこれは、たかが映画なのだから、だが、たかが映画の中でさえ、たった一人の母も殺せない私自身とは、いったい誰なのだ。生年月日、昭和四十九年十二月十日〔《田園に死す》の公開日は同年12月28日である〕、本籍地、東京都新宿区新宿字恐山!!」。/突然、家の壁が倒れ、後ろから現代の新宿の風景が現れる。私と母親は黙々と食事を続ける。過去の人物たちが次々と姿を現して、町中へと歩きさっていく。」(佐藤忠男編《ATG映画を読む――60年代に始まった名作のアーカイブ〔ブック・シネマテーク 9〕》、フィルムアート社、1991年7月25日、二九一ページ))と書くラストシーン=長い長いアウトロでは、不覚にも涙がこぼれた。寺山はこれがやりたくて、《田園に死す》というフィルムを撮ったのに違いない。
●急遽、臼田捷治の吉岡実論(臼田さんの新刊書で言及されている)について書いた。
●前回の時代小説の続きを。岡本綺堂《半七捕物帳》(〔光文社文庫〕だと1986年5月20日刊の第3巻)に〈海坊主[うみぼうず]〉という作品がある。岡本経一編の〈半七捕物帳作品年表〉には「半七の歳:33、作品名:海坊主、いつ:安政2・3・4 潮干狩行事、どこで:品川の海には伝馬や荷足船、何が起こった:不思議な男が現われて天候を予言、担当の手先:幸次郎、補足:生魚を食い奇怪な行動をする海の男の謎」(第6巻、1986年12月20日、〔三五一ページ〕)とある。男は「上総[かずさ]無宿の海坊主万吉」と判明するのだが、この万吉が石井輝男監督作品《江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間》における菰田丈五郎役の土方巽に見えてしかたがない。綺堂はこう描いている。「その歓楽〔潮干狩での遅い午飯[ひるめし]〕の最中であった。ひとりの奇怪な人間が影のようにあらわれて来たのであった。勿論、どこから出て来たのか知れなかったが、かれは年のころ四十前後であるらしく、髪の毛をおどろに長くのばして、その人相もよくわからない。顔のなかから鋭い眼玉ばかりが爛々と光っていた。身には破れた古袷[ふるあわせ]をきて、その上に新らしい蓑[みの]をかさねて、手には海苔ヒビのような枯枝の杖を持って素足でぶらぶらと迷い歩いている。その風体[ふうてい]がここらの漁師ともみえなかった。さりとて普通の宿無し乞食とも思われない。まずは一種の気ちがいか、絵にかいてある仙人のたぐいかとも見られるので、彼の通る路々の人はいずれも眼をみはって見送っていた。こうして、不思議そうに見かえられ見送られながら、彼は一向平気で潮干の群れのあいだをさまよい歩いているので、若い女などは気味わるそうに人のかげに難隠れるのもあった。船のなかへ逃げ込むのもあった。」(一〇六ページ)。さすがに丈五郎は生魚を食わなかったが、手指には水掻きがついていた。石井輝男はこの映画に関連して、当然ながら乱歩のことは語っているが、綺堂の捕物帳には触れていない(と思う)。それにしても、この類縁はいったいなぜなのだろう。読書家だった土方が、菰田丈五郎の人物設定にあたって、「上総[かずさ]無宿の海坊主万吉」を参照したのだろうか。私にとっても「海の男の謎」である。綺堂を想わせる「私」が半七老人に尋ねたように、捕物帳も映画も(そして土方巽も!)知っている吉岡さんに訊くことができたなら。
●都筑道夫《ちみどろ砂絵 くらやみ砂絵――なめくじ長屋捕物さわぎ(一)〔光文社文庫〕》(光文社、2010年10月20日)を読んでいたら、〈春暁八幡鐘〉にこんな一節があった。「なか一日おいた三日めの晩、逢坂下の和泉屋の裏手に、センセーが立っていた。/牛込の舟河原町は、現在、新宿[しんじゆく]区市谷[いちがや]船河原町になっている。いま日仏[にちふつ]学院の建っている坂が、逢坂だ。そのころ、町家は坂下の外濠[そとぼり]ぞいにあるだけで、坂上にかけては、武家屋敷ばかりがならんでいた。だから、夜ふけは淋[さび]しくて、ひとつ神楽坂[かぐらざか]よりには、幽霊坂[ゆうれいざか]という坂もある。その方角の空を、じっとセンセーは見まもっている。夜風は肌を剌すようだが、上のほうで厚い雲を吹きちらすだけの力はないらしく、空は暗い。泥坊には、おあつらえの晩だ。夜まわりの拍子木[ひようしぎ]が遠ざかったあとへ、センセーが出てきてから、せまい裏通りにはなんの物音もしない。」(同書、八七ページ)。〈なめくじ長屋捕物さわぎ〉シリーズは「連作時代本格推理」で、私見によれば綺堂の捕物帳の衣鉢を継ぐのは都筑の本作だが、それはともかく、「市谷船河原町」は懐かしい地名だ。1980年代の後半、私はUPU(ユニバーシティ・プレス・ユニオン)でパンフレットの編集や印刷物の製作管理の仕事をしていた。成長企業の例に漏れず、同社の事務所は年中移りかわっていた。淡路町の浜総ビルを振りだしに、御茶の水の研究社ビル(現:KDX御茶ノ水ビル)、神田小川町の立花書房ビル(ここは筑摩書房の旧社屋や神田古書店街に近く、向かいには「ひさご」があった)などを渡りあるいて、市ヶ谷エスワンビルに移ったのはいつごろだったか(ここでは《エスクァイア日本版》を創刊準備号から担当した)。1985年竣工の同ビルは、総武線の市ヶ谷駅と飯田橋駅の中間あたりの外堀通りに面していた。なんでも、道路の拡張工事に備えてペントハウスふうの造りにしてあって、今はどうか知らないが、安普請のトイレのドアノブが取れてある女性社員が出られなくなるという椿事が出来したりした。そのビルの敷地内だったのか隣家だったのか、地上には屋台をそのまま据えつけた焼き鳥屋(屋号はなくて、誰もが「おばちゃんの店」と呼んでいた。原泉の妹とでも呼びたいおばちゃんが作るのは焼き鳥と胡瓜の漬物だけだった)で鶏の生レバを突いては、毎晩のように酒盛りしていた。近くには日仏学院(現:アンスティチュ・フランセ 東京)があって、よく午飯を食べたレストランのワインはおいしかった。ノンフィクション作家の黒岩比佐子(1958〜2010)は、UPUの先輩社員だったが、黒岩さん――つい旧姓の清水さんと呼んでしまう――にもし余生というものがあったなら、あの時代のUPUのことを書いてほしかった。
●チューリップを聴きかえしている。スージー鈴木は〈日本における「カノン進行」の源流を探る旅(その3)〉でチューリップを「日本における「カノン進行」宣教師とでも言えそうな、このバンド」とまで書いて、〈魔法の黄色い靴〉(1972)、〈心の旅〉(1973)、〈夏色のおもいで〉(1973)、〈ぼくがつくった愛のうた〉(1974)とともに、財津和夫作詞・作曲の〈青春の影〉(1974)を分析している(原曲はGだが、分かりやすくするために、キーはすべてCに移調)。〔 〕にコメントを挟みつつ、引用する。「『青春の影』(1974/6/5) 7.3万枚/【C】→【C/B】→【Am】→【Em】→【F】→【F/E】→【Dm7】→【G7】〔これは【C】→【C/B】→【Am】→【Am/G=Am7】→【F】→【F/E】→【Dm7】→【G7】ではないか?〕/「♪ 君の心へ続く」の歌い出し。コード進行もほぼ純正な「カノン進行」で、またピアノの弾き語りで〔スタジオ盤ではイントロなしだが、《LIVE ACT TULIP 2001年 心の旅》では最後のUm7→X7をアルペジオで軽く叩いて〕始まるあたり、日本「カノン進行」史の初期における、抜群の正統派・優等生です。なおサビでは「後ろ髪コード進行」〔【F】→【G/F】〕が出てきます。〔この、ベース(ライヴ盤では宮城伸一郎がポール・マッカートニーそこのけの高音オブリを織りまぜた絶妙なラインを聴かせる)が白玉でFを奏でる【G/F】こそ〈青春の影〉のキラーコードで――杉真理の名作〈いとしのテラ〉(1984)は原曲がCだが、大サビに「後ろ髪コード進行」〔【F】→【G/F】〕が出てきて、魂をもっていかれる――このフックに「おっ」と思わないようでは、ポップソングに対する味蕾がおかしいと言われてもしかたがない〕」。なお、THE ALFEEの坂崎幸之助がガットギター1本の弾き語り(カポ5フレ、キーはF)でプレイした〈青春の影〉は、「カノン進行」のベースラインを取りこんだ同曲のカヴァーでは、おそらく最高の名演。ご堪能あれ。
《廃市》の映画監督・大林宣彦さんが去る4月10日、亡くなられた。82歳だった。悼!
●アラン・パーソンズの《A Valid Path》(2004)以来15年ぶりとなる5枚めのソロアルバム《The Secret》(2019年4月26日)を聴いた。以前、昨今の音楽シーンに失望しているアランのインタビュー「もうアルバムを作る意義すら感じない」を読んで、もはや新作を期待できない音楽家になったのかと想っていただけに、嬉しい驚きだった。今回の作り込んだテイストは歓迎できる。もっとも、アラン・パーソンズ・プロジェクトの屋台骨、故エリック・ウルフスンの作曲能力が尋常ではなかっただけに、アラン(とその一派)に同じ水準を求めるのは酷かもしれない。それでも、イアン・“嵐が丘”・ベアンソンが2曲でギターソロを披露してくれていて、久しぶりに喝を癒した。


編集後記 209(2020年3月31日更新時)

吉岡実と時代小説について書いた。(まだ仲違いしていなかったころの)清岡卓行が、吉岡と吉本隆明による時代小説評定のことを書いていたと記憶する(吉本がどんな時代小説を好んだのか、私は知らない)。二人にこのテーマで対談させなかった編集者は、はたして怠慢だったのか……本文で触れた佐高信と高橋敏夫の対談本を読んで思ったことである。さて先日、隆慶一郎《吉原御免状》(初刊は1986年、文庫は1989年、新潮社)を読んだ。佐高と高橋がこぞって推すだけのことはある。私の乏しい時代小説の読書歴のなかでは、対比する作品が見あたらない。むしろ白土三平の漫画《カムイ伝》を想起した。奪われてはならない最高機密の文書の存在といい、その独自の歴史解釈といい、刀術や幻術・妖術へのこだわりといい、公方(将軍)と天皇の確執といい(ただし《カムイ伝》に天皇は出てこない。出てくるのはそれぞれの事情を抱えた藩である)、骨太で情け容赦ない描写といい、「非人」や「簓者[ささらもの]」への洞察といい。両者の比較はきっとだれかが書いているだろうから、これ以上の贅言は控えよう。ただし、ひとつだけ。〈三ノ輪〉の章に、川柳を引きながら三ノ輪(箕輪[みのわ])の地を解説している箇所がある。〈《うまやはし日記》に登場する映画――吉岡実と映画(2)〉の吉岡実日記に「三〔ノ〕輪」が出てくるだけに、興味深深で読んだことである。隆慶一郎、畏るべし。
●メモランダムふうに記せば、本稿執筆と並行して以下の全篇もしくは一部を読んだ。すなわち、国枝史郎《神州纐纈城》、中里介山《大菩薩峠》、佐々木味津三《右門捕物帖》《旗本退屈男》、野村胡堂《銭形平次捕物控》、林不忘《新版大岡政談》(のちに《丹下左膳》)、大佛次郎《鞍馬天狗》。なお《大菩薩峠》以下は、縄田一男編《時代小説・十二人のヒーロー〔時代小説の楽しみ 別巻〕》(新潮社、1990年11月25日)に依った。
●クリーム(ジャック・ブルース:ba, vo、ジンジャー・ベイカー:dr, vo、エリック・クラプトン:gt, vo)が1968年に行った解散発表後のツアーの模様を収めた4CDのボックスセット《Goodbye Tour - Live 1968》が3月6日に出た。以前にも書いたが、私が最初に買った洋楽のLPレコードは中学3年のときの《Goodbye Cream》(1969)である。もちろんいきなりLPに手を出したわけではない。そのまえに〈White Room〉(1968)のシングルを買って感銘を受けたせいだ(これは《Wheels of Fire》の約5分のLPヴァージョンを3分ほどに縮めたもので、ワウが印象的なエンディングのギターソロは短くフェイドアウト)。ところで、ポピュラー音楽に目覚めるきっかけが兄や姉だったという話はよく聞く(昭和30年前後に生まれた音楽家では、坂崎、まりや、Char、桑田など)。私に兄や姉はなかったが、当時、わが家には母方の従姉が下宿していた(ステレオがなかったころは、ポータブル電蓄でシングルを聴かせてもらった)。ヒロ子ちゃんは秋葉原の石丸電気に勤めていて、あれはジュークボックスに納めた商品のあまりだったのだろうか、洋楽シングルのジャケットだけをもらったことがある。ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンスの〈Hey Joe〉(1966)があった。音源に接するより先に、ヴィジュアルから「アートロック」の洗礼を受けたわけだ。そうした飢餓状態に《Goodbye Cream》は旱天の慈雨のように沁みこんだ。ソロに転じてからのエリック・クラプトンにいまいち親身になれないのは、クリーム時代の勇姿が強烈すぎたからである(エリック・“スローハンド”・クラプトン!)。いい機会だから、《Goodbye Cream》のレヴューを記しておこう。アルバムは、3曲が1968年10月19日、ロサンゼルス・フォーラムでのライヴ(《Goodbye Tour - Live 1968》の2枚めが当日のセットである)、残りの3曲がツアーまえのスタジオでの録音。
@I'm So Glad――スキップ・ジェイムスの作品のカヴァー。スタジオ録音はデビューアルバム《Fresh Cream》(1966)収録の約4分ものだが、火を噴くようなこのライヴパフォーマンスは9分以上ある。これだけの長さになったのは、歌と歌のあいだに挟まれたアドリブパートゆえだ。ジャック・ブルースの「リードベース」を筆頭に、メンバー3人の演奏はバトルに譬えられたが、火花を散らす丁丁発止が聴かれる一方で、他の2者の音に反応して瞬時に自身のプレイを繰りだすあたり(とりわけ、ジンジャー・ベイカーの押したり引いたりのドラミング)、演奏家としての懐の深さを感じさせる。私がいちばん聴きこんだナンバー。リリース当時、スタジオヴァージョンを持ちあげてこのパフォーマンスを認めなかったプレスは、半世紀後、満天下に先見の不明を曝した。
APolitician――〈White Room〉(Cream最大のヒット曲であり、《Goodbye Tour》のオープニング曲)を書いたジャック・ブルース/ピート・ブラウンのコンビのペンになるブルースナンバー。スタジオ録音は、Bの〈Sitting on Top of the World〉とともに、《Wheels of Fire(クリームの素晴らしき世界)》(1968)収録。テンポはスタジオ録音よりやや速いが、〈I'm So Glad〉ほどではない。スタジオ録音の4分強に対してライヴ録音は6分強と、アドリブが延びた分、長くなった。クラプトンのバッキングは、リフとオブリガートを弾きわけて、それはみごと。ギターソロもまったくよどみがなく、伸びやかに歌っている。ブルースの粘っこいヴォーカルはこのアルバムで最高の出来だ。
BSitting on Top of the World――ウォルター・ヴィンスン/ロニー・チャトモンの作品(アレンジはハウリン・ウルフだという)のカヴァー。スタジオ録音、ライヴ録音ともに約5分で、本アルバムのライヴのベストトラック。指板上のクラプトンの左手指は、弦をがっちりと押さえこんで、ロングトーンの語尾をベンディング(=チョーキング)で自在に操り、そこに速いパッセージを織りまぜた奏法で、タメがありつつ鋭角的な音を繰りだしている。細かいニュアンスで盛りあげる3人のバッキングも絶品。
CBadge――クラプトンのヴォーカルが味わい深い。共作者のジョージ・ハリスンがリズムギターで参加しているのは、ビートルズのアルバム《The Beatles》(1968)で彼自身の〈While My Guitar Gently Weeps〉のソロをクラプトンに弾かせたお返しだろう。キーはAmだが、ベースがD-C-B-G-Dと動くD/Gコードに移調して(ここのギターの音色はほとんど《Abbey Road》のそれ)、クラプトンはマイナーペンタトニックを基調にした華麗きわまるソロを聴かせる。尻込みしていたビートルズとのセッションは、寄り道ではなかった。
DDoing That Scrapyard Thing――ブルース/ブラウンによるコミカルな小品(ビートルズのパロディか)。クラプトンのひずんだトーンのギター(レスリースピーカーからの音はまさにハモンドオルガン)が荘重な雰囲気を醸しだしていて、裏声のコーラスとも相俟って、ミスマッチが絶妙。この、スタジオ録音におけるクリームの真骨頂、まじめな顔をしたおふざけは聴きものだ。
EWhat a Bringdown――ベイカーお得意の5拍子のロックナンバー。ベースを弾いているのは、プロデューサーのフェリクス・パパラルディ。リードヴォーカルは前半のマイナーパートがクラプトン、後半のワルツになったパートがブルース。二人で歌うパートも好い感じだ。ソロともバッキングともつかないクラプトンのワウギターは、充分にヘンドリクスとは別のスタイルを築きあげていて、有終の美でアルバムを締めくくる。
それにしても、生まれて初めて買ったLPレコードのレヴューを書くとは思わなかった。半世紀ものあいだ愉しませてくれたブルース、ベイカー、クラプトン、パパラルディに心からなる敬愛を。
●《生誕百二十年記念 俳人永田耕衣展》(姫路文学館、2020年1月11日〜4月5日)を観たかったのだが、2019新型コロナウイルスの感染予防のため不要不急の移動は慎むようにとのお達しで(そのためかどうか、3月5日から19日までは臨時の休館だという)、今回は失礼することにした(1996年秋、同じ姫路文学館で開かれた《虚空に遊ぶ俳人 永田耕衣の世界》のときは、奈良の正倉院の御物を拝観する旅のついでに姫路まで脚を延ばし、もちろん姫路城も観た)。今回は展覧会を観る代わりに、展覧会図録《生誕百二十年記念 俳人永田耕衣展》を郵送で入手した。《吉岡実参考文献目録》に採録したように、時里二郎が〈永田耕衣の俳句について〉を書いており、図録の〈『蘭位[らんい]』以降――〈出会いの絶景〉と〈衰退のエネルギー〉〉に吉岡実に関連する写真が掲げられている。備忘のためにタイトルだけ録しておこう(/は改行)。「「書と絵による永田耕衣展」/パンフレット/昭和44年(1969)7月14日―20日/日本橋三越 美術サロン」(一九ページ)、「吉岡実編『耕衣百句』 昭和51年(1976)6月 コーベブックス(特装本)」、「『非佛』出版記念会/昭和49年(1974)1月27日 舞子ビラ」、「傘寿記念祝賀会/昭和55年(1980)5月14日 六甲荘」「傘寿記念祝賀会 記念撮影」、「吉岡実(右)が土方巽(中央)とともに来訪/昭和59年(1984)7月10日 田荷軒」(以上、二〇ページ)。吉岡は当日のことをこう書いている。「七月十日 晴。朝九時、土方巽と芦川羊子が迎えに寄ってくれる。松見坂からタクシーで、東京駅八重洲口へ。新幹線の十時十分発ひかりに乗る。幕の内弁当とお茶の早い昼食? 話題は詩のこと舞踏のこと。外の風景はろくに見ず、午後一時四十五分新神戸駅に着く。タクシーで須磨浦公園まで行き、光る海を眺めてしばらく休息。記憶と番地を頼りに、田荷軒に辿り着く。まず、玄関の壁に掲げられた「花紅」の大字に、見惚れる。永田耕衣さんと土方巽をひきあわせる。弟子石井峰夫が控えている。みやげは虎屋の羊羮。こちらは李朝の匙三本。傘寿の会以来、四年ぶりなのに耕衣夫妻は少しも変りなく、若々しい。ナポレオンの水割りでもてなされる。若干の作品を見せて頂く。一時間ほど歓談して、田荷軒を辞す。土方巽には、句集『物質』が贈られる。師弟に見送られ、タクシーで新神戸駅へ。〔……〕」(〈83 バルチュスの絵を観にゆく、夏――〈日記〉1984年より〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、一六六〜一六七ページ)。これを写しながら、1995〔平成7〕年6月1日、大阪メルパルクで開かれた〈耕衣大晩年の会〉(種村季弘の講演、大野一雄・慶人の祝舞)での耕衣さんの温顔を想い出していた。そこには小澤實さん、田中裕明さん、四ッ谷龍さん、冬野虹さんもいた。


編集後記 208(2020年2月29日更新時)

〈《うまやはし日記》に登場する映画――吉岡実と映画(2)〉を書いた。映画をスクリーンで観なくなって久しい。加えて、家から歩いて数分の処にあったTSUTAYAが薬局(!)になってしまい、DVDを借りることさえ億劫になった。いきおい内外のロックを中心とするライヴやクリップをYouTubeで視聴することになり、そこで気になった楽曲やミュージシャンのCDを公共図書館から借りて、手許に置いておきたいものはPCやMDにライブラリー化する昨今だ。ゆえに、劇映画を鑑賞することはほとんどない。それでも、かつてスクリーンで観た映画をTVやPCのモニタで気儘に視聴できるのはありがたい。2019年の3月、萩原健一が亡くなったが、関連する記事を読んでいて、長谷川和彦監督作品《太陽を盗んだ男》(1979)の主演が当初、ショーケンの予定だったと知って一驚した。こうなるともう止まらない。私の邦画ナンバーワンは沢田研二主演の《太陽を盗んだ男》なのだから(洋画のそれは難しいが、《薔薇の名前》にしておこう)、これを観かえさないわけにはいかない。映画監督でもある樋口尚文は、《『砂の器』と『日本沈没』 70年代日本の超大作映画》 (筑摩書房、2004年3月20日)で、同作をこう賞讃する。「『太陽を盗んだ男』は、その肺活量の大きい演出によって、まさに興行価値のある見せ場のつるべ打ちでありながら、それが同時に個性的な作家性あふれる表現に結びついていて、大作と言えばイクォール作家性で御せないものという常識を粉砕するものだった。このれっきとした「アクション巨篇」の「娯楽大作」には、八〇年代以降しっかり定着してゆく大作一本立て志向をより充実させるヒントが詰まっていたはずなのだ」(同書、二五一〜二五二ページ)。「スポーツ中継も多チャンネル化で難なく中断なしで見られるようになったり、ローリング・ストーンズの日本公演もとっくに現実のものとなってしまった今でさえ、本作は古びるどころか、むしろ「現在的な映画」でありつづける。そもそも、連合赤軍をめぐる映画を先に作られてしまったことで途方に暮れた長谷川和彦が、「次に何のテーマを撮ればいいのか」をインターネットのファンサイトで公募するという構図自体が、原爆を使って国家にいったい何を要求すればいいのかをラジオ番組のリスナーに公募してしまう城戸誠を地で行く感じではないか。そんな「原爆の兄ちゃん」よろしきゴジを、ラジオのリスナーの一人があやしく叫ぶように「ドカーンとやってくれよ、ドカーンと!」と焚きつけたいところであるが、テレンス・マリックも顔負けの「撮らない巨匠」である長谷川和彦を起爆させる信管は、はたして生きているのか死んでいるのか」(同書、二五二ページ)。沢田研二をライバル視していた萩原健一(ふたりは、ひところ同じバンド、PYGに在籍していた)は、本作をどう観たのだろうか。寡聞にして知らない。
●去る1月7日、ラッシュのドラマー、ニール・パートが脳腫瘍で亡くなった。67歳。1984年の来日公演も観ていない私だが、バンドにはかねがね敬意を抱いていた。《Permanent Waves》(1980)と《Moving Pictures》(1981)、《Power Windows》(1985)はとりわけ愛聴した。今回あらためてベスト盤《Retrospective》T・U、カヴァーアルバム《Feedback》(ヤードバーズやバッファロー・スプリングフィールドの曲をとりあげているのは、Zepフォロワーの証し)、《Time Machine 2011- Live In Cleveland》、《Clockwork Angels》を聴いた。プログレッシヴロックやハードロックの文脈で語られることが多いラッシュだが、曲の構成やアレンジの面ではクラシック音楽からの影響が大きい(プログレの連中はとんでもなく上手いから、思いついたことをすぐ音にできるようなものだが)。インターネットで調べていたら、あのRick Beatoが〈Limelight〉(《Moving Pictures》所収)を〈What Makes this Song Great? Ep.63 RUSH (#2)〉で解説している。そして、〈S@▲:ロックを愛する友へ(Limelight/RUSH)〉も同じ曲を取りあげていて、次のエピソードを紹介している(私はジェネシスのライヴを観たジム・オルークのインタビューを想い出した)。――「RUSHはいまだにツアーが始まると物凄い数のステージを単独でこなします。まるでメジャーリーガー級のロード^^;〔……〕ミネソタでライブを見た時、1stセット後の休憩時間が終わってライトが落ちると、最前列にいた僕は柵にへばりついた。するとね、クルーが耳打ちしに僕のところにやってきた。後ろに小学1年生くらいの男の子とそのお父さんらしき人を連れて、「隣、いいかな?」事情は理解できた。子どもにアリーナは辛い。恐らくお父さんが抱きかかえて見せていたに違いない。「もちろん!」とクルーと男の子に笑顔を送ると、クルーはパイプ椅子を僕の横に置いて、男の子はその上に立った。ちょうど僕と同じ目線に男の子の顔が来た。男の子と2人で「親指立てグー」を交して、彼の変声前の甲高い「ゲディィイイ!」という叫び声とともに2ndステージは始まったんだ。これ、間違いなくRUSHのメンバーがライブ中にその父子を見つけたんだよ。後ろからじゃ分らないからね・・・つまり、RUSHのメンバーが呼んであげたわけだ。〔……〕RUSHはそれくらいファンを大切に、ファンと一体化して楽しめるステージを大切にしてる。なぜなら「gilted cage」の外側にいるファンと音楽を共有したいから」(このファンの男の子を見つけたのは、ニールだったかもしれない)。――ぜひとも〈Limelight〉(《Time Machine 2011- Live In Cleveland》の、世紀のパワートリオによる凄まじいライヴも必聴)を大音量で聴きながら、原文を読まれんことを。と書いてきて、ギターのアレックス・ライフソン(ファンの書き込みには「最も過小評価されているギタリストの一人」とある)本人が〈Limelight〉の奏法を解説し、実演する〈How to Play Limelight by RUSH on Guitar〉があった。29分30秒付近からの、スタジオ録音のヴォーカル、ベース、ドラムスに合わせたアレックスの生演奏(パワーコードと開放弦を絡めたアルペジオ、切れのいいバッキング、8ビートのドライヴ感、そしてあの、驚異のギターソロ!)は鳥肌もの。必見です。
●8枚組のCD《蜜蜂と遠雷 ピアノ全集》(ソニー・クラシカル、2017)を聴いた。図書館に予約して半年以上待った。本CDは「第156回直木賞と2017年本屋大賞のダブル受賞という史上初の快挙を達成し大きな話題となっている小説『蜜蜂と遠雷』(恩田陸・著/幻冬舎・刊)。3年毎に開催されるピアノコンクールを舞台に、国籍も来歴もそれぞれ異なる4人の出場者〔風間塵、栄伝亜夜、マサル・カルロス・レヴィ・アナトール、高島明石〕を軸に、人間の才能と運命、そして音楽を見事に描き切った青春群像小説。主人公4人のコンクール演奏曲(全51曲129トラック・収録時間約9時間40分)をそれぞれの登場人物ごと2CDにもれなく収めたCD8枚組のコンピレーション企画」で、本文と併せて聴くのが筋なのだろうが、私はすでに文庫本で2回読んでいるので、まずは塵・亜夜・マサル・明石篇それぞれに収められている同じ作曲家(J・S・バッハ)の作品(平均律クラヴィア曲集)を抜き出して聴いてみた。ピアニストは、グールド・リヒテル・レオンハルト・シュタットフェルト、再びリヒテルである。ヘッドフォンで聴くと、各奏者の違いもさることながら、楽器や録音の違いが、それなりに判別できて、興趣はつきない(私はピアノを弾かないので、演奏する側の機微はわからない)。全曲のなかではエフゲニー・キーシン演奏のストラヴィンスキー《ペトルーシュカからの3楽章》に惹かれた。管弦楽による《ペトルーシュカ》は聴いていたが(今回、1962年にストラヴィンスキー自身が指揮した盤も聴いた)、ピアノ演奏も捨てがたい。小説の続篇《祝祭と予感》(幻冬舎、2019)は、本篇を読みかえしてから読んでみたい(私はふだん、4つの区立図書館を利用しているが、《祝祭と予感》を同時に予約したところ、100〜400人待ちだった。どこの区の館が最初に提供してくれるだろうか)。


編集後記 207(2020年1月31日更新時)

吉岡実と江戸川乱歩を書いた。私は今日まで江戸川乱歩を系統的に、というか網羅的に読んでこなかった。乱歩の少年向けのものなど、大方は小中学生のころに読むのだろうが、当時の私は小説に限らず読書の習慣がなかったから、ポプラ社の《少年探偵団》と《怪人二十面相》くらいしか記憶にない。ときに、大平透(1929〜2016)といえば声優の大御所だが、フジテレビのドラマ《少年探偵団》(1960〜63)に怪人二十面相役で出演している。1960年、私は5歳で、わが家にはまだテレビがなかったから、近所のうちで観せてもらったものか。その大平演じる怪人二十面相があまりに怖ろしくて(とくに、声が)、乱歩の本に容易に近づかなかったと思しい。それでも怖いもの見たさに覗いたのが、前掲の2冊である。高校に入ると、格好つけて創元推理文庫のヴァン・ダインや新潮文庫の大江健三郎を読みはじめたものだから、ますますもって乱歩の出る幕はない。だから、吉岡実が子供のころに読みふけった《孤島の鬼》《黄金仮面》《一寸法師》そして《陰獣》はみな、乱歩の全小説および主要評論と随筆を収録した光文社文庫版《江戸川乱歩全集〔全30巻〕》で読んだ。それでも未読の作品が大半だ。今後の愉しみというべきか。
●以前〈編集後記 175〉に「〔アトランティックレーベルのサンプル盤には〕New York Rock & Roll Ensemble〈Mr. Tree〉などが入っていた〔……〕」と書いたが、かんじんの〈Mr. Tree〉に触れなかった。グループの詳細が知りたくて日本版のWikipediaを検索しても、「マイケル・ケイメン」「マーク・スノウ」が出てくるだけだ。だが、さすがに英語版のWikipediaには項目があった。それを自動翻訳させると、「ニューヨークロックンロールアンサンブルは1960年代後半から1970年代初頭にかけて活動していたロックバンドで、その音楽は「クラシックバロックロック」と表現されていました。そのグループは、クラシック音楽家の服装、白いネクタイとテールコート(タキシードではない)を身に付けました。」となる。以下、「バンドは3人のJuilliardの学生、Michael Kamen、Marty Fulterman(現在はMark Snowとして知られている)、そしてDorian Rudnytsky、そして2人のロックミュージシャンのBrian CorriganとClif Nivisonによって形成されました。」と伝記が記されており、得る処が多かった。だが、なんとしたことか、件の〈Mr. Tree〉への言及がない。これは彼らの代表曲ではないのか。米Googleや米Yahoo!で同曲を検索しても、アルバムジャケットの静止画を伴う音源がヒットするだけで、その歌詞すらアップされていない(しかたがないから、聴き取りで原文――Hey, Mr. Tree / Do you remember me? / I used to sit on your knee, Mr. Tree...と始まる――を起こしてみた)。当然のごとくコード譜も楽譜[スコア]もなくて、コード進行を耳コピするしかない。こうなると、ヴォーカル(ユニゾン)、オルガン、ギター(左右)、ベース、ドラムスのパート譜も起こしたくなる。要は、一人多重録音でこの曲〈Mr. Tree〉を再現したいのだ。それに見合うだけの傑作である。New York Rock & Roll Ensembleはこの曲でロック史にその名を刻む。
●荒木優太《これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得》(東京書籍、2016年3月1日)は、私のようなアカデミズムと無縁の処で研究と称する文章を草する者に勇気を与える書物である。本書の内容紹介を引けば「三浦つとむから橋本梧郎まで、16人の在野研究者たちの「生」を、彼らの遺した文献から読み解き、アウトサイドで学問するための方法を探し出す。在野での〈あがき〉方の心得40選。『En-Soph』連載を加筆修正し再構成」ということになるのだが(ちなみに心得その一は「在野仲間を探そう。」で、その四〇は「この世界には、いくつもの〈あがき〉方があるじゃないか。」)、とにかく文章がうまい。たとえば「ここで取り上げるのは、比喩的にいえば、大リーグを目指していた野球少年が商社に就職し、しかしそれでもなお、休日に仲間とやる野球大会をどう計画するか思案するリーマンの話。あるいは、アルバイトをしながら生活費を稼ぎつつ地下アイドルとしてファンたちと一緒に盛り上がる女子フリーターの話にすぎない。といっても、その野球チームのなかにメジャーリーグでも通用する剛速球を投げる者がいることを、また、そのアイドルの歌が口コミで話題となって紅白のトリを飾ることがあることを、私は固く信じているのだが。」(〈はじめに――これからのエリック・ホッファーのために〉、本書、七ページ)、あるいは「最後に三つばかり謝辞を述べておきたい。/〔……〕/そして最後は、読者に。読書家はしばしば忘れがちだが、一冊の本を読み通すことは根本的に大儀である。私も本の魅力に感化されたのがずいぶん遅かったから、その苦労にはおぼえがある。様々なタイプのメディアから大量の情報が溢れ出す今日、それでもなお本書に幾分かの時間を分け与えてくれたことに、心から感謝したい。」(〈あとがき――私のことについて、あるいは、〈存在へのあがき〉について〉、本書、二五四ページ)。こういう文章の書ける著者渾身の本文がどれほどわれわれを鼓舞するものか、想像がつこうというものだ。
●去る1月13日、評論家の坪内祐三氏が亡くなった。《靖国〔新潮文庫〕》(新潮社、2001)に感銘したが、私は氏のよい読者ではなく(いつも書くように、よい読者とはその著者の手に入るかぎりの作品を読む者の謂だ)、《文庫本宝船》(本の雑誌社、2016年8月25日)を開いて氏を偲んだ。ところで、この《編集後記》は冒頭の《〈吉岡実〉を語る》に掲載する新稿についてはそのたびに書くが、聴いた音楽や読んだ本は必ずしも最新のものではない。今月のNew York Rock & Roll Ensembleや荒木優太にしたところで、少し前に書いたものを載せているわけで、それとは異なり、坪内氏を追悼するこの文章は1月16日、今月の〈後記〉として書いている。なんという暗合だろうか、《文庫本宝船》(《週刊文春》連載の〈文庫本を狙え!〉566回=2009年3月5日号〜885回=2016年3月31日号を収録)の〈石井輝男・福間健二『完本 石井輝男映画魂』ワイズ出版映画文庫〉の回には「現代劇をよくした石井輝男がかつての時代劇のメッカだった東映京都に移って撮り始めるのが『徳川女系図』(一九六八年)以下の異常性愛路線で、このシリーズが巻き起した反響(エロ・グロ路線反対という助監督たちの声明)は有名で、その詳細も語られるが、それ以上に興味深いのはこのシリーズで快演した土方巽や小池朝雄についての回想だ。」(同書、三三五〜三三六ページ)とあるばかりか、〈エリック・ホッファー/柄谷行人訳『現代という時代の気質』ちくま学芸文庫〉の回は「アメリカには優れた独学者、街の賢人と言える系譜があって、文学者の代表をヘンリー・ミラーとするならば哲学者の代表がエリック・ホッファーだ。」(同書、六三六ページ)と始められているではないか。坪内祐三の編者としての代表作〈明治の文学〔全25巻〕〉シリーズ(2000〜2003)の第8巻《泉鏡花》(筑摩書房、2001年6月20日)から、敬意をこめて扉裏のクレジットを引こう。
 全巻編集    坪内祐三
 本巻編集・解説 四方田犬彦
 脚注      花ア真也・川岸絢子
 脚注図版    林丈二・林節子
 編集担当    松田哲夫(筑摩書房)
 ブックデザイン 吉田篤弘・吉田浩美

本の今と未来を憂え、それでも書店と本を愛し、ひたすらそれについて書いたひとりの男が斃れた。61歳だった。坪内祐三氏の冥福を祈る。
●文藝空間同人の星野久美子さんが、去る1月15日、急逝した。星野さんはお茶の水女子大学を卒業後、永く都立高校で生物を教えた。自らも企画・編集した《文藝空間》第10号〔総特集=福永武彦の「中期」〕(1996)に掲載の〈わが赴くは内宇宙――My innerspace My destination〉は、大学時代にSF研究会に所属した星野さんならではの論文だった(SF寄りの論考に、1986年の第6号の〈神林長平「太陽の汗」ノート〉がある)。いま国立国会図書館所蔵資料を検索すると、鈴木和子・濱崎昌弘両氏とともに、福永武彦の《病中日録》(鼎書房、2010年3月20日)の編者とある。同書の帯には「福永武彦の自筆本「病中日録」(1978年7月〜10月まで、3冊本)の私蔵本を愛読者に情報を供するべく翻刻する」とある。のちに刊行された《福永武彦戦後日記》(新潮社、2011)と《福永武彦新生日記》(同、2012)という2冊の日記に先立つ、画期的な出版企画だった(前者の、1946年日記原本の提供は星野久美子)。星野さんにとって福永は、ボードレールや出口裕弘と並ぶ、大きなテーマだった。星野さんの新たな福永論をぜひ読みたく思う。


編集後記 206(2019年12月31日更新時)

吉岡実と吉野弘を書いた。吉岡の〈静物〉(B・1)を収めた〔石原千秋監修〕新潮文庫編集部編《新潮ことばの扉――教科書で出会った名詩一〇〇〔新潮文庫〕》(新潮社、2014年11月1日)に、吉野弘の詩は〈夕焼け〉〈I was born〉〈祝婚歌〉の3篇が採られている(最多である)。吉岡の3篇ともなれば、件の〈静物〉に〈僧侶〉〈サフラン摘み〉とでもなろうが、〈サフラン摘み〉はともかく(それすらあぶない)、教科書で〈僧侶〉に出会うことはあるまい。では、吉野弘の詩は万人受けするのか。そうではない。万人に受けるのは吉野弘の詩だろう、という教科書をめぐる力学がこうした状況を生むのであって、その詩が多くの人に受けようが受けまいが、詩の問題ではない。結婚披露宴のスピーチで広く引用される〈祝婚歌〉にしたところで、贈られた側がほんとうに腑に落ちるのは、若年の者にスピーチする立場になったときではあるまいか。文庫の解説で石原千秋が指摘するように、詩の意味の説明はできても、詩の説明はできない、というのはおそらく正しい。それが、ほんとうの詩であるのならば。
●近刊の福永武彦・中村真一郎・丸谷才一《深夜の散歩――ミステリの愉しみ〔創元推理文庫〕》(東京創元社、2019年10月31日)で、私は同書を5つの異なる版で読んだことになる。それを読んだ順(つまりABC@D)ではなく、刊行順に挙げれば、@〔ハヤカワ・ライブラリ〕(早川書房、1963)はほぼ新書サイズ(正確には「縦18.4センチ,横10.6センチのポケット・ブック判」の〔HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS〕と同サイズ)・ジャケット装――ジャケット表4の紹介文の後半(前半は福永の第1回〈Quo vadis?〉の抜粋)を引けば「ここに登場する散歩者は、いずれも名うての深夜の孤独な散歩愛好者である。自らも加田伶太郎のペンネームで探偵小説を書く福永武彦氏。ミステリを〈熱愛〉する中村真一郎氏。ミステリを愛好する己が罪の深さをなげこうという丸谷才一氏。三人の作家が、それぞれ愛する欧米の探偵小説を俎上にのせ、ニヤリと笑いチクショウと呟き、縦横にふるった包丁の冴えを、読者は充分にたんのうされるにちがいない。/アガサ・クリスティー女史に始まって、世界の一流探偵作家をめぐる三人の深夜の散歩は、夜の明けるのも知らぬげにつづくのである。」と、たいした文章ではない(〈吉岡実と福永武彦〉に同書のジャケット写真を掲げてある)。次のA《〔決定版〕深夜の散歩》(講談社、1978)は四六判のハードカヴァー、さらにその文庫化であるB《深夜の散歩〔講談社文庫〕》(講談社、1981)、そしてC《深夜の散歩〔ハヤカワ文庫〕》(早川書房、1997)は@の本家が文庫で逆襲(?)、最後が初めに掲げたD〔創元推理文庫〕――冒頭ページの紹介文の後半(前半は@のそれと同工委曲)を引けば「博雅の文学者にして探偵小説愛読家である三人が、海外の探偵小説を紹介する読書エッセイ。探偵小説を読む愉しさを軽やかに、時に衒学的に、余すことなく語り尽くす歴史的名著が、文庫初収録の連載回など増補のうえ完全版として甦る。」と、こちらは簡にして要を得ている。本書でアガサ・クリスティー(1890〜1976)の評価が高いのは驚くにはあたらないが、それと別に、福永は〈カーステヤズ家の方へ〉で、中村は〈地獄を信じる〉で、丸谷は……《深夜の散歩》では触れていないが、《快楽としてのミステリー〔ちくま文庫〕》(筑摩書房、2012)所収の〈酔つぱらひとアメリカ〉で、クレイグ・ライス(1908〜57)に言及している。いや、褒めている(なお、《快楽としてのミステリー》に収められた丸谷の〈マイ・スィン〉は旧仮名表記で、各項の末尾には現行の訳書の書誌が掲げられていて、重宝する)。共著を概観するなら、丸谷がいちばん書評寄りで、福永は文芸(といっても対象は探偵小説)評論ふう、中村はどちらかといえば文明批評に近い。不勉強(?)なことに、私はライスの《素晴らしき犯罪》も《スイート・ホーム殺人事件》も、《大はずれ殺人事件》も《大あたり殺人事件》も、《わが王国は霊柩車》も、まだ読んでいない。それらを読んでから三人の文章を読みかえすのが愉しみだ。ちなみに本書の副題は、初刊では「楽しみ」だったのが、A以降(もちろん最新版も)、「愉しみ」となっている。細かいことだが。Dの鍵のイラストの入った本扉の裏には、英語の標題“MIDNIGHT WANDERING”が掲げられていて、本書が英語で書かれた本の訳書だと錯覚しそうになる。
●〔ハヤカワ・ライブラリ〕の判型を較べるために、ローレンス・ブロック(田口俊樹訳)《泥棒は図書室で推理する〔ハヤカワ・ミステリ〕》(早川書房、2000年8月15日)――所蔵する唯一の〔ハヤカワ・ミステリ〕――を手にしたのが運の尽き。再読する仕儀となったが、怖ろしいまでに話の内容を覚えていなかった。私はふだん探偵小説を読む習慣がなく、本書を購読したのも、当時「最近読んだ本」という小さな原稿をお願いしていた養老孟司さんが、ローレンス・ブロックの本を最近読んだと話していたからだったと思う(そう、執筆原稿ではなく、電話越しの談話取材だった)。それが〔泥棒バーニイ・シリーズ〕だったか今では定かでない。記事を掲載していたオンライン書店サイトbk1(ビーケーワン)は、すでにないのだ。
●ひのまどか《バッハ〔音楽家の伝記 はじめに読む1冊〕》(ヤマハミュージックメディア、2019年4月10日)の巻末には、著者の選による〈はじめにきく1曲〉が掲げられている。想定する10歳からの読者に読めるよう表記されているが、よみがなを省き、適宜漢字に変更して引く。
■[鍵盤楽曲] 1.アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳 BWV113〜132/2.イタリア協奏曲 へ長調 BWV971 ■[オルガン] 3.トッカータとフーガ ニ短調 BWV565/4.幻想曲とフーガ ト短調 BWV542 ■[管弦楽] 5.管弦楽組曲 第2番 ロ短調 BWV1067/6.同 第3番 ニ長調 BWV1068/7.G線上のアリア(ヴァイオリンと管弦楽;ヴィルヘルミ編曲) ■[協奏曲] 8.ブランデンブルク協奏曲 第2番 へ長調 BWV1047/9.同 第3番 ト長調 BWV1048/10.ヴァイオリン協奏曲 第1番 イ短調 BWV1041/11.同 第2番 ホ長調 BWV1042/12.2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV1043 ■[ソナタ] 13.無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 第1番 ト短調 BWV1001/14.無伴奏ヴァイオリン・パルテイータ 第2番 ニ短調 BWV1004/15.無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調 BWV1007/16.同 第3番 ハ長調 BWV1009 ■[教会音楽] 17.マタイ受難曲 BWV244/18.クリスマス・オラトリオ BWV248 ■[世俗カンタータ] 19.コーヒー・カンタータ BWV211 ■[さまざまな楽器のための]  20.音楽のささげもの BWV1079
私はクラシック音楽に関しては気ままなリスナーにすぎないから、これらの選が妥当なものか判定できない。だが、厖大な作品のなかから20曲を選ぶのが至難の業だということは想像できる。この本を読むかぎり、著者のセレクトは信頼に値すると思う(平均律やゴルトベルクが漏れているのは、「はじめにきく1曲」ではないからだろう)。あとはどの音源で聴くかだ。過去に触れたものを記憶のままに挙げれば、1.トラジコメディア(1991)/2.ミケランジェーリ(1943)、グレン・グールド(1959/1981)、フリードリヒ・グルダ(1965)、トレヴァー・ピノック(1993)ほか多数〔私はこの曲を偏愛している〕/3.トン・コープマン(1992)/5.6.トレヴァー・ピノックとイングリッシュ・コンサート(1980)/13.14.前橋汀子(1989)/15.16.ミッシャ・マイスキー(1984-85/1999)、アンナー・ビルスマ(1992)、鈴木秀美(1995)、ヨーヨー・マ(1997)、ニーナ・コトワ(2014)ほか/17.カール・リヒター(1958)、グスタフ・レオンハルト(1989)/20.ムジカ・アンティクヮ・ケルン(1993)――むろん、ほかにも聴いているはずだが、すぐには出てこない。最近、吉田秀和のバッハ関連の文章が《バッハ〔河出文庫〕》(河出書房新社、2019)にまとまったのは朗報である。私が《無伴奏チェロ組曲》を聴きこむようになったのは、吉田の文章のおかげだ。
●デイヴィッド・シューレンバーグ(佐藤望・木村佐千子・訳)《バッハの鍵盤音楽》(小学館、2001年7月10日)をめくっていたら、おもしろいことに気が付いた。巻末の〈見出し索引〉に《イタリア協奏曲》がないのだ(〈作品名索引〉には「イタリア協奏曲 へ長調(BWV971)」として、5箇所のページノンブルが記されている)。〈見出し索引〉のBWV971のタイトルは単に〈協奏曲 へ長調〉で、その本文には「《クラヴィーア練習曲集第2部》は、大方の予想に反し、フランス風序曲ではなく、イタリア風協奏曲で始まる。バッハは、より短い、ある意味でより時代に沿った曲を最初にもってきたかったのかもしれない。〔……〕この曲はよく「イタリア協奏曲」と呼ばれるが、これは誤った名称である。というのも、この曲は実際、イタリア様式に倣った「ドイツの協奏曲」だからである。このことは、シャイベがこの作品を「どんな外国人にも真似できない」作品のひとつとして、無条件の賞賛を行った、という事実にも示唆されている。」(同書、五三一ページ)とある。シューレンバーグ(Schulenberg)はアメリカのバッハ音楽研究家にしてチェンバロ奏者だが、名前からするとドイツ系か。「イタリア様式に倣った「ドイツの協奏曲」」という見得がなんとも小気味好い。
●もうひとつJ・S・バッハ関連で。バッハはヴィオラ・ダ・ガンバのためのソナタを3曲遺している。〈1番ト長調(BWV1027)〉〈2番二長調(BWV1028)〉〈3番ト短調(BWV1029)〉である。今日これを演奏するのに、当時の楽器(period instruments)であるヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロを用いるのと、当世ふうにチェロとピアノを用いるのと、二つに大別できる。レナード・ローズとグレン・グールドは後者(1973年録音)、ヴィーラント・クイケンとグスタフ・レオンハルトは前者(1974年録音)、ミッシャ・マイスキーとマルタ・アルゲリッチは後者(1985年録音)、リン・ハレルとイーゴー・キプニス(パープシコード)は後者の変形(1986年録音)、アンナー・ビルスマ(5弦のチェロ・ピッコロ)とボブ・ファン・アスペレン(ポジティブ・オルガン)はユニーク(1990年録音)、キム・カシュカシャン(ヴィオラ)とキース・ジャレットは後者の変形(1994年録音)といえる。バッハの声楽曲の合間に、このら6つの演奏を聴きくらべるのは無上の歓びであり、オリジナル(と言っても、バッハのオリジナルを聴く術はないのだが)とカヴァー(われわれが聴き得るバッハの音源は、当然のことながら、すべてカヴァーである)をめぐって、あれこれと考える契機ともなる。
●なんと、ロックミュージックの伝道師[エヴァンジェリスト]であるRick Beatoがバッハを語った〈What Made Bach Great? Johann Sebastian Bach 1685-1750 (edit)〉を見つけた。震撼した。
●というわけで、吉岡実生誕100周年の2019年の締めくくりは、グスタフ・レオンハルトの《マタイ受難曲》(1989年録音)と、同曲のコラールに想を得たポール・サイモン(天才的なシンガー=ソングライターにしてギタリストであり、なによりも卓れた聴き手)のシングル〈American Tune(アメリカの歌)〉(1973)で。来年も、101年めの吉岡実をめぐる本サイトをよろしくお願いします。


編集後記 205(2019年11月30日更新時〔2021年3月31日追記〕)

吉岡実と《カムイ伝》を書いた。私の母方の実家は新潟・佐渡の赤泊(《角川日本地名大辞典》には「佐渡ケ島東部,南は日本海に面する。〔……〕越佐間の最短距離にあり,古くから対岸との交流が盛んであった」とある)という処で、母が子供のころは東屋[あずまや]という旅館を営んでいた。私はそこで産まれた。祖母は丈夫な働き者で、料理が上手く、自家製の味噌を作っては送ってくれた。わが家では、祖母が亡くなるまで市販の味噌を食べたことがない。入り婿の祖父は野良仕事向きの体ではなく、時計や眼鏡の修理を手掛ける居職だった。私は夏、母や妹とそこに行くたびに(父は国鉄に勤めていたから、夏季は多忙でいっしょに行った記憶がない)、売り物の双眼鏡を引っぱり出しては、軒下の燕を眺めたものだ。坪庭には草木が繁り、緑色の水を湛えた池には金魚が泳いでいた。祖父母の家は赤泊の港から数分の処にあったから、辺りは商店も多く、バスが通る道の向かいは白と水色のタイルを貼った造りの床屋、その隣は下駄屋(私と同年輩の女の子がいた)、さらにその隣は伊勢屋という、今でいうコンビニのような店だった。下駄屋には、客が鼻緒をすげかえてもらったりする間の無聊を慰めるためだろうか、光文社の月刊少年漫画雑誌《少年》が置いてあった。私はここで、手塚治虫《鉄腕アトム》、横山光輝《鉄人28号》、関谷ひさし《ストップ!にいちゃん》(作者の長男が私の妹と同級生だった関係で、新潟の従兄が来たときにサインを貰いに行ったりした)、白土三平《サスケ》を読んだ。わが家は子供に漫画雑誌を買いあたえる習慣がなかったので、泳ぎつかれて陽が傾くころ、これ幸いと下駄屋におじゃましては、トウモロコシをかじりながら読みふけったものだ。《少年》には別冊付録があって、この冊子がやけに魅力的だった。白土三平の作品は《ガロ》誌上で読んだ記憶がない。また、鶴見俊輔が巻末の〈死にかわり、生きかわり――作家と作品〉で「今の世界に殺人と性がある以上、これについてこどもの時から自分で考える道を切りひらくほうがいい。」と書いた《現代漫画〔第9巻〕白土三平集》(筑摩書房、1969年9月20日)は今回、初めて読んだ。《ガロ》出身のつげ義春の漫画作品は、おそらく本で全部読んでいる。詩書専門書店のぽえむ・ぱろうるの棚は、文字の本ばかりでなく、青林堂系のひさうちみちおや丸尾末広――《トミノの地獄〔全4巻〕》(KADOKAWA、2014〜19)は1ページ、いや1コマも読み飛ばすことのできない、丸尾の最高傑作。戦慄のラストシーンを視よ!――の単行本まで揃えて魅力的だったが、2006年4月に閉店。それ以降、池袋に行く回数が減った。
吉岡実の装丁作品(136)は(135)以来、二年ぶりの吉岡実装丁本についての記事である。はからずもそのときの〔現代日本文學大系52〕の川端康成の巻に続いて《柳田國男集〔現代日本文學大系20〕》(筑摩書房)を取りあげた。吉岡実装丁の単行本については新発見の資料がないと書けないが、〔現代日本文學大系〕本は厖大な冊数があり、こうした展開でなら今後も書くことが可能だ。もっとも柳田國男の場合、吉岡が筑摩以前に勤めていた東洋堂で柳田の編集担当だったからよかったようなものの、〔現代日本文學大系〕以外のトピックがないとなると、書きようがない。ちなみに〔現代日本文學大系〕は吉岡実装丁本としては一冊とカウントしているから、吉岡の手掛けた装丁本の数が増えたわけではない(〈W 装丁作品目録〉)。
●11月30日は本サイト開設17周年である。このところ、《〈吉岡実〉を語る》は約半年分の草稿があって、当初〈吉岡実と柳田國男〉というworking titleで書いていた文章を途中から《〈吉岡実〉の「本」》に鞍替えしたのは、サイト開設17周年に合わせたためだ。8月に亡くなった池内紀の近著《みんな昔はこどもだった》(講談社、2018)の柳田の章は、おもに〈故郷七十年〉に依っていた。
〈編集後記 136〉でスティーヴィー・ワンダーの《Songs in the Key of Life(キー・オブ・ライフ)》(1976)のことを書いた。実をいうと、私が最も愛するスティーヴィーのアルバムは《Fulfillingness' First Finale(ファースト・フィナーレ)》(1974)である。先日、書斎兼オーデイオルームに散在している音源(CDとMD)を整理していたら、件のMDが出てきたので、聴きかえした。とんでもない傑作だった。当時のスティーヴィーは数百曲のストックを有していて、ニューアルバムはそれらを適宜、選択して作ることが多かったらしい。だがこのアルバムは、死にかけた大事故のあと、すべて新しく書きおろしたものだという。まず、それらの楽曲の出来がすばらしい。加うるに、アレンジが、録音が、そしていうまでもなく歌唱がすばらしい。高度なことをさりげなくやり、新傾向の音楽を完全に自分のものにする、そのミュージシャンシップに敬意を払うほかない。マイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーが書いた〈We Are The World〉(1985)のミュージックヴィデオで、レイ・チャールズからスティーヴィーにソロを回すシーンは、この曲いちばんの聴かせ処だろう(もう一人の、だみ声のシンガーの存在は不要だと思う)。聴かされて間もない他人の曲を、ここまでフェイクして歌いあげるスティーヴィー、あなたってほんとに。
●10月下旬、練馬区立美術館で《エドワード・ゴーリーの優雅な秘密――Elegant Enigmas: The Art of Edward Gorey》(2019年9月29日〜11月24日)を観た。エドワード・ゴーリー(1925〜2000)はアメリカの絵本作家にしてイラストレーター、ブックデザイナー。まるで先ごろ亡くなった和田誠みたいだが、作風は大いに異なる。「日本初、展覧会公式図録」を謳った《エドワード・ゴーリーの優雅な秘密》(河出書房新社、3刷:2019年1月20日〔初版:2016年4月30日〕)の帯文を引けば、「世界一残酷な絵本作家? 博覧強記の怪人?」ということになる。自作絵本の原画(非常に小さい)、ポスターの原画(拡大印刷されても、美しい仕上がり)が見事なのはもちろんだが、ゴーリーが母親に宛てた絵入り封筒(宛名の面に彩色画が描かれ、宛名は自作絵本と同じ手書き文字で、画と一体化している)はほとんど宝石函のようで、観ていて眩暈がしそうだった。自作絵本の翻訳は、20冊以上が河出書房新社から柴田元幸訳で出ている。訳書も原本のように小振りで、初冬の夜、ひそかに読むにふさわしい書物たちだ。
●11月4日、礒崎純一《龍彦親王航海記――澁澤龍彦伝》(白水社、2019年11月15日)を入手した。著者は、国書刊行会で《書物の宇宙誌――澁澤龍彦蔵書目録》(2006)を編纂した、晩年の澁澤の謦咳に接した最も若い世代の編集者(といっても今年、還暦を迎えた)。500ページを超える大冊の〈あとがき〉にこうある。「本書『龍彦親王航海記』は、そうした、澁澤龍彦の生涯と作品について書かれ、語られた、膨大な文章(もちろんそこには澁澤本人のものがもっとも多い)に、あたうかぎり目を通し、それらを選択して、編集配列することにより成った「伝記」である。/あえてバッハの受難曲に喩えれば、ここでは曲の中核となるアリア、アリオーソ、コラールはもう作曲されて筆者の前に揃っていた。だから、本書の筆者が新たに書き下ろしたのは、すでに存在するそうした美しいアリアやコラールのあいだとあいだを語り繋いでいく〈福音史家[エヴアンゲリスト]〉のレチタティーヴォのパートと、それに少しばかりの序曲やら間奏曲だけにすぎないとも言えるだろう。役目は〈福音史家〉なのだから、福音史家がみずから朗々と歌う愚は厳につつしんだつもりであるし、いわんや、ロマネスクな想像力などといったものは、本書の叙述にはいっさいもちいられていない」(本書、四八七〜四八八ページ)。そのせいもあるのだろう、〈索引〉を手掛かりに吉岡実に関する記述を探しても、未知の情報は盛り込まれていなかった。だが、三六八ページの「吉岡実と澁澤。左はしは龍子。写真:青木外司」とキャプションのある写真は初めて見た。澁澤と吉岡にはさまれて坐る女性は、金井久美子さんだろうか。吉岡の1982年2月22日の日記にはこのようにある。「夕方、銀座の青木画廊へ行く。四谷シモン人形展を観る。金髪少女の裸形の三体には、精神性すら感じられた。近くの喫茶店に席がしつらえられ、高橋睦郎、渡辺兼人、金井久美子たちとおしゃべり。遅れて澁澤龍彦夫妻と金子国義が現われたので、小さな宴も華やぐ」(《土方巽頌》、一三九〜一四〇ページ)。些細なことだが、「四谷シモンの人形展のオープニングが、〔昭和五十七(1982)年〕二月二十二日に青木画廊で開かれ、四谷シモン、金子國義、コシノジュンコらと麻布の庖正[ほうまさ]で食事をした。この個展に出陳された少女人形が、そのあと北鎌倉の澁澤邸にはこばれ、澁澤の書斎に置かれることとなる。/金井美恵子がエッセーで伝える、「本気で真面目に今のところ、おれは澁澤氏を一番気に入っているからね」と吉岡実が言い、それを聞いた澁澤が、「今のところ、かあ」と大笑いしたというエピソードは、この日のことかもしれない(「吉岡実とあう」)。」(本書、四〇四〜四〇五ページ)とあるのは、私の見るところ、1982年の〈ラムール・ラムール〉展の日のことではなく、1973年10月27日の〈未来と過去のイヴ〉展オープニングの時ではないか。それは、吉岡の詩集《サフラン摘み》(1976)と《薬玉》(1983)の作風から推しても動かないだろう。さて、本書読了後の11月15日(奥付にある刊行日!)、神田・神保町の東京堂書店の6階で、著者と東雅夫さんによる《龍彦親王航海記――澁澤龍彦伝》刊行記念のトークイベント〈龍彦親王との航海を終えて〉が開かれた。途中からはお二人と親しい小説家・山尾悠子氏も特別ゲストとして出演する、愉しい1時間30分だった(会場の東京堂ホールは、三人と同年代を中心とした100名近い参加者で満席)。著者のコメントでは、1000枚の原稿の執筆に1年半ほどかかったが、全体の半分くらいは引用で、執筆中に吉岡実の《土方巽頌》を読んで、「なるほどこういうやり方もあるんだな」と思った、という処が印象的だった(本書巻末〈主要参考文献〉の「文献」には吉岡の《土方巽頌》、〈示影針(グノーモン)〉、〈月の雁〉――ただし、著者が採った挿話の出典は〈月の雁〉ではなく〈郁乎断章〉――が、「年譜」には私の〈吉岡実年譜〉が掲げられている)。さらに、なんと本書《澁澤龍彦伝》は最初、礒崎さんが東さんに執筆を依頼したが、のらりくらりと(?)かわされた、という秘話が披露された(東さんは「単に時間がなかっただけ」と返していたが)。結果、《書物の宇宙誌》と対になるこの特異な「編集的伝記」が誕生したわけだ。イベントの最後は、東さんによる澁澤龍彦《高丘親王航海記》の最終章〈頻伽〉の大団円、親王自ら虎に食われることで天竺をめざす箇所の朗読。泉下の龍彦親王も讃歎するに違いない、信じがたいほど素晴らしいパフォーマンスだった。
〔2021年3月31日追記〕2019年12月、本稿の内容を白水社の編集部に伝えたところ、〈主要参考文献〉の誤記を訂正する旨、懇切な返事をいただいた。本書は広く迎えられたようで、2020年1月10日発行の4刷本では〈月の雁〉が〈郁乎断章〉に正されている――と書こうとして、よく見ると「都乎断章」(同書、五〇六ページ)とあるではないか。まさに「魯魚の誤り」。「上手の手から水が漏れる」とはこのことだ。4刷本よりも後で直っていたら申し訳ないのだが、自戒の念を込めて記しておく(私もよくやるのだが、えらそうにしているせいか、近頃では人様から指摘されることがない。おおかた、またやってるな、とスルーされているのだろう)。


編集後記 204(2019年10月31日更新時〔2020年3月31日追記〕)

吉岡実とクリムトあるいは「胚種としての無」を書いた。2019年は、近年になくクリムトばやりである。7月14日は、「ウィーン世紀末」を代表する画家グスタフ・クリムト(1862〜1918)の157回目の誕生日だった。アルチンボルドの展覧会もそうだったが、自分が密かに注目しているつもりの芸術家が満天下に曝されると、実に妙な気分になる。最初にそれを感じたのは、レッド・ツェッペリンの初来日公演の初日、会場の日本武道館を取り囲んだ聴衆の多さに度肝を抜かれたときだった(音楽評論家・大野祥之の〈1971年9月23日レッド・ツェッペリン衝撃の初来日公演がおこなわれた。〉が当時の熱気を伝える)。ときに、クリムトとシーレが亡くなった1918年は、フランスの詩人アポリネールが、世界的に流行していたスペインかぜで歿した年でもある。ギヨーム・アポリネール、11月9日死去。享年38歳。一方、グスタフ・クリムトは1月11日、脳卒中のため自宅で倒れ、(Wikipediaに依れば「肺炎(スペインかぜの症状悪化により発病)により」)2月6日死去。享年55歳。シーレの妻エディット、スペインかぜにかかり、10月28日に死去。エゴン・シーレも同じ病に倒れ、10月31日に死去。享年28歳。自己の芸術を生きた感のあるアポリネールやクリムトはともかく、シーレがせめてあと10年、画業を続けていたら、と考える。あたら。
《JimmyPage.com》は日日更新されるため、毎日愛読しているサイトだが、ジミー・ペイジの数十年にわたる活動記録を元ネタにしているせいか、その日(たとえば「10月31日」)の内容が1年前、2年前に既出のことがある。だが、2019年9月2日の〈I saw Kate Bush at the Hammersmith Odeon in London 02 Sept 2014〉はまったくの新規の記事だった。――Kate Bush is an artist and writer of some of the most extraordinary material I have had the pleasure to experience. From hearing “Man With A Child In His Eyes” written in her teens and on her debut album I knew this was a unique talent with a depth of profound understanding to all things musical. She continued to grow artistically and released a catalogue of fascinating lyrical music over the years.――というのがその冒頭のパラグラフで、デビュー以来ずっとフォローしていたことがうかがえる。ペイジはレッド・ツェッペリン時代、旧友のサンディ・デニー(1947-78)と〈The Battle of Evermore(限りなき戦い)〉を録音したのが女性歌手との唯一の共演で、ケイトとの共演もない。ツーショットでもあるかと画像検索してみたが、ロバート・プラントとケイトのそれしか見つからなかった。私はひところイギリスのソロ歌手で、男声はピーター・ゲイブリエル、女声はケイト・ブッシュが双璧だと考えていたが(二人はピーターの〈Don't Give Up〉で共演している)、とにかく当時のピーターとケイトの音楽がもつ色気は半端ではない。ペイジ(とプラント)がどこかのタイミングでケイトを迎えて共演していたら、どんなにすさまじいことになっていただろう。
●「レッド・ツェッペリン、50周年記念プレイリスト・プログラムに日本人アーティストとしては初となるザ・イエロー・モンキー選曲による「LED ZEPPELIN x THE YELLOW MONKEY」が登場! 本日9月27日よりザ・イエロー・モンキー選曲によるプレイリストが公開に!」ということで、吉井和哉セレクトの〈The Battle of Evermore(限りなき戦い)〉に始まり、菊地英二セレクトの〈Bonzo's Montreux(モントルーのボンゾ)〉に至る全12曲のリストが公開された(〈レッド・ツェッペリン x ザ・イエロー・モンキー〉)。《Led Zeppelin U》からは〈Whole Lotta Love〉と〈Thank you〉〈The Lemon Song〉、《Led Zeppelin V》からは〈Tangerine〉と〈Immigrant Song〉、《〔Led Zeppelin IV〕》からは〈The Battle of Evermore〉と〈Rock and Roll〉、5枚めの《Houses of the Holy》からは〈Over the Hills and Far Away〉と〈The Rain Song〉〈The Song Remains the Same〉、8枚目の《In Through the Out Door》からは〈All My Love〉、9枚目の《Coda》からは〈Bonzo's Montreux〉が選ばれている。例によって《聞々ハヤえもん》でオリジナルアルバムの曲順を並べかえて聴きなおすと、なるほどと感じ入ることが多い。驥尾に付して、この不世出のバンドの誕生50周年というアニヴァーサリー・イヤーを記念して、各アルバムから1曲ずつ、なるべくザ・イエロー・モンキーの選曲とかぶらないように10曲、択んでみた。私がOne Man Bandでカヴァーしてみたい曲でもある。こうして見ると、ハードロックバンドとしてより、「英国音楽史上もっとも大音量のフォーク・バンド」(小西勝の《英国フォーク・ロックの興亡》)としての楽曲が並んだ格好で、われながら興味深い。
@〈Good Times Bad Times〉……ボーナムのドラムス(ワンバス!)が驚異的。
A〈Ramble On〉……バンド解散後のステージでよく取りあげられる佳曲。
B〈Gallows Pole〉……バンジョーやマンドリンまで登場する、弦楽器の曼荼羅。
C〈Stairway to Heaven〉……この1曲でバンドは未来永劫、記憶されるだろう。
D〈The Rain Song〉……maj(メイジャー)7とm(マイナー)7の織りなすバラード。
E〈Ten Years Gone〉……ペイジのギターオーケストレーションの代表曲。
F〈Royal Orleans〉……ライヴでは演奏されなかったファンキーなナンバー。
G〈In the Evening〉……イントロ(ギターはストラト?)の不気味さは、ただごとではない。
H〈We're Gonna Groove〉……《U》発表後のライヴ音源が基。グルーヴがたまらない。
I《How the West Was Won》から〈Black Dog〉……切れ味抜群、ロック音楽の最高峰。
●かつて《レコード・マンスリー》(日本レコード振興株式会社:編)という新譜紹介を主とする音源情報誌があって、レコード店や楽器店で無料配布していた。その1969年の初夏ころの号を、毎年夏に行っていた母親の実家(新潟・佐渡)にまで持っていき、ほかに読むものもないから、それこそなめるように見ていた。そこに邦題《レッド・ツェッペリン登場》の広告が掲載されていた(それとも、目次わきの〈今月のアーチスト〉欄の記事だったか)。いま日本グラモフォン発売のアトランティックレコードの帯の画像を検索してみると「日本も襲うか! アート・ロックの巨星!!/《アート・ロック・シリーズ》」とある。帰京した私が小遣いをはたいてそのアルバムを購入したのは、夏休みの終わりか新学期が始まっていたか。東京・新宿はコタニ楽器店(1階がレコード売り場で、上の階が楽譜や楽器の売り場)で購入した。どこで買ったかまで覚えているのだから、ブツとしてのアルバムが当時、どれほど貴重だったか、おわかりいただけるだろう。それから半世紀。音楽におけるブツ(フィジカル)の存在感は、目減りの一途をたどっている。
●最後に、もうひとつLed Zeppelinの話題を。2度の来日ツアーを徹底特集した《レッド・ツェッペリン ライヴ・ツアー・イン・ジャパン 1971&1972〔シンコー・ミュージックMOOK〕》(シンコーミュージック、2019年10月18日)――実際に発売されたのは、奇しくもラグビー日本代表がアイルランドに勝利した9月28日!――が出た。版元の謳い文句に曰く、「1971年9月の日本公演は、ライヴ・バンドとしてのキャリアでは絶好調、メンバー全員が最も脂ののっていた時期で、最強のレッド・ツェッペリンが真に伝説的名演を繰り広げたツアーとなりました。その模様はブートレグを通して世界のファンの知る所となり、当時それを実体験できた日本のオーディエンスは、今も海外のZEPマニア達から羨望を集め続けています」。そうだったのか。1960年代末のロックミュージックの進化変貌の凄まじさは、50年を経た今日でも色褪せることがない。そうした奇跡の時代を象徴するのが、Led Zeppelinの(とりわけ最初の)来日公演だった。この日のことは〈編集後記〉でも厭になるくらい書いてきたから、いま改めて書くほどのことはない。バンドのデビュー直後からその解散を経て、所属レーベル(アトランティック・レコード)の創設者アーメット・アーティガンを追悼するステージでの再結集を(CDやDVDなどのメディアを通じて)見聞きしてきたことを、長年のフォロワーとして誇らしく思う。私にとって20世紀の、すなわち同時代の詩は吉岡実の詩であった(生を享けた時期の関係から、20年ほどスタートの遅れた追尾ではあったが)。そして、同時代の音楽とは、Led Zeppelinが創み出したそれだった。
〔2020年3月31日追記〕
とてつもない映像が出現した。〈ロックカーニバル#7  Led Zeppelin 1971.9.23 TOKYO〉という、Led Zeppelinの初来日公演初日(当日は、高校1年生だった私も日本武道館に馳せ参じた)のステージを収録した20分強の、おそらくは8mmフィルム映像(南2階から撮影)にオーディエンス録音の音源をシンクロさせたもの。Led Zeppelinは前座なしで、1曲め〈Immigrant Song〉からフルスロットルでとばす(ロバート・プラントのハイトーンヴォイスが炸裂している)。ジミー・ペイジの〈Heartbreaker〉のソロなど、記憶のなかのパフォーマンスのままだったので、にんまりする。私はこの日、ペイジが〈Dazed and Confused〉の半ばでヴァイオリンの弓で弦を叩いてエコーを返した音に合わせて客席を弓で指す決めのポーズ(映画《The Song Remains the Same》でご確認いただきたい)のとき、やおら立ちあがって8mmカメラを回しはじめた近くの青年を見て驚いたが、件の映像はコンサートの間中、ずっと回していたのではないか。いずれ、どこかのだれかが詳しく分析・紹介してくれるだろうが、絶頂期のかれらの演奏が映像とともに享受できようとは想わなかった。多くの書き込みのなかから、ひとつだけ引こう。“One of the most exciting 21 min ever in my life wow. I can only imagine what it was like being there. Watching that footage felt like watching a 1 minute video wow so captivating!”(Alex L.A.) かくなるうえは、これを観たペイジがライヴ音源を正式にリリースしてくれるのを俟つだけだ。
●元Creamのドラマー、ジンジャー・ベイカーが10月6日、亡くなった。享年80。ベースのジャック・ブルースは2014年に71歳で歿しており、Creamの残党はエリック・クラプトン一人になってしまった(同じくパワートリオとして勇名をはせたThe Jimi Hendrix Experienceは、早くにヘンドリクスを喪い、いま存命のメンバーはいない)。Creamは1968年11月の解散後、「2005年5月にも、解散前の最後のライヴを行ったロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで、10月にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、再結成ライブが行われた」(Wikipedia)。この再結成ライヴの様子は手軽に視聴できる。だが、私にはロイヤル・アルバート・ホールでの解散コンサートを中心に据えたドキュメント映像の、咥え煙草でドラミングを披露するオフステージのベイカーの姿が懐かしい(クラプトンは、サイケにペイントされたSGを手に、ウーマントーンを解説してみせた)。私は《Wheels of Fire》(1968)の〈Those Were the Days〉と《Goodbye Cream》(1969)の〈What a Bringdown〉(どちらもベイカーの作品)を聴いて、この口の悪い、名ドラマーを偲んだ。
●イラストレーター・装丁家の和田誠さんが、10月7日、83歳で亡くなった。和田さんの肩書は、職業名を列挙するよりも、丸谷才一も言うように「ルネサンス人」とでも称すべきだが、私には「イラストレーター・装丁家」である。あれはいつのことだったか、本の外装に管理用のバーコードを入れるのに反対するシンポジウムが開かれ、出席した和田さんは流通用に必要なことは百歩譲って認めても、例えばジャケットや帯に貼った透明なタックシールに表示することで、買ったあときれいに剥がせるようにできないか、という提言をした。現実的な意見だったと思う。ところで、吉岡実が愛読した新聞は《朝日新聞》、週刊誌は《週刊文春》だった(陽子夫人談)。同誌編集部によれば「和田さんには、1977年5月12日号より「週刊文春」の表紙をご担当いただきました。「週刊文春」の表紙に、最低限の文字しかないのは、ひとえに、和田さんの絵の魅力あってのことです。」(〈和田誠さん逝去 42年の長きにわたって「週刊文春」と共に|文春オンライン〉)とあり、吉岡は晩年の十数年間、和田誠・表紙絵の《週刊文春》を読みつづけたことになる。和田誠さん、永いことありがとうございました。そして、お疲れさまでした。


編集後記 203(2019年9月30日更新時)

吉岡実と森家の人人を書いた。今年の春に〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉を編むのに際して、同ページの口絵写真に掲げた〔初出形〕のファイルをチェック作業がしやすい処に配置した。ついでに、最近あまり使っていなかった資料(吉岡家蔵の切り抜きファイル)を手許に置いてパラパラ見ていたら、小堀杏奴の随想の内容が気になった。というのも、2019年1月4日の《森於菟『父親としての森鴎外』(1) - 瑣事加減》に、本文でも触れた於菟夫人・富貴の〈あとがき〉を引いてから――未亡人の発案により、〔初刊の〕新書版を元に増補した、と云うより、新書版と同じ「父親としての森鴎外」を表題作としながら鴎外関係の著述を網羅する形で新たに編成したもので、版元が関与した時期は昭和44年(1969)の初夏から12月21日の三回忌まで、かなり急いで編集・刊行されたことが分かる。/森茉莉の紹介した吉岡氏は吉岡実(1919.4.15〜1990.5.31)であろう。――という指摘があるのを読んでいたからだ。一体に私が吉岡実についてなにか書こうとするとき、一つの素材ではそれほど食指が動かない。吉岡実の読者で、いろいろなものを読んでいる人と、たいして変わらないことしか想い浮かばないからである。それが二つないし三つ揃うと、なにかが発動して私にペンを執らせる。もっとも、それがうまく形を成すかは、実際に書きはじめてみないとわからない。今回は吉岡実が於菟・茉莉・杏奴の兄妹の文章にそれぞれどう係わったか(あるいは係わらなかったか)が書ければよかったのだが、どうやらそこまで到達していないようだ。三兄妹以前に、なによりもまず、鴎外の文業を振りかえってみなければならない。吉岡が装丁した(に違いない)筑摩版の鴎外全集は、いま書架に束ねている。なお、本稿の註でリンクを張った村松嘉津《プロヷンス隨筆》(2003年12月31日〔2004年7月31日追記〕)だが、表記上の不備が目についたので、若干の手入れを施した。本稿と併せてお読みいただけば、同書の初刊(1947)、〔新版〕(1970)、〔新装版〕(2004)の概要がつかめるだろう。ときに、この初刊より4箇月前に出た小堀杏奴《春》(1947)には、スミとアカで書名と著者名を刷った、表紙とまったく同じ絵柄のジャケットが付いている。私は村松の初刊を2冊しか古書で見ていないが、ジャケットはなかったし、インターネット上で書影を検索してもその存在は確認できない。著者が、敬愛する杢太郎の絵に文字を載せることを拒んだせいかもしれない。
●久しぶりに本サイトの制作方法について書いてみよう。今回は画像まわり。ご覧のかたにはおわかりのように、ここに掲載する画像の大半は吉岡実関連の書影である。本は三次元の物体だから、外装を写すときに束[つか]が出るよう、パースをつけることがあるが、私はこの方法を採らない。私は原則として本の平[ひら]をスキャンするように、消失点を設定しない。これによって、多種多様の印刷物に、ある統一性を与えることができる。また、被写体が本の函なのか、ジャケットなのか(私は「カバー」の語を使わない)、表紙なのか、キャプションで明示する。読者として、書影のそれがなんなのか、キャプションに書かれていなくて歯痒い想いをさせられることがあまりに多いからである。本体を見ていない人は、「それがなんなのか」を知りたいのであって、画像に写っている書名等は(本来は)不要である。そうしたこともあって、最近、私は画像になるべく多くのことを語らせたくなった。さいわいなことに、今の表示環境は掲載する画像の容量をさほど気にしなくてすむので、それが可能である。振り返れば、開設当初は画像編集ソフトで「ウェブページに掲載」を選んで軽い容量=粗い画質に変換してきた。8月の〈吉岡実と浅草(1)――喫茶店アンヂェラス〉に掲載した写真はみなこれである。一方、今月の〈吉岡実と森家の人人〉の「吉岡家蔵のクリアファイルに保存されていた、掲載紙等不明の小堀杏奴の随想〈誰も知らない!〉の切り抜き〔モノクロコピー〕」(ただしこれはカメラで撮ったものではなく、スキャン画像である)と「小堀杏奴の小説・随筆集《春》(東京出版、1947年4月20日)と村松嘉津《プロヷンス隨筆》 (同、1947年8月20日)の表紙〔どちらも表紙絵は木下杢太郎の手になる〕(左)と《春》と《プロヷンス隨筆》の本扉(右)」(2点ともデジタルカメラで撮影)は色調を整え、トリミングしてあるが、オリジナルの解像度はそのままに、天地・左右のピクセル数を指定して縮小した画像を貼り込んである。画面表示が100パーセントだと「軽い容量=粗い画質」のものよりも見づらいかもしれないが、たとえば400パーセント表示にすると、その差は歴然とする(Internet Explorerの「印刷プレビュー」の表示も同様。ちなみに私は、入力や修正の作業をしたあと、そのたびに「印刷プレビュー」で確認してからプリントアウトする)。さらに、家庭用のインクジェットプリンタで出力する場合も、細かい文字まで再現できるようだ。細かい文字や図柄を読んでもらいたい画像は、今後もこの方式でいくので、読者におかれてはよろしくご活用いただきたい。ついでながら、〈詩の未来へ――現代詩手帖の60年〉展のこと〉に掲載した「広瀬川の朔太郎橋のたもとにたたずむ萩原朔太郎の像と〈詩の未来へ――現代詩手帖の60年〉展会場の前橋文学館」の出入口のガラス扉に映りこんでいるのは、撮影者である私自身だ。
●丸谷才一《別れの挨拶〔集英社文庫〕》(集英社、2017)は折に触れてひもとく一冊だが(丸谷の最後の著書だ)、〈クヮルテットを聴かう〉は、ふだんなじみのない弦楽四重奏曲への興味を掻き立ててやまない。丸谷はどこか別の処で(《持ち重りする薔薇の花》でだったか)、ボッケリーニのことを褒めていた。この7月に85歳で亡くなったオランダのチェリスト、アンナー・ビルスマを偲んで、ボッケリーニの弦楽五重奏曲、そしてバッハ《無伴奏チェロ組曲》を聴くことにしよう。
●ビートルズの事実上のラストアルバム《アビイ・ロード》発表50周年を記念したエディションが数種類、出た。私は本作に特別の思い入れがあるので(〈編集後記 83〉参照)、完全生産限定盤の【50周年記念スーパー・デラックス・エディション】(3SHM-CD+Blu-ray Audio付)を事前に予約して、数日前に入手した。レヴューは今後いたるところに書かれるだろうから、このエディションが私にとって4番めの(そしておそらく最後の)音源――国内盤LP・発売当初の国内盤CD・2009年のデジタルリマスター盤CD・今回のエディション――だと記すにとどめる。中山康樹はかつてこう書いた。「『レット・イット・ビー』を最後のアルバムにしたくなかったビートルズ、とくにポールは再度ジョージ・マーティンに声をかけると同時に三人を説き伏せ、ビートルズのラストを飾るにふさわしいアルバムを作ることを提案する。換言すれば『サージェント・ペパーズ』で架空のバンドに扮したように、今度はビートルズ≠ノ扮して最高のアルバムを作ろうというわけだ。それが『アビー・ロード』の真実だ。」(《これがビートルズだ〔講談社現代新書〕》、講談社、2003年3月20日、二三五ページ)。そのジョージ・マーティンは、音楽的遺言であるプロデュース作品《イン・マイ・ライフ》(1998)のラストを、ショーン・コネリー(《薔薇の名前》のバスカヴィルのウィリアム!)が朗読するジョン・レノンの傑作〈イン・マイ・ライフ〉で締めくくった。収録曲の半数近くがレノン作であり、ビートルズ末期では角逐をとりざたされたレノンへの追悼盤の意味も込めていたに違いない。ビートルズのカヴァーアルバムとして、私にとって忘れることのできない一枚だ。新刊の川ア大助《教養としてのロック名盤ベスト100〔光文社新書〕》(光文社、2019年7月30日)は《アビー・ロード》(第10位)を「本作によって人々は「ビートルズほどのバンドでも、終わる」ということを知った。これほどの才能が揃い踏み、これほど多くの人々から愛されていたのに――やはりときが来れば、最後を迎える。まるで「人生そのもの」のように。アルバムを再生するたび、聴き手は人生の有限性を(結果的にではあるが)追認させられた。/どんな夢でも、終わりは来る。そして人生には、苦みと痛みばかりが連続する、こともある。「だがしかし」ときに生じる、雲間から差し込む一条の光のような幸せのありかたをこそ、ビートルズは指し示そうとした。そのことの証明が、本作だ。」(同書、二一七ページ)と総括している。なお、同書の〈クイーンはなぜベスト100に入らなかったのか?〉――もくじでは〈○○はなぜベスト100に入らなかったのか?〉とあるが、書いてしまった――は短文ながら、卓れたクイーン論。私は想い出す。あれは1991年にユー・ピー・ユーが創刊した《i-D JAPAN》の打ち合わせで、同誌の本家創刊者テリー・ジョーンズが来日したときのことだ。歓迎の宴が神楽坂の料理屋で開かれた。私はテリーの隣に坐っていた。当時、私は同社の《エスクァイア日本版》のプリンティングディレクターを務めていた。一方、《i-D JAPAN》のそれは別の若い社員が担当していた。業務上の話題もないから、イギリスの音楽事情でも、と思って何気なくクイーンの名前を出すと、お前はクイーンなんか聴いているのか、という蔑んだ調子で返されたので、話の接ぎ穂がなかった。川ア大助は本書(リストの順位は米《Rolling Stone》と英《New Musical Express》の名盤リストから「数学的に」算出)の〈おわりに〉でこう書いている。「まずもって、「絶対に変だ」と僕が自信を持って言いきれるのが「エルヴィス・プレスリーがいない」ということだ。イーグルスもいない。エルトン・ジョンだって、いたっていいじゃないか! それよりも問題なのが、クイーンやザ・ポリスやU2やレッド・ホット・チリ・ペッパーズがいなくても、いいのか? なぜなのか?/ここらへんへの答えはすべて「イギリス人が嫌っているから」だ」(二六七ページ)。なるほど。テリー・ジョーンズはたしかイギリス人だった。


編集後記 202(2019年8月31日更新時〔2020年7月31日追記〕)

吉岡実と浅草(1)――喫茶店アンヂェラスを書いた。本文で触れたとおり、浅草を訪れたのはアンヂェラスの閉店9日前の2019年3月8日だった。東京メトロ銀座線の浅草駅で降りて、アサヒビールの黄金の雲形オブジェを背に、雷門を過ぎて二つめの角を右に入ったオレンジ通りに面した処(雷門の前には、てんぷらの三定[さんさだ]や玩具屋のアオノヤが、仲見世には銀花堂があり、これらは吉岡実の日記や随想に登場する)。アンヂェラスは店の前に並んでいる人が多いので(外で案内する男性の話では、休日には午前9時の開店前に100人くらい並ぶという)、30分ほどで切りあげた。ついでに3階まで上がってみた。そのあと、観音様にお参りし、浅草寺の境内を歩いた。いずれ折をみて、続篇〈吉岡実と浅草(2)〉を書きたい。
●太田大八さんが亡くなられて、この8月で3年になる。最近、1960年ころに太田さんが挿絵を手掛けた児童向けの全集本を2冊、入手した。当時(昭和中期)の児童書は、細部まで手を抜かず、ていねいに造られていて、挿絵もその例にもれない。かつての偲ぶ記事の末尾にそれらの何点かを〔追記〕して、挿絵画家としての太田大八を顕彰した。堪能されたい。
●YouTubeにはときどき目を瞠るような動画がアップロードされている。先日はイタリアのプログレッシヴロックバンド、PFM(Premiata Forneria Marconi)にイアン・アンダーソン(元Jethro Tull)が客演して、〈ブーレ〉(原曲はもちろんJ・S・バッハ)をやっているのを観て、感涙にむせそうになった(PFM & Ian Anderson - Bouree - Live Prog Exhibition)。〈ブーレ〉といえば、ロックとは相性が好くて、1970年代にはLed Zeppelinのジミー・ペイジが〈Heartbreaker〉のギターソロにさわりを織り込んでいたし(Led Zeppelin - Heartbreaker - Live Earls Court)、Alcatrazz時代のイングウェイ・マルムスティーンにいたっては、右手のタピングも交えながら、繰り返しなしでクラシックギターそこのけに決めている(Alcatrazz(Yngwie Malmsteen) - Coming Bach)。最近では、ヨハン・セバスチャンばりに鬘と衣装で身を固めたSon of a Bach(ギターのJohannes Weik、ドラムスのFlorian Weik)もある(Son of a Bach - Bourree)。バッハの〈ブーレ〉もさることながら、心底驚いたのはアントワーヌ・バリルの〈One Man Genesis〉だ(アレンジ、演奏、録音、撮影のすべてをこなす)。冒頭に出てくる「AND THEN THEY WERE ONE...」(つまり、Genesisは「三人が残った」のではなく、じつは「一人だった」)という人を喰った宣言が、最後には否応なく首肯されるという途方もない映像=音響なのである。作曲者(たち)と演奏者に敬意をこめて、曲目を紹介しよう。@Watcher of the SkiesADance on a VolcanoBFly on a WindshieldCFirth of FifthDDancing with the Moonlit KnightESupper's ReadyFThe Cinema ShowGRobbery, Assault and BatteryHDown and OutIAll in a Mouse's NightJSecond Home by the SeaKLos Endos――以上がほとんどオーヴァーダブなしの(ヴォーカルパートもなし)、ギター、キーボード、ベース、ドラムスによるメドレー。そしてエンディングのLThe Brazilianが来る。決してハケットやラザフォードのギターやベース、バンクスのキーボードが簡単だとはいえないが、コリンズのドラムス(とりわけあの鬼のような〈Down and Out〉)をこれだけ叩けるのは、プロのドラマーでもそうざらにいないのではないか(バリルの本職はドラマー)。私はこの17分間に完全にノックアウトされた。今までに視聴した一人多重演奏の最高のクリップは、文句なしにこの〈One Man Genesis〉である。
●1945年前後に生まれた英米のロックミュージシャンも70歳台の半ばを迎える。ある者はすでに鬼籍に入り、ある者は人前でのパフォーマンスをやめ、ある者は自らアーカイヴをまとめて生涯の決算を試みている。この世代の楽器の演奏者では、ドラムスやエレクトリックベースをプレイする者が早逝する傾向にあるようだ。そこへいくと、ギターやキーボードの奏者は長命のような気がする。だが、肉体面の管理がいちばんたいへんなのはヴォーカリストだろう。私はミック・ジャガーになんのシンパシーも抱いていないが、そちらの面に関するかぎり、脱帽せざるをえない。最近YouTubeで視聴して驚いたのは、イエスのリードヴォーカルを永年務めたジョン・アンダーソンが往年のスタイルのままでイエスのナンバーを歌っていることだ(ややこしい説明で申し訳ないが、イエスという看板はスティーヴ・ハウが継承しているらしい)。Wikipediaによれば、アンダーソンは「2016年に、元イエスのメンバーであるリック・ウェイクマン、トレヴァー・ラビンとアンダーソン・ラビン・ウェイクマン(ARW)を結成し、ワールド・ツアーを開始。このバンドは翌年4月に、イエス・フィーチャリング・アンダーソン・ラビン・ウェイクマンに改名している」。(元)イエスのかれらの2017年3月25日、英国はマンチェスターのアポロでのライヴが《Yes featuring Anderson Rabin Wakeman Yes Live At The Apollo》だ。繰り返しになるが、アンダーソンのヴォーカルが圧倒的に素晴らしいために、ラビン(チョークアップしたときの音の美しいこと!)やウェイクマン(鍵盤に囲まれた、あのマント姿!)ものびのびとプレイしている。サポートのベーシスト(サウスポー用のリッケンバッカーに右利きと同じ弦の張り方をしている)、リー・ポメロイがクリス・スクワイアのコーラスパートまでこなしているのには、感心させられた。ドラムスのルー・モリーノ3世も悪くない。演奏では、《Going for the One(究極)》(1977)からの〈Awaken〉がベストか。誰かが言ったように、これはマーラーか。プログレのバンドのライヴは、ほんとうに怖ろしい。
〔2020年7月31日追記〕この項に置くか、前項に置くか迷ったのだが、Yesつながりということで。アントワーヌ・バリルの新作〈One Man Yes〉がついに公開された。前作〈One Man Genesis〉のあと、バリルは本業のドラマーとしてGenesisのトリビュートバンド「The Musical Box」で太鼓を叩いていたようだが、かねて予告の大作が発表された。Yesの全作(とくに近年の作)をフォローしきれていない私には、初めて聴く曲もあった。あえてセットリストは挙げないが、フルヴァージョンのライヴコンサートを視聴したほどの感銘を受けた(ロックでは珍しい、あのフルアコのエレキギターやラップスティールギターでスティーヴ・ハウのプレイを完璧に再現するバリルのギタリストとしての腕は驚嘆に値するし、リッケンバッカーのベースでクリス・スクワイア――ミュージシャンへの敬意を表すクレジットの冒頭に「CHRIS SQUIRE(RIP)」が登場する――のフレーズをゴリゴリと弾きまくる姿は、鬼神のようだ)。Bravo! Antoine Baril. あなたはOne Man Bandの歴史に新たなページを書きくわえました。


編集後記 201(2019年7月31日更新時)

東博歌集《蟠花》のことを書いた。本文は憶測めいたことを書きつらねる処ではないので、気になることをここに記す。田中栞《書肆ユリイカの本》(青土社、2009)を読んでも伊達得夫と東博[あずまひろし]の(歌集の)関係がどうもよくわからない。まず、書肆ユリイカ発行の歌集自体が数多くない。いま手に入る古書といえば、○蟠花 東博 1959 ○断章 前田透 1957 ○宇宙塵 加藤克巳 1956 ○未知 森岡貞香 1956 くらいで、国立国会図書館所蔵分も、これに○冬の虹 黒沢武子 1958 が加わるだけだ。短歌の結社とそのグループ所属の歌人の著書(すなわち歌集)の関係は詳らかにしないが、版元としては継続的な受注が見込めて、経営的には安定した利益をもたらすことになるだろう(その作品の質さえ問わなければ)。だが、書肆ユリイカの歌集群にはそうした様子はうかがえない(戦前の〔日本歌人叢書〕は日本歌人社から、戦後のそれは日本歌人発行所から、主に出ている。すなわち、多くの同人雑誌が同人の運営する版元から出ているように)。伊達の手掛けた詩書のほとんどは詩集であり、吉岡たちの《鰐》のように、同人詩誌の出版元になったことも多い。それに対して、短歌や俳句の多くは結社の主宰者のもとに会員である歌人、俳人が集い、同人詩誌のフラットな人間関係とは異なる。伊達得夫も、吉岡実も、(おそらく東博も)そのあたりのことを書きのこしていないので、刊行の経緯はわからない。
●鳥海修・岡昌生・美篶堂(永岡綾:取材・文、本づくり協会:企画・監修)《本をつくる 書体設計、活版印刷、手製本――職人が手でつくる谷川俊太郎詩集》(河出書房新社、2019年2月18日)をしばらくまえに読みおえた。感銘が深くて、いままで本欄に記すことができなかった。気を取りなおして、アンダーラインしたい箇所を引く(パーレン内の数字は、本書掲載ノンブル)。
――詩集における文字のサイズは、本の判型と文字量の兼ね合いで決まる。判型に収まるからと文字を大きくすればいいというものでもなく、それが幼く見えたり、声高に感じられたりすることもある。反対に、小さくし過ぎてしまえば、言わずもがな、読みにくい。さらに、文字のサイズと相関関係にある余白は、そのありようによって言葉の響きや余韻が変わってくる。つまり、文字のサイズと余白を如何様[いかよう]にするかというのは、非常に感覚的且つ重要なことなのだ。岡さんが決めた10ポイントというのは、級数に換算すると約14級。図らずも、「およそ14〜16級で組まれる」という鳥海さんの想定とぴたりと合致していた。(115)
――今のレイアウトソフトは、実によくできています。そこには、活版印刷が積み重ねてきた組版の叡智[えいち]が詰まっています。ただし、それは使いこなしてこそのものです。使いこなすには、使う人が理解していなければなりません。理解するとは、組版のルールを知っていてオペレーションができるということではなく、組むものの内容を汲み取って、そこに魂を入れられるか、ということです。(129)
――先ほどお話ししたように、金属活字はサイズに合わせて最適なデザインが用意されています。これを「オプティカルサイズ」と呼ぶのですが、近年、この考え方を取り入れたデジタルフォントが出てきました。例えば、クリフォード(Clifford)がその一つです。この書体は日本人タイプディレクターの小林章[こばやしあきら]さんがつくったもので、〔……〕。実際、クリフォードで組んだものは、デジタルフォントで組んだものにありがちな頼りなげな感じがなく、活版印刷したものに近いクオリティに仕上がります。(138)
――「表紙にしろ、内貼にしろ、とにかく詩と文字と印刷が映えるようにと考えました。また『私たちの文字』に併録する詩が『雪の降る前』になったことを意識して、白いものを中心に集めました。これらの素材すべてで試作をしてみるつもりです。通常の仕事では、コストの問題もあり、なかなかそこまではできません。自分たちで考えてつくる本だからこそです。それに、私たちはデザイナーではありませんから、頭で考えるよりもつくるほうが早いのです」/どんなに精密な設計図を描いたところで、実際に手を動かしてみなければ細部まではわからない。どんなに素晴らしい素材も、それが本になったときによいかどうかは形にしてみなければわからない。手仕事における迷いは、本来、手によってしか解決できないものなのだ。(167)
――〈ブックケース〉全篇(196〜198)
――製本では、そういう種類のプレッシャーはありませんでしたね。それは、製本が僕にとって「好きなこと」ではなく、「向いていること」だからではないでしょうか。僕はおそらく「平面」よりも「立体」に向いているのです。絵は平面です。たとえ手描きされた質感のあるものであっても、目で見て味わうものです。一方、製本で扱うのは立体的な造形物です。物理的にそこに存在して、直接触れられるし、動かせる。好きなのはどちらだと問われれば、未だに「平面」です。しかし、製本を通して、自分に向いているのは「立体」なのだと気付きました。(206)
「書体設計」から引いていないのは、組版や製本がまがりなりにも自分でできるのに対して、書体設計は逆立ちしてもできないという自信(?)があるからで、感銘を受けなかったどころではない。私にとって、鳥海修著のパートが最も濃密であったことを告白しなければならない。言い忘れたが、本書は「詩集づくりの軌跡を記した本」(196)で、本体の詩集《私たちの文字》(美篶堂、2019年2月〔日の記載なし〕)は500部刊行の特装本。革表紙本(限定50部)は、本書を読了した時点で売り切れ、そこで和紙表紙本(限定450部)を予約、入手した。じつは私は、《私たちの文字》で用いられている蛇腹製本を以前に試みたことがあるのだ(〈吉岡実と土方巽〉の〔追記〕に「土方巽〈病める舞姫〉の雑誌連載(《新劇》1977年4月号〜1978年3月号〔1977年11月号と1978年2月号は休載〕)のコピーを小林一郎が折本に仕立てたもの」として、写真を掲げた)。この折本=蛇腹製本、袋の部分が(仮に、小口側と背側に)交互に現れて均されるので、折丁の袋は一方だけ膨れることがないため、力学的にも優れた綴じかたになっている。《私たちの文字》は谷川俊太郎の詩集(2篇とはいえ)として、特筆大書すべき一本となった。美篶堂の製函・製本の仕上がりが美しいことは、言語に絶する。いつの日にか、書体設計以外のすべての工程をこなして、天下の孤本をつくるのが私の希みだ。書くべき本は、むろん《吉岡実頌》である。
●秋山大輔《沢田研二と阿久悠、その時代――井上堯之さんに捧ぐ》(牧歌舎東京本部、2019年3月11日)を読んだ。「沢田研二が残した足跡、功績を様々な証言や資料をもとに再構築。安井かずみ、加瀬邦彦、なかにし礼、阿久悠といった様々なクリエーターが、沢田研二という素材を得て、新しい文化に挑戦しようとした息遣いを伝える」と内容紹介にあるように、本書を一言で要約するのなら、阿久悠作詞・大野克夫作曲の〈時の過ぎゆくままに〉(1975)をメインテーマにした、フロントマン沢田と阿久をはじめとする作家たちの楽曲/物語である。沢田研二ファン以前にタイガースファンだった私としては、次の一節を引かないわけにはいかない。「考えてみれば、安井かずみの沢田研二への貢献はファンも頭の中では理解しながら、阿久悠の存在により脳裏の奥に仕舞われてしまっているのが現状ではないだろうか。/『シー・シー・シー』は加瀬邦彦と組んでタイガースに提供した初期の作品である。そして見逃してはならないのが、タイガースファン、沢田研二ファンの愛の賛歌と言える『ラブ・ラブ・ラブ』である。タイガース初期〔中期であろう〕の名曲の数々を手がけた村井邦彦が作曲しているが、安井かずみが作詞したこの曲は明らかにビートルズの『All You Need Is Love』のエピゴーネンと言われていても仕方がないかもしれない。しかし冒頭の「時はあまりにも 早く過ぎゆく」から独自の安井ワールドが炸裂し、ビートルズの模倣等の概念を完全に吹き飛ばしてしまっているのだ。この曲が作成された時期に加橋かつみのハイトーンが無かったのは本当に残念でならない。村井邦彦の荘厳な曲調が今でもファンの涙を誘うのである。」(同書、一二一ページ)。そうか、この曲こそバンド(ザ・タイガース)時代の〈時の過ぎゆくままに〉だったのか。そして次の箇所。――「『エスクァイア』という雑誌がある。平成3年9月号に沢田は「沢田研二っていうのは、どこにもいない」と題したインタビューを受けている。当時43歳であり、20代から30台〔ママ〕への狂騒的時代を客観的に振り返れる年齢になったということであろうか。沢田は全盛期をこう振り返っている。/「〔……〕自分は一体何なんだっていったら、そりゃジュリー≠ナあるし、沢田研二≠ナあるし、みたいなところでずーっとやってきて。最近ではもう、自分でいう必要もなく、ロックだという人はロックだというし、みたいに……。それはそれで自然の流れなのかなと思うしね」(『エスクァイア』1991年9月号)」(同書、三三〜三四ページ)。ところで、私は当時《エスクァイア日本版》の製作進行を担当していたが(奥付にはProduction Managerとある)、この記事は「近況報告」だと受けとった。むしろ季刊で創刊した1987年春号掲載の沢田のモノクロのプロフィール写真(全面截ち切り)に衝撃を受けた。それまでの沢田のイメージとまったく異なる、ひとりの孤独な男をそこに見たからである。最後に、本書の編集に苦言を少少。前掲文にある元号と西暦の併用(混用?)は意図的なものなのか。また荒井/松任谷が「由美」だったり「由実」(これが正しい)だったりすると、それだけでげんなりとしてしまう。ときに、中川右介《阿久悠と松本隆〔朝日新書〕》(朝日新聞出版、2017年11月30日)の袖には「沢田研二、ピンク・レディー、山口百恵、松田聖子……歌謡曲が輝いていた時代の記録。/日本の大衆がもっともゆたかだった昭和後期。阿久悠の「熱」と、松本隆の「風」がつくりだす《うた》の乱気流が、時代を席捲しつくした。なぜあんなにも、彼らの作品は、私たちをとらえてはなさなかったのか。」とある。同書では、阿久悠と沢田研二の関係が久世光彦を媒介に語られる。膨大な公表資料を駆使して昭和の末年を叙す中川の筆致は、群像を描くときとりわけ熱い。その一方で、われわれはかつてこういう世界をもったのだという全体を見る目は、虚無的なまでに涼やかだ。細部に宿るのは、神だけではない。


編集後記 200(2019年6月30日更新時)

挨拶文のない署名用の栞〔高橋康也宛〕のことを書いた。そこで取りあげた《うまやはし日記》(書肆山田、1990年4月15日)の署名箋はおそらく4月末か遅くとも5月初めに吉岡実が他者に向けた書いた最後期のそれで、ふだんならパーカー製の万年筆にブルーブラックのインクでペン書きするか、毛筆(それとも筆ペン?)で署名するところ、太めの黒のマーカーで「呈 吉岡実」とある。だが、その文字に力なく(1988年の《ムーンドロップ》の署名箋に書かれた毛筆の見事なこと!)、1990年の5月末に永眠することを考えると、感慨なしに眺めることができない。
●本文でも書いたが、上記の〈挨拶文のない署名用の栞〔高橋康也宛〕〉は、2月にアップした署名用カードについて書いたときから構想していたもので、草稿は2月掲載分の本文に連続して執筆した。自作自演の楽曲を連ねたアルバム(作品集)をつくったことはないが、あるセッションから複数の楽曲が誕生したあと、それを最良の姿にするために、@アレンジ、A本番の録音、Bミックス(編集)、最後にC曲順の決定、という手順になるだろう。これを本サイトにそのまま当てはめることはできないが、モチーフがあって、草稿を書いて、手入れを繰りかえし、脱稿する、という具体的な作業の一方で、いつアップするかが重要になってくる。毎月末に一本、吉岡実に関する新規性のある文章を公開するというシンプルな方針でも、それなりに気を巡らせなければならないことがある。たとえば、後日の〔追記〕といった形をとらないようにするために、調査を徹底すること。話は変わるが、私はまえまえから吉岡実詩の〔初出形〕を発表順に通読したいと念じていた。ところが、これは何度も書いたことなので気が引けるが(詩篇〈模写――或はクートの絵から〉初出発見記ほか)、〈模写〉の場合、〔初出形〕はおろか初出発表媒体すら判らず、これを先に片づけないことには〔初出形〕の通覧などおぼつかないという期間が、私にとっては気の遠くなるくらい続いた。さいわいなことに初出は見つかり(インターネット上のオークションのおかげである)、吉岡実の生誕100年に合わせて、〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉を形にすることができた。それもこれも、かねてからの計画と(執念と?)素材の蓄積があればこそ、である。
●今月はもう一本、〈詩の未来へ――現代詩手帖の60年〉展のことを書いた。
●この〈編集後記〉を書きながら気が付いたのだが、本サイトの定期更新が今月で200回を迎えた。100回めは2011年2月で、吉岡実詩集《薬玉》本文校異天澤退二郎《紙の鏡》の装丁について書いている。試算してみると、300回は8年後の2027年10月。50年間、詩を書きつづけた吉岡実と較べれば、本サイトの200回17年、300回25年などたかが知れているが、それなりに感じる処がないでもない。いちばんはっきりしているのは、定期的に文章を書きつづることで改めて吉岡実の事績に対する敬意を深くしたことで、人様や10年後、20年後の自分に見せて恥ずかしくないものにしたいという姿勢がなかったら、私ひとりの調査研究など、なにほどの成果も上げられなかっただろう。そうした観点からすれば、全詩集未収録の未刊詩篇の発掘や12冊の単行詩集の本文校異などは、多少とも見るべき仕事かもしれない。そしていま、その実現の可能性を度外視して述べるなら、随想集や評伝、日記などの散文の本文校異は、一読者としての私が待望する筆頭案件だが、はたして実現できるものやら。
編集後記 177(2017年7月31日更新時)で著書《真実のビートルズ・サウンド完全版――全213曲の音楽的マジックを解明》(リットー・ミュージック、2017年4月13日)を紹介した川瀬泰雄が、今度は《ビートルズ全213曲のカバー・ベスト10――Cover Rankings Of All Beatles Songs》(同、2019年3月22日)というとてつもない本を出した。版元の謳い文句を摘する。「世界で最も有名かつ偉大なバンド、ビートルズ〔……〕の楽曲にはカバー・バージョンが数多く存在するが、実は公式リリース楽曲213曲はすべてカバーされており〔……〕、その数なんと数万曲にのぼる。〔……〕川瀬泰雄が、誰でも知っているメジャー曲から知る人ぞ知る超レア曲まで15,000曲を超える膨大なカバーの中から各曲について10曲を選び、ランク付けする。ベスト3にはジャケット写真と詳しい解説を付す。ビートルズがのちの音楽シーンに与えた影響を探る一冊としても最強のディスク・ガイド。オールカラー。」――これがどれほど破格な試みなのかは、規模こそ異なるとはいえ、吉岡実の全詩286篇の初出〜定稿を調査し、比較・校合した私にはわかる。213曲の3倍の数の曲の解説を書き、音源のジャケットを掲載するだけでも厖大な作業で、楽曲そのものが骨の髄まで好きでなければできない。ベスト10の順位はこうじゃないだろう、あのアーチストのこのバージョンが入ってないのはどういうわけだ……という不満は(もちろん私にもあるが)、この構想の壮大さ、意志の堅固さのまえには吹きとんでしまう。アーチスト名、アルバム名が原綴りで掲載されているので、YouTubeで視聴できる音源も多い。私はYellow Matter Custard――ジョン・レノン作の〈I Am the Walrus〉の歌詞から採ったビートルズのトリビュートバンドで、メンバーはマーク・ポートノイ(d, v)、ニール・モース(k, g, b, v)、ポール・ギルバート(g, v)、マット・ビソネット(b, v)という腕っこき――のライヴ《One Night In New York City》(2003)を堪能した(ベースが交替した2011年のライヴも必見)。ビートルズが生演奏しなかった中期〜後期の曲もなんなく再現するばかりか、あの〈Free As A Bird〉(1995)までやっているのにはびっくり。さらに驚くのは、アンコールからの数曲を4人で歌い、演奏しきってしまうことだ(曲目は聴いてのお楽しみ)。ギルバートは全213曲が弾けるらしいから、このプロジェクトを満喫したことだろう。
●何年かに一度、グールドが猛烈に聴きたくなる。今回のきっかけははっきりしている。《蜜蜂と遠雷》のせいだ。恩田陸は、宮部みゆきと並んで私が最も愛読する小説家だが(と書く以上、男性・女性を問わず現代作家の小説はほとんど読まないことを告白しなければならない)、本作はなぜか新刊で読みそびれ、この4月に出た上下巻の文庫で初めて読んだ。「彼〔マサル〕はジョギングの時に音楽を聴いたりしない。/それでも頭の中には滔々[とうとう]とバッハが流れる。朝の音楽はバッハだ。一次予選の課題にもなっている平均律クラヴィーア。今朝は、グールドではなくレオンハルトのほう。」(《蜜蜂と遠雷(上)〔幻冬舎文庫〕》幻冬舎、2019年4月10日、一四三ページ)を読んで、おお、グールド。グールドがいた、と時ならぬブームが再燃した。だが、私にとって今朝は《ゴルトベルク変奏曲》だ、と1955年盤と1981年盤のカップリング(単体ではすでに持っている)、そして1959年のザルツブルグのリサイタル(これは初めて聴くライヴ盤)と立て続けに聴いた(私がいちばん打たれたのは1957年5月12日、ソヴィエトはモスクワ音楽院小ホールでのライヴ録音盤の《ゴルトベルク変奏曲》〔第3・18・9・24・10・30曲〕。7分余りに過ぎない抜粋とはいえ、全曲盤がマクロコスモスなら、この6曲盤はミクロコスモスであり、とりわけ第10・30曲のメドレーに戦慄する)。私は専門の音楽教育を受けていないが、パイプオルガニストの塚谷水無子《バッハを知る バロックに出会う 「ゴルトベルク変奏曲」を聴こう!》(音楽之友社、2013年6月30日)は楽しく通読できた(理解できたどうかは別問題)。「バス定型さえあれば、何百種類でもヴァリエーションが作り出せる。そしてリスナーに愛されたオスティナート。1時間余りの間、ほぼまったく同じコード進行がノンストップで繰り返されるとは、ちょっと凄いコトだ。〔ヘルマン・カール・フォン・カイザーリンク〕伯爵に悠久の時の流れと錯覚させてしまおう。そんな狙いもバッハにはあったかもしれない。」(同書、五一ページ)。また中川右介《グレン・グールド――孤高のコンサート・ピアニスト〔朝日新書〕》(朝日新聞出版、2012年10月30日)にこうあるのを見つけて喜んだ。「〔一九六一年の〕三月はリサイタルが多く、〔……〕。/このリサイタルの間に、十七日から十九日まで三日連続して、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニックの定期演奏会に出て、ベートーヴェンの四番を弾いた。演奏会の翌日になる二十日には同じ曲をセッション録音した。/当時のニューヨーク・フィルハーモニックは原則として毎週金・土・日と同一のプログラムで定期演奏会を開いていた。バーンスタインはそれを終えた月曜に、同一曲をレコーディングするサイクルを作り上げていた。本番での興奮の余韻があるうちに録音したかったのだ。七〇年代後半になると、複数回のコンサートのすべてをライヴ録音し、それを編集してレコードを作るようになる。/一方、カラヤンはまったく別のアプローチをしていた。彼はコンサート前のリハーサルにレコーディングを組み入れていた。本番のためのリハーサル時間にプラスして、レコーディング時間を確保していたのだ。つまり、カラヤンのレコードは本番直前の状態のもので、バーンスタインのレコードは本番直後の状態という違いがある。/では、グールドはどうなのか。彼は演奏会とレコードとはまったく別のものだと考えている。連動させようという発想はないが、コンサートのプログラムとその時期に録音している曲は、けっこう重なる。」(同書、二〇八〜二〇九ページ)。――演奏会とレコードに対する三者三様の姿勢が興味深い。ツアーに明け暮れた最中に《Led Zeppelin U》(1969)というモンスターアルバムをつくったレッド・ツェッペリンは、さしずめグールドの発想をもってしてバーンスタインの流儀でレコーディングに臨んだバンド、ということになろうか。だが、この話題の締めははやり、グールドの《ゴルトベルク変奏曲》でいこう(〈The Glenn Gould Collection〉〔バッハ ゴールドベルク変奏曲 イタリア協奏曲 パルティータ第4番 解説付き 他 グレン・グールド〕)。52分過ぎから約1分半の第30変奏のクオドリベット、このベルガマスカ(17世紀イタリアの4拍子の舞曲)は筆舌に尽くしがたいほど素晴らしい。1955年のデビュー盤で約47秒、1981年の再録音盤で1分半ほどの小曲だが、バッハのすべてのパッセージを一身に体現したかのような大団円だと思う。映像のグールドは老いた高僧のようで、次の、曲集最後の曲、アリア・ダ・カーポを弾きおえると、なにかに祈るように手を合わせてから深く頭を垂れる。「彼の演奏――特にバッハのすばらしさ。私は《ゴルトベルク変奏曲》をはじめてきいた時、電撃的ショックに近いものを受けたけれど、あれは何だったのだろう? 今では、心の高ぶっている時は和らげられ、落ちこんでいる時は慰められ、どちらの時も、心がきよめられたという感触をもつ。」(吉田秀和)


編集後記 199(2019年5月31日更新時)

吉岡実と入沢康夫を書いた。本稿執筆の準備作業として、『入沢康夫の詩の世界』刊行委員会編《入沢康夫の詩の世界》(邑書林、1998年4月15日)を再読した(「MARC」データベースによれば、本書は「日本語による詩の構造を考察し、試行しつづけてきた現代詩人・入沢康夫。彼の世界を、彼を敬愛する詩人たちの手により解明しようと試みた「入沢論」集。巻末に入沢康夫年譜・書誌を付す」)。正確に言えば、文章によっては三読・四読した。そこでふと思ったのだが、《入沢康夫の詩の[、、]世界》はなぜ《入沢康夫の世界》でなかったのだろうか。それほどに、本書では入沢の詩と同時に、その詩論が言及の対象になっているのだ。さらに私は、拙サイトが《吉岡実の詩の世界》であって、《吉岡実の世界》でないことに思いを致さないわけにはいかなかった。時系列的に言えば、2002年11月開設の拙サイトが1998年4月刊行の入沢論集のタイトルを参照したわけだが、私が本書を最初に読んだのはサイトの開設より後だったし、開設当時すでに《吉岡実の世界》というサイトが存在していて(現在はない)、同じ名前を付けるのは業腹だから、吉岡実の装丁まで含めた全貌を「詩」に込めたつもりだった。すなわち吉岡の場合、詩作品と装丁作品を打って一丸としたものが「詩」なのだ。いずれにしても、吉岡実や入沢康夫の作品の全貌を見据えたいと欲したとき、人はわれしらず「吉岡実の世界」や「入沢康夫の世界」ではなく、「吉岡実の詩の世界」や「入沢康夫の詩の世界」を択んだ。それが興味深い。
●《安藤元雄詩集集成》(水声社、2019年1月25日)を読んだので、吉岡実の装丁作品(122)に〔追記〕を書いた。その安藤さんは、《現代詩手帖》2019年2月号〔追悼特集・入沢康夫〕の天沢退二郎・野村喜和夫両氏との座談会〈大きな漏斗[じょうご]のような世界〉に出席している。というか、ほとんど独演会にように語っている。語らずにはいられなかったのだろう。入沢康夫の詩のルーツがどこかわからない、という話の流れで、「不思議な人です。むしろ入沢さんが初期に考えていたのは、たとえば彼が生まれ育った松江や出雲地方の民謡、あるいは伝承、そういうものではないでしょうか。『わが出雲・わが鎮魂』に膨大な註がついていますけど、学識を振りまわす印象ではないんですよ。ペダンティックじゃない。なぜペダントリーにならないかというと、それが本を読んで外側に貼りつけた知識じゃないからです。あの出雲の空間に育った入沢さん自身による耳学問というか、耳から入ったさまざまな伝承や伝説、あるいはお母さんが唄っていたかもしれない唄、そういうものが内側に残っていて彼の詩になってきたのではないか。」(同誌、一四ページ)という指摘は、きわめて重要だ。それを踏まえると、〈わが出雲〉の「Y」に登場する、レストランで昼食をとりながら耳にした会話(poem de conversation)は(入沢が断念した)出雲弁で書いたほうがよかったのではないか。〈わが鎮魂(自注)〉には「意味が通じにくくなるので、かえってできるだけ無性格な共通語にした」と見えるが。
●今日5月31日は、吉岡実の29回めの祥月命日である。ついさきほど、巣鴨・真性寺に眠る吉岡実の墓参りをしてきた。先月4月15日は吉岡の生誕100周年のまさに当日で、そのときは巣鴨駅で降りると、途中のマクドナルドでホットコーヒーを買って墓前に供えた。コーヒーは、酒を嗜まない吉岡の好物である(《〈吉岡実〉人と作品》の〈小林一郎〉に自撮りした写真を追加してある)。生誕日は天気も好かったので、巣鴨地蔵通商店街を庚申塚までぶらぶらと歩いた。とげぬき地蔵として知られる高岩寺に初めて詣でたあと、土産に和菓子屋みずので塩大福を買った。「滝野川に住んでいるので、ときたま中仙道を歩き、巣鴨のとげぬき地蔵へゆく。赤や緑の紙に包まれた線香を、大きな鉄の鉢の炎のなかに投入れ、手で腹や肩をさする善男善女。目鼻の磨滅した石地蔵へ水をかけ、ごしごしこする老若男女を見ると、妙に心がなごんでくる。〔……〕その近くにわが家の菩提寺・真性寺がある。江戸六地蔵の一つだが、人けのない静かな寺である。不信心なわたしも、その折、父母の墓参りをする。」(吉岡実〈好きな場所〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、八〜九ページ)
●先月の《吉岡実全詩篇〔初出形〕》の〈おわりに〉に、中山康樹の《これがビートルズだ〔講談社現代新書〕》、講談社、2003年3月20日)の〈あとがき〉を引いた。自分のあとがきに他人の本のあとがきを引用するのは妙なものだが、文字どおりの枕頭の書を顕彰したくてのことゆえ、お許しいただきたい。そうは言うものの、中山の主張に諸手を挙げて賛成しているわけではない。たとえば、〈I Am The Walrus〉や〈Happiness Is A Warm Gun〉などのジョン・レノンの楽曲に対する否定的評価には納得がいかない。だがここは反論を展開する場所ではないので、別のことを書く。初版162ページの「一九六六年四月七日」は(前後の文脈からいっても)「一九六七年」の誤記・誤植だと考えられる。これが2009年3月19日発行の7刷では訂正されていたので(それ以前から直っていたかもしれない)、まずはよかったと安心した。この7刷本は〔講談社現代新書〕のジャケットデザイン全面変更のあおりをくって、中央の正方形の色ベタ面と書名・著者名・新書名とシリーズ番号(これらすべてがゴチック体!)という、目を背けたくなるような無惨なありさまを呈している(表紙は色ベタ面に白ヌキで文字を表示)。私はこれが見たくなくて、ジャケットを白地の紙で覆って、正方形の色ベタ面の上と思しい箇所に初版ジャケットの画像をプリントして貼りつけている。著者は変更されたこのジャケットをどう見たのだろうか。「ビートルズの音楽は、聴いても聴いても飽きることがない。個人的には、懐かしく感じることもノスタルジックになることもほとんどない。それどころか聴くたびになにかしら新しい発見がある。同時にいかに多くのものを聴き逃していたか、痛感させられる。〔……〕/すべてのアルバム、すべての曲になにかしら新たな発見がある。聴き手に謎解きをさせるために意図的に仕掛けられたのかとさえ思えるほどだ。それはビートルズが細部にいたるまでいっさい手を抜いていなかったことを物語る。」(〈プロローグ ビートルズという謎〉、同書、八〜九ページ)とまで書いた中山康樹(1952〜2015)は、これを、「細部にいたるまでいっさい手を抜いていなかった」とはとうてい思えない、この変更されたジャケットをどう見たのだろうか。
●三浦大知の3枚めのアルバム《D.M.》(2011)の〈Lullaby〉(作詞:MOMO"mocha"N.、作曲:U-Key zone)はアルバム発表の前年末にシングルとして出ているが、最近になってCD+DVD盤の《D.M.》で聴いた。DVDにはこの名曲のmusic videoとstudio live editionが収められており、music videoの方はHypgnosisのジャケットのなかで踊っているような、玄妙な空間を野外に構築して、みごとである。アルバムには三浦自身の作品も収録されているが、楽曲優先で、外部の有能なソングライターを積極的に登用している。その《D.M.》のオープニングトラック〈Black Hole〉の作詞・作曲を手掛けたNao'ymtが三浦とタッグを組んで世に問うたのが、近作《球体》(2018)だ。Nao'ymtはそこで、作詞・作曲・編曲・プロデュースを受けもっている。そう、《球体》は三浦大知の作品であると同時に、Nao'ymtの作品なのだ。三浦の《「球体」独演》(自身の演出・構成・振付)のDVDでは、とりわけ〈飛行船〉と〈世界〉(「この世界の片隅に/君がいるのではない/君こそが/この世界のすべて」)に感銘を受けた。私ははしなくも、エリック・ウルフソン(元APP)がスティーヴ・バルサモの歌う歌を書いた《Poe: More Tales of Mystery and Imagination》(2003)とその舞台化(ミュージカル)を想起した。クリエイター=パフォーマーとしての三浦大知は、ヴォーカルとダンスのどちらに片寄るでもなく、ふたつがせめぎあう険しい稜線をひた走っているように見える。この稀有の才能は、今を生きるわたしたちを鼓舞する。


編集後記 198(2019年4月30日更新時)

吉岡実全詩篇〔初出形〕を書いた。本文にあるとおり、2019年4月15日は吉岡実の生誕100周年である。来年2020年が歿後30年に当たる吉岡は、1990年に71歳で病歿している。この間に《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)の刊行を見たが、その俳句(吉岡が最も愛したであろうジャンル)や散文・日記をまとめた集成――すなわち《吉岡実全集》――はまだ出ていない。となれば、詩篇の異同[ヴァリアント]を収めた印刷物がないことは驚くにあたいしない。吉岡実詩を味読する場合、単行詩集を集成した《吉岡実全詩集》がその最も重要なテキストであることは言を俟たない。だが、吉岡実詩の生成を考える場合、印刷用原稿(多くは吉岡陽子夫人の手になる浄書稿)や〔初出形〕(ほとんどすべては雑誌・新聞、書籍などの印刷物として公刊された)を披見しなければならない。私はすでに、未刊行詩篇を含む全詩作品286篇(「変改吸収詩篇」3篇を除けば、厳密には283篇)の〔初出形〕と〔定稿形〕を比較校合した、吉岡のすべての詩集の本文校異を当サイトで行っている(〈吉岡実詩集本文校異について〉参照)。だがこれは、いってみれば《吉岡実全詩集》に詳細な註を施したようなものにすぎないから、吉岡がどのような順序で詩篇を発表してきたかは容易にたどることができない。今回の〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉は〈吉岡実年譜〔作品篇〕〉に記載されている詩篇を、その順番で並べたものである。これらを通読することで、吉岡実詩を発表順に読むことができるわけだ。ちなみに私が吉岡実の詩に初めて印刷物[、、、]で接したのは〈田園〉(G・14)を再録した1973年末の《現代詩手帖》〈現代詩年鑑〉(思潮社)だったと思うが、吉岡実詩の初出[、、]に初めて接したのがなんだったか、どうしても想い出せない。最初に接した書籍が《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968)の後刷本であり、同じく新刊の詩集が《サフラン摘み》(青土社、1976)であったことは確かなのだが。おそらく、同詩集に収められた詩のどれかだったのだろう。それから早いもので、45年の月日が流れた。
●ところで、上記の〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉だが、通常は《〈吉岡実〉を語る》のhtmlファイルの最初の記事として収容すべきところ、別ファイル(YMkataru_preoriginal)にして掲載することにした。すなわち、〈目次〉や本サイトの他ページからのリンクは通常どおりだが、《〈吉岡実〉を語る》の「2019年3月31日」と次回掲載予定の「2019年5月31日」の本文記事の間には〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉が並ばないことになる。検索の便からいえば、同一ファイル内の所定の処に収容したかったのだが、〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉をA4判縦位置で印刷すると単体で290ページ余りになってしまう。いくらなんでも、これは長すぎる。2019年1月に《〈吉岡実〉を語る》が1000ページ(!)を超えたこともあり、今後の執筆記事の増量も考えあわせると、別ファイルにしておくことが望ましいと判断せざるをえなかった。制作面からいえば、ファイルの数が増えるほど手数が多くなるので、間違いも起こりやすい。今回はあくまでも例外的な措置、とご理解いただきたい。
●今年の初めに入手した間村俊一《彼方の本――間村俊一の仕事》(筑摩書房、2018年11月5日、写真:川上朋子)を繰りかえし観て、読んで、愉しんでいる。間村装丁本(著者は「装幀」と表記する)の数数は、わが書庫のそこここにあって――たとえば入沢康夫《宮沢賢治――プリオシン海岸からの報告》(筑摩書房、1991)――最近では短歌研究社の文庫版《塚本邦雄全歌集》で眼福にあずかっている。単行本や全集が見事なのは当然だが、こうした文庫本もしっかりと造りこんであるのは(しかもそれが派手派手しくなく)、読者としてはありがたい。臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015、装丁:林哲夫)もそうだったが、本書のような書影のたくさん入った本は、DTPで制作するのが最も得意とする処だろう。内容は言うまでもなく、組版・印刷、造本・装丁ともに申し分ない筑摩本≠ェまた一冊、誕生した。
●去る1月24日、渋谷の珈琲&ギャラリー「ウィリアム モリス」で開催された多田進さんの装丁展を観た(会期:2019年1月8日〜31日)。残念ながら、多田さんにはお会いできなかった。野原一夫《太宰治 人と文学〔上・下〕》(リブロポート、1981)は吉岡実の装丁だが、同書の改訂新版《太宰治 生涯と文学〔ちくま文庫〕》(筑摩書房、1998)のジャケットは多田さんのデザインで、そのあたりのことも伺いたかったのだが。会場には、植草甚一《即興と衝突――あるジャズ・ファンの手帖》(スイング・ジャーナル社、1971)から坪内祐三《昼夜日記》(本の雑誌社、2018)まで、数多くの多田進装丁本から100人の著者のそれぞれ1冊を展示。五木寛之《深夜草紙》(朝日新聞社、1976)は《週刊朝日》の連載を毎号欠かさず読んでいただけに、懐かしい。小振りで、本文ページ=モノクロの《百人一冊――多田進装丁の仕事100冊 1971-2018》(多田進、2019)はそれ自体、多田進装丁本として見事な図録である。


編集後記 197(2019年3月31日更新時)

京浜詩の会〈吉岡実氏を囲んで〉のことを書いた。京浜詩の会代表で、《京浜詩》編集兼発行人の竹内多三郎(1905年生)の著書に《切りぬき帖――あの詩 あの人 五十年》(京浜詩の会、1980年2月25日)がある。同書は多くの写真を含む、竹内多三郎詩文集の趣があって、集中の一篇〈研究月例会の歩み〉には第1回から第98回までの同会の「回数・年月日・講師・会場」が列記されている(ただし、演題はない)。吉岡実の項は「廿四 〔昭和〕38 5/11 講師 吉岡実 歯科」である。近藤東・金子光晴・村野四郎・吉本隆明・高橋新吉・林房雄の講演中の写真、草野心平ほかの色紙は掲載されているが、吉岡のそれがないのは惜しまれる。
●来月4月の15日は、吉岡実が生誕して100周年にあたる。今年の1月8日(火曜日)の《朝日新聞〔夕刊〕》には、赤田康和〈危機の時代の詩をたどって〉の第2回として、「戦争体験 妥協なき言葉」の見出しのもと、吉岡実が取りあげられている。その冒頭に曰く、「今年、生誕100年を迎える詩人・吉岡実[みのる](1919〜90)。詩人の飯島耕一が〈戦後最大の詩的才能〉とたたえたように、詩壇で圧倒的な存在感を持ち、詩人のみならず芸術家たちに影響を与えた」。簡にして要を得た導入であろう。同文は、吉岡陽子夫人や現存する詩人に取材した回想・吉岡評を引く一方、「自宅でインコと過ごす吉岡実」「東京・渋谷を歩く吉岡」の2点の写真を掲げていて、懐かしい(私は護符のように、この日の新聞を鞄に入れて持ちあるいている)。4月末の定期更新では、私なりの企画で吉岡実生誕100周年を記念したい。期待していただいてかまわない。
●大岡昇平《小林秀雄〔中公文庫〕》(中央公論新社、2018年11月25日)を読んだ。「高校時代に出会って以来、55年に及ぶ交遊のなかで著者がとらえた稀代の批評家、小林秀雄の思想・文学・生き方とは。批評からエッセイ、追悼文までの全文章、小林との対話2編を収録する」中公文庫オリジナル編集である(過去に大岡の《小林秀雄》という本は存在しなかった)。岩波文庫は古典を、新潮文庫は現代物をその出発点に据えたが、往年の中公文庫はノンフィクションの逸品で名を馳せた(中公以外のどこが、武井武雄を文庫で出すだろう)。その中公文庫が、最近ではコンピレーション物で気を吐いている。以前この欄でも触れた、三島由紀夫の《小説読本〔中公文庫〕》(中央公論新社、2016)がそうだったが、大岡の《小林秀雄》は単行本で出ていないのがおかしいくらいの風格である(〈U〉のエッセイは、〈T〉の批評・書評に比して軽妙だが)。底本が筑摩書房版《大岡昇平全集〔第17巻〕》というのも愉快だ。それというのも、《レイテ戦記》を出した中央公論社からは、大岡の生前に16巻本の全集が出ているからだ。コンピレーション物の文庫といえば、東雅夫編の澁澤龍彦《ドラコニアの夢〔角川文庫〕》(角川書店、2018)も、河出書房新社(言わずと知れた《澁澤龍彦全集》の版元)のお株を奪う傑作だった。たとえば〈江戸川乱歩『パノラマ島奇談』解説〉や三島由紀夫との対談〈鏡花の魅力〉を文庫で読むことの愉悦。
●まえに出力した自作の資料が必要になって探すのだが、見つからない。もとのファイルはともかく、それに書き込んだ内容が重要なので諦めきれない。よんどころなくなって、久しく手を着けかねていた書類の山をかきわけると、インターネットで調べたページを出力した(いますぐには使わない)ものがぞろぞろ出てくる。当時の自分の関心がこんなところにあったのかと客観視できるものの、なんでこんなものを、と理解に苦しむものもないではない。本や雑誌のコピーも取ったままだと、なにがポイントかわからなくなってしまう。面倒でもテーマをひとこと書いておくべきだった。せめて傍線だけでも! と舌打ちしたくなる。結局、探しものは出てこなかった。
●12弦のアコースティックギターを入手した。杉並・阿佐谷の「1984」は曜日によって異なる種類のロックをかける店だが、壁いっぱいに吊るしてあるマスターのギターコレクション(エレキを中心に20本近く)のなかからMorris製の12弦ギターを触らせてもらったところ、潜在していた願望が頭を擡げて、譲りうけることになった。御茶ノ水や新宿の楽器屋を覗いても、最近は12弦はほとんど見かけないが、脳裡に描く自作曲に12弦のバッキングはどうしても欠かせない。そんなふうに思いこんで、ずいぶん経つ。12弦に触ったのは、大学時代、語学クラスの有志が集った劇団で音楽を担当していたころ、知りあいが持っていた国産のギターを弾かせてもらったとき以来だ。じつは家蔵の6弦のアコースティックギターも同じMorris製で、ストラトモデルのエレキにErnie BallのSuper Slinkyを張っている身に、アコースティックのテンションはきつい。12弦は6弦とはまた違う手触りで、ストロークにはいいけれども、スリーフィンガーなどの指弾きはコツを掴むのに時間がかかりそうだ。ちなみに「1984」で試奏したのは〈Stairway to Heaven〉、自宅で最初に弾いてみたのは〈Tangerine〉――どちらもジミー・ペイジ作曲のツェッペリンのナンバーだ。


編集後記 196(2019年2月28日更新時)

《薬玉》署名用カードあるいは土井一正のことを書いた。本文で触れたように、《ムーンドロップ》の署名用カードが未見である。吉岡実の挨拶文が載っている可能性が高いから、今後の探究に俟ちたい。挨拶文のない署名用の栞の類もあるようで、いずれその紹介もしてみたい。
●〔第5次〕《太宰治全集〔第6巻〕》に触れた吉岡実の装丁作品(18)の〔追記〕で奥野健男編《太宰治研究》のことを書いた。2004年に執筆した本文は、吉岡実装丁の《太宰治全集》に触れた最も早い時期の文章であるだけに、筑摩書房が出版した《太宰治全集》の全貌を把握していない(のちに追尋した)。筑摩に限っても、今日までに十数種類の太宰治全集を出しているのだから、太宰治研究ならぬ太宰治全集[、、]研究が充分、テーマになり得る。誰か矢口進也《漱石全集物語〔岩波現代文庫〕》(岩波書店、2016)の向こうを張って、(吉岡実が手掛けた)その造本・装丁も論じつつ、《太宰治全集物語》を書けばいいのに。近来の快作《推薦文、作家による作家の》(風濤社、2018)を編んだ中村邦生さんあたり、どうだろう。太宰治はお好きだろうか。
●〈innocent world〉(作詞・作曲:桜井和寿)は1994年発表のMr.Childrenのシングルで、同年のアルバム《Atomic Heart》に収録された(曲は日本レコード大賞を受賞)。当時、私はUNICORNもMr.Childrenも聴いておらず、それどころか英米のロックもろくに聴かず、不毛な音楽生活を送っていた。関東のある県のソフトウェア会社に最悪の体調で出張してCD-ROMの制作を指揮していたとき、Mr.Childrenのコンサートが近隣であったのか、オーサリング担当の女社員が「ミスチル、ミスチル……」と騒いでいて、わけもなく反感を抱いた。そういう不幸な出会いだった。その後、耳にする桜井の歌(楽曲そのものよりも、その歌いまわし)はエルヴィス・コステロみたいで、熱中できなかった。ところが最近、奥田民生(と寺岡呼人)がカヴァーする〈innocent world〉(大阪城ホール、2013年11月13日)を聴いて打ちのめされた。Mr.Childrenのドラマー鈴木英哉の客演もあって、民生は自作の曲を超える力演で、楽曲のもつ骨太な構造を顕にした。ライヴで取りあげた回数が全曲中第1位という本家Mr.Childrenの演奏は、発表時点からアレンジが秀逸(編曲はプロデューサーの小林武史とバンドメンバー)。YouTubeでTV出演やコンサートの動画をいくつも観てみたが、〈Mr.Children STADIUM TOUR 2011 SENSE -in the field-〉(長居陸上競技場、2011年9月19日)が圧巻だった。原曲はEメジャーだが、本篇のまえに長3度下のCメジャーで「F C A7 D7 G7sus4/G7 E7sus4/E7」「F C A7 Dm/Em Fm G7sus4」と桜井が聴衆を静かに煽るあたりから、ただならぬ気配が漂う。だが構成上、真におそろしいのは3番のサビ前の四分休符3拍分で(1番と2番にはない)、続く爆発的な高揚感を呼びこむためのこのブレイク(2拍や4拍ではなく3拍!)こそ、天才の仕事と言わねばならない。ステージ上のメンバーとサポートの小林武史、満場のオーディエンスをとらえた、多くのカットを積みあげた映像にも目を瞠る。
●スージー鈴木の音楽評論がめざましい。私は中山康樹(1952〜2015)亡きあと、積極的に音楽評論を読んでこなかったが、《イントロの法則80's――沢田研二から大滝詠一まで》(文藝春秋、2018)でスージー鈴木という書き手をしたたかに認めた。同書はスージー鈴木の最高傑作との呼び声が高く、レヴューも多いことだから、ここでは《1979年の歌謡曲〔フィギュール彩〕》(彩流社、2015年11月4日)に触れよう。同書の〈松山千春『窓』〉にはこうある――もしかしたら〔松山千春を〕ニューミュージックとして括ることに無理があるのかもしれない。ニューミュージックの根本思想を、荒井由実に始まって、79年的にはミッキー吉野に帰結する、「歌い手の属人的な個性よりも、音楽性を重視する」という考え方や価値観だとすると、松山千春は、そこからちょっと外れる気がするのだ。ニューミュージックの面々の中で松山は、かなり個性が前面に出ていて、我が強く、端的に言えば暑苦しかった。北海道出身にも関わらず。(同書、三七ページ)――私は高校を卒業して間もないころの同窓会で、かつて担任だった教諭から「ニューミュージックってなんだい?」と訊かれたことを思い出す。おおかた、ビートルズに端を発した自作自演をむねとする日本の歌手=演奏家による作品、ぐらいのことでお茶を濁したのだろう。そのとき、歌手の「個性」や「音楽性」を挙げたとは思えない。スージー鈴木の評論は、楽曲をめぐる事実関係とその楽曲と自身の格闘(とさえ言いたくなる)を達意の文章で描くところが身上で、沢田研二やジミー・ペイジへの思い入れにも共感できる。だが、広告代理店に勤務した経験を活かしたマーケティング的視点が大きな特徴である。こうした社会性の導入が大衆音楽の評論というジャンルに必須であるにもかかわらず、今までの(少なくとも私の読んだ範囲での)音楽評論では軽視されがちだった。別の著書に《【F】を3本の弦で弾くギター超カンタン奏法》(彩流社、2014)があることからも、スージー鈴木が楽曲の分析に長けていることは隠れもない。ここで一読者としての願望を述べるなら、沢田研二をめぐる瀬戸口雅資氏との対談が読んでみたい。それも書籍で。と書いて、《サザンオールスターズ 1978-1985〔新潮新書〕》(新潮社、2017年7月20日)を読んでいないことが不安になって、読んだ。見どころ満載の本書だが、〈第7章 1984年――サザンオールスターズ、極まる。〉が圧巻だ。とりわけ「〔『人気者で行こう』は〕傑作アルバムなので、さらに細かい話をしたい」(同書、一八二ページ)と始まり、『KAMAKURAへ行こう』という架空のアナログLPを「「初期のピーク」を具現化する最強のアルバム」として提案する処! 私は初めてまともに聴く《人気者で行こう》(1984)と《KAMAKURA》(1985)をPCに落とし、愛用する「聞々ハヤえもん」で曲順を《KAMAKURAへ行こう》に並べ替えて、ソニーのMDR-CD900STで繰りかえし聴いている。こんなことでいいのか。いいのだ(ろう)。
●近年、最も繰りかえし読む本は、養父貴《ギターで覚える音楽理論――確信を持ってプレイするために》(リットーミュージック、2005年3月25日)である。なかでも、25ページにわたる〈ブルースの音楽理論的な考察〉は圧巻で、シンプルな3コード・ブルースをリハーモナイズした〈C Slow Blues〉=〈Stormy Monday Blues〉の展開を「半音上の7thコード」「コンスタント・ストラクチャー」「半音上の7thコード(その2)」「ブルースの定番ターンアラウンド」の4つの観点から説明した箇所には、ほれぼれとする。本書には著者の演奏するCDが付いていて、これがまた素晴らしい。


編集後記 195(2019年1月31日更新時)

吉岡実と田中冬二もしくは第一書房の詩集を書いた。本文でも触れた田中の詩集《山鴫》や《花冷え》を読むと、あまりにもベタであるが、つげ義春の旅ものの漫画を連想する。ところで、《田中冬二展――青い夜道の詩人》(山梨県立文学館、1995年9月30日)は山梨県立文学館で同年11月20日まで開かれた展覧会の図録。全72ページだが、図版ページはオールカラーで、書影のほか原稿や色紙、第一書房の長谷川巳之吉や堀口大學、西脇順三郎や三島由紀夫たちからの来信を収めて、読みごたえがある。残念なことに、私は同展を観ていない。
●新潮文庫の西岡文彦《絶頂美術館》(新潮社、2011年11月1日)を、元版の《絶頂美術館》(マガジンハウス、2008年12月18日)と較べてみた。口絵のページが半減しているので、カラー図版が減った。「ヌードの鑑賞の新しい視点の提供とサロン絵画と呼ばれるジャンルの再発見を目指して」(単行本〈あとがき〉、二二一ページ)書かれた本書の副題が「名画に描かれた愛と情熱のクライマックス」(単行本)から「名画に隠されたエロス」(文庫本)に改められたのは、実態に即している。この文庫本あとがきは力作である。本文では、ひたすらサロン展の入選を望みながら、われしらず絵画革新の最前線に立ってしまったマネを論じた〈挑発のカメラ目線〉を興味深く読んだ。吉岡実には、マネの油彩を踏まえた詩篇〈草上の晩餐〉(G・13)がある(私はかつて、吉岡とピカソとの関連で、マネの油彩画〈草上の昼餐〉に触れた)。
●2019年1月初め、英文学者・高橋康也(1932〜2002)旧蔵の書簡、すなわち来簡数点がヤフオク!に出品され、吉岡実の書簡も含まれていた。吉岡は1968年春、荻窪・シミズ画廊の〈金子光晴展〉で高橋と出会って以来、キャロルやベケットの作品を通じてその訳業に親しんでおり、高橋も多くの文章で吉岡の作品に言及した。一連の出品はなかなか落札できなかったが、今回、それらの資料をもとに《〈吉岡実〉を語る》の記事に〔2019年1月31日追記〕を書いた。すわなち――〈吉岡実詩集《サフラン摘み》本文校異〉の高橋康也宛吉岡実書簡(1976年4月13日付封書)と〈吉岡実詩集《薬玉》本文校異〉の同(1980年12月16日〔18‐24〕渋谷局消印ハガキ)――の二つである。今を去る34年前の1985年、もろだけんじに代わって高橋さんに歌集を送ったところ、明らかに本に目を通したことがわかる文面のハガキ(毛筆の礼状!)をいただいて、恐縮したものだ(〈《通奏低音》の反響〉参照)。吉岡実が高橋康也から貰った返信も、筆まめな高橋さんらしい懇切丁寧なものだったに違いない。ところで、高橋康也の三回忌(という語は仏教の言葉だから、カトリックだったアウグスチノ高橋康也にはふさわしくないが)に刊行された高橋迪編《思い出は身に残り――高橋康也追想録》(中央公論事業出版、2004年5月30日)には、大江健三郎の〈弔辞〉に始まり、柳瀬尚紀ほかの〈新聞記事より〉に至る96名の追悼文が収録されている(口絵はカラー写真を中心に16ページ)。〈文学、音楽、建築、美術……広範な交友〉の章の冒頭、丸谷才一の〈水着の女と『ユリシーズ』〉(初出は《英語青年》2002年10月号)は〈高橋康也氏が逝去〉に引いた追悼文だが、高橋より12年はやく歿している吉岡実の文章はない。だが、種村季弘〈大人のなかの子ども――高橋康也追悼〉と桑原茂夫〈キャロル・キャラクターの持ち主〉に吉岡への言及がある。種村の追悼文はこう結ばれている。「だから話したかったこと、いや教えてもらいたかったことがどっさりあった。それがもうできない。さびしいが、遺著を精読すれば対話を続けられる。読み返してみてあらためて、すべてが考え抜かれ語り尽くされていることが分かった。/それで、こんなことを思う。ある日の午後、道玄坂の珈琲店トップあたりで吉岡実さんと三人、キャロルを語りながら閑雅な時間を過ごすことも想像の上でならできないこともなさそうだ。せめて余生はそう過ごしたい。想像力は死んだ、想像せよ。」(同書、一四四ページ)
●ジェントル・ジャイアントの《Acquiring The Taste》(1971)を聴いている。一体に私は未知の音源よりも、慣れ親しんだ作品の裡に今まで聴きのがしていた細部を探る方が好きなたちなのだが、このGGの2枚めは繰りかえし聴くに値する、というよりも聴きこまないかぎりわからない類の音楽だろう。「全くポピュラーでなくなるという危険を犯しても、現代ポピュラー・ミュージックの境界を拡大することが我々のゴールだ。我々はひとつの思想――独創的で大胆、かつ幻惑的であるべきだという考え――の下に各々の作品を録音した。これを成すために全員の音楽的/技術的知識をことごとく利用した。初めから我々は派手なコマーシャリズムで考えられるようなことを、全て捨てている。その代わり、もっと実のある、完成度の高いものを提供したいと思っている。あなたに必要なのは座ること。そして味わうことだ」とは、Chichiro. Sによるライナーノーツに引かれたバンドの決意表明だ。「坐って味わう」のに、これほどふさわしい音楽も稀である。


編集後記 194(2018年12月31日更新時)

吉田健男の肖像を書いた。私が高校生のころ愛読したのは、詩を除けば五木寛之の本で、《五木寛之作品集〔全24巻〕》(文藝春秋、1972〜74)には熱中したものだ。だが、きっかけの《風に吹かれて〔角川文庫〕》は決定的だった。その後、五木の「雑文」は目に入る限り読む時期が続いたから、どの本に出ていたか覚えていないが、小説を書く以前は早稲田の露文に学んだ証しとしてマクシム・ゴーリキー(1868〜1936)のことを《ペシュコフの肖像》と題して書きたかった、と洩らしていた。ゴーリキーといえば、吉岡実は随想〈救済を願う時――《魚藍》のことなど〉に「私の家の二階に筆耕をしながら孤独な生活をたのしんでいた盛岡生れの長髪の青年がいた。食うや食わずでいるのを見かねて、母が食物などを持って行くと、きまって不機嫌になった。少年の私としか話をしない狷介の人、のちに書家となった佐藤春陵氏である。あるとき、彼がゴリキーの「どん底」を熱っぽい口調で読んでくれた。私にはいまでもその夜のことが、はっきり思い出される。私が文学へのあこがれを深めたのは、この時からはじまったのだから。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、六六ページ)と書いている。この《どん底》は中村白葉訳の岩波文庫版(1936年2月10日)のようだが、私はいまだに読んでいない。いつの日か私が吉岡実伝を書くとすれば、《吉岡実の肖像》と題したいと思っていた。だがすでに、城戸朱理に《吉岡実の肖像》(ジャプラン、2004)があるではないか(初出誌《投壜通信》に連載されたときのタイトルは〈詩人の肖像 吉岡実〉)。やんぬるかな。
●林望《いつも食べたい!〔ちくま文庫〕》(筑摩書房、2013年1月10日)を読んだ。リンボウ先生の本は、なによりもその文章が素晴らしい(とりわけ悪口が)。しかし、褒めるときはそれに倍してみごとである。〈パンを焼く〉という項の一節に「しかるに、この最新式の日本製パン焼き器を用いる時には、ただ、粉とバターと、塩と、砂糖と、粉ミルクと、イーストと、それだけを所定の分量、所定の場所に放り込んで、あとはスイッチを押すだけで、四時間ほどの後には、みごとなパンが焼ける。/その焼けてくるときの、天国の芳香ともいうべき素晴らしい香りには、どんな人も食欲をそそられるに違いない/その間、一切の手間は不要、あの複雑な工程をすべてマイクロコンピュータを搭載したこの賢いマシンが、誤りなく見事に遂行してくれる。/じつにじつに驚くべき大発明だと、夫婦してしばし唸ったことであった」(本書、二〇七〜二〇八ページ)とあり、久しくわが家でパンを焼いていなかったことを後悔した。その結語、「ああ、パンというものは、こんなに美味しいものであったかと感動しつつ、焼き上がりには、どうしてもその一片を食べずにはいられない。いやはや良い物を作ってくれたものだ。日本の電器メーカーはほんとに偉いっ!」(同前、二〇九ページ)。褒めるなら、かく盛大に褒めたいものだ。
●先日、久しぶりに吉祥寺に出て南口の〈古書センター〉をのぞいてみた。駅前だけあって、天気の悪い晩でも客が何人かいる。奥まったところに大判のヴィジュアル本を集めた棚があって、そこでボブ・ケイトー&グレッグ・ヴィティエッロ編、柳瀬尚紀訳《肖像のジェイムズ・ジョイス》(河出書房新社、1995年7月25日)を見つけた(序文はアントニ・バージェス)。帯文に〈20世紀文学の巨星、流浪の生涯〉とある、観て愉しい本だ。いちばん面白かったのは32ページの、ガットギターを爪弾く写真。キャプションには「ジョイス 1915年、トリエステ。この写真を撮った友人オットカーロ・ワイスは、ジョイスの歌声には感心したが、ギターは「聴いちゃいられなかった」」とある。この偉大な小説家の左右の指の形[フォーム]はともかく、ギターが空を向いた構えはとても演奏中には見えず、まるで天板の塗装の具合でも確かめているみたいで、「見ちゃいられない」。
●ヴァン・ヘイレンのライヴは観たことがない。デイヴィッド・リー・ロスのそれを武道館で観たときは、スティーヴ・ヴァイのギター声帯模写≠ェ凄かった。バンドにロスが再加入したスタジオアルバム《A Different Kind of Truth》(2012)を聴き、さらにライヴアルバム《Tokyo Dome Live in Concert》(2015)を聴いた。私は《Fair Warning》(1981)の〈Hear About It Later〉が好きで、バンドスコアまで入手したくらいだが、これをオリジナルメンバー(ベースはマイケル・アンソニーからエディ・ヴァン・ヘイレンの息子ウルフギャングに替わったが)で聴けるのは嬉しい。エディのバッキングギターはロックバンドにおいて、ジミ・ヘンドリックスのそれと双璧をなす。もっともジミのバッキングの骨格にはR&Bがあるのに対して、エディにはクラシック、というよりは鍵盤楽器の発想があって、アルペジオやハーモニクス、ロングトーンの使い方に表れている。ライヴで妙に崩さないのも好ましい(オブリは派手だが)。逆にいえば、ソロではもっと違うアプローチが聴きたいが、あれは完全に構築されたものだから、求めたところでしかたがないのかもしれない。


編集後記 193(2018年11月30日更新時〔2018年12月31日追記〕)

佃学の吉岡実論を書いた。本文でも触れた《佃学全作品〔全3巻〕》(田畑書店、2018)の内容見本はB5判4ページ(B4二つ折り)のパンフレットで、全作品の装丁は菊地信義。四六判上製・布貼り・表紙箔・化粧函入り・口絵一丁、という平成の近時に珍しい体裁の個人全集である。同書店は、吉岡実が装丁した天澤退二郎の《作品行為論を求めて》(1970)や《夢魔の構造――作品行為論の展開》(1972)を出している。その版元が本書を手掛けたことにも奇縁を感じる。
●本日で《吉岡実の詩の世界――詩人・装丁家吉岡実の作品と人物の研究》を開設して16年経った。来年、2019年の4月15日は吉岡実生誕百年に当たる。それを想うと、感慨にたえない。
●栗原裕一郎編著《村上春樹の100曲》(立東舎、2018年6月15日)を手にした。私は村上春樹の小説の熱心な読者とは言いがたく(お気に入りの長篇を気が向いたときに読み返すだけだから)、その作品から音楽リストを抽出するような真似は逆立ちしてもできない。そういう怠惰な読者にたいへんありがたいのが、この本である。053はパーシー・フェイス・オーケストラの「タラのテーマ」。高校の放送部員だったころ、下校放送のBGMは《風と共に去りぬ》のサウンドトラックのドーナツ盤だった。そんなこともあって、パーシー・フェイスのヴァージョンはひどくあっさりしているように響く。執筆者たちのあとがき座談会〈『1Q84』以後の村上春樹と音楽〉にこうある。
栗原 〔……〕『海辺のカフカ』で主人公のカフカ少年が聴いているのがレディオヘッドとプリンスだというのが、それまでの春樹とは何か違ってきたんじゃないかと思ったポイントですかね。レディオヘッドはわかるんだよね。2000年前後のトム・ヨークを15歳の少年が聴いているっていうのは非常にしっくりくる。でもプリンスは聴くかなあ? というね。
藤井〔勉〕 図書館で中学生が手当たり次第に借りていったら、案外出会うと思いますよ。でも小説における必然性は感じないですね。
大谷〔能生〕 棚が「P・Q・R」で近くにあるからじゃない(笑)。図書館ってそういう並べ方でしょ。
鈴木〔淳史〕 もう歴史性はないんでしょうね。すべてが平面になっている、図書館的な世界。
大谷 TSUTAYA的でもあるよね。(〈アイテムとしての音楽〉、本書、二四二〜二四三ページ)
私が使う公立図書館におけるCDは、著者たちの言うアルファベット順ではなく、五十音順の排架で、棚には「◎(=青丸で囲われたラベル)は、〔演奏者の姓、あるいは演奏団体の最初の一字〕順に並んでいます。演者が複数いるものは、ワ行のあとに白いラベルで〔タイトル順〕に並んでいます」という表示がある。したがって「フ」と「レ」のCDが「近くにある」わけではない。ちなみにTSUTAYAのCDも、「ロック&ポップス」「J-ポップ」などのジャンルごとの五十音順である。ところで、村上春樹の小説に図書館と、印象深い女の司書がたびたび登場するのはなぜだろう。
●2018年はLed Zeppelin(カタカナで書けばレッド・ツェッペリンだが、英語ふうにレッド・ゼ〔ッ〕ペリンと書く人がいて気持ちが悪い。英語の発音をなぞるなら、いっそのことレッ・ゼプリンだろう)結成50周年に当たる。それを記念して《Led Zeppelin by Led Zeppelin》(Reel Art Press、2018年10月9日)が出た。ジミー・ペイジの「写真で綴られた自伝、目に見える歴史本」だった《Jimmy Page by Jimmy Page》(Genesis Publications、2014)と同様のコンセプトで制作された大冊。同書の日本語版が11月に刊行を予定されているが、そんなもの待っていられるか。Amazonの内容紹介に「この本は、ジミー・ペイジ、ロバート・プラント、ジョン・ポール・ジョーンズの3人がプライベート写真や貴重な資料を提供し合い、編纂作業にも関わった最初にして唯一のオフィシャル・ブックです。内容は、1968年、デビューアルバム発表前の若き姿から始まり、50年のバンドの歴史がアルバム・リリースに沿って数百点の貴重写真で綴られています。そして、メンバー自身が各写真に書き添えた解説コメントからは、バンドの知られざる事実も窺い知ることができ、そのリアリティは圧倒的です。半世紀にわたるレッド・ツェッペリンの偉大な歴史が1冊の本、『LED ZEPPELIN by LED ZEPPELIN』に凝縮されています」とあるとおり、現存メンバー自身の著(発言)だから、わざわざ日本語版で読む必要もない。一方、《ロッキングオン》2018年10月号の総力特集には発行所社主の渋谷陽一が書いておらず、体調でも悪いのではないかと心配だ。他方、ジミー桜井・田坂圭の《世界で一番ジミー・ペイジになろうとした男》(リットーミュージック、2018)は、ギタリスト桜井氏の求道的な熱量が読者を、そしてジミー・ペイジ本人を圧倒する奇跡的な一冊だ。氏の機材はこちら、演奏はいろいろあって迷うが、Led Zepagainでの伸び伸びとしたプレイの〈Since I've Been Loving You〉を。番外として、涙が出るほど心動かされるよよかちゃん≠フ〈Good Times Bad Times〉のドラミングをご堪能あれ(ロバート・プラントも驚嘆!)。〔2018年12月31日追記〕昨日の今日のようでなんだが、〈よよかの部屋 Good Times Bad Times(LED ZEPPELIN Cover)〉をどうしても紹介したくて、リンクを貼っておく。面子を聞いて驚くなよ。リードギターにChar、バッキングギター(アウトロにはリードも)に奥田民生、ベースにKenKen、ヴォーカルに山内聡一郎、そしてドラムスはもちろん、よよか“ボンゾ”ボーナム! Here we go.


編集後記 192(2018年10月31日更新時)

吉岡実と文学賞を書いた。今回ここで、吉岡が受賞した(もしくは候補となったり、辞退したりした)文学賞と、選考委員を務めた文学賞を概観したわけだが、このテーマに関連する文献探索が充分なされていなかったことが判明した。これを機に、可能なかぎりこの方面の文献を探索し、未知の資料を見ることができたのは幸いだった。《文学賞の世界》に改めて謝意を表する。
●先日、子供が通う高校近くのブック・オフでちくま学芸文庫版の花村太郎《知的トレーニングの技術〔完全独習版〕》(筑摩書房、2015年9月10日〔6刷:2016年9月10日〕)を見つけて購入した。かつて《知的トレーニングの技術》(JICC出版局)を読んだ気もするのだが、35年以上前のことで、はっきりしない。次の箇所は初読のときも反応したに違いない。「文学で一作家を研究する場合、個人全集がでていればもちろんそれを買いそろえることが出発点になる。〔……〕しかし、全部あつまらなければ分析できないわけではない。現在あつまったかぎりでの全体を見わたしてみて、その作家の小説だけ(小説全部)に限定するとか、むしろ紀行文のほうに重点をおく、とか、さしあたりの方針を決めることはできる。しかし、いずれにしても、出発は、あつめること、それも「全部」あつめること、にあることにかわりはない」(本書、一二三ページ)。だが本書でいちばん感銘を受けたのは、森鴎外の小品〈サフラン〉を例に挙げて、日本語の多国籍的性格を述べた一節だ。「これはサフランと云う草と私との歴史である。これを読んだら、いかに私のサフランに就いて知っていることが貧弱だか分かるだろう。併しどれ程疎遠な物にもたまたま行摩[ゆきずり]の袖が触れるように、サフランと私との間にも接触点がないことはない。物語のモラルは只それだけである」――この、鴎外の最後の一文(とりわけ「物語のモラルは」)が曲者で、「この箇所は日本語であって日本語ではない。モラルという外来語の意味にこだわるとまちがうことになる。「物語のモラルは」をドイツ語に反訳すると、und die Moral von der Geschichteという成句になる。この成句は独和辞典では、「そしてとどのつまりは」という意味だ」。これを書いている鴎外の頭のなかにはドイツ語の成句があって「それを逐語訳的に、あるいは漢文訓読でもするように、「物語のモラルは」と日本語訳したわけである」(本書、三四八〜三四九ページ)。花村に「語学の達人であった鴎外の文章には、このような多国籍的な落とし穴がまだほかにも仕掛けられているのではないか、という恐怖に似た驚き」を与えたこの読解は、著者が大学院生だったときの恩師、大石修平(1922〜91)の指摘によるものだった(〈洎夫藍〉、《感情の歴史――近代日本文学試論》有精堂出版、1993年5月10日)。日本語の多国籍的性格は、ひとり鴎外に限らない。こうした陥穽は、吉岡実詩にも数多く仕掛けられているに違いない。もっとも、それらを解きほぐしていくこと自体、吉岡の詩を読む愉しみのひとつであるとさえ言えるのだが。
●小谷野敦《江藤淳と大江健三郎――戦後日本の政治と文学〔ちくま文庫〕》(筑摩書房、2018年8月1日)を読んだ。〈序文〉にはこんな箇所がある。なお、( )内の数字は本書のノンブル。「それ〔江藤淳の自殺〕から十五年がたつが、江藤の伝記は書かれていない。「論」は出たが、「伝」はない。詳細な伝記を書くためには、往復の書簡類、日記など、また遺族への取材が必要だが、江藤の場合、生活をともにした実子もいない。」(13)――「実は大江についてはいささか秘策がある。というのは、江藤はその前半生において『江藤淳全対話』全四巻があって、しかし「全」と言いつつ実際は全ではないのだが、大江にはまとまった対談・座談集というのがなく、〔……〕。対談相手などの著作集に入っているものがあるが、かなりの数のものが単行本未収録なので、これらを読むといろいろ発見がある。特に初期の対談が面白い。また初期の短編小説で、単行本に入っていないものもある。それらを参照することで、従来のイメージとはいささか異なる大江像が浮かび上がるだろう。」(16〜17)――これらは来るべき《吉岡実伝》の執筆にも資する貴重な観点である。本文では、第三章〈決裂――反核平和主義と保守回帰〉に「〔一九六五年〕七月号の『現代詩手帖』で大江は、田村隆一(一九二三―九八)と対談しているが、これは痛快である。」とあって、(私はかつてその対談〈原初の飛行機乗り〉から大江の吉岡実評を引いたが)小谷野は田村の「コンテンポラリーでいちばん恐ろしい詩人」は「岸田(衿子)君」だという発言を引いてから、「この頃、岸田は田村と結婚していたはずで、大江との関係も知っていたはずだから、大江が絶句するのは当然で、このあと大江はすぐに話をそらしてしまう。」(213〜214)と続ける。岸田衿子と「大江との関係」は巻末の〈人名索引〉からたどることができる。心憎い展開である。また、第五章〈沈滞――純文学凋落の中で〉には大江と画家のフランシス・ベーコンのことが出ていて(291)、これまた興味深い。ちなみに吉岡実は本書には登場しない。


編集後記 191(2018年9月30日更新時)

吉岡実と鳥居昌三を書いた。この後記で付けくわえることはなにもない。「さる老舗の古書店主」が誰かも、言うには及ばない。
●2018年8月の第190回の定期更新(毎月末日)は、本体に先駆けて29日に画像ファイルをアップしようとしたところ、常用するFTPであるNextFTPがうまく働いてくれず(製品の不具合ではなく、当方の設定が問題だったようだ)、おりから業務も多忙をきわめていて、末日の定期更新ができなかった(いつもなら、更新するファイルの最終赤字を確認すれば、30分もかからずにアップできる。ページ数にもよるが、プリントアウトはもう少し時間がかかる)。NextFTPをフリーのFTPクライアントソフトウェアであるFFFTPに替えて、インターネットサービスプロバイダーからの通知と首っ引きで設定しなおして、ようやく勤務のない9月3日に定期更新を終えた。せっかく15年間にわたる連載〈吉岡実の装丁作品〉が終わったというのに(詳しくは次項参照)、とんだミソをつけた恰好だ。かつて月刊雑誌《エスクァイア日本版》の進行を担当していた手前、搬入日に雑誌が入らないことは信用に関わる失態と心得ている。そのくらいの気概がなければ、個人のサイトの管理運営など続けられない。今後、このような遅延が起きないことを祈るだけである。
●先月、〈吉岡実の装丁作品〉の(114)と(122)に〔追記〕を書いた。(114)本体の《草野心平詩全景》(筑摩書房、1973)に《草野心平全集〔全12巻〕》(同、1978〜84)を、(122)本体の安藤元雄詩集《船と その歌》初版(思潮社、1972)に《船と その歌〔別製版〕》(同、1973)を追記したわけだが、それぞれ元の本文に匹敵する、ないしそれを超える分量となった。新稿を独立した項目にする手もあったのだが、以前、那珂太郎詩集《音楽〔限定版〕》(思潮社、1965)と《音楽〔普及版〕》(同、1966)を別の項目――〈吉岡実の装丁作品〉の(6)と(76)――にしたところ、リンクを張って関連づけたにもかからわず、記事の連続性が失われて、読みにくいものになってしまった。よってこのたびは、分量の多寡にかかわらず、〔追記〕として本体に続けた。さて、そこでも(そしてほかの処でもたびたび)書いたことだが、吉岡実は筑摩書房在籍時、社の業務として装丁を担当したときも、基本的にクレジットされなかった。〈吉岡実の装丁作品〉では、そうした場合、本人や関係者の証言にあるものだけを取りあげるのを原則としつつ、その作風から判断して吉岡実装丁として紹介した個人全集も少なくない。今後、吉岡が業務の一環として装丁した作品が新たに発見されることもあろうが、2003年1月に始まる〈吉岡実の装丁作品〉はこのたびの〔追記〕でとりあえず終わりである。15年余の長きにわたるご愛読に感謝する。現在、《吉岡実書誌》の〈装丁作品目録〉の順番(吉岡の自著の装丁を含む)でプリントアウトした全ページ――2面付のA4判で239枚、束が約23ミリ――をファイリングして、通読中だ。これが面白い。《詩人としての吉岡実》と対になるべき《装丁家としての吉岡実》のプロトタイプを、ぜひお試しあれ。また、〈吉岡実の装丁作品〉で書影を掲げた吉岡以外の手になる装丁作品の一覧を書いた。
●フランシス・ダナリーが率いた時代のイット・バイツを聴いている(ピーター・ゲイブリエルばりのヴォーカリストであり、アラン・ホールズワースを彷彿させるギタリストであるダナリーは、1990年にバンドを脱退してソロに転身)。当初、デビュー作《The Big Lad in the Windmill》(1986)と来日記念盤の《The It Bites Album》(1990)の2枚を聴いただけだったが、後者の〈Still Too Young to Remember〉など、フィル・コリンズ時代の(ポップな)ジェネシスのナンバーをピーター・ゲイブリエル時代の(プログレッシヴな)ジェネシスがカヴァーしているのではないかと想わせる、ライヴでも定番のナンバーで、1989年の来日公演を収めたDVD《Live in Tokyo》(2006)ではラストで豪快に、繊細にきめている(汗まみれで、金髪を掻きあげるダナリーの色っぽいこと)。ダナリーのギターは、ぶっとんだフレーズこそホールズワース譲りだが、オブリガートは腰の入ったスティーヴ・ハケットのようで、その微妙な立ち位置ゆえにプログレファンからもポップスファンからも評価を得にくかったようだ(全盛期が短命だったバンドの常で、一部に熱狂的な支持者がいるのも確かだが)。このほかに、最高傑作の呼び声が高い《Once Around the World(限りなき挑戦)》(1988)、《Eat Me in St. Louis》(1989)というスタジオ盤がある。それらからの楽曲を万遍なく取りあげたライヴ盤《Thankyou And Goodnight》(1991)では、素晴らしいパフォーマンスを繰りひろげている。プログレッシヴロックバンドは「ライヴがうまい」のが定評だが、イット・バイツは4人全員でそれをクリアしている。フランシス・ダナリー(1962年生まれ)は今やすっかりおじさんになってしまった。彼が、逆にいつまでも異様に若若しいスティーヴ・ハケット(1950年生まれ)となごやかに共演している姿を観ると、ジェネシスとイット・バイツの浅からぬ縁を思って、感無量になる。ピンク・フロイドも、キング・クリムゾンも、バイツのような真の後継者を持ちえなかった。


編集後記 190(2018年8月31日更新時)

〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引〉の試みを書いた。《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》に続く〈索引〉の第二弾である。本文でも触れたように、書き下ろすべき後半分の〈解題〉が未完成だが、編者自身がしばらく実用して、様子を見ながら執筆を進め(こまめに改訂部分をアップするか、脱稿後にまとめて差し替えるかは未定)、いずれは《吉岡実言及造形作家名・作品名索引〔解題付〕》という独立したページにしたい。第三弾は《吉岡実言及映像作家名・作品名索引〔解題付〕》の予定だが、私は吉岡が観た(と記録にある)映画を数えるほどしか観ておらず、前途は多難である。〈吉岡実と映画〉というテーマでだれか書いてくれると嬉しいのだが。
●お盆前の休日、藤沢・辻堂に安藤元雄さんを訪ねた。吉岡実が装丁を手掛けた詩集《船と その歌〔別製版〕》(思潮社、1973)を見せていただくためである。安藤さんによれば、〔特装本〕(限定10部)の方は神保町・田村書店に一度(法外な値段で)出たことがあるそうだが、当の〔別製版〕(限定15部)は著者にもその動きが伝わってこないようだ(私が見ることのできなかったのもむべなるかな)。吉岡実装丁本のコンプリート蒐集を目指すとき、最後のキキメとなるのが本書であることは動かない(吉岡実本におけるそれは、詩歌集《昏睡季節》である)。今回の〔追記〕でも書いたが、吉岡は本書の装丁で実質的には貼函にしか関わっていないようだ。その意味では、安藤元雄詩集の装丁において吉岡の本領が発揮されるのは《夜の音》(書肆山田、1988)で、安藤さんもその仕上がりには満足されている。
●〈吉岡実の装丁作品〉として《草野心平全集〔全12巻〕》を《〈吉岡実〉の「本」》に〔追記〕した。
●《吉岡実書誌》の〈V 主要作品収録書目録〉に《101 Modern Japanese Poems》を追加した。大岡信の序文、ポール・マッカーシー(谷崎潤一郎の英訳で知られる)の訳者ノート、そして八木忠栄の序論に、それぞれ吉岡実への言及がある(大岡と八木の文章は、底本の《現代詩の鑑賞101》にはなく、本訳書のために新たに書かれたようだ)。該当箇所を掲げよう。
The poems included here have been chosen because they reveal the particular qualities of the poets in question. Examples would include the pre-eminent postwar poet Minoru Yoshioka's Monks, one of the greatest of modern poetry collections, which begins with the poem "Monks";[...].(大岡信)/ Imagery is of prime importance, and I have tried to reproduce the original images used, staying close to the order in which they are presented whenever English syntax permits. Minoru Yoshioka's famous and controversial poem "Monks" progresses through a series of stark, shocking images, as does his "Picking Saffron Flowers," though to very different effect.(ポール・マッカーシー)/ Their 101 poems must of course await the judgment of the reader, but I can say that great efforts have been made to select works that well express each poet's special character. Thus, for example, Minoru Yoshioka's "Monks,"[...] all met with strong reactions when they were first published, roused debate, and became landmarks in modern poetry.(八木忠栄)
本文には大岡が選んだ〈過去〉〈僧侶〉〈サフラン摘み〉の3篇が英訳されているが、序文ほかで〈僧侶〉や《僧侶》が圧倒的なのは無理もない。とはいえ、それは別の意味で私に衝撃を与える。詩集《僧侶》全19篇の英訳がいまだに存在しないからである。ちなみに吉岡の単行詩集の全訳は、エリック・セランドによる《Kusudama》(Leech Books FACT Int. 1991)を数えるのみだ。
●松浦寿輝《川の光〔中公文庫〕》(中央公論新社、2018年5月25日)を読んだ。松浦の長篇小説を読むのは《不可能》(講談社、2011)以来だ。新聞連載ということもあって、《巴》(2001)とも《半島》(2004)とも異なる《川の光》ののびやかな筆致は、いわゆる「松浦節」を期待して読むと肩透かしを食う。この、川の流れのような滔滔たるお話に浸るのが、正しい読み方だろう。これから短篇集《月の光――川の光外伝〔同〕》(同、2018年6月25日)を読むところだ。
●スパークスの《Kimono My House》(1974)を聴いた。このアルバムタイトルは〈Come On-a My House〉のもじりだが、名は体を表すのことばどおり、グラムのようなハードなような、ボードビルのようなオペラのような、クイーンのフレディ・マーキュリーが愛したのがよくわかる逸品である。レヴューを読むと本作はスパークスの中でも珍しい作風のようで、私にはこれ一作で充分、という気もする。自分でアルバムを作るとしたら、この手のものを一曲入れておきたいものだ。
●深夜、執筆に疲れて近くの自動販売機まで冷たいものを買いに出ると、きまって白地に黒の斑の入った猫を見かける。アスファルトの道路に腹をこすりつけて、いったいあれで涼しいのだろうか。とにかく、今年の夏の酷暑をどう乗りきるかは、猫にとっても一大事だ。


編集後記 189(2018年7月31日更新時〔2019年1月31日追記〕)

〈示影針(グノーモン)〉と《胡桃の中の世界》を書いた。本稿の〔追記〕でも触れた菅野昭正編《澁澤龍彦の記憶》(河出書房新社、2018年4月30日)は興味深い書だった。巖谷國士は〈澁澤龍彦の宇宙誌〉で《胡桃の中の世界》の「初版本の表紙」を図版に掲げ、その装丁に触れて「この本も元の題名は違っていて、「ミクロコスモス譜」でした。小宇宙ですね。でも一見して、『夢の宇宙誌』とはまったく別種の装丁になっています。これ、澁澤さんが自分で装丁しました。ときどきやりましたけど、『胡桃の中の世界』もいかにも素人っぽい。どこか稚拙な感じもしますが、それも自覚していたでしょう」(同書、一七四〜一七五ページ)と語っている。澁澤龍彦の手掛けた装丁に言及した数少ない発言として貴重なのはもちろんだが、「どこか稚拙な感じ」とは言い得て妙である。横組みの左右センター合わせに図版を組みあわせたあたり、筑摩書房の刊行物における吉岡実装丁と機を一にすることも指摘しておこう。ちなみに巖谷氏は《胡桃の中の世界》の〈解題〉(《澁澤龍彦全集〔第13巻〕》、河出書房新社、1994年6月15日)で「一九七四年十月一日、青土社から刊行された。A5判クロス装上製カヴァー付。著者自装。本文は9ポイント四十三字十八行一段組、二五九ページ。図版は共刷で四十三点。定価一四〇〇円」(同書、六〇七ページ)と書いている。通常、書誌で採択する「ページ数」は丁付けのある最後のノンブルだから、ここは「二五七ページ」とあっていいところだ。私が仕様として掲げる「ページ数」は、造本・装丁の観点からのものであって、前見返しと後見返しとに挟まれた本扉や別丁、奥付あとの白ページを含む物理的な[、、、、]数値である。どうかご承知おきいただきたい。
●短歌研究文庫版《塚本邦雄全歌集》の〔第一巻〕(短歌研究社、2018年2月3日)と〔第八巻〕(同、2017年6月9日)を読んだ。ゆまに書房版《塚本邦雄全集》には第二十二歌集の《汨羅變》(1997)までしか収録されていないから、同歌集とそれに続く《詩魂玲瓏》(1998)、《約翰傳偽書》(2001)の二歌集、さらに〈全集未収録作品拾遺〉を収めた〔第八巻〕は貴重である。ときに、吉岡実を追悼した〈誄讚〉一二首(《私のうしろを犬が歩いていた》書肆山田、1996、所収)はどうなるのだろう。願わくは、文庫版全歌集続巻のすみやかなる刊行と全巻のつつがなき完結を。
●市川哲史《どうしてヘヴィ・メタルを好きにならなかったんだろう》(シンコーミュージック・エンタテイメント、2018年4月15日)を読んだ。前著《どうしてプログレを好きになってしまったんだろう》(同、2016)はプログレ好きの弁だったが、本書は、その書名にもかかわらず、ヘヴィ・メタル好きの弁と見て差しつかえない(ただしその愛情表現は前著に増して屈折しているが)。いちばん楽しんだのは第二部〈よりぬき『炎』〉中の「ジミー・ペイジ三部作」、とりわけその〈“盗めば都”完全楽曲解説!〉である。予想されるように、レッド・ツェッペリン=ジミー・ペイジ作と称する楽曲のスルス(これを「パクリ」=剽窃と呼ぶ人も世にいるわけだが)をあげつらった、一人ボケ×ツッコミの話芸を盛りこんだ、見事な論文である。ところで、巻頭の〈Contents〉に続いて、ものものしくゴチで【警告】として「本書に掲載されている言葉を含むすべての文章、またはその一部をSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス=ツイッター、フェイスブック、ブログ等)を含むインターネット上、もしくは出版物・印刷物等に許可なく無断転載することは法律上禁止されています。万が一、発見した場合は法的措置が取られますのでご注意ください。/また、スキャン、デジタル化等による複製は著作権法上での例外を除き禁じられています。代行業者等の第三者に依頼してスキャンやデジタル化することは、たとえ個人や家庭内での利用でも著作権法違反となります」(本書、〔004ページ〕)とあるのは、本気なのか冗談なのか。本気で法的措置を取られると困るので、面白そうな記事の「無断転載」は控える。かわりに、といってはなんだが、〈「どうしてプログレを好きになってしまったんだろう@カケハシ」 第十三回 今日もどこかでヒプノシス 文・市川哲史〉にリンクを張っておこう。ヒプノシスの手になるカラーのジャケ写が美しいページだが、前著の続篇として図版=カラーの書籍にしたら、そうとう高価格になってしまうだろう。
●荒井由実の初期4タイトルをまとめて聴いた。作品によっては、充分すぎるほど耳になじみのある楽曲が含まれる一方、ふりかえって考えてみると、アルバムを通して聴くのは初めてのような気がする。《ひこうき雲》(1973)、《MISSLIM》(1974)、《COBALT HOUR》(1975)、《14番目の月》(1976)と、年に1作ずつこれだけの水準の作品を残しているのは驚異である。ティン・パン・アレーによるバンドスタイルのバックトラックも見事だ。各アルバムから好きな曲をひとつずつ選ぶなら、〈ベルベット・イースター〉〈私のフランソワーズ〉〈CHINESE SOUP〉〈中央フリーウェイ〉あたりだろうか。ちなみにユーミンのアルバムで最も好ましいと思うのは、《紅雀》(1978)だ。これはリリース時に、妹が買ってきたLPで聴いた。そして40年後の今日、当時以上に素晴らしい。
〔2019年1月31日追記〕MASTER TAPE 〜荒井由実「ひこうき雲」の秘密を探る〜――YouTubeのコメントに「神動画」とあるが、それが決して大袈裟ではないTV番組。とりわけ、次のシーン。当時を再現したスタジオで、松任谷由実とキャラメル・ママ(−[マイナス]鈴木茂)が音を出してみようかという感じで、ユーミンが〈ベルベット・イースター〉のイントロを弾く処。鳥肌が立つ。


編集後記 188(2018年6月30日更新時)

吉岡実の飼鳥について書いた。そこでも触れた〈飼鳥ダル〉には「手元にある「飼鳥の本」を読んでも、〔ダルマインコは〕「物まね鳥」とは書いてない」という記述がある。この「飼鳥の本」は書名ではなく、飼鳥のことを書いた実用書を指すようで、おそらくどんな稀覯本よりもこの手の書物を同定し、探索する方が難しいと思われる。《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》というページを掲げているからには、どうにかして見つけだしたいものだ。
●《戦後美術の現在形 池田龍雄展――楕円幻想》(練馬区立美術館、2018年4月26日〜6月17日)を観た。池田の作品に触れるのは、《池田龍雄・中村宏》展(同、1997年2月8日〜3月16日)以来だ。今度の回顧展でも瀧口修造や土方巽の名前を見たが、吉岡実の名前は見なかった。というのも吉岡は、《土方巽頌》(筑摩書房、1987)で幾度か池田に言及しているからだ(〈土方巽頌・人名索引〉参照)。最初に登場するのは1968年3月19日の〈日記〉で、「夕暮。銀座のニコンサロンへ行く。細江英公が三年ほどかけて、撮った土方巽の映像展である。〔……〕三次会は新宿のむらさき寿司へと河岸をかえる。三階の座敷でやっとくつろぐ。中西夏之や池田龍雄と土方巽は絵画論をはじめる。その痛烈な批判に対し、池田龍雄は沈黙したが中西夏之は反発し、だいぶ怒ったようだった」(同書、一三〜一四ページ)。二人はその後、北方舞踏派結成記念公演《塩首》を観たり、瀧口修造を偲ぶ会で顔を合わせたり、その二次会やら三次会に付きあったり、片山健展のオープニングでお喋りしたりしている。最後は1986年1月21日、土方巽逝去の日の日記。一方、池田は吉岡に言及していないようだ。《吉岡実参考文献目録》の2017年に、「池田龍雄・中村宏・青木外司・青木径〔座談会〕〈黎明期の青木画廊〉(青木画廊編《一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961-2016》風濤社、五月)」とあるのは、青木径氏の発言によるもの。それは「1972年に『静かな家』っていうのがありましたよね。パルコで公演が終わってぼーとエレベーターに乗ったんですよ。そしたらそこに瀧口さんと澁澤〔龍彦〕さん、吉岡実さんがいて、エレベーターの中でたまたま乗り合わせちゃったんです。そしたら彼らが本日の公演の批評をしゃべってるんですよ。エレベーターの中で僕はうわって。何をお話しになったのか記憶にはないんだけれども。僕はまだ高校出たばっかりで」(同書、五八ページ)という瞠目すべき内容である。
●なすすべもなく時を過ごすことも、かつてはあった。そんなときによく試みたのは、ロックアルバム10選というような、一種の思考実験である。10の異なる音楽家の代表作1点、というような縛りでいけば、さしずめ第1位はビートルズで、作品は《アビイ・ロード》(1969)。第2位はレッド・ツェッペリンで、《レッド・ツェッペリンU》(同)か。以下、順不同で、ジミ・ヘンドリクスならエクスピリエンスを率いた《エレクトリック・レディランド》(1968)だし、キング・クリムゾンの《クリムゾン・キングの宮殿》(1969)を外すわけにはいかない。イエスは《こわれもの》(1971)にしたい。そしてサンタナ《キャラバンサライ》(1972)。ケイト・ブッシュは《天使と小悪魔》(1978)を選んで、ゲイリー・ムーアは《コリドーズ・ オブ・パワー(大いなる野望)》(1982)を、ピーター・ゲイブリエルは《So》(1986)を入れたい。実はこれらはほとんど発売間もないころLPレコードを購入して、その後、1980年代に登場したCDを(甚だしきに到っては複数枚)入手した「愛聴盤」ということになる。さて、最後にクイーンである。デビューアルバム《戦慄の王女》(1973)はたいして感心しなかったが、次の《クイーンU》(1974)は見事な出来映えだった。もっとも所蔵のCDは1994年のプレスで、いささか問題のある音質だった。加えてジャケット写真にはモワレがあって、LPレコードのそれを細工したとしか思えない劣悪さだ。そこで、2011年の40周年記念〈リミテッドエディション〉のSHM-CDを入手して、久しぶりに《クイーンU》を聴いた。“Side Black”における細部までの作りこみには感嘆した(これらは、フレディ・マーキュリーによる渾身のメドレー)。ディスク2の“Bonus EP”には〈White Queen(As It Began)〉のライヴ音源(1975年クリスマスイヴのハマースミス・オデオンで収録)があって、ブライアン・メイのギターソロの決めがすばらしい。やはり《オペラ座の夜》(1975)ではなく、《クイーンU》にしよう。
●フィリップ・K・ディック(中田耕治訳)《宇宙の眼〔ハヤカワ文庫SF〕》(早川書房、2014年9月25日)を読んだ。ミステリーならまだしも、SFにほとんど関心のない私が本書を手にしたのは、アラン・パーソンズ・プロジェクトのアルバム《Eye in the Sky(アイ・イン・ザ・スカイ)》が本書にインスパイアされたと知ったからだ。ちなみに、アラン・パーソンズは「『アイ・イン・ザ・スカイ』(1982)がコンセプト・アルバムだとは思わない。いろんな“意味”を見出して、コンセプト・アルバムだ!と言ってくれる人はいるけどね」(インタビュー〈もうアルバムを作る意義すら感じない〉)と本作について語っている。やはりこのアルバムは、相方のエリック・ウルフソン主導で成ったものか。


編集後記 187(2018年5月31日更新時)

書下ろしによる叢書〈草子〉のことを書いた。書き下ろしの長篇小説ともなれば、河出書房新社〈書き下ろし長編小説叢書〉や新潮社〈純文学書下ろし特別作品〉などがたちどころに思いうかぶ。一方、詩(この場合、やはり長篇詩でいきたい)や詩集の書き下ろしのシリーズともなると、すぐに出てこないのはどうしたわけだろう。無名の新人が自費で詩集を刊行するのは半ば慣行になっているから(吉岡実の《静物》など)、商業出版物としての、と限定するなら、ビッグネームの新作が轡を並べるさまを想像する分には楽しいが、それを実現するのは生半可な覚悟では難しいだろう。私がUPUにいたころ、中途採用で入社したある編集者がいた。詩書専門の出版社に在籍時、彼女が気軽に吉岡に書き下ろしを頼んだところ、一篇の詩を書くのさえ大変なのに書き下ろしの詩集とはなんだ、と一喝されたそうだ。休筆明けに〈葉〉(G・4)を書かせた三浦雅士でさえ吉岡実の連載詩を取れなかったのだから、当然といえば当然だが。《薬玉》(1983)刊行後の吉岡は〔最近関心のあるテーマ〕として「現世をテーマの長篇詩」と答えていたから、機が熟せば……という熾烈な願望、というよりもむしろ妄想を禁じ得ない。
●なじみの古書店がなくなるのは寂しい。近年では練馬駅近くの一信堂書店がある日、歯科医院になっているのに愕然とした(閉店セールがあったというが、見逃した)。同書店では吉岡実装丁の那珂太郎詩集《音楽》(1966年2月5日発行の「普及版」)を見つけたのものだ。普通の書誌には同詩集「普及版」の記載はないから、こうした原物と出会う店頭は私にとって大切な場所だったのに。その点、日大藝術学部前の根元書房が健在なのは嬉しい。先日、鍵谷幸信《詩人 西脇順三郎》が300円で店頭に出ていたので、迷わず購入した。私はページの端を折ったり、付箋を貼ったりはするが、基本的に書物に書き込みをしない。だが、複本が入手できる場合(今回はジャケットにクラフト紙の覆いをかけて、ジャケットの縮小コピーを題簽貼りした)、マーカーでチェックすることはある。本書にない人名索引を新たに作るほどの覇気は今の私にないので、「吉岡実」の登場するページだけ掲げる。〔2〕, 25, 43, 67, 146, 185, 272。なお〔2〕は、「装幀 吉岡 実」というクレジットであり、272は〈あとがき〉である。
●小宮正安《モーツァルトを「造った」男――ケッヘルと同時代のウィーン〔講談社現代新書〕》(講談社、2011年3月20日)を読んだ。私はモーツァルトに特別な思い入れがあるわけでもなく、モーツァルトに吉岡実を、ケッヘルに自身をなぞらえるほど悪趣味でもないつもりだが、〈第七章 作品目録誕生〉には心底、惹かれるものがあった。「助っ人あらわる」「時期区分に影響あり」「目録作成の問題点」「ケッヘルのカードシステム」「五線譜の内容」「成立年代がわからないものは」「書き換えられた紙片」「新しさと旧さと」「ケッヘルの世界観」「家庭音楽こそ王道」「保守的でアンバランス」と小見出しが付けられたこの28ページこそ、本書の白眉である。ウィーン楽友協会資料室所蔵の〈ケッヘルのカードシステム〉と〈あの「626」が確定した紙面〉の図版には戦慄さえ覚えた。ちなみに、「626」とはモーツァルトの完成作品の数。1862年に完成したケッヘルによる《モーツァルト全音楽作品の年代別主題別目録》初版の626番は〈レクイエム〉である。「歴史という巨大な天空に綺羅[きら]星のごとく輝く天才たち。そのなかでもひときわ眩[まばゆ]い光を放つ恒星のごときモーツァルトのかたわらにあって、ケッヘルはせいぜいのところその光を反射する惑星にすぎなかったのかもしれない。だが彼に具わっていた凡庸さには、後に続く数多の才人たちでさえかなわないものがあった。/凡庸さとは時に、かくまで恐ろしい力を秘めている。あるいはその凡庸さを生み育んだ近代のウィーン、そしてハプスブルク帝国には、情報や知識の面においてより多くのものを獲得したはずの現代人さえもが乗り越えられない魔力が潜んでいる」(〈エピローグ――「惑星」の力〉、本書、二六八ページ)。著者の結語だ。
●本日、2018年5月31日は吉岡実の28回めの祥月命日である。日外アソシエーツ編《367日命日大事典――データブック忌日暦》(日外アソシエーツ、2008年9月25日)の〈5月31日〉の項には「吉岡実 よしおかみのる 1990没(71歳)。昭和時代の詩人。1919生。」(同書、三一三ページ)という、簡潔極まりない記載がある。この日は、ティントレット(1594年)やハイドン(1809年)、高橋鉄(1971年)、岩佐東一郎(1974年)、木村伊兵衛(同)の忌日でもある。今年は祥月命日を期して特別な記事を用意したわけではないが、今後とも引きつづき吉岡実の作品と人物にまつわるもろもろを、読み、調べ、かつ書いていきたい。ちなみに来年2019年は、吉岡実の生誕100年に当たる。誕生月である4月には記念すべき記事が掲載できるよう、構想を練っている。


編集後記 186(2018年4月30日更新時)

吉岡実と和田芳恵あるいは澁澤龍彦の散文を書いた。和田芳恵の文学の研究者として最初に指を屈すべきは保昌正夫(1925〜2002)である。保昌さんは、文藝空間同人・原善の出版記念の集まりで一度お見かけしたが、残念ながら話をする機会に恵まれなかった。和田文学や、吉岡実と横光利一のことなど、訊いておくべき千載一遇だったのに。澁澤龍彦については、本文でも触れた巖谷國士《澁澤龍彦論コレクション〔全5巻〕》(勉誠出版、2017〜18)が前人未到の集成で、それを取りまくように、巖谷氏とともに澁澤の全集を編んだ種村季弘・出口裕弘・松山俊太郎の三氏や龍子夫人、前夫人の矢川澄子、澁澤の妹などの親族による著書があり、さながら明治の文豪のそれのごとき壮観である。私は澁澤さんには一度もお会いしたことがなく、活字や写真を通して知るだけだが、盟友・土方巽の葬儀委員長を務めた際の映像は、《澁澤龍彦 ドラコニアの地平》展(世田谷文学館、2017年10月7日〜12月17日)で視聴することができた。いずれ腰を据えて〈吉岡実と澁澤龍彦の作品〉を書かねばならない、と思っている。
●自分では弾けないくせに、ハモンドオルガンという楽器に関心がある。子供のころ観た、黒猫の出てくる外国のアニメの音楽がたしかハモンドオルガンで(《Felix the Cat》だ思うのだが、インターネットで検索しても該当しない)、そのジャジーなサウンドに魅了された。代わりに、といってはなんだが、ジミー・スミス(1925〜2005)の《The Blue Note Years》(1988)を聴いて、喝を癒した。岩浪洋三のライナーノーツには「ジャズのオルガン奏者は戦前にも何人もいたが、ハモンド・オルガンをモダン・ジャズの楽器として魅力のある、また大衆性のある存在にまで高めたのはジミー・スミスである。〔……〕ジミーは両手をフルに活用、さらにフットワークを用い、ベースを不要としたので、彼のトリオはオルガン、ギター、ドラムスの編成で演奏される」とある。ハモンドオルガンといえば、ギタリストの成毛滋はキーボード類もよくした音楽家で、つのだ☆ひろの名作〈メリー・ジェーン〉をステージで演るときはバッキングを右手のハモンドで、ソロを左手のギターで同時に(!)弾いたことが語り草になっている。YouTubeには〈成毛滋とフライドエッグ(メリージェーン)〉という音源がアップされていて、「度重なる引越しにもかかわらず35年前のテープが出てきました!!腐食もしておらず当時(1973年)のサウンドを聞くことが出来ました」とある。同曲は成毛とつのだのバンド、ストロベリー・パスのアルバム《大烏が地球にやってきた日》(1971)が初出だが(アルバムに関しては〈幻想音楽夜話 - [When The Raven Has Come To The Earth / Strawberry Path (Jimmy & Hiro)]〉参照。なお、そこでの曲名は〈Mary Jane On My Mind〉)、上記の音源がフライド・エッグなら、ベースを弾いているのは高中正義ということになる。
●虚実硬軟真贋とりまぜた記述が音楽理論から都市伝説にまで及ぶ、怪著にして快著、高木壮太《新 荒唐無稽音楽事典》(平凡社、2017年2月22日)を愉しみながら読んだ。たとえば巻末の〈音楽史年表〉の「一七九八年」には、「ハイドンが『天地創造』を初演。プログレッシヴ・ロックの幕開けである」(同書、二五九ページ)と見える。ヨーゼフ・ハイドンのオラトリオはまじめに聴いたことがなかったので、にわかに聴きたくなった。同じく、年表の「一九一九年」(吉岡実が生まれた年)には、「世界初の電子楽器、テルミンが発明される。楽器に触れるとかぶれるというアレルギー体質のひと向けの楽器として開発が進められていた」(同前、二六一ページ)。老婆心ながら補足すれば、「テルミンの最大の特徴は、テルミン本体に手を接触させず、空間中の手の位置によって音高と音量を調節することである」(Wikipedia)。だが真骨頂は本文で、「【ブルーズロック】blues rock〔ジャンル〕」の項目には「長髪の白人の若者が、黒人ブルーズのフィーリングを上手く表現できないので、癇癪[かんしやく]をおこし、髪を伸ばしてサイケデリックな服を着てやけくそになって大音量でブルーズをカバーした。そうしたら、それがなかなか良かった。なにごとも結果オーライである」(同前、一九二ページ)とある。最後に引くのは、前項で触れたハモンドオルガンの項目――「「お前はもう噺家[はなしか]なんぞ辞めてオルガンでも弾いていなさい」/「へ?」/「破門だ!(ハモンド)」/という故林家三平師匠の小噺で有名になった鍵盤楽器。日本ではメンソレータムの会社が代理店だった」(同前、一六七ページ)。著者の肩書は鍵盤奏者だが、切れ味鋭い文章を繰りだす。筒井康隆(《乱調文学大事典》や《現代語裏辞典》)との併読がお薦め。ちなみに本書には、筒井と音楽評論家・中村とうようの間で起きた「【レス・ポール事件】れす-ぽーる-じけん〔歴史〕」なる項目があるが、Wikipediaにこの件に関する記述はない。


編集後記 185(2018年3月31日更新時〔2019年3月31日追記〕)

吉岡実とヘルマン・セリエントを書いた。幼児向けの絵本は、一般向けの文芸書などに較べてたいへん厚い表紙に、やはり厚紙の本文の「一折中綴じ」の折丁をくるんだ造本が大半だ(栃折久美子さんが40年近くまえ西武百貨店池袋コミュニティ・カレッジ内に創設した工房で、私がお弟子さんから習った手製本が、この一折中綴じだった)。本文で触れたセリエントの《フェイク》(パロル舎、2001)も36ページの薄い冊子だから、一折中綴じでいいようなものの、8+8+8+8+4ページの5丁から成り、そのすべてが糸でかがってある。みごとな造本設計である。惜しむらくは、手許の一本だけかもしれないが、折と折のあいだに糊が染み出て、ノドの絵柄が剥がれる(見開きでレイアウトされた〈知られざる束縛〉という作品)。ほかは、セリエントの絵を鑑賞するのにほとんど問題ない、すばらしい出来栄えである。
●ザ・(ヤング・)ラスカルズを聴いている。1970年代初めに〈People Got to Be Free(自由への讃歌)〉〈A Ray of Hope(希望の光)〉、〈Heaven〉といったシングル曲でしか親しんでいなかったこのバンドに、いま“アメリカ音楽”の最良の部分を感じる。《Groovin'》(1967)、《Once Upon A Dream》(1968)、《Freedom Suite》(1969)、《アンソロジー》(1992)などのアトランティック時代の作品は文句のつけようがない傑作である。当時はメンバーにベーシストのいないバンドだったが、ヴォーカル、コーラス、ドラムスがとりわけ素晴らしく、ブラスのアレンジも特筆に値する(ギタリストのはしくれとして、私はそもそもブラスが好みでないのだが)。創設メンバーがフェリックス・キャヴァリエとディノ・ダネリの二人になってからの《Peaceful World》(1971)と《The Island of Real》(1972)は、往時のヒット性に欠けるものの、そのノリはますます黒さと凄味を増して(そのくせ、軽快で)、聴きすごせない作品に仕上がっている。イギリスのビートルズに対するアメリカの回答は、モンキーズでもバーズでもなく、ビーチ・ボーイズでもない。ラスカルズである。
●稲増龍夫《グループサウンズ文化論――なぜビートルズになれなかったのか》(中央公論新社、2017年12月10日)に導かれて、Hotwax責任編集《黒沢進著作集》(ウルトラ・ヴァイヴ、2008年1月8日)、四方田犬彦・編著《1968[1]文化〔筑摩選書〕》(筑摩書房、2018年1月11日)を手にした。稲増は後者で〈音楽――商業主義と表現のはざまで〉を書いていて、「67年10月にタイガースのライバルバンドとして人気を二分することになるテンプターズが『忘れ得ぬ君』〔……〕でデビューした。この曲はメンバーの松崎由治が作詞作曲したオリジナル曲。冒頭の「ノーノーノーノーノーノーノーノーノーノーノー」というメロディをひたすら反復するサビのないミニマルミュージックであり、従来の流行歌ではありえない実験的構成であった。そのテンプターズも、68年6月になかにし礼作詞、村井邦彦作曲の『エメラルドの伝説』〔……〕が大ヒットし、歌謡曲路線に舵を切ることになる。専門家の間では、松崎主導で突き進んでいれば、斬新な日本語ロックが生まれていたかもしれないと言われている」(同書、二七七ページ)と惜しんでいる。テンプターズが聴きたくなって、ボックス仕様の全集を入手した。1968年発表の1枚めのアルバムは〈神様お願い〉や〈忘れ得ぬ君〉といったオリジナル曲とともに、〈ストップ・ザ・ミュージック〉や〈レディ・ジェーン〉といったカヴァー曲が収められていて、〈すてきなバレリ〉と〈ブーン・ブーン〉を加えた4曲入りのEP盤レコードを中学生のころ愛聴したものだ(デビューLPは買えなかった)。この〈ブーン・ブーン〉がスタジオライヴに近い録音なのだが、今は亡き大口広司(当時、17・18歳)が抜群のドラムを叩いていて、素晴らしい。松崎のヴォーカル、ギターも聴かせるが、ヤードバーズあたりを意識したと思しい萩原健一のハーモニカ(!)がいい味を出している。
〔2019年3月31日追記〕去る3月26日、萩原健一が68歳で亡くなった。嗚呼。上に記した萩原の歌う〈レディ・ジェーン〉は、本家のミックやライヴァルにして盟友の沢田を超える名唱ではないだろうか。テンプターズ全集を聴いて、この稀代の才能を惜しんだ。お疲れさまでした。さようなら、ショーケン。内田裕也さんによろしく。Too Young to Die: Too Old to Rock'n'Roll !


編集後記 184(2018年2月28日更新時)

吉岡実と四谷シモンについて書いた。本文でも触れているが、私は一度、四谷シモンさんと話したことがある。今は亡き梅木英治さんの新作銅版画展においてだったが、澁澤龍彦を特集したテレビ番組に登場するダンディな姿そのままだったので、すぐにその人とわかった。初対面の当方の質問に丁寧に答えていただき、長年の疑問が解けたことをありがたく思いだす。四谷さんの造る人形が凄いのは喋喋するまでもないが(今回の文章には、2014年の展覧会の印象が大きく影響している)、そのドローイングもじつに素晴らしい。昨年出た青木画廊編《一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961-2016》(風濤社、2017年5月31日)の四谷シモン・青木外司・青木径〔鼎談〕〈アヴァンギャルド 青木画廊〉での「シモン 澁澤〔龍彦〕さんという非常に象徴的なアジテーター、澁澤さんがひょいっとなんか言うとばっと向いた時代だったんですね。〔……〕いまはアジテーターになる人物がアートの世界ではいないのかもしれない。/青木外司 みんな死んでいなくなってしまって、澁澤さんに限らずね。」(同書、九二ページ)という箇所をしみじみと読んだ。外司氏の言う「みんな」に吉岡実が含まれることは明らかだからである。
中島かほる〔インタヴュー〕〈吉岡実と「社内装幀」の時代〉のことを書いた。中島さんにお会いしたことはないが、ユー・ピー・ユーに在籍していたころ、一度だけ仕事で関わったことがある。当時、私は月刊誌《エスクァイア日本版》の制作・進行を担当していたが、編集部の単行本企画として堀田善衛・司馬遼太郎・宮崎駿〔鼎談〕《時代の風音》(ユー・ピー・ユー、1992)の制作を補佐したのだ(担当編集者は植田沙加栄)。同書ジャケットの装画(ナウシカふうのタッチの木造船)は宮崎監督の描きおろしで、装丁をしたのが中島さんだった。インターネットで画像検索すると、のちの《堀田善衞展――スタジオジブリが描く乱世。》(県立神奈川近代文学館、2008年10月4日〜11月24日)の図録の表紙絵の原画(スタジオジブリ蔵。同展にも出品されたようだ)が同じで、中島さんの装丁は、図録の表紙と較べても、赤い菱形の色面を表1の中央上部に大胆に布置して、鮮烈だ。同書はその後、朝日文芸文庫に入ったが、ジャケットに元版の絵は使われていない。制作に関わった者としては、残念な気もする。
●冨田恵一《ナイトフライ――録音芸術の作法と鑑賞法》(DU BOOKS、2014年8月20日)に、音楽における引用に関する注目すべき見解が記されている(ちなみに《The Nightfly》は、スティーリー・ダンの一員であるドナルド・フェイゲンが1982年に発表した初のソロアルバム)。「制作者は引用する部分を記号化して捉えることになるが、その記号化が綿密であればあるほど、そして引用先に対して効果的な使用であることが引用元に対する敬意と言えよう」(同書、二六二ページ)は、本文の「過去のカタログからの引用」(同書、二六〇〜二六一ページ)という章句に付けられた註の一節だ。そこにあるのは、先行する作品(とそれを生んだアーティスト)へのリスペクトであり、オマージュである。冨田の《ナイトフライ》は、1枚のアルバム――《The Nightfly》は当初、LPレコードとして発表された――をめぐる驚異的な著作で、付録の〈レコーディングの流れ〉は、簡潔ながら「録音芸術の作法」を語って余すところがない。吉岡実詩における引用を先行作品とその作者へのオマージュという観点から考察することで、韻文芸術の「作法」の背後にあるものが顕ち現れるに違いない。
●書棚を整理していると、ときどき「おや、こんなものが」という資料が出てくる。《おとなの工作読本〔Seibundo mook No.5〕》(誠文堂新光社、2004)もそうした一冊だ(「自作楽器&竹ひご工作特集号。ストラデヴァリのバロックギター製作、「明和電機」の自動演奏楽器、ほかを掲載)。私は昔から工作そのものよりも、それを解説した手順書を見るのが好きで、本書でなにか製作したわけではない。だが、〈アナログ音楽世代に贈る自作楽器〉を企画し、冊子にまとめあげた功績に敬意を表したくて購入したものだろう(オリジナル弦楽器の製作者、ハナムラ楽器の花村芳範氏はテレビでソリッドボディのウクレレの作り方を伝授していた)。そういえば中学生のころ、スキーの板に弦を張った「ベースキー」という楽器(?)の作り方を週刊誌で見て、感心した覚えがある。最近では、テルミンのキットが付いた雑誌を買いそうになって、からくも思いとどまった。こんなものでジミー・ペイジごっこをしている場合ではないのだ。


編集後記 183(2018年1月31日更新時)

宇野亜喜良と寺田澄史の詩画集あるいは《薬玉》をめぐる一考察を書いた。本文でも触れたように、吉岡実は高柳重信の《俳句評論》に寄った人人に対して、ただならぬシンパシーを抱いていた。重信とともに富澤赤黄男を師に仰いだ俳人たちである(出征前の吉岡が赤黄男の句集《天の狼》を渇望したことはよく知られる)。寺田澄史はヴィジュアルにも造詣が深く、《高柳重信全句集》(沖積舎、2002年6月15日)では装丁を担当している。その寺田さんがタッグを組んだ画家が宇野亜喜良で、二人の合作〈〈新・浦嶼子伝〉浦島太郎〉をオムニバス作品集《日本民話グラフィック》に埋もれさせておくには惜しいと考えた具眼の士が、同書を単行本化している。ひとつは宇野・寺田の《新・浦嶼子伝》(トムズボックス、2002)で、もうひとつは単なる再刊ではない。宇野亞喜良(絵)、桑原茂夫・佐々木聖(詩)《浦嶼子伝》(愛育社、2015年11月7日)がそれで、元版に収録の宇野の絵を原案として、新たに作られた詩画集である(よって、寺田句は掲載されていない)。後でできた方が《浦嶼子伝》で、前からある方(元版の再刊)が《新・浦嶼子伝》とは、それこそ浦島太郎のタイムパラドックスのようで、愉快ではないか。
●書架を整理していたら、鳴戸奈菜・満谷マーガレット編訳(英文併記)《この世のような夢――永田耕衣の世界》(透土社、2000年2月10日)が出てきたので、書影をアップするついでに、《耕衣百句》の書誌に若干の補筆をした。久しぶりに同書の〈解題〉を読んだが、とくに手を入れたい箇所もなく、まずはよし、といった処だ。
●年も改まって、今年はいよいよDTMに挑戦したい。昨年の秋にWindows10にしたこともあって、ようやく作業環境が整った。この間、音楽理論から楽器(ギターやキーボード)の演奏法についての解説本、録音関連の技術書を読みあさって、構想を固めつつある。まずは、書きためたオリジナル作品(といっても〈醒めた瞳で〉のほか、全部で十指に満たない)に形を与えたい。さて、オーディオインターフェイスとDAW、マイクロフォンはなににしようか。アナログMTR時代の機材は、マイクをはじめすべて故障してしまったので、リミックスしたくてもできない。録音関係の書籍では、ハワード・マッセイ(新井崇嗣訳)《英国レコーディング・スタジオのすべて――黄金期ブリティッシュ・ロックサウンド創造の現場》(DU BOOKS、2017年11月10日)が興味深い。「パイ・モービルは〔……〕60年代後半にはアップグレードを図り、かなり大きな8トラック機3M M23を2台積んだ(出張録音では、万が一演奏がリール1本分の長さを超えた場合に備え、重複録音ができるよう、テープレコーダーの2台使いが基本だった)。1970年2月、ザ・フーの名盤『ライヴ・アット・リーズ』を録ったときは、この装備だった」(同書、三一七ページ)とあったので、1995年リリースの〈25周年エディション〉のCDを聴いた。前掲書にあるとおり、これはリーズ大学の学食で収録した音源で、コントロールルームはなんと階下のキッチン(!)だったらしい。素晴らしい。
●前回、《金枝篇》関連でいろいろな資料を渉猟した。そのなかでとりわけ興味を引いたのは、「聖杯伝説」をモチーフにしたワーグナーの楽劇《パルジファル》(1865)と、ダン・ブラウンの長篇小説《ダ・ヴィンチ・コード》(原作は2003、その映画化は2006)だった。ワーグナーに詳しくないのでどの盤にしようか迷ったが、手近にあったジェイムズ・レヴァインがバイロイト祝祭管弦楽団を振った1987年録音のそれを聴いている。三富明《ワーグナーの世紀――オペラをとおして知る19世紀の時代思潮》(中央大学出版部、2000)には作品の演出に触れた箇所も多く、生演奏はともかく、せめてDVDでも観ないことには話にならない。《ダ・ヴィンチ・コード》は上・中・下巻本の角川文庫版(越前敏弥訳、2006)で読んだ。ダン・ブラウンによる図像学的解釈はさておき、あまりにも有名なレオナルドの絵画群を聖杯の観点から考察するのに恰好の題材であることは確かだ。私の気に入った一節は、主人公と女主人公が暗号を解読すべく宗教学の参考資料館に駆けこんで、司書に複数語検索を頼む場面だった(下巻、一二二〜一二三ページ)。そのほかにも、「ヴィーナス、東方の星、イシュタル、アシュタルテ(70)、エジプトの女神イシス(161)、指時計[グノモン](193)、ローマ教皇インノケンティウス二世(292)、サングリアル[Sangreal](295)、聖杯=i296)」(以上上巻、パーレン内の数字は掲載ノンブル)や「聖杯[ホーリー・グレイル]=i5)、聖杯伝説(6)、導きの星(77)、聖杯とは何か[、、](127)、アドニス(132)、聖杯(143)、聖杯伝説(164)、マグダラのマリアとイエスの物語(184)、ヒエロス・ガモス(273)」(中巻)や「バフォメット!(8)、ワーグナーのオペラ(141)、パルジファル(142)」(下巻)といった箇所に傍線を引きたい。解読の大詰め、ニュートンの「球体」が林檎=APPLEだった処では、思わずぐっときたことを告白しておこう(映画で観ると、大したシーンではないのだが)。


編集後記 182(2017年12月31日更新時)

〈青枝篇〉と《金枝篇》あるいは《黄金の枝》について書いた。本稿を執筆するにあたって、久しぶりに岩波文庫版《金枝篇》(簡約本の訳書)を拾いよみした。やはり面白い。若いころにはどうしてもフィクションに目がいくが、昭和から平成に代わるころ、この5巻本を読みながらのちに句集《樹霊半束》としてまとめることになる摘録=俳句を書きつつ、フレイザーの偏執狂的な(褒め言葉である)姿勢に打たれた。吉岡実が《金枝篇》に惹かれたきっかけが何かはわからないが、エリオット(西脇順三郎訳)の《荒地》や入沢康夫の《わが出雲・わが鎮魂》などが去来していたのかもしれない。もっとも吉岡の詩は長篇詩ではなく、本文の典拠だけで詳細な註はないが。
●先日、歿後30年記念展《澁澤龍彦 ドラコニアの地平》(世田谷文学館、10月7日〜12月17日)を観た。たまたま仕事が休みの平日の15時に訪れたが、ちょうど館を出た処の吉岡陽子さんと奇遇というべく出会った。まったく予想していなかったので、ご挨拶できただけだった(外は冷たい風が吹いていた)。せっかくだから澁澤龍彦と吉岡実のことを訊いておけばよかったと臍をかんだ。公式カタログ《澁澤龍彦 ドラコニアの地平》(平凡社、2017年10月13日)には佐藤克秋撮影の〈詩人・吉岡実から贈られた拳玉〉として例の拳玉が掲載されているが、会場では〈澁澤龍彦の書棚から〉のコーナーに展示されていたそれが最大の見ものだった。ガラス越しの少しく奥まった処に展示されていた拳玉は、目測でケンの高さが約20cm、玉の直径が約10cmで、私の持っているビルボケより大きいようだ。ケン先のくすんだ黄色い塗装は剥がれていて、ずいぶん使いこんだ様子だった。展示の説明文は公式カタログのそれよりも詳しいので、採録しておきたい。「黄色い大きな拳玉は、親しい詩人の吉岡実より贈られたもの。この拳玉から、幼少時の思い出や古今東西の拳玉にまつわるエッセー「拳玉考」(「風景」1968年2月号)が書かれた。丸い玉や円軌道をなす独楽など、書斎にはこうした澁澤好みの玩具が置かれていた。」(〈拳玉、独楽〉)。また、会期に合わせて巖谷國士《澁澤龍彦論〔全5巻〕》(勉誠出版、2017年10月〜12月)が刊行中だ。A4判・巻き三折の内容見本を最初に見たとき、澁澤の著作の選集でも出るのかと思って、よくよく見たら巖谷著の澁澤論だったので驚愕した。巖谷氏は龍彦が亡くなったあと、澁澤龍子夫人に「澁澤さんの仕事を残すことが、僕の一生の仕事のひとつになってもいいです」と語ったそうだ(本書内容見本〈推薦文〉)。それが、この浩瀚な書物群に結実した。昭和後期に活動した一人の文学者を一人の人間が顕彰する試みとしては、空前のものではないだろうか。
●ジミー・ペイジ公認の未発表音源集《Yardbirds '68》(Jimmy Page Music、2017年11月24日)がリリースされた。これは、ペイジ在籍時代の最後の年、1968年のヤードバーズのふたつの音源――ライヴ盤《LIVE AT ANDERSON THEATER》と当時録音された別テイクやデモのコレクション《Studio Sketches》――を収めたもの。前者の旧盤については、〈編集後記 165〉で触れたように、〈Amazon.co.jp: Live Yardbirds - ミュージック〉にライナーノーツのつもりでレヴューを書いている(〈コメント〉に「39人のお客様がこれが役に立ったと考えています」とあるのは嬉しい)。ペイジが私のレヴューを読んだとも思えないが、半世紀を経て公式盤が聴けるのは慶事である。新盤では、無用の歓声が消されて、音像(とりわけギター)が改善される一方、曲間のキース・レルフのMCやペイジのチューニングシーンがカットされたのは惜しい気がする。だが、なによりも驚いたのは、ラストの〈I'm A Man〉の「エンディング」(レヴューには「バンド初期、エリック・クラプトン時代からのこの曲(12分近い長尺になった)のエンディングには再び〈Over Under Sideways Down〉のイントロをあてがい、ニューヨークでのヤードバーズ最後のステージを締めくくった」と書いた)が、おそらくはペイジの判断によってカットされたことだ。収録のふた月後のロスでのライヴのオーディエンス録音盤でも同じエンディングが聴けるから、この措置は腑に落ちない。
●日本でジミー・ペイジのフリークといえば、野村義男、ROLLY、佐野史郎は外せないが(3人は2013年5月26日放送の《題名のない音楽会》の〈なんてったってジミー・ペイジ〉で共演)、ROLLYの《絶対!魅せる ROLLYのギター術 100のコツ》(ヤマハミュージックメディア、2014年7月10日)には「長い間ジミー・ペイジに憧れ続けて、約30年後、新宿のホテルのスイートルームでインタビューすることができた。それは大きな出来事だったね。そのとき彼に「あなたは30年以上に渡ってこのシーンで活躍していますが、今でもギターを弾くときに新しい発見はありますか?」って質問をしたんだ。彼は、「毎日のように新しいアイデアが浮かぶよ」と言っていたね」(同書、一八ページ)とある。新しいアイデア満載の、そのギタープレイを聴かせてくれ。
●椿作二郎句集《冬鏡》を購入したので、〈吉岡実の俳号〉に二度目の〔追記〕を書いて画像を掲げた。いずれは、作二郎や吉岡の俳句の師匠だった田尻春夢の句集も入手したいものだ。


編集後記 181(2017年11月30日更新時)

●今日、2017年11月30日は本サイト《吉岡実の詩の世界――詩人・装丁家吉岡実の作品と人物の研究》を開設して15周年に当たる。3カ月ほどかけて、吉岡実未刊詩篇本文校異を書いた。吉岡実詩の初出形はすべてコピーを取って定稿形と照合したものをファイルにしてあるが、そこに〈波よ永遠に止れ〉が見あたらない。なにかのために使って、戻しわすれたに違いない。そればかりか、初出誌自体がどこかに紛れて出てこない。しかたがないので、インターネットで探して注文した。このファイル、《吉岡実詩篇初出コピー(未刊行分)》は、吉岡実の著書よりも貴重なものかもしれない。吉岡の本はこの世に複数あるが、私が一篇一篇集めたこのファイルは一つしかないのだから。その成果を取りまとめたのが、今回の〈吉岡実未刊詩篇本文校異〉である。自祝の意を込めて掲げ、いまだ刊行を見ない《吉岡実全集》を待望することにしよう。
筑摩書房版〔現代日本文學大系〕の《川端康成集》の装丁を中心に、吉岡と川端について書いた。矢川澄子さんが亡くなったときの追悼文の〔追記〕に《新潮》臨時増刊号(1989年2月)でのアンケートを引いてその死を惜しみ、続けて「朔太郎・キートンと川端康成・吉岡実を「あのいつでも驚いているような眼」の印象で結びつけたのは、《ユリイカ》が吉岡実特集を組んだときの編集長・三浦雅士だった」と書いた。三浦さんの文の主眼は、だが、これ以降にある。「日記をはじめとする吉岡氏の散文を読んで気付くことは驚く、驚嘆する、という言葉が少くないことである。それらの言葉がなぜ美しい、すぐれている、印象的である等々ではないのか。彼はなぜ驚くのか。/〔……〕/驚くという言葉は、〔……〕世界に対する詩人の関係を端的に表しているのであり、彼にとって世界はおそらく、つねに未知であり、無気味であり、不条理である。彼は、驚くまいことか、世界との関係を言葉によってごまかすことをしない」(《夢の明るい鏡――三浦雅士編集後記集1970.7-1981.12》冬樹社、1984年6月30日、七八ページ)。太田大八さんの「滑稽なほど子供じみた人柄丸出しのこの男」(〈カメレオンの眼〉)という吉岡評も、同じことを言っているのだろう。詩人は驚きに眼を瞠る。ならば小説家は? なお、本稿がいつもの〈吉岡実の装丁作品〉と様子が違うとすれば、当初、《〈吉岡実〉を語る》に向けて〈吉岡実と川端康成〉と題して書いたものを、ローカルのファイルに収容する際、《川端康成集〔現代日本文學大系52〕》を吉岡実装丁作品とするのがふさわしいと考えなおして、掲載ページを変更したためである。
●「アラン・ホールズワース(Allan Holdsworth、1946年8月6日-2017年4月16日)は、イギリス出身、在アメリカギタリスト。主にロックおよびジャズ・フュージョン界で活躍。卓越した技巧を持ち、個性的な演奏を聴かせた」とはWikipediaの記述だ。そのホールズワースが70歳で亡くなった。私はそれを半年余り知らずにいて、彼の死以上にショックを受けた。音楽家の逝去はその音楽を聴いて悼むのがいちばんであるから、ホールズワースのソロ名義のアルバム12枚を集成した《The Man Who Changed Guitar Forever》(2017)を入手した。《One of a Kind》(1979)は死ぬほど愛聴したのに、なぜか聴いていなかったブラッフォードの一作目《Feels Good to Me》(1977)も求めた。ホールズワースはソロアルバムも悪くないが、バンドや、他のミュージシャンの作品でゲストとして最高のプレイを発揮したギタリストだったのではないか(例えばチャド・ワッカーマンの《Forty Reasons》)。本人は不服だろうが、作曲家として超一流だったとは思えない。しかし、そのインタープレイは数数のCDの形で遺された。あのジョン・マクラフリンがホールズワースのプレイを観て、どうやって弾いているのかちっともわからなかったと本人に語ったという挿話は、事実であるかは措いて、いかにもギターを一変させた男にふさわしい。フランク・ザッパは「独力でエレクトリック・ギターを再発明した人物(single-handedly reinventing the electric guitar)、という称号に値する」と語ったそうだ。
●細かいことだが、前回(10月末)の定期更新の直前、トップページに設置していたアクセスカウンターが表示できなくなった。原因不明で、自分では対処できなかったため、今までとは別の無料アクセスカウンターを設置して、急場を凌いだ。以前の青い数字になんの不満もなかったので、15周年を機に付けかえたわけではないことを一言しておく。一体に私は、目先をころころ変えるのを好まない。そんなことよりももっと先にやることがあるはずだ、と思ってしまう。
●アクセスカウンターの来訪者数を15年間の日数で割ると、1日約7.5人になる。そのなかで最も頻繁に訪れたのはいうまでもなくこの私だが、この間、4万人もの人が吉岡実に興味を持って閲覧してくれたことに対して、深い感慨を覚える。今後とも、そうした人人の期待を裏切らないような(さらに欲を言えば、それを上回るような)成果を追求していきたい。


編集後記 180(2017年10月31日更新時)

吉岡実と病気あるいは吉岡実の病気について書いた。先日、経過観察で臓器の数値が良くないので、生体検査をするために入院した。小さいころ、部分麻酔で指を手術したことはあるものの(竹ひごをいじっていて、爪のあいだにとげが刺さった)、全身麻酔で体内を手術するのは初めてだ。吉岡実は晩年に到るまで大病したことがなかったはずで、そうした人間が作品に「病気」をどう書いたか、術後のベッドに横たわりながら気になった。本稿執筆のきっかけである。
島崎藤村全集の装丁について書いた。本文でも述べたように、今後新たな証言でも出てこないかぎり、〔筑摩全集類聚〕版の藤村全集は吉岡実装丁ではないと判断している。今回は、〔筑摩全集類聚〕装丁の創始者(のひとり)として吉岡実を顕彰するために、一文を草した。筑摩書房に在社当時、吉岡が装丁したと考えられる〔筑摩全集類聚〕は、《芥川龍之介全集〔全8巻別巻1〕》(1971年3月〜11月)、《太宰治全集〔全12巻別巻1〕》(1971年3月〜1972年3月)、《夏目漱石全集〔全10巻別巻1〕》(1971年4月〜1973年1月)、《森鴎外全集〔全8巻別巻1〕》(1971年4月〜12月)である。これらはみな上製本としての使命を終えたのち、〔ちくま文庫〕版の各個人全集に姿を変えたが、島崎藤村の〔ちくま文庫〕版全集は出ていない。ちなみに、〔ちくま日本文学全集〕の藤村集は《夜明け前〔第二部〕》を収めて、見識を示している。吉岡は藤村について、〈白秋をめぐる断章〉の「3 詩歌懇話会の夕べ」で「〔講演会の〕講師の顔ぶれが、島崎藤村、萩原朔太郎、北原白秋とまた魅力的だ。今でも印象に残っているのは、藤村が自分の話が終ると、卓上のコップを持って、退場し、しばらくして、新しく汲んだ水のコップを持って現われ、そっと卓上に置いて、消えた。見事な礼儀作法を眼にして、聴衆は感動したようだった。さて、次の萩原朔太郎は、だいぶ酩酊しているらしく、喋っていることが、支離滅裂で、論旨がのみこめなかった。当時、私は藤村も朔太郎も読んでいない」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三〇三ページ)と書いている。吉岡は、その後も藤村の作品には言及していない。
●今月は《〈吉岡実〉の「本」》に〔追記〕が2件あった(ほかに、写真だけの追加が1件)。すなわち〈吉岡実の装丁作品〉の(23)に村岡空の詩集《かきくけこ》と《さしすせそ》(発言社、2006)の表紙の、(54)に《清岡卓行詩集〔特製限定版〕》(思潮社、1970)の外函と函と表紙の平と背の、(132)に深瀬基寛《エリオット〔鑑賞世界名詩選〕》(筑摩書房、1954)のジャケットと表紙の書影をアップし、(23)と(54)には文章も書いた。吉岡実装丁本を新たに入手できなくなった時点で、〈吉岡実の装丁作品〉の記事をInDesignで組み、PDF化する企図があった。そのときまでの全冊を対象に作業したのだが、今回のように書影の追加や文章の追記があると、htmlの優位性には太刀打ちできない。今後は、《〈吉岡実〉の「本」》ページの欠落の補填がメインとなろう。
●このところ、《吉岡実の詩の世界》に新規の記事を執筆・掲載するにさいして、新しい方法を講じている。本サイトの最初期にはAdobeの製品であるGoLive(サイト制作の通信教育を受講したとき指定されたオーサリングツール)を使っていたが、AdobeがGoLiveを見限って開発を中止したため、Windowsの新しいOSでは使えなくなった。そこで算段したのがフリーのKompoZerだった。ところがこれが妙な処で改行して、邦文に不要の半角アキを生じる。そこでやむなくhtmlファイルをテキストエディタで開いて、タグを適宜埋め込む方式に(全面的にではないが)切り替えた。これが現状で、この文章もそうして書いている。テキストエディタというくらいだから、本文を書くぶんには快適このうえないが、画像を取りこんだり、リンクを張ったりする段になると途端に面倒くさいことになる。それやこれやで、以前にも増して文字分量が多い記事になっている。本来なら、そうしたことに影響されない紙面(画面)を構築しなければならないのだけれど。
ここからは余談である。ふだんこんなことはしないのだが、島崎藤村全集の装丁について書くにあたって、準備のための第0稿から第1稿……第n稿を、稿を改めるたびに破棄せずに保存しておいた。これを基に執筆過程を振りかえってみよう。第0稿(テキストデータ)には、掲載する画像のキャプションの本原稿を書いて、撮りおろし写真用の手控えとした。そして本文を「矢口進也《漱石全集物語》(青英舎、1985年9月25日)は、」と書きだした。「昭和四十六年四月に出はじめた『筑摩全集類聚・夏目漱石全集』(全一〇巻別巻一)がある」以下の引用部分は、このところのOCRの不調により手打ちで入力した。「〔筑摩全集類聚〕に関しては、《〈吉岡実〉の「本」》で漱石はもちろん、芥川、太宰、鴎外に言及したが、島崎藤村には触れなかった。〔……〕いい機会なので、《夜明け前》を収めた《藤村全集》を図書館から借りだす一方、三好行雄編《島崎藤村全集(筑摩全集類聚)〔別巻〕島崎藤村研究》(筑摩書房、1983年1月30日)を入手した」というところまでが第0稿で、引用文を含めて約880字。次が第1稿で、「untitled.html」ファイルの〈《吉岡実の詩の世界》作業用〉に2017年10月31日の《〈吉岡実〉の「本」》用として、第0稿をコピー・ペーストして、タグを追加する。今回は夏目漱石全集と筑摩全集類聚について触れるので、本サイトの過去の記事をプリントアウトして、矛盾がないように、というよりもその記事の先を行くための準備とする。画像は文字の「□」で表すダミー段階だが、本文・キャプション(小字で表示)との位置関係を確認する。次の第2稿は、「untitled.html」をテキストエディタで開いて、徹底的に加筆しつつ、同時にタグも追加する。画像は「untitled.html」冒頭に掲載している作業用の「…写真のダミー原稿(Altにも)…」を貼りこむ。本稿のように2点掲載の場合、天地左右のサイズを仕上がりに近いピクセルに設定して、書物の撮影に備える。これで、全体の原稿分量がほぼ決まる。次の第3稿は、第2稿のプリントアウトに赤で書いた訂正箇所の修正をする(引用文や出典の確認などの校閲も行う)。また、キャプションにある設定で画像(書影)を撮りおろし、画像ソフト――Vix統合画像ビュアーで画像の選択とファイル名付け、Picasa 3で正対と色調補正、Irfan Viewでトリミングと軽容量化――を使って掲載用の画像ファイルを準備し、htmlファイルに貼りこむ。一見したところ、これで完成原稿である。だが、作業はこれでほぼ半ば。記事をブラウザ(書体が見やすいので、Internet Explorerを常用)で見て、ファイルをプリントするが、直しもれがあると面倒なので、印刷プレビューで確認するのを怠ってはならない。このとき、段落の最終行の文字数がきわめて少ないと見苦しいので調整するが、原稿内容の吟味が優先することはいうまでもない。こうして記事の加筆・削除を繰りかえす。自身での修正作業になるが、執筆・編集・校閲(校正)はそれぞれ別人格のつもりでするのが鉄則だ。立花隆がどこかで書いていたが、執筆者の原稿を情け容赦もなく切りきざむのが編集者の快楽である。区切りのついた作業ファイルは、上書き保存する。外付けハードディスクにバックアップを取り、不測の事態に備える。前月末の定期更新が公開されると、いよいよ本稿の出番である。「YMnohon_02.html」の該当箇所に「untitled.html」の最新稿を移植するが、ここからの約1カ月が本当の意味での作業期間となる。初読のつもりで原稿やリンクのあら捜しをする。印刷物ではこれを別の人格が行うが、私は査読を他人に頼まない(個人のサイトはたいていそうだろう)。だから、資料的なページ以外の執筆記事の場合、最低でも2カ月はかけてローカル上で原稿を揉まないと、人様に(同時に未来の自分自身に)読んでもらえる記事には絶対にならない。第n稿は、ときには第10稿にもなろうか。以上が、本サイトの記事を作る手順のあらましである。私の書くものは創作ではないが、読む人(大江健三郎の小説は読むが、吉岡実の詩は読んだことがない、という文学好きな高校のクラスメートを想定している。元気ですか)に、読んでいる時間以外の時の流れを感じてもらいたい、と念じている。私にとっての執筆活動は、楽曲のアレンジ(作りこみ)に似ている。ところで、丸谷才一の随筆は(むろん評論も)、発表されたそのときから少しく古風な感じで、今出来の安ぴかな印象がまったくなかった。そのくせ中身は、丸谷好みの言葉を借りれば、「清新」な気に充ち満ちていた。古典的な表現で斬新・奇矯な新規性のあるものを書くこと――まさに吉岡実の詩作それ自体ではないか。二人のようなモダニストでなくとも、文章とはかくありたいものだ。
……と、ここまでローカルで草稿を書いてきた9月末、長年、使用してきたWindows 7マシンがハードディスクに変調をきたした。今まで二度取り替えて、修理のたびごとにデータを少しずつ失い、この次は交換用の部品がもうないから買い替えるようにと言われてきたので、Windows 10マシンを購入した(NECのLAVIE Desk All-in-one DA370/GAW)。本体と一体のディスプレイは幅が55cm近くあって、デスク周りに書類が置きにくいほどである。OSが新しくなって便利なのはいいのだが、32ビットから64ビットに変わったため、Irfan Viewは日本語表示ができなかったり、InDesignもインストールが面倒くさそうだったりで、なかなか旧と同じ作業環境が構築できずにいる(OCRの「読取革命」が使えるようになったのは、ありがたい)。Windows 10のハンドリングも含めて、しばらくは試行錯誤の日日が続くことになりそうだ。
●10月の愛聴盤(BGMにあらず)は、驚異の演奏集団マハヴィシュヌ・オーケストラ(第一期)の3作、すなわち《The Inner Mounting Flame(内に秘めた炎)》(1971)、《Birds of Fire(火の鳥)》(1973)、《Between Nothingness & Eternity(虚無からの飛翔)》(1973)だ。ジミ・ヘンドリクスに感化されてごりごりのエレクトリックギターを弾いているジョン・マクラフリンは、これらの作品でロバート・フリップ(キング・クリムゾン)やジェフ・ベック(ソロ)の傑作群を用意した(ブラッフォードもなにがしかの影響を受けていよう)。これはフュージョンなどといった生やさしい代物ではない。インストゥルメンタルによるロックの起源であり、指標である。
●今月は前前項〈わたしの執筆法?〉を書いたので、《編集後記》がかつてない長文となった。来月は本サイト開設15周年を迎える。記念になる記事が掲載できれば、と思っている。


編集後記 179(2017年9月30日更新時)

吉岡実と金子光晴について書いた。今回読んだ関連文献に、金子が三島由紀夫について語ったものがあった。田中小実昌に問われて「三島ですか。あれはまぁ、縁がないねぇ、ぼくには。どうでもええ(笑)。〔……〕(突然思い出したように)三島ネ、あれ、死ぬ前は変な顔してたけど、死んだら人気が出たようですね。/死ぬてぇのはどうも利口者のすることらしい」(〈鼎談 A感覚・V感覚〉、金子光晴《下駄ばき対談集〔新装版〕》現代書館、1995年8月1日、六三ページ。初出は《週刊読売》1973年9月1日、8日号)と語っている。それを受けて稲垣足穂がなんと言ったか、ここに引くことは控えよう。本稿の最後で《ちくま》に掲載された会田綱雄の〈金子光晴先生(哀悼)〉に触れたが、同文はその後「会田綱雄初のエッセイ集」(帯文)である《人物詩》(筑摩書房、1978年1月20日)に収められた(〈哀悼 金子光晴先生〉と改題)。この四六判角背クロス装、三五四ページの瀟洒な造本・装丁は吉岡実によると言われてもおかしくないが、本書には装丁者のクレジットも著者のあとがきもないので、《吉岡実書誌》の〈W 装丁作品目録〉には掲げていない。さらに残念なことに初出一覧もないから、〈吉岡実の猫〉という12ページにわたる文章の初出がわからない。詩集《サフラン摘み》の出た1976年に発表されたものらしいのだが。なお、インターネットで「コダックの猫」を画像検索すると、会田が同文の冒頭で触れた吉岡の詩篇〈『アリス』狩り〉(G・12)の「コダックの五匹の猫の写真」を見ることができる。
《定本 金子光晴全詩集》の装丁について書いた。初期の自作に点数が辛いのは、多くの詩人に共通している。《定本 金子光晴全詩集》は金子の第一詩集《赤土の家》を収録しなかったし、本書と同じ1967年に刊行された思潮社版《吉岡実詩集》(著者が編んだ「全詩集」である)は《液体》(1941)を抄録詩集とし、《昏睡季節》(1940)を抹殺した(さいわい、二詩集は《吉岡実全詩集》に全篇収録されている)。《定本 金子光晴全詩集》は、「定本」ではあっても「全詩集」とは言いがたい。金子による「定本詩集」であって、本書刊行時点での「全詩集」ではないのだ。
●最寄りの駅前の書店はつぶれるし、勤務先の関係で、ターミナルの大きな書店に足を運ぶことは稀だ。たまに新宿や渋谷、お茶の水に出ると、このときとばかり新刊や古書を見てまわるので、疲れる。先日、久しぶりに新宿・紀伊國屋書店の美術書コーナーをのぞいたところ、宇野亞喜良編《AQUIRAX CONTACT――ぼくが誘惑された表現者たち》(ワイズ出版、2010年12月10日)を見つけた。桑原弘明から石田徹也まで、「宇野亞喜良がコンタクトした異能のアーティストたち39人」というふれこみの作品集で、巻末に編者と各アーティストとの対話が載っている。この作品と対話が、めっぽう面白い。39人のうち吉岡実が言及した作家は金子國義と四谷シモンだけだが、宇野が推すだけあって吉岡好みの作品が多いようだ。ところで、私が初めて観た宇野亞喜良の作品は、従姉に貰った寺山修司《時には母のない子のように》(新書館、1969)のイラストレーションだった。あの桝型本はどこにいってしまったのだろう。いい機会なので、宇野本人の著書を十数冊ひもといた。刊行順に、《ル・シネマ》(マガジンハウス、1992)、《薔薇の記憶――宇野亜喜良全エッセイ》(東京書籍、2000)、《AQUIRAX UNO POSTERS 1959-1975――宇野亜喜良60年代ポスター集》(ブルース・インターアクションズ、2003)、《SAMURAI AQUIRAX――宇野亜喜良 時代小説挿画集》(愛育社、2006)、《少女からの手紙》(マートル舎、2009)、《奥の横道――Aquirax Labyrinth 2007-2008》(幻戯書房、2009)、《MONO AQUIRAX+――宇野亜喜良モノクローム作品集》(愛育社、2009)、《宇野亜喜良 創作の現場――Illustrator's workshop》(誠文堂新光社、2010)、《CINE AQUIRAX》(愛育社、2010)、《宇野亜喜良――少女画 六つのエレメント》(河出書房新社、2010)、《アナグラム人名図鑑》(ワイズ出版、2014)――石津ちひろ(文)による吉岡実のアナグラムは「神の寄る塩」(同書、三〇ページ)だが、宇野の絵は添えられていない――、《宇野亞喜良 AQUIRAX WORKS》(玄光社、2014)、《宇野亞喜良クロニクル》(グラフィック社、2014)、《宇野亞喜良 ファンタジー挿絵の世界――The World of Aquirax Uno's Fantasy Illustrations》(パイ インターナショナル、2016)、《定本 薔薇の記憶〔立東舎文庫〕》(立東舎、2017)。宇野亞喜良の絵画作品は、19世紀末のモノクロームの線画と1960年代のサイケデリックアートという、本来は水と油のような両極を一手に押さえた絢爛たる作風と見えるが、その恐るべきデッサン力とつねにそれを乗りこえようとする妄想力の拮抗こそ、宇野の本質ではなかろうか。宇野亞喜良の絵画作品の構造は吉岡実の詩篇のそれに通じている。《宇野亞喜良 ファンタジー挿絵の世界》巻末の「宇野亞喜良」というペン書きの筆跡が晩年の吉岡実のそれに驚くほど似ているのは、決して偶然ではない。


編集後記 178(2017年8月31日更新時〔2017年9月30日追記〕)

〈冬の休暇〉と毛利武彦の馬の絵について書いた。毛利武彦は秋元幸人《吉岡実アラベスク》が書肆山田から出た2002年には存命だったから、著者は同書を毛利氏に献じたに違いない。そのとき毛利氏が吉岡実の詩、とりわけ馬の詩群にどんな反応を示したか、あるいは示さなかったか、秋元さんから聞きたかったと思う。毛利武彦は文章もよくした人で、「馬を飼わねばならぬのは私の運命なのかも知れない」という章句を含む随想〈幻駿記〉は、一筆書きのようなタッチにも関わらず、ずっしりとした手応えを感じさせる。「随筆「馬を飼うの記」は,末尾近く瞭かに虚構と判るように書いたつもりであったが,テレビ局から取材に行き度いと電話がかかって来たりして,後に「幻駿記」と改題した。」(《毛利武彦画集》求龍堂、1991年3月31日、二〇〇ページ)とあるのは、毛利の画業を考えるうえでも興味深い。
〈編集後記 99〉に「私がときに読みかえす批評の書は何冊かあって、〔……〕何年かに一度はそれぞれ通読する」と書いて、四方田犬彦《貴種と転生・中上健次〔ちくま学芸文庫〕》(筑摩書房、2001)ほか、計5冊を挙げた。四方田にはもう一冊、《漫画原論〔ちくま学芸文庫〕》(筑摩書房、1999年4月8日)というとてつもなく魅惑的な本があって、つい先日も何度目かの通読をしたところだ(著者は〈あとがき〉で、12歳のときに石森章太郎《マンガ家入門》(秋田書店、1965)を読んで決定的な影響を受けた、と書いている。私が同書――ただし正・続を再編集した《石ノ森章太郎のマンガ家入門》(秋田書店、1988年1月15日)――を読んだのは《漫画原論》の後だったから、石ノ森の呪縛を免れた。10歳のころ初刊を読んでいたら、あたら乏しい才能をマンガの制作に費やしていたに違いない)。これは単なる偶然だろうが、〈19 氾濫する分身〉に「〔……〕奪いとった財宝は分身四つ身の術を用いるくだんの僧侶に奪い去られる。白髪の僧侶がみずから皮膚を剥ぐと、そこには影丸の顔がある。四人の僧侶とは、実は影丸とその配下の三人の(同じ顔に変装した)忍者だったのだ」(同書、二〇八〜二一〇ページ)とある。四方田がここで「四人の僧侶」と書いたとき、吉岡実の詩篇〈僧侶〉(C・8)が頭に浮かばなかったはずはないのだが、同詩と白土三平《忍者武芸帳 影丸伝〔第5巻〕》の関係を述べる場でないためだろう、話はむろんそちらに進展していかない。吉岡は1960年代末に、白土三平《カムイ伝》全巻を白石かずこの小学生の娘に贈っているものの(当然、自身でも読んだことだろう)、吉岡の詩と白土の漫画の間に影響関係があったとは思えない。「同一人物の複数の姿をひとつのコマに描く手法と、彼が何人もの人物に分裂して敵を欺くという忍術が、そこでは故意に重ねあわされているのだ。〔……〕そこにおいて興味深いのは、それが歴史における人物の没個人性、代替可能性といった世界観と結合している点である」(同書、四六ページ)とは、四方田が「異時同図」の観点から《忍者武芸帳》を分析した一節だが、図らずも〈僧侶〉の構造を剔抉した形になっている。
●ひところイギリスのロックバンド、ルネッサンスの《シェエラザード》(1975)と同《ライヴ・アット・カーネギー・ホール》(1976)をよく聴いた。〈シェエラザード〉はリムスキー=コルサコフの交響組曲《シェエラザード》(1888)――私はズービン・メータ指揮、ロスアンジェルス・フィルハーモニック演奏のディスクを愛聴している――に想を得た大作にして、ルネッサンスの最高傑作。NHKのFMラジオでの《シェエラザード》の全曲放送(かつてこんな番組があった)をカセットテープにエアチェックして以来、このアルバムに惚れこんでいる。後者の全米ツアーでの演奏も素晴らしい(曲前のMCが長いのが難点)。私のアラン・パーソンズ・プロジェクト贔屓は、ルネッサンスを好むことに通じる。あるいはその逆か。アラン・パーソンズとアニー・ハズラム(ルネッサンス黄金時代の女性ヴォーカリスト)がタッグを組んだ音源はないようだが、元イエスのビリー・シャーウッド(最近では、クリス・スクワイア歿後のイエスのツアーにクリスの代行として参加している)による企画盤《ザ・プログ・コレクティヴ》(2012)には、アランとアニーが個別に参加しているという。機会があれば聴いてみたい……と思っていたところ、このほど入手できた。全7曲(8曲めは日本盤ボーナストラック)。@のヴォーカルはジョン・ウェットン。Aのキーボードソロはジェフ・ダウンズ。Bのヴォーカルはアラン・パーソンズ、ベースはクリス・スクワイア。Cのヴォーカルはアニー・ハズラム、ギターはトニー・バンクス。Dのヴォーカルはビリー・シャーウッド自身。Eのキーボードはトニー・ケイ。Fのキーボードソロはリック・ウェイクマン。といった具合で、イエスファミリーからの起用が著しい。シャーウッドは各トラックのバックヴォーカルをはじめ、ドラムにギター、キーボード、ベースと八面六臂の活躍で、プログレ界の重鎮をゲストに迎えた彼のソロアルバムといった趣きだ。重鎮たちとの年齢差はほぼ20歳。本家以上にプログレのイディオムに精通した若いミュージシャン/クリエイターと見た。〔2017年9月30日追記〕マーティン・ポポフ(川村まゆみ訳)《イエス全史――天上のプログレッシヴ・ロックバンド、その構造と時空》(DU BOOKS、2017年8月1日)の〈前書き〉に「私が選んだ形式は時系列=B以前から、イエスの本を書く機会があったら、当事者や関係者の証言を厳密な年代順に並べようと決めていた」(同書、二四ページ)とある。本書でシャーウッド(2015年にバンドに再加入)は「『海洋地形学の物語』とそれに続く『リレイヤー』、『究極』の頃、僕はこの3枚だけを繰り返し聴いていたよ」(同、一〇四ページ)と語っている。なるほど。私なら《The Yes Album》(1971)、《Fragile》(1971)、《Close To The Edge》(1972)の3枚を選ぶ。本家以外では、Bruford(ここはどうしても「ブラッフォード」と書きたい)の《One Of A Kind》(1979)が圧倒的に素晴らしい。ちなみにイエスのライヴは、1992年の《結晶》ツアーの来日公演を観ているが、1973年の初来日公演(《危機》ツアー)は観のがした。一大痛恨事である。


編集後記 177(2017年7月31日更新時)

吉岡実と三島由紀夫について書いた。私は三島由紀夫のよい読者とは言えず、若いころ、《仮面の告白》《花ざかりの森・憂国》《潮騒》《金閣寺》《音楽》《豊饒の海》(戯曲では《近代能楽集》《サド侯爵夫人・わが友ヒットラー》)に感心したものの、《鏡子の家》には入っていけず、以来その小説から遠ざかっていた。今回はじめて《愛の渇き》と《禁色》を読んだが、いちばん楽しんだのは《小説読本〔中公文庫〕》(中央公論新社、2016年10月25日)だった。〈小説とは何か〉で「謎解き」を核にして推理小説の限界に触れたかと思うと、クロソウスキーやネルヴァル、ジュリアン・グラック(そしてバタイユ)を登場させている。〈私の小説の方法〉は吉岡実の〈わたしの作詩法?〉と比較して読みたいし、〈「われら」からの遁走〉の狂言〈釣狐〉は吉岡はもちろん、土方巽にとっても重要な作品だった。「幻の厳密性」とは、三島の小説の要諦を語ったものではなかろうか。一方、その重要性を実感しながらちゃんと読めたと思えないのが、自伝的随筆・評論の《太陽と鉄》である(機会をみて再読したい)。ちなみに同書を緻密に分析した高橋睦郎(吉岡実とも三島由紀夫とも親しかった)の近著、《在りし、在らまほしかりし三島由紀夫》(平凡社、2016年11月25日)は著者積年の三島論の集成だが、吉岡実は登場しない。
●小河原誠《読み書きの技法〔ちくま新書〕》(筑摩書房、1996年2月20日)を読んだ。「何の問題もないところで文章を書くことなど不可能である」(同書、一六一〜一六二ページ)に付けられた註に「たとえば、詩や小説を書く時、作者はそこである特殊な問題に直面している。そして、彼らの作品はその問題に対するとりあえずの回答である。そこから、改作ということもまた生じてくる。改作は、文芸の分野における〔哲学者カール・ポパーによる〕問題解決の図式の適用である」(同前、一六二ページ)とある。「改作」は、詩に限らず、テクストの変遷を追跡しようとする者には避けて通れない問題である。参照すべき文献として小河原が挙げているカール・R・ポパー(森博訳)《客観的知識――進化論的アプローチ》(木鐸社、1974)にも、いずれは挑戦したい。
●本づくり協会監修、美篶堂《美篶堂とはじめる本の修理と仕立て直し》(河出書房新社、2017年4月30日)がためになる。吉岡実の少部数発行の詩集をひもといていると、次第に傷んでくるのが忍びない。そこでふだん読むのは《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)になるわけだが、手製のジャケットも擦れてくたびれてくる。そのたびに見よう見まねで補修してきたが、本書には本格的なやり方が記されている。〈グラシン紙で本をくるむ〉や〈本文のぬき出しかた・フランス装のつくりかた〉といった項目があるのも嬉しい。ついでに、参考文献として挙げられている《防ぐ技術・治す技術》(日本図書館協会、2005)――「利用のための資料保存」の考え方に基づき、「防ぐ」と「治す」方策を紹介したマニュアル。紙を用いた資料を対象に記述する。傷んだ資料を手にして悩んでいる図書館員が解決の糸口を見つけられる書――ものぞいてみた。定価を抑えようとしたためだろう、組版や説明図が素人じみているのが痛いが、熟読に値する内容だ(とりわけ、窓と紫外線防止フィルムの記述が印象に残った)。愛書家にとっては、創る技術(手製本)よりも修理する技術の方が、需要が多いのではないか。
●全収録曲をリマスタリングしたCD16枚組の《ザ・ビートルズ BOX》(EMIミュージック・ジャパン、2009)については5年ほどまえに書いた。またもやそれを図書館から借りて(予約して1年半も待たされた)、4倍モードでミニディスク(MD)にダビングした。80分ディスク2枚になった。Tが121曲で310分27秒、Uが105曲で309分40秒(Tは赤字で、Uは青字でラベルを手書きした)。中山康樹の《これがビートルズだ〔講談社現代新書〕》はアルバムの録音順に掲載しているから、MDはタイトルごとに別れている方がいい。川瀬泰雄《真実のビートルズ・サウンド完全版――全213曲の音楽的マジックを解明》(リットーミュージック、2017年4月13日)も録音順だが、《Let It Be》の一部の楽曲が《Abbey Road》より後に録音されているため、《Abbey Road》《Let It Be》の順としている点が中山とは異なる。一方、《ザ・ビートルズ BOX》は発売順の編集だから、そのとおりに聴いていけばビートルズが世に問うた順番で楽しむことができる(アルバム未収録曲をまとめた《Past Masters》の2枚はこの限りではない)。こうすれば、ふだん聴かない《Yellow Submarine》の器楽曲にも接することになる。楽曲の録音順に解説を載せた大人のロック!編・フロム・ビー責任編集《ザ・ビートルズ全曲バイブル――公式録音全213曲完全ガイド》を読むときには、パソコンのハードディスクに落とした音源をフリーソフトのMP3プレイヤー〈聞々[ぶんぶん]ハヤえもん〉で掲載順に並べかえて聴く。比較視聴の環境が整った余勢を駆って、まえまえからやってみたかったグールドの1959年版と1980年版のピアノ演奏を含む、多くの奏者によるバッハ《イタリア協奏曲》の聴き較べを愉しんでいる。楽曲の順番が作品の全体像を決定する。


編集後記 176(2017年6月30日更新時)

《現代詩手帖》創刊号のことを書いた。《現代詩手帖》の創刊号は表紙を含めて104ページで、表2は思潮社の出版広告、表3は《圖書新聞》と《日本読書新聞》の広告、表4は池袋・西武の広告。表紙の絵は渡辺藤一で、特色の青とスミの2色刷だった。定価100円。58年後の同誌2017年月6月号は〈追悼特集・大岡信〉である。表紙と巻末広告を除いた本文224ページ。特集は鼎談、アンソロジー、論考、作品、追悼文、〈この一冊、この一篇〉、資料(アルバム・年譜)という7部構成で、増頁特別定価1480円。5月号の5篇の追悼文と合わせて、大岡信を送るにふさわしい内容となったが、追悼特集の手慣れたフォーマット感は否めない。一方、青土社(1977年から翌年にかけて、全15巻の《大岡信著作集》を出した)の《ユリイカ》2017年6月臨時増刊号〈総特集・大岡信の世界〉は、表紙を含めて250ページ。通常号ではないだけに、こちらは自由な構成である(〈父へ――〉に始まり〈故郷から――〉に終わる9セクションから成る)。定価1500円。
●〈大岡信さんを送る会〉(主催:大岡信研究会・大岡信ことば館・明治大学法学部、明治大学アカデミーホール、6月28日)に参列して、大岡信さんとお別れした。一般席で開会を待っていると、偶然、隣りに詩人であり、かつて《現代詩手帖》の編集長だった八木忠栄さんが坐られた(明大の業務で多忙だった大岡信に名篇〈地名論〉を書かせたのは八木さんである)。八木さんは吉岡実の随想集《「死児」という絵》(思潮社、1980)の担当編集者でもあり、構成した目次案で著者からオーケーを貰ったときは鬼の首でも取ったようだった、とうかがった。詩集の原稿は吉岡か陽子夫人が浄書するのが常だったが、散文集の原稿は掲載紙誌のコピーだったようだ。
●《アルチンボルド展》(国立西洋美術館、2017年6月20日〜9月24日)を観た。本展は「世界各地の主要美術館が所蔵するアルチンボルド〔1526〜93〕の油彩約10点や素描を中心に、およそ100点の出品作品により、この画家のイメージ世界の生成の秘密に迫り、同時代の文脈の中に彼の芸術を位置づけ直す試み」で、「日本で初めて、アルチンボルドのユーモアある知略の芸術を本格的にご紹介する」展覧会、というふれこみである。〈サフラン摘み〉(G・1)の「春の果実と魚で構成された/アルチンボルドの肖像画のように/腐敗してゆく すべては/表面から」の詩句をめぐって、かつて「アルチンボルドの肖像画で、果実が描かれたのは連作《四季》の〈春〉〈夏〉、魚で構成されたのは連作《四大元素》の〈水〉であり、一点に「春の果実と魚」が構成された作品はないようだ。しかし詩句は、後出「処女の肌」や「猿のかくされた陰茎」を先取りして、これ以上の組みあわせがない効果を挙げる」(《詩人としての吉岡実》)と書いたが、日本で連作《四季》《四大元素》を観る日が来ようとは想わなかった。アルチンボルドの絵が素晴らしいのはもちろんだが、蜥蜴や蟹、蛇や蛙の「現物鋳造」のブロンズが強烈な存在感を発していた。
●ギタリスト鈴木茂の自伝を読んだ。近藤正義(構成・文)の《自伝 鈴木茂のワインディング・ロード――はっぴいえんど、BAND WAGONそれから》(リットーミュージック、2016年3月25日)だ。はっぴいえんど関連、とりわけその曲目解説に心惹かれた。バンドの名前を冠したデビューアルバム(1970)の〈12月の雨の日〉では、リードを「思いつくまま即興で弾いている」というから驚く。鈴木は当時まだ18歳。松本隆作詞、大瀧詠一作曲・歌の〈朝〉(同アルバム)は高校時代の私たちの持ち歌だったから、著者のコメントをそのまま引こう。「ぼくはこの曲には参加していない。細野さんの弾くアコースティック・ギターはジェームス・テイラーやポール・サイモンからの影響が大きいね。曲調としてはクロスビー、スティルス&ナッシュの「ヘルプレスリー・ホーピング」なのかな」(同書、七三ページ)。ギターは細野晴臣だったのか。大瀧だとばかり思っていた。これを機に、名作《風街ろまん》(1971)を含む全スタジオアルバム(3枚)とライヴアルバム(1枚)を収めたボックスセットを聴きなおした。《HAPPY END》(1973)はラストの〈さよならアメリカ さよならニッポン〉の印象が強かったが、どうして他の曲も面白い。リミックスやリマスターを施してあるとはいえ、これらが40年以上前につくられたことに感銘を受けた。鈴木茂のソロアルバムでは、初期の《BAND WAGON》(1975)と《LAGOON》(1976)を聴いた。その声質や歌い回しが大瀧に似ているのは、お手本にしたためだろうか。私ははっぴいえんどのステージを立教大学のタッカーホールで観ている。1970年代には、矢沢永吉のキャロル、竹田和夫のクリエイション、鈴木ヒロミツと星勝のザ・モップス、アンドレ・カンドレ=井上陽水、かぐや姫、桑名正博のファニー・カンパニー、憂歌団、カルメン・マキ&OZ、つのだ☆ひろのスペースバンド、ゴダイゴ、そしてガロなどのステージに接したが、はっぴいえんどを観たことは特筆される。


編集後記 175(2017年5月31日更新時〔2018年1月31日追記〕)

吉岡実と済州島について書いた。済州島には行ったことがないので、執筆に当たって関連資料を参照した。椎名誠《あやしい探検隊 済州島乱入〔角川文庫〕》(角川書店、2016)は、愉しく読んだ。国書刊行会〈写真集 済州島〉シリーズの《漢拏山と人々の暮らし》《海女と漁師の四季》《信仰と祭りの世界》(いずれも1993)はカラーとモノクロで、徳山謙二朗の《済州島・四季彩》(海風社、1991)はカラーで、荒木経惟と藤井誠二の《風光の済州島「漂流」》(アートン、2004)はモノクロで、それぞれに済州島をとらえた写真が素晴らしい。べー・ビョンウの《済州島》(パイインターナショナル、2014)となるともはや芸術写真で、参考にするには高尚に過ぎた。本文では言及できなかったが、済州島は1948年4月3日の「四・三事件」で甚大な痛手を負った。1950年6月に勃発した朝鮮戦争に比して、吉岡実が「四・三事件」にどのくらい通じていたかわからない。だが、「死から私を庇護し、なつかしい再生の土地となった」島を想う気持ちが《静物1949〜1955》の諸作を執筆する背景に横たわっていただろうことは、あだやおろそかにできない。
●今もあるのか知らないが、かつてはレーベルを同じくするミュージシャンの代表曲を集めた、オムニバスのサンプル盤というレコードがあった。レコード会社が販売促進のために作ったものだろうが、思わぬ功徳があった。ふだん進んでは聴かないミュージシャンと深く付きあうことになるからだ。思いだすのはアトランティックレーベルのサンプル盤だ。そこにはLed Zeppelin〈Good Times Bad Times〉をはじめ、Buffalo Springfield〈Bluebird〉〈Rock & Roll Woman〉、Iron Butterfly〈In-A-Gadda-Da-Vida〉(これは高校時代、先輩の鎌田さん、津田さんたちのバンドのレパートリーだった)と〈Soul Experience〉、New York Rock & Roll Ensemble〈Mr. Tree〉などが入っていたが(The Rascalsも確か2曲あったと思う)、Buffaloの曲を収めたオリジナルアルバムは《Buffalo Springfield Again》(1967)で、これがとんでもなく素晴らしい。聴く者の胸をかきむしるNeil Youngのヴォーカルとエレクトリックギター、Stephen Stillsの楽曲の構成美と野太いアコースティックギターにノックアウトさせられた。Stillsの真骨頂は〈Suite: Judy Blue Eyes〉で幕を開ける《Crosby, Stills & Nash》(1969)と3人にYoungを加えた、続く《Déjà Vu》(1970)だが、この時点ですでにできあがっている。〔2018年1月31日追記〕Rascalsは、2枚組のLP《Freedom Suite(自由組曲)》(1969)収録の、いずれも先行シングルとしてカットされた〈A Ray of Hope〉〈People Got to Be Free〉〈Heaven〉の3曲だった。今にして思えば、なかなかに大胆な選曲だ。
●人の音楽生活はどのようにして決定されるのだろうか。私の美術的=絵画的生活の根底は、幼稚園時代に購読していた《キンダーブック》で養われたのではないか、と今になって思う。手許に一冊も残っていないので記憶で書くしかないのだが、武井武雄の描く〈オッペルと象〉のやせ細った白象などから、強烈な印象を受けたものだ。それに比して、音楽の記憶ははっきりとしない。私の母は昭和初年の生まれで、若いころは佐渡の村役場や東京の百貨店で働いていたから、算盤はできるし、荷物に紐をかけたり、函を紙で包んだりするのが上手だった。手先が器用で、洋裁・和裁ともうまく、能筆。私は自費出版の印刷物の宛名書きを頼んだりした。卓球は私の父と見事なラリーをしたから、運動が苦手というわけではないのだろうが、自転車には乗らなかったし、海に行っても泳ぐところを見たことがない(父は山国育ちにしては水泳が得意で、幼児の私を背中に載せて海水浴をした)。そんな母親がしなかったことの一つに、歌を歌うことがある。乳児のころに子守唄を歌ってくれたのかもしれないが、記憶にない。まして、楽器を演奏する姿など想像もできない。父親は多趣味で、気が向くと詩吟やハーモニカを披露した(若いころはマンドリンをいじったことがあると聞いたが、本当だろうか)。母は、ラジオの音楽番組《歌のおばさん》(ウェブで調べると、安西愛子、松田トシといった大人の童謡歌手が出ている)の歌をよく聴かせてくれた。ただ、一緒にうたうことはなく、私も歌わなかった。それが原因でもなかろうが、小学校のころは音楽の授業(とくに歌を歌うこと)が大の苦手で、出席番号が私の直前だった幼馴染みの木庭雄一くんが素敵なボーイソプラノだったから、ますます落ち込んだ。小学校の音楽は渡辺先生という女性教師だったが、高学年になると音楽嫌いの悪ガキたちに悩まされ、「あんたたち、中学に行ったらきっと音楽が好きになるから」と泣きながら予言した。そして、多くの悪ガキたちはそのとおりになった。私は小畑くんや加藤くんとブラスバンドの活動に励む一方(そこでの担当は打楽器)、その兄貴経由で大藪くんからビートルズの真価を教えられた。中学校の音楽は豊田先生という男性教師で、自称ベートーベンの生まれかわり。ピアノはもちろん、クラシックギターがべらぼうにうまかった。先生の歌のバックを務めて、スネアとハイハットシンバルだけでリズムを刻み、在校生の前で〈アルディラ〉や〈恋は水色〉(ジェフ・ベックのヴァージョンにあらず)を演奏したこともある。高校に入ってからは、放送部に入部したせいで、音楽生活は劇的に深化した。今につながるものがそこで培われた。黄金の1970年代が始まっていた。


編集後記 174(2017年4月30日更新時〔2017年5月31日追記〕)

吉岡実とピカソについて書いた。本稿を書いたあとで「吉岡実×ピカソ」をインターネットで検索すると、丑丸敬史氏の〈私の好きな詩人 第120回 わたしと吉岡実(俳人による現代詩考―その1)−吉岡実〉というページや、セランド修子氏の〈言語が与えてくれる本質への視点〉の 「特に夫〔エリック・セランド氏〕が最も敬愛する、日本現代詩のパブロ・ピカソ的存在の吉岡実氏の作品は、長い一文の背後に、顔は出さないけれど明らかに 存在しているらしい主語が複数あり、それが詩を難解かつ流動的なものにしております」という記述を見つけた。ときに、パブロ・ピカソ (1881〜1973)の盟友でもあった詩人ギヨーム・アポリネール(1880〜1913)は、キュビスムやシュルレアリスムとも深い関わりをもってい た。吉岡実における詩と絵画を考えるうえで、ピカソもさることながらアポリネールの存在はおろそかにできない(吉岡とアポリネールにともに詳しかったのは 詩人の飯島耕一だが、寡聞にして両者を本格的に論じた文章を知らない)。世界はまだ知らないこと、そして知らねばならないことで充ちている。機会があれば 続稿を書きたい。
●林哲夫コラージュ展〈地獄の季節〉(2017年4月3日〜4月27日)の初日、渋谷の珈琲&ギャラリー「ウィリアム モリス」で同展を観た。林哲夫さんとは、2010年6月の林さんと当時の《ちくま》編集長・青木真次さん――私は夏目房之介の《手塚治虫の冒険――戦後マ ンガの神々》を1998年7月刊の小学館文庫版で何度も読んだが、同書の初刊(筑摩書房、1995年6月25日)の編集者でもある――の茶話会以来だ。 せっかく林さんに会えるというのに、《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》の著者の臼田捷治さん、版元の柳原一コさん、筑摩書房OBの松田哲夫さんの署名のある保存用の一冊が見つからない。しかたがないの で、閲覧用の一冊と昨年11月に出た《花森安治装釘集成》(両書ともみずのわ出版刊)を持参した。急なお願いにもかかわらず、落款まで捺してもらった。 ギャラリーには《書影の森》の企画者の一人でもあるデザイナーの多田進さんがいらしていて、幸運なことに持参本にサインがもらえた。林さんによれば〈地獄 の季節〉のコラージュは、安く手に入れた初版本〔アルチユル・ランボオ(小林秀雄訳)《地獄の季節》(白水社、1930、装丁:佐野繁次郎)〕のページをばらして、図像を貼りこんだものとのこと(糊は木工用ボンドを使用)。鰐の絵柄がすばらしい作品〈11〉を頒けてもらった。
〔2017年5月31日追記〕会期が終わってから作品を受けとった。《地獄の季節》の43ページ〈悪胤〉を支持体にして、動きのあるリアルな鰐の線画が切 りぬいて貼ってある。多田さんが林さんに、本文が鰐の画から透けて見えるようだ、と会場で語っていた逸品だ。いま私の書棚の太田大八さんの版画と並んでい る。ちなみに私の書斎はいたって殺風景で、ほかにはレッド・ツェッペリンの《聖なる館》(1973)のヒプノシスの手になるレタッチ前のジャケット写真 (のカラーコピー)があるくらいだ。
●4月5日、《鰐》の元同人で、《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)を共編した大岡信さんが亡くなった(《最近の〈吉岡実〉》に 追悼文を掲げた)。私はまだ訪れたことがないが、大岡さんの故郷である静岡・三島に「大岡信ことば館」(2009年設立)があって、《大岡信・全軌跡あと がき集》(同館、2013年8月1日)というユニークな本を出している。同書の〈凡例〉には「『あとがき集』は、『書誌』で選定した著作のうち「あとが き」の添えられたものを全文掲載した。大岡信の自著に対する考え、初出に関する情報、刊行の背景を窺い知ることができる」とあって、なかでも《折々のうた 〔岩波新書〕》と《大岡信著作集》(青土社)の〈あとがき〉は圧巻だ。ことばとともに生きた大岡さんを体現するのは、もしかするとこの一冊かもしれない。
●文庫版になった中山康樹《超入門ボブ・ディラン〔光文社知恵の森文庫〕》(光文社、2017年2月20日)を読みかえした。最初に聴くべきCDはディラ ンのそれではなく、ロジャー・マッギン率いるザ・バーズのカヴァーアルバム《ザ・バーズ、ディランを歌う》だ、というあたりから中山節の全開である。「そ こで次は、そのバーズがカヴァーした曲だけで構成されたディランのCDを聴くのが一般的なパターンになります。/バーズが歌った美しいメロディーが、ディ ランのオリジナル・ヴァージョンではどこに隠されているのか。/それを知ることによって、ディランの歌いかたを把握しようという作戦です。/しかし、その ような便利なCDは存在しません(ここでレコード会社に提案しておきたいと思います。バーズに歌われたディランの曲だけを集めたディランのCDを発売して いただきたい。もちろん収録曲も曲順も先の『ザ・バーズ、ディランを歌う』とまったく同じものにする。邦題は『ザ・バーズ、ディランを歌うをディランが歌 う』、どうでしょう?)」(本書、八九ページ)。この閑話休題は笑える。〈不要なアルバムこの10枚〉はありがたい指摘だが、ディランのCDを1枚も持っ ていない私には猫に小判だ。そこまで手広く聴こうとは思わない。《インフィデル》に始まり《ブートレッグ・シリーズ 第1〜3集》に終わる〈ディラン必聴の10枚〉は本書の肝で、初刊時にCDを方方から借りてダビングしたMD(による私家版ボックスセット)を聴きなおし ている。副読本はもちろん、全ヴァージョンのレヴューたる中山の《ディランを聴け!!〔講談社文庫〕》(講談社、2004年8月15日)だ。《超入門ボ ブ・ディラン》の主旨は同書はしがき〈ディランを聴くまえに〉に尽きる。《ディランを聴け!!》はおそらくジャズ方面での《マイルスを聴け!》と双璧を成 す、ロック方面での中山康樹の主著だろう。


編集後記 173(2017年3月31日更新時)

吉岡実とケン玉につ いて書いた。このテーマ、2015年秋ころからの懸案(というほど大袈裟なものではないが)で、滝田ゆうのマンガを見つけたあたりで一度、頓挫した企画 だった。それというのも、澁澤龍彦遺愛のビルボケの写真を観るに及んで、黄色いビルボケを探したがどうしても見つからず、ためにギャバン=デュヴィヴィエ の映画《望郷》にも身が入らず、長らく店晒しになっていたのだ。だが、いつまでもそうしていられないし、この黄色も吉岡が自分で着色したものかもしれない と思いなおして、本文の写真にある褐色のビルボケを手に入れてから、一気に脱稿した。近頃のケン玉の教則本は、模範演技を収録したDVDを付けていること が多い。吉岡には自作を朗読した映像があると聞くが(なにを読んだのだろう)、ケン玉の実技でも本領を発揮してもらい、その雄姿をとどめてほしかった。
●2012年2月の〈編集後記 112〉に デヴィッド・ペイトン(パイロット)とビーグルハットのことを書いた。当時はビーグルハットのB 《マジカル・ハット》(2006)とC《オレンジ・グルーヴ》(2009)の2枚を聴いただけだったが、このほどデビューアルバム@《ビーグルハット》 (1997)と2枚めのA《カスガバール!》(2004)を入手した。惜しまれつつ解散したバンドの全4枚のアルバムは、いろいろなことを考えさせる。吉 岡実詩集の《昏睡季節》(1940)、《液體》(1941)、《静物》(1955)、《僧侶》(1958)との比較は牽強付会だろうが、彼の詩集と彼らの アルバムと並べてみたくなるのだ。個人であれグループであれ、どんな作者でも最初の作品(集)は眼高手低を免れない。後年、傑作を生むほどの作者であれば あるほど、デビュー作に対する不満は大きかろう。@はNHKテレビ《みんなのうた》で1998年2月〜3月に放映された、主要メンバーの田中久義・倉科健 夫による作詞・作曲・編曲〈白いスピッツ〉を含む、名刺代わりの1枚。非凡な着想を示す〈レッカードライヴ〉と〈雲がくれ〉は、B収録の際に詞を英語のそ れに変え、〈Wrecker Pulls Away〉、〈Half Invisible Man〉と改題された。アルバムは百花繚乱というか玉石混淆というか、狙いが定まらない。もともと強力ではないリードヴォーカルは全体に籠もり気味だし、 はっきり言うなら不出来。ジャケットのユニオンジャック模様の車とクワガタ虫の絡みも、そのメッセージ性が逆にもどかしい。Aは@の反省を踏まえてか、見 違える内容に仕上がった。ジャケットの煙突はHipgnosisふうで、グループの自信と充実ぶりを象徴する。リードヴォーカルの録りも改善された。全 14曲のうち、過半以上の8曲がBに採りあげられている。このA→Bの流用にあたって、デヴィッド・ペイトンがヴォーカルをとる全曲が英詩となったわけだ が、バックトラックは基本的に同じ音源のようだ。@Aで日本語の歌詞を朴訥に歌うかなり洒落た日本のグループは、ペイトンの参加によって完全に世界標準の バンドへと変貌した。Cはペイトンとバンドの融和がさらに進み、「こなれた感」は増したものの、Bにあった初初しさ、ぎこちなさ(なんともいえない味を出 していた)は失われた。だが、私はCの〈Happy Eddie〉を酷愛する。この、エンドリアン・ブリューを擁したキング・クリムゾンのような曲(曲名は思いつかない)、ポール・マッカートニーの 〈Only Mama Knows〉(2007)のような曲は、それらを超えるのではないか。とりわけ、なかなか出てこない大サビ――E-C#m-A-Bというなんの変哲もない 循環コード――は、それぞれのコードが4小節、つごう16小節という大胆にして不敵な展開。それまでは主にA-BとC#mが繰りかえされて、リードギター が不協和音(増4度の音)を奏でるばかりか、トニックのEコードが一度も顔を見せないため、調性がわかりにくい。それだけにこの大サビの登場は強烈だ(リ ズムギターの刻みもいかしている)。なお、解散後に田中久義が堀尾忠司と組んだ新ユニット、Sheepの《Tokyo Sheepest Pop》(2013)と《Ordinary Music》(2015)の2枚も、ビーグルハットの進化形として、繰りかえし聴くに値するアルバムだ。日本語の歌詞も素晴らしい。後者のラストナンバー 〈華麗なミディアムワールド〉は、小体ながら10ccに通じる組曲形式で、聴く者の琴線に触れる(前者のボーナストラックには、盟友デヴィッド・ペイトン がヴォーカルでゲスト出演している)。
●かまやつひろしが3月1日、78歳で亡くなった。〈編集後記 130〉でも触れたソロアルバム《ムッシュー/かまやつひろしの世界》(1970)を聴いて、稀代のサウンドクリエイターにして、ワンマンバンドの先駆者 を偲んだ(《エスクァイア日本版》主催の公開パーティでアコギを抱えて弾き語りをしてくれた姿が想い出される)。当時、《明星》の集英社が出していた音楽 雑誌《Guts[ガッツ]》にアルバム制作の裏話が紹介されていて、驚くべき内容だった。高校時代、音楽室のピアノにギターや歌をかぶせてワンマンバンド の真似事をしたのも、想えばかまやつの影響だった。


編集後記 172(2017年2月28日更新時)

●昨年12月からお伝えしてきたように、J:COM NETが加入者向けWebSpaceサービスを終了したため、本サイト《吉岡実の詩の世界》の旧URL「http: //members.jcom.home.ne.jp/ikoba/」を指定すると「2017年1月31日(火)をもちましてサービスを終了致しました。 これまで長らくご愛顧を賜り、誠にありがとうございました。」と表示されて、閲覧できなくなった。サーチエンジンで《吉岡実の詩の世界》を検索すると、 トップページは新URL「http://ikoba.d.dooo.jp/」が出て来るものの、下位ページではJ:COM時代のURLが生きていて、前記 のサービス終了メッセージが表示される。これだからサイトの引越は嫌なのだが、なんとかする手立てがないのが口惜しい。
安藤元雄・大岡信・中村稔監修《現代詩大 事典》の人名索引〈吉岡実〉の項に ついて書いた。《現代詩大事典》の表表紙・裏表紙こみの厚さは約52ミリで、《吉岡実全詩集》のそれは約49ミリ。両書の本文用紙は奇しくもまったく同じ 832ページ分(16ページ×52台)だが、標題紙(と《吉岡実全詩集》の口絵)と本文用紙の束は全詩集の約41ミリに対し、本書は 約47ミ リ。つまり1.15倍厚い本文用紙を使用しているわけだ。この手の本は、辞典がそうであるように、なるべく薄い用紙を使って束を抑える傾向にあるなかで、 本事典が「調べる」それであるよりは「読む」それである印象は、そこからも来ている。本体価格12,000円という設定は、高くても買う者は買うというこ とだろう。本文で言及したように、索引の選択に疎密があるのは咎められるべきで、見出し語(たとえば《亜》や〈吉岡実〉)は網羅的に採るのが筋というもの だ。そのために価格が少しばかり騰がろうが、束が厚くなろうが、利用者は文句を言うまい。この手の資料は刊行自体がひとつの事業なのだから、索引のこの瑕 疵は致命的だ。世にこれを宝の持ち腐れという。
●かつては〈編集後記〉に記した書籍の情報にリンクを張って、「紀伊國屋ウェブストア」の該当商品 のページが別窓で開くように設定していた(同ストアに義理があったわけではなく、データが見やすかったからにすぎない)。本サイトが新しいURLになった のを機にチェックしたところ、古いものほどリンク切れしていて、同ストアのトップページが表示されることがわかった。これではリンクの用をなさない。よっ て設定は解除した。ただし書籍の情報自体はイキなので、OPACやウェブの書店・古書店で検索するのが確かである。リンクの切れている外部サイトも多かっ たが、これはママにした。〈編集後記〉執筆当時の記録ということで、ご理解いただきたい。
●〈編集後記〉には、私の音楽生活の記録を兼ねて、ときどきの愛聴盤やウェブサイトの紹介をしている。今回、この方面の外部リンクの状況も確認したとこ ろ、ありがたいことに大部分は生きていた。だが、前に紹介した〈Stairway to Heaven TSRTS - YouTube〉が 「この動画では著作権で保護された音声トラックが使用されていました。著作権者からの申し立てにより、音声トラックはミュート状態となっています」となっ ていたのは不可解だ。推奨すべきこのサイトをさきごろ訪れたときは、音声トラックも生きていたのに。口直しに同じJun626の〈Achilles Last Stand〉はどうだ。加えて、オリジナルに合わせた出色のカヴァーをふたつ挙げる。Dan Zalacの〈Led Zeppelin - Achilles Last Stand (drum cover)〉、そしてMeytal Cohenの〈LED ZEPPELIN - STAIRWAY TO HEAVEN - DRUM COVER BY MEYTAL COHEN - YouTube〉―― と書いたが、念のためにアップ前にリンクを確認してみると、〈STAIRWAY TO HEAVEN〉は「この動画には Warner Chappell さんのコンテンツが含まれているため、著作権上の問題で権利所有者によりブロックされています」と視聴不可になっているではないか。Dan Zalacはレッド・ツェッペリンのドラムにはパワーが必要だということを、Meytal Cohenは必ずしもパワーが必要ではないということを、ともに教えてくれた。さるにても、ジョン・ボーナムは天才だった。ちなみにポール・マッカート ニーごひいきのドラマーは、リンゴ・スター(当然!)とキース・ムーン(1973年のウイングス《バンド・オン・ザ・ラン》でのポールのドラミングを讃え た)、そしてジョン・ボーナム(1979年のウイングスの《バック・トゥ・ジ・エッグ》や〈カンボジア難民救済コンサート〉でポールと共演している)だと いう。


編集後記 171(2017年1月31日更新時)

●本サイトの旧URL「http://members.jcom.home.ne.jp/ikoba/」は本日2017年1月31日を最後に、来月2月1 日以降は同URLにアクセスしても表示でき なくなる。トップページの新しいURLは「http://ikoba.d.dooo.jp/」 である。サイトの引越に伴って、絶対パスから相対パスへの変更、画像や音声ファイルへのリンクなど、ひととおり確認したものの、不具合がないか心配だ。邦 文の不必要な半角アキはウェブオーサリングツール「KompoZer」のバグであり(改行の設定を変えても回避できず)、暇をみては手直ししているもの の、直しきれない。ご寛恕いただきたい。旧新両サイト(ただし、内容は同じ)の並立は今月で終わり、来月からは容量がアップした新しい環境一本での執筆・ 制作、管理・運営となる。ときに、サイトの開設当初から較べると、私の執筆は長文化の一途をたどっている。この三カ月間の移行作業により、今後は文章量と 画像点数を心配せず、自由気儘に著述できると思うと、サイト引越の苦労も報われるというものだ。旧来に倍して《吉岡実の詩の世界――詩人・装丁家吉岡実の 作品と人物の研究》のご愛顧をお願いします。備忘のため、以下に現時点、2017年1月31日更新時(旧URLでの最終版)の各本文ページの分量を記して おく(ちなみに、トップページは2ページ分)。

 【htmlファイル】計 約1923ページ
 〈吉岡実〉を語る(小林一郎 編)〔A4判縦位置で印刷すると、約[839]ページ(以下同)〕
 〈吉岡実〉の「本」(小林一郎 執筆)〔約[306]ページ〕
 最近の〈吉岡実〉(小林一郎 執筆)〔約[24]ページ〕
 吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(小林一郎 執筆)〔約[306]ページ〕
 〈吉岡実〉人と作品(小林一郎 編)〔約[29]ページ〕
 吉岡実年譜(吉岡陽子 編)+吉岡実年譜〔作品篇〕(小林一郎 編)〔約[26]ページ〕
 吉岡実未刊行散文集 初出一覧(小林一郎 編)〔約[10]ページ〕
 吉岡実書誌(小林一郎 編)〔約[98]ページ〕
 吉岡実参考文献目録(小林一郎 編)〔約[57]ページ〕
 吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕(小林一郎 編)〔約[53]ページ〕
 《吉岡実の詩の世界》編集後記(小林一郎 執筆)〔約[144]ページ〕
 《吉岡実の詩の世界》サイトマップ(全ページの概略目次)〔約[14]ページ〕
  樹霊半束(もろだけんじ句集)(小林一郎 編)〔約[17]ページ〕

 【PDFファイル】計596 ページ
 吉岡実年譜〔改訂第2版〕(小林一郎 編)〔A6判48ページ〕
 吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第4版〕(小林一郎 編)〔A5判68 ページ(以下同)
 詩人としての吉岡実(小林一郎 執筆)〔332ページ〕
  もろだけんじ句集《樹霊半束》(小林一郎 編)〔(判型は省略、以下同)104ページ〕
  《吉岡実の詩の世界》ゲストブック〔2005.11.7.-2003.4.14.〕(小林一郎 編)〔24ページ〕
  土方巽頌・人名索引(小林一郎 編)〔16ページ〕
  《吉岡実未刊行散文集》編者あとがき(小林一郎 執筆)〔4ページ〕

●都心のデパートで《志賀直哉展》を観たときのことだから、40年ほどまえだろうか(ウェブで検索したら、歿後10年の1981年に池 袋の西武百貨 店で開催されていた)。文豪の作品にはいっこうに感心しなかったが、その自筆原稿には感銘を受けた。B5判、週刊誌大くらいの用紙に蠅の頭ほどの小さい字 で、几帳面に書いてあったのだ。単位面積あたりの情報量が多くて、見晴らしがいい。私は当サイトの草稿をチェックするのに、A4判のコピー用紙に二面付け でプリントしたものに朱を入れているが、開設当初はA4判全面にプリントしていたから、視野は倍になったわけだ。思うにこれが長文化の(最大の、ではない にしろ)大きな要因になっている。ちなみに、2016年11月30日更新時の本サイトの全ページは、A4判に二面付け両面印刷して、厚さ約65ミリメート ルになった。このファイル――KING JIMのNo.978GX(KING FILE G A4-S 8cm)――が片手で持てないくらい重いうえ、平綴じ製本と同じ仕様のため、ノドの開きが悪くて甚だ読みづらい。と、ぶつぶつ文句を言いながら、あちこち 読みかえしている。これが実に面白い。
吉岡実の引用詩(3)――土方巽語録を 書いた(機会をつくって、(4)以降の続編を書きたい)。いまさら土方巽について何を語ればよいのだろう、という思いは、土方巽についてなにひとつ語られ ていない、という思いと拮抗する。私は土方巽の舞踏に接するには遅れてきた者だが(白石さんたちの劇団がアスベスト館で公演したとき、村野くんと確かス リッパに履きかえて観た憶えがあるが、そのスリッパは吉岡実が土方巽に贈ったものだった)、それでもアスベスト館で生身の土方巽を目の当たりにしたという 記憶が褪せることはない。同席した《ダブル・ノーテーション》第2号(ユー・ピー・ユー、1985)の特集〔極端な豪奢=土方巽リーディング〕のインタ ビュー取材は、担当編集者が事前に質問事項を書面で提出する形をとったため、その回答は執筆した原稿と同様、極めて密度の高いものだった。土方巽はそれ を、あたりに闇をまきちらすかのような独得の発声で語った。あれは、あのパフォーマンスは、談話ではなく文章だった。以前にも引いたが、同誌を企画・編集 した中原蒼二さんは自身のブログで 「1985年ころ、ぼくは小さな雑誌の編集長をしており、土方巽特集を組んだ。特集タイトルを「極端なる豪奢」とした。インタビューがあり、終了後、土方 さんは質問項目に「死」がなくてよかった、とぽつんといった。翌年一九八六年一月、土方巽逝去。享年五十七歳」と書いている。昨2016年10月には土方 巽歿後30年を機に、秋田県雄勝群羽後町田代に鎌鼬美術館が開館し、併せて細江英公(鎌鼬美術館編)《鎌鼬――田代の土方巽》(慶應義塾大学出版会、 2016年11月15日)が出た。しかしながら、《土方巽語録》はまだ出現していない。
●30年来の懸案だった初出未詳の詩篇〈模写――或はクートの絵か ら〉(E・4)の初出誌入手を踏まえて、《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第4版〕》を作成した。詳細は〈《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第4版〕》を作成 した〉に書いたが、《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第4版〕》のPDF ファイルをプリントアウトすれば、同資料を冊子体として印刷製本して刊行するまでの繋ぎになると思う。ご面倒でなければ、出力して活 用いただきたい。なお本サイトの新しいURLのページ末のバナーのごときものは、同資料表紙に掲げた画像(Yoshioka Minoru=「YM」を象った自刻自摺木版画)を加工して作成した。旧URLのページ(バナーは「@NetHome」のロゴ)と識別するための手掛かり にもなる。
●うかつなことに、昨2016年末までZabadak[ザバダック]の存在とその音楽を知らずにいた。現在、音楽活動を休止中の葛生千夏は敬愛措くあたわ ざる作家にしてパフォーマーだが、その〈Clavis〉を収録した《アンジェリーク音楽集〜Romancia〜》(1997)を入手したのが昨秋だった。 それを機に関連ページを閲覧するうちに、葛生の音楽性をZabadakのそれと較べている記事を読んだ。「Zabadak」とはなんぞや。それが最初の反 応だった。YouTubeは、仮にそれが公認されたプロモーションヴィデオであっても、創作者の意図を伝えきれないので、身近な図書館から発表順にCDを 借りた。長篇マンガの一気読みならぬ、一気聴きである。最初に聴いたCDが1991年〜93年の、吉良知彦と上野洋子のいわゆる「デュオ期」の作品群だっ たこともあって、オリジナルのスタジオ録音以外にもライヴ音源があり、スタジオ新録音のニューヴァージョンがあり、と自分たちの楽曲へのただならぬこだわ りが見てとれた。私は好ましいものの分析はできればやりたくない方だから、一曲だけ触れておく。〈ポーランド(Poland)〉は《ZABADAK -I[ザバダック・ワン]》(1986) 収録の5拍子(と3拍子?)の器楽曲で、メロディラインが美しいのはもとより、楽器の編成やアレンジが凝っている。とりわけ、クリシェの処でベースが紡ぐ フレーズは筆舌に尽くしがたい。同曲は《Live》(1991)や《創世紀〜ザ・ベスト・オブ・ザバダック〜》(1992)、《decade》 (1993)にそれぞれライヴ音源、オリジナルヴァージョン(再収録)、ニューヴァージョンが収められている。実質的なデビュー曲であるだけに、その扱い は興味深い。ユニット結成以来の主要メンバーであり卓越したギタリストでもあった吉良 知彦は 昨2016年7月3日、56歳で急逝した。演劇集団キャラメルボックスを通じてZabadakの音楽を知ったという、わがバンド仲間の植原くんは、芝居で 「印象的な音楽を、ここぞというところで使っていました」と教えてくれた。遅きに失した感はあるが、Zabadakの全貌に触れたく思う。葛生千夏との類 縁もさることながら、そこにはケイト・ブッシュの音楽に通じるものを覚える。


編集後記 170(2016年12月31日更新時)

●14周年を迎えた先月の本欄で触れたように、拙サイト《吉岡実の詩の世界――詩人・装丁家吉岡実の作品と人物の研究》の環境が大きく 変わった。2002年11月の開設以来、J:COMが提供する「WebSpace」サービスを利用していたが、同サービスが2017年1月31日をもって 終了することになったため、niftyホームページサービス「LaCoocan(ラクーカン)」を利用することにした。したがって、本サイトのURLは (新サイトでご覧の)「http://ikoba.d.dooo.jp/」 に変更となる。今までの「http://members.jcom.home.ne.jp/ikoba/」は来る2017年2月から使えなくなる、すなわ ちトップページ(index.html)への「転送/リダイレクト」も機能しなくなるので、拙サイトを「お気に入り」や「ブックマーク」に登録されている 方は、ご面倒でも新しいURL「http://ikoba.d.dooo.jp/」に変更していただけるとありがたい。ついでながら、Wikipedia 掲載の拙サイトへのリンクも編集しておいた。J:COM時代には、毎月の定期更新(要は、追加に次ぐ追加である)に伴って容量の余裕がなくなり、《〈吉岡実〉の「本」》《吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈》のページを ――子供名義の「WebSpace」をannexとして――やりくりしていた。それを考えれば、不便が解消されるだけでも助かる。トップページは旧URL から新URLへの転送/リダイレクトの設定をしたが、拙サイトにリンクを張っている閲覧者は、新しいURL「http: //ikoba.d.dooo.jp/」に書き換えていただけると、執筆・制作、管理・運営する者としては、これに優る喜びはない。なにとぞよろしくお願 いいたします。
吉岡実の引用詩(2)――大岡信《岡倉天 心》を書いた。大岡信は、本業の詩よりも批評文を収めた著作をまとめるのに熱心だ、とかつて吉岡実は指摘したことがあった。私にも不 思議に思うことがあって、その膨大な単行本の数に比して文庫の数が非常に少ないのはなぜか。そうしたなかで愛読したのが、《現世に謳う夢――日本と西洋の 画家たち〔中公文庫〕》(中央公論社、1988年5月10日)であり、《自選大岡信詩集〔岩波文庫〕》(岩波書店、2016年4月15日)である。後者は 今年の出版だから、前者について書こう。〈駒井哲郎と銅版画――黒と白が生む深さ〉に「はっきり記憶している駒井さんとの最初の接触は、一九五八年初頭の ことである。そのころの「ユリイカ」社主だった故伊達得夫が、書肆ユリイカ創立十周年を記念して、ユリイカと密接な関係のある画家と詩人、各十一人に依頼 して「ユリイカ詩画展」というのを計画し、この年の三月三日から九日まで、銀座通りの新橋交叉点にあった小さな画廊「ひろし」でこの展覧会が開かれた」 (《現世に謳う夢》、一二九ページ)という一節がある。その手の事項を細大漏らさず記載した私の《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》にこの「ユリイカ詩画 展」は出てこないから、吉岡と同展の関係は不詳だ。吉岡の〈僧侶〉(C・8)を源泉とした短篇〈塔〉を収めた皆川博子《絵小説》(集英社、2006)に画 を寄せている宇野亞喜良が本格的に創作活動を開始するのは1960年代からだから、吉岡と組むのは誰がよかっただろうか、などと考える愉しみは尽きない。
《〈吉岡実〉を語る》は吉岡実の作品と人物にまつわ る四方山話を、ときに研究ふうに、ときに随想ふうに綴ったものだが、私の場合、なにか執筆するとそれに関連する話題が連続するという僥倖はめったにない。 したがって準備中の原稿は、相互に関連性のない複数のテーマが並行することが多い。ネタ切れになる心配も今のところない。とはいうものの、たまには次回な にを書こうかと思案することもある。そうしたときに採る方法は二つ。一つは今までの拙稿を読みかえすこと。もう一つ、着想の頼りになるのが、安藤元雄・大 岡信・中村稔監修《現代詩大事典》(三省堂、2008年2月20日)の索引や掲載項目である(ちなみに〈吉岡実〉の項目は西脇順三郎研究で知られる澤正宏 の執筆だが、〈西脇順三郎〉の項目は和田桂子の執筆。NDL-OPACの雑誌記事検索で論題名「西脇順三郎」×著者「和田桂子」で検 索するも「一致するデータは見つかりませんでした」とあるのは、どうしたことだろう)。ときに、《〈吉岡実〉を語る》の口絵写真にはこれまで吉岡実の手蹟 を掲げてきた。昔の写真を整理していたら、20年以上前のわが書斎を写したカラープリントが出てきたので、10月から二つを並べて載せている。俳人の小澤 實さんは書斎の号を吉岡に付けてもらい(たしか「星掌居」)、永田耕衣に揮毫してもらったときくが、私には吉岡の自筆詩稿を掲げるのがふさわしかろう。こ の手蹟、ブルーブラックのインクが淡くなってきたので、今は陽の射さないところに保管している。
●唐澤平吉・南陀楼綾繁・林哲夫編《花森安治装釘集成》(みずのわ出版、2016年11月3日)が出た。昨年 の臼田捷治編著《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》に続く「装丁本企画」最新刊である。収録タイトル500点超・カラー図版約1000点で、B5判並製288ページ、本体価格8000 円は壮挙というほかない。用紙は表紙がGAファイル、帯紙がヴァンヌーボVで、ともにPP加工されていないから、手製の書皮(コピー用紙の包装紙をフラン ス装ふうに被せて、表紙写真を題簽貼りしたもの)で装備して、さっそく通読した。唐澤平吉の前著《花森安治の編集室》(晶文社、1997)は装釘家花森安 治に9ページしか割いていなかったため、本書が要請された経緯は同氏執筆の〈蒐集のきっかけは無知から――あとがきにかえて〉に詳しい。巻末の南陀楼綾繁 〈人の縁から生れた装釘の仕事〉は、花森安治装釘と出版者・編集者の関係を論じて余すところがない。教えられることが多かった。林哲夫さんは〈本書の装釘 について〉というごく短い文しか書いていないが、手掛けた帯のデザインと帯文がすべてを語っている(むろん、本文のレイアウトを含む造本・装丁も担当して いる)。書影はいつもながら見事に再現されている。そのうえ横組・左開き本なので、ウェブページでの見せ方の参考になって、ありがたい。ただ、キャプショ ンは小さすぎやしないか。私の眼が衰えてきたのは確かだとしても。
●《粟津則雄コレクション展――思考する眼≠フ向こうに》(練馬区立美術館、2016年11月19日〜2017年2月12日)を観た。折しも《粟津則雄 著作集〔全11巻〕》(思潮社、2006〜2016)が完結した。第X巻には安東次男と吉岡実の詩に言及した〈ことばの存在――現代の詩をめぐって〉が 《詩歌のたのしみ》(角川書店、1979)から収められているが、〈吉岡実〉(《詩人たち》、思潮社、1972)や〈吉岡実の近作をめぐる二、三の感想〉 (《詩の解体》、同、1977)は収められていないようだ。「全集」ではなく「著作集」とあるのは、単行本(《詩人たち》や《詩の解体》)を全篇収録して はいないことを示すか。《粟津則雄コレクション展》では、ルドンやムンク、西脇順三郎や池田満寿夫といった吉岡実詩でお馴染みの画家の作品がある一方、私 のよく知らなかった美術家の逸品も多く、氏の旧蔵品(2014年度に約100点が同館に寄贈された)を愉しんだ。
●私はサイモンとガーファンクルの熱烈な聴き手ではない(熱烈な聴き手とは、手に入るすべての音源を聴く者のことだ)。それでもLP盤《明日に架ける橋》 (1970)は愛聴したから、いかにこのアルバムが好評だったかがわかる。タイトル曲〈明日に架ける橋〉はもちろん、当時、〈コンドルは飛んで行く〉〈い としのセシリア〉〈ボクサー〉〈バイ・バイ・ラブ〉がラジオで頻繁にかかっていた。とりわけ〈ボクサー〉のイントロのアルペジオには感嘆した。高校に入っ たばかりの私はレッド・ツェッペリンに代表されるハードなロックに夢中だったが、芸術の授業で自分の好みの音楽を披露するという興味深いプログラムがあ り、そこでS&Gを完璧に再現する池田くんと渡辺くんのパフォーマンスに圧倒された。スリーフィンガーピッキングの美しさを知ったのもこのときだった(ジ ミー・ペイジはアコースティックギターの奏法にも通じているが、スリーフィンガーピッキングを使うことはないように思う)。木村さんたちの女性トリオによ るカヴァーも美しかった。それらに導かれるようにして、S&Gの音楽に畏敬の念を抱いた。思えば1960年代後半は、イギリスにビートルズがいれば、アメ リカにサイモンとガーファンクルがいた時代だった(私の場合、それはビーチ・ボーイズでもボブ・ディランでもない)。歴代のオリジナルアルバム、《水曜の 朝、午前3時(Wednesday Morning, 3 A.M.)》(1964)、《サウンド・オブ・サイレンス(Sounds of Silence)》(1966)、《パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム(Parsley, Sage, Rosemary and Thyme)》(1966)、《ブックエンド(Bookends)》(1968)、《明日に架ける橋(Bridge over Troubled Water)》(1970)を収めた《Collected Works》(1990)には、ある種の懐かしさ――そのころ聴いたことがなかったにもかかわらず――なしに接することができない。玉手箱のような全曲集 である。


編集後記 169(2016年11月30日更新時)

●本サイトは開設14周年を迎えた。改めて記すことは特段ないが、近日中にサイトを取りまく環境が大きく変化する、と予告しておこう。 なに、来訪者・閲覧者にとって大した問題ではないのだが、制作する側にはあれこれと気骨の折れる作業だった、というだけの話である。
吉岡実の引用詩(1)――高橋睦郎〈鑑 賞〉を 書いた。入沢康夫はかつて追悼文〈吉岡さんの死〉で「〔……〕吉岡さんは、当世風にいつてみれば「書くことのエロス」の体現者、権化のやうな人であつた が、――そしてその作品は、戦後の詩に実に多方面にわたつて(一見さうとは見えないやうなところにまでも)エネルギーを与へつづけて来たのだが、――その エネルギーの実体を、作品に即して(つまり逸話風ではなく)解き明かす作業は、まだ全く(わづかに高橋睦郎氏の「解説」の試みはあるにしても)始つてゐな い」(《ユリイカ》1990年7月号〔追悼=吉岡実〕、三三ページ)と書いた。吉岡実の生前、その詩の「エネルギーの実体を、作品に即して解き明かす作 業」はほとんどなされてこなかったが、歿後25年以上経った今日でも、事情はさして変わっていないように思う。残念なことだ。今月から3回にわたって、 「中期」以降の吉岡実詩を貫く創作原理である「引用詩」について書いてみたい。
●うちの子どもは雨上がり決死隊が司会進行を務めるバラエティトーク番組《アメトーーク!》(テレビ朝日)が好きで、録画して観ている。11月10日は 〈本屋で読書芸人〉企画だった。「3 読書芸人の本棚を公開!!」のコーナーで、ゲストの又吉直樹(ピース)の本棚が紹介された。又吉は芥川賞を受賞した小説家だから「読書芸人」という括りが 適切か疑問だが、寝室の本棚を自身で撮影しながらコメントするのを観ていたら、《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)があるではないか。慌てて巻き戻し て凝視する。又吉は町田康や古井由吉の単行本、定番の太宰治全集などに言及してから、「歌集のコーナーがあって……で、下に辞典系が、」の「……」の処で カメラが本棚をパンしていく一瞬、《吉岡実全詩集》の函の背文字がはっきりと映っていた。「残りの色んな本はリビングにあります」とのことで、その数約 3000冊(手放さないから、増えつづけるのだ)。世の詩誌の編集者は、又吉直樹の本格的な吉岡実論が読みたくはないか。
●ジェスロ・タルの2枚(といってもそれぞれ2枚組だが)のアルバム《Nightcap: The Unreleased Masters 1973-1991》(1993)と《The Best of Jethro Tull: The Anniversary Collection》(同)を聴いている。全67曲、4時間半近い長尺だ。私は総じてアメリカのロックよりもイギリスのロックを好むが、最もイギリスら しいバンドとはジェスロ・タルのことではないか。Wikipediaに拠れば「2011年、バンド活動が事実上の停止。2014年に〔リーダーの〕イア ン・アンダーソンは、無期限停止を公表した」そうだから、ジェスロ・タルの命脈は尽きたのだろうが、4半世紀近くまえのアルバムがいま眼の醒めるような鮮 烈さで迫ってくる。〈Aqualung(アクアラング)〉など、とんでもないヘヴィロックだったし、〈Too Old to Rock 'n' Roll: Too Young to Die(ロックン・ロールにゃ老けたけど、死ぬにはチョイと若すぎる)〉はもろだけんじ名義の短歌にまでした。一般にプログレッシヴロックとして括られる ジェスロ・タルだが、エマーソン・レイク&パーマー、イエス、ピンク・フロイド、ジェネシス、キング・クリムゾンを取りあげた《U.K.プログレッシヴ・ ロックの70年代Vol.2》(マーキー、1997)の〈マイ・フェイヴァリット・アルバム×10〉という一種のアンケート企画でも ほとんど 挙がっておらず、《Live! Bursting Out》《Thick As a Brick(ジェラルドの汚れなき世界)》が目につくくらいだ。ジェスロ・タルは、なんといってもイアン・アンダーソンのヴォーカル(とフルート)が最大 の魅力だ。ジェネシスのピーター・ゲイブリエルとはまた違った、男の色気を感じさせる。


編集後記 168(2016年10月31日更新時)

●太田大八さんの挿絵画家としてのデビュー作、ジョーエル・チャンドラー・ハリス作・八波直則訳《うさぎときつねのちえくらべ――リー マスじいやの夜話〔こども絵文庫 1〕》(羽田書店、1949)を取りあげて、8月に亡くなられた太田さんを偲んだ。70 年になんなんとする太田さんの画歴は、戦後日本の絵本の歴史そのものである。その全貌は、絵本の専門家でない者がうかがい知るにはあまりに広大だ。一読者 としては、お気に入りの一冊を繰ることが太田さんを追悼することに通じると信じる。作品を概観するには《太田大八作品集》(童話館出版、2001)が、人 物を知るには《私のイラストレーション史――紙とエンピツ》(BL出版、2009)が最適だ。なお、今までこの〈編集後記〉には画像を掲げることをしてこ なかった。今回初めてその禁を破って、太田大八さんとのツーショットの写真を掲げる。撮影は太田さんの奥さま、十四子[としこ]さんである。
小林一郎と太田大八さん(2005年11月30日、東京・練馬の太田さん宅にて)
小林一郎と太田大八さん(2005年11月30日、東京・練馬の太田さん宅にて)
〈詩篇〈模写――或はクートの絵か ら〉初出発見記〉と 題して、同詩の初出発見の経緯について書いた。本文では触れなかったが、オークションの落札価格は1,200円である。仮に12,000円でもあっても私 が持っていなければならない資料だが、そこまで高騰しなかったので助かった。まえにも書いたように、ウェブ上の書誌情報がなければ、いくら私が熱心に探索 したところで掲載誌の《海程》と出会うことはなかったかもしれない。だがそれ以前に、なんとしても探しだすという気概がなければ、ものごとは始まらない。 今回は発表媒体がわからないケースだったが、吉岡実装丁本(限定版の某書)や吉岡実論(欧文の某論文)など、具体的な資料名までわかっていながら、入手閲 覧できていない。それらも今回のようにうまくいくと好いのだが。
●《日本の古本屋》で吉岡実関係の資料をチェックするのは私の日課だが、10月15日の土曜日、いつものように同サイトを見ていたところ、神田神保町の小 宮山書店が「オリジナル詩画集あんま 土方巽のために 作品3枚+奥付の計4枚シート 【奥付には全作家サイン入/Signed】」を86,400円で出品していた。シート4枚の画像が掲げられ、説明に曰く「吉岡実 Minoru Yoshioka 飯島耕一 Koichi Izima 瀧口修造 Syuzo Takiguchi/1968年 1セット 吉岡実・瀧口修造・飯島耕一の版画作品3枚+全作家サイン入奥付有/Signed 限定50部/Limited Edition of 50 copies」。一方、神田小川町の喇嘛舎が出品している同書(小宮山書店のものは端本である)は「オリジナル詩画集あんま 土方巽のために 池田満寿夫・加納光於・野中ユリ・中西夏之・三木富雄・滝口修造・三好豊一郎・加藤郁乎・中村宏・吉岡実 デザイン 田中一光」で、1,512,000円である(ちなみに私は完本を1996年、世田谷文学館で開かれた《土方巽展》で観ている)。その説明に「1968/限 定50 2重箱 オリジナル版画他 各署名入 外ダンボール箱 少コワレ・キズ 背に署名〔ママ〕カキイレ」とある。140万円は問題外だが、8万円は考慮に値す る。ところで、10月15日は同サイトをチェックしていたPCのハードディスクが虫の息で、下手にメールをやり取りしたり、決済したりしていると途中で機 械が壊れそうな按配だった。PCを騙し騙ししているうちに一両日経ち、《日本の古本屋》を再訪してみると詩画集が検索できなくなっていた。大魚を釣りおと した感懐を抱いたが、時すでに遅し。具眼の士が購入したのだろう、と慰めるしかなかった。だが、諦めるには及ばない。ウェブで「吉岡実」を検索しているう ちに、いつしか小宮山書店のページにたどりつき、眷恋の書を入手することができたのである。ここで、本書に関してまことに心苦しい報告をしなければならな い。《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》 での同書の書名の記載が、どこでどう間違ったのか――もしかすると元藤Y子《土方巽とともに》(筑摩書房、1990年8月30日、一 七八ページ)の記載 を鵜呑みにしたせいかもしれないが――《あんま――愛欲を支える劇場の話》となっていたのだ(10月31日時点で修正ズミ)。この、土方巽へのオマージュ を収めた豆本に関しては《あんま〜愛欲を支える劇場の話〜》を ご覧いただくに如くはないが、「〔……〕本書の執筆陣は非常に豪華である。澁澤龍彦・埴谷雄高はもちろん、特に三島由紀夫の参入は非常に大きい。ちなみに 三島は『詩画集・大あんま』には執筆していないから非常に貴重な発言である」とあるように、豆本《あんま――愛欲を支える劇場の話》に対して本書、詩画集 《土方巽舞踏展 あんま》(アスベスト館、1968年12月1日)を《詩画集・大あんま》と通称するようだ。端本であれ、書誌であれ、じっくり観るのならば《詩画集・大あ んま》が《あんま――愛欲を支える劇場の話》のわけはないのだが、実物を観ていないのは恐ろしい。そのことをまざまざと知らされた一件だった。なお「土方 巽公演〈土方巽と日本人――肉体の叛乱〉を記念して出版された詩画集《土方巽舞踏展 あんま》に再録された詩篇〈青い柱はどこにあるか?〉の葉」と「同書〈目録〉葉の13人の作者による自筆署名」の写真2点を《吉岡実詩集《神秘的な時代の 詩》評釈》の〈「暗黒の祝祭」――吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(1)――〈青い柱はどこにあるか?〉〉の「T 詩で書いた暗黒舞踏」に 掲載しておいた。ぜひ、ご覧いただきたい。
●今月は《〈吉岡実〉を語る》に太田大八さんを追悼する文と〈模写――或はクートの絵から〉発見にまつわる記事を掲載した。来月は本サイト開設の記念の月 だ。長らく温めていた企画――仮題〈吉岡実の引用詩〉――を準備中だが、うまくいけば3回連載でお届けできると思う。


編集後記 167(2016年9月30日更新時〔2017年3月31日追記〕)

●「その日」がついに来た。吉岡実が生前に刊行した12冊の詩集に収録した全262篇の初出情報(=初出形)が明らかになったのだ。詳 細は来月以降、なるべく早めに掲載の予定だが、とりあえず《吉岡実年譜〔作品篇〕》の〈一九六三(昭和三八)年四三〜四四歳〉末尾に「/この年 模写―― 或はクートの絵から(E・4、四七行)初出未詳〔◆一二月までに発表か〕191」とあったのを、同年「八月 模写――或はクートの絵から(E・4、四七行 《海程》〔発行所の記載なし、発行者は出沢三太〕九号〔二巻九号〕)191」に改める。今後は、《〈吉岡実〉を語る》の〈吉岡実詩集《静かな家》本文校 異〉やPDF版《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第3版〕》の訂正、さらには冊子体《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第4版〕》の刊行が控えているが、なにはとも あれ30年来の懸案が解決されたことを歓ぶ。
秋元幸人〈森茉莉と吉岡実〉の余白に、 を書いた。秋元は《吉岡実と森茉莉と》の〈後記〉に「これは我が偏愛の詩人と作家とに捧げたささやかなオマージュの一本である。〔……〕今散逸を恐れて上 梓するに当っては」うんぬん、と刊行の意図を記している。同書の一篇〈森茉莉と巴里〉は2003年2月、《Ultra Bards[ユルトラ・バルズ]》 Spring 2003 vol.9に〈森茉莉三都物語 第一章〉として発表された。同誌の〈後記〉には「☆新連載「森茉莉三都物語」第1章は、雑誌「三田文学」2000年夏季 号・特集「作家たちの西洋体験」に既発表の拙稿を訂正の上、加筆したものです。これを以て定稿とします。以下「森茉莉と江戸」「森茉莉と東京」と続ける予 定です。(秋元)」(二八ページ、原文横組)とある。《吉岡実と森茉莉と》所収の〈森茉莉と下町〉がこの「森茉莉と東京」に違いないが、「森茉莉と江戸」 はどこかに発表されたのだろうか。「三都物語」という括りが本書に見えないのは、巴里・江戸・東京という三幅対を成すことが叶わなかったためか。秋元に は、まだまだ書いてほしいことがたくさんあった。たとえば1998年10月10日、渋谷の勤労福祉会館で開かれた〈西脇順三郎を語る会〉(代表:藤富保 男・新倉俊一)主催の講演会《西脇順三郎を語る》において、秋元は〈吉岡実と西脇順三郎〉という演題で登壇している。残念ながら講演は聴けなかったが、後 日、ワープロ文書(テープ起こし)を送ってもらった。同文が秋元の著書に収められていないのは、《吉岡実と西脇順三郎と》といった著作の中心とすべく、書 きあらためるつもりだったためか。他にも〈巫術師の鎮魂――入沢康夫と吉岡実〉や専門のテオフィル・ゴーティエ関係の〈テオフィル・ゴーチエとテオドー ル・ド・バンヴィルの詩的交歓〉や〈ジュゼッペ・ヴェルディのオペラをめぐるテオフィル・ゴオティエの音楽批評〉等、単行本未収録の文章、さらには詩篇の 創作がある。書肆山田か思潮社あたりが一冊にまとめてくれないものだろうか。
深瀬基寛《エリオット》を中心に〔鑑 賞世界名詩選〕シリーズの装丁について書いた。かなり前になるが、田中克己《李白》の再版本が吉岡実装丁ではないかという記事をイン ターネット上で読んだ。吉岡本人や関係者の証言になかったので、そのときは原物を入手して調べるまでにはいたらず、国会図書館で閲覧したのが1955年刊 の初版本だった。本文にも書いたように、これが吉岡実装丁本に見えなかった。それ以上の材料もないまま、時は過ぎた。最近《エリオット》の再版本を見るに 及んで、念入りに調べた。創業50周年を記念した《筑摩書房図書総目録》は便利な工具書で、ふだん重宝しているから文句を言えた義理ではないが、〔鑑賞世 界名詩選〕に関しては不満がある。判型の違い(B6判と四六判)が記されているだけで、シリーズの刊行途中で装丁が変わったことがわからないのだ。書誌の 紙背を読まないと陥穽に嵌まる、という実例である。だが、今回これで吉岡実装丁本が一挙に4点も増えたことは、探索者冥利に尽きる。
●「創業130周年記念企画」と銘打った池澤夏樹個人編集《日本文学全集〔全30巻〕》(河出書房新社、2014-2018〔予定〕)の〔第29巻〕とし て〈近現代詩歌〉が出た。詩は池 澤夏樹(吉岡実詩に言及したことは、おそらくかつてない)、短歌は穂村弘(数度、言及)、俳句は小澤實(何度も言及)の選になる。このところ本格的な日本 文学全集自体がなかっただけに、今回の選は詩に限らず注目しないわけにいかない。ところで、池澤さんは今でこそ世界文学全集と日本文学全集を単独で編む小 説家=批評家だが、その文学的な出発は詩である。現に、吉岡実のバストアップの扉写真で始まる《ユリイカ》1973年9月号の〔特集・吉岡実〕の手前の3 ページには、池澤夏樹の詩篇〈ティオの夜の旅〉が掲げられている(同詩は1978年、書肆山田刊の第一詩集《塩の道》に収められた)。今を去る43年前の ことだ。
●《ジェネシス――眩惑のシンフォニック・ロック〔KAWADE夢ムック〕》(河出書房新社、2016年5月30日)が出た。巻頭の岩本晃市郎・片山伸〔対談〕〈ジェネシスより他に神はなし――ベスト5を選出しながらすべてを語る〉からして熱い。私のベスト5はこんな感じだ(発表順)。《Foxtrot》(1972)、《Seconds Out》(1977)、《...And Then There Were Three...》(1978)、《Genesis》(1983)、《We Can't Dance》(1991)。『そして3人が残った』は後輩の室井さんに薦められて、初めて聴いたジェネシスのアルバム(同人仲間の勝部さんはシングルにもなった〈Follow You Follow Me〉がお気に入り)。『フォックストロット』は先輩の橋爪さんの赴任地長崎で聴かされ、衝撃を受けた。『ウィ・キャント・ダンス』は同僚の宮崎さんと来日待望論を語りあったころの作品。というわけで、1970年代末からの遅れてきたファンは、ジェネシスも、フィル・コリンズも生まで観てはいない。〈Supper's Ready〉はジェネシスにしか創れないとてつもない楽曲だが、ただ1曲だけ挙げるなら《Wind &Wuthering》(1976)のトニー・バンクス作〈Afterglow〉しかない。スタジオ録音も悪くはないが、ライヴ『セカンズ・アウト』の1分半近い長いアウトロ(歌いおわったコリンズがチェスター・トンプソンとのツインドラムを決める)でマイク・ラザフォードが繰りひろげるベースラインは感涙ものだ。〔KAWADE夢ムック〕でいちばん興味深く読んだのは、村松正人によるジム・オルークへのインタビューだった。「――ジムさんはジェネシスのライヴを観たことあります?/『デューク』のツアーをシカゴで観ました。〔……〕私は一二歳で、まわりは大人ばかり。アンコールでは「サパーズ・レディ」のオープニングをやったんですね。私はイエーと狂ったように絶叫。すると前のオジさん――といっても当時の私にしてみれば、ということですが――が「うるさい」といわんばかりの顔でふりかえったんですが、子どもの私が興奮しているのを見てこう(サムズアップ)やったんです。ユー・アー・グレイトって(笑)。あのときはほんとうに泣きました。スティーヴ・ハケットはいませんでしたが、チェスター・トンプソンのドラムもすばらしかった。「サパーズ・レディ」のインストゥルメンタル・パートでフィルさんとドラム・デュオをやったんですよ」(同誌、七六ページ)。一つのコンサートが人生を変えることもあるだろう。一冊の本が人生を変えることがあるように。
〔2017年3月31日追記〕1月31日、ジョン・ウェットンが亡くなった。彼の業績を一行で書けば「《太陽と戦慄》期のキング・クリムゾンでベーシスト兼ヴォーカリストとして活躍した」となろう。ウェブを検索していたら、〈Afterglow〉でギターを弾いていたスティーヴ・ハケットをバックに歌っている動画〈Steve Hackett with John Wetton - Afterglow - 2013-03-29 on the "Cruise to the Edge"〉を見つけた。歌詞を書いた紙を手にしているのは、急遽ゲストとしてこの曲を歌うことになったためだろうか。このカヴァーによって、〈Afterglow〉の株も一段と騰がった。
●ジミー・ペイジによる最新リマスタリングに、未発表音源を加えたレッド・ツェッペリンの《The Complete BBC Sessions》(Atlantic)が9月16日に全世界同時発売された。Amazonに注文したCD3枚組の〔デラックス・エディション〕が届いた ので、それを聴きながら書いている。ディスク3のうち、〈White Summer〉を除く〈Communication Breakdown〉〈What Is and What Should Never Be〉〈Dazed and Confused〉〈What Is...〉〈Communication...〉〈I Can't Quit You Baby〉〈You Shook Me〉〈Sunshine Woman〉の8タイトルが未発表音源だ(つまりコンパニオンディスク)。かつて書いたことだが、彼らのライヴのベストアクトは1971年の初来日公演初 日の9月23日(生まで、しかも初めて観たのだから、こいつばかりは如何ともしがたい)。ベスト音源は1970年9月4日、ロサンゼルスフォーラムでの公 演のブートレグ《Live on Blueberry Hill》だと信じて疑わないが、当時この《BBC Sessions》を聴いていれば、ノックアウトされていたに違いない。要は、早く接したものほど繰りかえし視聴するという、しごく当たり前の話になって くる。1970年の9月、中学生だった私はエレキギターを買う余裕もなく(ちなみに初めて触ったのは、同級生の鶴岡くんが学校に持ってきた赤いボディのス トラトシェイプの国産物)、ガットギターに白いピックガードを貼り、2本のストラップピンをレスポールと同じ位置に取りつけ、ジミー・ペイジと同じ色のス トラップをいちばん長く伸ばして〈Whole Lotta Love〉のリフを弾きまくり、家族の顰蹙を買っていた。あんなにキャッチーなリフなのに、レッド・ツェッペリンのギターのコピーは難しい。それはジ ミー・ペイジが「ヘタウマ」だからではなくて、そのタイム感覚が独得で、ジョン・ポール・ジョーンズのタイト極まりないベースと、それよりはペイジ寄りの ややルーズなジョン・ボーナムのドラムスのグルーヴとが絡みあって、単体では起こりえない化学反応が起きたからだ(Tight but Loose!)。ペイジのギターが再現できたからといって、レッド・ツェッペリンのサウンドになるというほど単純なものではないのだ。そうした錬金術的な マジックを実感するのに、今回の初期の(スタジオ)ライヴ盤は恰好の素材[マテリアル]を提供してくれる。例えば、ディスク3の〈What Is...〉〈Communication...〉(1971年4月)を《Live on Blueberry Hill》におけるパフォーマンス(1970年9月)と較べると、実に興味深いものがある。


編集後記 166(2016年8月31日更新時)

《土方巽頌》の〈40 「静かな家」〉の構成について 書いた。参考になるかと思い、荒井美三雄企画・監督によるDVD《土方巽 夏の嵐 燔犧大踏鑑 2003-1973》(ダゲレオ出版、2004)を観かえした。以前にも書いたように、「踊る土方巽(映像のシューティングはこの舞台が最後)を伝える貴 重な作品」だ。吉岡実はこの1973年6月の京都大学西部講堂における公演を観ていないようで、《土方巽頌》(筑摩書房、1987)の〈71 ライヴスペース・プランB〉に「また京都公演「夏の嵐」の記録フィルムは初めて観るので、興趣深いものがあった」(同書、一四四ページ)とある。本文で触 れた、土方のその後の舞台出演作品《静かな家前篇・後篇》も大駱駝艦・天賦典式《陽物神譚》も映像は残されていないのだろう。かくして《夏の嵐》と《静か な家前篇・後篇》の比較という目論見は、みごとに当てが外れたのだった。だが私はなおも思う。それらは《サフラン摘み》と《夏の宴》、もしくは《薬玉》と 《ムーンドロップ》のような関係ではなかったか、と。こうした表と裏にも比すべき構成がどこから来たのか、土方作品との関連を含めて探求してゆきたい。
●以前、ビートルズの1曲ということで〈Penny Lane〉(1966年末録音)を挙げたが、これはポール・マッカートニーの曲だった。ではジョン・レノンの曲は何か。〈Across the Universe〉(1968年2月録音)を推そう。同曲はいま4つのヴァージョンが聴けるが、《Let It Be...Naked》(2003)のそれが好きだ。イントロのギターの爪弾きから、すでに名曲と呼ぶにふさわしい。レノン本人も自負しているその歌詞が すばらしい。ここには余分なものがない。必要なものはすべてある。1966年末録音の〈Strawberry Fields Forever〉を構築型の頂点とすれば、これはその対極の最高傑作である。加藤郁乎によれば、土方巽は吉岡実が初めて観た舞台《ゲスラー・テル群論》 (1967)で「鳴り止まぬ拍手に応えてビートルズ・ナンバー『イェスタデイ』をBGにくり返し」(《土方巽頌》、一〇ページ)ていたという。ちなみに、 吉岡自身がビートルズの音楽に言及したことはない。
●ウイングス(Wikipediaには「元ビートルズのポール・マッカートニーと彼の妻リンダ・マッカートニー、元ムーディー・ブルースのデニー・レイン の3人を中心に構成されたロックバンド」とある)の音楽には時間軸が存在しないように感じられる。アルバムごとの輪郭がさほどはっきりしていないのだ。 ポールとリンダとデニーがいればあとはセッションミュージシャン的な役割に甘んじていたと言えば極論だろうが、主要メンバーによる音楽的変遷こそあれ、そ こにはビートルズに見られた音楽的変貌がない。そうしたなかで私が好きなのは、アルバムでは《Band on the Run》(1973)、曲では《London Town》(1978)の〈I'm Carrying〉だ。同曲でストリングスのように聞こえるのは、ゴドレイ&クレームが開発したアタッチメント「ギズモトロン」によるエレクトリックギ ターだというが、それとコーラスによるオブリガートの旋律がすばらしい(その手触りはポールのソロアルバムに限りなく近い)。バンドとしての力量はライヴ アルバム《Wings Over America》(1976)に隠れもない。一方、ポールのソロの曲では《Tug of War》(1982)の〈Wanderlust〉の主旋律と副旋律の絡みあいが〈I'm Carrying〉のそれに劣らずみごとだった。
●メリー・ホプキン《大地の歌》(1971)を聴いた。ホプキンといえば〈悲しき天使〉(1968)やポール・マッカートニーのペンになる、彼のデモ音源 が出色の〈グッドバイ〉(1969)のポップシンガーの印象が強いが、《大地の歌》はアップルに残した2枚めにして最後の、ブリテッシュフォークの香り高 いアルバム。ホプキン自身がシングルを中心に編んだ《Those Were the Days》(1995)のライナーノートに「セカンド・アルバムを作るにあたっては、バッドフィンガーやT・レックスを手がけたトニー・ビスコンティをプ ロデューサーに迎えた。ビスコンティはメリーの真意を理解したうえで制作に取り組み、ストリングス・アレンジも手がけた。レコーディングはジョージ・マー ティンが設立したAIRスタジオで行なわれた。最終的にはメリー自身が選曲し、今度こそ満足できて、楽しめて、かねてから望んでいた作品ができあがった。 自然、街、人間、精神的な世界などを歌ったアルバム」(ザ・ビートルズ・クラブ)とあるように、ポップシンガーの片手間仕事ではない清新な出来映えになっ ている。小西勝は《英国フォーク・ロックの興亡》(シンコーミュージック・エンタテインメント、2015)でメリー・ホプキンのデビューアルバム 《Post Card》(1969)のジャケットを掲げ、プロデューサーのマッカートニーがドノヴァンの作品を3曲選んでいると記している。小西氏の《大地の歌》の評 が読んでみたかった。
●ビートルズ関連の作品は、楽曲・アレンジ・録音・ジャケットデザインから、汲めども尽きぬものが得られる。それと同じように、吉岡実の詩集にも活版印刷 本の完成形を見る想いがする。


編集後記 165(2016年7月31日更新時)

吉岡実にとっての富澤 赤黄男を書くに当たって、関連す る本を何冊か読んだ。四ッ谷龍編著《富澤赤黄男〔蝸牛俳句文庫〕》(蝸牛社、1995年1月10日)には「瓜を啖ふ大紺碧の穹の下」、「冬蝶の夢崑崙の雪 雫」、「軍艦が沈んだ海の 老いたる鴎」、「灰の 雨の 中の ヘヤピンを主張せよ」(全ての漢字に付されたふりがなは割愛)といった句が掲げられてい て、それぞれ〈苦力〉(C・13)、〈崑崙〉(F・8)、〈鎮魂歌〉(D・15)、〈ピクニック〉(G・7)を想起させる。吉岡実詩のスルスが直接これら だったと断定することはできないが、赤黄男句の無意志的記憶[レミニサンス]を完全に排除するわけにもいかない。櫻井琢巳《地平線の羊たち――昭和時代と 新興俳句》(本阿弥書店、1992)は書名を赤黄男句「地平線羊ましろく生殖す」から採っただけあって、力篇〈『天の狼』の詩人・富澤赤黄男〉を収める (なお永田耕衣の独立した項目はなく、三橋鷹女の項にほんの少しだけ顔を出す)。私はこの赤黄男句から村上春樹の《羊をめぐる冒険》(講談社、1982) を連想したが、村上は12年後に《ねじまき鳥クロニクル》(新潮社)を出している。
●架空の書物、吉岡実撰《河原枇杷男句 集》に ついて書いた。いったいに吉岡は俳人や俳誌とのつきあいが良くて、恵投された句集についての感想や好きな句の撰がさまざまな俳誌に残されているのは幸運な ことだ。その俳誌の筆頭は永田耕衣の《琴座[りらざ]》だが、高柳重信の《俳句評論》も逸することができない。吉岡が枇杷男句に出会ったのが、同誌の媒に よると想われるからだ。1954年、耕衣に入門した河原枇杷男は《琴座》《俳句評論》の同人を経て、1989年まで《序曲》を編集発行した。同誌の〈蝶卍 日録〉には、たとえば永田耕衣・梅原猛・川名大・津澤マサ子・杉山平一・鶴岡善久・多賀芳子・安井浩司の諸氏からの枇杷男宛の書信が引かれている。耕衣に おける《琴座》の〈愛語抄〉と同じ手法による、自作への反響の紹介だ。師系というものがあるとすれば、この辺が勘所かもしれない。
●インターネットで《サフラン摘み》(1976)の手製本[ルリユール]を見つけたので、購入した。以前入手した同書の改装本とは別の作者のようで(背文 字の標記や配置が異なる)、誰が、いつ、何のために(高見順賞の受賞を記念して、とか)作ったものなのか、かいもく見当がつかない。《吉岡実書誌》の同書の項目の記載を補訂し て、写真2点を追加した。
●孫悟空や《西遊記》関係を中心に、中野美代子の本を読みかえしている。想えば〈崑崙〉(F・8)や〈哀歌〉(J・13)について調べていたころ、その著 作を懸命に読み解いていたものだ。今はそうした火急の必要がないだけに、一つの主題にどうアプローチするかを掴みたく思う。《孫悟空の誕生――サルの民話 学と「西遊記」》と《西遊記の秘密――タオと煉丹術のシンボリズム》の岩波現代文庫版を手始めに、《三蔵法師》、《孫悟空はサルかな?》、《西遊記――ト リック・ワールド探訪》(新刊で読了後、神保町・東京堂書店で著者署名入り本を求めたので、2冊ある)あたりは再読だが、《なぜ孫悟空のあたまには輪っか があるのか?〔岩波ジュニア新書〕》(岩波書店、2013)は初読だった。しかし今回も《龍の住むランドスケープ――中国人の空間デザイン》(福武書店、 1991)に感銘した。中野美代子の著作のなかでは、これがナンバーワンだ。
●Amazonで購入した《Live Yardbirds: Featuring Jimmy Page》(1971〔2008〕)を懐かしく聴いた。ヤードバーズに最後まで在籍したジミー・ペイジはこのレコードを認めていないが、なかなかの好演 だ。国内盤が出ていないのを受けて、ライナーノーツのつもりでアルバムのレヴューを投稿した(〈Amazon.co.jp: Live Yardbirds - ミュージック〉)。 お読みいただければありがたい。
●旧知の山田哲夫さんが田中千鳥の生誕百年を期して映画を作る。《千鳥百年 ‐田中千鳥生誕百年 | ホーム》の 〈プロフィール〉に「むかしむかし、今から100年ほど前、大正という時代、山陰鳥取に詩や日記を書く少女がいました。七歳半で彗星のように消えました。 1917年(大正六年)3月 鳥取県気高町浜村に生まれました。1924年(大正十三年)8月18日没。享年八歳。尋常小学校二学年でした」とある。私は 今回はじめて千鳥の作品を読んだ。こうした稀有の作品が出現する背景に、千鳥自身の才能や家庭環境があることはいうまでもないが、大正時代という枠組みも 無視できないと思った。母親である田中古代子の〈編集後記〉に、千鳥は学校の唱歌よりも〈ゴルキーの「どん底」の歌〉(「夜でも晝でも 牢屋はくらい/い つでも鬼奴が 窓からのぞく」)が好きで、自分たちといっしょに「夜でも晝でも」よく歌った、とあるのが印象的だ。佐藤春夫も、萩原朔太郎も、この大正と いう白昼夢のような時代を生きた詩人だった。


編集後記 164(2016年6月30日更新時)

吉岡実と西東三鬼を 書くために《奴草》を再読した。私 はかつて《旗艦》に載った吉岡実=皚寧吉の俳句を蒐めたことがあった。そのため、どうしても稿本句集〈奴草〉だけにある句の印象が薄いのだが、今回読みか えしてみて、とても二十歳前後の人間が書いたものとは思えなかった。これが、ほぼ同時期の詩集《液體》なら、いかにも二十歳すぎの青年の作だと思えるか ら、作品の内実が、というよりも、俳句という型式が作者に老成を強いるのだろうか。三十三歳で俳句を始めたコスモポリタン三鬼の初期の句のほうが、時とし て〈奴草〉よりも若く感じられる。
●架空の書物、吉岡実編《北原白秋詩歌 集》に ついて書いた。私の書庫には岩波版白秋全集の6巻と7巻だけがある。精興社・牧製本による活版・布装函入りの、20世紀の全集本である。20年以上前、東 京・荻窪の教会通りにあった古書店(深沢書店か?)で買ったものだ。栞がわりに《日本古書通信》第849号(2000年4月号)の〈古本屋の手帖〉をち ぎって挟んでおいた。〈短歌俳句の校異〉に「近代の歌人俳人の作品数の多さはその〔=芭蕉や蕪村の〕比ではない。研究者は多くても斉藤茂吉短歌約一万八千 首に対し歌誌掲載の初出稿、歌集の定稿、再版の改稿等一々校訂するのは困難なのだろう。ただ、北原白秋の短歌に関しては、自身による改稿や編成変更が極め て多く、岩波の全集における紅野敏郎氏等による校訂は初出稿を収録、各版との校異等も詳細を極めているのは異色と言っていい」(同誌、三六ページ)とあっ たからである。
●文庫本による自家製の丸谷才一全集を作っている。正確には、集めている。丸谷の主要な業績は歿後に編まれた《丸谷才一全集〔全12巻〕》(文藝春秋、 2013〜14)の小説6巻と評論6巻だが、これは表向きの顔で、全貌にはほど遠い。エッセイと対談という別の、しかし極めて重要な顔が収められていない からだ。書評は《快楽としての読書 日本編》《快楽としての読書 海外編》《快楽としてのミステリー》(いずれもちくま文庫、2012)、エッセイと対談は《腹を抱ヘる》《膝を打つ》(いずれも文春文庫、2015)とい う傑作選が編まれたが、いずれも喰いたりない。丸谷の批評活動の全貌は、評論・書評・エッセイ・対談といった区分をとっぱらって、時系列に並べて読むに如 くはない。執筆順に読んでいけば良いのだろうが、丸谷文学の研究者でない私にはそこまで手が回らない。次善の策として単行本の刊行順となるが、それも省略 して文庫本で代用させてもらう。最初の評論集《梨のつぶて》(晶文社、1966)は文庫になっていないし、マガジンハウスから出た一連の書評集もほとんど 文庫化されていない。だが、相当数の単行本(とりわけエッセイ)は文庫本になっているので、歯抜けになっているタイトルを古本で求めて欠を補っている。こ れらを読みかえすと、丸谷の持続的な関心事がわかる。民俗学、イギリス文学、日本文学の三本柱がそれで、試みに折口信夫や《黄金の枝》、《ユリシーズ》や シェイクスピア、夏目漱石や《源氏物語》に言及した文章を撰んでまとめるなら、たちどころに長短・硬軟・軽重取りまぜた一冊の論集ができあがる。百目鬼恭 三郎(1926〜91)は《大きなお世話》(文春文庫、1978)の〈解説〉で「丸谷のエッセイ集には、いたるところにこの種の教養〔=過去の重層的な文 化遺産を正しく受けとめて、それを未来へつなごうとするありかた〕が露頭していて、おのずから教養の百科事典の趣きを呈している。だれか、これを項目別に まとめて事典を作ったらどうかと思われるくらいである(三田村鳶魚にはその種の事典がある)」(同書、三四四ページ)と書いた。「小股の切れ上がった女」 やモーツァルト、和田誠と装丁(丸谷の表記は「装釘」)などの事項や人名、書評の対象となった書名を立項した私家版丸谷才一全集の索引づくりが今後の課題 である。
●MD(ミニディスク)を愛用している。MDを初めて見た若い世代が「カセットテープとCDのハイブリッド」とコメントしたというが、パッケージ系のメ ディアは過去の遺物となりつつある。私はこの「パッケージ」が好きで、LP4のモード(本来は会議やラジオの録音などの用途)だと、80分& times; 4=320分にCDを詰めこんでいくことができる。オリジナルアルバムが10枚くらいのアーティストなら2枚のMDに収まってしまう。私はアラン・パーソ ンズ・プロジェクトの1作めから5作め、6作めから10作め(と《Sicilian Defence》)を2枚のMDに入れて全集にして、原稿書きのときに聴いている。前者は49曲で202分24秒、後者は53曲で242分42秒。寝室に はビートルズのオリジナルアルバムの新訂リマスター盤をMDに落としたボックスがあって、その傍らには亡き中山康樹の《これがビートルズだ〔講談社現代新 書〕》がある(本書の形式で《これが吉岡実だ》が書かれたら、と夢想する)。寝つかれない夜は、これを聴きながら読む。これを読みながら聴く。ときには反 駁しつつ。中山の新著がもう出ないと思うと、さびしくてならない。枕頭の曲を聴く所以だ。


編集後記 163(2016年5月31日更新時)

吉岡実と石田波郷に ついて書いた。恩地孝四郎装丁にな る〔現代日本文學全集 91〕は《現代俳句集》(筑摩書房、1958年4月5日)で、《石田波郷句集〔角川文庫〕》と同じ5句集から、500句を抄録しているが、私の現代俳句と の出会いは山本健吉《現代俳句〔角川文庫〕》(角川書店、1964年5月30日〔改版八版:1975年5月30日〕)だ。手許の一本は、正岡子規から永田 耕衣まで42人の俳人の名を連ねた目次の、子規と夏目漱石、石田波郷に鉛筆で○印が付いている。40年前に新本で買ったから私が付けたものに違いないが、 まったく憶えがない。巻末の〈作者別引用句索引〉の作者では、高浜虚子、富田木歩、水原秋桜子、山口誓子、川端茅舎、石田波郷、西東三鬼、永田耕衣に印が 付いている。吉岡実が随想で触れた俳人をマーキングしたものか。
●架空の書物、吉岡実編《西脇順三郎詩 集》について書いた。む ろんこんな本があるわけではなく、私たち読者にとってあらまほしき書物、あっておかしくない書物の謂であって、例によって一種の思考実験である。1959 年当時、現代詩人会幹事長だった西脇順三郎が書くべき《僧侶》評が「H氏賞事件」の余波で雲散霧消してしまったことは惜しんでも余りある痛恨事だが、吉岡 実編《西脇順三郎詩集》はしかるべき出版社が(例えば思潮 社が《現代詩手帖》の〔西脇順三郎特集〕、あるいはこちらは実在する出版物だが《現代詩読本 西脇順三郎》の一企画として)推進すれば実現したかもしれない。それと田村隆一編《西脇順三郎詩集》と同時掲載、というのは大胆すぎるプランだろうか。萩 原朔太郎の詩から三好達治と西脇順三郎の詩業が生まれたとすれば、西脇順三郎の詩から田村隆一と吉岡実の詩業が生まれたと考えることもできるだろう。あ わせて〈吉岡実と西脇順三郎〉も お読みいただけるとありがたい。
●必要があって旧稿《吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈》を 全ページ(A4判縦位置で印刷すると約306ページ)、プリントアウトして読みかえした。公開時に充分チェックしたつもりだったが、何箇所か誤りを見つけ た。最終更新(2013年5月31日)以降の状況の変化に対応した修正も必要だったので、字句の訂正や追記の形で本文に手を入れた。→で異同を示す箇所の (削除)は(トル)に統一した。KompoZerのバグによる不要の半角スペースは、ひとつひとつ手で修正した。引用した詩篇のふりがなは〈ruby〉の タグを用いて原文を再現していたが、画面上でもプリントアウト上でも意図した表示になっていないので、ふりがなを[ ]に入れる方式に変更した(傍点も同 じ)。引用といえば、詩句の行数を表示するライナーが行頭にあったり行末にあったりしてまちまちだが、各評釈の執筆時点で良かれと思う書き方に従ったので あえて統一しなかった。これをもって現時点での定稿とし、吉岡実歿後26年の記念としたい。ちなみに《吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈》のテキストは 400字詰め原稿用紙で約1100枚、画像が51点。吉岡実に関する私の主要な著作ということになる。
●グリン・ジョンズ(新井崇嗣訳)《サウンド・マン――大物プロデューサーが明かしたロック名盤の誕生秘話》(シンコーミュージック・エンタテイメント、 2016年3月13日)を拾い読みした。お目当ては〈1968年10月、レッド・ツェッペリン〉。ある日、ジミー・ペイジから新しいメンバーと組んだバン ドのマテリアルが揃ったのでアルバムを作る、ついてはエンジニアを担当してほしいと電話がかかってきた(ジョンズとペイジは同郷で、若年のころ同じバン ド!にいたこともある由)。これが9日間、36時間で録音したデビューアルバム《レッド・ツェッペリン》(アトランティック、1969)。「彼らが創出し たサウンド、彼らが考案したアレンジ、彼らの楽才の水準、そのどれもが等しく驚愕だった。彼らが用意していたものがわたしの目の前で次第に姿を現わしてい くなか、セッションは回を重ねるごとにわくわく感を増していった。わたしはただ録音ボタンを押し、あとは椅子の背に身体を預け、僕は今、重要な現場にいる のだという興奮を抑えていればよかった。/このアルバムのステレオ・ミックスは間違いなく、わたしが手がけたなかでも指折りのサウンドを誇るが、称えるべ きはバンドだ。わたしがしたのは彼らが繰り出すものを忠実にテープに収めるよう努めただけで、あとは雰囲気を際立たせるべくそこここにエコーを多少加えた に過ぎない」(同書、一三七〜一三八ページ)。アルバムの出来に自信を持っていたジョンズだったが、アセテート盤を聴かされたミック・ジャガーも、オリン ピックスタジオでマスターテープを聴かされたジョージ・ハリスンもまったく評価しなかった。ジョンズはそのときのジョン・ボーナムのドラムサウンドに触発 されたマイクのセッテイングとステレオ録音の方法で今日、歴史に名をとどめる(もっとも、ボーナムは録音されたドラムサウンドに不満だった)。「この手法 について、さまざまな説明がYouTubeにアップされていて、いずれもそれこそがわたしのやり方だと断言している。けれど、どれもまったくもって正確と は言えない。そもそも、大方の予想に反して巻き尺は使ったこともないし、そんなに厳密なものじゃない。常識を用い、うまくいくと信じ、ドラム・セットと目 の前でドラマーが供しているバランス、そしてそのドラマーが叩いているものに応じて微妙に調節する、それだけの話だ」(同書、一四〇〜一四 一ページ)。ドラムセットとドラマーでひとつの楽器なのだから、いくら私がボーナム遺愛のラディックを叩いても、あの音は出ない。グリンの実弟であるアン ディ・ジョンズ(1950-2013)も前期レッド・ツェッペリンのエンジニアとして活躍した。〈When the Levee Breaks〉のドラムサウンドを手掛けたのは彼だ。ボーナムもこれには満足したという。


編集後記 162(2016年4月30日更新時)

俳人の作歌と して田尻春夢の短歌と吉岡実の俳句のことを書いた。〈「短歌のすすめ」短歌と私(43)私の愛誦歌(9)   吉岡 実 ( 短歌 ) - 日々の気持ちを短歌に - Yahoo!ブログ〉に〈忘れ得ぬ一俳人の一首〉が掲げられている。吉岡文以外のオリジナルの文章(紹介 など)が記されていないようで、なぜ掲載されているのかわからない。田尻春夢で検索するとこれがヒットするから、春夢の辞世の句とともにこの歌が広く知ら れることになるかもしれない。
● このところ、吉岡実と俳句の関係について考えることが多い。吉岡の主戦場はいうまでもなく「現代詩」だが、いちばん愛読したのは同時代の俳句(どうも「現 代俳句」とは呼びたくない)であり、いちばん愛した詩型は俳句だったのではないか。永田耕衣への傾倒は措くにしても、俳句の雑誌への寄稿や立風書房の一連 の俳書への参画を見ると、そう考えざるをえない。だがその俳句愛がどのように吉岡の詩作へ還流したかははっきりしない。というか、そもそも関係があるのか さえよくわからない。いったい吉岡実にとって俳句とはなんだったのか。
●《小笠原鳥類詩集〔現代詩文庫222〕》(思潮社、2016年4月1日)が出た。第一詩集《素晴らしい海岸生物の観察》(思潮社、2004)全篇――巻 末の〈動物論集積 鳥〉が圧巻――、続く《テレビ》(同、2006)の抄録、未刊詩篇〈寒天幻魚 かんてんげんげ〉を収める(〈未刊詩篇初出一覧〉のあるのがなんとも素晴らしい)。小笠原さんの詩の特徴は「反抒情の極北を指す、ことばの未知の光景」 (本書帯文)であるのは誰しも認めるところだが、私が強調したいのは詩篇執筆に際して参考にした資料や引用の典拠を掲げている点だ。どうやらそれらは実在 する書物のようだが(残念!)、たとえ架空のものであっても少しも不思議でないのが小笠原鳥類詩なのだ
●ビートルズのCD《Anthology》の2(1996)の後半と3(同年)が面白い。ライヴをやらなくなってスタジオにこもりはじめた時代の音源で、 ジョン・レノンの楽曲が興味深い。アコースティックギターを抱えての弾き語りが多いが、公式のスタジオ録音のようには歌声が加工されておらず、楽曲の構造 も透けて見える。作曲の水準はポール・マッカートニーが高い。ポールのアコースティックギターは、ベースラインを効かせた分散和音がすばらしく、アレンジ も卓抜だ。自身の鉱脈を掘りあてたジョージ・ハリスンのメロディラインは鮮かになった。ビートルズの4人は1968年5月下旬(のちの《The Beatles》の録音のためにアビー・ロード・スタジオに入る直前)、2月のインド滞在中に作った楽曲をデモ録音した。その「イーシャー音源」からの7 曲が《Anthology 3》に収められている。小西勝の《英国フォーク・ロックの興亡》(シンコーミュージック・エンタテインメント、2015)によれば、「イーシャー音源」は 「『ホワイト・アルバム』のアコースティックなアンプラグド・ヴァージョン」・「『ホワイト・アルバム』のデモ音源のなかには、実現することのなかった、 ビートルズの幻のフォーク・ロック・アルバムのコンセプトが隠されている」(同書、一一九・一二〇ページ)。《ホワイト・アルバム》こと《The Beatles》(1968)のわかりにくさに「イギリスのフォークロック」という視点を導入すると、蔓の絡んだ藪のような同アルバムの姿がかなりすっき りする。とりつきにくいものを二つ重ねることで見えてくるものがある。
●ようやく耳に馴染んだポール・マッカートニーのナンバーを収めたソロアルバムを聴きはじめた。《McCartney》(1970)、《Ram》 (1971)、ウイングスを率いた8枚のアルバム、《McCartney U》(1980)、《Tug of War》(1982)、《Pipes of Peace》(1983)、《Give My Regard to Broad Street》(1984)、《Press to Play》(1986)、《Flowers in the Dirt》(1989)、《Off the Ground》(1993)、《Flaming Pie》(1997)、《Driving Rain》(2001)、《Chaos and Creation in the Back Yard》(2005)、《Memory Almost Full》(2007)、《New》(2013年)。マッカートニーはベースはもちろん、ギターが堪能なだけでなく、ピアノやドラムスにも長けていて、作 詞・作曲(アレンジ)、歌となんでもござれだから、マルチトラックを使った文字どおりの「ソロ」の音源がたちまちできてしまう。それゆえ、その溢れる才能 をきちんとプロデュースしないと締まりがなくなるわけで、今までどうも食指が動かなかった。だが落ち着いて考えてみれば、独りで原稿を書いてウェブに発表 する者にとってこの稀有の音楽家の作品が参考にならないわけがない――などと大上段に構える必要はない。ただ聴くだけで面白いのだ。とりわけ惹かれたのが 宅録の《McCartney》ときちんとプロデュースされた《Chaos and Creation in the Back Yard》の2枚である。「ワンマンレコーディング」という言葉があるか知らないが、一人多重録音の世界でなにができるかが見事に立証されている。近年の ライヴでも歌声がほとんど衰えていないのには驚かされる。


編集後記 161(2016年3月31日更新時)

《指揮官夫人と其娘 達》あるいは《バルカン・クリーゲ》のことを書いた。インターネットで調べていたら、東京書院版《バルカン戰爭》を紹介したページが あった。書影を13点掲載していて、見応えがある。ジャケット(?)の表紙に書名の、背に書名と版元名の、裏表紙に版元名の貼込があるようで、それなりに 凝っている。だが、いかんせん資材が貧相なのは否めない。一方、別丁本扉(?)は赤と黄とスミの3色刷で、鮮やかだ。本文は周囲をエロティックな絵で縁取 りしてあって、これは当時の東京書院版がよく用いた手法。こうすると、1ページに収容する文字数が少なくなり、ページ数が増える。《指揮官夫人と其娘達》 の本文は、冒頭部分の写真版を見るかぎり子持ち罫で囲ってあるが、こちらはページ数稼ぎという感じはしない。
田村義也装丁作品目録と装丁作品サイ トのことを 書いた。田村の《のの字ものがたり》(朝日新聞社、1996)には岩波書店の学術書の装丁(一六八ページ)、貼函の製作(一九五ページ)といった興味深い 記載が多いが、「あれ〔添田知道作詞〈東京節〉〕は街頭でやっている救世軍の楽隊を聞いていて、それに詞をのせたものなんだよ」(一五四ページ)という添 田語録がいちばん面白かった(原曲は〈大きな古時計〉で知られるヘンリ・クレイ・ワーク作曲の〈ジョージア行進曲〉)。こうした具体的な挿話の厚みが、あ たかも田村装丁本のようなコクを湛えた一書である。本書はもちろん田村の自装。堀川貴司《書誌学入門――古典籍を見る・知る・読む》(勉誠出版、2010 年3月29日)には、版心題(スペースの関係で簡略化されている題が多い)しか手掛かりのない書物の同定では同じ版心題で外題のある伝本を調査することが 必要だとしたうえで、「将来的には、各所蔵機関が共通した項目を備えた古典籍の書誌データを記述し、共有するシステ ムが出来ることが理想でしょう。/さらに、すべての内容が画像によって公開されれば理想的ですが、少なくとも表紙・巻首・刊記奥書などの重要な部分の画像 をそのデータに付けてもらえれば、大いに参考になります(逆に、現在公開中のフル画像の古典籍には、書誌情報を付加していく努力が必要だと思います)。/ また、書誌学調査のツールとしては、インターネットで検索できる蔵書印や筆跡、奥書、刊記等のデータベース(画像を伴うもの)の作成も望まれます」(〈お わりに――書誌学の未来〉、同書、二四九ページ)とある。田村義也装丁本を古典籍と同列に論ずべきではないだろうが、モノとしての書物の側面(堀川による 「書誌学」の定義)を考える際の有効な手段であり、充分に活用できよう。書誌学調査のツールとして画像データベースは、今後ますます重要となるに違いな い。
●ビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンが去る3月8日、亡くなった。90歳だった。ジョージ・マーティン(水木まり訳)《メイキング・オ ブ・サージェント・ペパー(Summer of Love)》(キネマ旬報社、1996年5月1日)を再読して、マーティンを偲んだ。私はかつて〈神秘的な時代の詩〔集〕――吉岡実詩集 《神秘的な時代の詩》評釈(終章)――長篇詩の試み〉の 〈ビートルズ《サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド》の波紋〉で、同書から400字ほど引用したことがある。論旨に関わる文言とし てはなんの過不足もないが、マーティンの評価があまりにも面白いので、そこに引かなかった箇所を掲げる。「私がこのアルバムに自信を持てるようになったの は、キャピトル・レコードの傲慢社長、アラン・リヴィングストンのおかげだった。彼は我々の様子を探りにロンドンに来ていた。〔……〕私は彼に〈ア・デ イ・イン・ザ・ライフ〉を聴かせた。この歌は彼にショックを与えた。彼はすっかり仰天してしまった。奇妙な歌詞、アヴァンギャルドなプロダクション、そう いった歌の一部始終が彼を仰天させた。彼は感嘆のあまり声も出せなかった。/そのとき私は、安心していいのだと悟った。/〔……〕/もしも〈ストロベ リー・フイールズ・フォーエヴァ〉と〈ペニー・レーン〉を〔シングルの〕ダブルA面として1966年に発売せず、《ペパー》に収録していたら、その代わり にどの曲がアルバムから消えていただろう。〈ウィズィン・ユー・ウィズアウト・ユー〉かもしれない。だが、そうするとアルバムにいつもジョージ・ハリスン の歌を入れるという黄金律を破ることになる。そうなると〈ラヴリー・リタ〉と〈ホエン・アイム・シクスティフォー〉ということもあり得る。これら魅力的な 2曲を加えて《サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド》を編集し直したら、どんなアルバムになっていただろう? あれこれ想像してみ るのは楽しい」(同書、二二一〜二二二ページ)。《神秘的な時代の詩》は吉岡の《ペパー》だった。


編集後記 160(2016年2月29日更新時)

吉岡実日記の手入れに ついて書いた。吉岡は日記を継続 的に書くことはなかったが、こんにち目にすることできるそれは、いずれも再読三読に値する重要なものだ。現に「――〈日記〉と〈引用〉に依る」と副題にあ る《土方巽頌》は、当の日記がなければこれほど重層的な記述にはならなかっただろう。同書や吉岡の随想に象嵌されている日記を綴りあわせた《吉岡実日記》 を編むことで、いろいろと新たな発見がありそうだ。いつの日か試みてみたい。
《朝日新聞》の〈装丁でも才能発揮す る詩人の吉岡氏〉を 書いた。記事が出た1976年4月当時、わが家では同紙を購読していた(私が会社勤めをするようになってからは、《日本経済新聞》)。その新聞を切り抜い てスクラップしたはずなのだが、《1970年代後半》という吉岡実参考文献のファイルに見あたらない。なにかの折に抜きだして戻しておかなかったのだろ う。しかたがないので、文献目録を頼りに図書館で縮刷版をコピーした。そのくせ、書庫を整理していると同じ本や雑誌が複数出てくるのにはあきれる。関心事 はみごとなまでに継続している。
●イタリアの哲学者・小説家ウンベルト・エーコが2月19日(日本時間20日)、亡くなった。84歳だった。エーコといえば(河島英昭訳)《薔薇の名前》 (東京創元社、1990)だ。私の1990年6月16日(土)の日記――「昼、急に強い雨。吉岡実逝去を報ずる《琴座》第四六○号届く。健在なら参加した であろう永田耕衣旭寿の会が葬儀の当日だった由。書かれざる《永田耕衣頌》を想像して、吉岡と耕衣の縁を偲ぶ。午後、ひきつづき〈マクロコスモス〉論に手 入れ。WP上で訂正した第三稿をつくる。深夜、LDで《薔薇の名前》を観かえす。吉岡は小説《薔薇の名前》は読んだだろうか。〈僧侶〉の詩人の感想が聞き たかった」。なんとした偶然だろう。2月20日は、ウンベルト・エコ(谷口勇訳)《論文作法――調査・研究・執筆の技術と手順》(而立書房、1991)を 読んでいる最中だった。来るべき吉岡実の引用詩論のために、エーコが引用についてどう書いているか確かめたかったからだが、ここはそれに触れる場所ではな い。エーコはこの初学者のための手引書で「学問上の矜持」についてこう述べている。「悠然と,「こう思う」とか「こう考えられる」と言いたまえ。君が語っ ているときには,君が[・・]エキスパートなのだ。〔……〕君はその特定テーマについて共同体の名において語る人類の役人なのだ。ものをいう前には謙遜か つ慎重でいたまえ,だがいったんしゃべり出したときには,高慢かつ尊大でいたまえ。〔……〕そのテーマについて語られたすべてのことを要約しただけで,何 ら斬新なことを付け加えていない,編纂的な論文を選んだとしても,君は他の権威者たちによって語られたことについては一権威者なのだ。そのテーマについて 語られたすべての[・・・・]ことを,君以上によく知っている者は皆無のはずである」(同書、二二二ページ)。この碩学にしてこの言あり。


編集後記 159(2016年1月31日更新時)

永田耕衣の書画と吉岡 実について書いた。先だって永田 耕衣書画集《錯》を入手し、耕衣の書や画を堪能した。吉岡実が耕衣の句はもちろん、その書画に心酔したことは、公刊された随想集や未刊行の耕衣宛書簡に記 されている。吉岡編纂になる《耕衣百句》は耕衣の句と吉岡の関係を語って余す処がないが、書画のやりとりを含めた交友を偲ばせる二人の往復書簡が、両者の 全的な関係を示してくれるに違いない。そんな思いから本稿を書いた。それにしても不思議なのは、耕衣が自著の装丁を吉岡にしてもらっていないこと、そして 当然それにも関わるが、吉岡が耕衣の書画を装丁に使っていないことである。双方とも、あくまでも文人として(「画の人」としてでななく)付きあっていた、 ということの証だと考えたい。
栃折久美子の〈吉岡さんの装幀〉を 書いた。本文でも触れた臼田捷治は《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015)で、栃折は題字類を手書きで仕上げていたと、かつて栃折装丁を論じた《装幀時代》(晶文社、1999)で は言及しなかった点を事後報告している。題字の精度の高さゆえの誤認だったという。ひとつの事実を公けにするのに、かくも長い年月を要することがあるの だ。ところで、私は栃折久美子装丁本では、井上究一郎《ガリマールの家》(筑摩書房、1980)がいちばん好きだ。あのグレーの函と表紙の手触りを確かめ たくて書庫を探したのだが、どこに雲隠れしたのか、いっこうに出てこない。
●近年発行のルリユール関連の一般書を続けて読んだ。いせひでこ《ルリユールおじさん》は197×270ミリメートルの横長絵本で、 2006 年9月に理論社から初刊が、2011年4月11日には講談社から〔講談社の創作絵本〕として再刊が出ている。まるで映画を観ているようだ、という言い回し しか泛かばないのが歯痒い見事な作品。三二〜三三、四五ページの図解的な処理も違和を覚えるどころか、細部に見入ってしまう。手許に置いて、何度も繰り返 してページを翻したくなる逸品だ。「「ルリユール」ということばには「もう一度つなげる」という意味もあるんだよ」(同書、二五ページ)。もう1冊、村上 早紀《ルリユール》(ポプラ社、2013年10月10日)は児童向けの物語。主人公の少女の母親(図書館の司書だが、物語には直接登場しない)の修復の話 などもっと書きこんでほしかったし、黒猫工房でのルリユール作業の描写もコクがない。「美しい本の作り方を教えてあげましょう。人類の文明が続く限り、航 海をやめない箱船。心をのせ技術をのせて、時を渡る船。あなたもそんな箱船を流すひとりになれる――」(同書、〔三ページ〕)というエピグラフを読んで当 方が期待したものとは違った、ということか。このファンタジーの世界に没入することはできなかった。
●いずれ近いうちにと思いつつ叶わない願いはこの人生で数えきれない。吉岡実がアンケートで推薦した「《喜楽》(渋谷・道玄坂)の野菜のたっぷり入ったも やしそば」を食そうと志しながら、今日まで果たさずにきた。〈【渋谷・喜楽】名物オヤジ引退!超有名店のもやしと揚げネギたっぷり醤油ラーメン - 己【おれ】〉と聞けばなおさらだが、1月下旬、渋谷にいて時分時だったのをさいわいに「もやし麺」(800円)を食べた。厨房には6 人ほどの料理人がいたが、吉岡がアンケートに答えて42年。店が、メニューが存続しているだけでありがたい。喜楽のはす向かいには道頓堀劇場もある道玄坂百軒店は、吉岡のホームグラウンドだった。
●小西勝《英国フォーク・ロックの興亡――ポップとトラッドの接点から生まれた音楽を巡る旅》(シンコーミュージック・エンタテインメント、2015年 10月20日)を熟読した。これはノートをとって、YouTubeで楽曲を検索して、学究のように自分の関心のある音楽の系譜をたどるに値する、驚くべき 書物である。本文では人名・作品名(アルバムタイトルや曲名)がカタカナ表記だが、ページ下部の欄外には原綴りで重要アルバムが紹介されているから、なん とかなるだろう。「それでも〔デイヴィ・〕グレアムがいなければ、この地のアコースティック・ギター・ミュージックはまったく別の道をたどったにちがいな い。彼が撒いた種は、バート・ヤンシュらの手によってより高い次元で開花し、ジミー・ペイジ在籍時のヤードバーズをあいだにはさんで、英国音楽史上もっと も大音量のフォーク・バンド、レッド・ツェッペリンへと引き継がれていくのだから。」(本書、四九〜五〇ページ)という一節には、衝撃に近いものを覚え た。以下の5ページは、「英国音楽史上もっとも大音量のフォーク・バンド」=レッド・ツェッペリンの考察として、必読に値する。


編集後記 158(2015年12月31日更新時)

《うまやはし日記》の ために、を書いた。そのあとのこ とだが、買ったままだった松本哉《すみだ川を渡った花嫁》(河出書房新社、1995年10月25日)を引っぱり出してきた。〈厩橋の風光明媚〉に「近いう ちに絵を書きたいと思っているのはこの橋の上だ。ここから浅草方面を見た景色がたいへんよろしいのである。駒形橋が見え、その向こうに浅草と本所の街が見 える。大きな金玉を載せた黒いビルやビールのジョッキを思わせる建物もご愛敬。観光船の行き交う水面もほどよいスペースで見えるし、この厩橋の造りもなか なか変わったものである。これら全部を取り込めば川と橋の美、および付近の発展と賑わいが手に取るようにわかる。現代のすみだ川を代表する景観であろう。 /真夏の「隅田川花火」もここの水面から上がる」(同書、一〇〇ページ)とある。文だけでなく絵もよくした著者だけに、説得力がある。
〈吉岡実の装丁(作品)を最初に論じ た文章〉は、吉岡実装丁に対する最も早い論考の回顧である。あと何回か重要な吉岡実論の歴史的展望を総括していきたい。来るべき《装 丁家としての吉岡実》における、先行文献の顕彰という位置づけだ。
●このところ必要に逼られて、書籍の処分をメインに、書庫を整理している。久しく引越しをしていないので、ほそぼそと溜めた本でも収まりきらずアクセスも ままならない。本サイトで執筆するために必要な本や雑誌やコピーや切り抜きが「どこかにあることは確かなのだが」状態が限界を超えているのだ。よって、過 去に記事にした資料は英断のすえ売りはらうことにした。要するに手許に残すのは、これから執筆するのに必要な一次資料(吉岡実の著作や装丁作品)と厳選し た二次資料(吉岡実論や周辺資料)ということになるわけだが、副本には副本の価値があるので、おいそれと処分できないのが辛いところだ。と言いつつも、何 冊かは手放した。
●児童文学作家の舟崎克彦(ふなざき・よしひこ)氏が去る10月15日亡くなった。70歳だった。Wikipediaには「1973年、単独で執筆した初 めての長編ファンタジー『ぽっぺん先生の日曜日』を出版社5〜6社に持ち込んだところ、それまでの児童文学とあまりに違っていたのでことごとく拒絶反応を 受けたが、高橋睦郎によって紹介された吉岡実の仲介で筑摩書房からの出版が決定。以後、シリーズ物となって刊行されている」とある。《ぽっぺん先生の日曜 日》は未読だったので、これを機に読んだ。動植物(とりわけ鳥の名前)が惜し気もなく書きこまているのが、なんとも嬉しい。書評をくまなく読んだわけでは ないが、これは《不思議の国のアリス》へのオマージュではあるまいか。アリスではコーカス・レースをするドド(ドードー鳥)が、本書にも出てくる。


編集後記 157(2015年11月30日更新時)

〈アリス詩篇〉あるいは《アリス詩集》について書いた。詩篇と詩集は本文にあるとおりなので、まずルイス・キャロルのアリスのことを書こう。柳瀬尚紀訳でアリスを再読した。〈「少女の夢のはらみ方」――吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(10)――〈少女〉〉の題辞に引いた箇所は「「あたし――あたしは女の子よ」アリスはいったが、いささかあやふやだった。この日、何度も変わってばかりなのを思い出したのだ。」(《不思議の国のアリス〔ちくま文庫〕》筑摩書房、1987年12月1日、七三ページ)だった。この、常体が好い。一方、吉岡が〈わがアリスへの接近〉で引用した岡田忠軒訳と同じ箇所は「「この子の花弁[はなびら]がもうちょいとカールになっていれば、とやかくいうところはないんだ」」(《鏡の国のアリス〔同〕》同、1988年1月26日、三六ページ)。
●沢渡朔の《少女アリス》(河出書房新社、1973年12月15日)はわが国のアリスブームの火付け役となった写真集だったが、アリス役のモデルはサマンサ・ゲイツ、当時8歳。サマンサはヒプノシスが手掛けたレッド・ツェッペリンの《聖なる館》(アトランティック、1973年3月26日)と《プレゼンス》(スワン・ソング、1976年4月6日)のジャケットにも登場する。同じ年に発表された写真集とアルバムのジャケット撮影はどちらが先か、ウェブ上のページによっては見解が異なるが、発表の時期や制作期間を考えるとアルバムだ。《聖なる館》のフォトセッションが1972年11月、《少女アリス》撮影のための沢渡の滞英期間が1973年9月10日〜29日。「沢渡 なんというのかなあ、アンドリュー〔ロンドンでの撮影のプロデュースとコーディネートをしたアーティスト〕もそうだけと、あの頃のロンドンて、やっぱりロックでしょ。『少女アリス』もロックだったのかもしれない。若い人同士に通じるものがあったんじゃないかな? 当時おれは30代前半、アンドリューも30代半ばで、みんなロックが好きな人たちだった。ピンク・フロイドやレッド・ツェッペリンなどの名作のレコードジャケットをたくさん作った「ヒプノシス」(1968年に結成された)というデザイン・グループに、パウエル(オーブリー・パウエル)という人物がいたんだけと、彼がアンドリューの友達で、ストロボを貸してくれたり、サマンサを推してくれたのも彼がいたからかもしれない。「ヒプノシス」は、当時イギリスのロックバンドのレコードジャケットの名作をいっぱい作った、デザイナーであり写真家でもある人たちです。レッド・ツェッペリンのレコードジャケット〔……〕で、ジャイアンツ・コーズウェーに上っていく写真があって、それに写っているのはサマンサです。『少女アリス』の前にその写真は撮られているんで、サマンサを連れてきたのはたぶん、パウエルじゃないかと思う」(沢渡朔・桑原茂夫〔対談〕〈ロックの自由な発想と重なっていた!〉、沢渡朔《少女アリス〔スペシャル・エディション〕》河出書房新社、2014年10月30日、一二ページ)。《少女アリス》の方が先だという説はストーム・トーガソン、オーブリー・パウエル編著(篠原和子訳)《100ベスト・アルバム・カヴァーズ》の「子供たちは未来、裸は無防備の象徴だ。二人の子供はサマンサ・ゲイツとステファン・ゲイツ、実の姉弟だ。選んだ理由は、ふたりがすでに日本の写真家、沢渡朔の『不思議の国のアリス』〔ママ〕でヌードになっていたからだ」(ミュージック・マガジン、2001年11月10日、七七ページ)というコメントに引きずられたせいに違いない。沢渡から贈られただろう《少女アリス》を観たオーブリー・パウエルが記憶に混乱をきたすほど、衝撃的な写真集だった。
●Wikipediaには《プレゼンス》の1950年代アメリカを想起させる日常的な情景の写真は《ライフ》から採られたとあるが、《ナショナル・ジオグラフィック》1956年8月号に想を得た表ジャケットの四人家族の団欒図と、裏ジャケットのサマンサ(と弟のステファン?)と女教師の写真は、ヒプノシスとジョージ・ハーディ(「オブジェ」を手掛けたデザイナー)の編著(奥田祐士訳)《アートワーク・オブ・ヒプノシス》(宝島社、1993)に拠れば、パウエルとピーター・クリストファーソンの撮りおろしである。《プレゼンス〔リマスター/スーパー・デラックス・エディション〕》(スワン・ソング、2015年7月31日)のブックレットにあるフォトセッションが1976年なら、サマンサはこのとき11歳。沢渡=サマンサの第二作《海からきた少女》(河出書房新社、1979)には、妖しいまでの幼女の面影はもはやない。吉岡自身がレイアウトした初出〈ルイス・キャロルを探す方法〉の扉写真(乞食の少女に扮したアリスの全身像)、すなわちキャロルが撮ったアリス・リデルは、撮影当時6歳だった。
●《吉岡実の詩の世界》は今月、創設13周年を迎えた。本サイトは秋元幸人の《吉岡実アラベスク》(書肆山田、2002年5月31日)が刊行された半年後に創設した。秋元本が吉岡実詩について詳述した内容だったから、私は詩人としての吉岡に加えて装丁家としての吉岡を視野に収めた調査・研究を志向したのだった。前出の私版《アリス詩集》を秋元幸人(1961.6.10.-2010.4.29.)に捧げて、併せて本サイトの当初の企図が達成されつつあることを報告したい。


編集後記 156(2015年10月31日更新時)

吉岡実のフランス装に ついて書いた。本稿は夏頃から準 備を始めたが、それに先立って前川佐美雄と斎藤史の歌集を入手し、9月には竹之内静雄(古田晁の後継として筑摩書房の2代目社長を務めた)旧蔵の《静物》 を需めた。私が読んだことのある《静物》の初刊は、高見順旧蔵の日本近代文学館所蔵本と、吉岡の生前、田村書店で購入した鮎川信夫旧蔵本(《僧侶》よりも 《静物》を択んだので、吉岡さんから褒められた)と、今回、静岡市の太田書店から購入した本書で、いずれも献呈署名入り。久しぶりに吉岡本を古書で手に入 れたが、本稿執筆のための資料であると同時に、自祝の意味もある。これで《静物》以降の、戦後刊行された吉岡のすべての単行詩集が複数冊揃ったわけだが、 そうした理由でも付けないことにはなかなか手が出せるしろものではない。さて来月11月は、本サイト《吉岡実の詩の世界》創設13周年である。吉岡実歿後 25年の年の記念になるような企画を準備しているので、ご期待いただきたい。
●晴れた土曜日の午後、神保町のOKIギャラリーで〈永田耕衣展――著作と短冊と〉(9月29日〜10月9日)を観た。耕衣の短冊に対面するのは、 1992年の京王百貨店新宿店での〈永田耕衣92翁92短冊展〉以来だ。同年に沖積舎から出た《狂機》の題字を掛け軸に表装した一幅が目を惹いた。耕衣の 短冊には手が出せなかったので、手許になかった《錯》(永田耕衣書画集刊行会、1986)を購入し、沖山隆久さんと耕衣の書や吉岡実の色紙(毛筆による俳 句)のことなどを話した。沖山さんは《耕衣全集〔全五巻予定〕》の企画が頓挫したことを嘆いておられた。まさに印刷物による個人文学全集にとって冬の時代 である。
●インターネットで閲覧していると、「これは」というものに出会う。イアン・ペイス(ドラムス、Deep Purple)を中心とする〈Sunflower Superjam 2012〉と いうロイヤル・アルバート・ホールでのチャリティーコンサートで、セッションバンド――ブルース・ディッキンソン(ヴォーカル、Iron Maiden)、ブライアン・メイ(ギター、Queen)、ジョン・ポール・ジョーンズ(ベース、Led Zeppelin)、ブライアン・オーガー(オルガン、Trinity)をメンバーとする――がDeep Purpleの〈Black Night〉(1970) を演っているのには驚いた。演奏(メイがエンディングの入りをはかりそこねているのはご愛敬)にではなく、この面子にである。音楽雑誌を読んだり、 ラジオを聴いたりしなくなって久しいので、こういうイヴェントがあったこと自体知らないのだ。若死にすることが多いハードロック系のドラマー(キース・ ムーン、ジョン・ボーナム、ジェフ・ポーカロ、コージー・パウエル)の中にあって、切れ味鋭いドラミングのイアン・ペイスが健在なのは頼もしい。
●Queenといえば、フレディー・マーキュリーが死んで、ジョン・ディーコンが引退して、音楽界にいるのはブライアン・メイとロジャー・テイラーだけに なってしまったが、先日、Night of Queenという楽団(リードヴォーカルがJohan Bodingで、Night of Queen Band & Choirというのが正式名称)がカヴァーするQueenの曲の数数を視聴して、感心した。とりわけ女性を交えた8人編成のコーラスには唸った。一体に ロックバンドの場合、録音に凝るようになるとステージで再現することが難しくなる(例えば後期ビートルズ)。Night of Queenは、劇団のように整然と歌唱と演奏をこなしている(ブライアンの多重録音も、二人のギタリストが分けあっている)。コーラスをフィーチャーした 曲、なかでも〈The March of the Black Queen〉の出来がよ いように思う(カメラは酷いが)。


編集後記 155(2015年9月30日更新時)

「無尽蔵事件」に ついて書いた。吉岡実が1959年に 結婚して、最初に住んだのが渋谷区竹下町二十七アパート向陽七号室だった。随想〈消えた部屋〉にはこうある。「古いコンクリートの建物で、二階の通りに面 した部屋でした。〔……〕原宿駅の竹下口前の通りをへだてて、横丁がありました。小さな坂を降りると、すぐに菊富士ホテルがあり、若干の商店も並んでいま した。余談ですが、当時、世間を驚かせた、外国人神父のスチュワーデス殺人事件松本清張の小説『黒い福音』の主人公たちの逢いびきの場所、それがこのホテ ルだったそうです」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二七五ページ)。吉岡が読んだであろう《黒い福音》(中央公論社、1961) を読んでみようと思いつつ、未だに果たしていない。
ジャック・ブルースの 《Songs for a Tailor》(1969)をCDで聴いた。《Goodbye Cream》(1969)は初めて買ったロックのLPだったが、ブルースのソロも愛聴した。このアルバムはジョン・ハイズマンやクリス・スペディングと いったジャズ畑のミュージシャンとのセッション、自身がギターやチェロを弾いたクリームの音楽の延長線上にあるもの、のちにフェリックス・パパラルディ率 いるマウンテン(レズリー・ウェストのピッキングハーモニクス!)がカヴァーした〈Theme for an Imaginary Western〉といっ た曲が収められた、収録時間が31分強とは信じられないヴァラエティに富んだ作品集である。なお、ギターのL'Angelo Misteriosoは《Goodbye Cream》の〈Badge〉で客演したジョージ・ハリスン。ハリスンとクリームの関係は、エリック・クラプトンばかりではなかった。
●クリームといえば2枚組のアルバムの先駆者だが、その《Wheels of Fire》(1968)は1枚がスタジオ、もう1枚がライヴ録音だから、渾然たる世界とは言いがたく、現に同じデザインで地色違い(銀と金?)のジャケッ トで別売りされたLP盤もあった。一方、《The Beatles》(1968)や《Physical Graffiti》(1975)は全曲スタジオ録音で、絞りこんで1枚物にすればとてつもない、つまりビートルズやレッド・ツェッペリンの最高傑作[ベス トアルバム]になったかもしれない、などど考えたこともある。はっきり言えば、これらの2枚組が苦手なのだ。ところが近年では様子が変わってきた。先入観 を払うべく、それぞれのアルバムをランダム再生で聴くと、個個の曲に注目することになって、これがけっこう良い。《Physical Graffiti》は、このアルバムのための新録音だけを収めた盤(53分39秒の自家製である)も捨てがたい。《The Beatles》は――こちらはやっていないが――メンバー4人全員が録音に参加した曲だけ、ポール・マッカートニーが書いた曲だけ、リンゴ・スターがド ラムスを叩いている曲だけ、という選曲もありえて、ジョージ・マーティンになりかわって収録曲や曲順を自在に設定した45分ほどの1枚物を想像する愉しみ は尽きない。


編集後記 154(2015年8月31日更新時)

●吉岡実詩における難語、「ね はり」と「受菜」について 書いた。私は自分で書く文章中に意図的に造語を登場させることはない。ただ顧みて、ある語を本来もっているのとは異なった意で用いていることはあるかもし れない。難語が登場する背景はそうしたものだろうか。語は文中に、文は文章中に置かれ、その制約を受ける。全体がわからなければ、個個の語の意味もわから ない。一方で、文章全体は個個の文、文は個個の語から成る。すなわち、鍵となる語の意味が文章全体の意味を左右/決定する。吉岡実の散文は、難語を含む率 がその詩に較べて相対的に低いだけであって、両者の構造がさほど異なるわけではない。それは、書く前にじっくりと考え、一気に書いて、あまり手を入れな い、という執筆態度からくるものと思われる。そこに難語(造語)がときおり顔を出したとしても、意に介さなかった。そのあたりのことを自解したのが吉岡唯 一の詩論〈わたしの作詩法?〉(1967)における「餌食[ジショク]する」であり、「万朶の雲」だった。吉岡実の詩と散文の比較検討は、今後の大きな課 題の一つである。
●中川右介構成《大林宣彦の体験的仕事論――人生を豊かに生き抜くための哲学と技術〔PHP新書〕》(PHP研究所、2015年7月29日)を読んだ。 20年ほど前に、広報誌《三菱重工グラフ》の仕事で大林さんの成城の自宅で話をうかがったことがある。事前に見本誌を郵送して取材を依頼し、後日、電話し たところ折良くアポイントが取れた。インタビューの後で訊くと「留守電は使わない。それで通じなければ、そういう縁だったのだ」とのことだった。おりしも カメラマンや広告代理店の社員が携帯電話を使いはじめたころだったので、私は意外にも思い、やはりとも思ったものだ(お宅の電話は固定電話だった)。前掲 書の〈十四日間、寝ないで撮った『廃市』〉には「そこで福永武彦の『草の花』が夢の映画でしたが、それが無理なら、短編の『廃市』をやろうとなりました」 (二七四ページ)とある。ひさびさに《廃市》(1984)をDVDで見返した。特典映像では、大林監督が本作とともに《草の花》と原作者について、35分 にわたってゆったりと語っている。
●ハンク・ボードウイッツ編(五十嵐哲訳)《ZEP on ZEP――レッド・ツェッペリン インタヴューズ》(シンコーミュージック・エンタテインメント、2015年8月4日)を読了した(BGMはもちろんリマスター盤付属のコンパニオンディス クだ)。A5判、本文13級47字×20行で600ページになんなんとする大冊だが、談話の集積なので重量感はそれほどない。かつて 音楽雑誌 で目にした記事もあるが、「活字としては本書が初掲載となる記事を含む50本を越えるインタヴューを掲載」とのことだから、読みごたえは充分だ(四七ペー ジの、ジミー・ペイジがフラット・ペダル・スティール・ギターを入手した件など、じつに興味深い)。吉岡実の発言を集成した《吉岡実トーキング(小林一郎 編纂)》の 本文は自家製の資料のため本サイトで公開できないのが残念だが、試算してみると本書の組体裁で624ページ相当の、これまた大冊になる。


編集後記 153(2015年7月31日更新時)

吉岡実と恩地孝四郎に ついて書いた。恩地孝四郎の装丁 が吉岡実の装丁に与えた影響についていつか書いてみたいと思っていたが、臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015)が執筆のきっかけとなった。装丁に関する恩地の著作で最も有名なのは「本は文明の旗だ」という章句で知ら れる《本の美術》(誠文堂新光社、1952・出版ニュース社、1973)である。今回はもっぱら《新装普及版 恩地孝四郎 装本の業》(三省堂、2011〔元版は同社、1982〕)を典拠にして恩地孝四郎装丁を論じた。同書の装丁作品カタログはモノクロの書影の掲載を兼ねてい て、一覧性に欠ける。このため、恩地孝四郎装幀美術論集《装本の使命》(阿部出版、1992)の〈恩地孝四郎装幀作品目録〉を引いたが、これは《装本の業 〔元版〕》のカタログを踏襲しているから、実質的に参照した文献は一冊である。同書の、コート系本文用紙に横組というのは図版と文章を収めるこの種の本の 一つの型だが、マット系の微塗工紙に縦組という《書影の森》の型が優っていよう。恩地における版画制作、吉岡における詩篇執筆という楕円形的創作活動の他 方の焦点も見すえた論考は、一冊の書物を要求するテーマだ。
《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》を 補綴した。前回の更新以来、2年以上手を入れてこなかったことになる。今回施した追記は軽微で(新たに立てた項目はない)、大半は執筆した記事にリンクを 張る作業だった。本サイトを運営しながら目標としたことのひとつ、吉岡実装丁本全冊の探索はいま小憩といった処だが、吉岡実が言及した書籍の探索も目標に していたことは、どうしたわけか忘れがちである。本ページのメンテナンスも怠りなくしていきたいと思う。
●モルゴーア・カルテットの《Destruction―ROCK MEETS STRINGS》(1998)を聴いた。本作は廃盤で、《21世紀の精神正常者たち》(2012)や《原子心母の危機》(2014)の先駆をなすアルバ ム。のちの2作のようなオリジナルを尊重した編曲がある一方で、原曲の香りやモチーフを活かした創作といった面もある、方法的模索の混在した作品といえよ う。私は〈レッド・ツェッペリンに導かれて〉3部作に惹かれた。Tでは〈Friends〉や〈The Wanton Song〉を織りこんだ演奏、Uでは〈No Quarter〉や〈Stairway to Heaven〉、〈Gallows Pole〉、〈Going to California〉を織りこんだ演奏、Vでは〈Stairway to Heaven〉のストレートなそれが聴ける。丸谷才一の最後の長篇小説《持ち重りする薔薇の花〔新潮文庫〕》(新潮社、2015年4月1日)には、ブ ルー・フジ・クヮルテットなる弦楽四重奏団が登場する。もちろんこちらは、プログレッシヴロックを演奏するわけではなく、ハイドンやボッケリーニ、モー ツァルトを弾く。私は不明にしてそれらのほとんどを知らない。逆に言えば、これから聴く楽しみが残されているわけだ。丸谷のモーツァルト好きは隠れもな かったが、ハイドンも愛聴していた。湯川豊は〈解説〉で「丸谷才一の生前最後の買い物は、CD百五十枚に及ぶハイドン全集だった」(同書、二三〇ページ) と書いている。
●ザ・ビートルズもレッド・ツェッペリンも4人組のバンドで、オリジナルメンバーのひとりが欠けると(ポール・マッカートニーの脱退、ジョン・ ボーナムの死去)、解散を余儀なくされた。5人組のザ・ローリング・ストーンズとイエスがメンバーの入れ替えを伴いながら長命を保っているのとは対照的で ある(と草稿に書いて日ならずして、イエスのすべてのスタジオアルバムに参加した唯一のオリジナルメンバー、ベーシストのクリス・スクワイアの訃に接した)。3人組のクリームとザ・ジミ・ヘンド リックス・エクスペリエンスは、メンバーが存命のまま解散した。吉岡実が加わった最後の同人詩誌《鰐》(1959〜62)は短命に終わったが、5人のメン バーはその後、長く活躍した。
●ビートルズとストーンズとツェッペリンは20世紀におけるブリティッシュロックのビッグネームだが、ツェッペリン結成前のジミー・ペイジとジョン・ポー ル・ジョーンズはストーンズと近しかった。スタジオミュージシャン時代のペイジは、多くの歌手のジャガー=リチャーズ作品の録音にギタリストとして参加し ている。一方、音源や映像のリリースにおいてペイジが範としたのはビートルズで、このほど完結したオリジナルアルバムのリマスター盤にコンパニオンディス クを付ける手法は、ビートルズの《アンソロジー〔1〜3〕》(1995〜96)なくしては考えられない。吉岡実は詩篇が完成した時点で途中の草稿を破棄し たというから――《僧侶》(1958)以降、吉岡実自筆の詩の草稿というものは基本的に存在しない。残されているのは陽子夫人の手になる入稿原稿であっ て、吉岡自筆の詩稿は完成作品の書写である――、万万が一それらが発見されることでもあれば、《アンソロジー》やコンパニオンディスクがそうであったよう に、多くのことを語ってくれるに違いない。〈死児〉(1958)の自筆草稿など、想像するだけで心躍るではないか。


編集後記 152(2015年6月30日更新時)

臼田捷治《書影の森 ――筑摩書房の装幀 1940-2014》に ついて書いた。私は吉岡実の新刊が出るたびに、最低でも2冊(ときにはそれ以上)購入してきた。単行詩集も、事情が許すかぎり2冊は入手を心掛け、《僧 侶》(1958)以降のすべての市販の詩集は複数冊が手許にある。装丁や本文を相互に比較するためである。一体に活版印刷では同じ刷でも本文に異同が起こ り得るから、それらの照合は欠かせない。《夏の宴》(1979)を除いて単行詩集にその種の問題はないが、《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》 (1959)は、奥付に増刷次が記されていないことも手伝って、本文の異同に関わる調査を要する。もっとも《書影の森》を2冊求めたのは、比較検討が目的 ではない。1冊はブックカヴァーも付けずに心おきなく読むためであり(付箋を貼ったり、スキャンしたり、メモを書き込んだり)、もう1冊は美本として保存 しておくためである。そして、われながらあきれてしまうが、本書の本扉と表紙をワンカットに収めた書影で、観る人を驚かせたいという気持ちも若干はある (誰も驚かないか)。「篤実な吉岡研究者の小林一郎」(〈はじめに――出版界のロールモデルとしての時代を超える魅力〉、本書、六ページ)とあるからに は、地道な調査研究を続けなければならないのだが、ときには遊び心も忘れまい。
吉田精一《現代日本文学史》の装丁に ついて書いた。そこでも触れたように、本書は林哲夫さんから恵投されたもの。臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》を入手して短い感想をメールしたところ、送っていただいた。未知の吉岡実装丁本はほかにもあるだろうことを肝に銘じつつ、とりあえず 本稿をもって《〈吉岡実〉の「本」》の吉岡実の装 丁に関する記事の締めとする。その意味で記念すべき一冊となった。林さん、どうもありがとうございました。《吉岡実書誌》の〈W 装丁作品目録〉に 掲載した吉岡実装丁と目されるタイトル数は185で、すべての作品を紹介しおえている。吉岡実装丁作品を総覧する《〈吉岡実〉の「本」》は、今後は文章や 写真の追記を行うことになるだろうから、いまのところ紙媒体への出力を前提としたページレイアウトの予定はない。《アイデア idea》誌367号〔特集・日本オルタナ文学誌 1945-1969 戦後・活字・韻律〕(誠文堂新光社、2014)や同誌368号〔特集・日本オルタナ精神譜 1970-1994 否定形のブックデザイン〕(同、同)、そして本書の書影やページレイアウトを研究のうえ、いつの日か右開き・縦組にレイアウトして一書にまとめ、PDFを 公開できれば、と思っている。本文の横組を縦組に(表記)変更しなければならないのと、書影とキャプションを処理するのが厄介だが。
●クラフト・エヴィング商會《星を賣る店》(平凡社、2014年1月24日)は楽しくて悔しい本だ。同書は、2014年1月25日から3月30日まで世田 谷文学館で開催された〈クラフト・エヴィング商會のおかしな展覧会・星を賣る店〉の公式図録にして、同商會の「商品目録」「ベストアルバム」(〈前口上、 申し上げます――。〉、〔五ページ〕)だが、展覧会を観ていないのだ。昨春は身辺多忙で、3月には父が入院し、二月後に逝った。そのため展覧会の開催を知 らずに、後追いで本だけ読んだ。同商會は臼田捷治《書影の森》の〈第V部 1990-/さらなる独自性の追究と原点回帰と〉における最も重要な装丁作家で(10ページに亙って紹介)、坂本真典の写真を副えた《らくだこぶ書房21 世紀古書目録》(筑摩書房、2000)はオブジェと写真とオフセット印刷の特性を知りつくした者の恐るべき仕事である。私の書籍工房(組版・造本・装丁) 兼プライヴェートプレスを「トリウム商會(Torium & Co.)」としたのも、クラフト・エヴィング商會に敬意を表してのことだった。
●ペダルスティールギターのことが知りたくて、インターネットで文章や動画を調べた。CSN&Y《Déjà Vu》(1970)の佳曲〈Teach Your Children〉でペダルスティールギターを弾いているグレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアの動画を観たかったのだが、どうやらなさそうだ。 Wikipediaには「ボリュームペダル、弦の調を変えるためのペダル、ニーレバー(膝レバー)で音程を調整するベンド機構を備えた大型のスタンドタイ プ〔のスティールギター〕」とあって、カントリーやハワイアンに欠かせない楽器だが、ロックでもスティーヴン・スティルスの《マナサス》(1972)でア ル・パーキンスがいいプレイをしている。初期のレッド・ツェッペリンで及び腰ながらペダルスティールギターを操っていたジミー・ペイジは、《聖なる館》 (1973)以降、ブルース色を薄めていくとともに、通常の6弦のギターでペダルスティールふうのフレーズを探究している。ストリングベンダー付きのテレキャスターを愛用していたのもそのためか。私 自身がペダルスティールギターを弾くことはないだろうが、スリーフィンガー奏法は、原理的にも箏に近いものがあるように思う。そういえば、箏についても調 べなければならないことがある(これは吉岡実詩がらみ)。


編集後記 151(2015年5月31日更新時)

吉岡実とマグリットに ついて書いた。下の子(国立新美 術館で展覧会をいっしょに観た)が学校の美術の授業でシュルレアリスムふうのペン画を描くというので、美術出版社(この3月、民事再生法の適用を申請し た)の《シュールレアリズム》を探したが、どうしたわけかあの大判の画集が見つからず、かわりにマックス・エルンスト(巖谷國士訳)《百頭女〔河出文 庫〕》(河出書房新社、1996)が出てきた。あのころは河出文庫もがんばっていた。手の切れそうな、という形容はほんとうは別の使い方をするのだろう が、さきごろ亡くなった金子國義が装画・挿絵を描いたバタイユ(生田耕作訳)《マダム・エドワルダ〔角川文庫〕》(角川書店、1976)のような、手の切 れそうな文庫本があったものだ。ここはやはり、ちくま文庫版の《吉岡実詩集》に登場してもらうしかない。各詩集から抄録する、などというチマチマしたこと はやめて、《静物》《僧侶》《サフラン摘み》《薬玉》の4詩集を全篇収録する。詩篇の本文で4700行ほどになるだろうか。これが吉岡実歿後25年、拙サ イト150回を閲した私の宿望だ。なお、2012年に公開した吉 岡実年譜〔改訂第2版〕は、文庫版詩集の巻末資料を想定して心をこめて書いたもの。併読を乞う。
●臼田捷治《書 影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(み ずのわ出版、2015年5月3日)が出た。森銑三は〈見ることを得た書物〉で「書物も見れば写したい箇所が出来、写したものは更に多少の研究を進めて、何 かに発表したくなる。身辺はますます多忙となるばかりであるが、忙しい中から都合をつけて、見たい書物を見に行くのは、私等に取ってはやはり楽しい」(柴 田宵曲との共著《書物〔岩波文庫〕》岩波書店、1997年10月16日、二〇〇ページ)と書いている。本書を見ることを得たのは、大きな歓びである。来月 にレヴューを公開するための算段をしている。
●私が高校の放送部員だったころ録音といえばアナログのテープだけで、機材は@ラジカセAステレオカセットデッキBオープンリールのテープデッキが主だっ た。Bはテープスピードが19、9.5cm/秒と選べて、ヘッドが録再兼用の1個だったため、片チャンネルで再生しながら他チャンネルに録音して一人二重 奏が楽しめた(いちばんシンプルなオーヴァーダブ)。マルチトラックレコーダーを使うようになって、歌やギターを多重録音した音源をAでカセットテープに 落として知友に配った(前に紹介した〈醒めた瞳で〉)。 @では小林克也の洋楽番組をエアチェックした。当時は新譜のアルバムをまるまるかけるFM局があったのだ。深夜、寝しなにラジオを聴いていると、宇宙の寂 寞を感じた。友人たちが集まればステレオマイクで一発録りしたから、スタジオ録音=ライヴ録音のようなものだった。その仲間と放送室や友人宅で録った秘蔵 のオープンテープが出てきたのでBで再生しようとしたところ、動作不良で聴くことができない。今回の歴史的音源の再生プロジェクトは、オープンリールの テープデッキをオークションで入手する処から始まった。それをカセットにダビングして(ここまでが私の作業)、友人がデジタル音源に整えてくれたおかげ で、PCで再生できるようになった。40年以上前の録音が甦ったのは嬉しい。インターネットで公開するほどの代物ではないが、すべてオリジナル曲であると ころがミソである。先頃、松前公高《いちばんわかりやすいDTMの教科書》(リットーミュージック、2010)でDTMの概要を学んだが、本格的にやると なるとべらぼうな時間をとられそうで、踏みこめずにいる。楽曲の完成に必要なのは、作詞・作曲・編曲・演奏・歌唱を中心とする(時間と空間に関する包括的 な)構想力だ。それは本サイトの運営と、時空の比重が異なるだけで、基本的には同じであるはずだ。
●里中哲彦・遠山修司《ビートルズを聴こう――公式録音全213曲完全ガイド〔中公文庫〕》(中央公論新社、2015年4月25日)を読んだ。対談の基本 資料であるマーク・ルーイスン(内田久美子訳)《ザ・ビートルズ レコーディング・セッションズ完全版》(シンコーミュージック・エンタテインメント、2009)と大人のロック!編・フロム・ビー責任編集《ザ・ビートル ズ全曲バイブル――公式録音全213曲完全ガイド》(日経BP社、2009)とともに、参考文献としてイアン・マクドナルド(奥田祐士訳)《ビートルズと 60年代》(キネマ旬報社、1996)とチャック近藤《新装版・全曲解説!! ビートルズサウンズ大研究〔P-Vine Books〕》(ブルース・インターアクションズ、2009)が挙がっている。本書の仮想敵は今年1月に急逝した中山康樹の《これがビートルズだ〔講談社 現代新書〕》(講談社、2003)だが、中山の芸達者ぶりに太刀打ちできていない。私が酷愛するジョン・レノン中期の作〈I am the Walrus〉の遠山の評価が「わけのわからない傑作ということにしておきましょう」では、それこそわけがわからず、中山による同曲の全否定に及ぶべくも ない。だが、巻末の「私の好きな1曲」は好企画。私も同書の体裁で参加してみた。「小林一郎 Kobayashi Ichiro 吉岡実研究家/Penny Lane」。―All Together Now.


編集後記 150(2015年4月30日更新時)

吉岡実と木下夕爾について書いた。木下夕爾は詩人なのか俳人なのか。むろん詩人として出発したし、オリジナルの著書の数からいっても、詩集が句集に優っている。しかし、雑誌の特集号を見るかぎり、俳句のほうが厚遇されているようだ。それにしても手軽な《木下夕爾詩集》がないのは残念なことだ(句集には廉価版の良書がある)。これだけ多くの文庫や叢書があるのに、詩を専門とする出版社が企画しないのはなぜだろう。望むらくは、《木下夕爾詩集》にはオリジナルの全6作品を全篇(重出を厭わずに)掲載してほしい。《定本 木下夕爾詩集》(牧羊社、1972)のようにまとめられてしまうと初収録の形がわからなくて、まことに困る。
《夏目漱石全集〔全10巻〕》(1965〜66)と《夏目漱石全集(筑摩全集類聚)〔全10巻別巻1〕》(1971〜73)の装丁について書いた。吉岡実が在社中に手掛けた筑摩書房の全集には、基本的に装丁者のクレジットがない。このため、本サイトの開設当初、吉岡の装丁作品は本人を含む関係者による証言にあるものだけを掲げたが、のちに吉岡の装丁と思しい書目も◆印(未確認の意)を付けて《吉岡実書誌》の〈W 装丁作品目録〉に加えた。そのタイトル数は現在184。今月の漱石全集の2タイトルで、すべてを紹介しおえた。吉岡実装丁作品を新たに発見するまで、《〈吉岡実〉の「本」》は文や写真の追記を不定期に行うだけとなろう。ご愛読に感謝する。
●かつて聴いた曲が最近のライヴでどう再現されているかは興味深い。私の場合、1970年ころから聴きはじめた洋楽が嗜好の核で、それを一言でいえば「ブリティッシュロック」となる。その前史には日本のグループサウンズがあって、体現していたのはザ・タイガースだった。磯前順一・黒崎浩行編著《ザ・タイガース研究論――昭和40年代日本のポピュラー音楽の社会・文化史的分析》(近代映画社、2015年3月15日)の資料篇は立派だったが、研究篇は喰いたりない。同書が言及する当時の音源(ザ・ゴールデン・カップスの〈This Bad Girl〉など)がYouTubeで簡単に聴けるのはありがたい。カップスのベースはルイズルイス加部だが、これがすごい。そういえばユーライア・ヒープの〈Why〉(《悪魔と魔法使い》のボーナストラック)もほぼ同時期で、こうした「リードベース」は多弁のベーシスト、ジャック・ブルースやジョン・エントウィッスルの影響だろうか。ヒープはケン・ヘンズレーのペンになる曲が身上で、《悪魔と魔法使い》(1972)の〈楽園/呪文〉のスライドギターがヘンズレー本人の演奏で視聴できるのは嬉しい。ヘンズレーはそこでまず、リードギタリストのミック・ボックスとともに、全音下げたアコースティックで伴奏する。スローな〈楽園〉とのメドレーでGのシャッフル〈呪文〉が始まり(ここでハモンドに持ちかえる)、曲は途中からCmのメディアムテンポの8ビートになる(そこまでは「G G/C」のリフ、拍を無視してコードを記せば、「G-Bb-D-G-Eb-F-Eb-F-Bb-Ebm-Ab-G7-Cm」が大まかな流れ)。そして

Cm F Bbm Eb
Abm Db Fm G7

という4度進行で繰りひろげられるドリアンスケールの節回し(全音で下がるゼクエンツ?)が絶品だ。ワウペダルを踏んだボックスのバッキングは、間奏後のパート(「Cm/F/Cm/F/Cm/Ab/Bb/Eb/Cm/Cm」)のスタジオ盤が素晴らしい。前作《対自核》(1971)も忘れがたいアルバムだったが、これはその上をいくのではないか。オリジナルメンバーがミック・ボックスただ一人となった先の来日公演(CDは《Official Bootleg V――Live in Kawasaki Japan 2010》)では、アルバムの全曲を再演している。自信のほどがうかがえよう。《悪魔と魔法使い》こそ、ケン・ヘンズレー=ユーライア・ヒープの代表作である。
●漫画家の小島功氏が4月14日、87歳で亡くなった。亡父は永年国鉄に勤務したが、なぜか小学生だった私を上野駅の散髪屋に連れていった。店はいつも混んでいて、順番待ちの間に小島のお色気たっぷりの漫画(今にして想えば実業之日本社の《週刊漫画サンデー》だっただろう)を禁断の作品として享受したものだ。久しぶりに〈現代漫画〔全15巻〕〉の《7 小島功集》(筑摩書房、1969年8月20日)を引っぱり出してきて小島功を偲んだが、〈俺たちゃライバルだ!〉の赤穂浪士の討ち入りの巻(わずか3ページ、24コマ)には感嘆した。吉岡実も同書を読んでいるに違いない。ユニコーンの〈ヒゲとボイン〉は、小島漫画にインスパイアされて成った楽曲(作詞・作曲:奥田民生)で、2009年の〈蘇える勤労〉ツアーでのライヴ(3/4の33分過ぎ)がみごとな出来。


編集後記 149(2015年3月31日更新時)

フラン・オブライエン (大澤正佳訳)《第三の警官》に ついて書いた。本文では触れなかったけれども、《第三の警官》の語り手の地下世界めぐりは(訳者の指摘するダイダロスの迷宮神話、《神曲》、《不思議の国 のアリス》もさることながら)、村上春樹の《世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド》(新潮社、1985)や《図書館奇譚》(同、2014)を思い ださせる。村上とオブライエンといえば、ティムの方しかないようだが、フランとの間にもなにかありそうな気がする。本稿で触れた画家の松井喜三男は、 1982年に自死したという。松井の画集が観たくて調べてみたところ、《金子國義と友の会展》(書肆ひぐらし、1997)という図録に収められた〈うしろ 向きの少女〉のカラー図版くらいしかなかった。《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991、〔一〇六ページ〕)の〈論考・エッセイ・追悼文〉の扉写真にも「うしろ向きの少女」のタブローが写っているが、これは 〈フォーサイド家の猫〉(G・17)のスルスにもなった別の松井作品。松井は、矢川澄子訳《おおかみと七ひきの子やぎ ほか〔こどもの世界文学15〕》(講談社、1973)の挿絵を担当している(画家の紹介文に「1947年、東京に生まれる。12さいごろから、独学で油絵 を勉強する。すきな画家はアンリー=ルソー。こどもの本のしごとは、はじめて。」と見える)。どこかで松井喜三男の油彩をまとめた画集を出さないだろう か。
《森鴎外全集》(1959)と《森鴎 外全集(新装版)》(1965)と《森鴎外全集(筑摩全集類聚)》(1971)の装丁に ついて書いた。今回は書影に必要な一冊がなかなか揃わなかった。該当書籍をいつものように《日本の古本屋》で検索するもヒットせず、結局、Amazonか ら購入した。価格が1円(!)という出品があったが、さすがに手が出なかった。テキストを読むというよりブツの写真を撮るのが目的だから、送料よりも安い ものはどこかに難があるのだろう。書影をインターネット上の画像から拝借するのも、本サイトの制作 方針にもとる(だいいち、実見しないと仕様を記述できない)。ないものはあえて掲げず、いつの日か入手のあかつきに〔追記〕の形をとる、というのが私の流 儀だ。というわけで今月は、記事とともに《清 岡卓行詩集〔限定版〕》の 書影を追加した。ときに、鴎外―芥川龍之介―堀辰雄―福永武彦、という系統がある。未定稿〈森先生〉はあまりに短くて、芥川が鴎外の文学をどうとらえたか わからなかった。福永の鴎外論(〈鴎外、その野心〉と〈鴎外、その挫折〉)は、小説家の評論としても出色のものだと思う。読みやすい講談社文芸文庫の《鴎 外・漱石・龍之介――意中の文士たち(上)》は現在品切れか。
●東雅夫編《文豪怪談傑作選 芥川龍之介 妖婆〔ちくま文庫〕》(筑摩書房、2010年7月10日)を読んだ。幼少期を本所で過ごした芥川ゆえ不思議でも なんでもないのだが、吉岡実の生まれ育った土地を舞台にした小説がある。〈奇妙な再会〉の冒頭に近い部分、「旦那の牧野は三日にあげず、昼間でも役所の帰 り途に、陸軍一等主計の軍服を着た、逞しい姿を運んで来た。勿論日が暮れてから、厩橋向うの本宅を抜けて来る事も稀ではなかった」(同書、五〇ページ)に は厩橋が出てくるし、近所の寄席で日清戦争の幻燈を観る場面もある(吉岡の随想〈懐しの映画――幻の二人の女優〉には「ときどきは浅草六区へ行くことも あったが、両親と私は普段着のまま、近くの本所日活館か石原町の八千代館へ通ったものだった」とある)。一方で、〈海のほとり〉や〈蜃気楼〉はつげ義春の 描く漫画のようで、一読、忘れがたい。
●《吉岡実書誌》の歌集《魚藍〔新装版〕》の 写真を入れ替えた。同書の表紙は、地色が緑で文字の書体がゴチックのものと、地色が藤で文字の書体が明朝のものの2種類が知られている。今まで後者は表紙 の一部が剥けていて見苦しかったが、このほど帯が付いてビニールの覆いのある完本(?)が入手できた。うら表紙はおもて表紙の画像を陰陽反転させたもの で、いま出つつあるレッド・ツェッペリンのリマスター盤CDの紙ジャケットでも同じ手法が使われている。
●レッド・ツェッペリンは世界的に成功を収めたが、初期にイギリスや、アメリカ西海岸のプレスから叩かれたことはよく知られる。2012年、存命のメン バー3人がケネディ・センター名誉賞を受賞した。ハートのアン、ナンシーのウィルソン姉妹やジョン・ボーナムの遺児ジェイソンたちによる《天国への階段》 の御前演奏を、ツェッペリンのファンでもあるオバマ大統領(“It's been said that a generation of people survived teenage angst with a pair of headphones and a Zeppelin album...”とスピーチ)やヨー・ヨー・マ(前年の受賞者)とともに聴衆の一人として聴くロバート・プラントの目に光るものがあったのは、こうした 仕打ちが去来したためか。作曲のジミー・ペイジや編曲のジョン・ポール・ジョーンズが終始にこやか だったのとは対照的だった。なお、ハートによる同曲の別カヴァーが《リトル・クイーン》(1977/2004)のボーナストラックで聴ける。


編集後記 148(2015年2月28日更新時)

吉岡実と福永武彦について書いた。本稿を書くにあたって《福永武彦戦後日記》(新潮社、2011年10月30日)と《福永武彦新生日記》(同、2012年11月30日)を読んだ。どちらにも吉岡実は登場しないが、《戦後日記》1945年12月21日の「チクマに行くつもりでゐたが時間がなくて局に行き白井〔浩司〕に会ふ」のチクマが筑摩書房かは不明(《新生日記》1952年6月と11月には筑摩書房の岡山猛、石井立の来訪が記されている)。なお、鈴木和子による〈註釈〉と〈福永武彦小伝〉に、わが《文藝空間》10号〈総特集=福永武彦の「中期」〉(1996年8月)の秋吉輝雄さんのインタビュー〈従兄・武彦を語る――文彦・讃美歌・池澤夏樹〉からの引用がある。顧みれば、特集号を原善・星野久美子(福永の1946年日記原本の提供者)と編んだのは、母すみえを亡くした直後だった。そして、昨2014年5月に私は父長太郎を見送った。福永はその最晩年に堀辰雄と堀の父について一書を捧げたが、父の意味を考える時機が私にも到来したのだろうか。
《定本 太宰治全集〔全12巻・別巻1巻〕》など5シリーズの太宰治全集の装丁について書いた。太宰の全集については、@(〔第1次筑摩書房版〕)を〈吉岡実の装丁作品(89)〉、Aを〈吉岡実の装丁作品(90)〉、Dを〈吉岡実の装丁作品(18)〉で、と3回にわたって取りあげてきた。そのなかで各全集の特色がわからないとこぼしたが、今回ようやくIまでの全集を概観し、それなりの結論を得た。私は太宰のよい読者ではないので、揃いの全集は持っていない。どれか一つとなれば、本文校訂、造本・装丁、さらに活版印刷である点から、Fを選ぼう(恐らく吉岡実装丁)。だが現実的な選択となると、Hちくま文庫に落ち着く可能性が高い。研究するのでないなら、文庫本で充分だからだ。吉岡実全集をA5変型判で出すとすれば、〈詩集〉は《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)の増補改訂版に任せて、第1巻を〈詩〉として、発表されたすべての詩篇の初出形を発表順に収録するというのはどうだろう。太宰のような複数の版次の全集が許されないのなら、これからの冊子体の個人全集にはそのくらいの「蛮勇」が必要にして不可欠である。
●山本貴光《文体の科学》(新潮社、2014年11月25日)を読んだ。著者の博覧強記には驚かされるが、私は次の箇所に傍線を引きたい。「ここで注意しておきたいのは、印刷では作文と組版とが分業になるということだ。昨今作家が文章を書く場合、それが書物になった暁に、一行何文字で構成されるかということまで考えるケースは少ないと思われる。〔……〕多くの場合、それはブック・デザイナーやエディトリアル・デザイナーの仕事であり、かれらが書体やその大きさや色の選択も含めて、実際に書物に印刷されるかたちを設計している。つまり、作家は文章の内容には細心の注意を払う一方で、文章のすがたにはそこまで意を用いない。書き手が文章のすがたに強く関与するのは、言うなれば改行と句読点を入れる位置である」(本書、三〇ページ)。吉岡実や京極夏彦は両者を兼ねる存在だが、ミュージシャンがプロデューサーを兼ねる(あるいはその逆)ようなありかたは、今後ますます増えることだろう。それが作家本来の姿だからだ。
●渡辺具義《ギタリストのためのオープン・コード事典――いつものプレイにひと味加えるキレイな響きが900個!》(リットーミュージック、2009年8月25日)は奥深いコードブックだ。ガロの〈一人で行くさ〉(作詞・作曲:日高富明)は6弦のE、2弦のB、1弦のEをオープンで保ちながら、5〜3弦をE・F#m・G#mコードの第2転回形で上下する「レギュラー・チューニングでも広がる開放弦を使った特殊コード」を鏤めた佳曲だったが、イントロのA・G#m・F#m・Eが決まっていた(《GARO LIVE》の21分30秒過ぎを参照)。私は4度進行を中心に据えた自作〈醒めた瞳で〉(作詞:若尾留美)を長いことアレンジしあぐねていて(MTRによる多重録音のデモテープは存在する)、本書を手掛かりにして完成させたいと思う。リードシートから平歌1番のコード進行を掲げる。

 さめたひとみであいをよむのは
Em Am D F/E7
 もうおわりにしましょう
Am Dm G C/B7
 かたちのないくもがながれて
E7 Am D G
 かぜはふいてゆく
C/D Em  

イントロは平歌とは別のモチーフで、「Em Cmaj7 D G/D」。これを「Em9 Cmaj7 Dadd9 G6/Dadd9」と常にE音が鳴っているようにするところまでは決まった。そこから先は《ギタリストのためのオープン・コード事典》を参照しながら、ギター1本でオリジナルな響きを追求したい。


編集後記 147(2015年1月31日更新時)

《アイデア idea》367号〈特集・日本オルタナ文学誌 1945-1969 戦後・活字・韻律〉と《アイデア idea》368号〈特集・日本オルタナ精神譜 1970-1994 否定形のブックデザイン〉のことを 書いた。郡淳一郎さんは《ユリイカ》を離れてからも、耳目をそばだてる企画を連発している編集者だが、各分野の専門家をオーガナイズする力も半端ではな い。そうした力量をいかんなく発揮した特集にはほとほと感じ入った。ここでは文学を美術やデザイン(「ブツ」)の視点から見る立場が強調されている。詩 人・装丁家としての吉岡実をとらえるための、正統的なアプローチだ。
《芥川龍之介全集〔全8巻別巻1〕》 (筑摩書房、1958)と《芥川龍之介全集(新装註解)〔全8巻〕》(筑摩書房、1964〜65)の装丁に ついて書いた。芥川の全集といえば、本家は岩波書店で、筑摩もそのへんのことは心得ていて、1958年版全集最終巻の月報に〈編集部より〉として、次のよ うに記している。「〔……〕版権の関係から岩波版(昭和二十九年)全集に比べ、手記・雑纂その他で若干篇を省略いたしました点、御了承下さい。半面、本巻 補遺に在来〔末→未〕収のものを新しく収めました」(第八巻〈月報8〉、1958年12月25日、三ページ)。本稿を書いていて、随筆や紀行文はともか く、芥川の短篇小説を全部は読んでいないことに気付いた。私が芥川をまとめて読んだのは、30年以上もまえ、あのグレーのジャケットの新潮文庫でだった (芥川や堀辰雄を分厚い文庫本で読む気にはどうしてもなれない)。漱石の次は芥川を読んでみよう。
●夏目漱石《心》(岩波書店、2014年11月26日)を購入した。この、漱石の書き 間違いも訂すことなく起こした「ほぼ原稿そのまま版」の装丁は、漱石と祖父江慎。《心》の新版は手に取って見るだけの価値ある校訂・造本・装丁だ。多くを 語るまい。岩波も隅に置けない出版社である。
●リニューアルした《日本の古本屋》で検索していたら、《俳句とエッセイ》1982年1月号の〈特集 木下夕爾の詩と俳句〉に吉岡実が散文〈夕爾の詩一篇〉を 寄せているのを見つけた。吉岡は同文で詩集《生れた家》(詩文学研究会、1940)から〈昔の歌――Fragments〉を全篇引用しているが、漢字の誤 植が一箇所、字下げが原本と異なる処が一箇所(これは吉岡の誤記かもしれない)、吉岡自身の文章にも誤植が一つある。見開き2ページに三つというのは、雑 誌の組版や校正の力を疑わせるに充分だ。9年前の2006年1月に藤 田湘子に関する吉岡の未刊行散文を発見したが、俳句誌に発表されたままの逸文はまだほかにもありそうな気がする。
●冬の夜長はプログレッシヴロックが聴きたくなる。そこで《ジェネシス》(シンコーミュージック・エンタテインメント、2014年12月9日)を読んだ。モルゴーア・クァルテットの 《21世紀の精神正常者たち》(日本コロムビア、2012)を聴いた。続篇の《原子心母の危機》(同、2014)は、図書館に予約中である。ジェネシスの 曲は前者に〈月影の騎士〉と〈アフターグロウ〉が、後者に〈ザ・シネマ・ショウ〜アイル・オヴ・プレンティ〉が収められている。ピンク・フロイドを措い て、これからしばらくは、ジェネシスを聴くことにしよう。とりあえず《ジェネシス》(1984)から《コーリング・オール・ステーションズ》(1997) までの4枚のアルバムを中心に、「後期ジェネシス」(1983〜98)を。――スティーヴ・ハケット(g)がジョン・ウェットン(v、b)、ジュリアン・ コルベック(k)、チェスター・トンプソン(d)たちを従えて来日したときのライヴ《TOKYOテープス》(1999)もよく聴く(WOWOWが放映した 映像もよかった)。とりわけ〈クリムゾン・キングの宮殿〉や〈風に語りて〉で本家のイアン・マクドナルド(キング・クリムゾンのオリジナルメンバー)のフ ルートが堪能できるのは嬉しい。


編集後記 146(2014年12月31日更新時)

詩篇〈模写――或はクートの絵から〉評釈を 書いた。吉岡実詩の評釈を書くのは久しぶりだ。《詩人としての吉岡 実》を 書きおろして以来ではないか。この「なになにとしてのだれそれ」が誰の発明なのか知らないが、ちくま学芸文庫の丸谷才一《後鳥羽院〔第二版〕》(筑摩書 房、2013)を読んでいたら、最初の章題が〈歌人としての後鳥羽院〉だった。私は本書を初めて読むのだが、この見出しや柱の書体の選択には違和感を覚え る。扉はいい。だが、次の〈目次〉の第一行「【目次】後鳥羽院 第二版」のゴチック体は堪えられない。〈目次〉中の本文の標題は細めの教科書体だが(これはどうにかがまんするにしても)、本文ページの標題は太明朝体で ある。せめて明朝体で揃えるべきだった。柱に至っては妙なゴチック体(しかも平体がかかっている)で、なにをかいわんやである。総じて、これらの書体の選 択に品格が感じられない(その点、《新々百人一首[しんしんひやくにんしゆ]》の新潮文庫の組版は、さすがというしかない見事なもの)。本書が後鳥羽院の 歌の評釈として秀抜なのは、ここに付言するまでもないのがなんとも痛い。
《宮澤賢治全集〔全12巻別巻1〕》 (筑摩書房、1967〜69)の装丁について書いた。宮澤(宮澤が何人もいるのでないときにも「賢治」と呼ぶ言い方が、私はきらい だ)は生前、心象スケッチと童話集を一冊ずつ出しただけだったが、歿後は草野心平や高村光太郎の称揚も相俟って、筑摩書房からは個人全集が何度も編まれ た。吉岡実は上記の全集と《校本 宮澤賢治全集》の装丁を手掛けている。だが、1948(昭和23)年12月21日の日記に「牛窪忠さんから《宮沢賢治詩集》をもら う。はじめて賢治の詩を よむ」(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》思潮社、1968、一一三ページ)とあるだけで、作品そのものへの言及がないのはどうとらえたらよいのか。
●10月の《アイデア idea》367号〈特集・日本オルタナ文学誌 1945-1969 戦後・活字・韻律〉に続いて《アイデア idea》368号〈特集・日本オルタナ精神譜 1970-1994 否定形のブックデザイン〉が 発行された。巻頭〈第5章 人文書空間の興亡〉の扉裏から8ページにわたって〈吉岡実:筑摩書房〉がカラーで紹介されている(極美の《昏睡季節》は見開きで)。圧巻だ。以降も、清水 康雄:青土社、湯川成一:湯川書房、渡辺一考:コーベブックス―南柯書局、長谷川郁夫:小沢書店、中島かほる:筑摩書房、諸氏のページに吉岡の著書や編纂 書、装丁作品が登場し、吉岡の著書のほとんどの書影が〈日本オルタナ文学誌〉と本誌の2冊に収められたことになる。これらに、吉岡が若き日に手にしたであ ろう詩書を掲載した〈特集・日本オルタナ出版史 1923-1945 ほんとうに美しい本〉(2012年8月の354号)を加えれば、70年余にわたるわが国の活版印刷時代における見るべきほどの書物は、「この血統の後継者 はある日突然、思いもよらない場所から現れる」(同誌、一四〇ページ)と言挙げして始まった「三部作」――この書物の墓標、あるいは記憶の貯蔵庫[アーカ イヴ]――に己が姿を永遠にとどめた。12月15日、午後7時から2時間余りにわたって神田神保町の東京堂書店6階の東京堂ホールで郡淳一郎・山中剛史・ 山本貴光・内田明・扉野良人・室賀清徳、6氏による日本オルタナ出版史三部作の完結を記念するトークショーが開かれた。客席にも多くの寄稿者たちが姿を見 せる盛会だったことを付記しておこう。
●赤ア勇、天野浩、中村修二の3氏が今年のノーベル物理学賞を受賞したが、枚田繁《評伝 赤ア勇 その源流》(南方新社、2015年1月10日)が出た。著 者からのご指名で、本書の編集を手伝った。書籍の編集をするのは何年ぶりだろうか。赤ア氏のWikipediaに〈参考資料〉として掲げられている《「青色発光ダイオード開発物語〜赤ア勇 その人と仕事〜》(全44分、サ イエンスチャンネル、2004年制作・2012年改訂)を手掛けたのが枚田さんで、その制作体験をふまえた興味深い仕上がりになっていると思う。想定読者 は、中学校の理科の先生とのこと。
●元ガロの堀内護(マーク)が亡くなった。昨年秋、 MARK from GAROと して《時の魔法》(Epic Records Japan、2013)――〈学生街の喫茶店〉や〈地球はメリーゴーランド〉といったガロの曲のセルフカヴァーと新曲――をリリースしたやさき、癌に倒れ た。65歳。40年ほど前になるが、ガロのステージを観た。確か〈吟遊詩人〉(名曲です)だったと思うが、途中でミスしたようで、今は亡き日高富明が「も う一度」と頭からやり直したのが印象的だった。ガロのライヴレコードで堀内が歌う自作曲〈涙はいらない〉はすばらしかった。稀有の音楽的才能が消えたこと を惜しむ。


編集後記 145(2014年11月30日更新時)

吉岡実と鷲巣繁男に ついて書いた。先日、手許にない鷲巣の著書を国会図書館でまとめて閲覧した。初期の稀覯本はほとんどがデジタル化されていて、原本を手に取れなかった。し かし、本文で言及した歌集《蝦夷のわかれ》や、奇書《イコンの在る世界》、歿後刊の《神聖空間》に触れられたのは幸いだった。国会図書館のデジタル本はハ ンドリングがまだるっこしいので嫌嫌つきあっているが、原装がわかりづらいという難点は画像の解像度云云で解消されるべくもなく、隔靴掻痒の感を覚える。 本文用紙に触らずに装丁を、書物を論じることはできない。
西脇順三郎詩集《禮記》の装丁に ついて書いた。先月の《壤歌》に 続いての筑摩書房の西脇本の登場である。吉岡実が〈西脇順三郎アラベスク 8 《人類》出現〉に「詩集《鹿門》が刊行されてから、約十年の歳月が経っている。今度もまた私が造本・装幀を任せられた」(《「死児」という絵〔増補 版〕》、筑摩書房、1988、二三九ページ)と書いたのを、私は最近まで控えめに受けとっていて、 《人類》と《鹿門》のことだとしていた。だがよく考えてみるまでもなく、《鹿門》の前の《壤歌》も、前の前の《禮記》も吉岡実装丁本とするのが妥当であ る。《禮記》には西脇による散文のあとがきがなく(〈あとがき〉と題した詩篇が掲げられている)、したがって制作スタッフへの謝辞が見えないが、おそらく 井上達三、会田綱雄、吉岡実が関わっているだろう。ちなみにこの筑摩の3人は、計画の実行に3年かかったという西脇の《詩學》(1968)の〈あとがき〉 に登場する。
●2002年11月の本サイト開設以来、12年経った。当時今日が想像できなかったように、現在も今後の姿が想像できない。ただ、私が公表する吉岡実関連 の文章の大半がここに収められており、それは今後も変わらない。ゆくゆくは文章だけでなく、画像資料にも力を入れていきたい。
●このところ夏目漱石の小説を発表年代順に読みかえしている。おそらく30年ぶりだ。《吾輩は猫である》の〈八〉にある、詩人には逆上が不可欠だという処 など、思わず噴きだしてしまう。もっとも吉岡実も、詩を書かないときはただの人だと自認していたから、この逆上=狂気説に共感するかもしれない。それより も、作家である漱石自身の狂気をこの処女小説からまざまざと感じた。漱石は、おそろしい。30年前にはまったく覚えがなかったことである。
●先月、レッド・ツェッペリンのアルバム2作、4枚めの通称「フォー・シンボルズ」あるいは「レッド・ツェッペリンW」と5枚めの《聖なる館》が、ジ ミー・ペイジ監修の新デジタルリマスター音源で再発された。4枚めには、言わずと知れた〈Stairway to Heaven(天国への階段)〉が収められている。私はこの曲の映画《永遠の詩》ヴァージョンのギターパートのコピーを宿願としているが、あのギターソロ は弾ききれないので、4枚めのソロで代用している。どこかの人気投票でナンバーワンに輝いたあれである。そのチューター役は、教則DVD《Guitar World: How to Play the Best of Led Zeppelin》(Alfred Pub Co、2010)のジミー・ブラウンだ。〈Stairway...〉と同じかそれ以上に気に入っているのが、《聖なる館》の〈The Rain Song〉だ。いつかレギュラーチューニング(の全音落とし)の12弦エレキギターでこの曲を奏でたいと思っている。ジミー・ペイジといえば、写真で綴ら れた自伝《JIMMY PAGE》(Genesis Publications、2014)をようやく入手した。静止画はこれで充分だ。日々の動向に関しては《JimmyPage.com》が 無二で、過去の日記を参照しながら書いているのだろうが、セッションマン時代の記録(内容のほか、日時や録音スタジオ名など)がやたら詳しく載っていて、 ほほえましい。年譜作者にとって恰好の素材資料だ。


編集後記 144(2014年10月31日更新時〔2019年5月31日追記〕)

吉岡実と珈琲について書いた。私が吉岡さんと対面したのは、つねに渋谷の珈琲店トップにおいてだった(種村季弘が吉岡実追悼文で「最後にお元気な姿にお目に掛かったのは、昨年夏の澁澤龍彦三回忌の席だったが、それよりすこし前に渋谷道玄坂のコーヒー店ヒル・トップの入口で、こちらが出しなに外階段を下りてこられたところを鉢合わせになったことがある」と書いたのは、珈琲店トップ渋谷道玄坂店でのこと)。本文では《うまやはし日記》に登場する戦前の珈琲店を挙げたが、《土方巽頌》には戦後の珈琲店が、「霧笛」以外にも、多数登場する。
●吉岡実歌集《魚藍》初刊を入手したので、書影を差し替え、書誌の解題に〔追記〕を書いた。本書購入のため10月の初め、久しぶりに神保町を歩いた。古書は足で探すに如くはない、と改めて実感した。吉岡実の詩篇初出、著書(とりわけ特装版や私家版)、装丁作品(同)のコンプリートへの道のりは、ますます険しさを増してきた。99%では無に等しいのだ。
●西脇順三郎の長篇詩《壤歌》の装丁について書いた。最近は吉岡実装丁本に関する追記や書影の差し替えが続いているが、今年5月の伊達得夫遺稿集《ユリイカ抄》以来の新規掲載となった。こんな調子で、あと何回か新しい記事を書くことになるだろう。よって、《装丁家としての吉岡実》を一本にまとめるのはしばらく先になる。ご了解いただきたい。
●郡淳一郎さんが構成を手掛けた《アイデア idea》367号〈特集・日本オルタナ文学誌 1945-1969 戦後・活字・韻律〉を恵投いただいた。特集の印象をひとことで言うなら「凄まじい」に尽きる。〈第1章 墓標または種子〉の〈1 岩波文庫〉の冒頭が白秋歌集《花樫》(改造文庫)の書影で、吉岡実の随想からの引用が添えられている。以下、吉岡の著書・作品掲載誌・装丁作品(〈第2章 書物の王としての詩集〉の〈4 小田久郎 思潮社〉の吉岡の詩集の書影など、大判の誌面を活かしたほれぼれする出来ばえ)がいたる処に鏤められている。書棚に排架して背文字を見せる工夫は、各冊の大きさが判って嬉しい。川本要氏作成の書誌も充実しているし、内田明氏による活字の呼称にも教えられる処が多かった。繰りかえし紐解く、必携の文献になるだろう。吉岡実本を紹介した、近来まれにみる雑誌特集として推奨に値する。
●高校時代は放送部に入っていた。その関係で、NHKのベテランアナウンサー小林利光さんからアナウンス指導を受けたことがある。「きみの発音は〈い〉と〈え〉の区別が曖昧だね。どこの出身?」と問われたので、東京育ちだと答えると、じゃあ両親は、と重ねて訊かれた。父は群馬で母は新潟だと言うと、腑に落ちない様子だった。地域性にも還元できない奇妙な発音だったようだ。一方で、軽音楽(いや端的にロック)にも興味があったから、一学年先輩のバンド(ギターの津田さん、オルガンの鎌田さん、それにベース、ドラムスの4人編成)の選曲には大いに関心を抱いた。アイアン・バタフライ〈In-A-Gadda-Da-Vida〉、ディープ・パープル〈Strange Kind of Woman〉はいかにもだったが、変わったところではCSN&Yの〈Ohio〉があった。そうした中でいちばん印象深いのがピンク・フロイドの〈A Saucerful of Secrets(神秘)〉だ(フロイドの演奏は、オリジナルのスタジオ録音よりもライヴの方が圧倒的に素晴らしい)。当時のフロイドのステージでも再現されていた前半のSEふうの展開や、中間のメイスンのドラムスを中心とする打楽器の乱舞があったかどうかはっきり憶えていないが、後半のコード進行があるパートはみごとだった。4小節ごとに【 】で括ってそれを示せば、次のようになる(曲のクレジットはメンバー全員の共作になっているが、実質的な作者はヴォーカルをとっているギルモアだといわれる)。
【Bm A E F#】【D G E A】【F# Bm G F#】【Em D F# F#】
これを繰りかえして、エンディングの【B】はGSふうでもある。かつてピンク・フロイドに熱狂した覚えはないのだが(来日公演も観ていない)、黄金期のウォーターズ、ライト、メイスン、ギルモアが最後に揃った2005年のライヴ8のステージには感動する。1970年代の初めに、ジミー・ペイジがレッド・ツェッペリンはプログレッシヴかと問われて、本当にプログレッシヴなのはピンク・フロイドとムーディー・ブルースだけだと答えたのは有名な話だ。ピンク・フロイドは中心人物がシド・バレットからウォーターズに切り替わった時期だろう(フロイドとツェッペリンは、ロイ・ハーパーを介してつながる)。ちなみに、私が愛聴するのは《Atom Heart Mother(原子心母)》(1970)だ。タイトル曲は、1970年代後半、確か佐藤信の黒テント公演(〈喜劇昭和の世界 三部作〉のどれか)で使われていたと記憶する。土方巽歿後の暗黒舞踏のステージでは、APPのインストゥルメンタル曲がかかっていた(〈Where's the Walrus?〉だったか)。前衛的な舞台とプログレッシヴロックとの親和性をうかがわせるが、《土方巽頌》にそれらに関する記載はない。
〔2019年5月31日追記〕「2015.8.26神戸チキンジョージにて行われたピンク・フロイドトリビュートライブ"原始-神母" (PINK FLOYD TRIPS)のライブ映像」の〈A Saucerful of Secrets(神秘)〉が素晴らしい(〈【Live】原始神母2015「Set The Controls For The Heart Of The Sun 〜 Cymbaline 〜 Saucerful Of Secrets」〉の16分42秒から最後まで)。基本的に本家のライヴヴァージョンを踏襲しているが、スライドバーで弦をこすってメロディを紡ぐ木暮"shake"武彦(RED WARRIORS)のギターが清新。動画は照明・撮影が本格的だ。《Ummagumma》(1969)の半世紀後に、日本人によるこんなカヴァーが観られるとは想わなかった。オーケストラのパートをシンセサイザーで再現した〈Atom Heart Mother(原子心母)〉も、オリジナルのスタジオヴァージョンが裸足で逃げだす熱演で、「バレット後」の初期ピンク・フロイドの世界を今に甦らせている。


編集後記 143(2014年9月30日更新時)

吉岡実と写真について書いた。先 に〈〈父の面影〉と出征の記念写真〉を 執筆したが、今回は写真全般にわたる。デジタルカメラの登場以降、写真の撮り方は激変した。なんの惜しげもなくシャッターを切るようになったのだ。私の父 は二眼レフをおもに三脚に据えて家族の写真を慎重に撮っていた。私は小学生のときに初めて買ってもらったオリンパスのペン――同級生の父親のプロのカメラ マンが薦めてくれた――というハーフサイズカメラ(35mmのフィルムに2コマ写せる傑れ物)を手始めに、カメラ好きの伯父が薦めてくれたニコンのFE (吉岡家蔵の稀覯書を接写した)、富士フイルムのカルディア(岡嶋二人の長篇小説《とってもカルディア》に登場する)、リコーのコンパクトカメラ(RZ- 75――《ラクラクDTP 編集者バイブル〔特集アスペクト42〕》アスペクト、1998、七〇ページ――は当時私が使用していたもの)などのフィルムカメラを使ってきたが、本サイ ト開設の少しまえにデジタルカメラ(パナソニックのLUMIX DMC-LC5)に切り替えた。本サイトに掲載する1点の書影のために10カットくらい撮るのだが、フィルムカメラでこんな撮り方はできない。フィルム代 も現像代もかかるうえ、撮ってすぐに見ることさえできなかった。デジタルカメラ全盛の時代、吉岡実詩の「秘密写真」がどんなものかは伝わりにくい。「笠井 叡「タンホイザー」公演のために、中西夏之が製作したポスターが、限定頒布された。それは、澁澤龍彦秘蔵の外国の古い桃色写真ともいうべき、裸の少女ふた りの相愛図である。銀色のシルクスクリーンで刷られ、朱と緑の微細な点がかすかに見える。公演の当夜、入口近くに展示されていたのだが、官憲に通報された らしいとのことで、すぐに覆いをかけられてしまった。しばらくして、予約した一枚を、笠井叡が届けてくれた」(《土方巽頌》筑摩書房、1987、三三〜三 四ページ)。この〈19 少女相愛図のポスター〉の「桃色写真」がそれに近いか。四半世紀ほど前には、その手の写真が神保町あたりの怪しげな本屋で売られ ていたものだが、写真はおろかハードコアの動画までインターネットで簡単に視聴できる今日、はたして「秘密写真」は存在するのか。
●壺井繁治詩集《老齢詩抄》の特装限定版を入手したので、〈吉 岡実の装丁作品(3)〉に追記した。ついでだから、《風船》と《老齢詩抄》普及版の書影も撮りなおした(中村光夫・氷上英廣・郡司勝 義編《中島敦研究》、 西脇順三郎詩集《人類〔限定版〕》、 飯田善國詩集《見知らぬ町で〔特製 版〕》の 書影も修正して、必要に応じて〔追記〕を掲げた)。普及版と特装版が同寸な ら、なるべく同比率で撮るようにしている。また、仕上がりは左右290ピクセルを基準にしている。もとより本のサイズは《風船》と《老齢詩抄》のようにま ちまちだから、すべてが同じ比率ではない。そのためもあって、各タイトルの本文ページの天地左右の寸法を記している(上製本なら、天地にチリの6ミリを足 した大きさがおよその仕上がり)。ブックデザイナーの遠藤勁さんの《遠藤勁のブックデザイン 1967-2012――発行順書目一覧》(遠藤勁デザイン事務所、2013年12月1日)は「書影のほとんどはカバーの表1(表面[おもてめん])。各書 影の縮小比率は〔冊子の〕本文中を実物の0.082%、表紙まわりを0.16%としたが〔……〕」(〈メモのような「あとがき」〉)と同じ縮小率を謳って いる。キリヌキ写真なのも目に快く、シャドウが付けてあるのも丁寧な仕事だ。本サイトでは書物のバック紙としてフォレストグリーン色の「ビオトープGA」 を敷いているが、色調を揃えるまでには至っていない。自然光で撮っているせいのバラツキもある。
●宮坂康一《出発期の堀辰雄と海外文学――「ロマン」を書く作家の誕生》(翰林書房、2014年3月20日)の〈はじめに〉には「堀辰雄が海外文学をいか に咀嚼し、自己の創作意識を、それを反映した作品を作り上げていったか、その文学的歩みを可能な限り明らかにしていくこと。これが本書のねらいとなる」 (同書、一七ページ)とある。ところで、ユリシーズ編《解読レッド・ツェッペリン》(河出書房新社、2014年6月30日)には、野崎歓や林浩平といった 文学者を顔色なからしめるように、〈レッド・ツェッペリンと300枚のアルバム〉という紹介記事が掲げられている。圧巻である。そのまえがきに相当する座 談会で、レヴューの執筆者の一人でもある平治が「ツェッペリンのファンはシド・バレットもテレヴィジョン・パーソナリティーズも聴いた方がいい」(同書、 一四七ページ)と発言している。後者は知らず、シド・バレット(1946〜2006)はピンク・フロイドの《夜明けの口笛吹き》(1967)と最初のソロ アルバム《帽子が笑う…不気味に》(1970)のCDがあったから、第二作《その名はバレット》(1970)と拾遺的な《オペル》(1988)を借りてき て、本稿を執筆しながら聴いている。ジェイムズ・ジョイスの詩に曲を付けた〈金色の髪〉なる曲もある。デヴィッド・ボウイやジミー・ペイジがこの「クレイ ジー・ダイアモンド」に傾倒したのも頷ける。


編集後記 142(2014年8月31日更新時)

吉岡実詩における絵画について書いた。今回は触られなかったが、いずれ曽我蕭白、長沢蘆雪、伊藤若冲といった江戸期の異端の画家たちとのことも書きたい。ところで、本後記の草稿を7月19日に書いているのだが、各紙は河原温が81歳で亡くなったと12日に報じた。いま改めて《私のうしろを犬が歩いていた》収載の河原の〈浴室〉を観ると、そこには「カワラ・オン 53」と描きこまれていて、吉岡が《静物》(私家版、1955)の詩を書きつつあった時代の作品だと知れる。吉岡の日記には、1959年「〔昭和三十四年〕四月十二日〔日曜〕 銀座、ウェストで江原順の紹介で河原温と会う。「浴室シリーズ」の一作品をわけてもらう」(〈断片・日記抄〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》思潮社、1968、一二〇ページ)とある。その5日前の4月7日には《僧侶》がH賞を受賞しているから、自身の40歳の誕生日(4月15日)と併せて、それを記念するために入手したものか。私には河原の〈浴室〉が《僧侶》と地続きの世界に見えてならない。ちなみに「河原温様/1959.8/吉岡實」と献呈署名のある《僧侶》がかつて神保町の小宮山書店に出ていた。
〈編集後記 103〉でも触れた元APPのエリック・ウルフソンのアルバム《Poe: More Tales of Mystery and Imagination》(2003)の舞台化を収録したDVD《ERIC WOOLFSON'S POE――THE WORLD PREMIERE SHOWCASE PERFORMANCE at Abbey Road Studios》(2010)を視聴した。ミュージカルに詳しくないのでインターネットで検索すると、「ショーケース公演」は「「公演」〔と〕いう文字が付いていますが、大規模な会場で大々的にやる本来の「公演」とは違い、こじんまりとした会場で、ファンクラブの会員や、招待者を対象に、実験的なことや、劇団や楽団なら研究生の発表の場としたり、お試し公演というような形のステージです。〔……〕本格公演の前に演出の反応を見たり、裏方スタッフのトレーニングという狙いの場合もあります」([Q&A] ショーケース公演って・・ 【OKWave】)とある。ウルフソンの秘蔵っ子(といっても《Jesus Christ Superstar》で名を挙げていたが)スティーヴ・バルサモがポウを演じた本作の聴き処は、ラストナンバーの〈Immortal〉だ。キーがGm(サビはBb)なのに、歌が始まるのはFから、という大胆極まりない展開だ。4小節ごとに【 】で括ってコード進行を示す。イントロはGm9とGm(+5)9の繰りかえし。
【F Eb Gm7 Gm7】【F Eb Gm7 Gm7】【Cm7 F7 Bb Cm7】【F Eb Gm7 Gm7】――A1
【F Eb Gm7 Gm7】【F Eb Gm7 Gm7】【Cm7 F7 Bb Gm】【Cm7 F7 Bb Eb】【F Eb Gm7 Gm7】――A2
【Bb Gm(on Bb) Bb Bb(on Bb・D・Eb・D)】【Cm Ab F7 F7】――B1 B2=B1
エンディングは、B1をハ長調に転調して「不死」を謳いあげる(最後は【C Am Ab Fm7】【C】)。フェイク気味に崩した節回しもウルフソンのデモ音源にすでにあるものだ(ミュージカルの本格公演だろうYouTubeの〈Steve Balsamo- Immortal〉における最終ミの音は、バルサモの付加だろう)。ウルフソンのソロ《Poe: More Tales of Mystery and Imagination》をアラン・パーソンズとのデビューアルバム《Tales of Mystery and Imagination: Edgar Allan Poe(怪奇と幻想の物語――エドガー・アラン・ポーの世界)》(1976)に及ばないとする意見がある。たしかにコンセプトの二番煎じの感は否めない(プロジェクトをやっているあいだに、もう一度ポウを手がけるわけにはいかなかっただろう。しかしこの実質的なラストアルバムの爛熟ぶりは、《ゴールドベルク変奏曲》に始まり、同曲で終わったグレン・グールド――このピアニストもスタジオ録音の魔術師だった――を彷彿させる)。《Poe》はバルサモをポウに見たてたことによって、そのミュージカルふうの楽曲にロックバンドの背骨が一本通って、持てるアイデアをすべて投入したかのような《Tales》のサウンドと一線を画した。ミュージカルには食指の動かない私がウルフソンの作品に惹かれるのは、バルサモのヴォーカルに代表されるロックバンド性ゆえだろう(ショーケース公演は歌手たちの演技がそれなりに楽しめたが、スタジオ録音とは別物である)。イアン・ベアンソンのギターがなくても、アラン・パーソンズのプロデュースがなくても、これはソングライターとしてのウルフソンの最も重要な作品である。ときに、APPが現役時代にライヴパフォーマンスをしなかったのは、エンジニア=パーソンズではなく、音楽家=ウルフソンの主張に基づいたのではないか。スタジオ録音のマジックをライヴで再現することは不可能だからだ。私は、“Eric Woolfson Project”の代表作として、ウルフソンの最初のソロアルバム《Freudiana》(1990)――ベアンソンがギターを弾き、パーソンズがプロデュースした最後のウルフソンの作品――と白鳥の歌である《Poe》をダビングした2時間ほどのMDを繰りかえし聴いて、いっこうに飽きる気配がない。
●魚籃観世音菩薩像(三田・魚籃寺)の写真を〈《魚藍》と魚籃坂〉に追補した。


編集後記 141(2014年7月31日更新時)

吉岡実と落合茂に ついて書いた。かわじもとたか編《装丁家で探す本――古書目録にみた装丁家たち》(杉並けやき出版、2007)は1000人を超える装丁家を収容した労作 だが、落合茂の名は見えない。一方、先月紹介した真鍋博は109タイトルが収録されている。そこから真鍋が装丁した詩集を拾ってみると、岩田宏《いやな 唄》、黒田喜夫《地中の武器》、田村隆一《言葉のない世界》、関根弘《約束したひと》、高見順《わが埋葬》、金子光晴《屁のやうな歌》、黒田三郎《もっと 高く》、入沢康夫《牛の首のある三十の情景》がある。吉 岡実と真鍋博で触れた思潮社刊の〔現代日本詩集〕が多いが、真鍋が単行詩集の仕事も大事にしていたことがうかがえる。
●林哲夫さんのブログで《菊地信義とある「著者11人の文」集》を読み、7月6日、梅雨の合間の晴 れの休日、横浜まで足を延ばした。午前10時、そごう横浜店のそごう美術館で四谷シモンの《SIMONDOLL》(5 月31日〜7月6日)を観る。アトリエを模した撮影自由の一画に〈シモンドール〉(2013)が飾られていたのは嬉しかった。展覧会開催を記念して求龍堂 から刊行された作品集を求める。みなとみらい線の元町・中華街駅で降りて、港の見える丘公園の県立神奈川近代文学館へ。菊地信義の装丁作品を集めた《装 幀=菊地信義とある「著者50人の本」展》を観る。前日が菊地さんの講演だったせいか、お客も少なめでじっくりと観ることができた。 吉岡実関連の展示があったので、備忘のために《吉岡実年譜》【草稿】として以下に録しておく。
――二〇一四年(平成二十六年)歿後二十四年 《装幀=菊地信義とある「著者50人の本」展》(県立神奈川近代文学館、五月三一日〜七月二七日)で、菊地 がアートディレクターを務めた書肆山田の雑誌《潭》全九冊が入沢康夫のコーナーに展示される(第二号は吉岡実の詩篇〈ムーンドロップ〉冒頭の見開きペー ジ、他の八冊は表紙)。 ――
展覧会の記念刊行物《菊地信義とある「著者11人の文」集》(200部限定版)を購入。1978年7月9日、吉岡実が土方巽夫妻、澁澤龍彦夫妻、種村季弘 夫妻、唐十郎・李礼仙夫妻、松山俊太郎夫妻たちと「四谷シモンの唄に聴きほれ」(《土方巽頌》筑摩書房、1987、一一三ページ)たという茶房「霧笛」で 小憩。チーズケーキと珈琲のセット。茶房の前には、赤白二つのビーチパラソル。
●ギタリストの人気投票などに登場することはまずないが、イアン・ベアンソン(1953-)を評価したい。そのベアンソンがパイロット、アラン・パーソンズ・プロジェクト(APP)、 キーツ以来の盟友であるベーシストのデヴィッド・ペイトン(1949-)と組んで、APP往年のヒット曲のカヴァーアルバムを発表した。《A Pilot Project》(Air Mail Recordings)の選曲構成は、2枚め(A)の《I Robot》(1977)から1曲、B《Pyramid》(1978)2曲、D《The Turn of a Friendly Card》(1980)4曲、E《Eye in the Sky》(1982)4曲、F《Ammonia Avenue》(1983)2曲、G《Vulture Culture》(1984)1曲の全14曲。なおAPPのオリジナルアルバムは、2007年リリースのボーナストラック満載のリマスター盤CDではな く、オリジナルフォーマットの11枚組全集《Complete Albums Collection》(2014)に依りたい。新生パイロットのベアンソンとペイトンは、APPのスタジオ録音でも演奏していて(ベアンソンは全作に、 ペイトンは1987年の最終作《Gaudi》以外の9作に参加)、まったく違和感がない。内容空疎な新曲よりも、充実した過去の素材[マテリアル]を取り あげたのは見識である。だが私には、このアルバムが新作を発表しないアラン・パーソンズへの当てつけに思えてならない(邦題は《パイロット・プレイズ・ア ラン・パーソンズ・プロジェクト》だが、原題《A Pilot Project》=APPと、《Eye in the Sky》を模したジャケットが雄弁にそれを物語る)。本作が企画ものの水準を超えた出来だけに、彼ら二人をもってしてもAPPの故エリック・ウルフソンの 穴を埋めることができなかったのは残念だ。すなわち、アラン・パーソンズの相方は務まらなかった。それはAPPの、いやアラン・パーソンズ(個人)のプロ ジェクトの現状を見れば明らかだろう。というわけで、ソングライターとしてのウルフソンの功績は日を改めて論じたい。
●岩波文庫の新刊が熱い。先月6月17日には、〈吉 岡実とナボコフ〉で触れたナボコフ(富士川義之訳)《青白い炎》が 刊行された。例の「月明り的[ムーンドロップ]な題名」は一七六ページに載っている。訳者の書き下ろし〈解説〉が読みたくてとりあえず購入したが、今度読 めば《筑摩世界文學大系 81 ボルヘス ナボコフ》(筑摩書房、1984)、《青白い炎〔ちくま文庫〕》(同、2003)以来3度めになる。岩波文庫にはジュリアン・グラックの《陰鬱な美青年》 をリクエストしたい。


編集後記 140(2014年6月30日更新時)

吉岡実と真鍋博に ついて書いた。真鍋博初期の出版関係の仕事の一つに、栗田勇訳《ロートレアモン全集〔全V巻〕》(書肆ユリイカ、1957〜58)がある。角背・継表紙の 平に各巻異なる金箔押しのカットを施したのは伊達得夫か。本文で触れたとおり、真鍋は第V巻のエッチングによる口絵を手掛けている(第T・U巻の口絵はい ずれもダリ)。一方で真鍋は伊達が厚く信頼するデザイナーでもあった。大岡信の〈解説〉(伊達得夫《詩人たち――ユリイカ抄》)に依れば《ユリイカ》の表 紙を飾ること21回に及ぶ。私が好ましいと思う真鍋博装丁本は、辻邦生の長篇小説《夏の砦》(河出書房新社、1966)だ。井上明久は同書の文春文庫版 〈解説〉で「緑色の表紙の上製本がスッポリと納った機械函には、うすく淡い水色の地に、ロマネスク彫刻から想を得た、葡萄の木と天使と悪魔らしき鬼のよう なものが点描で描かれている」(文藝春秋、1996年11月10日、四五二〜四五三ページ)と書いている。いま気が付いたのだが、緑色の表紙まわりの本に 惹かれるのは、この布クロス(アートカンバス?)の《夏の砦》のせいかもしれない。
●井上自助《西洋美術史〔増訂版〕》(内 田老鶴圃、1983)を読んだので、感想を記す。題して〈絵画・彫刻・建築から見た「人類史」〉。――著者は昭和大学客員教授を務めた洋画家 (1912〜86)。初版は1968年だが、1983年に出た増訂版が現在も新刊で購入可能だから、半世紀近い驚異のロングセラーといえよう。モノクロの 図版がほぼ全ページに入った本書は、書名のとおり「西洋・美術史」には違いないが、「美術」の側から見た「西洋史」とも受けとれる内容になっている。しか し、なんといっても興味深いのは、画家の視点で書かれた次のような記述だ。「クレタ絵画は技法と題材と表現法で特に興味深い。/技法の点ではまず宮殿の壁 画を挙げねばならない。これは単に壁に描かれたというだけでなく,このような古い時代に,ほんとうのフレスコの技法を実にたくみに使用しているのである。 /題材の点から見ると,彼等の好 んで描いたものは,花園や,またその中で鳥を狙う猫や,サフランを摘む貴人,花園に憩う貴婦人の姿,さらに海中に游泳する魚類などである。このような題材 のとりあげ方をみると,絵画は彼等の生活の具象的な説明であるばかりでなく,彼等の生活と自然に対する感情や態度の表現として重要なものであったのであ る」(21〜22ページ)。油彩に比べてやりなおしのきかないフレスコ画の難しさを指摘する一方で、描かれた対象から描き手の内面を分析する。こうした柔 軟な姿勢が、先史時代の美術から第二次大戦後の絵画まで、という途方もない時間=歴史における人類の歩みを凝縮して書ききる支えになっているように思う。 著者が本書の執筆に励んでいただろう1960年代の半ば、私は井上絵画教室で先生から水彩画の手ほどきを受けていた。奇妙な形の唐冠貝の貝殻や、からから に乾いたトウモロコシ、季節の果物といった静物を写生する小学生の傍らで、美大受験を控えた青年が石膏像の木炭デッサンに励んでいた。消しゴムのかわりに 食パンでこするのを見ながら、不思議なことするものだなあと感じた。
●レッド・ツェッペリンの初期3作(《レッド・ツェッペリン》、《同U》、《同V》)が、ジミー・ペイジ監修の新デジタルリマスター音源で再発された。1986 年から順次CD 化された国内盤、1993年のボックスセット《Complete Studio Recordings》、そして今回の《2014リマスター〔デラックス・エディション〕》と聴いてくると、録音や映像関連の技術の動向に通じたペイジだ けに、それぞれの時代にふさわしい仕上がりになっている(バンドの凄まじい歌唱=演奏とそれを定着した音源があればこそだが)。永年のファンにとって、オ リジナルアルバムのリマスターもさることながら、目玉はコンパニオンオーディオ、付属CDだ。〔T〕が1969年10月10日、パリはオランピア劇場で収 録されたライヴ演奏。Uが同アルバムのラフミックスやバッキングトラック、未発表曲。Vが同じくラフミックスやバッキングトラック、オルタネイトミックス など。〔T〕―デビュー当時の彼らのライヴパフォーマンスは語り草になっているが、それが大袈裟でなかったことが実感できる。U―〈Whole Lotta Love〉のラフミックスは、楽曲の立ち姿がりりしく、プラントの歌が冴えわたっている。また、〈Thank You〉のバッキングトラックを聴けば、彼らの丁寧な仕事ぶりがわかろうというものだ。ツアーの合間に「勢い」でなされたなどという代物ではない。V― 〈Bathroom Sound〉(〈Out On the Tiles〉のバッキングトラック)ではボーナムの「リードドラム」が炸裂している。一方で〈That's the Way〉の静謐な音像も捨てがたい。当時20代半ばのペイジは、一騎当千のメンバーを引きつれて、怖いものなしだった。なおかつギタリストとして、レコー ディングプロデューサーとして、完全にできあがっていた。吉岡実が《静物》(1955)においてすでに吉岡実であったように。


編集後記 139(2014年5月31日更新時)

岡崎武志・山本善行=責任監修《気まぐれ日本文學全集 57 吉岡実》目次案に ついて書いた。その〔追記〕で丸谷才一・鹿島茂・三浦雅士《文学全集を立ちあげる》(文藝春秋、2006)に触れた。読書の愉しみのひとつに、単行本で読 んだ本を文庫本で読みかえすというのがある。同書も前に図書館から借りて読んでいたが、今回の記事を書くために文庫本を購入した。最近読みかえして面白 かったのが、丸谷才一《ウナギと山芋〔中公文庫〕》(中央公論社、1995年5月18日)だ。「文学散歩といふものにはあまり関心がない。地誌および作者 の伝記についての調べに熱中するあまり、文学作品そのものはどこかへ行つてしまふのが普通だからだ」(一八一ページ)という書評〈随筆と批評の間――野口 冨士男『わが荷風』〉の冒頭は「〈吉岡実〉を歩く」の姿勢を問うている。「一体にわたしはいろいろさまざまの速度で本を読むのである。その極端な場合に は、巻末についてゐる索引を覗いて必要なところだけちよいと読む。これはずいぶんやりましたね。わたしのこの読書法(?)のことはいつか篠田一士に書かれ てしまつたくらゐである。そしてちようど篠田のその随筆に接したころ、わたしは、『清新詩題』といふ大正のはじめに出た、漢詩の題ばかりずらりと並んでゐ る、つまり索引だけで本文はないと言へる本をおもしろがつてゐる最中だつたので、思はず苦笑した〔……〕」(三三二ページ)は標題索引への考察を強いる。 「他人の読書生活について知るのは好きで、それをおもしろいと思つた最初は、これも中学時代、林達夫さんの随筆で、自分には本の見返しのところに手製の索 引を作りながら読む悪癖(といふ言葉がたしか使つてあつた)がある、といふくだりに出会つたときである。何といふしやれた話だらうと思つて、むやみに感激 し、しよつちゅうではないがときどき真似をして、本の見返しを汚した。今でもたとへばジョイス関係の本であまり学問的でない、そのため索引のついてゐない 本や、江戸の随筆類を読むときは、ついこれをやつてしまふ。それから、索引つきの本でも、項目を自分で補ひながら読む。著者のつけた索引は手前勝手で、こ ちらの関心事はなほざりにしてあるのが困る」(三三三ページ)は、《吉 岡実全詩篇標題索引》を編む者を鼓舞し、鞭撻する。この二つの文章は編著《ポケットの本 机の本》の序文〈縦横ななめ〉から。索引を重視する読み手は多いが、丸谷ほど熱心にそれを語った書き手=小説家・批評家をほかに知らない。
伊達得夫《ユリイカ抄》の装丁に ついて書いた。私はそこでも人名索引(「吉岡実」の項だけだが)を自作している。今回はそうした話題が多かったが、これは偶然ではなく、日頃からそうした 方面に関心があるということだ。第一級の人物は創作し、二陣がそれを批評し、三番手がそれらを研究する、というのは偏見かもしれないが、索引づくりが最初 でないことは確かだ。長谷川郁夫《われ発見せり――書肆ユリイカ・伊達得夫》(書肆山田、1992年6月15日)を再読していたら、伊達は昭和16年4 月、京都帝国大学経済学部に入学、その秋に「京都帝国大学新聞」編集部に入部したとあった(同書、五一ページ以降)。伊達はUPU(旧社名はユニバーシ ティ・プレス・ユニオン)の吉澤さんや枚田さんの先輩に当たるわけだ。UPUは人材の宝庫だった。まず挙げなければならないのは、黒岩比佐子さんだ(さき ごろ単行本未収録エッセイ集《忘れえぬ声を聴く》と文庫版《パンとペン――社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い》が 出た)。花崎さんと竹沢さんは大分・国東で農業をしていて、我が家では「ヒノヒカリ」を五分搗きしてもらった米を常食している。向原さんは鹿児島県知事に 立候補したが、惜しくも落選した。田柳さんは大学教授、宮崎さんは会社の社長だ。《エスクァイア日本版》(これが正式な雑誌名で、ロゴは 「Esquire」。当時の関係者の経歴でも妙な表記が入りみだれているのは寒心に堪えない)の編集や営業が多士済済な顔触れだったことはいうまでもな い。以前、編集後記で触れた池澤夏樹《ぼくたちが聖書について知りたかったこと》(小学館、2009)は、長澤 編集長が手掛けた本だったし、朽木さんや石田さんなど女性の著者、編集者の活躍には目覚ましいものがある。黒岩さんが往時のことを書いてくれていたら、ど んなに興味深い回想=社史に なったことだろう、と夢想する。
●吉岡実装丁本の紹介を一通り終えたので、《装丁家としての吉岡実》を縦組みの書籍に編集して、PDFファイルで後日公開する予定だ。《〈吉岡実〉の「本」》は不定期掲載になるが、長い間ご愛読 いただきありがとうございました。今後は、吉岡実装丁本の限定版書籍等の記事を補っていきたい。今日5月31日は吉岡実の祥月命日。2014年、菩提寺の 醫王山東光院眞性寺は「江 戸六地蔵尊開眼三百年祭」を執りおこなっている。境内には多くの献燈が置かれ、白赤黄緑紫五色の吹きながしがひるがえり、銅造地蔵菩 薩坐像の赤いよだれかけが常になく鮮やかだ。


編集後記 138(2014年4月30日更新時)

《魚藍》と魚籃坂について書い た。この冬、東京は近年にない積雪に二度見舞われた。掲載写真はその間に撮影したもの。幽霊坂からは、ライトアップされた東京タワーが目前に見えた。
● 今月は《〈吉岡実〉の「本」》の定期更新がないので、最近読んだ装丁に関する二冊の新書について書こう。長友啓典《装丁問答〔朝日新書〕》(朝日新聞出 版、2010年12月30日)と和田誠《装丁物語〔白水Uブックス〕》(白水社、2006年12月20日)で、前者の書名は想定問答のもじりだ。後者は単 行本で読んでいるから再読になるが、細部を忘れていて新鮮に読める。長友本は気に入った装丁を語りつつ自己を語るというコラムふうの体裁で、和田装丁の井 上ひさし《円生と志ん生》・小出龍太郎《小出楢重》、和田誠《指からウロコ》を評した二つの記事(〈デザインが表に出ない装丁〉、〈「ええ顔」をしている 本〉)がある。一方、和田本は長友に限らず他者の装丁を語らず、話し言葉の文体を採用して、随筆の体を装う。単行本の〈あとがき〉には「白水社の和気元さ ん〔……〕を聞き手に語りおろしをすることにしたのですが、一どきにあまりたくさんのことはしゃべれません。断続的に少しずつ話をして、結局一年かかりま した。/これは仕事の話ですから、専門用語がたくさん出てきます。編集者の和気さんにはなじみの言葉ばかりなので問題はないのですが、想定する読者は専門 家ではなく、一般の本好きの方々です。そのことを考えて大幅に加筆した結果、語りおろしの部分より、書きおろしの部分が多くなりました」(《装丁物語》白 水社、1997年12月10日、二八九ページ)とある。両氏の執筆の姿勢の違いは装丁の作風にも表れているようで、興味深い。すなわち、長友の直球勝負に 対するに和田の親切設計。長友本から引く。( )内の数字は掲載ページのノンブル。

@ 指定の方法、A装丁者のクレジット、B「造本設計案」、C表紙まわり、D腰巻き=帯、E著者自装、F全集もの。レベルは異なるが、みな吉岡実装丁を論じる ときの重要な観点となる。《装丁家としての吉岡実》の総論を執筆する際にじっくりと考察したい。和田本からは、映画に関する書籍の本文レイアウトについて の証言を引く。

  この時〔渡辺武信の『映画は存在する』(75年・サンリオ出版)〕も本文のレイアウトをやりましたが、そのデザインが実はその後の映画の本の作り方に ちょっと影響をおよぼしているんです。
  と言うのは『映画は存在する』の著者は本文の原稿だけじゃ映画に対する想いが書きたりなくて、本文を補足する註をいっぱい書いたんですね。註というのは、 巻末にまとめて入れるか、各章の最後に入れるのが普通のやり方でした。でも文章に沿ってついている註なので、ぼくは文章のその個所のできるだけ傍につけよ うと思いました。それで脚註という形をとった。〔……〕
 ついでに脚註と同じ位置に写真も使いました。ページいっぱいの大きな写真もあるんだけど、映画の本なんだから、映画を説明するのにその映画のスチールは ぴったりです。それで写真に註の役割をさせる。これもちょっと新しい試みでした。〔……〕
 まあそんなわけで、映画の本に脚註というのはとてもうまく行きました。映画は監督や出演者、カメラマンや作曲家、製作年度、カラーかモノクロか、スタン ダードかワイドスクリーンか、原作者は誰か、などなど説明したい要素が山ほどあります。それをいちいち本文の中に入れていたら文章として間のびがしてかっ たるくなる。そんな時、その文章のそばにこういう補足的なことがあるといいんですね。興味のある人は註で確認できるし、特に興味のない人は註を読まなくて も差しつかえないわけですから。(98〜100)

〔白 水Uブックス〕(元版も)の表紙とジャケットに脚註の図解が掲載されているから、「そのころから映画に関する本はA5判で脚註入りというのが多く見られる ようになったような気がします。とは言っても脚註自体はぼくの発明ではありませんから、とりわけ自慢しているわけではありません。ちょっとだけ」 (101)は謙遜である。本文のすぐ近くに註や写真を置くという、考えてみれば当たり前のことを誰が最初に始めたかは、和田のように本人が証言しない限り 後世に伝わらない。安藤元雄は、詩集のレイアウトで詩篇を見開きで起こすやり方を早い時期に採用した吉岡実を讃えた(〈吉岡実を偲ぶ会〉〔1991年10 月、浅草・木馬亭〕での発言)。開発したのは吉岡でも安藤でもないようだが、造本・装丁に人並以上の関心を持つ詩人に依ることは確かだ。
●ひさびさにギタリスト=エリック・クラプトンを堪能した。私が最初に買った洋楽のLPはクリームの《グッバイ・クリーム》(1969) だった。今にして思えば、《クリームの素晴らしき世界(Wheels of Fire)》(1968)の縮小再生産、活動期間2年余りで解散したバンドの置き土産に過ぎないが、当時の私にとってはロックに開かれた窓だった。A面に 2曲しか入っていないのを見て驚嘆した。ライヴの部では(LPはライヴが3曲、〈バッヂ〉を含むスタジオ録音が3曲)、後年〈トップ・オブ・ザ・ワール ド〉などの粘っこいブルーズギターも愛聴するようになったが、血気盛んな中学生は〈アイム・ソー・グラッド〉一本槍だった。十六分音符のスピード感はスリ ルに富み、三連符でタメをつくって煽るフレーズは泉のように清冽で、その音色は優美。それゆえ初めてジミ・ヘンドリックスを聴いたときは、粗野にさえ感じ た(ヘンドリックスのグルーヴにはまると、クラプトンがお上品に感じられてしまうのだが)。スティーヴ・ウィンウッドを擁したブラインド・フェイス、デュ アン・オールマンが客演したデレク・アンド・ザ・ドミノスあたりまでは新譜で聴いたが、ソロになってからは興味を喪った。達者なギターを弾く歌手は、私の エリック・クラプトンではない。ジャック・ブルースがいてジンジャー・ベイカーのいたクリーム時代が、ギタリストとしての絶頂期だったのではないか(好敵 手ヘンドリックスも健在だった)。2011年の来日公演が好評だったウィンウッドとの共演を、《Live From Madison Square Garden》(2009) で聴いた。二人はそこで、ヘンドリックスの〈ヴードゥー・チャイル〉をカヴァーしている。オリジナルの《エレクトリック・レディランド》(1968)でハ モンドオルガンを弾いていたウィンウッドは、ヘンドリックスのヴォーカルパートも担当。クラプトンはギターに専念しているせいか(イントロのギターとのユ ニゾンのパートだけ歌っている)、うねるようなロングトーンのチョーキングなど、鬼神が乗りうつったかのようだ。さすがにヘンドリックスがB-D-B- D……とハンマリングオン/プリングオフを繰りかえしながら、すなわちトリルしながら徐徐にアームダウンしていくギミック(ドップラー効果?)は、再現し ていないけれども。ヘンドリックスやジェフ・ ベックとは異なり、クラプトンはストラトキャスターのトレモロアームを外して弾く。ベックはその後ギタリストとしてアーミングを極めたが、クラプトンはギ ターの上手い歌い手として大成した(ライヴCDとは別物だが、〈ヴードゥー・チャイル〉の映像はコチラ)。
●来る5月31日は、早いもので吉岡実歿後24年である。来月は、吉岡実装丁本の紹介の最終回、伊達得夫《ユリイカ抄》を予定している。飯島耕一が〈吉岡 実〉の発見者なら、伊達得夫はその才能を引き出した最初の編集者・出版者だった。最終回にふさわしい記事になれば、と思う。


編集後記 137(2014年3月31日更新時)

吉岡実と飯島耕一に ついて書いた。飯島の詩〈階段の上と下で〉(《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実》書肆山田、1996)にあるように、飯島耕一が吉岡実という 詩人を発見した。吉岡には随想〈飯島耕一と出会う〉(初出は《四次元》7号、1978年8月)があり、両者の対話に〈詩的青春の光芒〉(《ユリイカ》 1975年12月臨時増刊号)がある。同人詩誌《鰐》の中心人物だったのも、土方巽を吉岡に引き合わせたのも飯島耕一だった。詩人であり、名伯楽だった。
安藤元雄詩集《船と その歌》初版の装丁に ついて書いた。本文でも触れたように、同書の初版は入沢康夫装丁で、吉岡実装丁の〔別製版〕は未見である(限定15部本だけに、いつ見ることができるかわ からない)。現時点で私にとって「存在しない書物」の装丁について書いたため推測が多く、ご覧のような長文になった。吉岡実装丁のレヴューも大詰めという ことで、対象本を見ていない点をご容赦いただきたい。なお、次回が吉岡実装丁本の紹介の最終回になる。
●林哲夫さんがブログで〈木山捷平資料集〉に ついて「木山捷平に関するものなら何でもすべて集めようというのだから、もう空恐ろしい情熱だ。マン・レイ石原氏とか吉岡実の小林氏とか、世の中には岩を 貫くような凄い人がいっぱいいて圧倒されるばかり」と書いている。マン・レイの石原輝雄氏こそ凄い人で、林さんの言は〈吉岡実〉の布教を地道に続ける私に は面映ゆいかぎりだ。石原輝雄《マン・レイになってしまった人》(銀紙書房、 1983年6月6日)から引くなら、やはりここだ。「一八九〇年にフィラデルフィアで生まれた一人の男が「マン・レイ」と名乗って人格の置き換えをやって のけた背景には、レディーメードとしての人間に対するペシミズムがあるといえる。彼の芸術が普遍性を持つのはこの為であり、彼に関る私が彼に成り代わるの を許すのもこの点にあるのだが、この私は何人目の「マン・レイになってしまった人」になるのだろう」(同書、三ページ)。「マン・レイになってしまった 人」といい、瀧口修造の土渕信彦さんといい、美術関係の研究者は資料収集が作品のコレクションに直結するのだから、資金面や資料の整理・保存など、文筆家 を研究する者の想像を超える苦労があるに違いない。圧倒されるばかりだ。
●The Rolling Stones(以下、ストーンズ)が来日した。1990年2月の初来日時にはチケットの争奪戦があり、同僚からダブった券を定価で買わされて東京ドーム公 演を観た。ファンとは身銭を切って音源や映像を購入したりコンサートに足を運んだりする人間のことをいうのだから、私はストーンズのファンではない。だ が、その音楽には敬意を払ってきた。ミック・ジャガーとキース・リチャーズの曲作りで特徴的なコード進行がある。キーがCメジャーだと、ふつう根音がド・ レ・ミ…シの順に、C・Dm・Em・F・G7・Am・(Bm7-5)といったコードを使う。ストーンズの初期の曲では(Cメジャーで説明すると)Tell Meに「E―F―G―C E―F―D―G」、As Tears Go Byに「C―D―F―G」というコード進行があっ て、このEやDの使い方が実に効果的だ。ほかにも(オリジナルのDのキーで表示しないと感じが出ないが)、歌が始まってすぐのCで驚かせるLady Janeがあり、サビはなんと「E7(on G#)―Am―D7(on F#)―G―Cadd9―D7(on F#)―Am―D」である。リチャーズのリズムギターの刻みも悪くないが(最高傑作はJumpin' Jack Flash)、初期のバラード系のコード進行こ そ、ポップミュージックへの彼らの最大の貢献ではないか。私はベスト盤で初めて触れたSittin' on a Fenceを愛聴するが、「ストーンズこの1曲」となればHonky Tonk Womenだ。イントロのカウベルにドラムスが被 さってくる処の「何かが始まる感」がたまらない。


編集後記 136(2014年2月28日更新時)

吉岡実と加藤郁乎に ついて書いた。吉岡の1986年1月17日の日記に「午後いちばんで、加藤郁乎へ電話する。土方巽の病気のことはまったく知らず、驚く。宗教上の理由か ら、病気見舞いには行けないが、祈祷してくれると言う」(《土方巽頌》筑摩書房、1987、二〇七ページ)とある。崇教真光の熱心な信徒だった加藤は、私 が見るところ吉岡の葬儀に参列していない(1月21日に土方巽が亡くなったのち、吉岡との精神的紐帯が切れてしまったようにも見える)。いずれにしても、 晩年の吉岡実詩への言及がないのは寂しい。〈編 集後記 52〉で紹介した松山俊太郎・渡辺一考との〔鼎談〕で、吉岡の稲垣足穂への親炙を指摘しているのは貴重だ。
野原一夫《太宰治 人と文学〔上・ 下〕》の装丁に ついて書いた。私は太宰文学のよい読者ではない。研究書にも親しんでいないため、《太宰治 人と文学》が類書の中でどのような位置を占めるのか詳らかにし ない。ただ、人間太宰と太宰文学への敬愛に満ちた本であることははっきりわかる。野原の他書にこうある――「失業中だった私が、社長古田晁の好意によって 筑摩書房に入社させてもらったのは、第四回桜桃忌の直後の二十八年九月であるが、その二年後の三十年十月から刊行を開始した『太宰治全集 全十二巻』の編 集を私は担当した。/〔……〕/私はただ、無二の文学者だと思っている太宰治の『全集』として、それにふさわしい本を造りたいだけだった。編集担当者とし て一番大切な仕事は、本文校訂に完璧を期することである。原稿、初出誌、初版本、再版本、すべてに当って、その間の異同を調べ上げ、その上で底本を決めて いかねばならない。美知子未亡人からお手許に残っている原稿をお借りし、また東大図書館になど通いながら、この根気のいる七面倒な仕事に、私は打ち込ん だ」(〈太宰治歿後五十年に際し〉、《回想 太宰治〔新装版〕》新潮社、1998年5月25日、二一九〜二二〇ページ)。言うは易いが、なかなかできることではない。第六次までの筑摩版太宰全集の編 集を担当し、本文が血肉化した野原によって太宰治の人と文学の全貌が明らかにされたのは道理である。一方でそれが、太宰治に同情的でない読者をも巻き込ん でいく底のものでないことも確かだと思う。
●ひところよく聴いていたのがスティーヴィー・ワンダー、1976年のアルバム《キー・オブ・ライフ(Songs in the Key of Life)》だ。《ファースト・フィナーレ(Fulfillingness' First Finale)》(1974)はリリース直後に愛聴したが、本作とはじっくり付きあう機会がなかった。1976年の秋といえば《サフラン摘み》が出たとき だから、スティーヴィーの新譜など目に入らなかったか。楽曲の良さ――〈土星(Saturn)〉の悠揚として迫らぬ展開は出色――もさることながら、アレ ンジがすばらしい。スティーヴィーのアルバムは《トーキング・ブック(Talking Book)》(1972)から《キー・オブ・ライフ》ぐらいまでしか知らないが、本作は作曲家・演奏家・歌手としてひとつの頂点を極めた作品だ。


編集後記 135(2014年1月31日更新時)

〈吉岡実の装丁作品〉の現在に ついて書いた。書棚を整理していたら、菊地信義《装幀談義》(筑摩書房、1986年2月25日)が出てきた。本書に一箇所、吉岡実の名前が見える。といっ ても菊地が吉岡実装丁に言及したわけではない。《潭》2号の表紙写真に執筆者として名前が載っているのだ(八三ページ)。菊地発言の「売れなくなった文芸 書というのは、平台からもだんだん遠のいて、もう新刊書が二、三日で棚に入っちゃうという、つまり背の勝負みたいなことになっていくわけですね。そうする と、いくらそこにおへそみたいに何か絵のカットを入れてみても、もうそれはぼくの前の世代の方たちが、いろいろ工夫されているわけで、ぼくはぼくなりに何 か背の工夫というのをしなければならないと思ったわけです」(九八〜九九ページ)の「ぼくの前の世代の方たち」の一人が吉岡である。菊地信義装丁の勘所は 「テキストに対するイラストレーションや解説でありたくない」「テキストの構造でありたいと思っている」、物語の構造そのものに拮抗したい、という点にあ る(五五〜五六ページ参照)。その目指すところは「本というのは、どこか品があって、格があって落ち着いて、そこに相対して心を澄ましてくれるような印象 が、まず第一になければいけないと思う」(一五五ページ)で、吉岡実装丁と相通じる。菊地が吉岡実装丁を論じないのは、吉岡が菊地信義の著書を装丁しな かったのとパラレルのような気がしてきた。
瀬戸内晴美《人なつかしき》の装丁に ついて書いた。同書のちくま文庫版については本文で簡単に触れたが、文庫創刊時の全20タイトルを紹介した三つ折りの挟みこみに「目にやさしい八・五ポイ ント活字、読みやすい紙質、新鮮な装幀・造本は必らずご満足いただけることでしょう」とある。8.5ポの本文というのは英断で(それまで主体の8ポと 8.5ポではページあたりの収容文字数が異なり、ページ数も増える、ということは原価も上がるわけだから)、年をとるに従って、目が衰えるに連れて、ちく ま文庫のありがたみがわかろうというものである。
●《装丁家としての吉岡実》の進行状況をご報告しよう。前項の本文でも触れたように、存疑の作品を除く未紹介の吉岡実装丁作品は、残すところ3タイトルと なった。ひとつは原稿の準備が終わっており、ひとつは対象書籍が入手できないという前提で草稿ができており、ひとつは対象書籍は未入手ながら構想はある、 というのが現状だ。毎月1タイトルずつ書いていけば、あと3箇月で完了することになる。《装丁家としての……》は吉岡の祥月命日の公開を目指しているが、 作業の進行しだいで夏場にずれこむかもしれない。今が最後の追いこみであることは確かだ。
●2013年12月、ザ・タイガースが結成当時のオリジナルメンバー(加橋かつみ・岸部一徳・沢田研二・瞳みのる・森本太郎)で復活した。ツアーに合わせ て刊行された瞳みのる《ザ・タイガース 花の首飾り物語》(小学館、2013年12月4日)は、彼らの代表曲の来歴を語って余すところがない。作曲者のすぎやまこういちは瞳のインタビューに「あ れ〔〈花の首飾り〉の旋律〕は言葉〔公募に応じた菅原房子の歌詞〕を読んで、一番最初の1行〔「花咲く娘たちは」〕で出だしのメロディーが何か瞬間的にで きたのかな。〔……〕そこまでできたところで、あっ、全部できたと思って、あとはスーッと、5分ぐらいでメロディーはもうできちゃいました」(同書、一六 一ページ)と答えている。吉岡実は飯島耕一と歓談していて〈僧侶〉の想を得たというが、ともに一代の傑作にふさわしいエピソードだ。1月24日には (1971年のこの日、加橋の後任岸部四郎を擁した後期ザ・タイガースは解散した)、NHK BSプレミアムで最終日12月27日の公演が《ザ・タイガース 2013 LIVE in 東京ドーム》として放映された(22:00〜23:29)。1年前のツアーでは試運転といった感じの瞳のドラムが、今回 はバンドの心臓として機能していた。瀬戸口雅資さんの〈2013.12.27東京ドーム『THE TIGERS 2013』 セットリスト&完全レポ〉に よれば、瞳は初日の武道館公演のときより調子をあげてきたそうだが、40年間のブランクを感じさせない進化系には驚嘆のほかない。リードギタリストでもあ る加橋の歌声あってのザ・タイガースのサウンドだと再認識した。生で観ることはかなわなかったが、番組や昨年11月にリリースされた5枚組DVDでザ・タイガースのコンサートを堪能した。このバンドのファン であることを誇りに思う。


編集後記 134(2013年12月31日更新時)

〈父の面影〉と出征の記念写真に ついて書いた。組体裁確認用編者本《吉岡実未刊行散文集》(文藝空間、1999)の口絵に掲げたのが、〈父の面影――さがしもの〉の吉岡実自筆原稿だっ た。吉岡の未刊行散文の原稿は〈吉岡実資料〉を作成する際、陽子夫人から借覧したなかにもこの一篇しかなかった。詩は「草蝉舎」の名入りの原稿用紙に夫人 が浄書したが、散文は吉岡が自筆で書いた。あとからの手入れはあるにしろ、一気呵成に仕上げたように見える。短距離走者型ゆえ、15枚の散文〈西脇順三郎 アラベスク〉の構成にあれだけ苦労したのだ。まれに吉岡の詩稿(ほとんどが陽子夫人の浄書稿で、雑誌その他に掲載した印刷用の原稿で吉岡自筆のものは見な い)が古書市場に出るが、散文の原稿は私の知るかぎり一度もない。〈わたしの作詩法?〉が現存するのなら、なんとしても見たいものだ。
田村隆一《詩と批評E》の装丁に ついて書いた。今回の記事は、今年の酷暑のころに第一稿を書いた。去る9月末に公開を予定していた《詩人としての吉岡実》の 執筆や編集・修正・組版作業にどれくらい時間がかかるかわからなかったので、8月〜12月の5回分を夏に書きためたのだ。それが可能だったのも、田村隆一 の《詩と批評》シリーズ全5冊まとめてだったからである。ところで、1960年代末から70年代初めにかけて、田村の《都市》や澁澤龍彦の《血と薔薇》と いった文筆家の責任編集雑誌が発行されていて、吉岡は双方に詩集《神秘的な時代の詩》(1974)の詩を寄せている(田村は1950年代、ミステリーの編 集者として早川書房に勤めていたから、単に文筆家とするのは正しくないが)。吉岡は吉岡で、田村と澁澤には筑摩書房のPR誌《ちくま》に書いてもらってい る。とんでもない時代があったものである。
●伊藤信吉《ぎたる弾くひと――萩原朔太郎の音楽生活〔B版〕》を入手したので、〈吉岡実の装丁作品(24)〉に 〔追記〕を書いた。通常の追記は数行のレベルだが、今回は同じ限定版ではあるが既報で対象とした〔A版〕とは別の〔B版〕であるため、本欄を通じてお知ら せしておく(追記に合わせ、書影も撮りなおして差し替えた)。《〈吉岡 実〉の「本」》では、今夏から落ち穂拾いのように追記を書いているが、これらは来年公開を予定している《装丁家としての吉岡実》の準 備作業の一環である。どうか、《装丁家としての吉岡実》にもご期待いただきたい。
●ドリーム・シアターはウィキペディアで「アメリカのプログレッシブメタルバンド」と定義されているが、どうもこのヘヴィメタルというジャンルに食指が動 かない。アイアン・メイデンやメタリカの音楽性に馴染めないのだ。バンドの実力はスローなバラードを聴けばわかる。そこでヘヴィネスが発揮できれば、本物 だ。《Images And Words》(1992)の〈Another Day〉と《Metropolis Part 2: Scenes From A Memory》(1999)の〈The Spirit Carries On〉は ドリーム・シアターのバラードの代表で、どちらもギターのJohn Petrucciのペンになる、ヘヴィメタルとは一線を画した楽曲。後者にはピンク・フロイド(とりわけロジャー・ウォーターズ)の影響が顕著だが、ライ ヴでの観客とのサビの斉唱が聴きどころだ。とはいうものの、スタジオ盤の出来は圧倒的で、ことばを失う。
●PCで原稿を書いたり調べ物をする部屋にスチール製の本棚を2本入れて、本やコピーのファイルを参照しやすくした。誰でもそうだと思うが、引用文や書誌 を確認したくて資料を探したあげく、必要なものは見つからず、別の資料に読みふけることがある。企画段階ならそれでもいいが、原稿の仕上げにかかっている ときに必要なものが見つからないのは辛い。自宅のどこかにある資料を諦めて、永田町の国会図書館(現在、印刷物資料のデジタル化を進めていて、50年ほど 前の本や雑誌は軒並み「利用不可」になっている)や駒場の日本近代文学館(原本が手に取れるのはありがたいが、コピー代金が1枚100円と、国会図書館の 4倍もする)で調べるときの虚しさ。これからは本サイトの各ページに対応した排架を目指して、デジタルデータと印刷物(およびコピー)資料を有機的に連動 させたい。使えない資料は、資料と呼ぶに値しない。


編集後記 133(2013年11月30日更新時)

吉岡実と佐藤春夫に ついて書いた。宮澤賢治(1896-1933)やパウル・クレー(1879-1940)がいつごろの人だったのかわからなくなっていつも困るのだが、佐藤 にも同じような感じを抱く。文芸の諸ジャンルにおいて行くとして可ならざるはない活躍をする一方で、「ただひとつの作品」が想いうかばないせいかもしれな い。いま佐藤の《小説永井荷風伝〔岩波文庫〕》(岩波書店、2009年6月16日)を読んでいる。「〔……〕彼が鏡花などの如く最初から天衣無縫の神韻を なす所謂天才型の作家ではなく能才型の律気に勤勉な自己に忠な努力家ではなかろうかと考えられるのである。この事はあの美しい然しながら格別に個性のある 面白さというような趣ではなく、手本によってよく練習したがために出来たかと思う素直に品位のある荷風の筆蹟にも見られるように思う」(〈永井荷風――そ の境涯と芸術〉、同書、二四〇ページ)という指摘は順番が逆で、荷風の筆蹟からその才能の型を類推したかと疑えるが、佐藤の直感は信じられる。
田村隆一《詩と批評D》の装丁に ついて書いた。《荒地》の主要メンバーとの関係については、〈吉 岡実と田村隆一〉に書いた。吉岡や田村が他のメンバーと違うのは、萩原朔太郎(田村は明治大学で朔太郎に学んでいる)から出た三好達 治と西脇順三郎に、ともに傾倒した点である。西脇に深く、三好には浅く。もっとも、田村が王朝和歌や俳諧に親しんだようには見えない。
●前に一人多重奏(唱)録音のことを書いたが、キーボード(とりわけシンセサイザーの登場以後)の奏者となると、枚挙に遑がない。グールドも絶賛したとい うワルター・カーロスの《スイッチト・オン・バッハ》(1968)はシンセサイザー音楽家・冨田勲を準備したし、ロック系の鍵盤奏者がソロアルバムで多重 録音を試みなかった例はないだろう。現在、イギリスにあって音楽活動を中止している葛生千夏は、1990年代初めに2枚の画期的なソロアルバムを発表し た。《The City in the Sea》(1991)と《The Lady of Shallott》(1992) である。私はポウの詩による前者の〈Eulalie―A Song〉を愛聴していて、中世ヨーロッパを想わせる葛生の歌声の最後の音を引き継いで始まる今堀恒雄のギターソロ(ロバート・《Red》・フリップ直伝 のサステインの効いたトーン)は、じつに素晴らしい。《エスクァイア日本版》編集部が文京区後楽の日教販ビルにあったころ、プロモーションにみえた葛生さ んと偶然ことばを交わしたことがある。詩人で音楽評論家の小沼純一さんに「葛生千夏はいい」とさんざん吹き込んだのは、そのあとだったろうか。
●8月に紹介した《Stairway to Heaven TSRTS》の演奏者、HIRO (larzgallows) こと古川博之さんは、成毛滋とも共演歴のあるベテランで、最近の作品に〈Canon in D / Pachelbel - YouTube〉が ある。カノンの旋律部(原曲のヴァイオリンパート)は1回の演奏で、それをコピー/ペーストしたものだという。ブライアン・メイも真っ青の一人四重奏によ るパッヘルベル〈カノン〉である。こういう途方もない試みに接すると、日頃の 瑣事もどこかに吹きとんでいくから、愉快だ。
●今月は本サイトを開設して11周年。例年なら各ページ数の推移を紹介して、サイトの歩みを振りかえるところだが、〈編集後記 129〉に 書いたとおり、ページの字詰めも行間もそれまでと変わってしまった今となっては、比較しても意味がない(テキストだけの比較なら、400字詰め原稿用紙の 枚数に換算すればいいが、画像もあるので算出する気になれない)。そこで、本サイトの制作環境の変遷を概観して総括に代えよう。2002年、吉岡実の十三 回忌の半年後に開設した当時は、AdobeのGoLiveで制作していた。鈴木志郎康さんとパーティで会ったとき、ウェブの制作環境の話になった。 htmlを手で書く鈴木さんは「GoLiveなんか使っているのか」という顔をされたが、文章を修正することが異様に多かった(今でもかなり多い)私は、 タグの英字を見るのが嫌さに、その後も使いつづけた。Windows2000のPCが故障したのでWindows7搭載のマシンに替えたところ、 GoLiveが走らない。GoLiveに見切りをつけたAdobeのDreamweaverを覗いたものの、私がつくるテキスト主体のページにこんな重装 備は要らない。そこでフリーのウェブオーサリングソフトKompoZerを導入して今日に至るのだが、9月下旬にWindows7搭載のマシンのHDDが 前触れもなくクラッシュした(《詩人としての吉岡実》の 改訂の騒動は、先月の編集後記に書いたとおりだ)。なにが原因かわからないが、GoLive時代に設定したCSS(マージン、見出し1・見出し2のサイ ズ、本文の行間)が一部、効かなくなっていることはわかった。以前と同じ設定に戻したいのだが、かつて自分でしたことながら、これがどうにもわからない (現在の設定は近似値)。ウェブページの見せ方の難しいのには、ほとほと手を焼く。InDesignで組んでPDFファイル化した書きおろしも終わり、少 しは落ち着いた。CSSを勉強しなおして、見やすい(プリントして美しい)ページにしたいと思っている。記事の執筆が第一義であることに変わりはないのだ が。


編集後記 132(2013年10月31日更新時〔2013年11月30日追記〕)

吉岡実と赤尾兜子のことを 書いた。兜子の句がある程度まとめて読める手頃な本は、平井照敏編《現代の俳句〔講談社学術文庫〕》(講談社、1993)だろうか。そこには「蟵に寝てま た睡蓮の閉づる夢」から「枯萩にけむりのごとく女立つ」までの32句が3ページにわたって掲載されている。同書には明治7(1874)年生の高浜虚子から 昭和37(1962)年生の皆吉司まで107人が年生順に収録されていて、吉岡と同じ大正8(1919)年生の俳人には、森澄雄、佐藤鬼房、金子兜太、鈴 木六林男、澤木欣一、石原八束、(本書には載っていないが、安東次男もそう)がいる。吉岡には歿後に一巻の句集《奴草》があるから、1919年生まれの俳 人という括りは興味津津たるものがある。
田村隆一《詩と批評C》の装丁に ついて書いた。〈銭湯〉には「屋号でも、神保町なんかの古い焼けのこった銭湯などはオモムキにとんでる。筑摩書房のとなり、「稲川楼」とかいって、建物の 造りなんか戦前のままで、ぼくは例の〔石けんとタオルを入れた〕ビニール袋で二、三回入っただけだけど、客ダネがうれしい。神田の地元の連中ばかしでね、 町内がわかるんだよ」(同書、二六一〜二六二ページ)とある。田村は、会田綱雄や吉岡を筑摩に訪ねるついでに稲川楼に浸かりにいったのだろうか。それと も、稲川楼に行くついでに筑摩に立ちよったのだろうか。
●先月の定期更新で掲載した《詩人としての吉岡実》(PDF ファイル)を改訂して、差し替えた。改訂前のファイルをお持ちの方は、破棄のうえ最新版をご覧いただきたい。先月下旬、作業用のPCがトラブルに見舞われ てHDDの取り換え修理に出すために、やむをえずPCが決定的にダウンする寸前、最終的なチェックの済まない状態で9月23日に「定期更新」した(99% の完成度だと自負していたから公開したわけだが)。当然ながら、締切の1週間前倒しはきつかった。今回、引用文の照合を中心に全体を見なおしたところ、甘 く見積もって8 割だった。とりわけ各章末の(註)の記載は統一性に欠け、相当数の項目に手を入れた。いたずらに冗長にならないよう、本文で標題を挙げている場合は出典の 書名以下だけ註記するといった工夫もしたので、少しは読みやすくなっていると思う。マシントラブルは不可抗力だったとしても、精度の低い状態で公開に踏み 切ったのは失態だった。しかしこうした無理も、しなければならないときはしなければならない、というのは厳然たる事実である。
●9月27日午後10時〜11時半放送の、ニッポン放送のラジオ番組《ザ・タイガースのオー ルナイトニッポンGOLD》で バンドのオリジナルメンバー5人が勢揃いした。12月のコンサートツアーを控えての一種のプロモーション活動だが、《沢田研二 LIVE 2011〜2012 ゲスト:瞳みのる・森本太郎・岸部一徳》では不参加だった加橋かつみのいることがなによりも嬉しい。番組での発言では、バンドの人間 関係は瞳の交友を中心にしていたこと(沢田以外、みな学校時代の友人)、自分たちは「基本的にライヴバンド」という認識(ところで〈君を許す〉以外にも、 スタジオ録音でメンバーが演奏していない曲があるという噂はほんとうだろうか)、加橋の高音が入ることでタイガースのコーラスサウンドが完成すること、稽 古(自習、予習と別に)はこれからふた月で、といった感興深い内容が繰りひろげられた。ここへ来てザ・タイガース再結成は、ニューシングルの発売やDVD ボックスのリリースの予定など、年末のコンサートに向けて盛り上がりを見せている。瀬戸口雅資さんの〈ザ・タイガース 「光ある世界」: DYNAMITE-ENCYCLOPEDIA〉は 〈光ある世界〉を「セットリスト的中自信度★★★★☆(おそらくやると思います。これからタイガースの勉強を始めようという方々は、ここまでは予習必須で す)」とハイスコアをつけており、同曲のセットリスト入りの期待も高まる。それというのも、私は岸部のベース(カール・ヘフナーだろう)が響きわたるこの 名曲のライヴ(音源)を聴いたことがないのだ。
〔2013年11月30日追記〕新刊の磯前順一《ザ・タイガース――世界はボクらを待っていた〔集英社新書〕》(集 英社、2013年11月20日)に「実のところ、『モナリザの微笑』からレコーディングの演奏はスタジオ・ミュージシャンが担当するようになり、タイガー スは沢田のヴォーカルと、メンバーのコーラスを吹き込むだけになった。/スタジオ・ミュージシャンで演奏されるタイガースのシングルは、少なくとも、次の 『君だけに愛を』と『銀河のロマンス/花の首飾り』まで続いていく。ミュージシャンであるにもかかわらず、自分たちが演奏していない楽曲が発売されてしま う状況は、タイガースのメンバーにとってフラストレーションの溜[た]まることであったのは想像に難くない。こうしたスタジオ・ミュージシャンたちによる 録音は、ティーンエイジャーの女の子のファンはともあれ、音楽業界の人々からは、〔……〕好ましくない評判を招くことにもなる」(同書、九八〜九九ペー ジ)という――少なくとも、発売後間もないシングル〈君だけに愛を〉(1968)を購入して聴いた「男の子のファン」にとって――衝撃的な指摘があった。 しかし、バンドのメンバーの発言には綿密な出典の表示があるにもかかわらず、この記載にはソースが示されていない。本当にそうなのだろうか。百歩譲って、 瞳みのるは〈淋しい雨〉と〈君を許す〉の2曲(?)以外のスタジオ録音では必ずドラムスを叩いた、とどこかで読んだ記憶があるのだが、真相やいかに。


編集後記 131(2013年9月30日更新時)

吉岡実と岡井隆あるいは政田岑生の装丁を 書いた。吉岡は基本的に自著自装のため、政田の装丁になる吉岡本はない。ただし、湯川書房版の詩集《液体〔叢書溶ける魚No. 2〕》(1971)の編集が鶴岡善久・政田岑生の二人だった。同書には装丁者のクレジットがないが、発行者の湯川成一の装丁と思われる。吉岡は、永島靖子 句集《眞晝》(書肆季節社、1982)の栞に〈永島靖子句抄〉を寄せており、これは著者の意を汲んだ季節社社主・政田岑生の采配だろう。
田村隆一《詩と批評B》の装丁に ついて書いた。田村の《詩と批評》は増刷本も多いようだが、今では簡単に読める本ではなくなった。河出書房新社の田村隆一全集は散文が選集だから、熱心な 読者は《詩と批評》や全集未収録の単行本を集めて読まねばならない。練馬区の公立図書館では、練馬美術館に隣接する貫井図書館が田村の《詩と批評》全5冊 を所蔵している。
●かねて予告していた《詩人としての吉岡実》(PDF ファ イル)を掲載した。本文と註で400字詰め原稿用紙約428枚になった。対象作品である和歌・俳句・詩篇も引用したので、私の文章であると同時に吉岡実詞 華集の一面をもつ。近年、吉岡実生誕の4月、命日の5月ころになると大きなプロジェクトを始動させて、夏休みに実作業するというサイクルができている(昨 年は吉岡実年譜の改訂版をつくった)。今回は5月の連休明けから書きはじめたから、5箇月弱の執筆作業だった。作品の評釈は書きおろしだが、詩集の解題な どは本サイトに既発表のもの(ただし印刷物にはなっていない)を流用している。いずれにしても、私の吉岡実論の第一歩である。すぐさま、来年(?)の《装 丁家としての吉岡実》の準備にとりかかりたい。本書と同じ体裁で、1000ページ規模になりそうだ。InDesignの操作に関して土橋敬彦さんからいろ いろ教えていただいた。道具(ソフトウェア)は同じだというのに、さすがにプロはすごいものだ。土橋さん、どうもありがと う。
●〈文藝別冊〉シリーズの最新刊《レッド・ツェッペリン》(河出書房新社、2013年8月27日)が出た。企画のひとつ、ビートルズ、ローリング・ストー ンズ、ディープ・パープル、ブラック・サバスとツェッペリンとの対比という設定は、クラプトン、ベック対ペイジといった懐かしのメロディーに較べれば新鮮 だが、事実の羅列、表層の掻い撫でで、あきたらない。ここはひとつ、本人たちも意識していなかったサウンドクリエイトの奥義にまで立ち入ってほしかった。 たとえばペイジの決めフレーズのひとつ、付点八分音符×4+付点八分音符×2(これ一回で上昇のメロディにした のが〈天国への階 段〉最後のヴァースのオブリガート、これ二回で下降のメロディにしたのが〈カシミール〉の第二のリフ。蛇足ながら、付点八分音符×2 +八分音 符×1をリフの骨格に据えたのが〈胸いっぱいの愛を〉)。これと同形のディープ・パープルの、ということはリッチー・ブラックモアの 〈スピー ド・キング〉の間奏からメインのリフに戻るまえの上下二音のリズムパターン。この両者の違いを見きわめるといった試みがほしかった(ストーンズやサバスに このリズムパターンはあるのか)。ジミー・ペイジのファンサイト《Midnight Moonlight blog》やジミー・ペイジ本人の《JimmyPage.com》も 視野に入れた、清新で本格的な論考を待望する。


編集後記 130(2013年8月31日更新時)

《詩人としての吉岡実》の〈はしがき〉を 録した。そこにも書いたが、いま《詩人としての吉岡実》の本文を仕上げている。《神秘的な時代の詩》の巻頭と巻末の詩篇は、かつて〈吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈〉で取り上げた ので、なるべく重ならないようにした(といっても、執筆前に旧稿を読みかえさなかっただけだが)。書きおろしは調整要素が多い反面、全体が見晴らせるか ら、有機体として満足のいく結果も得やすい。本文がうまく着地できることを祈っている。
田村隆一《詩と批評A》の装丁に ついて書いた。《詩と批評》のシリーズはEまであるので、以降についても書いていきたい。田村は太平洋戦争が始まる昭和16年の4月に明治大学の文芸科に 入学した。本書の〈10から数えて〉という自伝に「面接のとき、この学校を出ても、中学校の教員にもなれないのだが、それでもいいのかね、と吉田甲子太郎 という試験官から念をおされる」(二五四ページ)とある。〈編集後記 58〉に書いたように、翻訳家・児童文学者の吉田甲子太郎は、吉岡の親友だった吉田健男のオジだ(早川書房を退社後、田村が数多くの 絵本を翻訳・紹介したことと、甲子太郎がなにか関係しているのだろうか)。田村と吉岡の奇縁である。
●《週刊 西洋絵画の巨匠 44 アルチンボルド》(小学館、2009年12月22日号)を楽しんだ。297×230mmの大判の誌面にカラーの図版が映える(印刷は 日本写真 印刷)。とりわけ感心したのが、センターの両観音開きに油彩《四季:春》(66×50cm)を掲載している〈原寸美術館〉だ。さらに うれしい ことに、〈アルチンボルドの植物図鑑〉として、油彩に描きこまれた80点もの植物の図解と植物名の表が載っている。表〈植物の種類〉の番号を略して、植物 名を掲げる。――薔薇、イチゴ、ジャーマンアイリス、ホウレンソウ、カッコウチョロギ、スベリヒユ、スミレ、ナツシロギク、オダマキ、ニガヨモギ、ヒメオ ドリコソウ、セリ科の一種、セージ、ツゲ、セイヨウスモモ、ワタスギギク、オランダワレモコウ、ヘンルーダ、レタス、ヨモギの一種、セイヨウタンポポ、タ ンポポの一種、ジャスミン、スノーボールツリー、マンテマの一種、フランスギク、ストック[白]、バーネットローズ、ジャスミンの一種、薔薇の一種、野薔 薇の一種、カーネーション [白]、スズラン、ストック[ピンク]、ヒナギクの一種、カーネーション、白薔薇、キダチルリソウ、ボタン、パンジー、ジギタリス、ラベンダー、野薔薇の 一種、ザクロ、ヒメツルニチニチソウ、クロガラシ、キンポウゲの一種、ミスミソウ、ウスベニタチアオイ、百合の一種、ストック[青]、ストック、ポットマ リーゴールドの一種、キンポウゲの一種、クリスマスローズ、ヤグルマギク、ポットマリーゴールドの一種、オダマキの一種、ローマカミツレ、セイヨウヒルガ オ、ニオイアラセイトウ、ナデシコ科の一種、ヒナゲシ、ハンニチバナの一種、ツバタシクラメン、カワラナデシコ、スイセンノウ、フラワー・オブ・ヨブ、ル リヂサ、マガリバナ、ホタルブクロの一種、ヒゲギキョウ、アルカネット、アフリカンマリーゴールド、白百合、セイヨウフゥチョウボク、タチアオイ、レダ マ、ダマスクローズ、サクラソウの一種。――壮観というほかない。「春の果実と魚で構成された/アルチンボルドの肖像画のように」(〈サフラン摘み〉G・ 1)。
●一人多重録音のワンマンバンドに昔から興味がある。系統立てて調べたわけではいないが、かまやつひろし(現ムッシュかまやつ)のアルバム《ムッシュー/ かまやつひろしの世界》(1970)が先陣か(本人によれば、最初がキース・ジャレット、次がかまやつ、三番めがポール・マッカートニー)。歌手・ギタリ ストの野口五郎の一人四役だったかの映像を観たときは、衝撃だった。今ではアマチュアでも多重録音をインターネットで公開しているので、楽しませてもらっ ている。最近感心したのは《Stairway to Heaven TSRTS》と いうページの〈ZoSoLo by HIRO(larzgallows)〉。レッド・ツェッペリン〈天国への階段〉(映画《永遠の詩》ヴァージョン)のジミー・ペイジの完全コピーである(た だしバッキングは繰り返しなし、ソロは全部)。《永遠の詩》や、前に紹介したジミー・ブラウンの教則DVDと一緒に観ると、これはすごいです(スタジオヴァージョンの方はこちら)。


編集後記 129(2013年7月31日更新時)

《新詩集》あるいは大森忠行のことを 書いた。1000人を超える装丁家たちの装丁した書目を掲載したかわじもとたか編《装丁家で探す本――古書目録にみた装丁家たち》(杉並けやき出版、 2007)に大森の項目がないところを見ると、装丁家としてはさほど注目されていないのかもしれない。もっとも、太田大八の項目もないから、これだけで判 断するわけにはいかない。
《草野心平詩全景》の装丁に ついて書いた。吉岡実は《「死児」という絵〔増補版〕》で草野心平に言及していない。1978年の春ごろ、《草野心平全集》の内容見本のために推薦文を西 脇順三郎に依頼したとあるだけで(〈西脇順三郎アラベスク〉)、草野本人は登場しない。〈心平断章〉以外の未刊行の散文でも、東京で初めて開かれた耕衣展 (1969年)の推薦者になってもらったことが記されているくらいだ。《草野心平詩全景》と詩集《凹凸》の装丁こそ、草野へ の最高のオマージュだ。
●加藤郁乎編《荷風俳句集〔岩波文庫〕》(岩波書店、2013年4月16日)を翻している。〈自選 荷風百句〉のほか、俳句・狂歌・小唄他・漢詩・随筆を収めるが、〈写真と俳句〉が楽しい。編者はこの本のために解説を書きおろさずに逝ったが、注解を担当 した池澤一郎の解題が秀逸である。
●7月下旬、いつものように定期更新前の修正をローカルでしていると、こちらの意図しないところに破線の罫囲いが生じている。6月30日に公開済みの表示 を見ても同じなので(公開当初はなかった)、ローカルのファイルを作業中に誤操作したわけではない。問題のファイルのソースには「outlineを navy色の破線にして、幅2ピクセルに」などという頓珍漢な記述がある。毎月保存している過去のファイルにも「誤記述」が散見されるので、原因がわから ず途方に暮れている。とりあえずoutlineのタグを削除したが、見出しや本文の字詰めが先月までと変わっている(総ページ数も減少)。原因が分かれば 旧に復したいが、叶わないかもしれない。ご寛恕を請う。
●ハービー・ハンコックの《ヘッド・ハンターズ》(1973)を聴いている。私などジェフ・ベックの《ブロウ・バイ・ブロウ》(1975) に似ていると思ってしまうのだが、ハンコックのほうが先だ。1曲めのハーヴィー・メイソンのドラムスが素晴らしい。フェンダー・ローズ(ベックのほうは マックス・ミドルトン)とドラムス(ベックのほうはリチャード・ベイリー)の存在感で、ともに甲乙つけがたい名盤になった。


編集後記 128(2013年6月30日更新時〔2019年2月28日追記〕)

吉岡実が執筆した帯文のことを書いた。吉岡実の著書の帯文については〈吉岡実本の帯文の変遷〉がある。今回は3月の〈編集後記 125〉で触れた小中英之歌集《翼鏡》をはじめとして、吉岡が遺した帯文を振り返った。《小中英之全歌集》でも佐佐木幸綱らがこの帯文に言及している。
〈吉岡実と《アラビアンナイト》〉の〈追記〉に杉田英明《アラビアン・ナイトと日本人》(岩波書店、2012)を引用した。〈第三章 児童文学〉と〈第四章 好色文学〉しか熟読していないが、本文のみならず、凡例や後付に震撼させられた。稲垣足穂や三島由紀夫ファンも必読の高雅な研究書だ。
《内藤湖南全集》の装丁について書いた。湖南のことが知りたくて、新宿区立中央図書館から関連書籍3冊・雑誌1冊・ビデオ1本を借りた。ビデオは《内藤湖南――学問と情熱〔第6巻〕森深く 日に新たなり》(紀伊國屋書店、1997)。こうした少し硬めの資料の閲覧に重宝していた中央図書館だが、これからは便が悪くなる。下落合1丁目(西武新宿線の下落合駅と高田馬場駅の中間)の現在の中央およびこども図書館は6月で閉館になり、7月から移転先の大久保3丁目(早大理工学部の近く)の仮施設で再開するからだ。中央図書館は1972年開設だから築40年あまり。移転は「新宿区緊急震災対策(当該施設は老朽化が進んでおり、耐震補強工事を行ったとしても施設としての機能を果たすことが困難であるため、適切な時期を捉えて施設を解体する)」による。東日本大震災直後の館内を撮影した写真を見ると、資料が散乱していて、わが家の書棚とは比較にならないほど揺れが激しかったことがうかがえる。同館を頻繁に利用したのは、予備校や大学に通っていた1970年代後半だ。河出書房新社のエルンストのコラージュ集やマウンテンを収めたオムニバス盤のLP(オリジナルアルバムだと《悪の華》(1971)収録の〈Dreams of Milk and Honey〉〜〈Variations〉〜〈Swan Theme〉で、これはバンドのベストライヴ)が忘れられない。両方とも現在では所蔵されていないようだ。そういえば、高田馬場駅前のムトウ楽器店も4月末に閉店した。かつて名店ビルにあった楽器売場では、Tokaiのストラトモデルを買ったものだ。――茫々たる視界。
〔2019年2月28日追記〕音楽全般(+α)の意見投稿サイト《この曲を聴け!》には面白いコメントが載るので、たまに覗く。だが、贔屓の楽曲に書き込みがないと「義憤」にかられて投稿することがある(肯定的であれ、否定的であれ、評価がないのは寂しい)。上記の〈Dreams of Milk and Honey〉〜〈Variations〉〜〈Swan Theme〉について、次のように書いたので、録しておく。――「〈Dream Sequence(幻想の世界)〉(25分3秒)は、(1)〈Guitar Solo(ギター・ソロ)〉〜(2)〈Roll Over Beethoven(ベートーヴェンをぶっ飛ばせ)〉〜(3)〈Dreams of Milk and Honey(ミルクとハチミツの夢)〉〜(4)〈Variations(変奏曲)〉〜(5)〈Swan Theme(白鳥のテーマ)〉の5パートから成る、邦題の〈幻想の世界〉というにはあまりにリアルなロックの世界。とりわけ8分55秒あたりから始まるミディアムテンポの(3)〈ミルクとハチミツの夢〉(キーはEm)では、後半のWestのギターとPappalardiのベースの白熱の掛け合いに至るまでのギターがよく歌っている。その、チョーキングヴィブラートの美しいこと(もしかするとClapton以上かもしれない)。14分40秒あたりで倍のテンポの(4)〈変奏曲〉(キーはAm)に切り替わると、あたりの風景が一変する。基本的にワンコードでリフらしいリフもないのだが、Laingのドラムスがバンドを目的地(最終の〈白鳥のテーマ〉)まで、機関車のように牽引する。いつのまにかPappalardiの奏でるテーマが滑り込んできて、白鳥がその優美な翼を拡げると、Westはテーマを丸めたり伸ばしたり、あるいは撫でたり摩ったりして、変幻自在に展開する。エンディングまえのLaingのドラミングは火を噴くようで、Westはそれに煽られたかのように必殺のフレーズを粘っこく決めて、白熱のパフォーマンスを締めくくる。そして、PappalardiがLaing、Knight(オルガン)、Westを、WestがPappalardiを称えて、16分ほどの旅を終える。1971年当時のマウンテンのベストライヴ。」――
●バンジョーの響きがものがなしい〈ワシントン広場の夜は更けて〉のコードが採りたくて、1960年代のヒット曲を集めたCDを借りた。バーズの〈ミスター・タンブリン・マン〉が収録されていたので、インターネットの動画でボブ・ディランの30周年記念コンサートの〈マイ・バック・ページズ〉を観た。リードヴォーカルをロジャー・マッギン〜トム・ペティ〜ニール・ヤング〜エリック・クラプトン(歌の前にギターソロあり)〜ディラン〜ジョージ・ハリスンと回して、最後はヤングの狂おしいまでのギターソロ。このバーズのヴァージョンは、ディランのオリジナルとは微妙にコード進行が違う。イントロはE(sus4)で、以下4小節を\で区切ると、E/C#m/G#m/A/B7/E\E/C#m/G#m/A/B\C#m/G#m/A/B7\E/A/E/A/B7/E(sus4)という流れだ。なにかに似ていると思ったら、奥田民生のペンになるユニコーンの〈すばらしい日々〉のアウトロだった。キーは2曲ともギターが最も豊かに響くE(ホ長調)で、ここぞという小節の頭のC#mが効いている。ただしコード進行はまるきり別で(C#m/A/F#m/B/(onA)\G#m/A/E/E/B(onD#))、途中の擬似的U-X(F#m/B7)が大きく異なる。アウトロのギターリフ(奥田と阿部義晴の2本によるアラベスク!)の旋律が、Eのワンコード上で奏でられるイントロと間奏のそれと寸分違わない。畏怖すべきバンドアレンジである。〈マイ・バック・ページズ〉と〈すばらしい日々〉をフォークロックの2大名曲と呼びたい。


編集後記 127(2013年5月31日更新時)

吉岡実と田村隆一の ことを書いた。田村は1993年3月、東京ステーションホテルで古稀を祝う会を開いている。「詩人、批評家を一切呼ばず、編集者総勢七、八十名の会。この 中に詩人の平出隆、建畠晢がいたが、それぞれ河出書房新社、新潮社の元編集者であった」(田野倉康一編〈年譜〉、《田村隆一全詩集》思潮社、2000年8 月26日、一四六九ページ)という件はすごい。そういえば田村は《エスクァイア日本版》の担当編集者、川口さんのこともどこかで随筆に書いていた。
竹西寛子評論集《読書の歳月》の装丁に ついて書いた。竹西は《虚空の妙音》という別の本で内容見本について書いている。「必要があって、ある著作集の内容見本を求めた。私の知りたいことは知ら せてもらえない内容見本だった。普通の読者の考えでは、各巻の内容について、委細を知りたいと思うのは自然だろう。〔……〕/全巻買い揃えてはじめて分か る内容なら、内容見本は要らない」(〈第一回配本のこと〉、同書、青土社、2003年7月5日、一四五〜一四六ページ)。私は荷風の〈杏花余香〉が読みた ければ、本文の変遷の研究でないなら、全集本で済ます。だが手許には荷風全集も内容見本もない(内容見本に当たったところで、何巻に収載されているか手掛 かりがない可能性は高い)。そんなときに重宝するのが《研 究余録 〜全集目次総覧〜》というサイトだ。この〈『荷風全集』全30巻(岩波書店、1992.5〜1995.8)〉の「29 雑纂  1」には「杏花余香」が掲載ノンブルとともに出ている。「17 東 綺譚 おもかげ」には「〔『杏花余香』はしがき〕」もある。あとは荷風全集の29巻と17巻を近くの公共図書館ででも閲覧すれば済む。〈《土方巽頌》と荷風の〈杏花余香〉〉執 筆時も、そうして調べたのだと思う。もちろん〈『竹西寛子著作集』全5巻(新潮社、1996)〉も《全集目次総覧》に掲 載されている。データベースサイトの鑑である。
●5月26日9時から30分間放送の《題名のない音楽会》(テレビ朝日)は〈なんてったってジミー・ペイジ〉の特集だった。ゲストのひとり佐野史郎による と、《ゴジラ》の映画音楽の作曲家として知られる伊福部昭(1914-2006)とペイジには、意外な共通点がある。伊福部は北海道出身で、アイヌの音楽 を研究して、そうした曲をたくさん書いた。一方ペイジは、アレイスター・クロウリーの黒魔術の書物を愛読し、アイルランドのケルト文化やアメリカのカント リー音楽に影響された。洋の東西の違いはあれど、精神的には同類で、脈脈と伝わる原始的なエネルギーでつながっているという。ゴジラといえば、中学生のと き《レッド・ツェッペリンV》を貸したブラスバンド仲間は、〈フレンズ〉を「ゴジラの音楽だ」と評した(同曲の弦のアレンジはジョン・ポール・ジョーンズ で、元ネタはホルストの〈火星〉)。ペイジは後年、アメリカ映画《GODZILLA》でパフ・ダディが〈カシミール〉をラップにアレンジしたカヴァー曲〈カム・ウィズ・ミー〉のギターリフを弾いているから、ここでめでたく両者 はリンクした。〈編集後記 123〉に 《Physical Graffiti》以降の楽曲への不満を書いたが、〈Ten Years Gone〉は例外だ。〈Achilles Last Stand〉と並んでペイジの「ギター軍隊[アーミー]」の最高の達成だろう。全15曲の《Physical Graffiti》(1975)から、3枚め〜5枚めのアウトテイク分7曲を削除して、新録音の8曲だけをMDに落とした53分39秒の 《Physical Graffiti 8/15》(2013)なる自家制作盤を愛聴している。
●今日は吉岡実の祥月命日だ。早いもので、1990年に亡くなって23年、歿年で折り返してみればその23年前は1967年。土方巽と出会い、永田耕衣と 対面し、暗黒舞踏に初めて触れ、思潮社版《吉岡実詩集》を刊行した節目の年である。今年も《吉岡実全詩集》を開いて吉岡さんを偲ぼう。春先から、10ポで 組んでA5判200ページ超の〈詩人としての吉岡実〉を執筆中である。吉岡の詩業を初期・前期・中期・後期に分けて概観しようというもので、秋ころまでに は完成させたい。


編集後記 126(2013年4月30日更新時)

吉岡実とジイドを 書いた。ウィキペディアは〈アンドレ・ジッド〉という表記で、本文に引いた新潮文庫の山内義雄訳《贋金つかい》の作者名もジッドだが、吉岡実がジイド派な ので、踏襲した。ジィドやジードは勘弁してほしい気がする。ベルグソンかベルクソンか(ウィキペディアでは〈アンリ・ベルクソン〉)、大学の講義で解説し た師の川本茂雄なら、やはりジッドというだろう。
竹西寛子評論集《現代の文章》の装丁に ついて書いた。《筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991)には、竹西の著書として次の6冊が挙がっている。装丁関係の記述も録しておくと、@《往還の記――日本の古典 に思う》(1964)、A《源氏物語論》(1967)「装幀 栃折久美子」、B《式子内親王・永福門院〔日本詩人選14〕》(1972)、C《現代の文 章》(1976)、D《読書の歳月》(1985)「装幀 吉岡実」、E《古語に聞く〔ちくま文庫〕》(1989)「カバー写真/井上隆雄撮影 志村ふくみ 「色と糸と織と」より」となる。Bはシリーズもので装丁者のクレジットはなく、おそらく吉岡以外の筑摩の社員による社内装丁であろう。CとDが吉岡実装 丁、Eは1981年刊の講談社版の文庫化。竹西の著書の場合、「文芸書」が吉岡実による装丁だったことになる(なお、ウィキペディアによれば@も栃折久美子の装丁である)。
●北園克衛の《液體》書評について書いた。〈吉 岡実の出版広告(1)〔2013年4月30日追記〕〉である。書評が載った詩雑誌《新詩論》は、北園と《新領土》の有力な書き手だっ た村野四郎による編集で、発行所は両誌ともアオイ書房だった。吉岡は入沢康夫との対談〈模糊とした世界へ〉(《現代詩手帖》1967年10月号)で「吉岡 〔……〕そのうちに北園克衛とかピカソ の詩に触発されて、これは面白いんじゃないかという感じで模倣して書いたのが『液体』という詩集です。/入沢 その頃、そういうモダニズムが戦前には 「新領土」などにあったそうですけど、そういうものはお読みになりましたか?/吉 岡  あまり読んでいないんですよ。俳句をやる人は周辺にいたけれども、友だちは一人もいなかったから、北園さんの本を求めて、それを真似したわけです」(同 誌、五七ページ)と語っている。戦前の吉岡は、俳句雑誌には作品を投じるほど積極的に関わっていながら、詩誌よりも北園や左川ちかの単行詩集でモダニズム 詩を学んだ点に著しい特徴があった。
● 《クリムゾン・キングの宮殿(In the Court of the Crimson King)》(1969)は五指に入るお気に入りのロックアルバムだが、いつも聴くわけではない。頃日、チェリビダッケ指揮するムソルグスキー《展覧会の 絵》(NHKテレビの録画)を振り出しに、グレッグ・レイクの〈賢人(The Sage)〉の動画を観て(以前、ギターソロの一部をコピーしたが、ポジションがかなり違っていた)、キング・クリムゾンの《エピタフ――1969年の追 憶(Epitaph)》(1997)を引っぱりだしてきた。CDのタスキに曰く「最初のレコーディングであるBBCスタジオ・ライヴから、最後のコンサー トとなったフィルモア・ウェスト公演まで、第1期クリムゾンの軌跡をたどるライヴCD2枚組」。続編の《続・エピタフ(Epitaph Volumes Three & Four)》(同)を聴くに及んで、スタジオ録音の2004年リマスター盤と2009年リミックス盤を聴かないわけにはいかなくなった。手許の《宮殿》は 国内盤LPと1989年のリマスター盤CDで、音質を気にしない一般リスナーの選択である。このリマスター盤、ロバート・フリップとトニー・アーノルドが 手がけているにもかかわらず、コピーマスターからのものだったという。身近な公共図書館所蔵CDの「出版年」「発行年」を見ても、1969年(これは初リ リース時)、1994年、2001年とあるから、似たりよったりだ。ちなみに国立国会図書館の東京:音楽映像資料室所蔵の録音資料は、@出版事項「[東 京] : 東芝EMI, 1987.2.」、発売番号「32VD-1063 (東芝EMI)」とA同「[東京] : ポニーキャニオン, 2001.8.」、同「PCCY-01523 (キャニオン・インターナショナル)」の2点で、大差ない。こうなれば、《In the Court of the Crimson King / An Observation by King Crimson》を 購入するしかない。1991年にシンコー・ミュージックから出たバンド・スコア(採譜・解説は佐藤史朗)を見ながら〈宮殿〉のマジックにやられたあとは、 解毒剤の服用だ。〈Miku " The court of the Crimson King " 初音ミク (クリムゾン・キングの宮殿)〉。キーがDからEへと全音上がったエンディングまで完奏するとは!


編集後記 125(2013年3月31日更新時)

〈首長族の病気〉と〈タコ〉に ついて書いた。岡井隆は〈吉岡実詩との一週間――「タコ」「サフラン摘み」その他〉(《ユリイカ》1973年9月号〈特集=吉岡実〉)で、〈タコ〉を論じ ている。「「タコ」の*印は三箇ある。三節にわかれた詩の、*は各節の第一行――否、零行にあたる。*印は、読者に何を伝える符号だろうか」(同誌、一七 七ページ)と問を発して、その2ページあとで律義に、「〈タコ〉の*印は〈サフラン摘み〉には無い。*印は、詩節の断片を意味するが、それは、もう一歩 突っ込んで言えば、詩人の内部を流れるイメージの断裂を示している」(同前、一七九ページ)と答える。詩篇標題の表記が「タコ」から〈タコ〉に変わってい るにもかかわらず、岡井はアステリスク(*)について考えつづけている。吉岡実詩を読むとは、まさしくこういうことではないか。
山本健吉《詩の自覚の歴史――遠き世 の詩人たち》の装丁に ついて書いた。吉岡実は〈遥かなる歌――啄木断想〉(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一四六ページ参照)で共感をこめて山本健吉の 解説文を引いているが、山本その人に触れた文章は残していない。山本が吉岡の詩について書いた文章もないのではないか。二人の関係は、著者である文芸評論 家と出版社である筑摩書房の人間、という面が強かったように思える。ときに、私が最初に親しんだ山本の著書は《現代俳句〔角川文庫〕》(角川書店、初版: 1964、改版8刷:1975)である。久しぶりに引っぱりだしてみると、吉岡も随想に引用したことのある山口誓子の句「赤鱝は毛物のごとき眼もて見る」 の評に「動詞終止形で止める方法は、彼や秋桜子・素十らが創[はじ]めたのであって、新興俳句によって一般化された」(同書、一六三ページ)とある。「赤 えいの生身の腹へ刃物を突き入れる」(〈過去〉B・17)。吉岡が《凍港》の赤鱝の句を知ったのは〈過去〉を書いたあとだったという。
●吉岡実の未刊行散文を発見した。題名は〈単独の鹿〉。 《日本の古本屋》に石神井書林が出品していた「翼鏡/小中英之、昭56、1冊/第二歌集 帯文吉岡實 初函帯」の帯文である。吉岡実の署名のある帯文は少 なくて、高柳重信句集・飯島耕一短篇小説集・夏石番矢句集・城戸朱理詩集・高貝弘也詩集の5冊が知られるだけだ。本書は、吉岡の帯文のある唯一の歌集とい うことになる。小中英之(1937〜2001)には第一歌集《わがからんどりえ》、第二歌集《翼鏡》以降の全短歌を収めた遺稿集《過客》があり、《小中英 之歌集〔現代短歌文庫〕》、さらには《小中英之全歌集》がある。この「孤高の精神を貫き続け、明澄なしらべとしなやかな文体、徹底した自己凝視と病痾の感 受性で、独自の抒情世界を彫琢した玄寂の歌人」(全歌集の惹句)の全貌を知りたいと思う。
●村野四郎と北園克衛が編集した詩雑誌《新詩論》の60号(1942年5月)に北園が《液體》(草蝉舎、1941)の書評を書いている。もっとも、自力で 発見したわけではない。「しっぷ・あほうい!」の2012年10月24日の日記〈アオイ書房『新詩論』を閲覧する〉をインターネットで読んだのがきっかけ だ。吉岡実詩集を世に初めて紹介したこの北園の書評について、来月にでも書いてみたい。
●年中聴きたいわけではないが、ドリーム・シアターやラッシュが無性に聴きたくなるときがある。ドリーム・シアターの《Black Clouds & Silver Linings》(2009)の〈The Best of Times〉はドラマーのマ イク・ポートノイが父親のことを書いた作品で、なかなかの佳曲だった。ポートノイを探索していたら、〈Mike Portnoy's Top 100 Albums Of All Time〉と いうサイトがあった。トップ10は年代順で、@The Beatles〈Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band〉、AThe Who〈Tommy〉、BDavid Bowie〈The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars〉、CElton John〈Goodbye Yellow Brick Road〉、DPink Floyd〈The Wall〉、EBeastie Boys〈Paul's Boutique〉、F〈Mr. Bungle〉、GJellyfish〈Spilt Milk〉、HRadiohead〈OK Computer〉、IMuse〈Absolution〉。前半はともかく、後半となると、GやH以外ほとんどわからない。ロックのアルバムを聴く楽しみ が、またひとつ増えた。


編集後記 124(2013年2月28日更新時)

三橋敏雄句集《疊の上》十二句撰のことを 書いた。三橋敏雄は俳句をめぐる散文の名手でもあった(吉岡は編著《耕衣百句》の解説文に三橋の〈鯰笑図 七句〉評を引いている)。私が感嘆するのは、たとえば朝日文庫版《高柳重信集》の 〈あとがき〉――「この「あとがき」は、高柳重信がもう少し長生きしていてくれたら、当然、彼が書くところであった。しかし、昭和五十八年七月八日午前六 時十四分、急逝した。死因となった肝硬変については、ふだん、まったく自覚がなかったようである。むしろ宿痾の胸部疾患による機能の変異を周囲では心配し ていた。側近の関係者によれば、その前々夜まで、昭和四十三年この方、編集長をつとめている俳句総合誌「俳句研究」の仕事に当たっていた。絶筆は、同誌昭 和五十八年八月号の「編集後記」であった」(《金子兜太 高柳重信集〔現代俳句の世界14〕》(朝日新聞社、1984年5月20日、三五二〜三五三ページ)というあたり――の、事実を叙しながら痛切な想いを秘め た文章だ。
《吉野弘詩集》の装丁に ついて書いた。ウィキペディアで吉野弘の項を見ると、浜田省吾のミニアルバム《CLUB SNOWBOUND》(1985)が紹介されている。の 項には「本作ではCDでの発売はなく、実質廃盤となっている。しかし、後に発売される『CLUB SURFBOUND』と一緒になったCD盤『CLUB SURF&SNOWBOUND』にて再発されている」(ウィキペディア)とあるので、《CLUB SURF&SNOWBOUND》(1987)を公共図書館で借りて聴いた。
●NPO知的資源イニシアティブ編《アーカイブのつくりかた――構築と活用入門》(勉 誠出版、2012年11月30日)を手にした。第V部の〈アーカイブをデジタルで活用する〉の実践事例、小出いずみ・山田仁美〈『渋沢栄一伝記資料』デジ タル化――参照する資料集から、情報連結のプラットフォームへ〉を興味深く読んだ。わが吉岡実アーカイブの参考にしたい点も数多い。たとえば、渋沢栄一記 念財団の内部で業務用に使用している「エキスパート・システム」(Excelにマクロ機能を搭載したもの)は、全68巻・本文4万8000ページの《渋沢 栄一伝記資料》の高精度な文字列検索を可能にしているという。すなわち「検索結果の表示は文字列出現巻ページ、検索語と前後数文字、項目名、該当頁PDF へのリンクなど」(同書、一九九ページ)。なんとも羨ましいかぎりだ。
●《図書新聞》の代表、井出彰《書評紙と共に歩んだ五〇年〔出版人に聞くH〕》(論 創社、2012年12月25日)を読んだ。《図書新聞》《週刊読書人》《日本読書新聞》(1984年に休刊。著者は1968年に入社、のち編集長)の3紙 が戦後の代表的な書評新聞だが、吉岡実は出版人として《図書新聞》に座談会を、詩人として《週刊読書人》に散文を、《日本読書新聞》に詩篇を主に発表して いる。本書には《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)の編集担当・大日方公男さんも登場する(氏はかつて《日本読書新聞》に在籍)。吉岡実と書評新聞は探求に値するテーマだと思 う。
●レッド・ツェッペリンの楽曲の要、ジミー・ペイジのギターフレーズを解説した教則DVD《Guitar World: How to Play the Best of Led Zeppelin》(Alfred Pub Co、2010)を視聴した(講師は《Guitar World》誌のミュージックエディターにしてギター講師のジミー・ブラウン)。左手のフィンガリングはもちろん、右手のフラットピックのdown/up の説明も壺にはまった出色の内容である。ペイジは時として違うコードを同時にぶつけてくるので要注意なのだが(例えば〈コミュニケイション・ブレイクダウ ン〉のリフでは、メインのE-D-A-Dに対してサブはE-D-D-D、と微妙に異なる)、〈天国への階段〉のファンファーレの入りのコードが1stギ ターはD、2ndギターはConD(C/D)というあたり(つまり2本のギターの構成音は、4弦開放Dから上に向かって同じくD・G・A・C・D・E・ F#)、PDFファイルのコピー譜は見事な出来だ。教則DVDは日本語の字幕なしだが、演奏しながらの解説なので講師の英語は理解しやすい。「ライヴでジ ミーはこう演ってるよ」と蘊蓄を傾けるのも見どころだ。
●「〔……〕音楽が記録されて以降の歴史において、ジミー・ペイジが最も「売れた」黒魔術師であるということとも関わっている。非常に入り組んだ迷宮のな かで、ペイジはおそらく何か強力な魔法を使ったのだ。それがどんな魔法なのか、わたしは知らない。わたしにわかるのは、「光と闇」を操るきわめて精緻かつ 徹底的な手法によって、レッド・ツェッペリンが神話的ともいえる魅力を放つ作品を作り上げた、ということだけだ」(エリック・デイヴィス著(石崎一樹訳) 《レッド・ツェッペリンW〔ロックの名盤!〕》、水声社、2013年1月1日、〇一八ページ)。本書で、改めてフェアポート・コンヴェンションや《指輪物 語》の重要性を認識した。ロバート・プラントの詩世界にももっと注目しなければならない。ジミー・ペイジ語りおろしの自伝《奇 跡》(ロッキング・オン、近刊)への期待が高まる。


編集後記 123(2013年1月31日更新時)

吉岡実と堀辰雄に ついて書いた。両者の関係は本文に尽きるので、別のことに触れる。堀が芥川龍之介の弟子であったようには、吉岡は堀の弟子ではない。面識もないはずだ。し かし、吉岡が詩節の区切りに用いるアステリスク(印刷用星形印*のこと)は、私の見るところ、堀辰雄経由の用法である。堀はアステリズム(⁂)も愛用した が、さすがに吉岡がこれを使うことはなかった。
詩集《液體》の組版に ついて書いた。内堀弘氏の《石神井書林古書目録》89号(2013年2月)掲載の《液体》は「函欠」で、「1075 液体 限定100部 非売品 函欠     吉岡實 昭16 262,500/ 草蝉舎刊。自費で刊行した第二詩集。巻頭に著者近影。あとがき(小林梁・池田行之連名)によると「召集令状を受けると第二詩集たる本書刊行の一切を私たち に嘱し」た。「内容の採択並に配列は一切著者の指図に従ひ、装幀は著者の自画及その指定に係わる素材を」用いたとある。吉岡は本書を戦地(満州)で受け 取った。函入で刊行され、それを欠いている。経年程度の変化はあるが状態は良好。前年に刊行された第一詩集『昏睡季節』同様、ほとんど見ることがない詩 集。」(同目録、四五ページ)とある。確かにこの貼函は傷みやすくて、手許の一本も芯紙に貼ってある「青染 柾和紙」が擦りきれて解体しそうだ。大東亜戦 争開戦二日後の1941年12月10日に本書が刊行され て以来、71年(吉岡実の生涯と同じ歳月)が経った。
●《吉岡実未刊行散文集 初出一覧》に〈追記W(2013 年1月31日)〉を掲げた。InDesignで組んだ〈編者あとがき〉のPDFファイルを公開した、という告知である。昨年の8月か ら、変更要素の少ない旧稿を逐次InDesignで組んできたが、今後はレイアウトが重要な文書に限ってPDF化したい。
●田中幸夫《卒論執筆のためのWord活用術――美しく仕上げる最短コース〔ブルーバックス〕》(講 談社、2012年10月20日)を読んだ。私はWordというソフトが嫌いで、自分の執筆では使わないが、OCRで読みとった文章のチェックでは重宝して いる。旧仮名遣いの文章だと、的外れな処を疑問出ししてくるので苛苛させられるが。本書の「本来しなくても済む作業」をWordにさせるという姿勢には共 感する。それというのも、InDesignでなにが助かるといって、柱文が見出しと連動するように指定しておけば、本文原稿の加除で見出しがページを移動 しても柱文が自動で修正される。この「テキスト変数」には、感心したというよりも呆れた。こんなに便利でいいのだろうか。ただし、見出しに旧字を使いたく て本文ページで字形を変更しても、柱文は連動しないようだ。これは困る。
《人間国宝 大坂弘道展――正倉院から甦った珠玉の木工芸》(練馬区立美術 館、2012年11月29日〜2013年2月11日)を観た。本の収納や楽器の装飾に活かしたら、さぞかし素晴らしかろう。
●レッド・ツェッペリンの《Celebration Day》リリースを機に過去のライヴ音源を聴きかえしている。録音年代順(〔 〕内は録音年次)に、@《BBC Sessions〔1969、1970〕》(1997)、A《How the West was Won〔1972〕》(2003)、B《The Song Remains the Same〔1973〕》(1976、2007)。C《Celebration Day〔2007〕》(2012)。細かいことをいえば、@はラジオ放送用の音源だし、Bは映画のサウンドトラック的側面があるものの、ツェッペリンの生 演奏を収録したものとして、すべて「ライヴ音源」だ。Bの1976年リリース盤(当初はLPレコード)は最初に公式発表されたものだけに、いちばん馴染み 深い。今回じっくり聴くまでは映像に引っぱられていたが、〈Dazed and Confused〉がベストトラックだ。@はバンド解散後のリリース。パリス・シアターでの演奏が熱い。ベストは〈Thank You〉。Aは文句なくトップクラスの作品。〈Rock and Roll〉の切れが凄まじい。Cは本割最後の曲〈Kashmir〉がベストだ。ライヴDVDの最高傑作は、1970年のロイヤル・アルバート・ホール公演 だろう。
●レッド・ツェッペリンがほんとうにすごいのは、通常のコンサートの海賊盤においてである。1971年8月31日、フロリダ州オーランドの市民会館での音 源《Led Zeppelin LIVE in Orlando 1971 FULL Concert》のプラントのヴォーカルはどうだ。セットリストが同年9月の初来日時とほとんど同じなのも嬉しい。後期では1977 年6月21日、カリフォルニア州のロサンゼルス・フォーラムでの《Listen to This, Eddie》。 ジョン・ボーナムのドラムスが途轍もないことを満天下に知らしめた、怒涛の190分間だ。私のように来日公演を2度とも観ていると、どうしても 《Physical Graffiti》以降の楽曲に親身になれないところがあって、ペイジの演奏能力が低下していった後期の公演はとりわけつらい。だが本作は、ツェッペリン の海賊盤ライヴの五指に入る逸品だ。想うに彼らの聖地は、ニューヨークでもロンドンでも、ましてやトウキョウでもなく、この天使の街だった。ベストトラッ クは〈No Quarter〉か、〈Achilles Last Stand〉か、いや〈Stairway to Heaven〉だ。Does anybody remember...the forest?


編集後記 122(2012年12月31日更新時)

〈《永田耕衣頌――〈手紙〉と〈撰句〉に依る》を編ん で〉を 書いた。《永田耕衣頌》の公刊の予定はないが、耕衣に関する吉岡のさまざまな文献を束ねる器として、冊子体の印刷物=書物以上のものを想像することは私に はできない。ウィキペディアによれば「電子書籍に関する自炊(じすい)とは、自ら所有する書籍や雑誌をイメージスキャナ等を使ってデジタルデータに変換す る行為(デジタイズ)を指す俗語」だから、複写機によるコピーの電子版と言えばそれに近いか。では、対義語は「外食」? 電子書籍が書物なら、「自炊」を めぐる編集論が待望される。
詩集《昏睡季節》の組版に ついて書いた。同書の制作過程は、あれほど初期の自作について熱心に語った吉岡の証言に照らしても、不明な点が多い。用紙は友だちの餞別だそうだが(より によってなぜ和紙だったのか)、印刷所の算段はどうしたのか。同書と稿本詩集《赤鴉》の詩篇(公刊された《赤鴉》には和歌と俳句しか載っていない)との関 係など、追究すべき問題は山積している。
●《吉岡実書誌》の《土方巽頌》の解題に追 記したように、《土方巽頌》の〈人名索引〉をInDesignで作成して、PDFファイルを公開した(土方巽頌・人名索引)。本の読み手として、無ければ文句のひとつ も言いたくなるものの、本の作り手として最も骨の折れるのがこの索引づくりである。野村保惠は《編集者の組版ルール基礎知識》(日本エディタースクール出 版部、2004)で「昔の人は、索引とは「後見出し」であるといわれましたが、しっかりと索引が整理されていれば、本の利用価値が高まりますから重要で す」(同書、八八ページ)と書いている。《土方巽頌》に人名 索引がないのは、ひょっとしたら、フランス語の本のように巻末に〈目次〉を置いたせいだろうか。
●8月末の更新で公開した〈吉岡実年譜〔改訂第2版〕〉を 読んでいると、いろいろなことを感じる。大きな仕事に区切りがついたときに旅行に出かけること、H氏賞や高見順賞、藤村記念歴程賞を受賞した記念に主に美 術作品を購入していること、1960年・70年・80年と10年ごとに詩篇の発表を控える期間を設け(世にいう「休筆」)、新たな詩風を模索すること、な どである。そうした動きを原理的に研究することももちろん大事だが、同時代を生きた人との交流にももっと注目すべきだと感じた。そうした関心の現われのひ とつとして、今回つくってみたのが、上記の《土方巽頌》の人名索引である。横組なので、〈目次〉と奥付の間にでもはさんで活用していただけるとありがた い。
●菅沼孝三《ドラム上達100の裏ワザ》(リッ トーミュージック、2006年12月31日)を読んだ。副題の「知ってトクする効果的な練習法&ヒント集」には違いないが、「トリプレッツ(3拍子)は、 すべての音楽のルーツのような気がする」を解説した一文に衝撃を受けた。「また、クラシックではその昔、3拍子を「完全リズム」としてとらえていた。完全 を表す拍子記号は「○」だったらしい。現在では、世の中で流れている楽曲のほとんどが4拍子だが、4拍子の拍子記号「C」は、完全だった「○」が欠けて 「C」になったと言われている」(同書、一一四ページ)。トリプレッツ(3拍子)に神秘的なものを感じていた自分がいて、それでも4拍子が主流だと高を 括っていたところを突かれたといえば、衝撃の実態に近いか。この一事に代表されるように、リズムあるいは音楽について深く考えつづけている著者の創見に充 ちた書で、ドラムを奏しない人間も楽しく読める。インターネットで観る弟子の川口千里や、右手のピッキングが信じられないくらい美しいギタリスト、田川ヒ ロアキとのセッションの映像も圧巻だ(菅沼は演奏していないが、ジェフ・ベックのナンバー、〈Scatterbrain(スキャターブレイン)〉での田川と川口の共演 は一見/一聴に値する)。


編集後記 121(2012年11月30日更新時)

《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第3版〕》のあとがきを 掲載した。初出未詳の詩篇〈模写――或はクートの絵から〉(E・4)の探索が成ったあかつきには、〔改訂第4版〕を印刷に付す所存だ。〔改訂第3版〕は、来るべき日までの〈Work in Progress(進行中の作品)〉という扱いにしておきたい。
吉岡実装丁と〈書肆山田の〈本〉展〉に ついて書いた。書肆山田にはその名も《書肆山田の本と書肆山田》(2011年10月15日)という印刷物がある。菊地信義が設計・造本・装丁にあたった リーフレットの説明するのは厄介だが、275×124ミリ仕上がりの16ページもので、横長8ページの紙を2枚重ねて両観音折した未 綴じ本、 で通じるだろうか。執筆者は、いろは順に入沢康夫・井川博年・池澤夏樹・石井辰彦・ぱくきょんみ・吉増剛造・高橋睦郎・高橋順子・高貝弘也・宇野邦一・岡 井隆(「吉岡實さんと並びて畏れ多し『E/T』もこの秋の光に」という一首が見える)・前田英樹・藤井貞和・是永駿・季村敏夫・木村迪夫・白石かずこ・志 村正雄・平田俊子・関口涼子・須永紀子・鈴木志郎康と、菊地の23人。これら、書肆山田と親しい作者からの巻紙の書簡のような冊子の詳細は〈リーフレット「書肆山田の本と書肆山田」〉で。創業50周年にはどんなも のを見せてくれるのだろう。
●《吉岡実の詩の世界》を開設して丸10年が経過した。120回の定期更新が一度の休載もなく続けられたのも、ひとえに読んでくださる方の存在あればこそ である。閲覧していただいた方に改めて御礼申しあげて、本サイトの現状をご報告する。開設時の総ページ数(A4での印刷換算)は約139ページだった。 10年後の現時点で、PDFファイルを除いて約1507ペー ジ、開設時のほぼ10.8倍となってい る。今年から、今までに書いてきた吉岡実関連の文書のPDFファイル化を始めた。通常のウェブページとの違いは、「印刷物に準じた資料」という位置づけ で、より定稿性が高い。現在までに、@吉岡実年譜〔改訂第2 版〕Aもろだけんじ句集《樹霊半束》B《吉岡実の詩の世界》 ゲストブック〔2005.11.7.-2003.4.14.〕C吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第3版〕の4タイトル がアップ済みで、今後も続刊の予定である。なお、10月末時点のアクセスカウンターの数値は033269だった。
 □ また、小林一郎のホームページ「吉岡実の詩の世界」(この文章の最後の「参考」を参照)は貴重で、吉岡実関連の網羅的な書誌、詩集『神秘的な時代の 詩』の詩についての論考など、非常に充実している。――《諧謔・人体・死・幻・言語――吉岡実のいくつかの詩を読む》
 □ 小林一郎さんの手に成る「吉岡実の詩の世界――詩人・装丁家吉岡実の作品と人物の研究――」。綿密で網羅的。本拙稿の準備のため、念のためウェブ上 の資料を検索して、今回初めてこうしたサイトがあることを知った。――《Night rain, in winter――吉岡実と餃子ライス》
 □ 小林一郎さんの《吉岡実の詩の世界》編集後記に、ここのことが出てました。――《「首長族の病気」――Tomotubby's Travel Blog》
 □ 詩人・装丁家の吉岡実の作品と人物について研究しているサイト。「吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈」のページでベルメールと四谷シモンに言及し ています。――《リンク――「ハンス・ベルメール:日本への紹介と影響」》
 □  私が好きな詩人というと、西脇順三郎と瀧口修造、吉岡実である。存命の詩人では、もう詩人とは言えない面も多い人ばかりだが、吉増剛造、平出隆、松浦寿 輝だ。女性では井坂洋子と小池昌代が好い。そして別格は谷川俊太郎である。こないだの"危険人物"が吉岡実の詩の世界というページを教えてくれた。すごい ファンがいるものである。――《ソフィア、トパロフ優勝》
●面映ゆいかぎりの評だが、こうした声を励みに今後も吉岡実と〈吉岡実〉に関する新稿の掲載、既存情報の補綴に努めたい。ところで、ウェブの情報は私の吉 岡実研究に裨益するところ大なるものがあるが、本サイトでは基本的に印刷物のみを文献として扱っている(私がウェブで公表した吉岡実関係の記事も〈吉岡実 参考文献目録〉に挙げていない)。この機会に、吉岡実関連の文章や古書、吉岡実論の書誌をインターネットで発信している方、機関に感謝したい。それらがな ければ、《吉岡実の詩の世界》は現状よりもだいぶ見劣りするものになっていたに違いない。
●レッド・ツェッペリンのロンドンはO2アリーナでの〈アーメット・アーティガン追悼コンサート〉のCD・DVDがついに出た(《祭典の日(奇跡のライヴ)》)。 現存メンバーによる渾身のSwan Song(白鳥の歌)である。セットリストの全16曲は、オリジナルのスタジオ録音に較べて一音下げが9曲、半音下げが1曲、ママが6曲。ロバートの声域 の都合による変更だが、ジミーのギターも併せて下げているため、常にも増して引っかかりの多い「ペイジ節」を連発している。信じがたいくらい素晴らしい。


編集後記 120(2012年10月31日更新時)

〈吉岡実詩の変遷あるいは詩語からの脱却〉に ついて書いた。吉岡実の詩集を通読していて感じることは、一冊ごとの統一性と、前後の詩集との違いである。《サフラン摘み》のように「吉岡実の詩集の中で はもっとも雑駁な印象を与える一冊」(松浦寿輝)もないわけではないが、《昏睡季節》に始まり《ムーンドロップ》に終わる詩集群はそれぞれ、冬の夜空に嵌 めこまれた星座のように、しかるべき空間にしかるべく位置しているように思われる。詩語の点からそれらを見ると、《紡錘形》と《静かな家》が最も著しい対 照をなしていよう。本稿では、それを特定の一語から考察してみた。
辻井喬詩集《たとえて雪月花》に ついて書いたが、《〈吉岡実〉の「本」》で取りあげるべき対象が残り少なくなってきた(筑摩書房の数次にわたる《太宰治全集》といった大物も控えてい る)。財力さえあれば入手可能な書物もあるが、市場に出回らない本もある。私は原則的に現物を手に取ったものでないと紹介しないから(一部、普及版を装丁 だけ改めた限定版で未見の書があり、その場合、引用した書影は罫で囲んである)、対象を見ないことには記事が書けない。2003年1月以来一度も休まず執 筆してきた同ページだが、やむなく休載ということもありえよう。私としては《吉岡実書誌》の〈W 装丁作品目録〉に ある全作品(存疑の作を含む)の紹介を目標にしているので、ぜひとも実現したい。未読の書籍の探求・収集を続ける一方で、新しいシリーズを検討している。 それは「吉岡実の手がけた本」の本文組版の分析で、まずは吉岡の著書の筆頭である単行詩集。自著の造本装丁は基本的に吉岡自身が行なったから、そこから得 られるものは少なくないだろう。
●2003年4月から2005年11月までの2年半、公開していた本サイトのゲストブックの書きこみ(ほとんどが私だが)をInDesignで組み、 PDFファイルをアップした(〈《吉岡実の詩の世界》 ゲストブック〔2005.11.7.-2003.4.14.〕〉)。その最後のページに書いたとおり、かつてこういうページも存在し た、という記録としてご覧いただければありがたい。いま本サイトに電子掲示板の機能はない。
●全収録曲をリマスタリングしたCD16枚組の《ザ・ビートルズ BOX》(EMI ミュージック・ジャパン、2009)を聴いた(以前のCDはみな単体で持っているが、1年半待って近くの公立図書館で借りた)。とりわけ、初期の作品が素 晴らしい。この「ビートルズ全集」、楽曲の裸形の姿が見えるとでもいえばいいのか、改版に際して活版から平版に印刷方式が変わった全集のようなおもむきが ある。
●次回11月は、いよいよ本サイトを開設して10周年である。〈編集後記〉では恒例のページボリュームの変遷をご報告するが、記事として特別なものは考え ていな い。現在、10周年記念特別付録として、12年前の2000年12月31日に刊行した《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第2版〕》を バージョンアップした〔改 訂第3版〕のPDFファイルを公開すべく、作業中である。ご期待いただきたい。


編集後記 119(2012年9月30日更新時)

木下杢太郎と福永武彦のサフランのスケッチに ついて書いた。西脇順三郎の詩に登場する植物について書いたのは会田綱雄だったが、吉岡実詩に出てくる草木を一覧にしたいと思いつつ、今日まで果たせずに いる。InDesignの索引作成機能を活用して、いずれは〈鳥 の名前〉いや〈吉岡実 詩の鳥の名前〉と 対になるような文章をまとめたいものだ。ときに、杢太郎の随想に〈隅田川の諸橋〉があって「厩橋は遠く見て形がもつとも悪い。近づくに及び、両側のトラッ スのアーチの相交錯する所に多少音楽的快感のないことはない。我々はしかしむしろこの橋に清洲のモチイフの再現することを望むものであつた」(《文学で探 検する隅田川の世界〔東京〕》かのう書房、1987年1月15日、二三七ページ)と見える。初出は昭和5年6月の《東京朝日新聞》だから、これは昭和4年 9月竣工の現在の厩橋についてだ。杢太郎による〈追記〉に、記事を読んだ読者から新聞社宛に抗議文(厩橋についてではない)が届いたとあるから、同文が辛 辣な批評だったことは確かのようだ。
●丸谷才一《快楽としての読書 日本篇〔ちくま文庫〕》(筑 摩書房、2012年4月10日)には本文庫初収録の書評が24本あって(全体では123本)、福永の《異邦の薫り》(新潮社、1979)を評した〈趣味性 と学問性と〉も含まれる。同文の結語「〔……〕趣味性と学問性とが端的に出てゐるのは、巻頭にある十三冊の訳詩集の色刷り写真と、巻末の訳詩年譜であら う。福永武彦といふ詩を愛し書物を好む文人にふさはしい著作である」(同書、三五二ページ)を不用意に読むと、カラーの書影が趣味性で訳詩の年譜が学問性 となりそうだが、そうではあるまい。中程に見える「学的厳密さによつて裏打ちされてゐながら、表面は楽しい趣味の書」(同書、三五〇ページ)を福永のス ケッチに当てはめてみたくなる。巻頭の〈書評と「週刊朝日」〉には「ポケット版の植物図鑑を散歩にたづさへて行つて樹や草の名を調べるのもいいし、 〔……〕」(同書、〇一九ページ)という一節さえある。
辻井喬詩集《沈める城》の装丁に ついて書いた。辻井喬には「吉岡実は、先輩たちが、思想性を捨てて表現様式としてのみ導入したために失われたモダニズム本来の体制破壊的(この場合、体制 とは政治体制そのものを指すのではない)な精神を、復活させた詩人であった。彼の内部には、思想≠ニしてのモダニズムが、そしてそれを支える何かがあっ たのである」(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991、二四五ページ)という一節をもつ〈吉岡実の詩法――世界そのものとしての喩〉がある。「吉岡実の主張する「白紙の状態」の主 人公は吉岡実の体内から這い出してきた、生の場合には死であり、死の場合には生であるような他者、であることによって著しくモノローグ的と錯覚されるもう 一人の吉岡実なの だ。しかも、この他者は、一篇の詩が書き進められるにつれて一行ごとに開かれた世界から顔を出すのである」(同書、二四九ページ)というのがその結論だ が、「著しくモノローグ的と錯覚されるもう一人の吉岡実」の含意は大きい。
●宇佐見英治(1918-2002)の書簡・原稿・美術作品・著書を展示した作家展〈宇佐見英治 没後十年展〉(ハックルベリーブックス、2012年9月15日〜16日)を観た。柏までの車中、藤村記念歴程賞受賞の《雲と天人》(岩 波書店、1981)を読みつづけたが、文藝空間の仲間と厄介になった北軽井沢の山荘が登場するので、懐かしかった。リーフレットに長男の森吉(同人なので 敬称を略す)が晩年の父親の肖像を書いている。「時間が許すならば父はさらに敬愛する谷崎潤一郎に捧げた一連の文章からなる撰文集〔……〕を上梓すること を夢見ていたが、その夢はかなわなかった」。吉岡実編集のPR誌《ちくま》第46号(1973年2月)に〈谷崎潤一郎の触覚的文体〉が掲載されているか ら、筑摩書房が宇佐見さんの谷崎潤一郎論を吉岡実装丁で出してもおかしくなかった。
●もろだけんじ句集《樹霊半束》をPDFファイ ルで公開した(《樹霊半束》三刊について〔追記〕も 参照されたい)。レイアウトや漢字の異体字の表示など、InDesignでほぼ思いどおりの紙面にできたが、実際に作業してみてわかったことがある。基本 となる本文の組体裁を確定するまでは試行錯誤の連続だが、決めてしまえばあとは見出しや改ページ・改丁の方針を守ってひたすらページをメークアップしてい くだけだ。一方、目次や奥付となると、本文組との関係は(版面内に収めるといった鉄則を除けば)ほとんどないから、組み手の意図や狙いが問われる。扉や表 紙・ジャケットとなると、デザイン上の創意も加わってきて、レイアウトや組版からは遠くなる。そうしたこ と を佐藤直樹+ASYL《レイアウト、基本の「き」》(グラフィック社、2012年6月25日)で学んでいるところだ。
〈サイトマップ(全ページの概略目次)〉を手直し した。PDFファイルをアップする機会が増えるので、末尾に専用目次を新設した。通常の概略目次にも掲載しているので、重出ということになる。


編集後記 118(2012年8月31日更新時)

吉岡実と篠田一士の ことを書いた。先日、横光利一の小説を篠田がどう論じているか知りたくて、吉岡が装丁を手掛けた《日本の近代小説》(集英社、1988年2月10日)の 〈風俗の効用について〉を読みなおしていたら、「描写――すなわち、『小説神髄』の作者の言葉をそのまま用いれば「写真」ということになるが、〔……〕。 /ところが、この「写真」という言葉を追ってゆくと、「摸擬」「摸写」という風に変容、変形し、挙句のはてには、「摸写小説」といった言葉が現われ、これ には、アーチスチック・ノベルとルビが振ってある。こうなると、現行の日本語の用法ではなんとも理解できない語法があるわけで、『小説神髄』のための glossaireがつくられて然るべきではないかという気がしてくる」(同書、一三二ページ)とあった。吉岡の詩〈模写――或はクートの絵から〉(E・ 4)の初出が気にかかる私だからだろうが、こんな一節が天啓のように訪れるのも再読の効験である。
●本文でも触れた篠田一士《詩的言語〔晶文選書〕》(晶文社、1968)は、東洋印刷による活版印刷で、本文9ポ45字詰18行縦組。ぶら下げ組(対象は 句読点に限る)だが、(」)や(』)などの受けの括弧類がぶら下がっているのには、驚くとともにがっくりきてしまう。篠田の文には作品名や書名が異常なま でに多くて、括弧類が頻出するのはたしかだが、同じ行のその直前には、二分の読点(、)+二分アキ( )+二分アキ( )+二分の二重鍵(『)があって、この二分アキ( )はひとつ余計だから、なおさら鍵括弧(』)のぶら下げが目立つ(同書、六三ページ)。このほかにも、山パーレン(《》)ではなく、数学記号の不等号 (≪≫)が入っていたりする(同書、五七ページ)。「組版の作業を読者に気づかせないのがよい組版だ」とするなら、上記のような違和を含む本書に及第点は 与えられない。《詩的言語〔小沢コレクション〕》(小沢書店、1985)もぶら下げ組を採用しているが、こちらは括弧類の組み方も筋が通っている。印刷所 は明和印刷で、組版は新規である。
飯島耕一詩集《宮古》の装丁に ついて書いた。本書は私が日本エディタースクールに通っていた1979年に刊行された。クラスの大半は20代前半の若者で、そんななかに沖縄・宮古島出身 の女性がい た。詩を読むようには見えなかったので、本書の存在を教えた。読後、著者に連絡を取ったらしく、飯島さんからレスポンスがあったと聞いた。《宮古》をめぐ るささやかな想い出である。
●〈『食道楽』の人 村井弦斎」を見て、聴いて、食べる。――黒岩比佐子が遺した「世界」〉(新宿・矢来町のアート ガレー カグラザカ、8月4日〜5日)で、黒岩さんの遺した村井弦斎関連資料を閲覧した。《食道楽》のまさざまな版や、《『食道楽』の人 村井弦斎》初 期バージョンの〈序章〉、赤字の入った校正紙、研究者や担当編集者に宛てた書簡(その手蹟の美しいこと!)も見物だったが、弦斎に関する何冊もの手書きの ノート(横罫のごくふつうのキャンパスノート)に打たれた。とりわけ弦斎の命日に墓参に行くくだりや資料の貸借メモの記載。こうした取材や調査、準備のう えに、あの大作が花開いたのだ。イベントを支えたスタッフの、黒岩さんへの敬愛に満ちた展示だった。
●InDesignの操作に慣れる意味もあって、このところ旧稿に手を入れている。今回は《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)掲載の〈吉岡実年譜〉の改訂版を作成して、PDFファイル〈吉岡実年譜〔改訂第2版〕〉をアップした。詳細は〈吉岡実の年譜〉の 〔追記〕の文章をご覧いただきたいが、本サイトの〈目次〉にもその項目を設けたため、トップページの文言に手を入れて分量を調節した。年譜を収録した文庫 本の書名(柱)が《吉岡実詩集》となっているのは、架空の書物《吉岡実詩集》の本文に《僧侶》《サフラン摘み》《薬玉》という三冊の詩集を想定して、本文 はもちろんのこと、扉や目次、解説や書誌、奥付まで書いてみたその〈年譜〉という体裁で組んだからである。ついでに〈目次〉の抜粋を掲げれば、僧侶… 11、サフラン摘み…71、薬玉…225、人と作品…311、年譜…320、著書目録…362となる。できることなら、三冊の代表作を単行詩集や全詩集で 読んでから――欲をいえば〈吉岡実年譜〔作品 篇〕〉を傍らに置いて――本年譜に接していただくと、雰囲気が出ると思う。吉岡実文献の再発プロジェクトは、InDesignを中心 に進めることになるだろう。
●8月末、家族で鳥取・島根を旅行した。鳥取砂丘、青山剛昌ふるさと館、宍道湖(松江城を遠望する)、水木しげる記念館(水木しげるロードを通って)、古 代出雲歴史博物館を巡り、出雲大社に参拝した。吉岡実は1980年陽春、宍道湖、松江城、出雲大社などを見ているが、自筆年譜で触れられているだけで、随 想などの文章は残されていない。


編集後記 117(2012年7月31日更新時)

吉岡実と骨董書画に ついて書いた。白崎秀雄《鈍翁・益田孝〔中公文庫〕下巻》(中央公論社、1998年10月16日)にこうある。「また、昭和五十五年その瀬津雅陶堂で行わ れた「鈍翁展」に、「螺鈿蜻蛉蝶菊文鞍」というものが出品された。わたしは、その繊細さ優美さ、加えてその完好さに、しばしその前に立ちつくした。国宝に 指定されている日本の鞍には、「時雨螺鈿鞍」と、「円文螺鈿鏡鞍」の二点がある。いずれも鎌倉期の優品にはちがいないが、わたしには鈍翁旧蔵のこの鞍の方 が、一段と意匠が優美で生きていて、作も古く、平安期にまで上るものではないかと見えた。/「あの鞍は、一番上の蔵の長持の中に、なにか入ってないかとい うのであけてみたら、鼠の死骸と一緒にあったものです」と〔瀬津雅陶堂の番頭で、最も多く益田の蔵へ通った瀬津〕古平はいう。/鈍翁のおびただしい茶会や 展観に、この鞍が出品されたことを示す文献は、わたしの見ているかぎりではない」(同書、三八〇ページ)。この「鈍翁展」図録が本文で触れた《雅》で、鈍 翁旧蔵の鞍の写真も掲載されている。白崎の著書に〈桃鳩図〉への言及はあるものの、〈猫図〉は出てこない。
《定本 那珂太郎詩集》の装丁に ついて書いた。吉岡実は、これも小澤書店から出た那珂の《萩原朔太郎その他》(1975)の装丁を手掛けており、1978年に出た本書までの間に高橋睦郎 の《詩人の血》《球体の息子》《聖という場》のエッセイ三部作を装丁している。吉岡装丁の同書店の本はもっとあるような気がするが、実際には那珂と高橋の この5冊だけだ。小澤書店/小沢書店のブックデザインと吉岡実装丁の比較研究は興味深いテーマだと思う。
●大谷能生《植草甚一の勉強――1967-1979全著作解題》(本 の雑誌社、2012年1月25日)を読んだ。私は植草甚一の熱心な読者とはいいがたいが、副題 に「全著作解題」とある以上、誰が誰について書いた本であれ手にしないわけにはいかない。「文章からどうしても映画のイメージが浮かんで来ないとき、植草 甚一は原稿を書くための手つづきとして、まずは作品の外堀を埋めるために、おもに海外雑誌から得たその作品のデータを並べて、その監督についてこれまで語 られてきた批評の言葉を拾ってゆく。書かれてある文章は映画についての記憶と異なり、実際に目の前にあって書き写すことが可能なので、文脈を辿りながらそ のようにして指を動かしているうちに、昨日見た「映画」はまた再び、細部まではっきりとしたイメージのつながりを取り戻してくれるかもしれない……。こう した試みの一環から生まれてくるものとして、彼のコラージュや粘土細工などの「手遊び」は位置しているように、ぼくには思われる。植草甚一の映画批評の多 くは、こうして、海外の批評から得られた書誌学的なデータと、彼が丸ごと記憶している視覚的なイメージとを奇妙な具合に混合させることで書かれることにな る」(一一二〜一一三ページ)という箇所に注目した。そのまえに「試写メモをたよりに最初から最後までイメージがどうにかつなぎ合わさってこないと、ぼく には原稿が書けない」(一一一ページ)という植草の言があるだけに、書誌学的データと視覚的イメージを「手遊び」が媒介するという指摘は首肯できる。あ の、データとイメージの見事な結合、《植草甚一/マイ・フェイヴァリット・シングス》展の図録(世田谷文学館、2007)を観かえしたいのだが、わが家の どこかに埋もれていて、探しだせない。
●このところTotoを聴いている。正確に言えば、ジェフ・ポーカロ(1954-92)のドラミングを中心に聴きかえしてい る。バンド結成25周年のアムステルダムでのライヴ(2003)では、後任のサイモン・フィリップスが叩いていて、鋼のタガで締めあげたようなリズムキー プは鳥肌ものだ。それを認めたうえで、叶わないことながら、〈グッドバイ・エリノア(Goodbye Elenore)〉などの初期の 楽曲――スタジオ録音ではポーカロが担当――を円熟した本人のドラミン グで聴いてみたかった(《スタジオライト ドラム教室:エッセイ・メニュー》のポーカロとフィリッ プスの項目が興味深い)。ポーカロ唯一のドラム教則ビデオ(1988)も、短いながら素晴らしかった。ジェフ・ポーカロといえば、これ。〈ロザーナ(Rosanna)〉のハーフタイム・シャッフル


編集後記 116(2012年6月30日更新時)

●兵士として戦争を体験した宮柊二と長谷川素逝の歌集と句集に ついて書いた。吉岡実の詩を読んでいると、詩篇を執筆している「現在」になんの前触れもなく「戦時」が地続きで出現することがしばしばある。それはフラッ シュバックと呼んでもいいくらいで、吉岡の戦後のすべての詩集を戦争詩集だと思わせるほどに強いため、「戦時」の侵入のまえでは実際の戦時下での吉岡の文 筆活動の有無はほとんど消しとんでしまう。むろん、それが現存するとして兵隊時代の「日記一冊と詩一冊のノート」(〈高柳重信・散らし書き〉)が重要この うえないことは言うまでもないのだが。吉岡が戦時下の文筆活動について多くを語っていないのは、語るに値するものがないからだろう。宮の歌集や長谷川の句 集を、吉岡の謂う戦争文学として読むことに不都合はない。
石垣りん詩集《略歴》の装丁に ついて書いた。石垣の詩篇や単行本のあとがきには、たびたび吉岡実が登場する。一方、吉岡は石垣の著書の装丁はおそらく気軽に引きうけたものの、その詩で はもちろん、文章でも、また私の知るかぎり残された談話でも、石垣に言及したことはない。一体に吉岡は女の詩人の作品に触れることが少なかったが、白石か ずこや金井美恵子ほどでなくてもいいから、石垣(作品)について書いた文章が読みたかった。
●野村保惠《編集者の組版ルール基礎知識》(日本エディタースクール出版部、2004)については前回の〈編集後記〉に書いたが、野村保惠《本づくりの常 識・非常識〔第二版〕》(印 刷学会出版部、2007年9月25日)を読んでいたらおそろしいことに気がついた。「本函は、貼函・機械函・組立函に分けられます」。「貼函は、台となる 函を予め組立てておき、上に別に印刷した紙とか、クロスなどを貼る方法でつくります」。針金函(機械函)は「針金で止めた簡易な函です。/高価な専門書の 函によく使われます」。ここまではいい。問題は次の箇所だ。組立函は「針金を使用しないで、糊で貼る函です。/印刷→型抜き(筋押)→組立(糊付け)/印 刷は多色刷りが多く、何面付きかで印刷されて、あらかじめつくった型で抜き、同時に筋押しをします。これを組み立てて糊で接着します」(同書、二〇六〜二 〇八ページ)。私は《〈吉岡実〉の「本」》で吉岡の装丁作品を紹介する際に、仕様の説明で本函を貼函と機械函に二分しただけで(針金函と組立函を機械函と 総称していた)、針金やホチキスの代わりに糊付けしてある機械函、などと解説している。野村の分類どおり、本函には@貼函A針金函(機械函)B組立函があ る、として、「糊付けした函」は組立函と称すべきだ。所蔵の吉岡実装丁本は、吉岡の編著書は別置とするが、自宅の各処に分散している。これらを一箇所に集 めて刊行順に排列し、函の形状を確認しさえすれば〔機械函→組立函〕の訂正などたかが知れている。だが、今はその時間と作業場所がとれない。吉岡実装丁本 の全冊を掲載したあとには、なんとかせねばならない(そのまえに、未入手のあの本この本の算段が控えているのだが)。
●《沢田研二 LIVE 2011〜2012 ゲスト:瞳みのる・森本太郎・岸部一徳》のツアーファイナル(日本武道館、2012年1月24日)を全篇収録したDVDが 発売された。大半(26曲中18曲)がすでにNHK BSプレミアムでテレビ放映された演奏だが、時間の都合でオンエアできなかった楽曲も収録されている。とりわけ〈割れた地球〉(《ヒュー マン・ルネッサンス》の「アートロックナンバー」!)や〈淋しい雨〉(〈スマイル・フォー・ミー〉B面の珠玉ナンバー)が初めて聴けるのは嬉しい。いずれ にしても、今回のツアーのリーダーが名実ともに沢田であることを知らしめる見事な選曲であり、近い将来の加橋かつみを含むザ・タイガースの完全復活が待望 される。加橋の〈廃虚の鳩〉や〈花の首飾り〉(今回は沢田が歌唱)が聴きたい。そして、岸部四郎の元気な姿が観たい。


編集後記 115(2012年5月31日更新時)

吉岡実と横光利一について書い た。横光の短篇小説を再読しようと、《機械・春は馬車に乗って〔新潮文庫〕》(初版:1969、25刷:1984)を引っぱり出したはいいが、改行のほと んどない〈機械〉を見て怖気を振るった。調べてみると、筒井康隆朗読の音源(新潮カセットブック、1988)があったので、図書館から借りて聴いた。横光 自身の朗読(あるとは思えないが)よりもいいのではないか。なによりも話者の狂気が自ずと滲みでているところがいい。筒井はホ リプロ所属の俳優でもある。
鍵谷幸信《詩人 西脇順三郎》の装丁に ついて書いた。本文で鍵谷編の西脇による詩論集に触れたが、こんにち最も手軽に読める一冊本の詩論集は新倉俊一編《西脇順三郎コレクション〔第4巻〕評論 集1》(慶 應義塾大学出版会、2007年9月10日)である。これは《超現実主義詩論》、《シュルレアリスム文学論》、《輪のある世界》(ただし巻末の〈津軽の若い 民俗学者〉を除く)、《純粋な鶯》を全篇収録している。昭和初年(1929-34)にかけて刊行された西脇順三郎の詩論すべてがこの一冊で読めるのだか ら、定価5,460円は決して高くはない。
●このところ、10ccの 〈フィール・ザ・ベネフィット(Feel the Benefit)〉(1977年のアルバム《愛ゆえに(Deceptive Bends)》のラストナンバー)をオリジナル、1977年のライヴ、1993年のライヴ(これは来日公演での録音)で聴いている。以前、ジェネシスの 〈サパーズ・レディ(Supper's Ready)〉(1972)に触れて、吉岡の〈死児〉(C・19)を想い出すと書いたが、一体に私はこの手の組曲形式の楽曲に弱い。この系譜の淵源は、 ビートルズ《アビイ・ロード》(1969)B面のメドレー、あるいはクロスビー、スティルス&ナッシュのその名も〈組曲:青い眼のジュディ(Suite: Judy Blue Eyes)〉(1969)あたりか。 ビートルズといえば、ジョン・レノン作の〈ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン(Happiness is a Warm Gun)〉(1968) も忘れられない。ウィキペディアに拠れば「ポール・マッカートニーは、このアルバム〔《ザ・ビートルズ》のこと〕ではこの曲がいちばん好きだと述べてい る」そうだから、ポールもこの手の楽曲に惹かれるところ、大なのだろう。ちなみにポールは、《プレス・トゥ・プレイ》(1986)で〈フィール・ザ・ベネ フィット〉の作者エリック・スチュワートと共作している。
●Adobe InDesign CS6を購入した。2年ほどまえパソコンをリプレースしたとき、DTPまわりは未だ手つかずだと書いたが、以後もとくに不便を感じなかったためソフトの導 入に積極的になれなかった(以前はAdobe PageMaker 6.5Jを使用)。ここへきて、懸案だった吉岡実の全詩集の本文校異を完了したこともあり、未刊詩篇を含む吉岡実の詩・和歌・俳句を創作順に収録した自分 独りのための作業用印刷物《吉岡実の全詩業》(仮題)をまとめたい。要は《吉 岡実年譜〔作品篇〕》に 列挙してある詩歌句を網羅し、手入れがある場合はその変遷をも明らかにした本文を収録しようというもの。ウェブ上で表示できなかった旧字等は、 InDesignの異体字表示機能に期待する。本サイトの記事との並行作業になるが、完成の暁には吉岡実研究に新展開を図りたい。続刊(?)予定のタイト ルを掲げる。《吉岡実未刊行散文集〔最新版〕》、《吉岡実未刊詩篇〔最新版〕》、《永田耕衣頌――〈手紙〉と〈撰句〉に依る》(中心になるのは《耕衣百 句》の解説たる〈覚書〉)。いま熟読中なのが、野村保惠《編集者の組版ルール基礎知識》(日本エディタースクール出版部、2004)と生田信一・大森祐二 《InDesign標準デザイン講座》(翔泳社、2012)の二冊の「教科書」である。大橋幸二《Adobe InDesign 文字組み徹底攻略ガイド〔第3版〕》(ワークスコーポレーション、2010)も必携だ。
●《〈吉岡実〉を語る》の口絵に掲げている〈吉 岡実の手蹟 〔詩篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿〕〉を 差し替えた。といっても元の手蹟は同じもので、先月までは額装のマット部分まで収めていたため文字が小さくて読みづらかった。さきごろ画像を整理していた ら容量が大きくて読みやすい写真があったので、原稿用紙部分の天地寸法に合わせてトリミングした。プリントするといまいちだが、モニタ上では充分お楽しみ いただけると思 う。早いもので、吉岡さんが亡くなられて22年が経った。


編集後記 114(2012年4月30日更新時)

1919年生まれの吉岡実のことを 書いた。西暦1919年は大正8年で、ウィキペディアに 拠ればこの年、菊池寛の〈恩讐の彼方に〉や有島武郎の《或る女》が発表され、5月4日に中華民国で五・四運動が起こり、7月7日にカルピスが販売開始、8 月に田辺元(のち筑摩書房から全集が出る)が西田幾多郎に招聘されて京都帝国大学文学部助教授に就任している、というようなことがたちどころにわかる。し かし、この手軽さはいったいなんだろう。ツールとしての重層性がない(それはリンクの有無とは無関係で、価値の多面性がないといえば近いか)のも不満だ が、情報自体のツルツルしたミラーコート紙のような感触は、20世紀の半ば過ぎに生を享けた私のような者には違和感以外のなにものでもない。所詮これは粗 筋で本篇は別にある、という感懐は抜きがたい。
丸谷才一《みみづくの夢》の装丁に ついて書いた。1985年・中央公論社刊の同書は、グレアム・グリーン(丸谷訳)《不良少年》(筑摩書房、1952)以来の吉岡実装丁の丸谷の本となっ た。以後は間を置かず《鳥の歌》(福武書店、1987)、石川淳・丸谷才一・杉本秀太郎・大岡信《浅酌歌仙》(集英社、1988) と続く。これらの著書がみな吉岡が1978年に筑摩書房を退いてからの仕事なのは注目に値する(しかも版元がすべて異なる)。吉岡のエロティクきわまる詩 を教科書に載せろとは言わない、という文章をどこかで読んだことがあるが、丸谷才一の本格的な吉岡実論が読みたい。三浦雅士は《ユリイカ》の吉岡実特集号 のとき、丸谷には頼まなかったのだろうか。
●丸谷才一のエッセイ〈『ギネス・ブック』の半世紀〉(《綾とりで天の川》所 収)に拠れば、ギネス醸造会社の代表取締役サー・ヒュー・ビーヴァーがノリス・マクワーターとロス・マクワーターに編集を委嘱した《ギネス・ブック》の第 一版(大真面目な、文章の多いものだったそうだ)が出たのが1955年の8月。まさに《静物》と同年同月の刊行である。ついでだからウィキペディアを引く と、《僧侶》刊行の1958年11月は「東海道本線東京 - 大阪間で国鉄初の電車特急「こだま」が運転開始」「宮内庁、皇太子・明仁親王と正田美智子の婚約を発表、ミッチー・ブームはじまる」、《サフラン摘み》刊 行の1976年9月は「中国共産党の毛沢東主席が死去。中国政府はソ連、東欧諸国などの弔電受け取り拒否」、《薬玉》刊行の1983年10月は「三宅島大 噴火」などとある。けっこう役に立つ。
●4月8日、〈Yahoo!オークション〉に「署名本、吉岡実、私家版詩集『静物』、初版函、昭和30年、200部」が出品された(入札は5,000円か ら始まり、最終的な落札価格は77,500円)。「吉岡実の私家版詩集『静物』の署名本です。昭和30年刊で初版函付、限定200部。/コンディションに ついて、本冊は汚れ、焼け、しみなど僅かにあるも、元セロも付いて好印象です。函は焼けが少し目立ちますが、その他はまずまずです。画像をご参照願いま す」という説明があり、掲載写真の見返しには「鈴木二朔様〔旁の下は「次」〕/吉岡實」と刊行当時の筆跡でペン書きされている。鈴木二朔は初めて目にする 名前なので検索してみると、《小山清著書目録》に 《犬の生活》(筑摩書房、1955)の装丁者として挙がっていた。なおも調べつづけてみると、C・D・ルーイス(深瀬基寛訳)《詩をよむ若き人々のため に》(同、同年)、中野重治《外とのつながり》(同、1956)や天野格之助《女の悲しみ――ギリシャ悲劇は終ったか?〔河出新書〕》(河出書房、 1955)などの装丁作品があった(いずれも未見)。吉田健男ほど点数は多くないにしろ、《静物》刊行当時、筑摩書房の書籍を装丁していた外部の人間と思 われる。私の知るかぎり、鈴木二朔が吉岡実の著作と関わった形跡はない。
●ジム・フジーリ著(村上春樹訳)《ペット・サウンズ〔新潮文庫〕》(新潮社、2011年12月1日)を読んだ。原書名“PET SOUNDS(33 1/3)”のLPレコードの回転数が示すように、1966年の発表以来40年近く音源を聴きこんできた著者による、この作品と作者(ブライアン・ウィルソ ン)への愛情に溢れた一書。久しぶりに《ペット・サウンズ》のCDを聴きかえした。気になったので《ペット・サウンズ 日本盤CDの変遷》と いうサイトで調べてみると、手許の盤は1990年12月12日発売のものだった。これには山下達郎のライナーノーツが載っていないので、近くの公立図書館 で1995年6月28日発売の盤を借りて読んだ(収録曲は同じ)。これが濃い緑の地色にスミ文字のとんでもなく読みにくいしろものだが、達郎のライナー ノーツの主旨はわかった。ハル・ブレインのドラムに要注意らしい。だが、いかんせんオリジナルのモノラルミックスなのでよく聴きわけられない。ステレオ ミックスのCDを借りて、今度じっくり聴いてみよう。《ペット・サウンズ》、なかなかどうして手強いアルバムだ。


編集後記 113(2012年3月31日更新時)

吉岡実の近代俳句選に ついて書いた。本サイトで新設したいページのひとつに、吉岡が随想に引用した詩篇・短歌・俳句の作者と出典を明らかにする、というのがある(《吉岡実言及 詩歌句索引》と仮称しておこう)。たとえば〈大原の曼珠沙華〉の「まさしく、誓子のつきぬけて天上の紺曼珠沙華≠フ絶唱を実感した」の俳句に対して、 「山口誓子句集《七曜》(三 省堂、1942〔昭和17〕)所収」とするような按配だ。そもそもこうした典拠のデータベースをめざしたのが《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》 だったわけで、自分でもあやうく忘れるところだった。さいわい《七曜》は吉岡がほかの随想で触れていて同索引に掲載済みなので、サンプルとしてリンクを はってみた。
野原一夫《含羞の人――回想の古田 晁》の装丁に ついて書いた。この「含羞の人」という書名だが、田村泰次郎の坂口安吾追悼文に〈含羞の人〉――初出は《坂口安吾選集〔第6巻〕》(東京創元社、 1956)の〈月報〉で、のち《坂口安吾研究T》(冬樹社、1972)所収――があり、矢代静一に《含羞の人――私の太宰治》(河出書房新社、1986) があり、秋元千恵子に《含羞の人――歌人・上田三四二の生涯》(不識書院、2005)があり、藤波孝生追悼集《含羞の人》(藤波孝生追悼集刊行委員会、 2008)がある。対象となった本人が言挙げしているわけではないが(ただし、太宰は「含羞[はにかみ]」と書く)、書名のプライオリティを云云するつも りもないのだが、世間にはこれほどにも「含羞の人」がいたのかと慨嘆するほかない。
●2012年1月から国立国会図書館のNDL-OPACが 新しくなった。同館のサイトでは、新しいNDL-OPACは@検索対象が増え、Aデジタル化資料も利用しやすくなり、B新しい機能が追加され、C稼働時間 が増え、D固定URL(以前のNDL-OPACで書誌詳細表示・雑誌記事索引詳細表示画面に割り当てられていた)は引き続き利用可能、と謳っているので、 さっそく利用してみる。簡易検索のキーワードに「個人書誌」と指定すると19件ヒットし、17番めが私の〈個人書誌《吉岡実の詩の世界》をwebサイトに つくる〉である。タイトルをクリックすると、表示形式が標準形式の画面に遷移する。表示形式には三つ――(1)標準形式(2)引用形式(3)MARCタグ 形式――がある。以前の固定URLはこの標準形式に相当する表示形式しかなかったから、便利には違いない。今回、新設されたダウンロード機能も充実してい る。だが不満もある。私は当サイトの作業用に《筑摩書房の三十年》(筑摩書房、1970)の巻末資料〈小社発行図書総目録〉(自 昭和15年6月18日/ 至 昭和45年6月18日)の掲載書目を国会図書館所蔵本で実見・確認すべく、昨年末から対応リストづくりを進めている。最終的にExcelでデータを管 理するつもりなのだが、国会図書館所蔵本を固定URLで対応させていた。この作業ができなくなって困っているのだ。書誌詳細表示画面下方にあった43桁の 「http://opac.ndl.go.jp/articleid/9449614/jpn」が懐かしい(これなら従来の作業が可能)。現在の標準形式 のURLは168桁もある! さて、筑摩書房のNDL本をどう対応させたものか。
●その新しいNDL-OPACで検索していたら、これまで見たことのなかった資料、日本文芸家協会編《日本詩集 1961-1》(国文社、1961年7月5日)がヒットした。 新装なった国会図書館で閲覧すると(同書は〈国立国会図書館のデジタル化資料〉で、「この資料は、 国立国会図書館の館内でのみご覧いただけます。/また、図書・雑誌・古典籍資料の場合は、遠隔複写サービスもご利用いただけます」と便利なんだか面倒なん だか)、期待どおり吉岡実の未刊行散文だった。新発見の未刊行散文の詳細は〈〈首 長族の病気〉のスルス〔2012年3月31日追記〕〉をお読みいただきたい。
●3月23日、NHK BSプレミアムのテレビ番組〈沢田研二Live 2011〜2012 ツアー・ファイナル 日本武道館 〜瞳みのる・森本太郎・岸部一徳をむかえて〜 ザ・タイガースを歌う〉を観た(22:00〜23:29)。今年1月24日の沢田のツアー最終日のステージ(〈Mr. Moonlight〉に始まり〈(I Can't Get No) Satisfaction〉に終わる全26曲中18曲がオンエアされた。ステージの詳細は瀬戸口雅資さんの〈[ 伝授・特別編 ] 2012・1・24 『沢田研二LIVE 2011〜2012』ファイナル・日本武道館 セットリスト&完全レポ: DYNAMITE-ENCYCLOPEDIA〉参照)とそ こに至るメンバーの姿を追ったドキュメントだ。1971年同月同日同所でのザ・タイガース解散コンサート以降、「同窓会」(沢田・森本・一徳に加橋かつ み・岸部四郎)、Tea for Three(沢 田・森本・一徳)といった元メンバーによるプロジェクトはあったものの、瞳みのるを含む全員が揃うことはなかった。今回のツアーには瞳がドラマーとして復 帰し、ファイナルには病身の四郎がサプライズで登場、41年ぶりの顔合わせとなった。私はついに現役時代のザ・タイガースのステージを観ていない(年子の 妹は従姉に連れられて行っている)。瞳のドラムセットはPearl(パール楽器製造)からYAMAHAに変わって(シンバルはZildjian)、初期よりもタムが ひとつ増えた。もっとも瞳は、フィルイン以外でタムを多用するドラマーではないが。当 時の器材に関しては〈グループ・サウンズの楽器事情−1/ [ザ・タイガース篇]〉が 「森本太郎のヤマハのギターや、瞳みのるのパールのドラムについては無料という記載があり、つまりそれはモニター契約によりタダで提供されていたという事 だ」と伝える。そういえば当時、プラモデルのドラムセットのバスドラのヘッドにThe Tigersのロゴを貼ったものだ(模型の部品になるくらいの人気!)。


編集後記 112(2012年2月29日更新時)

《筑摩書房 図書目録 1951年6月》あるいは百瀬勝登のことを 書いた。〔第1次〕筑摩書房版《太宰治全集》(1955-57)の担当編集者・野原一夫は、筑摩に入社して最初に《現代日本文学全集》編集部に配属され た。野原の小説《含羞の人――回想の古田晁》(文藝春秋、1982年10月25日)には「『現代日本文学全集』編集部の編集責任者は松本高校で古田の二年 後輩の早瀬勝平〔百瀬勝登のこと〕で、終戦直前、筑摩の本が信州で印刷されたとき、古田からたのまれて校正を手伝った。終戦直後に入社した人だが、校正を 得意とするだけあって仕事は緻密だった。〔……〕私はこの編集部に一年余しかいなかったのだが、たとえば、原典として何を選ぶべきかの検討など、仕事の進 め方の筑摩らしい厳密さを学び、それはその後の私に大いに役立つ勉強だったのだが、しかしそのことに深入りするのは、この文章の主題から逸れることになる だろう」(同書、七三ページ)とあり、百瀬が叢書や個人全集の筑摩≠フ伝統をつくった一人だということがわかる。なお筑摩書房は現在、PR誌《ちくま》 を月刊で発行しているほか、筑摩書房図書目録、ちくま文庫/ちくま学芸文庫解説目録、ちくま新書/ちくまプリマー新書解説目録を出している。
和田芳恵《一葉の日記》の装丁に ついて書いた。和田は吉岡実の岳父だが、塩田良平と共編の《一 葉全集〔全7巻〕》(筑摩書房、1953-1956)といい、古田晁に請われて本文を執筆した《筑摩書房の三十年》(同、 1970)といい、さほど多くない吉岡実装丁の編著書は重要なものばかりだ。和田が吉岡に言及した文章はほとんどない。吉岡が随 想〈受賞 式の夜〉で「風格のある本館のプリンスホールには、百人を越える客が集まっていた。高見順賞の授賞式もすすみ祝辞が始まると、最初に壇上にあがったのは病 身のおやじさん(和田芳 恵)だった。突然私たちの馴初めから話がはじまったので、私も妻も驚いた。そのうえ、私の人柄まで語り出したので当惑せざるをえない。まるで結婚式の席に いるような雰囲気だ。あとでみんなに聞くと、さすがは作家だけあって話がおもしろかったとのことで、まずはよかったと私はほっとした」(《「死児」という 絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、四二ページ)と書いている和田の「祝辞」は、原稿なしの口頭だけのものだろう。スピーチを吉岡の受賞詩集《サフラン 摘み》だけに限定していないようなのも、なにやらゆかしい。
パイロットの3枚めのアルバム《Morin Heights》(See For Miles Records、1976〔RPM、2009〕)を聴いた。傑作です。余勢を駆って、中心メンバーのデヴィッド・ペイトンがゲストとしてヴォーカルを務め た日本のバンド、ビーグルハットの《マジカル・ハット》(Avalon、2006)を聴いた。英国の歌手と日 本の作曲家・演奏家の奇跡のコラボレーション。ブリテッシュポップス直系の音には、プログレッシヴの香りが立ちこめている。8曲めの〈Wrecker Pulls Away〉はビーグルハット1枚めのアルバ ムの〈レッカードライブ〉のリメイクで、PFMのイタリア語盤と英語盤の関係を 想起させる。ビーグルハットは次のアルバム《オレンジ・グルーヴ》(Avalon、2009)を残して、先ごろ解散し た。惜しみても余りある。《マジカル・ハット》のオープニングナンバー〈Casgabarl!〉(春日原[かすがばる]?)を聴いて勇姿を偲ぼ う。2枚めのアルバムのタイトル曲にして、かれらの〈ボヘミアン・ラプソディ〉を。
西脇順三郎アーカイヴ開設記念〈没後三十年――西脇順三郎 大いなる伝統〉展(慶 應義塾大学アート・スペース、会期:2012年1月10日〜2月24日)を観た。西脇研究の第一人者、新倉俊一さんの多年に亘るコレクションがアーカイヴ に寄贈され、このほど開設されたのを記念する展示である。さほど広くないスペースに関連資料の精髄が集結しているさまは、圧巻だった。とりわけ西脇のペン になるエズラ・パウンドの肖像画は、西脇絵画の最高作の感を深くした。展示物に吉岡実の名は見えなかったが、〈あとの日の物語〉というコーナーに《瀧口修 造の詩的実験 1927〜1937》見本完成パーティーのときの集合写真がパネルにして飾ってあった。小田久郎さんの筆を借りてパーティー当夜の様子を録せば――〔一九 六七年〕十二月七日夜、六十四回目の誕生日を迎えた瀧口修造氏を囲み、原宿のマンションの地下の穴倉バー「檻の中」で、小さなお祝いの会が開かれた。丁度 できあがった『瀧口修造の詩的実験』を手渡された西脇順三郎氏は「いまの日本には稀な反俗的な本になったね」と眼を細め、瀧口氏の肩をポンと叩かれた。瀧 口ファンの海藤日出男、東野芳明、大岡信、飯島耕一、吉岡実氏らに囲まれ、瀧口氏もやっと三十年来の肩の荷を降ろしてか、肩をすぼめ、細い眼を一層細めて いた。(《戦後詩壇私史》、新潮社、1995年2月25日、三九七〜三九八ページ)――ということになる。


編集後記 111(2012年1月31日更新時)

「H氏賞事件」と北川多喜子詩集《愛》のことを書いた。小田久郎さんは《戦後詩壇私史》(新潮社、1995年2月25日)の〈十一章 既成詩壇の崩壊 1959――H氏賞事件と詩壇ジャーナリズム〉を「H氏賞事件について書くのは、気がすすまない」(同書、一五三ページ)と書きはじめている。吉岡実を語りながら「H氏賞事件」に触れないわけにいかないことは承知しているが、事件について語るのは億劫だ。後追いの第三者がそう思うくらいだから、当時の吉岡実の心中はいかばかりだったろう。よくぞ詩をやめないで続けてくれた、とさえ思う。〈H氏賞選考委員・吉岡実〉に書いたように、吉岡は1963年の第13回日本現代詩人会H氏賞の選考委員を務めた(選考委員会は日本現代詩人会に属するが、選考については同会から独立した自由な権限を持つ、と1960年に会則が改正されている)。このころには過去のわだかまりも解消したのだろうか。「H氏賞事件」は、《日本現代詩辞典》(桜楓社、1986)にも《現代詩大事典》(三省堂、2008)にも記載されていない。
飯島耕一詩集《バルセロナ》の装丁について書いた。飯島の著書の吉岡実装丁は《他人の空》(山梨シルクセンター出版部、1971)が最初だが、《バルセロナ》と同じ1976年には、3月に吉岡の装丁でもう一冊、《ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩》(書肆山田)が出ている。《他人の空》は二分冊の飯島耕一全詩集の上巻だったし、《ウイリアム・ブレイク》はのちの吉岡実詩集《神秘的な時代の詩〔普及版〕》と同工異曲だから、純然たるオリジナルの装丁という意味では、本書が嚆矢である。バルセロナといえばふつう連想するのは、ガウディの建築やピカソ、ミロ、ダリといった画家たちの絵画だろう。私にとってのバルセロナは、クイーンのフレディ・マーキュリーがオペラ歌手のモンセラ・カバリエと組んだアルバムだ。ロックでもオペラでもない、作曲家フレディが歌手フレディのためにつくった、フレディ・マーキュリーのための《バルセロナ》(1988)がそれだ。
●NHKのテレビ番組《SONGS》第204回(1月18日放送)の〈沢田研二 ザ・タイガースを歌う〉で、沢田がタイガースナンバーを熱唱した(ゲスト:瞳みのる・岸部一徳・森本太郎)。ザ・タイガース再結成としていないのは、前期メンバーの加橋かつみ、後期(解散時)メンバーの岸部四郎が参加していない「−1[マイナスワン]」状態だからだ。スタジオでの演奏曲目は@僕のマリー(1967)Aモナリザの微笑(同)B君だけに愛を(1968)C青い鳥(同)D誓いの明日(1970)。収録日は2011年11月1日。〈瞳 みのる(HITOMI MINORU) official site〉に「録画当日は大変緊張しました。曲目は4〜5曲ですが、リハーサルは音と映像で一度づつやり、本番に入りましたが、一回ではOKにならず再度やってどうにかそれなりの納得のいくものになりました」と書かれている。若き日のかれらがドアーズ〈タッチ・ミー〉(1968)や、クリーム〈ホワイト・ルーム〉(同)をカバーしているのをテレビで観たのがロックとの出会いだから、あだや疎かにできない。吉岡実は《現代詩手帖》1978年3月号〈特集=テレビをどう見るか〉のインタビュー記事〈吉岡実氏にテレビをめぐる15の質問〉で、「好きなタレントをあげてください。どういったところがお好きなのでしょうか」という質問に対して、「歌謡曲もたまに視るといいんですよ。新鮮でね。そんなに好みはないんだけれども、いまは沢田研二が一番いいね。うたはいろんなの歌ってるけど、安全ピンを耳に差してみたり、手首に剃刀の刃をやってたりね。オレはあの人素晴しいと思うんだな。聴かせると同時に、あれだけ見せるっていうね。もし一人選ぶとしたら、見る歌手として」と答えている。沢田はこの年、ナチス親衛隊風の衣裳の〈サムライ〉、船員のセーラー服姿の衣裳の〈ダーリング〉、第29回NHK紅白歌合戦の大トリで歌った〈LOVE(抱きしめたい)〉など4曲のシングルを発表し、ソロシンガーとしての絶頂期にあった。
●昨年末、必要があって本サイトの第1回から前回(110回)までの全ページのフォルダをハードディスクにコピーしたところ、累積のファイルが76,590個、2.69GBあった(コピーに約50分要した)。私は毎月の更新で新たにつくった記事やリストはもちろん、訂正や追加の入った既存の記事やリストの変更部分もプリントアウトしてファイリングしている。電子的なデータも大切だが、本サイトの場合、記載された記事やリストの内容がすべてで、その電子化は二の次である。ほんとうのところ手書きでもかまわないのだが、手書きだと草稿か定稿か紛らわしいのが難点だ。ウェブページに公開した内容に草稿の入り込む余地はない。本サイトの制作作業とは、草稿(記事の場合は新たな着想を、リストの場合は新たな情報を備忘したもの)を定稿(着想の展開および情報の根拠を提示したもの)にするために、最低でもひと月、ときには数カ月かけて精度を高めていくことである。今のところ、記事の企画は三月[みつき]先の分まで用意してある。並行して調査するためだ。


編集後記 110(2011年12月31日更新時)

吉岡実詩集本文校異について書いた。これだけ多くのウェブサイトがありながら、3年前に吉岡実詩の本文校異を志したとき、参考になるサイトはなかった。事情は今も変わらないだろう。完成した本文校異の内容には自信があるものの、見せ方は決して褒められたものではない。自分がなにを欲しているかは、つくったものを使ってみなければわからないのだ。初出―初刊―集成の各本文がレイヤーのようになっていて、ボタンひとつでテキストの表示が切り換えられるページはできないものか。近年刊行の文学者の個人全集を見るまでもなく、作品の本文校異・本文校訂は、印刷による冊子体の制作・頒布がいよいよもって難しい。ウェブサイトならハードルは低い。諸版と校合した信頼できる本文をわかりやすく提示し、かつ「見せる」ウェブページが増えてほしい。
ガストン・バシュラール(渋沢孝輔訳)《夢みる権利》の装丁について書いた。吉岡実装丁で翻訳書はきわめて少ない。ごく初期の訳詩集を除けば、本書も《ウンガレッティ全詩集》も、出版元が筑摩書房で、編集者が淡谷淳一さん(書きおろしの《土方巽頌》や筑摩叢書の《「死児」という絵〔増補版〕》、《吉岡実全詩集》を手掛けた)である。20年前、《現代詩読本》の〈吉岡実資料〉作成のため、吉岡実装丁本のリストや啄木全集の月報に寄せた随想のコピーを頂戴しに、蔵前の筑摩書房に淡谷さんを訪ねた。《うまやはし日記》の厩橋にほど近い新社屋には吉岡も来たことがある、と聞いたのはその折だったろうか。私の《吉岡実全詩篇標題索引》(文藝空間、1995)は、淡谷さんに見ていただきたくて作ったようなものだ。
●去る12月10日は《液體》(草蝉舎、1941)刊行70周年だった。当夜は日比谷でシアタークリエのミュージカル《GOLD――カミーユとロダン》を観た。吉岡実が若年のころ夢見たのは彫刻家だったが(「軍隊の悲惨な日々の中で、ひそかに日記と詩を書きながら、折にふれて、岩波文庫のリルケの『ロダン』を読んでいた」――吉岡実〈読書遍歴〉)、そのスタイルは粘土を捏ねる塑像ではなく、大理石から鑿で掘りだす彫像だっただろう。帰宅の途中、星空に赤い皆既月蝕が架かっていた。
●1945年9月1日〜12月31日、1946年1月3日〜6月9日、1947年6月18日〜7月31日の日記を収めた《福永武彦戦後日記》(新潮社、2011年10月30日)が出た。吉岡実〈日記 一九四六年〉(《るしおる》5号、1990年1月31日・6号、1990年5月31日)は1946年1月1日から4月8日までの日記だから、併せて読むと興味深い。1946年3月20日の記述――「三月二十日 曇、水曜/やや朝寝をし、八時発列車にて加藤と共に上野駅を立つ。着席するを得。追分駅にて中村と落合ひ若菜屋にて閑談。信州の早春は始めてなり。夕食前堀〔辰雄〕氏を訪ふ。夜種々の物語を若菜屋のこたつにあたりつつ為す」(福永武彦)。「三月二十日 坪田譲治先生の話を聞く。文筆で暮せるようになったのは四十歳を越してからという。あわてず ゆっくり作品を書いてゆきたいと思う」(吉岡実)。《風土》(1952)も《静物》(1955)もまだ誕生していないこのとき、福永は世田谷・九品仏の秋吉利雄家に、吉岡は兄の吉岡長夫家(大田・池上か)に仮寓し、それぞれ放送局と出版社に勤務していた。
●大友博《エリック・クラプトン〔光文社新書〕》(光文社、2011年11月20日)にこんな箇所がある。「〔少年時代、〕ラジオ以外にはスピーカーを通して音楽を聴く方法がなかった状況だったこともあり、彼は流れてくる曲を、それこそ全身を耳のようにして聴いていた。/ 〔……〕もう一度聴きたいと思う曲は記憶のなかでマークしておいたのだそうだ。またかかることを心待ちにし、一度しか聴けなかった曲でも、レコードを買えるようになってから、あらためてじっくりと聴いた。/そのようにして、人生の旅を通して耳にしてきた音の断片のようなものをクラプトンは、メンタル・ジュークボックスという言葉で表現している」(同書、一六一〜一六二ページ)。この「メンタル・ジュークボックス」という表現は面白い。最初に買った洋楽のLPがクリームだった一介の音楽好きでさえ、メンタル・ジュークボックスをもっているのだから、クラプトンのそれがどれほど豊饒なものか。
●多難の一言ではいいつくせない2011年が暮れようとしている。自宅の増築工事が始まって間もない3月11日、大地震が東日本を襲った。わが家は、南面する土地を造成して基礎のコンクリートを打つまえだった。キッチンは予定していたIHクッキングヒーターをやめて、ガスでいくことにした。準備期間を含めると、かれこれ1年に及ぶ工事がようやく完了した。混乱を極める――内容ではなく、置き場・配置――吉岡実資料(書籍や雑誌の原物、そのコピーに加えて、インターネット情報のプリントアウトが急増中だ)を活用し、PCまわりを機能化して調査・執筆に専念し、《吉岡実の詩の世界》の充実に努めたい。みなさまにとって、来る2012年が佳い年でありますように。


編集後記 109(2011年11月30日更新時)

吉岡実詩歌集《昏睡季節》本文校異を 書いた。今回で吉岡実が生前に刊行したすべての詩集(全262篇)の本文校異を終えた。次回は吉岡実詩集本文校異の総括を予定している。
岩田宏詩集《頭脳の戦争》の装丁に ついて書いた。小田久郎さんは《戦後詩壇私史》(新 潮社、1995年2月25日)で「『頭脳の戦争』は、思潮社の制作、発行になるはじめての本格的な詩集といってよかった。真鍋博の装画はいつものように線 が繊細で、岩田宏のパワフルな迫力を描きこめたとはいいがたかったが、カルカチュアライズされたイラストは十分に岩田の諷刺の精神をシンボライズしてい て、たのしめるものだった。そのイラストを大事に本に挟んで、吉岡が勤めていた神田小川町の筑摩書房へ岩田と一緒に訪ねていったときの胸ふくらむような思 いを、いまでもなつかしく思い出す。そのころのふたりは、たいそう仲良しだった」(二四九ページ)と回顧している。
●《吉岡実の詩の世界》を開設して丸9年が経過した。閲覧していただいた方に改めて御礼申しあげる。本サイトの現状をご報告しておこう。開設時の総ページ 数(A4での印刷換算)は約139ページだったが、1年後には約243ページとほぼ1.7倍、2年後は約341ページで開設時の2.5倍、3年後は約 474ページで同3.4倍、4年後は約693ページで5.0倍、5年後は約803ページで5.8倍、6年後は約892ページで6.4倍、7年後は約996 ページで7.2倍、8年後は約1221ページで8.8倍、9年後の現在は約1422ページで開設時のほぼ10.2倍となっている。このうち《吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈》(約310 ページ)は、サーバの容量の関係で4月から10月まで画像の掲載を停止していたが、今月から復旧した。ちなみに10月末時点のアクセスカウンターの数値は (031024)だった。今後とも吉岡実と〈吉岡実〉に関する新稿の掲載、既存情報の補綴に努めていきたい。
●本サイト《吉岡実の詩の世界》には、大別して記事的な文章(《〈吉岡実〉 を語る》ほか)と資料的なリスト(《吉岡実参考文献目 録》ほ か)の二種類のページがある。後者は原典の所在を指し示すインデックスだから、探索する人にとって間違いのないデータを簡潔に記述すべく、注意を要する (掲載は昇順)。とは言うものの、リストを冊子体印刷物と照合すればあとはそのまま掲載するだけだから、校正は初校・再校の二回もすれば充分だ。それに対 して前者の文章は、修正と確認が数回、場合によれば十数回に及ぶことも決して稀ではない(掲載は降順)。用紙もインクも無駄に使いたくはないが、内容をす べてに優先させている。作業手順を簡単に述べよう。@テキストエディタ(縦書きサポートのCoolMint Editor Yellow)で執筆した文字原稿と、デジタルカメラ(パナソニックのLUMIX DMC-LX5)で撮影した写真、スキャナ(キヤノンのMP560)で取りこんだ画像をPicasaやIrfanViewで加工して、htmlファイルに 組む(ウェブオーサリングソフトはKompoZer)。Aブラウザ(Windows Internet Explore 9)で表示した画面でリンクを確認する。印刷のシミュレーションは印刷プレビュー画面で。Bゲラ刷りの必要な部分を印刷。C引用文など、原典と照合する箇 所の引きあわせ校正と、自分が執筆した文章の素読み校正、ないし文章そのものの加筆・訂正。これがひとつのサイクルで、あとは@で作成したファイルを時間 の許すかぎり、納得いくまで手直しする。語・文・段落の入れ替え、すなわち順序を整える作業が有効だ。BとCを詳しく説明すれば、A4縦位置で印刷したゲ ラを紙挟みに天地逆に、つまりバインダー金具を地にしてセットする。紙が落ちにくく、めくりやすい。その際、ウェブページの合番やページ数を書き込む作業 シートでもあるトップページの〈目次〉は、本文と違う色紙に刷る。ペラの集合を並べかえたときに表紙が判りやすいようにするためだ。ゲラに赤字を記入する 筆記具は、水性ボールペン(PILOTのV CORN)を使っている。キャップのクリップを紙挟みのバインダー部分に留めて、国会図書館の資料持ち込み用のビニール袋に入れる。この秀逸な手下げグッ ズを持ちかえらない閲覧者の気が知れない。ビニール袋を重ねれば、クリアホルダーに挟んでゲラと区別したコピー資料や大部でない参考書籍もいっしょに入れ られるので便利だ。この一式をPCのデスクや出先、各地の図書館、就寝前の寝室、とどこへでも持っていく。Bのゲラは通常、ウェブページを出力したメイン の一種類だけだが、詩集の本文校異や引用文、こみいった長文など縦組でチェックしたい場合は、作業中のウェブページの本文を選択、テキストエディタにコ ピーしてファイルに保存のうえ、縦書き印刷してサブのゲラとする。CoolMintで文字の大きさ・字詰め・行間を9ポ・110桁=55文字・50%など と調節するのがポイントで、内容の吟味に集中したいときは、印刷物と同様、行間の広いゲラが作業しやすい。逆に全体を一望したいときは、行間を10%など と調節する。このテキストエディタによる執筆方法は10年近く本サイトを更新する間に編みだしたもので、原稿を丹念に仕上げてからインターネットに公開す るときの参考にでもなればと思う。ウェブページに掲載する文章のポイントは、サーチエンジンで見つけた訪問者がいきなり読んでもわかる内容を、くどくない 程度に丁寧に、印刷物と同じ手順で手間暇かけてつくることに尽きる。私は短文の場合、よほど重要なバージョンでなければ、最新の作業用ウェブページと同一 のもの一本にして、テキストファイルを上書きしている。無用の混乱を避けるためには、ファイルひとつにゲラひとつ。それと作業フローを変えないこと。これ が一番だ。修正の履歴を残したいときは、赤字入りのプリントアウトの上辺を糊で貼り、冊子にして保存する。最終稿が完成したあと破棄すれば、修正の履歴は どこにも残らない。「わたしは詩篇が完成したと確認した時、草稿的なもの、書き損じ類を一切破棄してしまう」――吉岡実〈わたしの作詩法?〉。
●家の増築のため、ふだん使わない荷物のかたづけをしていたら、30年近く聴いていないドーナツ盤が出てきた。杉真理〈いとしのテラ〉(1984)、薩め ぐみ〈KAZE/NORMANDIE(「天皇の料理番」より)〉(1980)、等等。懐かしさのあまりレコードプレーヤーにかけたはいいが、半分くらいま で進むと針が飛ぶ。全部のレコードが同じだから、ディスクではなくプレーヤーの不具合だろう。せっかくのご対面がこれでは台無しだ。〈テラ〉と 〈KAZE〉が収録されているオムニバスCD(《80's ALIVE JAPAN〜ソニー・ミュージックエンタテインメント編》《'80sドラマ・ソングブック》)を探して、近くの図書館で借りた。調べ てみると、薩めぐみは昨年の10月18日に亡くなっていた。黒岩比佐子さんが亡くなるひと月前のことだ。Alas!


編集後記 108(2011年10月31日更新時)

吉岡実詩集《液体》本文校異に ついて書いた。そこでも触れた《液体》の篇数に関してだが、吉岡は《現代詩手帖》1985年1月号の特別座談会〈言語と始源〉(オクタビオ・パス・吉岡 実・大岡信・渋沢孝輔・吉増剛造)でパスに「二十歳くらいの時、北園克衛という人がいて、それまでは普通の詩を書いていたんだけど、こういう〔シュルレア リスムの詩のような〕詩が面白いだろうと思って、書いてみました。ちょうど二十歳から二十一歳くらいの時です。その頃、友達は誰もいませんでした。やがて 兵隊に行くことになりまして、それで遺書にと思いまして、三十二篇の詩が入っている『液体』という詩集を出しました。ちょうど太平洋戦争が始まる二日後に 兄と友達が出版してくれたんです」と答えている。この席に《液體》があったとは思えないから、吉岡は記憶に基づいて答えたはずだが、ここで三十二篇と言っ たか三十三篇と言ったかは微妙である。編集者が三十三篇を三十二篇に訂したこともありうるし、吉岡がそれまでの三十三篇を改めて正しく三十二篇と発言した とも考えられる。詳細は不明であり、談話を証文とするには慎重を要する。
渡辺武信詩集《過ぎゆく日々》の装丁に ついて書いた。そこでも触れている渡辺の《移動祝祭日――『凶区』へ、そして『凶区』から》(思潮社、2010)は12級2段組300ページ近い本文の、 当事者が著した画期的な一冊だが、巻末資料(参考文献リスト、『凶区』関連同人誌一覧、『凶区』関連年表、人名索引)が素晴らしい。註釈や写真キャプショ ン、コメントにも細かい心遣いがみられる。
●八木忠栄《「現代詩手帖」編集長日録 1965-1969》(思潮社、2011年9月15日)を読んだ。八木さんには《詩人漂流ノート》(書肆山田、1986)という回顧録があり、こちらの方 も再読したくなった。
●9月末、国立国会図書館で毎月恒例の書誌の記載チェックをしながら、何気なく詩集《神秘的な時代の詩》を検索してみると、なんと湯川書房版の初刊が ヒットした。《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》を作成した2004年には所蔵されていなかったから、その後に収蔵されたものだろう。いまのところ 「吉岡実」の項の12タイトルだけだが、NDL-OPACの書誌情報ページにとぶように請求記号にリンクをはった。いずれは《吉岡実言及書名・作品名索引 〔解題付〕》のすべての請求記号に対象を拡げたい(それ以前に、未見や未詳の★印をつぶさねばならないのだが)。
8月の後記でも触れた瀬戸口雅資さんのdynamite-encyclopedia(side-B)〈[ 伝授・特別編 ] 9.8 『沢田研二 LIVE2011〜2012』 東京国際フォーラムA セットリスト&完全レポ〉が完結した。それによると、7月の後記で 触れた〈割れた地球〉と〈怒りの鐘を鳴らせ〉が続けて演奏されたという。〈光ある世界〉は見送られたが、〈スマイル・フォー・ミー〉のB面〈淋しい雨〉ま で演ったそうだから、遠からずリリースされるであろうDVD(それともNHKテレビの番組が先?)が今から楽しみだ。ベースの岸部一徳の記事を検索してい たら、ジョン・ポール・ジョーンズがサリーの演奏を高く買っていたことを知った。その流れというわけでもないのだが、最近はジョンジーが好んだモータウン のベーシスト、ジェームス・ジェマーソンがバックを務めるマーヴィン・ゲイのライヴ盤をよ く聴く。


編集後記 107(2011年9月30日更新時)

城戸幡太郎の《民生教育の立場から》のことを 書いた。同書の原本は、インターネットで古書を検索しても一度も見たことがなく、稀書のようだ。原装を見てみたいものだが、吉岡実装丁である可能性は低か ろう。《城戸幡太郎著作集〔第7巻〕》(学術出版会、2008年2月25日)には編集部による略年譜が付いている。明治26年(1893)の項に「七月一 日、愛媛県松山市の旅館「城戸屋[きどや]」(屋号は岱洲館。明治二八年四月、夏目漱石が松山中学校 に赴任の時最初に泊まった宿。『坊っちゃん』の山城屋のモデルといわれる)の長男として生まれる」とあるのが目を引く。
平林敏彦詩集《水辺の光 一九八七年 冬》の装丁に ついて書いた。本書の出版元の火の鳥社は詩人の太田充広氏を発行者とする堺市の出版社だが、平林氏も長野で(ぽえむはうす)青猫座という版元を興こし、自 身の詩(画)集を刊行している。平林氏には別名による散文作品もあり、制作を含めた総合志向のある書き手と言っていいだろう。
●かねて予告されていた《ウルトラ》14号(吉岡実特 集)が 刊行された。三省堂の《現代詩大事典》で〈吉岡実〉の項目を執筆している澤正宏さんの長文インタビューをはじめ、城戸朱理さんのインタビュー、高塚謙太郎 〈作品「静物」を読むにあたって与えられたマニュアル〉など4氏による〈私と吉岡実〉、《静物》・《僧侶》から《薬玉》・《ムーンドロップ》までの詩に 11氏が言及している〈吉岡実この一篇〉が100ページを構成する、及川俊哉氏渾身の編集である。及川氏執筆の〈生活の密儀――吉本隆明『戦後詩史論』に おける吉岡実評から〉は《六本木詩人会》のページでも読むことができる(末尾に本誌の購読案内が掲 載されている)。《ウルトラ》は今号から電子版を無料配布する予定ときくが、これはぜひとも冊子体の印刷物で手許に置いておきたい文献である。【追記: 《六本木詩人会》の〈ウルトラ14号の紹介〉ページの「電子データ(PDF)の配布について」に、版下作成の際のPDFデータが 無料でダウンロード可能とある。】
ア カシヤ書店店 主・星野穰さんの〈将棋・囲碁専門の古書店――文化的価値広めようと40年、海外からも注文〉(《日本経済新聞》文化面、2011年9月7日)を読んだ。 私は将棋も囲碁もやらないので専門店としての真価はわかないが、ルカ医院に近い小畑雄二の宅で毎月詩誌を制作・発行していたころは、西武新宿線・野方駅か ら北原通り商店街を行ったはずれ、新青梅街道手前にあった同店をよく覗いたものだ。環七通り沿いの珈琲店・野方茶館でジェフ・ベックのギターアルバム《ブ ロウ・バイ・ブロウ》(Epic、1975)が新譜でかかっていたころのことである。
●NHKテレビ・BSプレミアムの〈旅のチカラ〉で《アンデス 星と雪の巡礼〜写真家 桃井和馬〜》を観た(9月10日の再再放送分)。番組ホームページ には 「南米ペルー・アンデスの聖地。写真家・桃井和馬が巡礼の旅に出る。4年前、妻を病気で亡くし、“新たな人生の一歩”を踏み出すために、標高5000mの 聖地を目指す」とあるが、久しぶりにドキュメンタリーらしいドキュメンタリーを堪能した。恩田陸の中南米紀行《メガロマニア――あるいは「覆された宝石」 への旅》(日本放送出版協会、2009)を読んだばかりだったので、なおのこと感銘深かった。
●自宅を増築していて、念願の独立した書斎を構想中だ。余儀なく数箇所に分散保管している吉岡実関係の書籍や資料(大半はB4コピーとA4プリントアウト のファイル)をまとめて、MacintoshとWindowsマシン2台を並べるところまでは決まっているのだが、その配置すらおぼつかない。これを機 に、永いこと見ていない吉岡実装丁本が現われることを期待しているのだが、どうなることか。


編集後記 106(2011年8月31日更新時)

〈吉岡実文学館〉を考えるを執筆 した。2008年3月、深井人詩編《文献探索2007》(金沢文圃閣)に〈個人書誌《吉岡実の詩の世界》をwebサイトにつくる〉を寄稿したが、こ れはその続篇ともいえる思考実験である。私自身の《吉岡実の詩の世界》―《吉岡実全集》―《吉岡実文学館》という三幅対[トリプティク]を構想する力を検 証する場にもなったと思う。
江森国友詩集《宝篋と花讃》の装丁に ついて書いた。同詩集がそうであるように、特装限定版には別に並装の通常版があることが多いが、丸谷才一《樹影譚〔特装版〕》(中央公論新社、2008年 12月10日)には通常版がない。しかも、版元が単行本の文藝春秋でも、〈樹影譚〉掲載誌《群像》の講談社でもないところがすごい。同書は(1)本体《樹 影譚〔特装版〕》に《樹影譚》(文藝春秋、1988)と同じ3篇の小説と、丸谷の〈三つの短篇小説〉〈あとがき〉を収める。(2)装丁の和田誠による描き おろしエッチング1枚(袋入)を添付する。(3)付録の冊子〈ふるさと富士〉に丸谷の発句〈玩亭新句帖〉、和田誠〈装丁物語(抄)〉、三浦雅士〈出生の秘 密(抄)〉を収める。エッチングは本と別にしてあるので、額に入れて飾るなりしてくれ、という丸谷の批評が沁みとおった特異な一冊。
《澤》8 月号が永田耕衣を特集している。久保田万太郎(2006年6月号)・田中裕明(2008年7月号)に続く俳人特集である。カラー口絵の小澤實さん宛ての耕 衣書簡が素晴らしい。本文には高橋睦 郎・小澤實対談以下、26本の耕衣論(私は吉岡実編《耕衣百句》とその後について、〈永田耕衣と吉岡実〉という文を書いた)に一句鑑賞・略年譜と充実した 内容で、耕衣俳句を丸ごと捉えようとした企画としては近年にない(ひょっとすると今後しばらくないかもしれない)出色の出来になっている。これを踏まえ て、いずれは長文の〈吉岡実と永田耕衣〉を書かねばならないと考えた。
●筆名のもろだけんじ名義で執筆し、刊行した句集 《樹霊半束〔TREE-SPIRIT: SEMI-LATTICE〕》に追記を書いた。永田耕衣選〈琴座集〉の3句を引いている。
●このところ恩田陸の小説を読んでいる。恩田作品を最初に読んだのは《ライオンハート》の 文庫本で、書店で「ライオンハート」という標題を見かけて、SMAPのそれ(正しくは「らいおんハート」)か、ケイト・ブッシュのそれかすぐに確認したと ころ、後者だった。恩田陸の小説は版元によって傾向が分かれていて、《ライオンハート》のような新潮社のものはホラーがかった文学作品、光文社 や祥伝社はミステリ色が濃く、講談社はミステリアスな長篇で、集英社はSF色が濃く、徳間書店は、幻冬舎は、双葉社は、角川書店は、……とそれぞれに特色 があって、読むまえから期待が高まる。というわけで、今回よく聴いたのはケイト・ブッシュ2枚めのアルバム(1978)である。ケイト自身は本作の出来に不満だったと聞くが、この無駄をそぎおとした音を作ったのが20歳にな るやならずだったとは驚く。つくづく才能と年齢は無関係、の想いを深くする。恩田陸とケイト・ブッシュ。多作と寡作の違いこそあれ、天才は天才を知る。
●企画展〈牧野富太郎が夢みた万葉の世界〉(牧野記念庭園、2011年6月4日〜8月7日) を観た。〈万葉植物図〉にホンダワラの図があった。「夕焼けの映える/磯辺に残された/〔斎串[いわいぐし]〕や〔馬尾藻[ほんだわら]〕」(〈〔食母〕 頌〉K・19)。同じ日に特別展〈磯江毅=グスタボ・イソエ――マドリード・リアリズムの異才〉(練馬区立美術館、2011年7月12日〜10月2日)を観た。〈鰯〉という 静物画があった。「魚のなかに/仮りに置かれた/骨たちが/星のある海をぬけだし/皿のうえで/ひそかに解体する」(〈静物〉B・2)。盛夏の真昼に震撼 した。
●瞳みのるを迎えたコンサートツアーが今秋から予定されているせいか、ザ・タイガース関連のページが増えている。いま私が愛読しているのは、筋金入りの ジュリーファン・瀬戸口雅資さんのサイト《DYNAMITE-ENCYCLOPEDIA》で、 《ヒューマン・ルネッサンス》(ポリドール、1968)を含むタイガースの楽曲分析が楽しい。私は40年以上前のこのアルバム全12曲の和音進行のコピー を志しながら、果たしていない。ボーカルとギターコードを載せた当時の譜面で手許にある4曲(〈光ある世界〉〈青い鳥〉〈忘れかけた子守唄〉〈廃虚の 鳩〉)以外は、耳コピーするしかない。ホール録音のためかミックスが渾沌としていて、和音進行の採りづらい〈光ある世界〉の譜面が残っていたのは幸いだ。 イントロ・間奏・後奏のEm−D7−C−Am−F7-5−EmはベースがE音を出しつづけていて、「F7-5」なんてわかりっこないです、すぎやま先生。 主和音EmでF−Eb−Bm−EmやF#7−F−Em…といったとんでもない進行があるのに、自然に響くところが素晴らしい、シングルB面曲。


編集後記 105(2011年7月31日更新時)

《静物》の本文校異を 執筆した。《静物》(私家版、1955)は吉岡実が生前に刊行した12冊の単行詩集のうち、書きおろしの3詩集の1冊で、自筆原稿が現存する唯一の詩集。 久しぶりに初版本を読んでみて、吉岡が詩をやめようと思って(実際は出発になったわけだが)これだけの作品を書いてしまったことが奇蹟に思える。とりわ け、戦後まもないころの未刊詩篇との隔絶がすばらしい。
飯島耕一詩集1《他人の空》の装丁に ついて書いた。吉岡が装丁した本のなかでも多くの著書をもつ著者のひとりが飯島で、吉岡も飯島からの装丁の依頼に心安く応えていたようだ。
●瞳みのる(本名:人見豊)《ロング・グッバイのあとで――ザ・タイガースでピーと呼ばれた男》(集 英社、2011年3月1日)を読んだ。「一九七一年にザ・タイガースを解散して、そ の翌々年〔……〕、六本木キャンティヘ食事に行ったときのことだ。二階で食事をしていると、ふらりと〔加橋〕かつみがやって来た。お茶を飲みに来たよう だ。僕は解散以来会っていないので、懐かしくもあり、同席して話すことになった。話題がかつての音楽の話になり、僕らの最後のアルバム『ヒューマン・ル ネッサンス』の作曲家を僕が批判すると、彼は激昂し、結局喧嘩別れになった」(本書、一七〇〜一七一ページ)。《ヒューマン・ルネッサンス》(ポ リドール、1968)は中学生だった私が生まれて初めて買ったLPレコード。購入当時は自宅に再生装置がなかったので、叔父の家のステレオで聴かせても らった。〈光ある世界〉のフロアタム16分音符連打のフィルイン、ジミ・ヘンドリクス(たしか瞳は、好きなドラマーにミッチ・ミッチェルを挙げていた)を 意識した村井邦彦作曲〈割れた地球〉の、通常は4拍オモテのスネアをウラに遅らせた変則的なリズムパターンのほか、瞳のドラムのフレーズすべてを記憶して いる。瞳みのるのベストは、シングル盤〈都会〉のB面〈怒りの鐘を鳴らせ〉だと思う。
●内田善美の著作を何冊か読んだ。《白雪姫幻想》(サンリオ、1979)、《聖[セント]パンプキンの呪文》(新書館、1979)、《ソムニウム夜間飛行 記》(白泉社、1982)、《草迷宮・草空間》(集英社、1985)。代表作《星の時計のLiddell[リデル]〔全3巻〕》(集英社、1985- 86)はまだ通読していないが、こうした内田作品をリアルタイムで読んだ10代の少女が、長じてマンガを「描かなかったら」どうなるのか。どこでそのバト ンを引き継ぐことになるのか、はなはだ興味深いものがある。


編集後記 104(2011年6月30日更新時)

吉岡実詩に登場する植物について 書いた。以前、〈吉岡実詩の鳥の名前〉を 書いたときは吉岡が残した雑誌の切り抜きをきっかけに鳥の名前を調べたわけだが、今回の植物の場合、それに相当する資料は目にしていない。拾遺詩集《ポー ル・クレーの食卓》の〈人工花園〉(I・19)が唯一、資料(生け花関係の冊子かなにか)を参考にして植物名を織りこんだ詩篇だと思われる。
唐木順三編《深瀬基寛集〔全2巻〕》 の装丁について書いた。深瀬基寛というと想い出だされるのが《オーデン詩集》(せりか書房、1968)だ。学生時代、いっしょにガリ版 (と言って通じるだろうか)の月刊詩誌を出していた小畑雄二が、翻訳詩ならこれを読め、と薦めたのが深瀬訳の本書だった(大江健三郎の小説の標題が深瀬訳から採られている)。ボール紙に濃いピンクの題簽貼りの函の印象がいまだに鮮かだ。 調べてみると、平野甲賀の装丁だった。ちなみに、吉岡は唐木順三、深瀬基寛に触れた文章を残していない(永田耕衣に宛てた書簡では両氏の名を挙げてい る)。
●吉岡実に言及した文献を私が探索する際の手法は、大きく分けてふたつある。既知の評者や発表媒体を定点観測するのがそのひとつ。インターネット上のさま ざまな未知の情報をブラウズすることがもうひとつである。そうは言っても、amazon.co.jpGoogle Scholarで の検索結果は、相当の割合ですでに織りこみずみの情報で、その貴重な例外は、当該印刷物の原物もしくはコピーを実見のうえで、本サイトに掲載している。文 献が高額であったり(詩誌《新詩集》に〈過去〉が収録されていたらしい)、通常の方法で入手・閲 覧で きない場合(バーバラ山中のドイツ語による修士論文〈吉岡実論〉)、これらの未見資料は本サイトに掲載しない。後日を期すためにあえて未見の◆印を付けた 初出(《後継者たち》に連載された通雅彦の〈吉岡実に対するノート〉)もあるが、定稿と思われる文献(多くは書籍)の実見を旨としている。ゆえに書籍の人 名索引は必要にして不可欠で、それがない本は、どれほど立派な本文であっても、論文ではなく随筆として扱うしかない。
●湯浅年子が
リュシアン・クートーのことを書いているのを知ったのも、「未知情報ブラウズ」のおかげである。〈リュシアン・クートーと二篇の吉岡実詩〉に追記を 書いたのでご覧いただきたい。
●2011年6月17日、アクセスカウンターの数値が30,000を超えた(10,000を超えたのが2005年7月16日、20,000を超えたのが 2007年10月29日で ある)。訪問者の方方に深く感謝する。2002年11月30日の開設直後は本文の制作で手一杯で、アクセスカウンターを設置したの は2003年3月31日だった。当時はリンクもたいしてはられておらず、アクセス数は微微たるものだっただろう。無知とは恐ろしいもので、私自身調べたい こ とがあるとトップページから入って閲覧していたのだから、1割近くは私のアクセスだったかもしれない(さすがに、その後はローカルのhtmlファイルを開 くので、カウントを「水増し」することはなくなった)。開設以来の日数でアクセス数を均せば、1日当たり約9.6、1月当たり約292となる。ちなみに現 在、Googleで「吉岡実」をウェブ検索すると約58,500件ヒットし、一位が〈吉岡実 - Wikipedia〉、二位が〈諧謔・人体・死・幻・言語 ――吉岡実のいくつかの詩を読む〉、三位がわが〈吉岡実の詩の世界〉、四位が〈Amazon.co.jp: 吉岡実全詩集: 吉岡 実, 飯島 耕一, 入沢 康夫, 大岡 ...〉、五位が〈[PDF] 吉岡実の長篇詩〉である(一・三・五が私の執筆)。
●このところ、また岡嶋二人(井 上泉と徳山諄一の筆名)の文庫本を読みかえしている。どちらがアラン・パーソンズでどちらがエリック・ウルフソンか。どちらがイアン・ベアンソンでどちら がスティーヴ・バルサモか(いやこの二人が共演したことはないはずだから、組み合わせ自体おかしい)。どちらがアランでどちらがイアンかどちらがエリック でどちらがスティーヴか――難題である。
●しばらくまえ、ポータブルMDプレーヤーが故障したので買い換えた。すると今度は、MD/CDシステム(要はラジカセのカセットがMDになったもの)が 壊れた。CDがかかりにくかったことろへきて、MDに録音できなくなったのだ。私はメディアがオープンリールのテープのころから録音しているせいか(高校 時代のバンドのオリジナル曲)、カセットテープ(MTRでの宅録)、MDディスク(前述のバンドのリハーサル)といった、目に見える駆動系のメディアでな いと安心できないところがある。


編集後記 103(2011年5月31日更新時)

野平一郎作曲〈Dashu no sho, for voice and alto saxophone(2003)〉のことを書いた。桐 朋学園大学音楽部門附属図書館のOPACには同曲を収録した〈Japanese love songs〉の項目があり、野平一郎の書誌がリンクされている。だが、野平書誌には当の 〈Japanese love songs〉が掲載されておらず、その仕組みがどうなっているのかよくわからない。
布川角左衛門《本の周辺》の装丁に ついて書いた。本文でも触れたが、日本エディタースクールでは書籍づくりを学んだ。読書と執筆は見よう見まねでもできるが、共同作業の本づくりは体系的に 学習しないとどうにもならない。現場で学ぶのが最も直接的だが、スクールでも疑似体験にはなる。オリジナルの出版企画を提出して、原稿整理まで実行する課 目があった。そこで吉岡実の散文集を立案し、原稿用紙数百枚分の文章(新聞・雑誌・書籍のコピー)をまとめた。吉岡初の随想集《「死児」という絵》が八木 忠栄編集で思潮社から刊行されたのは、翌1980年夏のことである。
●波瀬蘭の《村上春樹超短篇小説案内――あるいは村上朝日堂の16の超短篇をわれわれはいかに読み解いたか》(学 研パブリッシング、2011年3月29日)が出た。〈直喩 あるいは物語をめぐって〉〈物語 あるいは嘘の力をめぐって〉〈登場人物の越境 あるいは虚構 の受容・創出をめぐって〉〈その他の超短篇 あるいは村上春樹のさらなる魅力をめぐって〉、ハルキ文学を解く鍵を超短篇に探った視点が新しい。私も長篇で 村上春樹を記憶している者だが、頂針の書として読んだ。
●ゲイリー・ムーアが今年2月に急逝したのには驚いたが、つい最近、元アラン・パーソンズ・プロジェクトのエリック・ウルフソンが2009年12月に亡く なっていたことを知って驚愕した。享年64、腎臓ガンだった。エリックはイギリスのロック歌手、作詞・作曲家、キーボード奏者、なによりも双頭ユニット APPの〈アイ・イン・ザ・スカイ〉の作者にして歌手である。《怪奇と幻想の物語――エドガー・アラン・ポーの世界》(1976)でデ ビュー以来、アラン・パーソンズとともに10枚のオリジナルアルバムを発表(私は1984年の《アンモニア・アヴェ ニュー》で出会った)。APPの11枚めとして制作を開始しながら、結果的に最初のソロアルバムとなった《Freudiana》(1990)が、アランとの最後の共演になった。そ の後は《Poe: More Tales of Mystery and Imagination》(2003) でデビュー作の続編を試み、《Eric Woolfson sings The Alan Parsons Project That Never Was》(2009) が最後の作品となった。今宵はAPPのCDを聴きながら、17曲を収めた楽譜集《The Essential Alan Parsons Project: Piano/Vocal/Guitar》(Hal Leonard、2008)をひもといて、APPの魂エリック・ウルフソンを偲ぼう。
●5月31日は吉岡実の祥月命日。吉岡さんが亡くなって21年過ぎた。歿年の1990年の21年前は1969年、年譜には「新年、土方巽が笠井叡と初めて 来宅。七月、日本橋三越の〈書と絵による永田耕衣展〉で〈白桃女神像〉を予約する。耕衣と北浦和の海上雅臣宅を訪ね白隠や徳富蘇峰遺愛の黄山谷などを観 る。田村隆一編集の季刊詩誌「都市」に依頼されて「コレラ」を書いた後、思うところあり詩を発表することを暫く止める。十二月、永田耕衣から妻に絵〈鯰 佛〉を戴く」とある。耕衣俳句に親しむ一方、作詩での行詰まりが明らかになった年でもある。吉岡はこの「神秘的な時代」を1976年刊行の2冊、すなわち 《耕衣百句》と《サフラン摘み》で打ちあげることになる。


編集後記 102(2011年4月30日更新時)

《ムーンドロップ》の本文校異を 執筆した。これで吉岡実が生前に刊行した12冊の詩集のうち、書きおろしの3詩集――《昏睡季節》(草蝉舎、1940)、《液体》(同、1941)、《静 物》(私家版、1955)――を除く9詩集の本文校異を終えた。そのうちの《神秘的な時代の詩》(湯川書房、1974)は《吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈》の〔付録〕と して、評釈巻末に掲げてある(今回、評釈の画像を割愛して文章のみ再度アップロードした)。
〔第2次〕《太宰治全集〔第12 巻〕》(筑摩書房、1958)の装丁に ついて書いた。塩澤実信(小田光雄編)《戦後出版史――昭和の雑誌・作家・編集者》(論創社、2010年日12月25日)の〈第Z章 筑摩書房 古田晁〉には「筑摩書房の元編集者晒名昇は、「例えば『芸者ワルツ』の、逢わなきゃよかった今夜の私これが苦労のはじめでしょうかといった部分を好んで 歌っていました。太宰さんが好きだった『燦めく星座』の思い込んだら命がけ、男のこころ……の部分もお好きでしたね」と語っている。/筑摩書房には社歌は なかった。含羞の晁は恰好をつけたその種のことは嫌ったのである。社員の中には、酔って歌うこれらの演歌を社歌≠セと、たわむれにいうものもいた」(四 四六ページ)とある。吉岡実(太宰と会ったことはないだろう)が社歌と言ったかどうか不明だが、〈芸者ワルツ〉は傑作であると激賞した、とは〈カメレオン の眼〉における太田大八さんの証言である。
●「吉岡実氏の装幀を踏襲した、限定復刻版!」の土方巽《病める舞姫》(白水社、2011 年3月15日) が刊行された。税込価格4,200円。ちなみに《病める舞姫》の刊本はこれまで、初刊《病める舞姫》(白水社、1983年3月10日)、《同〔白水Uブッ クス〕》(同、1992年1月15日)、《土方巽全集》(河出書房新社、1998年1月21日)、《同〔普及版〕》(同、2005年8月30日)の4種が あった。土方巽の文筆における代表作にして、吉 岡実装丁の代表作の復刻(ただし細部は異なる)は見逃せない。
●和田芳恵《筑摩書房の三十年 1940-1970〔筑摩選書〕》(筑摩書房、2011年3月15日)と永江朗《筑摩書房 それからの四十年 1970-2010〔同〕》(同)が出た。前者は《筑摩書房の三十年》の 復刻版である。後者はそれに続く書きおろしの四十年史。八一ページの集合写真(百人以上が写っているこれは、初めて公開されたものか)のキャプションに 「全社旅行(草津温泉大阪屋、1966年11月17日) 中央の膳の前に古田晁。向かってその右に、唐木順三、中村光夫、岡山猛、吉岡実。古田の左に、竹之内静雄、臼井吉見、高藤武馬、百瀬勝登、井上達三、大西 寛」とある。この手の書籍に索引がないのは致命的である(とりわけ《筑摩書房の三十年》)。


編集後記 101(2011年3月31日更新時)

吉岡実と吉屋信子について書 いた。そこでも触れたが、吉屋の俳句は全集第12巻に収録されていて、わりあい簡単に読むことができる。いくつか引いてみよう。「菊の鉢廻轉扉に抱き悩 む」「絨毯の花鳥に輕し桐火鉢」「八階へ春晝遲々と昇降機」「金塊のごとくバタあり冷蔵庫」「花疲れ吊皮分かつ知らぬ人」(〈昭和二十三年〉)。いずれも 吉岡が吉屋と会った1948年の句である。
〔第1次〕《太宰治全集〔第12巻〕》(筑摩書房、 1956)の装丁に ついて書いた。私は太宰の熱心な読者ではないので、その書誌もそれほど知らなかった。今回、山内祥史氏の編になる〈〔太宰治〕書誌〉に 拠って多くを知りえたのは幸運だった。塩澤実信《古田晁伝説〔人間ドキュメント〕》(河出書房新社、2003年2月28日)の〈念願の『太宰治全集』の刊 行〉には、「〔『太宰治全集』の〕編集ははかどって、昭和三十年十月から毎月配本で刊行できるめどが立った。初版部数は四千と決まり、定価は四百二十円 と、『現日』の三百五十円に比べ、かなりの高定価設定だった。本文用紙も表紙のクロスも、最高の資材を使ったとあって、この定価でも初版だけでは赤字を覚 悟の上だった。/しかし、晁は生前心を許し合った太宰の全集を筑摩から刊行する以上、後世に残して恥ずかしくない立派な本を造りたい一心だった。〔……〕 この後に『太宰治全集』は、岩波書店における『夏目〔ママ〕漱石全集』の役割をはたすことになった。同じ紙型を使い、あるいは組み直して版型を変え、さら に新たに発見された新資料を加えて、刊行されること今日までに九次に及んでいるのである。〔……〕『現代日本文学全集』につづく『太宰治全集』の成功で、 筑摩書房は「全集の……」というイメージで括られる出版社になった」(二一二〜二一四ページ)と記されている。
●3月11日、東日本を襲った巨大地震に驚愕した。東京・練馬のわが家でも陶器が落ちて割れ、スチール製の本棚が倒れて吉岡実関係の書籍・雑誌や資料ファ イルのほか、CD・ MDなどの音楽ソフトが散乱した。屋外では隣家のブロック塀の最上段が崩落してきたが、幸い人的な被害はなかった。PC環境は問題なかったので、こうして 更新することができる。ありがたいことだ。
秋 吉輝雄さ んが亡くなられた。秋吉さんは福永武彦の従弟(武彦の母・トヨの兄・秋吉利雄の次男)で、1996年8月の《文藝空間》10号〈総特集=福永武彦の「中 期」〉では、《幼年》執筆のきっかけとなった写真を提供し、昭和30年代の福永武彦の身辺近くにあった従弟が語る「武彦にいさん」の想い出、をうかがった (〔聞き手:小林一郎・原善・星野久美子〕〈従兄・武彦を語る――文彦・讃美歌・池澤夏樹〉)。池澤夏樹《ぼくたちが聖書について知りたかったこと》(小 学館、2009年11月2日)は、実質的に秋吉さんとの対談集といえるだろう。心よりご冥福をお祈りする。


編集後記 100(2011年2月28日更新時)

吉岡実詩集《薬玉》本文校異では、今までになく各詩篇の詩型や表記に詳しく触れた。将来、もしも〈吉岡実詩集《薬玉》評釈〉を書くとすれば、それを核に執筆することになるだろう。薬玉といえば、杉本苑子《天智帝をめぐる七人》(文藝春秋、1994)の〈薬玉――中臣鎌足の立場から〉(初出は《オール讀物》1993年10月号)に「沙宅紹明は学問の弟子の大友皇子に、薬玉の作り方を伝授した。/故国から大量に持ってきた丁字を砕き、絹の袋に入れて、そのまわりをさまざまな薬草で球形にかたどった飾り物である。五色のくくり紐が長く垂れ、ゆらゆら揺れるのがいかにも優雅なので、たちまち女官たちも真似て作りはじめ、重臣たちへの贈り物にした。/「病魔退散のお守りです。霊力を信じてください」/との口上附きで、鎌足も紹明から一個、彼の手に成る薬玉を貰ったが、なるほど心身に巣くう邪気邪念が気持よく消え失せていきそうな、すがすがしい香気を放っている」(《杉本苑子全集〔第19巻〕》、中央公論社、1998年4月7日、二八〇ページ)と見える。
天澤退二郎《紙の鏡》の装丁について書いた。これで吉岡実装丁による天澤本全8冊の紹介を終えた。天澤退二郎の吉岡実論は、そのときどきでそれらの批評論集に収められている。《吉岡実》をめぐるこれらの文章を一冊の書物の形で読んでみたいものだ。冒頭は詩篇〈肉眼・航海の終り――吉岡実に〉、末尾は同じく〈報告――あるいは《早射ち女拳銃》〉がふさわしいと思う。
●林哲夫さんから《浪速書林古書目録》第28号〈西川満私刊本・著書特輯〉(浪速書林、1999年12月20日)をお送りいただいた。お手紙が挟んであったのは「特選品カラー版」のページで、そこには《昏睡季節》の表紙写真が掲載されている。キャプションは「344 詩集 昏睡季節 \2,800,000」。ほお、28万円だったのかと思いきや、280万ではないか。本文ページには「344 詩集 昏睡季節/吉岡實 草蟬舎/限定自家出版一〇〇部/(外装無完) 極美/昭15/1010/二、八〇〇、〇〇〇」、「幻のといわれるほどに極稀少な、吉岡實の第一詩集。『著者別詩書刊行年次書目』には「『液體』(第二詩集)の巻末に既刊として明記されてあるも不詳」と解説あり。/判型縦17・3×横12・1糎・三方折込表紙・本文和紙袋綴・序歌、本文七二頁。本書は第一〇番本。保存用帙付/―カラー版(2頁)参照―」とある。目録刊行当時、《昏睡季節》の本文は《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)で手軽に読めたから、この価格に本文の稀少価値は含まれていない。吉岡実詩集の最高額ではないだろうか。《吉岡実書誌》に目録のカラー写真を掲げた。
●平成12年4月の創刊号から平成22年3月号までの120冊の総目次をまとめた澤俳句会の《澤》2011年2月号別冊〈「澤」総目次〉をいただいた。本誌と同じ体裁、102ページの堂堂たる冊子である。《吉岡実参考文献目録》に録した最初の《澤》掲載の文章は「二〇〇二年〔平成一四年〕/小澤實〈霜月〉(澤、一月号別冊付録《礼のかたち》)」だった。〈「澤」総目次〉には「*この号〔【平成14年1月号】〕には折形デザイン研究所(代表 山口信博〈方眼子〉)と小澤實の共著になる「礼のかたち」が別冊付録として添付された」(同誌、一七ページ)と総目次の編者による注がある。小澤實さんと俳誌《澤》のさらなる活躍・発展をお祈りする。
●YouTubeで「Ian Bairnson live」を検索すると、スタンリー・クラーク(ベース)と二人だけで〈Blues Brothers〉を弾いたり、ビヴァリー・クレイヴェンのステージで〈Memories〉に伴奏を付けている動画がヒットする。イアン・ベアンソンはパイロット、アラン・パーソンズ・プロジェクト、キーツを経て、現在はセッションギタリストだが(スペインに住み、地元でJUNKというバンドを組んでいるという)、歌伴ギターの天才だと思う。代表作はケイト・ブッシュの〈嵐が丘〉。パイロット時代から使っているギブソン・レスポールのジェントルな響きは、流麗なメロディーラインと相俟って天下一品だ。根っからのギタリストだと思っていたら、1997年のアラン・パーソンズ初来日公演時、〈Old And Wise〉でサックスのソロを吹いて(スタジオ盤のメル・コリンズには及ばないが)、そのマルチプレイヤーぶりで人人を驚かせた。一方で、イギリスのボーカルグループ、バックス・フィズに楽曲を提供している。ジャズやプログレからポップミュージックまで、サイドマンとして余人をもって替えがたい音楽家だ。


編集後記 99(2011年1月31日更新時)

吉岡実の未刊詩篇〈絵のなかの女〉に ついて書 いた。これで《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)に収録されていない6篇を含めて、吉岡実の全詩篇の数は286になった。50年にわたって詩を、ほと ん ど詩だけを書いた人間にとって、この数字は決して多いものとはいえないが、かといって少ないわけでもない。私が《〈吉岡実〉を語る》《〈吉岡実〉の 「本」》に書いた記事の本数が現在約200で、考えれば考えるほど、この作品の数というものがわからなくなってくる。
天澤退二郎《作品行為論を求めて》の 装丁に ついて書いた。そこでも触れた〈映画における作品行為論――西部劇と性愛映画を中心に〉に見える若松孝二《胎児が密猟する時》《犯された白衣》や大和屋竺 《荒野のダッチワイフ》といった「エロスの自己超克を力強くうち出した意識的作品」(本書、一〇九ページ)が、吉岡実の談話〈純粋と混沌――大和屋竺と新 しい作家たち〉(《映画芸術》1969年3月号)にも登場するのは興味深い(初出は吉岡の方が先)。ところで、本書は9ポ43字詰18行ブラ下ゲ組の活版 印刷だが、受けの括弧類がブラ下ゲになっているのには違和感を覚える。
●私がときに読みかえす批評の書は何冊かあって、批評の対象への興味以上に著者・訳者の語り口に惹かれて、何年かに一度はそれぞれ通読する。 いま発行年を調べてみると、1960年代から2000年代にかけて各年代に一冊ずつあるのは、偶然だろうが嬉しいことだ。2010年代には、どんな書が私 を鼓舞してくれることだろうか。
・鈴木信太郎訳《マラルメ詩集〔岩波文庫〕》(岩波書店、1963〔9刷:1974〕)
・清岡卓行《萩原朔太郎『猫町』私論》(文藝春秋、1974)
・丸谷才一《忠臣藏とは何か〔講談社文芸文庫〕》(講談社、1988)
・夏目房之介《手塚治虫の冒険――戦後マンガの神々〔小学館文庫〕》(小学館、1998)
・四方田犬彦《貴種と転生・中上健次〔ちくま学芸文庫〕》(筑摩書房、2001)
●クリス・ウェルチ、ジェフ・ニコルズ(藤掛正隆、うつみようこ訳)《真像 ジョン・ボーナム――永遠に轟くレッド・ツェッペリンの“鼓動”》(リッ トーミュージック、2010年9月25日)を読んだ。本書に導かれてYouTubeでカーマイン・アピス(ヴァニラ・ファッジ)のドラミングを観ると、確 かにボーナムの先達だとわかる。“Communication Breakdown”におけるスティックトワリングやシンバルを叩いてすぐ手で抑えて消音する技は、アピスの派手な“You Keep Me Hangin' On”のそれを洗練させた(地味にした?)ものに思える。ツェッペリンの二度めの来日公演を観たのは武道館の二日めで、ステージの真横からだったが、オペ ラグラスでボーナムの右足ばかり視ていたような気がする。「〔……〕彼はその技〔スネアやハイハットに絡めて、16分音符の3連の最後の2打をしのばせた バス・ドラムのプレイ〕を自分のものにし、できる限りそれをさらけ出して楽しんだ。仰天したジミ・ヘンドリックスはある晩のギグの後、ロバート・プラント に次のようなコメントをしたという――「君のところのドラマーはカスタネットのような右足を持っているな」。」(本書、一四四ページ)。


編集後記 98(2010年12月31日更新時)

●昨年の12月に続いて、今年も年末に吉 岡実の未刊行詩篇を一篇、発見した。ここに《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第2版〕》(文藝空間、2000)のそれ と同じ 形式に整えて、《吉岡実全詩篇標題索引》を増補して刊行する日のために、原稿化しておこう(詩篇番号38bの「b」は38の次に挿入するための仮 のもの で、次回改訂時には正規の番号に付けかえたい)。
38b 絵のなかの女(えのなかのおんな) [――]
「かげろうは消え
18行▽《別冊一枚の繪》第4号〈花鳥風月の世界――新作/洋画・日本画選〉(一枚の繪)1981年10月1日▼未刊詩篇・15
なるべく早く詩篇を精査して、《〈吉岡 実〉を語る》に発表する予定なので、ご期待いただきたい。
詩集《ポール・クレーの食卓》の本文校異に つい て書いた。吉岡実の詩集は後年のものほど印刷部数は増える傾向にあるが、本書は初刷が850部で、部数に対する吉岡のこの感覚は鋭い。校異掲載を機に、未 刊詩篇を最新にすべく〈拾遺詩集《ポール・ク レーの食卓》解題〉を修正した。
井 上靖詩集《運河》の装丁に ついて書いた。いい機会なので、久しぶりに短篇集《崑崙の玉〔文春文庫〕》(文藝春秋、初刷:1974、8刷:1989)の標題作を読みかえしてみた。 ジャケットの袖には既刊本が《おろしや国酔夢譚》以下20タイトル挙げられていて、当時の井上靖の人気のほどをうかがわせる。読み較べるべき吉岡実詩 は、言うまでもなく長詩〈崑崙〉(F・8)だ。
●林哲夫編著《書影でたどる関西の出版100――明治・大正・昭和の珍本稀書》(創 元社)の奥付刊行日は2010年10月10日だが、事前予約したAmazonから届いたのは11月下旬だった。書影が全点カ ラーというのは嬉しい。吉岡実の本は登場しないが、湯川書房の刊行物として《容器〔T・U・V〕》が取りあげられていて、「本の写真集」としても出色だ。 林さんの装丁・造本が素晴らしい。
●このところ、装丁関係の書籍の刊行が相次いでいる。長友啓典《装丁問答〔朝日新書〕》(朝日新聞出版、2010年12月10日)、桂川潤《本は物[モ ノ]である――装丁という仕事》(新曜社、10月28日)、グラフィック社編集部編《装丁道場――28人がデザインする『吾輩は猫である』》(グラフィッ ク社、7月25日)、鈴木成一《装丁を語る。》(イー スト・プレス、7月23日)。新書はともかく、単行本は著者によるブックデザインが通例だから、それ自体の資材や仕様を記載するのは見識である。装丁関係 以外の一般書籍も、出版社のウェブページで資材や仕様を公開してくれるといいのだが、簡単にはいかないだろう。それよりも、奥付に装丁者・ブックデザイ ナー の氏名を(編集者の氏名とともに)明記することが優先される。それはともかく、手製本 派の私としては、美篶堂《製本工房・美篶堂とつくる文房具――上製ノート、箱、ファイルボックス、アルバムほか13種類のステーショナリー》(河 出書房新社、10月30日)やその前の《はじめての手製本――製本屋さんが教える本のつくりかた》(美術出版社、 2009年5月1日)のような本が 増えることを期待している。
●中山康樹による〈マイルス新書シリーズ〉全5部作が完結した。刊行順に《マイルス・デイヴィス 青の時代〔集英社新書〕》(集英社、2009年12月)、《マイルスvsコルトレーン〔文春新書〕》(文藝春秋、2010年2月)、《マイルスの夏、 1969〔扶桑社新書〕》(扶桑社、2010年2月)、《エレクトリック・マイルス 1972-1975〔ワニブックス〈plus〉新書〕》(ワニ・プラ ス、2010年6月)、《マイルス・デイヴィス 奇跡のラスト・イヤーズ〔小学館101新書〕》(小学館、2010年10月)。11箇 月間で5冊――《50枚で完全入門 マイルス・デイヴィス〔講談社+α新書〕》(講談社、2010年9月)を加えれ ば6冊!――の新書を執筆して出版するには周到な準備と綿密な設計図がなくてはならない。著者はジャズの乗りとロックの勢いでこれを走破した。中山=マイ ル スの根幹に位置するのが、総論に当たる《マイルス・デイヴィス〔講談社現代新書〕》(講談社、2000年2月)だ。5部作とともに必読の書である。
●本サイトの開設以来、書影を撮るのに使ってきたデジタルカメラPanasonicのLUMIX DMC-LC5(二台め)はバッテリーがチャージしにくくなったので、同じLUMIXのDMC-LX5を購入した。今回から「広角端でも望遠端でも ゆがみの少ない端正な描写を可能にするズームレンズ」(同社の〈デジタルカメラ総合カタログ〉から)で撮影を始めたわけだが、はたして出来映えはどうだろ う か。


編集後記 97(2010年11月30日更新時)

〈うまやはし日記〉の本文校異に ついて書いた。ところで、《新潮》10月号に福永武彦(1918-79)の終戦直後(1945年9〜12月、46年の1月と3〜6月、47年の6〜7月) の日記の一部が掲載されている(日記の全文は2011年に新潮社から刊行される予定)。吉岡実にも1946年1月〜4月分の日記(《るしお る》5号・1990年1月、同6号・同年5月)があるから、比較してみるのも興味深いだろう。また《新潮》の2009年12月号には、新発見の井上靖 (1907-91)の〈中国行軍日記〉(昭和12〔1937〕年8月25日〜昭和13〔1938〕年3月7日)が掲載されている。井上は「日中戦争初期に 輜重兵特務兵として応召し、中国河北省に送られた」(曾根博義〈解説〉、同誌、二三一ページ)。やはり輜重兵だった吉岡の兵隊時代の日記は、(それがある としてだが)公表されていない。
《ウ ンガレッティ全詩集》の装丁について書い た。ウンガレッティ(1888-1970)というと、飯田善國の彫刻の先生だったペリクレ・ファッツィーニの木彫〈ウンガレッティ像〉の瞑想的な姿が想い うかぶ(飯田善國《彫 刻家〔岩波新書〕》、岩波書店、1991、四八ページ)。このイタリアの巨匠こそ、マラルメやオクタビオ・パスと並んで晩年の吉岡が親しんだ外 国詩人の一人ということになろう。
●《吉岡実の詩の世界》を開設して丸8年が経過した。閲覧していただいた方に改めて御礼申しあげる。本サイトの現状をご報告しておこう。開設時の総ページ 数(A4での印刷換算)は約139ページだったが、1年後には約243ページとほぼ1.7倍、2年後は約341ページで開設時の2.5倍、3年後は 約474ページで同3.4倍、4年後は約693ページで同5.0倍、5年後は約803ページで同5.8倍、6年後は約892ページで同6.4倍、7年後は 約996ページで 同7.2倍、8年後の現在は約1221ページで開設時のほぼ8.8倍となっている。ただし、《吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈》〔約311ペー ジ〕はサーバの容量の関係で現在掲載停止中の ため、これを除くと 約910ページ、ほぼ6.5倍となる(10月末時点のアクセスカウンターの数値は28431だった)。今後とも吉岡実と〈吉岡実〉に関する新稿の掲載、既 存情報の補綴に努 めていきたい。
●ここで毎回の記事掲載までの流れを披露しておくと、第一稿はテキストエディタで執筆する(縦書き表示の確認を兼ねる)。長文の引用は原典をOCRでテキ スト化し、画像も撮影やレタッチをすませておく。次に、サイトの各ページとは別の作業用htmlファイルで、掲載ページ用の素稿を組む(雑誌のカンプに当 たる)。このとき画像が間に合わなければ、同寸のダミーを貼り込んでおく。これに手入れをしていき、ページや行のボリュームの調整も行なう。毎月末日の定 期更新が完了した時点 で、素稿データを次号の正式なhtmlファイルに移す。その後は、時間の許すかぎり資料に当たり、論旨を通し、文章を整え、リンクを確認し、手入れを繰り か えす(テキストエディタでの縦組印字を活用)。公開した記事は基本的に訂正加筆せず、新たな知見は執筆年月日を明記して追記の形で文末に付け加える。以上 が大 まかな流れだ。ときに、本サイトの掲載記事の進行が何に似ているかといえば、かつて私が制作進行と広告の入稿管理を担当した《エ ス クァイア日本版》の流儀だと思いあたる。ウェブサイトの流儀でウェブサイトをつくるほどつまらないことはない。
●《サフラン摘み》(青土社、1977年3月30日〔5刷〕)をAmazonの中古品で購入した(1,260円+送料250円)。指名買い の場合、《日本の古本屋》は確かに強力なツールだが、刷まで限定して探すとなると、出品者が記載していないことが多いため、発行年頼みになる(ちなみに 「5刷」は私の表 記で、奥付では「五版」)。古書店は初版以外は面倒なのか「重版」という簡略化した記載が目立つ。むろん、奥付にこの表示はない。「三版」が「3版」「3 版」と記されているのも悩ましい。2007年秋に「1977年3月30日5版」の記載のある《サフラン摘み》をネットの古書で見つけたが、売約済みだった (帯なしで1,400円)。その後は思い出したときに検索する程度で、古書店に問いあわせることもなかった。今回入手した「五版」で、「初版」 (1976年9月30日)、「再版」(同年10月15日)、「三版」(1977年1月15日)、「四版」(同年2月20日)、そして「六版」(1979年 10月30日)の すべてが揃った(ただし2刷・5刷は帯なし)。本書の増刷を概観すれば、初刊後好評につきすぐに2刷。高見順賞受賞で3刷、4刷、5刷。新詩集《夏 の宴》の刊行に合わせて6刷。以上、計9000部。この6冊の《サフラン摘み》が本サイト8周年の自祝となった。なお《サ フラン摘み》の増刷に関しては〈編集後記 56〉〈編集後記 60〉も併せてご覧いただきたい。
●11月17日午後1時37分、ノンフィクション作家の黒岩比佐子さんが膵臓がんのため亡くなられた。52歳だった。黒岩さん(というより「清水さん」と 呼びたいが)はUPU社時代の同僚で、綿密な調査ぶりとそれに立脚した独自の史観は目覚ましかった。新刊の《パンとペン――社会主義者・堺利彦と「売文 社」の闘い》(講 談社、2010年10月7日)が生前最後の作品となった。がんを宣告されて以降、この書きおろしに専念したかったであろうに、 治療の経過をブ ログに執筆し つづけた黒岩さんの真骨頂は、まさにその誠実さで一作ごとに新たな領域を開拓することだった。――「伝書鳩から村井弦斎へ」がそうであったように。ついに 書かれなかったテーマを想像すると暗澹たる想いを禁じえないが、「はたして最後まで書けるだろうか、という不安と闘いながら、なんとかここまでたどりつい た。〔……〕いまは、全力を出し切ったという清々しい気持ちでいっぱいだ」(本書、四一八ページ)という〈あとがき〉にすべてが籠められていよう。さよう なら、黒岩比佐子さん。《『食道楽』の人 村井弦斎》(岩波書店、2004)を、《編集者 国木田独歩の時代〔角川選書〕》(角川書店、2007)をありがとう。あなたの生涯は見事なラリー でした。どうか、ゆっくりとお休みください。


編集後記 96(2010年10月31日更新時)

マラルメ《骰子一擲》のことを書 いた。《マラルメ全集〔第1巻〕》(筑摩書房)については本文でも触れたが、全集の初回配本は吉 岡実が存命中の1989年である。吉岡さんからマラルメについてうかがったなかで、〈産霊(むすび)〉(K・1)の冒頭の詩句「〔聖なる蜘蛛〕」はマラル メからだ(出典は《ユリ イカ》臨増の総特集号?の誰かの文章)、という発言が昨日のことのように想い出される。
石垣りん《焔に手をかざして》の装丁に ついて書いた。ところで、《〈吉岡実〉の「本」》の データがサーバの容量いっぱいになったので、《吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈》を削除した(両ページとも、本サイトikobaの別館[アネックス] のmikobaサーバに間借りしていた)。これから掲載しなければならない吉岡実の装丁作品を勘案すると、《評釈》にはいっとき退場ねがって、時機を見て 再登場させたいと思う(もっとも、その間に印刷物として展開することができれば、再登場の機会はなくなるかもしれない)。装丁作品の書影はなるべくはっき りしたものを見てもらいたいから、少しでも高い解像度にする。すると、今度は容量が大きくなる。この兼ねあいが難しい。
●先日、東京都現代美術館で子供たちと一緒に《借りぐらしのアリエッティ×種田陽平展》(2010年7月17日〜10月3日)を観 た。いい機会だったの で、所蔵 の《難波田龍起自選展――造形の詩魂》(フジテレビギャラリー、1974)、《池田満寿夫の20年全版画展》(美術出版社、1977)、《マックス・エル ンスト――ケルンのダダ展》(佐谷画廊、1982)の3点の吉岡実関連資料を閲覧したかったが、時間の余裕がなくて果たさなかった。どれも吉岡実の本文を 掲載したページはコピーを持っているが、目次や 奥付など、書誌に欠かせないページをじっくりと見たかったのだ。必要なページ以外も繰ることで、予想もしなかった発見をすることがある。世にこれを serendipityと言うか。
●吉岡実が詩篇や随想を寄せた雑誌に詩誌や文芸誌が多いのは当然として、美術 誌(個展のカタログを含む)や俳句誌(結社誌を含む)も想いのほか目に付く。そうした媒体に、未見の吉岡実作品が載っている可能性は大いにある。一般の図 書館や文学館だけでなく、美術館付属のライブラリや資料室、俳句文学館などの専門の文学館が重要視される所以だ。
●ジミー・ペイジ(レッド・ツェッペリン)、ジ・エッジ(U2)、ジャック・ホワイト(ホワイト・ストライプ)という新旧三人のギタリストが共演する《It Might Get Loud》(監督:デイヴィス・グッゲンハイム)を観た。輸入盤 DVDなのでリージョンコードが心配だったが、新しいPCでなんの問題もなく観ることができた。今回いろいろと悩まされたWindows 2000からWindows 7へのパソコンのリプレースで、動画の再生環境だけは文句なしに向上した(もっとも、DTPまわりは未だ手つかずの状態だ)。
●来月11月は本サイトの開設8周年にあたる。通算100回めの定期更新も射程に入ってきた。とはいうものの、今のところこれといった特別の企画は用意し ていない。節目の月であろうが、記念の回であろうが、それぞれのページの更新を地道に重ねる以外、本サイトの意義はないと考える。


編集後記 95(2010年9月30日更新時)

吉岡実とフランシス・ベーコンのことを 書いた。ベーコンの作品は図版(たとえそれがどんなに大判の画集であっても)を観るだけではどうしようもないので、過日、所蔵品の〈スフィンクス――ミュリエル・ベルチャーの肖像〉(1979)を観 ようと、竹橋の東京国立近代美術館に行った。企画展の珠玉の決定版《上村松園展はそれなりに面白かったが、肝心の〈スフィンクス〉は、展示の都合によるのか、観ら れなかった。ちなみに同館は日本でただ一度開かれたベーコン展の会場で、1983年夏のそれを吉岡実はむろん観ただろうが、私は観ていない。
辺 見じゅん歌集《水祭りの桟橋》の装丁について書いた。同書は辺見の第二歌集で、菊地信義の「book design」になる第三歌集の書名は《闇の祝祭》(角川書店、1987)。奇しくも、1985年刊の吉岡実英訳詩抄《Celebration In Darkness――Selected Poems of YOSHIOKA MINORU》の邦題と同じである。本文に掲げた歌と呼応する一首を《闇の祝祭》から引く。 「をみならは花のゆらぎに似てゆるる/雪ふれば雪の暗きしづまり」(〈U 比叡暮れたり〉中の〈雪のまほろば〉)。
●《タブロオ・マシン〔図画機械〕――中村宏の絵画と模型》(練馬区立美術館、2010年7月25日〜9月5日)を最終日の前日に観た。深い紺碧の空間を 無限に墜ちてゆく蒸気機関車を描いたタブロオ〈HUDSON-C62〉には震撼した。表紙に銅凸版の原版を使用した稲垣足穂・中村宏共著《機械学宣言―― 地を匍う飛行機と飛行する蒸気機関車》(仮面社)特装版の束見本(1970年7月/15.4×12.0× 3.8cm)の、土中から掘りだされたような物質感にも圧倒された。中村氏のギャラリートークの動画が練馬区立美術館のブログで公開されている のは嬉しい。
最 近よく聴くのはサンタナだ。手許にあるのは《天の守護神[アブラクサス]》(1970)と《キャラバンサライ》(1972)くらいだが、初期の音楽を聴い ていると、マイルスやコルトレーン、マクラフリンやヘンドリックスからスティーヴン・スティルスまで、いろいろなミュージシャンのことが思われる。それは そうとこのあいだ、ペイジ=プラントとニール・ヤングがレッド・ツェッペリンの〈レヴィー・ブレイク(When the Levee Breaks)〉を演[ジャム]っている映像〈Led Zeppelin perform Rock and Roll Hall of Fame inductions 1995〉を観たら、ヤングばかりかロバート・プラ ントまでリードギターを執っているのには驚いた(ジミー・ペイジはバッキングに終始している)。
〔2017年1月31日追記〕ジミー・ペイジの公式サイト
《JimmyPage.com》日 替わりで過去の同月同日の出来事を紹介しているが、2017年1月12日には、レッド・ツェッペリンのロックの殿堂入り(1995年)が取り上げられてい た。前掲動画〈Rock and Roll Hall of Fame induction〉もアップされていたので懐かしく観ていたら、なんと「ペイジ=プラント」ではなく、ジョン・ポール・ジョーンズも含めた存命の元メン バー全員とニール・ヤングだった(ドラマーはマイケル・リー?)。ペイジの衰頽ぶりに目が眩んでいたとしか思えない。この年、殿堂入りした受賞者はツェッ ペリンの他にオールマン・ブラザーズ・バンド、アル・グリーン、ジャニス・ジョプリン、マーサ&ザ・ヴァンデラス、フランク・ザッパだった由。プラントは 〈レヴィー・ブレイク〉の後半でヤング(というか、バッファロー・スプリングフィールド)に敬意を表して、スティルスの〈フォー・ホワット(For What It's Worth)〉の歌詞を織り込んで歌っている。なお、オリジナルに近いアレンジによる同曲の歌と演奏はレッド・ツェッペリンのブートレグ《Live on Blueberry Hill》(1970)で聴くこと ができる。
●本サイトの制作環境が変わった。開設以来ずっと作業してきたウェブオーサリングソフトGoLiveがWindows7で動かないため、この後記を書いて いるのはKompoZerというフリーソフトである。有償のものも含めていくつか比較した結果、これが合っているように思えた。もっとも《〈吉岡実〉を語 る》のページなど、ファイルサイズが大きすぎるせいか、保存できないというエラーメッセージが頻出する。回避するためのいささか泥臭い方法を見出したが、 公表するとあきれられそうだ――ともったいぶる必要はなくて、KompoZerを使ってなるべく自分でタグを書かずに、あとはテキストエディタとウェブブ ラウザを併用して、自分が必要とするHTMLファイルにするだけのことなのだが。


編集後記 94(2010年8月31日更新時)

《北海道の口碑伝説》のことを 書いた。昨年夏の北海道旅行では、札幌・時計台近くの、窓を開ければ時を告げる鐘が聴こえるホテルに泊まった。時計台一階の資料コーナーに同書が所蔵され ていることは確認したものの、閲覧する時間はなかった(その後、古書を入手)。吉岡実は昭和54年(1979年)の夏、和田一族や陽子夫人と北海道の国縫 まで墓参り旅行をしているが、残念ながら本書には、和田芳恵の故郷の国縫(現・北海道山越郡長万部町字国縫)が見出しとして立っていない。吉岡は北海道の 地で、40年ほど前に自分が手掛けた本のことをどう思っただろうか。
飯 田善國詩集《見知らぬ町で》の装丁に ついて書いた。本文で引用した作品からはわかりにくいが、この詩集の飯田の書法はかなり変わっていて、視覚上のセオリーに基づいて詩句中に空白[スペー ス]を埋め込んでいくことで、版面に大きなリズムを形成している。池田満寿夫が重戦車のようだと評したその評論文とは異なり、飯田の詩はスピードと軽快さ を身上としているようだ。
●柴田光滋《編集者の仕事――本の魂は細部に宿る〔新潮新書〕》(新 潮社、2010年6月20日)の〈W 見える装幀・見えない装幀〉にフランス装が登場する。しかしここに引きたいのは〈X 思い出の本から〉の指摘だ。「個人全集の要諦は書誌にあるということです。書誌とは、大雑把に言って著作の考証で、〔……〕さらには著作一覧や年譜の作成 などの作業を含む総称です。/個人全集は各巻末に解題、最終巻に書誌として年譜や著作一覧などを載せるのが一般的で、その出来が全集の勝負どころ。ここを 見れば全集の編集レベルがわかる」(同書、一七六〜一七七ページ)。このあと、柴田氏が手掛けた《平野謙全集》(新潮社、1974-75)の書誌を調査し た青山毅(1940-94)の編んだ〈平野謙書誌〉(第一部 全集収録作品初出一覧、第二部 全集未収録著作一覧、第三部 対談・座談会一覧、第四部 著作目録一覧、 第五部 共著・編集書一覧、第六部 年譜、第七部 補遺)の 紹介がある。平野と青山に献じた抜刷(といっても全集と同じ装丁の)《平野謙書誌》に、私は氏の編集者魂を見た。この一節は、ぜひとも原文につか れたい。
●「厩橋は一九二九(昭和四)年に竣工した復興橋で、下路アーチ。アーチの下が道路になっている。橋長一五一・四メートル、幅員二一・八メートル。緩やか なアーチの曲線、円形の橋脚が優しい。親柱の上には馬が描かれたステンドグラスが嵌め込まれていて、これがなんともほのぼのとしている。素朴な絵だ」(小 林一郎《目利きの東京建築散歩――おすすめスポット33〔朝日新書〕》、朝日新聞出版、2010年5月30日、一一 六ページ)。口絵の東京スカイツリーのカラー写真がいい。著者は1952年生まれの建築史・都市開発研究家で、筆者とは同名異人。
●ジョン・コルトレーンの代表アルバムといえば《至上の愛》(1964)だが、アシュリー・カーン(川嶋文丸訳)《ジョ ン・コルトレーン『至上の愛』の真実》(音 楽之友社、2006年2月28日)に次のような一節がある。「ブランフォード・マルサリスは語る。/レッド・ツェッペリンの〈ホール・ロッタ・ラヴ〔胸 いっぱいの愛を〕〉という曲を知ってるかい?(と言って歌い出す。リズムの変化がア・ラヴ・スプリーム≠フリフによく似ている) それからこれはウィ リー・ディクソンの〈ザ・セヴンス・サン〉という曲だ(と歌う。同じく似ている)。『至上の愛』のパート一に出てくるベース・ラインと同じだろう――これ はブルースのフレーズのひとつなんだよ」(同書、一七三ページ)。著者のカーンはこの前ページで「ア・ラヴ・スプリーム≠フ有名なリフは基本的にブルー スを構成するフレーズの一部分である」と書いており、吉岡実の〈僧侶〉のリフレイン「四人の僧侶」と俳句の関係など、想い起こされる。
●サイト開設以来ずっと作業してきたPC(OSはWindows 2000 Professional)がAdministratorでログオンできなくなった。潮時なので新たにWindows 7マシンを購入した。毎月中旬は原稿のチェックや書誌の確認に費やすのが通常のスケジュールなのだが、今月はそういうわけでPC関連の作業に忙殺された。 そのしわ寄せで来月の原稿に影響が出ないか、気がかりである。


編集後記 93(2010年7月31日更新時)

〈吉岡実と彫刻家〉を 書いた。吉岡実が語った「ついこの間飯田善国の個展があったのよ。それで行ったらサ、当然西脇さんが来ているのかと思ったら、ポツンとしているのよ。 〔……〕ぼく、そばに行ってだいぶ話していたのよ。そうしたら、早くから来てたのかな、疲れちゃって、吉岡君、そろそろ自動車拾って帰ろうというわけよ。 ぼくはまだ遊んでいたいわけよ。〔……〕そのとき南画廊の出した自動車だったんだよ。だから、西脇さん、南画廊の自動車だったらよろしいんじゃないです か、乗ってお帰りなさいと言ったら、吉岡君、帰ろう帰ろうって、とうとうぼく、思いを残して、お宅へ送って、そのまま帰っちゃった。善国さんと食事する約 束だったのに」(吉岡実・加藤郁乎・那珂太郎・飯島耕一・吉増剛造〔座談会〕〈悪 しき時を生き る現代の詩〉、《短歌》1975年2月号、五九ページ)の「個展」は《飯田善國展――chromatophilologia》 (1974年10月14日〜11月2日) だろうか。
石 垣りん詩集《やさしい言葉》の装丁について書いた。同詩集は初刊本、同じ花神社の〔石垣りん文庫4〕(1987年12月20日、装 丁:熊谷博人)、童話屋の復刊詩集(2002年6月12日、装丁:島田光雄)、と三つの刊本を持ち、石垣りん詩集の根強い人気をうかが わせる。なお、文庫版〈あとがき〉の編集部注には「本書は一九八四年の吉岡実氏の装幀により刊行された」とある。
●7月3日、土渕信彦さん企画・構成の〈瀧口修造の光跡U「デッサンする手」〉(森岡書店、6月28日〜7月10日)の関連イベント、土渕さんのギャラ リートーク〈瀧口修造の詩的原理〉を聴いた。瀧口の1962年までのドローイング・水彩を中心に32点が展示されたギャラリーで、瀧口の詩的テクストの変 遷の根底にある詩的原理の展開が論じられ、近・現代詩に類例のないその高度な思索性が称揚された。また、《洪 水》第6号 (2010年7月)の〈『瀧口修造の詩的実験』の構造と解釈(一)〉は、昨年12月の〈詩と詩論の会〉での発表を踏まえた密度の濃い文章で、続編が待たれ る。
●竹内まりやの〈家[うち]に帰ろう(マイ・スイート・ホーム)〉(1992) には、短いながら複音を多用した美しいギターソロがある。私はこの複音を採るのが苦手で、ピアノ伴奏譜を入手してようやく把握できた。最後の小節、Aの トップノートの下でD-C#-D-Eと動くあたり、ベンチャーズの〈10番街の殺人〉のライヴバージョンに似た展開になっている。竹内まりやのライヴ盤《スーベニール》(2000)では、次に控えるイントロのモチーフを決める ためだろう、ギタリスト(佐橋佳 幸?)が必殺フレーズをピアノに任せてスルーしているのは残念だ。この難所をどう切り抜けるのか聴きたかったのに。
●中山康樹《リヴァーサイド・ジャズの名盤50》(双 葉社、2010年6月13日)を読んだ。巻頭・巻末がオールカラー(全ミュージシャンの索引付き。目次は本体ではなくジャケットの袖に英文表記)。本文の 基本フォーマットは4ページで、最初のページにジャケット写真やアルバムデータ、続く3ページが文章(初めの見開きが4色で、後の見開きが1色)。《ビートルズから始まるロック名盤〔講談社文庫〕》の不満を 解消して余りある、見事な出来の文庫判単行本だ。〈Afterword――きわめて個人的なあとがき〉の次の一節には打たれた。「2009年、古庄〔紳二 郎〕さんから『リヴァーサイド・ジャズ・レコーズ』の改訂版を送っていただく。それは想像をはるかに超える豪華な書籍であり、リヴァーサイドのすべての作 品がカラーで掲載されていた。そしてまたしても自費出版。それがどれほど大変なことか、情熱をもちつづけることがどれだけ「すごいこと」か」(同書、二二 三ページ)。本書とほとんど同時に刊行された《エレクトリック・マイルス1972-1975――〈ジャズの帝王〉が奏でた栄光と終焉の真相〔ワニブックス 【PLUS】新書〕》(ワニ・プラス、2010年6月25日)はマイルス・デイヴィスの「各論」シリーズ第四弾。中山=マイルスの新書攻勢も佳境 に入ってきた。


編集後記 92(2010年6月30日更新時)

〈吉岡実詩集《夏の宴》本文校異〉を 書いた。《夏の宴》で吉岡実がおぼめかして書いた「近世の女植物学者」(H・1)、「伊太利の宗教画家」(H・3)、「或る近代詩人」(H・8)、「或る 西欧の画家」(H・16)――これはジョルジュ・ブラック――、「古代の夭折詩人」(H・24)が誰を指すのか、それとも指さないのか、あれこれ考えてみ るのも一興だ。
金 井美恵子詩集《花火》の装丁について書いた。金井は近年詩集を出していないが、《スクラップ・ギャラリー――切りぬき美術館》(平 凡社、2005年11月1日)はスワンベルク、ゾンネンシュターン、李朝民画、バルテュス、フランシス・ベーコンといった吉岡好みの画家たちの並ぶ、観て 愉しいエッセイ集である。巻頭の〈長谷川潾二郎――静かな家の猫たち〉(副題からして吉岡実詩!)の書き出しのセンテンスは、「〔……〕、なんとも愛らし い様子で眠っている黒トラ柄の猫の絵を描いた画家・長谷川潾二郎のことを知ったのは、詩人の吉岡実が、それを〈猫の絵の傑作〉と言って教えてくれたからな のだが、〔……〕」(同書、八ページ)を含み、この3倍ほどもある。
●6月12日、渋谷の珈琲&ギャラリー〈ウィリアム モリス〉(宮益坂・中村書店の斜め裏手)で林哲夫さんと《ちくま》編集長・青木真次さんの茶話会を聴いた。開催中の林さんのち くま表紙画展〈四角い宇宙〉――ほの暗い店内で 油彩作品〈窓〉が金色に輝いていた――の記念イベントである。青木さんがこうした席で話すのは初めてだそうで、〈徹子〉ならぬ〈哲夫の部 屋〉という感じの和気藹藹とした1時間半だった。70周年記念版《筑摩書房図書総目録》刊行の予定がないのは淋しいが、ウェブ上で品切れ本も含めた総目録 を充実させていくということなので、楽しみだ。
《現 代日本文學大系〔全97巻〕》が「筑摩書房創業七十周年記念特別企画」として復刊されている(吉岡実は《現代詩集》に 登場)。A4判8ページの内容見本は、「最高の造本・魅力ある装幀です/用紙その他の資材はできるだけ良いものを使用し、造本・装幀は気品と現代的センス にあふれています。きっとご満足いただけることと信じます」、「造本・体裁 菊判・上製・貼函入・表紙特製バクラム装・本文紙=特漉ウスクリーム上質紙使 用・組方=8ポ2段組/平均456頁・口絵1丁・月報8頁付」と謳っている。装丁者のクレジットはないが、初刊当時社員だった吉岡実である。
●6月20日、黒岩比佐子《古書の森 逍遙――明治・大正・昭和の愛しき雑書たち》(工作舎、2010年6月20日)を購入した。折に 触れてブログ《古書の 森日記 by Hisako》で 読んできた文章だが、編集が凝らされていて、活字で読むのは格別だ(写真版も見事)。同日から神田・東京古書会館で開催された〈作家・黒岩比佐子が魅せら れた明治の愛しき雑書――日露戦争・独歩・弦斎〉の展示会場で、久しぶりに会った黒岩さん(UPU時代の同僚である)に署名してもらえたのは幸運だった。 そのあと、三省堂書店神保町本店や東京堂書店ふくろう店で開かれている黒岩比佐子選のブックフェアも見て回った。工作舎製だろう、A4を四つ折したチラシ 〈古書の森マップ〉も出色だ。
●6月26日、大曲の印刷博物館で田中栞さんの講演〈書肆ユリイカの美しい本〉を聴いた(「印刷文化懇話会 神田川大曲塾 6月例会」として開かれたもの)。田中さんが所蔵のユリイカ本を解説するという趣向で、那珂太郎の第一詩集《Etudes》(1950)を皮切りに、国会 図書館にもない貴重な詩書を数十冊、昨年10月の〈「書肆ユリイカの 本」展〉よ りも間近に観ることができた。吉岡実関係では《プリュームという男》《キャスリン・レイン詩集》、同人誌《鰐》が紹介された。終了後、かねてから中村稔詩 集《無言歌》(1950)との類似が気になっていた書肆山田の〈草子〉限定版(天沢退二郎《「評伝オルフェ」の試み》)を見てもらったところ、「吉岡実の 創意だろう。三つ目綴じ仕様は他にもけっこうある」とのことだった。吉岡が自著と筑摩書房の業務以外で本格的に装丁を開始したのが書肆ユリイカの本だか ら、吉岡の詩書装丁を牽引したのは伊達得夫その人だった。
●野崎歓《異邦の香り――ネルヴァル『東方紀行』論》(講 談社、2010年4月2日)を読んだ。Parfum exotiqueと言えばボードレールの詩篇だが、晩年の福永武彦がわが邦の訳詩集を論じた《異邦の薫り》(新潮社、1979)も思い出だされる。ネル ヴァルの《東方紀行》は、古い訳書(《東方の旅》)をもっていながら今まで敬して遠ざけてきたところがあるので、これを機に挑戦してみたい。


編集後記 91(2010年5月31日更新時)

●秋元幸人さんが亡くなられた。4月29 日、このサイトをご覧になった従弟のかたからメールで逝去を知らされたときは、わが目を疑った。5月3日、 目黒・サレジオ教会での通夜でヨハネ秋元幸人さんとお別れをしたあと、〈秋 元幸人氏を送る〉を草した。刊行時に購入した方ではなく、秋元さんからいただいた方の《吉岡実アラベスク》(書肆山田、2002)を ひもといて、氏の冥福を祈った。
〈発言本文を除く《吉岡実トーキング》〉を 掲載した。本体の《吉岡実トーキング》は吉岡実のエクリチュールにあらざる全発言を、T(吉岡本人)、U(相手が一人)、V(相手が二人)、W(相手が三 人以上)に分けて、細大漏らさず収録したもの。その発言本文を除いて、私が書いた前付(はじめに・凡例・目次)・編者註・後付(初出一覧・編者あとがき) を残したのが今回掲載する〈発言本文を除く《吉岡実トーキング》〉である。冊子体を引きあいに出すなら、本文を欠いた全集の解題といったところか。400 字詰原稿用紙1200枚超の 《吉岡実トーキング》は秋元幸人さんに捧げられる。
丸 谷才一《鳥の歌》の装丁について書いた。そこでは触れることができなかったが、丸谷は瀬戸川猛資の歿後まもなく刊行された《夢想の研 究――活字と映像の想像力〔創元ライブラリ〕》(東 京創元社、1999年7月30日)に寄せた文を「天がもう二十年、せめて十年、時間を与へてくれたならと残念に思ふけれど、まあこれは仕方がない。しかし 彼が持つてゐた優れた資質と力量、大きな可能性のあかしとしては、ここに『夢想の研究』といふ一冊がある」(同書、二六一ページ)と締めくくっている。 〈真珠とりの思ひ出〉と題する、解説にして追悼文の見本のような一文である。
●長尾真《電子図書館〔新装版〕》(岩 波書店、2010年3月18日)を読んだ。1994年刊の旧版は読んでいないが、今こそ本書の真価が問われるときではないだろうか。「画像のディジタル化 技術は図書館の場合、貴重本に対して適用するとその価値を発揮する。貴重本はその取り扱いがむずかしく、頻繁に閲覧に供することができないなどのことが あって、限られた専門家だけがようやく見られるというのが実状である。しかし、そのようなものは一度電子化しておけば誰でもいつでも気楽に見ることができ る。十分な精度で電子化しておけば、文字のかすれ具合や、裏に書かれた文字のすけて見える状態や、紙質なども表示装置の上である程度確かめられるから、こ れはぜひとも推進すべきことである」(本書、三五〜三六ページ)。《静 物》手稿本をぜひこれで読みたい。
●5月31日、吉岡実が亡くなってちょうど20年めの祥月命日である。本サイトの記事を見て回っていると、そこここに「今後の課題にしたい」という文言が 残っている。いずれそれらを解決する一方で、とりあえずは《夏の宴》以降の吉岡実詩集の本文校異を進めていきたい。
●原田和典《コルトレーンを聴け!》(ロ コモーションパブリッシング、2006)に導かれて、ジョン・コルトレーンのアルバムを聴いている。マイルス・デイヴィスとのボックスセットを別格に、 《ジャイアント・ステップス》(1960)や1965年の《至上の愛》のライヴ盤をよくかけるが、《オラトゥンジ・コンサート(ザ・ラスト・ライヴ・レ コーディング)》(1967)の渾身のブロウも堪らない。


編集後記 90(2010年4月30日更新時)

吉岡実と瀧口修造について書いた (連載は今回で終 了)。瀧口の著作は《コ レクション瀧口修造〔全13巻・別巻1〕》(み すず書房、1991年1月〜1998年7月)としてまとめられているが、「造形作家としての瀧口修造の作品を集成する」と予告されている〔別巻2〕は未刊 行だし、当然のように索引もないものだから(索引のない全集は欠陥品だ)、完結にはほど遠い。吉岡実は筑摩書房在社時代に《瀧口修造全集》出版の打診をし たことがある。しかし、当時も今も瀧口の単著は筑摩から出ておらず、仮に瀧口に全集を出す意向があったところで版元としては3番手以下だったろう(2番手 は美術出版社)。西脇順三郎が《西脇順三郎全集》を出したように、晩年の瀧口が筑摩から《瀧口修造全集》を出していたら〈吉岡実と瀧口修造〉がどのような 展開を見せたか、想像もつかない。
●入沢康夫詩集《古い土地》の装丁について書いた。これで吉岡実装丁の入沢康夫の本の紹介はすべて終わった。すなわち、詩集《古 い土地》(梁山泊、1961)、《入 澤康夫〈詩〉集成――1951〜1970》(青土社、1973)、詩集《「月」 そのほかの詩》(思潮社、1977)、《入 澤康夫〈詩〉集成――1951〜1978》(青土社、1979)、詩集《死 者たちの群がる風景〔限定版〕》(河出書房新社、1982)、詩集《死 者たちの群がる風景〔新装版〕》(河出書房新社、1983)、そして《ネ ルヴァル覚書》(花神社、1984)で、これらのなかでは《ネルヴァル覚書》の落ち着いた造りが好ましく感じられる。
〈吉 岡実編集《ちくま》全91冊目次一覧〉の〔付記〕で橋本靖雄の吉岡実追悼文に触れたが、同文を含む《ちくま》の編集後記が橋本靖雄《時の栞に――私家版文集》(橋本靖雄、1992)に再録されていることを 知った。また、遺稿集《一旅行者の覚書》(橋 本恭、2007)で橋本さんが2005年10月に73歳で亡くなられたことも。吉岡実を偲ぶ会で識った橋本さんは好々爺のように見えた。筑摩の社内向けに 発表された吉岡の未刊行散文を探していただき、コピーを頂戴した。《時の栞に》初出記録の「私たちのしんぶん」筑摩書房労働組合機関紙の方が、《「死児」 という絵》の筑摩書房労組機関紙「わたしたちのしんぶん」よりも正確なように思うが、原紙を見ていないので断定できない。
●来る5月31日は吉岡実の20周忌だ。「なにか記念になる記事を」とも考えたが、本サイト自体が〈吉岡実〉を顕彰するものだから、改めて特別なことをす るのはやめた。ところで、先日どうしても必要な資料があって部屋中を捜索していたところ、久しく見なかった吉岡実の談話・対談・座談会の一件書類が出てき た。いま、これを活かすべく《吉岡実未刊行散文集》と同様の構成で整理している最中だ(今回は冊子ではなく、電子ファイルにして)。当然、吉岡(たち)の 本文は公開できないので、私が書きおろす予定の前付と後付、各本文に付す〈編者註〉をアップしたいと考えている。
《吉岡実未刊行散文集 初出一覧》を2年数箇月ぶりに 更新した。若干のデータ修正をして、上記 の発言集《吉岡実トーキング》(仮題)と符節を合わせた。作業中の印象を述べれば、吉岡はほんとうに俳句好きだった(件の《初出一覧》のデータ修正は、俳 句に関する随想の追加である)。
●ジミ・ヘンドリックスの新譜《Valleys of Neptune》が出た(1968年から70年に かけてスタジオ録音された未発表音 源で、標題曲やクリームのカヴァーなど全12曲収録)。ジミの未発表音源で思い出されるのは、ルイス・シャイナー(小川隆訳)《グリンプス〔創元SF文 庫〕》(東 京創元社、1997)だ。主人公が「60年代のロック・ミュージックに思いを巡らす。すると当時未完に終わったはずのあの[・・]名曲が、スピーカーから 流れ出た! ドアーズ、ビーチ・ボーイズ、ジミ・ヘンドリックスの未発表音源を求めて過去へのトリップが始まる」(ジャケット・表4から)懐かしくも切な い長篇小説だった。もっとも、ジミの《The Cry of Love》をレコード(CDではない)で聴いてき た者には、今回の新譜よりも《First Rays of the New Rising Sun》の 方が重要で、シャイナーの本を読み かえしながら、ブライアン・ウィルソンの《SMiLE》やビートルズの《Let It Be... Naked》と併せて聴きたいと思う。


編集後記 89(2010年3月31日更新時)

●前回に続いて吉岡実と瀧口修造について書い た。そこで は触れなかったが、二人とも山田耕一時代の書肆山田から書下ろしによる叢書〈草子〉を出している(《異霊祭》と《星と砂と》)。昨秋のトークショー〈瀧口修造の本と書肆山田の最初の10年〉の 会場で特別展示された《星と砂と》の原稿(土渕信彦さん所蔵)は実に興味深いものだった。「LIFE C 155 20×20」17枚にわたる瀧口自筆の印刷入稿用原稿で、1枚め冒頭に「この組み方、草子の全体の構成により再考」とか、節表示のア ラビア数字に対して 「以下コノ数字ハ比較的大キナイタリックデ 位置ハ本文ト頭ヲ揃エルカ?」といった組版に関するメモが記されていて、瀧口が〈草子〉の装丁と本文組に心を 砕いた様子がまざまざと伝わってくる。《星と砂と――日録抄》は〈草子1〉(自筆原稿の冒頭には鉛筆書きで「草紙1」とある)で、吉岡が〈舵手の書〉の詩 句に書名を引用したことは本文に書いたとおりだ。
伊 良波盛男詩集《ロックンロール》の装丁に ついて書いた。「ロックンロール」は“rock'n'roll”で、“rock and roll”と同じだから「ロッカンロール」か「ロッケンロール」(ビートルズやビーチ・ボーイズの〈Rock And Roll Music〉を聴くと、これがいちばん近い)でもいいはずだが、一般的に「ロックンロール」なのは、綴りに引っぱられたためか、歴史的に後発の「ロック」 に引きずられたためか。
●武川武雄《日本古典文学の出版に関する覚書》(日 本エディタースクール出版部、1993年12月8日)を再読した。刊行時に通読したはずだが、《吉岡実の詩の世界》を管理運営してきた身にとって、創見に 富んだ書であると再認識した。帯には「古典文学の注釈書の出版は、底本の誤りの処理や現代の読者に理解しやすくするための方策など、複雑で細かい作業を必 要とする。本書は、出版社で長く校訂本の製作に携わった著者による、校訂の基本的事項の取扱い方と製作のガイドである」とあり、とりわけ第3章〈実務 古典注釈書の製作ポイント(印刷篇)〉の基本版面の決め方の解説が印象深い。基本版面といえば、新刊の臼田捷治《杉浦康平のデザイン〔平凡社新書〕》(平 凡社、2010年2月15日)に、杉浦のブックデザインになる《吉岡実詩集》(思潮社、1967)が登場する(〈本文組という〈聖域〉への挑戦〉)。「実 際、この詩集はページの「天」より十二ミリで詩文が組まれており、六十字は優に入る判型であるにもかかわらず、収められている詩の一行の字数は最大で二十 七字しかない。下半分以上が空いた極端に上昇志向の強い文字組といえる。そのことから生まれる独特の浮遊感が心地よい緊張感をもたらす」(同書、五一〜五 二ページ)とあるが、元になった単行詩集(吉岡自身の造本になる《僧 侶》《紡錘形》、 さらに当然この《吉岡実詩集》の本 文組を流用した《静かな家》も) がみな27字詰であることを指 摘しておこう。
●足立大進編《禅林句集〔岩波文庫〕》(岩波書店、2009年4月16日)が出ていることを知り、入手した。〈吉岡実の書〉で 触れた「石上栽花後/生涯自是春」が「石上栽花〔原本では旧字体表記〕後/生涯共是春」「石上[せきじょう]花[はな]を栽[う]えて後[のち]、/生涯 [しょうがい]共[とも]に是[こ]れ春[はる]。(貞和一〇)」(本書、二三五ページ)とある。[ ]内はルビだが(見出し語下の訓読の全ルビが嬉し い)、捨て仮名使用で読みを正確ならしめている。また《東 邦書策》掲載の 「禅房花木深」は「禪房[旧字体]花[同前]木深」「禅房[ぜんぼう]花木[かぼく]深[ふか]し。(唐詩)」(同前、八七ページ)とあり、吉岡実の書と 詩における禅語の存在は無視できないものだと思う。
●《筑摩書房図書目録2010》が出た。表紙には鰐のイラスト、裏表紙には筑 摩書房HPの紹介がある。 いわく「検索機能が充実、新刊情報、「webちくま」筑摩書房の読み物サイト」。さっそく[著者名:吉岡実]で検索してみたところ、わずかに《現代日本文学大系93  現代詩集》がヒットしただけだった(なお《筑摩書房図書目録 2010》の〈著者名索引〉に吉岡実の名は見えない)。
●NHK教育テレビ〈チャレンジ!ホビー〉(月曜・午後10:00〜10:25)で《めざせ!ロック・ギタリスト》が始まった(3月29日〜5月31日の 全10回)。講師は野村義男、チャレンジャーは増田英彦で、最終的にCharの“SMOKY”をステージで弾くというから(大丈夫か)、今から楽しみだ。


編集後記 88(2010年2月28日更新時)

吉岡実と瀧口修造について書い た。「大岡信  ぼくはある時期「鰐」っていう同人詩誌を吉岡実、清岡卓行、飯島耕一、岩田宏とやっていたんですが、そのグループで「鰐叢書」というのを出そうということ になって、その第一冊目に「瀧口修造詩集」を予定しておりました、許可もとってあったんです。しかし、「鰐」を出してくれていた書肆ユリイカの伊達得夫が 急死してしまったものですから、この計画はつぶれました」(《現代詩手帖》1991年3月号、一六ページ)。――小B6判三十二頁の小冊子〈鰐叢書〉の第 一集《瀧口修造詩集》(書肆ユリイカ、1960)を想像すると、目が眩みそうだ。
〈吉岡実編集《ちくま》全91冊目次一覧〉を書いた。本文中でも触れている〈《ちくま》編集者・吉岡実〉を掲載したのが2003年10月だったから、もう6年以上前になる。同文の末尾に「いつの日か、吉岡実編集の《ちくま》全冊を読破したいものだ」と書きながら、いまだに果たせないのは残念だが、今回、標題を照合しながら本文を拾い読みできたのは収穫だった。もっとも、これらの目次リストからだけでもいろいろなことがわかる。登場回数が最も多いのは?――布川角左衛門の70回。その連載は吉岡実装丁で《本の周辺》(日本エディタースクール出版部、1979)として一本になった。/「難波淳郎」それとも「灘波淳郎」?――NDL-OPACでは「難波淳郎」となっている。/(磯)あるいは(磯目)とはだれ?――磯目健二であろう。/《鰐》同人で執筆していないのは?――岩田宏。/連載が長かったのは?――吉岡実編集以前からのものも含めて10回以上の連載には、布川角左衛門の〈本の周辺〉(90回)・寿岳文章の〈ほん・その目でみる歴史〉(60回)・岡田隆彦の〈美術散歩〉(50回)・寺田透の〈毎月雑談〉(44回)・吉川幸次郎の〈読書の学〉(39回)・生島遼一の〈春夏秋冬〉(26回)・富士川英郎の〈鴟鵂庵閑話〉(25回)・渡辺一夫の〈世間噺・もう一人のナヴァール公妃〉(24回)・下村寅太郎の〈読書漫録〉(18回)・福島鋳郎の〈「戦後雑誌」発掘〉(12回)・一海知義の〈河上肇と中国の詩人たち〉(12回)がある、といった具合に興味は尽きない。
●中山康樹《マイルス・デイヴィス 青の時代〔集英社新書〕》(集 英社、2009年12月21日)を読んだ。本書は《カインド・オブ・ブルー》に到るマイルスのモダン・ジャズの時代を扱っていて、〈ラウンド・ミッドナイ ト〉のアレンジャーが誰かというあたり(ギル・エヴァンスではなく、ギル・フラー)、過去の自著の記述の訂正に留まらない面白さがある。本書でのハイライ トは《カインド・オブ・ブルー》の第1曲〈ソー・ホワット〉のプレリュード――単純明快な本篇前のビル・エヴァンス(ピアノ)とポール・チェンバース (ベース)の二人による導入部――が誰のペンになるかという、クライマックスでの展開だろう(ギル・エヴァンスだとされる)。改めて《カインド・オブ・ブ ルー》が聴きたくなった。


編集後記 87(2010年1月31日更新時)

《サフラン摘み》の校異を作成す る合間に、小説家や詩人による「サフラン/さふらん」という題名の作品をいくつか読んでみた。森鴎外〈サフラン〉(初出:《番紅花》1914年3月〔創刊 号〕、所収:《妄人妄語》至誠堂書店、1915)、司馬遼太郎〈サフラン〉(初出:《未生》1957年2月号、所収:《司馬遼太郎短篇全集〔第1巻〕》文 藝春秋、2005)。そして立原道造〈さふらん〉(1932年秋制作の未刊の手書き詩集、所収:《立原道造全集〔第2巻〕》角川書店、1972)である (ほかにも、中里恒子に〈洎夫藍[サフラン]〉という短篇小説がある)。司馬の小説は原題が〈沙漠の無道時代〉というだけあって《千一夜物語》のなかに あってもおかしくないような話だが、それがなぜ〈サフラン〉という題に替えられたのかはよくわからない(連作《花妖譚》の一篇ではあるのだが)。
那 珂太郎詩集《音楽〔普及版〕》の装丁に ついて書いた。最近は古書店を覗いてもなかなか購入したい本が見つからないのだが、本書は向こうから飛びついてくる感触があった。すでに入手していた限定 版とこの普及版を対比することで、吉岡実の実質的なデビュー作にしてフランス装丁の代表作である《静物》(私家版、1955)の造本を照射したいと思い、 いつもは行なわない細かな分析をした。いつか《静物》と《紡錘形》(《音楽》の造本・装丁の先蹤)を比較して書いてみたい。
●松井栄一《国語辞典はこうして作る――理想の辞書をめざして》(港 の人、2005)を読んだ。《日本国語大辞典》(小学館)の代表編集委員を務めた氏が、ことばの用例を辞書に記載する際、引用するに足る個人全集として挙 げているのが、《国木田独歩全集》(学習研究社、1964-67)、《漱石文学全集》(集英社、1970-74)、《樋口一葉全集》(筑摩書房、1974 -94)である。 語句の校異の厳密な独歩全集でさえ、ルビや句読点の異同にまでは及んでいないという指摘に蒙を啓かれた。原本・増補訂正本・個人全集・叢 書本・文庫本の本文の問題点についても首肯させられる。
●必要があって八木敏雄・巽孝之編《エドガー・アラン・ポーの世紀――生誕200周年記念必携》(研 究社、2009)をのぞいてみた。巻末の河野智子・西山智則・山本晶編の〈ポー研究書誌〉は「全集・選集」「書簡集・写真集」「書誌・索引・事典」「海外 の研究文献」「国内の研究文献」「特集雑誌」「ポー関係の小説・映画」「音楽」「絵画」から成る労作だが、本文書体がゴチックなのはいただけない。本書 は、本篇の見出し・本文の書体とも総じて太くて、品位に欠けるだけでなく、読みづらい。手数の多い指定の割に、それに見合った効果が出ていないと言わざる をえないのは残念だ。
●成毛滋(1947-2007)を悼んで《Dr. SIEGEL'S FRIED EGG SHOOTING MACHINE》のラストナンバー〈Guide Me to the Quietness〉を聴いたことは〈編集後記 58〉に書いたが、この曲(作詞:クリスト ファー・リン、作曲:成毛滋)はプロコ ル・ハルムへのオマージュだったと今にして気づいた。本歌はデビューアルバム《プロコル・ハルム》(1967)のラストを飾るインストゥルメンタルナン バー〈ヴァルプルギスの後悔〉(作 曲:マシュー・フィッシャー)だ。その根拠として、「Tm→Y♭→Um7-5→X7」というコード進行の流用のほか、ギターのこもり気味の音色とロビン・ トロワーのソロを意識したフレーズ(成毛はチョーキングビブラートを鋭く決めている)、そしてこれが一番だが、鍵盤楽器(ハモンドオルガン)のための曲で あることが挙げられる。ブレイクを活かした盛りあげ方からは、Dr.シーゲルの「よい子のみなさんは、もうおわかりですね」という目配せが見える気がす る。


編集後記 86(2009年12月31日更新時)

●前回予告したように、吉岡実の未刊行詩1篇を発見したことを 書いた。高柳重信門下の俳人・志摩聰(1928-2003)の句帖《白鳥幻想》に寄せたわずか2行の〈序詩〉だが、こうした詩がほかにも存在するのではな いかという気がしてならない。《吉岡実年譜〔作品 篇〕》に 同詩篇の記述を追加するにあたって、未刊詩篇の番号(今までは《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第2版〕》のそれを踏襲していた)を振りなおした。今後とも地 道な文献探索を続けて、《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第3版〕》にはそれらを、初出の発表順に付けかえた未刊詩篇の番号で記載したく思う。
西 脇順三郎随筆集《じゅんさいとすずき》の装丁について書いた。四方田犬彦《翻訳と雑神――Dulcinea blanca》(人 文書院、2007年12月10日)の〈西脇順三郎と完全言語の夢〉には《じゅんさいとすずき》から「おそらく人間はみな古代人にもどろうとする」という後 記の一文が引かれ、晩年、ギリシア語と漢語の意味音韻をめぐる比較研究に心血を注いだ西脇の「古代への回帰が想像的次元において、まず言語の再現という形 をとってなされたことは、たやすく推測できる」(同書、五二ページ)とある。「現代思想を西脇の詩を通して捻転し発展させてゆく」(同、六九ページ)ホセ ア・ヒラタ氏の論考を援用した〈天気〉の解釈も斬新な、四方田氏渾身の西脇論だ。
《神 秘的な時代の詩》の校異を作成し た。表現にかかわる詩句の異同、すなわち改稿箇所については、同詩集の評釈を執筆した段階ですでに触れているが、今回改めて初出形と各種刊本掲載形のテク ストをつぶさに照合した結果、刊本間の異同という側面が見えてきた。この作業結果を踏まえて、《神秘的な時代の詩》評釈で触れた各詩句を再検討したいと思 う。
●〈詩と詩論の会〉で土渕信彦さんの瀧口修造〈TEXTE EVANGELIQUE〉(のち《瀧口修造の詩的実験 1927〜1937》所 収)読解を中心とする発表を聴いた(12月19日、東洋大学にて)。同会は昭和初年の詩誌《詩と詩論》を第1冊からひたすら読んでいくという集まりで、メ ンバーには林浩平さんや安智史さん、黒沢義輝さんたちがいる。土渕さんによれば〈TEXTE EVANGELIQUE〉は〈仙人掌兄弟〉から〈絶対への接吻〉までの「中期詩篇」を代表する、《詩的実験》の要をなす作品である(初出と《詩的実験》で はかなり異同がある)。いずれ〈吉岡実と瀧口修造〉を書かねばならない。
●若島正《殺しの時間――乱視読者のミステリ散歩》(バジリコ、2006)に導かれて、チャールズ・ウィルフォード (浜野アキオ訳)《炎に消えた名画[アート]〔扶桑社ミステリー〕》(扶 桑社、2004年8月30日)を読んだ。それにしても、小説結末の数ページ前の「51/2のボールド体で印刷された筆者名につづき、ドゥビエリュー〔現代 美術史上、最も重要な存在でありながら、作品はすべて火災で失われ、その後は沈黙を守っている幻の老フランス人画家〕に関係した著作および主要文献の簡潔 なリストが掲載されている。書誌のなかにも誤植は見当たらない」(本書、二九二ページ)というあたりに反応してしまうのは、われながらどうしたことだろ う。滝本誠の〈解説〉に瀧口修造《地球創造説〔現代詩叢書3〕》(書肆山田、1973)が登場するのも、偶然とは思えない。
●難波弘之・井上貴子編《証言! 日本のロック 70'S》(ア ルテスパブリッシング、2009年4月20日)を読んだ。とりわけ四人囃子のドラマー・岡井大二氏をゲストに招いた〈プログレの技術と精神〉の章が面白い (レギュラースピーカーは編者のほか、PANTA、ダディ竹千代の四氏)。脚注も充実していて、そのせいでもないが未聴だったピンク・フロイドの2枚組 《Is There Anybody out There?―The Wall: Live 1980-1981》(2000)をスタジオ盤《The Wall》(1979)と交互に聴きくらべた。
●森繁久彌が去る11月、96歳で亡くなった。森繁は1939年、NHKのアナウンサー試験に合格して満洲に渡り、敗戦を新京(現在の長春)で迎えてい る。吉岡実が満洲で兵役についていたころ、放送局や満映の仕事をしていたのだ。森繁は吉行淳之介との対談〈と言うてしもたらしまいや篇〉で「ぼくは中国 人っていいなあと思ったのは、食うや食わずの農民が、春になると、自分が飼っている雲雀[ひばり]を丘の上に出て飛ばしながらその啼き声を競い合う。その シーンはなんともいえずいいものですね」(吉行淳之介ほか《恐・恐・恐怖対談》、新潮社、1982年2月20日、一七八ページ)と語っている。「動くイン テリア/ヒバ リがしきりと鳴きのぼるとき」(〈フォークソング〉F・7)。


編集後記 85(2009年11月30日更新時)

〈吉岡実詩集《静かな家》本文校異〉を 書いた。校異を作成するために初出雑誌のコピーや単行詩集や全詩集を繙読していると、吉岡の詩句の意味やイメージが迫ってきて、ゾクゾクする瞬間がある。 「スポンジ」や「雨傘」など、なんでもない言葉が立ちあがってくるのだ。いつの日か、そういった感覚的なことまで含めた《静かな家》についての評釈を書く 機会はめぐってくるだろうか。
ア ンリ・ミショオ《プリュームという男》の装丁について書いた。書誌的事項を田中栞さんの〈書肆ユリイカ出版総目録〉から引いたが、同 目録を増補改 訂した冊子では本書の記載が「プリュームという男  アンリ・ミショオ 小海永二訳 34.9.20 450円 A5判上製角背、ジャケ 装丁・吉岡実、挿画・著者、モーリス・アンリ ◎」(《書肆ユリイカ 出版総目録〔第2版(平成21年10月増補改訂)〕》、紅梅堂、2009年10月4日、八ページ)となっている(〈書肆ユリイカ出版総目録〉からどう変 わっているかは、対照してみてください)。最後の「◎」は、田中氏所蔵本で、前 回〈編集後記〉で 触れた〈「書肆ユリイカの本」展〉に展示されたことを表わす。2刷が出た《書肆ユリイカの本》は〈書名索引〉のノンブルを中心に修正が入るということなの で、同書からしばらく目が離 せない。
●竹内淳子《紫――紫草から貝紫まで〔ものと人間の文化史148〕》(法 政大学出版局、2009年10月20日)の〈華岡青洲創出の紫雲膏と薬玉〉という章に〈「クスダマ」は薬玉〉と〈貴人の真似から薬玉をつくる〉という節が ある。ときに、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は現行の事物に関する記述は詳しいが(祝事に使用される薬玉を「割り玉」と呼ぶと 知った)、歴史的な展望に欠ける憾みがある。竹内氏の著書には、今日でも薬草を束ねて軒下に干しているから「薬玉は、薬の束[たば]からきたものではない か」(同書、一八三ページ)、「以前から匂袋は、薬玉の名残りとおもわれてならなかった」「薬玉の周囲を美しく飾ったのは、子どもを病魔から守る大切なも のを入れておくためのものであり、そして目立つものでなければならなかったから」(同書、一八四ページ)とある。吉岡実の《薬玉》を民俗学的な観点から読 みなおすことは、今後の大きな課題だろう。
●11月28日、渋谷のポスターハウスギャラリー 長谷川でアトリエ空中線10周年記念展〈インディペンデント・プレスの展開〉を観て、山田耕一(書肆山田・創設者)×間奈美子×郡淳一郎の 三氏によるギャラリートーク〈瀧 口修造の本と書肆山田の最初の10年〉を聴いた。吉岡実の詩《異霊祭》(1974)、詩集《神秘的な時代の詩》(1976)、そして詩集《ポール・クレー の食卓》(1980)を世に送った山田さんと、アトリエ空中線を主宰する一方、未生響の筆名で空中線書局から詩作品を刊行する間さんによる新旧プレスによ る共演だった。インディペンデント・プレスについてはいずれじっくりと考えてみなければならない。展覧会と同題のポスター=図録(空中線書局、2009年 11月13日) と72部限定の〈山田耕一発行図書目録〉(同、2009年11月28日)は郡さん編集になる労作だ(同目録には協力者として田中栞さんとと もに、面映ゆいことだが、私の名もクレジットされている)。
●《吉岡実の詩の世界》を開設して丸7年が経過した。閲覧していただいた方に改めて御礼申しあげる。本サイトの現状をご報告しておこう。開設時の総ページ 数(A4での印刷換算)は約139ページだったが、1年後には約243ページとほぼ1.7倍、2年後は約341ページで開設時の2.5倍、3年後は約 474ページで 同3.4倍、4年後は約693ページで同5.0倍、5年後は約803ページで同5.8倍、6年後は約892ページで同6.4倍、7年後の現 在は約996ページで開設時のほぼ7.2倍となっている(10月末時点のアクセスカウンターの数値は25661だった)。今後とも吉岡実と〈吉岡実〉に関 する新稿の掲載、既存情報の補綴に努めていきたい。
●11月更新の記事をほぼ書きおわったあとで、吉岡実の未刊行詩を1篇、新たに発見した。詳しい文章を次回更新時に掲載するので、ご期待いただきたい。こ の〈編集後記〉では原則として次回予告をしないのだが、7周年記念の今回は自祝の意を込めて、特に。


編集後記 84(2009年10月31日更新時)

吉岡実と《現代詩手帖》に ついて書いた。そこでは触れなかったが、《現代詩手帖》は1990年の逝去時に〈追悼特集・お別れ 吉岡実〉を、1995年2月に〈特集・吉岡実再読〉を、その間の1991年4月に同誌のムックともいうべき《現代詩読本――特装版 吉岡実》を発行することで、歿後の吉岡に対しても変わらぬ敬意を払ってきた。版元の思潮社に希むらくは、《続続・吉岡実詩集〔現代詩文庫〕》と《吉岡実未 刊行散文集(仮題)》の刊行の一日も早からんことを。
●高橋睦郎の三部作の第三作《聖 という場》の装丁について書いた。《友達の作り方――高橋睦郎のFriends Index》(マ ガジンハウス、1993)には三島由紀夫から川端康成までの77の巻が収められており、吉岡実や長谷川郁夫にも1巻が当てられている。それによると、三分 冊構成の試論集は初め、植草甚一を通じて晶文社にもちかけられたが、結局、設立当初から高橋さんの本を出したかった長谷川氏の小沢書店から初案どおりに出 た(本文の引用で省略した段落に当たるのがこれ)。三部作の後も詩集や台本修辞などを含む十数冊が、同書店から刊行されている。
●10月5日、神田の東京古書会館でユリイカ本244点約340冊を展示した〈「書肆ユリイカの本」展〉を観て、奥平晃一(田村書店・店主)×郡淳一郎(元《ユリイカ》編集長)& times;田中栞(《書肆ユリイカの本》の著者)三氏のトーク ショーを聴いた。鼎談は《からんどりえ》30部本の展覧に始まり、郡さんに宛てた足穂の息女・稲垣都の本書礼状(若き日の伊達得夫を 回想してい る)を田中さんが朗読して終わる2時間弱。展示会場から運びこんだユリイカ本を手に、《書肆ユリイカの本》で は触れられなかった話題満載だった(入沢康夫の第一詩集《倖せ それとも不倖せ》のビニール袋探求譚など)。会場には平林敏彦氏の姿もあった。私の質問に答えられた奥平さんによると、吉岡実は田村書店に来ても本は買わ ずに――「詩集はみんな献本される!」――自著の値段を確認していたとのこと。会場で配布された《書肆ユリイカ出版総目録 第2版》(紅梅堂、2009年10月4日)の体裁が《鰐》を模したA5判未綴じアンオープンドなのも、ユリイカ者・田中栞さんならではの趣向だった。
●中山康樹《ミック・ジャガーは60歳で何を歌ったか〔幻冬舎新書〕》(幻 冬舎、2009年3月30日)を読んだ。私はミックとローリング・ストーンズになんのシンパシーも抱いていないので食指が動かなかったのだが、どうやら 「ストーンズ本」でないとわかったので一読に及んだ。スティーヴン・スティルスがCS&Nに「4人目のメンバーを加える際に真っ先に推したのがステーヴ・ ウインウッドだったこと」(本書、一七二ページ)など初めて知った(現実にはニール・ヤングが加入)。そのまま氏の新著《ビートルズから始まるロック名盤 〔講談社文庫〕》(講 談社、2009年9月15日)を読む。本書は「ボブ・ディランを中心に聴く1960年代ロックの通史」と言える。扉(ジャケット写真やアルバムクレジット などのデータ)と本文3ページが基本フォーマットだが、13級38字×14行の版面はゆるゆるで、中山氏の文章にいつもの切れが感じ られないのはそのせい か(それにしても、対象のロック名盤50枚のアルバムを矩形に嵌めただけのジャケットデザインは、なんとかならなかったものか)。
8月のグールドが きっかけで、最近バッハのCDをよくかける。《管弦楽組曲》《ブランデンブルク協奏曲》、いくつかの協奏曲とソナタが中心だが、なかでもキム・カシュカ シャンとキース・ジャレットによる《ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ》を聴くことが多い。ヴェルナー・フェーリクス(杉山好訳)《バッハ ――生涯と作品〔講談社学術文庫〕》(講談社、1999)を再読してから、バッハ音楽の本丸である声 楽曲を聴くことにしようか。


編集後記 83(2009年9月30日更新時)

吉岡実の自筆年譜に ついて書いた。自筆だからすべて正しいとは限らず、それ以上になにが書かれていて、なにが書かれていないかがあらゆる年譜のポイントになる。ところで、私 が吉岡実年譜を編むにあたって最初にした作業は、1年ごとに1枚(以上)の専用の台紙を用意して、そこに年次のわかる内容の文章を(もちろん吉岡の作成し た年譜も)コピーして切り貼りすることだった。
●高橋睦郎の三部作の第二作《球 体の息子》の装丁について書いた。同じ散文でも、軽やかな随筆とはまったく異なる硬質なエッセイ(試論)は、高橋睦郎の世界の重要な 一角を成して いる。
●田中栞《書肆ユリイカの本》(青 土社、2009年9月15日)がついに出た。すぐれて本書を体現した〈あとがきにかえて――「書肆ユリイカの本を調べる」番外編〉を読むと、巻末の〈書肆 ユリイカ出版総目録〉一行の記載にどれほどのエネルギーが投入されたか、目も眩む想いがする。吉岡実の著書では《僧侶》と《吉岡實詩集〔今日の詩人双 書〕》が登場するが(ほかに吉岡実装丁の《キャ スリン・レイン詩集〔海外の詩人双書〕》も)、《吉岡實詩集》は三つ!の異なる版――ただし奥付の発行年月日はどれも1959年8月 10日――が 存在するという(本書、一一八ページ)。二つの版しか見たことがなかった私は、この指摘に蒙を啓かれた(〈吉岡実詩集《僧侶》本文校異〉参 照)。本書の読者は、著者が収集した関連資料の豊富さにではなく、収集・閲覧したユリイカ本を束ねるその膂力と見識に驚くべきなのだ。私は「筆者は初版本 マニアというより増刷本マニアなので、普及版でも増刷本があるならぜひとも欲しい」(本書、二二七ページ)という一節に共感した。著者は早くも〈書肆ユリ イカ出版総目録〉の増補改訂版を準備中と聞く。リリースが待たれる。
●太田大八さんの《私のイラストレーション史――紙とエンピツ》(BL 出版、2009年7月1日)を読んだ。〈デビュー――子どもの本の世界へ〉の一節に「また筑摩書房の小学生全集が始まったとき、この挿絵の依頼に来た吉岡 実は、一九九〇年彼が没するまで家族同様の親しい友人となりました。彼は戦後最大の詩人と言われ、彼の詩から受けたビジュアルなイマジネーションは、私の イラストレーションのよい刺激になっているにちがいありません」(同書、五七〜五八ページ)とある。また「〔……〕まだ駒込に住んでいた頃の仕事で、少年 活劇文庫の中の『母をたずねて三千里』の挿絵の依頼に来た、東京創元社の山崎柳子という女性編集者がいました。この人も極めてユニークな人柄で、当時よく 私の家に泊まり込んでいた吉岡実と同様、たびたび家に遊びに来ていました。/彼女のおかげで、一九六一年、アラビアンナイト六巻の口絵挿絵を描かせてもら いました」(同前、六七ページ)とある後者は(おそらく吉岡が〈突堤にて〉で触れた)川端康成・野上彰訳《アラビアン・ナイト》(東京創元 社、1960-61)で、《私のイラ ストレーション史》には躍動する馬が見事な〈おどけものアブーの物語〉のモノクロ挿絵が再録されている。
●ビートルズのアルバム14タイトルのデジタルリマスター盤が発売されたので、1枚だけ《アビイ・ロード》を 選んだ。オリジナルLPは中学2年の秋、その兄が大のビートルズファンだった同級生の、庭先の芝に陽が当たる電電公社の社宅で聴いた(それが夏の一日だっ た気がしてならない)。当時出ていた音楽雑誌《ガッツ》掲載の《アビイ・ロード》曲集には、Northern Songsのレノン=マッカートニー作品しか載っていなかったから、同級生に〈サムシング〉のコード譜を書いてもらったりした。それから40年の月日が流 れ、今や私はバンドスコアなる便利なツール片手に、〈ジ・エンド〉中盤のポール→ジョージ→ジョン→ポール……と回すギターソロを共に弾くまでになった。


編集後記 82(2009年8月31日更新時)

下田八郎の〈吉岡実論〉と〈模写〉の初出に ついて書いた(詩篇〈模写――或はクートの絵から〉の初出についてはわれながら呆れるほど何度も書いているが、吉岡実が詩集に収めた詩で唯一初出が未詳な のだからしかたがない、と本サイトをお読みのかたにはご海容いただきたい)。そこにも書いたように、初出年次の下限が1963年末にまで繰りあがったのは 喜ばしいのだが、発表雑誌(新聞ではなかろう)がわからなくては探索のしようがない。人様をあてにしていてもしかたがないので、気長に探すことにしよう。 資料探索とはそもそもそういうものではなかったか。
高 橋睦郎《詩人の血》の装丁について書いた。ときに《〈吉 岡実〉の 「本」》の各記事には、目次からリンクが張ってあるほか、《吉岡実書 誌》の〈W 装丁作品目録〉掲 載の書名からも移れるようにしてある。その目録の凡例に「著者名など《書名――副書名〔版〕》(発行所名、発行年月)」とあるごとく「発行年月」だったの を、実見した(つまり〈吉岡実の装丁作品〉に取りあげた)タイトルに限り「発行年月日」まで記載することにした。どのみち毎月の作業で新たにリンクを張る のだし、目録の並び順をより正確ならしめることにもなるからである。
●柏原成光《本とわたしと筑摩書房》(パ ロル舎、2009年6月18日)を読んだ。吉岡実に言及している箇所はないが、1996年から99年にかけて社長を務めた筑摩書房に関する興味深い証言に 満ちている。「私はこの「筑摩」の終焉の象徴的出来事は三〇年間続いた「筑摩叢書」の打ち切りにあったと思っている。最終刊は、一九九二年一一月二五日、 カーレン・ブリクセン「アフリカ農場」であった」(〈14 「筑摩」から「ちくま」へ〉、本書、一九七ページ)。「筑摩」を「ちくま」と読めない読者というのも情ないが、30年以上もまえのこと、明大の生協でアル バイトしていた友人が「岩波[がんぱ]文庫と呼ぶ学生がいる」と嘆いていたから、「ちくま」でいいのかもしれない。
●岩佐東一郎《書痴半代記〔ウェッジ文庫〕》(ウェッジ、2009年4月22日)を読んだ(著者は、吉岡実が《液 体》の出版広告を出した《文藝汎論》の編集・発行人でもあった詩人・随筆家)。「明治八年東京奎章閣発兌[はつだ]、永峯秀樹訳、開 巻驚奇『暴夜 物語』二冊が出て来た」(本書、一三二ページ)は、戦後、足利で貸本屋を始めた岡 崎清一郎の土蔵で、埃だらけの和本の山から《暴夜物語》(《アラビアン・ナイト》の本邦初訳本)が出現したときのくだりである。
●8月のNHK教育テレビ水曜の〈こだわり人物伝〉は宮澤淳一《グレン・グールド――鍵盤のエクスタシー》のアンコール放送だった(初放送は2008年5 月)。そこで、 久しぶりにグールドの《バッハ全集》(1955年のモノラル録音〈ゴールドベルク変奏 曲〉から1981年デジタル録音の 同曲までの20枚組ボックスCD)を出して、〈イタリア協奏曲ヘ長調〉を聴いている。晩年の再録音盤(《シルヴァー・ジュビリー・アルバム》)も捨てがたいが、この《グ レン・グールド 27歳の記憶》撮影時の溌剌とした演奏は、言わんかたなく素晴らしい。とりわけ、第3楽章は「鍵盤のエクスタシー」そのものだ。


編集後記 81(2009年7月31日更新時)

ケッセルの長篇小説《昼顔》と吉岡実の詩篇〈感傷〉に ついて書いた。《昼顔》の本邦初訳は堀口大學による第一書房版(1932年6月15日発行)だが、堀口訳の新潮文庫第26刷改版(1969年1月5日)後 の53刷(1992年4月5日)の〈プロローグ〉と上掲文に引いた〈プロロオグ〉を校合すると、訳文は基本的に大差ない。もっとも、吉岡の散文にしばしば 見られる「怖れをなして」が文庫版では「こわくなって」と改変されて、平板になっているのが不満といえば不満である。
《キャ スリン・レイン詩集〔海外の詩人双書〕》の装丁について書いた。本書は久しぶりのオークションで、古書価3,500円のところ約半額 で落札した。1996年に田村書店で購入した 《吉岡實詩集〔今日の詩人双書〕》は少し傷んでいたものの3,000円だったから、昨今の桁違いの値段には驚く。
●松岡正剛《多読術〔ちくまプリマー新書〕》(筑摩書房、2009年4月10日)に続いて《ちょっと本気な千夜千冊虎の巻――読書術免許皆伝》(求龍堂、 2007)と《松岡正剛 千夜千冊〔全7巻・特別巻〕》(同、2006)――こちらは 通読というわけにはいかない――を読んだ。かつて吉岡の〈色彩の内部〉(F・4)を掲載した「タブロイド版16ページの新聞スタイ ルのフリーペーパー」《the high school life》(MAC)が、高校生向けの読書新聞として《多読術》に写真入りで紹介されているのは嬉しい。
●四方田犬彦《歳月の鉛》(工 作舎、2009年5月20日)を読んでいたら、《映画芸術》編集長だった小川徹氏について「あるときから小川さんは健康を害し、すっかり痩せてルイス・ブ ニュエルに似た風貌となった。『昼顔』に登場する日本人のモデルは小川さんだと澁澤龍彦が書いていますが本当ですかとわたしが尋ねると、ニコニコしている だけで、何も答えようとしなかった」(同書、二五二ページ)とあった。四方田氏の《濃縮四方田――The Greatest Hits of Yomota Inuhiko》(彩流社、2009)の〈書物刊行計画〉 にある《ルイス・ブニュエル》(作品社)の刊行が待たれる。
●加入しているケーブルテレビがWOWOWのアナログ放送を終了するため、地上デジタル放送が受信できる環境に替えた。モニターがアナログのときのままな ので、画面が小さいのはつらい。
●このところ、ドリーム・シアターを聴いている。作りこんだスタジオ録音盤(たとえば 《Images and Words》)もいいが、ライヴアルバム(たとえば《A Change of Seasons》)も楽しませてもらっている。John Petrucciのギターは破綻がなくて面白味に欠けると言いた くなるほど、凄まじくも素晴らし い。
●夏休みを利用して北海道に出かけた。旭川・旭山動物園に始まり、札幌・円山動物園(キリンを見ながらドーナツを食べた)に終わった旅行のあいだ、村上春 樹《羊をめぐる冒険〔講談社文庫〕》(講談社、1985)を読み返して、皆既日食の当夜に帰京した。「音楽は思想ほど風化しない」(同書〔下〕、一三五 ページ)。《プルターク英雄伝》や《ギリシャ戯曲選》に価値を置く「僕」の表明である。


編集後記 80(2009年6月30日更新時)

歌集《魚藍》の本文校異に ついて書いた。吉岡実は未刊の随想〈忘れ得ぬ一俳人の一首〉で、自身の俳句・短歌について「少年の頃から、いろいろと短歌や俳句の本を読み耽っていたもの だ。ことに俳句のほうは十人ほどの仲間とで、吟行や句会をやって勉強したが、短歌は独習したにすぎない」(《短歌のすすめ》、有斐閣、1975、二七三 ページ)と書いている。詩篇〈聖あんま断腸詩篇〉(K・12)に組み込まれた〈反歌〉以外、戦後の吉岡に短歌作品はないものと思われる。
三 好達治詩集《百たびののち》の装丁に ついて書くため、古書を購入した(本文は、公立図書館の「リサイクル資料」に出ていた、古びてはいるがそれほど傷みのない端本の三好達治全集で読んだ)。 いい機会なので、萩原葉子《天上の花――三好達治抄》(新潮社、1966)に目を通したところ、「ある日、三好さんはT書房の「三好達治全詩集」を、〔文 章会のメンバー〕全員に配った。「全詩集というものは、印税の全部で買い取って人に贈るものだ」と、いつかも中野重治氏と話していた。今日まで世話になっ たことの礼であると、三好さんは言った。その通りに高価な詩集を、惜しげもなく贈呈して、皆をよろこばせたのである」(同書、一五三ページ)とあった。と もに萩原朔太郎を敬愛しながら、三好とは犬猿の仲だった西脇順三郎も、全詩集では同様のことをしている。
●《現代詩手帖》が50周年を迎えた。吉岡実は創刊号に〈遅い恋〉(未刊詩篇・7)と〈詩人のノオト〉を発表していて、小田久郎さんが《戦後詩壇私史》 (新潮社、1995)の〈第十章〉でふたつとも引用している。同書は吉岡と《現代詩手帖》 (吉岡は詩を20篇、散文などを21篇発表していて、寄稿雑誌としてはおそらく最多)との関係を考察するうえで今日でも筆頭の文献に数えられる。
●美篶堂《はじめての手製本――製本屋さんが教える本のつくりかた》(美術出版社、2009年5月1日)を読んだ。4ページとコンパクトではあるが フランス装のつくりかたが載っていて、表紙の切りとり部分を寸法入りの図面で説明している。《〈吉 岡実〉の 「本」》では吉岡実装丁になる数種類のフランス装に触れているが、本書が説くのは〈日 本風景論〉シリーズのそれに相当する。
●小森俊明・折笠敏之両氏がプロデュースする音楽空間創成プロジェクト〈groove transformiste〉の 初回公演《LIVE Performance 06/'09》(東京藝術大学音楽学部 第1ホールにて、2009年6月26日)は、ピアノ・チェロ・オーボエとパーカッションの演奏、映像とパフォーマンスによる1時間で、久しぶりに愉快な体 験だった。終演後、小森さんに初めてご挨拶することができた(小森さんが〈草上の晩餐〉と〈立体〉を歌曲にした件はかつて〈小森俊明氏作曲の吉岡実の歌曲〉で ご紹介した)。
●生まれて初めてマニキュアなるものをした。先日、包丁で左手人差指の爪を抉ってしまい、伸びるにつれて爪が剥がれないように固める必要が生じたのだ。爪 が伸びるまでのあいだギターを弾けないと思うと憂鬱だが、こうしてPCのキーボードが叩けるだけでもよしとしなければなるまい。


編集後記 79(2009年5月31日更新時)

●5月31日は吉岡実の祥月命日だったの で、久しぶりに 〈蜾蠃〔スガル〕鈔〉(《昏睡季節》)と《赤鴉》の短歌・俳句を読みかえした。興味深いことに、そこに は動物としての馬(日本陸軍いうところの「馬匹」)を詠んだ作品がなかった。いずれ、吉岡実詩最初期の「馬」について書いてみたい。
詩篇〈銀幕〉と梅木英治の銅版画に ついて書いた。いい機会な ので、グレタ・ガルボの主演映画を数本、ビデオで観た。吉岡が随想で挙げている《肉体と悪魔》(1926)、《マタ・ハリ》(1931)、《グランド・ホ テル》(1932)等。《マタ・ハリ》には、件のガルボの裸体も一瞬だが登場する。
《浅 酌歌仙》の装丁に ついて書いた。吉岡は《俳諧七部集》の書名を《うまやはし日記》に記しているくらいで、連句に関してなにも書きのこしていない。その点で、高柳重信〈吉岡 実と俳句形式〉における「たぶん、これ〔「一人は死んでいてなお病気/石塀の向うで咳をする」という〈僧侶〉の一節〕は、きわめて昇華され、高度に洗練さ れた俳諧連句の諧謔として受けとることも可能であろう。〔……〕吉岡には、俳句形式の歴史が少しずつ育ててきた幾つかの知恵が、どことなく備わっているの であった」(《ユリイカ》1973年9月号、一八四ページ)という評言は示唆に富む。
●グラフィックデザイナーの粟津潔氏が4月28日に亡くなった。80歳だった。AD・田中一光《1979グラフィックポエトリー》(モリサワ、1978) に再録の〈カカシ〉(G・28)は粟津氏の書画によるもの。臼田捷治《装幀時代》(晶文社、1999)の〈粟津潔――反近代の民俗的性〉を読んで氏を偲ん だ。
●楠見朋彦《塚本邦雄の青春〔ウェッジ文庫〕》(ウェッジ、2009年2月23日)を読んだ。1920年8月生まれの塚 本は吉岡実の1学年下で、年譜の生年(従来は1922年)の問題や戦中の足跡を追う記述はスリリングである。吉岡の《あむばるわりあ》評も引かれており、 目配りがきいている。
●月刊《エスクァイア日本版》(エスクァイア マガジン ジャパン)が2009年7月号で休刊した。1987年春の創刊(版元はユー・ピー・ユー、最初の5号は季刊で書籍扱い)から数年間、制作進行担当として刊 行に携わった身としては感慨無量である(本号の吉澤潔・長澤潔・木村裕治〔鼎談〕が当時を伝える)。吉岡実の歿後、〈卵〉(B・7)が同誌1991年8月 号に再録された。ヴィジュアルとして中西夏之作の卵形オブジェにも似た「ガイヤ製シトリン」の写真(撮影:藤井保氏)が添えられているが、「吉岡といえば 卵」(それとも「卵といえば吉岡」?)という理由での掲載だったのだろうか(この号は琉球特集で、「吉岡実の詩と共に切り取ったウェットな瞬間」の編集担 当は木下和也氏)。


編集後記 78(2009年4月30日更新時〔2012年12月31日追記〕)

●去る4月15日は、 吉岡実の90回めの誕生日に当たった。4月15日、この日は「四十一歳の誕生日。〈波よ永遠に止れ〉夜十二時に完成。陽子に浄書しても らう」(1960年)。「わたしが何故、《固い卵》をその〔〈詩人の白き肖像〉〕テキストに選んだかは、一つの思い出があったからだ。だぶん、四十五、六 才の誕生日の時であったろうと思う。妻から贈られたのが、この《固い卵》であった。家にあった古書目録のなかで、この詩集に私が赤い印をつけておいたの を、妻は見つけて買い求めたのである」(1964/65年)。「今日は私の誕生日だった。いつもなら妻がネクタイの一本もくれるはずであるが――宿〔高遠 城址の裏手下の「ホテル絵島」〕の朝飯でささやかに祝った」(1972年)。「四月十五日、晴。追悼詩「聖あんま断腸詩篇」ついに完成す。わが誕生日」 (1986年)。いくつもの記念碑的な詩篇が、自らの生誕を祝すように、この日に完成されたのだった。
詩篇〈壁掛〉の校異を 掲載した。行頭の揃っている詩の校異では字下げに関する注記は必要ないが、吉岡実詩の場合、《薬玉》から本格化する階段状の詩形(《薬玉》詩形)の異同を どう表示するかが難しい。今回、ひとつの試みとしてその表記法を開発した。後期吉岡実詩の校異の表記として実用に堪えるか、検討していきたい。
●林綾野・新藤信・日本パウル・クレー協会編著《クレーの食卓》(講談社、2009年3月6日)は不思議な書物である。クレーが残した料理メモ(1935 年)、日記や手紙、 家族に伝わる話からクレーが食べたであろうメニューを選び再現レシピを作った、と本書のリードにあるが、食を中心に据えた新しい形の評 伝と見た。
●先月末、商船三井の客船にっぽん丸の1泊2日のクルーズに参加した。娘が海について書いた作文が賞を受けて、保護者として同伴したのだ。小学生のときに こうした体験ができるのは、貴重なことこのうえない。私が子供のころ得た最高の賞品といえば、水彩画や毛筆習字を出品して貰った、芯が黒・赤2色のシャー プペンシル(今でもあるのだろうか)だった。
●このところジェネシスのCDを聴いている。彼らは基本的に作曲家の集団で、自作曲(とりわけ前期)のアレンジやライヴでのバンドアンサンブルは、時とし てピンク・フロイドやキング・クリムゾン、イエス、エマーソン・レイク&パーマーのそれを凌ぐ(逆に、ジェネシスに即興演奏や名人芸は期待できない)。楽 曲では、メンバー全員の共作〈サパーズ・レディ(Supper's Ready)〉――スタジオ録音《フォックストロット》 (1972)のオリジナルバージョンも素晴しいが、ピーター・ゲイブリエル在籍時の73年のライヴ(《Genesis Archive 1967-75》、1998)、フィル・コリンズがリードボーカルをとった77年のライヴ(《セコンズ・アウト》、1977)ともロック史に残る名演―― を逸するわけには いかない。このキメラのような、モザイクのような長尺曲を聴くたびに、私は吉岡の〈死児〉(C・19)を想い出すのだが、ゲイブリエルと スティーブ・ハケットがいたころのジェネシスは観ておきたかった。
〔2012年12月31日追記〕黄金のクインテット時の映像〈Genesis: Live 1973 - First time in HD with Enhanced Soundtrack - YouTube〉を 観た。〈Watcher of the Skies〉で幕を開け、〈Dancing with the Moonlit Knight〉〈I Know What I Like〉〈The Musical Box〉〈Supper's Ready〉の全5曲。ハケットのタッピングギターが確認できたのは嬉しいが、なんといってもラストナンバーだ。メンバーの楽器の持ち替えや、ゲイブリエ ルの出で立ちなど、ライヴパフォーンマンスを誇ったバンドの本領発揮である(この音源は初めてだった)。映像と音の定位が逆の処は、ヘッドホンを左右逆さ まにして聴いた。


編集後記 77(2009年3月31日更新時)

〈青山政吉のこと〉を お読みいただいたご子息の青山大作氏から「吉岡さんと父青山政吉は新京の陸軍病院で知り合ったようです」というメールをいただいた。メールには、詩人の吉 岡が「画家の父青山政吉と気が合ったようです。二人とも戦争には苦い思いをしたということも共通点です。父は満州で当時珍しく運転免許を持っていたのでト ラック部隊に所属していました。ただ目も悪く、耳もよくなかったのとその上、上司に殴られ耳が余計悪くなり陸軍病院に入ったのです。そのときの軍医さんが 父がスケッチしているのを見て「上手だな、日本に帰りたいか?」と言われ「帰りたいです」と答えたら「よし日本に戻って画業に励め」といって帰してくれた そうです。あまり役にも立たなかったというのが本当のところと思います。吉岡さんの病名はよくわかりませんが父はそういうことです。吉岡さんは来阪される と我が家によくお泊りになりました。吉岡さんの現代詩文庫に登場する「西宮へ戻り雅子ちゃん大作ちゃんとさようなら。夜行列車にのる」の大作ちゃんは私で す。そのときだったと思いますが、私にお土産として猿がシンバルを持ってパンパンする人形をプレゼントしてもらいました」とある。実に興味深い話なので、 お許しをいただいてここにご紹介する(大作氏と同世代の私にも、シンバルを叩く猿のオモチャは懐かしい)。
〈吉岡実詩集《紡錘形》本文校異〉を 掲載した。手許の《紡錘 形》は1989年5月24日、渋谷・宮益坂の中村書店で入手した一冊(33,000円だった)。その年の12月20日、吉岡さんと面談の折に献呈つきの署 名をしていただいたが、そのときが吉岡さんにお目にかかった最後となってしまった。
〈中尾彰―津和野・東京・蓼科―展〉(練馬区立美術館、2009年2月21 日〜3月29日)を観た。油彩画の ほか、紙芝居の原画の展示が嬉しい。吉岡実の絶筆〈日記 一九四六年〉に「三月二十六日 春の空は晴れている。梶 井基次郎《檸檬》を読む。 午後、坪田譲治《黒人屋敷》の装幀を江古田の中尾彰氏のところに頼みにゆく。畑の中を一里近く歩いた」(《るしおる》6号、1990年5月31日)とあ る。件の書名、正しくは《異 人屋敷》で、吉岡が当時勤務していた香柏書房から1946年7月に刊行されている。この本のことや香柏書房についても、いずれ書きた いと思う。
●〈秦恒平・湖(うみ)の本〉は創刊以来定期購読を続けているが、創作シリーズの52巻として《自筆年譜(一) 太宰治賞まで・他》(「湖(うみ)の本」版元、2009年3月14日)が刊行された(非売品)。標題作は全7部の第1部。本文8ポ2段組89ページという ボリュームが物語るように、「「作品」の成って行く基盤や経過や背景がすこしでも具体的に見え、見えはじめることが「創作者年譜」 の本来と 考えて来た」(本書、三四ページ、〈凡例〉)秦さんの「一の「年譜」試行」 (同前)である。「〔……〕「畜生塚」(「羽衣の人」改題)百六十七枚初稿擱筆。作品はその後、何に限らず繰返し改稿を重ねている。例外なく最終稿を定稿 とし前稿は作者の意志により「破棄」とする」(同書、七六ページ、1963年12月の項)。日記に相当する〈ノート〉の記録をもとに書かれたこの「自筆年 譜」は、創作者の作品と生活についてさまざまなことを考えさせる。なお〈秦恒平・湖(うみ)の本〉の詳細は、ウェブサイト《作家 秦 恒平の文学と生活》の〈湖の本の事〉につかれたい。
●このところ、プログレッシヴロックやブリティッシュロックの邦文資料を見ている。そのなかで、赤岩和美・石井俊夫監修《ブリティッシュ・ロック大名鑑》 (ブロンズ社、1978)の飜刻新訂版《ブリティッシュ・ロック大名鑑 一九五〇年代―七八年》(柏書房、2002)がコンセプト・内容・体裁とも 一頭地を抜いている。ただし、ルネッサンスの項でアルバム《ノヴェラ》と《お伽噺》が別物として記載されている(五一七ページ)のはどうしたことか (“Novella”の邦題が「お伽噺」で、ふたつは同一作品)。
●「かつて子どもだったあなたと少年少女のためのミステリーランド」の一冊、北村薫《野球の国のアリス》(講 談社、2008)を読んだ。題辞にあるルイス・キャロル《鏡の国のアリス》は当然だが、満田拓也原作のテレビアニメ《メジャー》の登場人物が想いだされて しかたがなかった(北村氏にその意図はなかっただろうが)。本文はもちろん、跋文の〈わたしが子どもだったころ〉がいい。


編集後記 76(2009年2月28日更新時)

吉岡実と片山健に ついて書いた。吉岡実の詩を読みはじめたころ、シャルル・ペロー(澁澤龍彦訳)《長靴をはいた猫》(大和書房、1973)で片山健の挿画にも親しんだが、 のちに《美しい日々》を再刊本で入手して、この端倪すべからざる画家のもうひとつの世界を知った(1985年10月10日刊行の喇嘛舎版には〈著者略歴〉 と著者の〈あとがき〉が新たに付けられた)。片山 さんには吉岡実の十七回忌の墓参の とき、ご挨拶することができた。
高 橋睦郎詩集《舊詩篇 さすらひといふ名の地にて》の装丁について書いた。詩集は《続・高橋睦郎詩集〔現代詩文庫〕》(思潮社、 1995)の巻頭に収められていて、全篇を読むことができる。
●ジュゼップ・カンブラス(市川恵里訳、岡本幸治日本語版監修)《西洋製本図鑑》(雄松堂出版、2008年12月1日)を読んだ。著者(1954年、バル セロナ生まれ)の製 本作品の写真集としても、ルリユールの技法書としても楽しめる。本文ではペラ丁の綴じの説明が役に立った。
●いせひでこ〔伊勢英子〕《ルリユールおじさん》(理 論社、2006年9月)は、ルリユールの工程を正面から作品化した異色の絵本。帯には「パリの路地裏に、ひっそりと息づいていた手の記憶。本造りの職人 [ルリユール]から少女へ、かけがえのないおくりもの」とある。こういう世界があると本書で知った子供が大きくなってどんな人間になるのか、興味深いとい う以上のものがある。
●手製本といえば、《吉岡実未刊行散文集》はDTPで組 んだ見開き(裏白)を谷折りした折丁をボ ンドで綴じたが、8年近く繰りかえし読んでいるせいもあってか、ある見開きなどついに抜けおちてしまった。どうやら《西洋製本図鑑》の説く糊のさしかたの 方が、じょうぶで長持ちしそうだ。
●野平一郎作曲の〈舵手の書〉を収録したCD《Japanese Love Songs〔日本の恋歌〕》を入手した。ク レジットに「Text: adapted from a poem by Minoru Yoshioka」とあるが、そう心して聴いても小林真理(メゾソプラノ)の歌詩は聴取が難しい。西村朗対話集《作曲家がゆく》(春 秋社、2007年5月30日)で野平氏は「僕の場合は、アイデアと音響が一致するところを求めるということが最も大切です。形式では、一回聴いてパッとわ かってしまうようなものは自分にとってはだめで、聴き込んで、ああ、こうなのかということがわかるような、一種の「迷宮の形式」みたいなものをいつも求め ているんですよ」(同書、二七二ページ)と語っているから、当分はこのCDを聴きこむことになりそうだ。
●しばらく前に川瀬泰雄(蔭山敬吾編)《真実のビートルズ・サウンド〔学研新書〕》(学 習研究社、2008年11月28日)を読んだ。〈ア・ハード・デイズ・ナイト〉の間奏ソロやイントロのコード(あの「♪ジャーン!」)の分析・解説には、 蒙を啓かれた。ビートルズの15アルバム収録の全226曲中、言及されているのは95曲。残りの曲を取りあげた続篇を期待したい。


編集後記 75(2009年1月31日更新時)

●林哲夫さんが、2007年9月16日の〈昏睡季節〉に続いて〈昏 睡季節(ふたたび)〉(2008年12月29日)を ブログ〈daily-sumus〉に書いている。雑誌《初版本》終刊号(人魚書房、2008年12月31日)の紹介文なのだが、林さん のご厚意で当該記事を読むことができた。島根の古書店で《昏睡季節》を10,000円で入手した経緯を伝える大地達彦氏のインタビュー〈詩集を掘り出す〉 が(先月のYahoo!オークションと並んで)この幻の詩集を彩る出色のエピソードである。同誌三七ページ掲載の「見返しに貼り込んである刊行当時の新聞 書評」の写真は、平林敏彦氏が《戦中戦後 詩的時代の証言 1935-1955》(思 潮社、2009年1月10日)の三五ページに書いたようには(後出「雑誌広告」にも引いた)、無反響でなかったことを示す新資料だ。吉岡が書評を知ってい た可能性は高いが、新聞の切り抜きの出典を探索することは困難で、今後の調査に俟つしかない。新聞書評が出た経緯を想像するに、平林氏が触れている雑 誌広告が影響していることは充分に考えられる。
吉岡実とリルケにつ いて書いた。「永遠の視点はジイドとリル ケの書から俯瞰される」(〈果物の終り〉D・2)と、吉岡が詩の本文にその名前を記した唯一の詩人がリルケだった。
天 澤退二郎詩集《乙姫様》の装丁について書いた。吉岡実装丁の天澤本はまだほかにも評論集が数冊あるので、追い追いそれも紹介していき たい。
●今日までその存在すら知らなかった《サフラン摘み〔特装本〕》を入手できたので、《〈吉岡実〉の「本」》の〈吉 岡実の特装本〉に追加掲載した。そこにも書いたが、本書は市販の《サフラン摘み》三刷(青土社、1977年1月15日)の改装本で、 高見順賞受賞 を記念して制作したものと推測される。本書刊行のいきさつをご存知のかたから、ご教示をたまわりたい。
《洪 水》の 創刊メンバーのひとり、北川純氏から吉岡実論関連の文献をお送りいただいた。《洪水》は政田岑生の書肆季節社(!)が広島で発行していた詩誌で、寺山修司 がこれを塚本邦雄に示して激賞した。北川氏は第1冊(1957年10月15日)に詩的エッセー〈パウル・クレーの小宇宙〉を寄せていて、同じころ発表され た吉岡の〈ポール・クレーの食卓〉(I・1)とともに、クレー作品の受容史という面でもまことに興味深い。北川さん、ありがとうございました。
●アメリカの国民的画家アンドリュー・ワイエスが1月16日、91歳で亡くなった。生まれ故郷のペンシルベニア州と別荘のあるメーン州の田園風景を題材 に、水彩やテンペラ画を描いた。「岸辺に近く/ごつごつした岩がある/そのかたわらで漁夫が漁具を砂地に置き/しばし休息しているように/わたしたちには 見えた/それはアンドリュー・ワイエスの素描だった」〈謎の絵〉(H・26)冒頭。
●旧知の山田哲夫さんが田中幸夫氏とともに監督・脚本を務めた映画《未 来世紀ニ シナリ》(2006年/日本/DV/カラー/68分/配給:フルーク)の東京での上映が予定されている(2009年3〜4月、渋谷 UPLINK Xにて)。上掲リンクで予告の動画が観られるので、ぜひご覧いただきたい。
●ビートルズ後期の2枚組ベストアルバム《1967-1970》(1973)、通称「青盤」をCDで聴いた(アナロ グディスクは持っている)。28曲 で約100分。オールタイムNo.1曲集《THE BEATLES 1》(2000)が27曲で約79分、後期のシ ングル曲集《パスト・マスターズVol.2》(1988)、 通称「白盤」が15曲で約51分。収録時間が異なるので同列に論じられないが、青盤の選曲は素晴らしい。〈Strawberry Fields Forever〉や〈A Day in the Life〉(頭にSEが入っていたLPに対して、イントロの最初から収録されている)や〈I Am the Walrus〉といった《1》や《Vol.2》に収録されていないレノン作品が入っているのが嬉しい。連想は、吉岡実中期のベスト版(例えば〈マクロコス モス〉〜〈葉〉〜〈夢のアステリスク〉の10篇)、オールタイムのタイトルポエム集(〈昏睡季節1〉〜〈僧侶〉〜〈サフラン摘み〉〜〈ムーンドロップ〉の 17篇)など、既存詩篇の セレクションによる私撰吉岡実詩集へと拡がってゆく。


編集後記 74(2008年12月31日更新時)

●詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940、 〈手紙にかへて〉付き)がYahoo!オークションに出品された(落札価格は179,000円)。《吉岡実 資料》編纂時にそのコピーさえ見ていない〈手紙にかへて〉原物の写真がsarugaku333さんによってアップされたので、《昏睡季節》の書誌に 掲載させていただいた。〈手紙にかへて〉は全文が随想〈わが処女詩集《液体》〉(初出は《現代詩手帖》1978年9月号)に引用されて知られるようになっ たが、それと〈吉岡実詩集覚書〉(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996)の同文を件の写真と照合してみると、〈吉岡実詩集覚書〉の方が原文に近いことが わかる(解像度が低いので断定的なことは言えないが)。この出品がとんでもない代物であることは確かだ。
●先月の詩集《僧侶》の校異に 続いて、〈わたしの作詩法?〉の校異を 書いた。吉岡実のこの詩論には〈苦力〉が全篇引かれ、コメントが付されている。このような調子で同じ《僧侶》の、たとえば〈冬の絵〉や〈単純〉や〈感傷〉 といった、作者による言及のない作品(3篇とも《吉岡実〔現代の詩人1〕》に収められていない!)へのコメントが残されていたら、どんなによかったことだ ろう。
天 澤退二郎《《宮澤賢治》鑑》の装丁について書いた。いい機会なので、《宮沢賢治の彼方へ〔ちくま学芸文庫〕》(筑摩書房、1993) や《《宮澤賢治》論》(同、1976)、《《宮沢賢治》注》(同、1997)など、天澤さんによるほかの賢治論もまとめて読んだ。久しぶりに賢治の作 品が読みたくなった。
●《石田徹也―僕たちの自画像―展》(練馬区立美術館、2008年11月9日〜12月28日)を観た。オリジナルの図録に替わる《石田徹也遺作集》(求龍 堂、2006)も展覧した日は品切れで、人気のほどをうかがわせた。作品では〈捜 索〉(2001)の崩れゆく人体=ジオラマに見いってしまった。
●《月刊PLAYBOY日本版》(集英社)が2009年1月号(2008年11月売)で休刊した。1989年の5月、吉岡さんと歓談のおり、当時私が《エ スクァイア日本版》(ユー・ピー・ユー)に携わっていたこともあって、《月刊PENTHOUSE》(講談社)の休刊が話題になった。浅草・松屋デパートを 訪れて、「客もなく、ひっそりした書籍売場のガラスケースの中に、外国の写真集が飾られ、開かれた頁に、若い女の裸体が眺められ、私はしばらく釘付けに なってしまった」(〈学舎喪失〉、《文學界》1985年9月号、二九六ページ)と書いた吉岡さんなら、同誌の休刊を惜しんだだろうか。
●中山康樹《ビートルズの謎〔講談社現代新書〕》(講談社、2008年11月20日)を読了した。私はビートルズ音楽の いちファンに過ぎず、巻末の〈参考・引用文献一覧〉のうち《サージェント・ペパーの時代〔Nowhereザ・ビートルズ決定版シリーズ〕》(プロデュー ス・センター出 版局、2007)くらいしか手許になかったので、めぼしい資料を図書館から借りだして眺めている。ところで、中山氏の本の二一五ページに「アラン・パーソ ン」とあるのは「アラン・パーソンズ」(Alan Parsons)の誤植だろう。
●アラン・パーソンズ・プロジェクト(正確にはデヴィッド・ペイトンとイアン・ベアンソン)つながりで、パイロットのデビューアルバム《Pilot (From the Album of the Same Name)》(1974)を聴いた。6年ほど前、《みんなのうた》でブレス バイ ブレスが歌う〈ブレーメンのマペット音楽家〉の《マジカル・ミステリー・ツアー》を思わ せるビートルズマジックに驚嘆させ られたが、パイロットはそこまであからさまでないマジックを繰りひろげる。ブリティッシュポップス最良の部分が、ここにはある。


編集後記 73(2008年11月30日更新時)

●《吉岡実の詩の世界》を開設して丸6年 が経過した。閲覧していただいた方に改めて御礼申しあげる。本サイトの現状をご報告しておこう。開設時の総ページ数 (A4での印刷換算)は約139ページだったが、1年後には約243ページとほぼ1.7倍、2年後は約341ページで開設時の2.5倍、3年後は約474 ページで同3.4倍 、4年後は約693ページで同5.0倍、5年後は約803ページで同5.8倍、6年後の現在は約892ページで開設時のほぼ6.4倍と なっている(10月末時点のアクセスカウンターの数値は22916だった)。この7月には〈吉岡実と本郷・湯島――〈吉岡実〉を歩く〉と 題して、若年の吉岡 実ゆかりの地を歩いた。年に一度はこうした企画を実行したい。当サイトに割りあてられる容量を増やしたので、しばらくは心置きなく長文の記事も掲載できよ う。今後とも吉岡実と〈吉岡実〉に関する新稿の掲載、既存情報の補綴に努めていきたい。
●ここで、本サイトの舞台裏をご披露しよう。通常は毎月末に新稿をアップしてから次回分を準備するのだが、原稿が長文だったり調べもの中心だったりすると 前月から執筆を開始する。その場合も、ある時点からは《untitled》というhtmlファイル上で、リンクなどの仕上がりも想定して執筆・修正を繰り かえす(この〈編集後記 73〉の一部も、10月末日更新作業を前にして草稿を書くことで、11月執筆予定項目の調整をした)。本サイトに掲載する文章やデータは、印刷物と同じ手 順を踏んで制作している(たとえば、吉岡をはじめとする引用の原文はほとんどが縦組みなので、htmlから書きだしたテキストファイルを縦書きプリントし たもので校正している)。基本的にひとたび公開した情報は書きかえることはせず、新たな情報を「追記」の形で付け加えていく。記述の訂正を迫る新資料の出 現により記載を改める場合は、印刷物の改訂版を制作する姿勢で臨む。それでも完全ということはない。まことにもって、信頼に足るサイトを維持・運営するこ とは難しい。
●《僧侶》刊行50周年を記念して〈吉岡実 詩集《僧侶》本文校異〉を 書いた。本稿を踏まえて、いつの日か、《神秘的な時代の詩》と同様、《僧侶》全篇の評釈を書かなければならない。
《詩 の本》の装丁に ついて書いた。そこでも触れたが、吉岡は第U巻の〈わたしの作詩法〉に〈わたしの作詩法?〉という唯一の詩論を発表している(題名にしてからすでに「作詩 法なんか知らないよ」と明かしている)。吉岡がそこに全篇を引いて自解したのが《僧侶》の〈苦力〉(C・13)だが、これまた反語的自解とでも呼ぶしかな いものである。いずれにしても、われわれとしてはひたすら詩篇を(できることなら《僧侶》全篇とともに)読むに如くはない。
●西村義孝編著、林哲夫構成・装丁の《佐野繁次郎装幀集成――西村コレクションを中心として》(み ずのわ出版、2008年11月1日)が出た。好評だった《spin》03号掲載の〈佐野繁次郎装幀図録〉をバージョンアップしたもので、全ページカラーの 図版が見所なのはもちろんだが、西村氏の〈佐野繁次郎装幀本と図録と展覧会と〉と《spin》誌から再録の〈佐野繁次郎コレクション蒐集について〉が素晴 らしくも、恐ろしい。わが《〈吉岡実〉の 「本」》でも大いに参考にさせていただこう。
●姫路文学館で《永遠の詩人 西脇順三郎――ニシワキ宇宙とはりまの星たち》展が開催された。残念ながら会場には行けなかったので、図録を入手した。A4判で本文四〇ページ、オールカラー。金田弘によるタイ プ印字の手製本《旅人かへらず》 (1949)の書影など、観ていて飽きない。
アラン・パーソンズ・プロジェクト《怪奇と幻想の物語――エドガー・アラン・ポーの世界》デ ラックスエディション・紙ジャケット仕様が再発された。1976年発表(《サフラン摘み》と同年である)のアナログレコードで用いられたオリジナル音源を 初めてCD化したディスク1と、すでにCDになっている1987年のリミックス音源(イアン・ベアンソンの76年版のギターが変わっていたりする)のディ スク2をリマスターで収め、ボーナストラックも充実している。私は、マイルス者・中山康樹氏に倣ってオリジナルフォーマットの曲だけをMDに落として、 76年版(今度はじめて聴く)・87年 版(すっかりお馴染みの)と続けて聴いている。APPの処女作にして最高傑作が甦ったことを喜ぶ。


編集後記 72(2008年10月31日更新時)

青山政吉について書くため、朝日 新聞社主催の《青山政吉「日本の四季百景」展》の図録(朝日新聞社、1996)を入手した。本書には吉岡実への言及はないが、〈青山政吉年譜〉(同書、一 三〇〜一三一ページ)があるので、関連する事項を引く。
 1920年(大正9年)| 3月30日 〔……〕父・青山政吉、母・マサの長男(幼名雅 美)として生まれる
 1924年(大正13年)|4歳 父・政吉死去、〔……〕政吉を襲名
 1939年(昭和14年)|19歳 旧満州(中国東北部)新京の自動車部隊に現地入隊
 1940年(昭和15年)|20歳 病により内地還送、のち除隊
 1947年(昭和22年)|27歳 〔……〕第1回二紀会展に出品
 1994年(平成6年)|74歳 〔……〕10月15日〔……〕死去
青山政吉の随筆集には年次の記述が欠けていて、事象の年代がはっきりしない。〈年譜〉の1940年(昭和15年)の「病によ り」が吉岡実と 知りあった契機だとすれば、入院はおそらく2年ずれていて「1942年(昭和17年)」の「柳絮とぶ春を」(吉岡実)でなければ辻褄が合わないのだが。
中島敦全集の装丁に ついて書いた。森田誠吾《中島敦〔文春文庫〕》(文 藝春秋、1995)は、中島敦の2冊めにして生前最後の作品集となった《南島譚〔新鋭文学選集〕》(今日の問題社、1942)を編集した和田芳恵と著者・ 森田氏とのエピソードで締めくくられている。私は吉岡実も登場する末尾の8行を読むために、この本を読みかえす。……と書いたばかりのところへ、森田氏の 訃報が届いた。なんということだろう。追悼の意を込めて《最 近の〈吉岡実〉》に一文を草した。
●ブックデザイナーの遠藤勁氏からリーフレット〈「サンヤツ」のこと〉をいただいた。森田誠吾氏が亡くなったことから《三段八割秀作集》に及んで、――私 が関与した作例〔《狂言――「をかし」の系譜〔日本の古典芸能〕》〕と当時「三八タイポグラフィー界?」で最も巧いといわれていた筑摩書房の作例〔《齋藤 拷J集〔明治文學全集〕》と《定本金子光晴全詩集》〕を転載してみる。作者は筑摩書房宣伝課としか記されていないが、私の睨むところ詩人・吉岡実の作に間 違いないだろうと思っている。氏の数々の装幀の活字扱いから推察した。朝日新聞の第一面は活版組みの道場でもあった。――とある(書影と三八広告3点を掲 載)。遠藤氏からはメールで――吉岡さん(多分)のサンヤツが素晴らしいのは、「ことば」がそれぞれ的確な大きさで位置づけられていて、単なる抽象的なグ ラフィックエレメントで終わっていないところだと思います。「ことば」を大切にした詩人の作だと納得する由縁です。――と、かつて平凡社で三八を手掛けた デザイナーならではの所見をいただいた。森田誠吾と吉岡実を偲ぶ御仁がここにいる。
●林哲夫編《spin》04号〈湯 川書房湯川成一さんに捧ぐ〉が出た。林さんの追悼記事、湯川氏のインタビュー(再録)、3氏の追悼文のほか、〈湯川書房限定本刊行目録(未完)〉(作成編 集:伊東康雄・岡田泰三・戸田勝久、記録:福永幸弘)が掲載されている。この労作を見ているとさまざまな感慨が湧いてくるので、その一斑を〈湯川成一氏が逝去〉に追記し た。
●林哲夫さんから《湯川書房刊本目録(限定版)》(辻邦生《北の岬》から長谷川敬《青の儀式》まで、1969年2月から78年度までの湯川限定本39冊の 詳しい目録)のコピーをいただいた。湯川書房社主の手になる目録だから、追記する形で《吉岡実書誌》の《神秘的な時代の詩〔特装版〕》に そのまま引用した。同詩集は〈湯川書房限定本刊行目録(未完)〉には――27 吉岡実詩集「神秘的な時代の詩」/限定150部 238×180ミリ 印刷竹田光二 仮綴装(表紙 黒崎彰オリジナル木版画) 背革 ひらベラン装たとう 本文ロベール紙 1975.6.1(前掲誌、二九ページ)――とある。
●内堀弘《ボン書店の幻――モダニズム出版社の光と影〔ちくま文庫〕》(筑 摩書房、2008年10月10日)が出た。白地社の初刊も折に触れて読みかえしてきたが、本書も〈文庫版のための少し長いあとがき〉を読んでから、通読す ることになってしまった。鳥羽茂[いかし]のボン書店、伊達得夫の書肆ユリイカ、湯川成一の湯川書房。それぞれに吉岡実との縁、浅からぬ個人出版社だっ た。
Rush(カナダのロックバンド)のCDを聴こうとして、OPACで「ラッ シュ」を検索したところ、Lush(ガールズロックのグループ)のCDを取りよせてしまった。道理でアルバムタイトルが違うわけだ。


編集後記 71(2008年9月30日更新時)

吉岡実の書に ついて書いた(タイトルを〈吉岡実と書〉か〈吉岡実と書道〉とした方がよかったかもしれない)。吉岡さんに自作の篆刻を差しあげたことはどこかで触れた が、そのときなにか書いてあげようと言われたので、「神秘的な時代の詩」の八字をお願いしたものだ。吉岡さんはその後間もなく体調を崩されて、それが実現 することはなかったが。
●《東邦書策》のコピーを福島美術館(仙台市若林区)の尾暮まゆみ氏からお送りいただいた。吉岡は同誌に書作品が掲出されたことを、最後の著書となった 《うまやはし日記》で初めて明らかにした。《東邦書策》は所在はおろかその詳細もわからない幻の雑誌だったが、福島美術館のサイトの尾暮さん の紹介文で概要を知ることができた。今回得た知見に基づいて、《昏睡季節》の解題にも追記した。同誌を所蔵する佐藤研石 のご遺族と福島美術館のご厚意に心 から感謝します。
《現 代日本文學大系》の装丁について書いた。紀田順一郎さんは本大系を「創意と迫力の点で元祖〔筑摩版《現代日本文学全集》〕に遠く及ば なかった」、 「特色のあるものとしてロングセラーとなったが、一時のように華やかな話題とはならなかった」(《内容見本にみる出版昭和史〔活字倶楽部〕》、本の雑誌 社、1992、一一六ページ、一三〇〜一三一ページ) と総括している。
●来る10月3日(金)から11月16日(日)まで、姫路文学館特別展示室で《永遠の詩人・西脇順三郎展》(西脇の詩や絵画、評論、文学研究資料などを 展示)が開催される。
●公立図書館のOPACはシステムが更新されるたびに使い勝手がよくなっているが、そのおかげで意外なCDが発見でき、検索していて飽きない。最近まとめ て借りたのはヤードバーズルネッサンス(どちらもキース・レルフが 所属していたバンド)の旧譜で、前者はジミー・ペイジがらみの数枚、後者はアニー・ハズラム在籍時のほとんどのアルバムは持っているが、手の出なかったベ スト盤や解散間際のスタジオ盤を聴いた。これはこれで悪くないものの、大枚を投じて購入するかとなると疑問だ。以前、ビートルズの新譜《ラヴ》(2006)を予約したら、半年近く待たされた。「聴いてみたいが 買う(レンタルする)ほどではな い」という利用者がそれだけ多かったということか。
●中山康樹《マイルスを聴け! Version 8〔双葉文庫〕》(双葉社、2008年9月28日)が出た(2年前の後記で もVersion 7に触れている)。マイルス・デイヴィスの命日となった日は以前から私にとって特別の日なので、忘れることはない。中山氏のライフワークが2年に一度、装 いも新たにバージョンアップを続けているのは頼もしいかぎりだ。私は2004年のVersion 6でマイルスの音源に親しんだ者なので、その版がいちばん懐かしいが、Version 8も大いに楽しませてもらうつもりだ。


編集後記 70(2008年8月31日更新時)

《僧侶》の本文について書いた。 現時点で《僧侶》全篇 を新刊として書店で入手しようとしたら、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》と《続・吉岡実詩集〔現代詩文庫129〕》(と もに思潮社)の2冊の選集を求めて、前者の〈告白/仕事/伝説/僧侶/単純/夏/固形/苦力/聖家族/喪服/感傷/死児〉と後者の〈喜劇/島/冬の絵/牧 歌/回復/美しい旅/人質〉を詩集の目次順に読まないことには全体像がつかめない。《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)の復刊とまでは言わないが、 《僧侶》全篇が読める一冊本が望まれる所以だ。
西 脇順三郎全集の装丁について書いた。そこでは触れなかったが、西脇の詩集でいちばん感心するのが《Ambarvalia[アムバルワ リア]・旅人かへらず〔講談社文芸文庫〕》(講談社、1995)という、 代表的な二詩集を完全収録した文庫本だ。吉岡実における前期詩集《静物・僧侶》といったところだろうか(中期と後期を代表する《サフラン摘み・薬玉》とい うカップリングも捨てがたい)。
湯川成一氏が亡く なってからインターネットでいろいろな文章 を目にしているうちに、富岡多恵子《壺中庵異聞》が読みたくなった。いつか読もういや読まねばならぬと思いつつ、縁がなくて手にすることのない 本などいくらでもあるが、本書がその一冊だったのだからお恥ずかしいかぎりだ。本を書くことも尋常でなければ、まして本を造ることも尋常でないと感じ入ら せる「異聞」である。
●この夏も暑い。永田耕衣に宛てて「このところ、晴天つづきで、空梅雨になりそうです。小生人一倍、「水」のことを考えているので、夏の水不足が心配で す」(1980年6月25日渋谷局消印葉書)と憂えていた吉岡実なら、年年気温が高くなっている近頃の夏をなんと言っただろうか。
●吉岡実の詩集の題名に季節が織りこまれているのは《夏の宴》(青土社、1979)だけだ。本書が出版された当時は「夏」というより「引用の秋」という感 じだったが、最近ではとんでもない傑作という印象を強くしている。――「「一度書かれた言葉は消すな!」/身のまわりから/筆記具を片づける/そして/百 年前に見た男のように/ぼくは焼火箸を地へ突き入れる/八月は逝く」(〈雷雨の姿を見よ〉H・14)など、この年齢になってようやく有り難味がわかるとい うものである。
●前の会社で同僚だった大森裕二さんが造本設計・装丁した堀田正敦(1755-1832)著・鈴木道男編著《江戸鳥類大図鑑――よみ がえる江戸鳥学の精華『観文禽譜』》(平 凡社、2006)が、ドイツはライプチヒで開かれた〈世界で最も美しい本展〉で銀賞を受賞したのは2008年2月だった。本書に掲載された図版点数 1,170が驚異的なのは もちろんだが、昨日描かれたような禽譜の印刷も見事である。先ごろ開かれた大森さんの受賞をお祝いする会に、制作に携わったス タッフをはじめ、昔の仲間30人ほどがつどった。大森さん、おめでとうございます。また一緒に仕事しましょう。


編集後記 69(2008年7月31日更新時)

吉岡実と本郷・湯島について書い た。吉岡が学校を出て すぐに奉公した南山堂は、当時の本郷区龍岡町(現在の文京区湯島4丁目)にあった。龍岡町といえば森鴎外や馬場孤蝶(博文館版《一葉全集》の校訂者)、さ らに宮澤賢治の年譜に見える地名だ。一葉ゆかりの法真寺もほど近い。
●その註で吉岡が卒業した「本所高等小学校」に触れたが、書家の金子鴎亭(1906〜2001)の年譜に「一九三二年(昭和七) 26歳 五月 上京、本所高等小学校に代用教員となる。〔比田井〕天来の書学院にて書の研究に励む」(矢壁柏雲《評伝 金子鴎亭――近代詩文書を拓く》、毎日新聞社、1992年12月20日、二〇三ページ)とある。吉岡は昭和7年、同校に入学しているから、まさに同時期に 教員と在校生となったわけだ。同年の吉岡実年譜には「二階に先住の盛岡出身の青年、佐藤樹光(春陵のち書家・油桃子)の影響で文学に親しむ。樹光は書道を 勉強しながら筆耕で生計をたて、ゴーリキーの『どん底』や『母』など、本をよく読んでくれた」(吉岡陽子編)とあるものの、「夢香洲書塾(佐藤春陵宅)に 身を寄せ書塾を手伝う」(同前)のは南山堂を退社した昭和13年、19歳の年だ。吉岡は金子鴎亭に言及しておらず、吉岡と書道との関わりは今後の課題とし たい。
入 沢康夫詩集《「月」そのほかの詩》の装丁について書いた。近作の詩集《かりのそらね》(思潮社、2007)の「2冊で一作品」の装丁 も心愉しい(装画は梶山俊夫氏だが、装丁者名 はない)。
●南伸坊《装丁/南伸坊》(フレーベル館、2001年3月1日)につげ義春作品集の装丁が2点掲載されている (1975年の青林堂版と2000年の青林工藝舎版《ねじ式》)。 南氏は1972年に青林堂に入社して、いきなり《ガロ》のレイアウト・表紙デザインを任されたという。「豪華本の装丁も、かまわず任された。/『つげ義春 作品集』がそんな頃の仕事。金色込みの6色刷のカバー、表紙はクロス貼りダンボール箱にシルクスクリーン2色刷のラベルを貼った。「原価計算」というよう な考えはハナからない」。「クロス貼り、空押し、カバー四色描き下ろしイラスト、そのうえ函には、シルクスクリーン手刷り二色使いのラベルも貼った。/い まとなると、無意味なくらいに豪華仕様のゼイタク作りだ」(同書、八ページ・一九六ページ)。豪華本《つげ義春作品集》を、函つきで見てみたい。
●レッド・ツェッペリンが昨年12月、ロンドンはO2アリーナでの〈アーメット・アーティガン追悼コンサート〉で再結成したことは〈編集後記 62〉に書いた。その後、断片的に YouTubeで音と映像をチェックしてきた が、このほどDVDを入手した(〈レッド・ツェッペリン / O2 ARENA,LONDON 12.10.2007 [DEFINITIVE EDITION] (2DVD-R)〉)。13のソース(ビデオ4とオーディオ9) を使用した「リミックスヴァージョン」だ。このDVDをツェッペリン側が公式にリリースするはずもなく、もちろん ブートレグだが、草創期のLPレコードのブートを知る者にとっては隔世の感がある。演奏ではアンコール1曲目の〈胸いっぱいの愛を〉が、恒例のロックン ロールメドレーを挿むこともなく、ペイジのギターとジョーンズのベースが鉄壁のリフを刻み、タイト(にしてルース)で素晴らしい。


編集後記 68(2008年6月30日更新時)

〈吉岡実とつげ義春〉を書いた。 先だって谷内六郎の漫画に ついて書いたが、吉岡実は漫画家として谷内とつげ にしか言及しておらず(手塚治虫にさえ触れていない!)、二人がいかに重要な作家であったかを物語っている。つげ漫画は30年ほど前に小学館文庫で読んだ きりだったが、これを機会に筑摩書房の《つげ義春全集》で読みかえした。A6とA5サイズとではなにかが決定的に異なっている。それは〈夢の散歩〉 (傑作である)のような白っぽい絵ではあまり気にならないが、描きこんだ絵では大きな違いとなる。菊地信義装丁の《つげ義春全集》が欲しくなって困った。
岩 成達也詩集の装丁に ついて書いた。そこでは紹介しなかったが、300部限定の《燃焼に関する三つの断片》(書肆山田、1971)を古書で入手した。表紙特漉耳付局紙、本文特 漉局紙・アンカット。12ポ活字でゆったりと組んだ本文は見事な出来映えで、造本も好ましい。これを見たであろう吉岡実も、書肆山田(当時の発行人は山田 耕一氏)の本造りに惚れこんだに違いない。
●《資生堂宣伝史〔全V冊〕》(資生堂、1979)に吉岡実が寄稿しているとオークションの通知メールにあった。Vが〈花椿抄〉だから、1962年7月号 の《花椿》掲載の詩篇〈塩と藻の岸べで〉(I・9)の再録ではないかと見当をつけて国会図書館で閲覧してみると、案の定そうだった。その情報を《吉岡実書誌》の〈主要作品収録書目録〉に追加したことはいうまで もない。
●全V巻から成る古川日出男の小説《アラビアの夜の種族〔角川文庫〕》(角川書店、2006)を読んだ。「あるのは過去(の一瞬)。あるのは未 来(の一瞬)。/現在はない。」(U、二一九〜二二〇ページ)。「はるかなる(過去) はるかなる(未来)/否/(すべてが現在だ)」(〈東風〉J・ 15)。
●NHK〈美の壺〉制作班編《文豪の装丁》(日本放送出版協会、2008年4月25日)を書店で見つけたので入手した。例によってテレビ 番組は見過ごしていたが(いつやったのだろう)、本だけでも楽しめる。とりわけ鈴木心氏による書影が素晴らしい。印刷は大日本印刷で、これも見事だ。
●同じくNHK〈趣味悠々〉のテキスト《お気に入りをとじる――やさしい製本入門》(日 本放送出版協会、2008年6月1日)が出ている。瀧口修造に捧げられた《雷鳴の頸飾り》(吉岡実の詩篇〈「青と発音する」〉(H・27)を収録)の、藤 井敬子講師によるルリユールが掲載されているのも楽しい。番組は全9回で、現在放映中だ(2008年6月〜7月)。もちろん録画して観ている。
●エルトン・ジョンが《Goin' Home:A Tribute to Fats Domino》(2007)でファッツ・ドミノのヒット曲〈ブルーベリー・ヒル〉(1956)をカバーしているのを聴いた(ピアノを弾く新旧のロッカーで は、はまりすぎの気味もあるが)。《油すましの独り言・・・。》やWikipediaの《Blueberry Hill (song)》を 見ると、ファッツ以前にもGene Autry(1941)のオリジナルやLouis Armstrong(1949)のバージョンがあり、以降にもElvis Presley(1957)やLed Zeppelin(1970)やThe Beach Boys(1976)など、総勢29のバージョンが挙げられている。わが美空ひばりも《ジャズ&スタンダード》(1990〔録音は昭和30年代か〕)でカ バーしている。映像ではやはり《YouTube - Fats Domino - Blueberry hill》のファッツ・ドミノだ。


編集後記 67(2008年5月31日更新時)

〈吉岡実と土方巽〉を 書いた。詩人としての吉岡実に関わりの大きかった人物といえば、詩人の西脇順三郎、俳人の永田耕衣、舞踏家の土方巽だが、私は幸いにもこの3人の謦咳に接 することができた。西脇は講演会、耕衣は囲む会だったが、土方は《W-NOtation》のインタビュー取材に同行させてもらったのだ。編集長だった中原 蒼二さんが最近、ブログ〈吹ク風 ト、流ルル水ト。〉に「インタビューがあり、終了後、土方さんは質問項目に「死」がなくてよかった、とぽつんといった」と書いてい る。アスベスト 館での取材は1985年6月22日、土方死去の7箇月前のことである。
《一 葉全集》の装丁について書いた。そこでも触れたが、本全集の書名の書き文字は、空海の《請来目録》から来ている。吉岡はこれ以後、空 海に限らず著 者以外の筆による書き文字を装丁に使っておらず、その意味でも吉岡実装丁史における重要な作品といえる。
●アスベスト館編集の詩画集《あんま――愛欲を支える劇場の話》(暗黒舞踏派十周年記念詩画集刊行会、1968年12月1日)が喇嘛舎か ら1,200,000円で出品されている。目録にはこうある。「オリジナル詩画集あんま 土方巽のために 池田満寿夫・加納光於・中西夏之・中村宏・野中ユリ・三木富雄・滝口修造・吉岡実・三好豊一郎・加藤郁乎 デザイン田中一光/1968/限定50 2重箱 オリジナル版画他 各署名入り 外ダンボール箱シミアリ」。まさしく「極端なる豪奢」!
石 井輝男監督の映画、土方巽が菰田丈五郎役で出演した《江戸川乱 歩全集 恐怖奇形人間》を輸入DVDで観た(英語題名は“HORRORS OF MALFORMED MEN”Wikipediaに は「地上波では未放送で日本ではソフト化されていないが」、「2007年、Synapse FilmsによりDVDが全米発売された」とある)。吉岡実は映画《恐怖奇形人間》を1969年11月7日の金曜日、渋谷の東映で観ている(《土方巽 頌》、三七ページ参照)。演技する土方(荒磯で踊ってもいる)がクリアに見られる数少ない映像のひとつで、国内外でカルト的な人気を誇るのもうなずける。 とてつもない怪作だ。
●ザ・ホワイト・ストライプスとザ・ストロークスの近作CD、それぞれ3枚を交互に聴いている。音楽は、能動的に受容しないと、10代20代に聴いた傾向 (その代表が1970年前後の英米ロック)ばかりということになってしまう。そこで意図的に自分に新しい傾向を試みて、最近はジャズの名盤をかける機会が 多かったが、同時代のロックの出番となった。ジャック・ホワイトのギターは、ジミー・ペイジが称揚するだけのことはある。ストロークスの方は、ザ・カーズ を連想させる。
●今日、5月31日は吉岡実の祥月命日である。先日、キトラ文庫で入手した《土方巽頌》(初版第二刷、1987年12月10日)をひもといてみることにし よう。


編集後記 66(2008年4月30日更新時)

〈吉岡実編集の谷内六郎漫画〉を 書いた。《谷 内六郎オフィッシャルサイト》を運営する長女の広美さんから、《シンジツイチロークン》と《笛吹き小次 郎》の奥付のコピーをお送りいただいた。そのおかげで、書誌に正確を期すことができた。谷内さん、どうもありがとう。
●稲田奈緒美《土方巽 絶後の身体》(日 本放送出版協会、2008年2月25日)が出た。600ページ近いこの評伝の出現は、ひとつの事件である。「土方巽は一九五〇年代末より前衛舞踊の旗手と して、劇場、街、野山を駆けめぐり、その場に凄烈な痕跡を残してきた。前衛舞踊はやがて暗黒舞踏と呼ばれ、〔……〕吉岡実〔……〕ら文学者や、中西夏之 〔……〕ら多くの前衛芸術家を引き寄せる」(本書、四〜五ページ)と序にある本書を、《土方巽頌》の著者ならどう読んだだろうか。
●深井人詩さんが編集する《文 献探索2007》(金 沢文圃閣、2008年3月31日)が発行された。2007年6月の〈編 集後記 56〉で触 れた〈個人書誌《吉岡実の詩の世界》をwebサイトにつくる〉が掲載されているので、本サイトの生成に興味をお持ちのかたはご覧いただけるとありがたい。 ただし本体価格5,000円と高額なので、愛知県図書館から早稲田大学図書館までの寄贈100館(国会図書 館や道府県立図書館などの国公立図書館が中心)でお読みいただいてもいいと思う。
●菊地信義さんの《新・装幀談義》(白 水社、2008年3月6日)を読んだ。〈図像〉の節にフランス装に触れた箇所がある。「〔平田俊子詩集『宝物』の〕タイトルの宝物といったイメージをあれ これ考えていたら、「包む」という行為にいきあたりました。造本のスタイルで本が包まれているのはフランス装。本フランス装は、表紙(カバー〔ジャケット のこと〕を兼ねる)がグラシンで包んでかぶせてあります。/本フランス装には、クラシックなヨーロッパのイメージがあります」(本書、一五一〜一五三ペー ジ)。包まれた本! 今はなき飯田橋の文鳥堂書店では、本を買うと、包装紙の天地を背の脇の2箇所鋏で切って背丈に合わせて折り、本の表紙より大きい部分 は、小口は被せて、天地は角を畳んで潜らせてから折りこみ(表紙がジャケットごと包装紙にくるまれる恰好である)、和風の「フランス装」(という言い方も 妙だが)のようにして手早く包んで渡してくれたものだ。
●扉野良人〈全著快読 梅崎春生を読む(26)――事実は小説よりも奇なり〉《柾它希家の人々》の ことが出てくる(ただし《M家の人々》として)。扉野氏によれば、著者は梅崎春生の新聞連載小説《つむじ風》のモデルとのことだが、そうした方面にまった く興味のない私にはこれといった感慨もない。梅崎文学ということなら、1954年8月発表の短篇小説〈突堤にて〉(手近なところでは《ちくま日本文学全 集》の梅崎の巻で読める)の「医者はその〔肺尖カタルの予後の〕僕に、特に魚釣りに精励せよと命令したのではないが、僕の方で勝手に魚釣りなどが予後には 適当(オゾンもたっぷりあるし)だろうと、ムキになって防波堤に通っていたわけだ」という一節や、末尾の「〔日の丸〕オヤジの釣道具、放棄したビクや釣竿 などは、誰も手をつけないまま、三日ほど突堤上に日ざらしになっていた。そして三日目の夜の嵐で海中にすっかり吹っ飛んでしまったらしい。四日目にやって 来たら、もう見えなくなってしまっていた」というあたり、吉岡実の同じ題の詩的散文〈突堤にて〉(1962年1月発表)を想わせずにはいない。とはいうも のの、「同名異人」の気配濃厚だ。
●来月末で吉岡実歿後18年になる。なにか記念になる記事を掲載したいと思う。


編集後記 65(2008年3月31日更新時)

吉田健男の装丁作品に ついて書いた。吉岡実が編集を担当した《小学生全集》(1951年7月〜1957年11月)は50年以上前の児童書で、古書でもなかなか入手しにくいが、 今回は区立図書館経由で都立図書館の所蔵本を何冊か借り出して読むことができた。また、国立国会図書館の国際子ども図書館でも閲覧した。《ことばの学校》 の3刷本(1956年4月30日刊)の奥付裏広告を摘する。

筑摩書房の小学生全集 全百巻/既刊80 巻/前期五十巻を好評裡に完結した子供のための一大家庭図書自由分売

安倍能成・志賀直哉・中谷宇吉郎監修/小 学生全集後期50巻 A5判函入美本口絵挿絵豊富価190円

51 山の湖 坪田譲治/〔……〕/80  科学をすすめた人びと 小川豊

以下続刊として、巻数表示なしの19タイ トル20冊の書名・著者名が掲げられ、最後に「全巻目録進呈」とある。《小学生全集》全巻目録は未見だが、 おそらく吉岡の手になるものだろう。
●雨上がりの晴れた日曜の午前中のような清岡卓行の詩作品を全詩集で読みかえした。《日常》巻末の〈地球儀〉の「たとえば、春から夏への駈足の季節。池の ほとりに、柳の綿がふわふわ飛んでいるかと思うと、やがて、空いっぱいを黄色くして吹き荒れた蒙古風。それが過ぎ去ると、眼に痛いほど青く静まり返ってい た空。〔……〕雨は、その頃、激しく短かかった。濡れた赤煉瓦の家は、壁の色を渋く曇らせ、束の間の悲しみの表情をして見せた」という一節は、9年前の夏 に訪れた大連の街を私の裡に立ちあがらせる。思潮社の35周年のパーティ会場でただ一度お見かけした清岡さんは、大岡信さんと懐かしそうに話しこんでい た。《鰐》の同人には、吉岡・清岡・大岡と「岡」を姓にもつ詩人が3人もいたのだ。あとの二人は飯島・岩田と、ともに「い」で始まる姓である。
●《筑摩書房図書目録2008》は2007年12月現在在庫のある、文庫と新書を除いた図書の総目録だが、吉岡実の著書は掲載されていない。《土方巽頌 ――〈日記〉と〈引用〉に依る》と《吉岡実全詩集》はともかく、筑摩叢書の《「死児」という絵〔増補版〕》が入手できないというのは痛い。
●〈何でもランキング――光に映える夜桜の名所〉(《日本経済新聞》、2008年3月15日)のベスト10中2位に高遠城址公園(長野県伊那市)が入って いて、「同所の固有種「タカトオコヒガンザクラ」が約1500本。4月中旬以降2週間程度(日没から午後10時)」(〈NIKKEI プラス 1〉、s1面)とある。吉岡実は〈高遠の桜のころ〉(初出は《鷹》1976年4月号)で「宿にもどり入浴と夕食を早々にすませ、私と妻は夜桜見物に出かけ た。そして赤い雪洞の灯った野趣にみちた、芝居の書割りの世界へ入っていった」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二八〜二九ペー ジ)と書いている。
●ときどき無性に読みかえしたくなる本のひとつに、福永武彦《意中の文士たち[上・下]》がある。上巻(卓抜な鴎外論を収める)の〈序〉の一節にこうあ る。「なお諸家の引用文は、漢字は新漢字に改めたものの、仮名遣いは原文のまま歴史的仮名遣い(ルビを含めて)を踏襲してある。その漢字も、作家名や、題 名中に含まれる人名などは、正字を用いている。読むのにやや煩瑣かもしれないが、これも私の先人に対する敬意から出たことゆえ、読者諸氏の諒承を得たい」 (《鴎外・漱石・龍之介――意中の文士たち[上]〔講談社文芸文庫〕》(講 談社、1994年7月10日、八ページ)。肝心の書名のカモメが正字で表示できないのは腹立たしいかぎりだが、本サイトの表記の基本方針も福永のそれと同 じである(ただし福永は晩年、歴史的仮名遣いで執筆・発表した)。近年、ウェブだけでなく、印刷物で「芥川竜之介」だの「渋沢竜彦」だのを見かけるのは、 寒心に堪えない。


編集後記 64(2008年2月29日更新時〔2021年6月30日追記〕)

〈吉岡実とエズラ・パウンド〉西脇順三郎詩集の装丁について書いた。ちなみに新倉俊一訳《エズラ・パウンド詩集》(角川書店、1976)の「装幀・口絵」は西脇順三郎である。
●今年は1958年に《僧侶》が刊行されてからちょうど50年である。吉岡実は《僧侶》の後、《サフラン摘み》(1976)や《薬玉》(1983)などエポックをなす作を上梓したが、今でも吉岡の代表作としてこの詩集を挙げる人が多いのではあるまいか。これから《僧侶》についてじっくり考え、できることなら小型でもいいから〈吉岡実詩集《僧侶》評釈〉を書いてみたい。
●菊地信義《みんなの「生きる」をデザインしよう》(白水社、2007年3月10日)を読んだ。「二〇〇五年十月十九日、NHKで放映された「課外授業 ようこそ先輩」シリーズ、「自分の『生きる』を表紙にしよう」をもとに、大幅に加筆・修正したもの」(本書、〔二五四〕ページ)だが、テレビは見のがしていた。別丁本扉よりあとの本文ページに明朝体だけ使っているのは、著者自装である以上、「本体ではゴチックを用いない」という明確な主張である(ジャケットや本扉では、著者名・出版社名にゴチック系を使用)。菊地さんの《装幀談義》(筑摩書房、1986)は折に触れて読みかえす本だが、先日、古書店で文庫版を入手してまた読んでしまった。「〔……〕やっぱり本というのは、どこか品があって、格があって落ち着いて、そこに相対して心を澄ましてくれるような印象が、まず第一になければいけないと思うんです。それはなにも、いわゆる古めかしいという意味じゃなくて、常にその時代時代のなかにある視覚の環境のなかで、時代の流行を一方で意識しながら、結果として落ち着かせる方につくということだと思うんですね」(筑摩書房〔ちくま文庫〕、1990年4月24日、一八三ページ)からは、吉岡実がめざした「飽きのこない装丁」が想い起こされる。
●かわじもとたか編《装丁家で探す本――古書目録にみた装丁家たち》(杉並けやき出版、2007)は1000人を超える装丁家(装画の作者を含む)の装丁した書目を掲載した労作である。吉岡実の項には《液體》から巖谷國士《澁澤龍彦考》までの43冊が挙げられている(なお詩集《ポール・クレーの食卓》は《吉岡実書誌》にも書いたように、吉岡の装丁ではない。また三好達治句集《柿の花》が2度登場するのは重複カウント)。おそらく原本に当たっていないため、書目によっては刊行時期が不正確なのには眼をつぶるとしても、吉岡実の歿年を「平成11年・1999」(本書、三二一ページ)と誤っているのはいただけない。幸い全冊とも《吉岡実書誌》の〈装丁作品目録〉に掲載してあるので、かわじさんの書式(西暦と和暦の表示が混在しているうえ、刊行順でもないのはどうしたわけだろう)に則って、私なりにリスト化してみよう。

吉岡実(實) (詩人・装丁家 よしおかみのる 大正8年4月・1919〜平成2年5月・1990)

吉岡実『液體』 昭和16年12月 草蝉舎
吉岡実『静物』 昭和30年8月 私家版
吉岡実『魚藍』 昭和34年5月 私家版
太宰治『太宰治全集』 1955年10月〜 筑摩書房
村岡空『あいうえお』 昭和35年5月 世代社
壺井繁治『風船』限定500 1957年6月 筑摩書房
入沢康夫『詩集 古い土地』 昭和36年10月 梁山泊
吉岡実『詩集 紡錘形』 1962年9月 草蝉舎
石垣りん『詩集 表札など』 昭和43年12月 思潮社
西脇順三郎『西脇順三郎全集』全10巻 1971年3月〜 筑摩書房
宮澤賢治『校本 宮澤賢治全集』 昭和48年5月〜 筑摩書房
天澤退二郎『天澤退二郎詩集』 昭和47年2月 青土社
天澤退二郎『「評伝オルフェ」の試み』 昭和49年9月 書肆山田
川口澄子『待時間』300部 昭和49年6月 思潮社
草野心平『凹凸』 昭和49年10月 筑摩書房
吉岡実『異霊祭』101部 昭和49年7月 書肆山田
三好達治『詩集 百たびののち』680部 昭和50年7月 筑摩書房
宮川淳『引用の織物』 1975年3月 筑摩書房
吉岡実『サフラン摘み』 1976年9月 青土社
飯島耕一『ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩』 1976年3月 書肆山田
三好達治『句集 柿の花』500部 昭和51年6月 筑摩書房
壺井繁治『老齢詩抄』 昭和51年8月 八坂書房
吉岡実『詩集 神秘的な時代の詩』 昭和51年8月 書肆山田
前登志夫『歌集 繩文紀』 昭和52年11月 白玉書房
赤江瀑『海峡』 昭和58年8月 白水社
那珂太郎『定本那珂太郎詩集』限定980部 昭和53年7月 小沢書店
西脇順三郎『詩集 人類』1200部 昭和54年6月 筑摩書房
西脇順三郎『詩集 宝石の眠り』 昭和54年11月 花曜社
渡辺武信『詩集 過ぎゆく日々』昭和55年10月 矢立出版
大岡信『詩集 水府 みえないまち』 1981年7月  思潮社
澁澤龍彦『城――夢想と現実のモニュメント』 昭和56年11月 白水社
塚本邦雄『半島――成り剰れるものの悲劇』 1981年12月 白水社
中井英夫『墓地』 1981年10月 白水社
入沢康夫『死者たちの群がる風景』700部 昭和57年10月 河出書房新社
金井美恵子『花火』 1983年4月 書肆山田
皆川博子『壁――旅芝居殺人事件』 1984年9月 白水社
土方巽『病める舞姫』 昭和58年3月 白水社
谷田昌平『回想 戦後の文学』 昭和63年4月 筑摩書房
土方巽『美貌の青空』 1987年1月 筑摩書房
吉岡実『土方巽頌』 1987年9月 筑摩書房
巖谷國士『澁澤龍彦考』 平成2年2月 河出書房新社

若き日の吉岡実の友人で、早逝した吉田健男の装丁作品が7冊――小山清《落穂拾ひ》(筑摩書房、1953年6月10日)、武田泰淳《愛と誓い》(同、同年7月5日)、田宮虎彦《卯の花くたし》(同、1954年2月15日)、椎名麟三《自由の彼方で》(大日本雄弁会講談社、同年3月10日)、井上靖《昨日と明日の間》(朝日新聞社、同年4月10日)、小山清《小さな町》(筑摩書房、同年4月15日)、中野重治《むらぎも》(大日本雄弁会講談社、同年9月25日)――挙げてあるのは、まことにもってありがたい。「出版流通の動脈を握る大手取次でも、装丁の情報はデータベース化できない」(多田明〈本の販促、装丁家に着目〉、《日本経済新聞》2008年2月10日、19面)だけに、ジャケットなど表紙まわりの装丁・装画、中面の口絵・挿絵、そして本文のレイアウトを含む装本作家のデータベースが充実していくことを期待したい。
〔2021年6月30日追記〕
かわじもとたか編《続装丁家で探す本〔追補・訂正版〕》(杉並けやき出版、2018年6月20日)を見た。縦組右開き本だが、地から天に向かって行が並ぶ(通常の縦組本を左に90度回して読む)体裁で、巻末に通常の横組の〈装丁挿話〉という文章と〈装丁展ほか開催一覧〉というリストが逆ノンブルで載っている。後者はおそらくほかに類書がないだけに貴重だ。林哲夫さんが序文〈がかさがしがさがか〉を寄せていて、その一節にこうある。「二〇一七年の四月にもかわじ氏とお会いした。渋谷のウィリアムモリスというシックな画廊喫茶だった。小生はそこで「地獄の季節」と題したコラージュ展を開いていた。そこの女性店主は小生と同じ武蔵野美術大学の出身で、書物に関する展覧会も定期的に開催している。「地獄の季節」はその名の通り小林秀雄訳ランボオ『地獄の季節』初版本(白水社、昭和五年)をバラバラにし、本文頁一葉ごとにコラージュを施すという趣向の作品群だった。来場してくださったかわじ氏は「実は乃公はコラージュが好きなんだよ」と宣言され、「地獄の季節」シリーズとは別の、独立したコラージュ一点、お買い上げくださった。実はその作品が一番の自信作であった。失礼ながら、心ひそかに「この人、絵がわかるじゃない」と驚いたのである。しかし考えてみれば、これだけ画家や装丁本のことを熱心に蒐集・研究しておられるわけだから、相当に目が肥えておられて当然なのである。」(同書、二ページ)。私も同展を観ているのだが、かわじ氏とは別の日だったようだ。私が求めたコラージュは「地獄の季節」シリーズの、鰐を配した一点(〈編集後記 174〉参照)。なお、本書の〈吉岡実〉の項には「前著では没年の記載ミスあり。/前著で四一冊(二冊削除)挙げたが、小林一郎「吉岡実の詩の世界」の「編集後記64」(二〇〇八年二月二九日)で誤記を指摘をうけた。有難うございます。「装丁作品目録」が載っていて詳細はそちらを参照ください。一九四一年から一九九〇年までの一八〇冊の装丁書誌が載っている。今回は十七冊追加した。/古書目録で見たり買ったものについてここでは記載している。」(同書、四四一ページ)とあり、この〈編集後記〉や《吉岡実書誌》をご覧いただいたようだ。ありがたいことだ。


編集後記 63(2008年1月31日更新時)

《〈吉岡実〉を語る》に三好豊一 郎のことを書いた。三 好には「詩人が書いた伝説絵本」の〈絵本・どうぶつ伝説集〔全8巻〕〉シリーズの《かっぱの伝説》(すばる書房、1989)という一冊があって、画家の久 米宏一氏と組んで再話を担当してい る。本シリーズよりも時期的には早いが、1980年ころ吉岡実にも太田大八さんとの絵本(再話ではなくオリジナルか)という幻の企画があったと聞く。
●野村麻里編《作家の別腹――文豪の愛した東京・あの味〔光文社知恵の森文庫〕》(光 文社、2007年11月20日)の口絵に、吉岡実が〈ひるめし〉に書いた神田餃子屋の餃子がカラー写真で掲載されている。編者が〈ひがな一日、神保町で過 ごす〉で吉岡が本篇を書いたのは「40年近く前」としているのは、初出が1977年だから、「30年前」だろう。「吉岡実と餃子」であれば、 moondialさんの〈吉 岡実と餃子ライス〉を ぜひ併読されたい。道玄坂・トップで吉岡さんとコーヒーを飲んでいるうち想わず話が長びき、「何か食べる?」と誘っていただいたことがある。大詩人を前に して食事が喉を通るはずもなく、遠慮するしかなかったが、あのとき「餃子ライス」でも、「《喜楽》(渋谷・道玄坂)の野菜のたっぷり入ったもやしそば」 (秋元幸人さんの《吉岡実と森茉莉と》による)でもご一緒しておけばよかった、と今にして思う。
●白石かずこ《詩の風景・詩人の肖像》(書 肆山田、2007年11月10日)には、内外15の詩人のひとりとして吉岡実が登場する。そこで引用されている作品(抄録を含む)は「微熱ある……」(1 句)、〈僧 侶〉、〈風景〉(A・19)、〈挽歌〉(B・12)、〈苦力〉、〈聖家族〉、〈死児〉、〈老人頌〉、〈紡錘形T〉、〈呪婚歌〉、〈劇のためのト 書の試み〉、〈馬・春の絵〉、〈わが馬ニコルスの思い出〉、〈夢のアステリスク〉、〈裸子植物〉、〈青枝篇〉、〈薬玉〉、〈産霊(むすび)〉、「灰皿 に……」(1首)の各篇で、《サフラン摘み》からの引用がなく、「馬」をめぐる詩篇の多いことが注目される。白石さんの新著は、詩人論・人物論としてもア ンソロジーとしても重厚な一冊である。
●小説家の古川日出男氏は「2006年に入って「朗読ギグ」と呼ばれる自作の音読イベントを積極的に行って」(《Wikipedia》)いるが、《新潮》 2008年1月号特別付録CD の《詩聖/詩声――日本近現代名詩選》で、吉岡の雄篇〈わが馬ニコルスの思い出〉を朗読している。これは聴き物である。
●古書 落穂舎が《日本の古本屋》に吉岡実の詩集《紡錘形》を出品している。なんと「福永武彦宛献呈署名」入りである。家から近いので見に行きたいところだが、通 信販売専門店なので手に取れないのが残念だ。目録に曰く「紡錘形 詩集/吉岡 實、草蝉舎、昭37/限定400部〈福永武彦宛献呈署名〉初版函/古書 落穂舎  95,000円」。福永は筑摩書房から1960年に《古典日本文学全集〔第1巻〕》の〈古代歌謡〉を、翌年に《同〔第18巻〕》の〈お伽草子〉 3篇を訳している (装丁は庫田叕)。《新選現代日本文学全集〔第32巻〕》(1960、装丁は恩地孝四郎・恩地邦郎)には短篇〈世界の終り〉を収録してい るが、単独の著書はないから、吉岡とは小説家と詩人の関係だろう。《廃市》(1984)を撮った大林宣彦さんから、ともに成城に住んでいながら、敬愛する 福永とはついに会わなかった、と成城のご自宅でうかがったことがある。吉岡さんに、福永と面識があったかは訊きもらした(福永武彦が活字のうえで吉岡実に 触れたことはない)。


編集後記 62(2007年12月31日更新時)

●12月に入ってから、5周年(11月 30日)時点の本サイトを全ページ、プリントアウトした。なにげなく見ていたら、開設時に活字文字認識ソフト を使って印刷物からデータ化した原稿に誤植を見つけた。恥を忍んで書けば、《吉 岡実書誌》の一節 で「青土社」が「青士社」になっていたのである(今回の更新で修正した)。手でタイプした原稿なら、こんなことは絶対に起こりえないのだが。
●西崎憲編訳《エドガー・アラン・ポー短篇集〔ちくま文庫〕》(筑 摩書房、2007年5月10日)を読んだ。編訳者の解説に「〔「当惑[デイスタービング]」〕はポーの作品の普遍性を支えているのではないだろうか。なぜ なら、ポーの作品同様、人間にも恒久的な納得や結論は存在しないからであり、当惑しつづける存在だからである」(〈熱と虚無――エドガー・アラン・ポーと は何か〉、同書、二八五ページ)とあるのは、吉岡実の散文に見られるあの「当惑してしまう」を想わせて、興味深い。
●黒岩比佐子《編集者 国木田独歩の時代〔角川選書〕》(角 川書店、2007年12月10日)を読んだ。独歩といえば小説家という認識しかなかったが、本書の描く独歩の姿はまさしく雑誌の編集長のそれで(日本初の 本格的なグラフ誌《東洋画報》〜《近事画報》のほか、数誌を「同時に」手がけた超人!)、印刷メディアを生業とする文筆家の姿が活写されている。黒岩さん の調査は周到で、明治時代に疎い人間にもいろいろな連想を許すインデックスのような一冊になっている(装丁家・吉岡実を考えるためのヒントも多い)。参考 文献一覧、略年譜、人名索引の後付も充実している。
●最近まで、画像(JPEGファイル)は細部がよく見えるように、解像度の高いやや大きめの容量で作成していた。しかし、サイト開設以来5年が経過して点 数が300以上となり、画像フォルダ全体の容量も限界に近づいてきた。かくなるうえは、なるべく解像度を保ちつつ、既存の画像を軽くしたものに差し替える ことにした。今後も、吉岡実装丁作品の書影を中心とした掲載画像は、解像度よりも点数を優先する旨、ご理解いただきたい。なお、容量問題に対処するため、 急遽《〈吉岡実〉 の「本」》を別のサイト、ikobaならぬmikobaに移行することにした(万一、リンクに不具合があれば、早急に手直しした い)。いい機会な ので、ついでに写真のキャプションまわりの整理統一も行なった。
●12月10日、レッド・ツェッペリンが再結成された(ロンドンはO2アリーナでの〈アーメット・アーティガン追悼コンサート〉)。私はツェッペリンのス テージを1971年の初来日と翌年の再来日の2度、観ている。初来日当時まだ珍しかったブートレグ(前にも書いた《Live on Blueberry Hill》) を聴きこんで初日に臨んだものの、なんの役にも立たなかった。F#のリフとあの雄叫びで〈移民の歌〉が始まった瞬間、すべてはぶっとんだ。渋谷陽一氏が言 うように、日本武道館の空間にマジックをかけることができたのはレッド・ツェッペリン(それも最盛期の)だけだったかもしれない。思い入れが強いだけに、 今回の一夜限りのパフォーマンスがどうだったのか気懸りである(2度のアンコールを含め全16曲を披露)。しばらくは、リリースされたばかりのCD《永遠の詩(狂熱のライヴ)〜最強盤》で なければ、ウイグルの歌かウズベクの音楽でも聴いて、心静かに過ごそう。――「ミック・ジャガーは〔……〕、アーティガンがレッド・ツェッペリンのような グループに興味を示したことは理解できるという。レッド・ツェッペリンも、基本的には「ブルース・ファン」だったからだ」(D・ウェイド、J・ピカー ディー著、林田ひめじ訳《アトランティック・レコード物語》、早川書房、1992年6月30日、二八四ページ)。アーメット・アー ティガンはツェッペリンが所属したアトランティック・レコードの創設者である。


編集後記 61(2007年11月30日更新時)

●《吉岡実の詩の世界》を開設して丸5年 が経過した。閲覧していただいた方に改めて御礼申しあげる。本サイトの現状をご報告しておこう。開設時の総ページ数 (A4での印刷換算)は約139ページだったが、1年後には約243ページとほぼ1.7倍、2年後は約341ページで開設時の2.5倍、3年後は約474 ページで同3.4倍、4年後は 約693ページで同5.0倍、5年後の現在は約803ページで開設時のほぼ5.8倍となっている。この5月には、完成に4半 世紀を要した《吉 岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈》を擱筆した。10月末にはアクセスカウンターの数値が20000を超えた。今後とも吉岡実と〈吉 岡実〉に関す る新稿の掲載、既存情報の補綴に努めていきたい。
●秋元幸人さんの随筆集《吉岡実と森茉莉 と》(思潮社、2007年10月25日)が刊行 された。装丁、とりわけジャケットの美しさに感じいった(堀辰雄や瀧口修造の造本を彷彿させる)。本書は、折りに触れてこ の《編集後記》に感想を綴った吉岡実関連の3篇と森茉莉関連の3篇(〈森 茉莉と吉岡実〉を 含む)と〈小説西脇先生訪問記〉から成る。〈小説……〉は初読だったが、「先生は間もなく八十五歳になられるというのに、お元気で先客の久我青年と、西欧 の或る哲学者の言葉を、旧い書物で調べておられた」という吉岡の随想の一節を想起した。吉岡ファン必読の新刊である。
●本サイトでも西脇順三郎関連の記事が重なった。〈吉 岡実と西脇順三 郎〉と《詩學》を取りあげた〈吉 岡実の装丁作品(50)〉である。吉岡の〈西脇順三郎アラベスク〔(追悼)〕〉を巻末に収めた《西脇順三郎コレクション〔第6巻〕》 (慶應義塾大学出版会、2007年11月10日)の刊行を機に、西脇順 三郎と吉岡実の浅からぬ縁をたどってみた(新倉俊一さんの《西脇順三郎 絵画的旅》も同所から同日刊行)。いつの日か、DTPで《西脇順三郎アラベスク》私家限定1部 本を造ってみたい。
●前衛芸術家の風倉匠氏が去る11月13日、71歳で亡くなった。吉岡は《土方巽頌》に「私のまさしく知らないこの〔「実験的な舞台上の行為と、舞踏の試 み」の〕時代の土方巽と舞台の状況を、関係者や友人そして支持者たちの証言で綴ってみよう」(〈64 暗黒舞踏派宣言前後〉)と書いて、市川雅の文章を引 くことで、土方巽がソロで踊って風倉氏の胸に真赤な焼鏝を当てた〈敗戦記念晩餐会〉(国立市公民館、1962年8月)の舞台を紹介している。
●11月の毎週火曜日、NHK教育テレビの《〔NHK知るを楽しむ〕私のこだわり人物伝》で4回にわたって《澁澤龍彦 眼の宇宙》が放映された。四谷シモ ン・金子國義・細江英公・巖谷國士の4氏がこの「偏愛≠フ作家」を語るのが番組の趣向である。各氏の談話以外で興味深かったのは、写真では充分すぎるほ ど露出している澁澤邸内部の映像で、銀座・青木画廊の青木外司氏の話も面白かった(氏には、吉岡実詩の初出探索の際にお世話になった)。四谷・金子・細 江・巖谷4氏の談話は、放送ではエッセンスしか使用されないので、全貌を知りたい向きは日本放送出版協会発行のテキストを読むに如くはない。
●高校時代の仲間の一人が近年テナーサックスに身を入れているのだが、11月25日、BlueStonesと いうローリング・ストーンズのカバーバンドでステージデビューした(バンド自体も初のコンサート)。本家のストーンズは4人編成だが、 BlueStonesは総勢8名と ライヴ向きである。〈ブラウン・シュガー〉からアンコールの〈ジャンピン・ジャック・フラッシュ〉まで全22曲、疾走し てたね、Kaho!


編集後記 60(2007年10月31日更新時)

〈随想〈学舎喪失〉のこと〉を執 筆するに際して、戦前 の東京市本所区を地図で調べた。地形社編《〔昭和十六年〕大東京区分図三十五区之内本所区詳細図》(日本統制地図、1941年5月15日)の復刻地図(昭 和礼文社、〔1994年12月〕)や《古地図・現代図で歩く 戦前 昭和東京散歩〔古地図ライブラリー別冊〕》(人文社、2004年1月)で当時 と現在を重ねあわせてみると、戦災で壊滅的な被害を受けた本所も、想いのほか昔日の街並みを残しているように感じられるが、どうだろうか。
《吉 岡実の装丁作品(49)》に 宮川淳の本のことを書くため、《美術史とその言説[ディスクール]》を読んだ。三晃印刷による本文9ポの活版印刷が見事だ(ノドのアキが狭いので、本文版 面を1行くらい小口側にずらしたい)。もっとも、8ポ組みの〈書誌〉に付した長文の註が7ポというのは、いくらなんでも小さすぎないか。読みづらいのは当 方の眼の加齢のせいだけではないだろう。
●土方巽の資料を集成したウェブサイト《土方巽 アーカイヴ》で「吉岡実」を検索すると、45件がヒットする。未見の資料もあったので、図書館などで 調査して《吉岡実参考文献目録》に記載した。
●《サフラン摘み》の2刷(奥付の表示は「再 版」、1976年10月15日発行)を古書で入手した。初版発行半月後の増刷は、本書の好評を伝えて余りある(帯は無かったが、初版 の帯文と同じだったのではあるまいか)。あとは5刷を帯付きで入手したい。インターネットで検索すると5刷は「1977年3月30日発行」とあるから、こ れが正しいなら4刷(2月20日発行)の翌月で、高見順賞受賞の反響がいかに大きかったかが窺われる。ふだん読む《サフラン摘み》は4刷本で、1977年 ころ西武新宿線・都立家政駅前にあった実用書やベストセラー小説が並ぶ間口一間の古本屋で手に入れた。話題の詩集を買ってはみたもののろくろく読まずに手 放したのか、美本だった。ちなみに初版は、高田馬場のビッグボックス2階にあった三省堂書店で刊行日に購入した。
●マシュー・パール著、鈴木恵訳《ポー・シャドウ(上・下)〔新潮文庫〕》(新 潮社、2007年10月1日)を読んだ。その帯文に曰く「わたしが真相を暴く――エドガー・A・ポーの「最後の五日間」に肉薄! 『ダンテ・クラブ』につ づく歴史スリラー巨編」、「わたしに危険が迫る――いま明かされる恐るべき策謀! 米文学史上最大の謎に用意された驚愕の大団円」。エドガー・ポーとくれ ば、BGMはもちろんアラン・パーソンズ・プロジェクト(APP)の《怪奇と幻想の物語――エドガー・アラン・ポーの世界》、いやむしろAPP を去ってなお「APPの音世界」を 紡ぎつづける相方エリック・ウールフソンによる《Poe―More Tales of Mystery and Imagination》だ。
●秋元幸人さんの随筆集《吉岡実と森茉莉と》(思潮社)の予告が《現代詩手帖》11月号に掲載されている。《吉岡実アラベスク》(書肆山田、2002)以 来5年ぶりの新著だけに、刊行が待たれる。
●さる10月29日、アクセスカウンターの数値が20000を超えた。訪問者の方方に深く感謝する。本サイトは来月で6周年を迎えるので、なにか記念にな る記事をアップしたいと思う。


編集後記 59(2007年9月30日更新時)

●吉岡実の談話を新たに発見した。《映画 芸術》(1969年3月号)の〈今月の作家論〉(鈴木志郎康執筆の足立正生論との二本立て)に寄せた〈純粋 と混沌――大和屋竺と新しい作家たち〉である。いずれ〈吉岡実と映画〉というテーマの文章で触れることができれば、と思う。
●前回の《アラビアンナイト》つながりで、リチャード・バートン関連の本を調べた。藤野幸雄《探検家リチャード・バートン〔新潮選書〕》(新潮社、 1986)の、レーン版・ペイン版・バートン版の本文 (日本語訳)を比較した箇所が〈吉岡実と 《アラビアンナイト》〉で 引用した箇所と同じだったのには驚いた。藤野氏の本を先に読んでいたら、違う訳文ながら、引くのを躊躇したかもしれない。バートンといえば、ジョン・ダニ ング著、宮脇孝雄訳の小説《失われし書庫〔ハヤカワ・ミステリ文庫〕》(早川書房、2004)の〈バートンとチャーリー〉(作者はここ が書きたかったに違いない)も想い出される。
●ブログ《daily-sumus》で 林哲夫さんが〈通俗三国志〉、〈昏睡季節〉、〈棗の木の下〉((9月14日〜16日)、〈誰がジャズを殺したか〉(9月18日)、そして〈昏睡季節〉(9 月21日)と5回にわたって 吉岡の《昏睡季節》に触れている(私もコピーなどの資料を提供した)。一冊の古書をめぐって、これだけの証言が集まるのは壮観 と言うしかない。それにしても、近年の《昏睡季節》の価格の高騰には目を瞠るものがある(落札価格が200万円とは!)。現代詩集の古書価では最高値か。
《吉岡実書誌》の 全著書・全編纂書の解題を書きおえたので、題名に付した「追記」執筆年月日(2004年5月31日〜2007年8月31日)を削除した。私の作業メモのよ うなものだったからだ。今後は吉岡実の新著が出た時点で(いつ?)、逐次〈書誌〉と〈解題〉を執筆・掲載することにしよう。
●グラフィックデザイナーの松田行正さんの著書にはレッド・ツェッペリンがよく出てくる。《眼の冒険――デザインの道具箱》(紀伊國屋書店、2005)に は4枚めの アルバムのシンボルマークと《イン・スルー・ジ・アウトドア》の全6種類のジャケット写真が、《はじまりの物語――デザインの視線》 (同、2007)には《プレゼンス》のジャケット に登場するオブジェへの言及とともに「事務所にあるツェッペリン御用達のオブジェ」(323/1000番)の写 真が掲載されている。数年前、インタビュー取材で松田さんのオフィスを訪ねたときは、ペイズリー仕上げのテレキャスターしか眼に入らなかったが。
●いっしょにバンドをやっている高校時代の友人が北京に赴任するので、大山甲日《大ザッパ論――20世紀鬼才音楽家の全体像》(工 作舎、1998)を贈った。私は友人ほどザッパの音楽に詳しくないのだが、20世紀のポピュラー音楽はマイルス・デイヴィスとフランク・ザッパとザ・ビー トルズがあれば充分ではないか、と想うことがある。ところで、本書の題名のヨミはNDL-OPACのように「ダイ ザッパ ロン」であって、紀伊國屋書店のように「オオザッパロン」ではない。大雑把論!


編集後記 58(2007年8月31日更新時)

●西尾哲夫《アラビアンナイト――文明の はざまに生まれた物語〔岩波新書〕》(岩波書店、2007)はこの物語集の文明 史的な意味を考察した一書だが、物語集の書誌(解題)としても読める。本書によれば〈吉岡実と《アラビアンナイト》〉で 触れた中央公論社版《千夜一 夜》の詩は、大木篤夫の翻訳だという(訳詞は《千夜一夜詩集――アラビアン・ナイトより》として春陽堂から1931年刊)。
《美貌の青空》解題を 執筆した。吉岡実は「その土方巽の遺文集『美貌の青空』の刊行準備に参画し、出版社も筑摩書房に決まり、肩の荷もおりた。昨〔1986〕年の春のことであ る」(《土方巽頌》、筑摩書房、1987、二四〇ページ)と自著のあとがきで振りかえり、土方の一周忌に合わせて刊行された《美貌の青空》がなによりの供 養だと記している。
●長谷部史親《欧米推理小説翻訳史〔日本推理作家協会賞受賞作全集72〕》(双 葉社、2007年6月20日)が双葉文庫で出たのを機に、初めて読んだ(元本は1992年、本の雑誌社刊)。クロフツの《樽》について知りたかったからだ が、貴重な写真も多く掲載されていて、見ても楽しい本である。ちなみに本書に登場するエドガー・ウォーレスの《黄水仙事件》(尖端閣、1931)の訳者・ 吉田甲子太郎[きねたろう](1894〜1957)は、太田大八さんによれば吉田健男の伯父/叔父とのこと だ。吉田甲子太郎はアンブローズ・ビ アスの〈空に浮かぶ騎士〉を訳していて、太田さんが銅版画のような挿絵を描いている(《野ばら ほか〔光村ライブラリー第12巻〕》、光村図書出版、2002、に所収)。
●迂闊なことについ最近、成毛滋氏の逝去(享年60)を知った。ナルモ・シゲルは私が最も敬愛するわが国のロックギタリストである(グレコの教則用カセッ トが家のどこかにあるはずだ)。つのだひろ(ds)、高中マサヨシ(b)を従えたFlied Eggの《Dr. SIEGEL'S FRIED EGG SHOOTING MACHINE》(PHILIPS、 1972)を 聴いて成毛滋を偲んだ。そのギターとオルガンが縦横に駆けめぐるラストナンバー、〈Guide Me to the Quietness〉が弔歌のように響いた。ナルモサウンドよ、永遠に!


編集後記 57(2007年7月31日更新時)

〈リュシアン・クートーと二篇の吉岡実詩〉を 書いた。書籍や雑誌は国立国会図書館で、個展の図録は東京国立近代美術館のアートライブラリで閲覧したが、《クートー新作展》(〔日動画廊・毎日新聞 社〕、1963)は本稿のためにインターネット経由で山田書店から入手した。吉岡実が詩篇〈模写――或はクートの絵から〉(E・4)を執筆するに当たって 参看したかもしれない冊子である。
●吉岡実の詩稿〈聖少女〉(F・10)が7月13日から16日までYahoo!オークションに出ていた(出品者はui2437)。詩稿は印刷用原稿に違い ないものの、オークションの説明文「吉岡実自筆原稿」は誤りで、常のごとく吉岡陽子夫人の手になるものである。これは先年、森井書店が〈日本の古本屋〉に 売価262,500円で出品していた詩稿で、今回の落札価格は75,100円(落札者はmugenndo)。オークション用の写真が2点公開されていたの で、前掲森井書店の画像と並べて〈吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈〉の〈聖 少女〉の評釈に 掲載させていただいた。赤で折り返しの指定の入った詩稿(第一葉の、しかも一部分しか読めない)と雑誌(《小説新潮》1969年11月号)掲載形とに異同 はない。吉岡実詩の印刷用原稿形、初出掲載形、詩集収録形(あるいは全詩集収録形)間の校異は、来るべき《吉岡実全集》において公表されることが切に望ま れる。
●土方巽《美貌の青空》の解題は来月になる。今月は収録文の全標題をアップするにとどまった。


編集後記 56(2007年6月30日更新時)

●今回、図らずも《高柳重信全句集》の装丁についてと《高柳重信全集》解題を同時に執筆することになった(この機会に同全集の書影と〔内容〕を修正した)。前にもどこかに書いたが、一度だけ高柳重信の姿を見たことがある。塚本邦雄の書の展覧会場(東京・赤坂の銀花ギャラリー)でのことだ。その塚本の第一歌集《水葬物語》(メトード社、1951)は、著者自身の要望で、高柳の第一句集《蕗子》(東京太陽系社、1950)と同じ和装本(製本は俳人でもある池上浩山人)となった。
●吉岡実が引用している茂吉の歌の表記を確かめるため、所蔵の岩波文庫版《斎藤茂吉歌集》を探していたら、思いがけず別の本を見つけた。山下諭一《禁断の絵本――幻想と美と陶酔と〔ベストセラーシリーズ〕》(ベストセラーズ、1970年5月1日)だ。デルヴォー、ブリジョー(吉岡は詩で「ブリジオ」と記している)、ラビス、キスリング、グラヴロール、スワンベルグ、トゥルイユ、フィニ(本書のジャケットもフィニ)、マッソン、カピレッティ、ゴッホ、D・H・ローレンス、マルティニ、ダリ、ロプス、レイス、グライナー、リンゼイ、ドゥロウィン、ビアズリー、ベルメル、ディディエ・モロー、デューケ、ルブラン、カウルバッハ、ビュッフェ、バルサス、フラゴナール、リーズナー、ワイルド、ローランドスン、ルネイン、グロッス、アンチンボルディ、レンブラント、ギルレイ、ロダン、マチス、マグリット、ビター、ミレ、シャガール、ボンドゥイン、リディス、トレモア、ジュベル(表記は原文のママ)といった有名な画家から当方のよく知らないイラストレーターまでの絵画が、1970年代的なオフセット印刷で再現されている。M・W・スワーンベリやクロヴィス・トルイユがカラーで登場するのも嬉しい。
●本サイトは吉岡実の個人書誌を中心に、その著作と装丁作品に関するコメントで構成されているが、ある年刊誌に紹介文〈個人書誌《吉岡実の詩の世界》をwebサイトにつくる〉を書いて、自分の営みを振りかえる機会があった。拙文が掲載されたら、改めてお知らせしよう。
●このところ必要があって、よく《日本の古本屋》で古書を検索する。ついでに吉岡実の著書を調べるのだが、不思議に思うことがある。《サフラン摘み》は1976年9月30日の初版から79年10月30日の6刷(奥付の表示は「六版」)まで9,000部発行されただけあって、吉岡の単行詩集ではいちばんよく見かける。ところがこの2刷(1976年の12月までには出ているはず)と5刷(4刷が77年2月20日だから、78年か)を探すと見つからないのだ。初版は麗麗しく表示されるが、2刷以降は「重版」と一括りされることが多いから、刊行年月でアタリをつけるしかない。発行当時の値段(1,800円)よりも安くて帯付きなら(そう、帯文の変遷を調べているのだ)、購入してもいいと思っている。
●武蔵野音楽大学に所用があって、久しぶりに江古田の町を自転車で走った。このあたりは武蔵大学や日本大学藝術学部のある地域だが、吉岡実がその夏に《静物》を刊行する1955年、「麻布豊岡町の下宿を出て練馬の太田大八宅に近い江古田に間借」(吉岡陽子編〈年譜〉、《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996、七九四ページ)した場所として記憶される。


編集後記 55(2007年5月31日更新時)

●5月31日の祥月命日、巣鴨・真性寺の吉岡実の墓に詣でて、1983年に起筆した《吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈》の完成を報告した(400字詰原稿用紙換算で約1200枚)。WPやPC、インターネットなかりせば、今日のような形でまとめることはとうてい不可能だった。また図書館のOPACは、調べ物をする人間には画期的なシステムの登場だった。本評釈は、吉岡実という分光器を通した一個人の読書記録でもある。この稀有の詩人に、心からなる感謝を捧げる。
●河原枇杷男さんや中村苑子氏の文に吉岡実が登場するのを読みかえしつつ、《現代俳句案内》解題を執筆した。家蔵本が書庫で紛れてしまったため図書館から借りだした一本は、本書の親本ともいえる《現代俳句全集》(家蔵本は函に収納)よりも本文用紙の焼けが甚だしかった。
●ビートルズの楽曲を調べていたら、佐藤良明《ビートルズとは何だったのか》(みすず書房、2006)に『ペパー軍曹のロンリー・ハーツ倶楽部楽団』(同書、二七ページ)と出てきたので、うれしくなった。もちろん《サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド》のことだ(ちなみに明日6月1日は、1967年にこのアルバムが発表されて、満40年の記念すべき日だ)。この本の終わりにボブ・ディランが登場する。ディランは昔から唄声が苦手で敬遠してきたが、勉強のつもりでCDをまとめて聴いた。なんだ、ディランってギター1本でロックするジミ・ヘンドリックスと同じじゃないか。そのヘンドリックスが歌いはじめたのはディランを聴いたのがきっかけらしいが、モンタレーのライヴでは〈Like a Rolling Stone〉をカヴァーしていて、エレクトリックギターによる最高のバッキング――とりわけ岩塊のようなイントロのコードストローク――を聴かせる。死の直前のワイト島でもディランの〈All Along the Watchtower〉を取りあげていて、私は《Electric Ladyland》のスタジオテイクよりもこのライヴの方が――とくに天翔けるギターソロが――好きだ。
●心覚えのために、毎月の更新作業のあらましを記しておく。本サイトをお読みの方はおわかりだろうが、毎月必ず新規原稿を掲載するのは最初の《〈吉岡実〉を語る》と次の《〈吉岡実〉の「本」》のふたつだ(付随して《編集後記》と《サイトマップ》も必ず追加・更新する)。新規原稿は毎月末のアップ時ぎりぎりまであれこれと手直ししているので、実際の執筆はアップの当月初旬から開始することになる。テーマはその場で決めることもあるが、いつも携行しているA6判のスパイラルノートに書きこんだ企画から選ぶことが多い。完全にフリーハンドな記事も、同時に執筆するほかの記事とどこかで関連してくるから不思議だ。出典の確認は、所蔵の資料で間に合わない場合は近隣の公共図書館を利用するか、国立国会図書館に出向いて行なう。国会図書館では原稿=校正紙のほか、事前にNDL-OPACで検索した結果をプリントしておいて、資料を実見した際の抜き書き(短文の照合ではコピーをとらない)やスケッチ(装丁やレイアウトのポイントもメモですませる)をそれに記入する。初見の資料は、表紙・目次・本文(必要部分)・奥付をもれなくコピーする。必要部分だけをコピーすると、後で後悔することが多いからだ。こうした資料をもとに執筆する際には、自分が読者として初めて読む状態を想定する。その工程を要するに、専門誌《月刊吉岡実》の編集・発行人兼執筆者兼撮影者兼編集者兼校正者兼組版者兼製版者兼印刷者兼配布者をやっているようなものだ(インターネットやブログしか知らない人に、こんな説明で通じるだろうか)。


編集後記 54(2007年4月30日更新時)

●《〈吉岡実〉を語る》の〈吉岡実の視聴覚資料(1)〉に 追記を書いた。執筆するために久しぶりに《日曜美術館》の〈幻想の王国――澁澤龍彦の宇宙〉の録画を見たが、ケーブルテレビから録ったものだったので想い のほか鮮明だった。ビデオテープの前の部分には同番組のバルテュス特集も入っているのだが、こちらは自宅のアンテナで受信したため憐れなまでの画質であ る。
吉岡実詩 集《神秘的な時代の詩》評釈の組体裁を若干改めた。すなわち行頭を一字下げにして年号を漢字表記にしたほか、題辞のない章(サイトに 書き下ろした5章)にエピグラフを 据えた。終章を執筆するために掲載分を読んでいたら、こまごまと直したいところが出てきたのだ。
《鑑賞現代俳句全集》解題を 執筆した(「高野素十」といえば、 吉岡から架蔵の素十句集《初鴉》を贈られた、と小澤實さんが《俳壇》2006年12月号に書いている)。解題と同じ《吉岡実書誌》の〈主要作品収録書目 録〉には、吉岡実詩を初めて収録した《アンソロジー抒情 詩》のジャケット写真が 掲載できた(初刷の刊記を確認するため、古書で購入したもの)。
●和田能卓編《時の形見に――福永武彦研究論集》(白地社、2005)には、資料として福永自筆の稿本詩集《MOURIR JEUNE》(1942)が写真版で掲載されている。その原本が〈玉英堂書店 福永武彦詩稿〉と して出品中で、6見開き10ページ分がカラー写真で見られる。価格は1,500,000円。説明には「『MOURIR JEUNE POESIE 1942』 ペン200字詰63頁(31枚)完 小型ノート仕立 拵帙入」とある。稿本が現存することもさることながら、入手可能なのが驚きである。吉岡実自筆の詩集《静物》稿本(日 本近代文学館所蔵)も、カラーで 再現した影印本が待望される。
●森本レオ朗読《マラルメ詩集》(加藤美雄訳)・岡本富士太朗読《アポリネール詩集》(飯島耕一訳)というカップリングのCD(〔サウンド文学館・パルナ ス36〕、日本コロムビア発売、1995)を聴いた。たまたま近くの公共図書館に寄贈されていたのだが、シリーズがあることすら知らなかった。インター ネットやOPACで検索してもシリーズの全体像がよくつかめない。こうしたCDこそ、全貌を簡潔に記述した書誌(録音データ)が必要だろう。
●西脇順三郎歿後25年を記念して、慶應義塾大学出版会から新倉俊一編《西脇順三郎コレクション〔全6巻〕》が刊行される(2007年5月〜10月)。最 終巻の随筆集には「回想の西脇順三郎」として吉岡実の〈西脇順三郎アラベスク〉が予告されている(13篇すべてが載録されるといいのだが)。秋元幸人さん からは、《吉岡実アラベスク》(書肆山田、2002)に続く吉岡関連の本を今夏刊行の予定だとご連絡いただいた。どち らも愉しみでならない。
●来月5月31日は、吉岡実の17度めの祥月命日だ。なにか記念になる文章がアップできればいいのだが、構想・作業ともすべてこれからである。


編集後記 53(2007年3月31日更新時)

●《〈吉岡実〉を語る》はそのときどきで 自由にテーマを設定して、原稿分量もとくに制限しないで、気ままに書いている。通常は月に1本執筆している が、今回は〈吉岡実のスクラップブック (2)〉〈詩篇 〈斑猫〉の手入れ稿〉の2本立てになった。続けて読まれる 方には、どうかこの順番でお読みいただけるとありがたい(2篇に分れてはいるが、一連の内容として書いたので)。
《現代俳句全集》解題を 執筆した。本全集は持ち重りがせず、内容の清新さとも相俟って、手にする者に軽快な感じを与える。久しぶりに書棚から引っぱり出してみたが、グレーの函の 色も刊行当時とたいして変わっておらず、30年前のものとは思えない。第1回配本の《月報T》〈編集室より〉には「伝統・前衛に片寄ることなく、戦後俳句 の成果を集大成しようとするのが本企画のねらいです。現代俳句というものを根本的に見つめてみたいという願いから、詩人・作家等に解説をお願いしました」 と本全集の編集方針が記されている。
●野村喜和夫さんが長文の吉岡実論を書いている(〈吉岡実〉、飛高隆夫・野山嘉正編《展望 現代の詩歌 第2巻 詩U》所収、明治書院、2007年2月25日)。〈1 人と生涯〉〈2 詩の鑑賞〉〈3 参考資料〉の三部構成は本書の統一フォーマットで、〈1〉は「生 誕から詩に目覚めるまで」「戦争のさなかの青春」「戦後詩への登場と第一のピーク」「模索と停滞」「転回と第二のピーク」「豊かな晩期」から成り、〈2〉 は「1 前史」「2 卵の出現」「3 超現実」「4 想像力は死んだ、想像せよ」「5 詩的ガイネーシス」から成る。〈2〉では詩篇として〈静物〉(B・ 1)、〈卵〉(B・7)、〈過 去〉(B・17)、〈僧侶〉(C・8)〔部分〕、〈サフラン摘み〉(G・1)〔部分〕、〈薬玉〉(J・10)〔部分〕、〈青 海波〉(J・19)〔部分〕、〈〔食母〕頌〉(K・19)〔部分〕を引用し、鑑賞している。書籍として看過できない固有名の誤植や鑑賞詩篇の掲示方法に不 満が残るものの、野村さんらしい簡にして要を得た吉岡実詩の案内となっている(縦組みにふさわしい数字表記に改変して、単独の冊子を作りたいくらいだ)。
●中野三敏《写楽――江戸人としての実像〔中公新書〕》(中 央公論新社、2007)を読んだ。なかでも、42ページにわたる《江戸方角分[ほうがくわけ]》の考証は、私のような者にとっては熟読に値する(ここを読 みこんでこそ、氏の「大団円」のことばが身に沁みるというものである)。ずいぶん前になるが、東洲斎写楽の全錦絵をCD-ROMに収載して閲覧できるコン テンツを立案したことがあった。ご多分にもれず、「写楽誰それ説」の項目を企画書に書きこんだ。CD-ROMは実現しなかったが、「写楽は写楽だ」と啖呵 のひとつも切れなかったことが、不甲斐なくも、悔やまれる。地下鉄日比谷線で八丁堀の駅を通るたびに、そう思う。
●本サイト開設(2002年)と同じ年に入会したスイミングクラブが、この3月末で閉鎖されることになった。毎週1回60分の水泳教室だったが(曲がりな りにもバタフライが泳げるようになった)、雑念なく過ごせる貴重な時間だった。ありがとう、シーホース!


編集後記 52(2007年2月28日更新時)

玉英堂書店のサイトに 吉岡実の詩稿〈螺旋形〉(H・10、63行《海》〔中央公論社〕1977年5月号〔9巻5号〕掲載)が出ている。「No. 28536 吉岡実草稿/4枚 価格: 100,000円/『螺旋形』 ペン640字詰完」とあり、詩稿の1枚め(標題、署名、本文15行めまで)がカラーの写真版で掲載されている。原稿は常のごとく陽子夫人の手になるもの で、文字の修正部分は最初に筆記したブルーブラックのペンで抹消されていて読みとれない。そこからは「形式」(3行め)と「なかは」(4行め)が修正され て現行のようになったことがわかる。〈雷雨の姿を見よ〉同 様、興味深い詩稿である。
句集《花狩》解題を執筆した。本書は中 村苑子氏、すなわち高柳重信夫人の第二句 集である。
●加藤郁乎・松山俊太郎・渡辺一考(その《花狩》の担当編集者)の三氏による鼎談〈彼等、すなわち足穂とその眷族〉(《ユリイカ》臨時増刊号《総特集 稲垣足穂》、2006)にこんな一節がある。
渡辺 あそこ〔代々木上原の高柳重信の家〕には吉岡実さんとよく行きました。/加藤  吉岡もほんとに足穂が好きだった」 (同誌、八五ページ)。
不明なことにその文業に精通していないため、吉岡がどれほど足穂に親炙したか、判断がつきかねる。吉岡実年譜をひもとけば、1976年11月、「麻布十番 の永坂更科で種村季弘『壺中天奇聞』私家版の出版を祝う会。吉行淳之介、稲垣足穂らと会う」(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996、八〇一ページ)とあ り、随想〈郁乎断章〉には「見れば、泥酔したらしく、郁乎はわめきながら、着物を脱ぎすて、どたどたと踊り出すのだ。越中ふんどしを、白く前に垂らしつつ ――。それは「日本人」 加藤郁乎の存在を、並いる人びとへ鮮烈に印象づけた。「私は股引をはいている人間を信用しないことにしている」――とは、郁乎の畏 敬していた稲垣足穂の箴言である」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三三〇ページ)と見えるのだが。《稲垣足穂全詩集》(宝文館出 版、1983)の編者で神経科医の中野嘉一氏(お目にかかる機会がなかった) は、足穂文学の特質に偏執[パラノイア]的な気質・方法のあることを指摘している。
●KENSOの傑作《夢の丘》(1991)を聴いて、久しぶりに村上春樹《羊をめぐる冒険》を読みかえしたくなった。むろんアルバムジャケットのせいであ る(今は《ダンス・ダンス・ダンス》を読んでいる)。折りに触れて再読三読する小説家は、村上氏の他には岡嶋二人と福永武彦しかいない。


編集後記 51(2007年1月31日更新時)

吉 岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈の序章を掲載した。初出は《文藝空間・会報》17号(1990年7月7日)の「追悼=吉岡実」で、 同年2月4日 から6月25日にかけて執筆した〈マクロコスモス〉の評釈に続けて掲載している。同冊子の表紙には、吉岡実の写真を掲げて哀悼の意を表した。
●評釈の終章を執筆するために全評釈ページを印刷しようとしたところ、自宅のインクジェットプリンタは2時間ほど沈黙したまま動かず、けっきょくプリント できなかった。しかたなく1章ずつ小分けにして出した。せっかく正月休みに266ページまとめて出力しようと準備したのに、残念である。
《耕衣百句》解題を執 筆した。先だって掲載した〈吉岡実の書簡 (4)――《吉岡実詩集》のこと〉でも本書に触れて いるので、併せてお読みいただけるとありがたい。
●先月、吉岡実×太田大八の詩画集のことを書いたところ、さっそく太田さんから、以前からの懸案をなんとか今年は実現したいと思う、 というお葉書をちょう だいした。《静物》(1955)の発行人でもある太田さんの画筆が吉岡詩とどのようなコラボレーションを織りなすのか、愉しみでならない。
●中公文庫版で武田徹《偽満州国論》を 読みかえした(元版は河出書房新社、1995)。「東京の明るい夜の街に慣れた眼には、いかにも暗く映る長春の街を走り出したタクシー、そのヘッドライト のなかをひらひらと舞うものがあった。初夏に雪? まさか……。かつて日本人が植えた街路樹であるドロノキの綿毛に包まれた種子(柳絮[りゅうじょ]と呼 ばれる)が白い花のように舞っていたのだった」(中央公論新社、2005、七二ページ)。吉岡は日記に書いている。「満洲の軍事病院で仲よく暮した一カ月 の生活が思い出される。柳絮とぶ春を」(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一一六ページ)。私が長春(吉岡がそこに在ったときの呼び 名は新京〔満洲の首都〕)を訪れたのは6月の末、柳絮を見ることはなかった。ところで1月28日、第6回冬季アジア競技大会がその長春で開幕した(会期は 2月4日まで)。吉岡は かの地で四度、極寒の冬を過ごした。


編集後記 50(2006年12月31日更新時)

●本2006年、吉岡実の新刊《吉岡実散 文抄》が3月に出た。来る2007年には《続続・吉岡実詩集〔現代詩文庫〕》や《吉岡実未刊行散文 集》(仮題)が刊行されることを期待しよう。
吉 岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(13)を掲載した。詩篇〈夏の家〉を対象とした〈「あるいは孤独な落下傘部隊」〉である。 2003年6月、〈わ が馬ニコルスの思い出〉の評釈を 本サイトに書きおろして以来、3年半で評釈の本文を脱稿した。あとは序章の〈みなづきの水〉(初稿がある)と終章の〈神秘的な時代の詩〔集〕〉を残すのみ となった。〈青い柱はどこにあるか?〉を対象とする本評釈第1回の初稿が1987年12月発表だったから、20年になんなんとする試みである(その間に吉 岡さんは亡くなられ、私は本サイトを開設した)。吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈完成のあかつきには、〈文 献表〉の番号を振りなおして(ということは、アンカーを付けなおし、リンクも張りなおして!)体裁を整えたうえで全体を見なおし、い ずれは書籍と して印刷・刊行したい。書名はすでに決まっている。《〈吉岡実〉を探す方法――詩集《神秘的な時代の詩》評釈》がそれである。
●今回の評釈で〈首引〉に関する参考文献を探していたら、近作の絵本を知った。岩城範枝・文、井上洋介・絵の《鬼の首引き》(福音館書店、2006年2月 10日)。岩城範枝〈あとがき〉には「今では聞きなれない首引き も、ふたりで向き合い、首にひもをかけて引き合う様子が、鳥獣戯画の絵巻物にも見られますし、浮世絵にも描かれています」(本書、三五ページ)とある。
《私のうしろを犬が歩いていた》解題を 執筆した。本稿をもって 吉岡実の〈著書目録〉の部はすべて解題したので、次回からは〈編纂書目録〉の部に移る。その後、〈主要作品収録書目録〉にまで解題を付すかは未定である。
●10月の〈編集後記〉で 城戸朱理さんの特別講座〈左川ちかと吉岡実――詩語の魅力と魔力〉の活字化を待望したところ、日本大学藝術学部江古田文学会発行の《江古田文学》63号・ 特集〈天才 左川ちか〉に講演録が掲載された。なんともありがたいことだ。ところで、増島亮之介さん撮影の写真に私が写っている。それだけ熱心にメモを取っていた、と いうことか。
●谷川俊太郎・太田大八・山田馨《詩人と絵描き――子ども・絵本・人生をかたる》(講 談社、2006年12月12日)の巻末近く、〈未来の一冊の絵本〉で太田さんがこう語っている。「詩のことばの中に、リアリティーを感じるものと抽象的な ものがあると同じように、絵の中にも、現実的なものと抽象的なものがあると思うんですよ。ぼくが今いちばんやりたいのは、決まったテーマに向けて描くとい うのじゃなくて、自分の心の底にある抽象的な部分を描き出したいわけです。それをね、絵本にできればいいなと思っている。これがいちばんの願望です。昔、 友達に吉岡実(詩人、一九一九〜九〇年)という詩人がいてね。彼の詩をモチーフにして描こうかなと、思ったことがあるんですよ。でも彼の場合どっちかとい うとかなり暗い面があったり、深刻な面があったりして、明るさがない。明るいもの、暗いもの、両方に出会って描ければたのしいなと思うわけです。そういう 願いがあるんですよ」(本書、二七九〜二八〇ページ)。対話は物語ふうの谷川詩〈詩人の墓〉に太田さんが抽象的な絵を描くという方に進展し、その結果、 《詩人の墓》(集 英社、2006年12月10日)は一書となり、本書と同時に店頭に並んでいる。去年お目にかかったときにも「吉岡実詩に抽象画を」というお話を伺っていた ので、太田さんにはぜひ吉岡実とのコラボレーションをお願いしたい(谷川×太田の著書は、絵本を中心にすでに何冊もあるが、吉岡 ×太田の著書はまだ一冊も ない)。
●ふだんよく利用する図書館のひとつである中野区立鷺宮図書館は、毎月月初にリサイクル資料(要は廃棄図書である)を放出していて、12月はアポリネール 《虐殺された詩人〔小説のシュルレアリスム〕》(白水社、1975)が出ていた。窪田般彌訳の本書は新刊の時点で購入しているが、卒論にギヨーム・アポリ ネールを書いた身には「リサイクルコーナー」に置かれている境遇が不憫でならず、思わず貰って帰った。おかげで久しぶりに再読することになった。
●2006年が暮れようとしている。明2007年も本サイトをよろしくお願いいたします。


編集後記 49(2006年11月30日更新時)

●《吉岡実の詩の世界》を開設して 丸4年が経過した。閲覧していただいた方に改めて御礼申しあげる。本サイトの現状をご報告しておこう。開設時の総ページ数 (A4での印刷換算)は約139ページだったが、1年後には約243ページとほぼ1.7倍、2年後は約341ページで開設時の2.5倍、3年後は約474 ページで同3.4倍、4年後の 現在は約693ページで開設時のほぼ5倍となっている。この1年間で、吉 岡実詩集《神 秘的な時代の詩》評釈のページが長大になったため別のサイトに移したが、リンクなどは維持しているので不便はないと思う。今後とも吉 岡実と〈吉岡 実〉に関する新稿の掲載、既存情報の補綴に努めていきたい。
●〈吉岡実の装丁作品〉で、森茉莉の著書を3回連続で取りあげた。《父 の帽子》《靴 の音》《記 憶の絵》の3冊である。相互に関連があったためだが、今後はこれまでのように気ままに対象を選んでいきたい。いずれは〈装丁作品目録〉に掲載されている吉岡 実の装丁本をすべて入手しなければ ならないのだが、まだまだ時間も費用もかかりそうだ。
吉 岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(12)を 掲載した。詩篇〈蜜はなぜ黄色なのか?〉を対象とした〈「恋する幽霊」〉である。本評釈の初稿を準備していた1980年代後半はむやみと仕事が忙しくて、 本篇に限って人に頼んで国会図書館まで初出をコピーしに行ってもらったのだから、わがことながら信じられない。最近では原本を見ずに必要な部分のコピーを 入手できるサービスもあるが、私は必ず原本に触れる。目的の本文以外にどれくらい重要な記載があるか(もちろん、ないことのほうが圧倒的に多いのだが)、 資料を探索したことがあるほどの人なら誰もが知っていよう。
《吉岡実全詩集》解題を 執筆した(初稿は前掲〈「恋する幽霊」〉の初出に付記として掲載)。吉岡実の単行詩集は《昏睡季節》を除いて手許にあるが、ふだん読むのは本書である。各 詩集の扉には「01」(これは《昏睡季節》)や「13」(これは〈未刊詩篇〉)などとナンバリングした付箋を貼ってある。函は外したまま、ジャケットに厚 手の包装紙を被せて汚れを防ぎ、《吉岡実全 詩篇標題索引〔改訂第2版〕》とともに書店の 青いビニール袋に入れて、すぐ取りだせるようにしている。
●この半年ほど、月に1回、高校時代の旧友とスタジオにこもって、懐かしいナンバーを練習している。曲目は…言わぬが花だろう。バンドは3人なので、ギ ターも弾けば、ベースも弾く。はてはドラムまで叩く、とアマチュアの気楽さを満喫している(かつて、林浩平さんに連れられて朝吹亮二さん宅におじゃました とき、先客の小沼純一さんをまえにヘンドリックスばりに朝吹さんのストラトを弾いたのだから、恐れ入る)。最近、BOSSのデジタルレコーダー「BR- 600」を導入し て、オーバーダビング(一人での多重録音)に挑戦中だ。音づくりのプロセスは、ウェブのオーサリングに似ている。


編集後記 48(2006年10月31日更新時〔2019年8月31日追記〕)

●城戸朱理さんの特別講座〈左川ちかと吉岡実――詩語の魅力と魔力〉(日本大学芸術学部江古田校舎にて、10月17日)を聴いた。文芸学科の教室には、広く芸術学部の学生や「えこし会」のメンバー、私のような学外からの聴講者など、数十人が集った(司会は詩人の中村文昭・芸術学部教授)。ちかの詩〈錆びたナイフ〉と〈黒い空気〉の分析もさることながら、吉岡の〈静物〉(B・1)と〈冬の絵〉(城戸さん自身が朗読した)についての評がよかった。ぜひ活字化されんことを!
●8月の〈編集後記 46〉で予告したように、《[Five] Factorial》に発表した〈Minoru Yoshioka's Early Poems, in Light of Katue Kitasono and Chika Sagawa〉の原文〈初期吉岡実詩と北園克衛・左川ちか〉を掲載した。本サイトに英訳を載せることはないので、そちらをご覧になりたい向きは同誌を購読いただけるとありがたい。《[Five]Factorial》に関するお問い合わせは、中保佐和子[なかやす・さわこ]さんまでメールで(sawako@factorial)。
吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(11)を掲載した。詩篇〈三重奏〉を対象とした〈「わたしと女友だちと娘のような妹」〉である。オペラの作曲で知られる音楽家・青島広志が室内楽曲について書いている。「室内楽の場では、基本としては全員の合意の下に音楽作りに励む。ただし、編成によりやや変化があり、三重奏では各自の個性が強く出て名人芸にも傾くが、四重奏ではその個性が均質化し、各楽器が協力し合って一つの体[ボデイ]を作り上げる」(《作曲家の発想術〔講談社現代新書〕》、講談社、2004、一〇九ページ)。この一節、しかと味読した。
《続・吉岡実詩集》解題を執筆した。そこにも書いたように、本書は《夏の宴》(1979)までの中期吉岡実詩を収めており、1980年代に刊行された吉岡実詩が読める流布本はまだ存在しない。《薬玉》(1983)、《ムーンドロップ》(1988)を中核とした後期吉岡実詩の選集が待たれる現在、城戸朱理編《続続・吉岡実詩集〔現代詩文庫〕》が準備中と聞く。刮目して待つべし。
●高橋睦郎句集《遊行》(星谷書屋、2006年6月20日)を読んだ。「悼雅陶堂瀬津巖氏長逝/売の修羅を涼しと深眠り」、「悼流火先生四月九日/雨滴しくと満目芽吹く中」、「悼田中裕明/小晦日君を惜しむと夜も青き」といった悼句とともに、2002年(本サイト開設の年である)の作と思しい「吉岡実十三回忌/寝苦しく五月送りぬ十二たび」が見える。
●皆川博子著《絵小説》(集英社、2006年7月30日)を読んだ。〈塔〉のエピグラフとして引かれているのが、〈僧侶〉第6節である。「わたしが好みの詩の一節を宇野〔亞喜良〕さんにお渡しし、それを発想のきっかけにした絵を宇野さんが描いてくださる。詩と絵をもとにわたしが物語を創る、という過程を経ている。宇野さんの絵が先にあり、それにわたしが物語を添えるのである」(本書、一三七ページ)。〈塔〉は連作の第1回、初出のリードには「古今東西の詩に題を得て描かれるイラスト。/その絵に触発されて紡がれる物語。/言葉が絵を生み、絵が小説を誘い出す。/名手二人によるコラボレーションシリーズ、スタート!」(《小説すばる》2004年3月号、一一一ページ)とある。
〔2019年8月31日追記〕宇野亞喜良が《皆川博子の辺境薔薇館》(河出書房新社、2018年5月30日)に寄せた〈サディズムどマゾヒズムの交感〉に「それにしても、皆川博子さんの『絵小説』におけるイラストレーションの作業はかつてない不思議な体験だった。まず皆川さんのお好きな詩や言葉が選ばれて、ぼくのところにやってくる。それに対してぼくは絵を描く(何をやっても良いらしい)。ぼくの文学無教養のせいで、とり違えた解釈や、その時の気分で何が描けるのかも解らない。描き上げたその絵が皆川さんのところへ届けられる。そうすると、その絵を視られた皆川さんがやっと小説を書く作業に入られるのである。/ぼくのひとときの気分で描いた絵に皆川さんは文章でイラストレーテッドされる訳である。サディズムとマゾヒズムの混在する、こんな不思議な発想ができるのは皆川さんをおいて他にはいらっしゃらない。」(同書、九四ページ)とあり、上記の皆川の証言を裏付ける。ならば、正確には書名は《詩・絵・小説》とでもなろうか。
●大野一雄写真展〈秘する肉体[からだ]〉(コニカミノルタプラザにて、10月14日〜23日)を観た。展覧会独自の図録はないが、大野慶人監修・クレオ編集の《秘する肉体[からだ]――大野一雄の世界》(クレオ、2006年7月30日)が大野さんの誕生100年記念として出版されており、42人もの写真家がこの「幻の舞踏者」(吉岡実)をそれぞれに捉えていて、ページを繰るほどに興味は尽きない。
●国書刊行会編集部編の《書物の宇宙誌――澁澤龍彦蔵書目録》(国書刊行会、2006年10月20日)が出た。以下に、本書の〈和書著者索引〉から吉岡実本を摘記して、本サイト〈吉岡実書誌〉へのリンクを張っておく。《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》《魚藍〔新装版〕》《僧侶》《紡錘形》《静かな家》《液体〔叢書溶ける魚No.2〕》《サフラン摘み》《神秘的な時代の詩〔限定版〕》《吉岡実詩集》《新選吉岡実詩集〔新選現代詩文庫110〕》《異霊祭〔特装版〕》《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》《ポール・クレーの食卓》《「死児」という絵》《異霊祭〔書下ろしによる叢書 草子3〕》《薬玉》《夏の宴》。口絵写真〈友人より贈られた書物〉には、吉岡が献じた《僧侶》が掲げられている。とてつもない蔵書目録が出現したものである。


編集後記 47(2006年9月30日更新時)

●先月も書いたが、城戸朱理さんの特別講 座〈左川ちかと吉岡実――詩語の魅力と魔力〉が10月17日(火)、日本大学藝術学部(東京・江古田)で開 かれる。ありがたいことに学外者も聴講できるそうだから、なにをおいても馳せ参じよう。詳細は〈城戸朱理のブログ: 日芸文芸科特別講座「吉岡実と左川ちか」〉または〈日本大学藝術学部 文芸学科〉をご覧いただきたい。
吉 岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(10)を掲載した。詩篇〈少女〉を対象とした〈「少女の夢のはらみ方」〉である。〈少女〉の初出 形は澁澤龍彦 責任編集の《血と薔薇――コレクション2〔河出文庫〕》(河出書房新社、2005)に再録されているので、定稿と読みくらべてみるのもいいだろう。
《Kusudama》解題を 執筆した。吉岡実著、エリック・セ ランド訳《Kusudama》は桝形の瀟洒な軽装版で、所蔵本はセランド氏の献呈署 名入りの一本だ。本書には目次がな いので、英和双方の詩篇の題名と掲載ノンブルをDTPで打った紙片を巻頭・巻末に挿んで読んでいる。
●9月17日、池袋の東京芸術劇場で開かれた《同時代》10周年記念会に出席した。この会、正式には「第3次『同時代』10周年記念会/〈講演とミニコン サート〉/宇佐見英治を偲んで」という。〈自筆略年譜〉の1948年(昭和23年)に「五月、小島信夫、岡本謙次郎、矢内原伊作、原亨吉、宇佐見英治の五 名により雑誌「同時代」(東西文庫刊、白崎秀雄の斡旋による)を発行した」(宇佐見英治《明るさの神秘》、みすず書房、1997年9月10日、二二六ペー ジ)とあるように、宇佐見さんは同誌の創刊 同人だったが、4年前の9月に亡くなられた。吉岡実は現在の〈黒の会〉発行の《同時代》第10号(1959年12月)に詩篇〈田舎〉(D・10)を寄せて いる。
青木 書店のサイトに 吉岡実の詩稿〈陰画〉(D・6、35行、《文學界》〔文藝春秋新社〕1959年11月号〔13巻11号〕掲載稿)が出ている。「No.3965411  吉岡実詩稿/吉岡実//発行/\63,000 (本体 \60,000)/「陰画」 裏打有 ペン 書400字詰完2枚」とあるが、草蝉舎の原稿用紙は640字詰(32字×20行)である。詩稿の1枚め(題名、署名、本文16行 めまで)と2枚め(本文29行めまで)がカラーの写真版で掲載されている。原稿は常のごとく陽子夫人の手になるもので、題名の「陰画」の左脇には別の題名 のようにも見える二文字分があるが、抹消されていてウェブ上では読みとれない(原物でなら判別できよう)。詩稿は折り跡や焼けがあるばかりか、上三分の一 あたりで横に裂けているものの、裏打ちされており、判読には問題なさそうだ。
●岡本真《これからホームページをつくる研究者のために――ウェブから学術情報を発信する実践ガイド》(築 地書館、2006年8月10日)を読んだ。〈5章 ネットで執筆する〉に「事前に定めた全体構成をもって書き下ろしの連載を始めたら、途中で投げ出すことは極力避けたい。当初の計画を守り、連載を続けよ う」(同書、一六九ページ)とある。執筆者、サイト運営者として肝に銘じた。
●中山康樹《マイルスを聴け! Version 7〔双葉文庫〕》(双 葉社、2006年9月28日)がついに出た。Version 6の820ページから増補した992ページだが、新音源に対応した新稿が増えただけではない。マイルス・デイヴィスの最初1枚“First Miles”(1947)からして、Version 6の稿に手が入っているのだ。《マイルスを聴け!》は、書誌(本書なら「ディスコグラフィ」だが、要するに対象作品のデータ的側面)と評伝(評論と伝記) を志向する者にとって、究極の書物といっても過言ではない。


編集後記 46(2006年8月31日更新時)

吉 岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(9)を掲載した。詩篇〈雨〉を対象とした〈「固い雨なら両手で愛撫する」〉である。詩集には18 篇が収録され ているから、十数年前に本篇について書いた時点でようやく半分だった。そのとき書いた〈今後の予定〉を掲載誌から引く。
「既発表評釈は《〈吉岡実〉を探す方法》を標題にもつ書の各章に当たる。すなわち「序章―みなづきの水 第一章―愛と不信の双貌〔ママ〕――〈青い柱はど こにあるか?〉 〔……〕 第九章―固い雨なら両手で愛撫する――〈雨〉」である。引きつづき次の各詩篇評釈の連載を予定している。〈少女〉〈三重奏〉 〈蜜はなぜ黄色なのか?〉〈夏の家〉〔……〕(詩篇発表順)。一九八三年に〈サフラン摘み〉をめぐる小さなエッセイを書いたわたしは、一九八七年から毎年 一本ずつ評釈を発表していたが、九〇年五月以降は気持のうえでは途切れることなく吉岡詩の世界にいたことになる。わたしの〈立体〉論のわずか半年後に吉岡 さんは亡くなられたのだ。だれよりも「その人」に読まれるための試論だったのに。吉岡詩の持続と変化のうち、後者がうまく捉えられていないとすれば、書き 手のこうした心情が働いていたためかもしれない。詩集《神秘的な時代の詩》の作品数にして半分に相当する現今、本評釈がこれからどのように展開するのか、 わたしにもわからない。願わくは、原詩のもつ豊潤にして不可思議な魅力がわが散文によって損なわれないことを。折りかえしを機に構想の一端を記す」(《文 藝空間》第9号、1993年10月1日、一三八ページ)。
その後、本サイトを主な発表場所にして連載を続けたため、印刷物からの修正版をあと4篇掲載すれば、全18篇に言及したことになる。順調にいけば、詩篇の 評釈は年内に終わるだろう。
●本サイト《吉岡実の詩の世界》の母体でもある《現代詩読本――特装版 吉岡実》解題を執筆した。サイト開設時(2002年11月30日)の〈編集後記 1〉も 併せてお読みいただけるとありがたい。
●中保佐和子さんから《Factorial》 誌の第5号をお送りいただいた。エ リック・セランド氏の英訳 で《昏睡季節》《液体》からの詩篇が掲載されている(吉 岡・北園・左川をめぐる拙論は、いずれ原文を掲載したい)。同誌のご購読・お問い合わせは中保さんまでメールで(sawako@factorial)。 なお、Amazon.comで も入手可能とのことだ。ところで7月7日の〈城戸朱理のブログ 雨の日の過ごし方〉に、10月に日本大学藝術学部で 「左川ちかと吉岡実」と題する特別講 義をすることになった、とある。城戸さんには、ぜひとも講義の内容を印刷物にして発表いただきたく、お願いしたい。
●ふだん聴いている据えおき型のMD録再機が、暑さの加減かディスクを読まなくなった。それでも気まぐれに20回に1回くらいは読むのでだましだまし使っ ていたが、とうとう買いかえた。いまこれを書きながらかけているのは、Amsterdam Loeki Stardust Quartetの《Virtuoso Recorder Music》(L'OISEAU-LYRE, 1985)。「リコーダーの神技」の音色は、暑気払いには最適だ。


編集後記 45(2006年7月31日更新時)

吉 岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(8)を 掲載した。詩篇〈崑崙〉を対象とした〈「矢印を走らせて」〉である。前回、〈神秘的な時代の詩〉の評釈を掲載したとき、ファイルがうまくアップできなかっ たので、よく見るとサイトの容量が限界だった。とりあえず不要のデータを削除することで対処したが、根本的な解決策ではない。今回から吉岡実詩集《神 秘的な時代の詩》評釈を別のサイトに移して、当面の容量を確保した。未掲載の残り5篇の評釈もこの態勢で臨みたい。
日記《うまやはし日記》解題を 執筆した。吉岡実は本書の後半を 書きおろしたあと、1946年(1月〜4月)と、1948年(夏)の日記をのこしている。前者は生前最後の雑誌発表であり、後者は遺稿である。吉岡の「日 記」に対する想いを見るべきであろう。
●城戸朱理訳《T・E・ヒューム 全詩と草稿》(ジャプラン、2006年7月1日)が出た。哲学者にして詩人のヒューム(1883-1917)の「詩的営為のすべて」(本書、五七ペー ジ)、詩8篇と詩の断片(草稿)を収めた限定300部本だ。詳しくは〈城戸朱理のブログ 書籍などの頒布について〉を見られたい。


編集後記 44(2006年6月30日更新時)

●林哲夫さんから新著《文字力[もじり き]100》(みずのわ出版、2006年6月4日)をお送りいただいた。見開きの片ページが 解説文、もう一方が書誌(図版説明)と書影で、いろいろな背景で本の表情を引きだしているモノクロ写真(林さんの撮影)が見事だ。吉岡実装丁本では森茉莉 《靴の音》と《筑 摩書房の三十年》の2冊が収録されており、本サイトからの引用も見える。本書の制作過程は《daily-sumus》《daily-sumus東京文字力日記》に詳しい。林さん、ありがとうご ざいました。
吉 岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(7)を 掲載した。書名になった詩篇〈神秘的な時代の詩〉を対象とした〈「意識のながれ」〉である。吉岡実の日記には「一九六八年十月十日/〈季刊芸術〉七号届 く。「神秘的な時代の詩」掲載」(《土方巽頌》、筑摩書房、1987、二四ページ)とあるが、なんとその日、吉岡は日本青年館で〈土方巽と日本人――肉体 の叛乱〉を観ている。
選詩集《吉岡実》解題を 執筆した。1991年10月12日、浅 草・木馬亭で開催された〈吉岡実を偲ぶ会〉で、入沢康夫さんが吉岡実の詩篇〈カカシ〉(G・28)を朗読したが、そのときのテクストが確か本書だった。紙 クロスの小振りな上製本は、しっくりと手になじむ造りである。
●中山康樹《マイルスを聴け!》の諸版を読みくらべている。@初版(径書房、1992)、A増補最新版(同、1995)、B《新・マイルスを聴け!!》 (同、1997)、C《マイルスを聴け! 2001〔双葉文庫〕》(双葉社、2000)、D増補改訂版(同、2002)。C以外は図書館で目にし、Eversion 6(同、2004)を手許に置いてマイルスを聴いている。本書の増補・改訂作業は、ほとんどウェブページのそれに 近い。
●小笠原鳥類さんから第二詩集《テレビ》(思潮社、2006年6月15日)をちょうだいした。たっぷりした紙幅で生物の異様なまでのリアリ ティを追求する散文詩は健在だが、詩篇〈カラー印刷を食べる〉とその「鑑賞の手引き」の書法をとりわけ面白く読んだ。小笠原さんはこのところ《×小笠 原鳥類》というblogで、写真に文章を付ける営み(詩画集ならぬ詩写真集?)を続けている。詩集の文体とは若干異なるが、こうした バイラインも また鳥類詩の世界のひとつである。
●掲載写真の撮影に使っているデジタルカメラが作動しなくなった。販売店経由でメーカーに診てもらったところ、メイン基板を取りかえねばならず、購入代金 の半分もの修理費がかかるという。それだけ出せば高機能の新製品が買えるので悩んでいたところ、インターネットのオークションで同じ機種が入手できた。今 しばらくは活躍してもらおう、わが愛機LUMIX DMC-LC5よ。


編集後記 43(2006年5月31日更新時)

●5月31日は吉岡実の祥月命日、 巣鴨の真性寺で十七回忌の法要が営まれた。歿後16年といえば、生まれた子供が高校生になる年月である。ちなみに私は吉岡さ んとちょうど3回り違う未年で、詩集《静物》(私家版、1955)刊行のすぐあとに生まれた。いつだったか平出隆さんにそのことを自慢げに話すと、いささ かあきれておられた。
吉 岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(6)を 掲載した。詩篇〈色彩の内部〉を対象とした〈「細部の変遷」〉である。〈色彩の内部〉は吉岡実詩にあっては珍しく手入れの多い作品で、各稿の表示に新機軸 を出したつもりだが、htmlの画面表示でわかりにくかったら、textファイルに書きだすなりして、縦組でお読みいただけるとありがたい。
《吉岡実散文抄》解題を 執筆した。吉岡実の散文を調べるときに 常用するのは、収録作品数の多い《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)だが、本書は活字が大きいうえ、文字組がゆったりとしているので、 読むぶんにはまことに好ましい。
●《吉岡実書誌》の〈装丁作品目録〉に前登志夫歌集《繩文紀》(白玉書房、1977)を掲載した。吉岡家蔵の装丁作品記録に、年号と版元名だけで書名不明 の1冊があって永らく特定できなかったが、《日本の古本 屋》の情報で本書がこれに該当することがわかった。過日購入したので、いずれ《〈吉岡実〉の 「本」》で紹介したい。ちなみに本書はNDL-OPACに は見えず、《繩文紀》で検 索すると次の3冊――《前登志夫歌集》(小沢書店、1981)、《縄文紀》(短歌新聞社、1994)、《現代短歌全集.第16巻(昭和46年-54年)》 (筑摩書房、2002)――が収録書としてヒットする。
●中保佐和子さんから《Factorial》誌の第4号をお送りいただいた。今年の夏に出る次号にも、エリック・セランド氏の英訳で吉岡の初期詩篇が掲載 されると聞く(私も吉岡・北園・左川をめぐる小論を書いた)。セランドさんには、ぜひとも吉岡実の全詩篇を英訳していただきたいものだ。
●前回の〈編集後記〉で 「受菜」について疑問を記したところ、小笠原鳥類さんからメールを頂戴した。了解いただいてその文を引用すると――「受菜」。受肉というのがあるから、肉 じゃなくて野菜ということで、受菜ということがあるのではないかとか思いました。神か何かが「植物的人間」(詩「静かな家」)となって出現すると。――受 肉ならぬ「受菜[じゅさい]」である。私自身は琴かなにかの専門用語かとも思ったのだが、造語というのは大いに可能性があると気づかされた。鳥類さんには 改めて御礼申しあげます。


編集後記 42(2006年4月30日更新時)

●かつて〈吉岡実と音楽〉を 書いたときに、意図的に触れなかったことがある。それは詩篇〈衣鉢〉(D・16)に出てくるある語についてである。問題の箇所を引く。「そこでわたしたち は見る/夜叉の女たちが茶釜を叩き/琴を鳴らす爪の受菜のときを」(32〜34行め)。この「受菜」がなにか、私の調べ方が悪いのか読み方すらわからな い。「うけな」それとも「じゅさい」か。初出、単行詩集、全詩集ともすべてこうなっているから、誤記・誤植の線は考えにくい。「受」「菜」の用法を未刊詩 篇を含む吉岡実の全詩句に当たってみても、ヒントになるものはない(むろんインターネットで「受菜」を検索しても、それらしいものはヒットしない)。…… という内容を2月の 初めに琴専門サイトの掲示板に投稿したが、どなたからも返事がもらえないまま、いつのまにか掲示板そのものが閉鎖されていた(本サイト の掲示板も現在閉鎖中)。吉岡実詩の読者でおわかりの方、ぜひご教示ください。
《「死児」という絵〔増補版〕》解題を 執筆した。先月刊行され た《吉岡実散文抄》が 吉岡実散文の「精髄」なら、本書は吉岡実散文の「大全」である。〈初出一覧〉を確認するため本サイトを検索したところ、ひらがなの「べ」とカタカナの 「ベ」を間違えている資料があった。印刷物をスキャンした箇所だったが、アップ前にテキストでチェックしないと誤りを発見できない。自戒を込めて書いてお く。
●《吉岡実書誌》の〈V 主要作品収録書目録〉の 吉岡実詩欧文訳(イタリア語・英語・フランス語)に関する記載を原本のコピーと照合した。原題の追記と、その原題からだけでは特定できない詩篇(詩集《静 物》冒頭の一篇が最も多いが、別の詩篇も若干ある)を識別するための補記が目的だったが、ここでもいくつか転記ミスをみつけた。アルファベットのタイプし そこないが原因である。ドイツ語訳を探索したあかつきには〈吉岡実詩の欧文訳について〉を書いてみたい。
●前回予告した《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》の 修正をした。《吉岡実散文抄》掲載 の書名・作品名を索引化したわけだが、同書の第U部・第V部は自作の詩や自他の書物、短歌や俳句に関する文章が多いため、かなりの件数を追加することに なった。
●アシュリー・カーンの《カインド・オブ・ブルーの真実》(プ ロデュース・センター出版局、2001)を読んだ。マイルス・デイヴィスの《カインド・オブ・ブルー》は私には決して聴きやすいアルバムではないが、1冊 の単行本を要求するだけのことはある。ハービー・ハンコックがこう言っている。「なかには『カインド・オブ・ブルー』から生まれたロックだってあるんだ」 (中山啓子訳、二八六ページ)。本文にはデュアン・オールマンやドナルド・フェイゲンの名も挙がっているが、ピンク・フロイドは出てこない。本書からは、 レコーディング(文字どおり記録すること)の奥義を学んだ気がする。


編集後記 41(2006年3月31日更新時)

●待望久しい新刊書《吉岡実散文抄――詩 神が住まう場所〔詩の森文庫E06〕》(思潮社、2006年3月1日)が出た。本書は昨 夏以降、《突堤にて》という書名で予告されていた吉岡実の散文選集である。《最近の〈吉岡実〉》《吉岡実書誌》に記事を書いたので、お読みいた だきたい(私が執筆した 《Wikipedia》の〈吉岡実〉にも追加しておいた)。本書の編者である城戸朱理さんの《城戸朱理のブログ――poetry and diary》には吉岡実関連の文章がたびたび掲載されている。要チェックだ。
吉 岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(5)を掲載した。詩篇〈フォークソング〉を対象とした〈「造形への願望」〉である。吉岡はいった いどんな フォークソングを聴いていたのだろうか。
随想集《「死児」という絵》解題を 執筆した。八木忠栄さんの文 章から多くを引用させていただいたので、深く感謝する。近いうちに、同書の増補版と《吉岡実散文抄》の解題も執筆する予定だ。
●吉岡の新刊が出たため、《吉岡実未刊行散文集 初出一覧》を除く全てのページ(トップページを含む)を更新した。《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》の修正は軽微なものだが、いずれ《吉岡実散文 抄》掲載の書名や作品名も索引化(ノンブル等の追加だけだが)したいと思う。
●去る3月9日、歌人の山中智恵子さんが亡くなられた。80歳だった。「言語の抽象性を駆使して魂との交流を図る澄明なる文体を確立した」(藤田武〈解 題〉、《現代短歌全集〔第15巻〕》、筑摩書房、1981、五九三ページ)ところの歌集《紡錘》(不動工房、1963)に次の一首がある――「サフランの 花摘みて青き少年は遙たり石の壁に入りゆく」。この歌と吉岡実の詩篇〈サフラン摘み〉については、秋元幸人さんの《吉岡実アラベスク》(書肆山田、 2002)をご覧いただきたい。
●上の項目を書いて日ならずして、西洋古代史の三浦一郎氏の訃報に接した(3月13日、91歳で逝去)。高橋睦郎さんが〈サフラン摘み〉の鑑賞で書いてい る。「『朝日新聞』夕刊文化欄の「研究ノート」、三浦一郎教授による壁画「サフラン摘み」発見の記事が発想の原点になっている」(《吉岡実》、中央公論 社、1984、七二ページ)。ぜひ、秋元さんの〈「サフラン摘み」〉につかれたい。
●加藤幹郎の《『ブレードランナー』論序説――映画学特別講義〔リュミエール叢書〕》(筑 摩書房、2004)に導かれて《ブレードランナー》をビデオで観た。実は本作の公開時に詩友・小畑雄二に誘われていっしょに封切りを観ているのだが、「強 力わかもと」のインパクトがあまりに強くて、ほとんどなにも観ていないに等しいことがわかった。本書では「〔……〕常態的に旧作を「リヴァイヴァル」享受 できる今日のヴィデオ/DVD/インターネット配信時代にあっては、過去公開された映画をそのまま再公開しても興行価値はゼロに等しいが、逆にハリウッド 的製作過程で必然的に生まれる異版(わずかな差異をともなったほとんど同一の作品)を(再)配給することの興行価値は測りしれない。本書もまた、こうした ヴィデオ時代到来(一九七〇年代後半)以降に製作された映画を分析するにふさわしい概念装置の所産たろうとしている」(同書、三四ページ)に傍線を引きた い。


編集後記 40(2006年2月28日更新時)

吉 岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(4)を掲載した。詩篇〈マクロコスモス〉を対象とした〈「増殖と回転」〉である。初稿は吉岡さん が亡くなって 間もない1990年7月7日に発表したものだが、今回、事実関係を中心に若干の訂正を施した。
英訳詩抄《Celebration In Darkness》解題を 執筆した。本書の邦題は《闇の祝祭》である。城戸朱理さんがこう書いている。「オークランド大学の出版部から英訳詩集が出ることになったとき、先方から送 られてきた『闇のカーニバル』という仮題が気に入らず、自分で考えた新しいタイトルの英訳とアメリカへの連絡を頼まれて驚いたことがある。吉岡さんはカー ニバルという語感の持つひたすらに陽性な騒々しさが気に入らなかったのだろう。詩人自身が考えた標題は『闇の祝祭』と『闇のなかの絵』の二案。結局、その 詩集は『闇の祝祭 CELEBRATION IN DARKNESS』として出版された」(《吉岡実の肖像》、ジャプラン、2004、一二八〜一二九ページ)。私もこの話は吉岡さんから聞いたことがある。 邦題には1967年7月3日の日記「コッケイにして厳粛なる暗黒の祝祭」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一四ページ)も踏まえら れているだろう。
●Tomotubbyさんのブログ《Tomotubby's Travel Blog》に、3点の写真とともに 〈「首長族の病気」〉が掲載されている。「Tomotubbyは「首長族」と聞くと、吉岡実の 詩集「紡錘形」所載の「首長族の病気」という詩を思い出します」とあって、吉岡の詩も全篇引用されている。また「首長族の 女は、首輪を外すと、自分で首を支えることができず死んでしまう。また不貞を働いた女は強制的に首輪を外されるため、以降寝たきりの生活を送らなければな らない。という噂話も、さにありなん。と思われます。いずれも今回のTV放映では否定されていましたが」ともある。正月2日の日本テレビの特番〈紳助の世 界オドロキ人間GP2006〉に、タイ・ミャンマー国境に住む「首長族」の映像が流れたそうだが、家に居たにもかかわらず見逃した。残念。
●2月22日、WOWOWの番組〈ROCK THE CLASSIC〉でピンク・フロイドのアルバム《狂気》が取りあげられた。リチャード・ライトによる〈生命の息吹き〉の解説が面白かった。「この曲はとて も特徴的なコードを使っているけど、種明かしをするとお手本はマイルス・デイヴィスの《カインド・オブ・ブルー》。この響きが好きなんだ」と問題の箇所を ピアノで示す。一方、デヴィッド・ギルモアはアコースティックギターで弾きがたりを披露。Em(add9)、A(sus4)〔繰りかえし〕、Cmaj7、 Bm、Fmaj7、二分音符 のGのあとが件のジャズ的コード進行で、画面をよく観るとD・F#・C・F(なんと〈紫の煙〉でおなじみのジミヘンコー ド!)、D・F#・C・D#と弾いている。吉岡実の詩を読みはじめた30年ほどまえ、FMで《狂気》のデモテープを聴いて以来わからなかったことが氷解し た。


編集後記 39(2006年1月31日更新時)

玉英堂書店のサイトに 吉岡実の詩稿〈雷雨の姿を見よ〉(H・14、8節126行、《海》〔中央公論社〕1978年5月号〔10巻5号〕掲載)が出ている。「No. 26501 吉岡実詩稿/9枚 価格: 450,000円/『雷雨の姿を見よ』 ペン640字詰表題共完 拵帙入 「詩集 夏の宴」(昭54.10 青土社刊)収録」とあり、詩稿の1枚め(標題、署名、飯島耕一から引いた題辞)と2枚め(本文冒頭から「マグリットの/岩も/城も軽く浮んでいる」まで) がカラーの写真版で掲載されている。原稿は常のごとく陽子夫人の手になるもので、文字の修正部分は最初に筆記したブルーブラックのペンで抹消されていて読 みとれない(オリジナルでなら判読できよう)。抹消部分のひとつ、8文字分の1行全体を節番号の「2」と変えて、現行の第1節末尾の7行をあとから挿入し たことが読みとれる。また、第2節の「野には春の七草」もあとからの挿入とわかる。まことにもって興味深い詩稿である。
吉 岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(3)を 掲載した。詩篇〈立体〉を対象とした〈「白紙状態」〉である。1989年11月5日にいちど発表したものだが、思うところあって、初稿をなるべく活かし た。残りの未掲載の評釈がそうした形になるか、〈「暗黒の祝祭」〉や〈「愛と不信の双貌」〉のように大幅な手入れ稿になるかわからない。いずれにしても、 今後とも継続してアップロードしていきたい。
《日本の古本屋》で検索していたら、《俳句》1985年6月号の〈藤田湘子 『一個』特集〉に吉岡実が散文〈「謎」めいた一句――『一 個』の一句〉を寄せていた(湘子の句は「姉妹の美貌に 瀧の氷りけり」で、吉岡の未刊詩篇〈白狐〉の最終行「姉妹を水門の上に立たせる」を想わせる)。昨2005年も永田耕衣に関する吉岡実の未刊行散文を発見したが、俳句にま つわる吉岡の逸文はまだまだほかに あるような気がする。
《新選吉岡実詩集》解題を 執筆した。そこでも書いたが、本書お よび《続・吉岡実詩集〔現代詩文庫129〕》(思 潮社、1995)は、中期吉岡実詩――1960年代末の《神秘的な時代の詩》から1970年代末の《夏の宴》までの作品をそう呼びたい――を中核とする詩 選集である。来る《続続・吉岡実詩集〔現代詩文庫〕》は、後期吉岡実詩――1980年代の《薬玉》と《ムーンドロップ》、およびそれ以降の作品をそう呼び たい――を中核とする詩選集になるのだろうか。
●小笠原鳥類さんから、吉岡実参考文献に関していろいろとご教示たまわった。そのうえ、お送りいただいた資料まである。記して感謝します。鳥類さん、あり がとう。


編集後記 38(2005年12月31日更新時)

● 太田大八さんの絵、吉岡実の文章で本を作る計画があったらしい。吉岡の「児童文学」がどんなものか想像するだに凄まじいが、残念ながら実現しなかった。先 月、お会いしたときその話をすると、太田さんはいま吉岡実詩に合わせて抽象画を描きたいとのことだった。吉岡実・太田大八の詩画集! なんと胸躍る企画で はないか。
●吉岡実が二〇歳のときの日記(1939年9月26日)に「従妹利恵ちゃんから貰った「啄木かるた」を読む」(《うまやはし日記》、書肆山田、1990、 七六ページ)とある。その《啄木かるた》を 復刻版で観た。吉岡は少年時代から啄木の歌集を愛読していたから、短歌を読むだけなら《啄木かるた》でなくてもよかったはずだ。吉岡も中原淳一描くところ の少女像を好んでいたのか。そんなことを考えながら詩 集《液體》の表紙画(吉岡実作?)を眺めていると、いろいろなことが思い浮かぶ。この絵はやはり、恋しい人の肖像なのではあるまい か。
●12月下旬、3周年更新時にあたる11月分の全ページをプリントした。ざっと通読して、ふりがなの表記がばらばらなのが気になった。私自身はふりがなの 必要な文章を書かないよう心掛けているが、引用文ではそうもいかない。想定しているブラウザ(Internet Explorer)独自の拡張機能であるルビ表示は、詩篇など最小限の適用にとどめ、通常の文章ではふりがなを[ ]に入れるようにしている。ところが、 この[ ]が〔 〕になっている箇所がいくつかあって、補記のために使う〔 〕とバッティングするのだ。ふりがな/ルビは、わかりやすい形で表示したい。
●この秋、歩いて行ける距離にTSUTAYAが開店したので、ふだん聴かないCDや、ふだん観ないDVDを借りている。〈吉岡実と音楽〉もそんなところ から生まれた。いつの日か、吉岡実が書きのこした文章から映画をピックアップして《吉岡実言及映画索引》を作らなければならないだろう。
詩集《ムーンドロップ》解題を 執筆した。吉岡実最後の単行詩集である。表紙の蓬髪の青年を描いた西脇順三郎のスケッチブックを、吉岡さん宅で陽子夫人から見せていただいたものだ。
《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》を 更新した。本来なら〈詩の森文庫〉(思潮社)で刊行予定の吉岡実散文選集を反映した形で修正したかったのだが、いまだに出ていないため、区切りをつける意 味で年内に一度更新しておく。今回は《吉岡実全詩集》収載の詩篇を対象にしたので、残るは《吉岡実未刊行散文集》である。実はこれも刊行の予定があって、 原稿はずいぶん前に出版社に渡っている。手許の《吉 岡実未刊行散文集》組体裁確認用編者本で作業すると、公刊されたときにやりなおさなくてはならず、思案のしどころだ。
●来る2006年は、〈詩の森文庫〉の散文選集(はじめ《突堤にて》だったが、《吉岡実散文抄――詩神が住まう場所》となるらしい)、《続続・吉岡実詩集 〔現代詩文庫〕》、《吉岡実未刊行散文集(仮題)》などの新著が私たちの手に届けられる年となることを期待しよう。


編集後記 37(2005年11月30日更新時)

● 本サイト《吉岡実の詩の世界》を開設して丸3年が経った。今までに閲覧していただいた方方に、改めて感謝する。本サイトの現状をご報告しておこう。開設時 の総ページ数(A4での印刷換算)は約139ページだったが、1年後の時点で約243ページとほぼ1.7倍、2年後の時点で約341ページで開設時の 2.5倍、3年後の現在は約474ページで開設時の3.4倍となっている。この1年間に新設したページはなかった(現在、ゲストブックを閉鎖している)。 今年の7月には新たに一篇、吉岡実の未刊行散文〈五月の句――耕衣の句 から〉を発見した。9月には詩篇〈サーカス〉 (I・2)の初出情報を訂正した。今後とも新資料の発掘や既存情報の補綴に努めたい。
●7月には、アクセスカウンターの数値が10000を超えた。最多訪問者は間違いなく私自身だが、新しく原稿を書くために詳細に見ていくと、記述の矛盾に 出会うことがある。先だっても《吉岡実年譜〔作品篇〕》と《吉岡実未刊行散文集初出一覧》で食いちがいを発見し、その次の定期更新時に修正した。こうした 予期せぬことがあるので、本サイトの資料を参照される場合、(以前にダウンロードしたファイルではなく)必ず最新のファイルをご使用くださるよう、切にお 願いしたい。
詩集《薬玉》解題を執 筆した。晩年の吉岡実詩を一巻に集約した名詩集である。
●渋谷のアップリンク・ファクトリーのギャラリーで《田村隆一 in Memorium》展(11月7日まで)を観た。11月5日、吉増剛造さんの朗読や城戸朱理さんたちのシンポジウムがあったが、あいにく時間がとれず、展 覧会だけでも観ておきたかった。会場は店の一角の小さなスペースだが、生前愛用のコートやマフラー、靴の展示が、あたかも吉江庄蔵の皮膜彫刻を観るよう で、空虚のリアリティとでもいったものを醸していた。私は1970年代の末、早稲田大学の文学部から本部のキャンパスに向かう田村隆一の姿を一度だけ見た ことがある。取り巻きの学生を従えた田村は、反対側の歩道を行く者にも強烈な存在感を与えた。私は「詩人が歩いている!」と震撼した。今回の展示では、書 斎と思しい書棚を背にした写真に惹かれた。平凡社の《大百科事典》が写っており、これが例の百科事典かと感嘆久しうした。
●11月11日、〈藤村記念歴程賞〉と〈歴程新鋭賞〉贈呈式の行なわれた2005年の歴程祭に出席した(吉岡実は1984年、詩集《薬玉》で第22回の 〈藤村記念歴程賞〉を受賞している)。私は縁あって1992年、1994年と歴程祭に参加しているが、昨年は〈歴程新鋭賞〉の小笠原鳥類さんにお祝いが言 いたくて出席の返事まで出しながら、よんどころない事情で当日は欠席せざるをえなかった。今回、こういう場でなければめったに会うことのない方方への挨拶 もそこそこに、初対面の小笠原さんと話しこんでしまったのはそのためである。いろいろとお話ししたなかで、「ヒプノシスによるレッド・ツェッペリン《聖な る館》のアートワークは《サフラン摘み》ですね」という小笠原さんの言が印象的だった(ヴィジュアルにとどまらず、アルバムや詩集自体、双方にとってその 中期を代表する作品だから、両者を有機的につなげて考えてみたくなってきた)。
Google(海 外検索の方)で「Yoshioka Minoru」をGoogle Searchすると、「吉岡実の詩の世界 - [ Translate this page]/小林一郎が調査・著述・作成する、詩人・装丁家吉岡実の人と作品を研究するページ。/吉岡実の著書を資料面から補完し、鑑賞と研究に資する。 年譜・書誌・参考文献目録 .../members.jcom.home.ne.jp/ikoba/ - 11k - 11 Nov 2005 - Cached - Similar pages 」と出てくる。面白半分に [ Translate this page ]を押してみると英語に機械翻訳されたトップページが表示された。これが傑作で、たとえば「〈吉岡実〉を語る」は 「< The Yoshioka truth > you talk,」となっている。各ページは冒頭部分が英訳されて、容量の加減か途中から日本語の原文に切り替わるのだが、Yoshioka Minoruが「Yoshioka truth」だったり「Yoshioka actual」だったりするのはなんとかならないものか。書いた本人が暗号のように感じるのだから、英語しか解さない人が吉岡実を実際以上に難解に受けと らないか、心配である。
●11月30日、太田大八・十四子さんから吉岡実の想い出をうかがう機会を得た。永い間の念願だっただけに、私の深い喜びとするところである。詳細はいず れこのサイトでご報告したいと思う。


編集後記 36(2005年10月31日更新時)

●吉岡実の書簡について書くためにイン ターネットで検索していたら、玉英堂書店のサイトで吉岡実のハガキの画像がアップされているのに出会った。ち なみに《日本の古本屋》で は書名「吉岡実葉書」で次の4件がヒットする。すなわち「吉岡実葉書/1枚/楠本憲吉宛 昭和38年6月18日 ペン10行/玉英堂書店 25,000 円」のほか、「吉岡実葉書/1枚/鷲巣繁男宛 昭和42年8月15日 ペン10行/玉英堂書店 25,000円」、「吉岡実葉書/1枚/鷲巣繁男宛 昭和 47年10月25日 ペン8行/玉英堂書店 25,000円」、「吉岡実葉書/1枚/鷲巣繁男宛 昭和54年5月4日 ペン7行/玉英堂書店  25,000円」である。《日本の古本屋》では画像表示のリンクがはられていないが、玉 英堂書店のサイトで 「吉岡実」を商品検索すると、以上の4点ともカラーのスキャン画像が見られる(ハガキの文面が重要なのは言うまでもないが、吉岡の筆跡〔の変遷〕を知るた めの最良の資料である)。同サイトには10月29日現在、ほかにも岡崎清一郎宛ペン署名入《僧侶》(吉岡は「吉岡實」と署名、価格130,000円)など の画像があり、興味は尽きない。
●今月は仕事が立てこんで国立国会図書館に行くことさえできず、手許の資料だけで書ける文章になってしまった。かくのごとくに、引用文や出典の確認で月に 一度は永田町に詣でているわけだが、先月は《『食道楽』の人村井弦斎》(岩波書店、2004)の著者で、昔の同僚でもある黒岩比佐子さんとばったり会っ た。黒岩さんは新著《日露戦争勝利のあとの誤算〔文春新書〕》(文藝春秋、2005年10月20日)の校正で来館していたのだ。お互い待ち時間の間も作業 が控えていて、立ち話で終わってしまったが、黒岩さんのブログ《古 書の森日記 by Hisako》を読んでいる身には、久しぶりの気がしなかった。おそるべし、ブログ。ちなみに、私が欠かさず読んでいるのは《城戸朱理のブログ》(城戸朱理さん)、《daily-sumus-top》(林哲夫さん)、そして黒岩さんの古書 日記である。
●来月はいよいよ本サイト開設満3年である。空手形にならないことを祈りつつ予告をすれば、《吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈》に〈夏から秋まで〉を 掲載し、休載続きの書誌解題も新たに書きおろし、7月以降更新していない《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》にこの間の調査結果を反映したいと思 う。あとひとつ、とっておきの企画があるのだが、それはうまくいったときのお楽しみということで、ぜひともご期待いただきたい。


編集後記 35(2005年9月30日更新時)

●吉岡実の詩篇〈サーカス〉(I・2)の 初出情報を訂正する(〈吉岡実 年譜〔作品篇〕〉ほ か)。すなわち、今まで「《吉岡實詩集》〔書肆ユリイカ刊〈今日の詩人双書5〉〕一九五九(昭和三四)年八月一〇日」としてきたのを「《實存主義》〔理想 社〕一九五八(昭和三三)年九月〔一五号〕」と変更した。〈サーカス〉が刊本に初めて収録されたのは確かに《吉岡實詩集〔今日の詩人双書〕》(書肆ユリイ カ、1959)なのだが、単行詩集ははるか後年の《ポール・クレーの食卓》(書肆山田、1980)であり、その〈収録作品初出記録〉では〈ポール・クレー の食卓〉(I・1)、〈サーカス〉、〈ライラック・ガーデン〉(I・3)とも「ユリイカ版『吉岡実詩集』一九五九年」(同書、八六ページ)となっている。 私は〈ポール・クレーの食卓〉と〈ライラック・ガーデン〉の二篇は雑誌掲載稿を見ていたのでそちらを初出としたが、〈サーカス〉は今日まで雑誌掲載稿未見 のため、上記のような記載となっていた。《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)で年譜を編む際、〈サーカス〉の掲載誌について吉岡陽子さんにおたずねしたが、切り抜きなどは残っていなかった(おそらく 《吉岡實詩集》収録時に入稿原稿として使用し、紛れてしまったのではないか)。先日、いつものように《日本の古本屋》で吉岡実関連の文献をチェックしてい ると、永楽屋から〈サーカス〉を掲載した《實存主義》15号が出品されているではないか(書誌情報自体、初めて知った)。すぐさま購入したことはいうまで もない(本文は《吉岡實詩集》掲載形と同じ)。ここに永年の懸案がひとつ、解決を見た。私の編んだ《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第2版〕》(文藝空間、 2000)をお持ちの方は、 〈サーカス〉の項(一九ページ)の初出を
 ▽《實存主義》(理想社)1958年9月(15号)
と訂正しておいてください。さて、何度も書いているので気が引けるが、詩篇〈模写――或はクートの絵から〉(E・4)の初出情報が 今もってわ からない。どんな些細なことでもかまわないので、お知らせいただけるとありがたい。
●《現代詩手帖》7月号のイヴェント紹介にこうある。「神田神保町にある古書店夏目書房ボヘミアンズギルドで5月19日「Edge in Book Shop 吉岡実を語る」が行われた。生前の詩人と交流のあった城戸朱理田 野倉康一両 氏によって語られた豊かな表情は歳月の経過を感じさせぬほど鮮やかで、今にも会場の古書店の書棚のかげから詩人が顔を覗かせるかに思われた」(同誌、二一 五ページ)。私はイヴェントの開催そのものを知らず、この記事を読んで切歯扼腕したが、遅かった。9月号の同誌に小笠原鳥類さんが書いたレヴューを読ん で、わずかに渇を癒すしかなかった。
●先月アップロードした〈青 い柱はどこにあるか?〉の評釈に同詩の仏訳について追記した。《神秘的な時代の詩》の詩篇の外国語訳は多くないだけに、この訳文に触 れたときは嬉 しかった。
詩集《夏の宴》解題を 執筆した。この詩集は引用をちりばめた内 容もさることながら、その姿形が印象的である。インターネットで「夏の宴+吉岡実」を検索してみたら《Culture to Future vol,1 the'60s トーキョー・アングラシーンの夜明け 夏の宴》に 《夏の宴〔特装版〕》の美しい書影が掲載されていた(以前に触れた玉 英堂書店在庫の一本と同じ五番本か)。そのサイトマップには「各分野の素晴らしいクリエイターたちが都市のアンダーグ ランドに群雄割拠し、混沌とした輝 きを放ったこの60年代」の重要人物が紹介されており、吉岡実と関わりの深い人人も多い。
《ty_web_space》と いうサイトに〈僧侶〉のイラストレーションが吉岡実の詩とともに掲載されている。そこに「今回の Gallery2 暗黒の祝祭 では、吉岡実の「僧侶」を中心に、全篇に闇が漂う作品集にしました。〔堀口大學の〕「秘密」と「灰の水曜日」を除いてほとんど黒一色で描かれてます」とあ るように、モノクロームの世界が展開されている。作者は「この「僧侶」という作品に絵をつけたいという欲望は、きっとこの詩が生まれた昭和30年台から多 くあったのではないかと思います。もし、このような作品を御存知の方、教えていただけませんか?」と書いているが、寡聞にして〈僧侶〉をヴィジュアル表現 した作品をほかに知らない。
●このところ毎日、掲示板〈ゲストブック〉に無意味な英文の書きこみがある。見つけるたびに削除していたが、作業があまりに頻繁でばかばかしいため、しば らく〈ゲストブック〉を閉鎖する。トップページのリンク切れ(「指定されたファイルが見つかりません」というエラーメッセージが出る)はそのためなので、 悪しからずご了承ください。〈ゲストブック〉は私にとって大切なページであり、いずれ機会を見て再開したいと思っている。


編集後記 34(2005年8月31日更新時)

●3月の〈弟子〉評釈に続いて〈吉岡実詩 集《神秘的な時代の詩》評釈〉に〈青 い柱はどこにあるか?〉を 掲載した。今回の〈青い柱はどこにあるか?〉は詩集に収録された詩篇のうちいちばん最初に発表されている。本評釈の第一稿は、1987年に雑誌掲載したも の。評釈という体裁をとっていなっかたこともあり、かねてから内容に不満をもっていたが、全面的に改稿できたのは喜ばしい。今後も本サイト未掲載になって いる過去の評釈を改稿のうえ、アップロードしていきたい。
●先日、家族で伊豆・今井浜の海に行った。一冊の本も持たないのは不安なので、角川文庫版《西東三鬼句集》を携えた。句集《旗》、《現代俳句》、《夜の 桃》、《今日》、《変身》を底本にしたもので、「一部再収載されている作品もあるが、句集の原形を保つ意味から、そのままの形を残した。句形、用字につい ても同様である」(《西東三鬼句集〔角川文庫〕》、角川書店、1965年8月30日、二八四ページ)と〈編集後記〉にあるのは見識である。
●8月の日経新聞《私の履歴書》は篠田正浩が執筆中だが、第16回〈寺山修司〉(8月16日掲載)に土方巽が登場する。「脚本を書いている間も寺山は友人 を誘った。自分が旅館に流行作家のように缶詰にされている姿を見せびらかしたかったにちがいない。しかしその中で異彩を放ったのが舞踏家の土方巽である。 長々と座敷に横たわって、寺山と東北弁で現代舞踏の世界を語る光景は偉観であった」。脳髄が痺れそうな状景である。
●地域の公共図書館のインターネット予約を活用している。もっぱら中野区・練馬区・新宿区の区立図書館を利用しているが、借りて読みたい本の大半はまかな える。これらの図書館の蔵書検索のページは、《NDL-OPAC》や《日本の古本屋》と並んで資料探索のツールとして欠かせない。ちなみに8月21日、練 馬区立図書館から借りたのは次の7冊。石原慎太郎《光より速きわれら》、石川啄木《一握の砂》と堀口大學《月下の一群》の復刻版、《世界童謡集》、《白秋 全集29》、小畑雄二《えきいんさん》・《ぶんぼうぐやさん》。最後の2冊は友人が書いた子供向けの本である。
●その石原慎太郎の小説《光より速きわれら》(新潮社、1976年1月15日)のジャケット装画はハンス・ベルメールだ。原画の〈La Danseuse, 1968〉をノートリミング(当然か)で掲載 している。
●松浦寿輝《半島》(文藝春秋、2004)を読んでいる。松浦さんの小説集《もののたはむれ》(新書館、1996)所収の短篇〈彗星考〉は、舞台設定に吉 岡の〈突堤にて〉を彷彿させるものがあった。
●評釈の執筆に予想以上の時間がかかったので、今回は著書解題を休載する。


編集後記 33(2005年7月31日更新時)

●新たに一篇、吉岡実の未刊行散文を発見 した。題して〈五月の句――耕衣の句か ら〉。 岸田稚魚(1918-1988)主宰の俳句雑誌《琅玕》1983年5月号の巻頭エッセイである。「五月の句」は連載のタイトルだから、吉岡が付けた標題は 「耕衣の句から」だろう。吉岡自身の編んだ《耕衣百句》(コーベブックス、1976)、「この一冊から、私は「春の句」を抽出してみよう」(同誌、二ペー ジ)と、永田耕衣の句16を400字詰原稿用紙3枚強に鏤めた俳句=書物随想である。岡田史乃句集を取りあげた〈吉 岡実の装丁作品(25)〉も併せてご覧いただきたい。
詩集《神秘的な時代の詩》解題を 執筆した。この詩集については《吉岡実詩集 《神秘的な時代の詩》評釈》と題してすでにいろいろと書いているので、妙に書きづらかったことを告白しておく。
●7月16日、アクセスカウンターの数値が10,000を超えた。最多訪問者は間違いなく私自身だが、新しく原稿を書くため詳細に見ていくと、記述の矛盾 に出会うことがある。先日も《吉岡実年譜〔作品 篇〕》《吉岡実未刊行散文集 初出一覧》で 食いちがいを発見し、次の定期更新時に修正した。こうした予期せ ぬことがあるので、本サイトの記述を参照される場合、(以前にダウンロードしたファイルではなく)必ず最新のファイルをご利用くださるよう、切にお願いし たい。
●城戸朱理さんから《城戸朱理のブロ グ poetry and diary》を 開設したというメールをいただいた。さっそく訪問してみると、7月6日に開設されたばかりで、11日には〈吉岡実のエッセイ〉という記事がアップされてい る。それによれば、城戸さん編の吉岡実エッセイ選《突堤にて》が思潮社の〈詩の森文庫〉の1冊として刊行される予定だ、とある。《現代詩手帖》7月号にも 《突堤にて》は「『「死児」という絵』『土方巽頌』『うまやはし日記』から吉岡実氏の目のつよさをまざまざと感じさせる散文を抄録した」(二一五ページ) とあり、吉岡実散文の精髄として今から期待が高まる一方である。
●7月10日、東京ビッグサイトで《東京国際ブックフェア2005》を見た。自然科学書コーナーに吉岡実がかつて勤務した南山堂の書籍が並んでいた。南山 堂単独の出版目録はなかったので、2005年3月発行の《医学書総目録》(日本医書出版協会)を見ると、南山堂の出版物に鎌田武信編《新内科書》 (1996)がある(本書は呉建・坂本恒雄・冲中重雄と続いた《内科書》の系譜に連なるものか)。元医学書院社長で鴎外研究者の長谷川泉さんに南山堂につ いて尋ねる機会があったが、医書出版の名門ということだった(長谷川さんは昨年、86歳で亡くなられた)。吉岡実が勤務した南山堂や西村書店、香柏書房な どの出版社についても、しかるべき準備をしてから書きたいと思う。


編集後記 32(2005年6月30日更新時)

英訳詩抄《Lilac Garden》解題を 執筆した。そこにも書いたが、私が本書の刊行を知ったのは《読売新聞〔夕刊〕》1979年10月20日の紹介記事を偶然読んだからだ。当時の大学生には、 洋書を扱う本屋(紀伊國屋書店)で取りよせるしか方法がなかった。ほぼ半年後の1980年4月17日、3200円で購入している(これほど到着が待ち遠し かったのは、レッド・ツェッペリンのLP2枚組のブートレグ《Live on Blueberry Hill》をヤマハに注文したとき以来である)。後に、署名していただくべく吉岡さんにハードカヴァー本の《Lilac Garden》と《Celebration In Darkness》を差しだすと、「ほう、こんなものまで持っているのか」という感じで、実に嬉しそうにされた。
《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》に 《うまやはし日記》(書肆山田、1990)の項目を追加した。残る散文作品は《吉岡実未刊行散文集》だが、これはしばらく措いて、次はいよいよ吉岡実詩に 登場する書名・作品名である。まずは《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)を読みながら該当する箇所に付箋を貼っていく作業になるが、どんな頻度で現わ れるか楽しみだ。
●5月10日、細江英公の写真集《鎌鼬》が青幻舎か ら限定500部で刊行された(本体・ジャケット・函を完全復刻したという)。税込価格31500円は半端な金額ではないが、A3判変型・41シートの大振 りな本書を繰っていると、納得できる。土方巽の歿後、アスベスト館で何度かフィルム上映会が開かれたが、いつだったか、テントのような受付の一角に限定 1000部の元版 《鎌鼬》(現代思潮社、1969)が置かれていた。なにやら禍禍しい感じで、人が手にするのを後ろから覗きこんで観た覚えがある。元版 《鎌鼬》との出会いである。
●小澤實さんが主宰する俳誌《澤》が創刊5周年を迎え、記念祝賀会が6月25日、神田の学士会館で開かれた。小澤さんや旧知の宗田安正さん、平出隆さんに ご挨拶することができた。吉岡さんが存命なら必ずや出席されただろう。俳句の話はもちろん、骨董のことなどされたのではないだろうか。時を同じくして 《澤》5周年記念特集号、小澤さんの第三句集《瞬間》(角川書店、2005年6月25日)と《小澤實集》(邑書林、同)、久保田万太郎の366句を解説し た《万太郎の一句》(ふらんす堂、2005年7月1日)が出た。句集《瞬間》から4句引く。
  蓬莱をこぼるるもののなかりけり
  崑崙へ一騎急げる菫かな
  天高し頑と出でざる探求書
  田荷軒永田耕衣先生
  大鯰深みに消えしのみならん
意図的に吉岡実絡みの句を選んだが、最後は永田耕衣追悼句(なお《瞬間》のジャケットには、厚く緑青がふいた銅製の経筒の蓋がカラーで掲載されている)。 そして《小澤實集》から。
  ふはふはのふくろうふの子のふかれをり(《砧》)
  無花果割る親指根元まで入れて(《立像》)


編集後記 31(2005年5月31日更新時)

評伝《土方巽頌》解題を執筆した。 併せて《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》に 《土方巽頌》に登場する書名・作品名を掲載した。そこ でも書いたが、まだバーバラ山中の修士論文〈吉岡実論〉(ドイツ語)に接しえない。ご存知の方はぜひ情報をお寄せいただきたくお願いする。
●5月8日、神田の東京古書会館で大貫伸樹氏と林哲夫氏の対談を聴いた。対談は、大貫氏のコレクションを126点展示した《1920-30年代の装丁―― 関東大震災後15年間は 装丁史のベルエポック》展のトークショーで、題して〈佐野繁次郎の装丁〉。林さんからは本サイト開設早早、拾遺詩集《ポール・ク レーの食卓〔私家版〕》の写真をお送りいただいたが、これまでお目にかかる機会がなかった。対談終了後、ご挨拶し、改めてお礼を述べた。〈吉岡実の装丁作 品〉をご覧いただいているとのこと。吉岡実装丁を全点(約150点)紹介できるのはいつだろう。
●フラン・オブライエン、大沢正佳訳《第三の警官》(筑摩書房、1973)を読んだ。吉岡実が愛読し、版元から取りよせて城戸朱理さんに一本贈ったという いわくつきの小説である。自転車をめぐる奇想小説という見方が一般的だが(吉岡の〈僧侶〉や〈自転車の上の猫〉も想起される)、《吉岡実の詩の世界》の作 者としては「ところでぼくが打ち込んできた「ド・セルビィ研究目録」決定稿がついに完成しました。これはかの賢者の人と作品のあらゆる面についてこれまで に発表された諸見解をあますところなく調査照合したものです」(同書、一三ページ)というあたりに傍線を引きたい。
●田島征三・谷川晃一・宮迫千鶴の三人展〈海・山・のんびりアート〉(練馬区立美術館、6月12日まで)を観た。3人の「絵画・絵本原画・立体作品など初 期から現在にいたる代表作など合わせて約270点の作品を一同に展示」したもので、目にも鮮やかな色彩の乱舞に心洗われるひとときだった。ところで、谷川 晃一氏は土方巽が演出・出演した高井富子舞踏公演〈形而情学〉(吉岡実は詩篇〈青い柱はどこにあるか?〉を寄せている)の美術担当者だが、今回、舞台美術 関連が出品されていないのは残念だった。
●今日、5月31日は吉岡実歿後15年の命日である。心静かに《吉岡実未刊行散文集》組体裁確認用編者本でもひもといて、世紀の詩人・吉岡実の業績を偲ぶ つもりだ。


編集後記 30(2005年4月30日更新時)

拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》解題を 執筆した。本書 が刊行されて25年経つとは、にわかに信じがたい。私はこの詩集のなかでは〈斑猫〉という詩が好きだ(吉岡実の切抜きのスクラップブックでは、発表後に 〈田園〉と改題されたが、最終的に〈斑猫〉と戻されている)。
●巖谷國士著《澁澤龍彦考》(河出書房新社、1990)について書くため、巖谷さんの新刊《封印された星――瀧口修造と日本のアーティストたち》(平凡 社、2004年12月5日)を読んだ。本書でとりわけ面白かったのが〈瀧口修造小事典〉である。いつの日か〈吉岡実小事典〉を書くことがあれば、ぜひ参考 にしたいものだ。心覚えのために項目名を引かせていただく。「富山/姉たち/美術少年/文学少年/医業/写真/三田文科/小樽/西脇順三郎/同人誌/アン ドレ・ブルトン/シュルレアリスム/アルチュール・ランボー/夢/映画/瀧口綾子/マン・レイ/マックス・エルンスト/ジョアン・ミロ/サルバドール・ダ リ/マルセル・デュシャン/戸坂潤/詩画集/芸術運動/読売アンデパンダン/タケミヤ画廊/実験工房/西落合/オリーヴ/ヨーロッパ/パリ/デッサン/デ カルコマニー/バーント・ドローイング/吸取紙/ロト・デッサン/オブジェ/ローズ・セラヴィ/手紙/リバティ・パスポート/言葉の遊び/千円札事件/一 九六〇年代/諺/アリス/ニューヨーク/装幀/ステッキとレインコート/声/煙草/墓所」(同書、七四〜八七ページ)。西脇順三郎やアリスなど、いくつか の項目は〈吉岡実小事典〉にも登場するだろう。
●4月15日は吉岡実生誕86周年だった。日 本の古本屋で 吉岡実の著作を検索したら、堀切の青木書店(代表者:青木正美氏)が《薬玉》《静かな家》《夏の宴》《サフラン摘み》《吉岡実詩集〔思潮社版〕》《神秘的 な時代の詩》《紡錘形》《僧侶》《「死児」という絵》《魚藍〔新装版〕》《静物》《異霊祭》《吉岡実詩集〔今日の詩人双書5〕》《ポール・クレーの食卓》 《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》《魚藍》と、数多くのタイトルを出品していた。作品の価値・稀少性からいけば、私家版限定200部の詩集《静物》が随一 だろう。献呈署名入で126,000円とある。吉岡実が誰に宛てた一本であろうか。
●俳人の藤田湘子氏が4月15日、亡くなった。79歳だった。《馬酔木》の水原秋櫻子に師事。1964年に《鷹》を創刊主宰し、吉岡実が若い俳人として信 頼する小澤實さんらを育てた。湘子は1972年10月号の《鷹》の座談会〈現 代俳句=その断面〉に 吉岡とともに出席している(他の出席者は佐佐木幸綱・金子兜太・高柳重信)。その《湘子後記》の一節に「吉岡さんは土、日曜に詩作されるそうで、この日も 土曜日だったため、あまり期待しないでくれということだったが、わざわざ時間をさいて下さった。編集部の熊木、永島両君も席にいたが、ずっと以前から吉岡 ファンの永島さんは、吉岡さんが見えたら、ぽっと上気したようだった」(同誌、三五ページ)とある。


編集後記 29(2005年3月31日更新時)

●〈吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評 釈〉は〈弟 子〉を掲載した。〈弟子〉は詩集に掲載された詩篇のうちいちばん最後に発表されたもので、次の《サフラン摘み》初期の作品と発表時期 が重なる。今 後は、本サイト未掲載になっている過去の評釈を改稿し、順次アップロードしていきたい。
《吉岡実詩集》解題を 執筆した。30年ほど前どうしても本書が欲しくて、手許の本を売って7000円をこしらえ、神保町の田村書店で購入したときのことが忘れられない。それま で、図書館で本書を閲覧しては、現代詩文庫に収録されていない詩篇を原稿用紙に書きうつしたものだ。吉岡実が森茉莉に宛てた本書の献呈署名本が、現在、秋 元幸人さんの所蔵だというのもゆかしい。
阿部青鞋研究会のサイト(代表・妹尾健太郎さん)に「青鞋さんが自認した三 大家集は「火門集」「続・火門集」 「ひとるたま」ですが、この他にも作品集(句集)は少なくありません」という記述があったので、妹尾さんに吉岡実の日記に登場する「阿部青鞋句集」に ついてお尋ねした。該当するのは十中八九《阿部青鞋集〔私版・短詩型文学全書〕》であろうとのことだが、「じつは、この度のお問い合せに当てはまるものと して上記句集の他にもう一冊、青鞋氏の個人句集があります。「句壷抄」(1957年・三元社より刊行)がそれです。日記には三鬼句集「夜の桃」(1948 年刊)とともに購入と あるので、浅草のK書店は古書店でしょう。となると、十年前に関西で刊行されたこの句集も度外視はできないわけです。私は以前これを 何処かで拝借して読みましたが、今手許に現物がありません。(以前、加藤郁乎氏からもこの句集を御所蔵であるとのお便りをいただいたことがあります。)さ してお気になさることでもないと存じますが、一応念のためお知らせ致します」と懇切なメールをいただいた。《句壷抄》はネットで検索してもヒットせず、気 長に探索するしかないようだ。
●小笠原鳥類さんから、學藝書林の〈全集・現代文学の発見〉の《言語空間の探検》(2004年10月)を読んでいるというメールをいただいた。「新装版で 活字も新しく、吉岡実の略歴にも初版の刊行(69年)以降の情報が書き加えられており、ほとんど新刊を読むような気分です。内容が古くなっていないとも言 えます」。1969年の初刊(入手したのは1970年代中ごろか)で吉岡実の《静物》と同時に、塚本邦雄の《装飾楽句》、岡井隆の《土地よ痛みを負え》、 高柳重信の《罪囚植民地》、加藤郁乎の《球体感覚》(以上のすべてに吉岡は随想等で言及している)等に触れた日のことが懐かしく思いだされる。高柳重信こ そ、かれらの精神圏の中心人物ではなかったろうか。


編集後記 28(2005年2月28日更新時)

●久しぶりに国立国会図書館に行った。 昨年秋に新しいシステムが導入されてから閲覧のスピードが上がったことは前にも書いたが、複写さえ依頼しなければ相当 の冊数に目を通せるのはありがたい。今回は木下夕爾の《田舎の食卓》(青い厚表紙で再製本されていた)、《生れた家》、《笛を吹くひと》の三詩集(いずれ も吉岡実が言及している)を通読することができた。
●土方巽はその早すぎた晩年に、一生かかって読むだけの本はもう仕入れたと吉岡に語ったらしいが、作成中の《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》は 私が今後手にし(装 丁家吉岡実の眼を検証する意味でも)、読むべき本の一覧である。解題中の「★未見」の多さには忸怩たるものがあるが、一生かけて読むに価する本が、このリ ストにはある。
●探求書の情報を簡便に得られるのがインターネット検索の利点だが、それでもわからない本はある。吉岡が「未知の人から贈られた『骰子一擲』で、 私は初めて、この難解なる詩篇を読んだというより、見たのだった。いつ頃のことなのか、伊藤裕一郎訳の小冊子には、発行年月も発行所も明記されてないの で、わからない」と書いているマラルメの訳書である。ほかにも解題に「★未詳」とある資料の書誌を求めている。どんな情報でもかまわないので、ぜひお寄せ いただきたい。
●俳人の田中裕明さん、漫画家の中尊寺ゆつこさんの相次ぐ訃報に愕然とした。田中さんとは大阪での永田耕衣の会のあと、小澤實さん、四ッ谷龍さん、冬野虹 さん(虹さんも亡くなられた!)とともに歓談した。中尊寺さんはそのかみ、ケイト・ブッシュのファンクラブ会長を務めていて、ケイトのフィルムコンサート で司会する姿をお見かけした。ともに、ただ一度の出会いだった。
《吉岡實詩集》解題を 執筆した。ところで、本書の帯の現物には まだお目にかかっていない。


編集後記 27(2005年1月31日更新時)

《椿實の書架》を運営する椿紅子さんからメールをちょうだいした。〈「吉岡實」から「吉岡実」へ〉を お読みいただいたらしく、椿實/椿実のことにも触れられていた。椿さんは小説家・椿實(1925-2002)の長女で、サイトには《椿實全作品》(立風書 房、1982)を補完する作品や書誌的資料がアップされている。このコンテンツは冊子《椿實の書架》(皓星社、2003)としてまとめられており、《椿實 全作品》の読者には必備の内容となっている。
《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題 付〕》を更新した。よ うやく《「死児」という絵》全篇の索引化が終わったことになる。作業に予想外の時間がかかったので、今回は著書解題を休載する。
●《幻の特装本》のジョン・ダニングの新作《失われし書庫》(ハヤカワ・ミステリ文庫)が昨年末に出たので、さっそく読んだ。本に関する殺し文句がそここ こにちりばめられているが、一箇所だけ引こう。「書店主や本好きにとって、立派な書誌は、何冊もの伝記を束にしたものよりはるかに役に立つものだ」(三六 ページ、宮脇孝雄訳)。わが吉岡実書誌も、かくありたいものだ。


編集後記 26(2004年12月31日更新時)

詩《異霊祭》解題を執筆した。久しぶりに読みかえしてみたが、すばらしい詩篇である。
●前回新設した《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》を更新した(しばらくは毎月更新することになるだろう)。〈吉岡実が読んだ本――断章ふうに〉でも触れたが、吉岡は夥しい書名・作品名を随想中に書きのこしている。的確な引用文がちりばめられていることも多い。これらを手がかりに吉岡が読んだ書籍や作品を味読していくことは、心躍る作業である。書誌を参照した結果は取捨選択して、私自身を含めて吉岡実の読書遍歴をたどる者にとって有益なページとしたい。
●荒井美三雄企画・監督によるDVD《土方巽 夏の嵐 燔犧大踏鑑2003-1973》(ダゲレオ出版)が出た。踊る土方巽(映像のシューティングはこの舞台が最後)を伝える貴重な作品である。《土方巽頌》を読むかぎり、吉岡実はこの1973年6月の京都大学西部講堂における公演を観ていないようだが、同年9月の《静かな家》は観ている(私には両者がよく似ているように想えるものの、詳しいことはわからない)。「舞踏とは消えていくから形がのこる」(土方巽)。
●来年は思潮社から現代詩文庫14、129に続いて3冊めとなる新しい吉岡実詩集が出る、と聞いている。詩集《薬玉》や《ムーンドロップ》を中心とする「後期吉岡実」の作品が手軽に読めるようになることは、一人の読者としてたいへんに嬉しい。久しぶりの詩集だけに、刊行が楽しみである。


編集後記 25(2004年11月30日更新時〔2021年5月31日追記〕)

●本サイトを開設して丸二年が経った。今までに閲覧していただいた方方に、改めて感謝する。今回ようやく《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》を新設できた。完成にはほど遠い状態だが、〈吉岡実が読んだ本――断章ふうに〉で書いたように、「試運転中」はどうかご辛抱いただきたい。吉岡実の詩や散文を読む者にとって、必ず役立つページにしたい。
●本サイトの現状をご報告する。開設時の総ページ数(A4での印刷換算)は約一三九ページだったが、一年後の時点で約二四三ページとほぼ一・七倍、現在は約三四一ページで開設時の二・四五倍となっている。この一年の間に《樹霊半束(もろだけんじ句集)》(刊本の再録につき、今後更新しない)と前掲《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》が新設ページとなった。
●今年の六月には「詩集《静物》(私家版、1955)以前に吉岡実が発表した詩二篇と皚寧吉の筆名で発表した詩一篇が、連合国軍総司令部(GHQ)が収集した雑誌から発見された」件を、〈吉岡実の未刊行詩三篇を発見〉にまとめた。今後とも新資料の発掘に努めたい。
●作曲家の小森俊明氏に歌曲〈草上の晩餐〉の件でメールを差しあげたところ、音源と楽譜をお送りいただいた。同時にちょうだいした歌曲〈立体〉とともに、詳細を〈小森俊明氏作曲の吉岡実の歌曲〉に書いたので、ぜひお読みいただきたい。小森さん、資料をありがとうございました。
●UPU社時代の同僚、黒岩比佐子さんが《『食道楽』の人 村井弦斎》(岩波書店、2004)で第26回サントリー学芸賞芸術賞(社会・風俗部門)を受賞した。黒岩さんは日本ペンクラブの会員でもあり、今回の受賞は実に喜ばしい(11月27日のお祝い会では、懐かしい方方とお会いできた)。
●〈編集後記 24〉の続報になるが、どなたかに、フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』の〈吉岡実〉に、「外部サイト」として本サイトへのリンクを張っていただいた。ありがたいことだ。Wikipediaには、H氏賞のページも書いた。いずれ高見順賞と藤村記念歴程賞のことも書きたい。
●連載中の吉岡実の著書解題は、今月休載する。次回は詩《異霊祭》について書く。
〔2021年5月31日追記〕
〈編集後記 23〉にも書いたように、《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》を開設するに当たっては、亜細亜大学における司書講習で教えていただいた図書館学概論の安形輝先生(現・国際関係学国際関係学科教授)の天啓のような一言(原典の記載をそのまま表示して、それにリンクを張って解題を施すスタイルの提案)で、ページ全体の構造が瞬時に決まった。講師と受講生が参集した立食形式の慰労会でのことだが、私は昂奮のあまり手にしていた皿に盛ったソーセージを落としてしまい、安形先生から「三秒ルール、三秒ルール!」とけしかけられたことも懐かしい。今回、2021年3月末に5年弱の公共図書館勤務を終えたのを機に、《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》を大幅に改訂した。詳しくは同ページの〈〔2021年5月31日付記〕〉をお読みいただきたい。本サイト《吉岡実の詩の世界》でのリスト関連の私の仕事は、今後、この文学作品を中心とした「言及書名・作品名」だけでなく、狭くはその「一首・一句の短歌・俳句」版、近接分野では絵画に代表される造形作品や(これは私の手に余るので、どなたかにお願いしたいくらいだが)映像作品の《索引〔解題付〕》が想定される。ほかにも、訪れた土地や施設・店舗のリストが考えられる。吉岡さんがこれを聞けば、「それはそれは、ご苦労なことで。」と破顔されるかもしれない。ときに、本サイトと図書館の親和性は高い。一方でその違いも、歴然として存在する。アルベルト・マンゲル(野中邦子訳)《図書館――愛書家の楽園〔新装版〕》(白水社、2018年6月25日)やジョルジョ・アガンベン(岡田温司訳)《書斎の自画像〔哲学への扉〕》(月曜社、2019年10月15日)などを手掛かりにして、今後も内省を重ねたい。


編集後記 24(2004年10月31日更新時)

歌集《魚藍》解題《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》解題を執筆した。そこでも触れたが、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》はすぐれた選集で、わが家には何冊この本があるか知れない。古本屋で違う刷りを見つけるたびに、ついつい買ってしまうのだ。スリップや愛読者カードが挟まったままの本書の初版は、7年まえ(UPUが荻窪にまだあったころ)荻窪駅前の岩森書店で5,000円で購入した。 「1968.9.16」の日付入りで、私の知らない人に献じられた署名本である。
《日本詩人愛唱歌集 掲示板》に作曲家・小森俊明氏の書きこみがあって、それを読んだときにはコンサートの日は過ぎていた。吉岡実の詩篇〈草上の晩餐〉(G・13)が歌曲になったとのことなので、小森氏の文を引用させていただく。コンサートを聴かれた方の感想が知りたい。
「近々行われるコンサートにて歌曲が2曲演奏されますので、ご案内させていただきます。
第11回作曲家二人展 服部和彦&小森俊明 2004年9月25日(土)18時30分開場、19時開演 チケット:3500円(全自由席) 於:東京 すみだトリフォニーホール小ホール(墨田区錦糸1−2−3 Tel 03−5608−5400、JR総武線、東京メトロ半蔵門線錦糸町駅下車徒歩5分)主催:国際芸術連盟/服部和彦:〔……〕 小森俊明:草上の晩餐(「サフラン摘み」より)(詩:吉岡実)ソプラノ:砂崎香子、ピアノ:西津啓子 他に器楽曲等6曲も演奏されます。〔……〕」
フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』に〈吉岡実〉のページがなかったので、本サイトの内容を凝縮して新しくページを作成した。ぜひご覧いただきたい。記事の書きこみにあたって「あなた自身やあなたのウェブサイト、製品、また仕事を宣伝する項目を作らないで下さい」という注意書きがあったので、Wikipediaから見れば外部サイトである本サイトへのリンクを張っていないが、訪問者は適宜、〈吉岡実〉の記事を編集したり「外部サイトへのリンクを張って」ください。
●亜細亜大学から司書講習の修了証書と成績通知書が届いた。とにもかくにも修了できてよかった。そういえば詩人で装丁にも腕を振るった北園克衛は、図書館長の職にあったはずだ。吉岡実は図書館に関してほとんど書きのこしていないが、尋ねておきたかったことのひとつである(随想〈読書遍歴〉に、少年のころ「わが家の近くの図書館へ行き、佐々木味津三、国枝史郎、林不忘、本田美禅、前田曙山などの大衆文学ばかり読んでいた」とあるのが唯一の言及か)。
●新しくなった国立国会図書館に行った。入館前に登録利用者カードのバーコードを読みとるシステムになっているのだが、定期入れの中でこすれたのか券面がかすれて読みとり不能、利用者IDを手で入力すると(パスワードは当然、手入力)館内利用カードが発行された。館内利用カードは以前の磁気カードからICカードに変わり、OPACでの検索や資料の出納、複写の申しこみをはじめ、館内のあらゆる局面で使う。入館の際の住所や氏名(年齢を書くのが嫌でしたね)、資料請求時の請求記号や資料名等いっさい記入せずにすむのだ。一度に請求できる資料も従来の二点から三点に増えたため、請求行為の完全電子化とも相俟って、体感では一・五倍以上の効率が得られた。案内の要員がそこかしこにいて、不慣れな利用者を補助していたのが印象的だった。
●来月、本サイト開設2周年を迎えるにあたって、かねて予告の《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》のページを新設する。今後、厖大な作業量が予想されるため、とりあえずはページを立ちあげて、おいおいに「増築」していきたい(おそらく本サイト最後のページとなろう)。2年まえに本サイトを開設したときそうであったように、「拙速」こそこの場合の最高の褒め言葉である。


編集後記 23(2004年9月30日更新時)

●約2ヵ月にわたる司書講習が9月18日に終わり、講師と受講生が参集して閉校式・慰労会が行なわれた。図書館学概論の安形輝先生に〈吉岡実言及書名・作品名索引〉(仮題)の計画をお話ししたところ、《御伽草子》の書誌を例に、貴重なアドバイスをいただいた。この索引は、情報探索・資料組織・レファレンスサービス等の学習の成果を反映した、使い勝手のよいページにしたい。司書講習の講義や演習では、安形輝、大場博幸、野末俊比古、有吉末允、仁上幸治、中島玲子、竹之内禎、長田秀一、毛利和弘講師にとりわけお世話になった。また亜細亜大学図書館では、所蔵資料や各種データベースを利用して、多くの吉岡実関連の文献を入手できた(とりわけ《〈吉岡実〉人と作品》《吉岡実参考文献目録》において)。記して深い感謝の意を表わす。近年稀な長くて暑い夏の日日を、幾人かの懐かしい面影とともに、生涯忘れることはないだろう。
●司書講習は終わったが、吉岡実参考文献の未入手分を探索中だ。WorldCatで欧文の関係資料を捜索したが、バーバラ山中(Yamanaka-Hiller, Barbara)の1982年の吉岡実論(吉岡本人も〈自筆年譜〉で触れている)がどうしても入手できない。どなたか、お持ちの方はいませんか?
●吉岡実の俳句の色紙「冬の日の凝れば/無為なる蛇の貌」(126,000円)が《森井書店古書目録》(2004.7 No.28)〈近代自筆本特集〉に写真版で掲載されている。原本未見だが、ウェブページに画像がアップされている。印刷物からのスキャンにしろ、テキストまで画像なのは理解に苦しむ。
●函館の木村哲也さんから、吉岡実詩の中国語訳を掲載した孫鈿訳《日本当代詩選》(湖南人民出版社、1987)を借覧できた。同書の概要は《吉岡実書誌》をご覧いただきたいが、次回の〈〈吉岡実〉を語る〉で詳しい内容紹介ができれば、と思っている。
●moondialさんの〈Night rain, in winter...|記事関連リンク集〉は自身の記事とリンク集からなる一種のサブジェクトゲートウェイだが、そこで《吉岡実の詩の世界――詩人・装丁家吉岡実の作品と人物の研究》を「詩人に関するウェブ上のリソース決定版」と評していただいた。ありがたいことだ。
詩集《液体》解題詩集《赤鴉》解題を執筆した。吉岡実の全著作の書誌解題を書きあげたあかつきには、限定版の小さな冊子にでもしたい(そのまえに、まず〈吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈〉を完成しなければならないのだが)。
●たまには自宅以外のPC環境で自分のサイトを見てみるものだ。読みこみに時間を要するのには目をつぶるしかないが、各ページ上下の「選択...」のドロップダウンメニューがリンク切れしていたのにはがっくりときた。不具合のご指摘は〈ゲストブック〉にお書きいただけるとありがたい。


編集後記 22(2004年8月31日更新時)

●このところ、司書講習のために亜細亜大学に通っている。受講中は在学生と同じ待遇で大学図書館を利用できるのがありがたい。これを機会に、ふだん使わない商用データベースも駆使して、吉岡実関係の文献調査を進めたい。ところで、最近重宝しているのが《検索デスク》だ。この手のものでは先駆的な野口悠紀雄氏の〈Search Engine Windows〉にもお世話になったが、SearchDeskは二次元的に密集していて凄い。検索用の窓として活用されている方も多いと思う。
詩集《昏睡季節》解題句集《奴草》解題を執筆した。《昏睡季節》は吉岡実の最初の著書だし、《奴草》は今のところ吉岡の最新の著書である。前者には詩と短歌、後者には俳句が収載されている。吉岡が手を染めた文学のジャンルは、まず短歌、ついで俳句、そして詩。それから随想等の散文である。一方、短歌以前から日記が綴られていた。詩・短歌・俳句という韻文作品と、随想・評伝・日記等の散文作品、そして書簡というのが吉岡実全集の主な構成要素となるのではないか。
●画家の落合茂氏が亡くなられたという。入沢康夫詩集《わが出雲・わが鎮魂》の復刻新版(思潮社、2004年7月)の入沢さんの〈復刻新版あとがき〉を読んでいたら「故落合茂氏」という文字が眼に飛びこんできた。虚を突かれる想いだった。落合さんの姿を拝見したのは、故矢川澄子さん故多田智満子さんも出席された〈吉岡実を偲ぶ会〉でだった。いまはただご冥福をお祈りする。
●先月、神田神保町の小宮山書店のウィンドウに《僧侶》が飾ってあるのを見た。《日本の古本屋》の〈検索結果詳細〉に「僧侶 H氏賞・函欠・河原温宛署名入り・初版・河原温蔵書印入り/吉岡実、書誌〔肆〕ユリイカ、昭33、1冊」とある一冊である(価格は40,000円)。さいわい献呈署名のページが開いてあった。以前〈「吉岡實」から「吉岡実」へ〉に掲載した写真と同様、楷書による筆蹟で「河原温様/1959.8/吉岡實」、「様」の字は吉岡の書き癖で「水」のところが「次」となっていた。
●文学者の墓所探訪記として定評のあるウェブサイト《文学者掃苔録図書館》についに吉岡実が登場した。取材・編集(おそらく制作も)のvientoさんにメールしたところ「不定期ながら2〜3ヶ月ごとに更新しております。こつこつと細く長く続けていきたいと思いつつ、はや9年が過ぎました」との返事をいただいた。わがサイト《吉岡実の詩の世界》は9年後、どうなっているだろうか。


編集後記 21(2004年7月31日更新時)

●前回の定期更新を終えた6月30日、東 京・神田の東京古書会館で川崎賢子さんの講演〈戦後文学研究への一視覚――占領期雑誌データベースを活用し て〉を聴いた。《占 領期雑誌記事情報 データベース》で資料を横断的に検索することにより、ある対象作家の研究者がふだん見ないような雑誌から貴重な文献情報が得られる、 という指摘が 印象的だった。執筆者名のシソーラスの計画もあるというから、検索ツールとしてさらに使い勝手がよくなることだろう。
詩集《紡錘形》解題詩集《静かな家》解題を 執筆した。私の所持している《静かな家》だけかもしれないが、機械函の裏面(内側)にも表面と同じ文字と絵柄が印刷されている。印刷所が函の用紙の表裏を 取りちがえて刷ったので正しい面に印刷しなおした、ということだったのか。それともなにかほかに、私の想像もつかないような意図が隠されているのだろう か。謎は解けない。
●玉英堂稀覯本書目(2004年5月、第275号)の《日本の筆跡――藤原定家から村上春樹まで》に吉岡実の葉書が写真版で掲載されている(楠本憲吉宛、 昭和38年6月18日、ペン10行、25,000円)。前日6月17日付の永田耕衣宛の書簡が《琴座》166号に掲載されているから、併せて読むと興味深 い。来るべき《吉岡実全集》には、ぜひこうした書簡を収録してほしい。
●真保裕一氏のトレッキング紀行《クレタ、神々の山へ》(岩波書店)が刊行された。半年前の〈編 集 後記15〉に書いたことが実現したのだ。放映された「エッセイ」も本書にうまくとけこんでいるようだ。とにかく真保氏は文章がすばら しい。小説で は《ホワイトアウト》(新潮社、1995)もよかったが、なんといっても《奪取》(講談社、1996)が好きだ。
●小笠原鳥類さんから処女詩集《素晴らしい海岸生物の観察》(思潮社)をいただいた。小笠原さんは、和合亮一氏がプロデュースする詩の批評サイト《いん・ あうと》に二篇の吉岡実論を発表している。吉岡実の場合、作品を丁寧に読んでいくという論があまり見られないだけに、〈諧 謔・人体・死・幻・言 語――吉岡実のいくつかの詩を読む〉は貴重な仕事だと思う。私は〈桃〉の読解をとりわけ興味深く読んだ。〈「一 瞥」と「幻」――もう1つの「吉岡実の肖像」 のようなもの(城戸朱理『吉岡実の肖像』に導かれるように)〉は、生身の吉岡実に会うことの叶わなかった世代の、 熱い文章だ。1919年生まれの詩人を愛読する1977年生まれの詩人の存在は頼もしい。
●吉岡実が再刊を希んだ村松嘉津の《新版 プロヴァンス随筆》(大東出版社)の新装版が出た。新刊案内に曰く「南仏の食と文化を語る。旧漢字・旧仮名表記」。なお、装丁クレジットはない。新版と元 版を比較した私の〈村松嘉津《プロヷ〔ワに 濁点〕ンス隨筆》〉は お読みいただけただろうか。
●秋元幸人さんからエッセイ〈吉岡実の食卓〉を掲載した《三田文學》〈特集・食と文学〉をお送りいただいた。標題はむろん吉岡の詩〈ポール・クレーの食 卓〉を踏まえているが、秋元さんの一連のエッセイの中に置けば、本篇は〈吉岡実と土方巽〉の気配もある。ぜひとも、城戸朱理さんの〈食物誌〉〈桃〉(《吉岡実の肖像》所収)と併せて 読まれたい.。
●《現代詩手帖》8月号に書評〈生と詩の方法を明かすポルトレ――城戸朱理『吉岡実の肖像』〉を執筆した。前回の紹介文〈城戸朱理著《吉岡実の肖像》が刊行〉よ りも書きこんだので、お読 みいただけるとありがたい。
●去る7月18日、アクセス数が5,000を超えた。サイト内のリンクも有機的に働きはじめているので、「本文のない吉岡実全集」をめざして、いっそう努 力したい。


編集後記 20(2004年6月30日更新時)

●前回予告した吉岡実の未刊行詩篇につい て〈吉岡実の未刊行詩三 篇を発見〉を書いた。吉岡実の変名と思しい作者による俳句三句・短歌二首は本文を掲げたので、それぞれご判断いただきたい。《占領 期雑誌目次データ−ベース》に「内外の様々な分野の近現代研究者やリサーチャーがこのデータベースを使って新しい分野を切り開くこと が期待され る」とあるが、本稿が〈吉岡実詩集《静物》 稿本〉以来の新規性 ある内容になっていれば、たいへん嬉しい。
●城戸朱理さんの《吉岡実の肖像》が刊行された(《最 近の〈吉岡実〉》も お読みいただきたい)。十年来の待望の書で、待っただけのことはある。私は6月4日に落掌できたが、限定版のため入手しにくい向きもあろう。直接申込は版 元のジャプラン(〒890-0056 鹿児島市下荒田1-17-7 電話099-251-3783 ファクス099-251-0735)まで、ハガキかファクスで。東京なら、池袋の西武書籍館 3Fの詩の本の店・ぱろうる(電話03-5949-2879)で手に入りやすい。
詩集《僧侶》解題を 執筆した。《僧侶》の函写真は奈良原一高写真集《王国》の改定版(朝日ソノラマ、1978)に加えられている。連作〈沈黙の園〉は1958年9月、富士 フォトサロンの個展で発表されているから、吉岡はそこで観たのかもしれない。いま開催中の氏の日本初の回顧展(7月11日まで、東京都 写真美術館)は、半世紀に及ぶ活動を展示して圧巻である。残念ながら、件の写真は出品されていないけれども。


編集後記 19(2004年5月31日更新時)

●五月三一日は吉岡実の命日だ。 毎月末に定期更新作業を終えると、さて次はなにを書こうかと、企画案をメモしたノートをめくってあれこれ思案する。「さすが に五月は更新するページがいつもより少し多いか」程度に考えていたが、実際に執筆を始めると、トップページは当然のこととして、〈最近の〈吉岡実〉〉と評 釈を除くすべてのページを更新することになった(リンクをはっただけのページもあるが)。歿後一四年の吉岡実の作品と人物を考えるよすがになれば、と思 う。
●前回予告した〈吉岡実著書解題〉は独立したページではなく、〈吉岡実書誌〉の該当する著書の末尾に掲載した。まだ詩集《静物》解題詩集《サフラン摘み》解題だ けだが、継続して執筆したい。吉岡実が生前刊行した単行詩集は全部で一二冊。第八詩集《サフラン摘み》が三一篇であることから、詩集を一二箇月に、詩篇を 日にちに割りふった〈吉岡実詩日めくり〉を夢想したことがあった(第二詩集の《液体》は二八篇ならぬ三二篇)。詩集の解題なら、その扉といったところか。
●《静物》以前に吉岡実が発表した詩二篇と皚寧吉の筆名で発表した詩一篇が、GHQが収集した雑誌から発見された(このサイトを開設して以来、最大の ニュースである)。これで吉岡実が生前に発表した詩は、計二八四篇になった。詳しい紹介文は今回の定期更新に間に合わず、まず《吉岡実年譜〔作品篇〕》の一九四七年 と一九四八年の項に初出の情報を掲 載した。詳細は、次回の〈〈吉岡実〉を語る〉までお待ちいただきたい。


編集後記 18(2004年4月30日更新時)

●さる四月一五日は吉岡実の生誕八十五周 年だった。 その日は心静かに《吉岡実全詩集》をひもといた。私は検索の便のために同書の各詩集の扉にポストイットを 貼っているが、最も浩瀚な《サフラン摘み》がその中央に位置するのを見るたびに、この詩集こそ〈吉岡実〉の分水嶺をなしていることを実感する。遠からず 〈吉岡実著書解題〉を書きおろすつもりだが、まず取りあげるべきは詩集《サフラン摘み》である。
●今回は吉岡実の「名前」について、文章をふたつ書いた(〈「吉 岡實」 から「吉岡実」へ〉 〈吉 岡実の俳号〉)。 戦前の吉岡を「吉岡實」、戦後の吉岡を「吉岡実」と書く立場もありえる。しかしインターネットの検索で「吉岡實」と打ちこむことは稀だろうし、初めて吉岡 さんにお会いしたころすでに「吉岡実」と自著していた事実もあるので、この《吉岡実の詩の世界》では「吉岡実」に統一した(資料関係では、適宜「吉岡實」 を使用している)。
●秋元幸人さんの〈森茉莉と吉岡実〉(《gui》誌・71号)を堪能した。森茉莉と吉岡実は「両者は、しかし、どのような縁故によって結ばれていたのか。 そもそも一個の私の裡にあって、両者は如何なる価値を備えているのか」という想いから書かれた論考だ。見返しに「森茉莉様 1967・9・28夜 吉岡  實」と記された思潮社版《吉岡実詩集》について書きおこされる冒頭から、両者の世界に一気に引きこまれた。〈森茉莉と吉岡実〉は《吉岡実アラベスク》の補遺といった趣だが、秋元 さんは森茉莉以前に北園克衛と吉岡 実、大岡信と吉岡実について書いている。講演〈吉岡実と西脇順三郎〉もぜひ書きおろしの形で読みたい。gui・発行所は田村デザイン事務所 電話 03-3234-9090 e-mail tamura.yu@r3.dion.ne.jp
●現代詩文庫で《続続・吉岡実詩集》が出るという。今から待ち遠しくてならない。


編集後記 17(2004年3月31日更新時)

●私は母の実家、新潟県佐渡郡赤泊村で産 まれたが、そこはこの三月から「佐渡市赤泊」となった。吉岡さんとの歓談のおり、「父は朔太郎と同じ群馬の出で、母 は順三郎と同じ新潟の産だ」と言うと、少しあきれておられたようだ。ただ出生地までは言わなかったので、佐渡について語りあう機会は永遠に喪われた。吉岡 さんにお訊きしたかったことのひとつである。
●神戸の山田哲夫さんは、吉岡実の詩について話すことのできた数少ない知人のひとりだが、このたび映画《Turn over 〜天使は自転車に乗って〜》(野村惠一監督作品)のシナリオとプロデュースを手掛けることになった。今年九月に開催予定の第四回京都映画祭での特別上映も 決定しているという。映画の完成が楽しみだ。山田さん、期待しています。

>> 《Turn over 〜天使は自転車に乗って〜》のサイト

●吉岡実の対談について書くために《吉岡実年譜〔作品篇〕》を 開いたら、入沢康夫さんとの対談の記載が漏れているではないか。それだけではない。金子兜太氏の名が兜子となっているところがあったのにはあきれた。赤尾 「兜子」を先に単語登録したので、それを呼び出したまま直しわすれたに違いない。すぐさま修正したことは言うまでもない。自戒の念を込めて記しておく。


編集後記 16(2004年2月29日更新時)

●このところ西脇順三郎全集を読み、 併せて吉岡実や田村隆一が西脇に捧げた詩を読んでいる。かつて一度だけ西脇の講演を聴いたことがある。晩年の西脇は契沖 について延延と語った。不明なことに、話の内容はちっともありがたいと思わず、ただこれがあの《Ambarvalia》を書いた詩人かと見とれていた(今 なら《旅人かへらず》の詩人だと思うだろうが)。講演が終わると若い男の学生が演壇に駆けより、西脇の著書に署名してもらっていたのを思い出す(私はそん なことさえ想いつかなかった)。その後、ギヨーム・アポリネールについての小さな本をお送りしたところ、丁寧な返事をちょうだいした。二十数年前のことで ある。
栃 折久美子さんによる吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》のルリユールの写真を追記掲載することができた。同書は手許にないどころか、ぜひ 観たいと想い つつ今もって未見の稀覯資料なので、《DTPWORLD》誌にお願いして転載許可をいただいた。記して同誌編集部に感謝する。津田淳子さん、どうもありが とう。
●たびたび書くようで気がひけるが、資料的なページ(書誌や参考文献目録など)の追記・訂正箇所はとくに明記していない。よって以前にご覧いただいたペー ジとの差異の有無は、ページ冒頭の「最終更新日」でご判断いただきたい。ちなみに今月は、書誌も参考文献目録もそれぞれ数箇所にわたって追記・訂正を行 なっている。


編集後記 15(2004年1月31日更新時)

も ろだけんじ句集 《樹霊半束》を全文掲載した。〈もろだけんじ句集《樹霊半束》のこと〉に いろいろ書いたので、こ れ以上は触れない。備忘のために、もろだけんじ歌集《通奏低音》を〈国立国会図書館 NDL-OPAC(書誌 詳細表示)〉から引くが、字体は原本の表示に改めた(ちなみに「文芸空間」などという出版者は存在しない)。

請 求記号  KH377-268
タ イトル  通奏低 音 : もろだけんじ歌集
責 任表示  もろだ けんじ著
出 版地  東京
出 版者  文藝空 間
出 版年  1985.9
形 態  80p ; 22cm
注 記  表紙の 書名:BASSO CONTINUO
注 記  編集: 小林一郎
注 記  限定版
入 手条件・定価  1500 円
全 国書誌番号  86057202
個 人著者標目  もろ だ, けんじ ‖モロダ,ケンジ
NDLC  KH377
NDC(8)  911.168
本 文の言語コード  jpn: 日本語
書 誌ID  000001818343

●資料検索にとって、インターネットの存 在は頼もしい(資料そのものは、別途探索しなければならないが)。今回、吉岡実が出席した座談会(〈悪しき時を生きる現 代の詩〉)を新たに〈吉岡実年譜〔作品篇〕〉に掲載できたのも、珠州書店のサイトのおかげである。記して感謝する。
●1月25日の夜、NHKテレビ・衛星第2で《BSセレクション トレッキングエッセイ紀行》を観た。番組の題は〈紺碧に浮かぶ古代の大自然〉。小説家の真保裕一さんがギリシア・クレタ島を四日間にわたってトレッキング し、番組のためにエッセイを書きおろしている(見事な文章なので、ぜひエッセイ集に収録してください)。クレタ島に行ったことのない私にとって、たいへん 興味深い内容だった。〈サフラン摘み〉の詩人が映像でクレタの海と山を観たら、どんな感想を洩らされただろうか。


編集後記 14(2003年12月31日更新時)

●〈吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評 釈〉は〈低 音〉を掲載し、余すところ詩篇〈弟子〉のみとなった。〈弟子〉は《無限》の西脇順三郎特集号に寄せられたため、二箇月に一度評釈を掲 載してきた今 までよりも執筆に時間がかかるだろう。その後は、未掲載になっている過去の評釈を順次改稿していきたい。
●叶真紀さんから〈僧侶〉論をいただいた。大学の紀要等に発表された吉岡実論も《吉 岡実参考文献目録》に 掲載したいので、ページ作成者までご連絡いただけ るとありがたい。
●〈編集後記12〉でご紹介した《河原枇杷男全句集》の出版元である序曲社について、複数の質問をいただいた。書店で注文しようにも、連絡先がわからない とのことだった。〈編集後記12〉に住所を追記し たので、入手を希望される向きはそちらに お問い合わせいただきたい。
●多難な2003年が暮れようとしている。明2004年も、本サイトをよろしくお願いいたします。


編集後記 13(2003年11月30日更新時)

●本サイト《吉岡実の詩の世界》を開設し て、満一年が経った。その間、少しずつだがコンテンツも充実してきた。制作面で直接間接にお力添えをいただ いた方はもちろん、サイトをご覧いただいた方方に深く感謝する。
●「なにか一周年記念企画を」とも考えたが、日ごろ気になっていた画像データ(全部で約140点)のうち、手許にあるほとんどの資料を再撮影した(追加し たものも何点かある)。《吉岡実書誌》の書影が大半であ る。
●差し替えまえの写真は複写台とライトで撮影した。このときは、デジタルカメラの特性を活かせなかった。今回は三脚を使用し、デジカメによる撮影(自然 光)とスキャナの併用で、まずは満足のいく写真になった。
●画像は基本的に常設展示で、各ページの冒頭にはページを象徴する写真を置いている。新稿を掲載するうちによりふさわしい置き場所が出てくることもあり、 今回、記事との関連を考慮して移動したものがある。
●画像制作のための作業環境を記しておく。デジタルカメラはパナソニックのLUMIX DMC-LC5、スキャナはキヤノンのCanoScan 5000 F。画像はAdobe Photoshop Elementsで補正し、ページ制作はAdobe GoLiveで行なっている。
トップページの標題の紫色は詩集《薬玉》(装丁吉岡)の表紙や詩集《赤鴉》(装丁亜令)の袋の紫から、全 ページのバックグラウンドカラーの 「Azure」は吉岡実の詩篇〈青空(アジュール)〉から、それぞれ採っている。
●サイト内でのリンクも当初よりは多めに張っているので、閲覧しやすくなったと思う。ただ本サイトの場合、コンテンツが相互に関連するといえばすべてが関 連するわけで、「なんでもかんでもリンク」は避けた。
●開設時の総ページ数(A4での印刷換算)が約一三九ページ、現在約二四三ページで、ほぼ一・七倍である。今後も《〈吉岡実〉を語る》 《〈吉岡実〉の本》 《吉岡実詩 集《神秘的な時代の詩》評釈》を中心に新稿を掲載してい予定だ。
●いまのところ新たにページを作る計画はない。《吉岡実詩集 《神秘的な時代の詩》評釈》を早めに脱稿して、かねて予告の〈吉岡実言及書名・作品名索引〉にとりかかりたい。二〇〇四年秋の国立国 会図書館の 「新装開店」が待ち遠しい。
●現在、《吉 岡実の詩の世界》 ゲストブックがページ作成者からのお知らせのようになっている。ページをご覧になった感想や、ご要望、「こんな資料が掲載されていな い」等のご指 摘をいただけるとまことにありがたい。
●八月一一日のゲストブックに「本サイトを開設して4箇月たった2003年3月の定期更新のときにカウンターを設置したが、ここにめでたく、閲覧者の数が 1000を突破しました」と書いた。現在、二〇〇〇をカウントしたところだ。


編集後記 12(2003年10月31日更新時)

●河原枇杷男さんから「八冊の句集併せて七三〇句を録」した《河原枇杷男全句集》(序曲社〔〒665-0022 兵庫県宝塚市野上1−2−7〕、2003年9月23日)を頂戴した。巻末の《阿吽》に次の一句を収める。
 実忌や手帖に貘の住所など
未 刊句集《阿吽》は「『喫茶去』〔一九九七年序曲社『河原枇杷男句集』所収〕以降の句を蒐めて、終の一集とするもの」(同前、一七四ページ)で、引用句のほ かにも「薄氷のしづけさ表現論として学ぶ」、「濁世の灯恋しと来しやげじげじも」、「冬深む鱶の泳法夢みては」といった吉岡実詩を想起させる句が見える。 河原さんは一九六七年、吉岡実・塚本邦雄・高柳重信・永田耕衣(なんという顔触)の推輓で俳句評論賞を受賞しているが、吉岡には〈枇杷男の美学〉という文 章がある。今回、改めて処女句集《烏宙論》(1968)からの全句業を堪能した。河原さん、どうもありがとうございます。
●この六月に出た宮澤壯佳《池田満寿夫――流転の調書》(玲風書房)を読みおわった。宮澤さんに依れば、満寿夫最晩年の陶彫《土の迷宮》シリーズは、吉岡 実が池田に捧げた詩篇〈草の迷宮〉の返礼のように捧げられたものらしい。私は国会図書館に行くたびに池田の巨大なレリーフコラージュを観るのを楽しみにし ているが、いつか池田満寿夫美術館(長野・松代)に行ってみたい。


編集後記 11(2003年9月30日更新時)

●新稿(資料ではなく文章の方)は、事前 にどうチェックしてもアップ後の修正が必要になる。前回の〈聖少女〉評釈のページをダウンロードされた方 は、今回更新のそれと差し替えてご使用ください。細かな点を修正しているので。
●ついでながら、年譜や書誌、参考文献目録などの資料のページでも、最終更新日がサイトの最終更新日と同じ場合(今回なら「2003年9月30日」)、 データ上の、あるいは体裁上の修正を加えているので、ご注意いただきたい。
●昨9月29日、調べものがあって国立国会図書館に行った。システム更新のためだろうか、入退場や資料の出納の管理が手作業になっていた(来年の秋までと のこと)。国会議事堂を見ながら帰ったが、落雷の痕を修理中だった。


編集後記 10(2003年8月31日更新時)

●〈わが馬ニコルスの思い出〉に続いて〈聖 少女〉の評釈を書きおろした(Blaue Katzeさん、ありがとう)。一篇一篇の内容はもちろんだが、今はスピードを大切にしたい。一九六〇年代末の吉岡実は、年に数篇のペースで詩を発表して いたのだから。
●今後の計画を書けば、次回の〈コレラ〉のあとは、〈低音〉そして〈弟子〉で全一八篇の《神秘的な時代の詩》の評釈を終了する予定だ。一九九〇年に吉岡さ んが亡くなって、追いたてられるようにして書いていたが、その後は失速に近い状態が続いた。
●このサイトに新稿を書くという強制力でも働かさなければ、なかなか手離れしない類の文章なので、《吉岡実の詩の世界》に資料性を期待される向きには申し 訳ないが、あと何回か《神秘的な時代の詩》の評釈にお付きあいいただきたいと思う。


編集後記 9(2003年7月31日更新時)

●今回は吉岡実詩集《静物》の稿本につい て書いた。吉岡 は《僧侶》以降、詩篇の浄書を陽子夫人に頼んでいたから、自筆の詩稿は貴重である。その、精密な復刻版の刊行を夢見る。
●吉岡さんとお会いするのは、決まって渋谷・道玄坂の喫茶店トップだった。あるとき《静物》を所有していると言うと、入手経路の話になった。歿後まもない 鮎川信夫宛の《静物》と《僧侶》を田村書店で見つけたが、即座に《静物》の方を買ったと答えると、それはよかったと頷かれた。確か五万五〇〇〇円だった。 その後、古書店の店頭でも目録でも《静物》を見ていない。
●《現代詩手帖》の〈現代詩のキーワード〉が〈インターネットの影響〉(横木徳久編)と題して「〔……〕詩関連サイトにも書誌的な詩人サイトが増えてき た。宮澤賢治、三好達治、山村暮鳥、富永太郎、中原中也など近代詩人をはじめ、田村隆一、吉岡実などの有意義なホームページがある。〔……〕有益な詩情報 を提供するインターネットそのものは今後も充分に期待できる。」(2003年8月号、一二〇ページ)と概括している。
●Googleで「吉岡実」をウェブ検索すると、この《吉岡実の詩の世界》が最初に登場するようになった。ありがたいことだ。ちなみに私が用意した本サイ トの紹介文(八〇字バージョン)は「小林一郎が調査・著述・作成する、詩人・装丁家吉岡実の人と作品を研究するページ。吉岡実の著書を資料面から補完し、 鑑賞と研究に資する。年譜・書誌・参考文献目録ほか」である。


編集後記 8(2003年6月30日更新時)

●懸案だった詩集《神秘的な 時代の詩》評釈のページを新設した。今回書きおろした評釈〈わが馬ニコルスの思い出〉以降は、なるべく定期的に執筆を続けたい。な お、バックナン バーの評釈は内容的に改稿を要するため、現時点では本サイトに掲載しない。どうかご了解いただきたい。
●前回まで画面表示できない漢字は「〓」(ゲタ)にして「〓〔ニワトリ〕」のように直後の〔 〕内に読みを添えていたが、今回からは「雞 〔ニワトリ〕」のようにユニコード文字を挿入して画面表示した。これでウェブページの印刷もできるはずだ。ただし、(ソースをご覧いただけばおわかりのよ うに)テキストデータは「&#x96de; 〔ニワトリ〕」であり、シフトJISでは漢字として表示できない。
●評釈の執筆に時間を取られたので、今回は〈〈吉岡実〉の「本」〉を休載する。


編集後記 7(2003年5月31日更新時)

●五月三一日は吉岡実の祥月命日だ。昨 年、十三回忌に遅れること半年後の一一月末、本サイトを開設したのだった。半年経った本サイトを、これからも よろしくお願いいたします。
●今月、秦恒平理事の推輓で日本ペンクラブに入会し、電子文藝館(評論・研究)に〈吉 岡実の長篇詩〉と題して〈波よ永遠に止れ〉について書いた。《〈吉岡 実〉を語る》の内容を敷衍しているので、併せてお読みいただけるとありがたい。
●次はいよいよ、詩集《神秘的な時代の詩》評釈に戻らなければならない。〈わが馬ニコルスの思い出〉が私の帰りを待っている。待ちつづけている。


編集後記 6(2003年4月30日更新時)

句集《奴草》が出た。おそらく吉岡実最後の単行 本になるのではない か。内容については、《赤鴉》と 違って市販されているから、各人が読むに如くはない。造本面で気づいた点を記す。まず書名・著者名を「吉岡実/句集/奴草」と三行にしているのが目を引く (本扉は函の箔押し文字を縮小したものか)。次に、帯の句が色紙に白で刷ってあるようで不思議だ。帯紙を外してみると、裏は白。OKミューズコットンと見 えたのは印刷によるものだった。しかも二色(以上)で刷ってある。表紙の鳥のカットと見返しの紫色は《赤鴉》からの援用である。亜令の装丁は、細部まで見 事だ。
●平井英一さんから、父君・平井才一さんの情報を いただいた。平井さん、どうもありがとう。
●前回更新時に〈ゲス トブック〉を新設した。ご意見ご感想など、記入いただけるとありがたい。【追記:無用の書きこみが頻発したので、現在閉鎖中です。】


編集後記 5(2003年3月31日更新時)

作 成中の〈吉岡実言及書名・作品名索引〉のページについて一言する。これは、吉岡実が書きのこした文章(一部、談話)に登場する本や作品を列挙・索引化しよ うとするものだ。構想はずいぶん前からあって、一度は原稿を書きはじめたのだが、吉岡の文章の底本をどうするかでつまずいてしまった(出典の表示方法)。 その後、未刊の散文は仮に《吉岡実未刊行散文集》に依ることにしたので、この問題は一応の解決をみた。しかし「どうせ二次情報を編むのなら、自分自身が使 いやすいものを」と欲ばって、国立国会図書館の請求記号を挙げようとしたあたりから迷走がはじまった。吉岡が実際に手にした刊本をどう特定するか、という 問題である(手沢本の特定)。底本の前後の状況を見ながらの作業になろうが、〈吉岡実言及書名・作品名索引〉完成までにはしばらく時間がかかりそうだ。
今回は長篇詩〈波よ永遠に止れ〉の本文に ついて書いた。シリーズだった 放送詩集での音源をまとめて、NHKあたりがCD化してリリースしてくれないものだろうか。


編集後記 4(2003年2月28日更新時)

《〈吉岡実〉を語る》のページに本に関する話題が増えたので、《〈吉岡実〉の 「本」》という新しいページを作って、そちらにまとめた。〈吉岡実の装丁作品〉も、写真つきで継続して書いていきたい。
今回〈吉岡実書誌〉に加えた日伊対訳詩集《Sei Budda di pietra》は、同書の編・解説担当の中島史典さんからお頒けいただいた。中島さんによると、同書は本国イタリアでも好評で、続編 のアンソロ ジーも計画中という。吉岡実のイタリア語訳詩集が生まれたら、なんとすばらしいことだろう。


編集後記 3(2003年1月31日更新時)

安原顯さんが亡くなった。「bk1」とは 別のサイト用だったが、仕事で氏に書評の原稿を依頼したことがあった(中原中也の書簡集や村上春樹の短篇連 作などを紹介していただいた)。新しくて、いい作品に対する熱い想いには打たれた。秋元幸人さんの《吉岡実アラベスク》の 書評に「詩人に初めて会ったのは一九七〇年代初頭、文芸誌「海」に移籍して間もない頃だった。勤務先の筑摩書房に彼を訪ね、近くの喫茶店で話したと記憶し ている。とても気さくな人柄が気に入り、以来、年一度の「現代詩特集」には、必ず作品を寄稿してもらった。」(www.bk1.co.jp、〔2002年 8月13日〕)とある。 安原さんはまた、吉岡の「アリス詩」と関わりの深い種村季弘著《ナンセンス詩人の肖像》(竹内書店)の編集者でもあった。ライター としては「読んだ、聴いた、書いた」その後半生であろう。ご冥福をお祈りする。


編集後記 2(2002年12月31日更新時)

ウェブサイト《吉岡実の詩の世界》を開設 してひと月になる。紀田順一郎さんをはじめ、この間にご覧いただいた方に感謝する。
開設前には入念にチェックしたつもりだったが、アップしたページを一閲覧者として見てみると細かな不備があった。ハイパーテキスト面は措いても、データの 誤りは救いがたい。開設時のページをダウンロードされた方は、最新の更新時のそれと差し替えてご使用いただきたい。
本文でも触れたが、サイト開設後、書肆山田のご厚意により《ポー ル・クレーの 食卓〔私家版〕》を借覧できた。林哲夫さんからは同書の製函製本担当・須 川誠一氏所蔵本の写真をお送りいただいた。大泉さん、林さん。どうもありがとう。
2003年には、吉岡実の句集もまとまるらしい。待ち遠しいかぎりである。


編集後記 1(2002年11月30日開設時)

このウェブサイト《吉岡実の詩の世界》 は、私が今までに刊行してきた以下の吉岡実関連の資料の誤りを正したうえで再構成し、その後の調査結果を加味 したものを骨子としている。

  1. 吉岡実年譜
  2. 吉岡実書誌
  3. 〔吉岡実〕参考文献目録

これらはあとがきである〈〈吉岡実〉を探 す方法――年譜・資料を作成しながら〉とともに、一九九一年刊行の《現代詩 読本――特装版 吉岡実》巻末に資料として掲載された。

《現代詩手帖》一九九五年二月号には、上記の年譜・書誌・参考文 献目録のその後の分をま とめた〈吉岡実資料――「現代詩読本」版・補遺〉とともに〈吉岡実未刊行散文リスト〉を掲載した。同誌は野村喜和夫・城戸朱理・守中高明、三氏の鼎談 〈「戦後詩」と吉岡実〉(のち《討議戦後詩》所収)や 吉岡の未刊行散文の再録などもあって、充 実した特集号だった。

しかし〈吉岡実未刊行散文リスト〉は私と しては満足のいく水準ではなく、そのことは同年五月刊行の《吉 岡実全詩篇標題索引》という、より内容的に満足のいく(ただし吉岡の散文ではなく詩篇を対象とする)リストを私に作成させることに なった。この 《吉岡実全詩篇標題索引》は、翌一九九六年刊の《吉岡実全詩集》の 制作において、筑摩書房編集 部が《現代詩読本》掲載の資料とともに参看している。

散 文のリストを補綴する機会はなかなか訪れなかった。そこへ一九九九年の夏、文藝空間の創刊同人であり川端文学研究会の理事でもある原善から中国・長春での 日中合同の川端文学研究のシンポジウムに誘われた(私は同会には所属していない)。長春はいうまでもなく戦前の満洲・新京であり、吉岡が輜重兵として一九 四一年末から二年あまりを過ごした地である。

こうした機会でもなければ、出不精の私が 長春を訪れることはなかっただろう。それを記念してDTPで《吉岡実未刊行 散文集》を編み(むろん現在も未刊)、同書の巻末に〈初出一覧〉を付すことで、吉岡 の詩篇以外の文章をリスト化するという積年の課題を果たした(《吉岡実未刊行 散文集 初出一覧》の ページを参照のこと)。

このウェブサイト《吉岡実の詩の世界》 は、これらや《吉岡実全詩集》を反映した《吉岡実全詩篇標 題索引〔改訂第2版〕》の成果を踏まえ、さらに最新の情報を盛りこもうとするものである。サイトの開設に到るまでの経緯について触れ ておこう。

私は現在、吉岡実の詩集《神秘的な時代の 詩》全篇の評釈を書きつづっているが、いかんせん、関係資料のメンテナンスに頭を痛めていた。そんなおり、 紀田順一郎氏の《インターネット書斎術》の次の件に衝 撃を受けた。
「文学者に関する情報の基本は、詳細で信頼の置ける経歴、年譜、書誌であるはずだが、これらサイト〔ファンが運用する勝手サイト≠ネど〕の多くはごく簡 略な、見方によってはお座なりな情報しか載っていない。少なくとも、従来の紙の事典の引き写しで、オリジナリティにも新鮮味にも乏しい。インターネット上 の情報は、典拠としてそのまま使うことはできないことが多いのである。」(紀田順一郎《インターネット書斎術》、筑摩書房、2002、六四ページ)
これに対する私の回答が本サイトであると言えば、大袈裟にすぎるだろうか。

《吉岡実の詩の世界》は私自身の使い勝手 を第一としているため、資料関連のファイルがそうとう長尺であるといった不便があろう。しかし、この種の情 報は検索して利用するのが本来の姿だから、閲覧される方はどうかその点を諒とされたい。

も とより一個人による調査・著述・ウェブサイトの構築であるから、誤りや遺漏は避けがたい。関連する資料を永年にわたってストックしてきたとはいえ、いや、 それゆえに錯綜する部分も多かろう。資料は随時、更新していきたいので、吉岡実の人と作品を愛する方からのご指摘をお待ちしている。

資料の閲覧では、以下の各館にとりわけお 世話になった。記して謝意を表する。
国立国会図書館(東京・千代田)、日本近代文学館(東京・目黒)、県立神奈川近代文学館(神奈川・横浜)、日本現代詩歌文学館(岩手・北上)、早稲田大学 図書館(東京・新宿)、俳句文学館(東京・新宿)、大宅壮一文庫(東京・世田谷)、東京都立日比谷図書館(東京・千代田)、新宿区立中央図書館(東京・新 宿)、中野区立鷺宮図書館(東京・中野)、中野区立中央図書館(東京・中野)、練馬区立貫井図書館(東京・練馬)、練馬区立練馬図書館(東京・練馬)、ほ か。

最後になったが、吉岡陽子さんをはじめ、書肆山田の鈴木一民さん、大泉史世さん、筑摩書房の間宮幹彦さん、さらに《現代詩読本》で資料執筆の機会を与えられた思潮社の当時の編集者・大日方公男さんと吉岡実詩の編集者でもあった同社社主・小田久郎さんに心から感謝する。

2002年11月30日

文 献表

  1. 平出隆 監修《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991年4月15日
  2. 《現代詩手帖》、思潮社、1995年2月号〈特 集・吉岡実再読〉
  3. 小 林一郎 編《吉岡実全詩篇標題索引》、文藝空間、1995年5月31日
  4. 《吉 岡実全詩集》、筑摩書房、1996年3月25 日
  5. 野村喜和夫・城戸朱理《討議戦後詩――詩のルネッ サンスへ》、思潮社、1997年1月25日
  6. 小 林一郎 編《吉岡実未刊行散文集》、未刊(ただし編集および編者本の制作は1999年に了)
  7. 小 林一郎 編《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第2版〕》、文藝空間、2000年12月31日
  8. 紀田順一郎《インターネット書斎術》、筑摩書房・ ちくま新書331、2002年2月20日

《吉岡実の詩の世界》 編集後記 了

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