〈吉岡実〉を語る〔承前〕(小林一郎 編)

最終更新日 2021年9月30日

吉岡実の手蹟〔詩篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿〕を入口に掲げた改築前の編者の書斎 吉岡実の手蹟 〔詩篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿〕
吉岡実の手蹟〔詩篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿〕を入口に掲げた改築前の編者の書斎(左)と同・手蹟(右)


目次

本ページ《〈吉岡実〉を語る〔承前〕》には、《〈吉岡実〉を語る》の〈吉岡実全詩篇〔初出形〕(2019年4月30日)〉に続く記事を載せてあります。ひとつのファイルとしては長くなりすぎたので、すでに別ページとしてある〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉(A4判縦位置で印刷すると、約294ページ)より後を切り分けました。〔承前〕たる所以です。なお本ページの〈目次〉は、《〈吉岡実〉を語る》の冒頭に掲げてあります。他のページと同様、標題の下にカット写真がないとさびしいので、《〈吉岡実〉を語る》と同じ2点のカット写真を、左右を入れ替えて配置してあります。(2021年5月31日)


〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会【#15】〜【#16】(2021年9月30日)

吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉の1980(昭和55)年の項から、適宜引用する。
「五月、拾遺詩集『ポール・クレーの食卓』初版八五〇部、書肆山田より刊行。六月、再版八〇〇部刊行。七月、八木忠栄の編集で随想集『「死児」という絵』思潮社より刊行。「現代詩手帖」十月号で増頁特集・吉岡実。十月、宗左近夫妻、柴田道子、妻〔陽子〕と奈良国立博物館で正倉院の宝物を観る。県立美術館、興福寺の国宝館、骨董屋巡り。」(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996、八〇三ページ)
吉岡の〔自筆〕年譜に見える《良寛展》がないかわりに、「〔奈良〕県立美術館、興福寺の国宝館、骨董屋巡り。」がある。同行した妻による証言であり、貴重だ。また、興福寺の国宝館では、1967年秋に(偶然の機会で)初めてまみえた阿修羅像との再会を果たしたことだろう。

 昭和五十五年 一九八〇年 六十一歳
【#15】三越本店で、良寛展を観る。天上大風。〔展覧会のタイトルは《没後百五十年 良寛展》〕
◆BSN新潟美術館・毎日新聞社(編)《良寛展図録》(毎日新聞社、c1980〔年7月29日〕)/東京会場=東京三越美術館、会期=1980年7月29日(火)〜8月10日(日)◆
【#16】秋、正倉院拝観展などを観て、宗左近夫妻、柴田道子と金沢へ廻る。
◆《正倉院展目録》(奈良国立博物館、c1980〔年10月26日〕)/会場=奈良国立博物館、会期=1980年10月26日【日】〜11月9日【日】◆

参考までに、のちの吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉「一九八〇年(昭和五十五年) 六十一歳」の項に見える展覧会関係の文を引く(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996年3月25日、八〇三ページ)。
【#15】〔記載なし〕
【#16】十月、宗左近夫妻、柴田道子、妻と奈良国立博物館で正倉院の宝物を観る。

【#15】BSN新潟美術館・毎日新聞社(編)《良寛展図録》(毎日新聞社、c1980〔年7月29日〕) 〔展覧会のタイトルは《没後百五十年 良寛展》〕

図録口絵の凧文字〈天上大風〉は、〈目次〉にも掲げられたみごとな作品(個個の作品は、通常、目録などで網羅的に記載・紹介されることはあっても、目次に掲げられることは稀である)。

 良寛遺墨の中でもただ一点の凧字[たこじ]として有名なもの。これを蔵していた東樹家の主人が、嘉永六年鈴木文台に書いてもらった由来書も一幅中に合装されている。由来書によると、燕という町(現燕市)に托鉢中の良寛に、一人の子供が凧を作るのだからと頼んで書いてもらったものだという。
 この字をみていると、いかにも凧文字らしい瓢々たる趣があって、もの[・・]になりきった書芸をみる。紙は黄紙[きがみ]という加茂市七谷産の強く丈夫な和紙が使われている。乙子神社時代の作品であろう。(宮栄二もしくは小島正芳執筆の〈解説〉、本書、二二〇ページ)

良寛の「乙子期」は、文化13年〜文政9年(59歳〜69歳)。「乙宮[おとみや]の森の下屋[したや]のしづけさに/しばしとてわが杖移しけり//朝夕の急な山坂の登り降りが老いの身にこたえたことと五合庵が老朽化したこともあって、文化十三年(一八一六)良寛は、乙子神社の草庵に移り住んだ。ここでの十年間の生活は、良寛芸術が最も円熟・高揚した時期で、その書は点を多用するなど一層多彩な変化をみせるようになる。」(同前、五六ページ)。
また「文〔政→化〕十三年良寛は、五合庵より少し麓に下った乙子神社傍にある庵に移り住むようになる。ここに住庵すること十年、良寛の書境は一段と多彩な変化と深度をまして行き、円熟した書風が築かれる。特に文政三、四年頃からの、良寛の書は、自由で明るい、いわゆる良寛調≠ニもいえる瓢逸[ひょういつ]な趣をもったものになる。〔……〕このような書風になったのは、良寛の心境が明るく最も安定していたことが大きな要因であろうが、変化にとんだ懐素の「千字文」や「王義之法帖」を学んだことも影響していると思われる。」(同前、二一五ページ)。
書聖・王羲之(〔303〜361〕)に関しては、佐藤春陵の夢香洲書塾を手伝った若き日の吉岡も、当然ながらその書風を学んだだろう。私は吉岡実装丁の骨格にこの「書」があると見る者だが、書に詳しい装丁家や評論家(あるいは装丁に詳しい書家)がその観点から吉岡の装丁を論じてほしいと熱望する。

唐木順三(1904〜1980)は、吉岡実の自筆年譜に筑摩書房に入社して知ったとあるだけだが、むろんその著書には親しんだことだろう。臼井吉見と山本健吉が監修した〔日本詩人選〕の唐木順三《良寛》(筑摩書房、1971年1月25日)にこうある。

 曾剃鬚髪為僧伽 曾て鬚髪[しゆはつ]を剃つて僧伽[そうぎや]となり
 撥草瞻風有年斯 撥草[はつさう]瞻風[せんぷう]、斯[ここ]に年あり
 而今到處供紙筆 而今[にこん]、到る處紙筆を供へ
 只道書歌兼書詩 只道[い]ふ、歌を書け、兼[ま]た詩を書けと

 この詩においては良寛が、書や詩を求める世人をうるさがつてゐることがうかがはれる。と同時に、詩を作り、筆を揮つてゐる己れに對する不満がやや自嘲の趣で述べられてゐる。然し書を求める世人を単にうるさしとしてゐたわけでもない。例の「天上大風」と誌して風鳶[たこ]を作らうとする子供に與へたものの如きは、その書風から見ても嬉々として筆を揮つたやうに思はれる。(〈良寛における歌と書〉、同書、二五七〜二五八ページ)

BSN新潟美術館・毎日新聞社(編)《良寛展図録》(毎日新聞社、c1980)の表紙 同書〔口絵〕の凧文字「天上大風」
BSN新潟美術館・毎日新聞社(編)《良寛展図録》(毎日新聞社、c1980〔年7月29日〕)の表紙(左)と同書〔口絵〕の凧文字「天上大風」(右)

【#16】《正倉院展目録》(奈良国立博物館、c1980〔年10月26日〕)

【参考】特別展《虚空に遊ぶ俳人 永田耕衣の世界》(会場=姫路文学館、会期=1996年10月4日〜11月24日)図録の表紙
【参考】特別展《虚空に遊ぶ俳人 永田耕衣の世界》(会場=姫路文学館、会期=1996年10月4日〜11月24日)図録の表紙

特別展《虚空に遊ぶ俳人 永田耕衣の世界》(会場=姫路文学館、会期=1996年10月4日〜11月24日)が開かれたのは、私が結婚した年の秋だった。その秋、関西に旅して(春の新婚旅行は箱根)、二人そろって姫路城を観たあと、私は耕衣展まで脚を延ばしたものだ。幸運なことに、旅行中に毎年恒例の《正倉院展》が奈良国立博物館で開かれていた(吉岡が同展を観た16年後である)。同展もさることながら、興福寺の仏頭(レプリカ?)が記憶に残っている。
さて、1980年の《正倉院展》で展示されたなかで最も目を引いたのは、《正倉院展目録》の解説に〈52 紅牙撥鏤棊子[こうげばちるきし](染象牙の碁石) 五枚/53 紺牙撥鏤棊子[こんげばちるきし](染象牙の碁石) 五枚〉(各径1.6、厚0.8〔cm〕)とある北倉の宝物だ。下に掲げた写真のキャプションは図録のそれを引いたものだが、前掲解説とは、番号と色の表示が入れ替わっている。どちらが正しいのだろうか。モノクロ写真のため、色がわからないのが残念だ(インターネットで画像検索してみると、カラーの写真が数多くヒットする)。大勢には影響がないので、解説に従って右が〈52 紅…〉、左が〈53 紺…〉としておく。解説本文の前半を引こう。

 白と黒が一組となるように、これも紅牙と紺牙を一組にして使用した。
 まず象牙で碁石形をつくりこれを紅色と紺色の二種に染め分けたのち、いずれも両面に撥鏤(はねぼり)の手法で花喰鳥をあらわし、更に紅染めには白緑と黄、紺染めには赤と黄の彩色を点じて華麗な碁石に仕上げている。(本書、四八ページ)

この「花喰鳥」、詩集《薬玉》(書肆山田、1983)の(普及版=紫色の表紙に金で、特装限定版=貼函の紺色の布にやはり金で箔押しした)あのカットの鳥を想わせないだろうか。翔ぶ向きは反対だけれども。掲載写真はスキャンした元の解像度のまま縮小してあるので、ウェブブラウザで拡大表示して、細かい点までじっくりとご覧いただきたい(花喰鳥の姿が左右紺紅で微妙に異なるのも見所だ)。《薬玉》の表紙の用紙が「イタリア製の深みのある色合いの紫色」(城戸朱理)なのは――紺と紅を混ぜると紫!――単なる偶然だろうか。

《正倉院展目録》(奈良国立博物館、c1980)の表紙〔仏具は「42 赤地鴛鴦唐草文錦 Fragment of a Buddhist Banner」〕 「52 紺牙撥鏤棊子 Blue-Stained Ivory <i>Go</i> Pieces/53 紅牙撥鏤棊子 Red-Stained Ivory Go Pieces」
《正倉院展目録》(奈良国立博物館、c1980〔年10月26日〕)の表紙〔仏具は〈42 赤地鴛鴦唐草文錦 Fragment of a Buddhist Banner〉〕(左)と図録の図版キャプションに従えば「52 紺牙撥鏤棊子 Blue-Stained Ivory Go Pieces/53 紅牙撥鏤棊子 Red-Stained Ivory Go Pieces」 〔図録の解説にあるように、正しくは右側5枚が〈52 紅牙撥鏤棊子〉、左側5枚が〈53 紺牙撥鏤棊子〉だろう〕(右)

〔付記〕
吉岡実・陽子夫妻が奈良国立博物館で正倉院の宝物をともに観た宗左近・香夫妻だが、宗左近(1919〜2006)とくれば「骨董」である。宗自身は吉岡の骨董についてさほど多くを語っていないが、そのあたりのことは城戸朱理の〈骨董〉(《吉岡実の肖像》、ジャプラン、2004)も参照しながら、いずれ詳しく見ていきたい。


《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉【その5】――大野一雄さんの巻(2021年9月30日)

(司会担当:高橋睦郎さん)

 今日こうやって出ていただいているかたは、必ずしも初めからちゃんとお願いしているわけではなくて、急にお願いするかたもありますが、なんでも、一言でもけっこうですからおっしゃってください。つぎ、大野一雄さん。

〈わたしの吉岡実〉【その5】――大野一雄さんの巻(1991年10月12日、東京・浅草の木馬亭における《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話)

(大野一雄さん、登壇) 〔仮題:「生きている時だけでなく死んでからもだよ」〕

 階段を昇るときも、よたよたしてしまいます。それでもこうして台に立つと、よたよたもしていられませんから、みなさんの支えも……そういうお話を聞いたときに、なんとなく、先生が一年前に亡くなったというふうに思われないですね。吉岡さんを思いおこすとまだ生きているような感覚のなかで、吉岡さんの話をしなければならない、そんなような感じが非常にあったわけです。吉岡先生……締め切りに間に合わなくて、ぱっぱっぱと置いた(?)というのがありまして、そのときになんとなく……あんまり説明して結論めいたこと……そういうなんか……そんなようなことについて、教えてを垂れる……生きている……まだ。これから……2時間ちかく、初めて……あんまり話ができないといいますかね、……手が縮こまってしまうような……話をして、……そのときだって……そんなような……そういうような縁で……「生きてる……死んでからもだよ」というような声がどこからともなく聞こえてきて、……「死んでからもだよ」というなんとなく伝わってきました。……もう少し……「生きているときだけでなく、死んでからもだよ」――このふたつがいつも心のなかで交錯して……それがなにか、先生が生きているのか、亡くなったのかちょっとわけがわからないような……写真……見ている……くださいと……生きているのか死んだのかわからない、いま、生きています。しかしながら、その境がなんとなく私の場合にはなくなったような気持ちで、……ああ今日は……というところで、みなさんのまえで……お世話になりました。亡くなる直前まで、2時間もがんばってお話を……。

(会場、拍手)

〔付記〕
大野一雄さんは《現代詩手帖》1990年7月号の〔追悼特集・お別れ 吉岡実〕に追悼文〈暈狂う舞を〉を書いている。末尾に「今も生きておられる 吉岡先生に献ぐ」とある〈暈狂う舞を〉(同誌、三〇〜三一ページ)から、適宜引用する。

読まして頂いた御本は気がつかないうちに次々と私の内部に刻みこまれ宝物のように処をも共有しております。時がたつにつれ想いがつのり心が痛みます。いきいきとした先生との対面。先生元気ですか……元気だよとの声が還ってきます。

私は今何を書こうとしておるのだろうか。吉岡先生から頂いた恩恵にただただお礼を申し述べたいのです。私のために書いて頂いた詩は身近かなこととして、まるで母の羊水を飲まして頂いてる様なここちです。

私は御教示を頂いた睡蓮の舞台上で「モネ」に出会いました。出会い度いという想いが「デッサン」を画かしたのです。想いつめた想いがそうする外出会うことが出来ないと想ったからです。

先生のお元気な時『ムーンドロップ』(書肆山田)を隅々まで。出来っこないことは解かっているのに、叶えられないことはわかっているのにだからよけいに隅々にまで触れてみたかったのです。まみれてしまいたかったのです。「生きている時だけでなく死んでからもだよ」。とどちらからともなく伝わってきました。

母がアルヘンチーナが私の中に在っていつも励ましを与えて下さる様に先生はいつも励ましを与えて下さいます。

先生の最後にお会いしたのは四月末(一九九〇年)イタリア公演に出発する直前でした。お休みになっておられたのに起きられ、二時間近くもお話なさいました。ごめんなさい。去り得ないまま奥様の御心使いも頂き三人でお話をいたしました。坐っておられるだけでもいいのに随分と色々のことをお話して頂きました。睡りの中の時間のように想い出そうとしても想い出せません。ごめんなさい。

長居をしてしまって。どうしても去り得なかったのです。初めてのお訪ねでしたが目を輝かしお話して頂きました。

外国での公演の時には先生の詩をプリントしいつも持ち歩いておりました。隅々にまで私の中にプリントして共に舞い度いと願っております。月が暈狂うように

文中の「イタリア公演」は、大野一雄年譜に照らすと、クレモナのポンキエッリ劇場での〈花鳥風月〉のようだ。また、追悼文には(執筆直後の)6月8日・9日に〈睡蓮〉の横浜公演があると書かれている。「幽霊が幽霊と出会うことが出来たらこんな幸なことはない。」(大野一雄)

***

(司会担当:高橋睦郎さん)

 小澤實さんはお見えでしょうか。 

この《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉を収録したテープを見つけだした経緯は〈《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉【その1】――安藤元雄さんの巻〉(2021年5月31日)に書いた。その後、全体を聴きかえすことはせず、毎回、掲載すべき原稿を用意する一方、次回の下書きを進めてきた。ところが、私は怖ろしい失態を演じていたことに気が付いてしまった。大野一雄さんの巻のあと、司会の高橋睦郎さんが小澤實さんの登壇を促したが、小澤さんは現れなかった。私は1991年10月12日のその日、小澤さんはお見えだったのだろうか、などとぼんやり考えていたにすぎない。続けて小田久郎さんの話を聴くともなく聴いていても、この件は憶えている、などとのんきに構えていただけだ。ところが次の落合茂さんの話が始まったとき、私は愕然とした。いや、驚倒した。テープを聴きかえしたこの瞬間まで、私は登壇を促されても現れなかったのは落合茂さんだとばかり思いこんでいた。だがそれは、落合さんではなく、小澤さんだった。私は想像する。会場でカセットテープを回しながら、話に聴きいるあまり、演者の氏名しかメモしていなかったのではないか。そして小澤實さんの名前の脇に「登壇せず」とでも書いたつもりが、何年も経って当日の記憶が淡くなってから、吉岡実の歿後の年譜を記す際に、落合さんが登壇しなかったことになってしまったのではないか。落合さんの話が飛んでしまったのは、おそらく直前の小田さんの話(〔仮題:〈無限賞〉辞退のこと〕)の印象が強すぎて、ハレーションを起こしたせいである。テープが長いあいだ行方不明で、聴きかえせなったことが事態をさらに悪化させた。原因の究明はこれくらいで充分だ。落合さんにはたいへん申し訳ないことをした。生前の落合さんがこのことをご存じだったら、申し開きのしようもない。私としては、落合茂さんの巻を誤りなく掲載することでお許しをいただきたい、と願うばかりだ。したがって、これまで掲げてきた登場人物の一覧の一部は誤りで、

 〔……〕
 大野一雄さん
 小澤實さん(登壇せず)
 小田久郎さん
 落合茂さん
 〔……〕

が事実に即した正しい形となる。訂正を兼ねて、この場を借りて心からお詫びを申しあげる。


吉岡実詩における発想法あるいは「ランダム刺激」としてのスタンチッチ〈死児〉(2021年9月30日)

読書猿の《独学大全――絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法》(ダイヤモンド社、2020年9月28日)が話題だ。だが、これから書くことは独学についてではなく、同じ読書猿による最初の著書《アイデア大全》(フォレスト出版、2017年2月1日)の一項目、すなわち同書の副題にある「創造力とブレイクスルーを生み出す42のツール」のうちの〈06 ランダム刺激〉(同書、四八〜五七ページ)についてである。以下、「 」内は同書からの引用。
著者はまず、項目タイトルの「ランダム刺激」を「偶然をテコに、枠を越える最古の創造性技法」とパラフレーズする。その扉ページにはこうある。「難易度」:5分の1〔5個ある電球のうち、ひとつが点灯〕、「開発者:不明」、「開発者:エドワード・デボノ(Edward De Bone, 1933- )」、「参考文献」:〔……〕。「用途と用例/◎アイデアを生み出すのに躊躇するとき。/◎自分の癖や先入観を避け、あらゆる可能性に発想を広げたいとき。」
私はここでまで読んだとき、これが吉岡実詩における発想法(を下支えする環境づくり)に通じていることにまったく気が付かなかった。だが次の「レシピ」の@〜Cを読むに及んで、吉岡が詩を書くときの流儀そのものではないか、と直感した(註を割愛し、表記〔記号〕を簡略化する)。

@ 問題とは無関係な刺激を選ぶ。
  →◎周囲の物音あるいは目に映るもの。
   ◎注意を引くもの。
   ◎デタラメに開いた辞書や本や雑誌や画集や写真集のページ。
   ◎Wikipediaのお好み検索。
   ◎投げたサイコロや算木[さんぎ]。
   ◎ランダムに引いたタロット。

A 刺激を受け取る。

B 刺激と問題を結びつけて、自由に連想する。

C A〜Bを必要なだけ繰り返す

むろん詩作に際して、吉岡がこれらのすべてを試みたわけではない。だが、「周囲の物音あるいは目に映るもの。」「注意を引くもの。」「デタラメに開いた辞書や本や雑誌や画集や写真集のページ。」に近いやりかたを活用したことは疑いを容れない(*1)。さて、吉岡が自身の作詩法について懐疑的に語ったのが〈わたしの作詩法?〉(初出は《詩の本〔第2巻〕》の〈詩の技法〉(筑摩書房、1967年11月20日)の〔わたしの作詩法〕というパート)だった。つまり編集部の、ご自身の作詩法について執筆してください、という依頼に対して、「わたしに作詩法といえるものが果してあるだろうか、甚だ疑問だと思っている。いかなる意図と方法をもって詩作を試みたらよいのか、いまだよくわからない。それに、わたしは今日に至るまで、自己の詩の発想からその形成に至る過程を、反省し深く検討したり、また自解的なものを書いたこともないのだ。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、八七ページ)と、はなはだぶっきらぼうに始めるしかなかった。しかたがない。実際の作品を挙げて、詩篇の成立を振りかえってみることにしようか――とでも考えただろう吉岡が自作解説を試みたのが、《僧侶》の佳篇〈苦力〉(初出は書肆パトリア発行の《現代詩》1958年6月号)で、同詩は〈わたしの作詩法?〉のなかほどに全行が掲げられている。吉岡は〈苦力〉の引用に続けて「なぜこれをとりだしたかというと、わたしの中で異色ある作品であると同時に、旅先の一夜で出来た唯一のものである。わたしは日常雑多な自分の家で、しかも食卓に向ってしか書く状態にない。」(同前、九二ページ)と書いている。「わたしの中で異色ある作品」とは、従軍時代の満洲での経験を母胎としていることを指すのだろう。実際に吉岡は、この種の詩篇はもちろん、当時をしのばせる詩行を(その体験の重要さ、切実さに比して)ほとんど書きのこしていない。それだけにそれらの意味するものは大きく重い。だが、ここで検討したいのは「旅先の一夜で出来た唯一のもの」ではない、その他、大多数の詩――恒常的な詩――の方である。〈わたしの作詩法?〉のみっつめの段落にはこうある。

 〔……〕わたしは詩を書く時は、家の中で机の上で書くべき姿勢で書く。いってみれば、きわめて事務的に事をはこんで行く。だから彫刻家や画家、いや手仕事の職人に類似しているといえよう。冷静な意識と構図がしずかに漲り、リアリティの確立が終ると、やがて白熱状態が来る。倦怠が訪れる。絶望がくる。或る絵画が見える。女体が想像される。亀の甲の固い物質にふれる。板の上を歩いている男が去る。つぎに「乳母車」の形態と「野菜」という文字が浮び出る。キャベツや玉ネギ、ぶどう、とにかく球形体の実相のみが喚起される。そんな連想をつなげる。どうして女中や赤ん坊が不在なのか? わたしの中の乳母車は沼へ沈むべき運搬用に必要なのだ。そのつぎに愛が来てもいいと考える。それはヘッドライトに照らされた、雨傘の二人の愛を永遠なものだと断定すればよいのだ。しかし意識のながれは誰の中にでも豊かに流れる。それを停止することが困難だ、すなわち文字の一行一行に定着させることが。発生したイメージをそのままいけどることが大切である。

あまりにも人口に膾炙した箇所なので、引用するのも気が引けるが、《静かな家》(1968)や《神秘的な時代の詩》(1974)のころ――というふうに、時期を限定すべきだと私は考える――の自作の詩について、これほど率直に語った文章をほかに知らない。

〔……〕
淋しいホテルの裏口を出ながら
わたしは考える
雨傘のなかの小さな愛を
疾走する自動車のハンドル
左へ左へときられる
     ――詩篇〈滞在〉(E・7、初出は《現代詩手帖》1964年4月号)

〔……〕
円を縮小する方へ
すすむ矢印
沼へ沈みゆけ
老婆の乳母車群
めずらしくむらさき色の
渟る矢印
〔……〕
     ――詩篇〈夏から秋まで〉(F・2、初出は《文学者》1967年8月号)

《アイデア大全》の〈06 ランダム刺激〉には、「サンプル」として二つの「実例」が挙がっている。すなわち「ニュートンのリンゴ」と「ダーウィンの進化論とマルサス『人口論』」である。そして、読書猿による「レビュー」には「*ランダム刺激が現代に残っている理由」として、人類学者のムーアと組織(化)論のワイクの考察――ナスカピ族の〈意思決定〉の次のような利点を列挙する。引用しよう(原文は丸中数字ではなく、すべて◎印だが、説明のために変更させてもらった。)。

@もし失敗しても、誰かに累が(それほどには)及ばない。
A情報が不十分なときでも、決定が下される。
B代替案の間でさしたる違いがないときでも、迷わず決定が下される。
C(資源への負荷が分散することで)ボトルネックが克服されるかもしれない。
D(次の手が読めないため)競争者が混乱する。
E代替案の数が(原理的には)無数になる。
F手順が愉快だ。
G決定は常に速やかに下される。
H特別な技能がいらない。
Iお金がかからない。
Jその過程にケチのつけようがない。
Kファイルやその保管場所がいらない。
L贔屓[ひいき]のしようがなく、どの代替案にも等しい重みづけがなされる。
M解決に至る論争が不要である。
N真の新奇性を呼び込むことができる。
O読み方を変えることによって、ツキを変えられる。
P過去の狩りの影響を受けない。同じ柳の下にドジョウを探す愚――短期的には賢明であっても、長期的には資源を枯渇させる愚かな戦略――を避けることができる。
Q人間や集団が無意識にハマる選好や分析、思考のパターンにも影響を受けない。しばしば野生動物は人より速くそのパターンを見抜き感じ取るので、その裏をかける。

なかでも注目に値するのは、@〜D、G、K〜L、N、P、である。ここで狩猟が中心的な話題なのは、「ネイティブアメリカンであるナスカピ族では、長老はカリブー(トナカイ)の肩甲骨[けんこうこつ]に現れたヒビを読み、狩人たちはそれによって狩りをする場所を決める。ムーアとワイクによれば、ナスカピ族のこの〈意思決定〉は次のような利点をもっている」からであって、詩篇(とりわけ口語による自由詩)という「野生動物」を狩る作詩行為は、いわば自己を無にして、あらゆる偶然性に自己を開き、詩想を呼びこむことで開始される。なおかつ、最終的に「それを停止することが困難だ、すなわち文字の一行一行に定着させることが。発生したイメージをそのままいけどることが大切である」という局面に身を捧げることにほかならない。
「ランダムネスという不確実性をわざと導人することで、不確実性の高い課題に対処するというこのアプローチは、伝統的な工学アプローチとは正反対ではあるが、ワイクによれば、ヒトの認知能力と責任能力を越えた問題解決や意思決定について、しばしば最善の、時として唯一の、解決法となりうる」ならば、作詩とはそもそも反・工学的なアプローチなのだというこの認識は、これまで知られていた事実に新たな光を当てることになるだろう。すなわち、偶然こそが確実であるという、この公案。もとよりわれわれが吉岡実の詩作の工房に立ち入ることはできない。だがそれを仮構することは、あるいは可能かもしれない。独学者(に限らず、広くものごとを探究する者、詩人も含まれる)が成すべき10段階のうち、0→1がいかに困難かは、読書猿がつとに説く処である。

読書猿の《独学大全》には「ランダム刺激」が〈索引〉(実にxxxivページある)に掲出されている。本文を見ると「ポアンカレはインキュベーションによってアイデアが生まれる理由を、休みなく活動を継続する無意識に続きを任せることになるからだと考えていた。現代では別の作業を行うことで、問題に直接関連する以外の情報についても活性化拡散〔註:長期記憶に格納された情報は、その使用頻度が高いほど、また使われたのが最近であるほど、引き出しやすくなるが、これを活性化と呼ぶ。〔……〕活性化は長期記憶のネットワークを伝って広がっていくが、この現象を活性化拡散と呼ぶ。〕が生じること、問題とは関連のないランダム刺激に晒されること、これまでの観点の固着から離脱すること等によることがわかっている。」(同書、一二三ページ)とある。「問題とは関連のないランダム刺激に晒されること」にも扶けられた「インキュベーション」は、読書猿の説明を借りれば「新しい発想が生まれる条件をポアンカレ自身の経験から抽出したもので、生み出したいアイデアについて考え抜いた後、アイデアに関することから離れて別の作業をしたり休息を取ると、アイデアがひらめくこと」(同前、一二二ページ)である。
1958年、《ユリイカ》の編集者・伊達得夫から長詩の執筆を依頼された吉岡が、のちの〈死児〉(C・19、初出は《ユリイカ》1958年7月号)となる詩篇を生んだ背景を

 私には成算がなかったわけではない。「私の戦中戦後」を主題に選んだ。それなら、長く書けようと楽観した。テーマをあらかじめ決めることは、私にとって詩を書くたのしさの桎梏になる。だから私は出来るだけ避けてきたが、今度ばかりは主題を絞り、展開を考えなければならない。私が詩のことで四六時中、頭を悩ましたのはこの時だけだった。(〈「死児」という絵〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、七〇ページ。初出は《ユリイカ》1971年12月号の〔戦後詩への愛着〕)

と書いたように、吉岡はこの主題(と執筆の手順)の臨界に接近すると同時に、ポアンカレの「インキュベーション」=ランダム刺激にくまなく晒されることで、あの〈死児〉をもぎ取ってきた。スタンチッチの絵画〈死児〉(1955)と吉岡の詩篇〈死児〉との関係は、この点からも検討されなければならない。秋元幸人は〈吉岡実と『死児』という絵〉で、「それでは、吉岡実は、何時、何処で、どういうかたちで、『死児』という絵と遭遇しえたのだったか。スタンチッチとは何者だったのか。実のところ問題は、この辺りからして既に曖昧としている。」(《吉岡実アラベスク》、書肆山田、2002年5月31日、二七二ページ)以下、19ページにわたって「好事家のために書き遺す、その詮索の記録を兼ねた我が管見の数々」(同前、二七三ページ)を繰りひろげている(私など、さしずめその「好事家」の筆頭だが)。秋元はそこで、詩篇〈死児〉と絵画〈死児〉、いな、広く吉岡実詩と美術作品による「ランダム刺激」との関係を考察する際の好個の事例を提供してくれた。亡き秋元の「肩の上に立って」そこから先を考えることは、われわれにとって悦ばしい義務である。

「スタンチッチ「死児」1955」
「スタンチッチ「死児」1955」 〔出典:吉岡実《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、口絵〕
下記の文献番号Iの「随筆集『「死児」という絵』増補版巻頭別葉写真」

以上のように書いたところで、秋元幸人が〈吉岡実と『死児』という絵〉で挙げている《みづゑ》1957年7月号と《美術手帖》(同)を入手した。発行はどちらも美術出版社である。ふたつを手許に置きつつ、秋元の〈死児〉論にコメントしていこう。まず、同論で秋元が言及した文献(吉岡実の筆になる詩文を除く)の書誌を〈死児〉論の本文と註から抜き書きするが、あえて引用された文献の原典に当たらなかった。末尾の( )内の数字は《吉岡実アラベスク》の掲載ページノンブル。なお漢数字や括弧類の表記は秋元のものを尊重したが、書誌として成立するように秋元の文言を入れ替えた箇所がある(Hの(279)分など)。〔 〕内は小林による補記である(*2)

@「みづゑ」一九五七年七月号(通巻第六二四号)特輯「民族と絵画・第四回日本国際美術展から」 (273)
A「美術手帖」同年同月号「特集・第四回日本国際美術展・ピカソ版画展」 (274)
B瀬木慎一「転換期の美術/第四回日本国際美術展/イギリス、ドイツ、オーストリア、ユーゴスラビア、スイスの作品」「毎日新聞」一九五七年五月二十六日。 (294)
C瀧口修造「第三回日本国際美術展」一九五五年。〔出典の記載なし〕 (294)
D難波田龍起〔の「みづゑ」掲載文〕〔標題の記載なし〕 (276)
E井上長三郎〔の「みづゑ」掲載文〕〔標題の記載なし〕 (277)
F「芸術新潮」(新潮社発行)一九五七年七月号 (277)
G富永惣一・田近憲三・河北倫明・岡本謙次郎・瀬木慎一等の座談会「國際美術展ベスト・テン」〔「芸術新潮」一九五七年七月号掲載〕 (277)
H田近憲三が「美術手帖」一九五七年七月号に発表した『死児』の鑑賞=田近憲三「作品解説A・海外作家の部・〈ユーゴスラビア〉・スタンチッチ」「美術手帖」一九五七年七月号(一部誤植を訂正して引用した)。 (279)=(295)
I随筆集『「死児」という絵』初版外函・増補版巻頭別葉写真 (285)
J随筆「『死児』という絵」の初出雑誌「ユリイカ」一九七一年十二月号七十五頁〔の単色の複製〕 (285)
K遺稿集『私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実』一九九六年。 (285)=(295)
L高橋睦郎「鑑賞」『現代の詩人・1・吉岡実』。 (295)
M「現代詩手帖」一九七八年十月号の特輯「戦後詩の10篇」の「アンソロジー・自選による戦後詩の10篇」の欄 (290)

手始めにHの「一部誤植を訂正して引用した」という訂正箇所の内実を見よう。秋元は自身の文でスタンチッチの絵の標題を『 』で括っているが、それに合わせて田近文のスタンチッチ作品の「 」表記を『 』に改めている。文言面では、田近の「少い」「歌い出す」「思出」をそれぞれ「少ない」「歌いだす」「思い出」と改めた(ふたつめは、あるいは誤記・誤植か)。「時代の廃頽や疲労にまで通じる病的な神経をみせがちなのに反して、」の「廃頽」(道徳や気風がすたれおとろえること)を「荒廃」(あれはてること)と改めたのは、秋元のいう「誤植の訂正」を超えた「校閲」ではあるまいか。引用に際して一言あってしかるべき箇所だと思う。だが、私がここで重視したいのは、田近文の第四段落(「この画家はそのほかにも「バラスディンの通り」という街景を描写して、霧の間にかい間みた――というよりも夢でみた何処かの街でもあるような静かな描写を試みているが、その夢幻的な閑寂はこの「死児」の画面にもあらわれている。」という一文)の末尾に第五段落の冒頭(「画面は単調な卵黄の低い灰色につつまれている。」)を追い込みで続けてひとつの段落にしている処である。私はここに、秋元がほとんど無意識の裡で行った作業に、この「単色の複製」の彼方に彩色の施されている「スタンチッチ 死児 1955/M. Stancic Dead Child」をなんとかして観たいという欲望、飢えのようなものを感じる。私もまたその飢渇を覚える一人だからである。しかしながら、原画を毎日新聞社主催《第四回日本国際美術展》(会場=東京都美術館、会期=1957年5月23日【木】〜6月15日【土】)で観なかっただろう吉岡実と同様、秋元幸人は雑誌や吉岡の随想集のモノクロ図版でしか観ることができなかった(*3)。秋元はスタンチッチ〈死児〉をこう読み解いた。長いが、重要な箇所なので略さずに引く。

 『死児』の実寸は、前にも記した通り、57×72センチ、すなわちほぼ四対五の比率を有している。画家はこの縦57センチをほぼ五等分して、下から五分の一のところに、画面を左右に貫く水平線を引き、これより下をテーブルの上板とした。テーブルの向こう側ほぼ中央には、今度は画面の奥に向けてもう一つ、やや丈が高く細長い台が置かれている。ここは写真から判断する限り極めてもどかしいところなのだが、どうやら台の両端からは細い腕木の様なものが手前のテーブルに向かって伸びてきており、その腕木の向かって右側の下部は装飾的に刳り抜かれている。そういう台が、テーブルと共に画面一杯に大きな三角形を成しているのである。この三角形を手前上方から見下ろすところ、視点はそこに設けられている。これがこの絵のパースペクティヴである。テーブルの上には、左から言って、背面に取り付けた脚を引き出すことで卓上に据え置けるようになった鏡、おそらくは一輪の花と見えるもの、そしてそれら二つのほぼ中間に、画面の手前外から奥へと向かって伸びた一本の棒状の物体が有る。死児を乗せた台の腕木に呼応するかのようにアール・ヌウヴォー風に三方が刳り型に波打った鏡は、画面正面に対してほぼ四十五度の角度に置かれ、その鏡面には画面右側の壁に有るとおぼしき窓からの街景が明るく宿っている。この絵の光源は、従って、画面の右側に在る。鏡に映ったその窓の隅の一点、ここからほぼ画面半分の高さまで対角線が引かれ、その頂点から再び画面右下の隅にまで下ろされた対角線が形作る二等辺三角形の内部に、奥に伸びた台はすっぽりと填るように位置し、その上に、死児の横たわる寝棺らしきものが据えられている。つまり四対五の長方形の中に、その五を底辺とし、四の内の二の長さまでを高さとする二等辺三角形が、頂点をやや右にずらして納まり、その三角形の等しい二辺の輪郭は、死児の身体に掛けられて左右に垂れ下がった布きれ、言うまでもなく長篇詩「死児」第T章第一行で吉岡実が《よだれかけ》と見なしたものの稜線と重なって、更に頂点には小さな死児の頭部が重なる、というかたち、そしてこの頂点のやや下、つまり丁度死児の眼の高さ辺りが、パースペクティヴの消失点となるかたちである。基本的な構図は極めて安定している。
 二等辺三角形に外接した左側には、今度は画面上部から下に五分の一ほど下がった高さまで、正面を向いた男が描かれている。これが、おそらくは、死児の父親である。そのやや左側、男の胸元の高さまで、もう一人の人物が立ち、こちらはプロフィールを見せながら寝棺を乗せた台上に右手を突いて、まともに光源に顔を向けている。男よりはやや華奢な頭の形から、これは女、すなわち死児の母親なのだろうと察せられるわけである。実は彼女の立っている位置は画面の奥に伸びた台の一番手前の端とおぼしく、一方死児の頭部の在る位置はその同じ台の一番奥の端とおぼしいのだが、両者の間の空間はぐっと凝縮されて描かれたため、一見すると二人は顔と顔とを見合わせているようにも見える。顔。こんな具合に描かれたスタンチッチの『死児』を前にして私が最初に指摘しなければならなかったのは、まさに顔をはじめとしたこの人物たちの形態の細部に就いて、だった。ここに描かれた三人の人物たちはいずれも明確な表情を付与されていない。彼等は、例えば彫刻の粗削りの段階にでも在るかのように、単純な眼鼻の在処を最小限にぼんやりと示しているだけなのだった。この表情の欠落を補うかのように、死児の傍らに立った夫婦は画面最も奥の壁面左側にくろぐろと意味有りげな影を流しているのである。尤も人物ばかりではない、ここではテーブルも台も死児の寝棺も、おそらくは鏡の上部と台の腕木の刳り形の線以外は悉くが、描写を避けた単純な直線と曲線に拠る立体に還元されて表わされている。そこから導かれたのが「明暗のコントラストを基調にした作品でそれで構成なんかキュービズムみたいなやり方」という瀬木慎一の評価だった。そして、田近憲三の文章に拠れば、以上の全ては「単調な卵黄の低い灰色につつまれている」らしいのだった。(《吉岡実アラベスク》、二八二〜二八五ページ)

秋元が「「美術手帖」一九五七年七月号と「みづゑ」一九五七年七月号、及び随筆集『「死児」という絵』初版外函・増補版巻頭別葉写真に加えて、同名の随筆「『死児』という絵」の初出雑誌「ユリイカ」一九七一年十二月号七十五頁に掲載された、いずれも粗悪といってよい五種類の単色の複製に眼を凝らす限り、私に解ることはここまでである。しかし、第四回日本国際美術展の会場に実際に足を運んでこの絵に接したわけではなかった以上、どうやら吉岡実が看破しえたものもおそらくはこれと幾らも変わらなかったことだろうということは考えられる。」(同書、二八五ページ)と歎いたように、スタンチッチ〈死児〉は長らくモノクロ図版でしか観ることができなかった。だが、歳月というのはただ無情に流れるだけではなかった。私はこのほどスタンチッチ〈死児〉が美術館に展示されている(と思しい)カラー写真を画像検索することができた。もとより原画を観ていない私には、色調を特定できない。使用する画像ソフトが推奨する3種類の色調(下図のA・B・C)に変換して掲げるが、オリジナルの画像は「https://keineahnung.tistory.com/57」でご覧いただきたい。なお「Miljenko Stancic Dead Child」で画像検索すると、ヴァリアントと思しい〈dead child〉(ザグレブ近現代美術館蔵)がある。これがあのリュシアン・クートーそこのけの、とげとげの人物(死児の母親?)と襤褸のような「よだれかけ」を配しているのは、いったいどうしたことだろう(「https://www.flickr.com/photos/mrshultgren/6066438880」参照)。吉岡はこちらの〈dead child〉を知る由もないのだから、「偶然」という発想はほんとうに怖ろしい。

スタンチッチ〈死児〉〔A〕 スタンチッチ〈死児〉〔B〕 スタンチッチ〈死児〉〔C〕
スタンチッチ〈死児〉〔A〕(左)、同〔B〕(中)、同〔C〕(右) 〔同じ画像データにそれぞれ色調修正を施した3種類〕

美術館の壁面の色(おおむね無彩色)を考慮に入れると、〔A〕(左)か〔C〕(右)が実際の色調に近いように思える。さて、元の画像を掲載したページの本文(美術館の訪問記と思しい)はハングルで書かれていて、残念ながら私は独力で判読できない。次善の策として、Google翻訳を通して大意を汲んだ。筆者はそこで、絵画と画題(および絵画の解説)の関係について考察している。彼/彼女は、クロアチア南部のスプリット(ダルマチア郡の主都、アドリア海東海岸の小さな半島に位置する)に滞在した最後の日、狭い旧市街を回って、もう一度観ようとして入った美術館(記載はないが、スプリット市立博物館か)で、多くの興味深い作品のなかでも記憶に残る作品のひとつ――Miljenko Stancicの作品――のまえに立つ(Miljenko Stancic(1926〜1977)はユーゴスラビアの画家・グラフィックアーチスト。英語版Wikipediaを機械翻訳すると、カタカナ表記は「ミルジェンコ・スタンチッチ」となるが、過去の邦文資料には「ミリエンコ・スタンチッチ」とある)。どうやらスタンチッチの作品は美術館の作成する図録(があるのかもよくわからないが)に解説が記されていないようで、筆者は画面になにが描かれているかをめぐって煩悶する。
「まず、「タイトル」を表示にする。タイトルは作家の意図が完全に介入したこと命名に役立つを受けていない以上の作家のものであることに違いない。この作品では、「Dead Child」と命名された。「死んだ子供」は、画像に登場する3人のうち一人である可能性がありますが立っている二人を考えると、揺りかごに横たわっている赤ちゃんが「死んだ子供」である確率が高い。もちろん、ここで考慮すべきことは、会話はいつも「真実」を言っていない点である。非現実的な作家であれば、反転を持っているかもしれない。(SF級、シックスセンス級ではないだろうが)、人と人との間に錯視のように隠されているかもしれないということだ。とにかく、このような可能性を除けば、この作家は「死んだ子供」を見に来たいくつかの二人の姿を暖かいトーンで描いたものである。(このような点に持ち越さ個人的に「Untitle」を最も好まない)」(Google翻訳)。
画像(筆者が撮影したものだろう)が掲げられている以上、それをことばでなぞることしていないのを不審に思う必要はないが、鏡や死んだ鳥の意味する処がなにかは、ぜひ触れてほしかった。私がこの絵をカラーで観て最初に驚いたのは、秋元が「おそらくは一輪の花と見えるもの」としてとらえたのが、頸を伸べ羽を拡げて横たわる一羽の鳥(カササギにしては羽の先まで黒い)だったことだ。もちろんスタンチッチがこの「卵黄の低い灰色」(田近憲三)と茶褐色をベースにしたほとんどモノトーンの画面に白と黒の鳥と、白と灰色の鏡を配したについては明確な意図があったに違いない。その内実を明らめることができないにしろ、そのことに触れずに「ここまでが作品を鑑賞して、約30分以上、その前に立って考えた画像とタイトルの関係だ。」(Google翻訳)としめくくる筆者の証言を、筆者の思考の航跡を、私は惜しむ。

思わぬ寄り道をした恰好だが、秋元幸人も吉岡実も観ることがかなわなかったスタンチッチ〈死児〉のカラー図版の紹介ということでお許しいただきたい。〈吉岡実と『死児』という絵〉に戻ろう。同論の最後で、秋元は詩篇〈美しい旅〉(C・16、初出は詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日、執筆は1958年)の中ほどを(さらに中略のうえ)引用してから、次のように書く。

これは、事によれば、例の《啓示!》にも通じる身構えを承けて一つのヴァリエーションとして書かれた、「死児」を補強する側面をも持った詩だった。生きながら《魔の使い》を受けたことから終には《人類ののろわれた記憶》が編み上げた徒ならぬ《荊冠》をも戴かざるを得なかった身に自ら許したエゴティズム(egotisme)の記録、《だれの敵でも》《味方でもな》かったと今は望見出来る遠い日の自我の礼讃。長篇詩「死児」の紙背に見透かすべきは、《違和も羞恥》も承知の上の、そういった精神性を帯びた求道者に近い姿勢だったようなのである。図らずも《死んだ者たちの習慣》をよく《熟知する》に及んでいた吉岡にとっては、こうして「死児」の執筆は一つの《孤独な儀式》に耽るにも等しく、これを《なじ》ることは誰にも許せないことだったのだ。(《吉岡実アラベスク》、二九一ページ)

秋元の〈死児〉論は、繰りかえせば、吉岡の詩篇〈美しい旅〉に言及して終わる。私はこの〈吉岡実と『死児』という絵〉(初出は《ユルトラ・バルズ》Vol.5、1999年7月、原題は〈吉岡実と死児という絵〉)の初読のときから、秋元の炯眼に感服していた。ここで想い出にふけることを許してもらうなら、私は秋元さんから毎回、初出誌《ユルトラ・バルズ》を恵投いただいていた。そのつど感想を認めたが、たしか本論で「版型」と記されていたのを、版はversionで、この場合はsizeの判だと書いたように思う。「判型」はプロの書き手でも間違うことが多い用語で、読書猿《独学大全》(名著である)にも「版型」とあるのは惜しまれる(たしか2箇所)。編集や校正の段階でもチェックすべきだった。閑話休題。だが、今回の探索でほんとうに驚いたのは、吉岡も秋元もそこでスタンチッチ〈死児〉を観ただろう《美術手帖》(1957年7月号)に、次の図版が掲載されていたことだ。

「カルズー 美しい旅 130×195cm 1955」 「カルズー 美しい旅 1955 130×195cm      Carzou  Le Beau Voyage」
「カルズー 美しい旅 130×195cm 1955」 〔出典:《美術手帖》1957年7月号、二二ページ〕(左)と「カルズー 美しい旅 1955 130×195cm      Carzou  Le Beau Voyage」 〔出典:《みづゑ》1957年7月号、五一ページ〕(右)

カルズー(Jean Carzou、1907〜2000)に吉岡が言及したことはない。ましてや、吉岡の詩篇〈美しい旅〉とカルズーの絵〈美しい旅〉を並べた文章は、私の知るかぎり、存在しない。《美術手帖》1957年7月号〔特集・第四回日本国際美術展〕は、別丁の微塗工紙全面を費やして、モノクロ口絵にカルズーの絵〈美しい旅〉を掲げ、対向の本文ページ全面を東野芳明の〈解説〉に充てた。その扱いは、1ページに図版も解説も押しこめられたスタンチッチとは段違いだ。二人がこれを観なかったはずがない(しかも、大判の《みづゑ》同年同月号には、カラーで掲載されている)。秋元がカルズーの絵〈美しい旅〉に触れなかったのは、あるいは吉岡の顰に倣ったためか。

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(*1) 吉岡は大岡信との対話〈卵形の世界から〉(《ユリイカ》1973年9月号〔特集=吉岡実〕)の「言語彫刻の現場」で次のように語っている。

吉岡 〔……〕ぼくが詩を書く場合、頼まれてから一カ月が最良の期間なの。一カ月のうち二十日間は遊ぶわけよ、心の一点にとめて。あとの四、五日が陣痛期。
大岡 死にもの狂い。
吉岡 というか、半狂い……。だから締切の十日ぐらい前から、そこらで雑誌読んだり本読んだり、ちょっと気を引くものを読む。でこんど原稿用紙に向う、それで、まあわりと一気に書いてる。だけど書いても、直さない。というのは、あんまり考えすぎてはいけないんだ。詩は自分で考えて書くんだけれども、あるところから、神がかりというか、与えられることばが出てくる感じがする。その最初に出てきたことばをできるだけ大切にしたい。そう思うから、自分で書き直すことをしない。それをしたら、別の考えがまたそこで入ってきて純度がなくなってしまう。そこで、うちの奴に清書を頼み、自分を空白にして待つ。そうすると荒けずりの原初的な詩の草稿が出来上るわけよ。それに手を入れていく作業を続ける。それを三回ぐらい繰返して最後の三日ぐらいでひとつのものを完成させる。だからきみが言った、早くできてんじゃないかってのは、まさにそうだ。詩は、最初の一行からあんまり考えていっては動きがとれなくなるんだ。研ぎすまされた言葉の併置だけじゃ、その詩は動き出さないと思う。つまらない詩の行が、骨を包む肉のように挾まることが詩を柔軟にして、真のリアリティを保有させることになる。とぼくは信じている。とはいっても、まあ単純なんだよね。(同誌、一五五ページ)

日数配分の説明の処はいくぶん端折った気味があって、これも談話だが、〈審査の感想(俳句)――創刊十周年記念全国大会 録音盤〉(《俳句評論》78号、1968年3月)ではより詳しく語られている。

 まあ、根本的にいって、詩の書き方にはいろいろありますけど、永田〔耕衣〕さんが、さっき言ったように、偶然を持つ作家は偉大であるということ、まさにこれなんで、これは日夜、勤勉しても駄目だろうし、勤勉の暁に、一つの偶然にぶつかるかもしれない――。僕なんか詩を書く場合、僕は非常に変ってまして、家のチャブ台――、私はいま机がありませんので、狭いから無いんで、買えば買えるんですけど、いちばん狭い1DKに住んでるんで、チャブ台で書いてますけど――。僕は詩を書くという場合は、非常に姿勢をはっきりしまして、たとえば、あるところから詩を頼まれると、期間は長ければ長いほどいいんですが、だいたい一ヵ月以上前に頼まれないと――。なにも詩には一ヵ月なんぞかかってないんで、毎日あそびくらして、パチンコやったり、映画へ行ったり、それで詩は書かなくちゃいけないなあと、たえず気にはしている。気にしていて、だいたい一週間ぐらい前から、いよいよ締切りが迫った――、詩を書かなくちゃいけないと、机に向い、ぜんぜん違ったものを読む。絵の本を読んだり、何かして、そこから三日ぐらいで、すべて書いてしまう。ものを作るという姿勢――、俳句作家の方は少し違うと思いますけど、僕ははっきりした、ものを作る姿勢というものを、非常に大事にするんです。ものは作らなくちゃいけない。ものは手作りだという、はっきりとした意志をもって作ってゆく。(同誌、二四ページ)

吉岡のパチンコ好きは、詩人仲間でも有名だった。陽子夫人によれば、勤務先の筑摩書房で吉岡を知った1954年ころは、会社の帰りに毎日にようにパチンコ屋に寄っていて、1959年に結婚してからは真直ぐ帰宅するようになったが、日曜日には近くのパチンコ屋に行っていたという。そして、手打ち式でなくなったとき(全国的な電動ダイヤル式ハンドルの解禁が昭和48年)、パチンコ屋通いをやめたとのことだ。件の昭和48年、吉岡が54歳を迎えた1973年は、吉岡実詩にとっても画期を成した年だった。のちに《サフラン摘み》(1976)に収められる9篇――マダム・レインの子供(1月)、聖あんま語彙篇(2月)、『アリス』狩り(5月)、サフラン摘み、ピクニック(7月)、田園(9月)、動物(10月)、わが家の記念写真、フォーサイド家の猫(11月)――が書かれたのである。吉岡はパチンコの鉄の玉の感触を愛でながら、これらの珠玉の詩篇を生みだしたのだった。吉岡実詩における第二のピークをなす詩集《サフラン摘み》の、わけても峨峨たる山脈を構成するこれらの詩篇を。

杉山一夫《パチンコ〔ものと人間の文化史 186〕》(法政大学出版局、2021年6月25日)のジャケット
杉山一夫《パチンコ〔ものと人間の文化史 186〕》(法政大学出版局、2021年6月25日)のジャケット 〔巻末〈パチンコ年表 文学〉に吉岡実に関する記述が4箇所ある〕

(*2) 秋元幸人が〈吉岡実と『死児』という絵〉で挙げた文献で、スタンチッチの絵〈死児〉の公開時に図版を掲載したのは文献番号の@とAだけなので、秋元は両者を比較検討したうえ、吉岡が詩〈死児〉を書く刺激となったのはAの《美術手帖》だったと推論する。おそらくそれは正しい。スタンチッチの〈死児〉をめぐる言説における中心的な美術評論家の二人、瀬木慎一(1931〜2011)と田近憲三(1903〜1989)のうち、秋元は瀬木を高く買っているようだが、Aの《美術手帖》掲載の田近の鑑賞文は、校訂までしてその全篇を引いて注意を喚起しているのだ。だが秋元は、吉岡が〈「死児」という絵〉で「或る日、美術雑誌を見ていると、奇妙な絵があった。それには(スタンチッチ 死児一九五五)と小さく印刷されていた。啓示! とはおおげさだが、私はこの時「私の戦中戦後」を「死児」という題名で書くことにしたのである。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、七〇ページ)と書いた、「奇妙な絵」を掲載した美術雑誌が《みづゑ》なのか、《美術手帖》なのか、断定しなかった。私はこうだと思う。
――吉岡は1957年7月以降のある日、習慣的に美術雑誌《みづゑ》(624号)を手に取った。筑摩書房が資料として定期購読している雑誌である。今号の特集は〔民族と絵画〕、「第4回日本国際美術展から」とある。会場は東京都美術館、会期は5月23日から6月15日まで。そういえば、会社の業務が多忙で観にいけなかったなあ、と呟きながら、ぱらぱらとページを繰る。奇妙な絵がある、〈死児〉。「死児之齢」、「死児の齢を数える」か……。時は流れ、翌1958年5月初め、ユリイカの伊達得夫と神保町の喫茶店ラドリオでウインナ珈琲を啜っていたら、長詩を書けと頼まれた。400行は厳しいので300行にしてくれと答えた。しかし今まで100行を超える詩を書いたことがないし、不安はつのるばかりだ。数日経って伊達の処へ行き、200行にまけてもらった。さて、主題に設定した「私の戦中戦後」を書くのにどうしたものか。ふと書棚を見ると、美術雑誌を切り抜いて貼った「奇妙な絵」がある。〈スタンチッチ 死児 1955〉。これだ! しかしスタンチッチとはいったい何者だろう。〈死児〉というのは何。《みづゑ》の巻末には美術出版社の雑誌の別刷A5判の新刊案内が載っている。《美術手帖》の特集には「作品解説A海外作家の部」としてスタンチッチが紹介されているらしい。よし、明日の昼休みにでも駿河台下の古書肆源喜堂を覗いて、バックナンバーを探してみよう。古書街なら会社から歩いてすぐだ。かくして、《みづゑ》に続いて《美術手帖》が手許に揃った。――以上は、吉岡の随想や談話を基に私が想像した一幕だが、ここに吉岡自身による貴重な証言がある。長詩〈死児〉を再録した日本文芸家協会(日本詩集委員会)編《日本詩集》(書肆ユリイカ、1960年1月10日)に付した〈作品ノート〉である。未刊の散文につき、〔 〕内に校訂を施して全文を引く。

 「死児」には制作の苦悩と、ひとりの女への愛を深めた思い出がある。それは一九五八年〔八→五〕月二十三日の夜だ。画家Oの家に「死児」の下書きを持って、彼女と共に泊った。ぼくだけ板敷の小部屋で「死児」の完成をめざした。彼女はOの家族とアトリエで遊んでいた。むしろ待機しているのだ。詩の一聯が出来ると彼女を呼び浄書をたのんだ。鉛筆がきの原稿で他人には判読できぬようなものを、彼女は要領よくまとめた。翌日の夜までに最終の一聯をのこすのみになった。彼女の小さい字劃によって、自分の詩をみることに一種の清涼感と冷静さが保てた。それから一週間ほど苦しみ、〔九→六〕月六日の暁に最終の聯ができた。一睡もしなかったがいまさら眠れない。かつてない感動と昂奮のうちに鶏の鳴くのを聞いた。浄書をしてくれる彼女が側にいないのが歯がゆかった。彼女が片っぱしから浄書してくれなかったら、「死児」はもっとぼくの手入が加えられ、別のものになっていたろう。(同書、二二九ページ)

〈断片・日記抄〉の「〔昭和三十三年〕六月十五日 ユリイカ七月号出来。長篇詩〈死児〉掲載。失敗作かも知れぬが、独自な問題作と自負する。みずからを祝す。」(《吉岡実詩集〔現代詩文庫〕》、思潮社、1968、一一七ページ)を見てもわかるように、吉岡が〈死児〉を書いたのが8月から9月にかけて、ということはあり得ない(〈詩篇〈死児〉の制作日〉参照)。ちなみに1958年5月23日は金曜日、6月6日も金曜日。6月15日は日曜日。「画家O」は太田大八、「彼女」は翌1959年5月に結婚することになる同僚の和田陽子。〈断片・日記抄〉には、よく金曜日に練馬の太田家に泊まりに行ったことが出てくる(このあたりのことは、やや異なった視点、角度から随想〈「死児」という絵〉にも書かれている)。当時、吉岡の下宿のあった江古田は、西武池袋線で練馬駅の隣の隣、池袋寄りの学生街である。

左は《みづゑ》1957年7月号・66〜67ページの見開き 〔右ページの下段がスタンチッチ〈死児〉〕、右は《美術手帖》1957年7月号・27〜26ページの見開き 〔左ページがスタンチッチ〈死児〉と田近憲三による解説文〕
左は《みづゑ》1957年7月号・66〜67ページの見開き 〔右ページの下段がスタンチッチ〈死児〉〕、右は《美術手帖》1957年7月号・27〜26ページの見開き 〔左ページがスタンチッチ〈死児〉と田近憲三による解説文〕
吉岡が美術雑誌から切り抜いてテープで貼りつけていた印刷物は、グラビア版の《みづゑ》のそれであって、凸版で網点の目立つ《美術手帖》のそれではなかったと考えられる。

(*3) 《日本国際美術展》の包括的な研究書に、日本近現代美術史の山下晃平による《日本国際美術展と戦後美術史――その変遷と「美術」制度を読み解く》(創元社、2017年12月20日)がある。《日本国際美術展》の第1回(1952年)から終焉を迎えた第18回(1990年)まで、本文や資料で幅広く言及しているが、本書にはスタンチッチも〈死児〉も登場しない。なお本稿で挙げた以外の文献として、雑誌《三彩》1957年7月号があるが未見。《日本国際美術展と戦後美術史》では、同展に触れて〈第三章 「日本国際美術展(東京ビエンナーレ)」再考/第二節 「日本国際美術展」の構造とその役割/3 「民族性」を批評する舞台の形成〉で、《みづゑ》の表紙書影を掲げて、富永惣一〈美術と民族〉、岡本太郎〈民族性と世界性〉を引用したほか、他のタイトルとして、針生一郎〈伝統と前衛――前衛こそは伝統の担い手である〉、宮川寅雄〈美術における民衆〉、林武〈美術に見る民族の体質〉、植村鷹千代〈日本画壇の位置〉を紹介している。そのあと山下は、

 これらの言説は、岡本太郎が特に強く指摘しているが、批評のベクトルが単なる世界水準へ向かうのではなく、常に日本という場の問題、言説によれば風土や民族性への志向性を内包していた。当然、実際にはどうであったのかという問題があるが、五〇年代はまだ海外の作家・作品を充分に鑑賞できるような環境ではなく、一九五一年に東京・大阪の高島屋で「ピカソ展」(読売新聞社主催)が開催され、さらに東京国立博物館で「マティス展」(読売新聞社主催)、そして毎日新聞社による「サロン・ド・メ日本展」が開催され、ようやく海外作家の作品が入り込んでくるようになった時期だ。同時に、主要な美術雑誌が創刊され始める時期である。このような美術界の再生期に「日本国際美術展」は誕生し、海外作品と日本の画壇全体とが、言わば正面衝突する場を生み出した意義は大きい。(同書、七二〜七三ページ)

と総括している。なにやら当時から20年後、1970年代初めの英米ロックミュージシャンの来日ラッシュを彷彿させるが(もっともビートルズはすでに1966年に来日している)、そちらに関しては太下義之〈来日ミュージシャン・ラッシュの礎となった大阪万博〉に詳しい。山下の《日本国際美術展と戦後美術史》は、そもそも「戦後から高度経済成長期に至るまでに変容していった大型美術展の組織・選抜・作品、そして批評の価値基準を解明し、その検証を通じ、戦後日本の美術史「形成過程」を読み解く」ことを志向している。それに対して、吉岡のスタンチッチ〈死児〉への関心は、日本の「美術史」や日本と世界の「風土や民族性」といった観点からはまったくかけ離れている。《第四回日本国際美術展》開催時、吉岡が会場に足を運んだとしても、モノクロ図版の〈死児〉から享けとった以上の収穫――否、はっきり言おう、衝撃――がはたしてあったか。疑問だ。

〔付記〕
山下晃平《日本国際美術展と戦後美術史》の巻末に付された〈【資料2】「日本国際美術展(東京ビエンナーレ)に関する言説の掲載状況」〉(同書、三二一(10)ページ)を見ると、第1回から第18回までのすべての回で《日本国際美術展》の図録が刊行されている。そこで《美術図書館横断検索(ALC search)》の〈展覧会カタログ・図書(Exhibition Catalogues and Books)〉で「日本国際美術展」を検索すると、国立国際美術館(大阪)に《第四回日本国際美術展》図録の書誌の〈図書情報詳細〉が掲載されている。当然のように貸出しはしておらず、閲覧も予約制でなにかと面倒だ。コロナ禍の影響だろう。美術図書館の所蔵資料は無理だとして、自宅近くの公共図書館で相互貸借の可能性を打診してみるも、東京都や23区の図書館に所蔵はなく、近郊の大学図書館(東京大学、東京藝術大学、女子美術大学が所蔵)も閲覧のみで、しかも現在、学外からの利用は行っていないという。やれやれ。念のために、《日本の古本屋》をもう一度検索してみると(前に「第四回日本国際美術展」で検索したときは、在庫切れだった)、回数こそ記載されていないものの、美術展が開催された年、1957年発行の《日本国際美術展》の図録が出品されているではないか。これこそ探し求めていた展覧会カタログである。さっそく、北九州市の今井書店から入手した。
本書の仕様はA5判44ページ・中綴じ、表紙はスミと青・赤の特色刷り、中面は活版16ページの本文、別丁口絵12ページの図版、そして活版12ページのうち8ページが〈出品目録〉で、あとの4ページが出版社の書籍広告(表3は本図録の製作会社でもある美術出版社の出版広告)である。美術展の会場・会期、奥付の記載はない。扉は邦文と英文の並記で「第4回/日本国際美術展//毎日新聞社」「THE FOURTH INTERNATIONAL ART EXHIBITION OF JAPAN/1957/THE MAINICHI NEWSPAPERS」。巻頭見開きは毎日新聞社社長の挨拶、続く11ページが〈各国画壇展望〉で、各国の執筆者は、アメリカ=山田智三郎、オーストリア=嘉門安雄、ベルギー=植村鷹千代、ブラジル=福澤一郎、イギリス=滝口修造、フランス=富永惣一、ドイツ=土方定一、インド=阿部展也、イタリア=摩寿意善郎、メキシコ=北村民次、スペイン=宮本三郎、スイス=徳大寺公英、ユーゴスラビア=田近憲三、日本=柳亮。田近の〈ユーゴスラビアの作品〉の一節にこうある。

 作家はいずれもわが国には初めて紹介される人々であるが、その中ではことにスッピサがすぐれている。〔……〕それに「レースを持つ女」もまたその背景はとげとげしく、青白い黒衣の女は目をすえて、画面は人生の断面をするどくとらえるとともに、現代の妖精でも写しているようである。それに対してスタンチッチは超現実的なモチーフをあつかっているが、しかしその傾向にありがちな病みつかれた陰惨がない。画面はむしろ明朗で、現実な生活から遊離しながら、その思いを音もない世界にみちびいて、はかなくも淡い寂寥の中に、「死児」をめぐる幻想や、夢中にかいま見た風景にも似た「バラスディンの通り」を写している。(同書、一四ページ)

図版は、シャガール(フランス)と梅原龍三郎(日本)が4色であるほかはすべてモノクロで、ユーゴスラビアからは件のスッピサ〈レースを持つ女〉がただ1点、掲載されている(上掲《みづゑ》1957年7月号・66〜67ページの見開きの右ページの上段が同作品)。巻末の〈出品目録〉のユーゴスラビアの部からミリエンコ・スタンチッチの3作品すべてを引くが、田近の文章に見える〈バラスディンの通り〉が挙がっていないのはどうしたわけだろう。記載は、(出展作品の連番に続けて)作家名〔省略〕 画題 制作年 大きさ(糎)、の順である。
  一二一   少女と花   一九五四   六二・五×五四・五
  一二二   結婚式    〃      六二×五四
  一二三   死児     一九五五   五七×七二
吉岡実が本図録を展覧会場で入手したことはなかったはずだ。だが、出版社の書籍広告のうちの1社は吉岡の勤務していた筑摩書房で、《智惠子紙繪》ほかの美術書が載っている。そうしたこともあって、吉岡がこの冊子を手にしたことがまったくなかったとは言いきれない。だが、肝心の〈死児〉の図版がないからには、また「図録」が「美術雑誌」でない以上は、吉岡の詩〈死児〉とスタンチッチの絵〈死児〉を比較するに際して、本書を見ずとも支障はない。

展覧会図録《第4回日本国際美術展》(毎日新聞社、c1957〔年5月23日〕)の表紙
図録《第4回日本国際美術展》(毎日新聞社、c1957〔年5月23日〕)の表紙 〔扉には「第4回/日本国際美術展//毎日新聞社」「THE FOURTH INTERNATIONAL ART EXHIBITION OF JAPAN/1957/THE MAINICHI NEWSPAPERS」と並記されている〕


〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会【#17】〜【#22】(2021年8月31日〔2021年9月30日追記〕)

筑摩書房を退職して1年あまりが過ぎた1981(昭和56)年、吉岡実は62歳を迎えた。この年の詩作品は、〈にわとり〉(1月)、〈竪[しゆ]の声〉(9月)、〈絵のなかの女〉(10月)、〈巡礼〉(11月)の4篇。未刊詩篇の〈絵のなかの女〉を除いて、いずれも詩集《薬玉》(書肆山田、1983)を構成する重要な作品である。詩作の充実ぶりと連動するように、この年に観た展覧会も多く、吉岡の〔自筆〕年譜では6回を数える。

 昭和五十六年 一九八一年 六十二歳
【#17】厳冬、東京国立博物館で、鑑真和上像を拝観する、この静寂よ。
◆《特別展観 唐招提寺鑑真和上像》(東京国立博物館、c1981〔年1月15日〕)/会場=東京国立博物館、会期=1981年1月15日【木・祝】〜2月1日【日】◆
【#18】伊勢丹新館で、「ピカソ秘蔵のピカソ」展を観る。
◆高階秀爾・神吉敬三(監修)《ピカソ秘蔵のピカソ展 生誕100年記念》(ピカソ展実行委員会、c1981〔年3月5日〕)/東京展:会場=伊勢丹美術館、会期=1981年3月5日【金】〜4月7日【火】◆
【#19】陽春、上野国立西洋美術館で、「アングル展」(「泉」に魅せられる)。
◆国立西洋美術館(監修)《アングル展》(日本放送協会、c1981〔年4月28日〕)/東京展:会場=国立西洋美術館、会期=1981年4月28日【火】〜6月14日【日】◆
【#20】東京国立博物館へ回り、「中山王国文物展」、幻の国の出土品に感動する。
◆東京国立博物館・日本中国文化交流協会・日本経済新聞社(編)《中国戦国時代の雄 中山王国文物展》(日本経済新聞社、c1981〔年3月17日〕)/会場=東京国立博物館、会期=1981年3月17日【火】〜5月5日【火・祝】◆
【#21】晩秋、草月会館で、「西脇順三郎の絵画」展へ妻と行き、渋沢孝輔、安藤元雄、三好豊一郎、那珂太郎と談笑する。
◆《西脇順三郎の絵画》(草月美術館、c1981〔年11月9日〕)〔レイアウト:吉岡実〕/会場=草月美術館、会期=1981年11月9日【月】〜30日【金】◆
【#22】東京国立近代美術館の「ムンク展」を観る。
◆東京国立近代美術館(編)《ムンク展》(東京新聞、c1981〔年10月9日〕)/会場=東京国立近代美術館、会期=1981年10月9日【金】〜11月23日【月・祝】◆

参考までに、のちの吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉「一九八一年(昭和五十六年) 六十二歳」の項に見える展覧会関係の文(章)を引く(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996年3月25日、八〇三〜八〇四ページ)。
【#17】東京国立博物館で鑑真和上像を拝観、道明新兵衛の店に寄り組紐を求める。
【#18】伊勢丹美術館で〈ピカソ秘蔵のピカソ展〉。
【#19】〔記載なし〕
【#20】東京国立博物館〈中山王国文物展〉を観て幻の国の出土品に感動する。
【#21】十一月、草月美術館の〈西脇順三郎の絵画〉展へ行き西脇順一夫妻に招かれて十数人で西脇家を訪問し、静養中の西脇順三郎と五分ほど会う(これが詩人との別れになった)。
【#22】東京国立近代美術館で〈ムンク展〉を観る。

【#17】《特別展観 唐招提寺鑑真和上像》(東京国立博物館、c1981〔年1月15日〕)

吉岡は随想〈『鹿鳴集』断想〉(初出:《現代短歌全集〔第6巻〕》〈月報10〉、筑摩書房、1981年3月25日)で会津八一の短歌に触れつつ、鑑真和上像に言及している。

  おほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ

  とこしへにねむりておはせおほてらのいまのすがたにうちなかむよは

 西ノ京の唐招提寺を詠んだ数首のうちの二首である。むかしは、寺を囲む塀もなく、訪れた人は気ままに、境内に入れたものであった。「大寺の円き柱」と描写された、金堂の荘重なとっくり[、、、、]形にふくらんだ太い柱に、私も「悠久の美」を感じたものだ。水原秋桜子の「蟇ないて唐招提寺春いづこ」の一句のような静寂と野趣は、惜くも今は失われたことだろう。二首目は、唐僧鑑真和上像を詠んだものである。これまでに三、四度この寺を訪れたが、残念なことに和上像を観ることはできなかった。しかし、ずうっと後に日本橋の高島屋で、白菊の花に包まれるように、安置された鑑真和上像を礼拝することができた。清浄なおすがたに、心打たれた。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三〇九ページ)

吉岡の書く「ずうっと後に日本橋の高島屋で、白菊の花に包まれるように、安置された鑑真和上像を礼拝することができた。」というのがいつのことなのか、志賀健二郎の労作《百貨店の展覧会――昭和のみせもの1945-1988》(筑摩書房、2018年3月20日)に当たっても――巻末資料〈著名寺社の展覧会(1951〜54)〉には、唐招提寺・朝日新聞社主催の《奈良唐招提寺展》(会場=上野松坂屋、会期=1953年1月16日〜2月1日)という内容の記載(同書、二四九ページ参照)は見えるものの――、インターネットで検索してもわからなかった。なお志賀健二郎は、「この展覧会[唐招提寺展]をもって[百貨店での]奈良の大寺の展覧会はおしまいであろう」(同書、三四ページ)という蔵田蔵〈奈良唐招提寺展〉(《国立博物館ニュース》第69号、1953年12月)の一文を紹介しつつ、当時、有名寺社の御開帳が多くの入場者を集めた、と総括している。

《特別展観 唐招提寺鑑真和上像》(東京国立博物館、c1981)の表紙 同書・一ページの〔鑑真和上像〕
《特別展観 唐招提寺鑑真和上像》(東京国立博物館、c1981〔年1月15日〕)の表紙(左)と同書・一ページの〔鑑真和上像〕(右)

吉岡の〔自筆〕年譜には見えないが、吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉には本展に続けて「道明新兵衛の店に寄り組紐を求める。」とある。この件は公刊された吉岡の日記や随想にはなく、陽子夫人の記録もしくは記憶に依ると思われる。上野・池之端にある有職組紐の老舗は「道明」。吉岡は、眼が喜ぶファインアートのほかにも、眼と手が喜ぶこうした工芸品を愛した(*1)

【#18】高階秀爾・神吉敬三(監修)《ピカソ秘蔵のピカソ展 生誕100年記念》(ピカソ展実行委員会、c1981〔年3月5日〕)

ピカソについては〈吉岡実とピカソ〉(2017年4月30日)で(《ピカソ秘蔵のピカソ展 生誕100年記念》も引き合いに出して)書いたので、付け加えるべきことはない。それにしても、昼と夜を同時に見ているような〈艶のある髪の女〉の眼は(髪よりも)美しい。キュビスムの精華といえよう。

高階秀爾・神吉敬三(監修)《ピカソ秘蔵のピカソ展 生誕100年記念》(ピカソ展実行委員会、c1981)の表紙 同書の〈109 艶のある髪の女 1946.6.14/Femme aux cheveux lisses〉
高階秀爾・神吉敬三(監修)《ピカソ秘蔵のピカソ展 生誕100年記念》(ピカソ展実行委員会、c1981〔年3月5日〕)の表紙〔掲載作品は図録本文には見えない〕(左)と同書の〈109 艶のある髪の女 1946.6.14/Femme aux cheveux lisses〉(右)

【#19】国立西洋美術館(監修)《アングル展》(日本放送協会、c1981〔年4月28日〕)

本書モノクロページ〈カタログ〉の〈54 「ヴィーナス・アナディオメネ」のための習作:ヴィーナス〉(〈泉〉の姿勢を彷彿させる)の項(原文横組。邦文部分)を引く。執筆は国立西洋美術館学芸課の研究員・有川治男。

54 「ヴィーナス・アナディオメネ」のための習作:ヴィーナス
1807/08年頃
黒チョーク  38.3×28.5cm
書き込みあり
モントーバン,アングル美術館
〔……〕
 この素描では,ヴィーナスの全身像を中心に,左腕の位置のさまざまな可能性が探られている。右腕を頭上に回し,両腕で髪を風にさらして乾かしているような姿勢が最終的に採られることとなる。海から上がったばかりの,まだ羞じらいも知らぬヴィーナスの姿である。アングルの習作素描のうちでも,最も美しいもののひとつに数えられよう。

美術史家の池上英洋は《官能美術史――ヌードが語る名画の謎〔ちくま学芸文庫〕》(筑摩書房、2014年11月10日)の〈第一章 ヴィーナス――官能の支配者〉の「よみがえった太古の美神」という節で、〈泉〉のカラー図版を掲げて、キャプションに「〔……〕彼は本作品の前に、このモデルとほぼ同じポーズをとる〈ヴィーナスの誕生(水から上がるヴィーナス)〉(シャンティイ、コンテ美術館)も描いており、イタリアの同主題の作品群から構図を学んだことは明らかである。」(同書、二四ページ)と記して、図像学的な系譜を明らかにしている。コンデ美術館のアングル作品は、水甕こそ持っていないが同じ立ち姿で、画家がいかにこの構図に固執していたかがうかがえる(インターネットで容易に画像検索できる)。
吉岡が言及したアングルの作品はこの〈泉〉だけだが、私は〈ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像〉(1845)の、とりわけその金属的でさえある衣服のタッチから、詩篇〈フォーサイド家の猫〉(G・17)の第三節を想起しないわけにはいかない。「悲劇の少女にはふりむく真の正面がない/水色のスカートの腰をよじって/ねぐらへ鳥の飛ぶのを仰ぎつづける」のは、おそらくアングルの描く伯爵夫人ではないだろう。だが、怖ろしいまでにフォーカスの合った画面のような吉岡の詩句は、この「新古典主義の大家」(池上前掲書)の絵筆を借りたかのようだ。吉岡が詩において本腰を入れて筆を揮うと、とんでもないことになるという例である。ところで、展覧会の入場券にはいちばんの呼び物作品を掲載することが多い(図録の表紙も同様)。今回の《アングル展》は、当然のように〈泉〉(1820〜1856)を使用している。入場券の〈泉〉の両脇に配した細い色帯は、表紙と同じく金刷りで、雑誌の新年号のように豪華だ。

国立西洋美術館(監修)《アングル展》(日本放送協会、c1981)の表紙 同書の〈54 「ヴィーナス・アナディオメネ」のための習作:ヴィーナス〉
国立西洋美術館(監修)《アングル展》(日本放送協会、c1981〔年4月28日〕)の表紙〔アングルの作品は〈56 泉〉〕(左)と同書の〈54 「ヴィーナス・アナディオメネ」のための習作:ヴィーナス〉(右)

【#20】東京国立博物館・日本中国文化交流協会・日本経済新聞社(編)《中国戦国時代の雄 中山王国文物展》(日本経済新聞社、c1981〔年3月17日〕)

吉岡は〔自筆〕年譜で「陽春、〔……〕東京国立博物館へ回り、「中山王国文物展」、幻の国の出土品に感動する。」と書いているが、たしかにこれは注目に値する展覧会だったようだ。

東京国立博物館・日本中国文化交流協会・日本経済新聞社(編)《中国戦国時代の雄 中山王国文物展》(日本経済新聞社、c1981)の表紙 同書の〈1 三鋒戟形器〉 同書の〈40 十五連盞燭台〉
東京国立博物館・日本中国文化交流協会・日本経済新聞社(編)《中国戦国時代の雄 中山王国文物展》(日本経済新聞社、c1981〔年3月17日〕)の表紙(左)と同書の〈1 三鋒戟形器〉(中)と〈40 十五連盞燭台〉(右)

〔原色図版〕の〈18 金銀象嵌屏風台座「鹿を食う虎」〉は、(左)の表紙の写真とは別カットの全身像で、図録のなかでも群を抜く存在感を示している。表紙と扉をデザインした河野鷹思(1906〜1999)がこの像を選んだのも頷ける。
(中)の写真、〈三鋒戟[げき]形器〉は巻頭のカラー図版である。――「「山」字形をしているところから,以前は「山」字形器とも呼んだ。上部は三つの尖鋒,下部両端は延びて渦を巻き雷文を成す。下部中央に円形の銎[きよう]があり,出土時に木灰が残っていたことから,本来,木柱の上に挿入されていたことがわかる。大型の銅戟形であるところから「三鋒戟形器」と名付けられた。」(原文横組。〈作品解説〉、本書、一五一ページ)。あるとき、深夜のNHKBSプレミアムの紀行番組《中国 黄河源流への旅》で、三鋒戟形器とよく似た祭器を持った古老が何本もある神木の一本に触れると、若者がいっせいにそれに群がるシーンを観た。2300年もの時を超えて、聖なるものが舞いおりた瞬間だった。
(右)の写真、〈40 十五連盞燭台〉は、燭台にまとわりつく猿たちの姿ゆえ、中野美代子がその孫悟空論/西遊記論で言及しており、エッセイ集《孫悟空はサルかな?》(日本文芸社、1992年7月3日)巻頭の〈図版XI・中山王国墓出土の逸品〉には、おそらく上掲写真と同カットのモノクロ写真が掲載されている。これまた、感歎するほかない逸品である。

冒頭で触れたように、吉岡は年始の〈にわとり〉(J・1、のち〈雞〉と改題)を書いたあと、しばらく詩篇の発表はなく、次作は本展後の《現代詩手帖》1981年9月号の〈竪[しゆ]の声〉(J・2)だった(書店の雑誌売り場で初出を読んだときは、久しぶりに接した吉岡実詩が大きく変わろうとしているのを予感して、震えた)。〈竪の声〉は

「心は閑[しず]かにして 目を遠く見よ」
母恋いのちりめん模様の空のもとをさまよう

  マッチをすると わたしの好きな 青い軟玉の
  石が見える

        (ぶどうの表面)

この球体は「光と半透明と闇」の
三つの層に分れている

と始まる。本展の図録に軟玉(「玉の一種。角閃石族鉱物から成る。細粒緻密な透角閃石から成るものは無色、陽起石から成るものは暗緑色で、これを緑石または翡翠と称する。先史時代から飾り玉に用いた」〔《広辞苑》〕。ネフライト=nephrite)や翡翠は登場しないようだが、瑪瑙は、丸や管を連ねた首飾り状のものや環(腕輪?)状のものがカラー図版に見える。吉岡実の詩篇は、たとえば西脇順三郎(1894〜1982)の晩年の詩篇がきわめて日録に近いものであるのに対して(ただし、永遠の相のもとにおいて眺められたそれ)、およそ日録ふうではないのだが、上掲のような詩句に展覧会での感銘をこめたのかもしれない。わたしたちはすでに、《夏の宴》(1979)の〈円筒の内側〉(H・28)において、《ボナ・ド・マンディアルグ展》の作品が詩句にとどめられたことを見てきた(〈吉岡実の引用詩(2)――大岡信《岡倉天心》〉参照)。吉岡実は「中期」のある時点で――おそらく《サフラン摘み》(1976)の後半を成す詩篇を書いていたころ――、その想像力のたちまさる作風にあって、こうした普段着の詩句を織りまぜることが作品のリアリティを保証すると考えるようになったようだ。他人の章句(基本的に、詩句は避けられる)を縦横に引用した、いわゆる吉岡実の「引用詩」が外部から吉岡実詩を補強するものだとすれば、こうした自身の見聞は、詩の「主題」としてよりも、詩を詩として成立させる「方法」として、おそらく感覚的に択びとられたものではないか。私には、この青い軟玉=ぶどうの三層「光と半透明と闇」がそれぞれ、引用された章句、想像力のたちまさる詩句、普段着の詩句、の三つに見える。

【#21】《西脇順三郎の絵画》(草月美術館、c1981〔年11月9日〕)

《西脇順三郎の絵画》の図録は本サイトの創設早早、〈吉岡実のレイアウト(1)〉(2003年3月31日)で紹介した。同展は会場=草月美術館、会期=1981年11月9日〜30日。図録裏表紙に「写真:内田芳孝  44, 59は酒井啓之 レイアウト:吉岡実」とある。下の図録中面(同書、〔二〇〜二一ページ〕)の中段右、下段右の図版はそれぞれ〈61 『夏の宴』装画(1)〉と〈62 『夏の宴』装画(2)〉だが、表3の〈出品リスト〉で情報を補えば、(1)(2)ともに、制作年は「1979」、材質は「水彩」、サイズは「37.5×28.0cm」である。本書《西脇順三郎の絵画》は、吉岡がデザイン・レイアウトで関わった唯一の美術作品の図録だと思われる。西脇順三郎は本展開催の翌1982年の6月、88歳で歿した(*2)

《西脇順三郎の絵画》(草月美術館、c1981〔年11月9日〕)の表紙〔西脇の作品は〈52 北海道の旅〉〕 《西脇順三郎の絵画》(草月美術館、c1981〔年11月9日〕)の中面
《西脇順三郎の絵画》(草月美術館、c1981〔年11月9日〕)の表紙〔西脇の作品は〈52 北海道の旅〉〕(左)と同・中面(右)〔レイアウト:吉岡実〕

【#22】東京国立近代美術館(編)《ムンク展》(東京新聞、c1981〔年10月9日〕)

十代後半の私にとって最も親しい小説家だった五木寛之は《五木寛之作品集〔全24巻〕》(文藝春秋、1972〜1974)のヴィジュアルに〈叫び〉を択び、福永武彦《死の島〔上・下〕》の新潮文庫版(1976)はジャケットに〈海岸の二人の女〉〈接吻〉のカラー図版を掲げていた。図らずも、双方ともエドワルド・ムンクの版画である(〈叫び〉はリトグラフ、〈海岸の二人の女〉と〈接吻〉は木版)。吉岡が詩篇〈白夜〉(G・23)――「たしかムンクの絵の主題に/〈病める少女〉/というのがある」と始まる――で触れた〈病める子〉には、ドライポイント、エッチング、リトグラフなどさまざまな手法の版画があるばかりか、油彩まであって、吉岡がそのどれを想定したのか決めがたい。

東京国立近代美術館(編)《ムンク展》(東京新聞、c1981)の表紙〔ムンクの作品は〈102/桟橋の少女たち/The Girls on the Bridge/1901〉〕 同書・一四七ページの〈122/病める子/The Sick Child/1894〔ドライポイント〕〉 同書・一四五ページの〈125/病める子/The Sick Child/1896〔リトグラフ;手彩色〕〉
東京国立近代美術館(編)《ムンク展》(東京新聞、c1981〔年10月9日〕)の表紙〔ムンクの作品は〈102/桟橋の少女たち/The Girls on the Bridge/1901〉〕(左)と同書・一四七ページの〈122/病める子/The Sick Child/1894〔ドライポイント〕〉(中)と同書・一四五ページの〈125/病める子/The Sick Child/1896〔リトグラフ;手彩色〕〉(右)

〔2021年9月30日追記〕
吉岡が本展を観たのは、〈白夜〉(初出は俳誌《鷹》1974年10月号)を執筆した7年後だった。一方、〈白夜〉発表の半年ほどまえに、勤務先の筑摩書房からニック・スタング(稲富正彦訳)《評伝 エドワルド・ムンク》(1974年3月25日)が出ている。吉岡が本書を読んだか不明だが、巻頭の別丁口絵に〈病める子〉がカラーで掲載されている(「口絵:病める子.油絵,1885-86.」)。図版は前小口を截ち切りにしてあるので、(本扉に貼られたノド側も含めて)複製された原画よりも左と右が3mmほど狭くなっている。それはともかく、吉岡が〈白夜〉を書いたとき、この油彩画〈病める子〉を念頭に置いていた可能性はきわめて高い。ことによると、1981年の《ムンク展》に足を運んだのは、本作を観る(確認する)ためだったのかもしれない。ただし、東京国立近代美術館(編)《ムンク展》(東京新聞、c1981〔年10月9日〕)に油彩の〈病める子〉は掲載されていない。スタングの《評伝 エドワルド・ムンク》は油彩〈病める子〉に触れて「〔……〕悲劇がまた訪れる。十五歳のソフィエ〔ムンクの姉〕の闘病生活と、一八七七年における彼女の死は、感受性に富んだ十四歳の少年ムンクにとって、すさまじい体験となった。ムンクは、この人間的体験に一生束縛され、それから自己を解放することはついにできなかったのである。ムンクの主要作品、「病める子」(口絵1)と「春」(付図6)が、早くも一八八〇年代の後半に完成していることは、この経験に関連しているかもしれない。」(同書、二〇ページ)と指摘している。野村太郎(《ムンク〔新潮美術文庫〕》)によれば、“Munch”にはノルウェー語で「僧侶」の意があるという。

【参考】ムンク〈病める子〉(1885〜86年 カンヴァス 油彩 119.5×118.5cm)
【参考】ムンク〈病める子〉(1885〜86年 カンヴァス 油彩 119.5×118.5cm) 〔出典:野村太郎解説《ムンク〔新潮美術文庫〕》(新潮社、1979年7月25日)。本図は《評伝 エドワルド・ムンク》の口絵と違い、トリミングされていない〕

………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

(*1) 金井美恵子は吉岡実の〔肖像〕である〈吉岡実とあう――人・語・物〉に「「そんなに高くはないけれど、それでも少しは高い値段」の丹念に選ばれた、いかにも吉岡家的な簡素で単純で形の美しい――吉岡実は少年の頃彫刻家志望でもあったのだし、物の形体と手触りに、いつでもとても鋭敏だし、そうした自らの鋭敏さに対して鋭敏だ――家具や食器」、「手がきの桃と兎の形の可愛いらしい、そんなに高くはないけど気に入ったのを見つけるのに苦労したと言う湯のみ茶碗」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月20日、二一八ページ)と書いて、吉岡の不断使いの物に対する姿勢を教えてくれる。

(*2) 本展オープニングの11月9日の夜、西脇邸で順三郎と会ったのが、吉岡がただ一人「先生」と呼んだ詩人との別れとなった(〈西脇順三郎アラベスク〉の「13 絵は美しいブルー・お別れ」参照)。なお、吉岡の随想〈遥かなる歌――啄木断想〉(初出は《石川啄木全集〔第4巻〕》〈月報〉、筑摩書房、1980年3月10日)に「私は神田神保町にある青土社へ行った。新詩集《夏の宴》の寄贈名簿を届けることと、署名するためだった。作業が終るころ、すでに街は暮れていた。〔……〕私は装幀に使った西脇順三郎先生の絵と、新詩集五冊を受け取り、古本屋街を歩いた。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一四七ページ)とある。新詩集の装画に用いるという名目で、吉岡は西脇に2点の水彩画を描きおろしてもらうことに成功したのだ。《西脇順三郎の絵画》展の半年後、本展を記念するかのように、その名も《西脇順三郎の絵画》(恒文社、1982年5月30日)という大判の画集が刊行された。西脇はその1週間後の1982年6月5日、故郷の新潟・小千谷の病院で亡くなっているから、本書を目にすることができたかどうか。奥付前の対向ページに次のクレジットがある。
  表紙箔押しカット 西脇順三郎
  装幀       飯田善國
  選詩       飯島耕一〔飯島は巻頭のエッセイ〈画家としての西脇順三郎〉も執筆している〕
  編集       海藤日出男
  制作       福住治夫
  作品写真     内田芳孝
           酒井啓之
           (45および56)
《美術手帖》の編集長だった福住治夫をはじめ、これら西脇絵画に関わったスタッフ全員が、命旦夕に迫った著者に本書を献ずべく奮闘したことであろう。ちなみに発行者の恒文社・池田恒雄は、西脇絵画のコレクターでもある。吉岡実は、本書に件の《夏の宴》の装画で協力している。

《西脇順三郎の絵画》(恒文社、1982年5月30日)掲載の〈62 『夏の宴』装画(1)〉 《西脇順三郎の絵画》(恒文社、1982年5月30日)掲載の〈63 『夏の宴』装画(2)〉  吉岡実詩集《夏の宴》(青土社、1979年10月30日)の函と表紙〔装丁:吉岡実〕
【参考資料】《西脇順三郎の絵画》(恒文社、1982年5月30日)収録の〈62 『夏の宴』装画(1)〉(左)と同・〈63 『夏の宴』装画(2)〉(中)と吉岡実詩集《夏の宴》(青土社、1979年10月30日)の函と表紙〔装丁:吉岡実〕(右)


《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉【その4】――江森國友さんの巻(2021年8月31日)

(司会担当:高橋睦郎さん)

 江森國友さん、お願いします。

〈わたしの吉岡実〉【その4】――江森國友さんの巻(1991年10月12日、東京・浅草の木馬亭における《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話)

(江森國友さん、登壇) 〔仮題:晩年の詩の姿・形には、私の詩の影響が……〕

 私[わたくし]も今日のこの会場を選んでくださった責任の人、それから企画の人にお世話になっております。

 私は吉岡さんと同じ会社にいた時期がかなりありまして。最近、会社の景気が悪くなって都落ちしまして、蔵前の方に。蔵前に移って3年になるんですけど、移ってすぐ郵便局へ、2、3日のうちに行きまして、あっと思って、これは『うまやはし日記』の吉岡さんの書いた葉子という少女にばったりと。それで郵便局を出て、すぐ厩橋[うまやばし]になるんですけど、厩橋の橋の上でぱぱっと消えちゃった。で、それきり。ぼくはしょっちゅう郵便局へ行きますし、それから一日に一度は厩橋を行ったり来たりしてますけども、ついにその少女にはその後、会っておりません。

 会社のなかで吉岡さんとの付きあいを申しますと、『西脇順三郎全集』という大きい仕事がありまして、いつもお世話になりましたけれども、会田綱雄という大先輩の詩人が担当で。西脇さん、しょっちゅう遊びに来るんですけれども、会社の費用といいますか、編集費でそうは西脇さんを連れて歩けない。もちろん西脇さんが会田綱雄、吉岡さんをご馳走することもたまにはあったでしょうけれども。ぼくはどうも呼んでもらえない、いっしょに連れて行ってもらえないわけです。ぼくは留守番ということです。すると翌日、吉岡さんが何気なく「江森くん」と、穴倉めいたサイトウコーヒーという古い店があるんですけれども、そこへ連れて行ってくれてですね、雑談しまして。

 ぼくの最初の詩集から吉岡さんに装丁をお願いすることができて、たいへんありがたい、というふうにしみじみ感じておりますけれども。

 せっかくの機会なので、あえて申しあげますと、「江森くんは本物だよ」と言ってくれたことがありました。その目をぎょろっとさせて、「おれが「本物だ」と言うことは、そうたくさんはないんだよ」と言われました。目を覗きこんで。

 もうひとつ、せっかくのチャンスですから、勇気をふるって申しあげますけれども、晩年の吉岡さんの詩の姿・形には、私の詩の影響があるんじゃないか(会場、笑み)、と私は思います。どうも、ありがとうございました。

(会場、拍手)

〔付記〕
吉岡実装丁の江森国友詩集《宝篋と花讃》(母岩社、1971)については、同書の〔限定版〕とともに、〈吉岡実の装丁作品(94)〉で紹介したので、そちらをご覧いただきたい。そこでは、吉岡による江森評にも触れている。
今回の仮題をそこから採った「晩年の吉岡さんの詩の姿・形には、私の詩の影響があるんじゃないか、と私は思います。」という発言はたいへん重要で、私はかつて〈吉岡実とオクタビオ・パス〉(2005年3月31日)でパスと吉岡の関係に触れながら「私には吉岡がパスの詩をほんとうに「深く分かった」のは、1983年の《薬玉》刊行のあと、1984年のパスの来日前のような気がしてならない。そういった点も含めて、《薬玉》詩形の成立に関しては稿を改めて述べたい。ただ漠然と、吉岡が「官能的詩篇」の〈3 『骰子一擲』〉で触れているマラルメ、(多種多様な引用符については)江森國友の同時期の詩篇、そしてなによりも吉岡自身の〈雞〉初出形と詩集収録形を比較検討する必要がある、と今は感じている。」と書いただけで、その先を展開させていない。わが怠慢を恥じる。《薬玉》詩型と江森詩との関係については、他日を期すことにしたい。
江森國友には、詩集も散文集も、その長い執筆歴に較べると驚くほど少ない。そんな散文の著書の一冊に《想像力と自然》(青弓社、1983年3月31日)がある。上掲の思い出話を補う意味でも、その〈神田神保町の西脇さん〉を引用しておきたい。

〔……〕わたしが『西脇順三郎全集』の刊行に加わる一員として、会田綱雄、吉岡実の後にくっついて一緒させていただいた西脇さんを囲む場のかずかず、それは駘蕩たる春風をいつもめぐらせていた。〔……〕(同書、一七五ページ)

 『全集』刊行の頃の元気な西脇さん、塩原温泉行、藤の牛島。郷里小千谷への一泊の旅、そして、ほんとによく神田へいらっしゃる。小川町の古びた社屋の玄関に現われる西脇さん、soft帽に夏のpanama、神保町には西脇さんがはじめて上京されたとき中折れを買い求めた帽子屋がまだそのままの店を開いていた。古田社長は人見知りする人で、照れ屋で、西脇さんを学者と思うせいか敬して距離をおいていた。もちろん西脇さんもそんなことに何思われるでもなかったろう。でも会田綱雄も吉岡実も不在でわたしだけをお相手ではつまらなく思われたはずだ。そのわたしも外出していて帰って受付の女性から、先生がさっき来られて……という言葉を聞かされたこともあった。そんなとき、あの典雅なといえる紳士の身嗜み、盛夏にも上下、ネクタイを着けられ、ステッキを手にゆっくり歩み去られる後姿を思うのだった。受付の女性のもの言いも、本当にお気の毒に――とわたしを責めるふうなのだ。(同前、一七六〜一七七ページ)

《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987)の1975年3月19日の吉岡の〈日記〉には、「夕方、西脇順三郎先生来社、食事を誘われるが、先約あるので江森國友に替って貰う。」(同書、八五ページ)とある。なお、《西脇順三郎全集》は、著者の生前に〔全10巻〕(1971年3月5日〜1973年1月20日)が、歿後に〔第10巻〕〔第11巻〕〔別巻〕を増補した版(1982年6月25日〜1983年7月20日)が出ている。《吉岡実〔現代の詩人1〕》(中央公論社、1984)の吉岡実〔自筆〕年譜の1982年の項に「晩秋、神田のラドリオで、会田綱雄、鍵谷幸信、新倉俊一、江森国友らと集まり、「西脇順三郎年譜」の確認をする。」(同書、二三六ページ)とあるのは、この増補版全集のためのものと思われる。


〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会【#23】〜【#25】(2021年7月31日)

 昭和五十七年 一九八二年 六十三歳
【#23】年初、日本橋のツァイト・フォト・サロンで、渡辺兼人の写真展「逆倒都市」を観る。金井美恵子・久美子、平出隆らと会う。
◆渡辺兼人写真展《逆倒都市》〔図録は未見(未刊行か)〕/会場=ツァイト・フォト・サロン、会期=1982年1月18日【月】〜30日【土】◆
【#24】小田急百貨店で「ルドルフ・ハウズナー展」を観る。
◆東京新聞(編)《ルドルフ・ハウズナー展》(東京新聞、c1982〔年4月9日〕)/東京展:会場=小田急グランドギャラリー、会期=1982年4月9日【金】〜21日【水】◆
【#25】東京国立博物館でクリーブランド、W・R・ネルソン二大美術館所蔵の「中国の絵画」展を観て圧倒される。
◆特別展《米国二大美術館所蔵 中国の絵画》(東京国立博物館、1982年10月4日)/会場=東京国立博物館、会期=1982年10月5日【火】〜11月17日【水】◆

参考までに、のちの吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉「一九八二年(昭和五十七年) 六十三歳」の項に見える展覧会関係の文(章)を引く(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996年3月25日、八〇四ページ)。
【#23】一月、渡辺兼人写真展〈逆倒都市〉を日本橋のツァイト・フォト・サロンで観る。金井美恵子、金井久美子、平出隆らと会う。
【#24】〔記載なし〕
【#25】東京国立博物館でクリーブランド、W・R・ネルソン二大美術館所蔵の〈中国の絵画〉展を観て圧倒される。

【#23】渡辺兼人写真展《逆倒[さかさ]都市》(ツァイト・フォト・サロン、1982年1月)の図録 未見(未刊行か)

種種の書誌やインターネット上の情報を探索しても、渡辺兼人写真展《逆倒都市》(1982)の図録の存在は確認できない。作者の写真家・渡辺兼人(1947〜 )は人形作家・四谷シモン(1944〜 )の実弟だが、吉岡実と面識を得たのがシモン経由によるものかもわからない。いずれにしても、選詩集《吉岡実〔現代の詩人1〕》(中央公論社、1984年1月20日)巻頭の8ページにわたる別丁口絵写真に計5点のモノクロ作品を寄せたのが、吉岡との最も重要なコラボレーションである。そこには、パリと思しい海外の都市とともに、東京の町工場や渋谷・代々木の住宅街の風景が捉えられている。ときに、《逆倒都市》に関しては近年、注目すべき資料が登場した。《断片的資料・渡辺兼人の世界 1973-2018 全7回》のうち、その《第3回 都市A『逆倒都市 T・U・V』展》(会場:AG+ Gallery、会期:2018年2月1日〜17日)という展覧会の図録兼書籍として刊行された《断片的資料・渡辺兼人の世界 V 都市A 逆倒都市 T・U・V》(AG+ Gallery、2018年2月28日)がそれである。残念ながら私は、展覧会を観ていない。同書には、写真展《逆倒都市》(1982)そのものに関する詳細な記載はないが(*1)、笠間悠貴〈さかさの双眼鏡と蜃気楼――渡辺兼人による風景論を辿る〉に次のような一節がある(註は割愛した)。

 「逆倒都市」(さかさとし)は、渡辺が1982年、83年、84年と連続してツァイト・フォト・サロンで発表し、それぞれが「逆倒都市」、「逆倒都市U」、「逆倒都市V」と題されている。その各々が雑誌『日本カメラ』1982年2月号、同1983年4月号、同1984年3月号においてグラビアページで特集された。〔……〕、まずは「逆倒都市」の方法論をみてみたい。モノクロの6×6センチサイズのスクエアフォーマットで、アイレベルからほぼ水平に手持ちで撮影が行われている。(原文横組。同書、五三ページ)

私がこの冊子で惹かれたのは、吉岡が観た1982年の〈逆倒都市〉ではなく、翌83年の〈逆倒都市U〉全22点のうちの次の2点だ。改めて理由を述べるまでもない。《吉岡実〔現代の詩人1〕》の口絵写真の最初と最後の作品(いずれも、天地×左右がほぼ110mmの正方形に近い仕上がり)に酷似しているからである。読者はよろしく、両者を比較されたい(〈逆倒都市U〉の2点の天地×左右はほぼ140mm)。

渡辺兼人〈『逆倒都市U』より〉(1983) 渡辺兼人〈『逆倒都市U』より〉(1983) 渡辺兼人による《吉岡実〔現代の詩人1〕》(中央公論社、1984年1月20日)口絵写真の最初の作品 渡辺兼人による《吉岡実〔現代の詩人1〕》(中央公論社、1984年1月20日)口絵写真の最後の作品
渡辺兼人〈『逆倒都市U』より〉(1983) 〔出典:《断片的資料・渡辺兼人の世界 V 都市A 逆倒都市 T・U・V》(AG+ Gallery、2018年2月28日、二五ページ)〕と同 〔出典:同前、三五ページ)〕(左のふたつ)と渡辺兼人による《吉岡実〔現代の詩人1〕》(中央公論社、1984年1月20日)口絵写真の最初と最後の作品(右のふたつ)

もちろん、〈逆倒都市U〉と口絵写真とでは、被写体が異なる。だが、建物の屋上から見て画面の中央に水平線を置くフレーミングといい、手前の石畳をなめて、石組の壁に穿たれた出入り口を捉える手法といい、まさしく同じ撮影[セッション]だったことの証しではないだろうか。吉岡が写真展《逆倒都市》(1982)を観た時点で、この選詩集の企画があったのか詳らかにしない。だが、同書に写真を掲載するにあたって、渡辺兼人の作品が選ばれたのは偶然ではなかったはずだ。この、写真の掲載は〔現代の詩人〕シリーズ共通の企画である(*2)。吉岡の著作に――著作に限らず吉岡が手掛けた装丁作品にも――写真が登場するのはきわめて稀である。過去には、詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)の機械函に奈良原一高のそれが用いられただけだろう(〈詩集《僧侶》解題〉の〔2015年2月28日追記〕参照)(*3)

ここまで書いてきたところで、《美術手帖》1982年3月号を入手、閲読した。渡辺兼人が同号の〔PHOTO GALLERY〕のページに「写真と文」を寄せているのである。標題は、むろん〈逆倒都市〉。初めに掲げられている「文」から見ていこう。

 不吉な欲望都市。
大地の安息と休息。
観る物質、観えない物質。
火の都市であり焔の噴水でもある。
歩行者は夢想家であり、また、犯罪者にもなりうる弁証法的領域。
 素白の紙はいまだに未開の状態のままで、われわれの視線を拒絶する。
荒涼たる輝を秘めつつ。
繰り返される運動と休息、記憶と装置、物質的想像力と、出口。
増殖する空間を、いつ、どこで、どのように閉ざすか。
円環の断片的資料、断片であり、部分でしかない都市の風景は、逆倒になった反風景。

これが冒頭の一二〇ページの本文で、対向の一二一ページに近いノド寄りに、小字で「*口絵はツァイト・フォト・サロンでの個展(一月十八―三十日)より取材しました。」とある。以下、4ページにわたって、別紙(すなわち「口絵」)に写真作品4点が掲載されているが、どれもタイトルをはじめクレジットもノンブルもない。ページ真ん中の、やや上方に角版の写真が置かれているだけだ。写真展《逆倒都市》に何点の作品が出品されたかわからない。だが、この4点がそれらを代表することは確かだろう。被写体を言葉でなぞるのは空しいが、しかたがない、試みてみよう。
 ・煙突から煙を吐く工場(看板から「新名糖」と読めそうだが、しかとは判読不能)
 ・ドライクリーニング富士屋の店舗を中心にした街角(東京都墨田区向島か)の風景
 ・バスケットボールのゴールポストと象のオブジェが片隅に置いてある学校の校庭
 ・洗足池ビヤガーデン(東京都大田区南千束か)付近の歩道橋の脇で風に揺れる柳
写真はモノクローム、いずれも無人で、地面の影や空の雲の様子を観ると、同じ日の撮影である可能性は否定できない。仕上がりの天地左右は121mmのスクエアフォーマット、その比率は翌1983年発表の上掲〈逆倒都市U〉の2点と同じである。これら「火の都市であり焔の噴水でもある」、「部分でしかない都市の風景」は、遅くとも1983年には制作されたはずの《吉岡実〔現代の詩人1〕》の口絵写真にもそのまま引き継がれているようだ。

続いて、笠間悠貴の〈さかさの双眼鏡と蜃気楼〉が挙げている《日本カメラ》1982年2月号の〈逆倒都市〉、同1983年4月号の〈逆倒都市U〉、同1984年3月号の〈逆倒都市V〉を観よう。以下、( )内の数字は雑誌各号の掲載ページのノンブル、【 】内の数字は前掲書《断片的資料・渡辺兼人の世界 V 都市A 逆倒都市 T・U・V》掲載ページのノンブル。
吉岡が金井姉妹や平出隆と観た、シリーズの初回〈逆倒都市〉はこうだ(《日本カメラ》1982年2月号、二三〜三〇ページ)。撮影現場は東京都内と推定される。

「CITY'S MICROCOSMOS/by KANENDO WATANABE」、天地左右152mmの正方形の角版写真「1」、「渡辺兼人/〔罫線〕/逆倒[さかさ]都市」(23)【15】
同角版写真「2」(24)【9】
同角版写真「3」(25)【11】
同角版写真「4」(26)
同角版写真「5」(27)
同角版写真「6」(28)
同角版写真「7」(29)
同角版写真「8」、罫下に横組小字で「データ:ミノルタオートコード・ロッコール75ミリ・トライX・一部赤フィルター使用」。さらに下、ノド寄りに2行にわたって「渡辺兼人写真展「逆倒都市」1月18日(月)→30日(土)/東京・日本橋・ツァイト・フォト・サロン(Tel.03‐246‐1370)」(30)

同号の編集人・梶原高男による〈編集後記〉には「白黒口絵では渡辺兼人氏が逆倒[さかさ]都市≠発表していますが、渡辺氏は1947年生まれの新進で、哲学的な思考により都市の風景を追い続けている写真家です。今回の作品は都市の中の小宇宙を写しとることにより、その外に広がる都市の姿を表現しようとしたものだそうですが、難解な意味はさておいても、まことに写真的な、空間をストレートにとらえた写真だと思います。そのシャープな感覚はニューランドスケープとして注目されるものです。」(同誌、三〇〇ページ)とあるほか、〔今月の口絵〕というコメントのページには、渡辺自身が〈鏡像――逆倒都市〉という一文を寄せており(前掲書《断片的資料・渡辺兼人の世界 V 都市A 逆倒都市 T・U・V》に再録)、編集側と作者側の双方が、個展《既視の街》に次ぐ渡辺の本格的な写真展を後押ししている。

次に《吉岡実〔現代の詩人1〕》の口絵写真と同時期の撮影だと思われる〈逆倒都市U〉(《日本カメラ》1983年4月号、二三〜三〇ページ)。撮影現場は、パリおよびロンドンと推定される。

「CITY'S MICROCOSMOS:U/by KANEND WATANABE」、天地左右156mmの正方形の角版写真「1」、「渡辺兼人/〔罫線〕/逆倒[さかさ]都市:U」(23)
同角版写真「2」(24)
同角版写真「3」(25)
同角版写真「4」(26)
同角版写真「5」(27)【22】
同角版写真「6」(28)
同角版写真「7」(29)
同角版写真「8」、罫下に横組小字で「データ:ミノルタオートコード・ロッコール75ミリ・トライX・一部赤フィルター使用」(30)【39】は右にパンした別カットか、トリミング違いの同カットか。本シリーズに限らず、渡辺はプリントを印刷原稿にする際、基本的にトリミングしないようだ4)。そうすると、《吉岡実〔現代の詩人1〕》の口絵写真の2番め、3番め、4番めの見開き裁ち切りの横位置写真は、トリミングした結果ではないのか。《アサヒカメラ》1982年5月号の木村伊兵衛賞受賞第一作の〈街の中の街紙片の中の眼差〉は11ページから成るが、雑誌を90度かたむけた状態で、誌面には横長の写真を裁ち切りで載せているし、同誌の翌1983年10月号の〈⦅何ものの光景でもない⦆〉10点も、今度は白地に同様の作品を角版で載せていて、こちらには「ミノルタCLE・ロッコール28_・イルフォードパンF」とあり、35mmフィルムを使っている。口絵写真の使用機材は表示されていないが、上記の3点はこれと同じか。

同号の編集人・梶原高男による〈編集後記〉には「白黒口絵では木村伊兵衛賞作家の渡辺兼人氏が逆倒都市・U≠発表しています。都市風景を新しい感覚で写し出す渡辺氏は、本誌昨年2月号で東京をテーマにした同名の作品を発表していますが、今回はパリを写したものです。」(同誌、三二四ページ)とある。上記8点のセレクトは写真家自身によるものだろうが、興味深いのは、前掲書《断片的資料・渡辺兼人の世界 V 都市A 逆倒都市 T・U・V》にも収められた2点がこの8点中に見えないことである。しかもそれは、浩瀚な写真全集に収録された渡辺兼人の3点のうちの2点なのである。《日本写真全集 7 都市の光景》(小学館、1987年5月20日)の〈1960年代以降(二)〉の「171 パリ レアール」と「172 ロンドン バンクサイド発電所」がそれだ(なお、写真のタイトルは撮影者が明記したものではない)。写真全集における2点のキャプションは次のとおり。
「逆倒[さかさ]都市U」より 渡辺兼人[わたなべかねんど] 昭和57年(1982) ありうべき、ありえない都市=夢の都市≠追い求めるこの作者の作品のなかで、パリとロンドンという歴史と物語に充たされた都市との出会いによって制作されたこのシリーズでは、作者特有の晦渋さが姿を消している。あるいはこの二つの都市が、作者の求める夢の都市≠ノ似ていたのであろうか。現在、パリのレアールの工事現場はすでに巨大なショッピング・センターへと姿を変えている。失われた廃墟≠ニしてのこの写真こそ、作者が追い求める夢の都市≠ニの一瞬の遭遇であったのかもしれない。細部描写と遠近法を巧妙に使って、都市のミニチュアを創りだそうとする作者の特質が強くうかがえる作品である。」(〔執筆者は重森弘淹か、平木収か、それとも他の担当者か特定できない〕写真キャプション、同書、一四三〜一四二ページ)。
バンクサイド発電所は建築家ジャイルズ・ギルバート・スコット(1880〜1960)のデザインになるもので、やはりスコットが手掛けたバタシー発電所と瓜二つだ。ピンク・フロイドのアルバム《アニマルズ》(1977)のジャケット写真、バタシー発電所上空を飛ぶ豚を刷りこまれている身としては、レッド・ツェッペリンのアルバム《聖なる館》(1975)の写真家を想起しないわけにはいかない(ヒプノシスと沢渡朔については〈編集後記 157(2015年11月30日更新時)〉を参照のこと)。

最後に《吉岡実〔現代の詩人1〕》(中央公論社、1984年1月20日)の口絵写真と並行して撮影した可能性もある〈逆倒都市V〉(《日本カメラ》1984年3月号、七五〜八五ページ)はこうだ。撮影現場は東京(東京湾周辺の水辺が多い)と推定される。

天地左右160mmの正方形の角版写真「1」、「渡辺兼人/CITY'S MICROCOSMOS:3 by Kanendo Watanabe/逆倒都市 V」(75)
同角版写真「2」(76)
同角版写真「3」(77)
同角版写真「4」(78)
同角版写真「5」(79)
同角版写真「6」(80)
同角版写真「7」(81)
同角版写真「8」(82)【47】
同角版写真「9」(83)
同角版写真「10」(84)
同角版写真「11」のすぐ下に「ミノルタオートコード・ロッコール75ミリ・トライX」のキャプション、罫下に横組小字(上掲のキャプションよりは大きめ)で「渡辺兼人写真展「逆倒都市V」/3月21日(水)〜4月7日(土)/東京・日本橋・ツァイト・フォト・サロン」〔/(スラッシュ)は原文。改行箇所ではない〕(85)

同号の編集人・梶原高男による〈編集後記〉には「渡辺兼人氏の「逆倒都市V」は、このシリーズの3作目ですが、渡辺氏ならではの都市を視る眼はクールで、しかもシャープな光線を感じさせます。今回の作品は全体にやや白いハイキー調の写真で統一されていますが、これがなかなか効果的だと思います。」(同誌、三一〇ページ)とある。

以上の〈逆倒都市〉と〈逆倒都市U〉、〈逆倒都市V〉を紹介した雑誌掲載の計27点のなかに、《吉岡実〔現代の詩人1〕》の口絵写真と同じ撮影[セッション]と思われるものはない。《逆倒都市》シリーズの写真展の全貌はつかめないものの(1980年代の雑誌掲載作品と2017年の写真展の図録兼書籍掲載作品を名寄せすると、Tが16点、Uが28点、Vが16点)、思うに、渡辺兼人のなかで口絵写真はあくまでも《逆倒都市》シリーズの写真展とは別の(少なくともメインブランドに対するサブブランドのような)プロジェクトとして位置づけられていたのではないか。いずれにしても、〈逆倒都市〉と〈逆倒都市U〉、〈逆倒都市V〉のなかでは、そのモチーフの共通性からは〈逆倒都市U〉が最も類縁を感じさせて、〈逆倒都市V〉がそれに次ぐ。「後期吉岡実詩」(《薬玉》と《ムーンドロップ》)の開幕を告げるこの時期に渡辺兼人が撮った口絵写真は、まさしくコラボレーションと呼ぶにふさわしい、選詩集《吉岡実〔現代の詩人1〕》に収められた「中期」までの吉岡実詩(1955年刊の《静物》〜1979年刊の《夏の宴》)との絶妙な取り合わせを誇っている。

【参考】渡辺兼人写真集《既視の街》(AG+ Galleryと東京綜合写真専門学校出版局の共同出版、2015年10月31日)と《断片的資料・渡辺兼人の世界 U 都市@ 既視の街》(AG+ Gallery、2017年11月30日)の表紙
【参考】渡辺兼人写真集《既視の街》(AG+ Galleryと東京綜合写真専門学校出版局の共同出版、2015年10月31日)と《断片的資料・渡辺兼人の世界 U 都市@ 既視の街》(AG+ Gallery、2017年11月30日)の表紙

限定500部刊行の渡辺兼人写真集《既視の街》(AG+ Galleryと東京綜合写真専門学校出版局の共同出版、2015年10月31日)の「構成・テキスト」を担当したタカザワケンジは、巻末の〈写真集制作についての付記〉にこう書いている(原文横組。同書、一三五ページ。註は割愛した)。

 『既視の街』は1973年から1980年まで撮影された写真作品である。1980年に金井美恵子の小説との共著として新潮社から刊行されており、『既視の街』というタイトルはこのときに渡辺と金井とで考えたタイトルである。その翌年、渡辺は単独で同名の写真展をニコンサロンで開いた。単行本と展覧会は高い評価を受け、渡辺は第7回木村伊兵衛写真賞を受賞している。
 渡辺兼人は現在も1〜2年に1度はコンスタントに新作展を開く現役の写真家であり、本来であればその最新作を刊行すべきなのだろう。しかし、渡辺にとって写真集は、小説家と共著の『既視の街』といくつかの小冊子を別にすれば、2003年刊行の『渡辺兼人』(京都現代美術館 何必館)のみで、しかもこれは展覧会の図録だ。そこで、伊奈〔英次〕と大山〔将司〕から渡辺の本格的な写真集を出すという企画を聞かされたとき、まずは渡辺の初期の代表作であり、現在まで続く作品制作の原点ともいえる『既視の街』を写真集にすべきだと意見を述べた。それはこの企画に関わった人すべての思いでもあったようだ。結果として、本書は単行本と展覧会の『既視の街』をもとに、現在、渡辺の手元にあるネガフィルムのなかから、構成を担当した私が新たに写真を選んだ。1980年の単行本に収録された53点のうち4点のネガが存在せず、収録することはできなかったが、未収録、未発表の写真を加えた現時点での「完全版」である。
 日本の写真家の多くは写真集を「作品」だと考え、展覧会以上に重んじてきた。しかし、渡辺はそうした動きには無関心だったように見える。渡辺自身は写真集についてこう語ってる。
 「写真展のほうが好きなんですよ。会場にわざわざ出かけてもらって、直にプリントを見てもらいたい。ただ、もう一つ理由があって、それは反応がなかったから。写真集をつくりましょうと声がかかるほど反応がなかった(笑)」
 アイロニーを込めた言い方は渡辺特有のものだが、渡辺にとって写真プリントそのものが「写真」だということだろう。たしかに渡辺のプリントは独特の美しいグレートーンに特徴があり、印刷で再現するのは難しいかもしれない。しかし、渡辺の作品を広く知ってもらうためにも、この写真集をきっかけに渡辺の写真集がつくられることを期待したい。

ここからうかがえるのは、渡辺兼人の写真展重視、写真集軽視という基本的なスタンスである。写真集に重きを置かない写真家が写真展の図録を作成しないのは、なおのことありえる(3回にわたった《日本カメラ》への〈逆倒都市〉シリーズの掲載も、成果発表というよりは、写真展開催の告知という側面の方が大きかったのではないか)。写真集《既視の街》のスミに特色グレーを加えた高精細な製版・印刷は充分に魅力的だが(印刷・製本は株式会社大丸グラフィックス)、それにしたところで写真プリントに及ばないことは紛れもない。タカザワケンジが写真集《既視の街》に寄せた〈「既視」と「未視」のあいだで〉には、次のような重要な箇所がある。

 渡辺は東京綜合写真専門学校で写真教育を受けたのち、1973年に初個展「暗黒の夢想 ジャック・ザ・リパーに関する断片的資料」を開く。写真展のチラシに渡辺はこんな文章を寄せている。1888年にロンドンで起きた猟奇的な連続殺人事件で、殺人鬼ジャック・ザ・リパーが被害者の目をえぐり取ったことに触れ、被害者たちが「いったいどの様な光景を、風景を目撃したのであろうか。」と夢想したという。
 作品は演出を加えた撮影に、フォト・コラージュを駆使した構成的な写真だったというが、タイトルといい、展覧会に寄せた作者の言葉といい、この当時の渡辺が写真を使って何かを表現しようという意識を強く持っていたことがうかがえる。渡辺の兄、四谷シモンは著名な人形作家だが、1960年代の演劇シーンを牽引した「アングラ演劇」の代表的劇団の一つ、状況劇場の看板役者でもあった。渡辺の周囲には兄の関係で表現に関わる者が多く、その影響からエロスやグロテスクなどに関心が向いたようだ。ちなみに「暗黒の夢想」展には、日本にドイツ表現主義を紹介した独文学者、翻訳家の種村季弘が文章を寄せた。
 しかし、渡辺は写真を使ってイメージを構築することに違和感を感じるようになっていった。とくに「暗黒の夢想」展の後、「これはアカンと。違うなあ、という感じでしたね。」その後、現在まで渡辺は「暗黒の夢想」までの作品を封印している。
 「暗黒の夢想」までの手法と訣別した渡辺が、最初に取り組んだシリーズがこの『既視の街』である。「暗黒の夢想」展終了直後から撮影が始められている。しかし、シリーズ名すらなく、発表するあてもないまま、撮影は7年弱に及んだ。(同書、一三二ページ)

「渡辺の周囲には兄の関係で表現に関わる者が多く」には、ここに名前の挙がっている種村季弘(*5)や、唐十郎、金井美恵子、吉岡実も含まれるだろう。選詩集《吉岡実〔現代の詩人1〕》での渡辺兼人の起用がどのような経緯でなされたのか、詳細はわからない。だが、金井と渡辺の《既視の街》がその重要な契機となったことは疑いない。1981年の〈既視の街〉に続く渡辺の写真展こそ、翌1982年からの〈逆倒都市〉シリーズだった。《既視の街》に続く渡辺兼人の写真集として、《逆倒都市》が――それこそ「未収録、未発表の写真を加えた現時点での「完全版」」の形で――刊行された暁には、選詩集《吉岡実〔現代の詩人1〕》に掲載された写真たちも新たな相貌を見せてくれるのではないだろうか。

一方、金井美恵子の側には次のような文献がある。金井と渡辺兼人の共著《既視の街》の、武藤康史編による〈解題〉(《金井美恵子全短篇U》、日本文芸社、1992年3月3日、六四五〜六四七ページ)のうち、渡辺兼人の写真について言及した部分を中心に掲げる。

既視の街 一九八〇年九月二十日、単行本『既視の街』として新潮社より刊行された(書下ろし)。表紙には金井美恵子・渡辺兼人の名が同じ大きさで並ぶ(渡辺兼人の右肩に小字でphotograph)。奥付には《著者/金井美恵子[かないみえこ]・写真/渡辺兼人[わたなべかねんど]》とある(原文横書き)。本文一四〇ページのうち写真が五一葉、六○ページを占めている。
 「朝日新聞」一九八〇年十一月十一日朝刊に書評(無署名)がある。見出しは《作品求める動き、作品化》(以下、全文)。《「既視」――心理学用語、フランス語のデジャ・ヴュの訳。一度も経験したことがないのに、いつか経験したという感じがするような感覚を言う。〔……〕/この本は、じつは、小説家金井美恵子と写真家渡辺兼人の一種の共同制作によるものであり、ほとんど全ページに、物語の展開とは一見無関係な一連の都市風景が挿入(そうにゅう)されている。しかしそれらの写真は、人物のまったく登場しないきわめて無機的なものであるだけに、かえって、どこかで見た風景という感じをあたえる。そういう写真と照応させながら小説を読むのは、なかなか夢想をそそるものだ。》
 〔……〕
 「みすず」一九八一年一月号「一九八〇年読書アンケート」(《――一九八〇年中にお読みになった書物のうち、とくに興味を感じられたものを、五点以内で挙げていただけますよう、おねがいいたしました》)の阿部良雄の項に次のようにある(2以下は略)。

 1 金井美恵子・渡辺兼人『既視の街』、新潮社、一九八〇。
 するどい対立関係をなしつつ優しく相互浸透する散文と写真が、なつかしい「デジャ・ヴュー」の都市をわれわれの心象の中に蘇らせてくれたことを、感謝しなければなりません。文体と映像の端正さによって「スタイル」回復の方向の示されていることが同時にシュルレアリスムの正統を思わせると、書くことは逆説に過ぎるでしょうか。

金井の〈既視の街〉を収録した講談社文芸文庫の《ピクニック、その他の短篇》(講談社、1998年12月10日)の巻末〈解説〉は、堀江敏幸の〈《形而上学的な怪我》からの治癒〉である。冒頭の段落を引く。

 麻酔で足下がおぼつかなくなった少女に、靴を履かせてあげると言いながら、いきなり《足に顔を近づけて、ストッキング越しに唇を押しあてた》歯科医の話を当事者から聞かされていた語り手が、十年後、いまや初老の男性となった件の歯科医のところで治療を受け、不意にそのエロティックな挿話を思い出す「桃の園」は、《淡いクリームと濃い薔薇色のまだらの果実》である桃とピンク色の歯茎を診察台のうえで連結した、それだけでもう十分に鮮やかな一篇だが、以前ここに桃園がありましたねという問いかけに対する歯科医の回答は、一九八〇年代初頭までの金井美恵子の特質を完璧に言い当てているように思われる。じつは高名な詩人でもあった、どこか吉岡実を連想させなくもない歯科医は、こんなふうにつけ加えるのだ。《……桃の木が一番美しく見えるのは、果実が熟してクリーム色の部分が赤く色づいて、それが小さな灯りのように木を飾る時なんです。黄金色の産毛に飾られた少女の膚のように、内側から輝いて見えるでしょう。触わると形而上学的な怪我をしそうです》。(同書、三一一〜三一二ページ)

金井美恵子が《ユリイカ》1973年9月号の吉岡実特集に寄せたエッセイは〈桃―あるいは下痢へ〉で、標題には小字で「吉岡実へ」と添えられてあった。言うまでもなく、「桃」も「下痢」も吉岡の詩の題名である(〈下痢〉には「滑稽な形而上の下痢をする」という詩句まである)。一方、〈桃の園〉(初出:《群像》1976年1月号)の題辞は深沢七郎で、金井は〈桃―あるいは下痢へ〉にも、より長い形で深沢の〈脅迫者〉から「さて私は、のどかな生活の、のどかなある春の日に、ピンクの花を咲かせた黄桃の実のなかに、甘い蜜が湧いて、熟して、したたるように、脅迫というひとつのスタイルを実行しようとしたのだった。」を引いていた(前掲《ユリイカ》、八九ページ)。「 」内の赤字にした部分が〈桃の園〉の題辞で、この一点だけ見ても、堀江敏幸が〈《形而上学的な怪我》からの治癒〉に吉岡実を召喚しているのは理に叶っている。なお、堀江の〈解説〉には「渡辺兼人の写真と拮抗するかたちで書き下ろされた端境期の秀作『既視の街』」(前掲書、三一八ページ)とある。

上述のように、金井の小説〈既視の街〉は書きおろしの初刊が1980年に新潮社から出たあと、1992年に《金井美恵子全短篇U》に、1998年に《ピクニック、その他の短篇》に収められた。いずれも、再録時には渡辺兼人の写真は収められていない。一方、渡辺の写真〈既視の街〉は1981年3月3日から8日まで、ニコンサロン(東京・銀座)での個展のあと、長らく印刷物としてまとめられることがなかったが、すでに述べたように、2015年10月31日に500部限定の写真集《既視の街》がAG+ Galleryと東京綜合写真専門学校出版局の共同出版で初めて刊行された。驚くべきことに、これが渡辺兼人の最初の本格的な写真集である(*6)
ちなみに、東京都写真美術館(執筆・監修)《日本写真家事典――東京都写真美術館所蔵作家〔東京都写真美術館叢書〕》(淡交社、2000年3月27日)の〈渡辺兼人〉の項(執筆は中原淳行)に掲げられた写真作品は《既視の街》の一点である。渡辺は〈第7回木村伊兵衛賞受賞者発表〉が掲載された《アサヒカメラ》1982年3月号に受賞のことば〈また、歩きはじめる〉を執筆しているが、そこにこの写真(同誌、七〇ページ)を撮ったときのこととおぼしい状況を書きとめている。同文は《断片的資料・渡辺兼人の世界 U 都市@ 既視の街》に再録されており、この写真は(詩人によって詩篇〈苦力〉が詩論〈わたしの作詩法?〉に喚びよせられたように)写真家にとって会心の一点だったに違いない。
吉岡実は渡辺兼人の写真について書きのこしていない。だが、前掲《アサヒカメラ》の「(光)」こと編集長・徳本光正による「第七回木村伊兵衛賞が渡辺兼人氏に決まりました。ある人が渡辺氏の写真を見て「日本の都市の風景なんだけどヨーロッパかどこかみたいに見える」と言っていたのが印象的でした。湿潤、夾雑、混沌、野放図……。そういう日本の都市のイメージに、渡辺氏の写真は直接にはつながらないかもしれません。しかし氏が写し出しているのはまぎれもなく日本の都市です。いわゆる日本的なるものを抽出するのではなく、逆に拒絶しようとするところから何が見えてくるか。そこに氏の写真のおもしろさがあります。」(〈編集室から〉、同誌、三四三ページ)という指摘は、《僧侶》を書いたころの吉岡の姿勢と奇妙なまでに一致していて、吉岡の渡辺評がどのようなものだったかを考える契機ともなり、興趣は尽きない。

【#24】東京新聞(編)《ルドルフ・ハウズナー展》(東京新聞、c1982〔年4月9日〕)

ルドルフ・ハウズナー(1914〜1995)はオーストリアの画家。吉岡実は随想や談話で、しばしばそのときお気に入りの画家に言及した。しかし、ハウズナーは吉岡の〔自筆〕年譜に「小田急百貨店で「ルドルフ・ハウズナー展」を観る。」と登場するだけで、この画家の作品をどのように受けとめ、この画家をどのように評価したのかよくわからない。ハウズナーは、図録の表紙を飾った〈標準に近づくアダム T〉(1972)の画風で知られるが、掲載作品の〈画家〉(1980)はわが斎藤真一(1922〜1994)の自画像にも通じる孤愁を漂わせて、異色である。ちなみに吉岡は斎藤の〈しげ子 母の片見〉を所蔵していた(カラー図版〈吉岡実の小さな部屋〉、《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》、書肆山田、1996、〔二五ページ〕)。

東京新聞(編)《ルドルフ・ハウズナー展》(東京新聞、c1982)の表紙〔ハウズナーの作品は〈26――標準に近づくアダム T 1972/Adam to standard T〉〕 〈50――画家 1980/The painter〉(《ルドルフ・ハウズナー展》、東京新聞、c1982)
東京新聞(編)《ルドルフ・ハウズナー展》(東京新聞、c1982〔年4月9日〕)の表紙〔ハウズナーの作品は〈26――標準に近づくアダム T 1972/Adam to standard T〉〕(左)と同書の〈50――画家 1980/The painter〉(右)

【#25】特別展《米国二大美術館所蔵 中国の絵画》(東京国立博物館、1982年10月4日)

吉岡は〔自筆〕年譜に「東京国立博物館でクリーブランド、W・R・ネルソン二大美術館所蔵の「中国の絵画」展を観て圧倒される。」と書いている。すなわち、《中山王国文物展》(東京国立博物館、1981)の1年半後、再び同じ会場で中国の文物に接したわけである。ここで私自身の中国絵画体験を語るなら、JR線の飯田橋駅と水道橋駅の中間あたりの日教販ビルに会社(ユー・ピー・ユーのメディア事業部)があったころ、ビルの裏は日中友好会館で、さらにその裏は小石川後楽園だった。《エスクァイア日本版》の製作担当者として、雑誌の編集部と印刷所(大日本印刷)の間にあって、入稿原稿や校正刷りのチェックをした(入り広告の進行管理も担当、というか作業としてはこちらが主だった)。そのため昼食は、決まった時間に摂るというよりは、仕事に区切りがついたときに食べに出るという形だった。飯田橋駅(大衆割烹「三州屋」の焼魚定食)や水道橋駅(地下に降りる「かつ吉」のトンカツ)まで足を伸ばすこともあれば、日中友好会館の中国料理店「豫園」で済ませることも多かった(並びのトヨタ自動車東京本社の食堂、という日もあった)。昼休み時間に余裕があると、日中友好会館の売店をひやかしたり(たまには篆刻関係の書籍を購入した)、展覧会でもあればのぞいたりした。もっとも「これは」という逸品は招来されなかったが。絵画や出土品の展示よりも、書幅が多かった(記録していなかったので、印象を語るしかない)。やはり、書は中国のものには敵わないと感じた。絵画は、その後、北京の故宮博物院で堪能したが、図録も絵葉書も手許にはなく、はたしてそこでなにを観たものか。やはり、図録にはそれなりの価値がある。

特別展《米国二大美術館所蔵 中国の絵画》(東京国立博物館、1982年10月4日)の表紙 同書・三一ページの〈9 晴巒蕭寺図 伝李成〉
特別展《米国二大美術館所蔵 中国の絵画》(東京国立博物館、1982年10月4日)の表紙(左)と同書・三一ページの〈9 晴巒蕭寺図 伝李成〉(右)

この展覧会に圧倒された吉岡も読んだであろう図録の文章を二箇所、引く。

 このたび一連の日米文化交流の重要な行事の一環として,クリーブランド美術館およびW・R・ネルソン美術館の絶大なるご厚意により,両館所蔵の中国絵画281件をお送りいただき,ここにすばらしい特別展が開催できますことを心から喜びとするものであります。
 〔……〕今回展示される両館の作品は二千年以上に及ぶ中国絵画史の全般にわたっておりますが,なかでも宋代以後の作品は質量ともに充実し,系統的な陳列を可能にしている点で,鑑賞上からも研究の面からも高い評価が得られるものと信じます。(原文横組。東京国立博物館〈はじめに〉、本書、〔三ページ〕)

 〔……〕南方の江南にあった王朝,南唐に仕えた董源,巨然が水墨山水を描いていた頃,華北の各地には,中原の混乱をさけて独自な画風を開拓していた山水画の巨匠が出現していた。唐末の荊浩,それつぐ李成,関同,范寛らである。彼等の画風にはそれぞれの生活した地方性にもとずく景観の相違などが認められるものの,共通して,水墨画のリアルな表現の手段としての側面を駆使して,大観的,構成的でありながら,きわめて写実的な山水画の大様式を作りあげた。彼等の画風は燕文貴,許道寧らによって北宋の中央に迎えられ,一世を風靡し,やがて北宋後半期の郭煕によって実作と理論の両面で集大成される。(同。海老根聰郎〈中国絵画の流れ〉、本書、二三ページ)

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(*1) 渡辺兼人写真展《逆倒都市》のシリーズは、粟生田弓[あおたゆみ]の著したツァイト・フォト・サロンの創設者・石原悦郎(1941〜2016)の評伝《写真をアートにした男――石原悦郎とツァイト・フォト・サロン》(小学館、2016年10月16日)の巻末リスト〈ツァイト・フォト・サロン展覧会全記録〉(制作協力は、ツァイト・フォト・サロンの野村ニナ)に、次のように記載されている(同書、315-3〜314-4ページ)。
  1982年1月18日-30日 逆倒都市(渡辺兼人)
  1983年3月22日-4月9日 逆倒都市U(渡辺兼人)
  1984年3月21日-4月7日 逆倒都市V(渡辺兼人)
《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987)の吉岡実日記には、1982年2月22日(つまり吉岡が渡辺兼人写真展《逆倒都市》を観た翌月)に、次のような注目すべき記載がある。すなわち「夕方、銀座の青木画廊へ行く。四谷シモン人形展〔〈ラムール・ラムール〉〕を観る。金髪少女の裸形の三体には、精神性すら感じられた。近くの喫茶店に席がしつらえられ、高橋睦郎、渡辺兼人、金井久美子たちとおしゃべり。遅れて澁澤龍彦夫妻と金子国義が現われたので、小さな宴も華やぐ。」(〈67 シモン人形〉、同書、一三九〜一四〇ページ)。《土方巽頌》に渡辺兼人が登場する唯一の場面である。

(*2) たとえば《大岡信〔現代の詩人11〕》(中央公論社、1983年5月20日)の口絵は篠山紀信による5点のカラー写真で、最後の1点は〔現代の詩人〕シリーズ刊行に先立ってその内容見本にも使用された(モデルは女優の森下愛子)。《吉岡実〔現代の詩人1〕》の〈鑑賞〉は高橋睦郎の、人物論である〈肖像〉は金井美恵子の執筆、〈写真〉はいうまでもなく渡辺兼人の撮影である(本文で述べるように、金井と渡辺は《既視の街》の共著者)。一方、《大岡信〔現代の詩人11〕》は〈鑑賞〉が三浦雅士、〈肖像〉が辻邦生、〈写真〉が篠山紀信という布陣だった。これらの人選がだれによる発案だったかはともかく、著者と編集者の合意のもとで決定をみたことはいうまでもあるまい。

(*3) 著者自装の吉岡実《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987)は、選詩集《吉岡実〔現代の詩人1〕》(中央公論社、1984)よりも後で刊行された書きおろしだが、ジャケットと本扉に中西夏之の(樹脂で造られたラグビーボールほどの卵の)オブジェの写真を掲載している。奥付には「オブジェ 中西夏之」とともに「写真 普後均」とある。この写真はいわゆる「ブツ撮り」で、作品としての写真ではなく、あくまでも中西のオブジェが主役だった。もっとも、絵画を複写した写真がそれ自体、「透明」になることを目指すのに対して、被写体であるオブジェ=立体をいかに見せるかには、写真家の創意工夫の余地が残されている。

(*4) 渡辺兼人は、初期から現在に至るまで、一貫してモノクロプリントの形で作品を世に問うてきた。近年の制作の様子は《アサヒカメラ》2020年3月号の〈プリントで変わる写真の力――フィルム編〉でうかがうことができる(文・池谷修一〔同誌編集部〕)。渡辺はその〈プリントを現在にいかに提示するか〉で「ですから、よいネガを作らなければいけない。基本的には、曇っている、晴れている両方を一つフィルムのなかで一緒にするということはないんです。たとえば、あるシリーズなら曇りの日にしか撮りませんでした。また梅雨時なら、そう決める。真夏のピーカンならばそう決める。ですからネガの状態でシンプルに露出を全部そろえるようにするわけです」。さらに「すべて60分の1秒で、絞りf8にそろえています。いまは覆い焼きしたほうがよいのかなと思っても、あえてそのまま焼く。それはあるものをそのまま焼きたいから。だから特別に技法的なものとかは自分ではないんです。撮影条件はどうするかとか、カメラは何を使うか。その選択ぐらいじゃないかな。」(同誌、九七ページ)と語っている。この確信に充ちた方法は、50年に及ぶ創作活動全般にわたって採用されているのではないか。ちなみに、同誌掲載の新作〈舎人〉で渡辺の使用した機材は、フジGW690V・トライX(ISO320)である。

(*5) 種村季弘の遺著《断片からの世界――美術稿集成》(平凡社、2005年8月8日)には〈欲望の戒厳令――渡辺兼人〉(初出:《芸術生活》1973年12月号)が収められている。編集人一同による〈編集後記〉に「第四章では、構成上、ご登場いただいた美術家の方々に作品写真の提供をお願いしたところ、ひとりの例外もなく、快く協力してくださったことは、美術に親しむことを無上の喜びとした故人への、何よりのはなむけであったと感謝に耐えない。」(同書、三八三ページ)とあるように、種村の文章には図版(p.344 渡辺兼人《暗黒の夢想 ジャック・ザ・リパーに関する断片的資料》1973年)の写真が一点、掲載されている。私の知るかぎり、渡辺が唯一再録を許した《暗黒の夢想》(ニコンサロン)の作品である。

(*6) 本文で《断片的資料・渡辺兼人の世界 V 都市A 逆倒都市 T・U・V》(AG+ Gallery、2018年2月28日)を紹介した。同シリーズの《断片的資料・渡辺兼人の世界 U 都市@ 既視の街》(AG+ Gallery、2017年11月30日)が2015年版の写真集《既視の街》ののちに、写真展《断片的資料・渡辺兼人の世界 1973-2018 全7回》のうち、その《第2回 都市@『既視の街』展》(会場:AG+ Gallery、会期:2017年11月9日〜25日)の図録兼書籍として刊行された。巻末の〈既視の街へ――交差する写真と小説〉を笠間悠貴はこう始めている(註は割愛した)。
「ツァイト・フォト・サロンの閉廊に伴いコレクションを整理していたところ、1981年にニコン・サロンでおこなわれた渡辺兼人の個展「既視の街」に出品されたヴィンテージ・プリントが18点見つかった。長らく行方不明だった当のプリントは、この度「渡辺兼人・断片的資料」展に出品され35年ぶりに日の目を浴びることになった。これらのプリントは「既視の街」の中でも、1982年に渡辺が同名の作品で第7回木村伊兵衛写真賞を受賞する以前に発表された最初期のものだ。「既視の街」は、写真展だけでなく、金井美恵子との共著として出版された小説(『既視の街』新潮社、1980年。以降新潮社版と表記)におけるテクストと同等の資格を持つ写真=小説としての作品である。また、木村伊兵衛写真賞受賞に際して雑誌のグラビアページに特集掲載された連作でもある。それぞれに採録された写真が少しずつ異なっており、「既視の街」というタイトルは一連の作品群の総称と言える。具体的に挙げると、新潮社版には55枚の渡辺の写真と、14章からなる金井のテクストが収録されている。また、雑誌『アサヒカメラ』1982年3月号には新潮社版にも掲載されている作品が13枚と、そこに6枚が新たに追加され合計19枚の写真で構成された。近年、AG+ Galleryと東京綜合写真専門学校が共同で刊行した93枚の作品を収めた重厚な写真集にも、同名のタイトルが付けられている。〔……〕さて、冒頭の再発見されたプリントのうち、何れの出版物にも所収されていない写真が8点存在していたことが分かった。このように非常に多くのバージョンを持つ「既視の街」だが、〔……〕。」(同書、三六〜三七ページ)。
渡辺兼人の《既視の街》のポイントは大きく五つ。@金井美恵子との共著出版(1980)、A写真展開催(1981)――同展で1981年度の第7回木村伊兵衛写真賞を1982年3月に受賞(選考委員名〈「選考を終えて」の記事見出し〉:安部公房〈奇妙に過充電された光景〉、石元泰博〈多様な思いを語る写真〉、重森弘淹〈超現実的なイメージ〉、渡辺義雄〈〈現実〉の中に独自の〈発見〉〉、徳本光正〈今日の幅広い写真活動の中から〉)――、B写真集出版(2015)、C写真展開催(2017)、D図録兼書籍出版(同年)。AとCを観て比較検討することは(これから新たに行うことができないだけに)きわめて困難かつ貴重である。かくして、渡辺兼人の場合、写真集よりも写真展を観るとことの重要性が際立ってくる。しかもなお、写真集《逆倒都市》はまだ出現していないのだ。

金井美恵子と渡辺兼人の共著《既視の街》(新潮社、1980年9月20日)の企画編集担当は新潮社出版部の伊藤貴和子、「装幀/本文レイアウト」は櫻井昭治。本稿の本文・註の引用文献において、同書の渡辺の写真点数がまちまちだが(53点/五一葉/55枚)、私が数えたところこうだ。外装に1点(白地にスミ文字の函と、スミ地に白ヌキ文字のジャケットに、同じ角版写真を使用)、扉対向(隠しノンブルの二ページに相当する箇所)に丸くトリミングした1点――笠間悠貴〈既視の街へ〉によれば「今は無き東急文化会館8階の五島プラネタリウムにあったカール・ツァイス製の投影機」(前掲書、四一ページ)――、本文(五〜一四五ページ)の間に53点の角版写真。以上の計55点。


《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉【その3】――入沢康夫さんの巻(2021年7月31日)

(司会担当:高橋睦郎さん)

 入沢さん、お願いします。

〈わたしの吉岡実〉【その3】――入沢康夫さんの巻(1991年10月12日、東京・浅草の木馬亭における《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話)

(入沢康夫さん、登壇) 〔仮題:詩篇〈カカシ〉朗読〕

 こういう悪いコンディションの日に、たくさん集まっていただいて、ほんとうに厚くお礼を申し上げます。〔当日は台風が接近する悪天候〕

 いまお二人のかたがおっしゃった、とくに飯島さんがおっしゃったように、吉岡さんのことは……詩で語るのはひじょうに語りにくい、という想いがあります。しかし、こういうことは言える。具体的なことではなくて、抽象的な言い方になってしまいますけれども、とにかくぼくが最初の詩集を出して間もなくに、吉岡さんを知って、吉岡さんに知っていただいて――それは結局、詩の世界に吉岡さんが登場なすったのとほぼ同じ時期になるわけですけれども――それからお亡くなりになるまでつきあっていただいていたわけですが、その間にどういうことがあったかと言えば、想い出してみれば、何度かぼくが落ち込んだときに吉岡さんから声をかけていただいた。その声は一声であることもあれば、繰り返しであったこともある。それでぼくは立ち直れた、ということがほんとに何度かあって。これは、さっき……おかげでぼくは辞めてしまうかもしれなかったことを、何度か思いとどまったことがあります。1970年に〈入沢康翁〉という題の詩を書きまして、そのあとで「この人は、こいつ、辞めるかもしれない」「辞めるなら辞めてもいい」と思ってたというふうに言われてたんですけれども、それがわたくしだというふうになったについては、吉岡さんがひとことおっしゃってます。そういうことがありました。まあ、そんなようなことしかいまここでは……。吉岡さんがさっき…反対…だったということは、吉岡さんの短い詩がひとつありますので、それを聴いていただいて、それでご挨拶に代えさせていただいて。

 〈カカシ〉という、カタカナで書いた――題名はカタカナで、中身はもちろんひらがなや漢字で――それは十二、三行の詩です。

(詩篇〈カカシ〉の朗読。なおテクストは《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月20日、一二四〜一二五ページ)

シジミの化石の出る
水田の周囲から夏は逝く
男と女の仮相をして
「夜も昼も立っている者」
の棲む処では
鳥の群も向きを変え
羊羮のような山の方へゆく
「焼魚
蓮根の煮つけ
冷飯」
の食事は終り
夢みるべく人はみなへちま棚の下に集る
この村落では言霊とともに
目隠しの屏風のなかで
赤ん坊が生まれる

(会場、拍手)

〔付記〕
かつて〈編集後記 44(2006年6月30日更新時)〉に「選詩集《吉岡実》解題を執筆した。1991年10月12日、浅草・木馬亭で開催された〈吉岡実を偲ぶ会〉で、入沢康夫さんが吉岡実の詩篇〈カカシ〉(G・28)を朗読したが、そのときのテクストが確か本書だった。紙クロスの小振りな上製本は、しっくりと手になじむ造りである。」と書いた。朗読するには、詩の長さももちろん関係している。だが、総じてモダンな《サフラン摘み》から入沢さんが本篇を択んで読んだことは、私に強烈な印象を残した。入沢と吉岡、両者の関係については、二人の単行詩集を通じて考察した〈吉岡実と入沢康夫〉をお読みいただきたい。同文は、私の追悼=入沢康夫である。

「我〔ら←々〕は皆、
形を母の胎に仮ると同時に、
魂を里の境の淋しい石原から得たのである〔(ナシ)←。〕」〔この三行、小説の題辞[エピグラフ]では「 」(鉤括弧)なしで、追い込み二行の字数を揃えている〕
といふ民俗学者〔柳田国男(1875〜1962)〕の言葉を、
〔《風土》《草の花》に次ぐ〕三つ目の長篇小説〔《忘却の河》〕で〔終←七〕章〔〈賽[さい]の河原[かわら]〉〕の扉に引いたあの先達〔福永武彦(1918〜1979)〕も、
夜見の世界へと慌しく駈け去つて行つた。

《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991年4月15日)の本文の巻頭は、〔討議〕〈自己侵犯と変容を重ねた芸術家魂――『昏睡季節』から『ムーンドロップ』まで〉(同書、二六〜四九ページ)で、大岡信(1931〜2017)・入沢康夫(1931〜2018)・天沢退二郎(1936〜 )・平出隆(1950〜 )の4人による、同書でも最も創見に富んだ(論証の裏付けを必要としない)論考だった。末尾の記載によれば、討議は1990年11月15日(木)になされた。入沢さんの〔仮題:詩篇〈カカシ〉朗読〕のほぼ一年前のことである。そこにはこんなやりとりがある(同書、四〇ページ)。

入沢 やっぱり〔吉岡実も詩を〕書きたくない時期ではあったんですよ。七一年、七二年頃は。ぼくも書かなかったけれど。
天沢 ぼくも書かなかったんですが、吉岡さんが書かないのは沈黙したと言われ、ぼくが書かなかったのは干されたと言われた(笑)。
大岡 あばれすぎた(笑)。
平出 ぼくなんかは書き始めた時期なんですが、みなさんがそんなですから、何か異様に始めにくい空気がありました(笑)。
入沢 ぼくも「入沢康翁」の署名で「朝日ジャーナル」に書いたのが七一年の一月で、それから三年間ばかり書かなかったんです。あの頃はみんなそういう思いがあったんですよ。

吉岡が「沈黙」に入るまえの詩は、1969年10月執筆の〈コレラ〉(F・18)である。一方、「入沢康翁」の詩は、〈哀切なるプロローグ――またしても回り来った年のはじめに〉。入沢詩の本文(単行詩集および集成に未収録)とその背景は、〈入沢康夫「哀切なるプロローグ」昭和46年(1971年) | 人生は野菜スープ〜アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男〉に詳しい。これもまた、「午前0時&午後3時毎日更新の男」による痛切な追悼文である。

〔特集=吉岡実→(トル)〕

《や〔わ→は〕らかい恐怖》|入沢康夫
〔(ナシ)→ ――吉岡実氏へ〕

たとへば その一篇にしてからが なほ
《生き方とは関係なく》
しかも そこにあなたそのひとが
《骨をからだ全体に張り出して》泳いでをり
ことあらためて言ふまでもなく それは
あなたにとつて《のぞむところでなく 拒む術もなく》
《永年の経験から》つねにあなたを〔適→的〕確に《裏切る》ばかりか
その一篇から 次の一篇へ そしてさらに次へと
《黒い帯の》非《宗教的なながれ》が繰り出され
幾千の《スイカ》がただよひ
その果に燐光を放つ海上都市の夢がわき起こる
これほど恐るべき主体の賭けが文字に則して可能であらうか
そこには いつでも《小さな火事があり
樽と風を入れる場所があ》つて
そのかたちを 強ひて説明するならば
《両側へ紐をたらしつつある
神秘的な靴》
その靴の釘を《形而上的な肛門》に打たれて
跳ね上れ! 百の牡馬どもよ

ところで、ある時期までの入沢さんは歯並びが悪かった。筑摩書房で吉岡実と同僚だったころの写真を見ればわかる。それがいつかはわからないが、大学で講ずるようになって学生の前で喋る際に、見た目の問題もさることながら、滑舌の悪さを気にされたのではないか。入沢さんの「思い出話」は、歯を矯正されたにもかかわらず、それほどに聴きとりにくい。上掲談話で「……」となっているところは、言いさしではなく、たしかに発言しているのだが、しかとは聴きとれない箇所である。一方、吉岡実詩は「朗読」ということもあって、表記(漢字やかな・カナ、括弧類)はともかく、改行箇所が明瞭に判別できる、朗朗たる響きを伴っている。まるで別人のようだ。吉岡実を語ることは自己を語ることであって(入沢康夫はそれを好まなかった)、自分の発声はすべて吉岡の詩に捧げられている、と「思い出話」のこのトーンは告げているようである。


〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会【#26】〜【#29】(2021年6月30日)

〈〔吉岡実自筆〕年譜〉は、末尾に1983年10月という日付(擱筆時か)を持つ、吉岡実が書いた最長の「年譜」である。その終わりの文章(すなわち1983年の項)は「〔……〕詩「落雁」を『饗宴』終刊号に発表。盛夏、中桐雅夫死去。香を焚く。『薬玉』の原稿を、書肆山田の鈴木一民、大泉史世夫妻へ託す。秋、東京国立博物館の「韓国古代文化展」を観る。十月二十日、詩集『薬玉』刊行される。」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月20日、二三七ページ)だった。詩集に収められた最新の作品は、この年9月に発表された〈求肥〉(J・16、初出は《花神》秋・3巻3号)だったから、同年6月発表の鷲巣繁男の追悼詩〈落雁〉(J・17、初出は《饗宴》夏・10号)は、吉岡にとって特別な詩篇だったのだろう。吉岡と同年生まれの中桐雅夫(1919〜1983)が8月11日に歿した際に「香を焚く」とは、葬儀には参列しなかったということか。その後、《薬玉》の原稿を書肆山田に渡し、東京国立博物館で展覧会を観て、10月20日には「後期吉岡実詩」を代表する詩集《薬玉》が刊行される。さて、この1983年(の10月まで)に吉岡が年譜に書きとめた展覧会は次の四つである。

 昭和五十八年 一九八三年 六十四歳
【#26】白金の畠山記念館で、徽宗皇帝の筆と伝えられる「白猫」を観る。
◆《昭和五十七・五十八年 秋季・冬季展観会記》(畠山記念館、c1982〔年10月1日〕)/会場=畠山記念館、会期=昭和58年冬季展:1月8日【土】〜3月15日【火】◆
【#27】東京国立博物館で、ボストン美術館所蔵「日本絵画名品展」を観る。岡倉天心遺愛の「大威徳明王像」に驚嘆する。
◆東京国立博物館・京都国立博物館(編)《ボストン美術館所蔵 日本絵画名品展図録》(日本テレビ放送網、c1983〔年3月15日〕)/会場=東京国立博物館、会期=1983年3月15日【火】〜5月8日【日】◆
【#28】初夏、東京国立博物館で「弘法大師と密教美術展」を観る。八大童子立像(金剛峯寺)の六軀に魅せられる。
◆京都国立博物館・東京国立博物館・真言宗各派総大本山会・朝日新聞社(編)《弘法大師と密教美術》(朝日新聞社、1983年3月〔19日〕) /会場=東京国立博物館、会期=1983年5月24日(火)〜7月10日(日)◆
【#29】秋、東京国立博物館の「韓国古代文化展」を観る。
◆東京国立博物館・中日新聞社(編)《韓国古代文化展――新羅千年の美》と《新安海底引き揚げ文物》の2分冊(中日新聞社、c1983〔年8月2日〕)/東京展:会場=東京国立博物館、会期=1983年8月2日【火】〜9月11日【日】◆

参考までに、のちの吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉「一九八三年(昭和五十八年) 六十四歳」の項に見える展覧会関係の文(章)を引く(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996年3月25日、八〇五ページ)。
【#26】白金の畠山記念館で徽宗皇帝の筆と伝えられる〈白猫〉。
【#27】東京国立博物館でボストン美術館〈日本絵画名品展〉岡倉天心遺愛の〈大威徳明王像〉を観る。
【#28】東京国立博物館で〈弘法大師と密教美術展〉。八大童子立像(金剛峯寺)の六軀に魅せられる。
【#29】秋、東京国立博物館で〈韓国古代文化展〉を観る。

以下に*(アステリスク)で区切って、それぞれの図録の表紙と、図録本文にカラーの図版がある場合はおもにそれ(吉岡が言及している作品があれば、そちらを優先した)を選んで掲げる。とくにそれらがなくても、関連する話題があるときは、本文の図版を1〜2点、掲げた。

【#26】《昭和五十七・五十八年 秋季・冬季展観会記》(畠山記念館、c1982〔年10月1日〕)

《昭和五十七・五十八年 秋季・冬季展観会記》(畠山記念館、c1982)の表紙 同書・三六ページの〈昭和五十八年 冬季展 1 栄川 養川 双幅〉 【参考】徽宗皇帝の〈桃鳩図〉
《昭和五十七・五十八年 秋季・冬季展観会記》(畠山記念館、c1982〔年10月1日〕)の表紙(左)と同書・三六ページの〈昭和五十八年 冬季展 1 栄川 養川 双幅〉(中)と【参考】徽宗皇帝の〈桃鳩図〉(右)

吉岡は〈〔吉岡実自筆〕年譜〉に「徽宗皇帝の筆と伝えられる「白猫」を観る。」と書いたが、本図録に同作は掲載されていない。吉岡の随想などを基に事の経緯を追うと、1980年ころ、東京国立博物館で展示された徽宗皇帝の〈桃鳩図〉を観そこなったものの(澁澤龍彦もまた、観そびれている)、幸いなことにそれ以前に「桃鳩」を二度、観ている。あるとき(1980年代初めか)、画家の中西夏之から、伝徽宗皇帝筆〈猫図〉に衝撃を受けたと聞かされて、初めて〈猫図〉の存在を知った。中西は〈猫図〉の掲載された図録(〔瀬津巖編〕《雅――益田鈍翁》、瀬津雅陶堂、1980年10月1日)を送ってくれた。図版の〈猫図〉の「霊気にうたれる思い」のした吉岡は、いつか〈猫図〉を拝みたいと願うまでになった。以上の吉岡の随想〈徽宗皇帝「猫図」〉は、1982年6月28日発行の《目の眼》1982年7月号に発表されているから、それから半年ほどして〈猫図〉と対面することが叶ったわけだ(〈吉岡実と骨董書画〉参照)。
図録の〈昭和五十八年 冬季展〉冒頭は〈1 栄川 養川 双幅〉である(右が栄川、左が養川)。箱書は茶人大名の松平不昧(1751〜1818)。狩野栄川院典信(1730〜1790)の〈花に鳴鶯〉と狩野養川院惟信(1753〜1808)の〈水に住蛙〉は空間を活かした清冽な作で、吉岡が観た〈昭和五十八年 冬季展〉の呼び物のひとつだったのだろう。もっとも、渇望した〈猫図〉がめあての吉岡には物足りなかったはずだ。

【#27】東京国立博物館・京都国立博物館(編)《ボストン美術館所蔵 日本絵画名品展図録》(日本テレビ放送網、c1983〔年3月15日〕)

東京国立博物館・京都国立博物館(編)《ボストン美術館所蔵 日本絵画名品展図録》(日本テレビ放送網、c1983)の表紙 同書の〈2
東京国立博物館・京都国立博物館(編)《ボストン美術館所蔵 日本絵画名品展図録》(日本テレビ放送網、c1983〔年3月15日〕)の表紙(左)と同書の〈2 大威徳明王像 平安時代(11世紀)〉(右)

「東京国立博物館で、ボストン美術館所蔵「日本絵画名品展」を観る。岡倉天心遺愛の「大威徳明王像」に驚嘆する。」(〈〔吉岡実自筆〕年譜〉)。ボストン美術館館長のヤン・フォンテインの巻頭論文〈ボストンの日本美術コレクションのあゆみ――絵画を主として〉には「また、岡倉〔天心〕がボストン美術館とのつながりができる以前に収集した私的コレクション中の名品の幾つかは、彼の死の七年後に、岡倉の遺族から買い上げられ、当館の収蔵品となった。その中には、日本仏教絵画の最高傑作に数えられる「大威徳明王像」(二図)があるが、これは岡倉を記念して、〔ウィリアム・スタージス・〕ビゲローが購入し、当館に寄贈したものである。この画像が岡倉の私的コレクションの最も優秀な仏画であったように、館蔵品となった快慶作の「弥勒菩薩像」は岡倉旧蔵の最高の日本仏教彫刻であったと言えよう。これらの購入は、岡倉の後任、ジョン・エラートン・ロッジの東洋部長在任中に行なわれた。」(同書、一一ページ)と見える。同図は巻末の〈作品解説〉には「岡倉天心遺愛の[、、、、、、、]この画像は、おおらかで堂々とした作風を示し、十一世紀も前半期に遡る様式をそなえた名品。」(傍点引用者。同書、一五〇ページ)とあり、前掲吉岡年譜の記載はこの文言を踏まえたものと思われる。

【#28】京都国立博物館・東京国立博物館・真言宗各派総大本山会・朝日新聞社(編)《弘法大師と密教美術》(朝日新聞社、1983年3月〔19日〕)

京都国立博物館・東京国立博物館・真言宗各派総大本山会・朝日新聞社(編)《弘法大師と密教美術》(朝日新聞社、1983年3月〔19日〕)の表紙 同書・五三ページの〈144◎恵光童子立像[えこうどうじりゅうぞう](八大童子立像[はちだいどうじりゅうぞう]のうち 金剛峯寺〉 同書・一七七ページ)の〈144◎八大童子立像[はちだいどうじりゆうぞう] 六軀/各木造彩色 像高九五・一〜一〇三・〇/鎌倉時代 十二世紀末/和歌山 金剛峯寺〉
京都国立博物館・東京国立博物館・真言宗各派総大本山会・朝日新聞社(編)《弘法大師と密教美術》(朝日新聞社、1983年3月〔19日〕)の表紙(左)と同書・五三ページの〈144◎恵光童子立像[えこうどうじりゅうぞう](八大童子立像[はちだいどうじりゅうぞう]のうち 金剛峯寺〉(中)と同書・一七七ページの〈144◎八大童子立像[はちだいどうじりゆうぞう] 六軀/各木造彩色 像高九五・一〜一〇三・〇/鎌倉時代 十二世紀末/和歌山 金剛峯寺〉(右)

モノクロ写真のキャプションは、上段左から「烏倶婆誐童子 恵喜童子 恵光童子」、下段左から「制多迦童子 矜羯羅童子 清浄比丘」。同図すなわち〈144◎八大童子立像[はちだいどうじりゆうぞう] 六軀/各木造彩色 像高九五・一〜一〇三・〇/鎌倉時代 十二世紀末/和歌山 金剛峯寺〉の〈単色図版・解説〉には「建久九年(一一九八)に建立された不動堂の本尊不動明王像(143)の眷属[けんぞく]。元来八軀一具のものだが、残りの二軀は室町時代の後補である。いずれも太りぎみの体軀の要所をよく引き締め、凛々[りり]しい男子の風貌を見せる。玉眼が有効に生かされ、実際の人間を思わせる生々[なまなま]しさの奥に、不動の眷属らしい颯爽とした構えを感じさせ、『高野春秋』にいう運慶作という説はあながちに否定できない。X線透過写真により、衿羯羅童子の像内に、運慶作の他の仏像に納入されていたものと同形の月輪形木札が入っていることが確認されている。」(同書、一七七ページ)とある。
吉岡は〈『鹿鳴集』断想〉(初出:《現代短歌全集〔第6巻〕》月報10、筑摩書房、1981年3月25日)で会津八一の短歌二首を引いてから、

 この二首は、新薬師寺の金堂の仏像を詠んだものである。その頃はこの寺へ行く人はほとんどいなかったようだ。だが私はどうしても十二神将立像が観たいので、春日野の杜から横道をしばらく歩いた。荒れた築地で囲まれた境内に入ったが、参拝の人は一人もいなかった。光明皇后の建立になると言われる、天平の古寺は、さびれ果てていた。私は番人に扉を開けて貰って、薄暗い堂内に入った。そこには、薬師如来を守護するように、十二神将像が円形に立ち並んでいた。まるで灰をかぶったように、青白く見えた。ひときわすさまじい顔貌の伐折羅[ばさら]大将像に、私は心をうばわれてしまった。会津八一は何故にこの像のことを詠まなかったのだろうか――迷企羅像を十二神将の象徴にしているのを、不思議に思った。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三〇七〜三〇八ページ)

と書いているが、かつて散文で〈八大童子立像〉に触れたことはない。だが、〈聖童子譚〉K・4)の、とりわけ「4 春」はこれら六軀の童子立像から受けた感銘をとどめていはしないか。「1 夏」「2 秋」はともかく、「3 冬」とこの「4 春」の節は、《ムーンドロップ》(1988)の諸作のなかではきわめて《薬玉》(1983)に近い作風で、私には1983年初夏のこの展覧会が吉岡に大きな感銘を与えたゆえだと思われる。なお吉岡は、飯島耕一との対話〈詩的青春の光芒〉(《ユリイカ》1975年12月臨時増刊号〈作品総特集 現代詩の実験 1975〉)で、運慶について語りあっている。その〈運慶とシュルレアリスム〉から、はじめの部分を割愛して途中から引く。

吉岡 ぼくが、ここ何年間で観たうちで最高の感銘を受けたのは、一年ぐらい前かに上野博物館〔東京国立博物館のこと〕であった「元代道釈画展」。ぼくの好きな黙庵の「四睡図」などが出てるとかいう紹介文を読んで、家内をつれて行ったら、館内に数人の客しかいないさびしさ。ぼくにとっては黙庵や観月の水墨もよかったが、なんといっても顔輝絵だ。いわゆる伝顔輝「寒山拾得」という有名な画と久しぶりで対面したよ。もう一つはこれはもう、まさに顔輝唯一の真作という「鉄拐蝦蟇仙人」の対の一幅。これはもう恐るべき絵なんだな、世界の至宝だと思った。
飯島 中国のものはいいんじゃないかしら。いま上野の博物館で「鎌倉時代の彫刻」というのやってるんですけどね、運慶、湛慶、素晴しいものですね。運慶というのはもうもの凄い力に満ちてて、見てるとこちらが圧されそうな感じがするぐらいね。
吉岡 非常に作品は少いんじゃない。
飯島 それでも多く集めたほうらしい。今までは運慶じゃないんじゃないかといわれたものでも、最近の研究で運慶だということになったものも来てる。運慶にしても余りにも荒々しいというものも入ってるんだけどね。阿弥陀さまだってね、荒々しい阿弥陀さまなんだよ。あれはちょっと驚いたな。不動明王も毘沙門天も。
吉岡 そうすると、いわゆる中国とかから来た仏像と違った意味で……。
飯島 違ってるでしょうね。ぼくはそういうほうはあんまり知らないんだけど、日本のものになってるんだろうけど、そのエネルギーたるやすばらしいものですね。ただ木のあれでしょう、それが内部からもうはじけんばかりの精気がこめられていて、見てて圧倒されるんだ。息子の湛慶になると、湛慶は二つ三つしか来てないんだけど、もうぐっとやさしくなって、知的になってるっていうかな、今様なんだな。それもいいんですよ、ちょっと毘沙門天なんかナヨっとしててね。あれが違うんだな、親子で。運慶の力ってのは凄いですよ、日本のものでもこんなものがあるかなと思ってね。すごい精神性の感じられる……
吉岡 じゃあ観なくちゃね。運慶が代表作家になるわけ?
飯島 そうね、あの時代のね。
吉岡 「十大弟子」をやったのは、あれは運慶それとも湛慶なの。
飯島 違うでしょう。極楽寺のがあった。
吉岡 無着とかさ……。
飯島 運慶はコンガラ童子とかセイタカ童子とかさ。これも元気にみちた童子像でね。
吉岡 あれはもう素晴しいと思ってるんだけど……。
 それをテーマに詩はできない? 彫刻の詩っていうのは。
飯島 いや、ちょっとそりゃ、運慶や湛慶じゃぼくにしても書く方法がないですけどね。でも、ぼくはなんとなくいまの東京の街ね……もうずっと前からだけど、なんにも見るものがないんだな、ビルしかなくて。もう東京にはなんにもないですね。東京タワーに文化会館くらいしかないかと思ったけどね。ああいうものがあるんだな。鎌倉や奈良から運んできてるわけだけど。
吉岡 近来のそれは観ものだ。
飯島 観ものですね。あれだけ圧倒されたのは。現代彫刻なんか見て圧倒されたことないけど、あの運慶の力って凄いもんですね。その彫刻のなかに精神力を、もうありありと感じる。
吉岡 だからさ、つくる精神が違うんじゃないの、はっきり言って。もう神様をつくるとかさ、仏をつくるっていう姿勢でしょう。だから美術品をつくるとか作品つくるという姿勢と違う凄さが内面に滲み出てるんじゃないかな。
飯島 でも、あの展覧会だけでも、ほかの仏像もいっぱいあるけど、それにはあんまり力を感じない。最初の部屋に運慶が並んでて、それを見てると、あとはなんか非常におとなしいものを感じるね。運慶は見ていると疲れ、また力を与えられる。ほかは疲れませんが、また抵抗もない。
吉岡 たとえばね、飯島くんが運慶を書けないということ。なんか新しい詩を書こうとしてると、日本的風物にわずらわされちゃいけないっていう意識が、ぼくのなかにもあるわけね。それは新しい外国の彫刻のほうを詩にしたほうが新しくなるという、錯覚なのかもわかんないんだけど、あるのね。
飯島 ちょっと錯覚かもしらんな。(同誌、二〇六〜二〇七ページ)

はじめに補足しておくと、吉岡発言における「ぼくが、ここ何年間で観たうちで最高の感銘を受けたのは、一年ぐらい前かに上野博物館であった「元代道釈画展」。」については、〈〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会【#13】〉の特別展観《元代道釈人物画》で触れる予定だ。さて、飯島が上掲対話で「いま上野の博物館で「鎌倉時代の彫刻」というのやってるんですけどね、運慶、湛慶、素晴しいものですね。」と述べている展覧会を本連載の書式で記せば、

【#13-post-01】秋、飯島耕一と行った対話〈詩的青春の光芒〉で、飯島から東京国立博物館で開催中の「鎌倉時代の彫刻」を勧められる。
◆東京国立博物館《特別展 鎌倉時代の彫刻》(東京国立博物館、1975年10月2日)/会場=東京国立博物館 本館第1〜9室、会期=1975年10月7日【火】〜11月24日【月・振替休日】◆

となる。同図録にはモノクロの図版で、〈14 制多迦童子[せいたかどうじ]・矜羯羅童子[こんがらどうじ]・清浄比丘像[しようじようびくぞう](八大童子立像のうち) 3軀/和歌山・金剛峰寺)〉が掲げられているから、飯島の勧めに従って吉岡が同展を観たのならば、《弘法大師と密教美術》よりも7年半ほど早くこれら運慶作と伝えられる像に触れたことになる。あるいは、この《特別展 鎌倉時代の彫刻》での感動をもう一度味わうべく、《弘法大師と密教美術》にも脚を運んだと考えられなくはない。徽宗皇帝の〈桃鳩図〉を観に、そのたびに展覧会場を訪れたように。

【#29】東京国立博物館・中日新聞社(編)《韓国古代文化展――新羅千年の美》と《新安海底引き揚げ文物》の2分冊(中日新聞社、c1983〔年8月2日〕)

東京国立博物館・中日新聞社(編)《新安海底引き揚げ文物》と《韓国古代文化展――新羅千年の美》2分冊の表紙とそれを収める函(中日新聞社、c1983) 東京国立博物館・中日新聞社(編)《韓国古代文化展――新羅千年の美》の「38 金帽勾玉・勾玉 13個」(同書、三九ページ) 「1 青磁鯱耳瓶」(東京国立博物館・中日新聞社(編)《新安海底引き揚げ文物》、中日新聞社、c1983、〔二五ページ〕)
東京国立博物館・中日新聞社(編)《新安海底引き揚げ文物》と《韓国古代文化展――新羅千年の美》2分冊の表紙とそれを収める函(中日新聞社、c1983〔年8月2日〕)(左)と〈38 金帽勾玉・勾玉 13個〉(《韓国古代文化展――新羅千年の美》、三九ページ)(中)と〈1 青磁鯱耳瓶〉(《新安海底引き揚げ文物》、〔二五ページ〕)(右)

《韓国古代文化展――新羅千年の美》には、さなざまな金製の出土品や玉のほか、〈145 金銅彌勒菩薩半跏像〉〈155 金銅彌勒菩薩半跏像〉といったみごとな仏像が掲げられている。吉岡はかつて、随想〈大原の曼珠沙華〉(初出:《三田文学》1962年1月号)の最後を「そして明日、私たちは龍安寺の石庭を、大仙院の庭を、そして広隆寺の弥勒菩薩を見るだろう。私のもっとも愛するあの弥勒菩薩。不祥事件で、美しい指を折られたあの永遠の像・弥勒菩薩半跏思惟像を、妻と仰げるだろう。四条河原町へ向うタクシーのなかで古都京都の秋は、私たちが去るころからはじまると思った。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二五ページ)と締めくくった。韓国の古い美術品(と言うより、骨董と呼びたいが)は愛好家の吉岡にとっては最も親しいもので、前出〈吉岡実と骨董書画〉に引いた城戸朱理の〈骨董〉によれば、「〔……〕購われるか、贈られるかして吉岡家に運び込まれたらしい骨董」のうち「本人が求めたのは、おおむね李朝のものばかり」、「彼が魅せられたらしいのが、〔李朝の〕木工品や石仏、民画など明らかに傍流のものばかり」(《吉岡実の肖像》、ジャプラン、2004年4月15日、一〇六〜一〇七ページ)ということになる。もしかすると朝鮮半島の美術品は、展覧会場で観るものではなく、青山や京都・奈良の骨董屋の店先で目にするものだったのかもしれない(同じことは絵画についても言えて、吉岡はほんとうに愛する作品は画廊で購入しており、そのことは作品の評価にも直結していよう)。
吉岡実は太平洋戦争(1941〜1945)の末期、帝国陸軍の輜重兵として満洲・新京から朝鮮・済州島に渡ったが、同島は新安のある朝鮮半島の西南端から約90キロメートルの日本海・東シナ海・黄海の間に位置する。ちなみに本展は、吉岡が〔自筆〕年譜で言及した唯一の韓国美術関係の展覧会である。


《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉【その2】――飯島耕一さんの巻(2021年6月30日)

(司会担当:高橋睦郎さん)

 飯島さんはお見えでしょうか。

 ちょっと、さっき言いわすれましたが、最初に流しましたのは、もちろん皆さんおわかりだと思いますけれども、土方さんの〈僧侶〉の朗読です(〈《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉【その1】――安藤元雄さんの巻〉参照)。これは昭和49年にNHKで、〈文芸特集〉でしょうか、それで《吉岡実の世界》というのが放送されたので、吉岡さんは本来、詩の朗読ということをまったく認めなかったかたなんですけれども、これに関してはOKしたといういわくつきのものです。それから、これも申しわすれましたが、ロビーに吉岡さんの生原稿、および吉岡さんご所持の西脇順三郎さん、片山健さん、それから中西夏之さんの作品などが展示してありますので、あとでまたご覧ください。〔それぞれ、自著の装丁に採用した作品――詩集《ムーンドロップ》のデッサン、拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》の鉛筆画、評伝《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》のオブジェ――だったか。〕

〈わたしの吉岡実〉【その2】――飯島耕一さんの巻(1991年10月12日、東京・浅草の木馬亭における《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話)

(飯島耕一さん、登壇) 〔仮題:街っ子がなぜ佐渡に行ったのか〕

 木馬亭というのを知りませんで、かなりの処だろうと思ったんですけど、想像以上……、ぼくは想像力が貧困なせいで、ふつう聞かないような処で、古くてもなんか「オペラ座」とはいわなくても、そばまで来たら「ああこれが……」と思って、中に入ったらもっと驚いて。でも面白い処だと思っております。このところは、いろいろ体調を壊したりなんかしたものですから、詩の会は全然、ほんとに4、5年間出ておりませんで。今日はここから見て、ひじょうにみなさんの顔がよく見えまして、懐かしいような気がします。

 吉岡さんについては話したいことが山ほどあるようでして、しかし、人間というのは好きな人については意外に話すことがない。嫌いな人については(会場、笑)、思い出す。寝ようと思っては思い出して。これはぼくだけじゃありませんね。このあいだ知り合った阿川弘之さんという作家は、ある作家が嫌いだというので、「私も嫌いだ」と言ったら、「一冊、本を書け」と言いまして。その作家はたまたまぼくも大嫌いだったので、握手を強く求められた。阿川さんは面白い人だなあと思って、一晩いっしょにお酒を飲んだんですけれども。吉岡さんについてはいろんなことがいっぱいあるようで、やっぱり好きな人っていうのはほんとうに想い出が多いですね。場面場面に、切れ切れにあるんです。ということで。

不思議なもので、小学校時代、好きだった女の子の顔をなかなか想い出せない。名前はちゃんと憶えていますけど、顔がどうしても想い出せなくて。ぼくは迫害された女の人の顔が好きで、小学校5、6年のころから(会場、騒めき)。でも、好きだった同級生の女の子の顔がどうしても想い出せない。

 吉岡さんもほんとにたくさんお話ししたいことがあるんですけれども、さっき考えたのは、吉岡さんという人は飛行機に乗ってないんじゃないかと思うんですね。飛行機に乗らない人というのは、土方巽さんも長く飛行機に乗っていなくて、北海道へ行くときに、今から何年前でしたか、飛行機に初めて乗りまして、たいへん興奮した。ぼくの処に、北海道の大きな絵葉書2枚分に飛行機に乗ったということを書いて、もらいましたけれども。土方巽とか吉岡さんは、たぶん上空が嫌いな人だと。

 ぼくの知っている人では、写真家の奈良原一高という人がいますが、この人は――どうも自分はあんまり好きじゃないけども――高度1万メートルの処がいちばん好きだと言っていて、地上でもどこでもない不思議な処にずっといるとき感覚がいちばん好きなんだ、と言っている。それから画家の若林奮氏は、これは地下がひじょうに似合うんですね。あの人は、何年前でしたか、フランスへ留学したんですけれども、そのときなにやったのかと訊いたら、洞窟で地下にばかり潜っていたと。フランスの洞窟も、高い洞窟に潜りましたというのです。その洞窟に潜っているとどういう感じかと訊きますと、どちらが天かどちらが地かわからなくなる。まるで逆立ちしているような気がすると言う。若林奮氏は、ひじょうに地下が似合うんですね。

 ま、そうなると、吉岡さんという人は街が好きな人で、街が似合う。それも、こういう浅草のような下町の街ががいちばん似合う。私の住んでいる練馬とか、夏石番矢が住んでいる埼玉とか、そういう処はあんまり似合わない。ほんとうに、街っ子という気がする。その街っ子が、亡くなるしばらく前に佐渡に行ったというんで、それがぼくはいまだに謎で。あの人と佐渡というのはほんとに似合わない(会場、笑み)。まあ、京都なら許せるけど、佐渡というのは、なぜ、という感じがする。ほんとに。「たぶん、こうではないか」と気が付かれたかたがいましたら、ぜひとも教えていただきたいと、そういうふうに思います。それでは、どうも。

(会場、拍手)

〔付記〕
物の本によると、テープ起こし(録音した談話を文字に起こすこと)には、@素起こし、Aケバ取り、B成文という三つの水準があって、元の談話と(印刷に付したり、ネットにアップしたりする)文章の割合は、@→A→Bの順で移行する。この「テープ起こし」の作業がなかなか難しい。私がUPUで印刷物の編集をしていたころ、記事の大半は談話を文章にしたもので、原稿を依頼して執筆してもらうことはほとんどなかった(某人気作家にPRの文章を依頼しようとして、400字詰1枚の原稿料が10万円でないと書かないと言われた同僚がいたが、その作家がビールのTVコマーシャルに出ているのを見た私はすぐにそのことを想い出した)。話者が喋っているのがわかるようにまとめることもあれば、あたかもその人が執筆したかのような文章にすることもあった(その場合、「(談)」と書くのが本筋なのだろうが)。
《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉は、話者が喋っているようにまとめているが、その水準はAケバ取りとB成文の中間くらいだ。「ええ」とか「ああ」とか、言いまちがいや言いよどみは、原則的に訂す。【その1】――安藤元雄さんの話はとても聞きやすく(事前に充分準備されたのだろう)、テープ起こしもスムーズにできた。今回の飯島耕一さんの話は、まとめるのに難渋した。要因のひとつは、飯島さんの話しぶりにある。安藤さんの話が楷書だとすれば、飯島さんの話は行書といった感じで、聞いているぶんにはいいが、文字に起こすとなると、(話に反応した聴衆の笑い声が入ったりして)細かいニュアンスが拾えない。そういうわけで、第三段落は「小学校時代、好きだった女の子の顔をなかなか想い出せない。」以下、かなり編者のこちらが補ってB成文に近い仕上がりにしてある。要因のもうひとつは、飯島さんが木馬亭に到着したのが登壇する直前だったことで、それも話しぶりに影響していよう。
背景の説明はそれくらいにして、土方巽の飛行機の件を補足する。《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987)の〈17 屈斜路湖畔からの絵葉書〉は、土方が吉岡に宛てた書簡の引用である。同文は870字ほどあって、《病める舞姫》に代表される土方が執筆した散文とは異なり(Wordに読みこんでもなんの問題もない)、いたってわかりやすい。最後の段落を引く。書簡の末尾には「一九六九・六・一六 屈斜路湖畔にて/土方巽」とある。

 こちらへ参りますのに初めて飛行機に乗りましたが、速いだけですぐに驚きは小さくなりました。又、あの喧噪たる都会へ帰りましたら私の周辺にも、こうるさい騒動が始まるのですが、こうした湖を見ていると十分に納得のいくものがあります。又、日々吉岡さんに御教示願うものが多いと思いますが、どうかよろしくお願い申しあげます。ぜひ拙宅にも遊びにいらして下さい。奥さんによろしく。ねこにも。(同書、三一ページ)

吉岡宛の絵葉書と飯島に宛てたという絵葉書がそんなに違った文面だとは考えにくいが、この文面からは飯島の談話とはだいぶ異なった印象を受ける。もっとも飯島は、吉岡が〈西脇順三郎アラベスク〉の「13 絵は美しいブルー・お別れ」で「西脇先生がよろよろと、椅子に腰かけられると、緑さんが素早く毛布で、軀を包んだ。久しぶりでお会いする私には、老衰された先生の顔がまるで、お婆さんのように見えた。あたりを眺めやりながら、「このごろは小便をもらす」と、唯一言つぶやかれた。間もなく、ふるえがきたので、寝室へ帰られた。これが、わが詩人との別れとなってしまったのだ。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二四七ページ)と書いたのに対して、西脇は「このごろは小便をもらす」などと言わなかった、とどこかで書いていた(いま出典を特定できない)。むろん二人とも同じ処に居あわせたわけだが――吉岡陽子編の〈年譜〉には、1981年11月9日「草月美術館の〈西脇順三郎の絵画〉展へ行き西脇順一夫妻に招かれて十数人で西脇家を訪問し、静養中の西脇順三郎と五分ほど会う」(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996、八〇四ページ)とある――、しょせん人の受けとめかたはそれぞれだ、ということなのだろうか。それとも単に、たまたま吉岡の席の方が飯島の席よりも西脇に近かった、というだけのことなのだろうか。


〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会【#00】〈目次〉(2021年5月31日)

2014年に〈吉岡実詩における絵画〉を書き、それを下支えすべく、2018年には〈〈吉岡実言及造形作家名・作品名索引〉の試み〉を書いた。〈索引〉のような工具書は、短期間で完成させることができない。完成までには、持続的な加筆・修正作業を必要とする。だが、これほど長いあいだ放置されてきた理由はそれだけではない。そのことについて書こう。吉岡実が観た展覧会の数は、膨大なものになるに違いない(*1)。だがわれわれは、時を遡ってその展覧会を観ることができない。美術の愛好家としては吉岡の足許にも及ばない私が、展覧会の図録という補助的資料を用いてそれを追体験するのは、あくまでも次善の策である(そこには、映像作品を映画館のスクリーンで観るのと、TVやPCのモニターで観る以上の、大きな隔たりがある)。展覧会に図録で迫るのはよいとして、その具体的なアプローチをどうすべきか。まずは、〈〔吉岡実自筆〕年譜〉(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月20日、二三〇〜二三七ページ)――吉岡が執筆した最も詳しい年譜で、末尾に「(著者自筆・昭和五十八年十月)」とある――に登場する展覧会から始めるのが捷径だろう。この年譜は、まさに詩集《薬玉》の刊行(1983年10月20日)と符節を合わせて、同詩集の編集や制作(装丁)から解放された時期に書かれたと思しい(*2)。ちなみに、吉岡の書斎を撮した写真にこの手の図録は見えないが(図録は大判が多く、たいてい書棚の最下段に収蔵される)、同年譜を執筆するに当たって、そうした資料や自身の日記、既発表の随想を参照したことだろう。つまり、記憶と記録に依りながら。
以下に、〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の年号と年齢をそのまま見出しに立てて、展覧会とそれに準ずるものに関する記述を摘する(各項の冒頭に【#00】のように通し番号を振り、煩瑣を避けて、前略・中略・後略を示す〔……〕は記載しない)。それに続けて、図録の簡略書誌(〔編者〕、標題、刊行者、刊行年月日)と、展覧会の会場・会期を記した(双方とも、図録の記載をなるべく忠実に再現することを心掛け、会期の【 】内に曜日を補った)。なお、吉岡の記載と区別するために、原物から書きおこした書誌や会場・会期は、◆印で挟み赤字で表示した。これが、「〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会」を再構成した、本稿以降で詳述する予定の文章の〈目次〉となる。

 昭和二十四年 一九四九年 三十歳
【#01】銀座松坂屋で、梅原龍三郎・安井曽太郎の代表作展を観る。
◆毎日新聞社・松坂屋《梅原龍三郎・安井曾太郎自選展出品目録》(〔松坂屋〕、c1949〔年5月11日〕)/会場=銀座松坂屋、会期=1949年5月11日【水】〜5月30日【月】◆

 昭和三十五年 一九六〇年 四十一歳
【#02】春〔4月17日(日)〕、高島屋で、「中国名陶百選」を、妻と観る。
◆《中国名陶百選展》(日本経済新聞社、c1960〔年4月5日〕)/会場=日本橋高島屋、会期=1960年4月5日【火】〜17日【日】◆

 昭和四十二年 一九六七年 四十八歳
【#03】高島屋で、河井寛次郎遺作展を観る。
◆日本民芸館(編)《河井寛次郎遺作展》(大原美術館、c1967〔年5月2日〕)/東京展:会場=日本橋高島屋8階、会期=〔1967年〕5月2日【火】〜7日【日】◆

 昭和四十三年 一九六八年 四十九歳
【#04】春、荻窪のシミズ画廊の金子光晴展で、窪田般彌と会い、高橋康也と初めて会う。〔本展では図録が制作されなかったとみられる。詳細は本文を参照のこと〕
◆《金子光晴展》〔図録はナシ〕/会場=シミズ画廊(東京・荻窪)、会期=1973年5月10日【木】〜23日【水】◆
【#05】秋、竹橋の東京国立近代美術館でヘンリー・ムア展を観る。〔東京国立近代美術館での《ヘンリー・ムーア展》は1968年ではなく、翌1969年に開催〕
◆ヘンリー・ムーア展カタログ委員会(編)《ヘンリー・ムーア展》(毎日新聞社、c1969〔年8月27日〕)/会場=東京国立近代美術館、会期=1969年8月27日(水)〜10月12日(日)◆

 昭和四十五年 一九七〇年 五十一歳
【#06】坂本繁二郎展、
◆朝日新聞東京本社企画部(編)《坂本繁二郎追悼展》(朝日新聞東京本社企画部、c1970〔年3月20日〕)/東京展:会場=東京・日本橋 東急、会期=1970年3月20日【金】〜4月1日【水】◆
【#07】富本憲吉展など、妻と観る。
◆東京国立近代美術館(編)《富本憲吉遺作展》(京都国立近代美術館富本憲吉遺作展委員会、c1970〔年4月1日〕)/会場=東京国立近代美術館、会期=1970年4月1日【水】〜5月10日【日】◆

 昭和四十六年 一九七一年 五十二歳
【#08】小田急百貨店で、曽我蕭白、長沢蘆雪、伊藤若冲ら異端の画家の絵を観て感動する。
◆日本経済新聞社文化事業部(編)《近世異端の芸術 蕭白と蘆雪を中心に》(日本経済新聞社文化事業部、c1971〔年6月26日〕)/会場=東京新宿・小田急百貨店十一階文化催事場、会期=1971年6月26日【土】〜7月13日【火】◆

 昭和四十七年 一九七二年 五十三歳
【#09】秋、京都国立博物館で、「平家納経」全巻を観る。千載一遇。
◆京都国立博物館(編)《特別展覧会 平家納経と厳島の秘宝》(京都国立博物館、1972年10月7日)/会場=京都国立博物館、会期=1972年10月7日【土】〜11月5日【日】◆

 昭和四十八年 一九七三年 五十四歳
【#10】晩秋、鎌倉の近代美術館で、デ・キリコ展を観る。
◆カタログ編集委員会(編)《デ・キリコ展》(毎日新聞社、c1973〔年11月2日〕)/鎌倉展:会場=神奈川県立近代美術館、会期=1973年11月2日【金】〜12月16日【日】◆
【#11】横浜高島屋で、渇望久しい三井寺(園城寺)の「黄不動」を観る。
◆園城寺教学部(編)《伝法灌頂記念 結縁灌頂執行 三井寺秘佛特別開扉》(〔日本経済新聞社〕、c1973〔年11月8日〕)/会場=横浜高島屋八階〔特設灌頂〕道場、会期=1973年11月8日(木)〜20日(火)◆

 昭和四十九年 一九七四年 五十五歳
【#12】新春、高島屋で鉄斎展を観る。
◆朝日新聞東京本社企画部(編)《没後五十周年 富岡鉄斎展図録》(朝日新聞東京本社企画部、c1974〔年1月10日〕)/会場=日本橋高島屋、会期=1974年1月10日【木】〜1月15日【火・祝】◆

 昭和五十年 一九七五年 五十六歳
【#13】早春、東京国立博物館で、黙庵「四睡図」と伝顔輝「寒山拾得」、真蹟「蝦蟆鉄拐図」を観て驚嘆する。
◆特別展観《元代道釈人物画》(東京国立博物館、1975年1月29日)/会場=東京国立博物館、会期=1975年1月31日【金】〜3月2日【日】◆

 昭和五十四年 一九七九年 六十歳
【#14】晩春、東京国立近代美術館の岸田劉生展を観る。
◆東京国立近代美術館(編)《没後50年 岸田劉生展》(朝日新聞社、c1979〔年4月6日〕)/東京会場=東京国立近代美術館、会期=1979年4月6日(金)〜5月27日(日)◆

 昭和五十五年 一九八〇年 六十一歳
【#15】三越本店で、良寛展を観る。天上大風。〔展覧会のタイトルは《没後百五十年 良寛展》〕
◆BSN新潟美術館・毎日新聞社(編)《良寛展図録》(毎日新聞社、c1980〔年7月29日〕)/東京会場=東京三越美術館、会期=1980年7月29日(火)〜8月10日(日)◆
【#16】秋、正倉院拝観展などを観て、宗左近夫妻、柴田道子と金沢へ廻る。
◆《正倉院展目録》(奈良国立博物館、c1980〔年10月26日〕)/会場=奈良国立博物館、会期=1980年10月26日【日】〜11月9日【日】◆

 昭和五十六年 一九八一年 六十二歳
【#17】厳冬、東京国立博物館で、鑑真和上像を拝観する、この静寂よ。
◆《特別展観 唐招提寺鑑真和上像》(東京国立博物館、c1981〔年1月15日〕)/会場=東京国立博物館、会期=1981年1月15日【木・祝】〜2月1日【日】◆
【#18】伊勢丹新館で、「ピカソ秘蔵のピカソ」展を観る。
◆高階秀爾・神吉敬三(監修)《ピカソ秘蔵のピカソ展 生誕100年記念》(ピカソ展実行委員会、c1981〔年3月5日〕)/東京展:会場=伊勢丹美術館、会期=1981年3月5日【金】〜4月7日【火】◆
【#19】陽春、上野国立西洋美術館で、「アングル展」(「泉」に魅せられる)。
◆国立西洋美術館(監修)《アングル展》(日本放送協会、c1981〔年4月28日〕)/東京展:会場=国立西洋美術館、会期=1981年4月28日【火】〜6月14日【日】◆
【#20】東京国立博物館へ回り、「中山王国文物展」、幻の国の出土品に感動する。
◆東京国立博物館・日本中国文化交流協会・日本経済新聞社(編)《中国戦国時代の雄 中山王国文物展》(日本経済新聞社、c1981〔年3月17日〕)/会場=東京国立博物館、会期=1981年3月17日【火】〜5月5日【火・祝】◆
【#21】晩秋、草月会館で、「西脇順三郎の絵画」展へ妻と行き、渋沢孝輔、安藤元雄、三好豊一郎、那珂太郎と談笑する。
◆《西脇順三郎の絵画》(草月美術館、c1981〔年11月9日〕)〔レイアウト:吉岡実〕/会場=草月美術館、会期=1981年11月9日【月】〜30日【金】◆
【#22】東京国立近代美術館の「ムンク展」を観る。
◆東京国立近代美術館(編)《ムンク展》(東京新聞、c1981〔年10月9日〕)/会場=東京国立近代美術館、会期=1981年10月9日【金】〜11月23日【月・祝】◆

 昭和五十七年 一九八二年 六十三歳
【#23】年初、日本橋のツァイト・フォト・サロンで、渡辺兼人の写真展「逆倒都市」を観る。金井美恵子・久美子、平出隆らと会う。
◆渡辺兼人写真展《逆倒都市》〔図録は未見(あるいは未刊行か)〕/会場=ツァイト・フォト・サロン、会期=1982年1月18日【月】〜30日【土】◆
【#24】小田急百貨店で「ルドルフ・ハウズナー展」を観る。
◆東京新聞(編)《ルドルフ・ハウズナー展》(東京新聞、c1982〔年4月9日〕)/東京展:会場=小田急グランドギャラリー、会期=1982年4月9日【金】〜21日【水】◆
【#25】東京国立博物館でクリーブランド、W・R・ネルソン二大美術館所蔵の「中国の絵画」展を観て圧倒される。
◆特別展《米国二大美術館所蔵 中国の絵画》(東京国立博物館、1982年10月4日)/ 会場=東京国立博物館、会期=1982年10月5日【火】〜11月17日【水】◆

 昭和五十八年 一九八三年 六十四歳
【#26】白金の畠山記念館で、徽宗皇帝の筆と伝えられる「白猫」を観る。
◆《昭和五十七・五十八年 秋季・冬季展観会記》(畠山記念館、c1982〔年10月1日〕)/会場=畠山記念館、会期=昭和58年冬季展:1月8日【土】〜3月15日【火】◆
【#27】東京国立博物館で、ボストン美術館所蔵「日本絵画名品展」を観る。岡倉天心遺愛の「大威徳明王像」に驚嘆する。
◆東京国立博物館・京都国立博物館(編)《ボストン美術館所蔵 日本絵画名品展図録》(日本テレビ放送網、c1983〔年3月15日〕)/会場=東京国立博物館、会期=1983年3月15日【火】〜5月8日【日】◆
【#28】初夏、東京国立博物館で「弘法大師と密教美術展」を観る。八大童子立像(金剛峯寺)の六軀に魅せられる。
◆京都国立博物館・東京国立博物館・真言宗各派総大本山会・朝日新聞社(編)《弘法大師と密教美術》(朝日新聞社、1983年3月〔19日〕)/会場=東京国立博物館、会期=1983年5月24日(火)〜7月10日(日)◆
【#29】秋、東京国立博物館の「韓国古代文化展」を観る。
◆東京国立博物館・中日新聞社(編)《韓国古代文化展――新羅千年の美》と《新安海底引き揚げ文物》の2分冊(中日新聞社、c1983〔年8月2日〕)/東京展:会場=東京国立博物館、会期=1983年8月2日【火】〜9月11日【日】◆

ここで図録論を。百貨店や美術館・博物館で開かれる、入場料を取るほどの企画展の多くは、図録(展覧会会期中に会場で販売されるカタログ)を作成する。データとともに、展示作品をカラーやモノクロの図版で掲げる一方、展覧会開催の意図や意義を述べ、作者や作品、その背景となる時代について解説する――というのが主な内容である(*3)。通常の画集と異なるのは、掲載作品の原物を一堂に集めて観覧に供することで、まさに「展覧会」である(*4)。画廊(企画展の印刷物を作っても、図録というほど大部で網羅的なものは少ない)などで原物を入手するのでないかぎり、作品に触れた記憶は図録や画集を観ることで甦る。あるいは、作品を観たという記憶が甦る。ところで、この図録の扉にはたいてい展覧会の会場(複数の会場を巡回する大規模な企画の場合、○○展・△△展・××展などとあるが、東京在住の吉岡が東京以外で観た確証がないかぎり、東京会場として扱い、他会場の記載は割愛した)、そしてその会期が記されている。それはそれでたいへんけっこうなのだが、これまた多くの場合、図録の奥付に発行年月日が記されていない(ひどいのになると、発行者――主催者(のうちのどれか)が多いのだが――の記載がないばかりか、奥付そのものがないものさえある。それらのうち、国立国会図書館の書誌を参考にしながら補ったものがある)。発行日が書いてある場合は展覧会の開催初日であることが多いが、明記されていないものは、開催初日の年を採った(たとえば「会期=2021年5月31日〜2022年4月15日」なら「c2021」)。そのうえで、〔 〕内に開催初日を補記した。
次回以降、なるべく同じ年の展覧会をまとめて、15回ほどの連載でこれらすべてを紹介するつもりである。予定どおりにいけばいいが、すべての図録が手許に揃っているわけではないので、順不同(かつとびとび)の掲載になるかもしれないことをあらかじめお断りしておく。

誤植・校正を論じつつ、絵画の原物と図版の関係を語った林哲夫(画家にして文筆家・装丁家)の文章は、展覧会と展覧会カタログの関係を考えるうえでも興味深い。

 文字の誤りはまだいい。ときおり手掛ける装幀[そうてい]には色の校正というものがあり、これがまたひときわ厄介なのである。色彩感覚にははっきりとした個人差がある。その差を少しでも埋めるために色見本が存在する。ある色を指定し、その色のチップを添えれば、インキの混合比率によって誰でも均しく同じ色を再現できる、はずなのだが、どうもそうではないらしい。仮に金赤一〇〇%などの原色であってもデザイナー、編集者、印刷者、そして読者、それぞれがそれぞれの色感で受け取って完全に一致することはない。色それ自体の他に、印刷する紙質や照明が違えばまったく別の色に見えてしまうという難関もある。また絵画などを複製する場合には、よほど高級な美術印刷でもないかぎり、実物は実物、図版は図版と割り切って考える方が無難であろう。いくら色校を重ねても実際には印刷されるすべての細部にわたってその質を維持することは至難である。しかも印刷された図版の方が実物より美しい例は決して珍しくないのだから。(〈錯覚イケナイ、ヨク見ルヨロシ〉、高橋輝次(編著)《増補版 誤植読本〔ちくま文庫〕》、筑摩書房、2013年6月10日、一七〇ページ)

同様のことは、ウェブサイトに掲載する図像についても言える。私がこの〈〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会〉に掲載する図録の表紙写真は、《〈吉岡実〉の「本」》に掲載した吉岡実装丁作品と同じく、手持ちのデジタルカメラで撮影したものを「素材」とする(まれにプリンタ兼用のフラットベッドスキャナで取りこむこともある)。そもそも原物が印刷物であるため、撮影の場合はさほどではないが、スキャンした場合は解像度が高いとモワレが生じてしまい(印刷物の網点[あみてん]のせいである)、せっかく細部まで見せようとしても逆効果なことがままある。しかも本はほとんど矩形で、その天地左右が平行でないと見ていて気持ちが悪い。そのため、これらの「素材」を水平垂直に置きたいのだが、元の矩形がきっちりと出ていないと精度が保てない。次に控えるのは、問題の「色」だ。私は本格的な照明などせずに曇天時の自然光で撮影するから、色はどうしてもくすみがちになる。それをPC上で補正するのだが、原物(である印刷物)とPCやスマホの画面で見るその画像(たいていウェブページ用の低解像度版)は大違いである。せいぜい、〈〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会〉全体を通してなるべく同じ調子になるよう心掛けるが、画像の精度についてはその程度のものだとご理解いただきたい。

美術館は、たいてい関連資料(図書やカタログなど)を所蔵する図書室を併設している。それほど多くの図書室を訪れたわけではないが、私がいちばん感心したのは、千代田・北の丸公園の東京国立近代美術館のアートライブラリである。ここで、池田満寿夫の初期の展覧会のカタログ(国立国会図書館にもない)を閲覧した。すなわち〈池田満寿夫銅版画展〉の図録である。吉岡も観た資料なので(これに依って、池田に捧げる詩〈夏から秋まで〉――初出題辞「池 田 満 寿 夫/銅版画展目録より」〔/は改行箇所〕――を書いた)、上掲図録の書式で掲げる。

【#0702-1967】詩篇〈夏から秋まで〉(F・2)
◆《ベネチア・ビエンナーレ グラン・プリ受賞記念 池田満寿夫銅版画展――1956-1966 M. IKEDA》([京王百貨店]、c1967〔年1月13日〕)/会場=新宿 京王百貨店 7階大催場、会期=1967年1月13日【金】〜25日【水】◆

私はかつて〈「愛と不信の双貌」――吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(2)――〈夏から秋まで〉〉「X 〈編物する女〉と《薬玉》型〈夏から秋まで〉」に「《ベネチア・ビエンナーレ グラン・プリ受賞記念 池田満寿夫銅版画展》(〔刊記なし〕)は一九六七年一月、東京・新宿の京王百貨店で開かれた〈池田満寿夫銅版画展〉(主催・美術出版社)のカタログで、仕様はほぼ正方形のA5判変型・二八ページ・中綴じ、一ページに一点のモノクロ図版計一五点を収める(表紙の図版は〈Something(T)〉)。」と書いた。本稿を執筆するにあたって、同図録を古書で入手したので、表紙と作品の図版を掲げる。次回以降、本文に掲載する図版も、おおむねこうした形になるだろう。その意味で、これは見本[サンプル]である。

【参考】《ベネチア・ビエンナーレ グラン・プリ受賞記念 池田満寿夫銅版画展――1956-1966 M. IKEDA》([京王百貨店]、c1967〔年1月13日〕)の表紙〔池田の作品は〈Something 1966〉〕 同書の〈楽園に死す 1965 40×36 ヴェネチア・ビエンナーレ展 ニューヨーク近代美術館 第1回クラコウビエンナーレ展〉
【参考】《ベネチア・ビエンナーレ グラン・プリ受賞記念 池田満寿夫銅版画展――1956-1966 M. IKEDA》([京王百貨店]、c1967〔年1月13日〕)の表紙〔池田の作品は〈Something 1966〉〕(左)と同書の〈楽園に死す 1965 40×36 ヴェネチア・ビエンナーレ展 ニューヨーク近代美術館 第1回クラコウビエンナーレ展〉(右)

図録に見える針生一郎(1925〜2010)の「池田満壽夫が地球を……」で始まる無題の文章の「それにしても、とりわけアメリカでの生活が、かれの感受性の振幅を、何とめざましく拡大したことだろう。そこには現代風俗の断片を暗示するイメージが、量産された工業製品のようにちりばめられながら、幻視的な空間の戦慄がはげしく脈打っている。クールなモダン・ジャズの底から、おどろおどろしたタムタムのひびきがせりあがってくる。」(同図録、〔六ページ〕)という一節は、あたかも詩篇〈夏から秋まで〉(F・2)を収めた詩集《神秘的な時代の詩》(湯川書房、1974)のタイトルポエムを評したようで、半世紀後のこんにち読んでも的を射ている。

〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会【#000】〈簡略目次〉

備忘のために、上記の各展覧会(〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の記載ではなく、図録(*5)などの主催者側の資料で知りえた情報に依る)を、その対象作品が【日本】【〔日本以外の〕東洋】【西洋】のどこに属するか、割りふって一覧にしてみる。図録のない、あるいは確認できない展覧会もあるので、以下に採ったのは図録の標題ではなく、展覧会の名称である。なお《金子光晴展》と《ヘンリー・ムーア展》は、年時を訂して本来の箇所に掲げた。あわせてこの〈〈〔吉岡実自筆〕年譜〉の展覧会〉シリーズに掲載した記事にはリンクを張って、簡略な目次を兼ねる。

【日本】

  1. 梅原龍三郎・安井曾太郎自選展(1949)
  2. 河井寛次郎遺作展(1967)
  3. 坂本繁二郎追悼展(1970)
  4. 富本憲吉遺作展(1970)
  5. 近世異端の芸術 蕭白と蘆雪を中心に(1971)
  6. 特別展覧会 平家納経と厳島の秘宝(1972)
  7. 金子光晴展(1973)
  8. 伝法灌頂記念 結縁灌頂執行 三井寺秘佛特別開扉(1973)
  9. 没後五十周年 富岡鉄斎展(1974)
  10. 没後50年 岸田劉生展(1979)
  11. 没後百五十年 良寛展(1980)
  12. 正倉院展(1980)
  13. 特別展観 唐招提寺鑑真和上像(1981)
  14. 西脇順三郎の絵画(1981)
  15. 渡辺兼人写真展 逆倒都市(1982)
  16. 昭和五十七・五十八年 秋季・冬季展観会(1983)
  17. ボストン美術館所蔵 日本絵画名品展(1983)
  18. 弘法大師と密教美術(1983)

【〔日本以外の〕東洋】

  1. 中国名陶百選展(1960)
  2. 特別展観 元代道釈人物画(1975)
  3. 中国戦国時代の雄 中山王国文物展(1981)
  4. 米国二大美術館所蔵 中国の絵画(1982)
  5. 韓国古代文化展――新羅千年の美/新安海底引き揚げ文物(1983)

【西洋】

  1. ヘンリー・ムーア展(1969)
  2. デ・キリコ展(1973)
  3. ピカソ秘蔵のピカソ展 生誕100年記念(1981)
  4. アングル展(1981)
  5. ムンク展(1981)
  6. ルドルフ・ハウズナー展(1982)

〔謝辞〕
本稿の本文や註を執筆するにあたって引用した文献以外にも、中嶋大介《展覧会カタログ案内〔P-Vine BOOks〕》(ブルース・インターアクションズ、2010)や高橋明也《美術館の舞台裏――魅せる展覧会を作るには〔ちくま新書〕》(筑摩書房、2015)から有益な情報を得た。記して謝意を表す。

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(*1) 金井美恵子はインタビュー記事〈私の実在を保証してくれた吉岡実――私が出会った文豪たち〉(《文學界》2021年2月〔創刊一〇〇〇号記念特大号〕)で「吉岡さんとはその後もずっと親交がありましたが、詩や小説の話をすることはほとんどなくて、どんな展覧会を最近見たとか、唐十郎の芝居のこととか、そんな話ばかりでしたね。吉岡さんはあまり本を読まない人でしたが、いろんな人に藤枝さんの『田紳有楽』を吉岡さんなら気に入るはずだってすすめられて読んで、池の中の陶器が口をきくなんて絶対やだって言ってましたね(笑)。それと、美術好きだってことを随筆に書いているのに、あの年になるまで、ボッシュを知らなかったというのも、どうかしているって(笑)。美恵子は藤枝静男なんて読むの? と、プンプン怒って(笑)。吉岡さんは編集者として森茉莉さんを担当したことがあって、これは吉岡さんからも森さんからも聞いたし、吉岡さんがエッセイに書いたのも読んだ話なんですが、あるとき、吉岡さんが原稿をもらいにお宅にいったら森茉莉さんが古新聞紙に混ざってゴミに出しちゃったと言うんです。それで二人で下北沢じゅうのゴミ集積所を一つ一つ訪ね回って、ついに集積先を突き止めて原稿を見つけたそうなんです。吉岡さんは編集者をしてたくらいだから多少マシとは言っても、二人とも実務的な能力があるって人じゃないですから、よく突き止めましたよね。吉岡さんは、よく我慢して勤めていたなあと思います。」(同誌、四四ページ)と語っている。本稿に関するかぎり、引用するのは話の前段だけでいいのだが、後段の森茉莉の原稿を集積先で見つけたという件は、金井の想い違いではないだろうか。吉岡は随想〈遠い『記憶の絵』――森茉莉の想い出〉で「最後に行ったのは、淡島車庫近くの金石という仕切り場だ。西日の当る作業場には人影なく、奥まったところの母家をたずねた。鉄の門扉をあけて玄関に入る。家具、調度がお大尽のような家。声をかけると、「ハイハイ」と応えるが、誰も現われない。座敷のなかをうかがうと、籠の九官鳥が返事をしているのだ。茉莉さんと私はこの夏の一日が、徒労に了ったのを悟った。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三五〇ページ。初出:《鷹》1988年2月号)と書いているからだ。随想は森茉莉の歿後、追悼文のようにして書かれたが、引用箇所の異様なまでに臨場感に充ちた筆致は、吉岡が当時(執筆の20年前)の日記の記述を踏まえた結果だと考えられる。

(*2) 《薬玉》刊行の4年前の1979年に筑摩書房を退いた吉岡は、1983年当時、64歳。《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968)巻末の自伝〈断片・日記抄〉の末尾に付された〈〈断片・日記抄〉について〉で「自伝的なものをまだ書く時期でもない。また、年譜的なものをつくる煩雑さにも耐えられない。たまたま旧い日記の断片があるので、少しくその時の雰囲気を伝えるところを抄出し、綴り合せてみる。日記を書かなかった年代が多く、偏ったものになっている。それ故、私にとって数々の大切な事項が欠けてしまったが、無理に工作することを避けた。」(同書、一二五ページ)と書いた15年前とは大きく異なる境地にあった。歿後刊の吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996)にも、ここから多くの事項が採られている。むろん、私が編んだいくつかの〈吉岡実年譜〉も同様である。

(*3) 比較文学・比較文化研究の今橋映子の編著《展覧会カタログの愉しみ》(東京大学出版会、2003年6月11日)の第1章〈展覧会カタログとは何か〉で今橋は、日本の展覧会カタログのほとんどは厳密には書籍ではない、現に書店では買えないという重要な指摘をしてから、次のように概括する(原文横組。註番号は省略した)。

 わが国では著作権法47条の規定で,展覧会カタログは「観覧者への展示作品の解説・紹介を目的とする〈小冊子〉である」とされていて,鑑賞者以外の者には市販できないものとなっています.その代わり,作品解説を主体とした小冊子の範囲でなら,原則的には著作物(美術作品等)の複製を著作権者の許諾なくできる(つまり著作権料を免除される)ため,観覧者としては手頃な値段で購入できるわけです.欧米では普通,展覧会カタログは美術館と関係あるいは提携する出版社から,ISBN(国際標準図書番号)の付いた書籍として出版されるので,時には展覧会が終了したかなり後に,ようやくカタログがお目見えすることもある一方,在庫のある限り書店を通じて買えます.現在では,アマゾン・ドット・コム(amazon.com)を始めとするインターネット書店で全て検索できる上,むしろ国内のものより早く手に入れることが可能になっています.またISBNが付いているため,公共図書館や大学図書館で,一般書籍同様,収集・保存されています.
 それに対して日本のカタログは,ISBNの付いたれっきとした書籍として刊行されることはほとんどなく,いわば会場の出口付近で売られる便箋やキーホルダーと同じく「記念グッズ」の一つとしての地位に甘んじてきました.もちろん現在でも,展覧会の性格に拠っては(とても「小冊子」とは言えない)豪華な図版を主体とし,エッセイなどを付したのみの「鑑賞用」図録が制作される機会は少なくありません.しかし一方で,とりわけ1960年代以降,ヨーロッパ流の緻密なカタログ執筆法に則り,作品データ(タイトル/制作年/素材と寸法/署名/所蔵/来歴/文献/作品分析)や解説,資料,参考文献,研究成果論文などが網羅的に収録された「学術的」カタログが,単なる「図録」にとどまらない理想型として,目指されるようになってきました.最近ではオフセット印刷の向上,さらにDTPの出現によって,同じページ上に,図版と多量の文字情報(和文+欧文)をレイアウトし,即座に校正することが容易となり,紙質の向上と合わせて,カタログの様相も格段の違いを見せるようになりました.なかには何十万部という単位で売れるものもあり,「隠れたベストセラー」と言われるゆえんです.最近では,少しずつ一般書籍としてつくられるカタログも出てきましたので,今後はこの動向も見守る必要があるでしょう.(〈1 カタログは本にあらず〉の「本屋で買えない本」、同書、三〜四ページ)

本シリーズでは当面、図録は開催された展覧会の公式文書として扱うことにして、図録そのものの仕様――サイズ・製本様式・ページ数・印刷方式・色数・備考(収録作品数または掲載図版点数)など――には触れない予定だ。ただし、連載完結のあかつきには、前掲《ベネチア・ビエンナーレ グラン・プリ受賞記念 池田満寿夫銅版画展――1956-1966 M. IKEDA》のような【参考】図録も含めて、その仕様を一覧にして掲げることができれば、と思う。ちなみに、《展覧会カタログの愉しみ》の展覧会&カタログ評の〈イメージとテクスト〉の章で山屋真由美が取りあげている〈「瀧口修造の造形的実験」展〉の外装写真――見るからに《詩的実験》を意識した造りになっている――の脇には「富山県立近代美術館(2001年7月19日-9月24日)/渋谷区立松濤美術館(12月4日-2002年1月27日).カタログは,富山県立近代美術館(杉野秀樹)・渋谷区立松濤美術館(光田由里)編集・発行,2001年,24.5×20cm,総頁数236.」(同書、一四四ページ)とあり、サイズとページ数は必須と見える。

(*4) 展覧会を堪能するには、原物との対峙を至高の状態として、事前にその作品や作者に関する情報、すなわち予備知識を入手することも欠かせない――吉岡は《朝日新聞》の展覧会告知や《芸術新潮》や《美術手帖》といった美術雑誌のそれに目配りを欠かさなかった(A4判ペラのチラシ[フライヤー]は紙媒体・告知ツールの定番だが、こんにちの主役は主催者が発信するウェブサイトの情報――コロナ禍にあって開催日時の変更などにも柔軟に対応できる――である)。吉岡が人並以上に展覧会に足を運んだのは、勤務先で広告を担当していたという業務上の要請もあっただろうが、根底にはその種のものを「観る」のが生来の好みだった、というふうに考えるのが正しい。ただし吉岡に図録をつねに入手する習慣があったかどうか、はっきりしない(日記や随想には、しばしば展覧会の図録が登場するが)。気に入ったものなら、記憶と記録に資するものとして購入したのではないか。私はほとんどやらないが(ということは、ごく稀にはやるのだが)、ことによると展覧会場で原物を観て、図録で確認して、再度原物を観る、ということがあったかもしれない。そう想う一方、「見ることは一瞬にして尽きるよ」(〈産霊(むすび)〉K・1)とばかりに、城戸朱理と〈那智瀧図〉を観おえたときのように、吉岡はすたすたと展覧会場を後にしたかもしれない。城戸は《吉岡実の肖像》(ジャプラン、2004年4月15日)でこう書いている。

 〔……〕「一瞥の天才」。それはオ〔ヴ→ブ〕ジェクティヴィズムから出発し、言葉を事物のように詩語として連ねたアメリカ詩の巨星、W・C・ウイリアムズをケネス・バーグが評した言葉である。吉岡実もまた、一瞥の天才ではなかったか。
 そのことについては鮮やかに思い出されることがある。昭和六十年四月一九日、道玄坂のTOPでお会いした後、青山の根津美術館に御一緒したことがあった。開催されていたのは館蔵の名品展。三期に分けられた展観の、その日は第一期の最終日であり、吉岡さんはかねてから実物をみることが念願だった「那智瀧図」を見るために赴いたのだった。
 だが、吉岡実はその鎌倉時代の、簡略化が抽象絵画のごとき趣[おもむき]を醸し出す幽遠たる一幅を前にして、佇んでいたわけではなかった。
 わずかに足は止めたものの、十秒ほど息を止めるようにして見つめると、傍らにいる私に「ずっと見たいと思ってたんだ」と語りかけ、再び見つめ、ほんの数秒後には「那智瀧図」の前を離れたのだった。(〈眼〉、同書、七三〜七四ページ)

(*5) 私は美術史の専門家ではないので、本稿で「図録」と呼んできた展覧会カタログについて、美術史家の言説を仰いでおきたい。島本浣(1947〜 )の《美術カタログ論――記録・記憶・言説》(三元社、2005年7月30日)はこの方面の先駆的な著書だが、その〈プロローグ〉に次のようにある。( )内の数字は掲載ページ。

 美術カタログはカタログ・レゾネ〔いわゆる「作品総目録」〕ばかりではない。むしろ、こちらは専門家や画商、蒐集家向けで、美術のカタログといえば、最初に触れた展覧会カタログを思い浮かべる人が圧倒的だろう。その増え方が、私を含めて美術史研究者には笑えない問題となっているのである。(13)

 その傾向〔展覧会カタログの図版化、図版の挿入によるボリューム・アップ、を指す〕が現在に続いてきたことは間違いなく、現在では展示作品すべてを写真図版化するカタログが普通で、さらに細部写真まで加えてヴィジュアル化をはかっている。カタログはボリューム・アップするわけである。このように出品作が写真図版化されてしまうと、展覧会に行かなくてもカタログを見ているだけで行った気持ちになってしまうことがないではない。図版による展覧会出品作の総目録化である。実際、展覧会に行ったとしてもカタログによる記憶のほうが強いことはままある。というより、美術史研究にとって展覧会での美的体験が論文に反映されることが少ないのだ。となると、展覧会に足を運ぶのは「実物を見た」という一種の安心感のためともなり、研究にとってはカタログのほうが重要だということもでてくる。
 展覧会そのものの経験が研究に反映されなくても、カタログは別である。画家や美術館のデータ中心のレゾネとは異なり――ただし、出品作のデータ形式はレゾネのそれに近いが――、近年の展覧会カタログには作品解釈が論文や作品解説のかたちで掲載され、巻末には展覧会のテーマに沿った細かな書誌が付いているからである。こうした展覧会カタログが数多く登場してくるのは二〇世紀後半もずいぶんたってからだが、それが現在の二一世紀まで加速してきたのである。ともかく、展覧会カタログの論文は、内容は別にして「最新の」情報であることも少なくないので、研究者は自然、カタログを手にすることを迫られてしまうわけである。ただし、こうした最新情報は作品の情報であることは少なくて、作品についての分析やメタ情報である場合が多く、とりたてて展覧会に出品されていなくても発表できるもの、展覧会というイベントを契機にカタログに発表された純粋な研究論文なのである。こうして、大規模で優れた展覧会であればあるほどカタログは図版と論文による自立した立派な研究書となり、展覧会そのものから隔たることになる。
 こうした現在の展覧会カタログを手にすると、二〇世紀前半までの不鮮明な図版が選択されて掲載されたデータ中心の簡略なカタログの方が、実際の展覧会を想像することになって幸せな気持ちにはなる。実物幻想をかきたてる記録、そして記憶としての「展覧会カタログ」だったということだが、いまやカタログは自立し始め、展覧会のカタログでありながらそうでないという新しい関係も始まっている。
 事実、ある場における集積された美術品を分類、整理するカタログという本来の機能からすれば、現在の展覧会カタログは歴史的にみれば特殊なものと言えるのだ。私たちが普通に展覧会カタログと呼んでいる書籍(書物)の中で、本来的な意味でのカタログは、図版を除くと一部の専門家を除いてはそれほど重要視されていないようにも思う。それがよいことかどうなのかの判断は差し控えるとして、現在、私たちとカタログの関係は本格的に変化し始めていると感じる。(14〜15)

たしかに私が接した図録も、近年のものになるほど研究書然としてきており、とりわけそれまでに開催された展覧会の記録は(それ自身が最新の展覧会になるわけだが)、ほかの美術史の専門書の記載を凌ぐものも多い。こうした図録の内容面に加えて、製作面における写真製版とオフセット印刷の精度の向上がある。大方が並製本ということもあいまって、同種の美術書や画集よりも安価な点も見逃せない。一方で、展覧会カタログが市販の書籍として流通することもある。私が2019年10月下旬に観た回顧展[レトロスペクティヴ]《エドワード・ゴーリーの優雅な秘密――Elegant Enigmas: The Art of Edward Gorey》(会場=練馬区立美術館、会期=2019年9月29日〜11月24日)で販売されていたのは、「日本初、展覧会公式図録」を謳った書籍、《エドワード・ゴーリーの優雅な秘密》(河出書房新社、3刷:2019年1月20日〔初版:2016年4月30日〕)だった。ちなみに同書は、現行のISBN-13で「978-4-30-927707-3」だが、検索窓には「978-4309277073」と入れた方がヒットしやすいようだ。


《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉【その1】――安藤元雄さんの巻(2021年5月31日)

〔はしがき〕
拙編《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》の1991年(平成3年)10月の条に「浅草・木馬亭で〈吉岡実を偲ぶ会〉が開かれる(発起人飯島耕一、大岡信、入沢康夫、種村季弘、高橋睦郎)。第一部は司会高橋睦郎で知友たちの思い出話(安藤元雄、飯島耕一、入沢康夫、江森國友、大野一雄、小田久郎、落合茂、金子國義、佐々木幹郎、高梨豊、多田智満子、種村季弘、那珂太郎、中西夏之、夏石番矢、矢川澄子の十六人と吉岡陽子)、第二部は五街道雲助の落語、第三部は星キララらのストリップショー、ロビーに手蹟や装丁の原画が展示された。」とある。第一部の司会は、ここにあるように高橋睦郎さんで、会場の選定や交渉は種村季弘さん、全体の運営は筑摩書房の淡谷淳一さんが当たった。
この会について、私はたびたび触れていて、最近では〈編集後記 216〉(2020年10月31日更新時)に「●吉岡実と多田智満子を書いた。多田さんの姿を見、話を聞いたのは、本文でも触れた浅草・木馬亭での吉岡実を偲ぶ会でのことだった。そのときの司会は高橋睦郎さんだったが、裏方を務めていたのは筑摩書房で吉岡実の編集担当だった淡谷淳一さんで、勝手に録っては申し訳ないので、淡谷さんに断ったうえで、登壇した方の話をカセットテープに収めた(コンサート会場でのオーディエンス録音である)。今ならヴィデオやスマホで簡単に動画を記録できるが、30年もまえだと、そういうわけにはいかない。このテープ、大切にしまいこんだせいで、いっかな見つからない。多田さんの話を採録したかったのだが。いまは、とにかく資料の捜索を心掛けよう。」と書いた。
このカセットテープが思いがけない処から出現した。毎日、PCの前に坐って音楽を聴くために使っている、左手の書棚に置いたCD/MDプレイヤーの脇に、カセットテープのラベルが見えないように(本でいえば前小口を下にして、私の視線からは罫下=地が見えるように)並べてあったのだ。このCD/MDプレイヤー、ほかにもラジオ(FM/AM)とカセットテープが聴ける。だが、今日日カセットを再生することはなく、テープの常設置き場は寝室一角のオーディオスペースだから、そこをくまなく探してみつからないとなると、それでお手上げだった。なにかの加減でCD/MDプレイヤーを使って件のカセットを再生したのか、まったく記憶にない。いずれにしても、探し物が見つかってほんとうにうれしい。

1991年10月12日、東京・浅草の木馬亭における《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉を録音したカセットテープ(上の2巻)とそれをダビングしたミニディスク(下の2枚)
1991年10月12日、東京・浅草の木馬亭における《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉を録音したカセットテープ(上の2巻)とそれをダビングしたミニディスク(下の2枚)

かつて〈種村季弘氏が逝去〉(2004年9月9日脱稿)で「種村季弘さんが去る八月二九日に亡くなられた。吉岡実と同じ享年七一歳だった。一四年前の吉岡さんの葬儀の日、とるものもとりあえず巣鴨・真性寺に駆けつけたが、焼香のために並んだのがたまたま種村さんの後ろだった。一九九一年一〇月一二日の〈吉岡実を偲ぶ会〉(浅草・木馬館)で、種村さんはおおよそ次のような話をされた。」と口上を述べてから、種村さんの話を件のテープから起こして追悼文の眼目とした。そうした意味では、多田智満子さんを含めて、まだほかの各氏の思い出話〈わたしの吉岡実〉を披露していない。今回から何回かにわたって、みなさん(と司会の高橋睦郎さん)の話を紹介させていただくことにしたい。登壇した順で、まず安藤元雄さんの(吉岡実の造本・装丁をテーマにした)話を掲げるが、ここで目次ふうに各氏の紹介をしておく(《Wikipedia》に記載があるかたには、氏名にリンクを張った)。あわせて、思い出話に仮題を付けてみた。

 高橋睦郎(1937〜 )・詩人 〔司会〕
@ 安藤元雄(1934〜 )・詩人 〔仮題:吉岡実の造本・装丁〕
A 飯島耕一(1930〜2013)・詩人 〔仮題:街っ子がなぜ佐渡に行ったのか〕
B 入沢康夫(1931〜2018)・詩人 〔仮題:詩篇〈カカシ〉朗読〕
C 江森國友(1933〜 )・詩人 〔仮題:晩年の詩の姿・形には、私の詩の影響が……〕
D 大野一雄(1906〜2010)・舞踏家 〔仮題:「生きている時だけでなく死んでからもだよ」〕
E 小田久郎(1931〜 )・出版社創業者 〔仮題:〈無限賞〉辞退のこと〕
F 落合茂(1929〜)・挿絵画家
G 金子國義(1936〜2015)・画家
H 佐々木幹郎(1947〜 )・詩人
I 高梨豊(1935〜 )・写真家
J 多田智満子(1930〜2003)・詩人
K 種村季弘(1933〜2004)・評論家
L 那珂太郎(1922〜2014)・詩人
M 中西夏之(1935〜2016)・美術家
N 夏石番矢(1955〜 )・俳人
O 矢川澄子(1930〜2002)・詩人
P 吉岡陽子(1930〜 )・吉岡実夫人
Q 五街道雲助(1948〜 )・東京都墨田区出身の落語家
R 星キララ(*〜 )・ストリッパー

〈わたしの吉岡実〉【その1】――安藤元雄さんの巻(1991年10月12日、東京・浅草の木馬亭における《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話)

〔はしがき〕で述べたテープは、オープニングの土方巽(1928〜1986)による〈僧侶〉(C・8)朗読で始まる。会場に流れたのはラジオ番組《吉岡実の世界》――1974年10月12日の午後9時5分から55分間、NHKラジオ第一放送《文芸劇場》の〈詩と詩人〉シリーズ第2回として放送――からのエアチェックで、入沢康夫さん所蔵の音源に依ったものと思われる。〈僧侶〉の「1」から順に続く朗読は、土方が「8」と言ったタイミングでカットされる(時間の都合によるものか)。続いて、司会担当の高橋睦郎さんが挨拶を兼ねた若干の口上を述べたあと、こう切りだす。

「まず今日の〔吉岡実を偲ぶ〕会のことですけど、これは〔1991年の〕3月でしたか、吉岡陽子夫人のご依頼で、「一周忌をどうしようか」ということで集まりましたときに、「こういう催しもやったほうがいいんじゃないか」ということになりまして、種村〔季弘〕さんの肝いりでこちらを借りることのなったのですが、会が近づきました肝心のときに、ぼくが40日ほどフランスに行っておりましたものですから、その罰で「おまえ、司会をやれ」というようなことなんですけれども、司会などということはできませんので……。
今日の会なんですが、まず第一部が、みなさんに〈わたしの吉岡実〉というようなことで、だいたいおひとかた3分――それより短くても長くてもかまわないんですけれども――お言葉をいただきまして、それが終わって30分ほど休憩ということで、そこで飲み物が出ます。そのあと、これも種村さんの肝いりで、親しい五街道雲助師匠に落語を一席していただきまして、そのあとに吉岡さんが大好きで、具合が悪くなってからもそれには通ったというショーをふたつほど観ていただきます。そのあとでじつは二次会が用意してありまして、今こういうことを言うのは野暮なんですけれども、向こうから「いったい何人来るんだ」というふうに言われておりまして、たいへん恐縮なんですけれども、二次会にお出になる方、手を挙げて……(会場、笑)。
(オフ)今どこかで数えている人が……。
では、さっそく第一部を。これは、必ずしもそうなっていないんですけれども、50音順ということに一応なっておりまして、安藤元雄さん」。

(安藤元雄さん、登壇) 〔仮題:吉岡実の造本・装丁〕

 吉岡さんは、ある時期から亡くなるまでずっと渋谷にお住まいでしたけれども、もともとは東京の下町のお生まれでしたから、今日のこの会場は吉岡さんを偲ぶのにふさわしい処じゃないかなと思います。吉岡さんというかたは、やっぱりそういう東京の下町の雰囲気をずっと持っておられたかただと思います。そうですね、路地裏で職人かなんかをやっている、そういうタイプの東京の下町ですね。そういうふうな言い方をしますと、ある意味ではたいへん洗練されたものをお持ちだった吉岡さんとはちょっと違うように聞こえるかもしれませんけども、わたくしはそう思っています。その吉岡さんのそういう洗練なるものも、たぶんはそういう東京・下町の実直な職人ふうの洗練だったのではないか、というふうに思っています。

 吉岡さんのそういう性格がいろんな処に現れていて、たとえばお仕事ぶりだとか、一例を挙げれば詩をお書きになるのはあまり苦労なさらないけれども、エッセイを書かされると、なんか筆が渋ってずいぶん苦労なさったというふうにうかがっていますけれども、そういう処になんかもそれが現れている。つまり、一言で言えば「多弁を弄さない」というところがあるわけですね。ですから、吉岡さんの作品も生き方も、そういう意味ではやはりそういう、職人がやるような、人目にやたらに立つのが、目立つのが嫌いで、謙虚で、ある意味では臆病と言ってもいいくらい、そうしてたいへんストイックだった、というふうに思います。その吉岡さんは、ストリップだのポルノだのが、けしてお嫌いではなかったんで、そういうかたにストイックというのはおかしいようですけれども、ストリップやポルノでさえストイックな楽しみ方というのはあるんで、吉岡さんはたぶんそういう楽しみ方をなすっておられたんではないかと。

 そういう吉岡さんの特徴が、吉岡さんのなすった数数の本の装丁――吉岡さんは装丁家としてもたいへんたくさんのお仕事をなすった――にも現れていたんだと思います。今日は吉岡さんの詩を語ってくださるかたがたくさんいらっしゃると思いますから、わたくしは吉岡さんの装丁について語りたいと思いますけれども、吉岡さんの装丁というのは、一目見ると「ああ、これは吉岡さんの作品だな」ということがすぐわかるような、一種の特徴を持ったものです。まず、だいたい文字は描き文字なんかは使わずに、ちゃんと母型から機械的に打ち出した活字をお使いになる。その活字の大きさがまた、大きからず小さからず、なんともいいバランスで置かれていて、大きな表紙の面積のなかにそういう活字がただ置いてあるもんですから、一見小さい活字に見えますけども、物差を当てて計ってみるとけっこう大きいのを使っている、というようなことがよくあります。それから色はだいたい、そうですね、紙の色なんかも選んでくださるんですけれども、青とかグレーを中心にした寒色系を多くお使いになったと思います。わたくし自身もじつは吉岡さんに本を2点、お願いしたことがあって、それは今になってみれば、わたくしにとっての一種の宝物になっております。自分の本が吉岡さんの装丁で出せたというのは、わたくしにとってはたいへん名誉なことだというふうに思っています。

 吉岡さんはそういう装丁家のなかで、とりわけ造本家として、いろんなことをお考えになりました。とりわけ、本の各ページの割付なんかは、ずいぶん吉岡流――というのがあると思います。たとえば、ふつう日本の伝統的な本造りですと、ある作品を始めるのは左ページから始まるのが原則なんですが、それを右ページから始めて、なるべく見開きで詩が読めるようにしようとなすったというのは、たぶん吉岡さんが始められたことで、現在ではたいていの詩人がそれを踏襲してますけれども、もともとはそうです。わたくしもじつは多少本を造ったことがありますけれど、わたくしは絶対左ページから始めようという伝統主義者なものですから、じつは吉岡流のほうがいいんですね、読むのは読みやすいです。ですから折衷しまして、最初の1篇だけ左ページから始めて、そいつを奇数ページに収めて、2番めの作品からは右で始まるように細工をする、というふうな手をしばしば使っております。

そのほかに吉岡さんは、詩のなかに1行空けというのがあるんですね、節と節との間の白い。あれはふつう1行空くんですが、それを2行空ける、ということをもたぶん始められたかただろうと思います。というのは、1行空けですと、ページの切れめへ来ると、そこが空いてんだか空いてないんだかわからないですね。2行空けてあると、たとえページの切れめへ来ても、そこが空いているということが一目でわかる。そんなことも、吉岡さんが日本の詩の造本の世界でお始めになったことじゃあるまいか、と思っております。もちろん先例はあるかもしれませんが、組織的にお始めになったのは初めてだろうと思います。

 そんなわけで、わたくしは吉岡さんの詩ももちろんですけれども――とりわけさっきからそこで展示してある特製版で《薬玉》の一部を読みかえして、凄いなと思ったんですが――詩ももちろんですけれども、吉岡流造本術というのも今から長い時間が経って振りかえると、ちょうど北園克衛さんの装丁術がそうであったように、人人に「ああ、ああいう本を造る人がいた」と、そういうふうに思いだされるような、そういう性質のものだと思っております。とりえずそんなところで、3分ぐらい経ったのではないかと。

(会場、拍手)

〔付記〕
安藤元雄の詩と詩集については(安藤さんが上で述べている吉岡実による2点の装丁とも絡めて)、〈吉岡実の装丁作品(122)〉でぞんぶんに語ったので、付け加えるべき事柄はない。ひとつだけ挙げるとすれば、「紙の色なんかも選んでくださるんですけれども、青とかグレーを中心にした寒色系を多くお使いになったと思います。」という発言の「青」は詩集《船と その歌〔別製版〕》(思潮社、1973年4月25日)の貼函の、「グレー」は詩集《夜の音》(書肆山田、1988年6月10日)の函の色でもある点だろう。言い忘れる処だったが、安藤さんによる装丁の代表作は飯島耕一の高見順賞受賞詩集《ゴヤのファースト・ネームは》(青土社、1974年5月5日)である。ちなみに〈吉岡実の装丁作品(122)〉は、私の《〈吉岡実〉の「本」》のなかでも(おそらくはいちばん)力のこもったものであり、《〈吉岡実〉を語る》の〈吉岡実詩集《静物》稿本〉と並んで、愛着の深い一篇である。この《吉岡実を偲ぶ会》での思い出話〈わたしの吉岡実〉が、本サイト《吉岡実の詩の世界》でそうしたシリーズになれば、と願う。この会でお話しいただいて良かりそうな方は、このほかに何人もおいでだ。思いつくままに挙げても、巖谷國士さん、大岡信さん、笠井叡さん、白石かずこさん、鈴木志郎康さん、平出隆さん、さらに編集関係者も含めれば、鈴木一民さん、八木忠栄さん、和気元さんたちのお名前がたちどころに浮かぶ(もちろん、淡谷淳一さんにもお話しいただきたかった)。実際に、日程の関係でおいでになれなかった方もあろう。詩人・翻訳家の岩田宏さん、詩人・小説家の清岡卓行さんはかつての《鰐》の仲間だが、吉岡とはのちに袂を分かったから、会には出ていただけなかったのだろう。残念だがしかたがない。
本稿の初めに五街道雲助師匠と星キララさんのお名前を挙げた。別枠だが、この二人にも最後にご登場いただいて、ほんとうのおしまいに私(小林一郎)もなにかひとこと申し上げることにしたい。安藤元雄さんを第1回とすると、全20回の長丁場になる恰好だ。ご愛読を乞う。

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* 〔落合茂の歿年について〕
入沢康夫《わが出雲・わが鎮魂》は1968年4月1日、思潮社から初版が限定発行され、翌1969年2月15日に「普及複刻版」が出た(私が持っているのはこれ)。段ボールのケースに掛かった幅広の帯に「第20回 読売文学賞受賞」とあり、初版が早早に品切れになったための増刷だったと思しい。今回、参考のために杉並区立図書館所蔵の一本を借りたところ、奥付には「一九六八年四月一日初版発行 一九六九年二月一〔ママ〕日普及版発行 一九七七年五月一日複刻版発行」とあった。ざっと見たところ、とくに版を変えたようでもなく、単なる増刷といったふうである。これらに対して、2004年7月10日発行の「復刻新版」はまさしく新版で、それより前の各版が活字による活版印刷だったのに対して、おそらくそれらのなかで刷りの良いものを清刷りとして扱って、写真製版のうえ、オフセット印刷している。そのためだろう、奥付前の対向ページに一行、「本書は一九六八年四月一日発行(限定七〇〇部)の復刻新版です。」とクレジットがある。この〔復刻新版〕にはA5判24ページ、挟み込みの〈資料集〉が添えられており、入沢はその最終ページに〈復刻新版あとがき〉を書きおろしている。同文の後半に、こうある。

 詩集に関して、私には初版本趣味や豪華本嗜好はなく、本文の内容さえ変わらなければ、本の造りがどうであろうと一向かまわないと考えるほうだが、それでも、この『わが出雲・わが鎮魂』についてだけは(それともう一冊、故落合茂氏との合作の『ランゲルハンス氏の島』があるが)、元のままの姿で読んでもらいたい気持が捨てきれなかった。本文と注のテクストだけならば、その後、一、二のアンソロジー等に収録されたが、やはり、この作品は、書物まるごとのかたちで若い読者にも届いてほしかった。今回の復刻はその願いを十全にかなえてくれるものである。

入沢康夫・落合茂共著の詩画集《ランゲルハンス氏の島》(私家版、1962年7月1日)もまた、復刻版が1977年4月20日に書肆山田から1000部限定で出ている。私が閲覧した日野市立図書館所蔵本は、本体をくるんだジャケットごとブッカーで覆ってあって、帯や函(があったとして)などの付属物はない。元版の奥付が刷られていたのは本文の最終ページで、「〈復刻版〉」の奥付の紙片が対向の見返しの遊び紙に貼られている。そこにも著者二人の略歴などは記されておらず、落合の素性は杳として知れない。その落合茂は、1991年の〈吉岡実を偲ぶ会〉に出席して、《わが出雲・わが鎮魂〔復刻新版〕》の出た2004年7月以前に亡くなっていたのだ。ただそれがいつなのか、判然としない。落合より先に歿した吉岡はともかく、入沢が落合の死に触れた文章を、私はほかに知らない。


ジョルジュ・サンドの田園小説《笛師のむれ》のこと(2021年5月31日)

ジョルジュ・サンド、宮崎嶺雄(訳)《笛師のむれ(上巻)〔岩波文庫〕》(岩波書店、「昭和二十五年十二月二十日 第七刷」、初版:1937年10月15日)と同・(下巻)(「昭和二十六年五月二十日 第七刷」、初版:1939年5月2日)の表紙 ジョルジュ・サンド、宮崎嶺雄(訳)《笛師のむれ(上巻)〔岩波文庫〕》(岩波書店、「昭和二十五年十二月二十日 第七刷」、初版:1937年10月15日)と同・(下巻)(「昭和二十六年五月二十日 第七刷」、初版:1939年5月2日)=上の2冊=と同書(上巻、13刷)と(下巻、11刷)〔いずれも1989年3月17日発行〕=下の2冊=の表紙と背表紙
ジョルジュ・サンド、宮崎嶺雄(訳)《笛師のむれ(上巻)〔岩波文庫〕》(岩波書店、「昭和二十五年十二月二十日 第七刷」、初版:1937年10月15日)と同・(下巻)(「昭和二十六年五月二十日 第七刷」、初版:1939年5月2日)の表紙(左)と同=上の2冊=と同書(上巻、13刷)と(下巻、11刷)〔いずれも1989年3月17日発行〕=下の2冊=の表紙と背表紙 〔本文のページ数はどちらも同じだが、1950年・51年の版は用紙の質が粗悪である〕(右)

吉岡実は、随想や書評というよりも、若年のころに読んだ本の回想とでも言いたい〈沈復『浮生六記』〉(初出は《朝日ジャーナル》1982年3月26日号の〔再読味読〕、原題は〈沈復 松村茂夫訳『浮生六記』(一九三八年)〉)を次のように始めている。

 青年期の私の愛読した本の一つに、沈復の『浮生六記』があった。清朝時代の無名の一教養人の自伝小説だ。
 二〇歳ごろの私は、当時の風潮で、西欧の翻訳文学を、読みあさっていたものである。とくにフランスの小説を好み、ジョルジュ・サンド『笛師のむれ』やスタンダール『パルムの僧院』そしてアンドレ・ジイドの諸作品であった。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二七三ページ)

アンドレ・ジイド(1869〜1951)は「永遠の視点はジイドとリルケの書から俯瞰される」(〈果物の終り〉D・2)という詩句があるくらいだから、吉岡はそうとう読みこんだと思しいが、ジョルジュ・サンド(1804〜1876)とスタンダール(1786〜1842)への言及はほかにはないようだ。ところで公共図書館は、限られたスペースと予算の範囲内ではあるが、たえず新陳代謝を図って所蔵資料の入れ替えを行っている。そのため、新規の資料を排架するのと同じだけ放出しなければならない。その放出先は主に、関連施設の他館に所蔵を替えるのと、リサイクル資料として図書館利用者に無料で提供するのと、紙という物体として廃棄するのと、のみっつである。多くの館にはリサイクル資料を並べる書棚があって、例えば「一人五冊まで」というような制限はあるものの、自由に持って行っていいようになっている。この棚には図書館が放出した旧蔵資料以外に、利用者が施設に寄贈したが選別の結果、所蔵にはならずリサイクル資料となった本や雑誌(まれにはCD)が並ぶこともある。
2021年の3月某日、練馬区立のある図書館のリサイクル棚に、〈吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕〉で挙げた「宮崎嶺雄訳《笛師のむれ. 上,下巻〔岩波文庫〕》(岩波書店、1937年10月15日・1939年5月2日)」が並んでいた。正確に言うと、上巻は「昭和二十五年十二月二十日 第七刷発行」、下巻は「昭和二十六年五月二十日 第七刷発行」の後刷本で、図書館の所蔵だった資料ではなく、利用者(それも年配の読者)の所蔵だっただろう一本である。むろん、即座に入手した。写真のように劣化しているものの、70年前の発行であることを考えれば、読むぶんにはまったく苦にならない(グラシン紙もない裸本だったので、手近の紙をブックジャケットとして被せた)。この時代の〔岩波文庫〕なら当然だが、本文は正字・旧仮名表記。私は、義務教育で新字・新かな表記の教科書を読まされてきたが、高校のころ、新刊よりも古本のほうが安かったので買った、たしか新潮文庫のヘミングウェイ《武器よさらば》が正字・旧仮名表記だった気がする(手許にないので確認できない)。短歌・俳句は別にして、さすがに旧仮名で文章を綴る自信はないものの、読むぶんにはなんの不便もない。私たちの子供の世代はもちろんだが、私より少し若い年代の人たちも正字・旧仮名表記の本など、たとえ只で手に入っても、読もうとしないのではないか。私は、吉岡実が青年期に愛読した本を(後刷本ではあるが)同じ版で読むことのできる幸福を感じた。

《笛師のむれ(上巻)》は、冒頭の〈ウウジェエヌ・ランベエル氏に〉という標題の、序文ともいうべき4ページの文章で始まる。ちなみに、Eugene-Louis Lambert(1825〜1900)は「サンドの長男モオリスと共に浪漫派の巨匠ドラクロワの門下に学び後に猫の画家として一家をなした。」(同書、二九九ページ)と巻末の〈註〉にある(綴りを確認しようとインターネットで検索したところ、「Louis Eugene Lambert」が正式のようで、猫を描いた多くの絵画がヒットする)。サンドはこの巻頭の文で、本書がエチエンヌ・ドパルディウの物語であることを宣言して、「一八五三年四月十七日 ノアンにて」と締めくくる直前で、「私はこの小説を、私たちの村の風笛の遠い笛の音のやうに、あなたのもとへ送ります――木の葉が萌え、鴬が訪れ、そして自然の春の宏大な祭典が野に開かれようとしてゐることをあなたに思ひ出させるために。」(同前、六ページ)と高らかに謳う。なお《笛師のむれ》からの引用は、漢字は新字に改め、かなづかいはママ。
私は本サイトの記事を書くとき、たとえばある本の内容に触れる場合、作品なら(なるべく)通読してから、評論や研究なら(索引や目次を手掛かりに)必要と思われる箇所を詳しく読んでから、すなわち内容を自分の関心領域にしかるべくマッピングしてから、執筆に入る。世間的に見ても、まずは穏当な方法だろう(*1)。しかし、ここでは少しばかり冒険してみたい。せっかく初めて読む《笛師のむれ》なのだから、事前の情報(登場人物だの粗筋だの当時や現在の評価だの)には目もくれず、ひたすら我流に(つまり自分の関心事にのみ忠実に)読んだらどうなるか。これは、と思った段落を適宜、引用してみよう。引用箇所はついさきほど読んだばかりの処だ。( )内の数字はノンブル。まずは上巻から引く。

 「さうなんだ、まつたくその通りなんだ」とジョゼフはわし〔エチエンヌ〕に向つて云つたが、自分の考へてたことをこの立派な娘が自分に代つてわしにわかるやうに話してくれるのを聞いてすつかり気が休まつた様子だつた。「その通りなんだが、然しまだ云ひ落してることがあるんだ。それや何かつていふと、ブリュレットが俺の代りにいい声をもつててくれるつてことだ。しかもそいつがとても優しい、とても澄んだ声で、聞いた通りちつとも間違へずに歌ふし、俺にもう子供の頃から、ブリュレットの歌を聴くのを何よりの楽しみにしてたくらゐなんだ」(73)
 さう云つたかと思ふと、火のやうな眼つきをして、熱病で焼けほてつてるやうな顔つきで、いきなりその笛を吹き出した。
 そいつがどんな曲だつたと訊かれても困る。悪魔にやちつとは聞き覚えのある曲だつたかどうか知らないが、わしとしちやてんで聞き覚えのない曲で、ただ確かに例の歯朶つ原で聞いた大笛〔巻末〈註〉には「普通バッグ・パイプ或は風笛と呼ばれる楽器」とある〕の曲とおんなじもののやうな気がしただけだつた。然し、あの時はなにしろひどく怯えてゐたので、悠長にしまひまで聞いてるなんてどころぢやなかつた。で、その曲がもともと長い曲だつたのか、それともジョゼフが勝手に自分の作つた節をまぜたのか、ジョゼフはたつぷり十五分ぐらゐちつとも笛の手を休めずに、指先をとても器用に動かして、一息も息をつがず、そのしやら臭い蘆笛でとても大きな音を吹き鳴らすので、時によると、三つの大笛を一度に吹いてるのかと思ふくらゐだつた。また時によると、とても優しい音を出して、家[うち]の中で蟋蟀が鳴いてるのも、外で鴬が鳴いてるのもはつきり聞えるくらゐだつた。で、ジョゼフがそんな風に優しく吹いた時にや、正直に云ふと、わしもいい気持になつたんだが、そのくせそいつを全部ひつくるめて考へると、わしらがふだん聞き慣れてるものとはてんで似ても似つかないので、わしにやそれが気違ひの馬鹿騒ぎつていふ風に見えた。(82〜83)

 ユリエルは話を続けて――
 「だからさ、エチエンヌ、俺はなにもお前が今の暮しを続けて行くのをかれこれ云ふわけぢやないんだ。ただ、俺の暮し方の方がずつと面白味があるし、俺の性に合つてるつていふのさ。まあ、何よりだつたよ、かうやつて近づきになれて。万一俺に用でもできたら、いつでも呼んでくれ。だが、お前の方でも俺とおんなじにしてくれなんてことは頼まないぜ。なにしろ、平地に住んでる連中つてやつは、身内のもんとか友達とかに用ができて十二三里の道を歩いてくつてことになると、司祭さんに懺悔をして、ちやんと遺言状を作つてから出かけるんだからな。俺たちの方はそんなことはないんだ。何処へでもまるで燕みたいに飛んでくし、そこいらぢゆう何処ででも俺たちに遇へるつていつてもいいくらゐさ。そいぢやまた会はうぜ。さあ、手を握らしてくれ。で、万一、毎日百姓をしてて気がくさくさするやうなことがあつたら、ブルボンネエの黒鴉を呼んでさう云つてくれ。きつと忘れないでゐるぜ、お前の背中を笛にして一曲吹いたのも悪い気持ぢやなかつたが、お前の勇気に感心してたうとう仲直りしたつてことをな」(121〜122)

 それに、商売人の笛師だと、踊りの始りと終りをいちいち数を数へちや、めいめいの組から二スウづつ貰つたぶんだけやるとぴつたりやめちまふんだが、やつは吹き出したかと思ふとぶつ続けにたつぷり十五分ぐらゐ吹き続けながら、何処でどうやるのか次々に節を変へて行つて、なにしろ、一つの節から別の節に移るのが切れ目がてんでわからなかつた。おまけにそいつはこれより綺麗なのはないつてくらゐ綺麗なブウレの曲で、どれもこのへんぢや聞いたことのないやつばかりだつたが、それこそ足が舞ひ上りさうなとても調子のいい踊りいいやつなんで、わしらはもう芝生の上で舞ひ廻つてるなんていふよりや、まるで空でも飛んでるやうな気持だつた。(135〜136)

 このブルボンネエの大笛のまるで雷みたいな大きな音が響き渡つて、もう行つちまつたものとばかり思つてた騾馬師がまた帰つて来たのを見ると、広場にゐた連中はみんなどつと声をあげて、それこそどんなに喜んだり驚いたりしたか、こいつはいくら云つたつて誰も本当にしないくらゐだ。なにしろ、みんなもう気が抜けたやうに踊りながらそろそろおしまひにしようと思つてた時に、例の笛師の石の上にユリエルが姿を現したつてわけだ。で、しばらくすると、それこそまるで気違ひみたいな騒ぎになつちまつて、みんなもう二人づつとか四人づつとかいふんぢやなく、八人も十六人もいつぺんに手を繋ぎ合つて、跳ねたり、わめいたり、笑つたり、これぢやたとひ神様だつて一言[ひとこと]も口を入れる隙はあるまいつていふ有様だつた。
 で、それから少したつと、年寄りも若いもんも、まだ歩き方を知らない赤ん坊も、もう碌に足の立たない祖父[ぢい]さん連中も、昔風に手ぶり足ぶり踊りだす婆さん連中も、拍子つてやつにこれまでどうしても喰ひつけなかつた不器用な若い衆も、みんな一緒になつて体をゆすぶり始めるし、もう少しで村の鐘楼の鐘まで一緒に踊り出すところだつた。なにしろこの笛の曲と来たら、このへんの連中が聞いた一番綺麗な曲で、おまけにそいつがただと来てる。その上、まるで悪魔が加勢でもしてるやうに見えたつていふのが、吹き手のユリエルは一度も弱音をはかず、みんながもうへとへとになつちまつてもちつとも疲れを見せなかつた。――「俺はみんなを負かしちまひたいんだ!」と、少し休むやうにみんなが勧める度に、やつは怒鳴つた。「俺は村ぢゆうの人間がへたばつちまふまでやるぜ、日の出にやみんなまだ此処にゐるやうにな、さうして俺は元気で突つ立つてるし、そつちはもう助けてくれつて俺に頼んでるのさ」――さうしちや、やつは笛を吹くし、わしらはみんなまるで気違ひみたいに跳ね廻るつてわけだ。(146〜147)

 然しわしらはまだやつと、ベリイの一番高いとこに続いてる下ブルボンネエへはいつたばかりで、しかもユリエルに聞くと、この土地はずつと上へ上へと高くなつてオオヴェルニュまで続いてるつて話だつた。森は実に見事なもんで、みんな、樹のなかでも一番立派な白槲がびつしりと生え揃つてゐる。森のなかにや方々に川が流れて谷間を作つてゐるが、さういふとこはほかよりもしめつぽくて、榛[はんのき]とか柳とか白楊[はこやなぎ]とかいふ樹が生えてゐるし、それがみんなとても大きなしつかりした樹で、わしらの国にあるやつなんかとても足もとにも寄りつけないくらゐだ。わしはまたこの森で、生れて初めて、幹の先が白くて枝ぶりのとても見事な、わしらの国にや生えない樹を見たが、こいつは山毛欅[ぶな]つていふ樹だつた。わしの考へぢや、こいつは槲の次にや樹のなかの王様で、立派つてことぢや槲にやかなはないにしても、その代りずつと恰好がいいつて云つてもいいくらゐだ。その森ぢやこいつにはまだほんの時たましか出くはさなかつたが、ユリエルの話ぢや、こいつはブルボンネエの恰度真ん中まで行かなけやうんと茂つたところは見られないつてことだつた。(204〜205)

続けて、下巻から引く。

 「なあ、ジョゼフ、世の中のことは、誰が生き残るか誰が死ぬかわからないんだ。俺たちもいよいよ此処でお別れだ。お前に云はせれや、ほんの二三日だけださうだが、俺に云はせれや、お前はもつと永く別れてるつもりなのさ。だが、神様に云はせれや、ひよつとすると俺たちやこれつきりもう会へないかも知れないぜ。まあ、道の分れ目でめいめい自分の方角に別れて行く時にや、いつでもさう思つてれや間違ひはないさ。どうかまあ、俺や伜たちのことをよく思つて、別れて行つてくれ。俺の方も、お前と此処にゐるお前の友達がすつかり気に入つてるんだ。だが、そいつは兎も角として、一番肝腎なところはお前に音楽を教へるつてことだつたわけだし、お前が二月も病気をしてそいつを途中でやめなけやならなかつたつていふのは、俺としても随分心残りなんだ。それさへなけや、お前を偉い学者に仕立ててやれたんだなんて云ふんぢやないぜ。方方の町にや、男や女のさういふ学者がゐて、俺たちの知りもしない楽器[なりもの]を鳴らしたり、ちやうど本に書いてある言葉を読むやうに、歌の節を紙に書いて読んだりしてるがな。俺や、若い時分に習つた御宗歌のほかにや、さういふ音楽のことはあんまり知らないんだが、まあ自分の知つてるだけのことはお前にも教へといた。つまり、調子とか、音色とか、拍子とか、そんなことぐらゐのもんだが。万一、もつと詳しいことが知りたくなつたら、方々の大きな町へ行つてみるこつた。さうすれや、ヴァイオリン弾[ひ]きがメヌエットとかカドリイルとかいふ曲を教へてくれるよ。だが、お前がそんなことをして役に立つかどうかと思ふんだがな、国を出て、百姓暮しはもうやめちまふつていふんなら別だが」(022〜023)

 「ユリエルのやつも、確かに勘もあるし、天分もあるさ。十八で笛師頭の免許をとつたくらゐだし、商売にこそしてないが、ちやんと奥義も心得てれや腕も確かなもんだ。だが、エチエンヌ、幾らお前がさう云つてくれても、曲を覚える人間と作る人間とぢや、そこにたいした違ひがあるんだ。世間にや、指がすばしこくてもの覚えが確かで、人に習つた曲を気持よく歌つて聞かせる人間もある。然し、なかにや、人に習ふだけぢやちつとも得心せず、頻りに新しい思ひつきを捜しながらぐんぐん自分一人でやつて行つて、あとに来る笛師全部に自分の見つけたものを授けてやるやうな人間もある。ところが、俺やはつきりさう云ふが、ジョゼフはつまりさういふ方の人間なんだ。おまけにそれだけぢやなく、あいつの身のうちにや、とても立派な天分が二つもあるんだ。一つはつまりあいつが生れた平地から来る天分で、そこから落着いた強い静かな思ひが湧いて来るんだし、もう一つは俺たちの方の林や丘から来る天分で、こいつはあとからひとりでにわかつて来たもんだが、そこからつまり心の深い、激しい、もの哀しい思ひが湧いて来たわけだ。だからやつは、ちやんと聞く耳のあるものから見れや、ただの田舎の笛師風情なんかとはまるで別物なんだ。つまりそれこそ昔あつたやうな本当の笛師頭で、一番腕のいい笛師連中でも一生懸命になつて聞くし、その揚句これまでの習慣[しきたり]もすつかり変へさせちまふやうな、さういふ人間なんだ」(164〜165)

 「ところで、もう起きろよ、兄弟!」とユリエルは云つた。「実は俺たちや遅くなつちまつたんだ。かう云つても、お前にやなんのことかわかるまい。といふのが、今日は五月の三十一日で、俺たちの方ぢや、この日は自分の好きな娘の家の門口に花束を結[ゆは]へつける習慣[しきたり]なんだ、つまり月の朔日[ついたち]にそいつをやれなかつた連中だけがやるわけなんだが。で、俺たちとしちや、誰かに先を越されるつていふやうな気遣ひは、まあないわけだ。なにしろ、一方ぢや、俺の妹とお前の従姉妹が何処に泊つたか知つてるものはないんだし、それに第一、このへんの村ぢやこの『呼び戻し』の花束つてやつはやらないんだからな。だが、向ふの二人はもう眼を覚してるかも知れないし、万一まだ花束を門の框[かまち]につけないうちに部屋から出て来られたりしたら、それこそ俺たちや怠けもの扱ひにされるぜ」(194)

 大笛の主はその曲を初め先づわしらの知つてる通りの節でやると、その次には少し違へて、もつと優しいもつと淋しい調子でやり、たうとうしまひにや何から何まですつかり変へて、勝手に調子を変へたり、自分勝手な節を挟んだりしてやり出したが、それがどうして見劣りがするどころぢやなく、却つてその溜息をつくやうな掻き口説くやうな調子がなんとも云へず優しくて、聞いてるうちに知らず知らずしんみりした気持に引き込まれずにやゐられないくらゐだつた。そのうちに今度はもつと強いもつと激しい調子に変へたと思ふと、まるで人を怨んで威しつける歌みたいな調子でやり出したので、ブリュレットは、一人だけ前へ出て堀の縁に立ちどまつたまま、今にもその堀のなかに花束を投げ込まうとしかけて、流石に心をきめかねてゐたのだが、その曲の響に籠つてる怨めしさうな調子にぎよつとしたやうに、思はず其処から後すさりをした。するとその時、足と肩とで茨を押し分けながら、堀の向ふの縁にジョゼフが姿を現したと思ふと、それこそ火のやうな眼つきをしてそのまま笛を吹き続けながら、まるで、ブリュレットが自分にそんなひどいことをするのを思ひとまつてくれなけや、それこそどんなに歎き悲しむか知れないと云つて、自分の笛の音と顔つきで威しつけてゐるやうだつた。(201)

 「これだけを持つて、俺や此処へ帰つて来たんだ。まつたく、あいつも不運なやつさ」と「大頭」は云つた。〔……〕
 〔……〕
 その晩ジョゼフはずつと外に出てたんだが、それまでにもそんなことは何度もあつた。それに、こいつは前から気がついてたんだが、みんなが俺のやる昔の古い歌を褒めるのを、やつは時々ちつと嫉[や]いてるやうな風だつたし、俺やうつかり邪魔にでもなつちや悪いと思つたのさ。朝になつて、まだちつと熱があるやうで寒気がしてたんだが、無理に起きて出かけて行つて村で噂を聞くと、村の堀つ縁で大笛の毀れたのを拾つたもんがあるつて話だ。俺や早速そこへ駈けつけてその大笛を見てみたが、確かに見覚えのあるやつで直ぐわかつた。で、その大笛が落ちてたつていふ場所へやつて行つて、堀の氷を割つてみると、すつかり凍りついた、やつのむごたらしい死骸が出て来たんだ。体にやちつとも手荒なことをされたやうな痕[あと]はなかつたし、笛師連中も、ジョゼフとは確かに其処から一里ばかりのとこで別れたし、別に言ひ合ひなんかもしなけや酔つ払つてもゐなかつたつて云ふのさ。俺や一生懸命下手人を捜してみたが駄目だつた。そのへんはとても淋しいとこで、お上の役人も百姓を怖がつてるし、百姓の方は、怖いものは悪魔だけなんだ。で、俺もやつらのいまいましい馬鹿臭い話で納得して帰つて来るより仕方がなかつたのさ。そのへんの村ぢや、それこそすつかり本気でかう思ひ込んでるんだ。ちよつとまあこのあたりで思つてるのと似たやうなもんだが、つまりかういふことさ――笛師になるにや、どうしても悪魔の世界に魂を売り渡さなけやならない。で、遅かれ早かれ、いつかは魔王[サタン]がその笛師の手から大笛を引つたくつて、そいつを背中に叩きつけて毀しちまふ。さうすると、笛師はそれで頭が変になつて、すつかり気が違つちまつて、その揚句たうとう自分で死んぢまふつていふんだ。つまり、笛師連中が仲間同士で仕返しをしたりされたりしてるのを、世間で勝手に考へてそんな風に云つてるのさ。ところが、笛師連中の方でもそれをさうぢやないとは滅多に云はないし、やつらにしてみれや、さうしとけや人にも怖がられるし、あとの面倒も逃れられるわけなんだ。だから、世間の方でも、やつらをとても悪く思つて、ひどく怖がつてて、俺が幾ら云つても誰も話を聴いてくれるものはないし、それどころか、うつかりその土地に永居をすれや、この俺が自分で悪魔を呼び出して相棒の男を片附けたんだなんて云はれさうな始末なんだ」(314〜316)

《愛と革命――ジョルジュ・サンド伝〔ちくまプリマーブックス〕》(筑摩書房、1992)の著者で、サンド研究者である坂本千代は《ジョルジュ=サンド〔人と思想141〕》(清水書院、1997年8月28日)の〈田園小説〉の章でこう書いている。「それではここでサンドの田園小説を詳しく見てみよう。一般に彼女の田園四部作と呼ばれるのは一八四六年の『魔の沼』、四七年から四八年にかけて発表された『棄子[すてご]のフランソワ』、四八年の『愛の妖精』、そして五三年の『笛師のむれ』である。〔……〕」(同書、一四七〜一四八ページ)。好い機会だから、《笛師のむれ》についての言及も引いておこう(*2)

 田園小説の最後の作品『笛師のむれ』は四部作の中でいちばん長く、筋もかなりこみいったものとなっている。
 ノアン村の少年ティエネとジョゼ、そしてティエネのいとこの少女ブリュレットは幼なじみの仲良しであった。思春期にはいったティエネはブリュレットに恋するようになり、ジョゼは、ブルボネ地方からやってきたラバひきの青年ユリエルのおかげで、自分に音楽の才能があることに気づく。ユリエルは、自分の父である笛師頭のもとに行って笛を習うようにとジョゼをさそう。
 一八か月後、ブルボネの森でユリエル一家と暮らしていたジョゼが病気になり、ティエネとブリュレットは彼のもとにかけつける。ジョゼは、ティエネの妹、きれいでしっかり者のテランスに看病されていた。やがて、ユリエルはブリュレットと結婚し、ティエネはテランスを妻にする。
 いっぽうジョゼは、強引に笛師の「組合」に入会して笛師となり、ユリエルの父とともに流しの笛師として気ままな生活を送っていたが、数か月後によその土地でそこの笛師たちといさかいをおこして殺されてしまう。
 『笛師のむれ』のジョゼは、村の嫌われ者ファデットや捨て子のフランソワと同様、人々に認められず誤解される存在である。仲間たちは彼のことを陰気でおもしろくないやつとみなしていたが、実は彼の中には美にたいする人並み以上の感受性があったのだ。ジョゼは、音楽と出会うことによって自分の存在理由を発見し、自分の内にある「美」を表現するすべを学んでいったのであった。彼は物語の終わりでみじめな死に方をするが、これは他の三作品と大きく違う点である。ここには「芸術家」「天才」のテーマが顔を出しており、作者の文学的関心が農民の生活を描くことからまた別のものに移っていこうとしているのを見ることができよう。
 以上のような田園四部作は、サンドの膨大な作品中で一般的にいちばん読まれ、コンスタントな人気を保つことになるのである。(同書、一五三〜一五四ページ)。

私はジョルジュ・サンドの《愛の妖精》を篠沢秀夫訳の〔旺文社文庫〕(1966年12月)で読んで、深い感銘を受けた。吉岡が《笛師のむれ》を読んだ二十歳よりも若い、高校生のころだ。いま原本が見当たらないのだが、私が接した「篠沢教授」の訳は、校訂して〔中公文庫〕(2005年6月25日)に収められている。

 コッス村のバルボおやじは暮らしむきが悪くはなかった。〔……〕/「もしそのとおりだったらね」とバルボおやじは耳のところをかきながら言った。「あの子はけっして結婚しないんじゃないかと心配だね。だって、昔、ふろ屋のクラヴィエールばあさんが言ってたろう。あの子が女にむちゅうになったら、それほど弟にばかげて執着したりしないだろうってね。それから、こうも言ったよ、シルヴィネはね、あまり感受性が強すぎるし、情熱家だから、一生にひとりの女しか愛せないだろうってね」(中公文庫版、七・二一四ページ)

《愛の妖精》を読むと、今でも胸が締めつけられる。ともにLa petite Fadette(小さな/可愛いファデット=愛の妖精)を愛する兄のシルヴィネと弟のランドリは、一卵性双生児だった。双子の主題は、私の人生においても大きなものとなるが、このときはまだなにも知らない。だが、それについては別の機会に。

坂本千代も執筆者のひとりである、日本ジョルジュ・サンド学会(編)《200年目のジョルジュ・サンド――解釈の最先端と受容史》(新評論、2012年5月25日)で、平井知香子は〈旅と音楽の越境――『笛師のむれ』をめぐって〉を書いている。私の知る最も清新な《笛師のむれ》論である。なお、論文末尾には「*本章は、拙論「ジョルジュ・サンドとベリー地方――『笛師のむれ』をめぐって」(『関西外国語研究論集』第九三号、二〇一一年)を改稿したものである。」と見える。結論部分はこうだ。

音楽と旅を通じた異なる文化の融和

 終盤で、事態はジョゼフの直感どおりに、そして「三人の木樵」の歌どおりになる。ユリエルはブリュレットと結婚し、エチエンヌはかつて馬市からの帰りに出会つたブルボネ出身の娘テランス(実はユリエルの妹だっだ)を妻にする。一方ジョゼフは、愛を断念し音楽の道をとる。修業の甲斐あって誰もが認める腕前となったジョゼフは、 ベリーの笛師の組合に加わり、大頭バスチャンとともに放浪の旅に出る。ところが道中、ジョゼフは芸術家気質らしい頑固さのため、ある村の笛師たちといさかいを起こし、殺されてしまう。冬の朝、ベリーから遠く離れたモルヴァン(ブルゴーエニュ東部にある広大な森林山地)で、ジョゼフの遺体が発見される。乱闘で痛めつけられたはずの体には、なぜか傷が見当たらなかった。彼は人間の手で殺されたのではなかったのだろうか。「笛師になるには悪魔に魂を売らなければならない」という、モルヴァン地方に古くから伝わる言い伝えどおりのことが起こったのかもしれない。
 〔……〕
 サンドは『アンジボーの粉ひき』では、「結婚による階級の融和」を描いた。そしてその八年後の『笛師のむれ』においては、「音楽」と「旅」が可能にする「越境」と、それを通じた二つの異なる土地の文化の融和、さらに結末でその融和が二組のカップルの「結婚」と「共同生活」によってユートピアに結実するという壮大な物語を書いたのであった。一方、誰よりも芸術の天分を有していだジョゼフは、まさにその天分とひきかえに「悪魔に魂を売り」、夭逝してしまう。だが修業への出立という彼の「旅」こそがこの物語の発端でもあり、「畑の者」を「森の者」と出会わせ、結末の融和をもたらすことになった。その意味でジョゼフの「旅」もやはり、この作品における「越境」の重要な媒介としての意味を担っていると言えよう。(同書、一九〇〜一九二ページ)

冒頭に引いた〈沈復『浮生六記』〉のほかに、吉岡が《笛師のむれ》に触れている処がもうひとつある。吉岡実日記の1949年(昭和二十四年)「一月十日 ジョルジュ・サンドの《笛師のむれ》二時近くまで読む。美しい田園詩。」(〈断片・日記抄〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968年9月1日、一一三ページ)がそれである。前年(1948年)11月12日には、やはり〈沈復『浮生六記』〉に登場するスタンダールの《パルムの僧院》を読了している。どちらも再読であろう。ちなみに吉岡は当時、東洋堂という出版社に勤務している。「一月十日」(月曜日である)の午前2時まで読むという昂揚は、やはりこの作品に惚れこんでのことだろう。敗戦後数年のこの時期、新刊本が払底していたこともある。だが、《笛師のむれ》にしても《パルムの僧院》にしても、吉岡が二十歳ころに読んだだろう家蔵本は、1945年の空襲で両親の住んでいた実家とともに焼失したはずだ。同年11月、辛くも戦地から帰還した吉岡は、この1949年には三十歳を迎える。初読の十年ののち、《笛師のむれ》や《パルムの僧院》(おそらく1935年と1937年に出た前川堅市訳の上・下巻の〔岩波文庫〕)をいったいどのような想いで読みかえしたのだろう。そこには、余人の想像が軽軽しく介入するのを許さないだけのものがある。

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(*1) ジョン・グリシャム(村上春樹訳)《「グレート・ギャツビー」を追え》(中央公論新社、2020年10月10日)に次のようなくだりがある。主人公のブルース・ケーブルは、フロリダで書店を営む稀覯本収集家だが、愛書家である以上に読書家であって、そこが本書の魅力でもある。「義務とまではいえないにせよ、それは彼にとってひとつの習慣になっていた。ペイ・ブックスは週に二回、ときには三回サイン会を催していたが、その著者が来店する前に、彼または彼女がこれまでに出版した本を、ブルースは残らず読んだ。彼は実に貪欲に本を読んだ。彼の好みは現存する著者――実際に会って、販売促進を手伝え、親しくなり、後日までつきあえるような相手――の書いた小説だったが、小説には限らず、伝記や自己啓発[セルフ・ヘルプ]本や料理本や歴史書や、とにかく何もかもを貪るように読みまくった。それが彼にできる最低限のことだった。彼はあらゆる著者を敬愛したし、もし彼の店をわざわざ訪れて、一緒に食事をしたり酒を飲んだり、そんなことをしてくれる作家がいるなら、相手の作品について意見を交わせるだけの準備をしておこうと心を決めていた。」(同書、七五〜七六ページ)。フィッツジェラルドの直筆原稿を収めた容器の描写(三四四〜三四五ページ)も見事だ。訳者が手ぐすね引いて繰りだした訳文だ。

(*2) 《笛師のむれ》は〈第一夜〉に始まり〈第三十二夜〉に終わる。エチエンヌ翁が毎夜語ったとしても、ひと月以上かかる勘定だ。さて、《笛師のむれ》の訳書は、邦訳・抄訳・コミック版・子供向けの再話を含めると30種以上にもなる《愛の妖精》――この訳名は宮崎嶺雄による――に較べて、わずかに宮崎嶺雄訳の一種類。ほかには和田傳訳《森の笛師》(ポプラ社、1951)を数えるのみだ。この《森の笛師〔世界名作物語 11〕》は未見だが、国立国会図書館オンラインの書誌詳細には「ジョルジュ・サンド 原作, 和田伝 著, 田中良 絵」とあるほか、ありがたいことに〈目次〉が採録されている。以下に、ページノンブルの記載を略して掲げるが、小説の梗概として読める。

ぬかるみの道で抱きあげた少女
サン・シャルチェの森での出来事
ジョゼフの蘆笛
ブルボンネェの森からきた騾馬師のユリエル
聖ヨハネの祭りの夜
悲しいたより
旅に病むジョゼフを救いにブルボンネェの森へ
ロッシュの森の恐ろしい騾馬師
あらわれた幻の少女
森の決闘
ゆくえ知らぬ旅へ
森の音色、平野の音色
謎の子供
シャッサンのお城の森
悲しい笛師
森の男、平野の娘
笛師の腕くらべ
居酒屋の春
笛師になれたお祝い
古城の穴倉
笛師の旅へ

吉岡実詩の詩型――散文詩型(2021年4月30日)

去る4月15日は吉岡実が誕生して102年めの当日だった。顧みれば、最近は本サイトで吉岡の詩そのものを取りあげる機会が多くなかった。そこで今回は、吉岡実詩の詩型について考察したい。こんにち吉岡実詩は、単行詩集収録の262篇、印刷媒体に発表したものの単行詩集には収められなかった未刊詩篇21篇、草稿だけが遺っている2篇、の合わせて285篇が知られる。本稿では前二者の計283篇を対象とする。すなわち、吉岡実が生前に発表した全詩篇である。さて、その吉岡実詩を分類するのに、さまざまな軸が設定できる。文語によるもの(ごく少数)と口語によるもの(大多数)、数字(アラビア数字やローマ数字)やアステリスクで節を区切ったもの(さほどの数ではないが、長詩に多く見られる)とそうでないもの、すべて天ツキ(字下げなし)の行分けのものと字下げのある行分けのもの(いわゆる「薬玉詩型」)、本文の前に献辞や題辞を伴うものとそうでないもの、同様に本文の後に註記や脱稿日と見られる日付を伴うものとそうでないもの、等等。内容に関わるものとして最も重要なのは、詩句に他者からの引用があるものとそうでないもので、それについては吉岡実の引用詩というテーマでたびたび論じてきた(*1)。表記面に限っても、「 」や( )などの括弧類を使ったものとそうでないもの、。(句点)や、(読点)を使ったものとそうでないもの、!(感嘆符)や?(疑問符)を使ったものとそうでないもの、――(ダーシ)や……(リーダー)を使ったものとそうでないもの、などがある。だが詩型という面に限れば、いちばん顕著な特徴による分類は、行分けの詩と詩句を一マス空きで追い込んで続ける散文詩型ということになるだろう。散文詩型は吉岡実詩の「初期」(《昏睡季節》と《液體》)と「後期」(《薬玉》と《ムーンドロップ》)においてはそれほど、というかほとんど見られないが、「前期」(《静物》〜《静かな家》)には頻繁に用いられる一方で、「中期」(《神秘的な時代の詩》〜《夏の宴》)には数字やアステリスクで節を区切ったもの(こなれない用語だが「節分け詩型」と呼ぶことにする)の一部の節で用いるなど、変幻自在に駆使する方向に転じていて、詩想の成熟とは独立した系として、興味深い側面を見せている。ものの順序として、どの作品が純然たる散文詩型なのか、見てみよう。並びは、初出形の発表順である(*2)。【 】内の数字は、定稿において一マス空きを改行と見たてたときの行数、つまり詩句の数。

01 或る世界(B・5)【24】
02 告白(C・2)【28】
03 喜劇(C・1)【37】
04 陰謀(未刊詩篇・6)【23】
05 (C・3)【25】
06 単純(C・9)【40】
07 固形(C・11)【47】
08 回復(C・12)【41】
09 伝説(C・5)【30】執筆は1956年
10 冬の絵(C・6)【41】執筆は1956年
11 美しい旅(C・16)【35】執筆は1958年
12 遅い恋(未刊詩篇・7)【21】
13 下痢(D・3)【43】
14 紡錘形T(D・4)【22】
15 夜会(I・5)【14】
16 夜曲(未刊詩篇・8)【24】
17 編物する女(D・8)【30】
18 裸婦(D・7)【35】
19 首長族の病気(D・11)【34】
20 紡錘形U(D・5)【22】
21 冬の休暇(D・12)【21】
22 水のもりあがり(D・13)【44】
23 寄港(D・19)【36】
24 修正と省略(D・22)【47】
25 馬・春の絵(E・5)【32】
26 ルイス・キャロルを探す方法―少女伝説(G・11)【67】
27 人工花園(I・19)【58】

「前期」の《静物》が1篇、《僧侶》が9篇、《紡錘形》が10篇、《静かな家》が1篇、「中期」の《サフラン摘み》が1篇、拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》が2篇、未刊詩篇が3篇の計27篇(生前に発表した詩篇全数の約1割)だが、〈ルイス・キャロルを探す方法―少女伝説〉(G・11)の「T」は

ドジソン家の姉妹ルイザ マーガレット ヘンリエッタ 緑蔭へ走りこむ馬 読書をつづける盛装の三人 見よ寝巻のなかは巻貝三個

父ジョージ・マクドナルドはひげをのばし 長女リリーの唇は イチジクの汁でよごれる 婦人帽の下からツタの葉を茂らせる継母 父に抱れて 鳥の巣を採る弟

アグネス・フロレンス・プライスは今日も一つの大きな人形を抱く 中世のかつらをつけた裁判官の姿をした人形を わたしの罪を罰して! 縞の下着をつけていることを

エリザベス・ハッセー よい名それとも変な名 ロバー・ハッセー教授の娘 絹のソファーへ横たわって 午後は母を待つ 母は医者を待つ 夜は父を待つ 母を待つ父を わたしは待つ 絹を傷つける虎を待つ

ああアイリーン・ウィルソン・トッドよ 風に吹かれたあの長い髪が庭の木を巻く 恐ろしいことに木の幹がつるつるしている 死んでいる木 生きている木 叩くなら木の股を 大梯子へあがって兄の首を吊すこと

窓から見えるエフイー・ミレエー 父と母と娘がこの窓から飛びおりるのを 上からのぞいたような気がする

フフフ笑うフランクリン夫人の娘時代に似ている うつむくバラのなかのローズ 子守唄は自分で唄うのよ バラよ眠るなかれ!

マリリア・ホワイトの白いマリがころがってゆく 止るところがあるだろうか ランベス・パレスの荘重な門で止る 恐しい顔をして叔父が門を閉めたから

マデライン・キャサリン・パーネル 水兵服が好き 水浴びが好き 横顔が好き

C・バーカー牧師の娘メイは椅子の上へ立っている 靴のまま この狼藉の恍惚 十二歳になったら飛びおりる

メリークリスマス 病める雪 病める七面鳥の声 わたしはメアリー・マクドナルド ジョージ・マクドナルドの娘 うずくまる母と姉 鮭の燻製がきらい

エラ・モニア・ウイリアムズ 廊下をほうきで掃く どこまでもどこまでも暗い家 教授は今朝は「寒い」とひとこと云った

首席裁判官デンマン卿の娘グレイス・デンマン 石の階段の一番下が彼女の憩いの世界 重い大きな鎚で赤いカニを一撃したら 恋する女の心にちかづく

父は芸術家アーサー・ヒューズ つくられたものアグネス ウサギのように毛のある服を着て おしっこしたくなる 春から夏まで キヅタの棚の下の召使たちの恋

というように、*(アステリスク)で区切られたそれぞれの節が散文詩型をとっている(この、「節分け詩型」の散文詩型というスタイルは吉岡実詩では本篇だけ)。続く同詩の「U」も特異な詩型なので、以下に掲げる。二部構成ながら、本篇は吉岡実詩における最長の散文詩型であると同時に、純然たるその詩型で書かれた最後の作品でもある。

テニソン夫人の姪アグネス・グレイス・ウェルドは赤い乗馬頭巾とマントを着け 馬のうしろに幼い友だちを呼ぶ クロフト牧師館の使用人の娘 仇名は「コーツ」 教授の娘エリザベス・ハッセー 芸術家の娘エミイ・ヒューズ T・B・ストロング博士の姪ゾーイ ジョージ・マクドナルドの娘 髪がうまくとかせないアイリーン その姉メアリー パトニーの教区牧師の娘ベアトリス・ヘンリー エレン・テリイの妹たちマリオンとフロレンス リポン僧正の娘フローレンス・ビッカーステス ピュージー博士の孫娘ケイティー・ブライン ジョン・ミレーの娘メアリ クランボーン教区牧師の娘ディンフナ・エリス
          遅れてきたのは誰? あら支那の娘の扮装したアレクサンドラ・キッチンだわ いとしのクシイー けさ水汲みに行って 最初に見たのはなんなの? 串の魚それとも舟を漕ぐ農夫 蝶を捕える青空の下の網 聞かせてよ 支那のウグイスはどんな鳴き方をするか? ペルシャ模様の八個の箱の上で 夢みるクシイーよ 川のほとりで最後に見たものはなんなの?  あなた自身の肉体 その影に心があるようで ないように見える なまめかしくも幼い聖痕?
                   みんなでこれからキャロルおじさんを探すのよ それは包帯で巻かれた幽霊群のなかで 副葬花束を持った人だわ!

《新選吉岡実詩集〔新選現代詩文庫110〕》(思潮社、第2刷:1979年10月1日〔第1刷:1978年6月15日〕)の〈ルイス・キャロルを探す方法―少女伝説〉(G・11)の「U」末尾と〈『アリス』狩り〉(G・12)冒頭 初出〈ルイス・キャロルを探す方法―少女伝説〉の「U」(冒頭) 出典:《別冊現代詩手帖 ルイス・キャロル――アリスの不思議な国あるいはノンセンスの迷宮》(思潮社、1972年6月〔1巻2号〕、一六三ページ)
《新選吉岡実詩集〔新選現代詩文庫110〕》(思潮社、第2刷:1979年10月1日〔第1刷:1978年6月15日〕)の〈ルイス・キャロルを探す方法―少女伝説〉(G・11)の「U」末尾と〈『アリス』狩り〉(G・12)冒頭 〔〈少女伝説〉の字詰めは《サフラン摘み》、《吉岡実全詩集》、本書ともに25字。一方、〈『アリス』狩り〉の字詰めは《サフラン摘み》、《吉岡実全詩集》では28字、本書では25字(2段組の文庫版という、紙面からくる制約による)。〕(左)と初出〈ルイス・キャロルを探す方法―少女伝説〉の「U」(冒頭) 出典:《別冊現代詩手帖 ルイス・キャロル――アリスの不思議な国あるいはノンセンスの迷宮》(思潮社、1972年6月〔1巻2号〕、一六三ページ) 〔「ダインフナ・エリス□/□□□□□□□□□□遅れてきたのは誰? あら支那の」(□は一マス空きを示す)の空きと字下げの関係にご注目いただきたい。〕(右)

「遅れてきたのは誰?」の10字下げ、「みんなでこれからキャロルおじさんを探すのよ」の19字下げは絶対値ではなく、初出を見れば明らかなように、それぞれその前の詩句「クランボーン教区牧師の娘ディンフナ・エリス」、「なまめかしくも幼い聖痕?」を含む前行の文字数(初出では10字と19字)というのが基本構造である。これは欧文による詩で見かける改行の仕方なので(吉岡もそれらを邦訳した詩で知ったのではないか)、おそらく固有の呼び名があるのだろうが、不勉強な私にはわからない。なお、この点について縷説した〈吉岡実詩集《サフラン摘み》本文校異〉の末尾を参照されたい。一方、詩篇全体ではなく、一部分に散文詩型が用いられている作品は以下に掲げる6篇ということになる。最初の〈寓話〉(B・15)は、散文詩型(書きながしと、20字詰めで折りかえした部分のふたつ)と行分けの混じった、ほかにない特異なスタイルなので、全文を掲げる。なお、引用詩篇の標題のまえには★印を付けた。

★寓話(B・15)

肉屋の千匹の蠅 とび終り 庖丁刃物の類は 仮設の暗がりから あとずさりして 一段と深い世界へ沈みゆき

慰めのない 真夏の仕事場 凍る肉の重い柱 さかさにつるされる 完全に浄められた空間 すでに人間のはげしい咀嚼の音もとおざかり
今この店先の調理台のうえに 尾もない頭もない 一つの肉の原型 魅せられたように よこたわって

すべてのものの耳がゆれ立ち
すべてのものの舌が巻かれる時

苦痛の鉤からはずれた凝脂の肉の神
虚しい過去 生の真昼の空を夢みようとする

  甘い太陽とみどりの草 臓腑の中で輝く 河
  と星屑 角の間へぼうぼう風をとばし 疾走
  する四肢の下で みだれる夕焼の雲 小鳥の
  脱糞 金の藁の中で つねに反芻される 自
  我のエクスタシイ
  地平の端を 汚れた鼻づらで冒す 兇悪な笑
  いと 混淆の涎 ときに牝の尻の穴 柔媚な
  紅の座を嚊ぎつけ 嫣然と眦をほそめてゆく
  時――ああ果は 滂沱たる放尿の海

主人の猫ものぞかぬ 化石めいた深夜のホリゾント すなわち店先の部厚い矩形の処刑台をきしませ 裂かれた肉の衣装のかげから 触発されたもの 突然立ち上りよみがえり みるみる形成されだす 裸の牡牛の像

へばりついた梁で 夜あけまでみぶるいする 肉屋の千匹の蠅

以下、該当する詩篇の散文詩型の部分を抽出する(〔……〕の省略部分は行分けスタイル)。

★タコ(G・2)の第2節


〔……〕

タコの生殖はとても呪われたフォームを見せる それは濡れて裂かれた傘のような肉の散乱にちかい タコのオスの七つの足は水を抱きこむ そして残されたごく先細りの一つの足がくだの器官の役目をする ちょっと見ると 靴の紐のようにみすぼらしく タコのメスの小さな孔を探し求めて入りこむ これが交接といえるだろうか 水は起伏してながれる 透明な世界では悦びもなく射精は終る すぐそばにタコのメスのみひらかれた眼がある それには汎神論的な悪意が感じられる 受胎せるタコのメスは海の底の石の巣へゆっくり帰って行く 二十万粒の透明な卵を生むために それから絶食状態のまま ブドウの房のようにたれさがった袋の卵群へ 必死に泡を吹きつづける それは呼吸に必要な酸素を送るためだ ゆらぐ海草のかげで タコの母親はただ一度の排卵で腐る肉質へと替る

〔……〕

★フォーサイド家の猫(G・17)の第4節

〔……〕

エスキモーはどうして猫を描かないのだろう 昨夜カナダ・エスキモー展を巡りながら わたしと妻はふしぎに思った 多くはモノクロームのあざらしと魚である 白い歯をむき出して 氷の山の頂に 星のように輝いているせいうち そのほかはふくろうの絵ばかりだった 地中に眠る魚の葉骨を咥えて 斑のある羽をひろげている母喰鳥 その眼は女の驚きの表情だった 暗い花の群生のなかで 折れた翼を敷いている もう一羽の大きなふくろうをみつめていると やがて猫に変貌するように わたしと妻には思えた 薄明のエスキモーの国には あとは子供と犬しか住んでいないのだろう

〔……〕

★『アリス』狩り(G・12)の第4・9・15節

〔……〕

父母の写真 コダックの五匹の猫の写真 船腹の写真 赤ん坊の写真 墜落した飛行機の写真 結婚式の写真 騎手の写真 女優のヌード写真 チャールズ・ラトウィジ・ドジソン教授が撮ったアリスの写真

〔……〕

馬をすすましめ 河をすすましめ 受胎をすすましめ 軍艦をすすましめ 飲食をすすましめ ゲームをすすましめ 時計をすすましめ 矢印をすすましめ 物語をすすましめ 死をすすましめ

〔……〕

わしの知っとる
「もう一人のアリスは十八歳になっても 継母の伯母に尻を
鞭打たれ あるときはズックの袋に詰められて 天井に吊る
される 美しき受難のアリス・ミューレイ……」

〔……〕

〈『アリス』狩り〉(G・12)の3箇所は、〈タコ〉や〈フォーサイド家の猫〉とは違った発想で書かれている。同詩の初出は牧神社刊の《アリスの絵本――アリスの不思議な世界》(1973年5月1日)の二一〜二四ページ(すなわち見開きふたつではない)に、「アリス狩りのためのアリス工房 Alice workshop for the hunting of Alice」中の一篇として、1節=4行の19節全76行の詩として発表された。76行に節間アキの18行を加えると94行となり、「アリスをテーマに、100行の詩を」と執筆依頼されたのかもしれない。それはともかく、吉岡は100行の詩を書くのではなく、

 それはたくさんの病人の夢を研究しなけりゃならん
 〈退却してゆく臓器や血の出る肛門〉
 わしも医者だから抒情詩の一篇や二篇は暗誦できる
 今宵 生き損じの一人の老婆も無事に死んだし

と始まり

 夏の空の色あせる時
 わしも詩人だからたまには形而上的な怪我をするんだ
 今宵 書き損じの一人の少女の『非像』を追想する
 落涙する屋根の上の人 それは汝かも知れず?

と終わる傑作を書いた。この詩の最初と最後の節は4行から成ることが必然的な緊密な構成をとっている。一方、「父母の写真 コダックの五匹の猫の写真 船腹の写真 赤ん坊の写真 墜落した飛行機の写真 結婚式の写真 騎手の写真 女優のヌード写真 チャールズ・ラトウィジ・ドジソン教授が撮ったアリスの写真」は「……の写真」が9回、「馬をすすましめ 河をすすましめ 受胎をすすましめ 軍艦をすすましめ 飲食をすすましめ ゲームをすすましめ 時計をすすましめ 矢印をすすましめ 物語をすすましめ 死をすすましめ」は「……をすすましめ」が10回繰りかえされており、いずれも4で割りきれない(それが仮に8回であれば、「……の写真 ……の写真/……の写真 ……の写真/……の写真 ……の写真/……の写真 ……の写真」とすることも、あるいはできただろう)。つまりここは28字詰め(前掲《新選吉岡実詩集〔新選現代詩文庫110〕》では25字詰め)という一種の箱に一マス空きで区切った詩句を流しこんで、それがうまいぐあいに4行になった、とでもいった按配――生成の過程になっている。それは「わしの知っとる」が引きつれた3行――《奇譚クラブ〔臨時増刊号〕》(曙書房、1953年12月20日)掲載のサディ・ブラッケイズ(吾妻新訳)のポルノ小説《アリスの人生学校》の主人公の名は「アリス・ミューレイ」である――が「 」(鉤括弧)を箱に見たてたものであることに同じい。さらにそれは、手法としては〈寓話〉の20字詰めで折りかえした部分と等しい。
「 」で括られた詩句は、次の〈雷雨の姿を見よ〉の「〈理想の宮殿〉という異形の塔は 三十数年もかけて シュヴァルという郵便配達夫が 日々の仕事の途次 石をひろい それを積んで建てたものである」と同様、(出典を探索できていないのだが、おそらく)原文の句読点を一マス空きに置き換えて引用しているはずだ(*3)。それはすでに挙げた〈人工花園〉(I・19)の手入れが句読点を一マス空きに変更したのと軌を一にする。つまり、他人の文言の引用、自分の旧作の修正を問わず、散文(表記)を詩に転じるにあたって吉岡の採った手法が散文詩型化だったわけである。その先蹤はどこにあるか。それは、長詩〈波よ永遠に止れ〉の最終=第11節に見ることができる(原典、引用元の原文に関しては〈〈波よ永遠に止れ〉本文のこと〉を参照のこと)。

★雷雨の姿を見よ(H・14)の第7節

〔……〕

7
〔……〕
「〈理想の宮殿〉という異形の塔は 三十数年もかけて シュヴァルという郵便配達夫が 日々の仕事の途次 石をひろい それを積んで建てたものである」
〔……〕

★聖あんま断腸詩篇(K・12)の第W節

〔……〕

W 故園追憶
私は(骸骨)で生まれたのだ/弥生の曇った空の下で/この秘密は父母しか知らない/ああ(骨の涼しさ)/湯気のような(肉体)を着せられて/初めて産声をあげる/みどりごに成り/ブリキの匙で片栗粉を口に流しこまれる/甘露!/だから途中から肉が付き/梨頭の子供へ変る/ほんとうに冷えた砂枕が好き/夏のひるさがり/姉とは突然に(家)からいなくなるものだ/
              鳶が風を切って降りて来る/草深い外の面の沼で/沈んでいる亀/畷を歩きながら死んでいる人たち/風のさわぐ日に限って/鹿肉を売る商人が来る/父親はそれを(神品)として大事にする/蕗の葉や芋の葉の上に/ころがる滴玉/また道端で転んでいる老人が多かった/私は板のささくれた面に/クレヨンで/兎の絵を描く/ついでに(女陰)も/今朝早く水田から上ってくる/女を見た/私は美しい少年へと/身の丈が伸びる/なまなましい蛇の抜け殻/
             裏庭の七面鳥がホロホロと鳴く/引き抜かれた/草のように衰弱している人の声/棚の上から招き猫が転がり/暗い畳表へとんであがる雀/天狗の面やおかめの面が掛けられた/粗い壁/濡れた笊/寝床に入ると/眼をつむって/柿など啜っている/花嫁姿の人を想う/この頃は(夢の沈澱物のような私)/
                     太い醤油瓶の間に/張られた蜘蛛の巣が破れた/挨と手拭のにおいのする/母親の肩にさわる/板の間に置かれた/茗荷は淋しい/ニガリの効いた(時空)/どんどん色の変ってゆく/鯖を洗っている兄/古い糊のような/臭いのする/掛け軸の龍/
   肥桶の周りを/恐るおそる駈け廻る/聖なる赤い着物の日本の少女たち/樟脳の香気/霞んでゆき/人さらいの懐は深く/空気で出来ているように/感じられた/村の晩秋/雨は鮒の(精霊)に降り注ぐ/
                 私はいまでは(精神)の洟をたらしている/人体の冬/燠炭のような病気の男が/足もとの柄杓で水をかけている/(物質)か(言語)/見よ/馬が風雪に晒されている光景/蹄鉄の火花から/(人間)は火種を貰って来る/私は一生カルメラを焼いて/暮したいと思ったり/この寒夜を/家のなかで沸騰する薬缶が在る/塩鱈が出刃庖丁で切られている/(時間)/永遠に終らないもの――

〔……〕

この〈聖あんま断腸詩篇〉(K・12)における字下げの原理も、前掲〈ルイス・キャロルを探す方法―少女伝説〉が初出形で採った手法と同じである。ただし、〈少女伝説〉が一マス空けで詩句を区切っていたのに対して、〈聖あんま断腸詩篇〉は/(スラッシュ)で区切っている(*4)。これにより、行頭に区切りが来る場合も、「 」(一マス空け)よりも「/」(スラッシュ)のほうが抵抗感が少なくなる。どんな字詰めでも、最終行を除き、矩形の塊を成す文字ブロックが維持される。

さてこれらの完全・散文詩型と不完全・散文詩型の実例から、なにが言えるだろうか。まず詩句の密度の問題がある。たとえば

夜はいっそう遠巻きにする
魚のなかに
仮りに置かれた
骨たちが
星のある海をぬけだし
皿のうえで
ひそかに解体する
灯りは
他の皿へ移る
そこに生の飢餓は享けつがれる
その皿のくぼみに
最初はかげを
次に卵を呼び入れる

というオリジナルと、それを散文詩型に変えた

夜はいっそう遠巻きにする 魚のなかに 仮りに置かれた 骨たちが 星のある海をぬけだし 皿のうえで ひそかに解体する 灯りは 他の皿へ移る そこに生の飢餓は享けつがれる その皿のくぼみに 最初はかげを 次に卵を呼び入れる

とでは、大きく印象が異なる。
――ときに、詩人で日本近代文学館名誉館長の中村稔は、同館理事長時代の2002年4月、吉岡陽子夫人から吉岡実の詩集《静物》の稿本(詩集印刷用原稿)を寄贈された。上掲の〈静物〉(B・2)は当初、稿本で中扉「T 静物」のすぐあとに置かれていた、印刷入稿時における《静物》の巻頭詩篇である。中村は、近著《現代詩の鑑賞》(青土社、2020年12月15日)の〈吉岡実〉で本篇を全行引いて丁寧に読みといている(*5)。「「世に稀れなる詩の読み手」と自称している」(吉岡実〈感想〉、《現代詩手帖》1980年2月号〔第十回高見順賞発表〕、一二八ページ)中村にふさわしい読みぶりである。だが「吉岡実が一九五五年に私家版で刊行した第一詩集『静物』は『僧侶』に比べ、よほど一般の読者にとって読みやすい詩集である。その冒頭に収められた作品「静物」をまず読むこととする。以下のとおりである。」(同書、二四七ページ)、さらに「骨こそが魚の本質であり、骨からみれば、魚肉は骨がまとっている余計物にすぎない。私たちが生きていくために犠牲になっている魚の骨格をなす骨の視点から書かれているから、皿に骨だけが残る、この詩は読者に哀愁を感じさせる。そして最後に卵があらわれて死んだ魚にかわる新しい生の誕生を示唆している。吉岡実の第一詩集の巻頭をかざるにふさわしい傑作である。」(二四九ページ)と「第一詩集」「冒頭」「巻頭」を強調しているのはいかがなものか。中村の発案で《静物》の稿本が日本近代文学館に寄贈されたことは、特筆大書される。そして、稿本を手にして感銘を受けただろうことも想像に難くない(私も同館で稿本を見ることができたときは、吉岡実の自筆の資料として、これ以上のものは存在しないだろうと感じた)。だが、あくまでも中村の《現代詩の鑑賞》が刊本の《静物》(吉岡の「戦後初の詩集」である)を対象にする以上、その「巻頭」の詩が〈静物〔夜の器の硬い面の内で〕〉(B・1)であることは動かない。――
〈静物〉(B・2)に戻ろう。「夜はいっそう遠巻きにする/魚のなかに/仮りに置かれた/骨たちが/星のある海をぬけだし/皿のうえで/ひそかに解体する/灯りは/他の皿へ移る/そこに生の飢餓は享けつがれる/その皿のくぼみに/最初はかげを/次に卵を呼び入れる」では別の詩の感じさえする。というよりも、これは行分け詩を引用する際、スペースの関係で改行箇所を/で表したごとき印象が強い。そうなのだ、散文詩型の最初の印象は行分け詩を改行せずに追い込んだ詩篇、というものである(*6)。だがそれは、直ちに否定される。散文詩型の矩形の塊ゆえに。不完全・散文詩型が前後を行分けの詩で囲まれていたことを想起しよう。つまり、吉岡はある詩篇で、凝集すべき詩節に散文詩型を用いて、行分けの詩に異物を持ちこんだのである。散文詩型にはその矩形を構成すべく、一定の字詰めが設定される(吉岡は、作品に応じて、強制改行される1行あたりのストロークを変えている)。すると、後の行分けの詩の詩句の下部を支える何マスかのスペースが露呈する。この、飛行体を推しあげる大気のような支柱こそ、明確な重量を持った行分けの詩の詩句を見えないながら支えていた根幹だった。したがって、それを意図的に操作する志向が高まったときに「薬玉詩型」が出現したのは、吉岡実詩の展開上、必然であった(*7)

田村隆一の処女詩集《四千の日と夜》(東京創元社、1956年3月30日)はT〜Wのパートから成る。Tは〈幻を見る人〉など6篇、Uは〈腐刻画〉など9篇、Vは〈四千の日と夜〉など8篇、Wは〈一九四〇年代・夏〉など3篇で、詩集はこれらの26篇で構成される。詩型はUの9篇が散文詩型であるほかは、行分けの詩である。Uの最初に置かれた〈腐刻画〉を引く。

腐刻画|田村隆一

 ドイツの腐刻画でみた或る風景が いま彼の眼前にある それは黄昏から夜に入つてゆく古代都市の俯瞰図のようでもあり あるいは深夜から未明に導かれてゆく近代の懸崖を模した写実画のごとくにも想われた

 この男 つまり私が語りはじめた彼は 若年にして父を殺した その秋 母親は美しく発狂した

この詩は二つの節から成るが、それぞれの冒頭は一字下げで、それ自体は私たちがひごろ目にする散文の形式と同じである(吉岡実は、散文詩型において一字下げをしない)。このスタイルは、節の間の一行空きも含めて、Uに収められた他の詩篇――〈沈める寺〉〈黄金幻想〉〈秋〉〈声〉〈予感〉〈皇帝〉〈冬の音楽〉――も同じである。だが、Uの7番めに置かれた〈イメジ〉はそれとは形態を異にする。全文を引く。

イメジ|田村隆一

死の滴り、
この鳶色の都会の、
雨の中のねじれた腸の群れ、
黒い蝙蝠傘の、死滅した経験の流れ。

 その男は、わたしの父ではない、それに、わたしの孤独な友人だというわけでもない。ただわたしは、彼と同じ存在であり、経験であり、また共同のイメジをもつものにすぎない。そして、わたしは彼のように、第一の大戦のとき生れ、第二の大戦できつと死んでしまつたのだ。
 椅子が倒れるように倒れる! それがわたしの古いイメジであり、泥の中にある眼が夢みた死への希望だつた。

 えぐられた眼、ひびわれたその額、髪の毛のにぶい光り、それに、海と暴風雨と大きな幻影に濡れた黒い衣服から、あの難破人の、静かな叫喚を、烈しい詠唱をひびかせて、週末の夜の、秋から冬にかけて流れる霧の中から彼が現われてくるとき、わたしは叫けばずにはいられない、「きみはどこから来たのか!」

 わたしは犬のように舌を垂らしている。

初めの4行は行分けの詩句、「その男は、〔……〕」と「えぐられた眼、〔……〕」と「わたしは犬のように舌を垂らしている。」の三つの節は、散文詩型ではない。形態を見るかぎり、一字下げで始まる、句読点と感嘆符を伴った「散文」そのものである。田村はなぜ

死の滴り
この鳶色の都会の
雨の中のねじれた腸の群れ
黒い蝙蝠傘の 死滅した経験の流れ

と文末の句読点を取りさる形、文中のそれを一マス空きにする形

 えぐられた眼 ひびわれたその額 髪の毛のにぶい光り それに 海と暴風雨と大きな幻影に濡れた黒い衣服から あの難破人の 静かな叫喚を 烈しい詠唱をひびかせて 週末の夜の 秋から冬にかけて流れる霧の中から彼が現われてくるとき わたしは叫けばずにはいられない 「きみはどこから来たのか!」

というふうにしなかったのか。私はこれらの詩の初出形を見ていないのだが(したがって、その発表時期も知らないのだが)、もしかすると〈イメジ〉はUのなかで最も早い時期に書かれた詩篇だったのではないか(*8)。吉岡の〈寓話〉と〈或る世界〉の関係から、私はそんなことを推測する。一体にモダニストには作品の形式や構造に敏感な者が多く(たとえば小説家・丸谷才一)、吉岡もその例に漏れない。本稿ではいままで触れなかったが、いわゆる散文詩型には、大きく分けて句読点を含む、見かけは通常の散文とまったく同じ型と、吉岡実詩のような一マス空けることで詩句の区切りとする型のふたつがあろう。前者はふつう、「散文詩」と呼ばれる。――たとえば井上靖(1907〜1991)の作品――。後者の「散文詩型」がいつごろ、誰によって始められたか詳らかにしない。想像をたくましくすれば、吉岡実はおそらく《荒地》の詩人たちの作品――たとえば田村隆一(1923〜1998)のそれ――を参観して、自分が摸索していた詩型を直覚したのではないか。田村の作風を思わせる〈犬の肖像〉(B・16)のすぐまえに最初期の散文詩型作品のひとつ〈寓話〉(B・15)が置かれているのも、その印象を強めている。さらに吉岡実と同世代の、他の詩人たち――三好豊一郎(1920〜1992)や北村太郎(1922〜1992)――の作品も詳しく見ていくことができれば、なにかがわかるのではないかと思う。

〔付記〕
田村隆一は、とくに後年になるほど、詩篇に実在の人物(やその作品)を登場させることが多くなった。その筆頭はおそらく西脇順三郎(1894〜1982)だろう。《新年の手紙》(青土社、1973)の〈不定形の猫〉以来、「順三郎先生に」と献辞のある〈灰色の菫〉(同)、《死語》(河出書房新社、1976)の〈逆噴水〉、《誤解》(集英社、1978)の〈夏休み〉、《スコットランドの水車小屋》(青土社、1982)の〈わが故郷の偉人とその業績〉、《陽気な世紀末》(河出書房新社、1983)の〈千の眼〉、《ワインレッドの夏至》(集英社、1985)の〈夏至から冬至まで〉と〈ワインレッドの夏至〉と〈安来節〉、《ハミングバード》(青土社、1992)の〈その裏地には〉、《灰色のノート》(集英社、1993)の〈灰色のノート〉、《1999》(集英社、1998)の〈梨の木〉、《帰ってきた旅人》(朝日新聞社、1998)の〈哀〉、そして〈帽子の下には顔がある〉と〈夜明けの旅人〉(単行詩集未収録詩篇)など、ざっと数えただけでも15篇がある。数は2篇と少ないながら、吉岡実(とその作品)も田村隆一詩に登場している。

が云った|田村隆一


眠りには高さがあるのだろうか
高さがあるなら
その高さにふさわしい寝台がいる

〔……〕


髭をはやした男

角のタバコ屋でタバコを買って曲ったと思ったら
行方不明になった
退職金をかぞえおわってから
白髪鬼のような詩人が
サフラン摘みの少女の詩を書きはじめる
老眼鏡をかけた少年が
マザー・グースを訳しながら
風邪をひいて
獣医に静脈注射をしてもらったら
世界が崩壊するような震えがきて
あわてて母親に
美しい遺言を書いた
これは
滑稽なくらい滑稽で
悲惨なくらい悲惨だ

だから
人間は生きていられるのさ

夢が囁いた

眠りは夢を吊りあげてくれるが
肉体までは吊りあげてくれない
だから
人間は寝台から落ちるくらいが関の山だ

が云った


MとO|田村隆一

東京の田舎でうまれたぼくは
14番線と16番線の市電のお世話になって
田舎はMとOの始発駅
Mは「君の名は」というメロドラマの数寄屋橋を通って新橋の土橋でおしまい
田舎が始発で土橋が終点 だれだって
むかしは土人たちがつくった橋だと思うでしょう
七十歳ちかくなってやっと土佐藩の上屋敷跡だったと気がついて
Oは伝通院をすぎて一気に坂をくだって春日町 それから湯島の白梅の坂をのぼりつめ
兼康までは江戸の内の本郷三丁目を通過して
上野広小路 むろん不忍ノ池があったから
ぼくは七歳 その池にまんまと落ちて
母は松坂屋というデパートにとびこんで下着から短ズボンまで買ってきて
夏だったからよかったね
御徒町 それから三筋町
三筋の糸に命をかける三筋町

厩橋は終点で くわしいことは吉岡実にお聞きくだされたく

ひろい東京 恋ゆえ狭い
狭い東京 恋ゆえひろい

「あだな年増」っていくつぐらい?
せいぜい二十七、八か

〈とが云った〉は《スコットランドの水車小屋》に、〈MとO〉は《灰色のノート》に収められた。後者は「夏だったからよかったね」まではほとんど散文脈、それも幼時期を語る随想の文体ではないか。それが、後半の「〔……〕三筋町/三筋の糸〔……〕」というあたりから転調して、東京(それとも江戸?)の年増との恋に収束する。吉岡陽子夫人によると、西脇順三郎は「自分が年齢を重ねるごとに「年増」の年齢も高くなっていく」という趣旨の発言をしたそうだが、これは真理で、まったく同感だ。江戸時代ならともかく、今どきの「二十七、八」なら娘だ。あだしごとはさておき、そこに挿まるのが「厩橋は終点で くわしいことは吉岡実にお聞きくだされたく」で、〈MとO〉の初出がいつかはわからないものの、1993年の《灰色のノート》刊行時、吉岡はすでに亡くなっているから、この詩句は吉岡最後の著書《うまやはし日記》(1990)への返礼の挨拶なのだろうか(例によって田村は、吉岡の葬儀に参列していないし、追悼文も書いていない)。行分けの詩にも「散文」は潜んでいる。田村隆一の初期と晩年の詩を読んで、とりわけそう思う。

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(*1) 吉岡実の引用詩というテーマで私がこれまで論じてきたおもな文章に
 吉岡実の引用詩(1)――高橋睦郎〈鑑賞〉(2016年11月30日)
 吉岡実の引用詩(2)――大岡信《岡倉天心》(2016年12月31日)
 吉岡実の引用詩(3)――土方巽語録(2017年1月31日)
がある。そのほか、さまざまな処で吉岡実の引用詩や引用されて吉岡実詩の詩句となった文言の出典について言及している。たとえば、
 〈詩人の白き肖像〉(2003年5月31日)
 吉岡実とエズラ・パウンド(2008年2月29日)
 詩篇〈銀幕〉と梅木英治の銅版画(2009年5月31日)
 吉岡実と瀧口修造(2)(2010年3月31日)
 吉岡実と瀧口修造(3)(2010年4月30日)
 吉岡実とマグリット(2015年5月31日)
 吉岡実と入沢康夫(2019年5月31日)
などがそれである。

(*2) 参考までに、単行詩集に収めた262篇、未刊詩篇21篇の刊行順に並べたものが以下の一覧。【 】内の数字に関しては、本文を参照のこと。

 或る世界(B・5)【24】
 喜劇(C・1)【37】
 告白(C・2)【28】
 (C・3)【25】
 伝説(C・5)【30】
 冬の絵(C・6)【41】
 単純(C・9)【40】
 固形(C・11)【47】
 回復(C・12)【41】
 美しい旅(C・16)【35】
 下痢(D・3)【43】
 紡錘形T(D・4)【22】
 紡錘形U(D・5)【22】
 裸婦(D・7)【35】
 編物する女(D・8)【30】
 首長族の病気(D・11)【34】
 冬の休暇(D・12)【21】
 水のもりあがり(D・13)【44】
 寄港(D・19)【36】
 修正と省略(D・22)【47】
 馬・春の絵(E・5)【32】
 ルイス・キャロルを探す方法―少女伝説(G・11)【67】
 夜会(I・5)【14】
 人工花園(I・19)【58】
 陰謀(未刊詩篇・6)【23】
 遅い恋(未刊詩篇・7)【21】
 夜曲(未刊詩篇・8)【24】

(*3) フランス文学者の渡辺一民(1932〜2013)は、1978年4月から7月にかけて、吉岡実が編集長を務める筑摩書房のPR誌《ちくま》に〈「理想宮[パレ・イデアル]」訪問記〉を4回(T〜W)にわたって連載した。ちなみに〈「理想宮[パレ・イデアル]」訪問記W〉が掲載された1978年7月の第111号は、筑摩書房が同月、事実上倒産したことによる休刊前の最後の号だが、渡辺の文章の最後に「(終)」(同誌、一一ページ)とあって、連載は完結している。ただしこの連載には、吉岡の詩の「〈理想の宮殿〉という異形の塔は 三十数年もかけて シュヴァルという郵便配達夫が 日々の仕事の途次 石をひろい それを積んで建てたものである」の典拠に当たる文はない。とはいえ、同年5月、雑誌《海》に発表された詩篇〈雷雨の姿を見よ〉(H・14)のこの節が、渡辺の〈「理想宮[パレ・イデアル]」訪問記〉から触発されたことは疑いないように思われる(同文はのちに渡邊一民《西欧逍遙》(講談社、1978)に収められた)。渡辺の連載に、はなはだ興味深い一節がある。

 もっともフリードマン〔ミシェル・フリードマンは、シュヴァルの戸籍簿や教会の記録を調査して《郵便配達夫シュヴァルの秘密》を著した研究者〕は、シュヴァルが娘にアリスと命名したのは当時仏訳の出たばかりの『不思議な国のアリス』からとったのだと断定したうえで、「理想宮[パレ・イデアル]」建設をシュヴァルが思いたったのは、自分の娘のアリスにも「不思議な国」を贈ってやろうと考えたからではないかと推測する。だがいずれにせよ、かつてアルプスの氷河が押しだした沖積土におおわれているこの地方がさまざまな種類の石に富み、シュヴァルの夢の形成をたすけたという事情は、この際強調しておかなければなるまい。こうして一八七九年、四十三歳のシュヴァルには、日中郵便配達をしながら探しておいた石を、勤めのおわった夜手押車をひいてとりにいくという、まったく新しい生活がはじまったわけである。(〈「理想宮[パレ・イデアル]」訪問記V〉、《ちくま》第110号、1978年6月、一五ページ)。

吉岡実が渡辺一民のこの原稿をいつ読んだかわからない。だが、飯島耕一に捧げる詩を構想しているときに、郵便配達夫シュヴァルのことを書いたエッセイの原稿に触れ、さらにそこにルイス・キャロルの《不思議の国のアリス》が登場するとは、なんたる偶然であろうか。もっとも渡辺は、すでにアリス詩を何篇か発表していた詩人・吉岡実に自作が読まれることを充分承知していただろう。なお後年、《幻想の画廊から》(美術出版社、1967)に収められた澁澤龍彦〈幻想の城――ルドヴィヒ二世と郵便配達夫シュヴァル〉(初出:《新婦人》1965年10月号)は、わが国にシュヴァルの理想宮を紹介した最も早い時期の文献のひとつだが、そこにも吉岡が引いた文言は見あたらない。――澁澤はまた、〈シュヴァルと理想の宮殿〉(初出は《華やかな食物誌》大和書房、1984年9月10日。執筆は1981年末から1982年初頭にかけてと推定)に「フェルディナン・シュヴァルは一八三六年、ドローム県のオートリヴに近いシャルムという寒村に生まれた、なんの財産もない一介の農夫の子にすぎなかったが、郵便配達夫という職業のかたわら、道ばたで拾った石を丹念に集めては、それを一つ一つセメントで固め、ついにあの前代未聞のモニュメントを完成したのだった。それは文字通り不屈の精神の賜物である。」(《澁澤龍彦全集〔第20巻〕》、河出書房新社、1995年1月12日、四一二ページ)と書いた。同文は当初、写真家・川田喜久治が撮りおろしたシュヴァルの〈理想宮〉の写真とともに、朝日ソノラマ社が創刊する綜合写真誌に掲載する予定だった(雑誌は創刊されず)。対象を描く澁澤の筆は手慣れており、当然のこととはいえ、吉岡詩に見える文言は存在しない――。付言すれば、坂崎乙郎《幻想の建築〔SD選書〕》(鹿島研究所出版会、7刷:1991年2月28日〔1刷:1969年4月5日〕)の〈宮殿〉にもない(本書の骨子となる文章の初出は、雑誌《SD》に1968年1月から12月にかけての連載)。永年、シュヴァルの理想宮の研究を続けている岡谷公二の《郵便配達夫シュヴァルの理想宮》(河出書房新社、2019年3月30日)に挙げられた文献一覧は、司修の《風船乗りの夢》(小沢書店、1978)までおさえた広範なものだが、それらをたどってみても、吉岡が詩篇に引いた文言は見あたらない。かくして、出典の探索ははかばかしい成果を上げていない。

(*4) 吉岡実の詩において/(スラッシュ)が最初に登場したのが、この〈聖あんま断腸詩篇〉(1986年6月発表)の「W 故園追憶」である。吉岡はその1年半後、松浦寿輝・朝吹亮二との対話批評〈奇ッ怪な歪みの魅力〉(《ユリイカ》1987年11月号)にゲストとして出演して、「〔……〕長編詩の構造だったら、いろんなものを入れていかなくちゃいけないわけだしね。たとえば朝吹くんの詩集『opus』の構造の、ああいうスタイルもどっかに入れさせてもらってね(笑)。」(同誌、二六〇ページ)と語ったが、その朝吹亮二詩集《opus》(思潮社、1987年9月1日)には

/ほーほー/またはほうほうと/息を弾ませ歩みをやめぬ黒いマントー/の導師/トット/トットとそれを追うニワトリの二羽三羽/統辞されることを拒む/昼下りの童画がここ/にあって/女は紅茶にビタミン/入れながら説明/する/ほうほう/はパパの/とは彼女の夫/のことだが/の口癖/ニワトリの一羽はワタクシ/のことよ/もう一羽/ちいちゃいのがあの子/なの/なんと/凡庸な/いいまわし/女の説明は/彼女が思っているほどにはこの絵を語/つてはいま/い/私/は詩/人だか/らわか/るのだが/女の言説は彼女の美貌を/うら/ぎってをる/彼女/自身が絵筆をにぎっ/ていたころといえば/もうすこしまともに/物語/したものだ/もっと素直な語り/口/だったわい/いま/の彼女の思/考を支配しているもの/といえ/ば茶会や早朝/のジョギングのこと/あすのテ/ニスの試合や/来週買/うことになっているシャガ/ールのリトのこと/それ/らが性欲の膨/脹と抑/圧のおお/きな星雲/女/はそれ/を理解/しようとしないのだ/が/のはざ/ま/で/いり/みだれ/てをる/おお/この童画/が/この午後のひと/ときとおなじく/らいの狂気をはら/み/この午後のひ/ととき/とおなじくら/い陳/腐で/ある/ことを女はわか/ること/はな/いだろう/だが狂気は私/の狂気と/してか/くしておこう/私は息/を整え/て/この絵の欠点/を/彼女の欠/点として/分/類してみ/る/ひとつ/構図がデタラ/メ/導師より/もニワトリが上/部/に描か/れて/を/る/ふたつ/色彩が貧困/マントーの黒と二羽のニワ/トリの黄と赤/だけ/みっ/つ/遠近/法が/学/ばれてを/らん/ニワトリ導/師より/おお/きい/私/は息を/整/えて/女の話し/に/感/心す/るふり/をする/おっ/と失礼/また/はほうほう/またはほほーすばらしいですな/

といった詩句が見られる(「71」全文)。
――詩集《opus》での「71」の字詰めは1行が25字、詩篇本文は31行で、完璧な矩形を成す。ちなみに「01」は「雨が降りつづいたのは幾晩だったか、ひさしぶりにする〔……〕いを分類しつづけ、なにをひきのばそうとしているのか」という、これまた25字×17行の、まったき矩形を成す。だが《opus》は散文詩型の詩篇だけで構成されているわけではない。詩集には散文詩型と行分けの詩篇が混在していて、散文詩型も、「01」のように始まって終わるものもあれば、「71」のように冒頭と末尾を/(スラッシュ)が占めるもの、ここには引かないが、「13」のように冒頭と末尾を[ ](ブラケット=角括弧)で括るもの、といったぐあいに多様を極める。朝吹の《opus》に接した吉岡が、これらの目眩く書法から刺戟を受けたことは想像に難くない。――
「71」の/(スラッシュ)を改行と見たてると、いたる処に句跨り(アンジャンブマン)があって、吉岡の「W 故園追憶」より過激な用法となっている。それにしても朝吹の「私/は詩/人だか/らわか/るのだが/女の言説は彼女の美貌を/うら/ぎってをる」は、吉岡の「わしも医者だから抒情詩の一篇や二篇は暗誦できる」、「わしも詩人だからたまには形而上的な怪我をするんだ」(〈『アリス』狩り〉)を想わせて、なんとも興味深い。

(*5) 中村稔(1927〜 )は、今や吉岡実よりも詩歴が先行する数少ない現存詩人となった。本文で触れた《現代詩の鑑賞》(青土社、2020年12月15日)の〈吉岡実〉では〈僧侶〉(C・8)、〈静物〉(B・2)、〈挽歌〉(B・12)、そして〈死児〉(C・19)を引用しながら(《静物》の2作は全篇、《僧侶》の2作は抄録)、ゆきとどいた鑑賞を施している。同書の〈後記〉には「執筆にさいして、現代詩はじつに長篇詩が多いことを痛感した。採り上げる作品は紙面の都合上、比較的短い作品を選ばざるを得なかった。これも、採り上げた詩人の本質や特徴をつかみとることの妨げとなっているはずである。」(三八六ページ)という指摘がある。その、現代詩=長篇詩の次に位置するのが、現代詩=散文詩、だと言っていいのではあるまいか。もっとも、当代随一のクラシカルな詩人である中村稔の作品(その大半は、行分けの十四詩[ソネット]である)に散文詩はないようだが。

(*6) 《静物》(1955)の刊行以降、吉岡はのちに《僧侶》(1958)を構成する詩篇を同人詩誌や市販の詩誌に陸続と発表しはじめる。新進の詩人にとって、作品の掲載スペースは、詩篇の発想・生成に大きく影響する。吉岡の随想〈「死児」という絵〉には、「あるとき、ラドリオで伊達得夫とお茶をのんでいたら、突然、〈ユリイカ〉の十頁をお前にやるから、一つ長篇詩を書けと厳粛な面持できりだした。それは二段組で四百行位の長さになるだろうか。私は三百行にしてくれないかと言ったら、よかろうと微笑した。たしか一ヶ月以上の時間を与えてくれた。しかし、日がたつにつれ、私の不安はつのるばかりだった。いままでに、百行を越すような詩は書いていないし、私の詩法ではどう考えても不可能だと思った。それで数日あと、伊達得夫のところへ行き、二百行にしてくれと申入れたら、百行値切られたかと苦笑した。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、七〇ページ)とある。逆に詩句の総量が紙幅を超えたら、どうなるだろう。40行の行分けの詩のつもりでいたら、感興が昂まって60行になったとしたら。紙面は固定されている。この長さの詩で、分載はありえない。なんとか折りあいをつけるために、行分けの詩句の改行箇所を一マス空けて追い込んでいったら、指定のページに収まるのではないか。こうした形而下的な対処法が、当時の吉岡に絶無だったとは思えない。心=意剰って言葉足らず、ではなく、言葉剰って処足らず、といった状況が起きかねないほど詩想が膨らむことは、詩人の生涯でそう何度も訪れないだろう。「前期吉岡実詩」は、まさにそうした時期の所産だった。

(*7) 林浩平は〈記号が棄損されモノとなった言葉〉(初出である《日本読書新聞》1983年12月26日号の《薬玉》書評における標題は〈呪物の輝きを産出する〈言葉〉〉)で、《薬玉》の詩句で丸括弧が頻繁に用いられていることを指摘したあとで、次のような注目すべき見解を述べている。

 もうひとつきわだった書法として見落としてならぬのは、行分けが頭をそろえて行なわれず言葉が終ったところから新しい行がはじまっているということである。そのため詩語はひらいたページ全体にパノラミックに割り付けられた観がある。だが決してこれはいわゆるカリグラムの通俗さに捉われてなぞいない。このズラシは放恣[ほうし]なものではなく重量の法則にかなったものと読むのがふさわしい。つまり詩語じたいの質量が桁はずれて大きいので詩行は自らの重みにこらえかねてズルズルとたれ下がってゆくのである。繰り返すように言葉の質量を生んでいるのは記号内容の重々しさやはげしさに因るのではない。そうではなくて、言葉があたかも「金色に輝く神武帝御影図」のごとくに変貌する、いわば記号が棄損されモノとなる、そこでの言葉が重たいわけである。内部に空虚がうがたれているがゆえの重たさ。吉岡実は、世にも稀な材質をもった言葉をここに産みおとしたようである。(《リリカル・クライ(Lyrical Cry)――批評集1983-2020》、論創社、2020年9月10日、三二一〜三二二ページ)

「このズラシは放恣[ほうし]なものではなく重量の法則にかなったものと読むのがふさわしい。つまり詩語じたいの質量が桁はずれて大きいので詩行は自らの重みにこらえかねてズルズルとたれ下がってゆくのである。」――これは私が読むことのできた「薬玉詩型」に関する最も尖鋭な指摘である。ところで、先に「欧文による詩」からの影響を示唆しておいたが、横書きのそれに「重量の法則」は働かないから、吉岡が参照したのはその翻訳が縦に組まれた訳詩ということになろう。さて、その具体的な出典は? マラルメの《骰子一擲》が想起されるが、吉岡が「未知の人から贈られた『骰子一擲』で、私は初めて、この難解なる詩篇を読んだというより、見たのだった。いつ頃のことなのか、伊藤裕一郎訳の小冊子には、発行年月も発行所も明記されてないので、わからない。おぼろげながらも、異様な書法と「詩の未来図」に驚嘆したものだった。」(〈「官能的詩篇」雑感〉の「3 『骰子一擲』」、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三六七ページ)と書いている「伊藤裕一郎訳の小冊子」は、永年の探索にもかかわらず未見で、縦組/横組の別さえわからない。後考に俟ちたい。

(*8) 田村隆一の詩篇の初出に関する網羅的な記述はないようだ。すなわち《田村隆一全詩集》(思潮社、2000)にも、《田村隆一全集〔第6巻〕》(河出書房新社、2011)にも、初出一覧は記載されていない。かろうじて後者の〈田村隆一 年譜〉(小林俊道・作成)に散発的に見える記載を拾えば、次のようになる(1948年から、1956年の詩集《四千の日と夜》刊行時までで区切って摘する)。「発表」は初出を、「収録」は再録を表すと見られる。

昭和二十三年 一九四八年  二十五歳
一月、「文藝大學」第二号に詩「腐刻画」などを発表。同月、「荒地」第五号に詩「冬の音楽」を発表。二月、「詩学」二、三月合併号に詩「皇帝」を発表。五月、「cendre」第二号に詩「倦怠」を、「ルネサンス」第九号に詩「祝福」を発表。

昭和二十四年 一九四九年  二十六歳
一月、「綜合文化」一月号に詩「部屋」を発表。四月、「詩学」四月号に詩「序章」を発表。

昭和二十五年 一九五〇年  二十七歳
一月、「VOU」第三十四号に詩「黒い一章」を発表。

昭和二十六年 一九五一年  二十八歳
一月、「詩学」一月号に詩「合唱」を発表。八月、年刊アンソロジー『荒地詩集一九五一』(早川書房)に「腐刻画」「皇帝」「正午」などを収録。編集は北村〔太郎〕と田村。

昭和二十七年 一九五二年  二十九歳
一月、「詩学」一月号に詩「幻を見る人(その一)」を発表。

昭和二十八年 一九五三年  三十歳
一月、『荒地詩集一九五三』(荒地出版社)に「Nu」などを収録。

昭和二十九年 一九五四年  三十一歳
二月、『荒地詩集一九五四』(荒地出版社)に「幻を見る人(その二)」「叫び」などを収録。七月、『詩と詩論2』(荒地出版社)に詩「四千の日と夜」を発表。

昭和三十年 一九五五年  三十二歳
四月、『荒地詩集一九五五』(荒地出版社)に「三つの声」などを収録。

昭和三十一年 一九五六年  三十三歳
三月、東京創元社の編集者で詩人の知念榮喜の企画で処女詩集『四千の日と夜』(東京創元社)が刊行される。(《田村隆一全集〔第6巻〕》、五一七〜五一八ページ)

このうち、《文藝大學》第2号(1948年1月)を入手することができた。《文藝大學》は大學文化社発行の月刊文芸誌(A5判・本文64ページ)。第2号は小説4篇、詩5作品(竹内てる子、金子光晴、三好豊一郎、田村、祝算之介)を掲載している。目次の田村作品の標題は〈憂愁の知識人〉。36ページにはその標題と〈腐刻画〉(詩集収録形に同じ)、37ページには〈月光〉、38〜39ページには〈灰〉(以上、いずれも散文詩型)、いちばん終わりに「〔一〕九四七年一一月」とある。私は掌を指すごとくには田村詩に精通していないのだが、この〈月光〉が《田村隆一全詩集》の〈単行本未収録詩篇U 戦後1946〜1969〉収録形と異なるのは、なにか理由があるのだろうか。その第一節「〔一マス空け〕冷酷なフーガ 〔……〕 その羽は黒にかわり」は同じ。第二〜三節は「〔一マス空け〕月影がこの家に不気味な抽象性を与へた 階下の家族たちはおろおろと眠りの周りに集つてくる 眠りは月光りのなかで次第に鳥の形をなした 母親は眠りに新しい繃帯をした 父親は老眼をしばたいて眠りの額に手を置く ようやつと思春期に入つたばかりの妹は少し唾液をたらして眠りを噛んだ しかし彼は永遠に青ざめて窓の外に立つ 私は大きな声で笑ひだした」(漢字は新字に改めた)。異同は、初出ののちどこかに再録した手入れ形を採ったため、と考えれば納得できないでもない。だが、次の詩篇〈灰〉が《田村隆一全詩集》に見あたらないのはどうしたわけだろう。各節(二節から成る)の最初と最後の詩句はこうだ。

灰|田村隆一

 まるで鉛のやうだ 〔……〕 明日東京は雨

 その夜 〔……〕 君の唇に僕の唇を当て僕をして破滅せしめよ!

田村隆一が書いた詩は、詩集に収められた詩篇も、未刊行詩篇も、吉岡実のそれと較べて厖大な数になる。細かく調べたわけではないが、多産をもって鳴る西脇順三郎をも凌駕するのではないか。それを承知で言うのだが、長谷川郁夫の編んだ河出書房新社版の「全集」(実体は、断簡零墨まで集めた全集はおろか、書籍となった著作でも、詩集を除いて、散文は「選集」である。書籍化されていない散文を拾ってくれているのは、ありがたいかぎりだが)を補う意味でも、とりわけ初期詩篇の初出記録の充実を要望する。詩の研究にとって、必須の工具資料[ツール]なのだから。左川ちか(著)、柴門あさを(編)《左川ちか資料集成〔増補普及版〕》(発兌:えでぃしおん うみのほし、発行:東都我刊我書房、2021)のような、驚異の網羅性は希むべくもないとしても。


新旧校本宮澤賢治全集と〈銀河鉄道の夜〉のこと(2021年4月30日)

宮沢清六・天沢退二郎・入沢康夫・奥田弘・栗原敦・杉浦静(編)《新校本 宮澤賢治全集〔全16巻+別巻1(全19冊セット)〕》(筑摩書房、1995年10月〜2009年3月)は「宮澤賢治研究に金字塔をうち立てた『校本宮澤賢治全集』の特色を引き継ぎながら、その後の新発見資料・研究成果を踏まえ、20年ぶりに全面的な本文決定・校訂作業のやり直しを行った、賢治研究の新たな基盤となる全集。」(筑摩書房)で、全巻の構成は、短歌・短唱=1巻、詩=6巻、童話=5巻(最後の巻は「童話・劇 その他」)、覚書・手帳 ノート・メモ=1巻(2冊構成)、雑纂=1巻、書簡=1巻、補遺・資料 年譜・補遺・伝記資料=1巻(2冊構成)、索引=別巻(2冊構成)、となっている。私がとりわけ驚嘆するのは〔第16巻(上)〕の〈補遺・資料〉と〔第16巻(下)〕の〈年譜・補遺・伝記資料〉、そして〔別巻〕の〈索引〉である。書名を正確に掲げるのがなかなかやっかいだが、奥付の表記を私の流儀で書くと《【新】校本 宮澤賢治全集〔第十六巻(下)〕補遺・資料 補遺・伝記資料篇》(筑摩書房、2001年12月10日)の巻末には、以下のクレジットがあって壮観だ。それぞれのタイトルのもと、ほぼ1ページを埋める小さな活字による固有名のオンパレードなのだ。

[校本宮澤賢治全集資料提供者・協力者名簿]
[新校本宮澤賢治全集資料提供者・協力者名簿]
[新校本宮澤賢治全集写真提供者・協力者名簿]

以上が、新旧校本宮澤賢治全集の編纂委員(旧校本全集の編纂委員は、宮沢清六・天沢退二郎・猪口弘之・入沢康夫・奥田弘・小沢俊郎・堀尾青史・森荘已池)や出版者以外の外部の個人(宮沢家の人人を含む)や団体の列挙だとすれば、次の二つは出版者の制作スタッフである。全文を引く(同書、〔四四三ページ〕)。

[校本宮澤賢治全集筑摩書房担当者]〈編集〉会田綱雄 本田彰 〈校閲〉堤照実 石川清人 青山敏夫 小松晴子 〈製作〉蝋山俊一
[新校本宮澤賢治全集筑摩書房担当者]〈編集〉青木真次 石川清人 加藤雄弥 〈校閲〉石川清人 小山万里子 土井美代子 〈製作〉徳永襄

ここには新旧校本宮澤賢治全集の装丁担当者が挙げられていないが、《校本 宮澤賢治全集》は吉岡実(全集刊行当時、筑摩書房の社員のため、本体にはクレジットなし)が、《新校本 宮澤賢治全集》は間村俊一(本体奥付にクレジットあり)が装丁している。《校本 宮澤賢治全集》の編集担当「会田綱雄」はあの詩人の会田である(「青木真次」はPR誌《ちくま》の編集長を務めた青木さんだろう)。さて同書製作担当の蝋山俊一だが、《出版ニュース》1986年8月上旬号(通号1399)に〈編集者の日録(第121回)〉を書いているのが、同姓同名の「蝋山俊一」である(なお、印刷物での「蝋」はいずれも正字)。

2021年春も世界はコロナ禍にある。国立国会図書館はあいかわらず入場制限をしており、それを押してまで出かけて調べなければならない緊急案件でもない。そこで初めて、上記の文献のコピーを郵送してもらうべく依頼してみた(「遠隔複写」というらしく、作業現場の国立国会図書館複写受託センターは京都府にあるが、電子ファイルのハードコピーならどこで出力しようが同じだ)。国立国会図書館のウェブサイトから申し込んだのが2月19日。3月1日に、これから発送するというメールが来たものの、実際に届いたのは3月5日。思いのほか日数がかかったのは、B4判のコピー用紙が折れないように、約38×29cmの大判の封筒で送られてきたためか。指定したページは表紙・目次・本文(1ページ)・奥付だが、国立国会図書館関西館文献提供課複写貸出係の〈遠隔複写申込書(控え)〉という短冊状の用紙に「お申込み資料の奥付は、裏表紙の背側にあったと思われますが、合冊製本により隠れて複写できませんでした。ご了承ください。」とあり、合計3ページ(24円×3枚で72円)。ほかに発送事務手数料200円で、小計272円。消費税が27円、送料が220円で、合計金額519円。別途、コンビニでの振込手数料が66円かかった。締めて585円也。ブラウジングの要(当該資料の中身の確認や、周辺情報を押さえておくため)があったりしなければ、なおかつ緊急度が高くなければ、充分役に立つサービスであり、今後も機会があれば利用するだろう。
ここでようやく件の資料の話題になる。表紙には「出版総合誌 出版ニュース/月3回発行/8月中旬号 1986 出版ニュース社」とある。私が目次を重視するのは、ときどき本文ページの標題や署名と異なることがあるからだが、今回は問題ない(ほかのページの構成を知ることで、当該記事の扱いが明確になる場合もある)。そして本文。掲載の二九ページは5段組で、上3段分は〈出版界でいま〉という続き物のコラムの「中」で、加藤美方(リョービ印刷機販売株式会社『アステ』編集人)の〈PR誌で何を表現するのか―リョービ書体の認知と普及―〉。下2段分が〈リレー形式/編集者の日録〉という続き物のコラムの「121」、「蝋山俊一(ダイエー『オレンジページ』編集部部長)」で、記事そのものに標題はない。10年以上まえの《校本 宮澤賢治全集》の製作担当者は筑摩書房を離れて、雑誌《オレンジページ》に移っていた。Wikipediaには、「1985年にダイエーの出版部門として設立され、『オレンジページ』を創刊。レシピ本や生活関係のムック本なども刊行している。先行している『クロワッサン』とタイトルの書体が類似しているが、同誌は生活全般を題材とするものに対して、本誌は料理レシピの掲載が中心である。」と概要が記されており、蝋山氏は同誌の創刊に関わっていたのかもしれない(出版社や雑誌社のなかで雑誌を創刊するのでさえ大変だが、流通グループ会社の出版部門設立と並行した新雑誌創刊たるや、並大抵のことではない)。「二か月前、手狭になった事務所の移転を検討しているとき、ノンアドレスの大テーブル方式のオフィス・レイアウトについて〔事務機器メーカーの人と〕話したことがある。きっちりとしたセントラル・ファイリング・システム。小さいながら各自の城≠ニして確保されたプライベート・コーナー」――だが、「スペースの関係上、プライベート・コーナーをばっさりと削る、という厳しい条件のもとで」、それを現実に実行しなければならなくなる。そして、「〔……〕やるのだったら、中途半端はつまらない……。約〇・八四平方米の争奪戦は当分の間続きそうだ。」というのが、〈リレー形式/編集者の日録〉の結語だ。同文に、全集の製作や雑誌の編集の話は出てこない。だが、文筆家の生原稿や事務所の作業スペースといった資源をいかにして有効活用するか、腐心するあたりに、両者を貫く共通した問題意識が働いている、と読めなくもない。深読みにすぎるだろうか。

私は宮沢賢治(1896〜1933)のよい読者ではない。入沢康夫や天沢退二郎が書いた文章を、宮沢本人が書いた文章よりも熱心に読むような人間がよい読者のはずがない。それでも綺麗なジャケットの新潮文庫が出れば、つい手に取ってしまう。いちばん最近買った宮沢の本は、その青紫のジャケット・帯の《新編 銀河鉄道の夜〔新潮文庫〕》(「令和二年四月十五日 七十三刷」)だ。ちなみにこの刊行日は、吉岡実の101回めの誕生日だ。もちろん標題作は〔ちくま文庫〕版全集やロジャー・パルバースが翻訳した《英語で読む 銀河鉄道の夜〔ちくま文庫〕》でも持っている。にもかかわらず今回入手したのは、ある本と一緒に読みたくなったからだ。すなわち入沢康夫(監修・解説)《宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて》(宮沢賢治記念館、1997年3月〔日付なし〕)がそれだ。かつて入沢は《宮沢賢治――プリオシン海岸からの報告》(筑摩書房、1991年7月25日)にこう書いた。

 ――〔……〕
 また、流布本とは別に、研究者のための刊本として、全八十三枚の原稿とそれにまつわるメモ類のすべてを写真版にしそれに読み解きを添えた本が出されることも、これだけの内容と多くの問題点をはらんでいるこの作品の場合きわめて望ましいことです。
 ――それらが揃ったとき、「銀河鉄道の夜」は、完全に万人のものとなるのですね。
 ――まったくその通りです。(〈「銀河鉄道の夜」の本文の変遷についての対話〉、同書、一七七ページ。初出:「日本児童文学別冊 宮沢賢治童話の世界」一九七六年二月)

・「『銀河鉄道の夜』の本文の変遷についての対話」  この文の終りちかくで述べられている「流布本」は、その後、新修版、ちくま文庫版の二全集その他で実現した。原稿の詳細解説付き全葉複製は、まだ試みられていない。(〈覚え書〉、同書、四八七ページ)

〈覚え書〉は同書のために書かれた、あとがきに相当する文章で、末尾に「一九九一年七月一日 著者」とある。〈対話〉を書いてから21年、〈覚え書〉からでも5年半以上の歳月が流れている。入沢の念願がかなって、ようやくそれが実現したのだ。

 宮沢賢治記念館は、賢治の生誕百年の一九九六年に当たり、それを記念して、「『銀河鉄道の夜』の原稿のすべて」のタイトルのもとに、この《日本近代文学の至宝》とも言うべき貴重な自筆原稿の全面的展示・公開を行った(一九九六年四月〜九七年三月)。これは賢治研究史の上でも画期的な試みであった。本図録は、この企画展示の一環として刊行されるものであって、原稿全葉とその裏面の写真版、およびそれらについての簡略な解説から成っている。(入沢康夫〈あとがき〉、《宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて》、一一一ページ)。

図録刊行は、展覧会の開催初日[、、、、]ではなく、終了間際[、、、、]になされたもののようだ(展覧会の会期は、上記〈あとがき〉にあるだけで、通常の図録のように――会場:宮沢賢治記念館、会期:1996年4月〜1997年3月――といった記載はない)。世に文学館が発行した図録は数数あれど、これを超えるものを見たことがない。入沢は企画展示を「賢治研究史の上でも画期的な試み」と控えめに言っているが、私なら「超弩級の」とでも言うところだ(展覧会は観ていないが、それくらいのことはわかる)。さきに入沢が関わった《校本 宮澤賢治全集》が文学者の原稿(および刊本)を扱った文字による破格の印刷物であったように、本図録もまた文学者の原稿を扱った図版=写真による破格の印刷物といえる。「これさえあれば、ご飯三杯はいける」といった類の言い回しがある。図録が「これ」か「ご飯」かはともかく、さらに新校本全集10巻・11巻の〈銀河鉄道の夜〉各稿の本文篇と校異篇を手許に置けば、原稿=校本/作品本文/刊本をめぐる考察の手掛かりは無数にある。私はこれを書きながら、吉岡実の詩集《静物》(私家版、1955)の自筆稿本(東京・目黒の日本近代文学館にある)のことをずっと念頭に置いていた。

入沢康夫(監修・解説)《宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて》(宮沢賢治記念館、1997年3月〔日付なし〕)の表紙 同書・五ページの「現存紙葉番号1」を掲載した中面
入沢康夫(監修・解説)《宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて》(宮沢賢治記念館、1997年3月〔日付なし〕)の表紙(左)と同書・五ページの「現存紙葉番号1」を掲載した中面(右)

〔追記〕
宮沢賢治(著)、ロジャー・パルバース(訳)《英語で読む 銀河鉄道の夜――Kenji Miyazawa's Night On The Milky Way Train〔ちくま文庫〕》(筑摩書房、1996年3月21日)の〈訳者あとがき〉にこうある。前後を略して掲げる。

 一九八三年、当時『英文毎日』(Mainichi Daily News)の学芸部記者として働いていたぼくは、同紙にぼくの『銀河鉄道の夜』の翻訳をシリーズで掲載しようと心に決めた(そして、イラストは本書でもお世話になった親友のHATAOにお願いすることにした)。ぼくは十二年前の翻訳を引っ張り出し、数カ月掛けてそれに手を加えた。そしてその年の秋から冬にかけ、ぼくの『銀河鉄道の夜』の翻訳がめでたく『英文毎日』に掲載された。
 〔……〕
 『銀河鉄道の夜』の翻訳に際し、ぼくは次のようなことをいつも心の中で呟いていた。「もし賢治が英語で書くとすれば、どんな文体を使い、どんな単語を選ぶだろう。どんな音に惹かれ、どんな音に神秘性を感じるだろう。賢治の自然観に通底するようなものをはたして英語の中に見出せるだろうか……」
 ぼくらは心に留めなくてはならない。作家というものは、神の名を記録する時、身震いせずにいられないのだ。宮沢賢治から吹いてくる「うららかな雪の台地」の風を、ぼくはこの肌にずっと感じている。(訳 上杉隼人。同書、二四四〜二四五ページ)

詩篇〈聖童子譚〉(K・4)は、吉岡実が「*〔……〕(2)は「英文毎日ニュース」に発表したものである。」とその初出(《ユリイカ》1984年12月臨時増刊号)で註記したように、〈小曲〉(《Mainichi Daily News》〔毎日新聞社〕1984年9月17日〔22128号〕九面の〈20:20――20 Poems by 20 Poets in 20 Lines〉、20行、ローマ字表記〈Shookyoku〉とRoger Pulversによる英訳〈A Short Piece of Music〉を付す)の全行を変改吸収している。吉岡の〈小曲〉(とその英訳〈A Short Piece of Music〉)は、宮沢賢治の〈銀河鉄道の夜〉を上記のような姿勢で英訳したロジャー・パルバース(1944〜 )によって世に送りだされた。本篇掲載当時も、同紙の学芸部記者を務めていたのであろう。なお、《英語で読む 銀河鉄道の夜》巻末の〈解説〉には「……そう、彼に巧みにあおられて、谷川俊太郎・小田島雄志の両氏とともに「ミニ・エッセー」を書き、それを彼が英訳して『英文毎日』に連載したこともあった。これはあとで『日英対照リレー・エッセー』(大修館書店)として本になったが、私としては谷川・小田島両氏の名文に啓発されっぱなし、そしてロジャーの超絶技巧的和文英訳術に感嘆しっぱなしの、楽しい経験だった。」(高橋康也〈越境する情熱――ロジャー・パルバースのグリンプス〉、同書、二四八ページ)とある。英語に堪能な高橋康也でさえ、パルバースの英訳のやっかいになっているとは驚きだ。このエッセー集に対するに、残念ながら〈20:20――20 Poems by 20 Poets in 20 Lines〉のシリーズは今日まで書籍化されていない(*)

詩篇〈小曲〉(《Mainichi Daily News》〔毎日新聞社〕1984年9月17日〔22128号〕九面の〈20:20――20 Poems by 20 Poets in 20 Lines〉、20行、ローマ字表記〈Shookyoku〉とRoger Pulversによる英訳〈A Short Piece of Music〉を付す)掲載紙のモノクロコピー 詩篇〈小曲〉(《Mainichi Daily News》〔毎日新聞社〕1984年9月17日〔22128号〕九面の〈20:20――20 Poems by 20 Poets in 20 Lines〉、20行、ローマ字表記〈Shookyoku〉とRoger Pulversによる英訳〈A Short Piece of Music〉を付す)掲載紙のモノクロコピー・部分 〔吉岡家所蔵の切り抜きの右下には吉岡実自筆の媒体名と年月日の記入(「英文毎日ニュース 1984・11・17」)があるが、実際の掲載年月日は「1984・9・17」〕
詩篇〈小曲〉(《Mainichi Daily News》〔毎日新聞社〕1984年9月17日〔22128号〕九面の〈20:20――20 Poems by 20 Poets in 20 Lines〉、20行、ローマ字表記〈Shookyoku〉とRoger Pulversによる英訳〈A Short Piece of Music〉を付す)掲載紙のモノクロコピー〔〈吉岡実全詩篇〔初出形〕〉掲載の《ムーンドロップ》初出ファイル中のもの〕(左)と同・部分 〔吉岡家所蔵の切り抜き。右下には吉岡実自筆の媒体名と年月日の記入(「英文毎日ニュース 1984・11・17」)があるが、実際の掲載年月日は「1984・9・17」〕(右)

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(*) 未読だった谷川俊太郎・小田島雄志・高橋康也・R. パルバース《日英対照リレーエッセー Words in Transit》(大修館書店、1985年10月20日)を閲覧したところ、パルバースの〈まえがき〉(末尾に「1985年9月」とある)に

 1982年から現在まで、私は『毎日デイリーニュース』の文化面(Moaday Arts)の編集を担当しています。この欄のために、谷川俊太郎、小田島雄志、高橋康也の三人の友だちに短いエッセイの連載をお願いすることにしたのはちょうど2年前のことでした。いずれも博識のなかにウイットがきらめく三人のエッセイを、連歌ふうに続けてもらおうという企画です。このシリーズは“Associations”と名づけられ、それぞれの日本文にわたしの英訳を添えることになりました。Associationsには「連想」と「仲間」の両方の意味をこめたつもりです。
 〔……〕
 ひとつところに停滞していてはならない、この仲間[アソシエーシヨンズ]の連想[アソシエーシヨンズ]もおなじことかもしれません。いつも動いているから古びることもなく、したがって固定させようと試みても、いつのまにかすりぬけていくでしょう。ことばが日常の意味から脱し、本来の生命を取り戻すのは、たえずトランジットにあるときなのです。(原文横組。同書、B・Dページ。堤淑子訳)

とあった。著者4人による巻末の「四人組遊談」、〈言葉万華鏡[ことばのまんげきょう]〉でのパルバースの日本語が達者なのにも驚く。谷川・小田島・高橋といった猛者たちと、駄洒落を交えて丁丁発止の日本語/英語談義をするのである。これなら、吉岡も臆することなくパルバースとの会話がはずんだことだろう。


昔語りあるいは澁澤龍彦《狐のだんぶくろ》(2021年4月30日)

長いことサイトを運営して文章を書いていると、あとで読みかえして、そのころのことが思いうかぶ。ところで私は、大学の文学部でフランス文学などというおよそ世間で役に立つとも思えないものを学んだが、空理空論の徒ではいけないと発起して、日本エディタースクールの昼間部に通った。大学5年めのことである。当時のスクールの講師陣は錚錚たる顔触れで、何人かお名前を挙げれば、藤森善貢、布川角左衛門といった出版界の重鎮や、芹川嘉久子、梶川涼子といった現場を知りつくしたベテランから言いつくせないほどたくさんのことを受けとった。たとえば藤森先生は、革装本が乾いてきたら鼻の脂をちょいと付けろ、と言った。たとえば芹川先生は、料理人と編集者は同じだ、味わうだけでなくそのよってきたる処に想いを致せ、と言った。梶川先生は、野坂昭如が著者校正で組版や校正に迷惑がかからないようどれだけ細心に赤字を入れたか、語った(校正者は原稿を抱いて二階から飛び降りろ、とも)。いずれもご本人はそれほど大切なことを言ったつもりはないかもしれない。よくあるではないか。友人と昔話をしていて、おまえはこんなことを言ったけどなるほどと思った、というその肝心の内容を言った当人はまったく覚えていないことが。だから私も、こんな些細なことは書き記すまでもないだろう、と思われることでも、努めて書きとめておくことにしよう。かりに読む側にとって無益なことでも、少なくとものちの自分自身にはなにかの役に立つかもしれない――と言ってから続けると、まるで役に立たない文章と受けとられそうで困るのだが、何気なく読みはじめた澁澤龍彦の《狐のだんぶくろ――わたしの少年時代〔河出文庫〕》(河出書房新社、1997年2月4日)がめっぽう面白かった(巖谷國士が選ぶ澁澤龍彦の3冊は@フローラ逍遙[しょうよう]A玩物草紙B胡桃[くるみ]の中の世界、で本書は入っていないが、Aの選択が利いている)。興味深い箇所をいくつか引用しよう。/(スラッシュ)は改行を表す。( )内の数字はノンブル。

・国技館に近づくと、タクシーの窓からももんじ[、、、、]屋が見える。いまはどうか知らないが、当時は店先にイノシシが何匹も吊るしてあった。ももんじ屋が見えると、「あ、もうすぐ国技館だな」と分って、心がおどってくるのである。(〈なつかしき大鉄傘〉、48〜49)

・大正末年から発足した贅沢な幼児向き絵雑誌「コドモノクニ」の昭和二年七月号に、北原白秋の「チュウリップ兵隊」という詩が載っている。挿絵は御存じ武井武雄である。(〈狐のだんぶくろ〉、59)

・いずれにしても、この歌を知っているひとに私がひとりも出会ったことがないというのは、どう考えても不思議としかいいようがなく、あるいは私だけの頭のなかから生まれた妄想ではなかろうか、という気がしてくるほどである。どなたでもいいが、もし御存じの方があったら、ぜひお知らせを願いたいものである。(同前、68)

・あえていえば、私の文章修業の第一歩は、ようやく字が読めるようになった六、七歳のころから、あの「のらくろ」を毎日のように熟読玩味したことだった、といってよいかもしれない。それくらい「のらくろ」には打ちこんだつもりなので、私もまた、恥ずかしながら手塚治虫氏と同様、ひそかにノラクロロジー(のらくろ学)の「権威」をもってみずから任じている次第なのである。いまでもすらすら暗誦できるような「のらくろ」のセリフが、私にはいっぱいある。(〈漫画オンパレード〉、98)

・もう一つ、同じような例をあげておきたい。やはり戦争中の国民歌謡である。//高粱[こうりやん]枯れて烏鳴く/赤き夕日の国ざかい/思えば悲し つわものも/荒野の露と消えはてて/今は眠るか この丘に//おおかた満州かどこかの国境守備隊の歌だろうが、この第三句が私の耳には「思え、馬鹿らし、つわものも」と聞えてしまう。いかにも戦争で死ぬのは馬鹿らしいといった歌詞のように聞えて、へんな気がしたのを私はおぼえている。(〈替え歌いろいろ〉、145)

・正直にいって、私たちの世代は、一九三〇年代のドイツのウーファー映画だの、東和映画がさかんに輸入した同じ時代のフランス映画だのを、その時点で[、、、、、]楽しむにはあまりにも幼すぎた。私たちは、親類のお兄さんやお姉さんや、あるいは近所の不良マダムの口から、ラケル・メレーだとか、リル・ダゴファだとか、ツァラ・レアンダーだとか、ジョセフィン・ベーカーだとか、マルタ・エッゲルトだとかの名前が飛び出すのを聞きながら育ったけれども、実際にそれらのスターを銀幕の上やレコードのなかで確認したのは、じつは戦後になってからだった。(〈ラ・パロマを聞けば〉、163)

・そういえば、昭和十年代初めの少年倶楽部なんかには、よく新しい東京のシンボルみたいな建物として、昭和十一年に落成した帝国議事堂だの、昭和十二年に竣工した帝室博物館(現在の国立博物館)だの、震災記念堂だの、聖橋だの清洲橋だのといった建物の写真の出ていることがあった。靖国神社、明治神宮、泉岳寺なども当時の目ぼしい東京名所だったのだから、今日の感覚では理解しにくいだろう。(〈帝都をあとに颯爽と〉、234〜235)

・話をもどそう。今はどうか知らないが、少なくとも私が子どものころは、デパートの屋上が子どもの遊び場みたいになっていて、そこで木馬にのったり自動車にのったりして遊ぶのが一つの楽しみになっていたような気がする。/簡単な動物園みたいなのもあって、たしかに上野の松坂屋の屋上には、ガラスの水槽のなかにカワウソが飼われていたのをおぼえている。浅草の松屋の屋上には、空中ケーブルカーがあって圧巻だった。/日本橋の三越では、きまった日にパイプオルガンの演奏があって、私は階段の途中などで背のびしながら、それをしばしば眺めていたものだった。(〈私の日本橋〉、252)

本サイトの、そして吉岡実の読者なら、思いあたる節があるだろう事項や地名である(野暮を承知で挙げるなら、ももんじ屋、北原白秋と武井武雄、満州かどこかの国境守備隊の歌、ツァラ・レアンダー、帝室博物館(現在の国立博物館)、浅草の松屋と日本橋の三越)。もちろん澁澤は、そんなことにはいっこうに頓着することなく、「わたしの少年時代」を回顧した。吉岡と交わした昔語りにこれらが登場したかも知る由がない(ちなみに、吉岡実と澁澤龍彦による対談記事は存在しない。拳玉を中心に、子供の遊びについて語ってくれていたら!)。だが、1919年(大正8年)、東京の下町に生まれた詩人と、1928年(昭和3年)、同じく東京の山の手に生まれた散文家が、同じ空気を吸い、同じ事物を目にしたという事実はこのうえなく貴重である。ちなみに、吉岡は干支で私の三周り上(二周り上には大岡信・入沢康夫がいる)、澁澤は亡父・長太郎のひとつ年下。今もこうして読むことのできる、昭和を代表する書き手だった。


〔南柯叢書―近代文学逍遙〕のこと(2021年3月31日)

前回、《土方巽頌》の典拠に〈郡司正勝の土方巽評〉を挙げた。郡司正勝はかつて吉岡実に言及したことがないようだが、編集者の渡邉一考(1947〜 )は加藤郁乎の交遊録《後方見聞録〔学研M文庫〕》(学習研究社、2001年10月19日)の解説〈黄金の日々〉で同書に登場する諸氏に註釈を施し、「土方巽(一九二八〜一九八六)秋田生まれ。舞踏家。一九五九年「禁色[きんじき]」にて独自のスタイルを確立。後年、暗黒舞踏派を結成、わが邦のアンダーグラウンド芸術の教祖的存在となった。大地への跼促[きよくそく]に偏する、この異色のダンサーを見初[みそ]めたのが三島由紀夫。一九九八年一月、河出書房新社より『土方巽全集』全二巻が刊行。同書には「突っ立っている人」と題する加藤郁乎論が収録されている。他に八七年九月に筑摩書房より上梓された吉岡實著『土方巽頌』と二〇〇一年五月に河出書房新社より上梓された種村季弘著『土方巽の方へ 肉体の60年代』は必読の文献。私が土方さんとお会いする時は決まって郡司正勝さんや吉岡實さんが一緒だった。従って珈琲店の梯子に終始。加藤さん著すところの徹宵痛飲の修羅場を知らない。穏やかな眼差しの土方さんが懐かしく思われる因である。」(同書、二九七ページ)と書いている。その渡邉が手掛けた〔南柯叢書―近代文学逍遙〕の第1巻は、郡司の荷風論だった。「論」とはいっても、その文体は評論でも、ましてや研究でもなく、随想・随筆に近い(それとも、吉岡の用語を藉りて「頌」と言おうか)。文章に、自分と音曲の関係を織りこんでいくと、どうしてもそうならざるをえないのだ。だがいきなりそこに行くまえに、シリーズ全体を俯瞰しておこう。コーベブックス刊の〔近代文学逍遙〕は全8巻からなる。すなわち、

 巻一 郡司正勝《荷風別れ》(1976年9月25日)は永井荷風(1879〜1959)
 巻二 窪田般彌《詩人泡鳴》(1976年9月25日)は岩野泡鳴(1873〜1920)
 巻三 加藤郁乎《夢一筋》(1976年10月25日)は瀧口修造(1903〜1979)
 巻四 永田耕衣《しゃがむとまがり》(1976年10月25日)は西脇順三郎(1894〜1982)
 巻五 池内紀《天狗洞食客記》(1976年11月30日)は牧野信一(1896〜1936)
 巻六 篠田知和基《土手の大浪》(1976年11月30日)は内田百閒(1889〜1972)
 巻七 須永朝彦《わが春夫像》(1977年3月25日)は佐藤春夫(1892〜1964)
 巻八 岸田典子《黄冠の歌人》(1977年3月25日)は塚本邦雄(1920〜2005)

を論じている。発行日から明らかなように、2冊ずつ同時に刊行し、叢書のシリーズ性をより打ち出している(最終の第4回配本は本来、1976年12月31日の予定だったか)。こうしたシリーズの場合、著者と論じる対象の組みあわせはきわめて重要で、企画の成否はそこにかかっているといってもいい。これらの著者と、論じられた対象が吉岡実に親しいことは驚くほどである。著者では、篠田知和基(ネルヴァル研究で知られる)と岸田典子(歌人)以外、なんらかの形で関わりがあるし(*1)、論じられた対象では、岩野泡鳴と内田百閒以外は、これまたなんらかの形で接点がある(*2)。そしてなによりもこの8冊から成る〔南柯叢書―近代文学逍遙〕の企画の原点に、吉岡実選・解説の選句集《耕衣百句》(コーベブックス、1976年6月21日)の存在があったと思えてならない。むろんそこで論じられているのは永田耕衣の句であり、作者の永田耕衣である。すなわち、

 巻零 吉岡実《耕衣百句》(1976年6月21日)は永田耕衣(1900〜1997)

なる一書が想像されるのだ。少なく見積もっても、〔南柯叢書―近代文学逍遙〕が軌道に乗ったのは、吉岡が耕衣の俳句を百句選んで解説を付すという試みを、コーベブックスが出版企画としてテーブルに載せて以降ではないか(担当は渡辺一考)。本叢書の基本版面は31字×9行、本文は平均約80ページで、400字詰め原稿用紙だと56枚に相当する。仮に吉岡が上掲の対象者のなかから執筆するとすれば、西脇順三郎のほかにはありえない。ちなみに吉岡が10年にわたって処処に書きついだ随想〈西脇順三郎アラベスク〉(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二二二〜二四七ページ)は約45枚、叢書の体裁だと66ページに相当する。《耕衣百句》の進捗を、吉岡が耕衣に宛てた書簡で見ると、次のようになる(同書の解題の再録)。

・永田耕衣に宛てた吉岡実の書簡で、最初に「耕衣百句」が登場する一九六七年六月二八日消印のはがきから――「耕衣百句」いずれやります。
・二通め、同年一〇月二三日消印のはがきから――来月上京されるとのこと、その上、貴重な「加古」をいただけるとは光榮です。再会の日を今からたのしみにしています。小生選の耕衣百句は、是非やらねばと心にきめていますが、今すこし時間を下さい。
・三通め、同年一一月一三日消印のはがきから――再会できてたとえわずかでも、お酒をくみかわすことができて、うれしく思いました。その上、とても貴重な句集「加古」をいただき、感激のかぎりです。耕衣百句選をやらなければと、思いました。
・四通め、翌一九六八年九月二三日消印のはがきから――念願の〈耕衣百句〉なんとか今年中にと思っていますが、仕事多忙、年末の引越しなどがあるので心配です。
・五通め、その翌一九六九年七月一日の速達はがきから――お手紙と句集《眞風》頂きました。相変ず見事な造本うれしく思います。耕衣百句なんとなく心せかれます。
・六通めにして最後、刊行の前年一九七五年七月七日消印のはがきから――こんどの神戸行きで、田荷軒ですごした二時間が、一番充実した時間でした。須磨寺駅で、耕衣さんをおまたせして、申訳なく思っています。渡辺一考君とは、京都まで一緒で、《耕衣百句》の打合せをいたしました。
初案「耕衣百句」が書名《耕衣百句》にまでなったことに感慨を覚える。

巻一、郡司の《荷風別れ》にもどろう。土方の舞踏を論じた文章とはずいぶん調子の異なることがわかる(〔南柯叢書―近代文学逍遙〕からの引用文は、かなづかいは原文のまま、漢字は常用漢字にあるものはそれを使用した)。

 大正二年は、私の生れた年だが、その年に発表された『散柳窓夕栄』という小説は、そのときは、『戯作者の死』というのであった。柳亭種彦の、天保の改革にあって、『偐紫田舎源氏』の筆禍にあい、鬱として、その死を招く約一ヶ月間の、世情がはげしい変動をみせるその間の心緒を描いたものであるが、荷風のなかの江戸をみるのには、『江戸藝術論』などより、いっそう端的に、この小説の方が、その核心に迫ることができるように思う。
 一言にいって、荷風の江戸は、いまになってみれば、まったくの作りものにすぎない。まことに、その作りものが見透かされぬための、あるいは自ら欺くための周到なる江戸芸術論がはり廻らされているのを知る。〔……〕(同書、二一〜二二ページ)

 〔笹川臨風〕博士の話に、自分も、向島の「きん楽」の女将[おかみ]に薗八を習ったことがあるといわれた。この「きん楽」の女将というのは、江戸最後の浮世絵師であった月岡芳年の娘で、一中節では都一梅を名乗り、清元の名手でもあった。この頃は、薗八のみをやる人はなく、みな古曲をいくつか兼ねていたので、私がはじめて千広に入門したとき、それまでなにか音曲をやったことがあるかと聞かれ、いや、なにもないというと、年とっても小意気な千広は、薗八はいろいろな音曲の極楽の末にやるものだ、貴方がた〔郡司とその友人〕のようなのははじめてだといってケラケラと笑うのである。のちには、他の音曲の下地は、なにもないから、下手でもお前さん方のほうが雑り気なしの薗八だよというようになった。荷風の薗八は、音曲道楽の末に辿りついたという点では本格的であった。(同書、六六〜六七ページ)

私は邦楽に詳しくないので、関連のCDを借りて勉強した。すなわち財団法人 古曲会が監修する全12枚組《古曲の今》(財団法人 日本伝統文化振興財団、2006年9月6日)収録の宮薗節(4枚組)がそれで、〈鳥辺山〉など9曲を収める。竹内道敬の〈解説〉に依れば、同曲は「塩谷判官の弟縫之助と浮橋の心中道行。あらためていうまでもなく宮薗節の代表曲であるのみならず、近世日本音楽を代表する名曲のひとつである。文句は名文であり、初期の流行り唄の味も感じられ、それに地歌と義太夫風な気分と雰囲気が巧みに組み合わされている。」(同解説書、五九ページ)である。《ギターで覚える音楽理論――確信を持ってプレイするために》(リットーミュージック、2005)の著者・養父貴は、未知のジャンルの音楽に精通するには、そのジャンルの名盤10牧を聴きこむことだと喝破した。それに倣って、当面〈鳥辺山〉(約30分)を聴きこむことにしよう。歌舞伎の研究者ともなれば、薗八(宮古路薗八[みやこぢそのはち]を祖とする浄瑠璃音楽の古曲のひとつ。宮薗節、薗八節とも)のひとつやふたつ、唸れなければ駄目らしい。

巻二、窪田般彌の《詩人泡鳴》は、その生成について語った〈あとがき〉を見るに如くはない。なお、末尾には「昭和五十一年七月/窪田般彌」とある(同書、八三ページ)。

 私は岩野泡鳴という詩人の情熱が好きだ。情熱は砂をも焦がす。彼の人生観的発想にはそのような激しさがあり、魅力となる。私は数年前に短かな泡鳴に関するエッセーを書いている(『ユリイカ・日本の世紀末』昭和四十五年十月)。今回ふたたび泡鳴について書く機会を与えられたので、旧稿を全面的に改め、新たな一篇を上梓することにした。コーベブックス渡邊一考氏に感謝したい。

巻三、加藤郁乎《夢一筋―あるいは夢の異文》(*3)には、詩人と俳人がかたみに語りあう光景が描かれている。

 詩人は自作の句方寸の怒り見せたり小揺れ蓑虫≠、感慨も新たに思い出していた。これは昭和十六年、いわゆるシュルレアリスム事件で拘留中の一句、おそらくわが最初の俳句らしきもの≠セった。いわれもない濡れ衣、でっち上げの取り調べ、権力を笠に着た官憲による言論統制などへの怒りがほとばしり出ている句作第一号。詩人はどこにも持っていき場所のない怒りを、はじめて、句作にぶっつけたと述懐している。作者は改めていま、これ、字余りだったんだな、と舌を噛みしめ、頬をほころばせている。蓑虫の蓑で思い出したけれど、蕉門のひとりとして、『猿蓑』に十二句からの発句が入集したときの丈草の一句「水底を見て来た顔の小鴨かな」が、ふっと、口をついて出てきた。子供の頃の丈草がはじめて作ったという句はたしか、「発句して笑はれにけり今日の月」といったユーモラスな句じゃなかったかな、とも。そして、戦争末期の昭和二十年に金沢で手に入れた丈草集は、野田別天楼編による雁来紅社私版のうちの一冊の大正本であったことに気づいた。そしてなお、芥川の『澄江堂雑記』には「丈草の事」という短文のあったことも。(同書、三三〜三五ページ)

 丈草はいつだったか、修造の先生格に当る順三郎という越後出身の詩人がひねり出した発句を拾ったことがある。「藍青の天は晴れたり九谷皿」「珈琲薫るじゃずみんの窓あさぼらけ」「黄金の木の実落つる坂の宿」「木の実とぶ我がふるさとの夕べかな」など。この詩人の『旅人かへらず』という詩集にひっそりとしゃがんでいるハイカイ性にも驚かされたが、「芭蕉の句には魚と鳥のことが多いのは荘子からの連想かも知れない。」とか、「芭蕉のすぐれた詩人的才能はどこで育てられたか私には長い間わからなかった。しかし幸いに偶然荘周を読みだしたときに、この男はすばらしい詩人であることを発見した。」という文章に接したとき、わしら蕉門の連衆は顔色を失ったっけ。(同書、四三〜四四ページ)

加藤郁乎は、のちに岩波文庫で《芥川竜之介俳句集》(2010)と《荷風俳句集》(2013)を編んでおり、内藤丈草に共感を惜しまない龍之介の句を高く評価している。

巻四、永田耕衣《しゃがむとまがり―西脇順三郎小感》は、西脇順三郎の《旅人かへらず》の二篇に焦点を当てている。

 昭和四十七年六月二十一日、私は西脇順三郎詩集『旅人かへらず』初版本(再版があったかどうかは知らぬ)をある格式をもつ古書店で六千五百円で入手した。実質的な私淑の資格などないまま、遙かにいつのころからということなしに、私淑の擬態を楽しみつづけている畏敬垂涎の大詩人西脇順三郎の貴重な詩集なのだ。『旅人かへらず』は爾後数々出版された「西脇順三郎詩集」やその鑑賞本で出会っていたが、こうした殆んど汚れ傷みのない原本に出会ったよろこびは我ながら無類であった。(同書、二二ページ)

〔南柯叢書―近代文学逍遙〕配本のペースからいって、耕衣が本書執筆前に前回配本の加藤郁乎の《夢一筋》を読む機会があったかどうか。いずれにしても、加藤の本を読んだあとに耕衣の本を読むことは、きわめて自然な流れだ。耕衣がこう書くからだ。

 畏友加藤郁乎は、シンポジウム「詩の歓び」(西脇順三郎、加藤郁乎、鍵谷幸信、窪田般彌、那珂太郎)という本のなかで、上掲一詩を「読むたびに〈しゃがむ〉というのを使いたくて、もう居ても立ってもいられなくなっちゃった」と惚々本心をぶち明かしていて美事である。先ずはその魅力は「しゃがむ女」の卑俗性に根を張っている筈の「存在即エロチシズム」であったに違いない。〔……〕(同書、二五〜二六ページ)

「まがり」に関する一節は割愛して、次の箇所はぜひ見ておきたい。

 西脇順三郎の詩論やエッセイには主旨の繰り返しが多い。この繰り返しが私にはたまらなく嬉しい。反覆即創造の感が強く多分で、同じような文節に何べん出会っても飽きるということがない。何故だろう。これは西脇順三郎を私が好きだからなのか。元々好きということもあるが、反覆される文節が高度の素朴さで、真実のパラドックスを優遊しているからだろうか。禅文学を一種詭辯の最たるものとするその理解の高さ深さ大きさに惚れぼれする。芭蕉の古池一句を諧謔と看破するこの破格の眼力には、「俳でないものを俳とすることは最高の諧謔である」といった一条の警告が真実である故に、迷わず痛快に心服できる。拈提するところはおおむね虚空的世界に面白くつながりがちだから、逆らう余地がないのだ。異なった二つのものが一つに結合される、「詩はこの異常な関係をさがすことである」といい、「優れた美はどこか均衡上に或る奇異なところが必ずある」というベーコンの言葉が度々起用されたりするのが嬉しくてたまらぬのは、それが虚空的世界を面白く揺曳しているからである。〔……〕(同書、七四〜七五ページ)

吉岡はかつて、「長篇詩篇『壤歌』二千行は、西脇先生七十六歳の時の書き下ろし作品である。私もその成立過程のごく一部だけだが、垣間見たひとりだ。詩的活力には、感嘆したものであったが、同想異曲の反復が多く、讃辞を呈することができなかった。永い間、ただ冗長な作品という印象しか残っていなかったが、今度通読してみて、認識を改めた。独特の「無限旋律」に乗れば、「諦念」の愉悦に浸れるのだ。」(〈西脇順三郎アラベスク〉の「12 大理石の蛇」。初出:《新潮》1982年8月号、原題〈西脇順三郎アラベスク(追悼)〉。《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二四四〜二四五ページ)と書いた。私は長篇詩《壤歌》よりも、西脇の詩論《詩学》にそれを感じた。元来、若者はせっかちなものだから、いま《詩学》を再読すれば、耕衣の「反覆即創造の感が強く多分で、同じような文節に何べん出会っても飽きるということがない」を実感するかもしれない。怖いような、愉しいようなものである。

巻五、池内紀《天狗洞食客記―牧野信一》は牧野の短篇小説〈天狗洞食客記〉(「今更申すまでもないことだが、まつたく人には夫々様々な癖があるではないか、貧棒ゆすりだとか爪を噛むとか、手の平をこするとか、決して相手の顔を見ないで内ふところに向つてはなしをするとか、無闇に莨を喫すとか――とそれこそ枚挙に遑はない。〔……〕隈なく紺青に晴れ渡つた空では、一羽の鳶が諧調的な叫びを挙げて、悠々たる大輪を描いてゐた。今、私は自分の感嘆の叫びとおもつたのは、どうやら空を舞ふ鳶の声を聴き間違へたものであつたらしい。」)にその標題と文体を借りている。ドイツ文学者、エッセイストとして知られる著者の、小説家としての側面を明らかにした短篇と見ることもできる(*4)

 ともかくも私は「天狗洞食客記」と銘打った。借用したにしても、この表題は思いつきだ。まさに文学的食客として、ときに先の「食客記」を無意識かつ不器用に模倣しつつ、つまらないことをきっかけに、その背面にのびのびと手足を伸ばせられないとも限らない。私は牧野信一のやさしい気質と発明な心ともの解りの早い才知こそもち合わせていないのだが、ともかくもある悪癖ばかりは、無論、その悪癖の由々しさは較べものにならないにしても、ともにすると自分にいい聞かせ、打ち克ちがたい向う見ずの誘惑に身をまかせることにしたのである。それにつけても、実はいま一つ、こういう事情があったからである。つまり、一般にある歴史上の人物を考えるとき、大抵の場合、ある時期の、あるいはある情況の定まった人像がその人そのものであると定まってくるものだ。たとえば、伝説のバイロンは美貌の青年であって、ブレッシングトン夫人の知己になった頃の下腹の出た半禿の男ではないし、トルストイは常に巾広の帯を腰に締め、田舎着をきた髯もじゃの老農夫である。そして私にとって、牧野信一はいつもいつも天狗洞の食客であった。私は彼に常々天狗洞の食客を見る。それは一瞬たりとも同じ姿にとどまらないが、しかし、あの食客以外には決してなりえないのである。すなわち、まさにあの食客がそうあったように、あがくだけで変りはしないのである。(同書、三〇〜三二ページ)

「作品は発表順配列とし、殊に最初期の童話・詩を発掘収録。その生成と全貌を初めてあきらかにする」と謳った《牧野信一全集〔全6巻〕》(筑摩書房、2002〜2003)は、もし吉岡実がこれを見たら、さぞかし慶んだことだろう。ことによったら、装丁をしたがったかもしれない。

巻六、篠田知和基《土手の大浪―内田百閒の怪異》は百閒論であるとともに、芥川龍之介論でもある。「同門の友、芥川は機智の綱渡りをして、一刻も早く人生の解決を見出そうとしていた。百閒はそのとき、好んで遅疑逡巡し、恐怖を予感しながらあえて愚昧の闇に浸って、万人を呪うが如くにふくれ返っていた。」(同書、一八ページ)。

 狂人は常人には見えない怪異の世界を見る。怪異の世界はその圧倒的な恐ろしさと真実性をもって現実の世界を覆いつくしてしまう。怪異の世界をひとたびのぞき見たものは容易なことでは現実の世界に戻ることはできない。しかし、稀にそこから戻ってきたものは予言者のように見えない世界を語りはじめる。百閒は狂気をたぶらかし、手なづけて、死に場所をさがしに出た放浪の旅からも何ごともなく戻ってくる。しかし、予言者の言はそのままではこの世に受け入れられることはできない。予言とは現実を否定し、転覆させるものだからだ。そこで彼は諧謔をもってその恐るべき真実の相を包みながら道化師となって、彼岸の文学を語ることになる。しかしあの世の思い出はことごとに脳裏によみがえって、立ちかえった生のはかなさといかさまぶりを、あまりにもあきらかに見せつける。書くことはもはや問いつめる手段ではなく、不安や憂悶を有形化して外へほうりだし、笑うふりをして忘れ去る手段となる。書くことの前には話すことがあるだろう。(同書、五三〜五四ページ)

篠田は雀や鰻(そう、あの「件」を忘れてはいけない)などの動物が百閒の怪異の世界の重要な伴侶であることを強調する。それはとりもなおさず、吉岡実詩に登場する動物の意味を再考するとば口とはならないだろうか。

巻七、須永朝彦《わが春夫像》はこの叢書では珍しく、見出しが立っている。〈壹 関心と妄想〉では三島由紀夫の批評(と小説)を手掛かりにして、〈貮 春夫と足穂〉では文字どおり佐藤春夫と稲垣足穂との確執を詳述し、〈参 田園の憂鬱〉では春夫の作品史における同作の位置の危うさを論じ、〈肆 老残まで〉では晩年の作品群を嘆きつつ、〈美しき町〉と《殉情詩集》を称揚して筆を擱く。最後の〈伍 佐藤春夫秀作一覧〉では28の作品を挙げて推奨している。

 かねがね私は、二人の文芸の根幹をなすものは小児性ではなからうかと考へてきた。度を超えた好奇心、他を顧みない得手勝手さ、残酷な観察眼、独善的かつ放縦な空想癖……等に培はれた、夢遊病者の夢中遊行にも似た憧憬惝怳の時空などと記すと要領をえないが、彼らの態度は純粋に抒情的な審美主義(足穂の著作に『美のはかなさ』と題する一篇あり)とでも申すほかはなく、二人は共に童話[メルヒエン]の領土から出立したのである。それが、春夫においてはつねにメロドラマティックな表現をとり、足穂にあつては哲学的かつ幾何学的な傾向を有する。そして、その差違は、作品の上に如実に現れてゐる。美術、建築、探偵及び猟奇趣味(春夫曰く――猟奇的といふ文字は自分が、curiosity huntingの訳語として造語した)、狂気、宗教……等への関心が屢屢春夫の創作の動機となつてゐるが、かたや足穂の作品は周知のごとく少年愛と天体嗜好と飛行家志望とによつて支へられてゐる。この相違がそのまま二人の訣別の因でもあり、彼らの為した文芸の殊色でもある。『西班牙犬の家』と『一千一秒物語』の間にはさしたる距たりはなかつた。然し、足穂が『一千一秒物語』から出発して『彌勒』の高みへと上[のぼ]つたのに対して、春夫は『西班牙犬の家』の境地を動かなかつたと申せよう。むしろ、労を厭うたふしがある。(〈貮 春夫と足穂〉、同書、四四〜四五ページ)

こうした仮借なき論難も、著者は「十年余に亘つて愛読してきた佐藤春夫について記した小文が、かうも皮相的な調子を帯びたことに、まづ自分で驚いてゐる。どうやら他人以上の存在と思ひこむと、世辞追従の類は影をひそめて口惜しく念ふところに筆が走りたがるものらしい。」(同書、八〇ページ)と総括している。それこそが「わが春夫像」なのである。若年の吉岡は白秋の短歌とともに、春夫の詩を愛誦した。本書で須永は、春夫を詩人としては生涯一流と讃えた。

巻八、岸田典子《黄冠の歌人[うたびと]―塚本邦雄論》にも見出しが立っている。〈序章〉〈瞋りの花〉〈うるはしき棘〉〈致死量の愛〉〈馬を洗はば〉〈香る薑[はじかみ]〉〈終章〉。岸田は本書で、塚本を中唐の詩人・李賀(791〜817)になぞらえており、そこが数多の塚本邦雄論とは異なっている処だ。

 彼の鬼才、賀の鬼才、両雄は両国の孤[こ]なる韻律の魔であり、魔的美の創始者である。それは人を魅きつけると同時にはねつける靱さをも併せもつてゐる。律の格調の高さも、難解であることも、ひとつには韻律への全き技巧、ふたつにはこの魔的美によるものである。そして、すべてはゆたかな幻想の把握のもたらすものであつた。この美を感受する栄光に浴するには、それに足る感受性をもつて、提示された幻想の核にふれ、再幻想を試みるほかないのである。(〈終章〉、同書、七八〜七九ページ)

ちなみに塚本自身は、同門の東博の短歌に触れて

 作者は戦後間もなく、その第一歌集『蟠花』で、タイトルにも匂う李長吉の心ばえをこめて、このように歌った。その後も、風雅、風狂のこころは一段とすさまじく、あるいはやさしく、三十一音韻は一弦琴さながらに澄んだ響きを人に伝えた。(詞花集《現代百歌園――明日にひらく詞華》、花曜社、1990年7月20日、一二七ページ〔新字・新かな表記は原文のママ〕)

と記している(この箇所の引用元である〈東博歌集《蟠花》のこと〉を参照されたい)。なお、叢書の他巻にはなかったが、この第8巻にはコーベブックス刊行の書籍の広告である栞(表裏に印刷)が投げこまれていた。須永朝彦の《滅紫篇》と岸田典子の歌集《朱絡》(題辞には李賀が引かれ、巻末には須永が解説を書いている)の二著である。

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私は〔南柯叢書―近代文学逍遙〕全8巻を《日本の古本屋》経由で神田神保町の某古書店(とくに名を秘す)から購入した。揃いの割にはそれほど高価ではなかったからだ。2020年6月のある日、丁寧に梱包された全巻がゆうパックで届くや、まずは塚本邦雄を論じた岸田典子の《黄冠の歌人[うたびと]》を開いた。ところがこの「158番本」がものの見事に落丁本だったのである。煩瑣にわたるが、説明しよう。本書は8ページが1折りで、次のような台割になっている(ノンブルは、小口の罫下寄りに、「五」や「九〇」のように、漢数字で縦に組まれている)。

1折り(01〜08)=白紙1丁(01〜02)・本扉/裏白(03〜04)・題辞/裏白(05〜06)・本文〔五ページめ〕/同〔六ページめ〕(07〜08)
2折り(09〜16)=本文〔七ページめ〕/同〔八ページめ〕(09〜10)・本文〔九ページめ〕/同〔一〇ページめ〕(11〜12)・本文〔一一ページめ〕/同〔一二ページめ〕(13〜14)・本文〔一三ページめ〕/同〔一四ページめ〕(15〜16)
3折り(17〜24)=〔……〕
4折り(25〜32)=〔……〕
5折り(33〜40)=〔……〕
6折り(41〜48)=〔……〕
7折り(49〜56)=〔……〕
8折り(57〜64)=〔……〕
9折り(65〜72)=〔……〕
10折り(73〜80)=本文〔七一ページめ〕/同〔七二ページめ〕(73〜74)・本文〔七三ページめ〕/同〔七四ページめ〕(75〜76)・本文〔七五ページめ〕/同〔七六ページめ〕(77〜78)・本文〔七七ページめ〕/同〔七八ページめ〕(79〜80)

ここまではいい。だが、以下が問題で

11折り(81〜88)=本文〔七九ページめ〕/同〔八〇ページめ〕(81〜82)・本文〔七九ページめ〕/同〔八〇ページめ〕(83〜84)・本文〔八九ページめ〕/同〔九〇ページめ〕(85〜86)・本文〔八九ページめ〕/同〔九〇ページめ〕(87〜88)
12折り(89〜96)=白紙1丁(89〜90)・奥付〔九三ページめ〕/裏白〔九四ページめ〕(91〜92)・白紙1丁(93〜94)・白紙1丁(95〜96)

である。(重複には目をつぶるとしても、)本文〔八一ページめ〕から同〔八八ページめ〕の8ページ分が欠落しているのだ。これは和紙に活版で印刷した折り丁を手で丁合したために、折り丁を取りちがえた結果だと思われる(*5)。本書のような限定版では致命的な欠陥だが、通常版でも員数合わせをしてから作業するはずだから、なぜこうした事故が起きたのかわからない。検品で発覚しなかったのも腑に落ちない。古書店が落丁本と知って値付けしたとは思いたくないが、ノンブルをパラパラ見るくらいはするだろうから、これもよくわからない。文句ばかり言っていても、正しい本文は読めない。当然のように、近隣の公共図書館は所蔵していないので、相互貸借で東京都立中央図書館所蔵の一本を借りた(「357番本」)。本文〔八〇ページめ〕の見開き以降をモノクロコピーして(カラーだと1枚50円もする)、裁断し糊付けした「別冊」を手製でつくって落丁分を補綴した。手間はかかったが、本文が読めただけでも善しとしよう。それにしても、ここで折り丁がだぶっていたということは、「158番本」の近辺の別の本でも入れ替わっているわけで(製本業界ではたしか、「グル」になっている、と言った)、そちらの方も気になる。いい機会だから、同書の奥付(〔九三ページめ〕)を録しておこう。〔南柯叢書〕の表示がないのはともかく、書名がないのには驚くが、本扉には双方ともある。原文は正字使用だが、常用漢字のあるものはそれで勘弁してもらおう。

近代文学逍遙 巻八
著 者 岸田典子
刊行者 北風一雄
印刷者 村上民二
製本者 須川誠一

刊行所 神戸市生田区三宮町一丁目一番地 コーベブックス
印刷所 神戸市生田区下山手通五丁目二十三番地 創文社
昭和五十二年三月二十五日印行限定五百冊の内357番本也

以上は余談のようなものだが、これは限定版だから固有の記番のセット(たとえば「158番本」)で〔近代文学逍遙〕を読むわけで(市中に500部が流通すれば、読むに値する本であるなら、必ずや手にすることができよう)、市販本もいかに大量生産の工業製品とはいえ、固有の一冊であることにかわりはない。ところで、ご覧のこのサイト《吉岡実の詩の世界》は「小林一郎が調査・著述・作成する、詩人・装丁家吉岡実の人と作品を研究するページ。吉岡実の著書を資料面から補完し、鑑賞と研究に資する。年譜・書誌・参考文献目録ほか」で、その典拠の第一は、いうまでもなく吉岡実の詩集、とりわけ《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)である。同書の奥付には「一九九六年三月二十五日 初版第一刷発行」とあるが、厳密に言えばこれは八ページに〈春〉を補った修正版で、「初版第一刷」には〈春〉を欠くものと、この本のように〈春〉を含むものが並立する。《東京新聞〔夕刊〕》1996年7月20日のコラム《大波小波》は〈活版印刷の感触〉という文章を掲げている。筆者名「死児」は、むろん吉岡の詩篇〈死児〉(C・19)にあやかったもの。

 評判の「吉岡実全詩集」(筑摩書房)を、あちこち歩いてやっと入手した。一万二千円もする少部数の豪華本だから、扱う書店が限られるのは当然だが、入荷分が早々と売れた店が多かった。吉岡人気のすごさよ。
 処女詩集の一篇が脱落して初版を回収した騒ぎも思わぬ宣伝効果になったか。あるいは、筑摩が活版印刷で出す最後の本とのふれこみが、好事家の関心を引いたか。活版は吉岡の遺志であったようだ。装幀家でもあり、筑摩の社員として本造りにうるさかった吉岡も本望だろう。
 活版印刷はいい。文字面をなでると活字を押した凸凹を感じる。植字工や印刷工の手作業がジカに伝わるようだ。その分言葉が強く食い込んで来る気分になる。本は触るものでもあるのだ。今は新聞を始め写植文字が常識になってしまった。活字本で育った世代にはなじみにくいが、時流には逆えない。せいぜい今後は、この本を開いて渇をいやすことにしよう。
 判型も装幀も本文用紙もいいが造本には少し不満だ。まず、本体カバーが破れやすい。また、地のハナギレが内側に食い込みすぎているのも気になる。二、三の友人が買った本も同じだそうだ。吉岡なら何と言うか。
 最後に要望だが、散文の方も是非集成してほしい。吉岡は、事実上の全集があっていい詩人である。 (死児)

私は吉岡陽子夫人から一本賜わったが、修正版の市販本は神田本店 東京堂書店で購入している(96-04-30 14:32)。奥付ページにそのときのレシートを挟んであるのだ。

手製のジャケットでくるんだ所蔵の《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996) 〔奥付には「一九九六年三月二十五日 初版第一刷発行」とあるが、本来は白だった八ページに詩篇〈春〉(@・1)を補った修正版〕
手製のジャケットでくるんだ所蔵の《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996) 〔奥付には「一九九六年三月二十五日 初版第一刷発行」とあるが、本来は白だった八ページに詩篇〈春〉(@・1)を補った修正版〕

「本体カバーが破れやすい」は、たしかにそのとおりだ。私は表紙の上に厚手の化粧紙を1枚被せ、その上に「本体カバー」を巻き付け、その二つをどこかのカレンダーの裏面の白紙を表にしてくるみ込んでジャケットにしている(上掲写真)。「地のハナギレが内側に食い込みすぎている」というのは、間村俊一《彼方の本》(筑摩書房、2018)などに較べればそうだが、天のハナギレも似たりよったりで、さほど気にならない。私は本書をのべつまくなしに参看するので、函にはしまわず、前小口を上に向け背全体で本を支えるようにして書架に収めている。通常の置き方をすると、本文のなかほどの400ページあたりが垂れさがってくるのだ(いちばん好いのは、表紙4を下に、表紙1を上に向けて和本のようにして置くことだが、いかんせん場所を取る)。ところで《吉岡実全詩集》を製本した株式会社鈴木製本所は、主にハードカヴァーの単行本を手がけた名門だったが、私は大学を出て最初に入った極小出版社で見習いのようなことをしていたとき、少部数増刷のために、会社が保管していた表紙用クロスを同製本所に持ち込んだことがある。ベテランの職人が刷毛で糊入れしているのを飽かずに眺めたものだ。1980年のことである。

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(*1) 郡司正勝は吉岡実の《土方巽頌》に登場する(〈郡司正勝の土方巽評〉参照)。吉岡は窪田般彌に献呈署名入りの《サフラン摘み》を贈っている(刊行後さほど経っていないころ、早稲田の古書店――文献堂だったか――で見た)。加藤郁乎は〈吉岡実と加藤郁乎――ふたりの日記を中心に〉〈吉岡実と加藤郁乎〉参照。永田耕衣は〈《永田耕衣頌――〈手紙〉と〈撰句〉に依る》を編んで〉参照。吉岡は池内紀の著書《温泉――湯の神の里をめぐる〔日本風景論〕》(白水社、1982年10月25日)を装丁している。須永朝彦は〈初学・今様片袖覚え〉や〈たとへば吉岡さん〉、〈散文の病気――澁澤龍彦と詩歌〉などで吉岡に言及している。

(*2) 永井荷風は〈《土方巽頌》と荷風の〈杏花余香〉〉参照。瀧口修造は〈吉岡実と瀧口修造(1)〉〈吉岡実と瀧口修造(2)〉〈吉岡実と瀧口修造(3)〉参照。西脇順三郎は〈吉岡実と西脇順三郎〉参照。牧野信一は、吉岡実日記の昭和二十三(1948)年、「一月二十三日 姉に六百円借りて、《牧野信一全集》全三巻を買う。」(〈断片・日記抄〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫19〕》思潮社、1968年、一一〇ページ)とある。この《牧野信一全集》は、1937年の初刊か、1939年刊のフランス装(いずれも未見)の第一書房版だろう。佐藤春夫は〈吉岡実と佐藤春夫〉参照。私は吉岡実との絡みで塚本邦雄についていろいろと書きちらしてきたが、いまだに正面切って「吉岡実と塚本邦雄」を書いていない。とりあえず〈吉岡実と岡井隆あるいは政田岑生の装丁〉を挙げ、しかるべき準備のうえ、いずれ〈吉岡実と塚本邦雄〉を書くと約しておく。

(*3) 《加藤郁乎作品撰集V――続初期日記・エッセイ・交遊録》(書肆アルス、2016年7月16日)の〈著書解題〉に依れば、《夢一筋》の項はこうである(同書、五二八ページ)。

夢一筋 あるいは夢の異文
 昭和51・10・25発行。コーベブックス。限定五〇〇部。A5判変型・上製装・函入(帯付)。本文二色刷。九二頁。定価三五〇〇円。
 南柯叢書近代文学逍遙第一期第三巻。瀧口修造オマージュ。ある深夜、シュールレアリスムの詩人で、美術評論家である瀧口修造の夢の中に、江戸時代の俳人で、芭蕉の弟子である内藤丈草が訪れてきて、二人は心を交わし、俳諧について、詩について、夢のように語りあう。

加藤郁乎《夢一筋―あるいは夢の異文》と〔南柯叢書―近代文学逍遙〕全8巻の書影を掲げる。

加藤郁乎《夢一筋―あるいは夢の異文〔南柯叢書―近代文学逍遙 第3巻〕》(コーベブックス、1976年10月25日)の函・表紙 〔南柯叢書―近代文学逍遙〕全8巻――〔第1巻〕郡司正勝《荷風別れ》(1976年9月25日)、〔第2巻〕窪田般彌《詩人泡鳴》(同日)、〔第3巻〕加藤郁乎《夢一筋》(1976年10月25日)〔表紙の背も〕、〔第4巻〕永田耕衣《しゃがむとまがり》(同日)、〔第5巻〕池内紀《天狗洞食客記》(1976年11月30日)、〔第6巻〕篠田知和基《土手の大浪》(同日)、〔第7巻〕須永朝彦《わが春夫像》(1977年3月25日)、〔第8巻〕岸田典子《黄冠の歌人》(同日)――の函の背
加藤郁乎《夢一筋―あるいは夢の異文〔南柯叢書―近代文学逍遙 第3巻〕》(コーベブックス、1976年10月25日)の函・表紙(左)と〔南柯叢書―近代文学逍遙〕全8巻――〔第1巻〕郡司正勝《荷風別れ》(1976年9月25日)、〔第2巻〕窪田般彌《詩人泡鳴》(同日)、〔第3巻〕加藤郁乎《夢一筋》(1976年10月25日)〔表紙の背も〕、〔第4巻〕永田耕衣《しゃがむとまがり》(同日)、〔第5巻〕池内紀《天狗洞食客記》(1976年11月30日)、〔第6巻〕篠田知和基《土手の大浪》(同日)、〔第7巻〕須永朝彦《わが春夫像》(1977年3月25日)、〔第8巻〕岸田典子《黄冠の歌人》(同日)――の函の背(右)

渡辺一考は、本文の冒頭に引いた加藤郁乎《後方見聞録》の解説〈黄金の日々〉で、

 本書の初版がコーベブックスから上梓されたのは一九七六年だが、その前後、私が編輯にかかわった加藤さんの書冊は以下の如し。

  句集『微句抄』一九七四年十月三日
  交友録『後方見聞録』一九七六年四月三十日
  作家論『夢一筋』一九七六年十月二十五日
  句集『佳気颪[かきおろし]』一九七七年二月二十八日
  書評集『旗の台管見』一九七七年三月十五日

 要するに、七〇年代は加藤郁乎さんと東西を股に掛けて飲み歩いた。高等遊民を気取り、侍飲参刻[じいんさんこく]、一夕参世[いつせきさんぜ]。血と薔薇ならぬ、宿酔と血痰の日々を過ごした。(同書、三〇九ページ)

と回顧している。そして本叢書の企画者・編集者として、決定的な文言を書きつける。すなわち、「物書きにとって営みのすべては著された作品の内側にしか存在せず、作家とは書くという行為そのものを唯一生きるのである。言い換えれば、現実の生に背き、もしくは生そのものを棄却するという、矯激なまでに過酷なアンガージュの繰り返しが必要とされる。それは謂わば、しゃがむこと、まがること、躄[いざ]ることに他ならない。未練を断ち截られない凡庸の徒は潔く諦めるしかない。」(同書、三一二ページ)と。同文の締めくくりで、加藤の著作4点――《加藤郁乎〔現代詩文庫〕》(思潮社、1971)、《定本加藤郁乎句集》(人文書院、1975)、《加藤郁乎句集〔現代俳人文庫〕》(砂小屋書房、1994)、《加藤郁乎俳句集成》(沖積舎、2000)――を挙げて「本書の読者にあっては、必ずや右書冊を繙[ひもと]かれたい。」(同前)と慫慂しているのは、親切な念押しに過ぎない。

(*4) 四半世紀後、池内紀は自著を振りかえって次のように書く。題して〈幻の本〉。
 「フシギな本である。古本業界では「和装仕立て美本」などというのではあるまいか。本文はやや厚手の、少し茶色をおびた和紙、そこに淡いダイダイ色のケイが入っている。外まわりにも太いケイがついていて、そこは二重になっており、まるで頁ごとにシャレた小窓が開いたようだ。
 文字はえり抜きの活版で、クッキリとして美しい。表紙の背中と二方の隅はモロッコ革の装幀本にみるような三角の飾りつき、あいだに水彩を流したようなやわらかい線が走っている。さらに和紙を貼り合わせた函入り。よほどの本好きがこりにこってこしらえたのだろう。背に金文字が彫りつけてあって、タイトルが『天狗洞食客記』。
 牧野信一の読者なら、むろん、とっくにおなじみだ。まさしく彼の短篇の一つ。そのはずだが、この和装仕立て本はそうではないのだ。「池内紀著」とある。つまり、私である。下に〔南柯叢書――近代文学逍遥巻五〕とある。昭和五十一年十一月の刊行。私は三十代の半ばだった。
 われながら、よくわからない。思い出そうとしても記憶がいたってあやふやだ。ある日、注文が舞いこんできたことはたしかである。わが国の近代作家より一人をとりあげて八十枚ほど書いてほしい。それを一冊の本にする。何人かに同じ依頼をしているので、いずれ近代文学をめぐる叢書が生まれるはずである――。
 〔……〕
 パロディというのは、ふつう、ひと息かふた息の短いものだが、わが「食客記」は原作よりも長いのだ。そういえば当時、およそ誰も読みそうにない雑誌に、坂口安吾の「風博士」をもじった「『風博士』異聞」や、花田清輝にかかわって「贋作復興期の精神」と称するものを書いていたから、きっとそんな中で思いついたのだろう。ほかのすべては人の目にふれないまま、きれいさっぱり消え失せたが、牧野信一ばかりは酔狂な出版人がいたばかりに形として、それもすこぶる高雅な形をとって世にのこった。
 いや、世にのこったとも言えないだろう。奥付には「限定五百冊の内第 番本也」とあって、そこに朱色で「著者」と入っている。私の知るかぎり、この著者本が一冊あるきり。あとがどうなったのか、まるで知らない。巻五とあるからには、ほかに四冊出ているはずだが、それについても何も知らない。「南柯叢書」は昭和初期に詩人日夏耿之介が企画したシリーズであって、たしか数冊を出したきりで中絶した。いまひとたびの企ても南柯の夢で終わったらしい。わが手元には世にもフシギな本と、幻のような淡い記憶があるばかり。」(〈月報3〉、《牧野信一全集〔第4巻〕》、筑摩書房、2002年6月20日、一〜二ページ)。
牧野の短篇小説〈天狗洞食客記〉は、吉岡が読んだと思われる第一書房版全集では第3巻に収められている。同巻に〈魚籃坂にて〉という随筆が収録されているのも暗合めいていて、興味深い。

(*5) 厳密に言えば、11折り(81〜88)以降の事故本(と呼ばせてもらう)と本来あるべき正規本(と呼ばせてもらう)は、次のように対応する。項目は「折り 本文ページ 事故本〔本文の丁付け〕→正規本〔本文の丁付け〕」である。事故本の★印8ページ分が重複(取り込み)と欠落(取り漏れ)の問題箇所で、正規本の☆印の8ページ分が本来あるべき姿である。したがって事故本には、13折り(97〜100)に相当する折り丁が存在しない。

  11折り 81 本文〔七九ページめ〕→本文〔七九ページめ〕
  11折り 82 本文〔八〇ページめ〕→本文〔八〇ページめ〕
  11折り 83 本文〔七九ページめ〕★→本文〔八一ページめ〕☆
  11折り 84 本文〔八〇ページめ〕★→本文〔八二ページめ〕☆
  11折り 85 本文〔八九ページめ〕★→本文〔八三ページめ〕☆
  11折り 86 本文〔九〇ページめ〕★→本文〔八四ページめ〕☆
  11折り 87 本文〔八九ページめ〕→本文〔八五ページめ〕☆
  11折り 88 本文〔九〇ページめ〕→本文〔八六ページめ〕☆
  12折り 89 白紙1丁【オ】→本文〔八七ページめ〕☆
  12折り 90 白紙1丁【ウ】→本文〔八八ページめ〕☆
  12折り 91 奥付〔九三ページめ〕→本文〔八九ページめ〕
  12折り 92 裏白〔九四ページめ〕→本文〔九〇ページめ〕
  12折り 93 白紙1丁【オ】→白紙1丁【オ】
  12折り 94 白紙1丁【ウ】→白紙1丁【ウ】
  12折り 95 白紙1丁【オ】→奥付〔九三ページめ〕
  12折り 96 白紙1丁【ウ】→裏白〔九四ページめ〕
  13折り 97 〔ナシ〕★→白紙1丁【オ】
  13折り 98 〔ナシ〕★→白紙1丁【ウ】
  13折り 99 〔ナシ〕★→白紙1丁【オ】
  13折り 100 〔ナシ〕★→白紙1丁【ウ】

正規本でなければ、「塚本邦雄こそ、後世の衆裁判を待つまでもなく、生きてその価値を讃へらるるに足る業蹟をもつ歌人である。賀は早世したが、邦雄は生きてさらに円熟しつつ、かなしみの極み、幻想の窮みをなほ自らに、あるひは世に提示しつづけてゆくであらう。」(〈終章〉、同書、八三ページ)という岸田渾身の結語を読みそこなう処だった。


虚構としての論文あるいは〈変宮の人・笠井叡〉校異(2021年3月31日)

〈郡司正勝の土方巽評〉の初めのほうに、「ただ厄介なことに、吉岡は個個の引用文の後にその執筆者名を記すだけで、引用元の標題を書いていない。〔……〕具体例を挙げよう。〈2 出会い・「ゲスラー・テル群論」〉は、吉岡自身の〈変宮の人・笠井叡〉(初出は1968年8月1日発行の《ANDROGYNY DANCE》1号、のち1980年刊の《「死児」という絵》に収録)を換骨脱胎した文章で(当然ながら出典は記されていない)、そのあとに1行空けて次の引用がある。」と書いてから、吉岡が引いたままの形で加藤郁乎の

 「『ゲスラー・テル群論』に賛助出演したとき、全裸の前の部分を鳥の羽根の扇でわずかに隠しながら絶妙に立っていた土方巽の美しさは、いまなお瞼に焼き付いていて離れない。鳴り止まぬ拍手に応えてビートルズ・ナンバー『イェスタデイ』をBGにくり返しながら、アダムを思い出したラスプーチンのごとき超男性の愁いを、泡立つヴィーナスの誕生で乱されまいとする風情に傾けながら立っていた。」

を掲げた。それを受けた私の「加藤郁乎のこの文章はどこかで読んだことがある。だが、それが何という媒体のどこに載っていたか、どうしても想い出せない。」というのは、もちろん言葉の綾で、典拠がどこかは先刻承知している。ただここは、《土方巽頌》の(吉岡自身と土方以外の)最初の引用からして、すでに出典がわからないことを強調するための方便だった。ちなみに、吉岡が引いたのは加藤郁乎の交遊録《後方見聞録》(コーベブックス、1976年4月30日)か《後方見聞録〔特装版〕》(南柯書局、同日)の〈土方巽の巻〉(二四ページ)である(吉岡は〔特装版〕を贈られたか)。なお元版でも、《後方見聞録〔学研M文庫〕》(学習研究社、2001年10月19日、三二ページ)でも、加藤郁乎の原文は冒頭に「数年前、草月ホールでの」があって、「ビートルズ・ナンバーの『イエスタデイ』」である。たしかに《Help!(旧邦題:4人はアイドル)》(1965)に収められたオリジナルの音源では、ポール・マッカートニーの歌声は「イェスタデイ」と聞こえるが、ここはやはり誤転記・誤植と考えるべきだろう。
さて、今回の本題は随想〈変宮の人・笠井叡〉と評伝〈2 出会い・「ゲスラー・テル群論」〉ほかの校異=比較対照である。基底を=初出〈変宮の人・笠井叡〉(《ANDROGYNY DANCE》第1号、1968年8月1日。吉岡家所蔵の切り抜き紙面に依ったため、何面かは不詳――本稿末尾の写真を参照されたい)、=初刊〈変宮の人・笠井叡〉(《「死児」という絵》、思潮社、1980年7月1日、二二六〜二二九ページ)、=再録〈2 出会い・「ゲスラー・テル群論」〉と〈4 「変宮の人」〉(《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987年9月30日、八〜九ページ、一一〜一二ページ)、=再刊〈変宮の人・笠井叡〉(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988年9月25日、一六〇〜一六二ページ)とする。

 笠井叡が私の前に姿を現わす前には、当然ながら土方巽の恐るべき【虹→光】彩がたちこめている。いつのことか忘れたが、銀座の灘万で加藤郁乎の【〈→12《】形而情学【〉→12》】の犀星賞を祝う会があった。二次会は小さな部屋で、気の合った同【志→士】が酒と雑談に酔っていたが、親しい人のすくない私はひとり離れてぼんやりしていた。私の丁度向いに着物をきた人物が静かに酒をのんでいる。一寸ばかり気になる存在だった。そのうち突然、あとからきた飯島耕一が大声をあげて、私の卓の前へ坐って、酒をのみはじめた。向いあった人物と私が少しも言葉をかわさないので耕一は「なんだ、土方を知らないのか【?→(トル)】」。私は名前はなんとなく知っていたが、土方巽も【彼→12そ】の舞踏も知らなかった。彼は【私の〈→12《】僧侶【〉→12》】を既に読んでいるといった。それからうちとけて親密さを加え、彼の芸術を知らねばならぬと思った。
 四十二年四月二日午後、草月会館へ土方巽舞踏〈ゲスラー・テル群論〉を私はひとり見にいった。久しい間、私は舞踏を見ることがなかった。恐らく、コレット・マルシャンの〈決闘〉以来のことといえるだろう。世にある美しいバレエに真の肉体も人間の存在も、エロチシズムも感ぜられず今日に至るまで舞踏に【01(ナシ)→は】関心がなかったからだ。土方巽の舞踏詩〈ゲスラー・テル群論〉に、肉体を感じ、創造の心を、なによりもなまなましい存在感を見た【 →12。】詩にも映画にも劇にもかつてない、新しい世界をかいまみて【慓→12慄】然とした。なかでもある場面が印象深かった。その前の喧【燥→12噪】のシーンをうけて、うす暗く静謐な舞台、右の方に【ジ→12イ】ーゼルに大きな白いカンバス(紙)が置かれ、天井から函がおりてくると、突然、一番前の客席の中央にいた女が椅子の上にのり、ライトの中でふりむいた。白塗【(ナシ)→り】の顔に一刷け紅い絵具をつけた異様な美しさ。支那服から出た細い脚。函が地に着くと死んだ子が入っているらしい。嘆くごとく、なぶるごとく、狂った静かな踊りというより行為だ。【(ナシ)→12しばらくして、】白いカンバスのかげからビビ【ッー→12ーッ】と緊張した空気をふるわせ、巨大な白紙を突然やぶって【(ナシ)→12、】うごめく黒い長い手袋に覆われた腕。【(ナシ)→12それから一つの世界が開かれるのだった。】私は終ったあと、この踊手は何者だろう【。→? 】土方巽の動に対して静でみごとに受け止めたこの女装の人は、誰だろうと思った。これが笠井叡が私の前に出現した時であった。
 二度目は都市センターでの新鋭舞踏家の会で【01彼→笠井叡】の〈O嬢の物語〉を見た。【01笠井叡→彼】の踊り以外は、単なる運動のくりかえしに思えた。彼の〈O嬢〉は美と滑稽が混淆し昇華したエロチシズムを漂わせていた。
 ある【とき→12日】、笠井叡が私をたずねてきた。素顔の彼は一見普通の、神経質そうな青年だ。明治学院大学【学→12(トル)】生であること【にも驚いたが→12、政経を専攻してるのも意外だが】、それよりも来年卒業したら、ジャーナリズム関係の仕事をしたいから相談にのってくれと云われて、私はとまどってしまった。私に【(ナシ)→12と】って、【と→12(トル)】O嬢であり、支那服の美の権化が世俗な世界へおりてきて、就職するなんて考えられない。この稀有な才能がホワイトカラーの波のなかにもまれて行くのがたえられなく思えた。私は無責任なこと【ば→12(トル)】だが、【笠井叡は何も食わなくも→12アルバイトをしながらも】踊りつづけて欲しいので、けわしい道を行くことをすすめ【ざるを得なかっ→12(トル)】た。
 四十二年十月三十日夕方、笠井叡独舞公演〈舞踏への招宴〉が第一生命ホールで催された。私ははじめて妻をつれて行った。これは、彼の初期から現在までの代表作品を含めたもので、〈【磔→礫→磔】刑聖母〉、〈O嬢への譚舞〉、〈薔薇の精〉、〈牧神の午後への前奏曲〉、〈変宮抄〉、〈菜の花の男装に〉などで、どの一つをとっても、すばらしく、まさに夢の饗宴といえる。あのきゃしゃに見える【躯→12軀】で、実に二時間踊りつづけた笠井叡の精神力に圧倒されたのは、私ひとりではなかっただろう。
 息も絶えだえのラストで、舞台に横たわったまま、捧げられた花束を床に叩きつけながら、花びらを散らしていた姿は、もしかしたら幽鬼か、或は変宮の人ではないだろうか。

吉岡は=《土方巽頌》の〈2 出会い・「ゲスラー・テル群論」〉と〈4 「変宮の人」〉を執筆するにあたって、=初刊〈変宮の人・笠井叡〉を参照したと考えられる。自分の過去の文章を「参照」するというのも妙な言いぐさだが、(これはあくまでも私の直感に過ぎないが)自身の過去の日記を素材にして本書の〈日記〉を書いたのと同様に、随想〈変宮の人・笠井叡〉を転用したのではなかろうか。手入れを見れば、そう考えるしかない。それを前提に、=初刊〈変宮の人・笠井叡〉→=再録〈2 出会い・「ゲスラー・テル群論」〉と〈4 「変宮の人」〉を、上掲の〈変宮の人・笠井叡〉全文の手入れとは別の系統として、【】を(煩瑣になるので、の符号は表示せずに)掲げる。すなわち基底は=初刊。まず、前半の〈2 出会い・「ゲスラー・テル群論」〉から。

 【笠井叡が私の前に姿を現わす前には、当然ながら土方巽の恐るべき虹彩がたちこめている。いつのことか忘れたが、銀座 → 昭和四十二年二月九日の夕、築地】の灘万で加藤郁乎の《形而情学》の【(ナシ) → 室生】犀星賞【(ナシ) → 受賞】を祝う会があった。二次会は【小さな部屋 → せまい座敷】で、気の合った同【志 → 士】が酒と雑談に酔っていたが、親しい人のすくない私はひとり離れてぼんやりしていた。私の丁度向いに着物をきた人物が静かに酒をのんでいる。一寸ばかり気になる存在だった。【そのうち突然、あとからきた → だいぶ遅れて、大声をあげながら、】飯島耕一が【大声をあげて → 現われ】、私の卓の前へ坐って、酒をのみはじめた。向いあった人物と私が少しも言葉をかわさないので耕一は「なんだ、土方を知らないのか?」【。 → (トル)】私は名前はなんとなく知っていたが、土方巽もその舞踏も知らなかった。彼は《僧侶》を既に読んでいるといった。それからうちとけて親密さを加え、彼の芸術を知らねばならぬと思った。
 【四十二年 → その機会は意外に早くやってきたのだった。二カ月後の】四月二日【午後 → の午さがり】、【(ナシ) → 私は青山の】草月会館へ【土方巽舞踏〈ゲスラー・テル群論〉を私はひとり見にいった → 行った】。【(ナシ) → そして初めて、土方巽の舞踏劇? 「ゲスラー・テル群論」(ガルメラ商会謹製)を観たのである。】久しい間、私は舞踏【(ナシ) → なるもの】を見ることがなかった。恐らく、コレット・マルシャンの【〈 → 「】決闘【〉 → 」】以来のことといえるだろう。世にある美しいバレエに真の肉体も人間の存在も、エロチシズムも感ぜられず【(ナシ) → 、】今日に至るまで舞踏に関心がなかったからだ。土方巽の【舞踏詩 → (トル)】【〈 → 「】ゲスラー・テル群論【〉 → 」】に、肉体を感じ、創造の心を、なによりもなまなましい存在感を【(ナシ) → 、私は】見た【(ナシ) → ようだ】。詩にも映画にも【(ナシ) → 演】劇にもかつてない、新しい世界をかいまみて慄然とした。【(ナシ) → (改行)】【(ナシ) → (全角アキ)土方巽が二度ほど、声を発したのには意表をつかれた。】【なかでもある場面が → しかし】印象深【かった。その前 → いのは、今まで】の喧噪【の → 的な】シーン【(ナシ) → の後】を【う → 受】けて、【うす → 始まった】暗く静謐な舞台【、 → だ。】右の方にイーゼル【(ナシ) → があり、それ】に【大き → 巨大】な白いカンバス(紙)が置かれ【、 → ている。やがて】天井から函が【お → 降】りてくると、突然、【一番前 → 最前列】の客席の中央にいた【(ナシ) → 若い】女が椅子の上に【の → 乗】り、ライトの中で【ふ → 振】りむいた。白塗【(ナシ) → り】の顔に一刷け紅い絵【(ナシ) → の】具をつけた異様な美しさ。【(ナシ) → ゆっくり舞台に上る、若い女のまとう】支那服から出た細【(ナシ) → く白】い脚【(ナシ) → なやましく】。函が地に着くと【(ナシ) → 、】死んだ【子 → 児】が入っているらしい。嘆くごとく、なぶる【(ナシ) → が】ごとく、【狂った静かな → 物狂いのかんまんな】踊り【(ナシ) → 、】というより行為だ。しばらくして、白いカンバスのかげからビビーッと緊張した空気をふるわせ、巨大な白紙を突然【やぶ → 破】って、【うごめく → (トル)】黒い長い手袋に覆われた腕【(ナシ) → がうごめく】。それから一つの世界が開かれるのだった。【私は終ったあと、 → (トル)】この踊【(ナシ) → り】手は何者だろう【(ナシ) → か】。土方巽の動に対して【(ナシ) → 、】静でみごとに受け止めたこの女装の人は、誰だろうと思った。【これが → それは】笠井叡【が私の前に出現した時であった。 → であり、大野一雄の弟子とのことである。】

上掲に続けて、=〈変宮の人・笠井叡〉には次のような笠井叡のプロフィールがあった。

 二度目は都市センターでの新鋭舞踏家の会で彼の〈O嬢の物語〉を見た。笠井叡の踊り以外は、単なる運動のくりかえしに思えた。彼の〈O嬢〉は美と滑稽が混淆し昇華したエロチシズムを漂わせていた。
 ある日、笠井叡が私をたずねてきた。素顔の彼は一見普通の、神経質そうな青年だ。明治学院大学生であること、政経を専攻してるのも意外だが、それよりも来年卒業したら、ジャーナリズム関係の仕事をしたいから相談にのってくれと云われて、私はとまどってしまった。私にとって、O嬢であり、支那服の美の権化が世俗な世界へおりてきて、就職するなんて考えられない。この稀有な才能がホワイトカラーの波のなかにもまれて行くのがたえられなく思えた。私は無責任なことだが、アルバイトをしながらも踊りつづけて欲しいので、けわしい道を行くことをすすめた。

このブロックは、=《土方巽頌》には採られていない。それというのも、=〈変宮の人・笠井叡〉は笠井叡が主題だったが、土方巽が主題である本書にはそぐわないと考えたからだろう。【】の後半を続ける。〈4 「変宮の人」〉である。

 【四十二年十月三十日夕方 → 「舞踏ジュネ」の会から二カ月後に】、笠井叡独舞公演【〈 → 「】舞踏への招宴【〉 → 」】が第一生命ホールで催された。私は【はじ → 初】めて妻をつれて行った。【(ナシ) → 招待席には常連のほか、瀧口修造と革ジャンパー姿の三島由紀夫が見えた。】これは、彼の初期から現在までの【代表作品を含めたもので → 成果である】、【〈 → 「】【礫 → 磔】刑聖母【〉 → 」】、【〈 → 「】O嬢への譚舞【〉 → 」】、【〈薔薇の精〉、 → (トル)】【〈 → 「】牧神の午後への前奏曲【〉 → 」】、【〈 → 「】変宮抄【〉 → 」】、【〈 → 「】菜の花の男装に【〉 → 」】などで【、 → あった。】【どの一つをとっても、 → どれも】すばらしく、まさに【夢の饗宴といえる → 夢幻の一夕である】。【(ナシ) → とくに「O嬢への譚舞」は美と滑稽が混淆し、昇華したエロチシズムを漂わせていた。】【あのきゃしゃに見える軀で → たえず扮装や衣裳を替え】、【実 → じつ】に二時間【(ナシ) → も】踊りつづけた【(ナシ) → 、】笠井叡の精神力に圧倒されたのは、私【ひとり → たちだけ】ではなかっただろう。【(改行) → (追い込み)】【(全角アキ) → (トル)】息も絶えだえのラストで、舞台に横たわったまま、捧げられた花束を床に叩きつけながら、花びらを散らしていた姿は、もしかしたら幽鬼か、或は【(ナシ) → 「】変宮の人【(ナシ) → 」】ではないだろうか。

「「舞踏ジュネ」の会」は、前項〈3 「舞踏ジュネ」〉の「〈日記〉 一九六七年八月二十八日」に「夜六時半、日比谷の第一生命ホールへ行く。土方巽の弟子石井満隆のリサイタル「舞踏ジュネ」を観る。〔……〕笠井叡と高橋久子を誘って有楽町で食事し、倫敦屋でお茶を飲んだ。」(《土方巽頌》、一〇〜一一ページ)として登場する。「息も絶えだえのラストで、〔……〕幽鬼か、或は「変宮の人」ではないだろうか。」という最後の一文は、そこから「4」の標題が採られているとおり(あるいは逆に標題に合わせてそこに手を入れたとおり)、土方巽を一行で刺し貫いた「舞踏とは命がけで突っ立った死体である――土方巽」に匹敵する殺し文句だと思う。そのためにも、追い込まずに、一文で一段落を構成する元の形が望ましかった。試みに読点で改行してみよう。

息も絶えだえのラストで
舞台に横たわったまま
捧げられた花束を床に叩きつけながら
花びらを散らしていた姿は
もしかしたら幽鬼か
或は「変宮の人」ではないだろうか

吉岡の詩篇〈使者〉(H・18)には「笠井叡のための素描の詩」と詞書がある。その「5」はこうである。詩句において、闇と光を変幻自在に交錯させる吉岡の膂力は、ほんとうに怖ろしい。

「雨のような
亀裂の肉体を顕示せよ
音にさらわれ
わたしの肉体は徐々に光度を低下させて
ついに闇のうちに消えかかり」
贖罪そのものの
観念と化すだろう
アストラル
アラベスク
アメーバのごとく

初出〈変宮の人・笠井叡〉(《ANDROGYNY DANCE》第1号(1968年8月1日)の紙面
初出〈変宮の人・笠井叡〉(《ANDROGYNY DANCE》第1号(1968年8月1日)の紙面 〔吉岡陽子夫人による日付の記入のある切り抜き記事のモノクロコピー〕

〔付記〕
=初刊を基底にして、=再録の本文にするための手入れを論者=小林が赤字で再現した最初の見開き(226-227ページ)は、吉岡による斧鉞のあとも著しい、気合の入った本文である。参考までに【】を掲げるが、後半のこちらの見開き(228-229ページ)の手入れは軽微だ。

1=初刊を基底にして、2=再刊の本文にするための手入れを再現した見開き 1=初刊を基底にして、H=再録の本文にするための手入れを再現した見開き
=初刊を基底にして、=再刊の本文にするための手入れを再現した見開き(左)と=初刊を基底にして、=再録の本文にするための手入れを再現した見開き(右) 〔どちらの赤字も論者=小林によるもの〕


郡司正勝の土方巽評(2021年2月28日)

前回の《土方巽頌》本文校異(抄)では、ほぼ書きおろしの《土方巽頌》で例外的に吉岡実が先行して雑誌に発表した文章の初出形〜再録形〜定稿形の校異を試みた。だが、《土方巽頌》は副題に「――〈日記〉と〈引用〉に依る」とあるとおり、土方巽その人を含む他者の文章の引用と、吉岡自身の日記を骨子としている。吉岡実日記の原本は見ることがかなわないが、他者の文章は、原則として原文と引用文との比較照合が可能だ。ただ厄介なことに、吉岡は個個の引用文の後にその執筆者名を記すだけで、引用元の標題を書いていない。巻末の〈引用資料〉にも、土方の著書と舞踏写真集、大野一雄の著書の題名のほかは、いくつかの雑誌・カタログ・新聞の題号と発行年月日が挙げられているだけで、〈引用資料〉の末尾は「その他 舞踏のパンフレット、チラシ、台本など。」(同書、二四四ページ)と、はなはだそっけない。具体例を挙げよう。〈2 出会い・「ゲスラー・テル群論」〉は、吉岡自身の〈変宮の人・笠井叡〉(初出は1968年8月1日発行の《ANDROGYNY DANCE》1号、のち1980年刊の《「死児」という絵》に収録)を換骨脱胎した文章で(当然ながら出典は記されていない)、そのあとに1行空けて次の引用がある。

 「『ゲスラー・テル群論』に賛助出演したとき、全裸の前の部分を鳥の羽根の扇でわずかに隠しながら絶妙に立っていた土方巽の美しさは、いまなお瞼に焼き付いていて離れない。鳴り止まぬ拍手に応えてビートルズ・ナンバー『イェスタデイ』をBGにくり返しながら、アダムを思い出したラスプーチンのごとき超男性の愁いを、泡立つヴィーナスの誕生で乱されまいとする風情に傾けながら立っていた。」 (加藤郁乎)

加藤郁乎のこの文章はどこかで読んだことがある。だが、それが何という媒体のどこに載っていたか、どうしても想い出せない。ことほどさように、「土方巽その人を含む他者の文章の引用」の照合・校異は、まずはその出典を明らかにすることから始めなければならない。今回は前哨戦というわけではないが、ある人物(その「全集」には、ありがたいことに人名索引が完備している)の文章の出典を探索することにしたい。
郡司正勝(1913〜1998)は歌舞伎研究家、演劇評論家。Wikipediaに「1954年に発表した『かぶき・様式と伝承』(1955年度芸術選奨文部大臣賞受賞)は、歌舞伎研究に民俗学の成果を導入し、芸態の持つ精神構造に光を当てた点で画期的な著作。〔……〕現代演劇・舞踏にも造詣が深く、その方面での発言も多い。」とあるように、暗黒舞踏や土方巽をたびたび論じている。ものの順序として、吉岡実《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987)に登場する郡司正勝を見ておこう。次の4箇所である。なお、見出しの次の( )は掲載ノンブル。

   29 アートヴィレッジにて(51-52ページ)
 〔……〕
 「舞踏手の、これまでの舞踊に反する姿態に、優美に対する醜悪がある。ガニ股、屈折した背、縮んだ手足、おそらく舞踊の美に反するこれらの体位は、どこから発想されたか。どこにルーツがあるのかということと、舞踏の存在を認め得るかどうかということに係ってくる問題がある。もしこれを認めなければ舞踏は存在し得ないのである。しかし、そういった姿勢に美を認める要因は、実は、伝統演劇たるかぶきにあるのである。猪首、屈背は、すでに、坪内逍遥も、惨酷と卑猥の美と結びつけて、幕末かぶきの美を成立せしめていることを説いている。暗黒舞踏が、西洋の眼からかぶきといわれる要因はそこにあろう。舞踊のタブーを犯して成立した舞踏の日本の再発見がここにある。しかもそれが日本風土を突き抜けて到達しているのが、胎児の姿勢であり、現代における怨念の姿勢となっているからであろう。」 (郡司正勝)

   36 「四季のための二十七晩」――第二次暗黒舞踏派結束記念公演(58-60ページ)
 〔……〕
 「『疱瘡譚』については、私は、勝手に、疱瘡の死神の舞踏なのだろうとみていたが、土方の蓬髪の珊瑚玉の簪のなまめかしさは、『道成寺』を想い出させるのに十分であった。隠岐の島の神がかりになる老巫女の、衣裳のなかの肉体の妖しさは、その珊瑚玉の朱の色に似ていた。神がかりとは、その肉体に、神が乗り移り、入りこむ恍惚にあるのだが、もし、その肉体のなかを覗きこむとすれば、土方の恍惚の舞踏になるのであろう。」 (郡司正勝)

   56 白塗りの起源(108-109ページ)
 「暗黒舞踏団の『白塗り』の肢体をみてると、壁の中に閉じ込められた感じがしてくるのはなんなのであろうか。もしかして、反逆の罪の罰の色なのかとも想ったりする。いうまでもなく、その白さは、澄明な性質のものではない。その裸形の底には、闇の黒を沈めていて、異様に隠蔽の匂いが立ち寵めているのである。
 もともと『白』は、なんらの色なき世界を表わす、『死の世界』の表識である場合と、太陽の白光を指示する『生の世界』の表識である場合との両儀をもつものであるといえよう。
 暗黒舞踏団の『白塗り』の世界では、白い泥をかぶったという印象がつよい。おそらく、そこには、死の灰をかぶった生物と共通する心象が成立するのではないかとおもう。白はおそらくは、元初には、死者の白骨の連想がある。」 (郡司正勝)

   90 「舞踏懺悔録集成」開催(176-178ページ)
 〔……〕
 〈日記〉 一九八五年二月九日
 大雨。夕刻から銀座へ出る。有楽町のマリオンの朝日ホールに行く。華やげるロビーの辺り。「衆踏前夜祭」での土方巽、郡司正勝の講演と暗黒舞踏のスライド上映を観る。テキストを前にしたとはいえ、土方巽は四十分以上も喋った。予定のテーマの「衰弱体の採集」をやめ、「風だるま」という生地の体験と『日本霊異記』の一節、僧景戒の夢の話と挿入して巧みにまとめた。終って、レストランアラスカで、軽食パーティーとなる。土方巽は風邪気味でやつれていた。飯島耕一、宇野邦一らと雑談し、十一時に帰る。

郡司には、生前に「選集」ともいうべき《郡司正勝刪定[さんてい]集〔全6巻〕》(白水社、1990〜1992)がある。その〔第3巻〕は〈幻容の道〉と題され、(郡司門下の古井戸秀夫と)舞踊評論家の市川雅章(市川雅)が解題を書いていることからもわかるとおり、郡司の舞踊論をまとめた巻になっている。〔第6巻〕にある、200ページ近い文字どおりの労作、〈郡司正勝刪定集総索引〉によれば、「土方巽」はこの巻の7箇所に登場する。郡司の文章の標題を掲げると、

  伸びる・屈む
  肉体と象徴について
  破戒のなかの婚儀――舞踊への道
  土方巽という古典舞踏
  舞踏という舞踊の季節

の5篇となる。さらにこれを〔第3巻〕巻末の〈初出一覧〉の発表年月日の順に並べかえると、以下のようになる(行頭に赤色で丸中数字を振った)。

@土方巽という古典舞踏(「死という古典舞踏」改題)
 「美術手帖」昭和48年2月号 『鉛と水銀』収録

A破戒のなかの婚儀
 「現代詩手帖」20巻4号 昭和52年4月

B伸びる・屈む(「《伸びる》と《屈む》と」改題)
 「夜想」9 昭和58年7月

C舞踏という舞踊の季節
 「朝日新聞」昭和60年2月19日夕刊

D肉体と象徴について
 「舞踊学」10 昭和62年12月

《郡司正勝刪定集〔第3巻〕幻容の道》(白水社、1991年4月20日)から、@Dの順で、該当する箇所を引く。標題に「土方巽」を含む@は全篇である。

―――――

@彼が暗幕の前で、透明なアクリル板の後ろで、徐々に、一本足を選んで立つと、死のエクスタシーをよびおこした。まるで、死神の踊りがはじまろうとするような予感が走り、それは、エロチックですらあった。
 彼の肉体は、みるもいじましく責めぬかれていて、その故里の東北の荒れ田圃のなかで、雪みぞれに打ち砕かれて立つ、骨になった破れ案山子をおもいださせた。
 その身体は、肉体といわれるものと対決しており、死という古典の形象に迫って、はなはだ甘美な骨の舞踏の無音の音楽を奏ではじめていた。まことに見事な古典舞踏というほかはない。
 しかも、土方巽は、洞窟の中を通りすぎてゆくように、肉体の内部を刻々と覗いていて、自分の肉体でいて、自分の肉体でないものを視ているような、そこには、見せる・見るといった関係は成り立っていないようであった。見物も、土方の踊っている肉体をみ、土方も、その肉体を視ていて、世の常の舞台芸術と、その状況を異にするかのようである。ほとんどは若い見物であるが、その反応の仕方は、まるで一方的で、一種の唸りのようなものになっている。同血族意識的な呪術の荒野というほかはあるまい。
 それは民俗芸能のうちにしかみいだすことのできない種類のもののようにおもわれる。たとえば、天竜川上流の山間の流域で、真冬に行われる「花祭」や「雪祭」の舞人と見物のあいだには、見る・見せるという関係は成り立っていない。見る者は他所者であって、追い出される。一つの世界を成就するためには同族でなければならないという原則が働くのである。見る・見られるといった関係では、いつまでも芸術は不毛なのであろう。
 それは、血の舞踏とか死の舞踏とかいうしか仕方のないものであろう。年中かなりの舞踊発表会をみるのだが、しいておもいだそうとしなければ、ほとんどは忘れ去ってしまうのだが、こちらがおもいだそうとしなくても、ふっと視界をよぎるのは、花祭の火影のなかの舞と土方巽のそれである。そのとき、一種の土の匂いのようなものが立ちこめる。花祭のそれは、雪に濡れた黝い山の霊といった土の匂い、土方のそれは、日向臭い肉体の塵埃が足元から舞い上がる匂いであった。
 若い見物たちの反響は、その呪術の解かれるのを嘆き、拒否し、恋い慕う、それであった。私は、こんな反応の仕方をした、舞台を惜しむ拍手はきいたことがない。

 私が、今度みたのは「疱瘡譚」と「すさめ玉」の二本である。市川雅が、二枚の招待券を、やや興奮してくれたので、切符は買わずにすんだが、若い友人に行列してもらって、二回とも、どうやら腰かけてみることができた。あと三回分も、切符があったらみたに相違ない。招待券をもらっても、舞踊会などは、みたくないものが多いのに、たしかに、土方巽の舞踏は、食欲をそそる手応えがあるのだ。
 そこには、これまでの芸術的舞踊といわれるものとは異なる、そんなものが色褪せてしまう、迷って、覚めている舞踊の故郷がある。私は、彼の舞踏は、新しいのでなく、根元に触れたがゆえに、人間の古典があるのだとおもう。
 私がはじめて、彼の舞踊をみたのは、武智鉄二のヌード舞踊(?)「道成寺」の坊主であった。私は、彼の名前を記憶していなかったが、その裸坊主の肉体ははっきりと覚えていた。それが土方巽であったと知って、いまは、その衝撃が大きい。あの蠱惑的な脂の乗った刃金のような男性的な美しい肉体と、いまの、骨にへばりついてるばかりの筋肉の肉体とが、同一人物であったのである。おそらく、彼の肉体革命が、その舞踏革命の根元につながっているのであろうことは、それによって直感的に察することができる。
 先に「骨餓身峠」などの舞台を、一、二度はみているのだが、ただにヨガの行者のようなという異常さのみが印象にのこったが、それが、「道成寺」のときの男性舞踊家とは思いもつかなかったのである。「暗黒舞踏派」とか、「燔犠大踏鑑」だとか、わけのわからぬ、見世物小芝居の看板みたいな語りは、一種のレッテルだろうからどうでもいいが、暗黒思想と胎内が結びつく、あの「道成寺」の日の、鐘の内を胎内と見立てた武智の発想をおもいおこさずにはいられない。
 「疱瘡譚」については、私は、勝手に、疱瘡の死神の舞踏なのだろうとみていたが、土方の蓬髪の珊瑚玉の簪のなまめかしさは、「道成寺」をおもいださせるのに十分であった。隠岐島の神がかりになる老巫女の、衣裳のなかの肉体の妖しさは、その珊瑚玉の朱の色に似ていた。神がかりとは、その肉体に、神が乗り移り、入り込む恍惚にあるのだが、もし、その肉体のなかを覗き込むとすれば、土方の恍惚の舞踏になるのであろう。
 その点では、芸術舞踊[、]よりはそれ以前の舞踏[、]のほうがふさわしい。肉体を素材とした芸術でなく、肉体そのものを食う行為そのものが踊なのだから、死の舞踏なのである。
 土方の舞踏を、東北のかぶきなどという言い方があるのだというが、おそらく、いまのかぶきなどの知ったことではあるまい。もし日本人の胎内のうごめきを、かぶきというなら、今日のかぶきが、ことごとく脱落させていったもの、その肉塊を拾いあつめて、骨[こつ]寄せした幻影なのであろうとおもう。それを古典というなら、その古典の根拠は、おそらく彼の生まれの東北にあるからである。
 彼の古典のその一つは、どうしてだか爺さんでなく、婆さんの姿勢にある。しかも、東北の腰の曲がったお婆さんの立ち小便の姿勢とおなじく確固たる不動の「型」にある。それは抜群の力倆をみせる芦川羊子に移されてみごとに開花している。まことに、それは、雪道で、お婆さんが、手でひねりだして売っている紙の造花の紅色のように美しい。人工の極をみせる。
 それはあたかも、お婆さんという骨身の肉体が、たしかな存在を示すに似ている。私も少年の日に出会った一つの光景を、懐しくおもいおこすのだが、それは生が尽きようとするときのエロチシズムにある。道端で、前こごみになったお婆さんが、ワニ足になって、着物の裾を、落ちないように尻の上にたくし上げるたしかさ、そして両膝に両手をおき、用をたしたあと、拭いた紙片が、尾底骨の先に、ひっついていて、その股間を通りすぎる風のたしかな空間、それは、まことに日本の老婆の典型的な、涙の凍るような地球上の古典なのだとおもうのだが、土方の「型」には、そこに迫る肉体がある。死の舞踏は、その東北の日に殺してしまった風景を、踊っているようにおもえてならない。
 土方の前こごみの猫背になる姿勢は、恥ずかしさにはにかみ、優しさの極をみせるが、その途端、地獄から吹いてくる風が、骨のきしみを奏でる。骨寄せの優雅な手先は、霊妙な音楽となって立ち昇る。
 そこには、世の常の肉体の修練というものがない。表現、素材といった肉体の修練を無視した骨身がよんでいる動きがあるだけである。修練、積み重ねといったマヤカシがない。
 少年の日に、東北地獄のなかで、美しき肉身の死という女人をみてしまった彼の生の日々は、そこからはじまっているかのようである。彼も、そういった雪女に出会ったひとりなのであろう。あれはたしかに少年の日の死につながっていよう。そこには老婆と少年がいる。そういった世界構造が、彼の舞踏を支えているようにおもわれる。舞台という孤独な地獄で、彼は、いま、徐々に徐々に、その片足で、たしかに立っているのである。これを古典といわなければ、なにをもって名づけるのか。そこに、東北の原日本人がいる。生という不当なものをだんだんに背負ってゆく彼がいる。
 ベートーヴェンやショパンという古典が導入され、「牧神の午後」のニジンスキーがあらわれようと、雪国を巡る女相撲や女郎の群がジョンガラ節とともに通りすぎようと、瞽女の群が、三味線を弾いて過ぎようと、みなおなじ東北の古典にちがいない。
 ことに、前帯姿の田舎女郎たちが、帯を抱え、足駄を鳴らして、女馬のように、舞台を下手から上手へ横切る構成は印象的だ。白粉にまぶれた芦川羊子の眼は、きっと張っていて、猪首を据えた姿態は英泉の女絵さながらである。
 馬蹄の響きは、録音によって、凍てついた地上を通りすぎる。女たちの足駄の響きは、馬の蹄の音と交錯して、その行進曲が雪煙りをあげて、冬眠している人間どもの頭上を過ぎてゆく。少年の土方は、じっと、息をこらして凍土の地層の下でそれを座標の音として聞いている。
 瞽女唄とジョンガラの三味線の響きは、東北のベートーヴェンであり、葛の葉の子別れの段の教訓は、イジコ(揺籃)に入って、垂れ流しの幼児の日のシューベルトの子守唄である。手足の立ち腐ってゆく、痺れの唄でもあり、死に腐ってゆくことの、確実なキリストの光栄の約束をみるようでもあり、幕末の芳年の描いた「二十八衆句」の血の艶のようでもあった。
 気味の悪さは、アミーバのように、拡がってゆく動きであり、形のない蚕食の動きのたしかさにある。また興行師のイカガワシサは、その演出のおもしろさにある。
 とにかく、私は、土方巽の舞踏に、刻々に肉体が死んでみせるときに、エロスが発散され、死の古典が成就してゆくのをみた。(253-258)


A舞踊のイメージは、暗黒舞踏派の舞踏がはじまって変わりつつあるといってよかろう。舞踏は、いま黒いマントを纒って目の前にあらわれているのは、かつて中世の西欧を通りすぎた「死の舞踏」の再来をおもわせる。
 華やかであるべき舞踏会は、いまや黄昏の荒野の戦場跡に場所を移し、髑髏の仮面に、大きな草刈鎌を薙ぎたてて、風の音だけを伴奏に、孤独な舞を奏でるイメージを引きずって、秘かに戦後の繁栄の大都会東京の地下に、骸骨の舞をまって住みついたかのようである。
 土方巽の舞踏のそれが、戦場に駆り立てた喇叭の音と天使が吹くそれとが、折重なり、二重の旋律をなして、黒衣白面の男どもが、ひょろひょろと立ち上がり、目を剥いた女たちが横這いに這い廻るとき、新しい舞踏の意味がはじまったのを、たしかに証拠とすることができる。
 武智鉄二が、戦後、ヌード能をもってして、古典の舞の権威を、高御座から引き摺り下ろした目覚ましい為事は、意義がちがっても、舞踊の社会的既成概念を叩き壊す役目を果たした。それは、門外漢の他界からの破戒でなく、十分に、古典的伝統の深い理解と同情力をもつ内からの行為であったことに意義があり、古典を独鈷にとって、それを武器として、みずからの世界を打ち破ろうとした点に先駆的な働きがあったとすべきであろう。
 武智のこうした伝統派からみた悪行と破戒行為は、戦後の舞踊史の出発を意味し、約束するものであったと評価することができる。かぶき舞踊に対しても、川口秀子と組んだ初期の「競馬」や「梅川」のごとき舞踊作品や、砂防会館でみせた「道成寺」のごときは、その解釈的意義はともかくとして、その舞踊という行為には、世の顰蹙を買ってもなお破戒するときにみせる新鮮な火花が立ったのを忘れることができない。
 土方巽が、その武智の「道成寺」に参加していて、坊主鬘で、鐘のなから、すばらしい裸形の肉体を駆使した踊をみせて出現したことを覚えている人がいるだろうか。それは、土方の舞踏が生まれる、伝統古典の破戒のなかで営まれた、日本舞踊とモダンダンスとの象徴的な婚儀の式であったのだと、いまになっておもいあたるのである。
 その武智は、別に舞踏という語を使っているわけではなかった。それは、新しいものを生み出す前の一種の破戒行動ともいうべきものであったのであろう。土方の「舞踏」は、その荒野を土壌として生まれた、見事なる暗黒の子であった。
 土方巽の舞踏は、舞踊の正統な子でないことを、自ら名のりあげた、自らの差別語であろう。従来の安易なる舞踊に決別を宣言した孤児たることを誇示した迷子札であろう。「舞踏」なる語は、ここから新しい舞台となった荒野に出発することとなる。(239-240)

Aしたがって、明治の「舞踏」は、王朝の復権が西洋舞踊と出会った姿であった。それを嫌った坪内逍遥の「舞踊」は、伝統の復権と未来像に呼びかけた語であった。しかしその舞踊も、新舞踊運動を過ぎると、安易な繁栄に流れて今日に至っている。その舞踊の安易さ、陳腐さを嫌って、もう一つの新世界がいまはじまっている。それが新しい大野一雄・土方巽・笠井叡・芦川羊子・勅使河原三郎らの「舞踏」の土壌だということができるかどうか。もう少し、時間をかけて舞踏の行方を追跡してみたい。(245-246)


Bはじめて土方巽の舞踏に接したとき、これまでの舞踊という概念の前で、「驚き」と「困惑」を感じた。私にとっては、それは一つの魅力であった。しかし、それを「新しい」動向と受け取るには、躊躇があり、またそうした種類の驚きではなかった。(79)

Bそうした流れに関せず、洋舞畑に昭和四十年代からあらわれた、いわゆる暗黒舞踏といわれる新人たち、大野一雄、土方巽などを出発点とする舞踏の流れは、洋舞畑から出たために、従来の日本舞踊とは、なんら関係なしに、日本人の舞踏を開発したといえる。しかし、その根源には、本来、広い、遠い意味の、日本民族の根底を流れる「骨がらみ」の肉体舞踊があったといえよう。(84)

B今日、かぶき舞踊の流れの新舞踊が、取り残されてしまった袋小路から、立ち上がるためには、民族舞踊の初原に立ち戻らざるをえなかろう。暗黒舞踏は、おもいがけぬ闇の彼方から訪れはしたが、やがて日の当たる場所に登場したとき、その体質はどう変わらねばならないのか。たんに異状発生の現象として、やがて消滅する運命なのか、世界に流出していったままになるのか。いや、私は「殺す」ことによって再生をうながす基本的行為なのであろうと信じたい。(86)


C「舞踏という舞踊」という言い回しは、日本語では成立しないが、ヨーロッパでは「ブトー・ダンス」はすでに定着した語となっているのは意味がある。
 昭和六十年二月、九日を前夜祭として二十七日まで、日本文化財団企画の「舞踏懺悔録集成」(副題「七人の季節と城」)と題した、暗黒舞踏家といわれる七人の舞踏家たちによる舞踏フェスティバルが十四回にわたって東京有楽町の朝日ホールおよび新宿文化センターで開催されたが、異常な人気で、入場券の入手が困難という状況を呈した。「舞踏」が、たんに舞踊の分野だけでなく、新しい芸術の世界へと、一挙に推し進めていった美意識の革命というものを、いまや認めないわけにはゆかないだろう。
 すでに二十五、六年の歳月を底流してきた、この日本生まれの暗黒舞踏が、いま、地球の裏側で火を噴いた姿を、われわれ日本人が、とまどった形で受け容れざるをえなくなった状況を、どう説明すればよいのか。
 このフェスティバルに、この世界の教組とされる土方巽が「舞踏懺悔録集成」と命名したのは、くしくも日本の精神文化の懺悔録となった今日の日を暗示しているようである。(263-264)

C大野一雄の舞踏は、どちからといえば、西欧的なハイカラな透明なスタイルをもっている。今回の出演はないが、これに反して土方巽の舞踏は、この国の土俗的な東北の風土と胎児経験に根差している暗いところがある。しかも、この二人は、函館と秋田の出身であり、これにつづく若手の五井輝も北海道出身である。(264)

C暗黒舞踏家の肉体には、しばしば母や姉や、あるいは憧れの人の霊が棲みついている傾向がある。大野一雄には母が、土方巽には姉が棲みついていた。それもイタコ(巫女)がもつ伝統的な風土なのだといえる。
 もちろん、舞踏は、舞踊と関係なく、伝統を断ち、あるいは無視したところにはじまった。そこには近代性が切り捨てた世界がある。彼らが、暗黒の国に下降するとき、形骸化した伝統を断つことによって伝統の継承がはじまったことを認めぬわけにはゆかぬだろう。
 市川雅は、舞踏に、即興派と形式派の対立があることを指摘している。それはおそらく天来の啓示を享けた人間の肉体の惧れと無心の動きが反応する型の大野一雄派と、人間の肉体の原形を闇の風土の胎児の目がみた動きを追求する土方巽派との二つの傾向を指したものと考えられるが、いずれにしても、戦争、敗戦を体験した日本人の肉体が思い知らされた、日本の風土から生まれた世代に発したものにちがいあるまい。
 舞踏とは、戦争という暴力のあとにのこった、骨と皮の動物に落ちた闇のなかで、人間が人間であることを発見した優しさの表現ではなかったのか。大野・土方の舞踏には、怯えるような優しさがあっても、もう一つの世代の若い舞踏家にみられる脅かすような暴力的な表現はない。またそこには、創造とか自我とか個性といった気負った虚栄はない。ここに近代と絶する新しい次元がみられる。(266-267)


Dこの国の舞踊のための身体は、訓練こそ必要とするものであるが、その肉体は、仮の宿とすべき幽玄の器となること、俗肉を脱落せしむべきためであって、豊満な完全美を目的としていない。いみじくも暗黒舞踏家土方巽がいった「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」というのが、東洋の身体の理念であったのではなかろうか。(234)

―――――

こうして素材としての資料が出そろった処で、《土方巽頌》に登場する郡司正勝とその文章の出典について、まとめておこう。

〈29 アートヴィレッジにて〉に引かれた郡司の――「舞踏手の、これまでの舞踊に反する姿態に、優美に対する醜悪がある。〔……〕しかもそれが日本風土を突き抜けて到達しているのが、胎児の姿勢であり、現代における怨念の姿勢となっているからであろう。」――は〈舞踏と禁忌〉(初出:「現代詩手帖」28巻6号 昭和60年6月)から。《郡司正勝刪定集〔第3巻〕》の〈舞踏と禁忌〉の「二 存在ということ」の冒頭の段落はこうである。

 舞踏手の、これまでの舞踊に反する姿態に、優美に対する醜悪がある。ガニ股、屈折した背、縮んだ手足、おそらく舞踊の美に反するこれらの体位は、どこから発想されたのか、どこにルーツがあるのかということと、舞踏の存在を認めうるかどうかということにかかわってくる問題がある。もしこれを認めなければ舞踏は存在しえないのである。しかし、そういった姿勢に美を認める要因は、実は、伝統演劇たるかぶきにあるのである。猪首、屈背は、すでに、坪内逍遥も、残酷と卑猥の美と結びつけて、幕末かぶきの美を成立せしめていることを説いている。暗黒舞踏が、西洋の眼からかぶきといわれる要因はそこにあろう。舞踊のタブーを犯して成立した舞踏の日本の再発見がここにある。しかもそれが日本風土を突き抜けて到達しているのが、胎児の姿勢であり、現代における怨念の姿勢となっているからであろう。(251)

〈36 「四季のための二十七晩」――第二次暗黒舞踏派結束記念公演〉に引かれた郡司の――「『疱瘡譚』については、私は、勝手に、疱瘡の死神の舞踏なのだろうとみていたが、土方の蓬髪の珊瑚玉の簪のなまめかしさは、『道成寺』を想い出させるのに十分であった。〔……〕神がかりとは、その肉体に、神が乗り移り、入りこむ恍惚にあるのだが、もし、その肉体のなかを覗きこむとすれば、土方の恍惚の舞踏になるのであろう。」――は@〈土方巽という古典舞踏〉から。

〈56 白塗りの起源〉に引かれた郡司の――「暗黒舞踏団の『白塗り』の肢体をみてると、壁の中に閉じ込められた感じがしてくるのはなんなのであろうか。〔……〕白はおそらくは、元初には、死者の白骨の連想がある。」――は〈舞踏と禁忌〉(前出)から。《刪定集〔第3巻〕》の〈舞踏と禁忌〉の「一 白の恐怖」はこう始まる。

 暗黒舞踏団の「白塗り」の肢体をみていると、壁の中に塗りこめられた感じがしてくるのはなんなのであろうか。もしかして、反逆の罪の罰の色なのかとおもったりする。いうまでもなく、その白さは、澄明な性質のものではない。その白い裸形の底には、闇の黒を沈めていて、異様に隠蔽の匂いが立ちこめているのである。
 もともと「白」は、なんらの色なき世界をあらわす「死の世界」の表識である場合と、生まれる前の白明を暗示する「生の世界」の表識である場合との両義をもつものであるといえよう。
 暗黒舞踏団の「白塗り」の世界では、白い泥をかぶったという印象がつよい。おそらく、そこには、戦後の死の灰をかぶった生物と共通する心象が成立するのではないかとおもう。白はおそらくは、原初には、死者の白骨の連想がある。(247-248)

吉岡は、@の初出掲載誌《美術手帖》1973年2月号に土方の「〈馬を鋸で挽きたくなる〉」を題辞に引いた〈聖あんま語彙篇〉(G・8)を寄せている。また、《現代詩手帖》は創刊号以来、詩人・吉岡実にとってホームグラウンドのような雑誌である。吉岡は、郡司からの引用に限ってみれば、広く渉猟した結果というよりも、身近な文献を読みこんだうえで、その精髄を抽出したものと思しい。現に〈補足的で断章的な後書〉の「18」では、「私は無断できわめて断片的に、多くの方々の文章を「引用」させて頂いた。何卒、ご寛容のほどを。皆様に深く感謝いたします。また広く資料に眼を通していないゆえ、見落した貴重な「証言」も、数多くあると思われるが、それも許して頂きたい。」(《土方巽頌》、二四一ページ)と釈明している。吉岡が今少し長命を保って、《郡司正勝刪定集〔全6巻〕》(白水社、1990〜1992)を手にしたなら(吉岡と郡司や版元との関係から推察すれば、献本されたはずだ)、上掲の@Dをはじめとするあちこちから、郡司による土方評を《土方巽頌》に増補したのではあるまいか(〈56 白塗りの起源〉の引用文も校訂したか)。たとえ、増補版や新版といった書籍としてまとめることはなくても。

〈90 「舞踏懺悔録集成」開催〉について、郡司はC〈舞踏という舞踊の季節〉で同フェスティバルとその命名者である土方巽に言及している。なお、吉岡が触れている土方の講演〈風だるま―舞踏懺悔録集成〉は《現代詩手帖》1985年5月号に掲載後、《土方巽全集〔U〕》(河出書房新社、1998年1月21日)に収録された。吉岡によれば、土方の講演は「テキストを前にした」ものだそうだが、まるで往年の大歌手のリサイタルででもあるかのように、随所で懐かしい土方節を聴かせている。《土方巽頌》では、別途〈28 土方巽の幼少年期の〈詩的体験〉〉がそれを凝縮して、定着している。

 〔……〕私はよく言うんですが、私は私の身体の中に一人の姉を住まわしているんです。私が舞踏作品を作るべく熱中しますと、私の体のなかの闇黒をむしって彼女はそれを必要以上に食べてしまうんですよ。彼女が私の体の中で立ち上ると、私は思わず座りこんでしまう。私が転ぶことは彼女が転ぶことである。という、かかわりあい以上のものが、そこにはありましてね。そしてこう言うんですね。「お前が踊りだの表現だの無我夢中になってやってるけれど、表現できるものは、何か表現しないことによってあらわれてくるんじゃないのかい。」といってそっと消えてゆく。だから教師なんですね、死者は私の舞踏教師なんです。〔……〕(〈風だるま【講演】〉、《土方巽全集〔U〕》、一二〇ページ)

ところで、郡司がDの〈肉体と象徴について〉を《舞踊学》に発表したのは、《土方巽頌》(1987年9月)が出た3箇月後である。そこに「「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」」を引いているのは、吉岡に対して「《土方巽頌》、読みましたよ」と挨拶を送っているのに等しい。なぜなら、土方のそのテーゼは《土方巽頌》の題辞に掲げられたことで、そしてそれがそのまま帯(表1)の文に使われたことで、土方巽=暗黒舞踏の理念を端的に表す言葉[クレド]となったからである。それは、土方→吉岡→郡司と伝えられることで、「公認」されていったと言えよう。なお、「「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」」の出典については〈吉岡実と土方巽〉を参照されたい。

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最後は、《土方巽頌》刊行の意図を著者自身に語ってもらうのが、いちばん好いだろう。

 「土方巽とは何者?」誰もがそう思っているにちがいない。この人物と二十年の交流があるものの、私にはこの「一個の天才」〔(澁澤龍彦)〕を、十全に捉えることは出来ないだろう。そこで私は自分の「日記」を中心に鋸え、土方巽の周辺の友人、知己の証言を藉り、そして舞踏家の箴言的な言葉を、適宜挿入する、構成を試みた。まさしく、「日記」と「証言」に依る「引用」の『土方巽頌』である。(〈補足的で断章的な後書〉の「18」、《土方巽頌》、二四一ページ)

《神秘的な時代の詩》以降の、すなわち「中期吉岡実詩」および「後期吉岡実詩」における土方巽の影響は甚大だ。それはなにも、土方に捧げた詩が何篇かあって、長大な(吉岡実詩では〈波よ永遠に止れ〉に次いで長い)追悼詩がある、といった事実を指すのではない。土方巽の生みだした舞踏とその言語が、吉岡実の詩の世界を震撼したのである。《土方巽頌》に先立つ、吉岡実の土方巽評はこうだ。全文を引く。

二〇年ほど前に、加藤郁乎さんの出版記念会だったかなあ、灘万って店の座敷で偶然向かいの席に座ったのが土方さんとの出会いだったね(*)。それから彼の舞台は殆んど見ているし、土方さんのことを幾つかの詩にも書いた。うん、土方語録から言葉を貰ってね。詩の読み手としてもこわい人ですよ。彼自身の書いている言葉も、詩でもないし物語でもない、まったく独得のものでしょう。舞踏という、それまでなかったものをつくった土方さんは、戦後の日本にあらわれたひとりの天才だよね。(〔談話〕〈戦後日本の一大天才〉、《W-Notation[ダブル・ノーテーション]》No.2〔極端な豪奢=土方巽リーディング〕、1985年7月23日、七一〜七二ページ)

これを虚心に読むならば、吉岡は土方と出会った1967年2月以降、1986年1月に土方の死を迎えるまで、土方巽に読まれることの恐怖と恍惚のうちに詩を書きつづけた。そして、《土方巽頌》(1987)の翌1988年刊行の《ムーンドロップ》は追悼詩〈聖あんま断腸詩篇〉を収めて、吉岡実生前最後の詩集となった。「中期」以降の吉岡実詩をすべて土方巽の存在に結びつけるわけにはいかない。しかし、その影響を度外視した吉岡実論は成立しえない。相互の影響関係は充分に考察されなければならない(吉岡実が土方巽に与えた影響は大きい。だが、吉岡詩が土方舞踏に与えたそれは計測しづらい)。《土方巽頌》には、その手掛かりがある。吉岡実詩という大きな謎の探究に赴くにあたって、本書を携えゆくことはわれわれ読者ひとりひとりの責務である。

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(*) 加藤郁乎の日記〈自治領誌 W以降――1960(昭和35年)〜1974(昭和49年)〉にあるように、これは1967(昭和42)年2月9日(木)、楠本憲吉の灘万で開かれた加藤の詩集《形而情学》出版記念会の二次会でのこと(〈吉岡実と加藤郁乎――ふたりの日記を中心に〉参照)。ただし、加藤日記には前年、1966(昭和41)年12月8日に「昨夜、室生犀星賞の受賞の知らせを受ける。」(《加藤郁乎作品撰集V――続初期日記・エッセイ・交遊録》、書肆アルス、2016年7月16日、一五八ページ)とあるから、ここでいうところの「出版記念会」(加藤日記、吉岡談話)は、すなわち「犀星賞を祝う会」(吉岡〈変宮の人・笠井叡〉)にほかならない。


〔近代作家年譜集成〕のこと(2021年2月28日)

《國文學 解釈と教材の研究》(昭和58〔1983〕年4月臨時増刊号)の〔近代作家年譜集成〕が興味深い。私は今日まで、学問として近代日本文学を修めたことがない(活版印刷での書籍造りを日本エディタースクールで、司書講習を亜細亜大学で受講しただけで、あとは独学である)。大学での専攻はフランス文学だったから、むろんそこで日本の文学者の年譜の作り方を習った覚えもない。一方で小畑雄二たちと同人詩誌を、原善たちと同人雑誌を出す間に、創作や研究を志す多くの同世代の人人を見てきた。歌人の勝部祐子や、昨年急逝した星野久美子もそうしたなかにいた。ところで、研究の対象となる文学者と会ったことがあるかどうかはかなり問題で(会ったからえらくて、会えなかったからだめというわけではない)、1984年に吉岡実と面識を得たことが私に大きく作用していることは疑いを容れない。西脇順三郎、永田耕衣、土方巽の謦咳に接した(というか、その姿を見た)ことも大きい。吉岡は1990(平成2)年5月に71歳で亡くなっているから、生前の吉岡を知る人の年齢の下限はおそらく昭和30年代(1955〜64年)生まれで、今や50代後半以上だ。それよりも若い世代は、生前の吉岡実を知ることがなく、本人や周囲の人の証言を通じてその人物像を描くほかない。そのとき、本人の著作に次いで重要なのが、その事績をまとめた年譜である。私が吉岡実詩の研究を始めた1970年代末、そうした文献は2冊の雑誌の吉岡実特集号しかなかった。それらは貴重なものには違いないが、私が知りたいと思ったことは載っておらず、はからずも自ら調査・研究することになった。私が必要としていたのは、吉岡実の全執筆作品の詳細なリスト(いわゆる「著作年表」「著作年譜」)で、むろんそれは散文や詩の異稿(さらには、エクリチュールにあらざる談話文献)を含む吉岡の全著作を読むための探索用ツールである。さて、《國文學 解釈と教材の研究》の〔近代作家年譜集成〕に戻れば、石川啄木の実証的研究で知られる岩城之徳(1923〜1995)が、巻末の〈年譜の作り方〉で次のように書いている(自身も〈石川啄木〉の項を担当)。ちなみに巻頭は、概論ふうの紅野敏郎〈年譜控、考証への一歩〉。

 年譜の作り方にはいろいろの方法があるが、要は対象とする作家と研究主体の資質に最も適した方法を考え出し、根気よく伝記的事実を積み重ねて、正確な年譜を作ることが大切である。
 普通、年譜の作り方としては五つの段階がある。その第一は作家の日記、書簡を中心にして、年譜の骨格をなす中心部分を作り上げる仕事で、〔……〕。
 年譜作成の第二の段階は作家の生い立ちを調べるため、家系や両親の経歴を探る仕事で、〔……〕。
 年譜作成の第三の段階は、少年期から青年期にかけての動静を明らかにするため、学校時代を調査する仕事である。〔……〕
 年譜作成の第四の段階は作家の文学的出発を明らかにするため、青年期の文学活動とその背景をなすグループや結社について調査を実施することである。〔……〕
 年譜作成の第五の段階は、生涯の文学活動を正確に記録するため、初出紙誌の調査を主とする詳細な著作年譜を作る仕事である。第一から第四の段階が作家の動静ないし経歴を主としているのに対して、第五の段階は作品生成の過程を明らかにするもので、この両者あいまってはじめて年譜が完成する。
 初出紙誌を調べるにはまず日記、書簡から、その作家が作品を発表したと思われる新聞や雑誌を探し出す。その他雑誌の追悼特集、伝記、全集の解題、既存の年譜なども参考になろう。こうして明らかとなった初出紙誌は現在どこに所蔵されているかを調査し、現物にあたって「作品名」「発表誌の巻号」「発表の日付」「署名」「発行所」などを記録し、これを年譜に書きこんでゆくのである。発表作品の最後に執筆日が記入されている場合はこれを年譜に書き込んでおくとよい。
 以上、私の体験に即して年譜の作り方を五段階に分けて述べたが、無理をせず、自分の出来る範囲から手をつけ、工夫に工夫を重ねて伝記的事実を積み重ねてゆくと、既存の年譜を踏襲せずともみずからの力で新しい年譜を作ることができよう。〔……〕(同誌、二二二〜二二三ページ)

〔近代作家年譜集成〕の特徴は、その表紙自体に記されている。「坪内逍遙から三島由紀夫まで、近代日本文学を代表する51人の作家の年譜をこの一冊に収める!! 最新の資料と発見に基づく年譜づくりの決定版! 作家ごとに〔履歴の空白〕欄を設け、問題の在り所を示す!」。詩歌人では北原白秋や萩原朔太郎、斎藤茂吉などが載っているが、本誌に吉岡実は登場しない。また、参考にすべき掲載作家は誰でもよい、というわけではない。ここでは、その戦争体験が自身の文学を形成した大岡昇平(1909〜1988)の項の末尾を引こう。1983年時点(大岡はこの年、74歳。10歳年下の吉岡は64歳)での「最新の資料と発見に基づく年譜」である。なお、大岡年譜の執筆者は池田純溢。

〔履歴の空白〕
●大岡家の源流の徹底的探索。
●青山学院、成城時代における文学的な自己形成を交友関係を軸として明らかにすること。
●自伝で作者が触れていない時期、特に京都時代・神戸時代についての調査。
●レイテ同生会での活動について証言を収集すること。

〔参考〕 全集としては、中央公論社版『大岡昇平全集』全十五巻(昭48・10〜50・8)。第十五巻に「年譜」「著作年表」「著書目録」収録。作品集としては、岩波書店版『大岡昇平集』(昭57・6〜)。各巻の「月報」に根岸泰子・池田純溢編の「参考文献目録」収録。(同誌、二一八ページ)

吉岡実の〔履歴の空白〕は、1940年夏に臨時招集を受け(そこで馬の扱い方などを学んだ)、翌1941年夏には出征、1945年秋に復員した軍隊時代にある。吉岡は、自筆年譜の太平洋戦争勃発後の「昭和十八年 一九四三年 二十四歳」の項に、ただこう書く(全文)。

六七五部隊の軍旗祭で、赤毛ものシラノ・ド・ベルジュラックのパロディーを上演する。日本の週番士官を登場させ茶化したため、師団長の逆鱗にふれ、役者七人いち早く他部隊へ転属させられる。(〈年譜〉、《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月20日、二三一ページ)

この記載は、想いのほか重要である。詩集《僧侶》の全篇を収めた《現代日本名詩集大成〔11〕》(東京創元社、1960年9月10日)に付した425文字の〈小伝〉にすでに登場しているからだ。

小伝|吉岡実

 一九一九年東京本所の職人の家に生れる。父紋太郎、母いと晩年の子。姉・兄の三人兄弟。明徳尋常小学校に入学。このころからよく浅草六区を徘徊。チャンバラ遊びの一方の旗頭。家に一冊の本もなく、友だちの本を読みあさる。本所高等小学校卒業後、医書出版南山堂に奉公。産婦人科図書をみてショックをうける。夜は商業学校へ通う。彫刻家を夢みて果さず。書家佐藤春陵の影響で俳句短歌を試みる。一九四一年夏出征。詩集『液体』自費出版。Y・Nとの恋愛感情も消滅。満州部隊の軍旗祭で、シラノ・ド・ベルジュラックを喜劇化して上演、師団長の逆鱗にふれ転属。済州島で終戦。父母すでに亡し。独り詩をつくる。一九五一年筑摩書房に入社広告を担当。一九五五年詩集『静物』自費出版。T・Iとの四年間の恋愛に終止符。飯島耕一を知り、『今日』に入る。はじめて詩人たちとつきあう。一九五八年詩集『僧侶』刊行。一九五九年五月、和田陽子と結婚。第九回H賞受賞。「鰐」同人。『吉岡実詩集』ユリイカより刊行。(同書、三一〇ページ)

この咎で「転属」させられ、その結果、「済州島で終戦」を迎えて復員したのである。大日本帝国陸軍の輜重担当、召集兵・吉岡実の運命はここで大きく変わった(もしくは、自身の手で変えた)ことになる。となれば吉岡は、〔履歴の空白〕の期間で最も重要な件を戦後15年の時点――「同じ〔1960〕年、詩集《僧侶》によって、私はようやく世に認められるようになった。」(〈木下夕爾との別れ〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二一九ページ。初出は《朝日新聞〔夕刊〕》1979年5月18日)――でしかるべく書き記したわけで、空白は空白ながら、空欄ではなかった。してみると、《僧侶》は吉岡の《Ambarvalia》だったのか、《旅人かへらず》だったのか。


沖建治とは誰(2021年2月28日〔2021年3月31日追記〕)

すべては《玉英堂稀覯本書目》335号(2021年2月)に始まる。この2月上旬、《玉英堂稀覯本書目》の〈新蒐品特選二百十品――文学作品・近代筆跡・古典籍〉が届いた。同号は直木賞受賞作コレクションの特集で、冊子は本文36ページながらオールカラー。名のみ高いが見たこともない小説(集)の書影を満載していて、資料としても貴重だ。その14ページめにさしかかって、あっと思った。「089」の書影と説明文に一驚したのだ。

「089 魚河岸ものがたり/森田誠吾 初版 筆ペン献呈識語「隅田河口一片月」署名落款入 装画・安野光雅 直木賞 三方シミ カバー・帯背少ヤケ 新潮社 昭60/1冊 \13,200」
「089 魚河岸ものがたり/森田誠吾 初版 筆ペン献呈識語「隅田河口一片月」署名落款入 装画・安野光雅 直木賞 三方シミ カバー・帯背少ヤケ 新潮社 昭60/1冊 \13,200」 〔出典:《玉英堂稀覯本書目》335号〈新蒐品特選二百十品――文学作品・近代筆跡・古典籍〉、2021年2月、一四ページ〕

森田誠吾(1925〜2008)は、長篇小説《魚河岸ものがたり》で第94回(1985年下半期)直木三十五賞を受賞した。私はいつの日か吉岡実の想い出をうかがいたいと願いながら、ついにお目にかかる機会を得なかった。無念の思いにかられつつ、〈森田誠吾氏が逝去(2008年10月20日脱稿)〉を書いたものだ。むろん《魚河岸ものがたり》は新潮文庫版で愛読していた。〈「直木賞」ものがたり〉(《銀座八邦亭》、文藝春秋、1987)に吉岡実が登場するからである。
ところで、私が足を運ぶ古書店はそれほど多くない。それでも勤め先が中央線沿線にあったころは(小川町の浜総ビル、御茶ノ水の研究社ビル、小川町の立花書房ビル――ここにUPUの分室があったころ、主催したイヴェントの打ち上げで酒豪中上健次の姿を遠望した――など)、神保町にもよく通った(新刊書店は、なんといっても東京堂書店)。田村書店を筆頭に、小宮山書店けやき書店、靖国通りを挟んで反対側の山田書店や吾八書房、そしてもちろん玉英堂書店だ。玉英堂の品揃えには畏敬の念さえ抱いたものだ。
上掲の書影で明らかなように、この一本は沖建治に献じられている。森田誠吾の署名本を数多く見ていないので心もとないが、筆で書くのはそれなりの敬意の表れだろう(落款はおそらく自作)。以前、渋谷・宮益坂の中村書店で吉岡実の詩集《薬玉》の署名本を見たことがある(署名本を見かけたら、必ず手に取ってみなければならない)。それがやはり沖建治に宛てた墨書献呈入りだった。記憶に誤りがなければ、差出人の住所を緑色で捺したゴム印と吉岡の自筆署名を記した封筒を切り抜いた紙片が挟んであった(沖建治がしたことだろうか)。そのときも沖建治なる人物がいったい誰なのか、気にはなったが、少しばかり調べただけでわかるはずもなかった。そこへ来て、今度の《魚河岸ものがたり》の献呈・識語入りの署名本である。吉岡と森田の交友関係上に沖が浮上したわけだが、国立国会図書館の所蔵資料を検索しても、著者としては出てこない。となると、吉岡も関わりのある、森田誠吾の生業だった出版広告関係の人物なのだろうか。そう思いつつも、念のために《日本の古本屋》で検索してみると、中村書店のページに

高垣眸葉書
\16,500
沖建治宛 ペン書き9行 「君も熱心に愛読して下さる由 新刊でも出たらサインして送って上げましょう」「僕は忙しいのでろくに返事も書けないけれど、それでもよかったら九州便りを下さい。僕も少年時代には大里市に住んでいた事があるバッテン・・」消印千葉勝浦

とあるではないか(*1)。またもや中村書店である。高垣眸(1898〜1983)は《龍神丸》(1926)や《豹〔ジャガー〕の眼》(1928)、《快傑黒頭巾》(1935)などで知られる少年小説の第一人者(*2)。その高垣の本の愛読者で、九州(北九州市?)に住んでいて、森田と吉岡が節目となる自著(かたや直木三十五賞、かたや藤村記念歴程賞受賞作)を献呈する沖建治なる人物は、いったい誰なのか。探究は始まったばかりである。

〔2021年3月31日追記〕
高垣眸作品に触れたことがなかったので、講談社の〔少年倶楽部文庫〕で再刊された《快傑黒頭巾》(1975年10月16日)を読んだ。ふたつの意味で驚いた。ひとつは初刊当時の読者である少年(や少女)たちの感度の好さであり、もうひとつはその40年後に再刊された本を、さらにその46年後でも楽しめたことだ。ちなみに《快傑黒頭巾》の初出は《少年倶楽部》1935年1月号〜12月号連載。初版は大日本雄辯會講談社、1935年11月10日刊。日付からすれば、連載完結と同時の出版ということになる。もって、高垣眸作品の人気のほどがうかがえる。

高垣眸《快傑黒頭巾》(初刊:大日本雄辯會講談社、1935)を復刻した同書〔愛蔵復刻版少年倶楽部名作全集〕(講談社、1970年5月30日)の表紙とジャケット〔画:伊藤幾久造〕
高垣眸《快傑黒頭巾》(初刊:大日本雄辯會講談社、1935)を復刻した同書〔愛蔵復刻版少年倶楽部名作全集〕(講談社、1970年5月30日)の表紙とジャケット〔画:伊藤幾久造〕

さて、本書の〈消えた曲者[くせもの]〉の一節にこうある(ふりがなを一部、省略した)。

 「あッ、殿様、どうなさいました?」
 赤鬼〔青江下野の家来〕はびっくりして目をみはる。が、青江下野[あおえしもつけ]はそれに答えないで、短銃[ピストル]をピタリと天井に向けると、いきなり火ぶたを切りました。
 ゴオッ、ビリビリッと、ふすまや障子をふるわせて、ひびきわたったのはものすごい銃声一発! やがて硝煙がうすれると、天井板の美しい木目を、むざんに打ちつらぬいた弾痕のやぶれ穴から、アッ、雨もりのあとのように、見るまににじみ出るまっかな血しお! 青江下野はそれをにらんで、青白い頬に冷たい笑いを浮かべました。(《快傑黒頭巾〔少年倶楽部文庫〕》、一二〇・一二二ページ)

他人の空似、と言われればそれまでだが、吉岡実詩の読者は〈僧侶〉(C・8)の「2」を想わずにはいられないだろう。

四人の僧侶
めいめいの務めにはげむ
聖人形をおろし
磔に牝牛を掲げ
一人が一人の頭髪を剃り
死んだ一人が祈祷し
他の一人が棺をつくるとき
深夜の人里から押しよせる分娩の洪水
四人がいっせいに立ちあがる
不具の四つのアンブレラ
美しい壁と天井張り
そこに穴があらわれ
雨がふりだす

《快傑黒頭巾》の初刊当時、吉岡は満16歳。医書出版・南山堂に奉公して2年め、すでに少年小説に惹かれる年齢ではない。だがそれだからこそ、《講談全集》江戸川乱歩の少年物に親しんだころを懐かしんで、本書を手にしなかったとはかぎらない。もっとも吉岡実は、高垣眸についてなにも書きのこしていないのだけれど。

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(*1) その後、中村書店から購入したのが下のはがき。

沖建治宛て高垣眸書簡

2円の郵便はがき [消印]勝浦 24 8 29〔1949年8月29日〕
[宛名面]
福岡縣嘉穂郡稲築町
鴨生 三井技坂社宅
 沖建治君
  千葉県勝浦町墨名七〇八
  垣 眸
[文面]
呈 結城君宛の君の手紙が 彼が帰坂してから
届きました 急がしかったので廻送するのを忘れ
ましたが 今日送って置きました
君も熱心に愛讀して下さる由 新刊でも出たら
サインして送って上げましょう 僕は急がしいので
ろくに返事も書けないけれど それでもよかったら
時々 九州便りを下さい 僕も少年時代には
大里市に住んでいた事があるバッテンガ
では右お知らせまで

(*2) 高垣眸の小説は、1975〜76年にかけて、3篇とも講談社の〔少年倶楽部文庫〕で再刊されている。ジャケットの袖に「この文庫には、発表当時作者とともに情熱をこめて作品を飾られた諸画伯の挿絵もできるかぎり多く収録しました。」とあるとおり、この種の小説は挿絵が作品の印象を決定するといってもいい。高垣は《豹〔ジャガー〕の眼〔少年倶楽部文庫〕》(講談社、1975年12月16日)のための後記で、「挿絵は伊藤彦造君。これがまた、外国にも日本にも無いような、古風だが熱気のほとばしるような、まったく独特のタッチの絵だったので、物語はこの挿絵でいっそう古怪で夢幻的[むげんてき]な陰影を濃くした。/これがまた当時の読者たちに受けに受けたようで、五十年近くたった今なお、熱烈なオールド=ファンの方々からおたよりをいただいたり、わざわざ勝浦の現在の小宅へ会いに来てくださる方々さえあるほどだ。」(同書、二八五ページ)と回顧している。伊藤彦造(1904〜2004)を90年前の丸尾末広と謂うべきか、丸尾末広を現代の伊藤彦造と呼ぶべきか。その絵のはらむ緊張感は無類である。


《土方巽頌》本文校異(抄)(2021年1月31日)

先日、書庫を整理していたら(といえば聞こえはいいが、例によって探し物をしていたにすぎない)、コクヨ製「フ-11 B5S」というピンク色のフラットファイル(タイトルは〈土方巽頌 1987〉)に、吉岡実の評伝《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987)に関するコピーが綴じられているのが出てきた。内容は、私が《土方巽頌》の初出誌のコピーに定稿形との異同を赤字で書きこんだもの、その他である。まず、その他の方から見よう。私は《土方巽頌》の「初版第一刷」(1987年9月30日)と同「初版第二刷」(1987年12月10日)を所蔵している(「初版第三刷」以降は見たことがない)。ここでちょっと脇道に逸れる。かつて福永武彦研究会の某氏と談笑しているうちに、福永本の書誌のことになった。いうまでもなく福永の著作点数は、吉岡のそれの数倍に及ぶ。蒐書がたいへんでしょう、と持ちかけると、打ち明け話でもするように「文庫版の《草の花》の刷りの違う本を集めています」とのことだった。これは目の着け処がいい。《草の花》の新潮文庫は、たしか福永本で最初に文庫に入ったはずだし、《風のかたみ》や《死の島》が新潮文庫のカタログからなくなっても生きのびている(おそらくは唯一の)福永本のロングセラーである。当初の外装はグラシン掛けの古風なスタイルで、その後、ジャケット装になり(近年は月夜に小舟の画!)、本文も当初の活版印刷から、写植・オフセット印刷に変わっている。文庫でも初刷りはそれなりの値段だろうが、それ以降の刷りなら100円均一に並んでいてもおかしくない。そのすべての刷りを揃えたところで数十冊だし、部数はともかくも、増刷の年月日から《草の花》の受容が跡づけられる(かもしれない)。残念ながら、吉岡には福永の《草の花》に相当する作品は存在しない。というか、そもそも単著の文庫本=簡易製本のA6判の叢書がない(随想集《「死児」という絵〔増補版〕》の〔ちくま学芸文庫〕入りを期待する)。私は思潮社の《吉岡実詩集〔現代詩文庫〕》が100円均一にあれば迷わず購入しているが、最近ではそれも見かけなくなった(同書で大事にしているのは、吉岡実の署名入り初版と吉岡が高橋康也に宛てた6刷り本)。話を《土方巽頌》に戻せば、「初版第一刷」は、書き込みのせいで通読するには読みにくくなり、編集担当の淡谷淳一さんと面識ができてから、「初版第二刷」の読者ハガキに次のように書いている(そのコピーが、ファイルされていた「その他」)。

(本書についてのご感想をおきかせ下さい。)
刊行後、すぐ読み、'88年1月、神戸の大野一雄氏の公演〔註:大野一雄舞踏研究所作成の【年表】にある「1987年12月、アスベスト館主催、神戸シアターポシェット館「異人坂舞踏幻想ことばからだ」(協力・琴座俳句会)に参加。」がそれだろう〕には新幹線の車中で読み返し、その後もあちこち読みました。《神秘的な時代の詩》について同人誌の会報に書いたものがありますので、(p.4-6あたり)同封します。(吉岡さんにもお送りしてあります。)よい本をありがとうございます。

《土方巽頌》の初出形ほかは、次のとおり。▽印以下は、《土方巽頌》での標題。

>同人詩誌《麒麟》7号(1985年6月25日)の表紙、阿部良雄・與謝野文子編《バルテュス》(白水社、1986年6月20日)と吉岡実《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、「初版第二刷」1987年12月10日〔「初版第一刷」1987年9月30日〕)のジャケット
同人詩誌《麒麟》7号(1985年6月25日)の表紙、阿部良雄・與謝野文子編《バルテュス》(白水社、1986年6月20日)と吉岡実《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、「初版第二刷」1987年12月10日〔「初版第一刷」1987年9月30日〕)のジャケット

 A バルチュスの絵を観にゆく、夏――(日記)84年より(《麒麟》7号、1985年6月25日) ▽ 83 バルチュスの絵を観にゆく、夏――〈日記〉1984年より
 B 風神のごとく――弔辞(《現代詩手帖》1986年3月号) ▽ 107 風神のごとく――弔辞
 C 祇園祭見物(《ユリイカ》1986年3月号) ▽ 98 祇園祭見物
 D バルテュスの絵を観にゆく、夏(日記)84年より(阿部良雄・與謝野文子編《バルテュス》白水社、1986年6月20日〔〈白水社新刊ニュース〉No.490には「多数の図版と各界より巨匠に寄せられたオマージュでもって展開したバルテュスの全貌。不思議≠ニエレガン≠ノとりつかれやすい人には、たまらなく魅力的な本である。」とある〕)
 E 来宮の山荘の一夜(《ちくま》第191号、1987年2月) ▽ 76 来宮の山荘の一夜

Aの〈バルチュスの絵を観にゆく、夏――(日記)84年より〉は《麒麟》7号(同号の特集は「手紙主義」)の〔essais critiques〕欄に掲載された見開きの文章。というか、文字どおり、1984年7月2日(月)から19日(木)にかけての吉岡実の日記で、その中心的なイヴェントは、7月11日(水)の京都市美術館で観た《バルチュス展》である。これに鋭く反応したのがDの編者・阿部良雄で、《バルテュス》の〈あとがき〉には「一九八四年六月から七月にかけて京都で行なわれた展覧会を機会に書かれた文章は数多いが、そのなかから次の六点を選んだ。/森口陽「バルテュス、通りの向こう側の風景」、峯村敏明「表皮―眼差し―光―表皮」、『アール・ヴィヴァン』12号、一九八四年四月。 /岡田隆彦「普遍的で、いびつなかたち」、種村季弘「永遠に通過する画家」、『アート'84』、一〇八号、一九八四年十月。/金井美恵子「《街路》のディアーナとアクタイオーン」、『ふらんす』一九八四年八月号。/吉岡実〔……〕」(同書、二三八ページ)とある。美術雑誌や《ふらんす》はともかく、若い詩人たちの同人誌にまで目を配っていたのかと驚くが、考えてみれば阿部良雄は《麒麟》同人の松浦寿輝の恩師だから、松浦のもうひとりの師である吉岡実がバルチュス/バルテュス(阿部はこちらの表記を採るため、吉岡文は同書ではタイトルを含めて「バルテュス」となっている)の絵について書いた文章を阿部に送ったとて、なんの不思議もない。同文のうち、「7月11日」分の校異を掲げる。基底となるADおよび《土方巽頌》(Hと略記)で変更された場合、【A ……→D ……→H ……】と表記する。

 【A 7月11日→D H 七月十一日】 晴。黒田喜夫の死去を知る。冥福を祈る。二十数年前、【A 只→D ただ→H 只】一度、会ったきり。窓から川面をのぞくと、鮎数尾が泳いでいる。川をへだてた樹間を、【A 山陽電車(?)→D H 山陰線】が【A 時→D とき→H 時】おり通過。朝から酒。若い連中は、明け方まで起きていたそうだ。ひとり別室で寝られて、よかったと思う。まだ人影もない渡月橋から、タクシー二台に分乗し、三條堺町へ出る。イノダコーヒー本店はたしかに風格がある。美しい庭を眺め、コーヒーをのむ。今度の旅の目的――市美術館で催されている、バル【A チ→D テ→H チ】ュス展を観る。【A まだ→D (トル)→H まだ】午前中なので、混雑もなく、ゆっくり観て廻る。【A かって→D H かつて】、図版で見た【A 「街」→D 《街路》→H 「街」】や【A 「ギターのレッスン」→D 《ギターのレッスン》→H 「ギターのレッスン」】【A 、→D (トル)→H 、】【A 「夢」→D 《夢》→H 「夢」】に依って、魅了された画家の作品がここに在る。【A 「街」→D 《街路》→H 「街」】はないが、それに【A 比敵→D H 匹敵】する【A 「コメルス・サンタンドレ小路」→D 《コメルス・サン・タンドレ小路》→H 「コメルス・サンタンドレ小路」】が眼の前にあり、【A 「ギターのレッスン」→D 《ギターのレッスン》→「ギターのレッスン」】はないが、力作【A 「部屋」→D 《部屋》→「部屋」】で、充分満足できる。肖像画の傑作【A 「アンドレ・ドランの肖像」→D 《アンドレ・ドランの肖像》→H 「アンドレ・ドランの肖像」】はないが、むしろ、それを超える【A 「ホアン・ミロとその娘ドロレス」→D 《ホアン・ミロとその娘ドロレス》→H 「ホアン・ミロとその娘ドロレス」】があるではないか。【A 「金魚」→D 《金魚》→H 「金魚」】や【A 「子供たち」→D 《子供たち》→H 「子供たち」】、【A 物→D もの→H 物】憂げに眠る少女と、四つん這いで読書する少女の【A 「客間」→D 《客間》→H 「客間」】もある。土方巽も感嘆の声を、しばしばあげている。巨大な【A 「山(夏)」→D 《山(夏)》→H 「山(夏)」】の透明感もよいが、【A 「美しい日々」→D 《美しい日々》→H 「美しい日々」】の典雅でくすんだ色調は深い。手鏡に見入る【A D 若い女性→H 少女】の「静」と【A 暖爐→D 煖炉→H 暖炉】へ薪をくべる半裸の男の「動」の対比。まさしく、題名のように「美しい日日」がかもし出されているように思う。――外へ出ると、陽がまぶしい、正午。南禅寺の奥丹ヘタクシーを走らせる。風の吹きぬける座敷に上り、【A D 湯→H (トル)】豆腐料理とビールで、バル【A チ→D テ→H チ】ュスの絵を話題にする。青葉がくれに静まる池。しかし、皆の心は昂揚しているようだ。白い睡蓮の花が【A D 燿→H 耀】いているように。二、三組の客しかなく、しばしくつろぐ。一つぐらい名所見物しようと、清水寺へ廻る。いつ見ても「舞台」の木組みの造形性には驚く。茶店でもビールの乾杯となる。偶然、宇野邦一のフランス留学時代の友人の若い女性が通りかかり、一緒になる。それから木幡和枝の誘いで、祇園の鍵善で葛切り、権兵衛で釜揚うどんを食べる。「心」も「腹」も充足。しかし【A だれ→D 誰→H だれ】もが疲労しているようだ。

これらを概観するに、Aはおそらく吉岡実の書いた原稿のとおりに(掲載誌の編集部は校閲せずに)組んである。商業出版物なら、「山陽電車(?)」は編集者や校正者が行う校閲の対象であり、スルーすることはありえない。「暖爐」や「燿」はおそらく吉岡がこのように書いたのだろう(吉岡実の自筆書簡には、しばしば旧字が混在する)。Dは版元の白水社(阿部の〈あとがき〉によれば、担当者は山本康)のハウスルールと《バルテュス》の編者の意向が働いた結果、「暖爐」は「煖炉」に、各作品名は「 」ではなく、《 》で括ってある。初出時の「街」(《バルチュス展カタログ》でも同題)が《街路》となったのは、《バルテュス》が採用した巻末〈バルテュス作品便覧〉の邦訳題名に合わせたためだろう。吉岡は、おそらく《土方巽頌》の著者校正で、「若い女性」を「少女」に直した。これにより、そこまでのバルチュスの絵の人物にいっそう引き寄せて、文章の最後に登場する「宇野邦一のフランス留学時代の友人の若い女性[、、、、]」とは距離を置くことになった。要するに、内容に関する訂正はDでほとんど終わっている。定稿のHでは作品名を「 」で括る方式に戻し、Dの《街路》も「街」と(「かつて、図版で見た」ときの題名に)戻した。「湯豆腐料理」を「豆腐料理」としたのは、季節からいっても、穏当な手入れだろう。

《バルチュス展》(会場:京都市美術館、会期:1984年6月17日〜7月22日)のポスター 〔作品は油彩〈コメルス・サン・タンドレ小路〉(1952-54)〕 高階秀爾(監修)・京都国立近代美術館・朝日新聞社(編集)《バルチュス展カタログ》(朝日新聞社、c1984〔年6月17日〕)の表紙 〔作品は油彩〈パシアンス遊び〉(1954-55)〕
《バルチュス展》(会場:京都市美術館、会期:1984年6月17日〜7月22日)のポスター 〔作品は油彩〈コメルス・サン・タンドレ小路〉(1952-54)〕(左)と高階秀爾(監修)・京都国立近代美術館・朝日新聞社(編集)《バルチュス展カタログ》(朝日新聞社、c1984〔年6月17日〕)の表紙 〔作品は油彩〈パシアンス遊び〉(1954-55)〕(右)

Bの〈風神のごとく――弔辞〉は初出の雑誌掲載形と《土方巽頌》の定稿形との間には、表記上の統一のほかは、ほとんど異同がない。注目すべきは次の二箇所。

  B 「聖あんま断腸篇」→H 「聖あんま断腸詩篇」

  B 「藩」→H 「樽池」

初案「聖あんま断腸篇」は、かつての〈聖あんま語彙篇〉(G・8)から発想された仮題と見るべきだろう。「藩」は1985年9月30日の、「樽池」は同年3月31日の吉岡の〈日記〉にも登場する。初出の書き間違いを元藤Y子か八木忠栄にでも(それとも編集担当の淡谷淳一か)指摘されたか。〈弔辞〉執筆の経緯は、《土方巽頌》の〈補足的で断章的な後書〉の「3」に詳しい(同書、二三五ページ)。今回、初出のコピーを改めて目にして、ある感慨にとらわれた。それは、吉岡の弔辞の対向ページに掲げられた三好豊一郎の弔辞〈土方巽を悼む〉の結びである。

〔……〕暗黒とは生きることの実存の深い根拠にかかわる言葉のように私には思われます。個性的な発言は受けとる側の個性に応じて解釈され勝ちで深読みや誤解を伴いますが、私は私なりに敢てひとつの言葉を捧げたいと思うものです。それは、私にとって詩もまた窮極の言葉に至ろうとする意志の表現にほかならないので、私自身にむかっても強く働きかけつつある言葉であります。
 生れ生れ生れて生[しょう]の始めに暗く
 死に死に死んで死の終りに冥[くら]し
これは空海の秘蔵宝鑰の序に当る頌の最後に置かれた詩句であります。
巽さん、安らかに眠って下さい。(《現代詩手帖》1986年3月号、〔二七ページ〕)

ここで念のために補足しておけば、吉岡が

  ((生れ 生れ 生れ
            生れて(生[しよう])の始めに暗く))

と空海を引用した詩篇〈青海波〉(J・19)を発表したのは、三好の弔辞に先立つ1983年6月のことだった。このときの三好の脳裡には、吉岡実詩のreminiscenceが去来していたか。

Cの〈祇園祭見物〉も初出の雑誌掲載形と《土方巽頌》の定稿形との間には、表記上の統一のほかは、さしたる異同がない。注目すべきは次の二箇所。

  土方巽は〔C シャンソン→H シャルル・トレネの「ブン」〕を一曲所望して、静かにそれを聴いていた。

  眼の前に、積み上げられたような〔C (ナシ)→H 石と樹木の〕庭の奇景と、長谷川等伯の襖絵で世に知られている。

それにも増して印象的なのが、次の手入れである。文末の「★1985年夏のこと。」の初出形は小活字でこうだった。「*この祇園祭の旅は昨年の夏のこと。その前年の夏、土方巽と京都に「バルチュス展」を観に行っている。もう二度と土方巽と旅をすることはない。」(《ユリイカ》1986年3月号、五五ページ)。吉岡実はふだん、その散文においてパセティックになることがほとんどなかった。だが、初出形の「もう二度と土方巽と旅をすることはない。」という一文は〈追悼=土方巽〉の本文から溢れだしたようで、雑誌掲載時にはそれはそれで意味があった。しかるに、《土方巽頌》は全篇が〈追悼=土方巽〉なのだから、省いたのは適切な措置といえよう。

Eの〈来宮の山荘の一夜〉は、初出の雑誌(《ちくま》第191号、1987年2月)掲載形と《土方巽頌》の定稿形との間には、表記上の統一よりも文言の直しが多く見られる。EHの定稿形との間の異同を一文の単位で抽出して、当該箇所を【……→……】で示す。なお、澁澤と瀧口の名前(氏名の名の方)の旧字の異同は割愛。

  なにせここは、伊藤忠【(ナシ)→兵衛】の旧居とのことだった。

  松山俊太郎と芦川羊子とが庭にいるのが見えたので、私と妻【も→は】芝生の庭へ出た。

  お手伝たちと芦川羊子が料理を運んだり、【竝→並】べたりかいがいしくふるまった。

  また誰【れ→(トル)】かが、庭園の手入れはどうしているのか、と聞いたら、伊藤忠の庭師夫婦を引き継いで、敷地内に住まわしているというから、この家の豪壮さは推して知るべし、というところだ。

  「おもしろそうね」と言いながらこの山荘の文主人も酒【宴→(トル)】の席から消えたのだった。松山俊太郎は酔【(ナシ)→い】つぶれてしまったが、気勢をそがれた種村季弘夫妻、三好夫人、芦川羊子と私たちは、冷えた料理を黙々と食べた。

  次々と入浴【者は愉しげに、→を了えた者が】上気して戻ってくる。バスタオル一枚で、胸から腰まで包んで、冷えた書斎のソファーに寝てしまった、佐藤陽子の天真爛漫な姿に、誰【れ→(トル)】もが【心の→(トル)】やすらぎさえ覚えた【ようだ→(トル)】。

  かねてから、私のガニ肢体型に興味をもっている土方巽は、「【吉岡→ヨシオカ】を抱いて風呂に入り、尻の穴を洗う」と宣言しているので、恐れをなしていた。また【酒→(トル)】宴がはじまった頃合をみて、一人で湯に浸ることが出来た。

  【酒席に→どこにも】私の姿が見えないのを、いぶかしく感じて来たそうだ。

  元藤夫人は寝られないと言って、【酒の→また】席に加わった。

そして、文末――。

  【(よしおか・みのる 詩人)→★1983年5月15日のこと。】

吉岡は〔松浦寿輝・朝吹亮二・吉岡実(ゲスト)の対話批評〕〈奇ッ怪な歪みの魅力〉(《ユリイカ》1987年11月号)で新刊の《土方巽頌》執筆の背景を次のように語っている。

朝吹 〔……〕このへんで、吉岡さんが今なさっているお仕事について、ちょっとお伺いしたいんですけど。
吉岡 僕は去年の夏から、あるときは中断しながらも『土方巽頌』という、土方さんを讃えるものを一冊の本にまとめていたんですよ。これは去年の夏に少しやりまして、もうとても書けないという気になって放棄していたら、出版社の企画に通ってしまって、どうしてもやらざるをえなくなっちゃった(笑)。でも去年は全然やらなくて、今年の三月くらいからまたやりだしたのね。でも僕は、長いものというのはおそらく書けないと思ったし、どうやって書いたらいいか分からなくていろいろ考えましたよ。で、土方との交流というのはものすごくあるから、まず日記を調べて抜き出して行ったの。その日記を中心にして、さらに同時代の人たちの証言というか、土方の踊りや行動について書かれた文章をできるだけ探してきて、それを引用する。あとは、土方巽自身の言葉ということで、その三つで構成していったんですね。日記を中心にしたんで、彼との出会いから始まって時間がずーっと流れていって、自然体の叙述になり、少しずつ展開して行ったのね。
朝吹 たしか全部で原稿用紙二五〇枚でしたか? 凄いですよね。
吉岡 僕が一回で書いたのは一番長いので十六枚くらいで、それが僕の限界だったんだけど(笑)、なんたって日記がありますからね。あとは人の言葉を抽出し、土方巽の言葉を拾えば、まあなんとかなると思ったね。これが、私家版とか小さな出版物だったら八〇ページくらいの小冊子でいいんだろうけど、筑摩書房なんでそうもいかなくなっちゃって。やっぱり本になる体裁というのがありますからね。(同誌、二五六〜二五七ページ)

吉岡の「でも去年〔1986年〕は全然やらなくて、今年〔1987年〕の三月くらいからまたやりだしたのね。」という発言は、おそらく〈来宮の山荘の一夜〉を1987年初めに書くことによって、《土方巽頌》の書きおろしの部分――自身の「日記」や土方巽を含む他者の文章の「引用」以外――の調子[トーン]をつかんで、執筆に弾みがついたものと推測される(*)。吉岡はこれ以降、《土方巽頌》を構成する文章を雑誌等に発表することなく、すべてをこの書きおろしに注ぐことになる。

最後に、上掲文を校訂(校異、ではない)しておこう。「イノダコーヒー」は、正しくは「イノダコーヒ」。亀和田武(1949〜 )はそのバラエティブック《雑誌に育てられた少年》(左右社、2018年11月30日)で泉麻人(1956〜 )と喫茶店をテーマに対談をしている。題して〈カフェより喫茶店がえらいのだ!〉(初出は《本の雑誌》2010年11月号)。

 京阪神は全般的にコーヒーのレベルが高いと思う。神戸の老舗の「にしむら珈琲」が好きです。建物が古いわけではないんだけど、モーニングがしっかり付いてるのがいいですね。
亀和田 「イノダコーヒ」だと泉さんは何をべるんでしたっけ?
 僕はビーフカツサンドが好きなんですよ。
亀和田 あそこはサンドイッチが美味しいんですよね。あと、ナポリタンが、メニューの名前はスパゲティイタリアンなの。
 ホワイトソース味のやつがボルセナっていう。意味を訊いたら、イタリアの湖が綺麗な都市の名前だって。〔イノダコーヒが〕東京駅の大丸の上にできたじゃないですか。たまにボルセナが衝動的に食いたくなるとそこに行く(笑)。
亀和田 イノダのナポリタンは絶品ですよ。日本にしかないナポリタンって、一時期バカにされましたよね。パスタじゃなくてスパゲティ時代の遺物って。
 今ナポリタン復活してますよね。若い子がわざわざ食べに行くとか。ナポリタンみたいな喫茶飯っていうとピザかな。ずっと前からもちろんキャンティとかにはあったんだろうけど、僕らのところに降りてきたのは「ジロー」ですよね。(同書、一二二ページ)

ちなみに、私はまだイノダコーヒに行ったことがない。京都にも、東京にも。

七月十九日 晴。朝七時半に起る。陽子はハンドバッグ一つの軽装で、バルチュス展を観に京都へ行く。意図やよし、片道料金一万二千円也を補助する。午後から新宿の街を歩く。夕立。渋谷へ戻りトップでコーヒー。神泉の芳来で食事。夜十時過ぎ、陽子ひとり旅から戻る。まず、イノダコーヒー本店へ行き、コーヒーとサンドイッチのひるめし。それから、バルチュスの絵のかずかずを、じっくり観たという。初めての経験ばかりで、愉しかったらしく、深夜まで、京都の一日とバルチュスの絵のことを、語りつづける。みやげの雲龍は、明日の朝の茶うけ。(《土方巽頌》、一六九ページ)

Dではハウスルールに基づく表記の変更が見られるが、文言の違いはないので、上掲日記の校異の結果は省略した。具体的には、AHでは日付の書き方が変わっただけ(アラビア数字→漢数字)。すなわち、吉岡はDの改変を認めなかった、もしくは吉岡実=筑摩書房のハウスルールに従った。

〔付記〕
私がいままでに《土方巽頌》について書いた文章は、《吉岡実書誌》の〈評伝《土方巽頌》解題〉を除けば、〈《土方巽頌》と荷風の〈杏花余香〉(2005年1月31日)〉(これは文字どおりの小文)と〈《土方巽頌》の〈40 「静かな家」〉の構成について(2016年8月31日)〉である。その間に、《土方巽頌》の〈人名索引〉を作成している(PDFファイル――土方巽頌・人名索引〔吉岡実著《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》付録〈人名索引〉〕――公開:2012年12月31日)。なかなかまとまった論考にならないのが残念だが、《土方巽頌》の生成が多層的で入りくんだ性質のものである以上、避けがたい。喫緊の課題は、準備作業の一環として、引用文献の出典を探索することである(吉岡実の書斎を再現するのでないかぎり、すべてを究めることは不可能だろうが)。自身の日記と詩篇を架橋した、晩年の吉岡実が成した最大の散文作品は、その4年前に刊行された詩集《薬玉》と並んで、探究に値する書物である。たとえば、「〈日記〉 一九八三年一月二十七日/晴。冬なれど暖かい日。新宿のパレス座で時間をつぶし、玉泉亭で食事をし、地下鉄で中野富士見町駅へ出る。小さな喫茶店でコーヒーをのみ、ライヴスペース・プランBを探し歩く。〔……〕」(〈71 ライヴスペース・プランB〉、一四四ページ)。パレス座で掛かっていた(ポルノ)映画は、《ぴあ》で調べればなんだったかわかるだろう。中野富士見町駅は私の出身高校の最寄り駅だから、「小さな喫茶店」がミロン――ドアにカウベルがぶらさがっていた――だったらすごいな、と思う(放送部の勤[つとむ]先輩がそこで働いていた)。そして、ライヴスペース・プランBをインターネットで検索すると「東京都中野区弥生町4-26-20 モナーク中野B1」に現存する。これはいちど探訪せねばなるまい。

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(*) 吉岡実は随想〈大岡信・四つの断章〉の「3」――初出は《大岡信著作集〔第14巻〕》月報(青土社、1978年3月31日)の〈大岡信・二つの断章〉――にこう書いている。

 私がPR雑誌〈ちくま〉の編集に、たずさわって、七、八年になるだろうか。〔……〕
 ある日、原稿を書いてくれるように言ったら、彼はうれしそうに「うん書かせて貰うよ」との返事に、私はほっとした。
 昭和五十年五月号の〈ちくま〉の巻頭を飾った、大岡信のエッセイは「五浦行」だった。私は一読して、素晴しい文章に編集者として感動した。末尾にこのような一節がある。

  〔……〕

 〔……〕大学教授として、評論家として、詩人として、また朝日新聞の文芸時評の執筆者として、彼は忙殺されていた。そのうえに、書下ろし評伝《岡倉天心》を、近づく約束の期日までに、仕上げなければならなかった。
 大岡信は「五浦行」の原稿を渡しながら、私にこう言った。「まだまだ目を通さなければならない天心の英文論文が多いし、いまだ全体の構想は出来ていないんだ」と。またこのようなことを言ったように思う。「この「五浦行」を書いたことによって、とっかかりができ、ひとつの道が見えた」とも。
 その年の秋、大岡信の《岡倉天心》は刊行された。この名作は「序 五浦行」ではじまっている。その叙述の自在な展開と語り口はみごとだと思う。私はひきこまれて、一気に通読したものだ。〔……〕(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二〇六〜二〇八ページ)

はからずも同じ《ちくま》(筑摩書房の月刊PR誌)を発表の舞台にして、かたや大岡の〈序 五浦行〉(1975年5月・第73号)が、かたや吉岡の〈来宮の山荘の一夜〉(1987年2月・第191号)が、(ほぼ)書きおろしの評伝《岡倉天心》と《土方巽頌》の形を成すきっかけとなったという事実には、単に興味深いという以上のものがある。吉岡は、前者には編集者として、後者には執筆者として、この挿話に登場する。


〈小林一郎が選ぶ吉岡実の3冊〉(2021年1月31日)

《吉岡実参考文献目録》には、私が実見した文献(原則として印刷物。インターネット上だけで知りえた情報を含まない)を採録している。例えば、蜂飼耳〈現代詩の魅力――この3冊〉の初出は《毎日新聞》(2016年6月12日)で、毎日新聞出版(編)・和田誠(画)の単行本《わたしのベスト3――作家が選ぶ名著名作》(毎日新聞出版、2020年2月29日)に収録された。初出時、私は同紙を購読していなかったので、インターネット上の情報をたどって図書館で閲覧した。単行本の方は、これまた図書館の新着本の書誌をブラウジングしていて、当たりをつけて借り出したところ、まさに的中した。これらの場合、インターネット上の情報は検索ツールにほかならない。〈現代詩の魅力――この3冊〉の《わたしのベスト3》でのタイトルは〈蜂飼耳・選 現代詩〉で、次の三冊が選ばれている。「@サンチョ・パンサの帰郷(石原吉郎著/思潮社)/A近代詩から現代詩へ 明治、大正、昭和の詩人(鮎川信夫著/思潮社詩の森文庫)*1/B戦後詩 ユリシーズの不在(寺山修司著/講談社文芸文庫)*1」(同書、二七〇ページ――「*1」は2020年1月現在品切を表す)。もっとも、蜂飼耳は同文で吉岡実に直接、言及しているわけではない。吉岡は、寺山修司が挙げた「戦後七人の詩人」のひとりとして登場する。

 寺山修司『戦後詩』は、一九六五年刊行。短歌や詩を書き、劇作家、演出家としても幅ひろく活躍した著者による、明晰[めいせき]な詩論。鋭くて柔軟な視点と文章は、いまも色あせない。自分は「実感を大切にすることから詩作をはじめた世代」に属する、と記す。「戦後七人の詩人」として谷川俊太郎、岩田宏、黒田喜夫、吉岡実、西東三鬼、塚本邦雄、星野哲郎を挙げる。「役に立つ詩」はなくても「詩を役立てる心」はある、と読者を挑発する。(同前、二七一ページ)

《わたしのベスト3》は〈T 物語に遊ぶ〉〈U わたしを作った本〉〈V 作家vs作家〉〈W テーマで読む〉の四部から成り、蜂飼文は〈W テーマで読む〉の最後に収められている。ちなみに、養老孟司が選ぶディック・フランシスの3冊は@女王陛下の旗手A侵入B決着(〈T 物語に遊ぶ〉)。加賀乙彦が選ぶ大岡昇平の3冊は@野火Aレイテ戦記B花影(〈U わたしを作った本〉)。巖谷國士が選ぶ澁澤龍彦の3冊は@フローラ逍遙[しょうよう]A玩物草紙B胡桃[くるみ]の中の世界(〈V 作家vs作家〉)。丸谷才一が選ぶ和田誠の3冊は@時間旅行A装丁物語Bあな(これは番外篇なのだろう。手塚治虫、ガルシア・マルケス、松本清張とともに、和田には二つのセレクションがあり、丸谷のほかに和田誠の3冊を選んだもう一人は三谷幸喜)。さて、ここまでは本書の紹介を兼ねた前置きである。以下に、本稿のタイトル「小林一郎が選ぶ吉岡実の3冊」を記す。

@僧侶(《現代日本文學大系93〔現代詩集〕》所収/筑摩書房)
A神秘的な時代の詩(書肆山田)
B土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る(筑摩書房)

@〜Bとして《吉岡実全詩集》(筑摩書房)、《「死児」という絵〔増補版〕》(同)、《うまやはし日記》(書肆山田)、という別案も考えた。だがこの「奥の手」は、より正確に言うなら「反則」だろう。よって、かねてから私の提唱する区分である「前期吉岡実」からは王道の《僧侶》を、「中期吉岡実」からは変則の《神秘的な時代の詩》を、「後期吉岡実」からは書きおろしの《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》を選んだ。3冊とも王道路線で固めるならば、Aは《サフラン摘み》、Bは《薬玉》となろうが、それなら私が選ぶまでもない(これらはいずれも、詩集に与えられる賞を受けた吉岡実の代表詩集である)。《僧侶》は、吉岡が同人詩誌だけでなく、詩壇ジャーナリズムにも詩篇を発表しはじめた時期の作品を集めた詩集で、吉岡実詩をただ一篇で代表させるならこれしかないという詩篇〈僧侶〉を書名に戴く出世作(後世は、吉岡を《僧侶》の詩人として記憶するだろう)。さすがにこれを外すわけにはいかない。Aの《神秘的な時代の詩》は、吉岡実詩における引用詩、献呈詩の走りともいうべき作品を含み、これらの詩篇なくして次作《サフラン摘み》の華麗な展開はありえなかった。晩年の吉岡は、さまざまなスタイルの混淆から成る「現代をテーマとする長篇詩」を夢想していた。その脳裡にはリルケやエリオットの長篇詩(《ドゥイノの悲歌》や《荒地》)があったが、ついにそれを書くことはかなわなかった。散文ではあるが、土方巽を領袖とする「暗黒舞踏」との関わりを集大成した《土方巽頌》が、その遺香を漂わせている。最後に、吉岡実詩を彩る三人といえば、生年の順に詩人の西脇順三郎(1894〜1982)、俳人の永田耕衣(1900〜1997)、舞踏家の土方巽(1928〜1986)である。吉岡実という詩人と〈吉岡実〉という作品の関係をめぐって、耕衣と@の《僧侶》、西脇とAの《神秘的な時代の詩》、土方とBの《土方巽頌》を考えあわせるなら、これら3冊はさらなる輝きを帯びるだろう。


吉岡実と大岡昇平――盗作あるいは引用をめぐって(2020年12月31日)

吉岡実と大岡昇平と題したからといって、両者に具体的なあるいは文学的な交渉があったわけではない。少なくとも吉岡が大岡に言及したことはないし(ただし、吉岡が編集長時代の1975年12月、《ちくま》第80号は大岡の〈「少年」こぼれ話〉を掲載している〔*1〕)、大岡が吉岡についてなにか書きのこしているのも見たことがない〔*2〕。生前の二人を知る金井美恵子は〈他人の言葉〉をこう始めている。

 まるで何か別の物の塊りのように四角く分厚いのだが、それでもその一冊の書物のなかに詩人の全作品は収ってしまうのだし、吉岡実の他の著作といえば、随想集の『「死児」という絵』と『土方巽頌』『うまやはし日記』の三冊が数えられるだけだ。
 もちろん、極く淡いグレー・ベージュの嵩だかな『吉岡実全詩集』には、十二冊の詩集と未刊詩篇、歌集『魚藍』が入っていて、久しぶりに読む詩集のすべて――吉岡実の詩に限らず、「詩」を読むのは一年ぶりではないだろうか――は、「地球が何ものにも支えられずに大気中に浮かんでいるように、その文体の内的な力[、、、、、、、]によってみずから浮かんでいる」ことをフローベールが夢見た「何も書かれていない本」の一つなのだということを、改めて私に気づかせるのだが、たとえば、「小説家」というものが、その出発から生涯の終りまでに書きつづけた文章を集めた全集(大岡昇平全集・全二十三巻別巻一)が、今この部屋に積み重ねて置いてあり、A5〔版→判〕の二十ミリか十八ミリほど横長である『吉岡実全詩集』の一冊は、ほぼ大岡昇平全集の一冊分の厚さと同じである。
 共に遺言で筑摩書房から全集を上梓することを伝えたという点を除けば、ほとんどと言っていいほど共通点があるとは思えない詩人と小説家の全集を重なった時期に読むことになったのは、私の仕事上の都合にすぎないのだが、このいかにも無縁と見える詩人と小説家の奇妙な共通点というか一致点があったことを思い出すのは〈他人の言葉〉についてなのだ。
 丁度、ある文学新人賞の入選作の一部に、他人の文章がそのまま「盗作」されていたことが新聞で大きな記事になった頃で、それを意識的な引用[、、](メタフィクション[、、、、、、、、]的小説などではなかったので)と呼べはしないけれど、「盗作」と呼ぶことには同情的だった大岡昇平氏は、『盗作の証明』というボルヘス的発想を風俗的にした推理小説を書いて、〈他人の言葉〉が、特定の唯一の作者に属してなどいない[、、、、、、、、、、、、、、、、]し、原理的に無数の作者を持っていることを証明したのだったが、その直後におあいした時、〈他人の言葉〉を無断で使っていいのは、小説じゃあ[、、、、、]、五行まで[、、、、]だな、それ以上使う時は出典を明示しなければいけない、とおっしゃるのだった。
 一方、もう、『サフラン摘み』を作った後の詩人は、その頃やはりスキャンダルとして話題になっていた――と言っても、新人小説賞の入選作の作者が開高健の話題作[、、、]『夏の闇』の一部をそっくり書き写し、それに選考委員がまったく気がつかずにいた、というほどのニュース性はなかったようだったが――ある詩人の亡母への挽歌として書かれた詩が、別の詩人の作品の盗作だった、という事件に触れ、憤然と暗然が入り混った面持ちで、まして亡くなったおかあさんへの挽歌なんだろ、許せないよ、人非人だね、とおっしゃり、その後で、〈他人の言葉〉を引用していいのは、詩の場合[、、、、]、三行まで[、、、、]だね、それ以上は駄目、と真面目を〔ママ〕顔をなさるのであった。
 
 
 二つの発言はほぼ同じ時期(長くても二、三年の間の出来事だったと思う)に聞いていて、どちらが先だったのか後だったのか、はっきり思い出すことは出来ないのだが、いや、大岡さんの家を訪問した後の帰り道で、姉と私はほとんど同時に、そう言えば、吉岡さんが、と、詩人の三行発言を思い出し、はた目もはばからず道の真ン中で大笑いしてしまったのだった。
 単純に計算すると、詩と散文の違いは、二行[、、]の〈他人の言葉〉なのである。(《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実〔るしおる別冊〕》、書肆山田、1996年11月30日、九三〜九四ページ)

以下、金井は〈他人の言葉〉の主たる部分で、〈楽園〉(H・1)や〈波よ永遠に止れ〉(未刊詩篇・15)、〈少女伝説〉(〈ルイス・キャロルを探す方法〉G・11)、〈サフラン摘み〉(G・1)、〈タコ〉(G・2)、〈夏の宴〉(H・20)、金井のことばが題辞に引かれた〈水鏡〉(H・6)といった詩篇に触れながら、吉岡実詩を論じていく。だが、ここでは金井が挙げた大岡昇平の短篇小説〈盗作の証明〉を読んでみよう。「(この作品は昨年度のある新人賞で起った盗用問題と、佐々木基一氏発表の意見及び谷沢永一氏のそれに対する批判(「読書人の園遊」所収)にヒントを得ていますが、事件の経過、人名、地名その他、すべてフィクションです。作者)」とは初出(《小説新潮別冊》1979年4月の〔'79春〕)の末尾に付されていた全文だが、金井の書く「新人小説賞の入選作の作者が開高健の話題作[、、、]『夏の闇』の一部をそっくり書き写し、それに選考委員がまったく気がつかずにいた、という」件に触発されて執筆した小説がこれだった。
《文徒アーカイブス》2019年6月22日の〈報道と隠蔽 出版の歴史から「美しい顔」を消さないために 第1回〉を参照すると、この「新人小説賞の入選作」は、講談社が発行する《群像》の新人文学賞(1978年度の第21回)において中沢けいの〈海を感じる時〉とともに当選した小幡亮介の〈永遠に一日〉で、「大岡昇平の『最初の目撃者』(集英社文庫)に収められた「盗作の証明」は、この「永遠に一日」事件に大岡がインスピレーションを受け書き上げた短編である。小幡は小説にはなったが、作家としては消えてしまったのである。」というのが《文徒アーカイブス》の結語である。すなわち、小幡の〈永遠に一日〉は書籍化されておらず、こんにちでは初出を掲載した雑誌以外では全文を読むことができないのだ。金井が伝える大岡の「〈他人の言葉〉を無断で使っていいのは、小説じゃあ、五行まで」説を感得するためにも、ここは〈永遠に一日〉を読むに如くはない。ちなみに同作を掲載した《群像》1978年6月号は〔平野謙追悼号〕でもある。

《夏の闇》(新潮社、1972)を満足に読んでいない私でも、〈永遠に一日〉は達者にすぎて、誰かの(それが開高健だったわけだが)圧倒的な影響下にある小説ではないかという疑念はたちどころに浮かぶ。この件を論じた文献に、《文徒アーカイブス》も取りあげている栗原裕一郎《〈盗作〉の文学史――市場・メディア・著作権》(新曜社、2008年6月30日)があり、近年では今野真二《盗作の言語学――表現のオリジナリティーを考える〔集英社新書〕》(集英社、2015年5月20日)がある。今野は[つくられた盗作例]という節でこう述べる。

 先に紹介した大岡昇平の「盗作の証明」には興味深いくだりがある。この作品においては、左近信行という中堅作家の「騒乱のバラード」という作品を、二三歳の青井浩「制度の子供たち」が盗作したという投書があったというところから作品が展開していく。そして「瓜二つといってもいいくらい似ている」「数行の文章」(六三頁)が実際に挙げられている。これはもちろん大岡昇平がつくった文である。

 〔……〕(「騒乱のバラード」)

 〔……〕(「制度の子供たち」)

 「盗作の証明」では青井浩は「絶対に『騒乱のバラード』を読んでいません」(六四頁)と主張し、ついに自殺することになっている。大岡昇平は凝った「落ち」を用意していた。それは、二つの表現は、ともにカミュの『ペスト』(宮崎嶺雄訳、新潮社版)を「共通の祖型」(八五頁)としていたもので、直接的な関係はなかったとするものである。大岡昇平が「祖型」としたのは次の文章である。「騒乱のバラード」と「制度の子供たち」双方にみられる箇所に傍線を附してみる。

 〔……〕(『ペスト』一三三頁)

 「共通の祖型」は直接的には、「騒乱のバラード」の文章にも、「制度の子供たち」の文章にもあまり似ていない。ここが大岡昇平の手腕といってもよい。大岡昇平が「盗作の証明」をどのように書いたかということからいえば、まずこの『ペスト』の文章を選び、それをもとにして、おそらく「騒乱のバラード」の文章をつくり、それをさらにもとにして「制度の子供たち」の文章をつくったのだろう。『ペスト』は「祖型」だから、「騒乱のバラード」と直接的にはあまり似ないようにつくり、「騒乱のバラード」と「制度の子供たち」は具体的な表現において類似しているようにつくる。ある文章をもとにして、それとの類似が指摘できないくらい類似していない文章をつくることもできるし、似寄った文章をつくることもできる。文学作品を書いている作家にはそのくらいのことは簡単にできるのだということを大岡昇平は身をもって示した。(同書、六六〜六九ページ)

肝心の大岡の小説に見える本文の分析は、上に引くにあたって、あえて省略した(同書は近年刊行の新書だから、容易に読めるだろう)。ここでは、大岡が評論ではなく、小説という形で(カミュの《ペスト》という誰もが読みうる先行作品を「祖型」に借りて)芸のかぎりを尽くして見せたことを確認すれば充分だ。ところで、大岡昇平は初出時の後註的な文言も含めて、小幡亮介とも〈永遠に一日〉とも、開高健とも《夏の闇》とも書いていない。上掲文における金井美恵子は「新人小説賞の入選作の作者」「開高健の話題作[、、、]『夏の闇』」と書いているが、二人の小説家は、自身の短篇小説や吉岡実論で、これらの小説家と小説作品の名前を挙げるのに慎重だった。一方、論評する立場の佐々木基一と谷沢永一は、ともに名前を書かないわけにはいかなかった。ここで想起されるのは、吉岡と金井が対談で〈引用詩について〉語った件である。

金井 『夏の宴』の時でもいろんな書評が出て、誰がそう書いていたかは覚えがないんだけど一般的な印象として、その詩集を「円熟」という形で批評したものが随分あったと思うんですよ。渋沢孝輔さんなんかはそういう言い方はしてないわけだけども。円熟というのは、ある意味で当たっていなくもないんだろうけど、やっぱりそういう言葉で吉岡実の詩を言ってしまうのには抵抗があるわけですね、読者として。
吉岡 そうね。円熟というのは賞め言葉であると同時に一つの厳しい見方であると思う。ただ、引用の仕方が手慣れたということははっきりしてると思うのよ。
金井 手慣れてしまうと、書いていて面白くなくなるということは当然あるでしょうね。新しい空気のなかでの呼吸をのみ込んでしまうと緊張しなくてすむんだけど、慣れというのは、やはり危険なところもあるわけですね。ところで、あの引用ですけど、括弧に入っている文章がかならずしも引用ではないし、括弧に入っていない部分でも、引用があるわけですね。
吉岡 ぼくの中でも、補足は自分で作って自分で括弧にいれると、リアリティが出るなと思っちゃう。全部が人の言葉とは限ってないわけ。作り変えもあるし……。で、この行とこの行をつなぐには引用をいれないと、という感じで、自分で作った引用をいれざるを得なくなってきているのね。
金井 そうですよね。だから括弧の中にはいっているのも実は引用じゃないものがかなりあると思います。
吉岡 そうなのね。そうじゃないと、こっちがリアリティを感じられなくなってきている。自分で敢て自分の詩句を括弧にいれるとリアリティを感じられるという錯覚を作っているわけだ。
金井 それはとてもむつかしい問題ですね。でも、たいていの物を書く人間は、そうはっきり、そんなこと言ったりしませんね。意識しているのかしていないのか、わかりませんけど、そういう形での言葉との対決を回避したり、なだめたりしながら、案外平気な顔をしている。あの括弧は何でしょうね。最初はもちろん引用であることを明示するために使っただけというのじゃないと思うんですけどね。
吉岡 ゴチでもいいわけなんだけど、最初は道義的にひとの言葉であることを示すために使ったのだけれど。美恵子を描いた「水鏡」も、君の言葉だけでは、うまくいかないので、実は飯田善国のエッセイから若干だが借用している。ただ、ぼくが言っておきたいのは、いずれの詩篇も詩句からはとってないんだよ。あれはみんな対象になった人のエッセイからとって括弧にいれて、それを詩にもってきているんだ。たった一つの例外は、瀧口さんに捧げた「青と発音する」だけはどうしても、瀧口さんの「言葉」だけで作れなくなって、詩句が二、三はいっている。
金井 前に、引用にきまった言葉を引用できる人と、あんまりできない人とがいるという話をしてましたよね。
吉岡 そう、それが不思議でね。池田満寿夫のを書こうとしたのね、そしたら非常にむずかしいわけ。引用は、土方巽の言葉が一番引用しいいのね。
金井 ああ、あれは実に独特で奇妙な文章ですものね。
吉岡 そう。それで生[なま]なの。源初そのものの言葉なんだ。だけど満寿夫というのは頭がいいんで、文章が明解なの、だから意外に引用が困難だったわけね。
金井 うん、うん。わかりますね。土方さんの言葉ってすごく物質的な、具体的な言葉で、吉岡さんの詩というのも、すごく観念的で難解な詩と言われることは多いわけだけども、言葉の一つ一つは非常に具体的で物質的な言葉だけでできている詩で、観念的では絶対ありませんからね。
吉岡 だからぼくのはシュールレアリスムでも何でもなくてさ、一行、二行〔ママ〕すべてリアリティだという自負はあるのね。それの集積でちょっと異様なものができてるはずだよ。
金井 池田満寿夫の文章は明晰すぎるということなんでしょうかね。と言うか抽象的で陳腐に美しいということなんでしょうかね。
吉岡 抽象的でもないけど、非常に明晰で作りにくかった。で、土方巽のほかで作りやすかったのは飯島耕一。これまた野蛮な言葉を発しているわけ。ぼくにとって意外な言葉と言うか、生の言葉が必要なんだ。それだと作りいい。だから、あんまり文章が整いすぎちゃったエッセイからは、非常にとりにくい。宮川淳なんかその最たるものね。宮川淳はとるところが非常にむずかしいわけよ。だから、他の、外国の画家の言葉とかそういうのを散りばめないと宮川淳像は成り立たなかった。
金井 宮川さんの文章そのものが引用から成り立っているわけですものね。
吉岡 宮川淳のための「織物の三つの端布」、これが一番むずかしかったなあ。またおそらくうまく成功してないんじゃないかと思うよ。作品としてどうなのかとちょっと疑問になる。
金井 宮川淳から引用できそうな言葉というのは、宮川淳が使っている言葉じゃないということがあるかもしれないですしね。
吉岡 そういうこともあるかもわかんないしね。あまりにも詩的な文体であるためにこっちの感興を呼ばなかった。
金井 一種の生々しさと言うか、言葉が物質として粒立っている肌ざわりのようなものを宮川さんの文章から見つけようとすると、それはちょっと困難ではあるような気がしますね。
吉岡 それがぼくの中にはっきり表われているのね。
金井 吉岡さんの選ぶ言葉というのは――もちろん単語というんじゃなくて詩とか散文全体のことなんだけど、全部手ざわりというか触覚的な選び方をしていると思うんですよね。
吉岡 まあ本能的なんだけど、やっぱりそういう言葉を選んでいると思う。(金井美恵子・吉岡実〔対談〕〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉、《現代詩手帖》1980年10月号〔特集=吉岡実〕、九五〜九七ページ)

この件はいままでにも何度か本サイトに掲げたことがあるが、今回の盗作/引用という視点から見ると、含蓄に富んだやりとりであることがよくわかる。ここで、上記対談の《夏の宴》における献詩の対象者とその作品を整理して、引用元と、関連する私の文章を挙げておこう。

 金井美恵子への〈水鏡〉(H・6)――金井美恵子(題辞・本文)
   〈吉岡実とクリムトあるいは「胚種としての無」〉参照
 瀧口修造への〈「青と発音する」〉(H・27)――瀧口修造の言葉と詩句(題辞・本文)
   〈吉岡実と瀧口修造(3)〉参照
 池田満寿夫への〈草の迷宮〉(H・9)――池田満寿夫(題辞・本文)
   〈「愛と不信の双貌」――吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(2)――〈夏から秋まで〉〉参照
 土方巽への献詩は《夏の宴》には収められていない(本文の詩句として引用されている土方の言葉はある)。
   〈吉岡実の引用詩(3)――土方巽語録〉参照
 飯島耕一への〈雷雨の姿を見よ〉(H・14)――飯島耕一(題辞・本文)
   〈吉岡実とエズラ・パウンド〉参照
 宮川淳への〈織物の三つの端布〉(H・16)――宮川淳(題辞・本文)
   〈吉岡実とマグリット〉参照

T 彼(女)の文章・エッセイだけを引用した詩……〈雷雨の姿を見よ〉、〈草の迷宮〉、(これは池田の版画作品の題名の引用だが)〈夏から秋まで〉
U Tに加えるに、他人の文章・エッセイを引用した詩……〈水鏡〉(金井+飯田善国+エゴン・シーレ)、〈織物の三つの端布〉(宮川+ジョルジュ・ブラック)
V Tに加えるに、彼(女)自身の詩句を引用した詩……〈「青と発音する」〉

対談では言及されていないが、飯田善国への〈形は不安の鋭角を持ち……〉(H・11)は基本的にT、かつて瀧口修造に献じた〈舵手の書〉(G・22)――〈吉岡実と瀧口修造(2)(2010年3月31日)〉参照――は〈「青と発音する」〉同様、Vに分類される。これらはいったいなにを物語っているのだろう。「金井 吉岡さんの選ぶ言葉というのは――もちろん単語というんじゃなくて詩とか散文全体のことなんだけど、全部手ざわりというか触覚的な選び方をしていると思うんですよね。/吉岡 まあ本能的なんだけど、やっぱりそういう言葉を選んでいると思う。」とあるように、文筆家/造形作家という区分以上に、「一種の生々しさと言うか、言葉が物質として粒立っている肌ざわりのようなもの」(金井)を発する人物の言葉は引用がしやすく、そうでない人物の言葉は「非常にとりにくい」(吉岡)ということになる。吉岡自身、いわゆる批評的言辞を得意としないと自覚しているふしがある。言い換えれば、具体的なものを離れて抽象化することに対して、つねに警戒心を抱いている。吉岡の言葉(この場合、詩作品)との親和性が高いのはむろん具体性のある言葉の方だが、一見すると、それを発したのが吉岡なのかそれ以外の人物なのかは、「 」(鉤括弧)でくくられているかいないかだけのような処があって、現に「 」を取りはらってみれば、地の文(吉岡による詩句)と引用されて詩句となった他者の文言との差異が見えにくい場合が、ままある。さらに、自身の書いた詩句を「 」で囲んだ引用(?)に至っては、それを発したのが誰かという問いは後景に退いて、書き手がどこの誰とも知れない者の言葉を引用したという事実だけが前面にせり出してくる。一種の「錯覚」と言えようか。《夏の宴》の巻頭詩篇〈楽園〉(H・1)の冒頭はこうだった。初出の《現代詩手帖》1976年8月号から引く。

私はそれを引用する
他人の言葉でも引用されたものは
すでに黄金化す
「植物の全体は溶ける
          その恩寵の温床から
            花々は生まれる」
〔……〕

吉岡実は本篇を発表した1976年7月の時点で、この年の秋に出る詩集《サフラン摘み》に収めたすべての詩篇を書きおえており(おそらく詩集の編集も、自身による装丁を除いて、手離れしている)、〈楽園〉は次のフェイズに入ることの宣言を込めた詩篇とも読むことができる。冒頭に引いた金井の「一方、もう、『サフラン摘み』を作った後の詩人は、その頃やはりスキャンダルとして話題になっていた〔……〕ある詩人の亡母への挽歌として書かれた詩が、別の詩人の作品の盗作だった、という事件に触れ、憤然と暗然が入り混った面持ちで、まして亡くなったおかあさんへの挽歌なんだろ、許せないよ、人非人だね、とおっしゃり、その後で、〈他人の言葉〉を引用していいのは、詩の場合[、、、、]、三行まで[、、、、]だね、それ以上は駄目、と真面目を〔ママ〕顔をなさるのであった。」のは、すでに〈楽園〉を書いていたからではなかったか。ところで私は、この「近世の女植物学者」からの三行の引用の出典を見出しえないでいる。――「ぼくの中でも、補足は自分で作って自分で括弧にいれると、リアリティが出るなと思っちゃう。全部が人の言葉とは限ってないわけ。作り変えもあるし……。で、この行とこの行をつなぐには引用をいれないと、という感じで、自分で作った引用をいれざるを得なくなってきているのね。」(吉岡)――このとき、「 」で括られた詩句は盗作/引用の次元を離れて、文体摸写[パスティシュ]の様相を帯びてくる。コラージュに適当な素材がないとき、画家はそれに替わる素材を自作するのではなく、自分で描画するだろう。詩人はそれを自作する。小説家は「盗作」を創作する。

吉岡実と大岡昇平を間接的に結びつける項がもうひとつある。アメリカ出身の映画女優、ルルことルイズ・ブルックス(1906〜1985)である。吉岡がルイズ・ブルックスに触れたのは、《ユリイカ》1976年6月号の随想〈懐しの映画――幻の二人の女優〉においてで、同文の最後の段落は、「幻の二人の女優」としてベティ・アーマン〔Betty Amann〕(1907〜1990)とルイズ・ブルックスを挙げている。もっとも吉岡は、ルイズよりもベティに、より多く筆を費やしているが。

 これらの女優は幾本かの映画で、たびたび出会っているのだ。そして好きになり、忘れ去り、いまやっと想い出したばかりだ。私にとっての幻の女優は、「アスファルト」のベティ・アーマンである。この作品はサイレント映画の最終を飾る名篇といわれている。宝石店で万引した女が、警察へ連行される途中、若い警官を自分の部屋に引き入れ、媚態のかぎりをつくして、警官を誘惑し、破滅への道を歩ませる、女エルザ―ベティ・アーマンの肉体の香気に、私は魅了されてしまった。彼女には他に「白魔」という映画があるぐらいなもので、「アスファルト」が残されただけでないだろうか。昭和十年ごろ私は見たように思う。それからもう一人、幻の女優をあげるならば、「パンドラの箱」のルイズ・ブルックスしかいない〔*3〕。少年じみたおかっぱ髪の彼女の美しさ妖しさもいまだ忘れられない。二人の女優とも唯一本、唯一回のはかないめぐりあい故、いっそう尊く思われるのかも知れない。私はしょせん可憐型の女よりも、どうも妖麗な悪女型が好きなようだ。さて、多くの戦後の女優のなかから、もし一人を選べといわれたら、ブリジット・バルドーを名指するだろう。いままでに私は彼女の全作品を見ている。そしてその美しい裸に、美しい夢を紡いできた。私の眼の前から、素直な悪女バルドーの虚像が素早く消えることを祈る、老残をさらすことのないように。私のなかの幻の女優となるためには、そのくらいの犠牲を払って欲しいものである。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一八〜一九ページ)

大岡昇平《ルイズ・ブルックスと「ルル」》(中央公論社、1984年10月20日、デザイン:田淵裕一)の3ページ〔口絵〕に掲げられたのと同じカット 《アスファルト》(1929)におけるベティ・アマン
大岡昇平《ルイズ・ブルックスと「ルル」》(中央公論社、1984年10月20日、デザイン:田淵裕一)の3ページ〔口絵〕に掲げられたのと同じカット(左)と《アスファルト》(1929)におけるベティ・アマン〔吉岡は「アーマン」と記しているが、近年の通用形は「アマン」〕(右)

これに対して大岡は、〈あるアンチ・スター――ルイズ・ブルックスの「ルル」〉(《海》1984年1月号)と、その訂正と補遺を兼ねた〈ブルックスふたたび〉(同・3月号)を書き、これらを合わせ、不整合を正したものに多数の写真群を入れて、大判の《ルイズ・ブルックスと「ルル」》(中央公論社、1984年10月20日)として刊行した(本篇の後に、ルイズ・ブルックス作・四方田犬彦訳〈ギッシュとガルボ〉〈パプストとルル〉の2篇を付す)。〈ルイズ・ブルックスと「ルル」〉は全集〔第21巻〕で本文42ページの、さして長文ではない一篇だが、そこは大岡昇平、全集では本篇に続けて収められた、〈わが青春のスクリーン・ラヴァー〉、〈夏川静江 イノセントな眼差し〉、〈ブルックス現象〉、〈「ルイズ」から「ルイーズ」へ〉、〈性と知性のまやかしの魅力〉、とルイ〔ー〕ズ・ブルックス関連の文章をいくつも残している。

 私たち――四方田氏と私――は二度、「パンドラの箱」を見ました。一度は84年春、ドイツ文化センター主催の「ドイツ映画大回顧展」でのドイツのイギリス輸出版、もう一度は日本のフィルムセンターのアメリカ版でした。カットは前者の方が少なかったようです。
 私たちはフィルムセンター版を、殆んどひとこまひとこまみて、四百枚の写真をとりました。その中から四方田氏と二人で選んだのが、この写真群です。私たちが改めて感心したのは、ルイズの表情変化が極めて多様で、多彩な魅力が含まれていることでした。それらが私の無意識の領域を刺激し、彼女を忘れがたくしていたらしいのです。アイスナー女史のいうように、高度の知性による演技であり、同時に彼女の美しさの開花でもあったことはたしかです。私たちはこの喜びを読者と共にわかちたいので、写真はできるだけ多く収録しました。折からフィルムセンターの失火により、この本に記録的価値が加わることになりました。(〈おわりに〉、《ルイズ・ブルックスと「ルル」》、一一六ページ〔原文:横組〕)

ときに、大岡がルイズ・ブルックスへの愛を公表したのは、吉岡の随想よりも早かった〔*4〕

 ところで日本の少年がほんとにこれらのヴァンプ〔=「血と砂」でヴァレンチノの扮する闘牛士を破滅させるニタ・ナルディ、「クレオパトラ」のセダ・バラ〕に魅惑されたかというと、そうでもない節がある。それは谷崎潤一郎の初期の小説に出て来る悪女と同じことで、少年たちは自分たちがこんな肥った外人の女を相手にするチャンスは永遠にない、と知っているのである。恐らく多くの大人にとってもそうだったので、そこで趣味はやがて入って来るドイツ映画「ニーベルンゲン」のクリームヒルトになる娘役や、「プラーグの大学生」の相手役のアスタ・ニルセンヘ移ることになる。「椿姫」のナジモヴァやグレタ・ガルボの憂い顔が日本人のサイズに合っている。もう少しあとになるが、私の一番気に入った外国女優は「パンドラの匣〔ママ〕」のボーイッシュなルイズ・ブルックスである。(《少年――ある自伝の試み》、筑摩書房、1975年11月30日、三〇五ページ)

 〔……〕(前に書いたように、二十代の私が一番好きだった映画スターは、ボーイッシュなルイズ・ブルックスである。)(同前、三四六ページ)

吉岡ははたして大岡のこの自伝小説を、ルイズ・ブルックスに触れた一節を、読んでいたのだろうか。大岡は同書の〈あとがき〉(末尾に「一九七五年秋/著者」とある)の最後の段落に「取材――いやな言葉だが――に協力して下さった小学校や中学校の旧友たち、そのほか多くの方々に厚く御礼申上げます。長い間私のわが儘につき合ってくれた「文芸展望」の辰巳四郎君、乱雑な訂正稿を整理してくれた編集部の内田敦子、川口澄子両君にも同じです。」(同書、三六八ページ)と書いた。筑摩の編集者・川口澄子は、言うまでもなく詩集《新しい死》(あもるふ社、1962)、《待時間》(思潮社、1974)――〈吉岡実の装丁作品(5)〉を参照されたい――の詩人である。

〔付記〕
特別展《大岡昇平の世界展》(会場:県立神奈川近代文学館、会期:2020年10月3日〜11月29日)を終了近い11月下旬の週日に観た。年配の男性客が目立ったが、もとより多くの人数が詰めかけていたわけではない。おかげで、じっくり観ることができたのはありがたい。本展は当初、同年の3月20日(金・祝)から5月17日(日)にかけて開催予定だったが、折からのコロナ禍のため、ほぼ半年遅れの開催となった(後出図録の奥付には、当初の会期が記載されている――すなわち刷りなおしや訂正は施されていない)。ここでは、ルイズ・ブルックス関連のことだけを記す。〈SPOT――音楽・映画〉という小コーナーには、公益財団法人神奈川文学振興会(編)の図録《大岡昇平の世界展》(県立神奈川近代文学館・公益財団法人神奈川文学振興会、2020年3月20日)の58ページに掲載されている単行本《ルイズ・ブルックスと「ルル」》(中央公論社、〔当然、初版であろう〕)のほかに、興味深いものが展示されていた。《ルイズ・ブルックスと「ルル」》には掲載されていない、神秘的ともいえるルルの写真である(生写真ではなく、印刷物=ポストカードか)。それが絵葉書サイズの、生成りの茶色の木製フレーム(写真立て)に収まっているのだ〔*5〕。インターネットで画像検索して見つけたその写真を下に掲げ、展覧会場の説明文を引用することで、キャプションに代える。むろん会場は撮影禁止なので、私はその場で取ったメモを見ながらこれを書いているのだが、下の画像をよく見ると、絵柄は展示の絵葉書=写真と同じだがトリミングが違っていて、会場で観たものはルルがもっと左に寄っていたような気がする(そのほうが断然、魅力的だ)。確証は持てないけれど。
ところで、《ルイズ・ブルックスと「ルル」》は、大岡の数多い著作のなかで意外に重要な位置を占めているようだ。といっても、私は二つの例を挙げるしかないのだが、一つは中央公論社で《海》の編集長を務めた宮田毬栄(1936〜 )の証言である。宮田が《追憶の作家たち〔文春新書〕》(文藝春秋、2004)の大岡昇平の想い出のなか触れているのは、《ルイズ・ブルックスと「ルル」》が同社から出たことを考えれば不思議でもなんでもないのだが、もう一人、文藝春秋で《文學界》の編集長を務めた湯川豊(1938〜 )が《大岡昇平の時代》(河出書房新社、2019年9月30日)で次のように書いているのには注目させられる。「大岡は、M・H〔少年時代の恋の対象〕を性欲の対象として考えたことはなかった、と書いている。ただ彼女のすらっと丈が伸びた姿が好きだった。振り分けにした髪形と、眉が濃い男の子みたいな感じが好きだった。さらに、二十代で一番好きだった映画スターは、ボーイッシュなルイズ・ブルックスだったと注釈している。/一九八四年、『ルイズ・ブルックスと「ルル」』という翻訳写真集のような本を、大岡昇平は出版しているから(四方田犬彦共訳)、何となく頬笑ましくなる。」(〈第六章 少年時代の意味〉、同書、二三二ページ)。――湯川は「共訳」と書くが、大岡の著述に、ブルックスの文章を四方田が訳した2篇を併録したもので、大岡が翻訳しているわけではない。一方、吉岡実は、と言えば《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)の口絵写真の「初恋の人、中村葉子。」は断髪でもボーイッシュでもないが(これが1940年、吉岡の出征前に葉子が手渡した写真ならば、むしろ年相応、というよりも実年齢以上に成熟した女に見える)、吉岡の想いのなかでは、中村葉子という存在はルイズ・ブルックスに通じるものがあったのかもしれない。

「ルイズ・ブルックスの肖像入り写真立て/大岡が愛蔵したもの。/個人蔵」 〔《大岡昇平の世界展》(会場:県立神奈川近代文学館、会期:2020年10月3日〜11月29日)における説明文〕 《大岡昇平の世界展》会場の県立神奈川近代文学館
ルイズ・ブルックスの肖像入り写真立て/大岡が愛蔵したもの。/個人蔵」 〔《大岡昇平の世界展》(会場:県立神奈川近代文学館、会期:2020年10月3日〜11月29日)における説明文〕(左)と《大岡昇平の世界展》会場の県立神奈川近代文学館(右)

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〔*1〕 「「少年」の校正を終って、ぐったりしているところである。」と始まる大岡の〈「少年」こぼれ話〉の二つめの段落は「二年半「文芸展望」に連載中、編集部の辰巳四郎君に、なんどか国会図書館へ通ってもらった。いっしょに九十九里教会の旧友の外山五郎を訪ねたりした。私の「自伝」の書き方は、自分の記憶だけにはよらず、可能なかぎり文献や証言を集めて、記憶を修正することだったので(この方法がいいか悪いかは問わず、もうやってしまったので、取り返しようもない)よけい辰巳君をわずらわすことになったのである。」(《ちくま》第80号、1975年12月、六ページ)で、同文の末尾には、天地が二段組の下段分、左右が本文4行分のスペースに罫囲みで「大岡昇平 少年 ある自伝の試み/定価一五〇〇円/(特装限定版近日刊行)/筑摩書房」という自社広告がある(〔特装限定版〕の装丁も司修)。このことから判明するように、〈「少年」こぼれ話〉は、大岡がこの年11月に刊行した新著《少年――ある自伝の試み》のプロモーションを兼ねていて、《ちくま》の原稿依頼は大岡の担当編集者・辰巳四郎からなされたものではないだろうか(〈「少年」こぼれ話〉は単行本《少年》に挟み込みの「付録 昭和51年1月」――175×111ミリメートルの二つ折り4ページの末尾に「(ちくま昭和50年12月号より)」とある――として再録されているが、私が見たのは「昭和五十一年三月三十日第六刷」本で、前年11月30日発行の「第一刷」に付いていたかは不明)。ちなみに辰巳は、金井美恵子が触れている《大岡昇平全集》(1994年10月〜2003年8月)の担当編集者でもある。《大岡昇平全集〔第23巻〕補遺・雑纂・資料》の〈月報24〉の終わりに「(編集部)」として次のようにある。「最終回配本第二十三巻をお届け致します。完結までに八年十ヵ月を要したことになります。読者の皆様にはたいへんご迷惑をおかけ致しました。心よりお詫び申し上げます。/この間に本全集編集委員の埴谷雄高さん、吉田凞生さんが逝去されました。改めてご冥福をお祈り申し上げます。/本全集に様々な形でご協力いただいた皆様及び関係機関に深くお礼申し上げます。」(同月報、一二ページ)。なお同全集の編集委員は、大江健三郎・菅野昭正(二人はこの最終号の月報で大岡文学について対談している)、そして埴谷と吉田の四人である。

〔*2〕 〈他人の言葉〉で「ほとんどと言っていいほど共通点があるとは思えない詩人〔吉岡実〕と小説家〔大岡昇平〕の全集を重なった時期に読むことになったのは、私の仕事上の都合にすぎないのだが」と書いた金井美恵子は、筑摩版《大岡昇平全集》の〔第22巻〕に解説〈「小説家」であること――あるいは「ひたすらな現在」〉を寄せていて、その〔第22巻〕の主たる内容は《成城だより》三部作である。大岡は《成城だより U》(文藝春秋、1983)に次のように書いた。説明のために、段落の初めに丸中数字を振る。

 〔一九八二年〕一月十一日 月曜日 晴
@寒、一四時岩波の星野君来り、著作集打合せ。最初は評論シリーズだった話が、小説を加えた著作集となる。小生数年前中央公論社版全集の際には、多忙にて、細部見直すことはできず。いまは仕事少なければ、ゆっくり訂正せんとす。初期作品は初出にもどし、後期は直す。
A一五時、新潮社梅沢君に『ながい旅』の訂正稿を渡す。巣鴨プリズン発行のガリ版文集『13号鉄扉』中の岡田資執筆の文章、上坂冬子氏『巣鴨プリズン13号鉄扉』にあり。同書は新潮社刊行なれば同文集借用、その他上坂氏の本文の使用許可を求む。新聞連載中スペースなくなり、省きたる挿話なり。上坂氏目下海外旅行中。
B十六時、講談社出版部、小孫君、「群像」籠島君来る。小孫君に『資料、現代の詩』を頼む。筆者は詩人住所録付「現代詩手帖」十二月号に便利し、毎年取替えている。同時に「年間回顧座談会」をのぞく弥次馬根性あり。去年も今年も鮎川信夫、吉本隆明氏の対談なり。ところで今年は対談少し埃っぽし。金子光晴の戦時中の仏印行、協力詩の問題あり。『資料、現代の詩』中の「詩人会議」なるものの『詩壇の三十年』の記述態度、H氏賞をめぐるなまぐさい昔話むしかえさるという。弥次馬根性動きて『資料』持参をたのんだのなり。詩壇の派閥の間に伍して詩誌編集者の、苦労、文壇の比に非ず、とのことなり。宗匠制度まだ残りあるに非ずや。
C〔……〕
D〔……〕
E〔……〕(《大岡昇平全集〔第22巻〕評論\》、筑摩書房、1996年7月23日、一六六〜一六七ページ)

本稿の主旨からいっても、Aで「上坂〔冬子〕氏の本文の使用許可を求」めている律儀さには感歎せざるを得ない。しかし、私がこの日の記載に関心を持つのは、Bで「『資料、現代の詩』中の「詩人会議」なるものの『詩壇の三十年』の記述態度、H氏賞をめぐるなまぐさい昔話むしかえさるという」に見られる「詩壇の派閥」に対する大岡の「弥次馬根性」だ。むろんこれは吉岡実を捲きこんだ、あの一件である(〈「H氏賞事件」と北川多喜子詩集《愛》のこと(2012年1月31日)〉の末尾を参照されたい)。大岡日録で後略したC〜Eの中心的な話題は、大岡の《天誅組》と、この正月に読了した安岡章太郎の《流離譚》で、大岡は結局、吉岡の名を挙げていない。

〔*3〕 《うまやはし日記》に依れば、吉岡はルイズ・ブルックスの《パンドラの箱》を1939(昭和14)年5月13日の土曜日、神田の南明座で観ている。詳細は〈《うまやはし日記》に登場する映画――吉岡実と映画(2)〉を参照のこと。

〔*4〕 1996年秋、神奈川近代文学館で開催された《大岡昇平展》に合わせて大岡の人と文学について語った四方田犬彦は〈大岡昇平とフィルム『パンドラの箱』〉で「ここ〔『少年』という自伝〕で大岡さんがルイズ・ブルックスという名前を挙げたのは一九七五年、そのときがたぶんはじめてだったと思うのですが、彼女について、それから十年ほどたってから、彼はほんとうにお熱をあげて、なんと一冊の本を書き上げてしまいます。」(中野孝次編《大岡昇平の仕事》(岩波書店、1997年3月12日、一三二ページ)と指摘している。四方田はまた、大岡昇平《文学の運命〔講談社文芸文庫〕》(講談社、1990年2月10日)の人と作品についての解説〈年少者の当惑〉で「あるとき、わたしたちは時間を待ちあわせて、彼が半世紀ほど前に観たきりというパブストの『パンドラの匣〔ママ〕』をフィルムセンターで観た。驚いたことに、かくも長い歳月が経過しているというのに、大岡昇平の細部の記憶力は少しも減退しておらず、彼がフィルムを見直す直前に執筆したエッセイはほとんど何も訂正する余地がなかった。」(同書、三二六ページ)と書いている。私が吉岡実の随想を読むときに覚えるのも、それと同じ驚きである。もちろん〈懐しの映画――幻の二人の女優〉もその例に漏れない。大岡=四方田の《ルイズ・ブルックスと「ルル」》を手にしたに違いない吉岡は、はたしてどんな感懐をもっただろうか。

〔*5〕 おそらくこの絵葉書について、大岡昇平は《ルイズ・ブルックスと「ルル」》で次のように書いている。「「パプスト氏」の仏訳はフランスの映画誌「ポジィティフ(陽画)」〔19〕58年2月号に載っている。これは彼女の渡仏の年次と一致しており、表紙写真は若き日の彼女である。恐らく1930年にフランスで撮った「ミス・ヨーロッパ」Prix de Beauteの一コマである。うつ向いた顔で、つけまつげが誇張されて見える(この頃から彼女の特異な容貌が注目されたらしく、ピーター・グラハム著『映画辞典』1963〜68年刊の表紙写真も「パンドラ」の一コマである)。現在なお、彼女のブロマイドが絵葉書として売られていて、私はその二枚を蓮實〔重彦〕氏からいただいたが、「版権所有」と註記されている。この映画からの複製だからだろう。パリは戦災を受けなかったので、パプストの二つの作品〔「パンドラの箱」(1929)と「淪落の女の日記」(同年)〕よりいいコピーが残ったと思われる(83年末アメリカから帰った大江健三郎氏によれば、サンフランシスコで「パンドラ」のきれいなコピーが発見されたという)。」(同書、三九ページ)


加藤紫舟句集《光陰》のこと(2020年11月30日)

加藤紫舟句集《光陰〔松尾文庫〕》(松尾書房、1950年6月25日)の表紙 加藤紫舟句集《光陰〔松尾文庫〕》(松尾書房、1950年6月25日)の加藤郁乎によるペン書きの献呈・署名ページ
加藤紫舟句集《光陰〔松尾文庫〕》(松尾書房、1950年6月25日)の表紙(左)と同・加藤郁乎によるペン書きの献呈・署名ページ(右)

2020年7月、《日本の古本屋》経由で渋谷の中村書店から加藤紫舟句集《光陰〔松尾文庫〕》(松尾書房、1950年6月25日)を購入した。本文二一六ページの文庫本で、扉裏に「吉岡實様/愚息 郁乎/昭和五十年二月十八日」とペン書きで日付入りの献呈・署名がある。句誌《黎明》を主宰した紫舟加藤中庸(1904〜1950)の子息・加藤郁乎が吉岡実に贈った一本である。不思議なことに、本書は扉(この裏に献呈・署名がある)をめくると、いきなり〈巻末に〉と題した著者の文章が来る(末尾には「昭和二十五年三月十二日/著者」とある)。以下に、漢字を新字に改めて掲げる。

 周囲の人々から句集を刊行してほしいといふ声が、昨年末から今年にかけて耳うるさくなつてきた。思へば終戦後一冊の句集も出してゐないのであるから、折角の要望に耳を塞いでゐるわけにはゆかない。それに新芸術俳句の探究者として五年間も句集を出さないでゐることは、あまりにも無責任であるかに思はれるので、昨今第五句集出版の時機が到来したではないかと考へるやうになつた。
 〔……〕
 如上、この句集は第一句集「森林」第二句集「感情のけむり」、第三句集「會津」第四句集「日本晴」のあとをうけた第五句集といふかたちになるけれども、純粋な第五句集の立場をはなれ、黎明が叫ぶ新芸術俳句を、即ち紫舟の近業を理解していたゞけばよろしいといふところに、本句集「光陰」刊行の意義を置くことゝしたのである。この点に関して、この句集を繙いてから、黎明の俳句芸術を、且つ又最近の俳人紫舟を巌密に検討してほしいと希つてゐる次第である。
 最後に目次に示した大見出しについて一言しなければならぬが、「雲を分けつゝ」は二十四年の作、「心綻びず」は二十三年の作、「旅ごころ」は二十二年の作、「好日」は二十一年の作である。つまり一年々々区切るために、右のやうな表題を設けたに過ぎないのである。(同書、〔三〜五ページ〕)

ここにある「目次に示した大見出し[、、、、]」は本文中の扉に記されているだけで、大見出しとそのノンブルを掲げた〈目次〉はない。上掲引用文で中略した箇所には、松尾書房主人(松尾恒子)と話しているうちに「一週間内に句稿をまとめてほしいといふことになつた」とあり、著者は充分な制作・製作期間をとることができなかったのではないか。この文章(自序/跋?)で紫舟は自分の健康状態に触れていないが、執筆した8箇月後の1950年11月5日に歿しているので、なにかに急きたてられるようにして句集をまとめたかに見える。各表題における冒頭の句を引く。

福寿草ときに聖者のひかりあれ  (〈雲を分けつゝ〉)
葉牡丹はさらさら〔原文:くの字点〕君が瞳を見せよ  (〈心綻びず〉)
西へ西へ日輪へ凧吹かれゐつ  (〈旅ごころ〉)
太陽はそこに初荷の船着きぬ  (〈好日〉)

奇妙なことだが、私は「霞から肥をかついで夫婦らし」(〈雲を分けつゝ〉)の句から、吉岡の「作者の主題の外れたところで 改めて窓から眺めようか/菜の花畑のなまなましい夫婦群を」(〈葉〉G・4)という詩句を想起した。もっとも、この句を含めて句集のどこにも(吉岡による)書きこみは見られない。ところで、加藤紫舟句集《光陰》が加藤郁乎から吉岡実に贈られたについては、次のような経緯があったと考えられる。まず、吉岡実・加藤郁乎・那珂太郎・飯島耕一・吉増剛造による座談会〈悪しき時を生きる現代の詩――座談形式による特集〈今日の歌・現代の詩〉〉(《短歌》1975年2月号)の〈出生・過去・海やまを走る〉のパートの一部を引く。

吉岡 郁乎さんはどこですか、出身は。
加藤 いやぁ、ぼくは会津だと言って来たんだが、インチキですよ。いまでも、東北だと信じてる友人がいるらしいですね。生まれは東京なんです。わたしは目白の近く。
吉岡 そうだよ、東京なんだよ。ぼくは、あんた東京人だと思ってた。
加藤 インチキが好きだからね。会津弁を子供の頃に覚えてるもんで使ったりするんですよ。今度、井上ひさし論を書いたときに牛込で育ったとバラしましたけれどもね。東京なんですよ。それも昔は豊玉郡と言っていたんですね。東京府……府の中でも市外なんですよ。
吉岡 お父さんの代からですか。
加藤 親父は会津の人間です。これが江戸文学なのに白虎隊精神なんですよ。だから、子供のときには足袋ははかせて貰えないしね。「白虎隊の子孫がなんだ!」なんだ! っていったって、冬寒いのに足袋をはかなかったらね。そういうスパルタ教育だかなんだかにやられましたよ。そして子供のときから親父の生家と往き来していましたから、会津の。それで酔っぱらったりすると会津弁でインチキ遊びをやるんですよ。
吉岡 郁乎さんに報告したいことがあるんだけどサ、この間古書展でお父さんの句集『森林』というのを買いました。
加藤 『森林』?! ウワッー!
吉岡 わからないんだ、名前が。紫舟は知っていたけど、これが郁乎のお父さんか、自序・跋・奥付を見てもわからないんだ。加藤のかの字もないんだよ。黎明居というのね。
加藤 それは親父の第一句集ですよ。三十歳だったでしょう。
吉岡 これは加藤郁乎のお父さんじゃないかと思って読みました。俳人も歌人も、子供がうまれると句や歌をつくるでしょう。それで調べていったら、とうとう見つけたんだよ。昭和四年のところで、一月三日郁乎出生す「一度二度見るや実南天に似てくる子」。
加藤 これはこれは、親子にわたって買っていただいてありがとうございました。(笑)親父、喜んでいますよ。(拍手を打つ真似して)
吉岡 句集の前半のほうがいいなという感じするんですね。今度郁乎さんにサインしてもらおうかな。
加藤 茶色の箱の……。あのころでは長谷川零余子の門を叩いたりしていますね。
吉岡 で、若くして亡くなられたんですか。
加藤 ええ、わたしのあと二つで死んじゃうんですよ。四十七で死にました男ですからね。宝井其角という俳人がやっぱり四十七で死んでいます。酒飲みでしたからね……。原石鼎の弟子のときもありました。
吉岡 あれはほんとうに偶然の出会いですね。
那珂 石鼎の弟子じゃ、郁乎風じゃなくてまじめな……。
加藤 ああ、もう……。(笑)いま親父がいたら、ぶんなぐられていますよ、不肖の伜は。(笑)好きな句が石鼎にはありますね。〈頂上や殊に野菊の吹かれ居り〉〈秋風や模様のちがふ皿二つ〉ああいうのが石鼎ですね。この間石鼎先生の未亡人とはじめてお話ししたんですが、一年ぐらい教えて貰っていたらしいですね。
吉岡 早く独立しちゃったの、お父さんは。
加藤 そうなんですよ。食うためもあったんでしょうけどね。点者になると食べられますからね。俳諧史を教わったのが山口剛といういまの森銑三先生なんかと同じで江戸文学なものですからきっと迷ったんですよ。吉増君みたいに、西鶴やろうか、どうしようかと。西鶴やったのが暉峻康隆。それで結局は俳諧に行くわけですね。ところが、そんな学問やったらなかなかメシ食えないから、点者になっちゃったんですよ。それで少しずつ食べられるようになって、東京で骨を埋めるつもりのようでした。大体、文学なんか選んだので田舎の家を勘当された男ですから。
那珂 そういうところはやはり血筋ですね。(笑)
加藤 俳諧師なんて一代でいいんですよ。飯田龍太にはなんだけれども、蛇笏先生がいれば、もう……。ちょっとむごいことを言うけれども。(笑)虚子に娘がいて、星野立子だってなんだっていいけれども、文学は一代かぎり、俳諧なんていうのは、もう一代でいいんですよ。それを門前の小僧でこんなことになっちゃいました。
吉岡 だけど、親から出たら、出藍のほまれとは言えないだろうけど、郁乎はお父さんを抜いてるよ、しょうがないよ、お父さんに悪いけれども。(笑)
加藤 親父を知ってる人たちは、大体わたしのことをおもしろくないらしいんですね。……たまに法事なんかで会うと、白けちゃうけどね。(同誌、七〇〜七一ページ)

息子の郁乎は、黎明居紫舟の句集《森林》を求めて読んでいた吉岡に敬意を表して、加藤紫舟最後の句集《光陰》を献じたわけである。思えば吉岡は、1966年2月1日に郁乎と出会うまえ、その《球體感覺》も《えくとぷらすま》もすでに買いもとめて読んでいたのだから、根っからの俳句好きだったといえよう。《光陰》から紫舟の句を抄する。

苺熟るゝこの朝母は子のものよ

ライラツク咲け星降れば星降れば

青すだれ花粉のごとく髪にほふ

  墓参、吾が子東京より来る筈なるも未だに見えず
秋の風かくて一子を待つとなし

一人来て一人去り障子冷えてきし

加藤紫舟の第一句集《森林》は容易に見ることがかなわないので(国立国会図書館、俳句文学館、日本近代文学館に所蔵なく、〈日本の古本屋〉にも、〈Amazon〉にも出品がない)、替わりに黎明居紫舟《俳句三十講》(上田泰文堂、1931年10月3日)を求めた。最後の句集一冊を読んだだけでは、なんとも心許ないのだ。

黎明居紫舟《俳句三十講》(上田泰文堂、1931年10月3日)の表紙 黎明居紫舟《俳句三十講》(上田泰文堂、1931年10月3日)の本扉
黎明居紫舟《俳句三十講》(上田泰文堂、1931年10月3日)の表紙(左)と同・本扉(右)

前掲座談会の加藤郁乎の発言にも登場する飯田龍太(1920〜2007)には、《俳句入門三十三講》(講談社学術文庫、1986・講談社、2015〔本文組版は講談社学術文庫版に同じ〕)がある。龍太の俳句誌《雲母》の例会の実作指導のなかから選りすぐった俳論・俳話(《龍太俳句教室》《龍太俳句作法》《龍太俳句鑑賞》から33篇を編んだのは学術文庫編集部)が半世紀以上前の紫舟の書名と似ているのは、偶然であるというよりも、書きおろしであれ既刊書の抜萃であれ、ひとりの俳句作家が自身の考える俳句の全体像を示すとなると、自ずと「俳句○○講」という形をとるためではないか。紫舟の《俳句三十講》の〈目次〉はこうである。(★印は小林が付けたもの)

一 俳句の概念
二 どんな印象が俳句を構成するか
三 どんな風に見たら俳句になるか
四 俳句の言葉と文字の使用について
   附 新造語について ★
五 季語(季題)について
六 一句の出来上るまで
七 出来上つた一句について
八 時候を詠む俳句に就て
九 天文を詠む俳句に就て
一○ 地理を詠む俳句に就て
一一 人事を詠む俳句に就て
一二 宗教を詠む俳句に就て
一三 動物を詠む俳句に就て
一四 植物を詠む俳句に就て
一五 俳句に境地といふことに就て
一六 俳句の詩情に就て
一七 恋愛の俳句に就て
一八 幻想的な俳句を詠むに就て ★
一九 俳句の模倣に就て ★
二〇 俳句の品に就て
二一 や[。]・かな[。。]に就て
二二 俳句の音律に就て
二三 機上車上船上の俳句制作に就て
二四 俳句の在るところ
二五 底光りのする俳句へ
二六 波打たない俳句 ★
二七 俳句に詠む美はどうして生れて来るか
二八 俳句の上達を計る人はよく味はうこと
二九 俳句評釈の仕方に就て
    (イ)俳句を評釈する人の注意
    (ロ)作者本位の評釈 ★
    (ハ)作品本位の評釈
三○ 俳句評釈
 (附録)
   俳句季語一覧表

私は★印を付けた講をとりわけ興味深く読んだ(〈作者本位の評釈〉など、作家論と称してある文筆家の作品と人物を探求しようとする人間にとって、頂門の一針であろう)。以下に、その特徴的な段落を抄する。くの字点はかなに開いた。( )内の数字は本書の掲載ノンブル。

〈新造語について〉
 次に矢鱈に流行し出したところの新造語に就て一言申上げます。何故に流行してゐるかと云ひますとそこには二つの理由が存在して居ります。その一つは俳句は余りにも言葉が短か過ぎるから折角言ひ表はしたいことを文字に言ひ含めることが出来ない。そこで止むを得ないから自分勝手に熟語などを作るといふことになります。もう一つは自分の俳句を作るについて在来の文字を用ひてゐてはなかなか他人の眼を引かない。そこで奇抜な熟語なんかを自分勝手に作つてゆくといふことにに[ママ]なります。こういふ人は出鱈目な熟語を作つてゐながら、恰も自分独特な俳句を網み出したかのやうに得意満面でゐます。(52-53)
 要するに俳句を作らうとする人の叡智詩嚢から考へ出して自分が感じたることに適合した言葉に作り上げるのでありますから、余程の注意を払はないと出鱈目式なものになり勝ちであります。常に普遍性がなければなりませんし、語調がよくなくてはいけませんし、文字に不調和なところがあつてはなりません、即ち誰が読んでも決して無理なふしがなくて、思はず詩境の径に導くやうでなくてはいけません。(55)

〈幻想的な俳句を詠むに就て〉
 何故幻想をわざわざ取り立てゝ此処に問題としたかと云ひますと、作者の夢見てゐるやうな心境をよく表はすのでありますから、自然其人の半面を刻することになるのであります。そして読者をも幻想界に遊ばして呉れるといふことになります。現在薄つぺらな平面写生の句に飽いてゐる人々によき匂を嗅がして呉れるであらうと思ひます。読者によりよき感銘を与へて呉れるならばそれはよりよき作品であることを物語ります。上手に詠まれた幻想の俳句は強き感興を読者に得させるであらうと思ひます。(313)
 幻想の俳句を作らうとする意識なくして幻想が生まれたる場合に之を俳句に詠まうと努めるが宜しいのであります。こんなことでは黙つてゐて幻想が湧きはしないでせうと疑はるゝ方があるかもしれませんけれども、強いて幻想界を描き出さうとしなくとも幻想界は独りでに湧いてくることが度々あります。何故かと云ひますと、俳句を詠まうとなさる方々はいろいろなことに注意深く観察され、そしてそれ相当に境地を深めやうと努めて居られますから、或る事物が端をなして直ぐに幻想界を目のあたりに描き出さるゝやうであります。此時勿論強いて幻想を展開さやうとする気はなくとも自然に展開するものであります。(319)

〈俳句の模倣に就て〉
 凡そ模倣と云ひましても程度の問題でありますから、他人の俳句と全く同じ俳句を作る人があるかと思ふと、一字二字のみ異つた俳句を作る人もあり、或はほんの僅かを真似する位の人もあります。勿論、模倣するといふ意識観念がなくて模倣したやうな俳句になつたのであれば致し方もありませんが、これが良いから、あれがよいからと云つて真似した俳句であつたならばそれは甚だ不真面目な熊度の俳句であり、作品の価値は零であります。模倣も次のやうな模倣でありますならば、その人が自己の境地を深める為めの路でなければなりませんから敢て苦言を申上げることは出来ません。例へば某氏に私淑してゐるが為めに自然某氏の俳句を見ること読むことも多くなり、或は面接するやうな機会もあつて種々と俳句の話などを承つて居るところから、不知不識の間に某氏の句風が移り、自分が詠む作品にも某氏独特の表現法などが窺かはれるといふことがあります。これはやがて自分の境地を拓き、自分の句風を樹てる為めの道順であります。この人は某氏の長所を取り以て自己の境地を深めんとしてゐるのであります。(328-329)

〈波打たない俳句〉
 如実に観た場合、眼に映ずるや否や無理なくして直ちにアタマに届いて句が生れて来るのでなければならない。眼は単に映るだけだから外部の或部分を看取するに過ぎません。それが十七文字を借りて纏めると、見たものゝ報告であつて俳句とはなり得ません。眼のうしろの詩想が顔を出して呉れないと俳句をなしませんから、こゝに注意することが大切です。眼と詩想のアタマとの距離に隔りの長い人は、若し目に映ずるものそれ自身が直ちに言はゞ文句なしにアタマヘ届いて呉れるだけの力を具へてゐるものだつたら世話はないのですが、大体然らざる場合の方が多いといふ人々は止むを得ませんから、目に映つたものをもう一度観直しすることです。さうすると良かれ悪しかれ何かアタマヘ印象するところがあります。(396-397)

〈俳句評釈の仕方に就て――作者本位の評釈〉
 作者本位の評釈はよく作者を調べて評釈を下すのでありますから、短所がないかと云ひますと、決してさうではありません。特に初学者が作者本位の評釈に傾かれたる結果生ずる弊としては、作品の価値如何を第二第三にして作者そのものを過重視するが為めに誤れる評釈を与へることになるのであります。
 即ち作者をよく知つて居りますから、誰それの作であるならば可成上手だとか、某は俳壇を風靡する程の人であつたから下手な作品がないとか、彼は至極真面目な人物であつたから滑稽じみた俳句などは作らぬとかいふ意識の影響を享けて、俳句の評釈に手を下さぬうちに作者の名を見たゞけで大凡作者の価値を決めてしまふことがあります。
 又世評に影響されて初学者自ら公平なる省察を忘却してしまふことがあります。誰の俳句は上手であるといふ一書を見れば忽ちそれに賛同し、又は知名の士が誰それの俳句は深遠であると云へば忽ち誰それの俳句といふ俳句を皆深遠にしてしまふといふ傾向がないでもありません。
 これは俳句にのみ限られたものではなく、絵画・彫刻・文学等総てさうであります。誰それの作品だから一層上手に見るといふことが往々あります。これ即ち正しき鑑賞眼を向けられないからであります。若し作者の名前を取り替へたゞけで作品の価値が上下するやうなことがあつたならば、それこそ有り得べからざる不思議でありませう。
 初学者は若し作者を調べて俳句の評釈をなさるならば、以上のやうな弊害に陥らぬやう充分の注意を払はるゝことが必要であります。
 扨てこの作者本位の評釈は非常なる費用と時間と努力とを要するものであつて初学者にはお勧めしたくないと申述べましたのは外でもありません。作者本位の評釈即ち歴史的研究を経てからの評釈と作品本位の評釈は全く趣を異にして居ります。作者本位の評釈の方は歴史を辿[たど]り故人を探[さ]ぐることに主なる意義があり、興味もあるのであります。されば初学者が正しき俳句作品の鑑賞にもならず、俳句の上達を計る為めにも役立つところが少いのであります。歴史的な研究を深く積んだからといつて自己の境地が俄かに深くなり、直ちに佳句を詠み得ることが出来るかと云へば、さうでもありません。殊に初学者の場合には作品そのものを熱心に鑑賞する方が如何に役立つかしれません。煩雑な労を傾注するよりも次に述べやうとする作品本位の評釈に力を致さるゝ方が初学者には利するところ大なるものがあるだらうと思ひます。(436-437)

最終講の〈俳句評釈〉では、十句を引いている乙二(1756〜1823)の評価が高い。私には「たんぽゝや一目に見ゆる茎と花」の句とその評釈が好ましい(*)。そこには、ほとんどクリムト的な幸福感がある。

評釈。たんぽゝの花が平野の春を代表して人目の届くすべてのところに点綴してゐる。自然を熱愛して見る人、自然を観るに肥えた眼を所有してゐる人は忽ちにこれだけの生きた自然美を掴むことが出来るのである。たんぽゝの花と茎とが一目に見えるとしか叙してはゐないけれども、これ丈けの僅かな文字の裏側には尽きない景趣を掬することの出来る詩美――無形ではあるが、活き活きした美の動きが流れ渡つてゐるのである。所謂余情に豊富な句と申しても差閊はないかもしれぬが、単に言葉の云ひ廻しに依つて或る趣を文字の上に云ひ表はさずして読者に思ひを深からしめるといふやうな即ち句のからだを見せてそれに付随する着物や種々の装身具は読者々々に推察させるといふ俳句とは異り、表現されてはゐないが、表現の無形的な部分が転じて躍動せる美を構成してゐるものと見てよろしい。かやうな律動あるがために読者である私の感情に鳴動するる[ママ]のである。この句にはオスカーワイルドのギリシヤの詩に通ふ歓喜の一端が流れてゐる。今日綿密な自然描写をすることが盛なもので、この句などよりもずつと深い観察の下に作句されたものが随分多い。併し文化文政時代の作品としては正に一歩深入してゐる俳句であるといつてよろしい。作者には見渡す限りたんぽゝの花と茎の動ける色を取り囲んでゐる大きな春の色がこよなくも美しかつたのであらう。(459-460)

黎明居紫舟の散文における小気味よい断定の積みかさねは、息子の加藤郁乎にそのまま引き継がれたように見える。郁乎もまた、文章に剛腕をふるった俳句作家だった。

 〔……〕「詩歌の翻訳といふと、からきし詩の感覚のない何々教授などの手合に限つて浅猿しくも手をつん出すから、大部分の訳詩は乾からびたパン屑を紙上に墓地のやうに列べたものになる」と、日夏耿之介がせせら笑ったのはそう遠い話じゃない。〔……〕黄眠洞主人といえば山口剛所蔵の『近代艶隠者』に惚れこんだおひとだったが、『山口剛著作集』につき谷澤氏は言う、「編集した暉峻康隆・神保五弥は、多数の論文の初出誌紙名を確かめ得ず不明のまま残し、著作目録は一覧表にせず検出不便な書き流しの略式ですませ、索引はつけず論文の取捨選択の理由や事情を示さない。魂のこもらぬ編集というべきだろう」と。折角、未発表の力作「明和の一人」などが収められた著作集だっただけに、期待を裏切られた読者の不満失望の声はいまに記憶に新しい。(浦西和彦・増田周子編《朝のように 花のように――谷澤永一追悼集》、論創社、2013年3月8日、一三二〜一三三ページ)

座談会での郁乎発言に登場する山口剛(1884〜1932)――《山口剛著作集〔全6巻〕》(中央公論社、1972)がある――や暉峻康隆(1908〜2001)に言及した書評〈風力精強の難儀な人=\―『完本 紙つぶて』『牙ある蟻』〉の「アカデミズムの実態」の一節である。ちなみに山口剛は、紫舟の《俳句三十講》に〈序文〉を寄せている。

………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

(*) こんにち最も容易に見ることのできる乙二句集の印刷本は、宮田正信・鈴木勝忠校注《化政天保俳諧集〔古典俳文学大系16〕》(集英社〔編集創美社〕、1971年5月10日)に収められた〈松窓乙二発句集[しようそうおつにほつくしふ] 付 をのゝえ草稿[さうこう]〉だろう。同書に依れば、掲句は
  蒲公英[たんぽゝ]や一目にみ[見]やる茎と花
で、([ ]の)ルビの異同は《をのゝえ草稿》のもの(同書、一二五・一三〇ページ)。紫舟が同句を「一目に見ゆる」としたのは、はたしてどの本に依ったのか、残念ながら調べがつかなかった。ところで、吉岡は《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987)の〈84 たんぽぽと髪の句〉で次のように書いている(同書、一七〇ページ)。

 〈日記〉 一九八四年七月二十三日
 朝十一時、土方巽の電話で起こされる。「たんぽぽ」と「髪」の俳句を十句ずつ、教示してほしいと言う。舞踏用講義のテキストのために、必要とのこと。予定の「英文毎日」への詩作をやめて、早速、句集、雑誌、歳時記を調べる。「髪」の秀吟はすぐに抽出できたが、意外なことに「たんぽぽ」はどうしても、五句しか採れない。すでに夕暮。立風書房の宗田安正に電話でたすけを求める。夜十一時、清書して、アスベスト館へ送った。
                 ★記憶にある一句「洗ひ髪濡れよこたはる死病かな」三ヶ山孝子。

「たんぽぽ」の五句には、乙二の発句も含まれていただろうか。


吉岡実と多田智満子(2020年10月31日)

2020年4月、詩人の多田智満子(1930〜2003)が吉岡実に宛てた歌集《水烟》(コーベブックス、1975年4月30日)を、川崎市の甘露書房から購入した。本扉の裏に「多田智満子歌集/著者本百部の内/第二十八番」と三行にわたって、罫囲みで記されている(このうち「二十八」は紫色の手書きの筆字。ちなみに本文共紙の扉は、書名だけ同じ紫の二色刷り。洒落ている)。国立国会図書館のOPACを見ても「限定版」とあるだけで、著者本以外の部数は(この書誌からは)わからない。本書の仕様は、二三五×一三九ミリメートル・六八ページ・上製角背・布装(背に書名を題簽貼り)・貼函。縦長のきわめてすっきりした紙面[ページ]は、一首を本文12ポ活字(字間を1ポで割ってあるか)で、途中折り返さずに直立させて、一ページ二首組みにするために功を奏した。

多田智満子歌集《水烟〔著者本〕》(コーベブックス、1975年4月30日)の函と表紙 多田智満子歌集《水烟〔著者本〕》(コーベブックス、1975年4月30日)の本文ページ〔〈逝ける少年に〉の見開き〕
多田智満子歌集《水烟〔著者本〕》(コーベブックス、1975年4月30日)の函と表紙(左)と同・本文ページ〔〈逝ける少年に〉の見開き〕(右)

出版元のコーベブックスは、Wikipediaでは立項されていないが、加藤郁乎(1929〜2012)、永田耕衣(1900〜1997)、久生十蘭(1902〜1957)、須永朝彦(1946〜 )、窪田般彌(1926〜2003)、岩崎力(1931〜2015)、ジャン・ジュネ(1910〜1986)、ジュール・バルベー・ドールヴィイ(1808〜1889)、郡司正勝(1913〜1998)、篠田知和基(1943〜 )、落合重信(1912〜1995)、三橋敏雄(1920〜2001)、高山鉄男(1935〜 )、矢野目源一(1896〜1970)の著書や訳書の出版元として言及されている。 吉岡の編んだ《耕衣百句》(コーベブックス、1976)が登場しないのは、私がそのベースを書いたWikipediaの〈吉岡実〉の項に、吉岡の著書しか記載しなかったからだ。コーベブックスの出した本の著者・訳者がこれにとどまるものでないことは言うまでもない。現に、検索時に多田智満子がヒットしなかったのがその証左である。

歌集は〈月影〉〈水仙期〉〈夏至〉〈逝ける少年に〉〈あけぼの〉〈くちなは〉〈厨ごもり〉〈水晶体〉〈尾根道〉〈きりぎし〉〈夢の墓室〉〈なだれ〉〈落日〉〈水烟〉の14の章から成る(全84首)。〈月影〉の一首め、すなわち巻頭歌は、

  岩蔭の水にひろがる黒髪のひとゆれ揺れて瀧鳴りいづる

であり、〈水烟〉の六首め、すなわち巻末歌は、

  羊歯の闇に立ち現はれて寂かなり旅路の果の幻の瀧

である(なお、本文は正字・旧仮名表記だが、新字に改めた)。歌集は、瀧に始まり、瀧に終わる。この間には、

  星を涵[ひた]し潮満ちくれば振り放[さ]けて胸乳あたりを吃水とせむ  〈あけぼの〉

  瀝青の蛇の輝きくさむらに消えて跡なく風ふき過ぎぬ  〈くちなは〉

  玻璃の皿まろくぬぐひてみがきあげぬ一顆のわが眼供へんがため  〈厨ごもり〉

  透きとほるまるきめがねをかけて見る透きとほるまるきめがねをかけたる人を  〈水晶体〉

  生涯を編年体に編むべしや掌[て]に静脈の行方透かしつ  〈なだれ〉

  水烟は微光のごとく瀧壺をかこみて立てり夜のさいはて  〈水烟〉

といった佳品がひっそりと置かれている。本書には、現代短歌からの影響よりも、三橋鷹女の句に通じる女のりりしさを感じる。あるいは遠いギリシアの古詩に似た、なにものかを。ときに多田智満子は、葉書大の耳付きの手漉き和紙に刷った挨拶状に次のように書いている。

 この一年間、ふと道草を食ふやうにして三十一文字をもてあそんでゐる積りで、じつは我々の祖先を代々支配した五七調の言霊に、手もなく自分がもてあそばれてゐるのに気がついた。
 彼に忠誠を盡すかぎり、他の形式に心を移すことは思ひもよらぬ。さればここに腰折れを集めたのは、この貧しい一本を以て専横な言霊への捧げ物とし、その支配圏からの無事脱出を願つてのことに他ならない。
                著者

吉岡実編《耕衣百句〔特装版〕》(南柯書局〔コーベブックス内〕、1976年6月21日)に添えられた特装版表紙「紙布」の説明文〔署名はないが、渡辺一考によるものと考えられる〕と多田智満子の歌集《水烟〔著者本〕》(コーベブックス、1975年4月30日)に添えられた挨拶文
吉岡実編《耕衣百句〔特装版〕》(南柯書局〔コーベブックス内〕、1976年6月21日)に添えられた特装版表紙「紙布」の説明文〔署名はないが、渡辺一考によるものと考えられる〕と多田智満子の歌集《水烟〔著者本〕》(コーベブックス、1975年4月30日)に添えられた挨拶文

上掲写真、右は件の多田による挨拶文、左は(おそらく)渡辺一考による説明文。耳付きの手漉き和紙と葉書大に綺麗に断った和紙の違いはあるが、本文はともに五号活字、20字×10行(行間は異なる)。そして、本書の奥付は以下のとおりである(二行め以下は箱組み)。

  多田智満子歌集水烟 奥附
    昭和五十年四月三十日 限定出版
    神戸市生田区三宮町一丁目一番地
    コーベブックス 北風一雄 刊行
    印刷 創文社 製本 須川製本所

なぜこうまで詳しく本書を見てきたかというと、歌集《水烟》刊行の翌昭和五十一(1976)年六月二一日に吉岡実編、永田耕衣選句集《耕衣百句》(限定七〇〇部記番、ほかに南柯書局刊の限定八〇部の〔特装版〕がある)が版元=コーベブックス、印刷所=創文社、製本所=須川製本所という、本書とまったく同じ布陣で出ているからだ。多田智満子が耳付きの手漉き和紙の挨拶状の表面に献呈署名を墨書しただけでなく、それとは別にペンで書状を認めたのは、《水烟》刊行当時、《耕衣百句》の製作が深く潜行していたからではないか。私はかつて《耕衣百句》に関して、永田耕衣に宛てた吉岡実の書簡のことをこう書いた。
「〔……〕六通めにして最後、刊行の前年一九七五年七月七日消印のはがきから――こんどの神戸行きで、田荷軒ですごした二時間が、一番充実した時間でした。須磨寺駅で、耕衣さんをおまたせして、申訳なく思っています。渡辺一考君とは、京都まで一緒で、《耕衣百句》の打合せをいたしました。」(〈選句集《耕衣百句》解題〉)。
歌集本体からはうかがえないが、《水烟》の担当編集者が渡辺一考であることは紛れもないので、多田が吉岡に《耕衣百句》の件で目配せしているように思えてならない。――わたしはこうして「歌のわかれ」をしたのだから、吉岡さんも耕衣さんの選句集、はやく見せてくださいね――と。「素人の筆のすさび、まことにお恥しいものでございますが、おひまな折御高覧頂ければ幸いに存じます.     多田智満子」。仮にこの文言が献呈先に共通のものだったとしても、受けとった吉岡は、多田と渡辺がひとつ別のフェーズに入ったと実感したことだろう。むろん多田は、吉岡に《魚藍》(1959、1973)があることを知っていたはずだ。この歌集が、はじめ吉岡実と和田陽子の結婚披露宴で列席者の記念になるものとして配られたことも、吉岡にとっての「歌のわかれ」であったことも(*1)

多田智満子の歌集《水烟〔著者本〕》に添えられた吉岡実への書状(ペン書き)と献呈署名(筆書き)
多田智満子の歌集《水烟〔著者本〕》に添えられた吉岡実への書状(ペン書き)と献呈署名(筆書き)

詩人の多田智満子の第一詩集《花火》(1956)、第二詩集《闘技場》(1960)はいずれも書肆ユリイカから発行された。後者に収められた〈船のことば〉には、吉岡の詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)と共鳴するものがあるように思う。エンディングの2節を引く。

9

潮の暗室にとじこめられて
私の下半身はしだいに透きとおってくる
エラのように開いたり閉じたりする船室のトビラから
蒼い魚たちがこっそりと出入りしはじめる
腸管のようにまがりくねった通路には
眠れない老水夫がしゃがみこみ
夜通し壁を這うカニをつかまえている
そしてそのそばを髪の長い水死人が
前のめりになってわらいながら通りすぎる

冷えきった機関室ようごかぬ舵よ
なぜ私のへさきは
こんなに昂然たる姿をしているのか――

10

帝王切開するために
港は私を待っていたのだ
手術台の上の女のように
耐えるしかすべのない数刻――
大空にむかって存分にひらかれた船艙から
そのなまあたたかい深部から
クレーンはのろのろと船荷を掻爬する
私の体温と体臭とをもつ胎児を
高々と吊りあげ
潮風と人々の視線とにさらして虐殺し
そしてコンクリートの岩壁に投げおろす
――私は突然重量を失い
吃水線がスカートのようにずり落ちるのを感じる
しかしこの虚脱は長つづきしない
新しい積荷によって充填され
私はふたたび身重になって
もりあがる波のなかにのめりこむ
出港を告げる汽笛は
疲れた獣の呻きをあげ
船底にへばりついたおびただしい牡蠣たちは
新しい航海の期待に
よろこび いっせいにうごめく

《僧侶》もそうだが、ここに吉岡の《静物》(私家版、1955)の残響を聴くことは、それほど困難ではない(もっとも、多田が読んだのは1959年に書肆ユリイカから出た《吉岡實詩集》だったかもしれない)。それよりも、のちに《紡錘形》(草蝉舎、1962)にまとまる詩篇ときわめて近い旋律を響かせていることに驚く。吉岡は多田との出会いについて、さらには初期の多田の詩について書きのこしていないはずだが、どのように読んだのか、聞いてみたかった。

多田智満子が吉岡実のことを書いた文章は次の三つだろう。
 〈秋のサフラン〉(《毎日新聞〔夕刊〕》、1979年11月20日)
 〈素朴な様で適確な名文〉(《週刊読書人》、1980年9月8日)
 〈吉岡実さんの葬儀の日〉(《中央公論》、1990年8月号)
また、吉岡が歿した翌1991年の10月、浅草・木馬亭で開かれた〈吉岡実を偲ぶ会〉の第一部、知友たちの思い出話で登壇している(ちなみに、多田智満子、矢川澄子、そして吉岡陽子の3人は、いずれも1930年生まれ)。〈秋のサフラン〉(新聞の夕刊の〔視点〕というコラムに発表)の一節にはこうある。

 サフランは、ギリシャ、小アジアの原産だという。クレータ島の遺跡、クノッソス宮殿の壁画に、サフランを摘む姿が描かれている。吉岡実さんの詩に「サフラン摘み」というのがあるが、古代の画家が壁画に描きこんだように、このサフラン摘みの少年を、詩のなかに、巧みな手つきで塗りこめたものだ。
 〔……〕
 ともあれ、昔から栽培された多くの植物がそうであるように、サフランは、美しさとともに、薬効のゆえに知られていた。クレータ島の少年がこれを摘んだのは、花飾りにするためか、薬を採るつもりだったのか――。

一方、吉岡が多田に触れたのは《現代詩手帖》1981年2月号〔第十一回高見順賞発表〕の〈感想〉で、多田の詩集《蓮喰いびと》(書肆林檎屋、1980年10月10日)を次のように評している。

 〔……〕
 私が推したいと思った詩集は、天沢退二郎《乙姫様》、多田智満子《蓮喰いびと》、鈴木志郎康《わたくしの幽霊》そして、安藤元雄《水の中の歳月》の四冊であった。しかし、予選は三冊ということなので、《乙姫様》を外さざるを得なかった。〔……〕多田智満子さんの《蓮喰いびと》は、女流には珍しく理知的に構成された良い詩集だと思った。ただ第三部の童謡風な作品を除外したら、詩集の統一がとれて強かったと思った(他の委員〔篠田一士・中村稔・飯島耕一・吉増剛造〕も同意見)。〔……〕
 私はいろいろと考え、安藤元雄君の《水の中の歳月》を推すことに決めた。寡作な詩人に依る手づくりの詩集だと思った。九カ年という長い制作期間につくられた、多少ニュアンスの違う詩篇を巧緻に配列し、みごとに統一した詩集である。一篇一篇の詩はそれほど強いと思えないのに、全体として見ると、意志(意識)の強さを感じる。妙な言い方かも知れないが、そこには内観の美がある。(同誌、一五三ページ)

ここで寄り道をして、《定本 多田智満子詩集》(砂子屋書房、1994年3月10日)巻末の〈著作目録〉を基に、多田智満子の詩書を概観したい(赤字で表示した)。同時に、吉岡実が生前に刊行した詩書をWikipediaの記載から引いて表示する。

  詩歌集《昏睡季節》(草蝉舎、1940)
  詩集《液体》(草蝉舎、1941)
  詩集《静物》(私家版、1955)
  詩集《花火》〔1950〜55〕(書肆ユリイカ、1956)
  詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)
  歌集《魚藍》(私家版〔制作は書肆ユリイカ〕、1959)
  選詩集《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959)
  詩集《闘技場》〔1956〜59〕(書肆ユリイカ、1960)
  詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962)
  詩集《薔薇宇宙》〔1959〜63〕(昭森社、1964)
  選詩集《吉岡実詩集》(思潮社、1967)
  詩集《鏡の町あるいは眼の森》〔1965〜68〕(昭森社、1968)
  詩集《静かな家》(思潮社、1968)
  選詩集《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968)
  詩集《贋の年代記》〔1963〜70〕(山梨シルクセンター出版部、1971)
  《多田智満子詩集〔現代詩文庫50〕》(思潮社、1972)
  詩〈異霊祭〉(書肆山田、1974)
  詩集《神秘的な時代の詩》(湯川書房、1974)
  村上芳正装画散文詩集《四面道》〔1970〜74〕(思潮社、1975)
  歌集《水姻》〔1973〜74〕(コーベブックス、1975)
  詩集《サフラン摘み》(青土社、1976)
  選詩集《新選吉岡実詩集〔新選現代詩文庫110〕》(思潮社、1978)
  詩集《夏の宴》(青土社、1979)
  詩集《ポール・クレーの食卓》(書肆山田、1980)
  詩集《蓮喰いびと》〔1975〜80〕(書肆林檎屋、1980)
  季節テーマの選詩集《季霊〔現代女流自選詩集叢書4〕》(沖積舎、1983)
  詩集《薬玉》(書肆山田、1983)
  選詩集《吉岡実〔現代の詩人1〕》(中央公論社、1984)
  詩集《祝火》〔1980〜86〕(小沢書店、1986)
  詩集《ムーンドロップ》(書肆山田、1988)
  英訳多田智満子選詩集〔translated by Robert Brady, Kazuko Odagawa, Kerstin Vidaeus ; introduction by Ooka Makoto〕《Moonstone woman : selected poems and prose〔Asian Poetry in Translation, #11〕》(Katydid Books(supported by Oakland University(MI), University of Michigan, UNESCO, etc., c1990)

――《定本 多田智満子詩集》後出版
  詩集《川のほとりに》(書肆山田、1998)
  詩集《長い川のある國》(書肆山田、2000)

――歿後出版
  〔高橋睦郎編〕詩集《封を切ると》(書肆山田、2004)
  〔高橋睦郎編〕歌集《遊星の人》(邑心文庫、2005)

上記の簡略化された書誌からも、いろいろなことが見て取れる。吉岡の戦前の2冊(《昏睡季節》《液体》)は除き、ふたりは1950年代半ば、ほぼ同時期に実質的な第一詩集を刊行し、当時最も近しかった版元は伊達得夫の書肆ユリイカだった。その後は思潮社の〔現代詩文庫〕などでハンディなアンソロジーをまとめる一方、歌集も刊行している。Wikipediaに載っていないので上の書誌にはないが、吉岡も(飯島耕一との二人集だが)英訳選詩集《Celebration In Darkness――Selected Poems of YOSHIOKA MINORU》を、多田のそれと同じシリーズの〔#6〕として1985年に出している(*2)。1980年代、90年代、2000年代で両者に近かった版元は書肆山田である。以前、〈吉岡実と入沢康夫〉で表形式の大掛かりな対照書誌を展開したが、 本格的に多田智満子を論ずる場合、吉岡実や入沢康夫(多田の現代詩文庫版詩集の裏表紙には入沢の穏やかで激烈な[、、、、、、、]文章が載っている)ではなく、鷲巣繁男や高橋睦郎との対照書誌が不可欠だろう(*3)。さて、件の詩集《蓮喰いびと》だが、Uの〈espressivo  表情ゆたかに〉の章に、詩篇〈螺旋宮〉がある。最終節を引く。

無数の巻貝である私は
巨大な巻貝である世界のなかで
たとえばとぐろ巻く蛇に呑みこまれた蝸牛のように
渦巻く時の管の奥へのろのろと移動する
(解体し変容し身をねじりながらの地獄降り)
どれほど私が解体し 変容したか
世界の腸管の内壁いたるところに
溶けかけた鏡 あなたがたの首が吊されてある

私など、これを読んでただちに(入沢康夫詩とともに)吉岡の〈螺旋形〉(H・11)を想起するのだが、吉岡の「女流には珍しく理知的に構成された良い詩集」という評はこの詩句にも充てはまるのだろう。もっともだと思う。だが私は、「第三部〔多田の詩集ではVの〈scherzando  遊戯風に〉の章〕の童謡風な作品」のなかでも異色の次の詩篇をこよなく愛する。

月蝕の推理|多田智満子

三角形の家の中で
誰がSを殺したか
ヒントをさしあげよう
花瓶の割れる音がして
猫が屋根からころげ落ちた
(まず牡猫 数秒おいて牝猫が)
殺人を教唆したのはキツツキである
ツグミは口をつぐんでいた
Sはみなしごで
生まれる前から母がなかった
さてこの月蝕の夜
誰がSを殺したか
彼は若かったしたいへん美しかった
そのうえ彼はもともと死んでいたのだ
もうひとつヒントをさしあげよう
屋根の勾配は六〇度で
猫の交配はただ一度
花瓶のかけらは七つ半あった

この、萩原朔太郎のような、稲垣足穂のような、(そして吉岡実のような)ノンセンスな味わいは無類だ。ちなみに詩集《蓮喰いびと》には〈失われた王国――『記憶の書』の作者に――〉(鷲巣繁男)、〈後姿に――逝ける古典学者に――〉(呉茂一)、〈瑠璃玉をめぐる問い――『枯れた瑠璃玉』の作者に――〉(堀川正美)、〈牛の首のある三十一番目の情景――『牛の首のある三十の情景』の作者に――〉(入沢康夫)、〈扉――『善の遍歴』の作者に――〉(高橋睦郎)という、献呈詩・追悼詩が収められている。( )内は小林による補記である。これらの詩篇も、《蓮喰いびと》とほぼ同時期の吉岡の詩集《夏の宴》(1979)を想わせて、興味は尽きない。単行本の《蓮喰いびと》にも、同詩集を収めた《定本 多田智満子詩集》にも詩篇の初出記録がないが、吉岡の〈螺旋形〉(初出は《海》1977年5月号)と多田の〈螺旋宮〉とでは、どちらが先に発表されたのだろうか。

多田智満子詩集《蓮喰いびと》(書肆林檎屋、1980年10月10日)の函と表紙 多田智満子詩集《蓮喰いびと》(書肆林檎屋、1980年10月10日)の本扉と函
多田智満子詩集《蓮喰いびと》(書肆林檎屋、1980年10月10日)の函と表紙(左)と同・本扉と函(右) 〔装丁者のクレジットはないが、発行者の吉野史門か〕

〔付記〕
《定本 多田智満子詩集》に挟みこまれた栞には、矢川澄子、高橋睦郎、三枝和子、池内紀、山中智恵子、池澤夏樹、6氏が文章を寄せている。小説家の三枝和子(1929〜2003)の〈アルテミスの化身〉に次のような記載がある。多田智満子と吉岡実に触れた数少ない文章と思われる。

 〔……〕
 私と多田さんのつきあいは、そう深い方ではない。私はもともと詩人コンプレックスを持っていて、それもかなり強いもので、それだからと言うわけでもないが、詩と詩人をできるだけ隔離してつきあっている。詩と詩人のあいだに生じる落差を私自身が埋めることができないでいるというのが正確な表現かもしれないのだが。だから私に詩人の友達はいない。その意味では多田さんは友達ではない。
 しかし、実に不思議な人だ。多田さんに関してだけは、私の意識のなかに詩と詩人のあいだに生じる落差がない。多田さんの立居振舞いを見ていると、多田さんの詩そのものが歩いているような感じを受ける。落差がないから、詩そのものが歩いているような感じを受けるから、友達になれないのかもしれない。いつも少し距離をおいて、眺めるようにしてつきあっている。
 いつも、というけれど、そう始終会っているわけではない。最初の出会いは大阪かどこかで、どなたかのパーティで、このときは確かお辞儀程度で、あまり口を利いていない。多田さんは白いロングドレスをすらりと着て、私が水割のガブ呑みをしているのに、ブランディ・グラスを静かに揺らしていた。
 二度目に会ったときは、かなり喋った。これも神戸のどこかで、どなたかのパーティで、そのあと多田さんと珈琲を飲みに行くことになった。何故か吉岡実氏が一緒だった。吉岡氏は下戸だそうで、私がどこかへ飲みに行きましょう、と言ったにもかかわらず珈琲屋になった。それに昼間だった。吉岡氏は、私の感覚で言えば詩と詩人のあいだの落差の特に激しい人で、私はほとんど口を利くことができなかった。何を話したかも覚えていない。それからあと多田さんと二人でまた別の喫茶店へ梯子した。私は遂に水割を飲んだ。多田さんのことは覚えていない。〔……〕
 〔……〕(同栞、七〜八ページ)

この「神戸のどこかで、どなたかのパーティで」は、1980年5月の神戸六甲荘における永田耕衣傘寿記念会でのように思われるが(吉岡がその手のパーティに出たのは、耕衣か赤尾兜子の会に違いない)、それはともかく、「吉岡氏は、私の感覚で言えば詩と詩人のあいだの落差の特に激しい人で、私はほとんど口を利くことができなかった。何を話したかも覚えていない。」という、吉岡と初めて対面した三枝の感懐はじつに興味深い。多田と吉岡がどんな会話をしたのか、三枝が詳しく書いていない処を見ると、おそらく耕衣か兜子のことから俳句をめぐる四方山話だったのではないか(多田の詩集《川のほとりに》の〈木枯らし〉の最終節「髪脱け落ちた山河の一隅/長い脚註の杖をついて/このわたし ひとつの死語となりつつある」は、吉岡も《耕衣百句》に選した高名な句を下敷きにしている)。それとも、もっと世話に砕けた近況報告だったか、共通の友人(矢川澄子や高橋睦郎)についての話題だったか。吉岡は〈田村隆一・断章〉にこう書いているではないか。「〔私と田村隆一とのはじめての出会いの〕記憶はおぼろげながら甦えってくる。場所は神田小川町のデミアンという小さな喫茶店で、ここで私は畏敬する《四千の日と夜》の詩人とはじめて、言葉をかわしたのだった。しかしおたがいに詩の話をするほど、野暮ではなかった。もっともくだらない話題に終始した。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一八三ページ)と。

………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

(*1) 2020年10月発行の玉英堂稀覯本書目《近代文学百六十品 新蒐・価格見直し品特集》(玉英堂書店)には、表紙と背の切り抜きカラー写真とともに歌集《魚藍》が掲げられている。すなわち「056 魚藍/吉岡実歌集 私家版70部 著者自装 フランス装 非売品 三方少シミ 元パラ 小型本 拵帙入 和田陽子発行 昭34 結婚式の引き出物として刊行された私家版。刊行人の和田陽子は新婦である。/1冊 110,000円」(同書、一二ページ)。〈歌集《魚藍》解題〔2014年10月31日追記〕〉執筆の時点で「151,200円」だったから、たしかに「価格見直し品」である。

(*2) 本文で言及した英訳多田智満子選詩集〔translated by Robert Brady, Kazuko Odagawa, Kerstin Vidaeus ; introduction by Ooka Makoto〕《Moonstone woman : selected poems and prose〔Asian Poetry in Translation, #11〕》(Katydid Books(supported by Oakland University(MI), University of Michigan, UNESCO, etc., c1990)に先立って、大岡信・Thomas Fitzsimmons共編の《A Play of Mirrors: Eight Major Poets of Modern Japan〔Asian poetry in translation. Japan; #7〕》(Oakland University KATYDID BOOKS、1987)に、大岡信のintroduction〈Tada Chimako〉(訳者名不記載)と多田の詩篇の英訳〈Dead Sun〉〈Me〉〈Wind Invites Wind〉〈A Poetry Calendar〉〈Song〉(Koriyama Naoshi and Edward Lueders訳)、〈King's Army〉(Kirsten Vidaeus訳)、〈The Odyssey or “On Absence”〉(Koriyama Naoshi and Edward Lueders訳)、〈Universe of the Rose〉〈Lost Kingdom〉(Kirsten Vidaeus訳)〈Jungle Gym from The Territory of Children〉(Akai Toshio訳)が掲載されており、これが多田満智子詩の最初の英訳かもしれない。

(*3) 多田が鷲巣繁男、高橋睦郎と創刊した同人誌《饗宴》(書肆林檎屋、1976〜1983)は、第1号から第10号(鷲巣繁男追悼号)、特別同人でもあった呉茂一を追悼する臨時増刊号の全11冊を刊行。吉岡は同誌の創刊号(1976年5月)に詩〈少年〉(G・29)を、終刊号(1983年6月)に詩〈落雁〉(J・17)を寄せている。創刊号で、その編集後記に相当する〈でいあろごす〉に「三人の同人は詩一篇と散文一篇を発表する義務がある。お客様がお二人、お一人には詩を、お一人には散文をお願いする。ほかに、同人三人が共に尊敬する呉茂一先生に連載原稿を頂戴する……以上が当初からの計画であった。吉岡実、井上輝夫両氏、それに呉先生のご快諾を得て、創刊号にふさわしい充実した内容になった。特に呉先生には「牧歌」第一曲から第四曲までの大部のご訳稿をまたとない「うまのはなむけ」に頂戴した。」(同誌、一三二ページ)と書くのは、同号の編集人でもあった「(M)」こと高橋睦郎である。吉岡は創刊号の巻頭作品という厚遇に〈少年〉をもって応えた。


吉岡実と藤富保男(2020年9月30日)

2020年2月、吉岡実が藤富保男(1928〜2017)に宛てたハガキ3通を、尾張旭市の永楽屋から入手した。締めて15,000円也。文面をモノクロで掲げ、それぞれをテキストに起こしておこう。

藤富保男に宛てた吉岡実のハガキの文面 @[消印]目黒局 17.10.72 藤富保男に宛てた吉岡実のハガキの文面 A[消印]渋谷局 80.6.25 藤富保男に宛てた吉岡実のハガキの文面 B[消印]目黒局 83.6.22
藤富保男に宛てた吉岡実のハガキの文面 @[消印]目黒局 17.10.72(左)とA同・渋谷局 80.6.25(中)とB同・目黒局 83.6.22(右)

@10円の郵便はがき [消印]目黒局 17.10.72 18-24〔1972年10月17日〕
目黒区青葉台の吉岡の自宅から目黒区緑が丘の藤富の自宅に送られている。
[文面]
拝復、神田の街で、いつもすれちがっています
ね。こんどお会いしたら喫茶店で、少しは話を
しましよう。詩集《今は空》ありがとう
存じます。読んでからと思っていましたが、
だんだん日が過ぎていきますので、とり
あえずお礼だけでも述べさせていただき
ます。            敬具

A20円の郵便はがき [消印]渋谷局 80.6.25 12-18〔1980年6月25日〕
目黒区青葉台の吉岡の自宅から目黒区緑が丘の藤富の自宅に送られている。
[文面]
毎日、晴天つづきで、空つゆの模様に
なってきました。水不足の夏にならなけ
れば、よいがと思っています。
さて、北園克衞句集《村》を拝受
いたしました。素晴しい本だと思います。
本当に、ありがとう存じます。
未亡人にもよろしく、お伝え下さい。
             草々

B40円の郵便はがき [消印]目黒局 83.6.22 2-18〔1983年6月22日〕
目黒区青葉台の吉岡の自宅から目黒区緑が丘の藤富の自宅に送られている。
[文面]
陽気な梅雨。労作『北園克衞』あり
がとう存じます。精読しておりませんが、
愛情のこもった、評伝で、良き入門書
だと思いました。新詩集『笑門』も
楽しく、読みました。遅くなりましたが、改め
て、お礼申上げます。
                 実

はじめに書誌的事項をまとめておく。藤富保男の単行詩集は少部数発行という事情もあって、未見ゆえ、《藤富保男詩集全景》(沖積舎、2008年11月25日)栞の〈藤富保男詩集全景 解題〉に依る。なお、師――という語を藤富は嫌うかもしれないが――の北園克衛は1978年6月6日、75歳で亡くなっている。

藤富保男詩集《今は空》
A5変判フランス製アンカット 58ページ 詩篇12/一九七二年(昭47)思潮社刊/定価 一、二〇〇円 (限定二二五部)/装本 小田久郎(〈藤富保男詩集全景 解題〉、九ページ)

北園克衛句集《村》(瓦蘭堂、1980年6月6日)
船木仁・藤富保男編
装丁:高橋昭八郎
「昭和55年6月6日、瓦蘭堂刊。定価千八百円。B六変型判、九四頁。題字=自筆。写真五葉(本文中に挿入)。」(〔編集委員〕山本健吉・森澄雄・草間時彦・飯田龍太《現代俳句集成別巻一〔文人俳句集〕》、河出書房新社、1983年1月30日、〔三九三ページ〕)
「丁度この句集『村』が高橋昭八郎の手際のよい構成で出来上ったのが、没後二年目の命日、六月六日であった。その日、六本木の「美濃吉」という料理店には「仮称、北園克衛を偲ぶ会」で集まった人人がいた。諸氏にこの句集は配られた。その折、栄夫人と明夫氏も出席され故人を偲ぶ一夜をすごしたのである。出席は順不同で、中野嘉一、山田野理夫、高橋昭八郎、船木仁、近藤東、鍵谷幸信、小林善雄、諏訪優、篠田一士とぼくであった。」(藤富保男《北園克衛〔近代詩人評伝〕》、二七〇ページ)(*1)

藤富保男《北園克衛〔近代詩人評伝〕》(有精堂、1983年6月10日)
B5判上製紙装 別丁本扉・モノクロ口絵8ページ・本文300ページ(うち〈人名索引〉6ページ)・貼函
「北園克衛の一連の実験活動を見ると、彼が自ら開拓した詩の独創的そして独走的な歩みは、経験の上に記述をのせて書かないことで、またハァバアト・リードの言う「芸術の最悪の敵は連想である」を、かたく守った人であると言える。極論をすると、非経験主義的手法で図式あるいは図形の詩を書いたということができよう。」(〈あとがき〉、同書、二八九ページ)

藤富保男詩集《笑門》
B5変判並製 70ページ 詩篇20/一九八二年(昭57)点々洞刊/定価 二、〇〇〇円/造本及び装幀 高橋昭八郎(〈藤富保男詩集全景 解題〉、九ページ)

吉岡実は藤富保男の詩について次のように書いている。
「七月三日 月曜/〔……〕/藤富保男詩集『魔法の家』をよみながらねる。」(〈日記抄――一九六七〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一四ページ。初出は《詩と批評》1967年9月号〔原題〈日記〉〕)。
この詩集も藤富が吉岡に送ったものか。それとも、刊行から日が経っている処をみると、吉岡が古書で入手したものか。ここで、《魔法の家》(B6変判変型並製 73ページ 詩篇40/一九六四年(昭39)芸術研究協会/定価 三〇〇円 (限定二三〇部)/装幀 新國誠一――〈藤富保男詩集全景 解題〉、九ページ)から、「僧侶」が出てくる一篇を引いておこう。

夕|藤富保男

夕焼けが来た 紫の衣装を着て狸をつれて山から僧侶が歩いてくる
狸は柱時計のような顔をしているが あれは一杯のんできたのだ
今日は村では ほたる狩りなので子供たちはどうしてもこうしても全くやかましい
僧侶が機関車のように咳をした 子供たちがいっせいに道をひろげて散って行った
狸の尾が夕陽を浴びて海老茶色にこげている

標題の〈夕〉は必ずしも「夕」を表しているわけではない。この詩集に収められたほかの詩を見ればわかるのだが――第一行が「それは」と始まる詩は〈そ〉と題されている――この無造作とも、投げやりとも見える機械的な操作は、いっそのこと快い。〈この詩集のことにふれて〉という《魔法の家》のあとがきを掲げる。なお、末尾には「一九六四年/藤富保男」とある。

 ぼくの短い詩、すなわちスケッチに相当する詩をまとめたのが、本詩集である。
 これらのある作品は、この詩集のために改作され、またあるものは十年位も前のそのままの作品である。さらに雑誌の上に発表された時につけられた題や記号は、このさい全部取りこわされて目次にあるような、きわめて目立たない原詩の冠の部分の一字を付すだけの題に改められたのである。
 今度、新国誠一君の協力を得てこの詩集が出るようになったことを彼に感謝したい。

吉岡は前掲日記にこの詩集の感想を記していない。おそらく読みながら寝てしまって、起きたときには忘れているのではないだろうか。私はこれを、藤富の詩に対する最上の褒めことばとして書いている。こんにち藤富保男詩を最も容易に読むことのできる流布本のひとつには、次のようにある。
「藤富保男は言葉のなかに現実よりも広やかで、現実を解体するような世界を発見する異能の詩人である。その世界では言葉そのものが淋しがったり、笑ったり、まるで人間のように振舞う。モダニズムの系譜に連なる実験性を持つが、ユーモア、サタイア、イロニーといった諧謔味にも満ちたその詩篇は、現実への痛快な一撃であると言ってよい。そして、それは近代的な病理とも言える自我の解体を試みる詩的実験なのである。」(城戸朱理〈藤富保男(一九二八〜 )〉、城戸朱理・野村喜和夫編《戦後名詩選T〔現代詩文庫・特集版1〕》、思潮社、2000年5月30日、一三九ページ)

終わりに、《村》から北園の句をいくつか抄する。なお、村山古郷(1909〜1986)は前出《現代俳句集成別巻一〔文人俳句集〕》の本句集の〈解説〉で「詩人北園克衛は、戦前、八十島稔の「風流陣」に加わり、岩佐東一郎・城左門・村野四郎ら詩人仲間と句作してこれに発表した。この「風流陣」の仲間には俳句を作る詩人が多く、一俳団を作っていた。克衛もその仲間の一人で、本書は当時の作を主として集め、没後、藤富保男によって出版されたものである。この詩人群の俳句は、詩人らしい自由奔放の俳句ではなく、古格を守り、穏和にして典雅、姿の正しい俳句を作るところに、際立った特色がある。」(*2)と評して、《村》から「手鏡にきりぎりす来る山の宿」と「空風に小手かざしゆく河童かな」の二句を引いている(同書、四三二ページ)。

瓢箪のくびれて下る暑さかな

遠雷をきゝつゝひとをくどきけり

葛飾や芋植ゑる野の大傾斜

ふる里は遙かにありぬ韮の汁

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(*1) 1980年6月6日の北園克衛の三回忌に集った人人(その多くは詩人である)に配られた句集《村》は、藤富保男の手によって(おそらく)何人かの俳人にも贈られた。インターネットで画像検索すると永田耕衣(1900〜1997)の礼状がヒットしたので、以下に掲げ、翻刻する。耕衣と吉岡が北園の句について語ったことはあったのだろうか。

藤富保男宛て永田耕衣書簡(〔1980年〕6月23日付ハガキ)
藤富保男宛て永田耕衣書簡(〔1980年〕6月23日付ハガキ) 出典:日本の古本屋

○20円の郵便はがき [消印]須磨局 〔日付不詳なれど、1980年6月月23日か24日か〕 9-12 神戸市須磨区の永田耕衣の自宅から目黒区緑が丘の藤富の自宅に送られている。

〔通信面〕
北園克衞句集『村』を小生如
きにまで御恵贈賜りまして恐
縮ありがたく嬉しく厚く御礼申上
げます。直ちに通読、「俳句」の無着
な大別世界を喫する思い、巻末の
俳偈も亦当面の俳人仲間からは
決して出ない清純強固な文脈で
す。いつか句々に即して紹介的に何
か書きたい衝動を得ました。御礼迄九拝

〔宛名面〕
サキにはBL
UEを賜わ
りましたこと
も重ねて肝
銘深謝申
し上げます。

永田耕衣
654
〔住所印〕

6.23.

書簡中の「巻末の俳偈」は、〈俳句寸論ほか〉なる総題の〈俳句寸論〉〈俳句〉〈ちょいちょい録〉〈俳句近感〉という四つの散文を指し、同じく「BLUE」は、北園克衛詩集《BLUE》(EDITIONS VOU、1979年6月6日)――すなわち北園の一周忌に際して刊行された最後の詩集――を指す。礼状は見つかっていないが、詩集《BLUE》も当然、吉岡に贈られたことだろう。

(*2) 私はかつて吉岡実のレイアウト(4)(2007年4月30日)で吉岡実詩集《昏睡季節》の出版広告を紹介した。そこに掲げた(中)の写真について、「吉岡の下段にあるのは《風流陣》(文藝汎論社発行の俳句雑誌)の広告だが、書体(ゴチック)の選択や人名の倍取り、さらにスペースの処理が複合して、なんとも取りちらかった印象だ。それに対して、《昏睡季節》の広告は新聞の三八(書籍広告)を彷彿させる美しさである。誰がこれを指定(レイアウト)したのだろうか。」と吉岡実の手になるだろうことを予想して、そのあとでは「《文藝汎論》の広告レイアウトがどのようなシステムだったかは不明だが、これだけ凝縮した文案の執筆、洗練された活字の指定が吉岡本人以外の手によってなされたとはとうてい思えない。」と推断した。今もこの考えに変わりはないが、吉岡ははたしてこのころ俳誌《風流陣》を読んでいただろうか。富澤赤黄男を筆頭とする当時の俳誌《旗艦》の俳人について吉岡は後年、たびたび随想で言及したが、《風流陣》に拠った詩人たちの俳句には触れていないのだ。北園克衛の俳句についても同断である。今後の調査研究に俟ちたい。


吉岡実作品の外国語訳(2020年9月30日)

吉岡実の作品(詩篇と散文)は、1968年にイタリア語に訳されたのを嚆矢として、今日までに英語(180篇)、フランス語(15篇)、中国語(7篇)、イタリア語(6篇)を数える(ほかにドイツ語訳、ネパール語訳があると聞くが未見)。作品の数は、当初雑誌に発表されたのちそれが書籍に収められた場合も個別にカウントしたほか、著名な作品(〈静物〉の連作や〈僧侶〉、〈サフラン摘み〉)は、同じ言語でも複数の訳者による翻訳が存在するので、訳された作品を名寄せすると、その数は総計よりも減って約108篇となる。今日われわれがこれら(とくに詩篇)を味読して比較検討することは、吉岡実作品を原語である日本語で読むのとはまた異なった感興を喚び起こすだろう。日本語と翻訳された言語の双方に堪能な訳者による読み≠ェ介在しているためである。以下に、詩歌集《昏睡季節》(1940)に始まり詩集《ムーンドロップ》(1988)に至る吉岡実の全刊行詩篇はもちろん、〈海の章〉(未刊詩篇・1)から〈沙庭〉(同・21)までの未刊詩篇(1947〜90)のすべての発表詩篇を対象に、対応する吉岡実詩の外国語訳を一覧にした(散文・和歌を付載した)。なお作品の訳文は原則として本サイトには掲載していない。ご面倒だが、刊本・雑誌・新聞(場合によっては、これらと同時に訳者のウェブサイトに載っていることもある)の訳文に当たっていただけるとありがたい。データの元になった《吉岡実書誌》の〈T 著書目録〉および〈V 主要作品収録書目録〉ほかを本稿末尾に再録したので、詳細はそちらを参照されたい。

【凡例】
春 〔=原題〕 (@・1) 〔=丸中数字は吉岡実の何番めの詩集かを、アラビア数字はその詩集での掲載順(未刊詩篇の場合は発表順)を示す〕
Spring 〔=訳された題名〕 ← [Five] Factorial 〔=左の訳を収めた書名や雑誌名・新聞名の簡略表記。リンク先はデータ元の書誌〕
* 同じ原題の中では、それぞれの訳を発表順に並べた。【英】は英語を、【仏】はフランス語を、【中】は中国語を、【伊】はイタリア語を表す。

詩集《昏睡季節》(1940)

春(@・1)
Spring ← [Five] Factorial【英】

夏(@・2)
Summer ← [Five] Factorial【英】

昏睡季節1(@・19)
A Season of Stupor 1 ← [Five] Factorial【英】

昏睡季節2(@・20)
A Season of Stupor 2 ← [Five] Factorial【英】

詩集《液體》(1941)

挽歌(A・1)
Elegy ← Lilac Garden【英】
Elegy ← [Five] Factorial【英】

花冷えの夜に(A・2)
The Night When Flowers Grow Cold ← [Five] Factorial【英】

溶ける花(A・4)
Melting Flowers ← [Five] Factorial【英】

牧歌(A・10)
Pastorale ← Lilac Garden【英】
Pastorale ← From the Country of Eight Islands【英】

乾いた婚姻図(A・13)
Dry Wedding Picture ← Lilac Garden【英】

忘れた吹笛の抒情(A・16)
Lyricism of the Forgotten Flutist ← Lilac Garden【英】

風景(A・19)
Landscape ← Ten Japanese Poets【英】
Landscape ← Lilac Garden【英】
風景 ← 日本当代詩選(孫鈿訳)【中】

液体T(A・26)
Liquid I ← [Five] Factorial【英】

液体U(A・27)
Liquid II ← [Five] Factorial【英】

詩集《静物》(1955)

静物(B・1)
Natura morta ← La protesta poetica del Giappone【伊】
Still Life ← Anthology of Modern Japanese Poetry【英】
Still Life ← Lilac Garden【英】
Still Life ← Contemporary Japanese Literature【英】
Still Life ← Modern Japanese Poetry【英】
Still Life ← From the Country of Eight Islands【英】
Still Life ← Celebration In Darkness【英】
静物 ← 日本当代詩選(孫鈿訳)【中】
La natura morta ← Sei Budda di pietra【伊】
NATURE MORTE ← PO&SIE【仏】
静物 ← 日本当代詩選(鄭民欽訳)【中】
Still Life ← [Four] Factorial【英】

静物(B・2)
Still Life ← New Writing in Japan【英】
Still Life ← Ten Japanese Poets【英】
Still Life ← Lilac Garden【英】
Still Life ← Contemporary Japanese Literature【英】
La natura morta ← Sei Budda di pietra【伊】
NATURE MORTE ← PO&SIE【仏】
Still Life ← [Four] Factorial【英】

静物(B・3)
Still Life ← Ten Japanese Poets【英】
Still Life ← Lilac Garden【英】
NATURE MORTE ← PO&SIE【仏】
Still Life ← [Four] Factorial【英】

静物(B・4)
Still Life ← Lilac Garden【英】
NATURE MORTE ← PO&SIE【仏】

或る世界(B・5)
Certain World ← Lilac Garden【英】

樹(B・6)
Tree ← Lilac Garden【英】

卵(B・7)
Egg ← Anthology of Modern Japanese Poetry【英】
The Egg ← Ten Japanese Poets【英】
The Egg ← Lilac Garden【英】
L'uovo ← Sei Budda di pietra【伊】
Egg ← [Four] Factorial【英】

冬の歌(B・8)
The Winter Song ← Lilac Garden【英】

夏の絵(B・9)
Summer Picture ← Lilac Garden【英】

風景(B・10)
Landscape ← Lilac Garden【英】

讃歌(B・11)
Hymn ← Lilac Garden【英】
Praise ← [Four] Factorial【英】

挽歌(B・12)
A Funeral Piece ← Anthology of Modern Japanese Poetry【英】

雪(B・14)
Snow ← Lilac Garden【英】
Neve ← Sei Budda di pietra【伊】

犬の肖像(B・16)
Portrait of a Dog ← Lilac Garden【英】

過去(B・17)
Il passato ← La protesta poetica del Giappone【伊】
The Past ← Japanese Poetry Now【英】
Past ← New Writing in Japan【英】
The Past ← Lilac Garden【英】
The Past ← Modern Japanese Poetry【英】
The Past ← From the Country of Eight Islands【英】
The Past ← 101 Modern Japanese Poems【英】

詩集《僧侶》(1958)

喜劇(C・1)
Comedy ← Lilac Garden【英】
A Comedy ← The Modern Japanese Prose Poem【英】
Comedy ← Celebration In Darkness【英】

告白(C・2)
Confession ← Lilac Garden【英】
Confession ← The Modern Japanese Prose Poem【英】
Confession ← From the Country of Eight Islands【英】

島(C・3)
Island ← Lilac Garden【英】
The Island ← The Modern Japanese Prose Poem【英】

仕事(C・4)
Work ← Lilac Garden【英】

伝説(C・5)
Legend ← Ten Japanese Poets【英】
Legend ← Lilac Garden【英】
Legend ← The Modern Japanese Prose Poem【英】
Legend ← Celebration In Darkness【英】
Legend ← A Play of Mirrors【英】

冬の絵(C・6)
Winter Picture ← Lilac Garden【英】
Winter Painting ← The Modern Japanese Prose Poem【英】

牧歌(C・7)
Pastorale ← Lilac Garden【英】
牧歌 ← 日本当代詩選(孫鈿訳)【中】

僧侶(C・8)
monks ← Lilac Garden【英】
Monks ← Celebration In Darkness【英】
Moines ← Anthologie de Poesie Japonaise Contemporaine【仏】
Monks ← A Play of Mirrors【英】
Moines ← Pris de Peur【仏】
Monks ← 101 Modern Japanese Poems【英】

単純(C・9)
Simple ← Lilac Garden【英】
Simple ← The Modern Japanese Prose Poem【英】
Simple ← Celebration In Darkness【英】

夏(C・10)
Summer ← Lilac Garden【英】

固形(C・11)
Solid Form ← Lilac Garden【英】
Solidity ← The Modern Japanese Prose Poem【英】
Solid ← Celebration In Darkness【英】

回復(C・12)
Convalescence ← Lilac Garden【英】
Recuperation ← The Modern Japanese Prose Poem【英】

苦力(C・13)
Coolie ← Lilac Garden【英】
Coolie ← From the Country of Eight Islands【英】

聖家族(C・14)
The Holy Family ← Japanese Poetry Now【英】
The Holy Family ← Lilac Garden【英】
La Sainte Famille ← Pris de Peur【仏】

喪服(C・15)
Mourning Dress ← Lilac Garden【英】
Habits de deuil ← Pris de Peur【仏】

美しい旅C・16)
Beautiful Trip ← Lilac Garden【英】
The Lovely Journey ← The Modern Japanese Prose Poem【英】

感傷(C・18)
Sentimentality ← Celebration In Darkness【英】
Sentimentality ← A Play of Mirrors【英】

死児(C・19)
Still-Born ← Celebration In Darkness【英】
Still-Born ← A Play of Mirrors【英】

詩集《紡錘形》(1962)

老人頌(D・1)
Ode to the Old Man ← Lilac Garden【英】
Ode to an Old Man ← From the Country of Eight Islands【英】
In Praise of the Old and Senile ← Celebration In Darkness【英】
In Praise of the Old and Senile ← A Play of Mirrors【英】
ELOGE DU VIEUX ← PO&SIE【仏】
老人頌 ← 日本当代詩選(鄭民欽訳)【中】

下痢(D・3)
Diarrhea ← Lilac Garden【英】
Diarrhea ← From the Country of Eight Islands【英】
Diarrhea ← Celebration In Darkness【英】
DIARRHEE ← PO&SIE【仏】

紡錘形T(D・4)
Spindle Form: I ← Ten Japanese Poets【英】
Spindle Form: I ← Lilac Garden【英】
Spindle Form I ← Celebration In Darkness【英】

紡錘形U(D・5)
Spindle Form:U ← Ten Japanese Poets【英】
Spindle Form: II ← Lilac Garden【英】
Spindle Form II ← Celebration In Darkness【英】

陰画(D・6)
Negative ← Lilac Garden【英】
Negative ← From the Country of Eight Islands【英】

裸婦(D・7)
Nude Woman ← Lilac Garden【英】
Nude Woman ← Contemporary Japanese Literature【英】

呪婚歌(D・9)
Antithalamium ← Lilac Garden【英】

田舎(D・10)
Countryside ← Ten Japanese Poets【英】
Countryside ← Lilac Garden【英】

冬の休暇(D・12)
Winter Vacation ← Lilac Garden【英】

水のもりあがり(D・13)
The Swelling of Water ← Lilac Garden【英】

巫女――あるいは省察(D・14)
Sorceress ← Lilac Garden【英】

鎮魂歌(D・15)
Requiem ← Ten Japanese Poets【英】
Requiem ← Lilac Garden【英】

受難(D・17)
Sufferings ← Lilac Garden【英】

狩られる女――ミロの絵から(D・18)
Hunted Woman ← Lilac Garden【英】

灯台にて(D・20)
At the Lighthouse ← Lilac Garden【英】

沼・秋の絵(D・21)
Marsh: An Autumn Picture ← Lilac Garden【英】

修正と省略(D・22)
Amendment and Omission ← Lilac Garden【英】

詩集《静かな家》(1968)

劇のためのト書の試み(E・1)
An Attempt at Stage Directions for a Play ← Lilac Garden【英】

無罪・有罪(E・2)
Innocent: Guilty ← Lilac Garden【英】

珈琲(E・3)
Coffee ← Lilac Garden【英】

馬・春の絵(E・5)
Horse: A Picture of Spring ← Celebration In Darkness【英】
馬・春天的絵画 ← 日本当代詩選(鄭民欽訳)【中】

聖母頌(E・6)
Ode to the Holy Mother ← Lilac Garden【英】

滞在(E・7)
Sojourn ← Lilac Garden【英】

やさしい放火魔(E・9)
Gentle Pyromaniac ← Lilac Garden【英】
Tenderhearted Firebug ← Celebration In Darkness【英】
Tenderhearted Firebug ← A Play of Mirrors【英】

スープはさめる(E・11)
Soup Gets Cold ← Lilac Garden【英】

内的な恋唄(E・12)
Inner Love Song ← Lilac Garden【英】

ヒラメ(E・13)
Flounder ← Lilac Garden【英】

恋する絵(E・15)
Painting in Love ← Lilac Garden【英】

静かな家(E・16)
Quiet House ← Lilac Garden【英】
Quiet House ← From the Country of Eight Islands【英】

詩集《神秘的な時代の詩》(1974)

青い柱はどこにあるか?(F・6)
OU EST LE PILIER BLEU? ← PO&SIE【仏】

聖少女(F・10)
Holy Girl ← From the Country of Eight Islands【英】

詩集《サフラン摘み》(1976)

サフラン摘み(G・1)
Picking Saffrons ← Japanese Literature Today【英】
Saffron Gathering ← Celebration In Darkness【英】
Saffron Gathering ← A Play of Mirrors【英】
CUEILLETTE DE SAFRANS ← PO&SIE【仏】
采擷番紅花 ← 日本当代詩選(鄭民欽訳)【中】
Picking Saffron Flowers ← 101 Modern Japanese Poems【英】

タコ(G・2)
Octopus ← Celebration In Darkness【英】

わが家の記念写真(G・9)
Family Photograph ← Celebration In Darkness【英】
Family Photograph ← A Play of Mirrors【英】

舵手の書(G・22)〔抜粋〕
The Helmsman's Book ← Japanese Love Songs(日本の恋歌)〔録音資料のライナーノーツ〕【英】
* 〈舵手の書〉〔1・5・6節〕原詩のローマ字表記および英訳は、野平一郎作曲の〈Dashu no sho, for voice and alto saxophone〉(2003)の歌詞。

詩集《ポール・クレーの食卓》(1980)

ポール・クレーの食卓(I・1)
Paul Klee's Dining Table ← Lilac Garden【英】
Paul Klee's Dining Table ← Contemporary Japanese Literature【英】

ライラック・ガーデン(I・3)
The Lilac Garden ← Ten Japanese Poets【英】
Lilac Garden ← Lilac Garden【英】
Lilac Garden ← From the Country of Eight Islands【英】

詩集《薬玉》(1983)

雞(J・1)
Rooster ← PRISM international【英】
Rooster ← Kusudama【英】

竪の声(J・2)
The Vertical Voice ← Kusudama【英】

影絵(J・3)
Shadow Pictures ← Kusudama【英】

青枝篇(J・4)
Collection of Green Branches ← Kusudama【英】

壁掛(J・5)
Tapestry ← Kusudama【英】

郭公(J・6)
Cuckoo ← Kusudama【英】

巡礼(J・7)
Pilgrimage ← TEMBLOR【英】
Pilgrimage ← Kusudama【英】
Pilgrimage ← Poems for the Millennium【英】

秋思賦(J・8)
An Autumn Ode ← Kusudama【英】

天竺(J・9)
India ← Kusudama【英】

薬玉(J・10)
Kusudama ← TEMBLOR【英】
Kusudama ← Kusudama【英】

春思賦(J・11)
A Spring Ode ← Kusudama【英】

垂乳根(J・12)
Mother ← TEMBLOR【英】
Mother ← Kusudama【英】

哀歌(J・13)〔抄〕
from Elegy ← PRISM international【英】
哀歌(J・13)
Elegy ← Kusudama【英】

甘露(J・14)
Nectar ← Kusudama【英】

東風(J・15)
East Wind ← Kusudama【英】

求肥(J・16)
Turkish Delight ← Kusudama【英】

落雁(J・17)
Wild Geese Descending ← Kusudama【英】

蓬莱(J・18)
Land of Eternal Youth ← Kusudama【英】

青海波(J・19)
A Crescent Wave Pattern ← Kusudama【英】

詩集《ムーンドロップ》(1988)

わだつみ(K・3)
MERS ← PO&SIE【仏】

聖童子譚(K・4)の〔2 秋〕
A Short Piece of Music ← Mainichi Daily News【英】
* 〈聖童子譚〉は本篇に先立って発表された〈小曲〉(《Mainichi Daily News》〔毎日新聞社〕1984年9月17日〔22128号〕九面の〈20:20――20 Poems by 20 Poets in 20 Lines〉、20行、ローマ字表記〈Shookyoku〉とRoger Pulversによる英訳〈A Short Piece of Music〉を付す)全行を変改吸収している。

――――――――――

突堤にて(随想集《「死児」という絵》)
On the Jetty ← Lilac Garden【英】

魚藍(歌集《魚藍》)
Creel ← Lilac Garden【英】

済州島(随想集《「死児」という絵》)
L'ile de Cheju ← PO&SIE【仏】

二つの詩集のはざまで(随想集《「死児」という絵》)
Entre deux recueils ← PO&SIE【仏】

《Ten Japanese Poets》には上掲英訳詩篇のほかに、散文〈詩集・ノオト〉〈わたしの作詩法?〉〈模糊とした世界へ〉〈吉岡実氏に76の質問〉以上の英訳抄から成る〈吉岡実〉が収められている。

これらの外国語訳のなかで特筆すべきは、やはりHiroaki Sato(佐藤紘彰)訳の英訳詩抄《Lilac Garden: Poems of Minoru Yoshioka》とEric Selland訳の英訳詩集《Kusudama》の2冊である。前者は吉岡実詩訳を初めて集成した単著で(上製本と並製本とがある)、後者は現在までのところ唯一の単行詩集の英訳書である。これらが1970年代後半から90年代の初めに集中しているのは、吉岡実の「中期」から「後期」にかけての活動に促されてのことであり、その歿後に大きなプロジェクトがないのは淋しい。《薬玉》の英訳詩集がある以上、《僧侶》――〈人質〉(C・17)以外のすべてに翻訳が存在するが――や《サフラン摘み》の全篇訳(英語に限らず、フランス語でも中国語でもイタリア語でもドイツ語でもネパール語でも)が登場しておかしくない。それらは必ずや、吉岡実詩が日本語にもたらした衝撃と同等の(ことによったら、それ以上の)ものを惹き起こすにちがいない。また、各国語訳を手掛かりにした、〈静物〉連作や〈僧侶〉、〈サフラン摘み〉といった詩篇の比較研究も期待される。原文を筆頭に、先行する訳と後続する訳とを比較することは、興味深い研究テーマとなるだろう。本稿がその一助となるなら嬉しい。
私は昨今の日本文学の翻訳事情に明るい者ではない。1999年夏、中国の長春で開かれた日中合同の川端文学研究のシンポジウムに、文藝空間の原善の誘いで随行したときのこと。いくらいくら出せば日本語の文学作品の中国語訳を請け負う、という冗談めかした提案を中国側の研究者から聞いた。費用の負担さえすれば、吉岡実詩の中国語訳が依頼できる、というのだ(私は相手にしなかったが、バスで案内係をしていた若い中国人男性に吉岡実の号「皚寧吉」について訊くことは忘れなかった)。ここにある翻訳作品にそれに類した背景があったか詳らかにしないが(企画によっては、半ば公的な財政面での補助があっただろう)、ベストセラーが期待できる小説などと違い、韻文の翻訳にはそれなりの苦労が付きまとうことは容易に想像できる。いずれにしても、言語的にも内容的にも決して簡単とはいえない吉岡実詩がこれだけ数多く翻訳されたことに畏敬の念を覚え、訳者の方方に感謝したい。佐藤紘彰が伝える「フランス詩人に読まれたい」という吉岡の願いは、〈静物〉(B・1〜4)、〈僧侶〉(C・8)、〈聖家族〉(C・14)、〈喪服〉(C・15)、〈老人頌〉(D・1)、〈下痢〉(D・3)、〈青い柱はどこにあるか?〉(F・6)、〈サフラン摘み〉(G・1)、〈わだつみ〉(K・3)といった詩篇や、〈済州島〉、〈二つの詩集のはざまで〉といった随想のフランス語訳によって実現したのだから、吉岡も本望だろう。

〔付記〕
その存在が知られていながら、所在不明のために未見の吉岡実詩の被翻訳資料が2点ある。日本語の資料名しかわかっていないが、備忘のために記しておく。ひとつはネパール語の《日本現代詩アンソロジー・九つの宝石》で、いまひとつはドイツ語論文中の《静物》《僧侶》から選んだ(おそらくは)ドイツ語訳の、最大で約20篇である。
前者は、佐々木幹郎《カトマンズ・デイ・ドリーム》(五柳書院、1993年4月24日)の〈あとがき〉に「〔ネパールの詩人、チェトラ・プラタップ・〕アディカリ氏は日本に滞在しているあいだに七冊の本の翻訳を終えた。彼の離日まぎわの〔一九〕九二年秋には、「ヒマラヤ文庫」の第一期配本として、二冊のネパール語の本がカトマンズで出版できた。『日本現代詩アンソロジー・九つの宝石』(収録詩人=田村隆一、吉岡実、大岡信、谷川俊太郎、富岡多恵子、吉増剛造、高橋睦郎、佐々木幹郎、伊藤比呂美)と、『宮澤賢治・銀河鉄道の夜』。」(同書、一七三ページ)とあるのがそれだ。私は1993年以来、折りに触れては探書を試みるのだが、未だに収録詩篇の題名さえわからないとは不甲斐ない。佐々木氏は2012年12月、詩集《明日》(思潮社、2011)で第20回萩原朔太郎賞を受賞し、それを記念して《佐々木幹郎――明日》展(萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち前橋文学館、会期:2013年7月20日〜9月8日)が開催された。その展覧会図録である萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち前橋文学館編《佐々木幹郎――明日〔前橋文学館特別企画展・第20回萩原朔太郎賞受賞者展覧会〕》(萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち前橋文学館、2013年7月20日)は、多方面から同賞受賞詩人に迫る展覧会に連動した出版物だが、その〈紀行〉のコーナーに「ネパール」の項があって、前掲書の〈あとがき〉が抄録されている。さらにそこに、永年探し求めた《日本現代詩アンソロジー・九つの宝石》の書影が(他の〔ヒマラヤ文庫〕とともに)掲げられている。私はネパール語に不案内で、原語からの探索ができていないが、いずれ目にしたい未見資料の筆頭である。

萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち前橋文学館編《佐々木幹郎――明日〔前橋文学館特別企画展・第20回萩原朔太郎賞受賞者展覧会〕》(萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち前橋文学館、2013年7月20日)に掲載された〔ヒマラヤ文庫〕の書影(同書、六五ページ)
萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち前橋文学館編《佐々木幹郎――明日〔前橋文学館特別企画展・第20回萩原朔太郎賞受賞者展覧会〕》(萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち前橋文学館、2013年7月20日)に掲載された〔ヒマラヤ文庫〕の書影(同書、六五ページ) 〔上段中央が1992年秋刊行の《日本現代詩アンソロジー・九つの宝石》で、夏目漱石《ぼっちゃん》と瀬戸内寂聴《夏の終わり》は第二期配本(1993年3月か)〕

後者は、バーバラ山中の〈吉岡実論〉で、情報源は吉岡自筆の〈年譜〉(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984)。その「昭和五十六年 一九八一年 六十二歳」と翌年の記載を基にまとめたのが、吉岡陽子編の〈年譜〉(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996)の「一九八一年(昭和五十六年) 六十二歳/〔……〕夏、ドイツ語の修士論文「吉岡実」を書くことで手紙を貰っていたスイス人バーバラと渋谷道玄坂のトップで初めて会う。『静物』『僧侶』から選んだ約二〇篇の詩に就いて夫、山中忠の通訳に依る五時間に及ぶ質問を受ける。美しい日本文の筆蹟がバーバラの自筆と聞いて驚く。」と翌年の「二月、スイスのバーバラ山中からドイツ語論文「吉岡実」のコピー届く。」(同書、八〇四ページ)である。私はかつて、WorldCatで欧文の関係資料を捜索したが、バーバラの1982年のドイツ語による修士論文〈吉岡実論〉を入手できないでいる。よってこの件に関しては、私の編んだ《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》の次の記載が最新、かつ最も詳しいということになる。

バーバラ山中の修士論文〈吉岡実論〉(ドイツ語)。吉岡は「〔一九八一年〕夏、渋谷道玄坂のトップで、スイス人バーバラと初めて会う。『静物』、『僧侶』から選んだ約二十篇に就て、質問を受ける」と書いている。修士論文は〈日本の戦後詩人、吉岡実〉(Yamanaka-Hiller, Barbara: Der japanische Nachkriegslyriker Yoshioka Minoru (Lizentiatsarbeit). 1982. Japanologie. Prof. Dr. Cornelius Ouwehand.)と思われるが、詳細不明。★未見。

「『静物』、『僧侶』から選んだ約二十篇」、それらがすべて修士論文で言及されているかはわからないが、バーバラも参照したに違いない英訳詩抄《Lilac Garden: Poems of Minoru Yoshioka》の「From Still Life」は14篇、「From monks」は16篇だから、これら30篇のなかから選ばれたと考えても、実態からそう遠くはないだろう。そして私は、そのうちのいくつか――たとえば〈静物〉や〈過去〉、〈僧侶〉や〈聖家族〉――がバーバラの論文のなかで(ドイツ語に訳されて)掲げられたのではないかと推察する。

………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

以下、《吉岡実書誌》の〈T 著書目録〉および〈V 主要作品収録書目録〉ほかからの再録

一九六八年 〔昭和四三年〕

  1. La protesta poetica del Giappone Dacia Maraini e Michiko Nojiri編 一九六八年一一月 Officina Edizioni社(Roma) ▽Natura morta〔静物(B・1)〕 / Il passato〔過去〕 *〔著者紹介〕

一九七二年 〔昭和四七年〕

  1. Japanese Poetry Now 一九七二年 Rapp and Whiting社(London) ▽The Past〔過去〕 / The Holy Family〔聖家族〕 Thomas Fitzsimmons訳 *〔著者紹介〕
  2. Anthology of Modern Japanese Poetry 一九七二年 Charles E. Tuttle社(Rutland, Vermont and Tokyo) Edith Marcombe Shiffert & Yuki Sawa編訳 ▽Egg〔卵〕 / Still Life〔静物(B・1)〕 / A Funeral Piece〔挽歌(B・12)〕 *〔著者紹介〕
  3. New Writing in Japan 一九七二年 Penguin Books社(Middlesex, Baltimore and Victoria) Yukio Mishima, Geoffrey Bownas編 ▽Still Life〔静物(B・2)〕 / Past〔過去〕 Geoffrey Bownas訳 *Biographical Notes on Authors

一九七三年 〔昭和四八年〕

  1. Ten Japanese Poets 一九七三年 Granite Publications社(Hanover, N. H.) ▽Landscape〔風景(A・19)〕 / Still Life〔静物(B・2)〕 / Still Life〔静物(B・3)〕 / The Egg〔卵〕 / Legend〔伝説〕 / Spindle Form: I 〔紡錘形T〕 / Spindle Form: II 〔紡錘形U〕 / Countryside〔田舎〕 / Requiem〔鎮魂歌〕 / The Lilac Garden〔ライラック・ガーデン〕 *吉岡実〔〈詩集・ノオト〉〈わたしの作詩法?〉〈模糊とした世界へ〉〈吉岡実氏に76の質問〉以上の英訳抄から成る〕 佐藤紘彰訳 

L Lilac Garden

英訳詩抄《Lilac Garden》初刊のジャケット 英訳詩抄《Lilac Garden》初刊の中面
英訳詩抄《Lilac Garden》初刊のジャケット(左)と同・中面 (右)

英訳詩抄《Lilac Garden: Poems of Minoru Yoshioka》初刊 一九七六年[春か] Chicago Review Press(811 West Junior Terrace, Chicago, Illinois 60613)刊〈the third volume in the Floating World Modern Poets Series〉 The Swallow Press(811 West Junior Terrace, Chicago, Illinois 60613)発売 定価上製一〇ドル(並製四ドル九五セント) 訳者佐藤紘彰 編集Burton Watson 二一六×一三九 総一一二頁 上製丸背クロス装・ジャケット(並製は紙装) ジャケット扉本文挿画池田満寿夫 装丁タイポグラフィClaire J. Mahoney 三七行組平版 アメリカ合衆国にて印刷

〔内容〕刊記(奥付) 献辞 口絵著者手蹟 〈Translator's Note〉(佐藤紘彰) 目次 〈Introduction〉(J. Thomas Rimer) 〈Notes to Introduction〉 詩篇計六六篇

From Still Life (1949‐55)

Still Life / Still Life / Still Life / Still Life / Certain World / Tree / The Egg / The Winter Song / Summer Picture / Hymn / Landscape / Snow / Portrait of a Dog / The Past

From monks (1956‐58)

Comedy / Confession / Island / Work / Legend / Winter Picture / Pastorale / monks / Simple / Summer / Solid Form / Convalescence / Coolie / The Holy Family / Mourning Dress / Beautiful Trip

From Spindle Form (1959‐62)

Ode to the Old Man / Diarrhea / Spindle Form: I / Spindle Form: II / Negative / Nude Woman / Antithalamium / Countryside / Winter Vacation / The Swelling of Water / Sorceress / Requiem / Sufferings / Hunted Woman / At the Lighthouse / Marsh: An Autumn Picture / Amendment and Omission

From Quiet House (1962‐66)

An Attempt at Stage Directions for a Play / Innocent: Guilty / Coffee / Ode to the Holy Mother / Sojourn / Gentle Pyromaniac / Soup Gets Cold / Inner Love Song / Flounder / Painting in Love / Quiet House

From Liquid (1940‐41)

Elegy / Pastorale / Dry Wedding Picture / Lyricism of the Forgotten Flutist / Landscape

From Uncollected Poems (1968)

Paul Klee's Dining Table / Lilac Garden / On the Jetty

Creel (1959)

〈Books of Related Interest from CHICAGO REVIEW PRESS〉

ジャケットの裏表紙に著者肖像写真および著者紹介

英訳詩抄《Lilac Garden》解題

佐藤紘彰訳による吉岡実の英訳詩抄《Lilac Garden》は、吉岡にとって最初の単独の英訳詩集である(本書奥付ページに「Some of these translations first appeared in Chelsea, Chicago Review, Granite, The Prose Poem, Ten Japanese Poets, and WORKS」とあるように、英訳詩篇はこれ以前にも同じ佐藤紘彰訳で発表されており、《Lilac Garden》が初めてというわけではない)。標題に関して、佐藤は吉岡実追悼の文〈フランス詩人に読まれたい〉で「拙訳本の題を Lilac Garden としたのは同題の詩が特にぼくを魅了したせいである」(《現代詩手帖》1990年7月号、六四ページ)と書いている。では本書の詩篇の選択は誰がしたのか。吉岡は後年、座談会〈言語と始源〉でオクタビオ・パスと次のようなやりとりをしている(同誌、1985年1月号、四二〜四三ページ)。

パス 翻訳された最後のもの〔Creel (1959)〕、あれは俳句ですか。
吉岡 翻訳されているものは短歌です。
パス 散文の形式になっていますけど。
吉岡 最後に短歌をいくつか入れたんです。
パス なかなか面白いと思いました。ギリシアのエピグラムを思い出しました。〔……〕新しい短歌はどのような形になるのでしょうか。どういうふうに現代化されていくんでしょう。
吉岡 それは、僕なんかは短歌、俳句に限らず離れようとしてるんですけど、大岡信はちょっとちがう。
パス でも吉岡さんは最後に短歌を書かれた。
吉岡 ええ。子供の頃にさんざんやりましたから卒業しました。
パス もう書かないんですか。私は、また短歌に戻られたのかと思ったのですが。
吉岡 ええ、まだ戻らないです。必要ならやりますけど(笑)。

深読みすると、吉岡が作品を選択したようにも読めるが、バートン・ワトソンの編集に吉岡がどの程度関わったのか、判断するだけの材料に欠ける。奥付ページに「These poems were translated with permission of Libraire Shichosha Co., Tokyo, Japan」とあるように、本書の底本は《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》思潮社版《吉岡実詩集》である。この《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》にない Certain World (〈或る世界〉B・5)やInner Love Song (〈内的な恋唄〉E・12)などが訳載されている一方、吉岡実詩の代表作〈死児〉(C・19)や〈孤独なオートバイ〉(E・14)などが収録されていないところを見ると、吉岡は作品の選定には積極的にかかわっていないかもしれない。ところで、私が本書の存在を知ったのは《読売新聞》の〈手帳〉欄の紹介記事でだった。感謝の意をこめて、以下にその〈吉岡実氏の英訳詩集好評――アメリカで刊行〉(無署名)の全文を引く。

 吉岡実氏の英訳詩集「ライラック・ガーデン」(Lilac Garden: Poems of Minoru Yoshioka)がアメリカで刊行され好評を博している。英訳者は北米で英詩人として活躍しているヒロアキ・サトウ氏。この訳詩集には、挿画(さしえ)が池田満寿夫氏によって描かれている。また、序文としてワシントン大学(セントルイス)教授J・トーマス・ライマー氏が詩人と詩を論じた小説〔ママ〕を寄稿している(シカゴ・レビュー・プレス社刊)。
 この表題になっている「ライラック・ガーデン」は、吉岡氏の「拾遺詩篇」の一編。この詩をはじめとし、吉岡氏の詩はこれまでに数名の訳者によって英訳され、各種のアンソロジーに断片的に紹介されて来た。しかし、一人の訳者によって約七十編が一巻本にまとめられてみると、これまで以上に注目を引き、原詩の鑑賞の仕方や翻訳のあり方をめぐって、学術雑誌では論争が始まっている。
 吉岡氏は「詩を書く場合、テーマやその構成、構造をあらかじめ考えない」と述べているくらいだから、翻訳者泣かせの詩が少なくない。今回の訳詩集の全体の出来ばえを称賛しながらも、オハイオ州立大学準教授ジェイムズ・R・モリタ氏は「喪服」の読み方と訳し方について、近刊の学会機関誌 Journal of the Association of Teachers of Japaneseで異議を唱えている。「喪服」は二十九行の詩で、句読点も段落もない。訳者はこの詩のほぼ中ほどの十二行目で一応区切りをつけて英訳している。ところが、評者は一気に読み下すことを主張している。今後の論争の発展は予測し得ないが、北米の現代詩研究の密度の高まりを示す一例といえよう。(《読売新聞〔夕刊〕》、1979年10月20日)

佐藤紘彰は前掲追悼文で「この英訳に関連して吉岡さんが言われたこととしてよく覚えていることは二つある。一つは手紙に書かれたことで、「牧歌」(神の掌)に関するぼくの手紙に答えて「小生の詩のほとんどが、前と後に掛かるように出来ています」ということばだ。翻訳する者にとってこれは極めて大切な点だと思えたのでこの指摘を含めた手紙の部分は写真に撮って英訳本の一部とした」と書いている(あとの一つは、「フランス詩人に読まれたい」という吉岡の願望。なおこの追悼文が佐藤紘彰《アメリカ翻訳武者修行〔丸善ライブラリー〕》(丸善、1993)に収められた際、〈吉岡実の手紙の一部〉と題して本書のivページ全体が写真版で掲げられている)。
本書ジャケットに曰く「He〔Yoshioka〕 is one of Japan's greatest living poets, celebrated for his verbal music and his ability to fuse Western ideas with his country's vital poetic tradition」。英訳詩抄《Lilac Garden》が英語を解する世界の読者に吉岡実詩を知らしめた功績は計りしれない。後に《薬玉》全篇を英訳したエリック・セランドは言うに及ばず、ドイツ語で吉岡実論を書くことになるバーバラ・山中ヒラリーも、ことによったら本書で初めて吉岡実詩に触れたのかもしれない。なお、新倉俊一は本書の書評〈吉岡実の英訳詩集〉(《英語青年》1977年12月号)で「戦後詩人のうちでも難解なイメージの詩人として知られている彼が、ついに英語圏に単行本で紹介されるにいたったかと思うと、感慨ひとしおである。今まで見過されがちであった戦後詩の重要な一面に、これで照明があてられることになろう」(同誌、四二二ページ)と書いて、訳例として冒頭詩篇〈Still Life〉を挙げている。

一九七七年 〔昭和五二年〕

  1. Contemporary Japanese Literature; An Anthology of Fiction, Film and Other Writing Since 1945 Howard Hibbett編 一九七七年 Alfred A. Knopf社(New York)Borzoi Book  発売Random House社 ▽Four Poems(Still Life〔静物(B・1)〕 / Still Life〔静物(B・2)〕 / Paul Klee's Dining Table〔ポール・クレーの食卓〕 / Nude Woman〔裸婦〕) 佐藤紘彰訳(Lilac Garden: Poems of Minoru Yoshiokaから) *小伝=Howard Hibbett

一九七八年 〔昭和五三年〕

  1. Japanese Literature Today, No. 3 一九七八年三月 Japan P.E.N. Club ▽Picking Saffrons〔サフラン摘み〕 福田陸太郎訳 *〔著者紹介〕
  2. Modern Japanese Poetry A. R. Davis編 一九七八年 University of Queensland Press(St. Licia, Queensland) ▽Still Life〔静物(B・1)〕 / The Past〔過去〕 James Kirkup訳 *Biographical Notes

一九八〇年 〔昭和五五年〕

  1. The Modern Japanese Prose Poem; An Anthology of Six Poets Dennis Keene序文・訳 一九八〇年 Princeton University Press(Princeton, New Jersey) ▽A Comedy〔喜劇〕 / Confession〔告白〕 / The Island〔島〕 / Legend〔伝説〕 / Winter Painting〔冬の絵〕 / Simple〔単純〕 / Solidity〔固形〕 / Recuperation〔回復〕 / The Lovely Journey〔美しい旅〕 *Introduction、Yosioka's "The Island": an Interpretation、〔著者紹介〕

一九八一年 〔昭和五六年〕

  1. From the Country of Eight Islands; An Anthology of Japanese Poetry  佐藤紘彰・Burton Watson編訳 一九八一年 Anchor Press社(Doubleday, Garden City, New York)Anchor Books ▽Pastorale〔牧歌(A・10)〕 / Still Life〔静物(B・1)〕 / The Past〔過去〕 / Confession〔告白〕 / Coolie〔苦力〕 / Ode to an Old Man〔老人頌〕 /Diarrhea〔下痢〕 / Negative〔陰画〕 / Quiet House〔静かな家〕 / Lilac Garden〔ライラック・ガーデン〕 / Holy Girl〔聖少女〕 *〔著者紹介〕

聖童子譚(K・4)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1984年12月臨時増刊号〔16巻14号〕一六〜二〇ページ、本文9ポ22行1段組、〔1 夏〕〔2 秋〕〔3 冬〕〔4 春〕83行。初出註記に「*(1)は別冊「婦人公論」、(2)は「英文毎日ニュース」に発表したものである。」とあるように〈少年 あるいは秋〉(《別冊婦人公論》〔中央公論社〕1984年10月〔秋・5巻4号〕三七三ページ、14行)と〈小曲〉(《Mainichi Daily News》〔毎日新聞社〕1984年9月17日〔22128号〕九面の〈20:20――20 Poems by 20 Poets in 20 Lines〉、20行、ローマ字表記〈Shookyoku〉とRoger Pulversによる英訳〈A Short Piece of Music〉を付す)のそれぞれ全行を変改吸収。

C Celebration In Darkness

英訳詩抄《Celebration In Darkness――Selected Poems of YOSHIOKA MINORU》初刊 表紙
英訳詩抄《Celebration In Darkness――Selected Poems of YOSHIOKA MINORU》初刊 表紙

英訳詩抄《Celebration In Darkness――Selected Poems of YOSHIOKA MINORU》初刊 一九八五年[一月か] Oakland University KATYDID BOOKS(Rochester, Michigan)刊〈Asian Poetry in Translation: Japan #6〉[飯島耕一《Strangers' Sky》との合著] 定価一〇ドル九五セント 編者Thomas Fitzsimmons 訳者尾沼忠良 二二九×一七七 総二〇八頁 本文中性紙 並製紙装 装丁挿画Karen Hargreaves-Fitzsimmons 三三行組平版 アメリカ合衆国にて印刷McNaughton & Gunn, Saline, Michigan

〔内容〕刊記 目次 序文〈Modern Japanese Poetry―Realities and Challenges〉(大岡信、Christopher Drake訳) 〈Yoshioka Minoru―“Celebration In Darkness....”〉(鶴岡善久) 著者肖像写真 詩篇計一七篇(英訳邦文とも) 邦題《闇の祝祭》は著者自筆

Still Life / Solid / Octopus / Comedy / Simple / Tenderhearted Firebug / Legend / Horse: A Picture of Spring / Sentimentality / Spindle Form I / Spindle Form II / Diarrhea / Monks / Saffron Gathering / Still-Born / Family Photograph / In Praise of the Old and Senile

静物/固形/タコ/喜劇/単純/やさしい放火魔/伝説/馬・春の絵/感傷/紡錘形T/紡錘形U/下痢/僧侶/サフラン摘み/死児/わが家の記念写真/老人頌

〔飯島耕一《Strangers' Sky》の書誌は省略〕

英訳詩抄《Celebration In Darkness》解題

《Celebration In Darkness》をインターネットで検索すると、一九八五年一月二二日刊という記述があるが、本書の刊記に一九八五年としか記載されていないので、書誌には[一月か]と記載した。一九八五年五月八日の《読売新聞〔夕刊〕》の〈ひと〉欄に〈日英両語で読める田村隆一詩集出版〉という記事が掲載された。

 日本語と英語で同時に読める「田村隆一詩集」、英訳タイトル“Dead Languages”がオークランド大学から出版された。約三百nで一九四六年から今年の読売文学賞を受賞した「奴隷の歓び」までに書いた詩編の中から、「言葉のない世界」「恐怖の研究」「緑の思想」「恋歌」「哀歌」などが収められている。詩集は開いて右の表紙から日本語の原詩が並び、左の表紙から英訳の詩が配列されている。
 訳に当たったのは、ハーバード大で「西鶴」のドクター論文を書き、跡見女子大で英語を教えているクリストファー・ドレイクさん。田村さんは、詩の選択をドレイクさんにすべてまかせた。この二か国語詩集はシリーズになっていて、すでに飯島耕一、吉岡実さんの詩集が出版されている。
 〔……〕(同紙、11面)

KATYDID BOOKSの〈Asian Poetry in Translation: Japan〉はトマス・フィッツシモンズの編になるシリーズで、二〇〇六年二月の時点で、吉増剛造、正津勉、大岡信、木下夕爾、田村隆一、吉岡実・飯島耕一(本書)、トマス・フィッツシモンズ、佐々木幹郎、五島美代子、多田智満子、丸山薫、草野心平、谷川俊太郎、辻井喬、木島始、山本健吉などの詩・短歌・論がペーパーバックで(タイトルによってはハードカヴァーでも)出ている。二人集は本書だけで、吉岡にはすでに佐藤紘彰の英訳詩抄《Lilac Garden》(Chicago Review Press、1976)があるにしろ、今日から見れば吉岡実で一冊(中核となる詩集は《サフラン摘み》と《夏の宴》)、飯島耕一で一冊が望ましかった。

Within the hard surface of night's bowl(佐藤紘彰訳)
night comes and inside the hard surface of the vessel(尾沼忠良訳)

二冊の英訳詩抄の冒頭の一行(「夜の器の硬い面の内で」)だ。本書に収録された詩篇は《静物》から《サフラン摘み》までの詩集から選ばれているが、《神秘的な時代の詩》からの選入はない。また《僧侶》からの七篇が目を引く(それにしても、詩篇のオーダーにはどんな意図があるのだろう)。ちなみに《Lilac Garden》と重複する詩は一一篇――静物(B・1)/固形(C・11)/喜劇(C・1)/単純(C・9)/やさしい放火魔(E・9)/伝説(C・5)/紡錘形T(D・4)/紡錘形U(D・5)/下痢(D・3)/僧侶(C・8)/老人頌(D・1)――である。

一九八五年 〔昭和六〇年〕

  1. PRISM international 一九八五年三月 ▽Two Poems(Rooster〔雞〕 / from Elegy〔哀歌(J・13)〕) Eric Selland訳 *〔著者紹介〕

一九八六年 〔昭和六一年〕

  1. Anthologie de Poesie Japonaise Contemporaine 一九八六年九月 Gallimard社 ▽Moines Jeanne Sigee訳 *序文=井上靖・清岡卓行・大岡信 *〔著者紹介〕
  2. TEMBLOR: Contemporary Poets Issue 4 〔一九八六年〕 ▽Three Poems(Pilgrimage〔巡礼〕 / Kusudama〔薬玉〕 / Mother〔垂乳根〕) Eric Selland訳 *Notes on Contributors

一九八七年 〔昭和六二年〕

《A Play of Mirrors: Eight Major Poets of Modern Japan》 表紙
《A Play of Mirrors: Eight Major Poets of Modern Japan》 表紙

  1. 日本当代詩選 孫鈿訳 一九八七年七月 湖南人民出版社(中国湖南省) ▽風景(A・19)/静物(B・1)/牧歌(C・7) *〔著者略歴〕
  2. A Play of Mirrors: Eight Major Poets of Modern Japan〔Asian poetry in translation. Japan; #7〕 大岡信・Thomas Fitzsimmons編 一九八七年 Oakland University KATYDID BOOKS(Rochester, Michigan) ▽Tenderhearted Firebug〔やさしい放火魔〕 / Sentimentality〔感傷〕 / Monks〔僧侶〕 / Saffron Gathering〔サフラン摘み〕 / Still-Born〔死児〕 / Family Photograph〔わが家の記念写真〕 / In Praise of the Old and Senile〔老人頌〕 / Legend〔伝説〕 尾沼忠良訳 *Yoshioka Minoru=鶴岡善久(尾沼忠良訳) 〔鶴岡はこの5ページにわたる〈Introduction〉(同文は既刊の《Celebration In Darkness――Selected Poems of YOSHIOKA MINORU》の〈Yoshioka Minoru―“Celebration In Darkness....”〉の改題・再録)で吉岡の詩と散文を引用している。尾沼は自身の既訳があればそれを用い、未訳の詩句や散文は新たに訳している。対応する吉岡の原文の該当箇所を掲げ、英訳された標題を付す。なお引用で中略(〔……〕)したのは小林ではなく、鶴岡。――「聖母祭の樹の下を発車する/脳髄の午睡へ沙漠をはさむ」=〈蒸発〉(A・5)の冒頭だが、《液體》の詩とあるだけで、英訳された標題は記されていない。――「わたしは詩を書く場合、テーマやその構成・構造をあらかじめ考えない。白紙状態がわたしにとって、最も詩を書くによい場なのだ。〔……〕冷静な意識と構図がしずかに漲り、リアリティの確立が終ると、やがて白熱状態が来る。倦怠が訪れる。絶望がくる。或る絵画が見える。女体が想像される。亀の甲の固い物質にふれる。板の上を歩いている男が去る。つぎに「乳母車」の形態と「野菜」という文字が浮び出る。」=“How I Write Poems?”――「輝く王道をきりひらき/古代の未開地で/死児は見るだろう/未来の分娩図を/引き裂かれた母の稲妻/その夥しい血の闇から/次々に白髪の死児が生まれ出る」=“Still-Born”――「わたしはいつも考える/ドアのノブのやわらかい恐怖/滞在とはなに?/火事のなかではぜる大きな楽器を見ている/わたしは不可視のものを/笑ったりしないだろう/それが氷上なら/わたしは女の腰をかかえて滑って行く/円が回避する円/あらゆる現実を分割して/回路を戻るソーセージがある/それは新しい観念だ/〔……〕/わたしは考える/雨傘のなかの小さな愛を/疾走する自動車のハンドル/左へ左へときられる」=“Stay”――「それでいてきみは濡れている/雨そのもの/ニラ畑へ行隠れの/鳩の羽の血/形があるようでなく/ただ見つけ出さなければならない浄福の犯罪/大理石の内面を截れ/アイリス・紅い縞・秋・アリス/リデル!」=“My Approaches to Alice”〕

Ku Kusudama

英訳詩集《Kusudama》初刊 表紙
英訳詩集《Kusudama》初刊 表紙

英訳詩集《Kusudama》初刊 一九九一年 FACT International社(2-2650 West 1st Ave. Vancouver B.C. V6K 1G9 Canada)Leech Books刊 訳者 Eric Selland 二〇八×一七一 総五二頁 並製 くるみ表紙 本文用紙再生紙 デザインSteven Forth、Yoshie Hattori 表紙コラージュYoshie Hattori 写真Stan Douglas カナダにて印刷 Press Gang

〔内容〕刊記 献辞 詩篇《薬玉》全篇

Rooster〔雞〕 / The Vertical Voice〔竪の声〕 / Shadow Pictures〔影絵〕 / Collection of Green Branches〔青枝篇〕 / Tapestry〔壁掛〕 / Cuckoo〔郭公〕 / Pilgrimage〔巡礼〕 / An Autumn Ode〔秋思賦〕 / India〔天竺〕 / Kusudama〔薬玉〕 / A Spring Ode〔春思賦〕 / Mother〔垂乳根〕 / Elegy〔哀歌〕 / Nectar〔甘露〕 / East Wind〔東風〕 / Turkish Delight〔求肥〕 / Wild Geese Descending〔落雁〕 / Land of Eternal Youth〔蓬莱〕 / A Crescent Wave Pattern〔青海波〕

Afterword / 〔著者紹介・訳者紹介〕

英訳詩集《Kusudama》解題

《Kusudama》は吉岡実の単行詩集唯一の英訳書。吉岡の随想〈くすだま〉に訳者エリック・セランドとの交友が書かれている(初出は《新潮》1985年11月号)。

 〔……〕エリックは学生時代に、英訳詩集『ライラック・ガーデン』(佐藤紘彰編訳)で私の詩を読み、関心を持ったようである。/昨年の春ごろ、エリックから『薬玉』を翻訳したいと考えているが、同意してくれるかと言われ、私は驚いてしまった。この詩集は今までの作品とは詩形が異り、ことばの塊りをいわば「楽譜」のように散りばめた、いってみれば「言譜」のようなもの。そのうえ、古語や仏教用語を多用し、祭儀的な世界を詩で試みている。友人、知己のなかにも解読できないと言う人がいる。いくら日本語の堪能なエリックにも、不可能なことだと考え、私はやるならやってもいいけれどと、あいまいな返答をしていた。/アメリカの雑誌〈PRISM international〉に二篇の詩が掲載されたと、エリック・セランドがそれを一冊持って来た。訳出した四、五篇からこの二篇が採用されたとのこと。それは「雞」「哀歌」という詩である。私にはその成果のほどはわからないが、この若い詩人の執念に打たれる。「哀歌」の最終部を掲げてみよう。

  「有であると同時に無である世界」
  藪にからむボタンヅル
  にわっとりが鳴く
  この水車小屋の暁闇から
  つぎつぎに弟や妹が生まれ出る
  まれには
  旅人も生まれ出る

 ちなみに、この一篇は西脇順三郎への追悼詩である。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二九七〜二九八ページ)

〈哀歌〉(J・13)の詩句に対応する英訳を《Kusudama》から引く。

“World at once being and emptiness”
Clematis clinging to the underbrush
The rooster crows
From the gloomy dawn of this watermill
Little brothers and sisters are born
On rare occasions
A traveler is born(本書、三三ページ)

二篇に続いて、セランド氏は《TEMBLOR: Contemporary Poets Issue 4》(1986)に〈巡礼〉(J・7)、〈薬玉〉(J・10)、〈垂乳根〉(J・12)の英訳を発表、詩集《薬玉》全訳に向けて邁進した。同誌の寄稿者紹介欄には“ERIC SELLAND lives in Tokyo and is seeking a publisher for his translation of Minoru Yoshioka's Kusudama.”とあるが、吉岡は本書の刊行を見ずして逝った。《Kusudama》巻頭に掲げられた訳者の献辞“This translation is dedicated to the memory of Yoshioka Minoru 1919-1990”が、その無念さを語っている。
吉岡実詩は佐藤紘彰をはじめ多くの訳者に恵まれ、数数の英訳が発表されてきたが、《薬玉》の詩篇はエリック・セランド以外、手掛けていない。近年、訳者は《昏睡季節》や《液体》、《静物》などの初期吉岡実詩の英訳も進めており、《吉岡実全詩集》の完訳が待たれる。なお本書の〈青海波〉(J・19)、〈青枝篇〉(J・4)、〈雞〉(J・1)の三篇はduration pressのサイトで読むことができる。

一九九七年 〔平成九年〕

《Pris de Peur, le numero 5 [Poesie d'aujourd'hui au Japon]》 〔〈Minoru Yoshioka〉の冒頭見開きページのモノクロコピー〕
《Pris de Peur, le numero 5 [Poesie d'aujourd'hui au Japon]》 〔〈Minoru Yoshioka〉の冒頭見開きページのモノクロコピー〕

  1. Pris de Peur, le numero 5 [Poesie d'aujourd'hui au Japon] 一九九七年一二月 Rafael de Surtis EDITIONS(Poitiers) ▽Minoru Yoshioka(Naruhiko Teramoto〔寺本成彦〕訳) Moines〔僧侶〕/Habits de deuil〔喪服〕/La Sainte Famille〔聖家族〕 〈僧侶〉と〈聖家族〉の原文も掲載 *〔著者紹介〈Minoru Yoshioka〉

一九九八年 〔平成一〇年〕

《Poems for the Millennium: the University of California book of modern & postmodern poetry》 表紙
《Poems for the Millennium: the University of California book of modern & postmodern poetry》 表紙

  1. Poems for the Millennium: the University of California book of modern & postmodern poetry volume 2: From Postwar to Millennium Jerome Rothenberg and Pierre Joris編 一九九八年 University of California Press(Berkeley, Los Angeles, London) Anthology of Modern and Postwar to Millennium ▽Pilgrimage〔巡礼〕 Eric Selland訳 *Commentary

二〇〇〇年 〔平成一二年〕

日伊対訳詩集《Sei Budda di pietra〔六体の石の御仏〕》 表紙
日伊対訳詩集《Sei Budda di pietra〔六体の石の御仏〕》 表紙

  1. Sei Budda di pietra〔《六体の石の御仏》〕――Antologia di poesia giapponese contemporanea  中沢史典編・解説〈Panorama della poesia contemporanea giapponese dopo la seconda guerra mondiale〉 松本康子・Massimo Giannotta訳 二〇〇〇年九月 Empiria 社(Roma) ▽〔日=伊対訳《静物》抄〕 静物(B・1)=La natura morta / 静物(B・2)=La natura morta / =L'uovo / =Neve *〔著者紹介〕

二〇〇二年 〔平成一四年〕

《PO&SIE numero 100――Poesie Japonaise》 〔〈YOSHIOKA Minoru〉のページ冒頭〕
《PO&SIE numero 100――Poesie Japonaise》 〔〈YOSHIOKA Minoru〉の冒頭ページ〕

  1. PO&SIE numero 100――Poesie Japonaise  二〇〇二年六月 Editions Belin(Paris) ▽YOSHIOKA Minoru(訳者 Isabelle Tonomura, Teramoto Naruhiko, Ono Masatsugu, Claude Mouchard, Samson Sylvain, Patrick De Vos) L'ile de Cheju〔済州島〕/Entre deux recueils〔二つの詩集のはざまで〕(Samson Sylvain訳)/NATURE MORTE〔静物(B・1)〕(P.D.V.訳)/NATURE MORTE〔静物(B・2)〕(I.T., T.N., O.M., C.M.訳)/NATURE MORTE〔静物(B・3)〕(O.M., C.M.訳)/NATURE MORTE〔静物(B・4)〕(O.M., C.M.訳)/ELOGE DU VIEUX〔老人頌〕(O.M., C.M.訳)/DIARRHEE〔下痢〕(O.M., C.M.訳)/CUEILLETTE DE SAFRANS〔サフラン摘み〕(I.T., T.N., O.M., C.M.訳)/MERS〔わだつみ〕(O.M., C.M.訳)/OU EST LE PILIER BLEU?〔青い柱はどこにあるか?〕(I.T., T.N., O.M., C.M.訳) *〔著者紹介〕

二〇〇三年 〔平成一五年〕

  1. 日本当代詩選 鄭民欽訳 二〇〇三年一二月 作家出版社(北京) ▽静物(B・1)/老人頌/馬・春天的絵画/采擷番紅花 *〔詩人略歴〕

二〇〇五年 〔平成一七年〕

《[Four] Factorial〔四の階乗〕》 表紙
《[Four] Factorial〔四の階乗〕》 表紙

  1. [Four] Factorial〔四の階乗〕――Speed Round & Translations 中保佐和子編 二〇〇五年夏〔九月一五日〕 Factorial Press ▽from Seibutsu(Still Life / Egg / Praise / Still Life / Still Life) Eric Selland訳 《静物(抄)》(静物(B・1)/卵/讃歌/静物(B・2)/静物(B・3))〔原文〕 *Contributors

二〇〇六年 〔平成一八年〕

  1. [Five] Factorial 中保佐和子 二〇〇六年夏 Factorial Press ▽from A Season of Stupor(Spring〔春〕 / Summer〔夏〕 / A Season of Stupor 1〔昏睡季節1〕 / A Season of Stupor 2〔昏睡季節2〕) from Liquid(Elegy 〔挽歌〕 / The Night When Flowers Grow Cold〔花冷えの夜に〕 / Melting Flowers〔溶ける花〕/ Liquid I〔液体T〕 / Liquid II〔液体U〕) Eric Selland訳 *Contributors

二〇〇八年 〔平成二〇年〕

  1. Japanese Love Songs(日本の恋歌)〔録音資料〕 メゾソプラノ:小林真理、アルトサクソフォン:クロード・ドゥラングル 二〇〇八年一二月 BIS ▽舵手の書(抜粋)〔野平一郎作曲のDashu no sho, for voice and alto saxophone(2003)の歌詞〕 *ライナーノーツ〔Dashu no sho (The Helmsman's Book), ...〕 *舵手の書〔1・5・6節〕原詩のローマ字表記および英訳

二〇一二年〔平成二四年〕

《101 Modern Japanese Poems》 表紙
《101 Modern Japanese Poems》 表紙

  1. 101 Modern Japanese Poems Makoto Ooka編 Paul McCarthy訳 Janine Beichman編集 二〇一二年 Thames River Press(London) ▽The Past/Monks/Picking Saffron Flowers 〔詩篇の選択と本文は、大岡信編《現代詩の鑑賞101〔Literature Handbook〕》(新書館、1996年9月25日)が底本〕 *Preface=Makoto Ooka *Translator's Note=Paul McCarthy *Introduction: The Winding Road of Modern Japenese Poetry=Chuei Yagi *List of Sources〔Picking Saffron Flowers [Safurantsumi]の出版社はShichoshaではなく、Seidosha〕 *Index of Poets *Index of Titles

以上、《吉岡実書誌》の〈T 著書目録〉および〈V 主要作品収録書目録〉ほかからの再録


吉岡実と稗田菫平(2020年8月31日)

2020年1月、ヤフオク!に富山の詩人、稗田菫平に宛てた吉岡実の年賀状が出品された(残念ながら、落札できなかった)。〔昭和〕40年1月3日王子局消印の年賀ハガキで(もっとも日付ははっきりとは読み取れない)、表面の住所や宛名はブルーブラックのペン書き、裏の文面はすべて印刷で、「1965」という年号に、赤で干支のヘビのカットが絡みつき、「あけましておめでとうございます」、東京都北区滝野川の住所、「吉岡実・陽子」。以上はいずれも横組みである。不明にして稗田菫平の詩業を知らなかったので、《稗田菫平詩集〔昭和詩大系〕》(宝文館出版、1977年5月1日)を入手した。第八詩集《氷河の爪》(思潮社、1963)の一篇を引こう。

水仙[ナルキツソス]の少年|稗田菫平

鹿が駈けて行く
クロッカスの花の上を
羊が歩いて来る
早咲きの鳶尾[いちはつ]の花の傍を

牡山羊と少女たちも
連れだって来る
スミレやヒヤシンスの野を
――ところで馬も駈けて来るのだ

水仙の花の上を
少年の手綱に
はじかれながら

(ギリシャのニンフの娘
 のようにナルキッソス
 の萼[うてな]をかきみだしながら)

稗田の詩を「不思議なタペストリー」と呼んだのは谷川俊太郎である(《百花》4号、1954年3月)。たしかにこの綴れ織りにも、清潔なエロティシズムが漂っている。だがそこには、吉岡実の詩篇〈サフラン摘み〉にあるデモーニッシュなものは見られない。それが稗田菫平詩の持ち味なのだろうが。《稗田菫平全集〔第1巻〕》(宝文館出版、1978年12月20日)は、巻頭に第一詩集《花》(野薔薇社、1948)を、巻末に第七詩集《葦の女》(琅玕社、1957)を、それぞれ全篇収めている。前者から冒頭の、後者から掉尾の詩篇を掲げよう。

藤の花|稗田菫平

紫の花びらが揺れるとき
紫の藤の花が揺れるとき

その中から子供の笑ひが
小さくそれは小さく聞える

花びらが白くふりかゝると
少女の髪がはらはらするやうに
少年の歯がきらきらのぞく様に

子供の笑ひが小さく
それは小さく聞えてくる


草の噴水|稗田菫平

盛り皿のなかの
果実のように甘く香ばしく
おお 女は熟れていた

レモン汁やリンゴの色が
日本海の砂に〔撤→撒〕かれ男の心は
おお 噴水となり高鳴つていた

彼等の腕が二本
草に臥して十字に重なり
昆虫の青い髭のように

エジプトの琴のように
葦の世界に沈みながら
おお 夜の脹らみを待つていた

1948(昭和23)年の吉岡は、のちに書きおろしの詩集《静物》(私家版、1955)としてまとまる詩を書きはじめる前年にいる。1957(昭和32)年には、《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)を形成する詩篇を諸雑誌に陸続と発表している。それにしても、稗田がこの9年の間に7冊の詩集を出しているのには驚かされる。上掲の2篇には、《静物》と《僧侶》の間にある以上の大きな隔たりがある。

稗田菫平宛の吉岡実と荒木二三の年賀状(2枚セット)の自筆による宛名面 稗田菫平宛の吉岡実と荒木二三の年賀状(2枚セット)の印刷による文面
稗田菫平宛の吉岡実と荒木二三の年賀状(2枚セット)の自筆による宛名面(左)と同・印刷による文面(右) 〔出典:ヤフオク!〕

ちなみにヤフオク!には稗田菫平に宛てた、以下の人人の書簡が出品されている(2020年1月時点)。荒木二三・城小碓、福田泰彦、鮎川信夫中桐雅夫、小野蓮司、巽聖歌、鳥巣郁美、石森延男諏訪優神保光太郎相馬大岡部文夫真壁仁北川幸比古天野忠、大野新、寺門仁、滑川道夫おのちゅうこう加藤郁乎高橋新吉村野四郎神保光太郎白鳥省吾和田徹三河邨文一郎、他。日本児童文学者協会、富山県児童文学協会、日本詩人クラブ、富山現代詩人会、富山近代文学研究会に所属し、富山県児童文学会会長も務めた稗田だけに、これらの詩人や児童文学者との交流には密なるものがあったようだ。

林哲夫さんのブログ《daily-sumus2》の〈骨と骨〉(2015年11月17日)には「金沢文圃閣の古書目録『年ふりた……』19号が留守中に届いていた。これまでも何度か紹介しているが、いつも興味深い内容。今回は稗田菫平という詩人の旧蔵書がちょっとしたものだ。稗田氏が発行者から直接もらっている雑誌や詩集類は簡単に手に入らないものが多そうで、研究している人たちにとっては垂涎ではないか。こちらはタイトルと短い説明を読み取ってどんな雑誌なんだろうなあと想像するだけ。それでも面白い。京都関係もいろいろ出ている。『RAVINE』不揃い三十三冊とか『コルボウ詩話会テキスト』三冊合本とか『詩人通信』揃い三冊とか『骨』不揃い四冊とか。君本昌久編集の『蜘蛛』二冊と『ONLY ONE』三冊もある。」と見える。

年賀状の昭和40(1965)年当時、吉岡実と稗田菫平にどのような付きあいがあったか、詳らかにしない。稗田の〈著作年表〉には

昭和三七年(一九六二)三六歳。四月、『つのぶえ童話選集』(みかも書房)に童話五篇を発表。八月、『年刊歌集』に短歌一五首発表。九月、第二歌集『山瑞木抄』を出版。一一月、『富山ペンクラブ随想集I』に「白鷺の歌、俳人浪化の生涯」を発表した。
昭和三八年(一九六三)三七歳。五月、第三歌集『真少女抄』を白と黒社より出版。九月、第八詩集『氷河の爪』を東京思潮社より出版、その年の代表詩集に選ばれた。一〇月、『富山詩人』(63)に「言葉について」を発表、この頃から富山現代詩人会の活動がさかんになった。一一月、新村出編『少年少女文学風土記京都』に俳句が収録された。一二月。ニッポン深夜放送で『氷河の爪』より詩六篇が放送された。
昭和三九年(一九六四)三八歳。三月、『中部日本詩人』一四号に「言葉を岩に」を発表。八月、『月刊時事』に「葦の歌」九月、『富山詩人』(64)に「岩の時」、碓井正秀編『女と野郎のうた』に「夏二章」を発表。一二月『年刊歌集』に「草花抄」十首が収録された。(《稗田菫平全集〔第1巻〕》、一六八ページ)

とあるから、稗田から詩集《氷河の爪》を贈られた吉岡が、詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962)を贈り、年賀状のやり取りが生じたものか(《紡錘形》の「発行」は草蝉舎〔吉岡の自宅〕だが、「発売」は思潮社で、稗田の《氷河の爪》と同じ版元である)。吉岡には稗田菫平に触れた文章がなく、稗田の側から吉岡実に言及したものでも見ないかぎり、両者の関係ははっきりとわからない。最後に《詩歌人名事典 新訂第2版》(日外アソシエーツ、2002年7月25日)の記載を引こう。インターネットの情報に依ると、稗田菫平は2014年に亡くなっている。

稗田菫平 ひえだ・きんぺい  詩人 「牧人文学」主宰 〔生年月日〕大正15年4月8日 〔出生(出身)地〕富山県小矢部市 本名=稗田金治 〔学歴〕氷見中卒 〔経歴〕教員を経て、詩人となる。富山県児童文学会会長も務めた。詩集に「花」「白鳥」「氷河の爪」「ホトトギスの翔ぶ抒情空間」、童謡集「さるすべりの花と人魚」、民話集「立山のてんぐ」、童話集「山の神さまのおだんご」など。 〔所属団体名〕日本児童文学者協会、富山県児童文学協会、日本詩人クラブ、富山現代詩人会、富山近代文学研究会(同書、五七〇〜五七一ページ)

《稗田菫平全集〔第1巻〕》(宝文館出版、1978年12月20日)の函と表紙
《稗田菫平全集〔第1巻〕》(宝文館出版、1978年12月20日)の函と表紙

〔追記〕
牧人文学・泉の会編《稗田菫平全集完結記念誌〔牧人文学別冊(通冊68集)〕》(稗田菫平全集刊行会、1983年10月1日)は、A5判並製38ページの小冊子(巻頭に口絵写真1点)。富山県立図書館所蔵の同誌の〈目次〉にはこうある。

 杜鵑頌………………廣瀬誠…………………2
 人間と芸術…………木村玄外………………6
 花筐…………………野田宇太郎 ほか……7
 祝賀記…………………………………………17
      後記………………………………30


(署名はないが)稗田菫平による〈後記〉の前半に「私は昨年の夏、永年の念願であった拙著作集『稗田董平全集』を一応八巻にまとめることができました。また今年の春には、この作集に対して富山新聞文化賞をいただきました。その上、先輩や同志の皆さま方による盛大な励ましの集いを二個所において催して戴きました。私にはともに過分のことでありました。その折にたまわりました祝詞のかずかずと、過去の作品に対していただいた礼状などの一端をも勝手ながら含めさせてもらって、ささやかな記念誌を編みました。」(同誌、三〇ページ)とあるように、稗田の詩集『花』(昭和二十三年刊)に寄せた野田宇太郎に始まる〈花筐〉こそ、本誌の柱である。対象となった書籍と筆者名を掲げる。

詩集『花』(昭23) 野田宇太郎
詩集『白鳥』(昭25) 高島高
詩集『雪と炉』(昭26) 丸山薫
詩集『胡桃の琴』(昭27) 岩佐東一郎
詩集『薔薇の豹』(昭28) 谷川俊太郎
詩集『泉の嵐』(昭31) 中江俊夫
童謡集『さるすべりの花と人魚』(昭33) 木下夕爾
童謡集『野をかけるスイセンの橇』(昭35) 平塚武二
歌集『赤蜻蛉抄』(昭35) 大木実
詩集『葦の女』(昭36) 田中冬二
歌集『山端木抄』(昭37) 諏訪優
詩集『氷河の爪』(昭38) 木原孝一
歌集『真少女抄』(昭38) 中勘助
詩集『岩の女神』(昭41) 上村萍
歌集『草の宴』と詩集『聾のあざみ』(昭43) 米田憲三
少年詩集『飛ぶカモシカの春』(昭43) 石森延男
詩集『獅子の歌』(昭43) 永田東一郎
歌集『利賀山抄』(昭43) 和田徳一
詩集『ホトトギスの翔ぶ抒情空間』(昭44) 松永伍一
詩集『夕顔のひらく夕べの連歌』(昭45) 相馬大
昭和詩大系『稗田菫平詩集』(昭52) 生沢あゆむ
詩集『逍遙記』(昭51) 宮崎健三
詩とエッセイ集『月明記』(昭53) 廣瀬誠
『富山現代詩宝典』(昭56) 久泉廸雄
歌集『詩韻竜胆頌』と多胡羊歯童謡選『くらら咲くころ』(昭58) 大島文雄
『稗田菫平全集』(昭57完結) 野田宇太郎

前掲来信の書き手の何人かを含む稗田菫平の幅広い交友関係をうかがわせるばかりか、稗田作品との取りあわせ――童謡集『さるすべりの花と人魚』と木下夕爾、詩集『葦の女』と田中冬二――がなんとも興味深い。なお、この《稗田菫平全集完結記念誌》に吉岡実の名前は見えない(ちなみに吉岡は、本誌発行と同じ10月に詩集《薬玉》を出している)。

牧人文学・泉の会編《稗田菫平全集完結記念誌〔牧人文学別冊(通冊68集)〕》(稗田菫平全集刊行会、1983年10月1日)の表紙〔カラーコピー〕
牧人文学・泉の会編《稗田菫平全集完結記念誌〔牧人文学別冊(通冊68集)〕》(稗田菫平全集刊行会、1983年10月1日)の表紙〔カラーコピー〕


PR誌月刊《ちくま》のこと(2020年7月31日)

昨2019年12月、筑摩書房のPR誌月刊《ちくま》1969年4月の創刊号から2017年8月の557号までの揃いを、内堀弘さんの石神井書林から購入した。創刊の1969年当時、私は中学2年生で、筑摩書房の出版物をおそらく一冊も読んでいない(クラブは軟式テニス部で、ブラスバンドでは打楽器を担当していた)。読了した本の記録をつけはじめたのは、大学受験に失敗して、勉強そっちのけで日本の現代小説を読み漁っていた浪人のころからで、中学生時代にどんな本を読んだかまったく記憶にない。なにをしていたのか。暇さえあればロックのレコードを聴いて、それに合わせてガットギターを掻き鳴らしていた(エレキは不良が持つものだった)。愛読していたのは《明星》の集英社が出していた音楽誌《Guts[ガッツ]》(表現技術出版株式会社:編)だ。何号か出ていたの知らずに、最新号を最寄りの本屋で見かけ(表紙が石川晶の号)、慌てて創刊号からのバックナンバーを取り寄せた。「ロックが弾けなきゃ、おまえはイモだ」というあおり文句や、ウッドストックフェスティヴァルの詳報、《アビイ・ロード》の楽譜に驚愕したものだ。さらに、ようやく登場しはじめたバンドスコアには狂喜した。雑誌《ちくま》の話だった。臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年5月3日)の〈付録:筑摩書房出版関連資料図版〉には、創刊号を筆頭に《ちくま》が休刊中の1979年と1980年を除く1970年から2014年までの各年の1月号(表紙絵や編集者が替わるのはだいたい1月号から)などの書影が52点掲載されていて、壮観だ。創刊号(「1969年5月号 編集者=土井一正」)の表紙写真の脇には次の書誌がある。

PR誌 月刊『ちくま』

第1次
1969.4.20-1978.7.1
表紙=中島かほる
A5判 本文記事32頁+広告

第2次
1980.7.1-継続中
表紙デザイン=吉田篤弘+吉田浩美(1998.1-)
A5判 本文記事32〜80頁+広告

PR誌月刊《ちくま》の書影 出典:臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年5月3日、一七九ページ)
PR誌月刊《ちくま》の書影 出典:臼田捷治《書影の森――筑摩書房の装幀 1940-2014》(みずのわ出版、2015年5月3日、一七九ページ) 〔2段めの右・中が林哲夫さんによる表紙絵〕

著者の臼田捷治は、《書影の森》の〈あとがき〉で「〔……〕巻末の《付録》において、図書目録や新刊ニュース等のフライヤー(紙もの)、内容見本、各種の栞[しおり]などの関連資料、さらにまた、PR誌『ちくま』の創刊以来の新年号全号を紹介できたのも林さんの提供および差配のおかげ。」(同書、二〇八ページ)と書いている。その直前には「林哲夫さんからは、筑摩書房創業期などの貴重きわまりない刊本の提供をいただいた。とくに青山二郎、鍋井克之、渡辺一夫、吉岡実が装幀した逸書稀書により、まさしく千鈞の重みが加わった」(同前)とあり、装丁家である林さんが創業期の稀書を所蔵しているのは納得できても、「図書目録や〔……〕各種の栞」まで収集しているのには感歎せざるを得ない。ここで《ちくま》に戻れば、〔第1次〕の1号から20号までは初代の土井一正編集、21号(1971年1月)から111号(1978年7月)までが吉岡実編集で、そのあたりのことは10年前に〈吉岡実編集《ちくま》全91冊目次一覧〉に記した。古い証文のようで恐縮だが、そのときの〈編集後記 88〉に次のように書いている。自分の文章を引くのは、労を惜しんでのことではない。この件に関するかぎり、その後、調査は進展していないのだ。自戒の意味も込めつつ、適宜、改行して掲げる。

●〈吉岡実編集《ちくま》全91冊目次一覧〉を書いた。本文中でも触れている〈《ちくま》編集者・吉岡実〉を掲載したのが2003年10月だったから、もう6年以上前になる。同文の末尾に「いつの日か、吉岡実編集の《ちくま》全冊を読破したいものだ」と書きながら、いまだに果たせないのは残念だが、今回、標題を照合しながら本文を拾い読みできたのは収穫だった。もっとも、これらの目次リストからだけでもいろいろなことがわかる。

・登場回数が最も多いのは?――布川角左衛門の70回。その連載は吉岡実装丁で《本の周辺》(日本エディタースクール出版部、1979)として一本になった。

・「難波淳郎」それとも「灘波淳郎」?――NDL-OPACでは「難波淳郎」となっている。

・(磯)あるいは(磯目)とはだれ?――磯目健二であろう。

・《鰐》同人で執筆していないのは?――岩田宏。

・連載が長かったのは?――吉岡実編集以前からのものも含めて10回以上の連載には、布川角左衛門の〈本の周辺〉(90回)、寿岳文章の〈ほん・その目でみる歴史〉(60回)、岡田隆彦の〈美術散歩〉(50回)、寺田透の〈毎月雑談〉(44回)、吉川幸次郎の〈読書の学〉(39回)、生島遼一の〈春夏秋冬〉(26回)、富士川英郎の〈鴟鵂庵閑話〉(25回)、渡辺一夫の〈世間噺・もう一人のナヴァール公妃〉(24回)、下村寅太郎の〈読書漫録〉(18回)、福島鋳郎の〈「戦後雑誌」発掘〉(12回)、一海知義の〈河上肇と中国の詩人たち〉(12回)がある、といった具合に興味は尽きない。

これでおわかりのように、当時、私は吉岡実編集の《ちくま》を端本でしか入手しておらず、永田町の国立国会図書館や駒場の日本近代文学館で閲覧して(目次はコピーを取って)、記事を執筆したのだった。編集者/装丁家=吉岡実に対する関心が中心となるだろう《ちくま》精査の開始にあたって、今回は、40年を超える〔第2次〕の《ちくま》のなかから1冊を選んで、見てみたい。それは2009年7月の460号で、同号の表紙絵を描き、表紙2(表紙裏)の連載〈ふるほんのほこり〉第7回の〈死児〉を書いたのは、画家で装丁家の林哲夫さんである。同文の後半を引く。

 〔……〕
 去る四月十五日、ふと、無性に古本屋へ行きたくなった。足は勝手にわが家から一番近い古本屋へ向って動き出した。電車に乗って十分余り。ところがそんな日にかぎって目当ての店は棚がすっかり寂しくなっていた。間近だった野外での即売会のために荷造りしてしまったのだろう。期待の風船玉がシュルシュルシュルッと萎む。どうしても手ぶらでは去り難く、みょうに視界がよくなった店内をいじましく点検していると、これまで記憶にない一冊がひっそりと差されてあった。そっと抜き出す。吉岡実の随想集『「死児」という絵』(思潮社、一九八〇)。表題作は書肆ユリイカの伊達得夫についての回想である。残念ながら百円や二百円ではなかったが、割安だったことは事実。あちらこちら拾い読みをしつつかなり迷ったあげく何ものかに押されるように帳場に差し出した。
 その夜、この話をブログで披露した。すると吉岡実の詳細な書誌をネット上で公開しておられる小林一郎氏より次のような驚きのご指摘をいただいた。
 「2009年4月15日は、吉岡の生誕90周年(!)当日です。私は『薬玉』の詩を読んで、ひとり祝杯をあげました。」
 背中を押してくれたのは吉岡の霊……まさか。とにかく嬉しい偶然だった。言うまでもなく吉岡実は本誌の編集長だったこともある。(〈ふるほんのほこり7――死児〉、同誌460号、2009年7月、〔表紙2(表紙裏)〕)

* 後出、林哲夫《ふるほんのほこり》(書肆よろず屋、2019)では、本文の罫下に欄外註のような形で「『「死児」という絵』を見つけた古本屋は阪急京都線・長岡天神駅にほど近いヨドニカ文庫。」(同書、一九ページ)という追記がある。

林さんが《ちくま》を担当したのは、2009年と2010年の2年間で、同誌の編集者は青木真次氏。〈ふるほんのほこり〉は長らく雑誌掲載のままだったが、2019年7月26日、書肆よろず屋から《ふるほんのほこり》(限定500部)が刊行された。ブックデザインは、いうまでもなく林さん自身である。同書には連載原稿に加えて、まえがきに相当する新稿〈ほこりを払う〉、あとがきに代わる〈ふるほんは宝物だ〉(初出は2009年1月の《coto》17号)の2篇と、各本文記事の対向に写真(件の〈死児〉だと「『吉岡實詩集』(書肆ユリイカ、1959)口絵写真より吉岡実」)と、〈掲載誌『ちくま』表紙一覧〉という、全24冊の書影が付された。ちなみに所蔵の50番本には、表紙2に林さんの直筆で「栗花落空乱筆いよいよ手が附かず」という句が、署名・落款とともに認められている。

林哲夫《ふるほんのほこり》(書肆よろず屋、2019年7月26日)の表紙 《ちくま》2009年7月の460号の表紙 《ちくま》2009年7月の460号の表紙2(表紙裏)
林哲夫《ふるほんのほこり》(書肆よろず屋、2019年7月26日)の表紙〔絵は《ちくま》2009年1月の454号の表紙と同じ〕(左)と《ちくま》2009年7月の460号の表紙〔表紙絵:林哲夫〕(中)と同・表紙2(表紙裏)(右)

《ちくま》2009年7月の460号の〈目次〉(同誌、〔一ページ〕)を再現してみよう。掲載ノンブルもそのまま起こしてみる。

ちくま 第460号◎2009年7月◎目次

表紙裏
[ふるほんのほこり]7・死児|林哲夫
――――――――――――――――――――――――――――――――――
巻頭随筆
[人間、とりあえず主義]130・北朝鮮と昔の日本が重なる|なだいなだ…………2
[テレビ幻魔館]12・冤罪と裁判員|佐野眞一………………………4
――――――――――――――――――――――――――――――――――
つげ義春の毒に酔う|中条省平………………………6
遠くて近い江戸の村|渡辺尚志………………………8
二つの「世界中心」|八束はじめ………………………10
人殺しの実像|河合幹雄………………………12
野生のエチカ|安藤礼二………………………14
書籍予約の心迷い|柴田翔………………………16
――――――――――――――――――――――――――――――――――
新連載
[わたしの、東京物語]1・東京駅から始まる|小林信彦………………………20
――――――――――――――――――――――――――――――――――
連載
[いにしへ東京歳事記]24・乳房と鏡|鈴木理生………………………22
[「むふふ」の人]10・デクノボーと「ご神木」|玄侑宗久………………………24
[それなりに生きている]23・じっとり系でもしようがない|群ようこ…………28
[平成コメディアン史]23・「喜劇座」結成まで|澤田隆治………………………32
[旅情酒場をゆく]11・一三〇〇年の歴史を呑む奈良の夜|井上理津子…………36
[絶叫委員会]40・そんな筈ない/ある|穂村弘………………………40
[大島渚と日本]18・見つめる女たち|四方田犬彦………………………42
[農村青年社事件]12・刑事事件と大逆事件の深層|保阪正康……………………48
[ネにもつタイプ]89・変化|岸本佐知子………………………54
[長屋の富]4|立川談四楼………………………56
[グッド・ラック]20|太田治子………………………62
[ピスタチオ]15|梨木香歩………………………68
[青春の光芒――異才・高橋貞樹の生涯]26
      第七章『特殊部落一千年史』をめぐって(その一)|沖浦和光……74
――――――――――――――――――――――――――――――――――
コラム
[右翼の本棚]3・失地回復の闘い|鈴木邦男………………………79
――――――――――――――――――――――――――――――――――
第二十六回太宰治賞 作品募集………………………18
編集室から………………………80

表紙作品 林哲夫
表紙・本文デザイン・カット 吉田篤弘・吉田浩美

吉岡実が編集していた〔第1次〕の《ちくま》に較べて原稿の本数が格段に増え、ページ数も約3倍に増えている(本文が80ページ、巻末の〈新刊案内〉が16ページ、表紙まわりが4ページの合計100ページ)。一冊まるごと《文藝春秋》を読破した椎名誠の向こうを張るわけではないが、私はいつものように仕事をしながらこの460号を通読するのに、ほぼ3日間を要した。機会を見て〔第2次〕《ちくま》の目次をデータベース化したいものだ。だが、それこそいつになるものやら。ちなみに、NDL-OPACでは(ログインすれば)創刊号の詳細書誌を閲覧できる。近年の号も、ものによっては〈この号の記事〉を見ることができる。試みに、460号のそれを掲げてみよう(なぜか、林さんの随想は採録されていない)。本誌から起こした前掲〈目次〉と比較するのも一興だろう。

国立国会図書館オンライン | National Diet Library Onlineで検索した〈ちくま(通号 460)2009.7〉を出力したもの
国立国会図書館オンライン | National Diet Library Onlineで検索した〈ちくま(通号 460)2009.7〉を出力したもの

出版社のPR誌についてもっとも情熱的に語ったのは、坪内祐三(1958〜2020)である。その《私の体を通り過ぎていった雑誌たち》(初出は《小説新潮》2002年2月号〜2004年11月号)の〈出版社のPR誌のことも忘れてはいけない〉から、《ちくま》への言及のある段落だけを抜きだして、説明の都合上、番号を振って掲げる。〔 〕内は小林による補記。

@筑摩書房の『ちくま』も質が高い。むしろ〔坪内の大学時代(一九七八年〜一九八三年)〕当時よりも充実しているかもしれない。けれどちょっと連載頁[ページ]が多過ぎる感じがする。連載頁が多いとスタティックになってしまう。それに、連載物ばかりだと単行本のための畑や温室に見えてしまう。

A〔坪内が神保町の近くの予備校に通っていた浪人生(一九七七年)のころ〕以来私は、出版社のPR誌を愛読している。『図書』、『ちくま』、『波』、『本』、『青春と読書』、この五誌が当時のメジャー誌[、、、、、]だったが、これらの雑誌はすべて月末(*1)に書店に並ぶ(その発行日は今も変らない)。すべて[、、、]月末と書いたが、実は、出る順番は微妙に異なる。たしか『本』『青春と読書』『波』『ちくま』『図書』の順だったと思う(いや、『本』と『青春と読書』の順番は逆かもしれない)。私はそれらの雑誌を書店で(特に神保町の岩波ブックセンターで)、いただいてくるのが好きだった。書店に置かれた直後に見つけないと、取りそこねてしまうこともある。特に『ちくま』の発行部数は、当時、たぶん他誌よりもずっと少なく、私はよく取りそこねた(大学に入学したら、毎日のように顔を出す早大文学部生協の書店で手に入るようになりその心配はなくなった――と書いている内に思い出したのだが、筑摩書房は私が大学に入学した頃倒産騒ぎがあり『ちくま』もしばらく休刊していたはずだ)。

Bけれど、例えば『ちくま』は、私の家に送られて来る日が実際の発行日よりも数日遅いので、つい、岩波ブックセンターや渋谷の旭屋で、見つけたその日にいただいてしまう。〔……〕

C『ちくま』は二十数冊残した。
 一九八一年九月号には付箋[ふせん]が張ってある。
 開いてみると蓮實重彦のエッセイ「映画に生き残った白さについて」で、こんな箇所に赤線が引いてある(傍点は原文)。
 そもそも映画の白さ[、、]とは、白いものを白く撮っただけのものではないのだ。伝え聞くところによると、あの『奇跡』のまばゆいまでの室内の白壁を白さ[、、]としてフィルムに定着させるために、カール・ドライヤーは壁という壁を不気味なピンク色に塗らせておいたという。
 やがて来るニューアカ的なものに、出版社のPR誌の中で、一番連動していたのが『ちくま』だった。一九八三年一月号には山口昌男と前田愛の対談「都市文学論の新地平」が載っている。山口昌男と前田愛は雑誌『國文學』の森鴎外特集号でも同様の対談を行なっており、それは人文書院から出た山口昌男の対談集に収録されたが、この対談は初出誌のまま、以後二人の著作には未収録だから貴重だ。

D『波』も『ちくま』と同じぐらいの冊数が残った。『ちくま』に比べると『波』はオーソドックスな編集だったが、私はそのオーソドックスが嫌いではなかった。(《私の体を通り過ぎていった雑誌たち》、新潮社、2005年2月20日、二二四〜二二九ページ)

吉岡実が1969年5月創刊の《ちくま》の編集主任(すなわち編集長)を務めていたのは、前にも述べたように1971年1月の第21号から1978年7月(同月、筑摩書房は事実上、倒産している)の第111号までの全91冊だった。Aの「筑摩書房は私が大学に入学した頃倒産騒ぎがあり『ちくま』もしばらく休刊していたはずだ」は、まさにそのことを指す。また、坪内がCで挙げている1981年9月号、1983年1月号とも、編集主任はのちに筑摩書房代表取締役を務めた柏原成光(1939〜 )である。しかし、そうしたクロノロジーは少し詳しく調べれば誰にでもわかることであり、坪内の達見は@の「連載頁が多いとスタティックになってしまう。それに、連載物ばかりだと単行本のための畑や温室に見えてしまう。」であり、Aの「特に『ちくま』の発行部数は、当時、たぶん他誌よりもずっと少なく、」であり、Bの「『ちくま』は、私の家に送られて来る日が実際の発行日よりも数日遅い」であり、Cの「やがて来るニューアカ的なものに、出版社のPR誌の中で、一番連動していたのが『ちくま』だった」であり、Dの「『ちくま』に比べると『波』はオーソドックスな編集だった」である。
坪内が「読書が好きになっていった高校生ぐらいの時からその種のPR雑誌を漫然と手にしていた」(同前、二二五ページ)ちょうどそのころ、私は大学生で、新潮社の《波》を愛読していた。私がいままでに買った新刊の文庫本で最も多いのはおそらく新潮文庫だ。つまり、単行本は高いが、読んで手許に置いておきたいような作品――たとえば福永武彦の小説やエッセイ――は文庫で揃えたものだ(新潮社から出た福永生前の〈全小説〉、歿後の〈全集〉とも全巻を入手し、全集未収録の作品も各社の単行本で揃えたが、未だにまっとうな福永論を書いていない)。もうひとつ、新潮社は著名な文筆家の講演会を新宿・紀伊國屋ホールで毎月一回開催していて、その告知が《波》に掲載された。無料だが、はがきで応募して、抽選があったのではないか(《作家や学者の貴重な講演音源が聴けるサービス開始! | News Headlines | 新潮社》には「かつて新潮社は1966(昭和41)年〜96(平成8)年、東京・新宿の紀伊國屋ホールで毎月「新潮社の文化講演会」を主催しておりました。また1980(昭和55)年〜91(平成3)年には、東京池袋のスタジオ200で「新潮文化講演会」を催し、現在、両方合わせて約800本の講演音源を保有しています。」とある)。私が吉岡実の詩に触れたのは、大岡信(1931〜2017)によってであり、大岡の著作に親しむようになったのは、新潮社の連続講演(たしか半年間続いた)のおかげである。私が最も感嘆したのは五木寛之(1932〜 )の弁舌だった。あるとき登壇した第一声「コールドパーマをかけました」は、いまでもその声の調子とともに憶えている。洗髪が面倒で、コールドパーマだとそれがいくぶん緩和されるというような、本題とは関係のない話題なのだが、とにかくその「つかみ」は抜群だった。その点からすると、文筆の一方、大学で教鞭をとっていた大岡にしても辻邦生(1925〜1999)にしても、もっと着実なエッセイふうで(芭蕉やリルケを論じた辻の連続講演には草稿があって、たしか書籍化する予定だと聞いたが、その後どうなったのだろうか(*2)、五木の話が新潮社の《波》なら、大岡や辻のそれは筑摩書房の《ちくま》といった感じだった。
坪内による出版社のPR誌論の胆は次の箇所だ。――たとえ新刊紹介であっても、もう少しロングショットでとらえて、五年後十年後の再読に耐えるものを載せてもらいたいのだ。これは筆者側の責任である以上に(と自分を棚に上げて言う)、依頼する側の編集者の責任であると思う。/それぐらい、出版社のPR誌とは、目立たないけれど(目立たないからこそ)、プロとしての力量が必要な雑誌なのである。いわば、編集者として腕の見せ所のある雑誌だ。――(《私の体を通り過ぎていった雑誌たち》、二二五ページ)。この見解には、7年半にわたって《ちくま》の編集を手掛けた吉岡実も首肯するに違いない。
私はUPUにいたころ、持ち回りで自社の媒体(客先を主な読者とする、一種のPR誌)の編集を担当したことがある。取材して原稿を執筆するのはともかく、企画をどう立てるか、とても苦労した憶えがある(その号はようやく注目されはじめたインターネットの特集だった)。出版社のPR誌なら、なおさら難しいだろう。

〔追記〕
〈ほん・その目でみる歴史〉を60回にわたって《ちくま》に連載した寿岳文章(1900〜1992)がそれを一本にまとめた《図説 本の歴史〔エディター叢書〕》(日本エディタースクール出版部、1982年2月10日)の〈あとがき〉に「同書房では一切他店の出版物の広告をのせない同書房だけの出版活動の月刊PR誌「ちくま」を出すことになった。」(同書、一八三ページ)と書いたように、休刊前の〔第1次〕《ちくま》(1969.4.20-1978.7.1)は「本文記事32頁+広告」で、他社の出版広告を掲載しなかった。111号(1978年7月)は吉岡が編集を手掛けた最後の号だが、丸谷才一や高橋康也の師だった平井正穂(1911〜2005)の〈ミルトンとの出会い〉の本文末尾に、自社の近刊としてミルトン(平井正穂訳)《失楽園》の罫囲みの3行広告(本文2段組の下段分)があるだけで、本文組み込みの広告は一切ない。一方、〔第2次〕《ちくま》(1980.7.1-継続中)の460号(2009年7月)には、178×38ミリメートル(すなわち天地は段抜き、左右は本文10行分)の他社の出版物の書籍広告が複数本、載っている。版元名を挙げておく。岩波書店、法藏館、法政大学出版局、田村書店(古書店)、東京堂出版、春秋社、群像社、平凡社、青土社、白日社、日本古書通信社、筑摩書房。巻末には16ページの別刷り自社広告(《筑摩書房 新刊案内》と同じ内容)が来て、表紙3には文藝春秋、みすず書房、吉川弘文館、NTT出版のモノクロ出版広告(85×50ミリメートルの罫囲み)が入る。表紙4(裏表紙)には、PILOTの高級油性ボールペンのカラー広告が入って、背に近い部分と罫下には奥付に相当する記載がある。

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(*1) 晩年の吉岡と渋谷の珈琲店トップ(「トップス」と書く人がいるが、「トップ」である)の道玄坂店だったか駅前店だったかで歓談のおり、講談社の《月刊PENTHOUSE》(1983〜1988)が休刊になった経緯を訊かれたことがある(白人女性のヌード写真――競合誌である集英社の《月刊プレイボーイ(PLAYBOY日本版)》のそれに較べて煽情的だったが、《月プレ》も2008年11月に休刊した――を愉しみにしていたようだ)。当時、月刊誌《エスクァイア日本版》の製作進行を担当していたこともあって、私が編集部で小耳に挟んだ情報をお伝えしたものだ。雑誌全体が低迷を続けている今日でもそうだと思うが、市販の月刊雑誌の発売日は「月末」、とりわけ25日に集中する。これは大方の俸給者の給料日を当てこんでの方策で、《エスクァイア日本版》の発売日は、取次店との交渉の結果、毎月24日となった。ちなみに雑誌業界では「○月号」とは呼ばない。流通や広告の面からは、発売日(奥付にある発行日、ではない)が最も重要で、「〔2020年〕7月24日売[うり]」や「7/24売」などと表示する。余談だが、製作面では4月号(3/24売)がいちばんたいへんだった。2月は28日か29日しかないからだ。この、2日ないし3日の差は大きい。本サイト《吉岡実の詩の世界》の更新日が毎月末日なのは、吉岡実の命日が「31日」なのと、私がかつて《エスクァイア日本版》を担当していたことの名残りかもしれない。

(*2) 1994年3月から翌95年2月まで《ちくま》(当時の編集長は柏原成光)に毎回4ページ掲載された12回の連載〈薔薇の沈黙――リルケ論の試み〉が基本となった辻邦生の《薔薇の沈黙――リルケ論の試み》(筑摩書房、2000年1月20日)は、著者歿後刊の遺著。連載最終回の末尾に本文よりも小さい活字で「――〔……〕なお『薔薇の沈黙』は大幅加筆のうえ、一九九五年秋に筑摩書房より上梓の予定。」(《ちくま》287号、三九ページ)と予告されたが、妻の辻佐保子は同書の〈夢のなかのもう一つの部屋――あとがきにかえて〉で次のように書いている。「〔本書は〕連載終了の直後さらに一回分を書きおろし、しばらく後に、細かい文字で書かれた紙片を貼りつけてほぼ全面的に加筆し、引用もかなり増やした上で、現在の形になったものである。」「最終章を執筆できなかったという点では、この書物は未完成かもしれない。〔『ドゥイノの悲歌』〕第十歌冒頭のあまりにも厳粛な一句に導かれて、「認識の果てに立つ」ことは、おそらく肉体をそなえたままでは不可能だったのではなかろうか。あとには「沈黙」しか残らないという意味では、『薔薇の沈黙』は七月二九日〔辻邦生は一九九九年のこの日、急逝〕の午前に完成し、成就したのだと思いたい。」(同書、一八〇ページ、一八七ページ)。さらに、「〔一九〕七七年には、「作家における存在と無(詩の生まれる場所)」という六回の連続講演を行い、そのうちの第三回をリルケにあてている(「パリを越えるもの。リルケの場合」)。詳しい年譜に基づいて『マルテ』から『オルフォイス』に至る詩作の変遷を辿っており、日常的な価値観を越えて深い精神の「実在」に至るという趣旨は、本書の基本的な姿勢とも共通している(草稿メモと講演テープの書き起こしが残る)。」(同書、一八三ページ)。この講演の主催が新潮社(《辻邦生全集》――〔第15巻〕(2005年8月25日)に《薔薇の沈黙》を収める――の版元でもある)で、17年後のリルケ論の雑誌連載が《ちくま》、その単行本の版元が筑摩書房、というのは私の「出版社のPR誌」の印象とまさしく合致する。なお、辻佐保子の前掲文に依れば、同書の担当編集者は辰巳四郎、装丁は中島かほる(同書、一八八ページ)である。


吉岡実と加藤郁乎――ふたりの日記を中心に(2020年6月30日)

江戸川乱歩や西脇順三郎のように日記を書かなかった者もいれば――乱歩の貼雑年譜、西脇の詩そのものが日記の役目を果たした――、吉岡実や加藤郁乎のように日記を遺した者もいる。本稿(以前にも〈吉岡実と加藤郁乎〉を書いているので、〈吉岡実と加藤郁乎(2)〉に相当する)に先立って、加藤郁乎の日記〈自治領誌 W以降――1960(昭和35年)〜1974(昭和49年)〉(《加藤郁乎作品撰集V――続初期日記・エッセイ・交遊録》、書肆アルス、2016年7月16日)を読んで、私は吉岡実の登場する日の記載をテキストデータ化して、PCに取りこんだ(本稿に引いた「吉岡実」「吉岡」は赤字で表示。なお、吉岡が日記や随想で触れている事項に関しても、加藤郁乎日記の記載を拾った)。吉岡実が最も親しく交わったのは、詩人の西脇順三郎(1894〜1982)、俳人の永田耕衣(1900〜1997)、舞踏家の土方巽(1928〜1986)だが、吉岡に劣らず俳人の加藤郁乎もまた、この三人と濃密に交わった。そこで、吉岡と加藤の日記や随想にこれらの人人が登場する日を中心に、吉岡の記述を小字で掲げ、「加藤郁乎」「郁乎」は青字で表示してみた(*印以下は、小林によるコメント)。加藤郁乎は日記本文の漢字に正字を使用しているが、インターネット上ではすべてを再現できるわけではないので、「吉岡實→吉岡実」のように新字に改めた。ただし、「澁澤」や「巖谷」は本人の用法を尊重して原文のとおりとした。仮名遣いは、捨て仮名の使用も含めて、原文のママ。ときに、かつて私が〈吉岡実年譜〉(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991)を作成する際に行ったのは、吉岡自身の文章、すなわち既刊・未刊の随想、既刊の日記、未公開のものを含む書簡などの諸資料を該当する年ごとに配置して、それを睨みながら文章化することだった。礒崎純一《龍彦親王航海記――澁澤龍彦伝》(白水社、2019年11月15日)巻末の〈主要参考文献〉には、「全集・年譜・文章集成等・特集雑誌、ムック等・文献」そして書簡が挙げられている。その伝でいけば、吉岡実伝における「年譜」は、鍵谷幸信・新倉俊一編〈西脇順三郎年譜〉(《定本 西脇順三郎全集〔第12巻〕》、筑摩書房、1994年11月20日)や巖谷國士編〈澁澤龍彦年譜〉(《澁澤龍彦全集〔別巻2〕》、河出書房新社、1995年6月26日)になるわけだが(耕衣と土方にはそのレベルの年譜がまだない)、礒崎も「文献」として挙げている「加藤郁乎『加藤郁乎作品撰集V』書肆アルス、二〇一六年」は、私が件の吉岡実年譜を書いたときにはまだ刊行されていなかった。同年譜に反映されていない新規の情報に関しては、加藤日記の本文のあとに、――(二倍ダーシ)に太字で吉岡実年譜の文体に揃えてリライトしてみた。いつの日か吉岡実年譜を増補改訂する機会があれば、その記載を反映させたいと思う。なお■印は、原文では全角アキだが、加藤日記からの引用であることがわかりやすいようにと、あえて付した(■印だけの行は一行アキを表す)。見出しの〔年〕月日の次の【 】内の曜日は、原文にないために小林が補ったもの。

加藤郁乎〈自治領誌 W以降――1960(昭和35年)〜1974(昭和49年)〉

〔1962(昭和37年)〕十月十二日 金曜
■〔……〕

吉岡実氏より詩集『紡錘形』を送られる。(加藤日記、四六ページ)

* 吉岡の第五詩集《紡錘形》(草蝉舎)は1962年9月9日の刊行。郁乎は日記の日までに処女句集《球體感覺》(1959)と第二句集《えくとぷらすま》(1962)を出しているが、吉岡には献本していない。

――1962(昭和37年)10月 加藤郁乎に詩集《紡錘形》を送る。

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〔1966(昭和41年)〕二月一日【火曜】
■昨夕、西脇順三郎氏の誕生日の会によばれてゆく。灘万。七十四歳とは思へぬつやと笑ひに溢れてゐるといつたところ。吉岡実と初めて逢ひ句や歌のことなどを喋る。楠本憲吉に誘はれて裏口から二人して抜け出し銀座のローザンヌといふ店に連れてゆかれる。大岡信と南画廊の清水氏に会ふ。今夜の会のことを云ふと大岡信が苦笑しながら西脇さんもちよつとロマンテイツクすぎると批判する。楠憲とマダムとKといふ女の子と四人して渋谷の加茂川にゆく。鍵谷、白石たちがわいわいやつてる傍で水たきをつつきながら一時ごろまで飲む。鍵谷、関口篤、諏訪優が喜久井町に来て飲む。現代詩の悪口を例によつて始めて五時頃にみな帰る。
■ブリジット・フローフィ「雪の舞踏会」。(加藤日記、一三三ページ)
 加藤郁乎と私がはじめて出会ったのは、いつだったろうか。それは大切なことなので、今、記憶をたどっているのだが、はっきりとは云えない。たしかそれは、灘万での西脇順三郎先生の誕生日のお祝いの夜だったと思う。その日、先生は自祝の意味をこめられてか、新作の詩を披露されたのだった。車座になって、酔っていた連中がその生原稿を廻し読みしたものだ。それは〈梵〉という詩であった。

  記憶はヤマデラボウズの栄光しか残らない
  〔……〕
  「ボンショウ」の音だ

 これはそのなかほどにある一節であるが、先生は独特な抑揚のある声で、「ヤマデラボウズ」は、山寺の坊主でなく、植物の一種であり、この詩の主題は、/でも地球の最大な人間の記憶は/「ボンショウ」の音だ/という二行にこめられているんだと力説されたのが印象に残っている。〈梵〉は、「無限」の昭和四十一年春季号に発表されている。この車座の中に加藤郁乎はいたのだ。誰に紹介されたのでもなく、一瞬の出会いだった。それからは宴が終るまで、恐らく二時間近く郁乎と語りつづけた。《球体感覺》も《えくとぷらすま》もすでに買求めて、読んでいるとの私の言葉に、郁乎は礼儀正しく恐縮した。

  昼顔の見えるひるすぎぽるとがる
  〔……〕
  天文や大食[タージ]の天の鷹を馴らし

 これら異端の名句の作者と一夕にして、私は知己になったのである。(〈出会い――加藤郁乎〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一九七〜一九九ページ)
* 「ブリジット・フローフィ「雪の舞踏会」」は、ブリジッド・ブローフィ(丸谷才一訳)《雪の舞踏会〔人間の文学22〕》(河出書房新社、1966)だろう。

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〔1967(昭和42年)〕二月十日【金曜】
■昨夜、「形而情学」の出版記念会をやつて貰ふ。灘万。西脇さん、澁澤龍彦、池田満寿夫などが喋つてくれる。楠本憲吉の好意で五十人位のうちから三十人位が引つづき二次会の座敷で雑談。司会を鍵谷幸信がやつてくれる。渋谷の加茂川に出かけて飲む。喜久井町に澁澤夫妻、野中、池田、土方、飯島耕一、松山俊太郎、前田、吉本たちが来て朝まで飲む。
■珍らしい雪が降つてゐて、ひる頃起きて雪見酒。なんとなくごろごろしながら雑談。みんなを夜の雪の町に送る。(加藤日記、一六六〜一六七ページ)
 笠井叡が私の前に姿を現わす前には、当然ながら土方巽の恐るべき光彩がたちこめている。いつのことか忘れたが、銀座の灘万で加藤郁乎の《形而情学》の犀星賞を祝う会があった。二次会は小さな部屋で、気の合った同士が酒と雑談に酔っていたが、親しい人のすくない私はひとり離れてぼんやりしていた。私の丁度向いに着物をきた人物が静かに酒をのんでいる。一寸ばかり気になる存在だった。そのうち突然、あとからきた飯島耕一が大声をあげて、私の卓の前へ坐って、酒をのみはじめた。向いあった人物と私が少しも言葉をかわさないので耕一は「なんだ、土方を知らないのか」。私は名前はなんとなく知っていたが、土方巽もその舞踏も知らなかった。彼は《僧侶》を既に読んでいるといった。それからうちとけて親密さを加え、彼の芸術を知らねばならぬと思った。(〈変宮の人・笠井叡〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一六〇ページ)

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〔1967(昭和42年)〕四月十八日【火曜】
■昨夜、加納光於の個展のオープニングにゆく。南画廊。色彩のエロティックな氾濫と寓意の狂ほしい再生だ。きれいだなァと云つたら、彼から富士山のやうなことを云ふと笑はれた。瀧口修造、吉岡実、大岡信、野中ユリと喋る。名古屋から馬場駿吉君たちが来てゐて飲みながら俳句のはなし。テレビ局に戻つて「11PM」に出演する、土方巽のリファーサルに立ち合ふ。「姉[アネ]さんの踊り」といふ幻灯機を使った暗黒舞踊。終つてから、土方、大野一雄、大野慶人、笠井叡、石井の諸氏を喜久井町に誘つて飲む。土方と大野氏との不思議な対照を見てゐると、これはもう非具象画のやうなダンスだ。三時頃みな帰る。(加藤日記、一七三ページ)
 四月十七日 月曜
 合田佐和子のオブジェ展へゆく。白い妖怪の美学。人魚と蛇ばかりの人形の夥しい群。指の先ほどの女体、蛇体のびん詰。初対面の彼女は髪の長いカレンな人。作品四点求める。郁乎からの電話で南画廊へ廻る。加納光於の「半島状〔の〕!」展。大岡信、瀧口修造氏と会う。奇妙で美しい色彩の世界。加納光於に紹介される。(〈日記抄――一九六七〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一〇ページ)

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〔1967(昭和42年)〕五月十二日【金曜】
■昨夕、「今日の舞踏家」フェスティバルにゆく。都市センター・ホール。吉岡実、三好豊一郎、土方巽、野中ユリ、高橋久子、白石かずこたちと逢ふ。笠井叡君の「O嬢の秘密」をうつとりと見る。馬鹿な観客たちのために、彼の華麗なニヒリズムが、意味もなく笑はれることを怖れる。みんなで渋谷の加茂川に行つて飲む。土方のスタヂオにゆく。詩と詩人のはなし。みんな帰つたあと、嘔いて寝込んだ土方巽のそばに寝る。
■ひる頃、起き出して酒盛り。彼の戦後間もない頃の荒涼たる魂と肉体の物語を聞く。五時頃、別れて神保町の昭森社にたどりつく。森谷均から千円借りて飯田橋で待ち合わせした高橋久子に逢ふ。十二時頃彼女を家の近くまで送つて別れる。(加藤日記、一七六ページ)

――1967(昭和42年)5月11日 〈今日の舞踏家〉フェスティバル(都市センター・ホール)で笠井叡《O嬢の秘密》を観る。

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〔1967(昭和42年)〕七月四日【火曜】
■昨夜、「形而情学」舞踏化公演、六時半、紀伊國屋ホール。開幕早々、写楽の似顔をなかに挟むでわが横顔がスライドで映されて、愉快で変な気持。高井富子をたすけて土方巽、大野一雄、笠井叡の踊りがスキャンダラースな螺旋境を恍惚とつくり出してゆく。終演後、目黒の土方巽のスタジオに行つて飲む。澁澤龍彦、瀧口修造、森谷均、横部得三郎、矢川澄子、野中ユリ、富岡多恵子、三好豊一郎など。スタッフの面々四十人位が踊つたり歌つたりして朝まで喋る。富岡多恵子を送つて帰る。
■母の具合、葡萄糖液の続行、輸血用の血を集めなくてはならない。
■大橋嶺夫から句集「聖喜劇」を贈られる。(加藤日記、一八二ページ)
 七月三日 月曜
 夕方、三好豊一郎来る。ラーメンを食って紀伊国屋ホールへ向う。那珂太郎、澁澤龍彦と出会う。七時開演、土方、笠井君たちの舞踏詩「形而情学」始る。クレオパトラ・タカイ、アレクサンドロス・オオノ、ヘリオガバルス・カサイ、ネロ・ヒジカタの奇怪にして典雅、ワイセツにして高貴、コッケイにして厳粛なる暗黒の祝祭。幻の舞踏者大野一雄の芸に接しえたのは幸運。ハサミを持って踊り狂う老人の姿これはなんだろう、地獄の使者か、人間至福の正体か。恍惚の二時間半。土方巽の傑作に拍手。那珂太郎、白石かずこと近くの喫茶店で一時間ほど雑談。十時半ごろ別れる。藤富保男詩集『魔法の家』をよみながらねる。(〈日記抄――一九六七〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一三〜一四ページ)

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〔1967(昭和42年)〕七月二十九日【土曜】
■上京中の札幌の鷲巣繁男氏から、昨日電話があり、今朝、朝日新聞の本社玄関で逢ふ。マフィアの親分とあだ名をつけたのだが、やはり適切だつたやうだ。肥つてゐるが、マラリアからきた心臓病に悩まされてゐるとのこと。近くの喫茶店でプロティノスのことなど喋つてゐたら、急に顔が蒼ざめてきたので驚く。冷房がいけないといふので、すぐに出て、昭森社に車をやる。ラドリオで森谷氏や高橋睦郎君を交えてビール。そのうちに吉岡実、中野嘉一氏がやつてくる。雷鳴と豪雨。七時頃、鷲巣氏を送る。黒田三郎、安西均、木山捷平氏と少し飲んでから、笠井叡、高橋久子の両人と新宿に出て、ノア・ノアで飲む。
■澁澤龍彦から「ホモ・エロティクス」、多田智満子から「サン・ジョン・ペルス詩集」を贈られる。(加藤日記、一八四ページ)

――1967(昭和42年)7月29日 札幌から上京した鷲巣繁男に森谷均や加藤郁乎たちとともに会う。

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〔1967(昭和42年)〕八月二十九日【火曜】
■昨夜、石井満隆氏の舞踊公演「舞踏ジュネ」を見にゆく。第一生命ホール。少し遅れていつたので、石井氏の頭を剃つた土方巽が、勢いあまつてすつぱりと切つて血を溢れしめたといふ場面を見なかつたのが残念。犬を抱いて踊つたところは土俗のなかの薫香ともいふべき美しさ。終つてから土方スタヂオにいつて飲む。大野一雄、澁澤龍彦、唐十郎、野中ユリたちと喋る。近所の連中がうるさいので電話したらしく、警官が四人ばかり来て、静かにしろと云つたらしい。十人ばかりが残つて四時頃まで飲む。
■ヴァルター・シュミーレの「ヘンリー・ミラー」を読む。(加藤日記、一八六ページ)
 〈日記〉 一九六七年八月二十八日
 夜六時半、日比谷の第一生命ホールへ行く。土方巽の弟子石井満隆のリサイタル「舞踏ジュネ」を観る。開幕――舞台の左手の前で、照明が当ると、満隆の虎刈りの頭を、軽便カミソリで土方巽が荒々しく、剃りはじめる。過失か演出か、血がながれ出す。暗転――客席の方まで拡がる巨大な白い布をかぶった満隆が現われ、それを取ると、白塗り全裸で陰茎はバラ色に染められており、しばし狂気の踊り。またひと抱えもあるビクターの犬を、舞台の中央に置き、その廻りを巡るシーンは、美しい叙景詩。息もたえだえに舞手満隆は消えて行くのだ。その後のうす暗い背景に置かれた理髪店の看板が星条旗を付けて、ゆるやかに廻っていた……。終って外に出ると、澁澤龍彦夫妻、加藤郁乎、野中ユリの顔が見えた。笠井叡と高橋久子を誘って有楽町で食事し、倫敦屋でお茶を飲んだ。(〈3 「舞踏ジュネ」〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、一〇〜一一ページ)

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〔1967(昭和42年)〕十月三十日【月曜】
■夜、笠井叡の舞踏公演を見にゆく。第一生命ホール。和服の高橋久子が可憐で美しい。嵯峨信之氏と一緒に並んで見る。読書新聞の高阪君から舞踏論を頼まれる。二時間近く、華麗で若々しい傲慢の組曲に、久方ぶりに踊りらしい踊りの薫香のやうなものに酔つた。終つてから瀧口修造、澁澤、土方、野中、富岡、巖谷たちの面々と、なんとなく飲んで喋る。新宿のノア・ノアに行つて、瀧口さんとブルトンの話をしたりして帰る。(加藤日記、一九一ページ)
 「舞踏ジュネ」の会から二カ月後に、笠井叡独舞公演「舞踏への招宴」が第一生命ホールで催された。私は初めて妻をつれて行った。招待席には常連のほか、瀧口修造と皮ジャンパー姿の三島由紀夫が見えた。これは彼の初期から現在までの成果である、「磔刑聖母」、「O嬢への譚舞」、「牧神の午後への前奏曲」、「変宮抄」、「菜の花の男装に」などであった。どれもすばらしく、まさに夢幻の一夕である。とくに「O嬢への譚舞」は美と滑稽が混淆し、昇華したエロチシズムを漂わせていた。たえず扮装や衣装を替え、じつに二時間も踊りつづけた、笠井叡の精神力に圧倒されたのは、私たちだけではなかっただろう。息も絶えだえのラストで、舞台に横たわったまま、捧げられた花束を床に叩きつけながら、花びらを散らしていた姿は、もしかしたら幽鬼か、或は「変宮の人」ではないだろうか。(〈4 「変宮の人」〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、一一〜一二ページ)

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〔1968(昭和43年)〕一月十九日【金曜】
■筑摩書房に吉岡実を訪ねて、近くの喫茶店で詩や俳句の話をする。「吉岡実詩集」を貰ふ。
■夕方、ニューヨークにゆく瀧口修造氏を送るささやかな集まり。新宿「ととや」。野中ユリ、川仁宏、巖谷國士と瀧口さんの五人で、瀧口さんの若き日の話や、ダリの家でデュシャンに逢った話や、ブルトンの居間の模様などを聞く。「瀧口修造の詩的実験」を貰ふ。風紋、ユニコンと歩いて三時頃に別れる。瀧口さんをシュルレアリストと呼ぶのは簡単だけれども、平面的すぎる。プラスチックの哲人の影がちらちらしてゐる。あなたは苦学を知つてゐますか、と聞かれた意味のなかには、詩に対する詩的でない空気がこめられてゐたにちがひない。(加藤日記、一九七ページ)

* 「「吉岡実詩集」を貰ふ」は、当時の全詩集《吉岡実詩集》(思潮社、1967年10月1日)だろう。

――1968(昭和43年)1月19日 来社した加藤郁乎に《吉岡実詩集》を贈り、近くの喫茶店で詩や俳句の話をする。

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〔1968(昭和43年)〕一月二十九日【月曜】
■昨日、正午に東京駅の横須賀線フォームで吉岡実と待ち合せて、澁澤龍彦の家にゆく。吉岡実がベーゴマに詳しいのに驚く。画家の山田君が、広島のカキを持つて現れ、そのうちに高橋たか子さんが見える。生田耕作氏が見ていつたといふ春画集を開いたり、「唄入り神化論」を唄つたりしてゐるうちに酩酊。今朝、十二時近くに家からの電話で起されて、現代思潮社の川仁、荒川君とタルホ著作集のリスト・アップの件を思ひ出し、急いで帰宅。萩原幸子さんが大久保から初めて見えて、川仁君と一緒に「作家」などの資料を取りに行つてくれる。夕方、皆帰る。
■裕子が北海道から土産にしてきた蟹を食ひ過ぎて、寝ながら、ミッシェル・フーコーの「世界の散文」を読む。(加藤日記、一九八ページ)

* 澁澤龍彦の随想〈吉岡実の断章〉(初出は《ユリイカ》1973年9月号〔特集=吉岡実〕)に見える三鬼句をめぐるやりとりはこのときのもの。加藤郁乎〈一字の師、大度の友〉(《ユリイカ》1975年9月号〔特集=澁澤龍彦 ユートピアの精神〕)の一節に「俳句の話といえば、それ〔昭和四十一年〕から二年後の正月の終る時分、吉岡実を誘って遊びに行ったところ、主人は断乎として三鬼居士の「水枕」の句を認めようとしない。ガバリ≠ェいかんと頑張り通し。やたらと腐った三鬼ファンの吉岡実と私だったけれど、『僧侶』の詩人が拳玉の名人芸を披露するに及んで、それまでは東京山の手方面の代表みたい振舞っていた拳玉のチャンピオンは、みるみるうちに自信喪失のてい。「大塚」方式の田村隆一流〔ナシ→のでん〕で比較検討を試みれば、これは、本所で育って鍛えに鍛えた吉岡実少年の「下町」型と、澁澤龍彦や私どもが意気がっていた「山の手」型との文化の差というものだろう。」(同誌、一六一ページ)とある。

――1968(昭和43年)1月28日 加藤郁乎に誘われて北鎌倉の澁澤龍彦を訪問。ベーゴマを語り、ケン玉を披露する。西東三鬼の「水枕」の句を論い、深夜の酒宴で澁澤が郁乎の〈唄入り神化論〉を歌う。

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〔1968(昭和43年)〕二月十八日【日曜】
■昨夜、安井浩司君の句集の出版記念会、出版クラブ。吉岡実、高柳重信たちと喋る。吉岡、吉本忠之を誘つてノア・ノアで飲む。吉本君を喜久井町に泊める。
■ひる前に、盲腸で入院中の前田希代志君を新宿病院に見舞ふ。

■バタイユの「有罪者」を読む。
■昨日、福田陸太郎氏が「ホイットマン詩集」(三笠版)をとどけて下さる。(加藤日記、二〇一ページ)

* 安井浩司の句集は《赤内樂》(琴座俳句會、1967年5月30日)か。

――1968(昭和43年)2月17日 安井浩司の句集《赤内樂》の出版記念会(出版クラブにて)に出席。

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〔1968(昭和43年)〕三月三日【日曜】
■笠井叡君と高橋久子君の結婚式にゆく。赤坂プリンス・ホテル、正午。土方巽、吉岡実、澁澤夫妻、森谷均、常住郷太郎と逢ふ。なんとなくマイクの前で喋らされる。久子君に、昨夜は眠れたかいと聞いたらあのはれぼつたい眼をうるませたり輝かせたりした。仲人の大野一雄さんと、魔女のはなしを夢中でする。ボマルツオの写真展を二コン・サロンに見にゆく。三愛ビルに登つたり、ライオンでビールを飲んだり、青山一丁目のグリルで飲んだりする。目黒駅前の飲屋についた頃は十二時頃、土方、澁澤夫妻、森谷均、野中ユリ、高井富子だけ。澁澤氏に鎌倉に誘はれて、タクシーに乗つて、サーツと出かける。途中どつかでビールとコーラを買つて飲んだ。北鎌倉は雪。女を肴に飲む。秘案を喋ることのできるのは、澁澤龍彦と矢川澄子だけだ。(六日記)(加藤日記、二〇二ページ)
 〈日記〉 一九六八年三月三日
 桃の節句。笠井叡・高橋久子の結婚抜露宴が行われる、赤坂プリンスホテルへ行く。媒妁は大野一雄夫妻だった。麗かな昼下り、ゴールデンルームで祝宴はじまる。乾杯の音頭を指名されて、いささか慌てた。闊達な久子さんが花束を、笠井未亡人に渡すとき、泪を見せたのが印象的だった。銀座へ出てライオンで二次会。夕刻から大雅で三次会となる。森谷均、土方巽、澁澤龍彦、加藤郁乎、高井富子たちとフグを食べ酒をのむ。叡・久子の新しい内裏びなを肴にしながら。(〈5 雛まつり〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、一二〜一三ページ)

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〔1968(昭和43年)〕三月二十日【水曜〔春分の日〕】
■昨日の午後、銀座をぶらぶらしてから、ピカデリーで「パリのめぐり逢ひ」を見る。キャンディス・バーゲンといふ女優が大変きれい、通俗に流れ放しのおもしろさに、久方ぶりに酔つた。知つてる女に見せたい欲望しきり。夕方からの土方巽と細江英公の写真展とオープニングのため、ニコン・サロンにゆく。驚くべき土と人間の出逢ひの写真展だ。細江、土方と打合せ、司会を三木淳氏と私とでと頼まれる。五時半に開会、写真家の方は三木さんに頼んで、こちらは澁澤龍彦、大野一雄、瀧口修造、合田成男の諸氏に喋つてもらふ。終つてスキヤ橋の河豚料理「大雅」で飲む。笠井君がハネ・ムーンで痔を起したさうで、同病相あわれむわけでもないが、肛門や女の穴などのはなし。新宿に出て、なんとか寿司で飲む。澁澤、土方、中西夏之と目黒に出てスナックで喋る。ここで澁澤龍彦からはじめて澄子さんとの離婚のはなしを聞く。五時近くまで喋つたが、いい知恵も浮かばず、帰る。

■今日から立方を引き取ることとなり、四時頃、洗足の父母がつれてきてくれる。騒いでゐたと思つたら、眠つてしまつてゐる。土方巽から電話で澁澤龍彦の件を云つてくるが、もう少し時間が経つてからの方がいいんぢやないだらうかと返辞する。
■大島渚のシナリオ集「絞死刑」を妹さんがとどけてくれる。(加藤日記、二〇三〜二〇四ページ)
 〈日記〉 一九六八年三月十九日
 夕暮。銀座のニコンサロンへ行く。細江英公が三年ほどかけて、撮った土方巽の映像展である。すっかり「顔」まで変容させる舞踏家の肉体表現術に感嘆す。地下にある八千代という店で祝宴。細江英公と初めて会う。瀧口修造、澁澤夫妻、三好豊一郎、高橋睦郎、松山俊太郎諸氏と会う。そして二次会は数寄屋橋の大雅で、ふぐちり、ひれ酒でしばし歓談。種村季弘と初めて会う。十時閉店で千円の割かん。矢川澄子ら女性たちは帰った。三次会は新宿のむらさき寿司へと河岸をかえる。三階の座敷でやっとくつろぐ。中西夏之や池田龍雄と土方巽は絵画論をはじめる。その痛烈な批判に対し、池田龍雄は沈黙したが中西夏之は反発し、だいぶ怒ったようだった。疲れたので、十二時過ぎ笠井夫妻と帰った。
                      ★展覧会のタイトルは「とてつもなく悲劇的な喜劇」。(〈6 「鎌鼬」写真展〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、一三〜一四ページ)

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〔1968(昭和43年)〕五月二十四日【金曜】
■朝からソーメンばかり食べてゐる。
■骨が痛いと頭がしびれるといふ感じを知つたりする。
■三田新聞の「タルホートピア」(十枚)を書く。

■「ユニコーン」の創刊号を読む。予想以上の出来映えに満足、エッセーに較べて作品があまり冴えてゐない。
■立方が保育所で左の頬をひつ掻かれてくる。裕子が父子して斬られの与三だと笑ふ。
吉岡実氏と電話、ユニコンの乱を話したら、イクヤ的でいいネと喜んでくれる。苦笑。(加藤日記、二一二〜二一三ページ)

――1968(昭和43年)5月24日 電話で加藤郁乎から〈ユニコンの乱〉の顛末を聞き、イクヤ的でいいネと喜ぶ。5月22日の〈ユニコンの乱〉は、種村季弘《怪物のユートピア》出版記念会の二次会会場、新宿のユニコンで唐十郎と足立正生が演じた1960年代の伝説的な立ち回り。間に入った郁乎は肋骨を折っている。

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〔1968(昭和43年)〕九月二日【月曜】
■三十一日の夜、笠井叡の舞踏公演「稚児之草子」にゆく。厚生年金小ホール。楽屋に行つたら全裸で、からだ中におしろいを塗つてゐるところ、陰茎も真白にして、いい顔をしてゐる。すばらしく綺麗な眼をして踊つてゐたが、なかでも、オルガンの上で全裸になつて自分の肉体と戦ひ、愛撫し、崩れてゆく踊りは、肉の彫刻の悦楽。終つてから矢川澄子と久方ぶりに雨のなかを、二次会場まで喋りながら歩く。澁澤龍彦を、いま、初めて魂で物を云ふごとくに愛してゐるのだと云ふ。なんとか寿司の二階で、京都から帰つたばかりといふ澁澤龍彦と喋る。生田耕作と稲垣足穂を訪ねたら、タルホさんが私のことを色魔だと云つてたと笑ふ。土方、加納夫妻、池田夫妻たちとユニコンにゆき、種村季弘や瀧口修造氏と喋る。名古屋からきた馬場駿吉君や、いつの間にか現れた松山俊太郎と飲む。松山と二人だけになつて、土方巽に誘はれて目黒にゆき、ナポレオンをがぶがぶ飲む。
■気がついたら昼頃で、芦川嬢がつくつてくれたオカヅで飲む。そのうちに夕方。なんとなく池田満寿夫に逢ひたくなつて電話をしたらO・K。土方、松山、芦川の面々を誘つて代々木の村田マンションに出かける。途中まで迎へにきてくれた池田に連れられて二階の部屋にゆき、二人の客たちと一緒にリーランの料理で飲む。ビエンナーレに出品するといふ版画や便所や風呂を見て廻る。さよならしたのが十時頃、それからノア・ノアに行つて飲んだり踊つたり。松山を踊りに誘つたら、そんな羞かしき行為をするくらゐなら死んだ方がましだ、ときた。暁の新宿を土方に車で送つてもらつて帰る。
■ひる過ぎに起きて、土方巽の舞踏記念の本のための詩を考へる。舞踏と詩は、酒と女の関係だ。のめり込んで自分をとことん駄目にしなければ掴めない。猫撫での美意識なんか、思つただけでヘドが出る。お茶や紅茶の補給で卍的な世界を考へる。(加藤日記、二二〇〜二二一ページ)
 〈日記〉 一九六八年八月三十一日
 笠井叡の舞踏の夕べ。「稚児之草子」を観に陽子と新宿の厚生年金ホールへ行く。甘美な予兆。舞台から突き出された処から、横たわっていた笠井叡が起きあがり歩み出す。天井から吊られた巨大な虎の絵、それは四つか五つに分れている。その下で、美しい着物と朱の長襦袢をまとっていた稚児がひと踊りして、ぱっと脱ぎすて、白塗りの全裸となり、黒く輝くピアノの上に乗る。人間とは思えない妖しい官能性! まさしく稚児の未完の肉体の清らけく……。
 八時近く終り、いつものむらさき寿司の三階の座敷で小宴となる。澁澤龍彦、加藤郁乎、高橋睦郎、矢川澄子、池田満寿夫・リラン。めずらしく、富岡多恵子も見えた。その席に思潮社から、詩集『静かな家』の見本が届く。十一時すぎ、飯島耕一と帰った。(〈10 虎の絵の下で〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、二一ページ)

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〔1968(昭和43年)〕十月二日【火曜】
■〔……〕
■夕方、家に帰つて二時間ほど眠つてから、吉岡実から貰つた「静かな家」を読む。
■澁澤龍彦がビアズリーの「美神の館」を送つてくれる。(加藤日記、二二四ページ)

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〔1968(昭和43年)〕十月十一日【金曜】〔10月10日は体育の日〕
■昨夜、土方巽の舞踏公演会にゆく。日本青年館。久しぶりに彼の華麗なる踊りを満喫した。図抜けて魅惑的なテクニシャンだ。ダンスといふ名は彼の肉体の総称であり、暗黒といふ名は、それを明るくして見せる別名であるやうな二時間。
■池田満寿夫と二階正面で見てゐたが、終つてからやられたネと同時に笑つた。渋谷の大松といふ寿司屋で飲む。彫刻家の飯田善國氏と喋る。ベルリンで役者をしてゐた話や、ゾンネンシュタインの様子などを聞く。野田弘志氏に亀山巖氏から頼まれてゐるバイロスの画集を頼む。新宿のパニックに行つて、矢川澄子、野中ユリ、高井富子たちと踊る。歌舞伎町のジャズ・バーにゆき飲む。土方巽たちと別れ、牛窪、馬場駿吉たちと二、三軒歩いて帰る。ビアスの「幽霊」の書評を書いて寝る。(加藤日記、二二四ページ)
 〈日記〉 一九六八年十月十日
 〈季刊芸術〉七号届く。「神秘的な時代の詩」掲載。夕方、陽子と神宮外苑の日本青年館へ「土方巽と日本人――肉体の叛乱」を観に行く。入り口の脇には夥しく花が飾られている。その前に繋がれた白い馬が霧雨のなかに立っていた。受付で土方夫人を呼び出し、入場料を払う。これが初対面だ。グリルで、陽子のいとこ田村紀男・朋子兄妹と、お茶をのみながら開場を待つ。そこで加藤郁乎と会った。何が始まるのだろうか、この空間では……。全裸の土方巽が金色の擬似男根を勃起させて、吊り下げられた数枚の大きな真鍮板の間を、踊り狂う。血のアクシデントを予感し、観客は興奮するばかりだ。そしてラストは、手足をロープで吊り上げられ、さながら息も絶えだえに、キリストの如く昇天する……。終演後、関係の人々と、大松寿司で祝宴となる。十一時過ぎ、飯島耕一と抜け出して帰った。(〈12 「肉体の叛乱」〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、二四ページ)

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〔1968(昭和43年)〕十一月五日【火曜】
■昨夕、南画廊にゆき、瀧口修造氏と逢つて、デュシャンの画集展の説明を聞く。デュシャンが瀧口氏に贈つたといふ「ローズ・セラヴィ」の看板や、彼の死を伝へる夫人の電報などを見て廻る。東野芳明と逢つてウィスキーを飲む。瀧口さんとバスで松屋前までゆき、文春画廊の西脇順三郎展のオープニングを見る。西脇さんの絵は驚くほど上手だ、画家を志望しただけのことはあると池田満寿夫と喋る。色の使ひ方が鮮明で不調和の調和を作つてゐたりして、とに角楽しい。
■西脇さんに「画家になられたらよかつたですね」と云つたら「本当にさうですね」と笑はれる。土方巽、池田夫妻、吉岡実、飯島耕一、大岡信たちとスキヤ橋のフグ屋大雅≠ノ行つて飲む。新宿のユニコン、パニックと歩き、途中のどこかで逢つた矢牧一宏と朝まで飲み歩く。(加藤日記、二二六ページ)
 〈日記〉 一九六八年十一月四日
 サントリーロイヤル一本を持って、文藝春秋画廊の西脇順三郎画展に行く。油彩、水彩、墨絵、エッチング、色紙を展示。なかでも油絵は美しい。先生は客にかこまれて、ごきげんがよろしい。おつきあいが広く、多種多様な顔ぶれで、会場はいっぱいだった。久しぶりで高橋新吉、村野四郎、安東次男諸氏と会う。遅れて現われた土方巽を、大岡信とひきあわせる。例のごとく大雅で酒となった。土方巽は朱の麻の葉模様のチャンチャンコ姿をしている。飯島耕一も大岡信も舞踏家と大いに飲んだり、喋ったり。(〈13 詩人の絵画展〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、二六ページ)

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〔1968(昭和43年)〕十一月二十三日【土曜〔勤労感謝の日〕】
■夕方、土方巽のホールにゆく。彼の舞踏記念の詩画集「あんま」の署名をするため、画家六名、詩人六名が集まる。澁澤、吉岡、飯島、唐十郎たちと飲む。そのうちに池田満寿夫とリラン、矢牧一宏、松山俊太郎たちがやってきて、軍歌が出始める。リランとアメリカやスペインの詩を、危い英語と日本語で喋る。男と女なんて、何とか通じるものだ。警官が来たといふのは全く知らなかつたが、午前四時近くに、隣りの住人といふ女が、うるさくて眠れないと抗議に来たので、なだめて返した。瀧口修造氏が帰つたが、他の連中は一向に帰らうとしない。(二十五日記)(加藤日記、二二七〜二二八ページ)

〔1968(昭和43年)〕十一月二十四日【日曜】
■眠る連中のなかで、矢牧一宏とふたりだけが寝ずに飲んで喋つてゐたことになる。
■朝だ。女の子が味噌汁を作ってくれたので机を並べて酒と一緒につづける。顔ぶれをざつと見廻すと、土方、澁澤、吉岡、種村季弘、矢牧、松山、高井富子の面々。
■そのうちに夕方になり、飯島耕一が現れ、内藤三津子、篠原佳尾、石井満隆が来てゐる。澁澤龍彦の音頭で「唄入り神化論」を合唱し、女たちと踊ったまでは覚えてゐるが、あとはわからず。(二十五日記)(加藤日記、二二八ページ)
 〈日記〉 一九六八年十一月二十三日・二十四日
 午後遅く、目黒駅で待てど、ついに飯島耕一は来ない。地図を頼りに油面のアスベスト館をたずねる。すでに、瀧口修造、澁澤龍彦、加藤郁乎、三好豊一郎のめんめんは、署名に没頭しているようだ。また画家たちのうち、中西夏之、加納光於、池田満寿夫、野中ユリ、田中一光、三木富雄、中村宏などは、制作に余念がないように見うけられた。頃合いで休憩し、酒となる。弟子たちばかりか、土方巽や夫人も手伝って、料理をはこんだりしている。そこには唐十郎のほか、李礼仙、リラン、矢川澄子と女性群が花をそえるのだった。卓子の上には、まぐろの刺身、さざえ、かに、寿司から寄せ鍋といった馳走の山だ。ビール、ウイスキー、酒と各自好きなものを飲むので、その賑やかなこと。夜になっての、作業再開がまた大変だった。分散してある作品を、元の位置に戻したり。詩人と画家の間を弟子たちがゆきかい、次々と仕上る絵と署名を汚さぬように、整理して行く。深夜になっても終らず、みんな疲労し、不機嫌になったり。いつの間にか、飯島耕一、種村季弘、松山俊太郎、矢牧一宏の顔が見える。二時も過ぎさすがに疲れたので板の間に寝た。だれかが布団をかけてくれたようだ。近所の人たちが怒鳴り込んで来たので、眼をさます、暁の四時だった。どうやら『あんま』はすべて完成した。半数ぐらいの人は帰って行った。そして残った者はくつろぎ、十八番[おはこ]の小学唱歌、軍歌、放言、飲食が続いた。正午近く、大きく重い『あんま』一冊を抱えて帰る。(〈15 詩画集『あんま』〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、二八〜二九ページ)

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〔1969(昭和44年)〕五月二十六日【月曜】
■こんどの旗の台の家から目蒲線の洗足駅まで約五分、洗足駅から市ヶ谷駅まで三十五分位だつた。
■市ヶ谷田町の思潮社を訪ねる。川西氏とこんど出す詩集についての打合せ、八木氏と現代詩の夕べについての話など。ビールを飲みながら小田久郎氏とセリ・ポエテイックの話など。七時ちよつと前に信濃町の料亭「光亭」にゆく。七月に三越で開かれる永田耕衣氏の書画展の相談で、壹番館画廊の海上氏によばれる。吉岡実、高柳重信、岡田宗叡氏が一緒でシャブシャブを食べながら発起人の話などする。吉岡、高柳氏を誘つて新宿に出て、ユニコン、カプリコン、ナジャと歩き、代々木上原の高柳宅で一杯やつて洗足の家に帰る。(加藤日記、二四四ページ)
五月二十六日 夜、信濃町の光亭で、郁乎、重信、それと初対面の海上雅臣、岡田宗叡氏と会う。七月に三越で展かれる永田耕衣展の打合せ。すいせん文、すいせん者の依頼の分担、案内状の発送などについて。九時一応了る。料亭の部屋を飾る、志功の屏風、掛軸の肉筆がすばらしい。郁乎、重信と新宿のユニコン。それからカプリコンで酒とピザパイ。ローソクの灯の中で。最後はナジャへゆく。オネエ言葉のバーテンたち。一時半、タクシーで郁乎、重信を代々木〔上〕原でおろし、松見坂へ戻る。(〈日記抄――耕衣展に関する七章〉、《琴座》235号(1969年11月)、五ページ)

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〔1969(昭和44年)〕八月四日【月曜】
■台風が接近してゐるとかで、にわか雨がしきり。
■代々木シャトーといふところに、都市出版社の開業祝ひのオープニングにゆく。このあたりはマンションだらけで夜では見当がつけにくく、汗をかいて歩き探した。田村隆一、矢牧一宏、吉岡実、松山俊太郎たちと飲む。高田博厚氏が君たちはこれからが大変だ、佐藤春夫までは詩は楽だつた、といふのが妙にこたへる。
■フランソワ・フォスカの「文学者と美術批評」を読むが、専門的すぎて、実につまらん本。(加藤日記、二五〇ページ)

――1969(昭和44年)8月4日 矢牧一宏が設立した都市出版社のオープニングパーティー(代々木シャトーにて)に出席。

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〔1969(昭和44年)〕九月二十五日【木曜】
■昨夕、雨の赤坂で松山俊太郎と待合せて、土方巽のショーを見にスペース・カプセルにゆく。せまいフロアーで窮屈さうに女三人、男二人の踊り手が踊つてゐたが、芦川洋子ともう一人の女によるレスビアン・ラヴの場面はせまい空間を効果的に使つてゐた。澁澤龍彦と龍子さん、吉岡実、種村季弘、三好豊一郎、内藤三津子と喋る。三島由紀夫氏がやつてきたが、見れば見るほどこのひとは野卑で体裁屋であることがわかる。健康すぎることもこの美文調で煩雑好みの作家をつまらなくしてゐるやうだが、ストイックな文学趣味を拡散しようとしてわざとらしく卑俗的に振舞つてゐるのは気の毒なくらゐの努力ぶりだ。土方巽に誘はれて目黒の彼の家にゆき、待つてゐた池田満寿夫とリランと飲む。朝方、洗足の家に澁澤、龍子さん、松山、種村、内藤、土井典子さんを誘つて白鷹をあけて飲む。みんなが帰つたのを知らず夕方起きて風来山人の「風流志道軒伝」を読む。(加藤日記、二五三ページ)
 一九六九年の九月二十四日は、私にとって忘れられない日になるかも知れない。雨の夕方だった。西脇順三郎、鍵谷幸信そして会田綱雄の三氏と須田町近くの牡丹へ行った。久しぶりで食べたシャモ料理だったが、私にはうまいとは思えなかった。おそらくからだの不調のせいだったろうか。寒い日で、赤々とした熾火の色と古風な座敷の雰囲気に、私はいくぶんか心がやすらいだ。かえりの薄暗い玄関に立つと、シャモの羽毛が幽かに漂っている。そして並べられた靴や雨傘にも羽毛が付着していた。私たちは雨の激しくなった外へ出た。
 淡路町の地下鉄入口前で三人と別れ、私は赤坂のスペースカプセルへ向った。土方巽と弟子たちの舞踏が見られるはずだ。まだ七時という時刻なのにこの界隈は真暗い小路と坂。一度だけ白石かずこの朗読を聞きにきたきりなので迷った。狭い地下へ入ると、天井全体が金属製の球体で蔽われ室内は冷たい光のなかにあった。二組ほどの男女の客と加藤郁乎が一人片隅で酒を飲んでいた。
 わたしたちの外に誰が呼ばれているのか、二人にもよくわからないので、妙に落着かないひとときだった。ショーが始まる少し前ごろから、客も来はじめる。三好豊一郎、松山俊太郎、種村季弘たちがきた。そして澁澤龍彦と恋人らしい女性が現われた。
 ろうそくの炎や鞭らしきものの影。芦川羊子を中心に女三人、男三人の黒ミサ風な奇異な踊りだ。しかしそれは、土方巽が少数の人間に顕示する暗黒的秘儀にくらべれば、ショー的でエロチックなダンスだ。畳ぐらいの大きさの真鍮板を自在に使って、激しい律動と音響のリズムにのって女の裸像を囲みこんだりするシーンはおもしろかった。柔かい肌と巨大な刃とも云える真鍮板の交錯は、観ている者を絶えずはらはらさせる。ああ肉体の硬さかな! 酒席の客はいささか興奮させられたことだろう。
 やがて終ると、土方巽がわたしたちの席へきた。さすがに疲れたので、私は早目に帰ろうとした時、一種のどよめきに似た雰囲気がつくられたようだ。三島由紀夫が一人の青年をつれて入ってきた。彼は旧知の澁澤龍彦や土方巽の席へ着いた。
 かねてから、三島由紀夫が私の詩をひそかに読んでいるということを、高橋睦郎から聞いていたので、いつの日か彼と会いたいものだと思っていた。この偶然は逃すべきでないと、私は帰ることをやめ自分の席へ戻り、三島由紀夫と初めて挨拶をかわした。酒と音楽のなかで、残念ながら親しく話合う情況ではなく、坐った位置も少しく遠かった。私は彼の闊達な表情を見ていた。二回日のショーが終ったのは十一時だろうか。三島由紀夫は礼をのべて去った。これがおたがいの最初で最後の出会いであった。
 その夜、目黒八雲町の移転したばかりの土方巽の家へ若い連中と私は来てしまった。また酒宴がはじまる。あとから中西夏之や池田満寿夫も加わったように思う。土方夫人とガラちゃんは寝にゆき、若い女性が料理や酒をはこんできた。土方巽が不在なのに皆が気付いた時、彼は映画の仕事で京都へ向っていたらしい。私は急に疲れを覚え、主人の書斎へ入って寝てしまった。
 暁の五時ごろ、若い連中の囁き交す声が聞えたと思うと突然、引潮のように去ってしまった。彼らの習性なのだろうか、その消え方の見事さに私は驚いた。同時に独りとりのこされて狼狽し、他人の家に寝ている悲哀を、明るい窓の光に悟った。この家はもとツレコミ旅館であったらしく部屋が入りくんでいて、夫人や手伝いの人の部屋を探してもわからないのだ。私は二階へ戻った。
 書斎の次の部屋をのぞくと、あたかも芝居の書割のように一段高い所に、奇妙な座敷があるのだ。そこには、ぴかぴかの禿頭的な人頭の男が眠っていた。それはわが《囚人》の三好豊一郎ではないか。私はやっと救われた思いになる。そこで余裕の出た私はまじまじと或は遠のいて見るのだ。まるでルネ・マグリットの絵の中の人物のように、愛すべき男がしっかりと固定されているようだ。(〈20 スペースカプセルの夕べ――奇妙な日のこと〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、三四〜三七ページ)

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〔1971(昭和46年)〕六月二十四日【木曜】
■昨日、山村昌明の個展を見にゆく。新橋の番町画廊。山村君と少し喋る。
■イスラエル大使館に野田哲也君とドリット嬢の結婚式にゆく。池田満寿夫、リラン、野田弘志、東野芳明と飲む。新郎の野田君をプールに落としてから、池田、東野と投げ込まれる。フンドシ一丁になつてこちらから飛び込んでやる。こじらせた風邪で鼻がつまつてゐて泳げない。
■神保町で皆が待つてゐるといふ電話が内藤三津子さんからかかり、出かけてゆく。種村、松山、中田耕治氏と飲む。内藤さんたちとナジャにゆき堀内誠一氏とこんどの詩集「ニルヴァギナ」の装幀の相談。池田満寿夫、リランと逢ひ、誘はれて蛇崩の家にゆく。画家の川島猛氏と一緒。リランとロックを踊つて飲んで泊る。
■朝、十時頃起きてビール。なんとなく、昼でモリソバをごちさうになる。台湾の陳さんといふ人が来たり、吉岡実が来たりする。リランと踊る。夜になる。十時頃、吉岡実と一緒にサヨナラ。彼を誘つて新宿にゆき、「おかだ」で飲む。水野進子君たち女性三人に逢つて、どこだか知らないスナツクに連れて行かれる。吉岡はもうゐない。進子君を誘つて、「柚の木」にゆく。「ナジャ」にゆき、誰や彼やと飲む。朝方、矢牧一宏と喧嘩の直し酒を飲んで別れる。(加藤日記、二八九〜二九〇ページ)

* 加藤郁乎交遊録《後方見聞録〔学研M文庫〕》(学習研究社、2001年10月19日)の〈池田満寿夫の巻〉に「蛇崩の池田満寿夫のアトリエで、リラン、吉岡實らと。(昭和46年6月)」というキャプションのついた写真が掲載されている(同書、六五ページ)。

――1971(昭和46年)6月24日 目黒区上目黒・蛇崩の池田満寿夫・リランの家に行く。加藤郁乎と辞して新宿の「おかだ」で飲む。

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〔1971(昭和46年)〕八月十七日【火曜】
■昨夜、井上有一書画展にゆく。銀座一番館画廊。西脇先生、吉岡実、鍵谷幸信と逢ふ。井上氏に海上雅臣から紹介され、「花」だけの一字にしぼつた理由などを聞く。海上雅臣に招かれて、近くのバーにゆく。昨日の午後、出来立ての「球體感覺」を西岡君が持ってきてくれたのを披露。吉岡実が、戦後初めての見事な和綴本とほめてくれる。海上氏に招かれて青山の「バッタ」にゆき、飲む、西脇先生をお送りし、鍵谷幸信と下北沢の芝山幹郎の家にゆく。ジンを飲み四時頃、鍵谷が帰ったのを見届けて、ひっくり返る。昼頃、起きてけい子夫人に酒を買ってきて貰ふ。西岡君を呼ぶ。ビールと共に現れたので「球體感覺」の祝ひ酒。思潮社に芝山、西岡君を伴ひ、三万円借りる。新宿の「おかだ」で思潮社の北沢氏と思潮社の在り方について喋る。芝山、西岡君に抱きかゝへられて洗足の里に帰還。(加藤日記、二九一ページ)

――1971(昭和46年)8月16日 銀座壹番館画廊の井上有一書画展に行く。できたばかりの加藤郁乎句集《球體感覺〔限定版〕》(冥草舎)を「戦後初めての見事な和綴本」とほめる。

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〔1971(昭和46年)〕十一月二十七日【土曜】
■「荒れるや」「遊牧空間」「牧歌メロン」「ニルヴァギナ」「球體感覺」「加藤郁乎詩集」の出版記念会。新宿花園神社に「かに谷」が出張。午後二時頃、司会役を引き受けてくれた鍵谷幸信が洗足に来てくれて打合せ。五時頃、花園神社着。名古屋から亀山巖、志摩聰、群馬から塩原風史の顔が見える。瀧口修造氏が乾杯の音頭をとってくれる。百人位だといふ話、忽ち酩酊。
■二次会は「ユニコン」。白石かずことテーブルの上で踊ってゐて転落。西脇順三郎氏が他の会を済ませてから来てくれる。「ナジャ」に行った頃はかなり酩酊。朝六時頃、伊藤陸郎君に送られて洗足に帰る。(二十八日記)(加藤日記、二九五ページ)
吉岡実と澁澤龍彦(2007年5月31日)の〔2019年12月31日追記〕および本稿末尾に掲載の集合写真を参照のこと】

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〔1973(昭和48年)〕九月十五日【土曜〔敬老の日〕】
■「詩篇」の詩を書いてゐるうちに、硝子窓の外が明るくなった。時計を見ると、五時ちよつと過ぎ、ベッドに横たはるが、ユーラシアのステップや雲の行列などが、頭のなかにちらついて、しばらく眠れず。
■十二時少し前に起きる。裕子とカレーの昼食。五時近くまで、詩を練る。
■ハイボールを飲んで、渋谷のパルコに出かける。
■九階の西武劇場で土方巽の「燔犠大踏鑑」を見る。楽屋で白塗りの土方巽と久しぶりに逢ふ。三時間からの大作、舞台のひろがり、そんなものを煮つめて気化してしまった風な、この舞踏家の力に改めて舌を巻く。となりに坐った林立人氏に誘はれて、新宿の「モッさん」に飲みにゆく。旗の台まで送ってくれた林氏を、家に誘って三時半頃まで喋る。「えくとぷらすま」と「終末領」が出てきたので、差し上げる。(加藤日記、三三二ページ)
 〈日記〉 一九七三年九月二日
 〔……〕/同月十五日・午後一時ごろ、パルコのウエアハウスで陽子とコーヒーをのみ、〔西武パルコ〕劇場へ行き、「静かな家」後篇を観る。三時間近く、緊張をしいられる舞台だった。――あらゆる芸術家にはかつての自己の作品を、引用し、変形し、増殖してゆくという、営為がある。この作品にもそれがあるように思われた。めずらしく、誰とも会わず、受付の土方夫人に挨拶して帰る。(〈40 「静かな家」〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、七一〜七二ページ)

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〔1973(昭和48年)〕十月二十七日【土曜】
■四谷シモン人形展に夕方、出かける。銀座青木画廊。画廊の近くで、歩いて来た松山俊太郎と久方ぶりに出逢ふ。十二点の人形のすべてが、一つの子宮から出て来たみたいで楽しくなる。向かいの店でパーティー。岐阜から出て来た志摩聰が訪ねて来る。瀧口修造氏と喋る。瀧口氏、四谷シモン、金井姉妹たちと隣りの寿司屋で飲み、地下鉄で新宿に出て、朝鮮料理屋で腹ごしらへ。「ナジャ」で澁澤龍彦と久方ぶりに飲む。
■夜明けの雨に濡れて帰る。(加藤日記、三三五ページ)

* この日は四谷シモン人形展〈未来と過去のイヴ〉のオープニング。吉岡が「本気で真面目に今のところ、おれは澁澤氏を一番気に入っているからね」と言い、それを聞いた澁澤が「今のところ、かあ」と大笑いしたという金井美恵子が伝えるエピソード(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984、二二四ページ)は、このときのことか。

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〔1974(昭和49年)〕一月二十七日【日曜】
■朝七時三十分発の新幹線で西明石駅に向ふ。永田耕衣全句集「非佛」の出版記念会。西明石駅で偶然にも広島からの高山雍子さんに出会ふ。一緒に舞子駅に出て、車で「舞子ビラ」まで行く。耕衣老と逢ひ、「耕衣ノート」への御礼を無理に受け取らされる。二時頃開会、頼まれた吉岡実と鷲巣繁男の紹介司会をする。永田耕衣の禅機的な世界を祝ふにふさはしく、窓の向ふの海のうねりが、たまらなく面白く眺められた。
■久方ぶりに島津亮と一階のバーで喋る。二次会に出て、鈴木六林男、多田智満子たちと喋る。四階の部屋で若いひとたちと飲む。若いひとたちと神戸に車を飛ばして、何とかいふ店で河豚を食べる。四時頃、舞子ビラに帰つて寝る。(二十九日記)(加藤日記、三三九ページ)

* 吉岡は永田耕衣全句集《非佛》(冥草舎、1973年6月15日)の〈田荷軒周囲〉という栞に随想〈〈鯰佛〉と〈白桃女神像〉〉を寄せている。

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〔1974(昭和49年)〕一月二十八日【月曜】
■朝十時頃、冥草舎の西岡君に起こされる。沸かしてくれた風呂にはゐつて、ぼんやり昨夜のことを思ひ出す。ロビーで高柳重信、金子晋に別れを告げて、西岡君と須磨の耕衣氏を訪ねる。先客に吉岡実、昔の俳句などを喋り、ウヰスキーや、山かけウドンを御馳走になる。これが滅法にうまかつた。雪のちらつく、ひるすぎ、山陽線の須磨駅で待合せた板倉夫妻と逢ひ、桃山の稲垣足穂を訪ねる。一本下げて行つたが、夫人の話によれば、一昨日から飲みはじめ、例によつて重態[、、]。だが、寝床から呼ぶ声がして、隣りの部屋に行くと、片眼を酒で膨らした足穂入道がにゆーつと手を出す。葉巻をすすめてくれながら、謡曲のひとさはりを歌つてくれたりする。乗物の時間だと知らされ、五時ちよつと前にさよなら。板倉夫妻に、またまた京都駅まで送つて貰ひ、新幹線に乗る。帰宅してから、食べた味噌汁のうまさ、裕子に無言の感謝、彼女の腰を抱いて寝る。(二十九日記)(加藤日記、三三九〜三四〇ページ)

――1974(昭和49年)〕1月28日 須磨に永田耕衣を訪ねる。あとから加藤郁乎、冥草舎の西岡武良も来る。

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〔1974(昭和49年)〕四月十一日【木曜】
■交通ゼネストでタクシーも拾へまいと思ったが出かける。浅草の伝法院。西脇順三郎先生が描かれたといふ「龍虎」と「富士山」の絵の開眼の小会。幸ひにも中原街道に出た途端に親切な車がみつかる。
■墨汁で描かれたと笑はれる西脇先生にコツプ酒で祝杯を上げる。隣りの海上雅臣と、猫みたいな虎だね、などと苦笑。がらんとした浅草の町に出て、「スエヒロ」でスキ焼を食べながら、金田弘、諏訪優、吉増剛造君たちと喋る。なんとかいふ通りの店で飲む。海上、鍵谷を誘つて赤坂に行き、「ジョイ」を探し当てたものの、ストで休み。別れて帰る。(加藤日記、三四五ページ)
 昨年の春四月のことだった。その日は私たちが待ちに待っていた日だ。西脇先生の描いた「龍の図」と「虎の図」とが、まさに天台宗金龍山浅草寺の総本坊伝法院の書院の間で対面し、私たち親しい者に披露されることになっていた。「龍の図」はすでに三年前に完成していた。私と会田綱雄は先生のお宅で、妖気あふれる馬みたいな、龍の姿を拝見して、なんといったらよいのやら内心当惑したものだった。もう一つの富嶽図は、凡百の富士の絵を睥睨する玲瓏たる名作だ。この方がずっとよいわねと奥様は微笑された。
 しかし残念なことに、当日はゼネストでとても浅草まで行けないだろうと、私はあきらめていた。そして気晴しに、妻と駒場公園へ桜の花を見に行った。帰りみち環六(山手通り)に出ると、個人タクシーが走っているのを見つけて、富ヶ谷で妻と別れ、私は浅草へ向った。
 伝法院には、遠く岐阜の金田弘〔当時、金田は播磨に居住〕ら四、五人の先生のファンがきていた。先生は会田綱雄と共に諏訪優のくるまで無事着いている。加藤郁乎、海上雅臣、鍵谷幸信、山田耕一それに若い吉増剛造も来ていた。当然所有者の皆光茂もいたが、病気で酒ものまず静かにしていた。
 美しい庭に向って、「龍」「虎」二幅は天井から懸っていた。私は初めて「虎の図」を見上げた。「虎」はまるで、兎と猫のあいのこみたいに思われた。諧謔とはこのことだろう。集った者は酒を飲み、喋っていればよかったのだ。そのうえ恐るべきことに、「龍」と「虎」は、同じ方向へ顔をむけている。正しく対峙することは、永遠にないのだ。なんと超俗的であり、滑稽であり「西脇詩」の精神を象徴しているようで、一同大いに笑ったものである。
 先生は益々ごきげんうるわしく、和紙に筆を染めて、動物や文字を書かれた。めいめい気ままにそれを頂く。しかし、疲れの出た先生は、「古池や蛙とびこむ音がする」ばかりを書きはじめた。私はそれではものたらないので、龍の絵を所望したのはいいが、まるで鉛筆みたいな龍が出来上ってしまった。しかし考えようによれば、稀有なる龍といえるだろう。私のには珍しく年月が入っていた。これは大変貴重なことである。先生は当年八十歳になられていた。
 夕陽が庭を染めている。ここが浅草六区の歓楽街に囲まれた処とは思えないほど静寂だ。ひともとの可憐なしだれ桜の花の下で、先生を中心に記念写真を撮り、庭を隅から隅まで歩いた。私たちは伝法院から染付のある猪口を記念に一個ずつ頂き、岐阜の連中から貰ったそうめんと先生の作品を抱え、夜の灯に輝く街へ出た。困難な交通関係にもめげず集った者たちは、いよいよ別れがたく、二次会の場所を探し求めたのだった。(〈西脇順三郎アラベスク――5 伝法院の「龍虎図」〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二三二〜二三三ページ)

加藤郁乎交遊録《後方見聞録〔特装版〕》(南柯書局、1976年4月30日)の〈眼中のアルバム〉に掲載の写真「昭和49年4月、西脇順三郎氏の絵「富士山」「龍虎」開眼の集い、浅草伝法院」
加藤郁乎交遊録《後方見聞録〔特装版〕》(南柯書局、1976年4月30日)の〈眼中のアルバム〉に掲載の写真「昭和49年4月、西脇順三郎氏の絵「富士山」「龍虎」開眼の集い、浅草伝法院」(同書、〔一六二ページ〕)〔右から二人め吉岡実、三人おいて西脇順三郎、二人おいて加藤郁乎〕

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〔1974(昭和49年)〕九月二十六日【木曜】
■ひるすぎ、洗足駅前からバスで渋谷に出て、車を拾ってNHK放送センターにゆく。土方巽とラヂオで吉岡実の話の録音。ウヰスキーを飲みながら二時間くらゐ。詩を朗読させられる。
■近くのレストランで土方巽と芦川洋子と三人でビールを飲む。別れてから夕方、近くの代々木上原の高柳重信を訪ねて喋る。新宿に出て、「詩歌句」その他四、五軒ハシゴして朝方帰る。(加藤日記、三五八ページ)
 昭和四十九年 一九七四年 五十五歳
〔……〕晩秋、NHKラジオで「吉岡実の世界」が放送され、加藤郁乎、天沢退二郎、大岡信らが朗読してくれる。土方巽の教育勅語的発声が印象的。(〈〔吉岡実自筆〕年譜〉、《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984、二三四ページ)

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〔1974(昭和49年)〕十月十二日【土曜】
■九時頃起きると雨が降つてゐる。
■裕子と赤坂のホテル・ニュー・オータニに出かける。ロンドン製のネクタイ、紺のシャツ、有田焼の酒器などを買ひ、渋谷に地下鉄で出る。東横デパートで替ズボンと、丹前、茶羽織を買ふ。近頃は外出することが少いので、和服の方に眼がゆく。
■渋谷パンテオンといふ映画館で「スティング」を見る。滅法面白い。三十年代の衣裳を着たロバート・レツドフォードといふ役者がいゝ。勿論、ポール・ニューマンも粋に振舞ってゐた。東急会館の中華料理店で二時すぎに昼食。バスで帰宅。
■夜、NHKラヂオの第一放送で吉岡実の詩を読むだときのプログラムを聞く。自分が、こんな声なのか、といった疑問はいつもと同じ。他人の詩を読むのは初めてだが、二、三回、舌がもつれてゐた。(加藤日記、三六一ページ)
 〈日記〉 一九七四年十月十二日
 曇。夕刻、陽子と芳来で食事、ナポレオンでコーヒー。雨となる。夜九時、NHKラジオで「吉岡実の世界」を聴く。加藤郁乎、大岡信、天沢退二郎の朗読と金井美恵子のおしゃべり。なかでは、土方巽の教育勅語的な発声の「僧侶」朗読が傑作だと、陽子と笑ってしまう。自分は出演しないのに、友情出演してくれたみんなに、感謝!(〈45 教育勅語的朗読〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、筑摩書房、1987、七八ページ)
* 1974年10月12日(土)、午後9時5分から55分間、NHKラジオ第一放送《文芸劇場》の〈詩と詩人〉シリーズ第2回として〈吉岡実の世界〉が放送された。ゲストは土方巽・加藤郁乎(対談)ほか。対談中の写真が《後方見聞録〔学研M文庫〕》の〈土方巽の巻〉に「NHKラジオ第一での土方との対談。(昭和49年9月)」というキャプションとともに掲載されている(同書、三九ページ)。

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こうして加藤郁乎の日記に登場する吉岡実を見ると、1970年代初めの休筆の期間を挟んで、それ以前の土方巽が牽引した疾風怒濤の時代と、それ以降のおもに高柳重信や永田耕衣などの俳人との会で郁乎と顔を合わせる穏やかな時代に大別されるようだ。そのあたりの機微は、本稿冒頭でも触れた礒崎純一《龍彦親王航海記――澁澤龍彦伝》が次のようにまとめている。

 同月〔=一九七一年十一月〕二十七日、新宿にある花園神社会館で加藤郁乎の出版記念会が大々的に開かれ、澁澤は龍子とともに出席している。
 細江英公が撮影した、八十名にのぼる参加者が一堂に介した有名な写真が残っている。そこには、澁澤の一九六〇年代の交友関係の核だったメンバーの顔がほとんどみんな、いっしょに写し出されている。加藤、土方、松山、種村、池田、唐、シモン、出口、巖谷、矢川、野中がおり、それに、瀧口修造、吉岡実、中井英夫や、内藤三津子の顔も見える。だれもがまるで同窓会の写真のようににこやかな笑顔だ。だが、この写真がうつす穏やかな顔は次のような事実を逆説的に示してはいないだろうかと、稲田奈緒美は指摘している。すなわち、六〇年代のような彼らの濃密な交友関係、あるいは共犯関係は、すでに過去のものになったという事実である(『土方巽 絶後の肉体』)。(《龍彦親王航海記》、三〇九〜三一〇ページ)

吉岡実と加藤郁乎、両者の日記でその交友をたどった小文を締めくくるには、やはり加藤郁乎出版記念会の集合写真が最上だろう。巖谷國士(監修・文)《澁澤龍彦 幻想美術館》(平凡社、2007年4月12日、五八〜五九ページ)の見開き写真は大きくて見やすいが、ノドにかかっている。ここでは、同書を再録した巖谷の《澁澤龍彦論コレクション》から引こう。巖谷はその《澁澤龍彦論コレクションV――澁澤龍彦 幻想美術館/澁澤龍彦と「旅」の仲間》(勉誠出版、2018年1月15日)所収の同書〈第二室 一九六〇年代の活動〉の「さまざまな交友」の本文で、「一九七一年秋、新宿の花園神社会館で催された加藤郁乎の出版記念会の折に、細江英公の撮った有名な記念写真がある(47ページ)。居ならぶ八十余名の多くが加藤・澁澤・土方の共通の友人であり、六〇年代の交友関係の大きな部分がここに写しこまれている。」(同書、四九ページ)と書いた。巖谷はまた同書で、被写体である参加者数人をピックアップして紹介しているが、私は細江が撮った写真の初出(《アサヒカメラ》1972年2月号の〈〔連載(顔)―A〕加藤郁乎 詩人〉)に言及した〈吉岡実と澁澤龍彦(2007年5月31日)〉でさらに詳しく紹介した。加藤郁乎亡きいま、往時を知るどなたかがこれらすべての人人を特定してくれると嬉しいのだが。(下の画像は、ウェブページを400%に拡大表示しても堪えられる解像度にしておいた)

細江英公 加藤郁乎の出版記念会に集まった人々(「知人の肖像」より)1971年
細江英公 加藤郁乎の出版記念会に集まった人々(「知人の肖像」より)1971年〔出典:巖谷國士《澁澤龍彦論コレクションV――澁澤龍彦 幻想美術館/澁澤龍彦と「旅」の仲間》(勉誠出版、2018年1月15日、四七ページ)〕

新宿花園神社で開かれたこの出版記念会の対象となった一冊、《加藤郁乎詩集〔現代詩文庫45〕》(思潮社、1971年10月20日)は当時の加藤の句業・詩業のほとんどを収めた大全だったが、同書巻末の〈作品論・詩人論〉も郁乎の恩師や知友を糾合した瞠目すべき内容だった。掲載順に挙げれば、種村季弘西脇順三郎吉田一穂稲垣足穂吉岡実土方巽鷲巣繁男澁澤龍彦・志摩聰・窪田般彌鍵谷幸信松山俊太郎中井英夫池田満寿夫白石かずこ嵐山光三郎芝山幹郎の17人(裏表紙のコメントは大島渚)。私は本稿を書くために同書を求めて部屋中を探したが出てこないので、渋谷の中村書店で「謹呈 著者」の栞が挟まった初版を入手した。これは著者が高橋康也に送ったものではないか(確証はないが)。というのも、中村書店で先に購入した、吉岡実が高橋に贈った現代詩文庫版詩集の最終ページに「メ8Z/署名入/5400」と鉛筆書きのメモがあり、加藤郁乎詩集には「メ9Z/300」とあるばかりか、小口にあるシミまでが似かよっている。ちなみに高橋康也(1932〜2002)の姿は、出版記念会の集合写真にも見える。一方、加藤郁乎が書いた交遊録は《後方見聞録》(コーベブックス、1976)として一書にまとめられた。収めるところ15名。稲垣足穂(1900〜1977)*、吉田一穂(1898〜1973)*、西脇順三郎(1894〜1982)*、澁澤龍彦(1928〜1987)*、土方巽(1928〜1986)*、池田満寿夫(1934〜1997)、白石かずこ(1931〜 )、窪田般彌(1926〜2003)、松山俊太郎(1930〜2014)、森谷均(1897〜1969)、亀山巖(1907〜1989)、田村隆一(1923〜1998)、笠井叡(1943〜 )、高柳重信(1923〜1983)*、吉岡康弘(1934〜2002)。同書の増補版たる《後方見聞録〔学研M文庫〕》(学習研究社、2001)では、飯島耕一(1930〜2013)と矢川澄子(1930〜2002)*の巻が加わった(《加藤郁乎作品撰集V》に〈後方見聞録 抄〉として再録された巻には*印を付けた)。残念なことに〈吉岡実の巻〉は書かれなかったが、吉岡は〈西脇順三郎の巻〉増補分に登場する。《加藤郁乎作品撰集V》の〈著書解題〉に依れば、《後方見聞録》の通常版は「昭和51・4・30発行。コーベブックス。初刷一五〇〇部。菊判変型・布装・函入(帯付)。一八二頁、うち別丁写真二四頁。著者「後記」。定価二五〇〇円。」で、〔特装版〕は「発行日同じ。南柯書局。限定五〇部。布装・天金・函入。」(同書、五二八ページ)である。

加藤郁乎交遊録《後方見聞録〔特装版〕》(南柯書局、1976年4月30日)の函・表紙の平 加藤郁乎交遊録《後方見聞録〔特装版〕》(南柯書局、1976年4月30日)の函・表紙の背
加藤郁乎交遊録《後方見聞録〔特装版〕》(南柯書局、1976年4月30日)の函・表紙の平(左)と同・背(右)〔限定50部記番、本文和紙刷麻表紙天金装・毛筆署名入〕

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20世紀末時点での加藤郁乎の全句集ともいうべき《加藤郁乎俳句集成》は、2000年に沖積舎から500部限定で刊行された(10句集全2938句収録)。版元の沖積舎は、2冊の加藤郁乎論を出したことでも注目される。仁平勝の《加藤郁乎論》と伊藤勲の《加藤郁乎新論》がそれである。仁平勝は《加藤郁乎論》(沖積舎、2003年10月15日)の〈第四章 『牧歌メロン』〉で「郁乎が熱く読まれていたあの時代」について、次のように書いている。ちなみに1960年代後半とは、吉岡が詩集《静かな家》(1968)をまとめ(郁乎は吉岡からもらった《静かな家》を同年10月2日に読んでいる)、のちに《神秘的な時代の詩》(1974)としてまとめられる詩篇を営営として書いていた時代である。

 あの時代とは、すなわち六〇年代の後半である。芸術的なるものをめぐる当時の時代的な状況は、ひとことでいえば、既成の価値観が根底から覆されつつあった。そういうと難しく聞こえるかもしれないが、良識ある文化人からみれば、ようするにハチャメチャなものが次々に芸術として名乗り出てきたのである。当時それらは、しばしば難解と評されたが、ほんとうは難解でもなんでもない。いま振り返って思うには、早い話が「通俗」(いまひとつ適当な言葉がないので、カッコつきでこの語を使う)だったのである。当時の一般的な価値観からは、どうみても「通俗」としか思えなかった。にもかかわらず、それらが芸術を名乗ることが難解だったのだ。
 代表的な例を挙げれば、横尾忠則や金子國義の絵画。状況劇場、天井桟敷、早稲田小劇場などの演劇(ナント郁乎は金子國義といっしょに状況劇場の芝居に出ていたのだ)。土方巽、大野一雄、笠井叡らの舞踏。四谷シモンの人形。現在ではもう、人はごく自然にこれらを「芸術」として受け入れているが、彼らの芸術が意図したのは、じつは「通俗」の復権であった。いわく反リアリズムであり、見せ物的であり、エロチックであり、土俗的であり、つまり権威的な芸術観が「通俗」視していたものの総体が、まさに彼らの新しい芸術表現であった。
 いま挙げた例はどれも、現在ではすでに「芸術」として市民権を得ているから、ハチャメチャなものというイメージは伝わりにくいかもしれない。あの時代の芸術的状況を正確に語るためにもうすこし範囲を広げて、映画を引き合いに出してみる。鈴木清順の『東京流れ者』、若松孝二の『犯された白衣』、大和屋竺の『荒野のダッチワイフ』など、これらは既成の価値観からすれば、たんに活劇やポルノとして片付けられる内容であり、まさに「通俗」と紙一重の傑作であった。また石井輝男は、良識人からエログロと非難されながら、『徳川いれずみ師・責め地獄』などの異形の傑作を撮っていた。それらの作品が、文部省推薦的な「名作」の概念では通用しない、まったく新しい芸術の意味を主張したのである。
 小説の分野でも、江戸川乱歩、小栗虫太郎、夢野久作といった「通俗」の作家たちが復活し、また、世間ではエロ本と呼ばれる「奇譚クラブ」(わたしなどは顔を赤らめて買ったものだ)に連載されていた沼正三の『家畜人ヤプー』が、三島由紀夫の炯眼によって白日のもとに掘り出された。そして、あの時代を象徴する雑誌ともいうべき澁澤龍彦編集の「血と薔薇」が、「エロティシズムと残酷の綜合研究誌」と銘打って発刊された(郁乎はそこに小説「膣内〔薬→楽〕」を連載している)。そういう時代の潮流のなかで、『牧歌メロン』の作品もまた書かれたのである。
 ある人は『牧歌メロン』を評して「悪ふざけ」だという。わたしはそれをことさら否定しようとは思わない。けれども、「悪ふざけ」だから価値がないのではない。そもそも郁乎は最初から「悪ふざけ」の書を企んでいるのだ。まさに「悪ふざけ」の文学として、『牧歌メロン』は画期的なのである。そしてさらにつけ加えれば、「悪ふざけ」とは郁乎にとって、すなわち俳諧のことであった。だから『牧歌メロン』とは、俳諧を「悪ふざけ」と呼ぶようになってしまった時代にたいする、郁乎の痛烈な皮肉なのだといってもいい。(同書、一二〇〜一二二ページ)

「あの時代」の要約としてほぼ過不足のないもので(音楽シーンに触れていないが、いうまでもなくジャズに替わるビートルズに代表されるロックの抬頭が挙げられようし、これだってジャズに較べれば「通俗」だ)、それはそのまま詩人・吉岡実をとりまく文化的状況でもあった。ここから導きだされるのは、加藤郁乎句集《牧歌メロン》(仮面社、1970)と吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》(湯川書房、1974)との比較検討だが、それは本稿のテーマを超える。


詩集《僧侶》小感(2020年6月30日)

古書山たかし《怪書探訪》(東洋経済新報社、2016年11月3日)に次のような一節がある。

 〔著者の通っていた大学のすぐ側にあった、Y書店という小さな古本屋は〕買い取った本の管理方法も独特だった。客から本を買い取ると、店主はA5判のノートにひたすら時系列に手書きで著者名と書名を書き連ねていくのだ。そして、その本が売れると横にチェックマークをつける。ただそれだけである。先ほど回転が命とはいったが、逆に売れ筋以外はそうそう簡単に売れず、書棚で「寝る」ことも多い性質の商品である古本で、このような管理をしていたら、普通はたちまちパンクしてしまう。それができてしまうのはとりもなおさず、普通であればそれなりに長期間寝るはずの「売れ筋以外」の堅めの本が、この店に限っては飛ぶように売れていくということにほかならない。暑い寒いの気候で差はあるものの、大体一月で一冊くらいのペースでノートはいっぱいになっていたように思う。そうすると年一二冊、半世紀で六〇〇冊以上のノートが存在しているはずだ。
 大学を卒業してからはY書店に顔を出せる頻度は多少落ち、また地元に戻ってからは年に数回がせいぜいになってしまったが、それでも顔を出すたびに、ご店主は満面の笑みを浮かべ、いつもの「どうもー!」という明るい大声で挨拶も早々に、机の下から直近のノートを取り出し、「いや〜ホントにね。もうワケわかんないですよ」と言いながらノートを広げ、最近入った本を全部見せてくれる、これがルーティンであった。「ほんっとにね、今日は入んないな〜なんて考えてるとネ、これっ見てください。こんな面白いもんが入ってきたりすんですよね。いや〜ホントにね。もうワケわかんないですよ」という解説付きで拝見すると、目もくらむような良書がずらりと書き連ねてあり、個人的には悲しいことに、それらほとんど全てにチェックマークがついてしまっているのである。ごくたまに、例えば吉岡実『僧侶』だとか、森開社版『テオフィル・ゴーチエ小説選集』(全三巻)など、ちょうどその日入ったばかりのようなものがあると、相場の五分の一から一〇分の一の値段で惜しげもなく譲っていただけたのだった。いや、『僧侶』なんて、タダでくれたんじゃなかったかしら。(〈ある古本屋の思い出――店主と客をつなぐノート〉、同書、一三三〜一三四ページ)

そして本文の下段には「吉岡実『僧侶』(ユリイカ)」というキャプションとともに、タダでもらった(?)《僧侶》の書影が掲げられている。写真で見るかぎり、函の背が焼けているものの、本文に難ありとも思えない。著者名の「古書山たかし(こしょやま・たかし)」はペンネームで、生年も非公開だが、本文から推定される40歳代だとすれば、Y書店店主が譲ってくれたのはここ20年間ほどの(つまり2000年以降の)出来事だろう。その間の《僧侶》の古書価格の変動を追うほどの材料を持ちあわせていないので、2020年5月下旬時点での《日本の古本屋》の出品状況を見てみる(順不同)。

@は93,500円。「初版(限定400部) 函ややヤケ・ややキズ うら表紙少汚れ 見返しに少紙剥がし跡 署名入(宛名の上に紙貼付) A5判 函写真・奈良原一高 H氏賞」(西日暮里の書肆田)
Aは71,500円。「限定400部 函写真・奈良原一高 第9回H氏賞 扉に旧蔵者管理番号印有 函少シミ背少ヤケ」(神保町の玉英堂書店)
Bは73,000円。「函日焼け強め、少スレ有。筑摩書房広告部勤務時の吉岡実名刺付。本体表見返しに献呈署名入。他、本体経年並。限定400部。定価300円。」(青梅市の古書ワルツ)
Cは38,500円。「限定400部 写真・奈良原一高 H氏賞/函少ヤケ・イタミ 題箋少イタミ/本冊状態良」(武蔵野市のりんてん舎)

4冊の合計は276,500円、相加平均で69,125円。仮に7万円とすると、Y書店の「ご奉仕価格」は7,000円〜14,000円。ううむ。通常、この価格で入手できないことは火を見るよりも明らかだ。ところで、@〜Cの中から購入するとしたら、私はBを狙う。「筑摩書房広告部勤務時の吉岡実名刺」が付いているからだ。だが、《僧侶》はすでに2冊持っているし(1冊は献呈署名入り、もう1冊は晩年の吉岡さんに署名していただいたもの)、名刺1枚に73,000円は投じられない。

吉岡実の詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日)は刊行後、半年も経たない翌1959年4月6日に第9回のH氏賞受賞が決まったため、初版の400部(記番はない)はその時点でそうとう売れたはずだ。少なくとも、《文學界》1959年11月号が特集を組んで吉岡実ブームが起きるや版元在庫がなくなった、と伊達得夫は〈吉岡実異聞〉(初出:伊達得夫《ユリイカ抄》伊達得夫遺稿集刊行会、1962年1月16日)で回想している。――吉岡は「私と伊達得夫の交友は、きわめて短いものだった。晩年の五、六年にすぎない。それなのに、私の一断面が、「吉岡実異聞」という文章で永遠に残されたのは幸運なことだ。たぶんこれは、〈新潮〉に依頼されて書いたものだが、何かの理由で没になった原稿だったと思う。私は遺稿集の校正中はじめて見て、伊達得夫の観察の鋭いのに驚いた記憶がある。」(《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、1988、六九ページ)と書いている。――伊達はさらに、《僧侶》を全篇収めた《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959年8月10日)もすぐに増刷になった、とも書く。それ以後の60年間、太平洋戦争以前に較べて、戦災も大きな自然災害もそれほどなかったため、400部のうちかなりの部数は現存しているのではないか(三百数十部?)。むろんH氏賞受賞も功を奏していて、吉岡自身「《僧侶》は読者に大事にされた本だから」と私に語ったことがある(少しくたびれた古書を持参したところ、吉岡さんは「小林一郎様」と記すのは綺麗な本にしたいからまた今度、と私が持っていたパーカーのブラックで――吉岡さんはふだんブルーブラックを使用――署名してくださったのだが、それきりになってしまった)。数十部が国立国会図書館や各地の文学館、大学図書館などに収蔵されているとすれば、個人蔵は300部くらいだろうか。いま売りに出ているのがそのうちの4部というのは、はたして多いのか少ないのか。また、1冊7万円とすると、2100万円ははたして安いのか高いのか。ちなみに《僧侶》に特装本は存在しない。が、市販本の表紙を改装したルリユールがあるようだ(未見)。吉岡が永田耕衣に宛てた書簡(1986年10月8日付)には「さて、白い革装のルリュール『物質』を、掌で撫ぜながら、流石に湯川本だと感心しているところです。小生にも只一冊本のルリュールの『僧侶』があります。しかし、五十冊限定を製作したのは驚きです。耕衣特装本の異色ですね。大切にいたします。」(《琴座》421号〔1986年11月〕、一八ページ)とある。当時、吉岡の身近でルリユールを手掛ける人材がいたとすれば、筑摩書房で後輩だった栃折久美子さんを措いてほかにない。万一、ルリユールの《僧侶》が市場に現れようなものなら、それは事件である。文字どおり、天下の孤本なのだから。なお、栃折久美子によるルリユールに関しては、〈ルリユール〉の〔さらに2020年6月30日追記〕も参照されたい。

古書山たかし《怪書探訪》(東洋経済新報社、2016年11月3日)のジャケット 栃折久美子による《神秘的な時代の詩〔特装版〕》のルリユール〔《DTPWORLD》2001年1月号掲載〕
古書山たかし《怪書探訪》(東洋経済新報社、2016年11月3日)のジャケット(左)と栃折久美子による《神秘的な時代の詩〔特装版〕》のルリユール〔出典:モリトー・良子と栃折久美子の展覧会図録《RELIURES》(発行所の記載なし、c1994年3月31日、〔三四ページ〕)〕(右)


あとがきに見る淡谷淳一さん(2020年5月31日〔2020年6月30日〜2020年8月31日追記〕〔2021年6月30日追記〕〔2021年8月31日〜2021年9月30日追記〕)

このうえもなく月並みな言葉も、然るべき場所に置かれるとき、突如として輝かしく煌めく。君の映像が輝くのもこの煌めきによってでなければならぬ。――ロベール・ブレッソン(松浦寿輝訳)《シネマトグラフ覚書――映画監督のノート》(筑摩書房、1987年11月15日、一五五ページ)

礒崎純一《龍彦親王航海記――澁澤龍彦伝》(白水社、2019年11月15日)は初の本格的な澁澤龍彦伝だが、巻末に14ページにわたって付せられた〈索引〉が、この本の格を一段と高からしめている。主たる対象は古今和洋の人名で、そこに文庫名を含む出版社名を織りこむあたり、国書刊行会編集部編《書物の宇宙誌――澁澤龍彦蔵書目録 COSMOGRAPHIA LIBRARIA》(国書刊行会、2006年10月20日)の編纂者だけのことはある(この驚異の目録の書名は、澁澤の《夢の宇宙誌――コスモグラフィア ファンタスティカ》にあやかっている)。〈索引〉に登場する回数を見るだけでも、その人物と澁澤の関係が想像されて、興味は尽きない。ちなみに、吉岡実が登場するのは17箇所で、吉行淳之介とほぼ同数である(当然のことながら、サド侯爵や土方巽、三島由紀夫、そして澁澤龍彦全集の編者たちが上位を占める)。この〈索引〉に登場する人物のなかに澁澤を担当した各出版社の編集者が含まれるのは、国書刊行会で澁澤の担当者だった著者ならでは、といえよう。吉岡実は筑摩書房の編集者でもあったわけだが、本書ではその側面は薄く、書き手仲間という位置づけがほとんどである。かくして、筑摩での澁澤担当は淡谷淳一ということになる。淡谷が〈索引〉に登場する2箇所を見よう。どちらも〈第[章 記憶の遠近法〉の「2|昭和五十二年/『思考の紋章学』/フランス・スペイン旅行/世界文学集成」の項にある。

 〔一九七七年〕七月二十八日、筑摩書房の〈世界文学集成〉の最初の試案を、同社の編集者淡谷淳一に渡している。
 澁澤龍彦一人の好みにより編まれた世界文学全集というこのプランは、もともとは筑摩書房サイドから提案された話だった。企画はこの年の初めより動きだし、最初は全三十六巻の規模で構想され、のちには二十数巻になった。
 〈集成〉に関する澁澤の試案は、この七月に作成された三十六巻案をはじめ、四つほど残され、それらは澁澤の死の翌年(一九八八年)になって「別冊幻想文学4 澁澤龍彦スペシャルT」に、淡谷のインタビューとともに公表された。ひとまずの最終案とおぼしい「二十四巻試案」は文庫本(『西欧文芸批評集成』)にも収められているから、一九七七年(昭和五十二)十一月二十一日の日付を持つ「全二十七巻(第二案)」の方をここでは挙げておこう。(同書、三五八ページ)

 十月四日、吉岡実が筑摩書房の同僚の淡谷淳一とともに来訪。澁澤は吉岡が好きなポルノをいろいろ見せて、そのあと鎌倉駅前の天ぷら屋ひろみで食事をした。(*1)(同書、三六四ページ)

さらに、淡谷の名前は出てこないが、「この〔一九七七年〕三月、筑摩書房の〈筑摩世界文学大系〉に、澁澤訳のサド「美徳の不運」他が収録される。世界文学全集にサドが入ったのはこれが初めてだったが、五月には、講談社が刊行していた〈世界文学全集〉にも、やはりサドの『食人国旅行記』が収められている。」(同書、三五三ページ)の〈筑摩世界文学大系〉の澁澤=サドを担当したのが淡谷だった。《別冊幻想文学》の淡谷のインタビュー記事は、編集者としてほとんど文章を残さなかった淡谷淳一の数少ない証言で、インタビューをまとめたのは同誌編集人の東雅夫だろう。その文章、〈幻のシブサワ版世界文学全集〉の冒頭はこうである(署名は「淡谷淳一(筑摩書房編集者)」とある)。

 澁澤龍彦個人編集による世界文学全集の企画がいつごろ持ち上がったのか、古いことですので正確には分からないのですが、いま手元にある『世界文学集成』全三十六巻試案に一九七七年七月二八日という日付が入っていますから、おそらくこの年の始めごろではなかったかと思います。
 私が澁澤さんと仕事をさせていただいたのは、七七年三月刊行の『筑摩世界文学大系23 サド レチフ』に、サドの小説論の新訳原稿をいただいたのが最初です。個人的にはそれ以前から、たぶん『神聖受胎』あたりが最初かと思いますけれども、私淑というほどではないですが、澁澤さんのお書きになるものは好きでよく拝見していたんです。それと、詩人の吉岡実さんがこの会社におられた時分に、私はあの方からの影響をずいぶん受けまして、ご存じのように澁澤さんと吉岡さんはかなり親しい友人関係にありましたから、そういうところに連なって澁澤邸にうかがったといいますか。余談ですが『サド レチフ』をやっていたときに『悪徳の栄え』全訳の話が出たんです。まだ訳していない部分には、出すと危ない部分と、冗長退屈な部分とあるけれども、両方含めて全訳して、三巻本くらいの真っ黒な装丁の本にして出したいと、予約出版の形にすれば猥褻物販売にもひっかからないんじゃないか、なんて(笑)夢物語みたいな話もずいぶんしたものです。(《澁澤龍彦スペシャルTシブサワ・クロニクル〔別冊幻想文学C〕》、1988年11月1日、二〇四ページ)

《悪徳の栄え》の全訳の処など、淡谷さんの、真面目な顔をして冗談を言うときのいたずらっぽい目つきが思いうかんで、懐かしい。私は1990年7月、吉岡実の四十九日法要のとき、初めて淡谷さんにお目にかかり、〈吉岡実資料〉(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991年4月15日)を編む際には、神田小川町から蔵前に移転していた筑摩書房に淡谷さんを訪ねて、いろいろと便宜を図っていただいたものだ(そこでは、橋本靖雄さんからも話をうかがった)。さて、3ページにわたるインタビュー記事のおしまいはこうである。

 そういうわけで一時は出る寸前みたいな雰囲気にまでなったんです。事前に営業部を通じて、こういうものの好きな書店さんに意見を聞いたりしたときも、早速十部注文したいとか、かなり好い反応が返ってきていましたし。それで社内的にも評判は高かったんですが、一方で、やや危険というか、澁澤さんの本が現在のように文庫でたくさん出るという時代じゃありませんから、非常に特殊な層に向けて出す全集というイメージがどうしてもありまして、そういう層に対してこういう全集みたいなものが合うのかどうかと。それに二十四巻なりでスタートする以上どうしても最後まで出さないといけませんし、これは当時の小社にとって、かなりの冒険でした。ご存じかと思いますが、翌七八年の七月に小社は倒産するわけです。そんな状態のときに、なかなかそういう賭けは出来ないということで、否決にはならなかったんですけれども、しばらく刊行をみあわそうということになったんです。会社更生法で社業再開後もずっとお蔵になったまま、私としてもせっかく熱心に進めていただいた企画を実現出来ず、澁澤さんには非常に申しわけないことをしたという思いがありましたので、だんだん澁澤邸からも足が遠ざかって……。
 実は、このたび澁澤さんが亡くなられて、とうとうお約束を果たせなかったという申しわけない気持と、こうした企画を澁澤さんにお願いすることは二度と出来なくなったのだというもったいない気持とが一緒になりまして、何らかの形でこれを出せないかということを、いま考えてるところなんです。当節の澁澤ブームともいえるような情況をみると、むしろ現在のほうが実現しやすいようにも思いますしね。
 ところが十年経過したために、当時は本邦初訳であっても、すでに翻訳が出てしまったものとか、多少評価が変わったものとかがありますし、それにたとえ二十四巻案を採るとしても、当節ではかなり多いという感じがありますので、出来れば巻数も半分の十二巻から十五巻くらいに絞りたい。そうした問題がありますので、この案をそのまま実現するには、やはり少々無理があるんですね。そこで澁澤さんとお親しく、良き理解者でもいらした出口裕弘さんと種村季弘さん、それに少しお若いところで巖谷國士さんに編集協力者という形で加わっていただいて、いわば改訂版のような形で刊行することを考えているんです。いちおう御三方からの意見聴取みたいなことは、すでに始めておりまして、もしいま澁澤さんがご存命であれば、こうしたであろうということを想定しつつ、ある程度の取捨――まあ取≠謔閧ヘ捨≠ノなりますけれども――をおこなうことで、刊行準備がほんの少々始まったところなんです。まだ、実際にどういうものになるかは分かりませんけれども。私としても、何とかそれで罪滅ぼしの何十分の一かは出来るだろうかなあと思ったりしているんですが。
             (S63・4・25 於神田小川町、筑摩書房)(同前、二〇六ページ)

吉岡は1978年7月の筑摩書房倒産のあと、11月に依願退職しているから、業務として淡谷の企画を援護射撃することは叶わなかっただろう。ここで、澁澤龍彦が筑摩書房から刊行した書物を一覧しておこう。《〔創業50周年〕筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)掲載分をアレンジして示す。

・(これは翻訳だが)ジルベール・レリー著《サド侯爵――その生涯と作品の研究〔筑摩叢書172〕》(1970年9月30日)
・(目録の索引には、澁澤龍彦でもサドでも載っていないが)《筑摩世界文學大系 23――サド レチフ》(1977年3月30日)でサドの作品〈司祭と臨終の男との対話〉〈美徳の不運〉〈閨房哲学〉〈悲惨物語〉〈小説論〉、ジャン・ポーランによる〈サド侯爵とその共犯者あるいは羞恥心の報い〉を翻訳し、解説〈サド――城と牢獄〉を執筆して、〈サド年譜〉を編んでいる。
・《サド侯爵の手紙》(元版:1980年12月10日、〔ちくま文庫〕:1988年1月26日)
・編集協力 出口裕弘・種村季弘・巖谷國士《澁澤龍彦文学館》(図書総目録刊行当時、全12巻を刊行中。《第4巻 ユートピアの箱》1990年5月21日、《第5巻 綺譚の箱》1990年5月21日)

改めて《澁澤龍彦文学館》全12巻を巻数順に掲げておく。人名はその巻の編解説担当者。

@ ルネサンスの箱(1993年3月) 河島英昭
A バロックの箱(1991年6月) 桑名一博
B 脱線の箱(1991年3月) 富士川義之
C ユートピアの箱(1990年5月) 巖谷國士
D 綺譚の箱(1990年5月) 種村季弘
E ダンディの箱(1990年9月) 出口裕弘
F 諧謔の箱(1991年8月) 高橋康也
G 世紀末の箱(1990年6月) 出口裕弘
H 独身者の箱(1990年7月) 岡谷公二
I 迷宮の箱(1990年9月) 池内紀
J シュルレアリスムの箱(1991年2月) 巖谷國士
K 最後の箱(1991年10月) 松山俊太郎

澁澤が新たに訳したサドの〈小説論〉を収めた《筑摩世界文學大系 23》付録(要は月報である)の〈編集後記〉には次のようにある。署名はないが、淡谷淳一の筆になるものと思われる。

 お待たせしておりました第八十回配本第二十三巻『サド/レチフ集』をお届けします。この二人の十八世紀の作家が本巻のような形で紹介されるのは初めてのことかと思われますが、特にレチフ・ド・ラ・ブルトンヌについては、その主要作品もほとんどが翻訳されておらず、日本語文献も特殊なものに限られるため、今回の月報では「参考文献」を割愛し、月報本文で多角的なレチフの像を浮び上らせることに努めました。なお参考までに、現代思潮社版『パリの夜』(植田祐次訳、一九六九年)の巻末にはレチフの主要著作・研究書目のリストと長文の解説が付されており、生田耕作著『るさんちまん』(人文書院、一九七五年)に、「レチフと靴フェティシズム」の文章が収録されていることを記しておきます。今回三年間据置になっていました定価を改訂させて頂きました。諸般の事情を御推察の上、何卒御諒承下さい。度々の刊行遅延をお詫するとともに、読者の皆様にはいっそうの御支援・御愛読をお願い申し上げます。(同付録、一〇ページ)

澁澤龍彦著訳の《サド侯爵の手紙》(1980年12月10日)の〈あとがき〉には次のようにある。なお同書の装丁は、のちに刊行の《澁澤龍彦文学館》と同様、中島かほるである。

 この手紙の翻訳は、当初から筑摩書房で単行本にするという予定で、雑誌「現代思想」の昭和五十年十月号から五十二年七月号までに、十三回にわたって飛び飛びに連載したものである。快く誌面を提供してくれた青土社の「現代思想」編集長三浦雅士さんに、心よりお礼を申し述べたい。単行本にするに当っては、どういう叙述形式にしたらよかろうかと、担当の淡谷淳一さんとともにずいぶん頭を悩ませたものであるが、結局、一つ一つの手紙の末尾に註をつけるという、いちばん当り前な形式に落着いた。私の遅筆のため、この註をつけるという作業にも意外に手間どって、とうとう最初に翻訳の筆を起した日から、五年近くもの歳月が流れ去ってしまった。その間、悠揚迫らざる温容で待っていてくれた淡谷さんに感謝する。この仕事が私にとって楽しいものであっただけに、感謝の思いは深いのである。

   昭和五十五年十月
                               澁澤龍彦(同書、二三三ページ)

刊行の時期としては、上記澁澤関連の2冊のあいだに挟まるかっこうになるが、蓮實重彦《映像の詩学》(1979年2月15日)の〈あとがき〉には次のようにある(同書、二九五〜二九六ページ)。

 〔……〕当節、五十枚を超えるハワード・ホークス論やフリッツ・ラング論を顔色一つ変えずに受けとってくれる編集者に恵まれたというのは、ほとんど奇蹟に等しいことだと思う。また、前著『反=日本語論』に続いて書物にまとめるさいの煩雑な仕事を担当された筑摩書房の淡谷淳一、同じく表紙からページのすみずみにまで繊細な心くばりを示して戴いた装幀の中島かほるの両氏は、この奇蹟に確かな輪郭を与えて下さった。勝手気儘なふるまいによって好意に甘えつづけたあげく、いまさら感謝の気持を捧げるなどと書くのも気がひけるので、その気持はそっと胸のうちにしまいこんでおく。
 〔……〕
                                 一九七八年六月 蓮實重彦

 しばらく中断されていた筑摩書房の出版活動が再開され、校正刷の段階で眠っていた『映像の詩学』が幻の書物になりそびれたことを、率直に喜びたいと思う。やはり、これは幸福な書物なのだ。〔……〕
                                        一九七九年一月

ふたつの日付のあいだに、淡谷が談話で触れていた筑摩書房の倒産(1978年7月)があった。ここで蓮實重彦の前著《反=日本語論》の〈あとがき〉を見よう。初刊の単行本は1977年5月19日の刊行だが、最新版の〔ちくま学芸文庫〕(2009年7月10日)から引く。なお、末尾には脱稿日と思しい「一九七七年三月七日」の日付がある。

 ここに『反=日本語論』として読まれた書物は、その筆者の書こうとする意志とはほとんど無縁の場で書きあげられてしまったかのような言葉たちからなりたっている。こうしたことがらを一冊の著作にまとめようとする気持はなかったし、いまなおその気持はきわめて希薄である。「序章」にあたる「パスカルにさからって」は、筑摩書房刊行の月刊誌『言語生活』のために、編集部の淡谷淳一氏のおすすめに従って、一回限りのつもりで執筆したものである。それが直接の契機となり、同誌に以後三回ほど、また青土社の月刊誌『現代思想』に「ことばとことば」として十二回ほど、そのつど今度こそこれで終りだと口にしながら書き続けてしまった。編集を担当された筑摩書房の久保田光、持田鋼一郎の両氏、ならびに青土社の三浦雅士氏には、いまこうして書物のかたちをとろうとしている言葉たちの生誕を感謝すべきなのか、それともうらみがましい気持を捧げるべきか知らない。こうした方々とお逢いしているうちに、何か自分の言葉がかすめとられてしまったというのが実感なのである。その意味で、この『反=日本語論』は、奇妙なやり方でいまも筆者の意識を刺激しつづけている。自分ながら、何か夢のようにできあがってしまった書物なのである。その夢のような体験をともかくもこうしてくぐりぬけたとき、その夢をはじめから終りまで見まもって下さった淡谷淳一氏には、医師に捧げるべき患者の謝意を受けとっていただければと思う。久保田氏、持田氏、三浦氏に捧げうるのも、やはり夢から醒めた患者の謝意である。
 こうした方々の立ち合いのもとに、書くまい書くまいとして書いてしまった言葉は、これまで筆者が書こう、書こうとして書いたものより、遥かに好意的な反響を読者の方々のうちに惹起することができた。雑誌掲載中から、あるいは直接的に、あるいは間接的に批判をお寄せ下さった方々には、こうして一冊にまとめたことでそのお気持に応ええたかどうか。しかし、これに類する文章はもはや二度と書くまいという意志だけは、夢から醒めたいまも消えずに残っている。この意志が、今後、どのような夢と遭遇するのであろうか。なお、「終章」の「わが生涯の輝ける日」は、覚醒の後に夢を摸倣しつつ書きあげられたものである。(同書、三三三〜三三四ページ)

これが全文である。また、〔ちくま学芸文庫〕での刊行に際しても、同じくらいの分量のあとがきが新たに付された。末尾に「二〇〇九年五月三十一日/著者」とある〈ちくま学芸文庫版あとがき〉の最終段落を引こう。

 最後になってしまったが、「ちくま文庫」版収録の「あとがき」に記した四人の方々に改めて三十二年後の御礼の心をおくりたいが、今回編集を担当された筑摩書房編集局の天野裕子さんにも、それに劣らぬ感謝の思いをおくらせていただく。(同書、三三六ページ)

ここで《筑摩書房図書総目録》掲載の蓮實関連の書籍をみておこう。

  1. (アラン・ロブ=グリエ著、天沢退二郎と共訳)去年マリエンバートで 不滅の女――シネ=ロマン(1969年2月。蓮實は巻末に〈『不滅の女』または、ある厳密な曖昧さの回復〉という文章を書いているが、これは解説であり、訳書のいわゆるあとがきはない)
  2. 反=日本語論(1977年5月)
  3. 映像の詩学(1979年2月)
  4. 表層批評宣言(1979年11月)
  5. 監督 小津安二郎(1983年3月)
  6. 表層批評宣言〔ちくま文庫〕(1985年12月)
  7. 反=日本語論〔ちくま文庫〕(1986年3月)
  8. (厚田雄春と共著)小津安二郎物語〔リュミエール叢書〕(1989年6月)

ここで年代は飛ぶ。蓮實重彦の主著《『ボヴァリー夫人』論》(2014年6月25日)巻末の〈もろもろの謝辞――あとがきにかえて――〉には淡谷淳一のことが縷縷記されている。長くなるが、同書刊行の経緯を知るうえでも引用しておきたい。

 『「ボヴァリー夫人」論』執筆のために分類されていた嵩のある何冊もの資料の中に、著者自身の筆跡ではない文字の書きこまれた一枚の紙片がファイルされている。一行目に「蓮實重彦『ボヴァリー夫人』論」という題名らしきものの記されたその横罫のレポート用紙には、著者が『ボヴァリー夫人』をめぐってそれまでに発表した九篇のテクスト――必ずしも、すべてではない――の題名が、発表媒体、発表年月、四百字詰め原稿用紙に換算された枚数などとともにごく律儀に二行おきに列挙されており、その時点での原稿枚数は合計で「739」枚、紙片の右下には「89.10.9」という年月日らしきものがちらりと読める。
 見覚えのあるその筆跡が誰のものかは、すぐさま見当がつく。それが『反=日本語論』(1977)いらい著者の書物を担当してこられた筑摩書房編集部の淡谷淳一氏のものであることに、疑いの余地はないからである。ただ、一九八九年十月九日という日付を持つこの紙片が何を目的として書かれたものかは、まったくもって不明というほかはない。一九八九年といえば、一月七日まではまぎれもなく昭和という年号で日々が数えられていた年にあたっているが、何らかの意味で象徴的ともいえるその年の秋に、『「ボヴァリー夫人」論』の企画が、筑摩書房の会議で議論されたのだろうか。どうもそうとは思えない。わたくしが紀要論文などで『ボヴァリー夫人』を論じ始めたのは、七〇年代のはじめのことだからである。ことによると、とうの昔に会議で了承されていたこの企画の実現を改めて強くうながす目的で淡谷さんが著者に提示されたものだったのかもしれない。とはいえ、それが、いつ、どこで、いかなる状況のもと、どんな言葉でもたらされたのかという詳細は、いまその書物の著者となりおおせたばかりの男の記憶から、きれいさっぱり遠ざけられている。
 筑摩書房に入社後の間もない時期に、大胆にも『フローベール全集』(1965-1970)を企画し、これをみごとに実現された淡谷さんにしてみれば、その後、『ボヴァリー夫人の手紙』(工藤庸子編訳 1986)やM・バルガス=リョサMario Vargas Llosaの『果てしなき饗宴――フロベールと「ボヴァリー夫人」』(工藤庸子訳 1988)などの編集にかかわられたように、日本人による『「ボヴァリー夫人」論』執筆を期待しておられたのかもしれない。その未来の著者の一人として、その前年に『凡庸な芸術家の肖像――マクシム・デュ・カン論』(青土社 1988、ちくま学芸文庫 1995)を長い連載ののちに上梓していたわたくしも、そろそろフローベールの作品をまともに論ずべきときが来ていると感じ始めていたのだと思うが、そのあたりの前後関係を厳密にたどり直すことは、いまの著者にはほぼ不可能というに近い。
 工藤庸子さんによる『恋愛小説のレトリック――「ボヴァリー夫人」を読む』(東京大学出版会)は一九九八年に、松澤和宏氏による『「ボヴァリー夫人」を読む――恋愛・金銭・デモクラシー』(岩波書店)も二〇〇四年に刊行されているので、日本における『「ボヴァリー夫人」論』は、ある時期に確かな成果を挙げつつあったといってよい。にもかかわらず、わたくし自身による『「ボヴァリー夫人」論』の完成には、起源も定かではない企画の成立から三十年余の歳月が費やされてしまった。四半世紀にはとてもおさまりのつかぬこの時間は決して短いものとはいえまいが、そうならざるをえなかった事情を、ここでこと細かに述べることはせずにおく。ただ、その間に淡谷氏は筑摩書房を定年退職され〔石井信平〈筑摩書房――最後の仕事〉(《AERA[アエラ]》1996年5月6日・13日合併号)によれば、1996年3月29日(金曜)が最後の出勤日だった(*2)〕、淡谷氏とともに『監督 小津安二郎』(1983)の編集にあたられた間宮幹彦氏に企画が受けつがれたことは書いておかねばなるまい。
 同じ職場でながらく一緒に仕事をされた淡谷さんと間宮さんとは十歳近い年齢の差があったと思うし、大学時代の専攻はいうまでもなく、個性や人柄もまったく異なるいかにも独特な編集者だといってよい。それでいながら、このお二人には、ある否定しがたい共通点がそなわっていた。待つことをいささかもいとわぬ、いかにも落ち着きはらった方だったのである。淡谷さんがそうだったように、間宮さんも忘れかけていたころ不意に電話をかけて下さり、これといってせき立てる風情もなく、そろそろいかがでしょうかと静かにつぶやかれる。はかばかしい答えには出会えなかったにもかかわらず、そのつぶやきをいくどとなくくり返された淡谷さんと間宮さんに、まず、心からの感謝の念を捧げたい。(同書、七九三〜七九五ページ)

以上が冒頭の2ページ強で、末尾に「二〇一四年四月なかばのこと/著者」とある同文は、全部で12ページもある。蓮實の〈もろもろの謝辞――あとがきにかえて――〉をこれほど長く引いたのはほかでもない、今は亡き淡谷淳一(私は淡谷さんの死を巖谷國士さんの《澁澤龍彦論コレクション》(*3)で読むまで知らずにいた)の事績を語ってこれほどふさわしい文章はほかにないだろうからである。たとえば、上掲文に見える《監督 小津安二郎》(1983年3月30日)の〈あとがき〉――末尾に「一九八三年二月/著者」とある――の最後の段落は、次のようにさらりと書かれている。

 全篇は新たな構成のもとに全面的に書き改められたものだとはいえ、この論文の軸となる幾つかの文章が発表された雑誌(〔……〕)の編集にたずさわった方々に感謝したい。写真や資料等にも、フィルムセンターや堀切保郎氏をはじめ、多くの方々の無言の暖い協力を得た。編集を担当された筑摩書房の淡谷淳一、間宮幹彦の両氏ならびに装幀の中島かほる氏の助力には、いつものことながら、心からの感謝の気持を捧げたいと思う。いま、こうして最後の言葉をしたためながら、二十年前の冬の公園の鉄製ベンチの冷たさが、改めて腰の下からよみがえってくる。小津安二郎は、わたくしにとって、決して死んではいない。(同書、二八〇〜二八一ページ)

「二十年前の冬の公園の鉄製ベンチの冷たさ」というのは、1963年の12月、異国の地にあって小津の死を報じる新聞を公園の「陽の差すこともなく終ろうとする一日の寒さで冷えきった鉄製のベンチ」(〈序章 遊戯の規則〉、同書、九ページ)で読んだことを指す。この冷たさと、著者が対象に寄せる想いの熱さの対比は圧倒的だ。そしてそれを書物の形にすべく支えたのが、筑摩書房の淡谷・間宮・中島の3人だった。同書は20年後に《監督 小津安二郎〔増補決定版〕》(2003年10月10日)として再刊された。末尾に「二〇〇三年八月一日」の日付のある〈増補決定版あとがき〉はこう始まっている。

 すべては原著の「あとがき」にいいつくされており、〈増補決定版〉の刊行にあたって新たに書き加えるべきことはごくわずかなことがらにつきている。その間、厚田雄春さんを失った悲しみについては「二十年後に、ふたたび」にも触れたが、それに劣らぬ喪失として、『監督 小津安二郎』の執筆を陰で支えてくれた淡谷淳一氏がすでに筑摩書房を退職しておられるということがある。前回同様、この〈増補決定版〉の編集も間宮幹彦氏の手をわずらわせ、装幀に同じ中島かほる氏のお力を拝借することができたのは幸運だった。ここに御礼申し上げる次第だが、その思いが淡谷氏にもとどけばと念じている。(同書、三四四ページ)

〈もろもろの謝辞――あとがきにかえて――〉に登場する工藤庸子編訳《ボヴァリー夫人の手紙》(1986年7月20日)の〈あとがき〉には次のようにある(*4)

 この本では、下段に大きく余白をとり、そこに必要な知識を補うためのメモ、訳文の調子[トーン]を定めるためのさまざまの手掛りなどを書きこんだ。また同じスペースに、上段の手紙文に関する読解や注釈を記し、その手紙文と他のテクストをつき合わせた場合に生じるであろう解釈の可能性も示唆するようにした。〔……〕
 〔……〕
 フロベールの手紙については、筑摩書房フロベール全集の翻訳と訳注から多くのことを教えられた。〔……〕
 〔……〕
 私の勝手な希望に辛抱強く耳を傾け、助言をいろいろと与えて下さった筑摩書房の淡谷淳一さん、装幀を担当して下さった中島かほるさんに心から感謝いたします。(同書、三三二〜三三三ページ)

下段スペースに大きな比重をかけたこのユニークな版面(上段9ポ28字詰・下段8ポ22字詰)は、編集担当の淡谷と造本担当の中島によるみごとな設計だと思う。もう一冊、M・バルガス=リョサ(工藤庸子訳)《果てしなき饗宴――フロベールと『ボヴァリー夫人』〔筑摩叢書〕》(1988年3月25日)の〈訳者あとがき〉は最後をこう締めくくっている。「この評論の翻訳をすすめて下さった篠田一士先生、筑摩書房の淡谷淳一さん、そして編集を担当して下さった郷雅之さんに、心からお礼申し上げます。」(同書、二九八〜二九九ページ)。ちなみに、篠田一士は《フローベール全集〔別巻〕フローベール研究》(1968年6月15日)の〈解説〉を書いていた。《果てしなき饗宴》は《フローベール研究》の20年後、ペルーの小説家の筆になる文芸評論として、淡谷淳一が自ら推進した最後のフローベール関係の書物となった。丸谷才一が最晩年に編んだ《快楽としての読書[海外篇]〔ちくま文庫〕》(2012年5月10日)には、《ボヴァリー夫人の手紙》と《果てしなき饗宴》(と、これは小説だが、ジュリアン・バーンズ《フロベールの鸚鵡》)の書評が収録されている。ジェイムズ・ジョイスを奉ずる丸谷ゆえ、ジョイスの師匠への関心も並並ならぬものがあった、と言うべきだろう。

松浦寿輝《映画n-1》(1987年5月15日)の巻頭に置かれた〈液体論――映画的交合とその異化〉(初出は《ユリイカ》1983年5月号〔特集=ゴダール 映画の未来〕)の冒頭――小見出し「a 赤えいの膜あるいは映画を切り裂くこと」とある段――は「いかにして膜を切り裂くか。」(同書、五ページ)という一文で始まり、すぐさま吉岡実詩集《静物》の詩篇〈過去〉に触れてゆく。さて、その末尾に「一九八七年三月/松浦寿輝」とある〈後記〉には次のような箇所がある。

 〔……〕つまるところ、映画は「距離」と「模像」の体験として筆者の二十代と切り結んできたのだと言える。そのことの意味は、まだ筆者自身にとっても解明しつくされないままでいる。
 いま、ヒッチコックと吉岡実さえ端から端まで克明に読みきれればそれでおのずから世界のすべてが読み解けるはずだと、昼も夜も思いつめていた十八歳の少年を思い出してみる。まことに、モノマニアックな貧しい青春をおくっていたのである。〔……〕世の中にどうしてこんな凄いこと[、、]が起こるのかと呆然としながら、ただもう『北北西に進路を取れ』や『僧侶』でなければ夜も日も明けないといった日々をおくっていたのである。〔……〕
 〔……〕
 決してしらじらしくはない感謝の思いが捧げられるべきは、まず、冬樹社にいらした頃に本書の祖型を提案してくださった荻原富雄氏に対してである。本書の種子は、氏の熱意ある慫慂によって播かれたものだ。そしてほとんど発芽しかけていたその種子は、荻原氏のUPUへの移籍の後を享けて、筑摩書房編集部の淡谷淳一、郷雅之両氏の手で丹念に育成され、生長し、ここにようやく実を結ぶことになった。この果実がいくぶんか見苦しくないものとなりえているとすれば、それは両氏の繊細かつ精力的なエディターシップと、中島かほる氏が本書に与えてくださった視覚的・触覚的な洗練の賜物である。とりわけ郷氏には、索引作成など煩雑な実務面でずいぶん御迷惑をおかけした。また、写真構成にあたって梅本洋一、武田潔、久保田雄二といった友人たちが提供してくれた無償の助力を忘れるわけにはいかない。本書の成立がその存在に多かれ少なかれ何らかのものを負っているn-1人の人々すべての名前を挙げることは不可能なので、とりあえず以上の方々に、代表して筆者の感謝の念を受け取っておいていただきたいと思う。
 あとはただ、この書物がn-1人の読者との間に幸福な出会いを体験することを願うだけだ。(同書、二五六〜二五七ページ)

松浦のこの映画論集成は、吉岡の《静物》に始まって《僧侶》に終わる、と言えないこともない。

松室三郎訳《マラルメ 詩と散文〔筑摩叢書〕》(1987年7月31日)の訳者による〈あとがき〉は、次のように始まっている。

 「コンパクトな一冊本という形で、マラルメを日本の読者に紹介する書物ができるとよろしいのですが……」
 眼鏡の奥でひたむきな目が私をじっと見ながら、静かな口調で、この言葉が述べられたのが、今こうして本書が生まれ出ることになったそもそもの事のはじまりなのだが、これはたしか邦訳『ヴァレリー全集』の刊行が完了も間近となっていた頃のことであるから、ひと昔以上、今からかれこれ十五、六年ほども前のことであろう。そのときは、ヴァレリーの訳稿のどれかを直接お渡しするために、同全集の編集担当者である筑摩書房の淡谷淳一氏と、私の勤務先にほど近い喫茶店に落ち合って、話題がたまたまマラルメのこととなり、私が何か「マラルメ手帖」といった、この詩人の略地図めいた内容の書物を作製する夢をあれこれ語ったところ、淡谷氏は大ぶりの黒革の手帖をとり出されて、私のとりとめもない話の要点を書きとめられ、その揚句、冒頭に記したようなことを言われたのだった。〔……〕(同書、二二三ページ)

7ページに及ぶこの〈あとがき〉は、次のように結ばれている(末尾には「一九八七年三月/松室三郎」とある)。

 「あとがき」の初めに記した通り、本書の発案以来、実に長い歳月が過ぎ去ったが、その間訳者の度重なる我儘を快く受け容れて下さった、と今更言うのがおかしいほど、終始辛抱強く穏やかに(ごく稀には厳しく)見守って下さった淡谷淳一氏には改めてお礼を申し上げたいと思う。最近二宮正之氏の名訳による『ジッド=ヴァレリー往復書簡』(むしろ名著と称ぶにふさわしい学問的労作)を最後に、ヴァレリーという巨大な存在を日本語に移植するという大仕事を遂に完成まで支え続けられたこの名編集者の、熱っぽく未来の書物を語り合った当時とは異なって頭髪に白いものの増えた温容に接するにつけ、私は歳月の足の早さと己れの牛歩の遅々たることとに呆れ果てているが、今はここに送り出す本書がせめて、マラルメに関心を持たれる世の読者の方々に聊かなりとも広く迎え入れられることをひたすら祈るばかりである。(同書、二二八〜二二九ページ)

刊行の時期は前後するが、二宮正之訳《ジッド=ヴァレリー往復書簡 2 1897-1942》(1986年10月25日)の〈訳者あとがき〉はこう結ばれている(末尾には「一九八六年八月、パリ西北郊コロンブで/二宮正之」とある)。

 本書を翻訳する機会を与えて下さった菅野昭正氏が、ジッドとヴァレリーの存在を大きな歴史の流れのなかにすえ、現在のフランスとも結びつける文章を寄せて下さった。ロベール・マレの序文に欠けていた二面がこうして補われたことを、心からありがたく思っている。
 また、ヴァレリーの書簡の翻訳と註解に関し、清水徹氏が、最先端を行くヴァレリー研究家としての学識をおしみなく分かち与えて下さった。氏の援助がなかったら、この書簡集は、とんだ傷物として世にでるところであった。深く感謝している。
 フランスでは、「日本語版が世界で一番完璧な版になりますね」と言って励ましてくれたカトリーヌ・ジッド夫人、ヌイイ市の自宅で何回となく、訳者の質問に答え、思い出を語ってくれたアガト・ヴァレリー=ルアール夫人、この二方と共に、未刊書簡の閲覧を認めてくれたジッドの手紙の所有者ランサッド氏、ドゥーセ文庫での仕事の便をはかってくれたフランソワ・シャポン館長、さらに、十数年来、毎週のように訳者の数限り無い疑問に光をあててくれたマガリ・ビリョン夫人にお礼を申し上げる。
 最後の最後になってしまったが、ノルマンディーの乳牛のよだれのように、際限もなくだらだらと続く訳者の仕事を、いやな顔も見せずに(これは、国際電話のお蔭で、見えなかったということかもしれない)、しかも、締めるところは締めて、形作って下さった淡谷淳一氏には、お礼の言葉もない。(同書、五一五ページ)

だが私にとって淡谷さんは、あくまでも吉岡実の筑摩書房での後輩であり、吉岡が1978年11月に同社を退いたあとは、詩人・吉岡実の担当編集者だった。あとがきに見る淡谷淳一像の極め付きは、いうまでもなく吉岡の2冊の散文集である。

     18
 「私たちのまわりには、もう土方巽のような破天荒な人間を見つけ出すことはできないでしょう。戦後の疾風怒涛時代が生んだ、彼もまた一個の天才でした。」(澁澤龍彦)
 その土方巽の遺文集『美貌の青空』の刊行準備に参画し、出版社も筑摩書房に決まり、肩の荷もおりた。昨年の春のことである。それから間もなく、在社時代の後輩の淡谷淳一が遊びに来て、私が今までに土方巽へ捧げた詩篇と、散文、それに若干の書下しの文章を加えて、小さな本をつくりましょう、と言うのだった。辞退をにおわせ、曖昧な返事をしたのがいけなかった。会社の正式な企画にのせてしまったのである。
 〔……〕
 私は無断できわめて断片的に、多くの方々の文章を「引用」させて頂いた。何卒、ご寛容のほどを。皆様に深く感謝いたします。また広く資料に眼を通していないゆえ、見落した貴重な「証言」も、数多くあると思われるが、それも許して頂きたい。おそらく、淡谷淳一の慫慂がなければ、この小さな書物は作られなかったかも知れないと思う。
 〔……〕
     1987年7月28日        吉岡実(〈補足的で断章的な後書〉、《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》、1987年9月30日、二四〇〜二四一ページ)

 今度、淡谷淳一の尽力で、「筑摩叢書」の一冊として、再刊されることになった。ついては、意にみたない五篇を省いた。「叢書」に入ったことに依って、この書物も、いくらかは、広く読まれることになるであろう。
 〔……〕
 この八年間に書いた文章は、わずかに百五十枚足らずである。いずれも「日常反映の記録」にすぎないものばかりだ。増補して、最終章に収めている。
 一九八八年八月二十五日                        吉岡実(〈あとがき〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、1988年9月25日、三七〇ページ)

吉岡にはこの2冊のあとに《うまやはし日記》(書肆山田、1990)がある。だが、淡谷淳一が吉岡に《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》を書きおろさせた功績は、いくら強調しても足りない(*5)。さらに著者歿後の刊行だから、もちろんあとがきはないのだが、淡谷淳一は筑摩書房を定年退職するまえに出したいと《吉岡実全詩集》(1996年3月25日)を吉岡実の七回忌を目前に刊行した(全詩集を出すなら筑摩から、が吉岡の遺言だったという)。巻末には〈吉岡実詩集覚書〉があり、「生前刊行の詩集を各詩集ごと年代順に掲げる。刊行順に合せて、その中に選詩集を含めた。また本全詩集の底本には*印を付した。」(同書、七七三ページ)と始まり、詩集の書誌や吉岡実執筆のあとがき類を掲げ、表罫でいったん区切ってから最後に「編集部 編」と文責の表示がある(*6)。そして、追記のような形で次の文章が付されているが、これらはすべて淡谷淳一の筆になるものだろう。

 小林一郎氏による「吉岡実書誌」(『現代詩読本――特装版 吉岡実』思潮社 一九九一年四月)、『吉岡実全詩篇標題索引』(文藝空間 一九九五年五月)等を参照させていただきました。同氏に感謝の意を表します。(同書、七八八ページ)

《吉岡実全詩集》初刷における印刷上のトラブルについてはかつて書いたので(*7)、ここで繰りかえしたくない。いずれにしても、淡谷さんの筑摩書房における最後の仕事のひとつが本書の刊行だったことは明記しておきたい。想えば、私のサイト《吉岡実の詩の世界――詩人・装丁家吉岡実の作品と人物の研究》の記載の大半は《吉岡実全詩集》への長大なコメントだったような気さえする。編集者・淡谷淳一の業績を仰ぎみるゆえんである。

樽本周馬は〈中島かほる〉で「その端正さとグラマラスさをもって吉岡実と石岡瑛子のハイブリッドともいうべき両性具有性を体現する中島かほるの装幀」(《アイデア idea》368号〔特集・日本オルタナ精神譜 1970-1994 否定形のブックデザイン〕、2014年12月10日、一〇五ページ)と評したが、同文のその前段には「〔19〕85年からは蓮實重彦責任編集の季刊映画雑誌『リュミエール』のADを担当、終刊後に始まった《リュミエール叢書》ではスチールを最大限に尊重した映画本の基本形をつくる。蓮實との仕事は『反=日本語論』(1977)から最新作の『『ボヴァリー夫人』論』(2014)まで続いている。筑摩では淡谷淳一、間宮幹彦、岩川哲司、郷雅之といった凄腕編集者との強力なタッグによって数多くの傑作が生まれた。」(同誌、一〇四〜一〇五ページ)とある。淡谷淳一に始まる筑摩書房=中島かほる装丁の系譜を評して、至言であろう。

先に、淡谷淳一が編集者として想い出を書いたことはない、と記した。だが国立国会図書館の所蔵を検索すると、次の文章がヒットする。淡谷が他社の媒体に書いた、いまのところ唯一確認された業務用の文章である(末尾に「(筆者は筑摩書房編集部 淡谷淳一)」とあり、さらに罫でくくった《ヴァレリー全集〔全12巻〕》の9行にわたる告知広告が掲載されている)。全文を掲げる。

ヴァレリーのプロフィール|淡谷淳一

 「ヴァレリーは私にとって、単に詩人でも、美学者でも、文芸批評家でも、科学者でも、哲学者でさえもなくて、それらの専門的な知的領域の全体に対して、一人の人間がとり得る態度を決定する一箇の原理にほかならなかった。その原理との出会いは、私にはあまりに貴重に思われたので、それを文学とよぶかよばないかは、もはや私にとってどうでもよいことであった。」加藤周一氏は連載小説『羊の歌』のなかで、その大学時代の読書体験をこのように語ります。太平洋戦争たけなわのころの氏にとって、ヴァレリーは「聖書」であり、一つの「啓示」でした。
 大正の末ごろから翻訳紹介されはじめ日本の知職人に広く愛読されてきたヴァレリーですが、こんど新たに全集が刊行されるのを機会に、簡単にその生涯をたどってみたいと思います。
 ポール・ヴァレリーは一八七一年(明治四年)南フランスの港町セットに生れました。この地中海という風土は彼の精神形成に深い影響を与えたと思われます。のちに「私は自分の生れたいと思う場所の一つに生れた」と語っていますが『海辺の墓地』や『若きパルク』のなかで地中海の光と水が美しく詠われます。またこの前後には、二十世紀フランス文学の巨匠たち、クローデル、ジッド、プルーストが生れています。
 ヴァレリーは幼少時代から詩をつくりはじめ建築や絵画にも関心を示します。やがて青年期に達した彼は、モンペリエの法科大学に入学します。そしてこのころ偶然の機会から詩人ピエール・ルイスと知り合ったことが、彼の生涯をなかば決定づけます。つづいてアンドレ・ジッドとも交友関係をもつようになり、モンペリエ出身の田舎青年は中央文壇から強い刺激を受けました。彼の詩はやがて象徴派文学の師マラルメに認められ、将来を大いに期待されることになります。しかし二十歳のヴァレリーの精神の内面では、ある革命が起りつつありました。
 それは「ジェノヴァの一夜」として伝説化されすぎたきらいはありますが、精神の一大転機であったことは確かです。一八九二年秋の激しい嵐の一夜、ある「知的クーデター」が遂行され、以後約二十年にわたって詩人としてのヴァレリーは沈黙するのです。「知性の偶像」以外の一切の偶像を拒否し、知性を純粋にみがきあげることに専念します。この間パリに定住し、その抽象的な思索は『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説』および『テスト氏との一夜』という二つの重要な散文作品として結晶します。一方は万能の天才レオナ〔ト→ル〕ドを通して芸術的方法論を展開し、他方の架空の人物テスト氏にたくして思考の極限を追求していますが、ともにヴァレリーが自らの理想像を語ったものと言えましょう。このころ書かれた『方法的制覇』は、のちの全体主義国家の出現を予告したことで有名であり、数多い文明批評の最初の結実です。
 一八九八年マラルメの死に遭い、文壇とはますます縁遠くなっていきます。マラルメには終生深く傾倒し、またマラルメの方でもヴァレリーのなかに精神的な後継者を認め、特別な愛情を注いできたのでした。一九○○年結婚、そして通信社の老社長の秘書となり、完全な沈黙に入ります。
 このような「沈黙期」からヴァレリーを呼び戻したのは親友ジッドでした。一九一二年、ジッドから旧作を一冊にまとめることをすすめられたのがきっかけで四年半にわたる苦心のすえ、二十世紀抒抒情詩の傑作『若きパルク』が生れました。恋に傷ついた一人の女性の一夜の意識の変化をうたったこの作品は、世紀の詩人の誕生を告げるものでした。以後つぎつぎと詩作をつづけ、詩集『魅惑』としてまとめられます。
 そのころ社長秘書の職を失ったヴァレリーは、以後文人として、かつ国際連盟知的協力委員会等での公人としての生活をおくります。求めに応じて人間のあらゆる精神領域の問題について発言し、フランスを代表する知識人としての名声を獲得します。その発言は『ヴァリエテ』全五巻その他に収められ、二十世紀における批評の精髄と言われています。
 第二次大戦にあたっては、精神の自由を守りぬくことこそが人間の尊厳を保証すると信じて、文明と秩序を維持する意志を表明しつづけました。このころには晩年の澄みきった叡智を示す戯曲『我がファウスト』が書かれますが、未完に終りました。
 一九四五年七月、ヴァレリーは解放後のパリで死去し、ド・ゴール臨時政府は国葬をもっておくりました。遺骸は故郷セッ卜の「海辺の墓地」に眠っています。
 ヴァレリーが死んで二十年あまり、二十世紀最大の知性の人の盛名は輝きを増し、その作品世界の研究は各国ですすめられています。文学が反省と沈潜の時期にあり、そして文明と精神が依然として危機にある現在において、ポール・ヴァレリーの遺した精神の軌跡は、永遠に語りかけてやまないのです。(《新刊展望》1967年5月1日号、一〇〜一一ページ)

筑摩書房における編集者・淡谷淳一の仕事を概観するに(*8)、フランス文学(とりわけ訳者・著者としての蓮實重彦=フローベールと澁澤龍彦=サド)を基盤とする外国文学、そして現代日本文学(とりわけ装丁者・著者としての吉岡実)の書物群が眼前に聳え立つ。筑摩を退いた淡谷さんからお話をうかがう機会のなかったことが、今更のように悔やまれる。吉岡実のことをもっともっと教えていただきたかった。最後に淡谷淳一による吉岡実追悼文を掲げて、本稿を終えよう(文章の末尾に「(筑摩書房 編集部)」とある)。

吉岡さんのこと|淡谷淳一

 吉岡さんにお会いできたのは二十七年間におよぶ。はじめは入社した会社の宣伝部の一人であるに過ぎなかったのだが、まもなくこのやせてするどい目をした人が、あの『僧侶』の詩人であるとわかって、実にびっくりしてしまった。作品の書き手に想像される人格と、現に目の前で、たばこをふかしながら笑顔で快活に、いかにも下町の江戸っ子風に(と勝手に思っただけだったが)話される人物とがあまりに違いすぎたのである。その懸隔の大きさの印象は、ついに最後までほとんど変わらなかったと言っていい。実生活と作品世界はまったく別であって、どこかに境界線を引くために、例えば原稿はすべて陽子夫人が清書しておられたようだし、その筆跡すらも明かすことを潔しとしなかったように思われる。
 吉岡さんが編集部に移られてから、ある時期には直接の上司であった。そして当時はほとんど毎日のようにコーヒーをごちそうになった。その後退社されてから渋谷でお会いするときは常に道玄坂のトップであったように、吉岡さんの行きつけの店はほぼ決まっていた。そしていつも「ホット」であり、サービスコーヒーのある店ではその「サービス」であった。こんなにコーヒー好きであっても、お宅でコーヒーを入れることはなかったらしい。ちょっとふしぎな気がするのだが、コーヒーを味わう雰囲気全体が、吉岡さんにとってのコーヒーだったのだろうと思う。
 編集部時代の忘れられない思い出の一つはネルヴァル全集の刊行であった。フランスでの再評価気運をうけて、入沢康夫氏らに相談しつつ翻訳全集の企画を出したのだが、二度も否決になり、吉岡さん時代にようやく決定になった。吉岡さんがネルヴァルをそんなに読んでおられたとも思えないのだが、君がそれほど言うなら、ともかく出してみようと言われて全三巻の出版が決まったのである。詩人としてのカンももちろん大きかったろうが、若造の強い希望をまずかなえてやって、その後のヤル気を起こさせたことは実にうれしかった。
 吉岡さんに感謝すべき大きなもう一つは、いわゆる暗黒芸術への指南役であろう。土方巽の日本青年館公演をはじめ、笠井叡、芦川洋子、中嶋夏らの舞踏は、文字通りこれまでの舞踊という概念をまったくくつがえすものであった。あの日の衝撃がなかったらその後接することはなかったであろう世界の数々に、願ってもない師でありつづけて下さった。土方巽については、のちに『土方巽頌』として結晶した、吉岡実の交響詩的作品の誕生に立ちあうことができたことを誇りをもって書き添えたいと思う。
 装丁者としての吉岡さんの名人芸についても数々の想い出がある。特筆すべきは著者とその作品にあった資材の選びかたの妙だったと思う。極端に言うと、表紙クロスの選択と文字の配置、色がある一瞬に決まってしまうというか、とぎすまされた感覚の一時の集中作用であった。色や資材の見本として、あるときは身近にある例えばたばこの箱だったりすることもあったのだが、混沌から一瞬にして最上の秩序が生れるのだったし、時を経ることによって、その装丁のよさが更に生きてくるのだった。
 病床を見舞ったときのことを一つだけ記しておきたいと思う。出来あがったばかりの新刊本をお届けしたときのこと、カバーをとりはずして表紙を見、その手ざわりをたしかめながら、「中島さん(装丁者)もなかなかがんばっているネ」と、かすれた声で(そのころは声がかつてのようには出なくなっていた)言われたあと、「このクロスはとてもいいけど、僕は嫌いだから使わない」とはっきり言われた。他人の仕事への価値判断と自分の仕事のやり方の間にはっきりとした一線を引かれたこと、どんなに体調が悪くとも言うべきことは言うという、詩、装丁を問わず表現者のかわらぬ決意をみる思いだった。(隔月刊《四次元通信》50号〔追悼・吉岡実〕、1990年7月25日、四〜五ページ)

淡谷淳一が吉岡の病気見舞いに持参した新刊本は、1990年5月21日が奥付発行日の、中島かほる装丁の《澁澤龍彦文学館》の初回配本(第4巻と第5巻)に違いない。写真ではわかりにくいが、表紙のクロスにはゴッホ描くところの糸杉のような渦巻模様がエンボス加工されている。第4巻は巖谷國士の編解説になる〈サド(澁澤訳)/フーリエ(巖谷訳)〉。帯の表4には、礒崎純一が《龍彦親王航海記》で引用した荒俣宏(その帯文である〈シブサワヌスの世界に通ず〉には「左に澁澤龍彦全集があるだけでは全く足りない。右に澁澤龍彦愛読文学選を揃えて、はじめてシブサワヌスの世界に通じ得る。」と見え、この言も礒崎の《書物の宇宙誌》を後押ししたことだろう)と漫画家の大島弓子の推薦文。表1の帯文「幻のシブサワ版世界文学集成」という、淡谷のインタビュー記事のタイトルの「全集」を「集成」に変えただけの惹句には、感慨なきを得ない。

巖谷國士(編解説)《澁澤龍彦文学館〔第4巻〕ユートピアの箱》(1990年5月21日)の表紙とジャケット〔装丁:中島かほる〕 巖谷國士(編解説)《澁澤龍彦文学館〔第4巻〕ユートピアの箱》(1990年5月21日)の本扉〔装丁:中島かほる〕
巖谷國士(編解説)《澁澤龍彦文学館〔第4巻〕ユートピアの箱》(1990年5月21日)の表紙とジャケット(左)と同・本扉〔装丁:中島かほる〕

おしまいに、淡谷淳一が手掛けた巖谷國士の著書を見たい。巖谷の《ヨーロッパの不思議な町〔ちくま文庫〕》(1996年4月24日)は、淡谷が同年3月末に筑摩書房を退職した翌月に刊行されている。親本の発行は、吉岡が歿して3箇月後の1990年8月である。「一九九〇年六月五日」の日付のある〈あとがき〉の末尾を引く。

 末筆になったが、予想以上に手間どってしまったこの不思議な本の出版のために心やさしくご尽力をつづけてくださった筑摩書房編集部の淡谷淳一氏、大山悦子氏のお二人に、あらためて深謝の意を表する。(〔ちくま文庫〕、二九三ページ)

一方、「一九九六年三月十五日」の日付のある〈文庫版あとがき〉の末尾はこうだ。

 そんな再構成をこころみる機会が生まれたので、この文庫版の仕事は思いがけず愉しいものになった。あらたに編集を担当してくださった筑摩書房出版部の羽田雅美さんと、今回も相談にのってくださった原本の担当者・大山悦子さんに、厚く御礼を申しあげておきたい。(同書、二九六ページ)

《ヨーロッパの……》の姉妹篇《アジアの不思議な町》(1992年11月10日)の〈あとがき〉(「一九九二年八月三十日」の日付がある)の末尾には、「末筆になったが、前回とおなじく本書の企画者であった筑摩書房編集部の淡谷淳一氏と、終始ゆきとどいたお世話をしてくださった担当の大山悦子氏に、あつく御礼を申しあげたい。」(《アジアの不思議な町〔ちくま文庫〕》、2000年5月10日、三一四ページ)とある。なお、文庫版での担当は編集部・平賀孝男。
こうしてみると、淡谷が担当した著者の系列に、たしかに吉岡実―澁澤龍彦―巖谷國士というラインが存在したと思われる。その三者(澁澤はすでに亡く、吉岡もほどなく死を迎えるわけだが)は、淡谷淳一と中島かほるの設えた舞台――《澁澤龍彦文学館》の初回配本で出会った。それにしても、と私は思う。淡谷淳一がほんとうに出したかったのは《吉岡実全集》だったのではないか、と。《土方巽頌》と《「死児」という絵〔増補版〕》そして《吉岡実全詩集》という、晩年と歿後の吉岡実が古巣の筑摩書房から出した3冊の本すべてが淡谷淳一の尽力によるものであることに、あらためて深い感謝を捧げつつも――。

〔後記〕
本稿は、吉岡実歿後30年を期して2019年の秋から準備を始め、翌2020年4月、集中的に手入れをした。その間、署名が淡谷淳一とある文章を博捜した結果、以下の2篇を発見した。

  《ふらんす手帖(Cahiers des etudes francaises)》第5号(1976年11月)の〔追悼 渡辺一夫〕に執筆した〈著作集編集部担当者として〉(*9)
  《ブックガイド・マガジン》創刊号(1990年8月)〔特集 澁澤龍彦をめぐるブック・コスモス〕のインタビュー記事〈箱にして箱にあらざる文学館〉(*10)

さらに、これは淡谷の執筆ではないが、〔筑摩叢書〕のジャン・グルニエ(井上究一郎訳)《孤島〔改訳新版〕》(1991年2月25日)の〈改訳新版(筑摩書房版一九九一年刊)についての訳者のノート〉(末尾には「一九九〇年九月十四日/井上究一郎」とある)には「一九七一年十二月刊の第七刷以来絶版のままになっていた竹内書店版の本書を、今回筑摩書房編集部淡谷淳一氏の懇望と尽力とによって同書房から改訳新版を出すことができるようになった。」(同書、一八四ページ)と見える。《孤島》はのちに、三刊の〔ちくま学芸文庫〕(2019年4月10日)が出た。緊急事態宣言のもと、国立国会図書館をはじめとする各館所蔵の資料が閲覧できず、これ以上手広く調べられないことを遺憾とする(とくに、渡辺一夫著作集、井上究一郎=プルースト関連)。後日を期したい。

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初めに本稿以前に本サイトで言及した、淡谷淳一が(編集に限らず)出版に関わった筑摩書房刊行の書籍をリスト化して掲げる。
  ジュリアン・グラック(小佐井伸二訳)《陰欝な美青年》(1970年7月25日)=書下ろしによる叢書〈草子〉のこと
  土井虎賀壽《時間と永遠》(1974年5月10日)=吉岡実の手掛けた本(1)
  ガストン・バシュラール(渋沢孝輔訳)《夢みる権利》(1977年2月20日)=吉岡実の装丁作品(98)
  保苅瑞穂《プルースト・印象と隠喩》(1982年8月30日)=吉岡実の装丁作品(37)
  河島英昭訳《ウンガレッティ全詩集》(1988年1月1日)=吉岡実の装丁作品(85)
  河島英昭訳《クァジーモド全詩集》(1996年3月31日)=吉岡実の装丁作品(85)

(*1) 礒崎純一がこの項を執筆するにあたって参照したのは、澁澤龍彦の随筆〈天ぷら〉――初出は《朝日ジャーナル》1978年5月5日号、初収は《玩物草紙》(朝日新聞社、1979年2月25日)、《玩物草紙》は《澁澤龍彦全集〔第16巻〕》(河出書房新社、1994年9月12日)に収録――で、淡谷淳一は「C書房のAさん」として登場する。私はこの件を読むたびに、文士の群像を撮った写真のキャプションでしばしば見かける「左から小説家・某、詩人・某、ひとりおいて評論家・某」の「ひとりおいて」を想い出す。その多くは、当時の読者や後世の出版人にはほとんど無名の担当編集者たちである。澁澤の記述は、図らずも〈天ぷら〉がエッセイではなく、随筆であることを明かしている。一方、吉岡実は同じ日のことを〈月下美人――和田芳恵臨終記〉(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988)――初出は《群像》1977年12月号〔和田芳恵追悼〕――に記している。そのあたりのことは〈吉岡実と和田芳恵あるいは澁澤龍彦の散文〉の【註2】に書いているので、参照されたい。そこでは引用しなかったが、この日、淡谷と吉岡が北鎌倉の澁澤邸を訪れたのは、吉岡が編集していたPR誌《ちくま》の原稿を依頼するためだった(掲載された文章を読むと、主題はとくに提示されず、何を書いてもよかったようだ)。澁澤は同誌の第105号(1978年1月)に〈ラウラの幻影〉を寄せている。同文は澁澤龍彦《城と牢獄》(青土社、1980年6月30日)に収められた。

吉岡実編集の筑摩書房のPR誌《ちくま》第105号(1978年1月)の表紙 吉岡実編集の筑摩書房のPR誌《ちくま》第105号(1978年1月)に掲載された澁澤龍彦〈ラウラの幻影〉の冒頭(同誌、二ページ)〔本文カット:勝本冨士雄〕
吉岡実編集の筑摩書房のPR誌《ちくま》第105号(1978年1月)の表紙(左)と同号に掲載された澁澤龍彦〈ラウラの幻影〉の冒頭(同誌、二ページ)〔本文カット:勝本冨士雄〕(右)

(*2) ジャーナリスト・石井信平による550字ほどのこの記事は、短いながら退職時の淡谷淳一をみごとに捉えている。全文を引くに如くはない。

筑摩書房――最後の仕事|石井信平

 その日、三月二十九日(金)は、ほとんどの会社の年度末に当たる。筑摩書房の編集者、淡谷淳一[あわやじゅんいち]氏(六〇)にとって最後の出勤日である。
 東大仏文科を出て、三十四年間の編集者生活で、彼が手掛けたのはヴァレリー、フロベール、ボードレール、プルーストの各全集や「世界批評大系」など、幾重にも連なる山脈の偉容と言ってよい。最後の仕事が五日前に店頭に出た『吉岡実[よしおかみのる]全詩集』だった。
 平穏に暮れて送別会となるはずの、社員としての最終日、淡谷氏は『全詩集』の回収と断裁の手配に追われた。冒頭に掲げるべき詩「春」が収録されていない事が、寄贈先からの連絡で、前日にわかった。
 詩集『昏睡[こんすい]季節』は吉岡氏が一九四〇年、出征前に限定百部を自費出版した幻の処女詩集。淡谷氏は原典のコピーを入手して原稿にした。しかし、冒頭詩「春」のページがコピー原稿から抜け落ちていた。もともと目次がない。原本に当たらなければ、淡谷氏ならずとも知るよしもない。
 定価一万二千円、千三百部製作、二百三十九部配本、未回収百部。「春」なき『全詩集』は古書店でいくらになるか?
 作り直し費用二百数十万円の弁償を申し出たが会社は今のところ受けていない。山なす彼の業績と、神の気まぐれのような事故を勘案してのことである。(《AERA[アエラ]》1996年5月6日・13日合併号、六八ページ)

(*3) 巖谷國士《澁澤龍彦論コレクションW トーク篇1――澁澤龍彦を語る/澁澤龍彦と書物の世界》(勉誠出版、2017年12月8日)の〈後記〉には次のような一節がある。刊行直後にそれを読んだ私は、「筑摩書房編集部の故・淡谷淳一氏」という件に衝撃を受けた。

 澁澤龍彦はかなり早い時期から、アンドレ・ブルトンの影響下に、既成の正統的な文学史ではない「私の」文学史(『悪魔のいる文学史』という著書もその一端だろう)を構想し、それにもとづく「世界文学集成」のようなシリーズの刊行を夢想してもいた。のちにはホルヘ・ルイス・ボルヘスの前例も参考にしていただろう。
 やがて筑摩書房編集部の故・淡谷淳一氏がその夢想を実現したいと申しでてからは、各巻の収録作品リストをつくり、幾度も書きなおしたりしていた。それらの試案メモは『全集』の別巻1にすべて収めてあるので、必要ならば解題とともに参照していただくことができる。(同書、三六一〜三六二ページ)。

(*4) 羽鳥書店のウェブサイトに置かれた工藤康子《人文学の遠めがね》の〈9 「性愛」と「おっぱい」〉に次のような箇所がある。掲載年月日(2018年5月28日)は淡谷の歿後であり、工藤康子による淡谷淳一追悼文の趣がある。

 というわけで「性愛」のお話です。今から30年ほどまえ、わたしが初めて出した本〔『ボヴァリー夫人の手紙』工藤庸子編訳、筑摩書房、1986年〕の帯に「性愛とエクリチュール」という言葉が大きく印刷されており、恩師の山田𣝣先生に「貴女のようにきちんとしたご婦人が、このような言葉を使ってはいけない」とたしなめられたという話。そのこと自体は、懐かしい思い出として、どこかに書いたことはありますが〔工藤庸子編《論集 蓮實重彦》(羽鳥書店、2016年6月30日)の〈『伯爵夫人』とその著者を論じるための権力論素描――編者あとがき〉に「昔、あるところで思いきって「性愛」という言葉を使ったときに、心から敬愛する人に、きちんとしたご婦人が使う言葉ではないと優しくたしなめられたことを懐かしく思いだす。」とある〕、じつはわたし自身も、この言葉はすんなりとは通るまいと予感していた。言語論的に重要なのは、この「予感」の方なのです。
 こんな経緯がありました。担当してくださったのは、筑摩書房の淡谷淳一さん。『ボヴァリー夫人』を執筆していた当時のフロベールの書簡を抜粋して、同じページの下段に遠慮なく注をつける、そのことで作品が生成するプロセスを立体的に浮上させるという構想で、ワープロもない時代でしたから、鉛筆書きの原稿を淡谷さんに何度も見ていただいて、そのたびに、カフェで話し合い、示唆というより明確な批判をいただきました。ちょうど大学紛争の時代に学生だったわたしたちの世代は、論文指導らしきものを受けたことがない。一方で淡谷さんは、今、反芻してみると、ある種のリスクを引き受けながら書くことの手ほどきをしてくださった。明らかに「性愛とエクリチュール」という方向に、わたしの思考を導こうと意図しておられたと思うのです。
 神様のような編集者と呼んでいる人たちも身の回りにはいたりして、教養の豊かさには定評がありました。しかも度胸が据わって、途方もなく慇懃な方。「この注は、遠慮して書いておられるでしょう」という指摘を受けて、「本文と注の長さがあまりにバランスが悪くなりそうで」と言い訳すると、「ページの組み方などは、わたしども編集者が苦労すればよいことでございます」と恭しくお答えになる。帯の文言について「『性愛』という言葉は危険だと思う、妙な『挑発』と見られそう」とわたしが及び腰の発言をすると、「ご存じのように帯の文言は著者ではなく編集者が決めるものでございますから」と断固たるひと言。

「帯の文言は著者ではなく編集者が決める」のが常道なら、淡谷が編集者として手掛けた吉岡の著書――《土方巽頌》《「死児」という絵〔増補版〕》《吉岡実全詩集》――の帯の文言も淡谷が決めたものに違いない。

(*5) 淡谷自身、吉岡の《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》に登場している。すなわち「晩秋の夜遅く、新宿の喫茶店ピットインで、中嶋夏の舞踏「麗子」を観る。若い客ばかりだったが、天沢退二郎夫妻や淡谷淳一夫妻と会ってほっとした。」(〈14 舞踏「麗子」〉、同書、二六ページ)という、1968年11月の公演における出会いである。編集している本の、〈あとがき〉にではなく本文に、自分自身が出てくるとはいったいどんな感じなのだろう。私には想像がつかない。なお、吉岡陽子さんによれば、淡谷夫人は淡谷さんよりも先に亡くなったという。

(*6) 《吉岡実全詩集》の編集委員は飯島耕一・大岡信・入沢康夫・高橋睦郎の四人(並びは生年の順だが、吉岡実が知った順番でもある)。高橋睦郎は〈謎の人〉で「〔……〕吉岡さん生前の希望で筑摩書房から出た『吉岡実全詩集』扉裏には「編集」として「飯島耕一/大岡信/入沢康夫/高橋睦郎」の四人の名が並んでいるが、事実は入沢さんが筑摩の担当者淡谷さんを相手に、ほとんど独りで当たったことを、特記しておこう。」(《現代詩手帖》2019年2月号〔追悼特集・入沢康夫〕、六六ページ)と書いている。

(*7) 《吉岡実全詩集》の刊行を受けて書いたのが〈《吉岡実全詩集》解題〉で、私はそこで「吉岡実の全詩集が一九九六年の三月末に発行されるや、冒頭の詩篇〈春〉が抜けていることが判明し、版元の筑摩書房は店頭から本を回収する一方、正しい本文の「初版」を制作した。」と始めて、「本は作りなおします、という筑摩の英断には打たれた。吉岡さんにとっても吉岡実の詩にとっても最善の措置だっただろう。」と結んでいる。事の経緯を綴った資料として、併せてお読みいただけるとありがたい。

(*8) 永江朗《筑摩書房 それからの四十年 1970-2010〔筑摩選書〕》(筑摩書房、2011年3月15日)の〈静かに進んでいた大企画――『失われた時を求めて』〉に次の記述がある(人名のあとのパーレンで括られた生歿年の表示は、原文では二行の割註方式)。

 〔「新修宮沢賢治全集」と〕同じころ、同じように、深いところで静かに進行していた企画があった。「筑摩世界文学大系」(全八九巻、一九七一―八九年)所収の第57―59巻『プルーストT』『プルーストU』『プルーストV』である。この三巻に、二〇世紀最大の小説家、プルースト(一八七一―一九二二年)の代表作『失われた時を求めて』を井上究一郎(一九〇九―九九年)の個人全訳で入れてしまおう、という大胆な試みだった。
 第57巻『プルーストT』は、一九七三(昭和四八)年に刊行されていた。企画を推進したのは、筑摩書房のフランス文学関係を一手に引き受けていた淡谷淳一(一九三六年―)だった。
 思い返せば、筑摩書房は会社草創後間もない一九四二(昭和一七)年に、すでに「ポオル・ヴァレリイ全集」(全一七巻)の刊行を開始している。無謀とも大胆ともいえる挑戦だったが、結局九巻で中絶。その後、一九五〇(昭和二五)年に、全二五巻と規模を拡大して再挑戦するも、七巻でこれまた中絶のやむなきに至った。ようやく「悲願」が成ったのは、一九六七(昭和四二)年から刊行を始めた「ヴァレリー全集」(全一二巻、補巻一)である。完結は、一九七一(昭和四六)年のことである。
 という具合に、筑摩書房とフランス文学とは切っても切れない因縁があった。
 井上は、会社更生法申請を挟んでも黙々と翻訳作業を続けた。第58巻も第59巻も大冊となって、A・Bの二冊に分割された。続巻は、「倒産」直後の一九七八年一二月から再刊されて、全五冊の『失われた時を求めて』が完結するのは一九八八(昭和五三)年のことである。記念すべき、大著の個人全訳の完成だった。
 『失われた時を求めて』は、その後全一〇巻で「ちくま文庫」(一九八五年―)に入った(一九九二―九三年)。それは、「ちくま文庫」のもっとも優良な仕事のひとつとして、ずっと読者に記憶されるはずである。
 プルーストの作品は、のちに「プルースト全集」(全一八巻・別巻一、一九八四―九九年)として集大成される。立案は淡谷、担当は辰巳四郎(一九四一年―)だった。
 もうひとつ、ほぼ同時期に進行していた企画に「ボードレール全集」(全六巻、一九八三―九三年)がある。同じく淡谷の編集になるものだが、阿部良雄(一九三二―二〇〇七年)による正確・達意の訳文と、とりわけ克明な注釈が大きな評価をかちえた。
 ちなみに、このジャンルは、その後新しい編集者に託された。岩川哲司(一九五〇年―)は淡谷の仕事をさらに展開し、フランス文学のみならず、「ミシェル・フーコー思考集成」(全一〇巻、一九九八―二○○二年)などフランス思想の企画をも盤石なものにした。
 極めつきは、「マラルメ全集」(全五巻)であろう。一九八九(昭和五三)年に始まった一九世紀最高の詩人、二〇世紀に多大な影響力をもった詩人の作品集成は、二〇年をこえた後、二〇一〇年(平成二二)に新しい衝撃をともなって完結した。最後の配本となった第T巻『詩・イジチュール』は、翻訳不能なマラルメの言語宇宙を日本語に定着した、翻訳史に残る力業だった。
 「マラルメ全集」の美しい造本・装幀は、本が一個の作品であることを示している。「書物という宇宙」の具現化であろう。社内装幀者だった中島かほる(一九四四年―)のメモが残されている。「略フランス 箱入り」「素材がとてつもないもの」。ひとつの時代を切り取る、象徴的な言葉であろうか。(同書、一八二〜一八四ページ)

筑摩書房におけるフランス文学書刊行の歴史、さらにそれらと淡谷淳一の関係を叙した刮目すべき一節である。淡谷は《マラルメ全集》(松室三郎・菅野昭正・清水徹・阿部良雄・渡辺守章編)の訳者たちが付した文章には登場しないようだが、ヴァレリーの師であるマラルメの邦訳全集企画の立ちあげに関与したことは疑いを容れない。

(*9) 淡谷が執筆した〈著作集編集部担当者として〉を掲げる。なお掲載誌の《ふらんす手帖(Cahiers des etudes francaises)》は、年1回発行、編集兼発行者がCEF編集部(代表者・二宮フサ)の、左開き全篇横組のフランス文学研究専門誌(《NDL ONLINE》には「1972-1989」とある)。第5号は限定1000部。

 渡辺一夫著作集の筑摩書房における編集部担当者として,またその後の単行本『世間噺・戦国の公妃』および遺著となった『世間噺・後宮異聞』の係として,先生のお宅へお伺いした間に頂戴したなかに,手づくりの楯型紋章がある.著作集の刊行も終りに近づいた1970年5月に,索引作製担当の蘆野徳子さんとともにいただき,以来わがアパー卜の狭い入口にかけてある.
 縦30センチ横25センチ位の木製で,全体に透明なプラスチックのケースがかぶせてあり,中央に置かれた大きな帆立貝を囲んで,上部には木彫のハート型が三つ並んでいる.左右の二個は金色と銀色に,まんなかのは鮮かな赤に彩色されている.下部には紋章の曲線に沿って,突端の襞模様に書かれたJCというイニシャルを挾んで,A Vaillans Cuers Riens Impossibleと美しい銘が記されている.裏には掲示用の止め金とともに袋が貼リつけてあり,その中に和紙便箋に認められた口上書が添えられていた.
 JCはジャーク・クール(1395?―1456)であり,シャルル七世に仕え,王を財政的に援助し,百年戦争後の国家再建につくしたこと.海外貿易で巨万の富を築いたこと.王の信任にも拘らず,側近の陰謀により公金横領の罪に問われ,全財産を没収されたこと.のちイタリヤヘ逃れて教皇に用いられ,艦隊を指揮し,出征先にて病歿したこと.死後その名誉は恢復されたこと.そして「新興階級より出で,絶対王制確立のために利用されたる犠牲者の一人なるべし」とある.
 紋章の帆立貝はCoquille Saint-Jacques,ハート型はCoeur,従ってJacques Coeurを表象しているとの解説があり,元来はハート型が一個または二個のところを,三個にしたのは先生の創案であった.
中央の「赤き心」は「誠」を,左右の金・銀の「心」は,それぞれ「豊か・温情」及び「沈着・冷静」を表す.
 記銘A vaillans cuers Riens impossible(=Aux vaillants coeurs Rien d'impossible)は,ジャーク・クールの座右銘とも伝へられ,その意は,「根性あれば不可能事なし」なるべし.vallain(t)には,「勇敢な・立派な・価値ある」等の多義あれば,解釈は,この座右銘を用ひる人によつて異ることあらむ.
 先生の著作集は1970年6月から刊行をはじめ,翌71年の6月に全12巻の刊行を終えている.毎月1冊刊行ゆえ,本来ならば5月に終えて然るべきところを,途中で1ヵ月お休みしたのである.少しずつの遅れが積重なって翌月にずれこんだとも思えるのだが,一つの原因は「索引」にあった.
 この著作集にはエッセーを収めた3冊を除いた各巻巻末にすべて索引がついている(ただし『ラブレー雑考』上下巻だけは2冊分をまとめて下巻に).69年はじめごろから準備を進めてきた著作集だけに余裕は十分あったのだが,索引だけは組上ってからページ数を採る他なく,より正確な本文を元にということで再校を使用していたのである.
 索引のカードづくり,原稿作製は,経験豊かな蘆野さんの担当であった.主にフランス文学の,中世から現代にわたる欧文を主体にした索引には大変な労力が要るはずなのに,毎回予定通りに見事に清書された原稿が出来上り,先生の目を経て編集部に入るという手順であった.
 再校で採っていたために刊行が遅れたのなら,初校で採ることにしましょう,と先生は事もなげにおっしゃった.一段階前の工程で採る以上,誤植はある,ページ数は動く,と危険は増すはずだが,索引自体の原稿および校正・照合で誤りは消し去ることができるはずだ,毎月1冊刊行を約束した以上出来得るところまでやってみなければならない,との御意志が読みとれた.
 著者の決意が暗黙のうちに周囲を動かしていた.ともすれば単調になりがちな索引と本文との照合の仕事をはじめ,何か大きなものに突き動かされるようにして,定期刊行を続けることができたのだった.
 著作集の原稿は,1970年の時点でのいわば定本をつくるということであり,それぞれの論文・エッセーにわたって一番新しい版が選ばれ,複写をつくってさしあげていた.行間・欄外には朱筆,のみならず複雑な加筆を区別するために青筆,緑筆が加えられ,各篇ごとに新たに「附記」が添えられた.また,本文に附属した目次,端書,年表,後記,図版の原稿までを一度に全部揃えて下さるのを常とした.原稿仕上げの締切,校正を終える日付を一度も延ばされたことはなかったと言っていい.一夜でたくさん註のついた校正刷を100ページも済ませて下さったことさえある.常に前へ前へと担当者を引張って行かれた.
 「また日進月歩しました」と笑顔でおっしゃる.不明の点,疑問の残るところは徹底的に調べられた.
 まことに先生こそはvaillantに値する人,紋章の意味するその人だった.著作集の仕事のためとは言え,毎回一時間近く,先生の貴重な時間を文字通りなんとお邪魔してしまったことだろう.牛舌のみそづけの作りかたやテレヴィのプロレスの話から,執筆中の歴史上の人物の新しいエピソードまで,聞き手には実に豊かなひとときだった.人は自分の身丈に合せた大きさをしか受取ることができない以上,あの先生の巨きさがいまだに一つの全体としては実感できないのは当然かも知れない.しかしながら,著作を読みかえし,日常の表面の端々に現れたいわば氷山の一角をかいま見ただけでも,その途方もない巨きさだけは想像できたのである.
 真のvaillantたる先生は,最後に病魔を相手に果敢な戦いを挑まれたのだと思う.自らの怠慢のために遅れていた『後宮異聞』の担当者として,病床にお訪ねできたことに何と言うべきか知らない.想像を越えた苦しみの中で,読み得なかった参考書名を後記に記すべきことなどを,とぎれとぎれに言われたことに,真理を追い求める人の崇高さを見たように思った.
 著作集刊行を無理にお願いし,固辞する先生に,「出したいのだから承知して下さい」と言ってお許しを得た,筑摩書房の創立者古田晁の追悼文集にいただいた一節を引用したい.先生逝去の前年7月の日付である.
 古田さんは確かに他界されたわけだが,今でも,ひよつこり訪ねてこられるやうな気がしてならない.私の余生も長くはない筈だが,その間,ふと古田さんが訪ねてこられるやうな気になることが度々あるだらう.このやうな感じを与へる故人が何人かゐる.さういふ方々は,私にとつて,まだ生きて居られることにもなる.古田さんも,その一人である.
(《ふらんす手帖(Cahiers des etudes francaises)》第5号、1976年11月1日、七二〜七四ページ)

淡谷淳一が最後に引いた渡辺一夫の文章は《回想の古田晁》(筑摩書房、1974年10月30日)に収められた〈あの面影〉の最終段落で、末尾には「(julliet 1974)」とある。なお同書の装丁は、クレジットはないが、吉岡実。井村〔実名子〕――レーモン・ジャン《ネルヴァル――生涯と作品〔筑摩叢書〕》(筑摩書房、1975)を入沢康夫と共訳している――は《ふらんす手帖》第5号の〈編集後記〉を「最近刊行を開始した『渡辺一夫著作集増補版』第一回配本は,本誌にその初版制作当時の思い出を書いてくださった淡谷氏のアレンジによる見事な《友情の麦穂の束[スピキレギウム・アミキテイエ]》を附録としている.6年前のお元気な渡辺先生は,こんなにも多くのすぐれた崇拝者を持っていらしたのだ,と私は改めて感嘆してこれを再読した.」(同誌、一五八ページ)と始めている。ちなみに渡辺一夫門下の大江健三郎は1935年生。井村実名子も1935年生、淡谷淳一は1936年生。

(*10) 《ブックガイド・マガジン》は、《澁澤龍彦スペシャルTシブサワ・クロニクル〔別冊幻想文学C〕》(略称は「シブサワ・クロニクル」)の版元・幻想文学出版局が発行する書評雑誌。創刊号は、巖谷國士のインタビュー記事、種村季弘の談話とともに、淡谷淳一のインタビュー記事〈箱にして箱にあらざる文学館〉を中心に、「澁澤龍彦をめぐるブック・コスモス」を概観して、刊行されたばかりの《澁澤龍彦文学館》を盛りたてていこうとする特集だった。淡谷文の冒頭と末尾を掲げる(署名は「淡谷淳一(筑摩書房編集部)」である)。

 『澁澤龍彦文学館』刊行決定までのいきさつは、『シブサワ・クロニクル』のときに御説明したので、今回は具体的な編集作業に入ってからのことをお話ししたいと思います。
 この企画を澁澤さんに御相談したのは〔一九〕七七年のことですから、今回いろいろ改訂を加えなければなりませんでした。ひとつは分量の問題で、澁澤さんの原案ではいちばん少ない巻立てでも二十四巻ある。二十巻を越えるシリーズというのは、現在の出版状況ではかなりむずかしいので、思い切って半分の十二巻にしたわけです。それでも作家の名前はなるべく減らしたくない。そうなると、原案では長篇が主体でしたが、おのずと中・短篇を中心に集める形に変わっていきました。
 もうひとつは、シリーズ名の問題です。原案の段階では〈世界文学集成〉とか〈黒い文学館〉などの名前が出ましたが〈文学の箱〉は出ていなかった。このネーミングはもちろん当社の〈文学の森〉シリーズを踏まえているわけですが、今回編集協力をお願いした出口裕弘・種村季弘・巖谷國士の三氏は、その点アイディア豊富というか、いろんな案が出まして、直接の命名者は種村さんだったと思いますが、あっちが森≠ネら、こちらは庭≠セと。ただ庭≠ナはやや弱いので、次に箱≠ェ出てきた。箱は、澁澤的なミクロコスモスの具象化でもありますから、これに決定したわけです。当初は〈澁澤龍彦・文学の箱〉としたんですが、あまり〈文学の森〉の真似をするのも寂しいので、こちらはシリーズ・タイトルを〈澁澤龍彦文学館〉として、各巻に〜の箱≠ニ名前をつけました。
 次に、これから出る巻について予告編ふうにお話ししていきましょう。
 〔……〕
 装幀に関しては、函入り本にするかどうかでずいぶん迷いました。〈文学の森〉に比べれば、こちらは高級・少数者志向ですから差別化をはかったほうがいいんですが、しかしいまや函に入れた本は若者が手にとらない。それでカバー装に決まったのですが、箱という言葉にはこだわって箱にして箱にあらざる造本という難題を、当社の装幀者の中島かほるに課したわけです。まずカバー上部の黒っぽい影、これは本の外に位置する箱の投影なんです。二冊ならべると分かりますが、影の位置が違うでしょう。一巻ごとに移動して、最終巻では影が消失するかも知れません。それから本体の表紙は、実は箱の展開図なんですよ、ちょっと気がつかないかと思いますが。帯にもフランス語でイタズラをして〔帯の表紙2には「C'est une boite.」、表紙3には「Ce n'est pas une boite.」と見える〕、それらをひっくるめて箱にして箱にあらざる≠アとを打ち出したつもりです。A5縦長という判型は、当社で唯一の澁澤さんの著書である『サド侯爵の手紙』にちなんだものです。
 本を届けにうかがったとき、奥さんがいつもこうするんですよ≠ニ、澁澤さんの机の上に二冊をならべてくださったので、そこで最敬礼をして、心の中でお詫びを呟いたんです。別にこれで罪滅ぼしできたわけではありませんけれど、まがりなりにも出せてよかったなということは非常に思いましたね。(同誌、一八〜一九ページ)

引用文で中略した「これから出る巻について予告編」は、全12巻のうち10巻に及び、本記事の眼目である(淡谷の前のページには、〈『澁澤龍彦文学館』内容一覧〉を掲載)。初回配本の《ユートピアの箱》と《綺譚の箱》の2巻は、既刊のため触れなかったものと思しい。《ブックガイド・マガジン》創刊号の表紙裏(表紙2)には、BBとMMによる対談形式の〈装幀漫談〉が載っている。対象の書籍は、初回配本の2巻、巖谷國士《澁澤龍彦考》(河出書房新社、1990年2月20日)など、全部で6冊。吉岡実装丁になる《澁澤龍彦考》は、「BB 〔……〕Bもシブいねえ。/MM カバー、表紙、見返し、扉の色調と素材が微妙に響きあって、すっと本文に入っていける――シンプル・イズ・ベストのお手本のような本です。」とある。署名はないが、同誌編集人の東雅夫によるものか。吉岡実はこの年、1990年5月31日、71歳で病歿している。

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〔2020年6月30日〜2020年8月31日追記〕

永江朗《筑摩書房 それからの四十年 1970-2010〔筑摩選書〕》(筑摩書房、2011年3月15日)の巻末には、〈年譜(1970-2010)〉が横組・左開きで16ページにわたって掲載されている。一覧表の項目は「年」「出版物(単行本等)」「出版物(シリーズ)」「出版物(個人全集)」で、最後の見開きページの表の欄外に次の注記がある(同書、三六三〜三六二ページ)。

(注1) 単行本等は、その年の刊行物のなかから選択して掲げた。ただし、同一著者の作品がなるべく重複しないよう意を用いた。この一覧表は、筑摩書房の刊行物のバラエティを示すためにつくられている。ベストセラー・リストでもなければ、かならずしもベスト・セレクションという性格のものでもないので、その点をご賢察のうえご了承をいただきたい。
(注2) 単行本等は、単行本を中心にしているが、その他シリーズのなかから選択したものもある。翻訳書は、いくつかの例外はあるものの、ほとんど収録しなかった。また、文庫もいっさい含まれていない。シリーズ・個人全集は、小さい巻構成のものを除いてほぼすべて掲げた。作品名の冒頭の数字は、刊行の月を表す。また、作品名の末尾の数字は、完結の年・月を表す。

ここからも明らかなように、同リストは「筑摩書房の刊行物のバラエティを示すため」のもので、《〔創業50周年〕筑摩書房図書総目録 1940-1990》(筑摩書房、1991年2月8日)のような網羅性は希むべくもない(ちなみに創業70周年に当たる2010年には〈図書総目録〉の出版計画がなく――というか、印刷物での刊行が難しくなり、というふうに当時《ちくま》編集長の青木真次さんは林哲夫さんとの茶話会で私の質問に答えた――筑摩の社内には企画や編集のためのデータベースが完備されているのだろうが、一般読者が利用できる図書総目録/データベースは公開されていない)。が逆に、そこに記載された書目に目を凝らせば、淡谷淳一が同社で編集した本(1970〜1996)、吉岡実が装丁した本(1970〜1978は社員として、1979〜1990はフリーランスとして)を見いだすことは必ずしも不可能ではない。ただし、リストの1970〜1996には「出版物(単行本等)」が242点、「出版物(シリーズ)」が110点、「出版物(個人全集)」が121点、計473点掲げられていて、それらをくまなく実見するにはしかるべき時間を要する。よって、以下では〈あとがきに見る淡谷淳一さん〉(2020年5月31日)以降、確認できたものを随時、追記していく。

筑摩で編集を担当した主戦場がフランス文学だった関係上、淡谷が手掛けた書籍はいきおい翻訳物が中心となり、それがために〈年譜(1970-2010)〉にも登場しにくい結果となった。また、翻訳書の訳者によるあとがきは、創作物の著者によるあとがきよりも担当編集者に触れる比率が少ないような気がする。そこで、著訳者あとがきに淡谷淳一が登場する場合は「1.」のように数字を伴った表示にして掲げるが、総合的な見地からは淡谷淳一企画編集本と思われるものの(筑摩書房は担当編集者をクレジットしない)、あとがき等に言及が見られない存疑の書目≠ヘ、救済措置として冒頭に「・」を付けて、別枠で掲げることにする。〈年譜(1970-2010)〉に採録されている書目は、(★)印を表示した。

  1. 村松剛《評伝ポール・ヴァレリー》(1968年6月25日)の〈あとがき〉のなかほどに次の記載がある。「〔……〕昭和三一年だったと思いますが、評伝を書くつもりで、その最初の部分を雑誌『近代文学』にのせてもらったことがあります。しかしあとが容易にでき上らず、これは結局一回だけでおわりました。/季刊の雑誌『批評』に、昭和三三年の創刊号から六回にわたって、ポール・ヴァレリー研究と題する評伝を連載しました。だがこれも本書でいえば第二部「『テスト氏』の時代」の半分くらいのところで、中絶したままになりました。ヴァレリー論を書きあげることは、ぼくにとっては一つの大きな宿題でした。/本書の刊行について、筑摩書房とのあいだではなしがきまったのは、三年以上まえのことです。「待たされてもせいぜい二年くらいだと思っていた」と、担当の淡谷淳一氏は、歎息とともに述懐されました。まことに申しわけない次第で、淡谷氏の忍耐と督励がなかったら、ぼくはいまでもこの人生の宿題を果すことができなかったでしょう。氏に心からの感謝をささげます。」(四八〇ページ)。〈あとがき〉の末尾は「昭和四三年五月/著者」。また奥付の最後に、「著者 村松剛」と同じ大きさの活字で「装幀者 栃折久美子」とあるが、栃折は1967年に筑摩書房を退社し、装丁家として独立している。
  2. ジョージ・D・ペインター(岩崎力訳)《マルセル・プルースト――伝記〔下巻〕》(〔初版:1972年7月10日〕新装版:1978年6月30日)の〈訳者後記〉は「昨一九七一年はマルセル・プルーストの生誕百年にあたり、フランスでは多彩な記念行事がくりひろげられた。」(三七七ページ)と始まっており、本訳書はそれを踏まえた刊行だったことをうかがわせる。同文の最後の段落は「最後に、この本を翻訳する機会を作って下さった井上究一郎先生、写真資料に関してお世話になった渡辺一民氏、稲生永氏に厚く御礼申上げる。また、ふりかえってみれば五年の長きにわたって本書刊行の実務を担当され、訳者にたいしてつねに熱心な配慮と激励とを惜しまれなかった淡谷淳一氏にも心から御礼申上げる。」(三八四ページ)であり、末尾に「一九七二年五月/訳者」とある。なお訳書名は、奥付では単に「マルセル・プルースト」――原題も“Marcel Proust”――で、「伝記」は表紙・別丁本扉・本文扉に表示されている。
  3. レーモン・ジャン(入沢康夫・井村実名子訳)《ネルヴァル――生涯と作品〔筑摩叢書214〕》(1975年3月20日)の〈訳者あとがき〉には「本訳書は、ほぼ時を同じくして、筑摩書房から刊行されることになった『ネルヴァル全集』全三巻に対する、一つの読解の手引きともなることを期待しつつ訳出したもので、」(一八九ページ)と刊行意図が述べられている。三巻本全集の編集に当たっていた入沢康夫、稲生永、井村実名子たちと淡谷淳一が、全集を側面から支えるべく、本訳書を企画したと考えられる。なお、同文の最後の段落は「終りに、本訳書が刊行されるについて、一方ならぬお世話になった編集担当者淡谷淳一氏に、感謝の意を表したい。」(同前)で、末尾に「一九七四年十一月二十五日/訳者」とある。
  4. 井上究一郎《ガリマールの家――ある物語風のクロニクル》(1980年9月25日)の〈あとがき〉は、プルーストの訳者らしく、一文で成り立っている。すなわち「単行本を出すにあたってつぎの方々のご厚意を忘れることができない、――近藤信行氏、故塙嘉彦氏をはじめ、初稿掲載当時の《海》編集部の各位、〔…400字強を中略…〕早くから単行本にするようにとおすすめくださった清水徹氏、それの実現に積極的にとりくまれた筑摩書房の淡谷淳一氏、そして最後に、本書の装丁を快くひきうけていただいた栃折久美子氏、以上の方々にはこの場所で改めて心からの感謝をささげる。」(一六二ページ)で、末尾に「一九八〇年五月八日/井上究一郎」とある(★)。同書は蓮實重彦の〈濡れた男の陶酔――井上究一郎『ガリマールの家』解説〉を伴って〔ちくま文庫〕(2003年6月10日)として刊行される際、「本書は、一九八〇年九月に筑摩書房より刊行された『ガリマールの家』に、『ネルヴァル全集』(同社刊、全六巻)月報に四回にわたり連載された「モルトフォンテーヌ」(一九九七年十一月―二○○一年三月)を併せ収めた。」(〔二五五ページ〕)と見えるように、増補された。
  5. ジャン=リュック・ゴダール(奥村昭夫訳)《ゴダール/映画史 U》(1982年10月30日)の〈訳者あとがき〉の最後の段落は「また筑摩書房の淡谷淳一氏には、訳出の機会を与えていただいただけでなく、訳文の文体、訳注のつけ方、索引のつくり方など、すべての点であたたかいご指導をいただいた。心からお礼申し上げる次第である。」(五〇〇ページ)で、末尾に「訳者/一九八二年六月」とある。同書は先に出た《ゴダール/映画史 T》(1982年7月30日)と合わせて《ゴダール 映画史(全)》(2012年2月10日)として〔ちくま学芸文庫〕に収められた。その際、〈訳者あとがき〉も単行本刊行時のまま掲載された。
  6. ピエール・ガスカール(入沢康夫・橋本綱訳)《ネルヴァルとその時代》(1984年10月20日)の〈訳者あとがき〉の最後の段落は「また、本訳書の刊行に当って、終始お世話になった編集担当者淡谷淳一氏にも、ここで感謝を述べさせていただくことにする。」(三二四ページ)で、末尾に「一九八四年八月三日/入沢康夫/橋本綱」とある。
  7. 高橋康也《エクスタシーの系譜〔筑摩叢書299〕》(1986年3月30日)は、1966年にあぽろん社から刊行された高橋康也の処女作《エクスタシーの系譜》の新版。〈新版あとがき〉の最初と最後の段落はこうだ。「「死ぬのはいつも他人」(デュシャン、寺山修司)をもじって、「年をとるのはいつも他人」と言いたいところだが、そうは問屋がおろさないらしい。生きながらえて二十年前の古証文をつきつけられようとは、思い及ばなかった。もちろん、それをつきつけているのは、新版を出せといってくださった筑摩書房の淡谷淳一氏である以上に、それを書いたかつての自分自身である。」「旧版の(シェイクスピア『ソネット集』の献辞を借りれば)「唯一の生みの親[ジー・オンリー・ベゲツター]」御輿員三氏、および旧版のすてきな装幀者和泉融[、、、]氏(実は小池_氏)には、ここで再び御礼を申し上げたい。筑摩叢書という新しい場を提供してくださった淡谷淳一氏、快く版権を譲ってくださったあぽろん社の伊藤武夫氏、旧版の愛読者として進んで新版を担当された筑摩書房の菊地史彦氏に、心からの感謝を捧げる。出淵博氏が「解説」の筆をとることを承諾されたという。身に余る光栄である。」(二九六、二九七ページ)。末尾には「一九八六年一月/高橋康也」とある。
  8. モーリス・ブランショ(粟津則雄訳)《踏みはずし》(1987年8月31日)の〈訳者あとがき〉の最後に「本書の翻訳にとりかかったのは十数年前のことだ。さまざまな事情ですっかり完成がおくれたが、何はともかく仕上げることが出来てほっとしているところだ。長いあいた辛抱強く待ってくれた筑摩書房の淡谷淳一氏に感謝する。/装幀は菊地信義氏の手をわずらわせた。記して御礼申しあげる。」(四二九ページ)とある(末尾に「一九八七年七月/粟津則雄」)。
  9. 宮澤清六による兄・賢治をめぐる《兄のトランク》(1987年9月20日)の〈あとがき〉の最後の段落は「終りに、この本を出版することを熱心にすすめて下さった淡谷淳一さん、作品を集めるための並々ならぬ労を賜りました山本克俊さん、校正その他いろいろお世話をいただいた筑摩書房の皆様と、写真家の北條光陽さんに心からのお礼を申し上げます。」(二四一ページ)で、末尾には「昭和六十二年七月二十八日/宮澤清六」とある(★)。同書は〔ちくま文庫〕(1991年12月4日)に収められる際、新たに2篇を加えて決定版とし、〈あとがき〉は単行本刊行時のものを掲載している。
  10. 出口裕弘《私設・東京オペラ》(1988年4月10日)巻末の〈付記〉は「この本の成立ちについて書いておきたい。/巻頭の「炎の遠景」は、現在、月刊「ちくま」に連載している「私設・東京オペラ」の第一回である。単行本のタイトルも、そこから来ている。」」(二一五ページ)と始まり、終わりは「写真家の渡辺兼人さんには、〔……〕取材旅行を共にしてもらった上、今度の本にも優れた作品を寄せていただいた。/そしてこういう形で一冊の書物が出来上ったのは、筑摩書房編集部の淡谷淳一さんのおかげである。「ちくま」連載中のものを含めて、「私設・東京オペラ」については、すべて淡谷さんに面倒を見ていただいた。/装幀は、中島かほるさんにお願いした。/みなさんに深く感謝したい。」(二一五〜二一六ページ)で、末尾に「昭和六十三年二月/出口裕弘」とある。なお、渡辺兼人は選詩集《吉岡実〔現代の詩人1〕》(中央公論社、1984年1月20日)の口絵写真に5点のモノクロ作品を寄せている。
  11. モーリス・ブランショ(粟津則雄訳)《来るべき書物》(1989年5月25日)は、1968年に現代思潮社から出た同書の改訳新版。〈改訳新版のためのあとがき〉の最後に「改訳新版に当って版元を移すことを快く諒承してくれた現代思潮社の石井恭二氏に感謝する。/『踏みはずし』に続いて、装幀は菊地信義氏の手をわずらわした。上梓に当っては淡谷淳一氏に万端にわたってお世話をかけた。記して御礼申しあげる。」(三九六ページ)とある(末尾に「一九八九年四月/粟津則雄」)。〔ちくま学芸文庫〕(2013年1月10日)のカバーデザインも菊地信義。
  12. 渡辺一夫《渡辺一夫ラブレー抄〔筑摩叢書339〕》(1989年11月25日)の編者・二宮敬による〈編者あとがき〉のなかほどに次の記載がある。「従って私としては第三の『ラブレー雑考』上下二巻約千ページの大冊と、先生没後に増補された著作集第十四巻『補遺・下巻』(一九七八)に収められたラブレー関係の文章の中から、二〇〇ページ弱を選び出さねばならなかった。この企画を熱心に進められた筑摩書房編集部の淡谷淳一氏と色々首をひねった末、変な小手先細工はやめにして、まず執筆年代順に配列すること、そして純然たる論文よりもくつろいだエッセー風のもの、あるいは「略註」の一部を思いのままに敷衍したとでもいえるものに力点を置くことにした。」(二四七ページ)。
  13. 出口裕弘《ペンギンが喧嘩した日》(1990年2月28日)巻末の〈付記〉は「タイトルのいわれはあとまわしにして、まず本としての成立ちをいえば、この本、幹も枝も、おおかたは月刊誌「ちくま」の連載エッセーである。昭和六十二年から六十三年にかけて、私は前後十六回、「私設・東京オペラ」と題する文章を「ちくま」に書いた。そしてその第一回分を序文がわりにし、書名もそこから取って、単行本『私設・東京オペラ』を筑摩書房から刊行した。/今度の本は、その連載の、第二回以降最終回まで十五本のエッセーを中心に置き、」(二〇九ページ)と始まり、本書執筆の経緯を述べている。〈付記〉の最後の段落は「今回も、淡谷淳一さんに、終始、お世話になった。装幀も、ひきつづき中島かほるさんにお願いした。厚くお礼を申しあげます。」(二〇九〜二一〇ページ)で、末尾に「平成元年十二月/出口裕弘」とある。
  14. 吉田城訳の《プルースト=ラスキン『胡麻と百合』》(1990年8月10日)の訳者による〈あとがき〉は「本書は、プルーストがフランス語に翻訳したジョン・ラスキンの『胡麻と百合』の全体、すなわちラスキンの原文、プルーストの序文と脚注を、日本語に翻訳したものである。したがって、やや複雑な構成にならざるを得なかったことをお断りしたい。編集方針、底本、参考にした主な文献について、以下に簡単に述べておくことにする。/本書では原則として各〔見開き〕ページの右側にラスキンの日本語訳を、左側にプルーストの注とラスキンの原注を、向かい合わせる形で置いた。ラスキンの翻訳は、あくまでもプルーストがフランス語に訳したもの(『胡麻と百合』メルキュール・ド・フランス社、一九〇六年――以下、「メルキュール版」と略す)を底本として用いた(パリの国立図書館で複写した資料を利用した)。プルーストが誤訳したと思われる個所、独創的な訳語を案出した個所、脱落、遺漏、その他とにかく英語の原文との距離が感じられるところには、各節の終わりにアルファベット符号を付けて注記した。」(同書、二五三ページ)と始まり、「本書は全体としていろいろな注が錯綜し、読みにくいものになってしまったのではないかと筆者はおそれている。けれどもイギリスを代表する思想家の一人ラスキンと、フランスを代表する作家の一人プルーストが直接出会った、貴重な記録としてお読みいただければ幸せである。/この本をまとめるにあたって、筑摩書房の淡谷淳一氏、校閲を担当してくださった本多雄二氏には終始お世話になった。心からお礼を申し上げたい。また、博覧強記のラスキンとプルーストに対して、蛮勇をふるって注を付けてみたが、至らないところも多々あるに違いない。大方のご叱正を賜りたい。」(二五五ページ)と終わっている。造本・装丁のクレジットはないが、洗練された本文組版やシャープなジャケット・本扉のデザインは、中島かほるによるものか。
  15. 井上究一郎《かくも長い時にわたって――PROUST, POT-POURRI》(1991年5月20日)には、著者の井上究一郎(1909〜1999)によるあとがきがない。かわりに淡谷自身が〈刊行者のノート〉という標題で筆を執っているので、全文を掲げる。なお、同文の末尾には「(一九九一年一月 筑摩書房編集部 淡谷淳一記)」とある。
     マルセル・プルースト『失われた時を求めて』の個人全訳を完成された井上究一郎氏の、一九四〇年代後半、当時の総合雑誌等に発表された先駆的な論文を含むプルースト論集成の出版は、長いあいだの私の夢でした。ここに著者の自選によって既刊単行本未収録のプルーストに関する論文とエッセーを四部にまとめた『かくも長い時にわたって』をPROUST, POT-POURRIという頬笑ましい副題のもとに刊行できますことを大変うれしく思います。
     各作品の初出と加筆とについては著者自身の手になる巻末の年代表をごらんになって下さい。今回各作品を一巻にまとめるにあたっては、各篇に共通の固有名詞、作品名、引用語句のあいだに著者によって表記法の統一がなされました。『失われた時を求めて』からの本文引用は、旧プレヤード文庫版によるプルースト全集十巻の訳者としての著者の訳文からであり、『ジャン・サントゥイユ』と『サント=ブーブに反論する』からの引用は、ガリマール出版社のベルナール・ド・ファロワ版による著者自身の訳文です。その他のプルーストの作品からの引用もことわりのないものは著者の訳文によるものです。そのことは、本書におさめられた諸篇が書かれた当時の事情を物語っていて、各篇の統一も加筆もその枠を越えうるものではないことを、著者は特に私に強調されました。なお「マルセル・プルーストの方法」の一篇と引用の一部は、雑誌発表時のように、用字法が初出のままで再録されていることは、初出一覧に断り書きがある通りです。
     井上究一郎氏のプルースト関係の著作には、学位論文『マルセル・プルーストの作品の構造』(河出書房新社、一九六二年)の他、『忘れられたページ』(筑摩書房、一九七一年)、『ガリマールの家』(筑摩書房、一九八〇年)、『幾夜寝覚』(新潮社、一九九〇年)がありますことを申し添えます。
     単行本に収められていなかったプルーストに関する文章だけを集めて一冊にしたはじめての本、恐らく著者の五十年以上にわたるであろうプルースト研究の収穫がここにとりまとめられたことを心からよろこびたいと思います。(三七七〜三七八ページ)

9.の宮澤清六《兄のトランク》刊行の10日後に、吉岡実《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》が同じ淡谷淳一の編集によって刊行された(1987年9月30日)。私は、吉岡の書きおろしの評伝と宮澤の初のエッセイ集がほとんど同時進行だったことに衝撃を覚える。しかも、宮澤の〈あとがき〉の末尾は「昭和六十二年七月二十八日」、吉岡のあとがき 〈補足的で断章的な後書〉の末尾も「1987年7月28日」と、同年同月同日なのだ。淡谷のなかで企画が胚胎したのは、どちらが先だったのだろうか。ちなみに、淡谷が吉岡を訪ねて「今までに土方巽へ捧げた詩篇と、散文、それに若干の書下しの文章を加えて、小さな本をつくりましょう」と提案したのは、吉岡が土方巽(1928.3.9.〜1986.1.21.)の遺文集《美貌の青空》(筑摩書房、1987年1月21日)の刊行準備に参画し(編集担当は松田哲夫、書名の発案者・吉岡は装丁も担当した)、肩の荷もおりた1986年の春から間もなくのことだった(前掲〈補足的で断章的な後書〉)。このときの淡谷の胸中を忖度するに、宮澤賢治の実弟の文章を一本に編むことができたのなら、土方巽の心友である前衛詩人から「一大追悼篇」(《筑摩書房 新刊案内》の文言だが、淡谷自身の手になるか)をもぎとることも、あるいは可能ではないか、と。

12.の《渡辺一夫ラブレー抄〔筑摩叢書339〕》刊行前年の1988年9月、淡谷淳一は吉岡実の随想集《「死児」という絵〔増補版〕》を〔筑摩叢書328〕として刊行している。吉岡は同書の〈あとがき〉の最後の段落で「この八年間に書いた文章は、わずかに百五十枚足らずである。いずれも「日常反映の記録」にすぎないものばかりだ。増補して、最終章に収めている。」(三七〇ページ)と書いており、新規原稿を元版(思潮社、1980)の部立ての各章に組みこまず、「増補して、最終章に収め」たのは、著者である吉岡と編集者である淡谷とが「色々首をひねった末、変な小手先細工はやめにし」た結果ではないだろうか。

《プルースト全集〔第1巻〕》の〈月報――1〉後半の〈編集室〉の文体は、本文に引いた《筑摩世界文學大系 23》付録〈編集後記〉(推定、淡谷淳一執筆)を彷彿させる。もっともこれ自体ある種の業務文章だから、淡谷と辰巳のどちらが書いたか、文体の特徴からだけでは決め手に欠ける。筑摩版プルースト全集は、淡谷の退社後、〔岩崎力・鈴木道彦・保苅瑞穂・吉川一義・吉田城他訳〕《プルースト全集〔別巻〕プルースト研究/年譜》(1999年4月25日)で完結した。〈月報――19〉の〈訳者紹介〉に続けて末尾にこうある(無署名だが、辰巳四郎の筆になるか)。「最終回配本『プルースト全集』別巻をお届けいたします。第一回配本『スワン家のほう』(『失われた時を求めて』第一編、全集第一巻)の刊行が一九八四年九月でしたから、完結までに十四年七カ月を要したことになります。読者の皆様にはたいへんなご迷惑をおかけ致しました。心よりお詫び申しあげます。また、それにも拘らず最後までご購読いただきありがとうございました。/本年一月二十三日、本全集において『失われた時を求めて』個人訳を完成されました井上究一郎先生が逝去されました。ご冥福をお祈り申しあげます。」(八ページ)。

〔2021年6月30日追記〕
平出隆監修《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991年4月15日)の編集担当は、その後、東京新聞に移った大日方公男さんである。私は同書巻末の吉岡実資料を調査・執筆したが、大日方さんは思潮社で吉岡実担当だったわけではないらしく(晩年の吉岡がいちばん親しくしていた版元は書肆山田で、大日方さんは当時まだ出ていなかった吉岡の全詩集がてっきり書肆山田から出るものだと思っていた)、私の原稿の校閲を吉岡に近い人人に依頼して万全を期したのは、なまじ吉岡実の事績に詳しくなかっただけにかえって好かったかもしれない。その〈吉岡実年譜・書誌・参考文献〉は扉を含めて39ページあって、大日方さんの慫慂で最後のページに〈〈吉岡実〉を探す方法――年譜・資料を作成しながら〉と題するあとがきを書かせてもらった。資料本文にももちろん手間がかかったが、この文章にもずいぶん時間をかけたものだ。以下に同文のおしまいのブロックを引くが、ワープロ専用機で打ったとはいえ、仕上り7ポ22字詰33行3段組で40ページ近い原稿を淡谷淳一さんに見ていただけたのは、いま考えてもありがたく、幸運なことだったと思う(〈吉岡実年譜〔作品篇〕〉のタイトル下の写真は〈吉岡実年譜〉の第一稿)。ご配慮いただいた大日方公男さんに改めて感謝する。

本資料のうち、年譜は〈吉岡実詳細年譜〉とそれを基にした吉岡実自筆〈年譜〉、わたしの〈吉岡実著作目録1940‐1989初出篇〉を中心に執筆した(〈著作目録〉をお送りしたときに未刊の二つの詩篇の存在をご指摘いただいたのが、吉岡さんからの最後の便りになってしまった)。伝記には暗黒舞踏と俳句関連の事項を補ったが、なにぶん逝去以後の作業のため、重要な項目が洩れていないかと惧れる。自著自装と考えられるので、書誌のうち著書目録は造本面も詳述した。参考文献目録の作成にあたっては〈主要参考文献〉ほかを参照し一九九〇年末までのものを博捜したが、網羅的・体系的でないことをお断りしておく。
記載洩れの補正、吉岡家所蔵洩れ作品の発見、掲載誌紙や発表時期の未詳のものの確認、新資料の発見を心掛けている。今後とも訂正増補してゆきたいので、お気づきの方のご教示をお願いする。
多くの資料を借覧させていただいた吉岡実夫人陽子さんはじめ、飯島耕一さん、平出隆さん、大泉史世さん、淡谷淳一さんに深く感謝いたします。(同書、三二七ページ)

わざわざ書きつけるまでもないが、飯島耕一さんは吉岡実の葬儀委員長を務めた吉岡の最も古い詩友、平出隆さんは詩人にして本書の監修者(以前は河出書房新社の編集者)、大泉史世さんは吉岡の単行詩集の装丁もしている書肆山田の担当編集者、淡谷淳一さんのことは本稿で詳述した。説明は不要だろう。繰りかえせば、淡谷さんは《現代詩読本――特装版 吉岡実》の担当ではないのである。一介の吉岡実ファンだった私の原稿を読んでいただけたのは、ひとえに吉岡実と〈吉岡実〉への敬愛のなせるわざだろう。そのことに心から感謝する。

〔2021年8月31日追記〕――その1
白倉敬彦《夢の漂流物[エパーヴ]――私の70年代》(みすず書房、2006年8月10日)を読みかえしていて、豊崎光一(1935〜1989)の著書のことを思った。そして《他者と(しての)忘却――メタフォール メタモルフォーズ》(筑摩書房、1986年11月28日)の巻末の〈跋〉(同書、〔三二六ページ〕)にたどりついた。署名こそないが、著者の豊崎光一のペンになるに違いない。全文を引く。ちなみに《他者と(しての)忘却》は「清水徹に」捧げられている。

     跋


   記憶よりも深い忘却を――

この本の成立に私自身と(ほとんど)同じく与かっている他者(死者、生者)たちに。
(彼らはすなわち私自身の忘却、そして私自身はすなわち彼らの忘却。)


   忘れ得ぬ感謝を――

この本の共謀者、共作者でさえある
淡谷淳一、岩川哲司、中島かほるさんに。

白倉の《夢の漂流物》には〈瀧口修造のこと〉という章があって、「私の周囲には、瀧口修造と親しい人たちが結構早くからいた。しかし、私が瀧口さんと会ったのは、かなり遅い。吉岡実さん(註**)などは、会うたびに、瀧口修造に会いに行け、とすすめてくれたが、そのたびに私は、避けていた。」(同書、一一四ページ)という本文に付けられた註は、本文よりも小さな活字で1ページ半近くもあって、〈吉岡実のこと〉という本文の替わりになっているようだ(吉岡は〈飯島耕一のこと〉や〈宮川淳のこと〉の章にも登場するが、この本に人名索引はない)。その(註**)は、「吉岡実さんとは、何が機縁でお会いするようになったか思いだせないが、神保町にあった筑摩書房に訪ねて行って社の近くの喫茶店で話し込んだり、偶然渋谷の街で出会ってお茶を飲んだりしていた。たぶん、最初は、彼の詩集の出版をお願いに行ったのだろうが、話は大抵、小出版社の大変さに触れて、先輩として心配してくれるといったものだった。」(同書、一三七ページ)と始まる。白倉は編集者時代、何の紹介がなくても誰にでも会いに行ったというから、吉岡を訪ねたのもその伝だろう。残念ながら、本書からは豊崎光一と吉岡実が相識の間柄だったかはわからない(豊崎さんが亡くなったあと、吉岡実と会う機会があったが、そのときの話の様子からは、面識がないように感じられた)。

〔2021年8月31日追記〕――その2
直接の担当ではないようだが(中継ぎか)、末尾に「一九七一年八月/菊池映二」とあるアンドレ・モーロワ(菊池映二訳)《アレクサンドル・デュマ》(筑摩書房、1971年10月5日)の〈訳者あとがき〉にも言及があるので、最後の段落を引く。

 訳者もまた『モンテ・クリスト』と『三銃士』を熟読し、ジャンヌ・モローの「ネール塔」や「女王マルゴ」の映画に心をそそられた。パリ座で観たエドウィジュ・フィエールの椿姫は一九六〇年のパリの観客に涙を流させている。モーロワについても『バイロン伝』の古い邦訳が大好きであった。したがって、ブール・ミッシュの本屋で本書を手にした時、是非訳してみたいと思った。しかし博学なモーロワの書いた文章は意外と困難なものであった。百科辞典を引きはじめたらきりがない。手紙のところになると前後の事情もよくわからない。途中で何度も投げ出してしまった。それで結局、金子博氏、成瀬駒男氏、牧原清氏に途中の部分の下訳をお願いし、さらに最後のしめくくりに岡部正孝先生までお手伝いを願い、固有名詞の読み方まで見ていただく始末であった(しかし岡部先生の御指摘にも拘らず日本の慣例によったものもある)。筑摩書房の方でも、出版の件を決めて下さった方たちはもとより、安引宏さんをはじめとし、山田丈児さん、淡谷淳一さんをへて斎藤晃さんに至るみなさんの御世話によってようやく完成することが出来た。もちろん、その他の方にも御迷惑をかけたことと思うし、一番の迷惑は読者であろう。ここに記して感謝とお詫びのしるしとしたい。(同書、四六四〜四六五ページ)

〔2021年9月30日追記〕――その1
このところ吉岡実装丁本の探索を兼ねて、1950〜1970年代を中心に筑摩書房刊行の文芸書の単行本を見ている(本文を読んでいるわけではない)。今月も淡谷さんが関わった書籍に出会った。訳者・著者のあとがきを見よう。まず、ピエール=アンリ・シモン(戸田吉信訳)《人間の証人たち――二十世紀フランス文学論》(1974年5月25日)。末尾に「一九七三年十一月」とある〈訳者あとがき〉にこうある。

 本書はピエール=アンリ・シモン(一九〇三―一九七二)著『人間の証人たち――二十世紀文学における人間の条件、プルースト、ジッド、ヴァレリー、クローデル、モンテルラン、ベルナノス、マルロー、サルトル、カミュ』〔……〕の翻訳である。〔……〕
 〔……〕
 〔……〕なお、本書の副題をあえて一般的に「二十世紀フランス文学論」としたが、これによって著者の意図が特に裏切られることはないだろう。
 最後に、本書の刊行にさいしなみなみならぬ御配慮をいただいた筑摩書房の淡谷淳一氏、また原稿の整理その他で御面倒をおかけした同書房の持田鋼一郎氏にこの場をかりてあつく御礼申しあげる次第である。(同書、三四五〜三四八ページ)

企画を立案・推進したのが淡谷淳一、編集実務を担当したのが持田鋼一郎(1942〜 )という処だろうか。プルースト〜カミュの9人の顔写真をコラージュしたジャケットのデザインは、中島かほると思しい。

〔2021年9月30日追記〕――その2
寺田透《不可測の振幅》(1990年7月30日)のあとがき〈不可測の振幅奥書き〉にはこうある(末尾に「一九九〇年四月二十三日」)。

 かなり長い期間にわたりそちこちに書いた色々の主題のエッセーを、これまでも同種の本を出してくれた筑摩書房からまた出すことになつた。前の担当者が病気で退職したさうで、こんどはヴァレリー関係のしごとで馴染みの淡谷淳一君の骨折りである。
 〔……〕
 大きな出版企画のために出版社が発行する内容見本と呼ばれる印刷物にのせた短文が二篇入れてあるのは、全集に収める場合でもなければ、普通ひとのしないことだらうが、その内容が著者としてはそこで初めて書いたものであり、しかしその後発展的に書く機会を持たずにゐるものの、提示することに、殊に後読の文との関係からは十分意味があると見なされたからである。
 初校を終へて、あまり赤の入つてゐないゲラに、われながら意外の感を催した。老来間違ふところまで行く可能性すら失つた結果かと思ふと、喜んでばかりもゐられない。(同書、三三五〜三三六ページ)

最後の一文は味読に値する。寺田透が本書のあとがきを書いた1990年4月23日と本書刊行の7月30日の間には、吉岡実の歿した5月31日が横たわる。


大和屋竺の作品――吉岡実と映画(3)(2020年4月30日)

映画は生命を与えられた絵画でなければならない。  †ヘルマン・ヴァルム(四方田犬彦《映画史への招待》(岩波書店、1998年4月9日)の〈引用 1895-1998〉より「1919」の項)

《映画芸術》1969年3月号の表紙 《映画芸術》1969年3月号・九二ページ 〔吉岡実の談話記事の冒頭〕
《映画芸術》1969年3月号の表紙(左)と同誌・九二ページ 〔吉岡実の談話記事の冒頭〕(右)

2007年12月の〈吉岡実と映画(1)〉でも触れた吉岡実の談話〈純粋と混沌――大和屋竺と新しい作家たち〉の初出は、映画芸術社発行の雑誌《映画芸術》1969年3月号〔17巻3号通259号〕九二〜九三ページ。〈今月の作家論〉のコーナーに、鈴木志郎康執筆の〈性の封じ込め――足立正生「避姙革命」「堕胎」〉とともに掲載された(末尾に「(よしおか・みのる=詩人)」とある)。吉岡が一人の映画監督について、その映画作品について言及したことは、この談話以外に存在しないと思われる。以下にその全文を校訂して掲げるが、これが掲載されるにいたった経緯は不詳である(なお、同号には高橋鐵・土方巽・泉大八・山本晋也の座談会〈セックスと芸術――日本SEX映画批判〉も掲載されている)。談話本文中の重要な人名や作品名には、末尾の註(主にインターネット上の記載を引いた)にリンクを張っておいた。

 もともと、ぼくという人間は批評という鋭い分析でものを見ません。楽しみで見ちゃうとか、漠とした自分にもたらすものがあるかという気持ちで見ちゃう。ピンク映画はある時期見ていたのですけれど、やはり、底の浅い倫理に貫ぬかれていて、勧善懲悪に近い倫理観で逃げちゃうから、あほらしくなってきた。大和屋さんの「裏切りの季節」は、そうでないという噂を友人から聞いていたので、是非と思って見た。例の有名なベトナムの刃物で腹を刺されている写真と女をいじめることとの対比というか、全体にセリフが聞きとりにくいので、ベトナム帰りの兵隊なのか、どういう怒りがでているのか、意味はよくわからなかったが、それが繰り返されて行く間に相当の感銘をうけました。細かい場面はおぼえていないのだが、カウンターの場面で女をいじめるところなんかよかった。非常にまじめに考えてやっていましたね。「荒野のダッチワイフ」「毛の〔は→生〕えた拳銃」と較べ、三本の中では「裏切りの季節」が一番迫力あるんじゃないですか、純粋さということにおいても、ベトナムというものへの意図という意味においても。「荒野のダッチワイフ」も、ぼくはエロテックなものを期待して行ったのだけれど、そんなものは最後の最後にダッチワイフらしきものが寝ているという非常に突っ放した描き方で、しゃくにさわるほど見事だったと思った。西部劇のパロディなども入れているでしょ。総体としては解るんだけれども大分難解な作品だね。原っぱの一本の木を象徴させてね。
 映画ってものは、ぼくにとっては記憶しようという気もないし、よかった≠ニいうだけで済んでしまう。だからどこがどうということはいえないけれど、既成の作家にはない新しさはかなりあると思う。
 「毛の〔は→生〕えた拳銃」は、新宿のアート・シアターで、飯島耕一と大岡信と三人と観たんですが、やはり解らなかったんだな、どこがどういいのか。解らないからいいということはないんだけれど、解らないものを作るという人は好きなんです。人間の考え方の中で解らないのを作る人というのは凄いことで、ぼくも誰にも解らない詩を、記号でなくて、平凡な言語で作りたい。でも解ってしまうわけね、また解られてしまうわけね。映画だと、ある点解らないものを作れるんじゃないかという気がする。
 ぼくは、今の新しい映画作家というのは知らないけれど、たとえば詩を作る場合、ぼくの場合は先が解らない。創りつつ書きつつまた創りつつ、どこで完結するのかな、ああ、ここで≠ニなるわけですが、映画の場合はシナリオという言語で一応の構図というか、進行指示がある。その上で創りつつ新しい発想なり、イメージを増殖させうるのではないかな。大和屋さんのような若い作家には、作りつつ、撮りつつ……というようなところがあるんじゃないかという気がする。撮るだけでなくて編集もあるし、まあ映画というのはリズムというか流れをぼくたち平凡だけれども求める。それを今の若い作家はポッポッポッと切ってさすがにこちらを解らなくしていくことがある。さっきもいったように、ぼくは映画を楽しんじゃう方だから、作家の持っている問題をどうしようとかいうことはしない。むずかしいといわれる映画のあるものは楽しめなくなることもある。自分では新しがりをいっていても、映画ではあまり古臭いのは嫌だが、もう少し時間をうまく流して欲しいと思う。感興をバサバサ切られて複雑な思考を織り込まれると困ってしまうことがある。止めて鑑賞できない世界だから。大和屋さんはだんだん難しくなるようだが、それはまた羨しくもある。誰でも難しいのはいいとはいえないけれど、人間というのはやはり焦点を絞って、この人のはもう少し読んでみたいとかあるでしょ。大和屋映画も、もっともっと観たいと思う。かつて「〔国際肉体市場→肉体の市場〕」というすばらしい作品をもつ小林悟のが好きだった。トイレの場面がすごくよくて、こんな映画を作る人がいたのかと思った。トイレットペーパーを女の口につっこんでいく行為と、紙がさあーと音をたててどんどんと巻かれていくのを見ると、ぼくは視覚的人間ですから、そういう人間の〔(ナシ)→本能〕というか恐怖というのがよく解っ〔本能→(トル)〕た。ドライな索漠たるものがあったと思う。ぼくは理屈よりも肉感的になっちゃう方だから。
 大和屋さんはもっと、純粋な人間だと思うんで期待はしているが、総体でどうといわれてもひと通りのことでは解らない作家だ。若松孝二の「胎児が密猟する〔とき→時〕」を最近観たんだけれど、ちょっと凄い。あのしつこさ、「O嬢」の影響なんかもあるかもしれないけれど、あれだけのものを作っちゃったというのは尊敬に価する。やはり若松の方がくどさというか執拗さにおいて兄貴分のところがあるんじゃないかな。大和屋さんの場合は、あまりしつこさみたいなのもないし、相当純化して作っていると思うんだ。「ダッチワイフ」なんていうのは逆にはぐら〔(ナシ)→か〕されたような気がして、ラストの女郎屋のダッチワイフをちょっと見せて、バサリと切っちゃったなんていうのは、期待していたのにシャクにさわるんだけれど、同時に見事だなと思いますね。
 ぼくは、武智さんの「白日夢」をとても傑作だと思っている。しかし、映画の技法的なことはよく解らないけれどもっときれいに撮れると思う。それを平凡な光で、意識的に汚なく撮っているようだが、それがまた面白いかなあと思ったり、「裏切りの季節」はもっと暗い光で深度があった。とにかくわれわれのような小市民的人間は、ある程度女性のああゆうエロティクなものを撮ろうとしている人間に共感を受ける。まじめな考え方と不道徳な考えが一緒に入っている。若松作品でいえば、評判になった「犯された白衣」より「性の放浪」の方が好きだ。山谷初男のすばらしかったこと てらわない場面の作り方。ありうることなんですよ。芸術〔ず→づ〕いた設定をしていないんだな。していなくて、しかも深みがある。「金瓶梅」はもとの本も読んでなかったから、全然つまらなかった。大和屋さんの脚本も悪いんじゃないかと思う。観ながらイライラした。ごてごてしたのがいいなら武智の「浮世絵残酷物語」の方がいい。ごてごて趣味もあそこまでいけば少しも〔殊→残〕酷でなくなるけれど、……こう考えると映画というのは難しい。発表されたというものは、詩に関していうと、自分でも解らないものがあるんですが、誰かぼくを補足してよくみてくれる人がいるのではないかとよく思う。映画だってそうだと思う。自分にだって解らないところがある、それを大事にしていくんでしょう。そういうふうにして作者は自信をもっていき、芸術作品はすべて救済されて、よくなっていく。その意味で、「裏切りの季節」時代と今の彼を較べると、あのころは、ベトナムに対するもの凄い関心が底に流れていて、ああゆう堪えられない神経の人間が女をいじめて、ある快楽を求めるかもしれないけれど、ぼくらはそうとなりながらも、非常に混然としたエロチックな感じを受け取った。大和屋さんの中では、一番純化している作品と思っている。鈴木清順の「殺しの烙印」を観たが、「荒野のダッチワイフ」と似たトーンの作品だね。大和屋竺は支持したい作家です。(談)

1966年の公開当時11歳だった私は、《裏切りの季節》を映画館で観ていない。そこで今回、本作のDVD(DIG、2017)を入手して、自宅のPCのモニターとヘッドフォンで視聴した(なるべくなら、観客が映画館で観るようにしてDVDを鑑賞したいのだが)。吉岡実はVTRやDVDで映画を観なかっただろうが、テレビで放映される映画は家庭で観ていた(*1)。その顰に倣うわけではないが、私は詩や小説(や音楽)のようには、分析的に映画を享受する意欲が湧かない。

《裏切りの季節》のDVD(DIG、2017)の「場面再生」の画面
《裏切りの季節》のDVD(DIG、2017)の「場面再生」の画面

上に掲げた《裏切りの季節》のDVDの「場面再生」の画面は6つあって、「帰還した男」「組織」「長谷川の影」「歌」「眉子の企み」「結末」である。高橋洋・塩田明彦・井川耕一郎編《大和屋竺ダイナマイト傑作選 荒野のダッチワイフ》(フィルムアート社、1994年6月19日)には《裏切りの季節》の撮影台本が収録されている。本作のロケが行われたのが公開された1966年だとすれば、53年以上前の東京(撮影台本から拾えば、羽田空港・渋谷・新宿、ほか)が収められていることになる。しかもフィルムは白黒だから、さすがに異国の、とまでは思わないが、こんにち初めて観る私には異時間の物語のように感じられる。だが、1960年代後半に観た吉岡はそうではなかったはずだ。1975年に終結するベトナム戦争はまだ続いていたし(すなわち映画のなかの時間は「現在形」である)、吉岡が大日本帝国陸軍の兵士として(朝鮮の済州島を経て)満洲から帰還したのは、たかだか20年前の1945年だった。つまりこの作品が、それまでの吉岡実の人生における最も過酷な体験を喚び起こす契機となった、と考えることは許されるだろう。
私は《裏切りの季節》を観たあと、1週間ほどあいだを開けて《大和屋竺ダイナマイト傑作選 荒野のダッチワイフ》の撮影台本を手にしながら、その音だけを聴いてみた。するとどうだろう。科白が撮影台本とほぼ等しいのはもちろんだが、音だけ聴くと、佐藤允彦が手掛けた音楽はマリンバやブラシによるドラミングなどを用いたモダンジャズ系のそれで、電子音によるサウンドエフェクトも登場する。これなど、映像を視ているときにはなかなか気づかない処だ。だがいちばん耳に残るのは、ガットギターを手にした「黒い混血の若者(ケン)」(同書、三〇ページ)が唄う「単調なブルース」(同前、三一ページ〔以下「(31)」と表記〕)である。歌詞を引こう。

「単調なブルース」

〽俺はめざめる 冷たい朝/馬よ啼くな 哀しい声で/あんたの食べたアバラ骨/返しておくれ/あれは俺のだ、と……
〽馬よ アバラのとれた馬/戦ケ原を通る時は/ゆっくりうなだれて行っておくれ/ひずめの下で 死人が叫ぶ
〽あたごん山になりぬれば/馬あいななく風や吹く(31)

〽あたごん山になりぬれば/馬あいななく風や吹く(35)

〽光れ光れ 腰のだんびら/切るる切れんな/鍛冶屋ぐ知っちよる/光れ光れ 光れ光れ
〽綱あ、腰いせえちよった、うーけんだんびろうどだびきにいじ、むちゃらくちゃれえ振りくりまええち、鬼ん腕う、手のなりくびかる、ハッシとばかりい切り落としや……(37)

〽お前は見るだろう冷たい朝/ミカンの箱のふたをとり/鏡の前で ダーリン/お前にやった 鬼のうぜ
〽あたごん山になりなれば/馬あいななく風や吹く(48)

「立てかけられた看板。/そのベトナムの虐殺のショット〔……〕」(33)、とその「写真パネルに突き立って震えるナイフ。」(40)、さらに中谷のいう「モイ族の蛮刀」(46)は、ト書きや科白のなかで目にとびこんでくる章句である。だがその極め付きは、中谷がケンにいう「豊後浄瑠璃」(47)だろう。そこでは中谷が渡辺綱[わたなべのつな]に見立てられていて、ギターを引きつれた「単調なブルース」には三味線を伴う「豊後浄瑠璃〔の羅生門〕」が乗りうつっている。この、聴覚における「閾下知覚[サブリミナル]効果」とでもいうべき演出を主導したのが、監督・脚本の大和屋竺なのか、製作・企画の若松孝二なのか、それとも助監督・脚本の田中陽造なのか詳らかにしないが、じつにおそるべきものがある。

恋する絵(E・15)

  初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1967年2月号〔10巻2号〕。

造る生活
造られる花のスミレ
ばらまかれたあるものをはさむ
洗濯バサミ・洗濯バサミ
それは夜の続きで
水中の泡の上昇するのを観察する
恋する丈高い魚
白いタイルの上では
考えられない黒人たち
その歯のなかの蜂
雨ふる麻
ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている
肥えると同時にやせる蝶
ひろがると同時につぼまる網
ごぞんじですか?
ぼくの想像姙娠美
海へすすんで行く屍体
造られた塩と罪の清潔感!
幼時から風呂がきらいだ
自然な状態で
ぼくの絵を見ませんか?
病気の子供の首から下のない
汎性愛的な夜のなかの
日の出を
ブルーの空がつつむ
コルクの木のながい林の道を
雨傘さしたシナの母娘
美しい脚を四つたらして行く
下からまる見え
そこで停る
東洋のさざなみ
これこそうすももいろの絵
うすももいろのビンやウニ
うすももいろの耳
すすめ竜騎兵!
うすももいろの
矢印の右往左往する
火薬庫から浴室まである
恋する絵


色彩の内部(F・4)

  初出は《the high school life》〔MAC〕1968年8月〔15号〕の〔コラム〈えるまふろじっとのうた〉〕。

涼しい鈴懸の下の
橋をわたる
わたしは包装荷札をもつ人
方向指示の青色の
矢印のとどかぬ世界で
鳴く夏のフクロウ
まぶしい眼の歩み
暗く網のようにひろがる円
その中心へ近づく
少年の便器
花より恥ずかしく
看護婦の白衣のなかに
つつまれる
傷ついた馬の腹を
巻くみじかい包帯
笑ってはいけない まして泣いては
たちまち肉屋が来る時代だから
注射器の針が
刺しているわたしたちの
あらゆるところ
あらゆる孔のある皮
精神もともに
かがやく鏡に映る
表現愛の
にくにくしい肉体
解剖図のある暗い部屋から
グリーンを走る
手足のない水着類の干してある
クスノキの下まで
生きているとはどんなこと?
恋にこだわり
はねる水
吐く闇
あえぐ葦と人
だからあらゆる絵画は
ナイフで裂かれた次元を持つ
ここですべての事物を想い出せ!
そして今わたしは
孔雀の尾のうしろへ廻って
喚起する
なまなましい藍いろの
父母の像

吉岡は、その唯一の詩論〈わたしの作詩法?〉(初出は《詩の本〔第2巻〕詩の技法》筑摩書房、1967年11月20日)で《僧侶》の詩篇〈苦力〉(C・13、初出は《現代詩》1958年6月号)が生まれるきっかけを次のように書いている。「ここに、「苦力」という一篇がある。なぜこれをとりだしたかというと、わたしの中で異色ある作品であると同時に、旅先の一夜で出来た唯一のものである。〔……〕独身時代の昭和三十三年ごろ、週末に、気が向くとよく谷川温泉へひとりで遊びにいったものである。或る時、早春かと思うが、前夜は合客にアベックが一組いた。つぎの日は、帰った。日中は、谷川の渓流をさかのぼり、巨大な流れの中に浮んでいる平らな岩にねて英気を養った。旅館はうす暗く、帳場は遠く、夜がふけるにつれ、水の音だけが聞えるうちに、耐えがたい孤独感というより、無気味さに眠られぬ状態になった。目の前の崖上に廃屋の窓が見える。わたしは朝が来るまで、詩を書こうと試み、そして「苦力」が暁近く完成した。これは兵隊で四年間すごした満洲の体験である。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、九二〜九三ページ)。日常に亀裂が生じて戦時の記憶が噴出するわけだが、〈恋する絵〉においては詩(〈苦力〉)と詩論(〈わたしの作詩法?〉)を包括した複眼的な視点を先取りしているのが清新だ。〈恋する絵〉は「自然な状態で/ぼくの絵を見ませんか?/〔……〕/これこそうすももいろの絵/〔……〕/うすももいろの/矢印の右往左往する/火薬庫から浴室まである/恋する絵」だった絵が、〈色彩の内部〉では「だからあらゆる絵画は/ナイフで裂かれた次元を持つ/ここですべての事物を想い出せ!」となる。わたしは後者からルーチョ・フォンタナの切り裂かれたキャンバスを想起するが、《裏切りの季節》を観たあとでは大和屋竺を想わないわけにはいかない。ベトナムから帰還した中谷が、かの地で友人の報道写真家・長谷川の右腕(それは撮影中のカメラを握って手放さない)を斬りおとした、あのナイフを。ナイフはまた、キャンバスに描かれた絵ではなく、巨大なパネルに貼られた写真を突きさすのだ。興味深いことに吉岡は、冒頭に掲げた談話を発表する半年前に刊行した《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968年9月1日)の高橋睦郎〈吉岡実氏に76の質問〉で、次のように答えている。

◆殺人について
問=ベトナムについて。
答=悲惨ですね。一言で言うと「ベトナムはベトナム人に委せろ」と思います。政治的発言はどうも得意ではないし、ベトナム人に委せたらそれですむものかどうかわからないが。
〔……〕

◆ついでにお聞きします
〔……〕
問=感動した映画は?
答=大島渚の「日本春歌考」。インテリの中に日本の底辺を代表させるような混然たる作品だと思いました。(同書、一四一・一四六ページ)

後者は〈吉岡実氏に76の質問〉の最後の問答である。ここで大島の作品(1967年2月公開)に言及して、大和屋竺の《裏切りの季節》を語らなかった吉岡は、《映画芸術》に唯一の映画監督評を語ることで、大和屋の映画にオマージュを捧げた。

〔付記〕
大和屋竺は、1976年6月、《文芸座文芸地下劇場第二回フィルムフェスティバル・パンフ》に短文〈『裏切りの季節』について〉を寄せている。後半を引こう。

 さて『裏切りの季節』の初稿は田中陽造が書き、僕が直して十日ちょっとの予定を余りオーバーもせず撮り上げた。谷口朱里嬢は、初めて会った時ポリネシア美人を思わせるプロポーションで、胸の隆起など相当なものだったが、脱衣シーンの現場で、「私オペシャなの」とブラジャーの二重アンパンを取外したのには少なからずショックを受けた。しかし彼女はよくやった。
 僕の処女作は、青臭く、下手糞で生まなセリフに満ちみちていたので、OPチェーンの興行主たちは二の足を踏んだ。「絶対ヒットする」などとホラを吹き、仕上がったあげくが買手つかずでは総括ものだろう。若松孝二はそこをぐっと我慢し、僕には何ひとつきつい事を云わず彼の問題作『壁の中の秘事』と抱合わせで自主上映にふみ切ったのだ。
 製作者の彼じしんが宣伝ビラを撒き、馬鹿でかい写真パネルを僕や加藤衛などが担ぎ、可愛い女優さんがおっぱいをチラチラさせて、新宿の町を行進した。チンチンドンドンこそなかったが、これがその頃の若松プロの宣伝方法だったのだ。(大和屋竺映画論集《悪魔に委ねよ》、ワイズ出版、1994年1月16日、二三一ページ)

太田大八(1918〜2016)は、「戦後、〔……〕デザインの仕事をするために東京に帰って「スタヂオ・トーキョー」を設立した」(Wikipedia)が、その事務所設立の告知のための宣伝をやはり裸に近い女性にさせて警察沙汰になった話を自伝《私のイラストレーション史――紙とエンピツ》(BL出版、2009)に書いていた。吉岡が太田大八と知るのはそのあと、太田さんが絵本を手掛けるようになってからだが、この挿話は聞かされていたかもしれない。吉岡自身、勤務先の筑摩書房では宣伝広告畑を歩んでいたから、大和屋の伝える若松プロダクションの宣伝方法を知ったなら、どんなにか喜んだことだろう。それにしても「馬鹿でかい写真パネルを僕や加藤衛などが担ぎ」とは、《裏切りの季節》の冒頭シーンそのままではないか(*2)

《裏切りの季節》のDVD(DIG、2017)のジャケット 映画《裏切りの季節》のポスター
《裏切りの季節》のDVD(DIG、2017)のジャケット(左)と映画《裏切りの季節》のポスター(右)〔出典:kmrt

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大和屋竺〔やまとや・あつし〕1937〜1993。脚本家、映画監督、俳優。

小林悟〔こばやし・さとる〕1930〜2001。映画監督。

若松孝二〔わかまつ・こうじ〕1936〜2012。映画監督、映画プロデューサー、脚本家。

武智鉄二〔たけち・てつじ〕1912〜1988。演劇評論家、演出家、映画監督。

山谷初男〔やまや・はつお〕1933〜2019。俳優。

鈴木清順〔すずき・せいじゅん〕1923〜2017。映画監督、俳優。

裏切りの季節 1966年 若松プロ
ベトナムから帰国した報道写真家の中谷。友人の長谷川は戦場で亡くなってしまった。中谷は長谷川の恋人だった眉子のもとへ向かうが、長谷川の遺したフィルムを手に入れようとする組織が中谷の後を追ってくる。ベトナム帰りの報道カメラマンに下された“復讐劇”。その裏側にあるもの、そして待ち受ける戦慄のラストとは…。大和屋が若松プロで撮った監督第1作。
製:若松孝二 監脚:大和屋竺 出:立川雄三/谷口朱里/寺島幹夫/曽根成夫/一の瀬弓子
▽80分 BW

なお、高橋洋・塩田明彦・井川耕一郎編《大和屋竺ダイナマイト傑作選 荒野のダッチワイフ》(フィルムアート社、1994年6月19日)の《裏切りの季節》の扉ページ(同書、〔一九ページ〕)には次のように記されている。

裏切りの季節
一九六六年 若松プロ
モノクロ・シネスコ 上映時間=八〇分 公開=一二月
製作=若松孝二 監督=大和屋竺 脚本=大谷義明(大和屋竺、田中陽造)
撮影=伊東英男 照明=磯貝一、佐藤允 助監督=田中陽造
出演=谷川朱里、立川雄三、寺島幹夫、山谷初男、佐藤重臣、足立正生
ビデオ=ハミングバード

荒野のダッチワイフ 1967年 大和屋プロ・国映画
町のボスに雇われた冴えない殺し屋。ターゲットは彼の女を殺した男だった…。死に向かう殺し屋のシュールな妄想的彷徨を描いた大和屋監督の第2作。
監脚:大和屋竺 音:山下洋輔 出:辰巳典子/港雄一/麿赤児/大久保鷹/山本昌平
▽75分 BW

毛の生えた拳銃 1968年 若松プロ
司郎は、自らの恋人を襲った組織に復讐するために、ボスを刺し、その手下を撃った。組織は、高と商という殺し屋2人組を雇い、司郎を始末するよう命じる。しかし、高と商は、追跡を続けるうち、司郎に親しみをおぼえはじめる。
監:大和屋竺 脚:大山村人 出:吉沢健/麿赤兒/大久保鷹
▽70分 パート・カラー シネマスコープ

肉体の市場 1962年 協立映画
「〔女優・香取環が〕日活を飛び出し独立プロ作品で主演。「六本木族」の姿を描き評判を呼ぶが、公開直後に摘発された」(〈香取 環の部屋〉)。
監:小林悟 脚:米谷純一 浅間虹児 出:香取環/浅見比呂志/扇町京子/久木登紀子
▽49分 白黒 シネマスコープ

胎児が密猟する時 1966年 若松プロ
密室における一組の男女の究極の性と愛(サドとマゾ、母性への憧れと憎悪…)を描いた足立脚本、若松監督の代表作の1本。
監:若松孝二 脚:足立正生 出:山谷初男/志摩みはる
▽75分 BW

白日夢 1964年 第三プロ
若い画家と流行歌手が歯医者で治療を受けていて、画家が医者に犯されている歌手を妄想するという筋立てで、その性描写が話題となった武智鉄二監督作。81年に同監督で再映画化。
監脚:武智鉄二 原:谷崎潤一郎 出:路加奈子/石浜朗/花川蝶十郎/松井康子/小林十九二
▽94分 BW(C)

犯された白衣 1967年 若松プロ
看護婦寮に紛れ込んだ美少年が彼女らを凌辱し殺害、その死体の中にうずくまるさまを、長回しのカメラを駆使しながら描いた若松監督の代表的1本。無名に近かった唐十郎主演。
監:若松孝二 出:唐十郎/小柳怜子/林美樹/木戸脇菖子
▽56分 BW(C)

性の放浪 1967年 若松プロ
恐妻家のサラリーマンが、呑みすぎて帰宅しそびれたことから放浪の旅に出る。
監:若松孝二 脚:出口出(足立正生 沖島勲) 出:山谷初男/新久美子/小水一男
▽78分  B&W/C

金瓶梅 1968年 ユニコン・フィルム
中国古典艶笑譚を水滸伝の武勇のドラマにミックス。若松作品を松竹ルートで配給。
監:若松孝二 脚:大和屋竺 出:伊丹十三/真山知子
▽90分 C

浮世絵残酷物語 1968年 武智プロ
浮世絵師が自分の娘を描いた枕絵で名を上げようとするが…。
監脚:武智鉄二 出:刈名珠理/小山源喜
▽84分 C

殺しの烙印 1967年 日活
海外から組織の不手際を調査にきた男を殺し損なった殺し屋が、組織の殺し屋たちと対決するハードボイルド・アクション。アドバルーンを使った殺しのテクニックや、殺し屋同士の対決をスタイリッシュな映像とブラックな笑いで見せる。話の筋よりは映像や笑いが先といった、フィルムメーカーの自信が横溢。鈴木が日活を解雇されるきっかけになった作品でもある。
監:鈴木清順 脚:具流八郎 撮:永塚一栄 美:川原資三 出:宍戸錠/南原宏治/真理アンヌ/小川万里子/玉川伊佐男/長弘/宮原徳平/南廣
▽91分 BW

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(*1) 吉岡実は掲載誌の編集部によるインタビュー記事〈吉岡実氏にテレビをめぐる15の質問〉で、テレビで観る映画について次のように語っている。

5 ここ二、三日にご覧になった番組は?
 つい最近だけど、感激したのは「愛の嵐」ってイタリア映画ね、ナチものの。ぼくは映画館で観てたんだけど、家内は観てなくてね。そうとうカットされてたんでしょうけど、感動したね。

6 番組にも、たとえばニュース、ドラマ、歌謡番組、スポーツ中継、視聴者参加番組などさまざまなものがありますが、どういうものがお好きですか。その理由は? 具体的に番組名もあげてください。
 ぼくはちゃんと新聞見て、番組選んで見るのね。スイッチを入れて、映ったのをそのまま視ちゃうことはないね。ぼくは歌謡的なのは好かないから、うちのやつには気の毒なんだな。歌謡番組ってのは女にとって案外大事なものらしいんだ。やっぱり映画とかテレビ連続映画とか、安全率からいくと、「銭形平次」とか、「水戸黄門」とか、たあいないと思うのよ。思うけど、たあいないとこにこっちがいるわけね。報道なんかのすごいのでショック受けることもあるけれど、テレビの効用ってのは、こっちが安心して視れるという状態が必要なんでね。だから、「銭形平次」も時には視る、「水戸黄門」も時には視るのね。映画は、以前に観てなかったら、視るわけ。
 あと好きなのは、「新日本紀行」とか、「新歴史探訪」とかね。いま視ているのでは、「舞いの家」っていうやつ、立原正秋の。メロドラマなんだけど、きれいなんだな、着物がきれいなんだ、和服の世界で。
 やっぱりシリアスなものはなるたけ避けちゃう。一番安全なのは、チョン髷が出てきてね……、荒唐無稽であれ、実録物であれ、それでいいわけ。テレビを視る時は、特殊な人間であっても、いい意味で庶民に帰っているんじゃない。庶民を軽蔑してるんじゃなくって、オレも庶民なんだから。ふつうの日常だったら自分でいい絵を観にいくとか、歌舞伎座へ行くとかするんだけど、テレビには五万とあるから、その中から自分で選ぶ時には真面目とか、深刻なものは視ないよね。
 日曜日はヤクザ映画とかを捜して視てるね。このあいだは、東映の「侠客列伝」とか、勝新太郎の「悪名」とかね。あとは、「日曜美術館」はわりと観てるようにしてる。早ければ11時からそれを視て、次はニュースで、あとバレーボールとかあるでしょ。いま野球がないからね。

 (同じ映画をテレビと映画館で見た場合の差はありますか。)
 テレビには数々の制約があると思いますよ。だけど、テレビにそれほどの完璧性は求めないからね。忘れたディテールを追体験できるわけでしょ。このあいだの「愛の嵐」も、映画館で観たんだろうけど、家内と二人で視て、よかったよね。そういう効用はあるんじゃない。
 だけど、もっと視てるんだよね。なんかいいのがあったと思うんだけど、日々忘れてっちゃうからね。……そういえば、ある時の「刑事コロンボ」、それから「マクロード警部」があるでしょ。それとか、坊主頭の刑事……「刑事コジャック」、あれなんかよく視ましたよ。テリー・サバラスはむかし悪役だったよね。それが強い善人になってさ、一種のスーパーマンだよ。やっぱり見せますよ。(《現代詩手帖》1978年3月号〔特集=テレビをどう見るか〕、一一五〜一一六ページ)

念のため映画のタイトルを記せば、イタリア映画《愛の嵐》――題辞に引いた《映画史への招待》の〈4 ファシズムの魅惑〉で四方田犬彦は「悲劇は戦争の終結によって終ったわけではない。〔……〕リリアナ・カヴァーニの『愛の嵐』(一九七三)も強制収容所で少女時代に性的な心理的外傷を負った女性が、その後長い年月ののちにもう一度似たような監禁状態に遭遇し、限界状況のなかでマゾヒスティックな恍惚に到達するという作品だった。」(同書、一〇七ページ)と書いた。吉岡が観たであろう《愛の嵐》は、1978年2月1日に《水曜ロードショー》(日本テレビ)で放映されている(Wikipedia)――、東映の《侠客列伝》、勝新太郎の《悪名》で、テレビで映画を視聴する際の基準は「映画は、以前に観てなかったら、視るわけ」「日曜日はヤクザ映画とかを捜して視てるね」ということになる。そして「忘れたディテールを追体験できるわけでしょ。〔……〕そういう効用はあるんじゃない。/だけど、もっと視てるんだよね。なんかいいのがあったと思うんだけど、日々忘れてっちゃうからね」とある。縮刷版でインタビュー当時(1978年2月初めか)の新聞のテレビ欄を精査して、吉岡の視聴していた映画専門枠の番組が特定できれば、その近辺で放送された映画のリストを作ることも可能だろう(民放各局では、日本テレビの《水曜ロードショー》、TBSの《月曜ロードショー》、フジテレビの《ゴールデン洋画劇場》、テレビ朝日の《日曜洋画劇場》、テレビ東京の《木曜洋画劇場》があった)。もっとも、吉岡がそれを視聴したかどうかを確かめるすべはないのだが。なお、TBSのテレビドラマ《舞いの家》は1978年1月12日から3月30日まで全12回、放送された。

(*2) みぞぐちカツさんのツイッターに次の記載がある。〔 〕内は引用者(小林)による補記。

〔19〕66年9月20日から〔29日まで〕新宿京王名画座で独占ロードショーされた大和屋竺「裏切りの季節」。プロデューサーの若松孝二が自らベトナム戦争の米兵姿で、ベトコン服を着た女優の志摩みはると新宿街頭で宣伝ビラ配り。ロードショーというと聞こえはいいいが要は難解を理由にOPチェーンで配給を断られたため/〔画像〕/やむなく自主上映した映画をロードショーと言い換えるあたりはさすが若松孝二だが、「裏切りの季節」は雑誌“映画評論”が絶賛した特集記事の効果もあってか大入りだったらしく、三ヶ月後の同年12月〔13日〕には晴れてOPチェーンで公開〔併映は六邦映画の新藤孝衛監督作品《痴情の診断書》〕。しかし若松監督作品として公開されたのは、“言い換え”ではなく“詐称”/〔画像〕/これは配給する側の判断で勝手にしたことだと思うが、無名の新人である大和屋竺の名前だけでは客が呼べないと踏んだのだろう。当時は「黒い雪事件」がまだ係争中で、改正された厳しい映倫基準の影響で単にピンク映画というだけでは集客できない時期だった

吉岡が《裏切りの季節》を観たのは、9月20日からの「ロードショー」(実態は自主上映)だったのか、12月13日からのOPチェーンでの公開時だったのか、詳しいことはわからない。だが私には冒頭の吉岡の談話に出てくる「友人」が9月に観て、その評判を聞いた吉岡が12月に観た、と思えてならない。――当時の新聞広告に依れば、上映館は池袋文芸地下・上野パーク・新宿座・目黒ライオン・カジバシ座・都立富士館・立石金竜・市川日活・大宮オークラ・横浜東亜、など。吉岡は随想〈ロマン・ポルノ映画雑感〉(初出は《季刊リュミエール》1号、1985年9月)の〈1「胎児が密猟する時」〉で《裏切りの季節》を「私は場末のピンク映画館で観ている」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三五一ページ)と書いている。――その衝撃から生まれた詩が〈恋する絵〉(E・15)だったというのはできすぎだろうか。吉岡実の詩はこのころを境に、ある種、平穏な日常(=「静かな家」)に戦争の記憶を走らせる不穏な詩句(=「神秘的な時代の詩」)を発することが多くなる。ときに、雑誌《映画評論》は「佐藤重臣編集長時代の1960年代後半以降は、社会全体の反体制的な雰囲気を雑誌も取り込み、若松プロを支持するなどアングラ路線を展開。当時もっとも先鋭的な雑誌のひとつとなった。」(Wikipedia)とあるが、吉岡が同誌を愛読していたかどうかはわからない。一方、吉岡の談話を掲載した雑誌《映画芸術》は「従来の映画雑誌が取り上げなかったアングラ映画やポルノ映画も積極的に取り上げて評論するようになる。1960年代末から1970年代にかけての小川〔徹〕編集長時代の『映画芸術』は、佐藤重臣の『映画評論』や松田政男の『映画批評』と並ぶ存在だったが、「政治的に過ぎる」ともみなされる。」(同)とある。同誌について吉岡は、「私の映画見物の行動範囲は拡りつつあった。自由ヶ丘から蒲田まで、足をのばす。また近くの三軒茶屋や明大前の映画館にも、しばしば行く。情報元の「映画芸術」も廃刊になり、私は「ぴあ」を毎号買ったものだ。あの極細微の活字を、睨めながら、赤いボールペンで印をつける。観たいものが多いと、選択に困ってしまう。まるで競馬の予想屋に化したようで、われながら笑ってしまう。」(〈ロマン・ポルノ映画雑感〉の〈4「人妻集団暴行致死事件」〉、同前、三五四ページ)と書いていて、吉岡と小川徹との人間関係が焦点になるが、このあたりのこともよくわからない。後考に俟つ。
なお、みぞぐちカツさんのツイッターに見える「雑誌“映画評論”が絶賛した特集記事」は、1966年6月号の〔特集・上半期日本映画最高の収穫・裏切りの季節分析〕(長部日出雄〈「裏切りの季節」――この汚辱にまみれた旗〉を含む)、さらには同誌同年10月号の西江孝之〈拷問について――大和屋竺の「裏切りの季節」〉を指すと思われるが、国立国会図書館が2020年4月11日から来館サービス休止中のため、確認することができなかった。


吉岡実と時代小説(2020年3月31日)

〈吉岡実と江戸川乱歩〉でも引いたが、吉岡実は随想〈読書遍歴〉で「毎年、夏休みになると、どぶ臭い本所東駒形の路地を離れて、市川真間の叔母の家に行き、樹にかこまれた原、尾長鳥の歩いている池のほとりや、昆虫のとんでいる草むらで、ささやかな田園風物をたのしんだ。その家の豊富な蔵書類からわたしはいつも『講談全集』をぬきだして、読み耽ける。英雄豪傑から刀匠、忠僕までおもしろい話はつきない。一冊六百頁もある濃緑の布装の本で、二、三十巻位あったと思う。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、五五ページ)と少年時代の読書を振りかえっている。この《講談全集》について、私はかつて《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》で次のように書いた。

《講談全集》は全12巻。1928〜29年、大日本雄弁会講談社刊。〔……〕第1巻は1928年10月1日発行、〈水戸黄門〉〈梁川庄八〉のほか3つの短篇を収録、全1214ページ、濃緑の布装本。他巻は★未見。

《講談全集〔第1巻〕》は何年もまえ、この書誌・解題を書くために国立国会図書館で手にしただけで、残念ながら中身を読む時間的な余裕はなかった。そこで今回、《日本の古本屋》で《講談全集〔第11巻〕》(大日本雄弁会講談社、1929年8月25日)を購入した。収録作品は、長篇が神田山陽〈塚原卜傳〉、神田伯龍〈新門辰五カ〉、大島小伯鶴〈勤王藝者〉、太田貞水〈由井正雪〉の4篇、短篇が昇龍齋貞丈〈天下の糸平〉、田邊南龍〈谷a貞〉、寳井馬秀〈名優中村仲藏〉、神田松鯉〈澁川伴五カ〉、神田伯治〈北齋と文晁〉の5篇である。仕様は四六判・上製布装・全1240ページ・機械函。本体の束は約55mmで、ほとんど中型の辞書の感触である。長篇は敬遠して、寳井馬秀の〈名優中村仲藏〉を読んでみた。これがじつに面白い。小見出しを拾ってみよう(漢字は新字に改めた)。「謡を謳う浪人父子」「認められる苦心」「定九郎の新型」「報恩の義」「沢村淀五郎の判官」「仲蔵の親切」「待兼ねた由良助」。さらに、文体の特徴を見るために、冒頭と末尾の一段を掲げる。

 向両国の尾上町に中山小一郎といふ、江戸三座の振付の師匠がございました。〔……〕(一〇九二ページ)

 ポンと一本釘を差したのは名人、ちやんと知つて居ります。名人は名人を知るといふのは此の事でせうか。この淀五郎の判官が大層な評判で、江戸八百八町の好劇家の血を沸かしたといふ、成功の裏には斯の如き一場の苦心があつたといふ、中村仲蔵の一席談、是にて読切でございます。(一一二七ページ)

原文は正字・旧仮名で、数字を除く総ルビ――[むかふ][りやうごく]の[をのへ][ちやう]に[なかやま][こ]一[らう]という、[えど]三[ざ]の[ふりつけ]の[ししやう]がございました。――。したがって、ひらがなが読めるなら、漢字の数字さえ読めれば本文を音読できる。本書が口述の速記を起こしたものかはわからないが、末尾の一文など、講談のライヴでも聞くような名調子である(先日、六代目神田伯山を襲名した神田松之丞が、テレビ朝日のトーク番組《太田松之丞》で落語の〈中村仲蔵〉は本来、講談の演目だと語っていた。これは落語だが、とりあえず〈6代目三遊亭圓生『中村仲蔵』-rakugo-〉にリンクを張っておこう[*1])。寳井馬秀〈名優中村仲藏〉の本文は36ページ、名取春仙の画を3点収める。《仮名手本忠臣蔵》で不人気だった定九郎に新機軸を出すべく思案にくれた仲蔵は、柳島の妙見様に日参。時ならぬ雨に見舞われ、雨宿りした蕎麦屋でのことがこう語られる(「定九郎の新型」、ルビは割愛した)。

 食ひたくもない蕎麦、飲みたくもない酒を誂へてゐると、ピカリッ、ガラガラガラガラガラといふ雷、途端に『許せツ』ズバツと入つて来たのは年頃三十三四、丈のスラリツとした月代は生えて百日鬘といふほどでもないが、五十日ぐらゐの所、黒羽二重の色の腿せた紋服、白博多の帯を骨牌に結んで、朱鞘の大小、裾をグイと端折つて、空ツ脛に跣足、半分ほど破れてゐる蛇の目の傘を半開きにして入つて来たが、内へ入ると、それをつぼめてサツと水を切つてグイと此方を向いてニヤリと笑つた。其の様子がゾツとするやうに凄い、それをジツと見てゐた中村仲蔵『ウーム』と思はず唸つた。此の浪人こそ其の当時本所の錦糸堀に居りまして四百四十石を取つて居りました本所五人男といはれた悪旗本此村大吉といふ男。(一一〇五ページ)

ここまで読んでページを捲ると出てくるのが、下に写真を掲げた挿絵(名取春仙)と本文の見開きである。少年時代の吉岡を魅了した文章は今日の時代小説、いやむしろ時代物の漫画を彷彿させる。本文に添えられた画(原則、本書は各作品にそれぞれ別の画家を立てているが、群衆の描き方に優れる石井滴水とスミベタに特異な筆使いを示す小田富弥が長篇・短篇各一作、伊藤幾久造が短篇二作を受けもっている)も江戸の風俗を活写している。ほかに井川洗近藤紫雲が健筆を揮っている。いずれも古風な味があって、見入ってしまう[*2]

《講談全集〔第11巻〕》(大日本雄弁会講談社、1929年8月25日)の函と表紙の平" 《講談全集〔第11巻〕》(大日本雄弁会講談社、1929年8月25日)の函と表紙の背" 《講談全集〔第11巻〕》(大日本雄弁会講談社、1929年8月25日、一一〇六〜一一〇七ページ)の寳井馬秀〈名優中村仲藏〉の「定九郎の新型」本文と名取春仙の画の見開き
《講談全集〔第11巻〕》(大日本雄弁会講談社、1929年8月25日)の函と表紙の平(左)と同・その背(中)と同書(一一〇六〜一一〇七ページ)の寳井馬秀〈名優中村仲藏〉の「定九郎の新型」本文と名取春仙の画の見開き(右)

●佐高信・選
藤沢周平◇《蝉しぐれ》
山本周五郎◇《栄花物語》
池波正太郎◇《剣客商売》
司馬遼太郎《梟の城》
隆慶一郎《吉原御免状》◆
山田風太郎◇《魔群の通遇》
吉村昭《天狗争乱》
結城昌治《斬に処す》◆
長谷川伸◇《相楽総三とその同志》
中里介山《大菩薩峠》◆
江馬修《山の民》◆
島崎藤村《夜明け前》
西野辰吉《秩父困民党》
堀田善衛《海鳴りの底から》
田宮虎彦《落城》
松本清張《無宿人別帳》◆
船戸与一《蝦夷地別件》
佐藤治助《ワッパ一揆》
城山三郎《大義の末》
五味川純平《戦争と人間》

●高橋敏夫・選
中里介山《大菩薩峠》◆
岡本綺堂《半七捕物帳》
国枝史郎《神州纐纈城》
子母沢寛《紋三郎の秀》
郡司次郎正《侍ニッポン》
江馬修《山の民》◆
長谷川伸◇《股旅新八景》
松本清張《無宿人別帳》◆
柴田練三郎《眠狂四郎無頼控》
村上元三《ひとり狼》
山本周五郎◇《深川安楽亭》
山田風太郎◇《伊賀忍法帖》
結城昌治《斬に処す》◆
笹沢佐保《見かえり峠の落日》
池波正太郎◇《仕掛人・藤枝梅安》
井上ひさし《不忠臣蔵》
藤沢周平◇《又蔵の火》
隆慶一郎《吉原御免状》◆
塩見鮮一郎《浅草弾左衛門》
京極夏彦《嗤う伊右衛門》

佐高信と高橋敏夫の対談《藤沢周平と山本周五郎――時代小説大論議》(毎日新聞社、2004年11月30日)巻末付録の〈時代小説二〇選〉に掲げられた書目である(◆・◇印は小林が付したもの。原文にある各作品へのコメントは省略した)。タイトルからもうかがえるように、二人は藤沢周平と山本周五郎の作品を是として、司馬遼太郎の作品(というより、むしろその読まれ方)に疑問を呈し、吉川英治の作品は歯牙にもかけないという痛快な判定なのだが、周五郎と周平の作品は《栄花物語》と《深川安楽亭》、《蝉しぐれ》と《又蔵の火》というふうに割れている。逆に中里介山の《大菩薩峠》、江馬修の《山の民》――1947(昭和22)年には改作《山の民》の第一部〈雪崩する国〉が、吉岡が勤務していた東洋堂の兄弟会社・隆文堂から出ているという――、松本清張の《無宿人別帳》、結城昌治の《斬に処す》、隆慶一郎の《吉原御免状》の5作品は双方の選に入っている。じつに興味深いリストである。ときに、私は時代小説・歴史小説にはめっぽう暗く、ここに挙がっているうちで読んだことのあるのは岡本綺堂《半七捕物帳》、山田風太郎《伊賀忍法帖》、井上ひさし《不忠臣蔵》の3作に過ぎない(その後、周五郎の短篇〈深川安楽亭〉を読んだ)。もっとも周五郎の《樅ノ木は残った》には多大な感銘を受けたし、池波正太郎の《鬼平犯科帳》は当時出ていた文春文庫を全巻読んだ。だが、いかんせん、持続的な興味・関心がないまま、今日に至っている。世の中にはこの手の作品の読者があまたいて、身近な処では先年亡くなった義母がそうだった(昭和5年生まれで、旗本の末裔を自負しており、とりわけ子母沢寛を愛読した)。読んだことがないので名を秘すが、ある現役の時代小説家の作品など、公共図書館の文庫本書架の棚二段以上を占有しているから、何をか言わんやである。
あだしごとはさておき、吉岡実と時代小説に戻ろう。吉岡は時代小説(大衆文学)について、断片的なことしか語っていない。「そのほかは、わが家の近くの図書館へ行き、佐々木味津三、国枝史郎、林不忘、本田美禅、前田曙山などの大衆文学ばかり読んでいた。そして一番好きだったのは、岡本綺堂の『半七捕物帳』だった。本所割下水、今戸、入谷という地名もわたしの生活の中にあり、隅田公園になる前は、水戸様であり、牛島神社は牛の御前であった。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、五五〜五六ページ)は、前掲〈読書遍歴〉で江戸川乱歩に触れた箇所に続くものだ。綺堂の《半七捕物帳》はいいとして、吉岡はこれらの小説家のどの作品を読んだのだろうか。私には「わが家の近くの図書館」の岡本綺堂、「佐々木味津三、国枝史郎、林不忘、本田美禅、前田曙山などの大衆文学」は、「昭和二年(一九二七) 〔……〕五月、『現代大衆文学全集』全六十巻(平凡社)刊行開始。千頁一円の大企画で、白井喬一が全面的に協力し、当時の大衆作家を総動員、この全集の成功により、新講談→読物文芸→大衆文芸と変遷した名称が大衆文学として定着する。」(縄田一男〈年譜〉、世田谷文学館編《時代小説のヒーローたち展》世田谷文学館、1997年10月18日、一七九ページ)とある《現代大衆文学全集〔全60巻〕》(平凡社、1927〜32)[*3]だった気がしてならない。ウェブサイト《平凡社版「現代大衆文学全集」全60巻 リスト》のデータに依りながら、6人の収録作品を挙げよう。巻名は、正編40巻=T-1〜T-40、続編20巻=U-1〜U-20のように略記した。

・岡本綺堂(1872〜1939) 〔T-11〕 半七捕物帳/玉藻前/最後の舞台/勇士伝/蜘蛛の夢//著者小伝
・佐々木味津三(1896〜1934) 〔U-2〕 右門捕物帳/直参八人組/人斬り甚兵衛//著者略伝
・国枝史郎(1887〜1943) 〔T-6〕 蔦葛木曽桟/三甚内/赤格子九郎右衛門/鵞湖仙人/高島異誌/郷介法師/卍の秘密/日置流系図/六十年の謎/志摩様の屋敷、〔T-33〕 染吉の朱盆/大鵬のゆくへ/北斎と幽霊/加利福尼亜の宝島/天明巷説銅銭会事変/天主閣の音/八ヶ岳の魔神/鼬つかひ、〔U-13〕 剣侠受難/名人地獄/神秘昆虫館/天一坊外伝//著者自伝
・林不忘(1900〜1935) 〔U-1〕 新版大岡政談/つゞれ烏羽玉
・本田美禅(1868〜1946) 〔T-23〕 御洒落狂女//著者自伝、〔T-24〕 八百屋の娘/三人姉妹、〔U-16〕 都一番風流男/燃ゆる血潮/剣法吉岡染/口縄中納言/緋縮緬卯月の紅葉/御贔屓吉弥結び/続 お酒落狂女//著者自伝
・前田曙山(1872〜1941) 〔T-5〕 落花の舞/不知火/情熱の火/深川育、〔T-30〕 燃ゆる渦巻/神文、〔U-12〕 勤王女仙伝/江戸の誇

引きうつしてみたものの、ほとんど見当がつかない。それというのも、林不忘(《丹下左膳》は読んでいない)の別名・牧逸馬の《浴槽の花嫁》(初刊は1930年、中央公論社)こそ「浴室で裸になって/今宵から花嫁たらんとする」(〈少女〉F・5)を論じる際に参照したものの、綺堂の《半七捕物帳》以外、どれも未読だからである。こんなことでは本稿が書けない、と発奮して別のアプローチを試みるべく、細谷正充の監修になる《面白いほどよくわかる時代小説名作100》(日本文芸社、2010年6月30日)を手にした。〔学校で教えない教科書〕シリーズの一冊だが、表紙や扉には「江戸の人情、戦国の傑物、閃く剣! 昭和期から平成の名作を紹介」とあって、教科書というよりは参考書だろう。〈第1章 昭和の国民的作家と時代小説の旗手〉の小説家は(私は基本的に「小説家」と書いて、「作家」と書かない)池波正太郎・山本周五郎・司馬遼太郎・藤沢周平・村上元三・川口松太郎・山田風太郎・柴田錬三郎・隆慶一郎・津本陽・平岩弓枝・永井路子・宮尾登美子・五味康祐・杉本苑子・辻邦生・早乙女貢・吉村昭・童門冬二・白石一郎・松本清張・笹沢佐保・瀬戸内寂聴・有吉佐和子といった、いずれも個人全集をもつような大御所たち。吉岡も当然これらの時代小説家の作品を読んでいようが、具体的に作品名には言及していない。年代からすれば、むしろ〈第2章 温故知新!古典的時代小説の誕生〉に登場する作品に触れた可能性が高い。具体的には以下のとおり。

吉川英治=鳴門秘帖・宮本武蔵
岡本綺堂=半七捕物帳
野村胡堂=銭形平次捕物控
中里介山=大菩薩峠
白井喬二=富士に立つ影
海音寺潮五郎=西郷隆盛
山岡荘八=徳川家康
大佛次郎=鞍馬天狗
子母澤寛=勝海舟
長谷川伸=荒木又右衛門
山手樹一郎=桃太郎侍
角田喜久雄=妖棋伝
国枝史郎=神州纐纈城

まさに時代小説の巨匠たちの代表作である。一方、《面白いほどよくわかる時代小説名作100》の〈第3章 平成の時代小説ブームを牽引する実力者たち〉は山本一力から高田郁までの25人で、それ自体は興味深いものの、昭和が終わった翌年の平成2年5月に歿した吉岡実がこれらの小説家たちを愛読したとは思えない(ここで私が読んだことのある時代小説家は、宮部みゆき・京極夏彦くらいで、本質的にこのジャンルに愛着がないことを露呈している)。ときあたかも、熱烈な讃美者である宮部みゆきの編んだ岡本綺堂《半七捕物帳――江戸探偵怪異譚〔新潮文庫〕》(新潮社、2019年12月1日)が出た。綺堂の《半七捕物帳》は講談社の〔大衆文学館〕という文庫本で読んだが、20年以上も前のことなのですっかり忘れている。さっそく通読してみると、これがじつに面白い。吉岡が生まれる2年前の1917年から連載が始まっただけあって、旧幕時代の語彙など、こんにち見かけない語も登場するが、前後関係から類推できるし、まずなによりも作品の設定、文体の清新さが嬉しい。都筑道夫や北村薫が絶賛しているのもうなずける。吉岡実が大衆文学で「一番好きだった」という《半七捕物帳》[*4]には、今戸、入谷、水戸様のほかにも、吉岡の生まれた中の郷、業平や育った廐橋が登場する。今内孜の編著になる《半七捕物帳事典》(国書刊行会、2010年1月25日)はそうした事項を調べる際の最強の工具書[ツール]だ。ちなみに同書の編集に携わったのは礒崎純一さんである。

中の郷 なかのごう 本所絵図を見ると、吾妻橋東方源森川の南側に「中ノ郷○○」という町名が多く見える。古くは中の郷村であったが、正徳三年[一七一三]に元町、竹町、八軒町、瓦町、原庭町、横川町、五之橋町、同代地町などに分かれた。一帯は武家地と寺院と町家が入り混じっている。「海坊主」に出る中の郷は、そこに瓦屋があるということなので、本所絵図に見る「中ノ郷瓦町」をいうのではないかと思われる。ここは絵図に「中ノ郷瓦焼場」とあるように、瓦職人がこの地に住んでいたのでその名がついた。「蝶合戦」に出る普在寺は見当たらず創作であろう。いまの墨田区吾妻橋から同東駒形にかけての地になる。▼〔道具屋の隠居十右衛門から町内の自身番へとどけて出た。昨夜中の郷の川ばたを通行の折柄に、何者にか追いかけられて、所持の財布を奪い取られたうえに、面部に数ケ所の疵をうけたと云うのである。(河獺)〕。〔その頃の小梅や中の郷のあたりは、為永春水の「梅暦」に描かれた世界と多く変らなかった。柾木の生垣を取りまわした人家が疎らにつづいて、そこらの田や池では雨をよぶような蛙の声がそうぞうしくきこえた。日和下駄の歯を吸い込まれるような泥濘を一足ぬきに辿りながら、半七は清次に教えられた瓦屋のまえまで行きついた。(海坊主)〕。〔お国の菩提寺は中の郷の普在寺であると聞いたのを頼りに尋ねてゆくと、その寺はすぐに知れた。(蝶合戦)〕。〔半七は早々に家を出た。吾妻橋を渡って中の郷へさしかかると、其当時のここらは田舎である。町家というのは名ばかりで百姓家が多い。(新カチ)〕。(同書、六一四〜六一五ページ)

業平 なりひら 本所絵図を見ると右の中ほどに「業平橋」があり、さらに「南蔵院」がある。絵図には記されてないがこの境内に業平天神社があり、業平塚があった。ここから橋名が生まれ、この辺を俗に業平と呼ぶようになったようだ。いまの墨田区吾妻橋三丁目の東部になる。大岡政談の縛られ地蔵で知られた南蔵院は昭和元年[一九二六]葛飾区東水元二丁目に移転し、このとき業平天神社は廃社となった。▼〔「わたくしが業平の方までまいりまして、その帰りに水戸様前から既[も]うすこし此方へまいりますと、堤の上は薄暗くなって居りました」(お照父)〕。(同書、六二三ページ)

廏橋の渡 うまやばしのわたし いまの廏橋の近くには御廏河岸の渡ししかなく、これをいったのであろう。廏橋は明治七年[一八七四]に架けられた。→御廏河岸の渡 おんまやがしのわたし ▼〔陰るかと思った空は又うす明るくなって、廏橋の渡を越えるころには濁った大川の水も光って来た。(海坊主)〕。(同書、八八ページ)

御廐河岸の渡 おんまやがしのわたし 浅草絵図の「浅草御蔵」北側に「御廏カシ渡シ場」とある。発着所の「三好町」に御廏があったことに因る名で、御蔵の北から本所石原への船渡しであった。いまの台東区蔵前二丁目と墨田区本所一丁目を結び、現在の廏橋から百メートルほど下流にあったが、明治七年(一八七四)の架橋により廃止された。▼〔半七はその間に二三軒用達をして来ようと思って、早々に源次の家を出た。それから駈足で二三軒まわって途中で午餐[ひるめし]を食って、御廏河岸の渡に来たのは八つ(午後二時)少し前であった。(化師匠)〕。〔「その娘を乗せて蔵前の方へいそいで行くと、御廏河岸の渡場の方から……」(槍突き)〕。(同書、一九二〜一九三ページ)

〈槍突き〉は前掲《半七捕物帳――江戸探偵怪異譚》に収録されている。今内孜の興趣に満ちた大著には〈《魚藍》と魚籃坂〉で触れた三田の魚籃が次のように記されている。

三田の魚籃 みたのぎょらん 高輪絵図の左中央、細川越中守の中屋敷東側に「魚籃観音」があり、その前の坂を魚籃坂、ここの町家を魚籃前と呼んでいたので、この辺りを三田の魚籃といったのであろう。いまの港区高輪一丁目と同三田四丁目が接するところになる。『武江年表』寛永七年[一六三〇]十二月の項に、「魚籃観世音、三田の地に安置す(開山法誉上人、豊前[ぶぜん]の国より携へ来る所といふ)」とある。魚籃観世音は長崎伝来の唐仏で、右手に魚の入った籃(籠)を持つ。これを本尊とする魚籃寺はいまも三田四丁目に残る。▼〔「三田の魚籃の近所に知り人があるので、丁度そこに居あわせた松吉という子分をつれて、すぐにまた芝の方面へ急いで行くと、ここに一つの事件が出来したんです」(熊死骸)〕。(同書、八〇八ページ)

岡本綺堂の《半七捕物帳》は、時代小説に探偵小説の風味を加えた捕物帳というジャンルの嚆矢とされる。今内孜はその作風をこう要約する。「江戸の情景や生活、風俗がリアルに描かれ、その時代の史実や実在の人物が捕物話にうまく融合している。親分の江戸弁も読者を江戸の世界ヘタイムスリップさせてくれます。科白が生き生きとしているのは、劇作家ゆえの所産でしょうね。親分の話し言葉も、相手が武家や町人、あるいは容疑者と、人によって使い分けている。情緒があって抑制した簡略な文章は俳句の香りがします。場面の転換が鮮やかなのは芝居と共通していますし、芝居にかかわる譬えや比喩が多いのも特徴のひとつで、この辺は綺堂氏ならではの世界といえます。『半七捕物帳』はまさに江戸を知る格好の読物といえます」(〈架空対談 半七親分に訊く――「あとがき」に代えて〉、《半七捕物帳事典》、九七五ページ)。吉岡実が生まれた1919年の50年前は1869年、明治2年である。東京は1923年の関東大震災で市街地の大改造を余儀なくされて、江戸の風情は地を掃ったが、それでもいやそれゆえに半世紀前に明治となる以前の時代を懐かしむ心情は、この下町に生まれた少年にも息づいていたことだろう。それが綺堂の捕物帳という、望みうる最高の作品であったことは幸いだった。われわれもまた時代を超えて、この懐旧の情とモダニズムの香りの融合した作品に親しむことができる。

〔追記〕
時代小説の近接ジャンルに時代劇(映画・テレビ)がある。吉岡はそれについてはほとんど言及していないが、次の金井美恵子の文(文章、ではない。一文すなわちワンセンテンスである)が示唆に富んでいる。

〔……〕また別のおり、これは吉岡さんの家のコタツの中で夫人の陽子さんと私の姉も一緒で、食事をした後、さあ、楽にしたほうがいいよ、かあさん、マクラ出して、といい、自分たちのはコタツでゴロ寝をする時の専用のマクラがむろんあるけれど、二人の分もあるからね、と心配することはないんだよとでも言った調子で説明し、陽子さんは、ピンクと白、赤と白の格子柄のマクラを押入れから取り出し、どっちが美恵子で、どっちが久美子にする? 何かちょっとした身のまわりの可愛かったりきれいだったりする小物を選ぶ時、女の人が浮べる軽いしかも真剣な楽し気な戸惑いを浮べ、吉岡さんは、どっちでもいいよ、どっちでもいいよ、とせっかちに、小さな選択について戸惑っている女子供に言い、そしてマクラが全員にいき渡ったそういう場で、そう、「そんなに高くはないけれど、それでも少しは高い値段」の丹念に選ばれた、いかにも吉岡家的な簡素で単純で形の美しい――吉岡実は少年の頃彫刻家志望でもあったのだし、物の形体と手触りに、いつでもとても鋭敏だし、そうした自らの鋭敏さに対して鋭敏だ――家具や食器に囲まれた部屋で、雑談をし、NHKの大河ドラマ『草燃える』の総集編を見ながら、主人公の北条政子について、「権力は持っても家庭的には恵まれない人だねえ」といい、手がきの桃と兎の形の可愛いらしい、そんなに高くはないけど気に入ったのを見つけるのに苦労したと言う湯のみ茶碗で小まめにお茶の葉を入れかえながら何杯もお茶を飲み、さっき食べた鍋料理(わざわざ陽子さんが電車で買いに出かけた鯛の鍋)の時は、おとうふは浮き上って来たら、ほら、ほら、早くすくわなきゃ駄目だ、ほら、ここ、ほらこっちも浮き上ったよ、と騒ぎ、そんなにあわてなくったって大丈夫よ、うるさがられるわよ、ミイちゃん、と陽子さんにたしなめられつつ、いろいろと気をつかってくださったいかにも東京の下町育ちらしい種類も量も多い食事の後でのそうした雑談のなかで、ふいに、しみじみといった口調で、『僧侶』は人間不信[、、、、]の詩だからねえ、暗い詩だよ、など言ったりするのだ。(〈吉岡実とあう――人・語・物〉、《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月20日、二一七〜二一九ページ)

Wikipediaによれば、『草燃える』の総集編は第1話「頼朝起つ」(1979年12月24日放送)、第2話「平家滅亡」(同25日)、第3話「征夷大将軍」(同26日)、第4話「頼家無惨」(同27日)、第5話「尼将軍・政子」(同28日)である。吉岡の口振りからすれば、金井美恵子たちと見ていたのは、1979年12月28日放送の第5話「尼将軍・政子」だろうか。このNHKの大河ドラマについては、時代劇・映画史研究家の春日太一の文章を借りよう。

『草燃える』(NHK大河ドラマ)
放送年:1979年/放送局:NHK/演出:大原誠ほか/脚本:中島丈博/原作:永井路子/出演:石坂浩二、岩下志麻、国広富之、金子信雄、尾上松緑ほか

解説》本作は源頼朝(石坂)・北条政子(岩下)夫妻が鎌倉幕府の支配体制を確立していく過程が描かれている。だが、本作の脚本を担当した中島丈博は、別の二人の人間をドラマの核に据[す]えた。一人は政子の弟・北条義時、もう一人は中島が創作した架空の人物・伊東祐之[すけゆき]だ。中島はこの二人の人生を巧みに交差させながら、鎌倉の光と影を照射していく。
 〔……〕
 そして、最後は琵琶法師となった祐之が「盛者必衰[じようしやひつすい]」「諸行無常[しよぎようむじよう]」と『平家物語』を吟じるシーンで幕を閉じる。それを聞くのは、権力闘争の果てに全てを失い、ただ呆然[ぼうぜん]とするしかないヒロイン・北条政子だった。物語としてのあまりの完成度に震えた。(《時代劇ベスト100〔光文社新書〕》、光文社、2014年10月20日、六八〜六九ページ)

吉岡実は、このドラマが放送された前年、1978年の11月に永年勤めた筑摩書房を依願退職している。さらに、この年の秋には「中期」の掉尾を飾る詩集《夏の宴》(青土社)を出している。金井美恵子が描いたのは、そんな悠悠自適の年末の一齣である。昭和の夜には、大河ドラマ=時代劇がふさわしい。

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[*1] 18枚組のCD《六代目三遊亭圓生の世界》(東芝EMI、2002)DISC6の〈中村仲蔵〉は〈第166回東横落語会三遊亭圓生独演会〉(東横ホール、1974年10月30日)での収録。付属の〈口述筆記〉に次のようにある。

 はいって来たのをひょいッ……(と、見ると)齢[とし]ごろ三十二、三にもなりましょうか、色の白いやせぎすな、背ェの高い、月代[さかいき]が森のようにはえております。
 装[なり]はというと、黒羽二重[はぶたい]の引き解きという……袷[あわせ]の裏をとったやつ、これへ茶献上の帯、茶の燻[くす]べ(燻べ革。松葉の煙で地を燻べ、模様を白く残したもの)の鼻緒の雪駄[せツた]を腰ィはさんで、尻を高く端折[はしょ]りまして、蝋色[ろいろ]艶消[つやけ]しの大小を落としざしにして、破れた蛇の目傘ァそこィぽォんとほうり出して、かァッと月代を押さいるてえと、だらだらだらだらだらァッと、しずくが垂れます。袂[たもと]から裾と、びしょびしょになった着物をこう……しきりに、しぼっている。
「……これだ……いィい扮装だなァ……なるほど、斧九太夫[くだゆう]の伜定九郎。祇園あたりでさんざん遊[あす]んで金に困るので山崎街道で追いはぎをするんだから、どてらで出るわけァねえ……こりゃァいいィなァ。どうもあの、ぽたぽたぽたぽた水が垂れて、黒い着物がこう……からだィまといついてるとこなんぞァどうも……たまらないなァどうも……いいッ、いいッ、いいッ、いいッ……」(別冊解説書、二〇一〜二〇二ページ)

この部分、寳井馬秀の講談〈名優中村仲藏〉は、小説でいえば地の文でぐいぐい話を推しすすめるので、落語に較べて圧縮されている。ライヴで講釈を聴いたことがないが、はたして耳で聞いて充分に理解できるか。ちなみに吉岡は、昭和20年代後半の想い出を「私は二十数年前のことを想い出していた。この地蔵さまの下の岩瀬という家に、若い画家吉田健男と下宿していたのだ。家主は四十五、六の後家さんで、いつも赤いただれた瞼と眼をしていた。冬の深夜に、親子三人の寝顔を見ながら、私は便所へかよったものだ。私たちは台所を出入り口にしていた。ちょうどそこには鶏小屋があって、真夏は糞[ふん]の臭いに閉口した。神経質な健男はことにいやがった。彼は子供のころ咽喉の病気をしたとかで、いつもかすれた声をして、不精者の私を叱るのだった。庭というか空地の向うに、まだ貧乏な三遊亭円生が住んでいたが、不思議なことに落語を喋っているのを聞いたことはなかった。/近くに徂徠の墓処があったので「鶏糞[ふん]の香や隣りは三遊亭円生師」と二人は笑った。もちろんそれは其角の「梅が香や隣りは荻生惣右衛門」のパロディーである。」(〈西脇順三郎アラベスク〉の「3 化粧地蔵の周辺」、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二二九〜二三〇ページ。初出は1975年10月31日、筑摩書房刊の《西脇順三郎 詩と詩論〔第6巻〕》付録)と書いている。吉岡が三遊亭圓生の高座に接したかは、残念ながらわからない。

[*2] 挿絵は時代小説に欠かせないものであるにもかかわらず、そのあたりのことを当事者が詳しく語った文章をほとんど見ない。小松左京(1931〜2011)が少年時代に親しんだ8人の挿絵画家にインタビューしたテープが発見された、というのは幸いだった(その8人とは、蕗谷虹児、野口昂明、田代光、和田邦坊小田富弥、富永謙太郎、志村立美、藤原せいけん)。このうち志村立美は〈吉岡実の装丁作品(136)〉の註において、長谷川伸の短篇小説集《長襦袢供養》(隆文堂、1948)の表紙画を担当した画家として言及したことがある。小松によるインタビューの総題は「小松左京が聞く」という角書きふうの文言が付いた〈大正・昭和の日本大衆文芸を支えた挿絵画家たち〉である。本文の〈3 志村立美[しむらたつみ](一九〇七―一九八〇)〉は、19ページにわたって当時の挿絵画家との交流や時代小説家、時代小説の出版社の裏話を披露した貴重なもの。作画のときに参考にするのは映画やテレビ(の時代物)ではなく、歌舞伎だ(同書、一九一ページ)というあたりは、なるほどと思わせる。インタビューの最後が、ちょんまげをはやらせたい、で終わるのもしゃれている。志村立美の記事の末尾には「〈一九七五年二月二四日 世田谷の志村立美邸にて〉」(《小松左京全集完全版〔第26巻〕》城西国際大学出版会、2017年4月30日、一九六ページ)とある。乙部順子による全体のまえがきに相当する文章では「志村立美さんは、「続・丹下左膳」の挿絵や山本周五郎「児次郎吹雪」、静岡新聞の花登筺「細腕繁盛記」の挿絵など、山川秀峰の弟子らしく美人画で有名な作家です。」(同書、一三三ページ)と紹介されている。

[*3] 吉岡より3歳年長の小説家・石沢英太郎(1916〜88)は、光文社文庫版《半七捕物帳〔第4巻〕》(光文社、1986年8月20日)の〈解説〉に「私、岡本綺堂さんの『半七捕物帳』に親しんで、すでに、久しい。/古くは平凡社の紺表紙の現代大衆文学全集の一冊(これはもうボロボロになっている)、さらに早川書房版、青蛙房[せいあぼう]版。出張のさいは文庫版を好伴侶として利用している。」(同書、三六九ページ)と書いている。早川書房版は《定本 半七捕物帳〔全3巻〕》(1955〜56)、青蛙房版は〔青蛙選書〕の《半七捕物帳〔全5巻〕》(1966〜67)で、文庫版は昭和初年の春陽堂書店、早川書房の《定本》よりやや後に出た角川書店(全7冊)、1977年の旺文社(全7冊)のどれだろうか。〈読書遍歴〉(初出は《週刊読書人》1968年4月8日号)を書いた当時、吉岡が入手しやすかった版は青蛙房の〔青蛙選書〕か角川書店の文庫本のはずだが、(文体からは、神保町あたりの新刊書店で立ち読みくらいしたように思えるものの)執筆時に再読したかどうかも含めて、詳しいことはわからない。

[*4] 岡本綺堂《半七捕物帳〔全6巻〕》(筑摩書房、1998年6月25日〜11月25日)は、半七捕物帳の全話を収めている。ここで注目すべきは、先に大衆文学研究賞に輝いた《半七は実在した――「半七捕物帳」江戸めぐり》(河出書房新社、1989)を著した今井金吾が全巻に註・註解・地図と巻末資料を執筆していることである。全巻の装画・挿画は三谷一馬。今井による註解を、本文で引いた今内孜のそれと比べても面白い。ところで、宮部みゆき編の《半七捕物帳――江戸探偵怪異譚》の底本は最新の版である光文社時代小説文庫の新装版で、筑摩書房と光文社、両社の半七捕物帳全集がそろっているのは心強い。――光文社時代小説文庫の《半七捕物帳〔全6巻〕》(解説:都筑道夫・森村誠一・戸板康二・石沢英太郎・武蔵野次郎・岡本経一)は、初刊(1986〜87)と新装版(2001)がある(「新装版」は本文・解説とも初刊に同じ内容だが、文字サイズ・字詰・行数ともに異なる「新組」のため、ページも増えて大きな活字で読みやすい。私は全68篇を〔第6巻〕巻末の岡本経一〈半七捕物帳 作品年表〉の順――寛延元年の〈小女郎狐〉に始まり慶応三年の〈筆屋の娘〉に至る――に従って、初刊で読んだ)。また半七捕物帳とは別に、〈岡本綺堂読物集〔中公文庫〕〉が中央公論新社から7冊まで出ている。それにもまして岩波文庫に《明治劇談 ランプの下にて》(1993)と《岡本綺堂随筆集》(2007)が収録されているのは頼もしい。若いころ新聞記者だった歌舞伎作者の書いた一世紀前の時代小説が、次世代の読者に引きつがれてゆく。そのさまは、歴史小説を自分の本分と考えていた、あのイギリスの医者が書いた探偵小説の長きにわたる隆盛を想わせる。


《うまやはし日記》に登場する映画――吉岡実と映画(2)(2020年2月29日)

四方田犬彦の書きおろし《無明 内田吐夢》(河出書房新社、2019年5月30日)を読んだ。このところ、吉岡実と時代小説に代表される大衆文学の関係を考えているせいか、内田吐夢監督作品《大菩薩峠》(第一部:1957、第二部:1958、完結篇:1959)を論じた章(『大菩薩峠』)がとりわけ興味深かった。ほかにも《恋や恋なすな恋》(1962)の「白狐」(同書、一六八ページ)について――吉岡実詩に〈白狐〉(未刊詩篇・16)がある――や、《飢餓海峡》(1964)の章の「巫女の見開かれた両眼は白濁している。彼女は何かに憑かれたように賽の河原やさまざまな地獄の話を語り、数珠を弄[まさぐ]りながら、しだいに恍惚とした表情を顔に浮かべるようになる。さながら土方巽の『暗黒舞踏』のような光景である。」(同書、二三六ページ)という記述があり、いろいろなことを考えさせられた。それを一言でいえば、近年、映画とはすっかりご無沙汰の私も、この20世紀最大の娯楽=芸術装置の偉大さに改めて敬服している、となろうか。ところで、生来のモダニストである吉岡実は、戦前、浅草にほど近い本所区厩橋に父母と暮らしていたこともあり、movie-goerにはなるべくしてなったともいえる。私はいずれ〈吉岡実と映画〉について書きたいと念じているが、今回はその基礎資料として戦前、二十歳前後の吉岡の日記に登場する映画のリストを作成してみる。項目は、《うまやはし日記》(書肆山田、1990)の日付(【 】内に曜日を追記した)を見出しにして、日記本文に登場する映画および映画にまつわる記載をそのまま引き、*印のあとに簡単な説明を掲げた。なお、映画作品と監督や出演者にリンクを張った箇所がある(主なリンク先はMovieWalkerやWikipediaである)。

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昭和十三年(1938)

9月4日【日】――午後、東宝撮影所まで行く。そこは想像していた「夢のような世界」ではない。男優女優の姿さえわびしく見えた。
*吉岡は前日の9月3日から、母親の「いと」と祖師ヶ谷大蔵の村田家を訪ねている。


昭和十四年(1939)

3月31日【金】――夕刻、このごろ気まずくなった佐藤さんと、蔵前橋通りの八千代館へ映画を見に行く。客は近所のおかみさん、子供、小僧、職工それにふんどしかつぎといったところで雰囲気が好き。
*「佐藤さん」は吉岡が手伝った夢香洲〔むこうじま〕書塾の主、佐藤樹光〔春陵〕。吉岡は書塾に住みこみ、ときには佐藤たちと句会を催した。

4月3日【月】――雨。朝から本郷座へ行く。「望郷」ジャン・ギャバンは素晴しい。となりの女学生も泣いていた。外は寒くふるえた。南山堂へは寄らず、赤門まで散歩。
*吉岡が感銘を受けた《ペペ・ル・モコ(望郷)》に登場するケン玉については、〈吉岡実とケン玉〉で詳述した。「南山堂」は、学業を終えて最初に勤めた医書出版社。

4月26日【木】――夜、富士館で「土」を見る。すばらしい田園詩。
内田吐夢監督作品。「こうして一九三九年三月、撮影日数三七四日、セット数六五杯という、日活未曾有の規模の撮影が終了した。フィルムは文部省の推薦を受け、四月一三日に封切られた。これがたちまち大ヒットし、三週間のロングランとなった。いや、そればかりか、その年の『キネマ旬報』ベストテンでも第一位に選出された。観客のなかでは高学歴層の占める割合が、他のヒット作と比べて大きかった。『土』は現在では、一九三〇年代日本映画を代表する輝かしい古典として認知されている。」(四方田犬彦〈『土』と農村回帰〉、《無明 内田吐夢》、三一七〜三一八ページ)

5月13日【土】――雨の中を、神田の南明座まで行く。「パンドラの筐〔ママ〕」のルイズ・ブルックスに魅了される。悩ましいルル。
*吉岡は〈懐しの映画――幻の二人の女優〉(初出は《ユリイカ》1976年6月号)に「それからもう一人、幻の女優をあげるならば、「パンドラの箱」のルイズ・ブルックスしかいない。少年じみたおかっぱ髪の彼女の美しさ妖しさもいまだ忘れられない。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一九ページ)と書いている。

5月14日【日】――午後、浅草へ行く。国際キネマで「ステージ・ドア」を見る。
*主演はキャサリン・ヘプバーン、ジンジャー・ロジャース、アドルフ・マンジュー。

6月11日【日】――日曜、久しぶりで早稲田の全線座へ行く。ベティ・デヴィスの「痴人の愛」もよかったし、レビュー探偵映画「絢爛たる殺人」もよかった。
*吉岡はこのあと、高田南町の依田昌矩(書道、俳句仲間)・栄子夫妻の家を訪ねている。

6月25日【日】――雨の上野広小路で市電を乗換え、シネマパレスへ。「第七天国」のジャネット・ゲーナは可憐だった。
*吉岡はこのあと、友人と玉木座で万才を見ている。

7月15日【土】――地獄の釜のふたのあく日。夕方、神田へ行く。南明座に入り、九時過ぎ出て、夜店の古本を探して歩く。
*映画はタイトルを記すまでもないほどの内容だったのか。

7月25日【火】――夜、厩橋から市電に乗る。三筋町、竹町、上野広小路を通る。本郷座で「〔きら→燦〕めく星座」の豪華なる氷上レヴュー映画。もう一つは「早春」で、思春期の少女の物語。Y、Eのことを思う。
*「Y、E」は南山堂の女子社員、中村葉子と英子(姓未詳)。

8月20日【日】――目黒キネマで「暴君ネロ」
*吉岡が映画を見る曜日がたいてい日曜日なのは、手伝っていた書塾が休みだったためだろう。

8月28日【月】――銀座全線座で、「真夏の夜の夢」。
*早稲田にも全線座があるところを見ると、銀座全線座は同系列の映画館か。

10月17日【火】――雨。午後遅く、春陵さんと三輪へ行く。キネマハウスで、ダニエル・ダリュウ「暁に〔かへ→帰〕る」を見る。男と女の席はすでに分けられている。淋しい町三輪。
*吉岡は「三輪」と書いているが、東京都台東区の「三ノ輪」であろう。

10月29日【日】――南明座へ「たそがれの維納」を見に出かける。
*吉岡は続けて「帰りの電車の中で〔空襲〕警報を聞く。」と書いている。

11月7日【火】――日本館で「ブルグ劇場」を見た。しばしの陶酔。十時近く帰る。
*吉岡は映画を観にいくまえ、財布を落としており、「気分なおしに浅草へ向う。」と書いている。

12月5日(火曜)【火】――夜、国際キネマで「女優ナナ」を見た。原作を歪めている。アンナ・ステンの白痴美に魅せられた。
*吉岡はゾラ(宇高伸一訳)の新潮文庫版《ナナ〔上・下〕》(新潮社、1933)を半年ほどまえの5月18日【木】に買いもとめており、翌日の5月19日も「夜遅くまで、『ナナ』を読みふける。」(《うまやはし日記》、四一ページ)とある。

12月23日【土】――朝、亀の湯で柚湯に浸る。昨夜見た「ハバネラ」〔「南の誘惑」〕のツァラーレンダ〔ツァラー・レアンダー〕の美しさを思う。
*冬至の日のため、銭湯が柚子湯を用意したのである。


昭和十五年(1940)

1月21日(日曜)【日】――早稲田の全線座で「少年の町」を見る。
*吉岡は前年6月11日に同じ早稲田の全線座で《痴人の愛》《絢爛たる殺人》を観ている。

1月23日【火】――久しぶりでまあ坊が誘いにくる。遠いが三〔ノ〕輪のキネマハウスへバスで行く。映画はつまらなくがっかり。黒いオーバーのパーマネントの若い娘が隣に座る。客席はすいているのにと、思った。二本目の映画「男の世界」は見ていたので、出ようとした時、その娘が肘でつく。あたしよ、中村葉子よ。奇遇に驚いてしまう。あの黒髪のおかっぱの少女はどこへいってしまったのか。いつも思慕していた、初恋のひと。さようなら、一つの夢。
*「中村葉子」は「Y」として前出。

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吉岡実の《うまやはし日記〔りぶるどるしおる1〕》(書肆山田、1990年4月15日)は、昭和十三年(1938)8月31日から昭和十五年(1940)3月6日までの、実質1年半ほどの記録である。この足掛け3年を吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996)でたどれば、次のようになる(同書、七九〇〜七九一ページ)。

一九三八年(昭和十三年) 十九歳
八月、南山堂を退社し厩橋の実家に帰る。郵便貯金八〇円と退職手当三〇円貰う。九月、夢香洲書塾(佐藤春陵宅)に身を寄せ書塾を手伝う。男二人の生活。子供たちに習字を教え、炊事、掃除、買い出しをする。春陵から改造文庫の白秋『花樫』を贈られ以後、五十余年愛蔵。この頃春陵や友人たちと俳句や短歌を作る。

一九三九年(昭和十四年) 二十歳
近所の写真館で記念写真を撮る。その足で理髪店に寄り坊主頭に。一握りの髪を母に渡す。本所区役所で徴兵検査。第二乙種合格。新ぐろりあ叢書の斎藤史『魚歌』を愛読。大晦日、夢香洲書塾を出て実家へもどる。

一九四〇年(昭和十五年) 二十一歳
二月、西村書店へ入社。木下夕爾詩集『田舎の食卓』を読み、一読者として手紙を出す。それから二年間の文通。詩集『生れた家』を贈られる。初夏、臨時召集のため目黒大橋の輜重隊に入り、教育を終え一カ月半で召集解除となる。十月、詩歌集『昏睡季節』一〇〇部、草蝉舎より刊行。

戦場に赴く前夜、自作の詩歌を「遺書」としてまとめた吉岡実は、兄事する青年の書塾を手伝い、俳句仲間と句会を催し、読書に明けくれる一方、近隣や遠方の映画館に足繁く通い、洋画を中心に多くの映画を観ている。

 過去にどれほどの映画とスターを見できただろうか。ここでは洋画に限ってみるのだが、私は記憶を呼び起すために、猪俣勝人の『世界映画名作全史――戦前〔篇→編〕』を求めて、調べてみたら、そのほとんどを見ているのに、われながら驚いた。青年期の私は見逃した名画・話題作を探して、はるばると目黒キネマ、神田南明座、昌平橋のシネマパレスへと見て歩いたものである。(〈懐しの映画――幻の二人の女優〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、一七ページ)

今回の〈《うまやはし日記》に登場する映画――吉岡実と映画(2)〉における映画の次の段階は、上掲の随想〈懐しの映画〉と、スチル写真を多数掲載した猪俣勝人(1911〜79)の映画史《世界映画名作全史 戦前編〔現代教養文庫〕》(社会思想社、1974)を底本にして、吉岡実が観た(だろう)映画の総覧を作成することである(なお、《世界映画名作全史》には「戦前編」の翌月1974年12月30日発行の「戦後編」があって、吉岡はこれに言及していないが、こちらも視野に収めるべきであろう)。このプロジェクトは、最終的に《吉岡実言及映画索引〔解題付〕》として結実するはずだ。そのためには、今後、素材に相当する記事を〈吉岡実と映画〉シリーズとして、本ページに分載していく必要がある。

猪俣勝人《世界映画名作全史 戦前編〔現代教養文庫〕》(社会思想社、1974年11月30日〔第34刷:1992年4月30日〕)のジャケット 猪俣勝人《世界映画名作全史 戦前篇》(社会思想社、1983年11月30日)のジャケット
猪俣勝人《世界映画名作全史 戦前編〔現代教養文庫〕》(社会思想社、1974年11月30日〔第34刷:1992年4月30日〕)のジャケット(左)と「教養文庫版をそのまま拡大し、装幀を新たにして愛蔵版とした」(編集部)A5判・ハードカヴァー、猪俣勝人《世界映画名作全史 戦前篇》(社会思想社、1983年11月30日)のジャケット〔装丁・イラスト:米田共〕(右) 〔吉岡が随想〈懐しの映画――幻の二人の女優〉執筆時に参照したのは現代教養文庫版〕

〔追記〕
資料として猪俣勝人《世界映画名作全史 戦前編〔現代教養文庫〕》(社会思想社、1974年11月30日)の〈目次〉を掲げる(ノンブルは省略)。本文の組体裁は、〈第一部〉が7.5ポ43字18行(774字)で、各項はおおむね3ページから5ページ、〈第二部〉が6.5ポ24字21行2段(1008字)で、各項はおおむね1ページ。〈第三部〉は1910(明治四十三)年から1944(昭和十九)年までの600篇の年ごとのデータ集で、1938(昭和十三)年から1940(昭和十五)年までの3年間にかぎって作品名のみ掲出した。作品名のあとの●印は、吉岡実が日記や随想で言及していることを示す。

 はじめに
〈第一部〉
 イントレランス
 散りゆく花
 オーバー・ゼ・ヒル
 カリガリ博士
 連続大活劇「名金」「鉄の爪」「虎の足跡」
 乗合馬車
 血と砂
 巴里の女性
 救ひを求める人々
 嘆きのピエロ
 ジーク・フリード
 バグダッドの盗賊
 キイン
 戦艦ポチョムキン
 ロイドの人気者
 キッド
 鉄路の白薔薇
 ステラ・ダラス
 母
 黄金狂時代
 ヴァリエテ
 ボー・ジェスト
 ビッグ・パレード
 第七天国●
 ラブ・パレイド
 西部戦線異状なし
 アジアの嵐
 嘆きの天使●
 モロッコ●
 巴里の屋根の下
 間諜X27●
 アメリカの悲劇
 自由を我等に
 三文オペラ
 雨
 私の殺した男
 人生案内
 サンライズ
 暗黒街の顔役
 貝殻と僧侶
 グランド・ホテル●
 巴里祭
 キング・コング
 一日だけの淑女
 或る夜の出来事
 商船テナシチー●
 にんじん
 街の灯
 会議は踊る
 未完成交響楽
 別れの曲
 情熱なき犯罪
 外人部隊
 春の調べ●
 アンナ・カレニナ●
 白き処女地
 マズルカ
 オペラ・ハット
 ミモザ館
 明日は来らず
 大地
 モダン・タイムス
 オーケストラの少女
 スタア誕生
 舞踏会の手帖
 美しき青春
 望郷●
 民族の祭典
 最後の一兵まで
 スミス都へ行く
〈第二部〉
 プラーグの大学生
 国民の創生
 東への道
 さらば青春
 黙示録の四騎士
 朝から夜中まで
 ドクトル・マブゼ
 幌馬車
 結婚哲学
 椿姫●
 ジキル博士とハイド氏
 十誡
 蜂雀
 ピーター・パン
 冬来りなば
 ダーク・エンジェル
 熱砂の舞
 生けるパスカル
 面影
 最後の人
 海の野獣
 肉体の道
 暗黒街
 紐育の波止場
 アッシャー家の末裔
 アスファルト●
 帰郷
 テレーズ・ラカン
 トウルクシブ
 市街●
 陽気な中尉さん
 大地
 ル・ミリオン
 掻払いの一夜
 チャンプ
 炭坑
 マタ・ハリ●
 白銀の乱舞
 制服の処女
 夢見る唇
 上海特急
 戦場よさらば●
 春の驟雨
 カヴァルケード
 狂乱のモンテカルロ
 呼応計画
 ターザンの復讐
 ロスチャイルド
 男の敵
 俺は善人だ
 乙女の湖
 アラン
 影なき男
 黒鯨亭
 たそがれの維納●
 沐浴
 科学者の道
 幽霊西へ行く
 隊長ブーリバ
 地の果てを行く
 罪と罰
 激怒
 歴史は夜作られる
 シュバリエの放浪児
 女だけの都●〔飯島耕一との対話〈詩的青春の光芒〉で言及〕
 描かれた人生
 禁男の家
 戦艦バウンティ号の叛乱
 ハリケーン
 我が家の楽園
 ブルグ劇場●
 デッド・エンド
 格子なき牢獄
 暁に帰る●
 少年の町●
 コンドル
 美の祭典
 有頂天時代
 チャップリンの独裁者
 駅馬車
〈第三部〉
 明治四十三年
 明治四十四年
 明治四十五年・大正元年
 大正二年
 大正三年
 大正四年
 大正五年
 大正六年
 大正七年
 大正八年
 大正九年
 大正十年
 大正十一年
 大正十二年
 大正十三年
 犬正十四年
 大正十五年・昭和元年
 昭和二年
 昭和三年
 昭和四年
 昭和五年
 昭和六年
 昭和七年
 昭和八年
 昭和九年
 昭和十年
 昭和十一年
 昭和十二年
 昭和十三年
  鎧なき騎士
  ひめごと
  赤ちゃん
  ジェニイの家
  ジャン・バルヂャン
  陽気な姫君
  ステラ・ダラス
  テスト・パイロット
 昭和十四年
  とらんぷ譚[ものがたり]
  マルコ・ポーロの冒険
  青髯八人目の妻
  早春
  地中海
  不思議なヴィクトル氏
  ラ・ボエーム
  ターザンの猛襲
  背信
 昭和十五年
  紅の翼
  太平洋の翼
  牧童と貴婦人
  ヴァリエテの乙女
  翼の人々
  カッスル夫妻
  三人の仲間
  旅する人々
  ゴールデン・ボーイ
  美しき争ひ
  オクラホマ・キッド
  フランケンシュタインの復活
  スタンレー探険記
  踊るニュウ・ヨーク
  海洋児
  幻の馬車
  祖国に告ぐ
  大平原
  珊瑚礁
  第三の影
 昭和十六年
 昭和十七年
 昭和十八年
 昭和十九年
 あとがき
 索引


吉岡実と江戸川乱歩(2020年1月31日)

読者は、例えば精巧なパノラマ館内に手を引かれたかのように、ただただ変転する様々な幻想の虜となって、同じく《死児》の身分を共有させられることになるわけである。(秋元幸人〈吉岡実と『死児』という絵〉、《吉岡実アラベスク》、書肆山田、2002年5月31日、二六二ページ)

2019年11月の《編集後記》に丸尾末広《トミノの地獄〔全4巻〕》(KADOKAWA、2014〜19)のことを書いたが、続けて、未読だった《芋虫》(エンターブレイン、2009年11月6日〔5刷:KADOKAWA、2015年3月13日〕)を入手した。ジャケットや表紙に「原作 江戸川乱歩」、「脚色・作画 丸尾末広」とあるように、丸尾が乱歩の短篇〈芋虫〉をまるまる1冊の単行本に仕上げたものだ(初出誌は《月刊コミックビーム》2009年6月号〜9月号とあるが、私はこの雑誌を知らなかった)。〈芋虫〉は岩波文庫(A6判)の浜田雄介編《江戸川乱歩作品集 V〔パノラマ島奇談・偉大なる夢 他〕》(岩波書店、2018年3月16日)ではわずかに本文28ページだが、丸尾の《芋虫》はA5判で140ページの偉容を誇っている。〈芋虫〉は、Wikipediaには「乱歩が本作を妻に見せたところ、「いやらしい」と言われたという。また、本作を読んだ芸妓のうち何人もが「ごはんがいただけない」とこぼしたともいう。」と記されている。この妻や芸妓が丸尾の本を見たら(読んだら)いったいなんと言うだろうか。想像するだに怖ろしい。私がよく利用する区立図書館には、《芋虫》と同じコンビによる《パノラマ島綺譚》(エンターブレイン、2008)が所蔵されているものの、《芋虫》はない。ちなみに、隣接する他区の図書館にもなかった。岩波文庫版はそれらのひとつを除いて所蔵しているから、もっぱら丸尾の画の衝撃性ゆえに、《芋虫》は所蔵を見送られたと思しい。というよりも、第13回手塚治虫文化賞新生賞受賞の《パノラマ島綺譚》が異例だったというべきか(*1)。さて、吉岡実は江戸川乱歩については、〈読書遍歴〉(初出は《週刊読書人》1968年4月8日号、原題は〈軍隊時代とリルケ〉)で次のように記しているだけだ(*2)

 毎年、夏休みになると、どぶ臭い本所東駒形の路地を離れて、市川真間の叔母の家に行き、樹にかこまれた原、尾長鳥の歩いている池のほとりや、昆虫のとんでいる草むらで、ささやかな田園風物をたのしんだ。その家の豊富な蔵書類からわたしはいつも『講談全集』をぬきだして、読み耽ける。英雄豪傑から刀匠、忠僕までおもしろい話はつきない。一冊六百頁もある濃緑の布装の本で、二、三十巻位あったと思う。また年上の従兄弟たちのもっていた、江戸川乱歩の『孤島の鬼』『黄金仮面』『一寸法師』そして『陰獣』という恐るべき作品まで、家人にかくれて読んだものである。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、五五ページ)

江戸川乱歩(1894〜1965)の略年譜には、昭和六(1931)年の項に「平凡社より初の全集を刊行。全十三巻が完結した翌年、二度目の休筆に入る。(三十七歳)」(《江戸川乱歩全集 第30巻 わが夢と真実〔光文社文庫〕》、光文社、2005年6月20日、七九六ページ)とあり、私は吉岡が随想で挙げた乱歩作品は平凡社版全集で読んだものと考えて、かつて《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》にこう記した(平凡社版全集は未見)。

《孤島の鬼〔江戸川乱歩全集. 第5巻〕》(平凡社、1931年7月10日)
 江戸川乱歩の長篇小説。初刊は1930年5月、改造社。
《黄金仮面〔江戸川乱歩全集. 第10巻〕》(平凡社、1931年9月10日)
 江戸川乱歩の長篇小説。初刊は本全集。
《一寸法師〔江戸川乱歩全集. 第2巻〕》(平凡社、1931年10月10日)
 江戸川乱歩の長篇小説。初刊は1927年3月、春陽堂。
《パノラマ島奇譚〔江戸川乱歩全集. 第1巻〕》(平凡社、1931年6月10日)
 〈陰獣〉は江戸川乱歩の中篇小説で初刊は1928年11月、博文館。

資料を博捜したところ、平凡社版乱歩全集の書影があったので、以下に掲げる。出典は後出書影のキャプションに記したが、原本の写真のキャプションを引けば、次のとおりである。

『江戸川乱歩全集』第1巻 1931(昭和6)年6月、第4巻1931(昭和6)年8月、第8巻 1931(昭和6)年5月、第13巻 1932(昭和7)年5月 平凡社 立教大学蔵
乱歩邸自著箱に保管されている遺蔵書。第1巻は『パノラマ島綺譚』収載。乱歩と朔太郎が出会った年の刊行。第4巻は朔太郎と乱歩が愛したフランス製連続活劇の登場人物、ジゴマ、ファントマ、プロテアの名が出てくる「空気男」収載。第8巻は、朔太郎がノートに記した「禁断された言葉」と同じ着想を持つ小説「芋虫」収載。第13巻は「探偵小説十年」が収載。「木馬は廻る」の項で乱歩が朔太郎と浅草で木馬に乗ったことを回想している。

出典:萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち前橋文学館編《〔萩原朔太郎生誕130年記念・前橋文学館特別企画展〕パノラマ・ジオラマ・グロテスク――江戸川乱歩と萩原朔太郎》(萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち前橋文学館、2016年10月1日、〔五ページ〕) 《パノラマ・ジオラマ・グロテスク――江戸川乱歩と萩原朔太郎〔萩原朔太郎生誕130年記念〕》(萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち前橋文学館、2016年10月1日〜12月18日)の丸尾末広による《パノラマ島綺譚》漫画展(同、2016年12月1日〜2017年1月9日)のポスター
出典:萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち前橋文学館編《〔萩原朔太郎生誕130年記念・前橋文学館特別企画展〕パノラマ・ジオラマ・グロテスク――江戸川乱歩と萩原朔太郎》(萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち前橋文学館、2016年10月1日、〔五ページ〕)(左)と同展(同館、2016年10月1日〜12月18日)の丸尾末広による《パノラマ島綺譚》漫画展(同、2016年12月1日〜2017年1月9日)のポスター(右) 〔残念ながら私は双方とも観ていない〕

吉岡は上掲の随想では触れていないが、乱歩全集で《パノラマ島奇譚》を読まなかったとはとうてい信じられない(念のため、乱歩の小説の標題は今日では〈パノラマ島奇談〉である)。乱歩は本作を振りかえって、「連載中は余り好評ではなかった。初めの方の人間入れかわりの個所は面白いにしても、この小説の大部分を占めるパノラマ島の描写が退屈がられたようである。ポーの「アルンハイムの領地」や「ランダーの屋敷」が私の念頭にあったのだが、出来上がったのは、意あって力足らぬ平凡な風景描写でしかなかった。しかし、発表後、年がたつにつれて、チラホラ好評を聞くようになった。中にも萩原朔太郎さんが、私の家の土蔵で酒を酌[く]み交しながら、この小説をほめてくれたことを忘れない。それ以来、この作品に少しばかり対外的自信を持つようになった。」(〈『パノラマ島奇談』――わが小説〉、《江戸川乱歩全集 第2巻 パノラマ島綺譚〔光文社文庫〕》、光文社、2004年8月20日、四九三ページ。初出は《朝日新聞》1962年4月27日)と記しており、朔太郎の評を徳としたことがうかがえる。《猫町》(1935)の詩人が本作を称讃することに、なんの不思議もない。今日では、澁澤龍彦を筆頭に本作の評価はきわめて高い。乱歩の〈パノラマ島奇談〉は前掲岩波文庫では本文146ページの中篇だが、丸尾末広はこれを272ページの《パノラマ島綺譚》に仕立てている。丸尾がさまざまな文献や映画から引用した図像(パスティシュやパロディ)を自作にちりばめることはつとに知られているが――「中期吉岡実」!――、これはまだだれも指摘していないはずだが、とりわけ豊満な美女(たち)とフリークス(たち)の絵にはクロヴィス・トルイユが意識的に採りいれられているのではないだろうか。そしてこの打ち上げ花火を大団円にもってきた映画こそ、土方巽が出演した江戸川乱歩原作・石井輝男監督作品《江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間》(東映、1969)だった(*3)

クロヴィス・トルイユの〈Sous le culte des Sorcieres en flirt(媚を売る巫女の祭祀の蔭に)〉(1943) 原作 江戸川乱歩、脚色・作画 丸尾末広《パノラマ島綺譚》(エンターブレイン、2008年3月7日〔10刷:KADOKAWA、2016年10月7日〕)〈第五章〉の扉絵原作 江戸川乱歩、脚色・作画 丸尾末広《パノラマ島綺譚》(エンターブレイン、2008年3月7日〔10刷:KADOKAWA、2016年10月7日〕)〈第七章〉の扉絵 原作 江戸川乱歩、脚色・作画 丸尾末広《パノラマ島綺譚》(エンターブレイン、2008年3月7日〔10刷:KADOKAWA、2016年10月7日〕)二二八ページ
クロヴィス・トルイユの〈Sous le culte des Sorcieres en flirt(媚を売る巫女の祭祀の蔭に)〉(1943)(左)と原作 江戸川乱歩、脚色・作画 丸尾末広《パノラマ島綺譚》(エンターブレイン、2008年3月7日〔10刷:KADOKAWA、2016年10月7日〕)〈第五章〉の扉絵と同・〈第七章〉の扉絵(中)と同・〈第七章〉の二二八ページ(右)

丸尾の描画力には怖ろしいまでのものがあって、《パノラマ島綺譚》の後半の幻視に充ちたシーンなど、おそらくかつて誰もなしえなかった高みにある。丸尾はそこで、昆虫を含めた動植物(見目麗しい女やおぞましい容姿の男!)や、自然や都市の景観、あたりを行き交う群衆を描く際にも、いっさいの妥協を排して縦横無尽のメチエを渾う。それはとりわけ、1ページ大のコマや各章の扉絵において著しい。それらのページにさしかかるたびに、私は飽かずに見入るのをつねとする。たとえば〈第七章〉で、菰田源三郎になりすましたことが露見したと悟った主人公・人見廣介は、夜の水に泛かんだゴンドラで妻の菰田千代子を絞殺する。その刹那、空に巨大な花火が炸裂する。パノラマ島の住人(?)の美少年が「あっ!? 流星」と言うと、美少女が「あれは花火です」と否む(丸尾がここで下敷きにしたのは、ポウとジョイスか)。その次が、上に引いた本書で最も戦慄的なページで、「源三郎」は蓮の蕾にとまる蛍に気づいて、水に浮かべた千代子に向かって「世界一美しい死体だ」と呼びかける。すると、その髪や頬にも蛍がとまっている。これが《パノラマ島綺譚》で(回想シーンを除いて)千代子が登場する最後のコマである。吉岡実が丸尾末広の《パノラマ島綺譚》を目にすることができなかったのを、私がどれだけ残念に思っているか、おわかりいただけるだろう(*4)。ときに、創作においてあれだけ奇怪な幻視力を恣にする乱歩と吉岡が、幼少時の遊びを語るとき、あたかもその反動ででもあるかのようにくつろいだ調子になるのはまことに興味深い。乱歩に〈ビイ玉〉(初出は《トップ》1936年11月号)と題する随想があるので、その中ほどを読んでみよう。

 少年時代を振り返ってビイ玉に類するものを思い出せば、僕の住んでいた名古屋市では、その頃椿[つばき]の種と銀杏[ぎんなん]の種をもてあそぶことが流行していて、僕にはその二つのものに可愛らしい郷愁がある。
 椿の実の皮をむくと、中に幾[いく]つかのセピヤ色の硬い種がはいっている。その種の一つ一つはちょうど蜜柑[みかん]の袋のような形をしていて、板の上に投げ出すと、多くは横に倒れるが、中にはその丸い底の部分で不倒翁[おきあがりこぼし]のように立っているものもある。
 そこで、子供たちは銘々[めいめい]の椿の種を一つずつ出し合い、一人が両手で振って板の上に投げ出して、丸い底の方で立っていたものを勝ちとして勝負を争う、いわば椿の種の角力[すもう]である。
 椿の種の中にはごく稀[ま]れに、底の丸い部分が非常に広くて、いくら振っても必ず立ち上がる不死身[ふじみ]のものがあった。そういうものを持っている子供は大得意で、赤や青の漆[うるし]でもって表面を彩色して、その頃の横綱、常陸山だとか梅ケ谷[うめがたに]だとかの名を書き入れ、椿角力の大選手として、何の宝にも換えがたく愛蔵したものである。
 僕も椿角力では夢中であった。八百屋から、幾つも幾つも椿の実を買って来て、もしや不死身の種が出て来やしないかと、それを割って見るのが、どんなに楽しみだったろう。そして、もし底の広い、まるでお椀[わん]みたいな形の、さも強そうな種を発見すると、丁寧に漆でお化粧してやるのが又一つの楽しみであった。それを大切がったことは、おそらくフランスの子供たちの、赤道のような縞[しま]のある瑪瑙のビイ玉にも劣らなかったであろう。(《江戸川乱歩全集 第30巻 わが夢と真実〔光文社文庫〕》、六五〜六六ページ)

吉岡の随想を読んだことがあるほどの者なら、誰もが〈ベイゴマ私考――少年時代のひとつの想い出〉(初出は《鷹》1983年7月号)を想起するに違いない。

 私は気に入ったベイゴマが手に入ると、渦巻状のみぞへ蝋やクレヨンを溶かし込み、美しく装うたりした。或る時、妖しい色彩のベイに見惚れた。持主の子にたずねると、石鹸を練ってつめたと、秘法を聞かしてくれた。しかし、このようなベイゴマは、愛玩品であり、ホンコには使うものではない。
 ベイ遊びの極致は、七、八人でやるホンコ勝負につきる。ガチガチぶつかり合う、にぶい鉄(鋳物)の音。強いベイなら、一つも残らずに弾き出してしまう。勝ったベイが自己のものなら、トコから掴み上げればよい。全部戴きだ! ここでは、識別能力が大切なのである。取ったり、取られたり、時々刻々、ベイゴマは替っているのだった。たった今、勝ち取ったベイを、紐を巻きつつ、視覚的触覚的に確認しなければならない。トコの中を動き廻っている七、八個のベイゴマ。どれが自己のベイかみんなわかっているのだ。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二六七ページ)

子供のころの遊びをそれを知らない者に伝えようとすると、いきおい似たりよったりになるというのが大方の真実だとしても、両者の筆の運びにはそれ以上のものがある。つまり、自身の作品(乱歩にとっての小説、吉岡にとっての詩篇)とはまるきり異なる開闊な散文の文体のことをいいたいのだ。私はひそかに想う。吉岡が随想(原稿枚数のみ指定があって、内容は不問だったか)の執筆を依頼されたとき、乱歩の〈ビイ玉〉を読みかえしたのではないか、と。

以下では、吉岡の随想に出てくる乱歩の小説について触れるが、必ずしも吉岡との関係にとどまらない。なお、初刊等はすでに記したので、初出情報を付記する。
(前掲文で吉岡が乱歩を読んだという「市川真間の叔母の家」とは鈴鹿家で、その子たち、すなわち吉岡にとってイトコたちは「順ちゃん武ちゃん千代子ちゃん利恵ちゃん」(《うまやはし日記》、書肆山田、1990、五一〜五二ページ)だから、乱歩本を持っていた「年上の従兄弟たち」は「順ちゃん」(別の個所では「順一さん」とあるのを見ると、鈴鹿順一か)「武ちゃん」ということになろう。《講談全集〔全12巻〕》(大日本雄弁会講談社、1928〜29)は叔母かその夫の所有だろうが、鈴鹿家は子供たちにも乱歩全集を買いあたえるような家柄だった。)

《孤島の鬼》(1929年1月から1930年2月まで博文館の月刊誌《朝日》に連載)――しばしば構成力の弱さが指摘される乱歩の長篇小説にあって、本作はその数珠つながりともいえる展開が読者の予測を超えて、一種異様な迫力を生むに至っている傑作。もっとも、冒頭で語り手の現状(自身の若すぎる白髪と妻の腰にある傷跡)が示されるので、この二人だけは無事に生還するのだと保証されているのだが、読者を手玉に取る乱歩の筆は、初期の長篇中、随一である。さて、乱歩には密閉願望ともいうべき性向がある。私は閉所恐怖症とは異なるが、光ひとつ射さない洞窟で水が満ちてくるような場面は想像するだけで耐えがたく、本作後半の冒険譚(とりわけ〈八幡の藪知らず〉以降)では、何度もページを閉じて気を紛らわしてからでないと続きが読めなかったことを告白する。それだけに〈大団円〉の、病死した道雄(語り手を慕いつづけた)を看取った父親からの手紙は、わずか二行ながら、その高揚の爆発ともいうべき結語である(いったいに乱歩は、末尾の一文で大向こうを唸らせる。たとえば短篇〈踊る一寸法師〉(*5)の「水の様な月光が、変化踊[へんげおどり]の影法師を、真黒に浮き上らせていた。男の手にある丸い物から、そして彼自身の脣から、濃厚な、黒い液体が、ボトリボトリと垂れているのさえ、はっきりと見分けられた。」を見よ)。私は《草の花》(1954)を書いた福永武彦(1918〜1979)が《孤島の鬼》をどう読んだのか(むろん読んだに決まっている)、無性に知りたいと思ったものだ。

《黄金仮面》(1930年9月から1931年10月まで大日本雄弁会講談社の月刊誌《キング》に連載)――本作は、私の最も早い時期の江戸川乱歩の作品のイメージそのものである。すなわち、年少者を含むあらゆる年齢層の読者を魅了する乱歩節の連打。明智小五郎とアルセーヌ・ルパン(黄金仮面)の一騎打ちと来れば、手に汗を握るシーンの連続になるのは必定だ。ルパン物への言及が多いのも、ルブランの愛読者にはこたえられない作者のサービスである。乱歩の文章の読みやすさの要因のひとつに、平然と繰りだす紋切り型が挙げられる。

 間もなく問題の白き巨人がカフェの外へ姿を現わした。如何にも白い。頭から足の先まで白粉[おしろい]で塗りつぶした様に真白だ。服を脱がせたら、皮膚も白子みたいに真白かも知れない。少くとも顔丈けは、白人にも珍らしい白さだ。
 身体も巨人の名に恥じぬ偉大なものであった。六尺以上の身長で、しかも角力[すもう]取みたいに肥太[こえふと]っているのだ。
 彼はカフェを出ると、車も拾わず、ブラブラと銀座通りへ歩いて行く。
 珍妙不可思議な尾行行列が始まった。先頭に立つのは白粉のお化け然たる肥大漢、それから十五六間あいだを置いて、アルパカ黒眼鏡の怪老人、赤い長靴の運転手、つづいて兵隊上りの番頭さんといった恰好の刑事君。(〈白い巨人〉、《江戸川乱歩全集 第7巻 黄金仮面〔光文社文庫〕》、光文社、2003年9月20日、三二八ページ)

「肥大漢」とは今日ではほとんど見かけない言い回しで――その情け容赦ない感じを嫌ってか、「ポッチャリ」などと称するが、まるきり別物である――、吉岡実は《神秘的な時代の詩》巻頭の〈マクロコスモス〉(F・1)で

 〔……〕
 肥大漢のぼくらの姉妹
 双生児を生みに行く
 長いボール紙の筒があるかね?
 それを廻って
 ぼくらの肥大の子供は遊ぶんだ
 ダンダン畑から採る
 輪切りのパイナップル
 食べる桃色の人食人種
 考える口が見える時まで
 だんだんにふとるぼくら肥大漢の兄弟
 〔……〕

と、こちらもまた平然と「肥大漢」を登場させている。吉岡が《僧侶》の堅固な詩語の気圏から脱出する際に、乱歩的な語彙の活用を図ったことはまことにもって興味深い。

《一寸法師》(1926年12月8日から1927年2月20日まで《東京朝日新聞》に、1926年12月8日から1927年2月21日まで《大阪朝日新聞》に掲載)――小説の本文と光文社文庫版江戸川乱歩全集に付された註釈を引く。

【本文】@
 彼〔小林紋三[もんぞう]〕は交番を横目に見て、少し得意にさえなりながら、なおも尾行を続けた。一寸法師は大通りから中の郷のこまごました裏道へ入って行った。その辺は貧民窟[くつ]などがあって、東京にもこんな所があったかと思われる程、複雑な迷路をなしていた。相手はそこを幾度となく折れ曲るので、ますます尾行が困難になるばかりだ。紋三は交番から三町も歩かぬ内にもう後悔し始めていた。(〈死人の腕〉、《江戸川乱歩全集 第2巻 パノラマ島綺譚〔光文社文庫〕》、五〇八ページ)
【註釈】@
*90 中[なか]の郷[ごう] 同名の地名が深川区と本所区にあったが、一寸法師が吾妻橋を渡ってやってきたことと、「本所[ほんじよ]」とのちに明記されていることから本所区の中之郷と考えられる。これは江戸期から昭和五年の町名で、昭和五年に吾妻橋一〜三丁目となった。乱歩は本所区中之郷竹町[たけちよう](現行の墨田区)に大正六年六月ごろ住んでいた。(同前、七四〇ページ)

【本文】A
僕はあの翌日一杯かかって、出来るだけ調べたのですが、吾妻橋の東詰[ひがしづめ]までは、色々な人の記憶を引出して、どうにかこうにか跡をつけることが出来ましたけれど、それから先は、橋を渡ったのか、河岸[かし]を厩橋の方へ行ったのか、それとも左に折れて業平橋[なりひらばし]の方に向ったのか、どう手を尽しても分らないのです。(〈お梅[うめ]人形〉、同前、五五一ページ)
【註釈】A
*97 厩橋[うまやばし] 隅田川に架かる橋の一つで、吾妻橋より駒形橋をはさんで下流にある。台東区蔵前二丁目と駒形二丁目のあいだ春日通りを墨田区本所一丁目へと明治七年に創架された。明治二十六年に鉄橋に、昭和四年に鉄筋コンクリート橋に架け替えられた。後述の業平橋[なりひらばし]は、現在のものは昭和五年に墨田区業平一丁目より吾妻橋三丁目へ大横川に架された橋。創架は寛文[かんぶん]二年(一六六二)にさかのぼり、付近にあった業平天神の名を取って名付けられた。(同前、七四三ページ)

吉岡陽子編《〔吉岡実〕年譜》の冒頭は「一九一九年(大正八年)/四月十五日、東京市本所区中ノ郷業平町に生まれる。吉岡紋太郎、いとの三男。父は明徳尋常小学校の小使。姉政子、兄長夫、次兄清(早世)。」(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996、七八九ページ)である。吉岡はこの小説に浅草や厩橋が出てくるところ以上に、【本文】@の「一寸法師は大通りから中の郷のこまごました裏道へ入って行った。」という箇所に打たれたのではあるまいか。自分の生まれた土地や、現在住んでいる場所が小説に登場すれば、作者がそこにどのような記号的な意味を付与しているか、だれもが気になるだろう。とりわけその作者に心酔している場合は。

《陰獣》(博文館の月刊誌《新青年》に1928年8月増刊・9月・10月と3回連載)――乱歩は本篇で、作中の「私」と小説家「大江春泥」に分裂して、後者を戯画化してみせる。次の「大江春泥の不気味な小説「屋根裏の遊戯」」が乱歩自身の〈屋根裏の散歩者〉(1925)をほのめかしていることは、誰にでもわかる。

 私は静子の話を聞いている内に、大江春泥の不気味な小説「屋根裏の遊戯」を思出さないではいられなかった。若し静子の聞いた時計の音が錯覚でなく、そこに春泥がひそんでいたとすれば、彼はあの小説の思附きを、そのまま実行に移したものであり、誠に春泥らしいやり方と肯[うなず]くことが出来た。私は「屋根裏の遊戯」を読んでいた丈けに、この静子の一見突飛[とつぴ]な話を、一笑に附し去ることが出来なかったばかりでなく、私自身激しい恐怖を感じないではいられなかった。私は屋根裏の暗闇の中で、真赤なとんがり帽と、道化服をつけた太っちょうの大江春泥が、ニヤニヤと笑っている幻覚をさえ感じた。(《江戸川乱歩全集 第3巻 陰獣〔光文社文庫〕》、光文社、2005年11月20日、五九二ページ)

一般に視覚型とされる乱歩だが、この音の使い方など堂に入ったものだ。とにかく五感の刺激の仕方が半端ではない。もうひとつ、いかにも乱歩らしい一節を引こう。

 小さな蔵の窓から、鼠色の空が見えていた。電車の響きであろうか、遠くの方から雷鳴の様なものが、私自身の耳鳴りに混って、オドロオドロと聞えて来た。それは丁度、空から、魔物の軍勢が押しよせて来る、陣太鼓の様に、気味悪く思われた。恐らくあの天候と、土蔵の中の異様な空気が、私達二人を気違いにしたのではなかったか。静子も私も、あとになって考えて見ると、正気の沙汰[さた]ではなかったのだ。私はそこに横わってもがいている彼女の汗ばんだ青白い全身を眺めながら、執拗[しつよう]にも私の推理を続けて行った。(同前、六五五〜六五六ページ)

吉岡が冒頭の随想で「『陰獣』という恐るべき作品」と書いているのは、閨房での鞭打ち行為や「私」と「静子」の交情などの、一〇代の読者には刺激的な内容によるためだろう。「ある時は、静子と私とは、幼い子供に返って、古ぼけた化物屋敷の様に広い家の中を、猟犬の様に舌を出して、ハッハッと肩で息をしながら、もつれ合って駈け廻った。私が掴もうとすると、彼女はいるか[、、、]みたいに身をくねらせて、巧みに私の手の中をすり抜けては走った。グッタリと死んだ様に折重なって倒れてしまうまで、私達は息を限りに走り廻った。ある時は、薄暗い土蔵の中にとじ籠って一時間も二時間も静まり返っていた。若し人あって、その土蔵の入口に耳をすましていたならば、中からさも悲しげな女のすすり泣きに混って、二重唱の様に、太い男の手離しの泣き声が、長い間続いているのを聞いたであろう。」(同前、六三九ページ)

《パノラマ島綺譚》(1926年10月から1927年4月まで博文館の月刊誌《新青年》に連載)――この際だから、吉岡の随想には登場しない《パノラマ島綺譚》にも触れておこう(以下、底本は《江戸川乱歩全集 第2巻 パノラマ島綺譚〔光文社文庫〕》)。主人公の妻を描く乱歩の筆は、その紋切り型も含めて、見事だ。

 廣介は、源三郎としての彼女〔千代子〕との初対面の光景を、其後長い間忘れることが出来ませんでした。〔……〕
 そして、彼の身体が、玄関に担[かつ]ぎ卸[おろ]されるのを待兼ねて、その上にすがりつき、長い間、親戚の人達が見兼ねて、彼女を彼の身体から引離したまで、身動きもせずに泣いていました。その間、彼はぼんやりした表情を装って、睫毛[まつげ]を一本一本算[かぞ]えることが出来る程も、目の前に迫った彼女の顔を、その睫毛が涙にふくらみ、熟し切らぬ桃の様に青ざめた、白い生毛[うぶげ]の光る頬の上を、涙の川が乱れて、そして、薄桃色の滑[なめら]かな脣が、笑う様に歪[ゆが]むのを、じっと見ていなければなりませんでした。そればかりではありません。彼女のあらわな二の腕が、彼の肩にかかり、脈打つ胸の丘陵[きゆうりよう]が、彼の胸を暖め、個性的なほのかなる香気までも、彼の鼻をくすぐるのでした。その時の、世にも異様な心持を、彼は永久に忘れることが出来ません。(同書、四〇三〜四〇四ページ)

丸尾の《パノラマ島綺譚》でも千代子ははなはだ魅力的に描かれている(ただし原作にある「二十二歳」よりも年上に見える)。乱歩がほとんど描写していない服装に関しても、洋装をはじめ(初登場時を含め、外出時は洋服が多い)、和服の柄も描きわけていて、それを観るだけでも本書を手にする価値はある。その極め付きこそ、ラファエル前派も三舎を避ける、あのネグリジェふうの死装束だった。視覚的な驚きと喜びがほしいときは、本書を開くに限る(*6)

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(*1) 乱歩・丸尾の《パノラマ島綺譚》(エンターブレイン)の図書館所蔵本の奥付には「2011年10月7日初版6刷発行」とあり、2009年の第13回手塚治虫文化賞新生賞受賞後の刷りだった。なお、本書の発行所がエンターブレインからKADOKAWAに変わったのがどの時点だったのか、調べがつかなかった。

(*2) 乱歩自身も同種の随想〈私の読書遍歴〉(《日本読書新聞》1952年5月7日)で少年時代を振りかえって、次のように書いている。

 私の読書は少年時代から今にいたるまで散歩的であり、放浪旅行的である。気が向いた時に気が向いたものを読む。ちょっとの散歩で帰ることもあり、思わぬ長旅、長逗留[とうりゆう]になることもある。
 少年時代には小波山人の「世界お伽噺」(日本お伽噺ではない。王子や魔法使の出る方のお伽噺)、押川春浪の冒険小説、黒岩涙香の翻訳小説の三つに心酔した。立川文庫も読んだけれど、多くの人々が云うほどには耽読しなかった。私は生来「水滸伝[すいこでん]」風の面白さを解しない性格で、立川文庫にはそれと近似した味があったからであろう。したがって私は八犬伝も通読していない。(《江戸川乱歩全集 第30巻 わが夢と真実〔光文社文庫〕》、光文社、2005年6月20日、三〇七ページ)

夏目漱石、谷崎潤一郎、芥川龍之介、佐藤春夫、スタンダール、ブールジェ、ジード、松尾芭蕉、などは吉岡の読書をめぐる随想にも登場する共通の作家だが、乱歩のそれには芭蕉以外の詩歌人が登場しない。乱歩は萩原朔太郎と交友があり、北原白秋あたりに言及していてもよかりそうなものの、同書の〈人名索引〉には登場しない。当然のような気もするが、白秋が吉岡にとっての(短歌の)守護神であっただけに、なんとなく残念である。

(*3) 吉岡実は《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987)の〈21 映画「恐怖奇形人間」〉でこう書いている。なお1969年11月7日は金曜日。

 〈日記〉 一九六九年十一月七日
 夜、渋谷の東映で「恐怖奇形人間」を観る。あんぱん、品川巻を食べながら。客席はがらがら。物語の後半になって、土方巽と若い男女の弟子たちの大活躍にふたりで大笑い。トップでコーヒーをのみ、いなり寿司を買って、十時近く帰宅。(同書、三七ページ)

《江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間》をDVD化した《HORRORS OF MALFORMED MEN》(Synapse Films、2007)のジャケット
《江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間》をDVD化した《HORRORS OF MALFORMED MEN》(Synapse Films、2007)のジャケット 〔土方巽のカットが多用されている〕

石井輝男監督作品《江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間》は1969年10月31日封切り。製作:東映京都撮影所、色・サイズ:カラー・2.35:1、上映時間:99分。脚本:石井輝男・掛札昌裕。出演:吉田輝雄、由美てる子、土方巽、葵三津子、小畑通子、賀川雪絵、小池朝雄、近藤正臣、大木実、ほか。Wikipediaには「完成試写での営業サイドの反応が悪く、捨て週間での公開で、出来の良くないポルノアニメ〔《㊙劇画 浮世絵千一夜》〕との併映となり、客席はガラガラ、ラストシーンも静まり返った。興行成績が全く振るわず10日間で公開打ち切り。」とある。石井輝男は〈土方巽を呼んで、遊んでしまった――『恐怖奇形人間』『殺し屋人別帳』『監獄人別帳』『怪談昇り竜』〉で、「〔企画は〕「パノラマ島奇談」と「孤島の鬼」が主体だった」「能登ですごい波が立つところがあるんですね。十メートルぐらいバーッと立つんですよ。土方さん、あそこから登場してくれるととてもいいけどなあ、だけどあそこまで行くのは危ないしなんて言ってるうちにね、やりましょうってね。」「土方さんとか小池朝雄はさんざんお遊びで楽しんじゃってますね。」などと語っている(石井輝男・福間健二《石井輝男映画魂》、ワイズ出版、1992年1月1日、二〇六〜二一〇ページ)。その「土方巽」の註に「映画は石井作品以外には〔19〕69年の西江孝之監督『〔へそ閣下→臍閣下〕』、70年の中島貞夫監督の『温泉こんにゃく芸者』と黒木和雄監督『日本の悪霊』などに出演。圧倒的な個性でスクリーンを緊迫させた。」(同書、二〇七ページ)とあるが、吉岡の日記や随想にこれらへの言及はない。

(*4) 丸尾自身は《ユリイカ》2015年8月号の〔特集*江戸川乱歩――没後五〇年〕の〈極大と卑小の大パノラマ――乱歩という源泉〉で「ただ、あと一〇年早くやっておけばよかったという悔いはあります。たとえば実相寺昭雄が死んでしまった、久世光彦も種村季弘も、マンガ評論家の米沢嘉博も亡くなりましたね。この四人かいなくなってしまったというのは僕にとってはけっこう大きい。このひとたちに見せてみたかったなというのがあったものですから。」(同誌、一四五ページ)と語っている。

(*5) 《パノラマ島綺譚》、《芋虫》に続く乱歩原作・丸尾脚色・作画の第三弾は〈踊る一寸法師〉(丸尾末広画集《乱歩パノラマ》、エンターブレイン、2010、所収。初出誌は《月刊コミックビーム》2010年4月号)である。同作は26ページの短篇ながら、A4判という大きな紙面にスミとアカの二色刷りで、そのエロチックでグロテスクな風味は無類だ。吉岡実の詩では「小さな街には小さな火事があり/樽と風を入れる場所がある/そこでガリ氏はぬけめなく/サーカスを開催する」と始まる〈サーカス〉(I・2)が乱歩・丸尾の描く見世物小屋の雰囲気に最も近い。

(*6) 四方田犬彦は《漫画のすごい思想》(潮出版社、2017年6月20日)の〈多元倒錯の悦び――宮西計三〉を「〔一九〕八〇年代には丸尾末広[まるおすえひろ]と宮西計三という、二人の異端漫画家が本格的に活動を開始した。「異端」と記したのは、その物語の筋立てに囚われず、もっぱら精妙に描かれた一枚絵の内側の美しさとグロテスクに主眼を置いた漫画作りに作品の基礎を置いていたからである。おりしも漫画が劇画と呼ばれ、出版社があてがう原作物語の単なる図解化へと堕していった時代が到来していた。彼らの出現と過激な活躍は、他の追随を許さぬたぐいのものだった」(同書、二五八ページ)と始めている。「丸尾末広は戦後の闇市とサーカス小屋の喧騒を好んで描いた。古今東西の映像資料をコラージュして、硬質的な描線のもと、戦後日本社会がつとに隠蔽してきた被抑圧的な現象を好んで主題とした。〔……〕丸尾の作品の根底にあるのは冷ややかにして強烈なアイロニーである。/丸尾と宮西〔……〕は世代的に、『COM』の新人漫画家発掘の時期に遅れ、七〇年代に青年コミック誌を拠点として活躍を開始したという点で、世代的に共通するものをもっている。八〇年代に彼らを支えたのは青年エロ劇画誌であり、『ガロ』であった。とはいうものの彼らの作品が醸し出す独自のエロティシズムとキッチュ趣味、頽廃的な世界認識のあり方は、実のところ漫画という表象システムの枠を大きくはみ出していると見なすべきだろう」(同書、二五八〜二五九ページ)。宮西計三の代表作《バルザムとエーテル――無信仰》(河出書房新社、2000年4月20日)の標題がドイツ・ロマン主義詩人ノヴァーリスの〈夜の讃歌〉に負っていたように、丸尾末広の近年の作品は江戸川乱歩や夢野久作の小説に負う処が大きい。今日までに映画化、テレビドラマ化された乱歩作品はかずかずあれど(試みにYouTubeで「江戸川乱歩」を検索すると、朗読作品・ラジオドラマ・テレビドラマ・映画――《江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間》の予告編もある――など、膨大なプログラムを視聴できる)、漫画化された乱歩作品となれば丸尾の上記3作、《パノラマ島綺譚》《芋虫》〈踊る一寸法師〉にとどめをさす。

丸尾末広の〈月よりの使者〉が掲載された《ガロ》(1983年2・3月合併号)裏表紙の青林堂の自社出版広告〔上段がひさうちみちおの、下段が丸尾の書籍〕
丸尾末広の〈月よりの使者〉が掲載された《ガロ》(1983年2・3月合併号)裏表紙の青林堂の自社出版広告〔上段がひさうちみちおの、下段が丸尾の書籍〕


吉岡実と吉野弘(2019年12月31日)

吉岡実と吉野弘については、かつて〈吉岡実の装丁作品(109)〉で書いたことがある。だが、そこで詩に関して本格的に論じたわけではなかった。2019年2月に岩波文庫版《吉野弘詩集》が出たこともあり、ここで改めて吉岡実と吉野弘の詩を考えてみたい。ときに、吉野はその〈山本周五郎小論〉をこう始めている。

 山本周五郎の文章は、溜息が出るほど巧みである。文章のうまいという点では、志賀直哉と並ぶ作家だと、私は思っている。しかし山本氏の巧みな文章がつくりあげている物語の世界は、私を警戒させる何ものかを含んでいる。以下の拙文は、山本周五郎論というほどのものではなく、放談程度のものにすぎないが、山本氏に対する敬愛と共に、不服めいた気持も述べようとして書いた。
 一、二年前、ちょっとしたことがきっかけで、山本氏の小説を読んだ。非常に面白かったので、ある期間、手当り次第に読み漁り、人にも、山本氏の小説を吹聴するほどになったが、実を言うと、心の一隅で、自分がもし小説を書けば、山本周五郎的な小説を書くだろうと思ったりした。そのくせ、山本氏の小説に、言いがたいほどのいらだたしさを覚えたことも事実で、自分は山本周五郎になりたくない、などと思ったりもした。(山本氏の弟子筋の人から、なぐられるかも知れない!)
 勿論、私には、山本氏の構想力も洞察力もまた、あの魅力的な筆力もない。しかし、山本氏の、小説を書いている位置に、私が非常に近いということを、何といおうか、本能的に感じるのである。だから、この類縁性は、先ず間違いなしに、私を、山本氏の亜流ぐらいにはすると、私は思ったのである。
 私は、人に会ってみたいと余り思わぬ人間だが、山本氏にだけは、一度、お会いしたかった、と今でも思っている。新聞で、氏の訃報を見て、淋しかったことを思い出す。(《吉野弘詩集〔現代詩文庫12〕》、思潮社、1968年8月1日、九五ページ)

私は「吉野弘の詩は、溜息が出るほど巧みである。〔……〕勿論、私には、吉野氏の構想力も洞察力もまた、あの魅力的な筆力もない。しかし、吉野氏の、詩を書いている位置に、私が非常に近いということを、何といおうか、本能的に感じるのである。だから、この類縁性は、先ず間違いなしに、私を、吉野氏の亜流ぐらいにはすると、私は思ったのである。」と読みかえてみたい誘惑に駆られる。そしてそれは、ひとり私だけでなく、現代詩文庫版や岩波文庫版の吉野弘詩集を読んだほどの人なら、その多くが感じるのではないだろうか。具体例を挙げよう。私はかつて、吉野弘が見たものと同じ光景を見ている(〈おとこ教室〉の初出は1999年2月、《櫂》33号)。

おとこ教室|吉野弘

かなり以前のこと
「おとこ教室」という看板を見て
私は動転した。

西武鉄道の或る乗替駅に降り立ったとき
ホームの両側に並立している多くの看板の一つに
横書きで書かれていた文字――それが
「おとこ教室」だった。
驚いた私は
男を、どのように教える教室か? と困惑
一瞬
「おこと教室」を読み違えていたことに気付き
声をこらえて噴き出した。

しかしそれ以来
私はこの看板に出会うたびに
お琴を奏でる技そのままに
男の琴線を巧みに奏でる女の技が
きっと、女の腕の中に秘められている、と
私は思うようになった。

「おこと」と「お琴」とは書かず
「おこと」と平仮名にした教室の魂胆は判らないが
漢字に簡単には座を譲ろうとしない平仮名の
ひそかな誇[ほこり]のようなものが

もっとも私の記憶では、看板があったのは西武新宿線・沼袋駅の高田馬場駅寄りの北側で、いまその看板はない。話を吉野詩に戻せば、吉野と同様、みごとに看板を読み間違えた私が大略最後の第4節のような感慨を抱いたことは確かだが、その前の節の「お琴を奏でる技そのままに/男の琴線を巧みに奏でる女の技が/きっと、女の腕の中に秘められている、と/私は思うようになった。」と感じたわけではない。その看板を見た当時の私は、小学校低学年だったから。

次の詩(詩集《北入曽》所収)も、若いころにはなかなか味わいつくせなかっただろう。なお吉野は、1972年から埼玉県狭山市北入曽に在住した。私は、さしたる根拠もなくこの詩から大岡昇平の小説を想起する。「小説の読みすぎ」かもしれない。

秋の傷|吉野弘

奥さまがお有りのあの方と、私は歩いた
川岸にひろがる丈高い葦の茂みを
われ乍[なが]ら軽薄と思う冗談をふりまいて

「気をつけないと傷つきますよ」
あの方が、そうおっしゃった
それは葦の葉の鋭い切っ先のことでしたが
私は、こんなふうに聞きたかった
「僕を信用しすぎてはいけません」
――言うならば、何事かへの歯止め……
私は首をすくめた「小説の読みすぎだわ!」

葦の茂みをぬけると
あの方は笑って手の甲の傷を私に見せた
「君に注意したくせに僕が切られている」

あの方をお誘いしたのは私だったのに
私は傷を負わなかった
あの日、私は傷がほしかった
あの方と葦の茂みを歩いた確かな証拠に

この「傷」が、肉体だけでなく精神のそれである処が、なんともエロティックだ(それにしても「葦の茂み」!)。大岡昇平の師であるスタンダールはたしか、恋愛とは魂の触れあいに始まり、肉体の接触に終わる、と喝破した。するとこれは、吉野弘による《恋愛論》だったのか。「あの方」が吉野で、「私」が有夫の女性だとまでは言わないが、吉野の詩にはこうしたドキリとさせる部分のあることを人があまり明言しないのは不思議である。

この吉野の詩に相当する吉岡実詩は容易に見あたらない。吉岡は恋愛詩をほとんど書いていないのだ。たしかに随想〈女へ捧げた三つの詩〉(初出は《現代の眼》1961年11月号)には中村葉子に献じた〈溶ける花〉(A・4)、池田友子に与えた〈冬の歌〉(B・8)、Y・W――のちの妻である和田陽子――へ捧げた〈夏〉(C・10)が引用されている。だが、これらとて一般的な恋愛詩とはずいぶん様相が異なる。しかるにここに〈感傷〉(C・18)一篇がある。これこそは恋愛の形而上学を展開した、吉岡唯一の恋愛詩といえよう。この詩には「女」と「少女」、そして「ぼく」が登場する。これらを現実の人間関係に引き戻す愚は避けなければならないが、主人公=「ぼく」、人妻=「女」、結婚相手=「少女」をいう格子を当てはめることは許されよう。さらに、詩篇の世界を離れさえすれば、金井美恵子が〈吉岡実とあう――人・語・物〉で「〔……〕恋愛と手ひどい失恋によって書かれた『僧侶』の頃、筑摩書房で一緒に働いていた陽子さんが、吉岡さんのところへ女性から一方的にかかって来る電話を取りつぎ、陽子さんがその時のことを思い出して、本気でその女性の女性的気ままさ[、、、、、、、]を怒って、ミーちゃんたら本当にかわいそうだったんだから、いやな女でさ、わかんない? いるでしょう? そういう神秘的みたいなタイプ、と私たちに向って言いながら、吉岡さんにまるで少女のようにイーッという顔をし、吉岡さんが照れて、いや、まあさ、と口ごもったりしたことを、語るべきだろうか。」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月30日、二二四ページ)と書いているように、〈冬の歌〉の池田友子と〈夏〉のY・Wを同一画面に描いた大作こそ〈感傷〉だった、と見ることができる。ちなみに吉岡は、1958年8月8日の日記に「〈感傷〉出来。これで詩集《僧侶》の十九篇完成」(〈断片・日記抄〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一一九ページ)と書いている。本篇の初出は詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日)で、すでに〈僧侶〉(C・8)や〈死児〉(C・19)を書きおえていた吉岡が、どうしてもこの詩集に入れたい詩篇だった。全6節99行から、冒頭と末尾の節を引こう。

感傷|吉岡実



鎧戸をおろす
ぼくには常人の習慣がない
精神まで鉄の板が囲いにくる
街を通るガス管工夫が偶然みて記憶する
箱のなかに匿れた一人の男
便器にまたがるぼくをあざわらう
桃をたべる少女はうしろむき
帽子をまぶかくかぶるガス管工夫の槌の一撃を憎む
少女の桃を水道で洗わせず
狭い蜜のみなもとを涸していったから
幼い袋の時代
大人のの汗の夏を知らぬ
少女もいつかは駈けこむだろう
ぼくの箱の家
正面の法律事務所の畸型の入口の柱を抱くだろう
それまで休業だ
屋根から寝台まで縞馬を走らせ
ペンキを塗り廻る
すでに伽藍の暗さ

〔……〕



ぼくは睡蓮の花を再びのぞく
転換が行われず
世界のを巻く紐のすべてが解かれていない
蛙も挟まれる
花の深所から金髪が吹きだされるのを夢みる
ぼくは自分と不幸なを救済すべく
の腿へ手をのべる
喪服は夜に紛れやすい形と色を持つ
あまつさえ時間がくると滑る
それから先のぼくはまじめな森番だ
くさむらのひなを育てようと決意する
水べを渉る鷭の声に変化したの声を聴く
法律や煤煙のとどかぬ小屋で
卑俗なあらゆる食物から死守され
ぼくだけが攻めている美しい歯の城
その他の美しい武器をうばう
落日は輝くもの
おえつするもの
の髪の上に滝が懸けられて凍る
ぼくは冷静に法典の黄金文体をよむ
さてぼくはには大変つくした
罪深いは去らせよう
ガス管工夫に肖た子をつれて桃の少女が結婚を迫るのを
ぼくは久しく待つんだ

吉岡はこの詩に、魂と肉体の痕跡を永遠にとどめた。《僧侶》を「少女」と「女」に着目して読みなおすこと、それが吉岡実の作品史において特異なこの詩集の核に触れることになるのではないか。後年、大岡信との対話〈卵形の世界から〉(《ユリイカ》1973年9月号〔特集=吉岡実〕)で「だから、『静物』か『僧侶』に戻っていってああいう詩を書きなさいといわれるけど、あれはあれ、しかたないわけよね、もう。われわれの道は戻る道なのか、戻らない行きっ放しの道なのかもわからないけど、行きっ放しでいいんではないか。」(同誌、一五八ページ)と語っているのは、もはやああした恋愛詩を書くことはできない、と言っているように私には聞こえる。

《吉野弘詩集〔現代詩文庫12〕》(思潮社、第1刷:1968年8月1日〔第15刷:1980年10月1日〕)の表紙と小池昌代編《吉野弘詩集〔岩波文庫〕》(岩波書店、2019年2月15日)のジャケット
吉野弘の選詩集でこれまでいちばん多く読まれただろう《吉野弘詩集〔現代詩文庫12〕》(思潮社、第1刷:1968年8月1日〔第15刷:1980年10月1日〕)の表紙とこれからいちばん永く読まれるだろう小池昌代編《吉野弘詩集〔岩波文庫〕》(岩波書店、2019年2月15日)のジャケット ちなみに国東照幸装丁の《吉野弘詩集〔現代詩文庫12〕》表紙のウニのようなカットは《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(1968年9月1日)と同じ絵柄で、吉岡は同書に収めた〈断片・日記抄〉の昭和三十六年に「七月十二日 吉野弘から《消息》再版をもらう。」(一二五ページ)と記している。

佐々木幹郎は〈どこから誕生をとらえるか――吉野弘追悼〉(《ユリイカ》2014年6月臨時増刊〔総特集=吉野弘の世界〕)で〈I was born〉と〈タコ〉を引いて、吉野弘と吉岡実の詩を対比・検討している。前半はむろん吉野の〈I was born〉についてで、末尾にいたって吉岡が登場する。

 〔……〕吉野弘の詩と対比させて、生物の誕生を描いたまったく別の角度からの詩をここに置いてみよう。
 吉岡実に「タコ」(『サフラン摘み』所収、一九七六)という作品がある。この詩では、タコの母もまた、「I was born」の蜉蝣の母と同じように、「一度の排卵」で死ぬ存在としてある。詩では、タコの雄と雌の生殖が描かれる。誕生は官能性を帯びるとともに、呪われたものとしてある。

  【佐々木がここに引用した〈タコ〉は、〔第一節〕の全行、散文詩型の〔第二節〕の約5行分を中略して、〔第三節〕の終わり5行を後略した形――小林註】

 おそらく吉岡実の「タコ」は、タコの生殖行為と子育ての図(あるいは映像)を見て、そこから詩のアイディアが生まれたのだろうと思われる。タコの雄はここでは射精するだけの存在だ。そして詩のなかでは、たちまちのうちに姿を消している。
 「塩と水からタコは出現したのだ」という、驚くべき比喩で、誕生を「出現」と見なす考えは、「父」なるもの、「母」なるものを、偽悪的なイメージで殺すことによってしか生まれない。
 それは子どもの両親を越えて、生命の起源へ遡ることを要請する。そこでは、妊婦のイメージは作品の冒頭にやってこない。吉岡実の「タコ」は、末尾に次の二行が置かれて、鮮烈なエロチシズムをかもしだす。

  それは過去のことかも知れない
  夏の沖から泳ぐ女がくる

 「I was born」の冒頭では、女は「こちらへやって」きて、やがて「ゆきすぎた」。しかし「タコ」では、最終行で「女がくる」のだ。その姿を見守っている長い時間がある。
 人類の種としての継続は無限である。その無限循環を、有限の身体である個人が受け止めようとするとき、無限をどこかで見ることが必要だ。吉野弘の詩はその無限を受動態=「善意」でとらえようとし、一方、吉岡実はその無限を能動態=「悪意」でとらえようとした。どちらも神秘的であり、魅力的で、この二つの対比を通して、わたしはわたし自身の「生」の輪郭を見たいと思う。高校生のときに初めて吉野弘の詩に出会って以来、ほんとうに作者が亡くなってから、その詩がわたしに近づいてきたのである。(同誌、二五〜二七ページ)

佐々木幹郎の論考に間然する処はなく、付けくわえるべきものはない。あるとすれば、「おそらく吉岡実の「タコ」は、タコの生殖行為と子育ての図(あるいは映像)を見て、そこから詩のアイディアが生まれたのだろうと思われる」という指摘のとおり、吉岡自身が「〈タコ〉という詩は、私の長い詩作体験のなかでも珍しいものである。なぜならこの詩の発想――というより主題の発見は、テレビの自然科学映画から得たからである。偶然観たタコの生態に興味をおぼえ、大急ぎで、ありあわせの紙にメモをとろうとしたが、瞬時に過ぎ去る映像とナレーションなので、最小限の事項を得ただけである。ものの本でタコのことを調べることもなく、あとは私の想像力(創造力)で一気に書き上げた。だからこの詩は、科学的には正確ではない。しかし私にとっては、リアリティのある作品になったという自負もあったが一抹の不安もあった。」(〈自註〉、《無限》41号〔現代百人一詩自選自註〕、1977年12月、一六〇〜一六一ページ)と書いていることくらいだ。佐々木の論の眼目は「吉野弘の詩はその無限を受動態=「善意」でとらえようとし、一方、吉岡実はその無限を能動態=「悪意」でとらえようとした。」である。一見、なんの接点もないかのごとき吉野弘詩と吉岡実詩は、ともに畏怖すべき「無限」のまえで背中合わせに佇立している。この、生と死に対する怖れと憧れのない詩に、私はどうも惹かれないようである。

よしだたくろうのアルバム《元気です。》のレコードジャケット(Odyssey/CBS Sony、1972)
よしだたくろうのアルバム《元気です。》(Odyssey/CBS Sony、1972)のレコードジャケット

吉田拓郎(当時は「よしだたくろう」)のアルバム《元気です。》(Odyssey/CBS Sony、1972)は彼の最高傑作だと思う。作曲はすべて拓郎自身だが、全15曲の作詞は、岡本おさみ6曲、吉田拓郎5曲、田口叔子・古屋信子・加川良・及川恒平それぞれ1曲、と分けあっている。岡本が手掛けた曲に〈祭りのあと〉(4分20秒、とアルバムでは長尺)がある。いまCDのライナーノーツ(歌詞カード)から注とともに引けば、次のようになる。

祭りのあと|岡本おさみ

祭りのあとの寂しさが
いやでもやってくるのなら
〔……〕

人を怨むも恥しく
人をほめるも恥しく
〔……〕

日々を慰安が吹き荒れて
帰ってゆける場所がない
日々を慰安が吹きぬけて
死んでしまうに早すぎる
〔……〕

祭りのあとの淋しさは
死んだ女にくれてやろ
〔……〕

もう怨むまい、もう怨むのはよそう
今宵の酒に酔いしれて

 注:三連目“日々を慰安が吹き荒れる”は吉野弘氏の詩の一行を借りました。

吉野弘の詩〈日々を慰安が〉の詩句は、正確には後注にあるとおり「日々を慰安が/吹き荒れる」だが、私が吉野弘の名を知ったのは、高校時代、放送部員で拓郎ファンだった白石さんから借りて聴いたLPに収められた〈祭りのあと〉によってだった。久しぶりに音源に接して(手許にないので、図書館から借りた)、その音楽的熱量に圧倒された。一方で、〈祭りのあと〉の詞/詩に、むかし聴いたときには感じなかった妙に冷めた感触を覚えて、いぶかしく思った。岡本おさみ(1942〜2015)/吉田拓郎(1946〜 )のこの作品のわきに村上春樹(1949〜 )の長篇小説《ノルウェイの森》(1987)を置いてみると、「祭り」のなんたるかを考えざるをえない。それは単に政治的熱狂の季節を意味するだけではないだろう。「祭り」とは、1970年代初めまではたしかに存在した、音楽的熱狂(歌詞とサウンドの渾然一体化した、自作自演のアマルガム)の別名だったのではないか。その代表的存在、ビートルズの〈ノーウェジアン・ウッド(ノルウェーの森)〉を収めたアルバム《ラバー・ソウル》は、1965年の暮に発表されている。ちなみに、村上の《ノルウェイの森》のエピグラフは「多くの祭り[フエト]のために」だった。

〔追記〕
いわゆる現代詩にフォーク系のソングライターが曲を付けることは、それほど珍しくはない。たとえば黒田三郎の短詩〈紙風船〉――詩集《もっと高く》(思潮社、1964)所収――は、赤い鳥の後藤悦治郎が作曲したことで多くの人の知る処となったが、Wikipediaの〈黒田三郎〉のページには「詩作品は、しばしば楽曲化されることが多く、クラシックやフォーク系の作曲家によって、曲がつけられ、CD化もされている(後藤悦治郎「紙風船」、高田渡「夕暮れ」、小室等「苦業」)。」とある。この〈紙風船〉が後藤にとって大切な曲であることは、「フォークグループ赤い鳥のメンバーであった平山泰代と後藤悦治郎は、同グループ解散直前に結婚し、解散後に夫婦デュオ「紙ふうせん」として活動を始めた。」(Wikipediaの〈紙ふうせん〉のページ)とグループ名にまでしていることからもうかがえる。ときに、吉岡実の詩が歌になったものとしては、〈小森俊明氏作曲の吉岡実の歌曲〉で紹介した〈立体〉(F・3)と〈草上の晩餐〉(G・13)があるきりではないか。フォーク系の作曲家・小室等は45年以上前、《ユリイカ》(1973年3月号)で次のように書いているが、私の知るかぎり、その曲は今日まで公表されていない。

 ところで、僕が、辛うじていくつかの現代詩に曲をつけることができたのは、それらの詩が、声に出して詠まれることを前提としては作られていなかったからだと思う。そこには、目で読むことでのメロディーやリズムはあるかもしれないが、それを声に出してみた場合のメロディーやリズムは希薄なのではないか、というとお叱りを受けるかも知れないが、やはりそう思うのだ。それゆえに比較的自由に曲想することができたのではないかと思う。
 そのことをもって、詩作品の優劣を語ろうとしているわけではもちろんない。
 僕は、かなり以前から、吉岡実さん(一面識もないので、さんづけするいわれはないのだが、他にいいようがない)の僧侶≠ニいう詩を歌にしたくて仕方ないのだが、今だにどうしてもできない。四人の僧侶、庭園をそぞろ歩き=B曲をつけるまえから、すでに歌なのである。それは、西洋音楽の範疇を、はるかに越えてしまっているのである。西洋音楽の場合、リズムというのは常に持続しているわけだが、この場合、リズムがふっと失くなる部分を感じるのだ。失くなるというのは、止まるということではない。決っして止まってはいないのだ。西洋リズムと比較したとき、失くなるという表現しかできないのだが、この失くなるリズムの中に、日本語の歌のヒントがあるように思う。このことがはっきり認識できた時初めて、少々オーバーないい方をすれば、明治以後の日本語の歌が、せっかくそれ自体に生命のあった五七・七五調を、西洋音楽によってふみにじってきた泥沼から、這い出ることができるのではないかとも思う。(〈現代詩を作曲すること〉、小室等対談集《ポップス談議》、ヤマハ音楽振興会、1975年9月10日、二三九〜二四〇ページ)

小室が曲を書けなかったのか、吉岡が歌曲〈僧侶〉の公表を肯んじなかったのか詳らかにしないが、「失くなるリズムの中に、日本語の歌のヒントがある」というのが小室の作曲術の要諦なら、「いくつかの現代詩に曲をつけることができた」その具体的な曲(小室は《ポップス談議》で、谷川俊太郎・茨木のり子・別役実・唐十郎・富岡多恵子の詩に曲を付けたと語っており、同書には富岡との対談も収録されている)や、上で触れた黒田三郎の〈苦業〉を本腰で聴き、まだ見ぬ歌曲〈僧侶〉を想いえがかねばならない。――と、書いてきて、小室等のファーストアルバム《私は月には行かないだろう》(ベルウッド、1971)の再発CDを入手した。ここから先は、本稿の範囲を超える。友川かずきの中原中也作品集(1978)などと絡めて、他日を期したい。

1980年初めに亡くなった黒田三郎(吉岡実と同じ1919年生まれ)を悼んだ吉野弘の詩〈過ぎ去ってしまってからでないと――故黒田三郎氏に〉(詩集《陽を浴びて》所収)は、「中期吉岡実詩」とは異なるアプローチだが、まぎれもない引用詩篇である。あえて〈 〉内の引用部分(黒田の詩句)を割愛して掲げる。私は吉野弘の声を聴いたことがない(家族と団欒する吉野の姿は、八木忠栄の撮った映像で見たが、無声だった)。だが、この詩=弔辞からは吉野の声が聞こえる。「さよなら/吉野さん」。

過ぎ去ってしまってからでないと|吉野弘
 ――故黒田三郎氏に

詩集『渇いた心』の
「ただ過ぎ去るために」という詩の中に
こういう言葉がありますね

 〈〔……〕〉

詩集『悲歌』の
「風邪をひいて」という詩は
こう書いてありますね

 〈〔……〕〉

退院後は
何度か
「小選挙区制に反対する詩人の会」で
顔を合わせましたね
帰りは、息切れのするあなたと一緒でした
途中まで、電車も一緒でした

その後、咽喉を病んで入院されました
一度退院の後
再入院され
不帰の人になられました

過ぎ去ってしまいましたね
過ぎ去ってしまいましたのに
それが何であるかわからぬまま
失われてしまった何か
何か

さよなら
黒田さん

吉岡実と《カムイ伝》(2019年11月30日)

白石かずこ〈吉岡実とカムイ伝〉(《現代詩手帖》1980年10月号〔特集・吉岡実〕)はこう始まる。

 一九七〇年になるちょっと前であったと思う。わたしのうちヘ一冊ずつ白土三平の「カムイ伝」が贈られてきた。
 贈り主は吉岡実さんで受取人は、その頃マンガ狂だったうちの娘である。
 彼女は小学校にいっていて、わたしは銀座の早川良雄のデザイン事務所に毎日、コピーライターとして通っていた。
 鍵っ子の彼女のところへ、吉岡さんは本が出るたびに、一冊ずつ贈って下さって全巻そろえて下さった。
 この時以来、わたしもまた白土三平のファンになって、最も今年で感動した本は? と人に聴かれるとカムイ伝と答えた。
 だが吉岡さんの存在こそ、わたしと娘にとって、忍者カムイではなかっただろうか。(同誌、八四ページ)

白石にとって、吉岡から白土三平の長篇漫画を贈られたことはよほど強烈な想い出だったらしく、吉岡を追悼した〈肉親のようなやさしさ〉でも「この頃、わたしは西荻のアパートにいて小学校に行ってる娘と二人暮らし。やせ細って鍵っ子だった彼女のところにカムイ伝が毎月とどいた。赤い縫いぐるみ赤ずきんちゃんも現れた。これらの足長小父さんみたいにやさしいプレゼントは吉岡実からだった。」(《現代詩手帖》1990年7月号〔追悼特集・お別れ 吉岡実〕、五八ページ)と書いている。むろん吉岡は、(白石かずこも読んだように)自身が読んでからこれを贈ったのだろう。私は白石かずこの娘さんよりもいくつか年上だが、当時、白土三平の《カムイ伝》は読んでいない。私がそのころ目を奪われていたのは《巨人の星》(原作・梶原一騎、画・川崎のぼる)であり、《8[エイト]マン》(原作・平井和正、画・桑田次郎)――さきごろ、《〔少年のころの「思い出漫画劇場」〕桑田次郎の世界――まぼろし探偵・月光仮面・8マン》(講談社、2009年8月24日)収載の〈火の玉作戦〉と〈怪力ロボット007〉を読み、渇を癒やした――だった。どちらも《週刊少年マガジン》の連載を、友人から雑誌を借りて回し読みしたくちで、《巨人の星》をコミックで読みなおしたのは成人してからだ。だが、《週刊少年サンデー》にとびとびに掲載された《カムイ外伝》は読んだ記憶があるから、私にとっての白土三平は、長いこと《カムイ外伝》と《サスケ》の作者だった。それが根本的に改まったのは、四方田犬彦《白土三平論》(作品社、2004)を読み、小学館のビッグコミックススペシャル《決定版 カムイ伝全集[第一部]》(2005〜06)を通読してからだ(《忍者武芸帳――影丸伝》は小学館文庫版で読んでいた)。この四六判全15巻本は圧倒的だ(白石たちの読んだ1967年から71年にかけて刊行された21巻本のゴールデン・コミックス《カムイ伝》は新書サイズだから、もう少し軽快だったろう)。各巻400ページ弱で15冊、6000ページ近い。――四方田犬彦《白土三平論〔ちくま文庫〕》(筑摩書房、2013年9月10日)の第Y章はまるまる《カムイ伝》を論じているが、その冒頭「『カムイ伝』は月刊誌『ガロ』に一九六四年十二月号から連載され、いくたびかの休載を挟みながら、七一年七月号で完結した。扉絵や人物紹介を含めるならば、雑誌掲載時において五七九七頁に及び、文字通り白土三平の作品のなかで最大の規模をもった長編である。」(同書、二七六ページ)とある。久しく漫画を読んでいなかった私は、これを何日も何日もかけて読んだものだ。仮に私がこれを小学生のころ読んだとしても、途方に暮れるだけだったのではないか。ひとつには白土の作品の系譜(とりわけ《忍者武芸帳》)に親しんでいないこと、そして江戸期の日本の歴史を詳しく知らないこと。民俗学的な思考法に慣れていないこと。さらに(これが最も肝心だが)四方田の《白土三平論》がなかったこと。子供の感性や読解力を見くびっているわけではないが、私にはそう思えてならない(*)。ところで、吉岡本人は《カムイ伝》についても、白土三平についても一言も触れていない。かろうじて次の詩句が、白土も描いている真田幸村配下の忍者と関わる(〈果物の終り〉D・2)。

〔……〕
ばらいろの繭を持つ従姉に教育され
るいれきのある肥った叔母の冷感で戦慄する
肉への廻り道
霧隠才蔵への入信と改宗
とかげの磔刑
また別の少女へのやさしい折檻
反抗と洪水はたえず少年の身の丈をせりあげる
〔……〕

四方田によれば「幸村は大坂城に殉じたことから、日本人独特の判官贔屓も加わり、民間において評判が高かった。その人気を決定的なものとしたのは、大正時代に刊行された『立川文庫』である。そこでは幸村の配下である猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海といった忍者が、摩訶不思議な忍術を用いて悪者を退治するといった物語が語られ、その波瀾万丈な魅力から大衆的な支持を受けた。」(《白土三平論〔ちくま文庫〕》、一七一〜一七二ページ)とある。〈果物の終り〉の初出は《同時代》9号(1959年6月)だから、白土の「真田忍群サーガ」(四方田)よりも早く、直接の影響ではないが、大正末年から昭和初年にかけて、少年時代の吉岡が親しんだのは《立川文庫》の霧隠才蔵であり、長ずるに及んでそこから離れたというのが「霧隠才蔵への入信と改宗」の意味する処だと思われる。当時、白土漫画があれば熱中したに相違ない。《カムイ伝》と関わりのある吉岡実の作品として〈蜾蠃鈔[すがるしょう]〉と〈竪の声〉(J・2)を挙げることができる。もっとも白土の作品は《カムイ伝》本体ではなく、1982年から87年にかけて連載された《カムイ外伝[第二部]》に相当する連作のうちの一篇〈スガルの島〉(1982)である。四方田も書いているように、スガルはジガバチ(似我蜂)の古称で、白土作品では女抜け忍である。一方、吉岡は前掲の二篇にスガルを腰細乙女の比喩として登場させている。〈竪の声〉(初出は《現代詩手帖》1981年9月号)の詩句を引こう。

この賢者の言葉も
蒸溜器か暗箱の比喩みたいだと思う
わたしは注文があれば 三脚を担いで
断崖の上に立つ
そして「すがる乙女」を撮った

《決定版 カムイ伝全集[カムイ外伝(全11巻)]・第3巻 スガルの島の巻〔ビッグコミックススペシャル〕》(小学館、2007)を見ると、第1話の〈女左ヱ門〉は「1982年1月8日」とあるから、吉岡が〈スガルの島〉を読んでから〈竪の声〉を書いたということは、クロノロジーからいって、ありえない。また、白土が吉岡実詩を読んでから〈スガルの島〉を書いたということも、なおのことありえないだろう。吉岡実が《カムイ伝》以降の白土三平をフォローしつづけたかは、定かではない。ただこうした民俗学的な関心が、1980年代の初めに二人の巨匠に同時に興ったということは、記憶しておかなければならない。
ところで、吉岡が贈った《カムイ伝》はその[第一部]で、最晩年の吉岡が[第二部](《ビッグコミック》1988年5月10日号〜2000年4月10日号、全168回連載)を誌上で読んでいたかどうかはわからない。[第二部]が末尾の書きおろしを含めて完結したのは《決定版 カムイ伝全集[第二部]・第12巻〔ビッグコミックススペシャル〕》(小学館、2006年12月1日)においてだから、むろん[第二部]全体も目にしていない(全三部から成る《カムイ伝》の[第三部]は本稿執筆時点で未発表)。だが、ここに《カムイ伝》を詳細に論じた四方田犬彦の評を借りて、吉岡実の世界との類縁を観ることは不都合ではない。四方田は[第二部]の特徴をこう記している。「『第二部』では、これまでの白土漫画になかったほどに、男色と念者の世界からレスビアン、さらにスカトロジーまで、さまざまな性現象が登場し、エロティシズムとグロテスク・リアリズムの結合からなる、異様な世界を映し出していくことになる。」(《白土三平論〔ちくま文庫〕》、四五二ページ)。「エロティシズムとグロテスク・リアリズムの結合からなる、異様な世界」を詩で描いた人間の一人が吉岡実であることに異存はないだろう。

最後に四方田犬彦――この「『カムイ伝』解体神話と蘇生伝説の本気のウォッチャー」(松岡正剛)――の美しいモノグラフ《白土三平論〔ちくま文庫〕》で新たに付された〈文庫版のために――白土三平先生との一夜〉の一節を引いて、本稿を終えたい。元版の本文に若干の改訂を施した〔ちくま文庫〕には、元版にあった〈謝辞〉のかわりに、この〈文庫版のために〉が置かれている。

 先生はおおよそこのような話をし、それからいささかお酔いになったのだろう、わたしに話を向けた。いったいこの続きを、どう描いていけばいいのかねえ。カムイとか、竜之進とかは、これからどうなっていくのだろうねえ。わたしは、竜之進はやがて長崎でオランダ医学を修めて、中国でいう「裸足の医者」のような存在になるのではありませんかと答えた。カムイは生き返った赤目と最終的に壮絶な対決をし、正助の息子が大きく活躍することになる。いかがでしょう? わたしがこう見通しを立てると先生は曖昧に頷き、代わりに筋を書いてくれよと冗談半分にいわれた。(同書、五〇六〜五〇七ページ)

さて、永い時間をかけて白土三平の画業50周年記念出版《決定版 カムイ伝全集(全38巻)〔ビッグコミックススペシャル〕》――《カムイ伝[第一部](全15巻)》、《カムイ伝[第二部](全12巻)》、《カムイ外伝(全11巻)》――を読んだ私は、これから尾崎秀樹(《白土三平研究》小学館、1970)や中尾健次(《新・カムイ伝のすゝめ》解放出版社、2009)、田中優子(《カムイ伝講義〔ちくま文庫〕》筑摩書房、2014)の書物を読もうと思う。しかし、白土三平や《カムイ伝》を論じた本は、どうしてこうもみな赤い色を多用するのだろう。《カムイ伝》そのものは緑色だというのに。

白土三平《カムイ伝・第1巻(全21巻)〔ゴールデン・コミックス〕》(小学館、1967)のジャケット 白土三平《決定版 カムイ伝全集[第一部(全15巻)]・第1巻〔ビッグコミックススペシャル〕》(小学館、2005)のジャケット
白土三平《カムイ伝・第1巻(全21巻)〔ゴールデン・コミックス〕》(小学館、1967)のジャケット(左)と同《決定版 カムイ伝全集[第一部(全15巻)]・第1巻〔ビッグコミックススペシャル〕》(同、2005)のジャケット(右) 両手を挙げて立ちはだかるのは山丈([やまたけ]と訓むようだ)で、「物語が高揚を迎えるたびにいくたびか突然に出現し、「カムイ!」とだけ叫ぶ。それは神聖なるものに向けられた、彼の歓喜の表現であり、そこに居合わせた者たちを祝福する役割を担っている」(四方田犬彦《白土三平論〔ちくま文庫〕》、二八六ページ)。

〔追記〕
かつて私は《詩人としての吉岡実》(文藝空間、2013年9月28日)の〈「前期吉岡実」――《静物》と《僧侶》〉の〈U 《静物》巻末の詩篇――〈過去〉(B・17)〉を次のように始めた。本サイトの《詩人としての吉岡実》中の文章だが、PDF文書をいちいち開いて読むのも面倒なので、リンクは張らず以下に引用する(同書、八二〜八三ページ)。

 詩集《静物》巻末の詩篇は〈過去〉(B・17)である。ここで描かれているのは、赤えいの解体だ。私は鱗のある魚や烏賊をさばいたことはあるが、赤えいはない。経験者によると、赤えいの解体は大略、次のようになる。
 ――エイの仲間で食用になるのはアカエイだけで、味は好い。通常、こうしてさばく。用意する調理器具は出刃包丁、大きな俎板(尻尾を含めて、全長は最大で二メートルにもなる)、笊、バット、タオルなど。最初に包丁で鰭のぬめりを取る。表皮(鱗はない)が滑るようなら、目のあたりの窪みを掴んで固定し、鰭の外側に向かって包丁の刃でしごく。裏(こちら側の総排出腔は女性性器に似ている。そのため、「傾城魚」の別名がある)も同様にしてぬめりを取り、水で洗い流す。次に鰓の外側を沿うようにして鰭を切り離す。エイは軟骨魚類だが、鰓のまわりの骨は分厚くて切りづらい。最後に肝臓(煮付けにするとうまい)を摘出する。肝臓は鰓からやや尻尾に寄ったあたりにあるので、鰭を取り除いた両側から取り出す。肝臓には胆嚢が埋まっているが、食べると苦いので取り除く。血や汚れを洗って、下拵えは完了。――

末尾には註番号が付してあって、その後註も掲げておいたほうが解りやすいだろう。

 エイの調理法に関しては、作・雁屋哲、画・花咲アキラのコミック《美味しんぼ〔17〕エイと鮫》(小学館、一九八八年十二月一日)に詳しい。そこでは、鮫とともに北海道産のガンギエイと九州のアカエイのヒレの調理法が紹介されていて、貴重だ(ただし、エイのさばき方は登場しない)。〈エイと鮫〉には、食材としてのエイについて、次のような説明がある。
 エイは見た目に醜悪で(裏側から見ると、エイの腹が人の顔みたいで気持ちが悪い)、処理の仕方によって臭みが出るが、調理法によっては姿から想像できないほどうまいものになる。フランス料理の技法と相性がよく、中華風に清蒸にすると上品過ぎる。終戦直後の食料難時代に、配給のエイの切り身を醤油で煮つけたものを食べさせられた年代の人間は、アンモニア臭くてまずい魚という印象が強いようだが、獲れたてのエイを上手に調理すれば臭いということはない。むしろ、肉質の素晴らしさを充分に引きだせば、最上級の魚料理のひとつとなり得る。
 要するに、鮮度のよいエイを、手をかけて料理すればおいしいものになるが、戦後の食料事情の悪いころは、ただ空腹を満たすためだけの下魚とされていた。ちなみに私の亡母は、昭和初年に佐渡の前浜(新潟に面した側)に生まれ、戦後上京したが、わが家でエイを調理したことは一度もなかった。もっとも、醜いものの譬えに「アカエイ〔の〕裏返し」(佐渡地方の俚諺か)というふうに言ったから、アカエイのなんたるかは知っていたはずだ。

本題はここからである。上の文章を書いた2013年当時にはまだ読んでいなかったのだが、著者自身が撮影した写真を多数掲載した《白土三平フィールド・ノート@土の味》(小学館、1987年11月20日)にアカエイの調理法が載っている。〈タレ〉という項目の、大きな写真と3枚の連続写真の説明にこうある。

アカエイのタレ。エイや鮫は身が多くとれ、タレには最適である。切り身を塩水に漬ける時間は、寒い季節は長めにする。風があれば2日ほどで、良いタレが仕上る。それを暗所において、ビニールなどに包んでおくと白いカビが生え、さらに陰干しにして固く仕上げると、長期保存に適し、味も良くなる。(同書、九六ページ)

@アカエイの解体。大型の魚は大きくて重みのある刃物を使用するとやりやすいものである。まず体の表面のヌルとヨゴレをていねいにこき落す。中心に沿って左右に切り難し、背骨と内臓をとる。(アカエイの尾には毒針があるので切断して料理にかかる)
A続いて適当な大きさに切断し、骨に沿って包丁を入れ、3枚におろしてゆく。
B次に皮をむいて、大きなものは好みの大きさにそぎ身にする。エイの骨は軟骨なので、捨てずに一緒に処理をする。人によっては、この軟骨の方を好む人もある。(同書、九七ページ)

そして、末尾に「一九八六年三月」(これは脱稿の時期か、それとも雑誌掲載月か)とある本文に、こう見える。
 「タレというのは一種の保存食で、魚や獣の肉の切り身を塩水に漬け、天日に干したものである。
 小型のアジやイワシなどで作られる丸干[マルボ]しやヒラキと違って、タレはもっぱら各種の鮫[サメ]やエイ、鯨[クジラ]のような大型の物の切り身で作られたものをいうようである。
〔……〕
 釣りの外道[ゲドウ]として鮫やエイがかかる時がしばしばある。そんな時には、見てくれや思い込みで捨ててしまわずに、こまめに解体し、切り身にして海水に、(海水の塩かげんがちょうどよい)一時間も漬けて、笹のクシにでも刺してぶらさけげておけば、帰り際(一昼夜干して翌日)には見事なタレを持ち帰ることができる。
 これを暗所に取り込み、ビニールなどに包んでおくと、干柿のような白いカビが生えてくる。それを陰干しにしたものは、長期保存に耐え、しかも味もすぐれたものとなる。
 これを軽くあぶって酒の肴や茶づけの身にすれば最高である。
〔……〕
 釣りは技術だけでなく、釣った獲物を無駄なく有効に利用し得る術[すべ]を身につけることも、釣り師の資格のうちにある。」(同書、九八〜九九ページ)
私が後註で触れた「エイの調理法」との、なんという違いだろう。フランス料理や中華風の調理を蹴散らす白土の野趣あふれるそれは、まさに「釣り師の保存食」で、吉岡のアカエイもこのように捌かれれば本望かもしれない、と思わせるものがある。ここで再び四方田犬彦の《白土三平論》を引きあいに出せば、その実質的な最終章〈\ 白土三平の食卓〉には「タレ」への言及はあるが、それがアカエイであるとまでは書かれておらず、私が詩篇〈過去〉について書くときに参照できなかったのは残念だった。本稿で〔追記〕の形を採って補った所以である。

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(*) 毛利甚八はその篤実な評伝《白土三平伝――カムイ伝の真実》(小学館、2011年7月6日)で次のように述べている。

 今、あらためて『カムイ伝』の全体像を眺めてみると、その複雑な物語構造に対して畏怖に近い思いを抱くのは筆者一人ではないと思う。
 この『カムイ伝』の世界を、白土三平を知らなかった若い世代に読み継いでほしいと筆者は願うが、そのあまりの長さと複雑さにどう読んでいいのか迷う読者もいることだろう。
 そこで、批判を浴びるのを覚悟して、筆者はある読み方を若い読者に推薦しようと思う。
 頭から通読するのをやめるのだ。そして、白土三平が追求したテーマに時代区分を設定し、『カムイ伝』以外の作品も含めて、バラバラに読んでいくのである。
 暴論かもしれないが、ひとつの提案として御紹介してみよう。行頭の数字は読む順番を示している。(〈『カムイ伝』を若者が読むために〉、同書、一七七ページ)

すなわち(1)《カムイ伝〔第二部〕》1〜12巻のサルの物語だけを読む、に始まり、(10)《サバンナ》全1巻、に至るのがその処方箋である。私自身、そのすべてを読んだわけではないが、はからずもかつての《忍者武芸帳――影丸伝》を助走に、《カムイ伝〔第一部〕》、《カムイ外伝》、《カムイ伝〔第二部〕》と、ほぼ発表順に後追いで通読した格好になる。そしてこの長い長い作品を振り返ると、眩暈にも似た感覚が沸きあがるのを抑えることができない。


吉岡実とクリムトあるいは「胚種としての無」(2019年10月31日)

東京・上野で《クリムト展――ウィーンと日本 1900》(東京都美術館、2019年4月23日〜7月10日)を会期末の平日に観た。当日チケットを買って、入場までに約30分。老若の女性客が八割かそれ以上を占める、たいした盛況だった。私がグスタフ・クリムトの原画を観るのは、《ウィーンの愛と夢――クリムト展》(伊勢丹美術館、1981年1月29日〜2月24日)以来だろうか。そのときの展覧会図録《クリムト展》(東京新聞、c1981)には〈アッター湖畔ヴァイセンバッハの森番の家〉(1912)があって、いま観ると深い感銘を受けるが、38年前はそうではなかった。25歳の男にとって、クリムトはあくまでも〈接吻〉(1907)や〈ダナエー〉(1907〜08)の画家だった。

グスタフ・クリムトの油彩〈アッター湖畔ヴァイセンバッハの森番の家〉(1912) グスタフ・クリムトの油彩〈ヘレーネ・クリムトの肖像〉(1898)
グスタフ・クリムトの油彩〈アッター湖畔ヴァイセンバッハの森番の家〉(1912)(左)と同〈ヘレーネ・クリムトの肖像〉(1898)(右)

今回の呼び物は、ポスターにもなった〈ユディトT〉(1901)や〈人生の三時期〉(1905)だが、クリムトの作品では、グスタフの早逝した弟エルンストの遺児、ヘレーネ(6歳)の清楚な姿を描いた〈ヘレーネ・クリムトの肖像〉(1898)に打たれた。さらに、上にも述べたように〈アッター湖[ゼー]のカンマー城〉に代表される風景画が収穫だった。晩年の丸谷才一は、クリムトが好んだ正方形のキャンバスの謎を解くべく、原寸大の複製の風景画を自室に飾っていたというが、ついにそれは解きあかされなかった。丸谷の〈クリムト論〉は「たくさん在る真四角の風景画がおもしろいし、どうして真四角なのかと気になって仕方がなく、ついあれこれと考へてみる。/(未完)」(《別れの挨拶〔集英社文庫〕》、集英社、2017年3月25日、六一〜六二ページ)で途切れている。晩年の丸谷には、それを完成させるだけの時間が残されていなかったのだ(*)。ただ、今回の展示のなかにはほぼ正方形の冊子(LPレコードのジャケットよりやや小ぶりな、分離派[ゼツェッション]の機関誌《VER SACRUM(聖なる春)》)があって、表紙しか観られなかったが、その特異な判型の印刷物をクリムトが手にしていたと考えると、感無量である(本展覧会の図録、東京都美術館・豊田市美術館・朝日新聞社編の《クリムト展――ウィーンと日本 1900》(朝日新聞社、c2019)に依れば、正確なサイズは「29.3〔縦〕×28.3〔横〕cm」で、12インチレコードのジャケットが約31.5×31.5cmだから、冊子としてはかなり大判である)。ところで、会期末ともなると、2500円の公式図録〔通常版〕は好評のため品切れで、入手できなかった。したがって、上に挙げた作品名は《クリムト〔新潮美術文庫〕》(新潮社、1975年12月25日)に依っているのだが、同書収録の作品解説と巻末のエッセイ〈死と性の匂い――クリムトの人と作品〉を書いているのは、彫刻家であり詩人でもあった飯田善国である。上野への往き還りの車中、久しぶりに読みかえしてみて、巻末エッセイに次のような一節があるのを発見した。

 クリムトが女を愛したのは、彼が自然を愛するのと同じ意味においてであった。彼は男よりも女のうちに大いなる自然を視たのであり、その自然としての女が、女の本質をもっとも純粋に表現する瞬間を性的恍惚のうちに見たのだといえよう。そして女の本質は、自然のそれと同じく無であり、無であるがゆえにいっさいと成りうるところの、胚種としての無である。女自身は、自己が何者であるかをけっして認識することはない。だが、女は男によって恍惚に達するとき、一つの輝き[、、]の状態に到達する。それは無を内に含みながら、無を超えた状態である。死を内に含みながら、死を超えた状態として現われるのが恍惚[エクスタシー]の特徴である。エクスタシーは一つの普遍的な状態である。(同書、七六ページ)

文中の「胚種としての無」という章句は、たしか吉岡実関係の文で目にした憶えがある。帰宅してさっそく《現代詩手帖》1980年10月号〔特集・吉岡実〕を調べてみたが、飯田善國の〈〈謎[エニグマ]〉に向かって――『夏の宴』を中心に〉にはなかった。同じ号で、千石英世は〈「胚種としての無」――吉岡実のファルスの世界〉を書いている(標題は、千石が飯田の〈死と性の匂い〉から引いたものか、定かではない)。すなわち、

 胚種とは、始まりを孕んだ終りであり、終りを孕んだ始まりである。あるいは、生を孕んだ死、死を孕んだ生、意味を孕んだ無意味、無意味を孕んだ意味である。だが、胚種とは、それ自体では生でも死でも、意味でも無意味でも、始まりでも終りでもない。それは、実はこれら二つのものを結合する零[、]、転轍器であるにすぎない。胚種とは、「実は」に似て、aなるものをbなるものへとドンデン返しする無としての転轍器であるにすぎないのである。だが、生と死、意味と無意味、始まりと終り、これら二つを一身に吸い込んで存在する立体、すなわち「胚種としての無」を媒介として成立する世界そのものは、大いなるドンデン返し、大いなる形容矛盾、大いなる同語反復、ファルスの世界である。「胚種としての無」とは、吉岡実の詩そのものである。(同誌、一三〇ページ)

が千石の吉岡実論の肝である。そうか、これだったのかと思いつつ、どうも腑に落ちない。それがなぜなのか、ようやく判明した。灯台下暗しとはこのことで、「胚種としての無」という章句は、吉岡実の詩篇〈水鏡〉(H・6)に登場していたのだ(**)。その「2」と「4」を引く。



「古代の神官のまとう
寛衣の紫」
のような内湾を浮遊する〈ムーン・ジェリー〉
すなわちミズクラゲのむれ
それらの子エフィラ
また無性生殖をいとなむ
ポリプ
夕日の波間で
「白っ子の内臓のような柔かな
丸い起伏の世界」
愛や
観念を孕み
わたしは岬をめざして泳ぐ
「胚種としての無」
漂いゆく〈ムーン・ジェリー〉
透明なるもの
さらば
水神エア



わたしはぬるい湯舟につかり
恥骨が白骨化してゆくのを
感じながら
「流れる水の面の底の
石のように
その存在をきわだたせる」
エゴン・シーレの
生涯と章句を想い出す

「人は夏の盛りに
秋の樹木を感得する」

まるでこの家は
水底のようだ
夢からさめればいつも
藻草や
言葉や
みじんこが舞っている
つけくわえれば
立葵の花のはるか下で
わたしは眼球に点滴されている

吉岡は、金井美恵子との対談〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉(《現代詩手帖》1980年10月号〔特集・吉岡実〕)で「最近見た絵では、エゴン・シーレの展覧会にはやっぱり衝撃を受けた。実際見たのはこの間が初めてなんだけど、美恵子の「水鏡」にはエゴン・シーレの言葉を挿入してある。」(同誌、一一〇ページ)と、シーレとの出会いを語っている(***)。だが、吉岡がシーレの師・クリムトに言及したことはたえてなかった。もっとも飯田の「胚種としての無」を《クリムト〔新潮美術文庫〕》(新潮社、1975)で読んだのなら、当然その作品の図版を観ているはずだから、吉岡実によるグスタフ・クリムト評がないのは、まことにもって残念である。

 クリムトは女性の肉体の魅惑に深くのめり込んだ果てに、彼女らの内奥にうごめく秘密の欲望の深さを無意識に抽出したのだった。そして、彼が捉えた欲望の形のうしろには、人間の運命がかくれていたのだ。クリムトは女性の美しさを讃嘆しつつ、それらをイコンに鋳造することで、彼自身のかかえていたおそろしいほどの孤独と時代の虚無をたくみに陰蔽して見せたのだ。それは彼の処生術というより、むしろ、彼のダンディズムであった。
 シーレにはクリムトのような男らしいゆとりは無かったし時間もなかった。シーレの裸の神経は深い亀裂に向って正面から突き刺さるほかなかった。持続の現存の奇蹟はそこに生まれた。(《ユリイカ》1987年7月号〔特集=ウィーンの光と影〕、八七ページ)

飯田善國の〈ポルノグラフィーそれとも――クリムトとシーレ〉の結語を引いた。飯田のシーレ論の核は「シーレは、存在も世界も、自分自身もゆっくりと死に向って下降してゆく運動であることを理解していた。死を内部に孕んでいるからこそ、「今」から「今」への瞬間の連鎖としての「生」は、暗さの中の輝きを、頽廃の底に高貴さを、曖昧さの奥に不動の確実さを、脆さの内部に爆発するほどの力を、寂しさのきわみに底知らぬ喜悦を、かすかなそよぎの真にふしぎな永遠のしずけさを、哀しみの裡に打ち砕かれぬ本質を、秘めていることをはっきりと感じとっていた。シーレの感性の内側では、死と生、生と死は、コインの表と真のように分離しがたく結び付いていたのであり、したがって、彼の感性の論理にしたがえば、美しいものは、必然的に、醜いものを同伴していなければならなかった。光が闇を、生が死を、リズムが静止を同伴しているように……。」(同前、八五ページ。ただし、傍点を省いた)にある。はたして吉岡は飯田のこのシーレ論の末尾に震撼しなかっただろうか(吉岡はクリムトに慰藉されこそすれ、戦慄したことはないだろう)。ちなみに吉岡は同号に、1987年6月8日の高橋新吉の告別式で述べた弔辞(〈ダガバジジンギヂさん、さようなら〉)を寄せている。

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(*) 丸谷才一はこの〈クリムト論〉とは別のところで「〔……〕最近わたしは、クレーおよびクリムトといふ二十世紀ドイツの画家に、正方形の画面に描いた絵が多いことに気がついて興味を持つてゐます。これはルネサンス・イタリアにも、オランダの画家たちにも、フランス印象派にも見られない現象であります。なぜこんな傾向が生じたのか。/いろいろ探つてゐるうちに、野田由美意さんの『パウル・クレーの文字絵』といふ本のなかに、クレーがハイマンの訳した『中国の叙情詩』といふ本を愛読したことが出てゐました。そのなかに唐の韓愈[かんゆ]が何度も役職を失ひ、左遷されて不遇であつたことが出てくる。これはドイツがナチスの支配下にあつて、クレーがデュッセルドルフ美術学校の教授職を失つたことと照応するでせうが、問題なのは韓愈の詩の組み方で、一句が五字、それが十二句のいはゆる五言排律の詩を二句づつ六行並べ、正方形に近い形に組んでゐる。クレーやクリムトはこの詩の訳詩を愛誦するあまり、漢字による正方形の美しさに魅惑されたのではないでせうか。/かういふことを考へたとき、わたしはつくづく、瀬戸川ならこの思ひつきをおもしろがつてくれたらうな、と懐しんだのであります。」(〈新しい問題に挑む知的な人間〉、《別れの挨拶〔集英社文庫〕》、三四四〜三四五ページ)と語っている。これは、2011年3月12日(東日本大震災発生の翌日!)、帝国ホテルで行われた瀬戸川猛資さんを偲ぶ会十三回忌での挨拶。湯川豊は〈クリムト論〉の解題、〈完成しなかったクリムト論〉で「私などが考え違いしていたことがある。丸谷さんのクリムト論の構想は、初めに思ったように一篇のエッセイで済むというのではなかった。予測していたよりずっと規模が大きく、本格的な論考になるものだった。亡くなった後、ご長男の根村亮氏が机の周辺に見出[みいだ]した「構想メモ」をみせていただくと、そのことを読みとることができる。」(同書、五二ページ)と書くだけで触れていないが、私は丸谷の構想が東日本大震災の発生で変更を余儀なくされたのではないかと忖度する。すなわち、震災で亡くなったり被害に遭ったりした人人への鎮魂の想いである。《忠臣藏とは何か》(1984)の作者が、そこに言及しないでいることは考えられない。むろんそれは、本格的な論考である《クリムト論》――クリムトの風景画はなぜ真四角なのか――においてではなかったかもしれないが。

(**) 〈水鏡〉の初出は《文藝》1977年11月号。吉岡は金井美恵子との対談で、引用詩について「美恵子を描いた「水鏡」も、君の言葉だけでは、うまくいかないので、実は飯田善国のエッセイから若干だが借用している。ただ、ぼくが言っておきたいのは、いずれの詩篇も詩句からはとってないんだよ。あれはみんな対象になった人のエッセイからとって括弧にいれて、それを詩にもってきているんだ。」(〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉、《現代詩手帖》1980年10月号〔特集・吉岡実〕、九六ページ)と語っている。すなわち、「胚種としての無」は、飯田善国のクリムト論〈死と性の匂い〉(1975)→吉岡実の詩篇〈水鏡〉(1977)→千石英世の吉岡論〈「胚種としての無」〉(1980)と、転生を遂げたわけだ。吉岡は、〈水鏡〉では飯田善国の名前も挙げず、それがクリムトについての文章であることも触れずに章句を引用した。一方、飯田の章句を題辞に掲げた詩篇〈形は不安の鋭角を持ち……〉(H・11、初出は《現代詩手帖》1978年4月号)では、その詩句「そしてわたしはアンリ・ローランスの/言葉を思い出す/〈人はいつか無意識を表現しなければならない〉」から、フランコ・ルッソーリ監修《ローランス〔ファブリ世界彫刻集 13〕》(平凡社、1972)に飯田善国が寄せた解説〈アンリ・ローランス〉の結語「彼〔ローランス〕は「人はいつか無意識を表現しなければならない。それは芸術の偉大な秘密なのです」と言ったが,彼は沈黙の領域に属するものの表現が永続性をもつことをよく知っていたのである。」に容易にたどりつける。すなわち「飯田×ローランス」で検索すれば、簡単に当該冊子に逢着する。吉岡の詩句はそれだけの暗示に充ちている。

(***) 《エゴン・シーレ展》(西武美術館、1979年4月27日〜6月6日)の図録である《エゴン・シーレ展》(東京新聞・西武美術館、1979)の扉裏には「Egon Schiele――1890-1918」の文言が墓碑銘のようにあり、その下方にシーレの肖像写真、そしてそのキャプションのように「内面的に、本質と心とで、人は夏の盛りに、秋の樹木を感得する。この憂愁を自分は描きたい。――シーレ」が掲げられている。吉岡が〈水鏡〉で「エゴン・シーレの/生涯と章句を想い出す」として引用した生涯と章句の典拠はこれに違いない、一件落着。と言いたいところだが、1977年11月発表の詩句の典拠が1979年発行の図録であるはずがない。改めて文献を探索すると、飯田善國のエッセイ〈予感的存在者としてのエゴン・シーレ〉(《みづゑ》1969年9月号〔〈特集〉エゴン・シーレ:ふるえる魂の独白〕)の結語近くに

 彼の想い出はつづく…….〔……〕
 〔……〕
 「内面的に,本質と心とで,人は夏の盛りに,秋の樹木を感得する.この憂愁を自分は描きたい!」(同誌、二九ページ)
とあった。吉岡がこの飯田文に依ったことは疑いない。ちなみに同図録の末尾には、前述の扉裏と同様のレイアウトでグスタフ・クリムト(シーレはこのウィーン美術の先達を終生、師と仰いだ)の肖像写真と略歴が掲げられており、モノクロ図版としてデッサンを中心に13点のクリムト作品が掲載されている。吉岡はシーレ展の会場(今はなき東京・池袋の西武美術館!)で当然これらを目にしたはずだ。残念なことに、私はこのシーレ展を見のがしている。

………………………………………………………………………………

本文および註で吉岡実詩の典拠として挙げた飯田善國のエッセイの初出、すなわち〈死と性の匂い――クリムトの人と作品〉〈アンリ・ローランス〉〈予感的存在者としてのエゴン・シーレ〉は、いずれもその後、飯田の著書《見えない彫刻》(小沢書店、1977年3月20日)に収められた。吉岡が詩篇〈水鏡〉執筆の際に典拠としたのはこれら初出形ではなく、おそらく飯田から贈られただろう単行本の方だったに相違ない。だが、制作にまつわる確たる証言もないので、本稿ではあえて初出形を掲げた。


吉岡実と森家の人人(2019年9月30日)

本稿では、吉岡実と鴎外森林太郎(1862〜1922)の一族とのかかわりを概観したい。60歳で歿した鴎外は、当時3歳だった吉岡にとって祖父の世代であり、吉岡の生まれた1919年には帝室博物館総長に就任している。可能性として、両者が上野や浅草の街角ででもすれちがうことがなかったとはいえない。その鴎外の妻子だが、先妻の登志子(1871〜1900)とのあいだに長男の於菟(1890年9月13日〜1967年12月21日)が、後妻の志げ(1880〜1936)とのあいだに長女の茉莉(1903年1月7日〜87年6月6日)、次女の小堀杏奴(1909年5月27日〜98年4月2日)、夭折した次男の不律、三男の類(1911〜91)がいて、弟妹に篤次郎(1867〜1908、筆名:三木竹二)、小金井喜美子(1871〜1956)がいる。吉岡は、鴎外には歴史上の文筆家としてその作品に接しただけだが(随想や日記で《雁》や《澁江抽齋》に触れている)、森家の人人のなかで最も知られている森茉莉とは筑摩書房の編集者・装丁者として親交を結んでいた。随想〈遠い『記憶の絵』――森茉莉の想い出〉(初出は《鷹》1988年2月号)ではその死を悼んでいる。また、森於菟の《父親としての森鴎外〔ちくま文庫〕》 (筑摩書房、1993年9月22日)の元版である《父親としての森鴎外〔筑摩叢書159〕》 (同、1969)が世に出るにあたっては、吉岡実の尽力があった。それはどんな本か。〔ちくま文庫〕のジャケットの裏表紙にこうある。「森於菟は鴎外の長男であり、母は鴎外と離別した先妻である。於菟は、祖母によって育てられ、のち日本の解剖学の権威となる。その於菟が綴った鴎外一家の歴史と真実。一家の柱としての鴎外と父としての鴎外と人間としての鴎外を活写して余すところがない本書は、第一級の資料であると同時に、深く感動をよぶ一個の人間記録である」。同書〔筑摩叢書159〕の巻末には、刊行の前前年に亡くなった著者の於菟に代わって、妻の富貴が〈あとがき〉を書いている。その末尾を引く。

 於菟は表面柔和な性格のように見えても、どこか蕊に一本筋金が通っていたのでしょう、ここから先は一歩も譲らぬという頑固さがありました。子供達にも大きな声で叱ったことはなかったようでしたが、父親に対してはどの子供も決して我儘を言うことなど出来なかったようです。もちろん私の我儘など許してくれそうにもありませんでした。
 そんな主人のことを思い浮べながらぼんやりした頭の中もどうやら落つき、書いたもの等少しずつ整理しはじめた私は急に一冊の本に纏めてみたいと、出来ることなら三回忌の頃までにと思いついたのです。何といっても本に関係の深い茉莉を頼りに筑摩書房で吉岡氏にお目にかかったのは初夏の頃でした。思いがけなくこの願いが叶えられて鴎外関係のものを叢書の一冊として出版して下さることになったのはこの上もない喜びでございます。
 終りにこの度短時日の中に出版にお骨折り下さった吉岡、高城、村上三氏並びに筑摩書房のご厚意を深く感謝申上げます。(森於菟《父親としての森鴎外〔筑摩叢書159〕》、筑摩書房、1969年12月20日、三五〇〜三五一ページ)

文中の吉岡は吉岡実だとして、高城は高城[たかぎ]修、村上は村上清だろうか。森於菟の文章では、鴎外と女人との関係を叙した処が注目されるが、ここでは次の一節を引いておこう。

 父はこの散歩で冗な物を買わずに街の景物を観察して楽しむ事を私に教えた。古本屋に必ず立寄る。どこの店の主人とも馴染になっていて店先に腰かけて話しこむ。そして古い汚い本を山のように持出して見せるのを一々選り分ける。私は退屈でたまらぬからその間、近所の金魚屋や絵草紙屋の店で遊んでは時々父の方を見て立上るのを待つ。それが夜店であると父は往来端にしゃがんで本をさがす。こうして何冊か探し出した本を持って帰ると一々半紙に包んでおいて丁寧に手を洗う。そして日光の強い日を選んで古本を日光消毒した後、綴目のゆるんだのはとじ直し、破れかけた所は紙で補って書棚に納めるのである。(〈父の映像〉、同前、八六〜八七ページ)

吉岡家蔵のクリアファイルの一冊に、小堀杏奴が新聞に寄せた〈誰も知らない!〉という随想の切り抜きが収められている。吉岡のファイルにしては珍しく掲載紙名や日付のメモがなくて、出典を特定できない。クリアファイルの前後の資料から推定すると、1980年代末のものか。書かれている内容からは、6歳年上の姉・森茉莉を追悼したものだとわかる。「姉は理想の美少女」「夫婦の子のように」「やさしかった兄」「遠い思い出の中に」という4本の見出しが立っているが、「やさしかった兄」の段落を見よう。小堀がここでいう「兄」は、異母兄の森於菟ではなく、茉莉の夫の山田珠樹(1893〜1943)である。

 当時としては稀(まれ)に見る三田台町の、魚籃坂?に沿い、くすんだ海老茶(えびちゃ)の磨き煉瓦(れんが)、高低のある塀をめぐらし、豪奢(ごうしゃ)で、広大な応接間、二階には、兄の書斎や、寝室のある洋館建てと、一流料亭といった感じの、これも広大な日本建築に分かたれ、鬱蒼(うっそう)たる大樹の植え込みを背景に、芝生の築山[つきやま]や、水の涸(か)れた池に、陶器?の鶴の遊ぶこれも広大な庭園が眺められた。夜は日本館の二階に、兄や、姉と寝かされるのだが、小学生の私は、夜中に眼がさめ、手洗いに行く時、怖ろしくて一人では行けない。姉は呼んでも眼をさましてくれないのに、兄は眼敏(めざと)く起きて、階下の暗く、長い廊下を手洗いに連れて行き、また、連れ戻ってくれるのであった。

「稀(まれ)」のように読みがなをパーレンで括る方式は、新聞独得の表記だから目をつぶるにせよ(それにしては「築山[つきやま]」が行間ルビなのが解せない)、むやみに読点の多い、不必要に長いセンテンスはある時期以降の森茉莉のそれのようで、称賛できない(冒頭の「当時としては稀(まれ)に見る」はいったいどこに係るのだろう)。それとも小堀杏奴はここで、亡き姉を偲んでパスティシュを試みているのだろうか。吉岡が小堀文を切り抜いて保存したのはなぜだろう。理由のひとつは森茉莉の追悼文であるため、そしてもうひとつは上掲文に見える「魚籃坂」ゆえだったのではないか(〈《魚藍》と魚籃坂〉を参照されたい)。掲載されたのがいつかわからないので、はっきりしたことは言えないが、〈誰も知らない!〉は茉莉の歿した1987年6月6日からさほど隔たっていない時期に発表されたと思しい。そして、《鷹》1988年2月号の〈遠い『記憶の絵』――森茉莉の想い出〉は、追悼文を依頼されたのではなく、随想を頼まれた吉岡が進んで筆を執ったものに思えてならない。そのとき吉岡は、小堀杏奴の文章を「自分しか知らない」森茉莉の想い出を書くための踏切版[スプリングボード]にしたのではないか。

 父の頭蓋顔面の計測をして置かなかったのは今解剖学者たる私の特に遺憾とするところである。しかし正面と側面との写真はあるから頭蓋の長幅率、長高率、側面角等はある程度の確然性をもつ数字を挙げ得るはずであるが現在手許にないから他の機会にゆずる。それにしても父の死の際私が居合せなかったために解剖に付せず、その脳髄をいたずらに灰にしてしまったのはすこぶる残念である。(森於菟〈父の映像〉、同前、九五ページ)

吉岡実の散文は、森家の人人のなかでは、そこはかとないユーモアを漂わせる森於菟のそれに近く、森茉莉・小堀杏奴姉妹の系統ではない。

吉岡家蔵のクリアファイルに保存されていた、掲載紙等不明の小堀杏奴の随想〈誰も知らない!〉の切り抜き〔モノクロコピー〕
吉岡家蔵のクリアファイルに保存されていた、掲載紙等不明の小堀杏奴の随想〈誰も知らない!〉の切り抜き〔モノクロコピー〕

〔追記〕
小堀杏奴の小説・随筆集(と本扉にはある)《春》(東京出版、1947年4月20日)は、例によって江古田は日大藝術学部前の根元書房で入手した。本扉の裏に「表紙絵・カット 木下杢太郎」とあり、対向の本文ページの初めには「この書を故太田正雄先生に捧ぐ」と献辞がある。鴎外の文業を「テエベス百門の大都」と称えた杢太郎=太田自身、絵に優れていたことは、〈杢太郎と福永のサフランのスケッチ〉をみてもらえればわかると思う。

小堀杏奴の小説・随筆集《春》(東京出版、1947年4月20日)と村松嘉津《プロヷンス隨筆》(同、1947年8月20日)の表紙 小堀杏奴の小説・随筆集《春》(東京出版、1947年4月20日)と村松嘉津《プロヷンス隨筆》(同、1947年8月20日)の本扉
小堀杏奴の小説・随筆集《春》(東京出版、1947年4月20日)と村松嘉津《プロヷンス隨筆》(同、1947年8月20日)の表紙〔どちらも表紙絵は木下杢太郎の手になる〕(左)と《春》と《プロヷンス隨筆》の本扉(右)

東京出版は小堀杏奴や村松嘉津の本のほかに、吉岡実詩にとってきわめて重要な二冊の詩集、すなわち西脇順三郎の《あむばるわりあ》(1947年8月20日)と《旅人かへらず》(同)を出している。吉岡は当時をこうふりかえる。「村松嘉津『プロヷンス随筆』が出版されたのは、昭和二十二年八月二十二〔ママ〕日である。当時無名に近かった著者のこの本を、どういう動機で手に入れ、そして私は読んだのだろうか。いま記憶をたどってみると、昭和二十三年も終り近いころだと思う。私は所用で東京出版株式会社に関係ある知人をたずねた。そのかえりに、どれでも読みたいものがあったら二、三冊もって行けといわれた。荒縄でしばられ、うず高く積まれた返品物らしい本の中から、三冊のうすい本を選んだ。一冊は、『プロヷンス随筆』であり、他の二冊は、西脇順三郎詩集『あむばるわりあ』と『旅人かへらず』であった。私は偶然このとき西脇詩と出合った。そして、視点のきまらない私の詩精神はこの二冊の記念碑的作品に鮮烈な衝撃をうけたといえる。しかし別の一冊、村松嘉津の『プロヷンス随筆』は、私の肉体の飢えをあたたかく鎮めてくれたのである。」(〈『プロヷンス随筆』のこと〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一四〜一五ページ)。これを読むと、吉岡はこのときすでに出ていた小堀の《春》を手にしていないようだ。さて、《春》の小堀杏奴(当時、39歳)の文章は、森茉莉ふうの晩年の前掲文からは遠く、むしろ村松嘉津に近いと感じられる。〈巴里の話〉にこういう一節がある(なお、漢字は新字に改めた)。

 今日はふとした事から、巴里で食べた野菜サラダの事を思ひ出した。
 大きな瀬戸物の鉢に、サラダ油1、酢3ぐらゐの割合に入れ、塩、胡椒、又は辛子等で味付けする。
 さうして、別によく洗つて、水を切つた、青々したサラダの葉を入れて、木製の大きな匙とフォークで、充分に和へて食べるのである。
 この中にうで卵の輪切りを入れる事もあつた。
 菜葉は出来るだけ水気を切つた方が好いので、手で提げるやうになつてゐる針金で出来た小さい蓋物にサラダを入れ、長い間左右にこの籠を振りながら充分に水気をとる。
 恰度巴里の労働者街にゐたので、夕方になると方々の窓からムツシユウが首を突き出して、盛んにそれをやつてゐた。
 男の人が台所を手伝ふ場合、誰にでも出来る簡単な事なので、一番それをやらされるらしい。
 或る時フオーリ・ベルジエールヘ行つたら、レヴユーの合間にやる寸劇の中で、アパートの場面をやつた事があつた。
 セツトで出来たアパートの窓から、すつかり大人の扮装をした子供が半身乗出して、玩具のやうに小さいサラダの籠を盛んに振る。
 とても感じが出てゐて、見物人は皆喜んで手をたたいてゐた。(小堀杏奴《春》、一一〜一二ページ)

そうはいうものの、小堀にはかわいそうだが、村松の文章は並外れている。《プロヷンス隨筆》冒頭の一篇、〈にんにく〉のハイライトを引こう(漢字は新字に、々(同の字点)は漢字に改め、一の字点やくの字点はかなやカナに変えた)。

 にんにくを用ゐた最も有名なプロヷンス料理はアイオリーだ。それはこの地方の豊かなオリーヴ油を得て世にも結構な御馳走となる。ある夏の日、料理部屋からコトコトといふ音がしきりに続くので、何のお料理かと這入つて見ると老婢が乳鉢様のものの中に乳棒様のものを以て懸命に敲いてゐる。今日はアイオリーをしようといふのである。わたくしにもさせで頂戴、と代つて乳棒を握らうとする手を押へて、「少くとも貴女は今御病気ではないでせうね」といふ。穢れた者が触るとアイオリーは崩れてしまつて出来なくなる、といふのである。「これは昔の馬鹿気たことだとお仰るでせうけれど、何しろさういふ言ひ伝へですからね……本当に昔者は馬鹿なんですよ」と微笑しながらも真剣だ。さうしてアイオリーの作り方を教へて呉れる。先づ鉢の中に一人当り一鱗片の割でにんにくを入れる。それにこの地方で専ら用ゐられる粒状の塩塊を、大中小と三粒入れる。大きいのは父[ペール]、中位のは子[フイス]、小さいのは聖霊[サンテスプリ]と呼んで三位一体に擬するのだといふ。それをコトコト砕いて大体砕けたら卵の黄味を入れ、それから徐々に滴々とオリーヴ油を加へながら絶えずかきまはしてだんだんにコッテリと練り上げて行く。下手をすればそれが固らずに落ちてしまふ。早い話がにんにく入りのマイヨネーズなのだが、ただ酢を入れずに油だけで展ばして行くので、しまひには棒が動かなくなる程固くなつて、山のやうに盛り上る。信仰深いこの国の古い愛すべき風俗は、マイヨネーズの失敗にも何か神秘的なものを絡めて不浄を避け、三位一体に呼びかけるところが可憐ではないか。これさへ出来れば後はじやがいも、人参、葱、白味の魚、卵等等、ゆでたものを沢山大皿に盛つて供する。人人は好みのものにアイオリーをつけて食べるのだ。にんにくの臭味は勿論猛烈だが、食べ始めれば全く感じなくなつて、ただこれ、美味の極致である。プロヷンスの人人はこれを腹いつぱい食べてから、口臭を消すとて濃いコーヒーを呑み、冷やしたメロンを割る。それから樹蔭の長椅子に強い陽を避けて少時の昼寝[シエスト]に入る。南仏の怠惰な和やかな夏の情趣は屡屡アイオリーに繋がれる。(村松嘉津《プロヷンス隨筆》、六〜八ページ)

村松の〈にんにく〉をながながと引いたのは、ほかでもない。吉岡が前掲の随想〈『プロヷンス随筆』のこと〉で引用し要約した村松の原文が、あまりにも素晴らしいからである(*)。吉岡の簡にして要を得た文章も、それに劣らず見事だ。読者は、吉岡の随想と村松の原文を併せて味読されんことを。なお、著者が斧鉞を加えた《新版 プロヴァンス隨筆》(大東出版社、1970年3月15日)の本文は、残念なことに、初刊の簡潔ながら滋味あふれる境地からは一歩後退したものと見做さざるを得ない。上掲文と同じ箇所を、段落の切れ目まで引く(初刊でひとつだった段落は、新版では――文言に加筆があるものの――四つに分けられている)。

 にんにくを用ゐた最も有名なプロヴァンス料理はアイオリーで、それはこの地方の豊かなオリーヴ油を以て、世にも結構な御馳走となる。ある夏の日、台所からコトコ卜といふ音がしきりに続くので行つて見ると、老婢が深鉢のやうな器[うつわ]の中を、細く短い棒、つまり小さなすりこ木[、、、、]のやうなものでしきりに敲いてゐる。何のお料理かと訊くと、今日はアイオリーを作るのだといふ。わたくしにもさせて頂戴、と代つてそのすりこ木[、、、、]を握らうとする手をあわてて押へ、「奥さんは今御病気ではないでせうね」と訊く。身の穢れた女が触るとアイオリーは「落ちて」しまつて出来なくなる、といふのである。「昔の馬鹿げた考へだとお仰るでせうけれど、何しろさういふ言ひ伝へですからね……本当に昔者は馬鹿なんですよ」と微笑しながらも真剣らしい。それからアイオリーの作り方を教へて呉れた。(同書、六〜七ページ)

………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

(*) 村松嘉津《プロヷンス隨筆》の目次を掲げることで、同書の内容紹介に代える。


にんにく
野兎
つみ草
かたつむり(エスカルゴーとリマソン)
精進料理〔サフランについて詳しく述べた一節がある〕
アマンド
ピスタッシュ
愛の林檎
菩提樹[テイヨール]
薬草
野菜料理
ノエル
甘味
オリーヴ
臓物料理
日本の料理
プロヷンス文学と地中海文化
プロヷンス地方主義[レジオナリズム]

村松は〈跋〉を「更に自分の一番の喜びは、この小著が故太田正雄先生の御筆に成る草花の図を以て飾られたことである。長く欽慕をつづけながら、つひに親炙する日の短かかつた身の不幸は、これに依つて半ば救はれた心地である。/自分にこの喜びを許された御遺族の御親切に厚く御礼申上げる。」(同書、二二二ページ)と結んでいる。鴎外―杢太郎―嘉津と連なる系譜として、村松とその著書を本稿に登場させることに不都合はないはずだ。
なお、《プロヷンス隨筆》は初刊以降、《新版 プロヴァンス隨筆》(大東出版社、1970年3月15日)、《新装版 プロヴァンス隨筆》(同、2004年6月30日)と版を変え装丁を変えて刊行されているが、戦後間もない資材の乏しい時期に出た初刊が最も味わい深い一冊だとするのは、私の贔屓目だろうか。こういう本こそ、講談社の学術文庫にでも入って、永く広く読みつがれたらいいのに。解説には、四方田犬彦の書きおろしを、ジャケットには初刊の木下杢太郎の表紙絵を使って、付録には(半世紀前の資料として)再刊の契機ともなった井上究一郎と吉岡実の〈名著発掘〉の文章の再録を、ぜひ。

《新版 プロヴァンス隨筆》の34年後に刊行された《新装版 プロヴァンス隨筆》だが、〔新装版〕は〔新版〕の装いを新たにしただけの版ではない、というのが出版社の触れ込みだ。すなわち、本文最終ページの対向ページに追記された〈諞〔ママ〕集後記〉(同書、〔二六七ページ〕)に

本書は、昭和四十五年三月に弊社より刊行したものです。このたび新装版を刊行するにあたり、本文中の誤植を訂正し、また初版見返の著者によるスケッチ画「ガラバン背負へるオーバーニュの町」、「ガラバン遠景」は割愛しました。
なお、本書の現在の著作権者の連絡先が不明なため、事前に著作権者に報告ができませんでした。著作権者の方、またはお心当りのある方は弊社まで御一報ください。

とある。だが私の見たかぎり、誤植は訂正されていない。ゆえに、〔新装版〕が善本だと推奨することはできない。一例を挙げよう。冒頭の〈序〉の中ほどに出てくる「歴史的仮名遺ひ」(漢字は新字に改めた)は「歴史的仮名遣ひ」に訂されていない。「諞集後記」(「諞」はゴチかつ旧字!)も痛いが、こちらは痛いどころの話ではない。いっそのこと、〔新装版〕は〔新版〕の外装を変えただけで――実際に機械函をジャケット装に改め、著者が装丁した表紙・見返し・本扉の装いを新たにしている――、著者が故人であることに鑑みて、本文は〔新版〕の活版印刷による版面をそのまま平版印刷で再現[リプリント]した、とでもしたほうがよかったのではないか。以上は本書を愛するがゆえの苦言だが、文句ばかり言っていてもしかたがない。〔新版〕の帯文(原文は横組み)は、昔ふうだが味読に値するので、引用して顕彰しよう。ここでも、漢字は新字に改めた。

【表1側】
料理を以つて人間最高の芸術の一としたブリア=サヴァランの格言を著者は引いて言く、
「禽獣は腹を満たす。人間は食う。ひとりエスプリある人のみが味覚を知る」
「新しい料理の発見は星座の発見よりも人類の幸福に資する所が大きい」
エスプリある著者の味覚哲学は美味求真の徒に多大の共感を与え世界の食通も知らぬプロヴァンス料理に魅惑される事であろう。

【表4側】
陽光さんらんたる南仏プロヴァンス地方は灰色の北方巴里とは自ら異る独特の文化を形成している。
滞仏廿年、プロヴァンス文学に精通せる著者が、戦前・戦後の変貌しゆくプロヴァンスの種々相を語り、文学を紹介し、味覚を説くこの随筆は読んでまことに愉しい。しかも古今東西に互る学識と純正な格調の高い文章は、読書子を魅了し充感を与えずにはおかない。

村松嘉津《新版 プロヴァンス隨筆》(大東出版社、1970年3月15日)の函 村松嘉津《新装版 プロヴァンス隨筆》(大東出版社、2004年6月30日)のジャケット
村松嘉津《新版 プロヴァンス隨筆》(大東出版社、1970年3月15日)の函(左)と同《新装版 プロヴァンス隨筆》(同、2004年6月30日)のジャケット(右) 〔新装版〕では、印刷所が〔新版〕の明善印刷から亜細亜印刷に、印刷が同じく活版から平版に変わっている。なお、函とジャケットに見える紋章はプロヴァンス伯家のそれである。


吉岡実と浅草(1)――喫茶店アンヂェラス(2019年8月31日〔2020年10月31日追記〕)

林哲夫さんのブログ《daily-sumus2》は日日愛読しているが、「浅草の喫茶店アンヂェラスが三月十七日をもって閉店するというニュースがあちこちに出ていて驚く。ホームページで発表したとのことで、確かめてみると、なるほどそう掲示されている」と始まる〈アンヂェラス 閉店のお知らせ〉(2019年2月19日掲載)は私を驚かせた。吉岡実の日記に登場するこの喫茶店を訪ねることは、私にとって宿願だったからである。浅草に行くのは、母がまだ外出できた25年ほど前、二人で浅草寺に初詣に行って以来だと思う(母は1996年に68歳で亡くなった)。浅草というと、そのことを想い出して足が向きにくい場所だったが、アンヂェラスが店じまいするとなれば行かねばなるまい。かくて、亡母の祥月命日の3月8日――林さんが《ARE》第6号(1996年)の特集〔洲之内徹という男〕のためにアンヂェラスの外観を撮影したのが、奇しくもこの年の3月8日だったという――、カメラを担いでアンヂェラス探訪とはなった。まず最初に、吉岡実の〈断片・日記抄〉を見ておこう。

〔昭和二十四年〕五月一日 博道@と四ツ木Aの才一Bの家へ行く。彼の父はがんこな人だった。臨終の床で、才一に枕もとにいないで仕事をしてろと云ったという。何か心うたれる。彼は新しい恋人が出来、悩んでいる。三人で浅草へ出る。軍隊時代を思い出す。新京へ外出の時、よく三人で遊んだり、満人料理を食ったり。たまには甘いもの屋の三吉野で食い逃げしたものだ。アンジ〔ママ〕ェラスでコーヒー。(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一一四ページ)

註を加える。@の博道は山中博道。「〔昭和十四年〕十一月十三日 午後、本所区役所へ兵役の件で行く。山中博道の家に寄った。二時から第一補充兵証書の授与式がはじまる。三時に了った。帰りはまあ坊、福太郎と一緒になり、石原町の「南や」に入って、コーヒーとパンを食べた。近くまあ坊はさぶちゃんと伊豆へ遊びに行くと言う。甲種合格のさぶちゃんは来月一日に入営するそうだ」(《うまやはし日記》、書肆山田、1990、八八〜八九ページ)。Aの四つ木[よつぎ]は東京・葛飾の地名。四ツ木駅は京成電鉄押上線の駅(葛飾区四つ木一丁目1番1号)。Bの才一は平井才一。令息の平井英一さんによれば、「大正8年6月、東京は本所の生まれです。父と吉岡さんとのお付き合いがどのように始まったのか、私は聞いていませんが、生まれた年と場所が近かったので、軍隊で意気が投合したのでしょうか。吉岡さんが亡くなるまで、父とは親友としてお付き合い頂いたようです。父は書き物を残していないので、今となっては何も調べようがありません」。「私の祖父〔吉岡文に見える才一の父〕は昭和24年4月17日に亡くなりました。当時、父は四ツ木でセルロイドの仕事をしていました。日記はその時、博道さんと一緒に父を慰めに来られた時のことが書かれているのでしょう。博道さんは、山中博道さんの事です。父の戦友の一人だと思いますが、昭和14年11月13日の「うまやばし日記」に山中博道さんと記されているので、吉岡さんとは古くからの友人だったかも知れません。私の父と山中さんは、吉岡さんが亡くなられるまで親しくお付き合いしていました。浅草が好きだったようで、よく三人集まってアンヂェラスへ行ったり、食事をしたりして楽しんでいました。吉岡さんが亡くなった後、残された父と山中さんがだいぶ気落ちしていたのを思い出します。その山中さんも亡くなられました」(〈父の戦友、吉岡実〉による)。

私はアンヂェラスの見納めという名目で、四半世紀ぶりに浅草を訪れた(2004年に厩橋を歩いたときも、浅草には足を向けなかった)。そして「聖域としての浅草」という感慨を持った。帰宅してさっそくその出典を調べると、高橋睦郎〈吉岡実葬送私記〉の末尾にまぎれもなくそれは載っていた。もっとも「聖域」は浅草ではなく、吾妻橋を渡った吉岡の生地である本所だったが。

 陽子夫人によると、吉岡さんは三十年の結婚生活中、浅草まで来ても陽子夫人を伴って橋のこっちに来たことは一度もない、という。それほど大切にした幼年時代の聖域への思いは遺著『うまやはし日記』に凝縮している。誰か『うまやはし日記』を映画にしてみようという、意欲ある監督はいないか。「童年往事」「悲情城市」の台湾の侯孝賢監督では駄目かしらん、などと思い思いしている。(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991、二五六ページ)

喫茶店アンヂェラス・全景 喫茶店アンヂェラス・入口 喫茶店アンヂェラス・看板 喫茶店アンヂェラス・一階 喫茶店アンヂェラス・飲物 喫茶店アンヂェラス・伝票
(左から)喫茶店アンヂェラス・全景 同・入口 同・看板 同・一階 同・飲物 同・伝票

私がアンヂェラスを訪ねたのは、2019年3月8日(金曜日)の15時ころ。店前の歩道には席が空くのを待つ人が数人並んでいる。ドアの貼り紙に「フルーツポンチ 梅ダッチコーヒー 梅アイスティ 終了しました」とある(行ったときはケーキ類も品切れだったので、定番の洋菓子・アンヂェラスにはありつけなかったが、焼菓子の「元祖ブッシェ」を土産に買うことができた)。その左の貼り紙は閉店のお知らせ。店の前の小路を人力車が行き交う。テーブルには、1981年2月3日に来店した漫画家・手塚治虫のサイン入り色紙(コピー)。この日、頼んだのは、手前のダッチコーヒー(620円)――泉麻人〈銀座にもザラにない味とスタイル――純喫茶 アンヂェラス [東京・浅草]〉に「暑い日だったのでアイスコーヒーをオーダーすると、ココはきちんと蝶ネクタイを締めた老ウェーターが、氷の入ったグラスにその場で珈琲を注いでくれる。苦味がシャキッと効いた、実に旨いアイスコーヒーだ。そして、茶受けに頼んだのは定番の洋菓子・アンヂェラス。バタークリームの風味漂う小型のロールケーキで、これを味わうたびに、ふと子供の頃のクリスマスの光景が思い浮かんでくる。〔……〕僕が注文したアイスコーヒーもサントスを水出しした製法のもので、これは俗にダッチコーヒーと呼ばれている(メニューには「梅ダッチコーヒー」という、この店独特のものもある)」(《東京ふつうの喫茶店》、平凡社、2010年5月17日、一二九〜一三〇ページ)とある――と奥のミルクティ(550円)、そしてチョコレートパフェ(770円)。コーヒー好きの吉岡実は、ここで梅ダッチコーヒーかダッチコーヒーでも飲んだのではないか。さらば、浅草・アンヂェラス! 73年間、ご苦労さまでした。そして、ごちそうさま。

林哲夫さんが前掲ブログで引用している洲之内徹の〈絵を洗う〉は、洲之内徹・関川夏央・丹尾安典・大倉宏ほか《洲之内徹 絵のある一生〔とんぼの本〕》(新潮社、2007年10月28日)の〈懐かしの「気まぐれ美術館」名作選〉にも登場する名篇。アンヂェラスの協力を得て新潮社(《芸術新潮》編集部?)が撮りおろしたに違いない写真は、同店の内部を写した最も精細な一枚となった(同書、〔九三ページ〕)。キャプションには「浅草オレンジ通りの喫茶店「アンヂェラス」――浅草びいきの洲之内徹がしばしば訪れた店内には、森芳雄、鳥海青児らの作品が。壁面の2点は森芳雄の作品。左が〈テラスの女〉 1953 油彩、カンヴァス 44.8×37.2cm」(同前)とある。

〔2020年10月31日追記〕
森まゆみ《東京ひがし案内〔ちくま文庫〕》(筑摩書房、2010年4月10日)の〈浅草 昔ながらのうまいもの店〉にアンヂェラスが出てくる。「オレンジ通りの「アンヂェラス」へ行く。伝法院通りなどすっかりテーマパークになってしまったのに、ここばかりは全然変わっていない。昭和三十年代の日本人は小さかったのだなと思う小ぶりの木のテーブルと椅子。三階へ上がりクリームソーダを頼むと、白いシャツに蝶ネクタイのベテランウェイターがとことこ上がってくる。「三階でごめんどうね」というと「四階といわれちゃ困りますがね」とすかさず。「あら、ここ四階もあるの」と驚くと、「ありませんよ」とニヤッとする。その即座のまぜっかえし方が浅草なのだ。屋根裏部屋みたいな低い窓、そのシェードの間から下をのぞくと、人力車がつぎつぎ客を乗せてやってくる。「ここから写真をポラロイドで撮って、終点で売るのを商売にしたら」と同行の娘が思いつく。」(同書、一四八ページ)。ちなみに閉店間際のアンヂェラスへは、私も高校卒業を控えた子供を連れて行ったが、パフェと紅茶をいただくばかりで、《東京ひがし案内》で地図を書いた著者の娘・川原理子さんのような洒落た思いつきは聞くことができなかった。


東博歌集《蟠花》のこと(2019年7月31日〔2021年5月31日追記〕)

永いこと吉岡実関連の資料を探索していると、未刊詩篇や単行本未収録の文章を新たに発見するのがそう簡単なことではない、と悟る(歿後30年ともなると、むしろ書簡類に動きが見られる)。それでも、日頃の情報収集は欠かせない。オークションに出品されるとメールが届くようになっているが、古書店の出品は冊子体やインターネット上のデータをブラウジングする必要がある。先日、検索ワード:「吉岡実」で《日本の古本屋》を調べたところ、奈良・生駒のキトラ文庫が、著者:「前川佐美雄・田中克己・斎藤正二・吉岡実他」で、《日本歌人》(第11巻1〜3・6・9月号)を出品していた。私の知るかぎり、吉岡が前川佐美雄の主宰する《日本歌人》に書いたことはないはずだ。これは新発見の資料である可能性が高い。雑誌は「昭35、5冊/少ヤケ *並」で、価格は\1,750。すぐに注文しても好かったのだが(のちに注文した)、一刻も早く見たいと逸り、5月下旬、永田町の国立国会図書館・新館でバックナンバー(原本ではなく、35ミリのマイクロフィルム)を閲覧した。デジタルのビュワーを使って見るのは初めてだったので、操作に手間どる。案内係に教わりながら、1960(昭和35)年9月号に載っていた吉岡実の文章のコピーをとった。同号は、表紙も含めて全68ページ。その4割以上の28ページを「蟠花批評集」(目次の記載)に当てている。一方、本文ページでのそのタイトルは〈歌集「蟠花」評〉。目次の記載は当初、すなわち企画段階のタイトルで、依頼した原稿が実際に集まった時点で新たに付け(なおし)たタイトルが、〈歌集「蟠花」評〉だったのではないか。今回の吉岡の文章は、そのなかの一篇である。計15本の評の執筆者名と標題を挙げよう。亀井勝一郎〈蟠花断想〉、保田与重郎〈蟠花読後感〉、斎藤磯雄〈忍辱の歌――東博歌集『蟠花』〉、結城信一〈孤独の心象風景――東博歌集「蟠花」〉、石川信夫〈朗々たるペシミズム〉、堀内民一〈歌集「蟠花」のこと〉、中塩清臣〈〈蟠花〉頌〉、山上伊豆母〈東博歌集蟠花≠ノ寄す〉、大伴道子〈詩人の慟哭〉、山中智恵子〈歌集「蟠花」に〉、吉岡実〈東さんの歌集「蟠花」のこと〉、石塚友二〈歌集「蟠花」〉〔(俳句誌「鶴」五月号より転載)〕、久保田正文〈ひとりの宴〉〔(「図書新聞」より転載)〕、田中克己〈悲しいかな蟠花〉、斉藤正二〈純乎とした現実享受の態度〉。そして、無署名の紹介記事〈歌集「蟠花」〉〔(「南日本新聞」より転載)〕である。なにはともあれ、吉岡実の未刊行散文を読んでみよう。

《日本歌人》1960年9月号の表紙〔画は棟方志功〕  《日本歌人》(1960年9月号)掲載の東博歌集《蟠花》出版広告
《日本歌人》1960年9月号の表紙〔画は棟方志功〕(左)と同号掲載の東博歌集《蟠花》出版広告(右)

東さんの歌集「蟠花」のこと|吉岡実

 今から五年前、ぼくの詩集「静物」について、東さんが心のこもつた感想を書いてくれた。こんどは、ぼくが「蟠花」の感想を書くことになつた。批評がましいことはとてもできないので、思いつくままをのべよう。東さんの二十年の精神の歴史でもあるこの処女歌集「蟠花」は哀傷詩集というのがふさわしい。型は短歌であるが、一首一首をぬきだしてみるよりも全巻四六五首を均斉のとれた美しい一大挽歌として読むべきではないだろうか。
彩[あや]なして流るるものにそびら向けわが若年の日は傾[かたぶ]くよ

愛憎の果ての心の断つべくも踏みしだかれし紫雲英[げんげ]のみだれ

ふるさとに火を噴く山をおきて来つ火を噴くゆゑにかなしその山

追ひつめてわが生きの世を歎かへば心に触るる花ひとつなし
 ちよつとぬきだしでみても、アララギ派の実相観入的な歌風から遠い。別のことばで云えばたいへん観念的な歌に思える。しかし妙に空々しくないのは心の影が純粋に流れているからだろう。ぼくも少年時に幾つか歌をつくつたが、単純な叙景歌しかよめなかつた。それで幻想的な世界を求めて詩へ移つたのだが、東さんはむしろ幻想を求めず、日常の世俗な身辺のリアリティを心理的に捉えて、みみつちくなく、格調たかい、結晶した歌をつくり上げている。
 ぼくたちの知つている、すべてにきびしい東さんの心の奥に、煩悩の人、哀傷の詩人の一面が窺われてうれしい。
 好きな歌を少し抄してみる。
女との逢ひを早々に切り上げてジューヴェ見に来しむかし浅草

みちのくのいはでしのぶの忍ぶ恋石に刻めりみちのくびとは

夏に向く照り盛んなる青若葉生きの喚[おら]びの時過ぎにけり

もろもろの女人のいのち眼交[まなかひ]に燃えていますがに濃きくれなゐや(百済観音)

きのふけふ冬もすゑなる物思ひ悔しきことをまた一つせし

老杉[らうさん]の上透[す]く冬日乏しけれあまつさへわれの額[ぬか]に届かず
 巻末に戦争歌集を収めた東さんの自信、良識におどろく。どの歌を見ても胸をうたれる。東さんが自己の精神を偽らず、体験を大切にする天性の詩人であることを証している。(同誌、五八ページ)

冒頭の「今から五年前、ぼくの詩集「静物」について、東さんが心のこもった感想を書いてくれた」のが、どこに発表された何という文章なのかわからない。吉岡が前川佐美雄に初めて本格的に言及したのは〈孤独の歌――私の愛誦する四人の歌人〉(《短歌の本〔第一巻〕短歌の鑑賞》、筑摩書房、1979年10月20日)だから、本稿の筆を執ったのは、同誌の編輯人でもあった佐美雄の線よりも、よりいっそう東博歌集《蟠花》の版元・書肆ユリイカ社主の伊達得夫の線だったのではあるまいか。さらに想像をたくましくすれば、著者から吉岡に歌集が贈られ、吉岡がそれに礼を言い、著者から「蟠花批評集」に執筆の依頼があった、という流れかもしれない。

東博歌集《蟠花〔日本歌人叢書〕》(書肆ユリイカ、1959年12月20日)の函と表紙 
東博歌集《蟠花〔日本歌人叢書〕》(書肆ユリイカ、1959年12月20日)の函と表紙(左)と同・中扉〔挿画:駒井哲郎〕(右) なお本書の前見返しには、ペン書きで「外村繁樣/哂存/東博」と献呈・識語・署名がある。

東博歌集《蟠花〔日本歌人叢書〕》(書肆ユリイカ、1959年12月20日)の仕様は、一八〇×一二八ミリメートル・二一二ページ・上製角背継表紙(背は赤、平は群青のクロス)・機械函。別丁本扉。装丁者のクレジットはない。〈目次〉裏に「自昭和十五年/至昭和三十二年/四六五首」とある。〈跋――歌集「蟠花」のこと〉は安東次男、〈挿画〉6点(本扉を含む)は駒井哲郎。あの詩画集《からんどりえ》(書肆ユリイカ、1960)のコンビである。吉岡は〈〔自筆〕年譜〉の「昭和三十五年 一九六〇年 四十一歳」の項に「秋、安東次男・駒井哲郎の詩画集『CALENDRIER』を買う。」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984、二三二ページ)と書いており、書肆ユリイカの出版活動には支援を惜しまなかった。その書肆ユリイカの本について知りたいなら、田中栞《書肆ユリイカの本》(青土社、2009年9月15日)につくのがいちばんである。

 〔継ぎ表紙の〕背が黒でひらが赤という作品もある。東博『蟠花』(昭和三四年、図62〔三二頁〕)、そしてミショオ『プリュームという男』(昭和三四年、二三頁)。(〈繊細な詩集群の誕生〉、同書、二九ページ)
〔吉岡実の装丁になる《プリュームという男》は、たしかに「背が黒でひらが赤という作品」だが、なんとしたことだろう、《蟠花》は上掲写真のごとく「背が赤[、]でひらは群青[、、]」ではないか。同書に掲げられた2点の書影は本文中(しかも離れたページ)のモノクロ図版だったため、こうした取りちがいが生じたのだろうか。〕
                  …………………………
 平成一六年一一月、アトリエ箱庭(大阪)で「書肆ユリイカの本」展を開催したが、その展示本のリストを作成する段になって、私は神保町の老舗古書店、田村書店を訪れていた。ガラスケースの中の吉岡実『僧侶』(昭和三三年)を見せてもらうと、東博宛の献呈署名入本が九六〇〇〇円である。署名なしの別本も見せてくれたが、どうせなら署名入本が欲しい。東博の名はユリイカの歌集『蟠花』(昭和三四年)の著者として記憶していたのでそう言うと、ご主人の奥平晃一さんが「筑摩書房で吉岡と同僚だった人ですよ」と教えてくれる。クレジットカードで支払うつもりでいたところ、手数料を取られるので現金支払いのほうか得になるという。さすがにこの金額を持ち歩くほど不用心ではない。御茶ノ水駅そばの銀行まで行って引き出してから再度来店したところ、付け値から二〇〇〇円値引きしてくれた。この本で、ユリイカ本の一冊当たり購入額の最高値を更新してしまった。
 ちなみに東博の『蟠花』は、平成一五年二月二一日に社会教育会館で催された和洋会で購入している。駒井哲郎の挿画が入り、元グラシンつきの献呈署名入本だが、古書価は二〇〇円であった。出品店は波多野巌松堂書店(神保町)である。(〈コレクション展をきっかけに〉、同書、二一三〜二一四ページ)

なるほど、《筑摩書房の三十年》(筑摩書房、1970年12月25日)巻末の〈社員一覧表(四十五〔1970〕年六月十八日現在)〉には「日本文学編集室長 東 博」(同書、二二三ページ)とある。ついでながら、《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)からは省かれた吉岡の随想〈会田綱雄『鹹湖』出版記念会記〉で

この会をやるについて、会田さんに相談したとき、云ったものだ「会なんてどうでもいいんだ、酒がのみてえんだ」会田さんの希望で、各自が好きな詩を読むことになった。だれもが詩の朗読なんかはじめてだったと思う。しかしその人が選んだ詩とその読みかたが、稚拙なうちにも不思議と一種の味があった。ことに印象的なのは、岡山〔猛〕さんの「鴨」の朗読だ。まさに岡山さんには鴨の風格があるから。一応ここに記録をのこそう。山田〔丈児〕「上海のための習作二つ」。東〔博〕「一路平安」。吉田澄「鹹湖」。和田〔陽子〕「伝説」。原田〔奈翁雄〕「ん」。高橋〔和夫〕「鴎」。野原〔一夫〕「醜聞」。吉岡〔実〕「アンリの扉」等であった。(《「死児」という絵》、思潮社、1980、二五七〜二五八ページ)

と〈一路平安〉を朗読した「東」さんが、東博その人だろう。同文の初出は筑摩書房の労組機関紙《わたしたちのしんぶん》(1957年5月17日)だったから、社内の人間には姓だけで通じたのだろうが、私は〈社員一覧表〉で名前を補いながら、上掲のように読んだ。いま思いついたのだが、東博が《静物》について書いた文章は《わたしたちのしんぶん》に載ったのではないか。なによりも、吉岡が〈会田綱雄『鹹湖』出版記念会記〉に「〔一九五七年〕三月二十八日の夜、会田さんの詩集の出版会を催した。それは二年前に、僕の『静物』のささやかな出版記念会をやった、北沢の同じ部屋だ。」(《「死児」という絵》、二五七ページ)と書いているのが、こうした憶測を許す。筑摩書房の(文学好きの)社員が集った吉岡実詩集《静物》(私家版、1955)の出版記念会に東博が出席した可能性は、きわめて高い(このときの出席者の記録がないのは残念だ)。(*)
ところで、東博は寡作の歌人で、家集は後出《水蓼残花集》を含むわずか2冊、共著での歌集も《高踏集――日本歌人新選十二人集〔日本歌人叢書〕》(國際文化協會出版部、1950年12月20日)収録の〈孤宴〉(**)、合同歌集《風媒花〔八人選集〕》(暁書房、1951年10月3日)収録の47首を数えるのみだ(***)。その略歴は各種の文学事典にも記載されていないので、《蟠花》巻末の安東次男の〈跋〉に見える記述を借りよう(《風媒花》巻末には〈作者略歴〉があるから、続けて掲げる)。

 おわりに、この日本的羞恥の表現の最後の残照をぼく同様に愛されるであろう少数の読者のためにつけ加えておけば、作者は大正七年十二月生れである。筆者より七カ月の年長である。短歌に興味を覚えたのは中学の二年頃より、啄木が機縁であつた。ついで白秋、勇、牧水、利玄、茂吉等を遍歴するが、これらの歌人からとくに一人を取り出して決定的影響を受けたということはないように見受けられる。あえていえば、作者が昭和十六、七年頃より師事した前川佐美雄の影響が見られる(作者はこれよりさき、歌集『くれなゐ』を読んで傾倒、この頃前川主宰の『日本歌人』に参加、併せて同時期の坪野哲久の『百花』、筏井嘉一の『荒栲』に感銘したと語つている)。ということはこの作者の『アララギ』的短歌への反撥の一つのしるしであつて、彼の作品からおのずと色濃く窺われる末期万葉―新古今的措辞はそういうことに関係していよう。当然この作者は当時の保田与重郎の諸作にも深く傾倒した。この辺りに昭和十年代の文学青年の、一つの典型が鮮やかに浮彫りされてくるのである。昭和三十一年には第一回『日本歌人賞』を受けている。旧著に合同歌集『高踏集』(昭和二十五年)、同じく『風媒花』(昭和二十六年)がある。(《蟠花》、二〇七〜二〇八ページ)
                  …………………………
東博――大正七年一二月一日、鹿児島に生る。東京商科大学卒。現住所、東京都杉並区高円寺〔……〕、花菱荘。「日本歌人」同人。(《風媒花》、九九ページ)

安東次男が書くように、昭和31(1956)年には第1回日本歌人賞を、山中智恵子とともに受賞している。東博は受賞者が発表された1月号に〈心いまもアルカディアに〉(35首)とともに〈作者の言葉〉を寄せている。その一節には「歌は見知らぬ人への便りだ。見も知らぬ人へ綿々と書き綴る便りだ。その中のただの一首でも、一人の人間の心に喰入つたら、短歌作者たる者以て瞑すべきであろう。」(同誌、二五ページ)と見える。やや多いが、吉岡に倣って東博歌集《蟠花》から私の好きな歌を抄してみる。なお、漢字は新字に改めた。

〈春の章〉
「花」
咲きつぎていくか保たぬ花なればゆふかたまけてまたも見むとす
「明日」
若年の日を傾けて歌ひしも冬に色濃き花にし如[し]かず
「海山のおもひ」
春浅き朝明[あさけ]のねむりにおぼろめき顕[た]つは誰[た]が子ぞ面影びとよ
遠方[をちかた]の空の茜[あけね]に湧くごとき海山のおもひ人に告げばや
「石くれの如き」
朝々を髪の抜毛[ぬけげ]の散りぼひて一日[ひとひ]の幸もはかりがたなし
「春の吹雪」
吹き乱る外[と]の面[も]の雪にこの日頃飢ゑまさりゆく心を任す
夜に入りて外[と]の面[も]は春の雪しまき心にともすひとつ灯[ひ]のいろ
「近代恋慕調[いまやうなげきぶし]――Fraulein Mignon gewidmet」
わが為[な]せしわが為さざりしもろもろの悔[くや]しく痛き春秋の歌
「境涯の歌」
木洩日[こもれび]を掻きあつめつつ境涯の歌なすや茫々三十三年の夢
「風のあと」
たわたわと心[しん]の破れに膝つける姿祈りに似たりと言ふか
みちのくのいはでしのぶの忍ぶ恋石に刻めりみちのくびとは

〈夏の章〉
「堕され人」
君ゆゑの堕[おと]され人[びと]となりてよりわが世の果のあやめむらさき
「太宰治に捧ぐる挽歌」
きみが死[しに]の跡処[あとどころ]いづこと覓[と]めゆきて渦なす水に視入るしばしば
「遠潮騒」
わが胸の遠潮騒[とほしほざゐ]を聴く如く思ひゆるがす曲はあゝリムスキー・コルサコフ
「ルイ・ジューヴェ」
ギャバンよしジャン・ルイ・バロウそれもよしジューヴェに如[し]かず心通ふもの
「永日」
雅歌一篇記憶にとどめそのままに覚むるなき眠り欲[ほ]りする幾夜
「旅立ち」
人ひとり去らしめしばかりの悲しみかなべての別離[わかれ]をわれはして来し
「ジンタの街」
のびちぢみ裄丈[ゆきたけ]あはぬ心をばもてあつかひかねし一日[ひとひ]のおろか
「昏き七月」
うちらより胸突き上げて一せいになだれゆく先の夏深みどり
「回想の旅」
 伊豆
伊豆の西戸田[へだ]の港をいでてより旅寝重ねし幾夜のなげき
 奈良
もろもろの女人のいのち眼交[まなかひ]に燃えていますがに濃きくれなゐや(百済観音)

〈秋の章〉
「喪失」
想はねどまたかへりくるおもかげのわが目に沁みて遠白き日や
「燈下吟」
ものみなの孤独[こどく]にひそむ真夜[まよ]を起きて何業[なにわざ]か励むひとりのしぐさ
「武蔵狭山丘陵」
ひと色の黄に朽ちはてし病葉[わくらば]に陽もとどかねばうらじめりする
「こぞの雪」
陽の下に何新しきものありや君と僕とのあゝ過ちも
「薬師寺」
水煙の笛吹童女羨[とも]しきろかく吹きならすその節や何
「微塵」
空し手を垂れてけふ見る夕茜むごき季節の日ゆき月ゆき
「街の谷」
夜をこめてかなしみどもを引きずりて人と行く道ふた岐[わか]れなす

〈冬の章〉
「白い夢」
わが夢に入りくる花の寒々とある夜に見たる崑崙[こんろん]の谷
「跼蹐」
秋水の湧きくるごとくはかなごともとなかかりて真夜[まよ]いねがたき
「修羅」
身のまはりひと色の風吹き流れ音[ね]に立つものは知らぬ人声
「師よ茂吉よ――哭斎藤茂吉二十首」
年久[としひさ]のかの係恋に似たりしよ一目欲[ほ]りせり会ひたかりけり
「心いまもアルカディアに」
細く鋭く祈れるごとく天を指す裸木[はだかぎ]の枝が視野の限りに
「背信」
挽歌四方[よも]に満ちて樹液下るかかる夜に愛は死にしならずや

〔追記〕
東博には《蟠花》の20年後に刊行された第二歌集がある(最後の家集か)。《水蓼残花集[すゐれうざんくわしふ]》(卯辰山文庫、1979年3月20日)がそれだ。卯辰山文庫は、安東次男や森澄夫の句集で知られる版元だが、歌集は東博のそれを含めて数点しかないようだ。同書の仕様は、一九〇×一三〇ミリメートル・二〇六ページ・上製角背布表紙・貼函(表1に活字による書名の貼題簽)。別丁本扉(書名の「題簽」=筆書きは会田綱雄)。装丁者のクレジットなし。本文直前の半扉に「自昭和三十四年/至昭和五十三年/三百一首」とある。一ページに二首組(字詰めは21字)。今回も、安東次男が東博の歌に寄せる〈風狂ノ残〉を巻末に書いている。状況から考えれば、《水蓼残花集》は吉岡が読んでいておかしくないが、同書への言及は見あたらない。《蟠花》と同様、好きな歌を掲げよう。なお、安東が賞讃する〈俗謡――藤田啾漣を言問ふ〉には感嘆するが、私がここで挙げる必要はないだろう。また、昭和五十二年「次男、七歳、骨を病む。ペルテス氏病。」の詞書を持つ〈冬木は直〉は、悲痛に過ぎて、引くに忍びない。

水蓼残花集》(卯辰山文庫、1979年3月20日)の函と表紙" 《水蓼残花集》(卯辰山文庫、1979年3月20日)の本体と函の背" 東博歌集《水蓼残花集》(卯辰山文庫、1979年3月20日)の本扉〔「題簽」:会田綱雄〕
東博歌集《水蓼残花集》(卯辰山文庫、1979年3月20日)の函と表紙(左)と同・本体と函の背(中)と同・本扉〔「題簽」:会田綱雄〕(右) 国立国会図書館所蔵の同書は東博からの寄贈本で、「54.4.28」の受入印が捺されている。

昭和三十四年
〈海鳴り〉
美しかれ[ソワ・ベル]悲しかれ[ソワ・トリスト]たまさかは憚るほどの恋語りせよ

昭和三十六年
〈乏しき冬〉
霜解の練馬朝道どろはねて泥[なづ]みては人ならぬものも憎めり

昭和四十六年
〈点滴〉
庭隅に一つ見出でし終[しま]ひ薔薇[ばら]いのち傾[かたぶ]くまでに秋闌けにけり
〈大和行〉
貪りて生き来しならねしかすがに秋の飛鳥の陽に眩みをり

昭和四十七年
〈雪の夜語り〉
妻も子も昼寝[ひるい]せる雪のしげき日をニコラ・プーサンの画集はかたへ
〈「戦後」〉
二月[きさらぎ]に雪見ぬことのさびしさよもの狂はする春の雪来よ

昭和四十八年
〈少年遣欧使〉
稚くて花たちばなの香にむせしうるし闇夜の少年の恋
少年渡海の天正の代は想へどもアドリアの海も見ずして吾は晩年
〈一九七三・夏・高野〉
命の全[また]けむ人は聴くことあらむ夜をこめて慈悲心鳥はわれに来鳴かず
 戯寄前登志夫
うすく乏しき髪ふり乱し粗玉[あらたま]の登志夫は高野の夜に雄叫[をたけ]ぶ

昭和四十九年
〈身後〉
おもかげもその名をさへや消えなむか逢はですぐせし時のながきに

昭和五十年
〈哀悼村上一郎〉
過ぐる甲寅の歳よりことし乙卯の春にかけて、身辺訃報相継ぐ。弥生も末の九日、春いまだ定まらざるに、村上一郎俄かに事を決し、一閃し去る。壮心なほ中有にとどまるが如きを、春日なんぞ煦々たる。/学窓を同じくせしは三十有余年の昔。君はいま烟霞のかなた、白玉楼中の人となる。竊かにおもふ、断ちがたきは、係恋にあらず、恩愛にあらず、心のうちなる修羅のみ。即ち
身に飼ひし修羅放ちやりたくぶすま白き柩にいまはやすらふ
〈事に触れて〉
ナントに雨が降ると唄ふバルバラ夜をこめて卯の花腐[くた]しわれもそぼちつ

昭和五十一年
〈秋風裡〉
確乎たるは死者のみにしてわが在り処[ど]日は日を追ひて身のおぼろなる

東博、前登志夫、塚本邦雄――《水蓼残花集》の昭和四十八年〈唱和抄(二)〉には、塚本の「聖母哀傷[スタバト・マーテル]の底にふと黙[もだ]せりわれの首枷のふち鋭き襟布[カラー]」に唱和した一首がある――といった《日本歌人》の俊秀たち(****)は、吉岡実にも親しい、ほぼ同世代の歌人たちだった。吉岡は彼らの師・前川佐美雄について「佐美雄の短歌にはいくらでも、近代人の憂愁――いってみれば、孤独な魂の呻吟を見出すことが出来る。しいて先蹤的作品を求めれば、萩原朔太郎の《月に吠える》の詩篇ということになろうか。」(〈孤独の歌――私の愛誦する四人の歌人〉の「3 前川佐美雄」、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一五六ページ)と書いている。まさに、吉岡を(そこから先は詩に転ずるしかない)短歌の極みまで導いたのが佐美雄であり、彼の弟子たちはそれでもなお短歌に踏みとどまって、おのおのが孤独で、しかも豊かな戦いを戦ったのだった。

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(*) 《日本歌人》1960年2月号の〈彙報〉欄に「蟠花出版記念会」と題する次の告知が載っている。

 東博歌集「蟠花」の出版記念会は次の通り開催する。著者を囲んでその労をねぎらひその功を祝つて今後の発展を祈りたい。東京の会員は繰り合はせ出席されるやう希望する。
 一、日時 三月二十七日(日)午後一時
 一、会場 豊島園ホテル(地下鉄又は西武電車にて豊島園下車、豊島園入口より入る)
 一、会費 三百円
 一、出欠 前々日までに東京日本歌人発行所まで御連絡のこと。
 当日は前川主宰上京出席の予定。(同誌、四八ページ)

さらに同号〈編輯後記〉には、前川佐美雄が「▽別掲彙報の通り三月、四月は行事が多い。いづれの会にも賑やかに出席して欲しいと思ふ。私は三月下旬に上京する。しばらくぶりで東京の会員諸氏におめにかかれるとたのしみにしてゐる。」と、またこの号の編輯実務を担当したと思しい宮崎智恵が「▽別頂[ママ]のとほり三月二十六[ママ]日(第四日曜)を東博氏の歌集「蟠花」出版記念会にします。久々に先生御上京のことではあり、全員参加して著者を祝福したいものです。なほ会場へは新橋、目白、新宿駅西口、高円寺よりそれぞれバスが出てをります。」と書いている(同誌、五一ページ)。伊達得夫はこの出版記念会に出ただろうが(肝硬変で急逝するのは、翌1961年の1月)、吉岡実が出席したかどうかはわからない。

(**) 冒頭に「戦後の溷濁は僕の五体の隅々にも滲みこんで離れない。日々脅かされる生活の不安もさることながら、精神的荒廃に疲労困憊してゐるのだ。〔……〕大学の制服で前川さんの門を叩いてから十年。早いものだ。そしてまた僕の歩みの何とのろいことだ。」(漢字は新字に改めた)という約450字の散文を掲げた東博の〈孤宴〉は、〈春の章〉(18首)、〈夏の章〉(23首)、〈秋の章〉(14首)、〈冬の章〉(23首)の全78首からなり、幾多の作品(たとえば「わが胸の遠潮騒[とほしほざゐ]を聴くごとく思ひゆるがす曲はあゝリムスキー・コルサコフ」)が、処女歌集《蟠花》に収められることになる。なお、合同歌集《高踏集》収録の作者と作品名は、つぎのとおり。

東博〈孤宴〉
船津碇次郎〈雅歌〉
平光善久〈花の重量〉
玉井照子〈会話〉
平井恵美〈青芝〉
塚本邦雄〈クリスタロイド〉
池田道夫〈悲天〉
山口実〈遠流〉
赤松千都子〈牡丹雪〉
井上周〈海の方へ〉
大和克子〈風の歌〉
山内敬一〈周辺〉
前川佐美雄〈後記〉

日本近代文学館所蔵の《高踏集》の前見返しには、ペン書きで「東博/瀬沼茂樹様/恵存」と署名・献呈・識語が記されている。ちなみに、同書の奥付には「著作者 代表 東博」とある。

(***) 合同歌集《風媒花〔八人選集〕》収録の作者と作品名は、つぎのとおり(漢字は新字に改めた)。

中山昭彦〈春のうた〉
東博〈春の吹雪〉
武田葛〈白鷺城〉
山口智子〈花舗〉
内田実〈街をゆく〉
梅田真男〈回転〉
三上芳郎〈アンナプルナ〉
萩原実〈はなます〉
〔無署名〕〈あとがき〉

東博のパートは13ページから始まっている。そのページは扉で、ミロのヴィーナスのバストアップの角版写真の下に「東博」とあって、標題はない。14ページは白。15ページの最初の行にはタイトルの「春の吹雪」(四号活字)があって、以下17ページまでに12首。17ページには「武蔵狭山丘陵」(12ポ)とタイトルがあって、以下19ページまでに10首。19ページには「近代恋慕調[いまやうなげきぶし]――Fraulein Mignon gewidmet」(12ポ)とタイトルがあって、以下おしまいの24ページまでに25首。本書〈もくじ〉でも東博の作品名は〈春の吹雪〉とあり、冒頭の連作の題名も「春の吹雪」――ここからは9首が《蟠花》〈春の章〉の「春の吹雪」(全11首)に採られた――とすべきだろう。「武蔵……」10首は《蟠花》〈秋の章〉の同題の下に全10首が(1首めと2首めの順番を入れ替えて)収録され、「近代恋慕調……」25首は《蟠花》〈春の章〉の同題の下に、1首を省いた24首が収録されている。《風媒花〔八人選集〕》の著者の顔ぶれは、《日本歌人》の同人が揃いぶみした《高踏集》とは違って、「ここに籠つた私達八人は所属結社を二・三異にしてゐるが、偶然のことながら大かたが科学にたづさはる者たちである。」(〈あとがき〉、本書、九七ページ)とある。著者は《短歌風光》の同人が5人を占め、《日本歌人》の同人は東博ひとりである。このときからほぼ5年後の吉岡実は、《新詩集》や《今日》といった同人詩誌に陸続と詩篇を発表しており、それらの作品は詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)としてまとめられた。

合同歌集《風媒花〔八人選集〕》(暁書房、1951年10月3日)の表紙"
合同歌集《風媒花〔八人選集〕》(暁書房、1951年10月3日)の表紙 この東京都立図書館所蔵本――日比谷図書館「昭28.1.31」の受入印あり――は板紙の表紙だが、紐で綴じなおしてあり、背が改装されている。

(****) 日本近代文学館・小田切進編《日本近代文学大事典〔第五巻〕》(講談社、1977年11月18日)の《日本歌人》の項は阿部正路の執筆で、末尾を「現在、〔……〕おもな同人は、石川信雄、宮崎智恵、前川緑、平光善久、山中智恵子、東博、前登志夫、古川政記ら。主要同人の一人、斎藤史は独立して「原型」を創刊、一派をなした。」(同書、三〇八ページ)と結んでいる。このうち石川信雄、山中智恵子は前掲〈歌集「蟠花」評〉に文章を寄せているが、前登志夫や斎藤史は東の歌について、どこかに書いているのだろうか。一方、戦後間もない1947年、《日本歌人》に入会した塚本邦雄は、短歌の鑑賞文つきの詞花集《現代百歌園――明日にひらく詞華》(花曜社、1990年7月20日)に、東の《水蓼残花集》から「二月[きさらぎ]に雪見ぬことのさびしさよ……」を択んでいて、同文の後半で《蟠花》に言及している。

 ・わが胸の遠潮騒を聴くごとく思ひ揺るがす曲ああリムスキー・コルサコフ
 ・彩[あや]なして流るるものにそびら向けわが若年[じやくねん]の日は傾[かたぶ]くよ
 ・旅の終り遠峰[とほね]にうかぶきらら雲われには辛きひと恋しもよ
 作者は戦後間もなく、その第一歌集『蟠花』で、タイトルにも匂う李長吉の心ばえをこめて、このように歌った。その後も、風雅、風狂のこころは一段とすさまじく、あるいはやさしく、三十一音韻は一弦琴さながらに澄んだ響きを人に伝えた。(同書、一二七ページ〔新字・新かな表記は原文のママ〕)

ここで気になるのは「戦後間もなく、その第一歌集『蟠花』で」の「戦後間もなく」で、《蟠花》刊行の1959年12月はそれに該当しないのではないか。引用歌の「聴くごとく」は、塚本も参加した1950年12月刊の合同歌集《高踏集》での表記で、《蟠花》でのそれは「聴く如く」であることが疑いを深める。すなわち、《高踏集》の刊行こそ「戦後間もなく」だったという認識が、そのとき塚本に働いていなかったか。気になることはまだある。最後の「三十一音韻は一弦琴さながらに澄んだ響きを人に伝えた。」は、このときすでに東博(生年は吉岡実よりも1年早い1918年)が歿しているようにさえ読めるのだが……。ちなみに《日本歌人》の1991年7月号は〔前川佐美雄追悼特集〕だった(佐美雄は前年1990年7月15日、88歳で病歿)。当然いておかしくない東博は、この号に執筆していない。

〔2021年5月31日追記〕
永江朗《筑摩書房 それからの四十年 1970-2010〔筑摩選書〕》(筑摩書房、2011年3月15日)はたいへんな労作で(ほかに褒めようがない大著を「労作」と呼ぶことがあるが、ここは文字どおり「力作/努力してした仕事」の意)、本文の冒頭は次の一文である。

 和田芳恵(一九〇六―七七年)による社史『筑摩書房の三十年』(このだび復刊に際し、『筑摩書房の三十年 1940-1970』と改題した)は、ひとつの出版社の記録をこえて、時代そのものを記録するすぐれた文学である。(同書、一三ページ)

「(一九〇六―七七年)」は、原文(もちろん縦組)では割注方式の小活字二行組。和田芳恵クラスの、人名事典や文学事典、《Wikipedia》に載っているような人物なら、生歿年の表示に驚くことはない。だが本書では基本的に、登場する人物(多くは筑摩書房の社員)の初出にこの表示が施されている。これは驚嘆に値する。言及した本の発行年月日を確認する苦労を知る私が言うのだから、間違いない。むろん、これは著者一人でなしえたことではない。執筆当時の筑摩書房の菊池明郎社長以下、多くの社員やOBの協力があってこそ成ったものである。と褒めておいて言うのもなんだが、本書には人名索引がない。事項索引もないし、代表的な出版物をピックアップした〈年譜〉はあるが、書名索引もない(これだけ資料性がある本なのに、もったいない)。というわけで、私が東博の生歿年を見つけたのは、本稿〈東博歌集《蟠花》のこと〉を掲載したあと、本書を再読(三読?)しながら、吉岡実ゆかりの人物の人名索引を自作していたときのことだった(ちなみに淡谷淳一さんは本書では存命になっている)。

 紙こよりで綴じた生原稿、精興社活字で打たれた8ポ三段組みのゲラなどが、机の上にも下にも山と積まれていた。〔編集〕部員は中年の元文学青年がほとんどで、太宰治(一九〇九―四八年)の遺体を捜索した人=野原一夫(一九二二―九九年)、里見ク(一八八八―一九八三年)と雀卓を囲む人=東博(一九一八―九〇年)、堀辰雄(一九〇四―五三年)未亡人の信頼厚い人=佐藤昇男(一九四一年―)、そして外線電話をとると、「荻窪の井伏です」と瀬尾政記(一九三五―八八年)を呼び出す声が……。戦後文学がライブである、という雰囲気だった。(〈第5章 古田晁逝く〉の「迷宮と異空間」、同書、八八ページ)


挨拶文のない署名用の栞〔高橋康也宛〕(2019年6月30日)

2019年2月の〈《薬玉》署名用カードあるいは土井一正のこと〉に吉岡実が高橋康也・廸に宛てたハガキのことを書いたが、そのころは吉岡が高橋康也に贈った著書もオークションでよく見かけた。インターネットのオークションではないが、今年の初め、渋谷の中村書店で吉岡が高橋に宛てた《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、「一九七二年九月十五日第六刷」)を見つけたので、こちらは購入した(書影を〈高橋康也宛吉岡実書簡(1976年4月13日付封書)のこと〉に掲げた)。献呈署名に用いられた筆記用具は珍しくボールペンで、吉岡の筆圧は非常に高く、力を込めて書いたことがわかる。それから半年ほど経った現在、関連するブツの出品も一段落したようなので、「吉岡実 署名」で検索したインターネット上の画像を整理してみた。
ところで、自著を人に贈るとき最も簡素なのは、本そのものに何も手を加えずそのまま渡すなり、送るなりすることだろう。次が、署名すること。その次が、献ずる相手の名前に署名(さらには識語)を添えること、となろう。あるいは、これよりも簡単なのが「謹呈 著者」といった類の栞状の印刷物を前見返しあたりに挟んで贈ることか(*)。さらに手が込んでくると、独自の案内状を拵えるということになって、件の吉岡の《薬玉》署名用カードはこれに相当する。郵送や宅配の場合、書状がないと恰好がつかないものだ。自筆がいちばん希ましいけれど、ハガキ状の刊行案内めいた刷り物でも礼を失することにはなるまい(吉岡は《薬玉》のそれで、カットを刷ったオモテ面に献呈署名を記している)。版元は、そうした印刷物をつくることにかけてはプロである。
自分を例に出すのは気が引けるが、拙編〈吉岡実資料〉がその巻末を占める《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)は、当時勤務していたユー・ピー・ユーの上司や同僚に購読を勧めるために(著者割引と同じ値段で買ってもらった)、〈現代詩読本吉岡実(一九九一年四月思潮社刊・定価二、二八〇円)刊行のご案内〉なるタイトルの文章を、ワードプロセッサーの出力を版下にして、私製ハガキに刷った。同じものを吉岡実と交流のあった、面識のない方方にも郵送して、何人かからはかたじけなくも返事をいただいた。こんな機会でなければ人目に触れることもないだろうから、文面を掲げておく。

 みなさまにはお変わりなくお過ごしのことと推察いたします。
 さて、このたび《現代詩読本吉岡実》が刊行されました。これは、昨年の五月に吉岡実さんが亡くなられて、最初の本格的な本です。私は縁あって巻末の〈吉岡実年譜〉〈吉岡実書誌〉〈参考文献目録〉を執筆しましたが、二〇世紀後半、昭和後期を代表するこの詩人の業績を顧みるべく、半年あまり専心いたしました。
 私が詩に魅せられて以来、吉岡さんの詩はつねに最高峰に位するものでした。晩年の数年間、それらを生みだした詩人と何度かお話しする機会の持てたことを、今はありがたく思いおこします(ユー・ピー・ユーの《ダブル・ノーテーション》土方巽特集号が吉岡さんの《土方巽頌》に関わっているのも懐かしい思い出です)。
 これを機に、吉岡実さんの詩をご存じの方はもちろん、そうでない方も、この「日本語による驚異」に触れていただければ幸いです。そのとき私の《吉岡実頌》がみなさまの手引になれば、これに優る喜びはございません。

 一九九一年四月一五日
                〔住所は省略〕  小林一郎

吉岡実がいつから自著に案内状を添えるようになったのか、詳しいことはわからない。白地に「謹呈 著者」と印刷された既製の栞は見たことがないから、ハガキ大の特製の印刷物(文面はない)に献呈署名を記したのが、《サフラン摘み》(1976)から始まっているようだ。私がのちに《夏の宴》(1979)をいただいたときは、文面のないハガキ大の印刷物に筆で私の名前と署名があったから(写真を〈「吉岡實」から「吉岡実」へ〉に掲げた)、署名用カードが手許にあれば、本に直接記すのではなく、それを使ったものと思しい(とりわけ刊行時に多くの先輩知己に版元から送る場合、カードに書くほうが作業的にも楽だろう)。
さて、ここでようやく吉岡が高橋康也に贈った本に添えられた署名用栞の話になる。ヤフオク!に出品されたときの写真を見よう。おしまいの写真は、私が《ムーンドロップ》にしてもらった献呈署名とは別にいただいた同書の栞。最近、吉岡最後の詩集《ムーンドロップ》を読み返す機会があって、年齢のせいばかりではないだろうが、同書の詩篇が以前よりはるかに身に染みた。そう、《旅人かへらず》のように。かつまた、これはとんでもない傑作だと再認識した。《神秘的な時代の詩》と同様の(同じではない)形式で、全19篇の評釈を書きたいものだ。

197410A 197410B 197609 198005 198007 198310 198401 198811 199004 199004
(写真、左から9点めまでは吉岡実が高橋康也に宛てた本と栞やカード)FA 《神秘的な時代の詩〔限定版〕》、FB 同前、G 《サフラン摘み》、I 《ポール・クレーの食卓》、S 《「死児」という絵》、J 《薬玉》、(5) 《吉岡実〔現代の詩人1〕》、K 《ムーンドロップ》、U 《うまやはし日記》、K 《ムーンドロップ》

FA 詩集《神秘的な時代の詩〔限定版〕》(湯川書房、1974年10月20日)=見返しに献呈、「1975.2.5」の識語、署名
FB 同前=詩篇〈マクロコスモス〉(F・1)に高橋康也によるものと思しい鉛筆薄書きによる「敗戦」「apocalypse」の書き込み
G 詩集《サフラン摘み》(青土社、1976年9月30日)=署名用カード(サフランのカット)に献呈署名〔別カットの写真では見返しにも献呈署名〕
I 拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》(書肆山田、1980年5月9日)=署名箋(表紙の片山健の絵を流用)に献呈署名
S 随想集《「死児」という絵》(思潮社、1980年7月1日)=署名箋(函のスタンチッチの絵を流用)に献呈署名
J 詩集《薬玉》(書肆山田、1983年10月20日)=署名用カード(函・題箋貼の鳥のカットを流用)に献呈署名〔署名用カードの文面は吉岡の執筆になる詩集刊行の案内参照〕
(5) 選詩集《吉岡実〔現代の詩人1〕》(中央公論社、1984年1月20日)=見返しに筆で献呈署名〔写真の右は、出品者の説明によれば「高橋康也の、吉岡実に関する英文エッセイのゲラもしくは原稿?2枚と、英国出版社St. James Editorial Ltd.の原稿督促状らしきもの1枚」〕
K 詩集《ムーンドロップ》(書肆山田、1988年11月25日)=署名箋(180×48mm。函・題箋貼の西脇順三郎のカットを流用)に筆で献呈署名
U 日記《うまやはし日記》(書肆山田、1990年4月15日)=署名箋(170×44mm。新作と思しいカット脇に「うまやはし日記/1990.4」と活字で印刷)にマーカーで署名〔写真の左は吉岡実会葬礼状〕

FAの《神秘的な時代の詩〔限定版〕》だが、「1975.2.5」という日付が気になるといえば気になる。刊行直後に献本した分には、日付がなかったかもしれない(吉岡実が篠田一士に献じた詩集《神秘的な時代の詩〔限定版〕》参照)。

FBの同詩集巻頭の〈マクロコスモス〉(F・1)の鉛筆薄書きによる「敗戦」「apocalypse」の書き込みは、高橋康也が《神秘的な時代の詩》の書評として〈肉のようなものが甲羅のなかへ〉(《ユリイカ》1975年10月号の〈詩書批評〉欄)を執筆するにあたって、詩集を精読したときのものか。高橋の書評に「敗戦」は登場しないが、「apocalypse」は「黙示録」として次のように登場する。あわせて書評のポイントと結語も引いておこう。

 詩人の幻視が白熱したとき、「現代」は改めて「神秘的な時代」、つまり黙示録的な終末の時代となる。〔……〕そして、いみじくも黙示録を思わせつつ、馬が空を行く――「白地に赤く死のまる染めて/みにくい未来へ/わが馬ニコルスはギャロップ!」
 〔……〕結局のところ、詩人の視線が収斂してゆく極点は、このような時代の中で詩を書いている自分自身であると言わなければならない。そもそも詩集の表題が『神秘的な時代』ではなく、『神秘的な時代の詩[、、]』なのだ。この書物は、その最も深い次元においては、「書くこと」(詩人の片仮名好みを真似て「エクリチュール」と言おうか)についての反省にほかならない。
 〔……〕詩人のこのいささか自嘲的な自画像に到達するころには、ぼくたち読者は、彼がこの「言語幻滅の治世」において実はどんなに畏怖すべき言語の錬金術師であるかを、十分に知りつくしている。(同誌、二二〇〜二二一ページ)
Gの《サフラン摘み》のカードのカットは、詩集の函や本体では使われておらず、誰が描いたかわからないが(片山健の手になるものではないようだ)、この案内状のための新作か。

上掲写真にはないが、先に紹介した《夏の宴》のハガキ大の刷り物の絵柄は西脇順三郎のカットだったから、吉岡が詩集本体から流用を始めたのはこのときからかもしれない。――と書いてほどなくして、古書店のサイトでこの署名用カードを見つけた。すなわち、墨田区向島の鳩の街通り商店街にある古書肆右左見堂[うさみどう]に、吉岡が土井一正に宛てた詩集《夏の宴》が署名用カード(ペン書き、献呈署名入り)付きで出ていたのだ。価格は10,000円。商品の説明に「スリップ挟まったまま使用感薄い」とあり、刊行時に献本したものと思しい。吉岡は随想〈遥かなる歌――啄木断想〉にこう書いている。「私は神田神保町にある青土社へ行った。新詩集《夏の宴》の寄贈名簿を届けることと、署名するためだった。作業が終るころ、すでに街は暮れていた。発行人の清水康雄と近くの飲み屋で、ささやかに祝杯をあげるつもりだったのに生憎、彼はK氏の追悼会へ行って不在だった。私は装幀に使った西脇順三郎先生の絵と、新詩集五冊を受け取り、古本屋街を歩いた。」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一四七ページ)

吉岡実が土井一正に宛てた詩集《夏の宴》(青土社、1979年10月30日)の署名用カード(ペン書き、献呈署名入り)〔出典:古書肆右左見堂[うさみどう]〕
吉岡実が土井一正に宛てた詩集《夏の宴》(青土社、1979年10月30日)の署名用カード(ペン書き、献呈署名入り)〔出典:古書肆右左見堂[うさみどう]

Sの《「死児」という絵》の栞はこのなかで唯一写真版を用いたもので、絵柄が横位置だったものだから、用紙を横長で使っている。これがなかなか洒落ていて、どちらかと言えば武骨な出来の本体(とりわけ布装の表紙)とは不釣り合いな感じさえする。

Jの《薬玉》で初めて文章を配した案内状が登場したと思しい。文体を変えれば、〈あとがき〉として詩集本体に収めてもおかしくないくらいの内容で(ただし吉岡は新作詩集にはついに自筆のあとがきを付けなかったが)、それだけこの詩集に賭けるものが大きかったということか。

(5)の《吉岡実〔現代の詩人1〕》が好い例だが、吉岡実は本に署名するとき、扉対向の見返しページに記入することを好んだ(そこは、絵柄やエンボスがなく、基本的に「白」である)。私が持参した著書に署名するとき――この見返しに書くのが好きなんだ、人の〔つまり小林所有の〕本だから失敗できないな――などと言われた(私の持って行ったパーカーの、ただしブルーブラックではなく黒インクの万年筆を――こいつは書きやすい――とも)。かくして、1984年12月9日の明治大学詩人会の忘年会での《サフラン摘み》を皮切りに、無慮十数冊、主要な詩集には「小林一郎様/〔年月日〕/吉岡実」の献呈〔識語〕署名がある(**)

Kの《ムーンドロップ》には、栞状の署名箋とは別に《薬玉》と同様の署名用カードがあるとの説もあり、もし存在するのなら、その文面はなんとかして読みたいものだ。
前掲写真最後の《ムーンドロップ》の署名箋は、たしか吉岡さんと最後に会った1989年暮、(詩集にしてもらった署名とは別に)いただいたもの。

Uの《うまやはし日記》署名箋の仕様が詳しいのは、ほかの処でも書いたことだが、100部限定の《うまやはし日記〔弧木洞版〕》(書肆山田、1990年4月15日)だけが吉岡さんから恵投いただいた本で、そこにこの署名箋が挟んであったためである。

いずれにしても、ここに掲げた8冊が、吉岡実が高橋康也に贈った著書のすべてでないことは確かだろう(現に現代詩文庫版の詩集があった)。吉岡が高橋と出会ったのが1968年3月だから、この年7月に刊行された詩集《静かな家》以降、すべての著書を献じたと考えていいかもしれない。思うに高橋康也は、篠田一士と並んで吉岡がもっとも恃んだ外国文学者・研究者・批評家だったのではあるまいか。そうしたことを感じさせるのが、これらの献呈署名本である。

〔追記〕
この間に高橋康也が吉岡実に贈った本もむろんあるわけで、2019年4月、ヤフオク!出品のハガキがそのあたりの事情を物語っている。画像を掲げ、文面を起こしてみよう。

吉岡実が高橋康也・廸に宛てたハガキの文面(1985年10月24日〔12-18〕目黒局消印)〔出典:ヤフオク!(タイトルは〈吉岡実 ◆自筆肉筆 真筆 葉書◆高橋康也 迪宛◆ルイス キャロル 『不思議の国のアリス』◆『薬玉』 歴程賞受賞◆『僧侶』H氏賞受賞詩人〉)〕
吉岡実が高橋康也・廸に宛てたハガキの文面(1985年10月24日〔12-18〕目黒局消印)〔出典:ヤフオク!(タイトルは〈吉岡実 ◆自筆肉筆 真筆 葉書◆高橋康也 迪宛◆ルイス キャロル 『不思議の国のアリス』◆『薬玉』 歴程賞受賞◆『僧侶』H氏賞受賞詩人〉)〕

すでに初冬になってしまいました。『アリス』
いただきながら、お礼を申上げるのが遅れて、申
訳ありません。今年は、短い文章の注文がつづ
き、さすがに疲れました。仕事が一段落いた
しましたら、おふたりの訳で『アリス』再読
いたします。気候の変化はげしいおり、
おからだをおいとい下さい。家内も、
よろしくと申しております。      実
            十月二十三日

高橋康也・高橋迪訳によるルイス・キャロル(アーサー・ラッカム絵)《不思議の国のアリス》(新書館、1985年10月5日〔装丁:宇野亜喜良〕)のジャケット
高橋康也・高橋迪訳によるルイス・キャロル(アーサー・ラッカム絵)《不思議の国のアリス》(新書館、1985年10月5日〔装丁:宇野亜喜良〕)のジャケット(テニエル描くアリス〔幼女〕に較べて、ラッカムのそれ〔少女〕は妙になまめかしい)

この『アリス』は、高橋康也・高橋迪訳によるルイス・キャロル(アーサー・ラッカム絵)《不思議の国のアリス》(新書館、1985年10月5日)で、「一九八五年八月下旬」の日付を持つ高橋康也の〈あとがき〉に次のように見える。少し長いが、高橋の《アリス》観が顕著な処なので、引いておきたい(振り仮名は省略した)。

 「不思議の国のアリス」は、ウサギ穴にドスンと落ちたアリスがつぎからつぎへと妙ちきりんな人間や動物や事件に出会うお話です。アリスは、ちょうど自我がめざめかかったというか、現実の世界やものごとの理屈がわかりかけてきたというか、そういう年頃の女の子です。幼年期はもう過ぎているけれど、まだ思春期にはなっていません。いわゆる「常識」(コモン・センス)が身につきはじめたけれど、まだそれで固まってはいません。
 そういうアリスが、夢の国で、「常識」に反する(ナンセンスな)人物やできごとに出くわして、めんくらったり、おもしろがったり、憤慨したり、反論したり、また(自分の「常識」がくずれそうになって)ちょっぴり不安を感じたり――さまざまな「冒険」をするのがこの物語です。
 作者に即していえば、どうでしょうか。キャロルはいろんな動物や人間に姿をかえて、愛する少女を、楽しませたり、からかったり、ほんの少しこわがらせたりしているのかもしれませんね。それとも少女をダシにして、自分のなかの空想を思いきり発散させたのでしょうか。
 それはともかく、私たち読者としては、どんな読みかたをしても自由です。アリスと同じくらいの年頃の読者なら、アリスといっしょになって笑ったり、泣いたり、怒ったりすればいい。もっと年上の読者なら(アリスのお姉さんもその一人ですが)、人物たちの奇妙な言動に笑いころげながら、同時にアリスの反応を観察することができるし、さらに「常識」と「ナンセンス」の関係についていろいろ考えをめぐらせる楽しみもある、といったぐあいです。
 確かなことは、こうです。どんな年齢の読者も、この物語を読むと、頭やからだがとても生き生きとしてきます。童話にありがちな「教訓」や「感傷」の臭いが、ここにはありません。かわりに、「常識」の枠組がゆさぶられ、はずされるときの、とほうもない解放感と(それと裏腹な)不安感があります。もちろん、これを味わったあとで、私たちはアリスと同じようにふたたび「常識」の世界にもどってこないわけにはいかないのですが、そのとき、私たちの心には、あの「冒険」の記憶がまちがいなく残っているはずです。(同書、一八七〜一八八ページ)。

私が赤字に変えた箇所は、ほかでもない、高橋が〈吉岡実がアリス狩りに出発するとき〉(《ユリイカ》1973年9月号〔特集=吉岡実〕)で吉岡の言として「ただ、アリスという少女そのものは、『アリスの絵本』の方の詩〔〈『アリス』狩り〉〕に書いたけど、ぼくにとって「非像」なんですね、「実像」というよりは。キャロルにとっても、そうじゃないかな、物語のアリスを肉付けしたり、丸味や厚味のあるものにしていないものね。写真の方はすごく実在感があるけど。ぼくなんか、美少女と接する機会はないんだけど、キャロルがやったように、こっちも少女をダシにしてやれっていう気持ですね。」(同誌、一〇二ページ)と書いている処にものの見事に呼応していて、高橋の吉岡への目配せが見えるような気がする。この際だから、ハガキにある「今年は、短い文章の注文がつづき」の方のリストも挙げておこう(末尾の★印は、吉岡の著書に未収録のもの)。12月までに発表した、この年1985年、執筆分の散文である。

  1. 耕衣粗描
  2. 消えた部屋
  3. バルチュスの絵を観にゆく、夏――(日記)84年より
  4. 「謎」めいた一句――『一個』の一句★
  5. 月の雁
  6. 学舎喪失
  7. 白秋をめぐる断章
  8. ロマン・ポルノ映画雑感
  9. 二人の歌人――塚本邦雄と岡井隆
  10. 重信と弟子(4回連載)
  11. くすだま
  12. 〔無題〕(《江森國友詩集》裏表紙の文章)★
  13. 『個室』の俳人への期待★

1の永田耕衣、4の藤田湘子、5の高柳重信、10(実質的に、〈多行俳句〉の高柳重信・〈諧謔と妖気〉の安井浩司・〈美秋玲瓏〉の折笠美秋・〈喪服の祝宴〉の夏石番矢、の4篇)、13の宗田安正と、4割近くが俳句関係の文章なのが興味深い。これを図式的に言うなら、吉岡実の関心の一方の極には《不思議の国のアリス》に代表される洋風の、ある種モダンな文物があり、もう一方の極にはわが俳句(といっても伝統的なそれではなく、前衛ふうの)があって、両者が互いに引きあった結果、筋肉のいちばん膨らんだ処に自身の詩作品が存在するということになる。職人ふうのリアリズムに裏打ちされたモダニズム、とでも言えばいいのだろうか。その絡みあい、衝突のぐあいが高度に発揮されたときの吉岡実詩は、天下無双といってよい。具体例を挙げる方が早いだろう。たとえば、あの名篇〈ルイス・キャロルを探す方法――〔わがアリスへの接近〕〔少女伝説〕〉(G・11)のような(***)。あるいは〈あまがつ頌〉(G・30)のような。あるいは……。

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(*) かつて、東京・杉並の荻窪駅南口前の古書店、岩森書店で求めた入沢康夫詩集《唄――遠い冬の》(書肆山田、1997年7月10日)には、「謹呈 著者」と印刷された栞が挟んであった(私は亞令の装丁になる、フランス装のこの小さな詩集を酷愛している)。

入沢康夫詩集《唄――遠い冬の》(書肆山田、1997年7月10日)に挟まれていた栞
入沢康夫詩集《唄――遠い冬の》(書肆山田、1997年7月10日)に挟まれていた栞。190×40mmは詩集本体(190×124mm)の天地と同寸で、既製の印刷物ではなく、本書のためにあつらえたものであることをうかがわせる。

(**) 複本がある著書は、ふだん読むのはむろん署名のないほうだが、いちばんの稀覯本は吉岡が太田大八さんに宛てた詩集《液體》(草蝉舎、1941年12月10日)で、さすがにこれは複本がないから、どうしても原本でなければならないとき以外は、コピーして綴じたほうを読む。78年前に刊行されたこの本の背は、細い綴じ糸が切れて崩壊寸前だから(単に本文を読むだけなら、もっぱら《吉岡実全詩集》だ)。2005年11月30日、太田さんを訪ねたおり、じきじきにいただいたこの《液體》には、扉対向ページのノド寄り下部に「太田大八に/一九五五・一・六/吉岡實」とペン書きの献呈・識語・署名がある(このときもう一冊、「池田友子に」宛てた初版《液體》を見ている。別れた池田に渡してもらうように、吉岡が太田さんに預けたものか)。私の蔵書のなかで、最も大切な一冊である。

(***) 郡淳一郎は《現代詩手帖》(2019年6月号〔特集=詩の未来へ――現代詩手帖の60年展〕)のアンケート〈私と「現代詩手帖」〉の、同誌との出会い、印象に残っている時代や特集は? という問いに対して、

 中学の下校途中に入りびたっていた、ちくさ正文館書店で手に取った「別冊現代詩手帖 第二号 ルイス・キャロル」(一九七二年六月)の重版で、八〇年頃だったと思います。紙と活字とインキでできたフランスキャラメルのような、この世ならぬ素敵なものと思えました。いま思えば、それはアングラとサブカルの間隙にいっとき存在して、その後、地上から失われてしまった可能性のかたまりでした。
 この別冊に掲載されている新作詩篇は吉岡実の「ルイス・キャロルを探す方法」と加藤郁乎の「アリス元年」だけですが、詩人自身の手書きの題字とレイアウトによって、黄色のアート紙に凸版の図版構成八ページとして印刷された前者の強い印象とともに、わたしにはこの本全体をひとつの詩として受取ってしまったと思います。一九七〇、七一年に「現代詩手帖」編集長を務めた桑原茂夫の、現代詩への否定として。編集者にとってテクストは素材でしかない、本が詩になればそれでいい、というメッセージとして。(同誌、一三〇ページ)
と答えて、ひとつの冊子に結集した高橋康也・桑原茂夫・吉岡実、三者による空前のコラボレーションを総括した。

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高橋康也によるルイス・キャロル/アリス物の著書・編書・訳書(実見しえたもののみ)

高橋康也・種村季弘編《ルイス・キャロル――アリスの不思議な国あるいはノンセンスの迷宮〔別冊現代詩手帖(第1巻第2号)〕》(思潮社、1972年6月1日)〔吉岡は〈ルイス・キャロルを探す方法――〔わがアリスへの接近〕〔少女伝説〕〉(G・11)を発表〕
高橋康也編《アリスの絵本――アリスの不思議な世界》(牧神社、1973年5月1日)〔吉岡は前掲〈『アリス』狩り〉(G・12)を発表〕
高橋康也編《アリス幻想》(すばる書房、1976年11月10日)〔《月刊絵本》(1976年7月号〔特集=アリスの国へ〕)からの再録を含む〕
高橋康也《キャロル イン ワンダーランド》(新書館、第4刷:1980年8月5日〔初版:1977年1月15日〕)
高橋康也・沢崎順之助訳《ルイス・キャロル詩集――不思議の国の言葉たち》(筑摩書房、1977年12月20日)
ルイス・キャロル(高橋康也・高橋迪訳)《少女への手紙》(新書館、1978年11月15日)
高橋康也対談集《アリスの国の言葉たち》(新書館、1981年7月10日)
ルイス・キャロル/アーサー・ラッカム絵(高橋康也・高橋迪訳)《不思議の国のアリス》(新書館、第2刷:1987年2月25日〔初版:1985年10月5日〕)
ルイス・キャロル/ジョン・テニエル絵(高橋康也・高橋迪訳)《子供部屋のアリス》(新書館、改訂版:1987年5月15日〔初版:1977年〕)
ルイス・キャロル/〔ジョン・テニエル絵〕(高橋康也・高橋迪訳)《不思議の国のアリス〔河出文庫〕》(河出書房新社、1988年10月4日)
高橋康也《ヴィクトリア朝のアリスたち――ルイス・キャロル写真集》(新書館、1988年11月25日)
高橋康也・沢崎順之助訳《原典対照 ルイス・キャロル詩集〔ちくま文庫〕》(筑摩書房、1989年4月25日)
モートン・N・コーエン(高橋康也監訳、安達まみ・佐藤容子・三村明訳)《ルイス・キャロル伝〔上・下〕》(河出書房新社、1999年5月25日)
ルイス・キャロル/ヘンリー・ホリデイ絵(高橋康也訳・河合祥一郎編)《スナーク狩り》(新書館、2007年8月5日)

頓挫した筑摩書房版《ルイス・キャロル全集》――「もしこれを吉岡実が装丁していたら」と想像することは、尽きせぬ興味の源泉たりうる――のあとを請けて新書館が実質的なキャロルの創作全集の各冊を出しつづけていることは、これら高橋康也の著・編・訳以外の同社刊のキャロル関連の書目をも見わたせば、歴然としている。


〈詩の未来へ――現代詩手帖の60年〉展のこと(2019年6月30日)

6月中旬の暑い日、萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち前橋文学館(群馬・前橋)で〈詩の未来へ――現代詩手帖の60年〉(2019年4月27日〜6月30日)を観た。なんといっても、創刊号以来の《現代詩手帖》(臨増や別冊を含む)全冊の展示が圧巻だ。面出し表示の表紙を見るだけで、60年の歴史がフラッシュバックするようで、眩暈を覚えるほどだ。展覧会独自の図録はなくて、《現代詩手帖》(2019年6月号〔特集=詩の未来へ――現代詩手帖の60年展〕)がそれに替わる。展示パネル1950年代の《僧侶》の解説文は、同誌の野村喜和夫〈1950-1959〉の記載と同じ。高橋康也・種村季弘編《ルイス・キャロル〔別冊現代詩手帖〕》(1972年6月)の吉岡作〈ルイス・キャロルを探す方法――わがアリスへの接近〉のパネルの解説文は「吉岡がスランプを脱し、引用の詩学を押し進めるきっかけとなった。」で、こちらは(同じく野村の〈1970-1979〉に依りつつも)本展が初出か。ほかに、詩集《僧侶》(群馬県立土屋文明記念文学館所蔵)と《サフラン摘み》が展示されていた(朔太郎展示室には、吉岡が装丁した筑摩版朔太郎全集もあったが、そこで最も感銘を受けたのは、赤字の入った《月に吠える》の校正刷りだった)。
「前橋文学館へようこそ」というノートブックがあったので、次のように記帳した――「東京から来ました。吉岡実のことを調べている小林一郎です。八木忠栄さんの撮った8ミリ、楽しく拝見しました。動く吉岡さんをおさめた貴重な資料と存じます。(TVでは、土方巽を送る澁澤さんと吉岡の映像が流れたことがありますが)/前回は入沢さんか安藤さんの朔太郎賞受賞の企画展ですから、ずいぶん久しぶりです。広瀬川のはやい流れだけが変わっていません。〈現代詩手帖の60年〉、ありがとうございました」。そう、《現代詩手帖》創刊号が手許にある今日、私が同館へ足を運んだのは、ひとえにこの映像を観るためだった。八木さんの新詩集《やあ、詩人たち》を紹介する《現代詩手帖》(2019年6月号)の〈スクランブルスクエア〉に「詩のテキストからの読みこみと、直接の出会いからの感触が織りこまれている氏ならではの一冊だ。開催中の「現代詩手帖の60年」展では、氏が撮影した8ミリの映像が流されていて、この詩集で捧げられている多くの詩人をみることができる。「動いている」鮎川信夫や吉岡実らの、氏に向けられたやわらかな表情からも、この詩集の根底にあるものがうかがえるはずだ。」(同誌、一九九ページ)とあるのに惹かれて観に行ったようなものだ。この映像は《詩人たち/1981.8〜》と題されたカラーフィルム(を動画ファイルにおとしたもの)で、神保町か渋谷あたりの珈琲専門店(バックに「コーヒー豆〔の挽き売り致しております〕」の表示が見える)の片隅で紙巻きたばこを吹かしている吉岡が約19秒間、収録されている(文字スーパーは「吉岡実(1919〜1990)/『静物』『僧侶』『サフラン摘み』など」)。同時録音の音声はない。ちなみに、《吉岡実全詩集》の編集委員、飯島耕一・大岡信・入沢康夫・高橋睦郎は登場するが、〈鰐〉の岩田宏は書影だけの登場、清岡卓行にいたっては登場しない。登場人物の詳細は、《現代詩手帖》(同前)の〈展示目録〉に依るべきだ。

 映像
八木忠栄撮影「詩人たち」(約11分)
「現代詩手帖」の編集長だった八木忠栄が、一九八一年八月から、仕事で会った詩人たちを8ミリ映写機で撮影したもの(文字スーパー、BGMは前橋文学館作成)
登場する詩人たち
伊藤比呂美、高橋睦郎、渡辺武信、稲川方人、入沢康夫、荒川洋治、阿部岩夫、宗左近、飯島耕一、正津勉、清水哲男、清水昶、渋沢孝輔、鈴木志郎康、谷川俊太郎、辻征夫、淵上熊太郎、白石かずこ、佐藤文夫、中上哲夫、四方田犬彦、鮎川信夫、井坂洋子、北村太郎、大岡信、岩田宏(書影のみ)、菊地信義(装幀家)、黒田喜夫、吉岡実、財部鳥子、粟津則雄(評論家)、山口眞理子、諏訪優、吉原幸子(同誌、一七八ページ)

前橋文学館一階のミュージアムショップでは《現代詩手帖》のバックナンバーや単行本(こちらは1,000円均一)の販売があったので、《瀧口修造の詩的実験 1927〜1937》(〔縮刷版 第4刷:1991年〕)――手許にある一本は製本が緩んできて、読みにくいこと甚だしい――と何冊めかの《現代詩読本――特装版 吉岡実》(1991)を購入。そのあとグッズを見ていると、朔太郎が組織したゴンドラ洋楽会のマークをあしらったプラスチック製の栞があったので、記念に求めた。そういえば、吉岡さんがまだお元気だったころ、新宿・紀伊國屋書店で見つけたスカラベ(古代エジプト人が神聖視した甲虫をかたどったエジプトの宝石彫刻)――むろんオリジナルではなくレプリカ――をさしあげたところ、とても歓んでいただいた(これと別に、篆刻を進呈したこともある)。骨董にうるさい吉岡さんがあんな子供だましみたいなスカラベを本気にしたとは思えないが、おおかた私のような気の利かない男の精一杯の好意を良しとされたのだろう。吉岡さんからは自筆の浄書詩稿をいただいてしまったから、貰いすぎのようなものである。

広瀬川の朔太郎橋のたもとにたたずむ萩原朔太郎の像と〈詩の未来へ――現代詩手帖の60年〉展会場の前橋文学館 〈詩の未来へ――現代詩手帖の60年〉展会場にあった「前橋文学館へようこそ」というノートブック 
広瀬川の朔太郎橋のたもとにたたずむ萩原朔太郎の像と〈詩の未来へ――現代詩手帖の60年〉展会場の前橋文学館(左)と同展会場にあった「前橋文学館へようこそ」というノートブック(右)


吉岡実と入沢康夫(2019年5月31日〔2019年6月30日追記〕)

2018年12月の《最近の〈吉岡実〉》に書いたように、入沢康夫さんを追悼すべく、本稿を捧げる。最初に、入沢康夫が吉岡実に触れた文献の一覧を掲げる。

  1. 一九六〇年 〔昭和三五年〕.入沢康夫〈吉岡実氏の作品の難解性〉(詩学、九月)
  2. 一九六二年 〔昭和三七年〕.入沢康夫〈新しい局面〉(日本読書新聞、一一月一二日)
  3. 一九七〇年 〔昭和四五年〕.入沢康夫〈グループから離れて――源流に峻立する吉岡実〉(東京新聞、五月四日)
  4. 一九七一年 〔昭和四六年〕.入沢康夫〈解散した三つの詩のグループのこと〉(ユリイカ、一二月)▽入沢康夫《詩にかかわる》(思潮社、二〇〇二)
  5. 一九七二年 〔昭和四七年〕.粟津則雄・天澤退二郎・入沢康夫・渋沢孝輔〔共同討議〕〈変貌する現代の詩論〉(ユリイカ、一二月)
  6. 一九七三年 〔昭和四八年〕.入沢康夫〔詩〕〈《やわらかい恐怖》〉(ユリイカ〔特集・吉岡実〕、九月)▼入沢康夫詩集《「月」そのほかの詩》(思潮社、一九七七)
  7. 一九七六年 〔昭和五一年〕.入沢康夫〈新しい境地に踏みこむ〉(読売新聞〔夕刊〕、一〇月七日)
  8. 一九七七年 〔昭和五二年〕.入沢康夫〈追随を許さぬ肉感性〉(現代詩手帖、二月)
  9. 一九七七年 〔昭和五二年〕.那珂太郎・入沢康夫〈「わが出雲」と「はかた」――相互改作の試み〉(現代詩手帖、三月)▽那珂太郎・入沢康夫《重奏形式による詩の試み――相互改作/「わが出雲」「はかた」》(書肆山田、一九七九)
  10. 一九七七年 〔昭和五二年〕.入沢康夫〈詩'76〉(《文芸年鑑1977》新潮社、六月)
  11. 一九七八年 〔昭和五三年〕.入沢康夫〈吉岡実の転生〉(《新選吉岡実詩集》思潮社、六月)
  12. 一九七九年 〔昭和五四年〕.入沢康夫〈言葉の重層性といふこと〉(國文學、九月)▽入沢康夫《詩にかかわる》(思潮社、二〇〇二)
  13. 一九八三年 〔昭和五八年〕.入沢康夫〈国語改革と私〉(《国語改革を批判する》中央公論社、五月)
  14. 一九八三年 〔昭和五八年〕.入沢康夫〈詩壇一九八三年〉(朝日新聞〔夕刊〕、一二月二六日)
  15. 一九八四年 〔昭和五九年〕.入沢康夫〈到達点なき不屈の〈方法的探索〉〉(日本読書新聞、一月二・九日)
  16. 一九九〇年 〔平成二年〕.入沢康夫〈内に秘められた力〉(共同通信系、六月)
  17. 一九九〇年 〔平成二年〕.入沢康夫〈見事な詩の力――吉岡実氏を悼む〉(京都新聞、六月一二日)
  18. 一九九〇年 〔平成二年〕.入沢康夫〈弔辞〉(現代詩手帖〔追悼特集・お別れ 吉岡実〕、七月)
  19. 一九九〇年 〔平成二年〕.入沢康夫〈吉岡さんの死〉(ユリイカ、七月)
  20. 一九九〇年 〔平成二年〕.入沢康夫〈詩への誠実さ〉(海燕、八月)
  21. 一九九〇年 〔平成二年〕.入沢康夫〈吉岡さんがなくなられた!〉(るしおる7、八月)▽入沢康夫《詩にかかわる》(思潮社、二〇〇二)
  22. 一九九〇年 〔平成二年〕.入沢康夫〔詩〕〈わがライラック・ガーデン〉(ユリイカ、一二月)▼入沢康夫詩集《唄――遠い冬の》(書肆山田、一九九七)
  23. 一九九一年 〔平成三年〕.大岡信・入沢康夫・天沢退二郎・平出隆〔討議〕〈自己侵犯と変容を重ねた芸術家魂――『昏睡季節』から『ムーンドロップ』まで〉(《現代詩読本――特装版 吉岡実》思潮社 四月)
  24. 一九九二年 〔平成四年〕.入沢康夫〈座右に置いて何度も読み返し、その都度、感動する詩集〉(季刊リテレール2、九月)
  25. 一九九六年 〔平成八年〕.入沢康夫〈「波よ永遠に止れ」の思い出〉(《吉岡実全詩集 付録》筑摩書房、三月)
  26. 一九九六年 〔平成八年〕.入沢康夫〔詩〕〈梅雨の晴れ間――吉岡実七回忌から二旬〉(群像、八月)▼入沢康夫詩集《唄――遠い冬の》(書肆山田、一九九七)
  27. 一九九六年 〔平成八年〕.入沢康夫〔詩〕〈往古 鳥髪山 序〉(《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実》書肆山田 一一月)
  28. 二〇〇二年 〔平成一四年〕.入沢康夫〈マグマに触れる詩を書きたい――『遐い宴楽』〉(日本経済新聞、八月一一日)

この28篇は《吉岡実参考文献目録》から引いたが、ほかにも管見に入らなかった文献があるに違いない(入沢が未刊の〈往古 鳥髪山 序〉を含む詩4篇を吉岡に献じているのは、あたかも吉岡が西脇順三郎に機会あるごとに詩を捧げたことを想い起こさせる)。それにしてもこの数は決して少なくない(*1)。おそらく吉岡が入沢に言及したのは、この半数にも満たないだろう。入沢の文章のなかでは、「中期吉岡実」までを総括した11.〈吉岡実の転生〉と23.〈自己侵犯と変容を重ねた芸術家魂〉(これは吉岡歿後の発言だから「後期吉岡実」までを射程に収める)が重要さにおいて一頭地を抜いている。このふたつには今までに何度か触れたことがあるので、ここでは違った角度から――すなわち吉岡実と入沢康夫の詩人としての関係を、両者の単行詩集の比較を通じて、考えてみたい。さて、吉岡実は1919(大正8)年、東京生まれ。1931(昭和6)年、松江に生まれた入沢康夫よりも12歳年長である(ちなみに私は吉岡よりも三回り、入沢より二回り下の、いずれも未歳生まれ)。1955(昭和30)年、吉岡は8月に36歳で戦後最初の詩集《静物》(私家版)を、入沢は6月に23歳で処女詩集《倖せ それとも不倖せ》(書肆ユリイカ)を上梓している。すなわち、12歳の年齢差にもかかわらず、その詩的出発はほぼ同時だったわけである。両者が刊行した著作を、詩集中心に総覧する。

吉岡実・入沢康夫対照年表(丸中数字は月を、入沢康夫著作の赤字は吉岡実装丁を表す)
共通 吉岡実 入沢康夫共通
西暦 和暦 年齢 経歴 著作 年齢 経歴 著作西暦
1919 大正8 【0】 C15日、東京に誕生 1919
1931 昭和6 【12】 【0】 J3日、松江に誕生 1931
1940 昭和15 【21】 A西村書店に入社 I詩歌集《昏睡季節》 【9】 1940
1941 昭和16 【22】 F出征/G母、死去 K詩集《液體》 【10】 1941
1955 昭和30 【36】 G詩集《静物》 【24】 E詩集《倖せ それとも不倖せ》 1955
1958 昭和33 【39】 G姉米本政子、死去 J詩集《僧侶》 【27】 A詩集《夏至の火》 1958
1959 昭和34 【40】 G同人詩誌《鰐》創刊 D歌集《魚藍》/G選詩集《吉岡實〔今日の詩人双書〕》 【28】 C筑摩書房に入社(翌年退社) 1959
1961 昭和36 【42】 【30】 I詩集《古い土地》 1961
1962 昭和37 【43】 J詩集《紡錘形》 【31】 I詩画集《ランゲルハンス氏の島》 1962
1965 昭和40 【46】 【34】 I詩集《季節についての試論》 1965
1967 昭和42 【48】 I選詩集《吉岡実詩集》 【36】 1967
1968 昭和43 【49】 F詩集《静かな家》/選詩集《吉岡実詩集〔現代詩文庫〕》 【37】 A詩の構造についての覚え書――ぼくの〈詩作品入門〉/C詩集《わが出雲・わが鎮魂》 1968
1970 昭和45 【51】 A選詩集《吉岡実詩集〔普及版〕》 【39】 B詩集《入沢康夫詩集〔現代詩文庫〕》 1970
1971 昭和46 【52】 【40】 E詩集《声なき木鼠の唄》/F詩集《倖せ それとも不倖せ 続》 1971
1973 昭和48 【54】 【42】 B全詩集《入澤康夫〈詩〉集成 1951〜1970》/D《詩の逆説》 1973
1974 昭和49 【55】 C詩《異霊祭》/I詩集《神秘的な時代の詩》 【43】 1974
1976 昭和51 【57】 春か 英訳詩抄《Lilac Garden》/H詩集《サフラン摘み》 【45】 1976
1977 昭和52 【58】 【46】 C詩集《「月」そのほかの詩》 1977
1978 昭和53 【59】 J筑摩書房を依願退社 E選詩集《新選吉岡実詩集〔新選現代詩文庫〕》 【47】 B《新選入沢康夫詩集〔新選現代詩文庫〕》/E詩集《かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩》 1978
1979 昭和54 【60】 I詩集《夏の宴》 【48】 D全詩集《入澤康夫〈詩〉集成 1951〜1978》/E詩集《牛の首のある三十の情景》/K《詩的関係についての覚え書》 1979
1980 昭和55 【61】 D詩集《ポール・クレーの食卓》/F随想集《「死児」という絵》 【49】 1980
1981 昭和56 【62】 【50】 E詩集《駱駝譜》 1981
1982 昭和57 【63】 【51】 E詩集《春の散歩》/I詩集《死者たちの群がる風景》 1982
1983 昭和58 【64】 I詩集《薬玉》 【52】 1983
1984 昭和59 【65】 @選詩集《吉岡実〔現代の詩人〕》 【53】 I《ネルヴァル覚書》 1984
1985 昭和60 【66】 @か 英訳詩抄《Celebration In Darkness――Selected Poems of YOSHIOKA MINORU》 【54】 1985
1987 昭和62 【68】 H評伝《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》 【56】 1987
1988 昭和63 【69】 H随想集《「死児」という絵〔増補版〕〔筑摩叢書〕》/J詩集《ムーンドロップ》 【57】 G詩集《水辺逆旅歌》/K詩集《歌――耐へる夜の》 1988
1989 昭和64/平成1 【70】 @兄吉岡長夫、死去 【58】 J詩集《夢の佐比》 1989
1990 平成2 【71】 D31日、東京で死去 C日記《うまやはし日記〔りぶるどるしおる〕》 【59】 1990
1991 平成3 歿後1 ◎英訳詩集《Kusudama》 【59】 B《宮沢賢治――プリオシン海岸からの報告》 1991
1994 平成6 歿後4 【63】 @〔財部鳥子編〕短詩集《楽園の思い出》/E詩集《漂ふ舟――わが地獄くだり》 1994
1995 平成7 歿後5 E選詩集《続・吉岡実詩集〔現代詩文庫〕》 【64】 1995
1996 平成8 歿後6 B全詩集《吉岡実全詩集》 【65】 K全詩集《入澤康夫〈詩〉集成 1951〜1994》 1996
1997 平成9 歿後7 【65】 F詩集《唄――遠い冬の》 1997
2002 平成12 歿後12 D詩集《赤鴉》 【71】 E《詩にかかわる》/詩集《遐い宴楽〔とほいうたげ〕》 2002
2003 平成13 歿後13 C句集《奴草》 【72】 2003
2005 平成17 歿後15 【74】 G詩集《アルボラーダ》 2005
2006 平成18 歿後16 B散文選集《吉岡実散文抄――詩神が住まう場所〔詩の森文庫〕》 【75】 2006
2007 平成19 歿後17 【76】 J詩集《かりのそらね》 2007
2018 平成30 歿後28 [86] I15日、神奈川で死去 2018

まず気が付くのは、吉岡の詩集の数に対して入沢のそれが多いことである(単行詩集に限れば、12冊対22冊)。もうひとつ、入沢は《入澤康夫〈詩〉集成》という形で存命中に自らの手で3度(1973、1979、1996年)、全詩集を編んでいることである(吉岡は1967年に思潮社から生前唯一の全詩集――ただし、実態は戦後の作品を重視した選詩集――として《吉岡実詩集》を出している)。吉岡の詩篇は入沢が編集委員の中心となって編んだ《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)で、入沢の詩篇は《入澤康夫〈詩〉集成 1951〜1994〔上巻・下巻〕》(青土社、1996)と、それ以降の《唄――遠い冬の》(書肆山田、1997)、《遐い宴楽〔とほいうたげ〕》(同、2002)、《アルボラーダ》(同、2005)、《かりのそらね》(思潮社、2007)をそろえれば、すべての詩集収録作品をカヴァーできる。
最初に見るべきは、《倖せ それとも不倖せ》と《静物》である。田野倉康一編〈入沢康夫年譜〉(《現代詩手帖》2019年2月号)には「一九五一年(昭和二十六年) 二十歳/〔……〕十二月 東京へ帰る。その五日後、後に『倖せ それとも不倖せ』の中核となる一連の詩ができる。」(同誌、八八〜八九ページ)とあり、《静物》の制作期間は1949〜55年だから、二人は1950年代前半、東京のどこかで処女詩集を構成する作品を書きついでいたことになる。むろん、詩集を出すまで相手の存在を知らなかったはずだ。あの「ジャジャンカ ワイワイ」の〈失題詩篇〉で始まる入沢の《倖せ それとも不倖せ》には〈挽歌〉という吉岡の《液體》に収められた〈挽歌〉(A・1)と同題の詩があり、《夏至の火》にも〈樹〉という吉岡の〈樹〉(B・6)と同題の詩がある。それらの対比も興味深いのだが、ここでは〈夜〉と〈仕事〉(C・4)を見ておきたい。〈仕事〉は、まさに吉岡実版〈夜〉(これはこれで、入沢が稲垣足穂を変奏したとしか思えないのだが)ではないか。

夜|入沢康夫

彼女の住所は四十番の一だった
所で僕は四十番の二へ出かけていったのだ
四十番の二には 片輪の猿がすんでいた
チューブから押し出された絵具 そのままに
まっ黒に光る七つの河にそって
僕は歩いた 星が降って
星が降って 足許で はじけた

所で僕がかかえていたのは
新聞紙につつんだ干物のにしん[、、、]だった
干物のにしん[、、、]だった にしん[、、、]だった

仕事|吉岡実

荷揚地は雨だ
玉葱と真昼のなかで
その男はいつも重い袋の下にいた
仲間は盲目の者ばかり
船からおろす荷の類
すべて形が女にちかいので
愉快にかついでゆく
ありあまる植物の力
はげしい空腹と渇き
やみから抽き出された
一つの長い管を通りぬけ
坐りこんだ臓物
その男は完全に馴致された
だが習性の眼は観察をあやまたぬ
見えていた百本の煙突が陸地から姿を消す
その男はいそぎ足で家路へ向う
独りの食事を摂り
卑猥な天体を寝床に持ちこむため
臭いシャツの背中を星が裂く
その男は川に平行された

「チューブから押し出された絵具 そのままに/まっ黒に光る七つの河にそって」と「その男は完全に馴致された」「その男は川に平行された」という詩句がそれぞれの作品の肝だが、〈夜〉を読むたびに〈仕事〉が、〈仕事〉を読むたびに〈夜〉が想い出されるのは、そこに独身者の瞋りがもうもうと立ちこめているせいだろうか。――といった調子で各詩篇を見ていったのでは、きりがない。ここからは入沢の長篇詩《わが出雲・わが鎮魂》に絞って、吉岡実詩との関連を考えてみたい。入沢にとって吉岡の〈波よ永遠に止れ〉(未刊詩篇・10)が特別な作品だったように(入沢康夫〈「波よ永遠に止れ」の思い出〉、《吉岡実全詩集》付録、筑摩書房、1996)、吉岡にとって《わが出雲・わが鎮魂》は特別な作品だった。吉岡は飯島耕一・岡田隆彦・佐々木幹郎との座談会〈思想なき時代の詩人〉の「一篇の長篇詩への夢」、そして入沢康夫との対談〈模糊とした世界へ〉で、次のように発言している。

吉岡 やっぱりぼくは眼の方[、、、]の人間でしょ。だから、全貌がいっぺんに、絵みたいに捉えられないと困るんだ。とはいっても、詩は詩であるからたいがい捉えられますよ。日本に長篇詩で、成功した作品は、きわめて少ないな。そのなかでは、入沢康夫の『わが出雲・わが鎮魂』が完成度が高いと思う。エリオットの『荒地』は五百行足らずだけど、これはやはりたいへんな長篇詩だと思う。(*2)(《現代詩手帖》1975年5月号〔特集=鈴木志郎康VS吉増剛造〕、一二八ページ)
                  …………………………
吉岡 ぼくは音痴なんですよ。音楽も意識的にあまり聴かない。区分されているとか、しっかりまとまったものでないと信用できないんです、自分の詩としては。だから、どうしても固いものになっちゃう。
入沢 ところが、片方に流れているような、移っていって変っていくようなものがあるということで、常識的な仮説をたてるとすれば、吉岡さんはわりとショー的なものがお好きでしょう、土方巽のものとか、ああいう舞台芸術がお好きだと思うんです。それらは音楽じゃないけれども、はこびがある。かたちが動いていって、造型的なものがリズミカルに展開するところは、案外今の吉岡さんの詩をつくっている二つの要素だと言えるんじゃないかな。つまり、彫刻的なもの、かたちへの関心と同時に、劇的なものでなくてショー的なもの――筋がこわれてしまって、内的な律動性みたいなものに導かれて動くもの――にとても惹かれておられる面がある。
吉岡 土方さんのものはまだ二つしか見ていないけど、あの舞踊は本当にびっくりした。ああいう世界はやはり詩でも絵でもないし、単なる芝居でもない、全然違ったものですよ。そういう詩はできるかどうかわからないけど、今後そういう何か新しいことがやれたらやってみたい。ところで、入沢君の「わが出雲」は非常に実験的な作品だね。
入沢 個人的な意味では大事な作品なんです。突き放して考えて、自分の作品のなかでいいものかどうかはよくわからないにしても。(*3
吉岡 あの志向する世界はぼくもわかるんですよ。土方さんへの詩で「青い柱はどこにあるか?」という作品があるんですが、相当日本的なものの要素が強いんですよ。ぼくも及ばずながら、相当日本的なもの、それはもともともっていたんだし、勉強してきた世界だし、万葉とか古今の世界とぼくたちの現在の世界との混合ができたら、そういう世界をつくりたいという感じなんですよ。少しずつそういう日本の古典をとりこんでいきたいと考えている。(《現代詩手帖》1967年10月号〔特集=吉岡実の世界〕、五六〜五七ページ)

前者の座談会は《サフラン摘み》の、後者の対談は《神秘的な時代の詩》の諸作を書きついでいた当時のもので、吉岡には自分なりの「長篇詩」への野心があったから(*4)、《わが出雲・わが鎮魂》は永いことそれをかきたてていた作品だったといえよう。さらに、吉岡が入沢の作品にこれほど執着した理由は「長篇詩」の面だけではなかった。それは「引用」の問題であり、「典拠」の方法だったと考えられる。「引用」と「典拠」の方はのちほど述べるとして、《わが出雲・わが鎮魂》は吉岡が入沢との対談で言及した土方巽に最後に捧げた追悼詩〈聖あんま断腸詩篇〉(K・12)の主題と構成に大きな影響を与えたと考えられる。同詩篇は《新潮》(1986年6月号)に「長篇詩――土方巽追悼」(標題の前にある)として、〔T 物質の悲鳴〕〔U メソッド〕〔V テキスト〕〔W 故園追憶〕〔X (衰弱体の採集)〕〔Y 挽歌〕〔Z 像と石文〕〔[ 慈悲心鳥〕の全196行が掲載された。《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》の〈補足的で断章的な後書〉には、本作が1986年4月15日(吉岡の67歳の誕生日である)に完成したとある(同書、筑摩書房、1987、二三九ページ参照)。196行は吉岡実詩において長篇詩〈波よ永遠に止れ――ヘディン〈中央アジア探検記〉より〉(この詩もまた、吉岡の41歳の誕生日に完成した)の11節257行に次ぐ長さであり、長篇詩の名に恥じない大作である。〈波よ永遠に止れ〉がその詞書にある訳書を典拠にして全体を構成しているのに対して、〈聖あんま断腸詩篇〉は末尾に「*この作品は、おもに土方巽の言葉の引用で構成されている。また彼の友人たちの言葉も若干、補助的に使わせて貰っている。」と註記があるように、書物に記されたものばかりではない、生の「土方巽の言葉」を取りこんでいる。いわゆる現代語で記された節以外を見ると、〔V テキスト〕(「葛[かづら]を被[かづき]て松の実を食み/〔……〕/地獄に堕ちむ」)は暗黒舞踏のフェスティバル「舞踏懺悔録集成」での講演のためのテキストをつくるときに、土方が参考にした《日本霊異記》――この日本の仏教説話集の始祖の底本は遠藤嘉基・春日和男校注《日本霊異記〔日本古典文学大系70〕》(岩波書店、初刷:1967年3月20日)であろうか(*5)――に拠る。〔Y 挽歌〕(箸向ふ/弟[おと]のごとき/君は旅立つ/〔……〕/噫乎[ああ]/闇夜なす/闇夜なす/闇……)は〈反歌〉(ひさかたの/天[あめ]の奥処[おくか]ゆ/日の照れば/さはに/利鎌[とかま]にさ渡る鵠[くぐひ])を伴い、双方ともに万葉写しである。これらの古語による節は「土方巽(自身)の言葉」でこそないが、〔V テキスト〕は、ほかならぬ土方が《日本霊異記》から引いた箇所である。そして、古式に則った弔歌の声調を示す吉岡の自作と思しい〈反歌〉の末尾「鵠[くぐひ]」は、白鳥の古名である。先走っていえば、「古代においては、鳥は霊魂を死者の国へ運ぶものと考えられていた」と〈わが鎮魂(自注)〉に書いた入沢は、生前最後の全詩集《入澤康夫〈詩〉集成 1951〜1994》の〔上巻〕巻頭に〈三保の鴎――序詩に代へて〉を置いて、〔下巻〕末尾の〈後記〉に置いた《漂ふ舟――わが地獄くだり》への「付言」とともに、死者に手向ける痛切なことばとした。私には、吉岡実が入沢康夫の《わが出雲・わが鎮魂》のレミニサンスのもとに――なぜなら詩篇を執筆するまえに読み返すまでもなく、吉岡の脳裡にはその主題と方法が刻まれていたに違いないから――土方巽を追悼する長篇詩を成したと思えてならない。そして、入沢康夫は〈聖あんま断腸詩篇〉にもある「霊魂を死者の国へ運ぶ鳥」と、そこにはない「舟」によって自身の全詩行を括り、残余の詩集はついに《入澤康夫〈詩〉集成》にまとめることはなかったのである。

 
入沢康夫《わが出雲・わが鎮魂〔普及復刻版〕》(思潮社、1969年2月15日、装画・装幀:梶山俊夫)の函と表紙〔初版(限定700部)は同、1968年4月1日〕(左)と同・本文一一ページ(右)

《わが出雲・わが鎮魂》初版(限定700部)は1968年4月1日、思潮社刊。その後、入沢の個人詩集(全詩集や選詩集)に何度も収録されたのは当然のことながら、《現代詩集〔現代日本文學大系93〕》(筑摩書房、1973年4月5日)には、初版を飾った梶山俊夫の装画を除いた入沢の執筆分が、〈「あとがき」〉まで完全収録された(ちなみに同書収録の吉岡実作品は、詩集《僧侶》全篇)。入沢が生前最後に目を通した版は、池澤夏樹個人編集になる《日本文学全集〔第29巻〕近現代詩歌》(河出書房新社、2016年9月30日)で、〈わが出雲〉と〈わが鎮魂(自注)〉は全篇が収められたが、〈「あとがき」〉は入っていない(付言すれば、1967年4月に〈わが出雲・わが鎮魂〉が発表された雑誌《文藝》は、ほかならぬ河出書房新社から出ている)。《近現代詩歌》は詩と短歌と俳句から選ばれた作品で構成されていて、詩の選者は池澤夏樹その人である。巻末の池澤の〈解説〉から引く。

 この巻の近現代詩の部分、ぼくのセレクションについては、これまでに読んで親しんできた詩を選んだと言うしかない。いわば一人の凡庸な詩の読者の記憶にある詩篇であり、多くは広く知られたアンソロジー・ピースである。(*6
 〔……〕
 その時々に書かれた詩を蓄えて一定の数になった時に一冊の詩集にするというのが通例だが、はじめからぜんたいの構想のもとに長詩を書くこともできる。長い詩は一個の世界を現出する。そういう大きな構想の成果として三つの詩集を収めた。すなわち――

  入沢康夫  『わが出雲[いづも]・わが鎮魂』
  谷川俊太郎 『タラマイカ偽書残闕[ざんけつ]』
  高橋睦郎[むつお]  『姉の島』

 入沢と高橋の作はどちらも『古事記』や『風土記[ふどき]』など日本の古典に多くを負っていて、伝統を継承する姿勢が顕著と言える。そういう土台の上に、入沢は亡くなった友人の魂を求める旅を出雲への帰還に重ね、高橋は女たちを軸にした一族の系譜を再現する。谷川は文化人類学を横目で見ながら偽のエスノグラフィー(民族誌)を構築する。
 この三作にはどれにも自注が付いている。二十世紀の詩でいちばんの傑作とされるT・S・エリオットの『荒地』で始められた方式で、本文をぎりぎりまで引き締めた上で溢[あふ]れるものをどう読者に手渡すか、その工夫の一つと言える。ぼくがこの全集の第一巻『古事記』で訳文に脚注を加えたのも同じ思いからだったかと今にして思う。詩を散文で補うという意味では歌物語の工夫に繋[つな]がっているのかもしれない。エリオッ卜と『古事記』の間に回路が通じる。文学の普遍性はそこまで広がっている。(同書、四六五〜四六八ページ)

というわけで、本稿では《わが出雲・わが鎮魂》の底本に《日本文学全集〔第29巻〕近現代詩歌》を択んだ。さて、〈わが出雲〉は13のパート(以下では章と呼ぶことにする)から成る。全篇をとりあげることはかなわないので、全体を代表する章として「U」を引く。せっかくウェブサイトに引用するのだから、〈わが出雲〉本文の該当箇所にリンクを張って、〈わが鎮魂(自注)〉に飛ぶようにしてみよう。なお、入沢の凡例的な文章にあるように、〈わが鎮魂(自注)〉中の「記」は「古事記」を、「紀」は「日本書紀」を指す(それらの底本は岩波書店の〔日本古典文学大系〕で、レンガ色の表紙のこの叢書は吉岡実の書斎にもあった)。

   〔〈わが出雲〉〕U

すでにして、大蛇の睛[め]のような、出雲の呪いの中にぼくはある。 米[よな]子[ご]空港 の滑走路は、ほおずきの幻でいつぱいだ。異国の男がずかずかと歩いている。あの男も天から来た。緑のひげを生やしたいかめしい男。背広の右の袖口から突き出ている氷の棒。左の袖にかくされた金属の棒。だが、いまは、そんな男に、かかずらつてはおれないのだ。外交問題はこの次にしよう。

屋代[やしろ]

安来[やすき]

舎人[とね]

大草[さくさ]

   出雲郷[あだかや]


すでにして、          土砂降りの国
 ぼく  は出        道に、真赤な
  雲の  呪い      草の実の幻
   の中  を西    なおも舞狂い、
    に走つている。 更に雨を呼び、
     フロント・グラスがばしや
      ばしや濡[ぬ]れる。まるで
       天鳥舟[あめのとりふね]。いや、む
        しろ、うつぼ
       だね、と思う間
      に、その雨があがつて
     夕陽がまともに照りつける。
   (気違い天気だ) 意宇[おう]平野の北
   一匹  の犬    のはずれ、
  が死  人の      宇の川血み
 腕を  銜[くわ]え        どろの入[い]り海
て走つている。         に注ぐあたり、

                      ただ
                      
                      
                      むきに――

                      その犬はや


何をしに出雲に来たのか友のあくがれ出た魂をとりとめに来たのだ。わが友、うり二つの友時間の、闇の中で、鳰鳥[におどり]のようにほの白く笑う、若くして年老いた神。みずから放つた矢に当つて、喪山[もやま]の藪かげにとり落され、見失われたという、その魂を。


すべてがすべてと入り混り、侵し合う、この風土を怖[おそ]れていては、望みを果たすことなど到底できない。ぼくを乗せたセドリックは、ついに松江の街に入る。ああ、見よ。わがふるさと、十余年ぶりの。だが、ここにも、直として数多[あまた]の道路の新開し、家々は軒を高くしあざとい夢のかけらで、その軒々を飾り立てている。思惟[しい]を返すどころのいとまもなく、月並みの感傷にふけるゆとりもなく、親友の魂[たま]まぎに乗り出さねばならない。


    闇の海の
    鳰鳥
    ほの白い笑い
    若くして年老いて
    とり落されて
    見失われて
    うり
    なすび


車は大きく傾斜し、第四のどぶ川を渡つて、

この贋[にせ]のふるさとの奥の院へと突入する。

………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

   〔〈わが鎮魂(自注)〉〕U

大蛇の睛[め]……ほおずきの幻 「記」上に、
 「是[ここ]に高志[こし]の八俣遠呂智[やまたのをろち]なも、年毎に来て喫[く]ふなる。今其[そ]れ来ぬ可[べ]き時なるが故[ゆゑ]に泣くと答白言[まを]す。其の形は如何[いかさま]にかと問ひたまへば、彼[それ]が目は赤加賀智[あかかがち]如[な]して、身一つに八頭[やつかしら]八尾[やつを]有り。」
 なお、日本本州の形を一匹の爬虫類[はちゆうるい]にみたてれば、出雲地方はその眼の部分に、そして特に中海[なかうみ]宍道湖[しんじこ]の部分は瞳にあたる。
 眼力による呪縛については、東西古今にわたって伝承は多いが、この部分を書くとき、私が想い浮かべたものの一つに、キプリングの『幽霊屋敷』があった。

米子[よなご]空港 中海と日本海をへだてている細長い弓ヶ浜半島にあるこの空港は、自衛隊美保基地の一部であり、このため地方空港としては屈指の設備の良さを誇っている。弓ケ浜半島は「風土記」の時代には、その根元で本土から離れた砂洲[さす]であり、「夜見の島」と呼ばれていた。国引きの神話においては、八束水臣大神[やつかみずかみおほかみ]の用いた綱の一本とされている。現在は半島の先端から、フェリーボートで島根半島東端にある美保関に連絡されている。

異国の男……緑のひげ 「緑のひげ」には岑参[しんしん]の「胡笳[こか]歌 送顔真卿使赴朧西」のレミニッサンスが働いていた。ただし、そこでは「君不聞胡笳声最悲/紫鬚緑眼[、、、、]胡人吹」であるが。

氷の棒……金属の棒……外交問題 「神代記」国ゆずりの段からの借用。
 「……建御[たけみ]名方神[なかたのかみ]、千引石[ちびきのいは]を手末[たなすゑ]にフ[ささ]げて来て、誰そ我が国に来て、忍び忍びに如此[かく]物言ふ。然[しか]らば力競[ちからくらべ]為[せ]む。故[かれ]我先[ま]づ其[そ]の御手[みて]を取らむという。故[かれ](建御雷神[たけみたづちのかみ]が)其御手を取らしむれば、即[すなは]ち立氷[、、]と取り成し、亦[また]、劔刃[、、]に取り成しつ。……」
 これもまた出雲族の天孫族に対する敗退の物語である。米子空港に関してこの挿話が想起されるのは、場所が空港であることのほか、前記の如[ごと]くフェリーボートで連絡している美保関と言代主神[ことしろぬしのかみ]との関連。天から国ゆずりをすすめる使いの神が降[くだ]った際、言代主は美保関(三穂埼)へ魚釣り(鳥の遊びともいわれる)に行っていたが、しらせをうけていち早く恭順の意を表し、建御名方は争って、屈服させられる。しかし、この言代主も建御名方も、実は出雲本来の神ではなく、「記」「紀」成立の頃に出雲に附会されたのであるともいわれる。

屋代[やしろ]/安来[やすき]/舎人[とね]/大草[さくさ]/出雲郷[あだかや] 屋代から大草までは「出雲国風土記」意宇郡の部の地名を採用。これらは、いずれも米子・松江間の中海の南側の古い郷名だが、必ずしも米子から松江へのコースに一致はしない。安来は現在は安来[やすぎ]市。出雲郷[あだかや]は、松江市東方の一村名だったが(現在は東出雲町出雲郷[あだかえ])、その読み方の奇妙さ故に、強い印象があるので、ここに併せて用いた。

すでにして/ぼくは…… この一節の文字によって作られたバッテン形は、神社の屋根にある千木[ちぎ]をかたどったもの。ちなみに、千木は、上端が縦にそいであるものは男神の社を、水平にそいであるものは女神の社を、それぞれ表わしている。既[すで]は素手と音通。

真赤な草の実の幻 「草の実」という以上、やはり、前出の「ほおずき」であるはずだが、ここで私の意識に上っていたのは、むしろ次の一首だった。
  「風の夜は暗くおぎろなし降るがごとき赤き棗[なつめ]を幻覚すわれは」 (北原白秋)
 かつて愛読した『白南風[しがはえ]』の中でも、この歌の印象はなぜか強烈で、「夜はなつめの実が雨のように降つた」(「火曜日」)、「赤いなつめの実の亡霊がひとしきり降りそそぐとき」(「われらの旅」)等、私の作品の中に何度か影を落している。

天鳥舟[あめのとりふね] 前出の、大国主神の国ゆずりの際、天から降った使者は、「記」によれば建御雷神と天鳥舟神[あめのとりふねのかみ](「紀」では建御雷神と経津主神[ふつぬしのかみ])であった。鳥のように早い舟の神格化されたものであろう。「紀」では、美保関へ言代主神をむかえに行く舟が天鳥舟(熊野の諸手[もろた]船、亦[また]の名を天鴿[あめのはと]船)である。
 なお、古代においては、鳥は霊魂を死者の国へ運ぶものと考えられていたことについては、岩波大系本『紀』上、補注2―六、参照。

うつぼ舟 柳田国男「うつぼ舟の話」「うつぼ舟の王女」や、折口信夫[おりくちしのぶ]「石に出で入るもの」参照。この最後のものには、うつぼ舟と「さみなしにあはれ」との関係も説かれている。うつぼ舟的発想は、すでにエジプトのオシリスとイシスの神話にも見られる。

一匹の犬が死人の腕を…… 「紀」斉明帝五年の条に、
 「是歳[このとし]、出雲国造[いづものくにのみやつこ]〔名を闕[もら]せり〕に命[おほ]せて、神の宮を修厳[つくりよそ]はしむ。狐、於友郡[おうこのこほり]の役丁[えよほろ]の執[と]れる葛[かづら]の末を噛[く]ひ断ちて去[い]ぬ。又、狗[いぬ]、死人[まかれるひと]の手臂[ただむき]を言屋社[いふやのやしろ]に噛[く]ひ置けり。〔言屋、此[これ]をば伊浮〓【「王」偏に「耶」】[いふや]といふ。天子の崩[かむあが]りまさむ兆[きざし]なり。〕」
とある。ここで、「神の宮」は出雲の熊野大社(後出)のこと。「言屋」は、「記」伊邪那岐命[いざなぎのみこと]のコトドワタシの段に「……謂[い]はゆる黄泉比良坂[よもつひらさか]は、今、出雲の国の伊賦夜[いふや]坂と謂ふ。」とある、その伊賦夜と同じで、現在、国鉄(現JR)山陰本線の揖屋[いや]駅(松江より米子へ向って二つ目)附近とされる。
 また、この「犬の銜[くわ]えた死人の腕」には、エリオットの『荒地』I「死人の埋葬」の最後の部分の想起がからまっている。
  「昨年君の畑に君が植えた
  あの死骸から芽が出はじめたかい?
  今年は花が咲くかな?
  それとも苗床が不時の霜[しも]にやられたか。
  オー、人間の親友だが、犬を其処[そこ]へよせつけないこ
  とだ、また爪で掘りかえしてしまうよ!」 (西脇順三郎氏訳)

意宇[おう]の川  松江の東方で中海に入る川で、現在はイウガワまたはアダカイガワと言う。「万葉集」には、この川およびその注ぐ入海を歌った門部王[かどべのおおきみ]の歌が二首ある。
  「飫宇[おう]の海の河原の千鳥汝[な]が鳴けば吾[わ]が佐保川の念[おも]ほゆらくに」 (三・三七一)
  「飫宇[おう]の海の潮干の潟の片念[かたも]ひに思ひや行かむ道の長手を」 (四・五三六)
 意宇川流域は、もと出雲国造家のあった地として、古代出雲の政治的中心地であり、国分寺や国府もここに置かれた。

血みどろの入[い]り海[うみ] 前注の如く、「入り海」は中海である。もっとも、「出雲国風土記」では、中海、宍道湖ともに「入海」と呼ばれている。「血みどろの」は夕陽の海だが、同時に、既出のヤマタノヲロチの眼、および次の如き描写の想起がある。(いずれも「神代記」)
 「其[そ]の腹を見れば、悉[ことごと]に常[いつ]も血あえ爛[ただ]れたり。」
 「其の蛇[をろち]を切り散[はふ]りたまひしかば、肥河[ひのかは]血に変[な]りて流れき。」
 あえて、『マクベス』二―二の有名なせりふを持ち出すまでもあるまい。

ただ/ひ/た/むきに―― 本来の語意のほかに、「腕→ただむき」の連想が働いている。

その犬はや  「……はや」から最初に思い浮かぶのはヤマトタケルの「あづまはや」であるが、「出雲国風土記」秋鹿[あいか]郡伊農郷の条には、
 「天〓【「瓦」偏に「長」】津日女命[あめのみかつひめのみこと]、国巡り行[い]でましし時、此処[ここ]に至りまして、詔[の]りたまひしく、『伊農[いぬ]はや』と詔りたまひき。故[かれ]、伊努[いぬ]といふ。」
とある。この「伊農はや」は岩波大系本『風土記』注によると「伊農の神さまよと男神に呼びかけた詞」という。また加藤義成氏『〔出雲国風土記〕参究』によれば。「伊農はやの伊農は出雲郡伊努郷のこと。(……)夫神のおられる出雲郡の伊努郷を望んで懐慕の情を発せられたというのである」と。

何をしに出雲に…… 既出、「神代記」大国主神の国ゆずりの段における建御名方神の問いのかすかな反影。

友のあくがれ出た魂をとりとめに…… 《魂[たま]まぎ》のテーマは、本篇の縦糸の一つだが、このテーマに関してはなおアリオストの『狂えるオルランド』なども参照。

うり二つの友 《相似者[ソジー]》あるいは《分身[ドウブル]》のテーマは、古来各国文学に実に多いがここでは特に「記」「紀」の天若日子[あめのわかひこ]の葬儀の段、およびウェルギリウス『アエネーイス』(六・一一九〜一二四)、中世説話の『アミとアミレ』、ネルヴァル「カリフ・ハケムの物語」(『東方旅行記』所収)、ポオ『ウィリアム・ウィルソン』等を意識していた。

時間の、闇 ここでは必ずしも直接の関係はないが、フランス語のla nuit des tempsは「大古」「有史以前の暗黒時代」の意で用いられる。

鳰鳥[におどり] ニオ科カイツブリ。
  「鳰鳥[にほどり]の潜[かづ]く池水こころあらば君に吾が恋ふ情[こころ]示さね」 (「万葉集」四・七二五)
  「……鳰鳥のなづさひ行けば 家島[いへしま]は 雲居に見えぬ 吾が思へる 心和[な]ぐやと 早く来て 見むと思ひて……」 (同右、一五・三六二七)
 なお、「鳰鳥の」は「かづく」「かづ」「なづさふ」等のほか、「並び居」にもかかる枕詞[まくらことば]。また「鳰の浮巣[うきす]」は不安定なもののたとえ。ここで「鳰」はまた「匂ふ」との音通により、「ほの白く」へとつらなる。
 私が幼時しばしば遊びに行った松江城の堀には、いつもカイツブリがいて、もぐったり浮んだりしていた。今ではその堀もかなり埋立てられ、残った部分には、今度行って見ると白鳥が泳いでいた。

若くして年老いた神…… 以下二行、天若日子伝説よりの借用。
 天若日子は、出雲に使いに降りながら八年も復命しない。そこで様子を見に来た雉[きじ]の嗚女[なきめ]をも、彼は射殺してしまう。矢は天にまでとどき、逆に投げ返されて、天若日子はその矢で死ぬ。天若日子の葬儀に親友の阿遅志貴高日子根神[あぢしきたかひこねのかみ]が弔問するが、この二柱の神は姿が実によく似ていたので、遺族から死人が生き返ったとかんちがいされる。阿遅志貴高日子根はそれに腹を立て、「御佩[はか]せる十掬劒[とつかつるぎ]を抜きて其の喪屋[もや]を切り伏せ、足以[も]ちて蹶[く]え離ち遣[や]りき。此[こ]は美濃国の藍見河の河上の喪山[もやま]ぞ。」(神代記)
 また、自分の放った矢が天から投げ返されて、自分が死ぬ話は。前出バベルの塔のニムロデに関するヘブライ古伝説にもある。
 折口信夫『死者の書』にも、天若日子伝説は挿入されている。
 ボードレール「憂欝」の次の詩句も参照。
  「僕はあたかも雨ふる国の王にも似ている。
  富みながらしかも力なく、年若くしかも既に老いて、」 (福永武彦氏訳)

セドリック 国産乗用車の一の商品名だが、また、バーネットの『リトル・ロード・フォントルロイ』の主人公として、前出「うつぼ舟」にまつわる《貴子遊行・貴人流浪》のテーマと、かすかに照応する。

ああ、見よ…… 以下、萩原朔太郎[はぎわらさくたろう]の「小出新道[こいでしんどう]」のパロディ。

闇の海の…… 以下六行は、前々節のイメージの復帰だが、ここでは芭蕉の句のあいまいなレミニッサンスによって再構成されている。すなわち、
  「海くれて 鴨の声 ほのかに白し」
  「此秋[このあき]は 何で年よる 雲に鳥」
  「秋さびし 手毎[てごと]にむけや 瓜茄子[うりなすび]」
 若くして、年老いて、――とり落されて、――見失われて、→手毎[てごと]にむけや。「うり」はまた「うり二つ」の「うり」でもある。この部分、「文藝」に発表の時は、芭蕉の句を「手毎[たごと]」と覚えていたので、「年老いた――落された――見失われた」となっていたか、「手毎[てごと]」が普通らしいので、こう改めた。しかしなお「……た」にも未練なしとしない。
 なお八重垣[やえがき]神社(後出)には芭蕉の句碑があり、その句は、
  「和歌の跡 とふや出雲の 八重霞[やへがすみ]」

第四のどぶ川 国道をはずれて、堀の多い松江市内を北の端まで行く際には、大ざっぱに言っても、天神川、大橋川、京橋川、北堀川などの川や堀を越えねばならない。しかし、ここでは必ずしもこれらの川や堀を指すわけではない。次注参照。

U章の本文と自注を掲げたが、その構想の大なるに圧倒されない者がはたしているだろうか。なんといってもこの章で鬼面人を驚かすのは、自注に「この一節の文字によって作られたバッテン形は、神社の屋根にある千木[ちぎ]をかたどったもの」とある千木(神社の聖性を象徴する)の文字による再現である。入沢はいったいこれをどのように発想して、執筆したのだろうか。ある詩想を得て、それが千木の形をとらなければならないと考える。あるいは千木の形が浮かぶと同時にある詩想がわく。それは瞬時に入沢を襲ったのではあるまいか。この節が熟考を重ねてなったとは、どうしても思えないのだ。では、それをどう定着するか。私ならまず、原稿用紙の文字になるべきマスを黒く塗ってみる。

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完成した本文には句読点(。、)だのパーレン(( ))だのが含まれていて、6文字を1単位とするこのユニットの文字数そのままではないが、これは

すでにして、ぼくは出雲の呪いの中を西に走つている。
土砂降りの国道に、真赤な草の実の幻がなおも舞狂い、更に雨を呼び、
フロント・グラスがばしやばしや濡れる。まるで天鳥舟。いや、むしろ、うつぼ舟だね、と思う間に、その雨があがつて夕陽がまともに照りつける。
(気違い天気だ)一匹の犬が死人の腕を銜えて走つている。
意宇平野の北のはずれ、意宇の川が血みどろの入り海に注ぐあたり、

という字面からはけっして伝わってこない、ある種、呪術的な節である。――話をややこしくするようだが、上掲の文字列はひとつの読み方にすぎない。寺田透が「中心部の七行が右から左下に読み下すときも、右から左上に読み上るときも、右から左へ読み上る途中で左へ読み下るときも、四度とも有意味に読まれる「バッテン形」をゑがくし、」(入沢康夫《わが出雲・わが鎮魂〔復刻新版〕》帙、思潮社、2004年7月10日、〔二ページ〕。初出は《現代詩手帖》1968年7月号の同書の書評)と書いた
  @右から左下に読み下すとき
  A右から左上に読み上るとき
  B右から左へ読み上る途中で左へ読み下るとき
のBがわからない。詩句は右から左に並んだものとして、自分なりに読むならば、

すでにして、ぼくは出雲の呪いの中を西に走つている。
フロント・グラスがばしやばしや濡れる。まるで天鳥舟。いや、むしろ、うつぼ舟だね、と思う間に、その雨があがつて夕陽がまともに照りつける。
意宇平野の北のはずれ、意宇の川が血みどろの入り海に注ぐあたり、
土砂降りの国道に、真赤な草の実の幻がなおも舞狂い、更に雨を呼び、
〔フロント・グラスがばしやばしや濡れる。まるで天鳥舟。いや、むしろ、うつぼ舟だね、と思う間に、その雨があがつて夕陽がまともに照りつける。〕
(気違い天気だ)一匹の犬が死人の腕を銜えて走つている。

すでにして、ぼくは出雲の呪いの中を西に走つている。
フロント・グラスがばしやばしや濡れる。まるで天鳥舟。いや、むしろ、うつぼ舟だね、と思う間に、その雨があがつて夕陽がまともに照りつける。
(気違い天気だ)一匹の犬が死人の腕を銜えて走つている。
土砂降りの国道に、真赤な草の実の幻がなおも舞狂い、更に雨を呼び、
〔フロント・グラスがばしやばしや濡れる。まるで天鳥舟。いや、むしろ、うつぼ舟だね、と思う間に、その雨があがつて夕陽がまともに照りつける。〕
意宇平野の北のはずれ、意宇の川が血みどろの入り海に注ぐあたり、

そして、最後(にして四通りめ)はやや無理筋なのだが、

すでにして、ぼくは出雲の呪いの中を西に走つている。
(気違い天気だ)一匹の犬が死人の腕を銜えて走つている。
フロント・グラスがばしやばしや濡れる。まるで天鳥舟。いや、むしろ、うつぼ舟だね、と思う間に、その雨があがつて夕陽がまともに照りつける。
土砂降りの国道に、真赤な草の実の幻がなおも舞狂い、更に雨を呼び、
意宇平野の北のはずれ、意宇の川が血みどろの入り海に注ぐあたり、

となろうか。さらに入沢は、XII章の終わりでは6文字を1単位とするユニットを次のように展開して、コーダを鳴り響かせる。本文と自注を引く。

   小さな光 そ
  れがぼくの求めて
 いたもの わが親友の
魂で ぼくはそれを 血も
 凍るおもいで 両のて
  のひらに そつと
   すくい上げた

小さな光…… 以下の七行で作られた六角形は、出雲を知る人なら、出雲大社の神紋(六角形の中に大[、]の字)を想起されるかもしれないが、神紋というなら、私はむしろ神魂神社のそれ(六角形の中に有[、]の字)をあげたい。(なお、この神紋について、神魂神社の案内文では、「有」の字は神在月の十月[、、]の二字から合成されたものと説明している。)

入沢が〈わが鎮魂(自注)〉で言及した主な文献は以下のとおりである(初出分のみ掲げ、読みがなは省略し、底本の表示は割愛した。U章は上に全文を引いたので、省略に従う)。

「出雲国風土記」
「古事記」
「日本書紀」

T
鳥越憲三郎『出雲神話の成立』
「景行記」
「崇神紀」
「旧約〔聖書〕」
「神代記」
「常陸国風土記」
「出雲国造神賀詞」
加藤義成『出雲国風土記参究』
「神楽歌」
能「葵上」
源氏物語「夕顔」
「伊勢物語」
ダンテ『神曲』
旧約聖書「創世記」

V
『アエネーイス』
高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』
『オデュッセイア』
〔萩原〕朔太郎「地面の底の病気の顔」
芭蕉
新村出『辞苑』

W
「催馬楽」
折口信夫『死者の書』
山部赤人
大林太良『日本神話の起源』
新約「ヨハネ伝」
ビュトール「詩と小説」
「尾張国風土記・逸文」
蒲原有明「佐太大神」

X
小泉八雲『知られざる日本の面影』
石川淳「小林如泥」

Y
『ハムレット』
柳田国男「一目小僧」
テオフィル・ゴーチエ『死霊の恋』
オウィディウス『転身物語』
宮沢賢治「北守将軍と三人兄弟の医者」
ネルヴァル『オーレリア』
宮沢賢治「よく利く薬とえらい薬」
野尻抱影『新星座巡礼』
折口信夫「文学と饗宴と」
三品彰英「帰化人の神話」
「万葉集」

[
安西均「古代の笑劇」

\
謡曲「隅田川」
ゲーテ『ファウスト』
アポリネール「腐って行く魔術師」
「グリム童話集」
ベヤリング・グウルド『民俗学の話』

]
ポオ「アル・アーラーフ」「フェアリー・ランド」

XII
ボードレール「虚無の味」
「仁徳紀」
ジイド『テゼー』
「伯耆国風土記・逸文」

XIII
三好達治「春の岬」
西脇順三郎「旅人かへらず」
「播磨国風土記」

拾いもれもあるだろうが、入沢が挙げた作品名・書名、自注中で引用した文章の出典名はこうしたものだった。興味深いことに、入沢は〈わが出雲〉本文の詩句には引用であることを明示する鉤括弧(「 」)は一箇所もなく、ギュメ(《 》)が会話を表したり、強調であることを表したり、引用であることを表したりしている。入沢のこの注の付けかたは、〈わが鎮魂(自注)〉のU章にも登場する、西脇順三郎訳のエリオット『荒地』の原注(すなわち西脇訳)と訳注(すなわち西脇執筆)を合わせたもののように見える。これに対して、吉岡実詩における引用とその出典の表示は、鉤括弧(「 」)やもろもろの括弧類で括って引用であることを明示し、個個の詩篇のあとに

*作者名(訳者名)《書名》を引用している。

というスタイルを基本形としていて、どちらかといえばエリオット《荒地》の原注方式である。この点においては、入沢のほうが過激であり、吉岡のほうが簡潔である。言い換えるなら、吉岡実詩――たとえば土方巽を追悼した〈聖あんま断腸詩篇〉(K・12)――に入沢方式の註を付けるのは、作者の吉岡ではなく、読者の役目だということになる。だが詩句の引用のレベルまではともかく、先行する作品のレミニサンスの指摘は、往往にして憶測の域を出ないことになる。そして、用意周到に付された入沢の自注も、読者には「そこから先」を読むことが求められているわけで、一筋縄でいかないことに関しては、どちらがどちらとも言えない。

吉岡が入沢の詩について語ったそれほど多くない発言の中に、《わが出雲・わが鎮魂》の次の詩集《声なき木鼠の唄》に収録された詩篇〈『マルピギー氏の館』のための素描〉に触れた文章、すなわち〈飯島耕一「見えるもの」・他〉(《現代詩手帖》1967年12月号)がある。全文を省略せずに掲げよう。

 今年の問題作は何かと問われても、簡単に答えられない。なぜなら、多く読んでないし、前半期の作品で失念したものがあるだろうから。記憶にあるままあげると、連祷千行の長篇詩―高橋睦郎《讃歌》(改題して「頌」)。白石かずこ《My Tokyo》。吉増剛造《波のり神統記》。鈴木志郎康の〈プアプア詩〉の終末篇《番外私小説的プキアプキア家庭的大惨事》。入沢康夫《『マルピギー氏の館』のための素描》。しかし一番印象にのこるのは、飯島耕一の連作詩《見えるもの》。それにつづく、近作《私有制にかんするエスキス》であろう。詩集《何処へ》の体験的世界から一転して、シュールレアリスムへの回帰というより、新しい面からの果敢な挑戦を試みている、二つの連作詩――実験的不安定さと奇妙に均整を保ちつつ大きく育成される詩的現実を注視している。(同誌、六四ページ)

《現代詩手帖》1967年2月号に「長篇詩」として発表された入沢の〈『マルピギー氏の館』のための素描〉を吉岡がどう読んだか記されていないのは残念だ(ちなみに吉岡は、同じ号に詩篇〈恋する絵〉を寄せている)。「1 蚕」から「29 反響」までの各パートのうちで、いかにも入沢康夫詩らしいパートは、次の「17 定義」だと思われる。

 たとえば、この館を《さかさまにされたノアの方舟》と定義するのはいかにも気のきいたことのようだが、これは定義にも何もなっていない。いや、いかなる定義をもはねのけ、マルピギー氏の館は断固として実在する。その《在ること》によって、無数の矛盾や撞着(と、ひとの目には見えること、見えないこと、見えないと見えること)を蹂躙しながら。

この、一見きわめてニュートラルな散文と見紛う文体が曲者だ。吉岡が〈『マルピギー氏の館』のための素描〉と同系列の先行作品《ランゲルハンス氏の島》を「コント」ではなく「詩」と評したのは卓見だった。安藤一郎・中桐雅夫・吉野弘・小海永二・秋谷豊・安西均・村野四郎・草野心平との座談会〈第13回日本現代詩人会H氏賞選考委員座談会〉(《詩学》1963年7月号〔H氏賞特集〕)の「選考経過」で、吉岡はこう述べている。

 吉岡 ぼくは、四冊の詩集を読んでみましたが、〔……〕結論的には入沢君の詩集〔『ランゲルハンス氏の島』〕とおもいました。この詩集は、最初のころ私、コントだと、そういう考えでみておりましたが、よく読んでみますとまぎれもない詩なのです。詩でなければ書けないきびしい皮肉というか、軽妙なユーモアがただよつています。ほんとうの意味のユーモアがあるのは入沢君の詩が一番です。苦いユーモアであるかもわかりませんけれども終始たのしく書いている。入沢君の以前にかいた詩は苦しんでかいていましたが、この詩集はたのしみながら書いています。詩は、苦しんで書くのもいいんですけれども、楽しんで書き、できたものの完成度が高いというものもあります。そういう詩を入沢君は書いているのだとおもいます。入沢君がどういう世界を描いているのかはつきりわからないけれども、こんどの候補になつた詩集のなかではずばぬけているとおもつて入沢君を推しました。〔……〕(同誌、四九ページ)

入沢康夫・落合茂《ランゲルハンス氏の島》(私家版、1962年7月1日)の表紙とジャケット 入沢康夫・落合茂《ランゲルハンス氏の島》(私家版、1962年7月1日)の「7」の絵
入沢康夫・落合茂《ランゲルハンス氏の島》(私家版、1962年7月1日)の表紙とジャケット(左)と同「7」の絵(右)

吉岡はここで、「楽しんで詩を書く」というおよそ《僧侶》のころの作風からは信じられないような姿勢の転換を語っている。この発言は《紡錘形》(1962)刊行の翌年、のちに《静かな家》(1968)にまとまる作品を書きはじめたころになされたものであり、《僧侶》(1958)が人妻との失恋(彼女は吉岡の親友・吉田健男の初恋の人として、健男が年上の女性と心中したあと、吉岡のまえに運命的に現れたが、太田大八夫人・十四子さんに依れば、その夫はイトコだっため子供をつくらなかったという)のはてに生みおとされたのに対して、陽子夫人との、40歳という晩い結婚を経て家庭的にも落ち着いた環境から生みだされた、という違いは大きい。独身時代は、寝床に腹這いになって周りに本の山を築いて詩作した、と吉岡はどこかで語っていた。一方、家庭をもってからは、食卓のうえに原稿用紙を拡げて詩を書いたとも語っている。この姿勢の違いは大きい。ちなみに私は、原稿の執筆にはパソコンを用いる。四囲に書籍や雑誌、コピーを綴じこんだファイルを収めた棚を張りめぐらした、肘掛けのある事務椅子に坐るためには、F1レーサーがコックピットに潜りこむようにして、定位置にたどりつく必要がある。資料の内容を盛りこんだ草稿は、A4の用紙に2面付けでプリントしたゲラをクリップボードに挟んだ状態にして、ベッドに横たわりながら(ということは、だいたいが就寝の前)、赤と緑の水性ボールペンを使って、手を入れていく。私がいちばん充実を覚えるのは、この初校への赤入れのときだ。第一稿の産みの苦しみは、ここで報われる。言いわすれたが、引用文や出典表示は、縦書き出力したプリントアウトを執筆のときと同じ姿勢で、照合する。原則、書くときは垂直で、読むときは水平で。これらの作業の流れは、吉岡実が陽子夫人とふたりで行ったものと(パソコンと手書きの差はあるものの)、大きく隔たったものではない。決定的な違いは、私が音楽をあたかも酸素かなにかのように必要としていることだ。書くときのBGMは、CDかMDをスピーカーで鳴らし、読むときのBGMは、MD(CDのコピー以外に、自分でつくったコンピレーションもある)をヘッドフォンで。なお、外出時を含めて、スマホで音楽は視聴しない。私が本格的に読書を始めたのが高校時代、なにか書きはじめたのが大学受験前のころだったのに対して、ロックやポップスに目覚めて、ギターをいじりはじめたのが中学時代。BGMにおいても、音楽とは正対しなければならない。おそらく吉岡にとっての視覚芸術に相当するのが、私の場合、音楽なのだ。あだやおそろかにできない。

ここで余談を少し。ほぼ同時期に詩的出発を遂げた吉岡実と入沢康夫は、文学賞の選考委員を務めた際に、吉岡は入沢の、入沢は吉岡の詩集を推して、賞の受賞に至ったり至らなかったりしている(詳細は〈吉岡実と文学賞〉を参照)。

  先述のように、吉岡は1963年、第13回日本現代詩人会H氏賞の選考で入沢の詩画集《ランゲルハンス氏の島》を推すも授賞にいたらず。
  入沢は1976年12月、第7回高見順賞の選考で吉岡の《サフラン摘み》を推して授賞。
  吉岡は1983年1月、第13回高見順賞の選考で入沢の《死者たちの群がる風景》を推して授賞。
  入沢は1984年3月、第4回詩歌文学館賞の選考で吉岡の《ムーンドロップ》を推すも吉岡が受賞を辞退。

《死者たちの群がる風景》全Y章のふたつめは〈U 潜戸へ・潜戸から――二人の死者のための四章〉。詩篇本文のあとには、小字で

(本章は全体が大岡信『潜戸へ・潜戸から――二人の死者のための四章』の引用である。)

と註記のある、その衝撃。大岡の書いた文章を自身の作品に繰りこむ入沢も入沢だが、それを承知した大岡も大岡である。ちなみにこの二人は同年の生まれ。

その詩から見た吉岡実と入沢康夫の関係の大要は、上のとおりである。これ以降、私の〈吉岡実〉と入沢康夫の関係に触れても、謗られることはないだろう。私が入沢の著作で最も影響を受けたのは、その詩集からではない。私は詩作を廃した人間である。このサイトをご覧のかたにはすでにおわかりのことだろうが、それは《宮沢賢治――プリオシン海岸からの報告》(筑摩書房、1991年7月25日)である。同書の白眉〈詩集『春と修羅』の成立〉を読まなければ、それに鼓舞されなければ、私は〈吉岡実詩集《静物》稿本〉をあのような形でまとめようという気は起こらなかっただろう。ここには詩人・詩論家としての入沢康夫はもちろん、1年半という短い期間ではあったが、筑摩書房で吉岡実と机を並べた出版人としての経験が丸ごと投影されている。入沢の最良の部分が表れた文章として、同文を第一に挙げる所以だ。巻末の入沢康夫の〈覚え書〉(同書、四八五〜四九〇ページ)は次のようなものである。私が本サイトに執筆した文章が基本的に《雑感》であり、そのときどきの《報告文》である点、〈覚え書〉の「補注」――重要なもののみ引いた――がしばしば(頻繁に?)試みる私の〔追記〕の先例である点など、数えあげればきりがない。ことほどさように、同書の構造・構成はウェブサイトと親和性が高いのである。

 ここには、私がこれまで宮沢賢治について多少とも公の場で書いた散文のほとんどすべてが集められている。(「ほとんど」といったのは、あまりにも言及が断片的なものや、内容にいちじるしく重複のあるもの、さらに全集や選集の解説として書かれていて本文がなければ意味を持たないものなど、そうした何点かが省いてあるためである。)
 これらの文章は、一賢治作品愛読者の折にふれての《雑感》か、さもなければ(このほうが量的には遥かに多いのだが)、一九七〇年代以降何度かの賢治全集の編集に参加した者としての《報告文》であって、研究論文とか評論とか呼ばれるには価しないものばかりである。それを、今回一巻にまとめるのは、したがって、「私の賢治論」を世に問おうという意味合いからでは毛頭ない。上記のような内容からいって、これが、ひょっとしたら、過去から今日までの《賢治受容の歴史》の一側面に対して、限られた角度からではあれ、ある程度の照明を当てられる、そういった意味での《資料》にはどうやら成り得るのではなかろうかと、ふと思ったからにほかならない。
 この観点で編まれた本書は、序に代えて巻頭に置いた一文と、巻末にまとめた短い時評・書評群とを除いて、完全に書かれた順序にしたがって配列されている。TからVの章分けは、Tは、私が『校本宮沢賢治全集』の仕事に携わるよりも以前に(つまり、賢治の原稿の実態について、ほとんど知るところなしに)書いたもの、Uは、上記全集に関わる編集校訂作業と、それと直接につながる後始末の時期、そしてVは、それ以後今日までのもの、といったつもりでなされてある。
 このうち、Uに属するものには、それらがさまざまに異なった場所に書かれた《報告文》であるという性格上、同一事項の繰り返しや、重複がそこここに見られるが、あまりにも甚だしい箇所一二を除いて、そのままにしてある。これも《資料》としての「現場感」を生かしたかったためである。また、連載物の一部であるため、それだけ読むと書き出しが唐突な感じがするといったものも、あえて補訂していない。体裁上や混乱を避けるための、やむを得ない手入れは最小限ほどこしたが、記述の内容に関しては、現在の目で見て訂正を要すると思う箇所も手を加えず、以下で若干の補注をこころみるだけにする。繰り返すが、それぞれの文を、過去に行なわれた発掘調査の報告資料のごときものとして(文末に記した発表時期も考慮に入れつつ)お読み頂ければ幸いである。
・「四次元世界の修羅」  本来はUのパートに属すべきもの。この文に関しては、金子務氏著『アインシュタイン・ショック』Uの一五四ページ以下を参照されたい。
〔……〕
・「『銀河鉄道の夜』の発想について」  注*8の中で「イギリス海岸」草稿のインクの色に触れているが、その後の調査によれば、じつはこれは既に清書稿なので、ここで言っていることは意味を失う。なお、大正十一年頃の賢治に意中の女性があったかどうかは、その後さまざまに論じられるようになったが、結論は出ていないようだ。
〔……〕
・「妙な記数法のはなし」  この謎は、現在もまだ解けていない。お心当たりの方があれば、ご教示を仰ぎたい。
〔……〕
・「詩集『春と修羅』の成立」  成立過程の推理に関しては、さらに後出の「訂正二件」(一二〇ページ)、「『春と修羅』成立過程に関する……」(三三六ページ)や、「『失われた部分』のこと」(三八七ページ)を参照されたい。
〔……〕
・「『銀河鉄道の夜』の本文の変遷についての対話」  この文の終りちかくで述べられている「流布本」は、その後、新修版、ちくま文庫版の二全集その他で実現した。原稿の詳細解説付き全葉複製は、まだ試みられていない。(*7
〔……〕
・「雪の朝花巻に着いて」  私の賢治草稿との関わりにおけるひとつの節目をしるしているという点で、一種の愛着のある文章。
・「詩の本文のことなど」  この文を発表してからでも、もう十何年かが経ったのに、一九九一年春現在、岩波文庫の『宮沢賢治詩集』は、あいかわらず古い誤りの多い形のままである。
〔……〕
 なお、賢治について書いたあるいは一部言及した文章のうち、内容重複その他の理由により本書に収録しなかったものは以下の通りである。

  〔……〕
        *
 終りになってしまったが、ここで、本書の日の目を見るについて、さまざまにお世話になった方々に心からの御礼を申し述べたい。特に、直接編集に当たり、構成その他、面倒なことをいちいち片付け、巻末の索引まで作って下さった、編集部山本克俊氏には、御礼の申し上げようもない。

   一九九一年七月一日                           著者

入沢たち編集委員が心血を注いだ《校本 宮澤賢治全集》が――そもそも「校本」とは諸種の異本を校合し、その本文の異同を示した本のことだった――、その校異が、どのような姿勢で書かれたかについてここで触れずにすますことは、私にはできない。

 〔……〕「直接に原資料に当り難い研究者が、信頼して拠り所とすることができるもの」を提供しようと志した校本全集の校異担当者の、執筆に当っての一致した心がまえ(というか自戒というか)は、㋑何よりもまず、確実で具体的な(現存する)事実を、可能なかぎり網羅的に、かつ正確に提示すること、㋺確実で具体的な(現存する)証拠に専ら基いてなされる厳密な推理によって必然的に得られる結果以外は、一切の臆説をきびしくつつしむこと、㋩それ以外で何らかの必要(あるいは扱う事柄の性質)によって、推論を記さざるを得ない場合には、その推論の論拠を明示し、しかも記述中で「確実な事実」と「推論によって得られた結果」との区別を常にはっきりさせておくこと、㋥現存の資料からは判定不可能な点(あるいは現存しない資料に関する事柄)については安易な新説を立てず、もしもそれについて従来何らかの通説があり、しかもその通説が誤っているという確実な証拠がない場合には、一応通説を(そのむねことわって、断定を避けつつ)記述すること、という四点に要約できよう。〔……〕(〈『春と修羅』成立過程に関する佐藤勝治氏の新説について〉、同書、三三七〜三三八ページ)

私の〈吉岡実〉の、〔初出形〕と〔定稿形〕を併記した12冊の詩集の本文校異や全詩篇の〔初出形〕の翻刻が、入沢たちの校本全集校異に学んでいることは紛れもない。その成果のほどを云云するのは他の人に任せるとして、〈吉岡実〉の本文校異や翻刻がまがりなりにも使用に耐えるものだとすれば、それは、入沢たちの校本全集校異の基本方針が一人宮沢賢治だけでなく、その運用を過たなければ別の詩人にも適用できる普遍性をもっていることの証しだろう。私が入沢康夫の《宮沢賢治――プリオシン海岸からの報告》から学んだのは、そうした姿勢だった。

〔追記〕追悼・入沢康夫
高橋睦郎の〈謎の人〉(《現代詩手帖》2019年2月号〔追悼特集・入沢康夫〕)は、「人間関係において尋常の域を超えて不器用だ」った入沢康夫を語って、衝撃を与えた。

 吉岡さんとの付き合いでは私より入沢さんのほうが古い。そもそも私が吉岡さんと出会ったのは入沢さんの詩集『季節についての試論』のH氏賞受賞を祝う会においてで、たぶん一九六六年。入沢さんに会ったのもその時が最初だった、と思う。入沢さんはそれ以前から宮沢賢治全集などの編集の関わりで、筑摩書房勤務の吉岡さんとは親しかったはずだ。その入沢さんを外して付き合いとしては新しい、未熟な私をなぜ選んだか。
 この疑問は当然入沢さんにもあったはずで、葬儀当日、遺族側に立って誰よりも慇懃に会葬者を迎え送ったのは、入沢さんだった。そのことを訝しく思った会葬者もあったようで、無気味だったとまで書いた文章を記憶する入も少なくなかろう。この入沢さんの態度は私には、自分が葬儀執行者から外されたことへの無言の抗議のように見えた。ついでに言えば、吉岡さん生前の希望で筑摩書房から出た『吉岡実全詩集』扉裏には「編集」として「飯島耕一/大岡信/入沢康夫/高橋睦郎」の四入の名が並んでいるが、事実は入沢さんが筑摩の担当者淡谷〔淳一〕さんを相手に、ほとんど独りで当たったことを、特記しておこう。(同誌、六六ページ)

私も1990年6月3日の葬儀に参列した一人だが、高橋さんの「葬儀当日、遺族側に立って誰よりも慇懃に会葬者を迎え送ったのは、入沢さんだった。そのことを訝しく思った会葬者もあったようで、無気味だったとまで書いた文章を記憶する入も少なくなかろう。この入沢さんの態度は私には、自分が葬儀執行者から外されたことへの無言の抗議のように見えた」ことはまったく記憶になく(なによりも、吉岡実を喪った哀しみで目がくもっていたのが大きかろうが)、自分はいったいなにを見ていたのだという想いに苛まれる。付言すれば、入沢が吉岡を識ったのは、入沢が筑摩書房勤に入社した1959年4月の2年前(ということは1957年か)、詩の仲間の川口澄子が同社に入り、《静物》を出した詩人として吉岡実の存在を吹聴したことがきっかけだった(入沢の追悼文〈吉岡さんの死〉に依る)。本稿冒頭の、入沢康夫が吉岡実に触れた文献の一覧に1990年の追悼関連が7本もあるのは(とりわけ、8月の《るしおる》7号の〈吉岡さんがなくなられた!〉)、各処から執筆の依頼があったのはもちろんだが、吉岡の死にあたってなにもできなかった、なにもしなかったことに対する慚愧の念がなにほどか働いていたためではなかろうか。入沢康夫が編集委員として孤軍奮闘(?)した《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)の巻末の詩篇は、「強烈で深刻な印象が、忘れ難く残っている」(前出〈「波よ永遠に止れ」の思い出〉)長篇詩〈波よ永遠に止れ――ヘディン〈中央アジア探検記〉より〉だった。全詩集の付録を読んだ私は、入沢さんに〈波よ永遠に止れ〉の放送詩集の録音を無心した。さっそく送っていただいたカセットテープにダビングした音源には手紙が添えてあったのだが、大事にしまいすぎたのか見あたらない。いまここに引用することができないのは、残念至極である。入沢さんの〈宮沢賢治〉を仰ぎ見ながら、私もしばらくはこの〈吉岡実〉を続けることにします。〈詩〉を、〈吉岡実〉を通じて示されたご厚誼に感謝いたします。ほんとうに、ありがとうございました。

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まず、吉岡実が装丁した入沢康夫の著書にリンクを張って、《〈吉岡実〉の「本」》の各記事に飛ぶようにしておく。
  《古い土地》(1961)
  《入澤康夫〈詩〉集成 1951〜1970》(1973)と《入澤康夫〈詩〉集成 1951〜1978》(1979)
  《「月」そのほかの詩》(1977)
  《死者たちの群がる風景》(1982/1983)
  《ネルヴァル覚書》(1984)
編集委員入沢康夫の業績として逸することのできない《校本 宮澤賢治全集〔全十四巻(十五冊)〕》が吉岡の装丁になることは、改めて言うまでもない。装丁家吉岡実は、ハードカヴァー・全集ものにおける代表作《校本 宮澤賢治全集》によって後世に記憶されることになるかもしれない。

*1 拙編《吉岡実年譜〔改訂第2版〕》の1991年(平成3年)10月の条に「浅草・木馬亭で〈吉岡実を偲ぶ会〉が開かれる(発起人飯島耕一、大岡信、入沢康夫、種村季弘、高橋睦郎)。第一部は司会高橋睦郎で知友たちの思い出話(安藤元雄、飯島耕一、入沢康夫、江森國友、大野一雄、小田久郎、落合茂、金子國義、佐々木幹郎、高梨豊、多田智満子、種村季弘、那珂太郎、中西夏之、夏石番矢、矢川澄子の十六人と吉岡陽子)、〔……〕」とあるが、このとき入沢は、挨拶のあと吉岡の詩篇〈カカシ〉(G・28)を全篇(といっても15行だが)、朗読した。追悼文に亡き人の詩を引用するようなものである。テキストは選詩集《吉岡実〔現代の詩人1〕》(中央公論社)だったと思う。同書には〈僧侶〉(C・8)も〈サフラン摘み〉(G・1)も収録されているのに、入沢がこの詩を択んだことに、私は衝撃を受けた。

*2 「これはやはりたいへんな長篇詩だと思う。」の「これ」が『わが出雲・わが鎮魂』なのか、エリオットの『荒地』なのかわかりづらい。もっとも、〈わが出雲〉の詩句は378行だから、行数から推して本文433行の《荒地》の方だと見当はつくが。

*3 入沢は吉岡との対談の翌年(1968年)刊行の《わが出雲・わが鎮魂》の〈「あとがき」〉にこう書いている。

 本文と註とから成るこの『わが出雲・わが鎮魂』の制作は、私にとって、たしかに一つのオペレーションであった。しかし、この全体を、詩作品と呼んでよいかどうかは、私には判らない――というよりも、次に述べる理由で、これはおそらく詩作品ではあり得ないだろう。
 私の父祖の地は、中国四県の県境にほど近い伯耆国西南都の山の中で、出雲国側の肥川(斐伊川)と水源をほぼ同じくする日野川の上流にあたっているのだが、私自身は、さる事情があって、出雲国の松江市で生れ、半ば他処者、半ば土地っ子として十七歳までここで育った。この「作品もどき」における私の意図は、そのような因縁のある土地への私的な愛憎を都合のよい口実に、《根の国・底の国》《反逆》《騙し討》《被征服》《鎮魂=呪力の鎮圧》といったテーマを導きの糸としながら、パロディのパロディを本文(もどき)と註(もどき)とで組み立て、こうすることによって詩の「反現場性」「自己侵蝕性」の問題を、無二無三に追いつめてみることだった。つまり、私の力点は、「作品を成立させること」にでなく、「作品の成立とは何かを問うこと」にかかっていた。
 その意図がどこまでつらぬかれているかは知らず、いずれにもせよ問題は、作者も読者も結局はたどりつくであろう「何とまあ、馬鹿なまねを……」という憫笑、顰蹙、あるいは歎息の向うに、はたして何かが見えてくるかどうか、であろう。ところで、今、私自身としては、このオペレーションにほぼ全力を投入し得たという、解放感に似た感じもあるにはあるが、それにしても、現実の出雲が私の意識にとって一種の大切な「地獄」であるように、この『わが出雲・わが鎮魂』は、これまた一種の「地獄下り」の体験として、忘れたくても忘れられぬ苦い思い出となるのではないかと思っている。
 なお、本文については、次の如き発表経過をたどって、本書(昭和四三年刊初版本)において最終的に決定した。「わが出雲(エスキス)」(「詩と批評」昭和四一年八月号)→「わが出雲(第一のエスキス)」(「あもるふ」29号)→「わが出雲・わが鎮魂」(「文芸」昭和四二年四月号)→本書。(《入澤康夫〈詩〉集成 1951〜1994〔上巻〕》、青土社、1996年12月30日、三六七〜三六八ページ)

*4 城戸朱理は吉岡実を追悼する〈盛夏の人〉(《現代詩手帖》1990年7月号〔追悼特集・お別れ 吉岡実〕)にこう書いている。「〔……〕吉岡さんと初めてお会いしたのは、ちょうど『薬玉』が上梓された後のことで、そのときから、彼は、いずれ長編の詩を書きたいと語っていた。お会いするたびに、やがて書かれるべき長編のことが話題になったが、それは詩や散文詩のみならず、日記を始め夥しい引用など様々なものが混在するものになるはずだった。吉岡さんがいちばん気にされていたのは、いったい何行くらい書けば長編詩と言えるだろうかということで、私はその質問をされるたびにT・S・エリオットの『荒地』を引き合いに出して、五百行もあればという答え方をした。すると、吉岡さんは、そうか、五百行で充分かと嬉しそうな顔をするのだった。その長編がついに書かれなかったことを、私は惜む。」(同誌、四八〜四九ページ)
吉岡自身は《薬玉》刊行の翌年、〔最近関心のあるテーマ〕を問われて「現世をテーマの長篇詩」と回答している(《現代日本執筆者大事典77/82 第四巻(ひ〜わ)》、日外アソシエーツ、1984年8月25日、六七二ページ)。もって、晩年の吉岡がいかに「長篇詩」に深い関心を寄せていたか、うかがい知れよう。

*5 まず〔V テキスト〕12行の行頭にライナーとダーシ(――)を付けて掲げ、遠藤嘉基・春日和男校注《日本霊異記〔日本古典文学大系70〕》(岩波書店、第7刷:1972年10月20日〔初刷:1967年3月20日〕)の該当すると思しい箇所を赤で表示して引く。なお、旧字は新字に改めた。また、引用文中のゲタ(〓)はPCで表示できないため、続く【 】内でパーツに分けて説明した。

01――「葛[かづら]を被[かづき]て松の実を食み
02――           鳥の(卵[かひご])を煮て食[くら]ひて
03――桑摘女は児を撫で
04――        (𨳯[まら])を吸ふ
05――              なれば(房[ちぶさ])は張り
06――(開[くぼ]の口)より
07――       (神識[たましひ])を昇らせる
08――                (奇異[あや])しき事かな
09――嗚呼やがては
10――      (銅荒炭[あかがねあらすみ])の上に
11――              (鉄丸[てちぐわん])を置きて呑み
12――地獄に堕ちむ」
・01行――所以[このゆゑ]に晩[ク]レニシ年四十余歳を以て、更に巌窟[イハヤ]に居り、葛[かづら]を被[き]、松を餌[の]み、清水の泉を沐[あ]み、欲界[よくかい]の垢を濯[スス]キ、孔雀の咒法を修習し、奇異の験術を証し得たり。(《日本霊異記》上巻〈孔雀王[くじやくわう]の咒法[じゆほふ]を修持[しゆぢ]し、異[け]しき験力を得て、現に仙と作[な]りて天に飛ぶ縁 第二十八〉、同書、一三五ページ)
・02行――天年[ひととなり]邪見にして、因果を信[う]け不[ず]、常に鳥の卵を求めて、煮て食ふを業[わざ]とす。(《日本霊異記》中巻〈常に鳥の卵を煮て食ひて、現に悪死の報を得る縁 第十〉、同書、二〇七ページ)
・03行――河内の国更荒[さらら]の郡馬甘[うまかひ]の里に、富める家有[あ]り。家に女子[をみな]有[あ]り。大炊[おほひ]の天皇のみ世に、天平宝字三年己亥[つちのとゐ]の夏四月、其[そ]の女子[をみな]、桑に登りて葉を揃[こ]く。(《日本霊異記》中巻〈女人、大蛇[をろち]に婚[くなか]はれ、薬の力に頼りて、命を全くすること得る縁 第四十一〉、同書、二九三ページ)/母三年を経て、儵[たち]〔倐[まち]〕に病を得、命終はる時に臨み、子を撫で𨳯[まら]唼[す]ひて、斯く言ひき。(同前、二九五ページ)
・04行――仏、阿難に告ぐらく「是[こ]の女、先世に一[ひとり]の男子を産む。深く愛心を結び、口に〔其[そ]〕の子の𨳯[まら]を〓【「口」偏に「集」】[す]ふ。(同前)
・05行――両[ふた]つの乳脹[ハ]レタルコ卜大きにして、竃戸[かまど]の如く垂れ、乳より膿[うみしる]流る。(《日本霊異記》下巻〈女人[によにん]、濫[ミダリガハ]シク嫁[とつ]ぎて、子を乳[ち]に飢ゑしむるが故に、現報を得る縁 第十六〉、同書、三六一ページ)
・06行――〔……〕開[つひ]の口に汁を入る。(《日本霊異記》中巻〈女人、大蛇に婚はれ、薬の力に頼りて、命を全くすること得る縁 第四十一〉、同書、二九三ページ)
・07行――其[そ]の神[たま]〔識[しひ]〕は、業[ごふ]の因縁に従ひて、或[あ]るは蛇馬牛犬鳥等に生まれ、先の悪契に由りて、蛇と為りて愛婚[くなかひ]し、或るは怪畜生と為[な]る。(《日本霊異記》中巻〈女人、大蛇に婚はれ、薬の力に頼りて、命を全くすること得る縁 第四十一〉、同書、二九五ページ)
・08行――爾[そ]の時並びに住む行基大徳[ぎやうぎだいとこ]は、文殊師利菩薩の反化[へんげ]なり。是れ奇異[めづら]しき事なり。(《日本霊異記》上巻〈三宝を信敬[しんぎやう]し、現報を得る縁 第五〉、同書、八七ページ)
・10〜12行――法花経に云はく「賢僧と愚僧と同じ位に居ること得不[じ]。又[また]長髪の比丘[びく]は、白衣[びやくえ]の髪鬢[はつびん]を剃ら不[ず]して賢なると、位を同じくし器を同じくして用ゐること得不[じ]。若し強ひて位する者は、銅[あかかね]炭[アラズミ]の上に鉄丸を居[お]きて呑み、地獄に堕ちむ」といふは、其[そ]れ斯[こ]れを謂ふなり。(《日本霊異記》中巻〈法花経を読む僧を呰[あざけ]りて、現[うつつ]に口喎斜[ゆが]みて、悪死の報を得る縁 第十八〉、同書、二三三ページ)

*6 全集全体の編者でもある池澤夏樹が《日本文学全集〔第29巻〕近現代詩歌》(河出書房新社、2016年9月30日)で選んだ吉岡実詩は、(ここでもまた)〈僧侶〉(C・8)だったから、世評では吉岡は《僧侶》/〈僧侶〉の詩人ということになるのだろう。そうした意味では、入沢もまた《わが出雲・わが鎮魂》の詩人ということになる。激動の1968年刊行の5年後、《現代詩集〔現代日本文學大系93〕》(筑摩書房)に選ばれたばかりか、約半世紀後(!)にも、平成末を代表する久久の日本文学全集に谷川俊太郎や高橋睦郎の長詩とともに採られたのだから。

*7 本書刊行後に出た入沢康夫監修・解説の《宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて》(宮沢賢治記念館、1997年3月〔日にちの記載なし〕)は、横長のA4判の本文に「全原稿」「創作メモ原稿」「原稿裏面」をカラー写真で掲載している。入沢はこれ先立つこと20年以上まえ、〈「銀河鉄道の夜」の本文の変遷についての対話〉(初出:《宮沢賢治童話の世界〔日本児童文学別冊〕》、すばる書房、1976年2月)の末尾を「〔……〕/また、流布本とは別に、研究者のための刊本として、全八十三枚の原稿とそれにまつわるメモ類のすべてを写真版にしそれに読み解きを添えた本が出されることも、これだけの内容と多くの問題点をはらんでいるこの作品の場合きわめて望ましいことです。/――それらが揃ったとき、「銀河鉄道の夜」は、完全に万人のものとなるのですね。/――まったくその通りです。」(《宮沢賢治――プリオシン海岸からの報告》、一七七ページ)と締めくくって、その出現を待望していた。私は、詩集《静物》の吉岡実自筆の稿本――吉岡は「わたしの大切なもの」として「詩集《静物》の原稿(これは書下し故に、唯一の原稿の残っているもの)。」(〈軍隊のアルバム〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、四五ページ)と書いている――が写真版(や原本の装丁や紙質まで再現した復刻)の形で世に出たら、どんなに素晴らしいだろうと歎息を禁じえなかった。

〔2019年6月30日追記〕
本稿の翌月、6月に執筆した高橋康也の関連資料のなかに、高橋と入沢康夫の対談〈言葉遊びとしての詩〉(初出は《話の特集》1980年11月号)があった。二人はそこで、例の「文字によって作られたバッテン形」の読み方をめぐって、意見を交わしている(対談の本文は、言うまでもなく縦組だから、本サイトの横書き表示を縦書きに変換してお読みいただきたい)。

 高橋 そうすると、この×[バツ]字形のところは、普通の行替えで読むと、どういう順序ですか。
 入沢 まず、右上から下に五行いき、次に右下から上の奥「夕陽がまともに照りつける」までいき、さらに左上までいって、最後は左下にくる。
 こんなふうに並べ替える時に、字数の問題としてはそう手間取らずできたんです。しかも、うまい具合に、上の両脇に二字ずつ穴が開いていますが、これは神社の屋根の上にある千木[ちぎ]の形のつもりなんですよ。
 高橋 ああ、そうすると、この×字形は出雲大社の物理的構造をモデルにしているんですね。
 入沢 そう、出雲大社の千木は、ちょうどこのように穴が開いているんです(笑)。
 高橋 形の面白さのほかに、×字形にしてしまうと幾通りかに読めることの面白さがあります。どこから読み始めてどっちへ進むか、読者が決めればいい。
 入沢 こういう形になってしまえば、全て自由です。読者参加といいますが、これはぼくが以前から言っている持論でもあるんです。要するに日本ではあまりにも、詩というものが、作者自身の思ったことそのものを伝える道具だと思われすぎていると思うんです。そうではなくて、詩を鏡にして読者が自身を見るものではないか……そういう思いもあるわけで。(高橋康也対談集《アリスの国の言葉たち》、新書館、1981年7月10日、一八三〜一八四ページ)

それにしても、この対談が詩や英文学の専門雑誌ではなく、編集長・矢崎泰久の《話の特集》に載ったということは、1970年代のジャーナリズムの底力を示しているようで、怖ろしいほどである。


〈吉岡実〉を語る〔承前〕 了

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